ファンタスマゴリア〜幽幻燈記〜 ルイス・キャロル/wilder訳 目次 第一篇 出逢ひ 第二篇 伍原則 第三篇 小競り合ひ 第四篇 學校 第五篇 言ひ争ひ 第六篇 手違ひ 第七篇 悲しき思ひ出 凡例 第一篇 出逢ひ 冬のある晩、九時半のこと、 寒くてうんざり、ひどい雨。 家に戻れど、飯には遅い、 煙草とワイン、それにおやつが、 書斎で帰りを待っている。 書斎の中がなんだかおかしい、 何か白いのが揺らめいて 暗がりの中、そばにたたずむ―― 絨毯用の箒だろうな うっかり女中の忘れ物。 ところがじきにまさしく〈もの〉が ぶるぶる震えてくしゃみした。 言ってやったよ、「おいおい君っ! ちょっと不作法はなはだしいぞ。 できれば静かにしてくれよ!」 「風邪ひいちゃって」〈もの〉がしゃべった、 「あそこに上陸した時に」 えっと驚き目を凝らしたら、 まさに目の前、真っ正面に、 チビの幽霊が立っていた! 目が合うとすぐ彼は震えて、 椅子の裏側に身を隠す。 「どうやって来た? それにどうして? こんな照れ屋は初めて見るよ。 出ておいで! ほら震えないで!」 「来た方法も、理由の方も、 いっさい残らず話します。 でも」(と一礼)「お見受けすると かなり機嫌が悪そうですし、 すべてを嘘だと思われる。 「怖がっている理由について、 言わせていただけますならば われら幽霊、あらゆる点で、 人が闇夜を恐れるように、 明るいところを恐れます」 「君がそんなに怖がっている 言い訳にしてはつたないね。 出たくなったら幽霊は出る、 ところが人は幽霊たちの たっての見舞いを拒めない」 「怖さのあまり震えますのは おかしなことではないでしょう? あなたが悪い人かも知れず。 でも穏やかな方に見えるし、 出てきた理由を申します。 「失礼ながら、家というのは、 暮らしております幽霊の 数にしたがい分類します。 (住人などは、石炭・薪に 負けないくらいに{価値がない})。 「去年の夏に越してきたとき、 一幽霊の家でした、 新入居者を迎えるために 力を尽くす幽鬼のやつに もしやお気づきになったかも。 「邸などでは恒例ですが―― ところがどっこい安下宿。 なにしろ部屋が一つきりだと、 愉快なことも少ないものの、 妥協しなければなりません。 「当の幽鬼は三度でさらば―― それから取り憑くものもなし。 言伝すらもないままなので、 やりたいのなら誰でもいいと 耳に入れたのもひょんなこと。 「言うまでもなく空き家に入る 第一候補は幽鬼です。 幻妖、悪魔、精霊、小人―― 上手くいかずば、知己の中から 優しい悪鬼を呼んでくる。 「幽鬼が曰く、場所が低い、 あるのは腐ったワインだけ。 かくしてまずは、この幻妖の、 出番となったわけなのですが、 断わることなどできません」 「きっとみんなは最適任の やつを選んだに違いない。 だが四十二歳《しじゅうに》のぼくのところに、 こんな坊やを送り込むとは、 あまり誉められたものじゃない!」 「お思いほどに」彼が答えた、 「わたしは若くはありません。 実は岸辺の鍾乳洞や、 いろんな場所であれこれ試し、 経験を多く積んでます。 ですがわたしは屋内だけは ついぞ経験がございません、 あわてたあまり、みんな知ってる 儀式作法の五大規則を すっかり忘れておりました」 ぼくはみるみるこのチビ助に 深い同情を寄せだした。 とうとう人と出会ったために、 飛び上がるほどギョッと驚き おどおどがくがく怯えてる。 「まあとりあえず、幽霊だって {しゃべる}とわかって嬉しいよ! どうか座って。おそらく君も (ぼくと同じく飯がまだなら) 一口二口ほしいだろ。 「一見すると、君は何かを {食する}ようには見えないが! どうか話を聞かせてほしい―― 全部すっきり話してくれよ―― さっき言いかけた五原則」 「感謝! 追々お話しします。 