さあこい、マクダフ! シャーロット・アームストロング/江戸川小筐訳 【登場人物】 *語り手=エリザベス(ベッシー)・ギボン。両親に死なれ、伯父を頼って田舎からニューヨークに出てきた。 *チャールズ・カスカート=ベッシーの伯父。富豪。 *ライナ・カスカート(旧姓マクレディ)=チャールズの妻。 *バートラム・ギャスケル(蛙)=チャールズの友人。 *ハドソン・ウィンベリー(僧正)=チャールズの友人。 *ガイ・マクソン(女の子)=チャールズの友人。 *ヒュー・ミラー=ウィンベリーの部下。 *エファンズ=カスカート家の執事。 *エレン=カスカート家の女中。 *ミセス・アトウォーター=カスカート家のコック。 *ガーネット=刑事。 *ジョン・ジョゼフ(J・J)・ジョーンズ=新聞記者。 *マクドゥガル・ダフ(マク・ダフ)=元アメリカ史教授のアマチュア探偵。 第一章  わたしの名前はベッシー・ギボン。二十歳で、もうすぐ結婚する。だけどこのあいだの二月にすべてが起こったときは、まだたったの十九だったのだ。それはニューヨーク・シティ行きの電車に乗るところから始まった。何が起こるかなんて知るはずもなかった。  母は三年前に死んだ。母がいなくなって、父と二人で暮らすのに慣れるには時間がかかった。父はニューヨーク州にある小さな町でメソジストの牧師をしていたが、やはり一年前の秋に死んだ。新任の牧師夫妻と牧師館で暮らしているあいだも、わたしが自活できるようにみんなが手助けしてくれた。でも何の実も結ばなかった。手に職をつけていなかったし、いずれにせよ開くような店も持っていなかった。あの町では、わたしでもできるようなことにお金を払うゆとりなんてなかった。子どものお守りならできたけれど、それは雑役婦の仕事だったし、教会の評判を考えれば雑役婦になれるわけもなかったし、なる気もなかった。  コンパニオンならうまくやれただろうけれど、ベイカーズ・ブリッジの老婦人はコンパニオンなど入り用がないほど元気に独り暮らししていた。残されたのは誰かの妻になることだけだったけれど、肉屋の息子とのけっこういい縁談を断ってしまったので、牧師はあきらめてチャールズ伯父さんに預かってくれと手紙を書いた。  チャールズ・カスカートは母方の伯父だ。父が死んでからすぐに、来ないかという申し出はあったのだけれど、行きたくなんてなかった。今だって行きたくない。でも行くしかないのだ。  チャールズ伯父さんはわたしにとっては神話みたいなものだ。いることは知っていたけれど、会ったことはない。母の葬儀にも父の葬儀にも来なかった。送られてきたのは豪華な花束。かなりの金額も送られてきたので二回とも大助かりだった。知っているのは、世間並に照らして信じられないほどのお金持ちだということだけ。それほど遠くないニューヨーク・シティに住んでいたけれど、今までのわたしにとっては火星に住んでいたのと変わりがなかった。  父が伯父のことを嫌っていたのは気づいていたし、その逆も同じだったのだろう。とにかく、わたしたちの住む厳しくつましい世界から見れば、伯父ははるかに裕福で未知の存在なのだと、まるで腫れ物にさわるような後ろめたい恐れを込めて母が話してくれた。母の父親も牧師だった。伯父は一家の面汚しだったのだという考えに幼いころから囚われていた。しかも伯父の場合には、罪の報いが死ではなくお金だったことが、特殊な事情を生んでいた。  伯父は結婚している。奥さんの名前はリナだ。伯父は五十歳くらいでお金持ちで、家に来ないかと誘ってくれた。それが未来についての全情報だった。あの水曜の晩、高架線を走る列車に揺られて住宅地のあいだを抜け、地下にもぐったところで、目的地が近づいたことを知ったのだ。  わたしは脅えていた。無力だったくせに、無力でいたくないという衝動に駆られていた。哀れな親戚の役で訪れるのはごめんだった。事実はそのとおりだったくせに。田舎びてみすぼらしくてびくびくしていたけれど、仕事を見つけて自活するつもりだったし、具体的な計画を起こそうとしてきた。けれど実際には夢のような話だった。ニューヨークで仕事を見つけようとするのがいったいどんなことなのか、少しも考えていなかったのだ。汗ばんだ手を手袋の中に潜ませたまま、尻込みもせず体裁もつくろわずに、そうしようと決めていたとおり不器用に押し黙っていようと決意した。  興奮していたわたしは、元気をふりしぼって薄暗い丸天井のホームに降り立った。赤帽がスーツケースを運びに来た。迎えが来ているはずだと伝えると、すぐにスーツケースをつかみ上げて先に立ってスロープを上がり始めたので、わたしもすぐに追いかけた。降りる駅を間違えていないことはすぐにわかった。待ち人の顔を探す人たちが見える。赤帽が立ち止まってこちらを見たけれど、わたしはどうすることもできずにあたりを見回して、声を張り上げようかと思っていた。  男の声がした。「エリザベス・ギボンさん?」 「わたしです」ちゃんと連絡が行っていたのだとほっとするあまりよく見えなかったけれど、誰だか知らぬが伯父でないことはわかった。若すぎる。 「ヒュー・ミラーといいます。カスカートさんから頼まれたんですよ。タクシーを拾いましょう」彼がわたしの手を取ると、赤帽はあっというまに別の方角に向かった。  なんとか元気をふりしぼった。「ごめんなさい、でもどちらさまでしたっけ?」 「おっと失礼」困っているようだった。「ええと……何て言えばいいのかな……伯父さんの友人のところで働いているんです。だからその……伯父さんのところでも便利仕事に使われてるってわけです」そう言って笑いかけた。ようやく事態が飲み込めたので眺めてみると、背が高く真面目そうで、たぶん三十かもうちょいくらい、眼鏡をかけて血色はよくないけれど整った顔をしていた。高い鼻はわずかにくぼんで鼻筋が広い。口の形はシャープで、きれいな歯をしていた。髪は明るいブロンド混じりで、きれいになでつけられていた。なぜわかったのかはわからないけれど、すぐにわかった――この人はあまりお金も持たずになんとか暮らしていたことを。わたしと同様、伯父の世界とは無縁なことを。わたしにはほとんど興味を持ってないから恐れる必要はないことを。  乗車場でタクシーに乗り込むときに、彼が赤帽にチップをやった。 「払います」 「とんでもない」慌てて言うので、伯父のお金なのかと迷ったあげく、そうしてもらった。車は地下道にエンジンを轟かせていたけれど、唐突に街の真ん中に飛び出した。途端に喧噪と未知の世界がわたしを襲った。 「ニューヨークに来たことはあるんですか?」 「小さいころだったので覚えてはいないけれど。伯父さんは忙しいんですか?」 「来客をもてなしているので」 「あら。そういうのはリナおばさんが――」あまりに突然こちらを振り向かれたので口ごもる。「わたし……会ったことがないの。二人のどちらにも。言ってませんでしたっけ?」 「ライナさんは」キャロライナと韻を踏むように発音していた。おかしな声の調子。「外出していますから」  声をあげてしまった。おかしなことではないだろうか。なにしろ一面識もない姪が家にやってくるなんて、そうそうある出来事ではない。メソジストの教区牧師館ではこうはなるまい。 「悲しむことはありませんよ」 「悲しんでなんかいないわ」 「そうでしょうか」 「もちろん」  慌てたように説明してくれた。「まずいことを言ってしまった。六週間に一回くらいのペースで、伯父さんは友人たちと集まるんですよ。恒例の行事なんです。若かりし日々を懐かしむんでしょう」明るく爽やかな声だった。曖昧さや皮肉さえも薄らいでいるようだった。この人はわたしの知らないことを知っている。ことのときはまだ声に微妙に力の入っていることに気づけなかった。 「その集まりが、少なくとも伯父たちにとっては重要だとおっしゃるの?」 「ええまあ。伯父さんたち四人は旧友なんです。一緒に仕事をしていたとかどうとかと聞いています」こちらを振り向いた顔には、ためらいが見えた。「四人でゲームをしているんです」 「ゲーム? 何のゲームを?」 「パチーシ(インド双六)です」 「パチーシですって!」説明しようとしていたようだったけれど、彼がしゃべればしゃべるほどわたしは混乱した。 「ええ。なかなか熾烈なゲームです」と微笑んだ。「四人ともかなり熱くなってました」 「パチーシは知ってるわ。面白いけれど、でも伯父は……! まさか。賭けをしてるの?」 「お金ではありませんけどね。血を賭けてるんです」  明るく高めの声でそう言ったあとも、窓の外を眺め続けていた。  わたしは今の言葉の意味をなんとか理解しようともがいていた。「じゃあライナ伯母さんは四人きりにさせるために出かけてるんだ」 「かなり大きな家なんだけど」申し訳なさそうに顔を赤らめた。「よく出かけるんです」 「行き先は?」 「劇場、友だちとディナー……それに……コンサートとか、バレエを見に行ったり。……そんなところです」 「一人っきりで!」 「それは……違う」冷たい一言がわたしたちのあいだに漏れて置き去りにされた。 「伯父さんは家でパチーシをしているの?」  彼は笑い出した。少し優しげな声になった。「わかってるじゃないですか。四人は……そう、『産業界の海賊』と呼びましょうか」不安そうにこちらを見た。「『産業界の総帥』ってのは聞いたことがあるでしょう?」  わたしはうなずいた。 「四人は……好きこのんで騙し騙され合ってるわけです」 「戯れに?」 「まあそうです」それから急いで言葉を続けた。「ほかにやることもないのでぼくはウィンベリーさんとご一緒することも多いんですけど、ゲームには参加しません。だから列車が着くころだと伯父さんが口に出したとき……ぼくが迎えを買って出て……そうしてここにいるわけです」  タクシーが停車したのでわたしは外を見た。比較的閑静な通りで、自動車はすべて同じ方向を目ざしていた。目の前には高く冷たくびっしりと立ち並んだ家々があり、そのうちの一軒からは石造りの正面階段が大きな両開きの扉まで続いていた。視線をずらすと地下勝手口があり、鉄格子のついている窓が見えた。窓は閉まっており、ドア上の明かり取りから漏れる光のほかは何もない。二階には高さのある窓が三つあり、ブラインドがおりていた。  タクシーから降りると、コートの上から染み通るような冷たい風が襲ってきた。わたしはぶるぶると震えて家を見上げた。家の中がどうなっていようとも、メソジストの牧師館と似通ったところなどないのだろうということがよくわかった。 第二章  生まれて初めて目にした執事は、伯父の執事エファンズだった。本名はエヴァンズなのに、わたしにはわからない冗談を種にみんながわざと間違って呼んでいるのだとずっと思っていた。ところが彼の名前は本当にエファンズなのだ。その夜ドアを開けてくれたのがエファンズだった。  初老の小柄な人物で、細長い首のてっぺんにやつれた小さな顔が載っかっている。首はすりむいたように真っ赤だった。微笑みかけられたときには、この人こそチャールズ伯父さんだと思ったのだが、口から出てきたのはこんな言葉だった。「はじめまして、エリザベスさま。カスカートさまがお待ちしております」  ヒュー・ミラーがコートを脱いでいる。どうすればいいのかわからなかったけれど、まだコートは脱いじゃいけないと固く信じていた。だからわたしはハンドバッグを握りしめて立ったまま辺りを見回していた。はじめに階段が見えた。眩暈を起こしそうな螺旋がぐるぐると果てしなく昇っていて、井戸の底に立っているような気がその夜にはした。見上げるような家の静かなる中心にいるのだ。  玄関ホールには絨毯が敷かれていた。穏やかに照らされ、落ち着いた色合いの豪華なものだ。壁には高級そうな戸棚がある。左側には白塗りの両開き扉。正面の、階段が急上昇しているところの下には、小さな扉があった。右側には大きな鏡があって、わたしの不安顔を映している。この階には生活臭がない……皆無だった。 「こちらでございます」エファンズがスーツケースを持って静かに上に向かった。わたしもしたがい、ヒュー・ミラーが後に続いた。 「ゲームはまだ続いている?」 「さようでございます」  わたしたちは音もなく(絨毯のせいだ)歩いていた。壁龕には高そうな花瓶が置かれている。わたしくらいの大きさの花瓶には花があふれていた。二階にも両開きのドアがあって、これは大きく開け放たれていた。向こう側には快適そうな部屋が見えた。たくさんの本となめし革と琥珀色の明かりがあった。片隅から人がやってきた。  ヒュー・ミラーと同じくらい背が高く、胸板は厚くて大きな頭をしている。太ってはいない。むしろ顔はやつれて浅黒く、頬はそぎ落とされたようにぺちゃんこだった。険しい。肌も肉も硬く険しそうだった。細い顎の上の口もいっそう険しい。顎の脇には傷痕とは違うくぼみがある。白髪混じりでてっぺんは剥げていた。黒い眉は細く、片方が跳ね上がっている。青い目は冷たいくせに面白がっているようでもあった。老けては見えないが、確かに若くはない。若いということをよくわかっている人間だ。何でもわかっているぞと言わんばかりに笑みを浮かべている。古くさい寓話に出てくる罪のことを連想した。醜くて魅力的で恐ろしげで衝撃的なあまり、わたしは打ちのめされた。誰の伯父でもあるはずがないのに、それはわたしの伯父だったのだ。  その証拠に、母もわたしも眉が跳ね上がっていた。『不思議でもなんでもないじゃない』と自分に言い聞かせた。彼はベイカーズ・ブリッジに住んでいたわけじゃないし、列車で会ったわけでもない。親戚を訪ねたり、ミシンのある客間で眠ったり、哀れな姪に会うため駅に立っているような人じゃないのだ。強烈な個性に対する心構えなんて何もなかったけれど、どういうわけかそれが伯父という人を言い表していた。 「元気かな、エリザベス?」伯父の声は深く豊かで穏やかに抑制が利いていた。まるで音量つまみがあるみたい。しようと思えば階段の吹き抜けじゅうを音で満たすことができて、しかも何の苦労もなくやってしまえそうだった。 「おかげさまで。伯父……チャールズ伯父さん」 「礼を言うよ、ヒュー」それがヒュー・ミラーの手から離れて荷物を受け取る合図だった。「いい旅だったかね?」 「はい、ありがとうございます」頭に浮かぶのはどれも、列車の中で考えていたセリフばかりだ。「招いてくださって感謝しています。迷惑をかけないようせいいっぱい頑張ります」言ってからわたしは真っ赤になった。なんて堅苦しくてばかみたいな挨拶だろう。 「迷惑でなどあるものか」伯父はそう言ったけれど、歓迎してくれているのかどうかはよくわからなかった。ほくそ笑みながらゲームのような駆引きをしてわたしと対戦しているのかもしれないし、迷惑をかけないようにしないと追い出すぞと警告しているのかもしれない。わたしは十歳児みたいに身体が火照って落ち着かなくなった。 「エファンズが部屋に案内してくれるだろう。ヒュー、きみは残るのか?」 「はい、お願いします」  わたしはばかみたいにあっけにとられたままエファンズのあとについて行きかけた。それから元気をふりしぼって立ち止まりると伯父にたずねた。「また降りて来た方がいいんでしょうか?」 「ぜひ頼む」笑っているようだった。顔の筋肉に動きはなかったけれど、笑っているのは我慢ならない。 「お忙しいのなら……」わたしはぎこちなく答えた。「それにライナ伯母さんも出かけてるみたいだし……」 「疲れてはいないのか?」眉が跳ね上がった。 「あっ、はい」 「ライナは――」舌の上で単語を二度ころがせた。「ライナは、戻ってきしだい会いたがるだろう」ヒューに一瞥をくれると、我慢できないとでもいうように口の端をひねった。そうして振り返ると急ぎ足で図書室に戻った。わたしは階段に、ヒュー・ミラーはドア口に置いてけぼりだった。ヒューが顔をしかめた。 「いっしょにいてくれてありがとう。また……またあとでね」ヒューは微笑んでくれた。わたしはエファンズのあとをとぼとぼとついていった。こんなに混乱しているのは生まれて初めてだ。  エファンズが案内してくれた寝室は何とも言いようのないものだった。豪華で大きく、銀色と金色と青色が溢れていて、柔らかな光に照らされていた。二台の白っぽい木製ベッドにはサテンのカバーが掛けられている。女中姿の中年女性が挨拶をしてコートを受け取った。「エレンと申します、お嬢さま」 「ここには泊まれないわ」わたしは興奮気味にしゃべっていた。「だってこんなにベッドはいらないもの」  エレンがこちらを見つめた。平凡で思慮深そうな顔は、ベイカーズ・ブリッジの住人のものでもおかしくなかった。「一番いいお部屋にご案内するよう、ライナさまはおっしゃっておりました」はきはきとした説明だった。「ここがそうです。お荷物をお解きいたしますか?」  わたしはなかば喧嘩腰に事実を告げた。「お荷物をお解きしてもらったことなんてないし、詰めてもらったこともないわ。こんなの理解できないかもしれないけど、ストッキングにネックレスを入れて、靴に下着を入れてるの」 「お察しいたします」  笑い出してしまった。帽子を脱いでお洒落な長椅子の上に放った。「ぷう!」わたしはため息をついた。エレンは町の帽子屋ディロンさんにそっくりだ。「着替えなきゃだめ?」 「いいえ、その必要はございません」すぐに答えてくれた。何にも知らずにそんなことをたずねたせいで気に入られたみたいだった。「お顔を洗い終わったら、御髪を梳かせてくださいませ。きれいなハンカチと香水を一滴おつけになるとよろしゅうございます」 「そうするわ」 「よくできました」そんなことを言って驚かせてからバスルームに案内し、廊下側にもドアがあることを恐縮していた。二部屋兼用だそうだ。この部屋と、吹き抜けの裏の小さな部屋と。「ですがあそこは使ったことがございません」 「よかった」 「旦那さまのバスルームほど大きくはございませんし」面目なさそうに言った。「それに非常階段に出られる窓が一つきりあるだけなんです! ライナさまのお耳には入らないでしょうけれど」  話を聞くかぎりではどうやらライナ伯母さんは親切そうだが、わたしから耳に入れようと思う。このころには気が楽になっていた。だんだんとわかってきたのだが、ここの人たちは何でも与えてくれるつもりのようだ。必要以上にいくらでも。苦労をかけているようには見えなかったので、気に病むには及ばないのだろう。裕福な伯父は何でも与えてくれるに違いない。わたしたち貧乏人は、父がよく説教で話していたように、つねに“みずからを”与えてきたけれど、それが必要不可欠で大事なことだと思っていたのは、もしかすると与えなければならないものがほかにないからにすぎなかったのだ。元気が出てきたので、ハンカチと香水をつけて階段を下りるときには、隠しようのない好奇心でいっぱいになっていた。  二階の図書室には通りに面した窓が三つあった。吹き抜けと家の正面のあいだに挟まれた大きな部屋だった。真下には玄関の扉があるはずだ。アルコーブにはパチーシ盤の嵌め込まれた特注のテーブルがあり、伯父と友人たちが囲んでいる。部屋に入るとヒュー・ミラーが立ちあがって迎えてくれた。伯父も立ちあがり友人たちに紹介してくれたけれど、すぐにゲームに戻ってしまった。  だけどわかった。わたしが来たことも家にお客が来ることも特別なことではないのだ。やって来ることはわかっていたし、予定通りに到着したのだから。一方で大騒ぎするのをよしとせず、なおかつ新天地を自由に見て回らせいろいろ感じさせようということなのだ。見られていてはなかなか好きなようにはできない。  ヒューが飲み物を持ってきてくれた。アルコールだったのでときどき口をつけるだけにした。暖炉脇にある革張りのソファに腰かけた。暖炉には本物の火が燃えている。ヒューはあまりしゃべらない。でもわたしにつきあって座っているのだろう。なにしろほかの四人はヒューのことも放ったらかしだったのだ。  伯父は背を向けていた。右手の小指がほかの指と比べて曲がっており、その指を使っていないことにふと気づいた。  伯父の右側がバートラム・ギャスケル氏だ。蛙に似ている。四十代後半、奇形のように小柄で猫背だった。髯のような眉毛の下にはあいだの離れたどんぐりまなこ。ゆるんだ口元をしじゅう開いたり閉じたりしている。  左側がハドソン・ウィンベリー氏。僧正みたいだけれど、まるい頬となまっちろい肌はふくれて腐っているみたいだ。六十くらいだと思う。古くさく無難に染められた銀髪が丸い額になでつけられている。縁なし眼鏡を、気持ち悪いほどくねくねした手でしょっちゅう触っていた。  ガイ・マクソンはほかの三人よりも若かった。女の子と呼ぶことにした。完璧な着こなしで、見ようによってはお洒落だけど、好きじゃない。平凡な顔だちだけど、小鼻がぷるぷる震えてひどく気難しそうだ。あるいは何もかもを軽蔑して鼻をすすっているだけなのかもしれないけれど。  そして伯父がいる。横顔は、こちらから見るといっそうくぼみが目立ち、海賊のように鋭く残忍だ。  蛙、僧正、女の子、海賊がゲームをしていた。  楽しんでいてもよかったはずだ。暖かい部屋に座って飲み物もあり、隣にはしつけのいい若い男、ほかの四人は音を立ててさいころを振り目を数えてゲームに興じている。  血を賭けてゲームをしているとヒューが言った意味がすぐにわかり始めた。真剣勝負、弱肉強食。勝利の歓声は心からの勝鬨だった。高笑いは心からの高笑い。悪意は心からの悪意。不条理で恐ろしかった。  こわがりで神経質なタイプではない。よくあるように“雰囲気”とか“六感”をわれ知らず感じることもない。だけどその部屋で行われていることには不安と怯えをかき立てられた。気圧の低いときに感じるような圧力だった。はじめのうちこそ慣れてないからだと思っていたけれど、ヒューが一言もしゃべらないようにしていることに気がついて、わたしも沈黙を破ることができなくなった。耳を澄ませなくてはならないのだ。夜中に泥棒の気配に聞き耳を立てるように。たとえ風の音だと言い聞かせても、なお緊張と不安を感じているように。  ゲームをやめてほしかった。 「これであんたもひとつ賢くなるだろうさねぇ」蛙《ギャスケル》が意地悪げに言った。「さあ振り出しだぞ、チャーリー。振り出しだ」 「四か八だよ」|女の子《ガイ・マクソン》が言った。「それさえ出れば……」 「ほかになんぼでもいい手があンのに、なンでおれを」僧正《ウィンベリー》がぼやいた。 「ふふ! 心配御無用。そんなことはさせませんぞ」 「くそっ」伯父が小さくもらした。  蛙が残忍で耳障りな笑い声をあげた。「おいおいこりゃウィンベリー」 「先が見いへんな!」僧正が喜びの声をあげた。「よしゃ、チャールズはドツボにはまっとるわ、なあ?」 「それもかなりね」と女の子。  冗談を言い合っているのであってもおかしくなかったけれど、でも冗談ではなかった。大の大人が室内ゲームに興じて、こんなにも残忍になれることが恐ろしかった。あまり巧妙ではないものの、三人は伯父を相手に一致団結しているのだ。蛙がさいころを振った。 「うまいことつかみよった」僧正はじりじりしていた。 「トップはきみだ」伯父が言った。 「そうは問屋が卸さないんだなぁ」蛙が意地悪く言った。「そのうえあんたには振り出しに戻ってもらおうって寸法だ」 「愚かな」伯父が言った。  僧正が心配そうに蛙を見つめた。「どんな窮地も切り抜けるヤツやさかい」 「今回は別だよ。次は君の番だ、ウィンベリー」女の子がさいころを振って舌を鳴らした。 「これで勝ちまっせ!」僧正が叫んでさいころを振った。「おお」 「ほら、目はいくつ?」 「言ったとおりや! ほんま先というのは見いへんわ! 四、上がりや」僧正が勝った。  ほっとした。なのにゲームは続いた。二位と三位とビリも決めるらしい。やめてほしかった。でも決着がつくまでやめる気はないようだ。ヒューはがっくりとうつむいて、お酒の残ったグラスを揺らしていた。座り続けているのはうんざりだ。あれもこれもに我慢できなくなってきた。伯父をとっちめようとやっきになっている残り二人を、ウィンベリーが応援している。どうやらこてんぱんにとっちめたいらしい。目指すはそれだけのようだ。 「そやない」ウィンベリーが女の子にアドバイスした。「気いつけや、妨害するつもりやわ」  伯父が無言でさいころを振った。横顔からは不機嫌に考え込んでいるように見える。伯父のことをこんなに憎んでいるのは誰? 怒りに燃えているのは誰? 誰かが部屋中に憎悪をまき散らしている。自分に害はないと思っているのならまわりの人間だって、ライオンの前で吠える痩せ犬と一緒。思わず触れた喉元は熱く、手は冷え切っていた。 「なんでやめてくれないんだろう!」わたしはつぶやいた。  ヒューがこちらを見つめた。額が汗ばんでいるのが見える。「どうしたんです?」気がかりな夢から覚めたばかりのようなぞんざいな口調だった。 「こんなのやだ……みんなぎすぎすしてて」  姿勢を正したヒューの顔に驚いたような表情が浮かんでいる。 「やっぱりそう思いますよね?」 「あなたも?」 「ええ……気に入りませんね」  そう言ってハンカチを取り出すと神経質そうにいじっていた。 「へへへっ!」蛙が椅子の肘を叩いている。「お気の毒さまだ。一抜けた。大丈夫だマクソン。次はあんたの番なんだから、チャーリーは絶望的さね。ほんと絶望的だ、今回だけはねぇ」 「今回だけ、な!」と僧正が言った。 「静かに。ぼくはまだ上がってないんだ」女の子が言った。 「わたしもな」と伯父だ。 「いつもこんな感じなの?」わたしはヒューにささやきかけた。 「ええ……なんとなくは。今日は伯父さん負けてるようですが。こんなの初めてですよ。絶対に負けないと思ってました」 「一が出てくれよ」と蛙が言った。 「一と二や」これは僧正。  女の子の壺からさいころが振られ、伯父は立ちあがった。みんな無言だった。伯父が部屋を横切る。 「一杯やるかね、ハドソン? それにガイも?」 「いただくよ。あんたの負けだ、きひひひ!」蛙が言った。  この無神経さに堰を切られたようにして、僧正がぺらぺらと話し始めた。 「見んさい。駒が三つもスタート地点におるわ。進んどるのは一駒だけや。五が出えへんかったらどうにもならん。こんな日が来ようとは……」  伯父が部屋を横切ってウィンベリーを一瞥した。 「負け知らずのカスカート。それがとうとう負けよった。ほんまなあ?」  してやったりという長広舌のあとに残った沈黙を破って、階下で足音がした。 「ライナさんだ」若い女の子ガイ・マクソンの顔が明るく輝いた。 「おやおや」と蛙が椅子をずらした。僧正が眼鏡をいじる。伯父はコップの中身を飲み干して下に置いた。  まもなく戸口に姿が見えたので、腰を浮かせて挨拶したけれどすぐにまた座り込んだ。びっくりしたせいで力の抜けた手足をずり動かす。  そのひとは夜会服姿だった。わたしよりちょっとだけ背が高い。髪に花を挿していた。赤い外套が裸の肩から滑り落ちると、ガイ・マクソンの腕が手慣れたように待ち受けていた。白いドレス。映画でも見たことがないほどきらきらと美しく輝いている女性だった。二十代半ば。ライナ伯母さんだ。 第三章  ライナ伯母さんが帰ってきてからは、時間が大きな意味を持つようになる。一人一人がその時間に何をしていたかということだ。ここからは、あとで計算した数字に従って成り行き通りに時間を書き記すことにする。  伯母さんが来たのは十二時五分前だった。  まっすぐわたしのところにやってくると明るく声をかけてくれた。 「エリザベスね? ライナ・カスカートよ」  ソファの上で手を握って身体を引き寄せると、「ちゃんと来れてよかった。ベティとお呼びすればいい?」と言った。 「家の方ではベッシーと呼ばれてました」 「ベッシーね」と言って小首を傾げた。「いい名前。ベッシーと呼ばせてもらうわ、わたしのことはライナと呼んで。お部屋は気に入った? 夕食はいただいた?」 「いえ……お腹がすいてないので」とは言ったものの、わたしはライナのことが気に入った。ちゃんとした感覚の持ち主だ。実家では、なによりもまずお客さんには食事を出していた。  みんながまわりに集まってきた。ライナの影響力は、面白いというより少し恐ろしかった。ガイ・マクソンはソファの後ろに陣取って、ライナの頭を偉そうに見下ろしていた。僧正《ウィンベリー》は暖炉に背中を向けて暖まりながら流し目をくれていた。ほんとうにそうしていたのだ。それが父親らしいとでも思っているのか、なだめるような声でライナに話しかけていたが、そのあいだじゅう目は何かを見つけようとせわしなく動き回っていた。ギャスケル氏は葉巻に火をつけたきり、ライナから視線を逸らそうとしないどころか瞬きすらしなかったが、そのあいだも口の方は蛙みたいにぱくぱくやっていた。  なのにチャールズ伯父さんは椅子に座って小さくなった火を見ているだけだった。何も言わず。誰からも遠く離れたところにいるみたいだった。ヒューはいつの間にか部屋の隅から雑誌越しにちらちら覗いていたみたいだったのだけれど、今は雑誌の上から目を出してじっと伯父を見つめていた。伯父はすねているのだろうか、うんざりしているのだろうか、それとも怒りのあまり不作法な態度を取っているのだろうか? わたしにはわからない。  なんであのウィンベリー氏は、パチーシ・ゲームについてライナに余さず話し始めたんだろう! 世界一面白い物語だと思われるとでも考えていたのだろうか。楽しそうに。こと細かに。伯父の性格に欠陥があるからツキが変わったのだと言わんばかりだった。そこに立ったまま声に出して笑っていた。意地悪くて子どもっぽくて不愉快で、いつまでも話を続けるものだから、わたしがヒステリックな人間だったならと思い始めた。ところがライナは写真のようにポーズをつけて固まったまま耳を傾けていたし、伯父は暖炉の火を見つめていた。  話を終わらせたのはヒューだった。もう耐えられないとばかりに立ちあがると、はっきりとこう言った。 「もう行こうかと思うのですが」 「うん? 少し待っときや。一緒にタクシーで帰ろうや」 「まっすぐお帰りになるつもりですか?」苦虫をかみつぶしたように見えた。 「いんや。予定通りや。クラブに寄って封筒をもらわないかんさかいな」 「なにかしてさしあげることはありますか?」  ヒューがこの人に雇われているということをなぜだか思い出した。 「ないわ」ねぎらいの言葉もなかった。 「でしたら、ぼくはバスを拾って失礼します」  言いながらヒューの目がこちらを向いたので、ここでぐずぐずしていたのは立場上だったのだとわかった。あっさりと許可が下りたので、ヒューはいとまを告げた。わたしはぞんざいに受け答えしてしまった。なのにヒューは微笑んで、また会いましょうと言ってくれた。社交辞令には聞こえなかったし、握手には愛情がこもっていた。この人のことをどう考えればいいのかわからなくなった。一つだけわかったのは、ライナ・カスカートにはまったく興味がないこと、これはポイントだ。  ヒューが退出したのは十二時一〇分だった。  ウィンベリー氏は途切れた会話を続けようとはしなかった。黙り込んだまま伯父の方を不安げにちらちら見ている。伯父の無言が重圧になってきたようだ。ライナとガイ・マクソンは簡潔な会話を始めた。 「舞台はよかった?」 「まあまあね」 「三幕はひどいよね?」 「ちょっとね」 「そう聞いてる」 「それ以上よ」 「そうなんだ?」  何の話なのかわからない。でもこれだけはすぐにわかった。彼はライナに恋している。ライナの方も好意を持っていたら、なんて思うとぞっとする。まもなくすると、みんなは唐突に帰り支度を始めた。ウィンベリーはもう嬉しそうではなかった。セントラル・パークの端まで乗っていくかとガイ・マクソンに声をかけたのに、歩いていくと言われていた。ギャスケルは乗っていくと答えた。伯父はぶるっと震えてのっそりと立ちあがると、ライナと二人で階下に降りた。  それが十二時半のことだ。  図書室に一人取り残されたわたしは、パチーシの盤を見に行った。こんなのは見たことがなかった。たかがさいころすら高そうな素材で出来ていたし、合成樹脂製の駒は宝石のようにきらびやかに輝いていた。伯父は赤い駒を使っていたらしい。三つはまだスタート地点、一つだけは無事にゴールに置かれていた。わたしはすぐに背を向けて、置いてけぼりを食った場所へと舞い戻った。ソファの隅っこに囚われているみたいに。  階下から話し声が聞こえてくる。ところが思いもよらず伯父が図書室に現れると、大柄なわりに素早い身のこなしでまっすぐアルコーブに向かった。パチーシの盤面を見下ろしている。顔の表情からからすると、わたしのことを忘れてしまっているらしい。苦しげとは言えないまでも、何かしようと考えてためらっているように見えた。わたしはじっとしていることにした。  階下でドアが閉まった。伯父は口唇をへの字にして無駄駒三つをつかみ上げた。左手で窓に触れた。窓が滑らかに開き、伯父が駒を投げ捨てた――ごみのように窓から投げ捨てたのだ。  息を呑んだせいで気づかれてしまったけれど、伯父の表情に変化はなかった。手首を軽くひねって窓を降ろすと、駒とさいころと賽筒を片づけ始めただけだった。このとき初めて気づくことになるのだが、伯父は必要に迫られるまでは決して説明をしない人間であった。  ライナがためらいがちに戸口に立っていた。 「上に行かない?」  わたしに話しかけているのだと気づいて、あたふたと部屋を横切った。伯母たちはおかしな儀式を行っていた。伯父のところに歩いていくと、顔を上げて立ったまま、「おやすみ、チャーリー」と言った。伯父はちょっとのあいだだけそのままでいたけれど、やがて下を向き額にキスをした。 「おやすみ、|おまえ《ディア》」  伯母のことを本当に|愛しい《ディア》と思っているのか、それともこれもゲームで心の中ではひそかに高笑いをしているのか、わからなかった。  ところがライナは何食わぬ顔でこちらに戻ってきたので、わたしたちは伯父をその場に残して三階に上がった。円形の階段(この階の壁龕には彫像があった)を上っていると、サンドイッチと魔法瓶の乗った盆を手に、エファンズが下からやって来た。「部屋に入って」とライナに言われ、家の正面側に向きを変えたところで、エファンズは盆を預けて「失礼いたします」と言い階上にさがって行った。 「エレンには来なくてもいいと言っておいたの。もう眠ってるだろうから」  十二時四〇分だった。  ライナの部屋はキュートで、きれいな小物にあふれてはいたけれど、小ぎれいで簡素とも言えた。見るからに若い女の子の部屋だった。よくわからなくなる。わたしの家では父と母が一部屋持っていたけれど、半分は何もなくこざっぱりとしていて見るからに父らしかったし、もう半分はごてごてと詰め込まれていて見るからに母らしかった。ダブルベッドには母の羽根枕と父の羊毛枕が並べてあったせいで、整えていてもちぐはぐな印象があった。ライナの部屋にも確かにダブルベッドはあったけれど、そこには備品がなにもなくてまるで別人が使っているみたいだった。  ライナはいつのまにかドレスを脱いでネグリジェに着替えていた。 「サンドイッチを食べたら? ミルクは好き? わたしはいただくわ。ベイカーズ・ブリッジのことを教えてくれない? 都会が気に入ればいいけど。これからどうするつもり?」  心が温まる。わたしのことをたずねてくれている。自分とは別の本来の自分になったみたいな気がしてきた。いつも幾夜も思い惑ってきたけれど、ここで何をしているのか思い惑うのをやめた。わたしのことが話題になんて信じられなかった。  でもすぐに気づいたのだけれど、ライナはわたしに手取り足取り導いてくれるつもりはなかった。わたしの家では、母はいつだって父の世話を焼き、お返しに父は母の面倒を見ていたし、二人ともつねにわたしのことを気遣ってくれていたのだけれど、ライナの方はわたしが自分で考え自分で行動するものと思っているようだ。なんというか、気にはなっていたのだろうけれど、いわゆる「助言」めいたことは何一つくれなかった。元気づけてくれただけだ。 「お小遣いがあったほうがいいってチャールズは思ってるみたい。週に五十ドルでどう?」  わたしが息を呑んだのは、父がそれほどの収入を持ったことがなかったからだが、ライナは戸惑ったようだ。 「でも必要になるわよ。服だっているし外でご飯を食べたくなったら……それに……」 「今の服だって充分きれいなのに」わたしは惨めったらしい気持になりかけたが、ライナがさえぎった。 「そういうつもりじゃなかったの。でもね、服はそのうち古くなっちゃうでしょ。それに何かほしいものがあったときに、おねだりする方がいやじゃない。どっちみちわたしたちと暮らすんだし、洋服代もアイスクリーム代もキャンディ代も映画代もチューイン・ガム代も込みよ」そう言って笑ってから「わかった?」とたずねた。 「伯父さんはお金持ちなんですね!」 「だと思うわ」はっきりしない。結婚指輪にはダイヤモンドが散りばめられていたのに。 「おいくつなんですか?」失言してしまった。 「四月で二十五。あなたは?」 「六月で二十歳になります」 「嘘でしょ」そう言ってライナ伯母さんは話題を変えた。働きたいのはいいことだと言ってくれた。そうはいっても、働く必要なんかないとも言ったけれど。それよりも、学校に行って勉強したいならそうしてもいい。どっちみちいろんな人に会うことになるからと。もちろんいろんな人に会いたかった。伯父さんにも伯母さんにもわたしに合うような友だちはいないと言われたようなものだったけれど。それはつまり、何不自由ない状態で、好きなことをするのもやりたいことを見つけるのもわたし次第、自分で決めるということなのだ。ようやく部屋に戻って右側のベッドを選んだときには未来が薔薇色に思えた……けれど同時に重荷でもあった。  ライナと別れたのは一時十五分だった。  とても疲れていたけれど、慣れない部屋ではくつろげない。そりゃあ嬉しくなくはなかったけれど。興奮して眠れそうにない。いろいろな音の入り混じった騒音が遠くから聞こえてくるのには慣れていないし。だからずっと考えていた。仕事のこと、学校のこと、将来のことさえも。ライナがこんなことを言わないでくれてほんとうによかった。「いいかしら、ベッシー。あなたにはわたしのお洋服屋さん、美容師、マッサージ師、ネイルアーティストを使っていただくわ。それからこの家の決まりを覚えてちょうだいね」。だけど考えれば考えるほどライナのことが不思議に思えてくる。自分のことはほとんど話してくれなかった。チャールズ伯父さんのことも考えた。それから、母のこともちょっとだけ。  ベルが鳴るのが聞こえたのは、うとうとしかかっていたときだった。階下から聞こえてくる。二度目のベルで完全に目が覚めた。わたしの家に真夜中かかってくる電話は、決まって誰かが亡くなったという報せだったから、いつも父に慰めてもらっていた。そのせいで鼓動が高まり、明かりをつけて時計を見た。  二時十分前。耳を澄ませたけれど、もう何も聞こえなかったので、布団に戻って自問していた。  しばらくするとまたベルが鳴った。よく聞こえるように頭を起こした。眠気はすっかり吹き飛んでしまった。結局明かりをつけ、今が午前二時だと確認しただけでベッドから降りるとドアに向かった。安心したくて、静まりかえった廊下と吹き抜けを確認しようとしただけだったのだ。ドアを少しだけ開けると、足音が近づいてきた。足音とは言ったけれど、実際には絨毯をこするような静かな音が、少しずつ近寄っている。  現れたのはガウン姿の伯父だった。ライナの部屋をノックする音と返事が聞こえた。すぐにライナが顔を出して、物問いたげに廊下の伯父を見上げた。 「ヒューから電話があった」伯父の静かな声が一音一音はっきりと伝えた。「ウィンベリーが殺されたそうだ」 「殺された!」 「撃たれたらしい」  栗色の部屋着を羽織ったエファンズは、長い首がますます長く見えた。四階途中の階段の手すりから身を乗り出している。 「お呼びになりましたか?」 「すまんな。ウィンベリーが深夜自宅で撃ち殺されたそうだ。言っておこうと思ってな。明日の朝は早くから警察が来るかもしれん。七時に起こしてくれ」 「かしこまりました。恐ろしいことでございますね」 「犯人は誰なの?」ライナがたずねた。 「まだわかってないようだ。起こして悪かったな。おやすみ」伯父が階段から降りようとこちらにやって来たので、ドアを静かにぴったりと閉めた。  午前二時〇四分。こんな時間なのに伯父は靴を履いていた。 第四章  わたしの家でなら、誰かがコーヒーを淹れていただろうし、たぶん夜明けまで慰め合ったり話し合ったりしていただろう。なのにこの家は静まりかえっていた。わたしは気を落ち着けてベッドに潜り込んだ。空想が恐ろしい小径をさまよい出すと、おやすみ代わりに「ばっかみたい!」とつぶやくことにしている。目が覚めて朝日の中でもう一度その豪華な部屋を見たときもそれを覚えていたので、エレンが朝食をお盆に載せてドアから入ってきたときにも、はっきり声に出して「ばっかみたい!」と言ってみた。  すでにウィンベリー氏のことを聞いているふりをすべきかどうか迷ったけれど、すぐにエレンがその話をしてくれたので、それほど長く迷わずに済んだ。「新聞に出てるんですけどね。お読みになるよりお聞かせした方がよいと思ったんですよ」 「恐ろしいことね」ゆうべのエファンズと同じことを言った。「どうやって殺されてたの?」 「撃たれているのを発見されたと書かれてますね。ほんとうに恐ろしいことですよ。ご主人さまは何が起こったのか確認しに行かれました。ウィンベリーさまはよくこちらにいらっしゃってましたから。ほんとうにしょっちゅうでした」 「警察は来たの?」 「こちらにでございますか? ほんとに、なんだって警察がそんなことを?」 「わからないけど。でも昨夜ここにいたんだから」 「確かにおりました。エファンズはそう申します。それをお忘れなく」  たずねてみると、ライナは遅くまで寝ていたそうだ。エレンが出ていくと、わたしは新聞記事を読んだ。あっさりとした記事だった。  昨夜一時過ぎ、ハドソン・ウィンベリー(58)がオフィスで撃たれているのが発見された。発見時ウィンベリー氏は床に倒れており重態。現場は東一〇八丁目六〇九番地一階フロア。発見者はビルの管理人ピーター・フィン(62)。ウィンベリー氏はこの改築ビルのオーナーで独身。  これで全部だった。僧正は死んだ。もうあの銀髪も、なまっ白い丸顔も見ることはないのだ。少なくとも、あの四人がパチーシをすることは二度とない。  わたしは時間をかけてゆっくりと着替えをした。十時半ごろ、エファンズがドアをノックした。「不都合がございませんでしたら、ミラーさまが階下でお待ちしております」 「すぐに行くって言ってくれる?」何かあったのだろうか。 「図書室においででございます」エファンズはそう言ってから立ち去った。正直なところ好都合だったので、もうちょっと時間をかけてから下に降りた。 「すみません」わたしを見るなりヒューはそう言った。「こんな早い時間に。だけど話しておきたかったんです。その……お聞きになりましたか?」顔には昨夜よりも生気が感じられた。衝撃のあまりしゃきっとなったみたい。だけど不安げにも見えた。 「新聞で読んだだけなの。ほかにも何かあったんですか?」  ヒューはもどかしげに首を振った。「ぼくには質問する権利はないけど、ただ……」と唇を噛む。 「どうしたの?」 「どう始めればいいんでしょうね。