シルヴィーとブルーノ完結編 ルイス・キャロル 東照訳 凡例 一、この文章は、Lewis Carroll "Sylvie and Bluno Concluded" の全訳である。 一、本文中の正編ページ数は、ちくま文庫『シルヴィーとブルーノ』(柳瀬尚紀訳)による。 一、ルビは《 》もしくは|《 》でくくった。(青空文庫の方式に準ずる) 一、ことば遊びはなるべく日本語に訳出しようと努めているが、その結果、原文とは意味が著しくことなる訳文になった箇所もあることをお断わりしておく。 一、この翻訳は許可を取ることなく自由に複製・改変・引用・配布して構わない。ただしそれによって生じたいかなる事態についても訳者は責任を負わない。 目次 序文 第一章 ブルーノの勉強 第二章 愛の晩鐘 第三章 夜明けの光 第四章 犬の王様 第五章 マチルダ・ジェイン 第六章 ウィリーの妻 第七章 ミステル 第八章 こかげにて 第九章 お別れ会 第十章 おしゃべりとジャム 第十一章 月の人 第十二章 妖精の調べ 第十三章 トトルズの言うことにゃ 第十四章 ブルーノのピクニック 第十五章 仔狐たち 第十六章 天上の声 第十七章 救いに! 第十八章 新聞の切り抜き あわい夢、神の怒れる手を逃れしもの―― 静かに死せる母の胸の上に固くこわばった両の手は、 固くつよく握りしめても握り返すことはもはやない、 しとどに泣きじゃくる子どもをあやすことも―― もうすこしで、おとぎ話を 聞いてもらうのも、これでおしまい。君は愛しい妖精《フェイ》―― 君にいたずらして生きる精霊《スプライト》の守護者―― ただいちずに愛し、戯れに怒るのは 妖精ブルーノ、陽気なやんちゃ者! 君を見た者なら誰だって、 知らんぷりなどできようか? ぼくはできなかった―― だいすきなシルヴィーに別れを告げなくてはならない、「さようなら!」 序文  肯定的か否定的かを問わず前巻に目を留めてくださった評論家の皆さんに、この場を借りて心からの謝意を表明させていただきます。否定的なご意見をいただくのはおおかた当然であったが、あまり肯定的なご意見を期待してはいなかった。どちらのご意見も本の宣伝に貢献してくれたことは間違いないし、世の読書人が意見をはぐくむ助けになったことは疑いない。ここで一言申し上げておくが、そうした批評のいずれを読むのも控えさせていただいたのは、なにも敬意を払っていないからではない。著者というものはいかなるものであれ自著の書評を読むべきではない。否定的な書評は不愉快にさせるし、肯定的な書評はうぬぼれを引き起こす。どちらも好ましくない結果を招くことになる。  だが個人的な消息筋から届いた批評のいくつかにはお答えしておこう。  そうした批評者の一人は、教会の説教と聖歌隊に対するアーサーの攻撃が厳しすぎると訴えている。お答えさせていただければ、本の登場人物が口にした意見には筆者は何一つ責任がない。それはただの意見に過ぎず、考慮に値するのであれば、おそらくは筆者から口に意見を放り込まれた人物たちが責任を負うことになるだろう。  別の批評者の方々からは、「あら〜ぬ」、「せ…ぬ」、「ひとりだび」という綴り上の改革に異議を唱えられた。筆者としては、一般的な用法の方が間違っているという主張を申し立てることしかできない。「あら〜ぬ」について言うと、「ぬ」で終わるほかの言葉の場合にはすべて、「ぬ」が「ない」の短縮形だと言うことに議論の余地はないだろうが、「あらぬ」の場合にかぎって「ぬ」は「(あり)はしない」の代わりだと考えるのは馬鹿げていると言うほかない! 実際の話、「往ぬ」が「往った」という意味であるように、「あらぬ」は「あらった」という意味を表すべきである。また、「せ…ぬ」の点が必要なのは、「する」という単語がここで「せ…」に略されているからだ。だが点をつけずに「やらぬ」と綴るのが正しいのは、ここには「やる」という単語が完全な形で残っているからだ。「ひとりだび」のような言葉については、前の単語とくっつくときには後ろの単語の清音は濁り、でなければそのままというのが正しい原則だと考えている。この規則は多くの場合に守られている(例えば「選り+好み」は「よりごのみ」だが、「捧げる」は「さざげる」ではない)、そこでわたしは既存のルールをそのほかの場合に拡張しただけだ。しかし「似通う」はこの規則で綴られていないことは認める。だが語源的には「通う」だけで「似通う」の意味があったのだから、ここでは「似」は語幹と考えておくとしよう。  前作の序文にあった二つのクイズには、読者の方々も頭をひねってくださったのではないだろうか。筆者は五四ページ頭から五七ページ後半にわたる一節に「埋め草」を三行つけ加えなくてはならないことに気づいた。一つ目は、その三行を見つけ出すことである。答えは五六ページの一一、一二行目。二つ目は、八篇からなる庭師の歌(七六、八八、九二、九九、一一〇、一一八、一五九、一六三ページ参照)のうち、(もしあればだが)どの歌が本文の文脈に合わせて書かれたのか、そして(もしあればだが)本文のどこが歌に合わせて書かれたかを判断するというものであった。最後の歌だけが本文に合わせて書かれたものだ。『木に潜り込んだ』何かの動物(確か鵜)の代わりに、『鍵で開いた庭の木戸』と書き換えた。八八、一一〇、一六三ページでは、歌に合わせて本文が書かれた。九九ページは歌も本文も書き換えることはなかった。相性がよかったのは幸運としか言いようがない。  前作の序文一三〜一五ページでは、『シルヴィーとブルーノ』の物語の成り立ちを説明しておいた。もう少し詳しい話をしても、読者の方々は我慢してくださることだろう。  短いおとぎばなし(一八六七年に「ブルーノの復讐」というタイトルで『ジュディおばさんの雑誌』のために書いたもの)が、もっと長い物語の核として使えるかもしれない、と思いついたのは、今思えば、一八七三年のことだった。筆者が思うに、第二巻の最終節の草案を思いついていたのだから、この物語は一八七三年に遡る。つまりこの節は刊行に付される機会を二十年も待ち続けていたのだ――文学作品の「|再出版/抑制《リプレッシング》」のためにホラティウスが忠告した期間の二倍以上である!  一八八五年二月には、本のイラストを描いてくれるようハリー・ファーニス氏と交渉をはじめた。正続二巻のほとんどはそのときには原稿の状態だった。筆者自身としては、全物語を同時に出版するつもりだった。一八八五年の九月、ファーニス氏から最初のイラストが届いた――「ピーターとポール」を描いた四枚だ。一八八六年の十一月には二組目が届いた――教授が歌う「ちっちゃな銃」を持つ「ちっちゃな男」を描いた三枚である。一八八七年の一月には三組目が届いた――「豚の尾話」を描いた四枚だ。  私たちはこのようにして、順序のことは考えずに物語の一場面を描いたら次にはまた別の場面を描き続けた。一八八九年の三月になってようやく、この物語が何ページになるのか数えてみた。そこで物語を二つに分け、まずは半分を出版することにした。このため第一巻に結末らしきものを書かなければならなくなった。一八八九年十二月に第一巻が出版されたときには、ほとんどの読者がそれを本当の結末だと考えたのではないだろうか。いずれにしても、筆者が受け取った手紙のなかには、あれが最終的な結末ではないと疑っていたものはたった一通しかなかった。女の子からの手紙だった。「本を終わりまで読んだときにはうれしかったです。これでおしまいではないと気づいたからです。先生は続篇を書く予定があるとはっきり教えてくれてましたね」  読者のなかには、この物語を構成する原理を知りたがる方もいるかもしれない。もし本当に妖精がいて、ときどき私たちの前に現れたり、私たちが妖精の前に現れたりすることがあったとしたら。そして妖精がときには人の姿を装うことができるとしたら。あるいはまた―― 「密教」で体験するように、非物質的な霊的存在が現実的な移動をおこなって――人間もときどきは妖精の国にいることを感じるようになったとしたら。そういう場合に起こり得ることを明らかにしようとしたのだ。  人間というものは、以下のような意識の段階を経ることによって、さまざまな霊的状態になれるものだと筆者はつねづね考えていた。 (a)普通の状態。妖精の存在に気づかない。 (b)〈あやかし〉の状態。周囲の現実を知覚しながら、妖精の存在も知覚している。 (c)トランス状態。周囲の現実を知覚することなく、眠っているように見える状態。人(つまり人の霊的存在)は現実世界や妖精のほかの場所に移動している。妖精の存在を知覚している。  それにまた妖精というものは、妖精の国から現実世界に自由に行き来ができたり、好きなときに人間の姿になれたりするものだと考えていたし、またさまざまな霊的状態になれるものだと考えている。すなわち。 (a)普通の状態。人間の存在を知覚していない。 (b)一種の〈あやかし〉の状態。妖精が現実世界にいるであれば、人間の存在を知覚する。妖精の国にいるのであれば、人間の霊的存在の存在を知覚する。  ここで正続二巻のなかから、非日常状態が現れる箇所を表にしてみよう。 第一巻  語り手の場所と 状態 他の登場人物 027-039 汽車の中    c  長官(b)027 050-068 同じく     c 076-089 同じく     c 092-105 宿       c 110-119 浜辺      c 119-174 宿       c  SとB(b)154-159 教授(b)163 181-206 森の中     b  ブルーノ(b)185-206 209-216 森の中、夢遊  c  SとB(b) 229-233 廃墟の中    c  同じく(b) 239,234 同じく、夢の中 a 240-245 同じく、夢遊  c  SとBと教授が人の姿で 246   通り      b 253-267 駅など     b  SとB(b) 273-290 庭       c  SとBと教授(b) 294-306 道など     a  SとBが人の姿で 307-315 通りなど    a 318-335 森の中     b  SとB(b) 第二巻 第一章 474-482 庭       b  SとB(b) 第三章 496-498 道       b  同じく(b) 四と五章498-511 同じく     b  同じく、人の姿で 第六章 511-517 同じく     b  同じく(b) 十〜十三547-578 居間      a  同じく、人の姿で 十四〜五578-595 同じく     c  同じく(b) 第十七章603-607 喫煙室     c  同じく(b) 第十九章623-626 森の中     b  同じく(a) ミュリエル嬢(b) 廿〜廿一627-644 宿       c 廿二〜四646-669 同じく     c 第廿五章673-end 同じく     b  第一巻の序文(一三、一四ページ)で筆者は、本のなかで形になっている着想をどこから拾ったのか、いくつかお伝えしておいた。もう少し詳しくお知りになりたい方もいらっしゃるだろう。  第一巻一九〇ページ。鼠の死骸の一風変わった使われ方は、実体験に基づくものである。かつて筆者は、小さな男の子二人が庭で小型版「シングル・ウィケット」をしているのを見かけたことがあった。バットはテーブル・スプーンほどの大きさだったと思う。その熱闘でボールが一番遠くまで届いた距離は、四、五ヤードかそこらであった。無論のこともっとも重要なのは、正確な距離である。距離はつねに慎重に計測され(打者と投手は友好的に協力し合っていた)。計測に使われていたのは鼠の死骸だった!  第一巻二三七、二三八ページでアーサーが引用した二つの似非数学公理(『同一のものより大きいものは、たがいに大きいものよりも大きい』と『すべての角度は等しい』)は、イーリから百マイルもない大学の学生が実際に、それも大真面目に発表したものである。  第二巻第一章、ブルーノのセリフ(『できるよ、その気になればね』など)は、実際に男の子が使っていた。  第二巻第一章のブルーノのセリフもそうだ(『なんて書いてないかはわかるよ』)。そして(『目をぐるんてしただけ』など)というセリフは、私のなぞなぞを解いた女の子の口から聞かされたものである。  第二巻第四章、ブルーノの独白(『お父さんがおウマさん』など)は、客車の窓から外を眺めていた女の子が実際に話していたことだ。  第二巻第九章、果物の皿を求める晩餐会の客のセリフ(『ずっと欲しいと思っていたものですから』など)は、偉大な桂冠詩人が用いていたのを聞いた。読書界全体がつい先ごろその死を悼んだに違いない。  第二巻第十一章、〈ミステル〉の年齢についてのブルーノの話は、この質問に対する女の子の答えを文字にしたものだ。『君のおばあちゃんは老婆心が強いかい?』『老婆かどうかわかんない』その子は慎重に言った。『八十三才よ』。  第二巻第十三章、〈妨害〉についての話は、私の想像の産物ではない! 『スタンダード』紙のコラムからそっくりそのまま写し取ったものだ。しゃべっていたのはウィリアム・ハーコート卿で、一八九〇年七月十六日当時、『国民自由クラブ』で〈野党〉の一員だった。  第二巻第二十一章、犬のしっぽに関する教授のセリフ『そっち側は咬まない』は、犬のしっぽを引っ張ると危ないと注意された子供が実際に使っていた。  第二巻第二十三章後半のシルヴィーとブルーノの会話は、ふと耳にした子供たち二人の会話を(「小銭」を「ケーキ」に代えただけで)そのまま記録した。  本書のなかのある物語――「ブルーノのピクニック」―― は、何度となく試しているので請け合えるが、子どもたちに話して聞かせるのにぴったりの物語だ。聞き手が村の学校にいる一ダースの女の子たちだろうと、ロンドンの応接間にいる三、四十人の客人だろうと、高校の百人だろうと、この物語を面白いと感じて、いつでも真面目に耳を傾け、ひたむきに鑑賞してくれるのがわかった。  この機会に、筆者自身もうまくいったと自負している命名に光を当てても構わないだろうか。第一巻五九ページ、〈シビメット〉という名は、副総督の性格を見事に表してはいないだろうか? ほったらかしにしているだけでまったく吹かないのであれば、真鍮のラッパほど無意味な家具もあるまいと、読者の方も確信されることだろう!  第一巻序文の一六ページで出しておいた二つのクイズを解こうと楽しまれた読者の方々は、次のクイズにも果敢に挑んでくれるのではないだろうか。次の対比のうち(もしあるのなら)どれが意図的であり、(もしあるのなら)どれが偶然かを見つけてほしい。 「小鳥」  出来事、と人 節 1、宴会   2、長官   3、皇后とほうれん草(第二巻第二十章)   4、総督の帰還   5、教授の講義(第二巻第二十一章)   6、もう一人の教授の歌(第一巻133ページ)   7、アグガギのかわいがられ方   8、ドッペルガイスト男爵   9、道化師と熊(第一巻123ページ)、子狐  10、ブルーノのディナーベル:子狐  このクイズの答えは、ただいま準備中の『オリジナル・ゲームとパズル』という小冊子の序文で発表するつもりだ。  最後に残しておいたが、真面目な話題が一、二個ある。  この序文では、前巻のとき以上にきっちりと「スポーツの道徳性」を論じるつもりであった。スポーツ愛好者からいただいた手紙を参考にするかぎりでは、人間にとっていかにスポーツが有益であるかがいくつも指摘され、動物が受ける苦痛など考えるだに値しないほど些細なことであると証明しようとしていた。  だがこの問題をじっくり考えて、賛否にわたる議論全体を整理してみた結果、この場で扱うにはあまりに大きすぎる問題だということに気づいた。いずれ、この問題について小論を発表したい。今のところは、筆者がたどり着いた最終結果を述べるに留めておく。  すなわち、神が人に与えたのは、食糧にするというような何らかの正当な理由があればほかの生き物の生命を奪ってもよいという、絶対的権利である。だが、その必然性がないのに苦痛を及ぼす権利を与えたりはしなかった。単なる娯楽や利益では、そうした必然性には入らない。したがって、スポーツ目的で苦痛を与えるのは、残酷であり、ゆえに不当なものである。だがことは筆者の予想より遙かに複雑であった。狩猟家《スポーツマン》側の「症状」は予想以上に手強いものだと気づいた。だから差し当たりこれ以上は何も言うまい。  筆者が「アーサー」の口から語らせた厳しい言葉に、反論の声が挙がった。二四九、二五〇ページ「説教」の話題と、二四八、二四九ページの合唱礼拝と「少年聖歌隊」についての箇所である。  物語の登場人物の意見を筆者が支持する可能性については、すでに反論しておいた。だがこの二つに関しては、筆者自身「アーサー」に賛成であることを認めよう。あまりにも多くの説教が我々の求めるところとは遙かに遠いところにあると思われる。したがって、多くの説教がなされるものの聞くに堪えない。それゆえに聞かないことが増えてしまう。今この文章を読んでいる方々も、日曜の朝には教会に行かれたのではないだろうか? ではもしよければ、聖句の原典を指摘したうえで、牧師がそれをどう練り上げたのか仰っていただきたい!  次に、「少年聖歌隊」とそれに関わるもの――楽曲、祭服、行進など――について言うと、「典礼」運動が痛切に必要だったことも、それがぎりぎりまで疲弊して干からびていた英国の礼拝に大きな進歩をもたらしたことも、認めるのはやぶさかではないが、価値ある運動のほとんどがそうなってしまうように、これも極端に振り切れ過ぎて新たな危険をいくつも生み出してしまったように思う。  信徒にとってこの新しい運動は、礼拝とは自分たちのために行われるものであり、提供すべきものは自分たちの肉体的存在だけだと思い始めてしまう危険をはらんでいる。信徒と同じく聖職者にとっても、こうした込み入った礼拝をそれだけで完結するものと見なしてしまい、礼拝が単なる手段であって我々の生活のなかに実を結ばないのであれば中身のない粉い物でしかないのだということを、忘れてしまう危険をはらんでいる。  少年聖歌隊にとっては、二四九ページ(註、「入湯」は「入場」の誤植である)で説明したように、虚栄心という危険や、自分たちの助けが必要とされていないのであれば礼拝のそうした部分には注意を払う価値がないと見なしてしまう危険、礼拝を単なる形式上のものと見なすようになる危険をはらんでいる ――一連の行動を取り、言葉や歌を口にしているあいだも、心はここにあら〜ずで――「慣れる」ことで神聖なものへの「軽視」を助長する危険もはらんでいる。  最後の二つのタイプの危険について、筆者自身の経験から説明させていただこう。それほど前のことではないが、筆者は大聖堂の礼拝に出席し、聖歌隊のすぐ後ろの席に着いた。彼らにとって聖書の朗唱とは、さして重要視しなくてよいものであり、楽譜を揃えたり何なりするのにちょうどいい機会だと思われていることに、筆者は気づかざるを得なかった。少年聖歌隊が一並びに入場して位置に着き、祈ろうとでもするようにひざまずいて、いくらか時間をかけて周りに目をやってから立ち上がる光景もよく見かけたが、ただの見せかけに過ぎないのが見え見えもいいところだった。このように祈るふりをすることになれてしまうことが、子どもたちにとって危険であるのは間違いなかろうに? 神聖なものを不敬に扱う一例として、ある慣習に触れておこう。すなわち、聖職者と聖歌隊が行列する教会では、個人的祈りは聖具室に届けられ、会衆にはもちろん聞き取れないが、その終わりには、最後の「アーメン」が教会中に聞こえるほど大声で叫ばれることにほとんどの方はお気づきではないだろうか。これは、もうすぐ行列が現れるから立ち上がる準備をしなさいと会衆に合図するためである。そんな目的のためにこのように叫ぶことには議論の余地はない。「アーメン」と口にするのが本来は誰に対してなのかを思い出してほしい。それがこのように教会の鐘と同じ目的で用いられていることを考えると、あまりにも不敬なことであると認めざるを得まい? 聖書を足台として用いているのを目撃してしまったほどのことに匹敵する。  新しい運動によって聖職者自身にもたらされた危険の例として、筆者の経験による事実を述べさせてもらおう。国教会の聖職者たちには特にふざけた話を撒き散らす傾向が強く、極めて神聖な名前や言葉――ときには聖書の原文――が、冗談の種としてよく使われている。こうしたことがもともと子どもの口から飛び出していた通りに繰り返されているのだが、悪に対して完全に無垢な子どもなら神の目から見てあらゆる非難から免れもしよう。だが冒涜的な喜びのネタにするためにこうした無垢な発言を意識的に用いているような人々に対しては、話が別である。  しかしながら声を大にして言いたいのは、こうした冒涜はたいていは無意識のものである、と筆者が確信しているということだ。「環境」によって(第二巻第八章で説明しようと試みておいたように)、人と人とのあいだにはあらゆる違いが生じる。こうした不敬な話の多くが――筆者にとっては聞くのも痛ましく、繰り返すことにも罪を感じるだろうが――聖職者たちの耳には何の痛みも与えず、良心に何の打撃も与えないというのは結構なことだ。あるいは聖職者たちが筆者と同じく心から「願わくは御名を崇めさせたまえ」および「汝らの心つれなきより、また汝らの言葉と誡命を侮りしより、神よ、我らを救い給え!」という二つの祈りを唱えられるのも結構なことだ。それに加えて、彼らと筆者自身のために、キーブルの祈りを付け加えさせていただきたく思う。「祈りにこたえてみそばにはべらせ、この日とすべての日々、我らを救いたまえ!」。実際問題として、そのこと自体よりもむしろその結果のために――説教者と会衆の双方にとって深刻な危険を伴っていることを考えると――社交的な場面でこうした冒涜的な話をする癖が聖職者にあることを残念に思う。信心深い会衆がこうした冗談に耳を傾け楽しんだりするだけで、神聖なものを崇拝する気持を失わせてしまうという危険をもたらしているのだ。さらには他人を楽しませるために自分が聞いたことを吹聴したいという誘惑もある。公に認められている伝道者がその信頼を裏切る光景を不信心な会衆が目にすれば、自分たちの考え方は正しかったのだというお墨つきを与えることになる。説教者自身にも、信用を失うという危険を必ずやもたらすことになる。確かにこうした冗談に関して、危険性を意識せ…ずに口にしているとしたら、同時に、我々の言葉に耳を傾けるリアルな神の存在も意識せ…ずに口にしているに違いない。普段からその意味も考えずに神聖な言葉を口にして恥じないのであれば、その人間にとって神は作り物になり天国は絵空事になってしまったことに気づくのは確実であるし――生命の灯が失せ、心の底では「手に感じるほどの暗闇」に迷った無神論者であることに気づくのも確実である。  残念ながら現在では、神の名や宗教に関する話題を扱うにあたって、敬意をおろそかにする傾向が強まっている。劇場のなかには、舞台上で聖職者をひどく風刺して、憂慮すべきこうした傾向を助長しているところもある。聖職者のなかには自らこの傾向を助長している者もいる。崇拝心というものは法衣とともにうっちゃっておくことができ、教会の外に出れば、教会の中でこそ盲目的ともいえる敬意を払っていた名前や御物のことも、冗談のように扱うことができると知らしめているのである。「救世軍」がよかれと思ってやっていることも、残念ながら神聖なものを気さくに扱うせいで、このことを助長している。「御名を崇めさせたまえ」という心を持って過ごしたいと考えている人間であれば間違いなく、どんなにささいなことであれ、このことを止めるためにできることをすべきである。そういうわけだから、このような類の本の序文としては不適切な話題であるかもしれないが、長いあいだ心の中にわだかまっていた考えのいくつかを表明するために、こんなにも素晴らしい機会を与えられたことをうれしく思う。第一巻の序文を書いたときには、これほど多くの方々に読んでもらえるとは予想もしていなかった。だがありがたいことにたくさんの方に読んでもらったと信じるに足るしるしが届いているし、願わくばこの序文もそうなることを祈っている。なかには筆者がこの先に書き留めておいた見解に同意する用意のできている方もいらっしゃるだろうし、祈ったり手本となったりして社会から消えかけている精神を、崇拝の気持を復活させることに一肌脱ぐ用意のできている方もいらっしゃることだろう。    一八九三年、クリスマス 第一章 ブルーノの勉強  それから一、二か月のあいだは、反動で一人きりの都会生活がいつもとは違って退屈で飽き飽きしたものに感じられた。エルヴェストンに残してきた素晴らしい友人たちが恋しくなった――気の置けない意見のやりとり――人の思考に新鮮な現実をもたらす共感。だが、おそらく何よりも恋しいのは、仲良くなった二人の妖精――あるいは夢の子供たち――のことだ。ぼくはまだ、あの甘美な明るさでぼくの人生を魔法の輝きで照らした二人が何者/何物だったのかという問題を解き明かしてはいないのだ。  仕事をしているあいだ――案ずるに多くの人をコーヒー挽きやしわ伸ばし器 のような精神状態にさせる時間――には、いつものように時間は飛び去ってゆく。一休みしているあいだは、本や新聞も満たした腹には睡眠薬代わりでしかなく、わびしい思いに引き戻されるような、孤独な時間である。ここにいない親友の顔で虚空を満たそうとするが――まったく無駄に終わり――そのこと自体に孤独の本当のつらさを気づかされる。  ある晩、いつも以上に退屈な気分を抱えてクラブに立ち寄ったときも、そこで友人に会えるなんて期待はさほどしていなかった。今やロンドンは「町外れ」なのだから、せいぜいいここで「人間らしいおしゃべりの心地よい言葉」を聞き、人間らしい考えと触れ合いに行くのだという気持があったくらいだ。  ところがそこで最初に見つけたのは友人の顔だった。エリック・リンドンがずいぶんと「退屈した」顔つきで新聞の上をだらだらとさまよっていた。そこでぼくらはお互いにうれしさを隠そうともせ…ずにすっかり話に夢中になっていた。  しばらくしてから、ちょうどそのとき頭のなかを占めていた話題に触れてみることにした。「ところで先生は」(この呼び名を使うのがぼくらの暗黙の同意事項だった。堅苦しい「フォレスター医師」と、親しげな――エリック・リンドンがそう呼んだことはほとんどなさそうだが――「アーサー」を折衷した妥協案である)「今ごろは外国だと思いますが、よければ住所を教えてもらえませんか?」 「まだエルヴェストンにいますよ――たぶんね」それが答えだった。「ですがこのあいだあなたと会ってからこっち、あそこには行っていないので」  この報せのなかで一番驚いたのはどの部分だっただろう。「でも――失礼ですが――結婚式はいつ――ことによるともう挙げてしまったんですか?」 「いいえ」エリックの声はこわばっていて、ほとんど何の感情も込められてはいなかった。「あの婚約はなくなりました。ぼくは未だに〈未婚のベネディック〉です」  そのあとはいろいろな思いが――アーサーの幸せにとって新たな希望の光で満ちた思いが――到来して、うろたえたあまりにそれ以上は話も続けられず、喜びのあまり折りを見て丁寧な断りを入れるのも忘れて黙り込んでしまった。  次の日、ぼくはアーサーに手紙を書いて、長いあんだ音沙汰がないのはひどいじゃないかと、あら〜んかぎりの言葉で責め立て、いったい何があったのか教えてくれるよう頼んだ。  返事が来るまでは三、四日――あるいはもっと――かかるだろう。一日一日というものがいっそう退屈なうえにだらだら長々と進むものだとはちっとも知らなかった。  時間をつぶすつもりで、ある日の午後、ぼくはケンジントン公園までぶらついて、目の前の小径をどれということなく当てもなく歩いていると、いつの間にか、なぜかまったく知らない小径に迷い込んでしまった。それでも、不思議な経験のことはぼくの生活から完全に薄れてしまっていたようだ。ふたたび妖精の友達に会いたいということしか考えていなかったというのに。そのとき、ほんの偶然から、小さな生き物が小径を縁取る芝生のなかを動いていることに気づいた。昆虫でも蛙でもないようだし、といってほかにどんな生き物かと言われても見当がつかない。ぼくはそっと膝をついて両手で囲い込み、動き回る小動物を捕らえた。そこで突然、驚きと喜びをぞくぞくと感じたのは、その囚われ人がほかでもないブルーノだったと気づいたからだ!  ブルーノは極めて冷静に事態を受け止めていたので、会話しやすいような距離を取って地面に降ろしてやると、このあいだ会ったのがつい数分前でしかないかのように、しゃべり出した。 「決まりをしらないの?」ブルーノが問い詰めた。「どこにいたのか言わなかっているうちに、妖精をつかまえるときの?」(ブルーノの文法は、このあいだ会ったときから全然上達していなかった) 「うん。妖精のことで決まりがあるなんて知らなかったよ」 「あーたにはぼくをたべる権利があると思うな」小さき友人は勝ち誇ったような笑みを浮かべてぼくを見上げている。「でもあんまし自信はない。訊かずるにたべないほうがいいよ」  しかるべき質問もせ…ぬうちは、そんな取り返しのつかない行動を取らないというのは、なるほど道理にかなっている。「真っ先に訊くことにするよ。それに、君に食べるだけの値打ちがあるかどうかもまだわからないしなあ!」 「おいしいくらいに食べごろだと思うけどな」ブルーノの満足げな声を聞いていると、それが誇らしいことでもあるかのようだった。 「それで、ここで何をしてるんだい、ブルーノ?」 「ぼくはそんな名前じゃないよ!」いたずらっ子はそう言った。「ぼくの名前は『まあブルーノ』じゃなかった? シルヴィーはいつもそう呼んでるよ、ならったことを口にするとさ」 「よしわかった、ここで何をしてるんだい、まあブルーノ?」 「勉強してるんだ、もっちろん!」いたずらっぽく目を光らせるのは、ナンセンスなことを話していると自覚しているときの癖だった。 「それが君の勉強の仕方かい? ちゃんと覚えたかな?」 「ぼくの勉強ならいつだっておぼえれるよ。むじかしすぎておぼえれないのはシルヴィーの勉強さ!」頭が痛いよ、といったふうに顔をしかめると、額をとんとんと叩いた。「ちゃんとにわかるとは思えないよ!」どうしようもないらしい。「きっと二倍ぶん考えなきゃだめなんだ」 「ところでシルヴィーはどこに行ったの?」 「ぼくも知りたいよ!」ブルーノはうんざりとして口をとがらせた。「ぼくに勉強の用意をさせてなんの役にたつんだろう、シルヴィーがここにいてむずかしいのを噛んで含んでくれなきゃさ」 「君のためだ、シルヴィーを探そう!」とぼくは買って出た。立ち上がって、もたれていた木陰の周囲をうろうろし、くまなくシルヴィーを探して歩いた。しばらくすると、またもや見慣れぬものが芝生のなかを動き回っていることに気づいたので、膝をつくと、すぐ目の前にシルヴィーのあどけない顔があった。ぼくを見ると驚いて顔をぱっと輝かせ、あのかわいらしい声で話しかけてくれたのだが、ぼくは初めの方を聞き逃してしまい、聞こえていたのは話の終わりのようだった。 「なのでもう終わってると思うので、戻ってみます。ご一緒なさいますか? この木の反対側の辺りなんです」  それはぼくにはほんの数歩だったが、シルヴィーには何十歩という距離だった。置いてきぼりにして見失ってしまわないように、できるだけゆっくりと歩かなくてはならなかった。  ブルーノのお稽古を見つけるのは簡単すぎるくらいだった。どうやらつやつやした大きな蔦《つた》の葉っぱに丁寧に清書されているように見える。それが芝生の剥げた地面の一画にあちこちと散っていた。だが本来ならその蔦に屈み込んでいるべき、青ざめた学徒の姿はどこにも見えなかった。ぼくらはしばらくあちこち見回したが無駄骨だった。だがついにシルヴィーが、蔦のつるにぶら下がったブルーノを見逃さずに捉えると、大地《テラ・フィルマ》に戻って自分の務めに戻りなさいと険しい声で命じた。  〈まずは喜び、務めは後で〉が、この小人族たちのモットーであるらしく、何より先に何度も抱き合ってキスを交わした。 「さあ、ブルーノ」シルヴィーはおかんむりだ。「『それまで』って聞こえるまでは、勉強を続けるはずじゃなかった?」 「でもそれどころか聞こえたんだ!」ブルーノはいたずらっぽく目を輝かせた。 「何が聞こえたの、こら?」 「空耳がね。蔦わってきたんだ。聞いてない、あなたさん?」 「どっちにしたって、あんなところで眠らなくたっていいでしょう、ねぼすけなんだから!」ブルーノは特大の〈お稽古〉の上で丸くなり、もう一枚を工夫して枕にしていたのだ。 「寝てなかったよ!」ブルーノはざっくり傷つけられたような声を出した。「目を閉じてるのは、起きてるって合図なんだから」 「わかったわ、それで、どれくらい覚えたの?」 「ちょっとすごく少しだけ」勉強の成果を大きく見せるのを明らかに嫌がって、ブルーノは控えめに答えた。「それ以上は覚えらんないよ!」 「まあブルーノ! その気になればできるはずよ」 「もちろんできるよ、その気になればね」青ざめた学徒は答えた。「でもその気になれないんだ!」  シルヴィーには――それほど感心はできるやり方ではないが――ブルーノの難解な屁理屈をはぐらかす方法があった。不意をついて別の話題を始めるのだ。今もこの見事な作戦を実行した。 「ねえ、ひとつ言っておくけど――」 「しってる、あなたさん?」ブルーノがさも重要そうな顔をした。「シルヴィーは数が数えれないんだ。いっつも『ひとつ言っておくけど』って言うんだけど、ぜったいふたつ言うんだ! いっつもそう」 「ふたつの頭脳はひとつに勝るって言うよ、ブルーノ」とは言ったものの、ぼくは自分でも何を言いたいのかよくわからなかった。 「頭がふたつあっても気にするもんか」ブルーノはそっと自分に言い聞かせた。「ひとつはご飯をたべる頭、ひとつはシルヴィーとけんかしる頭――頭がふたつあったら、もっとかわいくに見えると思う? あなたさん?」  疑う余地なし、とぼくは請け合った。 「だからシルヴィーはおこりんぼなんだ――」ブルーノは真剣だった。悲しそうでさえある。  シルヴィーはこの思わぬ方向からのアプローチに驚いて目を見開き――バラ色の顔が喜びに輝いた。だがシルヴィーは何も言わなかった。 「勉強が終わってからぼくと話す方がいいんじゃないかな?」 「いいよ」ブルーノがあきらめき顔で答えた。「そんときシルヴィーがおこりんぼしなければね」 「お勉強は三つしかないじゃない」シルヴィーが言った。「書取、地理、音楽」 「算数はないんだ?」ぼくは尋ねた。 「ええ、ブルーノは算数向きの頭をしていないんです」 「そりゃそうさ!」とブルーノ。「ぼくのの頭は髪の毛専用だもの。いろんな頭をしてるわけないじゃん!」 「――九九の算術が覚えられないし」 「歴史ならだいすきなんだけどな」ブルーノが答えた。「ご九ろう算の術はシルヴィーがくり返すてよ――」 「ええ、だからあなたも繰り返して――」 「だけどさ!」ブルーノがさえぎった。「シルヴィーやぼくがくり返さなくても、歴史はくり返すんだから。教授が言ってたもんね!」  シルヴィーが板に文字を書いた――「て・き・い」。「さあ、ブルーノ。なんて書いてある?」  ブルーノはしばらくのあいだ真面目に黙って眺めていた。「なんて書いてないかはわかるよ!」ついに音を上げた。 「だめよ」シルヴィーは言う。「なんて書いてある?」  ブルーノはその不可解な文字列を改めて眺めた。「ああ、反対向きの『いきて』だ!」と叫んだ。(確かにその通りだと思う) 「どうやったらそんなふうに見えちゃうの?」シルヴィーがたずねた。 「目をぐるんてしただけ。それからまっすぐ見るの。カワセミの歌をうたっていい?」 「次は地理よ」シルヴィーは言った。「それが決まりでしょう?」 「そんなにたくさん決まりがないほうがいいよ、シルヴィー! 考えったんだけど――」 「そうね、決まりはたくさんある方がいいわよ、おばかさん! だいたいどうやって考えるつもり? 今すぐその口を閉じなさい!」  ところが『その口』が自分から閉じる気配はなさそうだったので、シルヴィーが閉じてやった――両手で閉じて――それから手紙に封をするように、キスで封をした。 「ブルーノのおしゃべりに鍵をかけたので」と言ってシルヴィーがぼくを見た。「勉強するときに使う地図をお見せします」  地面に広げられたのは大きな世界地図だった。あまりに大きいのでブルーノは「翡翠《カワセミ》の王様」で名指しする場所を指さすために這いずり回らなければいけなかった。 「飛んでるてんとう虫子さん、カワセミ王に声かけられた。『じんセイロンいろあるけれど、きみは素敵でいいカンディア!』捕まえてからこう言った。『メディアくじゃなければこれからどう? お茶がいいかな、ごハンガリーかな。ヌビアガーデンで一杯どう?』爪でつかんでこう言った。『欧州そう』口でつまんでこう言った。『なかなかインド』ごくんと飲み込みこう言った。『お味がイートン』おしまい」 「まったく問題ないわ」シルヴィーが言った。「じゃあ翡翠《カワセミ》の歌を歌っていいわよ」 「コーラスしてくれる?」ブルーノがぼくに言った。 「残念だけど歌詞を知らないから」と言いかけたときだった。シルヴィーが何も言わずに地図をめくると、裏には歌詞が書かれていた。ある点で非常に変わった歌だった。コーラスがひとまとまりの歌詞の最後にではなく、真ん中に組み込まれてる。だが曲はわかりやすかったのですぐに覚えて、うまくコーラスすることができた。まあ、そんなことをひとりきりでうまくやれる分には、だけれど。手を貸してくれるようシルヴィーに合図したけれど駄目だった。シルヴィーはかわいらしく笑って首を振っただけだった。 カワセミの王様が天道虫にプロポーズ―― 〈歌え おまめ 歌え おめめ 歌え おみくじあめ!〉 「もっか敵なし 「頭も素敵だし―― 「白い髭ならまるでチーズ―― 「おしゃべり好きのぼくのお目々!」 天道虫は言いました「頭と言えばやっぱりまち針」―― 〈歌え プラム 歌え プリマ 歌え プラハの熱帯夜!〉 「どこでも刺したら 「ピタッと止まる。そんな針なら 「わたしにぴったり 「そわそわ頭なんか嫌!」 天道虫は言いました「髭があるなら牡蠣だって」―― 〈歌え はえ 歌え はね 歌え ハレー彗星観測隊!〉 「牡蠣は大好き。なぜなら 「お口を閉じてるから 「王冠かぶせてあげたって―― 「なんにも言わない、もう絶対!」 天道虫は言いました「針にも目がある、あしからず」―― 〈歌え 猫 歌え 鋸 歌え ニコチン中毒!〉 「針のおめめはとっても鋭い―― 「陛下の目とは大違い 「もう行って。――プロポーズ? 「お気の毒!」 「で、王さまは行っちゃったんだ」歌が終わると、ブルーノがその後を教えてくれた。「いつもとなんも変わらずに」 「まあ、ブルーノ!」両手で耳をふさぎながらシルヴィーが叫んだ。「『なん』も、じゃなくて、『なに』も、でしょ」  ブルーノは言い返した。「『なに?』って言うのは、シルヴィーの声がちっちゃくて聞こえないときだけさ」 「王様はどこに行ったんだい?」喧嘩になるのを防ごうとしてぼくはたずねた。 「もっと彼方だよ」ブルーノが言った。 「『もっと彼方』じゃないわ」シルヴィーが訂正した。「『はるか彼方』よ」 「そんならさ、おやつのときも、『「もっとナッツ」をちょうだい』、じゃないよね」ブルーノが言い返した。「『「春《はる》か夏《ナッツ》」をちょうだい』だ!」  今回はシルヴィーは知らんぷりして相手にせ…ず、地図を巻き始め、「授業は終わりよ!」とかわいらしい声で宣言した。 「音をあげたところはなかったかい?」ぼくはたずねた。「男の子はみんな、授業のあとで泣き言をこぼすものだろう?」 「十二時過ぎたら泣くないの」とブルーノが答えた。「晩ごはんが近いから」 「ときどき朝に」シルヴィーがささやいた。「地理のときや、反抗的なとき――」 「なにしゃべってんのさ、シルヴィー!」ブルーノが急いでさえぎった。「世界はシルヴィーのおしゃべりのためにあるんじゃないでそ?」 「へえ、それならどこでしゃべればいいの?」明らかに議論を始めそうな勢いだ。  だがブルーノの答えはきっぱりとしていた。「言い合いはやだ。遅くなるし、時間もなくなっちゃうし――なのにシルヴィーはすごく好きなだけいつまでもさ!」そう言って手の甲で目をぬぐった。そこには涙が光り始めていた。  シルヴィーの目にもすぐに涙があふれた。「そんなつもりじゃなかったの、ブルーノ!」そうささやくと、〈ネアイラの髪のもつれの中に〉議論は埋もれてしまい、二人は抱きしめ合ってキスを交わした。  だがこの新型の議論は、稲妻の閃光によって突然の終わりを告げられた。直後に雷鳴がとどろき、雨粒が滝のように落ちてきた。ぼくらが雨宿りしている木の葉の向こうで、生き物のようにコンコンパラパラ音を立て、ゴロゴロと唸っている。「狐の嫁入りってやつだな!」ぼくは言った。 「お嫁さんは先に落ちちゃったんだね」とブルーノが言った。「いま落ちてるのはキツネさんだけだ!」  しばらくすると、始まったときと同じくぱたりと雨音が止んだ。木陰から出てみると、嵐は去っていた。だが戻ってみると小さな友人たちが見あたらない。嵐とともに消えてしまわれては、家に帰るほかなかった。  テーブルの上でぼくの帰りを待っていたのは、見ればすぐに電報だとわかるあの黄色い封筒だった。大多数の人間にとっては、突然降りかかった大きな悲しみ――生命の輝きに、この世から完全に飛ばされることはできないあの影を落とすもの――と分かちがたく結びついているに違いない。もちろん――多くの人間が――突然の吉報を受け取ったこともあるに違いない。だがそんなことはおそらくめったにないだろう。人生というものは総じて、喜びよりも悲しみの方が多いのではないだろうか。それでも世界は回る。理由など誰にもわかるまい?  だが今回はつらい衝撃に直面することはなかった。それどころかわずか数語だけ(「書ク気ニナレナイ スク ニ来イ イツテ モ歓迎 オツテ手紙ヲ アーサー」)と、まるでアーサー本人がしゃべっているようだった。ぞくぞくするような喜びを感じたぼくは、すぐに旅の準備に取りかかった。 第二章 愛の晩鐘 「フェアフィールド駅! エルヴェストンに乗り換え!」  そんな他愛のない言葉に呼び覚ませられて、ぼくの頭に幸せな感覚の波をあふれさせることになったのは、どんなかすかな記憶であったのだろうか。列車から降りたときにはうれしくて興奮していたが、それがなぜなのかが初めのうちはわからなかった。実に六か月前のこの日この時間に、ぼくは同じように旅をして来たのだ。だがそれからたくさんのことが起こったし、年寄りというものは最近のことをわずかしか覚えていないものだ。ぼくは「ミッシング・リンク」をむなしく探し求めた。ふとベンチが目に留まった――陰気な構内に置かれた一つきりのその椅子に――女性が座っているのを見て、忘れていた光景が目の前に浮かび上がった。それがあまりにくっきりとしているため、同じ場面が再現されたのかと思うほどだった。 「そうだ」ぼくは思った。「この何もない構内も、ぼくにとっては友人の思い出であふれているのだ! 彼女はまさにあのベンチに腰掛けていて、ぼくにも席を空けてくれたんだっけ、シェイクスピアを引用して――どんなセリフだったろうか。『生活を芝居化する』という伯爵の試みを実践してみるとするかな。あれがミュリエル嬢だと思ってみよう。しばらくは空想に耽ってもいいじゃないか!」  というわけで構内を端まで歩いて、「ベンチに座っている通りすがりの乗客は忘れもしないミュリエル嬢」てゆーのはウソ(と子供たちが呼んでいるもの)をすることに決めた。その女性は向こうを向いていたので、ぼくのやっている手の込んだ遊びには都合がよかった。その場所を通り過ぎるときにはそっぽを向くように気をつけて、愉快な空想を長引かせようとしたが、折り返して戻ってくるときにはその人を見ざるを得なかった。それは何と、ミュリエル嬢その人ではないか!  今やすべての光景がまざまざとよみがえった。さらに不思議なことには、あのときの老人もいる。立派なお客さんに場所を空けろと駅長から怒鳴られていたのを覚えている。同じ人物だが「違い」があった。構内をよろよろと歩いていたりはせ…ず、それどころかミュリエル嬢の隣に座って、会話をしていたのだ! 「ええ、財布にしまって」とミュリエル嬢が話していた。「ミニーちゃんのために使ってくださいね。何か素敵で、役に立つものをあげてください! それから、よろしく伝えてくださいね!」ミュリエル嬢は一心に言葉を費やしていたので、足音に気づき顔を上げてぼくを見ても、最初のうちはぼくが誰なのか気づかなかった。  ぼくが近づいて帽子を上げると、ミュリエル嬢の顔にも混じりけのない喜びがはじけた。それがあまりにシルヴィーの愛らしい顔を、それもこのあいだケンジントン公園で会ったときの顔を連想させるものだから、ずいぶんと戸惑ってしまった。  隣の老人を邪魔しては悪いと思ったのか、ミュリエル嬢は席を立ち、ぼくと一緒に構内を歩き回った。一、二分のあいだ交わしていた会話はおそろしく退屈でありきたりのもので、ロンドンの応接室で二人の客がくつろいでいるようなていたらくだった。初めのうちは、ぼくらの生活をつないでいるもっと重要な問題に触れることを、互いに遠慮していたようだ。  話しているうちに、エルヴェストン行きの列車が止まっていた。「こちらへ、お嬢さん、時間ですよ」という駅長のごますりにしたがって、一台だけ一等車が連結されているホームの端まで足を運んでいる途中で、空っぽになったベンチのそばを通り過ぎるとき、財布が落ちていることにミュリエル嬢が気づいた。ミュリエル嬢の贈り物がそのなかに大事に仕舞われているはずだったが、持ち主は失くしたことにとんと気づかずに、こことは反対端の車両に乗るのに手を貸してもらっていた。ミュリエル嬢はすぐに財布をつかんで叫んだ。「おじいさん! 行っちゃだめ、落としているのに!」 「ぼくが持って行こう! その方が早い!」だがミュリエル嬢はすでに構内の半ばまで達しており、ぼくが全力を尽くしても置いてけぼりにされてしまう速さで飛んでいた(これほど妖精的な動きには「走っていた」という言葉は月並みすぎる)。  ぼくが思い上がりもはなはだしい速さで完走するより早く、ミュリエル嬢が戻ってきて、客車に乗り込みながら澄ましかえってこう言った。「本当にもっと早く走れるとお思いですの?」 「まさか! 大ぼらの『罪』を陳情のうえ、裁判所の慈悲にこの身をゆだねます!」 「大目に見ましょう――今回だけは!」だがすぐにふざけた態度は心配そうな様子に変わった。 「絶好調には見えませんけど」と心配そうな目をした。「第一、このあいだよりもやつれているように見えますし。ロンドンはあなたに合わないんじゃないかしら?」 「ロンドンの空気のせいかもしれません。さもなきゃ仕事のやりすぎでしょう――あるいは孤独のせい。どちらにしても、近ごろ調子がいいとは言えませんね。でもエルヴェストンに着けばすぐに元気になりますよ。アーサーの処方によれば――ぼくの医者《せんせい》ですし、今朝手紙が届いたんですが――『山ほどのきれいな空気、新鮮な牛乳、気楽なご近所づきあい』だそうですから!」 「気楽なご近所づきあい?」ミュリエル嬢はその疑問について考え込んでいるふりをした。「どこに行けばそんなものが見つかるんでしょう! ほとんど人も住んでいないのに。でも新鮮な牛乳ならどうにかできます。丘の先に住んでるハンターさんにもらってください。鮮度は保証できます。それにベッシーっていう娘さんが毎日学校に通っていて、下宿の前を通るんですよ。だから届けてもらうものとっても簡単なんです」 「喜んでご忠告にしたがいましょう。じゃあ、明日手続きしに行こうかな。アーサーも散歩したがるだろうから」 「それほどしんどくはないと思いますよ――三マイルもなかったはずですから」 「そうですか、それはともかくとして、さきほどのあなたの言葉をそのままお返しさせてください。とてもじゃないが絶好調には見えませんよ!」 「そういうわけでもないんですが」とつぶやいた途端に、顔一面に影が差したように見えた。「最近、困っていることがあって。ずっとあなたに相談しようと思っていたのは事実なんですけれど、気軽に手紙に書けることでもないものですから。この際だからご相談に乗ってください!」 「どうお思いになりますか?」一度口を閉じてからミュリエル嬢が話を始めたが、いつもにも似ず目に見えて戸惑っていた。「その場かぎりの思いつきではなく真剣な気持で交わされた約束は、つねに守らなくてはならない義務があるのでしょうか?――もちろん、約束を果たすことで罪を犯してしまう場合は除外して、ですけれど」 「すぐには異議を思いつけませんね。決疑論の分野では通常は誠実と不誠実の問題として扱われるのでは――」 「やはりそれが原則でしょうか?」ミュリエル嬢が急いでさえぎった。「わたしは聖書の教えのことを考えてたんです。『互いに嘘をついてはならない』という句のところですけど」 「その点について考えていたんですが、嘘の本質とは、騙そうとする意思にあるのではないでしょうか。約束を果たすつもりで交わしたのであれば、誠実に行動したと言っていいんじゃありませんか。あとで約束を破ったとしても、詐欺とは違いますよ。ぼくならそれを不誠実だとは言えません」  またもや沈黙が降りた。ミュリエル嬢の顔色は読みづらかった。喜んでいるようにも見えたが、困惑しているように見える。今の質問は、ぼくが勘ぐり始めたように、リンドン大尉(現少佐)との婚約解消と何か関係あるのだろうか。是非とも知りたくなった。 「あなたのおかげでほっとできました」とミュリエル嬢が言った。「でもともかく、間違いだったに決まってるんです。間違いであることを立証するには、どの句を引用なさいますか?」 「借金の返済を強制するのならどこでもいいでしょう。AがBに何かを約束したとすると、BにはAに対してそれを請求する権利があります。だからAが約束を破ったならば、Aの罪は嘘というより盗みに近いんじゃないでしょうか」 「新鮮な考え方ですね――わたしにとっては。でもそういう考え方も正しいと思えますし。だけどあなたのような腹を割って話せるご友人と一般論を話すのはもうこりごり! 何があろうと腹を割って話せるお友だちなんですから。わたしたち、初めから腹を割って話せるお友だちでしたよね?」その明るい口調は、目に光る涙には少しもそぐわなかった。 「そう言ってもらえると嬉しいな。あなたのことは腹を割って話せる友人だと思いたいですから」(「――割れてるようには見えませんが!」と、ほかの女性にならまず間違いなくそう言っていたはずだ。だがぼくらはそんな挨拶や冗談を言える時期をとうに過ぎ越してしまったようだ。)  そのとき列車が駅に停まり、数人の乗客が乗り込んで来た。ぼくらは旅の終わりに着くまでそれ以上の話をするのを控えた。  エルヴェストンに到着したので、一緒に歩きませんかと提案したところ、ミュリエル嬢は快諾してくれた。トランクをしかるべく――ミュリエル嬢のものは駅にいた使用人に、ぼくのは赤帽に――預け終わると、ぼくらはさっそく歩き慣れた道を進み始めた。この道にはいくつもの楽しいエピソードに彩られた思い出があった。すぐにミュリエル嬢は、尻切れトンボになっていたところから話を再開した。 「いとこのエリックと婚約していたことはご存じですよね。それにお聞きになっていると思いますが――」 「ええ」ぼくはさえぎった。つまびらかに説明させて苦しい思いをさせたくはない。「すべてなくなったと聞いています」 「成りゆきを聞いていただけませんか。助言していただきたいというのはそのことなんです。信仰についての考え方が合わないことにはずっと気づいていました。エリックのキリスト教観はとてもぼんやりしたものでした。神が存在するということさえ、エリックにとっては夢の国かどこかの出来事でした。でもそのことがエリックの人生に影響を及ぼすことはなかったんです! つけいる隙のない無神論者という人は、目隠し状態で歩いていながら、純粋で気高い人生を送っているのかもしれないと、今ではひしひしと感じています。あなたが善行の半分でもご存知でしたら――」不意に言葉を切って顔を背けた。 「あなたの言うとおりですよ。そうした生命は光に導かれるだろうと救世主ご自身が約束していませんでしたか?」 「ええ、知ってます」顔を背けたまま、声は乱れていた。「わたしもそう言ったんです。そうしたら、できるだけ信じてみようと言ってくれたんです、わたしのために。同じものの見方ができるのならそうしたいと。でもそんなのは間違いでした!」ミュリエル嬢は興奮して先を続けた。