※訳者のことば
この作品は一番初めに訳しただけあって、文章もむちゃくちゃで、誤訳だらけで、主語もすべてきちんと逐語訳して、といった感じなので、いくら何でも見るに耐えませんが、上に書いたとおり初めて訳した作品なので、記念にこのまま載せておきます。
同じく悪文・悪訳とは言え、改訳したhtml版の方が、なんぼかましなので、どうせ読むならどうぞそちらをお読みくださるようお願い申し上げます。
知りすぎた男
ギルバート・キース・チェスタトン
第一話 的の顔(駄目ヴァージョン)
新進の記者で社会批評家であるハロルド・マーチは、狩猟場と公園のある広大な台地を元気よく歩いていた。はるかかなたには、トーウッド・パークの名所である森が、地平線を縁取っている。淡い縮れ毛と青いきれいな目をした、ツイードを着た好青年だ。開けっ広げな風景の中を闊歩している。まだ若かったので、自分の政治観をしっかり身に付けて、忘れようとはしなかった。トーウッド・パークへの用向きというのが政治上のものだった。ほかならぬ大蔵大臣ハワード・ホーン卿によって指定された約束場所なのだ。卿はその折いわゆる社会主義予算を導入していて、前途有望たる記者とのインタビューでそれを発表する準備をしていた。ハロルド・マーチは政治のことを何でも知っていて、政治家のことを何も知らない種類の人間だった。彼は芸術、手紙、哲学、および一般的な文化に関しても多くのことを知っていた。いやはや、住んでいる世界を除く、ほとんどすべてのことを。
突然、むきだしの平地の真ん中で、彼は地割れとでも呼ぶべき狭い断層に出くわした。せせらぎの水源にはぴったりの大きさで、潅木でできた緑のトンネルの下にある隙間に消え去ってゆく。まるで小型の森の中にいるみたいだ。それはもう、まるで小人の谷を見ている巨人みたいな奇妙な感覚だ。だが窪地に降り立った時、その印象は失われた。コテージの高さくらいはある岩だらけの土手が張り出し、絶壁の様相を見せていた。彼は流れの中を歩き回り始めた。無意味でロマンチックな好奇心から。灰色の丸石と、緑苔みたいに柔らかい潅木の間の小道で、水が輝いていた。幻想とは正反対の気分だった。まるで地球が口を開き、夢の裏側に飲み込んだかのように。と、銀の流れの中の黒い人影に気づいた。その時人影は、大きな丸石の上に座っていて、なんだか大きな鳥みたいに見えた。おそらく独特の予感みたいなものはあったのだ。人生で最も奇妙な親交に出くわすという。
その男は明らかに釣りをしていた。 少なくとも釣り人の像以上に釣り人らしく固まっていた。まるきり銅像みたいだったので、その像が口をきくまでマーチは数分間男性を調べることができた。彼は背が高く、金髪で、肌は青白く、すこし活気がなかった。重たげなまぶたと高い鼻をしていた。顔はつばの広い白い帽子で遮られていたが、薄い口髭と柔らかな身のこなしから、若者のようだった。
だがパナマ帽が脇の苔の上に置かれたので、観察者は彼の眉が若はげだったのを見ることができた。そしてそれが、彼の目にある種の虚ろさを付け加えていたし、思索的な外観や悩ましささえをもたらしていた。だが、短い調査の後に判明した最も奇妙なことは、彼が釣り人のように見えるが、釣りをしていたわけではないということだった。
彼は釣り竿の代わりに、漁師が使用するたも網か何かを持っていた。たも網というよりむしろ子供が持ち運ぶ普通のおもちゃのネットに似ている。 ふつうエビやら蝶やらにあたりまえのように使うやつだ。何回か網を水にくぐらすと、雑草や泥の収穫を真剣に見入ってから、再び中身を空にした。
「いえ、何も捕まえてませんよ」と、彼が静かに言った。まるで暗黙の疑問に答えたようだった。「捕まえたら、また逃がすことにしています。特に大きい魚は。ですが小さな魚には興味がありますね」
「おそらく、科学的関心でしょうね?」マーチはたずねた。
「かなり素人臭いんじゃないかと心配ですけどね」奇妙な釣り人は答えた。「私はいわゆる『燐光の現象』と呼ばれているものが道楽なんです。だが世間では臭い魚と罵られてる。すこし気まずいですよ」
「お察しします」とマーチは微笑んだ。
「ピカピカと発光している鱈を運んで客間に入るのはかなり風変わりですよ」と、見知らぬ人は物憂げに続けた。「なんて不思議なんでしょう。ランタンみたいに持ち歩くことができたら。キャンドルには小魚を。小魚たちはランプのかさのように本当に本当にきれいでしょうね。 星明りのように至るところできらめく青い巻貝。赤いヒトデが、まさに赤い星のように光り輝く。ですがもちろん、ここではそういったものを探してはいませんよ」
何を探していたのかたずねようとマーチは考えたが、少なくとも深海魚と同じくらい深い技術的な議論をするには力不足と感じて、もっと一般的な話題に戻った。
「ここは愉快な窪地ですね」と言った。「ここにあるこの小さな谷と川ですけど。スティーヴンスンが語った場所に似ている。『何かが起こるはずの場所』って」
「そのとおりです」と相手が答えた。「この場所自体が、いわば、単に存在するのではなく、何か起こりそうな感じです。おそらくそれが、年老いたピカソやキュビストたちが立体やらジグザグの線で表現しようとしているものなんでしょう。刈り込まれた芝生の勾配に対して、ちょうど直角に前に突き出している低い崖みたいなあの絶壁をご覧なさい。それは静かな衝突に似ています。砕ける大波と低い引き波のようです」
