あんな仕事をさせるべきじゃなかった。あれを仕事と呼べるとして。あれを仕事にするべきじゃなかったんだ。君には無理だったからではない。むしろ君じゃなければ誰にもできなかっただろう。若すぎたからというわけでもない。年齢など重要じゃない。それどころかたぶん……だけど責任が重すぎたし、負担が大きすぎた。心には。君の心には。そのうえああしたことを体系化するって? 調和どころか価値を破壊するようなものだ。そもそもの始まりは、いくつのときだったっけ? あれは五七年。五七年末。君は四九年生まれだから、十一月で八歳になったばかりのときに、あれが初めて起こったんだ……。それほど昔のことじゃない。覚えてるよ。小学校の先生に、君のお父さん、お母さん、それにフォール医師に、アネット。それに君。大事なのは君だ。金色の髪を女の子のように首まで伸ばしていた。あれは嫌だったんだろう、クロード? ご両親のことを悪く言うつもりはないけれど、八歳にもなった男の子が女の子扱いされるのを嫌がることぐらいは気づいてしかるべきだったよね。ましてや君の瞳は色が薄くて強い陽射しの下では白く見え、真昼にはますます女の子みたいに見えたのだから。
君ももう八歳じゃない。でも顔立ちは今でも線が細く、髪も金色で、瞳も青いまま。眼差しはきつくなったけれど。二十年あれば無垢なままではいられないし、ましてや乗り越えなければならなかったことの二十年分の重みを考えれば……。
友人たちを覚えているかい? まあ待って。君の人生を使い古した絨毯みたいに目の前で広げようってわけじゃない。ただ、どうしても話さなきゃならないんだ。たとえ忘れるために過ぎないとしても。忘れようとするためだったとしても。何だかんだでずっと君と仲良くしていた連中のことを考えていたんだ。なかでも虻れん坊のジョーことジョルジュ・シャルパンチエのことを。五七、八年ごろのジョーの姿を覚えているかい?
僕らの大半にとって、五七年は「
みんな遅かれ早かれこんな疑問にたどり着いていたのは知ってただろう? クロード・ベランジェはあれほど人間を嫌っているのに、それでもなお手を差し伸べ支えていたのはなぜか? なぜだろう? 僕にもわからない。君とは誰よりも近しかったから、たぶんほかの誰よりも気に入ってくれてた、とは言わないまでも、誰よりもましだと思ってくれてたのだろうか、五七年(僕が十二歳だったあのとき)以来、僕の話には耳を傾けてくれたし、面倒でなければ、控えめな助言を聞いてくれたときもあったね。僕の言葉が届いた理由はわからない。必要とされていたわけでもないのに。君のことは何も知らないし、一風変わった人生のなかで何が君を突き動かしていたのかもわからない。マスコミに叙事詩的偉業と名づけられた表向きのデータなら暗記していたから、何日の、何時の、何分に何があったかは諳んじることはできる。普通の人になら耐えられないようなことを、君はずっと引き受けていた。でもどうして君がそんなことを引き受けたのか、その根っこの事情は僕にはわからない。もしかしたら君自身でもわかってなかったんじゃないか? もしかしたらほかの人たちと同じように振る舞っていただけじゃないのかい? もしかしたら君が状況を受け入れて利用したのではなく、状況の方が君を誘い込んで圧力を掛けて無理強いしていたという方が正確だったのかもしれない。
わかっているのは一つだけ。君が僕のことも受け入れてくれたってことだ。おおかた玩具だったり、犬か猫のようなペット、あるいは熊のぬいぐるみ扱いだったんだろうけど、それも嫌じゃなかった。君のために、して当然だと思えることは出来たし、君の寂しさを埋めるために、おしゃべりして、ひたすらおしゃべりして、ときには微笑みだったり好奇心だったりを顔に浮かべてもらうことも出来た。はねつけられたことはなかった。悲嘆のただなかに君がいたときも、誰もが急に怯えて君から離れていき、このあいだまであった讃美の声が世界中から消えてしまったときも、そんなときでさえ、君からは引き留められた。袖をつかんで引き留められたんだ。あのとき僕は、ここだけの話、少しのあいだ君を一人にしておこうと思っていたのに。そういうわけだから、僕がいたから君は独りぼっちじゃなかった。ともかくも五七年からは。そしてそれこそが、君からもらったただ一つのものであり、今の僕に残されたただ一つのもの。僕らが分かち合った孤独の思い出だ。
君が結婚してもそれだけは変わらない……。
だけど五七年当時は、君のことをよく知らなかったし、そこまで認めてもいなかった。言いたいことはわかるだろう? 一度も君を殴らなかったのは、それこそ見た目が女の子みたいだったからで、たぶん恥ずべき行為だと感じていたんだ。だけどそれも事実とは言い難いかな。君のお姉さんとはしょっちゅう喧嘩していたからね。そうなんだよ、お姉さんには殴り返されたものだった。
しかも君は
いずれにしても五四年よりは前だ。アネットの父親がまだ生きていたからね。君がアネットを――僕に言わせれば――助けたときのことだ。あのことは誰にも話したことはない。わざわざ明かすわけがなかった。根気よく聞き出した秘密であるとはいえ、自分でも半信半疑なんだ。
君は悲しんではいなかった。そんなことは一切なかった。悲しんでいると思われてもおかしくなかったし、実際に多くの人からはそう思われていたけれど。それどころか笑っていたんだ。聞いたこともないような笑い方で。人の不安を取り除くような笑いではなく、背負い込んでいた重荷をどこかから下ろすような発作的な笑いでもなく、他人を元気にさせる笑いだった。楽しくて笑ってるのではなく、他人を元気づけるような笑い。そうなんだ。君が笑うのを耳にするようになってからというもの、僕も以前よりずっと調子が良かったし、落ち込んでいたときだって、君が笑ったら暗い気分などどこかへ行ってしまった。君の能力は、わずかとはいえ笑いという形を取って現れてもいたんじゃないかな。君はそうやってしらけた空気をなごませ、堅苦しい現場を温めていたね。もちろん滅多にあったことじゃない。君はみだりに笑ったりはしなかった。正しい判断だった。僕やある種の人たちとっては何よりも大切なものだったんだから。君はたぶん気づいてやいなかっただろうけれど。
つまりだ、ああして長いこと同じままでいられただろうし、いつまでも僕らを助けてくれたはずだったんじゃないかと思う。君のそばにいた僕たちのことや、僕らのあとに続く人たちのことを、僕らにもみんなにも気づかれることなく、死ぬまでずっと手を差し伸べてくれたんじゃないだろうか。あのことを誰にも知られることはなかっただろうし、君がああした状況になることもなかっただろう……あるいは、もしかしたら? だけどあの犬がいた。そしてあんなにも独りが好きで引っ込み思案な君が、見ず知らずの人たちの心を救わなくてはならなくなった。選択の余地は失われた。狂気に魅入られるほど苦しんだのはそのせいなのかい?
あれは確かに狂気だった。ほかの可能性なんて信じない。
世界初の人工衛星の打ち上げを、細かい点まで覚えている人なんていない。ほんの四半世紀後の今では、授業で習う知識に過ぎない。宇宙時代の始まりは一九五七年十月五日ではなく、人類が初めて地球を離れ、もう戻らなかった日だ。すべてを人類と結びつけるのは、何も不思議なことじゃない。でも僕や君にとっては、すべての始まりは間違いなく一九五七年だ。十一月三日、ロシアが二度目の人工衛星を打ち上げたとき。
生きている犬を地球の軌道上に送ったあの日。あのころの晩に聞いた話を覚えているよ。著名な物理学者がラジオで解説していた。スプートニク二号が如何にして小さな月のように地球の引力圏を公転するのかを。人工衛星はつねに地球に向かって落ちているけれど、万有引力の働きと、宇宙空間内における速度と方向によって、落ちてぶつかるはずの場所に地球があることはないという話だった。ショックだった。ライカがロケットに閉じ込められて永遠に落ち続けていると知って、僕は自由落下の神秘を理解し、怖くなった。
君は君でまた違った。何の前触れもなく直後に自由落下を体験したんだから。君のお父さんが僕の父に話しているのを聞いたけれど、そのとき使われていた言葉には正確に覚えておくだけの価値があったというのに、すぐには結びつけて考えられなかった。僕はその場にいて話を聞いていたというのに、君や僕の両親と同じように、人類史の一大事件のことを、細かい点まで覚えていなかったんだ。
夜中、君はライカを感じた。少なくとも、僕はそんなふうに理解している。スプートニク二号に犬が閉じ込められていることを(もちろんロシア人は除いて)誰も知らないうちから、ライカが苦しそうに鳴いているのを、君は知っていたんだ。だから助けずにはいられなかった。
十一月三日の日曜日から七日の木曜日まで、どの日のことも忘れていない。
センターの人たちから根掘り葉掘り尋かれても、君はいっさい話そうとしなかった。君のような人がほかにはいないことが確実じゃなかったとしたら……遅れを取り戻すのに必死なフランスその他の人たちの前に思いがけず現れた救世主じゃなかったとしたら……君の抵抗なんてぺしゃんこにされていただろう。みんなも君の能力を理解しようとはしてたけれど、君からの説明があるまでは理解できずにいた。いったいぜんたい、説明する気になったのはどうしてなんだい?