「神はそんな卑しい動機など認めてくださらなかったんです! それでもわたしは婚約を解消しませんでした。愛してくれていることはわかっていましたから。それにわたしは約束したんですから。それに――」 「すると婚約を解消したのはエリックですか?」 「無条件でわたしを解放しました」ミュリエル嬢は落ち着きを取り戻し、ぼくの方に向き直った。 「じゃあ何が問題なんですか?」 「それが、エリックの自由意思だとは思えないんです。どうなんでしょうか、ただわたしのためらいを酌んでくれただけで、意思に反した行動を取ったのだとしたら、エリックの請求権は今もまだしっかりと残っているんじゃありませんか? 約束にはまだ拘束力があるんじゃないでしょうか? 父は『そんなことはない』と言いますが、わたしへの愛情から、偏った見方をしてるのではないかと思わずにはいられないんです。ほかには誰にも相談しませんでした。友人はたくさんいますが――明るく晴れわたっているときの友人ばかりなんです。人生に暗雲が立ちこめたとき頼りになる友人はいないんです。あなたのような腹を割って話せる友人はいないんです!」 「少し考えさせてください」ぼくはしばらく黙って歩き続けた。清らかで優しい心を襲ったつらい試練を目の当たりにして、心を痛めながら、相反する事情のもつれに見通しをつけようと力ならずも知恵を絞った。 「ミュリエル嬢が本当にエリックを愛しているのなら」(ついにこの問題の糸口をつかんだような気がする)「これは神の声ではないだろうか? エリックのもとに行きたがってる可能性はないのかな? アナニアスが盲目のサウルのもとに遣わされたように。そしてサウルの目は開かれたのだ」またもアーサーのささやきが聞こえたように思った。「妻よ、夫を救えるかどうかなぜわかるのか?」ぼくは次のような言葉で沈黙を破った。「エリックのことを愛しているなら――」 「愛してません!」とすぐにさえぎられた。「少なくとも――あんなふうには。婚約したときには愛していたと思ってます。でもわたしは若かったんです。何も知らなかった。でも今はどんな愛情も残ってはいません。エリックの側の事情は愛。わたしの側の事情は――義務なんです!」  ふたたび長い沈黙が訪れた。もつれた思いはますますこんがらかってしまった。今度はミュリエル嬢が沈黙を破った。「誤解しないでください! わたしの気持ちがエリックから離れたと言っても、ほかの誰かに気持ちが移ったというわけではないんです! 今もエリックに縛られていると感じていますし、ほかの人を自由に愛してもいいと神様が仰るまでは、ほかの人のことを考えることさえするつもりはありません――つまりあんなふうには。わたしなんか死んでしまえばよかったんです!」穏やかな友人からこれほど激しい言葉を聞くとは思いもよらなかった。  ホールゲイトが近くなるまで、それ以上のことを口にするのは控えていた。だが長々と考えれば考えるほど、義務というものはそれに縛られて犠牲を ――おそらく人生の幸福を――捧げるようなものではないということがはっきりしてきた――が、それをミュリエル嬢は捧げようとしているのだ。ミュリエル嬢にもこのことをわかってもらいたくて、愛のない結婚をすればいくつもの危険が待ち受けているのだと諭そうと試みた。「考えるべき論点は一つだけ」とぼくは結論づけた。「あなたを約束から解放することにエリックが乗り気でないのではないかと思われることです。この点に注目してみた結果、そのことはこの件に関する権利になんら影響を与えないし、エリックがあなたを解放したことが無効になることもないという結論が出ました。あなたは今の時点で正しいと思われる行動をまったく自由に取ることができると確信しています」 「ほんとうにありがとうございます」という言葉から気持がひしひしと伝わってきた。「嘘ではありませんよ! うまい言葉が見つからないんですけど!」そうして互いに納得のうえ、その話題は打ち切りとなった。その後しばらく経ってから、この話し合いのおかげで長いあいだ悩んでいた疑いを払拭することができた、とだけ聞いている。  ぼくはホールゲイトでミュリエル嬢と別れると、ぼくの来るのを待ちわびているアーサーのところに向かった。夜になってお開きになるまでに、一部始終を聞いていた――結婚式が挙げられてどうにもならない運命が決定されるまではこの地を離れるわけにはいかないという思いに囚われて、一日また一日と旅を先送りしてきたこと。結婚式の準備や隣人たちの熱気が突如としてしぼんでしまい、(別れを言いに来たリンドン少佐の口から)婚約は互いの同意のもとに解消されたと聞かされたこと。外国行きの計画をただちに取りやめ、とにかく一、二年のあいだはエルヴェストンに留まって、新たに生まれた希望が本物なのか偽物なのか確かめようと決意したこと。そしてその記念すべき日以来、相手の気持をはっきりと確かめるまでは自分の気持を悟られるのを恐れて、ミュリエル嬢と会うのを避てきたこと。「だけどあれから六週間近く経って」とアーサーは締めくくった。「今では痛々しい探り合いもせ…ずにごく普通に会えるようになりました。みんな手紙で知らせるつもりだったんです。ただ、日が経つにつれて期待していたことがあったので――知らせることがさらに増えるかもしれないじゃありませんか!」 「どうやったらさらに増えるんだよ、抜けてるなあ」ぼくはにこやかに指摘した。「ミュリエル嬢にアプローチもしていないんだろう? 向こうから求婚してくれるのを待っているのかい?」  アーサーは笑いを漏らした。「まさか。そんなことを待ってなどいませんよ。ただぼくはひどい臆病なんです。それだけは間違いありません!」 「婚約が解消された理由を聞いているかい?」 「山ほど聞いてますよ」アーサーは指を折り始めた。「一つ、何らかの原因により――ミュリエル嬢の死期が近いことが判明した。だから少佐は婚約を解消した。二つ、また別の原因により――少佐の死期が近いことが判明した。だからミュリエル嬢は婚約を解消した。三つ、少佐が賭博の常習者であることが発覚した。だから伯爵が婚約を解消した。四つ、伯爵が少佐を侮辱した。だから少佐が婚約を解消した。すべて考え合わせてみると、見事なほど解消されたものですね!」 「みんな確かな筋から聞いたんだろうね?」 「もちろんですよ! それも極めて秘密裏に伝えられました! エルヴェストンの町内にどんな欠点があろうとも、情報の欠如ではありませんね!」 「しかも口が堅くもなさそうだ。だけどまじめな話、本当の理由は知っているのかい?」 「いいえ、何も知らないんです」  知らせる権利がぼくにあるとは思わなかった。だから話題を変えて、「新鮮な牛乳」というそれほど面白くもない話を持ち出した。翌日ハンターさんの農場まで歩いて行くことになり、アーサーが途中まで――そのあとは仕事の約束があるとかで戻らなくてはならなかったので――道案内してくれるということで話がまとまった。 第三章 夜明けの光  翌日は暖かく晴れたのがわかったので、ぼくたちは朝早く出発した。そうすればアーサーがぼくを置き去りにして戻らなくてはならない時間まで、目一杯おしゃべりに興じることができる。 「この辺りは必要以上にずいぶんと貧しいんだね」立ち並ぶあばら屋の前を通り過ぎるとき、ぼくはそう口に出した。荒廃がひどく、とても「小屋」とは呼べなかった。 「だけど一握りの裕福な人たちは」とアーサーが答えた。「必要以上に慈善の手を差し伸べています。ですからバランスは保たれているんですよ」 「伯爵はかなりの手を差し伸べているんだろうね?」 「気前よく施しをしています。でも伯爵の健康状態や体力ではそれ以上のことはできません。ぼくには明かそうとしませんが、ミュリエル嬢が学校で教えたり小屋を訪問したりして頑張っているんです」 「では少なくとも、ミュリエル嬢は『有閑人』ではないんだね。上流階級にはよくそういう人がいるだろう。よく思うんだが、存在理由《レゾン・デートル》を教えてくださいと不意に頼まれたり、これからも生きていくべき理由を示してくださいと唐突に頼まれたりしたら、ああいう人たちは困るだろうね」 「あらゆる角度から考えてみても」とアーサーが言った。「いわゆる『有閑人』たちの問題(というのはつまり、生産的労働という形でしかるべき貢献もしないくせに、共同体から物質的財産を――食物や衣服という形で――吸い上げている人たちのことですが)、これは間違いなく複雑な問題なんです。ぼくは解決しようとつねづね考えてきました。取りあえずもっとも単純な考え方として、お金が存在せ…ず、物々交換だけで売買を行っている共同体というものを仮定してみました。何年も傷まずに長持ちする食糧などがあれば、ことはいっそう単純になります」 「面白い考えだね。それでこの問題をどのように解決するんだい?」 「典型的な『有閑人』は、」とアーサーが言った。「両親から子どもに残された財産なくしてはあり得ません。だからぼくが考えてみたのは――非常に賢いか、驚くほどたくましく粘り強いか――そんな人が、共同体の需要に匹敵するだけの働きをして、それが自分の必要とする衣料などの(たとえば)五倍に等しいと仮定します。その人には、望めば過剰な富を手に入れる絶対的な権利があることは否定できません。ではその人が四人の子ども(たとえば息子二人に娘二人)を残したとして、その子たちが一生を暮らすには不足ないだけのものを遺したとします。その子どもたちが『食い、飲み、楽しむ』だけで一生を過ごすことを選んだとしても、共同体がいかなる形の不正を受けているとも思えません。共同体がその四人のことを『働かざる者、食うべからず』と言うのが適正でないのはまず間違いありません。返事は非の打ちどころがないでしょうね。『労働はすでに終わっていて、その対価が我々の食べている食料であって、これは適正なものだ。それにあなあがたはその労働の恩恵をすでに受けたではないか。食料一つにつき労働二つを求めるとは、いったいどんな公正原理に基づいているのだ?』」 「それでもやはり」とぼくは言った。「どこか間違っていないかい、その四人には有益な仕事がちゃんとできて、しかもその仕事が実際に共同体に必要なものだとしても、四人は遊びほうけてるなんて?」 「間違っていると思いますよ」アーサーが答えた。「でもそれは――何人《なんびと》もその力の及ぶ限りで他人を救うべきである――という神の律法や、公正に得た食糧の対価として共同体側が労働を求める権利とは別の問題だと思うんです」 「この問題の二つ目の考え方は、『有閑人』が物ではなくお金を所有している場合だろうね?」 「その通りです。一番わかりやすいのが紙幣の場合でしょうね。金《きん》にはそれ自体に物としての価値があります。だけど銀行券というものは、いつでもそうしたいときにそれだけの価値のある物を引き渡すという約束に過ぎません。四人の『有閑人』の父親が、共同体にとって有益な(仮に)五千ポンド分に値する仕事を行いました。その代償として、いつでも好きなときに五千ポンドの食糧などを手に入れられる約定書に当たるものを、共同体から受け取りました。それで自分では一千ポンド相当しか使わずに、紙幣の残りを子どもたちに残す場合には、子どもたちにはその約定書を提出する完全な権利があることや、『すでに労働は終わっているのだから、その対価に等しい食糧を引き渡してくれ』と主張する権利があることも確かです。こうした考え方については、はっきりと公にすべきだと思うんです。無知な貧乏人に向かって『自分たちでは働きもせ…ずに、我々に汗水たらして働かせて毎日を暮らしているあのぶくぶくの貴族どもを見ろ!』という考えを吹き込んでいるあの社会主義者たちの頭に、このことをしっかり叩き込みたいんですけどね。その『貴族ども』が使っているお金は共同体のためにそれだけ働いたというしるしであり、それに等しいだけの対価を物的財産として共同体が支払うべきだということを、わからせてやりたいんです」 「社会主義者たちはこう答えないだろうか。『そのお金の大半が適切な労働のしるしであるとは必ずしも言えない。お金の所有者を次々とさかのぼってたどってけば、しばらくは贈与や遺言による遺贈や「対価の受領」といった合法的なところから始まるだろうが、すぐに詐欺のような犯罪で手に入れただけの不当な権利しか持たない所有者にたどり着くぞ。当然のことだがその相続人にも所有する権利がないのは同じことだ』」 「確かに確かに」とアーサーが答えた。「だけどそれには『拡大解釈』の論理的誤謬がありませんか? お金だけでなく物質的財産にも完全に当てはまるんですから。ある物的資産の現在の所有者がそれを適切な手段で手にいれたという事実からさかのぼって、何代も前の所有者が不適切な手段で手に入れたのかどうかをいったん問い始めたなら、安全な物的資産などあるでしょうか?」  ぼくはしばらく考えてみたが、それが真実だと認めざるを得なかった。 「まとめると」とアーサーが続けた。「人対人、人間の権利というささやかな観点からはこんな結論になりました ――裕福な『有閑人』の場合を考えてみると、いくらその富に集約される労働が本人の行為ではなかったにしても、合法的にお金を手に入れたのであれば、自分のほしいもののためにそれを使って、共同体から衣食を購入しながらその共同体に何ら働いて貢献しないことを選んだとしても、共同体にはそれに干渉する権利はありません。けれど神の戒律について考えてみると、まったく別問題なんです。そのしきたりに照らすなら、必要としている人たちのために、神から授かった力や技術を使えないのであれば、その人が間違っていることには疑いがありません。その力や技術は共同体に属するものでも、債務として人々に与えられるのでもありません。それは人間自身に属するものではなく、人間自身の楽しみのために使われるべきものでもありません。それは神に属するものであり、神の御心に沿って使われるべきものなんです。それがどのような御心なのかは疑う余地がないでしょう。『善をなし、何をも求めずして貸せ』」 「いずれにしても」ぼくは言った。「『有閑人』はよく慈善活動で莫大な寄付をしてくれる」 「いわゆる『慈善活動』で、ですよ」アーサーが訂正した。「無慈悲なことを言うようですみません。どんな人にもその言葉が当てはまるとは思えないんです。概して思いつきを実行して満足するような人間が――何一つ我慢もせ…ずに――有り余る富の一部にしろすべてにしろ、貧乏人に与えるだけの行為を、慈善と呼ぶのであれば、それは勘違いに過ぎないと思うんです」 「だが余った富を寄付したんだとしても、守銭奴なりの貯め込む喜びを我慢しているのかもしれないだろう?」 「喜んで認めましょう。病的に貪欲な人間であれば、それをこらえることで善行をなしている、と」 「だが自分のために使っていたとしても」ぼくはたたみかけた。「ぼくらが問題にしているような金持ちならつねづね善をなしているんじゃないかな、人を雇って失業者を出すことを防いでいるのだから。それにお金をただで与えて貧乏状態にしておくよりもずっとましな場合が多いだろう」 「素晴らしい意見だと思います!」アーサーが言った。「そのご意見には二つの誤謬ががあることを見逃さずに話を終えるわけにはいきません――あまりにも長いあいだ反論されずに来たので、世間では今や金言で通っているようなことですよ!」 「何のことだろう? 一つもわからないな」 「一つめの誤謬は単なる曖昧性です――『善をなす』(つまり誰かの役に立つ)ことが、すなわち善いこと(つまり正しいこと)だという考え方。もう一つはですね、甲が取ったある行動が乙よりも善いことだった場合、それすなわち善い行動である、という考え方です。比較の誤謬と呼ぶことにしましょうか――比較的善いことがすなわち絶対的に善いことだと考えてしまうことですね」 「では君は何を以て善行の基準とするんだい?」 「それは最善ということになるでしょう」アーサーは自信たっぷりに答えた。「たとえ『私たちは取るに足りないしもべ』であるときでも。取りあえず二つの誤謬を説明させてください。極端なたとえほどうまく誤謬を説明できるものはありませんし、それなら極めて公正です。池で溺れている子どもを二人見つけたとします。慌てて駆けつけ、子供を一人助けてから、そのまま立ち去り、もう一人の子どもは溺れたまま放っておきました。果たしてぼくは子どもの命を救うことで『善行をなした』と断言できますか? それとも――また別のたとえですが、不愉快な人間に出会ったので、ぶん殴って立ち去ったとします。それが踏みつけて飛び跳ねたりあばらを折ったりするのと比べれば『まだ善い方だ』と断言できますか? それとも――」 「そんな『それとも』には答えようがないよ」ぼくは言った。「現実生活のたとえが聞きたいな」 「では現代社会の醜態の一つ、チャリティ・バザーにしましょう。興味深い問題です。考えてみてください――目的に達するお金のどれだけが本当の慈善なのか、それに、それですら最善のやり方で使われているのかどうか。だけどこの問題をちゃんと理解してもらうためには、適切な分類と分析の必要があります」 「分析してくれたなら助かるよ。ぼくはそういうのは苦手でね」 「わかりました、退屈でなければいいのですが。病院の資金を補助するために開催された慈善バザーを考えてみましょう。AさんとBさんとCさんが商品を準備して、販売するという奉仕を提供するとします。その一方でXさんとYさんとZさんは商品を買い、そうやって支払われたお金が病院に入るわけです。 「このようなバザーには二種類あります。一つは、請求金額が販売品の市場価格と同じ、つまり店に払わなくてはならないのとまったく同じ場合です。二つ目は、上乗せ価格を請求される場合です。この二つは分けて考えなければいけません。 「まずは『市場価格』の場合です。A、B、Cの立場は普通のお店と変わりません。違うところは病院に売り上げを寄付することぐらいです。実際のところは、病院の利益のために技術力を提供しているわけです。これが本当の慈善だと思いますね。これ以上の役立て方はなかなかないでしょう。ですがX、Y、Zの立場は普通の買い物客と変わりません。この人たちの商行為を『慈善』と呼ぶのはナンセンスです。ところがそう呼ばれることが実に多いんです。 「次は『上乗せ価格』の場合です。『市場価格』と『それを超えた分』の二つに分けるのが一番わかりやすいでしょうね。『市場価格』の方は先ほどの場合と同じ立場に基づいています。超過分の方はよく考えてみる必要があるでしょう。さて、A、B、Cはそれで儲けてはいませんから、問題にしなくてもいいと思います。これはX、Y、Zから病院への贈り物です。提供するにしても、ぼくにはこれは最善のやり方だとは思えません。買うと贈る、二つを別々の行為だと考えて、買いたいものを買い、贈りたいものを贈る方がずっといい。そうすれば贈り物をしようと思ったのが純粋な慈善心から出たという可能性がいくらか出てきます。慈善半分、自己満足半分の混ざった気持からではなく。『蛇の這う跡がその上を覆い尽くした』。だからこそぼくはそうした偽の『慈善行為』に抑えようのない嫌悪感を抱いているんです!」 アーサーは柄にもなく熱い言葉で話を結ぶと、道ばたのアザミの頭をステッキで乱暴になぎ払った。ところがその後ろにシルヴィーとブルーノが立っているのを見つけて、ぼくはぎょっとした。アーサーの手をつかんだが間に合わなかった。ステッキがシルヴィーたちに当たったかどうかは定かではない。いずれにしても二人は気にもとめずににっこり笑うと、ぼくに向ってうなずいた。途端に、二人の姿がぼくにしか見えないことに気づいた。〈あやかし〉状態はアーサーには影響を及ぼさないのだ。 「なぜかばおうとするんです?」アーサーがたずねた。「あれが慈善バザーの二枚舌の役員というわけでもあるまいし! そうだったらよかったのに!」と恐ろしいことを言う。 「ねえ、ステッキがあたまからすぐとおてたよ」ブルーノが言った。(このときには二人はぼくを取り囲んで、片手をつないでいた。)「ぴったりあごの下だもん! アザミでなくてよかった!」 「まあとにかくこの問題は語りつくしましたね!」ふたたびアーサーが口を利いた。「ちょっとしゃべりすぎちゃったかな、あなたの忍耐もぼくの体力もこのあたりでしょう。ぼくはすぐに戻らなくてはなりません。ここまでがぎりぎりです」 取れ、船頭よ、三人分の料金だ 取れ、快く与えよう いや、君には見えぬが 二つの精霊がわたしと共に渡ったのだ  ぼくは思わず引用していた。 「頓珍漢な引用ですねえ」アーサーが笑った。「おまえは『何よりも偉大で、誰よりも優れている』」そうしてぼくらは歩き続けた。  海岸に通じている小径の先を越えたあたりで、一つの人影がゆっくりと海の方に動いているのに気づいた。かなり遠くだったし、こちらに背中を向けてはいたが、ミュリエル嬢なのは紛れもない。アーサーがミュリエル嬢に気づかず反対側に群がる雨雲を見ていたことを知って、ぼくは口にこそ出さなかったものの、アーサーを海に戻らせるもっともらしい口実を考えていた。  チャンスはすぐに飛び込んできた。「疲れてきたので、もうこれ以上歩くのはやめた方がいいようです。ぼくはここで戻るとします」とアーサーが言った。  ぼくらは向きを変えてしばらく進み、ふたたび小径のてっぺんに差しかかったところでぼくはできるだけ無造作にこう言った。「道を通って戻るのはよさないか。暑いし埃っぽいし。この径を降りて海岸沿いに戻ってもたいして変わらないよ。海でそよ風に当たろうじゃないか」 「そうですね、そうしましょう」アーサーは歩き始めたが、ミュリエル嬢の姿が見えた瞬間、足を止めた。「いや、やっぱり遠回りですよ。でも確かに涼しいでしょうね――」アーサーは立ち尽くしたまま、向こうを向いたかと思えばあちらを向いて、ためらっていた――優柔不断を絵にかいたような落ち込みぶりだった!  ぼくがそばで声をかけるだけであったならば、この痛ましい光景がどれだけのあいだ続いたことだろう。お答えすることはできない。というのもこの瞬間、シルヴィーがナポレオンにも匹敵する迅速な決断をくだし、みずから事に当たったのだ。「あなたはあの女《ひと》をこっちに向かわせて」とシルヴィーがブルーノに言った。「わたしはこの人を連れてくから!」そうしてアーサーの持っているステッキにしがみつき、少しずつ小径まで引っ張っていた。  自分のものとは別の意思がステッキを動かしていることに、アーサーはまったく気づいていなかったし、ステッキが横になったのも、自分で先端を向けたからだと思っているらしい。「あそこの茂みに蘭がありませんか? これで決まりだ。歩きながら摘んでいくことにします」  そのころブルーノはミュリエル嬢を追いかけ、ぐるぐる跳ね回ったり(シルヴィーとぼくにしか聞こえない声で)叫んだりして、羊を追い込んでいるような動きをしながら、ぼくらの方に向きを変えて歩かせようと、真面目くさって足許を見つめていた。  勝ったのはぼくらだった! こんなふうに二人そろって急き立てられた恋人たちがやがて出会うのは明らかだったので、シルヴィーとブルーノもぼくに倣ってくれればいいと思いながら、ぼくはきびすを返して歩き続けた。だってアーサーとその天使にとってみれば、見物人は少ないに越したことはないはずだ。 「どんな出会いだったんだろうな?」そんなことを思いながら、ぼくは夢見心地で歩き続けた。 第四章 犬の王様 「手つないだったよ」ブルーノがぼくの横に駆け寄って、何も聞かないのに答えてくれた。 「本当に嬉しそうに見えました!」シルヴィーも反対側からつけ加えた。 「よし、じゃあすぐにでも発った方がいい。でもハンターさんの農場にはどう行けばいいんだろう」 「この小屋の人はきっと知ってるわ」シルヴィーが言った。 「うん、きっとそうだ。ブルーノ、聞きに行ってくれるかい?」  走り出しかけたブルーノを、シルヴィーは笑って引き止めた。「ちょっと待って。まずは姿が見えるようにしなくちゃ」 「そして声が聞こえるようにも、だね?」ぼくがたずねると、シルヴィーは首にかけている宝石をつかんで、ブルーノの頭上で揺らし、目と口に触れさせた。 「そうですね」シルヴィーが言った。「前に一度、声が聞こえるようにしたのに、姿が見えるようにするのを忘れちゃったことがあったんです! ブルーノはそのままキャンディーを買いに行っちゃって。だから店員さんがものすごく怯えてしまったんです! 『大麦アメを二オンスください!』という声が宙から現れたように聞こえるんですもの。それからカウンターに一シリングがチャリンと落ちたんです! それで店員さんから『姿が見えないけど?』と言われたブルーノは、『ぼくが見えるかどうかはたいちたことじゃないでそ、お金が見えてればいいんだから!』と答えました。だけど店員さんは、姿の見えない人にアメは売れないって言うんです。それでわたしたちはしかたなく――これでよし、ブルーノ、もういいわよ!」。そこでブルーノは走っていった。  待ち時間を利用してシルヴィー自身も姿が見えるようにした。「困るじゃないですか。人間に会うときに、一人が見えるのにもう一人が見えないと!」  一、二分して戻ってきたブルーノは、ずいぶんとがっかりしていた。「いっしょに友だちといっしょだったんだけど、ごきげんななめだったんだ! いったいだれだって訊くから『ぼくブルーノ。こちらの人々たちはだれでつか?』と答えたの。そしたら『こっちは腹違いの弟、そっちは腹違いの妹。もうこれ以上はいらないよ! 消えちまえ!』って言われた。だから『シルヴィーがいないと、ぼく一人だけじゃ消えれないもん!』って答えといた。それで『うっかりな人々たちをそんなふうに寝そべらせておくのはよくないよ! すごくにだらしないもん!』て言ったら、『俺に話しかけるな!』と言われて、外に追い出されて、ドアを閉められちゃったんだ!」 「ハンターさんの農場がどこにあるのか聞かなかったのね?」シルヴィーがただした。 「質問するだけの余裕がなかったんだもん」とブルーノが言った。「部屋がまんぱいだったから」 「三人で部屋がまんぱいなわけないでしょう」とシルヴィーが言った。 「でもそうだったんだ」ブルーノも負けてはいない。「あの人でほとんどまんぱいだった。あんなすごくに太った人だったの――転ばせれないくらい」  ぼくには話の流れが見えなかった。「太ってるか痩せているかにかかわらず、どんな人でも転ばされることはあるだろう」 「あの人は転ばせれないね」ブルーノが言った。「たてよりよこの方があったんだから。そんなだから、寝転ばってるときの方が立ってるときより背がたかいんだ。だからもっちろん転ばせれないね!」 「ここにも小屋があるよ」とぼくが言った。「今度はぼくが道を聞いてくるよ」  今回はなかに入るまでもなく、戸口に立っている女性が赤ん坊を抱きながら、立派な身なりの男性と話をしていた――見たところ農場主であるその男性は――町に出かける途中のようだった。 「――それに酒があるときだがね。最悪らしいじゃないか、おたくのウィリーは。そう聞いているぞ。酒があるといかれちまうそうじゃないか!」 「十二か月前ならあいつらのこと嘘つき呼ばわりしてやったんだけどね!」女性はがっかりした声をだした。「でもわかるわけないもんね!」ここでぼくらを目にして息を飲み、あわてて家に戻ってドアを閉めてしまった。 「ハンターさんの農場がどこにあるか教えていただけませんか?」ぼくは家から引き返してきた男性にたずねた。 「いただけますとも、旦那!」その男性はにかっと笑い、「あっしがそのジョン・ハンターでございますよ。半マイルもありゃしません――家は一軒しか見えませんからね、あそこのカーブを曲がったところでさぁ。女房がなかにいるはずですよ、あいつに用があるんでしたら。それとも、あっしのこともお探しでしたか?」 「すみません」ぼくは言った。「ミルクをもらおうと思ったんです。奥さんと話した方がよさそうですね?」 「ああ。そういうのはあいつの仕事だ。それじゃあ、ご主人――かわいいこどもらも、じゃあな!」そうしててくてくと歩いていった。 「『こども』って言うのが正しいのにね、『こどもら』じゃなくてさ」とブルーノが言った。「シルヴィーはこどもらじゃないもの!」 「私たち二人のことよ」シルヴィーが答えた。 「ちがうよ!」ブルーノはなおも言い張った。「だって『かわいい』って言ってたもんね」 「それはそうだけど二人とも視野に入れてたのよ」とシルヴィーも言い返した。 「うん、それだから、二人ともかわいいんじゃないって見っかったに決まってるよ!」ブルーノも言い返した。「もっちろんぼくはシルヴィーよりずっとぶさいくさ! あの人はシルヴィーのことを話してたんだよね、あなたさん?」ブルーノは肩越しに叫びながら駈け出していた。  だがブルーノは返事を聞くことなく、とっくにカーブの向こうに消えていた。追いついたときには、門によじ登ったブルーノがまじまじと牧草地に見入っていた。馬、牛、子山羊が仲良く草を食んでいる。「お父さんがおウマさん」ブルーノがつぶやいた。「お母さんはウシさん。その二匹の子どもがコヤギの子ども、ぼくの世界じゃ見たことないくらいふっしぎな景色だなあ!」 「ブルーノの世界か!」ぼくは考え込んだ。「その通りだな、どんな子どもも自分たちだけの世界を持っている――いや、それどころか、どんな人間だってそうじゃないか。そこにこの世のすれ違いの原因があるのだろうか?」 「きっとあれがハンターさんの農場ね!」シルヴィーが坂の上にある家を指さした。荷馬車道をたどったところにある。「この道にはほかに農場は見えないもの。仰ったように、もうすぐですね」  ブルーノが門をよじ登っているあいだ、確かにそんなことを考えはしたが、口にした覚えはなかった。だがシルヴィーはどうやら正しかった。「降りるんだ、ブルーノ」ぼくは言った。「門を開けてくれよ」 「ぼくらもいっしょのほうがいいよね、そうでしょ、あなたさん?」牧場に入ったときにブルーノが言った。「ひとりだったら、あのおっきな犬にかまれるかもしれないもん! こわがることはないからね!」ブルーノはささやきながら、ぼくを励まそうとぎゅっと手を握った。「あれはもうけんじゃないから!」 「猛犬ですって!」シルヴィーが馬鹿にしたように繰り返したとき、その犬が――大きなニューファンドランド犬が一頭――ぼくらを迎えに牧場から駆け出して来て、ぴょんぴょんと円を描くようにかろやかに跳ね始めると、やがて歓迎の合図に嬉しそうに短く吠えた。「猛犬ねえ! ほら、まるで子羊みたいにおとなしいじゃない! まるで――ほらブルーノ、そうでしょ? まるで」 「ほんとうでますね!」ブルーノが一声叫んで飛び出し、犬の首に腕をまわした。「かわいいなあ、ワンちゃん!」二人ときたら、これほどまでになでたり抱きしめたりしたことはなかったろうと思えるほどだった。 「いったいどうやってここにきたんだろう?」ブルーノが言った。「聞いてみてよ、シルヴィー。ぼくはできないからさ」  すぐに犬語の会話で盛り上がり始めたが、もちろんぼくにはちんぷんかんぷんだ。それでも、ぼくに目を光らせていた美しい生き物がシルヴィーの耳に何かささやいたときには、ぼくのことが話題になっているらしいということだけは想像できた。シルヴィーが笑いながら振り返った 「あなたが誰なのか聞かれたんです」シルヴィーが説明してくれた。「『友だちです』と説明したら、『名前は?』と聞かれました。『あなたさんです』と伝えたら、『わおっ!』ですって」 「犬語で『わおっ!』はどんな意味だい?」ぼくはたずねた。 「英語と同じです」シルヴィーが言った。「ただし、犬の場合はささやくような感じで、咳と吠え声の中間くらいですけれど。ネロ、『わおっ!』って言ってみて』  ふたたびぴょんぴょん跳ねまわっていたネロが、何回か「わおっ!」と言った。シルヴィーの説明がきわめて的確だったことがぼくにもわかった。 「この長い塀の後ろには何があるんだろう?」歩き続けながらぼくはたずねた。 「果樹園です」シルヴィーがネロに確認して答えた。「見て、塀から降りてる男の子がいる、ずっと向こう側のところ。牧場の方に走り出したわ。きっと林檎泥棒ね!」  ブルーノがあとを追ったが、追いつけそうにないとわかってすぐに戻ってきた。 「捕まえれなかったよ!」ブルーノが言った。「もうすこし早く走りだすてたらなあ。ポケットがりんごでいっぱいになってだったよ!」  犬の王様がシルヴィーを見上げ、犬語で何ごとか伝えた。 「まあ、もちろんその通りよ!」シルヴィーが声をあげた。「それを思いつかないなんてどうかしてるわね! ネロが捕まえておいてくれるって、ブルーノ! だけどまずはネロの姿を見えなくしておかないと」シルヴィーは急いで魔法の宝石を取り出し、ネロの頭の上で揺らしながら、頭から背中へと降ろしていった。 「それいけ!」ブルーノが待ち切れずに叫んだ。「追っかけるんだ、ワンちゃん!」 「まあブルーノ!」シルヴィーがとがめるような声を出した。「そんなにあわてて追いかけさせないで! しっぽを消してないのに!」  そうしているあいだにもネロはグレイハウンドのように牧場に向かって駆け出していた。見える部分から推しはかったかぎりでは――長いふわふわしたしっぽが、流れ星のように宙を漂い――ネロはあっという間に泥棒小僧に追いついた。 「捕まえた、足を押さえたわ!」固唾を飲んで追跡を見守っていたシルヴィーが叫んだ。「もうあわてなくていいわ、ブルーノ!」  そこでぼくらはゆっくりと牧場まで歩いていった。そこには怯えた少年が立っていた。これまでの「あやかし」体験のなかでも見たことがないような不思議な光景だった。少年は全身を激しく動かしていたが、左足だけは地面に固定されているように見え――足を押さえているものは目に見えなかった。もう少し近づくと、長くふわふわしたしっぽが慎ましやかに左右に揺れていた。少なくともネロにとっては、すべてが大がかりなゲームに過ぎなかったようだ。 「どうしたんだい?」ぼくはできるだけ厳めしくたずねた。 「足がつっぱった!」盗っ人はうめきをあげた。「足がおっ死んじまったよ!」と言って、声をあげて泣きじゃくり始めた。 「さあ、いいかい!」ブルーノは少年の前に出て、有無を言わせぬような声を出した。「リンゴはあきらめてもらわなくちゃ!」  少年はぼくを見たが、ぼくに干渉されてもどうということはないと判断したようだ。それからシルヴィーを見たが、こちらもどう見ても手強いはずはない。そこで少年は勇気を振り絞り、「あんたたちにはもったいないよ!」と挑発的に言い返した。  シルヴィーが屈みこんで見えないネロを撫で、「もうちょっときつくして!」とささやいた。するとみすぼらしい少年が鋭い悲鳴をあげたので、犬の王様がすぐに言われたことを理解したのがわかった。 「今はどうなった?」ぼくはたずねた。「さっきより足首が痛くなったかい?」 「もっといたくなるぞ、さらにいたく、さらにいたくなるんだ」ブルーノが重々しく宣言した。「リンゴを手ばなさないとそうなるぞ!」  盗っ人はついに観念して、不機嫌な顔でポケットから林檎を取り出し始めた。妖精たちは近くで見張っていて、ネロに捕まっている怯えた少年がうめきをあげるたびに、ブルーノは嬉しそうに飛び跳ねた。 「これで全部さ」ついに少年はそう言った。 「ぜんぶじゃないよ!」ブルーノが叫んだ。「ポケットにまだ三つある!」  ふたたびシルヴィーが犬の王様にささやくと――ふたたび盗っ人が鋭い悲鳴をあげ、またもや嘘つきが宣告され――残り三つの林檎が引き渡された。 「放してあげて」シルヴィーが犬語で話すと、少年は足を引きずって一目散に逃げ出した。ときどき屈んでこわごわと足首をさすっているところをみると、またもや「つっぱった」のかもしれなかった。  ブルーノが戦利品を手に果樹園の塀まで駆け戻り、林檎を一つ一つ塀の向こうに放り投げた。「何個かは間違った木の下に行っちゃったよ!」ブルーノが息を切らしてぼくらのところに戻ってきた。 「間違った木ですって!」シルヴィーは笑った。「どの木でも間違いを犯しようがないでしょ! 間違った木なんてものはありません!」 「それなら正しい木なんてものもないね!」ブルーノが叫ぶと、シルヴィーはその点を放っておいた。 「ちょっと待ってください!」シルヴィーがぼくに声をかけた。「ネロを見えるようにしなくちゃなりませんから!」 「だめ、やめてちょうだい!」ブルーノは今はやんごとなき背中に乗って、やんごとなき毛を手綱のようによじっていた。「こんなふうにしてもらえばそんなに面白いんだから!」 「それは面白そうだけど」シルヴィーもそれを認めて、先頭に立って農家に向かった。農場主の妻が立っていたが、奇怪な行進が近づいてくるのを見て混乱しているようだった。「どうやらめがねが壊れちゃったね!」そんなふうにつぶやくと、眼鏡を外してエプロンの隅でごしごしと拭き始めた。  そのあいだにシルヴィーは急いでブルーノを馬から降ろし、それからおかみさんが眼鏡をかけ直すまでに陛下の姿を見えるようにするにはちょうどいい時間だった。  今やすべてが通常通りだったが、おかみさんはまだ少し不安そうにしていた。「目が悪くなったのね。でも今はあなたが見えるわ! さあキスしておくれかい?」  ブルーノはたちまちぼくの後ろに隠れてしまったが、シルヴィーが代わりに奥さんの顔に二人分のキスをして、ぼくらはそろってなかに入った。 第五章 マチルダ・ジェイン 「おいで、ぼうや」おかみさんはブルーノを膝に乗せて言った。「何でも言ってちょうだい」 「むりだよ」ブルーノが言った。「時間がたりなくなるもん。それに何でもかんでもは知らないし」  おかみさんは困ってしまったらしく、助けを請うようにシルヴィーを見た。「この子、馬に乗るのは好きかしら?」 「ええ、そう思います」シルヴィーは丁寧に答えた。「ネロに馬乗りしていましたから」 「ああ、おっきいワンちゃんでしょう? 馬しか乗ったことなかったんじゃない?」 「乗ったことないなぁ!」ブルーノは断言した。「シカになんか乗らないもん。あーたはどう?」  ここで口を挟んだ方がいいと思い、ぼくらがやってきたわけを説明して、しばらくのあいだブルーノの難問からおかみさんを解放した。 「子どもたちはふたりともケーキは好きでしょう、賭けてもいいわ!」仕事の話が済むと、世話好きのおかみさんは戸棚を開けてケーキを取り出した。「パイの皮も残さず食べてね!」と言ってブルーノに一切れ手渡した。「もったいないことをしたらどうなるか、詩集に書いてあったわよね?」 「ううん、知らない」ブルーノが言った。「何て書いてるの」 「教えてあげて、ベッシー!」おかみさんは誇らしげに、愛情のこもった目で、顔を赤らめている少女を見降ろした。ベッシーはついさっき恥ずかしそうにおずおずと部屋に入ってきて、今はおかみさんの膝に顔をうずめていた。「何て書かれてあったかしらね?」 「『もったいない』は、『もってない』の予防法」ベッシーがほとんど聞き取れない声で暗唱した。「『あのとき捨てた、たくさんの、パンくずがあれば、よかったのに!』と、なげくときがくるかもしれない」 「さあ、言ってみて! もったいないは――」 「もったいないは――トカナットカ」口にするのは早かったが、やがて沈黙が訪れた。「あとは忘れちゃった!」 「いいわ、この言葉の教訓は何かしらね? とりあえずそれを聞かせてもらえる?」  ブルーノはケーキを一口食べてから考え込んだ。だが教訓が何なのかはっきりしているとは言い難いらしい。 「いついかなる時も――」シルヴィーがヒントを耳打ちした。 「いついかなるときも――」ブルーノは弱々しく繰り返したが、不意にひらめいたらしい。「いついかなるときもゆくさきをみつめるべし!」 「何の行く先かしら、ぼうや?」 「そりゃパンくずだよ、もっちろん!」ブルーノが言った。「そしたらさ、『たくさんの、パンくずがあれば、よかったのに』(とかって)なげくときがきても、どこに捨ちたかわかるでしょ!」  この斬新な解釈におかみさんはすっかり困り果ててしまい、ふたたび「ベッシー」の話に切り替えた。「あなたたち、ベッシーのお人形さんを見たくない? ベッシー、こちらのお嬢さんとご紳士にマチルダ・ジェインを見せてあげて!」  ベッシーはすぐに打ち解けた。「マチルダ・ジェインはいま起きたとこ」と、シルヴィーに人懐っこく話しかけた。「服を着せるの手伝ってくれる? ひも結ぶのむずかしくって!」 「紐を結んであげるわ」シルヴィーが優しい声を出し、二人の少女は一緒に部屋をあとにした。ブルーノはこうした一切合財に見向きもせ…ず、上流紳士のごとき装いでぶらぶらと窓辺に歩いて行った。女の子や人形は苦手なのだ。  このあとすぐに親切なおかみさんがベッシーのいいところ(や、さらに言うなら悪いところも)、あるいは恐ろしい病気の話をぼくに聞かせ出した(母親なら誰だってそうするのではないだろうか?)。赤いほっぺたにぷっくらした体つきとは裏腹に、何度もこの世に別れを告げかけたそうだ。  愛情に満ちた思い出話がほぼ出尽くしたところで、ぼくはこの辺りの労働者たちのことを、なかでも小屋で耳にはさんだ「ウィリー」のことをたずねてみた。「昔はいい人だったんですけどね」と気さくなおかみさんは言った。「ところがお酒で身を滅ぼしてしまったんですよ! お酒を取り上げるつもりはありませんよ――たいていの人たちにはいい薬ですからね――でもなかには誘惑に負けてしまう弱い人もいますから。そこの角に『金獅子』が建ったのは、そういう人たちにとっては不幸なことですよ!」 「金獅子ですか?」ぼくは繰り返した。 「新しい酒場ですよ」おかみさんが説明してくれた。「今日もそうだと思いますけど、週給をもらってれんが工場からの帰りに立ち寄るにはちょうどいいところに建ってるんですよ。山ほどのお金がそんなふうに消えてしまいます。それで何人かはべろんべろんになってしまうんです」 「家で飲むだけなら――」ぼくは考え込み、知らず知らずのうちにそれを言葉にしていた。 「そうですよ!」おかみさんが我が意を得たとばかりに声を出した。とうに考え抜いたあげくの結論だったらしい。「みんなが我が家に専用小樽を置いて、うまいことできたらねえ――飲んだくれなんてこの世からほとんどいなくなるのに!」  そういうわけでぼくはおかみさんに古い物語の次第を語った――とある小屋住まいがビールを一樽買い、妻をバーテンに任命した。夫はいつでも飲みたいときにビールを飲み、カウンターできちんと支払いを済ませていた。妻は決して「つけ」で飲ませようとはしなかったし、決められた分量を超えて飲ませたりは絶対にしない頑固なバーテンだった。樽を詰め替えなくてはならなくなっても、そうするだけのお金はたっぷりあったし、貯金箱に入れてもまだお釣りが来た。その年も終わるころになって、自分の体調と気分がともに申し分ないことに夫は気づいた。どこがどうとは言えないが明らかに「ちょっと聞こし召した」人間ではなくいつ見ても素面の人間の雰囲気が漂っていた。そのうえ貯金箱はお金で一杯になったし、それがすべて夫自身が貯めたお金なのだ! 「みんながそうしてくれさえしたらねえ!」おかみさんは同情のあまりうるおわせていた目元をぬぐった。「お酒が不幸の種ともかぎらない――」 「不幸の種でしかありませんよ、使い方を間違えてしまえば。どんな天の恵みであっても、賢い使い方をしなければ、不幸の種に変わってしまいかねません。ところで、もうおいとましなくては。娘さんたちを呼んでもらえますか? マチルダ・ジェインも一日でたっぷり友だちに会ったと思いますしね!」 「ちょっと探してきますわ」おかみさんは部屋から出ようと立ち上がった。「どっちに行ったかおぼっちゃんは見てたんじゃないかしら?」 「ふたりはどこだい、ブルーノ?」ぼくはたずねた。 「牧草地にはいないよ」ブルーノははぐらかすような答えを返した。「あそこにはブタしかいないもん。シルヴィーはブタじゃないし。もうじゃましないでよ、このハエにお話を聞かせてるとこなんだから。しったこっちゃないよ!」 「きっと林檎林のなかですよ!」おかみさんが言った。そこでぼくらはお話し中のブルーノを置いて、果樹園に向かった。やがて子どもたちが静かに並んで歩いているのが見えた。シルヴィーが人形を抱き、ベスが大きなキャベツの葉を日傘代わりにして人形の顔が影になるようにしていた。  ぼくらを見つけると、ベスはキャベツの葉を捨てて駆け寄ってきた。シルヴィーがもう少しゆっくりとそのあとからついてきた。大事な預かりものに細心の注意を払わなくてはならなかったからだ。 「私がママでね、シルヴィーは婦長さん」ベッシーが説明した。「シルヴィーが歌をおしえてくれたんだ。マチルダ・ジェインに歌ってあげられるように!」 「ちょっと聴かせてもらえるかな、シルヴィー」かねてよりシルヴィーの歌を聴きたかったぼくは、その機会が訪れたことに喜びを覚えた。だがシルヴィーはたちまち恥ずかしそうに怖気づいてしまった。 「お願いですからごめんなさい!」シルヴィーが躍起になってぼくに「打ち明け」た。「ベッシーがもうすっかり覚えたから、歌ってくれます!」 「そうね! ベッシーに歌ってもらいましょうよ!」母親は誇らしげだった。「ベッシーはかわいい声をしてるんですよ」(これもまたぼくへの「打ち明け」話だった)「私が言うのもあれですけどね!」  ベッシーは大喜びで「アンコール」に応えた。そこで小さなぽっちゃりママさんはぼくらの足許に腰を下ろし、奇妙な娘を膝の上にぎこちなく寝かすと(どんなに言って聞かせても座るようなタイプではなかったのだ)、にこにこと嬉しそうな顔をして、赤ん坊が怯えて発作を起こさずにはいられないような大声で子守唄を歌い始めた。婦長さんは目立たぬように背後に屈み、いつでもプロモーターとして行動できるように小さな奥さんの肩に手を置いた。必要とあらば「実のない空虚な記憶の隙間」の一つ一つを埋めるつもりなのだろう。  大声で歌い出したが、それもほんの一瞬のことだった。何小節かすると声を下げ、小さいながらもとても可愛らしい声で歌い続けた。始めのうちこそ大きく黒い目で母親を見つめていたが、やがて目を上げ林檎の辺りに視線をさまよわせた。赤ちゃんと婦長さん以外にも聴衆がいることなど忘れてしまったように見える。婦長さんは歌に少し「フラット」がかかると、何度かこっそりと正しい音を与えていた。 マチルダ・ジェインは知らんぷり どんなおもちゃもどんな絵本も。 すてきなものを見せたのに―― 目が見えないのね、マチルダ・ジェイン! なぞなぞ出したり、おとぎをしたり なのにいっつもおしゃべりできない。 一度も答えてくれないなんて―― 口がきけないのかな、マチルダ・ジェイン! かわいいマチルダ、名前を呼んでも ぜんぜん聞こえていないみたい。 力いっぱい叫んだのに―― 耳が超遠い、マチルダ・ジェイン! マチルダ・ジェイン、心配しないで。 耳・口・目が使えなくても、 あなたを愛するひとはいるわ―― 私もそうよ、マチルダ・ジェイン!  三番まではおざなりだったが、最後の聯には明らかに力が入っていた。声はさらに大きく通り、顔には突如として霊感が降りたかのような恍惚を浮かべていた。終わりの部分を歌うころには、無愛想なマチルダ・ジェインをしっかりと胸に抱いていた。 「ここでキスして!」婦長さんが合図を送った。すると途端に、感情のない微笑みを浮かべた赤ちゃんの顔が熱烈なキスの雨に包まれた。 「すてきな歌ね!」おかみさんが声をあげた。「作詞したのはだあれ?」 「わたし――わたし、ブルーノを探して来なくちゃ」シルヴィーがおずおずと口を開いて、大急ぎでその場を去った。この不思議な少女は褒められるのも注目されるのも好まないらしい。 「シルヴィーが歌詞を考えたの」ベッシーが誇らしげに特報を教えてくれた。「それからブルーノが作曲して――私が歌ったの!」(ちなみに、最後の情報については教えてもらう必要はなかった)。  こうしてぼくらはシルヴィーを追って応接間に戻った。ブルーノはまだ窓の桟に肘をついていた。どうやらハエに話していた物語は終わったらしく、また新しいことに取り組んでいた。「ジャマしないで!」ぼくらが部屋に入るとブルーノが言った。「ぼくじょうのブタを数えてるんだから!」 「何匹いるんだい?」ぼくはたずねた。 「だいたい一○○四匹」ブルーノが言った。 「『だいたい一〇〇〇』ってことでしょう」シルヴィーが訂正した。「『四』はいらないわ。四だけ正確なはずないもの!」 「またはずれ!」ブルーノは得意満面だった。「四匹ってのは正確なはずだもんね。この窓のしたでエサ食べてるとこだから! 千匹ってのはぜんぜん正確じゃないけどさ!」 「あら、何匹か小屋に行っちゃってるわよ」シルヴィーはブルーノの上から頭をかがめて窓の外を眺めた。 「うん。でもすごくゆっくり少なづつ歩ってたから、あれは数えないことにしてたの」 「もう行かなくちゃ」ぼくは子どもたちに言った。「ベッシーにさよならを言って」シルヴィーは少女の首に腕を回してキスをした。だがブルーノは離れて立ったまま、いつになく恥ずかしそうにしていた。(『シルヴィーのほかにはだれにもキスしないんだ!』と、あとで教えてくれた。)おかみさんに見送られて、まもなくぼくらはエルヴェストンまでの帰途をたどった。 「あれが話に出ていた新しい酒場かな?」目に入ったのは細長く背の低い建物で、扉には「金獅子」と書かれてある。 「そうだと思います」シルヴィーが言った。「あの奥さんのウィリーはいるかしら? ブルーノ、行って見てきてちょうだい」  ぼくは口を挟んだ。ある意味ではブルーノの保護者はぼくだと思ったのだ。「あんなところに子どもを行かせちゃいけない」この時間からもう酔っぱらいが大騒ぎしていたのだ。騒々しく歌う声や怒鳴り声、無意味な笑い声が、開いた窓から漏れてくる。 「ブルーノは見えなくなれるんですよ」シルヴィーが思い出させた。「ちょっと待ってね、ブルーノ!」シルヴィーは首から提げている宝石を両手で挟み込むようにして、何事かをつぶやいた。それが何なのかぼくにはまったく理解できなかったが、すぐに謎めいた変化に襲われたように感じた。ぼくの足はいまや大地を離れ、夢でも見ているような感覚が訪れた。つまり、いつの間にかぼくに宙に浮かぶ力が与えられていたのだ。二人の姿はまだ見えていたが、形は影のようにぼんやりとして、声はまるで時と空間の彼方から響いてくるように聞こえ、二人にはまるで現実感が感じられなかった。いずれにしてもぼくはブルーノを行かせることにそれ以上は反対しなかった。ブルーノはすぐに戻ってきた。「まだ来てないみたい。みんなウィリーのことはなしてたよ。先週どんくらい飲んだかって」  話している最中に、客の一人がふらりとドアから現れた。片手にパイプ、片手にビールジョッキを持ち、ぼくらの立っているすぐ脇を通り過ぎて、道なりにもっとよく眺めようとした。ほかにも二、三人、開いた窓から乗り出している。みなジョッキを手にし、顔はまっ赤で目はとろんとしていた。「いるかい?」と一人がたずねた。 「わかんねえ」と男が言って足を前に踏み出したため、ぼくらと鉢合わせしそうになった。シルヴィーがあわてでぼくを引っ張り、脇によけた。「ありがとう。ぼくらが目に見えないってことを忘れてたよ。あのままだったらどうなってたんだろう?」 「どうなんでしょう」シルヴィーは考え込んだ。「私たちなら問題ないと思いますけど、でもあなたの場合はまた違うかもしれません」シルヴィーはいつも通りの声でそう言ったのだが、男はまったく気づいていなかった。男の目の前で、顔を見上げながら話していたというのに。 「きた!」ブルーノが叫んで道路を指さした。 「来た!」男も繰り返し、ブルーノの頭越しにまったく同じように腕を伸ばし、パイプで指し示した。 「よし、歌え!」窓にいた赤ら顔の一人が怒鳴った。すぐに調子っぱずれの大合唱が節をつけて始まった。 「あいつと、おめえも、おれも、 騒ごうぜ、みんな! 何はなくとも祭りだぞ! 騒ごうぜ、みんな! 騒ごうぜ、みんな! 騒ごうぜ、みんな!」  男はよたよたとパブに戻ると、やる気満々で合唱に参加した。そんなわけで、「ウィリー」が来たとき路上にいたのは子どもたちとぼくだけだった。 第六章 ウィリーの妻  「ウィリー」はパブの入口に向かったが、子どもたちがさえぎった。シルヴィーが片腕にしがみつき、ブルーノはブルーノで反対側から力一杯押さえつけ、御者から拝借した「ハイ! ドウ! ほい!」という怪しげなかけ声をかけていた。  ウィリーは二人のことには少しも気づかないものの、何かに邪魔されていることだけは感じていた。どういうことなのかさっぱりわからないので、自分の意思で行動していると考えたようだ。 「おれは行きたくねえんだな。今日はやめとくか」 「一杯ぐらいじゃ死なねえぞ!」飲み仲間たちががなり立てた。「二杯飲んでも死なねえぞ! 山ほど飲んでも知ったことか!」 「あいや」ウィリーが言った。「うちに帰《けえ》るよ」 「なんで飲まねえんだ、ウィリーちゃんよ?」