マーチは、突き出た岩が坂の上の芝生に張り出しているのを見て、うなずいた。こんなにも簡単に科学の専門用語を芸術に転用してみせた男に興味を持ち、立体派の芸術家たちを賞賛するかどうかたずねてみた。
「私がそんなふうに感じたら、 キュビストはもはや立体派ではありません」と彼は返答した。「まるで厚みがないってことです。ものごとを数学的に考えることによって、そいつは薄っぺらになってしまう。あの風景から生き生きとした線を取り出して、直角だけに簡略化してください。そうすれば景色を、紙の上の単なる図形に平面化できます。 図形には、それ自身の美がある。だがそれはまるで別種のもので、つまり変更不可能なことを意味しています。穏やかで、永遠なる、数学的な真理。だれかが『放射する白光』と呼んでた――」
彼は言葉を止めた。次の言葉よりも先に、あまりにも急速に起こったことがあって、すっかり気を取られたのだ。張り出した岩の後ろから、騒々しい音をたてながら、機関車のようなものが突進してきた。大きな自動車が現れた。車は、雄大な叙事詩に出てくる破滅に急ぐ戦車のように、逆光の中にそびえる黒い崖の頂に登っていった。マーチは、客間で落としたカップを捕らえるような、無意味なしぐさで自動的に手を出した。
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一瞬の間、車は飛行船のように、岩のでっぱりから飛び去るように思えた。ついで、空が車輪のようにひっくり返るように思えた。そして、背の高い草の中に残骸を横たえた。灰色の煙の線が、静まりかえった大気の中をゆっくり上っていった。少し下の方、急勾配の芝生の上に白髪の男性が投げ出されていた。手足はばらばらに横たわり、顔はあらぬ方を見ている。
奇妙な釣り人は網を手放し、すばやく歩いていった。知り合ったばかりのマーチも後を追った。彼らが近づいたとき、壊れた車が工場みたいに忙しく鳴り響き鼓動していたのは、なんとも奇怪な皮肉に思えた。一方で男性は静かに横たわっていたのだ。
彼は間違いなく死んでいた。致命傷は頭蓋骨の後部にあって、血がその致命的な傷口から芝生に流れていた。だが太陽に向けられた顔は無傷で、奇妙に人目についていた。見たことがあると感じるほどに紛れもなく奇妙な顔というものがあるものだ。人は認めようとしないが、なんとしても認めるべきだろう。とても知的な猿みたいな大きな顎のある、角張った大きな顔だ。大きな口は線を引かれたようにひどくきつく閉じていた。低い鼻には、空気を吸い込みたくて裂けたような鼻の穴がある。顔の中で最も風変わりなものは、片方の眉が反対側よりはるかに急角度にピンとはねあがっていることだった。マーチは、死に顔同様に、もちろん生きている彼の顔を一度も見たことがないはずだ。その野蛮で力強い顔は、白髪の後光のため誰であれ他人に見えただろうが。書類がいくつかポケットからはみ出していた中から、マーチはカードケースを抜き出した。彼はカードの名前を読みあげた。
「ハンフリー・ターンブル卿。どこかで聞いた名だ」
彼の友人は小さくため息をついただけで、瞑想しているみたいにしばし無言だったが、ポツリともらした。「やつが死んでしまった」そして聞き手にはまたもや理解の外だった科学用語を付け加えた。
「実のところ」学識豊かな奇人が続けた。「警察に知らせるまでは、死体に触れない方が法律上よろしいでしょうね。実際、警察意外には知らせない方がいいでしょう。近所の人たちには隠しておこうと言っても、驚かないでくださいよ」それから、唐突な打ち明け話を合法化させるかのように言った。「私はトーウッドでいとこに会うためにやって来ました。名前はホーン・フィッシャーです。私がここらで時間をつぶすなんて、だじゃれみたいだと思いませんか」
「ハワード・ホーン卿はあなたのいとこですか?」マーチはたずねた。「ぼくは彼に会うためトーウッド・パークに行くところなんです。もちろん公務で、ですけど。彼が信念にもとづいて進めている政策はすばらしいですよ。ぼくは、この予算案がイギリスの歴史の中で最もすばらしいものだと考えています。失敗したならば、イギリスの歴史における最も偉大な失敗になるでしょう。あなたは偉大なご親戚の賛美者ですか、フィッシャーさん?」
「むしろ」と、フィッシャー氏は言った。「私の知るかぎりで最高の射撃手ですね」
それから彼は、自分の冷淡さを心から悔いたように、熱意をもって付け加えた。
「いえ、ですが本当に、すばらしい射撃手ですよ」
まるで自分の言葉に点火されたみたいに、彼は突然上の岩のでっぱりに跳びつくと、普段の無気力とは驚くほど対照的に、すばやく登っていった。彼は頂にしばらく立ち尽くしていた。友人がじゅうぶん心を落ち着けて、後からよじ登ってくるまで、空にくっきり浮き彫りになったパナマ帽の下から、鷲鼻の横顔が、あたりをじっと見つめていた。
そこには、不運な車の轍が、広々とした公園の芝生にくっきりと跡をつけていた。端の方は硬い歯で噛みついたみたいに砕けていたし、端近くには、あらゆる形と大きさに割れた丸石があった。誰であれ、自分から死の落とし穴に飛び込んだとはとても思えない。特にまっ昼間ときては。
「まるっきりわからない」マーチは言った。「彼は盲目だったのか? それとも酔いつぶれてたってのか?」
