ジョゼフ・バルサモ アレクサンドル・デュマ/東照訳 登場人物 ジョゼフ・バルサモ男爵(フェニックス伯爵)……のちのカリオストロ伯爵。幼名アシャラ。錬金術師にして、王制転覆を謳うフリーメーソンの大コフタ。 アルトタス……バルサモの錬金術の師。不老不死の霊薬の研究に打ち込む。 ロレンツァ・フェリチアーニ……バルサモの妻。イタリア人。 タヴェルネ男爵……落魄の貴族。リシュリューの戦友。 フィリップ・ド・タヴェルネ士爵……タヴェルネ男爵の長男。 アンドレ・ド・タヴェルネ……フィリップの妹。 セバスチャン・ジルベール……タヴェルネ家の乳母の子。アンドレに思いを寄せる。ルソーを愛読する。 ニコル・ルゲ……アンドレの使用人。ある人物に瓜二つ。 ラ・ブリ……タヴェルネ家の使用人。 ボーシール……聯隊の指揮官代理。王太子妃からタヴェルネ家のお供を命じられる。 デュ・バリー夫人(ジャンヌ)……国王ルイ十五世の愛妾。 ジャン・デュ・バリー子爵……デュ・バリー夫人の義兄。 ション・デュ・バリー……ジャンの妹。姉はビシ。 ザモール……デュ・バリー夫人の黒人小姓。 ルイ十五世……フランス国王。 王太子(ベリー公、ルイ=オーギュスト)……ルイ十五世の孫。のちのルイ十六世。 王太子妃(マリ=アントワネット大公女)……王太子の妃。オーストリア人。 プロヴァンス伯……王太子の弟。のちのルイ十八世。 ダルトワ伯……王太子の弟。のちのシャルル十世。 アデライード、ヴィクトワール、ソフィー……ルイ十五世の娘。 ルイーズ……ルイ十五世の末娘。 リシュリュー公爵……元帥。デュ・バリー夫人を引き立てる。タヴェルネ男爵の戦友。 ショワズール……筆頭大臣。さきの愛妾ポンパドゥール夫人を後押ししていたため、現愛妾のデュ・バリー夫人とは折り合いが悪い。 グラモン公妃……ショワズールの妹。 モープー……大法官。高等法院に改革のメスを入れる。 デギヨン公爵……リシュリューの甥。高等法院と対立。 サルチーヌ……警察長官。かつら好き。 ロアン枢機卿……マリ=アントワネットに好意を寄せる聖職者。 ジャック氏……植物と哲学を愛する老人。 テレーズ……ジャック氏の妻。 ジュシュー……著名な植物学者。 マラー……医者の卵。フリーメーソン会員。 ルイ医師……王太子妃付きの医者。 目次 序之一「ドンナースベルク」 序之二「…という者」 序之三「L∴P∴D∴」 第一章「雷雨」 第二章「アルトタス」 第三章「ロレンツァ・フェリチアーニ」 第四章「ジルベール」 第五章「タヴェルネ男爵」 第六章「アンドレ・ド・タヴェルネ」 第七章「エウレカ」 第八章「引き寄せる力」 第九章「千里眼」 第十章「ニコル・ルゲ」 第十一章「主人と小間使い」 第十二章「日中」 第十三章「フィリップ・ド・タヴェルネ」 第十四章「マリ=アントワネット・ジョゼファ、オーストリア大公女」 第十五章「魔術」 第十六章「タヴェルネ男爵が遂に未来の一端を見たと信ずること」 第十七章「ニコルの二十五ルイ」 第十八章「タヴェルネよさらば」 第十九章「ジルベールのエキュ銀貨」 第二十章「今やジルベールはエキュ硬貨を失くしたことをそれほど気に病んではいないこと」 第二十一章「新たな登場人物がお目見えすること」 第二十二章「ジャン子爵」 第二十三章「デュ・バリー夫人の小起床の儀」 第二十四章「ルイ十五世」 第二十五章「振り子時計の間」 第二十六章「ペトー王の宮廷」 第二十七章「マダム・ルイーズ・ド・フランス」 第二十八章「ぼろ、ぞうきん、からす」 第二十九章「マダム・ド・ベアルン」 第三十章「副官《ル・ヴィス》」 第三十一章「ザモールの委任状」 第三十二章「国王、退屈す」 第三十三章「国王、満足す」 第三十四章「ヴォルテールとルソー」 第三十五章「代母と代子」 第三十六章「リシュリュー元帥の第五の陰謀」 第三十七章「美容師もなし、ドレスもなし、馬車もなし」 第三十八章「認証式」 第三十九章「コンピエーニュ」 第四十章「庇護者と被庇護者」 第四十一章「いやいやながら医者にされ」 第四十二章「老人」 第四十三章「植物学者」 第四十四章「ジャック氏」 第四十五章「ジャック氏の屋根裏部屋」 第四十六章「ジャック氏の正体」 第四十七章「魔術師の妻」 第四十八章「パリ市民」 第四十九章「王家の馬車」 第五十章「悪魔憑き」 第五十一章「フェニックス伯」 第五十二章「ド・ロアン枢機卿猊下」 第五十三章「サン=ドニからの帰路」 第五十四章「別館」 第五十五章「サン=クロード街の家」 第五十六章「二つの自分――休眠」 第五十七章「二つの自分――覚醒」 第五十八章「訪問」 第五十九章「黄金」 第六十章「生命の霊薬」 第六十一章「情報収集」 第六十二章「プラトリエール街の部屋」 第六十三章「戦略」 第六十四章「王太子殿下の婚礼の晩にフランス王家の教育係ド・ラ・ヴォーギヨン氏に起こったこと」 第六十五章「王太子殿下の婚礼の夜」 第六十六章「アンドレ・ド・タヴェルネ」 第六十七章「花火」 第六十八章「死体の山」 第六十九章「生還」 第七十章「ド・ジュシュー氏」 第七十一章「快復」 第七十二章「空中散歩」 第七十三章「兄と妹」 第七十四章「ジルベールを待ち受けていたもの」 第七十五章「植物採集家たち」 第七十六章「哲学者取り」 第七十七章「寓話」 第七十八章「ルイ十五世陛下の代用寵姫」 第七十九章「国王ルイ十五世が大臣と…」 第八十章「ル・プチ・トリアノン」 第八十一章「陰謀、再び」 第八十二章「魔術師狩り」 第八十三章「伝令」 第八十四章「招魂」 第八十五章「声」 第八十六章「失脚」 第八十七章「デギヨン公爵」 第八十八章「国王の分け前」 第八十九章「ド・リシュリュー公爵の控えの間」 第九十章「魔法が解ける」 第九十一章「王太子殿下の小膳式」 第九十二章「王妃の髪」 第九十三章「ド・リシュリュー氏がニコルを見初める」 第九十四章「変身」 第九十五章「人の喜びは他人の絶望」 第九十六章「高等法院」 第九十七章「大臣の道のりは薔薇色ではないとわかった次第」 第九十八章「デギヨン氏の逆襲」 第九十九章「姿を消したと思われていたものの残念には思われていないであろう昔なじみに、読者が再会を果たす次第」 第百章「事態がますます紛糾する次第」 第百一章「親裁座」 第百二章「見知らぬ人物の言葉がジャン=ジャック・ルソーに与えた影響」 第百三章「プラトリエール街の支部」 第百四章「報告会」 第百五章「肉体と魂」 第百六章「魂と肉体」 第百七章「マラー宅の管理人」 第百八章「人と著作」 第百九章「ルソーの支度」 第百十章「トリアノンの舞台裏」 第百十一章「リハーサル」 第百十二章「宝石箱」 第百十三章「ルイ十五世の小夜食」 第百十四章「予感」 第百十五章「ジルベールの物語」 第百十六章「父と娘」 第百十七章「生命の霊薬を完成させるためにアルトタスに必要なもの」 第百十八章「ド・リシュリュー氏の二滴の液体」 第百十九章「逃亡」 第百二十章「天眼通」 第百二十一章「仮死」 第百二十二章「意思」 第百二十三章「ド・サルチーヌ氏の邸」 第百二十四章「小箱」 第百二十五章「お喋り」 第百二十六章「バルサモが魔術師だとド・サルチーヌ氏が信じ始めた次第」 第百二十七章「生命の霊薬」 第百二十八章「葛藤」 第百二十九章「愛」 第百三十章「媚薬」 第百三十一章「血」 第百三十二章「人と神」 第百三十三章「裁判」 第百三十四章「人と神」 第百三十五章「再び地に落ちる次第」 第百三十六章「国王たちの記憶力」 第百三十七章「アンドレの失神」 第百三十八章「ルイ医師」 第百三十九章「リシュリュー公爵の語呂合わせ」 第百四十章「帰還」 第百四十一章「兄と妹」 第百四十二章「誤解」 第百四十三章「質疑」 第百四十四章「診察」 第百四十五章「ジルベールの良心」 第百四十六章「二つの痛み」 第百四十七章「トリアノンへの道」 第百四十八章「真相」 第百四十九章「ルイ医師の小庭園」 第百五十章「父と息子」 第百五十一章「良心に照らして」 第百五十二章「ジルベールの計画」 第百五十三章「偏見を覆すより罪を犯す方が簡単だとジルベールが気づいた次第」 第百五十四章「決意」 第百五十五章「十二月十五日」 第百五十六章「最後の謁見」 第百五十七章「父なし児」 第百五十八章「誘拐」 第百五十九章「アラモン村」 第百六十章「ピトゥ家」 第百六十一章「出発」 第百六十二章「ジルベール最後の挨拶」 第百六十三章「船上にて」 第百六十四章「アゾレス諸島」 エピローグ 序之一 ドンナースベルク  ライン河左岸、帝都ヴォルムスから数里、ゼルツ川水源の辺りは、連なる尾根の玄関口に当たるところにして、生い茂った丸い背中が北方に消え入るばかりに見えるのは、怯えて靄に逃げ込み惑う水牛の群れにも似ていた。  これらの山々は、中腹からでさえ人跡稀な地域を一望できたが、さらに高い山にひれ伏す行列のようにも見え、そのいずれも、姿を写し取ったような名や縁起を偲ばせるような詩的な名を戴いている。あるものは玉座《ケーニヒシュトゥール》、またあるものは薔薇岩《ローゼンフェルス》、あれは隼石《ファルケンシュタイン》、あちらは蛇鶏冠《シュランゲンクローネ》。  分けても最高峰、花崗岩の頭《かしら》に廃墟の冠を戴いて天高く聳えているのが、神鳴山《ドンナースベルク(モン・トネル)》である。  楢の影が深まる夕刻、落日の残光がこの巨大な山並みの頂を金色《こんじき》に染めゆく刻限、言うなれば、静寂が畏き高嶺を降りてじわじわとふもとに向かい、目に見えぬ屈強な腕が山の中腹から、昼間の騒ぎと働きに疲れた世界に静寂を届けようと、星の輝きを秘めたその長く碧いベールを広げる頃。その頃にはすべてのものが緩やかに目を閉じて眠りに就く。すべてのものが地上でも上空でも身体を休める。  静寂のなかでただ一つ先ほどの小川だけ――現地での呼び名に従えばゼルツバッハだけは、岸辺の樅の下を密やかに流れ続けていた。昼また夜と休むことなく、流れる水はいずれラインの河に姿を変えることになろうが、たとい休みのなかろうとも、ひんやりとした川底の砂、しなやかな葦、苔と雪之下《ユキノシタ》に覆われた岩のおかげで、モルシュハイムから始まりフライヴェンハイムに至るどの流れもざわめきを立てることは決してない。  水源からさらに上、アルビスハイムとキルヒハイムボーランデンの間に、曲がりくねった一本の道がある。抉られたような切り立った崖に挟まれ、深い轍の刻まれた道をたどれば、そこはダネンフェルスだ。ダネンフェルスから先は道も狭まり、やがては道とも呼べぬ代物になり、遂には埋もれ、途絶えてしまう。目を彷徨わせれども何処までも続くドンナースベルクの山肌しか見つからぬ。霊妙な気配が漂う山頂には神の火がしじに訪れ、それが名の由来となったのだが、山頂は緑なす木叢の向こうに隠れて、厚い壁に隠れたように何も見えない。  事実、古代ドドナの森を彷彿とさせる木叢に潜ってしまえば、たとい白日であれ歩き続ける旅人の姿は平地からは見えなくなる。旅人の乗る馬がイスパニアの騾馬にも負けぬだけ鈴をぶら下げていようとも、鈴の音の聞こえることは決してない。皇帝の馬よろしく天鵞絨と黄金で飾り立てていようとも、金や緋の輝きが葉群から洩れることもない。深い森が音をかき消し、その昏い影が色を消し去る。  数々の高峰がただの天文台に成り果てた今なお、心震える恐ろしい伝説を耳にした旅人たちが口唇に疑いの笑みを浮かべるようになった今なお、そんな今なおこの辺境の地に怯え畏れを抱く者たちがいた。この地にも人がいることを知らしめるためだけに存在するかのように、聖地から遠く離れて点在する。侘びしい家々や隣国の歩哨たちだ。  この辺境の侘住まいに暮らしているのは、或いは川に小麦を挽かせてロッケンハウゼンとアルツァイに小麦粉を運ぶ粉屋であったし、はたまた羊飼いたちはといえば山まで羊に草を食ませに行き、年経た樅の老木が人跡未踏の森の奥地で倒れる音を聞いては、飼い犬とともに肝を潰した。  何分にもこの地方ゆかりの風景が陰鬱なることは既に見た通りであり、実直な者たちに言わせれば、ダネンフェルスの奥、ヒースのなかへと消える小径が、良きキリスト教徒を安全な土地まで導くと限った話ではないのである。  今もここに暮らす人々の中には、或いは今からお話しする物語を、かつて父や祖父に話して欲しいとねだった方もあるだろう。  一七七〇年五月六日、大河の水が乱反射して薔薇色に染まる時刻、即ち、ラインガウの者に言わせれば、太陽がストラスブール大聖堂の尖塔の後ろをよぎり、火の玉が二つの半球に断ち切られる頃合いのこと。マインツを発ち、アルツァイとキルヒハイムボーランデンを経由してきた一人の男が、ダネンフェルスの向こうから現れた。小径の見える間は小径をたどり、道なき道の跡すら絶えてしまうと、馬から下りて手綱を引き、躊躇うことなく密林の入口にある樅に繋いだ。  怯えた馬がいななき、常ならぬ物音に森がざわめいた。 「どう、どう! いいかジェリド。もう十二里は来た。どのみちお前はここまでだ」  旅人は葉群の奥に目を凝らした。だが既に闇は濃く、黒い影の向こうになお黒い影が見えるだけだった。  改めが無駄に終わると旅人は馬を振り返った。そのアラビア風の名前からわかる通り、生まれも確かな駿馬である。両手で馬の顔を挟み込み、白い息を吐く鼻面に口を近づけた。 「お別れだ。もう会えぬかもしれぬ。さらばだ」  旅人は口を利きながら辺りに目を走らせた。さては盗み聞きを恐れていたのか、或いは望んでいたのか。  馬は絹のような鬣を振り、大地を足で蹴るといななきをあげた。山奥と言えども忍び寄る獅子《ライオン》を警戒せよとでも言いたげに。  旅人は笑みを浮かべて首を大きく縦に振るだけだった。おそらく無言でこう伝えたのだ。 「その通りだ、ジェリド。ここは危険なところだ」  だがその危険と渡り合うつもりは初めからなかったのだろう。旅人は鞍から二挺の銃――彫金細工の銃身に金押しの銃床の美しい銃――を取り出し、綿抜きを使って弾薬を取り出すと、弾薬止めと弾丸を抜き取って草むらに火薬を散らした。  これが終わると、銃を革袋に戻した。  だがまだ終わりではない。  ベルトに鉄柄の剣を佩いていた旅人は、留め金を外してベルトで剣を包むように丸めると、切っ先が後肢側を、柄が前肢側を向くようにして、まとめて鞍の下に入れて鐙で縛りつけた。  謎めいた作業をようやく終えると、ブーツを揺すって泥を落とし、手袋を脱いでポケットを探った。小さな鋏と鼈甲柄の短刀を探り当てると、二つとも肩越しに放り投げた。何処に落ちようと知ったことではない。  最後にジェリドの尻を撫でると、はちきれるほど胸をふくらませるつもりなのか、大きく息を吸い込んだ。どんな道でもよい。旅人は道を探したが果たせず、闇雲に森へ分け入った。  今こそ読者諸兄にお伝えすべきであろう。たったいま登場させたばかりの旅人に如何なる意味があるのかを。この歴史物語を通じて如何に重要な役割を演じる定めなのかを。  馬を下りて無謀にも森に分け入ったこの男、見たところ三十一、二歳。でっぷりとしているが、身体の釣り合いはよい。柔と剛を備えた四肢のうちに、力と技巧が共に漲っているのが感じられる。金ボタンのついた黒天鵞絨の旅外套らしきものを纏っていた。ボタンの下からは刺繍入りの上着が覗いている。ぴたりと貼りついた革製のキュロットが、彫刻のモデルにも使えそうな足を引き立てていた。つやのある革靴越しにもその均整のとれた輪郭が見て取れた。  顔には南方系特有の豊かな表情が浮かび、力強さと巧みさが不思議に入り混じっていた。目にはあらゆる感情が浮かび、ひとたび誰かに目を留めるや内部まで潜り込み、二筋の眼光がその者の心までも照らした。何よりも目立つのはその褐色の頬であり、ここフランスのものより強い陽射しに焼かれていた。口は大きいが形よく、開いた口から覗かせた見事な歯並みが、日焼けした顔色と好対照を成している。足は長いが細く、手は小さいが逞しい。  たったいま姿形をなぞって見せたばかりのこの人物、真っ暗な樅林に何歩か足を踏み入れたところ、馬を置き去りにして来た辺りから蹄を踏みならす音が聞こえて来た。初め、気持に導かれるままとっさに引き返そうとした。だがなんとか思いを押し殺した。それでもジェリドの運命を確かめる誘惑には打ち勝てず、爪先立って木々の隙間から目を凝らした。手綱を解いた見えざる手に引かれ、ジェリドは既に消えていた。  額にうっすら皺が寄り、ふっくらとした頬が引きつり口唇の細い隆起が割れて、笑みのようなものが浮かんだ。  ほどなく森の中へと歩みを進めた。  初めのうちこそ、木々の隙間から射し込む夕陽が行く手を照らしてくれた。だがすぐに、届いていたかすかな光も消え、恐ろしく深い闇が訪れた。足許を確かめることもやめ、遭難するのも嫌なので足を止めた。 「ダネンフェルスまでは苦もなかった」と声に出して言った。「マインツからダネンフェルスまでは一本道なのだからな。ダネンフェルスからシュヴァルツハイデまでも問題はなかった。細い小径をたどればよい。シュヴァルツハイデからここまでも順調だった。道など皆無だったが、こうして森を見つけられたのだ。だがここまでか。もう何も見えぬ」  言葉にはフランス訛りとシチリア訛りが相半ばしていた。ちょうど独語を終えた頃だろうか、五十歩ほど離れたところに光が湧いて出た。 「ありがたい。あの光について行こう」  すぐに光は動き出した。揺れも震えもせず、乱れることなく進んでいる。まるで作り物の火が舞台上を滑り、台本に則って道具方や演出家の手で動かされているようだ。  それから百歩ほど進んだ時、耳元で人の息遣いのような音が聞こえた。  背筋が凍る。 「振り向くな」右側から声がした。「振り向けば死だ!」 「承知した」眉一つ動かさずに旅人は答えた。 「口を利くな」左から声がした。「口を利けば死ぬぞ!」  旅人は無言のまま首を縦に振った。 「だが怖じ気づいたのであれば」三人目の声がした。ハムレットの父王にも似た、地球の内腑から抜け出たような声であった。「山を下るがいい。権利を放棄したと見なそう。引き返すのを止めはせぬ」  旅人は身振りだけで意思を伝え、歩みを進めた。  夜の闇は濃く、森は深い。光に照らされてもなお幾度となく足を取られた。一時間ほど歩みは続いた。旅人は呟き一つ洩らさず、恐れる素振りも見せずについて行った。  不意に光が消えた。  森の外に出ていた。見上げると、濃紺の空の向こうに星が輝いている。  光の消えた辺りまで足を運ぶと、やがて目の前に古城の亡霊のような廃墟が現れた。  と、足が瓦礫にぶつかる。  途端に冷たいものがこめかみに触れ、両眼を塞いだ。もはや暗闇すら見えなかった。  濡れた亜麻布が顔に縛りつけられたのだ。そうした決まりなのか、覚悟くらいはしていたのか、旅人は目隠しを外そうとはしなかった。ただ案内を乞う盲人のように静かに手を伸ばしただけであった。  意図は伝わり、冷たく乾いた骨張った手が旅人の指を捕らえた。  旅人は気づいた。それが肉のない骨ばかりの手であることに。だが骨ばかりの手に感覚があったならば、骨の方こそ気づいたはずだ。旅人の手が震えていないことに。  そのまま手を引かれてずんずんと歩いた。距離にして百トワーズあまりだろうか。  不意に手が離れて目隠しが消え、旅人は立ち止まった。ドンナースベルクの頂上に到っていた。 序之二 …という者  葉の落ちた白樺の老木に取り囲まれるようにして、崩れ落ちた城館の一階部分が聳えていた。かつて十字軍から戻った封建領主たちがこうした城館を欧州中に撒き散らした。  城門の一つ一つには細密な彫刻が施されていたが、門の壁龕にあるべき彫像はばらばらになって城壁のかたわらに転がり落ち、代わりにヒースと野の花が生い茂っていた。門のオジーヴは崩れてぎざぎざになり、その影が青白い空に浮かび上がっている。  緻密な彫刻が施された城門には壁龕が備わっていたが、そこにあるべき彫像は、ばらばらになって城壁のかたわらに転がっていた。ヒースや野草が青白い空を背景にして生い茂り、ぼろぼろに崩れたオジーヴを覆っている。  目を開けると正門の階段があった。じめじめと苔むしている。階段の一段目には、ここまで案内して来た骨と皮ばかりの手を持つ亡霊が立っていた。  屍衣で全身がすっぽりと覆われている。襞の奥から虚ろな眼窩が燃え、痩せ細った手が廃墟の中へと動いた。目的地を告げるかのようなその手の先にはホールがあった。床近くこそ壁で隠れて見えなかったものの、崩れた円天井には怪しげな光がかすかに揺れているのが見えた。  旅人は了解したしるしにうなずいた。亡霊が一段ずつゆっくりと、音も立てずに階段を上り、廃墟の中に消えた。旅人は足取りを乱すことなく、これまでのように静かで厳かな足つきで後に続き、亡霊に倣って十と一つの段を一足ずつ踏み、中に入った。  背後で、よく響く青銅の壁のような大きな音を立てて、正門の扉が元通り閉まった。  丸いホールには家具も何もなく、黒張りされた壁が、三つの洋燈《ランプ》の投げかける鈍い緑に照らされている。亡霊はホールの入口で足を止めていた。  その後ろで旅人も立ち止まる。 「目を開けよ」亡霊が言った。 「見えている」と旅人が答えた。  亡霊が威厳たっぷりに両刃の剣を屍衣から滑らせ、青銅の柱に打ちつけると、金属がうなりをあげた。  時を移さず周辺の敷石が跳ね上がり、似たような姿の亡霊たちが無数に現れた。皆一様に両刃の剣を携え、ホールと同じ円形をした階段席に着いた。三つの洋燈が発する緑光を受け、石の如く冷たく微動だにせず、まるで台座に立つ彫像のようであった。  こうした生身の彫像たちが、前述の壁を覆った黒幕を背に、不気味に浮かび上がっていた。  七つの椅子が一段目の手前に置かれ、代表者らしき六人の亡霊が腰を下ろしていたが、空席が一つある。  中央に坐していた亡霊が立ち上がった。 「兄弟たちよ、我らの数は?」出席者たちの方を向き、たずねた。 「三百」亡霊たちの没個性な声が揃ってホールに轟いたかと思う間もなく、声はたちまち壁の弔幕に吸い込まれた。 「三百」議長が繰り返した。「その一人一人が一万人の同胞たちの代表としてここにいる。三百の剣が揃えばナイフ三百万も同然なのだ」  今度は旅人に向き直り、たずねた。 「何が望みだ?」 「光を」 「火の山に至る道は辛く険しい。恐れはせぬのか?」 「怖くなどない」 「ここより先にひとたび足を踏み入れてしまえば、もはや引き返すことは出来ぬ。よく考えるがいい」 「目的地まで足を止めるつもりはない」 「誓いの用意はいいか?」 「唱えてくれ。