知りすぎた男 チェスタトン、ギルバート・キース/江戸川小筐訳 第一話 的の顔 第二話 消える王子 第三話 少年の心 第四話 底なしの井戸 第五話 釣り人の道楽 第六話 塀の穴 第七話 一家のお馬鹿(沈黙の神殿) 第八話 像の復讐 第一話 的の顔  ハロルド・マーチという新進記者にして社会評論家が、荒野《ムーア》と草地の広がる台地を元気一杯に突き進んでいた。地平線の先を縁取っているのは、あのトーウッド・パーク内にある遙か彼方の森である。マーチは明るい癖っ毛と青いきれいな目をした、ツイードに身を包んだ好青年だ。風と陽のなか自由そのものの景色に歩き出していることからわかるように、政治問題を忘れずにいるほど若かった。覚えようとしないのは言わずもがな。なにしろトーウッド・パークへの用向きというのが政治上のものだったのだ。ほかならぬ大蔵大臣ハワード・ホーン卿から伝えられた約束場所である。卿がその折り提唱していたいわゆる社会主義予算について、かくも有望な記者とのインタビューで説明してくれる予定であった。ハロルド・マーチは、政治のことなら何でも知っているが、政治家のことは何も知らないといったタイプの人間だ。芸術、文学、哲学、一般教養についてもよく知っていた。たいていのことは知っていたが、自分の暮らす世間のことは別だった。  思いがけぬことに、陽照り風吹く平野の真ん中で、地割れと呼んでもいいほどの狭い裂け目に出くわした。大きさから言えばぴったりなのは小さな川の流れであり、藪でできた緑のトンネルへ時折り消えてゆくなら、まるで小型の森のなかに消えているように見えるだろう。小人の谷を見わたす巨人になったような妙な感覚だった。だが谷間に降り立つと、その印象も失われた。コテージほどの高さもないくせに岩だらけの両岸が迫り来て、絶壁の様相を見せている。益体もなく夢見がちなだけの好奇心に駆られて、流れに沿って歩き出してみれば、巨大な鼠色の丸石と巨大な緑苔を思わせる柔らかい潅木に挟まれて、水がひとひら輝いているのが見え、正反対の幻想的な気分に落ち込んだ。まるで地表が口を開き、夢で出来た地下世界に飲み込んでしまったかのようだった。やがて銀色の流れに浮かび上がる黒い人影に気づいた。大きな丸石の上に座っていて、なんだか大きな鳥みたいに見える。そこにはおそらく、生涯一奇妙な友情に出くわす人物にぴったりの予感があったのだ。  男は見たところ釣りをしていた。いや少なくとも動かぬ釣り人以上に釣り人らしい姿勢のまま固まっていた。マーチは銅像でも観察するように男を観察できたし、銅像が口を利いたのはしばらく経ってからだった。背が高く色白で、痩せて気怠げ、重たげなまぶたと高い鼻をしている。顔はつば広の白い帽子で遮られていたが、薄い口髭としなやかな身体つきから見てまだ若そうだ。  だがパナマ帽がかたわらの苔に降ろされると、若くして額が禿げているのが見えた。それが目のまわりに虚ろさを伴っているせいで、頭を使っているようでも頭が痛いようでもある。だが少し観察してわかった一番の謎は、釣り人のように見えるのに、釣りをしていたわけではないということだった。  男は釣り竿の代わりに、漁師が使うたも網か何かを持っていたが、どちらかといえば子供が持っているありふれたおもちゃの網に似ている。よく海老や蝶を捕まえるためにごく普通に使うやつである。それを何度か水にくぐらせては、雑草や泥といった獲物を真剣に確かめてから、再び中身を空にしていた。 「何も捕まえちゃいません」言外の質問に答えたかのように、男は穏やかに口にした。「捕まえたら戻さなきゃいけませんから。特に大きな魚は。ですが手に入れたのが小さな生き物なら興味を惹かれますね」 「科学的興味ですね?」マーチはたずねた。 「ど素人ですがね」奇妙な釣り人は答えた。「いわゆる『燐光現象』にはまってるんですよ。人前で魚が臭いと公言する気にはなれませんけれどね」 「お察しします」とマーチは微笑んだ。 「銀色に光る大鱈を手に客間に入るなんて前代未聞だ」不思議な人物は物憂げに続けた。「なんとも愉快でしょうね、ランタンみたいに持ち歩くことが出来たなら。鯡の群れが蝋燭代わり。海の生き物のなかには、ランプシェードのように美しいものがいるでしょう。青い巻貝といえば星のように全身がまたたいていて。赤い海星のなかには、それこそ赤い星のように輝くもののいます。とはいえ無論、ここではそんなもの探してませんよ」  何を探していたのかたずねようとしたものの、どうあがいても深海魚なみに深い専門的な議論をするには力不足と感じて、マーチはもっとありふれた話題を振った。 「面白い空き地ですよねここは。この小さな谷と小さな川。こんな場所のことをスティーヴンスンは言ってたんですよ、何かが起こるはずの場所って」 「ええ。なにしろこの場所そのものが、ただ在るだけではなく起るといってもいいのではないでしょうか。おそらくそれが、あのピカソやキュビストたちが角やらジグザグの線やらで表現しようとしているものなんでしょう。あれをご覧なさい。低い崖のような絶壁が、そばまで広がる芝草の斜面に対し直角に突き出ています。言うなれば音なき衝突。言うなれば砕ける波と引き波ですよ」  突き出た岩が緑の斜面に覆いかぶさっているのを見て、マーチはうなずいた。いとも簡単に科学の専門家から芸術の専門家へと変じた人物に興味を持ち、新角度派の芸術家たちを評価するかどうかたずねてみた。 「思うに、キュビストたちもまだまだキュビスティックではありませんな。つまりまだまだ厚みがないんですよ。ものごとを数学的に考えると薄っぺらになってしまう。あの風景から生きた線を取り払って、直角だけに簡略化してごらんなさい。そうすれば景色もただの、紙に描かれた二次元の図形になります。図形には図形の美がある。だがそれはまた別の美です。そうしたものが表わしているのは変わらぬもの。穏やかで、永遠なる、数学的な真理。だれかが『放射する白光』と呼んでた――」  言葉が途切れた。続きの言葉が出てくる間もないほど突然のことで何が起こったのか理解できない。突き出た岩の向こうから機関車のような音が突撃してくるや、大きな自動車が現れた。崖のてっぺんから飛び出した逆光の中の黒影は、太古の叙事詩に謡われた破滅へとひた走る戦車のようだった。マーチは無意識に手を伸ばしたものの何の役にも立たなかった。客間で落としたティーカップを受け止めようとするのに似た仕草だった。  ほんの一瞬、飛行船のように岩棚から飛び立つかに見えた。やがて大空そのものが車輪のように回転したかに見え、崖下にはびこる草むらで破滅に至り、ひと筋の灰煙が静まりかえった大気中へゆっくり上っていく。少し下の方では白髪頭の人物が緑の急斜面に投げ出されたままになっており、意思のなくなった手足と顔があらぬ方を向いていた。  風変わりな釣り人は網を放り出して現場に急ぎ、知り合ったばかりのマーチも後を追った。近づいたときに化物じみた皮肉に思えたのは、命なき機械が工場のようにせわしなく脈打って唸りをあげているというのに、人間の方は静かに動かぬままという事実だった。  間違いなく死んでいた。血が後頭部の致命傷から草むらに流れている。だが陽にさらされた顔に傷はなく、それはそれで妙に目立っていた。よくあることだが見覚えを感じるほどに誤解しようのない風変わりな顔というものがある。どういうわけか、知りもしないのに知っているはずだと感じるのだ。のっぺりしたいかつい顔と大きな両顎は、類人猿じみている。大きな口は線を引かれたようにきつく閉じていた。低い鼻に空いた穴は空気を吸い込みたくてあくびしたようだ。なかでも奇異なのは、片方の眉がもう片方と比べ急角度にはねていることだった。この死者の顔ほど生き生きとした顔をマーチは見たことがなかった。みなぎる醜さが白髪の後光のせいでますます風変わりに見えた。ポケットからはみ出している書類の中から、マーチは名刺入れを抜き出し、名前を読みあげた。 「ハンフリー・ターンブル卿。聞き覚えがある名前だな」  連れはため息をひとつもらしただけで、考え込んでいるようにしばし無言だったが、やがて一言だけつぶやいた。「完全に死んでいます」それからいくつか科学用語をつけくわえたが今度も聞き手には理解できなかった。 「こういう状況であれば」妙に博識な人物は続けた。「警察に知らせるまでは死体をそのままにしておく方がいいでしょう。むしろ警察意外には知られない方がいい。驚かないでほしいのですが、近所の人たちに隠しておくべきだと思うんです」それから、いきなり信用しろといわんばかりの態度を正当化したくなったのか、こう続けた。「トーウッドのいとこに会いにきたんですよ。ホーン・フィッシャーといいます。わたしがこの辺りをぶらついているなんて、だじゃれといってもいいじゃないですか?」 「ハワード・ホーン卿がいとこなんですか? ぼくも卿に会いにトーウッド・パークに行くところなんです。もちろん公務に関してですけど。信念を固めている立派な態度。今度の予算案はイギリス史上で最高のものですよ。たとえ失敗したって、イギリス史上最も勇敢な失敗になりますとも。偉大なご親戚ですから誇らしいでしょう?」 「無論です」フィッシャー氏は答えた。「一番の射撃の名手ですからね」  しかし無頓着な言葉を悔やむように、力強くつけくわえた。 「いや、ですけど本当に素晴らしい射撃ですよ」  まるで自分の言葉に点火されたように頭上の岩棚に跳びつくと、先ほどまでの気怠さからは驚くほどの素早さで登っていった。崖っぷちに立ちつくし、パナマ帽から覗く鷲のような横顔を空に浮き彫りにして田園風景を見つめていた。ようやくマーチも気持を落ち着かせることができたので、あとに続いてよじ登った。  台地に広がる草地には、不運な車の轍がくっきり残されていた。だがそのへりはぐらつく歯のように乱れていた。さまざまな丸石が崖近くに散乱している。誰であれ、自ら死の罠に飛び込んだとはとても思えない。それもまっ昼間ときては。 「まるっきりわからない」マーチが口を開いた。「目が潰れたんだろうか? それとも酔い潰れてたのかな?」 「見た感じどちらでもないようですね」フィッシャーが答えた。 「じゃあ自殺」 「ぞっとしない自殺の仕方ではありませんか。そのうえどうも、あのパギーが自殺するとは思えません」 「あの誰ですって?」記者は不思議に思って問いただした。「あの男を知ってたんですか?」 「誰もちゃんと知ってるわけではありませんが」フィッシャーは言葉を濁した。「無論みんなが知っていましたよ。若いころ議会や法廷では恐怖の的でした。なかでも、不良分子として退去命令を出された外国人がらみのいざこざで、そのうちの一人を殺人罪で絞首刑にしたがったときなどはね。それに痛手を受けて判事を辞めましました。それ以来、よく一人でドライブをしていましたが、週末はトーウッドに来ることになっていました。しかしわざわざこんな庭先で首を折る理由がわかりません。ホッグスが――いとこのハワードのことですが――やって来たのは彼に会うためなのでしょう」 「トーウッド・パークはハワード卿のものではありませんよね?」マーチはたずねた。 「ええ。以前はウィンスロップ家のものでしたし。今はまた別人のものです。モントリオールから来たジェンキンズという人ですよ。ホッグスは猟に来るんです。射撃がうまいと言ったでしょう」  こうした賛辞が偉大な政治家に対して繰り返されたせいで、皇帝ナポレオンはトランプナポレオンの名人なりと言われたような気分になった。だが形定まらぬ意識が一つ、この見慣れぬ印象の大波に揉まれていたので、それが消え失せる前に表へ引っ張り出した。 「ジェンキンズ」とマーチは繰り返した。「社会改革主義者のジェファーソン・ジェンキンズじゃないですよね? 新しい別荘地改良計画のことで争っている最中の。実を言うと、世界中のどんな閣僚にも負けないくらい会いたい人なんです」 「その人ですよ。別荘でなければならないのだとホッグスは言ってました。牛の品種はしょっちゅう改良されているし、世間も笑い出し始めているからだそうです。それにもちろん何かの上に爵位を吊るす必要はありますから。とはいえ残念ながら彼はまだ手にしてませんが。おやっ、誰かいる」  ふたりが轍に沿って歩き出し、谷間をあとにしたときも、車はまだ人を殺した昆虫の化物のようにうなりをあげていた。轍をたどって曲がり角にやってくると、岐路の一つと轍が遠くの門へとまっすぐ続いていた。車が長い直線道路をやって来て、左に曲がる代わりに、破滅に向かって一直線に草むらへ飛び出したのは明らかだ。だがフィッシャーの目をくぎ付けにしたのはこの発見ではなく、それ以上に確かなものなのである。白い道路の隅に黒い人影がぽつりと道しるべみたいに立っていた。その人影はむさ苦しい狩猟服を着た無帽の大男であったが、乱れた縮れ毛のせいでかなり荒々しく見える。さらに近づいてみると、この異様な第一印象は薄らいだ。明るいところで見ればその姿はごく当たり前の様相を呈しており、喩えるならばどこにでもいる殿方がたまたま帽子もかぶらず髪もきちんととかさず出てきたといったところであった。だが大きな背はそのままだし、深く洞穴めいた眼窩のせいでやはり平凡とはほど遠い野性的な顔だちに見えた。だがマーチがさらに詳しく観察する暇もなく、驚いたことにフィッシャーは「やあ、ジャック!」と言ったきり、相手が本物の道しるべでもあるように通り過ぎてしまい、岩の向こうの大惨事を知らせようともしなかった。これは比較的小さいことだったが、奇妙な新知が引きずり回す一連のおかしな行動の第一歩に過ぎなかった。  素通りされた男は、いぶかしげに二人を見つめていたが、フィッシャーは平気な顔で広大な地所の門の向こうまである直線道路を歩き続けた。 「あれはジョン・バーク、旅行家です」とフィッシャーは申し訳なさそうに説明した。「猛獣を仕留めたことやなんかを、聞いたことがありませんか。立ち止まって紹介できなかったのは申し訳ありませんが、おそらく後で会うことになりますよ」 「もちろん著作は知っていますとも」マーチは新たな興味をひかれた。「すばらしい記述があったはずです。巨大な頭が月を遮ったときに初めて象の接近に気づくのだ、と」 「ええ、ハルケットはうまく書いたものです。何です? バークの本を書いてるのはハルケットだと知らなかったんですか? バークは銃のほか使えませんよ。あなただって銃でものは書けないでしょう。ああ、バークだって本物です。ライオンみたいに勇敢、いや、もっと勇敢だとみんな言うはずです」 「彼のことなら何でも知ってるみたいですね」マーチは戸惑い気味に笑いをあげた。「それに、ほかの人たちのことも」  フィッシャーの禿げた額に不意に皺が寄り、不思議な表情が目に浮かんだ。 「知りすぎている。それがわたしの問題なのです。われわれみんなの問題であり、すべてなのです。わたしたちは知りすぎている。お互いのこと。自分のこと。だからこそ今、心から興味をひかれているんですよ、わたしの知らない一つのことにね」 「それは?」 「あの人が死んだ理由です」  ふたりは直線道路を一マイル近く歩きながら、こんなふうにぽつぽつと話していた。マーチは、世界が反転させられたような奇妙な感覚に陥った。ホーン・フィッシャー氏は別に社交界にいる友人や親戚の悪口を言ったわけではない。幾人かのことは愛情深く話していた。ところがまるで、新聞で話題の男女とたまたま同じ神経組織を持つだけの、まったく知らない一揃いの男女について聞いているような感覚だった。どんなに激しい暴動も、この冷淡な親しさほど革命的には思えない。舞台装置と背中合わせに輝く日光のようだった。  ふたりは番小屋付の大門にたどり着いたが、驚いたことにそこを通り過ぎ、どこまでも続く白い直線道路を歩き続けた。だがハワード卿との約束には早すぎたし、いかなるものであれ連れの試みを最後まで見届けるのも嫌ではなかった。かなり前に荒野《ムーア》をはずれ、白い道路の半分にはトーウッドの松林の影が大きく落ちて灰色になっていた。灰色の格子のような松林そのものが陽射しに対する鎧戸となり、その内側に昼日中から自ら真夜中を作り出している。だが間もなく、ステンドグラスから射し込むかすかな光のように、そこに切れ目が現れ始めた。先へ行くにしたがい木々はまばらに減り、見えているのは点々と飛び散る雑木林だ。フィッシャーが言うには、そこで一日中ホームパーティが続いていたのだという。二百ヤードばかり先に、ようやく曲がり角があった。  その角には崩れかけた酒場らしきものが立っており、『葡萄亭』と書かれた薄汚ない看板が掛かっていた。その看板はどす黒くもはや判読不能で、空と灰色の荒野《ムーア》を背景に黒くつり下がっているのが、絞首台のように人を引きつける。ワインの代わりに酢を出す店のようだとマーチが口にした。 「名言ですね」とフィッシャーが言った。「うっかりあそこでワインを飲もうものならそのとおりでしょう。しかしビールはいけますよ。それにブランデーも」  マーチはいささか驚きながら後を追って談話室に入ったが、漠然とした嫌悪感は亭主を見ても消し飛びはしなかった。物語に出てくるにこやかな亭主とはまるで違う痩せた男で、黒い口髭の下はとんと動かぬくせに、黒い目はそわそわと動きまわっている。無口ではあったが、聞き込みが実りいくつかの情報を引き出すことができたのは、ビールの注文と自動車の話題を細かく繰り返したたまものであった。どうやら独特の方法で亭主が自動車の権威だと見当をつけたらしい。自動車のメカニズム、管理方法、誤った管理方法のノウハウに夢中なのだと。話のあいだじゅうコールリッジの老水夫のように光るまなこで人をとらえて離さない。このなんとも不思議な会話によってついに明らかになったのは、話通りの特徴をした車が一台、一時間ほど前に宿屋の前に停まったという打ち明け話であった。年配の男が降りてきて機械のことで助けを求めたという。その客はほかに何か助けを請わなかったかと聞かれ、亭主は手短に答えた。ご老人は懐中壜を満たしてサンドイッチを一包み持っていった、と。これらの言葉とともに、少しばかり無愛想な主人はさっさとカウンターから立ち去ってしまい、光の届かぬ奥の部屋からドアの閉まる音が聞こえた。  フィッシャーは倦んだ目でほこりだらけのわびしい飲み屋を見回した。ぼんやりと目を留めたガラスケースには鳥の剥製が収められており、その上には銃がかけられているものの、ほかに飾りはないようだ。 「パギーにはユーモアがありました」フィッシャーが言った。「あの人なりの悪趣味なものではありましたが。しかし自殺しようとしている人間がサンドイッチを買うとなると、ちょっと悪趣味にもほどがありはしませんか」 「それを言うなら、訪問しようとしているお屋敷の玄関先にいる人間がサンドイッチを買うっていうのも、よくあることとは言えませんよ」 「そう……そうです」フィッシャーは半ば機械的に繰り返した。と思うと急に顔を輝かせてマーチに目を向けた。 「お見事! 一理ありますよ。まったくそのとおりです。そのうえ何とも奇妙なことを連想させるじゃありませんか?」  静けさのなか、なぜか神経質になっていたマーチが思わずぎょっとしたことに、酒場のドアが乱暴に開いていま一人の男がつかつかとカウンターに歩いていった。男はコインでカウンターをたたき大声でブランデーを注文してから、ふたりの座っている窓際の木目調テーブルにやって来た。男がいささか興奮した目つきで振り向いたとき、マーチはまた新たに思いがけぬ感情を抱いた。連れがその男にホッグスと呼びかけ、ハワード・ホーン卿だと紹介したからである。  絵入り新聞の若々しい似顔絵よりもいくらか老けて見えるのが、いかにも政治家らしい。なでつけられた金髪には白いものも目立っていたが、顔はおかしなくらい真ん丸で、賢しげに輝く目と鷲鼻の組み合わせがどことなくオウムを連想させた。縁なし帽をあみだにかぶり銃を小脇に抱えている。マーチは偉大な政治改革者との会見をさまざまに想像していたが、銃を小脇に抱え、酒場でブランデーを飲んでいるところなど思いもよらなかった。 「ではあなたもジンクのところにいるんですか」とフィッシャーが言った。「みんなジンクのところのようですね」 「ああ」大蔵大臣は答えた。「素晴らしい狩りだったよ。とりあえずジンクは別だがね。あれだけたいした射撃をしながらあれだけ的を外すやつは見たことがない。むろん素晴らしいやつではあるんだ。批判の言葉などあるもんか。だが豚肉を詰めていたんだか何したんだか、銃の扱いは知らんのだな。使用人の帽章を撃ち落したそうだ。帽章とは、あいつらしいだろう。あのけばけばしい四阿の風見鶏を撃ったんだと。おそらく、あいつが仕留めた唯一の鶏だな。もう行くか?」  フィッシャーはぼんやりしながら、手はずが整ったらすぐについて行くんですけれどね、と答えた。大蔵大臣は酒場を出た。マーチが思うに、ブランデーを注文したときには気が揉めていたか急いていたのだ。だが話をするうちに平常心を取り戻していた。その話というのが、記者の期待とまるきり違っていたにしても。しばらくしてからフィッシャーはゆっくりと酒場を出て道の真ん中に立つと、これまでたどってきた道のりを見つめていた。と思うと二百ヤードほどそちらに進み、そこでも立ちつくしていた。 「現場はこのあたりだと思います」 「現場?」 「あの人が殺された現場ですよ」と、フィッシャーが悲しげに言った。 「そんなばかな。激突死した岩場はここから一マイル半もあるんですよ」 「いいえ、そうじゃないんです。そもそも岩場には落ちていません。その下にある柔らかい草の生えている斜面に落ちただけだったじゃありませんか? ところがそのときすでに弾丸をくらっていたんです」  一呼吸おいてさらに続けた。 「酒場では生きていましたが、岩場にたどり着くずっと前に死んでいました。つまりこの直線道路を走っていたとき撃たれたのです。おそらくこの辺りでしょう。あとは必然的に、車は直進し続けました。停める人も曲がる人もいないのですからね。なかなか独創的で巧妙な遣り口です。死体が遠くで見つかれば、たいていはあなたみたいに、ドライバーの落ち度だと言うでしょうから。殺人者は賢く残忍なやつだったに違いありません」 「でも酒場かどこかで銃声は聞こえなかったんでしょうか?」 「聞こえたでしょうね。しかし気に留めることはなかったでしょう。そこがまた賢いところです。狩りが方々で一日じゅう続いていましたから。ほかの銃声にかき消されるように銃撃の時機を計ったと見てほぼ間違いありません。まさしく第一級の犯罪者ですよ。そのうえ第一級の――」 「つまり?」不気味な予感に襲われたが、理由はわからない。 「第一級の狙撃者です」  フィッシャーは不意に背を向けたかと思うと、小型の馬車道ほどしかない細い小道を草をかきわけ歩いていた。道は酒場とは反対側に延びており、広大な地所と広々とした荒野《ムーア》の境界線となっていた。マーチがこれまた益体もない我慢強さでえっちらとあとに続くと、フィッシャーは雑草や茨の茂み越しに塗装された垣根の壁面を見つめていた。垣根の向こうには立ち並ぶポプラが巨大な灰色の柱となってそびえ、濃緑の影で天上を満たし、徐々に弱まっていた風にかすかに揺られていた。日も低くなり、ポプラの巨大な影が景色の三分の一以上に伸びていた。 「あなたは第一級の犯罪者ですか?」フィッシャーが親しげにたずねた。「残念ながらわたしは違います。しかし四級の泥棒くらいにはどうにかなれるでしょう」  そしてマーチが答える間もなく、勢いをつけて何とか垣根を越えていた。あとに続いたマーチに肉体的努力は無縁だったが、少なからぬ心理的動揺があった。ポプラがあまりに垣根際に生えていたため、滑り降りるのにはいささか苦労したものの、向こうには背の高い月桂樹の生垣が、水平に射す日光のなかで緑色に輝いているのしか見えなかった。連なる天然の壁に阻まれているせいで、広々とした野原にではなく荒廃した家に侵入しているように感じられた。使われなくなったドアや窓から入り込むと、家具で塞がれた通路があったような感覚だ。月桂樹の生垣を迂回すると、草の生えた段地のようなところに出た。緑の斜面を一段下がるとボウリング・レーンのような長方形の芝生がある。向こうには見渡すかぎり一軒の建物しかなく、その背の低い温室はどこからも遠く離れているように見えるせいで、おとぎの国の領土に立つガラス小屋を思わせた。フィッシャーは、屋敷の外に出ると寂しい景色が広がっているものだということをよく知っていた。雑草がはびこり残骸が散らばることよりも、貴族社会に対するなによりの風刺だと悟った。見捨てられてはいないにもかかわらず、寂れているのだから。ともかく、使われてはいない。訪れることのない主人のために定期的に掃除され内装されていた。  しかしながら芝生を見渡した結果、予想もしなかったものを見つけたようだ。三脚のようなものに円卓の天板じみた大きな円板がよりかかっていたのだが、芝生に降りてよく見ようと近づいてから初めて、それが的であるとマーチにわかった。使い古されていたし風雨にさらされ変色している。鮮やかだったはずの同心円も色あせている。ことによると、アーチェリーが流行していた遙かビクトリア朝から置きっぱなしなのではと思うほどだ。またもやマーチがふけったぼんやりとした空想のなかでは、雲のようなクリノリンを身につけた貴婦人や風変わりな帽子に頬髯の紳士たちが、とうになくなった庭を幽霊のように再訪していた。  もっと近くで的を覗き込んでいたフィッシャーが叫び声をあげたので、マーチは飛び上がった。 「ほらご覧なさい! 誰かがこれに銃弾を浴びせていますよ、それも、ずいぶんと最近に。まあ、ジンクのやつがここで下手くそな射撃を上達させようとしていたんでしょう」 「ははは、まだまだ上達の必要がありそうですね。真ん中近くに当たった弾なんてひとつもない。でたらめに的を外したとしか思えませんね」 「でたらめに、ですか」的をじっくり見据えたままフィッシャーは繰り返した。同意しただけのようにも聞こえるが、重たげなまぶたの下で瞳が輝き、屈めた身体を彼なりにぴんと伸ばしたようにもマーチには思えた。 「ちょっと待ってください」ポケットを探りながらフィッシャーが言った。「薬品があったはずなんです。そのあとで家にあがりましょう」再び的の上に屈み込むと、弾痕の上に指で何かをつけていた。マーチの見た限りでは、ただの鼠色のしみであった。それからふたりは深まる夕闇のなか、緑に囲まれた長い並木道を屋敷へと進んだ。  ところがここでまた風変わりな探偵は中に入るのに玄関を使わなかった。家をぐるりと迂回して窓が開いてるのを見つけると、中に飛び込みマーチを招き入れた。どうやら銃器室らしい。ごく普通の鳥撃ち用の銃が、壁に立てかけられて並んでいる。だが窓際のテーブルの向こうには、もっと重たげで恐ろしげな銃器がいくつか置かれていた。 「おやおや、バークの猛獣用ライフルですよ。ここに保管してあるとは知りませんでした」フィッシャーはひとつ手に取り簡単に調べると、すぐに降ろして眉間に皺を寄せた。と同時に見知らぬ青年が大急ぎで部屋に入ってきた。その色黒で逞しく、こぶだらけの額とブルドッグみたいな顎の持ち主は、そっけなく詫びを入れた。 「ここにバーク少佐の銃を置きっぱなしにしてしまって。まとめておくよう言われたんです。今夜、出かける予定なので」  そう言うや見知らぬ人物には一瞥もくれずに二丁のライフルを運び去った。開いた窓から、小柄な黒い影が仄明るい庭の向こうに歩み去っていくのが見えた。フィッシャーは再び窓から外に出ると、それを見つめたまま立っていた。 「あれが先ほどお話ししたハルケットですよ。秘書みたいなものですね。バークの書類を扱っているのは知っていました。しかし銃も扱っていたとは知りませんでした。しかしまあ黙ってやるべきことはやるタイプの青年ですから、何でもできるのかもしれません。何年も経ってからチェスのチャンピオンだったとわかるようなタイプですよ」  秘書の消えた方へ歩き始めると、まもなく芝生の上で談笑しているパーティの居残り組が見えてきた。背が高くざんばら鬣のライオン・ハンターがその集まりを仕切っていた。 「ところで」フィッシャーが言った。「バークやハルケットのことを話していたとき、銃ではうまくものを書けないと言ったでしょう。それなんですが、今やそれほど確信が持てないのです。銃で絵を描ける器用な画家のことを聞いたことはありませんか? えらいやつがこのあたりにのさばっているんですよ」  ハワード卿が、豪放磊落にフィッシャーと新聞記者を呼び止めた。マーチはバーク少佐やハルケット氏、そしてまた(ついでに言えば)主人のジェンキンズ氏にも紹介された。派手なツイード姿の平凡な小男で、他の面々から愛情らしきものを込めて赤ちゃん扱いされているようである。  大蔵大臣は話をやめることができずに、自分が仕留めた鳥、バークとハルケットが仕留めた鳥、主人のジェンキンズが仕留め損ねた鳥についてまだ話していた。これでは社交的な偏執狂である。 「あんたと獲物のことだが」挑むようにバークに叫んだ。「まあ、だれでも大きな獲物を撃つことはできる。小さな獲物を撃つべきだな」 「そのとおりです」フィッシャーが口をはさんだ。「河馬があの藪から空に飛び上がるなんてことがあったり、空飛ぶ象を地所内で保護したなら、ええ、それなら……」 「そんな鳥ならジンクにも撃てるかもしれんぞ」ハワード卿は大声で叫んで招待主の背中を陽気にぴしゃりと叩いた。「こいつにだって干し草の山とか河馬なら撃てるかもな」 「さて、みなさん」フィッシャーが言った。「ちょっとついて来ていただけますか。撃ってほしいものがあるんです。カバではありませんが。それとは別に奇妙な動物を地所内で見つけたんですよ。三本脚で一つ目の、虹色をした動物です」 「いったい何の話だ?」とバークがたずねた。 「こっちに来てご覧ください」とフィッシャーはほがらかに答えた。  こうした人々というのは、馬鹿げたことをめったに拒絶しない。いつも新しいものを捜し求めているからだ。もったいぶって再び銃器室から銃を取り出すと、フィッシャーのあとからぞろぞろついていった。ハワード卿だけが夢中で立ち止まり、かのけばけばしい四阿を指さした方を見やると、金ぴかの風見鶏が今もまだ曲がったままだった。薄暮が夕闇に変わるころには、一同はポプラのそばの寂しい緑地にたどり着き、古い的を狙い撃つという新奇で無意味なゲームを受け入れていた。  見たところ残光が芝生から薄れ、日没を背にしたポプラの木々はまるで紫の霊柩車を覆う羽根飾りのようだった。無意味な行列はやがてぐるりと曲がって的の前にやってきた。ハワード卿は再び招待主の背中をぴしゃりと叩くと、最初に撃たせようとふざけ半分に前へ押しやった。触れられた肩や腕が不自然に堅くこわばっているように見える。ジェンキンズ氏の銃の扱い方ときたら、皮肉屋の友人たちが見たり想像していたよりもさらに不器用なものだった。  その瞬間、恐ろしい悲鳴がどこからともなく聞こえたような気がした。その場にはまるで不自然で相応しくない。頭上で翼をはためかせた人ならぬ何かが、あるいは彼方の暗い森で耳をそばだたせている人ならぬ何かが立てたような音だった。だが悲鳴が出たのも引っ込んだのもモントリオールのジェファーソン・ジェンキンズの青ざめた唇からであったことに、フィッシャーは気づいていた。その瞬間ジェンキンズの顔を見た者であれば、平凡だという苦言は呈さなかったであろう。次の瞬間バーク少佐ががらがら声で上機嫌な雑言をほとばしらせた。誰もが正面にあったものを見たのだ。薄暗い芝生に立てられた的は陰気なゴブリンがにやりと笑いかけているようだった。いや文字どおり笑っていた。星のごとき両目を持ち、同じく鉛色の光点が上向きに開いた二つの鼻孔と大きく引き結ばれた口の両端を照らしていた。目の上の白い点々が白髪混じりの眉に当たる。眉の片方が立ったように跳ね上がっている。輝く点線で描かれた輝かんばかりに素晴らしい似顔絵だった。マーチにはそれが誰だかわかった。それは日の暮れた芝生の上で輝き、海底の怪物が夕闇の庭を這いずりまわったように発光していた。だがそれは死者の顔だった。 「ただの発光塗料だ」とバークが言った。「フィッシャーくんが、例の燐光でからかっているんだろう」 「パギーのつもりじゃないのか」ハワード卿が言った。「そっくりだ」  それに気づいて誰もが大笑いしたが、ジェンキンズだけは別だった。みんながひとしきり笑ったあとでジェンキンズは、初めて笑おうとしている動物のような音を立てていた。するとフィッシャーが不意に歩み寄って言った。 「ジェンキンズさん、ただちに内緒で話す必要があるんです」  荒野《ムーア》の小川ベリにある、岩場の張り出した斜面で、マーチは約束通りフィッシャーと会った。その直前のグロテスクと言っていいほど醜い出来事に、庭にいた一同は解散していた。 「あれはわたしのいたずらです」フィッシャーが浮かぬ顔で口を開いた。「的に燐をつけたのは。しかしジェンキンズをぎょっとさせるには、突然の恐怖におののかせるしかありませんでした。何度も練習していた的の上で、自分が撃ち殺した人の顔が地獄の光に照らされて輝いているのを見た瞬間、ジェンキンズはぎょっとしていました。納得するには充分でしたよ」 「ぼくにはまだ全然わからない。いったいジェンキンズが何をしたのかも、なぜやったのかも」 「わかるはずですよ」物憂げに微笑んでフィッシャーは答えた。「あなたが最初にヒントをくれたんですから。そうですとも。鋭い指摘でした。お屋敷で食事するのにサンドイッチを持ち込んだりはしないだろうとおっしゃったでしょう。そのとおりです。だとするなら、訪問するつもりはあったが食事するつもりはなかったということです。いずれにしても、食事はしていないのでしょう。そこでひらめいたのが、おそらくわかっていたのではないかということです。不愉快な訪問ですとか、歓迎されるのも疑わしいとか、暖かいもてなしを拒絶されるようなことをです。そのとき思い出したんですよ、ターンブルがかつては、後ろ暗い人物にとって恐怖の的だったことを。そのうちの一人の正体を暴いて告発までしていたことを。可能性から言ってまずは屋敷の持ち主が該当します――つまりジェンキンズです。今となってはほぼ確信しておりますが、ジェンキンズこそ、ターンブルがまたほかの銃撃事件で有罪にしたがったという不良外国人なのでしょう。しかし銃撃者にはほかにも持ち弾があったというわけです」 「でも犯人は射撃の名手だと言ってたじゃないですか」マーチが異を唱えた。 「ジェンキンズは名手なんですよ。たいへんに上手だからこそ下手なふりができるのです。その後に思いついた第二のヒントを申し上げましょうか?。ジェンキンズは射撃が下手だというホッグスの話でした。帽子から帽章を、小屋から風見鶏を撃ち落としたそうですな。考えてもご覧なさい、よほど上手く撃てなければそんなに下手くそには撃てますまい。よほど巧みに撃てなければ、頭や帽子ではなく帽章に当てることはできないでしょう。本当にでたらめに撃ったのなら――可能性は千に一つですが――そんなにわかりやすく絵的なものにはまず当たりませんよ。わかりやすく絵的なものだったからこそ選ばれたのです。そうすれば世間に噂が広まる。四阿のひん曲がった風見鶏をそのままにしておいて、伝説として語り継がせるのです。そうしながら邪悪な眼と危険な銃で待ち伏せていました。才能がないという伝説に隠れて安全に待ち伏せていたのです。 「それだけではありません。四阿そのもの。すべてがそこにあるんですよ。ジェンキンズがよくからかわれていた、金メッキだとか派手な色遣いだとかそういった悪趣味なものは、成金の印だと思われていました。しかし実際の成金はそんなことはしません。世間が成金の山であることは神様だって承知のこと。だから人間誰もが成金のことなら山ほど承知しています。悪趣味なことはまずしませんよ。たいていは適切なことを身につけて実行するのに余念がありません。そっくりそのまま室内装飾家や美術のプロの手にゆだね、すべて専門家任せです。銃器室の椅子に金箔の組み文字をつける度胸を持った億万長者などまずいませんよ。それを言うなら名前のことも組み文字と一緒です。トンプキンス、ジェンキンズ、ジンクスといった名前は、悪趣味というより滑稽じゃありませんか。つまり平凡なところがなく悪趣味なんです。お望みなら、平凡ではなく陳腐と言いましょうか。ありふれたように見える名前を選ぶとすればたしかにぴったりですが、現実的にはむしろありふれているとは言い難い。トンプキンスという人をたくさん知っていますか? トールボットよりはるかに珍しいでしょうね。喜劇における成金の衣装と同じことです。ジェンキンズは『パンチ』の登場人物みたいな服を着てますが、それは『パンチ』の登場人物だからですよ。つまり虚構の人物なんです。架空の生き物。存在しないのです。 「存在しない人間でいるということがどんなことなのか考えたことはありますか? 虚構の人物でいるということは、才能を犠牲にしたうえそれを続けなければならないということなんですよ。まったく新しい袱紗に才能を蔵めてまったく新しい偽善者になるということなのです。この男は選んだ偽善はきわめて独創的なものでした。完全な新手です。狡猾な犯人は、派手な紳士、立派な実業家、慈善家、聖人の衣装をまといました。戯画化したろくでなしみたいな派手な格子柄はまぎれもなく新しい変装でしたよ。しかしその変装も、何でもできる人間には退屈で仕方なかったでしょう。全国いたるところにいる抜け目ない浮浪児といっしょですよ、なんでもできる。射撃だけでなく、絵を描くことも、ヴァイオリンだって弾けるかもしれません。そんな人間なら、才能を隠しておくのが役に立つのだと気づくでしょうな。しかし役に立たないところで才能を使いたくなるのは止められません。絵が描けるのなら、吸い取り紙に無意識に絵を描いてしまうでしょう。あいつはしょっちゅうパギーの顔を吸取紙に描いていたんじゃないかとにらんでます。おそらく初めは吸取紙の染みだった。それが後には点で、いえ弾痕で描くようになりました。似たようなものですよ。人気のない場所に打ち捨てられた的を見つけるや、こっそりと射撃に耽ることに抵抗できませんでした。こっそり酒を飲んでしまうように。あなたは弾の痕が的外れでばらばらだとおっしゃっていましたし、事実その通りでした。しかし偶然ではなかった。同じ間隔のものは一つもありませんでした。しかしそうしたばらばらな点こそ、撃ちたかった場所なんです。ざっくりした似顔絵ほど数学的精度を必要するものはありません。わたし自身、少し絵をかじっていましたから請け合いましょう。思った場所に点を一つ置くだけでも驚くべきことなんです。ペンを紙にくっつけていても、ですよ。公園越しに銃でやるなんてのは奇跡です。しかし奇跡を起こせる人間なら、人知れずとも奇跡を行いたくて常にうずうずしているものなのです」  一呼吸置いてからマーチは慎重に口を開いた。「だけどあんな小型の銃では、小鳥のようにはいくものじゃない」 「そうでしょうね。だから銃器室に入ったんです。バークのライフル銃を使ったんですよ。聞き慣れた銃声だったのでしょう。ですから帽子もかぶらず荒々しく飛び出してきたんです。見えたのは猛スピードで走り去る車だけだったので、少しだけ後を追ってから、勘違いだったと納得したんですよ」  また沈黙があった。フィッシャーは出会った時のように大きな石の上に微動だにせず座ったまま、藪の下に渦巻く銀灰色の川を見つめていた。不意にマーチが口を開いた。「もちろんバークももう真相は知っているんだ」 「知っているのはわたしたち二人だけですよ」穏やかな声だった。「わたしたちが喧嘩することなどあり得ないでしょうし」 「何を言ってるんですか?」改まった口調でマーチがたずねた。「何をしたんです?」  フィッシャーは渦巻く流れをじっと見つめたままだった。ようやくこう言った。「警察は自動車事故だと立証しました」 「だけどそうじゃないことを知っているんでしょう」 「知りすぎていると言ったでしょう」川を見つめたままフィッシャーは答えた。「そのことを知っているし、ほかにもたくさんのことを知っている。すべてが起こる雰囲気も仕組みも知っています。あのひとが救いがたく平凡で滑稽な人物にうまくなりきっていることも知っています。あなたがトゥールやちびのティッチみたいな喜劇役者を苦しめることができないことも知っています。ホッグスやハルケットに、あのジンクが暗殺者だったと伝えたとしたら、目の前で笑い死にしかけるでしょうに。完全に他意がない笑いだとは言いませんが、それなりに偽りはないのです。みんなにはジンクが必要です。ジンクなしではやっていけないでしょう。わたしに他意がないとも言いませんよ。ホッグスが好きなんです。落ちぶれて欲しくない。ジンクが冠代を払えなければ、彼はだめでしょう。この間の選挙ではぎりぎりでした。しかし唯一にして真の理由はね、不可能だということなのです。だれも信じはしません。事情を知らないんですから。ひん曲がった風見鶏が、いつだって冗談に変えてしまいますよ」 「ひどいとは思わないのですか?」穏やかにマーチがたずねた。 「いろいろと思うことはあります。いつか社会のもつれをダイナマイトで吹き飛ばすようなことになっても、人類がこれ以上に悪くなるかはわからない。社会のことを知っているからといって、あまり責めないでもらえますか。だからこそ臭い魚のようなものに時間を費やしているんですから」  再び流れに目を据えて言葉を切ってから、つけ加えた。 「大きな魚は必ず逃がしてやると言ったはずです」 第二話 消える王子  この物語の始まりは、当世にしてすでに伝説的な、ある名前をめぐる逸話のなかにもつれ込んでいた。その名前とはマイケル・オニール、世間ではマイケル王子と呼ばれていたが、一つには古代フィアナ族の皇胤だと名乗っていたからであるし、一つにはルイ・ナポレオンがフランス大統領になったように、王子自らアイルランド大統領になるつもりなのだと信じられていたからだ。家柄にめぐまれ才能にあふれた紳士であるのは間違いのないところであったが、数あるなかでも二つのことに抜きんでていた。用のないときに姿を現わす能力と、用のあるとき、とりわけ警察に御用のときに姿を消す能力である。