「見た感じどちらでもないようですね」一方が答えた。
「すると自殺だったのか」
「あまり快適な方法には思えません」と、フィッシャーなる男は述べた。「そのうえどうも、哀れなじいさんが自殺するとは思われませんし」
「哀れな誰だって?」ジャーナリストは不思議に思って問いただした。「あなたはこの不幸な男を知ってたんですか?」
「誰も彼を正確には知らないんです」フィッシャーはいくらか曖昧に答えた。「ですが一面は彼を知っていましたよ、もちろん。議会や法廷などにおける彼は恐怖でした。特に、不適合者だといって追放した外国人についての論議では、彼はそのうち一人を殺人で絞首刑にしたがったんです。癇癪を起こして、彼は判事を退職しました。それ以来、たいてい一人でドライブしていましたが、トーウッドによく来ていましたね、それも週末に。ですが彼がなぜあんな方法で故意に首を折ったのかわかりません。ホッグス――つまりいとこのハワードですが――彼に会いにわざわざやって来ていたのでしょう」
「トーウッド・パークはあなたのいとこのものじゃないでしょう?」マーチは問い詰めた。
「ええ。ウィンスロップ家のものだったんじゃないですか」相手は答えた。「今は新しい人のものになりました。モントリオールから来た、ジェンキンズという名の人です。ホッグスは射撃をしに来るんですよ。すてきな射撃手だと言ったでしょう」
偉大な政治家へのこうした再三の賛辞は、まるでだれかがナポレオンのことをトランプの名プレーヤーだと説明したみたいに、ハロルド・マーチには感じられた。 だが、もう一方の印象が未知の洪水の中でもがいていたので、消え失せるやもしれぬ前にそれを表に引っ張り出した。
「ジェンキンズ」と彼は繰り返した。「おそらくあなたが言ってるのは、ジェファーソン・ジェンキンズのことでしょうね、社会改革者の? ぼくが言うのは、新しい別荘地改良計画のことで争っている男のことですが。もしこんなふうに言うのをお許しいただけるなら、彼に会うのは世界中のどんな閣僚と会うのに劣らず興味深いだろうな」
「ええ。ホッグスは、別荘でなければならないのだと彼に告げました」フィッシャーが言った。「牛の品種はあまりにも頻繁に改良されていると言ったんです。人々は笑い出しましたよ。もちろん何かにつけて貴族階級に耳を傾けざるをえません。ですが貧乏人はまだ納得してませんよ。おやっ、ほかにも誰かいる」
彼らは窪地を後にし、車の轍の中を歩いていた。車はまだ、人を殺した巨大な昆虫のように恐ろしいうなりをあげていた。轍は道路の片隅に続いていて、枝道は遠くにある公園の門の方角へと伸びていた。車が長い直線道路をやって来て、左に曲がる代わりに、死へ向かって芝生をまっすぐ越えていったのは明白だった。だがフィッシャーの目をくぎ付けにしたのは、それ以上の発見だった。白い道路の隅に、暗い人影がぽつんと道標みたいに立っていた。ラフな射撃服の大男で、帽子はかぶっておらず、乱れた縮れ毛がいっそうワイルドな様子を与えていた。もっと近くまで寄っていくと、この途方もない第一印象は薄らいだ。完全な光の中で見るとその姿は、たまたま帽子なしで髪をきちんと梳かさずに出かけてきた平凡な紳士といったごく普通の外見だった。だが高い身長はそのままだ。その埋め合わせみたいに、目の彫りが深く、洞穴のようでさえある。野性美あふれる外見は、ごく普段からのものらしい。だがマーチには、もっと近くでその男を観察する時間はなかった。というのも、驚くべきことに、前を行く男がこう言ったのだ。「やあ、ジャック!」そして、岩の向こうの大惨事を知らせようともせずに、本物の道標であったみたいに通り過ぎてしまった。比較的小さいこととはいえ、それがマーチの先をゆく新しい奇妙な友人がとった一連の妙な行動の中で一番おかしなことだった。
通り越した男は、むしろなんだか疑わしそうに彼らのことを見つめていたが、フィッシャーはまっすぐな道路に沿って穏やかに歩きつづけて、広い地所の門を越えて行った。
「あれはジョン・バーク、 旅人ですよ」と彼は控えめに説明した。「彼のことを聞いたことがあるといいのですが。猛獣を仕留めたこととかなんかを。立ち止まって紹介できなかったのは申し訳ありませんが、どうせ後で会うことになりますよ」
「もちろん彼の著書は知っています」マーチは再び興味を持って言った。「確か、すばらしい記述がいくつかありました。存在について。巨大な頭が月を遮ったときに初めて象の接近に気づくのだ、と」
「ええ、若いハルケットがかなりうまく書いたのでしょう。何です? バークの本を書いてるのはハルケットだと知らなかったんですか? バークは銃以外使えませんよ。あなたも銃ではものは書けないでしょう。ああ、彼の専門分野に嘘はありませんとも。誰もがみな、ライオンみたいに勇敢で、とてつもなくすばらしいと言うでしょう」
「彼のことを何もかも知ってるみたいですね」マーチはやや戸惑ったように笑いながら言った。「ほかの人たちのことも」
フィッシャーのはげた眉は突然波を打ち、奇妙な表情が目に浮かんだ。
「私は知りすぎています」と、彼は言った。「それが問題です。われわれにとっても問題です。何もかもを、私たちは知りすぎている。お互いについて。われわれ自身について。だからこそ今、私が知らない唯一のことについて、心から興味を持っているのです」