繰り返す」  議長は手を掲げ、重々しく誓いの文句を唱えた。 「十字架に架けられし御子の名に於いて、父と母と兄弟姉妹《はらから》、妻、二親、友、恋人、王、恩師、服従と奉仕を誓いしすべての者に結びおりし世俗の絆を、断ち切ることを誓え」  旅人が唱えられた文句をよどみなく繰り返すと、議長は第二条に移った。第一条と変わらぬ、重々しくどっしりとした声だ。 「汝この瞬間より、国と法に立てし偽りの誓いを捨てよ。これまでに見しこと行いしこと読みしこと聞きしこと学びしこと考えしことを新たな主君に伝えんこと、及びかつて目に映らざりしことを求め探らんこと、これを誓え」  議長が言葉を切ると、旅人は聞いた通りに繰り返した。 「毒薬《アクア・トファナ》を敬い讃えよ」変わらぬ口調で議長は続けた。「真理を貶め我らの手から奪わんとする者どもを、死や狂気に追いやり世界を浄めるために、迅速・確実・必須の術《すべ》なるがゆえなり」  こだまには誓いの言葉を旅人ほど上手く繰り返すことは出来なかった。議長が先を続ける。 「イスパニアを避けよ、ナポリを避けよ、呪われし地を避けよ、見聞きせしことを洩らさんとする誘惑を避けよ。何となれば、稲妻の一閃もナイフの一閃には及ばぬ。何処にいようとも目に見えず避けることも適わぬと思え。 「父と子と精霊の名に於いて生きよ」  脅しの含まれた結びの言葉を聞いても、旅人の顔に感情がよぎることはなかった。初めとまったく変わらぬ穏やかな声で、誓いと祈りの復唱を終えた。 「よかろう。新入りの頭に聖帯を巻け」  二体の亡霊が近寄ると、旅人は頭を垂れた。一人が額に帯を押し当てた。金地に銀の文字があしらわれ、ロレートの聖母図が織り込まれている。もう一人が首の後ろで帯の両端を結んだ。  それが済むと二人とも旅人一人を残して退いた。 「望みは何だ?」議長がたずねた。 「三つある」新入りが答えた。 「それは?」 「鉄の手、火の剣、金剛の秤」 「なにゆえ鉄の手を望む?」 「圧政を破るため」 「なにゆえ火の剣を望む?」 「地から不浄なものを薙ぐため」 「なにゆえ金剛の秤を望む?」 「人類の運命を計るため」 「審査の覚悟は出来ているか?」 「勇敢であればどんな覚悟も出来る」 「審査だ! 審査だ!」無数の声があがった。 「後ろを向け」  振り返ると目の前に、死人のように青ざめた男が縛り上げられ猿ぐつわをかまされていた。 「何が見える?」 「悪人か生贄」 「裏切者だ。貴様と同じように誓いを立てた後で、結社の秘密を洩らしたのだ」 「では悪人だ」 「ならば如何なる罰をもって償うべきか?」 「死を」  三百の亡霊が繰り返した。「死を!」  死刑宣告を受けた男は必死で抗ったが、部屋の奥へと引きずられて行った。執行人の手の中で身をよじりもがくのが見える。猿ぐつわ越しに洩れるうめきが聞こえる。ナイフが一閃し、稲光のように洋燈の光を照り返すと、鈍い音が聞こえ、身体がどさりと倒れるくぐもった陰気な音がこだました。 「裁きは為された」旅人がそう言って振り返ると、屍衣越しに今の出来事を見つめる貪欲な眼差しがあった。 「では貴様はこの処刑を受け入れるのだな?」議長がたずねた。 「ああ。殺されたのが本当に罪人だったのなら」 「杯を受ける覚悟はあるか? 彼奴のように結社の秘密を洩らす者共の死を祝して」 「無論」 「その中身にかかわらずだな?」 「かかわらず」 「杯を持て」  執行人の一人が新入りに近づき、生温い赤い液体を差し出した。杯は青銅の脚のついた頭蓋骨であった。  旅人は執行人の手から杯を受け取り、頭上にかざした。 「結社の秘密を洩らす者共の死を祝して――乾杯」  杯を口元まで下げて最後の一滴まで空けてから、動じる様子もなく執行人に突き返した。  驚愕に満ちた囁きが駆け巡る。そしてどうやら屍衣の奥から視線が行き交っているようだ。 「よかろう。拳銃を!」  亡霊が議長のそばに寄る。片手に拳銃、片手に弾丸と装薬があった。  旅人はほとんど目を向けもしなかった。 「結社に対する盲従を誓うか?」 「無論」 「その結果が貴様自身に及ぼうともか?」 「ここに入る者は一個の人間ではなく一つの集団だ」 「では、如何なる命令にも従うのだな?」 「従おう」 「今この瞬間も?」 「今この瞬間も」 「躊躇うことなく?」 「躊躇うことなく」 「銃を取って装填しろ」  旅人は拳銃を取り、銃身に火薬を詰めておくりで塞いでから、弾丸を入れて再びおくりで固定させ、最後に雷管を取り付けた。  それを見つめる亡霊たちはむっつりと押し黙ったまま声もあげない。沈黙を破るものは、崩れたアーチの角にぶつかって砕ける風の音だけであった。 「装填した」旅人は事務的に伝えた。 「間違いないな?」  旅人の口唇に笑みがよぎった。かるかを引き抜いて銃身に滑り込ませると、棒の先が二プスだけはみ出た。  議長は納得のしるしにうなずいた。 「うむ。間違いない」 「これをどうすれば?」旅人がたずねた。 「撃鉄を起こせ」  旅人は撃鉄を起こした。受け答えのたびごとに訪れる深い静寂のさなか、その金属音が響いた。 「銃口をこめかみに押しつけよ」  旅人は躊躇なく言う通りにした。  これまでにも増した静寂が亡霊たちを覆った。洋燈が色をなくし、亡霊たちはまさしく亡霊にしか見えなかった。現に息をしている者などいないではないか。 「撃て!」  引き金が引かれ、撃鉄が雷管を叩いた。だが燃えたのは火皿の火薬だけであり、それに伴うはずの銃声はなかった。  ほとんどの胸という胸から感嘆の声が洩れ、議長は思わず旅人に手を伸ばした。  だが二つの審査を経ても、疑り深い者たちにはまだ足りなかったらしく、幾多の声が飛んだ。 「ナイフだ! ナイフを!」 「それを望むのだな?」議長がたずねた。 「そうだ! ナイフを!」 「ではナイフを持ってこい」 「無駄だ」旅人は蔑むように首を振った。 「馬鹿な。無駄だと?」亡霊たちが吼えた。 「ああ無駄だ」旅人はその声をかき消すように答えた。「繰り返そう。無駄だ。どうせ貴重な時間を浪費するだけだ」 「何が言いたい?」議長が声をあげた。 「お前らの秘密などすべて知っていると言いたいのだよ。俺にやらせた審査など子供騙しではないか。まともな人間が相手をする価値もない。処刑された男は死んじゃいないのだろう。俺が飲んだ血はワインだった。薄っぺらい革袋に入れて、あらかじめそいつの胸元に隠されていたのだ。この銃の火薬と弾丸は撃鉄を起こして跳ね蓋を開くと銃床に落ちるようになっている。この役立たずは返すぜ。臆病者をびびらせるにはいい代物かもな。もう起きたらどうだ、死体役者さんよ。勇敢な人間には通用せんぞ」  恐ろしい悲鳴が円天井を揺るがした。 「我らが秘儀を知っているとは!」議長が叫んだ。「さては千里眼か裏切者か?」 「何者だ?」三百の声が和すと同時に、二十の剣が間近にいた亡霊たちの手にきらめき、統率の取れた軍隊のように一糸乱れぬ動きで振り下ろされ、旅人の胸元で交差した。  だが旅人は静かに微笑み、豊かな髪を揺らして顔を上げた。髪には髪粉もつけず、頭に巻いた一本の紐でまとめられているだけであった。 「『我は在りて在るもの』、俺は俺という者だよ」  旅人は隙間なく取り巻いている人垣を睨みつけた。その威圧するような目つきに押されて剣が降ろされたが、その動きは先ほどまでのように統率の取れたものではなかった。瞬時に屈した者もいれば、抗おうとした者もいたからだ。 「不用意な口を利きおったな。どれだけ重要な言葉なのかを知っておれば、口になどせぬものを」議長が言った。  旅人は笑みを浮かべてかぶりを振った。 「言うべきことを言ったまでだ」 「何処の人間だ?」 「光が昇るのと同じ地の者だ」 「待て、スウェーデンの人間だと聞いておるぞ」 「そのスウェーデンの人間がオリエントの人間だったらどうする?」 「やはり貴様のことは知らぬ。何者だ?」 「俺が誰かだと!……いいだろう、じきに教えてやる。とぼけやがって。だがまずはお前らが何者なのかを教えてやろう」  亡霊たちはおののき、左手に持っていた剣を右手に持ち替え、音を立てて再び旅人の胸元に突きつけた。 「まずはあんただ」旅人は議長に向かって手を伸ばした。「神様気取りのただの予言者。スウェーデン諸部の代表。あんたの名前さえずばり言っておけば、ほかの奴らの名前を挙げる必要もあるまい。スヴェーデンボリ、仲のいい天使たちは、待ち人発てりと告げなかったか?」 「何故それを――」議長は屍衣をめくり上げ、旅人のことをもっとよく見ようとした。「確かにそう告げられたが」  結社のしきたりに反して屍衣がめくり上げられると、八十歳ほどになる、白い顎髭の生えた厳かな顔が現れた。 「さて次だ。あんたの左にいるのがイギリスの代表、カレドニアの支部長だな。今晩は、閣下《ミロード》。貴殿に流れている父祖の血が甦ったのなら、イギリスから消えた光も再び灯ると思っていいんじゃないのか」  剣が降ろされ、怒りが驚きに変わり始めた。 「おや! 艦長殿じゃないか?」旅人は議長の左端にいる人間に声をかけた。「恋人のように慕っているあの艦船は何処の港に置いて来たんだ? フリゲート艦|プロヴィダンス《神のお導き》号。アメリカにツキを呼んでくれそうな名前じゃないか?」  次に議長の右にいる人物に顔を向けた。 「あんたの番だ。チューリヒの予言者殿。俺の顔を見たらどうだ。観相学を予言にまで高めたあんたのことだ、教えてくれ、俺の顔相からやるべき使命が読み取れないか」  話しかけられた相手が後じさる。 「続けよう」旅人は今度はその隣に話しかけた。「ペラーヨの末裔よ。再びイスパニアからムーア人を一掃せねばならんな。カスティーリャ人どもがシドの剣を失わずにおれば、容易いことであったろうに」  イスパニアの代表は物も言わず不動のままだった。よもや旅人のひと声で石と化したわけでもあるまいに。 「では私のことは?」六人目が先回りしてたずねた。「忘れてはいまいか? 私には何も言うことはないのか?」 「そう思うか?」旅人の千里眼がきらめいた。この鋭い眼差しが五人の心を読んできたのだ。「あんたに言うことがあるとすれば、イエスがユダに言った言葉だよ。じきに教えてやる」  六人目はそう言われて屍衣よりも真っ白になった。恐ろしい告発の意味をたずねているかのようなささやきが交わされた。 「フランス代表を忘れておるぞ」議長が言った。 「ここにはいないからな」旅人は言い捨てた。「わかっているだろう、椅子が空なんだ。いい加減に悟ったらどうだ。闇の中でもものが見えて、どんな条件であろうと動き回り、死んでも生きているような人間には、笑える罠ばかりだぞ」 「貴様は若い。しかも神威を借りて話しておる……よく考えるのは貴様の方だ。臆病で無智な者ほど、強い態度を取りたがる」  馬鹿にしきった笑いが旅人の口に浮かんだ。 「臆病なのはお前たちだよ。俺に何も出来ないじゃないか。無智なのはお前たちだ。俺が何者か知らぬではないか。ところが俺の方はお前たちを知っている。となれば上手くやるには強く出るしかあるまい。だが全能の人間に強気も何もないだろう?」 「その全能の証だ。証を見せよ」 「お前たちを召集したのは誰だ?」旅人は質問される側からする側に回った。 「最高議会だ」 「目的もなく集まったわけじゃあるまい」旅人は議長と五代表に向かい、「スウェーデン、ロンドン、ニューヨーク、チューリヒ、マドリッド、ワルシャワからわざわざ出張ったんだ。それにお前たちも」と亡霊たちに向かい、「四大陸からこの畏れ多い聖地に集まったのは目的あってのことだろう」 「無論だ」議長が答えた。「オリエントで一大帝国を築き上げた方をお迎えにあがったのだ。その方は両半球を信仰によって一つにまとめ、友愛の双手で人類を包み込みんで下さった」 「そいつだとわかるような印はあるのか?」 「うむ。神が御使いを遣わし教えて下さった」 「知っているのはあんただけか?」 「老生だけだ」 「その印を誰にも洩らしてはいまいな?」 「何処の何者にも」 「言ってみろ」  議長は躊躇らった。 「言え」旅人は有無を言わさず繰り返した。「言うんだ。公にする時は来た!」 「金剛の徽章を胸につけ、徽章にはその者だけが知る標語の頭文字が三つ輝いておる」 「三つの文字とは何だ?」 「L・P・D」  旅人はすかさず外套とジレを広げた。上麻のシャツの上に見えたのは、炎立つ星の如く輝く金剛の徽章。その上には紅玉製の三つの文字が燃えていた。 「何と!」議長が息を呑んだ。「あなたが?」 「これが天下の待ち人か!」代表たちの声も震えていた。 「大コフタ!」三百の声が囁く。 「よかろう!」旅人は勝鬨をあげた。「もう一度繰り返せば信じるか? 俺は俺という人間だと」  同意の声をあげて亡霊たちはひれ伏した。 「御言葉を、師よ」議長と五代表は地に額ずいて請うた。「何なりと。しからば従いましょう」 序之三 L∴P∴D∴  しばし沈黙が訪れた。考えをまとめているようにも見える。だがやがて。 「諸君。剣を降ろし給え。腕が疲れるだけではないか。俺に耳を貸してくれ。今から話す言葉の一片一片には、万斛《ばんこく》の智識が詰まっている、ゆめゆめ聞き逃してくれるなよ」  緊張が高まる。 「大河の水源《みなかみ》は古来神のものであり、ゆえに人智の及ばぬ処所であった。ナイル然り、ガンジス然り、アマゾン然り。俺は行く末を知るも、来し方を知らぬのだ! 遡れる処所まで記憶を遡れば、魂が外界に触れて目覚めたその日、俺は聖地メディナにいて、尊師《ムフティ》サラーイムの庭を駆けまわっていた。 「俺は父のように老爺を慕った。だが父ではあり得なかった。何せ見つめる眼差しには愛情が籠っていたのに、話す言葉には敬意だけが込められていた。老爺は日に三度俺のそばを離れた。別の老爺を迎えに行くためだった。その名を口にする時には畏怖と謝意を禁じ得ぬ、我が老師、この世の人智の集いし存在。七つの霊の導きにより、神を知るため天使の全智に通じし者。その名はアルトタス。我が父、我が師にして、我が友、我が畏友《老友》。文字通り、ここで一番年経た者より二倍は年経ていたはずだ」  厳かな口つき、重々しい身振り、物柔らかにして鋭い声音は、聞く者に深い感銘を与え、やがて不安のおののきに変えた。  旅人は続けた。 「十五の頃には、既にこの世の神秘のあらかたに通じていた。俺は植物学をものにした。学者どもが象牙の塔に閉じ込めたような矮小な学問ではない。この天地に育つ六万種の植物を会得したのだ。俺はものにした。師が俺の額に手をかざし、閉じた瞼の奥に天啓の光を舞い降ろして、その境地に送り込めば、俺はものに出来たんだ、霊妙なる瞑想を通して、大海《わたつみ》の底を見通す術《すべ》を。泥水の層に埋もれて揺蕩《たゆた》う奇怪な植物群を見分ける術を。天地開闢より人目に触れざる形無き醜悪な揺籃を、巨大な樹枝《てあし》で包み込んでおったわ。反旗を翻した天使どもが敗れた際に神の力によって生み出されてしまった日以来、神にも忘れ去られた奴らなのだ。 「それから言語に耽った。死せる言葉も生ける言葉も。ダーダネルス海峡からマゼラン海峡にわたって用いられているありとあらゆる言語を学んだ。ピラミッドと呼ばれる花崗岩の書物に記された未知のヒエログリフも読んだ。俺は人類の叡智を掌握した。サンクニアトンからソクラテスまで。モーセから聖ヒエロニムスまで。ゾロアスターからアグリッパまで。 「医学も修めた。ヒポクラテス、ガレン、アヴェロエスに留まらず、自然という偉大な師に学んだ。コプトとドゥルーズの秘奥を探った。悲運の種子と幸運の種子を蒐めた。シムーンやハリケーンが頭上を過ぎた時には、その流れに種を委ねれば死や生を遠くまで運んでくれる。どちらになるかは俺次第、その土地を呪詛するも祝福するも、顔をしかめるか微笑むかだった。 「そんな研究、修行、放浪の最中だ。俺が二十歳になったのは。 「ある日、我が師が会いに来た時、俺は陽射しを避けて岩穴の中にいた。師の顔には厳しさと嬉しさが共に浮かんでおり……ガラス壜を手にしていた。 「『アシャラよ、そちには常に言っておいたはずだ。この世には何者も生まれず、何者も死なぬとな。揺籠と棺桶は兄弟よ。過ぎにし前世を見通さんがための神眼が人には欠けておるだけじゃ。翻せばそれを手にした日こそ、人は神の如く不死となるのだ。よいか! 儂は死を払う秘薬を創ろうとする過程で、闇を晴らす秘薬を創りあげた。儂が昨日飲んだ分だけ、壜から減っておる。アシャラよ、残りは今日そちが飲むのだ』 「俺は師に全幅の信頼を寄せていたし、心から崇敬していた。だが差し出された壜に触れた手は震えっ放しだったよ。エヴァに林檎を差し出された時のアダムもあんな様だったに違いあるまい。 『飲むがいい』師は莞爾として言った。 「俺は飲んだ。 「師は俺の頭に手をかざした。千里眼を授けてくれた時と同じようにな。 『眠れ。記憶を探るのだ』 「俺は直ちに眠りに就いた。すると夢の中で俺は白檀と蘆薈《アロエ》の櫓《やぐら》に寝かされていた。東方から西方に主の仰せを運ぶ一人《ひとたり》の天使が通り過ぎしな、翼の端で櫓に触れて火をつけた。だが不思議なことに、俺は不安に怯えて炎を恐れたりはせずに、燃えさかる火群の中で陶然としていた。あらゆる生命の根源より新たな生命を汲み取る鳳凰の如くにな。 「その瞬間、俺から物質的なものは消え去り、魂だけを残して、肉体の形こそ留めていたものの目にも見えず、手にも触れ得ず、この世の大気よりも軽く高く舞い上がった――その瞬間、トロイアの戦場にいたことを覚えていたピタゴラスのように、俺は思い出した、既に三十二の生を生きていたことを。 「目の前で数世紀が過ぎた。族長たちもこんな体験をしたに違いあるまい。俺は誕生の日より死の瞬間までかつて有していた数々の名前を思い出したが、それは知っての通りだ。何せ我らが信仰の根幹を為しているのだからな。神性が産み落とした無数の存在は、魂と呼ばれ、息吹のたびに神の胸より吐き出されている。魂は大気を満たし、気高き魂から下司な魂に至るまで幾多の階層に分かたれている。人は生まれる時に予め存在していた魂を恐らくは無作為に吸い込み、死せる時に新たな生と転生のために吐き戻すのだ」  話しぶりは自信に満ち、双眸は気高く天を見据えていたので、信仰のすべてをまとめようと考えている間に、感嘆の囁きが洩れた。怒りが驚きに変わったように、驚きは感嘆へと変わっていたのだ。 「目が覚めると、自分が人ではなくなっていることに気づいた。神に近づいたのがわかったのだ。 「そのとき俺は心に決めた。現世の身はもとより、俺に残されている後世のすべてを、人類の幸福に捧げんことを。 「翌日、俺の考えを読んだかのように、アルトタスがやって来てこう言った。 『息子よ。二十年前、母御はそちを生んでから身罷った。爾来二十年、父御には姿を見せられぬやむにやまれぬわけがある。また旅を続けようではないか。これからの出会いの中には父御との出会いもあり、抱きしめられもしようが、そちには父に抱きしめられたと知る術はないと思え』 「こうして、主の僕《しもべ》たちと同じく、俺のすべては謎めいていたに違いない。過去も、現在も、未来も。 「俺は尊師サラーイムに別れを告げた。老爺は何度も祝福をくれ、幾つもの餞別をくれた。やがて俺たちはスエズを目指す隊商《キャラバン》に合流した。 「すまんが諸君、懐かしさにほろりと来ても許してくれ給え。ある日、一人の老人に抱きしめられ、どくどくと脈打つ心臓の鼓動を感じていると、全身全霊がおののくような震えに襲われた。 「その人こそメッカのシャリーフ、並ぶ者なき名高き長だったのだ。幾多の戦いにまみえ、腕を一つ上げれば、三百万が頭を垂れた。アルトタスは顔を背けた。感情を悟られぬように、恐らくは秘密を洩らしてしまわぬように。その後、俺たちは旅を続けた。 「俺たちはアジアに足を踏み入れた。チグリスを遡り、パルミラ、ダマスカス、スミルナ、コンスタンティノープル、ウィーン、ベルリン、ドレスデン、モスクワ、ストックホルム、ペテルブルク、ニューヨーク、ブエノスアイレス、ケープタウン、アデンを訪れた。それから俺たちは旅立ちの地のそばを通り過ぎ、アビシニアに至り、ナイルを下り、ロードスとマルタに到った。俺たちの船から二十海里ほど離れたところに一隻の船が現れ、マルタの騎士が二人、俺に挨拶しアルトタスを抱擁した。二人がまるで凱旋のように俺たちを案内した先は、大首長ピントの宮殿であった。 「諸君は不思議に思われるだろうな。なにゆえムスリムのアシャラが、よりにもよって異教徒の虐殺を誓った者たちに手厚く遇されたのかと。何もかもアルトタスのおかげだ。カトリック教徒にして自身もマルタの騎士であったアルトタスは、全能にして万物におわす神の話しかしたことがなかった。御使いである天使たちの手を借りて、世界を一つの調べに造りあげ、その妙なる調べに宇宙という名を与えし神のことしか口にしたことがなかった。俺はようやく、神に触れたのだ。 「俺たちの旅は終わった。だがどんな名を持つ町を見ようと、どんな文化を有する街を目にしようと、驚いたことはなかった。天が下に俺の知らぬものなど存せぬ。三十二の前世のうちに、既に同じ町を訪れていたのだからな。目についたのは住人の間に起こった変化だけだった。俺は精神世界で空を飛び、様々な事件を見下ろすことも出来れば、人類の歩みをたどることも出来た。あらゆる智性が着々と進歩し、進歩の果てには自由があるのを目にした。いつの時代にも現れる預言者たちが、たどたどしい人類の歩みを支えるために神より遣わされていたことを目にした。揺籃から盲目のまま放り出された人類が、一世紀ごとに一歩ずつ光に向かって足を踏み出していたんだ。――その数世紀こそ、人民の時代なのだ。 「そこで俺は考えた。畏き物事の数々が俺の目に見えぬようになっていたのは、俺の胸に仕舞っておくためなのだと。だが山が金鉱を隠し抱《いだ》き、海が真珠を包み隠そうとも何の意味もなかった。現に鉱夫は飽きもせず山の奥に掘り進み、潜水夫は海の底に潜っているではないか。海や山のようにではなく、太陽のように、つまり世界中に俺の輝きを振りまく方がいい。 「もうわかっただろう、俺が東方《オリエント》からやって来たのは、子供騙しなフリーメーソンの儀式を受けるためじゃない。お前たちに伝えに来たんだ。同朋たちよ、鷲の翼と眼を手にしてくれ。この世の上まで飛んでくれ、サタンがイエスを連れ出したあの山の頂を俺と共に目指してくれ。地上の王国に目を光らせておいてくれ。 「民というのは一つの巨大な生き物なのだ。異なる時代に生を受け、様々な境遇に生まれようとも、みんな同じ列に並んで来たんだ、みんな順番に生まれた目的にたどり着くのだ。