誤解されたくはないので」 「誤解なんてしないわよ」わたしは驚いて声をあげた。  ヒューは何歩か進んでから振り向いた。「ぼくが帰ったあとで何が起こったんです?」 「しばらく残っていたけど、三十分くらいかな、もっと短かったかもしれない。あとは帰っただけ。何も起こらなかった」  「何かありませんでしたか」ヒューはこちらを見ずに話を続けた。「そのあとでカスカートさんが外出したのを匂わすようなことが?」 「気づかなかったと思う。気づきようがないもの。ライナと二人でけっこう長いあいだおしゃべりしていたから――」 「ライナと?」 「ええ」 「そうなのか」それからなかばつぶやくように言った。「すると伯父さんはあの人と一緒ではなかったんだ」  わたしは聞こえなかったふりをしたけれど、顔を赤らめる間もなかった。「どのくらい話してたんです? いつごろまで?」 「一時十五分。たしか」  ヒューは片方の手で絶望的な仕種をした。「伯父さんがどうしていたかわかればなあ。何も聞いてないのはたしかなんですね? これから事情をお話ししましょう」  わたしは怖くなった。「電話が鳴ったあとで伯父さんの声を聞いたわ。たまたまそのとき……聞いていて……」 「電話が聞こえたんですか!」まじまじと見つめるのでどぎまぎする。 「よく眠れなかったの。ええ、聞こえた。というか、電話だと思ったけど」 「伯父さんの部屋でしたか?」 「場所はわからないけど」 「いや、きっとあそこあたりですよ」  わたしは窓の反対側にある、広い図書室のドアを見た。 「伯父さんの部屋はあの裏なんです」 「あそこなの? だったらわたしの部屋の下だわ。ベルは下から聞こえていた」 「電話が聞こえたのは一回だけじゃなかったでしょう?」何かがわたしの答えにかかっているような言い方だった。 「ええ。一時五〇分に一度。それから二時にもう一度」  表情が変わり、どこかがっかりしたように見えた。まったく違う顔になっていた。 「一時五〇分には誰も電話に出ませんでした。二回ともぼくがかけたんですが」 「誰も出なかった?」わからない。 「番号を間違えてつながれたのかと思ったんです。でも今のお話を聞くと、番号は合っていたようですね」 「たぶん寝てたのよ」と言ったあとで思い出した。 「どうしました?」ヒューがわたしの表情を読んですぐにたずねた。 「ベッドに入っていたはずないわ。だって靴を履いたままだったもの」 「どうしてわかるんです?」今度はゆっくりとたずねた。 「ドアのところで耳を澄ましていたら伯父さんがやってきて、ライナと、それからエファンズにも話してたの。ウィンベリーさんのことを。あなたから……電話で話を聞いたあとに。なんでこんなことばかり知りたいの?」  ヒューは胸ポケットに手を入れて何か引っぱり出した。ためらったあとで指を開いてみせた。 「なんだ、ペッピンジャーじゃない」小さなころに売られていた、甘くてスースーする飴だ。「子どものとき以来。もう作ってないのかと思ってた」 「違います。キャンディじゃない。伯父さんのパチーシ駒ですよ、間違いありません」  わたしはばかみたいにその赤い円盤を見つめていた。 「これがどういうことなのか具体的にはわかりません。見つけたのが……ウィンベリーの死体の上だったんです。このことはいっさい口にしていません。管理人もペッピンジャーだと思ってたので、警察には伝え忘れてました……今のところは」 「だけど……チャールズ伯父さんは赤い駒を窓から投げ捨てていたのに」 「何ですって!」 「見たの。駒を三つ、あの窓から投げ捨ててた。アルコーブのあるところ」 「いつです?」 「昨日の夜」  ヒューはぐるぐると歩きまわった。「おかしな頼みですが……箱を確かめるべきですよ」 「箱って?」  アルコーブに出ていたヒューは、伯父がパチーシ一式を仕舞ってある棚から箱を取り出した。箱を開けると、わたしも右隣に行って二人で数えた。中には赤い駒が三つ、緑と青と金色の駒と一緒に入っていた。箱の中の三駒とヒューの手にある一駒は確かによく似ている。 「どういうことでしょうね」ヒューが顔をしかめた。「伯父さんは家から出たはずです。だってそうでしょう? 伯父さんが窓から投げ捨てた駒を、ほかの人がどうやってここに戻しておけるんです?」 「わかんない。いったいどういうことなの? 出かけていたらどうだっていうの? どこに行ったと思ってるわけ? パチーシが元で人を殺す人なんているわけないじゃない。ばっかみたい!」容赦なかった。  ヒューが微笑んだ。「もちろんですよ。もちろんばかげてますとも」と言ってパチーシ一式を片づけた。「きっと何の意味もありませんよ」  だけどわたしは言い聞かせていた。赤い駒は自分で歩いたりしないのだ。  おそるおそるたずねてみた。「あなたはわたしよりもいろいろ知ってるんでしょう……」 「知っていることは始まりからすべてお話ししますよ。座ってください。お話ししましょう」ヒューはソファに――昨日のあのソファに――しばらく頭をもたせかけていた。疲れているように見える。「きっとぼくがおかしくなったと思いますよ」と言って目を閉じた。 「お願いだから話を続けて」とはっきり伝えた。  ヒューが目を開けると、眼鏡の奥がきらめくのが見えた。「ぼくが帰ったのは何時でした? 十二時一〇分ごろでしたね? マジソン街まで歩いてドラッグストアでサンドイッチを買ったんです。それから五番街まで戻ってバスに乗りました。五番街を走っている、一一〇丁目行きのバスです。ブロードウェイ一一〇丁目の角で降りると、ほんの数ブロック先がウィンベリーのところです。ぼくらはそこに住んでました。本来ならぼくが先に家に着いているはずだったんですが、バスが故障してしまったんですよ。ぼくにとっては運が良かった、ある意味ではね。だけど先に帰っていたとしたら……」ヒューはぼんやりとして、話すのを忘れているように見えた。 「続けて」 「そうですね。しばらく待っていたんですが、原因が何であれ修理できないとわかると、みんな別のバスに乗り換えて出発しました。それで遅れたんです。角でバスを降りたのは、一時十五分ごろだったと思います。二ブロック先のドラッグストアに寄って煙草を買いました。部屋のベルを鳴らしたのが一時二二分でした。そうピーターは言ってますし、ぼくもそう思ってます。ドアは玄関からウィンベリーのオフィスに通じていて、オフィスは通りに面した正面側にあります。ピーターが開けてくれたのがそのドアです。彼が見つけたあとでした……死体を。いや違うな、ウィンベリーがちょうど死んだところだったんです。ピーターが見つけたときにはまだ生きていました。部屋の真ん中辺りの床に倒れていて、胸を撃たれていました。ピーターによれば、上でドアの開くのが聞こえたそうです。地階に住んでいるので。暖房などを管理しています。それからぼくの研究室も。それも下にあるんです。ウィンベリーが帰ってきたのが聞こえたそうです。初めに表のドアの音がして、次にオフィスのドア。用がないかとたずねたのですが、ウィンベリーはぶつぶつと言い訳をして中に入ったそうです。一時過ぎのことでした。帽子と外套は脱いで掛けてありました。少ししてからまたドアの音が聞こえたそうです。初めに表のドア、次にオフィスのドアです。ぼくが帰ってきたのだと思ったそうです。ところが直後、銃声が聞こえました。すぐには上に行けなかった。老人でしたし、何よりショックを受けていましたから。だけど現場に着いたときにはオフィスのドアは開いていて、ウィンベリーが床に倒れ、銃が落ちていたそうです」 「何か言い遺したの?……亡くなる前に何か話せたの?」 「ええ、そうなんです。『見いへん』。ピーターが聞き出せたのはそれだけでした」 「てことは、知り合いではなかったのね」 「どうしてです?」 「そう言おうとしてたんじゃないの? きっとそう。『見いへん人やった』って」 「そう思いますか? でもおかしなことに、銃はウィンベリーのものだったんです。オフィスに保管していました。海賊なんだと言っておいたでしょう。いくつか後ろ暗い取引に巻き込まれていたんです。ぼくの仕事とは無関係ですが。ありがたいことに。とにかく銃を持っていた。ドアを入ったところにある書類棚の一番上の引き出しに仕舞ってありました。どっちにしろドアからそれほど離れてはいません」 「その……誰かは変装していたのかもしれない」  ヒューがこちらを見た。「そんなことは考えもしませんでした」 「だってウィンベリーさんは、犯人が誰だかわからなかったんでしょう……」 「どういうことです?」 「だって。だって見いへん人やって言い遺してるじゃない。でもちょっと待って、犯人は銃の置き場所を知っていたんだわ。そんなに素早く起こったのなら。銃を探し出して撃つまでは……きっとあっという間だったんでしょ?」 「ええ。ぼくもそれには気づいていました」 「続けて」 「そうしましょう。ええと……ぼくがウィンベリーさんを見たところからでしたね。ピーターは聞こえた音のことを話し続けていました。ぼくが外套を押しやったら何かが落ちたんです。赤い駒でした。ピーターはペッピンジャーがどうとか言ってましたが、ぼくは駒をポケットにすべらせました。何か理由があってウィンベリーさんが持ち帰ったものだと思っていたんです」 「だけど、そうじゃなかった」  ヒューは考え事をしているようにしばしわたしを見つめていたが、ようやく話を続けた。「すぐに警察を呼びました。到着したのが一時三五分です。警察に聞かれたことを答えていたので、一時五〇分になってようやく現場を離れて角のドラッグストアに行き、ここに電話することができました。伯父さんに事件を知らせようと思ったんです。誰も出ませんでした。しばらく時間をつぶしてからもう一度かけると、今度は伯父さんが出ました」 「警察はどう考えているの?」 「それは事細かに訊かれましたよ。なにしろ分刻みですから。銃撃された正確な時刻を特定したようです。どうやって突き止めたのかわかりませんが。一時十六分だそうです。ぼくがバスからドラッグストアに向かっていたころですね。もしかすると店のなかだったかもしれません。でもはっきりとはわかりません。店員は時刻を覚えていませんでした。だけど警察はバスを調査したんです。運転手が覚えていました。ぼくが言ったとおりの格好の女性が乗っていたことを」 「そうなんだ?」 「おかしな格好をした人だったからよかったものの、そうじゃなければ気づいていなかったと思います。黒人でね、大きなつば広帽に裾の長い夜会服、チェック柄をした男物のジャケットを羽織っていたんです。ぼくみたいな男でも、いやでも気づきますよ」 「そんな格好じゃね」 「運転手の話だと、バスをブロードウェイの角に停めたのは遅くとも一時十五分だったそうです。それで助かりました。とにかく警察は満足したように見えました。本当のところはわかりませんが」 「命を狙っていた人たちがいたに違いないわ。ウィンベリーさんが後ろ暗い仕事をしていたというのなら。そうだったわよね?」 「そうですね」声の調子が変わっていた。「確かに、動機を持っていてもおかしくない人たちがいます」と言って立ちあがると、目の前をうろうろし始めたが、唐突にこう言った。「厄介なことに、鍵がなかったんです」 「鍵って?」 「ぼくはベルを鳴らさなきゃなりませんでした」 「どういうこと?」 「そのう……失くしてしまったんですよ。ポケットになかったんです。チェーンでほかの鍵と一緒にしてたんですが。ゆうべ家に戻ったらなくなっていて。だからベルを鳴らしたんです」 「それで?」まだわからない。 「わかりませんか? ピーターは、ウィンベリーが入ってきて鍵を使うのを聞いてました。その後もう一人の人間が入ってくるのも聞いていたんです。一時十五分に、鍵を使って」 「ほかに鍵はないの?」 「ピーターが持ってます。よくは知りませんが。わかっているのは、ぼくのがなくなったということです」 「ふうん、じゃあやっぱり落としたのね」 「ところが気がかりなのは、ここで落としたのかもしれないってことなんです」 「ここで!」 「まさにここ、この部屋です。ソファにはありませんでした。もう探しました」 「この部屋なの?」 「何分か向こうにも座っていたでしょう? でもそこにもありませんでした」 「エファンズには聞いてみた?」 「ええ。見てないそうです」 「でも落としたのはここじゃないかもしれない。なんで……? どうして……? そんな」  少ししてからヒューが言った。「あなたは伯父さんのことを知らないんですよ。真の姿も彼の望みも」 「伯父さんが殺人犯だってことね。そう言いたいんでしょう」わたしは怒りを露わにしようとした。でもわたしは怯えていた。 「頼みます……そんなつもりじゃなかったんです。だけどわからないから……ゆうべのウィンベリーの振舞を見ていたでしょう。ぼくが伯父さんだったなら、絞め殺したいと思っていましたよ。それに……」 「嫌なやつだったもの。怒っていたに決まってる。でも殺したりなんか……」 「いや、そのせいではなく……」ふたたび歩み去ると、ポケットのなかで硬貨をじゃらじゃらと鳴らした。 「じゃあなんのせいなの?」 「自分でもわからないんです」と吐きだしたが、わたしの問いに答えたというわけではないようだった。「ただなんとなく。どうすればよかったのか教えてください……これを」  手には赤い駒があった。 「わからない。わかるわけないじゃない。どうしてわたしに聞くの?」わたしは立ちあがって窓まで歩いていった。幅のある窓敷居には雑誌と煙草入れが置かれていた。見るともなくレースのカーテンを眺めた。 「あなたのせいなんですよ」ヒューが後ろから近づいていた。「あなたがいなければ、なかば無意識にポケットに入れてしまったにしても、そのままそっとしまっておいたでしょう。いやそうじゃない、あそこに置きっぱなしにしておくべきだったんです。警察は伯父さんと結びつけたりしなかったでしょう」 「あなたがしゃべらなければね」 「そうなんです。ところが、拾って隠しておいたことを白状すれば、理由も白状しなければならないでしょう。話すべきなんでしょうか。どちらがあなたのためになるのか。この家に危険があるのなら、ここにいるべきではありませんから」  わたしは何も言わなかった。 「反面」細長い指で煙草入れを神経質にいじっている。「伯父さんに好意を持っていたり……ええと、親しみを感じているなんてことがあるのなら、嫌な気持になるようなことをするつもりがありません。だからあなたに聞いたんです」 「様子を見ない? 少しのあいだだけ。だって警察が間違っているかどうかまだわからないじゃない。不審者を探しているところかもしれない。とにかく」急いで続ける。「信じない。伯父さんは靴を履いたまま眠るのかもしれないし、エファンズが駒を見つけて朝のうちに戻しておいたのかもしれない。ウィンベリーさんがまっすぐ帰らずに自分で拾っていたのかもしれない。本当に知りたいっていうのなら……」 「あなたの話は」と安心したように言った。「どれも知りたかったことでした」  だけどわたしはヒューの手を見下ろしていた。近寄って手を脇によけ、煙草入れを開いた。チェーンでつながれた鍵が二つ、なかに入っていた。わたしが取り出すと、ヒューが素早く手を伸ばし鍵をつかんだ。わたしたちは目を合わせた。 「意味があるとは限りません」 「わかってる」わたしは唾を飲み込んだ。「もちろん限らない」 「怖がることはありませんよ」少ししてからそっと声をかけられた。  虫が知らせて振り向いた。伯父が戸口に立って微笑みかけていた。 「おはよう」わたしたちが二人きりなのを見てからかうように眉を動かした。視線の先が自室のドアの方にすばやく移動した。「話があるので帰らないでくれ、ヒュー。ウィンベリーの件は大変だな」  多くの人間は、その場を立ち去ったあともどういうわけか、背筋や首のつけ根に他人の存在を明確に意識しているものである。ところが伯父が立ち去ったあとには、放り出されて忘れ去られたという印象だけが残った。伯父は自室に消えていた。  ヒューに腕を取られて、極度の緊張が徐々に解けていった。逃げ出したかった。ささやく声が聞こえた。「駒を投げ捨てるのを見られたことを、わかっているんじゃありませんか? 見せるつもりだったんじゃありませんか?」 「あるわけない。ばかみたい。もう行かなきゃ」 「だけどやはり、見られたことがわかっているんですよ」 「やめてよ。あり得ない。ばっかみたい!」髪がなびくほど首を振った。 「すみません。心配だったものですから」 「気にしないで。ただ何も……何もせずに……様子を見てほしいの」 「そうしますよ」という声を聞いてから、わたしは逃げ出していた。 第五章  階段を上ったところでライナに声をかけられた。「一緒にお昼をどう? エレン、アトウォーターさんにお願い……何があったの?」 「ヒューと事件の話をしていただけです。それがこたえたみたいで」  何も言わずに連れて行かれた窓際のテーブルには、まとめて取っていた朝食と昼食が載っていた。もうすっかりよそ行きの着替えを済ませ、カーキ色の毛織りスーツにトーストみたいに小っちゃな小麦色の帽子(羽根飾付き)を身につけている。とても素敵だった。 「そんなことを考えてはだめよ」どう言おうか迷っているようだった。「そうしたいのなら戯れに頭を悩ませたっていい。でもハドソン・ウィンベリーはあなたの知り合いではなかったし、特別な存在でもなかった。まったくの無関係だったんだから。チャールズやわたしに同情しようとするのもだめ。それから」と微笑みながら締めくくった。「わたしたちが毎日友人を殺してまわってるなんて想像はしないでね」 「そんなこと……」わたしは今にも喚き出しそうだった。ライナはあまりにも優しくて、気を遣ってくれる。でもなぜ悩んでいるのかは知らないし、知ることもないのだ。ライナは一生懸命に聞き出そうとした。ベイカーズ・ブリッジのこと、そこに暮らす人たちのこと。そのうちにライナが笑い出したので、自分でも何だかおかしく思い始めた。  昼食を済ませると出かけなければならないらしい。戦時奉仕なの、と言ったライナがまとっている毛皮のコートは、小型戦艦級の値段なのではないだろうか。「午後には戻るわ。ガイが来るし、チャールズもいると思うの。あなたもいらっしゃい。都合は悪くない?」 「もちろんです。もちろん伺います」  ライナが出かけてしまうとわたしは完全に一人きりで、好きなことができた。そのうえお金もあった。五十ドル入りの封筒が鏡台の化粧箱の下に挟まれていたのだ。それでもやはり途方に暮れていた。ショッピングをする気にはなれない。将来を一計する気にもなれない。誰かが家に残ってあれこれ考えてみた方がいいんじゃないだろうか。  というわけで長椅子に寝そべりあれこれ考えてみた。思ったようには筋道だてて考えられなかったけれど。第一に、誰一人としてウィンベリーが自殺した可能性を考慮していないのはなぜだろう? 自分の銃だったのに。はずれ、自分で撃ったのなら、あんなことを言うはずがない。「見いへん」あるいは「見いへん人やった」という言葉の意味を考えれば、誰かがいたことは間違いない。それに管理人が、もう一人やって来た音を聞いている。間違いなく誰かがいた。確かに。では泥棒か何かではないのだろうか? はずれ、何者だったにしろ、鍵を持っていたし銃のありかを知っていたのだ。いや待てよ、ウィンベリー自身が保管場所から銃を取りだしたのかもしれない。そんなことをする理由は思いつけないけれど。  伯父のパチーシ駒こそ一番の悩みの種だった。どうやって現場に移動したんだろう? 脳みそをふりしぼって、伯父さんが赤い駒を窓から捨てたときウィンベリーが立ち去っていたかどうかを思い出そうとした。漠然と考えていたのだが、伯父がやって来たのは、ウィンベリーとギャスケルが立ち去った直後だったのだろう。ライナはもうちょっとあとまでガイ・マクソンと話していたのだと思う。だけど実際どうだったのかはわからない。仮にこの通りだったとすれば、ウィンベリーがタクシーにギャスケルを乗せてパーク・アベニューを走っていたときには、伯父はまだ窓を開けていなかった。ということはウィンベリーにはパチーシの駒を拾えないし、一〇八丁目まで持ち帰ることもできない。  じゃあ誰が?  ヒュー・ミラーの話によれば、ハドソン・ウィンベリーの死に関わることができたのは伯父だけらしい。なぜ? ヒューはほかにも何か知っている。間違いない。わたしの知らない何らかの理由を――もしかすると何らかの動機を? きっと伯父とウィンベリーのあいだには、ただのゲームにとどまらぬ敵意を抱くような、諍いの種があったのだ。ヒューはそれを知っている。絶対にそうだ。  伯父にたずねてみればいいことに、どうして二人とも気づかなかったのだろう。赤い駒を見せ、どこで見つけたのかを伝えて、どういうことなのかたずねればよい。鍵のことも忘れずに。でもたずねたりはしないだろう。なぜたずねないのかに思いいたってぞっとした。伯父が殺人犯ではないと確信していれば、たずねたはずだ。何か知っていれば答えてくれただろうし、そうすれば事件と何の関係もなかったことがわかっただろう。だけど万が一犯人だったとしたら、いくらでも嘘をつけるし、事態は今より悪くなる。「伯父さんが人を殺せると思ってるの?」自問してみて恐ろしくなった。どんな回答が待っているのかは痛いほどよくわかった。嘘をつかれても、わたしには判断するすべがないのだ。  こうして考えてみれば、不安に悩むのも当然だった。(a)伯父が殺人犯だと思われているにせよ、(b)百歩譲って殺人を伺わせるような証拠があるだけにせよ、どちらにしたって容疑者なのだ。いや間違っている。ヒューもわたしも。伯父のような人には援護は必要ない。なすべきなのはすべてを伝えることだ。知っていることすべて、伯父がやるべきことすべて。  一時的に気分がよくなった。でもすぐに思った。仮に伯父が犯人だったとするなら、そのときは何を? そのときは、疑っているなんてことを本人に知らせるわけにはいかない。  不安のあまり緊張が走る。起きあがって窓の外を見たけれど、隣家の裏側しか見えなかった。階下に行ってちょっと見て回ってみよう。  二階に降りて、かなりびくびくしながら開いたままの図書室の戸口を通りすぎたが、誰もいないようだ。さらに階段を降り始めると、なかばあたりで玄関ベルが鳴った。すぐにエファンズが階段下の小さな扉から現れドアを開けた。赤毛の青年が立っていた。「カスカートさんはいますか?」カスカートさまは外出しておりますとエファンズが答えた。「じゃあ奥さんは?」恐れ入りますが奥さまも外出しておりますとエファンズが答える。青年は顔を上げるとわたしを見つけた。 「やあ!」何年も会わなかった知り合いにでも声をかけているような言い方だった。「いったいぜんたいいつここに?」そう言ってすぐにホールに入ってきたので、エファンズは退いた。 「どうも」わたしは青年をもっとよく見ようとしながら曖昧に答えた。 「会いたいと思ってたんだ。ここにいるとは知らなかったな」 「夕べ着いたばかりだったから」誰だったっけ。思い出さなきゃ。とうとう玄関まで降りていた。 「リビングをお使いいただけます、エリザベスさま」エファンズが白塗りの両開き扉のところでうやうやしくささやいた。 「エリザベス」赤毛の青年が言った。「話したいことがあるんだ」 「ええ、いいけど……」かなり混乱していたせいで、リビングに入ってからようやく、この人には今まで一度も会ったことのないことがはっきりわかった。「それよりいったい誰なの?」 「しいっ」エファンズがいないことを確認してから振り返ってにっこりした。それほど背は高くないし、それほどかっこよくもない。緑の瞳は悪戯っぽく、大きな口が、顔全体で微笑みかけていた。「ちょっとした悪戯さ。すぐに追い出してくれてかまわない。ところできみは誰だい?」わたしは目をぱちくりさせた。「チャーリー・カスカートにこんなきれいな娘さんがいたなんて知らなかったな」 「きれいもなにも娘さん自体いないってば」頭に来た。「それに……ちょっと待って。だいたい何がしたくって、どうなってるのか……」 「中に入りたくてからかってみたんですよ。怒ってるでしょうね。で、どちらのきれいな娘さんです?」 「きれいなんかじゃない!」かっとなった。 「きれいじゃないですか!」かっとしたように言い返された。「どこのどいつがきれいじゃないなんて言ってるんだ?」  あまりに気短でおどけて見えたので、思わずくすくすと笑い出すと、青年も笑い出した。ただし真っ赤になっていた。こんなふうに真っ赤になる男性は初めて見る。頭の先まで真っ赤っかだ。 「ガードマンを呼ばれる前に名乗っておきましょう。あなたに追放の楽しみを与えるのは何者か。ジョン・ジョゼフ・ジョーンズと言います」 「嘘ね」 「信じてもらえなくてもしょうがない。新聞社で働いてます。ここにはちょっと嗅ぎ回りに」 「嗅ぎ回りに?」 「ハドソン・ウィンベリーのことはお聞きでしょう?」  わたしは答えなかった。 「聞いてるはずだ」すらすらと続けた。「ウィンベリーは昨夜ここにいた。違いますか?」 「答えてもいいのかどうかわからない。わたしの家じゃないもの」 「ぼくが何をしたらいいのかわかりますか?」答えは素早かった。「脅迫です」 「わたしを!」 「そうです。うまくいったら新聞にはこう書くつもりだったんだ。『謎の少女、被害者の存在を認めず』とかね。書こうと思えば書ける。ちょっと脅して、知っていることをすべて聞き出すこともできるんです。でもやらない。留守で誰もいなかったことにしときましょう」帽子を頭に叩きつけ玄関ホールに向かった。 「待ってよ。なんでなの?」 「なんで月の出る夜があるか教えましょうか?」 「謎の少女なんかじゃない。エリザベス・ギボン。カスカートさんの姪です。ええと……バイバイ」  リビングを端から端まで歩いた。素敵な部屋。上の図書館と同じ大きさで、さらに立派な家具がある。フレンチ・ソファに腰を掛けた。 「こんなふうに出会った以上は――」  顔を上げると、そばにジョーンズが立っていた。帽子を脱いでコートを抱えている。緑色の目が笑っていた。「――ここにいてもかまいませんよね?」 「質問には答えられない。答えちゃいけないと思うの。そりゃウィンベリーさんはここにいたけど。みんな知ってることだもの。伯父の友人たちと一緒に……ううんと……夜を過ごしてた」 「ですね」と言って隣に腰を下ろしてきた。 「帰ったのは十二時半ごろ」彼が口を閉じた途端に落ち着かない気分になった。 「ええ。ギャスケルさんが話してくれました」 「じゃあギャスケルさんと二人でタクシーに乗ってたの?」 「そのようです」 「ウィンベリーさんはクラブかどこかに向かったのね? 行かなきゃって言ってたもの」 「行きましたね」 「クラブはどこにあるの?」 「セントラル・パーク・ウェスト六〇丁目」 「ふうん。でも何の役にも立たないけど」  彼は向きを変えてソファの背に腕を預けると、わたしを見た。「ほかに知りたいことは?」 「山ほど。ねえ、わたし、さっきからずっと謎を解こうとしていたの」 「探偵の才能があるんですか?」 「そうよ」 「よし、それなら始めましょうか、何でも聞いてください」 「迷惑じゃない?」 「ちっとも」 「じゃあね、封筒の中身は何?」 「封筒って何です?」 「そう言ってたの。クラブで封筒を受け取らなきゃって」 「ああ、現金ですよ。五十ドル。貸してた金の分割受取りが終わったんです。この件とは無関係ですね」 「借金を払い終わった途端に相手を殺したりはしないだろうし」 「そう。殺しちゃいない。昨日の午後にはカリフォルニアだからね」 「わかった。待って……ウィンベリーさんがクラブを出たのは何時?」 「一時ごろ」  また一つたずねたいことができた。「六〇丁目と一〇八丁目ってどのくらい離れてるの?」 「引き算するといい。二十ブロックで一マイル」 「四十八ブロックだから、二マイルと……十分の四マイル」 「引き算だけじゃだめですよ。割り算して通分しなくちゃ。ベティと呼ばれてるのかい?」 「ベッシーよ。それって五、六分で行ける距離?」 「ちょっと待てよ」彼は立ちあがってポケットを探ると、鉛筆で書込みのされたぼろぼろの紙切れに目を通した。「ピーター・フィン。ここの住人。曰く、ウィンベリーが来たのは一時〇八分ごろ。二マイルと十分の四を八分で。スピードは? ほら早く」 「わかんないってば。そんなの計算できない」 「そりゃよかった」まじめくさって言った。 「どうして?」 「気にするな。男の秘密というやつさ。さて」ちびた鉛筆をかじりかじり、紙書き込んでいたが、ようやく口を開いた。「不可能ではない。が、まずないだろうな。信号機を忘れないことだ。でも全部が全部、何時ごろだからな。それじゃあ何の意味もない。きっかりちょうど何時ごろ、か」 「でもタクシーの運転手は見つかってないの? 運転手さんなら何時に着いたかわかるんじゃない?」 「何時に着いたかわかったところで、何の違いもないよ」 「そうだけど」 「じゃあどうして?」 「整理してみようと思っただけ……ずいぶんと早いと思って」 「なるほどね。いや、運転手を見つけたって話は聞いてないな。ほかの二人は見つけたそうだけど」 「一人はウィンベリーとギャスケルを乗せていった人でしょう?」 「ああ」 「じゃあもう一人は?」 「ちょうどその時間帯に、交差点の角で男を拾ったそうなんだ」 「すごいじゃない。ねえほかにもわからないことがあるんだけど。警察はどうやって撃たれた時刻を特定したの?」  彼の顔を見るつもりはなかったけれど、微笑んでいるのは皮膚を通して感じていた。 「よし、いいだろう。おかしな話なんだ。もっとも、ぼくは信じてるけどね。ところがガーネットは頭っから疑ってかかってる。出来すぎなんだとさ。探偵小説は読むかい?」 「それはね」 「そんなとこだろうね。おしどり夫婦のコートさんも、探偵小説を読むんだ。夫妻は二階に住んでいる――ウィンベリーから借りてるのさ。ベッドには入ってたんだろうけど、まだ眠ってはいなかった。そんなとき、銃声が聞こえた。『ねえおまえ、銃声だ』『ほんとね。明かりをつけましょう。時計を見なくっちゃ。警官に聞かれたときに言うことはわかってるんだから』『その通りだよ。一時十六分ちょうどだ』『これでいいわ』そして二人は眠りについた。ガーネットとしては受け入れざるを得ないけれど、自分をごまかすことはできないってわけなんだ」 「だけどそれなら、その人たちはどうしてベッドに戻ったの?」 「バックファイアだとしか思わなかったんだよ。銃撃だったらいいな、というのはささやかな願いにすぎない。物語を楽しんでたんだ。どう思う?」 「嘘ではないと思うけど」わたしは慎重に答えた。 「充分に論理的で可能性のあることに思えるな。嘘ではありえない」 「その人たちが殺したんでなければね」 「おいおい待ってくれよ」 「何?」 「きみは何でもかんでも思いつくけどね。彼らが殺したとは思わないな。動機は何だい? それに管理人が言ってた時間とぴったり符合するだろう。研究所のアシスタントの話とも一致してる」 「誰?」 「ヒュー・ミラーって名前だ。知ってるだろう?」 「ええ。あの……管理人はどんな人なの?」 「問題ないよ」彼はメモを見ながら答えた。「ピーター・フィン、六十二」 「ねえどうして必ずそうするの?」 「何がだい?」 「新聞だと名前のあとに年齢を書くでしょ?」 「わかりやすくするためだよ、いいかい?」 「ええ、まあ。わたしはてっきり……」 「あーあーあー。ピーター・フィンの証言のなかに、気づかれたくないことでもあったのを思い出したのかい?」 「何よそれ?」 「忘れてくれ。いいかい。ウィンベリーが一時〇八分ごろに帰宅したのを聞く。鍵を使用」いったん言葉を切ってからまた話を続けた。「挨拶。『ウィンベリーさん、ボイラーのポンプにゃ修理が要るよ』。W、独特の音を立てる。『うなるっちゅうんですか、よくやっとりました』。一時十五分ごろ、二人目登場、鍵を使用。うん。銃声を聞く。二分後に上へ。表のドアを見る。長身の男を目撃……ええと……車道の方に逃げていった。オフィスに入る。ドアは開いていた。ウィンベリーが床に。撃たれたのは胸。『見いへん』と言い遺す。死亡。一時二二分ごろ、ヒュー・ミラーが証言、ベルを鳴らす。ふう」また一息ついたところで、わたしは手を開いた。いつの間にか掌に爪が食い込んでいたのだ。「ミラー、警官を呼ぶ」彼はメモをポケットに押し込んで息を吐いた。 「警察は知ってるの、――」 「ガーネットもそろそろたどり着いてるよ」  心臓が跳びはね大きく脈打った。「その人は?」 「担当の刑事だよ」 「その人と話さなくてもすむわよね?」頭が真っ白になる。 「そうだといいけど。いいかい、ベッシー――ギボン、さん――きみの顔は、そのう、とてもきれいだし、ぼくはそういう白い肌や目が好きなんだけど、隠しておきたいことがあるのなら、サングラスをかけて、口にも風邪引き用のマスクをつけることを勧めるね。それだけ繊細な口は――」 「あのね。ボツ」 「わかったよ。ああそうだ。鍵のことで何か知ってるだろう」 「えっ!」 「なるほど。てことは、ピーター・フィンが報告できたのにしなかったことについても知ってるね」 「なんで!」わたしは両手で口を覆った。 「それに」容赦なく話は続いた。「長身の男が昨夜ここから現場までタクシーを拾ったかもしれないことを知っているせいで、実際にそうした可能性も疑っている」  わたしは目に袖を当てて泣き始めた。 「ちょっと待った待った。ちぇっ、頼むよ。これは役に立つかもしれない。タクシーの乗客は指が曲がっていたんだ」  腕を降ろしてこわごわと彼を見つめた。 「そいつはそうなのかい? それはまずいな」 「出てってよ」わたしは立ちあがった。「これから出かけるの。買い物に行かなくちゃ」 「ガーネットはぼくほど融通が利かない。逃げない方がいいよ」 「でも行かなきゃ。わたしの顔に全部書いてあるって言うんなら……」 「黙るんだ。そいつが好きなのか?」 「どうでもいいでしょ。もう質問しないで」 「それでも言うよ。知っていることをすべて話してくれる気になったなら」そこで決まり悪げになって、「きみがいいと言うまでは秘密を漏らさないと約束してもいい」今度はさっきよりも強気に。「ぼくは出ていかないよ。きみを置いてけぼりにして、ガーネットの攻撃にさらしはしない。だから出かけるのはやめた方がいい。取り乱したまま行かせるつもりもないしね、行くときはぼくも一緒だ」」 「そんなこと何とも思っちゃいないくせに。だいたいわたし、あなたのこと知りもしない」 「そのうちわかるよ。それよりもさ、伯父さんのところにまっすぐ行かせてくれるなら――おいおい。すると伯父さんなのか」 「それもわたしの顔に書いてあるの?」 「その鼻と同じくらい、いや遙かにでかでかとね。きみの鼻はキュートだけど控えめだし、そんなにでかくはないものな」 「わたしの鼻はどうでもいいでしょ! ねえジョーンズさん、どうすればいいの?」 第六章  こうしてわたしはすべてを打ち明けた。だまそうとしても何にもならない気がした。それに、助けてくれると信じたのだ。なぜかはわからない。彼は一つ一つに耳を傾けた。赤い駒のこと、電話のこと、鍵のこと。聞いたそばから頭のなかで整理しているらしい。それが終わると、情報を提供したタクシー運転手のことを聞かせてくれた。男を一人、午前〇時四五分(ごろ、とジョーンズ氏は言った)拾ったそうだ。五番街、伯父の家近くで乗せ、ブロードウェイ一〇八丁目の交差点に一時十五分ごろ到着。運転手が気づいたのは運賃を渡されたときだった。男の右手の小指は不自然に曲がっていた。 「じゃあきっと伯父ね。それで決まり」 「あのねえベス。ごめん、口が滑って」 「よして。伯父はそこにいた。間違いなくそこにいたの」 「そんなふうに見えるな。だが何の証明にもならない。微塵もね。ぼくが間違ってなければ、伯父さんが模範的市民よろしくベッドに入らなかったという証拠はない。そりゃあ塵も積もればどでかい山になることだってある。古典的な話だよ。男の子が口にジャムをつけて食料品庫から出て来て、壜からはジャムが消えていた……。一目瞭然に見えるね。その子を知ってるならなおのこと、だ」そこで押し黙り、考え込んでいるように見えた。 「絶対そうに決まって……」 「いや、絶対じゃない。それを言いたいんだ。たとえば運転手が右手と左手を間違えたのかもしれない。でなけりゃ指が曲がっているどっかの別人だという可能性もある。そもそも現場に行ったとしてもだ。必ずしも誰かを撃つ必要はないだろう。想像の翼を休めるなかれ――マク・ダフがいつも言ってることだ――たとえ怖くとも」 「マク・ダフって誰?」 「友だちさ。それよりジャム事件の場合には、その子と知り合いであるのが条件なわけだ」 「あなたは……伯父を知ってるの?」 「ああ、話は聞いてる。きみはどう思う?」 「難しいわね。伯父のことは何にも知らない。昨日、初めて会ったんだもの。知っていることと言ったら全然……つまりお客さんを家に招くときのマナーが全然……」 「奥さんは今回のことを何て言ってる?」 「そんな話はしなかった。だいたいわたし、伯母のことも知らないの。でも好きよ。素敵な人」 「ライナ・マクレディだね?」 「マクレディ?」 「自分の家族のことも知らないのか? いったいどこにいたんだ、ベッシー……ギボン、さん」 「なんでさんづけするの? メモのリストみたいじゃない」 「ベッシーでやめたら、ぼくを放り出すだろう?」 「もうしない」  彼は大きく息を吸った。「先を続けて」そう言ってこちらをじっと見つめていた。 「わたし、ベイカーズ・ブリッジから来たの。父はメソジストの牧師だった」こうしてわたしはすべてを話した。 「身の上はわかった。婚約はしてないのかい?」 「してない。あなたの方は?」 「ぼくもしてないよ」 「違う。伯父の話よ」 「ああ、そうか。ぶっちゃけた話、仕事の方じゃかなり乱暴な御仁だと思われてるね」 「どんな仕事をしているかすら知らないの」 「今は映画館をいくつか持ってる。昔はいろんなものを促進販売してた。儲けたと思ったら一転して大損、伯父さん以外はみんな破産した。マクレディ氏と何らかの取引をした。そうしてライナを手に入れたんだ」 「嘘でしょ!」 「まあ、そういう話さ。マクレディは困っていた。カスカートが肩代わりして、見返りに娘を手に入れた」 「ほんとのことなの?」 「伯父さんはライナを手に入れた。話には何一つ手を加えちゃいないよ。いやそういう噂なんだ。マクレディは監獄入りでもおかしくなかった。そうはならずに老人ホームに入り、ライナは……ここさ」 「ライナのお父さんは施設にいるってこと! 救貧院に!」 「彼は満足してるよ。監獄よりは気に入ってるさ。ライナは若くてきれいだって話だな」 「素敵なひとだわ。それに優しいし。信じられない。嘘よ。ライナが……」 「どうすることもできなかったんだと思うよ。きっと今もまだマクレディを監獄行きにできるだろうね。きみの伯父さんは切り札を捨てるような男じゃない。そんなわけで、父親を守るためライナは伯父さんと結婚したんだ。メロドラマみたいにね。豪華な籠のなかの鳥ってやつだ」彼は部屋を見回した。「なるほど豪華だ。なるほど籠だね」 「どうすればいい? もう時間がないじゃない。その刑事はここに来るんでしょう。隠れた方がいい? 赤い駒のことは……ううん、すべて伝えた方がいいの?」 「伝えちゃだめだ」ジョーンズ氏はきっぱりと言った。「そんなことはさせない」 「でもどうしようもないかもしれないじゃない? 気づいているかも?」 「警察に話をしてしまったあとでも、この家で暮らしていくなんてぞっとするな」 「そうね」わたしはささやいた。「わたしだってそう思う」 「どっちにしたってきみがここで暮らすなんて考えたくもない」彼は言った。「ぼくと結婚しないか?」 「ありえない。くっだらない! なんで……?」  わたしは顔を背けたけど、手遅れだった。今度もまた見通されてる。彼のことをとびきり、いやになるくらい好きなことは気づかれてる。何か言われるかと耳をそばだてたのに、何も言われなかった。しばらく無言のままだった。 「ガーネットをどうするか考えよう」やがて彼はぼそりと言った。「そうじゃないか?」 「そうね」わたしは感謝しながら顔を元に戻した。「手伝って」  彼は目をぱちぱちさせた。「よしきた!」と言って極めて事務的に話を始めた。ただし何が何でも両手でわたしの手を包んだまま。好きになってしまったのがわかる。彼の両手は温かく乾いていて力強かったのだ。まるで両親といるみたいだった。もう長いこと感じたことのなかった気持。 「ガーネットに会ったら嘘をつけばいい。嘘をつくコツは真実を話すことなんだ。真実といっても真実すべてじゃない。とりあえずミラーがここに来てしゃべったことは忘れてしまえ。もちろんここには来た。きみとしゃべった。でも内容はただの世間話だ。昨晩ベッドから抜け出して戸口で聞いたことも忘れること。力を抜いて。質問にはなるべく『はい』か『いいえ』で答えること。法廷ではそうやっているし、誤解させたいのなら一番だ。何か言わなくちゃならなくても心配いらない。ぼくがここにいてフォローする。話がおかしな方向へ行き始めたら割って入るから、知られることはないよ。全部まかせとけよ。それはともかく、ぼくらは昔なじみなわけだ。ベイカーズ・ブリッジで顔見知りだった。そうしとけばホールで執事に聞かれた挨拶とも食い違わないし、ぼくがここにいる理由にもなる。J・Jと呼んでくれるかな。みんなそう呼んでる」 「ねえよくわかんない」 「きみは田舎から来た女の子だ。昨夜ここに来た。ウィンベリーを見た。会った。帰ったのは知っている。ベッドに入った。朝起きて、死んだのを知った。これがきみの知っていること。知っているのはそれだけだ。質問は一言もしちゃいけない。田舎から来た女の子なんだ。天真爛漫なね」 「ええ、わかった」 「この大都会でこれから一人でどうするつもりなんだい?」まったく同じ気楽な口調だった。 「まだわからない。たぶん学校に通って何か習うつもり。デザインがいいかな。ほら洋服の生地とか壁紙の。ライナが――」  玄関のベルが鳴った。エファンズがやって来るのが聞こえた。 「続けて」J・Jが言った。 「ライナがね、学校で勉強したければそうしてもいいんだって。デザインの学校もあると思うの」 「山ほどあるよ。デザインが好きだと思ったわけは?」 「え。だっていろんなデザインを夢中で描いてたもの。ママがいっつもゴミ箱いっぱいに捨てなきゃならなかったくらい。でも無意味ね」 「きっと才能があったんだな」 「そんなこと信じちゃいないわ。ただ好きなだけ。楽しいの。チャンスかもしれないじゃない。生計を立てる手だてを習いながら、しかも楽しめるなんて――」 「恐れ入りますが」エファンズが言った。「エリザベスさま。ガーネットさまがお話しになりたいといらっしゃっております」 「わたしと?」 「おめでとう」J・Jがそっとつぶやいた。 「さようでございます。警察の方です。思いますに用件は……」日焼けして恰幅のよい男が戸口に立っていた。 「すみませんがね。そちらがチャールズ・カスカートの姪っ子さんで?」 「はい、わたしです」 「やあガーネット」J・Jが言った。「またなんでここに?」 「そういうお前こそなんでこんなところに?」ガーネットはもう一人の男と一緒だった。まるでコピー。突っ立ったままこちらをじっと見つめていた。通信講座の説明書きを読んでいるみたいに。 