申し添えておけば、姿を消すときの方が姿を現わすときよりも危険であった。姿を現わす場合には、まず人騒がせの域を出ない――煽動的なポスターを貼ったり、官庁のポスターを破り捨てたり、大胆な演説を行ったり、規制された旗を掲げたりする程度である。ところが姿を消そうとする場合には、自由を求めて獅子奮迅することも多いため、追う方としても逃げるときに首が抜けずに腰が抜けたなら御の字ということも多いのであった。しかしながら、名高い逃亡劇のほとんどは、暴力ではなく智力のたまものである。雲ひとつない夏の朝、ほこりまみれで田舎道をやって来ると、農家の傍らで立ち止まり、地元の警察に追われているのだと、澄まし顔で農夫の娘に話しかけた。少女の名前はブリジット・ロイス、翳があり陰気と言っていいタイプの美人であったが、疑わしげにマイケルを流し見ると、「かくまってほしいの?」とたずねた。これに笑って答えただけで石垣を軽々と飛び越えると、肩越しに一言捨て置いて農場へと歩いていった。「悪いけど、今までも上手く隠れてきたからね」ここで悲劇的なことに、女性の性質に無知な行動を取ってしまった。かくして光射す行く末に破滅の影が落ちたのである。  マイケルが農家から姿を消しても、少女はそのまましばらく道路を見つめていたが、やがて汗まみれの警官が二人、疲労困憊しながら戸口までやって来た。いまだ憤慨しつつもいまだに無言の少女をよそに、警官は十五分後には家を捜査し終えて、すでに裏の菜園と小麦畑の捜査に取りかかっていた。反動で意地悪な気持になった少女が、逃亡者の居所を教えたくなったとしてもおかしくはなかったが、ささやかな問題として、どこに逃げ去ったものなのか、警官はおろか少女にも見当がつかなかったのである。菜園は極めて低い柵で囲まれ、その向こうにある小麦畑は緑の丘陵にあてられた四角い継ぎのようにスロープになっていたため、たとえ遠景の染みのようではあっても姿が見えなければおかしかった。何もかもが見慣れた場所に間違いなく佇んでいた。りんごの木は小さすぎて登ることも隠れることもできない。一つしかない小屋の扉は開いており、どう見ても空っぽだった。夏蠅の群れがうなり、かかし慣れしていない一羽の鳥がときどき羽ばたくほかは、何の物音もしない。かぼそい木が青い影を落としているほかには影もない。委細が顕微鏡で覗いたように、まばゆい陽光に照らし出されていた。少女は後に、いかにも女性らしく熱を入れて写実的にその光景を説明し、一方警官はといえば、同様に絵的な目を持っているかどうかはともかくとして、少なくとも現場の事実を見極める目は持っていたので、追跡をやめて現場から引き上げざるを得なかった。ブリジット・ロイスは魂が抜けたように、男が妖精のごとくかき消えたばかりの日照る庭を見つめ続けていた。いまだ悪感情を抱いていたうえに、妖精といっても悪い方の妖精だったのだとばかりに、この奇跡によって反感と恐怖を心に植えつけられた。庭に照りつける太陽のせいでますます気分が重くなったが、庭を見つめるのをやめたりはしなかった。やがて世界が白痴化し、少女は絶叫した。かかしが陽光のなかで動いたのだ。くたくたの黒い帽子とぼろぼろの服をまとい背中を向けて立っていたかかしは、ぼろをはためかせながら丘を越えて歩み去った。  予断と事実が及ぼすわずかな影響を利用した大胆なトリックを、彼女は細かく考えなかった。それよりも個人的な煩悶にかかりきりで、とりわけ気になっていたのは消えたかかしが農場を見ようと振り返りもしなかったことである。かくて宿命は華麗な逃走歴に弓を引き、次の冒険がほかの地域であれば変わらぬ成功をおさめたとしても、この地域では危険も増すべく定められてしまった。この手の似たような冒険にはこんなものもある。その数日後、メアリ・クリガンという少女が、働き先の農場に隠れていたマイケルを見つけた。この話が本当ならば、間違いなくメアリも異常な体験に衝撃を受けたはずである、というのも、庭で一人忙しく働いていたところ井戸のほとりで怒鳴る声を耳にして、見つけたのが底近くにある釣瓶にどうにか我が身を放り込んだ変人であり、いくらかしか水の溜まっていない井戸であった。しかしながらこたびの場合には、王子はロープを巻き上げてくれとその娘に頼まなければならなかった。この報せをほかの娘に話したときこそ、裏切りの気持ちが一線を踏み越えた瞬間だという話である。  このような逸話が少なくとも田舎では語られていたし、まだいくらでもあった――例えば豪奢な緑のガウンを着て豪華ホテルの石畳にふんぞり返っていたときなどは、豪勢な部屋から部屋へと警察を引っぱり回し、果ては寝室を通り抜けて川に張り出したバルコニーにたどり着いた。追手が踏み込んだ途端にバルコニーは足下から崩れ、警官たちは渦巻く水中へわらわらと落ちていったのだが、マイケルはというとガウンを脱ぎ捨て飛び込んでいたために、まんまと泳いで逃げ去ったのである。巧妙に支柱を切り取って、警官くらいの重さのものは支え切れぬようにしてあったという話である。ところが今回もやはり、応急的には幸運であったが最終的には不運であった。すなわち警官の一人が溺れ死んでしまい、あとには王子の人気に傷をつけたお家騒動だけが残ったという話なのである。今こうした話をかなり詳しくお伝えすることができるのは、数ある冒険のなかでもとりわけ驚異的だったからではなく、この話にだけは農夫たちが忠誠心による沈黙の覆いをかぶせなかったからである。以上の話だけは公式文書にすべりこみ、この地方の上役三人がそれを読んで議論していたところから、この話のさらに面白い部分が始まるのである。  夜はとうに更け、仮警察署として使われている海辺近くの小屋に灯がともった。片側には僻村のはずれの人家、反対側には荒涼とした荒野《ムーア》が海岸まで広がっているだけで、海岸線をさえぎるような目立つ建物といえば、アイルランドには今も見つかる先史時代型の塔がぽつんとそびえているくらいであり、柱のように細いがピラミッドのように尖っていた。木製机に接した窓からはこうした景色が眼前に見え、座っている二人の男には私服のくせにどこか軍人風の物腰が見えたのだが、それもそのはず二人ともその地区の刑事部長であった。年齢も階級も上の人物は、逞しく、短く刈り込んだ白い顎髭を生やしており、霜降り眉毛が貼りついたしかめ面には重大事よりも心配事が浮かんでいた。  名はモートンといい、アイルランド問題にたっぷり浸かったリヴァプール人であったが、苦々しく思いながらも同情を覚えないわけでもないままに務めを果たしていた。会話相手はノーランといって、長身で色黒、いかにもアイルランド人らしく青ざめた馬面をしていた。そのとき何かを思い出したらしく、別室のベルを鳴らした。呼んでおいた部下が書類の束を手に直ちに現れた。 「座りたまえ、ウィルソン。それが捜査計画書だな」 「その通りです」三人目の警官が答えた。「聞くべきことは聞き出してしまいましたから、みんな帰しました」 「メアリ・クリガンは証言したのか?」モートンのしかめ面はいつもより深刻そうに見えた。 「いいえ、しかし雇い主が証言しました」ウィルソンと呼ばれた男は、のっぺりした赤い髪をしており、あっさりした青白い顔には鋭さがないわけでもなかった。「私の見るところでは彼女につきまとっていて、ライバルには容赦ないのでしょう。何事につけ真実が明るみに出る場合には、得てしてこういう理由があるものです。もう一人の娘の話も満足いくものでした」 「まあ何かの役に立てばいいが」何の役にも立たぬと言いたげに、ノーランは外の暗闇を見つめていた。 「どんなことでも役立つとも」モートンが言った。「あやつのことで何かわかるのならな」 「何かわかっていたかな?」浮かぬ顔のアイルランド人がたずねた。 「一つわかっていることがあります」ウィルソンが言った。「これまで誰にもわからなかったことです。居場所がわかっているのです」 「間違いないのか?」モートンはぎろりとねめつけた。 「間違いありません」部下が答えた。「たった今も、あの沿岸の塔のなかです。近寄れば、窓から蝋燭の光が見えるはずです」  言い終えた途端、警笛の音が往来で鳴り響き、自動車の振動音が玄関先で停止するのが聞こえた。モートンは急いで立ち上がった。 「ありがたい、ダブリンからの車だ。特別な権限がないと俺にはなにもできん。塔のてっぺんに座り込んで舌を出されてもだ。だが長官なら、よかれと思えば実行できる」  玄関に急ぐや、毛皮のコートを着た立派な大男と挨拶を交わしていた。薄汚い警察署に、大都会のきらめきと大世界の華やかさがもたらされた。  これがウォルター・ケアリー卿である。ダブリン城からこれほどの高官が深夜に足を運んだのには、マイケル王子事件を措いてほかにない。ところがあいにくなことに、マイケル王子事件の面倒なところは、法律を遵守するだけでは無法状態と大差がない点にある。このあいだ逃げられたのは法廷で言い逃れられたからであって、いつものように一人で逃亡されたのではなかった。目下のところマイケルが法的に問題があるかどうかは疑わしい。拡大解釈せねばならぬかもしれないが、ウォルター卿のような男なら好きなように拡大もできるだろう。  そうするつもりがあるかどうかは、考慮すべき問題である。毛皮のコートは荒々しいほど豪勢なくせに、巨大なライオン頭の見た目はもちろん中身も立派なことは、冷静沈着に事実を考えていることからもすぐにわかった。五つの椅子が簡素な松材の机を囲んでいるのは、ウォルター卿がほかならぬ若い身内で秘書のホーン・フィッシャーを同行させていたからである。警察が逃亡中の謀反人をホテルの石段から海沿いの孤塔まで追跡したという一連の話に、ウォルター卿は真面目に耳を傾けていたが、秘書の方は礼を失しない程度に退屈そうにしていた。何にしてもマイケルは荒野と白波の間に追いつめられているわけである。ウィルソンが派遣した偵察者の報告によれば、蝋燭一本の明かりで書き物をしていたというが、おそらく新手の声明文でも作っていたのだろう。その場所で腹をくくるのを選ぶとすればいかにもマイケルらしいと言えるだろう。その塔が一族の城だと言わんばかりに黴の生えかけた権利を持っていたのだ。彼を知る人たちは、マイケルなら海に挑んで倒れた古代アイルランドの族長たちを真似かねないと考えた。 「玄関のところでおかしな人たちが出ていくのを見かけたよ」ウォルター・ケアリー卿が言った。「証人のようだがね。それにしてもどうしてこんな夜中にやって来たのかな?」  モートンは残酷な笑みを浮かべた。「夜にやって来たのは、昼に来ていたら死人になっていたからですな。彼らが犯した罪は、ここでは盗みや殺しよりも恐ろしいのです」 「どんな犯罪だというのかな?」興味深げに卿はたずねた。 「法を助けているというわけですよ」モートンが答えた。  押し黙ったまま、ウォルター卿は目の前の書類をぼんやり見つめながらじっくりと考えていた。ようやく口を開いた。 「そうだろうね。だがね、地元の感情がそれほど厳しいのなら、考えなくてはならない点がたくさんあることになる。新しい条例のもとでなら、今度こそ捕まえられるだろうとも。それが最善だと思うなら。だが最善なんだろうか? 深刻な叛乱が起これば議会には何の得もないし、イギリスにもアイルランドにも政府の敵はいる。詐欺まがいのことをしても何にもならないし、革命を引き起こすだけだよ」 「それではあべこべです」ウィルソンが急ぎがちに口を挟んだ。「三日以上やつを泳がせておくのに比べれば、逮捕した方がたいした革命にはならないはずです。いずれにしましても、近ごろではまともな警察にできないことなど何一つあるはずがない」 「ウィルソン君はロンドンっ子だから」アイルランドの捜査官が笑みを浮かべた。 「ええ、確かに生粋のロンドンっ子ですとも」ウィルソンは答えた。「そこがよいところだと思っております。おかしな話で恐縮ですが、特にこの仕事では」  ウォルター卿は三人目の警官の頑固なところをわずかなりとも面白がったようであるが、なかでもわずかなアクセントを面白がった。生まれを誇る必要もないではないか。 「つまりだね、ロンドン生まれだからここの仕事にいっそう詳しいというのかな?」 「おかしな話に聞こえるでしょうが、そう信じております」ウィルソンは答えた。「こうした事件には新しい方法が必要なはずです。何にも増して新しい眼が」  上官たちが笑いを漏らしたので、赤毛の男はわずかに気色ばんだ。 「事実を見てくださいよ。あいつはいつもどうやって逃げていましたか。おわかりでしょう。なぜかかし代わりに立っていられたのです? 隠れるものは古帽子しかなかったのに。村の警官はそこにかかしがあることを知っていたからです。あることはわかっていたから、気にも留めませんでした。ですが私にはかかしがあることなどわかるわけがありません。街では目にしたことがないからこそ、畑で目にすればまじまじと見つめます。私には目新しく、注目に値することだからです。井戸に隠れたときもまったく同じでした。あなた方はああした場所には井戸があると心得ていらっしゃる。井戸があると知っていたから見えなかったのです。私なら井戸のあることを知らないので、ちゃんと見えたはずです」 「いい発想だね」ウォルター卿が微笑んだ。「だがバルコニーはどうなのかな? バルコニーならロンドンでもよく見かける」 「ですが真下に川はありません。まるでヴェネツィアではないですか」とウィルソンは答えた。 「斬新な発想だ」もっともだとばかりに繰り返した。斬新な発想に対して豪華な愛を持ち合わせていた。だが批判能力も持ち合わせていたので、充分に考えたうえで、同じくらい正しい発想だと思いたかった。  明けゆく曙光が窓ガラスを黒から灰色に変えたころ、ウォルター卿が乱暴に立ち上がった。これを逮捕に向かう合図だと捉えて、全員が立ち上がった。だが長官は立ったまま、ここを先途とばかりにしばらく深く考え込んでいた。  突如、静寂を破って、糸を引くように泣き叫ぶ声が暗い荒野から聞こえてきた。その後に続いた静寂に、むしろ叫びよりぎょっとさせられたと言ってもよく、沈黙が途切れたのはノーランがぼそりとつぶやいたときだった。 「バンシーだ。誰かの墓場行きが決まったんだ」  大造りの馬面が月のように青ざめていたが、ご存じのように部屋にいるアイルランド人は一人だけだった。 「ああ、あのバンシーですか」ウィルソンが可笑しそうに言った。「ご推察の通り私はその手のことに明るくありません。私自身が一時間前あのバンシーに話をして塔まで連れて行き、我らが友人が声明文を書いているのを目にしたときには、ああやって叫ぶように言っておいたのです」 「ブリジット・ロイスのことか?」白い眉を寄せてモートンがたずねた。「そこまでマイケルに不利な証言をしたのか?」 「ええ」ウィルソンが答えた。「この地域のことには詳しくありませんが、腹を立てた女性というのはどこの国でも同じものだと思いましたから」  だがノーランはいまだに不機嫌でどこか様子が違っていた。「まったくいやな声にいやな仕事だな。これでマイケル王子が本当に最期を迎えるとしたら、ほかにも最期を迎えるものがあっておかしくはない。霊が取り憑つけばあいつは死者をはしごにして逃げるだろうし、海が血でできていても歩いて渡るだろうに」 「迷信を不安がる裏にはそんな真意があるのですか?」ウィルソンがわずかに嘲りを浮かべてたずねた。  アイルランド人の青ざめた顔が新たに怒りで黒ずんだ。 「おれもクレア州で何人もの人殺しと渡り合ってきたんだ。おまえもクラッパム・ジャンクションで頑張ってたんだろうがな、ロンドンっ子さま」 「落ち着きたまえ」モートンがはっきりと釘を刺した。「ウィルソン、上司の言動を疑うようなそぶりなど許すわけにはいかん。勇敢で信頼できるところを、ノーランのように行動で示してもらおう」  赤毛の男の青ざめた顔が、またわずかに青ざめたように見えたが、何も言わずに落ち着いていた。ウォルター卿が極めて慇懃にノーランに近づきこう言った。「もう外に出てこの事件を終わらせようじゃないか?」  夜はとうに明け、灰色の雲と灰色の荒野の隙間には白い裂け目が大きく広がり、その向こうには曙光と海を背にして塔の輪郭が浮かび上がっていた。  その素朴で原始的な姿には、どことなく地球の黎明期の夜明けを思わせるところがあった。色彩にも乏しく、雲と泥土のあいだに真っ白な陽光だけが存在していた有史以前の夜明けである。こうしたくすんだ色相を救っているのが、ただ一点の金色であった――孤塔の窓に輝く蝋燭の光が、満ちゆく日射しのなかで燃え続けているのだ。刑事たちの後ろから非常線を張る警官隊が、逃げ道を断ち切るために三日月型に広がったとき、塔の光が泳ぐように一瞬きらめきすぐに消えた。中の男が日射しに気づいて蝋燭を吹き消したのだろう。 「ほかにも窓があったはずだな?」モートンがたずねた。「角を曲がったあたりには当然ドアもあるな? 円塔には角はないが」 「またちょっと言わせていただくことがあります」ウィルソンが静かに申し出た。「この地区に来たとき真っ先に見たのがあのおかしな塔でした。あれのことならもう少し詳しくお伝えできます――少なくとも外見のことでしたら。窓は全部で四つあり、あの窓から少し離れたところにもう一つありますが、ここからでは見えません。二つとも一階にあって、反対側にある三つ目の窓も合わせればちょうど三角形になっています。ですが四つ目の窓は三つ目の真上にあって、どうやら二階だと見受けられます」 「ただの屋根裏だ、はしごで上れる」とノーランが言った。「子どものころはそこで過ごしたものだ。空っぽの抜け殻にすぎない」悲しげな顔がいっそう悲しげになったのは、おそらく祖国の悲劇とそこで過ごした役割について考えていたからであろう。 「いずれにしても机と椅子は手に入れたはずです」ウィルソンが言った。「どこかの家から手に入れたのでしょう。一つ言わせていただくなら、いわば五つの入口すべてから同時に踏み込むべきです。ドアに一人、窓に一人ずつ向かいましょう。ここにいるマクブライドが梯子を持っているので二階の窓に上れます」  ホーン・フィッシャー氏が物憂げに著名な親戚の方を向き、初めて口を開いた。 「わたしはロンドン派の心理学にかぶれかけていますよ」ほとんど聞き取れない声だった。  残りの者たちもそれぞれ異なる形で同じ影響を受けたらしく、一行は言われたとおりに散っていった。モートンは直ちに目の前の窓に移動した。潜伏しているお尋ね者が蝋燭を消したばかりの窓である。ノーランはやや西寄りに次の窓へ。ウィルソンは、梯子を持ったマクブライドを従えて、裏側の二窓へと回り込んだ。ウォルター・ケアリー卿自身は秘書を従え、ただ一つあるドアの方に歩き始めた。もっと常識的なやり方でなかに入れてもらおうというわけである。 「当然、あいつは武器を持っているだろうね」ウォルター卿が何気なくそう言った。 「誰もが口を揃えて言うでしょうとも」ホーン・フィッシャーが答えた。「拳銃を持った一般人よりも燭台を持った彼の方が凄腕だと。とはいえ確実に拳銃も持っていますよ」  口にした瞬間、その疑問に轟音という言葉で返答があった。モートンは一番近い窓の前にたどり着き、広い肩で窓口をふさいだところだった。刹那、赤い炎のようなものが内部で光り、轟々たるこだまが響き渡った。がっしりとした肩が形を変え、逞しい体躯が塔の下に丈高く繁る草むらに崩れ落ちた。窓からは煙が一筋、雲のように浮かび上がった。二人は現場に駆け戻り助け起こしたが、モートンは死んでいた。  ウォルター卿が身体を起こして何か叫んだが、新たな銃声にかき消された。警察が裏手から同僚の敵討ちを始めているのかもしれない。すでに隣の窓に駆けつけていたフィッシャーが再び驚きの声をあげたので、上司の方も現場にやって来た。アイルランド人警官のノーランも大きな大の字の形に草むらに倒れており、草むらは血に染まっていた。駆けつけたときにはまだ息があったが、顔には死相が浮かび、もう駄目だと伝える仕種を最後にするのがやっとだった。言葉にならぬ言葉と英雄的な力をふりしぼり、同僚たちが塔の裏手を包囲している辺りを指さした。立ち所に起こった立て続けの衝撃に呆然となっていたせいで、二人はその仕種に漠然と従うのが精一杯だったが、裏の窓にたどり着くと、多少決定的で悲劇的ではないにしろまったく同じような驚くべき光景を目の当たりにした。この二人の警官は死んでも致命傷を負ってもいなかったが、マクブライドは足を折って梯子の下敷きになって倒れていた。どうやら二階の窓から放り出されたようだ。ウィルソンはうつぶせに倒れて気絶したように身動きもせず、銀灰色のエリンギウムに赤毛を突っ込んでいた。しかし無力なのは一瞬に過ぎず、ほかの者たちが塔を回ってやって来るころには、体を動かし起きあがりかけていた。 「これはひどい! 爆発でもあったみたいだな!」ウォルター卿が声をあげた。この超常的な破壊力を表現するには、確かにそれ以上の言葉はない。実行した者は、同じ三角形の異なる三辺に対し同じ瞬間に死や破壊をもたらすことができたのだ。  すでに立ち上がっていたウィルソンが驚くべき行動力を発揮して、リボルバー片手にふたたび窓に飛びついた。窓のなかに二度発砲すると、その硝煙のなか姿を消した。だが足の鳴らす物音や椅子の落ちる振動を聞けば、勇敢なロンドン子がついに部屋に飛び込みおおせたことがわかった。それから奇妙な静けさがやってきた。ウォルター卿が晴れゆく煙のなか窓に歩み寄り、古塔の抜け殻を覗き込んだ。ウィルソンが周りをにらんでいるほかは、そこに誰もいなかった。  塔のなかは空っぽの部屋が一つだけだった。簡素な木製の椅子と机があるだけで、その上にペンとインク、紙、燭台が乗っている。高い壁のなかば、上側の窓の下に粗末な木の渡しがある。小さな屋根裏というよりは大きな棚といった方がよい。梯子で上るほかなく、壁と同じく飾り気はないようだ。ウィルソンはそこを一通り見回すと、机の上のものを注意深く眺めた。それから細い人差し指を動かし、大きな手帳の開いたページを黙って指さした。単語の途中であるにもかかわらず、唐突に書くのをやめていたのだ。 「爆発でもあったようだと言ったがね」ウォルター・ケアリー卿がとうとう口を開いた。「こうなると本人も突然爆発してしまったみたいだな。それなのに、どうやったのか塔は無傷のまま自分だけを吹き飛ばしたんだ。爆弾というより、泡みたいにはじけてしまった」 「あいつは塔より大切なものを傷つけました」ウィルソンが嘆きをあげた。  長い沈黙が過ぎると、ウォルター卿が重々しく口を開いた。「ふむ。ウィルソン君、私は刑事じゃない。この不幸な出来事のせいで、こその種の仕事を担当するのは残された君になった。こうなった原因を悼んでいるのは誰もが一緒だが、一つ言っておくならば、私自身は君の職務遂行能力に強い信頼を寄せているのだよ。次に何をするべきだろうね?」  意気消沈していたウィルソンは元気を取り戻したらしく、その言葉を受け入れたときには、これまで誰にも見せたことがないほど馬鹿丁寧になっていた。何人か警官を呼んで塔内部の発掘を手伝わせ、残りの者には捜索隊となって外に散ってもらった。 「まずはこの塔の内部を徹底的に改めましょう。外に出るのは物理的に不可能と言ってもいいはずだからです。ノーランならバンシーを持ち出して、超常的には可能だと言ったかもしれませんがね。しかし事実を扱うときには実体のない魂など無意味です。そして目の前にある事実とは、空っぽの塔とそのなかの梯子、椅子、机にほかなりません」 「霊媒師の連中は」ウォルター卿が笑みを浮かべた。「魂になら机よりも有意義なものをいくらでも見つけられると言うだろうね」 「魂というのが机の上の――壜に入った命の水なら、なきにしもあらずでしょうか」ウィルソンが薄い口唇をゆがめて答えた。「この辺の住民は、アイリッシュ・ウィスキーを浴びたときにはそんなことを信じかねません。この国にはちょっと教育が足りないようですね」  ホーン・フィッシャーの重たげなまぶたが、かすかに震えて開きかけた。刑事の軽蔑口調に、面倒ながらも抗議するつもりのようにも見えた。 「アイルランド人は魂を信じるあまり、招魂術など信じられないでしょうね」とつぶやいた。「魂のことを知りすぎていますから。呼べば飛び出す魂に対する単純無邪気な信仰をお望みなら、お気に入りのロンドンで見つかりますとも」 「どこであろうとそんなもの見つけたくなどありませんね」ウィルソンは素っ気なかった。「私が扱っているのは、単純な信仰などより遥かに単純なものですから。机と椅子と梯子。手始めに申し上げたいことはこうです。三つとも白木を削っただけの粗末なものです。しかし机と椅子はかなり新しいし比較的きれいでした。梯子は埃をかぶっているし一番上の段には蜘蛛の巣がかかっていました。ということは、思った通り初めの二つはごく最近どこかの家から拝借したものですが、梯子の方はずっと以前からこの朽ちた芥溜めに置いてあったということになります。おそらくは発祥以来の家具、ここアイルランド王の大宮殿に眠る家財だったのではありますまいか」  またもフィッシャーがまぶた越しに見つめたが、眠たくて話もできぬように見えたので、ウィルソンは話を続けた。 「この場所で摩訶不思議なことが起こったのは明らかです。十中八九の確率で、この場所と深い関わりがあるように思えます。あいつがここにやって来たのは、ここでしかできないことがあるからでしょう。そうでもなければ格別魅力があるようには見えません。しかしあいつは昔から知っていたんです。一説によると一族のものだったそうですから。こうしてすべてを考え合わせると、塔そのものの建築構造に何かあるということが導き出されるのです」 「君の推理はすばらしいと思う」注意深く耳を傾けていたウォルター卿が言った。「だがいったい何があるというんだね?」 「梯子の話をしているのはおわかりいただけると思います。このなかでただ一つ古い家具であり、私のロンドン眼が最初に気づいたものでした。しかしそれだけではありません。あの屋根裏はさながら物置なのに物がない。見たところほかの場所と同じく空っぽです。そうなると梯子をあそこに立てかけている理由がわかりません。下では異常なものを何も見つけられないのですから、あそこに上って調べてみる価値はあるかもしれません」  刑事は座っていた机から素早く降りると(というのも一つしかない椅子はウォルター卿に充てられていたからだが)、梯子を駆け上って上階にたどり着いた。ほかの者もそれに続いたが、最後にやって来たフィッシャー氏はかなり無関心に見えた。  しかしこの段階では、誰もが失望することになった。ウィルソンはテリアのように隅々まで嗅ぎまわり、蠅じみた格好で屋根を調べたが、半時間経っても手がかり一つ見つけられなかったと言わざるを得ない。ウォルター卿の私設秘書は、ますますもって場違いな眠気に襲われたらしく、梯子を上るのも最後だったのに、今や降りて戻ってくる気力さえ残っていないようだった。 「来るんだ、フィッシャー」全員が下に降りてしまうと、ウォルター卿が声をかけた。「どんな構造になっているのかを徹底的に調べるべきかどうか、検討せねばならんのだ」 「すぐに行きます」頭上の出っ張りから声が聞こえた。なんだかあくびをしたみたいな声だった。 「何をぐずぐずしているんだ?」ウォルター卿が癇癪を起こした。「そこにいて何か見つけられるのか?」 「見つからなくもないですが」曖昧な声が返ってきた。「いやいや、今やはっきりと見つけましたよ」 「いったい何を?」テーブルに座って所在なげにかかとを蹴り上げていたウィルソンが直ちに問いただした。 「ええ、男です」ホーン・フィッシャーが答えた。  ウィルソンは、テーブルに蹴飛ばされたような勢いで飛び降りると叫んだ。「どういうことです? いったいどうやったら男が見つかると言うんです?」 「窓から見えるんですよ」秘書は穏やかに答えた。「荒野を横切っていますね。この塔に向かって平野をまっすぐ進んでいるところです。どうやらわたしたちを訪問するつもりらしい。おそらく誰なのかを考えると、わたしたち全員が戸口で出迎えた方が礼儀に適っているでしょうね」そして秘書はゆっくりとはしごを下りてきた。 「おそらく誰だというんだ!」ウォルター卿が驚いて繰り返した。 「そうですね、マイケル王子と呼ばれている男に見えますが」フィッシャー氏があっけらかんと答えた。「というか、間違いありませんよ。手配写真で見たことがありますから」  沈黙。いつもはしっかりしているウォルター卿の頭脳も、風車のようにぐるぐる回っているらしかった。 「馬鹿な!」ようやくそう言った。「あいつ自身が爆発で半マイル向こうに吹き飛ばされたのに、窓も通り抜けなかったし、すたすた歩けるほどピンピンしているとして――だとしても、こっちに向かって歩いて来るわけがなかろう? 殺人犯というものはそんなに早く犯行現場に戻って来たりはせんよ」 「まだ犯行現場だと知らないんですよ」ホーン・フィッシャーが答えた。 「何を馬鹿なことを? あいつのことを底抜けの阿呆だと思っておるようだな」 「はあ、実を言えば、ここはあの人の犯行現場ではないんです」フィッシャーはそう言って、窓に近づき外を見た。  ふたたび沈黙。やがてウォルター卿が穏やかにたずねた。「いったいどんな珍説を思いついたんだ、フィッシャー? あいつがどうやって包囲の輪から抜け出したのか、新説でもひねりだしたのか?」 「抜け出してなどいないんですよ」窓の方を向いたまま答えた。「輪の中にはいなかったのだから、輪から抜け出してもいません。この塔になんかいなかったんです。少なくとも、わたしたちが塔を取り囲んだときには」  フィッシャーは振り向いて窓に寄りかかったが、今まで通りの無関心な態度にもかかわらず、暗がりの中の顔は少し青ざめているように見えた。 「遠巻きにしていたときにそんなことを考え始めたんです。蝋燭が消える間際に、パッと瞬いたのに気づいたでしょう? あれはどうも、燃え尽きる直前に炎が踊ったとしか考えられませんでした。そして部屋に入ってみると、あれがあったんです」  フィッシャーが指さしたテーブルを見て、ウォルター卿はおのれの盲目を呪って息を呑んだ。燭台の蝋燭は確かに燃え尽きてなくなっていたし、卿は(少なくとも精神的には)すっかり闇に置いてけぼりにされてしまったのだ。 「次は数学の問題とでも言いましょうか」フィッシャーはぐたりともたれかかり、そこに架空の図形でも描いているのか、むき出しの壁を見上げていた。「三角形の中央にいる人間が三辺すべてに向き合うのはいささか困難ですが、三角の頂点にいる人間ならほかの二角と同時に向き合うこともそれほど難しくありません。その二点が二等辺三角形の底辺を形作っていればなおのこと。幾何学の講義みたいに聞こえたらご勘弁いただきたいのですが――」 「残念ですがそんな時間はありません」ウィルソンは冷たく告げた。「あいつが戻ってきたのが本当なら、すぐに命令を出さなければ」 「でも続けるつもりですよ」答えたフィッシャーは無礼なほど平然と天井を見つめていた。 「いいですかフィッシャーさん、私なりのやり方で捜査の指揮をとらせてもらいますよ」ウィルソンは断固として伝えた。「今は私が指揮官ですから」 「そうですね」ホーン・フィッシャーの答えは穏やかだったが、どことなくぞっとさせるような響きがあった。「そうですとも。だけどなぜです?」  ウォルター卿は目を見張った。なにしろ友人の無気力な姿しか見たことがなかったのだ。フィッシャーはまぶたを上げてウィルソンを見ていた。まぶたの下の目は、膜が剥がれたか消えでもしたのか、まるで鷲の目のようだ。 「なぜ今はあなたが指揮官なんですか? どうしてあなたなりのやり方で捜査の指揮が取れるのです? あなたに口出しする上官がここにいないのは、どんなことが起こったからでした?」  誰も口を利かなかったし、外から物音が聞こえてきても、誰かが正気に返って口を開くまでどのくらいかかるのかは答えようがなかった。塔の扉に打ちつけられた重苦しく虚ろな音が、動揺した心にはこの世の終わりを告げる木槌のように異様に響いた。  木製の扉を叩いたその手で錆びた蝶番が動かされ、マイケル王子が部屋に入ってきた。誰一人としてその正体を露ほども疑わなかった。身軽な着衣は幾多の冒険で擦り切れてはいたが、気障なほどに洗練された型のものであり、とんがり鬚すなわち皇帝鬚を生やしているのは、おそらくルイ・ナポレオンの面影をより深くするためだろう。だがそのモデルよりも背が高く上品であった。誰かが口を開くよりも先に、ささやかだが華麗なる歓迎の意を表して、一瞬のうちに誰もを黙らせてしまった。 「紳士諸君。こんなみすぼらしい場所ではありますが、心から歓迎いたします」  ウィルソンが真っ先に我に返り、闖入者の方に大きく踏み出した。 「マイケル・オニール、国王の御名においてフランシス・モートンおよびジェイムズ・ノーラン殺害のかどで、おまえを逮捕する。警告しておくが――」 「いけません、ウィルソンさん」突然フィッシャーが叫んだ。「三つ目の殺人を犯してはなりません」  ウォルター・ケアリー卿が椅子から立ち上がり、その拍子に椅子は音を立てて後ろにひっくり返った。「これはいったいどういうことだね?」と威圧的な声を発した。 「つまりですね、この男フッカー・ウィルソンは、あの窓に顔を突き入れると同時に、空部屋越しに発砲し、別の窓から顔を突き出していた同僚二人を殺したのです。そういうことなんですよ。お知りになりたければ、彼が発砲したはずの回数を数えてから、拳銃に残された弾丸を数えてご覧なさい」  黙って机に座っていたウィルソンが、不意に傍らの武器に手を伸ばした。だが次の瞬間、予想だにしなかったことに、戸口に立っていた王子が彫像の如き重々しさから一転し、軽業師の如き素早さで刑事の手から拳銃をもぎ取ったのだ。 「こいつめ! あんたは典型的なイギリスの真実だよ、おれがアイルランドの悲劇であるのと同じだ――同胞の血を掻き分けておれを殺しに来たあんたがね。お仲間が丘陵の領地で倒れていたなら、人殺しと呼ばれるだろうが、それでもあんたの罪は赦されるかもしれない。なのに無実のおれの方はといえば、型どおりに殺されることになっていた。長い演説の末に忍耐強い判事は役にも立たない無実の陳述に耳を傾け、おれの絶望を書き留めながらも無視するのだろう。そうだ、それこそ暗殺じゃないか。ところが人を殺しても殺人にはならないこともあるらしいな。この拳銃には弾が一発残っているし、その行き先もちゃんとわかっているぞ」  ウィルソンは机の上で素早く身をかわしたものの、と同時に苦悶に身をよじらせていた。マイケルの撃った弾に当たったウィルソンは、丸太のように机から転がり落ちた。  警官が駆けつけて抱き起こした。ウォルター卿は無言で立ちつくしていた。フィッシャーはというと、不思議な疲れたようなそぶりで口を開いた。 「あなたはやはり典型的なアイルランド悲劇ですね。あなたは完全に正当でした、しかして不当な立場に飛び込んでいたんですから」  しばらくのあいだ王子の顔は大理石にも似ていたが、やがて瞳に射した光は絶望の光に似ていなくもなかった。不意に笑い出すと、煙の出ているピストルを床に投げ捨てた。 「おれはやっぱり不当な男さ。おれや子供たちに災いをもたらしかねない罪を犯したんだ」  ホーン・フィッシャーは、この唐突な懺悔にもすっかり納得したようには見えなかった。男を見つめたまま、低い声で一言だけたずねた。「どんな罪だというのです?」 「イギリスの司法を助けたことだ」マイケル王子は答えた。「イギリス王の部下たちの仇を討ったことだよ。絞首刑の執行役を務めたのさ。それこそ絞首刑にふさわしいことだ」  それから警官に振り返ったが、その態度は降伏するというよりも、むしろ逮捕を命じるようだった。  この物語は、ホーン・フィッシャーが新聞記者のハロルド・マーチに語ったものである。何年も後、ピカディリー界隈にある小さくも豪華なレストランでのことだった。「的の顔」事件からしばらくして、フィッシャーはマーチを夕食に誘っていたのだが、話題は自然とその謎のことになり、やがてフィッシャー若き日の思い出話に花が咲き、いかにしてマイケル王子事件のような問題を研究するようになったかという話になった。ホーン・フィッシャーは十五年取った。薄い髪が額から後退し、細長い手を気取りからではなく疲労から降ろしている。彼が若き日のアイルランド冒険譚を物語ったのは、それがこれまで関わってきたなかでも記念すべき最初の犯罪事件であり、どれだけ陰湿で恐ろしい犯罪が法ともつれているとも限らないと気づいたからであった。 「フッカー・ウィルソンはわたしが初めて知り合った犯罪者で、そのうえ警官だったんですよ」フィッシャーはワイングラスを回しながら説明した。「わたしの人生はずっとそんな無茶苦茶な出来事ばかりでした。ウィルソンには紛れもなく才能が、おそらくは天賦の才がありましたし、探偵としても犯罪者としても研究する価値のある人物でした。青白い顔と赤い髪こそ象徴していたのですよ、つまり冷めていながら野心に燃えている類の人間だったのです。怒りを抑えることはできたが、野心を抑えることはできなかった。初めに口論したときには上司の叱責をぐっと腹に飲み込んだんです、はらわたは煮えくりかえっていたのにね。けれど思いがけず見てしまったのですよ、二つの頭が朝日に黒く浮かんで窓に嵌め込まれているのを。彼にはその機会を逃すことはできませんでした。復讐だけではなく、昇進を阻む二人を排除することができるのですから。銃の腕には自信があり、二人とも黙らせる目算はありました。どのみち不利な証拠など皆無に近かったでしょうけれど。ところが実際には危機一髪のところだったんですよ。ノーランには『ウィルソン』と口にして指さすだけの力が残っていたのですから。わたしたちはてっきり、同僚を救ってくれと頼んでいると思っていたのですが、本当は殺人者を告発していたのです。あとは簡単でした。頭上の梯子をひっくり返し(梯子を登っている人間には足許や背後がはっきり確認できませんからね)、地面に倒れてもう一人の惨事の犠牲者のふりをしていたというわけです。 「ところが残忍な野心に加えて、自らの才能はもちろん理論に対しても嘘偽りのない確信があったのですよ。新しい眼と称するものを信じ、新しい方法を使う機会を狙っていたのです。ウィルソンの考え方にも一理ありましたが、たいていの場合に失敗するのと同じようなところで失敗を犯しました。新しい眼も見えないものを見ることはできないのですから。梯子や案山子ならうまくいっても、人生や魂となると話は別です。マイケルのような人間が女の悲鳴を聞きつけたときどのような行動を取るのか、そこのところで重大な間違いを犯したんです。マイケルは虚栄心とうぬぼれから、すぐに外に飛び出していきました。婦人の手袋のためならダブリン城にも入っていったでしょう。それを気取りとでも何とでも呼んだところで、そうするような人間なんですよ。顔を合わせた二人に何が起こったかはまた別の話、永遠に知るすべはないでしょうが、その後に聞いた話によれば、仲直りしたに違いありません。ウィルソンはそこを間違えました。それでもなお、一番ものが見えるのは新入りであり、馴染みの者は知りすぎているがゆえに何も知り得ないという考えには一理ありました。いつくかの点では正しかった。わたしに関しては正しかったのです」 「あなたに関してですか?」いくぶん驚いてハロルド・マーチはたずねた。 「わたしは知りすぎているがゆえに何も知り得ないと言いますか、とにかく何もできない人間なんです」ホーン・フィッシャーは言った。「アイルランドのことに限った話ではありませんよ。イギリスについて言ってるんです。わたしたちを律していることのすべてにして、おそらくは律することが可能なただ一つのことを話しているのです。あなたは先ほど、悲劇の生存者がどうなったのかたずねましたね。そう、ウィルソンは快復し、わたしたちは退職するよう何とか説き伏せました。ところがね、英国のために戦ったどんな英雄に支払うよりも莫大な恩給を、あの憎むべき人殺しに支払わなければならなかったのです。どうにかマイケルを最悪の事態からは救うことができたものの、犯してもいないとわかっている罪によってあの無実の男を服役させざるを得ませんでしたし、後日脱走するのを見て見ぬふりしてやるくらいしかできなかったのです。ウォルター・ケアリー卿はこの国の首相になりましたが、管理下で起こったあんなひどい醜聞の真相が伝わっていれば、おそらくそうはなっていなかったでしょう。わたしたちみんながアイルランドで破滅していた可能性だってありますし、まず間違いなく彼は破滅していたでしょうね。それに彼は父の旧友で、いつも嫌というほど親身になってくれました。わたしは完全に巻き込まれ過ぎていますしね、もう元には戻りようがなかったんですよ。ショックを受けたとは言わないまでも、あなたはどうやら動揺しているみたいですがね、わたしはちっとも気にしませんよ。よければ話題を変えましょう。このバーガンディーはどうです? このレストランと同じく、わたしが見つけたんですよ」  そうして、世界中のワインを肴に博識かつ膨大な話を始めたのだった。人間の研究家に言わせれば、この話題についてもまた、彼は知りすぎていると考えたことであろう。 第三話 少年の心  お見せするには大きなロンドン地図が必要なほどデタラメでジグザグの道のりを一日で旅しようという計画が、叔父とその甥――いや、正確には甥とその叔父により企てられた。なにしろ休暇中の甥っ子こそが理屈のうえでは神として、車、タクシー、電車、地下鉄その他に君臨し、叔父はせいぜいのところ神前で舞い供物を捧げる司祭にすぎない。より率直に申せば、少年が巡遊中の若殿のごとくのほほんとしている一方で、叔父はガイドの地位に甘んじたうえパトロンのごとくお金を出していたのである。少年殿は公式にはサマーズ・マイナーと呼ばれ、世間的にはスティンクス、治世における唯一の公務は写真と電気工学の愛好であった。叔父はトーマス・トワイフォード牧師。赤ら顔で白髪、引き締まった身体をした元気な老紳士である。当たり前の見方をすれば田舎の一牧師にすぎないのだが、人知れぬ見方をすれば人も知る存在になるという逆説を成し遂げた類の人物であった。