「知らないこととは?」相手はたずねた。
「哀れなやつが死んだ理由です」
こんなふうにぽつぽつと話しながら、まっすぐな道に沿って一マイル近くも歩いてしまった。マーチは、全世界がくるりとひっくり返ったような奇妙な感覚に陥った。ホーン・フィッシャー氏は上流社会の友人や親戚をむやみに話題にしなかったが、何人かについては愛情をもって物語った。だが彼らのことが今まで知らなかった人物のように聞こえた。そんな彼らがはからずも新聞でしょっちゅう言及されていたのとまったく同じ活力を持っていた。どんな反乱の激情も、この冷淡な親しみほど革命的には思えない。舞台の反対側でともる明かりみたいだった。
マーチが驚いたことに、彼らは公園の番小屋の門に達していて、そこを通り過ぎた。そして果てしなく、白いまっすぐな道に沿って歩き続けた。だがハワード卿との約束には早すぎたし、いかなるものであれ新たな友人の試みに終わりを告げるのは気が進まなかった。狩猟場を後にしてからかなりたっていた。白い道路の半分は、トーウッドの松林の大きな影で灰色になっていた。太陽に灰色の棒を取り付けて、真昼間の中に真夜中を作り出したみたいだった。だがすぐに、色とりどりの窓のきらめきみたいな断層が現れ始めた。道路を前に進むと、木々は少なくなり切り倒されていた。見るからに荒野だ。ばらついた雑木林は、フィッシャーが言うには、一日中接待で燃やされるという。そして二百ヤードほどの距離のところで、初めて道路の曲がり角にやって来た。
曲がり角には、薄汚れた葡萄酒の看板のある、ぼろぼろの酒場があった。今となってはその看板は、どす黒くて判読不能だ。空と反対に真っ黒で、向こうの荒野みたいに灰色のがぶら下がっている。まるで絞首台に招かれているようだ。ワインの代わりに酢を出す店みたいだとマーチが口にした。
「名言です」とフィッシャーが言った。「そうすると、あなたがあそこでワインを飲むほどにも愚かだとしたら……。しかし、 ビールはとてもおいしいですよ。それから、ブランデーもね」
マーチはいささかいぶかりながらも後について酒場に入った。かすかな嫌悪感は、酒場の主人を見ても消し飛びはしなかった。物語の温和な酒場の主人とはまるで違った。骨ばった男で、黒い口ひげの下は物静か、だが黒い目はそわそわと動きまわっている。無口だったが、聞き込みが実りいくつかの情報を引き出すことに成功した。ビールを注文して、自動車を話題にして何度も絶え間なく話しかけたのだ。主人がなにやら非凡な自動車の権威だと、マーチは確信した。なにしろ自動車のメカニズムの秘密、管理、管理ミスについて造詣が深いのだ。古代の船乗りみたいに輝く目で、常に人をくぎ付けにする。このやや不思議な会話の結果、ついにある車についての事実が浮かんできた。得られた説明によると、その車は一時間ほど前に酒場の前に停まって、年配の男が降りてきて機械上の手助けを求めたという。客が何かほかに援助を請わなかったかどうかたずねられて酒場の主人は、その老紳士は水筒に水をいっぱいにして、サンドウィッチを一パック持っていったと手短に言った。これらの言葉とともに、少し無愛想な主人は急いでカウンターの外に歩いて行き、暗い室内で彼がドアをどんどんとたたいているのが聞こえた。
フィッシャーの倦んだ目は、ほこりだらけでわびしい酒場をさまよって、鳥の剥製の入ったガラスケースでぼんやりと留まっていた。上のフックには銃がかけられていたが、ただの飾りのようだった。
「じいさんはユーモアがありました」彼が言った。「少なくとも彼独特のかなり恐ろしいスタイルのね。しかし、自殺しようとしている時にサンドイッチを買うというのは、ちょっと恐ろしすぎる冗談ですね」
「あなたならどうします」マーチは応じた。「自分が立ち寄る屋敷のドアのすぐ外でサンドウィッチを買うのはそんなに普通のことでしょうか?」
「いいえ……いいえ」フィッシャーはほとんど機械的に繰り返した。それから突然、陽気な顔つきで会話相手に目配せをした。
「何と! 思いついたことがあります。あなたは完全に正しい。かなり奇妙な考えを思いつかせてくれましたね?」
沈黙があった。酒場のドアがのドアが乱暴に開けられて、別の男が急いでカウンターに歩いていった時、マーチはわけもわからずびくびくし始めた。その男はふたりの先客の方を見ずに、コインでカウンターをたたき、大声でブランデーを注文した。窓のそばにあるむき出しの木製テーブルに座っていた。彼が乱暴な目つきで振り向いた時、マーチに思いがけない感動がわき起こった。というのも、同行者がその男にホッグスと呼びかけ、ハワード・ホーン卿だと紹介したからだ。
彼は新聞に描かれた若々しいイラストよりも、かなり年老いて見えた。それが政治家のやり方だ。薄い金髪は灰色が混じっていたが、顔はおかしなくらいまんまるで、鷲鼻とすばやい明るい目の組み合わせはどことなくオウムを連想させた。頭のやや後部に帽子を乗せ、腕には銃を持っていた。ハロルド・マーチは偉大な政治改革者との会見について、さまざまな想像していたが、腕に銃を抱え、酒場でブランデーを飲んでいるところなど一度も思い描いたことはなかった。
「またあなたはジンクのところに寄っていましたね」と、フィッシャーは言った。「みんなジンクのところにいるように思えます」