「ベッシー、こちらの嫌味なお方がガーネット刑事だ。向こうにいるのがハル刑事。ギボンさんとは高校のころ知り合ったんだ。ほら、ツテがあるからね」 「ほう?」それからガーネットはやや改まってわたしに話しかけた。「いくつかお聞きしたいのですがね、なにしろ家にいるのはあたな一人のようなので。ハドソン・ウィンベリーという男が昨晩ここにいたのは間違いありませんな?」 「はい」 「ほかにはどなたが?」 「ギャスケルさん、マクソンさん、伯父さん、もちろんわたしも。それからああそう、ミラーさん」 「伯母さんは?」 「いませんでした」 「外出中だった?」 「はい」 「遅れて加わったわけですな?」 「はい」 「なるほど。ご近所づきあいというやつですか?」 「はい」 「ギボンさんは昨日の夜にニュー・ヨークに着いたばかりなんだ」J・Jが口を挟んだ。「地方からね」 「ほほう?」 「ベイカーズ・ブリッジという町だよ。いいところだ。小さな町だけどね」J・Jが微笑んだので、わたしも笑みを返した。 「カスカート氏のご兄弟の娘さんというわけですか?」 「えっ? ええ、そうです、母が……そうでした」 「なるほど。では教えていただけますかな。ウィンベリーは何時ごろ帰りました?」 「十二時半くらいです」わたしは即座に答えた。不意に不安になってJ・Jを見た。 「間違いないよ」J・Jは安心させるように頷いた。つまり、わたしたちがそのことを話し合っていたとでも思わせるみたいに。口をついたのはそのせいだってことになる。 「帰るときには無事だったわけですな?」  驚きと好奇心がJ・Jの顔をかすめ、それに合わせてわたしの顔色も変わるのがわかった。「どういうことですか?」 「何も変わったことは起こらなかったわけですな?」 「はい」 「帰ったのはほかの方々と一緒だった?」 「はい」 「その後ご家族は何を?」 「寝室に下がりました」 「亡くなったのをいつ知りました?」 「女中が教えてくれました」 「今朝ですな?」 「はい」 「伯母さんと伯父さんはいつごろ戻られますかな?」 「伯母はお茶の時間には戻ってくるはずです」 「よろしい。お手数をおかけしました」刑事たちは帰る支度を始めた。ガーネットが帰ってくれれば、わたしの顔にも安堵が浮かんだはずだった。ところがJ・Jが声をかけた。 「ところでさ……」  だがガーネットは「うるさいぞ」と答えた。それでもJ・Jは玄関までついて行き、いくつも質問をぶつけていた。もうちょっといてほしいと言わんばかりに。その結果もちろんのこと、刑事たちはとっとと退散した。 「すごいじゃないか」刑事が立ち去ると戻ってきてそう言った。「つこうと思えば誰よりもうまく嘘をつけるんだな」 「大丈夫だった?」 「すごかったよ。ほれぼれした。一度だけ返事に力が入りかけたけれどね」 「やっぱり。でもフォローしてくれたから。たくさんフォローしてもらったもの。一人じゃできっこなかったわ」 「そんなのたいしたことじゃない。どんなときでも……」わたしたちは同時に笑い出した。そして突然、同時に笑い止んだ。まったく同時に笑いのつぼを押されるなんて、話がうますぎて嘘みたいだった。 「同じように気をつけるんだ」真剣な口調だった。 「わかってる」 「伯父さんのそばでは田舎っ娘を演じるんだぜ」 「ええ、そうする。わかってる」 「巻き込みたくないんだ。だからガーネットには何も教えなかった。どっちみちよそから情報を手に入れるだろうし。だろう?」 「わからないわ」 「ぼくはこれからマク・ダフに話を聞きに行く。かまわないね? 自分一人でアドバイスを続ける自信がないんだ。マク・ダフの助言をあおぎたい」 「誰なの?」 「きっと気に入るよ。マクドゥガル・ダフ。いいだろ?」 「そんなこと言ったってマクドゥガル・ダフなんてひと知らないもの。どういう人なの?」 「頭がいいんだ。会えばわかるよ。教授だったころに、ぼくはアメリカ史を教わっていた。面白かったな! まったく! その後キンザー事件を解決して、一万ドルの報酬を受け取った。それからジョニー・パーマーの嫌疑を晴らした。パーマーは常識はずれに金を持っていたけれど、ダフの申し出を受け入れる程度の常識はあった」 「申し出って?」 「ああ、ダフはパーマーに会いに行って、その大金のためにすべて解き明かしたんだって言ってた。引退したかったんだ。大学生に年代や出来事を叩き込むのにうんざりしちゃったんだとか」 「ふうん。でもすべて解き明かすってどうやって?」 「新聞を読んだんだ。で、わかったことを考えた。そこで二年間生活できるだけのお金を無心した。ところが困ったことに、半年後くらいに家を買いたくなったから、ブラッドベリ事件を解決した。グラディスを牢屋行きから救いだし、ブラッドベリ老人から十五万ドル手に入れたってわけさ」 「わたしは五十ドル持っているけれど、それじゃ足りないみたいね」 「ぼくは週末まで二十九ドル九十三セントさ。いいんだよ、マク・ダフはときどき厚い壁を打ち破ってみたくなるんだ」 「その人はどんな厚い壁の向こうもお見通しなのね?」 「比喩的に言えばそういうことさ。マク・ダフに話してみたいんだ、ベッシー、いいだろ?」 「わかった」 「よし。でもいいかい、間違ってもシェイクスピアから引用なんてしないでくれよ」 「どういうこと?」 「自分に向かって『さあこい、マクダフ』なんて言う人のことをマックは憐れんでるのさ。賢い人間なら心のなかでそう思ったとしても、使い古しだってことにも思い当たって、口に出すのをはばかるはずなんだとさ。ところが馬鹿な人間ほど、おのれの知識をひけらかしたがる――と、マク・ダフがいつも言ってる」 「何も言わない」と約束した。 「きみなら間違いない。ほんとさ。だからマク・ダフもきみを気に入ってくれるはずだ。ったく、気に入らないはずないじゃないか。もう口は閉じて、とっとと乗り込んで呼んでくるよ。あとで連絡する」J・Jは帽子を叩きつけコートの襟を立てた。「必ず連絡するよ。じゃあまた」彼がこちらを見た。立ち去ってほしくなかった。「じゃあまた、|おしゃべり顔《ウィンドウ・フェイス》」J・Jは優しく挨拶したあとで、ずいぶんと古風なやり方でわたしの手を揺り動かすと、出ていった。 第七章  大きなリビングを探し物でもするように歩きまわっていたが、何かを見ていたわけではない。自分に言い聞かせていたのだ。「賢くなりなさい。これじゃいいカモじゃないの、ベッシー。あの人はどうせすけこまし、忘れないで。あの人が言ったことも言わなかったことも信じないこと。大人になるのよ、ベッシー、田舎娘のままではだめ」  マントルピースの時計は四時十五分を告げていた。もう一度見て回ろうか。自分に言い聞かせていたことなど、すっぽり頭から抜け落ちてしまった。リビングの向こう側に引き戸があったけれど、玄関ホールの小さな扉を試してみたかった。扉を開けると、食器室ともクローク・ルームともつかない不思議な小部屋にエファンズがいた。窓が一つ、煉瓦敷きの庭に面している。 「見て回ってるところなんだけど、かまわない?」  エファンズが相好を崩した。「喜んでお屋敷をご案内させていただきます、エリザベスさま。光栄でございます」エプロンのようなものを脱ぎ捨ててそつのない態度をまとった。「こちらが地下室でございます」と言って一つ扉を開けると、階段が見えた。「下に参りますとキッチンと準備室がございまして、料理用エレベーターが通じております。キッチンは食堂の下まで延びております。無論、旧式のキッチンでございます」わたしはうなずいた。  エファンズは壁にある小さな扉を一つ開け、咳払いをして頭を入れると、「ミセス・アトウォーター」と言ってしばらく耳を傾けたあと、後じさった。「エリザベスさま」エファンズが厳かに言った。「コックを紹介させていただきます」  わたしも頭を入れて、料理用エレベーターのシャフトを覗き込んだ。赤ら顔の女性が底から見上げ、大声で挨拶をした。「どうも、お嬢さま」 「はじめまして」と答える。わたしたちは見交わしていた。彼女は上に、わたしは下に。まるでこんなセリフが聞こえてきそう。「マトン、こちらはアリス。アリス、こちらはマトン」 「何かお好きなものがあったら、お知らせくださいまし」 「ありがとう、そうするわ」という言葉にうなずいた彼女を見て、わたしも微笑んでうなずき返した。向こうも微笑み返す。こうして外交関係を築き上げたまま、わたしたちは同時に顔を引っ込めた。  エファンズは誇らしげに見えた。「コックの部屋は玄関の下に位置しております。あいだにはボイラー室がございます。無論、出入りのものは正面玄関の下にございます勝手口を利用しております」 「ああ、そうね。たしか見たことあるわ」 「こちらが食堂でございます」案内されたのは見栄えのいい簡素な部屋で、わたしの寝室と同じ場所に窓が三つあり、煉瓦敷きで高い塀のある庭に面していた。鉢に植わった常緑樹があちこちに見える。蔦の蔓が木鉢から後ろの塀まで這い上ろうとしていた。「中庭には夏のあいだ部屋を涼ませる効果がございます。ほかの用途はございません。ここは古いお屋敷なのでございますよ」 「ずいぶん高いのね」 「地上四階と地下がございます」 「四階には何があるの?」 「エレンの部屋と、わたくしの部屋がございます。それから建物の正面側まで広がる大きな客室が」 「ちょっと変わった家みたい」 「ごく標準的なものにございます」 「ほかにはどんな家があるの?」 「いいえ、エリザベスさま。ご主人さまがお出かけになるときは――めったにございませんが――わたくしどもはホテルの部屋を予約いたします。車もお持ちではございません。タクシーでご満足なされておりますから」 「ああ、そうね」わたしはつぶやいた。曲がった指で料金を払った人のことを考えていた。知っていることのすべてを話すことなくエファンズに質問できたらいいのに。「伯父さんのところでどのくらいになるの?」 「かなりになります。十年でございますか。ご結婚の前からでございますから」そう言って目を瞬かせた。「働きやすい職場でございますので、とどこおりなくお勤めさせていただいております。地下はコック。階上はエレン。この階と図書室はわたくし自身が管理しております。とどこおりなく」ここでエファンズはため息をついた。「お客さまをご招待する際には、無論ライナさまも手伝ってくださいます」彼は咳払いをして、どこか不安げにわたしを見つめた。「お差し支えなかったでしょうか、その……警察の方をお通ししてしまいまして」  びっくりしたけれど、チャンスを逃さなかった。「何か質問されたでしょ。何を訊かれたの?」 「いえ……訊かれたというほどではございませんが」 「ウィンベリーさんのことは訊かれなかったってことでしょう?」 「さようでございます」 「あなたに訊けばよかったのに。わたしよりもこの家のことに詳しいんだから。ウィンベリーさんが帰るところ、見たでしょ?」 「その通りでございます」 「間違ってなかったかな。警察には、みんな一緒に帰ったって言ったんだけど」 「ウィンベリーさまとギャスケルさまはご一緒にお帰りになりました。マクソンさまもその後すぐにお帰りになりました」 「ふうん。ならわたしの言ったことでもだいたい合ってたのね?」 「さように存じます」厳かな答え。「正確に申しますと、ウィンベリーさまとギャスケルさまはタクシーでお帰りになりましたが、マクソンさまはそうではございませんでした」 「タクシーがあったの?」 「わたくしが一台待たせておきました」 「やっぱりあなたに訊けばよかったのに。わたしは知らなかったもの。この家の人がそのあとどうしたかって訊かれたんだけど。眠ったって答えておいた」 「賢明なお答えでございました。間違いなくそのとおりでございましたから」 「待って。あなたは四階に行ったんでしょう」 「はい、さようです」 「エレンはそのときもう四階にいた」 「はい、さようでございます」 「コックはうろちょろしてなかったわよね?」 「まさかそのようなことは! コックは階上に上がったりは……長いことございません」エファンズはショックを受け困惑しているように見えた。「警察がこのようなことをおたずねになったのでしょうか?」 「その……ただの……」わたしの声は尻すぼみになった。「電話が鳴ったのは聞こえた? 無理よね?」 「はい、お嬢さま。ご主人さまの部屋は除きますが。夜のあいだはその電話だけが通じております。戸締まりをいたしますとき、ほかのベルの電源を切っておりますから」 「ふうん。事情はよくわからないんだけど……」わたしはつぶやき、考えた。何も知られずに赤い駒のことをたずねるにはどうしたらいいだろう。一つ思いついた。「こんな些細なことを気にしてるのは……覚えてない? ヒューさんの鍵のこともあるの。どこかで見かけなかった?」 「どこにもございませんでした。ヒューさまから今朝、お問い合わせいただいたのですが」 「わたしも訊かれたけど、わかんないわ。今朝、正面階段まで行ってみた? そこで落としたのかも」 「家から出る際には」エファンズは説くように答えた。「わたくしは地階のドアを利用いたします」 「そっか。でも勝手口に落ちていた可能性だってあるでしょう」 「勝手口には何もございませんでした」 「今朝そこから外に出たのね?」 「さようでございます」 「じゃあここで落としたわけじゃなさそうね」 「さように存じます。と申しますのも、正面玄関のベルが鳴りました際には、わたくしにも石段を見る機会がございますから」 「それはそうね」 「今朝そこには何もございませんでした。ヒューさまにもお伝えいたしましたが、図書室にも何もございませんでした。鍵はございません。鍵がここにあるのでしたら、わたくしが見つけているはずでございます」細長くて赤い首の上に、顔を高く反らした。怒っているように見えた。 「ええ、そうよ。きっとそう。わたしも言ったの。どこで失くしたか心当たりがあるなんて馬鹿げてるって。失くした場所を知ってるのなら失くすはずないじゃない」エファンズの顔がにこやかに戻った。「ありがとう、エファンズ。このドアは……?」 「リビングとの連絡用でございます」と言って一礼した。「恐れ入りますが、ベルの音が聞こえたようですので……」  わたしはそこから動かなかった。J・J・ジョーンズのメモ紙と、歯形のあるちびた鉛筆がほしかった。エファンズが嘘をついているとしたら、真実を一かけらも漏らさない筋金入りの大嘘つきだ。『勝手口にも、石段にも、何もございませんでした』 夜明け前に赤い駒を拾った人物がいるのだ。それはもうわかった。それが誰なのかがまだわからない。エファンズではないのだろうけれど。  ようやく引き戸を開けたころには、リビングに人が集まっていた。暖炉が燃えている。ライナが紅茶をすすっていた。  伯父がしゃべっている。「遺言のことなど気に病んでどうするというのだ。分け前があるでもない。それともやつの負債を返してやるつもりでもあるのか」 「まさか」ガイ・マクソンが言った。昨夜とまったく同じ服装だった。不意に気づいたが、彼は見かけほど裕福ではないのだ。 「まさかねぇ」ギャスケル氏は、短い足が床に届くように椅子の端に座っていた。股を大きく開いている。ティーカップを手にしていた。 「あら、ベッシー」ライナが言った。「お茶をどう」  ヒュー・ミラーがいた。驚いたことに、わたしが席に着くまで弱々しく立ちあがっていた。 「ハドソンは楽天家だったからな」伯父が言った。「手の届くところに財産を置いていた。今もそのままだろう」伯父は立ったまま紅茶を飲んだ。大きな頭がかすかに前に出た。 「見捨てられちまったねぇ、ヒュー?」ギャスケルが目玉をぎょろぎょろさせた。 「ええ」ヒューは一言だけ答えた。 「これからどうなさるの?」気を遣うようにライナがたずねた。 「ここに泊まるんだよ」どういう意図か知らぬが、伯父が大きな声を穏やかに抑えて答えた。「この事件が片づくまで」  ヒューが話し始めた。ライナにも聞いてもらうべきだと思ったのかもしれない。「カスカートさんが招いてくれたのはありがたいのですが――」 「エファンズには言ってある」伯父の鶴の一声だった。「ウィンベリーのフラットでは具合が悪かろう。半分がた警察に封鎖されておる」 「忘れてた」わたしは声をあげた。「話があるんです」  みんながこちらを見る。 「警察がここに来たんです」 「ここに!」蛙が声をあげたが、驚いているのは彼一人だった。ティーカップを置いて葉巻を取り上げた。「目的はなんだろう、なぁ?」わたしにではなく伯父にたずねている。わたしは伯父に話を聞かせた。  J・J・ジョーンズがやって来たことを伝えた。なかば記者として。なかば友人として。自分でも信じかけていた。幼なじみだということを。そのため、嘘をついているということを、だいぶあとになるまで自覚していなかった。それ以外のことは、ガーネットの最初の質問に始まり最後の質問に至るまで真実だった。伯父の視線がサーチライトのようで、わたしは急いで話し終えた。落ち着かず気になって仕方がない。 「狙いは何だろう?」話し終えるとギャスケルが口を開いた。「ねぇ、チャーリー?」  だが伯父はわたしに優しい言葉をかけただけだった。「ありがとう、エリザベス」突然恐ろしくなった。 「よかったんでしょうか? わたし、わ、わかんなくて……」ヒューに触れられてびくっとした。ティーカップが皿の上で音を立てた。 「もちろんよかったわ」ライナが言った。  伯父は微笑んだ。「怖がることはない」豊かで穏やかな、人を金縛りにさせるような声。「やるべきことをしっかりやってくれた」だがわたしを捕らえた目には、普段の楽しむような色はなく、冷たかった。  恐怖のあまり、心のなかで繰り返していた言葉を口に出してしまった。「わたし、わたし田舎者だから……」声は馬鹿らしいほど震えていた。だがそれがみんなの笑いを引き起こしたのだ――伯父も高らかに笑っていた――わたしは怒ったように真っ赤になったが、気分はほぐれていた。 「どうなってるのかねぇ?」笑いが止むとギャスケルがたずねた。「君は知っているはずだろう、チャーリー。現場にいたんだから。マッポと会っただろう?」 「会ったとも」 「今朝うちにも来たんだけどねぇ」ギャスケルが続けた。「何にも聞き出せなかったよ」 「だが」と伯父が言った。「わたしはピーター・フィンとも少し話をしたよ」椅子のなかでヒューが強張るのが感じられた。彼の手が離れた。「おかしなことだ」穏やかなだけに意味深な口調だった。「ペッピンジャーを見た気がすると言っておった」  誰も動かなかった。ライナだけが両手をティーセットに伸ばした。わたしは音を立てないようにカップを置いた。ギャスケルが目を見開いてまくし立てた。「どこで? ペッピンジャーなんてもうないだろうに。知っているはずだろう」 「ウィンベリーの死体の上だ。ペッピンジャーなどもうない。わかっているとも」伯父は泰然と答えた。 「なんてぇこった……」ギャスケルはさらににじり寄った。「ウィンベリーとオレはあの件で一緒にやってた」 「ああ、そうだ。そうだろうとも」 「ぼくらは一蓮托生だよ」マクソンが口を歪ませた。「それがなんだい?」  伯父は肩をすくめてヒューを見た。サーチライトが移動する。わたしの目にはヒューが照らし出されているように見えた。 「ペッピンジャーじゃありません」ヒューが言った。「これですよ」  ポケットから赤い駒を取り出し、そばにあったドラムテーブルの上にぞんざいに落とした。赤い駒が木に当たって音を立てた。誰もがそれを見ていた。  途端に、昨夜の図書室が再現された。怒りに燃えた敵意の波が部屋に立ちのぼっている。これは何? この人たち、この何人かの人たちが、どういうわけか、互いのあいだに気圧のごとき悪意を生み出している。ウィンベリーが死んだのに、悪意はまだ死んでいなかったのだ。  伯父がパチーシの駒をつまみ上げた。「こんなことだろうと思っていた」と冷やかに言うと、火にくべた。  マクソンがびっくりしていた。ギャスケルは口をしきりにぱくぱくさせた。ヒューが歯を食いしばる。静脈がこめかみに青く浮き上がっている。マクソンがすぐに口を開いた。「それはまずいよ、チャーリー」見ると、マクソンの神経質げな小鼻がぷるぷると震えていた。  二つのことを考えた。一つ、指紋のついていた可能性があること。二つ、マクソンのこと。マクソンが未練がましかったこと。覚えておこう。あとで考えなくては。 「もう!」ライナがぴょんと立ちあがった。「ひどい匂い!」 「すまんな」伯父の声には満足感はあっても後悔はなかった。「図書室に行こうではないか」わたしたちは赤い駒の燃える匂いから逃れて、ぞろぞろと二階に上った。嗅いだこともないような、言いようもなくひどい悪臭だった。セルロイドの燃える匂いよりも、ゴムの燃える匂いよりもひどい。どんなものよりもひどかった。  ライナが先頭に立って階段を上った。ガイ・マクソンとわたしが並んでそのあとに続く。途中でマクソンがたずねた。「ディナー?」  ライナは振り向かずに答えた。「たぶん」 「いいね」 「どうだか」 「へえ?」  これで全部だった。わたしたちは図書室に陣取った。伯父が暖炉の火を熾した。火が好きなのだ。それがわかった。火を見るとわくわくするのかもしれない。燃え始めた炎を見つめている。  ギャスケルが口を切った。「おいおいおい。なんなんだい、えぇ?」  マクソンも言った。「警察は知っているのかい、ミラー……君が見つけたものを?」 「いいえ」 「なぜだ?」伯父の言葉はただの好奇心からのものらしい。 「忘れていただけです」ヒューは押し出すように答えた。伯父はそれを斜に眺めたが何も言わなかった。 「ある意味ラッキーだよ」ガイ・マクソンが指摘した。伯父は肩をすくめた。赤い駒を窓から捨てたことについては何一つしゃべらない。  ギャスケルは葉巻をくわえていた。火は消えていたが、気づいていないようだ。「気をつけるこったね」挑むように言った。「誰にも居場所は言わないことだ。オレは今夜はショーを見に行くけどねぇ。それは忘れてくれよ。来るかい、ライナ?」 「予定はある、チャールズ?」ライナの言葉は伯父に聞こえていないようだったが、繰り返したりはしなかった。やがて答えが返ってきたところを見ると、聞こえていたのだ。 「今夜は遅くまで仕事だ」 「陽気な店で景気づけのディナーってぇのはどうだい。ねぇ、ライナ? 食べて、飲んで、楽しむとしよう、さてさて?」  行かないでほしかった。ライナを見せびらかし、ぎょろ目で眺めまわす姿が目に見えた。我がもののように扱い、チャンスがあれば肩に手を回し、他人の前でも今と同じ目つきでライナの絶対性を汚すのだろう。  なのにこれがライナの答えだった。「あなたは階上で召し上がるんでしょう、チャールズ?」伯父がうなずく。ライナは蛙に微笑みかけた。「何を見に行くの、バートラム?」  蛙が目を瞬かせた。「初演のチケットは手に入るかな、チャーリー?」  伯父は図書室の電話に向かい、言われるままにおとなしく二言三言話しかけた。ライナがガイ・マクソンの方を向き、合図を送ったのが見えた。合図が届き、答えが返ってきた。わたしには読みとれない。口惜しかった。  ギャスケルは立ち去り際に戸口で立ち止まり、おかしなことを言った。「オレは怖くないよ」特定の誰かに向けた言葉ではなかった。答えた人もいなかった。  お茶がお開きになろうというところで、マクソンが伯父に何かの“件”について話しているのが聞こえた。「ちょっと残ってくよ。三十分いいかい」伯父が答えた。「それで足りるのならばな」 「それでいいよ」マクソンはそう言って、ライナには特に何も言わずに立ち去った。  階上に行く途中でヒューが映画に誘ってくれたので、驚きながらも行くと答えた。そのあとヒューはわたしの部屋の隣にある小さな寝室に引っ込んだ。  すぐにライナが戸口にやって来た。「だいじょうぶ?」 「ええ……だいじょうぶです。どうぞ」  ライナは白っぽいウールのスーツのままふらりと入ってきた。ブティックから届いたばかりのようにぱりっとしている。キュートな顔にしわが寄っている。「この家がどう動いているかを説明してなかったわね。でもその方がいいと思う。他人にまで同じことを強要したくないもの。チャールズはちょっと古風な考えの持ち主なの。使用人に給仕させるのが好きなのね。だから気にしないで……。わかる? 夕食がこの家に用意されているのは、別に誘いを断る口実というわけじゃない」 「ああ」 「ごめんね。外に食べに行くことが多いの。あなたが来てから初めてのディナーだってことうっかりしてた」 「そんな」腑に落ちた気がした。「そんな。かまわないでください。そんなのだめです。わたしを甘やかすだけだもの。この家がどんなふうに動いているかを教えてください、覚えるから」 「わかったわ。家というものは暮らしている人に合わせて動いてるの。したいことをすればいいのよ。外食する予定があるなら、前もって使用人に伝えること――エファンズに言えばいいわ――ルールはそれだけ。そのうち一緒にご飯を食べましょう。わかった?」  わからなかった。「伯父さんたちに確認した方がいいってこと……?」 「家で食べたいのなら、常に夕食は用意されてるから。でも一緒に夕飯を食べたいときには、そうね、わたしたちに予定を確認してもらえるかな」ちょっと困っているようだった。「よし、明日の晩、ディナーを一緒に取らないかチャールズに頼んでみる。あなたも一緒よ」 「ぜひお願いします」とつぶやいた。 「それとね、どこで食べてもかまわないの。例えばここで夕飯を食べたいのなら、エファンズにそう言って。もちろん昼食もね。食卓に着く必要はなし。まるっきり。いい?」 「何を作ればいいのか、コックはどうやって知るんですか?」 「そう言えばそうね」お手上げみたいだ。「きっと天才よ」二人とも笑い出した。 「それとね」とライナは続けた。なぜだかわかった。これが言いたかったことなのだ。「もう一つルールがあるの。チャールズが部屋にいるときはね。図書室の裏の部屋よ」――わたしはうなずいた――「絶対に邪魔しちゃだめ。絶対に。それは火事にでもなれば別だけど」と微笑んだ。  だが伯父がこう言っているのが目に浮かんだ。「ここに入ってはいけないことをあの娘は知っておるのか? 伝えておくべきだろう」 「わかりましたと伯父さんに伝えておいてください」我ながら芝居じみていた。 「伝えておくわ、ベッシー。この家を気に入ってもらえたら嬉しいな」 「もちろん」とはいうものの、ふう、この家は伯父に合わせて動いている。  ライナはディナーのために着替えに行った。  ライナ。ハートがチクリと痛んだ。理解できない。この家にいて幸せなんだろうか? 幸せでいられるのだろうか? あんなに輝いている源はどこにあるのだろう? 身を隠すための虚像? わたしが田舎娘の役をふられているように。契約通りに義務を果たしているだけなのかも? 伯父がライナを買ったのだとすると、仕入れた商品の価値を下げずに鮮度を保っておくのがライナの務めなのだろうか? なぜあんな嫌らしい蛙と出かけるのだろう? なぜガイ・マクソンのこっそりした誘いを受け入れるのだろう? 第一、老人ホームにいる父親のことはどう思っているのだろう? 自分の方はお金の匂いの立ちこめる場所で暮らしているというのに。贅沢に浸かりきってしまったのだろうか? 贅沢品から幸せを享受できるような人なのか。  ライナは身勝手なんかじゃない。これはずばり“直感”のようなものだ。ライナの魅力だって作り物なんかじゃない。虚像ではない。ライナは完全に生身の人間だ。  あの蛙がにくらしかった。伯父さんは憎らしくないのだろうか? 親切にも妻と他の男に黙ってチケットを取ってあげながら、静かな怒りに燃えているのだろうか? 頼んだときのギャスケルは図々しくなかっただろうか? 蛙が「怖くない」と言ったのにはどういう意味があるのだろう?  わたしは怖かった。  ガイ・マクソンについてはどうだろう? 間違いなく嫉妬に狂っている。マクソンのことで考えておくことは? そうだった、昨夜は一番最後に帰ったのだ。ということは、パチーシの駒が窓から投げられたときには、まだ家から出ていなかった可能性がある。マクソンなら拾うこともできたのだ。  J・J・ジョーンズに伝えなくちゃ。いや違う、ヒューに伝えなくては。誰にもしゃべったりしないと約束した以上、どうやってすべてを明らかにすればいいのだろう。でもヒューは話した。やむなく赤い駒のことを話したのだ。でも警察にではない。伯父にだけ。  チャールズ伯父さんはどういう人なのだろう?  ドアに控えめなノックの音がした。ヒューだと思ったが、いたのはエファンズだった。 「ジョーンズさまが――」 「今どこ!?」 「リビングにいらっしゃいます。ダフさまと申される方もご一緒でございました」 「そうだった!」  逃げ出すこともできたけれど、ヒューには伝えなければならない。エファンズが立ち去るのを待って隣のドアをノックした。 「階下に友だちが来てるの」わたしはささやいた。「午後に全部話したんだけど。その人がね……人を……人を連れてきたの」 「誰です?」恐れたほどにはヒューの機嫌は損なわれてない。 「マク・ダフっていう名前」ヒューの表情が変わった。なんだか嬉しそう。 「知ってるの?」 「どんな人かはね。あなたは?」 「何かの教授で……どんなことでもお見通しなんだって。階下に行かない?」 「すぐに行きますよ」  わたしはきびすを返し、一緒に二階に下りた。ところが図書室のドアを通り過ぎたところで立ち止まった。踊り場の手すりを握ったまま固まってしまった。 「どうしたんです?」ヒューが手すりをつかんだまま上から声をかけた。 「焦げくさいの」わたしはささやいた。 「何ですって!」 「この匂い……!」あの悪臭。間違えようもない匂いが一筋、図書室から漏れている。動けなかった。恐ろしくて、手すり上のヒューの手を見上げると、血の気が引いていた。 「赤い駒か」喉を絞められたようなしゃがれ声だった。  呪縛が解けるやわたしは階下へ走り出し、玄関ホールを駆け抜け、両腕を広げたコートのなかに飛び込んだ。 「なんだ? どうしたんだい? 何が起こったんだ?」 「わかんない」鼻をコートに押しつけると、ひんやりとしてふかふかでいい匂いがした。「あなたなの、J・J?」 「もちろんさ。きみをこんなに愛してるやつがほかにいるかい?」 「ううん、いない」すけこましなんかじゃなかった。わたしのヒーローだ。 第八章  マクドゥガル・ダフはリビングで待っていた。わたしたちもすぐに向かった。ダフは背が高く痩せぎすで、面長、薄い唇の大きな口をしていた。細くて骨張った手には、干涸らびているくせに温かみが宿っていた。  J・Jが言った。「こちらがベッシー・ギボン」 「はじめまして」とわたしも挨拶する。  長い手足が控えめにバランスを取って佇んでいた。ほどよく清潔な髪と同じ控えめな茶色になるまで着古した服装からすると、顔色は控えめだ。瞳は榛色、青でも茶でもない。まぶたは悲しげに目尻を覆っている。わかりきったものを見続けるのはうんざりだとでも言いたげに。  翳りのある顔には、たいへんな苦労をしのばせるしわが刻まれていた。とはいえしわはそれほど深くない。時を経て、心の安らぎがしわを消してしまったかのようだ。幾つなのかわからないが、伯父と同じく若くはない。伯父と同じようなところばかりだ。  そのうえ、一番の相違点こそが、同じような印象を与える一番の点なのだ。おかしな表現だけど、まるで両極端、好対照の、互いにかけ離れた部分が、一回りして反対側で再会したようなものだ。チャールズ伯父さんは逞しく厳つい百戦錬磨の強者である。老獪なファイター、覚醒した危険な手練れ。マク・ダフも数々の戦さを経ていたけれど、彼にとってはもう戦争は過去のものだった。知性だけでなく弱さと悲しみも刻まれている。その静けさ、その諦念こそが、彼の原動力であり、伯父と同じくまた違う部分なのだ。  二人とも力に満ちている。だけどマク・ダフの力だけには伯父の力も及ばないことがわかった。  もちろんこれは追々わかってきたことだ。  J・Jとマク・ダフのあいだに座らされると、J・Jの……その……挨拶の温もりも冷めぬままに、マク・ダフの話を聞こうと顔を見た。  なのに何も話さない。  物言わぬ人というのは不気味なものだ。その人が支離滅裂でも慌てているのでもなければなおさらだ。「わたし、アメリカ史は何にも知らないんです」と口を滑らせた。ダフは微笑みはしなかったものの、悲しげな目尻が大きく開いた。一瞬だけ瞬いたように見えた。 「アメリカ史の話をしにきたわけじゃないだろう」J・Jがわたしの手をつかんだ。「やつが何を隠しているのか知っているというんなら別だけどね。さあ、マック。何が聞きたいんです?」 「実際にあったことだ」  それでわたしは話し始めた。赤い駒のこと、伯父によってヒューが駒を見せざるを得なくなったこと、駒がテーブルに落ちたこと、その影響、抑えた圧力、敵意の再現。 「ちょっと待った」マク・ダフがさえぎった。声は穏やかですり切れ気味で低く、伯父の喉から出るオルガンのような響きはないが、同じような意味ありげ響きを持っていた。「聞いてないな、J・J」 「事実だけをほしがっていると思ってましたからね。この子が感じたと思ったことですよ、緊迫した雰囲気とか、部屋に満ちる悪意とか、そういったことは……」 「この子が感じた事実だ」 「この子があると思った事実ですよ。だけどぼくが証拠と呼んでいるものとは違いますからね」 「証拠か。事実を無視して証拠の話でもするかね? 感情は事実であると同時に事実の一要素だ。むしろ理性より大事だよ。あらゆる推理の裏に感情ありだ。あらゆる行動の中心に感情あり。証拠の話など聞かせてくれるな。解明の助けになることだけでいい」 「なるほど。だけどこの子は憎悪の気配を感じていますよ。どうやったら気配に憎悪が存在したなんてことを事実として理解できるんです? この子は若いしここに来たばかりだ、それに緊張もしていたんじゃないかな……」 「言いかえるなら、ミス・ギボンに感情があるという事実をわれわれは理解しなくちゃならんな。生けるものにはみな感情があるんだよ、J・J。誰もが彼らなりの見方で歪んだガラス越しに世界を見てるんだ」J・Jは不満の声をあげた。「薔薇色の眼鏡で世界を見たことがあるかね? 青色では?」 「わかった、わかりましたよ」 「わかったわ」わたしもつぶやいた。ちょっと前まで薄緑色の暗闇に塗られた吹き抜けを、どういうわけか恐れていたことを思い出していた。 「そもそも誰もがあるがままの世界を見ているとでも?」 「ぼくがものの見方に左右されていると言いたいのなら、筋違いですよ。この子が他人の感情を読みとれるっていう話をしてるんですから」 「読みとれるとは思わんのか? 奥さん連中のことを考えてみたまえ。一人の男と――そうだな、十年間としておこう――結婚している連中が、旦那が怒っているのか喜んでいるのか、はたまた何かに怯えているのか、一ブロック先からわからないとでも? 目の前にいるのに睫毛一本からでも読みとれないとでも? ふん、具体的な根拠を唱えることはできなくとも、旦那が何を考えているのかはちゃんとわかっとるんだよ。逆もまたしかりだ。いいかね、共感とは何だ? 他人の気持の実態を受け入れることにすぎない。それだけだ。赤の他人ではそうはいかないというのかな。しかし、俳優という人種はわれわれには赤の他人であるのに、気持が伝わってくるだろう。名優であればな。それにだ、嫌悪や敵意というのはもっとも見破りやすい感情だよ。その反対もしかりだ。そうは思わんか」とからかうように続けた。「二人の人間が愛し合っていたり惹かれ合っていたりすれば、誰だってわかるだろう? 説明書きでもぶら下げてもらわなけりゃ、二人が恋人同士だと気づかないのか?」 「参りましたよ」J・Jはふたたび髪の生え際まで真っ赤になった。「O・K。わかりました」  マク・ダフが微笑んだ。今まで見たなかでも最高の笑顔だった。悲しげな顔も不思議なほど明るくなり、内気な感情が見え隠れし、疲れた仮面の向こうに永遠の若さと最高に強固な希望が顔を覗かせ、わたしはたちどころに参ってしまった。からかわれていたとしても気にならない。うれしいのは、互いにピンときたことに気づいてくれたことだ。気づいてくれたことで、いっそうその感情が強まった気がする。 「だけどいったい、これが事件と何の関係があるんです?」J・Jが言った。 「人の行動というものは――」マク・ダフが説明する。「感情に左右されるのだ。偉大な知性による判断過程などは、あとで自らを欺いたにすぎん。ウィンベリーの殺害は何者かの感情により引き起こされたのだよ」 「つまり発作的ではない殺人などないと?」 「発作的でない殺人は、謀りごとの一部、ゴールを目指した謀りごとの計画的段階として行われる。だが謀りごと自体は人の欲望と衝動によって、人の感情によって引き起こされるのだ。結構じゃないか。ここに何者かの感情が大っぴらに転がっているようなものなのだからな。部屋の雰囲気にすぎないがね。あまり簡単に忘れないことだ。無論ミス・ギボン自身の感情も考慮したうえで、そいつがどんな感情なのか、誰の感情なのか確かめようじゃないか。重要なことだからな」  わたしはできるかぎり詳しく説明した。覚えているかぎりを繰り返した。この本に書いたとおりだ。 「君はどのように感じたのかね?」 「ええと……隅に座っていて」 「いい子だ。誰かの気を引いたりはしなかったんだな。内気なわけではないね?」 「それはまあ。興味津々だったんです。それはすぐに怖くなりましたけど」 「部屋には誰が?」 「ウィンベリー、ギャスケル、マクソン、チャールズ伯父さん、ヒュー、わたしです」と指を折った。 「では午後にまた感じたとき部屋にいたのは?」 「ウィンベリーはいなくて」身震いした。「ギャスケル、マクソン、チャールズ伯父さん、ヒュー、ライナ、わたしです」 「なるほど」思案げにつぶやいた。「それでは、その感情が霧散したのはいつだ? 消え去ったのは?」 「昨夜、ライナが帰ってきたときです。違うかな。その後も漂っていたと思うけど、ライナに気を取られてしまったので。はっきりとはわからないわ」 「特定の人物が部屋を出たとき霧散したりはしなかった?」 「みんなが帰るころにはそんなこと頭から抜け落ちてました。それに、ヒューは別ですけど、みんなほとんど同時に帰りましたから」 「今日の午後は?」 「ほんの一瞬でした。そのときはパニックになってしまって」 「二度の機会には異なる要素が存在するな。赤いパチーシ駒だ」 「ほんとだ。何で気づかなかったんだろう。何かあると思ってたの。ヒューも知ってるけど」伯父が赤い駒を燃やしたこと、その匂い、それがふたたび図書室から匂ってきたことを話した。マク・ダフは何も言わなかった。「でもヒューは何か知ってる。ここに泊まってるの。伯父がそうしろって。いま降りてきたところ。J・J、わたし絶対に……」 「この子はどうやって君の胸中の嫉妬を読みとったのかな、ふむ?」 「やめてください。要点は聞きましたよ」J・Jが言った。「そんな状態で何者かを呪っているのは誰だと思ってるんです?」マク・ダフはわずかに肩をすくめた。 「ギャスケルは怖がっていました」わたしは去り際のギャスケルのおかしな態度を伝えた。 「それは恐怖という感情を持つまいということか?」 「そうじゃありません。怯えるつもりはないっていうニュアンスでした」 「いい子だ」  嬉しさのあまり喉を鳴らしてしまったかもしれない。どんな子にも言っているセリフではないとわかったからだ。飲み込みのよさを褒めそやすタイプの人たちがいる。つまり、話の内容をわたしが理解しているのはわかっている、という彼らの考えをわたしが知ったとしたら、意気も揚がろうし鼻も高くなろうということだ。  マク・ダフはまったく動きも見せず音も立てずにしばらく椅子に座っていた。長い指先がしなやかな腕からぶら下がっている。組んだ足の先には反対足の足首が延びている。各パーツごとにばらばらになりながら全体像はそっくり留められていられる人を見たのは初めてだった。 「君たちの望みは――」ようやくマク・ダフが口を開いた。「実の伯父チャールズ・カスカートが殺人者なのか無実の伯父なのかを証してほしいということだな」 「その通りです」J・Jが二人分の返答をした。 「捜査料金は誰が払ってくれるんだ?」と言った顔はしかし微笑んでいた。  J・Jも言う。「そんなお金はいらないよ。ぼくらを気に入ってくれたんならそれでいい」  きまりが悪かった。「お二人にそんなことをしてもらう理由がないわ……」 「二人とも大いにあるんだよ、いいかい」J・Jが手を強く握った。「マク・ダフはあっという間にきみを気に入った。睫毛の一本からでも読みとれたよ」 「この子の顔はおしゃべりだ」マク・ダフはわたしがいないかのような口を聞いた。「しかし、ものを見る目は素晴らしい」 「そうですよ。もちろんそうです」 「腰を落ち着けて考えればよい。安上がりだ。足がないならどのみち腰を落ち着けて考えることになる」 「そいつは願ったりです。お忘れですか、このぼくには両足ともに揃ってるんです」 「関係者に会わなくては。だがさしあたっては、頼みがある、ベッシー」 「喜んで」みんながベッシーと呼んでくれるのはうれしい。 「簡単なことだ。考えてはいかん。わたしが名前を挙げたら、その人物について一言でコメントしてほしい。どんな人間か。どんなことでもいい、頭に浮かんだことをだ」 「わかりました」わたしは姿勢を正した。 「頭を戻して。足も楽にしたまえ。ウィンベリーだ」 「腐敗」と答えると、J・Jが笑いを漏らした。「なまっちろくて、嫌な奴」 「ギャスケル」 「嫌な奴。それに頑固」  マク・ダフはうなずいた。「よし。執事だ」 「ええと、従順。それを誇りにしています」 「マクソンは?」 「癇性。神経質。過敏。とんま」わたしは目を閉じた。「危険」 「ライナは?」 「ええと、ライナは。輝き。内なる光」 「ヒュー・ミラー」 「真剣。生真面目。一途」 「チャールズ伯父さんは?」  何も言えなかった。 「チャールズ伯父さんは?」マク・ダフがまったく同じ声音で繰り返した。 「力。強大。強大な人。わたし、あまりよく……」 「わかった。J・J・ジョーンズは?」 「正直で優しい」眠くなってきた「賢くて優しい」 「マク・ダフは?」 「えっ、あなたのこと?」ぱっちりと目が開いた。「戦いと終焉」 「いい子だ」 「輝く日の宮」J・Jがつぶやいた。「それがぼくか、へえ?」だけどわたしに手を触れた彼はうれしそうだった。「これは何です? 催眠術ですか?」 「この子はまだここに慣れていないから、極めて感じやすく鋭敏なのだ。ありがとう。さあ、個々の事例について――」  誰かが廊下にいて、階段をこする足音がした。 「初めに、電話のベルについて頼む。何回鳴ったかね?」 「二回です。一度目のときは、二回でした」 「では二度目には?」 「一回でした」 「一度目と二度目の間隔は?」 「十分」 「印象かね時計かね?」 「時計を見ました」  J・Jが立ちあがった。顔に驚きと喜びが浮かび、感心しているようにも見える。振り向くと、青いドレスに緋のショール姿のライナがいた。ステンドグラス色のせいで、教会の窓から抜け出したスタイルのいい聖母マリアのように見える。わたしはJ・Jの方に急いで向き直ったけれど、彼の目から悪戯っ気は消えていた。きれいだと思っているに決まってる。ライナは実際美しいのだ。