『ぼくのような人間がいると、ぼくを通して悪いことがいくらでもできてしまう』とよく言っていたね。
本当にそう信じていたのかい? それとも懸念を感じていた? 実際のところ、君の能力を軍事的に利用しようと夢見てる人がいなかったとは断言できないだろうさ。誰だって思いつくことだ。
君はライカとともに三日から七日まで吠えた。五日五晩のあいだ、不安と恐怖と苦痛から、吠えた。呼吸もままならずに、怯えた顔のお母さんに向かって恐怖を訴えていた。君の叫びは固く密閉されたドームのように一帯を覆っていた。君はライカとともに吠えた。でも実を言えばライカは空の彼方のカゴのなかで穏やかに、地球の周りを公転していた。とても、とても速いスピードで……ライカの吠え声を出していたのは君だ。ライカは何も感じていなかった。君が痛みや苦しみを引き受けていたから。ライカが体験するはずだったことを、君が一人で体験したんだ。五日五晩、ライカが死ぬまで。村のどこに行っても、おしゃべりする人も笑う人も歌う人もいなくなっていた。誰もが怯えた君に共鳴し、村を出たまま戻らなかった人たちもいた。
そのあと君は話をしたけれど、そのときにはもう何日も経っていた。名前さえ知らない病気を診に、医者がやって来た。医者にはわかるわけがなかった。病気だって? おそらく……君は新しいタイプの人間だったんだ。僕らとさして違わないうえに、未来人の始祖でさえなく、それどころか生物学的に遅れていたのかもしれないけどね?
君が秘密の一端をただ一人打ち明けたのが、学校の先生だった。先生は秘密を胸に仕舞っておいた。正しいことだった。君のために何かできる人などいなかったのだから。君のことを軽視しなかったのも先生だけだった。何しろ、僕でさえときには……でもだからこそ、何もわからぬままに君を理解し、受け入れるしかなかったんだ。
自分が信仰箇条のようなものだと知っていたかい?
新時代のイエス・キリストだと見なしたがる人たちもいたのには驚いた……六五年から六六年までは誰にも知られていなかったというのに、まるまる一世紀のあいだに存在した宗派よりも多くの新たな宗派が誕生していた。あれには君もいらいらしていたんだろう?
どういうわけか、君が吠え続けていても、誰も君を入院させたりはしなかった。動かしてはよくないと判断したのかもしれない。水曜の朝見たことを思えば、今ではそれも納得できる。ベッドに弓反りになっているのを見て、背骨が折れてしまうんじゃないかと思ったほどだった。君を診た医者が、僕にも理解できるようになったときに教えてくれた。電気ショックに反応するように、痛みに反応していたんだとね。強直痙攣だ。だから、長い旅のときにはセンターできつく拘束されていたし、神経症患者みたいに口に布を詰められていた。
「つまりだね」とフォール医師は言っていた。「これまでのことはすべて、あの子が自分に向かって連続して放電を起こしているようなものなんだ……」
僕は楯突いたさ。よくわかってなかったんだ。医師は何一つわからないうちから、何年にもわたって君の症例を解明しようとして来たのに。
「でもそれってぜんぶ頭のなか、脳みそのなかで起こってるんでしょう? だったらまるっきり無関係ですよ」
「そうじゃない」医師は僕を射抜くように見つめた。「電気ショックとは何だ? 電気ショックの原理は? 作用と反作用、緊張と弛緩、痙攣と小康。そんな仕組みのようなものだ。わかるね?」
うなずきはしたものの、わからなかった……そっくり説明を受けたのがそのときだよ。覚えてるだろう? 僕が医師の話を伝えたら、君も驚いていたっけ。博士号を持ったセンタ-の心理学者が立てたもっともらしい推論よりも、よっぽど救われたんじゃないかな。
「つねに緊張しているわけではない。CERAの間抜けどもはそう思っているようだが。耐え難いほどの緊張状態と比較的落ち着いた状態を行き来しているだけなんだ。ブランコみたいなものだな。本人は小康状態を維持できないと言おうか、維持しようとは思っていないようだ。よく聴いてくれ。痛みが押し寄せると痙攣を始めるのは、それを受け入れると同時に拒絶しようとしているからだ。受け入れるのは望んでいるから。拒絶するのは耐えきれない瞬間がいずれ訪れるからだ。そうなったときには押し潰されまいと本能的に心を閉ざして接触を断つ。だがやがて救おうとしている人がまた新たな痛みにさいなまれると、ふたたび心を開き、すぐに飲み込まれてしまうんだ」
君について僕が聞いたかぎりでは、唯一的確な説明だったな。でも僕は異議を唱えなくてはならない。断固として。僕は叫ぶように言葉をぶつけた。
「どうして誰も気づかなかったんです⁉ クロードが救っていた人たちにも緊張の波があったはずなのに……」
「いい指摘だ。だがそうじゃないんだ。被験者の話によれば、完全にリラックスしたことはなかったという。人によって、不快であったり、幸福であったりした。なぜだ? クロードが痛みを引き受けていたからだ――本当は具体的な数字をあげたくないんだ。詳しい調査が必要だろうし、一朝一夕にできるとは思えないが――痛みが生じている時間の九割にわたって、痛みを引き受けていたとしよう。十秒のうち九秒が緊張下にあったと言ってもいい。つまり痛みはすっかりクロードに行き、ほかの連中のシナプスの閾値を越えることはなかったということだ。だが残りの一秒のあいだは当人たちにも痛みは訪れていた――この数字はざっくりしたものだというのを忘れないでくれよ――痛みは顕在化しないものの当人たちに存在していた。だからこそあるときには当人が潜在的に感じていた不快感を覚え、あるときには快復期に覚えるような幸福感を覚えていたんだ。クロードの方では、痛みが潜在しているのは、たった一秒というわずかな静穏期のあいだしかないというのに。そんなのは、無いに等しい。絶え間なく苦しんでいるに等しいんだ……」
「でも、なぜそんなややこしいことに?」
「無意識下とはいえ、クロードも一秒だけ休息していたんだ」
三月。初めて報道陣がやって来たけれど、何も聞き出せずに帰って行ったっけ。五八年の二月一日にはアメリカのエクスプローラ号が打ち上げられ、二号は三月の打ち上げで最後の推進ロケットが点火せず、軌道には達しなかった。あのときの君はまだ「宇宙の申し子」じゃなかったんだ。馬鹿げた呼び名をつけられたものだよね。でも僕らには、僕らみんなには、決定論に惹かれるところがある。だからああいった主張は受け入れられやすかったし、想像力を刺激されたし、生まれたのには何か理由があるはずだと思わずにいられなかった。
現実に君はそこにいたし、しかも、みんなには君が必要だった。これ以上は言うまい。もっとも、不思議な力を授けられた君のような人たちが当時ほかにもいて、力を使う機会がなかったという可能性は充分にある。そしてまた、そんな力を借りずに済ます手だてが見つかり、力を必要としなくなるころには、また別の人たちが新たに現れることだろう。
そうなんだ。報道陣は君からは何も聞き出せなかった。まだ君自身もはっきりとわかっていなかったんだから当然だし、昔から自分のことを話すのは嫌いだったものね。
こうして君は放っておかれ、中学に入り、見たところ何の心配もなく過ごしていた。みんなと同じように、禁止されている冒険小説を読んだ。歴史のカリキュラムは一、二年分リードしていたけれど、教師が教えていることはさっぱりだった。休みには帰省してアネット、ジョルジュ、君、僕の四人で顔を合わせた。そのたびに顔つきは少しずつしっかりして来て、同年代の子どもとまるで変わらなくなっていた。能力のことなんて忘れているみたいだった。忘れていたんだ、たぶん。女の子のくすぐりどころさえ覚えて、みんなと同じようにすっかりマセていた。
それからしばらく会わなくなった。そういうものだよね、僕の方が四歳年上だったんだから。十五歳になった途端、君のことがずいぶんと幼く見えたものさ。十一歳の坊やとは何の接点もなかったんだ。アネットはアネットで十三歳になり、身体つきも変わり始めていたから、僕は気まずさを感じ始めていた。
僕ら二人のあいだに橋を架け直してくれたのは、そのアネットだった。アネットは僕ら二人に同じくらい愛情を注いでくれた。どちらかを選んでもう一人の許を去るなんてことはしなかったし、二人いっぺんに会うことが難しかったころには僕らのあいだを行き来して別々に会っていたくらいだ。そのくらい愛情を注いでくれた。あるいはその程度しか注いでくれなかった。
慌てふためいたアネットが僕のところに飛び込んで来たのは、六三年のイースターのことだった。
クロードが今日の午後、連れて行かれたの! 車で。四人いた! スーツケースに下着を少し詰めるのが精一杯で……
「ほら、ほら」僕の母はどんなときでも冷静だった。「誰のことを話しているの? 落ち着いて、ね……」
「でも……クロードが!」アネットは取り乱していた。
「大丈夫、クロードを探しに来た人たちなんだから」母が言い聞かせた。
「さらってったんだってば! ギャングみたいに!」
うまいことを言うのも悪くないと思ったんだ。
「黒塗りのDSかい?」[*2]
「ばか!」アネットが僕を突き飛ばした。「あんたはクロードのことなんてどうでもいいんでしょう! でも一緒にしないで!」
「僕はただ……」
「言い訳しないで、どうでもいいくせに! 何とも思っていないんでしょう!」
すんでのところで殴り合いになるところだった。君が連れ去られたといってもまずいことが起こったとは思っていなかったから、いい機会だからいっちょうやろうかと思っていたんだ。そうこうしているうちに母が電話をかけに行って、にこにこしながら戻って来た。
「でもね、誘拐ではなかったみたい」母はそう言って、今にも始まりそうだった喧嘩を仲裁した。「お父さんに説明してもらったんだけどね、
僕はぽかんとして、同じようにびっくりしていたアネットから手を離した。
「センター?」アネットが舌足らずにたずねた。「何でセンターが?」
この単純な質問に答えられるようになるには、六八年まで待たなくてはならなかった。僕が宇宙医学を修めたのは、あの質問に答えるためだったのかもしれない。
みんなが君を必要とし始めたのが、あのころだった。あらゆる手段を使って君を手に入れたがった。センターの誰かが洩らしたとしか考えられないけれど、誰の仕業かはわからないままだった。六三年だけで七度、君は国外に連れ去られそうになった。ロシアに二回、イギリスに三回、アメリカに二回。くだらなくて、何の意味もない。かつてライカを助けたように、ガガーリンやシェパードやグレンやチトフやロシアの双子やほかにも何人も助けたのははっきりしていたからね。さて、そうなると疑問が湧いてくる。君はサハラ砂漠にいるフランスの鼠を助けたのだろうか?[*3]
要するに君は宇宙開発に必要不可欠な人間になったわけだ。最初にそれに気づいたのは、当然ながらロシア人だった。CERAが君を見つけたのも、ロシア人のおかげということになるのかもしれない。六二年の終わりから六三年の初めにかけて付近でスラヴ人をよく見かけたので、何かあると情報部が感づいたんだろう。君のような人間が現実に存在することをロシア人が信じたのは、SFと呼ばれるものに馴染んでいたからじゃないだろうか、と思わずにはいられない。CERAは時間を無駄にしなかった。二たす二は四であると結論づけると、君を連れ出して、文字通り部屋詰めにしてしまった。
各国の誘拐が未遂に終わったのは君があまりにも貴重だったからだ。きっと突き飛ばすことさえできなかっただろうね。CERAの連中はイギリスやロシアやアメリカの連中ほどには君のことをよく知らなかったものだから、初めのうちはためらわずに行動できたんだ。そう、初めのうちだけは、ためらうことなく強硬手段を用いて来た。犯罪者のように尋問したり、アスピリン一つでぐったりするような君に、ペントタールみたいな薬をいろいろ投与したり、脳波を測定したり、似たような馬鹿馬鹿しい検査を受けさせたりしたくせに、そのまま家に帰すところだった……。
あいつら宇宙飛行士ときたら、恨まれるようなことは残らずやったんじゃないかな。拷問した奴らのなかに、最初に宇宙を制した奴がいただろう。苦しみもせず、吐き気に襲われることもなかった。ねえクロード、どうしてあいつを助けたりしたんだい?