なんともかんとも運がいい!」 「何を食べたい?」ぼくはたずねた。 「親切心に大いに甘え、 鴨肉一切れ、お恵みを。 「ただ一切れを! でもそのほかに 肉汁一滴くれますか?」 座って彼をそっと見つめた、 だってこんなに白くて揺れる ものを見たことは初めてだ。 ますます白くなるようだった、 ますます霞んで、ゆらゆらと―― 暗闇の中、瞬き始め、 始めましたる物語こそ 〈立ち居振る舞いの五原則〉。 第二篇 伍原則 「まず始めに」と、彼は始めた、 「謎かけなどではないですが―― 目指す〈相手〉がベッドにいれば、 枕のそばの天幕じゃなく、 真ん中あたりをつまむこと、 「手当たりしだい引っ張りながら、 ゆっくりあちこち揺らします。 あっという間に、必ず彼は、 頭を起こしきょろきょろと 不機嫌ながらも不思議顔。 「何よりここでおざなりじゃなく 観察しなけりゃなりません。 開始するのは相手待ちです。 幽霊なんかいるわけないと 誰もが思って口をきく。 「『どうやって来た?』と言われたときは ({あなたと}おんなじタイプです) そんなときには言うのはひとつ―― これが正しい答え方です 『{蝙蝠《かはほり》に乗りて。怨めしや!}』 「そのあと何も言われなければ、 要らぬ努力など端折るのが 一番でしょう――ドアを揺すって、 それでイビキをかかれたときは、 縮尻ったというわけですよ。 「昼の日中に一人っきりで―― お家で過ごすか散歩なら―― 虚ろな声を出すだけでいい、 声の調子に思いを込めて 話があるぞと言うばかり。 「でも友だちと一緒のときは ことは果てしなく難しい。 そんな場合にうまくやるには 必要なのはちびた蝋燭、 冷蔵庫にあるバターも良し。 「これを使ってつるりとひとつ (一番いいのはそりゃ脂)、 足のすべりをなんとか良くし、 あとは左右に揺れ動くだけ―― こつは簡単に学べます。 「第二の法を教えてくれる 唱えて吟ずる公式は―― 『まず青・赤の光を燃やし、 (今夜はまるで忘れてました)、 『次いでドア・壁をかきむしれ』」 「ガイ・フォークスを真似る気ならば、 もう二度と{ここ}に来ちゃだめだ。 床で火をたくつもりはないよ―― ドアをキーキー引っ掻くのなら、 やってるところを見てみたい!」 「さて第三に書かれてるのは 〈相手〉の権利を守ること、 その戒めを思い起こせば、 {敬意をもって扱いたまえ、 ゆめゆめ反抗するなかれ}」 「重さを量る数式みたいに ぼくにもすっきりよくわかる。 ただ願わくば幽霊たちが 君の話したその原則を {忘れず}覚えていてほしい!」 「どうも{あなた}のもてなし方は のっけからすでに違います。 幽霊たちが本能的に 嫌がるものは、真心こめた もてなし方さえ出来ぬやつ。 「霊に向かって『もの!』と呼んだり 斧をふりかざすつもりなら、 王に許しの出ているとおり {形式的な}会話をやめて―― 必ずや罰を与えます! 「さて第四は、他霊《たにん》が泊まる 宿を侵したりするなかれ。 罪の宣告受けた奴らは (王の赦しが出ない限りは) 逃げるひまもなくメッタ斬り。 「つまり『微塵にメッタ斬り』です。 幽霊はすぐによみがえる。 痛みはとんとないも同然―― せいぜいがとこ、いわくいわゆる 評論家たちに『メッタ斬り』。 「第五番目は残らずすべて 聞きたいのではと存じます。―― {王を『陛下』とお呼びすること。 これは忠義な廷臣により、 法の要求とするところ。 「だけどまだまだ徹底的に 礼を尽くさんとするのなら、 『わが魔王さま!』とお呼びすること。 答えるときはいつも決まって 『黒王陛下』と応うこと。} 「残念ですが喉がからから、 あんまり話をしすぎかな。 どうですあなた、よろしかったら、 ビールを一つ交わしませんか―― こいつはずいぶん美味しそう。」 第三篇 小競り合ひ 「だけどほんとにこんな雨夜に、 とことこ歩いてきたのかい? 