誰だってそう思うはず。 「伯母です」わたしはささやいた。「ライナ、こちらはマク・ダフさんとジョーンズさん」  ライナはキュートな頭を下げた。マク・ダフは立ちあがっただけでまったく何もしなかった。その沈黙ゆえに、名前を呼ばれたようにライナが顔を向ける。「マクドゥガル・ダフさんではありません?」彼は頭を下げなかったのに、下げたような気がした。「まあ」と言ってひと息ついた。「ごめんなさい。ベッシーがお知り合いだとは知りませんでした」 「この子も知らなかったでしょうな」マク・ダフは愉快げだ。「われわれはウィンベリー氏の死について話し合っていたところです」 「そうなんですか」ほんのわずかに眉間にしわが寄った。  ここでライナの後ろからヒューが現れたので、みんなに紹介した。 「夕食は出来てるわ、ベッシー。あなたもヒューもいつでもどうぞ。わたしは……これから出かけてくる」ライナはためらいを見せたが、マク・ダフにも声をかけた。「夫にお会いするのでしょうね」  マク・ダフは何も言わない。 「ベッシーのお友だちが、あなたをお連れしてくれてよかったわ」ライナは挑むように言葉を続けた。  マク・ダフは海のように穏やかだった。「できたらカスカート氏にお会いしたい」 「ええ」心なしかそっけない。「できたらあなたのことお伝えしておくわ」ダフの沈黙には否定で答えなくてはと思ったのかもしれない。ライナは不機嫌に続けた。「笑っちゃう。夫が関係してると思ってるなんて。どんな形であれこんな……こんな馬鹿げたことに」  マク・ダフの態度は、取り乱したと呼ぶべきものだったかもしれない。つまり、そのとき現れたのはほんのわずかな反応にすぎなかったのではあるけれど。「人殺しが馬鹿げてるなんて言うつもりはないのよ」ライナの声が潤んでいた。「でもチャールズだなんて馬鹿げてる! わかるでしょ?」  これだけ取り乱したライナは初めてだった。ここには感情がある、でもどんな? 「ありがとう」マク・ダフが言った。ライナは落ち着きを取り戻した。廊下からエファンズが声をかけた。「ギャスケルさまです」白い胸をふくらませた、これまで以上に蛙じみた短躯が現れた。ライナは彼を誰にも紹介しなかった。すばやくショールをすべらせると、「失礼します」と冷やかに会釈して立ち去った。褒めそやす蛙の声の波が、航路のようにあとを追った。 「ひゅうっ!」J・Jが声をあげた。「とんでもない美人だなあ!」 「そう言ったじゃない」ちょっとむっとする。  ヒューが口を挟んだ。「ライナは混乱してましたよね? どうしたんだろう……」  またも胸にきざした恐怖の震えを止めようと、わたしはJ・Jの腕に手を伸ばした。 第九章 「夕飯の時間だ」ダフが言った。 「待って」わたしはホールに出てエファンズをつかまえると、早くともあと三十分は夕食はいらないと伝えた。戻ってみると、ダフが話をしていた。 「では仕事は?」 「彼の研究室で働いていました。地下の玄関側にあります。新化粧品の開発に参入するつもりだったようです。製法を開発するのがぼくの仕事でした。難しい仕事じゃありません。望まれていたのはいい香りと高級感のある外見だけでしたから。成分については何も言われませんでした。化粧品の計画に取りかかる前には、乾燥野菜スープの仕事をしていました。秘書のようなこともしていましたけれど、秘密はほとんど自分のなかにしまっておく人でしたね」 「君の住処はそこかな?」 「ええ、中庭に面した内部屋です。彼のオフィスは表側で、寝室は裏手にありました。誰かを招待したことは一度もありませんでした」 「よし。働き始めてどのくらいになる?」 「二年です」 「その前は?」 「ミネソタにいました」ヒューが答えた。「製粉会社の工場で働いていました」 「卒業したのはどこの大学の化学学科を?」 「卒業はしていません。ウィスコンシン大学に二年だけ。事情があってそれ以上は通えなかったんです」つらそうな口振りだった。大学生みたいに見えるのにも納得がいく。それはちょっと色褪せて古ぼけて疲れ気味で、薹が立っているけれど、キャンパスにいてもまったく違和感はないだろう。 「ありがとう」ダフが言った。「よし、君たち三人とも初めから話してくれたまえ。カスカート氏の言動のどこに怪しい節があったのか。起こったことは何か、あるいは起こった可能性があるのは何なのか。君たちが心配しているのはいったい何なのか?」ダフは腰を据えて話を待った。誰もが無言のまま座っている。わたしは途方に暮れてしまった。彼の方から話してくれると思っていたのだ。 「そうですね」J・Jが咳払いをした。「……うん……」 「ささいなことなんです」わたしが答えた。 「彼があそこに行ったんじゃないかと心配してるんです」ヒューが言った。マク・ダフは何も言わない。わたしは困り果て頭を悩ませた。  ヒューが続ける。「ウィンベリーはこの家を十二時半に出ました。寄り道するから帰宅が遅れることは誰もが知っていたはずです。十二時四〇分以降に、カスカートさんがここにいたと証言できる人はいないと思うんです」 「そうなんです」わたしも続いた。「お開きになったときにエファンズも下がってしまったし。エレンはとっくに寝室でした。コックは地下から上がってくることはありません」J・Jが目をむいた。「エファンズに聞いたんですけど」 「すごいじゃないか」J・Jが話す番だった。「ええとですね、十二時四五分ごろ交差点でタクシーを拾って、ブロードウェイ一〇八丁目の交差路で一時〇五分ごろに降りた男がいるんですよ。右手の指が曲がっていたそうです。タクシー・ドライバーの証言ですけどね。まさにカスカートもそうなんですよ」  ヒューがあえぎをもらした。「そんな……! 知ってたんですか?」わたしは悲しげにうなずいた。「そのころですよ」興奮気味に続ける。「ウィンベリーが帰ってきた物音が――」 「一時〇八分ごろですね」J・Jがメモを見て口を挟んだ。「家と部屋に入った。鍵を使って。ピーター・フィンの証言。声を掛けられてそれに答えています」 「帽子と外套は脱いでいたようです」ヒューが続けた。「ですがオフィスからは出ていなかったようです。一時十五分にピーターが、もう一人が鍵を使って入ってくる音を聞きました。ぼくは鍵を失くしてしまったんですが、この家の煙草入れで見つかりました。だけどそんなところに置かなかったことは確かです」 「エファンズは鍵を見かけなかったって言ってるの」わたしは言った。「だから……たぶん…チャールズ伯父さんが見つけたんじゃないかしら」 「というわけでタクシーの男は――」ふたたびJ・Jが話し始めた。「――伯父さんであり、ヒューの鍵を使ってウィンベリーの部屋に入り、ウィンベリーの銃で持ち主を殺したのではないか。銃は手の届くところにあったし、ありかを知っていた可能性だってありますからね。銃声は一時十六分。十六分ごろじゃありません。きっかり十六分です」 「カスカート氏は部屋に入り、ウィンベリーを射殺。それから何を?」 「それから赤いパチーシ駒を死体の胸に置くんですよ」J・Jがつぶやく。 「まだ死体にはなっていなかった」マク・ダフが指摘した。「瀕死の男だ。言い残したのが『見いへん』という言葉。どうしてカスカートを見たことがないなどと言ったんだ?」 「変装」とわたしが言った。 「カスカートをかばうためですかね?」J・Jが考えを口にした。「どっちのアイデアもありそうにないな」  ヒューは何も言わなかった。 「続けよう。なぜなのか聞かせてくれ。自分の持ち物である赤い駒を置き去りにして、自分に疑いを向けるのはなぜだ?」 「カスカートさんを指しているとは限らないんじゃないでしょうか」ヒューが言った。「駒を三つ窓から投げたのをベッシーに見られているのはわかっていたでしょうから」 「駒を窓から投げた理由は何だ?」  言葉につまる。 「そのときは……ウィンベリーの嫌がらせに腹を立てたんじゃないかと思ったんです。二度とゲームなんかするもんかって。あと、きっと負けたのもしゃくだったのよ。たいてい勝ってばかりだったみたいだから。ちょっと子どもっぽいけど。どうなんだろ。でも三つとも負け駒だったわけだし」 「ほかの駒に手を伸ばしたりはしなかったのか?」 「どういうことですか?」 「わからんか。駒をすべて投げ捨てるつもりだったのかもしれんのでは? 途中で邪魔が入らなければ」 「そうなのかな……。わたしが声をあげたらこっちを見ていたけれど」 「そうだとしても、駒の利用法を考えていたとしたら」ヒューが慌てて口を挟んだ。「だとしたら……いえ、そもそもベッシーがいることにずっと気づいていたんでしょうか」 「利用法とは何だ?」 「象徴です」  マク・ダフは興味を持ったようだった。「何の象徴だ?」 「誰もがペッピンジャーだと勘違いしたじゃないですか」みんなもう答えはわかっているでしょうと言いたげな口振りだった。 「カスカート氏とウィンベリー氏のあいだに、ペッピンジャーに関わるどんなつながりがあったんだ?」マク・ダフがたずねた。「十年以上前に売られていたありきたりの飴だろう」 「大人気でしたよね。言いかえるならブーム、流行。キャッチコピーがあったでしょう。ペッピンジャーをなめて、みんな元気《ペップ》に。元気《ペップ》と刺激《ジンジャー》。要するに、薬物が含まれていたんです。ですから食品医薬品品質法のもと、政府がすべてを廃止しました。富をもたらしたペッピンジャーは、一夜にして無価値になりました。大打撃でした。業者は製法を変えるか店を畳むことを余儀なくされたんです。どちらにしても同じことでした。製法を変えて商売を続けたところで、子どものことを考えて敬遠する人たちがいるでしょうから。そうじゃない人たちにしたところで、ただの飴には興味がなかった。それでお終いです」 「いつのことだ?」 「一九――」 「そういえば思い出した」わたしは声をあげた。「とつぜん販売中止になって、それから見かけなくなっちゃったんだ」 「そう、それでお終いでした。ところが伯父さんは痛手をこうむったりはしなかったんです。ウィンベリー、ギャスケル、マクソン、カスカートの四人全員が、ペッピンジャーのもともとの販売人でした。彼らは製法を買い上げ、ひたすら製造にはげみました。ところが――ウィンベリーからはっきり聞いたわけではないのですが、総合してみると――ウィンベリーとギャスケルは、政府が手を入れるという情報をどういうわけか受け取っていたようなんです。そこで二人は理由も言わずにほかの二人に売りさばきました」 「カスカートとマクソンは貧乏くじを引かされたってわけか」とJ・J。「ご親切なことじゃないか」 「ところがカスカートはうまく免れたんですよ。ぎりぎりになってマクソンに売りさばいたんです」 「揃いも揃っていい玉だね」 「倒産後、マクソンの再建にはむしろ気前よく力を貸したんじゃないかとは思ってるんですけれど」ヒューは顔をしかめていた。「マクソンはまだ若すぎて、社会のスピードについていけなかったんです。カスカートは最終的にはほぼすべてを、換金可能な財産に変えることができました。ウィンベリーとギャスケルの分を安く買って、高く売りさばいたわけですよ。マクソンに対するカスカートの遣り口を知ったほかの二人は、自分たちはけちな儲け方をしてしまったと思ったことでしょうね」 「ひどいもんだね」J・Jが言った。 「なのに四人は友だちだと思われてるんだ……」わたしはつぶやいた。「ねえ、そのときから敵同士になったんだとしたら……?」 「人によっては敵とも友だちとも同じように仲良くなれるものじゃないかな」J・Jが説明してくれた。「どうです? 動機が見つかりましたよ」 「月並みだな」マク・ダフが答えた。 「でも――」わたしは異を唱えた。「ウィンベリーはとんでもなく嫌な奴だったもの。だから憎悪……」 「昨日の夜に臨界点に達したのだとすると」ここぞとばかりにヒューが言った。「ありえますね」 「そう思う?」 「そう思いますよ」ヒューはひたむきに答えた。「そう思います。長いあいだ憎みつづけている相手がいるとしましょう。ずっと以前から、どうしてやろうかと考えていたのかもしれません。いつか刺激を受ければ我慢が出来なくなるものですよ」  マク・ダフが「感情というものだ」と言ってうなずいた。 「ぼくは恨みを抱いちゃいないけれど」J・Jが言った。「恨みというものが少しずつふくらんでいくのはわかりますね」  誰もが無言だった。わたしは必死で考えた。 「でも――」ついにひらめいた。「ペッピンジャーのことなら、マクソンにも動機があるんじゃない?」 「そうだな!」とJ・J。 「それにマクソンなら、赤い駒を手に入れるチャンスがあったもの」そう指摘する。「そうでしょ? 伯父が階上に現れたころまで、ライナと立ち話をしていたんだから。もしかしたら、駒が落ちてきたとき窓の下にいたかもしれないし。問題は、きっとアリバイがあるってこと」 「心配無用」J・Jが言った。「ないんだな。帰宅して眠ったそうだよ。ホテルに滞在。誰も確認できないだろう?」 「ホテルの従業員は?」 「ちっちゃな安ホテルなんだ。確認できたとは思えないね」 「だけどそれだと――」ヒューが口を挟む。「カスカートさんはなぜ電話に出なかったんでしょう?」 「一回目のこと?」 「一時五〇分でした。一時十六分に町中にいたと考えれば、ここに戻れたか戻れなかったかくらいじゃないでしょうか。二時ごろには戻ることができたと思います。ですから……」 「仮にカスカートがクロだとして――」マク・ダフが口を開いた。「教えてくれ。なぜ電話は二回しか鳴らなかったのだ?」 「なんですって?」 「たった二回だけだった」  ヒューが振り返った。「それはですから、ぼくが電話を切ったからですよ。部屋にいるなら……それに、真夜中でしたし。迷惑をかけたくは――」 「眠っていることだって考えられる。人を起こすには時間がかかるものだ」 「そんな。ぼくはそうはしませんでした。何となくですけれど、まだ眠ってはいないと思ったからです。たぶんいろいろあってぼく自身が眠れる気分じゃなかったからだと思います。ああ、すべては取り越し苦労だったのに。カスカートさんはここにいたのに、部屋を横切る前にぼくが電話をきってしまったのかもしれない。ぼくのミスです! 確かに床についていた可能性だってあります……眠っていた可能性だって……馬鹿でした!」 「伯父さんは靴を履いてたわ」わたしは弱々しい声を出した。「椅子でうとうとするような人だとは思わない。ううん、思えない……」 「つまるところは取り越し苦労ではなくなるわけか」考え込むようなJ・Jの声だった。「三十四分でここに戻って来られた可能性もあるかな。そんな夜中じゃ楽勝だったろうな。どう思います、マック?」  マク・ダフは笑みをもらした。「今のが疑うに至ったささいなことというわけか。そうだな? だが今のところはここにいたともいなかったとも言える。理解できんのはウィンベリーが言い遺した言葉だ。犯人を知らないと言いたかったのであれば、犯人はカスカートではない。変装は考えなくてよい。復讐するときには、自分が誰であるかやなぜ殺すのかを相手にわからせるものだ。それゆえの赤い駒、だと考えたのではなかったのか。両天秤はなしだ」 「『見いへん』」ヒューがつぶやいた。 「きっかり四語」 「たったそれだけ」  J・Jが口にした。「『銃を手に取るのは見いへんかった』って言いたかったんじゃないのかな」 「なぜ? 明かるかったのに?」 「明かりはついていました」ヒューが答えた。 「見いへん人や。とんと見いへん人やった。見いへん人やあるさかい……」J・Jのつぶやきは立ち消えた。 「待ってください」ヒューだった。マク・ダフは相手から言葉を引き出そうとしているかのように、何のそぶりも見せずに待っていた。「馬鹿げてるかもしれませんが。ウィンベリーは眼鏡をかけていました。ぼくと同じように。ピンと来ないかもしれませんが、寒いところから暖かい部屋に入ると、眼鏡が曇るんです。見えるようになるまでしばらくかかるんですよ」 「眼鏡は身体の上に乗っかってたのかい?」J・Jがたずねた。 「ええ、そうでした。あおむけで、足は投げ出されていましたが。眼鏡は無事でした」 「それはたいしたことではあるまい」ダフがぽつりともらした。「倒れたときにそうなったんだろう。『見えへん』と言うべきところを『見いへん』と言うのが、ウィンベリーの口癖だったのではないか?」 「そう言えば!」声をあげていた。「パチーシをしていたときも、しょっちゅうそう言ってたもの」 「珍しいことじゃない。どうだね?」 「ということは、ウィンベリーは前が見えなかったのかもしれません。きっと言いたかったのもそういうことなんですね」ヒューが答えた。 「では殺人犯がウィンベリーの帽子と外套を脱がし、撃ったあとできちんと掛けておいたのはなぜだ?」 「ええとどういうことですか? ちょっと待ってください」J・Jがたずねた。 「眼鏡の曇りはどのくらい続くものなんだ? 一時〇八分から一時十六分までか?」 「そんなわけはありません」ヒューが穏やかに答えた。「馬鹿げてます。馬鹿げてますよ……」 「ウィンベリーの目が一時十六分に見えなかったのであれば、帰ってきたのは早くてもせいぜい一時十五分だろう」ダフが言った。 「二番目の男だったの?」わたしは声をあげていた。 「ウィンベリーは……それじゃやっぱり……てことは……ええと、一時にクラブを出てるんですから、一時十五分に到着するのは妥当な時間ですね」J・Jはそう言ってわたしの手に触れた。 「では帽子と外套の問題だ」ダフがすぐさま問いつめた。「犯人が移動させる時間はあったのか?」 「ピーター・フィンが腹を決めるのに時間がかかりましたから」J・Jが答える。「間違いなくありましたね。ピーター・フィンが表のドアにたどり着いたころには、ホシはちょうど通りの先に逃げていたんですよ」 「それがホシだとしてだ」ダフが改めて整理する。「いいか。指の曲がった謎の乗客が降りたのは――」 「一時〇五分でした」ヒューが声をあげた。「ちょうど部屋にやって来たころじゃないですか、最初に入ってきた人は――」 「一時〇八分だね」J・Jが答えた。「ぴったりだ」 「つまり犯人が銃を手にして待ち受けるだけの時間はたっぷりあった」 「ウィンベリーが眼鏡を曇らせやって来たのが一時十五分でしょ。その直後に撃たれてる」 「どのように倒れていたのだ?」 「ドアに足を向けていました」 「倒れた状態のままだと考えていいんだな?」 「でしょうね」J・Jは立ち上がると、倒れて見せた。映画のように。膝を崩し、身体をひねるようにねじると、さっきまでは背中を向けていた方向に顔をやりながら、あおむけに倒れ込んだ。 「やめてよ。さっさと起きて。縁起でもない!」 「だが帽子と外套はなぜなんだ?」ダフが問いつめる。「理由を説明できる者はいないのか? おそらく犯人は、ウィンベリーが口をきけることには気づかなかった。すでに死んだと思ったはずだ」 「自分が二番目の訪問者だと思わせたかったってわけですか」J・Jが答えた。 「目的は?」 「ごまかすためです」ヒューがおずおずと口にした。「タクシー・ドライバーのことや、曲がった指のことを。指を隠すのを忘れていたことを思い出したんじゃないでしょうか? ドライバーに気づかれて、この辺りの交差点と結びつけられる可能性に思いいたったんです。この辺りと結びつけられたくなかったんですよ。カスカートさんではなかったとしても、この近くに住んでいる人だということでしょう。だから時間をごまかそうとしたんです。ドライバーがその乗客を、しばらくあとで部屋に入った殺人犯と結びつける可能性は低くなりますから」 「しばらくと言うには短い時間だな」J・Jが言った。 「ええ、確かにあまりうまい出来とは言えません。でもぼくらは考えることもなかったでしょう。指の曲がった男が一時〇五分から一時十五分までどこにいたのかと」 「うん、そうだった」J・Jが断言した。「まったく考えてなかったな」 「ふん、使い古しのトリックだ」マク・ダフがつぶやいた。「しかしタクシーの乗客が半ブロック歩くにしては長い時間をかけていたことには気づかなかったな」 「ドアの陰で待ち伏せだって何だってできたってわけか、何てこった」J・Jがうんざりしたようにぼやいた。 「もうぼくにはわかりません」ヒューが音をあげる。「推測ばかりです」 「ずいぶんと凝り性じゃないか、われらが犯人は」マク・ダフは考え込んでいた。「細かいアイデアにあふれている。最後にやって来たにしろ、最後にやって来たと思わせたがっていたにしろ、だ。そのころ君はどこにいた?」 「ぼくですか?」ヒューはびっくりしたようだった。「そうですね。一時〇五分には……はっきりとはわかりませんが、乗り換えたバスがちょうど出発したころだと思います。一時十五分ごろに百十番街の角で降りました。ドラッグストアに寄ったので、家に着いたのは一時二二分です」 「間一髪じゃないか」とJ・J。 「間がなさすぎますよ」顔をしかめる。「どちらかといえば最初に来た人物が犯人であってほしいですね」 「なぜ?」 「一時〇八分にはバスに乗っていたことを警察は知ってますから。だけど二番目の男が来たのは、ぼくがバスを降りた時刻に近いんですよ。ちょっと近すぎてあまり気分がよくありません」 「どんな人だって――」J・Jが慎重に口を開く。「一分くらいの思い違いはするだろうし」 「それですよ。だからできれば最初の男が犯人であってほしいんです」 「おそらくそうだろう」マク・ダフが言った。「J・J、もうそろそろお邪魔せんかね」 「だけどどうなったんです?」  マク・ダフは立ち上がっていた。「知らんね。はっきり言っておく。誰が何をなぜしたのかなど、そんなに早くわかるものではない。そうであればいいがね」 「続けるつもりですよね? それが心配なんですよ」 「ギャスケルが怯えていることは責めはせん。だが奴はまだ何か知っている。それほど多くはないかもしらんが、危険について隠していることがある。である以上、われわれにできることはない。一人きりで考えたいのだ。すでにわかっていることを反芻してみたいし、知りたいことがいろいろある。とりわけ関係者のことだ。それにペッピンジャーの取引も」 「ぼくに言ってください」J・Jが名乗りをあげた 「ああ、そうなるかな。頼む」そこでこちらを振り向いて――「はっきりさせておくが、本当にまだわからないのだ。何の光名も見えない。何の手がかりもない。君もわたしと同じことを知っているはずだ。説明しなかったささいな思いつきが二つだけある。わけがあって今は説明せんが。もしかすると同じことを思いついているかな」 「だったらチャールズ伯父さんは……?」 「カスカート氏が殺人犯だという証拠はない。残念ながら無実だという確実な証拠も見つからないがね。ではおやすみ」 「もう教授ではないんですよね?」今さらながら確かめたかった。「今は探偵なんでしょう?」 「ただのアマチュアだ」 「J・Jが言ってました。厚い壁の向こうまでお見通しだって」 「それは無理だ。だが人間の本質を見通せることはある」 「ぼくはそう言いたかったんですよ。壁の多くは人でできているんだから。ベッシーもアメリカ建国者たちの話を聞いてみるといい」 「ベッシーは歴史と探偵を結びつけることなどしまい」 「たぶんそうね」  ダフは長い足を震わせ、どこか夢見がちに話を始めた。「歴史を学んで何を得るかね? 歴史上の一連の出来事。わたしが好きなのは、その理由に思いを馳せることだ。歴史は変えられぬ。いかに突飛であり得ない出来事であっても、確かに起こったことなのだ。だから思い浮かべればよい。それもしっかりとな。実際にあったことなのだから。人間というものは、かつてと同じことを繰り返す。そこが面白いところだな」  J・Jがにやりとした。「確かに面白かったですよ。歴史の2Bクラスは退屈することがなかった」 「しばらく練習してみればよい。どんな人間が愚かで恐ろしいことをしでかすものなのか、思い描くのだ。そのうちコツがつかめてくる」 「う〜ん……でもアメリカ史っていつも退屈だったし」 「気にするな」J・Jがそう言った。「古き良き時代の話さ」 「教えていたのは興味深いところばかりだった」ダフは打ち明けるように話を始めた。「経済拡張力ではなく人間の話ばかりしていたな。彼らはどう感じていたのか。英雄がどのように妻と添い遂げ、それが戦略にどう影響を及ぼしたのかを知る方が、生没年を覚えるよりも面白いと考えていたからだ」  J・Jが言葉をかけた。「はるかに教育的でしたよ。長い目で見ればね」  マク・ダフの目に光るものが見えた気がした。「それはともかく、有能なアマチュア探偵になるために学んでいたのだ」 「面白いお話でした」ヒューが言った。「そうだね、ベッシー? 探しているものがあるとすれば、それは人間を見抜ける人だ。あなたならできるはずです、ダフさん」 「そう願おう」どこかぎこちなかった。「おやすみ、ミラーさん。おやすみ、ベッシー」  J・Jが卒業指輪をはめたわたしの指を強く握ってささやいた。「頑張るんだ。元気を出して。何かあったらプラザ七‐九二〇三に電話してくれ」 「プラザ七‐九二〇三」二人が帰るときも、何度もくり返していた。 第十章 「マクドゥガル・ダフか」ヒューは満足げに穏やかな声を出した。 「知ってるの?」 「探偵ですよ。アマチュアとプロの違いはわかりませんが、犯罪調査を依頼して費用を払うとすれば、この人を置いてほかにはいません」 「つまり有名ってこと?」 「劇的な事件をいくつか解決しています。しばらく前、ある新聞に特集記事が掲載されていました。今では町中の人がダフの名前を知っています。そこが肝心なんです。この町で――」ヒューの声は皮肉めいていた。「あなたの名前が知れわたっているとします。その理由は問題じゃありません。みんなが耳を傾けることでしょう」 「誰が耳を傾けるっていうの?」 「あらゆる人がです。みんながちょっと耳を傾ける。あなたの名前を聞いたことがあるという理由だけでですよ。マクドゥガル・ダフがまさにそうなんです」 「マク・ダフが世間の注目の的……耳目を集めてるってこと?」 「そういうことです。ぼくらは運がいい。みんながダフの話に耳を傾けるってことなんですよ。そうじゃありませんか? どんな内容の話でもです」 「誰が耳を傾けるのよ?」わたしはもう一度たずねた。 「何を言ってるんです、警察に決まってるじゃないですか!」 「あっ」 「警察はおそらく手順通りに捜査しているはずです……チンピラや常習的犯罪者たちを。警察のやり方はわかりますよね。スパイやなんかを放つんです。今回の事件では何の役にも立たないでしょう」 「常習的犯罪者の仕業かもしれないじゃない」 「今回の事件には鋭さが感じられますから……」言葉が途切れる。  チャールズ伯父さんのことを考えているのがわかった。 「マク・ダフは鋭いと思われてるの? その記事を読みたかったな。何て書かれてた?」 「評価してましたよ。大きな石造マンションに挟まれた、リバーサイド・ドライブ沿いの古い木造家屋に住んでいるそうです。部屋からは、ワシントンがイギリスかどこかに十五分先んじて手漕ぎの船でハドソン川を渡った地点が見渡せるということです」 「川を渡ってばかりの人じゃなかったっけ?」 「誰がです?」 「ワシントン」 「確かそうでしたよ。マク・ダフは革命の英雄たちのデス・マスクをそこらじゅうに置いて、在りし日に何が行われたのかさまざまに思いめぐらせていると書かれてありました。たいへんな持ち上げ方でした。新たな指導者。この手の記事はたいていが希望的観測ではありますけれどね」 「新たな指導者であってほしいと思われてるってこと? みんなそう願ってるの?」 「そういうことです。いかにして歴史学科から足を踏み出し、キンザー事件を解決したかも書かれていました。単純で衝動的でその……劇的な記事でした」 「うん。みんな猜疑心や苛立ちは見ないふりをするものだもん。伝記作家はそうしてるでしょ。偉人たちはあっという間に何かを成し遂げてしまったみたい。実際には何年もかかってるかもしれないのに。大仕事ってほんとうは、読むのも実行するのも同じくらいたいへんなんじゃないかな。偉業は短時間で簡単に成し遂げられるって、みんな思いたがってるだけで」 「そのとおりですよ。ところが現実世界では、偉業がそれほど速やかだったかどうかは大いに疑わしい。現実世界というのは人が苦労するようにできていますからね。そういうものです」 「ずいぶん厳しいのね」 「ぼくが年を取っているからですよ。それほど成功した方ではありませんし」見つめるヒューの顔に笑みはなかった。「今は仕事すらなくなってしまったんですから。例えば結婚できるだけのお金もありません」 「あっ、いけない。夕飯を取った方がよくない?」  大きな部屋に二人きり、背の高いキャンドルに照らされたテーブルの片隅を囲んで夕食を取った。ぞくりとしたので隙間風でもあるのかと思ったけれど、部屋が大きすぎるだけなのだ。  ヒューはあまり打ち解けなかった。どういうわけか、また無関心な態度に戻ってしまったのだ。つまりわたしに無関心に。気にはならない。それに結婚の話がでた瞬間、わたしを念頭に置いているわけではないことは見当がついていた。  初めて食事をともにするのは面白いものだ。食べ方を見れば人となりがよくわかる。手紙をもらうのに似ている。初めての手紙。ヒューはお腹など空いていないのかと思うほど形式張っていた。テーブルマナーは申し分なし。わたしの方はお肉をくちゃくちゃ鳴らしてしまったかもしれないけれど、彼の方は少しも音を立てない。彼はわたしの連れとしてそこにいた――つまりはデート――なのにどうエスコートすればいいのかわからないようだった。とても優しかった。話をすれば答えてくれた。表面上はすっかりわたしに言われるがままの役を負ったように見える。だけどヒューの優しさはどこか弱々しくてよそよそしかった。心がよそにいっている。  話題にするような興味の的といったら殺人しかなかったわけだけれど、その話にはもう二人ともうんざりしていた気がする。ヒューが一度だけこう言った。「どういうことなんでしょうね……ささいな思いつき二つって?」 「わからない」わからなかったし、見当もつかなかった。  給仕をしてくれたエファンズも、誇りをまとった普段の仕事ぶりとは違い無関心に見えた。顔が蝋燭の光で揺らめいてぼやけ、長い首の上の頭が穏やかに揺れ、一瞬だけ目の周りの筋肉が痛みに歪んで見えた。フルーツが下げられたときに気づいたのだが、ひどい歯痛のことで頭がいっぱいなのだ。執事が痛がっているときに完璧なレディが取るべきエチケットなど知らなかったので、退って何かしなくてもいいのかとたずねることしかできなかった。 「めっそうもございません、エリザベスさま。先ほど薬をつけましたので、すぐに効果があらわれるはずでございます」 「歯医者に診てもらった方がいいんじゃない?」彼は顔をしかめながらも、そうするつもりだと気丈に礼を述べた。どうして執事というのはこんなにも感謝しなくちゃならないんだろう?  けれど薬は確かに効いたらしく、プディングとコーヒーを運んでくるころにはだいぶ洗練されていた。その後のんびりと席を立ち、約束通りにヒューとわたしは映画に向かった。  角を曲がって向かったのが、近所の映画館だということだった。その映画の内容で覚えているのは、突っ立ったままの男たちがうぬぼれ顔で女の子ににやにや笑いかけていることと、彼らがみんな美男美女だったことくらいだ。だけどわたしだったらその男に平手打ちをくらわしていたんじゃないだろうか。確かに悪戯小僧も嫌いじゃないし魅力はあるけれど、気取り屋は我慢できない。  J・J・ジョーンズは悪戯っぽい目をしていたけれど、キュートだった。向こう見ずで熱血漢。いつであろうと何でもするつもりだと言わんばかり。「こっちを見ろよ。おれはやんちゃものだぜ」というタイプの目つきとは違う。自意識過剰な悪戯者ではない。そういうことだ。  ヒューを肘で突っつきささやいた。「ライナってきれいじゃない?」 「何です? ああ、もちろんとても」 「ほんとにきれい?」 「もちろんですよ」 「きっと男はみんな夢中になるんだろうな」 「かわいいひとですからね」なんだか事務的だった。 「伯父さんの友だちはみんなそう思ってるみたい」と弱々しくつぶやいた。  ヒューが振り向く。眼鏡がスクリーンの光を反射していた。「どういうことです?」 「別に意味はないんだけど。ただ……ライナは若くてあれなのに、伯父さんは若くないし」ヒューはこちらを向いたままだ。わたしは小声で話しかけた。「ねえ、今夜のギャスケルさんはずいぶん大胆じゃなかった? だってライナを……ちょっと、何か知ってるの……」 「ライナさんはしょっちゅう出かけてますから」無表情のままだった。そのことの意味がわからないはずもないのに。 「でもそんな、チャールズ伯父さんは嫉妬したことないの?」  前の席の女性が振り向いてわたしをにらみつけた。スクリーンでは主役の男がヒロインに侮辱したような流し目を送り、恋敵役はというとそのあいだじゅう古くさい手口であれこれ言い寄ったものの、無邪気な拒絶に会って憤慨しているようだった。女性の後ろ頭に舌を出してやった。  映画のあとにお決まりのアイスクリームを一皿食べた。メニューに載せられたジェロ・ゼリーのように、「夕食にぴったり」な気がした。だけどほんのわずかでも伯父の家から離れられてほっとしたし、戻るのは何だか気が重かった。何も言わずに通りを歩いた。至るところで遠くからの喧噪がうなりをあげているような大都市なのに、こんなたかだか数ブロックが静まりかえっているのが不思議でしょうがなかった。玄関に続く石畳の階段を見上げると、ふたたび震えが走った。 「入りたくない」 「ぼくの部屋の窓のそばを非常階段が通っているでしょう」はっとして歩みを止める。「伯父さんの寝室のそばも通っていませんか?」 「たぶん。どうして?」 「裏の方に庭の出口はありますか?」 「ないと思うけど。いったいどうしたの?」 「気になったことがあって……絶対に伯父さんの邪魔してはいけない習慣がありますよね?」 「ええ。確かにそう」はっきりと答えた。 「でもドアが正面玄関にしかないのなら……」 「ドアは二つあって、一つは地下室に通じてる。階段の下。伯父さんがそこから外に出てると思ってるの?」思い浮かべたのは、悪意を持って抜け出して徘徊し自由にうろつき回っている人物だった。そうしているあいだも確実に家にいるとみんなからは思われているのだ。「でも外に出たいのならきっと――」冷静にならなくては。「きっと正面玄関から出るはずでしょ。自分の家なんだから」 「この階段から出てくれば人目につきます」そう言われ、近寄って勝手口の暗がりを覗き込む。  タクシーが通り過ぎ、少し先で止まった。ギャスケル氏がライナを送ってきたのだ。深夜〇時。  先に二人を家に入らせようと歩みをゆるめたのに、ギャスケルが帰らせようとしないのが見え見えで、どこかに行ってもう一飲みしたがっている。夜は浅くライナは美しいのだから、それを無駄にはしたくないのだ。ところがライナはとりつくしまもなく、ギャスケルもあわててあとを追った。  わたしたちは階段上でためらったものの、中に入らざるを得なかった。タクシー・ドライバーが好奇心も露わにこっちを見ていたからだ。その結果、玄関ホールでちょっとした場面に出くわしてしまった。  ライナが階段の上り口に立って見上げている。ギャスケルがその背に泣き言を浴びせている。螺旋階段の柱に手をついたガイ・マクソンが怒ったようにライナを見下ろしている。その上方、階段のカーブの陰からチャールズ伯父さんが巨人のような姿を静かに見せた。ライナの視線はマクソンを越えて伯父の顔に向けられていた。  マクソンが口を開いた。「ずいぶん早いね?」嘲るような響きがあった。  ギャスケルが声をかけた。「頼むよライナ、まだ帰る時間じゃないだろぅに」  マクソンが言う。「帰る時間じゃないってさ」  チャールズ伯父さんの声は穏やかだったけれど、誰かがぶたれでもしたように跳び上がってしまった。「ライナ、部屋に行きなさい」  ライナは緋のショールを膝の辺りまで引っ張ると、服が触れるのも嫌だとばかりにマクソンの横を通り過ぎた。確かな足取りで言われるままに階段を上るのを、下から二人の男が顔を振り向け見つめている。ライナがそばまで来たところで伯父が声をかけた。「おやすみ、おまえ」立ち止まったライナが震えているのが見えた。するとライナは昨夜とまったく同じことをした。おとなしく顔を上げると、伯父が額にキスをした。  マクソンが女のような高い声で笑い出した。「行くだろう、バート? ぼくらは退散だよ」  そう言ってエファンズの腕からコートをひっつかみ――必要とされるときに魔法のように現れるのがエファンズなのだ――羽織りもせずに出ていった。  ギャスケルが言った。「じゃぁ……うぅ……お邪魔するよ、チャーリー」 「おやすみ」伯父の声は穏やかだった。  ギャスケルはこちらを見もしなかった。丸い目にはわたしたちが見えていないらしく、そのまま素通りして立ち去った。 「映画はよかったかな?」伯父が笑みをたずさえたずねた。  ヒューが答えようとしないことに慌てて気づいて、わたしが答えた。「いい映画でした。面白かった。もう寝ようと思います。疲れてしまって」  ヒューに「おやすみ」と言われたけれど、わたしは顔を伏せたまま階段を上り試練を避けるように伯父の横を通り抜けた。二階のなかば辺りで、図書室に向かう伯父が右に曲がり自室に進むのが見えた。広い背中の向きを変えたのだけが、伯父なりの退出の挨拶だった。  ライナの姿はどこにも見えない。  ナイト・テーブルの上の小さな置き時計が腕時計と同じ時刻を指していた。十二時数分過ぎ。震えながら深呼吸をして、服を脱ぎ始めた。嫌な日もこれで終わりだ。あとはベッドに入って眠りを取り、すべて忘れて疲れを取るだけでいい。きっと朝には落ち着いているはず。  なのに終わりではなかった。  終わらせてくれなかった張本人はヒューだった。浴室から戻り、もう少しで髪をとかし終えるころ、ドアを静かに叩く音が聞こえた。古びた青いガウンをかき寄せて、羽目板に身体を押しつける。「誰?」 「ヒューです。お話が……」  部屋に入れるわけにはいかない。ドアの隙間越しに顔を寄せて話をした。「みんな寝静まっています。一緒に手伝ってくれませんか」 「何、どういうこと?」 「罠を仕掛けるんです」ヒューはまだ服のままだった。取りあえずほっとした。 「よくわからないんだけど。今日は疲れてるから」 「誰かにいてほしいんですよ」責めるような目つきでささやいた。「すぐ済みますから」 「いったい何をするつもりなの?」 「誰かがドアから出ていくか見張ってください」 「どうして? エファンズは?」 「上に行きました。みんな眠ってます。お願いです。そうすればわかるんですよ。違いますか?」 「何がわかるの?」 「彼が……誰かが外に出るかどうかかがわかるんです」 「でも……」 「お願いです」 「わかった」  マット敷きの階段をそっと降りるヒューのあとに従ったけれど、二階を通り過ぎるときには喉まで出かかった心臓を噛めるんじゃないかと思ったくらいだ。吹き抜けの明かりは昨夜同様ついていたけれど、図書室のドアは黒々とした口を開けていた。音を立てずに一階までたどり着くころには、興奮でわくわくして何でも来いという気持になり始めた。ヒューが一筋の糸を縦にして置いたので、糸はドアの下部と床をまたぐようにたれた。 「いいですね?」 「飛んでかない?」わたしの家でなら飛んでしまったと思う。冬になると窓敷居に新聞紙を詰めなくてはならなかったからだ。だけど伯父の家は建てつけがよかった。しかも二重のドアの内側の方なのだ。 「大丈夫ですよ」ヒューがささやいて手を隙間にかざした。すきま風はない。ドアはほとんど隙間なく、糸はもとの場所から動かないようだ。「さあこれでドアが開いたらわかりますよ」 「エファンズが朝早くに開けてミルクか何かを取るんじゃない?」何だか突然ばかばかしく感じ始めた。 「朝早く起きて見に来るつもりですよ」 「それはわたしもってこと?」ヒューは期待の眼差しでうなずいた。考えてみればJ・J・ジョーンズに話す事柄が出来たわけだから、反対はしなかった。 「もう一つはどこですか?」 「あっ、どうしよう……地下なの」 「地下にはどう行くんです?」  わたしは黙って引き返した。知っているのはあそこだけだ。同じ階で出会ったとしてもコックがわたしに気づいてくれればいいけど。階段の下の小さな扉をくぐり抜ける。弱々しい電球の光が隅のコート掛けを照らしていた。コートが三着かかっている。ヒューのは映画に着ていったものだ。駱駝毛の豪華なコートは伯父のものに違いない。いかにもお似合いだもの。三つ目の、黒っぽい厚手のロング・コートも伯父にお似合いのものだった。わたしは地下に通じる扉を教えた。「それとも料理用エレベーターに乗ってく?」ちょっとおどけてささやいた。  ヒューは冗談に顔をしかめると、ポケット・サイズの懐中電灯をぱちりとつけた。それほど明るくはないし下は真っ暗だったけれど、降りることにした。地下の階段にも絨毯は敷かれていたけれど、薄くて弾力もなく、押しつぶすような足音が響いた。地下に着くとヒューが懐中電灯で辺りを照らしたので、この狭い廊下を後ろに進めばキッチンらしき場所にたどり着き、目の前には目当てのドアがあることがわかった。右手にはさらに二つのドアがある。 「コックに気をつけて」小声でささやいたのだけれど、ヒューは慌ててわたしを黙らせた。  ゆっくりと勝手口に向かう。正面階段の下に当たる場所なので、ここもドアは二重になっていた。ヒューは内側のドアに糸をくっつけた。ここにも隙間はない。終わった。  無言のまま来た道をゆっくりと戻り、長い階段を三階分上ったけれど、二階だけは怖くて仕方がなかった。伯父が紙張りの壁の向こうで何をしているのかを、どうしても考えてしまうのだ。「あとで起こします。早起きできますよね?」 「運がよければね」うめきをあげる。 「ぼくの部屋側の窓を開けておいてください」 「え?」 「いざとなったら非常階段を使ってそっちに行きますから」 「起きるわよ」わたしは急いで約束した。「絶対起きるから。寝過ごしたりしない。問題なければ、非常階段の窓は閉めておくわ。できれば……そうしたいな」 「わかりました。感謝しますよ。本当にありがとうございます」 「わたしのためにこんなことしてくれてるんだったら」わたしは後ろ向きにささやいた。「こっちこそ感謝しなきゃ。ありがとう」 「ぼくらは友人ですよ」とヒューが微笑んだ。きっとおしゃべりな顔がいっそうわかりやすくなっていたのだ。次の瞬間には心を読まれていた。「ジョーンズくんとは長いんですか?」ガウンの上から肩に手を置かれ、ぎょっとした。 「え?」  ヒューは手を離した。だけどJ・Jと知り合いじゃなかったことは伝わってしまった。「すみません。ただ、気をつけた方がいいと思ったんです」ささやき声は宙ぶらりんになった。もう一度だけ肩を叩くと、ヒューは部屋へと戻った。わたしはひとり廊下に立っていた。深い静寂に耳が鳴り、洗練された世界へと慌てて逃げ込んだ。柔らかい光、ほんのりとした香りの世界。ライナの豪華な客室にもだんだんと慣れてきていた。  それでももう一つのベッドを試してみる気にはなれなかった。今度も右側のベッドに潜り込む。そっちの方がよく知っている気がしたから。  明かりを消そうとしてちょっと驚いたことに、まだ十二時三五分だった。 