「ああ」大蔵大臣は答えた。「すばらしい射撃だったよ。少なくともジンクの射撃以外は。 あんないい射撃をするあんなダメな射手は見たことがない。いいか君、やつはすばらしい仲間さ、それがすべてだ。付け加えることはないよ。だがなあ、豚肉を詰めたりなんなりしている時の銃の扱いをちっとも覚えないんだな。使用人の帽子の帽章を撃ち落したそうだ。帽章がほしかったんだろうさ、もちろん。彼は自分とこの、馬鹿みたいに金ピカな四阿の風見鶏を撃った。おそらく、やつが仕留めた唯一のニワトリだな。今すぐあそこに行くかい?」
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フィッシャーは、用意ができたらすぐについて行くと、少し曖昧に言った。そして大蔵大臣は酒場を後にした。彼がブランデーを注文した時、少し取り乱し慌てていたことを、マーチは思い浮かべた。だが彼は話すうちに落ち着いた。その話というのが、記者の期待とまるきり違っていたにしても。少ししてからフィッシャーはゆっくりと酒場を出て道の真ん中に立ち、歩いて来た方角を見下ろした。それからそちらに二百ヤードほど戻ると、 再び立ち止まった。
「ここがその場所だと思います」と、彼は言った。
「何の場所です?」友人がたずねた。
「哀れなやつが殺された場所です」と、フィッシャーは悲しげに言った。
「何だって?」マーチは詰問した。
「彼はここから一マイル半ある岩場に衝突したんですよ」
「いいえ、違います」とフィッシャーは答えた。「そもそも彼は岩の上に落ちていません。柔らかい芝生の勾配に落ちただけだったでしょう? しかし私は、 彼が既に銃弾を受けていたのを確認しました」
そして一呼吸おいてから付け加えた。
「彼は宿屋では生きていましたが、 岩場に来るはるか以前には死んでいました。だから彼はこのまっすぐな道路沿いを運転していた時に撃たれたのです。どこかここら辺りだと思います。その後はもちろん、車は誰も停めないし曲がらないわけだから、まっすぐに進み続けました。 死体を遠くで発見させるにはとても巧妙な方法ですよ。ほとんどの人が、あなたみたいに言うでしょうね。ドライバーが事故を起こした、と。殺人者は賢いやつだったに違いありません」
「だけど酒場かどこかで銃声を聞かれないだろうか?」マーチはたずねた。
「聞こえたでしょう。しかし気付かないでしょう。 そこが」と探偵は続けた。「さらに賢いところです。 射撃は一日中いたる所で続いていました。たくさんの銃声でかき消されるように時間を見計らって撃ったに違いありません。まったく、第一級の犯罪者ですよ。ほかのこともでもね」
「どういう意味です?」わけのわからないうす気味悪い予感がわきおこり、友人はたずねた。
「彼は第一級の射撃手です」と、フィッシャーは言った。彼は突然向きを変えると、馬車道みたいに狭く草深い小道を歩いていった。そこは酒場の反対側で、大きな地所の終わりと、開けた狩猟場の始まりを示していた。マーチは、フィッシャー同様持て余していた忍耐力を発揮して後からゆっくりと進み、背の高い雑草との隙間を通して、塗装された杭のくすんだ表面を凝視している彼を見つけた。杭の後ろから、ポプラの木々が巨大な灰色の柱となって伸びていた。木々は濃緑の影で天上を満たし、 徐々に弱まっていく風の中でかすかに震えていた。日も低くなり、ポプラの巨大な影は風景の三分の一以上を占めるまでに伸びていた。
「あなたは第一級の犯罪者ですか?」親しげな調子でフィッシャーは尋ねた。「残念ながら私は違います。しかし四級の泥棒くらいにはどうにかなれるでしょう」
そして友人が返答するひまもなく勢いをつけると、何とかフェンスを越えることができた。マーチは何ら肉体的な努力をすることなく後に続いた。かなりの心理的な障害はあったけれど。ポプラはあまりにもフェンスの近くに生えていたため、通り過ぎるのにいささか苦労した。向こうには、青々として太陽のように輝いている、背の高い月桂樹の生垣だけが見える。生きた壁が連なった境界のせいで、まるで野原ではなく実は壊れた家に入っているようだ。使われなくなったドアや窓から中に入って、家具で塞がれた道を見つけたのに似ている。 月桂樹の生垣を迂回すると、芝生の台地に出た。そこは草の階段が、木球場みたいな長方形の芝生へと降りていた。 その向こうには背の低い温室がある。見たところ唯一の建物だ。おとぎの国の農場に建っている温室みたいに、どこからも遠く離れているように見える。フィッシャーは屋敷から少し外れた場所のさびれた様子を存分に知った。たとえ雑草で成長を妨げられるよりも残骸で散らかるよりも、それ以上にこれが貴族階級を風刺していることに気づいた。無視はされないが、ほったらかされているのだ。ともかくその温室は使われていなかった。決してやって来はしない主人のために定期的に掃除され、整えられている。
しかしながら、芝生を見渡して、彼はどうやら予想もしなかったものを見つけた。丸いテーブルの天板みたいな、脚のついた大きな円板が横向きに傾いていた。芝生に降り立ち、よく見ようと向こうに歩いていって初めて、マーチはそれが的であるとわかった。すり減って変色していた。派手な色をした同心円も色あせていた。ことによると、アーチェリーが流行していたはるか昔のビクトリア朝時代に作られたのではと思うほどだ。マーチは、陰鬱なクリノリンの婦人や異国風の帽子に頬髯の紳士たちが、すでに失われた庭を幻影のように再訪するのをおぼろげに見た。