霊は飛べると思っていたよ―― 空高くとは言わないまでも、 かなりの高さを飛べるとね」 「王にとっては何事もなし 地上をふわりと飛ぶことは。 でも幻妖は羽根が必要―― 楽しいことはどれでも同じ―― 必要以上に金を食う。 幽鬼たちなら金持だから 精霊たちから羽根を買う。 でも我々は地上を好む―― 彼らは嫌な奴らなんです、 ほかのみんなからしてみると。 「なにせ驕りはないと言いつつ 幻妖と会った時なんて 頭ごなしに軽蔑してる―― チャボのことなど歯牙にもかけぬ 七面鳥かと思うほど」 「きっと驕りが強すぎるから こんな住まいには来ないんだ。 ねえ、どうやって、そんなに早く 『場所は低い』し、『ワインはみんな 腐っている』ってわかるのさ? 「|ロンドン警視庁《ヤード》の鬼のコボルトが来て――」 幽霊のやつが言いかけた。 ちょっと待ってよ――「ヤードの鬼が? 鬼警部とは変わった霊だ! 詳しい話を聞きたいな!」 「やつの名前はコボルトといい、 幽鬼一族の一人です。 見かける時はいつも同じ、 黄色いガウン、真っ赤なベスト、 横縞模様の就寝帽。 「やつの任地はブロッケン山、 けれどたいそうな風邪をひき。 イギリスに来て療養中に、 {喉が渇いて}仕方がなくて、 ぶつぶつ文句を言うのです。 「風邪が治ると、曰くワインが 骨を温める秘酒代わり。 三食つきの宿がやつには 願ってもない憩いの住処、 ゆえに人呼んで{宿の鬼}」 我慢だ我慢――男らしくね―― こいつは苦しいシャレだなあ! このうえもなくご機嫌だった ぼくの気分も、霊が無礼な 批評を始めるまでのこと。 「コックが手抜きしたわけじゃない。 けれども教えた方がいい 料理の味は{濃い}方がいい。 どうして薬味を手の届かない ところに仕舞って置くのかな? 「ここの下男は給仕のように 金を稼ぐのは無理でしょう! 焦がしちゃっても妙じゃないでしょ? (限度を超えた下手くそなので 人事担当も要りません。) 「鴨は柔らか、でもおつまみは とんでもないほど古びてる。 よけりゃ覚えておいてください、 {今度}チーズをあぶったときは、 冷やさないように頼みます。 「いい小麦粉をぐんと使えば 素晴らしいパンもできるはず。 ここに置いてるインクのような 飲み物ですが、{まさか}あなたは 酸っぱくないとか言うつもり?」 興味深げに見回してから、 「なんてこったい!」とつぶやくと すぐに批評の続きを始め―― 「あなたの部屋は勝手が悪い。 居心地も悪くゆとりなし。 「あんな小さい窓ならきっと、 夕陽の射すのが関の山――」 「だけどいいかい」僕がさえぎる。 「設置したのはあのラスキンを 信頼している建築家!」 「誰であろうと、どこぞの誰を 信頼しようと存じません! どんな決まりによるものであれ、 お化け暮らしをしてきたなかで 見たことないよなヘボ仕事。 「こいつは旨い葉巻ですねえ! 一箱おいくらするんです?」 僕はうなった。「どうでもいいさ! いつのまにやら従兄弟みたいに 馴れ馴れしいにもほどがある! 「{我慢するのも}もうこれまでだ、 この際はっきり言っとこう」 「とても楽しくなったことだし!」 (ワインボトルを手に持ちながら) 「{それじゃあ}準備はいいですか!」 その時やつが狙いをつけて、 元気に叫んだ「よし行こう!」 ぼくはなんとか避けたかったが、 途端に鼻の真ん真ん中に、 どうしたわけやら大当たり。 ほとんど何も思い出せない 覚えているのはこんなこと、 床に座って繰り返してた、 「二ぃたす五ぉは、四なんだけど、 五ぉたす二ぃだと、六なのだ」 経験したり、空想したり したことすらない時が経つ。 わかってるのは、気がついたとき、 置きっぱなしのランプがぽつり―― 炎がだんだん弱くなる―― 湧き出る霧の向こうでやつが 微苦笑するのが見えるよう。 