第十一章  暗闇のなかで不意に目が覚めた。  怖い。理由などわからない。開けておいた窓からは、どこか遠くで光る窓とあちこちに揺れるカーテンの影が見えた。そよ風。風だと自分を納得させる。ただの風。わが家の納屋から裏庭まで吹き荒れた風が恋しくなった。わたしは頭をうずめて枕で目を覆ったが、すぐにベッドに起きあがった。誰かが繰り返しドアを叩いている。繰り返し規則正しく。四度、また四度、それから返事待ち。  仕方なく明かりをつけた。朝の二時。それを朝と呼べればだけど。わたしなら真夜中と呼ぶ。また四度。やめさせないかぎり永遠に続くに違いない。  裸足で床を歩く。「誰?」  ため息のような声が聞こえた。「ヒューです」 「いったい何だっていうのよ?」裸のドアに向かって怒りをぶつけた。ほんとうに腹が立つ。どれだけ怖かったと思ってるのだ。部屋履きを履きガウンを羽織ると窓を閉めた。部屋が寒い。「何があったの?」バリケード代わりの椅子を脇に押しやってドアを開けた。  ヒューは黒っぽいガウンを着ていた。パジャマは短すぎて白く骨張ったくるぶしが羊革の部屋履きの上から顔を出している。細い髪が乱れ、眼鏡にたれていた。「二時なのよ!」怒りをにじませる。 「わかっています」とささやくと、背後の床の辺りに聞き耳を立てるように首をぎこちなく巡らせた。「三十分も起こそうとしてたんですよ」 「どうしたの?」 「誰かが……」と言いかけてやめた。「響くような音が裏の方から聞こえたんです。何かはわかりません」 「眠ってたの?」 「ええ。でも途中で目が覚めてしまい、そうなると……もう眠れなくなってしまって。ついてきてくれませんか?」 「え?」 「階下にです」 「ドアのところまで?」  耳をそばだてるような姿勢のまま、ヒューは無言でうなずいた。 「今こうしてるってことは、もう朝に起こされなくても済むってことでしょ?」 「すみません」 「さっさと行って終わらせちゃいましょ」身震いがする。「でも誰かが――」 「誰かに見つかったら、どちらかが隠れることにしましょう」わたしはぽかんとしていたに違いない。「夜中に……ぼくと一緒に……うろついているところを見られるわけにはいかないでしょう」 「ああ。うん、そうね。わたし……」 「大事なことなんです。ぼく一人でできるのなら……でもあれです、信用してもらえない可能性もある。といってほかに頼める人もいません」それから突然、声を張り上げた。「ベッドに戻ってください。何を考えているんだろう? ほんとうにすみませんでした」 「でも、もう目が覚めちゃったし」 「だめです。出かけているのなら、戻ってくる可能性もあるでしょう?」 「戻ってくる音が聞こえるわよ」 「危険すぎます」 「でもわたしはここに住んでるの」負けられなかった。「それに、外に出ているとしたら、絶対に知っておきたいもの」 「全部よした方がいい」 「だめ。でも議論はやめましょう。危険だもの」  ふたたび階段を忍び降りたくもないし逃げ出したくもなかったけれど、ベッドに舞い戻って朝まで眠れずに悶々としているつもりもない。ガウンの紐を強く締め直した。「百万ドル積まれたって一人で降りる気なんてない。だからほら」  ヒューは言いたいことを理解したらしく、柔らかい絨毯敷きの螺旋階段をふたたび降り始めた。わたしはカーブのところで手を伸ばして彼を引き留めた。「ちょっと待って。あなたの部屋からは見えないの? 伯父の部屋に明りはついてた?」 「ついていましたよ」即答された。「ですが、その……動きはありませんでした」青白い顔を見ていると不安がかき立てられる。「戻りましょうか? 不安があるのなら……」  明かりのついた無人の部屋を想像した。伯父は家にはいないのだという思いが強くなる。そのこともだんだん落ち着いて考えられるようになった。伯父がいないのなら、誰かに見つかっても大事はない。 「行きましょう」  図書室は先ほどと同じく真っ暗だった。足音も立たない。たどり着いた玄関ホールも、これまたまったく同じだった。ヒューが敷居に屈み込み、小さな懐中電灯をつけた。糸は立ち去ったときと同じ状態だった。ヒューは立ち上がってこちらを見た。 「今度は地下」わたしがささやくと、ヒューは渋っていた。「あそこも確認しなきゃ意味がないじゃない?」  地下室への入口にあたる四角い小部屋には、先ほどと同じく小さな明かりがついていた。ヒューが階段の手前で尻込みしたが、わたしは後ろで彼が動くのを待っていた。電灯の光がまっすぐに進み、上にあがって揺れたあとに、右手のコート掛けを照らした。  ヒューの言葉に心臓が跳ね上がった。「コートです!」同じ夢でも見ているように二人一緒に近づいていた。駱駝毛のものとヒューのコートはある。それで全部だった。  伯父のものである厚手の黒っぽいウールのコートが消えていた。  わたしは駱駝毛とヒューのコートに手を伸ばした。数を確かめようとしたのかもしれない。ヒューが言った。「伯父さんのコートはありますよ」 「ないのよ」 「何ですって!」ヒューは苛立たしげに髪に手をやり掻きむしった。「なぜわかるんです?」 「さっき確認したの。三着あった」 「いつです?」 「前。前見たときよ」 「さっきですか?」 「決まってるでしょ」声をとがらせる。 「何で気づかなかったんだろう」 「ねえ、わたしは気づいてたし、それがなくなってるの」 「間違いありませんね?」 「当然。あなただってすぐ横を通ったじゃない」 「気づきませんでした」声に出さずにつぶやいた。麻痺してしまったように立ちつくしている。 「まだ階段のてっぺんじゃない。ほら早く……」  わたしは先に立って地下室の階段を降り始めた。懐中電灯の光が肩越しにちかちかしている。夏靴で氷上を歩く要領で、前屈みのまま爪先に力を入れて降りていった。道のりは長かったが、終点にたどり着いて屈み込んでみると、糸はどこにも見あたらなかった。 「どこに行ったの?」わたしは息を呑んだ。見えたというよりは感じたのだが、ヒューが肩をすくめた。ヒューに腕をがっちりとつかまれて、勝手口をあとにする。ヒューに連れられて階段から脇の廊下を通り、ドアをくぐると食料品室とキッチンだった。ガスコンロの白いつまみが鈍く輝き、流し台は暗闇を横切る淡い光の板だった。ヒューが懐中電灯を照らして明かりのスイッチを見つけた。 「だめよ!」 「ここにいることは誰にもわかりません」そのくせ、ささやき声のままだ。「しばらくは放っておけません。具合が悪そうです」 「大丈夫よ」つぶやいた。 「座ってください」言われたとおりにキッチンの硬い椅子に座った途端に、歯ががちがちと鳴った。「今コーヒーを淹れますから」 「それはやめて!」わたしは悲鳴をあげた。ささやき声で悲鳴をあげられたらの話だけど。「匂いが嫌なの」 「それなら紅茶にします。どこかにあるでしょうから」 「紅茶もいらない。布団に入りたいだけ。さっさと階上に上がった方がよくない?」 「ぼくらとあの廊下のあいだにはドアが二つありますから、帰ってこられたとしても……」 「そうだ、どこに行ったんだろう?」わたしはうめいた。 「静かに。外ですよ。それだけはわかっています」 「それに部屋の明かりをつけっぱなしだった」それがいけないことでもあるかのように。  ヒューは食器棚をあさったけれど、紅茶は見つけられなかった。その代わり、新ピカの大きな冷蔵庫に牛乳が入っていたし、鍋も見つかったので、コンロにかけて温めてくれた。 「コックに見つかったら……。何て言い訳すればいい?」 「歯が痛くなったからと言いますよ。ばれません。キッチンまで連れてきてもらったということにします」 「歯にとっちゃ災難ね」わたしはばかみたいにつぶやいた。 「何ですそれは?」 「エファンズのこと」 「薬を使ったと言ってませんでしたっけ?」わたしはうなずいた。「まだ持っているでしょうか」 「ほんとうに痛いの?」 「それで目が覚めたんです」 「そうだったの」夢でも見ているようだった。半地下にある見知らぬ大キッチンで腰を下ろし、ミルク鍋を気にするヒューを見守りながら、震えを抑えようと肘を抱え込み、ずんぐりした羊革の家庭用部屋履き姿がどれだけ間抜けに見えるのかを心のどこかでは把握しているあいだも、はっきりと像を結んでいたわけではないにせよ胸中には紛れもない不安が宿っていた。 「砂糖は入れますか?」 「やめてよ」 「子どものころはよく入れてましたよ」ミルクが手渡される。これまで以上に学生っぽく見えた。藪から棒に真夜中に何かを飲むのが学生生活というわけでもあるまいに。楽しんでいるようにすら見えた。  ミルクを飲むと、意外なことに気分がよくなった。  ヒューはミルクを口に含ませたが、熱さが染みると言った。話によればずっと以前に古い詰め物が取れてしまい、歯の奥まで蝕んでしまったために、穴がひどく痛むのだそうだ。ここに座ってヒューの歯の状態について話をしているなんて、不思議きわまりない。二人とも謎や恐怖からお休みをいただいているみたい。麻酔をかけられた経験をたずねられ、親知らずの話を始めた。わたしにとっては事実上唯一の手術と言ってよい。わたしは一部始終をささやいて聞かせた――これまでもずっとささやき声だったが――佳境にさしかかったころ、不意に場所と時間と状況が現実味を取り戻した。 「ヒュー、今何時?」 「二時半です」キッチンには時計があった。腕時計も同じ時刻。 「もう行かな――」 「待ってください」何もかもが不意に立ち返ってきた。高く深閑とした家の重み、長い螺旋階段を上らなくてはならない重圧、キッチンのドアから向こうに広がる闇。ヒューもじっとしている。「鍋とカップは片づけておきましょう」 「水は流しちゃだめ」牧師館の水道管がうなる音を思い出して注意した。 「だめですか? どうすればいいんです?」 「流しにつけておいて」 「わかりました」ヒューは羊革の部屋履きで、キッチンをすり足で移動している。わたしは立ち上がった。と、急に顔を上げられたので、動けなくなる。何も聞こえないのに、そのくせ耳のなかでは心臓の鼓動がうなりをあげていた。ヒューは鍋とカップを信じられないくらい慎重に、確実に、優しく置くと、忍び足で戻ってきた。スイッチに手が伸び、明かりが消えた。肩を包まれたまま、彼のガウンの襟を握りしめしがみついた。何かをたずねようとは思わなかった。音を立ててしまいそうで、怖くても唾を飲み込もうとは思わなかった。ひりひりと意地悪く麻痺した静寂のなかで立ちつくしていると、震えが襲ってきて、またヒューに頭を引き寄せられた。ヒューの心臓が恐ろしいほどの音を立てて波打つのが聞こえる。そのままじっとしていた。まもなく腕が離れた。ゆっくりと、ぎこちなく。 「待ってください」耳元で告げられた。  わたしは襟を握りしめる。 「見に行かなきゃ……」首を振ったのを見て、大声になるのを恐れてささやくことさえしないのだと感じ取ってくれたようだ。どうやらあきらめたらしく、わたしが一人で立てるようになるまで支えていてくれた。 「戻らなきゃ」大きく息を吐く。 「後ろから着いてきてください」ヒューがキッチンのドアを開けた。食料品室は暗かったけれど、つまずかずに通り抜けられた。ヒューから離れないように歩いた。廊下のドアを慎重すぎるほど慎重に開けた。遥か向こう端、勝手口のドア越しにかすかな光が洩れているほかは真っ暗だ。ヒューが危険を承知で小型電灯をつけた。誰もいない。階段の手前まで移動を続けた。ヒューが耳を澄ましている。「ここで待っていてください。壁に貼りついて。確認してこなくてはいけませんから……」  階上の部屋で伯父と鉢合わせるよりは、暗闇で我慢している方がましだったから、確認しに行ってもらうことにした。わたしは悲鳴をあげてコックのところに逃げ込んでいただろう。この階には実際に生きている女性がいて、前方のどこかで眠っているはずなのだ。でもコックのところまで行って、そこにコックがいなかったら? きっと気が狂ってしまう。いや、狂ったりするもんか、ベッシー・G。一人言い聞かせると、不意に勇気が湧いてきた。何なのだこの自己暗示は?  ヒューの電灯が階段のうえで瞬いたので、わたしはしっかりした足取りで苦もなく上がることができた。「自分の部屋にいるようですね。二階まで行ってみました。すぐに行きましょう。いいですか?」  クローク/食料品室のちっぽけな電球がひどく輝いて見えた。せっつくように背中を押される。「ちょっと待って」わたしは歩み寄り、手を伸ばした。ふかふかの駱駝毛、ちくちくするヒューのツイード、厚手のウール。確かにある。「一つ、二つ、三つ。数えてみて」 「確認しました。それより階上まであなたをちゃんと連れていくことの方が大事ですよ」 「わたしが立ち直れなくなるとでも思ってるの?」不機嫌な声を出していた。ひどいことを言われでもしたように。口を開いた瞬間に悟っていたのだ。わたしは吹き抜けの方に歩き始めた。渦を巻きながら昇ってゆく、いくつもの階段、ぐるぐるとぐるぐると。弱々しい糸が秘密を暴露していた。人が外に出ることができた。今のわたしたちのように音も立てずに。音も立てずに進んでいた。わたしが先頭で。ところがヒューがカーブでつまずいて転んでしまった。  身体がぶつかりこだまが響いたような気がした。音が天井から跳ね返ってくる。「そのまま進んでください、すみません」  わたしは進み続けた。不思議なくらい着実に。ところが、いるのがわかった。図書室の入口にさしかかったとき、やって来るのが聞こえ、明かりがついた。真実すべてじゃない。死に物狂いで唱え続ける。真実といっても真実すべてじゃない。田舎から来た女の子。そうでしょ。振り返って、ヒューが身を隠したか確かめた。きっと階段のどこかでしゃがんでいるのだろう。  伯父が見下ろしていた。冷たい青い瞳には驚きと好奇心を宿している。 「その、転んじゃって」ささやきを漏らす。伯父はガウンを着ていた。必死になって足に目をやらないようにした。 「眠ったまま歩くのか?」伯父が声に出してたずねた。人をまごつかせるような、音楽的な声。決まってわたしを煙に巻く響き。案内でも乞うような、ごくさりげないたずね方だった。  首を振って弱々しく答えた。「ホット・ミルクを飲んできたんです。眠れなくて。かまわなかったでしょうか?」  間違いない。伯父の顔が紅潮したのは怒りのせいだ。「そんなにびくびくするものではない。今度からはベルを鳴らして使用人を呼べばよい」 「こんな遅くに?」わたしは口ごもった。 「首を折るよりはよかろう、違うか?」  わたしは後ろによろめき、伯父が前に出た。手すりに近づかせてヒューを目にさせるわけにはいかない。よろめきながらも前に進んだ。「怪我をしたのか?」伯父が穏やかにたずねて腕を回す。大きな胸の奥で心臓が力強く脈打っていた。ほとんど息もできない。 「大丈夫です。たぶん眠くなってきたんです」  伯父は慌ててわたしから離れた。「エレンを呼ぼう」 「そんなに大げさにしないでください」  驚いたことに、伯父は微笑んだ。「それでは約束してくれたまえ。二度とこんなふうにうろつきまわらないでくれ」優しいといっていい口調。「ほしいものがあるときは、何時であろうと、人を呼べばいい」 「すみません。ありがとうございます、チャールズ伯父さん」  伯父はため息をついた。後悔したように、大きな身体から息を吐き出す。「おやすみ」悲しみをたたえた声だった。 「おやすみなさい」階段を上ろうとしてつまずいたとき、視線を感じた。なんて冷たくて、なんて独善的な視線だろう。振り返ったりはしなかった。寝室へ駆け込んでドアを閉めた。それでもヒューがどうなったか耳を澄ませていた。わたしが安心する間もなくヒューは上がってきたのだろう。今もまだ安心はできなかった。時計を見ると二時四〇分。たった十分だ。ヒューがミルク鍋をキッチンに置いてからの恐ろしい時間は、それだけの長さでしかなかった。ほんの十分程度で、部屋に入ってガウンに着替えられるだろうか? いや、十分というのはかなりの長さだ。靴を脱ぐこともできたかもしれない。確認する勇気はなかったから、それはわからない。  ヒューがドアを叩いたのは二時四四分。今度ばかりは部屋に入れた。  ヒューがいたのは短い時間だった。わたしはかなりびくびくしていた。ヒューは見られたり聞かれたりしないよう気をつけていた。でも実際どうだったのかはわからない。アスピリンをくれてから、ヒューは自分でも二つ飲んだ。虫歯用だそうだ。わたしはベッドに腰かけ、ヒューは部屋を歩きまわっていたが、足音が下の階の伯父に聞こえるのではと案じると立ち止まった。 「歯が痛くて。すみません、これが原因なんです。もうぐっすり休みませんか。すぐ具合もよくなりますよ。話し合うのはまた今度にしましょう」 「そうね。J・Jに話さなきゃならないし。マク・ダフにも話さなきゃ」 「まったくその通りです。おやすみなさい」  ヒューがわたしの手を取ってキスをした。  立ち去るのを見送ると、ガウンのままでベッドにごろんと転がった。あまりに驚き、あまりに混乱し、明かりを消すため腕を上げるのも億劫なほどつかれていた。  二時四五分。  昼頃に目が覚めた。盆を持ってきたエレンが話してくれた。バートランド・ギャスケルが夜中に亡くなったそうだ。  刺殺だった。 第十二章  わたしは電話機の場所をたずね、エレンが教えてくれるあいだにコーヒーをすすった。数分後、ライナの部屋からプラザ七‐九二〇三にかけていた。エレンの話では、ライナは階下でアトウォーターさんと「いろいろ検討している」そうである。金曜の習慣なのだ。ライナには会いたくなかった。こう言ったライナ。「わたしたちが毎日友人を殺してまわってるなんて想像はしないでね」ライナにも伯父さんにも、J・Jのほかは誰にも会いたくない。  女の子の声がした。「もしもし」 「ジョーンズさんは? J・J・ジョーンズさんはいらっしゃいますか?」 「ジョーンズは外出しております。恐れ入りますが、どちらさまでしょうか?」優しく事務的な声がどん底まで突き落とす。 「ベッシー・ギボンといいます」 「はい、ギボンさまですね。伝言がございます。ウィスコンシン九‐七六五六まで電話するようにとのことです」  礼も言わずに電話を切ると、大急ぎでウィスコンシン九‐七六五六を呼び出した。 「はいはい?」 「J・J・ジョーンズさんは?」 「ここにはいませんね。ちょっと待って。お名前はギボンですか?」 「ええ。ええそうです」 「なるほどそうですか。J・Jからです。ウィッカーシャム五‐八八九四に電話するように」  勢いよく受話器を置いてもう一度電話をかける。 「もしもし?」 「ジョーンズ。ねえ……あの、J・J。J・Jなの?」 「ぼくだよ。ほかの誰でもなくね」力強く陽気な声。「大丈夫かい?」 「起きたばかりなの。わたし――」 「知ってるとも。寝坊助め。もっと早い時間に電話したのに、家の人が言うには――」 「ねえJ・J。どこにいるの?」 「いてほしいところならどこにでも。落ち着けよ、ベッシー」 「ここにいてほしいのに」不満をぶつけた。  一瞬、回線が音を立てた。「どこかで会おう。いいかい、できるだろう? 外に出てタクシーを拾うんだ。西四十八丁目にあるレストラン『マックス』まで。運転手は知ってるから。そこに着いたら中に入ってぼくを待っててくれ」 「四十八丁目。ねえ、あなたもそこに行くの?」 「今から行くつもりだ。ダフも一緒にね。お金はあるかい?」 「ええ」 「一人でもちゃんと来られるね?」 「たぶん大丈夫」 「いや待て。彼氏も連れてこいとダフが言ってる」 「彼氏なんかじゃ――」むっとして言い返す。 「いいから連れてくるんだ」忍び笑いが聞こえた。 「ねえJ・J、どう思う?」 「あとで話すよ。来るのは嫌かい?」 「嫌なわけないじゃない!」 「左右を確認せずに道路を渡っちゃだめだよ。道に迷ったら警官に聞けばいい。知らない人とおしゃべりをしないこと」 「やめてよ!」 「財布は身につけておくこと。運転手にはチップをあげて。|十セント貨《ダイム》でいいよ」 「すぐ行くから」ぴしゃりと言った。「市販の服に着替えたらね。あなたはその雑貨屋さんで準備でもしといて」  J・Jはまだくすくす笑っていたけれど、わたしは電話を切った。それでも気分はよくなっていたので、きれいに見えるよう入念に着替えを済ませた。ヒューは部屋にいなかった。三階には誰もいない。二階でも誰にも会わなかった。一階のホールにも誰もいない。リビングに行ってベルを鳴らしエファンズを呼んだ。  エファンズが現れた。「今から出かけるから、お昼は外で食べてくると思う。ミラーさんがどこにいるか知らない?」  エファンズは目をぱちぱちと瞬かせた。「かなり早い時間にお出かけになったかと存じます。ギャスケルさまのお屋敷にでございます。その……はい……おそらく何か問題が――」 「そうなの。戻ってきたら西四十八丁目の『マックス』というレストランに来てくれるように言ってもらえる?」話を終えて手袋を振ると、エファンズが足早にドアを開けた。わたしは背を向けた。エファンズの顔では驚きと礼儀がせめぎ合っていた。冷たく輝く天候のなかへと、正面階段を駆け降りた。  レストラン『マックス』は、窓に『女性専用席』と書いてある類の場所だったが、入口をくぐるまでもなくJ・Jの赤毛がぴょこりと動き、こっちにやって来た。わたしの腕をつかむと日除け帽が似合ってると言ってからマク・ダフのところに連れていった。壁際に座っていたマク・ダフは、長い足を片側に伸ばしてウェイターに迷惑をかけ、長い指を水の入ったコップにしなやかに巻きつけていた。こちらを見上げると、わたしが頼みさえすれば足を解いて立ち上がろうとでもいうように片足を横にし、あの独特の優しい笑みを見せた。  わたしは息を切らせていた。「悪い状況でしょうか? 教えてください」 「わからないんだ」J・Jがテーブル越しにマク・ダフの隣にわたしを押し込むと、自分は反対側に陣取った。「朝一番に駆けつけて、話してくれたことはすべて聞き取ったんだけどね、それが話のすべてなのかどうかはわからない」 「ミラーは来るのかな?」ダフがたずねた。 「伝言を残しておきました。留守だったので」 「きっとまだ警官に事情を説明しているんだろうな。ミラーが死体を発見したことは知っているかい?」 「初めて知った。何にも聞いてないの」  それから、恐れていた質問をした。「事件が起こったのは何時ごろ?」 「二時から三時のあいだだね」 「そんな」  例によってダフは何もたずねなかったが、J・Jが言った。「全部話してくれるかい? なんでそれがまずいんだ?」 「昨夜の二時から二時半のあいだ、伯父が家にはいなかったことを知ってるだけ」J・Jがそっと口を鳴らした。それでもマク・ダフは座ったまま何も言わなかったので、信じてくれてないのだと確信した。納得してもらわなくては。だから起こったことすべてをありのままに話した。さきほどここに書いた通りだ。 「愉快な思いつきだな」話が終わるとJ・Jが鼻を鳴らした。ヒューが暗闇でわたしを抱きしめたのが気に入らないらしい。それはわかっている。それでも、マク・ダフに信じてもらうためにはすべて話すしかなかったのだ。「本当に愉快な思いつきだよ、そのドアのことなんか」 「確かに愉快だ」マク・ダフも同意した。興味を持ったようだ。マク・ダフの中の何かが琴線を揺り動かされたのだ。「なぜミラーは、伯父上が昨晩外出したと思ったのだろうな?」 「わかりません。でも間違ってなかった」 「糸は風で飛んだのかもしれないさ」J・Jはまだ不機嫌だった。「ただの糸くずじゃないか! そんなものに怯えて……死ぬほど怯えるなんて」 「でもコートのこともあるじゃない!」  ダフが低く深い声を出した。「もう一度すべて話してもらおうか。何が起こったのか、糸がなくなっているのを見つけたときにどう感じたのかを、正確に。地下の階段と廊下の見取り図も書いてもらおう。カスカート氏がどうやって家に入り二階に上がったのか、それになぜ君たちが気づかれなかったのかを知りたい。」  わたしは描いて見せた。ダフの悲しげな顔は変わらないままだった。 「では今度は転んだことだ。ヒューが転んだ音は、閉め切ったドアの向こうで寝ている人間の目を覚ますほど大きかったのか?」 「でも伯父さんは寝てなかった」わたしはそう言った。「絶対に寝てなかったと思うんです。なんとなくだけれど」 「ほかには目を覚ました人はいないのだね?」 「はい。でも転んだのは二階だったし。伯父さんは……二階にいるので」  J・Jはげんなりとしていた。「あの家にはいない方がいい。いいですか、マック――」 「まあ待て。ミラーが来た」  ヒューは疲労と心労でひどく青ざめやつれて見えた。絶望したような視線をこちらに向けると、はずした眼鏡を拭きながら腰を下ろした。彼の目はぐったりと落ち込んでおり、眼鏡をかけた人が眼鏡を外すとよくあるように、元気なく見えた。 「何を食べるかね?」ダフがメニューを突き出した。「ミラー、君には酒が必要だな」 「お酒は飲みません。でもランチなら。あのおすすめ品をもらいます。それと柔らかいものを」 「ソース・オ・ディアブルはつけるかね?」 「ソースはないでしょう? 白身魚には」  J・Jが言った。「お嬢さんにハム・エッグ、オレンジ・ジュース、コーヒー、トースト、アップル・パイを――アイスクリームは好きかい? ぼくはチキン・サラダ・サンドイッチをもらおう」  ダフはスープを注文した。 「ぼくもスープをください。ほかに噛まなくていいものを」そう言うとヒューは眼鏡をかけて寄りかかった。「ソース・オ・ディアブルを」  伯父のことを考えているのがわかった。マク・ダフもそうだ。「話を聞きたくて待っていたのだ」  ヒューは水をすすって顔をしかめた。 「そうだ、ヒュー。歯は大丈夫なの?」 「おかげさまでだいぶよくなりました。刺激を与えなければ大丈夫です。エファンズの薬はよく効きますよ」 「エファンズにもらったの?」 「朝の三時に起こして、薬をもらいました。素晴らしい人ですね」 「いい人だわ。エファンズというのは伯父の執事です」わたしはダフに説明した。 「執事が痛み止めを調合しているのか?」ダフの口調には、心ひそかに馬鹿らしいと思っているような、いらいらした響きがあった。 「違うの。夕食のときにエファンズも薬を使っていたんです」マク・ダフは無表情のままだったので、わたしは話を続けた。エファンズに言ったこと、エファンズが言ったこと。 「それで君は朝の三時に起こしたのか? 別れたのは何時だ?」 「アリバイですか? 四時くらいだったと思います。四時過ぎでしょうか」ダフの眉が三ミリ上がった。ヒューの方は何としてでも納得させようとしているのがわかる。「エファンズとは知り合いですし、歯がじんじんしていたんです。それに、薬が効き始めると椅子の上で眠りこけてしまったんです。親切にも部屋まで送ってくれたのが、四時半ごろだったのだと思います。そうは言っても運ばれている最中に目が覚めていたとは言い切れませんから、エファンズに聞いてみてください」 「三時で充分だ。ベッシーの話とも合う。三時までという下限はどうやって割り出したんだ、J・J?」 「医学的な証拠ですよ」J・Jが眉をひそめた。「もちろん推定ですがね」 「ベッシーからはお聞きになりましたか?」ヒューの言葉に、二人はうなずいた。「そのことに加えて、ほかのことも……」声は途切れ、片手で絶望的な仕種をした。 「何のこと? ほかのことって?」 「知らないんですか?」 「始めから始めて、お終いになるまで続けたまえ、しかるのちやめればよろしい」ダフがあの魅力的な笑顔を見せた。少しだけ気持がほぐれた。  ヒューがスプーンで音を立てた。「わかりました。約束していた仕事があったので、今朝ギャスケルのところへ行ったんです。ウィンベリーの件でした。顧客を流してもらいたがっていたんです。と言いますか――」ヒューの声に倦んだような苦みが混じった。「つまり、カモの名簿のことです。住んでいた場所は知っていますか?」 「ぼくもそこに行ってきた」J・Jが答えた。「また立派なところじゃないか。独り暮らしだったんだろう?」 「ときによりけりです」ヒューが答えた。「来客がいるときもありましたから。ですが昨日の夜は誰もいませんでした。いちばん新しい人はフロリダにいるようです」 「来客、か」J・Jが言った。「もちろん女だな」  ヒューはうなずき、わたしにショックを与えまいとでもするように、急いで先を続けた。「ベルを鳴らすと、家政婦が中に入れてくれました。家政婦がいるのは日中だけです。七時半に自分の鍵を使って家に入ったそうです。リビングには近寄りもしなかった、と言っています」 「たぶんそうなんだろうな」J・Jが言った。「ぼくが到着したときにもまだカッカしていたよ」 「それで、ギャスケルは一階と二階を使っていました。ウィンベリーと同じく、上の階は人に貸していました。といっても借家人はもういませんが。リビングは裏手に当たります。その向こうには小さな庭があります。ぼくがベルを鳴らしたのは九時かそこらでしたが、そのころブリンクリー夫人は朝食の準備をしていました。急いで掃除をする気はないようでしたね。それはともかく、ギャスケルはまだ降りてきていないけれど、約束をしていたのなら自分が上に行って呼んでくると言われたので、ぼくは待っていることにしました。家政婦が上に行っているあいだ、ふらりとリビングに立ち寄ったところ……見つけたんです」 「場所は?」ダフがたずねた。 「安楽椅子です。椅子が背中に乗っかっていました。争ったあとがあって、足を高く上げて身体を丸めていました。ナイフが……おそらく心臓に。血だらけでした。あんなに……」頭を抱えたヒューの手は震えていた。「ナイフはウィンベリーのものでした。大事にしていた肉切りナイフです。それに気づいたので、警察にもそう伝えました」 「年代順に続けてくれ」ダフが言った。「それから?」 「それから、ぼくはブリンクリー夫人に大声で喚いていました。彼女を中に入れないようにしておいてから、警察を呼びに行きました。これで警察を呼ぶのは二度目ですよ」 「時間は?」 「九時十四分です。ぼくが到着したのが九時……十一分だった……そのくらいです」 「続けてくれ」 「また別の赤いパチーシ駒がありました」ヒューは疲れたように続けた。「それはもう話しましたっけ?」  J・Jがわたしの手をぎゅっと握った。「ちょっと待って。いや、それは知らなかった。まあひと息つかないか。その水を飲んじゃえよ、ベッシー。ちゃんと飲まなきゃ、お尻ぺんぺんだ。よし、話があるんだ。昨夜の一時半ごろ、ギャスケルのところにやってきた男の目撃情報がある。同じ人物が一時四五分に出てきたのも目撃されている。だけど――ええと――その男はすぐあとにまた舞い戻ったそうなんだ。その後は男の姿を見ていない」 「誰なんです?」ヒューがたずねた。 「目撃者のことかい? 窓からぼんやりと通りを眺めてた天然系の女の子さ。あんないかれた子はいないね。あんな証言じゃあガーネットもぼくも納得できない。だけどその通りだった可能性はあるんだ。そして、その通りだったとしたら、伯父さんはアウトだ。問題はね、その子によると――これについては信じるね――その子は人生と芸術について深く考えていたんだそうだ。つまり目撃者の時間感覚はあまり当てにできない。しかも途中でトイレが我慢できなくなっている。その間に男がまたすぐに外に出てきた可能性はある。どう頑張っても人を殺せるだけの時間はないけどね。ああ、真理はそのうちはっきりするとも。それにぼくは信じてる。うまく聞き出す時間はあったからね。手を洗いたくて仕方なくなったのが一時五二分だったそうだ。どうだ! すまない、ベッシー」 「どうして伯父さんがアウトなんです?」ヒューがたずねた。「その男は誰だったんですか?」 「知らない男だった。背が高かったと言っている。背の高い人はたくさんいるからね。でも誰が……」 「ガイ・マクソンに決まってるじゃない」わたしは声をあげた。「マクソンとギャスケルは一緒に伯父の家を出たんだから。覚えてない?」 「あり得るね。来たのはガイだし、出たのもガイだ。だけどガイはどちらも否定しているし、舞い戻ったりもしなかった。だけどギャスケルと一緒に帰宅したのが殺人犯だとすれば、伯父さんはアウトだ」 「マクソンにはアリバイは?」 「曖昧なのがね。ホテルに二時〇八分に到着した。歩いていたそうだ」 「裏付けは?」 「クラークが彼と話をしている」 「二時〇八分」ヒューが言った。「それならアリバイは成立しますね」 「そうかね?」ダフが声をあげた。 「だってギャスケルが殺されたのは二時以降なのでしょう」 「それはどうやって証明されているのかね?」  ヒューはため息をついた。ウェイターが料理を運んできた。わたしの注文をテーブルいっぱいに広げ、残りを端に並べると立ち去った。 「その目撃者は、戻ってきた男と出ていった男が同一人物だと言っているんですか?」ヒューがたずねた。 「ああ、そこが問題だね」J・Jが答えた。「残念だけどその子は何の助けにもなりゃしない。頭を使うことを知らないんだ。確かにそう思ったんだろうけど、思ったことを証明してやれる人なんてどこにもいやしない。二時の件はどうなってる? 知ってるかい?」  ヒューは最初が肝心とばかりに説明した。「ギャスケルの家には石油式の暖房があって、自動温度調節器《サーモスタット》には時計がついているんです。ここまではいいですか?」 「問題ないよ」J・Jがサンドイッチを頬張っている。 「夜中に暖房を切るためには、設定時刻になると自動的に切れるように時計をセットしておくんです。朝に再点火させるときも同じです」 「うん、それは知ってるよ」 「それで、ギャスケル家のタイマーは、午前二時にセットしてありました」 「ずいぶん遅い時間だな、なぜだろう?」 「ぼくもそう思います。ところが今朝伺うと、時計は床の上でばらばらに壊れていました」 「なぜそうなったのだ?」ダフが静かな声で穏やかにたずねた。 「格闘の際に叩き落としたのでしょう」 「それは部屋のどこにあったのだ?」 「ギャスケルの椅子があった後ろの壁際です。横には本棚がありました。犯人がナイフを前に突き出せば、椅子が後ろにひっくり返って、ギャスケルは壁に投げ出されたはずです。おそらくその際に時計にぶつかったのでしょう。まず間違いありません」 「そのまま放っておかれたら時計は動くじゃないか」J・Jが言った。 「それはありません。ガラスが割れて針が曲がっていましたから」 「まあいい」マク・ダフが言った。「もうわかった。だがそれでも時刻は割り出せる。暖房が消えるか寒くなるかしていたのではないかな」 「ええ、そうなんです。家は寒かった。温度計は十五度を指していました。サーモスタットが十五度にセットされていたんです。時計が壊れる前にタイマーが作動していたんですよ」 「つまり争いがあったのは午前二時過ぎというわけか」J・Jが考え込むように口を開いた。「そうでなければ、家は一晩中昼間みたいに暖かかったはずだものな。だけどサーモスタットなんて手で動かせるだろう?」 「時計が動けばできるとは思いますが」 「犯人は設定ボタンやタイマーに気づいたのでは? だとしたら、時刻を混乱させようと手動で十五度にセットすることだってできただろう?」 「できたでしょうね」ヒューはゆっくりと口にした。「やり方を知ってさえいれば。考えつきさえすれば」 「ねえどういうこと?」わたしは声を出した。「もっとゆっくり説明してよ」  マク・ダフが説明してくれた。「時計には異なる二つの機能がある。一つは時計として時刻を告げ、一つはタイマーとして時刻をセットする。今の話の場合だと、目覚ましベルが鳴るのではなくサーモスタットのスイッチが押されるのだが。時計が壁にぶつかり壊れたのだが、何時の出来事なのかわからない。しかしながら午前二時以降に起こったことだと推理はできる。タイマーがいじられておらず、サーモスタットのスイッチが別の手段で押されていないとしたらの話だが。J・Jが困っているのは、殺人犯が捜査員を欺くために手動でサーモスタットを動かした可能性があるからだ」 「わかりました」 「待てよ」J・Jが口を挟んだ。「あるいはタイマーの方をいじったってことはないのかな? 午前二時の設定をいじることはできないのかい?」 「無理みたいですね。警察はそう言っていました。壊れ方から見て、できないだろうと」 「そうか、それなら超特急で行動して二時のアリバイを作ったんだ」 「どうして? 全然わかんない。どうなの?」  マク・ダフの目がふたたびきらめきかけた。「J・Jはずいぶんと頭が冴えている。そのうえ的確だ。真夜中に時計がぶつかって壊れたとしよう。二時に暖房が切れるように時計がセットしてあることに、殺人犯は気づいた。だが設定を変えることはできない。そこで犯人は手で暖房を切った。時計の落ちたのが作動してからのことに見えるだろう。二時のアリバイを作ることができれば、犯人は安泰だ。間違いない。設定時刻に気づき、捜査を攪乱しようと手で暖房を切るやつならば、二時のアリバイが必要なことにも気づいていたはずだ」 「実際にそうしたんでしょうね」ヒューがつぶやいた。「きっとそうです。今わかりましたよ」  J・Jの咳払いにヒューが振り向いた。 「気を悪くしないでほしいんだけどね」J・Jは努めて明るく口にしていた。「君がベッシーの部屋をノックしたのは二時だっただろう?」 「と言うより、しばらく叩き続けていましたよ」ヒューの声には嫌気が差していた。 「この子が正確にいつ目を覚ますかなど、むろん知りようがない」ダフがコメントした。 「そうですよ」ヒューはダフに感謝するように振り向いた。 「ふむ。まあそうだろうね。さて。伯父さんは二時のアリバイがない。マクソンも二時のアリバイがない。君は二時に確固たるアリバイを持つことを予測しようがなかった。こうなると時計の証拠は問題なさそうだな。いずれにしても、殺人が行われたのは二時以降という事実が導かれるね。理に適ってますか、どうですか?」  この推理がどれだけ説得力があるか確かめでもするように、J・Jはマク・ダフを片目で見やった。ダフはピカピカのティー・スプーンを指先に乗せてバランスを取っている。「理に適っている」あまりにそっけなかった。ところがヒューは興奮してまくし立てた。 「ぼくらは何をすればいいんでしょう? ぼくは警察に渡してきました。つまり、警察が赤い駒を保管しています。今度は駒を置いてきたんです。ウィンベリーのナイフだということも知られました。ぼくがしゃべったからです。だけど、事件を結びつける第一の駒があったことを打ち明ける気にはなれないんです。赤い駒の正体や、どこにあったものなのかも、しゃべった方がいいんでしょうか? すべてを警察の手に委ねてしまった方がいいんでしょうか?」 「そうだな」J・Jもうなずいた。「どうなんです?」 「まだ何とも言えんな」ダフが答えた。「そのナイフのことを話してくれ。カスカートが手に入れるチャンスがあったと言いたいのだろうね?」 「その通りですよ。それにぼくにもチャンスはありました。むしろぼくの方が。だけどぼくがそんなことをする理由がありません」 「動機か。ふむ。前回と同じだな」  みんな押し黙ってしまった。わたしはJ・Jの袖口をぎゅっとつかんでいた。 「しかしだ」ダフが穏やかに言葉を続けた。「今回、憎悪が限界に達したのは何が原因かね?」  J・Jがつぶやいた。「ああ、わかりません。いったん動き出したからには、二人とも殺っちまった方がいいと思ったのかもしれませんね。毒を食らわば、です」 「その言葉に、おそらく何某かの事実があるのだろう」ダフも同意した。  だけどわたしは、ヒューが何か言うのを待っていた。でも何も言わない。そのことが心に浮かんだのは、わたしだけのようだ。  わたしは恐る恐る口を出した。「もしかしたら……ライナですか。昨日の夜、外に連れ出してたんです、ギャスケルが。みんな嫉妬していたんじゃないでしょうか」 「嫉妬か! またお決まりの……」J・Jは疑わしげだ。 「ぼくもそうは思いませんよ」ヒューが椅子をずらした。「それは違うと思うんです、ベッシー。これがガイ・マクソンだったと言うのなら……」そこから先は絶対に口にしたくないようだった。 「ではカスカート氏がマクソンに嫉妬している可能性はあるわけだな?」ダフの言い方では、嫉妬の有無が紛れもない事実として扱われていた。それはそうだ。考えてみればわかる。 「ええ」わたしがヒューの代わりに答えた。「きっとそう。ライナはまだ若いしすごく可愛いんだもの。彼も若いし。マクソンのことだけど。だから二人が……そうだ、マクソンは昨日すごく怒っていました」 「マクソンには動機がある」ダフがたずねた。「というわけか?」 「マクソンにはアリバイがありますよ」J・Jが口を挟んだ。「二時にギャスケルを刺し殺したとしたら、二時〇八分に帰宅することはできなくなる。サーモスタットが信用できるとしての話ですがね。トリックだとしたら二時のアリバイはなくなります」 「地下鉄の八番街線はどうなんだ?」 「そいつがありましたね。うまいことに。そうですよ。ちくしょう」 「ほんとにうますぎますよ」ヒューが聞き取れないほどの声でつぶやいた。 「そうはいってもね」J・Jが力を込めた。「言っておくけど、マクソンがそれで何かしたとは思っちゃいないよ。通りの向こうのお嬢さんが、戻ってくるマクソンを目撃したとも思っちゃいない。マクソンがそこに戻ってきたとも思っちゃいないんだ。きっと目くらましか何かだよ。それと、ベッシーはカスカート邸から出るべきだ。夜中にそんなふうにうろつくなんて感心しないね」J・Jはヒューをにらんでいる。「言いたくないけどね。君たちが昨夜何をしたのかを、奴が知っていたらどうするんだ? 知っていたとしたら? 可能性はある」 「わかってます」ヒューは青ざめていた。 「ベッシー、ぼくにはきみを預けておく独身の伯母さんなんていないけど、でもちくしょう、誰かの伯母さんなり何なりを見つけられなくても、あの家からきみを連れ出すつもりだ……」 「無理よ!」わたしはあえいだ。「どうするっていうの?」 「無理かどうかはすぐわかるさ」 「ぼくにはあまり――」ヒューが言いかけた。 「いいかい。ぼくはこの子と結婚する」とJ・Jが宣言した。「だめなら部屋の入口で眠る。獰猛な犬を六頭買って守らせる。ちくしょう、牢屋に入れておきたいよ。ねえマック、カスカートの手の出せない場所にかくまっておけるなら……」  マク・ダフが答えた。「ガーネットは事件もないのに行動できんよ。する気もないだろう」 「でも事件はある。そう言ってるじゃないですか。法律なんてものに興味はありません。理屈にすら興味はありませんね。彼が犯人ですよ。今ぼくが心配しているのはそれだけです。彼は無実だと誰かが明らかにしてくれないかぎりはね。わかってます。わかってますよ。でもぼくは|この子《マイ・ガール》の話をしてるんだ!」 「落ち着いてよ」とわたしが言った。ヒューはあっけにとられていた。 「冷静になりたまえ、J・J。それではガーネットに話すには充分とは――」 「ぼくを納得させたうえでいらいらさせるには充分ですよ」J・Jはちっとも落ち着いていなかった。「いいでしょう。教えてください。あなたはどうすれば納得するんですか!」 「われわれの知っていることは不充分だ。確認すべき点が山ほどあるし、やるべきことが山ほどある。しかし時間があるかどうか……」そう言うと黙りこくってしまった。深い瞑想のような沈黙。〈時間〉という言葉がわたしたちの耳で鳴り響き、沈み込んでいた。 