その人物なくしては、少なくともGという障害があるうちは、人類は宇宙に達することはおろか、近づくことさえできなかっただろう。そんな人物が、フランスに生まれたんだ。笑っちゃうだろう? よりによってフランス、君を活かすことが一番できそうにない国だ。CERAがあるにはあったけれど、そのCERAにしてからが……。
君がフランスに生まれたものだから、ロシアもアメリカもイギリスも、当時の技術では解決できない問題のせいで足踏みせざるを得なかった。一つには、地球を取り巻く放射線帯の問題だ。致死量の放射線を身体に浴びないように、速く、速く、極めて速く、放射線帯を抜けなければならない。二つ目は、どんなに頑健な人間にも見果てぬ夢、放射線帯が地球から近すぎるために、越えるにはわずかな時間で充分な速度を出さなくてはならず、そのとき発生するGに耐えられないのだ。
十二人。十二人が挑戦したんだ。十二人が発狂して死んでいくのを感じなかったのか? 苦痛の声は届かなかったのか? 重力に押しつぶされ、頭蓋骨のなかで脳がひしゃげ、血管が次々と破裂して、悲鳴をあげているのを――悲鳴をあげずにはいられなかったのを――感じなかったのか? その恐怖や苦悶に気づかなかったのか?
十二人もの人間が、無駄死にしたんだぞ……。
ずばり、犬ではなかったせいだね? 犬なら助けたんだろう。助けずにはいられなかったはずだ。動物だったなら……たとえば猿、たとえば猫、人間以外だったなら。そうだろう?
だから志願する人はいなくなってしまった。耐えがたいほどの死や苦しみを覚悟して飛び込むことなら出来ても、避けられない精神崩壊に向かって飛び込める人なんていない。あまりにも無意味だ。
現に船室にはマイクが設置されていた。地上では、たった数秒で狂気に襲われてしまう様子が録音されていたんだ。直立した動物を人間たらしめているものの、何と短時間で失われてしまうものか。
しばらく前にふと思ったことがある。君自身は宇宙行きを望んでいたんだろうか? そのために訓練させられていたというのに、君は何一つ用意していなかったんだろうか?
それでも、もう少しでそうなるところだった。それとも、もう少しで成功しそうだったと言うべきかな?
わからない。僕にはわからないよ。君はほかのこと同様、この点についてもまるっきり説明しなかったからね。
僕にとって君は聖人以上の存在だったから、この十二人が悲惨な旅を乗り越えるのを助けるために、君に出来ることがあったとは、つゆほども考えたことはなかった。もしかすると、君をついに説得したのは僕だったのだろうか。そんなつもりもなかったけれど、今になってようやく気づいた。そういえば、宇宙医学の資格試験でもある宇宙学準備クラスの卒業試験まで、一年を過ごしたけれど、とんだ笑い話だ。だって何一つわかっちゃいなかったのにね。何一つだ。
憶測医学というわけさ。
ランベールから呼び出された、六六年六月の記念すべき朝、僕は二十一歳になったばかりだったから、世界最年少の宇宙医師になっていたはずだ。もしもヴァルガスがいなければ……そして宇宙なるものがあったとすれば。僕は日当たりのいい長官室に入った。椅子に座る間もなかった。
「教えろ、クレールヴァル。クロード・ベランジェはどうなっている?」
腹を立てるにはまだ若すぎたし、それほど年を食っているわけでもなかった。僕は馬鹿みたいに繰り返した。
「クロード・ベランジェ?」
ランベールがどういう人間かを知っているだろう? とんでもなく横柄な人間だ。
「そうだ、ベランジェだ! どうなんだ?……まだ手を貸すつもりはないようなのか?」
思わず「何に?」とたずねそうになったよ。ぎりぎりのところで思い出した、この男はたった一言で僕をセンターから馘首に出来るんだ。そうなったら君はひとりぼっちになってしまう。
「様子を見ている最中ですが、芳しくありません」
「なぜだ? きみは自分のやるべきことがわからんのか?」
我慢もここまでだった。
「いいえ。でもクロードにはわかってないようです」
ランベールの目が怒りに燃えたが、立ち上がって僕に詰め寄る以上のことはしなかった。
「虚勢を張るのも結構だが、状況がわかってないようだな。万人のために必要な、何物にも代え難い人間が存在しているのだぞ」
そんなことはわかっていたよ、さんざん言われて来たからね。でもそのあとに聞いた言葉には衝撃を受けた。
「私も含めた万人のために必要な人間がもう一人いる。クロード・ベランジェと同じくらい重要な人間だ。きみだよ」
僕は呆然としているように見えたに違いない。たった一押しで椅子に座らされ、勇気も闘争心も奪われてしまった。
「よく聞くんだ。きみは二か月前にCERAに雇われた。特別な、羨むべき立場を享受しているわけだ。何も思わなかったのか? 招かれてここにいることに気づかなかったのか?」
「要望を出したんです!」僕は弁明した。
「そうか?……受け取ってないな。おそらく二年後には情報部に届くだろう。通常の手段で研究所に入る人間にしかるべき調査をおこなうには、それだけの期間が必要だ。きみの場合は、不可欠な人間だとわかった時点で、宇宙学準備クラスのうちに調査を終えてあった。どうだ?」
ご想像の通りさ、僕は理解してしまった。それでたっぷり十五分、こんこんと説かれて、君を説得するために出来ることをすると約束させられてしまったんだ。
僕は君を説得できたか?
総合的に考えて、答えは否だ。君は、もう充分に我慢して来たんだと、ある時点で心を決めていたに違いない……さもなきゃ、軍医のドナデューが主張したように、自分のことを僕らなんかより遙かに詳しく知っていて、準備が整うのを待っていた。つまり自分は正気なままで他人の狂気を肩代わりできるようになるまで待っていたんだ。確かに、ありそうな話だった。
ところで、僕の知るかぎり、これまでに明らかにされなかった点がある。どうやって耐え難い苦しみに耐えたんだい? 宇宙船業務に携わる必要がなかったことはよくわかっているけれど……宇宙飛行士と君とのあいだにロスがあったのだろうか?
そう、それを調べなくてはならない。しかも不明な点はまだまだある……。
アネットもいるにはいた。とはいえ、ほかの全員が失敗しているというのに、アネットなら成功するなんてことがあり得るだろうか? そうは思えない。
僕は僕で、すべきことをした。脅しめいたことさえした。最低のことだってわかってはいたさ、君は自由なんだと自分に言い聞かせていたんだ……自由? 君は自由だった。いつだって自由だった。それとも、世界でいちばん束縛されている人間だったろうか。それを知るためになら、この手を差し出してもいい。
僕は意図しないままに、無気力の底から君を引っ張り上げたらしい。君は不平も言わず、さりとて協力もせず、すべてに甘んじていたというのにね。
一か月後、僕はふたたびランベールと話をしに行った。報告するまでもなくランベールがすべて知っていたとわかったのは、何年も経ってからの話さ。
「クレールヴァル、調子はどうだね? 満足すべき結果は出せたか?」
ひきつり気味に僕は答えた。
「僕はとんだ卑怯者です。でもまあ出せたと思います」
「はっきり言い給え」
「クロードに伝えてください。最終テストを受けてから、トラントラン五号の打ち上げに参加すると」
ランベールは瞬きもしなかった。
「うまく行くと思うのか?」
「クロードのことで、確かなことなんてありますか?」僕は不満を洩らした。
「いいだろう」ランベールは手をぽんと叩き、しばらく黙り込んでいた。「やらせてみるのはかまわん。だが、本当にテストに受かりそうにないと思うんだな?」
ランベールは肩をすくめると、僕に答える間も与えずに言った。
「必要とあらば、結果は捏造できる」
「僕を当てにはしないでくださいよ!」
どうにもならなかったんだ。それに、君を卑劣な罠に嵌めようとはしたけれど、そこから先はフェアにやってくれるものと願ってたんだ。
そもそも僕はそのテストの助手でしかなかった。君が六三年から囚われていた無気力状態から抜け出すのを見たし、三日目には笑い声も聞いた。つまり君は、万事うまくいくと考えていたんだ。
本当にうまくいくと思っていたのかい? 洪水の翌日に放たれた鳩のように、宇宙に放たれるとでも?