さらに近くで的を見ていたフィッシャーが叫び声をあげたので、マーチは飛び上がった。
「ほら!」と、彼は言った。「誰かがこれに銃弾を浴びせていますよ、それも、かなり最近。まあ、ジンクのやつがここで下手くそな射撃を上達させようとしていたのでしょうね」
「ええ、まだまだ上達が必要なようですね」マーチは笑いながら答えた。「銃弾のうちのひとつとして、わずかでも的の中心近くにはないですね。てんでばらばらに、ただ無作為に乱射しただけに見える」
「無作為に乱射する」的を熱心に見つめながらフィッシャーは繰り返した。ただ同意しただけのようだが、彼の目が無気力なまぶたの下で光り輝き、意外な動きで屈めた身体を伸ばしたようにマーチは思った。
「少し待ってください」手ごたえを感じながら彼は言った。「化学薬品を持っていたはずなんです。その後で家にあがりましょう」 彼は再び的の上に背を屈めると、弾痕の上に指で何かを付けた。マーチの見た限りでは、ただのくすんだ灰色のしみだった。それから彼らは深まる夕闇の中を、長い緑の大通り沿いに屋敷へと進んでいった。
しかしながら、ここでもまた風変わりな探偵は玄関からは入らなかった。家の周りを歩きまわって窓が開いてるのを見つけると、中に飛び込んで、どうやら銃器室らしいその部屋に友人を招き入れた。鳥を撃つための道具が、きれいに並べて壁に立てかけられていた。だが窓際のテーブルの向こうには、より重々しく恐ろしげな形の武器が、置いてあった。
「ほら、あれがバークが大物を仕留めた銃ですよ」フィッシャーは言った。「ここに保管してあるとは知りませんでした」ひとつ持ち上げてしばらく調べると、また降ろして厳しげに眉をひそめた。その途端、見知らぬ青年が大急ぎで部屋に入ってきた。肌が浅黒くたくましい体つきで、でこぼこな額とブルドッグみたいな顎をしていた。そっけなく詫びるとこう言った。
「ここにバーク少佐の銃を置きっぱなしにしてしまって。まとめておくように言われたんです。今夜立ち去る予定なので」
そして訪問客を一瞥もせずに、二丁のライフルを運び去った。 開いた窓から、ずんぐりした黒い影がほの明るい庭の向こうに歩み去っていくのが見えた。 フィッシャーは再び窓の外に出て、彼をじっと見つめていた。
「あれが先ほどお話ししたハルケットですよ。」と、彼は言った。「秘書みたいなもので、バークの著書にかかわっていることは知っていました。しかし、銃を扱っているとは知りませんでした。しかし無口で分別臭いちっぽけな悪魔そのものですから、何でもできるのかもしれません。長年チェスのチャンピオンとして知られていた男です」
秘書が消えていった方向へと歩き始めると、まもなく芝生の上で会話や笑いに興じるハウスパーティーの光景に出くわした。 背が高く、ばらけた長髪の狩猟家が、小さな集団を仕切っているのが見える。
「ところで」フィッシャーが言った。「バークやハルケットのことを話していたとき、銃ではうまくものを書くことはできないと言ったでしょう。さて、今はそうは思いません。とても器用に、銃で絵を描く芸術家のことを聞いたことはありませんか? すごいやつがこのあたりに野放しでいます」
ハワード卿が、かなり豪快な人懐こさで、フィッシャーとその友人を呼び止めた。マーチは、バーク少佐やハルケット氏、そしてまた(ついでに言えば)主人のジェンキンズ氏にも紹介された。派手なツイードの平凡な小男で、まるで赤ちゃんみたいに、愛情をもって扱われているように思えた。
抑えのきかない大蔵大臣は彼が仕留めた鳥、バークとハルケットが仕留めた鳥、主人のジェンキンズが仕留め損ねた鳥についてまだ話していた。人当たりのいい偏執狂だ。
「あんたと獲物のことだが」攻撃的にバークに叫んだ。「まあ、だれでも大きな獲物を撃つことはできる。あんたは小さい獲物を撃つべきだな」
「そのとおりです」ホーン・フィッシャーが口をはさんだ。「だってもしカバが藪を出て空を飛ぶことさえできたなら、あるいは地所で空飛ぶ象を保護していたら、ええ、それなら……」
「そんな鳥ならジンクにも撃てるかもしれないからな」招待主の背中を陽気にぴしゃりと叩くとハワード卿は大声で叫んだ。「干し草の山かカバなら彼にも撃てるかもしれない」
「さて、みなさん」フィッシャーは言った。「ほんの少しの間、私について来てください。そして、ほかのものを撃つんです。カバではありません。私が地所で見つけた奇妙な動物です。三本脚で一つ目の、虹色をした動物です」
「いったい何を話してるんだ?」とバークがたずねた。
「来て、ご覧ください」とフィッシャーは快活に返答した。
こうした人々というのは、不条理なものをめったに拒絶しない。いつも何か新しいものを捜し求めているからだ。厳かに銃器室から再度武器を持ち出すと、案内人の後ろにぞろぞろと続いた。金ぴかの風見鶏がまだ曲がったまま立っている名高い派手な四阿を指し示すために、ハワード卿が無我夢中で立ち止まるだけだった。ポプラを越えて遠い草地にたどり着き、古い的を狙い撃つという新奇で無意味なゲームを受け入れるころには、黄昏は夜の闇へと変わっていた。