仲間たちが怒鳴った。だが「ウィリーちゃん」は何も言い返さずに、頑としてきびすを返した。子どもたちは両脇から離れずに、ウィリーが突然の決意を変えないように見張っていた。  ポケットに手を入れてしっかりと歩きながら、どたどたとした足取りに合わせてそっと口笛を吹いていた。すっかりくつろいでいるところを見れば、結果はほぼ上々だった。だが注意深く眺めてみたならば、途中からメロディを覚えていなかったために曲が途切れたときに、同じところをすぐに繰り返したことに気づいたはずだ。気が高ぶってほかのことは考えられず、そわそわして静寂に耐えられなかったのだ。  今、ウィリーの心にのしかかっていたのは、昔の恐怖ではなかった――思い出してみると毎週土曜の晩、よろめきながら家に帰って門や垣根にもたれていたときや、興奮した妻に小言を言われてもぼうっとした頭にはぐゎんぐゎん鳴り響くこだまやどうしようもない後悔の嘆きでしかなかったときなど、恐怖が孤独な連れであった。今ではまったく新たな恐怖に囚われていた。人生そのものが新しい彩りに染め上げられ、目も眩むような新たな輝きに照らし出されたものの、家庭生活や妻や子どもが新しい事態にどのように馴染むものかどうかがまだわからなかったのだ。愚かなウィリーの心には、こうした目新しさの何もかもが頭を抱えるような難問であり震え上がるほどの恐怖であった。  とうとう震える唇から不意に曲が途絶えたのは、角を曲がって我が家が見えたときだった。妻が腕を組んでくぐり戸にもたれ、蒼い顔をして路上に目を凝らしている。その顔には希望の光は微塵もなく――あるのは底知れず冷たい絶望の影だけだった。 「ごくろうさま、早かったね!」という言葉が出迎えの言葉だったとしてもおかしくはなかったが、残念ながらその言い方には辛辣なところがあった。「あの飲めや歌えやのお友だちからどうやって抜け出してきたんだい? ポケットは空じゃないでしょうね? それとも我が子が死ぬのを見に来たのかい? 赤ちゃんはお腹を空かせているっていうのに、何にも食べさせてやってないんだからね。なのにあんたは何にかまけてるのかしらね?」妻はドアを乱暴に開けた。目には怒りをたぎらせていた。  男は何も言わなかった。男が目を伏せてゆっくりと家のなかまで歩くのを見て、どうして無言なのかとびくびくしながら、妻の方もそれ以上は何も言わずに後ろから家に入った。ウィリーが椅子に深々と座り込み、テーブルの上で腕を組んで頭を垂れるときになってようやく、妻はふたたび口を利くことができた。  ぼくらが夫婦と一緒に家に入るのも、ごく当たり前のことに思えた。別の機会であれば、一言断ってから家に入っていたはずだが、なぜかしらぼくらの姿はいかなるすべを用いたのか目に見えず、肉体を離れた魂のように自由に行き来できるのだと実感していた。  ゆりかごの赤ん坊が目を覚まし、気にせ…ざるを得ないような泣き声をあげたので、すぐに子どもたちがそばに向かった。ブルーノがゆりかごを揺らし、シルヴィーはずれた枕をそっと直した。だが母親は泣き声には気づかず、シルヴィーにあやしつけられた赤ん坊が満足げに「くーくー」するのにも気づかなかった。妻は立ったまま夫を見つめるだけで、(どうやら夫の頭がおかしくなったと思ったらしく)真っ青になった唇を震わせて、耳にたこができるほどいつも繰り返してきた小言をキーキーわめこうとするものの、うまくいかなかった。 「それに給料をぜんぶ使っちまったんだ――絶対そうだよ――大酒に飲まれてさ――また昔みたいなごろつきになっちまうんだろう――あんたはいつもそうなんだから――」 「そんなこたしちゃいねえよ!」かろうじてささやきより大きいくらいの声でつぶやいて、ゆっくりとポケットの中身をテーブルに空けた。「給料だ、全部ある」  妻は息を呑み、驚きのあまり発作でも起こしたように手で胸を押さえた。「じゃあどうやって飲んだんだい?」 「飲んじゃいねえよ」陰気というより悲しそうな声だった。「こんないい日に飲むもんか。飲んでたまるか!」ウィリーは大声をあげてテーブルに握り拳を叩きつけ、目を輝かせて妻を見上げた。「酒なんかもう二度と飲まねえ――死ぬまでだ――神様のご加護ってもんさ!」不意に訪れたしゃがれた叫びは、同じくらい不意に元の小声に戻った。そしてまたもや頭を垂れて両腕で顔を覆った。  夫が話をしているあいだに、妻はゆりかごのそばに膝をついていた。夫のことを見てもいなければ、話も聞こえていないように見える。頭上で手を組んで、がたがたと揺れていた。「ああ神様! ああ神様!」とだけ何度も繰り返している。  シルヴィーとブルーノは丁寧に奥さんの手をほどいて下に降ろした――妻は自分の腕が二人の体に回されても、そのことに気づかずに、ひざまずいて天を見上げ、無言で感謝を表すように唇を動かしていた。夫は顔をうずめたまま、一言も口を利かない。だが全身が震えているところから、むせび泣いているのがわかる。  しばらくしてから夫は顔を上げた――顔は涙で濡れていた。「馬鹿だな!」と小さくささやいてから、大きく声を出した。「ポールっち!」  妻が立ち上がり、夢中遊行のようなぼうっとした目つきをして夫に近寄った。「あたしのことポールっちって呼ぶのは誰?」とたずねる声には、ほのかにはしゃいだような響きがあった。目は輝き、青白い頬に青春の薔薇色の光が注いでいた。くたびれた四十歳の女ではなく、まるで幸福な十七歳の乙女のように見えた。「あんたなの、ウィリー? 戸口であたしを待ってるのは?」  夫の顔もすっかり変わり、妻と同じ魔法の光に染められて内気な少年のようになっていた。二人はまるで少年と少女だった。少年は少女に腕を回してそばに引き寄せると、まるで触れたくもないものでも扱うように、空いている方の手でお金の山を突き放した。「もらっとくれ。まるごと持ってってくれ! なんか食べるもんでも買うといい。まあまずは、赤ん坊にミルクだな」 「あたしのかわいい赤ちゃん!」妻は硬貨を拾いながらつぶやいた。「あたしの赤ちゃん!」それからドアに向かったが、部屋を出ようとしたところでふと思いついたらしく立ち止まった。あわただしく戻ってくると――まずは屈み込んで、眠っている我が子にキスをして、それから夫の腕のなかに飛び込んでどぎまぎさせた。次の瞬間にはまだドアに向かい、出しなに釘に掛けてある水差しをつかんだ。ぼくらはそのすぐ後ろからついていった。  ほどなくして「酪農場」と書かれた看板が揺れているのが見えた。奥さんがそこに入ると、もこもこの白い犬が出迎えた。〈あやかし〉状態ではなかったので、犬は子どもたちを見つけてはしゃいでいた。ぼくがなかに入ると、酪農夫がお金を受け取っているところだった。「あんたが飲むんかい、奥さん、それとも赤ん坊かい?」水差しにミルクを詰めると、それを手にしたまま酪農夫がたずねた。 「赤ちゃんよ!」なじるような答えが返ってきた。「あの子をお腹いっぱいにしなきゃならないっていうのに、あたしが一口いただくとでも思うの?」 「了解、奥さん」と答えて、水差しを持ったまま後ろを向いた。「合ってるかどうかちょいとはかってきやしょう」酪農夫はミルク棚に戻って奥さんには背を向けたまま、乳脂《クリーム》を水差しに空けながら独り言ちた。「きっと元気が出るぞ、お嬢ちゃん!」  ウィリーの妻は心遣いには気づかず、水差しを受け取ると「おやすみなさい」とだけ言って立ち去った。だが子どもたちはもう少し目ざとかった。奥さんの後ろからついていきながら、ブルーノはこう言った。「とってもに親切だったね。ぼくあのおじさん大好き。ぼくがとってもにお金持ちだったら百ポンドあげるのに――あとロールパンも。あのうるさい犬はぢぶんの仕事がわかってないね!」ブルーノが言っているのは酪農夫の犬のことで、ぼくらが到着したときには暖かくもてなしてくれたこともすっかり忘れて、今は一定の距離を保ったまま、誰かに足を踏んづけられたようなあら〜ぬ声で盛んに吠えかかり、彼なりに「お帰りはあちら」を実践していた。 「犬の仕事って何?」シルヴィーが笑った。「店番もできないしおつりも渡せないわよ!」 「おねえちゃんの仕事はおとうとのことを笑ったりしないことさ」ブルーノは大まじめに言い返した。「そいで犬の仕事はほえることだけど――あんなほえかたはだめ。ちゃんとひとつほえ終わってからまたほえなきゃ。そいから――あっ、シルヴィー、アンポッポだ!」  たちまち子どもたちは大喜びで草むらのなかに飛び込んでゆき、われさきにタンポポのあるところまで急いだ。  そのまま二人を見ていると、不思議な夢のような感覚に襲われた。鉄道の構内が緑の草むらと入れ替わり、軽やかに跳ね回るシルヴィーの代わりに、飛ぶように走っているミュリエル嬢の姿を目にしているような気がした。だがブルーノが同じように変化して、ミュリエル嬢が追いかけていた老人になったのかどうかは、判断しかねた。感覚の訪れと消失はあまりに一瞬の出来事だったからだ。  ぼくがふたたび居間に戻っても、アーサーは背中を向けて窓の外を見ているままだったので、ぼくが戻ったことに気づいていないようだった。飲み終えたばかりらしきティーカップがテーブルの脇に押しやられ、その反対側には書きかけの手紙が置かれ、その上にペンが乗っかっていた。ソファの上には本が開いたままで、安楽椅子にはロンドン紙が広げられていた。そばの小卓には火のついていないタバコと蓋の開いたマッチ箱があるのに気づいた。こうしたことを見れば明らかだった。いつもは几帳面で自己管理のしっかりした医師《せんせい》が、あらゆることを試してみた挙句、何ひとつ手につかなかったのだ! 「君らしくないな、先生!」と言いかけたが、驚いて言葉を飲み込んだ。ぼくの声に振り返ったアーサーの表情がすっかり変わっていたのだ。これほどまでに幸せに輝いている顔や、これほどまでに尋常ならざる光にきらめいている目など見たことはなかった! 「何だかんだ言ったところで」とぼくは考えた。「先触れの天使はちゃんと見ていたのだ。そして夜ごと群れの番をする羊飼いのもとに、『地上では御心にかなう人に平和を』というメッセージを届けたのだ!」 「やあ、あなたですか!」アーサーはぼくの顔色を読んでその疑問に答えでもするように、「本当なんです! 本当なんですよ!」と言った。  何が本当なのかたずねる必要はない。「二人ともお幸せに!」うれし涙がぼくの目から溢れかけた。「二人ともお似合いだよ!」 「ええ」答えはそれだけだった。「そうだと信じてます。人生ってこんなに変わるものなんですね! これが同じ世界とは思えません! あれも昨日見た空とは違います! あの雲――あんな雲を見たのは人生で初めてです! 天使の大軍が浮かんでるみたいだ!」  ぼくには普段と変わらぬ雲に見えたのだが、ぼくは「甘露を食し、楽園の乳を」飲んだわけではない。 「あなたに会いたがってましたよ――すぐにでも」アーサーが突然地上に戻ってきた。「そうしないと幸せの杯にまだ一滴欠けたままなんだそうです!」 「すぐ行くよ」ぼくは部屋を出ようと体を動かした。「一緒に来るかい?」 「いいえ、結構です!」医師《せんせい》は取ってつけたように――完全に失敗していたが――職業的な態度に戻ろうとした。「一緒に行くように見えますか? 二人なら仲良しってことわざを聞いたことが――」 「わかった」ぼくはさえぎった。「聞いたことはあるよ。残念ながらぼくが三人目だってこともわかってるさ! だけどまた三人で会うのはいつになるんだい?」 「どさくさ騒ぎが終わったらですよ!」アーサーは笑いながら答えた。こんなに嬉しそうなアーサーの笑い声を聞いたのは、何年ぶりのことだっただろう。 第七章 ミステル  そこでぼくは一人寂しく道を歩いた。ホールに着くと、ミュリエル嬢が庭木戸のところでぼくを待っているのが見えた。 「お祝いの言葉を贈る必要も幸せを祈る必要もありませんね?」とぼくは切り出した。 「何にもいりません!」子どものように嬉しそうな笑顔だった。「贈り物というのは持っていない人に贈るものですし、祈りというのはまだ訪れていないもののために祈るものですもの。私には何もかもここにあるんです! 何もかも私は持っているんです! ところで」と急に話をやめ、「そもそも天が地上に開けるのは、誰かのためだとお思いですか?」 「そうですね、たぶん、純真で無邪気な人たちのためでしょう。『天の国は、このような子どもたちのものである』と言いますからね」  ミュリエル嬢は手を握りしめ、曇り空を見上げた。シルヴィーがそういう目つきをしているのをぼくは何度も見ていた。「天が開けたのは私のためだったと錯覚しそうなほどなんです」ささやくような声だった。「まるで幸せな子どもたちの一人になったようでした。人から引きとめられそうになったのを、あの方が自分のところに来させた子どもたちのことです。そうなんです、あの方は人ごみのなかから私を見つけました。私の目に宿る焦がれるような気持ちを読み取りました。私をおそばに手招いたんです。ほかの人たちは私のために道を開けなくてはなりませんでした。あの方は私を腕に抱き上げ、手を置いて、祝福してくださったんです!」話を終えたミュリエル嬢は、得も言われぬ幸せのあまり息を弾ませていた。 「そうですね。あの方がそうしてくださったんだと思いますよ!」 「ぜひともお父さまとお話しになってください」とミュリエル嬢に言われたとき、ぼくらは門の前に並んで立ったまま、日陰になった小径を見下ろしていた。ところが、ミュリエル嬢がその言葉を口にした瞬間、ぼくは〈あやかし〉い感覚に洪水のように襲われていた。懐かしい教授が近づいてくるのが見えたのだが、なんと奇妙なことに、ミュリエル嬢にも教授が見えているのがわかった!  何が起こったのだろう? 妖精世界が現実世界と融合してしまったのだろうか? それともミュリエル嬢にも〈あやかし〉が訪れ、ぼくとともにこうして妖精世界に入ることができたのだろうか? ぼくの唇に(「小径に友人がいます。まだお知り合いでなければ紹介させてください」)という言葉が出かかったとき、とりわけ奇妙なことが起こった。ミュリエル嬢がこう言ったのだ。 「小径に友人がいます。まだお知り合いでなければ、紹介させてもらえますか?」  どうやら夢から覚めたらしい。「らしい」というのは、〈あやかし〉感がまだ強く残っていて、その人物の見かけが万華鏡のように絶えず変化しているように見えたからだ。今は教授だ、また今は別人だ! 門にやってきたときには、完全に別人だった。ということは紹介するのに相応しいのはぼくではなくミュリエル嬢だろう。ミュリエル嬢は愛想よく挨拶して門を開け、その雰囲気ある老人――見るからにドイツ人――を招き入れた。その老人も夢から覚めたばかりのように、ぼんやりした目で周りを見た!  そうだ、教授ではないに決まっている! このあいだ会ったときからこれほど豊かな顎髭が伸びるわけがない。それに教授ならぼくに気づいたはずだ。ぼくはあれからたいして変わっていないのは確実なのだから。  現実には老人はぼくにそれとなく目を向けただけで、「ミステルをご紹介します」というミュリエル嬢の言葉に合わせて帽子を脱いだ。言葉には強いドイツ訛りがあった。「お近づきになれて光栄です!」以前に会ったことがあると思わせるようなそぶりはこれっぽっちもない。  おなじみの木陰に案内されると、そこにはすでにお茶の用意ができていた。ミュリエル嬢が伯爵を呼びに行き、ぼくらは安楽椅子に腰をおろした。すると「ミステル」はミュリエル嬢の作品を手に取り、大きな眼鏡越しにじっくりと観察し出した(この眼鏡がまた小憎らしいほどに教授を連想させる要素なのである)。「ハンカチの縁取りとは?」と考え込むように言った。「そうすると英国のご婦人はこうしたものに心夢中なのかね?」 「ひとつの才能ですよ」ぼくは言った。「そういうことに関しては、男が女に勝てた試しはありませんね!」  ミュリエル嬢が父親と一緒に戻ってきた。伯爵と「ミステル」が気さくに言葉を交わし、ぼくらが大事な「肉体的恩恵」を補給し終わったところで、老人がふたたびハンカチの話を持ち出した。 「幸運の財布のことを聞いたことがありますかな、お嬢さん? ほう、そうですか! きっと驚かれるでしょうな、この小ッコヒ三枚のハンカチで幸運の財布を作れるのですぞ。ちょちょいのちょいです」 「やってみようかしら」ミュリエル嬢は乗り気を見せ、膝にハンカチを重ねて針に糸を通した。「どうか作り方を教えて、ミステル! お茶をおかわりする前に一つ作ってみますから!」 「まずはですな」ミステルは二枚のハンカチを手に取り一枚ずつ重ね、角を二か所をつかんで持ち上げた。「まずはこんなふうに上側の角を二か所、留めてくだされ。右と右、左と左を。するとそのあいだが財布の口になります」  針を何度か動かすだけでこの指示は済んだ。「これで残りの三辺を縫ったら、バッグのできあがりですか?」ミュリエル嬢があてずっぽうを言った。 「違いますな。下側の縁をまず綴じ合わせて――ああ、そうではありません!」(と言ったときにはもうミュリエル嬢は縫い始めていた)。「一枚を裏返し、右下の角をもう一枚の左下の角に重ねて、あべこべとでも言うんですかな、そんなふうにして下側の縁を縫い合わせてくだされ」 「了解!」ミュリエル嬢はてきぱきと指示を実行した。「ずいぶんとよじれた不格好で怪しげなバッグができそうね! でも教訓は素晴らしいわ。無限の富を手に入れるには、あべこべに行動するほかない! どうやって縫えばいいのかしら、こんなおかしな口ばかりある財布――違った、おかしな口一つ?」(こんがらかったようにくるくるとねじれていたのだ)。「確かに口は一つだわ。一瞬二つあるかと思ったんだけど」 「『謎の紙の輪』をご存じで?」ミステルは伯爵に話しかけていた。「細長い紙切れはありますかな? 一回ねじってから両端をつなげるのです。一端の表側ともう片端の裏側をつなげるわけですな」 「つい昨日、出来上がったのを一つ見ましたよ」伯爵が答えた。「おまえがお茶に呼んだ子どもたちに作ってやっていなかったかね、ミュリエル?」 「ああ、あの『謎』ね」ミュリエル嬢が言った。「あの輪には表面が一つしかないし、端が一つしかないんです。不思議でしょう!」 「このバッグも似たようなものなんじゃないかな?」ぼくはそれとなく言ってみた。「外側が内側とつながっていませんか?」 「ほんとだわ!」ミュリエル嬢が声をあげた。「でもこれではバッグじゃありませんよ。どうやってこの口をふさぐんですか、ミステル?」 「さよう!」老人は力強く答えるとバッグを受け取り、興奮して立ち上がって説明を始めた。「この財布の口はハンカチの四つの縁から成っております、口がぐるりと一回りしてつながっているのをご確認くだされ。一枚目のハンカチの右端を降りて、もう一枚の左端を登り、一枚目の左端を降りて、もう一枚の右端を登っておるでしょう!」 「仰る通りですね!」ミュリエル嬢は眉間にしわを寄せてもごもごとつぶやき、頬杖をついて老人をまじまじと見つめていた。「それに口が一つしかないのが証明されちゃった!」  不思議なことにミュリエル嬢が難しい勉強に頭をひねる子どものように見えたし、いつの間にかミステルも不思議なことに教授のようになっていたので、ぼくはすっかりまごついてしまった。〈あやかし〉感にどっぷりと押し寄せられて、ぼくはこう言いたくて仕方なかった。「わかるかい、シルヴィー?」。だが何とかこらえて、その夢の(本当に夢だとしたらの話だが)消えるにまかせた。 「さて、この第三のハンカチにも」ミステルは話を続けた。「縁は四つあって、それが途切れることなく一周りしておるのを確認いただけましょうな。すべきことはこの四つの縁を財布の口の四つの縁と縫い合わせることです。それで財布は完成し、外側が――」 「わかりました!」ミュリエル嬢が勢いよくさえぎった。「外側が内側とつながるんですね! でも時間がかかりそうだから、縫うのはお茶のあとにしますね」バッグを脇に置き、ふたたびティーカップを手にした。「だけどどうして幸運の財布と呼ばれているんですか?」  老人がにっこりと微笑みかけると、それまで以上に教授に生き写しだった。「わかりませんかな、お嬢ちゃん――お嬢さんというべきでしたか? その財布の内側はどこも外側であり、外側はどこも内側なのですぞ。ということは世界中の富がこの小ッコヒ財布の中に入るのです!」  生徒は手を叩いて惜しみない喜びを送った。「第三のハンカチも必ず縫うことにします――いつかきっと。でも今はそうやってお時間を取らせるわけにはいきませんから。もっと不思議なことを聞かせてください!」その顔も声もどう見てもシルヴィーを思わるので、ぼくは半ば期待を込めて辺りを見回さずにはいられなかった。ブルーノも見えやしないだろうか、と!  ミステルは思案顔で、ティーカップの縁でスプーンのバランスを取りながら、このお願いについてじっくりと考え込んでいた。「何か不思議なこと――幸運の財布のような? それがあれば――完成したあかつきには――夢に見た以上の財産が手に入る。だが時間は手に入らない!」  引き続いた沈黙を――ミュリエル嬢は、お茶のお代わりを注ぐというきわめて現実的な目的に利用した。 「あなたのお国では」ミステルが出し抜けにしゃべり出した。「無駄にした時間はどうなるのですかな?」  ミュリエル嬢は真剣な面持ちで、独り言つように答えた。「どうにもなりはしないでしょう? 子どもだって知ってるわ、過ぎてしまって――取り戻すことができないことくらい!」 「はて、わしの――つまりわしが訪れたとある国では、蓄えておりましたな。何年かあとになってから、非常に重宝しておるのです! 例えばの話、長々と退屈な夜があったとします。話相手もいない、やるべきこともない、そのくせ寝るのには早すぎる。あなたならどうしますかな?」 「ずいぶんとむしゃくしゃして、部屋じゅう投げちらかしたくなるわ!」ミュリエル嬢はすっきりと答えた。 「わしの――わしの訪れたその国では、そんなことはしませんぞ。ちょちょいのちょいと――説明することは叶わんのですが――無駄な時間を蓄えておくのです。また別の機会に時間が余分に必要な事態にでもなれば、また時間を下ろすわけです」  伯爵は疑わしげな笑みをかすかに浮かべて聞いていた。「どうしてそのやり方を説明できぬのです?」  ミステルは反駁の余地のない理由を用意していた。「あなたがたの言語には、必要な概念を伝える単語がないのですわ。だからと言ってウホン――ウホン――語で説明したところで――あなたがたには理解できんだろうて!」 「それはそうね!」ミュリエル嬢は未知の言語の名前をそつなく避けた。「そんなの習ったことありませんもの――最低限すらすらとしゃべれるほどには。お願い、もっと不思議なことを聞かせてくださらない?」 「その国の鉄道は動力装置なしで走っております――停止用装置のほかは何にもいらぬのです。これは存分に不思議かな?」 「でもどこから動力を取っているんですか?」ぼくは疑問を口にせ…ざるを得なかった。  ミステルは素早く振り返って、口を挟んだぼくを見た。そうして眼鏡をはずしてごしごし拭いてから、明らかに困り切った様子でもう一度ぼくを見た。考えているのだ――ぼくと同じように――間違いなく以前に会ったことがあるのではないかと。 「重力を用いております。あなたのお国でも周知の力でしたな?」 「しかしそれには下り坂の線路でなくてはならんでしょう」伯爵が言った。「すべての線路を下り坂にするのは不可能な相談なのでは?」 「すべてですぞ」ミステルが答えた。 「どちらの端から見ても下り坂なのではないでしょう?」 「どちら側から見てもです」 「これは参った!」伯爵が言った。 「どうなっているのか説明していただけますか?」ミュリエル嬢がたずねた。「あの言葉、私がすらすらとは話せない言葉を使わずに、ですけれど?」 「おやすいご用で」ミステルが言った。「どの線路も完全に真っ直ぐなトンネルのなかにありましてな。であるからして当然のごとく、トンネルの真ん中は両端よりも地球の中心に近いということになります。それゆえどの汽車も片道を下り坂で走る、したがって残り半分の上り坂を走る勢いもつくわけです」 「ありがとうございます。すっかり理解できました」ミュリエル嬢が答えた。「でもトンネルの真ん中では、ぞっとするようなスピードなんでしょうね!」  ミュリエル嬢の飲み込みのよさに、どうやらミステルの知的関心が存分に満たされたようだ。見る見るうちにさらに饒舌でさらに流暢になったように思える。「馬の御し方をお知りになりたくはありませんかな?」ミステルはにこにこしながらたずねた。「われわれにとって、暴走した馬など問題ではありませんぞ!」  ミュリエル嬢がかすかに身震いした。「私たちのところでは、それはすごく危険なことなんです」 「それは馬車が馬の後ろにあるからで。馬が走る。馬車がついてゆく。あなたの馬が暴れたとします。誰に止められましょうか? どんどん速度が上がる一方です! ついには横転は避けられますまい!」 「でもあなたのところの馬も暴れようとするんじゃありませんか?」 「心配ご無用! われわれには関係ありません。わしらのところでは馬は馬車の真ん中に繋いでおります。車輪二つは馬の前に、二つは後ろに来るように。屋根には太い綱の端が繋がれておりましてな。これは馬の胴体の下を通って、反対端は小ッコヒ――確か「巻き上げ機」でしたかな、それに繋がれております。馬が暴れる。暴走する。時速十マイルのスピードですわ! 巻き上げ機を回して、五巻き、六巻き、七巻き、すると――ほいッ! 馬が宙に浮かぶ! こうして馬は喜び勇んで宙を駆けとりますが、馬車は相変わらず地上のままですわ。われわれは馬の周りに座って見張っとりまして、馬が疲れたら降ろしてやるわけです。ふたたび地面に足が触れたときには、馬のやつは喜びますよ、そりゃもう大喜びですぞ!」 「素晴らしい!」耳を傾けていた伯爵が声をあげた。「あなたがたの馬車にはほかにも変わったところがあるのですか?」 「場合によっては、車輪にも。あなたがたは健康のために海に行きますわな。ばたついたり、泳いだり、ときどき溺れたり。われわれはそういったことをすべて陸でやりますぞ。ばたつく、泳ぐ、そこまでは同じです。だが溺れることはありません! 水がないのですから!」 「それで、どういった車輪なんでしょうか?」 「楕円形をしております。ですから馬車はがたぼこ浮き沈みいたすわけです」 「なるほど、それに埃がばたつきますね。だがどのようにして泳ぐんです?」 「車輪がちぐはぐなのですな。片側の車輪の長径が、反対側の車輪の短径に合わせてあるのです。ですからまず馬車の片側が上がり、それから反対側が持ち上がって、車体が横に泳ぐわけですな。そのあいだも埃はばたついております。われわれの船馬車を操るには、優れた船員でなくてはなりませんぞ!」 「それはそうでしょうな」伯爵が言った。  ミステルが立ち上がった。時計を確かめると、「もうそろそろおいとませ…ねばなりません」と言った。「別の約束がありましてな」 「余分な時間を貯めておけばよかったわ!」握手を交しながらミュリエル嬢が言った。「そしたらもうちょっと引き留めておけるのに!」 「そうであれば喜んで留まりましょうに」ミステルが答えた。「だが実際のところは――お別れせ…ねば!」 「どこで知り合ったんですか?」ミステルが立ち去ったあとで、ぼくはミュリエル嬢にたずねた。「それにあの人はどこに住んでるんです? 本当の名前は?」 「あの人に――初めて――会ったのは――」考え込んでいる。「おかしいですね、思い出せません! それにどこに住んでいるのかわからないし! 名前も聞いたことがないわ! 不思議ね。謎の存在だってことに初めて気づきました!」 「また会えるといいな」ぼくは言った。「ずいぶんと面白い人だ」 「二週間後のお別れ会にいらっしゃるはずですよ」伯爵が言った。「もちろんあなたも来てくれるでしょうね? ミュリエルがもう一度友人を勢ぞろいさせたがってるんですよ、ここを発つ前に」  と言ってぼくに説明してくれた――ぼくらを残していなくなっていたミュリエル嬢の代わりに――リンドン少佐との婚約解消にまつわるつらい思い出のあるこの地から、娘を連れ出したいので、ひと月後のこの日に結婚式を挙げるべく準備をしてきたのだという。式のあとでアーサーと妻は海外旅行に出かける予定になっていた。 「再来週の火曜ですからね!」伯爵が別れ際に握手して念を押した。「あの可愛い子どもたちも連れてきてくれるでしょうね、夏に連れてきた子どもたちです。ミステルの謎と言ってたな! あの子らにまつわる謎に比べれば何でもありませんよ! あの素晴らしい花を忘れられますか!」 「できたら連れてきますよ」ぼくはそう言ったが、どうやって約束を果たせばいいのか、宿に戻る道々ずっと考えていた。ぼくの手に余る問題だ! 第八章 こかげにて  十日は瞬く間に過ぎ去った。パーティを翌日に控えたその日、アーサーに誘われて、午後のお茶に間に合うように館まで散歩することになった。 「一人の方がいいんじゃないのかい?」ぼくはそんなふうに言ってみた。「さぞかしぼくは余計《de trop》だろうに?」 「まあ実験のようなものです。|只で試せ《fiat experimentum in corpore vili》」アーサーは実験台に向かって、ふざけて馬鹿丁寧なお辞儀をした。「明日の夜には、最愛の人がぼく以外の人間に微笑みを向けているのを見て耐えなくちゃならないんですよ。微笑みを受けるのに相応しいのはぼくだけなのに。本番前に最終稽古《ドレス・リハーサル》をしておけば、ありがたいことに苦しみに耐えらるでしょうからね!」 「ぼくの役どころはどうやら、相応しくない人間の実例かな?」 「まさか、そんな」家を出たところで、アーサーは考え込んだ。「レギュラー団員にはそんな役はありませんよ。『頑固親父』? そんなの駄目だ、間に合ってる。『歌う女中』? いや、『ファーストレディ』ならその役と二役できる。『お笑い芸人』? お笑いだな。するとやっぱり『紳士ぶった悪党』しかありませんねえ。もっとも――」値踏みするように横目を使い、「紳士のことにはあンまり詳しくないのでね!」  いたのはミュリエル嬢が一人だけで、伯爵は人に会いに出ていたものの、すぐにぼくらは旧交を温め合った。こかげの四阿ではティーセットが変わらぬ様子で待ち受けていたが、ひとつだけ目を惹いたのは(ミュリエル嬢はまったく当たり前のことだと思っているようだが)、二脚の椅子がぴったり隣り合わせに並べて置かれていたことだった。不思議なことに、ぼくはどちらの椅子も勧めてもらえなかった! 「途中で手紙のことを話していたんだ」アーサーが話し始めた。「ぼくらがスイス旅行をどれだけ楽しんでいるか知りたいというからね。もちろん楽しんでいるということにしなくてはね?」 「それはそうよ」ミュリエル嬢は迷わず同意した。 「確かに台所事情というのは」とぼくは口した。 「――厄介なものですから」ミュリエル嬢が即座にあとを引き取った。「ことにあちこち飛び回っていては、ホテルに台所なんてありませんもの。でもわたしたちのは携帯用ですからね。しかも素敵な革装ケースに入れてしっかりくるんでありますから」 「書き物のことなんか忘れてくれよ」ぼくは言った。「手許にもっと楽しいことがあるんだから。手紙を読むのは楽しいけれど、書くときの苦労は百も承知だからね」 「そういうこともありますね」アーサーが頷いた。「たとえば内気な人が手紙を書かなければならないとき」 「文字に人柄が出るものかしら?」ミュリエル嬢が疑問を口にした。「そりゃね、誰かが――例えばあなたと――しゃべるのを聞けば、その人がどれだけひどく内気なのか判断できるわ! だけど文字で判断できるでしょうか?」 「そうだな、誰かが――例えば君と――すらすら話をしていれば、その人がどれだけひどく内気じゃないかわかるよ――勝気と言ったら言い過ぎにしても! だけどひどく内気でぽつぽつとしか話せない人でも、手紙の文章を見たら流暢に見えるんじゃないかな。二つ目の文章を書くのに三十分かかったかもしれないのに、一つ目の文章のすぐ後ろにあるんだからね!」 「じゃあ手紙だと表現できるはずのことを表現しきれないの?」 「現状の手紙の書き方に不備があるだけだよ。書く人が内気なら、内気だということを表現できなければおかしい。どうして文章のなかで一息ついちゃだめなんだい、話すときにはそうするのに? 空白のままにしておけばいい――一息につき半ページでどうだろう。あるいはとても内気な女の子なら――そんなものが存在するとして――一枚目の便箋に一行書いて――それから真っ白な便箋を二枚挟んで――四枚目の便箋に一行書いたりしてもいい」 「未来が見えます、わたしたち――この賢い坊やとわたしの――」とミュリエル嬢がぼくに声をかけたのは、もちろん会話の仲間に加えようという親切心だ。「――有名人になってるんです――もちろん発明品は今は共有財産になっていてるんですけれど――新しい文章記述書式のおかげです! お願い、もっと発明して」 「そうだな、これも何が何でも必要じゃないかな、何ら意味のない表現の仕方」 「説明希望! そんなに簡単に、まったく意味のないことを表現できるの?」 「本気にされるような意味ではないことを口にするときに、伝えたいとおりに表現できると言いたかったんだ。なにしろ人間というものはうまくできたもので、本気で書いたことを冗談だと受け取られたり、冗談のつもりでも本気に受け取られたりしてしまうんだから! 何はともあれ女性に宛てて書くとそうなるね!」 「そんなに何人も女性宛てに書いたことなんてないくせに!」ミュリエル嬢は椅子にもたれかかったまま空をにらんで考え込んでいるふうだった。「書いてごらんなさいよ」 「いいね」アーサーが言った。「何人くらいに書けばいい? 両手の指で数えられるくらいかな?」 「片手の親指で数えられるくらいよ!」ミュリエル嬢は重々しく答えた。「何ていたずらっ子なのかしら! そうじゃありません?」(と、ぼくの方に魅力的な一瞥をくれた)。 「手に負えないところはあるけれど、きっともう分別もついているよ」ぼくはそう言いながら独り言ちていた。「ブルーノに話しかけるシルヴィーそのものじゃないか!」 「お茶を欲しがってるよ」(いたずらっ子が情報を自ら伝えた。)「明日の素晴らしいパーティのことを考えるだけでくたくただよ!」 「だったら前もって一休みしておかなくちゃね!」ミュリエル嬢はいたわるように答えた。「お茶はまだ淹れてないの。ほら、ちゃんと椅子に座って、なんにも考えないか――わたしのこと考えるか、どっちか好きな方をしておいて!」 「みんな一緒のことじゃないか!」アーサーは愛おしそうな目をして、むにゃむにゃとつぶやいた。そうしているうちにミュリエル嬢はティー・テーブルまで椅子を動かし、お茶を淹れ始めた。「それじゃあいたずらっ子はお茶を待ってるからね、いい子にして、我慢してるんだ!」 「ロンドン新聞を持ってきた方がいい?」ミュリエル嬢がたずねた。「出がけに、テーブルに置いてあるのを見かけたの。何にもないって父は言ってたけれど。ぞっとするような殺人の公判は別だけど!」(そのころ世間の人々は日々興奮に震えて、ロンドン東部にある泥棒のねぐらで起こった刺激的な殺人の詳細をわくわくと見守っていた。) 「怖い話はごめんだな」アーサーが答えた。「でもそこから導かれる教訓は学んだ方がいい――ところが人はそれをしょっちゅうあべこべに解釈してしまうものなんだ!」 「また謎めかすんだから。さあ説明してちょうだい」言葉にしたがい動きながら、「ここに座って教えを請うわ、あなたは第二のガマリエルってとこ! いえ、いいんです」(これはぼくに言った言葉だ。ぼくはミュリエル嬢の椅子を後ろに引こうと立ち上がっていた。)「お気になさらずに。この木と芝生が快適な安楽椅子になりますから。解釈を間違ってばかりの教訓って何かしら?」  アーサーはしばらく何も言わなかった。「何なのかはっきりさせたいな」とゆっくり考え込みながら口を開いた。「君に何か言う前に――君がそのことを考えているんだから」  お世辞のようなことを言うのはアーサーには珍しいことだったので、ミュリエル嬢の頬がうれしさで赤く染まった。「考える材料をくれたのはあなたじゃない」 「真っ先に頭に浮かびがちなのが、ある同胞がやったようなひどくおぞましく残忍なことを読み取ることで、罪の深淵がぼくらの足許に新たに姿を見せたということなんだ。高くて遠く離れた場所から深淵を覗き込んでいるような気になっているんだね」 「何となくわかった。みんなこう思うべきだって言いたいのね――『神さま、私が彼の者たちと違うことを感謝します』――ではなく、『神さま、あなたの恩寵がなければ同じように罪深いであろう私に、お慈悲を』と」」 「いや」アーサーが言った。「それ以上のことさ」  ミュリエル嬢は目を上げたが、口を挟まず無言のまま待った。 「もっと遡らなくては。その不幸な人と同い年の、別人のことを考えてみるんだ。二人が生まれたころに遡ってみよう――まだ善悪の感情もなかったころに。とにかくそのころは、神の目から見れば二人とも平等だった――」  ミュリエル嬢が頷いた。 「こうして人生を比較している二人の人間のことを考えるに当たって、はっきりとした二つの時期がある。第一の時期には、道徳的責任については、二人とも同じ土台に立脚していたんだ。二人とも善も悪も判断できなかった。第二の時期になると、一人目の人間は――比較のために極端な例えをするけれど――あらゆる尊敬と愛を勝ち取った。その評判は錆びることなく、その名にはそれからも名誉がついて回るだろう。二人目の人間の歴史は単調な犯罪の記録でしかなく、最後にはその国の怒れる法に生命を奪われてしまった。それぞれの場合に、第二の時期を左右することになる原因は何だったのか? 二種類のことが考えられる――ひとつは内部要因、もうひとつは外部要因。この二つは別々に考えなくてはならない――それはそうと、こんなつまんない話ばかりで退屈していないかい?」 「それどころか」ミュリエル嬢が答えた。「面白くて仕方ないわ。こんなふうに一つの問題について議論して――理解できるように分析したり整理したりするのは。問題を論じているふりをしているだけのひどく退屈な本もあることだし。考えが理路整然と組み立てられていないんだもの――『思いついた端から』ってとこ」 「勇気百倍だ」アーサーは嬉しそうな顔をした。「内部要因というのは時間とともに人格を形作る、意思による一連の行為――要するに、これをするかあれをするか選ぶという行為のことだ」 「自由意思の存在を前提とするのかい?」ぼくはその点をはっきりさせようとした。 「さもなければ|議論は終わり《カディト・クアエスティオ》です。これ以上は言うことがありませんよ」アーサーは穏やかに答えた。 「前提とします!」残りの聴衆――アーサーから見れば過半数ということになるのだろう――がはっきりと宣言した。アーサーは話を続けた。 「外部要因とは、周囲の環境だ――ハーバート・スペンサー氏が『適応環境』と呼んでいたものだね。ここではっきりさせておきたいのは、人は自分の選んだ行為に対する責任はあるが、環境に対する責任はないということだ。だからこの二人が、とある状況で同じ誘惑にさらされたときに、同じように抵抗して同じように正しい道を選ぼうとするのであれば、神の目からは二人の立場は同じはずなんだ。一人が神の御心にかなったのなら、もう一人の場合もそうだし、一人が御心を損じたのなら、もう一人も損じるだろうね」 「その通りだと思う。よくわかるわ」ミュリエル嬢が相槌を打った。 「それなのに、それぞれの環境が原因で、一人は誘惑に大きな勝利をおさめ、もう一人は真っ暗な罪の深淵に落ちてしまうんだ」 「だけど二人とも神の目から見ればまったく同じように罪を犯していると言わなかった?」 「さもなけりゃ、完全なる神の裁きを疑わざるを得ないよ。それよりもう一ついいかな、それでもっとはっきり説明できると思う。一人は上流階級の人間 ――もう一人は泥棒の常習犯だとしよう。上流階級の人間が些細な不正行為に手を染める機会を得たとする――それも不正が絶対に見つからないと確信できるような行為で――不正に手を染めずにいることも極めて簡単な行為で――罪であることが明らかな行為だ。もう一人は恐ろしい犯罪に手を染める機会を得たとする ――誰もが大犯罪だと見なすような犯罪だけど――罪を犯そうとするどうしようもないほどの衝動に押しつぶされているんだ――もちろん完全にどうしようもないわけじゃなく、あらゆる責任をくじくほどではない。こうした場合、第二の人間が誘惑に抵抗するには第一の人間の何倍もの力がいると考えてみよう。そしてまた、二人とも誘惑に負けてしまった場合を考えてみれば――第二の人間は、神の目から見れば、もう一人ほど罪がありはしないと思うんだ」  ミュリエル嬢が長々と息を洩らした。「善悪の概念がひっくり返ってしまうわね――初めのうちは! だって殺人事件の裁判のとき、裁判所で一番罪深くない人間が殺人犯かもしれないってことでしょう。しかも公正を欠いた発言をするという誘惑に負けて、犯人を裁いた判事は、もしかしたら犯罪者が生涯に犯した罪より重い罪を犯したかもしれないってことじゃない!」 「まさしくそうだよ」アーサーが断言した。「逆説みたいに聞こえるのはわかる。でも神の目から見れば、何の苦もなく抗えるようなつまらない誘惑に負けるなんて、計り知れない重罪に違いないと思わないか。しかも故意に、神の法の光に照らされている状態でそんなことをするなんて。どう懺悔してもそんな罪をあがなえるとは思えないだろう?」 「その考え方は認めざるを得ないな」ぼくは言った。「だけどそうなると、世界中にどれだけ罪が広がっていることになるんだろう!」 「そうなるの?」ミュリエル嬢が心配そうにたずねた。 「いや、とんでもない!」という力強い答えが返ってきた。「むしろ世界の歴史を覆っている雲がすっきりと払いのけられたような気がする。こうやってものを見ることで初めてすっきりしたのは忘れもしない、野原に向かいながらテニスンの一節を口ずさんでいたときのことだ。『悪き心は見あたらず!』 もしかしたら人類が犯した現実の罪は、ぼくが思っているほど無限ではないのではないだろうか――ぼくが絶望的な罪の淵に沈んでいるものとばかり考えていたいくつものことは、もしかしたら神の目から見ればそれほどの罪ではないのではないだろうか、という考えは――言葉では表現できないほど甘美なものだった! いったんそう考え始めてしまえば、人生がいっそう輝かしく素晴らしいものに見えたよ! 『草むらのエメラルドがずっと輝きを増し、海に溶けるサファイアがずっと澄んで見える!』」と締めくくったときには、声は震え、目には涙がたまっていた。  ミュリエル嬢は手で顔を覆い、しばらくのあいだ何も言わなかった。「素敵な考え」と口にして、ようやく顔を上げた。「ありがとう――アーサー、こんな素敵な考えを教えてくれて!」  そうこうしているうちに伯爵が戻ってきてお茶に加わり、ありがたくない報せを持ち込んだ。目と鼻の先の港町で熱病が発生したという――たいへん悪性のもので、始まりはわずか一日か二日前に過ぎないと思われるのに、すでに十人以上が倒れ、そのうちの二、三人はかなり危険な状態だということだった。  アーサーがしきりと質問を――その出来事に極めて高い科学的関心を持ったのに違いなく――質問をするのだが、地元の医者と会っていたというのに伯爵はこまごまとした専門的なことにはほとんど答えられなかった。それでもどうやら、ほぼ未知の――少なくとも今世紀になってからは知られていない病気のようだ。そうはいっても、『黒死病』として歴史に記録されている病気と同じものだと判明する可能性だってある――恐ろしい感染力に、とてつもない速さによる蔓延。「それでも明日のパーティに支障はないよ」伯爵はそう締めくくった。「招待している人たちのなかに、感染地域に住んでる人はいないからね。あそこは漁師町だ。何も心配いらない」  アーサーは帰宅するあいだも黙り込んでいた。宿に着くとすぐに医学的な調べものに取りかかった。つい今しがた耳にしたばかりの気がかりな疫病についてだった。 第九章 お別れ会  明くる日、アーサーとぼくが時間どおりに館に到着したときには、招待客は――全員が来れば十八人になるのだが――まだ数人しか来ていなかった。その人たちは伯爵と話していたので、ぼくらにはミュリエル嬢といくつか言葉を交わす機会が残されていた。 「あのずいぶんと頭の良さそうな人は誰だい? 大きな眼鏡の人だけど」アーサーがたずねた。「ここで会った覚えはないけれど?」 「ええ、新しい友人なの」ミュリエル嬢が答えた。「ドイツの方、だと思う。すっかり仲良くなったんだから! あんなに頭のいい人、見たことない――そりゃ例外が一人いるけど!」ミュリエル嬢が気を使ったのは、アーサーが誇りを傷つけられたように身体をこわばらせたからだ。 「その向こうに青い服を来た若い女性がいるだろう、外国人のような感じの男と話してる。あのひとも頭がいいのかい?」 「知らないわ。でも名ピアニストって話だから、今夜、演奏を聴けるんじゃないかしら。あの外国の人にお相手をお願いしたのは、あの人も音楽家だから。確かフランスの伯爵だったはず。それは素敵な歌声なのよ!」 「科学――音楽――声楽――これはまた完全無欠の顔ぶれを集めたものだな!」アーサーが言った。「なかなか光栄だね、こんな名士に会えるなんて。ぼくは音楽がそれはもう大好きなんだ!」 「でも完全とは言い切れないところがあって。あの子たちを連れていらっしゃらなかったんですね」ミュリエル嬢が今度はぼくに向かって話しかけると、「去年の夏、お茶に連れられてきた子たちのこと」と、またアーサーに向かって解説を加えた。「たまらなく可愛かった!」 「ほんとにそうです」ぼくも同意した。 「どうして連れていらっしゃらなかったんですか? 連れてくると父に約束なさってたのに」 「申し訳ないけれど、連れてくるのはどうしても無理だったんです」ここで言葉を止めたつもりだったのだ。それが驚いたのなんの、上手く説明できないのだが、自分自身が話し続けているのが聞こえたのである。「――けれど、夜にはここにやって来るはずですから」という言葉を口にしているのはぼくの声であり、どうやらぼくの口から出ているようだ。 「すごく嬉しい!」ミュリエル嬢は幸せそうに答えた。「あの子たちを友だちに紹介することができるなんて! いつごろになりそうですか?」  ぼくは沈黙に逃げた。正直に答えるならたわごとにしかならない。「今のはぼくの言葉ではありません。ぼくは言ってません、今のは嘘です!」だがぼくにはそんなことを打ち明ける勇気はなかった。「狂気」の評判を頂戴するのは難しくないだろうが、それを打ち消すのは驚くほど難しい。そんな口の利き方をしようものなら、「精神問診」状を発行されるのも極めて正当なことであるのは疑えまい。  どうやらミュリエル嬢は質問が聞こえなかったと思ったらしく、アーサーに向かってほかの話題を持ち出していた。だから時間はあった。驚きの衝撃から立ち直る時間――あるいは一瞬の〈あやかし〉状態から目覚める時間――どちらにせよ。  ふたたび周りの物事が現実に戻ったように感じたときには、アーサーがこんなことを言っていた。「どうにもならないんじゃないかな。数に限りがあるのは確かだし」 「そう思いたくはないけれど。でも誰かがメロディを思いついても、もう最近では新しいメロディではないものね。『最新の曲』と言われていても、子どものころに聴いた曲を思い出すようなものばかり!」 「その日が来るのは間違いない――世界がこの先もずっと続くのなら――」アーサーが言った。「ありとあらゆるパターンの曲が、ありとあらゆるパターンで真似されて作られることだろうね――」(ミュリエル嬢は悲劇の女王然と手を握りしめた)「もっと悪いことに、ありとあらゆるパターンの本も書かれてしまうんだ! 言葉の数には限りがあるんだから」 「作者にはあまり影響がなさそうだね」ぼくも言ってみた。「『どんな本を書こうか?』と言わずに、『どの本を書こうか?』と自問するんだろうけど。言い回しが違うだけだよ!」  ミュリエル嬢が賛同の笑みをくれた。「でも正気を失くした人なら、新しい本が書けるんじゃありません? もとからまともな本が書けないんですから!」 「真理だな」アーサーが言った。「それでもやっぱり終わりは訪れるよ。狂気の本にも限りがある。狂人の数にも限りがあるからね」 「しかるにその数は年々記録的に増えとりますからな」威張りくさった男が言った。ピクニックの日にショーマンを自任していた男だ。 「そういうことなら」アーサーが答えた。「九割の人間が狂人になれば」(アーサーはひどくナンセンスな気分になっているようだ)「精神病院を本来の目的のために使うのは難しくなるだろうな」 「とはつまり?」威張り屋がかしこまってたずねた。 「正気の人間を避難させるんです!」アーサーが答えた。「ぼくらは精神病院に閉じこもることになるでしょう。狂人たちは外に出て思いのままに。おかしなことをやり始めるでしょうね。鉄道の衝突事故は日常茶飯事、蒸気機関はボンボン爆発し、町のほとんどは焼け落ちて、船はほとんどが沈没してしまいます――」 「人類の大半が死に絶えてしまう!」威張り屋は見るからにお手上げだと当惑していた。 「そうなりますね」アーサーが頷いた。「待っていればいずれ狂人が正気の人間より少なくなります。そうなればぼくらは外へ。狂人たちは中へ。物事は正常な状態に元通りです!」  威張り屋はひそかに眉をひそめて唇を噛んだ。腕を組んで、このことをじっくり考えようとしていたようだ。「からかっているんだ!」ついに痛烈な不快感をあらわにしてつぶやくと、すたすたと立ち去った。  そうこうするうちに招待客が到着したので、ディナーの開始が告げられた。アーサーがもちろんミュリエル嬢をエスコートした。嬉しいことにぼくの席はミュリエル嬢の向かいだった。険しい顔つきのおばあさんがいて(会ったこともないし名前も知らなかった。例のごとくに自己紹介があったのだが聞き損ねてしまい、いくつかの名前が合わさった名前らしきものが耳に入っただけだった)、その人が晩餐の話相手となった。  ところがおばあさんはアーサーのことを知っているらしく、あれは「議論好きの若者」だとぼくに小声で打ち明けた。アーサーはアーサーで、おばあさんから頂戴した性格評のとおりに振る舞う気が満々のようだった。「あたしはね、自分のスープで乾杯するつもりはありませんよ!」(これはぼくに打ち明けたのではなく、関心を惹こうとしてその場にいる人たちに投げられた言葉だった)。アーサーはただちに戦いを挑んでおばあさんにたずねた。「スープがご自分のものになったのはいつからでしょうか?」 「これはあたしのスープですよ」おばあさんはキッとなって答えた。「あなたの前にあるのは、あなたの」 「それはそうです」アーサーが言った。「だけどあなたのものになったのはいつですか? 皿に入れられる瞬間までは、この家のものでしたよね。テーブルに並べられているあいだは、言うなれば給仕の持ち物だったはずです。それが運ばれたときぼくのものになったのでしょうか? それともぼくの前に置かれたとき? それとも口を付けたときでしょうか?」 「ほんとうに議論好きな若者だわ!」おばあさんの言葉はそれですべてだった。だが今度はみんなにも聞こえるように言っていた。その場にいる人々にも知る権利があると感じたのだろう。  アーサーはいたずらっぽく笑った。「一シリング賭けてもいい。あなたの隣の『著名な弁護士』さんにも」(大文字で始めたいことを言葉で表現することは確かに可能なのだ!)「答えられないでしょうね!」 「あたしは絶対に賭けたりしません」 「たった六ペンスレートのホイストでも?」 「絶対にですよ! ホイストには問題ありません。でもホイストにお金を賭けるなんて!」おばあさんは身震いした。  アーサーからいたずらっぽさが消えた。「ぼくにはそうは思えません。カードゲームに少額を賭けるのは、社交界がこれまでに社交界としておこなってきたなかでも、一番道徳的な行為ではないでしょうか」 「どうしてそうなるの?」ミュリエル嬢がたずねた。 「そのおかげでカードというのが、ごまかしが利くようなゲームとは一線を画しているからだよ。クロケーがどんなにか社交界の風紀を乱しているの考えてごらん。貴婦人たちは初めからごまかしをおこなっている、ひどいものさ。見つかってもただ笑うだけで、ただの冗談だと言うんだから。でもお金を賭けていればそんなのは問題外だ。ペテン師のことを洒落だとは解釈してもらえない。ゲームのテーブルに着いて友人たちをごまかしてお金を巻き上げても、それで冗談にはならないよ――階段から蹴り落とされるのを冗談だと思うのなら別だけどね!」 「殿方がみんなあなたみたいにご婦人のことを悪く考えているんでしたらね」隣の席のおばあさんが憎々しげに言った。