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アラベスク――鼠
[訳註]
英語の「mouse」には「可愛い女の子」という意味もあります。



市場と信仰
「In the main Street amongst tall establishments of mart and worship」
「市場と信仰」すなわち「商店と教会」。必要最小限度の生きる糧。



ロシア語の小説
 歌麿の絵に母と乳呑児をリンクさせていたくらいですから、この「Russian novels」も何か特定の小説だという気がします。今のところちょっと思い当たりませんが。
 【フィリップ】の註を参照。



歌麿の浮世絵
歌麿「鏡台前の親子」

 おそらくこの絵でしょうか? 喜多川歌麿「鏡台前の親子」です。
「黒縁の鏡の前に座る母親が乳呑児を胸に抱いている」、「不思議な釣り合いの身体つき」の絵。

 鏡台横のダルマに、「両腕がない」というメッセージを読みとるのは穿ちすぎ? あるいは「林檎」に似ている? 赤ん坊に乳を含ませている女の姿は、言うまでもなく、張った胸から母乳をしぼる母親の記憶と重なっています。



ヨーシナ
[訳註]
「Yosine」ですが、読み方がわからないので「ヨシネ」と表記しておきました歌麿の浮世絵が登場する点などを考えると、「美音」とか「良音」というような日本人名でしょうか? 「Joseph」の女性名由来のロシア系表記でした。カタカナ表記すれば「ヨーシナ」か。



フィリップ
 原音「Filip」。英語圏における「Philip」のスラブ語系表記。とすると、前記註釈「Russian novels」は「ロシアの小説」ではなく「ロシア語の小説」か。男はスラブ語圏の名前を持ち、ロシア語を読むことができる。舞台がロシア、あるいは亡命ロシア人か。なぜ「ロシア」なのかは不明。



鼠がいるのに気づいた
 これは考えすぎかもしれませんが。
 物語のほとんどは「dark(暗闇)」の出来事です。この場面でも、部屋の明かりも角灯も消えており、室内は暗闇のはず。つまり暖炉の火だけが唯一の明かりです。暖炉の火に照らされた鼠の姿は、おそらく真っ赤な毛皮をまとって見えたことでしょう。
 フィリップが母親のことを思い出したのは、「歌麿の絵」と「自分が恐がりだということ」、あるいは「mouse」も「mother」も「m」で始まることも関係していたかもしれませんが、カーシャの思い出し方はやけに唐突です。火に照らされた「赤い毛」がきっかけだったのかもしれません。



手を差し伸べてくれた
 原文は「put her wooing hand upon him(=口説きの手を彼の上に置く)」。
 「歌麿の浮世絵」が「母とヨシネ」に重ね合わされ、「鼠」と「母」が重ね合わされているのは自明のことなのですが、「カーシャ」と「母親」が重ね合わされているのかどうかがよくわかりません。「カーシャ」=「母」だとすると、「口説きの手」=「罪深き手」を切り落とされた、とも捉えられますが。



赤毛
 「薔薇」も「林檎」も赤色をイメージさせることに注意。(※ちなみに「Cassia」という人名は植物「桂皮」を意味する。桂皮は黄色い花を咲かせる。)



百合
 「赤毛」の項では、「薔薇も林檎も赤色をイメージさせる」と書いたけれど、白薔薇は百合と共に純潔の印。聖母マリアの象徴でもある。とはいえ、薔薇の場面と百合の場面はまったく違う箇所だから、二つを結びつけて考えるのは牽強付会か。
 ※植物に関わる単語はすべて原文通りに訳すべきだったかもしれない。この箇所で言えば「lilac」は「薄紫色」ではなく「ライラック色」、あるいはほかにも「oranges」は「派手な明かり」とかではなく「オレンジ色」、「lime tree」は「支那の樹」ではなく「ライムの木」などなど。



支那の樹
「シナノキ」は漢字で書くと「科木」なのですが、中国・インド原産種ということもあり、雰囲気を出すためこう表記しました。差別用語じゃありません。
また、花言葉は「夫婦愛」ということですが……?