君は空間認識テストに通らなかった。
理由がわかるかい? それには重要な秘密が隠されている。
ある男を想像してみてくれ。仮に、イギリス人だとしよう。その男が君にこんな言葉を吹き込んでいたとしたらどうなっていただろう? 男曰く、君のテストのときだけ条件が変えられていた、だがイギリスでならそんな恐れはない、と。
そうなっていたら、宇宙を征服していたのはイギリス人だったはずだ。つまるところ君は武器だったんだ。言うなれば、人類が手にしたことのなかった、もっとも効果的で、もっとも完璧な武器だったのさ。我らがヨーロッパが宇宙への道を閉ざす相手を自由に選べたのは、君がいたのが僕らのところだったからだ。
そういうわけで、センターにも睨みを利かせている人間がいた。そう、セナンクールさ、情報部のひねくれチビ。
極秘の新型ドラッグを注射することを考えついたのはあいつだ。君の空間認識能力を、少しばかり、さほどではなく、わずかに、破壊するため。十三日後に君が言われたのは、宇宙のただなかで船の位置を把握する能力がないということだった。
君は猛然と食ってかかった。
「コンピュータがあるじゃないですか」
ランベールは猫なで声で答えた。
「もし壊れたらどうするんだ……」
君は何も答えず、僕について来るよう合図して部屋から出た。ランベールも僕を押し出した。
出し抜けに君から「どうして空間認識テストの結果を偽造したんだ?」とたずねられたとしたら、どんなことになっていたかわからない。
なのに君は素っ気なく、「馬鹿げてる……」と言っただけだった。
「クロードが正常だと考えているのか?」二日後、軍医のドナデューにそうたずねられた。
君が正常かどうか? ぽかんとした僕の顔を見て、ドナデューは真っ赤になった。CERAはフランスはおろかヨーロッパのどこよりもヘクタール当たりの天才が多い。ただの道具に過ぎない僕のことではなく、ほかの人たちのこと、ほかの人たちみんなのことだ。僕みたいな人間と話をすると途端にみんなが落ち着かなくなるのは、きっとそのせいなんじゃないかと思う。僕みたいな人間にとって、世界は単純で、謎なんかない。黒というのは色に過ぎないし、水晶とはきらきらした石でしかなく、
ほかの職員の言葉を君に伝えても、第一に僕の記憶がその言葉を裏切ってしまうんだ。それにまた相手の言いたいことの一割も理解していなかったし、二重表現なんて耳を傾けることもせず気にも留めないですべて額面通りに受け取っていた。
で、君は正常だったのかい?
ドナデューは――思い出してくれ、あれは僕がCERAに入ったばかりの話だってことを――ドナデューは、質問の意図を説明してくれた。一度聞いただけで僕にも理解できるほど単純なことだったよ。君が子どもの段階から抜け出したのかどうかを知りたかったんだ。そのころの君は十七、八。そして僕の専門は宇宙医学だった。
思春期の段階ですよと言ってお茶を濁しておいた。白痴ではありません、と。そういう視点で君を観察するなんて反吐が出る。
「ばかな言動はやめ給え、クレールヴァル! 私の言いたいことはわかっているはずだ。問題なのはホルモンでも知性でもなく、態度だよ。命を前にしたときの態度なんだ」
「命と向き合う機会なんてありませんでしたよ……」
「その通り。いっさい向き合おうとしなかったことを知らないのかな? 提案されたあらゆる手段をきっぱりと断ったのだ」
「何言ってるんですか!」僕は怒りを爆発させた。「ぜんぶ押しつけられただけで、自分で手に入れる必要なんてなかったんだから……」
「本人がそう言ったのか?」
「気になりますか? たいした話はしてくれませんでした。怖がっていたんです、たぶん、話し過ぎてしまうことを」
「つまり敵だと思われたのか?」
僕は同情するように肩をすくめた。天才たちからすると、君は単純すぎて理解できないんだ。少なくとも僕はそう思っていたし、今もそう思っている。
「普通の反応が返って来ると思うんですか? 六三年からもうすぐ四年になりますが、クロードは内科医と精神科医と技術者にしか会ってないんですよ。あなた方は教育の手を抜かなかったようですし、実際、寄宿舎としてよく考えられています。玩具も本もお菓子も与えた。部屋にはテレビ。情操教育や性教育も抜かりはなかったそうじゃありませんか。両親が面会に来ることも出来ました……」
僕は敢えて言葉を止めた。深刻に、とは行かぬまでも、とにかく意味ありげに思わせたかったんだ。それからつけ加えた。
「だけどクロードは両親に会いに行けませんでした! 、気づかないはずないでしょう? 周りには、制服か私服かに関わらず短機関銃を持った人間が常にいて、身近な人たちにその銃が常に向けられていたってことに。考えただけでぞっとします。まず間違いなく、クロードほど監視されていた人間はいまだかつていなかったでしょう。そのとき僕はこの悪魔のような所業に気づいたんです……ボディーガードが普段は何をしているのか言ってもらえませんか?」
「知らんな。もう時間がない……」
「あなたには時間がないかもしれませんが、僕は知ってるんです。ボディーガードは周囲を見張り、普段は武器に手を掛けていません……ところがあの日、短機関銃を携えたボディーガードが二人、引き金に指をかけて互いに狙いを定めていました。クロードがあちこち歩き回るのを、ボディーガードは互いに狙いをつけたまま後を追っていました。ぼくがクロードから二十メートルも離れていない辺りで、どこから現れたのか、二人のボディーガードがぼくのそばに現れ、銃の引き金に指をかけて、一人は僕に狙いを定め、もう一人は僕を狙っている奴を狙っていました」
「驚いたな。これまで私は……」
嘘をついているようには見えない。だが僕の報告はまだ終わってはいない。僕にはツキが巡って来ている……それに、どうやら君のツキも……。
「話にはまだ続きがあります。今までのは二十メートルの場合です。クロードを中心にした半径五メートルの円の内部では、ゲームのルールは複雑になるんです。僕はどんどん近づいていきました。すると別のボディーガードが二人駆け寄って来て、一人がぼくに銃を向け、もう一人がそれを制しました。すると六人の若い男たちが言葉もなく、クロードと僕の動きを物理的に邪魔することなく、目も眩むようなバレエに身を投じたのですが、僕を撃つ短機関銃が二挺以下にはならないようにしていたり、クロードが射線を横切らないようにしていたりして、そのあいだもボディーガードは二組とも片方がもう一人を狙っていました。これを再構成するのに二時間も図を描かなきゃいけませんでした。まさに地獄でしたよ」
「まだわからんが……」
僕はドナデューの言葉をさえぎった。
「僕だってわかりませんでした。ボディーガードなら買収することができると思っていたんです。ところがそれは名を伏してバレエを作り、S・Rの長官だった、セナンクールという名前の穏やかな気違いが散々考えたことでした。だから尋ねてみたんです。そうしたらセナンクールは笑い出し、最後の仕上げに絵図面に何を引くのかを説明してくれました。ボディーガードなら誰でも、クロードをいつでも殺すことができることに気づいたそうです。だからボディーガードたちに支給する武器は、準備も装塡も済んで、点検することもできないようになっていて、そのうちのいくつかには空砲が詰められているんです。でもそれはどの銃でしょうか?……セナンクールによれば、成功する見込みが少しでもあれば、どんな仕事にも狂信者は湧くそうです。ところでもしもその狂信者が、自分の手にしているのが空砲かもしれないと考えたらどうするか……つまりセナンクールは、プロであれ狂信的であれ殺し屋が博打を打つはずがないと考えたんです。これまでのところそれは間違っていません。それに各国列強がクロードを生かしておきたいと考えているという事実も指摘しています」
「だがな、もしも――」ドナデューが目を見開いて尋ねた。「例えばイギリスかどこかが、ベランジェと同じ能力を持つ人間を見つけたら?」
どうしたら君が正常でいられるというのだ? ドナデューのことがわかってくると、あの質問も許せるようになった。ドナデューは理解しようとしていたし、僕が知っていることをすべて知っていたわけでもない。ドナデューが君に会うのはいつも診察室だったし、君は入って来るなり椅子に座っていたから、ボディーガードたちも馬鹿みたいに右往左往する必要もなかった。
それは四年間、六七年まで続いた。人工衛星が初めて打ち上げられてから人類が宇宙に行くまでに要した時間よりも長かった。もちろん、発狂してしまった飛行士については大っぴらに話題になることはなかった。最初はロシア、次いでアメリカが宇宙に送り出したものの、君をうまく利用できなかったせいで犠牲になったんだ。フランスはと言えば、宇宙への道を相変わらずたどたどしく歩んでいた。
もっとも、どうやって一気に何段階も駆け上がることができたのか、僕にはわからない。どうやってアメリカとロシアに追いつき、追い越したのか。ロシアや、同じく前に進んでいたイギリスや、アメリカ、あるいはその三国が協同して、自分たちの成果を盗ませようとしたのではないか、と想像したのはぼくだけではない。フランスは相当の代償を払うことになるだろうし、宇宙に出た途端に開発継続のために三つのうちどこかの国の助けが必要になるだろうという仮定に基づいて。それはもちろん六九年に実現した。
それはそうと六七年に、僕はそこにいた。
六七年には、宇宙のために生まれた子どもは一人前になっていた。ほぼ一人前。十八歳。君はそのとき人類の手助けをしてもよいと決断したのかい? 人類の手助けをすべきだと決断したのかい? 決断を……?