すなわち人知れぬ分野で人に知られているのだ。考古学好きの司祭が幾人か集まれば、互いの発見を理解し合えるのは自分たちだけということもあり、ひと味違ったひとかどの地位を得ていたのである。ものを見る目のある人ならばその日の旅行にすら、甥の行楽はむろん叔父の道楽をも見いだしたであろう。  当初の目的こそまぎれもなく休日の保護者らしいものではあった。ところが学究の徒のご多分に漏れず、おもちゃで遊ぶという誘惑には打ち勝てずに、子供を楽しませるという名目で自分が楽しんでいた。この場合のおもちゃとは王冠、司教冠、司教杖、御劔である。長々とそれらに見とれていたあいだじゅう、男の子たるものロンドンの名所を残らず見て回るべきだとつぶやいてはいた。ところがその日の終わりに一服したあとでぽろりと尻尾を出してしまい、最後に訪れたのは、どんなに人間味あふれる男の子だって興味を持つとは思われない場所であった――元は礼拝堂であったらしい地下室が、最近になってテムズ川北岸で発掘され、文字どおり一枚の古い銀貨でしかないものが収納されているのである。ところが識者に言わせれば、その貨幣の珍しさと気高さは英王冠のダイヤモンド「コーイノール」をしのぐということである。古代ローマのもので、描かれているのは聖パウロだと言われた。これをめぐって古代英国教会に関する深刻な議論が巻き起こった。しかしながら否定できないことには、かかる議論もサマーズ・マイナーの気を引くことはできなかったのである。  しかるに、サマーズ・マイナーの興味を引いたものも興味を引かなかったものも、数時間のあいだ叔父を驚かせながらも楽しませたのは事実であった。イギリスの学童がいかに無知でありいかに博識であるかがすっかりさらけ出されたのだ――ある特殊なタイプの知識ゆえ、たいてい大人の間違いを正したりまごつかせたりできた。自らの考えるところによれば、休日のハンプトン・コートでは、ほかならぬウルジー枢機卿やオレンジ公ウィリアムの名前など忘れてもかまわない。ところが隣のホテルにある一連の電動ベルの仕組みからはほとんど目が離せなかった。ウェストミンスター寺院にはびっくりさせられ通しだったが、それもそのはず、なりに反比例して出来は小粒な十八世紀の彫像が教会を物置部屋に変えてしまっていたのだ。だがウェストミンスターのバスはもちろんロンドンのバス制度のことになれば、魔術を得たごとく的を射た知識を用いて、紋章は紋章屋よろしく色も番号も何でもござれであった。薄緑色のパディントン車と深緑色のベイズウォーター車を一緒くたにしようものなら、ギリシャのイコンとローマの肖像画を同一視するのを目撃した叔父と同じように、文句をつけたであろう。 「切手みたいにバスを集めているのか? かなり大きなアルバムがいるだろうに。それともロッカーにしまっておくのか?」 「頭の中にしまっておくんだ」と甥は当然のように言い切った。 「自慢なのはわかるがな。いろんなものがあるだろうに、どうしてそんなものを覚えたのか訊いても無駄だろうな。仕事にはならんだろう。来る日も来る日も道に突っ立って、バスに乗り間違えるおばあさんを減らすのでもないかぎりは。ああ、ここだ、ここで降りるぞ。|聖パウロ銀貨《セント・ポールズ・ペニー》とやらを見せてやる」 「それってセントポール寺院みたいなものなの?」少年は腹をくくってバスから降りた。  入り口で目を惹かれたのは、宙に浮いたような不思議な人物が同じく中に入ろうとしているところだった。肌は黒く痩せていて、僧服のような黒服を着ている。だが頭上の黒帽は僧帽というにはいささかおかしな形をしていた。どちらかといえば古代ペルシアかバビロニアの頭飾りを思わせる。顎の周りにだけ風変わりな黒髭を生やし、顔に嵌め込まれた大きな目は、古代エジプトの壁画のようにのっぺりとして飾り物めいていた。ぱっと見の印象しかわからぬうちに男が飛び込んでしまった入り口こそ、二人の目的地でもあった。  地下神殿の上に見えるのは頑丈そうな木造の小屋だけだった。さまざまな軍事的政治的な理由により最近になって急造されたものであり、その床といったら、発掘された空間上に張り渡された踏み台にすぎない。兵士がひとり歩哨のように外に立ち、上官の兵士がひとり――これは著名なインド帰りの将校なのだが――中に座って書き物をしていた。観光客たちもすぐに気づいたように、この風変わりな観光地には強い警戒態勢が敷かれていた。さきほど筆者がかかる銀貨をコーイノールと引き比べたのも、ある意味では月並みな比較であった。運命の悪戯ゆえか、かつては王家の宝石も同様というか王家の遺品ではあったわけで、のちの世の王子が公式に返還したのが、本来の持ち主であるらしいこの神殿なのである。政府が警戒を強めている原因はそれだけではない。スパイどもが身の回り品に仕掛けた爆弾を運び込むという恐れがあったのだ。例のごとく便宜的な通達が波のように官僚機構を素通りした結果、第一に観光客は当局の用意した粗布めいた衣服に着替えなければならず、第二に(このやり方に不満の声が挙がったときは)最低でもポケットをひっくり返さなければならない。責任者のモリス大佐は背の低いきびきびした男で、なめし革めいた恐ろしい顔をしているくせに、きらきらとお茶目な目をしていた――矛盾があることは言動から明らかになった。防犯手段をはなから笑い飛ばしながらも、指示に従うよう要求したのだ。 「くだらんね、パウロの銀貨みたいなものは」わずかなりとも自分を見知っているらしい牧師から、遺物についての先制攻撃を受けて、大佐はそう認めた。「だがお上の制服を着ている以上はな。お上の伯父さんが手ずから何か預けてくれるというんであれば大ごとだ。だがことが聖人や遺物とあっちゃあ、ボルテール的にならざるを得ないな。あんたがたに言わせりゃ懐疑派ってわけだ」 「王家を信じて聖家族を信じないことが懐疑的なのかはわからないが」トワイフォード氏が答えた。「ポケットを空にするのはおやすいご用だ。爆弾なぞ持ってはいないからね」  牧師の所持品がテーブルに積み上げられた。ほとんどは紙くず、それからパイプに煙草入れ、ローマの貨幣とザクセンの貨幣が数枚。あとは古書の目録や小冊子で、うちの一冊に『ソールズベリー用法典』と書かれているのを一目見れば、大佐と少年には充分だった。ソールズベリーの用法など理解しようがない。少年のポケットからは無論、さらにたくさんのものが積み上げられた。内訳はビー玉、糸玉、懐中電灯、磁石、小型パチンコ、そして言うまでもなく、大きな折りたたみナイフ。小さめの道具箱についての説明じみてはいるが、雑多な器具類からはなかなか離れがたいように見えたので、内訳を記しておくと、ニッパー一丁、材木用穴空け器、特筆すべきは馬の蹄から石を取り除く道具である。肝心の馬がいないことなど無関係であるらしく、すぐに手に入るおまけ程度の扱いらしい。しかしここにきて、黒衣の人物は自分の番になってもポケットをひっくり返したりはせずに、手を広げただけだった。 「何も持っておりません」 「ポケットを空にしてもらわんと。確認しなけりゃなりませんからな」大佐はぶっきらぼうに伝えた。 「ポケットがないのです」  トワイフォード氏は裾の長い黒衣を学究的に眺めまわしていたが、困り果ててはずねた。 「修道士の方ですか?」 「マギです。マギのことはご存じでしょう? 魔術師ですよ」 「えっ、そうなんですか!」サマーズ・マイナーが目をむいて叫んだ。 「わたしもかつては修道士でした。逃亡僧と言われても仕方ありません。さよう、久遠へと逃亡いたしました。しかしながら修道士も一つの真理を携えておりました。至高の生を歩むなら何も持たぬことです。ポケット・マネーやポケットこそありませんが、空を見上げれば、星のロケットやブレスレットがありますから」 「どっちみち手が届かないだろうに」大佐の声には、その方が星のためだと言いたげな響きが含まれていた。「インドでたくさんの魔術師を見たがね―― マンゴーとセットで。だがみんなペテン師さ。化けの皮を剥がすのが楽しくて仕方なかったな。こんな決まり切った仕事より遙かに楽しい。だがそれよりもミスター・サイモンだ。古い地下室をくまなく案内してくれるだろう」  当局の管理人兼ガイドであるサイモン氏は、若いに似合わず白髪頭で、厳めしい口元には、奇妙なほど対照的にちんまり黒い口髭が蝋で固められていたが、その先端はどういうわけか独立して黒い蠅が一匹顔に止まったままのように見えた。しゃべり方こそオックスフォード訛りのもったいぶったものだったが、世界一無関心といっていいほど死んだように無関心だった。黒い石畳の階段を降りると、サイモンが床のボタンを押し、黒々とした部屋への扉を開いた。いやむしろ、さっきまでは黒々としていた部屋というべきである。というのも、どっしりとした鉄の扉が開くやいなや、目もくらむ電灯の光が室内のすみずみまで行き渡ったのだ。興奮しやすいスティンクスにたちまち火がつき、電灯とドアが連動しているのかとしきりにたずねた。 「さようでございますね、すべてひとつのシステムです」サイモンが答えた。「殿下からお預かりするのに合わせて設置いたしました。ガラスケースの裏は当日そのまま厳重に施錠されております」  一瞥しただけで明らかなように、その防犯装置は単純であるがゆえに極めて優れたものであった。部屋の一角がガラスの一枚板で遮断され、ガラスを囲む鉄製のフレームは岩壁と木製天井に埋め込まれている。こうなるとよほど念入りな骨折りでもしないかぎりケースを開けるのは不可能であるし、ガラスを割ったら割ったで、そばに待機している夜警も仮に眠っていたところで飛び起きるに違いない。さらに詳しく調査さえすれば、さらに優れた防犯手段がいくつも明らかになったはずである。ところが、少なくともトワイフォード師の視線はといえば、さきほどから魅入られたように、遙かに興味のある対象へ移っていた――くすんだ銀の円盤が、黒いビロード地に映えて白い光に輝いていたのである。 「聖パウロ銀貨は、聖パウロのブリテン訪問を祝したものだと言われておりまして、おそらく八世紀まではこの礼拝堂に保管されていた模様です」サイモンの話し声は、混じり気こそないが味気のないものだった。「研究によりますと九世紀には異民族に奪われ、再び姿を見せましたのは北方のゴート族改宗後のことで、ゴートランド王家が所有しておりました。ゴートランド公殿下は長いあいだ銀貨を秘蔵していらっしゃいましたが、とうとう公開を決められました際には、殿下ご自身の手でここにお納め下さいました。しかるのち直ちに施錠密閉されましたのが、このような――」  運の悪いことにこの時、サマーズ・マイナーは九世紀の宗教戦争からいくぶん気を逸らし、壁の継ぎ目から覗く電線の一部を発見した。マイナーは夢中になって叫んだ。「ねえ、ちょっと、これはつながってるの?」  確かにつながっていたため、線を引っ張った途端に部屋中が漆黒の闇となり、失明したような状態に陥った。直後、重々しい響きを立ててドアの閉まるのが聞こえた。 「やれやれ、やっちゃいましたね」サイモンが相変わらず無頓着につぶやいたあと、おもむろにつけたした。「そのうちいなくなったことに気づけば開けてくれますよ。時間は多少かかるでしょうが」  誰もが無言だったが、抑えきれずにスティンクスが口を開いた。 「許せないよ、懐中電灯を取り上げるなんて」  叔父が控えめにたしなめた。「電気に興味があるのはよくわかったよ」  だがすぐに愛想よく話を続けた。「口惜しいのはパイプだな。だが現実問題として、暗闇で煙草を喫うのはかなわん。暗闇にいると何もかも違ってしまっているように思えるよ」 「暗闇の中では何もかもが違っているのですよ」新たに聞こえたのは、自称魔術師の声だった。その響きのよい声は、不吉な黒ずくめとは対照的であったが、それも今は見えない。「それがいかに恐ろしい真実であるのか、おわかりではないようですが。目に映るものはすべて、太陽に生み出された絵画なのですよ。顔も、家具も、花も、木々も。それが未知のものでないとは言い切れません。さっきまでテーブルや椅子の見えた場所に、ほかのものが存在している可能性もあるのです。ご友人の顔さえ暗闇ではまったく違っているのかもしれません」  何とも表現しがたい短い音が静けさを破った。トワイフォードは一瞬ぎくりとしたが、やがてきっぱりと言った。 「まったく、子どもを怖がらせるにはそぐわない状況だぞ」 「子ども?」憤慨したサマーズ・マイナーの怒鳴り声は、雄鶏の鳴き声のようではあったが、それにしてもひび割れた鳴き声であった。「怖がってるのはどっちさ? ぼくは違う」 「そういうことなら静かにしておりましょう」暗闇から声が聞こえた。「だが静けさもまた千変万化するのです」  提案通りしばらく沈黙が続いたが、ついに牧師が低い声でサイモンにたずねた。 「換気は大丈夫かな?」 「ええ、問題ございませんとも」声が答える。「ドアの脇にある事務室には暖炉と煙突がありますから」  何かが飛び出し椅子の倒れる音がしたため、我慢できなくなった若年氏がふたたび部屋を飛び出したのがわかった。絶叫が聞こえた。「煙突だ! よし、ぼくは――」残りは聞こえづらくはあったが無我夢中で勝ち誇る叫び声であった。  叔父は繰り返し呼びかけたが成果なく、どうにか手探りで暖炉口にたどり着き中を覗くと、日光が遠くに丸く見えたため、どうやら無事に逃げ出せたらしいと思われた。ガラスケースのそばまで戻ろうとして倒れた椅子に蹴つまずき、長いことあたふたしていた。口を開いてサイモンに声をかけようとしたまま凍りつき、ふと気づくとまばたきしながら白光の大波に溺れていた。誰かの肩越しに、ドアが開いているのが見えた。 「ではやっと到着というわけか」彼はサイモンに話しかけた。  黒衣の男は少し離れた壁にもたれかかり、薄い笑みを口元に刻んでいた。 「モリス大佐がやって来る」トワイフォード牧師はそのままサイモンに向かって話し続けていた。「明かりの消えたわけを誰かが説明しなくては。頼めるかな?」  だがサイモンは無言のままだった。銅像のごとく固まったまま、ガラスの向こうの黒いビロードをじっと見つめていた。なにゆえ黒いビロードを見ていたのかというと、ほかに何もなかったからである。聖パウロの銀貨は消えていた。  モリス大佐が部屋にやってくると、新たに二人の訪問者が一緒だった。おそらくは事故で遅くなった観光客であろう。一人は背が高く色白、どこか気怠げで、額は薄く鼻梁が高い。いま一人はもう少し若い男で、明るい巻き毛に、率直どころか純粋な目をしていた。サイモンはこの二人に気づいていないようだった。明かりが回復すれば思案顔も見えるのだということに考えが及ばないようにも見える。やがて後ろめたそうに動き出したが、年かさの方の訪問者を見ると、青ざめた顔がさらに少し青ざめたように見えた。 「ホーン・フィッシャー!」絶句したあと小声でつぶやいた。「困ったことになってるんだ」 「解くべき謎が少々といったところですか」 「絶対に解けない。できるとしたら、あなたでしょうが。でも無理だ」 「私には解けます」輪の外から声がしたので驚いて振り返ると、黒衣の男がふたたび口を開いていたのだった。 「あんたが!」大佐の声は冷たかった。「どうやって探偵ごっこを演じるつもりだ?」 「探偵するつもりはありません」鈴のように澄んだ声だった。「魔術するつもりなのです。インドで化けの皮を剥がされた魔術師たちのように」  しばし誰も口をきかなかったが、ホーン・フィッシャーがおもむろに声を出した。「では上に行きましょう。こちらの方に腕を披露していただかないと」  サイモンが無意識にスイッチに指を伸ばすのを押しとどめ、フィッシャーは言った。「だめです、明かりはつけたままに。安全策のようなものです」 「もう盗られるものはありませんけどね」と苦々しい。 「戻される可能性はありますよ」フィッシャーが答えた。  トワイフォード牧師はとうから地上に駆け上がり、消えた甥の消息を求めていたのだが、ある意味では消息とよべるようなものを受け取って、困惑すると同時に一安心していた。床に大きな紙つぶてが落ちていた。教師がいないときに男子どもがぶつけ合うようなやつである。どうやら窓から投げ入れられたらしく、広げてみると汚い手書きのメモが現れた。「おじさんへ。ぼくは大丈夫。あとでホテルで会いましょう」結びに署名がある。  これで多少なりとも安心した牧師は、愛すべき遺物へと頭を切り換えた。寄せる思いは愛すべき甥っ子に勝るとも劣らない。自分の居場所を自覚するよりも早く、いつのまにやら消失騒ぎの真っ直中に取り囲まれ、わずかなりとも興奮の波にさらわれていた。だが心の奥底では一つの問いが繰り返され続けていた。いったい何が少年に起こったのか、大丈夫とは具体的にどの程度大丈夫なのか。  そのころフィッシャーはと言えば、声も態度も一変し、みんなを困惑させていた。大佐と話をしたときには、軍隊と機械の仕組みについて、訓練の詳細ならびに電気学の専門知識を披露した。牧師と話をしたときには、遺物に孕まれた宗教的歴史的重要性について明らかにした。自称魔術師と話をしたときには、みんなを驚かせも呆れさせもしたのだが、東洋神秘学と心霊実験における非現実的な流儀に共感を寄せるほど習熟していた。どうやら取るに足らないと思われるこの最後のやり取りを指針に、とことん進める覚悟があるらしい。目に見えて魔術師を激励し、明らかに的外れな調査方法に従おうとしていた。マギが導いてくれるとでもいうように。 「ではどのように始めたらよいでしょうか?」気を揉む様子で丁寧にたずねたものだから、それが大佐の逆鱗に触れた。 「力の問題にすぎません。力を伝達するすべを築くことです」警察の力に関する軍隊的もの言いが付いたが、魔術師はそれを無視して愛想よく答えた。「西洋では動物磁気と呼びならわされておりましたが、そんなものにはとどまりません。いかほどのものなのかは言わぬが花でしょう。一般的な段取りを申せば、そういうタイプの人を催眠状態にいざなうことで、伝達用の架け橋や電話線代わりにしてしまい、潜在能力を超える力を与えることにより、いわば電気ショックのように、第六感を目覚めさせるのです。眠れる心眼を開花させるのですよ」 「わたしはうそいうタイプなんです」フィッシャーの言葉は無邪気とも取れたしわかりづらい皮肉とも取れた。「わたしの心眼を開いてはくれませんか? ここにいるハロルド・マーチが教えてくれると思いますが、わたしはときどき幻覚を見るんですよ、暗闇のなかでさえ」 「暗闇のなかでのみ、人はものを見ることができるのです」  日暮れ刻の重たげな雲が小屋を取り囲み、小窓からは巨大な雲の一部だけが紫色の角や尻尾のように見えるので、大怪獣があたりをうろついているようにも思えた。だが雲の色は早くも紫から濃紺に染められ、夜が近づいていた。 「明かりはつけぬように」動きを察知してマギは厳かに命じた。「暗闇だからこそ生じるのだと申し上げたはずです」  よりにもよって大佐の事務所で行われることになった斯かる大混乱は、大佐をはじめとする人々の心に後々まで謎となって残った。思い出すたびに悪夢じみたものにうなされ、どうすることもできなかった。おそらく魔術師のまわりにはまぎれもなく動物磁気が発生していたのであろう。おそらく被験者のまわりには何倍もの動物磁気が発生していたのであろう。いずれにしても被験者が術をかけられているのは明らかであった。ホーン・フィッシャーは長い手足を投げ出して椅子に崩れ落ち、目は虚空を見つめていた。そして魔術師が術をかけているのは明らかで、垂れた袖がいかにも怪しげな腕を、黒い翼のように弧を描いて動かしている。大佐の堪忍袋はとうに切れていたが、物好きな貴族階級どもにはどんな勝手も許されているのを漠然とわかっていた。すでに警察を呼びにやっていたのが慰めで、警官が来ればこんな道化芝居をぶちこわしてくれるだろう。葉巻に火をつけると、先端だけが赤く、深まる闇に立ち向かうように燃えていた。 「はい、ポケットが見えます」催眠状態のフィッシャーが答えた。「たくさんのポケットが見えますが、すべて空っぽです。いえ、一つだけ空じゃありません」  かすかなざわめきの中、魔術師はたずねた。「ポケットに何が入っているかわかりますか?」 「はい。光るものが二つ。鉄くずだと思います。ひとつは曲がっているか歪んでいます」 「地下から聖遺物を動かす際に用いたものでしょうか?」 「はい」  再び沈黙、そして問い。「遺物そのものは何も見えぬのでしょうか?」 「床で何かが光っているのが見えます。影か幻のように。机の向こうの隅にあります」  誰もが振り向いたかと思うと、ぴたりと動きを止めて息をのんだ。木の床の隅では、まぎれもなく青白い光が丸く輝いていた。部屋にある光はそれだけだった。葉巻は消えていた。 「道を示しているのです」託宣が聞こえた。「精霊が指し示しているのは悔恨の道、盗人に返還を諭しております。わかるのはそれだけです」声は次第に消え入りやがて途絶え、そのまま静寂が続いた。盗みが働かれたときと同じように長い静寂だった。静寂を破ったのは、床で金属の鳴る音だった。放り投げた小銭が落ちてくるくる回っているような音である。 「明かりをつけて!」フィッシャーが陽気といってもいいような声を出して飛び起きた。普段よりはるかにきびきびしている。「もう行かなければなりませんが、その前にぜひ見ておきましょう。そもそもそれを見に来たんですからね」  明かりがつき、フィッシャーは確かに見た。聖パウロ銀貨が足下に落ちていた。 「ああ、そのことでしたら」フィッシャーが説明したのはその一月後、マーチとトワイフォードを昼食に招いたときのことだった。「魔術師のゲームにつき合っただけのことです」 「墓穴を掘らせるってことかな」とトワイフォード。「未だにさっぱりわからないが、個人的にはずっと魔術師を疑っていたんだがね。必ずしも下世話な意味で泥棒だというんじゃない。警察は得てして銀貨が盗まれるのは銀目当てだと考えているようだが、ああいったものは、ある種の狂信から盗まれることが多いんじゃないだろうか。神秘主義に転向した逃亡僧なら、神秘主義的な理由があって手に入れたがってもおかしくない」 「いえいえ。逃亡僧は泥棒ではありません。どのみちあの人は銀貨泥棒ではありません。それに、嘘ばかり言っていたわけでもないんですよ。あの晩、少なくとも一つの真実を口にしたんですから」 「それは?」マーチがたずねた。 「すべては磁気だと。まさしく使われた手口は磁石でした」二人が戸惑ったように見つめているので、フィッシャーは話を続けた。「甥御さんの持っていた、おもちゃの磁石のことですよ、トワイフォードさん」 「だけど、わからないな」マーチが不満を漏らした。「少年の磁石が使われたのなら、少年がやったんじゃないんですか」 「そうですね」フィッシャーは用心深く答えた。「正確に言えば、少年というものに懸かっていたんです」 「どういうことです?」 「少年の心というのは不思議なものです」考え込むようにフィッシャーは話し続けた。「煙突から這い出るだけでなく、さまざまなものごとを切り抜けられる。人は幾多の戦役に揉まれてなお、少年の心を宿しているものなのです。インドから凱旋し、重要公共財の担当に任命されてなお、少年の心を宿し、ふとしたきっかけで呼び覚まされるのを待っているものなのです。少年に懐疑論者が加わればなおさらのこと。懐疑論者とは発育不全の少年っぽいことが多いですから。さきほど、狂信による行動のことをお話しされていたでしょう。狂信的不信というのをお聞きになったことはありませんか? インドの魔術師から化けの皮を剥いでやろうという人々の裡には、とりわけ荒々しい形で存在しているのですよ。ところがここにきて懐疑論者に誘惑が訪れました。輪をかけたイカサマ師の化けの皮を、目の前で剥ぐことができるのです」  ハロルド・マーチの目に光が宿った。遙か彼方にぼんやりと、そのヒントの意味を見出したようだった。だがトワイフォード牧師はなおも一つの問題に取り組んでいた。 「つまり――モリス大佐が遺物を盗んだと?」 「磁石を使えたのは大佐しかいませんでしたから。それどころか甥御さんは親切なことに、使えるものをたくさん置いていきましたから。糸玉、材木用穴空け器――ちなみに、その穴を使って催眠中に悪戯してみたのですがね。階下の明かりをつけっぱなしにしてありましたから、それが新品の銀貨のように輝いていたでしょう」  トワイフォード牧師が椅子から飛び上がった。「だがそれなら」今までとはまったく違う声だった。「なぜあのとき――鉄くずなどと――?」 「鉄くずが二つと言ったのです。曲がった鉄とは磁石のこと。もう一つがガラスケースに収められていた貨幣です」 「だがあれは銀だ」もはや聞き取れないほどの声だった。 「ああ」なだめるようにフィッシャーは答えた。「それはメッキでしょう」  重い沈黙が流れたが、ついにハロルド・マーチが口を開いた。「では本物はどこに?」 「ここ五年の間あったところですよ。アメリカ、ネブラスカ州のヴァンダムという気の狂った億万長者が所有しています。先日の協会誌に、正式なものではありませんが小さな写真記事があり、彼の妄想について書かれていました。いろいろな遺物のことを本物だと信じ込んでばかりいたそうです」  ハロルド・マーチはしばらくのあいだテーブルクロスをにらんでいた。「実際の手口について、言いたいことはわかったつもりです。こうですよね。モリスは穴を開け、ひもの先につけた磁石で銀貨を釣り上げた。こんな子ども騙しなんて気違いじみているけれど、きっと退屈で気が狂いそうだったんですよ。まやかしだと思っているものを監視し続けるなんて。だけど証明しようがなかったんだ。そこにきて証明を――自分にだけでも証明をするチャンスが訪れた。そのうえ『楽しみ』と呼んでいたものまで手に入れたわけですね。もうすっかりわかったつもりです。だけど一から十まで驚きだな。どうしてそんなことになったんです?」  フィッシャーは身動きひとつせず冷静にマーチを見つめていた。 「あらゆる警戒が敷かれていました。大公自ら遺物を運び、自らケースに錠をかけたのです」  マーチは何も言わなかったが、トワイフォードがおずおずとたずねた。「わからんなあ。どうもすっきりしない。なぜもっとはっきり話さないんです?」 「はっきり話せば、ますますわからなくなると思いますよ」 「ぼくはそれでもいい」マーチは顔を上げずにそう言った。 「わかりました、いいでしょう」フィッシャーはため息をついた。「はっきり申し上げれば真相は、むろん醜聞というやつです。醜聞だとわかっているなら、どうなるのかもわかっているはずなのですがね。それでも絶えず騒動は起こるし、ある意味では責められません。人形みたいに冷たい外国のお姫様に惚れて、火遊びをするものなのでしょう。今回はちょっとばかり大きな火事でした」  トーマス・トワイフォード牧師の顔から確実に読みとれるかぎりでは、真相をあまり理解していないらしかったものの、フィッシャーが遠回しに話し続けるうちに、老紳士の表情が険しく強張っていった。 「分をわきまえた身分違いの遊びだったなら、何も言うつもりはありません。ところが彼は馬鹿だった。そんな女に何千と費やしたんです。とうとう闇金に手を染めた。だが国民からではなく、例のアメリカ人から手に入れた、そういうことです」  トワイフォード牧師は立ち上がった。 「では甥とは何の関係もなかったんですね。それが世間だというのなら、甥には何一つ関わってほしくありませんな」 「そう願いましょう」フィッシャーが答えた。「人がどれだけのことに関わりを持たざるを得ないか、わたしは誰よりもよく知っていますから」  サマーズ・マイナーはといえば、実際に何の関係もなかった。さらに何パーセントか重要なことには、この物語はおろか類似したあらゆる物語とも正真正銘無関係なのである。歪んだ政治と狂った欺瞞に関するこの入り組んだ物語から弾丸のように飛び出すと、反対側に抜け出して、変わらぬ目的を追っていたのだ。登った煙突のてっぺんから、色も名前も知らないバスを見つけた。博物学者なら新種の鳥を、植物学者なら新種の花を見つけるように。急いでバスを追いかけると、そのお伽ぎの船に揺られてうっとりしていたのである。 第四話 底なしの井戸  オアシスや緑あふれる島にも、西洋から日出ずる方まで広がる赤黄の砂の海にも、どういうわけかまるで対照的なところは見つかるものだが、国際協定によりイギリス軍居留地となってからこっちは、その対照的なところすらもこの場所というものを言い表していた。この場所が考古学者に知られているのは、とても遺跡とは呼べない単なる地面の穴のおかげである。ところがこれが井戸のような丸い縦穴であるうえに、いつとも知れぬ大昔の大灌漑工事跡の可能性も高く、ことによればその古い土地の何よりも古いかもしれないのだ。黒々とした井戸の開口部は、青々とした団扇サボテンに囲まれていた。だが石組みがあるはずの場所に残されているのは、大きく砕けた二つの石だけであり、それがありもしない門の支柱のようにたたずんでいた。比較的超越的な考古学者の中には、月の出や日の入に独特の雰囲気が訪れると、バビロンの巨大城門を遙かにしのぐシルエットをうっすらとなぞることができるのだと考えるものもいた。一方、比較的合理的な学者の目には、日中の比較的まっとうな時間帯に、二つの不格好な岩だけが見えていた。しかし、すでにお気づきであろうが、イングランド人すべてが考古学者であるわけではない。このようなところに集められた役人や軍人たちには、考古学のほかに道楽があった。冗談でも何でもなく、ここ東方で生活を続けるイングランド人たちは、木々の緑と砂地を利用して小さなゴルフコースを作ってしまったのである。こちらを見れば快適なクラブハウス、あちらを見れば太古の遺跡というわけだ。実際には太古の穴をバンカーとして利用したわけではない。伝承によれば底知れぬ深さであったし、実用的な用途でさえ底知れぬのだ。打たれたボールが穴に飛んでいけば、文字通りロストボールにカウントされた。だが談笑や一服する合間には、周辺をぶらつくことも多かったし、いましも一人クラブハウスからやってきたのも、いま一人の人物がどこか憂鬱げに井戸を見つめているのを目にしたからだった。  イングランド人は二人とも軽装で、白い日除け付サファリ帽をかぶっていたが、おおかたにおいて似ているところはそれで終わりだった。二人ともほぼ同時に同じ単語を口にしたが、二語ともまったく違う口調だった。 「ニュースは聞きました?」クラブハウスからやってきた男がたずねた。「素晴らしい」 「素晴らしい」井戸のそばの男が答えた。だがその言葉を話すとき、第一の男は女の話をする若者のごとく口にしたし、第二の男は天気の話をする老人のごとく、心を込めなくもないが熱意も込めずに口にした。  この場合には二人の声が当人たちのことを充分に言い表わしていた。第一の人物は確かにボイル大尉である。力強く若々しい声、日焼けした肌、激しい気性の宿る顔には、東洋の雰囲気よりはむしろ西洋の情熱と野心がふさわしい。もう一人は年齢も上で、確かに滞在期間も上で文官の――ホーン・フィッシャーである。重たげなまぶたと重たげな薄い口ひげが、この東洋のイングランド人がはらむ矛盾をことごとく言い表していた。あまりに情熱的であるがゆえに、冷静以外の何ものでもなかったのである。  二人とも、いったい何が素晴らしいのかに触れる必要があるとは思わなかった。誰もがご存じの話とあっては、それで充分だというのも事実であろう。トルコ・北アラブ連合という脅威に対する目覚ましい勝利は、ひとえにヘイスティングズ卿麾下の軍隊のたまものであり、幾度となく目覚ましい勝利をおさめたこの老練の将による快挙は、新聞のおかげで戦場近いこの小さな駐屯地はもちろん、帝国中に知れわたっていた。 「いやまったく、ほかの国にはこんなことできませんとも」ボイル大尉が力強く叫んだ。  ホーン・フィッシャーはそのまま無言で井戸を見つめていたが、しばらくしてから返答をした。「わたしたちには確かに過ちを盛り返す技術があります。あのプロシア人たちはそこを間違えました。彼らは過ちを繰り返すそばからそれに固執するだけでした。いやまさしく、過ちを盛り返すのも一つの才能ですよ」 「いったい何のことですか、過ちって?」ボイルがたずねた。 「ああ、誰もがご存じの通り、どうやら出来もしないことに手を出しているようなんですよ」せいぜい二百万に一人しか耳にしなかったことを、決まって『ご存じの通り』と言うのがフィッシャー氏の口癖である。「それにトラヴァーズが折よく現れたのはやはりあまりにも運がいい。適切な行動を取ってくれたのが副司令官だったというのは、不思議なほどよくあることなんです。偉人が司令官であっても変わりません。ワーテルローにおけるコルボーンのようにね」 「すべての領土を大英帝国に加えるべきだ」 「確かにツィンメルン家の連中なら運河まで要求したでしょうがね」フィッシャーの言葉には思案するような響きがあった。「しかしご存じの通り、近ごろでは領土を加えるのが割に合うと決まった話でもありませんし」  ボイル大尉は困惑した態でわずかに眉をひそめた。不確かではあったがこれまでにツィンメルン家のことなど耳にした覚えがなかったため、こう答えるだけに留めた。 「でも小英国主義者がいるとは思えないけど」  ホーン・フィッシャーは微笑んだ。これが感じのよい笑顔なのである。 「ここにいる人たちはみんな小英国主義者ですとも。小さき英国に戻ることを望んでいる」 「何のことだかわかりませんね」訝しげに大尉は言った。「あなたがヘイスティングズ――か何か――をそれほど評価していないと思われても――」 「果てしなく評価していますとも。この駐屯地には彼以上の適任者はいませんよ。イスラム教徒に理解があり、共同で何でもできるのですから。だからこそ、たかが最近の出来事ひとつで彼の代わりにトラヴァーズを推すことには断固反対ですね」 「何が言いたいのかいよいよもって理解できませんね」大尉は率直に伝えた。 「きっと理解する値打ちもないんですよ」フィッシャーはあっさりと答えた。「どのみち政治の話など止しましょう。この井戸にまつわるアラブの伝説はご存じですか?」 「あいにくアラブの伝説はほとんど知りません」ボイルは素っ気なく答えた。 「それこそ過ちじゃありませんか。あなたの考え方によればね。ヘイスティングズ卿自身がアラブの伝説なのですから。正真正銘の大人物であるとはそういうことではないでしょうか。卿の評判が届けば、アジア・アフリカ各地でわたしたちの立場は危ういものになるでしょう。そうそう、あの穴がどこまで深いのか誰も知らないそうですがね、その穴に関する話がどうにも気になってしかたがないんですよ。今でこそイスラム風の物語になってはいますが、ムハンマドより昔からあった話だとしても驚きません。スルタン・アラジンと呼ばれた人物の全容――といってもあのお馴染みのランプの人とは違いますがね、しかし魔神や巨人のようなものと関係があるという点ではよく似ています。巨人に命じて高く高く星より高く聳えるパゴダを作らせたと言われています。バベルの塔を作った人々が口にしたように、いと高きもののために。けれどバベルの塔の建設者たちもアラジンと比べれば鼠のように謙虚でおとなしい人々でした。人々が望んだのは天まで届く塔という、ごくつまらないものに過ぎなかった。アラジンが望んだのは、天を越えその上まで果てしなく聳え続ける塔だったのです。アッラーは雷を落としてスルタンを地上に叩きつけました。落雷は大地を貫き、深く深く穴を穿ち続け、やがて天辺のない塔の代わりに底のない井戸ができあがりました。闇に包まれた逆さまの塔深く、驕慢なスルタンの魂が未来永劫に落ち続けているそうです」 「不思議な人だなあ」ボイルが言った。「あなたが話すとそうした寓話も信じてしまいそうになる」 「きっとわたしが信じているのは寓意であって寓話じゃないのでしょう。それより、ヘイスティングズ夫人が来ましたよ。ご存じでしたね」  無論ゴルフ場のクラブハウスはゴルフ以外にも様々な用途で使われていた。軍事一点張りの軍本部を別にすれば、駐屯地にある社交場はここだけなのである。ビリヤード室とバー、さらには立派な参考図書館まであって、将校のくせして仕事熱心なひねくれ者たちが利用していた。ひねくれ者のなかにはほかならぬ偉大な司令官もいて、真鍮の鷲にも似た銀の頭と褐色の顔を、海図や二折本《フォリオ》に突っ込んでいるのをよく目撃されていた。ヘイスティングズ卿は学問だけでなく、ほかにもいろいろと厳しい生活信条を尊んでいた。その真髄を実の父のように若きボイルに助言はしたものの、ボイルがその学習室に顔を出したのはわずかに数えるほどである。つまりは青年が図書館のガラス戸を通り抜けゴルフ場にやって来たのは、そんな不定期な勉強会の折りだったわけなのである。だが重要なのは、このクラブハウスの施設が、数のうえで紳士に劣らぬ淑女の社交にもぴったりだということであり、ヘイスティングズ夫人は自分の舞踏室にいるかのようにこんな社交界でも女王然としていられたということであった。ずいぶんと適役であったし、聞くところによればそんな女王役をずいぶんと演じたがってもいた。夫よりだいぶ年下の、魅力的でときに危険なほど魅力的なご婦人である。夫人がボイルを連れて立ち去るのを、フィッシャーは蔑むように見送った。それからどこか退屈そうに、井戸を取り巻く棘だらけの青い茂みを見るともなく見つめていた。この不思議なサボテンの群れときたら、茎でも枝でもなく、ぶ厚い葉から直接また別の葉が生えている。取るべき形も目指すべきところもないまま、行き当たりばったりに成長しているのではないかという不安が、夢見がちな心に浮かんだ。西洋の草花は天辺に花をつけて事足りている。ところがこれでは、悪夢よろしく手から手が、足から足が生えかねなかった。「ずっと帝国に州を加えてきたようにね」と笑いを浮かべると、悲しげにつけたした。「とは言え、わたしが正しいとも限らない!」  力強いが穏やかな声に空想を破られ、顔を上げて旧友の顔を認め微笑んだ。顔と比べれば確かに何倍も穏やかな声である。一目見て明らかなほど厳つい顔だった。典型的な法律家顔だ。角張った顎に、白髪混じりの太い眉。極めて法律家らしい特徴であると言っていい。もっとも、今は半ば軍人としてあの未開地区の警察に所属しているのだが。カスバート・グレインは弁護士や警官というよりは恐らく犯罪学者に近かったが、さらなる未開地域にやって来て、三者すべてを効果的に組み合わせてみせることに成功していた。奇っ怪な東洋的犯罪の数々を見出した功績は大きい。だがそんな道楽ないし学問に通暁している者や興味を持つ者などまずいなかったので、知的生活は孤独なものだったと言っていい。数少ない例外にホーン・フィッシャーがいた。たいていの人間とたいていの話題を語り合える、不思議な才能の持ち主なのである。 「植物学を研究中かね、それとも考古学かな?」グレインが尋ねた。「君の好奇心には終わりがなさそうだな。君の知らないこと即ち知る価値のないことなり、か」 「そうじゃありません」珍しくつっけんどんで、棘さえあった。「私の知っているのは、そんなこと知る価値がないってことですよ。ありとあらゆる裏事情。ありとあらゆる密かな理由に腹黒い動機、政治活動というたてまえの賄賂や恐喝。昔はそこらじゅうの下水道に飛び込んでいたものですが、そんなもの自慢にもならない以上は、町で少年たち相手にその武勇伝でも語るべきなんでしょうね」 「何だと? どういうことだ? 君をそんなふうに見たことはなかったな」 「お恥ずかしい。少年特有の狂熱を水で冷やしていただけなのですがね」 「全然説明になってないな」 「無論くだらない新聞のたわごとですよ、狂熱なんてものは。だがあの年頃なら思い込みを理想と勘違いしうるのだとわかっておくべきなんです。どのみち現実よりはましなのだし。ところが最低の理想に落ち込んだ一人の若者を引き上げるに当たっては、ひとつ厄介事がついてまわるのです」 「どんな心配があるのかね?」 「得てして悪い方へと同じ勢いで連れて行かれがち。向かう先に終わりはありません。底なしの井戸のように深い、底なしの穴なのです」  フィッシャーが友人と再び顔を合わせたのは二週間後、ゴルフコースとは反対側に位置する、クラブハウスの裏庭に迷い込んだときのことだった――乾いた日没の光に照らされた亜熱帯植物が、色とりどりにむせかえっているような庭である。ほかに二人の人物がいて、その三人目こそが今や名高い副司令官、お馴染みトム・トラヴァーズであった。痩せて浅黒く、額に刻まれた深い一本の皺と黒い口髭の形状がもたらす気難しさのせいで、年よりも老けて見える。急ごしらえの使用人として働いていたアラブ人が、ちょうどブラック・コーヒーを運んできたところであった。もっとも、すでに馴染みの人物ではあったし、むしろ将軍の古くからの使用人としてつとに知られていた。サイードと呼ばれており、人並み外れた黄色い馬面はセム人たちのなかでも特に目立ち、セム人たちには珍しくない狭い額の高さと併せて、愛想のいい笑顔とは裏腹の何やら理解しがたい邪悪な印象を与えていた。 「あいつを信頼できるとは思えんな」使用人が立ち去るとグレインが言った。「納得いかんね。いや、わかるとも。確かにヘイスティングズに忠誠を尽くし、命を救ったらしい。だがアラブ人というのはそういうもんだ――一人の男に尽くすのだ。誰かの喉を掻き切るんじゃないか、信用していても裏切られるんじゃないかと、つい考えてしまうね」  トラヴァーズは苦笑した。「ヘイスティングズにさえ手を出さなければ、世間の誰も気にやしないよ」  気まずい沈黙が落ち、力戦の数々が思い出されたが、やがてホーン・フィッシャーがそっと口を開いた。 「新聞は世間ではありませんよ、トム。気にすることはありません。世間のみんなは真実をよく知っていますから」 「将軍の話は止めた方がいい」グレインが言った。「今クラブハウスから出てきたところだ」 「ここには来ません。奥さんを車まで見送りするだけですよ」  フィッシャーの言った通り、クラブハウスの階段には夫に続いて夫人が現れた。将軍が庭の門を開けようと素早く進み出た。開いた門を尻目に夫人は引き返し、扉の陰の籐椅子に一人静かに座っていた男に一瞬だけ話しかけた。