薔薇
 この物語の薔薇には香り・匂いがありません。「薔薇の中から風のように現れ」、「大気を埋めた薔薇のふっくりした光沢」とあるのみ。実際のところ、物語中ではっきり“匂い・香り”について書かれてあるのは、冒頭の「乾し林檎と鼠」及びここ「枝に実る熟した林檎」のみ。「that was full of the smell of dried apples and mice,」という原文を「(乾し林檎の匂い)と(鼠)でいっぱい」と捉えるのは無理があるように思うので、やはり「(乾し林檎)と(鼠)の匂いでいっぱい」と解すべきなのでしょうが、どうしても、物語中で匂いのあるのは林檎だけ、と解釈したい気持に駆られます。色や姿形についてこれだけ様々なものを重ね合わせている作者が、匂いに無自覚だったとは考えにくいし、考えたくないからです。

 ちなみに、はっきりとは書かれてなくとも、匂い・香りが漂っているであろう箇所は以下の通り。「珈琲」、(「靴工場」)、「ガス」、「火の燃える匂い」、「チーズ」、(「雲雀」)、「母乳」、「血の匂い」、(「芹」?、「梟の肝油」?)、「ルーピアック」、(「支那の樹」)、「薔薇」。
 おそらく「チーズ」と「母乳」は連想が働いているか。

 それにしても「林檎の匂い」だけがクロースアップされているのはなぜか。甘酸っぱさ? 原罪の象徴? 原文を見ると、片方は「the smell of dried apples」であり、片方は「the smell of ripe apples」――昔の思い出の林檎は「熟した林檎の匂い」であり、今現在の林檎は「乾し林檎(乾いた林檎)の匂い」です。同じ林檎の匂いでありながら、実は同じではない。“若く瑞々しい林檎=若く瑞々しい思い出”と“干涸らびた林檎”=“歳を取ってしまった現在”を対比しているとも考えられます。もちろん、熟した林檎と乾し林檎では、見た目もまったく違います。
 その点、薔薇は常に薔薇でしかない。永遠の愛の象徴。過去シーンにしか登場しないし、匂いもしないのはそのためか。思い出の中で、林檎の匂いだけは本物だったと感じた、けれど目を開けてみると、そこにあったのは「熟した林檎」とは似るべくもない「干した林檎」だった……。「鼠」に匂いがあるのも、「鼠」が現在シーンの存在だからでしょうね。思い出には匂いがない。そういうことなのでしょう。



音を立てた……。
 視覚・嗅覚ときたので、聴覚についても考えてみます。この物語は基本的に暗闇と無音の世界です。だからこそ色や匂いが意味を持ってくるわけですが。
 現在時制における音の記述は以下。「よく響く階段」、「ガスの音」、(「火の爆ぜる音」)、「鼠取りの音」。
 過去時制における音の記述は以下。「母乳のほとばしる音」、「心臓の鼓動」、(「馬車に轢かれた苦痛の呻き」)、「祭りのざわめき」、「ダンス音楽」「狐の声」、「閂の音」=「鼠取りの音」。
 ※暗闇における音は太字で、明るさの中での音は黄色字で表記しておきました。

 白黒の夢しか見ない人、匂いや効果音もついた夢を見る人、夢の映像は人によって様々ですが、記憶・思い出というのはどうなのでしょう? 少なくともフィリップの記憶には匂いがついていません。では音は?
 「閂の音」=「鼠取りの音」という錯覚は、匂いにおける「熟した林檎の匂い」=「乾し林檎の匂い」という錯覚と似ています。思い出の中で音や匂いがしているのかと思っていたのに、実は現実の音や匂いだった、と。それを考えると、フィリップの思い出には音もなさそうな気がします。
 深読みすると(というか、飛躍して考えてみると)、「母乳の流れの音」=「ガスの音」、「心臓の鼓動」=「今現在の自分の心臓の鼓動」、「狐の声」=「鼠の鳴き声」、と取れなくもない。無理があるか。
 ここは単純に、無音の中「カツーン、カツーン」と響く階段の音、ひときわ賑やかな思い出における祭りの喧噪のクロースアップ、そんな映画的効果というところかも。





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