それとも、何一つ決断なんかせず、あいつらのおもちゃであることにうんざりして、おもちゃで遊ぶ側に回ろうとしたのだろうか。
馬鹿みたいなことを言っているのはわかっているけれど、僕ほど知っている人はいないし、同時に僕は何も知らない。君には伝わらないかもしれないけれど。
恐ろしいことだよ、君が僕を好きでいてくれること以外は何も知らないなんて。教えてほしい。君は痛みで人を見分けられるのかい?
セナンクールも同じ疑問を考えていた。僕に疑問をぶつけた。あいつめ、しっかり仕事をしていた。何ならしっかりどころじゃなかった。
僕を苦しめて、君が反応するかどうかを確かめたんだ!
君は何もせず、何も言わなかったから、僕は地獄の罪人のように苦しんだ。その点では素直に君に感謝している。あいつらの餌にされるなんて考えただけで血の気が引いたし、肉体的な痛みなんてそんな恥辱に比べたら何でもなかった。でも君は何も知らなかったし、その話は一度もしなかった。
あいつらはさらに推し進めることさえした。ランベールは冷たく言った。
「きみは一介の宇宙医師に過ぎん……そんな目で見るな、俺も卑劣漢ではない。今回の件で楽しんでいるわけじゃない。きみは宇宙医師だ。あと何年かしたら、ロケットに乗って地球を離れ、月に行くことになるだろう。それとも火星か、ほかのどこかの星か。操縦士が気絶するかもしれないし、ほかのトラブルが起こるかもしれない……」
「操縦の仕方なら知っています!」
「知っているだけじゃ駄目だ。操縦も出来なくては」
そこで今度はこの僕が、現代の冷酷な現実主義者が考え出したあらゆるテストや苦行を経験する羽目になった。肉の塊になら何をしても構わない。肉の塊は反抗すればいい。とはいえこれは君も知っていることだったね。
僕が理解したのはすっかり終わってからだった。
ドナドゥーから呼ばれた。
「無駄だったとも言えるし無駄ではなかったとも言える。ベランジェからは何の反応もなかった……その一方で、もしも操縦士になりたいのなら、きみには肉体的にも精神的にも必要な素質がある」
肝臓がまた喉元まで迫り上がってきた。吐き気がする。
後日、ランベールがもったいぶってこう言った。あの悪魔め。
「クレールヴァル、ロケット第一号をきみが操縦するというのなら、我々としてもありがたいし、認めるのはやぶさかではない。それに……」
それをさえぎったのはドリヴォーだった。僕も同じことを言いかけていたところだった。
「しかし長官、操縦の知識と能力だけではいけません。訓練を受けていなくては……」
「馬鹿にするな」ランベールが言った。「すぐに出発するはずがなかろう。最低でも一年は……」
「その気はありません」僕は答えた。
「命令違反だな」ランベールは自信なげにつぶやいた。
僕はそのあとどうなるのかも気にせず立ち去った。それまで欠けていたものを不意に手に入れたのだ。良心だ。笑えないね。
君は姿を消した。
有り得ないことに、君は姿を消した。有り得なかった。十五人の人間が昼も夜も怠ることなく見張っていたんだ。少なくとも二人は常に君から目を離さず、生きているのを確認している。
誰もが衝撃を受けていた。そして五日間が過ぎた。長い五日間が過ぎて、ようやく君が見つかって特権的地位の犯罪者のようにセンターに連れ戻された。アネットも一緒だった。そうして君たちは結婚した。
あいつらはパニックになり、どうしたらいいかわからず混乱していた。君がいなくなったせいで
僕も考えてみたんだ。そうして、君が消えるのは有り得ない以上、君は消えなかったのだという結論に至った。君がアネットと一緒に戻って来たことがその結論を裏づけていた。あいつらは君をもてあそんで賭けをしたんだ。上層部が決定したことでなければ、ランベールは君の計画的逃亡のあいだよく眠れなかったはずだ。センターで見張ることがすでに簡単ではなかったが、外でなら、君は自由だと思い込ませ、アネットに会いに行けると思い込ませることも容易かった。
いいや、アネットはぐるじゃなかった。あいつらはアネットにも自由という幻想を手渡しておいて、君がそれを利用して蛹から蝶に変わるんじゃないかと期待していたんだ。
そんなことよりアネットだ。僕の命よりも、君よりもずっと愛していたアネットが、君の妻になっているなんて。君のことは幾度となく殺した。千回は心臓を突き刺し、死体を踏みにじり、顔を引き裂いた。起きているときも眠っているときも、君の死を夢見ていたし、君を拷問した。幾度となく君からアネットを取り返して、君がいなくて震えているアネットを抱きしめた。そうさ、幾度繰り返そうとアネットは君を愛していなかったし、同情してそんなふりをしていただけだった。だってアネットが愛していたのは僕だったんだから。僕の憎しみが君を包み、汚物のマントで君を覆った。
アネットが君の許を去ったおかげで、ようやくまた兄弟のように君を愛することができるようになった。アネットが去ったのは僕のためではないが、どうでもいいことだ。僕らのあいだからはいなくなってしまったんだから。
それでも君はアネットと三か月暮らした。僕にも理解できなかった。アネットのおかげで執着から解き放たれると考えて、逃避の試みだと見なしたのでないかぎり。でも邪魔な臓器を手術するようには、才能を取り除くわけにはいかない。たとえ今は使わなくても。物書き、それも本物の、或いは芸術家や、科学者のようなものだ。なるべくしてなる。遅かれ早かれ。彼らはもう書かない、描かない、実験しないと心を決める。理解されないから、必要とされてないから、作りあげたものが醜くてつまらないと評価されたから。だからもうしないと強く誓うんだ。だが才能は蓄積され、ある日あふれ出す。そうしてまた活動を再開する。
君も同じだ。
もしも君が、アネットを創作活動の代わりにしようと考えていたとしたら。でも君がそんなことを考えただろうか? それは弱さだったかもしれない。ときには許されるし、むしろ歓迎されることもあるだろうが、それは君なりの弱さじゃなかった。君の才能は君を取り戻し、もう手放すことはなかったんだ。
思い出したくなかったのに。
センターはようやく間違っていたことを認めた。君は思っていたような人間じゃなく、自分たちの助けにはならないってことを。それが人類初の飛行士たちを突如として宇宙に送り出した理由だった。
それはテストや基礎訓練のあいだ意味もなく長々と君をいじめていたやつらだった。それなのに、肉体的精神的に彼を待ち構えていた狂気や苦痛から救ったのは、どうしてなんだ?