足を止めているように見えても、歩くのをやめたわけじゃない。たまたま足を戻したとしても、後戻りしたいからではなく、弾みをつけて障害を飛び越えぶち壊すためだ。 「フランスがすべての国の先駆けだ。灯を掲げようじゃないか。たといその灯が松明の光であろうと、松明を焼き尽くす炎が幸を導く戦火となろう。その灯が世界を照らしてくれるはずだ。 「フランス代表がここにいないのはそのためさ。任務を前にして臆しちまったんだろう……何を前にしても臆さない人間が必要だ……俺がフランスに行こう」 「御身がフランスへ?」議長がたずねた。 「そうとも、何よりも大切な任務だ……俺がやるつもりだ。何よりも危険な仕事だ……俺が引き受けよう」 「フランスで何が起こっているか御身はご存じか?」  旅人は莞爾とした。 「知っているとも。段取りをつけたのは俺自身だ。今は老いて腰抜けで腐った王様が一人、その象徴たる王制ほど老いても腰抜けでも腐っても死にかけてもいないが、フランスの玉座に就いている。持って数年の命。いよいよ死んだ時のために、未来に備えておかなくてはならん。フランスは要石なんだよ。結社の合図一つで六百万が手を挙げ、その石を取り外せば、王制は崩れ去るだろう。フランスにもはや王がいないとわかった日には、玉座にふんぞり返った欧州の君主どもが眩暈を起こすだろうぜ。聖ルイの玉座がすっかり崩れ落ちた後に出来た深淵に、君主どもは自らすすんで飛び込むことになるのだ」 「失礼だが」議長の右にいる代表が口を挟んだ。山地ドイツ語訛りを聞けばスイス人だと知れる。「貴下の計算に抜かりはないのでしょうな?」 「ない」大コフタは即断した。 「失礼ながら言わせていただく。山の頂、谷の底、湖の岸にいると、我々の口も風や水の囁きと同じように軽くなりますので。私としては、機は未だ熟さずと申し上げよう。これから大きな波が来そうなのです。フランス王制が変わるも変わらぬもその波に懸かっております。幸運なことに、マリア=テレジアの娘が華々しくフランスに向かっているのを目にしたのですよ。十と七つの皇帝の血と、六十と一つの王の裔たる血を、結びつけるためです。下々の者は無邪気に喜んでおりました。手綱をゆるめられたり、足枷を金ぴかにしてもらったりした時のように。それがゆえに、我が名と同胞の名に懸けて、繰り返させていただく。機は未だ熟せずと」  一人一人がじっくりと考え込んで、グランド・マスターの告発に穏やかでいながら大胆に異を唱えたこの人物を見つめた。 「話すがいい」大コフタには動揺した素振りもない。「聴くべき助言であれば耳を傾けるまでだ。神の僕は誰も拒みはせぬし、公共の利益を自尊心の傷に捧げたりはせん」  スイス代表は静まりかえった中、発言を続けた。 「長年のあいだ修めてきた研究により、私は一つの真理を確信いたした。人間の顔というのは、その美徳と不徳を読む術を心得てさえいれば、饒舌なものでしてな。人は表情を作り、視線を和らげ、口元をほころばせる。こうした筋肉の動きは任意のものにほかなりませぬ。しかしながら、持って生まれた気質は隠せぬもの。何が心をよぎったのか、見るも確実な印がありありと残されるものです。例えば虎が蠱惑的に微笑み、愛くるしい目つきをしたとしても、その小さな額、張った頬骨、巨大な後頭部、血に染まった微笑みを見れば、それが虎であるのは明らかなこと。犬の場合も然り、眉間に皺を寄せ、牙を剥きだし、怒りを見せようとも、その穏やかで素直な目、理智的な顔つき、忠実な足取りを見れば、その真心と友愛は明らかなこと。神は生きとし生けるものの顔に、その名前と性質を記したのです。この私奴が読み取りました。フランスを治めることになる娘の顔に、ドイツ娘らしい自尊心と勇気と、穏やかな慈愛が刻まれているのを。夫となる若者の顔に、穏やかな落ち着きとキリスト者の寛容と為政者の気配りが記されているのを。さて、ここに一国の国民がおります。それも悪きことは覚えず善きことを忘れぬフランス国民です。シャルルマーニュ、聖ルイ、アンリ四世さえいれば、卑劣で残忍な歴代の王たちすら見守って来た者たちです。希望を失わず絶望を知らない国民が、若く美しく善良な王妃や、優しく慈悲深く善良な為政者である王を、なにゆえ愛さずにいられましょうか。それも惨憺たる浪費に明け暮れたルイ十五世時代の後、国王による表立っての饗宴と表に立たぬ復讐の数々の後、ポンパドゥールとデュ・バリーによる治世の後ですぞ! 王太子夫妻が先ほど挙げた美徳を備え、欧州和平という持参金を持ち寄るとするなら、フランスとて祝福を否みましょうか? 今まさに王太子妃マリ=アントワネットは国境を越えようとしています。祭壇と婚礼の褥もヴェルサイユに用意されております。果たしてフランスによるフランスのための革命を始めるのに相応しい時期でしょうか? 重ね重ね失礼ながら、申し上げるべきことを申し上げたまで。これは心の底より感じていることであり、貴下の賢明なご判断を仰ぐべきと考えていることなのです」  そう言うと、チューリヒ代表と呼ばれていた人物は頭を下げ、満場から同意の囁きを得て、大コフタの返答を待った。  待つこともなく答えはすぐに返って来た。 「貴兄が相を読むことに通じているなら、俺は未来を読むことに通じている。マリ=アントワネットは誇り高い。戦いにこだわった挙句に俺たちの攻撃に滅ぶだろうぜ。王太子ルイ=オーギュストは善良で慈悲深い。戦いに滅入った挙句に妻と運命を共にするだろう。ただし一人は長所のせいで、一人は反対に短所のせいで滅ぶのだ。今は二人とも敬意を払い合っているだろうが、愛し合う機会など二人に与えるつもりはない。一年もしないうちに軽蔑し合っているはずだ。うだうだ言う必要はあるまい。光が何処から届いたかなんて気にするな。その光が俺には見えた、それでいいじゃないか。第二の新生を知らせるその星の光に導かれて、羊飼いのように、東方からこうして俺がやって来たんだ。明日から俺は計画に取りかかる。お前たちにも協力を頼む。計画を実現するために、二十年の時を貸してくれ。一つの目標に向かって一致団結して歩めば、二十年で充分なはずだ」 「二十年!」亡霊たちが不満を洩らす。「なんと悠長な!」  大コフタは逸《はや》る者たちに顔を向けた。 「そうかもな。ジャック・クレマンやダミアンよろしく、ナイフ一つで人を屠るように行き方を屠ることが出来るとでも思っているなら、悠長にも感じるだろう。くだらない!……ナイフで人は殺せるだろうが、そんなものは剪定用ナイフで小枝を切って切り口から無数に枝を生やすようなものだ。国王の身体を墓に寝かせた代わりに、脳たりんのルイ十三世や、狡猾なルイ十四世や、崇拝者の血や涙にまみれた偶像のルイ十五世を、叩き起こしちまう。そんな崇拝者どもにそっくりな奴らをインドで見たよ。のっぺりした笑いを顔に貼りつかせたグロテスクな神々が、山車の車輪に花輪を投げる女子供を押し潰していた。三百万の人の心から王の名を消し去るのに二十年は掛けすぎだと考えているんだな? つい先頃もルイ十五世の命を救うために我が子の命を神に捧げていたような奴らの心だぞ。フランス国民が百合の花を憎むよう仕向けるのは造作ないと思っているんだな? 百合の花が天の星の如く輝き、花の香りの如く甘く、千年にわたって世界の隅々に光と愛と栄光をもたらしていたとしてもか? やってみるがいい。二十年とは言わず一世紀くれてやる! 「お前たちはばらばらに震えている見知らぬ者同士。お前たちの名前を知っているのは俺だけだし、様々な能力を見極めて一つにまとめられるのも俺だけだ。お前たちを絆で結ぶ鎖になれるのは俺だけなのだ。哲学者の諸君、経済学者の諸君、観念論者の諸君、俺が言いたいのは、二十年後にはこうした行き方を ――今は炉端で囁いているだけの、今は古い塔の暗がりでおどおどしながら書きつけているだけの、今はお前より先に勝手にさえずる裏切者や粗忽者をいつでも始末できるようにナイフを手に言葉を交わしているだけの行き方を――路上で包み隠さず口にしたり、堂々と印刷したり、欧州全土に広めたり出来るようにしたいんだ。それを実現するのが平和の使者か、はたまたこうした行き方を旗印に掲げて自由のために戦う兵士五十万人の銃剣の先か、それはわからぬ。頼む。ロンドン塔の名に怯える者たちよ、宗教裁判所の名に怯える者たちよ。これから挑もうとするあのバスチーユの名に怯えるこの俺がお願いする。あの牢獄の瓦礫を踏みにじり、憐れんでやろうじゃないか。瓦礫の上で奥さんや子供たちを飛び跳ねさせてやろうじゃないか。すべて実現できるとすれば、死後。それも王様じゃなく、王制が死ななくてはならん。宗教の支配が終わり、社会的ハンデが根絶され、貴族制が消え去り、領主の財産が分け与えられなければならん。古い世界を破壊して新しい世界を築き直すには二十年が必要なんだ。二十年だぞ、永遠に比べればほんの二十秒程度じゃないか。それをお前たちは悠長だと言うのか!」  感嘆と同意の囁きは演説が終わった後もしばらく止まなかった。謎めいた予言者は、欧州を代表する思想家たちの共感をことごとく勝ち得てしまったのだ。  大コフタはしばし勝利を味わい、充分に堪能すると、話を続けた。 「いいか、兄弟たちよ。俺の身体はどうなってもいい。巣穴のライオンを狩りに行く用意は出来ている。世の自由のためにこの命を賭す覚悟も出来ている。お前たちはどうするつもりだ? 命と財産と自由を捧げた理想を成功に導くために、お前たちは何をするつもりなんだ? 教えてくれ。俺はそれを聞くためにここに来たのだ」  芝居めいた演説に呑まれて、後には水を打ったような静寂が訪れた。薄暗いホールに見えるのは、身じろぎもせぬ亡霊たちの姿だけだった。玉座を揺るがすことになるはずの容赦ない考えに、誰もが取り憑かれていたのだ。  六人の代表がその場を離れてしばらく協議してから戻って来た。  議長が初めに口を利いた。 「老生の言葉はスウェーデンの言葉。スウェーデンの名に於いて申し上ぐる。ヴァーサ家の玉座を打ち壊すため、かつてその玉座を築いた鉱夫たちに加えて一万エキュを提供しよう」  大コフタは手帳を取り出し、言われたことを書きつけた。  次いで議長の右にいる人物が口を開いた。 「アイルランドとスコットランド支部から派遣された身としては、イングランドの名に於いて約束できることは何もない。イングランドとの間には深い遺恨があるのだ。だがアイルランドの名とスコットランドの名に於いて約束しよう。一年につき三万の民と三万クラウンを支援する」  大コフタは先ほどの申し出の脇にそれを書きつけた。 「貴殿は?」  三人目の代表に漲る力強さや荒々しい気迫は、長々とした屍衣でも隠せてはいなかった。「オレが代表を務めるアメリカでは、石の一つ一つ、木の一本一本、水の一滴、血の一滴に至るまでが、革命に染まっている。金があれば差し出そう。血があれば流しもしよう。ただし動くためには自由を手に入れなくれは。ばらばらに囲いに入れられて番号を振られている現状では、鎖の輪がばらばらに外れているようなもの。必要なのは強靱な手。初めに輪を二つ繋げてしまえば、後は黙っていても次々に繋がってくれるはず。先陣を切るのはアメリカでなくてはならない。フランスを王権から解き放ちたいのであれば、まずは我々を外国の軛から解き放って欲しい」 「いいだろう」大コフタが答えた。「まずは貴殿らが自由を手に入れてくれ、フランスはそれを後押ししよう。神はあらゆる言語で『なんぢら互に負へ』と仰せになった。待つのだ。兄弟たちよ、そう長いことではない、保証しよう」  次にスイス代表に顔を向けた。  スイス代表が答えた。「私には個人的に支援することしか出来ませぬ。我らが共和国の息子たちは長きにわたってフランスの王制と同盟関係にありましてな。マリニャーノとパヴィーアの戦い以来、血を売り払っているのです。しかも売り手として誠実であるがゆえ、これからも売ったものを届けてゆくことでしょう。誠実であることを無念に思うのはこれが初めてです」 「構わん。スイス人の若者がいなくとも、スイス人の衛兵がいようとも、俺たちは勝つ。次の番だ、イスパニア代表」 「貧しい私に差し出せるのは、同朋三千人くらいのもの。だが年に千レアルもらえば一人一人がきっちりと仕事をしましょうぞ。イスパニアは無精な国。そこの人間なら、たとい苦しみの床でも眠りに就けましょう。眠れさえすればよいのです」 「よし。貴殿は?」 「ロシア及びポーランド地方代表。こちらの同朋は、不満を抱く富裕層と、働きづめで若死にする運命にある貧しい農奴。命さえ持たぬ農奴の名に於いて約束することは何も出来ないが、三千人の富裕層に代わって一人当たり年二十ルイを約束しましょう」  ほかの者たちの番も順次やって来た。小王国の代表もいれば、大公国の代表や、貧困国の代表もいたが、どの代表も大コフタの手帳に申し出を書き留めさせ、約束したことを必ず果たすと誓った。 「いいか」大コフタが声をあげた。「俺の正体を明らかにした三文字の標語は、既に世界の一部には入り込んでいるし、これからほかの地域にも広まることだろう。諸君の一人一人がこの三文字に心を寄せるだけではなく、心に背負ってくれ。東と西の支部の最高位マスターである我輩が、百合の崩壊を命じるのだ。俺がお前に命じる。スウェーデンのともがらよ、スコットランドのともがらよ、アメリカのともがらよ、スイスのともがらよ、イスパニアのともがらよ、ロシヤのともがらよ。|百合を踏みつぶすのだ《Lilia Pedibus Destrue》」  海鳴りのような喝采が巣窟の奥でどよめき、不気味な突風となって山間を吹き抜けた。 「父と親方《マスター》の名に於いて命じる。戻り給え」どよめきが静まったのを見計らって大コフタが告げた。「順次|ドンナースベルク《モン・トネル》の石切場に通じている地下道に戻るのだ。川を下り、森を抜け、谷を通り、日の出前に散れ。再び会うのは勝利の時だ。さらばだ!」  最後に六代表だけにわかるフリーメーソンの合図を送ったので、会員たちがいなくなっても六代表は大コフタを囲んだままだった。  大コフタがスウェーデン代表を脇に呼んだ。 「スヴェーデンボリよ、あんたには確かに霊感がある。俺の口を借りて神も労をねぎらっているぜ。今から伝えるフランスの住所に金を送るのだ」  議長は控えめに一礼すると、その名を暴いた千里眼から茫然として退いた。 「ありがとう、フェアファックス。確かに父祖の血を継ぐ方とお見受けした。今度手紙を書く時にはワシントンに俺のことをよろしく伝えておいてくれ」  フェアファックスは一礼して、スヴェーデンボリの後から立ち去った。 「来たまえ、ポール・ジョーンズ。さっきはよく言ってくれた。お前なら言ってくれると思っていたよ。必ずやアメリカの英雄になる男だ。アメリカもお前も、最初ののろしが上がるのを待っていてくれ」  アメリカの提督は神の息吹に触れたかのように震えながら退出した。 「ラファーターよ。理論など捨てよ。今や実行の時だ。人間とは何かを研究している場合ではない。人間は何になれるのかを探るのだ。俺たちに手向かう兄弟たちなどくたばっちまえ。民の怒りは神の怒りにも負けぬほど速くむごいぞ」 「よく聞け、ヒメネス」次に大コフタはイスパニアの名に於いて話をしていた男に声をかけた。「お前は熱心なくせに自信がないんだ。お前の国が眠っているだと? 起こす者がいないだけだ。カスティーリャは今だって昔と変わらずシドの祖国だ」  六番目の代表が前に出たが、三歩と進まぬうちに大コフタに止まるよう合図されていた。 「ロシヤのシーフォルトよ。お前は一月しないうちに大義に背くだろうが、一月後には死ぬことになる」  死を宣告されたモスクワ代表は膝を突いたが、大コフタに立ち上がるよう促され、よろめきながら立ち去った。  すると一人残ったこの怪人物、つまりはこのドラマに主役としてご登場いただいた件の男は、周りを眺めて、議場であったホールが閑散としているのを確かめると、黒天鵞絨の外套を刺繍入りのボタン穴で留め、帽子を深くかぶり、バネを押して閉じていた青銅の扉を開いて、山道に飛び出した。久しい以前から勝手知ったるような足取りで。やがて森に着くと、道案内も光もないというに、見えざる手に導かれるようにして森を抜けた。  森を抜けると馬を探したが、見当たらなかったので耳を澄ました。遠くでいななきが聞こえたような気がする。節をつけた口笛が旅人の口から流れ出た。直後、暗がりの中を駆けるジェリドが見えた。元気な犬のように忠実で従順なジェリド。旅人はひらりと飛び乗り、二人揃って瞬く間に遠ざかると、やがてダネンフェルスからドンナースベルクの頂まで生い茂っているヒースに紛れて見えなくなった。 第一章 雷雨  先ほどの物語から七日後のことである。宵の五時ごろ、二人の馭者の駆る四頭立ての馬車が、ナンシーとメスの間に位置する小都市ポン=タ=ムソンを出発した。今しがた宿場で馬を替えたばかりである。女将が戸口で愛嬌を振りまき遅入りの旅客を引き留めようとしたが、馬車はパリへの道を急いでいた。  四頭の馬が重い車体を曳いて辻に消えると、馬替えの最中は馬車を取り囲んでいたわらしこもおかみさんも、てんでに身振り口振りを交えながら家路についた。面白がっている者もいれば、驚いている者もいた。  それというのも五十年前に善良王スタニスワフが公国とフランスとの連絡を容易にしようとモーゼル川に橋を架けて以来、このような馬車が橋を渡ったことなどついぞなかった。市の立つ日には、双頭の怪物、踊りを踊る熊、放浪部族と自称する文明国の軽業師やジプシーたちを、ファルスブールから連れてくるアルザスのいっぷう変わった有蓋車さえ、例外ではない。  であるからして、やんちゃ盛りの子供や口さがない年寄りでなくとも、このけったいな車が通り過ぎるのを見て驚いて立ち止まったとしてもおかしくはない。しかしながら同じ大きさの前輪と後輪に揺られ、丈夫なバネに支えられて走るこの馬車の速度には、目にした人々が思わずこう叫んでしまうのも仕方なかろう。 「駅馬車にしちゃあ変わってるな!」  幸か不幸か現物を目にしていない読者諸氏のために、馬車の全容を明らかにしておこう。  まずは本体部分――という言い方をするのは、二輪馬車のようなものの後ろにこの部分がついているからで――この本体部分は水色に塗られ、扉の真ん中には男爵位を示すねじり巻き模様を戴くようにして、趣味のいいJとBの組み文字が象られていた。  窓が二つ――扉についた窓ではなく純然たる窓のことだが、白モスリンのカーテンを掛けた窓が二つあり、そこから車内に光が入るようになっていた。ただしこの窓、凡俗の目のほとんど届かぬ本体前部に開いて二輪馬車に通じていた。窓には鉄格子が嵌められていたので、本体にいる人物が何者であれその人物と会話をすることが出来たし、こうした用心がなければとても安心しては出来ないようなことも――即ち、カーテンの掛けられた窓ガラスにもたれることも出来た。  この車輛後部こそが奇妙な馬車の主要部分であるらしい。長さ八ピエ、幅六ピエ、陽射しの入口はその二つの窓のみ、空気の出入口は丸屋根に開いたガラスの嵌った換気口のみであった。そして奇妙な特徴の締めくくりに通行人の目に映っていたのが、少なくとも屋根からたっぷり一ピエははみ出した金属管である。もくもくと吐き出された青い煙が、白い柱となって立ち上り、運び去られる馬車を追う空の波となって広がっていた。  今日であればこうした特徴も、新しい何かの発明だと思われただけで終わっていただろう。技師が蒸気の力と馬の力を的確に組み合わせたのに違いない、と。  前述した通り馬車は四頭の馬と二人の馭者に曳かれていたが、その車体の後ろには馬が一頭だけ繋索一本で後部車輛に繋がれていた、ともなればこれが新発明らしき可能性はますます強まる。この馬には、小さく弓形の頭部、細長い脚、引き締まった胸、豊かな鬣に燃えるような尾といった、紛う方なきアラブ馬の特徴が備わっていた。鞍を置かれているところから考えて、このノアの方舟に閉じ込められた旅人の誰かが、時折り気晴らしをして、それほどの速度では走れない馬車のそばをギャロップで駆けているのだろう。  ポン=タ=ムソンで手綱を相棒に預けた馭者は馬車賃に加えて二倍の酒手を受け取っていた。モスリンのカーテンが本体前部を閉ざしていたのと同じように、革カーテンが二輪馬車の前部をぴしゃりと閉ざしている。白く逞しい手がその革カーテンの隙間から滑り出て、馬車賃を渡していた。  驚いた馭者は帽子を取って礼を言った。 「こいつぁすまんね、旦那」  よく通る声がドイツ語で応じた。ナンシー近郊にはもうドイツ語を話す者はいないがまだ言葉は通じた。 「Schnel! schneller!」  フランス語にすればこうなる。 「急ぐんだ! もっと急いでくれ!」  馭者はたいていの言語を理解できる。或る金属的な響きの言葉が添えてあれば。馭者といった手合いは――旅人なら先刻ご承知の通り――その金属音が大好きなのである。故に二人の新しい馭者は、急いで出発するために出来る限りのことをした。そして馬の脚の力より馭者の腕の力をたっぷり使った後でようやく、へとへとになりながら、常識的な速さであるトロットに抑えてもよいと認めることが出来たのである。その証拠に、今現在は明らかに一時間で二里半か三里の速度で走っているところであった。  七時頃にはサン=ミエルで馬を替えていた。先ほどの手がカーテンから覗いて走破した分の支払いを済ませ、先ほどの声が同じ指示を聞かせた。  言うまでもなくこの奇妙な馬車はポン=タ=ムソンの時と同じく人々の好奇心をかき立てた。夜も近づきいっそう幻想的に見えたのもそれを後押しした。  サン=ミエルを過ぎれば山道だ。そこから先は並足で走るしかない。四分の一里ほど進むのに半時間かかる。  坂を登りきったところで馭者は車を停めて馬を休ませたので、二輪馬車の乗客たちが革のカーテンを開ければ広大な景色を見晴らせたやもしれぬが、やんぬるかな既に夕靄が降り始めていた。  午後の三時まではからりとした暑さだったが、夜にかけてうだるように蒸して来た。南の空に広がる白い雲が、つけ狙うように馬車を追いかけ、バル=ル=デュックに着く前に捕まえようとしていたため、大事を取ってバル=ル=デュックで夜を過ごした方がいいと馭者は訴えていた。  片や山の斜面、片や断崖に挟み込まれた小径の下の谷底には、ムーズ川が蛇行していた。半里にもわたる急な坂道を降りるには、並足以上の速さでは危険すぎる。そこで馭者たちは速度を抑えて慎重に馬車の操縦を再開した。  雲は歩みを止めず、荒らかに、大地を薙ぐかと思われるほど低くなるにつれ、地面から立ちのぼる靄が露となって広がっていた。