残っていた光も草地から消えゆくようだ。日没を背にしたポプラの木は、絢爛たる霊柩車の大きな羽飾りに似ていた。無益な行列がついにぐるりと曲がったとき、的の前にやってきた。ハワード卿は再び主の背中をぴしゃりと叩くと、第一弾を撃たせるためふざけ半分で前へ押し出した。触れられた肩や腕が不自然に堅くこわばっているように見えた。ジェンキンズ氏は、皮肉屋の友人たちが見たり想像したりしていたよりも、さらに不器用な様子で銃を抱えていた。
その瞬間、ものすごい悲鳴がどこからともなく聞こえたような気がした。その場にはまるで不自然でまるで相応しくない。というのも、人間ではないなにかが頭上で翼をはためかせたり、向こうの暗い森で盗み聞きしたりしてでもいるみたいだった。だがフィッシャーは、それがモントリオールのジェファーソン・ジェンキンズの青ざめた唇から発せられ止んだことに気づいた。その瞬間にジェンキンズの顔を見ている誰も不平を言わなかった、いつものことだったから。次の瞬間バーク少佐が、かすれてはいるが上機嫌にののしりをぶちまけた。バークと他の二人が正面にあったものを見たのだ。薄暗い芝生に立っている的は陰気なゴブリンがにやりと笑いかけているみたいだった。文字通り笑っていたのだ。星のような両の目、同様に鉛色をした光点が上向きで広がった二つの鼻孔を形作る、広く薄い口の両端。目の上の白い点が白髪混じりの眉に当たる。そのうちの一つは上向きにほとんど直角に跳ねあがっていた。力強い点線の見事な戯画だ。マーチはその人物を知っていた。薄暗い芝生は輝いていた。まるで海中の怪物が薄暗い庭を這いずりまわったように発光していたのだ。が、そこに死者の頭があった。
「ただの発光塗料だ」とバークが言った。「フィッシャーくんは、例の燐光を発する食べ物でからかっていたのかな」
「じいさんじゃないのか」ハワード卿は述べた。「そっくりだ」
ジェンキンズを除いて皆が笑った。皆が笑っていた時、彼は動物が初めて笑おうとしているような音を立てた。ホーン・フィッシャーが突然歩み寄って言った。
「ジェンキンズさん、ただちに内緒で話さなければならないことがあるんです」
狩猟場の小さな水流のそばだった。張り出した岩場の下の斜面。マーチが新たな友フィッシャーに出会った場所だ。仕事の途中で。その後すぐに公園での集いをお開きにさせた不快でグロテスクな現場だ。
「あれは私のいたずらです」とフィッシャーがおずおずと述べた。「的に燐を付けたのは。しかし、彼を驚かせる唯一の可能性は、突然の恐怖におののかせることでした。そして練習していた的の上に光る、狙い撃ちした顔を見たとき、地獄の光によって照らし出されたすべてを見たとき、彼は飛び上がった。自分の判断に充分に納得できました」
「残念ながら、ぼくは今でも何が何だかわかりません」マーチは言った。「いったい彼が何をしたのか、なぜやったのか」
「わかるはずです」わびしく微笑んでフィッシャーが答えた。「あなたが最初にヒントをくれたんです。そうですとも。鋭い指摘でした。屋敷で食事をするのにサンドウィッチを持っていくはずがないとおっしゃった。そのとおりです。可能性としては、訪問はするが食事するつもりはなかった。と言うか、とにかく、食事をしてはいないのでしょう。訪問が不快なものであると予期していたのだろうとひらめきました。あるいはいかがわしい接待、あるいはもてなしを受けられない何かを。それから、ターンブルがかつて、後ろ暗い人物にとって恐怖だったことを思い浮かべました。そして彼らを探し出し、告発するようになっていたことを。出発点は主を指し示していました――つまりジェンキンズです。ジェンキンズはいわゆる不法滞在者だったのです。ターンブルは別件の銃撃事件で彼を有罪にしたがった。ですが、ご存知のとおりかの紳士は別の銃撃を行ったというわけです」
「だけどあなたは、犯人は名射撃手だと言った」マーチは異を唱えた。
「ジェンキンズは名手です」とフィッシャーが言った。「とても下手なふりをすることができるほどにとても上手いのです。ジェンキンズだと考えることになったあなたのヒントの後に思いついた二つ目のヒントに行きましょうか? 下手くそな射撃に関するいとこの話でした。帽子から花形帽章を、小屋から風見鶏を撃ち落したといいます。ねえ、実際のところ、それほどひどく撃つには、かなり上手く撃たなければなりませんよ。頭や帽子ではなく、正確に帽章を撃たなければなりません。もし射撃が本当に無作為だったならば――その可能性は千に一つですが――そんなにわかりやすく絵的な物には当たらないでしょう。わかりやすく絵的な物だったので選ばれたのです。そうすれば世間の噂になります。四阿にある曲がった風見鶏を、伝説として語り継がせる。そうしておいて、彼は邪悪なまなざしと危険な銃をもって待ち伏せていました。自らの無能な伝説の後ろで安全に待ち伏せていたのです」