気づいてみれば、子どもみたいに ぼくはあいつの一生涯に ついての授業を受けていた。 第四篇 學校 「幼い頃は日々毎日が、 楽しくて仕方ありません! 好きな柱に腰を下ろして、 バタ付きパンにぱくつきながら 紅茶をもらっておりました」 「今の話は本で出てるぞ! そうじゃないなんて言わせない! 時刻表《ブラッドショー》に負けず有名!」 (困ったように霊は答えた、 そんなことないと思います)。 「マザーグースじゃなかったろうか? 自信はないけど、確かこう―― 『三匹のチビ幽霊々が』 『柱々に』腰を下ろして、 『バタつきパンパン』食べていた。 「本も持ってる。信じないなら――」 棚を探そうと振り向いた。 「待ってください! 本は無しです。 思い出すのもやっとでしたが、 あれを書いたのはわたしです。 「『マンスリー』誌に掲載したと 編集者からは聞きました。 それを目にした文学者から、 掲載された雑誌に合わせ 改竄されたと聞きました。 「わたしの父は座敷童で、 森の妖精が母でした。 母の頭に浮かんだことは、 化ける手順を教えたならば、 子どもは幸せつかむはず。 このひらめきにすっかり夢中。 始めるやいなや一人ずつ よい才能を引き出しました―― まずは妖精《ピクシー》、お次は仙女《フェイズ》、 もひとつおまけに泣き女。 「夜叉と水虎は学校に行き いろいろ苦労をかけました。 騒がし霊と悪鬼の次は、 (規則破りの)トロルが二匹、 悪魔一匹に離魂霊―― 「(嗅ぎ煙草なぞ棚にあったら」 あくびをしながら言うことにゃ、 「ひとつ下さい)――次は精霊、 そして幻妖(このわたしです)、 そしておしまいに靴小人《レプラコン》。 「いつもどおりに白衣姿の 幽鬼が呼ばれた時のこと。 広間に行って覗きましたが、 まるで見分けがつかないんです、 見知らぬ姿に見えました。 「不思議なことに、どうしたわけか、 頭と袋に見えました。 ところが母が見るなと言って、 わたしの髪を引っ張ってから、 背中をごつんと撲つんです。 「以来わたしは願ってました、 幽鬼に生まれて来たかった。 でも無駄でしょう?」(大きく吐息。) 「{やつらは}霊のエリートたちで、 {わたしたち}などはシカトです。 「幻妖としてやがて旅立ち。 やっと六歳になったころ、 ある先輩と一緒にでした―― 最初のころは楽しかったし、 悪戯もうんと教わった。 「牢屋や城や塔に取り憑く―― 行けと言われればどこにでも。 じっと座って吼えていました、 ざんざん降りにぐっしょり濡れて、 胸壁の上におりました。 「声を出すとき吼えうめくのは かなり古くさいことですが。 これはまったく新しいやつ――」 ここで(骨までぼくは震えた) {ぞっとするような}叫び声。 「たいしたことじゃないかのように 聞こえたのではないですか? ではご自分でお試しなさい! 一年くらいかかりましたよ、 絶えず練習を重ねても。 「叫ぶ秘訣を身につけてから、 さめざめ涙が落ちたなら、 それが始めのほぼ第一歩。 よければやってみて下さいよ! おそらくかなりの一仕事! 「やったわたしに言えますことは あなたには無理な手ごわきり ゅうぎ。休まず練習しても、 そっちの方の才能だとか、 天賦の技術がないかぎり。 「シェイクスピアが書いております、 かつての時代の幽霊を、 『ローマの街でおめき叫び』と。 ご記憶でしょう、帷子姿―― 寒いとわかっていたんです。 「わたしも布《きれ》に十ポンド出し、 離魂霊みたく着てました。 でも一陣の風でわかった、 この問題の答えとしては あんまり役には立ちません。 「名案だった願い事すら 請求の山がかき消した。 準備するのがいつでも鬼門。 やりたいことがたくさんあれば、 欠くべからざるは、お金です! 「幽霊塔の場合だったら、 髑髏や骸骨、帷子も。 二時間燃える青い光と、 超能力を籠めたレンズと、 それから鎖を一揃い。 