「きっと――きっと減ってしまいますよ――」どうやってせりふを締めくくろうか悩んでいたようだったが、結局は「新婚旅行が」という差し障りのない言葉を選んだ。 「それどころか」と言ったアーサーの顔には、いたずらっぽい笑みが戻っていた。「みんながぼくの理論にしたがうだけで、新婚旅行――まったく新しいタイプの新婚旅行の数は――記録的に増えるでしょうね!」 「新しい新婚旅行のこと、聞かせてくれる?」ミュリエル嬢が言った。 「Xという男性がいるとします」アーサーはいくぶん声を大きめにした。六人の人間が耳を傾けていることに気づいたのだ。そのなかには「ミステル」もいる。複合姓のお隣さんの反対側に座っていた。「Xという男性がいて、Yという女性にプロポーズしたいと考えています。Xは『体験版新婚旅行』を申し込みました。それは受け入れられ、すぐに二人の若者は付添い人役のYの大叔母と一緒に――ひと月の旅行に向かいました。月夜の散歩、二人きりの会話、そうやって四週間でお互いの性格を適宜見積もることができるんです。ありふれた社交界の制限のもとで何十年会っていてもできないほどに。あとは戻ってきてから、Xが最終的な決断をするだけです。Yに重大な質問をするか否か!」 「十中八九は、縁を切るという決断するでしょうな!」威張り屋が断言した。 「ですから十中八九」アーサーも唱和した。「不幸な結婚は避けられることになり、どちらの関係者も悲劇から救われることになるんです!」 「本当に不幸な結婚ってのはね」おばあさんが言った。「十分なお金がないからに過ぎないんですよ。愛なんて後付けです。お金が差し当たって必要なんですよ!」  その言葉はそこにいる人々に一般論として問いかけられた。即座にその意見に賛成する者も何人かいて、しばらくはお金が話題の中心になった。その話題は断続的に続いているうちに、やがてデザートがテーブルに並べられ、使用人たちが部屋から退がり、テーブルのまわりでそれが実行されている最中に伯爵がワインに取りかかっていた。 「昔ながらの習慣を守っているとは喜ばしいですね」ぼくはそう言ってミュリエル嬢のグラスを満たした。「またこうした穏やかな気持ちになれるとは思わなかった。給仕が部屋を退がって――話を聞かれているような気にもならず、肩越しにしょっちゅう皿を突き出されることもなく談笑できるんですから。ご婦人にワインを注ぐこともできるし、欲しがっている人たちに皿を手渡すこともできるだなんて、これ以上に社交的なことがあるだろうか!」 「そういうことでしたら、あの桃をこちらに取っていただけますか」恰幅のいい赤ら顔の男性が声をかけた。我らが威張り屋氏の向こうに座っている。「さっきからずっと欲しいと思っていたものですから――斜めになって――しばらくそうしてましたよ!」 「そうなんです、ちょっとした思いつきなんです」ミュリエル嬢が答えた。「給仕にデザートのワインをきちんと運ばせるための。例えば給仕ときたら、いつだって間違ったタイミングで配るんですから――そんなの出席者全員にとって不幸なことですもの!」 「まるっきり来ないよりは間違っても来た方がいいさ!」アーサーが言った。「どうぞお取りください」(これは恰幅の言い赤ら顔の男に言ったのだ。)「禁酒主義者ではないでしょうね?」 「もちろん禁酒主義者です!」男は壜を押しのけた。「イギリスではほかの食品と比べ、二倍近くのお金が酒に使われてるんです。このカードをご覧ください」(しかるべき資料を持ち歩かない好事家などいるだろうか?)「色分けされた線が、それぞれの食品の消費高です。上位三つをご覧ください。バターとチーズに三千五百万、パンに七千万、酒類に一億三千六百万! 私なら、国中の酒場を閉鎖させますな! そのカードをどうぞ、モットーをお読みください。酒場こそ金の墓場なり!」 「反・禁酒主義カードをご覧になったことは?」アーサーは何食わぬ顔でたずねた。 「いや、あるものですか!」赤ら顔は乱暴に答えた。「どんなものですか?」 「おおかたこんな感じですよ。色分けされた線も一緒です。ただ、『消費高』の代わりに、『売上高』、モットーは『金の墓場』じゃなくて、『金の成る木』なんですよ!」  赤ら顔は渋面を作ったものの、どうやらアーサーのことを相手をするに値せ…ずと考えたようだ。そこでミュリエル嬢が参戦した。「ご意見をお持ちなのでしょうか? みんなが実際に禁酒主義者になることで効果的に禁酒主義を広められるような実例が?」 「もちろんです!」赤ら顔が答えた。「ほら、ここにぴったりの実例があります」新聞の切り抜きを広げ、「禁酒家の投書です、読み上げますよ。編集長殿。私は以前、適度にお酒をたしなんでおりましたが、知り合いにたいへんな酒豪がおります。『酒を断て。体を壊すぞ!』と申しましたところ、『おまえも飲んでるじゃないか。なぜ俺だけが?』と言われました。そこで私は申し上げたわけです。『その通りだが私は止め時を心得ている』と。すると彼は顔を背け、『おまえの好きなように飲めばいい。俺にも好きなように飲ませてくれ。出て行ってくれ!』と言ったのです。そこで悟りました。折り合いをつけるには、私は決して酒を飲んではならないと。それ以来、私は一滴も飲んでおりません!」 「さあ! これをどうお思いになりますか?」勝ち誇ったように周りの人々を眺めていた。そのあいだに切り抜きが手から手へと回されてその目で確かめられていた。 「不思議ですねえ!」読み終えたアーサーが声をあげた。「この投書を目になさったのは、先週の朝早くじゃありませんか? 不思議なことに、似たようなものがあるんですよ」  赤ら顔が好奇心を募らせた。「どこでそれを?」 「読みますよ」アーサーはポケットから紙切れを何枚か取り出し、一つを開くと読み上げた。「編集長殿。私は以前、適度に眠りをたしなんでおりましたが、知り合いに眠ってばかりの男がおります。『眠りを断て。体を壊すぞ!』と申しましたところ、『おまえも寝ているじゃないか。なんで俺だけが?』と言われました。そこで私は申し上げたわけです。『その通りだが私は朝起きる時間を心得ている』と。すると彼は顔を背け、『おまえの好きなように眠ればいい。俺にも好きなように眠らせてくれ。出て行ってくれ!』と言ったのです。そこで悟りました。折り合いをつけるには、私は決して眠ってはならないと。それ以来、私は一睡もしておりません!」  アーサーは紙を折りたたんでポケットにしまい、切り抜きの方を送り返した。誰も笑おうとはしなかったが、赤ら顔は見るからにかんかんになり、ぶうぶうとうめいた。「似ているといっても、区別できないほどじゃありませんね!」 「お酒をたしなむ程度の人なら、ものの区別がつきますからね!」アーサーが落ち着いて答ええると、このときばかりは鹿爪らしいおばあさんすら笑いを洩らした。 「それはそうと夕食会を申し分のないものにするには、まだまだ足りないことがたくさんあるわね!」ミュリエル嬢が話題を変えようとしているのがありありとわかった。「ミステル! 夕食会を申し分ないものにするにはどうすればいいかしら? 何かお考えがありますか?」  老人がぼくらを見回して笑みを浮かべると、大きな眼鏡がさらに大きく見えた。「申し分のない夕食会ですか?」と繰り返した。「第一に、主催者がうまく仕切ることですぞ!」 「それはもちろんなんですけど!」ミュリエル嬢が朗らかに合いの手を入れた。「でもほかには、ミステル?」 「この目で見てきたことしか話せませんからな」ミステルが言った。「私自身の――いや私が訪れた国のことしか」  それきりまるまる一分ものあいだ黙りこくって、天井をじっと見つめている――それがひどく夢みるような顔つきなので、夢の世界に行ってしまったのかとどきりとした。そういう状態こそが普段通りのようにも思えたのだ。だが一分後には思い出したようにまた話し出した。 「だいたいにおいて夕食会が失敗する理由は、不足ですな――肉の不足に、酒の不足、会話の不足」 「イギリスの夕食会でおしゃべりが絶えるなんて聞いたことがありませんよ!」ぼくは言った。 「失礼ですが」ミステルがうやうやしく答えた。「『おしゃべり』とは申しておりませんぞ。『会話』と言ったのです。天気や政治、噂話のような話なぞ、我々のところでは話題にはなりません。そんなものは退屈するか議論になるかですからな。会話に必要なのは、興味と新鮮味のある話題なのです。いろいろ試してまいりましたから保証つきですぞ――『活動写真』、『野生動物』、『移動客』、『口が回る』。もっともこの最後のは小さな集まりにしか使えませんが」 「四つに分けて説明してくださいな!」ミュリエル嬢は興味津々のようだ――そのころにはほかの人たちも同じだった。ミステルの演説を少しでも耳に入れようと、話をやめてテーブルに着き、顔を突き出している。 「その一! 『活動写真』!」ミュリエル嬢が澄んだ声をあげた。 「テーブルが丸い輪のような形をしておりましてな」ミステルが夢見がちな低い声で話し始めた。静かなのでそれでもよく聞こえる。「お客さんは、輪の外側だけではなく内側にも座っとります。席に着くには、下の部屋から螺旋階段を上ってくるわけです。テーブルの真ん中には小さな線路が敷かれておりましてな。輪になった貨車が機械でぐるぐる回るようになっております。それぞれの車両には、二枚の写真が背中合わせにもたせかけておるのですな。夕食のあいだに列車は二廻りいたします。一周したところで給仕が車両の写真をひっくり返して、反対側に向けるのですな。かくしてすべてのお客さんにすべての写真をご覧いただけるのです!」  ミステルが話をやめ、それまで以上に死んだような静けさが訪れた。ミュリエル嬢がびっくりしていた。「あら、こんなに静かなままなら針を落とさなくちゃならなくなるわね! 私の失敗です」(ミステルの魅力的な視線に答えて。)「自分の役目を忘れてました。その二! 『野生動物』!」 「『活動写真』は少し単調ですからな」ミステルが言った。「食事中には芸術ことなど話そうとしないものです。そこで『野生動物』を試してみました。テーブルには花を飾るものなのですが(それはこちらも同じですな)、花のなかにはいろいろなものが観察できます。こちらには鼠、あちらには甲虫、こちらには蜘蛛」(ミュリエル嬢が身震いした)、「あちらには雀蜂、こちらには蟇蛙、あちらには蛇」(「お父さま!」とミュリエル嬢が訴えた。「今のをお聞きになった?」)「であるからして、話題には困らないのです!」 「もし刺されたら――」おばあさんが言いかけた。 「つながれておりますから、ご安心を!」  おばあさんは満足そうに頷いた。  今回はぽっかり沈黙ができたりはしなかった。「その三!」とミュリエル嬢がすぐに発表した。「『移動客』!」 「『野生動物』にもマンネリしたときには」ミステルが続けた。「お客さん自身に話題を選んでもらうことにしました。退屈させないためにお客さんを変えるのです。テーブルを二重の円にいたしました。内側の円は絶えずゆっくりと回転しておりまして、むろん円の中心の床と内側のお客さんも一緒に回転させるのですぞ。こうすればすべてのお客さんが、外側のお客さんすべてと顔を合わせることになります。ときには困ったことに、ある人と話を始めて、別の人と話を終えることになりますが。だがあらゆるアイディアに失敗はつきものですからな」 「その四!」ミュリエル嬢がすぐに次に進んだ。「『口が回る』!」 「小さな集まりになら、もってこいのアイディアです。丸いテーブルの真ん中に、お客さんが一人入れるくらいの大きさの穴を空けておくのですな。そこに一番口の回る人を入れる。ゆっくりと回転させて、すべてのお客さんと顔を合わせるようにします。そうやってひっきりなしに楽しい話を続けてもらうのです!」 「どうだかね!」威張り屋がつぶやいた。「そんなに回転したら目が回りそうだ! 自分なら辞退させてもら――」ここでどうやら、その仮定がそもそも受け入れられないのではないか、と気づいたらしい。慌ててワインを飲み下して、むせ返った。  だがミステルはまたもや夢の世界に戻ってしまい、もう何も言わなかった。ミュリエル嬢の合図をしおに、女性たちが部屋をあとにした。 第十章 おしゃべりとジャム  ご婦人が一人残らず立ち去ると、上座に着いていた伯爵が、軍隊式に号令をかけた。「紳士諸君! どうか、前に詰め!」。そこでぼくらは言われるままに伯爵を囲んで集まった。威張り屋がほっと大きく息を吐き、縁までグラスを満たしてワインを押しやり、お得意の演説を開始した。「ほんとうに魅力的ですなあ。魅力的だがおつむが弱い。言うなれば、こちらのレベルも引きずり降ろしてしまうところがある。あの――」 「代名詞というものには、先行する名詞が必要ではありませんかな?」伯爵が穏やかにたずねた。 「これは失礼」威張り屋は形だけへりくだって見せた。「名詞を忘れていましたか。ご婦人たちですよ。いないのは残念だ。だが心が安まる。思う分には意のまま気まま。女といると、つまらない話題にせ…ざるを得ません――芸術、文学、政治などなど。そういったたわいない事柄についてなら女と話もできましょう。だが正気の人間が――」(異議は認めないとでもいうように食卓の周りをぎっとねめつけた)「――ワインの話を女とできますか!」威張り屋は椅子にもたれてポート・ワインのグラスをすすり、ゆっくりと目の高さまで持ち上げて、明かりに透かしてためつすがめつした。「年代物ですね?」と伯爵に目をやる。  伯爵が年代を伝えた。 「そうだと思ってました。だが確かめるに越したことはない。色合いは、ことによると、やや淡め。コクは申し分ありません。花のような香りに関しては――」  ああ、花のような! その魔法の言葉が、驚くほど鮮やかにあの光景をよみがえらせた! 道路でとんぼ返りしている乞食の少年――腕に抱いた松葉杖の少女――かき消えた不思議な子守り――何もかもがごちゃまぜになって心を駆け巡り、まるで夢のなかの出来事のようだ。そうして心にかかった靄の向こうに、ずっとベルのように鳴り響いていたのは、ワイン鑑定家の真面目ぶった声だった!  その声さえ奇妙な夢のような色合いを帯びている。「いや」と威張り屋があとを続けた――ふと疑問に思ったのだが、途切れた会話をふたたび始めるときに、人がいつもそっけない一言で始めるのなぜなのだろう? 気になって考えたすえに、目下の問題は少年の問題と同じなのだ、という結論に達した。算数の計算が行き詰まってしまい、困ったときにはスポンジですべて洗い流し、一から始める。途方に暮れた演説家も同じように、今までの主張をすべて退けるという簡単なことをするだけであらゆる議論を一掃し、新しい持論を「きれいに始める」ことができる。「いや」と威張り屋は言った。「何と言ってもチェリー・ジャムだとも。それに尽きる!」 「すべての点においてではないでしょう!」でしゃばりな小男がキンキン声で割って入った。「口当たり全体の豊かさで言えば敵がいるとは言えませんが。だが繊細な味の変化――風味の『和音』という人もいますね――それで言ったらラズベリー・ジャムに軍配を上げさせて――」 「私にも一言!」恰幅のよい赤ら顔が興奮で声をしゃがらして口を挟んだ。「これほど重大な問題を素人には任せておけません! プロの見解をお聞かせできるんですが――おそらく現存するジャム鑑定人のなかではもっとも経験豊かな人物かと。なにせ、ストロベリージャムの年代を特定したのです、日付まで――ご存じの通りストロベリー・ジャムというのは年代を特定するのが難しい――それもテイスティングを一回しただけでは! それでですね、皆さんがたが議論している疑問をずばりぶつけてみたのです。答えてくれたには、『チェリー・ジャムが一番だ、風味のコントラストに限るなら。ラズベリー・ジャムは、いつまでも舌の上に鮮やかに残る確かな不協和音には一目置くべきだろう。だが完璧な甘さのなかに広がるぴりりとした苦味で言えば、あんずジャムを措いて並ぶものなどほかにない!』そうです。その通りではありませんか、どうでしょう?」 「まったくその通りでしょうね!」でしゃばりな小男がキンキン声をあげた。 「君のご友人のことはよく知ってるよ」威張り屋が言った。「ジャム鑑定人として並ぶものはない! だが私にはどうも――」  だがここで議論が広がった。小男の言葉は罵詈雑言にかき消され、客たちがお気に入りのジャムを口々に褒め始めた。ついに騒ぎのなかから伯爵の声が言葉を伝えた。「ご婦人方のところに行きましょう!」どうやらこの言葉で、ぼくはうつつに戻ってきたらしい。ここ数分のあいだ、確かにぼくはまたもや〈あやかし〉状態に陥っていたのだ。 「不思議な夢だった!」ぼくは独り言ち、ぞろぞろと二階に上がった。「いい大人が、まるで生死に関わるかのように真剣に、ただの味に関するどうでもいいような細部について必死に議論していたなんて。舌神経と味覚こそ人間のもっとも鋭い機能なのだと言わんばかりだったな! こんな議論がうつつの世界で行われていたとしたら、さぞかしみっともない光景だろうに!」  客間へ向かう途中で、家政婦から小さな友人たちを預かった。お洒落な夜会服に身を包み、興奮でわくわくしている二人は、今まで以上に美しく輝いていた。ぎょっとすることもなく、夢のなかで起こったことを受け入れるようにわけもなく淡々とその事実を受け入れていた。二人が慣れない舞台でどう振る舞うのだろうかと漠然と不安に思った程度だった――アウトランドの宮廷生活が、より物質的な世界の社交界で必要とされるようなよい予行練習になっていることを忘れていたのだ。  一番いいのは、なるべく早めに気立てのよい女性客に紹介することだろうと考え、ピアノのことで話に出ていた若い女性を選ぶことにした。「子どもは嫌いじゃありませんよね。友人を二人紹介させてもらえますか? こちらがシルヴィー――そしてブルーノです」  若い女性はとても優雅にシルヴィーにキスをした。同じようにキスしようとしたのでブルーノはあわてて逃げ出した。「初めてお目にかかるわね。どこから来たのかしら?」  これほど困った質問をされるとは予想していなかった。シルヴィーを困らせないように、ぼくが答えておいた。「ちょっとそこから。今晩だけここに来てるんです」 「けっこう遠いのかしら?」若い女性はなおも質問を続けた。  シルヴィーは困っているようだ。「一、二マイルかな」と自信なさげに答えた。 「一、三マイルだよ」ブルーノが言った。 「『一、三マイル』じゃないでしょ」シルヴィーが訂正した。  若い女性もうなずいて賛成した。「シルヴィーが正しいわ。『一、三マイル』とは普通は言わないわね」 「普通になるよ――しょっちゅう使ってれば」ブルーノが言った。  今度は女性の方が困ってしまった。「年のわりに頭が回るわね」とつぶやいて、「せいぜい六つか七つでしょう?」とたずねた。 「そんなにたくさんいるもんか」ブルーノが言った。「ぼくが一つ人《り》でしょ。シルヴィーが一つ人《り》でしょ。あわせて二つ人《り》。シルヴィーから数えかた習つたもんね」 「あら、あなたを数えたんじゃないのよ!」女性は笑いながら答えた。 「かぞえ方ならってないの?」  女性が唇を噛んだ。「もう! 何て七面倒な質問をする子なんだろう!」聞き取れるほどの「独り言」だった。 「ブルーノ、ダメよ」シルヴィーがたしなめた。 「何がダメさ?」 「何がダメって――そんな質問よ」 「どんなしつもん?」ブルーノはからかうようにたたみかけた。 「この人があなたに言ったことないよ」シルヴィーはおずおずと女性を見つめたが、困りきって文法をすっかり忘れてしまっていた。 「言えないんだ!」ブルーノが勝ち誇って叫んだ。そして勝利を祝ってもらおうと女性に振り返った。「シルヴィーが『しちめんちょうな』ってうまく言えないのはわかってたったもんね!」  算数の問題に戻るのが一番だと女性は考えたようだ。「七つなのかなって訊いたのはね、『人数は?』って意味じゃなくて、『歳は?』って――」 「腰は一つっきゃないよ」ブルーノが言った。「腰が七つある人なんていないもん」 「この子と一緒に来たの?」女性は解剖学の問題をうまくはぐらかした。 「ううん、ぼくはシルヴィーと一緒じゃないよ! シルヴィーがぼくと一緒!」ブルーノは腕をシルヴィーに回した。「シルヴィーはぼくのものだかんね!」 「それでね。わたしの家にも、君のお姉さんと同じくらいの妹がいるんだけど。仲良くなれるんじゃないかな」 「ふたりともとっても便利だね」ブルーノはいかにももったいぶって答えた。「髪をとかすのに鏡がいらなくならるなあ」 「どうして?」 「どうしてって、そりゃもっちろんおたがい鏡がわりになるからさ!」  だがここで、この厄介な会話をそばで聞いていたミュリエル嬢が、女性に向かって音楽でもてなしてくれないだろうかと口を挟んだ。子どもたちは新たな友人のあとからピアノまでついていった。  アーサーもやって来てぼくの隣に座り、耳打ちした。「噂が本当なら、素晴らしい経験ができるでしょうね!」呼吸一つ聞こえない静けさのなか、演奏が始まった。 「名手」だと評判になるようなピアニストだった。彼女は美しいハイドンのシンフォニーに取りかかった。その演奏が、何年ものあいだ名教師のもとで苦しい訓練を積んだ成果なのは明らかだった。最初のうちは完璧な演奏に思えた。だがしばらくするとぼくはがっかりして自問していた。「何が足りないのだろう? なぜ楽しめないのだろう?」  すべての音をしっかり聴き取り始めたところ、謎は自ずから明らかになった。機械のように完璧に正確だ――だがそれだけだ! もちろん音がずれることはない。曲を知りつくしているのだ。だがその不揃いなテンポを聴けば、実は音楽的な「耳」を持ってはいないのだというのは明らかだった――さらに複雑な一節になると舌足らずになるのを聴けば、聞き手のことを本当の苦労に値するとは考えていないのがわかった――その単調で機械的な強弱を聴けば、素晴らしい抑揚を汚されて聞き手の心が離れていった――はっきり言えば、イライラさせられるだけなのだ。最終楽章をかき鳴らし、最後の和音を叩きつけた。楽器など用済みだから弦が何本切れようと知ったことではないかのように。ぼくの周りで沸き起こった「すばらしい!」の決まり文句に加わろうとするふりさえできなかった。  しばらくするとミュリエル嬢がやって来た。「素敵じゃなかった?」茶目っ気たっぷりに微笑んでアーサーにささやいた。 「うん、なかったね!」とアーサーが答えた。だが穏やかな顔のおかげで無礼な答えも和らいでいた。 「あんな演奏だったのに!」 「分相応だね」アーサーも頑固だった。「でも世間の人たちは権威に弱いから――」 「またわけのわからないことを言い始めたわね!」ミュリエル嬢が声をあげた。「だけど音楽が好きだったんじゃないの? さっきそう言っていたじゃない」 「音楽が好きだって?」ドクターは静かに自問した。「ミュリエル、どこもかしこも音楽だ。ひどく曖昧な質問だね。『人は好きかい?』って訊いてるのと同じだよ」  ミュリエル嬢は唇を噛んで顔をしかめ、小さな足を踏みならした。芝居じみてみせたほどには、怒りを表わすのにまるで成功していなかった。だが一人だけには届いていたので、ブルーノがあわてて割って入って、一触即発の争いを仲裁しようとした。「ぼく、ひとびとたち好きだよ!」  アーサーはいつくしむように縮れ頭に手を載せてたずねた。「へえ? 人々たちみんなかい?」 「ひとびとたちみんなってわけじゃないけどさ」ブルーノが説明する。「シルヴィーと――ミュリエルさんと――あのひとと――」(と伯爵を指さした)「あなたと――あなただけ!」 「人に指を向けちゃダメよ」シルヴィーが言った。「失礼でしょ」 「ブルーノの世界では」ぼくは言った。「語るに値する人々は――四人だけなんだね!」 「ブルーノの世界!」ミュリエル嬢が神妙な顔をして繰り返した。「光と花に満ちた世界。草は枯れることなく、風はいつも穏やかで、雨雲ひとつないところ。猛獣もいなくて、砂漠もない――」 「砂漠は必要だよ」アーサーが断言した。「ぼくの理想の世界にはね」 「でも砂漠が何の役に立つの? まさかあなたの理想の世界には荒野なんてないでしょう?」  アーサーが微笑んだ。「ところがどっこい! 荒野が必要なこと線路より多し。世間のためになること教会の鐘よりはるかに大かりだ!」 「でも何に使うの?」 「音楽の練習のとき」アーサーは答えた。「音感なんてないのに音楽を学んでるつもりの若い女の子たちはね、朝ごとに荒野まで二、三マイル運ばれればいいんだ。快適な部屋も用意されているし、安物の中古ピアノも用意されているから、そこで何時間でも弾けばいい。人間の不幸の集積に、無用な苦痛を加えずに済むからね!」  ミュリエル嬢はこの乱暴な意見が聞かれやしないかと、ぎょっとして辺りを見回したが、立派な音楽家は声の届かない距離にいた。「どうでもいいけど、あのひとが素敵なひとだってことは認めるでしょう?」 「ああ、そうだね。砂糖水《オ・シュクレ》のように甘く素敵だ、と言えばいいのかな――それに同じくらい興味深いな!」 「手に負えないわ!」それからミュリエル嬢はぼくの方を向いた。「ミルズさんとはお話がはずまれまして?」 「おや、そんな名前でしたか? もっとたくさんあったかと思いました」 「そうですよ。『ミルズさん』って呼ぶつもりでしたら、『しかるべき危険』を覚悟してください(それが何なのかはお好きなようにお考えください)。あの人の名前は『アーネスト――アトキンソン――ミルズさん』です!」 「貴族連中のつもりなんですよ」アーサーが言った。「余っているクリスチャン・ネームを名字にくっつけて、あいだをハイフンでつなげば、貴族らしさが出ると思ってるんです。一つの名字を覚えるようなものだと思ってるんだろうな!」  このころには招待客も集まり始めて部屋がにぎわってきたため、ミュリエル嬢は出迎えに向かわねばならなかった。その様子は、考えうるかぎりもっとも素晴らしく洗練されていた。シルヴィーとブルーノがそばに立って、なりゆきに興味津々の様子だった。 「お友達を気に入ってくれるといいんだけど」ミュリエル嬢が二人に言った。「特にミステルは大親友で(どうしてるのかしら? あっ、あそこ!)、眼鏡をかけている、長いお髭のおじいちゃんがいるでしょう!」 「すごくお年を召した方ね!」シルヴィーは「ミステル」に見とれていた。片隅に座っていたミステルが、大きな眼鏡越しに穏やかな視線をこちらに送った。「それにすごく素敵なお髭!」 「なんて名のってるのかな?」ブルーノがささやいた。 「『ミステル』よ」シルヴィーもささやき返した。  ブルーノはイライラと頭を振った。「見ってる話なんかしてないよ、名のってるか聞いてるのに、ばか!」ブルーノはぼくにたずねた。「あのひと、なんて名のってるの、あなたさん?」 「ぼくが知ってる名前はその一つだけだよ。だけど一人きりみたいだね。見てるとずいぶん寂しそうだとは思わないかい?」 「名のってるのに一人なのならさびしそうだよ」ブルーノは言い間違えたままぶうぶうしていた。「でも見ってるんなら別に。見てるだけなら何にも思わないもん!」 「お昼に会ったんです」シルヴィーが言った。「ネロに会いに行って、また見えなくしてあんなにネロと楽しんで来ました! 戻る途中であの素敵なおじいさんを見かけて」 「よし、おしゃべりして元気づけてあげようじゃないか」ぼくは言った。「たぶん呼び名もはっきりするよ」 第十一章 月の人  子どもたちは喜んでついてきた。二人に挟まれたまま、ぼくは「ミステル」のいる隅っこに近づいていった。「子どもたちとご一緒でもかまいませんか?」 「『気むずかし屋の年寄りと若者は一緒には暮らせない!』というわけか」老人はにっこり笑ってほがらかに答えた。「さあ、わしの顔をよく見てご覧! 昔っからの友だちに思えぬかな、ほれ?」  初めに見たときには不思議なことに〈教授〉の顔を思い出したものの、どうやら明らかにもっと若い人物のようだった。だが夢みるような大きな瞳の奥に潜む謎めいた深淵に見つめられると、なぜかしら恐ろしいことに、遙かに年を取っているのだと感じられた。何世紀もの時の流れを越えて、ぼくらをじっと見つめているようだった。 「むかしの人かどうかわかんないけど」優しい声に安心して、ブルーノはミステルにずるずると近寄っていた。「八十三さいだと思うな」 「実に正確だ!」ミステルが言った。 「近いんではなく?」ぼくはたずねた。 「わけありでして」ミステルは穏やかに答えた。「説明できぬのですがわけがありましてな。というのは、個人情報も、場所も、日時もはっきりとは申し上げられないものですから。一つだけ言えることは――人生を終えるなら、一六五才と一七五才のあいだに終えるのが、無難中の無難なのですぞ」 「どうしてですか?」 「さよう。海で死んだという話さえそんなになければ、水泳とは安全な娯楽だと考えることでしょうな。一六五才から一七五才のあいだに死んだ人の話はいまだかつて聞いたことがないというのは馬鹿げた考えでしょうかな?」 「仰っていることはわかります。でもその理屈にしたがえば、残念ながら水泳が安全だとは証明できませんね。人が溺れたというのは珍しい話じゃない」 「私の国では」ミステルが言った。「いまだかつて溺れた人など一人もおりません」 「そんなに浅いところばかりなんですか?」 「どっぷり深いですぞ! だが沈まぬのです。私らは水より軽いのでな。説明しましょう」驚いているぼくを尻目にミステルは続けた。「ある特定の色や姿形の鳩がほしいと仮定した場合、望む色形に近いものを残し、ほかは捨てるといったふうに、年々そうやって選んでゆきますな?」 「ええ」ぼくは答えた。「『人為淘汰』と呼ばれていますね」 「まさしくその通り」ミステルが言った。「そうです、我々は何世紀かにわたってそれを実行したのです――とりわけ軽い人間を選び続けた。その結果、今や誰もが水より軽いのです」 「それでは海で溺れる恐れなど少しもない?」 「まったくありません! 陸は別ですがな――例えば、劇場で観劇しているとき――これは危険ですぞ」 「劇場でどんなことが起こるというんです?」 「われわれの劇場はどれも地下にありましてな。大きな貯水タンクが地上にある。火事が起これば栓がひねられ、一分で劇場は天井まで水浸しです! かくして火事は消し止められます」 「すると観客は?」 「些細なことです」ミステルは気にせ…ず答えた。「だが溺れようと溺れまいと、水より軽いということがわかれば満足なのでしてな。だが空気より軽い人間を作るところまではいまだ到達できないでおります。しかし目指してはおりますぞ。もう何千年かそこらすれば――」 「とっても重い人びとたちはどーなっちゃうの?」ブルーノが真剣な面持ちでたずねた。 「同じように適応いたしておるでしょう」ミステルはブルーノの質問には気づかずに話を続けた。「目的に応じてさまざまに。杖を選び続けたとします――歩くのに最適な人間を残し続けるのです――そうすればやがてついに、杖を使わずに歩ける人間が完成するのです! 綿を選び続ければ、ついには空気より軽い人間が完成いたします! どれほど役に立つものかわかりますまい! 我々の方では『計り知れぬ』と名付けております」 「なんの役に立つんです?」 「さよう、主に郵便で送る小包ですかな。何しろあれは軽いほどいい」 「郵便局の人は、どうやって支払料金を計ってるんです?」 「そこがこの新システムの素晴らしいところで!」ミステルが誇らしげに叫んだ。「局員が我々に払うのです。我々が向こうに払うのではない! 小包ひとつ送るのに、五シリングばかり手に入ることもよくあることです」 「政府は反対しないんですか?」 「ふむ、多少は反対しますな。長距離便に金がかかりすぎると言うわけですな。だがそもそもの規則に照らして、事態は昼間の光みたいにはっきりしとる。小包を送るときには、一ポンド重くなるごとに三ペンス払う。それなら当然、一ポンド軽くなるごとに三ペンス受け取ってしかるべきですな」 「実に便利なものですね!」 「それでも『計り知れず』にも不都合はありまして」ミステルが続けた。「何日か前に買った物を、帽子に入れて家に持って返ろうとしても、帽子が浮かんで消えてしまうだけなんですわ!」 「今日ぼーしになんか変わったものはいってるの?」ブルーノがたずねた。「シルヴィーとぼくが道で見たとき、ぼーしはすっごく高くなってたよ! ねえ、シルヴィー?」 「ああ、あれはまた別の話。雨がぱらぱらと落ちてきたので、帽子を杖の先に載せたのだよ――傘のようにしたわけでな。来る途中で――」ミステルはぼくに向かって話を続けた。「我が身に降りかかったことと言ったら――」 「――どしゃぶりが降りかかったの?」ブルーノが言った。 「それが、犬のしっぽのように見えたのだが」ミステルが答えた。「奇怪千万! 何かが膝の辺りにそっと擦りついてきたのです。それで下を見たのだが何も見えぬではありませんか! ただ一ヤードほど離れたところに犬のしっぽがあるだけで、しっぽだけが揺れていたのですぞ!」 「あー、シルヴィー!」ブルーノが小声でとがめた。「シルヴィーったら、ぜんぶを見えるようにしなかったんだ!」 「やっちゃったわ!」シルヴィーは本当にすまなそうだった。「背中をこすったつもりだったのに、あんなに急いでたから。明日もどって全身が見えるようにしなくちゃね。かわいそうに! たぶん今夜は餌がもらえないわ!」 「そりゃそーだよ!」ブルーノが言う。「だれもいぬのしっぽに骨なんかあげないもん!」  ミステルはぽかんとしながら代わる代わる見比べていた。「さっぱりわからん。道に迷ってしまったので、小型の地図を調べようとしたのだが、どうしたわけか手袋を落としてしまってな。すると膝に擦りよっていた見えない何かが、目の前に持ってきてくれよった!」 「そりゃそーさ! ものをひろってくるのはとってもに好きなんだから」  ミステルがすっかり戸惑っているようだったので、ぼくは話題を変えるのが一番だと考えた。「それにしても小型の地図とは便利なものですね!」 「あなたがたのお国から学んだことの一つというのが」ミステルが言った。「地図作りです。しかし我々はさらなる上を目指しました。実用に耐える地図の大きさとは最大でいかほどと考えますかな?」 「一万分の一ほどでしょうか」 「たった一万!」ミステルが叫んだ。「我々はとっくに三百分の一にしております。それから二十分の一に取り組みました。さらにとびきりの素晴らしい計画を立てました! 縮尺一分の一の地図を作ったのですぞ!」 「よく使ってるんですか?」ぼくはたずねた。 「ところが広げられん」ミステルが言った。「農家の人たちが反対しましてな。国中が地図で覆われたら、日光が届かぬと言うのですよ! ですから今では地上そのものを地図に使っとります。代用にはなりますぞ。さて、もう一つお訊きしましょうか。この世で一番小さな世界に住むとしたら、どんなところがお望みですな?」 「はーい!」聞き入っていたブルーノが声をあげた。「シルヴィーとぼくでちょうどぴったりなすんごくちっちゃい星がいいな!」 「するとそれぞれ星の対極に立たねばならぬのだから」ミステルが言った。「お姉ちゃんにまったく会えないですぞ!」 「じゃあ勉強しなくていいんだ」ブルーノが言った。 「その方面の計画を立てていたわけではないですよね!」ぼくは言った。 「さよう、計画があるわけではありませんな。惑星を作るとは申しませんわ。だが科学者の友人がおりましてな、よく気球で旅をしとります。徒歩二十分で一周できるほど小さい星を訪れたことがあると言っておりました! 大戦争があったばかりで、それが奇妙な決着を見たそうです。全速力で逃げ出した敗軍がほんの数分で、凱旋中の勝利軍と顔をつきあわせることになったのですが、勝利軍は二つの軍隊に挟まれたと思って大慌てになり、すぐに降伏したそうですぞ! だがもちろん戦争に負けたとはいえ、実のところは、敵側の兵士を皆殺しにしていたのですが」 「ころされたへいたいは逃げれないよ」ブルーノが悩んでいる。 「『殺される』というのは専門用語でな」ミステルが答えた。「その小惑星では、黒くて柔らかい物質で出来た弾丸を使っておって、当たれば印がつくようになっておる。してからが戦のあとにやるべきことは、『殺された』――というのはつまり『背中に印がついた』ということだが――『殺された』兵士の数を数えることでしてな。前に印がついてるのは数に入りません」 「それなら兵士が逃げないかぎり、『殺され』たりしないのでは?」ぼくは言った。 「科学者の友人は、それ以上の名案に気づいておりましたぞ。友人が指摘するところによると、弾丸が逆方向に一周しさえすれば、敵の背中に当たるだろうと。そうなるとですぞ、射撃が下手な兵士ほどいい兵士ということになりました。一番下手くそな人間が決まって一等を勝ち得ておるのです」 「一番下手くそな人間をどうやって判断するんですか?」 「簡単至極。射撃が上手いというのは、正面を正確に撃つことですからな。であれば下手くそな射撃とは、背中を正確に撃つことに決まっておりましょう」 「その星の人間は変わっていますねえ!」ぼくは言った。 「まさしくその通り! なかでも政治が変わり種中の変わり種のようですぞ。聞いたところによるとこの星では、国を構成しているのは多くの家来と一人の王だそうですな。だがその小惑星では、多くの王たちと一人の家来で国が構成されておるのです!」 「この星の出来事を『聞いた』とおっしゃいましたが」ぼくはたずねた。「あなたご自身もどこかほかの惑星からの訪問者と考えてよいのでしょうか?」  ブルーノが興奮して手を打ち鳴らした。「おぢさん、月のひとなの?」  ミステルは困ったように見えた。「月の人間ではないんじゃよ」と言葉を濁した。「話を戻しますと、政治というのはきちんと責任を負うのが当然でありましょう。考えてもご覧なさい、まず確実に王たちは一人ひとりが相矛盾した法律を勝手に作るでしょうな。さすれば家来は絶対に処罰されますまい。と申しますのも、どんな行動を取ろうとも、いずれかの法律に従ってるのですからな」 「それにさ、どんなこーどーをしても、どのほーりつにもしたがってないんだ!」ブルーノが叫んだ。「だからしょばつされてばっかり!」  このとき通りかかったミュリエル嬢が、会話の最後の部分を耳にした。「ここでは誰も罰されたりはしませんよ!」と言ってブルーノを抱きしめた。「ここは自由ホールなんだから! ちょっと子どもたちをお借りしていいかしら?」 「子供たちに見捨てられちゃいましたね」ミュリエル嬢が二人を連れて行くと、ぼくはミステルに話しかけた。「年寄りどうし仲良くするとしましょう!」  老人はため息をついた。「ああ、さよう! 今は年寄りだが、私とてかつては子どもだった――まあそう思ってはおります」  白状してしまうと、とてもそうは思えなかった――もじゃもじゃの白い髪、長い髭――それがかつて子どもだったとは。「若い人は好きですか?」ぼくはたずねた。 「若い人間」とミステルは繰り返した。「子どもというわけではないのですが。若者を教えていたこともありました――何年も前ですが――大学におりましてな!」 「何という大学でしたっけ?」ぼくはかまをかけてみた。 「名前は申せません」老人は穏やかに答えた。「言ったとしても知らぬでしょうな。私がそこで目撃したあらゆる変革のなかでも、不思議な話をいくつかお聞かせいたしましょう! だが退屈かもしれませんな」 「とんでもない! 続けてください。どういった変革なんでしょうか?」  だが老人は答えるではなく質問したい気分のようだった。「教えてくださらんか」と言ってぼくの腕に重々しく手を置いた。「教えてくだされ。この国では私はよそ者ですからな、この国の教育法をあまり知らんのです。だが聞いたかぎりでは、変革の循環周期に関しては、あなた方よりも我々の方がはるかに進んでいるようですな――我々は数々の理論を試み、失敗しました。あな方も熱意を傾けて試みることになるでしょうし、苦い絶望のうちに失敗することになるでしょう!」  不思議な光景だった。話しているうちに、ミステルの言葉はどんどんよどみなく流れ出し、まさに立て板に水、顔には内なる光が現われたように見え、人間そのものが変化したように見える。まるで一瞬のうちに五十才も若返ったようだった。 第十二章 妖精の調べ  続く静寂を破ったのは音楽家令嬢の声だった。ぼくらのすぐそばの席で新たにやって来た招待客と話をしている最中だった。  それが「あら!」と鼻で笑うような調子で驚きの声をあげたのだ。「新しい音楽が聴けることになりそうね!」  ぼくは事情を知ろうと辺りを見回し、同じくらい驚いてしまった。ミュリエル嬢がピアノの前に連れていったのはシルヴィーだった! 「がんばって!」ミュリエル嬢が声をかける。「絶対にうまく弾けるから!」  シルヴィーが目を潤ませて振り返った。ぼくは勇気づけようと笑顔を返したが、人の目にさらされることに慣れていない子どものようにひどく緊張しているのは明らかだったし、見るからに浮かぬ顔で怯えていた。だがそれでも持ち前の健気なところが顔を出した。ミュリエル嬢と友人たちに楽しんでもらうため、自分を殺して全力を注ごうと決意したのがぼくにはわかった。シルヴィーはピアノの前に座るとすぐに演奏を始めた。ぼくに判断できるかぎりではテンポと抑揚は完璧だった。だがタッチが驚くほど軽かったため、おしゃべりのざわめきがまだ止まずにいた最初のうちは、演奏の音をほとんど拾うことができなかった。  だがすぐにざわめきは消えてまったくといっていいほど静まり返り、ぼくらは席に着いてうっとりとしたまま息を呑んで、至上の音楽に耳を傾けた。居合わせた誰もが忘れられないほどの音楽だった。  初めのうちはほとんど音色も届かないまま、マイナーから始まる――黄昏を音にしたような――序奏部分を弾いた。光がぼんやりとかすみ始め、霧が部屋中に忍び寄ったような気分だった。次いで、忍び寄る薄闇の向こうから、幕開けの音がいくつかきらめいた。あまりに美しく繊細なその旋律を、一音たりとも聞き逃すのを恐れて、誰もが息を潜めていた。何度か曲の頭の感傷的なマイナー調に戻り、言うなれば立ち込める薄闇を通り抜けて旋律が陽光のなかにもぐりこむたびに、調べはさらに魅惑的に、さらに甘美になった。シルヴィーの軽やかな指使いの下で、楽器が文字通り鳥のように歌を奏でているようだった。「わが佳偶《とも》よ、わが美はしき者よ、起ていできたれ」と歌っているようだった。「視よ、冬すでに過ぎ、雨もやみてはやさりぬ。もろもろの花は地にあらはれ、鳥のさへづる時すでに至る」。最後の響きが一陣の風によって震えた木々から落とされるのを聞き――雲の切れ間から最初の光が輝いているのを目にしたと、誰もがそう感じていた。  |フランスの伯爵《カウント》が興奮してあたふたと部屋を横切ってきた。「思い出せないのですよ。こんなほど魅力的な曲なのに、名前が出てこない! 確かに必ずオペラなんです。しかしオペラが自分の名前を思い出させてくれさえしません! 彼を何とお呼びかな、お嬢ちゃん?」  シルヴィーはうっとりとした表情をして振り向いた。演奏が終わっても、手は鍵盤の上をふらふらとさまよっている。不安やはにかみも今や消え去り、残っているのはぼくらの心を震えさせた音楽の紛れもない喜びだけだった。 「曲名を!」フランス伯がじれったげに繰り返した。「今のオペラをどうお呼びですか?」 「オペラって何ですか?」シルヴィーがわずかにささやいた。 「では、この調べをどうお呼びかな?」 「曲名なんて、全然わかりません」シルヴィーはピアノから立ち上がった。 「だが素晴らしかった!」フランス伯はシルヴィーのあとからついてきて、ぼくに向かって話しかけた。あたかもぼくがこの神童の持ち主であり、曲の謂われも知っているに違いないとでも言いたげだった。「あの子の演奏を聞いたことがありますか、もっと早く――つまり『この機会より前に』ですが? あの調べをどうお呼びですか?」  ぼくはかぶりを振った。だがさらなる質問から救ってくれたのはミュリエル嬢だった。フランス伯に歌ってほしいと頼みに来たのだ。  フランス伯は申し訳なさそうに腕を広げ、首をすくめた。「それがお嬢さん、曲をすべて鑑みたのですが――つまりチェックしたのですが、私の声にぴったりの曲が一つもなさそうなのです! どれもバス向きではないのですよ!」 「もう一度確かめていただけませんか?」ミュリエル嬢が懇願した。 「てづだおうよ!」ブルーノがシルヴィーにささやいた。「見つけようよ――そうでしょ!」  シルヴィーも同意した。「あなたにぴったりの歌を探すのをお手伝いしましょうか?」甘い声でフランス伯にたずねた。 「おお、|もちろん《メ・ウィ》!」小男は大声で答えた。 「めいわくなもんか!」ブルーノは嬉しそうなフランス伯の手を握り、譜面台まで連れて行った。 「まだ望みはあるわ」ミュリエル嬢は肩越しに言葉を残すと、あとをついて行った。  ぼくは「ミステル」を振り返って、途中になっていた会話を再開しようと努めた。「おっしゃっていましたが――」ところがこのときシルヴィーがブルーノを呼びに来た。ブルーノはぼくのそばに舞い戻っており、シルヴィーはいつになく真剣な面持ちで「さっさと来て、ブルーノ!」と訴えていた。「もう見つけたも同然でしょ!」それから声をひそめて、「ロケットは手のなかよ。人前じゃ取り出せないけど!」  だがブルーノはそれを拒んだ。「あのひとぼくの悪口いったの」と、誇りを保って言った。 「どんな悪口だい?」ぼくは気になってたずねた。 「好きなうたはどんなのか訊いたらさ、『男性の歌、ご婦人のではなく』って言うんだ。だから『シルヴィーとぼくがトトルズさんのうたをさがしてあげようか』って言ったらね、『飢え死《ち》る!』って言われたの。ぼく飢えちになんかしないよね!」 「そんなつもりじゃなかったのよ!」シルヴィーが一生懸命になだめた。「フレンチってやつよ――英語をあまりうまく話せないから――」  ブルーノは目に見えて心を開いた。「あんましうまくないからハレンチなのか! ハレンチな人ってぼくらみたくじょうずに英語がはなせれないんだねえ!」そうしてシルヴィーにおとなしく連れられて行った。 「よい子たちじゃ!」ミステルは眼鏡を外して丁寧にぬぐっていた。やがて眼鏡をかけ直すと、子供たちが楽譜の山をひっくり返しているのを、にこやかに微笑みながら見守っていた。シルヴィーが小言を言っているのが聞こえる。「散らかしに来たんじゃないのよ、ブルーノ!」 「お話がしばらく中断されてしまいましたが」ぼくは言った。「よかったら続きを始めませんか!」 「喜んで!」老人は優しく答えた。「あなたがたのことに興味がありまして――」そこで言葉を切って困ったように額をぬぐい、つぶやいた。「忘れてしまった。何を話していたんでしたかな? おお! あなたがたのことを教えてもらおうとしていたのですな。そうそう。あなたがたのところではどちらの教師を評価いたしますかな、言ってることがわかりやすい教師と、いつもわけのわからない教師と?」  まるで理解できない教師を評価する傾向があることを、ぼくは認めざるを得なかった。 「さようさよう」ミステルが言った。「そこから始めますかな。そう、八十年ばかし前のある時期のことでしたか――それとも九十年前だったかな? わしらが大好きだった先生が、年を重ねるごとにどんどん影が薄くなったのですが、それにつれて年々ますます尊敬を集めたものでした――あなたがたのところの芸術愛好家が、霧の出ている景色を絶景だと呼んで、何も見えないのを絶賛して愛して止まぬのと同じことですな! さて結論を申しましょう。わしらの憧れの先生が講義していたのは、倫理学でした。まあ生徒の方ではちっとも理解できんのですが、それでもすっかり暗記しておりました。試験のときにはそれを書き写すのです。試験官の口からは『素晴らしい! 何という理解力!』」 「ですが生徒の将来にはそれが何の役に立ったのでしょうか?」 「ほう、わかりませんか?」ミステルが答えた。「今度は自分が教師になったとき、ふたたびそっくり暗唱いたしました。それをまた生徒がそっくり書き写し、試験官がそれに及第をつける。どういう意味があるかなどとちょっとでも考える者などおりません!」 「その結果どうなりました?」 「このようになりました。ある晴れた日に目を覚ましますと、倫理学について何らかのことを知っている者が誰一人いないことに気づいたのです。かくして廃止と相成りました。教師、授業、試験官すべてです。何かを学びたいと思ったら、独力でがんばるしかありません。二十年かそこら経過してみると、何かを身につけた人間がちょこちょこ現れたのです! さて話を変えましょう。お国の大学では、試験を実施するまでにどれくらいの期間授業をおこないますかな?」  三年か四年だと答えた。 「さよう、我々もそのくらいですぞ!」ミステルが声をあげた。「生徒にほんのちょっとだけ教えまして、それを身につけ始めたころになると、ふたたび身から出すのですな! 我々は井戸に半分も溜まらないうちに、水をくみ上げました――林檎がまだ花のうちに、摘み取りました――ひよっこが殻をかぶって静かに眠っているうちに、難解な数学の理論を植えつけました! 鳥も早起きすりゃ虫にありつく、すなわち早起きは三文の得というのは確かなことです――だがあまりに早く起きすぎれば、虫はまだ地面から出て来ておらんし、そうなると朝食にありつける見込みとは何なのでしょうな?」  まあそうですね、とぼくは認めた。 「ではことの次第を明らかにしましょう!」ミステルは張り切って話を続けた。「すぐにでも井戸の水をくみ上げたいとしましょう――その場合にしなければならないことを教えてくださいませんかな?」 「イギリスのような大国では、競争試験は欠かせません――」  ミステルは激しく手を振り回し、「何ですと? もう一度お願いします」と叫んだ。「そんなことは五十年前に廃止されたと思っとったが! 競争試験など毒の木ですぞ! そんなものに光を遮られては、天性の才能、飽くなき探求、生涯たゆまぬ努力、そうしたものがすべて死に絶えてしまします。才能や探究のおかげでわれらの先祖は人間らしい進んだ知性を得たというのに、それがゆっくりとではあっても確実にしぼんでいくのは間違いない。やがて調理場にその体系を明け渡し、人間の心はソーセージとなり、いくら望んだところで、理解できない詰め物をどれほど詰め込めるというのか!」  こうして熱弁をふるったあとには、決まってしばし我を忘れてしまうらしく、かろうじて思考の糸をつなぎ止めているのは一つの言葉だけだった。ミステルは「さよう、詰め込める」と繰り返した。「我々は荒廃の段階をくぐり抜けました――それはひどいものでしたぞ! もちろん試験がすべてであったときには、足りないものを詰め込もうといたしました――目指すべき偉業はですな、受験者が試験に必要なことよりほか何一つ知らぬ状況になるでしょう! それが完全に達成されたと言っているわけではありませんぞ。だがわしの生徒のなかには(老人の自慢をお許しくだされ)惜しいところまで行った者もおります。試験のあとでその生徒は、知ってはいたが身につけることのできなかった少々の事実をわしに洩らしましたが、そんなのはつまらないことです、さよう、まったくつまらないことです!」  ぼくはかすかに驚きと喜びを見せた。  老人は満足そうに笑ってぺこりとお辞儀してから話を続けた。「あのころは一人一人の才能のきらめきを見極めたり、表に現れた才能に報いたりするのに、あれ以上に合理的な考え方を思いついた者がおりませんでな。言うなれば、不運な生徒を蓄電瓶にして、まぶたまで充電して――競争試験というノブを嵌めて、とびきりの火花を流しておりましたから、蓄電瓶が割れることもよくありました! それがどうだというのでしょう? 我々はそれに『一級火花』とラベルを貼って、棚に仕舞っておりました」 「けれどもっと合理的なシステムが――?」ぼくは水を向けた。 「ああ、そうです! それが次の段階ですな。一塊りの学習成果にまとめて褒美を与えるのではなく、よい答えが出るたびにこまめに払っていたものです。思い出しますなあ、当時はコインの山を手元に置いて授業しておりました! 『たいへん素晴らしい、ジョーンズ君!』(たいていこれで一シリング)。『ブラーヴォ、ロビンソン君!』(これは半クラウン)。さてことの次第はというと。誰一人として報酬なしで学ぼうとする事実は一切ありませんでしたな! 優秀な青年が入学してくると、授業料よりも多い学習料を受け取っておりましたぞ! そして次の段階がもっとも激しい社会現象でした」 「えっ、さらに別の社会現象が?」 「これが最後です」老人は言った。「長い話で退屈させてしまったようですな。どのカレッジも優秀な生徒を欲しがりました。そこで我々が採用したのは、イギリスでは一般的だという噂のシステムでした。カレッジは互いに競り合い、青年は最高値をつけた入札者のところに身を投じました! 