「まだあります。四阿そのものです。すべてです。ジェンキンズがからかわれていた金箔、派手な外装、悪趣味なものすべてが、彼に成金の印象をもたらしました。さて、実際には、成金は普通そうはしません。世間には成金があふれているので、彼らのことはよくわかっています。飾り立てるのは一番最後にやることです。彼らの多くはとても鋭敏なので、やるべきことを知り、実行します。即座にあらゆることを室内装飾家や芸術の専門家に任せます。すべてを行うのは専門家というわけです。銃器室の椅子に金箔の組み文字を付ける品性の度胸を持った大百万長者などほとんどいませんよ。さらに言えば、名前も文字遊びですよ。トンプキンス、ジェンキンズ、ジンクスといった名前は、一般的ではなく風変わりです。つまり普通じゃないくらい一般的ということです。お望みなら、普通じゃないくらいに普通と言いましょう。選ばれたのは、たしかに一見〈ヽヽ〉平凡な名前ですが、実のところかなり風変わりです。トンプキンスという人を知っていますか? トールボットよりももっと珍しいでしょうね。成金の喜劇衣装とほとんど同じです。 ジェンキンズが着ていたのはパンチの人形みたいでした。それは彼がパンチという配役だったからです。つまり彼は虚構の人物です。彼は架空の生き物です。彼は存在しません」
「存在しない人間になるには何が必要か考えたことはありますか? 虚構の人物になるためには、単に個人的な才能があるだけではなく、犠牲を払いつづけなければなりません。才能を包み隠す新たな偽装者でなければいけません。この男は非常に巧妙な偽装を選びました。完全な新手です。巧妙な犯人は、派手な紳士、立派な実業家、慈善家、聖人の顔を身にまといました。滑稽な小男の派手な印はまさしく新しい変装でした。しかし変装は、何かを実際にできる人間にとっては非常に退屈でしょうね。世界中にいる抜け目のないさまよい人です。なんでもできる。射撃だけじゃなく、絵を描くことも、あるいはヴァイオリンを弾くことも。今や、そうした人間が、才能を隠すことが役に立つことを発見しました。しかし、役に立たないところで才能を使いたくなるのは止められません。絵が描けるのなら、吸い取り紙にぼんやりと絵を描いてしまうでしょう。この悪人がしばしば『じいさん』の顔を吸取紙に描いていたんじゃないかとにらんでます。おそらく、その後に点で、というよりは弾痕でやるように、しみで描き始めたのでしょう。同じことです。人気のない場所で打ち捨てられた的を見つけて、こっそりと射撃に耽ることに抵抗できませんでした。こっそり飲むのと同様に。あなたは弾痕がてんでばらばらだと考えましたね。そのとおりでしたが、しかし偶然ではないのです。痕と痕の間は一様ではありませんでした。しかしそれぞれの点があるのは、ちょうど彼が撃ちたいと思った場所なんです。荒っぽい漫画ような数学的精度を必要とはしません。私自身、少し絵をかじってます。お望みどおりの場所に点を打つことをお約束しますよ。ペンでもって紙切れをいっぱいにするのは驚異です。銃でもって公園を越えるのは奇跡です。しかし奇跡を起こせる人間は、奇跡を行いたくて常にうずうずしているでしょう。たとえ暗闇の中であっても」
少ししてからマーチは慎重に口を開いた。「だけどあんな小型の銃を使って鳥のように彼を倒せるはずがない」
「いいえ。それが私が銃器室に入った理由でした」とフィッシャーは答えた。「バークのライフル銃を使ったんです。バークはライフルの銃声を聞いたように思った。それで帽子なしで、荒々しい様子で飛び出してきたんです。彼は猛スピードで走り去る車だけを見、少しだけ後をつけました。そして、勘違いだったと納得したのです」
また沈黙があった。フィッシャーは、はじめに出会った時のように大きな石の上に微動だにせず座っていた。藪の下に渦巻く銀灰色の川を見ていた。不意にマーチが言った。「もちろん彼は今や、真相を知ったんだ」
「あなたと私以外は誰も真相を知りません」フィッシャーは答えた。穏やかな声だった。「そして私は、あなたと口論するつもりはありません」
「何を言ってるんです?」調子っぱずれにマーチは尋ねた。「あなたは何をしたんです?」
ホーン・フィッシャーは、渦の流れをしっかりと見つめたままだった。ようやく口を開いた。「警察は、 自動車事故だと立証しました」
「だけどそうじゃないんでしょう」
「私は知りすぎていると言いました」川を見つめたままフィッシャーは答えた。「私はそのことを知っています。ほかにもたいへん多くのことを知っています。あらゆることの雰囲気や仕組みを知っています。あいつが永遠に平凡で滑稽な人間になるのに成功したことを知っています。あなたが喜劇役者のちびすけを苦しめることができないのを知っています。ホッグスやハルケットに、あのジンクがが暗殺者だったと告げたなら、彼らは私の目の前で笑い死にしかけるでしょうに。おお、彼らの笑いが無邪気すぎるとは言いません。ですが彼らなりに偽りはないのです。彼らにはジンクが必要です。彼なしではやっていけないでしょう。私が無邪気すぎるとは言いません。私はホッグスが好きです。彼に落ちぶれて欲しくない。ジンクの財産がなければ、彼はだめでしょう。この間の選挙ではぎりぎりでした。しかし唯一にして真の理由は、不可能であるということです。だれも信じはしないでしょう、些細なことです。曲がった風見鶏が、いつも冗談に変えてしまいます」
「ひどいとは思わないのですか?」静かにマーチがたずねた。
「いろいろなことを思います」相手は答えた。「人がダイナマイトで社会に地獄の混乱を吹き起こしたとしても、人類がもっと悪くなるか確信は持てません。しかし、ただ社会を知っているからといって、それほど責めないでください。それが生臭い魚のようなものに時間を費やしぼんやり過ごす理由なのですから」
彼が再び流れに目を据えたので間があいた。それから付け加えた。
「大きな魚は必ず逃がしてやると言ったはずです」