つまり、忌まわしい白い魔物が、戦に臨む軍艦のように、風下に居坐ろうとしていた青鼠色の雲を蹴散らしているのが見えた。  やがて雲は潮が満ちるように見る見るうちに空を覆い、残されていた日脚も隠されてしまった。薄暗い光がかろうじて地上にこぼれ、風がなくとも揺れ続ける木の葉が黒ずんだ色を纏った。それは太陽と入れ替わりに訪れる闇という下塗りの色だった。  不意に稲光が雲間を駆け巡り、空が火によって甲羅状にひび割れ、怯えた目には地獄の底のように燃えさかる果てしない天空の底さえ見えたような気がした。  それと同時に木から木へと飛び渡って道を横切る森の端までたどり着いていた稲妻が、文字通り大地を揺るがし、巨大な雲を悍馬のように走らせた。  馬車はといえば煙突から煙を吐き出したまま走り続けていた。もっとも、初めこそ黒っぽかった煙は薄くなり乳白色に変わっていた。  そのうちに空がわなないたように暗くなった。すると屋根の換気口が赤い光に染まり、光はそのまま消えずにいた。外の嵐とは無縁な室内の乗客が、取り組んでいる作業を妨げられぬよう、夜に備えたのだ。  馬車は今なお山上だった。雷鳴がさらに激しい音をばりばりと轟かせて雲間から雨を落とした時も、まだ斜面を降り始めてはいなかった。初めのうちこそ落ちて来たのは大粒の滴であったが、やがて天から放たれた矢のように鋭くしのつく雨がほとばしった。  馭者たちが何やら話し合っているようだ。馬車が止まった。 「おい!」先ほどの人物が声をかけたが、今度は滑らかなフランス語であった。「いったいどうしたんだ?」 「このまま進むべきかどうか考えていたんでさ」 「それを考えるのはお前たちではなく俺じゃないのか? 進め!」  その声の抗いがたい響きに、馭者は命令通り馬車を出し、坂道を進み始めた。 「それでいい!」  わずかに開いた革のカーテンが、すぐに乗客と二輪馬車の間を元通り遮った。  だが道は降り注ぐ豪雨でぐしょぐしょにぬかるみ、俄に滑りやすくなったため、馬が前に進もうとしなかった。 「旦那」手綱を取っていた馭者が声をかけた。「これ以上は進めませんや」 「何故だ?」既にお馴染みの声がたずねた。 「馬が進まんのです。滑っちまって」 「宿場までどのくらいだ?」 「はあ! けっこうあります。四里ってとこで」 「では馬に銀の蹄鉄をつけるがよい。それで進める」そう言ってカーテンを開け、六リーヴル=エキュ銀貨四枚を握らせた。 「こいつはどうも」馭者は大きな手で銀貨を受け取り、ゆったりした革靴の中に滑り落とした。 「旦那の声がしたようだが?」もう一人の馭者が、銀貨の落ちるじゃらじゃらした音を聞きつけて、面白そうなやり取りに乗り遅れまいとした。 「ああ。進めとさ」 「何か問題でもあるのか?」乗客の声は穏やかだが険しく、この点に関しては如何なる反論も受けつけまい。 「いや旦那、あっしにはねぇよ。馬でさ。見ねぇ。梃子でも動かねえって面だ」 「拍車を掛ければよいではないか」 「旦那! 腹に拍車を蹴り込んだところで、ぴくりとも動きやしませんぜ。あっしの言うことに嘘があれば、天罰を喰らったって……」  馭者の暴言は言いも終わらぬうちにとてつもない雷の音と光に断ち切られた。 「とんでもねえ天気だ。ありゃ! 旦那、見なせえ……馬車が勝手に動いてやがる。五分もすりゃあ出したくもない速さになりますぜ。畜生! ひとりでに進んでやがる!」  なるほど重い車体に押されて持ちこたえきれなくなった馬は脚を踏ん張ることも出来ず、重みを増してゆく馬車の車輪がそのうち猛回転を始め、馬車はぐんぐんと前に進んでいた。  馬が痛がって暴れ、乗客たちも暗い坂をすっ飛んでゆく。このまま行けばその先は崖だ。  先ほどまでとは違い、乗客が声だけではなく顔も出した。 「阿呆め! 殺す気か! 左に手綱を取れ! 左だ!」 「いや、旦那! もとよりそのつもりで!」怯えた馭者が手綱を締め、再び馬を御そうとしたが、果たせなかった。 「ジョゼフ!」女の声が初めて聞こえた。「ジョゼフ! 助けて! お願い! 聖母さま!」  現に危険はすぐ目の前まで迫っており、聖母への祈りが洩れるのも当然だった。馬車は重みに引きずられたまま制御も利かず、崖に向かって進み続け、馬の一頭はほとんど宙づりになっているようだ。さらに車輪三回転分前に進めば、馬も馬車も馭者もすべて投げ出され、粉々になっていてもおかしくなかったが、その時乗客の男が二輪馬車から轅に飛びつき、馭者の襟首とベルトをつかんで、子供でも持ち上げるように軽々と持ち上げ、脇に放ると、代わりに鞍に飛び乗って手綱を引き締め、ただならぬ声をあげた。 「左だ!」乗客はもう一人の馭者に怒鳴った。「左だ、阿呆! 頭を吹っ飛ばされたいのか?」  この一言が魔法のような効果を上げた。前列の馬二頭を操っていた馭者は、相方の悲鳴に追い立てられるようにしてあり得ないほどの力を振り絞り、馬車に勢いをつけ、乗客の助けを借りながらも、道の真ん中まで馬車を戻した。と、そこから馬車は雷鳴さながらの音を立てて、飛ぶように走り出した。 「急げ!」と乗客が叫ぶ。「速度を落とすな! 緩めようものなら、お前も馬も踏み潰してやる」  ただの脅しではないと直感した馭者は力を込め、馬車は恐ろしい速度で坂を下り続けた。凄まじい音を轟かせ、煙突を燃え上がらせ、声なき叫びをあげながら夜を往くのを見れば、まるでこの世ならざる馬に曳かれた地獄の馬車が嵐に追われているようだった。  だが一難去ってもまだ終わりではなかった。山間にたなびいていた雷雲は、馬に負けぬ速さで滑るようにひた走っていた。時折り乗客が顔を上げた。やはり稲妻が雲を裂くのは気になるようだ。稲光に照らされた顔には、隠そうともしない不安の色が見えた。どうせ神にしか見えぬのだから隠す必要もない。と、そこで――坂が終わっても馬車の勢いは止まらず、平坦な地面を走り続けていたその時であった。空気の急激な移動によって陽電気と陰電気が結びつき、雲が恐ろしい音と共に裂けて雷光と雷鳴を同時に吐き出した。紫色の炎が青くなったかと思うと最後には真っ白になり、馬たちを包み込んだ。後ろの二頭が棒立ちになって、前脚で空を掻き、硫黄臭い空気をごふごふと吸い込んだ。前の二頭は足許の地面が消え失せたかのようにぱたりと倒れた。だが馭者を乗せていた馬がすぐに立ち上がり、衝撃で引綱が切れていることに気づいて、そのまま立ち去ったので、馭者は闇間に見えなくなった。馬車の方はしばらく走り続けてから、雷に打たれた馬の死体にぶつかって止まっていた。  この間にも車内からは悲痛な女の叫び声が聞こえ続けていた。  滅茶苦茶な状態がしばらく続き、人の生死も定かではない。乗客の男は身体中に触れて変わりがないかを確かめた。  自分は無事だったが、女が気を失っている。  気を失ったのはさほど前のこととは思われない。馬車から洩れていた悲鳴がぱたりとやんでいたからだ。それなのに男が真っ先に助けに向かったのは、悲嘆に暮れた女のところではなかった。  それどころか足を降ろすや馬車後部に駆け寄った。  そこには前述した見事なアラブ馬がいた。怯えて体躯をがくがくと強張らせていたために、毛の一本一本が生き物のように逆立ち、扉が揺れ、取っ手に繋がれた繋索がぴんと張るほどだった。とうとう目が見開かれ、口から泡を吹き始めた。繋がれた綱を千切ろうと努めたものの甲斐なく、嵐に怯えて目を回してしまったのだ。旅人がいつものように口笛を鳴らしながら手を回して尻を撫でると、馬はびくりと跳ねていなないた。主人のこともわからぬらしい。 「まったく。いつもいつも忌々しい馬め」馬車の中からしわがれた声がした。「壁を揺すりおって。呪われてしまうがいい!」  さらに声は大きくなり、アラビア語に変わった。その声には苛立ちと殺気が籠っていた。 「!大人しくしていろと言っただろう、この阿呆め!《Nhe goullac hogoud shaked haffrit !》」 「ジェリドを怒らないで下さい、先生」乗客の男は繋索をほどき、馬車後部の車輪に繋ごうとした。「怯えていただけなんです。もっと何でもないことで怖がる人だっているじゃありませんか」  そう言って扉を開け、昇降段を下げて車内に入ると扉を閉めた。 第二章 アルトタス  男の目の前には一人の老人がいた。目は灰色、鼻は鉤鼻、手は震えているが利かなくはない。大きな肘掛椅子に沈み込み、右手で『|小部屋の鍵《La Chiave del Gabinetto》』と題された羊皮紙の写本を繰りながら、左手で銀のおたまをつかんでいた。  その居住まいといい、その作業の内容といい、皺は固まり目と口だけに命が宿っているようなその顔といい、果てはその一切合切が読者諸兄には異様に映るであろうが、件の男にとっては珍しくもないらしく、周りに目をくれもしなかった。しかしながらこの馬車内部のしつらえに見るべき価値がないというわけではない。  三方の壁――ご記憶の通り、老人は馬車の内側をそう呼んでおり――壁三面には棚が設けられ、その棚も多くの本で埋められている。壁に囲まれるようにして、普段老人が専用に坐っている肘掛椅子が用意されていた。本の上には老人のために横板が設置されており、船内の食器やガラス壜が固定されているように、フラスコや広口壜や籠が木箱内に固定して置けるようにされていた。老人はいつも自分のことは自分一人でやっているらしく、どの棚や箱にも椅子を転がして行くことが出来た。行きたい場所まで来たら、椅子の脇にあるジャッキを使って高さを変え、自分で椅子を動かしていた。  部屋――とこの四角い空間のことも呼ぶことにして、この部屋は長さ八ピエ、幅六ピエ、高さ六ピエあった。扉の正面、フラスコと蒸留器の向こう、出入りのために空けられている四番目の羽目板の近くには、庇と鞴と火格子のついた小さな竈が聳えていた。今しもこの竈で坩堝が熱せられ調剤が沸き立ち、それが煙突に流れ込んで、前述の通り丸屋根から外に洩れ出し、その怪しげな煙を見た全国各地の老若男女が目を見張ってあれは何だと口々に囃し立てていたのである。  さらに、ひときわ雑然と床に散らばったフラスコ、籠、書物、ボール箱の間には、銅製のペンチ、様々な薬剤に浸された木炭、水の半ばまで入った大壺があり、天井には、一つには前日採取したばかりのものから果ては百年前に採られたと思しきものまで、薬草の束が幾つも糸で吊るされていた。  室内には強い匂いが立ち込めていた。かほどまで突飛な実験室でなければ、芳しいと言って差し支えない香りであった。  男が入って来た時、老人は手際よく椅子を動かして素早く竈に近づき、注意というよりは敬意に近いものを払って調合薬から灰汁をすくい始めたところであった。男の出現を迷惑がって、耳まで降ろしていた天鵞絨帽を右手でさらに深く降ろした。かつては黒かったその帽子から、銀糸の如く光る髪がわずかにはみ出している。そして老人は椅子の車輪が踏んでいた部屋着の裾を器用に引き抜いた。綿を入れた絹製の部屋着は幾年も使い古したものらしく、色は褪せ、形も崩れ、継ぎだらけでぼろぼろになっていた。  どうやらすこぶる機嫌が悪いようで、灰汁をすくっている間もガウンを引っ張る間もぶつぶつと文句を垂れている。 「怖がりの畜生めが。いったい何を怯えておるのか。扉を揺すって竈を振動させ、霊薬をごっそりと火にぶちまけおった。アシャラよ! 後生じゃ。今度砂漠を通りかかったら、あの馬めを放り出してしまえ」  男が笑みを作った。 「いいですか、先生。もう砂漠を通りかかることはありません。フランス国内にいるのですから。それに、千ルイもする馬を放り出すことなど出来るわけがない。いいや、値段じゃない。アル=ブラークの血を引く馬なのですよ」 「千ルイ、千ルイじゃと! 欲しければ千ルイでも何でもくれてやるわ。そちの馬が儂から奪ったのは百万ルイでは利かぬぞ。そのうえ命の日数まで奪いおった」 「このうえジェリドが何をしたというのです?」 「何を? やってくれたわ、あと数分もすれば霊薬が煮立つところだったのじゃぞ。一滴もこぼしておらぬ。このことはツァラトゥストラもパラケルススも教えてくれなんだが、ボッリがしっかりと忠告してくれておる」 「ではあと数秒で煮立つのでは」 「ああ煮立つかもしれぬな! 見よアシャラ、まるで祟りじゃ、火が消えた。何ぞ知らぬが煙突から落ちて来よる」 「俺にはわかりますよ」と男は笑みを洩らした。「あれは水です」 「何、水? 水じゃと! これで儂の霊薬はパアだ! また一からやり直し。時間が余っているとでもいうのか? 神よ! 天よ!」老人は絶望のあまり天を仰いだ。「水じゃと! いったい如何なる水なのだ、アシャラよ?」 「空から降って来た真水ですよ。激しい雨にお気づきになりませんでしたか?」 「作業中に気づくわけがなかろう! 水じゃと!……それでこの始末か!……嗚呼アシャラ、ふざけおって! この六か月というもの、煙突に笠をかぶせよと言っておいたではないか……六か月だぞ!……いや一年。考えもせなんだか……若いのだから、ほかにやることもなかろうに。そちの怠慢のせいでどうなる? 今日は雨だの、明日は風だの言うて、数字も計算も滅茶苦茶じゃわい。こんな状態でも急がねばならぬ! 知っての通り、時は近い。その日までに用意できねば、生命の霊薬を見出さねば、さらば賢者、さらばアルトタス! 我が百とせの始まりは七月十三日の夜、正十一時。それまでに霊薬を完成させねばならん」 「ですが万事は順調に見えますが」アシャラは言った。 「なるほど試みに何度か服んではみた。麻痺同然だった左手がすっかり元通りになった。腹ごしらえの手間も省ける。まだ不完全とはいえ、霊薬を一匙、二、三日に一度だけ摂ればくちくなる。それがどうじゃ、必要なのはたった草木の一つだけ、その草木の一葉さえあれば、霊薬は完全なものとなろうというのに、蓋し百、五百、いや千回は気づかぬままに通り過ぎ、馬の脚や馬車の車輪で踏みつけているに違いあるまい。プリニウスが言及していながら、学者たちが見つけることも目にすることも叶わなかった以上は、まだ一つたりとも失われてはおらぬのだ! 後で催眠状態のロレンツァにその名を聞いておかねばなるまいな」 「わかりました。任せて下さい、聞いておきましょう」  老人は深い溜息をついた。「それまでのところは今回のこの不完全な霊薬のままだ。この状態になるまでさえ、四十と五日かけねばならぬ。覚悟しておけ、アシャラよ。儂が命を失う時には、そちも相当のものを失うということを……はて、何の音じゃ? 馬車が動いておるのか?」 「雷ですよ」 「雷だと?」 「ええ――我々みんな死にかけたところでした。特に俺は危なかった――絹をまとっていたから助かったようなものの」 「そういうことか」老人が膝を叩くと、虚ろな骨のような音がした。「これがその愚挙の結果じゃよ、アシャラ。儂を落雷で殺しかけ、時間さえあれば自在に操っていたはずの電光で犬死にさせかけ、竈に鍋をぶち込んで火に掛けおった。不始末や悪意のせいで人災に晒されるならいざ知らず、そちのせいで予測の容易い天災にまで晒されたに相違ないな?」 「お言葉ですがそんなことはまだ……」 「ん? 説明しておらなんだか? 儂の最新の装置、避雷用の凧なのじゃがな。霊薬を見出せし暁にはまた説明してやろう。だが今は時間がない」 「雷を治めることが出来ると?」 「治めるだけではないわ。操ることも可能じゃ。いつの日か、二度目となる五十の坂を無事に越え、静かに三度目を待つよりほかなくなった時には、雷に鋼の手綱を取りつけ、そちがジェリドを御するように容易く雷を御してみせよう。だがそれまでは、煙突に笠をつけてもらわねばならぬ。アシャラよ、それだけは忘れんでくれ」 「やっておきます。ご安心を」 「やっておくだと! やっておく、か! いつだって先のことじゃな。儂らに先があるとでも? どうせ理解はされんのだ!」老人は椅子に坐ったまま声を荒げて身体を震わせ、絶望に腕をよじらせた。「ご安心とはな!……安心じゃと言うのか。三月《みつき》のうちに霊薬が完成しなければ、儂のすべてが終わるのだぞ。じゃがよい。二度目の五十の坂を越え、若さを取り戻し、手足の動きが元に戻り、身体の自由も戻って来れば、さすればもはや何者も要らぬ。『やっておく』と言われるまでもなく、この儂自ら『やり遂げた!』と叫べもしよう」 「つまり我々のおこなっているこの大仕事にもそう言える日が来ると? そうお考えなのですか?」 「お考えじゃとも! それにつけても、霊薬を生み出すことに、ダイヤを作るのと同じくらい確かな手応えがあればのう……」 「つまり確かな手応えをお持ちなのですね?」 「さもあろう。とっくに作っておるのじゃから」 「作ったですって?」 「まあ見るがよい」 「何処です?」 「ほれ、右にあるそのガラス容器の中、そちの目の前じゃよ」  男はなりふり構わず容器を手に取った。高級ガラスで出来た小さな器の底や曲面には、非常に細かい粉がうっすら積もっていた。 「ダイヤの粉末だ!」 「さよう、ダイヤの粉じゃ。それと真ん中、よく見てみい」 「あるある、ありました、粟粒ほどのダイヤが」 「大きさは問題ではない。粉はまとめればよいし、いずれ粟の粒から麻の実ほどに、麻の実から豌豆ほどにしていこうではないか。約束する。だがその代わり、アシャラよ、頼むから煙突には笠を、馬車には避雷具をつけてくれ。さすれば煙突から雨も落ちて来ぬし、雷も余所に出かけてしまうでのう」 「わかりました。ご安心を」 「また得意の『ご安心を』か! 腹が立つ。これだから若い連中は馬鹿だというんじゃ!」老人がぞっとするような笑いを浮かべると、歯のない口腔が覗き、落ち窪んだ眼窩がひときわ深く沈んだように見えた。 「先生、火は消え、坩堝は冷えてしまいましたが、坩堝にはいったい何が入っていたんです?」 「見るがよい」  言われて坩堝の蓋を開けると、榛ほどの大きさをした透明な炭素の塊が見つかった。 「ダイヤだ!」と叫んだのも束の間、「でも曇りがある。不完全で、値打ちがない」 「火が消えたからじゃ、アシャラよ。煙突に笠をつけなかったからじゃよ、わかったか!」 「それについては謝ります」ダイヤをためつすがめつしてみれば、きらりと光ったかと思えば、そのままくすんだきりだったりする。「それはそうと食事を摂らないと身体が持ちませんよ」 「無用。二時間前に霊薬を一匙飲んでおる」 「思い違いをしてらっしゃる。薬を飲んだのは朝の六時でした」 「馬鹿な! では今は何時だというのじゃ?」 「夜の八時半頃です」 「まさか!」老人は両手を組んで祈るように叫んだ。「また一日経った、過ぎた、消えてしもうた! では一日が短くなったのか? 一日はもう二十四時間ではなくなったのか?」 「食事を摂らぬのなら、せめて幾らかなりとも睡眠を取って下さい」 「わかった。では二時間眠るとしよう。だが二時間の間、時計の確認を怠るな。二時間したら起こしに来てくれ」 「約束します」 「わかっておるな」老人は猫なで声をかけた。「目を閉じると永遠にそのままなのではないかと不安でしょうがないのじゃ。起こしに来るのじゃぞ? 約束ではない、誓うがいい」 「誓います、先生」 「二時間後じゃな?」 「二時間後に」  その時だった。馬の駆け足のような音が路上に聞こえた。それから、不安と驚きの混じった叫び。 「いったいどうしたんだ?」男は急いで扉を開け、昇降段も使わずに路上に飛び降りた。 第三章 ロレンツァ・フェリチアーニ  男と老人が馬車の中で話をしている間、外ではこんなことが起こっていた。  前の二頭が雷に打たれ、後ろの二頭が棒立ちになり、二輪馬車の女が気絶したことは既に述べた。  女はしばらく意識を失っていたが、恐ろしさのあまり気が遠くなっただけだったので、やがて人心地を取り戻し始めた。 「嗚呼! 独りぼっちで助けもなく、手を差し伸べてくれる人もいやしない」 「失礼」おずおずとした声が聞こえた。「僕がいますよ。何か出来ることがあればいいのですが」  耳元近くで響いたその声を聞き、女が身体を起こして頭と腕を二輪馬車の革カーテンから覗かせると、目の前の昇降段に若い男が立っていた。 「今のはあなた?」 「ええ、そうです」 「助けてくれるの?」 「ええ」 「それよりまず何が起こったの?」 「雷がそばに落ちたんです。そのせいで前の二頭の引綱が切れ、馭者を乗せたまま何処かへ行ってしまいました」  女はありありと不安を浮かべて周りを見渡した。 「それで……後ろの馬を御していた人は?」 「馬車の中に入りました」 「その人の身に何か起こってはいない?」 「何にも」 「本当に?」 「少なくとも馬から飛び降りた様子では五体満足に見えました」 「よかった!」  女は先ほどより躊躇いなく息を吐いた。 「そうするとあなたは何処にいたの? こんなに折よくここにいて助けてくれるなんて?」 「嵐に遭って、そこの陰になっている石切場の入口に避難していたら、馬車が凄い勢いで走って来るのが見えたんです。初めは馬が暴れているのかと思いましたが、そうではなく、むしろ暴れるのを懸命に御しているのがわかりました。その時、凄まじい音を立てて雷が落ちたのを聞いて、自分が打たれたのだと思い、しばらく動くことも出来ませんでした。こうしてお話ししている出来事も、すべて夢で見たようにぼんやりしているんです」 「では後ろの馬を御していた人が馬車の中にいるのもはっきりしないの?」 「そんなことはありませんよ。その頃には我に返って、中に入るのはしっかりと見ましたから」 「お願い、今もいるか確かめてほしいの」 「どうやって?」 「耳を澄ませてみて。馬車の中にいるのなら二人の声がするはず」  若者は昇降段から飛び降り、後部馬車の外壁に近づき耳を澄ませた。 「聞こえます。中にいますよ」  女は「ありがとう!」とでもいうようにうなずいたが、そうしながらも夢想にでも耽っているように、片手に頬を預けているままだった。  その間に若者は女を観察することが出来た。  二十三、四の若い女で、浅黒い顔をしていたが、そのくすんだ顔色も鮮やかな薔薇色や桃色などより遙かに麗しく美しかった。美しい青い目が、まるで問いかけるように空を見つめ、二つの星のように輝いている。黒髪は流行に反して髪粉もつけずに伸ばしており、漆黒の巻毛がオパールの如き色合いの首筋に垂れかかっていた。  やにわに心が決まったようだ。 「ここはどの辺りになるのかしら?」 「街道のどの辺り?」 「ピエールフィットから二里ですね」 「ピエールフィット?」 「村ですよ」 「ピエールフィットの先は?」 「バル=ル=デュック」 「町ね?」 「その通りです」 「人は多い?」 「四、五千人だと思います」 「バル=ル=デュックまでもっと近道できるような岐路はない?」 