「そんなこんなでレンタル品の―― 衣装のローブを試着して―― 色つきの火をテストしてみる―― ものによっては長持ちせずに おしゃかになるのがあるんです! 「それにやたらと面倒なのが、 幽霊屋敷の委員会。 いつも混乱、なにしろ霊は フランス人やロシア人から、 さらにはシティーの出身も! 「方言による応酬があり―― 訛りの一つはアイリッシュ。 それでも逃げるわけにもいかず、 売りに出たのは週一ポンド、 気づけば周りは鬼だらけ! 第五篇 云ひ爭ひ(諍ひ《いさかい》) 「『相手』のことは考えないの? ぼくは問いつめた。「考えて 当然だろう――だってそうだろ、 人の好みはまったく違う、 それもなかんずく小人とは」 つと幻妖が笑顔で否定。 「考えるなんて? まるっきり! 子ども一人を喜ばすのは、 手にも負えない骨折り仕事―――― どれほどやってもきりがない!」 「それはもちろん、{子ども}相手に 自由にさせては駄目だけど。 ぼく同様に大人の場合、 『家主』自ら意見を述べる 権利くらいはあっていい」 「気にしたこともありませんとも―― 人はあまりにも多種多様。 たった一日、訪れたあと、 幽霊たちが行くも残るも 環境次第でございます。 「『家主』のことは考えません、 手はずが整うときまでは。 持ち場を去ってばかりのやつや、 行儀の悪い幽霊ならば、 チェンジすることはできますが。 「だけど主人があなたのような―― つまり常識のある人で。 家がそれほど新しくなきゃ――」 「{それ}が関係あるのかい、ねえ、 幽霊にとって便利なの?」 「新しいのはそぐわないので―― 整えるような仕事には。 でも二十年ほど経ていれば、 羽目板などもガタつきますし、 ですから目安は二十年」 「整える」とは耳に挟んだ 覚えのまるきりない言葉。 「きっと気になどしないだろうね どういう意味か教えてくれよ 残らずすっかりその言葉?」 「ドアをゆるめるということです」 幽霊が答え、微笑んだ。 「敷居や床のいたるところに わんさわんさと穴を開けます、 よいすきま風を吹かすため。 「お気づきでしょう、一つか二つ それで充分なわけですが 風をひゅーひゅーさせるためには―― だけど{ここには}しこたま予定!」 ぼくは息を呑む「なるほどね!」 「あともう少し遅かったなら、 危なかったのか」笑おうと した(けどまるでうまくいかない) 「整えるのと装うのとで 忙しかったというわけか?」 「ええ、まあきっと、もう少しだけ ここに留まっていたでしょう―― でも何にしろ、前置きなしに ことを始める危険を冒す 幽霊なんぞはおりません。 「あなたが遅く帰っていれば、 ことは適切に進みました。 だけど道路がこんなですので、 無念夜警《むねやけ》からは許可を得てます 一時間半は延びていい」 「無念夜警だって?」ぼくは叫んだ。 答える代わりにこう言った。 「まさか{そいつを}知らないなんて、 布団のうえで寝たことも、 食べ過ぎたこともないらしい! 「あちこち行って座るんですよ 夜に食い過ぎたやつの上。 やつの仕事はつねって突いて、 死にそうなほど締めつけること」 (「自業自得だね!」ぼくが言う。) 「こんなやつらが晩に摂るのが―― 卵にベーコン――」口ごもる。 「伊勢エビに――鴨――あぶったチーズ―― それで苦しくならないのなら、 そいつはわたしの大誤算! 「やつはたいそう太っちょなので こんな仕事にはうってつけ。 そういうわけで、ご存じでしょう、 ずっと前からこう呼んでます、 太った夜警と、どお巡り! 「やつが夜警に選ばれた日に 誰もが{わたしに}投票を すると言ってたはずだったので―― やつは嘆いてのぼせあがって 煮えくりかえって大怒り。 「すぐ気が変わり、落ち着いてから、 王のお耳にと一走り。 痩せているとは反対ゆえに、 二マイルばかり駆け通すのは なかなかどうして楽じゃない。 