庭でだらだら過ごしていた三人を除けば、閑散としたクラブハウスに残っていたのはその男一人である。フィッシャーは暗がりをしばらく見つめ、そこにボイル大尉の姿を認めたのだった。  すると今度は、驚いたことに将軍が舞い戻り階段をまた上り、ボイルに一言二言話しかけた。次いでサイードに合図を送るや、たちまちコーヒー二客が現われて、二人はカップを手に館内に舞い戻った。深まる闇が立ちこめる白い仄明かりのなかで、奥の図書室に電灯がつけられたのが見えた。 「コーヒー及び科学的研究か」トラヴァーズが冷やかな声を出した。「学問と理論的研究の贅沢三昧だね。さあ、もう行かなきゃ。こっちも仕事がある」ぎこちなく立ち上がり、いとまを告げると、夕闇のなかへと歩み去った。 「ボイルが科学的研究に専念してくれることを願うばかりですよ」とホーン・フィッシャーが言った。「どうもボイルのことはすっきりしないのでね。でも別の話をしませんか」  二人はどうやら思った以上に長々と別の話をしていたらしく、気づけば熱帯の夜が訪れ、輝く月が辺りすべてを銀色に染めていた。だがまだ周りを見るには暗いうちから、図書室の明かりが不意に消えたことにフィッシャーは気づいていた。二人が現われるかと庭の入口近くで思っていたのだが、誰も来ない。 「きっとゴルフ場を散歩しに行ったんですね」 「そんなところだな」グレインが答えた。「いい夜になりそうだ」  そう言った直後だったろうか、クラブハウスの陰から声をかける者があり、見れば驚いたことにトラヴァーズが駆けつけ、来るやいなや声を荒げた。 「助けがいる。ゴルフ場でまずいことが起きた」  飛び込んだ場所が喫煙室と奥の図書室であることはわかったが、室内同様に実情も闇の中である。しかしながら、ホーン・フィッシャーは無頓着を装ってはいるが好奇心旺盛で超人的な感受性の持ち主であり、単なる事故では済まない気配をすでに感じ取っていた。フィッシャーは図書室の什器にぶつかり、震え上がるほどぎょっとした。什器が動くなど想像したこともなかったのに、それは動いたのだ。しかもどうやら生き物のように、殴られては殴り返している。すぐにグレインが明かりをつけた。何のことはない回転式の書架にぶつかったフィッシャーが、回り出した書架にぶたれているだけであった。だがこの思わぬ足止めのおかげで、謎めいた奇怪な潜在意識が覚醒したのである。それは図書室のあちこちに据えられた回転式書架の類であった。一つにはコーヒーカップ二客、今一つには開いた大型本が置かれていた。エジプトのヒエログラフに関するバッジ博士の著書で、風変わりな鳥や神々の図版が色とりどりに掲載されていた。駆け抜けざまに見ただけではあったが、そのときその場所に開いてあるのが軍事科学の本ではなくこの本だというのが解せなかった。本の詰まった書棚からこの本が抜き取られて隙間が出来ているのにも気がついた。歯の抜けた顔が悪意に満ちて大きく口を開いているようにも見えた。  しばらく走ると底なし井戸の手前に広がる、敷地の向こうにたどり着いた。井戸から数ヤード、日光のように明るい月光に照らされて、見るべきものが見えた。  ヘイスティングズ卿がどことなく不自然にこわばった姿勢でうつぶせに倒れていた。腕が折りたたまれ、大きく骨張った手が生い茂る芝草を握りしめたまま、肘は身体の上に突き出していた。近くでボイルが手と膝で身体を支えていたもののほとんど動かず、卿の身体を見つめていた。恐らく一時的なショック状態に過ぎないのだろう。それでも、四つんばいになって口をあんぐり開けているところには、見苦しく非人間的なところがあった。まるで理性が吹っ飛んでしまったようだ。背後には青く澄んだ南の空と砂漠の境、あとは井戸の前の崩れた石二つだけだった。大きく邪悪な顔が見下ろしているのが見えると思えるのは、こんな明かりと雰囲気のときなのだ。  ホーン・フィッシャーは屈み込んで固く草を握りしめている手に触れてみたが、それは石のように冷たかった。傍らに膝をついてしばらくいろいろと確認してみた。やがてふたたび立ち上がると、はっきりと希望を打ち砕いた。 「ヘイスティングズ卿は死んでいます」  石のように静かだったが、やがてトラヴァーズが声を絞り出した。「君の出番だよ、グレイン。ボイル大尉には君が質問してくれ。何を言われても私にはわからん」  ボイルは落ち着きを取り戻し立ち上がっていたが、顔にはまだ恐ろしい表情を、新しい仮面か他人の顔のようにしてまとっていた。 「井戸を見ていたんです。振り向くと、ヘイスティングズ卿が倒れていました」  グレインが苦虫をかみつぶした。「確かにこれはわたしの役目だな。まずは遺体を図書室に運ぶのを手伝ってもらおうかな。それから徹底的に調査させてもらう」  図書室に死体を安置したところで、グレインがフィッシャーに声をかけた。声には満足感と自信が戻ってきていた。「まずは一人で徹底調査するつもりだ。事情の説明やボイルの予備尋問は任せたぞ。わたしもあとで話すつもりだがね。それと、本部に電話して警官を頼む。すぐにここに寄こして、いいと言うまで待たせておくんだ」  著名な犯罪学者はそれだけ言うと明かりの灯る図書館に向かい、ドアを閉めた。するとフィッシャーは返事もせずに振り返り、トラヴァーズに小声で話しかけた。 「奇妙なことですね。よりによってあの場所の真ん前でこんなことが起こるなんて」 「確かに奇妙極まりないだろうね」トラヴァーズが答えた。「あの場所がこれに一枚噛んでいるとなれば」 「噛んでいないという点こそ、いっそう奇妙じゃありませんか」  フィッシャーはなんだか頓珍漢なことを言うと、震えているボイルを振り向き腕を取って、月明かりのなか散策しながら低い声で話を始めた。  夜も明けて空も無粋に白み始めたころ、カスバート・グレインが図書室の明かりを消してゴルフ場にやって来た。フィッシャーは気だるげに独りぶらぶらしていた。だが呼びにやっていた伝令警官の方は、しゃちほこばって佇んでいた。 「ボイルはトラヴァーズと一緒に帰しました」何気なくフィッシャーが口にした。「あとのことはトラヴァーズがしてくれるでしょうし、どのみち少し休んだ方がいいでしょうから」 「何か聞き出せたか?」とグレインがたずねた。「ヘイスティングズと二人で何をしていたのか話してくれたか?」 「ええ、実を言えば、かなり詳しく説明してくれました。ヘイスティングズ夫人が車で走り去ったあと、図書室でコーヒーを飲みながら当地の古代遺跡について一つ調べてみようと、将軍に誘われたのだそうです。ボイル自身はバッジの本を見つけようと回転書架を探し始めていたのですが、それは将軍が壁際の本棚から見つけ出しました。二人は図版を幾つか調べていたのですが、どうやら出し抜けにゴルフ場に向かい、古井戸の方へ歩いて行きました。ボイルが井戸をのぞき込んでいると、後ろで鈍い音がして、振り返ると将軍が倒れていたそうです。大丈夫かと屈み込んだところで、恐怖のあまり竦んでしまい、近づくことも触れることもできなくなったそうです。これは気にしなくてもいいでしょう。実際に衝撃に襲われた人間が、おかしな格好で見つかるのはよくあることですから」  グレインは社交的な笑みを浮かべると、一呼吸置いて口を開いた。 「ふん、嘘は少ししかついていないな。実に見事なくらい理路整然とした説明だが、肝心なことだけが抜け落ちている」 「図書室で何か見つけたんですか?」 「何もかもをさ」  フィッシャーはどこか物憂げに沈黙を守っていたが、そのあいだもグレインは落ち着いて迷わず説明を続けていた。 「君は間違っていなかったよ、フィッシャー。若者はいつなんどき穴に向かって暗がりを転げ落ちるかわからんというやつだ。いずれにせよ、感づいているとは思うが、君がボイルの将軍観に揺さぶりをかけたのが一因だな。ボイルはしばらく前から将軍を煙たがっていたという事実もあるしな。不愉快なことだな。それにあまり言いたくはないが、奥さんも将軍を煙たがっていたのははっきりしている。どこまで行っていたか知らんが、隠さなにゃならんところまで来てたのは確かだ。なにしろヘイスティングズ夫人がボイルに耳打ちしたのは、図書室のバッジの本にメモを隠したと伝えるためさ。偶然耳にしたのか、とにかく知ってしまった将軍は、まっすぐ本を目指してそのメモを見つけた。それをボイルに突きつけると、当然一悶着起きたわけだ。そのうえボイルに突きつけられたのはそれだけじゃなかった。恐ろしい選択肢を突きつけられたんだ。老人一人が生きていれば破滅をもたらし、死ねば勝利どころか幸せまでももたらすというね」 「そうですか」フィッシャーがようやく口をきいた。「女性問題について口をつぐんだところで責めたりはしませんがね。けれどどうやって手紙のことを知ったんです?」 「将軍の遺体から見つかったんだ。だがもっと悪いものを見つけちまったぞ。遺体のあのこわばり方からすると、アジア系の毒物によるものだな。そこでコーヒーカップを調べてみたが、その片方の飲み残しに毒が入っているのは、わたしの科学知識でも充分わかったよ。つまりだ、将軍はまっすぐ本棚に向かったのだから、カップは部屋の真ん中の書架に置きっぱなしだったわけだ。将軍が背中を向けているあいだ、ボイルは本棚を調べるふりをしながら、問題のコーヒーカップと二人きりだったことになる。毒が効き始めるのに十分ほどかかるとして、十分歩けば底なしの井戸に着く」 「そうなりますね。となると底なしの井戸はどうなるんです?」 「底なしの井戸が何の関係があるんだ?」 「何の関係もありません。だから困っているし、合点がいかないのです」 「地面に空いたあの穴に、どんな関係があるというんだ?」 「おっしゃる通りまさに穴があるんですよ。ですが今はその話はよしておきます。それより、ほかに伝えておきたいことがあるんです。ボイルをトラヴァーズに任せたと言ったでしょう。トラヴァーズをボイルに任せたと表現しても間違いではないんですよ」 「トム・トラヴァーズを疑ってると言いたいわけじゃないよな?」 「将軍への反感は、ボイルとは比べものにならないですから」フィッシャーの答えは不思議なくらい素っ気なかった。 「何を言っているかわかってるのか? コーヒーカップから毒が見つかったと言っただろう」 「言うまでもありませんが、サイードは常に将軍のそばにいました。計略ゆえか契約ゆえかはわかりませんがね。サイードなら何でもやってのけると言ったじゃないですか」 「主人を傷つけることはあり得んと言ったのだ」グレインが言い返した。  フィッシャーは穏やかに切り返した。「それはそうなんでしょうがね。それより図書室とコーヒーカップを見てみたいのですが」  フィッシャーは中へ入り、グレインはそばに控えていた警官を振り返って走り書きを手渡した。本部より打電すべしという内容である。警官は敬礼するや走り去った。グレインが友人を追って図書室に入ると、フィッシャーは部屋の真ん中で書架のかたわらに立っていた。その上には空のカップが載っている。 「ここでボイルはバッジを探していた、と言いますか、あなたに倣えば探すふりをしていたわけですか」  と言いながら中腰になり、小振りな回転書架に収められた本を調べていた。どの書棚もテーブル程度の高さしかなかったのだ。次の瞬間フィッシャーは刺されたように飛び上がった。 「なんてことだ!」  ほとんどの人間は(一人でもそんな人間がいるとしての話だが)ホーン・フィッシャー氏がこんなふうに振る舞うのを見たことはなかった。ドアに目を走らせ、開いた窓の方が近いことを確認するや、ハードルを越えるように窓をひとっ飛びして外に出ると、芝生を駆け抜け、帰りがけの警官を追いかけた。グレインはそれを見つめたまま立ちつくしていたが、やがて背が高く締まりのない人影が戻ってくるのを見ると、いつものようにぐだぐだと暇をもてあまし気な態度にすっかり戻っていた。ひらひらとゆっくり動かしているのは一枚の紙切れ、もとい力ずくで奪い取った電文であった。 「運がよかった。この事件のことは死んだように静かにしておかなくてはなりません。ヘイスティングズの死因は卒中か心臓発作で決まりですよ」 「言っていることが無茶苦茶だぞ」 「何が無茶苦茶と言って、二、三日のうちに実に愉快な選択を迫られるところだったということですよ。無実の人間を吊るすべきか、大英帝国を地獄に蹴落とすべきか」 「つまり何だ、このひどい犯罪は罰せられるべきではないと?」  フィッシャーはグレインの目をしっかりと見つめた。 「すでに罰せられたんです」  一呼吸置いてからフィッシャーは続けた。「あなたが再構成した事件の状況は見事な出来栄えでしたよ、ほとんど正解と言ってもよかった。二人の人間がコーヒーを手に図書室に行き、それを本棚に置いて連れ立って井戸に向かいました。そのうちの一人が殺人犯であり、もう一人のコーヒーカップに毒を入れたんです。ですが毒が入れられたのは、ボイルが回転書架を調べている最中ではありません。もっとも、書架を調べて探していたのはメモを挟んだバッジの本だったのですが、恐らくヘイスティングズがとっくに壁際の本棚に移していたのではないでしょうか。恐るべき運命の悪戯だったんですよ、彼の方が先に見つけてしまうなんて。 「ところで、回転書架を探すとき、どうしますか? 蛙のように這いつくばったまま書架の周りを飛び跳ねたりはしませんよね。書架に手を触れ、回転させるだけです」  床をにらんだまま話していたが、重たげなまぶたの下には珍しいことに光が宿っていた。経験から生じた諦観の奥底深くに埋もれていた霊感が、その深淵で目を覚まし蠢いていた。声はがらりと変わり、それぞれ別の人物が話をしているようだった。 「ボイルもそうしました。ちょっと触れただけで、地球のようにくるくると書架も回転したのです。いやまさしく世界が回っていたのですよ。回したのはボイルの手ではないのですから。神です、運命の輪を回す神が輪を一周りさせた結果、恐るべき裁きが跳ね返って来たのでしょう」 「徐々にだが」グレインがゆっくりと口にした。「君の言わんとしている恐ろしい考えがぼんやりとわかり始めたぞ」 「極めて単純ですよ。屈んでいたボイルが立ち上がったとき、起こってしまったことに彼は気づかなかったし、恋敵も気づかなかったし、誰一人として気づかなかったのです。二つのコーヒーカップは寸分違わず入れ替わっていました」  岩のような顔つきのグレインは、無言で衝撃に耐えているように見えた。皺一つ動かしはしなかったものの、口から出てきた声は驚くほど弱々しかった。 「そういうことか。確かに、口を閉じるに越したことはない。旦那を消そうとした愛人――ではない方の話だったんだな。そんな人間がそんなことをしていたなんて話が広まれば、俺たちはここでおしまいだぞ。初めから見当がついていたのか」 「底なしの井戸、と申し上げたでしょう」フィッシャーは控えめに答えた。「初めからそれが気になっていたんです。事件と何らかの関係があったからではなく、何の関係もなかったからです」  どう切り出そうかというように間を空けてから、話を続けた。「あと十分で死ぬとわかっている敵対者を、底知れぬ穴の縁まで連れてきた以上は、穴に死体を放り込むつもりだったんです。それ以外にやることなどないじゃありませんか? よほどのとんまでもないかぎり、そのくらいの頭はありますし、ボイルはそれほどのとんまではありません。ではなぜ放り込まなかったのでしょう? 考えれば考えるほど、いわばこの殺人には何かの手違いがあったのだと思えてくるのですよ。何者かが何者かを投げ込むために連れて行ったのに、投げ込まなかった。すでにぐちゃぐちゃと曖昧な考えはあったのですが、その大部分を置き換えたり取り消したりでした。そのときですよ。屈み込んで書架を自分で回してみようとして、偶然にも、たちどころにすべてがわかったのです。目の前で二つのカップが、空に浮かぶ月のように一巡りしたんですから」  一つ押し黙ってからカスバート・グレインが言った。「だが新聞にはどう説明しようか?」   「友人のハロルド・マーチが今日カイロからやって来ることになっています。凄腕の記者なんですがね。ところが何分にも随分と潔癖なところがありますから、決して真実を伝えてはなりません」  三十分後にフィッシャーはふたたびボイル大尉とクラブハウス前をぶらついていた。今回のボイルにくっついていたのは、すっかりくたびれ混乱した物腰である。あるいはより悲しげでより賢げになった人物である。 「それでぼくは? 疑いは晴れたんですか? 疑いが晴れることはないんですか?」 「疑われることのないよう、信じ願ってますよ。けれど疑いが晴れることは絶対にありません。あの人に疑いのかかることがあってはならない以上、あなたにも疑いがかかってはならないのですから。あの人に少しでも疑いがかかったり、こんな話が出てこようものなら、わたしたちはマルタからマンダレーまで一直線にガツンとやられてしまいます。あの人はムスリムにとって、恐怖の的であると同時に英雄でした。いやあなたなら、ムスリムの英雄がイギリス軍にいたと言いかねませんね。もちろん、ムスリムとうまくやっていた理由の一つには、自分自身が東洋の血を引いていたこともあります。ダマスカスの踊り子だった母から受け継いだのです。誰もがご存じのようにね」 「ああ」ボイルは見開いた目をフィッシャーから離さずに、機械的に繰り返した。「誰もが知ってますとも」 「嫉妬心と残酷な復讐にその片鱗が現れたんでしょうね。しかしいずれにしたところで、犯罪が起きてしまってはアラブで上手くやっていくことはできなくなる。しかもあろうことか言わば〈もてなし〉に反する罪なのですから。あなたにとっては許せないでしょうし、わたしにとってはひどく恐ろしい結果です。けれど絶対に起こりえないことは存在するんですよ。わたしの目の黒いうちは今回のこともそうなりますとも」 「どうしたんです?」と不思議そうに目を向けた。「よりによってあなたがそんなに熱くなっているなんて?」  ホーン・フィッシャーは戸惑ったような顔つきをした。 「おそらく、小英国主義者だからですよ」 「そういう言い方がぼくには理解できないんです」自信なさげにボイルが言った。 「イギリスはそんなにも小さいでしょうか?」冷たいながらも温かみのある声だった。「数千マイル彼方にいる人一人を捕まえておけないほどに。あなたのお話は、理想主義的な愛国心に満ちていましたね。けれど今やわたしたちにとっては現実的なものになりました。理想を助けるための嘘もいらない。あなたのお話では、時と場所にかかわらず何もかもがうまく行っており、やがてヘイスティングズで頂点に達したかのような口ぶりでしたね。いいですか、ここでは何もかもがうまく行かずに、例外がヘイスティングズだったんです。彼の名前だけがわたしたちに残された魔法だったんですよ、同じ道を行かすわけには断じていきません! あのユダヤの一味がわれわれをこんなところに送り込んだだけでもひどい話で、こんな場所で働きたいイギリス人などいるわけがないのに、こうしてひどい目に遭っているのが、あの出しゃばりツィンメルンが半数の閣僚にお金を貸していたからというに過ぎないんですよ。バグダッドの質屋が自分の戦を人に押しつけているだけでもひどい話ですが、わたしたちだって右手を断たれては戦えません。唯一の得点がヘイスティングズその人と彼がもたらした勝利なんです、実際には別人の手柄だったにしてもです。トム・トラヴァーズは耐えねばなりません、あなたもね」  しばしの沈黙ののち、底なしの井戸を指さし、さらに穏やかな声を出した。 「申し上げたように、わたしはアラジンの塔の原理を信じておりません。帝国が空に届くまで大きくなり続けるとは信じておりません。ユニオン・ジャックが塔のように永遠に伸び続けるとは信じておりません。しかし、それではユニオン・ジャックが底なしの井戸のように永遠に落ち続けることを望んでいるとか、底なしの穴の闇に消えてほしいとか、敗北や嘲笑や、われわれから搾れるだけ搾り取ったあのユダヤ人たちの嘲りのなかに転げ落ちてもらいたがっているなどとお考えでしたら――断じてそんなことはありません。たとえ閣僚が多くの富豪からゴシップ紙を種に強請られようとも、たとえ総理がメリケンのユダヤっ娘たちと結婚しようとも、たとえウッドヴィルやカーステアズがさまざまな悪徳鉱山の株を貯め込んでいようとも、です。崩壊寸前なのが事実だとしても、それを後押しするのは神であって、われわれの手で壊してはならないのです」  フィッシャーを見つめるボイルからは、当惑というより恐れ、いや嫌悪すら感じられた。 「どうやら、何か恐ろしいことをご存じのようですね」 「知ってはいますが」ホーン・フィッシャーが答えた。「決して納得できるほどの知識や持論があるわけではないのです。ですがあなたを絞首刑から救うことに一役買っている以上は、とやかく言われる筋合いはありますまい」  そして初めての自慢を恥じてでもいるのか、背を向けて底なしの井戸の方へと歩いていった。 第五話 釣り人の道楽  ときとしてあまりに異常であるために記憶に残らない出来事もある。成り行きからすれば何の曇りもないのに、見たところ原因も結果も見あたらないとなれば、続いて起こった出来事も記憶にのぼることもなく、ただ潜在意識に留められたまま、しばらく経ってから何かの偶然で掻き乱されることになる。それは埋もれた夢のように薄れてゆく。たいていの夢と同じく夜明けごろ、それも闇の明け始めた時間帯のこと、西部地方の川をボートをこいで下っている男の目の前で、そうした奇妙な光景が繰り広げられたのである。その男の目は覚めていた。事実、目が冴えわたっているのを自覚していた。何しろ政治記者のハロルド・マーチは、政界の名士たちを別荘に訪れる途上なのである。しかし目にしたものがあまりに非論理的であったために、ことによると夢でも見ていたのかもしれない。そのときは心を素通りしただけで、その後に起こったまったく別の出来事のなかに埋もれてしまった。だいぶ経ってからその意味に気づくまでは、記憶にのぼることすらなかったのである。  うっすらとした朝靄が、川べりに連なる牧草や灯心草を包んでいた。向こうべりには暗褐色の煉瓦塀が水面にかぶさるように連なっている。オールを積み込みしばらく流れに漂っていたところ、ふと振り向けば単調な煉瓦塀が途切れて橋があった。なかなか格調高い十八世紀風の橋で、白石造りの橋脚が灰色に変わっている。大雨があったため川は今なおかなりの水位があり、小振りな木々は腰まで川に浸かっており、白い弧の端を見せたばかりの朝日が橋の穹窿の下から輝いていた。  ボートが穹窿下の暗がりに差しかかったころ、向こうから別のボートがやって来た。見たところこちらと同じく男が一人きりで漕いでいる。姿形はほとんど見えなかったが、橋近くまで来ると男は船上で立ち上がりこちらを振り向いた。だがそのころにはずいぶんと暗がりに近づいていたために、その男の姿は朝日に浮かびあがる黒ずくめの影でしかなかった。顔はまったく見ることができず、マーチに見えたのは、長々と伸ばした頬髯だか口髭だかの先が二本、あらぬ場所に生えた角のように不気味な味を添えているところだけであった。もっとも、こうした細かい点にマーチが気づくことができたのも、ちょうどそのとき起こった出来事のおかげである。男は高さのない橋の下まで来ると飛び上がってぶら下がり、足を揺らしたまま、ボートは流れ去るに任せていた。しばし、黒い足が二本ばたばたと揺れていた。やがて黒い足が一本。ついには何もなくなり、見えるのは渦巻く流れと見渡すばかりの塀のみであった。しかしながら、マーチがふたたびこのことを考えたのは、それが物語のなかでどのような役割を持っていたのかを理解しただいぶあとになってからで、考えるたびにいつも同じ形の空想となって現れた。つまるところあのバタ足が、一種異様ではあるがガーゴイル風の、橋そのものの彫り物細工に思えてくるのだ。そのときは流れを見つめて通り過ぎただけであった。橋の上には動くものの影が見えなかったところからすると、すでにとんずらしてしまったに違いない。だがマーチはその事実の持つ小さな意味に半ばしか気づいていなかった。塀の向かいの橋の土台を取り囲む木立のなかに街灯が一つあるのが見え、街灯のそばには何も気づいていない警官の青く広い背中が見えたのである。  政治巡礼の聖地にたどり着いてもいないうちから、橋の椿事以外に考えることはたくさんあった。人一人でボートを操るのは、こんな人一人いない川であってもそう容易いことではない。実を言えばマーチが一人きりなのは不測の事態に過ぎないのだ。ボートの購入は済んでいたし旅の計画はすべて友人と二人でしたのに、その友人が最後になって予定を変更するはめに追い込まれた。ハロルド・マーチが友人ホーン・フィッシャーと国内旅行に出かけていたはずのウィローウッド・プレイスには、折りしも総理大臣が泊まっていた。ハロルド・マーチの名を耳にする人は増える一方だったし、それというのもマーチの書いた政治記事の素晴らしさに、門戸を開けるサロンも大きくなる一方だったのである。だが首相にはまだ会ったことがなかった。世間の多くはホーン・フィッシャーの名を聞いたことがない。ところがこの男、首相とは昔なじみなのである。こうしたわけで、二人が予定通り一緒に旅をしていたなら、マーチの方はいささか先を急ぎたがり、フィッシャーの方は比較的のんびり構えていたことだろう。何しろフィッシャーは、生まれながらに首相のことを知っているといった連中の一人なのである。知識というものには、あまりきびきびさせる効果はないようだった。それにフィッシャーときたら、生まれながらにぐったりしているようなところがあった。ホーン・フィッシャーは長身、蒼白、金髪、額の禿げ上がった人物であり、物憂げな態度の持ち主である。倦怠以外の方法で苛立ちを表現することはめったにない。そんな男がはっきりと苛立ちを見せたのは、釣り道具と葉巻を小さく荷造りして旅に備えていた矢先、ウィローウッドからの電報を受け取ったときのことだった。至急汽車デ来ラレタシ、首相ハ今夜発タザルヲ得ズ。友人の新聞記者が翌日まで出発できそうにないのはわかっていた。フィッシャーは友人のことが好きだったし、川で数日過ごすのを楽しみにしていた。首相のことは取り立てて好きでも嫌いでもなかった。しかし数時間ばかり汽車に揺られるという選択肢は心底嫌だった。とはいえ首相も鉄道も否定していたわけではない。それはシステムの一部であり、少なくともフィッシャーはそのシステムの破壊工作に送り込まれた革命分子ではないのである。そこでマーチに電話して、詫びとも愚痴ともつかぬ言葉を積み重ねると、予定通りに川を下ってくれたなら、然るべき時間にはウィローウッドで落ち合えるだろうと伝えた。それから外に出てタクシーを拾い駅に向かった。そこで売店に立ち寄って娯楽ミステリーを何冊か手荷物に加えると、たっぷり堪能したのであるが、いましも現実にそんな非日常的な物語に飛び込んでゆく最中なのだとは思いも寄らなかったのである。  日も落ちなんとするころに小型スーツケース片手にたどり着いたのが、海運及び新聞王アイザック・フック卿の所有する小振りな大別邸の一つウィローウッド・プレイスの、川沿いに広がる庭園の門前であった。門は川とは反対側の道路に面していたのだが、門を入ってもなお水めく景色中に潜む様々な要素のおかげで、旅人は川が近いことをひっきりなしに思い出すことになる。白い水のきらめきは、緑の茂みのなかから突如として剣や槍のように閃めくことだろう。いくつもの区画に分かれ生垣や小高い庭木に覆われた庭園それ自体にさえ、空中のいたるところに水の調べが漂っていた。初めに足を踏み入れた緑の区画は、どうやらあまり手入れのされていないクロケー場であるらしく、一人きりの若者が自分相手にクロケーをやっていた。もっとも、熱戦を繰り広げていたわけではなく、こうして片手間に練習をしていたのである。血色が悪いくせに健康的な顔つきが、かえって陰気に見えていた。何かしていないと精神的な負担に耐えられないといったタイプの若者であり、そしてその何かとは何かの試合《ゲーム》に限られていた。カジュアルでシックな黒服に身を包んだその人物が、ジェームズ・ブレンという名の若者であることはすぐにわかった。なぜか知らぬがバンカーと呼ばれている。アイザック卿の甥である。しかし目下のところ特筆すべきは、彼は首相の秘書でもあったのである。 「バンカーじゃないですか。お会いできて何よりです。首相はもう出発しましたか?」 「夕飯を取ったらすぐですよ」黄色いボールに目をやったままブレンが答えた。「明日バーミンガムで重要な演説があるんでね、今夜一晩かけて直行するんです。御自らエンジンをかけて。車を運転してくってことですけど。それだけが自慢ですからね」 「するとあなたはおじさんと一緒におとなしくお留守番ですか? でも助言をささやいてくれる優秀な秘書もなしで、バーミンガムでどうするつもりなんです?」 「からかうのはよしてください」通称バンカーが言った。「ついて行かずに済んでほっとしてるんですから。地図やお金やホテルなんてもののことは何にも知らないので、僕が旅行ガイドみたいに飛び回らなくちゃならないんですよ。おじさんの方はですね、屋敷を訪れるのが決まりなので、間違いのないようときどきこうしているんです」 「立派なものです。では、またあとで」そう言ってフィッシャーは芝生を突っ切り、生け垣の切れ目を抜けて立ち去った。  芝生を通り抜け桟橋の方に歩いてゆくと、金色の夕空を天蓋にして、川だらけの庭に宿る旧世界の香りと反響に包まれているのを感じた。次の一画には見たところ誰一人いなかったが、片隅の木立の夕闇越しにハンモックが見え、ハンモックには男が一人、新聞を読み読み網から片足を出してぶらぶらさせていた。  フィッシャーがまたも名指しで呼ぶと、男は地面に滑り降りてのんびりと歩いてきた。その場所のあれこれに過去を感じるのも運命であったらしく、何しろその人物ときたら、ヴィクトリア朝初期の幽霊がクロケーのリングと木槌の幻にまた会いに来たのだとしても不思議はない。ほとんどおとぎ話みたいな長い頬髯を生やした年配の男で、古風かつ格式張った型のネクタイとカラーをしている。四十年前お洒落にめかし込んでいたために、流行に見向きもしなくなってからもどうにかお洒落でいられたといったところである。先ほどまでいたハンモックには『モーニング・ポスト』紙の傍らに白いシルクハット。これがウェストモーランド公爵、数世紀にまで遡る古物そのものの家柄である。古物といっても家紋ではなく家系の話だ。詳しく知っているのはフィッシャーくらいのものだろうが、こうした現実の貴族というものは驚くほど珍しく、作り物の貴族が驚くほど多いのである。だが公爵が世間の敬意に甘んじているかどうか、それも血統の正しさ及び莫大な財産を所有しているという事実に恵まれた敬意に甘んじているかどうかが、フィッシャー氏がもっと詳しく知りたがった点であっただろう。 「ずいぶんとくつろいで見えたから、使用人かと思いましたよ。誰かこの鞄を持ってくれないかと探していたところなんです。あいにく急いでいたので誰も連れてこなかったんですよね」 「それを言うなら私もそうだね」公爵が誇らしげに答えた。「一度としてない。この世の動物を一匹憎むとしたら使用人でしょうな。幼くして着替えは一人でできたし、出来栄えも申し分なかったはず。第二の幼年期を迎えたとて、着替えまで幼年返りはしませんぞ」 「首相は使用人を連れてきませんでしたね。代わりに秘書を連れてきました。たいした雑務ですがね。ハーカーがここに来てたりはしませんか?」 「桟橋の向こうだね」ぽつりと答えるや、公爵はふたたび『モーニング・ポスト』を精読し始めた。  フィッシャーが最後に緑の垣根を越えて庭園を進むと、川に臨んだ曳船道らしきところに出た。向こう岸には木々だらけの中島がある。言われたとおりその曳船道には痩せて日に焼けた人影が見え、禿鷲が襲いかかるように首を突き出した姿勢は法廷ではお馴染みである、法務長官ジョン・ハーカー卿だった。顔には思索によるしわが刻まれていたが、それもそのはず庭でたたずむ三人のうちでただ一人、自らの手で道を開いて来た人物なのだ。禿げた額とくぼんだこめかみのまわりには、銅板のように薄っぺらいくすんだ赤毛が貼りついていた。 「まだご主人を見かけないんですがね」ホーン・フィッシャーは今までよりも少し真面目がかった声でたずねた。「晩餐で会えるだろうとは思ってますが」 「見るのなら今でもできる。だが会うのは無理だ」  そう言ってハーカーが向かいの中島の端に顎をしゃくり、そのまま目をそらさずにいるので、フィッシャーもそちらを見てみると、禿頭の頂と釣り竿の先が、ともに動きも見せず、川を後ろに背高の藪から顔を出していた。釣り人は切り株にもたれかかって向こう岸に顔を向けているらしく、顔は見えなかったが頭の形は見間違えようもない。 「釣りのあいだは邪魔せん方がいい。何の道楽だか魚だけしか食べんのだ。しかも自分で釣らねば気が済まんと来ている。要は大金持の例に漏れず質素に憧れとるのさ。労働者のように日々の糧を求めて働いてると吹聴したいんだ」 「ガラスを吹いたりクッションを詰めたり、銀器を作ったり、葡萄や桃を育てたり、絨毯の模様をデザインしたりする手順も教えてくれましたか? 忙しい人間だとばかり思ってましたがね」 「そんな話は聞かんな。こんな社会諷刺がいったい何になる?」 「そうですね、何だか嫌になったんですよ。身内だけで過ごすような『簡素な生活』にも『精力的な生活』にも。実のところはほとんどのものに頼っているくせに、何かに頼らずにいることを騒いでみせるんですから。首相の自慢は運転手を使わないことですが、そのくせ雑用係や便利屋を使わなければ何もできません。可哀相なバンカーは万能の天才の役を演じなくてはなりませんが、その役にまったく向いていないのは神のみぞ知ることです。公爵の自慢は使用人を使わないことです。だけどそもそも、あの独特の古着を集めるのには、多くの人にとんでもない手間をかけてもらう必要があるんです。大英博物館で探したか、墓から発掘でもしなければなりませんからね。あの白い帽子を探すだけでも、北極探検に繰り出すような装備が必要でしょう。それから自分で魚を生み出しているつもりでいながら、ナイフもフォークも生み出せないフックがいましたね。食べ物みたいに簡単なものになら簡素でいられるんでしょうが、贅沢なもの、それも細かいものごとに対しては贅沢になっているんですよ。あなたは別です。仕事中の息抜きを楽しめないほど、散々苦労して働いて来たんですから」 「たまに思うことがあるが、君はたまに役立つようなとんでもない秘密を秘めているな。ボスがバーミンガムに行く前に会いに来たんだろう?」  ホーン・フィッシャーは声をひそめて答えた。「ええ。晩餐前にうまく捕まえられればいいんですが。そのあとはアイザック卿に用事があるでしょうから」 「ご覧」ハーカーが声をあげた。「アイザック卿の釣りが終わったぞ。日の出とともに起きて日の入とともに戻るのが自慢なんだよ」  中島にいた老人は確かに立ち上がっており、くるりと振り向き灰色の顎髭の茂みを披露したのを見ると、顔は小さくこけながらも眉は荒々しく目は鋭く癇が強そうであった。  大事そうに釣り具を手にして、早くも本土に戻ろうと、浅瀬辺りの平らな飛び石の橋を渡っていた。それから向きを変えると、招待客の方に歩み寄り丁寧に挨拶をしたのである。籠に魚が何尾かあって機嫌がよかった。 「その通り」控えめに驚きを示したフィッシャーを目にして、アイザック卿が口を開いた。「わしはこの家で一番早起きのはずだ。早起きの鳥は虫にありつくと言うな」 「あいにくだが」ハーカーが言った。「虫にありつくのは早起きの魚のようだな」 「だが早起きの人間が魚にありつくのだ」ぶっきらぼうに老人が答えた。 「ですが聞くところによると、アイザック卿、あなたは夜更かしでもあるとか」フィッシャーが口を挟んだ。「ほとんど寝ていないんじゃないですか」 「眠る時間など少しもあったためしがない」フックが答えた。「いずれ今夜も夜更かしだろう。首相が話があると言っていたからからな。つまるところは夕飯にはちゃんとした恰好で出た方がいい」  晩餐の最中は政治の話はなく、不充分とはいえ社交辞令があったばかりである。首相のメリヴェール卿は灰色の癖っ毛をした痩せたのっぽであったが、くそ真面目に主人をねぎらい、釣りの成果や、目の当たりにした技術や忍耐力に讃辞を呈した。会話の流れはさながら飛び石を流れ抜ける浅瀬のようであった。 「忍耐がいるのは当然だ」アイザック卿が言った。「魚を遊ばせる技術も。だが概して魚運がいいのだ」 「大きな魚が糸を切って逃げ出したことは?」表向き興味深そうに首相がたずねた。 「そんな糸は使わん」と答えたフックは嬉しそうであった。「実を言うとあつらえ品なのだ。糸を切ることができるなら、わしを川に引きずり込むことだってできるだろう」 「それは大きな痛手だよ」首相が一礼した。  フィッシャーはこうした無駄話に耳を傾けてはいたものの、内心苛々しながら機会を窺っていたところ、主が立ち上がるとみるや見たこともないほど敏捷に跳ね起きた。アイザック卿が最終会談にと駆り立てる前にメリヴェール卿を捕まえることができた。言うべき言葉はほんの少しだが、それを言っておきたかったのだ。  フィッシャーは首相にドアを開けながら小声でこう言った。「モンミレイユに会いました。今すぐにでもデンマークに代わって抗議しないと、スウェーデンが港を押さえるのは確実だそうです」  メリヴェール卿が頷いた。 「これからフックの言い分を聞きに行くところだよ」 「どうでしょうね」フィッシャーは弱々しい笑みを浮かべた。「言うことなんておおかた予想はついていますが」  メリヴェール卿が答えることなく図書室に悠々と歩いていくと、そこにはとうに主が待っていた。残された者たちはビリヤード室に流れ込んだが、フィッシャーは法律家に話しかけただけだった。「それほどかからないでしょうね。事実上、二人とも合意しているといっていいんですから」 「フックは全面的に首相を支持しているからな」ハーカーも同意した。 「あるいは首相が全面的にフックを支持していますから」そう言ってホーン・フィッシャーは退屈そうにビリヤード台のボールを小突き始めた。  ホーン・フィッシャーが翌朝になって慌てず騒がず出て来たのは、例によって例のごとくである。虫にありつく気はとんとないらしい。だが無関心なのはほかの客たちも同じであるらしく、昼食間際になるまでぽつりぽつりと各自サイドボードから朝食を取っていた。そんなわけで、そのおかしな日初めての衝撃が訪れたのは、ほどなくのことであった。それは若者の姿で現れた。明るい髪と気取りのない表情をした若者が、川を漕いでやって来て桟橋に上陸したのである。何を隠そうほかでもないハロルド・マーチその人であり、フィッシャー氏の友人である新聞記者の旅は、その日の朝一番に川の遙か彼方で始まっていた。午後に遅れて到着したのは、一服しようと川沿いの大きな町に立ち寄ったためであり、ポケットからピンク色の夕刊が突き出ていた。マーチは川に面した庭園に、音もなく慎ましい落雷のように落ちてきた。だが落雷だという自覚はまるでなかった。  初めに取り交わされた挨拶や紹介は月並みなものであったし、いつものように繰り返されたその内容はといえば、主が姿を見せないのには酔狂な理由があるのだという弁明であった。もちろん主は釣りに行っていたのであり、定刻になるまで邪魔されることはないだろう。そうは言っても彼らの目と鼻の先に腰を下ろしていたのであるが。 「ただ一つの道楽だからな」弁解がましくハーカーが言った。「煎じ詰めれば自分の家でもある。それにほかの点では申し分ないもてなしだ」 「気になりますがね」とフィッシャーが声をひそめた。「道楽というより中毒になりやしませんか。あの年配の人間がものを蒐集しだすとどうなるか知ってますからね、魚臭い川魚を集めるだけで済むかどうか。タルボットのおじさんが爪楊枝を抱え込んだり、哀れなバジーが煙草の灰に散財したことを覚えているでしょう。フックはこれまでに大きな仕事をいくつもやってきました――スウェーデンとの木材貿易で大金を動かしたり、シカゴで平和会議を開いたり――けれどそうした大きな仕事に今どれだけ気を配っているかといえば、ああした小さな魚ほどにも気にしてないのではと思ってしまうんです」 「おい待て待て」法務長官が異を唱えた。「狂人を訪問しに来たのかとマーチ君に思わせるつもりか。いいかね、フックは気晴らしでやっているだけであって、そこはほかの娯楽と変わらん。悲しいかな気晴らしをする人間というだけだ。だが材木や海運関係の大ニュースがあれば、気晴らしも魚もうっちゃるから心配いらん」 「さあどうでしょうね」フィッシャーは眠たそうに川中島を見つめていた。 「ところで、何かニュースはあるかね?」ハーカーがハロルド・マーチにたずねた。「夕刊が見えたんでね。朝に出る、例の気の早い夕刊ですな」 「メリヴェール卿がバーミンガムで行った演説の冒頭です」と答えてマーチは新聞を手渡した。「ほんの小さな記事ですが、なかなかいいと思いますよ」  ハーカーは新聞を受け取り、ばさばさと折り直して追加記事に目を通した。マーチの言うとおりほんの小さな記事に過ぎなかった。だがジョン・ハーカー卿にはひとかたならぬ効き目があった。しわの寄った眉がぴくぴくと上がり、目が瞬き、束の間がちがちの顎がだらりとゆるんだ。何か様子がおかしく老人のようだった。やがて声を強張らせて震えずにフィッシャーに新聞を手渡すと、一言だけこう言った。 「ほら、賭けるなら今だ。釣りを邪魔するに値する大ニュースが飛び込んできた」  ホーン・フィッシャーが新聞を見ているうちに、気怠さに富み表情に乏しい顔つきにも変化がよぎったように見えた。そんな小さな記事にすら二つ三つ大きな見出しがあるのが見えた。「スウェーデンに劇的な通告」そして「英国は断固抗議す」。 「何てことだ」初めは喉から絞り出すようだった声が、さらに小さく喉から洩れるだけの音になった。 「すぐにフックに伝えなくては許してはくれまい」ハーカーが言った。「おそらくただちにボスに会いたがるだろうが、もう手遅れだな。