「ありません。少なくとも僕は知りません」 「|残念ね《Peccato》」女は小さく呟き、二輪馬車の奥に引っ込んだ。  まだ質問がありやしないかと思って念のため待っていたのだが、女が何も言わぬままなのを見て、若者は二、三歩ばかり立ち去りかけた。  それで女は夢想から醒めたらしく、二輪馬車の前にある窓に駆け寄った。 「待って!」  若者が振り返る。 「ここにいますよ」と答えて近寄った。 「よければ、もう一つたずねたいことがあるの」 「どうぞ」 「馬車の後ろに馬が繋がれていたでしょう?」 「ええ」 「今もそこに?」 「いいえ。車内に入った方が、ほどいて車輪に結び直していました」 「馬の身にも何も起こってないのね?」 「多分そうでしょう」 「とても大事で可愛い馬なの。無事な姿をこの目で確かめられればいいのだけれど。でもこんな泥の中、馬のところまで行けっこないし」 「それなら僕が馬をここに連れて来ますよ」 「助かるわ! そうしてくれる? 恩に着るわ」  若者が馬に近づくと、馬は頭をもたげいなないた。 「心配しないで。子羊みたいにおとなしいんだから」  そう言って声を落とした。 「ジェリド! ジェリド!」  それが主人の声だと気づいたのであろう、馬は鼻から湯気を立て賢そうな顔を二輪馬車の方に向けた。  その間に若者が綱を解いていた。  だが馬は繋索を持っているのが知らない人間だと気づき、すぐさま体躯を震わせ手から逃れ、一跳びで後部馬車から遠く離れた。 「ジェリド!」女はさらに優しい声を出した。「ジェリド! いらっしゃい!」  アラブ馬は美しい頭を揺すり、大きく息を吸い込むと、拍子でも取るように前脚で地面を掻きながら、二輪馬車に近づいて来た。  女がカーテンから身体を乗り出した。 「ほらジェリド。こっちへ来なさい!」  馬は言われた通りに頭を差し出すと、その頭を撫でるかのように女の手が差し出されていた。  と、女はその華奢な腕で鬣をつかみ、二輪馬車の泥よけを手がかりにして、ひらりと鞍に飛び乗った。ドイツの昔話に出てくる、馬の尻に飛びついて旅人のベルトにしがみつく化物のような身のこなしだった。  若者が駆け寄って来たが、女は来るなというように手を上げた。 「お願い。あなたは若いけれど……違うわね。若いからこそ、思いやりを持たなくては。だから止めないで。逃げはするけど、あの人のことは愛してる。でも私は敬虔なローマン・カトリックなの。これ以上一緒にいては魂を蝕まれてしまう。あれは無神論者の降霊術師。神が雷を鳴らして教えてくれた。あの人もその警告を活かしてくれればいいけど。今言ったことを伝えてくれる? 助けてくれて感謝するわ。ご機嫌よう!」  女はそう言い残すや、湖沼にたなびく靄の如く軽やかに、ジェリドに乗って全力で走り去り、姿を消した。  若者はそれを見て、思わず驚きの声をあげていた。  これが即ち、車内まで聞こえて来た前述の声であり、旅人の男が注意を引かれた声だったのである。 第四章 ジルベール  旅人の注意を引いたのがこの声だったことは述べた通りである。  旅人は急いで車外に出て慎重に扉を閉め、不安げに辺りを見回した。  最初に目に留まったのは、驚いて立ち尽くしている若者だった。折よく稲妻が光ったため、全身をくまなく観察することが出来た。どうやらこの男、気になった見知らぬ人や物を観察するのに慣れているようだ。  立っていたのはせいぜい十六、七の、小柄で贅肉のない逞しい青年だった。気になるものを無遠慮に突き刺す黒い瞳には、誘い込まれるようなところこそないが惹かれるものがあった。細い鷲鼻、薄い口唇、突き出した頬骨からは、抜け目なく用心深いことが窺えるし、滑らかな下顎の突端にあるがっちりした顎先を見れば、強い意思も明らかだ。 「先刻、声をあげたのは君かな?」 「ええ、僕です」若者が答えた。 「なぜあのような声を?」 「それは……」  若者は躊躇った。 「それは?」旅人は鸚鵡返しにたずねた。 「二輪馬車にご婦人がいらっしゃいましたよね?」 「ああ」  バルサモの目が馬車に向けられた。壁の厚みも射抜かんほどの眼差しだ。 「馬車のバネに馬が繋がれていましたよね?」 「ああ。何処に行ったんだ?」 「はい、二輪馬車のご婦人が、バネに繋がれたその馬に乗って行ってしまいました」  旅人は声もあげず、言葉も発せず、二輪馬車に駆け寄りカーテンを開けた。時しも稲妻が天を燃やし、無人の車内を照らした。 「糞ッ!」伴奏のように轟いている雷鳴にも劣らぬほどの咆吼だった。  慌てて周りに目を走らせ、追いかける術《すべ》を見つけようとしたが、どんな手だても役には立たぬと早々に諦め、首を振って呟いた。 「そこらの馬でジェリドを追ったところで、亀でガゼルを追うようなものだ……だが何処にいようと俺にはわかる、ただ……」  はっとしたように顔色を変えて上着のポケットに手を伸ばし、取り出した財布を開くと、仕切りから折り畳んだ紙を取り出した。中から現れたのは黒い髪房。  それを見て旅人の顔に安堵が浮かび、目に映る限りではすっかり落ち着いて見える。 「ふん」額を拭った手が汗でぐっしょりと濡れた。「ふん、まあいい。あいつは何も言わずに立ち去ったのか?」 「いいえ」 「何と言っていた?」 「憎しみではなく恐れゆえに立ち去るのだと。また自分は隠れなきキリスト教徒であるのに、あなたの方は……」  若者は躊躇った。 「俺の方は……何だ?」 「お伝えしてもいいのかどうか……」 「気にするな、言うがいい!」 「あなたの方は、神を信じぬ異教徒。今夜の出来事は神が最後に与えた警告だと。自分にはその警告が理解できた。あなたにも理解して欲しいと」  嘲りが旅人の口によぎった。 「それで全部か?」 「全部です」 「そうか。では話を変えよう」  旅人の頭からは不安も不満もすっかり消し飛んだようだ。  若者はこうした心の動きを、旅人の顔に浮かんだ表情からすっかり読み取っていた。元をたどれば好奇心だが、この若者にもそれなりに観察の才はあるのだ。 「お主の名は何という?」 「ジルベールです」 「ただのジルベール? それは洗礼名ではないのか」 「紛れもない僕の苗字です」 「わかったよジルベール、こうして出会ったのも何かの縁だ。一つ頼まれてくれ」 「僕に出来ることなら伺いますが……」 「そうしてくれるとありがたい。いや、お主の年頃だと、人助けするのもそれが楽しいからなのだろう。もっとも、俺の頼みはたいしたことではない。夜露をしのぐ場所を教えて欲しいだけだ」 「それでしたらここに岩がありますよ。僕もこの下で嵐をやり過ごしました」 「うむ。だが俺の欲しいのは、夜食と寝床付きの宿のようなものなのだ」 「そうなるとちょっと難しいですね」 「では人里からはかなり遠いのか?」 「ピエールフィットですか?」 「ピエールフィットという名なのだな?」 「そうです。一里半くらいありますよ」 「一里半か。こんな夜中に、この空模様で、馬二頭だけなら二時間はかかるな。よく考えてくれ、ここらには人が住んでいないのか?」 「タヴェルネの城館が、せいぜい三百歩ほどのところにあります」 「そいつはいい! では……」 「えっ?」若者が大きく目を見開いた。 「どうしてすぐに言ってくれなかったんだ」 「ですがタヴェルネ邸は宿屋ではありませんよ」 「人は住んでいるのか?」 「ですが……」 「誰の住処だ?」 「それは……タヴェルネ男爵です」 「タヴェルネ男爵とは何者だ?」 「アンドレ嬢のお父上に当たります」 「いいことを聞かせてもらったがな」旅人は笑みを浮かべた。「俺が聞いているのは、男爵がどんな人物かだ」 「はい、六十代前半の貴族のご老人で、かつては裕福だったという話です」 「ほう。だが今は貧しいと、そういう落ちか。すまぬがタヴェルネ男爵の家まで案内してくれんか」 「男爵邸へですか?」若者の顔に怯えが走った。 「そうだとも! よもや拒みはすまい?」 「もちろんです。ですが……」 「何だ?」 「男爵はお断わりになるでしょう」 「宿を借りに来た迷える紳士に門前払いを食わせるというのか? 男爵は冬眠中の熊のように世を捨て引き籠もっているのか?」 「えっ!」。漏れた声にはこんな響きが含まれていた――まさにその通りなのです。 「取りあえず行ってみようではないか」 「僕はお勧めいたしません」ジルベールが答えた。 「ふん。男爵が熊でも生きたまま俺を喰らったりはすまい」 「それはそうですが、きっと門を開けてはもらえません」 「では打ち破るまでだ。案内が嫌でなければ……」 「ご案内しますよ」 「では道を教えてくれ」 「わかりました」  旅人は二輪馬車に戻り、小型の角灯《ランタン》を取り出した。  ジルベールは角灯が消えているのを見て、旅人が後部車内に戻れば扉の隙間から中の様子を覗けるのではないかと期待した。  だが旅人は扉に近づきもしなかった。  角灯を手渡されて、ジルベールはためつすがめつした。 「この角灯でどうすればよいのですか?」 「俺が馬を操るから、道を照らしておいてくれ」 「でも火が消えていますよ」 「また灯ければよい」 「ああ、馬車の中に火種があるんですね」 「ポケットの中にな」旅人は答えた。 「この雨では火口に火はつきっこありませんよ」  旅人が笑みを浮かべた。 「角灯を開けてくれ」  ジルベールは言われた通りにした。 「俺の手の上に帽子をかざしてくれ」  ジルベールは再び言う通りにして、何が起こるのかと食い入るように見ていた。火をつけるのに火打ち石以外の方法があるとは知らないのだ。  旅人はポケットから銀のケースを取り出し、中から燐寸を抜き出すと、ケースの下部を開いて糊状のものに燐寸を浸した。それは可燃性のものだったらしく、乾いた音を立てて燐寸に火がついた。  あまりに簡単に意外なことが起こったものだから、ジルベールはぎょっとなった。  それを見て旅人は笑みを浮かべたが、時代を考えればジルベールが驚くのも無理はない。燐の存在は一部の化学者にしか知られていなかったし、知っている化学者たちはその秘密を外に洩らさず自分たちだけで実験をおこなっていた。  旅人は魔法の火を蝋燭の芯に移すと、ケースを閉じてポケットに戻した。  若者はその珍しいケースの行方を穴の空くほど見つめていた。これほどの貴重品を手に入れるには、さぞや散財したに違いない。 「明かりも手に入ったことだし、案内してくれぬか?」 「参りましょう」  ジルベールが先に立ち、旅人は馬銜《はみ》をつかんで馬を牽いた。  もっとも空模様は随分とましになっていたし、雨も小降りになり雷もごろごろと鳴りながら遠ざかっていた。  会話を続けたいと思ったのは旅人の方だった。 「お主は随分とタヴェルネ男爵に詳しいようだな」 「不思議でも何でもありませんよ。子供の頃から男爵邸にいたのですから」 「するとお身内かね?」 「とんでもありません」 「後見人?」 「そうじゃないんです」 「お主の主人か?」  この主人という言葉に若者は身震いし、青白かった頬がそれとわかるほど真っ赤に染まった。 「僕は使用人ではありません」 「だが誰でもない人間などいまい」 「父がかつて男爵の小作人だったのです。母はアンドレ嬢の乳母でした」 「なるほどな。お主が厄介になっているわけは、その若いご令嬢の乳母子に当たるからか。どうだ、男爵の娘御は若いのだろう?」 「十六になります」  たずねられたのは二つだったが、お気づきのようにジルベールはそのうち一つをはぐらかした。自分に関する問いの方だ。  旅人も同じことに気づいたようだが、追求はせず質問の矛先を変えた。 「いったい何故こんな天気のなか道の真ん中に?」 「道の真ん中にいたわけではありません。脇道沿いの岩陰にいたんです」 「では岩陰で何を?」 「本を読んでいました」 「本を?」 「ええ」 「何を読んでいたのだ?」 「『社会契約論』です。J=J・ルソーの」  旅人は驚きの目で若者を見つめた。 「男爵邸の図書館にあったのか?」 「いいえ、買ったのです」 「いったいどこで?……バル=ル=デュックか?」 「ここで、通りすがりの旅商いから。しばらく前からこんな田舎にもいい本を持った旅商いが来るようになったんです」 「『社会契約論』がいい本だというのは誰に教わったのだ?」 「読めばわかりますよ」 「すると違いがわかる程度にはひどい本も読んでいるというわけだな?」 「ええ」 「ひどい本を教えてくれ」 「もちろん『ソファー』とか『タンザイとネアダルネ』のような本ですよ」 「そんな本をどこで見つけた?」 「男爵邸の図書館です」 「こんな田舎暮らしなのに男爵はどうやって新しい本を手に入れるのだ?」 「パリから送られて来ますから」 「待て待て。お主は男爵が貧しいと言ったではないか。何故そんな詰まらぬものに金を掛ける?」 「買ったのではなく、いただいたのです」 「ほう! もらったというのか?」 「ええ」 「いったい誰から?」 「ご友人の一人の大貴族から」 「大貴族だと? 名は何という。知っているか?」 「リシュリュー公爵と仰います」 「まさか! 老元帥か?」 「元帥その人です」 「だがよもやアンドレ嬢の目の届くところにそんな本をうっちゃっておるわけではあるまい」 「それどころか誰の目にも届くところに」 「アンドレ嬢も同じ感想だったか? やっぱりひどい本だったと」旅人はからかうようにたずねた。 「アンドレ嬢は読んでなどいませんから」ジルベールはにべもない。  旅人は口を閉じた。素直かと思えば偏屈に、内気かと思えば大胆になる不思議な性格に、我知らず惹かれていたのだ。 「ではお主は、ひどいとわかっていながらなぜ読んだ?」 「ページを開いただけではどんな本かわかりませんから」 「だがすぐに判断できたというわけか」 「その通りです」 「それでも読み続けたのだろう?」 「読みましたとも」 「何故《なにゆえ》に?」 「知らないことを学べるからです」 「では『社会契約論』は?」 「漠然と思っていたことを学べました」 「というと?」 「人間は皆兄弟であること、社会がまだ整備されていないから農奴や奴隷が存在していること、いつの日か一人一人が皆平等となるだろうということです」 「ふむ!」  ジルベールと旅人はしばらく無言で歩き続けた。旅人は馬の手綱を引き、ジルベールは角灯を手に持ち。 「するとお主はものを学びたいのだな?」旅人が低い声でたずねた。 「そうなんです。ぜひとも」 「それで、何を学びたいのだ?」 「あらゆることを」 「何のために?」 「上を目指すために」 「何処まで?」  ジルベールは躊躇いを見せた――目指すところがあるのは間違いないが、どうやら胸に秘めて語りたくないのだろう。 「人間の行けるところまでです」 「では差し当たり何を学んだ?」 「何も――学べるわけがないでしょう? お金もなく、タヴェルネに住んでいるというのに」 「ほう、数学の智識はゼロか?」 「ええ」 「物理学は?」 「出来ません」 「化学は?」 「出来ません。今は出来るのは読み書きだけです。だけどいつか、数学も科学もすべて学ぶつもりです」 「いつ?」 「いつの日か」 「如何にして?」 「わかりません。でもいつかは必ず」 「面白い奴だ!」旅人は独り言ちた。 「その時には……」ジルベールも半ば独り言つように呟いた。 「その時には?」 「ええ」 「何だ?」 「何でもありません」  そうこうしているうちに、ジルベールと旅人はかれこれ十五分は歩いていた。雨はすっかり上がり、春の嵐が明けた後に立ち上るあのつんと来る香りさえ地面から匂い始めていた。  ジルベールは何やら考え込んでいたようだが、不意に口を開いた。 「嵐とは何なのかご存じですか?」 「だいたいはな」 「本当ですか?」 「ああ」 「嵐とは何なのかを? 雷の発生するわけをご存じなんですか?」  旅人は笑った。 「二つの電気が呼び合うのだ。雲の中の電気と地面の電気だな」  ジルベールは溜息をついた。 「僕には理解できません」  旅人はもっとわかりやすく説明してやろうとしたのだろうが、折悪しく葉陰から明かりが洩れた。 「ほう! あれは何だ?」 「あれがタヴェルネです」 「では着いたのだな?」 「あそこが厩口です」 「開けてくれ」 「タヴェルネ邸の門がそんなに簡単に開くとでも?」 「なるほどタヴェルネ氏の要塞というわけか? いいだろう。敲《たた》いてくれ」  ジルベールは門に近づき躊躇いがちに一敲きした。 「おいおい! そんなんじゃ聞こえんぞ。もっと強くだ」  確かにジルベールの訪いが聞こえた様子はない。何もかも静まりかえったままだ。 「責任は取ってくれますよね?」ジルベールが確認した。 「心配するな」  もはや躊躇いはなかった。ジルベールは敲き金を外して呼鈴に組みついた。とてつもない音が響き渡った。一里先でも聞こえたことだろう。 「それでいい! これで聞こえぬとすれば男爵は聾だぞ」 「マオンが吠えてます」 「マオンか! 男爵なりのリシュリュー公に対するお愛想のつもりだな」 「どういうことですか」 「マオンとは元帥が最後に征服した場所だ」  ジルベールはまたも溜息をついた。 「これですよ! 言った通り。僕は何も知らないんです」  二つの溜息の意味は旅人にも察しがついた。胸の奥に仕舞い込まれた苦悩と、挫かれてこそいないものの抑え込まれた野心が、ひとかたまりに凝縮されたものだ。  その時、跫音が聞こえた。 「来たか!」旅人が言った。 「ラ・ブリさんです」  扉が開いた。だがラ・ブリは旅人と奇妙な馬車を目にして息を呑み、ジルベール一人だと思って開けた扉をまた閉じようとした。 「すまんがここを訪ねて来たんだ。門前払いを食わせることはなかろう」 「恐れながらお客様がございます場合はあらかじめ男爵閣下にお知らせしておかねばならないのでございます……」 「わざわざ知らせることはない。ちょっと男爵の機嫌を損ねるかもしらんが、追い出されるにしても、身体も温まり服も乾いて腹も満たされた後のことだ。この辺りはワインが旨いそうじゃないか。そうなんだろう?」  ラ・ブリはそれを無視して断固とした態度を取ろうとした。だが旅人の方にも用意があった。ジルベールが扉を閉めている間に、瞬時にして馬二頭と馬車を並木道に入れてしまった。負けを悟ったラ・ブリは、それを自ら報せに行こうと決めたらしく、逃げるようにその場を退き、邸に向かって駆けながら声を限りに呼ばわった。 「ニコル・ルゲ! ニコル・ルゲ!」 「ニコル・ルゲとは何者だ?」旅人はなおも落ち着き払ったまま歩き続けた。 「ニコルですか?」ジルベールがびくりとして聞き返す。 「うむ、ニコルだ。ラ・ブリ殿がそう呼んでいた」 「アンドレ嬢の小間使いです」  そのうち、ラ・ブリの声に答えて木陰に明かりが現れ、魅力的な娘の姿が見えた。 「どうしたのラ・ブリ、何の騒ぎ?」 「急用じゃ、ニコル」老人の声は震えていた。「旦那さまにお知らせせい。嵐に遭うた御仁が宿を求めていらっしゃる」  ニコルは一度聞いただけで城館に取って返し、たちまち姿が見えなくなった。  ラ・ブリはといえば、男爵に不意打ちを食らわすことだけは避けられたと見て、一息ついていた。  やがて伝言が伝わったと見え、アカシア越しに垣間見える戸口から、そして玄関の石段から、甲走った高飛車な声が聞こえて来た。繰り返している言葉から察するにもてなす気分とはほど遠いらしい。 「客人じゃと!……何者だ? 人の家を訪ねるなら、せめて名乗るものじゃ」 「男爵かね?」騒ぎの素である旅人がラ・ブリにたずねた。 「さようでございます」ラ・ブリは臍を噛んだ。「お聞きになりましたか?」 「俺の名前のこと……か?」 「さようで。私も伺うのを失念しておりました」 「ジョゼフ・ド・バルサモ男爵だと伝えてくれ。同じ身分だとわかれば主人の気分も治まろう」  ラ・ブリはその肩書きを聞いてわずかなりとも勇気を得て、主人のところに伝えに行った。 「では入ってもらおう」という呟きが聞こえた。「ここにいる以上……どうかお入り下され。それ……さよう。こちらに……」  言われるまでもなく旅人は前に進んだ。だが玄関の石段に足をかけた時、ふと後ろを振り返ってジルベールがついて来ているか確かめてみようという気を起こした。  ジルベールは消えていた。 第五章 ド・タヴェルネ男爵  ジルベールからタヴェルネ男爵の窮状を聞かされていたとはいえ、もったいぶって城館という名で表されていた住居に飾り気一つないのを見て、今し方ジョゼフ・ド・バルサモ男爵だと取り次いでもらったばかりの男は、やはり驚かざるを得なかった。  何しろ長四角をしたほぼ平屋だけの建物と言ってよく、小塔型をした四角い翼棟がその両端に二つ聳えているだけだ。しかしながらそんなちぐはぐな建物群も、嵐で千切れた雲間を走る青白い月明かりの下で見ると、風変わりな魅力に富んでいないこともない。  窓が地階に六つ、塔には二つずつ(つまり各階に一つずつ)あり、玄関の石段は堂々たる大きさではあるものの崩れた段と段との間に隙間が出来ていた。これが旅人を驚かせた建物のすべてであった。戸口まで来ると、既に述べた通り、燭台を手にした部屋着姿の男爵が待っていた。  タヴェルネ男爵は、六十代前半の小柄な老人だった。眼光は鋭く、突き出たおでこがそのすぐ上から引っ込んでいる。かぶっているのはみすぼらしい鬘で、戸棚の鼠がせっかく巻毛を残しておいてくれたというのに、それもすべて暖炉の燭台が時と共に図らずも台無しにしてしまっていた。白いかどうかも怪しいナプキンを手にしているところからすると、どうやらこれから食事を摂ろうとしていたのを邪魔されたらしい。  皮肉めいた顔にはヴォルテールと共通のものが感じられたが、今はそこに二つの感情のせめぎ合っているのが手に取るようにわかった。取り繕って見知らぬ客に笑いかけようとしていたが、苛立ちのせいで顔は歪み、不快な色が露わになっていた。手燭の微光が揺らめいて作る影が男爵の顔をまだらに染め、ひどく醜く見せていた。 「さてさて。こうしてご尊顔を拝しておる事情をお聞かせ願えますかな?」 「さよう、嵐のせいです。馬が怯えて暴れ、馬車も粉々になるところでした。そのせいで私は一人路上に取り残されてしまった。馭者の一人は馬から振り落とされ、もう一人は馬に乗ったまま走り去ってしまったのですが、その時出会った若者がお屋敷までの道を教えてくれ、あなたのご親切を請け合ってくれたのです」  男爵は手燭を掲げて辺りを照らし、話に出て来た事情とやらを引き連れて来た愚か者を見つけようとした。  旅人の方でも辺りを見回し、案内の若者が本当に何処かに消えてしまったのか確かめようとした。 「この城館のことを教えた者は何という名でしたかな?」