「そんなわけゆえ駆けた褒美に (あたかも焼けつく暑さだし、 二十貫目は超えていたため)、 半ばふざけて王は直ちに、 無念流免許皆伝に」 「そりゃあなんとも好き勝手だな! (ロケットみたいに噴火した)。 「しゃれを言うのが目的らしい。 ジョンソン曰く『しゃれを言うのは 人の懐を掏るやつさ!』」 「人と王とは違いますとも」 証明しようと全力で、 ぼくは議論を始めたけれど―― 幽霊はただ聞いているだけ 馬鹿にしたように微笑んで。 結局ぼくは息切れをして、 一服しようと手を伸ばす―― 「言いたいことはよくわかります。 だけど――議論とおっしゃるなんて―― むろん冗談でございましょ?」 冷やかな目でひとにらみされ、 ぼくはようやく奮い立つ。 「何はともあれ反対するぞ 団結こそが力である、を 否定するような懐疑派に!」 「その通りです。けれども待って――」 ぼくはおとなしく聞いていた―― 「{団結}こそが力なりけり。 光みたいに明らかなこと。 だけど{金欠}は無力です」 第六篇 手違ひ 小山を登る人間がいた、 登山経験のない人だ。 しばらくすると気づき始めた、 見る見るうちに気高さが減り、 いやな雰囲気が漂った。 でももうすでに賽は投げられ、 冒険をやめることはない、 登りながらも目を凝らしたら 空の向こうに一軒の小屋 あそこで身体を休めたい。 心身ともにくたびれ果てて、 大きく乱れた息をつく。 それでも坂を登り続けて、 口もだんだん悪くなり出す、 息苦しいのが増そうとも。 登り続けてようやく着いた 上へと続いている道に。 ふらつきながら中に入ると、 顔にパンチをお見舞いされて 仰向けになって倒れ込む。 夢かうつつか、わからぬままに、 ふたたび下へと滑り落ち、 重さに引かれ、坂から坂へ、 目もくらむほど真っ逆さまに、 ふもとの野原に落とされた―― よし幽霊に罪の自覚を 植えつけなくちゃと決意した。 人間のする議論などとは まるで違うとわかったけれど、 立場を退くことはない。 予定通りに終わらせようと 今でも希望を持ったまま、 ほんとなんだと証明しよう、 ありとあらゆる持てる知識を 原理原則に注ぎ込んで。 決まり文句の一語を使い 『ゆえに』や『だから』で始めるや、 わけもわからずふらつきだした、 迷路みたいにもつれた道を、 自分の居場所も知らぬまま。 幽霊が言う。「たわごとですね。 怒鳴り散らすのは止めましょう。 頭を冷やし、眠ることです! こんなすっとこどっこいな人 今まで目にしたこともない! 「むかし会ってた人のようです、 議論をしていて怒り出し 気持が熱く高ぶるせいで 室内履きが焦げだしました!」 「{不可思議なこともあるものだ!}」 「ええ、その通り、不可思議ですよ、 つまらない嘘のようですが。 でも本当に本当のこと―― あなたがまさにティプスのように」 「ぼくの名はティプスでは{ない}よ」 「ティプスでは{ない}!」――声の調子が 翳りを帯び出し、しょげかえる―― 「ああ、違うとも。ぼくの名前は ティベツさ――」「ティベツ?」「うん、その通り」 「ああ、じゃあ{{あなたは別人だ!}}」 テーブルに手を打ちつけたので グラスがいくつか震え出す。 「なぜそう言ってくれないんです? 四十五分、早かったなら このおたんこなすおたんちん。 「この雨のなか四マイル来て、 夜を一服に費やして、 あげくにそれが無駄だったとは―― また最初からやり直しとは―― 腹立たしいにも{ほどがある}! 「何もしゃべるな!」と彼が叫んだ。 弁解しようとした途端。 「どんなやつでも我慢できない こんな愚かな人がいるとは 鵞鳥頭より空っぽか? 「ここで時間をつぶさせないで、 直ちに教えてほしかった ここは目当ての家ではない、と! もうわかったよ――さあ寝てしまえ! あくびをするのはやめてくれ!」 