今から向こう岸に行って来るがね。だが賭けてもいいが魚のことなど忘れさせてみせよう」そして背を向けると、川岸沿いをいそいそと、平らな飛び石の土手道に向かって進んだ。  マーチはフィッシャーを見つめたまま、ピンク・ペーパーが引き起こした効果に驚いていた。 「どういうことですか? ぼくは前々からデンマーク港を守るため抗議すべきだと思ってましたけど。ぼくらのためにもなるんですから。いったいアイザック卿やあなたがたにどんな面倒がかかるというんです? 厄介な報せだと思うんですか?」 「厄介な報せですね!」それとわからぬほどの力を込めてフィッシャーは繰り返した。 「そんなに厄介なんですか?」とうとうマーチはたずねた。 「そんなに厄介なんですよ」とフィッシャーは繰り返した。「ああ、もちろんこれほど結構なことはありませんとも。たいした報せです。素晴らしい報せですよ! こんなことが起こるとはね、誰だって我を忘れてしまいます。見事じゃないですか。計り知れない。信じがたくさえある」  島と川を彩る灰と緑に目を戻し、退屈げな眼差しを生垣や芝生にゆっくりと走らせた。 「この庭は夢のようだなと思いましたし、今もきっと夢を見ているんじゃないかと思うんです。なのに草は伸び水は流れ、起こりえないことが起こってしまいました」  こう話しているときに、禿鷲のように前屈みの人影が頭上の生垣の切れ目から姿を現わした。 「君の賭けた方だったな」ざらついてしわがれかけた声だった。「ご老体が気にしているのは釣りだけときた。怒鳴り散らされた挙句に政治の話など御免だと言われたぞ」 「そうだろうと思いました」フィッシャーは控えめに答えた。「それではどうしますか?」 「どちらにせよあの馬鹿奴の電話を使わせてもらうつもりだ。何が起こったのかを見極めなくてはなるまい。明日には直々に公式会見せねばならん」法律家はそう言って家に急いだ。  そこから沈黙が続き、マーチにとっては何とも困った沈黙であったのだが、ウェストモーランド公の古式ゆかしい姿が、白い帽子と頬髯とともに、庭の向こうから近づいてくるのが見えた。フィッシャーは新聞を手にすぐに歩み寄り、何やら口にしながらあの衝撃的な記事を指さした。のんびりと歩いていた公爵が、じっと立ちつくしたのを見ると、まるで古着屋に置かれて外を見つめているマネキンのようであった。やがてマーチにも声が聞こえたが、甲高くヒステリックといってもよい声だった。 「だがこの記事は見なくちゃならんよ。わかってもらわにゃならんよ。正確に伝わらなかったんだろうさ」声にはすっかり重みが戻り、威厳さえ備わっていた。「この私が行って来よう」  この昼下がりの奇妙な出来事を通してマーチが思い出すのはいつも、喜劇的といってもいいような老紳士の鮮明な映像であり、この老紳士が見事な白い帽子を頭に用心深く石から石へと足を進めて川を渡っているのはまるで、ピカデリーの往来を渡っている姿のようであった。やがて中島の木々の陰に姿を消すと、マーチとフィッシャーはきびすを返して法務長官に会いに行くと、すでに家から戻って来て確信に満ちた厳めしい顔つきをしていた。 「聞くところによると、首相は生涯最高の演説をしたそうだ。終わるややんやの大喝采だと。危険な資本家たちと勇敢な農民たちさ。我々は二度とデンマークを見捨てることはないだろう」  フィッシャーが頷き曳舟道の方を向くと、何だかまごついた顔で戻ってきた公爵が見えた。疑問に答えて公爵はしわがれたひそひそ声で言った。 「いつもとは違うと思わざるを得ないね。聞く耳持たなかったよ。うん――そう――魚が驚いたらどうするんだなぞと」  耳ざとい人間であれば、白帽の話に対しフィッシャー氏が洩らしたつぶやきに気づいたであろうが、ジョン・ハーカー卿が断定するように口を挟んだ。 「フィッシャーが正しかった。思いも寄らなかったな。だが今となっては釣りのことしか頭にないのがはっきりしたよ。背後で家が燃えていようと、日の暮れるまでは動こうともせんのだろう」  フィッシャーは曳船道から一段高い土手道に向かって歩みを進めていたが、そこで遠くに探るような視線を走らせた。中島の方にではなく、流れを取り囲む緑なす彼方の丘の方にである。前日のように鮮やかな夕空がかわたれの景色を覆っていたが、西の方角は今や金色ではなく真っ赤であった。聞こえる音といえば単調な川の調べくらいだった。やがて息苦しげに叫ぶ音がホーン・フィッシャーから届いたため、ハロルド・マーチは不思議そうに顔を上げた。 「厄介な報せですって。ええ今度こそ正真正銘厄介な報せですとも。厄介なことが起こってなければいいのですが」 「厄介な報せとはどういうことですか?」聞き慣れぬ不吉な響きに気づいてマーチはたずねた。 「日が沈みました」フィッシャーが答えた。  話し続ける様子を見たところ、口にしたのが破滅の言葉だと自覚しているようだった。「フックが耳を貸すような人に行ってもらわなくてはなりませんね。たとえ狂っているにせよ、狂人なりの理屈を持っていますから。たいていの場合には狂気にも理屈があるものです。人が狂気に走るとは、理屈に縛られることなんですよ。日が沈んであたりが暗くなってからも腰を据えていたことなどありませんでした。甥御さんはどこにいます? 甥御さんなら心底気に入られているはずです」 「見てください」不意にマーチが声をあげた。「ほら、もうとっくに行って来たんですよ。戻って来てるのが見えるでしょう」  ふたたび川に目を戻すと、夕陽の映った暗がりに、大あわてで危なっかしく石から石を渡っているジェームズ・ブレンの姿が見えた。一度など飛沫をあげて石から踏み外した。ようやく川岸の一団までたどりついたところ、黄色い顔が不自然なほど青ざめていた。  先ほどからその場所に集まっていた四人は、ほぼ同時に声をかけていた。「今度は何と言われたんだ?」 「何も。何も――言わないんです」  フィッシャーは青年をしばしじっくりと見つめた。やがて静止を解くと、ついてくるようマーチに合図し、すたすたと川を渡っていった。緑なす中島をぐるりと取り囲んだ自然道をしばらく進むと、島の向こう端に釣り人が座っていた。二人は言葉もなく立ちつくして釣り人を見つめた。  アイザック・フック卿は今もまだ切り株にもたれて座っていたが、それも当然であった。絶対に切れない釣り糸が喉に二重に巻きつき絞められていたうえに、背中の木を支柱にして二重に巻きつけられていた。先頭を歩いていた探偵が慌てて駆け寄り、釣り人の手に触れた。それは魚のように冷たかった。 「日が沈みました」ホーン・フィッシャーの口調には先ほどと変わらぬ危惧が感じられた。「そして日の出を見ることは二度とないでしょう」  十分後、こうした衝撃に打たれた五人の男がふたたび庭に会し、蒼白になりながらも互いの潔白を探るようににらみ合っていた。見たところ法律家がもっとも油断なかった。いくぶん唐突ではあったがきっぱりと口にした。 「現実問題として死体はあのままにして警察に電話せねばならん。こちらでも独自に使用人や故人の書類を調べるつもりだし、何か関係あるものがないか確認するつもりだ。無論、諸君はこのままここにいなくてはならん」  迅速かつ厳格な法裁きには、ひょっとすると網や罠をせばめようという含みがあったのかもしれない。いずれにせよブレン青年が唐突に取り乱した。いやひょっとすると怒り出したのか、その声は爆発のように静かな庭に響き渡った。 「僕は少しも触ってないぞ」ブレンが叫んだ。「絶対に無関係だ!」 「君だとは言っとらん」ハーカーが目を怒らせて問いただした。「なぜ何も言われんうちからぎゃあぎゃあ喚くんだ?」 「みんなしてそんなふうな目で見るからさ」青年は声を荒げた。「あんたがたがしょっちゅう僕の借金と遺産の話をしているのを、知らないとでも思ってるのか?」  マーチの驚いたことに、フィッシャーはこの争い第一幕からとっとと離れており、庭の片隅に公爵を連れて出していた。他人の耳の届かない場所まで行くと、不思議なほど素っ気なくこう言った。 「ウェストモーランド、単刀直入にお話しします」 「うん?」と無邪気に見つめた。 「あなたには殺害する動機がありました」  公爵はなおも見つめていたが、口を開くことができないようだった。 「あなたに動機があったならいいんですがね」フィッシャーは穏やかに話し続けた。「そうじゃありませんか、ずいぶんとおかしな状況ですからね。殺す動機があったのなら、殺したのはおそらくあなたではないでしょう。ですが動機がなかったのなら、ことによると、やったのはあなたかもしれない」 「どういうことだね?」公爵が乱暴にたずねた。 「単純なことですよ。向こうに渡ったときにフックは生きていたか死んでいたか二つに一つです。生きていたのなら、殺したのはあなたであってもおかしくありません。そうでなくては、死体について口をつぐんでいた理由がわかりませんからね。しかし死んでいたのなら、殺す動機がある以上、疑われることを恐れて口をつぐんでいてもおかしくはありません」  しばし間を空けてから、何気なくつけ加えた。 「キプロスは美しいところですよ。ロマンティックな景色にロマンティックな人々。若い男ならぼうっとなってしまいます」  公爵は不意に手を握り締め、低い声で言った。「そうだ、わしには動機があった」 「それではあなたは潔白です」と言ってフィッシャーは安心したように手を差し出した。「やっていないだろうとは思っていたんですよ。現場を見て怖がるのは、当然のことですからね。悪夢がかなったというところでしょうね?」  この興味深い会話が進んでいるあいだに、ハーカーはすねた甥をほったらかして家に入っていたが、間もなく戻ってきたときには気合いも充填され書類の束も手にしていた。 「警察に電話してきた」と立ち止まってフィッシャーに話しかけた。「だが大半の仕事は代わりにやってしまった気がするよ。おそらく真相がわかった。ここに書類が――」  話が途切れたのはフィッシャーが何とも言えぬ顔つきで見つめていたからであったし、次に口を開いたのもフィッシャーだった。 「そこにない書類がありはしませんか。今はないということですが」  一呼吸置くと、「腹を割ろうじゃないですか、ハーカー。こんなに急いで書類を探したのは、探し物を――見つけられていないか確認するためですね」  ハーカーは石頭に乗っかった赤毛を動かさなかったが、相手のことを目の端で見ていた。 「おそらく」とフィッシャーは言葉に詰まることなく話し続けた。「だからあなたも、生きているフックを見たなんて嘘をついたのでしょう。殺人の可能性をほのめかすようなものがあることを知っていたから、殺されていたと口にしようとはしなかったのです。でもいいですか、今は正直になった方がいい」  突如ハーカーのやつれた顔が、地獄の炎に炙られたように燃え上がった。 「正直か! 正直になるのがそんなにたいそうなことか! 銀のスプーンをくわえて生まれてきたようなぼんぼんたちと来たら、他人のスプーンを懐に入れていないというだけで永遠の美徳みたいに触れて回る。だがピムリコの下宿屋で生まれたからには自分のスプーンは自分で作るらねばならなかったが、材料の角や正直者を駄目にしただけだったと言えば充分だろう。苦労人が若いころに法律などという薄汚れたものからほんの形ばかりでも踏み出してしまったら、そこには必ずと言っていいほど吸血鬼がいて一生つきまとわれることになるものなのだ」 「グアテマラの鉱山ですね?」いたわるようにフィッシャーが言った。  ハーカーは不意に身震いした。 「何もかも知っているんだな、まるで全能の神だ」 「あまりにも知りすぎているんです。それも間違ったことばかりを」  ほかの三人が近づいてきたが、それほど近づかぬうちに、ハーカーの言葉には毅然とした態度が戻ってきていた。 「そうだ、書類を一枚破棄したが、一枚の書類を見つけたのも事実だし、それを見ればすべて明らかだ」 「結構です」フィッシャーが今までよりも大きく力強い声を出した。「その書類の助けを借りようじゃありませんか」 「アイザック卿の書類の一番目につくてっぺんに、ヒューゴーという男から届いた脅迫状があった。殺してやるという脅しの内容が、実際の殺され方とまったく一緒だった。罵詈雑言ばかりの乱暴な手紙だ――自分で確かめるといいが――フックがいつも中島で釣りをすることがずいぶんと強調されていた。おまけにボートで書いたと明言している。川を渡ったのは我々だけである以上」とおぞましい笑みを浮かべて、「この犯罪を行ったのはボートで通りかかった人間に違いないのだ」 「ほう、何だって」生命に満ちあふれんばかりに公爵が叫んだ。「ヒューゴーという男ならよく覚えているよ。アイザック卿の従者や護衛みたいなことをしていたな。アイザック卿には襲撃を恐れているようなところがあったからなあ。なかには――ある人たちからはあまりよく思われていなかったからね。ヒューゴーは何度か叱られたか何かされたあとで解雇されたんだ。だけどよく覚えているよ。大柄なハンガリー人で、大きな口髭が顔の両側から飛び出していた――」  ハロルド・マーチの記憶というか忘却の闇のなかで扉が開き、失われた夢で見たような輝く光景が広がった。光景というよりは水景であり、水浸しの草むら、低い木立、薄暗い橋の穹窿から成っていた。束の間、マーチの目に再来したのは、黒い角のような口髭の男が橋に飛び乗り姿を消した映像であった。 「まいったな。今朝は殺人犯に会ったのか!」  ホーン・フィッシャーとハロルド・マーチは結局その日を川で過ごした。警察が到着した時点で一同お開きになったのである。ひょんなマーチの証言から、全員が潔白であり、逃げ出したヒューゴーがホシだと断定されたのだ。このハンガリー人逃走犯が捕まるかどうか、ホーン・フィッシャーにはかなり疑わしそうに思えた。悪魔じみた探偵能力をわずかなりともその件で披露したそぶりすらなく、ボートの背にもたれて煙草をくゆらし揺れ動く葦が通り過ぎるのを見ていた。 「橋に飛び移るとは上手い考えです。空っぽのボート一艘など取るに足らない。どちらの岸に上陸するところも見られずに、いわば橋に足を向けずに背を向けたのです。二十四時間も先手を取られている以上、すでに髭も消えているでしょうし、そのうち本人も消えてしまうでしょう。逃げ切る望みは高いと思います」 「望みですか?」思わず漕ぐ手を休めてマーチは繰り返した。 「ええ、望みですよ」フィッシャーも繰り返した。「そもそも、誰かがフックを殺したからといって、コルシカ式の復讐心をしっかり胸に刻むつもりなどありません。もうとっくにフックのしていたことの見当はついているんじゃないですか。人の血を吸う脅迫者とは、あのお人好しで精力的な叩き上げ経営者だったのです。秘密の弱みを握られていたのは一人ではありませんでした。ウェストモーランドが若いころキプロスで結婚していたという秘密は、公爵夫人を奇妙な立場に追い込むことになったでしょうし、ハーカーの秘密とは、事務弁護士だった若いころに依頼人のお金を投機に用いたことでした。ですからフックが殺されているのを見つけたときには二人とも恐慌を来していました。夢うつつのうちに殺してしまったのかと感じていたのです。ですが実を言うと、親愛なるハンガリー氏を死刑にしたくない理由は、もうひとつあるんです」 「どういうことです?」 「殺人を犯してなどいないというだけですよ」  ハロルド・マーチは漕ぐ手を置き、しばしボートを流れに任せた。 「実はそんな気がしていました。理屈に合わない考えですが、大気中の雷のように空中に漂っていたんです」 「むしろ反対に、理屈に合わないのはヒューゴーを有罪にすることですよ。みんなが断罪したのは、そうすればほかの人間の身の証が立つからだというのはおわかりでしょう? ハーカーとウェストモーランドが沈黙していたのは、フックが殺されているのを見つけたからですし、犯人と目されかねない書類があることを知っていたからです。というわけで、ヒューゴーもフックが殺されているのを見つけ、犯人と目されかねない書類があることを知っていました。前の日に自分の手で書いていたのですから」 「だけどそうなると」マーチが眉をひそめた。「実際の殺人が行われたのはどれだけ朝早い時間だったんです? 橋で出くわしたのが日の昇るか昇らないかくらいだったし、中島からはけっこうありますよ」 「答えは簡単明瞭です。犯罪が行われたのは朝ではない。犯罪が行われたのは中島ではないのです」  マーチはきらめく川面を見つめたまま何も答えなかったが、フィッシャーは誰かの質問に答えるかのように話を続けた。 「気の利いた殺人というものは、非凡な特徴を何か一つ利用して平凡な状況に取り入れるものと相場が決まっています。今回の特徴とは、フックが毎朝決まって一番に起き、判で押したように釣りをして、邪魔されることを嫌っていたことです。犯人は昨夜の晩餐後に家のなかでフックを絞め殺すと、真夜中に川を渡って死体と釣り道具を運んで木に縛りつけ、星空の下に死体を残して立ち去ったのです。終日あそこで釣りをしていたのは死者だったのです。犯人は家に戻り、もとい車庫に戻り、自動車で立ち去りました。犯人は自分の車に乗って行ったんです」  フィッシャーは友人の顔を一瞥してから話を続けた。「あなたは恐ろしそうな顔をしてますし、これは恐ろしいことです。しかしほかにも恐ろしいことはある。ある無名の人物が迫害者にまとわりつかれて、家庭を滅茶苦茶にさせられたとしたら、その破壊者を殺すのが殺人のなかでももっとも許しがたいものだとは思わないでしょう。大きな国中が家族のように自由の身でいるのはどこか間違っていますか? 「スウェーデンに警告することによって、おそらくは戦争を防ぎ遅らせることができるでしょうし、あの毒蛇の命よりも貴重な何千もの命を救うことができるんです。待ってください、詭弁でもなければ正当化しているわけでもないのですが、あの毒蛇とその帝国を守っていた奴隷制度の正当性などその何千分の一ですからね。わたしの頭が本当に鋭ければ、昨夜の晩餐で見た、あの人好きのする死を招く笑顔から見当をつけていたでしょうに。お話しした軽口を覚えていますか? 魚を遊ばせるアイザック卿の技術の話ですよ。ある意味で卿は人間を釣っていたのです」  ハロルド・マーチはオールを取ってふたたび漕ぎ始めた。 「覚えていますよ。大きな魚が糸を切って逃げることがあるかという話でしょう」 第六話 塀の穴  二人の男、つまり一人の建築家と今一人の考古学者が、プライア・パークにある邸宅の石段の上で出会った。邸の主であるバルマー卿は熱心に、二人を引き合わせるのは当然のことだと考えた。打ち明けて申せば熱心どころか放心しているに違いなく、建築家と考古学者はどちらもカ行で始まるということ以外に、特にはっきりとつながりを感じていたわけではなかった。同じ理屈にしたがって鯨飲家に外交官を紹介したり殺鼠業者に算術屋を紹介したりしたかどうか、世間では温かく疑いを持ち続けているに違いない。バルマー卿は大柄、金髪、猪首の若者で、身振り手振りで忙しく、無意識に手袋をはためかせステッキを振り回している。 「お二人とも話すことがあるはずですよ」と陽気に言った。「古い建物とかそういったことをね。そういえばここはかなり古い建物だけど、いや僕が言うことじゃないな。ちょっと失礼させてもらいます。妹のやつが準備しているこのクリスマス騒ぎのために、カードを考えに行かなきゃならないんで。もちろん参加してくれるでしょうね。ジュリエットがやりたがっているのは仮装もので、僧院長とか十字軍とかいろいろです。僕の先祖たちじゃないですか、要するに」 「僧院長は先祖ではありますまい」考古学者はにやりとした。 「せいぜい大叔父さんか何か、ですかね」と答えてけたけたと笑い出した。それから家の前に設けられた景色に落ち着きなく目を走らせた。人為的な水の広がりの中央には古風なニンフ像が花を添え、周りを取り囲む庭園に生えた高い木々は今や灰と黒と霜に覆われていた。厳しい冬のさなかなのだ。 「冷え込んできましたね」とバルマー閣下が続けた。「妹が言うにはダンスもいいけどスケートもしたいんだとか」 「十字軍が完全武装して来たとしたら、気をつけないとご先祖さまを溺れさせてしまいますぞ」 「いや心配いりませんよ。この立派な湖の深さはどこも二フィートないんだから」  振り回すようにしてステッキを水に突っ込み、浅いことを確認して見せた。先端が水の中で曲がって見えた。そのため、巨体が折れた杖で支えられているように束の間思えた。 「運が悪くても、僧院長が尻餅をつくところを見られくるらいですよ」一言つけ加えると立ち去った。「じゃあ、オ・ルヴォワール。またあとで」  考古学者と建築家は広々とした石段に取り残されて笑みを交わした。だが仮に二人が同じことに興味を持っていたとしても、それはおのおの考慮すべき違いとなって現れていた。想像力のある人間なら、一つ一つを考慮のうえでいくつか相違点を見つけることもできただろう。前者のジェイムズ・ハドウ氏は、皮革と羊皮紙で埋もれた法曹学院の、眠気を誘うような穴ぐらからやって来た。というのも法律が専門であり、歴史は趣味であったのだ。何よりかによりプライア・パーク邸の事務弁護士で代理人なのである。だがハドウ自身は眠気とはほど遠い、冴えに冴えた人物であるらしく、青い目はぎょろぎょろと鋭く、櫛の通った赤い髪は整った服装と同じく整っていた。後者の名前はレナード・クレインといって、中心部からわずかにはずれたところにある、粗末で下町じみた建築家及び家屋周旋業者の事務所からまっすぐやって来た。てかてかした色の見取図やでかでかとした文字のビラが貼られた安普請の新築並びの末席にある、日にさんさんと照らされた事務所である。だがもう一度じっくりと観察してみれば、目のなかに洞察力と呼ばれる輝かしい眠りのようなものが見つかったかもしれない。黄色い髪は気取って短いながらも、気取らずこぎれいである。建築家は芸術家なりというのは嘆かわしい真実ではあるが明らかだった。だが芸術家肌と言っては間違いになる。はっきり何とは言えないが人によっては危険とすら感じるものを何か持っていた。夢見がちなくせに、芸術はおろか、前世の記憶でもあるものなのか、日頃からは想像もつかぬような体育会系の分野においても友人たちを驚かせることもあったはずである。にもかかわらずこのときは、話し相手の趣味には疎いことをあわてて弁明した。 「知ったかぶりをするわけにはいきません」と微笑むと、「考古学者とは何をする人なのかすらよく知らないんです。ギリシアのさびのついた遺物からすると、古いものを研究するんでしょうけれど」 「その通り」ハドウは断言した。「考古学者とは古いものを研究し、そこに新しいものを見つける人間のことだとも」  クレインはしばし相手を見つめてからふたたび微笑んだ。 「考えようによっては、ぼくらが話していたもののなかにも、古いものにまぎれて実は古くないものがあったってことですか?」  連れの方もしばし黙り込み、静かに口を開いたときには、険しい顔に浮かんだ笑顔も薄らいでいた。 「庭園を囲む塀は正真正銘に古いのだよ。出入り口の門はゴシック式で、破壊の跡も修復の跡も見られない。だが家や土地はだいたい――そうだな、そうしたものから読み取ることのできる作り物めいた発想というのは、たいていが最近になってからの作り事、流行りの小説みたいなものだ。例えば、ここの名前がそうだ。|副僧院長の庭園《プライア・パーク》。誰もが月に照らされた中世の僧院を連想せずにはいられまい。神秘主義者ならとっくに修道僧の幽霊がいるのを見つけているだろう。だが、この点について信頼できる研究は一つしかなく、それによればここはただ単にプライア邸と呼ばれていたのだ。ほかの土地でポッジャー邸と呼ばれるようなものだ。いつしかここに建てられ、この辺りの目印になったのが、プライア氏の家、一軒の農家だったというわけだ。いや、同様の例は各地に無数にあるのだよ。この近郊は以前は村だったのだが、村人のなかには訛って村名をホリウェルと発音するものもいたために、何人もの三流詩人が|聖なる泉《ホリー・ウェル》の幻に耽り、魔法やら妖精やら、郊外の居間をケルトの薄明で満たしたのだ。しかしながらその点の知識がある者なら真実はわかっておるが、「ホリンウォル」とは「|塀の穴《ホール・イン・ザ・ウォール》」の意味に過ぎんし、何らかのまるでつまらん事故が原因なのだ。新しいものほどには古いものを見つけていないというのは、そういうことだ」  見たところクレインは古遺物と新発見の講義に上の空だったが、その原因はすぐに明らかになり原因そのものが近づいてきた。バルマー卿の妹ジュリエット・ブレイがゆっくりと芝生を横切りやってきた。一人の紳士にエスコートされ、その後ろにはさらに二人いる。若き建築家の心は、一人よりは三人の方がいいという理屈に合わぬ状態であった。  ブレイ嬢の隣を歩いているのはほかでもない、かの著名なボロディノ公であり、少なくとも秘密外交なるものにとって、優れた外交官としてあるべきほどには有名であった。これまでさまざまな英国の郊外邸宅を訪れてきており、文字通りプライア・パークで行っている外交は、外交官として望めるかぎり完全に秘密が守られていた。外見についてはっきり言える点は、すっかり禿げてさえいなければ極めて立派だっただろうということである。だが実のところはこれ自体かなりハゲしさを抑えた言い方であろう。でたらめめいて聞こえるが、髪が生えているのを見たならびっくりしただろうというのが、この場合にはより相応しい言い方だ。びっくりの度合いでいえば、ローマ皇帝の胸像に髪が生えているのを見たときに匹敵しよう。背が高く、胴回りをきっちりとボタンで留めていたが、目立たなかった巨体をかえって引き立たせる結果となっていた。ボタンホールには赤い花を挿している。後ろを歩いている二人のうち一人も禿げていたが、まだ部分的なものでありまだそれほどの年でもない。というのも垂れ下がった口髭はまだ黄色く、目つきがいくらか重たげだとしてもそれは気怠さによるものであって年齢によるものではなかった。名前はホーン・フィッシャー。どんなことでも易々と力も入れずに話したが、どんな話題に興味があるのかは誰にもわからなかった。話し相手はさらに目を引く人物であり、さらに不吉な人物でさえあるうえに、バルマー卿の一番の旧友にして親友であるという付加価値までついていた。一般には単純簡潔にブレイン氏として知られていた。だがかつてはインドで判事と警察官僚をしており、敵が多いのは犯罪に対するほとんど犯罪的な対応のためだということは知られていた。暗く深く沈んだ目に、黒い口髭が口元の本心を隠す、茶色い骸骨である。見た目こそ熱帯病か何かに罹った人間であったが、身のこなしはだらけた同行者よりもはるかに機敏だった。 「やっと決まりました」声の届くところまで来ると、ブレイ嬢が元気よく発表した。「みんな仮装の衣装を着てくれないと。スケート靴も忘れずにね。公爵はミスマッチだなんて言うけれど。でも気にしないわ。すっかり凍っているんだし、イギリスじゃこんなことめったにないんだから」 「インドでも一年中スケートをしているわけではありませんぞ」とブレイン氏が言った。 「イタリアだって氷と関わりが深いわけじゃない」とイタリア人。 「イタリアと言えば氷《アイス》じゃないですか」ホーン・フィッシャー氏が口を開いた。「氷菓子《アイスクリーム》売りのことですが。この国の人間の大半は、イタリアにはアイスクリーム売りとオルガン弾きしかいないと思ってますよ。確かに大勢いますしね。ことによると変装した侵略軍ではありませんか」 「密使や外交官でないとどうしてわかります?」公爵がさげすむような笑みを浮かべた。「一個連隊のオルガン弾きが手がかりをかき集め、客寄せの猿があらゆるものをかき集めているかもしれないのに」 「確かに組織《オルガン》は組織化《オーガナイズ》されてますからね」フィッシャー氏が軽口をたたいた。「でもとにかく、イタリアはもちろんインドだってヒマラヤ山脈の上はひどく寒いことはこれまでに知っておりますから。この小さな丸池の氷なんて比べてみればきっとずいぶんと楽ですよ」  ジュリエット・ブレイは黒い髪に黒い眉に輝く目をした魅力的な女性であり、かなり態度は大きいなりに可愛いところもあれば優しいところさえあった。重大なのは兄を自由にできたという点である。あの貴族ときたら頭の弱い人たちの例に漏れず、追いつめられると威張り散らす気《け》がなくもないのだが。来客たちを自由にできたのも事実であり、もっとも身分が高く気むずかしい客に中世の仮装を着せることまでできたのである。どうやら魔女のように自然状態まで自由にできたらしい。天候は着実に厳しく激しくなっていた。その晩、池の氷は月光に照らされて大理石の床のようだった。一行は暗くなる前にダンスとスケートに興じ始めた。  プライア・パーク、より正確にはホリンウォールの周辺地区は、有力者の土地から今や郊外地になっていた。かつては軒先に有力者頼みの村が一つきりだったのだが、今や軒並みロンドンが押し寄せてきたきらいがある。ハドウ氏は図書館と土地のふたつにわたって歴史の研究をしていたが、後者の助けはなかなか見つからない。すでに文献からわかっているのは、プライア・パークとはもともとプライア農園などと同じく地元の大物から名が取られたということであるが、新しい社会状況のせいで言い伝えに沿って物語をたどるのが難しくなっていた。根っからの田舎者が何人かでも残っていれば、あるいは求めてやまないプライア氏の言い伝えを見つけることもできただろうが、可能性は遠かった。だが事務員や職人からなる新しい遊牧の民たちは、定期的に郊外から郊外へと家を移し、学校から学校へと子を移し、共通する来歴のあろうはずもない。彼らは揃って、教育の普及とともにどこにでも足を伸ばす歴史健忘症にかかっていたのである。  とはいうものの、翌朝になって図書室から出てきて、冬枯れの木々がシュヴァルツバルトのように凍った池を取り囲んでいるのを見ると、ど田舎の奧にいるような気がしたものだ。庭園をぐるりと囲む古い塀は、今もその構内に田舎びて現実離れしたところを完全に残しており、暗い森の奧は何処とも知らぬ谷や丘のなかに消えているのだと思い描くのも難しくはないだろう。灰と黒と銀色をした冬の森は、すでに氷の上や周りに集まっていた色鮮やかな祭り人たちとは対照的に、ますます厳めしくどんよりとしていた。ホームパーティのため待つ間もあらばと誰もがとっくに仮装に駆り出されていたため、黒服と赤毛の弁護士ただ一人だけが一座の現代人であった。 「着替えるつもりはないんですか?」ジュリエットは憤然として、角あり塔あり十四世紀の青い頭飾りを振った。頭飾りがしかるべく顔をずいぶんと上品に、空想的に囲んでいる。「ここにいる人はみんな中世風でいなきゃ。ブレインさんだって茶色い部屋着を着て修道僧のつもりなんですよ。フィッシャーさんは台所にあった古い芋袋を手に入れて縫い合わせてました。やっぱり修道僧になるつもりだったんですよ。公爵ときたら本当に素敵、枢機卿みたいな深紅の礼服を着ているんです。誰彼かまわず毒殺してまわりそうじゃない。あなたも何かあるはずよ」 「一日が終わるまでには何かになりますよ。今現在は考古学者と弁護士以外の何者でもない。これからお兄さんに会って、頼まれていた法律関係の話と地域調査の話もしなくてはならんのでね。管財報告をすれば間違いなく管財人に見えるだろうし」 「でも兄は着飾っていたのに! ずいぶん念入りに。際限なくと言った方がいいくらい。ほら、得意満面でやって来たでしょう」  なるほど大貴族が歩いてくる。紫や金もまばゆい十六世紀の扮装に、金柄の剣に羽根飾り帽、いざ決闘にゆかんとばかりである。なるほど現在の様子を見るかぎり、普段以上に過剰な身振りであった。まるで帽子の羽根飾りに合わせて中身まで偉くなってしまったようである。豪華な金筋入りマントを、パントマイムの妖精王の翼のようにはためかせている。あろうことか剣を華麗に抜いてステッキのように振っていた。祭りのあとの明かりのなかでは、その派手やかさには何か異常で不吉なところが感じられた。「兆し」のようなものだ。そのときは、酔っぱらってでもいるのかと一人二人がふと考えただけに留まっていた。  妹の方に歩み寄ったとき、一番近くにいたのがレナード・クレインだった。深緑色の服を身にまとい角笛と剣帯と剣を身につけ、見るからにロビン・フッドである。ジュリエットのすぐそばに立っていたのだが、必要以上に時間を費やしていたのかもしれない。スケートの隠れた才能を披露していたのだが、スケートが終わった今もお相手をやめるつもりはなかったようだ。浮かれているバルマーはふざけ半分に剣を抜いて、フェンシングの要領で突きを繰り出し、齧歯類とヴェネツィアの貨幣に関する比較的有名なシェイクスピアを引用して、絡んできた。  おそらくクレインのなかにも興奮が眠っていたらしい。とにもかくにもやにわに剣を抜き攻撃をかわした。次の瞬間、誰もが驚いたことに、バルマーの武器が手から空中に跳ね上がったように見え、音を立てて氷の上に転がった。 「嘘でしょう!」バルマー嬢は当然と言わんばかりにお冠である。「フェンシングもできるなんて知りませんでしたよ」  剣を拾ったバルマーはいらだつというより戸惑っているようで、そのせいで目下のところやけっぱちであるらしい印象が強まっていた。するといきなり弁護士を振り返りこう言った。「晩飯後に土地のことで話をつけようじゃないか。実際問題スケートにはほとんど参加できなかったな。明日の夜まで凍っているかどうかは怪しいもんだし。早起きして一人でくるくる回った方がいいのかな」 「私はお邪魔しないことにしますよ」ホーン・フィッシャーが気怠げに口をきいた。「アメリカ式に氷で一日を始めるにせよ、できるだけ少ないに越したことはありません。十二月に早起きなんて私は願い下げです。早起きは三文の徳ならぬ風邪の引き損」 「はあん、風邪引きで死ぬつもりはないね」バルマーはからからと笑って答えた。  スケートに参加したのほとんどが泊まり客だった。残りの客たちは一人二人と徐々に家路につき、やがて泊まり客たちも寝室に収まり始めた。こういうときにはいつも招かれていたご近所の住人は自動車や徒歩で我が家に帰った。法律及び考古学徒は、先ほどの電車で法曹学院に戻っていた。依頼人との協議中に必要になった書類を取りに戻るのである。ほかの客たちのほとんどはぶらぶらだらだらと各階のベッドに潜り込むところだった。ホーン・フィッシャーは、早起きを拒む口実を自ら投げ捨てでもするように、真っ先に部屋に引っ込んでいた。だが眠たげに見えるわりには、眠れなかった。卓上から地方地誌の本を取った。ハドウが地名の起源を見つけるきっかけになったという本だ。何にでも興味津々という地味で風変わりな能力の持ち主だったため、ぐいぐいと読み始め、これまでの読書経験からすると目下の結論には疑わしいと思うところがあれば、どんなことでもメモを留った。その部屋も森に囲まれた池にいちばん近かったため、いちばん静かだった。最前までの夜祭りの残響もここまでは届かなかった。プライア農場と塀の穴についての起源の定説を丁寧に読み進めていたのだが、修道僧と魔法の井戸の空想から目覚めたのは、凍てついた夜のしじまから聞こえる物音に気づいたからであった。特に大きな音ではなかった。だがどうやら鈍く重い音、いわば人がなかに入ろうとして木のドアをたたく音に似ているようだ。やがて軋むような割れるようなかすかな音が聞こえた。障害がその扉を開いたのか、取り除かれたかしたような音である。寝室のドアを開けて耳を澄ました。だが階下で響き渡る話し声や笑い声が聞こえたため、声をかけても梨の礫だったり家が無防備なまま放っておかれたりする心配はなかった。開いた窓まで行き、森の中央にある凍った池と月に照らされた彫像を見晴るかし、ふたたび耳を澄ませた。だがその静閑な場所には静寂が戻ってきていた。かなりの時間にわたって聞き耳を立てていたものの、聞こえたのは遠くで列車が発車して鳴らした物寂しい警笛だけであった。それから、普段から眠れぬ夜には正体も分からぬ物音がいくつも聞こえているのを思い出した。そこで肩をすくめてぐったりとベッドに戻った。  不意に目が覚め、ベッドに起きあがったのは、雷鳴のような、張り裂けるような叫びがぐわんぐわんと響いて耳を聾したからだ。なおもしばらく体が動かなかったが、やがてベッドから跳ね起き、終日身につけていた布袋製のだぼだぼの部屋着を投げ捨てた。真っ先に行ったのは窓のところだが、窓は開いてはいたが厚いカーテンで覆われていたため、部屋のなかはまだ真っ暗だった。だが、カーテンをひっつかんで頭上にめくりあげると、灰色銀色の陽射しが、池を取り囲む黒い森の背後からとうに上っているのが見えた。そして、それが目に見えたすべてであった。物音は確かに窓越しにこっち方面から聞こえたのに、どこを見渡しても月光のような日光に照らされているだけで、音も姿もなかった。まるで震えを抑えようとでもするように、窓枠をつかんだ長くぶらりとした手にぎゅっと力が入った。見つめていた青い目に恐怖が翳った。昨夜の物音が気になったのを常識によってどうにか封じ込めたことを考えてみれば、こんな感情は大げさで無用なものであったかもしれない。だがあれはまったく違う種類の物音だった。木を切る音から壜を割る音まで、五十通りもの出所が考えられる。夜明けの家の暗がりに響き渡ったこの音を出せるものは、世界でたった一つしかなかった。ひどくはっきりとした人間の声だ。なお悪いことに、フィッシャーはその人間を知っていたのである。  さらにはそれが助けを求める叫びであることも知った。確かに言葉が聞こえたような気がした。だがその言葉はあまりに短く、口を開いたと同時に息が詰まったかひったくりに遭ったかしたように、呑み込まれてしまった。嘲るように反響だけが今も記憶に残っていたが、それでも声の持ち主を疑いようもなかった。間違いない。バルマー男爵フランシス・ブレイの胴間声が、今さっき暗闇と曙光のあいだから聞こえてきたのだ。  自分がどのくらいのあいだ立ちつくしていたのかはわからないが、ふと我に返ったのは、半ば凍った風景のなかに動くものを見つけたからである。池のそば、窓のすぐ下の小径沿いに、一人の人物がのんびりゆっくりどころか泰然自若と歩いていた――まばゆい緋色のローブをまとった堂々たる人物である。枢機卿の扮装を着たままのイタリアの大公であった。大部分の来客は、ここ二日間ばかりを扮装したまま過ごしていたし、かくいうフィッシャー自身もずだ袋製の僧服を便利な部屋着の代わりにしていたのだ。だがそれにもかかわらず、この豪華な赤インコにはただの早起き鳥にしては何か普通ではない洗練されたよそ行きのものが感じられた。まるでこの早起き鳥は一晩中起きていたようではないか。 「どうしました?」窓から身を乗り出して一言、フィッシャーはたずねた。するとイタリア人は真鍮の仮面のような派手な黄色い顔を上に向けた。 「その話は階下でした方がいい」ボロディノ公は言った。  フィッシャーが階下に急ぐと、派手な赤服の人物が戸口に踏み入れ巨体で入口をふさいでいるところに出くわした。 「あの悲鳴を聞きましたか?」 「音がしたから来たんだが」と答えた外交官の顔は、顔色が読めないほどに暗く曇っていた。 「あれはバルマーの声でした」フィッシャーは断言した。「絶対にバルマーの声でした」 「よく知っていたのかい?」  その質問は非合理とは言わぬまでも無意味なものに思えた。そこでフィッシャーは、バルマー卿のことはわずかしか知らなかったと取ってつけたように答えることしかできなかった。 「誰一人としてよく知らないんだ」イタリア人は声の調子を変えずに続けた。「誰一人、ブレイン以外はね。ブレインはバルマーよりかなり年上だけど、二人のあいだには秘密がたくさんあるんじゃないかな」  フィッシャーは一時的な昏睡から覚めたように急にびくりと動き出すと、うってかわって力強い声を出した。「でもいいですか、何か起こったのかどうか外に確認しに行った方がいいでしょう」 「氷が解けているようだね」と気のなさそうに公は答えた。  家から出てみると、灰色の氷原には黒い汚れや星ができており、前日に家主が予言したように氷が割れていることがわかった。まさにその前日の記憶が、目下の謎を引き起こした。 「解けることはわかっていたはずだね。わざわざ早めにスケートしに来たんだ。水に落ちて声をあげた、どうだい?」  フィッシャーは困惑しているように見えた。 「バルマーはブーツが濡れたからといって叫ぶような男には見えません。ここで起こることといったらそれくらいでしょう。バルマーほどの男ならせいぜい水もふくらはぎまでしかないんですから。薄い窓ガラス越しに見るように、池の底の水草がぺしゃんこになっているのが見えるでしょう。違いますね、氷を割っただけならバルマーはその瞬間にそれほど声を出したりはしないでしょう。あとからたっぷりならわかりませんが。この小径を文句たらたら踏み鳴らして、きれいなブーツを取りに行くバルマーに出くわしていたはずです」 「上機嫌で時間を潰している姿が見つかることを祈ろう」外交官が言った。「その場合、声は森から聞こえたことになるな」 「家から聞こえたのでないことは確かです」とフィッシャーは言った。そして二人は暁の冬の木立へ、ともに姿を消した。  燃えるような朝日を背景にして木々が黒い影となってそびえていた。黒い縁が羽のように柔らかに木々を包んで見え、そのときばかりは裸の森も無骨どころかその正反対であった。何時間も経ち、夕陽とは対照的な青々とした色を背景にして、同じく濃密だがうっすらとした縁が黒い影を見せたころにも、日の出とともに始まった捜索は終わりにたどりついてはいなかった。次第次第に、ゆっくりと人々が集まってくるにしたがい、そのなかにもっとも重要な人物が欠けていることが明らかになった。どこを探しても主のいる形跡は見つからなかった。使用人の報告によれば、ベッドには寝た形跡があり、スケート靴と仮装の扮装がなくなっていた。公言どおりに早起きしたように思える。だが家の天辺から床下まで、庭園を囲む塀から中心の池にいたるまで、生死に関わらずバルマー卿の痕跡は皆無だった。