知りたいのは感謝を伝えたいからだとでも言いたげに、タヴェルネ男爵はたずねた。 「確かジルベールと」 「これはこれは! ジルベールですか。だがそんなことくらいでは奴が役に立ったとは思えませんな。あれは穀潰しの哲学者ですぞ!」  随分と刺のある言い方からすると、主人と家人の二人はあまり馬が合わないらしい。 「しかしまあ」と、言葉にも劣らぬ意味深な沈黙を破って男爵は言った。「どうかお入り下され」 「ではまず馬車を入れさせていただきたい。貴重なものも運んでおりますゆえ」 「ラ・ブリ! 男爵殿の馬車を納屋まで案内して差し上げろ。庭の真ん中よりは安心じゃろうて。まだ屋根の板が残っておる場所もたくさんあった。ですが馬の餌については請け合えませんぞ。しかし馬があなたのものでも宿場のものでもないとなれば、気に病むこともないでしょう」 「ですがもしやご迷惑では……」待ちきれなくなってそう言いかけた旅人を、男爵が穏やかに遮った。 「お気になさるな。迷惑などありません。ただしあなたに迷惑をかけることはあるかもしれませんぞ」 「このご恩は決して忘れは……」 「ははっ! 期待はしとりませんわ」男爵は改めて手燭を掲げ、ジョゼフ・バルサモを火影で照らした。バルサモはラ・ブリの手を借り馬車を移動しているところだったため、男爵は遠ざかってゆくバルサモに向かって大声を出した。「さよう! 期待はしとりませんぞ。タヴェルネは惨めな住処、貧しい住まいですからな」  旅人には答える余裕がなかった。タヴェルネ男爵の言葉に従い、馬車を入れるために納屋の中でも傷みの少ない場所を探していたのだ。馬車がおおかた隠れると、ラ・ブリの手にルイ金貨を滑らせて、男爵の許に戻った。  ラ・ブリはその金貨を二十四スー貨だと思い込んで、確かめもせずポケットに落とし、幸運を天に感謝した。 「仰るほどひどいお住まいだとは思いませんぞ」バルサモは男爵に頭を下げたが、男爵は自分の言葉を証明するために、首を振り振り、じめじめした広い控えの間にバルサモを通して、ぼやきを垂れ始めた。 「気にせんで下され。自分の言ったことくらい理解しております。生憎と家計の方は、かなり厳しい。あなたがフランス人なら――ドイツ訛からするとそうではないようですし、そのうえ名前はイタリア系ですが……閑話休題。つまりフランス人であったなら、タヴェルネの名を聞いて栄耀たる記憶を呼び覚まされましょうということです。かつてはタヴェルネ長者と呼ばれていたものですぞ」  話の結びに溜息が出るものと思われたが、そうしたことは一切なかった。  ――達観してしまったのだな!とバルサモは考えた。 「こちらへ、男爵殿」タヴェルネ男爵が食堂の扉を開けた。「おい、ラ・ブリ! 食事の支度を。お主一人で百人分の働きをしてもらわねばならん」  ラ・ブリは言われた通りにすっ飛んでいった。 「わしにはあれしか従僕がおりませんでな。愚かな奴ですが、ほかのを雇う手だてもない。ここ二十年来、給金も受け取らずにここにおります。わしは食わせておる……奴が仕えるように……見ての通りの痴れ者ですわ!」  バルサモは洞察の目を向け続けた。  ――薄情な人だ! だが恐らくいきがっているに過ぎまい。  男爵が食堂の扉を閉め、手燭を頭上に掲げたため、その時になってようやく、旅人にも部屋全体を眺めることが出来た。  そこは天井の高くない大広間であった。かつて農園の座敷だったのを、所有者が城館として利用したのである。家具はほとんど無く、一見すると空き部屋とも思われた。背に彫刻のある藁敷き椅子が数脚。黒ニス塗りの額に収められた、ルブランの会戦を描いた版画。煤と年月によって黒ずんだ木楢《オーク》の戸棚。調度といってはそれだけだった。中央には小さな円卓一つ、卓上で湯気を立てているのは山鶉の雛のキャベツ添えただ一皿だけ。ワインが腹のふくらんだ壜に入っている。ナイフとスプーンとフォークと、カップと塩入れ――銀器はどれも古びて薄汚れて凹みが出来ていた。この塩入れだけは趣味も良く重量感もある出来で、さながら石くれに紛れた宝玉といった趣であった。 「さあさあどうぞお坐りになって」男爵は椅子を勧めながらも、部屋をじろじろと眺めまわしている旅人から目を離さずにいた。「ははあ! この塩入れがお目に留まりましたか。さすがお目が高い。お見事です。自慢できるものといえばこれくらいですからな。本当にありがたい。いや失敬。ほかにも自慢できるものがありましたぞ! わしの娘です」 「アンドレ嬢ですね?」 「まさしくアンドレです」なぜ知っているのかと男爵は驚いた。「紹介いたしましょう。アンドレ! アンドレ! 来なさい。恥ずかしがらずに」 「恥ずかしがってなどおりません」嫋やかながらも凜とした声と共に、長身の美女が戸口から姿を現した。臆してはおらず、といって不貞々々しくもない。  既に見て来たようにバルサモは自制心の強い人間であったが、斯かる絶世の美女を前にしては屈するしかなかった。  事実アンドレ・ド・タヴェルネが現れると、その周りのあらゆる物が輝きを帯びて見えた。栗色の髪はこめかみや首筋で明かりを灯し、漆黒に澄んだつぶらな瞳が鷲の目のように鋭い眼差しを放っていた。だがその眼差しには得も言われぬ柔らかさがあり、紅色の口唇は濡れて輝く珊瑚のように艶やかに弧を描いて割れていた。ローマ時代の絵画に描かれたような白くほっそりとした見事な両手が、まばゆいばかりに輝く形のよい上腕につながっている。しなやかに引き締まった腰は、如何なる神意によって異教の女神像に魂が吹き込まれたかと紛うほどである。その脚線美には女神ディアナも羨むに違いなく、人の身体を支えていられるのは奇跡的な釣り合いの上に成り立っているとしか思えない。身なりこそ質素だが趣味の点からは非の打ち所がなく、また本人にぴったり似合っていたので、それと比べれば王妃の衣装部屋から持ち出した衣装でさえ見すぼらしく思えたことだろう。  その一つ一つに、バルサモは一目で打ち据えられた。タヴェルネ嬢が食堂に現われてから挨拶をおこなうまでの間、目を離すことが出来なかった。完璧な材料だけで出来たこのたぐいまれなる作品を見て、バルサモがどれほどの感銘を受けたのかを、タヴェルネ男爵も見逃さなかった。 「仰るとおりだ」バルサモは男爵に向かって声を絞り出した。「お嬢さんはまことに美しい」 「アンドレをからかわんでくだされ」男爵は素っ気なく答えた。「修道院帰りですからな、信じてしまいます。女っぽいのを心配しておるわけではありません。むしろまだまだ。わしは良き父としてこの娘の素質を引き出そうとしておるところです。女にとって一番の武器ですからな」  アンドレが目を伏せ顔を赤らめた。どれほど耳を塞ぎたくとも、父の口にしたこの奇妙な理屈に耳を塞ぐことは出来なかったからだ。 「お嬢さんは修道院にいたと仰いましたが」ジョゼフ・バルサモは男爵に笑いかけた。「修道女はそんなことも教えてくれるのですか?」 「わかっておいででしょうに? わしにはわしの考えがあります」  バルサモは同意の印にうなずいた。 「娘に教えを説く父親を真似る気などありませんからな。貞淑たれ、一心たれ、従順たれ、名誉と慎みと無私に身を委ねよ、ですと! くだらん! それではまるで、立会人が決闘士を丸裸にしてから、完全武装の敵と戦わせに連れて行くようなものではありませぬか。笑止! こんな片田舎のタヴェルネで育てたとはいえ、アンドレはそんなことにはなりませんぞ」  男爵自身が居城を片田舎と表現したとは言え、バルサモは礼儀から否定の意を示そうとした。 「お気遣いは結構」バルサモの顔つきを見て男爵が答えた。「タヴェルネのことならわかっております。ヴェルサイユという名の太陽を目にするにはいささか遠すぎる。だがこんな場所でも娘には、わしのよく知っていたあの世界を学ばせてやりたいのです。この娘がいざ乗り込む時……いつの日か完全武装で乗り込む時のために、わしの経験と記憶を頼りに……だが正直に言いましょう、修道院のせいですべてが水の泡……そんなことを重視していたのはわしだけで、娘は模範的な寄宿生として、教わったことから善を学び福音書の文字を追っていたのです。まったく! 悲劇だとは思いませんか!」 「お嬢さんは天使ですよ」とバルサモは答えた。「ですからあなたのお話には驚きませんね」  アンドレは感謝と好意を込めてお辞儀すると、父から目顔で合図されて席に着いた。 「あなたもお坐り下さい。腹がお空きならどうぞ。あのラ・ブリが煮込んだ美味くもない料理ですが」 「ヤマウズラが? これを美味くもないと仰るとは」バルサモは微笑んだ。「卑下なさっておいでだ。五月のヤマウズラですよ! あなたの地所で獲れたものですか?」 「わしの地所ですと! 昔はそんなものもありましたな――実を申せば父が幾ばくかを遺してくれたのだが――そんなものはとっくの昔に売られ切られて消え失せてしまった。はてさて! おかげさまで今では土地の切れっ端すら残っておりません。あのジルベール奴は本を読むことと夢見ることくらいしか出来ませんが、暇な折りには何処ぞから掠めた銃と火薬と弾丸を手に、他人様の地所に入り込んで鳥を撃っておるのですよ。そのうちガレー船行きでしょうが、無論わしの知ったことではない。いい厄介払いですわ。ところがアンドレは鳥が大好物ときてますから、わしも大目に見ておるわけです」  バルサモはアンドレの顔をじっくりと眺めたが、そこには皺の一本も些かの震えも恥じらいの影さえもなかった。  バルサモが二人の間に坐ると、アンドレが皿を取った。献立の貧しさに気後れする様子を微塵も見せずに、ジルベールが獲り、ラ・ブリが調理し、男爵が貶した料理を大皿から取り分けた。  その間にはラ・ブリも、バルサモがジルベールと自分のことを褒めてくれたのを聞き洩らしてはいなかった。褒めるべき味だという気持から出たバルサモ男爵の言葉を聞くたびごとに、無念そうな表情を得意げなものに変えていた。 「塩味すら付いておらん!」タヴェルネ男爵は手羽先を飲み込むや一喝した。とろとろのキャベツを敷いた小皿にアンドレが取り分けた手羽先だった。「アンドレ、男爵殿に塩入れをお渡ししなさい」  アンドレは言われた通りに優雅な手を伸ばした。 「ははあ! また塩入れに見とれておいでですな!」タヴェルネ男爵が口にした。 「お言葉ですが今回は」とバルサモが答えた。「お嬢さんの手に見とれておりました」 「いや結構! それぞまさしくリシュリュー型ですな! それはそうとお手に持っているのは先ほどお目を留めた逸品ですぞ。どうぞご覧くだされ! 政摂オルレアン公が細工師リュカに造らせたものです。サテュロスとバッカスの巫女たちとの嬌宴。奔放とはいえ見事ではありませんか」  バルサモの見るところでは、その彫像細工は出来栄えといい仕上げといい精妙で見事なものであったが、奔放というより淫らと表現すべきものだった。それに気づいたからこそ、アンドレが父に言われて平然と塩入れを手渡し、顔色も変えずに食事を続けているのには、感嘆の眼差しを注ぐほかなかった。  ところが男爵と来たら、聖書が伝える聖女の衣にも似た、我が子の纏う無垢の衣を剥がしたがってでもいるのか、彫刻の美しさを事細かに話し続けて、バルサモが話題を変えようとしたのにも目もくれなかった。 「さあ、お召し上がり下さい」と男爵が言った。「ほかにも料理が出てくると思ったら大間違いですぞ。ステーキやデザートなどありません。がっかりさせぬようあらかじめ申しておきましょう」 「そのことですけれど」相変わらず淡々とアンドレが口を挟んだ。「ニコルには作り方を教えておきましたから、言われたことをわかっていれば、ト・フェを焼いているはずです」 「作り方じゃと! 小間使いのニコル・ルゲに料理を教えたというのか? 小間使いが料理を? そなた自身が料理をすればいよいよ完璧だな。シャトールー夫人やポンパドゥール夫人が国王に料理を作ったとでも? 事実はその逆、陛下が夫人にオムレツを作っておったのじゃ……何たることか! わしの家で女子《おなご》が食事を作るとは! 男爵殿、お許し下され」 「でもお父さま、人は食べなくては生きてゆけません」アンドレは穏やかに答え、「ルゲ、こちらへ」と大きく声をかけた。「出来た?」 「はい、お嬢様」美味そうな匂いの皿が運ばれてきた。 「これを食べぬだけの分別は持っておるぞ」男爵は怒りにまかせて小皿を砕いた。 「お客様はお召し上がりになりますから」アンドレは落ち着いて口にしてから、父に向かって、 「分別をお持ちでしたら、小皿がもう十七枚しかなく、しかも母が遺したものだというのもご存じのはずです」  そう言うと、可愛らしい小間使いがテーブルに置いたほかほかのケーキにナイフを入れた。 第六章 アンドレ・ド・タヴェルネ  ジョゼフ・バルサモの観察眼にかかれば、ロレーヌの片隅でひっそりと暮らすこの一家を知り抜く材料には事欠かなかった。  塩入れ一つ取ってもタヴェルネ男爵の人間性の一端はすっかり明らかであった。否、端々まですっかり明らかであった。  それゆえ、バルサモは持てる感覚のすべてを凝らして、ナイフの先で銀細工に触れた瞬間のアンドレの顔を観察した。何しろ摂政の夜食の席から抜け出て来たような、夜食の後にカニャックが蝋燭を消しに来そうな画題であった。  同じように、洞察力の限りを尽くしている時に、銀器にナイフの先が触れたので、アンドレの顔をじっくり観察した。それにつけても摂政の晩餐から抜け出て来たような銀細工であった。晩餐の後に蝋燭を消すのはカニャックの仕事だった。  バルサモを突き動かしていたのが好奇心なのかどうかはともかく、数分の間に二度も三度も眺めまわしていたのでは、アンドレと目が合うのも当然のことだった。初めのうちこそアンドレは戸惑いもせず視線を受け止めていたが、男爵がニコルの労作を切り刻んでいる間にも、じっと見つめる熱い眼差しは耐え難いほどになっており、頬に血が上りそぞろになり始めた。やがて自分がその超人的な視線に狼狽えていることに気づき、果敢にも今度はこちらからバルサモ男爵の大きな瞳を睨み返してやろうとした。だが勝負は初めからついていた。バルサモの眼から放たれた燃えるような磁力の波に襲われて、恐る恐る瞼を伏せてしまうと、もやは上げることは躊躇われた。  一方、アンドレと謎の旅人が無言の戦いを交わしている中、男爵はすっかり田舎領主ぶりをさらけ出して唸ったり笑ったり愚痴をこぼしたり罵ったり、ラ・ブリをつねったりしていた。苛立ちに耐えかねた男爵が何かつねってやろうとした時、たまたまそばにいたのがラ・ブリの不幸であった。  恐らくニコルにも同じことをしようとしたのだろう。男爵の目がようやく若い小間使いの手に注がれた。  男爵は美しい手を愛でていた。若者じみた愚かな振舞もひとえに美しい手あってのものだ。 「ほれ、綺麗な指をしておる。反り返らんばかりに尖った見事な爪じゃ。薪を割っても壜を洗っても鍋を磨いてもその角《つの》がすり減らなければ、世界一の美しさじゃろうに。わかるか、おんしの指の先についているのはまさしく角なのだぞ、ニコル」  ニコルは男爵からお愛想を言われるのに慣れていなかったため、いい気になるより驚いて、半笑いで見つめ返した。 「よいよい」男爵もニコルの心をよぎった感情に気づいた。「どんどん見せつけてくれ。――おっと! 忘れておりました。バルサモ殿、これなるニコル・ルゲはアンドレのような淑女ではありませんし、世辞に恐縮するような女でもありませんぞ」  バルサモがアンドレ嬢に素早く一瞥をくれると、その美しい顔には軽蔑が露わになっていた。自分もこの娘に合わせた方がいい。バルサモの表情に気づいたアンドレも、どうやらそれが気に入ったようだ。先ほどまでと比べると眼差しから硬さが――いや恐れが抜けていた。 「よいですか」男爵はニコルの顎を手の甲で撫でながら話を続けた。どうやらその晩はニコルを可愛いと思うことにしたようだ。「このあばずれがアンドレ同様に修道院の出で、教育を受けたも同然などと信じられますか? さよう、ニコル嬢は主人から片時も離れなかった。かかる者どもにも魂があると主張しておる哲学者諸賢なら、歓喜にむせび泣くような忠義ぶりです」  アンドレが口を挟んだ。「ニコルが離れなかったのは忠義からではなく、わたくしがそう命じたからです」  無礼なまでに尊大な主人の言葉をどう受け取ったのかと、バルサモがニコルに目を向けると、わなわなと口唇を震わせ、使用人であるがゆえの屈辱に平気ではいられないように見えた。  だがそんな表情は稲光のように瞬時に消え去った。恐らくは涙を隠そうと顔を逸らして、庭に面した窓に目を向けた。バルサモは何一つ見逃すつもりはなかった。招き入れられた舞台の中で自分に益する何かを探しているかのようだった。もう一度言おう、バルサモは何一つ見逃さなかった。つまりニコルの視線を追って、窓の外にニコルの気を引いたものを――人の顔を見たように思った。  ――実際問題、この家は面白いことばかりだな。どいつもこいつも秘密を抱えてやがる。願わくば一時間もしないうちにアンドレ嬢の秘密を知りたいものだ。既に男爵の秘密はわかったし、ニコルのも見当はつく。  物思いに沈んでいたのはほんの一瞬だったが、男爵は見逃さなかった。 「あなたも夢うつつですな。せめて夜まで待って下さらんか。夢には感染力がある。この家にはびこる病です。数えてみましょう。まずはアンドレ。それからニコル。このヤマウズラを獲って来た役立たずに至っては、四六時中夢ばかり見ておる。さだめしこの鳥を撃った時にも夢を見ていたのでしょう……」 「ジルベールですか?」 「さよう! ラ・ブリ同様の思想かぶれです。思想かぶれといえば、もしやお仲間ではあるますまいな? おやおや! 申し上げておきますぞ、わしは思想家連中と仲良くする気など……」 「心配ご無用。是も非もない。彼らのことなどさっぱりですから」 「それはご賢明な! 奴らは害虫ですからな。見た目以上に腐りきっておる。王制を亡きものにせんと旗印を掲げておる。フランスからは笑いが消えました。誰も彼もがものを読む。このうえいったい何を読むのかと思えば、こんな言葉の数々です。『王制の下に立つ所の人民をして有徳のものたらしむるは極めて難し』。『そもそも王制なるものは国民の品位を貶め隷属させんがために考案されたる政体に過ぎず』。まだありますぞ。『王権を生みたる親が神ならば、人類の諸病と災禍もまた然り』。気晴らしにこんなものを読んでおる! 有徳の人民ですと! そんなものが何の役に立つというのです? 教えていただきたい。陛下がヴォルテールにお言葉をかけ、ディドロをお読みになってからというもの、何もかもが狂ってしまいました」  この時、またも窓ガラスの向こうに、先ほどと同じ青ざめた顔が見えたように思われた。だがバルサモが見つめるとそれも消えてしまった。 「お嬢さんは思想家ですか?」バルサモは笑みを浮かべてたずねた。 「思想家というのが何者なのか存じません。わたくしの知っておりますのはただ一つ、信頼できるものが好きだということです」 「わしに言わせれば、よい暮らしほど信頼できるものはないぞ。それを愛でるがよい」 「だがお嬢さんは人生に倦んでいるようにお見受けしますが?」 「状況次第ですわ」 「また馬鹿なことを。信じられますか? 伜も前に一字一句変わらぬ返事をしたのです」 「ご子息がおありでしたか」 「さよう、残念ながら。タヴェルネ子爵、王太子近衛騎兵中尉、立派なもんです!……」  噛めるものなら噛んでやりたいとばかりに、男爵は歯ぎしりしながら最後の一言を吐き捨てた。 「それは何よりです」バルサモは一揖した。 「さよう、そのうえ思想かぶれですわ。正直これにはお手上げです。先日の話と来たら。黒ん坊に自由を、ですと。『では砂糖はどうなる? わしは甘い珈琲が好きなのだがな。ルイ十五世陛下も然り』『砂糖など何だというのですか。比べようがありませんよ、苦しんでいる人類を……』『類人猿か?』 わしはこれでも敬意を表しているのですぞ。すると伜は何と言ったと思います? どうやらおつむのネジをゆるめる毒でも空中に撒き散らされているに違いありませんな。すべての人間は兄弟であるとほざいたのですぞ! わしが土人と兄弟だと!」 「それはさすがにひどい」 「まったく、どう思いますか? 果報者とは言えませんかな? 二人の子供がいて、わしの面影を映すことも絶えてありますまい。娘は天使で、伜は使徒! さあもう一杯どうぞ……ひどい酒ですが」 「けっこうなお味ですとも」バルサモはアンドレを見つめながら答えた。 「ではあなたも思想家でしたか!……いやはや! 気をつけませぬと、娘に教えを説いてもらいますぞ。いやいや、思想にかぶれたお方たちは神を信じませんでしたか。だが宗教というのは便利なものですぞ。神や王を信じていれば、すべては御心のまま。昨今では、どちらも信じないせいで、数多のことを学び、数多の本を読むはめになっておりましょう。懐疑など抱かぬ方がよい。わしの若いころ学んだのは、せいぜい娯楽ぐらいでした。トランプのファロ、|数合わせ《ビリビ》、|賽子投げ《パスディス》を覚えたものです。王令に背き喜んで剣を抜いた。公爵夫人に散財させ、オペラ座の踊り子たちに散財させられた。それがこのわしの歴史です。タヴェルネのすべてはオペラ座に消えました。それだけが口惜しくて仕方ありません。何しろ文無しは人にあらず。ご覧の通り老いぼれて見えましょう? なにぶん文無しで侘住まい、鬘は擦り切れ時代遅れの服が一着ですからな。それに引き替え元帥をご覧なさい。最新の服がいくつもありますし、鬘はどれも繕われ、パリ暮らし、二十万リーヴルの年金があります。そのうえまだ若い。今なお若々しく血気盛んで元気に溢れていらっしゃる! わしより十歳は上だというのに。さよう、十歳ですぞ!」 「リシュリュー氏のことですね?」 「さよう」 「公爵の?」 「然り! 枢機卿ではないでしょうな。そこまで遡るつもりはありませんぞ。もっとも、枢機卿には出来なかったが甥には成し遂げられたこともあります。長生きです」 「驚いたな。あれほどのご友人がありながら、宮廷を離れたとは」 「何の! 形ばかりの隠居に過ぎませぬ。そのうち返り咲くつもりですぞ」男爵は謎めいた目つきを娘に送っていた。  その眼差しが途中でバルサモに拾い上げられた。 「それはそれとして、元帥閣下のおかげでご子息も取り立てていただいたのでは?」 「伜ですか! 毛嫌いされておりますからな」 「ご友人の息子なのに?」 「当然のことです」 「だが、そうでしょうか?」 「さよう、思想家だからですよ!――思想家嫌いの方ですからな」 「でも嫌いなのはお互いさまですわ」何の感情も交えずにアンドレが言った。「ルゲ! 