「問題はベッシーを守ることだ」ついにJ・Jが声をあげた。「それが理由ですよ。それだけで充分だ」 「論理だよ、論理的にだ」とダフが諭す。「しかし前進はせねばなるまい。理解を重ね情報を集めなくてはなるまいな」 「まさかあなたがたは――」ヒューがたずねた。これまでそんなことを真面目に考えたことは一度もなかったのだろうか。「誰かがベッシーを襲おうとしているとでも?」 「誰もベッシーを襲うものか」J・Jが答えた。「ベッシーだって、殺人犯かもしれない人間と同じ屋根の下で過ごすつもりはないさ。言わせてもらえば、ぼくにはそれで充分だ」 「ほんとうに危険があると思ってるんですか?」 「危険だと?」ダフが言葉尻をとらえた。「むろん危険はある。毒を食らわばの原則に従っているのならばだが。しかしね、わからないのだよ」唐突に皿を遠くに押しやり、両手の置ける空間を作った。「チャールズ・カスカートとの会談を希望する」 「会いたいのなら、会いに行くことですね」J・Jが言った。 「それも一つの方法だが。この事件のことで招いてもらいたいのだ」 「ガーネット・サイドから攻めますか?」 「ベッシーの方からだ」 「それではベッシーがやっかいなことになる」 「しかしだね、ベッシーには、すでに事件のことで招いてもらっておる。目下の希望は許可をもらうことだけだ。そして関係者と話すことだ」 「何か手伝いますか?」J・Jは冷静だった。 「やりたいことをすべて探るには時間が足りない。そうだ、マクガイアに頼むことにする」と言ってわたしに微笑みかけた。「実際に何が起こったのかを解明する時間はない。かすかな痕跡をたどって時間と手間をかけ、徹底的に手がかりと目撃者を調べあげるには、時間がかかりすぎる。迅速な援護があれば、手に入れた証拠と、それに脳みそと想像力と直感を使うことになるだろう。とにかく手に入れてからだ。午後は、やれる範囲で調査に費やす。だが夜までにはカスカート氏に会っているはずだ」 「いいでしょう」J・Jが言った。「とにかくセッティングしますよ。カスカートと会う場所を教えてくれれば、ベッシーが連れ出しますとも。おいで、ベッシー。今すぐにでも家に行ってスーツケースに荷造りするんだ」 「でもそんなことできない」 「でもできるとも。荷物を持ち出して用意しておくんだ。念を入れて。スーツケースに入れてね。ジョークなんだ。笑ってくれよ、ちくしょう。ねえベッシー、ぼくは赤毛でわがままなんだ。だって子どもだからね。今できることはほとんどないよ。このトーストは食べるかい? それならぼくがもらおう。さあ行こう。マック、あなたはここに座って考えに耽るつもりですか?」 「そしてマクガイアを待とう」 「ミラー、君はどこへ?」 「部屋に戻ります。ほかに行くところもなさそうですし」 「タクシー代を三分の二、持ってくれるかい。よし行こう!」  マク・ダフを汚れた皿のあいだに残したまま立ち去ったときには、彼はすでにどっぷりと物思いに沈んでいるように皿を見つめ、より分け、並べ替え、いっぷう変わった方法で問題に耳を傾けていた。 第十三章  J・Jとわたしはタクシーの道中ずっと手を取り合っておしゃべりに興じていた。少なくともわたしは楽しかったし、J・Jもそうだと思っていた。ヒューは一言も口を利くことはなかった。その機会もなかったのだ。わたしは気の毒になった。それほど陰鬱に殻に閉じこもり、不安げに押し黙っていた。J・Jが明るく寛大な人だったので、怯えて身をすり減らし感情的にならないヒューが、相対的に堅苦しく生真面目に見えてしまう。もちろんJ・Jは音を立てて爆ぜる火花だったし、わたしは家から逃げ出すつもりも隠れるつもりも安全圏にいるつもりもすべてを失うつもりも断じてなかった。J・Jの落ち着きのたまものだ。彼に言わせるとわたしの落ち着きの問題だそうだが。わたしたちはあれこれ言い合った挙句、話のまとまらないないまま伯父の家に到着した。  エファンズがドアを開けてくれるまで、ヒューはわたしたちから少し離れて立っていた。邸内になだれ込むと、J・Jとわたしは不意に黙り込んでしまった。この家に入ると幸せなやり取りもふっとんでしまうのだろうか……三人とも気が塞いでしまった。押し黙ったまま中に入ると、リビングからはっきりと話し声が聞こえてきた。 「ライナ……ねえ……」請うような口調。「あいつは役立たずだったじゃないか?」  ライナの声にはうんざりしたような響きがあった。「そんな言い方やめて、ガイ。何になるの――」  エファンズが雷の如き咳払いをした。「エリザベスさま!」うわべだけ快活な、忠誠心あふれる大声。「ライナさまがお探しでした! ヒューさまのこともでございます!」わたしたちは何も言わなかった。  ライナの声がためらいがちに途切れ、結局こう結ばれた。「あなたのことなんて信用してないのに」  急ぎ足の足音が聞こえ、ライナが戸口に現れた。淡いリーフ柄のドレスと、大きな白い襟飾り。百二十五ドルあればミシンで即日仕上げてくれるようなタイプ。十七歳にだって見えた。きらびやかな金のイヤリングと地味なドレスの豪華な細工さえなければ。目はまっすぐにJ・Jに向けられていた。「あら、ジョーンズさん! よくお越しくださいました」 「そうですか?」J・Jの声が不自然にうわずっている。 「ええ。みなさんどうぞお入りになって。ガイ、こちらはジョーンズさん」ライナはくるりと振り返り、彼らがもごもごと挨拶しているのをさえぎった。「ガイが教えてくれたんです。また別のパチーシの駒が、ギャスケルさんの死亡現場から見つかったんですってね。どなたか教えてくださらない? 本当のことなんですか?」 「間違いありません」J・Jの声はもとに戻っていた。聞くとほっとする。「少なくとも――」  ヒューが口を挟んだ。「本当です。この目で見ました」  ライナは下唇を噛みしめた。 「君に嘘はつかないよ、ライナ」ガイは二人称代名詞にかすかなアクセントを置いていた。「どうだい?」 「ジョーンズさん」ライナの声には決意がこもっていた。「マクドゥガル・ダフと連絡を取ることはできますか?」 「大丈夫でしょう」J・Jは続きを待った。 「それじゃあ聞いてもらえますか。ここにいらっしゃるよう頼んでほしいんです」 「何のためなのさ、ライナ?」ガイがたずねた。「どうしてそんなこと……?」 「どうして? はっきりさせたいからに決まってるじゃない」冷やかにわたしたちを見つめていた。「チャールズは罠にはめられたってことを」 「罠にはめられたですって!」ヒューだった。驚きの声をあげた。「何があったにせよチャールズに限ってそれはありませんよ」  ライナが頭ごなしに噛みついた。「ほかにどんな説明があるの? わかってるの?」  ヒューがわかっていたにしろわからなかったにしろ、わたしにはわかった。きっとそうだ。ライナは知っている、疑っている、不安を覚えてもいる。何かせずにはいられないのだ。彼の安否が不安なのだとごまかしてでも。そうでなければわざわざマク・ダフに頼んだりはしまい。その実、マク・ダフが真実を見つけ出すと信じているのだ。真実《ほんとう》の真相を。なんて頭がいいんだろう。悲しいくらいに頭がよかった! 「そういうことなら『マックス』から帰ってしまう前に電話した方がいいな」J・Jが言った。おそらくこれで問題は解決する。「それでいいんですね?」 「お願いします」ライナは冷やかに答えた。「電話はここにありますから」  J・Jが部屋を横切って電話に向かうと、ライナが疑問を口にした。「本当のことを教えて。パチーシの駒だけじゃないんでしょう? ベッシー、マク・ダフが昨日やって来たのはなぜなの? だってもし……もし違うのなら」ここで口ごもった。 「お願いライナ」わたしはいつでも叫び出していただろう。「わたし怖かったの。ヒューも……わたしたち……J・Jも……みんな……マク・ダフも知ってる」 「聞かせてほしいの」穏やかな非難。「お願いだから教えて」 「ベッシーが何を聞かせてくれるというのだ?」  当の本人だった。駱駝毛のコートを来たその人、頬の傷、伯父の両目があった。ライナは素早く果敢に頭を上げた。「殺人事件の話をしていたの、チャールズ。あなたが疑われているって考えたことはあって?」 「無論だ」伯父が答えた。戸口にいるとますます大きく堂々と見えた。 「考えたくもない」投げ遣りな口調。「マクドゥガル・ダフがここに来た理由を聞いていたの」伯父のはねた眉が心持ち下がった。「ベッシー――この青年の――誰かがマク・ダフの知り合いなんですって。チャールズ、協力が必要よ。こんなの……ほっとくわけにはいかないじゃない!」  伯父が穏やかに答えた。「わたしなら自分で身を守れるよ」 「今度はだめ」ライナが声をあげた。「もうだめよ。二人が死んだあとでまだそんなことを。次はあなたかも……」 「死体が雨あられと降り注ぐとでも?」内心では可笑しくて笑い転げていたのかもしれない。「いいだろう」と大きな肩をすくめた。「それで気が済むのなら。あとでここに来てもらうといい」 「ありがとう、チャールズ」と言ってからライナは、話を中断して受話器を持ったまま待機していたJ・Jに話しかけた。「夕食のあとで」 「なるほど、おもてなしせねばなるまいな」伯父はライナに向かってわずかに頭を下げさえした。「九時でいいかね? 七時まではオフィスにいる予定だ」 「ありがとう」ライナの目は伯父の顔に注がれていた。 「そのあいだはわたしも安全だろう」伯父の柔らかな声に、わたしの背筋に震えが走った。「心配することはない」 「心配」という言葉が出るとは! 立派なコートを着てここに立っている、大きく力強く鋭く自信たっぷりな伯父は、身の安全を心配することとは世界で一番縁遠い人物だったし、本人もそれは自覚していたはずだ。「いいね?」伯父が喉を鳴らした。「それから、七時までだ」  ライナも繰り返した。「七時までね」興奮も去り、力の抜けた声だった。ライナは椅子に腰を下ろし、両目に拳を当てた。マクソンがうなり声をあげてマントルピースに歩き始めた。ヒューは両手を見下ろしていた。J・Jが話している。「九時で大丈夫ですか、マック? カスカートさんはそう言ってます。ええ、もう行っちゃいました……オフィスに。問題ありませんね。よしきた、わかりました」  J・Jがわたしの隣にやって来て、「万事オーケーです」と肩越しにライナに声をかけたが、ライナはぴくりともしなかった。「よしベッシー、マックが呼んでるんだ」緑色の瞳が澄みわたり、わたしの心を読もうとしていた。 「部屋に戻って待っ、待ってる」  ささやくように声をかけられた。「もう全部知られてるけど、いいかい、間違っちゃだめだ。戸締まりはしっかりしてくれるね。約束だ。そしてスーツケースに荷造りを」わたしはうなずいた。「すぐ戻ってくるよ」 「マク・ダフも?」 「それより先に」と言うと顔を近づけた。「それじゃあ、ベッシー。また戻る」そうして頬にそっとキスをして、耳元でささやいた。「七時を過ぎたらうろちょろしているから、ときどき窓から外を見てくれるかい」  J・Jが行ってしまうと、ヒューも階上に退がりたがるそぶりを見せたけれど、ライナが引き留めていた。わたしのことも引き留めたがっていたのだろうけど、もうたくさんだった。三階に舞い戻り、今度は椅子を二脚使ってできるかぎりしっかりと戸締まりをし、窓にもすべて錠を下ろしてから、顔にコールド・クリームを塗り、靴を脱いで、服を着たまま眠りに落ちた。  目が覚めると薄暗かった。目が覚めたのはなぜだったのだろう。六時半過ぎだった。チャールズ伯父さんが部屋に戻る予定まであと三十分たらずだ。まだ戻っていなければの話だけど。わたしたち、J・Jとわたしが伯父の言葉を鵜呑みにしたのはなぜなんだろう。これじゃあまるで、伯父が好きな時間に自宅に戻ることができないみたい。戻ることもできなければ戻る可能性もないと言うつもりだったみたい。わたしはベッドから抜け出して裏手の窓から身を乗り出した。真下の部屋に明かりがついているかどうかは見えなかった。わからない。何も聞こえもしなかった。けれどずっと下の方から明かりがぼんやりと煉瓦を照らしている。わたしは暗闇で身震いすると、ランプに手を伸ばした。  スイッチを入れた瞬間、中庭で何かが動いた。見られている? 丸見えのはずだ。床に膝をついて、窓敷居の下まで這っていけないだろうか。そのあいだも目は離さずにいた。  男は薄明かりに向かって移動していた。はためいたコートの、ラグラン型の袖と襟にようやく気づいた。それが上下している。帽子を取って暗闇に突き出し、わたしに振って見せた。馬鹿みたいに振り回しているのを見ると、伯父はまだ帰宅していないのだろう。さもなきゃJ・Jだってあそこに立ってあんなふうに帽子を振り回したりはしないはずだ。  目を惹くつもりなのか、突然両手をあげた。何かを伝えようとしているらしい。わたしは座り込んだ。J・Jは太腿を叩いている。足を上げて指さしている。  足だ。マク・ダフの足代わり。わたしはなるべく大きくうなずきを送った。  次にJ・Jは椅子に座ったように膝を曲げると、見えないハンドルを回し始めた。ハンドルの操作を繰り返す。片側に帽子を引っ張るように、頭を引っ張るしぐさをした。唾を吐いた。また何度もハンドルを動かす。  車だ。何か車のこと。わたしはうなずいた。ただし控えめに。  J・Jは身体を伸ばして困ったように辺りを見回した。それからまた膝を曲げて、片手でおかしな動きをしながらハンドルを動かすしぐさをした。まったくわからないので首を横に振った。J・Jは降参したように大げさに肩をすくめるや、自分の手を指さした。目を凝らしたところでは小指を差している。その指を高く上げて揺らしながら指さすと、激しく首を振り否定のしぐさをした。  伯父。伯父、ではない。伯父は、違う。伯父は、していない。伯父、ではなかった。何か伯父と否定に関することなのだ。  けれどわたしは肩をすくめた。  するとJ・Jは両手を差し出し指で二つの丸を作ると、双眼鏡のように目に当て、食堂の窓の方に顔を向けた。食堂の窓を指さすと、もう一度双眼鏡のしぐさをし、力強く自分の胸を指さした。それからものを食べるしぐさをすると、ふたたびすべてを繰り返した。  わたしは手を叩いた。音を出そうとしたわけではなく、ジェスチャーで。夕食のあいだも見張ってくれるということなのだろう。うれしかった。  するとJ・Jは両手を合わせて胸を張った。  わたしも胸を張る。  ドアに音がした。振り返って誰何する。エレンだった。わたしは振り返ってみたけれど、J・Jはすでに深まる闇に溶け込んでいた。  エレンが来たのはドレスの着付けを手伝ってくれるためだったので、そうしてもらうことにした。J・Jがいるのはわかっていたから、着替えのあいだは部屋の奥から出ないようにしていたけれど、ブラインドを完全に降ろして明かりを閉ざしてしまう気にはなれなかった。たぶんライナがエレンをよこしてくれたのだと思う。なにしろわたし一人では卒業式のガウンさえ自分で着られなかっただろう。素敵なドレスなのだ。故郷のコックスさんが『ヴォーグ』の型から作ってくれたものだ。スカートの衣擦れを聞くのも、十六のゴアも、コックスさんが始終文句を言っていたどの縫い目も大好きだった。もとは白かったが、卒業式のあとで染めていたので今は淡い薔薇色だった。コールド・クリームも仮眠も、顔を傷めたりはしていなかった。もういつでも伯父と食事を取れる気分だ。着替えが終わると、髪に薄紅色のサテンの薔薇を一房をつけた。ちょっと大仰な気もする。 「とてもお美しいですよ、エリザベスさま。お母さまもお綺麗な方だったんでしょう?」 「ええ」寂しさがこみ上げた。「とてもきれいだった」 「お嬢さまもお綺麗でございますよ」力強くそう言ってくれた。「口紅もつけてごらんなさいまし」わたしは一本も持っていなかったので、エレンがこっそり貸してくれた。  ドレスで盛装するには確かに助けがいる。わたしが自分のことを――つまり――高貴だとか何だとか考えていたとしたら、やはりお金持ちの男性と結婚して四六時中きれいに着飾りたいと思うものなのだろうか。それはともかく衣擦れの音を立てて部屋を出ると、廊下から吹き抜けを物憂げに見下ろしているライナがいた。可哀相。家の裏にJ・Jがいてくれてほっとした。たとえ金曜までは二十九ドル九十三セントしか持っていなくたっていい。ライナは黒いシフォン・ドレスを着ていた。深いカットに、てらいのない無地の服。きれいで可愛くて悲しげに見えた。一緒に階段を降りながら、一瞬だけ、髪から薔薇を取ってしまいたくなった。  パーティーに行くわけではなく、階下で食事を取るだけなのだと思うと可笑しかった。ヒューはどこにも見あたらない。招かれていないのだろうか。階段のふもとで一緒になったチャールズ伯父さんに連れられ食堂に向かうと、テーブルの片端を三人で囲んだ。ライナが向こう、わたしがその反対側。夕食を取るのがびくびくだったのだけれど、楽しめるようになっていた。第一に、外にJ・Jがいるとわかっていたから、そのおかげで独りぼっちで豪華なあれこれと向き合っているわけではないという気持になれた。第二に、盛装したりといったあれこれが原因で、伯母と伯父にしてみれば姪と食事をしているのは当たり前なのだと思ってみたりもしたし、この特殊な家だってわりと普通なのだとひとたび感じてしまえば途端に楽しくなれた。今回のエファンズはさっそうと給仕をしていた。うれしそうなのがわかる。その場に主人夫妻がいて、仕事ぶりを見てもらうのがうれしいのだ。  そのうえ、伯父は機嫌が良かった。人間味もあった。大きくなったわたしを見るように話しかけ、大事なことのようにわたしを話題にし、わたしが喜ぶような魅力的な話をたくさんしてくれた。映画館についての内部情報にはもちろんわくわくした。伯父は言葉でわたしを虜にしてしまった。それに気がつくまでに、無意識のままにとりとめのない話を続けていた。伯父が殺人者かもしれないなんてことは忘れかけていた。打ち解けるような、好きになってしまいそうな、それでいてすべては伯父にそう仕向けられたのではという不安もぬぐえない、不思議な気持だった。  ライナはきれいで優しかったし、ところどころで打つ相づちもかわいかったけれど、別人だった。わたしと二人きりのライナとは、同じではない。微妙に違う。  わたしたちは女優の話をしていた。きれいな人たち。「でもライナはすごくきれい。女優よりもずっときれい」  伯父がはねた眉を心持ち上げた。「そうだな」と素っ気なく言った。「ライナはたいそう綺麗だ」  ライナが喉をごくりと動かした。目を伏せたまま静かに座っていたけれど、それが見えた。「しかし」伯父が話を続けた。「ライナが舞台に立ちたがっているとは知らなかった。それともそうなのか?」伯父の声は瑞々しい好奇心にあふれていた。今までほんとうにそんなことを一度も考えたことがなかったのだろうか。 「女優なんて無理よ」ライナは目を伏せたまま控えめに答えた。  伯父は微笑んだ。秘密を知ったときのような、一瞬の笑み。「ではベッシーなら……? この子はたいそう可愛い」 「かわいいなんてとんでもありません。そんなこと! わたしそんなに……」ちょうどそのときライナの目が、振り向きかけた伯父の顔を見つめているのに気づいた……そう、苦悶と言うべきだろうか……その目には苦悶があった。わたしは急いで目をそらした。  突然ライナが明るい声を出した。「ベッシーはかわいいわ。でしょ、チャールズ?」違和感の原因がわかった。ライナは演技している。チャールズ伯父さんがそばにいるとそうなるのだ。別人になるのはいつも、伯父がそばにいるときだ。 「それにね、将来はきっと美人になると思う!」そう言うと今度は、こともあろうにJ・J・ジョーンズのことでからかい始めた。わたしが知ったことすべてがJ・Jに筒抜けだったかと思うと、狼狽のあまりそれ以外のことは考えられなくなってしまった。  チャールズ伯父さんは話には加わらず、口を閉じてしまった。ちょうどそのときエファンズがコーヒーを持ってきた。コーヒーが出されたところで伯父がぴしゃりと告げた。「エファンズ、ブラインドを降ろしてくれ」  エファンズがブラインドをばさりと降ろし、窓にカーテンをかけてしまうと、途端に心細くなった。コーヒー・カップを口唇につけたまま降ろすことが出来なかった。それでもチャールズ伯父さんを見なくてはならない。見つめられているからだ。それはわかっていた。 「夜中にコーヒーを飲んでもかまわないかね?」穏やかな声。「眠れなくならないか?」  冷たい視線はわたしを離れた。「おまえの頼んだ探偵がもうすぐやって来る」と冷やかにライナに告げた。「階上に行こうではないか」そうして先頭に立って食堂から出ていった。食事中にあった和やかな親睦の泡沫は、ぐちゃぐちゃにされたクリスマスの飾りのように、はじけて消えて打ち捨てられた。  ライナとわたしは一言も言葉を交わさなかった。ただ伯父について階上に向かった。図書室にはガイ・マクソンとヒューがいて、ヒューは暖炉のそばで爪を噛み、ガイは雑誌越しに軽蔑したような目を送っていた。嵐の前の積雲のように、ふたたび空気が不穏に包まれた。伯父がなかに入ると、二人が立ち上がった。三人とも背が高く、不安と敵意を帯びている。ライナは迷子のように戸口に立ちすくんでいた。三人がこちらを見た。伯父は腹を立てているようだ。階下でベルが鳴った。  どんなものでもいい。マク・ダフと伯父の対面を見てみたかった。きっと、脅威的な力と確固たる肉体のぶつかり合いになるはずだ。実現したときに結果がどうなるのか、はっきりと答えられる人などいないだろう。なのにわたしが求めていたのは、きらきらと輝くJ・Jの緑の瞳と軽やかな手の温もりだった。 「車のことだとはわかったんだけど」わたしはささやいた。「でも頭の回転が悪くて」 「タクシー・ドライバーだよ。唾を吐いたのは見えなかったかい?」 「見えたけど――」 「気にするな」 「大事なことだった?」 「それはわからない」 「外にいてくれて心強かった」 「ここにいてってことだろ?」 「外と言ったのだ」伯父が口を挟んだ。「君の命令かね、ダフ。今夜、家の裏で見張らせていたのは?」 「違いますな」ダフは動じず、焦りも不安も苦闘もくたくたにしおれるような、深い平静を保っていた。惑いのない人間には何もできない。その平静を破ろうとして伯父の力が衝動的に波打ち、次いで戦略的退却を受け入れた。 「知っていたはずだ」非難の響きはなかった。 「さようですな」 「どうやって」愛想よくと言っていい口調で、今度はJ・Jにたずねた。「なかに入ったのだ?」 「ぼくが巡回中の警官を知っていて、警官はダフを知っていて、ミセス・アトウォーターは警官を知っていたんですよ。人のつながりというやつですかね」J・Jが楽しげに答えた。「ずいぶん楽しそうな食事でしたよ」  伯父は笑い出した。「殺人犯でも見えたかね?」 「どうでしょうね。見えたかもしれません」  ライナが慌てて口を挟んだ。「ダフさん、夫は事件の容疑者なんでしょう? 何か起こる前に助けてほしいんです……あなたに依頼しようと思ってます」  マク・ダフは目に見えぬ程度に頭を下げた。 「うむ、そうだ。そのために集まったのだ」伯父が言った。「ウィンベリーとギャスケルの殺害犯をきみが見つけ出してくれることを、妻は期待している。請求書はわたしに送ってくれればいい」  息を呑む音だけが宙に漂った。声を出すものは誰一人いなかったが、誰もがそうしたかったはずだ。  ダフが口を開いた。「状況をご理解いただいているのでしょうか」 「無論」口は引き結ばれていたのに、伯父はあざ笑っているようにも見えた。 「よいでしょう」ダフは穏やかに答えた。「ここには一堂揃っておるようですな」  ダフが暖炉に斜めになるよう椅子に座り、伯父もその向いに同じように座った。J・Jとわたしはダフの右隣のソファ。ライナとマクソンは伯父の左側に。ヒューがマクソンとわたしのあいだで人の輪を閉じた。準備は整った。  ガイ・マクソンが気難しげな声を出した。「さあこい、マクダフ。待ったの声を初めにあげた奴が地獄に堕ちるのだ!」  J・Jの手が発作的にわたしの手に重ねられた。ダフの長い顔がますます長くなる。嫌気を抑え、滑稽にも味気ない苦難に耐えている様子がひどくおどけて見えたので、わたしはもう少しで声をあげて笑ってしまうところだった。 「痛み入りますな、マクソンさん。しかしそこは『奴こそ』のはずですぞ」  暖炉の薪が崩れ、人が「しーっ」と声を漏らすような音を立てた。誰一人音を立てなかった。 第十四章 「お聞きしたいのは」ダフが口を切った。「ペッピンジャーのことです」  ダフが話し手で、わたしたちが聞き手だった。たとえ聞いているのはダフだったとしても。ここは学校で、彼は教師だった。たとえ教えるのがわたしたちだったとしても。彼は真実の泉であり、満たす小川がわたしたちだ。わたしたちは話をしたが、彼はすでに知っていた。どういうことなのか説明はできない。ただマク・ダフが仕切っていたということだ。 「四人が創始者からキャンディの製法を買い取って巨大なビジネスに変え、生産販売により多大な利益をこうむったことは聞いております」 「ウィンベリー、ギャスケル、マクソン、わたしだな」 「数年前ウィンベリーとギャスケルが、あなた方お二人に闇取引に近い形ですべて売りさばいたのでしたな」マク・ダフは池に小石を放り投げるように、この言葉を言い放ち、波紋を待って椅子に身を沈めた。  伯父の声はいつもとまったく変わらぬように聞こえた。「その通りだ。たまたま奴らが事前情報を手にしたのだよ」 「その後あなたも情報を耳にし、何も知らぬマクソン氏に売って預金を取り戻したのですな」マク・ダフは問いかけるように顔をマクソンに向けた。  マクソンの顔色は曇っていた。「そうだよ。そのとおりだ」 「さらに――」と伯父を振り返る。「あなたがお持ちの、いやお持ちだったパチーシ・セットには、ペッピンジャーそっくりの赤い駒がありましたな。誰もが間違えてしまうくらいだった」 「その通りだとも」 「特注品ですか?」 「そうだ。同じものはないはずだ」 「なるほど。ところで、ゲームに負けたあなたは、パチーシの駒を三つ窓から投げ捨てたそうですな。なぜそんなことを?」  伯父は一瞬だけ口を閉ざした。 「そんな気になったのだ」と伯父は肩をすくめた。「二度と使いたくなかったものでね」 「赤い駒を?」 「そのセットをだ」 「しかし捨てたのは赤い駒だけだった」 「ああ」 「その後、駒を目にしましたか?」 「一つはな。ミラーがここで、この家のリビングで見せてくれた。ウィンベリーの身体に置いてあったそうだ。火にくべたよ。灰燼に帰したのだ」 「一つは警察が保管しております。ギャスケルの身体から見つかったそうですぞ。では残りはどこに?」 「四つ目はわたしが昨日この暖炉で燃やした」 「なぜ?」  伯父は肩をすくめた。「そんな気になったのだ」どちらとも取れる説明をしているだけのように見える。 「駒は象徴なのではないかという意見が出たのですよ」  伯父はうなずいた。「象徴だからこそ、四つ目の駒を燃やしたのだ」不意に、マク・ダフと伯父の二人にはわかっているのだという気がした。何の話をしているのか二人は知っている。間違いなく。でもわたしにはわからなかったし、J・Jもそのようだ。触れている指に力がこもらないことから、J・Jの戸惑いが伝わる。 「最後の三つ目については」伯父が言った。「あれから一度も見ていない」 「でも箱のなかにちゃんとあったのに!」わたしは声をあげていた。「次の朝ここに来たとき、ヒューとわたしはこの目で見たもの。三つあった。ウィンベリーのは別。それはヒューのポケットのなかだったから」  伯父があっけにとられた表情を見せた。 「いわゆる四つ目の駒を箱から取り出したはずですな?」マク・ダフが伯父にたずねた。 「無論だ。昨夜六時ごろだった。箱のなかには、赤い駒は一つしかなかった」 「どうなってるの!」わたしはJ・Jにささやいた。 「静かに」 「考えられるのは」マク・ダフが要点を突くように続けた。「われわれが見つけたとおりに赤い駒が見つかっている以上、その駒が動機はもちろん犯人に連なる手がかりである可能性ですな。よしんば象徴であるなら、はたして何を象徴しているのか? ペッピンジャーと瓜二つ。ゆえに駒はペッピンジャーを指し示しており、殺人はペッピンジャーがらみで起こったと仮定いたしました。その点について調べてみたのですよ。充分とは言えんが。それでもまあ、ありそうな動機についてざっとお話しましょう。ありふれた話ですがね。まずどんな事件の際にも当てはまりそうな動機に復讐がある。確かに復讐とは重宝な動機ですな。殺人の動機にもなり得ます。無論、赤い駒の意味も明白だ。瀕死の被害者はそれを見せられ、おそらくペッピンジャーという言葉も聞かされた。己の罪を悟り、何者かの裁きを理解したことでしょうな。無論、赤い駒には第二の意味もある。殺人犯は、残りの有罪人たちを怯えさせたかったに違いない。復讐を知らしめるために。第一の犠牲者の運命により、その後の犠牲者たちの不安をかき立てようとしているのではありますまいか」 「その後の犠牲者たちだって!」マクソンが悲鳴をあげた。 「行方のわからない駒が少なくともまだ一つありますぞ」ダフが注意をうながした。「おそらくはあと二つ」伯父の眉が揺れた。ダフに嘘つき呼ばわりされたのをちゃんと察していたのだ。つまり、あの匂いを出すためなら青い駒を燃やしたってよかったということか。残りの駒の在処を知っている人が誰かいるのだろうか。 「赤い駒には第三の理由もある。もしくはあるかもしれぬ」とダフは続けた。「それぞれの現場に残されていた理由は、一つにはカスカート氏のものだったからということだ」 「そうですか」とライナが洩らした。 「しかし動機の話を続けよう。今の話でカスカート氏の動機はわかった。裏切りを働いたウィンベリーとギャスケルに自ら復讐を遂げたかった可能性だ。そして復讐は成された。ではマクソンの死を望むような、同じくらい激しくはあるがまったく別の動機を持っているのだろうか」  マクソンが驚きで鼻を震わせた。ライナは微動だにしなかった。伯父は葉巻をふかした。「ペッピンジャーの取引はビジネスだった」と伯父は言った。「完全なビジネスだ。しかも最後にはすべてうまくいった。わたしはいつもそうだ。なぜ殺さねばならぬのだ?」マク・ダフはいつものように辛抱強く耳を傾けていた。声の変化を聞き逃すまいとしている。「ビジネス間の復讐はビジネスによって成されるものだ」伯父の声は丸みを帯びていた。「流血はない。破産の宣告の方が、死の宣告よりも遥かに効果的かつ適切だ」ダフは続きを待っていた。「ゲームのようなものだ」 「なるほど」マク・ダフが飛びついたようにも聞こえた。「さようですか。聞くところによると、あなたはパチーシに負けたそうですが」 「めったにあることではない」伯父はそう言って笑い声をあげた。追いつめられてはいても笑わずにはいられなかったのだろう。 「さて」ダフは変わらぬ調子で先を続けた。「今の話でマクソン氏の動機がわかった。ウィンベリーとギャスケル及びカスカートに自ら復讐を遂げたかった可能性だ。とりわけカスカート氏にですかな。それについてはまた後ほど」 「でたらめよ」そう言ってライナが拳を噛んだ。強張ったままのマクソンの顔は、わたしたち全員を敵に回して迎え撃とうと覚悟しているようにも見えた。 「わかった範囲の話では、ギャスケルにはウィンベリーを殺す動機がない」ダフが言った。「それに、ギャスケル自身も同一犯の手にかかったと考えてみよう。当然そうだとわれわれは思い込んでいるようだが。ギャスケルにはわかったはずだね?」見回したダフの顔に向かい、わたしたちはうなずいた。「よろしい。四人の男がペッピンジャー事業の経営者だったわけだが、実は話には続きがある」いったん言葉を切ったダフの顔が強張っていた。「実は存在しているのだ。強い動機を持つ、第五の人物が。特製キャンディの製法を開発した人物は、グレイヴズという若い男だったらしい」そこで一呼吸おいた。「ハーバート・グレイヴズ」口を利くものはいなかった。 「販売会社に買い切りで製法を売った時点では彼も幸せだった。そう考えておる。というのも、買い切りで製法を売り、結婚して新居を構えたのだ。お伽噺のようにずっと幸せに暮らすつもりで。ところがそううまくはいかなかった。素寒貧になってしまったらしい。彼の書いた手紙を見つけたよ。自分の権利が他人に奪われていたことに気づいて、莫大な利益の分け前を、ときに要求し、ときに無心していた。ウィンベリーのファイルにも何通かあった。敵意と憤りが端々に感じられた。彼の要求は叶わなかったのでしょうな?」 「その通りだ」伯父が答えた。「奴は製法を売ったのだ。代金はとうに支払われている」 「あいつに権利はなかった」マクソンが言った。「覚えているよ」 「奥さんが亡くなったことは覚えておりますか?」 「ああ、そうだ」伯父がため息をついた。「そのことを考えていた」 「グレイヴズはお金がほしかった。自分のためではなく、妻を助けるために。非常にお金のかかる難病だった」 「どちらにせよ助かる見込みはなかったのだ」伯父の声は冷静なものだった。「病気の治療法が見つかっているのなら、治療費は下がるものだ」 「しかし彼がどう思ったのかおわかりですか?」ダフが大胆な質問をした。 「奴がどう思ったかだと? ああ、もちろんだとも」伯父と目が合った。わたしが驚きと怒りを感じたのを読みとっていることだろう。「グレイヴズのような者たちは」とわたしに説明を始めた。「物事がどう動いているか知らんのだ。思うことしかせん。我々の成功を目にして、自分の素晴らしい努力のおかげだという結論に飛びつくのだ。我々の努力のことなど考えもせん。同じような専門家の集団がほかの製法を見つける可能性もだ……うむ、つまり……その考案者は誤解しているのだが、大衆が望む味の商品を作るだけでいいと思っているのだ……」言葉は馬鹿にするような口調になって消えた。 「奥さんが病気だってことは知ってたんですか?」J・Jが口を滑らせた。 「手紙にはそう書かれていた。誰もがそういった類のことを書くものだ。違うかね」今や伯父の声は自信なげに小さくなっていた。「のう、ダフくん、聞いた話をそっくりそのまま即座に信じることなど不可能だ。わかるだろう」  マクソンが怒りの声をあげた。「人間は病気になるものじゃないか。死ぬことだってある。誰のせいでもないよ。ぼくらを責める権利なんかない。お金が必要なら、また別のものを考案すればよかったんだ」 「できるもんか」J・Jが言った。「自分の妻が死にかけているんだ。それどころじゃないだろうさ」 「お気の毒だけど、やっぱりぼくらのせいではないよ」 「わたしの犯した失敗はもっとひどいものだ」伯父が言った。「覚悟はしていても、利益を手にする者だとて、非難されるのがうれしいわけではない。間の悪いことに、ちょうどその数か月は難問が山積みでな。販売、転売の繰り返しだった。忙しかったのだ。それでも、一段落ついた時点でわたしとしては、この手で選んだ医者に彼女を診せようと申し出たのだ。本当に病を煩っているのであれば、治療費をどうにかするつもりでな」 「あなたの善意は」ダフが話を引き取った。「遅すぎた。奥さんは死んでしまった」 「それはわかっている」伯父がため息をついた。「失敗だった。やるべきことが何であるのか確実にわかってでもいないかぎり、善意は失敗に終わることが多いのだ」  わたしは善意のことを考えていた。父親のことを考えていた。初めに与え、そののち問いを投げかける。父が日々のパンを誰かに与えていたおかげで、わたしが与えずにいたもののことを、考えていた。誰もに。わたしは父のことを考えた。一生を通じて利益も非難も受けなかったであろう父。わたしのなかの父の血が、カスカートの血を否定した。それが母の血であっても。母はよく舌を鳴らして言っていた。聖人さまは結構だけど、一緒に暮らすには聖人のような忍耐力が試されるんだよ。 「あなたのせいじゃない」マクソンが言った。 「グレイヴズは」ダフがマクソンに言った。「あなたがたのせいだと思ったのだよ。彼らが住んでいた土地の地方新聞に彼女の死に関する記事が見つかった。記者によって控えめに表現されていたがね。しかしだ、グレイヴズがどう思ったかは書かれていた――はっきりと。印刷物に潜んだ人の感情を読みとるのが身についてしまったのでね。そこにあるものが読みとれた。非常に残念なことに、特にカスカート氏を糾弾していた。申し出が三日ばかり遅かったのがその理由だ」 「なぜです?」マクソンがたずねた。「なぜ特に? 少なくともチャーリーは充分親切だったと――」 「失敗だった」と伯父がつぶやいた。その瞬間、マクソンが底なしに愚かなことがはっきりわかった。いくら鋭く賢そうに見えようとも、人の感情を理解できないし、することもないのだろう。申し出が遅すぎたからといって伯父を非難するのは、妥当でもフェアでもないかもしれない。でも、苦しみで手の施せないほど火のついた激しい怒りは、もうどうにもならないのだ。なぜなら伯父が結局は援助を申し出て、それが遅すぎたから。  伯父が口を開いた。「ハーバート・グレイヴズはどうなったのだ? 続けてくれ」  ダフが答えた。「まだほとんどわかってはおりません。いろいろ電話をかけてみたのだが、すぐに手詰まりになってしまった。しかしみなさん、まだどこかで生存していると考えているのでしょうな。おそらく――」ダフの話し方は控えめなものだったが、わたしたちはそう考えざるを得なかった。「彼はいる。この近くに。この町に。一昨日の夜あの窓の下にいて、二人の敵がずいぶんと偉そうにタクシーに乗り込み、もう一人が歩み去るのを見ていたのかもしれない。そのとき、文字どおり天からペッピンジャーが三つ、足許に落ちてきたのかもしれない」 「三つか」伯父がつぶやいた。 「三つですな」ダフも繰り返した。「しかし敵は四人だ。おそらくそのためだったのでしょうな。四人目の男、すなわち一番の仇に、ほかの三人の死の罪を着せようとしたのは」 「ほかの三人だって!」マクソンが椅子から飛び上がって叫んだ。 「あなたは非常に危険な状態にいるのですぞ、マクソンさん。さもなくばあなたが殺人犯だ。そうなるとカスカートさん、あなたが非常に危険だ。さもなくばあなたが殺人犯だ。差しあたりどちらの見解が正しいのかはわかりません。無論あなたがたご自身はご存じでしょう。それから――」とダフはヒュー・ミラーを振り向いた。「確かあなたは化学者でしたな?」 「そうです」 「となるとあなたがハーバート・グレイヴズなのかもしれませんな。ずっと考えておりましたよ」  ヒューが眼鏡を外し、飽きたように目をこすった。「どういうことです?」弱々しくたずねた。 「率直に言えば、あなたがそうなのかわからんのですよ」ダフは穏やかに続けた。「そうでない可能性も充分にある。無論、明らかにするつもりですぞ。今や正式に雇われておるのだから、必要な助手を雇うこともできる」 「ぼくはセントポールの生まれです」ヒューが答えた。「ハドソン街でした。そこの公立学校に通いました。父の名はサム。サミュエル・ミラー。母はメアリ・アン・コンスタブル。ぼくはウィスコンシン大学に通っていました。二年目の終わりに父が死んだため帰郷しました。グレート・ノーザン鉄道で働いていました。八年後、母が死んだときそこを辞めて東海岸にやって来たんです。一年間は日中働いて夜学に通うつもりでした。ウィンベリーと会ってそれもあきらめました。ぼくの身元はウィンベリーのところに保管されているはずです。調べてみてください」 「調べているところだ。結婚歴はないのだね?」 「ええ」 「おいつくかな?」 「三十二です」  J・Jがくしゃくしゃの紙切れに急いでそれを書きつけた。わたしはふたたびJ・Jの手に触れた。ヒューを見て、これはマク・ダフの策略なのだと判断した。  でもなぜ? こんな当てずっぽうで何が得られるのだろう? ハーバート・グレイヴズがわたしたちのなかにいたと仮定することが、何の助けになるのだろう? この家の誰かが、ハーバート・グレイヴズ自身ではなく、その代行者なのだろうか? これは策略なの? 大丈夫、ジョーンズは本名だ。電話帳のジョーンズのページに、ほかの本名ジョーンズさんとともに載っている。それに、コックの知り合いの警官と知り合いだから裏庭に入れたというのはどうなる? それに……。 「ハーバート・グレイヴズは今はもうだいぶ年を取っているんじゃないの?」わたしは口に出した。 「三十五から四十のあいだだな」伯父が答えた。マク・ダフがその答えに直ちに反応したのが見えた。  そのあいだもマクソンは暗算でもしているように虚空をにらんでいた。「そう、確かそうだよ」 「おそらくお二人とも、これだけ長い年月が経ってもグレイヴズを見わけられると考えているのなら、そのようにおっしゃるはずでしょうな」マク・ダフが喉を鳴らした。伯父のはねた眉が上下し、マクソンが驚いたように見つめた。 「話を続けましょう」ダフが言った。「証拠について検討いたしましょうかな。あなたがた三人の――さよう、三人の――誰かが犯人であるかもしれぬ、その理由を明らかにいたしましょう。動機についてはすでに扱った――」 「ぼくが何者なのかを証明したとしても、ぼくはそいつとは別人です」ヒューが言った。今まで何の話をしていたのかをようやく理解し始めたみたいに、怒りを帯びていた。 「確証は何もない」ダフは落ち着いて説明している。「お察しの通りだ。われわれにできるのは、いわゆる論証というものだ。間違える可能性はない……皆無だ。起こったであろうことを明らかにし、それを論破できるかどうか確かめようではないか。まずはカスカート氏の有罪を示唆するものについて考えよう。 「第一に、目撃者の前で赤い駒を三つ窓から投げ捨てている。この子がいたことには気づいていたのかね、カスカートさん?」 「いや」伯父の青い目が冷たくわたしに注がれた。 「われわれの知るかぎりでは、その夜十二時四〇分から二時までのあいだ、誰にも目撃されていない」 「わたしがどこにいたのか聞きたいのかね? それともまずは一通りお話ししたいのかね?」  滑らかな声のなかにも嘲りが潜んでいた。嘲りと余裕。だがマク・ダフは一切反応しなかった。コーヒーにミルクを入れるかどうかたずねられでもしたように、あっさりと答えた。「聞かせてくださいますかな」 「部屋にいた」 「お眠みに?」 「いや」 「服は脱いでいましたか?」 「途中まではな」 「それを証明してくれる人は?」 「おらぬ」 「ありがとうございます。こんな話をしてみましょう。カスカート氏は怒っているのですな。その晩、ウィンベリーにひどく悩まされたというわけです。あまつさえゲームにも負けた。仮に、感情が高ぶりパチーシの駒を窓から投げたとしておきましょうか。その後、ここで失くしたミラーの鍵を見つけるとしますぞ。十二時四〇分ごろ、こっそりと家を出る。寄り道して赤い駒を拾う。その後、角まで歩いてタクシーを拾い、ブロードウェイ一〇八丁目まで向かう。一時〇八分にウィンベリーの家に入る。ウィンベリーだと思い込んだピーター・フィンに声をかけられる。何かつぶやいておいてオフィスに向かう。書類棚から銃を取り出す。保管場所はご存じでしたな?」 「おそらく」 「一時十五分に、ウィンベリーが自分の鍵を用いて入ってくる。カスカート氏が『ペッピンジャーの取引を覚えているか?』とたずねる。あるいは、鼻先に赤い駒を突き出し――」  伯父が笑いを漏らした。