それからしばらく、宇宙に動物を打ち上げることはなくなった。フランスではそうだ。ソ連とアメリカではとっくに人間を乗せていて、アメリカ人五人が犠牲になり、ロシア人が恐らく七人犠牲になっていた。
イギリス人だけはいつもより少し先まで想像していた。ソ連とアメリカが愚行をやめるには一か月かかった。ライカ、ストレイカとベルカ、アメリカのチンパンジーたちから収集した情報は、たいした役には立たなかったんだ。みんなささやかではあるが重大な事実を頭に入れておくのを忘れていた。つまり動物たちの苦痛を実際に受けていたのは君であり、だから動物たちのスタミナは実際よりもはるかに強かったという事実をだ。要するに、人類初の飛行士たちを地球から送り出し、重力から引き離したとき、送り出した先がどういう場所なのかを、アメリカもソ連もわかっていなかったんだ。自分たちでは多少はわかっていたつもりらしいが、実のところは何もわかっていなかった。
まるで苦痛の万華鏡だった。だけど先を見通せないのは人間の業みたいなものだ。人間的な見方にかぎれば。物質的になら人類は可能なかぎり先まで探究して見通そうとするのだから。とは言え僕が今になって恥じているとは思わないでくれ。君は僕からアネットを奪ったんだ。人間なんて経験を積んだからといって、自分に起こることも他人に起こることも心配なんてしないものだ。崇高であれ? そんなものはまず間違いなく、無知ゆえの崇高さだよ。
地球全土でほぼ一年の停滞があった。ところが出し抜けにフランスがトラントラン七号を打ち上げた。操縦士:マルク・アリュアン、三十二歳、一メートル六十七センチ、五十九キロ。IQは平均値だったが、頑固なところがそれを補っていた。もっとも、操縦士といっても新聞の一面六段抜きの大見出しのための存在だった。航行中に何もする必要がないのだ。『敵』国に落ちないように、わずかに減速の修正をするだけだ。
ランベールは前の晩に君にただこう言っただけだった。
「明日、我々はマルク・アリュアンを六十二時間の軌道飛行に送り出す。軌道周期は一一九分。君にその気があるなら……」
操縦士は飛び立ち、君は戻った。僕は、そうしなかった。
「やめとけよ、クロード。アリュアンに危険はない。ヴァン・アレン帯を越える必要はないし、九〇〇キロを越えることはない。本当に危険なのは帯の初め一〇〇〇から二〇〇〇キロのあいだだ。軌道に到達するための加速には耐えられる。そのことはロシアとアメリカが何回も実践している」はったりもいいところさ。君に理解させようとしていた話は、僕自身でさえ納得できるとは思えなかった。だけどそれでも……。ランベールの忠告も納得できるものではない。あいつは僕らを初心者扱いしたんだ。アリュアンには危険がないことに、君が気づくか、僕が伝えるかすると思っていたんだろう。あいつは最後までそう思っていた。あいつはね。断言できる。あの偽善者。宇宙開発者イチの異常心理の持ち主。
だけどあいつは充分に先を見通せていなかった。紛い物のマキャベリズムがもたらす結果さえ見通せていなかった。一方で理解していた君は、その夜はぐっすり眠り、目を覚ましたのは発射直前だった。
僕は君と一緒にいたものの、そのときまで隣の部屋でまどろんでいた。僕も知ってはいたさ。でもぐっすりと寝ていたし、僕は……。
ジェットエンジンの轟音が聞こえるとほぼ同時に、君の叫び声が聞こえた。恐怖の叫びだった。まだ苦痛を感じていたわけではない。当のアリュアンが事態を理解したのだ。くそったれどもめ……。君はまだ助けることもできずに、恐怖を共有していた。ランベールの話よりも高いところまで飛ばすということなら予想していたが、こんな極悪なことまでは予想できなかった。当人には何一つ伝えず心構えもさせずに飛ばすつもりだったとは。予想よりも大きなGがかかっていると実感したときの衝撃や、そのことを覚悟していなかったために降って湧いた恐怖が、君にも襲いかかり、君にも怒りを植えつけるために、そこまでするとは予想できなかった。意思とは無関係に協力させるために。いったん歯車に組み込まれてしまえば、そこから抜け出すことはできないだろうと踏んでいたのだ。ランベールとドリヴォーが一週間後に僕の目の前で自慢げにそう話していた。
そして、ランベールが間違っていたことは僕が証言できる。結果だけなら変わらないが、間違っていたんだ。あいつは君のことをわかっていなかった。実際よりも弱い人間だと思っていたんだ。僕は君に付き添い、その後の六十二時間にわたって可能なかぎり支援した。あいつらの浅慮が深刻な結果を招かなかったのは、僕のおかげだっといえる。
僕は基地司令官から祝福を受ける羽目になった。そうして一つ階級が上がり、以前よりもっと君を手助けし、君を守ることができるようになった。君は自分で身を守れないからね。だけどあの地獄の二日半のあとは、君は十日間も昏睡していた。しかも、やはりアリュアンは死んでしまった。君が手を放したから。六十時間を越えたところで支えられなくなったから。減速が致命的な結果を招いた。なのにランベールもドリヴォーもそのことで処分を受けることはなかった。
ミッションそのものは上層部から申し分ないと判断された。
僕の指示に加えてドナデューも手助けしてくれて、君用の特別な個室が作られた。アメリカ・マーキュリー計画のカプセルと拘束衣を足して二で割ったような代物だ。ガラス繊維とプラスチックで作られたベッドは、君の身体の輪郭にぴったり合うように出来ていた。君はそのベッドに固定され、血圧、呼吸、心音、脳波、唾液分泌量、アドレナリン分泌量といったものを測定するための医療機器に繫がれることになっていた。ドナデューだけが考えていた、君の状態に応じてさまざまな薬を注射しうる可能性や、僕だけが考えていた、君、つまり君の棺桶のなかと僕らのあいだの通信装置も忘れてはならない。
だけど君がやってみせたことを科学的に究明しようとする者は一人もいなかった。もちろん君は協力的ではなかったけれど、それが理由だろうか?……僕もあいつらと変わらない。長いあいだ何もわかっちゃいなかった。あいつらよりは君の特別な能力のことを信じてはいたが、でもそれだけだった。すべきだったのは信じることではなく行動することだったのに。専門医なんだから。まさに専門だったんだから、もっとはっきり理解して然るべきだった。それにはバルザックの「徴募兵」という短篇に出会い、君に読ませるまでの出来事が必要だった。
『伯爵夫人が死んだのは、もっと深刻な感情、まず間違いなく恐ろしい幻覚のせいだった。デイ夫人がカランタンで死んだちょうどそのとき、息子がモルビアンで銃殺されていた。この悲劇的な事実を、共感の力が空間の隔たりを無視する事例に加えることもできよう。孤独な人間が知的好奇心から集めた資料であり、いつの日にか、これまで天才が不在だった新しい科学の基礎を築くことに役立つことだろう。』
この作品は一八三一年二月二十三日、ちょうど百年前に出版された。君は笑いながら本を返すと、ここでいう天才とはきみのことかいと尋ねて来た。
「悪いかい?」
こうして僕は憤慨して君と別れた。
口に出していいこともあれば、自慢すべきでないこともある。「徴募兵」やあとで思い出したいくつかの作品が形にしていたような、君に関する僕の考えもそうだ。ドナデューはいい顔をしなかった。
なかでもジャック・ウィンターの名は、ドナデューを激怒させるに充分なものだった。
「あのヘボ物理学者め! 微粒子だけで満足していればいいものを! 生物的力場とは、どういうつもりなんだ……」
「そのことなら」僕はできるだけ穏やかに言い返した。「ローテンのような人たちが存在を明らかにしただけでなく、はっきり説明したのではなかったんですか?」
「ただの霊気だよ。十九世紀のスピリチュアリストたちが霊気と呼んでいた古くさい代物を引っぱり出して来て、科学ぶった専門用語をつけているに過ぎない」
ドナデューは〈科学ぶった〉という部分を強調し、鼻で笑った。「実に愚かだ。動電気とは、ガルヴァーニが死んだ蛙のなかに見出したと信じていた生命力以外の何物でもない」
「つまり電気も馬鹿げたものだと?」
「イメージ優先、穴の開いた類推、間違った関連付け。きみにかかれば何でも証明できそうだな」
「ではベンダーやラインは信用できないというんですか? あの人たちの研究室は魔術師の巣窟で、書いたものは魔術書だと? あの人たちがおこなった実験はサバトなんですか?」
「道を外れた天才も大勢いた……」
「そうですか」
僕はいったん退出し、考えをまとめてからまた戻って会話を再開した。
「エントロピーを逆転させるなんて馬鹿げていると思いますか?」
「エントロピーだって! エントロピーが何かわかっているのか?」
「あなただって生命が何かはわかってないでしょう? それでも、あなたは医者だ」
「わかったわかった! 落ち着こうじゃないか」ドナデューがいきなり声を荒げた。「エントロピーは一秒進むごとにひどいダメージを受ける。生命という不均斉なものはひとりでにそうなるんだ、馬鹿者め!」
ドナデューは鉛筆という古くさい代物で苛立たしげに机を叩いていた。僕はそれを見つめたまま沈黙を破ろうとはしなかった。やがて突然、ドナデューは湧き水のようにまた話を始めた。長いこと心のなかで何を独白していたのかは、僕にも推測することはできた。
「要するに、きみが気になっているのは確率を変えることか? 若者というのはふざけたことを考えるものだな……」
僕は控えめに頷いた。
ある日、僕は考えていたことを隠さずぶちまけてドナデューを啞然とさせた。
「馬鹿げた仮説から始めてみませんか? ウィンターの生物的力場とは宇宙では制限がないのでは? つまりその……溢れているのでは……」
「それじゃあエクトプラズムじゃないか」
「お好きなように。何ならこう言いましょうか。『ベルジエのエクトプラズムを研究して、明らかにする』と」
ドナデューは眉を上げた。
「五六年ごろ、『絶対の探究の先駆者バルザック』という論文のなかで、このエクトプラズムを世に問うた人です」
「それで、世の中の反応は?」
「無反応でした。世の中はそんなことではびくともしませんでした。当時は。今なら状況は変わってゆくでしょう」
ドナデューが折れた。
「わかったわかった。お友だちのエクトプラズムを研究すればいい。だが私に迷惑は掛けんでくれ。責任の所在はきみにある」