何と愚かだったことか! なにせ、どういうわけか優秀な青年たちは総合大学に入るに違いありませんでしたからな。我々は金を払う必要などなかった! 我々のお金は、優秀な生徒をほかのカレッジではなく自分とこのカレッジに招致することに費やされました! 競り合いは過熱し、ついに支払いが底をついてしまいました。どのカレッジもきわめて優秀な生徒を手に入れたがっていましたから、駅で生徒を待ち伏せ、通りをあちこち探すはめになりもうした。真っ先に捕まえた者が、手に入れることができるのです」 「到着した奨学生の捕獲というのは、変わった仕事だったのでしょうね」ぼくは言った。「どういった考えによるものなのか教えてもらえませんか?」 「喜んで!」老人が言った。「比較的最近おこなわれた狩りについて説明いたしましょう。それまでは、スポーツの形を取っておりました(実際、その日のスポーツとして勘定されておりましたな。『幼生狩り』と呼んどりました)が、ついに化けの皮がはがれたんですな。偶然にもちょうど通りかかったときに、この目で目撃いたしました。それこそ『奥の奥まで』というやつです。今も目に見えるようです!」夢みるような丸い大きな目で虚空を見つめながら、興奮して先を続けた。「まるで昨日のことのようですぞ。それなのに起こったのは――」ミステルが慌てて言葉をのみ込んだので、残りの言葉はささやきにのなかにしぼんでしまった。 「どれほど前のことだとおっしゃいました?」ついにミステルの人となりについて何らかの確かな事実が明らかになるのではないかと、そんな期待を込めてぼくはたずねた。 「山ほど前です」とミステルは答えた。「駅で繰り広げられた景色は(聞いたところによると)ひと騒動といったようなものでした。八つ九つのカレッジの代表がゲートのところに集まったのを(誰もなかには入れませんでな)、駅長が舗石に線を引いて、全員その線の内側に立っていろと訴えたとか。ゲートがぱっと開きました! 若者が目の前を駆け抜け、稲妻のように通りに逃れました。カレッジの代表たちがそれを見つけて興奮して叫んでおりました! 学生監が古臭い決まりに則って、『壱!弐!の参! いざ行かん!』と指示を出し、かくして狩りが始まりました! いやはや、それは見物でしたでしょうな! 最初の角でギリシア語の単語帳を落とします。さらにその先で、膝掛けを。それからいろいろな小物。そして傘。最後にはおそらく一番大事にしているはずの鞄まで。だがゲームは終了です。あのカレッジの――その――球学長は」 「どのカレッジのですか?」 「――とあるカレッジですな。その学長は加速度の理論を――自身の発見になる理論を――実行に移し、わしが立っていた真っ正面で生徒を捕まえたのでした。あの息づまる死闘は忘れませんぞ! だがやがてすっかり終わりました。あの骨張った大きな手のなかに収まるや、脱出は不可能なのです!」 「なぜ『球』学長と呼んだのかおたずねしてもかまいませんか?」 「見た目の形から名づけられたあだ名です。まん丸でしたのでな。例えばまん丸な砲弾があって、それがまっすぐに落ちてゆけば、加速度がつくことはおわかりですな?」  ぼくは頷いた。 「さよう、球友は(そう呼べるのを誇りに思いますが)この要因究明に取りかかったのです。三つの要因を見つけました。一つ、まん丸であること。二つ、まっすぐに動くこと。三つ、進む方向が上向きではないこと。この三つの条件が満たされれば、加速度が得られるのです」 「そんなことはないでしょう。残念ですが同意できません。その理論を水平運動に当てはめて見ませんか。砲弾が水平に発射された場合には――」 「――まっすぐに動きはせ…ぬでしょう」ミステルはそっとぼくの言葉をさえぎった。 「その点は認めます。ご友人は次に何をなさったんですか?」 「次にしたのは、まさにあなたが示唆なさったように、その理論を水平運動に当てはめようとしたんですな。だが移動中の物体は絶えず落下するものですからな、水平に動き続けるには、継続的な支えが必要になる。『さて、何だろう』と友人は自問いたしました。『移動中の物体を継続的に支えるものとは?』。その答えが『人の足!』でした。これが友人の名を不朽のものにした発見なのです!」 「今もなお?」ぼくはかまをかけた。 「それは言えませんな」すべてを語らぬ語り部は穏やかに答えた。「次の一歩ははっきりしとりました。体がまん丸になるまで脂身の固まりを摂取し続けることです。やがて疾走の最初の実験に取りかかりました――人生を賭けたと言っていいでしょう!」 「どうなりました?」 「さよう、友人は自分が利用している自然界の新しい力がどれほどとてつもないものなのかをわかっておりませんでした。出だしが速すぎたのです。あっという間に時速百マイルで移動しておりました! 干し草の真ん中に突っ込むことに思い至らなければ(干し草を四方八方にまき散らしておりましたがの)、住み慣れた星をあとにして、宇宙に飛んで行っていたに違いありませんぞ!」 「それで結局、幼生狩りはどうなったんでしょうか?」 「さようさよう、二つのカレッジのあいだにみっともない争いを引き起こすことになりました。別の学長が青年に手をかけたのと、球学長が手をかけたのはほとんど同時でした。どちらが先に手を触れたのかは誰もわかりません。この争いが新聞沙汰になり、我々は信用を失い、とどのつまりは幼生狩りは終わりを告げたのです。実を申しますとな、気違い沙汰を鎮めてくれたのは、優秀な奨学生に入札して競り合うことでした。言うならばオークションでものが売られているのと同じようなものですな! その熱狂が頂点に達したころでした。何とまあカレッジの一つが年に千ポンドの奨学金を告知したころです。視察団の一人が古代アフリカの伝承が書かれた写本を手に入れまして――偶然にも写しを持って来ておりましてな。翻訳して聞かせましょうかな?」 「お願いします」ぼくはそう言ったものの、ひどく眠くなってきたのを感じていた。 第十三章 トトルズの言うことにゃ  ミステルは写本を広げたが、驚いたことに、読むのではなく歌い始めた。部屋中に響くような豊かでまろやかな声だった。 「年に一千ポンドとは それほど悪い額じゃない!」 トトルズ曰く。「その点、男は結婚で 得をすることもありなん! 『夫にゃ妻が必要』とは 不適切な言い方だ。 女の人生で最高の喜び これ男!」とトトルズ(本気で言うことにゃ)。 新婚旅行も無事に終わり 新婚夫婦も家路についた。 お姑さんが同居して 二人の幸せに気を遣う。 「収入には余裕があるね。 その調子だよ!」(調子は上々)。 「だがこんな幸せは長続き しないのでは!」とトトルズ(本気で言うことにゃ) 小さな田舎家を手に入れた―― コヴェント・ガーデンにもう一軒。 これがほんとの二世帯住宅 友人たちはそう呼んだ。 ロンドンの家も似たようなもの (三百ポンドの家賃が入った)。 「人生とは愉快なゲームだ!」 と喜んだトトルズ(本気で言うことにゃ)。 「つつましい運命で満足さ」と (ギュンター亭で言っていたものだが) 手軽な帆船を一艘買って―― 手頃な猟犬を一ダース揃え―― ハイランド湖で魚釣り―― ヨットでぐるぐる回っていると――「『 オット!』と叫ぶゲール人の 声が聞こえる!」とトトルズ(本気で言うことにゃ)。  ここで、眠りに落ちている真っただ中の人間が目を覚ますときのようにビクッと痙攣して、ぼくはようやく気づいた。ぼくをぞくぞくさせていた妙なる音楽の調べはミステルのものではなく、フランスの伯爵のものだった。老人は今も写本を調べている最中だった。 「お待たせしてしまい申し訳ない! 英語にできない単語がないか確かめておったところでしてな。もうすっかり準備できました」そうして次のような伝説を読み上げた。 「アフリカの中心にある都市がありました。旅行者がぷらりと訪れることなどまず滅多にないところで、住民は卵を買うのが習慣じゃった――卵酒が主食の地域の日課ですな――週に一度訪問してくる商人から買っておりました。我先に競って入札したものです。かくして商人が来た際にはいつも決まって熱狂的な競売とあいなり、籠に残った最後の卵一個なぞは駱駝二、三頭分かそこらの値段で売れたものです。ですから毎週毎週、卵は高くなりました。それでも住民は卵酒を飲み続けたが、自分たちのお金がどこに消えたのか不思議がっておりました。 「やがて額を寄せ集めて相談する日がやってきました。自分たちが何と愚かだったのかを悟ったのです。 「翌日、商人がやってくると、男が一人だけ進み出てこう言いました。『嗚呼、かぎ鼻の君、ぎょろ目の君、もじゃ髭の君、卵の山はおいくらです?』 「商人は答えました。『一ダース一万ピアストルならこの山をお譲りできますよ』 「男はひそかにほくそ笑みました。『一ダース十ピアストル、それ以上は差しあげません。おお偉大な父祖の末裔よ!』 「商人は髭をひと撫でこう言いました。『ふん! ご友人がたが来るのを待つとしましょうか』かくして商人は待った。男も待った。二人は一緒に待っていました」 「写本はここで破れておりまして」ミステルはそう言って、写本を元のように巻き直した。「ですが我々の目を覚ますには充分でした。自分らがいかに愚かだったかを悟ったのです――奨学生を買うのは、無知な野蛮人が卵を買うのとまったく同じだと――そして馬鹿げた制度は廃止されたのです。それに加えて、あなた方から借用したあらゆる風習を廃止することができたらどんなによかったか! そうすれば当然の帰結をもたらさずに済んだのじゃが。だがそうはならんでな。我が国を滅ぼし、わしを故郷から追いやった原因は、――よりにもよって軍隊に――政治的対立の理論を導入したことでした!」 「たいへんすみませんが」ぼくは言った。「『政治的対立の理論』とはどういうことなのか説明してもらえますか?」 「すまぬものですか!」というのが極めて礼儀正しいミステルの返答だった。「話しをするのは何より楽しいですからな、それも相手が聞き上手ときては。ことの始まりは、ある政治高官が――長いことイギリスに滞在しておったのですが――当地の政治運営のあり方について報告をもたらしたことでした。それが政治的に不可欠だと(その政治家に言われて、わしらは信じました。そのときまでそんなものは知りもしなかったのにですぞ)。つまりあらゆる点あらゆる問題において、政党は二つであるべきだというのです。政治上、その二つの政党は、あなたがたが作るべき必要性を感じていたその二つの政党は、その政治家の語ったところによると、『ホイッグ党』と『トーリー党』と呼ばれておったとか」 「ずいぶん昔のことだったんですね?」 「ずいぶん昔のことでした」ミステルは頷いた。「そしてこれがイギリスの国家運営方法でした。(間違っていたら訂正してくだされ。わしは旅行者が話したことを繰り返しておるに過ぎません。)この二つの政党は――昔から対立関係にあって――代わる代わる政権を執っておりました。そのとき政権を執れなかった政党は『反対勢力』と呼ばれていましたな、確か?」 「それで合ってますよ」ぼくは言った。「少なくとも議会を持つようになってからは、政党は二つあって、『与』と『野』に別れていました」 「ふむ、『与党』(という呼び方でよいのでしょうか)、『与党』の職務とは国民の福利厚生のために可能なかぎり全力を尽くすこと――戦争か平和かの選択、商業、条約、そういったことですな?」 「そのとおりです」 「そして『野党』の職務とは(旅行者がそう断言しても、初めのうちは信じられなかったのですが)、あらゆることを『与党』が実行するのを邪魔することでしたな?」 「政策を批判したり修正したりすることです」ぼくは訂正した。「国の利益のために尽くしている政府を妨害するなんて、非国者じゃありませんか! 我々は常に愛国者のことを偉大な勇者だと考えてきましたし、非愛国心を持つのは人間として最大の不幸だと考えてきましたよ!」 「ちょいとすみませぬ」老人は丁寧に断ってから手帳を取り出した。「旅人とやりとりしたことをここにメモしておりましてな。もしよろしければ、ちょっと記憶を確かめることにいたしましょう――あなたのご意見には完全に同意いたしますぞ――仰るように、人間として最大の不幸だと――」ここでミステルがまた歌い始めた。 だが嗚呼、人間として最大の不幸は (哀れトトルズは気づく)『請求書だ』! 銀行残高がゼロになれば、 気分が沈むのもおかしくなかろう? それでも、お金は流れ出すので、 妻はどうやりくりしているのやら。 「日に二十ポンド使ってるだと、 それで最低限?」と叫ぶトトルズ(本気で言うことにゃ)。 妻はため息。「この居間のこと 考えたこともなかったわ。 ママはその調子って言ってたし―― これがなきゃあたしたち何なのかしら。 おでこにつけてるダイヤのバンド―― ママが送ってくれたと思ってた、 ついさっき請求書が来るまでは――」 「このあま!」と叫ぶトトルズ(本気で言うことにゃ)。 哀れトト夫人はもう限界、 床にばたりと気絶した。 取り乱した姑が 介抱するが娘は起きず。 「早く! 箱から気つけ薬を! しからないでジェイムズ、 欠点だらけでも、かわいい娘――」 「こいつが?」と唸るトトルズ(本気で言うことにゃ)。 「馬鹿だった」と叫ぶトトルズ、 「あんたの娘を妻にするとは! かっこつけろと言ったのはあんた! おれたちを破産させたのはあんた! でも一つだけ教えてくれない 破産を防ぐ方法だけは――」 「そんな議論が何になるのさ?」 「黙れ!」と叫ぶトトルズ(本気で言うことにゃ)。  またもやハッと目覚めると、歌っているのはミステルではない。ミステルはメモを調べ続けていた。 「友人の話はいたって正確です」いろいろな書類を読み込んだあとで、話を再開した。「『非愛国』とはその友人に出した手紙のなかでわしが使っておった言葉です。『邪魔する』とはその返事のなかで使われてた言葉ですな! 手紙の一部を読み上げてよろしいかな。 「『断言しよう』と書かれております。『非愛国的なのはきみの考えている通りだ。『反対勢力』のやるべき仕事とは、法で禁じられていないあらゆる方法で政府の活動を邪魔することだ。こうした取り組みは『合法的妨害』と呼ばれている。『反対勢力』が勝利の味を噛みしめるのは、国家の利益を図ろうとして政府がおこなっていたあらゆることが、自分たちの『妨害』によって失敗に帰したのだと指摘できるときなのだ!」 「ご友人の評価は完全に正確とは言えませんね」ぼくは言った。「それはもちろん反対勢力は喜んで指摘すると思いますよ、政府が自らの過失によって失敗した場合には。でも自分たちの妨害のせいで失敗したのを指摘したりはしませんよ!」 「さようですか?」ミステルは穏やかに答えた。「ではこの新聞の切り抜きをお読みしましょう、友人の手紙に同封されていたものです。当時『反対勢力』の党員だった政治家が演説をおこないまして、その公開演説に関する記事の一部です。 「『閉会に当たって、取り組みの成果に不満を持つ理由などないという考えを氏は表明した。あらゆる点で敵に勝利を収めたが、追求は続けられなければならなかった。混乱をきたし失意にある敵を追撃するだけであった。』」 「さてこの演説者が言っていることは、あなたのお国の歴史のどのあたりに該当するとお考えでしょうかな?」 「そうですね、前世紀には幾度となく戦争で勝利を収めましたからね」ぼくはブリテンな誇りに燃えて答えた。「あまりに多すぎて、当時のどの戦争のことなのか、万に一つも見当がつきません。でも一番ありそうなのはインドだと言っておきましょう。おそらくその演説がおこなわれたころに暴動がほぼ鎮圧されたのだと思います。さぞかし素晴らしく、雄々しい、愛国的な演説だったんでしょうね!」ぼくは興奮のあまり叫んでいた。 「さようですか?」ミステルの声は優しく哀れむようだった。「だが友人の話では、『混乱をきたし失意にある敵』とはそのとき政権を担っていた政治家たちのことを言っているに過ぎず、『追求』とは『妨害』のことを言っているに過ぎないそうじゃ。して『敵に勝利を収めた』とは、国家によって権限を与えられた職務を政府が執りおこなっているのを、何でもいいから邪魔することに『反対勢力』が成功したということだとか!」  どうやら黙っているのに越したことはない。 「初めのうちこそ奇妙に思えたものじゃが」礼儀正しいミステルは、ぼくが口を開くのではないかとしばらく待ってから、話を続けた。「いったんその考えを身につけてしまうと、我々はあなたがたのお国にそれは敬意を払っておりましたので、生活のあらゆる面にその考えを導入いたしました! それが終わりの始まりだったわけです。我が国は二度と立ち直りませんでした!」そうして哀れな老紳士は深いため息をついた。 「話題を変えましょう!」ぼくは言った。「どうか悲しまないでください!」 「いや、いや!」ミステルは元気な顔を見せようとしていた。「この話を終わらせてしまいましょう! そのあとはですな、(我々の政府が役立たずになり、必要な法律が機能しなくなったあとのことです。そうなるのにも長い時間はかかりませんでしたが)、『栄光の英国式対立原理』と呼んどるものを農業に導入いたしました。富農の方々を説得いたしましてな、農作業員を二つの党に分けて、互いに対立させたのです。政治政党と同じように『与党』と『野党』と呼びならわされました。『与党』の仕事は、耕作、種まき、それに必要なことなら何でも、一日のうちにできるだけやり遂げることでした。夜にはやり遂げた分だけ給料をもらっておりました。『野党』の仕事は『与党』を邪魔することで、邪魔した分だけ給料をもらうわけです。農場の経営者たちは、給料の支払いが以前の半分だけでいいことに気づきました。だが仕事の量が以前の四分の一だけになったことには気づかなかったのです。ですから初めのうちは誰もがすっかり乗り気で導入しておりました」 「それでその後は――?」ぼくはたずねた。 「はあ、その後はそれほど乗り気ではありませんでしたな。またたく間に、ことはお約束の繰り返しに陥ってしもうた。仕事はまったく成し遂げられなくなりました。とどのつまりは『与党』の手には給料が入らず、『野党』がごっそりいただいておりました。経営者たちは、すべてがおじゃんになるまでは何も気づきませんでした。ごろつきどもは行動を示し合わせて、給料を山分けしておったのです! そのあいだじゅう、おかしな光景が見られたものでした! たとえばですな、一人の農民が鋤に二頭の馬をつないで前に進もうと努力しているのをよく見かけましたが、そのあいだ野党の農民が鋤の反対側に三頭のロバをつないで後ろに進もうと全力を尽くしておったのです! 鋤はどちら側にも一インチとて進みません!」 「ですが我々はそんなことはしませんでしたよ!」ぼくは声をあげた。 「つまりは我々ほど論理的ではなかったわけですな」ミステルが答えた。「ときには馬鹿の方がよいことも――失礼! 特定の誰かをあてこすったわけではありませんぞ! すべてははるか昔の出来事なのですからな!」 「ほかの方面では対立原理が成功したんですか?」 「皆無でした」ミステルは率直に認めた。「ほんのわずかのあいだ商業の分野で試みられたくらいでです。店員の半数が忙しく商品を包んだり運んだりしようとしているのに、残りの半分がカウンターに広げようとしているのを目にしては、どんな店主も導入しようとはしませんでした。世間はそんなこと望んでおらぬそうじゃて!」 「まあそうでしょうね」 「さよう、我々は何年間か『英国式原理』を試みました。そして最後には――」ミステルの声がにわかに小さくなり、ささやきに近くなった。やがて大粒の涙が頬を転がり落ち始めた。「――最後には、我々は戦争に巻き込まれたのです。激しい戦闘でした、数では敵を上回っておったのですが。だが誰に予想できますかな、兵の半数だけが戦って、残りの半数が退却することなど? 結果は壊滅的でした――完敗です。これが革命を引き起こし、政府のほとんどの人間は追放されました。わし自身は『英国式原理』を強く推進したかどで反逆罪に問われました。財産はすべて没収され、そして ――そして――追放の憂き目に遭ったのです! 『害を及ぼしたからには、こころよく国を去るつもりだろうね?』と言われました。心臓が張り裂けそうでしたが、出国せざるを得ませんでした!」  もの悲しい声が嘆きに変わった。嘆きがシュプレヒコールに変わる。シュプレヒコールは歌になった――だが今度はミステルが歌っているのか、ほかの誰かが歌っているのか、ぼくにははっきりしなかった。 「害を及ぼしたからには、快く 荷物をまとめて出て行くつもりだろうな? 二人なら(あんたの娘と息子なら) 仲良くやれるが、三人だとそうはいかぬ。 俺たちは節約を始めるよ。 変化が必要なら、編み出すさ。 だからこっちのことには 手を出すな!」と叫ぶトトルズ(本気で言うことにゃ)。  音楽はいつの間にか消えていたらしい。ミステルはまた普通の声で話していた。「もうひとつ教えてくだされ。お国の大学にですな、三、四十年も在籍している学生がいたとして、それでも試験をするのは三、四年目の終わりに一度だけだと考えてよろしいでしょうかな?」 「そのとおりでしょうね」ぼくは認めた。 「すると実際には、学歴の初めに試験していることになるのですぞ!」老人はぼくにと言うよりむしろ自分に向かって口にした。「つまりですな、早めに――というべきでしょうが――早めに教えた知識を忘れずに覚えているという保証がどこにありますか?」 「何もありません」ミステルの勢いに戸惑いながらぼくは認めた。「その点をどのように保証していらっしゃるのですか?」 「三、四十年目の終わりに試験をすればよいのです――初めにではありません」ミステルは穏やかに答えた。「そうすれば平均的に言って、知識は初めのころの五分の一ほどになるのですが――忘却というのはごく一定の割合で進むものですから――そうすれば、忘れたことがもっとも少ない者が、もっとも多くの栄誉と奨学金を得るのです」 「ではその必要がなくなってからお金を渡すんですか? 人生のほとんどを無一文で過ごすことになりませんか!」 「そんなことはありませんぞ。その学生が小売店に注文を出します。小売店は四十年のあいだ、ときには五十年のあいだ、その店の裁量で注文を受けつけるのです。やがて特別奨学生になることができれば――お国の奨学生に五十年で支払われるのと同じ額が、一年で支払われるのですから――かくして学生は借金をそっくりと、それも利子つきでたやすく返済することができるというわけですな」 「だけど特別奨学生になれなかったとしたら? そんなこともよく起こるでしょう」 「よく起こりますな」ミステルもそれを認めた。 「店はどうするんですか?」 「それに応じて処理いたしますな。驚くほどの無知や馬鹿であると思われる場合には、それ以上の販売を拒否することもあります。肉屋に牛肉や羊肉の販売を止められてしまってから、科学や語学をいくつも復習し始める学生がどれだけ必死なのか見当もつかぬでしょうな!」 「試験官はどんな人ですか?」 「あふれる知識を持った、入学したての若者です。不思議な光景だと思われるでしょうな。ほんの小僧っ子がそんな大人たちを試験しているのを見れば。自分の祖父を試験することになった学生を知っておりました。双方にとって何とも痛ましいところがありましたな。老紳士ときたらすっかりはげ上がって――」 「どのくらいはげ上がっていたんでしょう?」なぜこんな質問をしたのか見当もつかない。自分が馬鹿になってしまったようだった。 第十四章 ブルーノのピクニック 「禿げとるごとく禿げとります」困ったような答えが返ってきた。「さてブルーノ、お話があるんじゃが」 「ぼくもおはなしがあるよ」シルヴィーに先を越されるまいとして、ブルーノが急いで話し始めた。「むかしむかしネズミがおりました――とってもちっちゃなネズミです――うんとちびっちゃいネズミでした! 見たことがないくらいうんとちっちゃなネズミ――」 「そのネズミにはどんなことが起こったんだい、ブルーノ?」ぼくはたずねた。「ほかに話すことがあるだろう、ちっちゃいこと以外にもさ?」 「なんにもおこらなかったの」ブルーノが真面目くさって答えた。 「どうしてよ?」シルヴィーは座っていた。ブルーノの肩に頭をのせ、自分のお話をする機会を辛抱強くうかがっていた。 「すんごくちっちゃかったんだ」ブルーノが説明する。 「そんなの理由にならないよ!」ぼくは言った。「どんなに小さくたって、何か起こるんじゃないかな」  ブルーノは哀れむようにぼくを見た。まるでぼくのことを馬鹿だと思ってるような目つきで、繰り返した。「すんごくちっちゃかったんだよ。なにかおこったら死んじゃうよ――とてもすごくちっちゃかったんだから!」 「ちっちゃいことは充分わかったわ!」シルヴィーが口を挟んだ。「それ以上は考えてないんじゃない?」 「まだだよ」 「ほらね、じゃあ続きを思いつくまでお話をするのは待ってなさい! いい子なんだからお口を閉じて、私のお話を聞いてちょうだい」  あまりに慌ててお話を始めたせいで、ブルーノの思いつきをすっかり枯れてしまったらしく、おとなしく聞き役に回って、「もうひとりのブルーノのおはなしして」とねだった。  シルヴィーはブルーノの首を抱きしめて、話し始めた――。 「風が木々の隙間にささやく――」(「ぎょうぎが悪いね!」とブルーノが口を挟んだ。「お行儀のことは気にしないで」シルヴィーは言った。)「夜のこと――月のきれいな夜のことでした。梟がホーホーと――」 「フクロウじゃないってことにしてよ!」ブルーノはむちむちした手でシルヴィーの頬を撫でた。「フクロウは好きじゃないんだ。あんなおっきな目してさ。ニワトリってことにしてよ!」 「あの大きな目玉が怖いのかい、ブルーノ?」ぼくは言った。 「なんもこわくないけどさ」ブルーノはできるだけ無頓着を装って答えた。「おっきな目でみっともないでそ。泣いたりしたら、なみだもおっきいよ――もう、月みたいにおっきいんだ!」そう言って楽しそうに笑いだした。「フクロウはいったい泣くのかなあ、あなたさん?」 「梟はぜったい泣かないよ」ぼくはブルーノの話し方を真似ようと、かしこまって答えた。「悲しいことなんてないからね」 「ええっ、そんなことあるよ!」ブルーノが叫んだ。「いっつもとても申しわけないとおもって悲しんでるよ。だってかわいそうなちびっちゃいネズミを殺すんだから!」 「でもお腹がすいているときなら、悲しくて申し訳ないとは思わないんじゃないかい?」 「フクロウのことなんにも知らないんだ!」ブルーノが見損なったような口の利き方をした。「おなかがすいてるときには、すごくすっごく悲しくて残念だとおもいながらころすんだから。だってころさなかったなら、晩ごはんになってたんだから!」  危険極まるブルーノの空想癖が頭をもたげてきたのを見てとって、シルヴィーが割って入った。「さあお話を続けるわよ。それで梟は――鶏は、ね――晩ごはんには太った見事な鼠を見つけられたらいいなと――」 「みごとなンサギにしてよ!」ブルーノが言った。 「でも鼠を殺すのは見事な詐欺じゃないもの」シルヴィーが言い返した。「そんなのダメよ」 「『サギ』なんて言ってないよ、ぶー!」ブルーノの目にはいらずらっぽい輝きがきらめいていた。「『ンサギ』だよ――野はらを走るやつ!」 「ウサギ? わかったわ、だったら兎にします。だけどこれ以上わたしのお話を変えたりしないでちょうだい、ブルーノ。鶏が兎を食べるわけないじゃないの!」 「でもさ、ためしに食べてみたくてンサギを見つけようとしてたかもしれないもの」 「そうねえ、ためしにだったら――まあブルーノ、そんなわけないでしょ! 梟に戻しますからね」 「うん、それじゃあ、目はおっきくないってことにして!」 「やがてかわいい男の子が現われました」これ以上変えられては叶わないと、シルヴィーは話を続けた。「男の子はお話を聞かせてちょうだいと頼みました。すると梟はホーホー鳴いて飛んで行ってしまいました――」(「『飛んでく』じゃなくて、『飛ぶでく』でしょ」とブルーノがささやいたが、シルヴィーは無視した。)「次に男の子はライオンに出会いました。お話を聞かせてちょうだいと頼むと、ライオンは『いいよ』と答えて話を始めました。ライオンはお話を聞かせながら、男の子の頭をばりばりと――」 「『ばりばり』はやめて!」とブルーノがせがんだ。「バリなんてどーでもいいでしょ――ちっちゃくてほそくて先がとがってて――」 「わかったわ、じゃあ、『ばこばこ』ね」シルヴィーが言った。「ライオンが男の子の頭をすっかりばこばこにすると、男の子は立ち去ってしまいました。『ありがとう』も言わずに!」 「ぶさほうだね」ブルーノが言った。「しゃべれないんだとしても、おじぎできるのに――そっか、おじぎのしようがないんだ。だったらライオンとあくしゅすればいいのに!」 「あら今の部分は忘れて!」シルヴィーが言った。「男の子はライオンと握手しました。だってまた戻って来たんですから。そしてお話を聞かせてくれてありがとうとライオンにお礼をしました」 「それから頭はまた生えてきたの?」 「そうよ、すぐに生えました。そしてライオンは謝って言いいました、もう男の子の頭をばこばこしません――二度といたしません!」  ブルーノは成り行きに納得したようだ。「これでほんとにいいおはなしだ! そう思わません、あなたさん?」 「ほんとうだね」ぼくは言った。「その男の子の話、もっと聞きたいな」 「ぼくも」ブルーノがまたシルヴィーの頬を撫でてねだった。「ブルーノのピクニックのはなしをしてちょうだい。ばこばこなライオンのはなしはもういいから」 「びびらせちゃったのならもうやめるわ」シルヴィーが言った。 「ちびってなんかないよ!」ブルーノは腹を立てて叫んだ。「そんなんじゃないよ! 『ばこばこな』ってのがみみざわりなことばだからだよ――ひとの肩に頭をのっけてるときにゆーことじゃないもんね。そーやって話をされるとさ ――」とぼくに向かって叫んだ。「はなしてることが顔のろーがわにさがってきて――あごまでとどいて――すごくくすぐったいんだです! ひげ生えてきそうに思うくらいなんだから!」  ブルーノは鹿爪らしく口にしていたものの、冗談なのは明らかだったので、シルヴィーは笑っていた――鈴のように美しい笑い声をあげ、弟の癖っ毛のてっぺんを枕のようにして柔らかな頬を横たえたまま、シルヴィーはお話を続けた。「それでこの男の子は――」 「でもそれはぼくじゃないからね!」ブルーノが口を挟んだ。「ぼくだと思う必要はないからね、あなたさん!」  ぼくは礼儀正しく答えた。ブルーノだとは思わないようにしよう、と。 「――その男の子はわりとよい子でした――」 「とってもによい子だよ!」ブルーノが訂正した。「言われなかったことはなんにもしなくって――」 「それってよい子にしてないじゃない!」馬鹿ねぇとでもいうようにシルヴィーが言った。 「それはよい子にしてるよ!」ブルーノも言い張る。  シルヴィーが匙を投げた。「いいわ、その子はとってもよい子でした。嘘は絶対につかないし、大きな戸棚を持っていて――」 「――嘘も埃も少しもつかないように仕舞っておくためでしょ!」ブルーノが叫んだ。 「少しも嘘をつかないんだとすると」シルヴィーの目からいたずらっぽさが覗いた。「私の知ってるどの子とも似てないわね!」 「もっちろん塩を仕舞うのはもってのほかだよね」ブルーノは真剣な口ぶりだった。「塩があると、うそを漬けちゃうもんね。それからたんじょーびはどの棚にもお仕舞いにならないの」 「誕生日をお仕舞いにしないでいられるのはどのくらいのあいだなんだい?」ぼくはたずねた。「ぼくには二十四時間が限度だな」 「だってたんじょーびはほっといてもそのくらい続いているものでしょ!」ブルーノが声をあげた。「たんじょーびを仕舞わずにいる方法を知らないんだね! この子のは一年じゅーお仕舞いにならなかったよ!」 「そうしたらまた次の誕生日が始まるでしょう」シルヴィーが言った。「つまり毎日誕生日ってことじゃない」 「そうだったらなあ」とブルーノ。「あーたはたんじょー会をひらいたことある、あなたさん?」 「何回かね」ぼくは答えた。 「よい子にしてたときでしょ?」 「まあね、良い子にしてるのは素敵なことじゃないかな?」 「ステキだって!」オウム返しにブルーノが言った。「おしおきみたいなものなのに!」 「まあブルーノ!」シルヴィーは残念そうだった。「なんでそんなこと言うのよ?」 「ふん、だってそうじゃん」ブルーノも頑固だった。「ねえ、あなたさん! これがよい子だよ!」ブルーノはピンと背筋を伸ばして座り、あきれるほど生真面目な顔つきをした。「まずはマッチ箱みたいにまっすぐすわりなさい――」 「――マッチ棒みたいにまっすぐ、よ」シルヴィーが訂正した。 「――マッチ箱みたいにまっすぐとね」ブルーノはなおも言い張った。「それから手を閉じなさい――しっかりと。それから――『どうして髪をとかしてないのよ? あとからとかしておきなさい!』それから――『まあブルーノ、ひな菊を折っちゃだめよ!』。ヒナギクでつづりの勉強したことある、あなたさん?」 「その子の誕生日の話を聞きたいな」ぼくは言った。  ブルーノはすぐにお話を再開した。「うんとね、その男の子は言いました。『さあぼくのたんじょー日だ!』それから――つかれちゃったな!』ブルーノは突然話をやめて、シルヴィーの膝に頭をのせた。「シルヴィーのほうがしってるよ。ぼくより大人なんだから。つづきをおねがい、シルヴィー!」  シルヴィーは辛抱強くお話の筋を元に戻した。「そこで男の子は言いました。『さあぼくの誕生日だ。どうすれば誕生日をお仕舞いにしないでいられるんだろう?』よい子はみんな――」(ここでシルヴィーはブルーノに向かってではなく、はっきりわかるくらいの大きさでぼくにささやいた)「――よい子はみんな――きちんとお勉強する男の子は――誕生日をお仕舞いにせ…ずにいられるのです。だからもちろんこの子も自分の誕生日をお仕舞いにせ…ずにいられました」 「何ならその子のことブルーノって呼んでいいよ」男の子は素知らぬふりでそう言った。「ぼくじゃなかっても、でもその方が面白いし」 「そこでブルーノはつぶやきました。『丘のてっぺんをひとりじめしてピクニックするほどいいことはないぞ。牛乳とパンとリンゴは忘れないようにしなくちゃ。いの一番に牛乳だ!』そこでブルーノはいの一番に牛乳樽を持って――」 「牛さんのところに行って牛乳ったんだ!」ブルーノが口を挟んだ。 「そうね」シルヴィーは聞き慣れない動詞を黙って受け入れた。「すると牛は言いました。『モー! 牛乳持ってどこに行くのよ?』。ブルーノは答えました。『実はおばさん、ピクニックに持っていきたいんです』。すると牛は言いました。『モー! でも牛乳を火にかけないでくれる?』。ブルーノは答えました。『うん、するわけないよ! 新鮮な牛乳はおいしいし温かいから、火にかけなくていいもん!』」 「火にかけなくてもいいもん、だよ」ブルーノが修正案を出した。 「そこでブルーノは壜に牛乳を入れて、『次はパンだ!』と言って焼き窯のところに行き、おいしそうなできたてのパンを取り出しました。焼き窯は――」 「――とってもふかふかにふくらんだ、だよ!」ブルーノはじれったそうに訂正した。「なんでそんなにたくさんことばを抜かすのさ!」  シルヴィーは素直に謝った。「――おいしそうなできたてのパンは、とってもふかふかにふくらんでいました。焼き窯は言いました――」ここでシルヴィーは押し黙ってしまった。「焼き窯がしゃべるときに、どんな言葉から始めるのか、本当に忘れちゃったわ!」  二人の子どもが訴えるようにぼくを見た。だがぼくにはこんなことしか言えなかった。「ちっともわからないよ! 焼き窯がしゃべるのなんて聞いたことがないからね!」  しばらくぼくらは黙り込んでいた。やがてブルーノがそっと口を開いた。「やきがまは『や』の字から始まるよ」 「何ていい子なの!」シルヴィーが感嘆の声をあげた。「ブルーノは綴りがとっても得意なの。実は賢い子なんです!」とぼくに向かって耳打ちした。「そこで焼き窯は言いました。『やぁ! パンを持ってどこに行くのかな?』。ブルーノは言いました。『実はね――』。焼き窯って『おじさん』と『おばさん』どっちかしら?」シルヴィーはたずねるようにぼくを見つめた。 「どっちも、じゃないかな」そう言っておくのが一番の安全策に思えた。  シルヴィーはこの提案をすぐさま採り入れた。「そこでブルーノは言いました。『実はじばさん、ピクニックに持っていきたいんです』。焼き窯は言いました。『やぁ! だけど焼いてほしくないんだけど?』ブルーノは答えました。『うん、するわけないよ! できたてのパンはとってもふかふかふくらんでるから、焼かなくていいもん!』」 「焼かなくてもいいもん、だよ」とブルーノが言った。「省いてばっかりいないでよ!」 「そこでブルーノはパンを籠に詰めました。それから『次はリンゴだ!』と言うと、籠を持って大きな林檎の木のところまで行き、すっかり熟した林檎を摘み取りました。大きな林檎の木は言いました――」ここでふたたび押し黙ってしまった。  ブルーノは額を叩くというお得意のしのぎ方に逃げ込んだ。シルヴィーの方は真剣な面持ちで虚空をにらんでいた。まるで鳥がアドバイスしてくれることを期待しているようにも見えたが、鳥は枝にまぎれて陽気にさえずっているだけで、何も起こらなかった。 「大きな林檎の木はしゃべるとき、どんな言葉から始めるんだったかしら?」シルヴィーはなすすべもなく鳥に向かってつぶやいたが、なしのつぶてだった。  仕方がないのでぼくはブルーノのやり方を真似て口にしてみた。「『おおきな林檎の木』は『おお』から始まるんじゃないのかな?」 「ええ、もちろんそうよね! なんて頭がいいのかしら!」シルヴィーは大喜びで叫んだ。  ブルーノが飛び上がってぼくの頭をなでてくれたが、ぼくは調子に乗らないように気をつけた。 「そこで大きな林檎の木は言いました。『おお! 林檎を持ってどこに行くんだ!』。ブルーノは答えました。『実はおじさん、ピクニックに持っていきたいんです』。大きな林檎の木は言いました。『おお! だが火であぶってほしくないんだが?』。ブルーノは答えました。『うん、するわけないよ! 熟したリンゴはとってもおいしくて甘いから、あぶらなくていいもん!』」 「あぶらなくても――」とブルーノが言いかけたが、その前にシルヴィーが自分で訂正してしまった。 「『あぶらなくてもいいもん』。そこでブルーノは、パンや牛乳壜と一緒に林檎を籠に詰めました。そして丘のてっぺんへ一人きりのピクニックに出かけたのです――」 「欲ばりじゃないからさ、ひとりきりだけだったんだ」ブルーノがぼくの頬をなでてアピールした。「お兄ちゃんもお姉ちゃんもいなかったしね」 「お姉ちゃんがいないと寂しくないかい?」ぼくはたずねた。 「うーん、わかんない」ブルーノは悩ましい顔をした。「勉強しなくてすむしね。だから気が楽だし」  シルヴィーがお話を続けた。「ブルーノが道を歩いていると、後ろから聞いたこともないような音が聞こえてきました――ドン! ドン! ドン! 『何の音だろう?』とブルーノ。『あ、そうか! なんだ、ぼくの時計がチクタク鳴ってるだけじゃないか!』」 「時計がチクタク鳴ったのかな?」ブルーノがぼくに問いかけた。目にはいたずらっぽい光が輝いている。 「絶対そうさ!」とぼくが答えると、ブルーノは勝ち誇ったような笑みを浮かべた。 「それからブルーノはもうちょっと考えてみました。『ちがうぞ! 時計がチクタク鳴るもんか! だってぼくは時計を持ってないじゃないか!』」  ブルーノがぼくの顔を興味津々で覗き込んで、ぼくがどう感じているのか確かめようとした。ブルーノが大喜びしているのを見て、ぼくはうなだれて指をくわえた。 「ブルーノはさらに道を進み続けました。それでもあの不思議な音は聞こえてきます――ドン! ドン! ドン! 『何の音だろう?』とブルーノ。『あ、そうか! なんだ、大工さんがぼくの手押し車を直してくれてるだけじゃないか!』」 「大工さんが手押し車を直してたんだと思う?」ブルーノがたずねた。  ぼくは元気を取り戻して、「そうに決まってるよ!」と自信満々に答えた。  ブルーノは腕をシルヴィーの首にまわした。「シルヴィー!」と、すっかり聞こえるほどの声でささやいた。「そうに決まってるってさ!」 「それからブルーノはもうちょっと考えてみました。『ちがうぞ! 大工さんが手押し車を直してるもんか! だってぼくは手押し車を持ってないじゃないか!』」  今回ぼくは両手で顔を覆って、ブルーノの勝ち誇った顔を見なくてすむようにした 「ブルーノはさらに道を進み続けました。それでもあの不思議な音は聞こえます――ドン! ドン! ドン! 今度はそれが何なのかその目で見てやろうと、振り返ってみることに決めました。なんとそこにいたのはほかでもない、大きなライオンでした!」 「大きくでっかいライオン」とブルーノが訂正する。 「大きくでっかいライオンでした。ブルーノはびびってしまって走り出し――」 「ちがうよ、すこしもちびってないってば!」ブルーノが口を挟んだ。(同名の人物の名誉が気になって仕方ないのだ。)「ライオンをよく見ようとして走り出したんだ。だって男の子の頭をぼこぼこしてたライオンと同じかどうかたしかめたかったからさ。それにどれだけおっきいか知りたかったんだ!」 「わかったわ、ブルーノはライオンをよく見ようとして走り出しました。ライオンはそれをゆっくりと追いかけました。そしてライオンは後ろからとても優しく声を掛けました。『ぼうや、怖がらなくていいよ! おれは今じゃとても優しいライオンなんだ。昔みたいに子供の頭をぼこぼこしたりは二度としないよ』。そこでブルーノは言いました。『ホントにしないんですか? じゃあどうやって暮らしてるの?』。するとライオンは――」 「すこしもちびってないんだからね!」ブルーノはまたぼくの頬をなでた。「だって忘れずに『ですか』って言えたんだから」  その人がびびっているかどうか確かめるには確実な方法だね、とぼくは答えた。 「するとライオンは言いました。『ああ、パンとバターで暮らしているよ。それにさくらんぼ、マーマレード、レーズンケーキ――』」 「――それにリンゴだ!」ブルーノが口を挟んだ。 「そうね、『それに林檎だ!』。ブルーノは訊きました。『ぼくとピクニックに行かない?』。するとライオンは答えました。『ああ、それが実は行きたくてしょうがないのだ!』というわけでブルーノとライオンは一緒に出かけましたとさ」シルヴィーが不意に話をやめた。 「これで終わりかい?」ぼくはがっかりしてたずねた。 「というわけではないんですけど」シルヴィーは茶目っ気たっぷりに答えた。「あと一、二段落くらい。そうよね、ブルーノ?」 「うん」素っ気ないのはどう見ても素振りに過ぎない。「ちょうどあと一、二段落くらい」 「二人は茂みをかき分け歩いてゆきました。そこで見たのはなんと可愛い黒羊の仔でした! 仔羊はそれはもうびびってしまって走り出し――」 「こひつじがちびったのはホントだよ!」ブルーノが口を挟む。 「走り出したので、ブルーノは追いかけて声を掛けました。『仔羊さん! このライオンは怖くないよ! えものを仕留めたりはぜったいしないんだから! さくらんぼとマーマレードで暮らしてるんだ――』」 「――それとリンゴ!」とブルーノ。「いっつもリンゴ忘れるんだから!」 「『一緒にピクニックに行かない?』とブルーノがたずねると、仔羊は答えました。『うん実は行きたくてしょうがないの、ママが行かせてくれればいいけど!』。そこでブルーノは言いました。『ママのところに行って訊いてみよう!』。というわけで、みんなで母羊のところに行き、ブルーノがたずねました。『あなたのお仔さんとピクニックに行っていい?』。すると母羊は答えました。『ええ、ちゃんとお勉強を済ませたのならね』そこで仔羊は言いました。『うんママ! 勉強はぜんぶおわったよ!』」 「ぜんぜんべんきょーしてないってことにしてよ!」とブルーノがせがんだ。 「だめよそんなの!」シルヴィーは言った。「勉強のことは譲れません! そこで母羊は言いました。『もうアルファベットはわかるの? Aは覚えた?』。仔羊は答えました。『うん、ママ! A画館に行って、A画をかんしょーしてきたの!』『いい仔ね、じゃあGは?』『うん、ママ! おGちゃんのところに行ったら、おこづかいくれたの!』『よくできたわ、じゃあKは?』『うん、ママ! K察に行って、K事さんのおてつだいしたの!』『よくできました! ブルーノとピクニックに行っていいわよ』」 「そういうわけでみんなは出かけました。ブルーノは真ん中を歩いていました。それというのも仔羊がライオンを見なくても済むように――」 「ちびってるからだよ」ブルーノが解説した。 「そうね、すごく震えていました。仔羊はどんどん顔色を失くして、丘のてっぺんに着くころには真っ白な仔羊になっていました――雪みたいに真っ白でした!」 「でもブルーノはちびってないんだよ!」名前の主が断言した。「だからブルーノは黒いままだったのです!」 「あら、そんなわけないわ! ブルーノは肌色のままだったのです!」シルヴィーが笑った。「真っ黒だったらこんなふうにキスするのはやめるわ!」 「するに決まってるさ!」ブルーノは自信満々だった。「それに、ブルーノはブルーノじゃないからね――だってさ、ブルーノはぼくじゃないから――うんとさ――へんなこと言わないでよ、シルヴィー!」 「もう言わないわ!」シルヴィーは申し訳なさそうに言った。「そうやってみんなで歩いていると、ライオンが言いました。『ああ、おれが若かったころの話をしようじゃないか。木の陰に隠れて男の子を待ってたもんさ』」(ブルーノはシルヴィーにぴったり体を寄せた。)「『やせっぽっちのガリガリの男の子ならそのまま行かせた。だが太ったみずみずしい――』」  ブルーノの我慢は限界だった。「ブルーノはひからびてるってことにしてよ!」と半べそをかきながらお願いした。 「馬鹿ねぇ、ブルーノ!」シルヴィーは明朗に答えた。「もうすぐ終わるから! 『――太ったみずみずしい男の子なら、飛びかかってがぶりと食らいついたものさ! ああ、どれだけおいしいか君にはわからないだろうな――みずみずしい男の子ときたら!』。ここでブルーノが言いました。『あの、できたらさ、男の子を食べるはなしはしないでください! ふるえちゃうから!』」  本物のブルーノも主人公に共感して震えていた。 「ライオンは言いました。『うん、それならこの話はやめにしよう! おれの結婚式の日に起こった話をしようじゃないか――』」 「そっちのほうがいいや」ブルーノは目覚ましにぼくの頬をなでた。 「『結婚記念の朝食はなんともすばらしかったよ! テーブルのこっちには大きな葡萄のプディング。あっちにはこんがり焼けた仔羊の肉! ああ、どれだけおいしいか君にはわからないだろうな――こんがり焼けた仔羊!』。ここで仔羊が言いました。『あの、お願いですけど、仔羊を食べるはなしはしないでください! ふるえがきちゃう!』。そこでライオンは答えました。『うん、それならこの話はやめにしよう!』」 第十五章 仔狐たち 「そうして、丘のてっぺんに着いたところでブルーノは籠を開けました。パン、林檎、牛乳を取り出して、みんなで食べたり飲んだりしていました。牛乳を飲み終え、パンと林檎を半欠け食べたところで仔羊が言いました。『蹄がべとべとしちゃった! 足を洗いたいな!』。するとライオンが言いました。『それなら、丘を降りてあそこの小川で洗うといい。ここで待っているから!』」 「戻ってこないんだよ」ブルーノが訳知り顔でささやいた。  だがシルヴィーがそれを聞きつけた。「こそこそ言わないの、ブルーノ! お話が台無しでしょ! 仔羊がいなくなってからかなり時間が経ったところで、ライオンがブルーノに言いました。『あの愚かな仔羊を探しに行きたまえ! きっと道に迷ったんだ』。そこでブルーノは丘を降りていきました。小川にたどり着いたところで、川岸に座り込んだ仔羊を見つけました。そしてそばに座っているのは誰かと思えば、なんと大きな狐でした!」 「そばにすわっているのはダレカトオモエバじゃないよね」ブルーノは頭をひねってつぶやいた。「大きなキツネがそばにすわっていたんだ」 「大きな狐が話をしていました」シルヴィーも今回だけは文章上の指摘を認めた。「『なあ坊や、楽しいと思うぞ。うちに来れば、仔狐が三匹いるんだ。みんな仔羊が大好きなんだよ!』。そこで仔羊は訊きました。『でも仔羊を食べたりしないの、おじさん?』。するとキツネは答えました。『まさか! 仔羊を食べるだって? そんなこと夢にも思わないよ!』。そこで仔羊は『それなら一緒に行こうかな』と答え、二匹は手をつないで歩いていきました」 「そのキツネはとってもにすごく邪悪なんでしょ?」ブルーノが言った。 「そんなことないってば!」シルヴィーはどぎつい言葉遣いに少なからずショックを受けていた。「そんなに悪いわけじゃないの!」 「ええと、つまり、よいひとじゃないってことでさ」ブルーノは言い直した。 「そこでブルーノはライオンのところに戻りました。『ねえ、急いで!』とブルーノは言いました。『キツネが仔羊を家につれて行ったんだ! ぜったいに食べる気だよ!』。ライオンは答えました。『できるかぎり大急ぎで行くぞ!』。そして二人は丘を駆け下りました」 「ブルーノはキツネを止められたと思う、あなたさん?」とブルーノがたずねた。ぼくは首を横に振って口を開こうとしなかかった。シルヴィーが話を続ける。 「家に着くとブルーノは窓からのぞき込みました。三匹の仔狐がテーブルの前に座っています。きれいなナプキンを掛けて、手にはスプーンを――」 「手にスプーンだってさ!」ブルーノが目を輝かせて繰り返した。 「そして狐はとても大きなナイフを持って――かわいそうな仔羊を殺す準備は整ったのです――」(「ちびらなくていいよ、あなたさん!」とブルーノが急いでささやいた。) 「ところがまさにブルーノが行動を起こそうとしたときでした、大きな吼え声が聞こえたのです」(現実のブルーノはぼくの手をつかんでぎゅっと握っていた)「ライオンがドアをバタンと開けてなかに入ったかと思うと、あっという間に大きな狐の頭に噛みつきました! ブルーノは窓のところで飛び上がり、部屋に飛び込むと叫びました。『わーい! わーい! キツネを倒したぞ! キツネを倒したぞ!』」  ブルーノが興奮して立ち上がった。「今やってもいい?」  シルヴィーはこの点についてきっぱりとしていた。「あとでね。次はご挨拶でしょ? ご挨拶は大好きなんじゃなかった?」 「うん、そだよ」ブルーノはふたたび腰を下ろした。 「ライオンのご挨拶が始まりました。『さあかわいそうな仔羊よ、ママのところに帰って、二度とキツネの言うことなんて聞くんじゃないぞ。素直ないい子でいろよ』 「仔羊のご挨拶です。『はい、おじさん、そうします、おじさん!』。仔羊は立ち去りました」(「だけどあーたは立ち去らなくていいんだよ!」とブルーノが説明した。「こっからが面白いんだ――ほら早く早く!』。シルヴィーが笑った。聴きどころをわかってもらっているのはシルヴィーにとっても望むところだ。) 「ライオンはブルーノにご挨拶しました。「さてブルーノ、この仔狐は君が連れてけよ、素直でいい子狐になるよう教えてやりな! 親父みたいに邪悪で、頭の空っぽなのじゃくてな!』」(「頭の何にも空っぽなのじゃなくてな、だよ」とブルーノは言い張っていた。) 「ブルーノがライオンにご挨拶しました。『はい、おじさん、そうします、おじさん!』。ライオンは立ち去りました」(「どんどんどん面真っ白くなってくるよ」ブルーノがささやいた。「おしまいに近づけば近づくほどね!」) 「ブルーノが仔狐たちにご挨拶しました。『さあ仔ギツネさん、いい子になるための第一歩だよ――リンゴとパンをカゴに入れるからね。リンゴは食べちゃだめ。パンは食べちゃだめ。何にも食べちゃだめ――家に着くまではね。家に帰ったら晩ごはんを食べるんだ』」 「仔狐たちのブルーノへのご挨拶です。仔狐たちは何も言いませんでした。 「ブルーノは林檎を籠に入れました――仔狐たちも――パンも――」(「牛乳はぜんぶ飲んじゃったんだ」とブルーノが小声で説明した)「――そうしてブルーノは家に帰ることにしました」(「もう少しで終わっちゃうよ」とブルーノが言った。) 「少し歩くと籠のなかを見たくなりました。仔狐がどうやって過ごしているのか確認したくなったのです」 「だからフタを開けたんだ」ブルーノが言った。 「まあブルーノ!」シルヴィーが声をあげた。「あなたがお話しちゃだめでしょう! そこで蓋を開けて覗き込んでみると、林檎がなくなっていました! 『お兄ちゃん、リンゴを食べたのは君かい?』とブルーノがたずねました。お兄ちゃん狐は『ちがうちがうちがう!』と答えました」(シルヴィーが猛スピードで繰り返した『ちがうちがうちがう!』