ボリス・カーロフのような笑い声だった。「フ、ハ、ハ、ハ」という高らかな声が響く。数多の悪役のパロディのようでもあったが、ぞっとするものがあった。傲岸、豪放、憤懣、嘲笑、情け容赦ない毒気に、わたしは気も狂わんばかりだった。ライナの顔が青ざめ、目が閉じた。 「ありがとうございます」ダフは穏やかに告げた。要するに、伯父の嘲りは防御であり、マク・ダフの穏健は攻撃なのだ。「一時十六分に、銃が撃たれる。カスカート氏は倒れた男の帽子と外套を脱がして掛けておく。部屋に入った順序をごまかすためですな」  伯父が姿勢を正した。「なぜだね?」 「無論われわれにはわかりませんな。おそらく、タクシー・ドライバーに指を見られたことを思い出したのでしょう。あるいはほかに理由があるのでしょうとも」伯父が口をへの字に結び、ダフもそれに気づいたはずだ。「いずれにせよ、カスカート氏は外に出て、まっすぐ車道に向かう。またタクシーを拾ったか、地下鉄に乗るか歩くかして、家に戻った二時ごろかかってきた電話に出る。報せを聞くとショックを受けて見せ、ただちに家中に知らせる。その時間ここにいたことは家族に目撃されている」 「わたしはずっとここにいた」伯父の声はいつの間にか挑戦的というより思索的なものになっていた。 「ではどうして一回目の電話に出なかったのです!」ヒューが声を出した。「どうしてです? 眠ってはいなかったと仰ったでしょう」  伯父の目が面白そうにヒューに注がれた。怒りはすっかり収まったようだ。「わたしは一回目の電話に出たのだ」上機嫌で答えた。 「いつのことですかな?」ダフが即座にたずねた。 「二回目の電話がかかってくる前のことだ」煙に巻いておいて相手の出方を待っている。 「どのくらい前です?」ダフは非常に辛抱強くたずねた。 「十分だ。包み隠さずお教えしよう。一〇八丁目のドラッグストアに確認したのだ」  ダフの視線が下を向いた。「ありがとうございます。たいへん結構です」  このラウンドはどちらが勝ったのか見当がつかなかった。伯父は電話の間隔を正確に知っていたけれど、どうやって知ったのかはおろか、部屋にいでじっとしていなかったことまで打ち明けた。だがマク・ダフは、伯父が薬屋と話していたことや、おそらくは話の内容も突き止めたのだ。つまり……だけど展開が早すぎて、わたしには真相が見えなかった。 「電話に出たと仰いましたな」 「交換手から、相手と電話がつながらないと聞かされた」 「その交換手を見つけられるといいのですが」 「時間の問題だ」 「さよう。時間ですな」ダフはその言葉に沈黙の覆いをかけてから、話を続けた。「まさにそこです。ウィンベリーが言った『見いへん』という言葉だ。おそらく『見えへん』という意味なのではないかと考えております。というのも、眼鏡が曇って見えなかったのでしょうな。おたずねしたい――」ダフは急にヒューに向き直った。「その晩あなたが部屋に入ったとき、あなたの眼鏡も曇ったのでしょうな?」 「ええ。もちろんですよ」 「オフィスの鍵穴は見つけられたのでしょうかな?」 「それは慣れですよ。ぼくも開けられましたから」 「それはつまり」穏やかながら、伯父の声には不満があった。「ハドソンには赤い駒が見えなかったということか? それでは誰かが織り上げたといういろいろな問題――復讐という構図はどうなる……?」  ダフが目を瞬かせた。「それは予測できませんからな。同じく、何を言い残されるのかも予測できません。あなたは彼が死んだと思っていたに違いないのですからな」 「わたしがそこにいたのなら、おそらく奴は死んだと思っただろうな」伯父はいとも軽やかに挑発をくぐり抜けた。 「ダフさん」ライナが言った。「証拠がありません。何一つありません」 「仰っているのは確証のことでしょうな。さよう。あるにしても間接的証拠だ。でたらめである可能性を調べるためにわたしを雇ったのでしたな?」ライナはうなずいた。四本の指で親指を強く握りしめたまま、ひたすら成り行きを見守っていた。 「よろしい。ガイ・マクソンが彼を罠にはめたと仮定してみましょう。あの晩、マクソン氏は玄関でぐずぐずしていたそうですな」  ライナは戸惑ったように慌ててうなずいた。 「つまり、赤い駒が落ちてきたときにも、玄関口にいたのかもしれませんぞ」 「天から落ちてきたんだ」ヒューがつぶやいた。  ダフの顔に何かが浮かんだ。目元の筋肉がぴくりと動き、顎がわずかにずれた。  マクソンは頭を反らし、偉そうに鼻先から見下ろした。「ぼくはそんなもの見てないよ。五番街を通ってから五十九丁目を渡ったんだ。セントラル・パークは好きじゃないから」  ダフはなおも仮定の話を続けた。「マクソン氏が駒を拾ったと仮定しましょう。そして件のタクシーを拾った。カスカート氏の小指を真似るのは容易いことだ」まさにその通りに、わたしは指を強張らせてみた。こんなにも容易いことなのだ。 「そんなにしてまでわたしを巻き込みたかったのか?」 「そんなにしてまでですな。彼は――」 「鍵がないじゃないか!」マクソンが勝鬨をあげた。「どう説明するんだい?」 「おそらく持っていたのでしょうな」ダフは相手にせず続けた。「確実なことなどありますかな?」 「おそらく明日には空も落ちるだろうね」マクソンが薄い口唇を噛んで憎々しげに言った。「『おそらく』だったら何でもできる」 「実を言えば、われわれはあらゆることを『おそらく』しておるのですよ」そう言ってダフは笑みを浮かべた。初めて見た笑顔だ。マクソンの興奮も多少収まったようだ。わたしたちみんな。真っ暗な道の遥か前方に光が見えた気がした。何があっても進むべき先を照らしてくれる光だ。「その後の行動は一緒ですな。中に入り、銃を見つける。ウィンベリーの家のことはよく知っていたでしょうな?」 「いいや。銃を持っていたことも知らなかったよ。行きもしなかった。少なくともここ何年かは行ったことがないはずだ。ぼくを見かけたことはないだろう、ヒュー?」 「ええ。ぼくの知っているかぎりでは、あなたが来たことはありません」 「カスカート氏は一度ならず訪れていたのかね?」 「ええ」 「一度もないわけではないといった程度だ」伯父が口を挟んだ。「何度もではない」 「しかし一度もなくはない」ダフがつぶやいた。 「ちょっと待って。一ついいかい」マクソンが勢い込んで話した。「気づいたことがあるんだ。なぜぼくは帽子とコートを脱がせたんだ? タクシー・ドライバーに曲がった指を見せたくないという理由は、ぼくには当たらない。むしろ見せて気づかせたいはずだよ。タクシーに乗っていたのがぼくだとしてね。それをチャーリーだと思わせたかったんだから。でも違うけどね。ぼくじゃない」 「まだわからないことの一つが」ダフがしぶしぶ認めた。「犯人がウィンベリーの外套を脱がせた理由なのですよ」 「理由があるはずだ」伯父が鷹揚と口にした。 「さよう。理由はあるはずですぞ。事実ウィンベリーが最初に帰ってきて、自分で脱いだのでなければ」 「それが犯人の狙いだったんでしょう」ヒューが言った。 「マクソン氏のケースをもう少し考えてみましょう」ダフのひと声でわたしたちは話に引き戻された。「あなたは一時二七分にホテルに到着した。ここから歩くのに一時間あまりかかっておりますな?」 「きっとだいぶのんびり歩いていたんだよ」マクソンの声から急に勢いがそげ、身を守るように傲然と鼻先から見下ろした。 「あなたは三番目に上がったのでしたな。パチーシの勝負で。ウィンベリーが勝ち、初めに死んだ。ギャスケルは二番目だった」マクソンが瞬きした。「負けるのは嫌なものでしょうな?」 「負けるだって! ぼくは負けてない。勝ったんだ!」  ダフはうなずき、態度を変えた。伯父の冷たい視線がマクソンに向けられていた。「ガイはビリになることが多かった」ささやきとも紛うほどにひそめられているのに、それでも言葉はベルのように響いた。「ガイにとって三番というのは勝ちに等しいのだ。こやつは誰も殺してない」 「そう考えてよろしいのでしょうな。マクソンさん、気をつけることですぞ」 「ずいぶん急だね」ガイ・マクソンが言った。「悪役からは降板かい」 「というのもですな。あなたがどうやってカスカート氏を巻き込むことに成功したのかが、わからんのですよ」ダフは弁解するように答えた。「しかもこれほど効果的に巻き込まれたわけですからな。それにですぞ、犯人がカスカート氏ではないとすると、誰か別人が犯人であるはずだ――一例をお聞かせしましょう。例えば、いかにしてヒュー・ミラーが一連の犯罪を行い、その間カスカート氏に目をつけていたかを」 「ぜひ頼む」伯父がぽつりと言った。 第十五章 「その前に電話をかけてもよろしいでしょうかな?」ダフがたずねた。 「内密の話かね?」 「とんでもない。よろしければ、この電話で結構です」ダフは電話機に向かい、J・Jを手招きした。伯父がエファンズを呼んで、希望の飲み物を聞いて持ってくるよう伝えた。みんな席を立ってがやがやと動き回っていたけれど、わたしはダフの電話の内容を一言たりとも聞き逃すまいとしていた。みんなも耳をそばだてていたはずだ! マク・ダフは、話を聞かれているかどうかには無頓着のようだった。ヒューの経歴、名前や土地に関するJ・Jのメモを誰かに向かって読み上げている。「調べるんだ。つながりを確かめたまえ。年齢は合わない……ああ、わかっている。一九二八年には十九歳だったと言っている。若すぎる……ああ……そうだ……ああ」  ダフは戻ってくると飲み物を受け取った。一休みだ。ライナはガイ・マクソンの方を見て、表情から胸中まで読みとらんばかりにじっと目を凝らしていた。伯父はヒューと目を合わせようとせず、ヒューは伯父と目を合わせようとしない。緊迫感が縦横に飛び交い張り詰めているなかで、ダフは飛来する無言のメッセージの手応えにどっぷりと浸かっていた。ヒューからわたしに、『ぼくには信じてほしいなんて頼む権利はありませんが、わかってくれますよね?』。マクソンからライナに、『君が何を探しているのかわかれば、ぼくが探してあげるよ。何を探してるんだい?』  ダフはその真ん中に座っている。わたしは打ちのめされた。ダフは他人で、わたしも他人で、J・J・ジョーンズも他人であるのに、ダフだけはなお自分の居所にいるのだ。逆説的ではあるけれど、どこにもいないからこそ、そこにいる。要するに、ダフはこの家の誰とも関わりがない。あまつさえ目と耳はほかの誰でもない彼自身のものなのだ。罪人が誰かは興味がない。犯人がほかでもないわたしたちの誰かだということを、わずかなりとも期待しているわけでもない。ダフの望みは知ることだ。その人間離れした個性、非人間的ともいえる不気味なほどの完全性。その二つが、そこにいるべき権利を堂々と主張していた。  ダフの顔を観察してみた。顔色は明るい。褐色だとか日焼けしているとは言えず、肌の血色もいい。健康的に見える。それに間違いなく賢く、優しく、思いやりがある。たとえ今は何一つ明らかにせず、聞く一方だとしても。何を考えているのだろう? 何を感じているのだろう? 何も。ダフ自身は何も。でもわたしたちは感じているし、それが重要なことのだ。おとなしく座って飲み物をすすってはいても、部屋には感情が渦巻いていた。問題なのはわたしたちの感情だったはずだ。ダフはそのために目と耳を働かせているのだから。 「かかる特異な状況を解決するには――」わたしの胸中の疑問に答えるように、ダフが言った。「証拠に頼るわけには参りません。証拠がなければ立証もできない。もっぱら可能性と蓋然性を扱っておるのです。では可能性の話を続けましょうかな。昨日――」J・Jとわたしを見た。「ささいな考えが二つあると言ったのを覚えているかね? それがつまり、ヒュー・ミラーが犯人だという観点で事件を調べてみることだったのだ。内容を伝えなかったのは、隅々まで筋書きを吟味し、どこにも破綻がないか、不可能な点はないかを確かめたかったからだ。わたしには破綻する点を見つけることができなかったが、こうして集まればできるかもしれませんな」ダフの話が途切れた。ヒューが身構えている。伯父も油断を見せていない。「一つ目の考えだ。電話と電話の間隔が十分間というのは不自然に長くないだろうか? ヒュー・ミラーの側からすると、ということだが。自分が誰かと連絡を取りたがっているところを想像してみたまえ。電話をかける、誰も出ない。もう一度かけるまでそんなに長く待つかね? 耐え難い苦痛の時間。それを延ばし延ばしにするのだ。自分で思っている以上に待てないものではないかな。ぜひとも知りたい」マク・ダフはヒューにたずねた。「十分のあいだ何をしていたのかね?」 「薬屋と話していたんです。事件のことを知らせると、興奮していましたよ」 「十分間。さよう。まだ不思議な点がある。二つ目の考えとは、眼鏡のこと――言いかえるなら、帽子と外套のことだ。順番に話すとしよう。君はあの晩、この家を十二時一〇分に出て、サンドイッチを買うためマジソン街まで歩いていた。君の話では、十二時三〇分ごろにバスに乗ったのだったな。バスに乗らずにこの家の玄関に戻ってきたと仮定してみよう。残りの面々が十二時半に立ち去ったときには、勝手口の陰に潜んでいたのだ。すると赤い駒がそばに落ちてきた。天からね」  ヒューの顔が朱に染まった。「このぼくがハーバート・グレイヴズだというんですか?」 「うむ、その通り。そうでもなければ君にとっては赤い駒に何の意味もない。ここに戻ってくる理由もない。そう仮定してみようということだ。気に障ったかね?」 「そんなことはありません」 「助かるよ。では君が駒を拾ったとする。タクシーの男も君だ。運賃を払うときに、指を曲げてカスカート氏のふりをした」  ヒューが肩をすくめた。 「ふむそうだった、バスのことがある。忘れていた。ジョーンズくんに頼んで、日中そのタクシー・ドライバーに聞き込みしてもらったのだ」ここでダフが間を空けたので、J・Jが話し始めた。 「頼まれたとおり、ぼくはここからブロードウェイ一〇八丁目までの道順をたずねました。セントラル・パーク・ウェストは通らなかったようです。五番街を北上して、一一〇丁目沿いですね。途中でエンストしたバスを追い抜いたのを覚えていました」 「ほう!」伯父が声をあげた。ヒューは気にするというよりむしろ戸惑っていた。 「ミラーがタクシーの男であれば――」ダフが解説する。「バスがいつどこでエンストしているかも知ることができたわけですな。それだけではない。覚えていたと言い張っている派手な服装の乗客のことも知ることができたのです」 「そういうことです」J・Jが話を引き取った。「タクシー・ドライバーも知っていましたからね。赤信号で止まったときに、バスが故障しているのを眺めてたって言ってました――物珍しかったから――運転手と車掌がボンネットを開けていたそうです。曰く、明かりがついていたので車内もはっきり見えた。曰く、パーティ・ハットとチェックのジャケットにサテンのドレス姿をした派手な女性が、信号待ちの最中は通路に立っていたけれど、やがて座り直した。別のバスが故障車のそばまでやって来たころに、タクシーを出したと言っていました」 「覚えているかね?」ダフがヒューにたずねた。「その女性が何を履いていたか」 「さっぱりわかりません」ヒューは無頓着に答えた。 「タクシー・ドライバーもそう言ってましたよ」J・Jが口を挟む。「靴は見えなかったと」 「しかるに明らかになったのだが」とダフがあとを引き取った。「その女性の靴は、バスの運転手と乗客が気づかずにはいられないほど目立っていた」 「どんなだったんです?」わたしは声をあげた。  ダフが微笑みかけた。「キャンバス・スニーカーだ。彼女自身が一つの謎だな」 「ほんとにそうですね」と言ってJ・Jがこちらに笑いかけた。「あっ! そういうことだったの!?」 「何がだ?」伯父が噛みついた。その声にわたしは斬りつけられ、鞭打たれた。 「その……J・Jが伝えたかったことがです」 「ぼくはちょっとふざけすぎたけれどね。ベッシー、きみは馬鹿じゃない」 「もちろんよ」かっとなる。「どうして思いつけたのか……」  ライナが口をとがらせた。「何の話をしているのか教えてくれない?」みんながいっせいにこちらを向き、ダフだけが微笑んでいた。  学校で内緒話を見つかったような気持になった。それも男の子に。  J・Jが口を開く。「たいしたことじゃありません。窓の外でぼくがジェスチャーをしていたんですよ。タクシー・ドライバーとバスの運転手のことを伝えたくてね」 「あなたの頭がおかしくなったのかと思ってましたよ」ヒューは怒っているようにも戸惑っているようにも見えた。  伯父が声を立てて笑った。「スパイと逆スパイの化かし合いが続いていたのか」愉快げだった。「この道化芝居の最中、君はどこにいたんだ、ミラー?」 「部屋にいました」ヒューは不機嫌そうに答えた。でもわたしの部屋より向こうからでも角度的にJ・Jを見ることができただろうか。ダフもわたしの疑問に気づいたようだ。わたしは、できただろうと結論づけ、ダフもそれを読みとった。 「故障したバスと通り過ぎたタクシーの話に戻ろうではないか。ここで様々な方法を検討してみると、一つの考え方がある。明らかになった事実と容易く結びつきそうでもあるし、少なくともアリバイ工作のやり口はすぐにわかった。バスの乗客は残念ながら、ミラーがバスに乗っていたかどうか確認できないだろう。警察も期待はしていない。われわれもだ。さてここで、この考えが即座に退けられ破棄されうるものであることを、どうか忘れないでいただきたい。一時的な見解なのだ。異なる見解をあちこち揺れ動く。彼はタクシーのなかでは小指を曲げていた。不都合はない。気づかれない可能性もあるが、それならそれで結構なことだ。自分の鍵でなかに入る。あとで『失くす』ことにする鍵だな。だがどこで『失くす』べきか。ピーター・フィンに声を掛けられ、返答する。ウィンベリーとしてだ。そうしなければならないことは明らかだ。彼はウィンベリーでなければならない。なぜならミラー自身であってはいけないからだ。まだ姿を見せるわけにはいかないのだ。鍵を持っているわけにもいかない。それに無論、殺人犯であってはいけない。ここでピーターに疑いを持たれてはならない。それゆえ、彼は一時〇八分にウィンベリーとしてなかに入る。本物のウィンベリーが入ってくると、ミラーは彼を射殺する。帽子と外套を脱がせなくてはならないのには気づいている。帽子も外套も脱がないまま一時〇八分から一時十五分までオフィスにいるとは考えにくいからだ。かくして、ウィンベリーが最初に帰ってきたという嘘を作りあげるために帽子と外套を脱がせて掛け、急いで立ち去る。素早くブロックを一巡りする。一時十九分にドラッグストアに入る。このときは、バスから降りたばかりで鍵も失くしたという、ミラー自身の役でだ。よいかね? 「厳しいスケジュールだ。どうにもならんのだ。バスがその街角に到着するまでの時間だけに限られているのだから。銃声に気づいた時刻が不確かであってくれと、ドラッグストアのなかで願ったことだろう。不思議な偶然から、銃撃の正確な時刻はわかっている。 「さて、ミラーは一時二二分にアパートに戻り、今度はベルを鳴らす。ピーター・フィンと死体を目にし、なんと死体がしゃべるのを目の当たりにする。問題はない。ただし……」ダフは一呼吸おいた。 「頭にあったのは自身の身の安全だけではないのだ。カスカートを危険に曝さなくてはならない。ウィンベリーの言葉は、自身の安全にとっては何の問題もなかったが、カスカートが犯人だという可能性も排除してしまいそうだ。そうはしたくない。カスカートを容疑のなかに引き戻さなくてはならない。唯一思いついた方法が、自らの手でごまかした帰宅の順序をご破算にすることだ。ウィンベリーが見えなかったのだと説明することはできる。しかしそうすれば、ウィンベリーが見えなかったこと、ウィンベリーが二番目に帰宅したことが明らかになる。眼鏡が曇って視界をさえぎったのは、暖かい部屋に入った直後に相違なく、その後すぐに曇りは晴れたはずだからだ。 「かくして計画を変更したミラーは、帽子と外套の問題を説明しなくてはならなくなる。あまり説得力のない説明を口にする。何らかの理由で殺人犯が、自分が二番目に来たと思わせたがったというのだ。『できれば最初の男が犯人であってほしい。それならぼくが犯人ではあり得ないから。アリバイの補強になる』。だがわたしにはこう思えるのだが、犯人であれば第一の男がウィンベリーだったとわれわれに思わせておくのが好都合だ。自分がドラッグストアに現れた時間に隣接しているのはまずいのだ。 「第一の男が犯人であり、なおかつピーターに『よくやっていたように、うなるような』声を出したのであれば、第一の男はウィンベリーと家のことをよく知っていたことになる。ウィンベリーがピーターに答える際の口癖を真似ることができたのだから。よいかね、ピーターはそれがウィンベリーであることを微塵も疑いはしなかった。カスカートやマクソンがウィンベリーの癖を詳細に知ることができたかどうかは疑わしい。だがヒュー・ミラーが知っているかどうかは疑う余地がない。そこに住んでいるのだからな。これが――」ダフはすぐに話を続けた。「二つ目の考えだ。これでわたしはミラーに目をつけた。それから無論――」  ヒューがさえぎった。「見事です。心からそう思います。赤い駒でやったことはどう説明するんです?」 「ああ、さよう」思い出させてくれてありがとうとでも言いたげな口振りだった。「君は復讐者として駒を置き去りにした。ヒュー・ミラーとして警察から駒を隠した。どういう意図があったのかね?」  ヒューがユーモアを見せたのは初めてだった。「自分でもわかりませんね。どうしてそんなことをしたんでしょう?」 「ヒューがそんなことをしたのは」伯父が言った。「警察は彼ほどロマンチックではないからだ。重大な手がかりであるかもしれぬのに、ガーネットなら何の注意を払うこともせんだろう。手元に収めた今も注意を払ってはおらん」  ダフが言った。「ピーターが目撃者でしたぞ。見つけたのも彼だし、そこにあったことを証言できる。ヒュー・ミラーとしては、ごく自然な――」 「自然か!」伯父があざ笑うようにさえぎった。「こいつは駒を手にして事態を混乱させたのだ」  ダフはしばし無言で考え込んだ。伯父は本当にヒューが犯人だと思っているのだろうか。それとも、ダフは伯父の言葉に何らかの意味を見出したのだろうか。だとしたら、どんな意味なのだろう?  ところがダフは話を再開した。「次にミラーは電話をかける。ドラッグストアからこの家に電話をかける際には、殺人の時刻と帰宅を知らせる電話の時刻を確実に遠ざける必要がある。あまり早く電話して、カスカートにアリバイを与えたくはない。電話ボックスにいるミラーには、もっといい考えがあった。二度ベルを鳴らしただけで電話を切り、一時五〇分にはカスカートがまだ帰宅していなかったと主張することだ。時間を置いてふたたび電話をかけたにしては、置いた時間が長すぎる。これはなぜか。 「通常のように、すぐに電話をかけ直したくはなかったのだ。なぜならカスカートが電話に出てしまい、秒刻みの偶然をわれわれに信じ込まさねばならなくなってしまう。一時五〇分に電話をかけるとカスカートは外出中だったが、一時五〇分直後にカスカートは部屋にいた。ここまではよいかね?」 「ええ、まあ」ヒューが答えた。 「複雑だな」伯父が言った。「君はチェスを指すのか、ミラー?」 「いいえ」 「残念だな。一勝負してみたかった」 「お忘れですよ。ダフさんの仮説は、ぼくの考えそのものというわけじゃありません。やるならダフさんとお願いします」  二人はとても友好的に見えた。ヒューが気の利いたことを言ったかのように、わたしは笑ってさえいた。事実そのときには、ヒューが犯人である可能性など信じてはいなかった。ところがダフの次の一言で、わたしは我に返った。 「さて、翌朝ミラーはベッシー・ギボンに会いにここに来る。すでに会ったことがあったわけだな」意味ありげに言葉を置いた。まるで冷やかな警告のようだった。「真っ先にすることは、カスカートにアリバイがないことを彼女に確認することだ。先に進む前にそれを確かめることだ」 「でもヒューはただ……でもヒューは……」口が回らない。 「なにゆえベッシーに会いたがったのか?」ダフは穏やかに続けた。「無論、煙草入れに鍵を入れる時間を取り、ベッシーに見つけてもらうため、外で拾った三つの駒のうち使わなかった二つを箱に戻し、見つけてもらうためだ。なにゆえそんなことをしたのか? カスカートが外出していたと信じさせるためだ。なにゆえここに来てベッシーを怖がらせたのか? ベッシーを部屋から追い出し、一人になってふたたび赤い駒を取り出す機会を作るためだ」ダフはヒューと相対し告げた。「なぜ四つ目の駒も持っていかなかったのだね?」  ヒューの顔が怒りに染まっていた。以前と同じように、こめかみに静脈が青く脈打っている。けれど、話す声は抑制が利いていた。「カスカートさんにも鍵を入れる機会はあったでしょう」驚くほどに穏やかだった。「カスカートさんには、赤い駒をどうにでもする機会が常にありました。ぼくがここに来る前にも後にも。ベッシーのことも、怖がらせるつもりはありませんでした。ベッシーのことを思ってのことだったんです。確かに会ったことはありましたが」ヒューがわたしを見た。J・Jの肩に乗せたわたしの手を。「一度だけでした。本当です」  わたしは真っ赤になり、J・Jの顔が朱に染まった。伯父は稲妻のごとく素早かった。「君は何度くらいベッシーに会ったのだ、ジョーンズくん?」 「これから何度会えるのかとわくわくしてますよ」  伯父はダフに向かって言った。「この子はそのことを隠していた」考え込むようにそう言うと、心を読もうとするようにわたしを見つめた。どんな嘘であっても伯父には読みとられてしまっていただろう。わたしは爪をJ・Jの肩にうずめた。スーツケースを詰め忘れていたことを伝えたかった。もちろんできない。わたしには何もできなかった。  ヒューがつぶやくのが聞こえた。「ベッシーを怖がらせているのは誰です?」  もうじっと座っているのは我慢できないというように、ライナが立ち上がった。「面白いお話でした。でも結論はどうなったんです? あなたは……わたしには、ヒューがウィンベリー殺害の犯人だと言っているように聞こえましたが? そういうことでしたら、とてもじゃないけれど――」 「違いますぞ」ダフが抗議した。「これは可能性の話です。彼がハーバート・グレイヴズだったとしたらの話ですな。そうでなければ、何の動機も見出せません」 「それは――」ライナの声が冷たく変わった。「チャールズが犯人ということ?」 「そうとは言っておりませんぞ。可能性の話です」 「でもガイは可能性の埒外みたいね?」 「マクソン氏がどうすればミラーの鍵を箱に入れたり赤い駒を元に戻したりできたのか、わたしにはさっぱりわからんのですよ。あなたが共犯者であるとすれば別ですが」  わたしは頭がくらくらし、脳みそが一つの考えをわめき立てていた。ライナの父は救貧院にいる。ライナの父にはまだ刑務所行きの可能性が残されている。ライナはお金で買われた。ライナはまだ若い……。  ライナは魂がしぼんでしまったように、椅子に崩れ落ちていた。 「ダフさん」ようやくライナは声に出した。「あなたはとても賢くて思いやりのある方だと思います」力なく掌を広げた。「でもいったいどうなってるんです?」 第十六章 「第二の殺人に取りかかりましょう」ダフが言った。「ギャスケルの死の状況を検討すれば何かわかるかもしれませんぞ。その前に言っておきますが、これらの『可能性』がすべて実際に可能であると本気で信じておるわけではありません。事実というもの――性格のなかの事実、感情のなかの事実というものがあって、いわゆる証拠などより信が置けるものです。例えば、カスカート夫人がガイ・マクソンの共犯者だったなどと、わたしは一瞬たりとも信じておりません」 「ありがとうございます」ライナが冷たく答えた。  マク・ダフは微笑んだ。話が進むにつれて知りたいことをすべて打ち明けているのだという思いが、ふたたび強くなった。 「まずはマクソン氏に参りましょう。昨晩ギャスケル氏とご一緒でしたな?」 「そうだよ」マクソンが答えた。「ぼくらは……いろいろあって一緒にここから立ち去ったんだ。ギャスケルはタクシーを待たせていた」 「あなたはこの家にいたと。ではカスカート氏がここにいたのもご存じでしたな?」 「うん。二人で仕事の話をしていたんだ」 「リスクを犯すよう説得されていたのだ」伯父が口を挟んだ。「リスクのことなどおくびにも出さずにな。わたしはリスクなど気にせぬが、リスクを承知していながら無知な人間に取引を持ちかけるのは気に障る」マクソンは無言だった。「一杯食わせるつもりだったのかもしれんが」伯父は聞き取れぬほどの声でつけたした。 「ギャスケルはまっすぐ帰宅したのかね?」 「うん。家によって一杯やらないかって誘われた。だから付き合ってギャスケルの家で一杯飲んだんだ。でもあんまり話はしなかった。一杯飲んだらおいとましたよ」 「今回の事件ではサーモスタットのタイマーが壊されておったのですが」ダフが言った。「ギャスケルが午前二時以降に殺されたと受け取ることができる。あるいは反対に、殺人犯がそう思わせたかったという可能性もある。一時四五分にお別れした際には、まだちゃんと生きていましたかな?」 「当たり前だよ」 「直後に戻ったときには?」 「ぼくは戻ってない」 「おお、そうでしたな。そう仰ってましたな。一時四五分から二時〇八分のあいだ、ギャスケル家からホテルまで歩いていたというわけですな?」 「そうだよ」 「夜中にずいぶんと歩きましたな」 「歩くのは嫌いじゃないからね」マクソンが答えた。ずいぶんと偉そうだった。 「地下鉄の八番街線はご存じですな?」 「ご存じ? それは聞いたことがあるって意味かい?」 「よいですかな」ダフが説明を始めた。「サーモスタットのタイマーは、午前二時に暖房が切れるようにセットされており、さらには犯行直後の犯人によって壊されてしまったと考えてみましょう。あなたがホテルにたどり着くには六分か七分の余裕があることになりますな。折よく地下鉄がやって来て、運よく乗り込むことができたらの話ですがね。これだと無論、あなたが時計の重要性に気づかなかったということになります。わたしとしては、二時のアリバイがあれば無実を証せることに気づいていながら、運に頼るようなことをあなたがするとは思えませんがな」  マクソンの口が開いた。間が抜けて見える。 「ウィンベリーの死後、フラットに伺ったことはありますか?」 「ウィンベリーの? ないよ」 「ない。間接的証拠ではありますが、そこであなたを見かけた者はおりません。あなたが一時四五分から二時〇八分まで歩いていたと証言できる人物がいらっしゃいませんかな?」 「難しいな。誰も見かけなかったよ」 「そうなると、確実にあなたを除外できるような証拠がないのですぞ」ダフはため息をついた。「というのも、あなたが今も赤い駒を持っている可能性は残っておるのですからな。カスカート夫人やこの家の誰かが手助けしたということも考えられます」 「気をつけるよ」マクソンが苦々しげに言った。「これからは人の見ていないところでは一インチたりとも動くもんか」 「そうしていただきますかな」とダフが言ったので、マクソンが驚きを浮かべた。 「次は、カスカート氏やミラー氏に、昨晩ウィンベリーのナイフでギャスケルを殺す機会があったかどうかを検討せねばなりませんな」ヒューが何か言いかけたが、ダフがさえぎった。「わたしなりのやり方で説明させてくれたまえ。第一に、二人とも赤い駒を拾うことはできた。第一の殺人後、残りの駒を手元に置いていたのがどちらとも決めかねる。第二に、二人ともウィンベリーのフラットからナイフを持ち出すことができた。よいですな?」 「そうだな」伯父が答えた。「続けたまえ」 「無論、指紋はない。二人とも手袋をしていたのでしょう。第三に、一時四六分ごろギャスケル家に入るのを目撃された男だが、背が高いという事実のほかは正体はわからない。あなたがたは三人とも背が高い。何の助けにもならぬわけです。 「マクソンさん、あなたが無実だとして、ギャスケル家を出る際、この二人のどちらかを思わせる人物を見かけませんでしたかな?」 「いや」 「二人とも、あなたがそこに行ったのは知っていた」ダフが息をついた。「見つからぬように隠れて、あなたが出てくるのを待ち受けていたのでしょうな。さて、偶然にも昨夜は二人ともこの家にいた。一時四六分にギャスケル家に現れた人物であるためには、その少し前に家を出なくてはならない。十二時三〇分過ぎには家の人間は部屋にさがっていた。十二時三五分、ヒュー・ミラーとベッシーが二つのドア敷居に糸を置いた。午前二時過ぎ、ベッシーとヒューは勝手口の糸が動いているのを見つけた」  伯父が大声で笑い出した。 「無論――」ダフが悲しげに続けた。「カスカートにもミラーにも、封を破ってドアを開けることはできた」 「ヒューには無理よ」 「そんなことはあるまい。十二時三五分から二時までのあいだ、君たちは一緒にいたわけではなかろう」 「それは、それはそうですけど!」 「十二時三五分から二時までのあいだ、誰かと一緒だったかね?」ダフはヒュー・ミラーにたずねた。 「いいえ」ヒューは足を組み直した。「ですが十二時三五分から二時三〇分までカスカートさんはどこにいたんです? 帰ってきたのが聞こえたのはいつでしたか?」  伯父が立ち上がって暖炉を蹴った。 「いいですか」ヒューが不意に明るさを見せた。「これまでの話はたいへん面白いものでした。でもその時間ならぼくにはアリバイがあると思うんです」 「午前二時から四時以後までなら、君のアリバイは完璧だ」ダフが認めた。「サーモスタットの証拠を信じるとすればだがね」 「では信じなければ?」伯父がたずねた。 「犯人がタイマーに気づくほど鋭い人物であり、手動で気温を下げれば殺人が二時以後だという印象を残せるとわかるほど賢い人物であるならば、その場合は無論、実際の犯行は二時前なのでしょうな。しかしその場合だと、ミラーがベッシー頼みの危険を冒した理由が理解しがたい。アリバイとして利用するつもりなら、ベッシーが二時ごろに起きることに賭けたとでもいうことになる。だが起きない可能性だってあった。彼にはカスカートが家にいることがわかっているわけだから、あまり大きな音を立てるわけにはいかなかっただろう。部屋に入ることはできたのかな?」 「ドアにはバリケードみたいなのを作ってました」わたしは答えた。「だから、大きな音を立てないかぎり、なかには入れませんでした。非常階段の窓は開けてなかったし」ヒューがそうするように言っていたのを思い出したのだ。「窓は閉めて鍵も掛けていたので、そこから入ることもできなかったはず。ヒューの部屋からもそれは見えたと思う」 「では、特定の時間に君を確実に起こすことはできないのだな?」わたしは首を振った。「きっと、ヒューもできないことはわかっていたと思う」  部屋に沈黙が降りた。熾った火が音を立てる。マントルピースの時計が小さく澄んだ音を鳴らした。午前零時だ。  マクソンが突然口を開いた。「ぼくは容疑の外らしいや。どっちにしても。この件については、ぼくのアリバイは問題ないものね。かなりの偶然に左右されているとはいえ。ぼくに不利な事実はないんだ」彼は鼻先からダフを見下ろした。  岩を飲み込む流れのように、沈黙がマクソンの言葉を飲み込んだ。やがてライナが顔を上げて言った。「そうなんですか?」ダフはうなずいた。眠そうな目つきだった。  ヒューが言った。「ぼくはぼくであってほかの誰でもないのですから、ぼくにはやはり動機がありません。ぼくのアリバイも、この件では問題がないと思うのですが」  ダフが答えた。「そのようだな」  沈黙が訪れた。伯父が動いた。「わたしは家にいなかったのだから――」  ライナが慌てて口を出した。「わたしに説明させて、チャールズ」椅子にもたれて頭を預け、目を閉じた。伯父は微動だにしない。わたしたちはライナの美しい顔に注目していた。「いい?」ライナの声は少し疲れ気味で、少し厳しく、少し冷たかった。「チャールズにもアリバイはあるの。一時十五分から、たぶん二時十五分くらいまで。だからね、昨夜……チャールズはわたしの部屋で、わたしと一緒にいたの。そうでしょ、チャールズ?」ライナは目を開けなかった。  マクソンの顔に怒りが浮かび、ヒューの顔にはうろたえたような表情があった。マク・ダフは平然としていた。 「ライナ」伯父が優しい声をかけた。それがすべてだった。  マクソンが声をあげた。「ねえライナ、どうして嘘をつくのさ?」 「これでどうなりました、ダフさん?」ライナがたずねた。 第十七章 「まだ終わってはおりませんな」ダフが答えた。「ところがわれわれはどうやら終わりまで話したようだ。つまり、誰かが嘘をついていたのですな」  そうだ、誰かが嘘をついていた。例えばライナ。それはわかった。直感的にわかった。でも理由はわからない。ライナは恐れているのだろうか? 伯父が暖炉脇から何かの合図を送ったのだろうか? 何も見えはしなかったけれど、わたしにはまったく見当がつかない。この人たちにはわたしの知らないことがたくさんある。マクソンは嘘をつけた。マクソンは地下鉄を使って大急ぎで帰宅することができた。いくら本人がそんな大衆的な移動手段を使ったことがないと言い張ったとしても。でもマクソンはそんなに賢くない。たぶん賢くなくてもよかった。たぶんラッキーだっただけなのだ。ヒューも嘘をつくことができた。でも勝手口から出入りしたのがヒューなら、糸のことを知っていたはずだ。糸を戻すことができた。わたしにそう思わせようとしているのでないかぎり……でもコートのことがある。伯父のコートだ。 「待って! コートよ!」わたしは叫んでいた。「コートがなくなって、また元に戻っていたの。それに入ってくる物音も聞こえた。ごめんなさい、ライナ」 「きっとほかの人よ」ライナはかたくなに言い張った。 「でも誰が?」わたしは声をあげる。「エファンズには伯父さんのコートは着れないじゃない。埋もれちゃうわ。ほかには誰もいないし」 「よいかな」ダフが言った。「状況そのものが不可能なのだ。完全に不可能だ。今までの話をすべて信じるならそうなる。ゆえに、誰かが嘘をついていたと確信せざるを得んのだ」 「それは――それはわかりますけど」  チャールズ伯父さんが腰を下ろし、足を伸ばした。「わたしのコートか。なるほど、……」 「昨日の夜は寒かった」J・Jがすかさず責め立てた。「コートが必要なほどにね。違いますか?」  ダフが長い腕を上げてさえぎった。「重要なのは――」冷静な口ぶり。「さらなる夜が更けてしまったことだ。それも危険な夜が。わかっているのは、危険なことだけでしかない」 「危険?」ライナが声を出した。 「わたしの言ったことはおわかりのはずですぞ。ヒュー・ミラーこそハーバート・グレイヴズであれば、マクソンとカスカートを危険に曝すことになる。部下が経歴を調べておるところです。ミラーがグレイヴズであれば、残されたのは今夜だけ、明日では間に合わないと覚悟しておるはずだ。 「マクソンが犯人であれば、やはりカスカートには今夜警戒が必要だ。なにしろ犯人は、遠からず見つかるかもしれぬ証拠がどこにあるか知っているわけですからな。さらにカスカートが犯人であれば……」 「ぼくは危険なのか」マクソンが声をあげた。「危険なのか。そうなんだ。ねえ、みんなで一晩中ここに座っていようよ? ぼくはそうするよ」  ライナがうめいた。  J・Jが言った。「ほかにどうすることもできないんですか? 誰が犯人なんです? あなたにはわかっている。そうでしょう?」 「見当はついている」 「教えてください。そうすればできることが――できることが――」 「いずれにしても護身対策を立てることはできる。わたしの推測を教える必要なないだろう。もうたっぷりと互いを疑いの目で見ている。違うかね? わたしはここで夜を過ごしてよいのですかな?」 「お願いします」ライナが答えた。 「ぼくもお願いします」J・Jが言った。「だめならベッシーを連れ出してください」 「ベッシーがこれまでにどんな悪行や善行をおこなっていようと」伯父が我慢しかねたように口を出した。「ベッシーは安全だ。それにヒューも安全だ。狙われているという事実もなければ、狙っている人物もいない。よいか、ガイかわたしなのだ。そういうことでよいのだな?」ダフがうなずいた。伯父の冷たい目が細められた。「わたしではない。わたしを罠にはめる方法でも見つけていれば別だがな」 「やめてくれよ」マクソンが言った。「ぼくは帰りたくない。一人になりたくない」  ヒューが不機嫌そうに口を開いた。「ぼくがそれほど安全だとは思えません」  ライナが言った。「これからどうすればいいんですか、ダフさん?」  マクソンが言った。「ぼくは帰りたくない。一人になりたくない」  ダフが慎重に口を開いた。「ここで夜を過ごすことはできるでしょうが。それでは解決にはなりませんぞ」 「ぼくはどうすればいい」マクソンが言った。 「なぜ帰らなんのです」ダフはなおも続けた。「家にいれば免れることが――」 「いやだ。帰りたくない。ここから出た途端、二人のどちらかがどちらかを殺して、ぼくに狙いを定めるんだ」その声は狂気じみていた。「ぼくは帰りたくない。一人になりたくないんだ」  そのとき伯父がふたたび立ち上がった。「君たちは好きなようにしたまえ。この家は君たちのものだ」声はまるでレイジーな音楽。「だがライナとわたしは二人でベッドにさがるつもりだ」  ライナの顔が青ざめ、次いで赤くなった。かぎりなく動揺しているようだ。罠にはまった無力な動物のように、きょろきょろと頭を動かした。隠すよりも早く、目にはショックが満ちていた。  マクソンが耳障りな声をあげた。「女を連れ込むのか!」  チャールズ伯父さんは馬鹿にでもするように頭のてっぺんから見下ろした。「わたしの家だ」一言だけ。「わたしの妻だ」 「われわれもベッドにさがるとしますかな」ダフが努めて明るい声を出した。ライナが見上げると、ダフは微笑んだ。優しい勝利の微笑み。これにはライナも驚いて茫然としてしまったようだ。「ここにはどんな部屋があるのですかな、ミセス・カスカート? ベッシーの部屋は?」 「ベッドが二つ」わたしは答えた。「わたしも一人はいやだ。ねえエレンはだめですか……? なんだか懐かしい感じがして」 「わかった、エレンだな」伯父がベルを鳴らしてエファンズを呼んだ。 「ほかに、四階には第二客室があります」ライナは説明を続けた。「そこは二人用。それからヒューが使っている小部屋があります。ヒューは一人きりね」 「今夜は別です」ヒューが言った。「一人じゃない。誰かぼくを見張っていてくれませんか」 「四階に移ってJ・Jと相部屋になりたまえ。J・J?」 「すみませんね」J・Jが答えた。「ぼくはベッシーのドアの前で頑張っていますよ。ベッシーのいるところならどこへでも」 「それなら、ミラーが使っていた小部屋を使いたまえ」 「ぼくもベッドに入らなきゃいけませんか?」  マクソンが割って入った。「ぼくが四階の部屋で同室するよ」 「わたしが決めたのだ」ダフが言った。 「ぼくを一人にすることを? 一人になりたくないって言ったじゃないか」 「ぼくだってそうです」ヒューも言った。 「ぼくが君のアリバイ証人だ、ミラー。