望むところだ。
そこで僕は君に張りついた。嫌な思いをさせてなかったならいいんだが。それはともかく君はまったく協力してくれなかった。できなかったのかもしれない。経験したことの多くは君とは重ならなかったけれど、それでも僕はたくさんのことに気づいた。君を観察していたあの当時じゃない。ずっとあと、七五年のことだ。
もっとも、六八年にはすでに、おおまかには理解していた。
なぜなのかに関しては、まったくわからなかったし、これからもわからないままだろう。どのようになのかは、モニター用宇宙船を訪ねたときに窺い知ることができた。
君には巨大な生体感知領域が備わっていた。もともと広大なのか、伸縮自在なのかはともかく、遠くまで作用させることができた。どこまで届くのかはまだわからないが、取り敢えず火星までは手を伸ばせた。まったく正気の沙汰じゃない。そんな能力が一人の人間に詰め込まれていて、おまけにその人間というのが君だったなんて……。
僕はほとんど瞬時にこの現象の厄介な点を理解した。
君の生体感知領域がかなり遠くまで広がっていること。
領域のなかに全人類が引き寄せられていること。地球全体と、地球に含まれるものすべてが。僕は束の間困惑した。神を見つけたと思った。
その領域のなかで、君は人類や動物、それに恐らく植物の苦しみまで感知していたんだ。
だが、そこには緊急度のようなものが存在したはずだ。そうでなければ生きていられるはずがなかったし、生き延びることもできなかっただろう。
それに君は世界中の無数の苦しみのなかから任意の苦しみを選ぶこともできた。
助けの手を伸ばさないこともよくあったし、特定の場合のためだけに手を空けていたはずだ。
そのとき君は、選ばれた相手の感覚シナプスを支配し、遮断することもできたし、その苦痛を視床に伝える神経インパルスを切断することもできた。
二重制御。ただし優先権あり。視床に至る末梢感覚細胞に集中していた。あるいは君は手の内を隠していたのかもしれないけれど、誰にも確かめようはない。
君の働きがどの程度に達していたのかを正確に見抜くことに至っては……。
シャルパンチエがいた。ジョルジュ・シャルパンチエ、副操縦士、フランス人、トラントラン八号に乗船。競馬のアナウンスみたいだ。
虻れん坊のジョーその人だ。子どものころほどイカレても向こう見ずでもなかったけれど、相変わらず驚くほどに勇敢で、がむしゃらだった。そう、がむしゃらだった……抵抗できる人なんていなかったし、だからこそいつだって二番手に収まっていた。二番手に収まる必要があったんだ。さもなければ何もかも終わっていた。もちろんどこまで意図的だったのかは本人の知るところではない。
よき友人。それ以上でも以下でもない。子どものころの喧嘩が、長じてからの固い友情に結びつくとはかぎらない。恐らく嫉妬の芽はあったが、でもそれも考慮のうちだった。シャンブルイユ基地がどれほど周到緻密に運営されているか知っているのは、特別な地位にいるごく少数の人間だけだ。君のことを除けば、あの当時からすでに、すべては正確なグラフのための材料だった。
とはいえ、シャンブルイユは少し特殊だった。第一に、ドナデューやドリヴォーや僕を含めたほとんどの人間がここにいられるのは、宇宙開発というものが替えのきかない専門分野であるからに過ぎない。僕らの軍人らしいところといえば、部下からの敬意という表層的なものでしかない。それに、僕は上官に敬礼した覚えはない。いつも間の悪いタイミングで帽子を脱いでいられるようにしていたからだ。さらに言えば、ドナデューの階級は基地を指揮する大佐と同等だった。ランベールは七二年にエティエンヌ・ヴィラレという人の後任となった。
シャルパンチエは六八年八月二日に飛び立った。目標――高度十万キロまで上昇し、また戻って来ること。言い換えるなら、ヴァン・アレン帯を二層とも超えること。所要時間――四十時間。
そしてこのとき誰もが虻れん坊ジョーを過小評価していた。穏やかな顔をして、頭のなかでは一つの考えを固めていたんだ。誰がこの正気とは思えない軌道を決定したのか、正確なところはわからない。だけど、その結果がどうなるのかを誰も予想できなかったことが、僕には理解できない……。僕は関わっていなかった。専門外だったからだ。でもランベールは、いやそれ以上にドリヴォーは。あのくそったれどもは、何も見抜けなかった。まったく何も。でも僕はシャルパンチエにできることを知っていた。あのときデータを持っていれば……。
大騒ぎどころじゃなかった。あのとき以来、一次試験と二次試験に関連する協議には、責任者全員が参加するという慣習ができたんだ。
こうしてシャルパンチエは、夜明けに、処刑台に臨む死刑囚のように飛び立った。それを知っていたのは当人だけだった。最後にもう一度すみれ色の空を眺め、恐らく躊躇していたに違いない。君は個室のなかで大人しくしていた。ドナデューと僕は、スタッフたちと共に、君がいつ失神しても支えられるよう備えていた。君は失神しなかった。ほとんど呻き声もあげずに、ジョルジュに助けの手を差し伸べていたんだ。君の心臓は一度だけ弱まった。強心剤を使用。君は合間に僕に話してくれた。ほんの一言か二言、ささやかなことを。二つ目の帯の方が厄介だった。遙かに厚く、プラズマが余裕で十万cpsを叩き出しているからだ。君が息を吐き、血圧が下がったので、僕らは緊張を解いた。
管制室も、追跡レーダーも、電子制御と映像処理班も、起きていることを把握できなかった。把握できていたとして、何か変わっただろうか? 何もかも手遅れだった。
シャルパンチエは月周回軌道に貼りついていた。誘惑が強すぎたのだ。あの馬鹿は一度でいいからどこかで一番になりたくて、そんな自殺行為をおこなったのだ。
さらに最悪なのは、プログラムと一致しないことに気づいた時点で、接続を切って遠隔操作で当初の軌道に戻すこともできたはずだったということだ。ところがよりにもよってその瞬間にドップラー・レーダーがトラブルを起こしたのだ。速度を見失い、身動きが取れなくなった。
妨害工作も考えられたが、違った。そんなことですらない。単なる故障、自分を殴りつけたくなるくらい馬鹿げた故障だった。
シャルパンチエが三段目の推進剤をどう調整したのかわからないが、五九年のルナ二号と三号の中間くらいの月接近軌道速度に到達していた。ランベールによれば、不可能なことだった。ドリヴォーによれば、ごくわずかな余地ではあるが、可能性はあった。さらにドリヴォーは明言した。シャルパンチエは比推力を子細に検討していたと。結局のところ不思議でも恐れることでもなく、操縦士にとってはむしろその逆なのだとつけ加えた。
実のところは二人とも罪悪感に駆られていたのだ。そうして八月三日、シャルパンチエはトラントラン八号とともに月面のアペニン山脈に墜落したと考えられた。
君がシャルパンチエを最後まで追い、死を見届けようとしたのは、なぜだったんだい?
君のことはすっかり理解できるようになったけれど、それを言葉で説明し、明らかにしようとすると……何しろ、もうずいぶん前にロシアとアメリカは月に到達していた。どれだけの苦しみと引き替えだったんだろうね? はっきりしたことは誰にもわからない。でも僕は確信している。君は彼らにも手を差し伸べていたに違いない。少なくとも最小限のことは。それもしばらくのあいだ。今なら僕にもそのことがわかる。
これは先日ドナデューからちょっとした実験に招かれたからというわけではない。
僕はすっかり驚いてしまった。あのドナデューが、生物的力場を明らかにするためにウィンターの古典的実験を僕に繰り返すだって? でも結局のところ……。
ドリヴォーはといえば、鏡合わせに平行な次元に沿った君自身の、恐らくは鏡像的な投影だという見解に傾いていた。たわごとにしか思えない。理解しているという主張を聞いて、僕はうなずけなかった。ドリヴォーはそれ以上は言わなかったものの、恐ろしい目つきで僕をにらんでいた。
事実そのものは理解せざるを得ないにしても、そうなるに至る経過や理屈については僕はまったく理解できていなかった。どのみちウィンターの力場にしろ、ドリヴォーの投影にしろ、問題を先送りしているに過ぎないのだから……。
その後、ジャン・モランがトラントラン九号で十万キロに到達し、無事に帰還した。それから一月後、
君は必要とされる時代に存在すべく、時代に合わせて生まれたんだ。アメリカにしてもロシアにしても、物資も人員も好きなだけ採用できた。フランスには無理な話だった。十回のミッションのうち失敗できるのは一回まで。二度目の失敗は取り返しのつかない障害になり得る。
とはいえ、君という存在は解決策としては不安定だ。一人の人間が圧倒的な物量の代わりを務めるのは長いあいだできることではない。それに、その人間がいなくなることだってあるのだから……。
そのときアネットが戻って来た。妊娠していた。
一騒動持ち上がった。こぞってアネットに殺到し、監禁すると、君の子どもを取り上げた。五年にわたってそのちっぽけな人間は、考え得るかぎりのあらゆる実験、あらゆる拷問を受けた。ドナデューは眠ることさえ惜しんで、君の能力が遺伝であることを証明しようとした。もしかすると証明できた可能性もあったかもしれないが、その子は死んでしまった。
君はアネットを見ても驚かなかったね。後日、別の話題になったときのこと、アネットがドナデューに、子どもを産むときまったく苦しまなかったと話していた。君は出産の痛みも分かち合っていたのかい、クロード……?
その君の子どものことだ。君が殺したのか? ドナデューはこの件について一つの仮説を立てている。その子が突然ありえないほどの苦しみにもだえたのを目撃したんだ。マルセル・ゴルドのミッションが失敗したときのことだ。君がゴルドの苦しみを子どもに移し替えたのだと、そのときドナデューは考え、その後もずっと考えを変えなかった。当然ながらその子は耐えられなかった。ドナデューによればそれこそ子どもが君の能力を受け継いでいた証拠だった。苦しみを受け取ることができたからそう思ったわけじゃない。その子には耐えられないと確信したうえで君がいきなり苦しみを押しつけたからそう思ったんだ。
君と同じ受難の道を子どもにたどってほしくなかったのかい……?