「そんな調子で非難するのは 別段かまいはしないけど! なんで名前をたずねなかった ここに到着したその時に?」 ぼくは熱くなり言い返す。 「それは大変だったんだろう ここまではるばる歩くのは―― でもそのことで{ぼくを}責めるか?」 「まあいいでしょう。確かにそれを あまり責めるのは筋違い。 「それに確かにいただきました おいしいワインと食べ物を―― ののしったのはどうかご容赦。 だけどこうしたアクシデントは 少しいらついてしまうもの。 「要は{わたしの}間違いでした―― 握手をしましょう、とんまっぺ!」 その名はあまり好きじゃないけど、 真心なのは違いないから、 それに関しては考えない。 「おやすみなさい、このとんまっぺ! わたしが帰れば、そのあとで けちな小人が来ることでしょう、 そしていつでも脅しをきかせ 静かな眠りを妨げます。 「悪戯するなとお言いなさい。 横目で冷笑されたなら、 鞭を上手にお使いなさい (とても硬くてごついやつです) 厳しくのめしてやりなさい! 「そしてこうです。『やあ洗い熊! 君らは気づいてないだろう 動かないなら、あともうすぐで いやほど笑うはめになるから―― せいぜいたっぷり気をつけな!』 「これが小人の追い払い方 こうした怪しいふるまいの―― これはしまった! 夜明けが近い! おやすみなさい、このとんまっぺ!」 一礼してから立ち去った。 第七篇 悲しき思ひ出 「何だ?」と悩む。「眠ってたのか? いや酔っぱらっていたのかも?」 だけど間もなく気持が溢れ、 座ったままで涙を流す またたくばかりの一時間。 「死者がそれほど急がなくても!」 ぼくはむせび泣く。「ほんとうに 出かけなければならないものか―― ティプスが誰か、それを知りたい、 こんなやり方でやるのかな? 「ティプスがぼくに似ているのなら、 {あり得る}だろうが」ぼくは言う。 「あまり嬉しく思わないはず ひょっこり家に寄られるなんて 眠ったばかりの三時半。 「死者がいろいろ嫌がらせして―― 鋭い叫びやなんやかや、 ここと変わらぬことをしたなら―― ほぼ必ずや議論になって、 ティプスの勝利に決まってる!」 泣いても二度と戻りはしない あんな愛すべき幻妖は。 やるべきことはきっとあるはず グラスを混ぜて、歌を歌おう こんなお別れのメロディーを。 {行っちゃったのか、ぼくの幽霊? これ以上はない友だちよ! それに、さらばだ、鴨の丸焼き、 さらば、さらばだ、お茶とトースト、 白亜のパイプと葉巻たち! 人生色は暗い灰色、 人生の味は何もない、 {君が}、夢幻が、立ち去ってから―― いいやつだった、言いかえるなら、 六面体ぽいやつだった!} 三番の詞を歌おうとして、 ふと押し黙った――唐突に。 こんな素敵な言葉のあとに さらに続きを歌おうなんて 馬鹿げたことだと思うのだ。 だからあくびをひとつしてから ふかふか布団にたどり着き、 夜が明けるまで夢見て寝よう 騒がし霊や夜叉や仙女や 座敷童とか靴小人! それからずっと来はしなかった いかなる小人も幽霊も。 でも心には今でも響く、 真心のある、別れの言葉、 「おやすみなさいな、とんまっぺ!」 Phantasmagoria --Lewis Carroll, 1869 ver.1 05/08/30 ver.2 05/08/30 凡例 一、ルビは《 》でくくった。 一、原文のイタリック体に対応する箇所は、{ }でくくった。 一、このテキストは、Lewis Carroll“Phantasmagoria”(1869)の全訳です。 一、以下のサイトでも同じ内容のファイルを挿絵入りhtml形式で閲覧することができます。http://longuemare.gozaru.jp/hon/carroll/phant/carroll_pha01.html 一、この翻訳作品は、商用・私用を問わず自由に複製・配布してかまいません。