悪い予感を感じていたホーン・フィッシャーは、生きている人間が見つかる希望などとっくに捨てていた。だがフィッシャーは禿げた額に皺を寄せ、人間がどこにも見つからないというまったく別の不可解な問題に取り組んでいた。  何らかの理由でバルマーが自分の意思で立ち去ったという可能性も考えてみた。だがさんざん考え抜いたうえでその考えは退けた。夜明けに聞こえた間違えようもない声とも、ほかのさまざまな現実的問題とも、相容れなかったからだ。小さな庭園を囲む年経てそびえる塀には、門は一つしかなかった。門番は昼近くまで閂を掛けていたし、通り抜けた人間もいなかったという。ほぼ間違いない。目の前にあるのは、閉ざされた空間における数学的問題だ。本能的に初めから悲劇を覚悟していたため、死体が見つかりさえすれば一安心できるといってもよかった。絞首台からぶらさがるように貴族氏の死体が自宅の木からぶらさがっているのに出くわしても、あるいは青っ白い雑草のように池に浮かんでいるのに出くわしたとしても、もちろん悲しみはするだろうが、恐がりはしなかっただろう。恐ろしいのは、何も見つからないことだった。  やがてフィッシャーは、個人的で人知れぬ調査の最中ですら一人ではないことに気づいた。深閑として人跡未踏とも思える森の空き地や、周りを囲む古い塀の隅々にまで、影のようについてくる人影が何度も見えたのだ。黒い口髭の生えた口元は、あちこちを絶え間なく射すように動き回る険しい目つき同様に何も語ってはいなかったが、何のことはないインド警官ブレインが虎を追いかける老ハンターのように跡をたどっていたのだ。失踪者のただ一人の友人であることを思えば、それもさほど不思議ではないだろう。フィッシャーは真っ向から切り込むことに決めた。 「こうやって沈黙が続くと気が張っていけません。天気の話でもして緊張を解きほぐしませんか。解かすといえば、そう言えばとっくに氷は解けていましたっけ? 状況を考えると、解かすとはずいぶんと重苦しい比喩ではあるでしょうが」 「そうは思わんよ」ブレインはきっぱりと答えた。「氷は無関係じゃないのかね。どうなってたのか知らんが」 「これからどうするおつもりです?」 「そうだな、無論、警察は呼んであるが、その前に何か見つけておきたい」アングロ=インディアンが答えた。「この国の捜査方法にさほどの期待を抱いているとはいえんからね。お役所仕事にもほどがある。人身保護令状だか何だか知らんがね。本当なら逃げ出す奴がいないか見張っておきたいんだが。妥協して、全員を集めて人数確認というところかな。誰も立ち去った者はいない。古い時代をかぎ回っていたあの弁護士だけは別だがね」 「ああ、それは無関係ですよ。出かけたのは昨夜でしたから。列車に乗った弁護士をバルマーの運転手が見送った八時間後に、私はバルマー本人の声を聞いているんですからね。今あなたの声が聞こえるのと同じくらいはっきりしてます」 「霊魂は信じてないというわけだ?」インド帰りの男は一つ間をあけて付け加えた。「法曹学院にアリバイを確かめに行くより先に、会っておきたい奴がいる。あの緑の坊主はどうしたんだ。森林番みたいな格好をしていた建築家だよ。どこでも見かけなかったぞ」  ブレイン氏は警察が到着する前に取り乱した来客たちを集めることに成功した。ところが、いまだ顔を見せない若い建築家の件にひとたびコメントが及ぶや、まったく予期していなかったどうでもいい謎と精神的発達の存在に囲まれていたことに気づいたのである。  ジュリエット・ブレイは兄の失踪という惨事に直面してかちこちに固まっていたが、それは苦痛というより麻痺に近いものであった。ところが別の問題が浮上するや、苛立ちと怒りをあらわにした。 「何人に対するいかなる結論にも飛びつきたくない」ブレインは歯切れよく話していた。「だがクレイン氏についてもっとよく知ろうとすべきではないだろうか。詳しく知っている人間も素性を知る人間もいないようだ。昨日バルマーと文字通り剣を交えたというのはなかなか意味深ではないか。あの剣さばきからすれば、一太刀浴びせることもできただろう。無論、事故の可能性があるし、誰かに罪があるなんてことは言えんよ。だがそうなると、誰かが実際に犯した罪を裁くすべはない。警察が来るまでは、我々は一介の素人探偵集団に過ぎんのだ」 「そのうえ俗物集団ね」とジュリエットが言った。「クレインさんがクレインさんなりの道を歩んできた天才だからといって、遠回しに殺人犯だとほのめかそうとなさってるでしょう。手にしたおもちゃの剣の使い方をたまたま知っていたからといって、何の理由もなく血に飢えた狂人みたいに振り回したんだと信じ込ませたいようね。おまけに兄を襲った可能性も襲わなかった可能性もあるから、きっと襲ったですって? これがあなたの推理のやり方ですか。姿を消したという点についても、おんなじように間違ってます。だって姿を現わしたじゃない」  なるほど確かに、緑色した偽ロビン・フッドがゆっくりと、背にした灰色の森から離れ、ジュリエットの言葉通りにこちらの方にやって来た。  クレインはゆっくりと、だが平然と近づいてきた。とはいえ明らかに青ざめていたし、ブレインとフィッシャーはいち早くこの緑ずくめの人物のある点に目を留めていた。笛は今も剣帯から揺れていたが、剣は消えていた。  誰もが驚いたことに、ブレインはこんなにも暗示的な疑問を追求したりはせず、尋問に持っていこうという気配は漂わせながら、話題を変えるという挙にも出たのである。 「こうして集まっているのは、一つたずねてみたい質問があるからなのだ。バルマー卿の姿を今朝その目で見た者はいるかね?」  レナード・クレインは居並ぶ顔をぐるりと見回し、ジュリエットのところで青ざめた顔を止めた。それから軽く口唇を噛みしめて言った。「ええ、僕は見ました」 「生きてぴんぴんしていたか?」ブレインがすかさずたずねた。「どんな恰好をしていた?」 「びっくりするくらい元気に見えましたよ」クレインはおかしな抑揚で答えた。「昨日と同じ恰好をしていました。十六世紀のご先祖様の肖像画を真似た紫の衣装です。スケート靴を手にしていました」 「もちろん剣は腰につけていたんだろうね。君の剣はどこかな、クレイン君?」 「捨てちゃいました」  途端にたとえようもない静寂が訪れ、各々の心に浮かんだ様々な考えは我知らず色鮮やかな映像に変わっていた。  暗灰色とまばらな銀色に彩られた森から見れば明るくきらびやかに見える衣装もすっかり板についていたため、動き回るその姿形はステンドグラスの聖人が歩いているように輝いていた。これといった理由もなく司教や修道僧の恰好を真似ている人間が多かったこともあり、これがよりいっそうの効果をあげていた。だが記憶に残るもっとも鮮烈な振る舞いはといえば、とても修道士的どころではなかったのである。すなわちあの瞬間、緑に輝く人物と鮮やかな紫の人物がしばし剣を交え、銀色の十字架を形作っていた。たとえ冗談にせよ、あれには劇的なところがあった。どんよりとした夜明けの下で、同じ人物が同じ行動を悲劇のように繰り返したかもしれぬというのは、奇妙で不愉快な考えだった。 「君は彼とけんかしたのか?」ブレインが不意にたずねた。 「ええ」緑の男は微動だにせず答えた。「それとも彼が僕とけんかしたというべきでしょうか」 「彼が君とけんかした理由は何かね?」探偵はたずねたが、レナード・クレインは答えなかった。  ホーン・フィッシャーは奇妙なことに、この重大な反対尋問に半ば上の空であった。重たげに閉じたまなざしはボロディノ公の姿をだらだらと追っていたが、公は今では森の端に向かってすたすたと歩き去っており、考え込むように立ち止まってから森の奥深くへと姿を消していた。  フィッシャーが横道から我に返ったのは、覚悟したようにがらりと変えて怒鳴り散らすジュリエット・ブレイの声のせいだった。 「それが問題だというならはっきりさせるのが一番ね。わたしクレインさんと婚約してます。兄に話したら、難色を示された。それで全部です」  ブレインもフィッシャーも少しも驚きを見せなかったが、ブレインの方は穏やかに言葉を継いだ。 「全部、ではないでしょう。クレイン君とお兄さんは森に話し合いをしに行った――そこにクレイン君は置き忘れて来たんだ。剣だけじゃなく話し相手も」 「ちょっといいですか」クレインの青ざめた顔に嘲るような光がよぎった。「僕がやったと思われているのはどっちなんです? 僕が殺人犯だなんていう愉快な命題を採用してみましょう。僕が魔術師だということも証明されなくちゃなりませんよ。不幸なご友人の身体を突き刺したというのなら、その死体をどうしたんですか? 七匹の蜻蛉に運ばせましたか? それとも白い牝鹿に変えるだけで済んじゃったんですか?」 「皮肉を言っている場合ではないぞ」にこりともせずアングロ=インディアンの判事が言った。「人が亡くなったことを冗談にできるとは、君には不利なように思えるがね」  夢見がちなうえにゆるみがちなところさえあるフィッシャーの目は、背後に広がる森の縁に留まっていたが、荒れ模様の日暮れの雲のような赤黒い固まりが、まばらな木々が織りなす灰色の編み目越しに輝いていることに気づいた。枢機卿の法服姿をした公爵が、再び小径に姿を現したのだ。ブレインとしては公爵が消えた剣を探しに行ったらしいことに半ば気づいてはいたが、戻ってきたとき手に持っていたのは、剣ではなく斧だった。  仮装と謎のあいだに横たわるちぐはぐ感のせいで、心理的におかしな空気が生まれていた。第一に感じたことは、明らかになったのが喪を覚悟させる特徴ばかりだというのに、お祭りの馬鹿げた仮装をひっかけているのをひどく恥じる気持であった。たいていの人間ならとっくに部屋に戻って、もっと喪に相応しい恰好かもっと堅い恰好に着替えていたことだろう。だがどういうわけかそのときは、それが初めよりもさらにわざとらしくて軽々しい第二の仮装のように思えたのだ。馬鹿げた衣装にも諦めがついてきたころ、何人かの人間、とりわけクレインやフィッシャーやジュリエットのように感じやすい人間には顕著なことに、いや実際家のクレイン氏を除けば誰もが大なり小なり奇妙な感覚に襲われていたのである。まるで彼ら自身が、薄暗い森や陰気な池に出没し、ほとんど忘れてしまった古い役割を演じている先祖の幽霊そのものであるかのようだった。色鮮やかな彼らの動く姿は、無言の儀式のように、あたかも遙か以前に決められていたもののようにも見えた。振る舞い、態度、外見いずれも、要点はないのにどこから見ても寓話だった。とうに破滅が訪れたことはわかっていたが、それが何なのかはわからなかった。しかし公爵がわびしい木々のあいだに立っているのを見たとき、あらゆる物語が新たな恐ろしい局面を迎えたことを、どういうわけか潜在的に悟ったのである。公爵は荒々しい緋色のガウンに、褐色のしかめっ面、手には新たな死の形を持っていた。理由を述べることはできなかっただろう。だが二つの剣は結局おもちゃの剣になってしまったように感じていたし、あらゆる物語がおもちゃのようにぶちこわされ放り捨てられたように感じていた。ボロディノは深紅をまとい罪人を処刑する斧を携えた、大昔の首切り役人のように見えた。そして罪人とはクレインではなかった。  インド警官のブレイン氏は、新たに出てきたその道具をにらみつけていたが、一、二秒ほどしてから荒々しく、ほとんどかすれるような声を出した。 「そんなものを持って何をしているんです? 木こりの鉈のようですが」 「もっともな連想ですね」とホーン・フィッシャーが言った。「森で猫に出くわせば山猫だと思うものです。たとえ居間のソファから飛び出してきたばかりの猫だったとしても。実を言えば、ひょんなことからわかっているのですが、それは木こりの鉈ではないんですよ。台所用の鉈、いえ肉切り包丁、まあそんなものを、誰かが森に放り投げたわけです。中世の隠者を再現しようと芋袋を拝借した際に、私自身が台所で目にしたんですから」 「どちらにしても、無視はできないな」と言って公爵がフィッシャーに道具を渡すと、フィッシャーは手にとってじっくり調べていた。「肉を切るのに使った肉切り包丁だというのなら」 「犯罪の道具であることは確実ですがね」とフィッシャーはつぶやいた。  ブレインは鈍く青光りする斧の刃を魅了されたように荒々しく見つめていた。 「あんたの言うことはわからんな。何もない――刃には何の跡もないが」 「血は一滴も流れていません。それでも犯罪に使われたんですよ。この斧は、罪を犯したときに罪に至った犯人のようなものです」 「何だって?」 「罪を犯したときには現場にはいなかったんです」とフィッシャーは説明した。「現場にいないと人を殺せないんでは、殺人犯にしてはちょっと惨めですからね」 「ことを謎めかそうとしているだけに聞こえるがな」とブレイン。「役に立つことを知っているんなら、わかりやすく言ってくれ」 「私が教えられることで役に立つようなことは一つしかありません」フィッシャーは思案深げに答えた。「地元の地誌と名の由来について調べてみることです。かつてプライア氏がいて、このあたりに農場を持っていたことがわかるはずです。お亡くなりになったプライア氏の家庭生活の一つ一つが、この恐ろしい事件に光を投げかけてくれることでしょう」 「すると今すぐ役に立ちそうな助言とは、あんたの言う地誌ぐらいなのか」ブレインは馬鹿にしたような口をきいた。「友人の仇討ちに役立つのが?」 「そうですね。|塀の穴《ホール・イン・ザ・ウォール》に関する真相を見つけるつもりです」  その夜、霜が解けたのに続いて荒れ模様の黄昏空もなりを潜め強い西風の吹くなかを、森に囲まれたどこまでも高い塀に沿ってレナード・クレインがぐるぐると気違いじみた様子で歩き回っていた。顔に泥を塗ったうえに既に自由を脅かしている謎を独自に解決しようという絶望的な考えに駆り立てられていたのだ。現在取り調べに当たっている警察当局は彼を逮捕したりしなかった。だが現場から離れようとすれば即刻逮捕されるだろうことは充分にわかっていた。ホーン・フィッシャーが口にした断片的なヒントは、今のところその先の説明を拒んでいたとはいえ、建築家の芸術心をとっぴな分析へといざなっていたし、意味をなすまでは逆さにしてでもどんなことをしてでもこの象形文字を解読しようとクレインは決意したのである。塀の穴と何か関係があるのなら、塀の穴が見つかるだろう。だが現実には、塀にはどんなわずかな割れ目も見あたらなかった。専門家の目からは、この石造りは一つの技術を使って一度の期間で作られたことがわかる。謎解きには何の光も投げかけない通常の入口を除けば、身を潜めるような場所や脱出手段を示唆するような点は何一つ見つからなかった。灰色の羽毛めいた木々が東向きにひどく傾きしなっているのと風吹く塀とに挟まれた細い道を歩きながら、じわじわと消え失せた夕陽の輝きが空を吹き飛ばされた雷雲につれて稲妻のように瞬くとともに、背後でだんだんと力を増してきたばかりの青ざめた淡い月光と混じり合っているのを見て、自分の足が出口の見えない終わりなき垣根をぐるぐると回っているように自分の頭もぐるぐる回っているように感じ始めた。頭の端っこでいろいろ考えていたのは、何もかも隠してしまう穴そのものである四次元についての空想であり、さまざまな場所にある新しい窓から新しい角度であらゆる物事を見ることや、あるいは新しい化学光線のような謎めいた光や透き通ったもののことであり、森や塀の上空に燃え立つ光輪のなかに、恐ろしげに輝いて浮かんでいるバルマーの死体が見えるのではという考えであった。そしてまた、なぜかしら同じようにぞっとさせるような、すべてプライア氏に関係があるのだというあのヒントにも囚われていた。常に丁寧にプライア氏と呼ばれているという事実にしても、こんな恐ろしいことの種を探すため命じられたのが死んだ農場主の家庭生活のことである事実にしても、どことなく気味が悪いようなところさえある。だが結果的には、この地域を調査したもののプライア家のことは何一つ明らかになってはいないとわかったのである。昔風のシルクハットに、おそらく顎髭か頬髯姿のプライア氏を、かすかに思い描いた。だがその想像には顔がなかった。  月明かりが広々と輝き、風が雲を吹き飛ばすにつれてだんだんと弱まってきたころ、家の正面にある人工湖にふたたびたどりついた。どういうわけかどう見ても人工の池にしか見えなかった。事実、風景すべてがヴァトーの筆になる古典的な景色のようだった。月光に青ざめたパラディオ様式のファサード、そして同じく銀色に染められた、池の中央にある大理石製の異教の裸婦《ニンフ》像。だがむしろ驚いたことに、石像のそばで同じように身動きもせずうずくまっている人影が見えた。同じ銀色の絵筆が、ホーン・フィッシャーの皺の寄った額と苦悩する顔をかたどっている。相も変わらず隠者の恰好をしているせいで、隠者のような孤高を実践しているように見えた。それにもかかわらず、彼はレナード・クレインを見上げると、まるで来るのがわかってでもいたように微笑んだ。 「失礼ですが」クレインは目の前に立ちはだかった。「何でもいいのでこの事件のことを話してくれませんか?」 「近いうちにすべてのことを全員に話さなくてはならなくなるでしょうね。とはいえまずあなたに話すことに異存はありませんよ。ですがそれより先に、あなたの方に話すことがあるんじゃありませんか? 今朝バルマーと会ったとき実際に起こったのはどんなことだったんです? あなたは剣を捨ててしまった。バルマーを殺さなかったというのにね」 「剣を捨てたからこそ殺さずに済んだんです。捨てたのもそのためです。そうしていなければ、何が起こっていたかわかりません」  しばらくしてから静かに話を続けた。 「亡くなったバルマー卿はとても気さくな人でした、本当に気さくでした。目下の人間にもとてもよくしてくれていたからこそ、休暇や余暇のあいだじゅう自分の弁護士や建築家を家に泊めてくれたんです。でも彼には別の面もあったんです。目下の人間が同じ立場になろうとしたとき、それは明らかになりました。妹さんと僕が婚約したという話をしたとき、僕には簡単に説明できないししたくもないようなことが起こったんです。まるで何か恐ろしい狂気の発作のようでした。でも真相は痛いほどに単純なことのようです。紳士に潜む野蛮さとはああいうものなのでしょう。しかも人間性のなかで一番恐ろしいものです」 「ええ。チューダー朝のルネサンス貴族はそんなものでした」 「そんなことをおっしゃるとは不思議な暗合ですね。二人で話していると、以前あったのと同じ場面を繰り返しているような奇妙な感覚に襲われたんです。それも、僕が実際にロビン・フッドのように森に潜む無頼者で、彼が羽根飾りと紫の衣装をまとってご先祖の肖像画から実際に抜け出してきたような感覚でした。いずれにしてもあの人は財産家であり、そのうえ神をも恐れず人をも顧みない人間でした。もちろん僕は彼を無視して逃げ出しました。逃げ出さなければおそらく殺してしまっていたことでしょう」 「そうです」とフィッシャーはうなずいた。「彼の先祖は財産家であり、彼は財産家でした。これでこの話もお仕舞いです。すべては収まるところに収まりました」 「何に収まったというんです?」突然耐えられなくなったのか、クレインが叫びだした。「何がなんだかさっぱりです。塀の穴の秘密を探れとおっしゃったのに、塀に穴なんか一つも見つかりませんでしたよ」 「一つもありませんとも。それが秘密の鍵なのです」  少し考え込むようにしてから、フィッシャーは話を続けた。 「それをこの世の塀の穴と呼ぶのなら話は別ですが。聞きたいというのなら申し上げますが、一つ前置きがいるような気がします。現代人の心に巣食う罠について――ほとんどの人間が気づかないまま流されているある傾向について、ご理解いただかねばなりません。 「村外れや郊外には、聖ジョージと竜の看板を掲げた宿屋がありますね。では私が、そんなのはジョージ王と竜騎兵の誤伝に過ぎないと触れて回ったとしましょう。ほとんどの人は、確かめもせずに信じてしまうでしょうね。というのも、散文的であるがゆえにいかにもありそうな話だと感じるからです。空想的で伝説的なものも、わりと新しめのありがちなものに変えてしまうんですよ。しかも、合理的に立証されたわけでもないのになぜかしら合理的に聞こえてしまうんです。もちろん、古いイタリアの絵画やフランスの物語で聖ジョージを見かけたぞと、眉につばつけて思い出す人もいるでしょう。でもほとんどの人たちはそんなことを考えもしませんよ。懐疑的であるがゆえにその懐疑的な物事を鵜呑みにしてしまうというわけです。現代人の頭は権威的なものは何一つ受け入れません。ところが権威的でないものは何でも受け入れてしまうのです。それがまさしくここで起こったことなんですよ。 「一部の批評家か誰かが、プライア・パークというのは修道院《プライアリ》ではなくプライアという名の現代人にちなんで名付けられたのだと主張してみても、誰一人その理屈を確かめることもしませんでした。プライア氏がそこにかつていたのかどうか、かつて見たり聞いたりした人がいなかったのか、その話を繰り返して確かめようとする人が一人もいなかったのです。実際にはそこは修道院であり、多くの修道院と運命を共にしたのです。つまり、羽根飾りをつけたチューダー朝の紳士が、暴力によって奪い取り、自分の私邸にしてしまっただけなんですよ。これからおわかりになるでしょうが、彼はさらに悪いことをしました。ですがここで重要なのは、そこでどのような企みが働いているかということです。しかもその企みは、この物語の別の部分でも同じように働いているのです。この辺りの地名は学者が作った最良の地図にホリンウォルと印刷されていますし、無知で時代遅れの貧困層にはホリウェルと発音されているという事実についてにこりともせずほのめかされていました。ですが間違っているのは綴りの方で、発音の方が正しいんですよ」 「つまりこういうことですか」クレインが急くようにたずねた。「実際に井戸《ウェル》があったと?」 「現に井戸はあります。そして真実はその底に横たわっています」  話しながら手を伸ばし、目の前に広がる一面の湖水の方を指さした。 「井戸は、その水の下のどこかにあります。しかもこの井戸がらみの悲劇は初めてのことではありません。この家の創始者は、悪党仲間たちもめったにしなかったようなことをしたんです。修道院を略奪した混乱のなかでさえ揉み消さなければならなかったようなことをしたんです。その井戸はある聖者にまつわるものでしたが、それを最後まで守り抜いた修道院長はまさしく聖者のようでした。文字通り殉教者のようだったと言えるでしょう。略奪者に抵抗し、この場所を穢せるものなら穢してみろと逆らった結果、激怒した貴族に刺し殺され、井戸に放り込まれたのです。然るに四百年ののち、同じように紫の服をまとい同じように高慢に生きていた略奪者の跡継ぎが、同じ目に遭ったんですよ」 「でもそもそもバルマーが特定の場所に落ちるなんてことが起こりますか?」 「特定の場所の氷が解かされていたというだけですよ。実行した人物だけがそれを知っていました。通常とは違う場所にあった台所包丁で故意に割られ、私自身その打撃音を聞いたのに何の音なのかわかっていなかった。その場所は人の手になる池で覆われていました。それというのも、ありのままの真実が人の手になる伝説で覆われなければならなかった以上は。ですが正確には、その異端貴族たちがおこなったのは、異教の女神によって冒涜することだったのがおわかりになりませんか? ローマ皇帝が聖墳墓の上にヴィーナス神殿を建てたのと同じことです。ですが真実をたどろうと思った学者になら、今も真実をたどることができたんですよ。そしてこの男は、真実をたどろうと決意していました」 「どの男です?」漠然とした答えを胸に、クレインはたずねた。 「アリバイのあるただ一人の男ですよ。ジェイムズ・ハドウ、考古学好きの法律家。不幸の前の晩に立ち去りながら、氷の上に死の黒い星を残していったのです。予定では宿泊するはずだったのに、急に立ち去ったでしょう? 法律のことでバルマーと話し合いをした際に醜い場面を演じていたんじゃないでしょうか。あなたも経験したように、バルマーというのは人に殺意を覚えさせるようなところがありますから。私としてはむしろ弁護士の方に糺されるべき不正があって、それを依頼人から暴露されそうになったんじゃないかと思いますがね。ですが人というのは職業上で不正を働いても、趣味のうえでは不正を働けない、それが人間性なのだと私は思ってます。ハドウは不正直な法律家だったかもしれませんが、考古学者としては正直でいざるを得なかったんです。|聖なる井戸《ホーリー・ウェル》の真相に迫る手がかりを見つけたとき、それをたどらずにはいられなかった。プライア氏や塀の穴に関する新聞コラムに欺かれるつもりはありませんでした。彼はすっかり見つけ出しました。井戸の正確な位置さえも。報われたんです。まんまと人を謀殺できたことを、報われたと言ってよいのであれば」 「どうやってこの埋もれた歴史の手がかりを見つけたんですか?」若き建築家がたずねた。  ホーン・フィッシャーの顔に曇りが兆した。 「すでにあまりにも多くのことを知り過ぎました。そのうえかわいそうなバルマーのことを軽々しく話してしまいました。我々とは違って、とっくにつけを払っているというのにね。こう申し上げてよければ、私が喫っている葉巻も飲んでいるお酒も、直接間接を問わず、聖地を穢したり貧しい者を迫害したりして手に入れているんです。塀の穴、すなわち守りの堅い英国の歴史に断絶を見つけるには、過去を突っつき回す必要はほとんどありません。見せかけの情報と教育の薄い被膜の下に横たわっているんですから。どす黒く血にまみれた井戸が浅い水たまりとつぶれた雑草の底に横たわっているように。ああ、氷は薄い、ですが強い。私たちが修道僧の仮装をしてあの一風変わった中世の恰好で踊ったときも割れないくらい丈夫なんです。仮装するように言われたので、私も自分の趣味と好みに応じて仮装しました。我々の国家と帝国の歴史、繁栄と進歩、商業と植民地、成功と栄光の世紀について、私が少しばかり知っているのはおわかりでしょう。だから私は、仮装しろと言われたときに、あの古くさい衣装を身につけたのです。紳士の立場を受け継ぎつつ、紳士の感情も完全に無くしたわけではない人間に相応しいと思えるのは、身につけたあの衣装だけでした」  もの問いたげな視線に答えて、払うような下ろすような動作をして立ち上がった。 「芋袋(粗布)ですよ。禿げ頭に乗せて落ちずいるのなら、灰もかぶることにしたいのですが」 第七話 一家のお馬鹿(沈黙の神殿)  ハロルド・マーチ、及びホーン・フィッシャーと交友を深めた数少ない人間なら――なかんずく社会的な場面でしかフィッシャーのことを知らない人間であれば、まさにその社交性に宿っているある種の孤独に気づいていた。いつも会うのは親戚ばかりで、家族に会ったことはないような気がしていた。あるいは家族の大部分には会ったのに、家庭には一度もお目にかかったことがないという方がより正確かもしれない。一族親戚はグレート・ブリテンの支配階級に迷路のように広く分岐しており、その大部分と良好な、少なくとも友好的な関係を築いているようだった。何しろホーン・フィッシャーはあらゆる話題に関わる奇妙で人間離れした情報と関心について並々ならぬものがあったため、その教養というのも色味のない金色の口髭や青白くうなだれた顔つき同様、カメレオンのように色に染まる性質なのではと思われることもよくあっただろう。いずれにしても、総督や閣僚や要職に就いている諸々の要人たちとつねに打ち解けた様子で、自分がもっとも関心を持っている分野について自分自身の言葉で一人一人と会話することができた。かかるがゆえに、陸軍相と蚕の話をしたり、文部相と探偵小説の話をしたり、労働相とリモージュ・エマイユの話をしたり、伝道と道徳向上相(というのが正しい肩書きでよければ)とここ四十年のパントマイム劇の子役の話をしたりすることができたのである。一番目の人物がいとこであり、二番目がまたいとこ、三番目が義理の兄弟、四番目がおばの夫である以上、確かにある意味では、このように融通無碍な会話を行うことが幸せな家族を作ることに一役買っていた。だがマーチが彼らの交友を見ていても、中流階級の人間が慣れ親しんでいるような家庭の内部を見ている気がしなかった。而して家庭というものは実際問題、健全で安定した社会でなら友情や愛やその他もろもろの基盤である。果たしてホーン・フィッシャーには父母も兄弟もないのだろうか。  そんなわけだから、フィッシャーに兄がいる、それもずっと栄耀に恵まれ才能豊かだとわかって意外な気がしたが、もっともマーチの見るところそれほど面白そうではない。サー・ヘンリー・ハーランド・フィッシャーは、名前の後ろにアルファベットの半分がくっついており、外務省では外務大臣よりはるかに大きな存在だった。明らかに遺伝であった。というのももう一人アシュトン・フィッシャーという兄弟がいて、インドで総督以上の重要人物となっているらしいのだ。サー・ヘンリー・フィッシャーは弟をどっしりとだがスタイルよくしたようなタイプで、額は同じように禿げていたがはるかにつるつるだった。礼儀正しくはあったがわずかに人を見下すようなところがあり、マーチだけでなくホーン・フィッシャーにまで同じ態度を取っているように思えた。ホーン・フィッシャーには他人《ひと》が考えをまとめる前に感じ取ってしまうようなところがあったので、二人してバークリー・スクエアの大邸宅から出てきたときにも、自分の方からこの話題に触れたのだった。 「もうわかったでしょう?」とフィッシャーは穏やかにたずねた。「わたしは一家の大馬鹿者なんですよ」 「出来のいい一家ということになりますね」ハロルド・マーチは笑みを浮かべた。 「ずいぶんと率直に表現したんです。文学的な訓練にはちょうどいいですから。そうですね、わたしが一家の大馬鹿者だというのは大げさなのかもしれません。せいぜい一家の出来そこないというべきでしょう」 「あなたがことのほか出来そこないだと言われても奇妙な感じがしますけどね。試験科目でいったら何をしそこなったんです?」 「政治ですよ。青二才だったころに議員に立候補して、多くの支持を得て当選しました。大きな声援も受けたし、町中を担がれて回りました。それ以来もちろん、わたしはちょっとした日陰者です」 「『もちろん』というのがよくわかりませんね」マーチが笑いながら答えた。 「その点についてはわかる必要もありませんよ。でもね、ほかの点についてはかなり奇妙で面白いんです。ある意味では探偵小説そのものだったし、わたしが現代政治というものの仕組みの洗礼を浴びたんですから。よければその話をしましょうか」つまり以下に記したのが、かなりわかりやすく書き言葉風に直してはいるが、フィッシャーが語った物語である。  ここ数年サー・ヘンリー・ハーランド・フィッシャーに会う栄誉に与った人間なら誰もが、かつて彼がハリーと呼ばれていたとは信じられないだろう。だが現実に子どもらしかったころはあったのだ。それは子どものころのことであり、生涯を通して輝ける落ち着きぶりも今では重々しい形を取っていたが、かつて明るい形を取っていたころのことである。友人たち曰くば、若いころに若々しかったからこそ年を取っていっそう円熟したのだ。宿敵たち曰くば、おつむの方はいまだに軽いがもはや心が軽やかとは言い難い。だがいずれにしても、ホーン・フィッシャーが話したはずの物語のそもそものことの起こりは、ひょんなことから若きハリー・フィッシャーがソルトン卿の個人秘書に収まったことから始まった。それゆえに外務省との後のつながりというのは、事実上、玉座の陰で糸を引いている偉大な主人からもらう形見分けのようなものであった。ここはソルトンについて多くを費やす場所ではない。彼について知られていることほど少なくはなく、知るべき価値ほどには多くないにしても。イングランドにはこうした表立たない政治家が三、四人はいたのである。貴族的な政治形態というものはときに、事故ですらあるような貴族を生み出すことがある。知性あふれる独立心と洞察力を持つ、生まれながらの帝王ナポレオンのような貴族である。膨大な仕事の大部分は目に触れず、私生活でお目にかかれるのもせいぜいが堅苦しくてシニカルなユーモア感覚に過ぎなかった。だが確かにフィッシャー家の夕食の席に彼がいるというのは事件であったし、その口から予期せぬ発言が飛び出したことから、テーブル・ジョークだと思われるようなものも、ささやかな扇情的小説めいたものに変わってしまったのである。  ソルトン卿を別にすれば、これはフィッシャー家の団欒だった。というのも、特筆すべきもう一人の客人は夕食を終えると、コーヒーと葉巻で一服する面々を残して立ち去っていたからだ。これがなかなか面白い人物であった。エリック・ヒューズという名のケンブリッジ出の若者は、フィッシャー家が友人のソルトンとともに少なくとも形式上は長年所属していた革新党の期待の星だった。ヒューズの人柄というのは、食事のあいだじゅう雄弁かつ熱心に話をしていたくせに約束があるからとその後すぐに立ち去ったという事実にほぼ集約されていた。やることなすことがすなわち野心と誠実さの表われだった。ワインを一滴も飲まなかったが、言葉にほんのり酔っていた。また、彼の顔と言葉はちょうどそのころあらゆる新聞の一面に載っていた。というのも西地区の重大な補欠選挙でフランシス・ヴァーナー卿の無風選挙区をめぐって争っていたからだ。このあいだ披露されたばかりの、地主階級に反対する力強い演説の話で誰もが盛り上がっていた。フィッシャー家の集いでさえ、隅に座って暖炉に当たっているホーン・フィッシャー自身を除けば、この話題で持ちきりだった。青年期も初期のころには、後には気怠げになった態度もむしろ不機嫌そうな様子だった。ぶらぶらと歩きまわっておかしなテーマのおかしな本をぱらぱらと流し読みした。政治がらみの家族とは正反対に、彼の将来には派手なところもなく見通しも立たなかった。 「あいつには感謝しなくちゃならん。老いた政党に瑞々しい魂を注ぎ込んでるんだ」とアシュトン・フィッシャーが話をしていた。「旧来の郷士たちに対する批判運動が、この地方に根づいている民主主義の水準だな。議会の権限を強化しようとする今回の法令は、あいつの法案も同然だよ。要するに国会に行きもしないのにとっくに政府の一員というべきかな」 「そんなに難しいことじゃない」とハリーは言い捨てた。「あの辺りでは郷士の方が議会よりも力があるはずだ。ヴァーナーがしっかり根を張っているからな。ああいった田舎ならどこでも、お前に言わせると反動的ということになる。馬鹿な貴族たちはそれを変えようとしない」 「あいつはずいぶんと貴族を馬鹿にしているがね。バーキントンの会議はこっちよりも進んでいて、だいたいは合法的に運ぶんだ。『フランシス卿は由緒正しい青い血を誇りにしているのかもしれないが、われわれには赤い血が流れていることを見せてやろう』とぶってから、人間と自由についての話を続けたら、議会はただ大喝采あるのみさ」 「口が達者だ」ソルトン卿がぼそりと言った。そそれがこれまでの会話で果たした唯一の言葉だった。  すると同じように静かだったホーン・フィッシャーも、暖炉から目を離さずに話し出した。 「どうにもわかりかねます。なぜ人は真の理由で批判されないんでしょうね」 「おーい!」ハリーがおどけたように言った。「ようやく気がついたか?」 「たとえばヴァーナーですよ。ヴァーナーを攻撃したいのなら、攻撃しないのはなぜですか? 絵に描いたように保守的な貴族だと褒めるのはなぜなんです? ヴァーナーって誰でしょう? 生まれはどこでしょうか? 名前こそ由緒がありそうですが、私はこれまで聞いたことがありませんでした、磔刑の話をされた男のように。青い血を話に出すのはなぜですか? わかっていないだけで、黄色くて緑の染みがあるかもしれないのに。わかっているのは、郷士のホーカーがどういうわけかお金を使いはたしてしまい(たしか二番目の奥さんのお金ですよ、ずいぶんと裕福でしたから)、ヴァーナーという名の男に地所を売ったということです。ヴァーナーは何からお金を作ったのでしょう? 石油? 軍との契約?」 「知らんな」ソルトンは考え込むようにフィッシャーを見つめた。 「あなたに知らないことがあるとは知らなかった」ハリーが興奮して声をあげた。 「ほかにもあります」いきなり舌でも生えたように、ホーン・フィーッシャーが話し続けた。「地元の住民に投票してもらいたいなら、どうして地元のことを考えている人を擁立しないんでしょうか? スレッドニードル街の住民とは、蕪や豚小屋の話などしないでしょう。サマセットの住民に対して、よりにもよってなぜスラム街と社会主義の話を? どうして郷士の土地を郷士の小作人に与えずに、議会に引っ張り込むんですか?」 「三エーカーと牛一頭か」ハリーは議事録が皮肉な声援と呼んでいるものを発した。 「そうですよ」弟は譲らなかった。「農民たちにしてみたら、三エーカー分の紙切れと委員一人よりも、三エーカーの土地と牛一頭を持ちたいはずだとは思わないんですか? 農民政治党を立ち上げて、小地主制の伝統に訴える人がいないのはなぜなんでしょう。ヴァーナーのような人たちを、そういう人たちだからと言って攻撃しないのはなぜなんでしょう、アメリカの石油トラストと同じくらい古いことだというのに」 「おまえは自分で農民党を率いた方がいいな」ハリーが笑った。「何かの冗談だと思いませんか、ソルトン卿? リンカーン・ハットとベネット帽の代わりにリンカーン・グリーンに身を包み、はもと鎌を持って、サマセットを行進する弟と供の者たちを見るとは」 「いいや」老ソルトンが答えた。「冗談には思えんな。非常に真面目で賢明な考えに思える」 「これは驚きました」ハリー・フィッシャーが声をあげてソルトン卿を見つめた。「ついさっき、あなたが知らない初の事実と言ったばかりですが、これはあなたが解さない初の冗談だと言うべきでしょうか」 「これまでにいくつものことを理解してきた」老人は不機嫌に答えた。「これまでにいくつもの嘘もついてきたし、あるいはそのことにうんざりしていた。だがつまるところは嘘また嘘だ。紳士たちが子どものように嘘をついていた。協力し合い、時にはともに助け合うためという名目で。だが自分たちを助けるだけのああした世界主義者めらのために我々が嘘をつくべき理由なぞ、理解できてたまるものか。我々をそれ以上は支援しようともせず、ただ圧力をかけるだけのくせに。君の弟のような人間が議会に行きたいというのなら、農民としてであろうと紳士としてであろろうと、ジャコバイトであろうとブリテン人であろうと、喜ばしいことだと思うね」  ホーン・フィッシャーが跳ね起きると、はっとするような沈黙が訪れた。物憂げな態度は消えていた。 「明日には用意を始めます。きっと誰も支援してくれないでしょうね?」  このとき、ハリー・フィッシャーの激しさがいい方に転がった。彼はいきなり握手でもしそうな動きを見せた。 「そうでなくてはな。ほかの人間が支援しなくとも、俺はする。いや、我々は全面的に支援できるとも、違うか? ソルトン卿がおっしゃりたいことはわかりますよ、もちろんその通りです。いつだってその通りなんです」 「だからわたしはサマセットに行くんです」ホーン・フィッシャーが言った。 「ああ、ウェストミンスターへの通過点だ」ソルトン卿が笑った。  かくして、ひょんなことからホーン・フィッシャーは数日後、西部地方のひなびた市場町の駅にたどり着いた。小さなスーツケースと力いっぱいの兄も一緒だ。しかしながら、兄の機嫌のよい理由が冷やかしばかりだと思ってはならない。新人候補を支援する気持には、お祭り気分だけではなく期待もあった。騒々しい協力の裏には、高まりゆく共感と激励の思いがあったのである。ハリー・フィッシャーは常日ごろから自分よりも寡黙で変わり者の弟に愛情を抱いていたし、今となっては敬愛の念も高まるばかりだった。遊説が進むにしたがい、敬愛は熱烈な称賛へとふくらんだ。なにぶんハリーはまだ若かった。学生がクリケットの主将《キャプテン》に熱い気持を感じるように、選挙運動の|リーダー《キャプテン》に熱いものを感じていたのだろう。  称賛も不当なものではない。新たに三つどもえの選挙戦が進むにつれ、ホーン・フィッシャーには今まで目に見えていたもの以上のものがあることが、熱烈な兄以外の人間にも明らかになってきた。団欒の場で爆発したのは、問題を温めたり熟慮したりした長い行程の発露点に過ぎなかった。自分のことはおろか他人のことをも熟慮するために生涯維持した才能を、新富裕層に対抗する新小作農を支援しようというこの計画に長いあいだ充ててきていたのである。群衆には力強く語りかけ、一人一人にはにこやかに答えた。二つの政治技術はごく自然に身についたようだ。地方の問題については、改革派候補のヒューズや護憲派候補ヴァーナーよりも明らかに詳しかった。そこで気になってそうした問題を調べつくし、二人とも夢にも思わないようなやり方で水面下に潜りこんだ。やがてこれまで大衆紙にも見られなかったような、大衆の思いの代弁者となった。知識階級の代弁者からは口にされたことのないような新しい切り口の批評や主張、地元のパブで酔っ払った男たちがお国言葉で話したことしかなかったような議論や考察、父親たちが自由だった遠い昔から手まね口まねで受け継がれてきた半ば忘れられた技術――こうしたことが好奇心に駆られた何倍もの興奮を引き起こした。  聞いたこともないような斬新で突拍子もないことを考えて、識者たちを驚かせた。復活したのを見るとは思わなかったような古臭くてよくあることを考えて、愚者たちを驚かせた。人々はそこに新しい光を見たが、夕日なのか朝日なのかすらわからなかった。  実際に愚痴を聞いてみると、方針が難しくなりそうだった。フィッシャーがあちこちの邸宅や宿屋を訪ねると、フランシス・ヴァーナー卿がひどい地主であるということは苦もなく確信できた。土地を手に入れた物語は、思ったほど苔の生えた話でもたいそうな話でもなかった。当地では有名な話だったし、多くの点ではっきりしていた。