そうしているあいだにも、火星の植民地化計画は進んでいた。
そして七五年、悲劇が起きた。僕があのあとやったことに誰かがすぐに注意を向けていれば、君が公正とは限らないことは予想できたはずだ。君の判断基準は人間らしくなかった……つまり、僕らの概念に照らせば人間らしいとは言えなかった。でも君を断罪できるわけがないじゃないか? 少しでも思いやりがあれば……。
君について今知っていることを、あのときから知っていなくちゃならなかったんだ。でもあのとき君は公正だった。宇宙開発に赴く人間に分け隔てなく手を差し伸べていたのは、誰の目にも明らかだった。救っていたのはフランス人だけだと思っていたんだ。笑えるだろう? でも本当にそう思っていたんだ。君は巧妙に振る舞っていたからね。
苦しみが大きくなるのは承知で、フランス人以外のときに襲いかかる苦悶を君は隠していた。苦悶は隠そうとすることで倍増した。
うまく隠すために、外国人への救いの手を少し減らしていたんだろう。ごく狭い内輪では周知の通り、ロシア人もアメリカ人もイギリス人も、僕らよりも苦しみを感じていたんだから。
でもこの疑問に対する答えは、誰も知らなかったし、今以て知る者はいない。
火星の植民地化が進められ、僕は出発の準備をしていた。|ヨーロッパ宇宙航空研究センター《CERA》はもはやその重要性を失っていた。宇宙航空は最先端の研究ではなくなり、宇宙基地が着々と増え続けていた。シャンブルイユは今なおフランス最高の基地ではあったものの、七五年ごろにおこなわれていたのは、火星軌道外のプロジェクトに限られていた。大型惑星が研究課題、正確にはその衛星がそうだった。シャンブルイユの主要な活動は、火星を拠点に実施される計画の策定だ。
君を火星に連れて行く案も出た。実現しなかったのはなぜか? 思うに、リスクを天秤に掛けたのだ。当時は宇宙船の三隻に一隻が宇宙の塵となっていた。そして君は替えがきかない存在だった。
でも僕はメンバーに選ばれた。
それは最後のミッションだった。僕は第三飛行士として、これまでより短いがハードでもある新たな軌道に挑戦することになった。極めて有能な医師が必要なのだと言われた。自分の能力ならどんなわずかな欠点まで承知していたから、納得していた。理解しているつもりだった。理解していたつもりだったんだ。
それもまた陥穽だったのだ。
よく知られた原理だ。逃げ道が一つしかない状況に追い込むのだ。チェックメイトに繋げる一手。
でもあれはさらに巧妙だった。君には二つの解決策があったが、君にとっては苦渋の選択であり、どちらを選んでも秘密の一端を明らかにしなければならなかった。
先生がいたから。
君が先生のことを誰よりも愛していることを、どうやって知ったんだろう? 先生が僕らと一緒に火星に発つとわかったとき、電話で少し話すことができた。
「先生のお歳で?」
「私の歳で」
「争点をご存じなんですか?」
「争点……?」
理解していないように聞こえたけれど、僕よりよほどよく理解していたんだ。充分な情報は与えられていたけれど、秘密が明らかになるほどではなかったに違いない。
実際のところは僕の想像も先生の想像も遙かに超えてねじくれたものだった。
さもなければ……。
「ええ」僕は電話を切る前に言った。「クロードは操縦士と先生のどちらかを選ばなくてはなりません」
先生の目が曇ったのが見えた。
そして一九七五年八月十日午前五時、僕たち七人は乗船した。君はクッション詰めの棺桶に入り、どれだけ離れていても操縦士を救える準備をしていた。ドナデューが僕の代わりに君の枕元にいた。僕らにとっては六十日ほどの旅だったけれど、君にとっては出発時と到着時の緊迫した数時間がミッションだ。
基地ではあらゆる準備をしていた。僕にあれ以上の訓練を強いられなかったのはそのためだ。君が何を選ぶのかの決め手は、些細なことだったに違いない。君は僕らへの愛情で決めたんだ。
打ち上げのとき、先生はかなり調子が悪かった。僕は症状を和らげようと何時間にもわたって注射をしなくてはならなかったし、僕にしたってヴァン・アレン帯を越えるまでの最初の圧に苦しんでいた。理論上はかなりのGに耐えられるはずだが、現実はまったくの別問題だ。火星の質量は地球よりも遙かに小さいのだから、減速もそれほど激しくはないはずなのだが、悪い予感しかしなかった。
でもそれはシャンブルイユから誘導している策士たちの計算には入っていなかった。火星目前で操縦士が任務の継続をきっぱりと拒否したのだ。
もちろん予想できたことだ。
はじめは体調不良かと思ったから診察してみた。そのためにあそこいたとはね。ところが悪いところは見つからないし、操縦士は嘲笑うというよりも憐れみに満ちた目で僕を見つめて来る。心からの憐れみだ。命令を受けていたんだ。打ち明けたりはしなかったし、それとわかるような言葉も口にしなかったけれど、態度からすぐにわかった。
何を質問しようと同じ答えしか返ってこなかった。
「もうできない」
精神的ブロックだろうか? よく考えてみたが、そう判断すべき根拠はない。第一、精神的に不安定な人間を宇宙に送るはずもない。
そうだ。もう操縦できなくなったのだとしたら、もう操縦するなと命令されたからだ。火星が近づいていた。
だから僕は備えていた通りに行動した。前方にある操縦席に座ったんだ。
そこから先はすべてが決められていた。君も同じように感じたかい、クロード?
僕はそう思う。
数日後――情報漏洩があった。計画にはないことだったから、それは断言できる――数日後、地球でも月でも火星でも、新聞という新聞がこんな見出しを載せた。
宇宙法違反者クロード・ベランジェ、自殺を図る
何なんだ新聞記者って奴らは! あたかも宇宙法なんてものがあるみたいに……君に対して、つまり君を裁く根拠にしたんだ。
怒りで爆発しそうだった。
先生を救うか操縦士の僕を救うかの選択を迫られたとき、君は何を考えたんだい、クロード? 順番に二人とも救えると信じていた? 減速の衝撃が僕ら二人に及ぶ前に素早くどうにかできると?
君を不当だと思わなかったのは僕らだけだった。いざそのときが来るころには、とっくに陥穽の存在を感じ取っていたし、感受性が強すぎたせいで苛立っていたんだ。わかっていた。君が僕を見捨てて先生の苦しみを引き受け、僕をそのままにすることはわかっていた。一人きりだ。減速状態で操縦するには準備不足だったこともわかっていた。状況が悪化したのはそのせいだろうか? 確かに訓練不足ではあったけれど、僕を奈落に突き落としたのは、あのときの精神状態だった。
僕は十二分間、気を失っていた。決定的な十二分だった。そのあと僕はパニックになり、ロケットは激しく横揺れした。おそらくそれが僕らを救ったのだ、と主張する専門家もいたが、はっきりしたことはわからない。
どうにかして大きな損傷なく胴体着陸させることができた。
これで終わりだ。ゆっくり休んでほしい。夜が明けた。もう出発しなくては。もうしばらくは僕が必要らしい。今週は十人の操縦士に、君が僕に体験させたようなことをしなくてはならない。十人のうち二人くらいは、君や僕みたいな様子で重力発生装置から出て来るだろう。その二人には他人の苦しみを引き受けられるようになった理由はわからないだろうが、いずれわかるはずだ。君のように、そして現在の僕のように、新たな能力を精一杯に活用するはずだ。願わくば悪い人間のいないことを。
そうなるまでには人間の限界を超えた苦しみが必要なのかもしれない、と考えたことはあるかい、クロード? ウイかノンかでセルが反転するように? おそらく先へ進むための入口なんだ……でもこんなこと君はじっくり考えていたに違いない。
小柄な男が昨日僕に会いに来た。男はそれでも僕らは人間だということを理解していた。僕の前でセナンクールを非難した。もちろん、同時に称讃もしていた。何しろ、セナンクールのあの卑劣な策略がなければ……そのあとでその男は僕を脇に呼んで、こう言ったんだ。大悪党も必要だ、あいつらの病的な想像力は役に立つ、と。
僕は何も答えなかった。未来の悪党なるものを考えていたんだ。僕らは他人に苦しみを送りつけることもできるじゃないか?
大悪党の必要性……他人を前にした場合であれ自分自身と向き合った場合であれ、人間の価値を貶めるようなそんな問題を起こしたところで、長期的に見れば何の益もないことは確信してはいるものの、僕にはその結果を無視できない。
苦しみの原因は加速度だけではないということなのだから。そうだろう、クロード?
でも、だとしたら――君が本当にあんなことをしたのだとして――だとしたら、君が子どもを殺したのは無意味だったことになる。
「L'Enfant né pour l'espace」Pierre Versins、1964年。
Ver.1 26/05/12
[訳者あとがき]
【著者・作品について】
ピエール・ヴェルサン(1923-2001)は、フランスのSF作家。本名 Jacque Shamson。このアンソロジー・シリーズ第一集『le grandiose avenir』に収録された「Ceux d'Argos」を合作したマルチーヌ・トーメ(Martine Thomé)とは元夫婦。自費出版、クラブ設立、蔵書のコレクション公開、SF百科事典の執筆など、主にSF関連の研究・蒐集の分野で多岐にわたる活動をおこなった。
人間の身体がGに耐えきれないため、いまだ有人宇宙飛行が実現していない時代。救世主のごとく現れた少年は、他人の痛みを自分に移動させて引き受けることができた。斯くして、宇宙開発の分野で米ソに遅れを取っていたフランスは、少年に協力を依頼するが……。
一種のミュータントを題材にした作品ですが、異能力ゆえの迫害や反撃、あるいは反社会的行動というようなSFらしい展開にはならず、飽くまでも語りは穏やかで、友人の目を通した若き日の思い出話といった趣があります。
しかしやがて救世主の時代は過ぎ、新しい時代がやって来ます。
穏やかな筆致にもかかわらず、新たな時代の到来が明るさだけを示唆することはなく、結末もまた、新たな時代を予測できなかったがゆえのすれ違いによるビターなものでした。
なお、翻訳の底本にはアンソロジー『en un autre pays; anthologie de la science-fiction française ** 1960-1964』収録版を用いました。
※本書のその他の収録作については読書日記 2012/12/16をご覧ください。
[註釈]
▼*1. [スプートニク一号]。
スプートニク一号は1957年10月4日、ライカ(クドリャフカ)が乗っていたスプートニク二号は1957年11月3日打ち上げ。ガガーリンを乗せたボストーク一号が世界初の有人宇宙飛行を成功させたのは1961年4月12日。この作品が発表されたのは1964年。1969年のアポロ11号による月面着陸もまだ実現していない時代の作品である。[↑]
▼*2. [黒塗りのDS]。
シトロエンDS。映画などでギャングが乗っていることも多かった。[↑]
▼*3. [ガガーリンや……]。
ユーリイ・ガガーリン、1961年4月打ち上げ。アラン・シェパード、1961年5月。ジョン・グレン、1962年2月。ゲルマン・チトフ、1961年8月。jumeaux russes 不明。[↑]
▼*4. []。
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