という口調は真似のしようがないもので、一番似ているものをあげるとすれば若い興奮した家鴨ががあがあと言葉を発しようとしたのに近い。家鴨の鳴き声にしては早口すぎたし、といってそんなやかましいものはほかには何も思いつかない。)「次にブルーノは『真ん中のキツネさん、リンゴを食べたのは君かい?』とたずねました。真ん中の狐は『ちがうちがうちがう!』と答えました。そこでブルーノは『末っ子さん、リンゴを食べたのは君かい?』とたずねました。末っ子狐は『ちがうちがうちがう!』と答えようとしましたが、口のなかが一杯でしゃべれずに、『ふぃがぶ! ふぃがぶ! ふぃがぶ!』としか言えませんでした。そこでブルーノが口を覗いてみると、なかは林檎で一杯でした。ブルーノは首を振って、『キツネちゃん、なんて悪い仔たちなんだ!』と言いました」  ブルーノは話に聞き入っていたので、シルヴィーが一息ついても、「パンはどーなったの?」という言葉を吐き出すにとどまった。 「ええ」シルヴィーが答えた。「パンはその次ね。ブルーノは蓋を閉めてまた少し歩きました。そうしたらまたまた覗いてみたくなったのです。覗き込んでみると、パンがなくなっていました!」(「『のぞきこん』ってどういう意味?」とブルーノが訊いた。『静かにして!』とシルヴィーが言った。)「『お兄ちゃん、パンを食べたのは君かい?』とブルーノがたずねました。お兄ちゃん狐は答えました。『ちがうちがうちがう!』『真ん中のキツネさん、パンを食べたのは君かい?』。真ん中の狐は答えました。『ふぃがぶ! ふぃがぶ! ふぃがぶ!』。そこでブルーノが口を覗いてみると、なかはパンで一杯でした!」(「ちっそくしちゃうよ」とブルーノが言った。)「『ああキツネちゃん、困った仔たちだな、どうすればいいんだろう?』とブルーノは言いました。それからまた少し歩いてゆきました」(「ここからがいちばんおもしろいばめんなんだ」とブルーノがささやいた。) 「ブルーノがみたび籠を開けてみたとき、そこに見えたのはいったい何だったのでしょう?」(「たった二匹のキツネだけ!」とブルーノが超特急で叫んだ。)「そんなに急いで答えなくていいの。どうしたわけか狐が二匹しか見えません。ブルーノは訊きました。『おにいちゃん、末っ子さんを食べたのは君?』。お兄ちゃんは答えました。『ちがうちがうちがう!』『真ん中のキツネさん、末っ子さんを食べたのは君?』。真ん中の狐は『ちがうちがうちがう!』と言おうと頑張っていましたが、『ふぃがぶ! ふぃがぶ! ふぃがぶ!』としか言えませんでした。ブルーノが口のなかを覗くと、半分はパンで一杯、もう半分は狐で一杯でした!」(今回は話の区切りがついてもブルーノは何も言わなかった。どことなくどきどきしているのは、クライマックスが近づいているのがわかっていたからだろう。) 「ブルーノは家の近くまでやってきたところで、もう一度だけ籠の中を見たくなり、そこで目にしたのは――」 「たった――」とブルーノは言いかけたが、そこで寛大な気持ちに襲われたらしく、ぼくを見てささやいた。「こんかいはあなたさんが言っていいよ!」立派な申し出だったが、ブルーノの楽しみを奪うことなどぼくにはできない。「君が言いたまえ、ブルーノ。それが一番いい」「たった――一匹――だけの――キツネでした!」ブルーノは重々しく答えた。 「『お兄ちゃん』」シルヴィーの話しぶりに熱が入った。「『君はとってもいい子だから、言うことを聞かないとは思えないんだ。でももしかすると妹を食べちゃったんじゃないのかな?』。お兄ちゃん狐は『ふぃぐゎぶ! ふぃぐぁぶ!』と言ったきり、息を詰まらせてしまいました。ブルーノが口を覗くと、なかは一杯でした! (シルヴィーが一息入れた。ブルーノはひな菊の合間に寝ころんで、得意げにぼくを見ている。「すごくない、あなたさん?」 ぼくは何とかもっともらしい口のきき方をしようとした。「すごい。でもずいぶんと人をびびらせる話だね!」「よかったらぼくのちかくに来てもいいよ」とブルーノが言った。) 「ブルーノは家に帰ってきました。籠を台所に置いて蓋を開けます。すると――」シルヴィーが今度はぼくを見た。ぼくがほったらかしにされていたから、一つ予想させてあげようとでも考えたのだろうか。 「あなたさんにはよそうできないよ!」ブルーノは我慢しきれなかった。「しょーがないからぼくが教えてあげなきゃ! カゴにはなんみも入ってなかったのです!」ぼくが恐ろしさに震えると、ブルーノは大喜びで手を叩いた。「あなたさんがちびってるよ、シルヴィー! つづきをおねがい!」 「『おにいちゃん、自分を食べちゃったの? 邪悪な狐《こ》だね』とブルーノがたずねました。お兄ちゃん狐が『ふぃぐゎぶ!』と答えました。そこでブルーノが覗いてみると、籠のなかには口だけしかありませんでした! ブルーノは口を取り出してがばっと開き、ぶんぶんと振り回しました! そしてようやく仔狐を自分の口のなかから振り落とすことができました! 『もういちど口を開くんだ、いたずらっこめ!』、そしてぶんぶん振り回しました! そして真ん中の仔狐を振り落としました! 『今度は君の口を開くんだぞ!』と言ってぶんぶん振り回します! すると末っ子狐が振り落とされ、林檎とパンも落ちてきました! 「ブルーノは壁際に仔狐たちを立たせて、ご挨拶を一席ぶちました。『いいかい、仔ギツネさん、とっても邪悪なことをしたんだから――罰をうけなければならないんだ。まず子供部屋に行ってかおを洗って、せいけつなエプロンをつけるんだ。それから晩ごはんのベルがなるのが聞こえるから、降りてくるように。でも晩ごはんはないぞ。待っているのはおしおきだからね! それからベッドに入るんだ。朝になったら朝ごはんのベルが聞こえる。でも朝ごはんはないぞ! 待っているのはおしおきだからね! それからお勉強。ちゃんとできたら、きっと晩ごはんがすこしだけもらえるし、もうおしおきもされないよ!』」(「ブルーノはとても優しいんだなあ!」ぼくはブルーノにささやいた。「わりとやさしいんだ」とブルーノは真面目な顔で言いなおした。) 「仔狐たちは子供部屋に駆け上がりました。すぐにブルーノは玄関に行ってベルを大きく鳴らします。『ジリン、ジリン、ジリン! 晩ごはん、晩ごはん、晩ごはん!』仔狐たちが降りてきます。晩ごはんがほしくて大急ぎです! 清潔なエプロン! 手にはスプーン! 食堂に到着すると、テーブルには真っ白なテーブルクロス! だけどテーブルの上には大きな鞭のほか何もありません。それはひどいお仕置きでした!」(ぼくは目にハンカチを当てた。ブルーノが慌ててぼくの膝に乗って顔をなでてくれた。「おしおきはあと一回だけだから、あなたさん!」とブルーノがささやいた。「泣かないでがまんして!」) 「次の朝早く、ブルーノはふたたびベルを大きく鳴らします。『ジリン、ジリン、ジリン! 朝ごはん、朝ごはん、朝ごはん!』仔狐たちが降りてきます! 清潔なエプロン! 手にはスプーン! 朝ごはんはなし! 大きな鞭だけ! 次はお勉強です」ぼくが目にハンカチを当てたままだったのでシルヴィーは急いでいた。「仔狐たちはとってもよい子でした! 後ろを向いたり、前を向いたり、逆立ちしたりしてお勉強しました。ついにブルーノがみたび大きなベルを鳴らします。『ジリン、ジリン、ジリン! 晩ごはん、晩ごはん、晩ごはん!』仔狐たちが――」(「せいけつなエプロンはつけたの?」ブルーノが訊いた。「もちろん!」シルヴィーが答える。「スプーンは?」「もう、わかってるでしょ!」「かくじつとはいえないもん」ブルーノが答えた。)「――できるだけゆっくりのろのろと降りて来ました。『あああ! 晩ごはんはないんだ! 大きな鞭だけだもんなー!』ですが部屋に入ると、目に飛び込んできたのはおいしそうなでした!」(「ロールパン?」ブルーノが手を叩いてわめいた。)「ロールパン、パンケーキ、――」(「――ジャム?」とブルーノ。)「そう、ジャムと――スープ――それと――」(「――シュガー・プラムでした!」ブルーノがまた割って入る。シルヴィーは満足そうだった。) 「それ以来、みんなそれはもうよい仔狐でした! おとなしくお勉強し――ブルーノがだめと言ったことは絶対にせ…ず――二度と共食いしたり自分を食べたりしなくなりました!」  お話の終わりがあまりにも不意に訪れたので、ぼくは思わずハッとした。それでもどうにか感謝の言葉を口にすることができた。「とても――とても――素晴らしかったよ!」ぼくはそう言っていたようだ。 第十六章 天上の声 「聞き取れませんでした!」というのが続いて耳に飛び込んできた言葉だったが、シルヴィーの声でもブルーノの声でもない。ちらっと見えたかぎりでは二人はピアノを囲んでフランス伯の歌を聴いている人だかりに紛れていた。しゃべっているのはミステルだった。「聞き取れませんでしたが、私の申し上げたいことはご理解いただけたものと思っとります。ご静聴ありがとうございました。歌も残すは一番だけとなりました!」終わりの方はミステルの穏やかな声ではなく、フランス伯の深い低音に変わっていた。そして静まりかえる部屋のなか、「トトルズ」の最終聯が響き渡った。 ようやく二人も落ち着いた、 町外れの静かな住まいに。 涙ぐんで妻も受け入れた、 質素で簡素な生活を。 ところがひざまずいて頼み込むことにゃ、 「あなた、怒らないで! ママがしばらく一緒かも――」 「あり得ん!」怒鳴るトトルズ(本気で言うことにゃ)。  歌が終わると部屋中から感謝と称賛の合唱が沸き起こり、声楽家は満足そうに四方に向って深々としたお辞儀で答えた。「大変な賜物でした」フランス伯はミュリエル嬢に話しかけた。「このとても素晴らしい歌と出会えるとは。彼にある伴奏はとても不思議で、とても謎めいてますね。まるで新しい音楽が発明されたみたいでした。もう一度彼を弾いてみれば、私の言いたいことがわかっていただけると思います」と言ってピアノに戻ったが、譜面は消えていた。  声楽家は面食らって、隣のテーブルに積み上げられた楽譜の山を探しまわったが、そこにも見つからない。ミュリエル嬢が探すのを手伝い、すぐにほかにも数人が加わった。騒ぎが大きくなった。「何が起こったのかしら?」ミュリエル嬢が声をあげた。誰にもわからない。たった一つだけ確かなのは、フランス伯が歌い終えてからピアノに近づいた者はいないということだった。 「でーじょびゅです!」フランス伯は気さくに言った。「記憶だけで披露できますから!」椅子に座って、鍵盤に指をさまよわせ始めた。だが聞こえてきたのは似ても似つかぬ調べだった。ようやくフランス伯も騒ぎ始めた。「だけどおかしいすぎます! へんてこすぎる! 忘れたのは歌詞だけじゃない、曲も ――不思議じゃありませんか?」  誰もが心からそう思った。 「あの坊やです、楽譜を探してくれた子ですよ」フランス伯が当てずっぽうを言った。「まず間違いなくあの子が盗ったのではありませんか?」 「その通りですね!」ミュリエル嬢が声をあげた。「ブルーノ! どこにいるの?」  だがブルーノは答えない。二人の子どもは突然に、そして不可解にも、曲と同じく消えてしまった。 「いたずらしてるんじゃないかしら?」ミュリエル嬢はつとめて陽気に大きな声を出した。「即席でかくれんぼをしてるだけよ! ブルーノときたらいたずらの固まりなんだから!」  この思いつきは多くの来客に歓迎された。なかには不安を見せ始めていた人たちもいたからだ。必死になってまんべんなく探し始めた。カーテンがサッと引かれて揺らされ、戸棚が開かれ、長椅子がひっくり返された。だが隠れられる場所の数にはかぎりがある。探し始めるのも素早かったが、終わるのも早かった。 「きっと私たちが歌に聞き惚れているあいだに、外に出たんだと思います」ミュリエル嬢がフランス伯に話しかけた。誰よりも動揺しているように見えたからだ。「そしてたぶん家政婦の部屋に戻ったんですよ」 「このドアは通ってませんよ!」二、三人の紳士が、はっきりと異議を唱えた。ここ三十分のあいだ、ドアの付近にたむろしていて(一人などは今もドアに寄りかかっていた)と言うのだ。「歌が始まってから、このドアは開いてません!」  この報せを聞いて落ち着かない沈黙が訪れた。ミュリエル嬢はそれ以上は推測しようとはせ…ずに、慌てることなく両開きの窓の留め金を確認した。どれも内側から施錠されていることがわかった。  それでもまだ手はある。ミュリエル嬢はベルを鳴らした。「家政婦をここに呼んでちょうだい。子どもたちの外出着を持ってくるように」 「お持ちいたしました」またしばしの静寂ののち、家政婦がおずおずと入ってきた。「あのお嬢ちゃんは部屋にブーツを履きにくるだろうと思ってましたもので。さああなたのブーツですよ!」と元気よく言って、子どもたちを探してきょろきょろと見回した。答えがないので戸惑った笑みを浮かべながらミュリエル嬢を振り返った。「あの子たちは隠れているんですか?」 「今はちょっとね」ミュリエル嬢は曖昧に答えた。「それは置いていって、ウィルソン。帰るときには私が履かせてあげるから」  二つの帽子とシルヴィーの上着が、ご婦人たちのあいだに回されると、感嘆の叫びがあがった。確かにうっとりするような美しさだ。小さなブーツさえ讃辞の対象から洩れることはなかった。「おしゃれでかわいいわねえ!」音楽家の女性は撫で回さんばかりだった。「ものすごくちっちゃな足をしているんでしょうね!」  結局、衣服は足乗せ台に積み上げられ、子どもたちを再び見る見込みはないと考えた来客たちは、おやすみの挨拶をして家をあとにし始めた。  残っていたほんの十人弱――の人々に向かって、フランス伯が何度も説明していた。歌の最終聯のあいだ子どもたちから目を離さなかったこと、それから「素晴らしい低音の」反応を確かめようとして部屋をちらっと見まわしたこと、振り返ったときには二人が消えていたこと――狼狽の声があちこちから聞こえたので、フランス伯は慌てて話を打ち切って騒ぎに加わった。  衣服はすっかり消えていた!  子どもたちを探すことに失敗したあととあって、衣服を探すことにもそれほど熱は入らなかった。残っていた来客たちもさばさばとして途次につき、あと残っているのはフランス伯とぼくら四人だけだった。  フランス伯は肘掛椅子に身を沈め、息も上がり気味だった。 「ではあの子たちは何なんでしょうね? なぜ現われ、なぜ消えたのですか、このように少し風変わりな方法で? 楽譜もひとりでに消え――帽子やブーツもひとりでに消えてしまいました――どうなってるんでしょう?」 「どこに行ったのか見当もつきません!」ぼくに説明できることと言えば、どう考えてもそれがすべてだった。  フランス伯にはまだまだ聞きたいことがありそうだったが、それを口には出さなかった。 「時間も遅くなるにきました。おやすみなさい、お嬢さん。私はベッドに退がって――たっぷり夢を見ることにします――もっとも、今の出来事が夢でないとは思えないのですが!」と言ってそそくさと部屋をあとにした。 「しばしお待ちを!」と伯爵に声をかけられたのは、ぼくがフランス伯に倣おうとしたときだった。「あなたは客ではありませんよ! アーサーのご友人はここで家同然にくつろいでください!」 「ありがとうございます!」真の英国気質ならそうするであろうように、ぼくらは暖炉の前に椅子を引き寄せた。火は燃えていなかったが――ミュリエル嬢は楽譜の山を膝に乗せて、不思議にも消えてしまった曲を改めて探そうとしていた。 「ときどき激しい発作に駆られませんか?」ミュリエル嬢がぼくに話しかけた。「話をしているときに、手で何かせ…ずにはいられないような? 煙草をいじって、灰を落としたりするよりもっと――待って、言いたいことはわかってる!」(これは口を挟もうとしたアーサーに言ったのだ。)「思考の尊厳が指の動きに先立つのだ。男が真面目なことを考えながらさらに煙草の灰を落とすことは、女がつまらない空想に耽りながらさらに手の込んだ刺繍をすることと結局は同じことである。それがあなたの考えでしょ、これ以上はうまく言えないんじゃない?」  アーサーは真面目で優しい笑みを浮かべて、茶目っ気に輝いた顔をのぞき込むと、白旗を揚げた。「うん、その通りだよ」 「肉体は休息し、精神は活動する。それが人間の幸せの極致だと、どこかの作家が言っていたよ」とぼくは口を挟んだ。 「何はなくとも肉体の休息はたっぷりと取らなくちゃ!」ミュリエル嬢がうなずいて、ごろごろしている三人を見回した。「でも精神の活動と呼ばれるものは――」 「――若い医者だけの特権だな」伯爵が言った。「こんな年寄りになっては活動的でいようとは思わぬからね。死ぬほりほかに何ができるというのだ?」 「まだまだたくさんのことができますとも」アーサーが励ました。 「ああ、たぶんな。それでも君には勝てんのだよ! 私の陽は沈むだけだというのに、君の陽は今も昇っているんだ。それだけじゃない、人生の意義だってそうだ――そのことがどんなにうらやましいことか。それが君の手を離れるのはまだまだ先の話なんだぞ」 「ですが人は死んでもその意義は残るのではありませんか?」とぼくは言った。 「そういうことはあるだろうね。一部の科学にはそういう種類のものもある。だが一部だけだよ。例えば数学からは、永遠に意義が失われることはあるまい。数学的な真理が意味を失ったところには、いかなる形の人生であれいかなる種類の知的存在であれ、存在できるとは思えない。だが残念ながら医学の基盤は異なるのではないだろうか。それまでは不治だと考えられていた疾病の治療法を発見した場合のことを考えてみたまえ。差し当たり素晴らしいことなのは間違いないし――並々ならぬ意義のあることだ――おそらくは富と名声をもたらすことだろう。だがそれからどうなる? 数年後、病気が存在しなくなったときの人生に目を向けてみたまえ。そうなったときには、発見に何の価値があるだろうか? ミルトンがあれほどまでにゼウスに誓わせているだろう、『天に満盈《みち》たる名聲が汝《なれ》の報いと悟るべし』とね。意味を持つことをやめてしまうような事柄と不可分な『名声』など、みじめな慰めに過ぎないのではないか!」 「いずれにしたところで、医学上の新発見に心を砕く人なんていませんよ」アーサーが言った。「そんなもの期待できないのはわかってますからね――没頭している研究を見放すのは悲しむべきことなんでしょうけれど。それでも薬、病、痛み、悲しみ、罪――もしかするとすべてが互いに関わり合ってるのかもしれません。罪など一掃してしまえばいい、こんなものすべて一掃してしまえばいいんです!」 「軍事科学がもっといい例だな」伯爵が言った。「罪がなければ、戦争などあり得んだろう。それでも、この人生のなかで何らかの意義を持ちながらそれ自体には罪のないような心があれば、いつかはそれに相応しい行動を何か見つけるに違いない。ウェリントン公も戦わずにすむかもしれんな――だがそれでも―― 「ここにいたりて疑いは生じず、真実なればなり、 ワーテルローで戦いしみぎりより さらに気高きおこないのあることと かの者の永遠に勝者なることの、確かなるを!」  伯爵は見事な言葉を慈しむように引き延ばした。だがその声は遠ざかる音楽のように、だんだんと小さくなった。  やがてふたたび口を開いた。「迷惑でなければ、来世について考えていることを聞いてもらいたいのだが。何年もそれに取り憑かれていて、起きているあいだも悪夢を見ているようなのだが――どうしても振り払うことができないのだ」 「お願いします」アーサーとぼくは、ほとんど息を合わせて答えていた。ミュリエル嬢は楽譜の山をひとまず措いて両手を組んだ。 「それを考えると、いつも影が落ちているように思えて心休まるときがないのだ。永遠のことを考え出すと――どの分野にしても人間の興味は必ずや底をつく、そんなふうに思えてくるんだ。例えば純粋数学のことを考えてみよう――科学は環境に依存しない。私も多少かじっていた。円と楕円のことを――『二次曲線』と呼ばれているものを例に取ろう。来世においてその属性をすべて解き明かそうとすれば、問題となるのは何十年(あるいは何百年)という時間だけだろうね。それが終われば三次曲線に取りかかることもできる。それには何十倍もの時間がかかったとしよう(かぎりない時間を使えるのだからね)。そのことを考慮したとしても、その問題にこだわる意義がうまく想像できないのだ。何次曲線まで研究することになるのか、かぎりはないにもかかわらず、その問題についての新鮮味と興味がすべて底をつくまでに必要な時間には、やはりどうしたってかぎりがあるのではないだろうか? ほかの科学のどの分野も同じだよ。そこで考えてみるんだ、何千何万もの年月にわたって専心し、推論で働かせられるかぎりの科学を備えていると仮定してみたときに、心のなかで問いかけてみるのだよ。『それからどうなる? もはや学ぶこともなくなってしまったというのに、それから永遠に生き続けるあいだ、知識に満足するだけで留まれるのだろうか?』と。それはひどくつらい発想だった。私はときにこう思ったものだ。そんなとき、人は『生きるのをやめた方がましだ』とつぶやき、そして個の消滅――仏教徒の言う涅槃のために祈るのではないだろうかと」 「でもそれは半面に過ぎませんよ」ぼくは言った。「自分のために努力するほかに、他人を助けることがあってもいいじゃありませんか?」 「そうね、その通りよ!」ミュリエル嬢がほっとしたように叫びをあげ、目を輝かせて父親を見た。 「そうだね」伯爵が言った。「他人が助けを必要としてくれるかぎりはな。だが年を重ねるにつれ、推論もついには飽和という臨界点にたどり着くことは明らかだよ。そうなったとき、その先に何が見えるというのかね?」 「そういう倦怠感は理解できます」アーサーが答えた。「ぼくも何度も経験しましたから。そのいきさつをお話ししましょう。こんなことを思い浮かべたんです。部屋でおもちゃ遊びをしている子どもが、三十年も前から将来を推測し、見通せることができると思ってみてください。その子が『そのころになったら、積み木とボーリングにはうんざりしているんじゃないだろうか。なんて退屈な人生なんだろう!』とつぶやいているとしたらどうでしょう。ところがぼくらが三十年先を覗いてみたところ、その子は偉大な政治家になっているんです。赤ちゃん時代なんかよりはるかに大きな興味と喜びを――概して赤ちゃん心には想像もつかないような喜びを――赤ちゃん言葉ではわずかしか言い表せないほどの喜びを感じながら。だとすれば、百万年後のぼくらの人生だって今のぼくらの人生と無関係ではないのではありませんか? その男の人生が子ども時代の人生と無関係ではなかったように。誰かがその子に向かって、積み木とボーリングの言語でもって『政治』の意味を説明しようとして無駄骨を折ったところを想像してみてください。同じように、天上がどうなっているか、音楽やご馳走や黄金の小径といった説明のどれもこれも、そんなものを説明できる言葉を実際にはまったく持たないというのにぼくらの言葉で説明しようとしているだけなのではありませんか。別の人生を思い描いたときに、その子が成長することを何ら考慮せ…ずに、政治的な人生を押しつけているとは思いませんか?」 「言いたいことはわかったつもりだよ」伯爵が言った。「天上の音楽とは我々の考えの及ばぬものなのかもしれん。だがそれでも地上の音楽は素晴らしいものだ! ミュリエル、寝室に退がる前に何か歌ってくれないか!」 「さあどうぞ」アーサーが立ち上がって小型ピアノの上にある明かりをつけた。この小型ピアノは『セミ・グランド』を置くために、最近になって居間から追い出されていたのである。「この歌はどうだい、まだ聞いたことがなかったな。 ようこそ、陽気な魂よ! 汝は天やその近くから、 舞い降りた鳥などではない、 心を満たしている汝は!  アーサーは開いたページを読み上げた。 「そしてこうしたささやかな我々の人生は」と伯爵が締めくくった。「そんな偉大な時間にとって子どもの夏休みのようなものなのだ!」そして悲しげな声を出した。「夜が更けるにつれ人は疲れを覚え、ベッドを恋しがるものなのだね! だからこそ『さあ子どもたち、寝る時間だ!』というのが嬉しい言葉なのだ」 第十七章 救いに! 「寝る時間じゃないよ!」という眠たげな声がした。「フクロウはベッドにいかなかったし、ぼく歌ってもらわないとねむれないもん!」 「まあブルーノ!」シルヴィーが声をあげた。「梟はたったいま起きたところじゃないの。でも蛙はとっくの昔に寝ていますからね」 「んん、ぼくカエルじゃないし」 「何を歌えばいい?」シルヴィーがうまく言い争いをかわしてたずねた。 「あなたさんにきいてよ」ブルーノはめんどくさそうに答えた。両手を巻き毛頭の後ろに回して、羊歯の葉っぱに仰向けに寝そべっていたために、葉っぱは重さですっかりしなっていた。「このはっぱねころちよくないや、シルヴィー、もっとねころちいいの探してきてよ!」シルヴィーがいい加減にしなさいというように指を立てたので、ブルーノは少し考えてから、「あしのほーが高いのイヤなんだもの!」とだけつけ加えた。  それは何とも素敵な光景だった。妖精の子どもが母親のように弟を腕に抱きしめ、もっと丈夫な葉っぱの上に寝かしつけた。シルヴィーが軽く触れて葉っぱを揺らすと、秘密の仕掛けでもあるのだろうか、ひとりでにゆらゆらと揺れ続けた。風でないのは確かだった。夜風はさっきまでと同じくきれいに止んでいたし、頭上には揺れている葉っぱは一枚もなかった。 「どうしてほかの葉は動いていないのに、この一枚だけ揺れているんだろう?」とぼくはたずねたが、シルヴィーはにっこり微笑むんで首を横に振るだけだった。「どうしてなのかはわかりません。でもいつもそうなんです、妖精の子どもが動かしたときには。必ずそうなんですよ」 「だけど葉っぱが揺れているのは見えるのに、その上に妖精がいるのは見えないのかな?」 「それはそうですよ! 葉っぱは葉っぱで、誰にでも見えますから。でもブルーノはブルーノ、あなたのように〈あやかし〉状態じゃないと見ることはできないんです」  それでぼくは得心した。静かな夜に森を歩いていると――羊歯の葉が規則正しくひとりでに揺れている――そんな光景をときどき目にするのはそういうことだったのだ。そんな光景を一度くらい見たことはないだろうか? 今度そういうことがあったら、その上で妖精が寝ていないか確かめようとしてみるといい。でもいかなるときでも葉を摘んではいけない。小人さんは寝かせておいてあげよう!  だがそうこうしているうちにブルーノはどんどん眠たそうになっていった。「うたって、うたって!」とぶつぶつ言い出したので、シルヴィーが助言を求めてぼくを見つめた。「何がいいのかしら?」「前に言っていたわらべ歌を歌ってくれるかい?」とぼくは言ってみた。「しわ伸ばし器を通したやつだよ。『ちっちゃな銃持つちっちゃな男』だったかな」 「ああ、教授の歌だ!」ブルーノが叫んだ。「ぼくちっちゃな男がすきなんだ。くるくる回され方がすきなの――ひできゴマみたいに回っちゃうのが」と言って、傍らの老紳士を温かく見つめた。葉のベッドの向こう側に座っていた老人は、すぐに|遠つ国《アウトランド》のギターをつま弾いて歌い始めた。尻に敷いている蝸牛が、音楽に合わせて角を揺らす。 チビ男《オ》の背丈は小人なみ―― 筋骨隆々の巨人にあら〜ず。 チビ妻がお茶請けに用意した 軟骨唐揚は見るのもうんざり。 「塵子や、チビ銃を取ってくれ 幸運のチビ靴を放っとくれ。 急いでチビ川に出かけたいんだ、 雌鴨を撃ってきてやるよ!」 妻は小ぶりのチビ銃を手渡し、 幸運のチビ靴を放ってよこした。 今はチビパンを焼きながら おみやげの雌鴨を待っている。 チビ気になることはあるものの 無駄なチビ口を利きもせ…ず、 チビ鳥の小わめく場所まで チビ男は大急ぎ。 身を潜めているチビ大海老がいるぞ、 寝ぼけてのろのろ這いずるチビ蟹がいるぞ。 自宅にいるイルカがいるぞ、 堅苦しい挨拶をするチビ鰈がいるぞ。 チビ蛙に見つかったチビ虫がいるぞ。 雌鴨に追いかけられた蛙がいるぞ。 チビ犬に追われたチビ鴨がいるぞ―― こいつはなんて幸運だ!! チビ男は弾丸と火薬を籠めた。 そよ風みたいに忍び歩いた。 だが声はどんどん大きくなる、 うおう、う゛お゛お゛、ぐぎゃぎゃぎゃあ。 前から後ろから毛羽立たせ、 上から下から羽ばたかせ、 キーキーとした不器用な笑いに、 オンオンと不気味な嘆き! 外から中から声は響く。 頬髯と顎鬚を通って震える。 ひねりゴマのようにチビ男を回し、 空前絶後のあざ笑い。 「復讐だ、チビ仇め! 不当な仕打ちにこの小男に泣いてもらおう! チビ頭のてっぺんからチビ足の先まで、 わらべ歌に漬けちまえ! 「『えっさか! ほいさ!』口ずさむ 月を乗りこえた雌牛の上。 猫とヴァイオリンに夢中になって、 お皿はスプーンと一緒におさらばさ。 蜘蛛の代わりに悲しんだ、 マフェットのお嬢さん、お水を飲んだら、 お隣にそっと座り込んだ、 お嬢さんは一目散! 「真夏のマジキチ小唄が ちくちく噛みつき続けるのさ、 乱痴気な悲しみの極みに、 チビ男がどんより喜んでうめくまで。 朝靄のようにまとわりつき続けるのさ、 甘くてしなびていつも変わらず、 デッキのように、尽きることなく飾り立てるのさ、 小海老の歌が! 「チビ鴨の運命が決まったからには、 とっととチビ男を家まで転がそう。 明らかに準備されていた夕飯は、 薔薇のつぼみとライスになるだろうね。 チビ男は実用新案の炎のなか 運命と取っ組み合い、支配下に治めることだろう。 だがおしゃべりするような友人もない、 だからもう一度チビ男を襲ってしまえ!」 チビ男は雌鴨を撃った、ヘイ! するとがやがやわめく声が止んだ。 女房のため鴨を持って帰っても、 笑いや唸りのざわめきもない。 そこで奥さんが上手に焼いた チビパンを元気よく平らげると、 またもやチビ川に大急ぎ、 今度は雄鴨を捕ってきてやるよ! 「もう眠ったようです」シルヴィーはいそいそとスミレの葉にくるまった。すでに毛布代わりにブルーノに掛けてあげていた。「おやすみなさい!」 「おやすみ!」ぼくも繰り返した。 「『おやすみ』でもかまいませんよ!」ミュリエル嬢が笑った。立ち上がってピアノの蓋を閉めている。「こくり――こぐ――舟を漕いでいらっしゃるんですもの、せっかくあなたのために歌っていたのに! いかがでしたか?」質問は容赦なかった。 「雌鴨のことですか?」ぼくは当てずっぽうを言ってみた。「ええとつまり、そういいった鳥のことでしょうか?」どうやら読みが外れたことに気づいて、ぼくはあわてて言い直した。 「そういった鳥のことですって!」と繰り返したミュリエル嬢の顔には、優しい顔で表現できるかぎりの呆れた表情が浮かんでいた。「シェリーの『雲雀』のことを話していたと仰りたいんですよね? 具体的には『ようこそ、陽気な魂よ! 汝は鳥などではない!』ですけれど」  ミュリエル嬢を先頭にして喫煙室に向かうと、社交のしきたりも騎士道的な精神もなげうって、三人の造物主は安楽椅子にくつろいで深々と座り込み、女性が一人紛れ込んでいるのを咎めはせ…ずに、冷たい飲み物と煙草と火という形でぼくらの欲求を満たしてもらった。いや、三人のうち一人だけは、「ありがとう」という陳腐な言葉では足りないだけの騎士道精神を持っていたので、ゲライントがエニードに世話になったときどれほど心動かされたかを謳った、美しい詩人の言葉を引用した。 「その手が皿の上に動かされしとき、 ゲライントは顔を降ろし、親指に口づけしたき」  そして言葉どおりに行動した――そうした大胆な振る舞いは、お伝えしておかねばなるまいが、決して咎められはしなかった。  特に話題を切り出す者もいなかったし、ぼくら四人は気の置けない間柄(親密という言葉に相応しい友情が持てるかぎりに親密な、唯一無二の間柄)であり、会話のための会話など少しの必要もない間柄だったので、しばらくのあいだは無言のまま座っていた。  とうとうぼくが沈黙を破って質問した。「港町から熱病のことで何か新しい報せはありませんでしたか?」 「今朝から何もないんだ」伯爵はかなり深刻な顔をしていた。「だがだいぶ危険な兆しだよ。熱病は瞬く間に広がっている。ロンドンの医者は恐れをなして現地を去ってしまったし、今のところただ一人頼れるのが一般医ではないんだ。薬屋と医者と歯医者と、ほかにも何かやっているのかもしれないが、とにかくそうした一切合財をひっくるめて請け負ってる人でね。漁師たちにとっては明るい話ではないよ――女性と子どもの先行きはさらに暗い」 「そこには何人くらい暮らしているんでしょうか?」アーサーがたずねた。 「一週間前は百人近くいた」伯爵が答えた。「だがそれから二、三十人が死んでいる」 「教会からはどういった奉仕がおこなわれているんですか?」 「勇敢な方たちが三人向こうに行っている」伯爵の声は感動で震えていた。「十字勲章に値する勇者たちだよ! 三人のうちの誰一人として、自分の命を惜しむばかりにその場を離れたりはしないに違いない。牧師補が一人。奥さんも同行している。子どもはない。それにローマ・カトリックの神父。そしてメソジスト派の牧師。主としてそれぞれの宗派の信徒と交わっているそうだ。だが死にかけている人たちが会いたがるのは、三人のうちの特定の誰かではないと聞いている。生の真実と死の現実に否応なく向き合わざるを得なくなると、キリスト教徒同士を隔てている障壁などわずかなものになるのだろうね!」 「そうに違いありませんし、そうであるべき――」アーサーが話しかけたところで、不意に玄関のベルが荒々しい音を立てた。  あわただしく玄関の開き、外から声が聞こえた。やがて喫煙室のドアがノックされ、家政婦がどことなくびくびくしながら姿を見せた。 「お二人の方が、フォレスター博士にお話があるそうです、旦那さま」  アーサーはすぐに部屋を出た。元気な声が聞こえてくる。「どうも、ご用件は?」だが返答の声はほとんど届かず、ほんの一言二言しかはっきりとは聞き取れなかった。「今朝から十人、それに今にも二人が――」 「でも向こうに医者がいるのでは?」アーサーがたずねると、聞き取りづらい低い声が答えた。「亡くなりました。三時間前に亡くなったんです」  ミュリエル嬢が身体を震わせ、両手で顔を覆った。だがちょうどこのとき玄関のドアが静かに閉まり、ぼくらには何も聞こえなくなった。  しばしぼくらは無言で座っていた。やがて伯爵が部屋を出て、すぐに戻って来ると、アーサーが二人の漁師と出かけてしまったこと、一時間ほどで戻るという伝言を残していったことを告げた。そして確かにそれだけの時間が過ぎると――そのあいだはほとんど口も利かなかった。ぼくらの誰一人として口を開く勇気がなかったのかもしれない――玄関の錆びた蝶番がふたたび軋りをあげ、廊下を歩く足音が聞こえたが、それはとてもアーサーのものだとは思われない、盲人が道を確かめるようなゆっくりと不確かな足取りだった。  アーサーが入ってきて、片手をテーブルにぐったりと乗せたままのミュリエル嬢の前で立ち止まった。夢遊状態のような不思議な目つきをしている。 「ミュリエル――愛してる――」言葉が途切れ、唇が震えた。だがすぐにしっかりとした口ぶりで話を始めた。「ミュリエル――愛してる――みんなが――港に――来てほしがっている」 「行かなきゃならないの?」立ち上がってアーサーの肩に手を置くと、涙のあふれた瞳でその顔を見上げた。「あなたが行かなきゃならないの、アーサー? それって――死を意味するかもしれないのに!」  アーサーはひるむことなくミュリエル嬢の視線を受け止めた。「死を意味しているんだ」と言うささやきはかすれていた。「それでも――ミュリエル――みんなが呼んでいるんだ。たとえぼく自身の命が――」そこで声が途切れ、もう一言も出て来なかった。  しばらくのあいだミュリエル嬢は何も言わずに立ちつくしていた。見上げる目つきは無力で、どれほど祈ろうとも今は何の役にも立たないことがわかっているようだった。顔は悲痛に耐えてぷるぷると震えていた。やがて何か思いついたようにぱっと顔が明るくなり、不思議な笑顔が灯った。「あなたの命ですって? 捧げるのはあなたのものじゃないのに!」  アーサーはすでに落ち着きを取り戻していたので、きっぱりと答えることができた。「本当だね。ぼくのものじゃない。今は君のものだ、ぼくの――妻になるはずの! それで――行かせてはもらえないのかい? ねえどうか大目に見てくれないか?」  アーサーにしがみついたまま、ミュリエル嬢は胸に顔をうずめた。ぼくの目の前でそんなことをするのは初めてのことだったので、その衝撃の大きさがまざまざと理解できた。「大目に見ることにするわ」静かな落ち着いた声だった。「神かけて」 「そして神の慈悲にかけて」アーサーはささやいた。 「そして神の慈悲にかけて」ミュリエル嬢は重ねてたずねた。「いつなの、アーサー?」 「明日の朝。それまでにやらなくてはならないことがたくさんある」  それからアーサーは、出かけていたあいだ何をしていたのかを説明した。牧師館にいて、明日の朝八時に結婚式を挙げる手続きをしていたのだ(前もって特別結婚許可証を手に入れていたので、法的な問題はなかった)。場所はぼくらのよく知っている小さな教会だ。「ここに友人がいるから」とぼくを指さし、「『付添人』の役をやってくれるよ。お父さんが君を引き渡してくれる。それから――それから――花嫁の付添人はなくてもかまわないね?」  ミュリエル嬢がうなずいた。言葉はない。 「これでぼくも――神から与えられた仕事をしに――心おきなく出かけられる――ぼくらは一つだと――肉体がそこになくとも、心は一緒だと――それも二人で祈れば一緒になれるとわかっているから! ぼくらの祈りは一緒になって――」 「ええ、そうね!」ミュリエル嬢は涙ぐんでいた。「でもあんまり長いすべきじゃないわ! 家に戻って休んでちょうだい。明日はたいへんなんだから――」 「じゃあ行くよ。明日の早朝にここで。おやすみ、ミュリエル!」  ぼくもアーサーに倣って一緒に家を出た。下宿に戻る道すがら、アーサーは何回か深いため息をついて、何か言いたげなそぶりを見せた――だがようやく口を開いたのは、家に入って明かりをつけて、寝室の戸口に立ったときだった。そのときアーサーはこう言った。「おやすみなさい! 神のご加護を!」 「神のご加護を!」ぼくは心の底から繰り返した。  朝の八時までに館に引き返すと、ミュリエル嬢と伯爵、それに年老いた牧師がぼくらを待っていた。教会までの行き帰りは何かしら悲しみと静けさに覆われて、結婚式というよりは葬式の行列を連想せ…ずにはいられなかった。ミュリエル嬢にとっては確かに結婚式というよりは葬式にほかならず、(あとで聞いた話によると)新郎が死に赴くことになるのではという重苦しい予感に押しつぶされていた。  それからぼくらは朝食を取った。やがて早すぎる瞬間がやってきた。アーサーを迎えに来た車が家の前に停まった。まずは下宿に寄って携行品を回収し、それから安全だと思われるぎりぎりのところまで、死で覆われた村を目指すことになっていた。何人かの漁師が道の途中まで会いに来て、そこから先は荷物を運んでくれるはずだった。 「必要なものは間違いなく持った?」ミュリエル嬢がたずねた。 「医者として必要になりそうなものはね。個人的に必要なものはほとんどない。洋服すら持ってない――出来合いの漁師服が宿に用意されているんだ。持っていくのは時計と、本を何冊か――待ってくれ――追加したい本がある、小型聖書を――病気で危篤になった人の枕元で使わな――」 「私のを持ってって!」ミュリエル嬢はそう言って、階上に走っていった。「『ミュリエル』とだけしか書かれてないの」聖書を手に戻ってきた。「何か書いた方が――」 「いや、ぼくのものだ」アーサーは聖書を受け取った。「それ以上にいい言葉を書けるかい? ぼく個人のものだとはっきりさせるために、ほかにどんな名前を記せるというんだい? 君はぼくのものじゃないのか? 君は――」(あのからかうような調子で)「ブルーノならこう言うだろうね、『ぼくのとってもなもの』じゃないのか?」  伯爵とぼくに心のこもった長いお別れの挨拶をすると、アーサーは妻と二人きりで部屋を出た。ミュリエル嬢は気丈にも耐えていたし――少なくとも表面上は―― 父親ほどがっくり来てはいなかった。ぼくらが部屋でしばらく待っていると、やがて車輪の音が聞こえ、アーサーが出かけたことがわかった。そのときになってもぼくらは黙って待っていた。ミュリエル嬢の足音が階段を上って部屋に向かい、徐々に小さく消えていくまで。いつもなら軽やかで楽しげな足音が、今は重苦しく引きずるように聞こえ、どうにもならない悲劇を背負い込んでいる人が歩いているようだった。どうにもならない気持や、腸を断ち切られるような思いは、ぼくも同じくらい感じていた。「ぼくら四人は、いつかふたたびこの世で会える運命なのだろうか?」ぼくは家に戻りながら、そんなことを考えていた。遠くで鐘がぼくに答えるように鳴っていた。「否! 否! 否!」 第十八章 新聞の切り抜き 『フェアフィールド新聞』より抜粋  不安を抱えて情報を求めて来られた読者諸氏にこれまでお伝えしてきた流行病は、この二か月のあいだに、エルヴェルトンに隣接する漁村の住民の大半に伝染するという事態を迎えた。わずか三か月前には百二十人を越えていた人口のうち、現在の生存者は二十三人を数えるのみ。去る水曜日、地方委員会の権限のもとで移送され、つつがなく州病院に収容された。現地は今や文字通りの『死の都』であり、静寂を破る人の声一つない。  救助隊に参加したのは六人の勇者――近隣の漁師たちである。そのためにやってきた病院の当直医が、六人を率いて救急車の先頭に立った。その六人は ――暴力を伴わないこの『決死的行動』には多数の人々が志願したため――体力と健康をもとに選ばれた。現在は病気の趨勢が弱まったとはいえ、遠征に際して生ずる危険は無視できないと判断されたためである。  感染の危険に対し、科学の及ぶかぎりのあらゆる予防策が採られた。患者たちは細心の注意を払って担架で一人ずつ、急な坂の上で待機していた救急車まで運ばれた。救急車にはもれなく病院の看護婦が乗り込んでいた。十五マイルある病院までの道のりは、徒歩と変わらぬほどのスピードだった。患者のなかには衰弱がはなはだしいため振動に耐えられない状態の者もいたからだ。そのため移動には午後いっぱいかかった。  二十三人の患者の内訳は、男性九人、女性六人、子供八人である。すべての生存者の身元を知ることは不可能だった。子供のなかには――家族に先立たれて残された――赤ん坊もいたからだ。男性二人と女性一人はまだ筋の通った受け答えのできる状態ではなく、完全に心身を喪失している。もう少し裕福な人々であれば、衣服に名前の縫い取りがあるものだが、そうしたものはここでは期待できない。  貧しい漁師や家族たちのほかには、身元が判明した者は五人しかいない。その五人全員が亡くなっていることは間違いのない事実である。紛れもない殉教者の名をここに記すことは痛ましいが――ほかの誰にも増して、イギリスの英雄という栄光の歴史にその名を刻まれるに相応しい人々であることは疑いない! 殉教者は以下の通り。  ジェームズ・バージェス司祭、文学修士、及び妻エマ。港町の牧師補、三十歳に満たず、二年前に結婚したばかりだった。滞在先に残された覚書から死亡日が判明した。  続いて、アーサー・フォレスター博士。地元の医者が亡くなった際、患者たちを極限状況のもとに放っておくことを潔しとしないで、差し迫った死の危険に果敢にも立ち向かった。名前、及び死亡時期の記録は見つからなかった。だが遺体の身元はすぐに判明した。ありふれた漁師服を着ていたものの(漁師服は現地に向かう際に借用したことがわかっている)、妻から贈られた新約聖書が見つかったのである。胸に押し当て両手で包み込んでいる状態で見つかった。よそに埋葬するため遺体を動かすのは賢明とは思われなかったので、滞在先で見つかったほかの四人の方々と同じく、謹んで哀悼の意を表明するとともに速やかに埋葬した。妻は旧姓ミュリエル・オーム嬢、同氏が身を呈して使命に赴いた当日の朝、結婚したばかりだった。  続いてウォルター・ソーンダーズ司祭、メソジスト会牧師。亡くなったのは二、三週間前だと思われる。滞在していた部屋の壁に「十月五日死す」と書かれてあるのが見つかった――家は閉ざされ、長いあいだ出入りした形跡はない。  最後になるが――といっても、ほかの四人と比べてその無私と献身に後れを取っているわけでは一切ない――フランシス神父、イエズス会司祭、まだ若く、数か月前に現地に赴任したばかりであった。救助隊が遺体を見つけたときには、亡くなってからそれほど時間は経っていなかった。服装と十字架から、身元はほぼ間違いない。若い医師が聖書を抱いていたように、十字架を胸でしっかりと握っていた。  病院に搬送後、男性二人と子供一人が亡くなった。残りの患者には期待が持てる。ただしうち何人かは体力の消耗がかなり激しく、完全な快復を望むには『万に一つを期待する』しかない。 第十九章 妖精二重唱  その年――ぼくにとって驚くほど波乱に満ちていた年――も暮れに近づき、冬の陽は短くてさほど明るくないせいで、幸せな記憶と結びついている懐かしい景色もはっきりとは見えなかった。そんななか列車は最終カーブを曲がって駅に滑り込み、「エルヴェストン! エルヴェストン!」というしゃがれ声が構内に響き渡った。  この場所に戻るのはつらい。あの出迎えのはじけた笑顔を見ることは二度とないのだ。数か月前にはここでぼくを待っていたというのに。「それでも、もしここで彼を見かけたとしても」とぼくはぽつねんとつぶやき、手押し車に荷物を載せて運ぶ赤帽のあとについて行った。「もしも彼が『私の手を握り、故郷のことを幾つもたずねたとしても』、不思議には――もちろんだ、『不思議には思わないだろう!』」  いつもの下宿まで手荷物を届けるように指示を出してから、ぼくは一人きりで歩いて旧友を訪ねることにした。下宿に腰を落ち着けるのはそのあとでいい――初めて会ったのがつい半年前のことなのに、旧友だという気持はまぎれもなかった――伯爵と、寡婦となった令嬢の二人。  忘れもしない、境内を通り抜けるのが一番の近道だ。木戸を押し開き、物言わぬ死者たちの碑のあいだにゆっくりと歩を進めながら、過去数年にわたって地上から姿を消して「あちらに旅立った」多くの人たちのことを考えていた。それほど歩かぬうちに目指すものが見つかった。ミュリエル嬢が濃い喪服をまとい、顔を長いヴェールで覆い、小さな大理石の十字架の前にしゃがみ込んで、その周りに花輪を飾っているところだった。  十字架の立っている芝生はきれいなままで、でこぼことした盛り土はなかったから、簡潔な墓碑銘を読まなくても、それがただの碑の十字架であり、遺体はどこかほかの場所に眠っているのだとわかった。 アーサー・フォレスター博士の 素晴らしい思い出に その肉体は海辺に葬られて永眠す。 その御魂は神の御許に帰りけり。 --------------- 「誰よりも偉大な愛の持ち主にして、 同胞のため命を投げ打ちし者。」  ぼくが近づくのに気づいてヴェールを上げ、こちらにやってきた顔には、穏やかな微笑が浮かんでいたし、思っていたよりだいぶ落ち着いていた。 「またお会いできるなんて、昔に戻ったみたいですね!」と言う声には、混じり気なしの喜びが感じられた。「父にはもう会いましたか?」 「今からうかがうところです。ここを通り抜けて近道するつもりだったんですよ。伯爵もあなたも元気でしたか?」 「ええ、二人とも大丈夫です。あなたは? もう良くなりました?」 「あまり良くはなっていませんね。でもありがたいことに悪くもなっていません」 「しばらくここに座って、静かにお話でもしませんか」その落ち着きぶりに――冷淡といってよいほどだったので――ぼくは驚いた。どれほど強い気持で自制を保っているのか想像もつかない。 「ここだと落ち着けますから。欠かさず来てるんです――毎日欠かさず」 「とても穏やかですね」とぼくは言った。 「手紙は届きました?」 「ええ、だけどなかなか返事が書けなくて。言葉にするのがつらいんですよ――紙の上だと」 「わかります。ありがとうございました。あのときその場にいてくれて、最後にあの人――」一瞬だけ言葉を詰まらせ、堰を切ったように話し続けた。「何回か港まで行きましたけれど、お墓がいくつもあって、どれがあの人のものなのか誰も知らないんです。それでも、あの人の死んだ家は見せてもらえたので、多少は慰めになりました。部屋のなかに立っていると――あの人が――」話を続けようとしたものの限界だった。ついに堰が切れ、悲しみが見たこともないほどの奔流となってあふれた。最後にはぼくがいることなどお構いなしに、芝生に身を投げ草に顔をうずめ、石の十字架にしがみついて泣きじゃくった。「ああ、かわいそう、かわいそう! あなたの生涯を美しくとの神さまの御心だったのに!」 墓碑の前のミュリエル  ぼくはそれを聞いてはっとなった。ミュリエル嬢の口から繰り返されたのは、妖精の子が死んだ兎に泣きすがったときと同じ言葉だった。何か神秘的な力が働いて、あの子がフェアリーランドに戻る前に、妖精の心から、深く愛していた人間の心に感染したのだろうか? そんな考えはとてもじゃないが信じられない。それでもやはり、『この天地の間には、哲学も及ばぬ事がある』のではないだろうか? 「神さまは美しくとの御心だったし、」とぼくはささやいた。「間違いなく美しかったでしょう? 神のご意思の過つことはないのですから!」ぼくはそれ以上は何も言わずに立ち上がり、その場を離れた。伯爵邸の正面で門にもたれて夕陽を眺めて待ちながら、たくさんの思い出――楽しいこと、悲しいこと――に思いをめぐらせた。そうしているうちミュリエル嬢もやってきた。  もうすっかり落ち着きを取り戻していた。「どうぞお入りになって。父も喜びますよ!」  老伯爵は破顔して椅子から立ち上がり歓迎してくれた。だが娘のようには心を抑えることができないようで、ぼくの手を両手で包み込んだときには涙が顔を伝った。  ぼくは胸がいっぱいで何も言えなかったので、三人ともしばらくは無言のまま座っていた。やがてミュリエル嬢がベルを鳴らしてお茶を頼んだ。「五時のお茶を召し上がりますよね!」忘れもしない、明るくふざけた口調だった。「たとえ重力の法則にちょっかいを出せなくて、ティーカップを無限の空間に向かってお茶より先に落下させてしまうとしても!」  この言葉で会話の方向性が決まった。あの悲劇のあとでこうして集まるのは初めてのことだ。暗黙の了解のもと、そのあいだはせいぜい頭から離れないつらい話題を避けて、不安を知らぬのんきな子どものように話をした。 「考えてみたことはありますか?」何の脈絡もなくミュリエル嬢が口にした。「犬でいるよりも人間でいる方が一番都合のいいことは何だろうって?」 「考えたこともなかったな」ぼくは言った。「でもどうやら犬側に都合がよさそうですね」 「疑いの余地はありません」ミュリエル嬢にはこういう真面目ぶったところがあるから、気丈に見えるのだ。「だけど人間側にとって一番の好都合は、ポケットがあることだと思うんです! 確信しましたよ、私――私たち、ですね。というのも父と私が散歩から戻るときだったんです――つい昨日のことでした。犬が骨を運んでたんです。何でそんなものがほしいのか見当もつきません。だって肉はついてないんですから――」  ぼくは奇妙な感覚に襲われた。こんな話を、あるいは似たような話を以前にすっかり聞いたことがあった。次には「きっと冬の外套にするつもりだったのね?」という言葉が出てくるものとなかば期待していた。だが実際に口にされたのは、「父は『ほんの骨折りだ』なんてしょうもない冗談で説明しようとしてました。すると、犬が骨を置いたんです――駄洒落に嫌気がさしたのではありませんよ、それなら味のある犬だったんですけれど、そうではなく顎を休めるためだったんです、かわいそうに! ほんとに気の毒でした! 『犬にポケットをあげよう慈善協会』の会員になりませんか? 口でステッキを持たなくてはならなかったとしたら、どうなさいますか?」  人に両手がない場合のステッキの存在理由《レゾン・デートル》という難問からぼくは目をそらし、前に見たことのある犬の判断能力の実例を話した。旦那さんが奥さんと子どもと大きな犬を連れて、桟橋の端にやって来た。ぼくはちょうどそこを歩いていたところだった。おそらく子どもを楽しませるつもりで、旦那さんは自分の雨傘と奥さんの日傘を地面に置いて、桟橋の反対端に向かうと、そこから犬を置きっぱなしの傘のところまで戻らせた。ぼくは興味津々でそれを見ていた。犬はぼくのいるあたりに駆け戻ってきて、目当てのものをくわえようとしたのだが、そこで思わぬ困難に直面した。雨傘を口に入れたままでは、日傘をしっかりくわえられるほど大きく顎を開くことができないのだ。