皿を下げて」  窓から目を離さずにいたニコルが駆けつけた。 「はあぁ!」男爵が溜息をついた。「昔は夜中の二時までテーブルに着いていたものですがな。晩まで食べられるだけの金があった! 腹がくちくなってもまだ飲んでおった! しかし腹が満ちてもこんな安物どうやって飲めというのか……ルゲ、マラスキーノの壜を……まだ残っておればの話だが」 「そうなさい」アンドレがニコル・ルゲに命じた。ニコルはどうやら、アンドレの指示を待ってから男爵に従っているようだ。  男爵は椅子に沈み込んで目を閉じると、重苦しい溜息を吐いた。 「リシュリュー元帥のお話でしたが……」バルサモは話題を変えたくなかったらしい。 「さよう、確かにその話でしたな」  溜息と同じくらい重苦しい調べを口ずさんだ。 「仮にご子息が疎んぜられ、それが思想かぶれゆえのことであったとしても、あなたとはご友人のままのはずだ。あなたは違うでしょうからね」 「思想かぶれかどうかですかな? まさか、勘辨してくだされ!」 「いろいろと要求する権利ならお持ちのようだ。王軍に在籍していらっしゃったのでしょう?」 「十五年間。元帥の副官でした。マオンで共に戦ったのです。そもそもの始まりは……あれはそう……例のフィリップスブルクの攻囲戦のときですな。つまり一七四二年から四三年にかけて」 「成程! フィリップスブルクにいらっしゃったのですか……実は私も」  老人は身体を起こし、目を見開いてバルサモの顔を覗き込んだ。 「失礼じゃが、お幾つでいらっしゃいますかな?」 「ははは! 私には年齢などないのですよ」バルサモはコップを差し出し、美しい手をしたアンドレにマラスキーノを注いでもらった。  男爵はバルサモの返答を自分なりに酌み取り、年齢を明かしたくない理由があるのだろうと判断した。 「失礼ながら、フィリップスブルクに参加したようなお年には見えませんな。あれは二十八年前のこと。わしの目に狂いがなければ、せいぜい三十ほどとお見受けするが」 「違うとは言ってませんよ」気のない返事だった。 「いやはや! わしが三十を越えたのはちょうど三十年前のことですぞ」  アンドレの目はバルサモに釘づけとなり、好奇心という抗いがたい魅力に引き込まれていた。何しろ、この男が目の前で次々と新しい光に照らされてゆくのは事実だったのだ。 「どうにも参りましたな。だが恐らく、お間違えになっているのでしょう。フィリップスブルクをほかの町と勘違いしておいでだ。やはり三十にしか見えません。そうじゃな、アンドレ?」 「その通りです」アンドレはバルサモの鋭い視線にまたも耐えようとしたが、やはり果たせなかった。 「とんでもない。自分の言ったことくらい承知してますよ。言った通りのことを言ったまで。確かにフィリップスブルクのことに相違ない。リシュリュー公爵閣下が従兄弟のリクサン公を決闘で斃した場所のことです。あれは塹壕から戻る時に、街道で起こった出来事でした。道の裏手、左側で、公爵の剣が真っ直ぐに身体を貫いたのです。私が通りかかったのは、デュ=ポン公の腕に抱かれて看取られている時でしたよ。塹壕の裏に坐り込んでいるデュ=ポン公を尻目に、リシュリュー殿は冷静に剣を拭っておりましたな」 「魂消ましたな! 本当に魂消ました。確かに仰る通りでした」 「話を聞いたことがおありでしたか?」バルサモは落ち着いていた。 「そこにおったのです。元帥閣下の、いやその時は元帥ではなかったが、立会人を担う栄誉に与りました。だがそんなことはどうでもよいではありませんか」 「まあお待ち下さい」バルサモが男爵を見据えた。 「というと?」 「当時あなたは大尉ではありませんでしたか?」 「いかにも」 「フォントノワで死闘を繰り広げた、王妃付き近衛軽騎兵隊に所属していらっしゃったでしょう?」 「あなたもフォントノワで息をしていた、というわけですかな?」男爵は冗談めかしてたずねた。 「否」バルサモの声はなおも落ち着いていた。「フォントノワで息を引き取ったのです」  男爵が目を見開き、アンドレが身震いし、ニコルが十字を切った。 「話を戻しませんか。そうだ、確かにあの時あなたは近衛軽騎兵隊の制服を着ていました。決闘の間、ご自身の馬と元帥の馬を預かっていらっしゃいましたね。私が近づいて詳細をたずねると、あなたが教えてくれた」 「わしが?」 「あなたです。そうだ! あなただった。すっかり思い出しましたよ。士爵の肩書きをお持ちだったあなたは、小士爵《プチ・シュヴァリエ》と呼ばれていらっしゃった」 「何と!」男爵は驚愕した。 「一目見て思い出せなかったとは、無礼をお許しください。ですが三十年経てば人は変わるものです。ではリシュリュー元帥に!」  そう言ってバルサモはコップを掲げて飲み干した。 「つまり、つまりあの時わしに会ったと? あり得ぬ!」 「お会いしましたとも」 「街道で?」 「街道で」 「馬を繋いでおったと?」 「馬を繋いでいらっしゃった」 「決闘の時に?」 「申し上げた通り、リクサン公の息が絶えた時」 「しかしではあなたは五十代なのですかな?」 「三十年前にあなたに会えるだけの年齢ですよ」  男爵は椅子に倒れ込んだ。その様子があまりに口惜しそうだったため、ニコルも笑い出したほどだ。  だがアンドレだけはニコルのように笑いもせず、憑かれたようにバルサモを見つめていた。  どうやらバルサモはこの瞬間を待ち、予期していたらしい。  不意に立ち上がってアンドレに向かい二、三度、燃えるように瞳を閃かせると、アンドレが電気に撃たれたように痙攣を始めた。  アンドレは腕を強張らせ首を捩らせ、無理に笑わされたようにバルサモに微笑みを見せてから、目を閉じた。  立ったままのバルサモに腕を触れられると、再度びくりと痙攣した。 「お嬢さん。あなたも私を嘘つきだと思いますか? フィリップスブルクの戦いをこの目で見たと言ったばかりに」 「いいえ。信じましょう」そう口にするだけにも恐ろしい努力が必要だった。 「では法螺吹きはわしの方ですな。いや失敬! だがまさか幽霊や人魂ではありますまいに!」  ニコルの目が見開かれた。 「ないとは言えますまい!」もっともらしいバルサモの口調に、ニコルはすっかり囚われてしまった。 「はてさて。真面目な話――」老人としては事実をはっきりさせようと考えたようだ。「あなたは三十過ぎなのですかな? とてもそうは見えませんが」 「では。信じられないようなことをお話ししても、信じていただけますかな?」 「それには答えられませんな」騙されぬとばかりに男爵は首を振ったが、アンドレの方は聞き逃すまいと耳をそばだてていた。「わしは疑り深い人間です。予めそう申しておきましょう」 「では無意味ではありませんか? 返答に耳を貸すつもりもないのに、おたずねになるとは?」 「なるほど! よろしい、信じましょう。それでご満足ですな?」 「それでは先ほどの言葉を繰り返しましょう。フィリップスブルクでは、あなたをお見かけしただけではなく、顔見知りにもなりました」 「するとまだ子供だったのでしょうな?」 「そうかもしれませんな」 「ほんの四、五歳でしたか?」 「否。四十一歳でした」 「それはそれは!」男爵の笑いがはじけ、ニコルもそれに和した。 「だから申し上げたでしょう。信じてはいただけないと」 「いやしかし、どうやって信じろと!……証拠をお見せ下され」 「わけはありません」困る素振りも見せずにバルサモは応じた。「あのとき四十一だったことは事実。ですがその私がこの私だったとは申しませんでした」 「ほう! 異教の話になりましたな! ギリシアの哲学者ではありませんでしたか――不様な哲学者どもが、いつの時代にも居坐っとりますが――魂が宿っているとほざいて空豆を口にしなかったギリシアの哲学者がおりましたな。伜によれば黒ん坊にも魂は宿っておるそうじゃが。何処から思いついたものやら。あれは……はて何という名だったか?」 「ピタゴラス」とアンドレが答えた。 「さよう、ピタゴラス。イエズス会の先生方から教わりました。ポレ神父には、|ヴォルテール《プチ・アルエ》相手にラテン語の詩を書かされたりもしましたな。思い出してもわしの方がいい出来でしたぞ。ピタゴラス、そうでした」 「では、私がピタゴラスでなかったとは誰にも言えぬでしょう?」バルサモの言葉は単純明快だった。 「そのことについては否定せんでおきましょう。ですがピタゴラスはフィリップスブルクにはおりませんでした。少なくともわしは見かけとりませんぞ」 「ごもっとも。だが黒銃士隊のジャン・デ・バロー子爵にはお会いになったでしょう?」 「うむ、うむ。子爵になら会いましたぞ……哲学者ではありませんでしたが、確かに空豆を嫌うており、口にするのはやむを得ぬ時だけでしたな」 「結構。そこで思い出していただきたい。決闘の翌日、デ・バレーと塹壕でご一緒でしたな?」 「いかにも」 「そうでしょうとも。何しろ黒銃士隊と軽騎兵隊は、丸々七日、共に歩哨を務めていたのですから」 「仰る通り――して?」 「ははっ! そして――その晩、銃弾が霰のように降り注ぎました。居たたまれなくなったデ・バローに一服せがまれたあなたは、金の箱を差し出した」 「表面に女性の顔が描かれたものですな?」 「そうでした。今も見えますよ。金髪でしたね?」 「何と! 間違いない」男爵が驚きの声をあげた。「それから?」 「それから、一服していたデ・バローは喉に弾丸を喰らい、ベリック元帥のように頭をを吹き飛ばされました」 「ああ! その通りじゃった。哀れなデ・バロー!」 「ではこれでおわかりいただけたでしょう。フィリップスブルクであなたをお見かけしたし、顔見知りだったのだと。なぜというに、私がデ・バローその人だったのですから」  男爵は怯えて、否、唖然として仰け反った。もはやバルサモの掌中であった。 「それでは妖術師ですぞ! 百年前なら火あぶりでしょうな。はてさて! 幽霊やら縛り首やら火あぶりの匂いがするようですな!」  バルサモは微笑んだ。「本当の魔術師ならば、縛り首にも火あぶりにもならぬものです。お忘れなきよう。薪や紐と縁があるのは愚か者。とまれ、今宵はここまでにいたしませんか? お嬢さんも眠ってしまった。形而上学や神秘学の議論にはあまり気をそそられぬらしい」  見ると確かにアンドレは、如何ともしがたい力に負けて頭を揺らしていた。露や滴をこぼす花のように。  だがバルサモの言葉を聞いて、波の如く打ち寄せる魔力に打ち勝とうと頭を強く振り立ち上がった。初めこそふらついていたが、やがてニコルに支えられて食堂をあとにした。  と同時に、窓に貼りついていた顔も消えた。それがジルベールであることはバルサモも先刻承知していた。  間もなく、アンドレが掻き鳴らすチェンバロの音が聞こえてきた。  バルサモはアンドレがよろめきながら食堂を出てゆく姿を目で追っていた。 「よし」姿が消えるのを見届けると勝利の声をあげた。「アルキメデスに倣うなら、エウレカ、だ」 「アルキメデスとは何者ですかな?」男爵がたずねた 「天才ですよ。二一五〇年前の知り合いです」バルサモは答えた。 第七章 エウレカ  こたびの大法螺はいくらなんでもひどすぎると思ったものか、或いは聞こえなかったものか、いや或いは聞こえていながらこの異邦人を喜んで追い出すつもりだったのか、いずれにしても男爵はアンドレの姿が食堂から消えるまで目で追っていた。斯くしてチェンバロの音を耳にして、娘が無事隣室に収まったのを確認すると、バルサモを次の宿場まで送ろうと申し出た。 「一頭ですが駄馬がおります。どうせくたばってしまうでしょうが町までは持つでしょうから、そうなれば快適な寝床を保証しますぞ。タヴェルネにも客間と寝台がないわけではありませんがの、わしの流儀でもてなすつもりですわ。『一心ならずば一切なさず』が持論でして」 「つまり出て行けと?」バルサモは湧き上がる不満を笑顔の下に引っ込めた。 「とんでもない! 友人のつもりでしたが。むしろここにお泊めする方が、ご面倒を掛けることになりましょう。本音では断じてこんなことはお勧めしたくないのですぞ。これはわしの好意です。いや何しろあなたのことが気に入ってしまいましたからな」 「気に入っていただけたのなら、疲れている者を寝床から追い出したり、手を伸ばして足を休めたがっている者を馬で走らせようとするのはご勘辨願いたい。斯様にことさらご窮乏を訴えられては、個人的な恨みでもあるのかと勘ぐっていまいますよ」 「いやいや! そういうことならお泊まり下さい」  目で探すとラ・ブリは隅にいた。 「ここに来い、阿呆め!」  ラ・ブリがおずおずと進み出た。 「来いというのに! どうじゃ? 赤の間ならそうひどくもあるまい?」 「さようで。フィリップ様がご逗留の際お寝みになる部屋でございますから」 「父のあばら屋に三月ほど泊まりに来るしがない中尉ならともかく、四頭立ての馬車で旅をするお方には相応しくないかもしれませんがの」 「お部屋に不満などあるわけがございません」  胸の中でそう言った後、声に出して、 「赤の間をお見せしなさい。タヴェルネにまた来たいなどと思わなくなるじゃろう。では、ここに泊まるおつもりですな?」 「お願いしたい」 「だが一ついいですかな。手だてはあるでしょうに」 「何のことです?」 「何も馬で道を駆けなくても」 「道とは?」 「ここからバル=ル=デュックまでの道です」  バルサモは続きを待った。 「馬がここまで馬車を牽いてきたのでしょう?」 「あるいは悪魔ですかね」 「初めはそう思いましたぞ。悪魔と仲が悪そうには見えませんからな」 「買いかぶってらっしゃる」 「まあよいでしょう! ここまで牽いて来た馬にまた馬車を牽かせればよいのではありませんかな」 「出来ぬ相談です。四頭のうち二頭しか残っていない。馬車は重い。馬を休ませなくては」 「或いはそうかもしれませんな。やはりここに泊まるおつもりですか」 「本日滞在したいのも、明日お目にかかって改めてお礼申し上げたいゆえ」 「礼なら迷うことはありませんぞ」 「というと?」 「悪魔と昵懇なのでしたら、賢者の石が見つかるよう頼んでもらえませんかな」 「男爵殿、もしや関心がおありなら……」 「はてさて! 賢者の石に関心があればどうなると――!」 「悪魔ではなく或る者に伝えなくてはなりませんな」 「して、何者に?」 「私ですよ。私に聞かせてくれればいい。思えばかつてコルネイユも、何だったか自作の芝居を聞かせてくれました。あれはちょうど百年前、パリ、ポン=ヌフのことでした」 「ラ・ブリ! ぽんこつ!」こんな時間にこんな人物と話をするのは物騒だと男爵も気づき始めた。「蝋燭を探して足許を照らして差し上げろ」  ラ・ブリはすぐに取りかかったが、蝋燭を見つけるのは賢者の石を探すのと同じくらい骨だと踏み、ニコルを呼んで、先に上に行って赤の間の空気を入れ換えておくように伝えた。  ニコルはアンドレを一人置き去りにする恰好になったが、翻ってアンドレは小間使いを厄介払い出来ることを大いに喜んでいた。じっくり考える時間が欲しかったのだ。  男爵はバルサモに就寝の挨拶をし、寝室に退がった。  バルサモは懐中時計を見た。アルトタスとの約束を思い出したのだ。約束したのは二時間半前だった。二時間で起こす約束だったのに、三十分が過ぎてしまっていた。そこで馬車が同じ場所にあるかどうかラ・ブリにたずねた。  ひとりでに動き出していない限り、今もそこにあるはずだという返事であった。  続けてジルベールはどうしたかをたずねた。  怠け者のジルベールはとっくに布団に潜り込んでいるはずだというのが、ラ・ブリの答えであった。  バルサモはアルトタスを起こしに行く前に、案内された赤の間の場所を確認しておいた。  タヴェルネ男爵はその部屋のみすぼらしさを騙っていたわけではない。調度品はこの屋敷のどの部屋のものであってもおかしくはないほどのものだった。  楢の寝台に敷かれているのは、古くなって緑色の黄ばんだ、花綵縁のカーテンのようなダマスク織の布団だった。脚のねじれた楢造りの机。石造りの大きな暖炉はルイ十三世時代のものであり、火を入れた冬には豪華にも見えるだろうが、火のない夏には寂しさを誘う。薪台も火道具も薪もないが、代わりに古新聞ならたっぷりあった。これがバルサモが幸運にもその夜泊まることになった部屋の調度であった。  二脚の椅子と、扉に穴のある灰色に塗られた木箪笥も、忘れてはならない。  ラ・ブリが部屋を整えようと四苦八苦している間、換気を終えたニコルは自室に引っ込み、アルトタスを起こしに行っていたバルサモも屋内に戻って来た。  バルサモはアンドレのいる応接室の前で立ち止まると、耳を澄ました。食堂を離れてからはバルサモの放っている謎めいた力から解放されたことに、アンドレも気づいていた。チェンバロに向かったのも、そのことを考えたくさえないからだ。  楽器の音は扉を隔てたバルサモの許にも届いていた。  前述の通りバルサモは扉の前で立ち止まっていた。  刹那、円を描き呪《まじな》いともつかぬ仕種をした。否、疑いなく呪《まじな》いである。何となれば、アンドレは食堂で感じたのと同じ感覚に襲われてぽつりぽつりと演奏を止め、両腕をだらりと下げ、ぎくしゃくとして扉を向いた。それはあたかも、未知の力に命じられ、意思に反した行動を取らされた人間の動きであった。  バルサモは北叟笑んだ。まるで扉の向こうが見えているようではないか。  やりたかったことはやったし、やりたかったことが叶ったのもバルサモにはわかっていた。その証拠に、左手を伸ばして手すりに触れると、急な裸階段を上って赤の間へと立ち去った。  バルサモが遠ざかるにつれて、アンドレはまだぎくしゃくと拙くはあったが扉から離れ演奏に戻った。階段を上り切ったバルサモの耳にも、中断されていた曲の音色が再び聞こえて来た。  バルサモは部屋に入り、ラ・ブリを退がらせた。  ラ・ブリはよく出来た使用人であった。ところが扉に向かって足を踏み出しながらも、そこで立ち止まってしまった。 「どうした?」  ラ・ブリは上着のポケットに手を入れ、奥にあるものを音も立てず触っているようだったが、返事はなかった。 「言いたいことがあるのではないか?」そう言って近づいた。  ひどい葛藤があったようだが、ラ・ブリはポケットから手を出した。 「つまりその、先ほど旦那さまはお間違えになったのではないでしょうか」 「俺が? 何を間違ったというのだ」 「二十四スー玉のおつもりだったのだと存じますが、いただいたのは二十四リーヴル玉だったのでございます」  そう言って手を広げ、ぴかぴかとまばゆいルイ金貨を示して見せた。  バルサモは感嘆の眼差しで老人を眺めた。その反応から推すに、人間なるものにひとかどの誠実さがあるとは思いも寄らなかった節がある。 「正直者だな!」ハムレットのように呟いた。  ポケットを探り、ルイ金貨を隣にもう一枚置いた。  この豪儀を見たラ・ブリの喜びは計り知れなかった。金貨など二十年このかた見ていなかったのだ。  こんなお宝を手に入れたのも夢ではないとわかってもらうために、バルサモの方で手に握らせてポケットに入れてやらねばならなかった。  ラ・ブリが深々とお辞儀をして後じさったところ、バルサモが声をかけた。 「ここの朝はいつも何時頃かな?」 「タヴェルネ様は遅くまでベッドに入っていらっしゃいますが、アンドレ様はいつも朝早くお起きになります」 「何時に?」 「六時頃でございます」 「この上は誰の部屋だ?」 「手前でございます」 「下は?」 「誰もございません。下は玄関ホールでございます」 「そうか。すまんな。退がってくれ」 「お寝みなさいませ」 「うむ。そうだ、くれぐれも馬車には気をつけてくれ」 「それはご安心くださって構いません」 「物音がしたり明かりが見えたりしても怖がることはない。一緒に連れて来た、手足の利かない召使いの老人を奥に寝泊まりさせているのだ。放っておくようジルベール君にも一言頼む。それから、明日の朝話したいことがあるから何処へも行かぬよう伝えてくれ。いいな?」 「かしこまりました。それはそうとかなり早くお発ちになるのでしょうか?」 「何とも言えぬな」バルサモは苦笑いを浮かべた。「だが大事を取るなら、明日の晩にはバル=ル=デュックにいなくてはならん」  ラ・ブリは諦めの溜息をついて寝台を一瞥すると、じめじめした部屋をいくらかなりとも暖めるため暖炉に近づき薪代わりの反故紙に蝋燭で火をつけようとした。  だがバルサモが声をかけた。 「済まぬが古い新聞はそのままにしておいてくれ。眠れぬ時に読みたいのだ」  ラ・ブリは一礼し立ち去った。  バルサモは戸口に近づき、階段を軋ませる老使用人の足音に耳を澄ませた。やがて足音は頭上から聞こえて来た。ラ・ブリが自室に戻ったのだ。  バルサモは窓に近づいた。  正面に見える向かいの翼棟の屋根裏からは、カーテンの隙間から明かりが洩れていた。ルゲの部屋だ。ゆっくりと服を脱ぎショールを外している。時折、窓を開けては庭に身を乗り出している。  夜食のときにはそんな素振りも見せなかったバルサモであるが、今はまじまじと見つめている。 「まさに瓜二つだ!」  屋根裏の明かりが消えたが、部屋の住人は床につく気配もない。  バルサモはそのまま壁にもたれていた。  チェンバロが響き続ける。  楽器の音に混じる如何なる物音も聞き逃さぬ態であったが……あらゆるものが静まりかえり、目を覚ましているのが音色だけだと確認するや、ラ・ブリの閉めた扉を開き、慎重に階段を降りると、応接室の扉を押した。古びた蝶番は軋みもしなかった。  アンドレは何も気づいておらぬ。  白く美しい手を黄ばんだ象牙の鍵盤に踊らせていた。真向かいには姿見があったが、彫刻の施された木枠のめっきは剥がれ落ち、くすんだ絵の具の下で無惨な姿をさらしていた。  弾いている曲は陰鬱なものであった。否、さらに言うなら曲というより単なる和音の連なりであった。――恐らくは即興、湧き出る思いや夢見る想いの数々をチェンバロに託しているのだ。蓋しタヴェルネ暮らしに憂いた心が、今しも城館を離れ、修道女たちで賑わうナンシー・アノンシアード修道会の広々とした緑豊かな庭を彷徨い出しているのであろうか。いずれ心が何処にあろうと、差し当たって閉じかけた虚ろな視線が彷徨っているのは眼前の仄暗い鏡であったが、鏡の中に映っているのは闇であった。チェンバロ上に置かれた蝋燭一本の光では、弾き手を照らすのがせいぜいで、部屋の奥までは太刀打ち出来ぬのだ。  幾度かはたりと手を止めた。その晩の異様な光景と、それに続く言いも知れぬ感覚を思い出していたのだ。頭で理解するより先に心がおののき、四肢を震えが走った。