君がぼくのアリバイ証人。今夜ぼくを殺したら、自分の首を絞めることになるんだからね。そんなことをするとは思えない。だから君を恐れてはいないよ」マクソンの視線が伯父に移された。「それにもしダフとジョーンズが廊下を見張ってくれるなら……」  ダフが答えた。「よいでしょう」 「ぼくもあなたを恐れてはいません」ヒューはマクソンに向かって言ったのだが、誰に向けた言葉なのかわたしにはわからなかった。  わたしは自問してみた。眠れる人なんているのだろうか? 眠れるような人なんているだろうか? ベッドに入るなんてばっかみたい! だけど全員でここに座って夜を費やすという選択肢を考えてみたら、きっと朝には発狂してしまうに違いない。でもとにかくわたしたちは時を費やさなくてはならないのだ。ダフが時を欲しているのだから。  ダフも家を見て回りたがった。そう言うと、伯父がエファンズに案内するように告げた。エファンズは痩せ細り怯えているように見えた。「かしこまりました、カスカートさま。恐れ入ります。ダフさま、こちらでございます」  残されたわたしたちは全員で部屋にとどまっていた。全員が部屋にとどまり、目を開けて、同じ部屋に集まり、見張り合っているかぎり、わたしたちは安全なのだ。でも誰かの頭のなかでは、たった今も計画が形作られているかもしれない。だけどどうやって朝までに何かをやれるというのだろう? 間違いなく、今夜人を殺しながら逃げることなど誰にもできない。でもすでに二人も殺した人間は、もはや何も気にしないのではないだろうか? 逃げる気などなく、仇が死ねばそれでよいのでは? 玉砕相手では、防ぎようがない。だけどダフが見張っているはず。見張っていることはわかっている。  このなかの誰が、今夜犯人の隣で寝るのだろう? 少なくとも犯人の頭が、枕の上でのたくり、もだえ、掻き乱されるのだ。  ダフがいないあいだ誰もしゃべらなかった。J・Jがわたしに腕を回し、顎がときどき髪にこすれた。ヒューは椅子に丸まって絨毯を見つめている。マクソンはズボンの折り返しから埃を取り除いていた。ライナは目を閉じたままだったが、息はあがっていた。伯父は紙マッチを手に――指の曲がった手に――乗せ、ときどき放り投げては受け止めており、掌で乾いた音を立てていた。  ようやくダフの戻ってくるのが聞こえた。ポケットに手を入れ、背を丸めて戸口に立っていたが、落ち着きと鋭さを帯びていたし、視線は顔から顔へと飛び回り、一人一人個別に鋭い警告を与えていた。「どうやら何者かが手筈を整えているようです。何がなくなっていたかお知らせすべきでしょうな。カスカートさん、あなたの拳銃が鏡台になかった。どこにあるかご存じですかな?」 「いいや」  ダフは肩をすくめた。「探しても役には立たんでしょうな。ご存じのように、こうした家にはわかりにくい隠し場所がいくらでもあるものだ。ミセス・カスカート、睡眠薬がいくつかバスルームから消えていました。エレンによれば、箱は一杯に詰まっていたそうですな。確かですか?」 「ええ。昨日見ましたから。昨日はちゃんとありました」 「それが今はなくなっている。第一客室のペーパーナイフも、今はなくなっていた。見た覚えはないだろうね、ベッシー?」 「ありません」 「そうだろうとも。地下室から小さな手斧がなくなった。エファンズのガウンの紐がどこにも見あたらなかった」  エファンズの歯が鳴り、顎が震えた。「コックは存じません……わたくしも存じては……」 「ずいぶんと意味ありげなコレクションだな」伯父が物憂げな声を出した。「そのペーパーナイフは心配いらん。なまくらだ」と言ってあくびをした。 「申し上げておきますぞ」ダフは穏やかに告げた。「もっとも安全であるのは、離ればなれにならぬことです」  誰一人何も言わなかった。吹き抜け側の引き戸が大きく開いており、彼岸から吹き荒れる死の風を感じた。でも馬鹿げているのはわかっていた。なにしろ死の意思はここにあるのだ。誰かの頭に閉じ込められている。マクソンの狭苦しい頭蓋のなかに、ヒューのなめらかな淡い髪の下に、伯父の広い額の頭骨の裏に。  伯父が火箸をつかんで火のついた薪を絶え間なくひっくり返し始めた。ばらばらになればそのうち火は消えてしまう。「このままここで徹夜をしても、互いに死ぬほど退屈するだけだ。恐ろしい顛末だな。来なさい、ライナ。寝酒はそこだ。欲しければ飲みたまえ」  ライナは笑みを浮かべて立ち上がったが、目は閉じかけたままだった。「みなさんは道をご存じ?」そう言うと、目をつぶったままのおかしな歩き方でドアに向かった。  わたしたちは二人ずつ上に向かった。ダフは立ったままそれを見送っていた。誰も寝酒を飲もうとはしなかった。  J・Jが寝室の戸口でエレンにわたしを引き渡した。  ベッド脇にはホット・ミルクの詰まった魔法瓶が置かれていた。口はつけなかった。 第十八章  わたしの身に何か起こるとは思っていなかった。その恐れはない。わたしは戦慄を恐れていた。今にも絶叫が聞こえたり、瀕死の叫び声があがるのを恐れていた。  あるいは小さな物音。密かな物音。なお悪いかもしれない。闇のなかで何かが動く音が聞こえたら。床を這っていたら。何かの影が見えたら。暗闇よりも暗い何かが。闇にこもった空気が、やがて実体に。  あるいは、何も見えないし、何も聞こえないかもしれない。でも目を覚まさない人がいたら。  エレンは隣のベッド上の黒い固まりだった。でも眠ってはいない。吐息が聞こえる。ヒューとガイのことを考えた。二人とも横になって狸寝入りをしたまま、目を覚ましているはずの物言わぬ影を見つめ合い、暗闇のなか身動きもせず夜を過ごしているのだろうか? ライナは夫の隣の大きなベッドでまんじりともしていないのだろうか? チャールズ伯父さんは眠れたのだろうか? 人間らしく暖まって、何も気にせず無防備に横になって? そもそも眠ったことがあるのだろうか?  結局ライナは? それに伯父は起きているの? それから?  マク・ダフは今も疲れた顔をしてドアの外で見張り、聞き耳を立てているのだろうか? J・J・ジョーンズは起きているだろうか、眠っているだろうか? わたしのことを考えている? わたしの薔薇色のドレス、あの素敵なドレス。わたしは気分が楽になり……    目が覚めたときにはかすかに陽が射していた。エレンはベッドから出て服を着ていた。七時だった。 「起こすつもりはなかったんですよ、ベッシーさま。どうぞこのままお休みなさいまし」 「もう朝? もう大丈夫なの?」 「エファンズが先ほど下に参りました。ええ、朝でございますよ。コーヒーは召し上がりますか?」 「コーヒーでも何でもいただくわ。朝なんだ。すごくうれしい」 「用意でき次第お持ちいたします」そう言ってにっこり微笑むと、おろしたての仕事着姿で部屋をあとにした。わたしは起きあがって、ドアをふさいでいる家具を押しのけようと思っていた。外を覗いてみる。吹き抜けにはいつものように電灯が灯っていたけれど、階下からは朝の雰囲気が立ちのぼってきた。「コック台所に知ろしめす 世はすべてこともなし」といったところ。  初めに気づいたのは、J・Jの顔がドアからひょこりと覗いたことで、次に気づくと、J・Jはわたしの部屋のなかでキスをしていた。 「だめよ。はしたないじゃない!」 「きみを守りに来たんだぞ。エレンは行っちゃったんだからね。それとも一人きりでいたいのかい? こうして夜明けは来るんだよ」彼はもう一度キスをした。 「結婚したいかたずねてよ。うん、って答えるから。そしたら、はしたなくなんかないもの」 「そうかもね。そうすると週末にはジョーンズ夫人になっちゃうんだぞ? これが最後のチャンスだ」 「でもまだ歯も磨いてないし……」  J・Jがわたしの顎を持ち上げた。「歯のことなんて気にするな。愛してるかい?」そう言ってわたしを抱きしめた。まあ言ってみれば。「好きに決まってるじゃない」  もう朝だ。そしてJ・Jがいる。恐れるものなんか何もないのだ。  ぶつかるような音、くぐもった金属音がして、水の跳ねるような音のあとに静寂が訪れた。これが一連の出来事だった。  わたしたちは三十秒ばかり立ちつくしていた。J・Jが痛いほど力を込めた両手でわたしをかたわらに移動させ、ドアを開けた。  マク・ダフが階下から駆け上がってきた。何も言わずにわたしたちの前を通り過ぎると、廊下を走ってライナのバスルームのドアをがむしゃらに叩き続けた。シャワーが出しっぱなしになっているのが聞こえる。誰かがドアを開けた。ダフは言葉を発しなかった。きびすを返すと階段を駆け上がり、四階に向かった。  J・Jが音も立てずにすばやく廊下に飛び出し、階上を見上げた。伯父がライナのバスルームから顔を出した。髪は濡れていた。素肌にローブを羽織っている。ライナの部屋のドアが開くと、そこに可愛くてくしゃくしゃの寝間着姿のライナがいた。  階下から誰かの叫びが聞こえた。J・Jが下を見下ろし、手すりから後じさった。ライナが壁に倒れかかり、伯父が身体を支えた。すべては無言のまま。  初めに階上に見えたのは、ヒューが履いている羊革の室内履きだった。それから眼鏡のない白い顔が、じっと目を凝らしている。四階でドアがばたんと閉まり、マク・ダフがヒューを追い越し急いで降りてきた。ダフは手すりに身体を預けた。  J・Jがたずねた。「マクソンはそこにいるんですか? 死んだんですか? 亡くなったんですか?」  エファンズの声が近づいてきた。かぼそく不吉な声。「首に紐が巻きついておりました」 「首を絞められていたのだ」ダフが説明を始めた。「あの壁龕のところだ」指さす先を見ると、螺旋階段の壁側がちょうどこの階のところでへこんでいた。二階と同じ造りだ。奥行はないけれど人間大の飾り壁龕だった。「ガウンの紐で。手すり越しに投げ落とされたのだ。それは何だ?」エファンズに向かってたずねた。 「ご主人さまのパチーシ駒のようでございます」エファンズの声は不吉にも地の底から聞こえていた。「赤い駒でございます」  ライナが意識を失った。伯父がぐったりした身体を軽々と抱え上げた。  ダフが話している。「ここにバスルームがある。二つのバスルーム、それぞれドアは二つ。二つのバスルーム、三人が同時に目を覚ました。マクソンはこの階の廊下からあそこに向かっていた」ダフはわたしの部屋のバスルームを指さした。「だが二人のうちの一人は、バスルームにはいなかったのだ。いたように見せかけていただけだった。奴はその壁龕にいた。まだ暗かった。あたりの電球は消えていたから暗かったのだ。マクソンが通り過ぎた瞬間、奴は紐を喉にすべらせた。たいして時間はかからん。何という悪賢い奴だ! 唯一の機会! 無二の瞬間! 絶好の時機を捉えおった!」  ライナがうめきをあげた。 「わたしがシャワーを使っていたことはライナが証言できる」伯父はそう言ってから言葉を置くと、にやりと笑った。「まだやるのかね?」 「まだやりましょう」とダフは言った。「ミラーは四階のバスルームにいました。シャワーはありませんでしたな。わたしがたどり着いたときには、浴槽から出てくるところでしたよ」 「シャワーを出しっぱなしにすることだってできるでしょう」ヒューが言った。「実際は別の場所にいたのに」  ダフはこう言っただけだった。「ミセス・カスカートを介抱せねば。みなさんも、服を着てくれますかな。図書室に集合だ。わたしはガーネットに電話いたします」  エレンがやって来て、すすり泣いて祈りの言葉をつぶやきながら、伯父のあとからライナの部屋に入った。わたしは呆然としたまま服に着替えた。  やがて図書室に集まると、エファンズがコーヒーを運んできた。病んだように震えている。階下には警察がいて、話し声が聞こえ電灯は消えていた。ダフが図書室のドアを閉めてそれを遮断した。しばらくわたしたちの顔を眺めている。有無を言わさぬ毅然とした態度。電話に向かい、番号を回した。 「マクガイアか? ほう? うむ。さよう、わかっておる。そのまま続けてくれ」受話器を置いた。ヒューの憑かれたような目に、軽蔑が瞬いた。  わたしはライナの隣に座っていた。ライナは青ざめ、彼女にしてはルーズな格好だった。J・Jは厳しい目つきでわたしのかたわらに立っていた。伯父とヒューは向かい合い、ダフが二人のあいだに立ちはだかった。 「例によってお二人とも、あの第三の赤い駒を持っていた可能性がありました。三つのうちの最後ですな。あの駒とも長いつきあいになりましたな。お二人とも紐を手に入れることができたし、早めに隠すこともできた。お二人とも壁龕に隠れることができた。二階のバスルームからも、四階のバスルームからも、ほぼ同じ距離ですな。お二人とも廊下で頭上の電球をゆるめることができた。まさしく、シャワーを出しっぱなしにしたまま部屋を出て、大急ぎで戻ればよいのですからな。同じく、浴槽のお湯を出しっぱなしにしたまま栓を抜いておけばよい」  ダフはヒューに視線を向けた。「マクソンは、君が部屋からバスルームに向かったのを見ていたはずだ。違うかね? ドアに鍵を掛ける音を聞き、浴槽にお湯を張る音を聞いた。君がそこにいて、しばらく出てこないと考えたのだろう。階下のバスルームに行った方がよいと判断した。 「ところが君はそこにはいなかった。カスカート氏のシャワー音が聞こえたのではないかな。誰にも見られず一人きりになれる最高の機会だと悟ったはずだ。ベッドから出てバスルームに閉じこもった。いや、閉じこもったように見せかけたのだ。廊下側のドアから外に出ると、絶好の機会を待っていた。何も起こらぬかもしれなかったが、起こってしまった。君の準備はできていた」 「ぼくの準備ですって!」ヒューが声をあげた。「あなたは狂ってます。ぼくはハーバート・グレイヴズではないし、かつてそうだったこともありませんから、一連の犯罪に関するもっともらしい動機もありません。あなたは自分の才知に取り憑かれているんです。どうやらぼくをハーバート・グレイヴズにしたいらしい。教えてください。あなたの部下はさっきの電話で、ぼくがハーバート・グレイヴズだと報告したんですか?」 「いいや。そうは言わなかった。まだそうではない」  ヒューは笑い出した。「ここには同じくらいの機会を持っていた人がいるんですよ。冷酷で。悪人で。そのうえ、ガイ・マクソンを殺す完璧な動機がありました」そう言ってライナを見た。「すみません。でも我が身を守らなくちゃなりませんから」  ライナはやつれた顔を上げた。「何をおっしゃっているのかわからないわ」  マク・ダフが言った。「よいですか、みなさん。チャールズ・カスカートは、ご自身にはマクソンを殺すいかなる動機もないことはご存じのはずですぞ」  ヒューが驚きを露わにした。伯父の顔に笑いが浮かんだ。巨体を起こすと堂々と――としか言いようがなく――マントルピースに歩み寄り、わたしたちから離れて余裕たっぷりにもたれかかった。 「賢い判断だな、ダフ。カスカートはいつ何時でもあらゆる物事を切り抜けるものなのだ」からかうような嘲るような声だった。両の目にはからかいと嘲りが灯っていた。「今回も、だ」  ヒューが歯を食いしばる。「今度の事件でぼくを仕留めるつもりなら、お気の毒さまです」努めて冷静に話し、穏やかになろうとしていた。「手をかけることは不可能です。どうするんです? ぼくはハーバート・グレイヴズではありません。ぼくには動機がない。こんな馬鹿げたことなど何一つやってません」  ダフが言った。「暖かさと冷たさ。奇妙なことに、今回の事件では温度が君には不利なのだよ、ミラー。眼鏡の話をしよう。冷えたところを暖められて眼鏡が曇った。それが疑問の始まりだった。君にとっては難問の始まりだったのではないかね? それこそが、ウィンベリーが死に際に発した言葉の理由であったし、君がカスカート氏を引きずり込まねばならなかった理由なのだ。次はサーモスタットのタイマーだ。無実のアリバイを捏造した方法に、わたしが気づかないと思ったのだろうな? 君は時計の針を曲げねばならなかった。違うかね? 偶然にしては出来すぎだ。なにゆえ金曜の夜に壊されたと判断したのだったね? 時計は止まっている。アリバイのスタート地点がはっきりわかっているのなら、この家にやって来てできるだけ急いでベッシーを起こし朝に時計を壊すのを妨げるものなど何もない。君はタイマーをセットし、温度調節を二時に合わせた。アリバイのスタート時間だ。しかし針を曲げねばならない。君が死体を見つけた。君は現場にいたのだ。しかし君は針を曲げねばならなかった。さもなくば、時計は九時を告げていたはずなのだ!」 「ああ、そうか。カスカートはいつ何時でも切り抜けると言っただろう」伯父が勝鬨をあげた。「今回も、だ」ライナはソファの端に座っていた。伯父を恐ろしそうに見据えていた。伯父が口の端を曲げた。「知っておくべきだったな」とがめるような口調だった。  ヒューは靄を払うように首を振った。 「待ってください。あなたは間違っています! とんでもない間違いです。カスカートさんこそ昨夜は外出していました。ライナは嘘をついています。あなただってわかっているでしょう!」 「カスカート氏の外套が――」ダフが言った。「コート掛けから消えていたのは、彼が外出するとき着て行ったからか、もしくはきみが隠したからだ」 「隠したですって!」 「でもそんなの無理よ!」わたしは叫んだ。 「なぜだね?」 「だってしてないもの。コートは元に戻ってたんだから」 「ふむ! だがミラーは地下室の階段の上り口にしばらく君を置き去りにした。計画通りにコート掛けに外套を戻すためだとは考えられんか」  さまざまなことが頭を駆け巡った。視界がぼんやりとし始めた。 「でも伯父が家に入ってくる音を聞きました!」 「君がかね?」 「ええ……わたし……違うかもしれない。でもそれって……わたしが騙されたってこと?」 「つまりだね。君がそこにいた理由は」ダフが答えた。「騙されるためだったのだよ、ベッシー」  伯父の声は喉に蛇を飼っているようにうねっていたが、少しずつ穏やかに穏やかになり始めた。「子どもだましだ。そうは思わんか?」ライナは頭を固定しようとでもするみたいに両手で首を押さえたが、ヒューは何もせずに立ちつくしていた。 「それに――」ダフは続けた。「浴槽にお湯を張っていたのなら、浴槽自体も温かくなるものなのだ。お湯を抜いたあとでもしばらくは温かいままだ。今朝、君の部屋の浴槽を触ってみたがね。断じてお湯など張ってはいなかった。温かくなければならなかったのに、浴槽は冷たかったのだよ」 「では決まりだな」伯父が言った。「決まりだ、ダフ。ごくろうだった。君は賢い、グレイヴズ。だがわたしは運がよかった。そして運はよいにこしたことがない」 「チャールズ、やめて!」ライナが声をあげた。  ヒューが舌を出し口唇を湿らせた。伯父をにらみつけていた。  伯父は声を出して笑った。 「温かいはずの浴槽が冷たかった。どういうことかな、グレイヴズ? そんなことがあり得るのか?」  ヒューはポケットに手を入れると、身震いをした。「あなたは冷水浴をしたことがないんですか? ずいぶんと――」口唇が真っ青だった。 「あっ!」わたしは声をあげた。「暖かさと冷たさ。冷たいはずのものが暖かかった。コートよ! オーバーコート!」J・Jがわたしの肩に手を置いた。「でも触ったんだってば! 食料品室で。あれはずっと外に出てたものじゃなかった。暖かかったもの! でもあなたのはひんやりしてた」わたしはJ・Jに話しかけた。「あなたが家に来たときよ。ちゃんと覚えてる」 「よろしい」ダフがぴしゃりと言い、沈黙が降りた。 「わたしはだいたいにおいて勝利を収める」沈黙のなかに伯父の声がたなびいた。「カスカートはあらゆることを切り抜けるのだ。知らなかったのか?」ライナの悲鳴が喉の奥に吸い込まれるのが聞こえた。  ヒューは石のように立ちつくしていた。不意に顔が歪み、怒声が飛んだ。 「それならこれから切り抜けてみろ」ヒューの手には銃が握られていた。  J・Jがわたしにぶつかり押し倒したが、銃声が聞こえた。ようやく辺りを見回してみると、ダフがヒューの腕を後ろ手にねじあげており、J・Jが階下に助けを呼んでいた。  伯父はライナを抱きかかえていた。ライナの肩と胸が血に染まっている。 「もういいだろう、グレイヴズ」ダフが言った。  伯父は尊大さのかけらも見せずに、すっかり変貌したヒューの顔に向かって穏やかに告げた。「わたしはずいぶんと意地の悪い態度を取った。すまん。だが君は手を引くべきだった。」 「貴様……!」ヒューが罵倒を浴びせた。 「できたら」伯父は罵倒を拒まなかった。「医者を呼んでくれ、エファンズ。ライナは助かるはずだ」  伯父は妻を抱えたまま、警官の驚く顔を尻目に図書室から出ていった。ライナの血が伯父にも付着していた。まるで重さなど皆無のように抱えていた。こちらに広い背中を向けると、優しく妻を抱えたまま、わたしたちのことなど見向きもせずに置き去りにして、階段を上っていった。 第十九章  J・J・ジョーンズ、ダフ、わたしは、西四十八丁目の『マックス』で夕食を取っていた。とても美味しかった。J・Jは少しすねていた。というのも、わたしたちの結婚はもうちょっと待ってもらって、豪華な結婚式を計画させてほしいとライナに言われたからだ。わたしは気にしてない。もうちょっと口説かれるのも悪くない。三日間ではもの足りない。これだけ恐ろしく混乱した三日間であっても。ダフはわたしの隣にいた。「この子は君をよく知らない」  そこが残念なところですと、J・Jがぼそりとつぶやいた。  ヒュー・ミラーは刑務所にいる。ハーバート・グレイヴズと言うべきだろうか。身元をたどれなかったかもしれないと言っていたが、それでもダフなら接点を見つけただろうし、事実やってのけたのだ。ミラーは実際には三十七歳だった。伯父たちが昔会ったときも――と言っても一、二回にすぎないのだけれど――鼻がくぼんでいたという。 「わたしは彼を仕留めた」それでもダフの顔に浮かんでいる悲しみはいつもどおりだった。「それにカスカートも。結局のところ、われわれ二人で彼を打ち破ったのだ。こうして彼は敗れた。急がねばならなかった理由。慌てているのは彼ひとりだった。ところが彼はそれに気づかなかった。身分が明らかにされるまでの時間との戦いだった。カスカートなら、何週間でも、何か月でも待つことができただろう」 「何度も聞きましたよ、わかりました」 「その通りだ。マクソン殺しはその過程で行われた。あれは防がねばならなかった。だがミラーがカスカートに罪を着せる必要に迫られていたのはわかっていたが、ただいかにして実行するかがわからなかったのだ」 「ヒューだとは思っていたんですか?」わたしはたずねた。 「うむ。そうだ。だがそれを証明するすべがなかったのだ。だからマクソンは死んでしまった」  J・Jが言った。「ぼくがあの日の朝、ちゃんとしていたらよかったんだ。ベッシーといちゃついたりしないで……嘆くのはやめましょう。ぜんぶ教えてくださいよ、先生。ぼくらがこんなふうにあなたから一本取っただなんて思ってるんですか? どうやってわかったんです? でなきゃどうやって見当をつけたんです? ぼくなんか二百六十回も考えを変えましたよ」 「何を教えられるというのだ?」ダフは微笑んだ。途端に別人のように子どもっぽく誇らしげになった。「君たちも、わたしと同じ証拠を見聞きしているのだぞ。浴槽に触れて温度を確かめることこそできなかったが。それすらも、彼が主張したように、冷水浴が好きだっただけかもしれんのだ。あれが決め手だった。君が知っていてわたしが知らなかったことだ」 「コートが冷たくなかったことですか?」  ダフはうなずいた。 「どうしてあんなこと思いついたんだろう! あの日あなたのコートに顔をうずめて、その感触に気づいたりしていなければ、きっと考えもしなかったわ、J・J。自分じゃわからないもの、このコートが屋内に入れられたばかりだとすれば、触れれば冷たいはずだなんて。どこに隠してあったんです?」 「おそらく料理用エレベーターだろう」 「きっと触ってほしくはなかっただろうな」 「温度のことまで考えていたとは思えないね」J・Jの意見は違った。「あいつは温度のことなんか考えてなかったよ。風呂場で冷水浴するなんて聞いたことがない! 馬鹿げてるじゃないか! バスタブの温度のことなど思いつきもしなかったに決まってるさ。ほかの可能性など信じないね」 「浴槽の温度など、簡単に思いつくような類のものではない」ダフが言った。「だがね、風呂に入っていたとは断じて信じていなかった」 「彼はどうしたんです? 空のバスタブに飛び込んだんですか?」 「彼が戻ったときにも、無論まだ水は流れ続けていた。だから身体を濡らすことは簡単だった。開けられたドアからわたしがなかに入ったときには、最後の一滴がごぼごぼと音を立てているところだった。万事ぬかりなしと言っているようにね。片足で排水孔をふさぎ、わたしの足音が聞こえたら水を止めるだけでよかったのだ」 「バスタブにお湯を張ってから待ち伏せしに行くわけにはいかなかったんですか?」 「誰が水音を立ててくれるのだね?」ダフがたずねた。「思いだしたまえ。マクソンはまだ生きており、騙されなくてはならなかったのだ。流れる水は人の立てる音を覆い隠してくれる。そこにはいないのだという事実も覆い隠してくれるのだ」 「バスタブの栓をしておかなかったのはわざとなんですね?」 「どのくらいバスルームを留守にするのか見当もつけられなかったからだ。浴槽をあふれるに任せるわけにはいくまい。あふれ防止装置がどの程度で働くのかを確かめる時間はなかったのだ。古い家にはそもそも付いていない可能性だってある」 「なるほどね」J・Jが言った。「これですっかりわかりましたよ。続けてください」 「何についてだ? 二回しかベルが鳴らなかった一度目の電話が怪しいのはわかっているはずだ。二度目までの間隔が長く空きすぎている。ピーター・フィンが聞いたつぶやきの件もわかっているはずだ。とにかく、君もわたし同様に不思議に思ったのではないかね。はたしてミラーは眼鏡なしでものが見えるのか? 二番目にウィンベリーのオフィスに入った人物がミラーだとしてみよう。目が見えず撃てなかったはずだ。ここで確かめてみたのだ。メニューを使って」 「そういえば。ソース・オ・ディアブルね」わたしはつぶやいた。 「一か八かの作戦ではあったが、彼のロマンティックな心はその言葉に飛びついたのだ」 「ひとつだけ」J・Jが言った。「わからないことがあるんです。サーモスタットのタイマーは偶然壊れたわけではないと言いましたよね。翌朝に壊したと。じゃあどうして暖房は朝まで入っていなかったんです? タイマーが無事だったとしたら」 「わたしにもわからなかったよ」ダフはそれを認めた。「あとで家政婦と話すまではな。ギャスケル自身のしわざだったのだ。タイマーは、九時十五分にスイッチが入るようにセットされていたようだ」 「またずいぶんと遅いもんですね」 「這い出すのがどれだけ遅かったかはわからぬが、ずいぶんと遅く起きていたのは確かだな。家政婦が凍えようとかまわんのだ。朝のうちは台所のガス台のそばでぐずぐずして掃除を先延ばしにしていたのは、そういう理由だったのだよ。ギャスケルの性格だな。そうでなければ我々ももう少し早くその点に気づいていただろうに。あるいは家政婦がもう少し早く死体を発見していたことだろう。無論、手動で十五度に下げることもミラーには簡単にできた。だが現実にはそうする必要はなかったのだ」 「ああ、なるほど。どけちんぼってわけですね。性格の話からすると……」 「そう言えば」わたしは言った。「証明はできなかったと、ダフさんはおっしゃいましたよね」 「なんとか説明してみよう。心に浮かんださまざまな直感とその意味をね。まずはヒュー・ミラーのことだ。彼がどんな種類の男でどんな感性を持っていたか。ベッシーはヒューの感性を実に見事に通訳してくれた。自分で知っている以上にな。この子自身は、彼に対して何の感情も持ち合わせてはいなかった。愛してもいないし、憎んでもいないし、恐れてもいなかった」 「気に入ってもなかったんだろう、ベッシー?」 「黙って。もちろんそうよ」 「ベッシーのミラー評だ。『真剣、生真面目、一途』。これは気を張り詰めている人間だよ。強い意思を持った人間だ。必死で押し殺しているのだ。無論、神経質なだけかもしらん。だがベッシーはその内なる緊張を感じ取っていたし、それが勘違いだと思う理由もなかった。そのうえこの子は、聞かせてくれた通り、彼が自分に関心がないこともはっきりと感じ取っていた。その点に関しては女性というものに賭けてみたくなったのだ。この子はちゃんとわかっていた」 「でもわたしにかまってました」 「関心があるふりをしていたのだろう。無論、家を訪れカスカート氏が怪しいと騒ぎ立てるための言い訳に過ぎんが。しかしだ、彼にその気がないことをベッシーが感じ取っているというのに、この子に関心があるそぶりをわざわざ口にした理由を考えあぐねていた。だが彼が何か企んでいるという端緒さえつかんでしまえば、この子の顔の使い道は歴然としていた」 「わたしの顔ですか?」 「J・Jが言っておった。おしゃべりな顔をしているとな。ミラーはカスカート氏への疑念を浸透させたかった。そんなつもりはないふりは続けながらだ。巧妙に噂を広めたがっている人間はそうするものだ。身のまわりで一番のおしゃべりに耳打ちするものなのだよ。君の顔が、おしゃべり屋なのだ、ベッシー」  J・Jがくすくすと笑った。「今考えていることを当てて見せようか、ベッシー。こうだ。『ちょっと待ってよ。これじゃ見つからずには何にもできないじゃない』」その通りだった。間違いない。 「人の欺き方は教えんでくれよ」ダフが茶々を入れた。「すでに身につけているとしたら世も末だが。それと、この子はひどく暗示にかかりやすい。一晩中階上で過ごしていた人物が玄関から入ってきたのを聞いてしまうのだからな。ミラーに誘導されたとはいえ――」 「え?」 「そう話してくれたではないか。台所の話だ。聞いていない音を聞くことはできんだろう」 「聞こえたなんて言ってません」 「だがそう信じてた」 「だって、だって怖くて」 「常にミラーが怖がらせていたのだ。それに気づいていたかね? 君が怖がり出すのは、常にミラーが現れたときだった」 「よかったよ」J・Jが不機嫌な声を出した。「あいつは牢屋のなかだ」 「さよう。ミラーは君の心に伯父上の恐怖をかき立てた。だがその役どころの最中、一つの間違いを犯した。ペッピンジャーの話をしたとき、ハーバート・グレイヴズの話は一言もしなかったことだ。わたしが独自にグレイヴズに行き当たったとき、無論、その理由を考えた。聞いたことがないとは思えなかった。話すのが害になったとも思えない。だが話すのはカスカートに不利なことばかりだった。ことあるごとにカスカートの話に引き戻していた。もしや彼はカスカートを憎んでいるのではないかと思い始めた。パチーシをした夜、何者かが何者かを憎んでいたのは確かだ。そしてベッシーはミラーのそばにいた。発散された感情を読み取る能力を信用するなら、近ければ近いほど感情は強くなると考えて間違いあるまい。果たして発散された感情は強かったのだよ」 「今から思えば、あの顔は憎しみに覆われてたのね」 「わたし自身がミラーに会ったとき」ダフが言った。「張り詰めた意思に出くわした。ささやかな着想の山。違うかね? 何一つ見逃さぬ意思。来るものは何であれ拒まぬ意思そのものだった。どんな些細なものでも。無論、そのとおりだった。些細なことを利用して計略を立てたのだ。一瞥しただけの故障したバスを利用した。電話の呼び出しの馬鹿げた計略。それにベッシーも利用した――」 「ベッシーは些細なんかじゃありませんよ」J・Jが顔をしかめた。 「失礼した。ミラーはエファンズの歯痛を利用し、エファンズが痛み止めを持っていることを利用した。無論、後々のアリバイのために手筈を整えていたのだ。医学的な証拠で明らかになる範囲では満足せず、さらなる安全を望んだのだ」 「じゃあ歯なんて痛くなかったの?」 「うむ。夕食の席で手に入れたのだよ。また別の些細なヒントを。いわば、彼が歯痛を見逃さなかったことを知った瞬間に疑いを持ったのだ。さらに、赤い駒が象徴だとはっきり口にしたときには、ロマンチックな人物であることが判明した。女性の話ではない。空想家《ロマンチック》なのだ。思いついた着想を細かく縒り合わせた。ドアの封印。現実的ではあるまい。さよう、役立つ可能性は否定せん。だがよりによってなぜその夜を重視したのだ? 理由は何一つ口にせんかったぞ。それにベッシーを連れ出したことだ。そのくせ二度の地下行きのあいだは自由に行動できたことだ。何もかもまやかしだ。ちんけな考え。似非科学。空想。動機のことで奇妙な話をしていたな――無論、自分ででっちあげた動機だがね。それに、赤い駒の噂話を信じていた」 「でも伯父さんも……」 「伯父上は象徴とも噂話とも何の関わりもない」 「でも伯父さんは……」 「いいかね、噂を信じたい他人の気持を後押ししただけだ。彼は現実的な人間だよ。だから四つ目の赤い駒を処分したのだ。そのせいでミラーはひどく慌ててしまう。何か言われるたびに慌てていたはずだ。四つ目の駒を手にする機会があったのに、どうして手に入れなかったのかわからんね。悔やんでいたはずだ。何かの意味があったのだろう。駒もないのに伯父上を殺すことはできないと思っていたのではないかな。伯父上はほかの方法で罰されなければならないところだった。一番の仇用の、より効果的な方法だ。だがそれでも、象徴のないまま伯父上を射殺したり亡き者にしたりできたとは思えんのだよ」 「あの朝、四つ目の駒を手に入れていれば、きっとカスカートさんが企みに気づいたはずですよ」J・Jが指摘した。「カスカートさんはミラーと会っています。図書室で。それにカスカートさんは駒が箱に入っていたことを知っていましたからね」 「その通りだ。可能性はある。カスカート氏には四つ目の駒を燃やすだけの分別があっただろうから」  駒が燃やされたとき、階段上にいたヒューの顔を思い出した。「ほかの色の駒を確認して数えた人はいたんですか?」 「さよう。カスカート氏だ」 「赤い駒が自分の死の象徴だとわかっていたんですか?」 「うむ、それほどはっきりとではないだろうが。四つの駒、三つの象徴。危険などは冒さなかった。象徴を信じていたわけではないが、自分を信じていたのだ。いまだかつて人を殺して象徴を残すことなど考えたこともないだろう。一目見た瞬間にわかったよ。カスカート氏にとっては、殺人は殺人に過ぎんのだ。ビジネスはビジネスであるように。空想家ではなかった。根に持つタイプでもなかった。ビジネス上の理由などはあるはずもない」 「でも窓から駒を投げたのは?」 「怒っていたのだろう。当然だ。怒りの種たちに呪いあれ」 「残忍な気持になっていたのかもしれない」わたしは言った。 「彼は賢い人間だ。かなり遠慮がないし、ぴくりとも感情に流されない。だが君は誤解しているのだ、ベッシー。伯父上に対する感情があふれすぎて、伯父上の気持を伝える伝令としてはまったく機能していなかった。例えば、君の生い立ちのせいで、彼がただの業突張りだという否定的な考えを植えつけられてしまった。君の目には、洗練された趣味が涜神的な享楽に映った。まっすぐ君を見つめるくせに感情を表に出さないものだから、君は混乱した。しかも君は伯父上に魅力を感じていた。彼は極めて魅力的な人物だ」 「魅力的ですって!」 「魅力的な男性というべきだったかな」ダフは落ち着いて訂正した。「驚かせたのでなければよいが」 「この子はちょっとうぶなんですよ」J・Jがそう言ってわたしの腕をつかんだ。 「でもわたしの伯父さんよ!」 「いっそう驚かせてしまうかな。自由連想検査のときに、君は伯父上のことを何と言ったかね?」  わたしは真っ赤になった。「でも年とってるし、ハンサムでもないし……」 「ベッシー、質問だ。わたしはハンサムかね?」 「そうとは言えません。あなたもちょっとね、J・J」わたしの言葉に二人とも笑い出した。 「まあそういうわけで」ダフは続けた。「君の言葉を伯父上の気持だと受け取るわけにはいかなかった。同じように、君はライナについても誤解していた」 「誤解ですか?」 「残念ながらその通りだ。マクソンも同じ誤解をしていた。彼は愚かで自惚れ屋だったが。君はライナのことを何と言ったか覚えているかね?」 「ええ、でも……」 「君はごまかされなかっただろう、J・J?」 「ぼろを出す前に教えてくださいよ」  ダフは椅子に寄りかかり、目には霞がかかった。「ペギー・シッペンの事件を連想したよ」 「そういうことか! へえ! なるほど!」J・Jが大声でわめいた。「ベネディクト・アーノルドの奥さんだよ、ベッシー」 「ベネディクト・アーノルドって?」 「うん、ほら。ダフの専門だよ。ああ、ぼくは知らなくってもごまかされなかったさ。でもきみには話さなきゃね。ライナは獲物じゃなかったんだ。そのことをちゃんとわかっている人もいた」 「マクソンはわからなかった。カスカートは老人だし、自分ほど魅力がないと思ったのだな。哀れな奴め。それに、ヒュー・ミラーも同じ間違いを犯した。ベッシーの引き写しだろう。女性についてはかなり鈍感だった。君とベッシーのことに気づくのもずいぶんと遅かった。もしかすると奥さんの死が……。うむ、アンドリュー・ジャクソンとペギー・イートン事件があった。ミラーにとっては手痛い間違いだ。存在しない動機を思い描くはめになってしまったのだからな。それはわかっていたかね?」 「ええ、でもぼくはライナを手に入れた事情を耳にしていましたから」J・Jが答えた。「それにどちらかといえば――」 「頭のいい話はやめてちょうだい。わたしにもわかるように説明してよ……! どこの誰でもいいけどペギーがどうしたの? それにライナはどうなったの?」 「ペギー・シッペンがアーノルドの裏切りと逃亡のあとに取った行動は、簡単にわかるようなものではない」ダフが言った。「彼女が彼を愛していたことがわからなければな。そういうことだ。いいかな、ベッシー。よく聞きたまえ。ライナ・カスカートはペギー・シッペンと何一つ似ていない。だがライナも夫に首ったけなのだ」 「首ったけ? それってつまり……」  ダフは穏やかにこう言った。「ライナ伯母さんは幸せなのだ。わたしにはわかる。若い娘が年上の男とむりやり結婚させられていたら、不幸せになるものだと人は決めつけてしまいがちだ。だが伯父上はありきたりの男ではない。アーノルドもそうだった。さてベッシー、君は『シーク―灼熱の恋』を読んだことはないだろうね?」 「もちろん読みました。禁止されてたけど」 「同じプロットの小説は山ほどある。ロマンス小説の分野では古典的。チョコレートをつまみながら読む類のものだ。愛を持たずして屈強で冷酷で傲慢な男と結婚した。彼女は夫に夢中になるが、読者をどきどきさせるだけのために、二十章になるまでそれを認めない。彼がどれだけ彼女を苦しめ、彼女がそれを愛したことか! わからんかね? ライナは日々を恋愛ドラマに生きている。夫が密かな情熱なのだ。女性の視点からは、こうした幸せが理想的な結びつきだとは思えんだろうな。君がケーキを食べることも、ライナの空想と大差ないのだよ」 「伯父はまったく気に掛けてないんですか?」わたしは考え込んだ。 「できるだけのことはしているとも。さよう、彼には思いやりがある。それに賢い。ほかの男と出かけさせ、ライナのお芝居につきあっておる。極めて冷静に、立派に、従順に、誤解されながら。だがチャールズ伯父さんにではないぞ。彼は理解している。わかったかね。彼女は知っているのかどうか。こうして幸せなひとときを過ごしておる」ダフはため息をついた。「可愛い子だよ」 「じゃあ本当に伯父のことを心配していたんですか?」 「ヒューが狙い撃ちするのが愉快ではなかっただろうね」J・Jが答えた。「間違いないよ」 「内なる光」わたしはつぶやいた。「そういうことか。恋してるんだ」 「ええとね」J・Jが生真面目な声を出した。「問題はそこだよ。きみはどうなんだい?」  わたしは微笑んだ――J・Jがすごくおかしくて魅力的に見えた――J・J陽の光が目に入ったように手をかざした。 「そのアイスクリームを食べたまえ、ベッシー・ギボン」ダフが言った。「ここは公共の場だぞ。われわれ都会人を驚かせんでくれ」 [訳者あとがき]  本書『Lay On, Mac Duff!』(1942年)は、サスペンスの女王シャーロット・アームストロングのミステリデビュー作です。語り手のけなげな女の子が犯罪に巻き込まれて……という展開こそ後年のサスペンスものなのですが、探偵役はこの女の子ではありません。なんとシリーズ名探偵もの。本書に登場するマクダフことマクドゥガル・ダフは初期三部作で探偵役をつとめます。  マク・ダフの推理法は、人間観察と「歴史は繰り返す」を基調にした心理的なものと、手に入れた材料を科学的に組み立てる論理的なもの。  サスペンスの女王が名探偵ものでデビューしていた――となれば、謎解きものの才能がなかったからサスペンスものに転向したのかな、と下衆の勘ぐりもしたくなりますが、なかなかどうして愚直なまでに論理にこだわったパズラーでした。  本書の特徴は、何と言ってもとにかく大量の仮説の山。決定的な証拠がないために、マクダフはいくつもの可能性を徹底的にシミュレートします。真相が明らかになるまでは、可能性に可能性を重ねるしかなく、もはや推理というより砂上の楼閣、風前のトランプピラミッド。危うい机上の論理の綱渡りを最後まで渡りきってしまったアクロバティックな本格論理ミステリです。  可能性を一つ一つ潰していく過程で、一つの事実が二つの可能性を示唆しているのが明らかになったりするのが非常にうまい。どっちとも決めかねるまま、また新たな可能性が出てきたりして、けっこう複雑なんだけれど、一つの可能性が潰れた段階でもう一つの可能性も確定できたりと、けっこう考え抜かれた構成でした。意外なことに(?)伏線もいたるところにあるので要注意。  容疑者の人数が限りなく絞り込まれてさえ、あくまで論理にこだわる終盤には凄みすら感じました。これで最後に意外性さえあれば、クリスチアナ・ブランド級の大傑作になっていたかもしれません。が、読みどころが意外性にあるわけではないあたりに、むしろその後のアームストロングらしさを感じます。探偵ものの論理とはミスマッチな、語り手によるサスペンスも、往年のアームストロング節を堪能できました。  マクドゥガル・ダフものはほかに二作。『The Case of the Weird Sisters』と『The Innocent Flower』。この文章を書いている時点ではどちらも未読ですが、機会があれば読んでみて、面白ければまた訳したいと思います。あらすじを紹介している海外のサイトによると、二作目『The Case of the Weird Sisters』は、秘書アリスと婚約した億万長者が遺言を書き替えようとしていたところ、三人姉妹の家で毒殺され、窮地に立たされたアリスを救うため運転手の若者が奮闘するという物語のようです。あらすじを読んだ時点で、アームストロング・ファンならにやりとしたくなるようなお決まりの設定を、今度はどのように料理してくれているのか楽しみです。  なお底本には、1993年発行のZEBRA BOOKS版を使用しました。 Ver.1 07/07/07 Ver.2 07/07/08