何度か失敗した挙句、犬はいったんやめてじっと考えていた。  やがて雨傘を置いて日傘を先にくわえた。もちろん顎はそれほど大きく開かないのだが雨傘をしっかりくわえるには充分だった。犬は勝ち誇って走り去った。その犬が筋の通った論理的思考をおこなっていたのは疑えまい。 「私もそう思います」ミュリエル嬢が言った。「でもまっとうな物書きでしたら、そうした考え方に顔をしかめるんじゃありませんか? 人間と下等生物を同等に扱っているようなものですもの。そういう人たちは理性と本能のあいだにはっきりとした境界線を引いてるんじゃないでしょうか?」 「確かにそれがまっとうな考えだった、一昔前は」伯爵が言った。「宗教上の真理を説くにも、人間だけが理性的な動物であるという主張によりかかることが多かったようだね。だがそれも終わりだ。これからも人間がある分野では独占していると言うこともできる――例えば言語だ。言語を使用して『分業』することによって、いろいろな作業を効率的におこなえるからね。だが理性を独占しているという信仰は、とっくに一掃されているよ。それでも破滅は訪れなかった。昔の詩人が言っていたとおり、『神は変わらずおわす』のだ」 「たいていの信者も今ではバトラー主教の考え方にしたがうでしょうし」ぼくは言った。「主張を拒んだりはしないでしょう。たとえ動物にも魂のようなものがあって、肉体が死んだあとも滅びないいう結論が導かれたとしてもね」 「ほんとにそうなんだとわかればいいのに!」ミュリエル嬢が声をあげた。「せめて馬のためにだけでも。ときどき思うんです、無謬の神を信じられなくなることがあるとすれば、馬が苦しんでいるのを見るときだろうって――苦しむような罪もないし、何の報いもないのに!」 「大いなる謎の一面だな」伯爵が言った。「なぜ罪のないものがいつも苦しむのか。信仰上の大きなひずみだ――だが信仰を断ち切ってしまうようなひずみではないだろう」 「馬が苦しむのは」ぼくは言った。「たいていは人間の残虐さが原因です。ですからそれは、罪が罪人本人よりも他人を苦しめてしまうような、よくあるケースの一例に過ぎません。ですが動物が動物を苦しめる場合はもっと難しいのではないでしょうか? 例えば、鼠をもてあそぶ猫。猫に道徳的責任がないと仮定すると、人間が馬を酷使する場合よりもさらに大きな謎になりませんか?」 「確かにそうね」ミュリエル嬢が父を無言でうながした。 「その仮定が正しいという根拠はあるかね?」伯爵がたずねた。「宗教的難題のほとんどは、根拠のない仮定に基づいて推論を進めるからに過ぎない。何よりも賢明な答えとは、『あゝ 人間は何も知らない』ということだと思うね」 「さっき『分業』と仰いましたよね。それを驚くほど完璧に実行しているのが蜜蜂の群れではありませんか?」 「あれほど驚くべきで――文字通りあれほど人間離れしていて――」伯爵が言った。「しかもそれ以外の行動に見られる知性と比較すると、あれほど完全に矛盾してもいることを考えれば――純然たる本能なのは疑いない。ある意味では、高度な理性の働きではないよ。開いた窓から外に出ようとしているときの、蜂の愚かなことといったらどうだ! 言葉のいかなる意味でも、理性的に出ようとしているとは言えまい。ただブンブン飛び回っているだけなのだからな! そういう行動は仔犬の痴性と呼ぶべきだよ。それなのに蜜蜂の知的レベルがサー・アイザック・ニュートンよりも上だと信じろと言われるのだ!」 「では純然たる本能にはひとかけらの理性もないとお考えですか?」 「それどころか、蜜蜂の群れの行動には、最高度に秩序だてられた理性があるよ。だがその行動のどれ一つとして、蜜蜂によるものではない。神が理性を司り、あとは理論的な帰結を蜜蜂の心に植えつけているだけなのだ」 「ですがどうやって心を一つにして行動するんでしょう?」ぼくはたずねた。 「蜜蜂に心があるという仮定が正しいという根拠はあるかね?」 「ご都合主義じゃない!」ミュリエル嬢が親不孝にも勝鬨をあげた。「さっき『蜜蜂の心』と自分で言ったばかりでしょう!」 「だが『蜜蜂一匹一匹の心』とは言ってない」伯爵は落ち着いて答えた。「これが『蜜蜂』の謎を解く一番妥当な考え方だと思うのだが、つまり蜜蜂の群れは、群れごとにたった一つの心しか持っていないんだ。一つに集まったときには、いくつもの手足で構成された複雑な集合体を一つの心が動かしているのがわかるだろう。物理的なつながりが必要だとは言えまい? ただ隣り合っているだけで充分ではないかね? だとすれば、蜜蜂の群れとは、完全には密着していない多くの手足を持つ一匹の動物に過ぎないのだ!」 「目の回るような考えですね。一晩たっぷり休まないとちゃんと理解できそうにありません。理性と本能からそろって、うちに帰っておやすみなさいと耳打ちされましたよ。そういうわけですから、ここらで失礼します!」 「道の途中まで『お連れ』します」ミュリエル嬢が言った。「今日はちっとも歩いていないのでちょうどよかったし、まだお話ししたいことがありますから。森を抜けていきませんか? 野原を通るより気分がいいと思うんです、ちょっと暗くなってきてるとはいっても」  ぼくらは絡み合った枝でできた木陰に足を向けた。そこは完璧に調和のとれた建築物となって、素晴らしい穹窿を形作っていた。あるいは眼の届くかぎり遠くまで、果てしない回廊、内陣、本堂に入り込んでみると、この世ならざる大聖堂のような、狂気に駆られた詩人の夢が現実のものとなっていた。 「この森に来るたびに」やがてミュリエル嬢が沈黙を破った(こうした暗く寂れた場所では沈黙しているのが自然なことに思われたのだ)。「妖精のことを考えてしまうんです! お聞きしたいことがあるんですけれど」と、ためらいがちにたずねた。「妖精を信じますか?」  まさにこの森で経験したことを話したい衝動に思わず駆られたが、口から飛び出しかけた言葉を何とか押し戻した。「『信じる』というのが『存在する可能性を信じる』という意味なら、『イエス』です。『現実に存在している』かどうかについては、やはり証拠がいりますよ」 「このあいだ仰っていたじゃありませんか。演繹的《ア・プリオリ》にあり得ないことではないという確かな証拠があれば、どんなことでも受け入れるって。幽霊を取り上げて、立証可能な現象の一つだとおっしゃいましたよね。妖精はまた別の話でしょうか?」 「ええ、そう思います」またもやもっと言いたい気持ちを抑えるのに苦労したが、話を聞いてもそれに同意してくれるかどうかまだ自信がなかった。 「では妖精は創造物のなかでどんな地位を占めているのか、何かお考えはありますか? そのことについて聞かせてください! 例えば妖精には(そんなものが存在していると仮定したらですけど)、妖精には道徳的責任はあるでしょうか? つまり」(と、ここで明るくふざけた口調からいきなり不可解で深刻そうな口調に変わった)「妖精には罪に対する責任能力はあるのでしょうか?」 「理性的判断はできます――おそらく人間の男女よりは低いレベルですし――子供の知能より上に成長することはないと思いますが。道徳的な判断はできると思って間違いありません。そのような存在に自由意思がないのは馬鹿げていませんか。ですから妖精には罪に対する責任能力があるという結論に達せ…ざるを得ませんね」 「妖精を信じているんですね?」ミュリエル嬢は大喜びで声をあげて、今にも両手を叩き出すのかと思うほどだった。「教えてください、なぜそう思われるんですか?」  それでもなお、ぼくははっきりと感じ取っていた事実を隠し通そうとした。「信じていますよ、どこにでも生命は存在するのだと――物質的な存在ではないだけ、ぼくらに感じることができるような状態ではないだけで――非物質的な目に見えない存在として。自分自身の非物質的な要素なら――『魂』や『精神』などと呼んで信じているじゃありませんか。ほかにも似たような要素がまわりに存在していて、目に見える物質的な肉体とかかわりを持っていてもおかしくないではありませんか? 神さまが昆虫の群れをお作りになったのは、一時間のあいだ幸せを感じながら太陽光線を浴びてダンスをするためであって、ぼくらに想像できるような目的があるのではなく、むしろぼくらにわかるような幸せを何倍にしたよりも幸せなのではありませんか? わざわざどこかで線を引いて、『それもこれも神さまが作っただけなんだ』と言うべきでしょうか?」 「その通りです!」ミュリエル嬢は目を輝かせてぼくを見つめた。「でもこれは否定しないための根拠に過ぎませんよね。これより確かな根拠をお持ちなんでしょう?」 「実はそうです」今こそ安心してすべて打ちあけられるような気がした。「口にするのに都合のいい機会や場所がなかったものですから。ぼくは妖精と会ったことがあるんです――この森のなかで!」  ミュリエル嬢はもう何もたずねなかった。無言でぼくの横を歩きながら、首を垂れ両手をきつく握りしめていた。ぼくの話を聞きながら、喜びにあえぐ子どものように、ときどき短く息を呑むだけだった。ほかの誰にも話していなかったことをぼくは話した。ぼくの二つの人生のこと、それだけではなく(何しろぼくのは単なる白昼夢に過ぎないかもしれないので)、二人の子どもたちの二つの人生のこと。  ブルーノのやんちゃぶりを話すと、楽しそうに笑った。シルヴィーのかわいさや他人への優しさ、偽りのない愛情のことを話すと、たっぷりと息を吐いた。長いあいだ心から待ち望んでいた大事な便りをついに耳にした人のように息を吐くと、やがて嬉し涙が先を争うように頬に流れ落ちた。 「ずっと天使に会いたいと思っていたんです」ささやく声は小さくて聞き取るのに精一杯だった。「シルヴィーに会えて本当に嬉しいんです! 初めて会った瞬間、心が惹かれました――聴いて下さい!」と、急に言葉を止めた。「シルヴィーが歌ってる! 間違いありません! シルヴィーの声ですよね?」 「ブルーノが歌うのなら何度も聴いたことがあるけれど、シルヴィーが歌うのは聴いたことがないんだ」 「一度だけ聴いたことがあるんです。あなたが不思議な花を持ってきた日のことです。子どもたちは庭に飛び出して行きました。エリックがやってくるのが見えたから、わたしは窓のところまで会いに行ったんです。そしたら木の下でシルヴィーが歌ってました。聴いたことのない歌を。『愛だと思う、愛だと感じる』というような歌詞でした。夢で聞くように声は遠くから聞こえるんですけれど、言葉では言えないような美しさがあって――赤ちゃんが初めて笑ったみたいな、それとも苦労を重ねて故国に戻ってきた人が最初に目にしたドーヴァーの白い崖の輝きみたいな、甘酸っぱさなんです――安らぎと天上の思いが、身体中に満ちているような声――聴いて!」ミュリエル嬢はまたもや話をやめて、興奮して叫んだ。「シルヴィーの声よ、あの歌だわ!」  言葉は聞き分けられなかったが、夢でも見ているような音楽の調べが空中に漂い、こちらに近づいてでもいるのか、だんだんと大きくなっているように思われた。何も言わずに立ち尽くしていると、やがて二人の子どもが姿を現し、森のなかに開いているアーチをくぐって、ぼくらの方へ真っ直ぐやって来た。互いに腕をまわし、夕陽が金色の後光を頭のまわりに顕しているのには、まるで聖人の絵でも見ているようだった。二人はぼくらの方を見ていたが、どうやらぼくらを見ているわけではなかった。すぐにわかった。今回はミュリエル嬢にもぼくにはおなじみの状態が訪れていたこと、ぼくら二人とも〈あやかし〉に陥っていたこと、ぼくらには子どもたちがはっきりと見えるが、子どもたちにはぼくらがまったく見えないことが。  歌がやんだころに子どもたちがすっかり姿を見せた。だが嬉しいことに、ブルーノがすぐに言った。「もっかい歌おう、シルヴィー! すごく良かったった!」 するとシルヴィーが答えた。「いいわよ。あなたからでしょ」  そこでブルーノは、ぼくにはすっかりおなじみのボーイズソプラノで歌い出した。 「ねえ、ヒナがチイチイさえずると、 親鳥が巣に戻りたくなるのは何ておまじない? それに赤ちゃんがぐずっていると、 ぐったりしているお母さんが目を覚ましてあやし始めるのは? 腕に抱いた赤ちゃんを、 鳩のようにクゥクゥ喜ばせるのは何て魔法?」  ぼくはその年の出来事をこうして書き記しているが、素晴らしい年だと感じる原因となっている不思議な体験のなかでも極めつけの体験をした――シルヴィーの歌を初めて聴くという体験だ。とても短かく――ほんの二言三言で――おそるおそる、聞き逃してしまいそうなほど小声だったとはいえ、言葉で表すことなど不可能な甘く美しい歌声だった。わずかなりとも似たような音楽は聴いたことがなかった。 「それは秘密。だからそっと耳打ちしてあげる 秘密の名前は『愛』っていうの!」  ぼくが最初にその歌声からもたらされたのは、不意に心臓を貫かれるような鋭い痛みだった。(これまでの人生で一度だけこんな痛みを感じたことがある。そのときは一つの完全な美の概念が具現化されたところを目にしたのがきっかけだった――ロンドンの展覧会場で人混みをかき分けていると、この世のものとは思われない美しさを持つ子どもと不意に顔を合わせたのだ。)続いて、目から熱い涙がほとばしった。人というのは純粋な喜びによって心の底から泣くことができるのだろうか。そして最後に、恐怖に近い畏怖の念に襲われた ――モーセが『あなたの足から履物を脱げ。あなたの立っている場所は聖なる所である』という言葉を聞いたときに感じたのは同じような感覚だったに違いない。子どもたちの姿はチカチカとした流星のようにぼんやりかすれてきたが、それでもなお歌声は素晴らしいハーモニーを響かせていた。 「だって『愛』だと思うから だって『愛』って気がするから だって『愛』以外には考えられないから!」  このころにはまた二人の姿がはっきりと見えるようになった。ふたたびブルーノが独唱している。 「ねえ、怒りが爆発したときに、 暴れ狂う嵐を抑えなさいと命じる声はどこから聞こえるの? 平和に仲直りの握手をしなさいと 痛みと――望みに苦しむ心を諭す声は? 身体中を満たし――ぼくらの周りや 下からや上から震わせる音楽はどこから聞こえるの?」  今度はシルヴィーも大胆に歌っていた。歌の内容に夢中になって我を忘れているようだった。 「それは秘密。どこから来てどこに行くのか、誰も知らない でも秘密の名前は『愛』っていうの!」  強く清らかに合唱が響き渡る。 「だって『愛』だと思うから だって『愛』だと感じるから だって『愛』以外には考えられないから!」  ふたたび聞こえるのはブルーノのかすかな声だけになった。 「ねえ、谷や丘に上手に色を塗って、 絵のようなきれいな景色にしているのは誰? 仔羊が大喜びで飛び跳ねられるように、 日向と日陰が織りなす牧場の筆をとるのは誰?」  またもや何とも言えない天使のような甘く澄んだ声が聞こえる。 「それは秘密。冷たい心には教えられない。 だけど天上で天使が歌ってるから、 清らかな耳にはその調べがはっきりと聞こえる―― 秘密の名前は『愛』っていうの!」  ここでふたたびブルーノが加わった。 「だって『愛』だと思うから だって『愛』って気がするから だって『愛』以外には考えられないから!」 「いかったね!」ブルーノが大きな声を出して、ぼくらのそばを通り過ぎるとき――かなり接近したのでぼくらは少し後ろにさがって道を空けた。手を伸ばすだけで二人に触れられそうだったが、やってみようとはしなかった。 「止めようとしても無駄でしょうからね!」子どもたちが木陰に去ると、ぼくは言った。「ぼくらのことが目に映ってもいないんだから!」 「無駄なんですよね」ミュリエル嬢がため息をついて繰り返した。「実態のある二人にもう一度会いたいと思うのが普通なんでしょうけれど。でも絶対に無理なんだって気がするんです。二人とも私たちの人生から消え去ってしまったんだわ!」ふたたびため息をつくと、下宿のそばの本通りに出るまで、何も言わなかった。 「それじゃあ、ここでお別れします」ミュリエル嬢が言った。「暗くならないうちに戻りたいので。平屋の友だちのところに寄らなきゃいけませんし。おやすみなさい! また近いうちに――何度もお会いしましょうね!」それから、胸に染みる優しく暖かい言葉をつけ加えた。「『だって大事なことはそれくらいしかない』んですもの!」 「おやすみなさい!」ぼくは答えた。「テニスンが言っていたのは、ぼくなんかより遙かに価値のある友人からの訪問のことですよ」 「テニスンは自分が何を言っているのかわかっていなかったのね!」ミュリエル嬢は元気よく答えた。いつものように、ちょっと子どもっぽいくらいの明るさだった。それからぼくらは別れた。 第二十章 ベーコンとほうれん草  女将さんは大げさなほど歓迎してくれた。かなり気を遣ってくれて、ぼくの人生を照らしていた友人のことにははっきり触れることはなかったものの、ひとりぼっちのぼくを優しく思いやってくれるのがひしひしと伝わってきた。慰めになると思えることなら何でもしてやろう、ぼくをくつろがせてやろうと心を砕かずにはいられなかったのだろう。  一人きりの夜は長く退屈だった。それでもぼくは何するでもなく、消えかけた火を眺めながら空想に耽り、赤い燃えさしの上に、過去の光景となってしまった姿形や顔を読み取っていた。ほんの一瞬、ブルーノのやんちゃな笑顔がきらめき、消えた。今度はシルヴィーの薔薇色の頬。明るく輝いた、教授の陽気な丸顔。「よう来てくれたのう!」と言ったような気がする。次の瞬間には、たった今まで懐かしい教授の姿だった赤い炭はぼんやりとしはじめ、光が消えるにつれて言葉も静寂のなかに消えてしまった。ぼくは火かき棒をつかむと弱まった火を何度かかき立て、空想が――内気な詩人ではないのだ――聞きたくてたまらなかった魔法の会話をふたたび響かせた。 「よう来てくれたのう!」と元気な声が繰り返した。「来てくれるものだと言っとったんじゃ。部屋の準備はできておりますぞ。皇帝と皇后も――うほん、来ないよりは喜んどるはずじゃて! 何しろ、皇后陛下は『晩餐に遅れないといいけど!』と申しておりましたからな。陛下ご自身のお言葉ですぞ!」 「アグガギもばんさんにいるの?」ブルーノがたずねた。子どもたちは二人とも、ぞっとしない可能性に不安を隠せなかった。 「ふむ、もちろんじゃとも!」教授がくすくすと笑った。「そもそもアグガギの誕生日ではなかったかな? 健康を祝して乾杯したり、そういったことがもろもろありましょうに。晩餐にいなくてはどうなりますか?」 「そのほーがいいのにね」とブルーノが言った。だがとても小さな声だったので、シルヴィーのほかには誰にも聞こえなかった。  教授がまたくすくす笑った。「出ていただければ楽しい晩餐になることでしょうな! またお目にかかれて嬉しいかぎりじゃて!」 「ぼくらだいぶ長く待たせちゃってたかな」ブルーノが気遣いを見せた。 「ふむ、そうじゃな」教授が同意した。「だが背丈は短いし、今は待たせておらんのだから、それである程度どっこいどっこいじゃろ」そして教授はその日の予定を数え上げた。「講義を最初におこなう、というのは皇后の仰ったことじゃ。みんな晩餐でたらふく食べるだろうから、眠くなってしまって食後には講義に専念できぬだろうと――たぶん正しいのじゃろうて。それからみんなが集まったころを見計らって、ちょっとした眠気覚ましの時間になるじゃろうな、皇后にサプライズのようなものが要る。昔から奥方は――まあ、前々から賢いとは言えぬ方でしたから――ちょっとしたサプライズを作り上げるために我々はいろいろと価値を見出してきたものですが。それから講義を――」 「え? 教授がずいぶん前に準備していた講義ですか?」シルヴィーがたずねた。 「うむ――これがそれじゃよ」教授はしぶしぶ認めた。「準備するにはかなりの時間がかかってしまった。ほかにもたくさんやることがあったからの。例えばわしは侍医でな。皇室の侍従たちの健康を維持せ…ねば――忘れとった!」叫びをあげると大急ぎでベルを鳴らした。「投薬日じゃった! 週に一度だけ薬を出すんじゃよ。毎日出そうものなら、あっという間に壜が空になってしまうからの!」 「でも別の日に病気になったらどうするんですか?」シルヴィーがたずねてみた。 「何、病気になる日を間違えるですと!」教授が叫んだ。「そんなことはありませ…んぞ! 病気になる日を間違えようものなら、侍従はただちに解雇されるでしょうな! これが今日の薬」教授は棚から大きな水差しを隆ろしながら話を続けた。「今朝一番に、自分で調合してみたんじゃがの。試してみなされ!」と言って水差しをブルーノに差し出した。「指をつけて、嘗めてみなされ!」  ブルーノがそうすると、ひどく苦しそうに顔をゆがめたので、シルヴィーがぎょっとして声をあげた。「まあブルーノ! だめよ!」 「とってもにだんぜん不味いよ!」ブルーノの顔は元に戻っている。 「不味い?」教授が言った。「ふむ、もちろんそうじゃろ! 薬たるもの、不味くなくてどうなるというんじゃ?」 「おいしくなるの」 「わしが言おうとしたのは――」ブルーノの切り返しにびっくりした教授が口ごもった。「――そんなことはあり得んということじゃ! 薬は不味いものと決まっておる。この水差しを飲んどけば間違いないのだから、使用人部屋に行って今日の薬だと伝えてくれ」と、ベルに呼ばれてやって来た従者に言いつけた。 「誰に飲ませるのでしょうか?」水差しを受け取った従者がたずねた。 「おお、まだ決めとらんかった!」教授は悪びれずに答えた。「すぐに決めに行くからの。わしが行くまでは何があっても絶対に始めんでくれと伝えてくれ! ほんとうに素晴らしいものなのじゃぞ、」と、子どもたちに向かって言った。「わしがどれほどの病気を治療するのに成功したか教えてしんぜよう! ここにメモがある」教授は何枚かごとにピンでまとめられている紙束を棚から取り出した。「まずはこの一揃いをご覧なさい。『料理見習い十三番、平熱《フェブリス・コミュニス》から回復』、さあ今度はその上にピンで留めたやつじゃ。『料理見習い十三番、薬を二服』。これは自慢に思ってよいじゃろう?」 「でもどっちが先なんですか?」シルヴィーが戸惑ってたずねた。  教授はじっくりと書類を確かめた。「日付がない」少しがっかりしたように聞こえる。「残念ながらわからんな。だがどっちも起こったことは間違いない。薬とは偉大なものじゃて。病気などさほどのものでもない。薬は何年でも持つのに、誰も持病を持とうとはせ…ん! ところで教壇を見に行かんか。庭師がよければ見に来いと言うとる。暗くなる前に行った方がよいじゃろ」 「ぜひ見に行かせてください」シルヴィーが答えた。「ほら、ブルーノ、帽子をかぶって。教授を待たせちゃだめよ!」 「ぼーしが見つからないんだ!」悲しげな答えが返ってきた。「そこらへんにころがしておいたらさ。そしたらどっかにころがっていっちゃった!」 「たぶんそこに転がってったのよ」シルヴィーが指さしたのは、半開きになっている扉のかげだった。ブルーノは飛んでいった。やがて重々しい顔つきをしてのろのろと戻ってきて、戸棚の扉をそっと閉めた。 「ぼーしはなかったよ」ブルーノがいつもと違うもったいぶった口をきくものだから、シルヴィーが興味をかきたてられた。 「何があったの、ブルーノ?」 「くものす――くもが二ひき――」ブルーノは考え考え、指を折って数え上げた。「えほんの表紙――カメ――豆がひとさら――おじいさん」 「おじいさん!」教授が興奮して部屋を突っ切った。「きっともう一人の教授じゃよ、ずっと行方不明だったんじゃ!」  戸棚の扉を大きく開くと、そこにいたのはもう一人の教授で、本をひざに乗せて椅子に座っていた。棚から取り出して手元に動かした皿から、豆を一粒つまんでいるところだった。もう一人の教授はぼくらを見回したが、何も言わずに豆を割って口に入れた。それからお馴染みの質問を口にした。「講義の準備はできたかな?」 「始まりは一時間後じゃ」教授は質問をはぐらかした。「まず、皇后を驚かさなくてはならぬ。次が晩餐――」 「晩餐だと!」もう一人の教授が飛び上がったので、部屋に埃がまき散らされた。「ではぶらっと――いやブラシをかけに行った方がよかろうの。こりゃ何という有り様じゃ!」 「確かにブラシがけが必要じゃな!」教授が寸評めいたことを言った。「帽子はここじゃった! わしが間違ってかぶっておった。すでに一つかぶっておるのをすっかり忘れとったのだ。では教壇を見に行こうかて」 「うたを歌ってた庭師のおじさんがまだいるよ!」庭に出たところでブルーノが大喜びして叫んだ。「きっとぼくらがいなくなってからずっとあの歌を歌ってたんだよ!」 「ふむ、もちろんそうじゃ!」教授が答えた。「やめるようなモンじゃなかろう?」 「なにもんじゃないってゆったの?」とブルーノが訊いたが、知らんぷりするのが一番だと教授は考えたようだ。「そのハリネズミで何をしとるんじゃ?」と庭師に向って声を張り上げた。庭師は片足で立ったまま鼻歌を歌い、反対側の足でハリネズミをあちこちと転がしていた。 「はあ、ハリネズミが何を食べるのか知りたくてなあ。だからここでハリネズミを飼うことにしたんで――芋を食べるかどうか確かめるために――」 「芋を買うべきではないのかな」教授が言った。「そうすればハリネズミがそれを食べるかどうか確かめられるじゃろう!」 「そら確かにその通りだ!」庭師が喜びの声をあげた。「教壇を見に来たんだね?」 「さよう、さよう!」教授は元気よく答えた。「子どもたちも戻ってきたしのう!」  庭師はにやりとして三人を眺めまわすと、歌いながら大ホールに案内した。 「思ったものの、もいちど見れば そやつは定理の三平方。 『すべての謎はちんぷんかんぷん』やつが言う 『そのことだけは確かだわい』」 「その歌を何か月も歌っておったのか」教授がたずねた。「まだ終わらんのかな?」 「あと一聯しかねえんだよ」庭師は悲しそうに答えた。そして頬に涙を伝わせながら、最終聯を歌い上げた。 「やつが見たのは一つの論争 そやつが教皇だった証拠。 思ったものの、もいちど見れば そやつはまだらの石けんの固まり。 『げに恐ろしきは事実かな』ぼそりと言う 『すべての望みも消え失せる!』」  庭師は泣くのをこらえ、胸の内を見せまいとして慌ててぼくらから離れて前を歩き出した。 「あのひとがまだらの石けんのかたまりを見たんですか?」後ろからついていきながら、シルヴィーがたずねた。 「ああ、もちろんじゃ!」教授が答える。「この歌は庭師殿の歴史じゃからの」  どんなときでも人の気持になれるブルーノの目には涙が光っていた。「教皇じゃなかったなんてとってもにかわいそう! そうでしょ、シルヴィー?」 「うん――よくわからないわ」シルヴィーは曖昧に答えると、「今より少しでも幸せになれたんでしょうか?」と教授にたずねた。 「教皇であっても今より少しも幸せではなかったじゃろう」教授が言った。「教壇はばっちりじゃろうの?」大ホールに入ったところで教授がたずねた。 「余分に梁を入れといたよ!」庭師は愛情たっぷりに教壇を叩いた。「これで頑丈だ――狂った象が壇上で踊れるくらいにわなあ!」 「感謝しますぞ!」教授は心から口にしていた。「必要かどうかはわからんが――だが知っておくに越したことはないでの」そして子どもたちを壇上に乗せて、席順を説明し始めた。「ここに席が三つあるのが、皇帝と皇后とアグガギ皇太子の席じゃな。だがあと二つ椅子が必要ではないか!」と言って、庭師を見下ろした。「シルヴィー嬢用のを一つに、小さい動物用のを一つじゃ!」 「こーぎの手伝いしていい?」ブルーノが訊いた。「ぼく手品できるよ」 「うむ、手品の講義ではないからな」教授は怪しげな機械をテーブルに並べている。「だが何が出来る? 例えばじゃが、術をかけることはできるかな?」 「しょっちゅー! だよね、シルヴィー?」  教授は顔にこそ出そうとしなかったが、心底驚いていた。「これは研究せ…ねばならん」つぶやいて手帳を取り出した。「では――どんな術じゃい?」 「おせーてあげて!」ブルーノはシルヴィーの首に腕を巻いてささやいた。 「自分で言いなさい」 「むりだよ。小骨ばっかの言葉だからつっかえちゃうもん」 「くだらない!」シルヴィーが笑った。「とにかくやってみなさい、ちゃんと言えるわよ。ほら!」 「ご九くろうさん」ブルーノが言った。「出だしだけ」 「何を言うとるんじゃ?」教授が困惑して声をあげた。 「九九の算術のことなんです」  教授はがっかりして手帳を閉じた。「残念ながらそれはまたもひとつ別の話じゃのう」 「別の話ならほかにもたくさんあるよ。そうでしょね、シルヴィー?」  大きなラッパが鳴り響いて会話をさえぎった。「あや、会が始まってしもうた!」教授は声をあげて、子どもたちを披露の間に急がせた。「もうそんな時間じゃったか!」  ケーキとワインの載った小さなテーブルが、広間の隅に用意されている。そのとき、皇帝と皇后がぼくらを待っていることに気づいた。広間にあった余分な家具は片づけられ、来客を迎えるために場所が空けられている。驚いたことに、ほんの数か月のうちに皇帝夫妻の顔はすっかり変わっていた。皇帝の表情にはつねに虚ろな目つきが浮かび、皇后の顔には無意味な笑いがひょこひょこと出たり引っ込んだりしている。 「おまえらが最後じゃ!」皇帝は不機嫌な声で、席に着いた教授と子どもたちに口を利いた。どうやらかなり怒っている。その理由はすぐにわかった。皇帝一家のために用意されたパーティであるはずなのに、地位にふさわしいとは思えなかったのだ。「どこにでもあるマホガニーのテーブルではないか!」皇帝は一声うなると、馬鹿にしたように親指を向けた。「なぜ黄金製でないのか知りたいのだがね?」 「それはたいそう時間が――」教授が言いかけたが、皇帝が途中で文章をちょん切ってしまった。 「それにケーキ! ありきたりのスモモではないか! なぜ特製の――何製の――」ふたたび言葉が途切れる。「それからワイン! ただのマデイラ・ワインではないか! なぜ――? それにこの椅子! 最悪なのはこれだ! なぜ玉座ではないのだ? ほかの不手際は許せるかもしれんが、この椅子だけは我慢できぬ!」 「あたしが我慢できないのは――」皇后も夫の怒りに同調して言った。「テーブルです!」 「ケッ!」皇帝が言った。 「たいへん遺憾に思われます!」口を開くタイミングが訪れると、教授は穏やかに答えた。少しだけ考え込んでから、言葉を強めて、一般客に向かって話しかけた。「すべてが、非常に遺憾に思われます!」 「おやおや!」というつぶやきが込み合った広間から聞こえた。  気まずい沈黙が降りた。教授はどう話を切り出せばいいのかわからず途方に暮れていた。すると皇后が身を乗り出して教授にささやいた。「冗談をひとこと、教授――気を楽にさせればいいんです!」 「さよう、さよう、陛下!」教授が素直にしたがった。「この坊やは――」 「お願いだからぼくをじょーだんにしないでよ!」ブルーノは目に涙を浮かべて叫んだ。 「そう言うのであれば、せ…ずにおこう」心優しい教授が答えた。「船のボヤに関する――どうでもいい駄洒落だったんじゃが――なにかまわぬ」教授は会衆の方を向くと、大声で話しかけた。「あを楽に!」と叫ぶ「いを楽に! うを楽に! おを楽に! かを楽に! そしてみなさん、きを楽に!」  会衆のあいだから笑いがどよめき、それから戸惑ったささやきがいくつも交わされた。「なんて言ったの? 尾とか蚊とか言ってたような――」  皇后は無意味な笑いを浮かべて、扇を使っている。哀れな教授はおそるおそる皇后を見た。機知はふたたび底をつき、新たな助言を求めているのは明らかだった。皇后がふたたびささやいた。 「ほうれん草よ、教授、サプライズの」  教授は料理長に手招きして、小声で何か伝えた。すると料理長は部屋を出て、ほかの料理人もそれについていった。 「ものごとを始めるのは難しいが」教授がブルーノに言った。「ひとたびギヤが回り出せば、すいすい進んでいくものなのじゃ」 「みんなをギャーって言わせたいんならさ、せなかに生きてるカエルをいれればいーんだよ」  そのとき料理人がそろって戻ってきた。最後に現れた料理長は何かを運んでおり、ほかの料理人が周りに旗をなびかせてその何かを隠そうとしていた。「ただの旗ですぞ、陛下! ただの旗です!」と繰り返しながら、皇后の御前に皿を置いた。途端に旗がいっせいに降ろされ、料理長が大皿の蓋を持ち上げた。 「何かしら?」皇后はつぶやいて、目に遠眼鏡を当てた。「まあ、ほうれん草だわ、間違いない!」 「皇后陛下が驚かれましたぞ」教授が従者たちに説明し、そのうちの何人かと握手を交わした。料理長は深々と辞儀をし、そうしながら偶然を装ってテーブルにスプーンを落とした。落ちたのは皇后の手許だったのだが、皇后は反対側を向いて見ないふりをしていた。 「驚いたわ!」皇后がブルーノに言った。「あなたもでしょう?」 「ちっとも。聞こえてたもん――」とブルーノが言いかけたが、シルヴィーが手で口をふさいで、かわりに答えた。「きっと飽きちゃったんです。講義が待ち遠しいみたい」 「ごはんが待ちどおしいの」ブルーノが訂正した。  皇后は上の空を装ってスプーンを手に取り、手の甲に乗っけてバランスを取ろうとした。そうしながら皿の上にスプーンを落とし、それからふたたびスプーンを拾うと、スプーンにはほうれん草が山ほど乗っていた。「まあ不思議!」と言って口に入れた。「本物のほうれん草みたいにおいしいわ! 類似品だと思ってたのに――でもこれはきっと本物ね!」そしてまた山盛りのスプーンを手にした。 「すぐに本物じゃなくなるくせに」ブルーノが言った。  だが皇后はこのころにはほうれん草に興味をなくし、どういうわけか――正確な成り行きはわかりかねるが――ぼくらは大ホールにいて、教授は待ちに待った講義を始めている真っ最中だった。 第二十一章 教授の講義 「科学は――さよう、たいていのことは――始まりから始めるのがよろしいものです。もちろんなかには、反対側から始めた方がよろしいものもある。たとえば、犬を緑色に塗りたい場合には、しっぽから始めるべきですな、なにしろそっち側は咬まないのですから。そして――」 「てつだっていい?」ブルーノがたずねた。 「何を手伝うと言うんじゃ?」教授は戸惑いながらも目を上げたが、手帳に指を挟んでおいて、読んでいた場所がわからなくならないようにしていた。 「イヌをみどりにぬるてつだい! きょーじゅはくちからはじめて、ぼくは――」 「いかん、いかん! まだ実験に取りかかっておらんからな。それでは」と手帳に目を戻し、「科学の公理をご紹介しましょう。次に標本をお見せします。それから過程をいくつか説明いたします。そして仕上げに実験じゃ。公理とはつまり、矛盾なく受け入れることができるものですな。例えば、わしが『ご来場のみなさん』と言ったとすると、何の矛盾もなく受け入れられるじゃろうから、話を始めるに相応しい一言と言えましょう。すなわち公理であると言えますな。あるいはまた『ご退場のみなさん!』と言ったとすると、それは――」 「――デタラメ!」ブルーノが声をあげた。 「まあブルーノ!」シルヴィーが小声で注意した。「もちろん公理でしょう!」 「――相手が文明的な方々であれば受け入れられるじゃろうから、また別の公理であると言えましょう」 「コオリだとしてもさ」ブルーノが言った。「しんじつではないよね!」 「公理を知らぬと」講義はなおも続いていた。「生きていくうえで著しい損害をこうむります。公理を繰り返し唱えねばならないとしたら、たいへんな時間の浪費ですからな。例といたしまして、『それ自体より大きいものなど存在しない』、言い換えるなら『それ自体を閉じ込めておけるものなど存在しない』という公理を取り上げてみましょう。『あいつは興奮しやすくて、自分自身の感情を閉じ込めておけないのだ』という表現を耳にされることもよくあるでしょうな。さよう、もちろん閉じ込めておけるわけがありません。興奮にはそんなことができる手立てがないのですから!」 「よいかの!」皇帝が落ち着かなくなって口を挟んだ。「公理はあとどのくらいあるんじゃ? この調子では、来週になるまで実験が出来ぬではないか!」 「おお、そんなにはかかりませぬ!」教授はびくっとして目を上げた。「あとはたったの――」(改めて手帳を確認して、)「あとたった二つです、これは絶対に欠かせぬものでして」 「さっさと読み上げて、標本に取り掛かれ」皇帝がぶうぶう言った。 「第一の公理は」教授は大急ぎで読み上げた。「『そうであればすべてそうである』という言葉から為っております。第二の公理は、『そうでないものはすべてそうではない』ですな。では続いて標本に取り掛かりましょう。第一のトレイには水晶およびその他いろいろなものが入っております」教授はトレイを引き寄せて、ふたたび手帳に目を通した。「ラベルの何枚かが――きちんと貼られていなかったせいで――」ここで教授はまたもや言葉を切って、単眼鏡を使って慎重にページを確かめた。「残りの文章が読めませんな」それがようやく口にした言葉だった。「つまりどういうことかと言いますとラベルが剥がれてきたために、その他いろいろなものがごちゃ混ぜになり――」 「ぼくにくっつけなおさして!」ブルーノがせがんで切手のようにラベルを舐めると、水晶その他いろいろなものに押し当て始めた。だが教授が急いでトレイを手の届かないところに移動させた。「間違った標本に貼りつけたらどうするつもりじゃ!」 「まちがったぴんぽんをトレイにのっけちゃだめだよ!」ブルーノは悪びれず答えた。「ねえ、シルヴィー?」  だがシルヴィーは首を横に振っただけだった。  教授は知らんぷりした。壜を一つ手に取って、単眼鏡を使ってじっくりとラベルを読んだ。「第一の標本は――」その他いろいろなものの前に壜を置いた。「それは――それの、名前は――」ここで壜を取り上げてふたたびラベルを確認する。ついさっき確認してからラベルが変わってしまったわけでもないだろうに。「アクア・ピュラと呼ばれておりまして――つまり普通の水でして――この液体の特徴は力づけられる――」 「フレ! フレ! フレ!」料理長が掛け声をかけ始めた。 「――ことと、酔いはしないことです!」教授は急いで先を続けたので、「ほいときた!」が始まっていたのをかろうじて止めることができた。 「第二の標本」教授は小さな水差しを慎重に開こうとした。「は――」蓋を開けた途端に大きなかぶと虫が飛び出し、ぶんぶんうなって大ホールからさっさと逃げ出してしまった。「――標本は――と言いますか、」悲しげに空っぽの水差しを見つめ、「標本のはずだったものは――珍しい青いかぶと虫でした。どなたか気づかれましたかな――よぎったときにでも――羽根に青い斑点が三つずつついていたのですが?」  気づいた者はいなかった。 「ああ、おほん!」教授は溜息まじりに話を続けた。「残念なことです。たった今気づかなかったのであれば、いつなんどきでも見逃してしまいますぞ! それはともかくとして、次の標本は飛んで行くことはないでしょう! 手短に言えば、いやもとい、鼻長に言えば――象であります。ご覧いただきましょう――」ここで庭師に教壇の上にやってくるよう手招きすると、二人で協力して、両側から短い管が出ている大きな犬小屋のようなものを壇上に乗せようとした。 「しかし目の前に象など見えんぞ」皇帝が唸った。 「さよう、顕巨鏡越しでなくては!」教授がいそいそと答えた。「蚤を見るには、拡大鏡――顕微鏡というもの――がなくてはなりません。さて、同じように、象を見るには――縮小鏡がなくてはならぬのです。この管に一つずつ付いておりますな。そしてこれが、顕巨鏡です! 今から庭師が次の標本を持って参ります。カーテンを両方とも開けてくだされ、端に寄って、象のための道を空けてくだされ!」  居合わせた人々はあわてて大ホールの両端に移動し、空いた道の先に目を向け、庭師が戻ってくるのを見ようした。庭師は歌いながら立ち去っていた。「『やつの見たのは一頭の巨象 そやつは横笛吹いていた』」しばらくは何も聞こえなかった。やがてふたたびかすれ声が遠くから聞こえてきた。「『もいちど見れば』――そら来いよ! 『思ったものの、もいちど見れば』――ひーこら! 『なんとそやつは手紙』――道を空けとくれ! ただいま到着!」  行進してきたと言うべきかよろめいてきたと言うべきか――どちらが正しいとも言いかねるが――後脚で立った象が、前脚に持った大きな横笛を吹きながらやって来た。  教授は急いで顕巨鏡の後ろにある大きなドアを開けた。庭師の合図で巨大動物は横笛を降ろして機械のなかに素直にどたどたと入り込んだ。教授によってふたたびドアが閉められた。「標本を観察する準備が出来ました! 普通の鼠――ムス・コミュニス――とまったく同じ大きさですぞ!」  人々はいっせいに管に駆け寄り、小さな生き物を見て喜んでいた。教授が指を伸ばすと、象は嬉しそうに鼻を巻きつけ、ついには教授の掌に乗っかった。教授はゆっくりと持ち上げ、皇室一家に見せるために運んでいった。 「かーいーね?」ブルーノが叫んだ。「なでていいでしょ? とってもにやさしくさわるから!」  皇后は単眼鏡を使って熱心に観察していた。「とても小さいわ」と低い声で言った。「普通の象より小さいじゃんじゃないかしら?」  教授は嬉しさのあまりびっくりしていた。「さよう、その通りだ!」とつぶやくと、今度は人に聞こえるような大きな声を出した。「皇后陛下が完全に分別あるご意見を仰いましたぞ!」会衆から大きな歓声が上がった。 「次の標本は――」小さな象を慎重に水晶とその他いろいろなもののあいだにあるトレイに戻すと、教授は声を張り上げた。「蚤であります。観察するために大きくいたしましょう」トレイから小さな薬箱を取り上げると、顕巨鏡に歩み寄って管をさかさまにした。「標本の準備が出来ました!」管の一つに目を当てながら、脇にある小さな穴から慎重に薬箱の中身を空けた。「これで普通の馬――エクィズ・コミュニス――の大きさです!」  またもや人々が管を覗きに押し寄せ、大ホールに大歓声が響き渡った。それにかき消されて教授の不安そうな声はほとんど聞こえなかった。「顕微鏡のドアを閉めたままにしてくだされ! こんな大きさで逃げ出してしまうと――」だが災難は起きていた。ドアが開けられた途端に怪物が飛び出し、恐れおののく見物人のあいだを飛びはねていた。  だが教授は冷静さを失ってはいなかった。「カーテンを開けるんじゃ!」教授の指示が実行された。怪物は脚をたたみ、ひと跳びで空の彼方に姿を消した。 「どこにいるのじゃ?」皇帝が目をこすってたずねた。 「隣の州でしょうかな」教授が答えた。「あの跳躍でしたら少なくとも五マイルは跳んだでしょうから! 次は過程をいくつか説明しようと思います。ですが実演するにはちょっと場所がありませんな――小さな動物がちょうど邪魔なところにおりまして――」 「だれのこと?」ブルーノがシルヴィーにささやいた。 「あなたのことよ!」シルヴィーがささやき返した。「黙って!」 「どうかこの隅まで――ぎこちなく――移動してくれんか」教授がブルーノに声をかけた。  ブルーノは言われた通りに慌てて椅子を動かした。「ぼく、いかりなくいどうしてた?」ブルーノがたずねたが、教授はふたたび講義にかかりきりになって、手帳を読んでいるところだった。 「では過程を説明いたしましょう――こう申すのは何ですが、名前が汚される過程ですぞ。それを例示するにはいくつもの――その――」しばらくページをめくっていたが、ついに教授は「『実験』か『標本』のどちらかのようですな」と言った。 「実験にしろ」皇帝が言った。「標本はたっぷり見た」 「さよう、さよう!」教授も同意した。「実験をいたしましょう」 「ぼくやっていい?」ブルーノがせがんだ。 「ああだめじゃ!」教授が目に見えてうろたえた。「おぬしがやったりしようものなら、本当に何が起こるかわからんからの!」 「きょーじゅがやったとしたって、なにがおこるかはみんなだれもしらないじゃないさ!」ブルーノも言い返した。 「最初の実験には機械を使用いたします。取っ手が二つついておって――たった二つじゃぞ――よければ数えてみるがよい」  料理長が前に進み出て取っ手の数を数え、納得して後ろにさがった。 「さて諸君はこの二つの取っ手を同時に押すとお思いかもしらんが――だがそんなことではない。あるいはこの機械をひっくり返すとお思いかもしらんが――そんなふうでは駄目じゃ!」 「どんなふうにするの?」耳をそばだたせていたブルーノがたずねた。  教授はにっこりと笑った。「はは、さよう!」そして小見出しでも読みあげるような声を出した。「『如何にして実行するか』! ちょいと失礼!」と言いざまにブルーノをテーブルに立たせた。「問題を三つに分けたいと思う――」 「降りようかな!」ブルーノがシルヴィーにささやいた。「分けられるのはよさそうじゃないし!」 「誰もナイフなんか持ってないでしょ、おばかさん!」シルヴィーもささやき返した。「黙って立ってなさい! 壜を割っちゃうわよ!」 「一つ目は取っ手を握ること」取っ手をブルーノの手に押しつけた。「二つ目は――」そこでハンドルを回すと、「わあっ!」と声をあげて、ブルーノが取っ手を放し、肘をさすり出した。  教授が嬉しそうにくすくす笑ってたずねた。「目に見えた結果だったじゃろう。そう思わんか?」 「ぜんぜん目に見えてないよ!」ブルーノは腹を立てていた。「ほんとにむかつく。ひじがびりびりして、せなかがばちばちなって、かみの毛がくしゃくしゃになって、ほねのなかまでぶんぶん言ってたんだから!」 「そんなことないでしょう!」シルヴィーが言った。「またでたらめ言って」 「なんもしらないくせに!」ブルーノが答えた。「見ることないでしょ。ほねのなかに行けるひといないんだから。言いっこなしだよ!」 「二つ目の実験はですな」と教授が語りかけた。ブルーノはまだ神妙な面持ちで肘をさすっていたが、元の場所に戻っていた。「見るも稀なる驚き桃の木現象、黒い光を作り出してご覧に入れましょう! 白い光、赤い光、緑の光などはご覧になったことがあるでしょう。だが今日のこの素晴らしい日にいたるまで、わしを除けば黒い光を目にした方はおりませんでした! この箱には――」教授は箱を慎重にテーブルに乗せると、それを毛布ですっかり覆ってしまった。「この箱のなかには黒い光が満ちております。作り方はですな――暗い戸棚の中に灯のついた蝋燭を入れ、扉を閉めるのです。当然ながら戸棚のなかには黄色い光が満ちておりました。そこで黒インクの壜を手に取り、蝋燭に振りかけたわけです。すると嬉しいことに、黄色い光の原子がすべて黒く変わったのです! 間違いなくこれまで生きてきたなかでもっとも誇らしい瞬間でありました! それからわしは黒い光を箱に詰めました。さてそれでは――どなたか毛布の下にもぐって、黒い光を見たい方はいらっしゃいますかな?」  その提案のあとには死んだような沈黙が待っていた。だがついにブルーノが口を開いた。「ぼく、もぐりたいな。ひじがびりびりしないんなら」  この点を確かめると、ブルーノは毛布の下にもぐりこみ、しばらくすると這い出してきた。埃まみれでのぼせていて、髪はぐちゃぐちゃだった。 「箱のなかで何を見たの?」シルヴィーが慌ててたずねた。 「なんも見えなかった!」ブルーノは悲しそうに答えた。「すっごくまっくらだった!」 「極めて正確に状況を説明してくれましたぞ!」教授が興奮して声をあげた。「黒い光と何も見えないのとは、一見すると極めて似ておるから、見分け損ねても不思議はないからのう! では三つ目の実験に取りかかるとしましょう」  教授は壇から降りて、しっかりと床に埋まっている柱のところまで歩いていった。柱の片側には先端に鉄の錘のついた鎖が留められており、反対側には先端に鈴のついた鯨のひげがぶらさがっている。「これがもっとも面白い実験であります! 時間がかかってしまうのですが、それもたいした問題ではありません。さてお立ち会い。この錘をはずして手を放したとすると、床に落ちてしまうでしょうな。それは否定しませんな?」  否定する者はいない。 「では同じように、この鯨のひげを柱に巻き付けて――このように――そしてこの留め金を鈴に引っかけます――このように――巻き付いて曲がったままですな。ですが、留め金をはずしたならば、また自然とまっすぐ伸びてしまいます。これも否定いたしませんな?」  今度も否定する者はなかった。 「さて、では、こうしたまま長いあいだ放っておくといたします。鯨のひげからは力がなくなってしまうでしょうから、留め金をはずしても曲がったままでおるものと考えられますな。では、なぜ同じことが錘にも起こらないのでしょうか? 鯨のひげは曲がりぐせがついてしまえばもはや自然にまっすぐ伸びることはありません。錘に支えぐせがついてしまい、もはや落ちることがなくなる事態が、起こらないと言えましょうか? わしはそれが知りたいのです!」 「我々もそれが知りたいぞ!」人々も繰り返す。 「どのくらい待てばよいんじゃ?」皇帝が唸った。  教授は振り返って答えた。「さよう、手始めに数千年ほどでしょうかな。それから錘を慎重に外すことにいたします。そのときにまだわずかに落ちるようでしたら(その可能性が高いでしょうが)、ふたたび鎖につなぎ、さらに数千年ほったらかしておくことになりましょう」  そのとき驚いたことに、皇后に常識のひらめきが舞い降りた。「そのあいだに別の実験をする時間があります」 「まさしくその通りです!」教授は大喜びで声をあげた。「では壇上に戻りまして、四つ目の実験に移りましょう!」 「最後の実験はですな、アルカリ性の物質を、いや酸性の――どちらだったか忘れてしもうたが、とにかくですな、何が起こるかご覧いただきましょう、これに――」教授は壜を取り上げ、不安げに見つめた。「――これに混ぜ合わせるわけですな――あるものを――」  ここで皇帝がたずねた。「何という物質じゃ?」 「名前は思い出せませんで」教授は答えた。「ラベルも剥がれてしもうて」教授が壜の中身をもう一つの壜に空けると、大きな音を立てて壜は二つとも粉々に吹き飛び、ものというものをひっくり返して大ホールに真っ黒な煙をぶちまけた。ぼくは怖くなって飛び上がり、そして――そして気づくと相変わらず一人で暖炉の前にいたのだった。眠りこけて手から火かき棒が落ちてしまい、火箸とシャベルにぶつかり、やかんがひっくり返って蒸気がもんもんと立ち込めていたのだ。ぼくはがっくりしてため息をつくと、ベッドに向かった。 第二十二章 晩餐会 「泣きながら夜を過ごす人にも/喜びの歌と共に朝を迎えさせてくださる」。次の日はぼくもすっかり別人になっていた。亡き友の記憶さえもが、周りで微笑む穏やかな季節のように晴れやかだった。あいだを置かずに再訪して、ミュリエル嬢や伯爵を困らせるつもりはなかったので、郊外まで足を延ばすと、弱々しい光が一日の終わりが近づくのを告げるころには帰途についていた。  戻る途中で、老人の住む平屋を通りかかった。顔を見るたびにいつも、初めてミュリエル嬢と会った日のことを思い出すものだった。通りがてら顔を出して、今もまだそこに住んでいるのか確かめたい気分になった。  そうだ。老人はまだ元気にしていた。ベランダに腰を下ろしているところなど、フェアフィールド駅で初めて見たときと何も変わっていないようで――それすらほんの数日前のことのようだった! 「こんばんは!」立ち止まって声をかけた。 「こんばんは、だぁさん!」老人が元気に答えた。「休んできなさるかね?」  ぼくはお邪魔して、ベランダのベンチに腰を下ろした。「お元気そうで何よりです。このあいだミュリエル嬢が出てくるところにたまたま通りかかったんですよ。今も会いに見えるんですか?」 「あいよ」老人はゆっくりと答えた。「忘れねーでくんさった。あのめんこい顔をしょっちゅう見とる。はあ駅で会ったあと、初めて来てくれたときのことは忘れんよ。償いをしに来ちょると言うとった。おまいさん! 考えてみんせ! 償いに来ちょると!」 「何を償いに来ているんですか?」ぼくはたずねた。「償いのために何ができるというんでしょうか?」 「はあ、こったらことだね? わしらふたりとも駅で列車を待っとった。わしゃ腰掛に座っとったわけじゃが。駅長が、駅長が来て命じたんさな――お嬢様のために場所を空けいと、な?」 「みんな覚えてます。その日、ぼくもいました」 「だぁさんが? はあ、で、お嬢さんはわしに許しを請うての。考えてみんせ! わしに許し! こんなろくでなし! おうよ! そい以来、ちょくちょく来てくんさる。なぁ、ついゆんべここにおった、うむ、座っとった、なんちゅうかの、だぁさんが座っとるところに、天使よりももっとかわいくて優しく座っとったよ。で、『ミニーがおらんくなっても、元気でいてくだせ』と言いんしゃる。ミニーいうのはわしの孫でね、だぁさん、一緒に暮らしとったが。