旧地主のホーカーは、だらしがなく、満足できるような人間ではなかった。最初の妻とは仲が悪かった(見捨てられて死んだそうだ)。その後、気性の荒い財産持ちの南米ユダヤ人女性と再婚した。だがあっさりとしたうえに驚くほどのスピードでこの財産を使い果たしてしまったに違いない。なにしろヴァーナーに土地を売らざるを得ず、おそらく妻の遺した南米に越していったのだから。だがフィッシャーの見るところでは、旧地主のだらしなさは新地主の効率のよさほど憎まれてはいなかった。ヴァーナーの歴史は、他人のお金と機嫌を損ねておくような、抜け目のない取引と財力の投資でいっぱいだった。だがいくらヴァーナーの話を聞いても、絶えず網をすり抜けてゆくことがあった。そのことについては誰も知らなかった。ソルトンですら知らなかった。そもそもヴァーナーはどうやってお金を作ったのか、その答えが出せなかった。 「念入りに隠してきたに違いない」ホーン・フィッシャーは独り言ちた。「不名誉なことなのだ。近頃の人間が不名誉に感じるようなこととは何だろう?」  さまざまな可能性を考えれば考えるほど、そうした可能性は心のなかでますますどす黒く歪んできた。よそ国の不快で奇怪な苦役や魔術のことを漠然と考え、さらには輪をかけて異常だがもっと身近な不快事を考えた。ヴァーナーの姿が想像のなかで黒々と姿を変え、移ろう風景と見慣れぬ空を背にして挑んでいるように思えた。  こんなことを考えながら村の通りをすたすたと歩いていると、革新党の対立候補の顔に、正反対のものを見出したのである。エリック・ヒューズは金髪を風になびかせ熱意に燃えた学生のような顔をして、自動車に乗り込み、選挙責任者に一言二言かけ終えたところだった。体格のいい白髪混じりのグライスというスタッフだ。エリック・ヒューズは親しげに手を振ったが、グライスは敵意のこもった目を向けた。エリック・ヒューズは混じり気なしに政治に燃えている若者だったが、政敵とはどんなときでももてなさなくてはならない人間だということは理解していた。だがグライス氏は筋金入りの地方急進派であり、教会堂の擁護者であり、趣味を仕事にしている幸運なタイプの人間であった。グライス氏は自動車が走り去ると向きを変え、日の燦々と照る村の大通りを口笛を吹きつつポケットから政治新聞をのぞかせててくてくと歩いていった。  フィッシャーはその意思の固そうな背中をもの思わしげにしばらく見送っていたが、やがて魔が差したようにあとを尾け始めた。せわしない市場を通り抜け、定期市の籠と手押し車がひしめいているなかを、『グリーン・ドラゴン』の看板の下を、薄暗い勝手口の上を、アーケードの下を、そして曲がりくねってごちゃごちゃした石畳の通りを抜けて、二人は縫うように歩いた。前を歩くがっしりした人物は堂々と、太陽の影のように後ろを追いかける猫背の人物はだらだらと歩いていた。ついに二人は赤煉瓦造りの家にたどり着いた。真鍮の表札にはグライス氏の名前がある。するとまさにその当人が振り向き、尾行者にまじまじと目を凝らした。 「少しお話ししてもかまいませんか?」ホーン・フィッシャーは鄭重に声をかけた。選挙責任者はさらに目を凝らしたものの礼儀正しく同意し、フィッシャーを事務所に招じ入れた。書類が散らばり、そこいらじゅうが大仰なポスターで飾られている。ポスター上ではヒューズの名前が人類のさらなる利益と結びつけられていた。 「ホーン・フィッシャーさんですね」グライス氏が言った。「お立ち寄りいただき光栄です。参戦を喜ぶふりはできませんが。そちらもそんな期待はしてないでしょう。われわれは自由と改革のために古い旗を振り続けてきました。そこにあなたは参入し、戦いの火蓋を切ったんですからね」  何しろイライジャ・グライス氏は、軍隊的な言葉遣いにも、軍国主義を非難するのにも秀でていた。えらの張った無愛想な顔には、喧嘩っ早そうに眉毛がぴんと逆立っていた。小さなころから地元の政治にどっぷりと浸けられていた。誰の秘密でも知らぬことはなかった。選挙運動が彼の生涯の物語だった。 「野心に駆られているとお思いでしょうね」ホーン・フィッシャーがいつもの気怠そうな声を出した。「独裁政権のようなものを目指していると。そうですね、ただの利己的な野心ではないのだと、身の証を立てることはできると思います。しかるべきことが実現されるなら私はそれでいいんです。この手で実行したいわけじゃありません。何かをやりたい気持になることなんてめったにありません。私たちの望みが同じものなのだと納得させてもらえれば、喜んで身を引くつもりです。ここにはそれを言いに来たんです」  改革党の選挙責任者人は、おかしな表情を浮かべて戸惑い気味に見つめていたが、口を開くより先に、フィッシャーが声の調子をまったく変えずに話を続けた。 「信じられないでしょうが、私はしばらく良心を仕舞い込んでいます。それで迷っていることがあるんです。たとえば、私たちは共にヴァーナーを議会から追い出そうとしている。だけどどんな手を打つつもりでしょうか? よくない噂をたくさん耳にしましたが、ただの噂にしたがってもいいものでしょうか? あなたに対して公正であるように、ヴァーナーにも公正でありたいんです。耳にした話が事実であれば、議会からもロンドン中のクラブからも追放されるべきでしょう。でも事実ではなかったなら、追放したくはありません」  そのときグライス氏の目に戦いの火が灯った。過激とはいかぬまでも、おしゃべりになり始めた。いずれにせよグライスは、その話が真実であることを疑ってはいなかった。真実だという確信を証明することもできただろう。ヴァーナーは厳しいだけでなく卑劣な地主であり、ぼったくりであると同時に泥棒だった。追放に反対する者などあるまい。掏摸まがいの手口でウィルキンズ老から自由保有権を騙し取っていた。ビドルばあさんを救貧院にぶち込んでいた。密猟者の背高《ロング》を相手に法をねじ曲げたときには、判事という判事が彼のことを面目なく感じたほどだった。 「すると古い旗印のもとで働いて」グライス氏はさらに生き生きとして結論づけた。「そんな悪徳暴君を追い出すことになったとしても、決して後悔はしないのでしょうね」 「真実なのだとしたら、お話ししてくれるつもりなのではありませんか?」 「何だと? 真実を話せといいたいのか?」グライスが問いつめた。 「私が申し上げたかったのはつまり、たった今お話しされたように、真実をお話しするおつもりなのでしょうということです」フィッシャーが答えた。「ウィルキンズ老におこなった不正でこの町を埋め尽くすおつもりですね。ビドル夫人がひどい目に遭ったエピソードで新聞を飾り尽くすおつもりですよね。公の檀上からヴァーナーを告発し、何の目的で密猟者にあんなことをしたのかを糾弾するおつもりのはずです。どんな商売をして土地を買ったお金を作ったのか、探し出すおつもりでしょう。真実を知ったあかつきにはもちろん、私が言ったように、それをお話しするおつもりのはずです。そういう条件でしたら、あなたがおっしゃったように、私は古い旗印の下にやって来て、小さな三角旗を引き降ろしますとも」  選挙責任者は何とも言いかねる顔でフィッシャーを見つめていた。いらだってはいるが完全な否定とも言い切れない。 「いいかな」とゆっくりと話しかけた。「普通のやり方でことを進めなければ、人には理解してもらえませんよ。経験から言わせてもらえば、残念だがあなたのやり方では無理だ。普通のやり方で地主を批判したのならみんなも理解してくれるでしょう。だが今おっしゃったような非難の仕方では公正だとは思ってもらえない。ベルトの下を打つように卑怯な手だと見なされる」 「きっとウィルキンズ老はベルトを持っていませんけどね」ホーン・フィッシャーが答えた。「いずれにしてもヴァーナーには彼を打つことができるし、取りなす者などいないのでしょう。確かにベルトを所有するのは意味のあることです。でも所有するにはそれなりの社会的地位にいなくてはならないようですね。ことによると――」と考え込んで、「『|ベルト《正装した》伯爵』という熟語はそういう意味なのでしょうか、いつも度忘れしてしまうんですよ」 「そういう非難《パーソナリティズ》がいかんと言っているんだ」グライスはテーブルをにらみつけていた。 「ビドルおばさんも密猟者のロング・アダムも、名士《パーソナリティ》ではありませんが」とフィッシャーが言う。「ヴァーナーがどうやってお金を作ったのかたずねてはいけないようですね――彼が名士《パーソナリティ》になれたのはその金のおかげだというのに」  グライスは眉を寄せたままフィッシャーを見つめていたが、目には不思議な光が輝いていた。結局グライスはさっきまでとは違う穏やかな声を出した。 「いいかな。君のことは気に入っている、そう言って気を悪くしないでくれるならね。心から住民の側に立っているのだと思っている。間違いなく勇者だ。君は自覚している以上に勇敢なんだ、おそらくはね。君の申し出には敢えて触れずにおこう。古い党内で君を必要としているものから離れて、むしろ一人で挑んでくれないだろうか。それでも君のことは気に入っているし、勇気にも敬意を払っているから、たもとを分かつ前にいいことを教えよう。見当違いなことに時間を浪費してほしくないからね。新地主がどうやって資金を手に入れたか、それに旧地主の没落のことなんかを話していただろう。そうだな、一つヒントをあげよう。一握りの人間しか知らない貴重なことに関する手がかりヒントだ」 「感謝いたします」フィッシャーは仰々しく言った。「どんなことでしょうか?」 「二つの文章だ。新地主は買ったとき一文無しだった。前地主は売ったとき裕福だった」  出し抜けに背を向けて机上の書類仕事に取りかかったグライスを、フィッシャーは考え込みながら見つめていた。それから感謝といとまの言葉をぽつりと洩らすと、なおも考え込んだまま通りに出た。  熟慮の末に結論にいたったようだ。不意に足取りを速めると、町から出て道なりに大庭園の門前にたどり着いていた。フランシス・ヴァーナーの邸宅だ。日差しに照らされて初冬というより晩秋にも似て、くすんだ森も日暮れの残光のような紅や黄金の葉に染められていた。道路のずっと上の方から見ているときには、長々とした伝統的なファサードについている窓がすぐ下にあるようにも思えたのだが、邸の壁際まで降りてみると、背後にそびえ立つ木々に覆われて、番小屋の門までぐるりと半マイルはあることに気がついた。それでも小径に沿ってしばらく歩くと、壁が壊れて修理中の場所にたどり着いた。灰色の石造りに空いた大きな穴が、初めは洞窟のように真っ暗に見えたが、改めて見てみれば木々がちらちらと光る薄明かりが見えるだけだった。不意に現れたその門には、おとぎ話の始まりのような魅力があった。  ホーン・フィッシャーにはどこか貴族的な、いやむしろ無政府主義者的なところがあった。いかにもこの人らしいのが、この暗くひょんな入口をくぐるのに自宅の玄関をくぐるように気軽に、せいぜい家までの近道ではなかろうかと考えたところである。薄暗い木立のなかをしばらく難儀して進むと、木々の向こうから一定の光が銀の束となってきらめき出した。初めはそれがわからなかった。次の瞬間には日差しのなかに飛び込んでいた。そこは切り立った土手のてっぺんであり、大きな鑑賞池のへりを取り囲んでいる小径の底であった。木立ち越しにきらめくのが見えていた水面はかなりの広さがあったものの、周りを取り囲んでいる木立は暗いだけではなく見るからに陰気だった。小径の端には名もないニンフの古典様式の像があり、反対端は古典様式の二つの壺に挟まれている。だが大理石は風雨にさらされ緑と灰色の筋ができていた。それと比べれば些細ではあるがより意味深ないくつもの形跡から見るところでは、手入れもされず人跡まれな土地の片隅にやって来たのだ。池の中央には島らしきものがあり、島には古典様式の神殿とおぼしきものがあったが、風神殿《テンプル・オブ・ザ・ウィンド》のように吹きさらしではなく、ドリス式の支柱のあいだには白い壁があった。あるいは島のように見えただけと言うべきで、よくよく見れば、平石を敷いた申し訳なさげな土手道が池べりから続いているため、島ではなく半島になっている。そしてもちろん、神殿のように見えただけだ。というのもホーン・フィッシャーには誰よりもよくわかったが、その聖堂にはいかなる神も祀られたことはなかったのだ。 「そのせいで、この古典的な風景全体が荒涼としているんだな」とつぶやいた。「ストーンヘンジやピラミッドよりも荒涼としているじゃないか。われわれはエジプト神話を信じていないが、エジプト人たちは違った。それにドルイドだってドルイド教を信じていただろう。だがこうした神殿を建てた十八世紀の紳士たちは、われわれと同じくヴィーナスもマーキュリーも信じてはいなかった。そういうわけだから池に映っている青い柱も、文字通りの影でしかない。理性の時代の人間たちなのだ。石のニンフで庭を埋め尽くしながらも、どの時代の人間と比べても森で実際にニンフに出会うことなど期待していなかった」  不意に雷鳴のような鋭い音が独白をさえぎり、陰鬱な池の周りを寂しげにこだました。音の正体はすぐにわかった。誰かが銃を撃ったのだ。だがその銃声が何を意味するのかはすぐにはわからず、怪しげな考えがいくつも頭に押し寄せた。間もなく笑い出したのは、眼下の小径沿いの脇道に撃たれた鳥の死骸が落ちているのが見えたからだ。  しかし同時に見つけたあるものにいっそう好奇心を覚えていた。密集した木立が島の神殿を輪になって囲み、どんよりした葉群が神殿の正面を縁取っていたが、葉のなかで何かが動いたように揺れたことは誓ってもいい。すぐに疑問は確かめられ、薄汚れた人物が神殿の影の下から姿を現し、小径沿いに土手に向って動き出した。遠目にも背が高くて目立っており、腕に銃を抱えているのが見えた。すぐに記憶がよみがえってきた。名前はロング・アダム、密猟者だ。  時と場合によってはフィッシャーは素早く情勢を判断し、土手から飛び出して池に沿って小さな石橋の手前まで駆け寄った。男が先に本土にたどり着いてしまえば、森の中へ姿を消すのは簡単なことだっただろう。だがフィッシャーが石橋を進み始めたので、男は行き場をなくしてしまい、神殿の方に戻るしかなかった。神殿に広い背を押しつけて、追いつめられたように立っていた。かなり若く、小じわのあるほっそりした顔にほっそりした身体つき、ぼさぼさの赤毛のかたまりが載っかっている。池の真ん中の島に二人だけで取り残されるのは御免こうむりたいと人に思わせるような目つきをしていた。 「おはようございます」ホーン・フィッシャーが愛想よく挨拶した。「初めは人殺しかと思いました。だけどヤマウズラがあいだに割って入って、恋愛小説のヒロインのように私への愛に死ぬようなことはなさそうですからね、つまりあなたは密猟者でしょう?」 「そう言われると思ってたよ」かかしじみた人間からこんな声が出てくるとは驚きだった。激しい環境のなかで自分のものを守るために戦ってきた人間のような、厳しく気難しげな声だった。「おれにはここで狩りをする正真正銘の権利があるんだ。けどあんたみたいな人に泥棒扱いされるのはよくわかってるよ。牢屋に入れるつもりだろうね」 「それにはいくつか基本的な問題があります。まずは、勘違いされて光栄ですが、私は一介の番人ですらありません。ましてや三人の判定人ではありませんからね、そうでなければきっとあなたのウェイトのことでそうしかねませんが。でも実は牢屋に入れたくないのには違ったわけがあるんです」 「どんなわけかな?」 「全面的にあなたと同意見だというだけです。人のものを侵害する権利があるとは言いかねますが、人のものを盗むことほど悪いとはどうしても思えませんから。財産についての通念には反しますが、自分の庭を通過するのであれば自分のものではないでしょうか。だったら風も自分のものかもしれないし、朝雲に名前が書けると考えても不思議はありません。第一、貧乏人に財産のことを尊重させたいなら、尊重すべき財産を持たせなければ話になりません。あなたは自分の土地を持つべきだし、あげられるものなら差しあげるつもりですよ」 「土地をくれるつもりだって!」ロング・アダムが繰り返した。 「まるで公民集会を相手にしているような口ぶりなのはお詫びしますが、でも私はまったく新しいタイプの公人なんです、つまり公的な発言にも私的な発言にもぶれはありません。津々浦々、星の数ほどの大集会でこの話をしてきましたし、このわびしい池の風変りな小島でこうしてあなたにお話ししているんです。こうした大きな土地はみんなのために、密猟者のためにさえも、小さな土地に分割するつもりです。アイルランドがされたようなことをイギリスでやろうと思っているんですよ。大物を買収できればよし、それが駄目でも追放を。あなたのような人は小さな土地を持つべきなんです。雉を飼えるようにんるとは言いませんが、鶏くらいなら」  男は不意に身をこわばらせ、まるで約束ではなく脅しを受けたかのように、顔を真っ赤にして青ざめたように見えた。 「鶏だって!」繰り返す声には蔑みがあふれていた。 「何がいけないんでしょうか?」フィッシャー候補は落ち着いていた。「雌鳥を飼うのは密猟者には刺激が足りませんか? |卵を盗む《ポーチド・エッグ》なんていかがです?」 「俺は密猟者じゃないからだ」アダムが声を嗄らして叫ぶと、がらんどうの聖堂や壺のなかで、銃声の残響のように響き渡った。「あそこに落ちているヤマウズラは、俺のヤマウズラだからだ。あんたが立ってる土地は俺の土地だからだ。俺自身の土地があくどい手で奪われただけだからだ、それも密猟よりたちの悪い手で。ここは何百年ものあいだ一つの土地だったんだ。あんたらお節介ないかさま師がやって来てケーキみたいに切り分ける話をするなら、あんたがこれ以上一言でも口を利いたり平等化なんていう嘘っぱちを……」 「どうやら荒れ模様の公民集会のようですが」ホーン・フィッシャーが言った。「続けて下さい。この土地をしかるべき人たちにしかるべく分けようとしたら、どうなるのでしょうか?」  険しいほどの落ち着きを取り戻していた密猟者は答えた。 「あいだに飛び込むヤマウズラはいないだろうね」  そうして背中を向け、もう一言も口を利くものかという態度で、神殿を通り過ぎて島の向こう端まで歩いていき、水に目を凝らして立ちつくしていた。フィッシャーもついていったものの、質問を繰り返しても答えがないので、縁の方に戻って来た。その際に神殿もどきをもっと近くでもう一度見て、奇妙なことに気づいた。こうした芝居じみたものはたいてい、芝居の舞台装置のように薄っぺらいものだろうから、この古典的神殿も底の浅いただの外枠か仮面だろうと予想していた。ところが裏側にもしっかりとした厚みがあって木々に埋もれており、木々は見たところ石の蛇のように灰色に曲がりくねり、葉に覆われた塔を空高々とそびえさせていた。しかしフィッシャーが目を引かれたのは、その灰白色の石の塊のなかに、一枚のドアがあり、錆びた大きな閂が外側についていることだった。だが閂は防犯のために掛けられたりはしていなかった。それからこの小さな建物の周りを歩いた結果、壁の高いところにある換気扇らしき小さな格子以外には開口部がないことがわかった。  考え込みながら土手道を通って池の縁まで戻ると、彫刻の施された二つの陰鬱な壺のあいだの石段に座り込んだ。それから煙草に火をつけ物思いに耽るように煙をふかした。そのうち手帳を取り出して何やらいろいろと書きつけ、番号をつけたりつけ直したりしたあとでようやく次の通りに並べ終えた。 (1)地主のホーカーは最初の妻を嫌った。 (2)ホーカーは財産目当てで二番目の妻と結婚した。 (3)ロング・アダムは、地所は本来自分のものだと主張。 (4)ロング・アダムは監獄のような島の神殿付近をうろついている。 (5)地主のホーカーは地所を手放したとき貧乏ではなかった。 (6)ヴァーナーは地所を手に入れたとき貧乏だった。  メモを見つめているうちに、険しい顔つきも堅い笑みに変わり、煙草を捨ててふたたび屋敷への近道を探し始めた。小径はすぐに見つかり、刈り込まれた生け垣と花壇のあいだを幾度も曲がると、広々としたパラディオ式ファサードの正面にたどり着いた。よくある外観ではあるが、私邸というよりは公邸か何かが田舎送りにさせられたようでもある。  初めに執事に出くわしたが、建物よりも遙かに年経て見えた。何せ建築物はジョージ朝時代のものだが、不自然極まる茶色いかつらをかぶった男の顔には、何世紀を経たのかと思うようなしわが刻まれている。ただ目だけが警告するように油断なく生気を放っていた。フィッシャーは執事に目をやってから、立ち止まってこう言った。 「失礼ですが、前地主のホーカーさんに雇われていたのではありませんか?」 「はい」としかつめらしい答えが返ってきた。「アッシャーと申します。どのようなご用件でしょうか?」 「フランシス・ヴァーナー卿のところに連れて行っていただけますか」  フランシス・ヴァーナー卿はタペストリーの掛かった大きな部屋で、小さなテーブル脇のアームチェアに座っていた。テーブルの上にある小さな酒壜《フラスコ》とグラスにはリキュールが緑にきらめいており、ほかにはブラックコーヒーの入ったカップがあった。落ち着いたグレイのスーツに、それなりに映えるような紫色のネクタイをしていた。だが金色の口髭の跳ね方や、なでつけられた髪の状態に、フィッシャーは何事かを感じた。不意に天啓が降りてきた。この人の名前はフランツ・ヴァーナーだったのだ。 「ホーン・フィッシャー君だね。座りたまえ」 「結構です。友好的な話し合いにはなりそうもないですし、このまま立っていることにします。おそらくご存じでしょうが、すでに立ち上がっているわけですし――正確には議会のために立ち上がっているのですが」 「我々が政敵なのはわかっている」ヴァーナーが眉を上げた。「だが正々堂々とイギリス流のフェアプレイ精神に則って戦うならそれに越したことはあるまい」 「越したことはありませんね」フィッシャーも同意した。「あなたがイギリス人であるならそれに越したことはありませんし、これまでにフェアプレイをされてきたのであれば、何にも増して越したことはありません。ですが私の用件はすぐに済むことですから。ホーカーの件を法的にどうすればいいのかはよくわかりませんが、あなたのような人にイギリスが完全に統治されるのを防ぐことが私の一番の目的なんです。ですから、法が何と言ったところで、今すぐ選挙から降りてくれればもう何も言うつもりはありません」 「完全に気違いだ」 「精神状態は若干ずれているかもしれません」ホーン・フィッシャーはぼんやりと答えた。「夢見がち、とりわけ白昼夢を見がちですから。現に起こっている出来事が、以前に起こった出来事であるかのように二重写しに鮮やかになることがあるんです。これは以前に遭った出来事だ、そんな謎めいた感覚に陥ったことはありませんか?」 「無害な気違いならいいのだが」  だがフィッシャーはなおもぼんやりとしたまま、壁のタペストリーに織り込まれた金色の巨大な図案や赤や茶の文様を見つめていた。やがてヴァーナーに目を戻して話を続けた。 「今回の会見は以前に起こったことだと――それもここ、タペストリーの掛かったこの部屋で起こったことだと感じるんです。そして私たち二人は幽霊屋敷に帰ってきた幽霊というわけです。だけど、あなたが座っている場所にいたのはホーカーさんで、私の立っている場所にいたのはあなたでした」  いったん言葉を切ってから、素っ気なくつけ加えた。 「私も脅迫者のような気がしています」 「だとすれば間違いなく刑務所行きだな」  しかしその顔には、テーブルの上できらめく緑のワインが反射したかのように、陰りが見えた。ホーン・フィッシャーはヴァーナーを見据えて、興奮したりもせず返答した。 「脅迫者がつねに刑務所に行くとはかぎりません。ときには国会に行くこともある。ですが、国会がとっくに腐敗し切っているとはいえ、できることならあなたは行くべきではないんです。あなたが関わっていた悪事と比べれば、私のしていることはたいしたことではないでしょう? あなたは一人の地主に領主の椅子をあきらめさせたんです。私があなたにお願いするのは、議員の椅子をあきらめていただきたいということだけです」  フランシス・ヴァーナー卿は急いで立ち上がり、古風なカーテンの掛かった部屋にあるベルの紐を探して見回した。 「アッシャーはどこだ?」顔には憤怒の色が浮かんでいた。 「アッシャーとは誰ですか?」フィッシャーが穏やかにたずねた。「アッシャーはどれだけ真実を知っているんでしょうね」  ヴァーナーの手がベルの紐から下ろされ、しばらく立ったまま目をぐりぐりと回したあとで、不意に部屋からずかずかと立ち去った。フィッシャーは入ってきたのとは別のドアから部屋を出ると、アッシャーの姿を目にせず、外に出て町の方に戻っていった。  その夜フィッシャーは懐中電灯をポケットに、不完全な理論の輪を完成させるために暗闇のなかを一人で出かけた。まだわからないことがたくさんあったが、どこを探せばいいのかはわかっているつもりだった。夜は暗く激しさを増し、塀の黒い割れ目がますます黒く見えた。森は一日のうちにさらに密生し鬱蒼としたように見える。黒い木立と灰色の壺や彫像を有する人気のない池が、陽光のもとでさえ寂しげに見えたとするならば、夜の闇と強まる暴風のもとでは、死者の国にある冥途の池という方が相応しいほどだった。慎重に石橋をたどっていると、夜の深淵をどんどん奥に向かって進んでいるような気持になり、生者の国に合図を送ろうとしてもできない境界を越えてしまったような気がした。池が海よりも広くなっているような気がした。海といっても、世界を洗い流してしまったかのような恐ろしいほどの静けさとともに眠っている、黒く澱んだ水をたたえた海である。こうした巨大化による悪夢めいた感覚があまりにも大きかったせいで、これほど早く目的の無人島にたどり着いたことに意外な驚きを感じた。だがそれも非人間的なほど静かで寂しい場所のせいだとわかったし、何年も歩き続けてきたように感じた。  それでも平常心に戻ってきたので、頭上に枝の張り出した竜血樹の下で立ち止まり、灯りを取り出して神殿裏手のドアに向かった。先ほどと同じく閂ははずれていたが、隙間程度とはいえわずかに開いていることに少しばかり頭をひねった。だが考えれば考えるほど、これは視点の変化によるよくある光の錯覚だという思いが強くなった。さらなる科学的精神に則って錆びた閂や蝶番などドアを詳しく調べていると、すぐそばに何かを感じた。そう、頭のすぐ上だ。何かが木からぶら下がっているが、折れた枝などではない。一瞬、石のように冷たく身体がこわばった。吊り下げられた人間の足だ、おそらくは宙吊りにされた死者の。だがすぐにさらなることがわかった。その人間は文字通り過不足なく充足しており、地面に降ちてきた途端に侵入者に挑みかかった。時を同じくして三、四本の木が同じように命を吹き込まれたようだった。五つ六つの影がおかしなねぐらから着地していた。まるで猿の島ではないか。だがすぐにそいつらはフィッシャーに向かって襲いかかってきた。手を触れられた瞬間に、人間であることはわかった。  手にした懐中電灯を先頭の男の顔にがつんとくらわしたので、男がよろけて汚らしい草むらに倒れ込んだ。だが電灯は壊れて消えてしまい、一段と深まった闇のなかにあらゆるものが取り残された。神殿の壁際にいた別の男を投げ飛ばしたために、足が滑った。だが三人目と四人目が足をさらって、もがくフィッシャーを戸口の方に連れ込もうとした。争いにもまれてはいても、そのドアが開きっぱなしだったことにフィッシャーは気づいていた。誰かが室内から暴漢たちを呼んでいる。  なかに入るや長椅子かベッドのようなものに乱暴に放り上げられたが、怪我はなかった。ソファー(でも何でもいいが)歓迎でもするようにクッションでふわりと受け止めてくれたのだ。かかる暴力は何よりもまず大急ぎで行われたので、フィッシャーが起き上がるころには襲撃者たちはとっくにドアに向かって駆け出していた。この人気のない島にたむろしていたのがいかなる山賊であれ、このお勤めを嫌がってさっさと終わらせたがっているのは明らかだった。常習犯であればこんなふうに恐慌をきたすことはなさそうだ、ととっさに判断した。と思う間に大きなドアがバタンと音を立て、閂がしかるべき場所に差し込まれてきーきーと悲鳴をあげ、逃げ出した男たちの足音が土手道沿いにつまづきながら走り去って行くのが聞こえた。だが事は起こったほどには素早く起こりはしなかったので、フィッシャーはやりたいことをやることができた。倒れた体勢から一瞬にして立ち上がることはできなかったため、長い足を片方蹴り出して、ドアから逃げ出そうとしていた最後尾の男の足首辺りにひっかけた。男はよろめいて監禁部屋のなかに倒れ込み、男と逃げ出した仲間とのあいだでドアが閉まった。どうやら慌てているあまり、仲間を一人置き去りにしたことに気づいてないようだ。  男は跳ね起きると猛然とドアを蹴り叩いた。フィッシャーのユーモア感覚が落ち着きを取り戻し、根っからの無頓着でソファから立ち上がった。だが囚われ人が監獄のドアを叩いているのを聞いていると、新たな好奇心がわき起こる。  男はすぐに跳ね起きて荒々しくドアを叩き蹴り上げた。混乱していたフィッシャーも余裕を取り戻し、持前の暢気な気持でソファに起き直った。しかし囚人が監獄のドアを叩いているのを聞いているうち、新たな好奇心が頭のなかで渦を巻き出した。  仲間に気づいてもらおうとしているのであれば、蹴るだけではなく、大声をあげたりわめいたりするのが、ごく自然なふるまいではないだろうか。この男は手足を使って能うるかぎりの音を立てているのに、喉からは何の音もさせていない。なぜ口をきけないのだろう?  初めに考えたのは、猿ぐつわをされているのではということだった。それはあまりに馬鹿げている。次に、口のきけない男なのだというぞっとする考えに取りつかれた。どうしてそんなにもぞっとするのかよくわからなかったが、そのせいで想像力が暗く偏った影響を受けていた。耳も口もきけない人間と暗い部屋に二人きりで取り残されていると考えると、何かもぞもぞするような気持になった。そうした欠陥がまるで奇形のようだった。まるでほかにもっとひどい奇形が備わっているようだった。まるで暗闇のなかでなぞれないその形が、日の目を見ることのできない何かの形をしているかのようだった。  やがてふっと我に返り、洞察力も取り戻した。その解釈は非常に単純だがわりと面白かった。どう考えても男が声を出さないのは、声に気づかれたくないからだ。フィッシャーに正体を悟られる前にこの暗闇から逃げ出したいのだ。では誰なのだろう? 少なくとも一つはっきりしていることがある。このおかしな物語のある部分や成り行きのなかでフィッシャーがすでに口を利いた四、五人のうちの誰かかれかだ。 「さて、あなたは誰なんでしょう」といつものように気怠げに声に出した。「あなたを絞め上げて探り出そうとしても意味はないでしょうね。死体と一緒に夜を過ごすのはぞっとしませんし。第一、こっちが死体になるかもしれない。マッチは持って来なかったし、電灯も壊れてしまったからには、できるのは考えることだけです。さて可能性としてあなたは誰なのか? ひとつ考えてみましょう」  男はこのように穏やかに話しかけられて、ドアを叩くのをやめ無言のまま隅に引っ込んだ。そのあいだもフィッシャーは一人浪々と語り続けた。 「ことによるとあなたは密猟者ではないと言い張っている密猟者ですね。この土地の所有者だと主張していましたっけ。けれど彼だとすると、実際何者であったにしても、自分が馬鹿者だと言われても気にはしないでしょう。農民自身が紳士でいたがるほどの紳士気取りだとしたら、イギリスの自由農民にいったいどんな期待が持てるでしょうか? 民主主義者なくしてどうやって民主主義を実現できるでしょうか? 実際には、あなたは地主でいたいがゆえに、犯罪も認めている。となると、あなたはどうやら密猟者ではないようです。やはりそう思います、おそらくあなたはほかの誰かでしょう」  片隅から聞こえる呼吸の音と、その頭上の小さな格子から忍び込んでいる近づきつつある嵐のざわめきが静寂を破っていた。ホーン・フィッシャーが話を続けた。 「あなたは使用人以外ありません――おそらくはホーカーやヴァーナーの執事だった不気味な老使用人では? だとすれば、あなたが二つの時代を繋ぐただ一つの接点であることは間違いありません。しかし、そうだとしたら、本物のジェントリを見送ったあとで、あんな外国人に仕えるところにまで落ちぶれたのはなぜなのでしょう? あなたのような人は何だかんだで愛国心は強いものです。イングランドはあなたにとって何の意味もないのですか、アッシャーさん? こんなおしゃべりは何もかも無駄なのかもしれませんね、何しろあなたはアッシャーさんではなさそうですから。 「どちらかと言うならヴァーナーその人でしょう。となると恥じ入ってもらおうとして言葉を費やしても無駄ですね。それにイングランドを買収したかどで非難しても何の役にも立たない。それにあなたを非難するのはお門違いだ。非難されるべきは、そして非難されているのはイギリス人なんですから。なぜならイギリス人こそが、そうした害虫どもを英雄や王の高みにまで這い上ってゆくに任せていたからです。あなたがヴァーナーであるとか、どのみち絞め殺しが始まるかもしれないという考えにこだわるつもりはありません。ほかに可能性があるのは誰でしょうか? まず間違いなく敵陣営の関係者ではないでしょう。選挙責任者のグライスだとは思えません。とはいうものの、グライスの目にも狂信的な輝きがありましたし、人間というのはこんなささいな政治的対立から信じられないことをしでかすものです。あるいは、敵陣営の関係者でないとすれば、あとは……まさか、信じられない……人間と自由を謳う赤い血でもなく……民主主義の理想でもないなら……」  フィッシャーが興奮して跳ね起きるのと、格子の向こうから雷のうなりが聞こえたのは同時だった。すでに嵐が訪れ、それとともに心に新たな光が訪れていた。すぐにでも起こりそうなことがある。 「あれが何を意味するのか、おわかりですか?」フィッシャーが声をあげた。「神御自ら蝋燭を手にして、あなたの恐ろしい顔を照らしてくれることを意味するのです」  その瞬間、雷鳴が轟いたが、それよりも早く、白い光がほんの一刹那だけ室内にあふれていた。  フィッシャーは目の前にあった二つのものを目にしていた。一つは、鉄格子が空に浮かび上がらせた白と黒の縞模様。もう一つは片隅の人物の顔。それは兄の顔であった。  ホーン・フィッシャーの口からはクリスチャン・ネームが洩れただけで、そのあとには闇よりも恐ろしい静寂が続いた。件の人物がようやく身体を動かし立ち上がると、その恐ろしい部屋に初めてハリー・フィッシャーの声が響き渡った。 「見ただろう。それにもう明かるくしてもいい。お前だってスイッチを見つければいつでも点けられたのにな」  ハリーが壁のボタンを押すと、部屋の隅々までが日の光よりも強いもののもとにさらされた。その一つ一つがあまりに意外だったため、動揺していた囚われのフィッシャーも、一瞬のあいだ先ほど明らかになった個人的な事実を忘れたほどだった。その部屋は地下牢というにはほど遠く、むしろ客室のようだ。サイドテーブルの上に葉巻の箱やワインの壜、それに本や雑誌が積み上げられているのを除けば、婦人部屋と言ってもいい。改めて見たならば、比較的男らしい家具調度はつい最近のもので、比較的女らしい内装はかなり古いものだということがわかる。色褪せたタペストリーに目が留まると、もっと大きな問題も一瞬忘れるほど驚いて口を開いた。 「ここにある家具は屋敷のものですね」 「そうだ。理由もわかっているのだろう」 「だと思います。さらに驚くべき出来事の話をする前に、わたしの考えていることを話しておきますね。地主のホーカーは重婚者と犯罪者の二役を演じていました。ユダヤ女性と結婚したときにも、最初の妻は死んではいなかった。この島に監禁されていたんです。ここで子供が生まれ、今はロング・アダムという名前で生誕の地をうろつきまわっています。ヴァーナーという名前の破産した創業者がこの秘密を見つけ出し、屋敷を引き渡すよう地主を脅迫しました。何もかも明らかで、しかも単純なことです。それではもう少し難しい問題に移りましょうか。実の弟を拐かしているという馬鹿げたことを、あなたに代わって説明するという問題です」  少ししてからヘンリー・フィッシャーが答えた。 「俺を目にするとは思っていなかっただろうな。だがそもそも、どうなると思っていたんだ?」 「こんなへまをしておいて、ほかに何があると思っていたのかと聞いてるんだ」兄が不機嫌に答えた。「それなりに賢いと思っていたんだがな。思いもよらなかったよ、まさかお前が――うん、つまり、こんなひどい失敗をしでかしかけていたとは」 「これはおかしなことを」とホーン・フィッシャー候補は顔をしかめた。「うぬぼれているわけじゃありませんが、わたしの立候補が失敗だとは感じられません。大会はどれも成功したし、集まった人たちも投票すると約束してくれました」 「ずいぶんとありがたいことだな」ハリーが吐き捨てた。「お前があのふざけた数エーカーと牛一頭を武器にして圧倒的支持を集めているから、ヴァーナーはどこに行っても票が獲れない。あまりにもひどすぎる」 「いったい何を言ってるんです?」 「この気狂いめ」ハリーの怒鳴り声に嘘偽りはなかった。「まさか議席を獲ろうと思っていたわけじゃあるまいな? ああ、このガキめ! いいか、ヴァーナーを当選させねばならんのだ。もちろん絶対に当選する。次期蔵相になってもらわねば困る、エジプトの借金のことや、ほかにもいろいろあるんだ。お前には革新党の票を割ってほしかっただけだ、ヒューズはバーキントンで勝利をおさめたとはいえ何が起こるともかぎらんからな」 「なるほど。そしてあなたは革新党の支柱であり飾りというわけですか。あなたの言う通り、私は賢くありませんね」  愛党心に訴えたが耳には届かなかった。革新党の柱はほかのことを考えていたのだ。ようやく口を開いたときには、先ほどよりも困った声を出していた。 「お前に捕まえられたくはなかったな。ショックだろうからな。だがいいか、お前がひどい目に遭わされないかを、それにすべて間違いないかを確かめるためわざわざやって来なければ、お前に捕まることもなかったはずだぞ」あとを続ける声には変化のようなものさえ見られた。「葉巻を用意したんだ。お前が好きなのは知っているからな」  感情とは不思議なものだ。そんな気遣いをすることの馬鹿らしさに、底知れない悲哀のごときホーン・フィッシャーは憑き物が落ちたようになった。 「気にしないでください。もうその話をするのはやめましょう。祖国を滅茶苦茶にするために身を粉にした悪漢や偽善者と同じくらいにあなたが親切で優しいということは認めましょう。わたしにはこれ以上に気の利いたことは言えません。葉巻をありがとう。よければ一本もらえますか」  ホーン・フィッシャーがハロルド・マーチにこの物語を語り終えたころには、二人は公園にたどり着いており、丘の上に腰を隆ろして、何もない青空の下に広がる緑地を見渡していた。どこか釈然としない言葉で物語は結ばれた。 「それ以来、私はあの部屋にいるんです」ホーン・フィッシャーが言った。「今もそうです。選挙には勝ちましたが、議会には行きませんでした。私の人生とは、孤独な島にある小部屋で暮らす生活でした。たくさんの本、葉巻、贅沢品。たくさんの知識、興味、情報。けれどその墓穴からは、外界に声が届くことはありません。おそらく私はそこで死ぬのでしょう」  フィッシャーは微笑み、緑色の地平線までいたる広大な緑の公園を見渡した。 第八話 像の復讐  海沿いのホテルの日当たりのいいベランダからは、花壇が模様をなし青い海が帯となっているのが見はるかせる。その場所こそ、ホーン・フィッシャーとハロルド・マーチが最後に解釈を、あるいは介錯と呼ぶべきことを行った場所だった。  今では当時の政治作家の先駆けとして有名なハロルド・マーチが、小卓のところまでやって来て、曇りがちで夢見がちな青い目にくすぶっている興奮を抑えながら席に着いた。テーブルの上に放り出された新聞を見れば、興奮している理由の全てではないにせよある程度の説明はつく。各方面における公的事業が重大な局面を迎えていた。ずいぶんと長いあいだ存続していたために(世襲の専制政治に慣れるように)誰もが慣れ切っていた政府が、大失態に加えてあろうことか財政濫用で告発され出したのだ。若かりしころのホーン・フィッシャーの夢想に倣って、英国西部に小作農を根付かせようと試みた結果、隣人の産業者たちとのあいだに物騒な対立を招いただけに終わったという話だ。無害な外国人、特にアジア系を酷使していることに非難が爆発していた。そうした外国人はたまたま、沿岸に新たに建てられた科学工場で雇われ新たに沿岸に作られる科学工場に雇われていた。事実シベリアで生まれた新興勢力は日本を始めとする強大な同盟国の後押しを受け、追放された受刑者のために事を起こそうとしており、大使と最後通牒について激しい噂が飛び交っていた。だがマーチ自身の個人的関心においてはそれ以上に深刻なことが、困惑と義憤のないまぜになった話し合いに満ちているようだった。  常に気怠げなフィッシャーの様子に常ならぬ活気が現れていたのも、マーチのいらだちを募らせているのだろう。普段心に描いているフィッシャーの姿は、青白くて額の広い紳士であり、年のわりに禿げているだけでなく年のわりに老けているように見えた。記憶のなかでは、風来坊の言葉で厭世家と評される人物だった。今でさえマーチには確信が持てないのだが、この変化は日光が仮面舞踏会を開いているようなものに過ぎないのだろうか、はたまた海辺の保養地の景色にはつきものの鮮やかな色彩と輪郭が青い海の帯を引きたてているのに影響されたのだろうか。だがフィッシャーはボタン穴に花を挿していたし、まるでふんぞり返った闘士のようにステッキを手にしていたことはマーチにも断言できただろう。