死んじまった、二か月前のこと――いや三か月だったか。めんこい娘じゃった――ええ娘じゃったし。ああ、だがひとりぼっちになってしもうた!」  老人は手で顔を覆った。落ち着きを取り戻すまでのあいだ、ぼくは無言で待っていた。 「そいで言いんしゃった。『私をミニーだと思ってください! ミニーはお茶を淹れましたか?』『あいよ』と、わしは答えた。で、お嬢さんはお茶を淹れてくんさった。『で、ミニーはパイプに火をつけましたか?』言うんで、『あいよ』と。で、火をつけてくんさった。『で、ミニーはベランダでお茶の用意をしましたか?』、で、わしは言うたよ。『お嬢さん。あんたはミニーそのもんじゃよ!』で、お嬢さんはちいと泣いて。わしらはふたりでちいと泣いとった――」  今度もぼくはしばらく黙っていた。 「で、わしはパイプを喫んで、お嬢さんが話しかけてくんさって――嬉しかったし幸せじゃった! きっとミニーが戻ってきたんだと思ったよ! で、帰りなさるとき、『握手してくださらんのかの?』と言うたら、『ええ。できません!』と言うんじゃ」 「そんなことを言ったんですか」ぼくは口を挟んだ。考えてみても、ぼくの知るかぎりでは、ミュリエル嬢が身分をひけらかすようなそういった自尊心を示したことはなかった。 「ああ、だぁさん、自尊心じゃねえ!」老人がぼくの心を読んで言った。「お嬢さんが言うたのは、『ミニーならわしと握手せ…んかったじゃろう!』と。『で、私は今はミニーなんです』。で、お嬢さんはわしの首にめんこい腕をまわし――ほっぺにキスしなさった――天主さまの恵みあれ!」ここで可哀想な老人は完全に泣き崩れ、それ以上は何も言えなくなった。 「恵みあれ!」と繰り返し、「それじゃあお元気で!」ぼくは老人の手を握り、そこをあとにした。「ミュリエル嬢」下宿に帰る道すがら、ぼくはそっとつぶやいた。「あなたという人は、本当に『償いをしなさる』やり方がわかってるんですね!」  ふたたび一人で暖炉のそばに腰を下ろし、昨晩の不思議な幻を思い出して、燃える石炭のなかにあの老教授の顔を呼び出そうと努めた。「あの黒いのが ――ちょっと赤みがあって――教授にぴったりだ」とぼくは考えた。「あんな大混乱のあとだもの、全身真っ黒になっているに違いない――そして教授はきっとこう言うのだろう。 「あの組み合わせの結果が――お気づきになったでしょうな?――大爆発じゃ! 実験をもう一度やりましょうかな?」 「いや、いや! もう結構!」といっせいに叫び、ぼくらは大急いで晩餐会場に移動した。すでに準備は始まっていた。  一秒の無駄なく食器が並べられ、極めてすみやかに料理が盛りつけられた。 「常に守っておる信条があってな」教授が口を開いた。「ものを食べるときに役立つ法則じゃぞ――たまにはな。晩餐会でたいへん便利な」唐突に言葉を切って大声をあげた。「はて、確かにもう一人の教授がいるぞ! なのに席がないではないか!」  もう一人の教授は大きな本を読みながら入室し、そのあいだ本から目を離さずにいた。進む方向を見ていないのだから当然のことながら、広間をよぎった際に蹴つまずき、宙に投げ飛ばされてテーブルの真ん中に頭からどさりと落ちた。 「お気の毒に!」教授は心から悲鳴をあげ、もう一人の教授を助け起こした。 「わしがつまずかなければ、わしではなかったところじゃぞ」もう一人の教授は言った。  教授は呆れかえって叫んだ。「何であろうとおそらくそれよりはましじゃったろうて! そもそもにしてから」ブルーノに向かって話しかけた。「ほかの誰もそんな目に遭うものか、なあ?」  それに対しブルーノは毅然として答えた。「ぼくの皿がからっぽになった」  教授は慌てて眼鏡をかけて、始めに事実なのか否かを確かめた。次ににこやかな丸顔を、空っぽの皿を前にした哀れな少年に向けた。「では、次に何がほしいかね?」 「そうだなあ」ブルーノは迷っているような声を出した。「スモモのプディングが食べたいかな――そう思ってるうちは」 「まあブルーノ!」(これはシルヴィーのささやき。)「出されてない料理を催促するのはお行儀が悪いわよ!」  ブルーノもささやき返した。「でも出されるときだと、なにかさいそくするのわすれちゃうかもしれないもん――ぼく、よくわすれるもんね」とつけ加えたのは、シルヴィーがまた何かささやこうとするのを目にしたからだ。  この言い分にはシルヴィーも反論しようとしなかった。  こうしているあいだに、皇后とシルヴィーのあいだにもう一人の教授のための席が用意された。シルヴィーにとってはちょっと退屈な相席者となった。なにしろ晩餐が終わってからも、思い出せたのはたった一言だけだったのだ。「この辞書は楽しいですな!」(あとでブルーノに語ったところによると、とても怖くて「ええ、そうですね」とだけしか答えられなかったそうだ。それが二人の会話の終わりだった。ブルーノの断言するところでは、そんなのはとても『会話』とは呼べないそうだが。「なぞなぞを出せばよかったんだよ!」とブルーノは得意げに言った。「ね、ぼく教授にみっつなぞなぞたずねたよ! いっこは今朝シルヴィーからたずねられた、「二シリングは何ペンスでしょう?」てゆーやつ。シルヴィーが口を挟んだ。「まあブルーノ! それはなぞなぞじゃないわよ!」「なぞなぞだよ!」ブルーノも負けじと言い返した。)  そうこうしているうちに給仕が、頭より高々とスモモのプディングが積み上げられた何かの皿をブルーノに出した。 「晩餐会で便利なことはほかにもありまして」耳を澄ましているであろう人たちのために、教授が元気よく説明していた。「友だちを見つけ出すのに役立つのです。ある人を見つけ出したいときには、その人が食べたいものを出してやればよい。鼠のときと同じ法則です」 「このネコはとってもネズミ々にしんせつだよ」ブルーノがとても太った実物を撫でようとして身を乗り出した。その猫はつい先ほど部屋によたよたと入ってきて、今は椅子の脚にいとおしむように身体をこすりつけていた。「ほら、シルヴィーのお皿に牛乳をいれてよ。このネコすっごくのどかわいてるんだ!」 「なんで私の皿なのよ? 自分のにしなさい!」 「うん、わかた。でもぼくのはもっと牛乳あげるときのためだもん」  見たところシルヴィーは納得していない。だが弟の頼みを断ることなど絶対にできないらしく、すぐに自分の皿に牛乳を注ぎ、ブルーノに手渡した。ブルーノは椅子から降りて猫に牛乳をやりに行った。 「こんなに人がいては、部屋が暑いの」教授がシルヴィーに言った。「なぜ暖炉に氷のかたまりを放り込まんのじゃろうな? 冬には石炭のかたまりを詰め込んで、暖炉の周りで暖かく快適に休まんかね。こんなときには氷のかたまりを詰め込めば、暖炉の周りで涼しく快適に休めるじゃろうに!」  確かに暑かったのだが、そんな考えを聞いてシルヴィーはちょっと震えた。「外はとても寒いですよ。今日は足が凍りそうだったくらい」 「そりゃ靴屋が悪い!」教授は元気よく答えた。「火を入れるために靴底の裏に鉄板を入れたブーツを作るべきだと何度も説明しておるんだが! だが靴屋はそうは考えんのじゃ。そういう靴を考えさえすれば、誰も寒さで苦しまんだろうに。わしは冬には温めたインクを欠かさず使っておるよ。ほとんどの人はそんなことは考えもしないじゃろうが! だが単純明快ではないか!」 「ええ、単純明快ですね」シルヴィーは丁寧に答えた。「猫はちゃんと飲んだ?」これはブルーノに言ったものである。ブルーノは半ば空になった皿を戻していた。  だがブルーノは質問を聞いていなかった。「だれかがドアをひっかいて、なかに入りたがってるよ」もぞもぞと椅子から降りて、戸口をそっと覗きに行った。 「入りたがってたのは誰だったの?」戻ってきたブルーノにシルヴィーがたずねた。 「ネズミだった。そいで、なかをのぞいて、ネコを見たんだ。『別の日にします』って言ってた。『ちびらなくていいよ。あのネコはネズミ々にとってもにやさしいから』って言ったんだけど。『でもじゅうよーなとりひきがありますから、行かなければ。明日うかがいます。ネコによろしく』だってさ」 「何とも太った猫ではないか!」長官が教授の頭越しに身を乗り出して、ブルーノに話しかけた。「不思議千万!」 「はいってきたときめちゃくちゃ太ってたんだもん」ブルーノが言った。「ちょっとのあいだにやせたとしたら、もっとよりふしぎだよ」 「思うに」長官が思いつきをたずねた。「それが残りの牛乳をやらん理由かね?」 「ちがうよ。もっとな、りゆー。ネコがいやがってるから、おさらをとりあげしたんだ」 「わしにはそうは見えんぞ」長官は言った。「どうして嫌がってると思ったのだ?」 「だってのどをならしてるもん」 「まあブルーノ!」シルヴィーが声をあげた。「もう、それが猫の喜び方なのよ!」  ブルーノは疑わしげだった。「いいよろこび方じゃないね。ぼくがのどをならしたら、よろこんでるとは思わないくせに!」 「比類なき坊やじゃ!」長官はぽつりとつぶやいた。ところがそれをブルーノが聞きつけた。 「『ひるいなきぼーや』ってどーゆー意味?」とシルヴィーに小声でたずねた。 「一人しかいないという意味よ」シルヴィーも小声で答えた。「そして同類っていうのが、ほかにも同じものがたくさんいるっていう意味」 「なら、ひるいなきぼーやでとってもにいかった!」ブルーノには一大事だ。「ぼくがたくさんのぼーやだったらぞっとするだろうなあ! たぶんぼくとはあそべれないや!」 「そりゃそうじゃろう?」空想に耽っていたもう一人の教授が不意に我に返った。「みんな眠っておるかもしれんからな」 「ぼくが起きてたら、ねむれれないよ」ブルーノはにやりとして言い返した。 「ほう、だがやはり眠っておるかもしれん!」もう一人の教授も言い張った。「男の子というものはすぐに眠るもんじゃ。だからこの坊やたちも――だが誰のことを話しとるんじゃ?」 「絶対にそれを最初にたずねはせ…んのじゃからのう!」教授が子どもたちにささやいた。 「うん、のこりのぼくだよ、もっちろん!」ブルーノが得意げに叫んだ。「ぼくがたくさんいるときのはなし!」  もう一人の教授はため息をつき、ふたたび夢想に舞い戻ってしまうかに見えたが、不意に元気を取り戻して教授に話しかけた。「もう何もすることはないじゃろうな?」 「さよう、晩餐を終えること」教授は呆れ笑いを浮かべた。「それと暑さを我慢すること。晩餐を楽しみなされ――たいしたもんじゃないがの。そして暑さを気になさらんことじゃ――たいしたもんじゃなくないがの」  言葉ははっきり聞こえたものの、どうにもぼくにはよく理解できなかった。もう一人の教授にはちんぷんかんぷんのようだった。「たいした何じゃなくないじゃと?」と不機嫌にたずねた。 「覚悟したほど暑くなくないんじゃ」教授は最初に思いついたことをそのまま口にした。 「ああ、ようやくわかったわい!」もう一人の教授が感謝するように答えた。「下手な言い方じゃが、ようわかった! 十三分半前に」まずブルーノを見て、それから時計を見た。「こう言っておったな、『この猫はとても鼠々に親切だ』と。比類なき猫であることは間違いあるまい!」 「そりゃそーだよ」ブルーノは猫が何匹いるか慎重に確認した。 「だが鼠々に親切だとなぜわかったのか――ああ、正しく言えば、鼠たちじゃが?」 「だってネズミ々とじゃれてたもん。たのしませてあげようとしてね」 「だがそんなことは聞いたことがないぞ」もう一人の教授が答えた。「猫が鼠とじゃれるのは、殺すためだと思っとったが!」 「うん、それね、じこだよ!」ブルーノは必死でかばった。この難しい問題をすでに猫に確認してあったのだ。「しつめいしてくれたんだ、ぎゅーにゅーあげてるあいだに。『ネズミ々に新しいあそびをおしえてたんです。ネズミ々はその遊びをそれはもうとっても気に入ってますよ。ときどき、ちょいとじこがおこるんです。ときどき、ネズミ々がかってに死んじゃゃうんです。ネズミ々がかってに死んじゃうと、いつもとってもにざんねんです』。ネコは――」 「本当に残念に思ってるなら」シルヴィーが鼻で笑った。「鼠々が勝手に死んだあとで、食べたりなんかしないでしょ!」  だがこの問題についても、終わったばかりの倫理に関する徹底した議論のなかで、見過ごされてはいなかった。「ネコが言ってたよ」(話し手は、会話における自分の役割を必要以上に省略し、猫の答えだけを伝えていた)「『しんだネズミ々は食べられることに決して反対しませんよ。しんせつなネズミ々を無駄にするわけにはいきません。もたもたない――』とかゆーやつ。『「あのとき捨ちたネズミがいればよかったのに!」と、なげくときがくるかもしれませんから』。ネコは――」 「そんなにたくさんしゃべる時間はなかったでしょ!」シルヴィーがむっとして口を挟んだ。 「ネコのしゃべり方しらないくせに!」ブルーノも軽蔑したように言い返した。「ネコはとってもにはやくしゃべるんだから!」 第二十三章 豚の尾話  このころには会食者の食欲もおおむね満たされ、ブルーノでさえ、教授から四切れ目のプディングを注文されたときには「三さら寄ればもーじゅーぶん!」と言うにいたったほどだ。  突然教授が話し始めた。電気でも流されたのかと思ったほどだ。「おう、一番大事な出し物を忘れてしまうとろこじゃった! もう一人の教授が、豚のお話を暗唱いたします――つまり豚の尾話ですな」と言い直した。「始めと終わりに序詩がございます」 「終わりに序詩があるんですか?」シルヴィーがたずねた。 「まあお聞きなされ」教授が言った。「そうすればわかるじゃろうて。真ん中にもなかったとは言い切れんしの」ここで教授が立ち上がると、晩餐会場が一瞬静まり返った。みんなスピーチを待ち受けているのだ。 「お集まりの皆様」教授が切り出した。「もう一人の教授のご好意で、詩を暗唱してくださいます。題は『豚の尾話』。以前に暗唱したことはございません!」(会衆が喝采した。)「今後、暗唱する予定もございません!」(狂乱と大喝采が会場に広がり、教授は喝采に答えようと大急ぎでテーブルの上に登り、片手に眼鏡を、もう片方にスプーンを持って手を振った。)  それからもう一人の教授が立ち上がり、暗唱を始めた。 小鳥が食べる 人目を忍んでこそこそと、 おんぼろ部屋に身を隠し。 つまり給仕が隠した 派手な靴下―― お話することがございます。 小鳥が餌をやる 裁判官にジャムをやる、 炒めたハムをたっぷりと。 つまり牡蠣がたっぷり 暗い修道院に出没する―― 言っているのはその話。 小鳥が教える 微笑み方を雌虎に、 生まれながらの悪党に。 つまり嘲笑いでなく微笑みとは―― 口を半円に、 それが正しいやり方です。 小鳥が眠る ピンに囲まれて、 そこは敗者が勝ち進む場所。 つまりくしゃみをするのはどこ 喜ぶのはいつ、どうやって―― そこで話が始まります。 豚が一人で座っておった 壊れたポンプのかたわらで。 夜も昼もうめきをもらし―― 冷たい心をかき乱す 蹄をひねってうめきをあげる、 なぜって豚は跳べないから。 とある駱駝がうめきを聞いた―― こぶが一つのひとこぶ駱駝。 「おや、悲しいのかい、痛いのかい? どうしてそんなにわめくんだい?」 鼻を震わせ豚が答えた、 「なぜっておいらは跳べないからさ!」 夢みる目つきで駱駝は眺めた。 「思うに君は太りすぎだね。 こんなにでぶった豚は見たことない―― そんなによたよたふらふらして―― がんばったってできるもんか、 こんな恰好で跳ぶなんて! 「だがあの木立を目指したまえ、 二マイル先のあの茂みだよ。 一日二回往復すれば、 休みも遊びも我慢すれば、 遠い未来に――確信は持てぬが―― 君は跳びごろサイズになるかもね」 豚を残して駱駝は去った、 壊れたポンプのかたわらに。 ああ、恐ろしきは豚の絶望! 悲しみの叫びが空気を満たす。 蹄をひねり、毛をかきむしる、 なぜって豚は跳べないから。 辺りをぶらつく蛙が一匹―― つやつや輝くかたまり発見。 魚眼でそいつを見回して、 「ねえ豚、なんで泣いてんの?」 かくも悲しきは豚の答え、 「なぜっておいらは跳べないからさ!」 蛙はにやにや喜んで、 自分の胸をバンと叩いた。 「ねえ豚、教えてやるよ、 そうしたら見たいものを見られるぜ。 さしあたり、ちっとばかし授業料をくれたら、 跳び方を教えてやるよ! 「何度も落ちて気絶するかも、 何度もぶつかり痣だらけかも。 だがしっかり耐え抜けば、 小さなことからこつこつと、 仕上げにゃ十フィートの壁も、 気づけば跳べるようになるさ!」 豚は驚き喜んだ。 「わあ蛙くん、君こそ偉人だ! ぼくの心の痛みを癒してくれた―― さあ、授業料を言って、跳び方を教えて。 傷ついた心を慰めて ぼくに跳び方を教えてよ!」 「授業料は羊の肉、 目標はこの壊れたポンプ。 軽やかなジャンプをご覧じろ てっぺんまでひとっ飛び! さあ膝を曲げてぴょんと跳ぶんだ、 なぜってそれが跳び方さ!」 豚は立ち上がり、助走をつけ、 壊れたポンプに大激突。 空っぽの袋みたいにへなへなと 背中から地面にすってんころり 途端に骨がこう言った「ピキッ!」 ああそれは死のジャンプでした。  もう一人の教授は詩を暗唱しながら、暖炉に向かい、煙突に頭を突っ込んだ。そのせいでバランスを失い、火のない暖炉に頭から落っこちてしまい、そのままぴくりともしないので、引きずり出すまでしばらくかかってしまった。  だからブルーノはそのあいだにこう言った。「きっと何人くらいのひとびとたちがえんぽちにのぼってるかしりたかったんだよ」  シルヴィーが言った。「煙突よ――えんぽちじゃないわ」  ブルーノが言った。「どーでもいーよ!」  こうしているあいだにもう一人の教授が引きずり出されていた。 「顔が真っ黒であろう!」皇后が心配そうに言った。「石鹸をもってこさせようかえ?」 「いえ、結構です」顔を背けたままもう一人の教授は答えた。「黒というのは極めて高貴な色でございます。それに、石鹸とは水なしでは使えぬもので――」  もう一人の教授はうまいこと聴衆には背を向けたまま、序詩の暗唱を続けた。 小鳥が書く 面白い本を、 料理人に読まるために。 つまりあぶらずに読ませるために―― あぶると本文が、 台無しになるから。 小鳥が吹く 海辺でバグパイプを、 旅人たちの眠る場所で。 「ありがとう! ぞっとするよ! ほら、お駄賃はやるから! もうかまわないでくれ!」 小鳥が入浴する クリーム風呂で鰐と、 幸せな夢のように。 だがそれも長くは続かないように―― 鰐が断食を、 やめないともかぎらない! 陽もかげるころ、駱駝がふらりと 壊れたポンプ辺りまで足を伸ばした。 「ああ心が痛い! 足が痛い! 大事なのは」と駱駝は言った 「もっとふわふわでほっそりすること、 じゃないと跳べないよ!」 豚は石ころみたいにじっとしたまま 手足をぴくりとも動かせない。 たとえ真理がわかったところで 二度とうめきをもらさぬし 蹄をひねってうめきもあげぬ、 なぜって豚は跳べないから。 蛙は何にも言わないで 糞みたいにがっくりしていた。 どうなるかは目に見えている 授業料は手に入るまい―― 悲嘆に暮れて、しゃがみ込む 壊れたポンプのてっぺんで! 「ひげきてきなおはなし! ひげきてきにはじまって、もっとひげきてきにおわっちゃった。泣いちゃいそう。シルヴィーのハンカチかしてよ」 「持ってないわ」シルヴィーは小声で答えた。 「なら泣かない」ブルーノは男らしく返答した。 「まだ序詩はございますが」もう一人の教授が言った。「しかしながら腹が減りました」腰を下ろすとケーキを一切れ大きく切り出し、ブルーノの皿にのせると、自分の空っぽの皿を驚いて見つめていた。 「そのケーキどこから持ってきたの?」シルヴィーがブルーノにささやいた。 「もーひとりのきょーじゅがくれたんだ」 「でもあなた頼んでないじゃない! そんなのわかってるでしょう!」 「たのんでないけど」ブルーノはケーキを口に頬張ったまま答えた。「くれたんだもん」  シルヴィーはしばらく考えてから、どうすればいいかひらめいたらしい。「ふうん、じゃあ私にくれるように頼んでよ!」 「ケーキを堪能しとるようじゃな?」教授が言った。 「それ『食べる』って意味?」ブルーノはシルヴィーにささやいた。  シルヴィーはうなずく。「『食べる』とか『おいしくいただっく』って意味よ」  ブルーノは教授に微笑んだ。「たんのーしてるよ」  その言葉をもう一人の教授が聞きつけた。「おぬしは口も堪能のようじゃのう?」  ブルーノはびっくりして恐ろしげな目つきを返した。「ううん、そんなわけないじゃん!」  もう一人の教授はすっかり弱り切ってしまい、「まあええ、まあええ! 桜草のワインはどうじゃ!」と言って、グラス一杯に注いでブルーノに差し出した。「飲んでみなされ、別人になったような気分じゃぞ!」 「誰になるの?」ブルーノはグラスに唇を押しつけたままためらった。 「質問ばっかりしないの!」シルヴィーが割って入り、哀れな老人を混乱の極致から救おうと試みた。「教授にお話を聞かせてもらいましょう」  ブルーノはその考えに飛びつき、「おねがい!」とせがんだ。「トラのおはなし――それと、ぶんぶんミツバチ――それと、コマドリ、ね!」 「なぜいつも生き物の話ばかりなんじゃ?」教授が言った。「事件とか出来事の話ではいかんのか?」 「だったらおねがい、そーゆーおはなしを考えてよ!」  教授はすらすらと話し始めた。「むかしむかし、偶然が些細な事件と散歩しておった。で、二人は解釈と出会った――たいそう古い解釈じゃ――あまりに古かったので完全に分裂し、ほとんど謎々みたいに見えた――」教授は突然、話をやめた。 「おねがい、つづけて!」子どもたちが大声で訴えた。  教授は率直に打ちあけた。「話を考えるというのはたいそう難しいことじゃの。まずブルーノが聞かせてくれんか」  ブルーノは大喜びでこの申し出を受け入れた。 「むかしむかし、ブタとアコーディオンとオレンジ・マーマレードのビンが二ついました――」 「それが配役《ドラマティス・ペルソナエ》じゃな」教授がつぶやいた。「ふむ、それから?」 「それで、ブタがアコーディオンをひいていました」ブルーノは続けた。「片方のオレンジ・マーマレードのビンは、その曲がきらいでした。もう片方のオレンジ・マーマレードのビンは、その曲がすきでした――ねえシルヴィー、ぼくぜったいにオレンジ・マーマレードのビンがごっちゃになっちゃいそう!」ブルーノは不安そうにささやいた。 「さて残りの序詩を暗唱させていただきましょう」もう一人の教授が言った。 小鳥が窒息させる 准男爵にパンを詰めて、 射撃を教えた准男爵を。 つまり教えてくれたのは 冬場の鮭の刻み方―― それもただの道楽で。 小鳥が隠す 旅行鞄に罪の証拠を隠す、 幸せな牡鹿に祝福された鞄に。 つまり祝福されたのにぶたれるのは―― 友人たちが食べられるから 名声が衰えると。 小鳥が味わう 感謝の気持ちと黄金を、 急な寒さに青ざめた。 つまり青ざめ、しわ寄せ―― ベルが鳴らされ、 お話が始まります。 「続きましては」豚の尾話への喝采が終わるとすぐに、教授は嬉々として長官に話しかけた。「皇帝陛下の健康を祝して乾杯でしょうな?」 「さようである!」長官は厳かに答え、立ち上がって儀式をおこなうために号令をかけた。「皆さんグラスをお満たし下さい!」という大音声に、誰もがすぐにしたがった。「皇帝陛下の健康を祝して乾杯!」グラスを空ける音が広間にこだました。「皇帝陛下に万歳三唱!」このかけ声を合図に、気絶せんばかりの大声が轟いた。それが終わるとすぐに、長官は驚くほど冷静に発表した。「皇帝陛下のお言葉であーる!」  その言葉が発せられる間もあらば、皇帝は演説を始めていた。「皇帝になるのは嫌じゃったが――皇帝になることを諸君が望んだわけじゃから――知っての通り先の総督がやっておったことはひどいもので――諸君が見せてくれたような熱意で――総督は諸君を迫害しておった――重すぎる税を課し――誰が皇帝にふさわしいか諸君は知っておったわけじゃ――我が兄は判断力がなく――」  この珍妙な演説がいつまで続くはずだったのかはお伝えできない。なぜならちょうどそのとき一陣の嵐が宮殿を土台から揺るがしたため、音を立てて窓がバタンと開き、明かりがいくつか消え、埃が宙にもうもうと立ち込めて奇妙な形を取ったが、それはどうやら文字を形作っているようだった。  だが嵐は起こったときと同じく不意に止んだ――窓はふたたび元の場所に収まり、埃も消えていた。すべてが一分前と何ら変わりはなかった――ただし皇帝と皇后だけは別で、この二人には驚くべき変化が訪れていた。空虚な眼差し、無意味な笑みは姿を消していた。この見慣れぬ二体の存在が正気を取り戻したのは誰の目にも明らかだった。  皇帝は何の邪魔も入らなかったかのごとく演説を続けていた。「そして我々は行動いたしました――妻と私は――根っからの悪党のように。ほかの表現など見あたりません。兄が去ったとき、諸君は過去最高の総督を失った。私は皇帝になるため諸君を騙すことに全力を尽くしてきた、浅ましい偽善者だ。この私が! 靴磨きになる知恵すらないというのに!」  長官が絶望して両手を揉み合わせた。「陛下は狂気に見舞われたのだ、諸君!」長官も口を開いたが、二人の演説は突然やんだ――そして、死んだような静寂のあとに、ドアを叩く音が聞こえた。 「何なんだ?」人々は叫んで、行ったり来たりし始めた。徐々に興奮してきた長官が、宮廷作法などすっかり忘れて、全速力で広間を走り抜け、すぐに戻ってきたときには真っ青になって息を切らしていた。 第二十四章 乞食の帰還 「皇帝陛下!」長官が叫んだ。「またあの乞食でございます! 犬をけしかけましょうか?」 「ここに連れてこい!」皇帝が言った。  長官は自分の耳が信じられなかった。「ここにでございますか? わたくしの聞き違いで――」 「ここに連れてくるんだ!」皇帝はふたたび怒鳴った。長官はよたよたと広間を通り抜け抜け――間もなく人混みが割れて、老いた乞食が晩餐会場に入ってくるのが見えた。  老人はまったく哀れそのものだった。身体に引っかかったぼろ切れは泥だらけ。白い髪と長い髭はぼさぼさでぐちゃぐちゃだった。それにもかかわらず、背筋を伸ばした堂々とした足取りには、指示を出すのに慣れているようなところがある。そして――不思議このうえないのは――シルヴィーとブルーノが老人の両手にしがみつき、落ち着いきのある愛情あふれた眼差しで見つめていることだった。  図々しい闖入者を皇帝がどう扱うつもりなのかと、会席者の熱い視線が注がれていた。壇上から投げ飛ばすつもりだろうか? だが違った。誰もが驚愕したことに、乞食が近づくと皇帝はひざまずき、頭を下げてぼそぼそと声を出した。「お許しください!」 「お許しください!」皇后も夫の横にひざまずいて、おとなしく繰り返した。  浮浪者は微笑んだ。「顔を上げなさい! そなたたちを許すつもりだ!」驚いたことに、そう口にした途端、乞食の姿に変化が訪れていた。泥だらけの汚いぼろ切れに見えていたものが、いつの間にか、金糸の刺繍がほどこされ、宝石で飾り立てられ、まことに王様らしい装飾をまとっていた。もはや誰にも間違いようがない。皇帝の兄である真の総督の御前に人々はひれ伏した。 「弟よ、嫁殿よ!」総督のよく通る声が、大広間の隅々にまで届いた。「邪魔しに来たのではない。皇帝としてこの国を治めてほしい。どうか善政を頼む。私はエルフランドの王に選ばれた。明日からそこに戻って、出直しじゃ、ただ――ただ――」声を震わせ、言い様のないほど優しい眼差しで、しがみついている二人の子どもの頭にそっと手を置いた。  だがすぐに落ち着きを取り戻し、席に戻るように皇帝に身振りで示した。一同はふたたび席に着き――二人の子どものあいだに、妖精《エルフ》の王のための席が設けられると――長官がふたたび立ち上がり、また新たに祝杯をあげようとした。 「続きましては――今日の主役――はて、いらっしゃいませんな!」言いかけた言葉を詰まらせ、いぶかしった。  何ということだ! 誰もが皇太子アグガギのことを忘れていた! 「もちろん晩餐のことは話しておいたな?」皇帝がたずねた。 「もちろんであります!」長官は答えた。「それは金杖官がおこなっているはずです」 「金杖官を呼べ!」皇帝は厳かに言った。  金杖官が前に出た。「わたくしが皇体脂《こうたいし》殿下にお付き申し上げておりました」侍従が震えながら証言した。「講義と晩餐のことをお伝え申し上げましたところ――」 「続きを申せ!」皇帝がうながした。不運な男は怯えきっており、先を続けられなかったのだ。 「皇体脂殿下はすねたように優雅に喜んでいらっしゃいました。皇体脂殿下はわたくしにびんたを食らわし優雅に喜んでいらっしゃいました。皇体脂殿下は『気儘にさせろよ!』と仰り優雅に喜んでいらっしゃいました」 「『気儘』で勝手だと不幸な終わりを迎えるのよ」シルヴィーがブルーノにささやいた。「よくわかんないけど、きっと絞首刑になったんじゃないかしら」  教授がそれを聞きつけて、にこやかに話しかけた。「どうなったかというとな、ただの身元違いの事件だったのじゃよ」  子どもたちはぽかんとしていた。 「こういうことじゃ。『気の儘』と『気の病』は双子の兄弟でな。『気の病』は猫を殺したじゃろ。ところが警察は間違って『気の儘』を捕まえ、代わりに吊してしもうた。だから『気の病』はまだ生きとる。だが兄弟が死んでもうて不幸のどん底でのう。『気の病なんて吹き飛ばせ!』と声をかけるのはそういう事情じゃよ」 「ありがとうございます!」シルヴィーが心からお礼をした。「とっても興味深いお話でした。だって、これであらゆることが説明できちゃいそうなんですもの!」 「さよう、完全にあらゆることとはいかぬがな」教授は控えめに答えた。「いくつか系統立った難問があって――」 「皇体脂のことじゃが、どう思った?」皇帝が金杖官にたずねた。 「本官の思いますところでは、皇体脂殿下はますます――」 「ますます何じゃ?」  誰もが息をひそめて次の言葉を待った。 「ますます刺々しくございました!」 「すぐに連れてこい!」皇帝は叫んだ。金杖官は弾丸のように飛び去った。エルフの王は悲しげに首を振り、「無駄じゃ、無駄じゃよ!」とつぶやいた。「愛がなければ!」  真っ青に震えて口も聞かずに、金杖官がのろのろと戻ってきた。 「ふむ?」皇帝が言った。「なぜ皇太子は来ない?」 「見当はつけられますな」教授が言った。「皇体脂殿下は、間違いなく、憂さ晴らししているのです」  ブルーノは鹿爪らしい顔つきで教授に向かってたずねた。「それどーゆー意味?」  だが教授は質問には気づかず、金杖官の返答に耳をそば立たせていた。 「なにとぞ陛下! 皇体脂殿下は――」だが最後まで言うことはできなかった。  皇后が苦悶に顔をゆがめて立ち上がった。「息子のところに案内しなさい!」という叫びを合図に、出席者たちが出口に殺到した。  ブルーノはすぐに椅子から滑り降りて、「ぼくらも行っていい?」とねだった。だが王は教授としゃべっていたので、聞こえていなかった。「憂さ晴らしですな、陛下! 間違いありませんぞ!」 「ぼくらも見に行っていい?」ブルーノが繰り返す。王がうなずいたので、子どもたちは駆け出して行った。しばらくして戻ってきた二人の足取りは重く、深刻そうだった。「どうじゃ?」王がたずねた。「皇太子はどうしておった?」 「こーたいしは――さっき言ってたでしょ」ブルーノは教授を見ながら答えた。「あのむじかしいことば」そしてシルヴィーに助けを求めた。 「ヤマアラシ」シルヴィーが言った。 「違う、違う!」教授が訂正した。「ウサバラシ、じゃろ」 「いいえ、ヤマアラシなんです」シルヴィーも言い返した。「ほかのどんな言葉でもありません。来ていただけませんか? 家中で騒乱でも起こったみたいになっているんです」(「騒乱鏡もってきたほうがいーよ!」とブルーノがつけ加えた。)  ぼくらは急いで腰を上げ、子どもたちのあとから階上に向かった。誰もぼくには気づいていないのだが、驚くには当たらない。誰にも――シルヴィーとブルーノにさえ――ぼくの姿が見えないのだということはとっくにわかっていた。  皇太子の部屋まで通じている廊下には、興奮した人々があちこちでうなりをあげ、耳を聾さんばかりの声がひしめいていた。戸口では三人の屈強な男がドアに体重をかけて、何とか開くのを防ごうとしていた――なかからは何か大きな動物が、ドアの隙間からしきりに飛び出そうとしている。男たちがなかに押し戻す前に、怒り狂った野獣の頭と、燃えるような目、打ち鳴らす歯がちらっと見えた。その声はいわばごった煮だった――ライオンの咆哮、牡牛の唸り、ときには巨大な鸚鵡のような金切り声。「声からは判断できんのう!」非常に興奮している教授が、「ありゃ何じゃ?」とドアの前にいる男たちに大声でたずねた。大合唱の答えが返ってきた。「ヤマアラシだよ! 皇太子アグガギがヤマアラシになったんだ!」 「新しい標本じゃ!」教授は大喜びで叫んだ。「どうかなかに入らせてくれんかの。すぐにラベルを貼らねばならん!」  だが屈強な男たちに押し戻されただけだった。「ラベルを貼るだと! 食われたいのか?」 「標本のことは気にするな、教授!」皇帝が人垣を押し分けてやって来た。「あやつを保護する方法を教えてくれんか!」 「巨大な檻を!」教授がただちに答えた。「巨大な檻を持ってくるように」と人々に向かって指示を出した。「頑丈な鉄の格子がついておって、鼠取りみたいに落とし戸を上げ下げできるやつじゃ! 誰かそういったものを持っとらんか?」  誰もそんなものなど持っているとは思えなかった。ところがすぐに運ばれてきた。不思議なことに、たまたま回廊の真ん中に一つ置かれてあったのだ。 「ドアの方に向けて、落とし戸を上げるんじゃ!」これはただちに実行された。 「さあ毛布じゃ!」教授が叫んだ。「一番おもしろい実験じゃぞ!」  たまたまそばに毛布が積んであった。教授はほとんどものも言わなかったが、毛布が広げられてカーテンのように吊り下げられた。教授はてきぱきとそれを二列に並べさせ、檻の入り口までまっすぐ続く暗い通路をつくった。 「さあドアを開けるんじゃ!」そうする必要もなかった。三人の男が脇に飛び退けただけで、恐ろしい怪獣は自らドアを開け、蒸気機関の警笛のようなうなり声をあげて檻に飛び込んだ。 「落とし戸を降ろして!」たちまち言葉は実行に移された。誰もがほうっと息を吐き、無事に檻に閉じ込められたヤマアラシを見た。  教授は子どものように喜んで手をこすり合わせた。「実験は成功じゃ! あとは一日三回えさをやればよい。人参を切って――」 「えさのことは気にするな!」皇帝が口を挟んだ。「晩餐に戻ろう。兄上、どうぞお先にお向かいください」老人は子どもたちを連れて、先頭に立って階段を降りた。「愛のない人生がどういう運命をたどるかわかったじゃろう!」ふたたび席に着くと、老王がブルーノに言った。これにブルーノが答えた。「ぼくいっつもシルヴィーを愛してるよ、だからあんなふーにトゲトゲしくなんないもん!」 「確かに刺々しかったわい」最後の言葉を聞きつけて、教授が言った。「だが覚えておかねばなりませんな。ヤマアラシであるとはいえ、まだ皇族なのですぞ! この祝宴が終わったあとで、アグガギ殿下にちょっとしたプレゼントを差し上げに行こうと思う――なだめに行くわけじゃ。檻のなかで暮らすというのは気分のいいものではないじゃろうからの」 「たんじょーびプレゼントになにをあげるの?」ブルーノが訊いた。 「人参用の小皿じゃよ」教授は答えた。「誕生日プレゼントをあげるときのわしのモットーは――安さじゃ! それによって年に四十ポンドは節約しておるはず――おう、何たる痛み!」 「どうしました?」シルヴィーが心配そうにたずねた。 「仇敵じゃよ!」教授がうめいた。「腰痛――リュウマチ――そういったものじゃ。ちょっと横になりに行こうかの」気の毒そうな子どもたちの視線に見送られて、おぼつかない足取りで広間をあとにした。 「すぐによくなるとも!」エルフの王は明るく言った。「弟よ!」と皇帝に向かって話しかけた。「今夜はおまえと話しておかねばならないことがある。皇后は子どもたちを見とってくれ」そして二人の兄弟は腕を組んで立ち去った。  相手をしている子どもたちがずいぶんと悲しそうにしていることに皇后は気がついた。二人とも口にすることといえば「教授」とか「病気なんてかわいそう」ばかりだったので、ついに皇后は「会いに行きましょう!」という喜ぶべき提案を口にした。  子どもたちは皇后が差し出した手をがっちりと握り、ぼくらは教授の書斎に出かけた。教授はソファに寝そべり、毛布をかけ、小さな写本を読んでいた。「第三巻に註釈!」ともごもごとつぶやきながらぼくらを見上げた。かたわらの机に置かれていたのは、初めて見たときに教授が調べていた本だった。 「お元気、教授?」皇后は覗き込むようにしてたずねた。  教授は顔をあげて弱々しい笑みを浮かべた。「皇后陛下に変わらぬ愛を!」教授は弱々しい声で答えた。「わしはいついかなるときでも、腰痛ではなく、用人であります!」 「素敵なご挨拶ね!」皇后の目に涙が浮かんだ。「バレンタインにだって、そんなすばらしいことはめったに聞けないわ!」 「海辺で過ごされた方がいいんじゃありませんか」シルヴィーがいたわりを見せた。「そうすればもっと良くなりますよ! それに海は大きいし!」 「でも山はもっとおっきーよ!」ブルーノが言った。 「海の何が大きいと言うのかね?」教授が言った。「いやいや、ティーカップに海をすべて入れることもできよう!」 「一部を、ですよね」シルヴィーが訂正した。 「なんの、海をすべて入れるとなれば、ある程度のティーカップが必要なだけじゃ。では最も大きいのはどこか? 山ならどうか――ふむ、手押し車で山をすべて運ぶこともできような。ある程度の年月をかければのう!」 「大きそうじゃありませんね――手押し車にひとかけらあるだけだと」シルヴィーは素直に認めた。 「でもまたぜんぶよせあつめにすれば――」ブルーノが言いかけた。 「年を取れば」教授が言った。「また寄せ集めて山にするのが、そう簡単にはいかないこともわかるじゃろうて! 人は生き、人は学ぶ、じゃよ!」 「でもそれ、おんなじひとじゃなくていーんじゃないの? ぼくが生きて、シルヴィーが学んだらどう?」 「生きてないのに学ぶことなんかできないじゃない!」 「でも学ばなくても生きることはできるでしょ!」ブルーノも言い返した。「ためしてみよーよ!」 「わしが言ったのは、つまり――」教授は弱り切って口を開いた。「――つまり――何もかも知っているわけでないのは知っているな」 「でも知ってることはなんもかも知ってるよ!」ブルーノも言い返した。「もうたっくさん知ってるんだから! なんもかも知ってるよ、知らないこと以外はさ。そいで、のこりはシルヴィーが知ってる」  教授はあきらめてため息をついた。「ブージャムが何か知っとるかね?」 「うん知ってる! ブーツを引き剥がすやつでしょ」 「『ブーツジャック』のことだと思います」シルヴィーが小声で説明した。 「ブーツを引き剥がすことなどできんじゃろうて」教授が優しく言った。  ブルーノは馬鹿にしたように笑った。「そんなことないよ! ブーツがとってもにきつすぎなければね」 「むかしむかしブージャムがおって――」教授が話しをしかけたが、突然やめてしまった。「残りを忘れてしもうた。この寓話から学ぶ教訓もあったんじゃが。残念ながら、それも忘れてしもうた」 「ぼく、ぐーわ知ってる!」ブルーノは大急ぎで話し始めた。「むかしむかしイナゴとカササギときかんしがいました。きょーくん、はやくおきなさい――」 「全然おもしろくないじゃない!」シルヴィーがケチをつけた。「いきなり教訓なんて」 「その寓話はいつ出来たのかね?」教授がたずねた。「先週かの?」 「ううん!」ブルーノが言う。「それよりもっとかなりさいきん、もーいちど考えてみて!」 「わからんわい」教授が答えた。「いつごろじゃの?」 「あのね、まだできてないんだ!」ブルーノが勝ち誇って叫んだ。「でもすっごくいいのが一つできたるんだ! 聞きたい?」 「とっくに出来てるのならね、教訓は『何度もチャレンジせよ』にしましょう!」とシルヴィーが言った。 「だめだよ!」ブルーノはかたくなだった。「きょーくんは、『何度もチャレンジするな』だもん! むかしむかし、すてきな瀬戸者がいました。だんろの上に立ってました。今日も立ってました。明日も立ってます。ある日ころがっておちて、ちょびっとすこしけがになりました。もういちどだけチャレンジしようとしました。こんどもころがっておちてしまい、とってもにたくさんけがになって、とっても塗りがはげました」 「でも最初に転がり落ちたあとで、どうやって暖炉の上に戻ったのかしらね?」皇后がたずねた。(生涯で初めての分別ある質問だった。) 「ぼくがのっけたげたんだ!」 「ではなぜ転がり落ちたのかも知っておるじゃろ」教授が言った。「おぬしがぶつかって落としてしもうたな?」  ブルーノは懸命になって言い返した。「そんなにぶつけたりなんかしてないよ――すてきな瀬戸者でしたとさ」大急ぎでつけ加えたのは、話題を変えたかったのが見え見えだった。 「さあ、おいで!」エルフの王が部屋に入ってきた。「寝る前にちょっと話しておかねばならないことがある」と言って連れて出そうとしたが、二人は戸口で手を離し、教授におやすみを言いに戻った。 「おやすみなさい、きょーじゅ、おやすみ!」ブルーノが老人の手を心をこめて握ると、老人はにっこりと笑って見つめ返した。シルヴィーは腰を曲げて教授の額に可愛らしい唇を押し当てた。 「おやすみ!」教授が言った。「ではそろそろ一人にしてくれんか――いろいろ考えることがあるのでな。何か難しい問題を考えなくてもよければ、わしも陽気な人間なのじゃぞ。結局のところ」ぼくらが部屋を出るとき、教授が眠たげにつぶやいた。「わしゃあ、好々爺じゃない、ルサンチマンに苦しんどるんじゃよ!」 「教授はなんて言ったのかしら、ブルーノ?」声の届かないところまで来てから、シルヴィーがたずねた。 「たぶん、『結局のところ、わしは骨折じゃない、リュウマチに苦しんでるんじゃよ』じゃないかな。あの叩いてるの、なんの音だろう、シルヴィー?」  シルヴィーは立ち止まって不安そうに耳を澄ました。ドアを蹴るような音がする。「ヤマアラシが逃げ出したんじゃなきゃいいけど!」 「行ってみよーよ!」ブルーノがせかした。「待っててもしょーがないもん!」 第二十五章 死から飛び出した生  蹴るような叩くような音は、だんだんと大きくなる。ついにどこか近くのドアが開いた。「『どうぞ!』と仰いましたよね?」女将がおそるおそるたずねた。 「ああ、ええどうぞ!」ぼくは答えた。「どうしたんです?」 「手紙があったんですよ、パン屋の坊主からです。館《ホール》に立ち寄ったら、ここを回ったときに届けてくれるよう頼まれたんですって」  手紙はたった二言だけだった。「すぐにきてください。ミュリエル」  不意に恐ろしい予感に駆られて心臓がちぢみあがった。「伯爵の具合がよくないんだ! 危ないのかもしれない!」と口のなかでつぶやき、大急ぎで出かける準備をした。 「悪い報せじゃないでしょうね?」出がけに女将さんが訊いた。「誰かが突然やって来たとか、坊主は言ってましたけど――」 「悪い報せじゃないと祈ってますよ!」そうは言ったものの、ぼくは祈るというより恐れていた。だがなかに入ってみると、幾分ほっとしたことに旅行鞄が玄関に置いてあって、それには「E・L」というイニシャルがついていた。 「なんだエリック・リンドンだったのか!」ぼくの心のなかでは、安心と戸惑いが半ばしていた。「そんなことで呼び出す必要はないじゃないか!」  廊下でミュリエル嬢と出くわした。目がうるおっていたが――悲しみのせいではなく、喜びで感極まっているのだ。「驚かせてしまったみたいですね!」とミュリエル嬢が小さくささやいた。 「エリック・リンドンが来たということですか?」ついつい嫌味な調子になるのを止められなかった。「『葬式に用うた其の炙肉をばそのまま婚礼の膳部へも廻す冷いもてなし』ですか」と暗唱せ…ずにはいられなかった。何と残酷な誤解をしてしまったのだろう! 「違うんです!」ミュリエル嬢が必死に訴えた。「それは――エリックはここにいます。でも――」声が震えた。「でもほかにもいるんです!」  それ以上の質問は無用だ。ぼくは気もそぞろにミュリエル嬢についていった。ベッドに横たわっていたのは――青ざめてやつれており――昔ながらの本人と比べればただの抜け殻だが――昔ながらの友人が、死から舞い戻ってきたのだ! 「アーサー!」と声をあげるほかは何も言えなかった。 「ええ、戻ってきたんです!」手を握ると微笑んでつぶやいた。「この人が」と、そばに立っていたエリックを指さした。「命を救ってくれたんです――連れて帰ってくれたんです。エリックは神さま同然だよ、感謝しなくてはね、ミュリエル!」  ぼくは黙ってエリックと伯爵の手を握った。三人で部屋の日陰側に移動することにした。そこでなら話をしても病人の邪魔にならない。横たわるアーサーは何も言わず幸せそうに妻の手を握り、見つめる目には変わらぬ深い愛の光がきらめいていた。 「今日まで錯乱状態だったんです」エリックが小声で説明した。「それどころか今日だって一度となく正気を失っていたんです。ところがミュリエルの姿こそ、アーサーには新しい命だったんですね」それからもエリックは話し続けた。何でもなさそうな調子で――アーサーがどんな感情も見せようとはしなかったこと。伝染病に襲われた町に戻るんだと言い張っていたのは、もう助からないからと医者に見捨てられた人を連れに戻るためで、病院に連れて来さえすれば回復するかもしれないと思ったからだということ。やつれた顔にはアーサーを連想させるようなところは一つも見当たらなかったので、一月後に病院を訪れるまでまったく気づかなかったこと。ショックを与えると脳に負担がかかりすぎて死んでしまうかもしれないので、気づいたことを本人に伝えないように医者に言われたこと。病院に泊まり込んで昼夜かかさず病人を看護したこと――エリックはこうしたことをすべて、何でもないことのように話していた。たまたま遭遇したので当たり前のことをしたまでだとでもいうように。 「これが恋敵だろうか!」と、ぼくは考えた。「愛した女性の心を奪った男だというのに!」 「日が暮れますね」ミュリエル嬢が立ち上がって、開いている窓まで歩いていった。「あの西の空を見てください! きれいな夕焼け! 明日は素晴らしい日になるわ――」ぼくらも部屋のなかを移動して、ひとかたまりになって立ちつくしたまま、夕闇の深まるなか低い声で話をしていた。そのとき病人が何かつぶやいたのでびくっとさせられたが、だいぶ不明瞭だったので聞き取れなかった。 「またうわごとを言っているんです」ミュリエル嬢がささやいて枕元に戻った。ぼくらもそのあとを追った。だが違った。錯乱などではなかった。「主はわたしに報いてくださった」という言葉が震える唇から洩れていた。「わたしはどのように答えようか? 救いの杯を上げて、主の――主の――」だがここで弱った記憶はついえ、か細い声も途絶えた。  妻は枕元にひざまずき、腕を取って、自分の腕を巻きつけるようにすると、ぐったりとした白い手を温かく握りしめ、優しくキスをした。暇乞いのやり取りをせ…ずにそっと立ち去るにはちょうどいい機会だと思われた。そこで伯爵とエリックにうなずくと、ぼくは静かに部屋を出た。エリックもぼくのあとから階段を降りて夕闇のなかに出た。 「生か死か、ですね?」家から充分に離れて普通の声で話しても問題ないと思ったころに、ぼくはたずねた。 「生ですよ!」力強い答えが返ってきた。「医者も同じように言ってます。差し当たって必要なのは休息だそうです。完全な安静と充分な看護。ここでなら確かに休息も安静も手に入れられます。看護は言うに及びませんね、これ以上は考えられないほど――」(声が震えているのはふざけているからだと思わせようと頑張っているのがわかった。)「自らの城で、充分すぎるほどの看護を受けられることでしょう!」 「その通りだ!」ぼくも言った。「よく言ってくれました、ありがとう!」エリックは言わなくてはならなかったことをたった今すべて言ったのだと考えながら、ぼくは手を差し出して別れの挨拶をした。エリックそれをしっかり握ってから、顔をそむけてつけ加えた。「ところで、話しておきたいことがもう一つあるんです。たぶんお知りになりたいのではないかと――ぼくは――ぼくらがこのあいだ会ったときの、あれは本心じゃありません。つまり――キリスト教の信仰を受け入れられるというのは――少なくともまだ受け入れられません。でも不思議なことに何もかも起こったのは事実なんです。ミュリエルは祈りました。ぼくも祈った。そして――そして」声が途切れたので、聞き取れたのは最後の一言だけだった。「祈りに答える神はいるんです! 今ではぼくも確信しています」エリックはもう一度手を握ると、ふいと去っていった。こんなに深く感動しているエリックを見たのは初めてだった。  そんなわけで、深まりゆく薄明のなかを、幸せな思いにかき乱されながらゆっくりと家路についた。心は満たされ、喜びと感謝ではちきれそうだった。ぼくが心から求めてきたもの、祈ってきたものがすべて、とうとう実現したような気がした。誠実なミュリエル嬢に対して一瞬でもさもしい疑いを抱いたことで、自分をひどく責めたはしたが、それが一時のことでしかなかったとわかっているのが慰めだった。  たとえブルーノであってもはずむような足取りで階段を上ることはできなかっただろう。ぼくは暗闇のなかを手探りで進んだ。部屋にランプがつけっぱなしなのがわかっていたので、玄関で立ち止まって明かりをつけたりはしなかった。  だが足を踏み入れてみると、ランプの明かりがどこかおかしい。奇妙で見慣れぬ、淡い魔法のような幻想的な感覚が辺りを覆っていた。どんなランプよりも明るい黄金色の光が部屋にあふれ、なぜかそれまで存在に気づきもしなかった窓から流れ込んでいる。三つの人影が明かりに照らされ、すぐにはっきりと姿を見せた――王衣をまとった威厳のある老人が肘掛椅子に背を預け、二人の子ども、女の子と男の子が、かたわらに立っていた。 「まだ宝石を持っているかな、シルヴィー?」老人が口を利いた。 「ええ、もちろん!」シルヴィーの声には珍しく興奮の色が感じられた。 「失くしたり、忘れてたりしたとでも思ったの?」シルヴィーは首飾りをはずし、父の手に宝石を置いた。  ブルーノが目を丸くしてそれに見入った。「すっごくきらきらしてる! あかいお星さまみたい! 持ってもいい?」  シルヴィーはうなずいた。ブルーノは窓のところに宝石を持っていき、空にかざした。紺青の空にはすでに星がきらめいている。ブルーノはすぐに興奮して戻ってきた。「シルヴィー! 見て! そらにもちあげたら、すかして見れるんだ。そいでちっとも赤くないや。ほら、きれいな青いろ! もじもぜんぜんちがってる! 見てよ!」  そのころにはシルヴィーもすっかり興奮していた。二人は競って宝石を明かりにかざすと、刻まれた文字を読み上げた。「皆、シルヴィーを、愛す」 「これもういっこのほうせきだ!」ブルーノが叫ぶ。「おぼえてる、シルヴィー? えらばなかったほうのやつ!」  シルヴィーは戸惑いながら宝石を受け取り、光にかざしたり降ろしたりした。「こうすると青いわ」シルヴィーはそっとつぶやいた。「でもこうすると赤い! 赤と青の二つともあったのね――お父さま!」シルヴィーは声をあげて宝石を父の手に戻した。「ずっと一つの同じ宝石だったんだわ!」 「てことはそれからそれをえらんだったんだ」ブルーノが考え込んだ。「おとーさん、えらんだものからえらんだものをえらべたりできるの?」 「ああ、そうだよ」老人はシルヴィーに答えたものの、ブルーノのややこしい質問には気づかなかった。「同じ宝石だった――だがおまえはちゃんと選んだのだ」そしてふたたび宝石をシルヴィーの首にかけて紐を留めた。  「シルヴィーは、皆を、愛す――皆は、シルヴィーを、愛す」  ブルーノがつぶやいて、「赤いお星さま」にキスしようと背伸びした。「ふつーに見てたら、たいよーみたいにあかく燃えてるのに――かざして見たら、そらみたいにしずかな青なんだ!」 「神渡る空よ」シルヴィーがうっとりした口調で言い直した。 「かみわたるそら」ブルーノも繰り返した。二人は寄り添って立ったまま、夜空を眺めていた。「でもさ、シルヴィー、あんなすてきなあおいそらって、なにでできてるの?」  シルヴィーの愛らしい唇が動いてそれに答えたが、その声はかすかにしか聞こえなかったし、どんどん遠のいていた。目の前の景色もあっという間に過ぎ去っていった。だがあわただしい最後の一瞬、シルヴィーではなく天使が真摯な茶色の瞳越しに眺めているのが、シルヴィーではなく天使の声がささやいているのが聞こえたような気がした。 「愛よ」 シルヴィーとブルーノ完結編 終