あのような暗雲が英国を覆っているというのに、この厭世家だけはまるで自分の太陽を持っているかのようだった。 「いいですか」ハロルド・マーチが出し抜けに口を開いた。「あなたほどの友人はいなかったし、友人であることをこれほど自慢できる人もいませんでした。それでも言わずにはいられないこともあります。明らかになればなるほど、どうしてあなたが我慢できるのかわからなくなりました。ぼくはもう我慢できないんです」  ホーン・フィッシャーは真剣に意を注いではいるが、まるで遠くにでもいるような遠い目でマーチを眺めた。 「あなたのことはいつだって好きでしたよ」フィッシャーが静かに口にした。「ですが尊敬もしています。この二つがつねに同じことであるとはかぎりません。尊敬していない人たちのことが好きなのだと思われるでしょうね。おそらくそれが私の悲劇、私の欠点なのでしょう。ですがあなただけは別です。お約束しましょう、あなたに尊敬されなくなってまで好かれ続けようとすることは、絶対にないことを」 「あなたが寛大なのはわかっていますが」少しあいだを置いてマーチは答えた。「それにしたって卑劣なことを何もかも容認し見逃しているじゃありませんか」また少し間を置いてから話を続ける。「初めて会ったときのことを覚えていますか? 的事件のときでした、あなたは小川で釣りをしていましたね。最後にこう言ったのを覚えてますか? 社会のもつれをダイナマイトで地獄まで吹き飛ばせたとしても、何の害にもならないかもしれない、と」 「ええ、それが何か?」 「別に、ダイナマイトで吹き飛ばすつもりなだけですよ。それで、あなたにはきちんと警告しておくべきだと思ったので。だいぶ長いあいだ、あなたが言うほど悪い事態だとは思ってなかったんですよ。ところが、あなたの知っていることをまるでぼくが隠し込んでいるような可能性には思いもよらなかったんです。ええ、早い話がぼくは良心を手にしたうえに、ついには今や機会まで手にしたんです。独立系の大新聞の担当になって自由に書けるようになったので、これから不正について集中砲火の端緒を開くところなんです」 「それが――アトウッドというわけですか」フィッシャーが思案げに答えた。「材木業者の。中国のことをよく知っているとか」 「イギリスのこともよく知っているんです」マーチはなおも強く主張した。「ぼくもよく知ってしまった以上は、もう黙っているつもりはありません。国民にはどう統治されているのか――いや、どう放置されているのか――知る権利がある。大臣は金貸しの懐に収められて、言われるがままです。そうでもしなければ破産どころかひどい金融破綻になり、あとに残るのはカードと女優の山だけ。総理大臣はガソリンの請負事業に関わっています、それもどっぷりと。外務大臣は酒と薬に溺れている。大勢のイギリス人をいたずらに死に追いやっている人間について、こんなふうにはっきり口にすれば、プライバシーに首を突っ込んでいると言われます。酔っぱらった機関士が三、四十人の人を死に追いやった場合には、誰もプライバシーの暴露だとは言いません。機関士とは一個の人格ではないからです」 「まったく同感です」フィッシャーは落ち着いていた。「あなたの言うことは完全に正しい」 「同感だというのなら、何だってぼくらと行動を共にしないんですか? 正しいと思うのなら、なぜ正しいことをしないんです? あなたほどの才能の人が、改革への道をふさいでいるだけだと思うとぞっとしますね」 「私たちもそのことについてよく話し合いました」フィッシャーは相変わらず落ち着いていた。「総理大臣は父の友人です。外務大臣は姉と結婚しました。大蔵大臣はいとこです。こんなときに事細かに家系図を持ち出すのはですね、新鮮な感情を味わっているからなんです。こんな幸せな感覚は思い出せませんね」 「仰る意味がよくわかりませんが?」 「家族を誇りに感じているんですよ」ホーン・フィッシャーが答えた。  ハロルド・マーチは青い目を見開いてフィッシャーを見つめたまま、あまりに面食らって問いつめることも出来ないようだった。フィッシャーは気怠げに椅子にもたれ、微笑んで話を続けた。 「さていいですか。今度は私がたずねる番です。不幸な親戚たちのことを私はいつだって知っていたはずだとほのめかしましたね。確かに知っていました。アトウッドがこのことをいつも知らなかったと思いますか? あなたが機会さえあればこのことを公表するような正直者だということを、アトウッドがいつも知らなかったと思いますか? ここ何年か経ってから、なぜ今になって犬みたいにあなたの口輪を外したんでしょうね? 私にはわかりますよ。たくさんのことを知っていますから。知りすぎているんです。だからこそ、口にする栄誉があれば、やはり家族のことを誇りに思うのです」 「でもなぜです?」マーチは弱々しく繰り返した。 「なぜ誇りに思うのかというと、大蔵大臣が賭けごとをしているからです。外務大臣が酔いつぶれているからです。総理が請負の手数料を取っているからです」フィッシャーはきっぱりと言い切った。「そうしたことをやっているから、告発されるかもしれないから、告発されるかもしれないことを自覚しているから、それでも自分の立場を貫いているから、だから誇りに思うんです。脅迫に屈せず、自分を守るために国を傾けることも拒んでいるから、頭が下がるんです。だからわたしは敬礼するんですよ、戦地で散る兵士に敬礼するようにね」  そこで一呼吸おいてから、ふたたび話を続けた。 「それにこれから戦場にもなるはずです、比喩ではなくね。長いあいだ海外の投資家のいいようにされてきたために、もはや戦争かさもなくば破滅というところに来ているんです。人々さえ、国民さえもが、自分たちが破滅させられつつあるのではないかと疑い始めています。それが新聞に書かれてあった悲しむべき事件の意味ですよ」 「東洋人迫害の意味は?」マーチがたずねた。 「東洋人迫害の真意はですね」とフィッシャーが答えた。「投資家たちが労働者や農民を飢えさせようとして意図的にこの国に中国人人夫を導入したのだということです。不幸な政治家たちは譲歩に譲歩を重ね、そして今では自分たち自身で自分たちの国の貧民層を虐殺する命令を出すところにまで譲歩を示しているんです。今戦わなければ、二度と戦うことはないでしょう。一週間でイギリスの経済状態を逼迫させられてしまいますよ。だから私たちは今戦おうとしているんです。一週間後に宣戦布告があり、二週間後に侵入があってもおかしくはないでしょうね。あらゆる過去の不正や怯懦が邪魔になっていることは間違いありませんが。西部地方は軍事的にちょっとした嵐と疑いが兆していて、そこでアイルランド連隊は新条約に基づいて支援するはずだったのに、見事に暴動を起こされました。それというのも無論この恐ろしい苦力《クーリー》資本主義がアイルランドでも後押しされているからです。ですがもうやめるころでしょうし、政府による再保証の連絡が通れば、敵の上陸までには元に戻るかもしれません。何せ、わたしのところのやんちゃ者たちときたら、絶対に後には引かないでしょうからね。もちろん、半世紀のあいだ先頭に立ってごまかしを続けてきた人間が、よりにもよって人生で初めて人間らしく振舞おうとしている瞬間に罪の報いを受けるのは、もっともなことです。いいですか、マーチ、わたしはあの人たちのことはすべて知っていますし、あの人たちが英雄のように振る舞っていることを知っているんです。全員の銅像があってしかるべきですし、台座の銘には革命のころの気高い悪党どもと同じく、『|我が名は朽つとも、フランスには自由を《ク・モン・ノム・ソワ・フレトリ、ク・ラ・フランス・ソワ・リブル》』」 「そうですか!」マーチは叫んだ。「あなたの坑道も爆破坑道も見極めることはできないのでしょうね?」  ややあってからフィッシャーは友人を見つめ、低い声で答えた。 「あの人たちが根っから邪悪なだけの人間だと思っているんですか?」フィッシャーは穏やかにたずねた。「私が運命によって放り込まれた深い海のなかに、腐敗しか見つからなかったと思っているんですか? いいですか、人の悪いところを知らないかぎり良いところを知ることもできませんよ。女を求めたりもせず賄賂の意味も知らないような、ありえぬほど完璧な蝋人形として世間に公開されたことを知ったからといって、あの人たちが風変りな人間らしい魂をなくするわけじゃありません。宮廷でも健全な暮らしを送ることはできるし、議会でも健全に暮らそうと努力を重ねて健全な暮らしを送ることはできます。貧しい追剥や掏摸に当てはまることは、豊かな道化や悪漢にも当てはまるんです。どれだけ努力したのか神さまだけが知っています。良心が耐えきれることや、名誉を失った人間がどのようになおも魂を守ろうと試みるのか、神さまだけが知っているんです」  ふたたび訪れた沈黙のあいだ、マーチは座ったままテーブルを見つめ、フィッシャーは海を見ていた。やがてフィッシャーはぴょこんと立ち上がり、帽子とステッキをつかんだ。その動きはこれまで見たこともないほど素早いうえに荒々しかった。 「ちょっといいでしょうか。取引させてくれませんか。アトウッドのために作戦を展開する前に、私たちと一週間をともに過ごして、実際にどんなことをしているのか確かめに来てください。信頼できる少数精鋭、かつては古強者として知られていた人たちと一緒に、ときに落伍者と呼ばれようということです。私たちわずか五人の固定メンバーだけで国防を組織して、ケントにあるおんぼろ旅館のようなところで駐屯兵のように過ごしているんです。私たちが実際に何をしているのか、そこで何が行われているのかを、その目で見て判断してください。そのあとで、変わらぬ愛と熱意を込めて、公表するなり非難するなりしてください」  こうして開戦が翌週に迫ったときに事態は急展開を見せ、ハロルド・マーチは告発しようとしていた人びとの輪の中にいた。彼らは質素ではあるが趣味のわかる人にとっては充分な暮らしをしており、煉瓦造りの宿屋は蔦に覆われ侘びしげな庭に囲まれている。建物の裏手にある庭から急勾配を上ると土手沿いに道があり、ジグザグの小径が急角度で斜面を上り、常黒樹と呼んだ方が相応しいような常緑樹のなかにあちこち突っ込んでいた。斜面のそこかしこに十八世紀の置物のように冷え冷えとした不気味さをたたえた石像が立ち、まるで檀上に並んでいるかのように、裏口正面にあるふもとの土手に沿って一列に並んでいた。マーチがこんな細かいことまで一目で心に焼きつけているのは、閣僚の一人と交した初めての話のなかで触れられていたからに過ぎない。  閣僚たちは思っていたより年を取っていた。首相はもはや少年には見えなかったが、どこか赤ん坊めいたところが残っていた。だがいわゆる老いて神聖な赤ん坊という類で、この赤ん坊はやんわりとした白髪をしていた。何もかもがやんわりとしていた。しゃべり方も、歩き方も。だが何よりも、主な仕事は眠ることであるらしいことだった。同席した者たちは目が閉じていることに慣れてしまっていたので、沈黙のなかで目が開いていたりあまつさえものを見ているとわかったときには驚かんばかりだった。この老紳士の目を開かせるものが少なくとも一つあった。武具や武器、殊に東洋の武器の収集には何をおいても目がなく、ダマスカスの刀剣やアラビアの剣術のことなら何時間でも話すことができた。大蔵大臣ジェイムズ・ヘリーズ卿は小柄で色黒で体格のいい男で、顔色の悪いところや態度の無愛想なところは、ボタン穴に差した鮮やかな花や、つねに飾られすぎのきらいがある祭り飾りとは対照的だった。彼のことを町の有名人と呼ぶのは婉曲な呼び方である。いったいどうしたら、楽しみを求めて生きている人間が、そこにほとんど楽しみを見出していないように見えるのかという問題には、おそらくさらなる謎があるのだろう。外務大臣デイヴィッド・アーチャー卿は、メンバー中ただ一人たたき上げの人物であり、貴族らしく見えるただ一人の人物だった。長身痩躯で見た目もよく、ごま塩の髭を生やしている。白髪はひどい癖っ毛で、正面に癖の強い巻き毛が二本突き出したのも、想像をたくましくすると、大きな昆虫の触角のように震えているようにも、落ち窪んだ目の上で絶えず動いている眉毛の固まりに共振しているようにも見える。というのもつまり、何が原因であろうとも外務大臣はいらいらしている様子を隠そうとしなかったのである。 「マットが曲がっているからといってわめきかねない人のふさぎこんだ気持ちがわかるかい?」と外相がマーチにたずねた。陰気な石像の列の足許にある裏庭をあちこち歩き回っていたときのことだ。「働きすぎの女性はそうなるし、私も最近ひどく働き過ぎなんだ。ヘリーズがかぶっている帽子がちょっと横を向いて――遊び人がよくやるようになっているだけで――気が狂いそうになる。いつかたたき落としてしまうだろうね。あそこにあるブリタニアの石像はまっすぐ立っていないだろう。いくらか前のめりにつんのめって、ご婦人が転びかけているようじゃないか。潔くさっさと倒れてしまわないのがいまいましいよ。ほら、鉄の支柱に留められてるんだ。私が真夜中に寝床から抜け出して、あれを引っこ抜いても驚かんでくれよ」  しばらく何も言わずに小径を進んでから、こう付け加えた。「不思議なもんだね、憂慮すべき大事があるときには、かえってこういう些事の方が大事に思えてしまう。中に入って一仕事した方がよさそうだな」  ホーン・フィッシャーは、アーチャーのノイローゼ気味なところやヘリーズの乱れた生活を考慮に入れて、二人の現在の意思力をどれほど信頼していようとも、また相手が首相であったとしても、各々の時間と警戒心をあまり煩わせたりはしなかった。西部軍への指令を含む重要文書を誰に託すかに当たって、フィッシャーは最終的には首相に同意していた。あまり目立たずかなり信頼できる人物――ホーン・ヒューイットという名の叔父は、顔色の悪い地方地主だがかつては優秀な兵士であったため、この小委員会の軍事顧問であった。共同軍事作戦・計画に加えて・とともに、なかば反抗的な西の指揮官に対して政府公約を促す役を担わされたうえに、さらに緊張を要する仕事として、いつ何どき東から現れるやもしれない敵の手に落ちていないことを確かめることになっていた。この軍当局者を除けば、ほかに参加しているのは一人の警察当局者だけであった。あのプリンス博士(元警察医にして今は高名な探偵)が、一堂の護衛に当たっていた。大きな眼鏡をかけた四角い顔をしかめて、一切口を利かぬことを伝えているような男である。缶詰状態をともにしているのはほかにはいない。例外は、林檎みたいな顔をした気難しいケント人経営者と、従業員が数人、それと非公式にジェイムズ・ヘリーズ卿のもとで働いている使用人が一人である。これはキャンベルという名の若いスコットランド人で、気難しげな主人よりもひときわ目立つ外見をしていた。髪は栗色で、陰気な馬顔に造りは大きいが線の細い目鼻立ちがつっくいている。おそらくはその家のなかでただ一人の有能な人間であった。  非公式会議から四日ほど経つと、マーチはこうした疑わしげな人物たちに奇怪な気高さのようなものを感じていた。まだ見えぬ危険の薄明かりに立ち向かっている様子は、まるで町を守るために取り残されたせむしや不具者のようであった。あらゆることが懸命に行われているなか、私室でメモを取っていたマーチが顔をあげると、ホーン・フィッシャーが旅行にでも行くような格好で戸口に立っていた。マーチの目にはフィッシャーが青ざめているように見えたのだが、フィッシャーはすぐにドアを閉めてそっと口を開いた。 「さあ、最悪のことが起こりました。もしくは最悪に近いことが」 「敵が上陸したんですね」マーチは叫んで、椅子からしゃきりと立ち上がった。 「ああ、敵が上陸するのはわかっていました」フィッシャーは落ち着いて答えた。「そうです、敵が上陸しましたが、それは起こり得る最悪のことではありませんよ。最悪なのは情報が洩れること、この私たちの要塞から洩れるだけでも最悪です。不合理に思えるけれど、こう言ってよければ、頭を殴られたような衝撃でした。要するに、政治的に誠実な三人だと思って賞賛していたんです。二人しかいないとわかっても驚愕してはいけないんですよ」  しばらく思いを巡らしてから話を続けたが、その話しぶりからは話題を変えたのか変えていないのかマーチには判断しかねた。 「ヘリーズのような人が、酢漬けのように悪事に漬かっていながら、これっぽっちも良心のとがめを感じないでいられるとは、まず思えません。ですがこれについてはおかしなことに気がついたんですよ。愛国心とはもっとも大事な美徳ではないんです。もっとも大事な美徳であるようなふりをすれば、愛国主義は軍国主義に身を落としてしまいます。ところが愛国心が美徳としてもっとも軽んじられる場合もある。国を売らない人が詐欺やぺてんを働いたりするものです。でも誰にわかるというんです?」 「何が起こったんですか?」マーチが我慢できずに声をあげた。 「叔父は文書を安全に保管していて」とフィッシャーが答えた。「今夜、西まで届ける予定なんです。ところが何者かが外部から文書を手に入れようとしていて、内部の誰かが手引きしている恐れがあります。今できる手はすべて打つつもりですし、外部の人間を阻止するために、すぐにでもここを出て実行に移さなくてはなりません。二十四時間後には戻ってきます。私がいないあいだ、あの人たちから目を離さずに、できるかぎりのことを探ってください。|それじゃあ《オ・ルボワール》」  フィッシャーは階段を降りて見えなくなった。窓の外を見ると、フィッシャーがバイクにまたがり隣町の方に轍を残していくのが見えた。  明くる朝、マーチは古宿屋の窓際の席に座っていた。オークで板張りされた、たいていはどちらかといえば薄暗い場所だった。ところがその場所に、珍しく晴れやかな朝の白い光が満ちていた――。ここ二、三夜のあいだ月の光がきらきらと輝いていた場所だ。窓辺の隅のいくらか日陰になったところにいると、ジェイムズ・ヘリーズ卿があたふたと裏庭からやってきてマーチには目も向けなかった。ジェイムズ卿は椅子の背にしがみついて身体を支えようとでもしていたようだが、ひょいと腰を下ろすと、まだ散らかったままのテーブルから、ブランデーをコップに注いで飲み干した。マーチには背を向けていたが、丸鏡に映った土気色の顔からは、ひどく混乱しているような色がうかがえた。マーチが身体を動かすと、ひどくぎくりとして振り返った。 「ちくしょう! 外で起こったことはもう見たか?」 「外ですか」マーチは繰り返し、肩越しに庭を眺めた。 「ああ、自分で見てきたまえ」ヘリーズは怒ったような声をあげた。「ヒューイットが殺されて、書類が盗まれた、それがすべてだよ」  ふたたび背を向けてドスンと腰を下ろした。広い肩が震えていた。ハロルド・マーチは戸口から飛び出し、像が立っている急斜面のある裏庭に向かった。  初めに目に入ったのは、眼鏡越しに地上の何かを見つめている探偵プリンス博士だったが、すぐに博士が見つめているものが目に入った。衝撃的な報せをすでに宿屋で聞いてきたあとだというのに、その光景には衝撃的なところがあった。  ブリタニアの巨大な石像が顔を下に向けて庭の小径にうつぶせに倒れており、その下からつぶされた蠅の足のようにばらばらに突き出ているのは、ワイシャツを着た腕とカーキのズボンを履いた足であったし、ごま塩の頭髪は疑いようもなくホーン・フィッシャーの叔父のものであった。血だまりができ、手足が硬直して明らかに死んでいた。 「事故だったんですよね?」マーチがようやく言葉を見つけた。 「自分で見ろと言っただろう」ヘリーズが耳障りな声で繰り返した。マーチのあとからいてもたってもいられずドアを出たのだ。「書類がなくなったと言ったはずだ。死体からコートを脱がしたやつが、内ポケットから書類を取り出したんだ。コートが丘の上で、大きく切り裂かれていた」 「だが待ってくれ」探偵プリンスが穏やかに口を挟んだ。「そう考えた場合には謎が残りはしないかな。殺人犯がどうにかして、こんなふうに石像を投げ落とすことができたとしよう。だがふたたび持ち上げるのは容易ではないぞ。試してみたが、最低でも三人は要る。ところがその仮説にしたがうと、初めに犯人は被害者が通りかかったところを石の棍棒でも扱うようにして石像で殴り倒し、次に石像をふたたび持ち上げて、死体を取り出しコートをはぎ取り、それから元通り死んでいたときの格好に戻したうえで石像をぴたりと元に戻した、と仮定しなければならない。いや、物理的に不可能だ。それとも石像の下敷きになった人間から服を脱がす方法がほかにあるだろうか? 手首を縛られた状態でコートを着替えるとなると、奇術よりたちが悪い」 「死体からコートを脱がしたあとで石像を投げ落としたんじゃないでしょうか?」マーチがたずねた。 「なぜだ?」プリンスが鋭く突っ込んだ。「人を殺して書類を奪ったのなら、風のように飛んで逃げないかね。石像の根元を掘り返して庭でぐずぐずしたりはしまい。それに――おや、上にいるのは誰だ?」  頭上の土手高く、空を背にして黒く細い形を描いていたのは、蜘蛛のように細長い人影であった。頭の形をした黒い影からは、角のような小さな房毛が見えている。その角が動いたことは誓ってもよかった。 「アーチャー!」ヘリーズはかっとなって、降りてくるように怒鳴り散らした。人影は怒鳴られた途端に後ずさった。おどけているといってもいいようなくらいにぎこちない動きだった。だがすぐに考え直して気を取り直したらしく、ジグザグの小径を降り始めたが、見るからに不承不承としたゆっくりした足取りで降りていた。マーチの胸中に、この男自身が用いた言い回しが轟いていた――真夜中に気が狂って石像を破壊してしまいそうだ。そういうわけだから、こんなことをしでかした狂人が熱に浮かされて踊るように丘のてっぺんに上り、自分が破壊したものを見下ろしている可能性も思い浮かんだのである。だがここで破壊したのは石像だけではなかったのだ。  ようやく庭の小径に姿を現して明るいところで顔形を見ると、ゆっくりどころかのんびり歩いていて、恐れている様子などなかった。 「恐ろしいことだな。上から見えた。尾根伝いにぶらついていたんだが」 「殺されるのが見えたというのでしょうか?」マーチがたずねた。「あるいは事故の瞬間を? 言いかえるなら、石像が倒れるのを見たのでしょうか?」 「そうじゃない」とアーチャーが答えた。「石像が倒れているのが見えたんだ」  プリンスはあまり気に留めていないように見えた。死体から一、二ヤード離れた小径上の物体に目を奪われている。見たところ先端の曲がった錆びた鉄の棒らしい。 「一つわからないことがある」プリンスが口を開いた。「この血だよ。頭蓋骨を砕かれたわけじゃない。おそらく首が折れたんだろうね。ところが動脈でも切断されたように血が噴き出したありさまだ。何かほかの凶器を使ったんだろうか……例えばあの鉄の棒のような。だがあれだってそれほど鋭くは見えないな。あれが何なのか誰もわからないだろうね」 「私にはわかる」低いが震えを帯びた声でアーチャーが答えた。「何度も悪夢に見ていたからな。台座の留め金か支え具だ。あの石像がぐらつき出した際にまっすぐ立てておくために取り付けたんだろう。いずれにしてもあの石ころに取り付けてあったのが、倒れたときに飛び出したんだろうね」  プリンス博士は頷いたものの、なおも血だまりと鉄の棒を見つめ続けていた。 「まだまだ隠れた事実があるはずだが」ようやく口を開くとそう言った。「それも像の下に隠れていそうだ。直感のようなものだがね。ここには四人いるし、協力すればこの大きな墓石を持ち上げられる」  四人が力を合わせて取りかかった。深く息を吐く音のほかは何も聞こえない。やがて、八本の足がぷるぷるよたよたしたかと思うと、大きな石像の柱が転がり、シャツとズボン姿の死体がすっかり現れた。プリンス博士の眼鏡が大きな目のように控え目に輝き、大きく見開かれたようにも見えたのは、死体のほかにも現われたものがあったからだ。一つは、不幸なヒューイットの喉に深い切り傷が走っていることであり、わが意を得たとばかりに博士がすぐに確認したところ、その傷は剃刀のような鋭い刃物でつけられたものであった。もう一つは、土手のすぐ下に一フィート近くあるぴかぴかの鉄片が三つ落ちていたことであり、先端は尖っており、反対側は豪華な宝飾の施された柄か持ち手に収まっていた。見たところ東洋のナイフの一種であって、それも剣と言っていいほどの長さであったが、不思議なことに刃は波打っており、血が一、二滴ばかり付着していた。 「もっと血がついていると思ったんだが、先端にはほとんどない」プリンス博士は考え込んでいた。「だがこれが凶器で間違いないだろう。傷口がこういう形の刃物でつけられたのは間違いないからね。ポケットを切り裂くのにも使われたものだと思う。石像を倒したのは、公葬でもしてやったつもりなんだろう」  マーチには答えられなかった。奇妙な剣の柄の上で輝いている奇妙な石群に魂を奪われていたのだ。このことがいったい何を意味しうるのかが、不快な夜明けのようにじわじわとマーチの心に広がっていた。珍しい東洋の武器。記憶のなかで、ある名前が珍しい東洋の武器と結びついていた。ジェイムズ卿がマーチの代わりに胸の裡を口に出したが、不適切なことを聞きでもしたようにマーチはどきっとした。 「総理はどこだ?」唐突にヘリーズが声をあげた。どういうわけか、犬が何かを見つけて吠えているようだった。  眼鏡と険しい顔をヘリーズに向けたプリンス博士の顔は、かつてなく険しかった。 「どこにもいなかった。書類がなくなっているのに気づくと、すぐに総理を探したんだ。君の使用人のキャンベルがてきぱきと探したんだが、手がかりなしだ」  長い沈黙を終わらせたのは、ヘリーズがふたたびあげた吠え声だったが、声の調子はまったく違っていた。 「いや、もう探す必要はないな。フィッシャー君と一緒にやって来る。徒歩旅行してきたみたいななりだな」  二つの人影が小径を近づいて来る。確かに一つはフィッシャーの姿であり、旅してきたように泥の跳ねをつけ、禿頭のわきには茨でひっかいたような傷が伸びていた。そしてもう一つの人影は、赤ん坊じみた外見をして東洋の剣と騎士道に目がないあの偉大な胡麻塩頭の政治家のものであった。だがこうして肉体的に目の当たりにしているということを除けば、その物腰や態度がマーチにはまったく理解できなかった。悪夢の仕上げにちょいとナンセンスを振りかけられたようだった。探偵が発見したことに耳を傾けている二人をさらに近くで確認したところ、二人の態度を見てさらに混乱することになった。フィッシャーは叔父の死を悲しんではいるようだが、ほとんどショックを受けていないように見える。首相の方はあからさまに何かほかのことを考えているようだ。盗まれた文書が恐ろしく重要であるわりには、逃走した人殺しのスパイを追跡させるようなことは二人ともそれ以上何もしなかった。電話をかけたり報告書を書いたりするために博士がせわしなく立ち去り、ヘリーズがおそらくブランデーの壜を取りに戻ったころ、首相は庭の片隅にある心地よさげな肘掛椅子の方にゆったりと歩いていたし、ホーン・フィッシャーはハロルド・マーチに話しかけていた。 「ただちに一緒に来てもらえませんか。一緒に来てもらえるほど信用できるのはあなただけなんです。まる一日近く旅することになるでしょうが、重要な出来事は夕暮れになるまで行われることはないんです。ですから道すがらたっぷり議論する時間はある。でも一緒にいてもらいたいんですよ。大事なとき、だと考えていますのでね」  マーチとフィッシャーは二人ともバイクに乗った。旅の前半は東に向かって海岸沿いに進むことで費やされた。不愉快なエンジンが会話もできないほど音を立てている。だがカンタベリーを過ぎ東ケントの湿地帯に出たところで、フィッシャーは小ぎれいなパブに立ち寄った。かたわらによどんだ小川が流れている。二人は腰を下ろして飲み食いし、話をすることにした。その日初めてと言ってもいい。きらめく昼下がり、裏の森では鳥たちが歌い、太陽が椅子とテーブルに降り注いでいた。だが強い陽光に照らされたフィッシャーの顔は、見たこともないほど重苦しかった。 「ここから先に進む前に、知っておいてほしいことがあるんです。私たち二人は、これまでに何度か不思議な出来事に遭遇し、その真相を突き止めてきましたね。だからあなたがこの事件の真相を知るのも当たり前のことに過ぎません。しかし叔父の死に関しては、これまでの探偵譚の発端とは異なるところで始めなければなりません。お聞きになりたければ、これから推理の過程をお話しするところですが、演繹的推理によって真実にたどり着いたわけではありませんでした。何よりも最初にずばり真実をお伝えしましょう。というのも、最初から真実を知っていたからです。これまでの事件では外側から取り組んでいましたが、この事件で私がいたのは内側でした。私自身がすべての中心だったんです」  フィッシャーの垂れたまぶたと重苦しい灰色の目に宿る何かが、不意にマーチを揺るがせ、取り乱して声をあげていた。「理解できない!」理解するのを恐れている人のあげる叫びに似ていた。幸せそうな鳥のさえずり以外は何一つ聞こえないなか、やがてホーン・フィッシャーが静かに口を開いた。 「叔父を殺したのは私です。さらに詳しい話をお望みなら、叔父から公文書を盗んだのも私です」 「フィッシャー!」マーチが絞り出すような声をあげた。 「お別れする前にすっかり説明させてください。これまでの事件を説明してきたように、はっきりさせるために説明させてくれませんか。この事件には謎が二つありましたね? 一つは、石の魔物で地面に釘づけにされてしまった死体から、犯人はどうやってコートを脱がしたのか。もう一つはさほど重要でもなくそれほど謎めいてもいませんが、喉をかき切った剣には刃にべっとり血がついているはずなのに、先端にわずかだけしかなかったという事実です。そうですね、最初の疑問は簡単に片づけられます。ホーン・ヒューイットは殺される前に自分でコートを脱いだんです。殺されるためにコートを脱いだと言ってもいいでしょう」 「今のが説明だというんですか?」マーチが声をあげた。「事実よりも言葉の方が無意味に思えます」 「では、別の事実に移りましょうか」フィッシャーの態度は変わらなかった。「あの特殊な剣の刃がヒューイットの血で汚れていなかったわけは、ヒューイット殺しに用いられてはいないからです」 「でも博士が」とマーチが反論した。「あの特殊な剣でつけられた傷痕だと断言したんですよ」 「申し訳ありませんがね、あの剣そのものでつけられたとは言いませんでした。ああいった特殊な形の剣でつけられたと言ったのです」 「でもずいぶん変わった珍しい形のものなのに」マーチは譲らなかった。「馬鹿馬鹿しすぎて話になりませんよ、偶然の一致にもほどがある!」 「馬鹿馬鹿しすぎる偶然の一致なんですよ」とホーン・フィッシャーが答えた。「ときどき起こるような驚くべき偶然の一致だったんです。世に稀な偶然で、万に一つの偶然で、まったく同じ形をした剣がもう一つ、同じ庭に同じ時間に存在していたんです。二つの剣を庭に持っていったのは私自身だという事実から、どういうことなのかある程度わかるのではありませんか……さあ、何を意味するのかわかったはずです。二つの事実を組み合わせてください。生き写しの剣が二つあり、コートを脱いだのは本人でした。厳密に言えば私は暗殺者ではないという事実を思い返してもらえば、推理の一助になるのではありませんか」 「決闘だ!」マーチは我に返って叫んだ。「当然考えるべきでした。でもそうすると、書類を盗んだスパイは誰だったんです?」 「私の叔父が、書類を盗んだスパイでした」フィッシャーは答えた。「いえ、書類を盗もうとしたスパイだったのを、私が止めたんです――私にできることは一つしかありませんでした。仲間たちの安心のため西まで送られて侵略を阻止するための計画を伝えるはずだった書類が、わずか数時間後には侵略者の手に渡ってしまいそうだったんです。どうすればよかったでしょう? 仲間の一人を告発したとすれば、あなたの友人アトウッドや、あらゆるパニックや圧力に付け込まれることになっていたでしょう。それに、四十過ぎの男には潜在的に生きて来た通りに死を願う気持があって、私はある意味で墓まで秘密を抱えて行きたかったのかもしれません。好きなことは年とともに譲れなくなるものなんでしょうね、私の好きなことは沈黙でした。母の兄弟を殺しはしましたが、母の名は守ったと感じているのかもしれません。いずれにしても、あなた方が確実に眠っていて、叔父が一人で庭を歩いているころを見計らったんです。月明かりにたたずむ石像がすべて見えました。自分も石像の一つになって歩いているようでした。私は自分のものとは思えない声で叔父の裏切りを告げて書類を要求しましたが、叔父に断られると二本ある剣の片方を無理矢理に叔父の手に押しつけました。総理が確認用に送らせていた見本のなかにあったものです。ご存じのように総理は収集家ですから。同一の武器の組み合わせはそれしか見つからなかったんです。不快な話は手短に済ませるとして、ブリタニアの石像の前の小径で私たちは決闘しました。叔父は非常に力の強い人でしたが、私には多少なりとも腕がありました。叔父の剣が私の額をかすめるのと、私の剣が叔父の首の付け根に深々と突き刺さったのは、ほぼ同時でした。ポンペイウスの像に倒れかかったカエサルのように、叔父は石像に倒れかかって、鉄の支えにしがみつきました。叔父の剣はすでに折れていました。致命傷から流れる血を目にした瞬間、ほかのことは何も見えなくなりました。私は剣を落とし、叔父を助け起こすつもりだったのでしょうか、走り出していました。叔父に向かって屈み込んだとき、何かが起こりましたが、あまりに急なことで何が何なのかわかりませんでした。鉄の支柱が錆びてもろくなっていたために叔父の手でもぎ取られたのか、叔父が猿のような馬鹿力で岩から引きちぎったのかはわかりません。いずれにしても支柱は叔父の手のなかにあり、私が武器も持たずに傍らにひざまずいたとき、叔父は瀕死の力を振り絞って私の頭越しにそれを放り投げました。慌てて顔を上げてぶつかるのを防ごうとしたとき、ブリタニアの巨像が船首像のように傾いているのが見えたんです。直後に石像はいつもより一、二インチ傾き、星の輝く全天が石像ごと傾いているように見えました。ついに石像は空が落ちるように倒れました。最終的に私は静まりかえった庭に立ち尽くして、倒れた石と骨の残骸を見下ろしていたんです。それはご覧になった通りです。叔父がブリテンの女神をぎりぎりで支えていた支柱をもぎ取ってしまったために、女神は倒れて売国奴を押しつぶしたんです。私は振り返ってコートに駆け寄りました。包みが入っているのはわかっていましたから、剣で引き裂き、小径を駆け上がって路上に停めてあるバイクのところまで急ぎました。慌てるのも当然ではありましたが、私は石像も死体も振り返らずに逃げ出して、恐ろしく象徴的な光景から逃げ出していたことに気づきました。 「まだやらなければいけないことが残っていました。一晩が過ぎ、日の出になり日が昇り、南イングランドの町や市場を弾丸のようにぶんぶん飛ばして、ようやく問題の西の本部にたどり着きました。ぎりぎり間に合いました。つまり政府は裏切ってはいない、敵を東に追い込めば救援があるという報せを現場に告知することが出来たのです。すべてをお話しする時間はありませんが、私にとって記念すべき日だったことは申し上げておきます。たいまつ行列のような凱旋でした。そのたいまつがもしかすると抗議デモの火だった可能性だってあったのですからね。暴動は鎮まりました。サマセットや西部地区の人々が市場に押し寄せました――アーサーとともに死に、アルフレッドとともに耐え忍んだ人々です。アイルランド軍がそこに集まり暴動のような光景になったあと、フィニア団の歌を歌いながら東に向かって行進し始めました。あの人たちの暗い笑いのことはよくわかりません。イングランドを守るためイングランド人と行進しているときですら、大喜びで声を限りに叫んでいたんです。『絞首台の上高くに、気高き三人が立てり……イングランドの非情な縄がかけられて』。その歌は『ゴッド・セイブ・アイルランド』だというのに、どんな意味であれ、そのときの私たちにはそれを歌うことができたんです。 「けれど私の使命にはもうひとつの側面がありました。防衛に奔走しながら、大いに幸運なことに、攻撃にも奔走していたのです。こまごまとした戦略をお話ししてわずらわすつもりはありません。しかし敵がどこに大砲隊を押し進めて軍隊の動きをカバーするのはわかっていました。西の同胞が本隊の迎撃に間に合いそうもなくても、場所を正確に知っていさえすれば、砲の射程距離内に入り爆撃することはできるんです。それが向こうにわかるとは思えないので、誰かがこの辺りで合図を打ち上げないといけません。けれどどういうわけか、誰かがやるに違いないと思うんです」  そこでフィッシャーがテーブルを立ち、二人はふたたび車にまたがり、深まりゆく夕闇に向かって東へと進んだ。どこまで移動しても景色には平べったい雲の切れ端が浮かんでいて、昼間の名残の色が地平線を囲むようにしがみついていた。はるか後ろを見下ろさないと丘の半球などなく、遠くに霞む水平線が見えたのはずいぶんと突然のことであった。日射しの強いベランダから見たような青く輝く帯ではなく、不吉にくすんだ紫の、不気味で陰気な色合いの帯だった。ここでホーン・フィッシャーはふたたび車を降りた。 「ここから先は歩かなくてはならないんです。それに最後には私一人で歩かなくては」  フィッシャーは屈みこんでバイクから何かをほどき出した。もっと気になることがいくらでもあったというのに、道々マーチを不思議ららせていたものだった。見たところでは、さまざまな長さの棒を紐でひとくくりにして紙でくるんだもののようだ。フィッシャーはそれを脇に抱えて草むらを慎重に進んでいった。地面はどんどんぐちゃぐちゃででこぼこになってきたが、フィッシャーは茂みや木立の方を目指して歩き続けた。夜は刻一刻と闇を増していた。 「もう何も話してはなりません」フィッシャーが言った。「止まってほしいときには小声でお伝えいたします。ついてこようとしてはなりません、ショーを台無しにするだけですから。一人の人間が目的地まで匍匐して無事にたどり着ける可能性もほとんどないのですから、二人なら確実に見つかります」 「どこにだってついていくつもりですが」マーチが答えた。「でも止まれと言われるなら止まるつもりです」 「そうしてくれるのはわかってますよ」フィッシャーが小声で言った。「私がこの世で完全に信頼したのはあなただけだったと思います」  さらに歩みを進め、曇った空を背にした怪物のような大きなうねか小山の端にたどり着くと、フィッシャーが止まるように合図した。マーチの手を取り荒々しいほどの優しさを込めて握りしめると、暗闇に向かって飛び込んでいった。うねの陰に隠れて腹這いに進む人影がかすかに見えたが、すぐにそれも見えなくなり、やがて二百ヤードほど離れた別の小山に立ち上がっているのが見えた。そばに二本の棒のようなものでできた物体が立っているのも見える。フィッシャーがそこに屈みこむと、光が燃え上がった。マーチは少年時代の記憶に揺り動かされ、その正体を知った。打ち上げ台だ。荒々しいが懐かしい音が響いた瞬間も、まだ記憶はぐちゃぐちゃにもつれたままだった。のろしは止まり木を離れた直後、星を狙って放った星製の矢のように、果てしない空間のなかを上昇した。不意にマーチはこれが最後の日のしるしであると感じ、審判の日のような黙示録の流星を見ているのだと気づいた。  尽きることなき天に放たれたのろしが頭を下げ、赤い星々に向かって飛び込んでいった。その瞬間、周囲に海を臨み後ろに木々の生えた丘の半円を従えた景色のすべては、ルビー色の異様に濃くまばゆい赤い光をたたえた湖のようだった。まるでこの世が血よりも赤いワインに浸されでもしたような、あるいはここが地上の楽園で、真っ赤な朝焼けのまま時間が永遠に止まりでもしたかのようだった。 「神よ英国を守りたまえ!」トランペットが轟くような叫び声だった。「そして神のために守らん」  暗闇がふたたび陸地と海に降りると、また別の音が聞こえた。背後にある山道の遠くで、猟犬が吠えるように銃器が声をあげた。のろしとは別の何かが、囁くどころか金切り声をあげ、ハロルド・マーチの頭上を越えて丘の向こうの光と轟音のなかにまで突き進み、脳を揺るがすような耐え難い音を轟かせた。それは次、また次と訪れ、世界が混乱と熱い蒸気と混沌とした光に満ちた。敵軍の居場所を知った西部地方とアイルランドの砲軍が、猛攻撃を仕掛けているのだ。  当座の狂気の中で、打ち上げ台のそばに立っているひょろ長い人影を探そうと、マーチは爆撃に目を凝らした。新たな閃光が尾根中を照らす。そこに人影はなかった。  狂ったように興奮しながら、マーチは爆風に目を凝らし、打ち上げ台のそばに立っているひょろ長い人影を目にしようとした。新たな閃光がうね全体を照らした。そこに人影はなかった。  のろしの火が空から消えてしまう前、遠くの丘から砲撃が聞こえ始めるずっと前、ライフルの射撃が敵の塹壕からいたるところでちかちかと瞬くよりずっと前。うねのふもとの暗がりに、落ちたのろしの棒のように動かないものが横たわっていた。知りすぎていた男は、知るに足ることを知っていたのだ。 原題は以下の通り。 "The Man Who Knew Too Much", Gilbert Keith Chesterton, 1922. 'The Face in the Target' 'The Vanishing Price' 'The Soul of the Schoolboy' 'The Bottomless Well' 'The Fad of the Fisherman'(英版では第六話、米版では第五話) 'The Hole in the Wall'(英版では第五話、米版では第六話) 'The Fool of the Family(米題 The Temple Of Silence)' 'The Vengeance of the Statue'