そばには誰もいないというのに、実体のあるものに触れられてぞっとしたように、一人身の毛をよだたせた。  と、その時。奇怪な印象の根を手繰ろうとして、またも同じ感覚に襲われた。電撃に打たれたように全身が震えた。視線が定まり意識が凝り、鏡の中に動く影を見つけた。  それは音もなく開く応接室の扉であった。  扉の陰から人が現われた。  アンドレはおののき、指が鍵盤の上を彷徨った。  そうは言っても誰かが現れること自体は異常なことではない。  闇に沈んでいるため確認できなかったが、父やニコルの影ではないだろうか? 寝る前にラ・ブリが部屋を廻り、応接室で仕事を片づけようとしているのではないか? そうしたことはよくあったし、控え目にして忠実なこの使用人は、部屋を巡る間も音を立てたことがなかった。  だが心の目の知らせるところでは、三人のうちの誰でもない。  人影が音もなく進み、闇の中から少しずつ姿を現し始めた。光の輪の中に現れた人物は、果たして旅人であった。さても恐ろしきは、その蒼白き顔、その黒き天鵞絨の外套。  どうした奇怪な理由からか、旅人は着ていた絹の衣服を脱ぎ捨てた。  アンドレは振り返り、叫ぼうとした。  だがバルサモの腕が伸びると、もはや動くことはならなかった。  それでもアンドレは抗った。 「おお!……いったい……何が望みなのです?」  バルサモが北叟笑み、鏡の中の顔もそれに倣うと、アンドレはそこから目が離せなくなった。  だがバルサモは何も言わぬ。  アンドレはなおも立ち上がろうとしたが、果たせなかった。強大な力と疎んじ難い麻痺に襲われて椅子に縛りつけられている間も、視線は魅入られたように鏡に釘づけのままであった。  感じたことのない感覚に恐怖を覚えた。こうして自分を思い通りにしているのは、見も知らぬ男なのだ。  助けを呼ぼうと死力を尽くした。口を開いたが、バルサモの腕が頭上に伸びて来るや、声を出すことも適わなかった。  アンドレは声を失った。胸に満ちた眩むような熱気がゆっくりと脳まで達し、渦巻く靄のように広がった。  もはや気力も意思も失い、がくりと首を落とした。  その時、窓の方からかすかな音の聞こえたような気がした。素早く振り向いたバルサモの目に映ったのは、どうやら窓ガラスから離れる人の顔であった。  バルサモは眉をひそめた。奇妙なことに、アンドレの顔にも同じ表情が浮かんだような気がした。  すぐにバルサモはアンドレに向き直り、頭上に掲げていた両手を下げると、ゆっくりと上に挙げ、また下げ、しばらくはそれを何度も繰り返していた。重い電気の柱を積み上げているのだ。 「眠るがいい!」  それでもアンドレは魔力と戦っていた。 「眠るのだ!」バルサモは有無を言わせず繰り返した。「さあ眠れ!」  遂に圧倒的な力に負ける時が来た。アンドレは肘をチェンバロにつき、手で頭を支えるようにして寝入ってしまった。  するとバルサモは後ずさりして扉を閉め、木の階段を軋ませて部屋に戻った。  応接室の扉が閉じられるや、バルサモが見かけたと思しき顔が再び窓に現われた。  それはジルベールの顔であった。 第八章 引き寄せる力  タヴェルネにおける地位の低さゆえ爪弾きにされたジルベールは、列席を許された人々のことを一晩中見つめていたのだ。  夜餐の過ぎるまで、ジルベールはバルサモの笑みや仕種から目を離さずにいた。アンドレの目に尊敬の色が浮かんでいることに気づいた。男爵が精一杯愛想よくもてなし、ラ・ブリが恭しく尽くしている。  やがて一堂が席を立つと、ジルベールはリラとカンボクの茂みに隠れた。鎧戸を閉めて部屋に戻るニコルに、偵察――もとい覗き見を見つけられ邪魔されるのを恐れたのである。  而してニコルは見回りこそしたものの、応接室の鎧戸を一つだけ開けっ放しにしておいた。蝶番が半ば外れていて上手く肘金が回らぬのだ。  ジルベールはそれを承知していた。その場を離れなかったのもそれゆえのこと、ニコル・ルゲが立ち去れば観察を続けるものと決意していた。  観察、と我々は述べた。読者諸兄はこの言葉に首をひねるやもしれぬ。果たして観察するものなどあるのだろうか? タヴェルネ邸で育てられたのであればとうに邸内を知り尽くしているのではないか? 十七、八年の間、毎日見ていたのであれば住人のこともすべて知り尽くしているのではないか?  その晩のジルベールには別の目的があった。覗いていただけではない。待っていたのだ。  アンドレを残して応接室を出たニコルは、ぐずぐずと投げ遣りに扉と鎧戸を閉めて回ってから、誰かを待つように花壇をぶらついていた。探るようにおちこちと見回した後、とはつまり先ほどまでジルベールがやっていたうえなおも続けようとしていたのと同じ行動を取った後で、ニコルは立ち去ることに決めて部屋に戻った。  知っての通りジルベールは屈み込むようにして木の幹に貼りついて息を殺し、ニコルの一挙手一投足から目を離さずにいた。やがてニコルが去り、屋根裏の明かりが灯るや、爪先立って窓に向かい、暗がりにしゃがみ込んで待った。恐らくは何を待っているのかもわからぬままに、チェンバロの前に坐るアンドレに燃えるような目を向けていた。  ジョゼフ・バルサモが応接室に足を踏み入れたのはこの時である。  ジルベールはその場面を目撃して戦慄し、二人から目を離せなくなった。  見たところでは、バルサモがアンドレに向かって腕前を褒めたものの、素っ気ない答えを返され、笑みを浮かべて言い寄ったものの、演奏の手を止めて追い払われたようである。  気品に満ちた立ち去り方にはほとほと感心した。この光景をすっかり理解したつもりのジルベールであったが、果たしてまったく理解してはいなかった。何分にも目の前で繰り広げられたのは無言劇であったからだ。  ジルベールの耳に音は聞こえず、口や腕の動きを見ることしか適わなかった。如何に観察眼が優れていようと、すべてがこれだけ変哲もなく起こっていては、謎に気づきようもない。  バルサモが部屋を出るや、ジルベールも観察などやめてアンドレを凝視し始めた。飾らぬ姿勢すら美しかった。と、驚いたことに、アンドレは眠っている!――ジルベールはしばらくの間、微動だにしなかった。アンドレがぴくりとも動かぬのはぐっすり眠っているからだと確かめたかったのである――やがて確信が持てると、両手で頭を抱えて立ち上がった。目まぐるしく奔る感情に頭が割れそうなのか……いや、今や発作のように一瞬にして心を決めていた。 「くそっ! あの手。あの手に口唇を近づけるだけじゃないか。やっちまえ! ジルベール、やっちまえ! そうしたいんだろ……」  自分に暗示をかけながら、ホールに飛び込み応接室の扉に手を伸ばすなり、バルサモの時と同様に音もなく扉は開いた。  しかし扉が開き、もはや遮るもののない眼前に少女がいることに気づくや、しでかしかけた事の重大さに思い至った。ああ、ジルベール、ジルベール。貴様は小作人と田舎娘の小伜じゃないか。臆病なのか、畏れ敬っていたのか、ようやくのことで卑しい境遇の奥底から顔を上げて小生意気な娘を見つめると、眠れる女神の裳裾や指先に口づけをした。目を覚まして見つめられたら終わりだ。そう思った瞬間、それまで心を惑わせ気を狂わせていた狂熱の雲もすっかり晴れた。手を止めて扉の框につかまった。手足が震えて仕方がない。このまま倒れてしまいそうだ。  だがアンドレの物思いなり眠りなりは深かった。いずれにしてもジルベールにはいまだわからぬ。アンドレは果たして眠っているのか物思いに沈んでいるのか。抑えようとしても抑えられぬジルベールの心臓の鼓動が聞こえているのだとしても、何の反応も示さない。ジルベールは息を殺して立ちつくしていた。アンドレは微動だにしない。  何て美しいんだ。嫋やかに頭を手に預け、真っさらな長い髪の首筋や肩に掛かるのを見て、恐怖で掻き消えたのではなく眠っていたに過ぎぬ狂熱の炎に再び火がついた。またも眩暈に囚われる。とろけるような狂気。アンドレの触れたものに触れたくてたまらない、ほとばしるような欲望。ルベールはまた一歩アンドレに近づいた。  震える足の下で床が乾いた音を立てた。額に冷たい汗が流れたが、どうやらアンドレには聞こえていないようだ。 「眠っているんだ」ジルベールは呟いた。「よかった、眠っている!」  しかしジルベールは、三歩進んだところでまたも足を止めた。何かにぎょっとしたらしい。洋燈《ランプ》の炎が絶ち消える間際に大きな火花を咲かせたのだ。もうすぐ闇あが訪れる合図だった。  もっとも、家には何の物音も気配もない。ラ・ブリは床に入り眠っているし、ニコルの部屋の明かりも消えている。 「大丈夫だ」  ジルベールは再び進み始めた。  不思議なことに、いくら床が鳴ってもアンドレは身じろぎ一つしない。  ジルベールもこれには訝り、恐怖さえ覚えた。 「眠っているんだ」ジルベールは繰り返した。思いは乱れ、三秒毎に気持は揺らぎ、間男と腰抜の間を彷徨っていた――心を制御できない者はみんな腰抜だ。「眠っている。ああ神様! 神様!」  だがジルベールは恐れと期待に引き裂かれながらも一歩また一歩と前進し、気づけばアンドレのすぐそばまでやって来ていた。そこから先はさながら魔法である。逃げたくても逃げられない。アンドレの発するオーラの輪の中にひとたび足を踏み入れてしまえば、もはや囚われ、絡み取られ、打ち負かされていた。ジルベールは両膝を落とした。  アンドレはなおも動かずしゃべらず、まるで彫像のようだった。ジルベールは部屋着の裾を手に取り、口づけした。  そして慌てることなくゆっくり静かに頭を上げ、アンドレの目を見つめようとした。  その目はぱっちりと開かれてはいたが、だがしかし何も見てはいなかった。  驚きに打ちひしがれてもはやどうすることもならなかった。もしや死んでいるのではという不吉な思いに囚われた。念のため手を取ってみれば、温かく脈打っている。だがその手は今もってぴくりとも動かぬ。もしや。ジルベールは官能の熱に浮かされたように考えた。もしやアンドレは、目が見えてもいるし、触れられたのを知覚してもいるうえに、気違いじみた愛をぶつけられるのを予期していたのではないか。浅はかにも恋に目が眩んだジルベールは思った。もしや自分が来るのを待っていたのでは。何も言わぬのは同意の印なのでは。微動だにせぬのは好意からなのでは。  そこでアンドレの手を口許まで引き寄せ、熱い口唇を長々と押しつけた。  突然アンドレがびくりと動き、拒絶するような反応をした。 「くそ、最低だ!」ジルベールは呟き、手を放して目の前の床に倒れ伏した。  アンドレがバネにはじかれたように身体を起こした。視線を降ろしもしなかったが、床には恥ずかしさと恐ろしさに押しつぶされかけたジルベールが横たわっていた。許してもらえるとは思っていなかったが、その許しを請う力すらない。  ところがアンドレは顔を上げて首を強張らせたまま、得体の知れぬ力によって何処か目に見えぬ場所まで引っ張られてでもいるように、ジルベールの肩をかすめて目もくれずに通り過ぎると、ぎこちなくもたつきながら扉の方へ歩いて行った。  アンドレが離れてゆくのに気づいたジルベールは、手をついて身体を起こし、ゆっくりと振り返って、きょとんとした目つきでアンドレの行方をたどった。  アンドレは扉に向かって歩き続け、扉を開けてホールを抜けると階段の下までたどり着いた。  ジルベールも、真っ青になって震えながら、後を追っていざり進んだ。  ――ああ! 叱ってもくれないほど激怒してるのか。男爵のところに行ってこの惨めな蛮行をしゃべるつもりなんだ。下僕みたいに追い出されてしまうんだな!  考えただけでも心乱れた。タヴェルネを追われるなんて。己が光、己が命、己が魂なる人を絶えて見られなくなるなんて。絶望が力を与えた。両足で立ち上がると、アンドレを追って駆け出した。 「許して下さい! どうか許して下さい!」  アンドレの耳に届いたようには思えなかったが、アンドレはそのまま進み続け、父親の部屋には入らなかった。  ジルベールは安堵した。  アンドレは階段の一段目に足を掛け、それから二段目に進んだ。 「どういうことだ?」ジルベールは呟いた。「何処に行くつもりなんだろう? この上にあるのは、旅人の泊っている赤の間とラ・ブリの部屋だけじゃないか。ラ・ブリに用があるなら呼鈴を鳴らすはずだ……ということは?……嘘だ! そんなはずない!」  一つの考えに取り憑かれて、拳をぷるぷると引き攣らせた。アンドレの向かっているのは、まさかバルサモの部屋なのか?  旅人の部屋の前でアンドレが立ち止まった。  冷たい汗がジルベールの額を流れた。階段の手すりにしがみつき、倒れそうになるのをこらえた。結局そこまでアンドレを追って来たのだ。目にしているもの、憶測していること、何もかもむごたらしかった。  扉が半開きになる。アンドレはノックもせずに扉を押した。洩れ出た光が気高く整った顔を照らし、ぱっちりと開いた目の中で金色の渦を巻いた。  部屋の真ん中にバルサモがいるのが垣間見えた。バルサモは立ち尽くし、目を見据え、眉を寄せて、何かを命じるように手を伸ばした。  扉が閉まった。  ジルベールの身体から力が抜け落ちた。片手が手すりから離れ、もう片方の手が持ち上げられて火照った額に触れた。車軸から外れた車輪のように身体を空転させ、冷たい石畳の一段目に目を回して倒れ込んだ。それでも視線だけは呪わしい扉にこびりついていた。過ぎ去った夢、現在の幸せ、来たるべき希望のすべてを飲み込んだばかりの扉に。 第九章 千里眼  バルサモが出迎えようとすると、アンドレは石像のように強張った足取りながら、危なげなくまっすぐと部屋に入ってきた。  斯かる異様な訪問をされてはほかの者なら訝ったであろうが、バルサモには驚いた素振りもない。 「俺は眠れと命じた。眠っているな?」  アンドレは息を吐き出したが、言葉は発さぬ。  バルサモが近づき、さらに霊気を強めた。 「口を利くがいい」  アンドレが身体を震わせた。 「俺の言ったことはわかるな?」  アンドレが了解の仕種をする。 「ではなぜ口を利かぬ?」  アンドレは喉に手をやり、言葉が出て来ぬのだと言いたげな仕種をした。 「わかった、そこに坐れ」  そう言って、先だってジルベールがこっそりと口づけした手を取ったのだが、触れられただけでアンドレは身体を震わせた。かの抗い難い霊気が降臨した際に同じ振舞を見せたのは先刻ご承知の通りである。  バルサモに手を引かれるまま、アンドレは三歩退がって椅子に腰を下ろした。 「さあ、見えるな?」  アンドレの目が見開かれた。二本の蝋燭が陰影を作り出し、その光が部屋中に妖しく広がっていたのだが、それをくまなく目に入れようとでもしているようだった。 「目で見たことなど要らぬわ。心で見よ」  刺繍の施された上着の下から鋼の棒を抜き出すと、波を打っている娘の胸にその先端を押し当てた。  アンドレがびくりと痙攣した。さながら炎の針に突き刺され心の臓まで貫かれたようだった。そのまま両目が閉じられた。 「それでいい! 見えるな?」  アンドレはその通りだと頭を動かす。 「それに口も利けるな?」 「はい」とアンドレが答えた。  だがそう言いながらも、苦しくてならぬのか手を額に押しつけた。 「どうした?」 「お願いです! 苦しいのです!」 「何故だ?」 「無理に目を開かせようとしたり口を利かせようとしたりするのはおやめください」  バルサモはアンドレの頭上に両手を二、三度かざし、割れんばかりの痛みを引き起こしていた霊気を散らした。 「まだ苦しいか?」 「随分と治まりました」 「よし。ではお前は何処にいる?」  アンドレの両目は閉じたままだった。だが表情は曇り、ひどく狼狽えたようにも見える。 「赤の間におります」 「誰といる?」 「あなたと」と言ってぶるりと震えた。 「どうした?」 「怖いのです! それに嘆かわしい!」 「何故だ? 仲良くやろうじゃないか。え?」 「もちろんです」 「何も下心があって呼んだわけじゃない。わかるな?」 「ああ! わかります」 「尼さんみたいに敬意を払ってるだろう?」 「ええ、その通りです」  だが一旦は和らいだ表情が、またしても曇った。 「腹を割ってはくれぬし、気を許してもくれぬようだな」 「わたくしに危害を加えるつもりがなくても、誰かよその人に悪さするつもりなのでしょう」 「そうかもな。お前が気にすることじゃない」と命じた。  アンドレの顔つきが普段のように戻った。 「家中の者が寝入っているな?」 「わかりませぬ」 「では覗いてみろ」 「何処から始めればよいでしょうか?」 「そうだな。お前の父親からだ。何処にいる?」 「お部屋に」 「何をしている?」 「横になっていらっしゃいます」 「眠っているのか?」 「いいえ、本を読んでおります」 「どんな本だ?」 「いつもわたくしに読ませようとしている良くない本でございます」 「ということはお前は読まぬのだな?」  アンドレの顔に軽蔑の表情が浮かんだ。 「はい」 「よし。ここはもういいだろう。ニコルの部屋を覗いてくれ」 「真っ暗です」 「明かりがいるか?」 「お命じくださるだけで結構です」 「命じよう。目を凝らすのだ!」 「あっ、見えました!」 「様子は?」 「ほとんど下着だけの恰好をしています。部屋の扉をそっと開け、階段を降りています」 「そうか。何処に向かっている?」 「中庭の戸口で立ち止まりました。扉の後ろに隠れています。様子を窺い、待ち受けています」  バルサモは笑みを浮かべた。 「お前のことを窺い、待ち受けているのか?」 「そうではありませぬ」 「いいぞ! それが知りたかった。若い娘なんてものは、父と小間使いの目を盗んでしまえば、恐れるものなどあるまい。もっとも……」 「いいえ」 「ふふっ! はははっ! 俺の考えを読んだのだな?」 「見えたのです」 「では想い人はおらぬのだな?」 「わたくしに?」アンドレは蔑むように答えた。 「まあな。そうだったらと思っただけだ。修道院に引き籠もっていた人間が、身も心も縛めを解かれたんだぞ?」  アンドレは首を振った。 「わたくしの心は縛められてなどおりません」と悲しげに答えた。  乙女に相応しい慎み深く真っ直ぐな口振りに、美しさもひとしおであった。バルサモは狂喜して呟いた。 「白百合だ! 乙女だ! 巫女だ!」  感激して手を叩くや、すぐにアンドレに畳みかける。 「だが想う者はなくとも、誰かに想われてはいるだろう?」 「存じません」アンドレは穏やかに答えた。 「糞ッ! 知らんだと?」バルサモは乱暴に言い返した。「知ろうとしたらどうだ! ものを尋くからには、欲しいのは答えだ」  と、こう言って、またしても鋼の棒で胸を突いた。  アンドレはまたもびくりと震えたが、最前ほどには苦しそうにも見えない。 「わかりました。目を凝らしております。乱暴はおやめください。死んでしまいます」 「何が見える?」 「まさか! 信じられません!」 「いったい何が見えるんだ?」 「若者が一人、修道院から戻ってからずっと、わたくしを追い回し、覗き回り、懸想しながらも、それを秘めております」 「何者だ?」 「顔は見えませんが、身なりだけ見れば労働者の恰好をしております」 「何処にいる?」 「階段の下。苦しんで泣いています」 「なぜ顔が見えぬのだ?」 「手で覆っているのです」 「手を透かして見ればよい」  アンドレは言われた通りに試みた。 「ジルベール! だから信じられないと言ったのです!」 「そんなにも信じられぬのか?」 「よくも想いを寄せられたものです」という口振りに、軽蔑が滲み出ていた。  バルサモはニヤリとした。それ即ち世故に長けたる者の笑い、たといその道が途切れていようと心通わぬ道のりなどありはせぬと承知している者の笑いであった。 「奴は階段の下で何をしている?」 「お待ちください。手を顔から離し、手すりにすがって、立ち上がり、上っております」 「上っている先はどこだ?」 「ここに……心配ご無用です。中まで入っては来ないでしょう」 「何故だ?」 「臆病者ですから」アンドレは蔑むように笑った。 「だが盗み聞きぐらいはするだろうな」 「そうでしょうとも。扉に耳を近づけて、聞き耳を立てております」 「迷惑か?」 「もちろんです。わたくしの言葉を盗み聞きするやもしれませぬから」 「すると、愛する女を裏切ることも厭わぬ男というわけか?」 「ええ。怒りや嫉妬に駆られたなら。そうですとも! その時にはどんなことでもやってのけるでしょう」 「では追っ払うか」バルサモはそう言って、ずかずかと扉に歩み寄った。  ジルベールもまだ腹をくくりかねていたのであろう。バルサモの足音を聞くや見つかるのを恐れて、手すりに跨って下まで滑り降りた。  アンドレが小さく悲鳴をあげた。 「ここはもういい。惚れた腫れたに用などないわ。タヴェルネ男爵のことを話してくれ。いいか?」 「お望みのことは何なりと」アンドレは溜息を吐いた。 「貧しいのだな、男爵は?」 「とても貧しゅうございます」 「お前に何もしてやれぬほどにか?」 「何一つ」 「つまりお前は退屈しているわけだ?」 「死ぬほど」 「夢はあるのだろうな?」 「いいえ」 「父を愛しているか?」 「はい」躊躇いがちな答えが返ってきた。 「だが見たところ、昨晩は孝行ぶりにも影が差していたようじゃないか?」とバルサモが含み笑いした。 「母の遺産を食い潰しているのが許せないのです。そのせいでメゾン=ルージュ殿は駐屯地で身をやつし、もはや家名を誇ることもなりません」 「メゾン=ルージュとは何者だ?」 「兄上のフィリップ」 「何故メゾン=ルージュと名乗る?」 「それが名だからでございます。正確に申せば一族が持つ城館の名。父親の死ぬまでは世継ぎはその名を戴く決まりですから。父の死後はタヴェルネと呼ばれることになりましょう」 「兄を愛しているのだな?」 「もちろんです!」 「何よりも?」 「何よりも」 「ずいぶんとご執心じゃないか? 父にはつれなかったというのに」 「兄は気高く、わたくしのためなら命だって賭けるでしょうから」 「されど父御は……?」  アンドレの口は開かなかった。 「応えぬのか?」 「応えたくありませぬ」  まげて聞き出すこともあるまいと考えたのであろう。或いは男爵について知りたかったことは、とうに手に入ったのであろう。 「メゾン=ルージュ士爵は今何処だ?」 「フィリップの居場所を知りたいのですか?」 「ああ」 「ストラスブールに駐屯しております」 「今度はそこを見るんだ」 「何処を?」 「ストラスブールだ」 「見えませぬ」 「ストラスブールを知らんのか?」 「ええ」 「俺ならわかる。二人で探すとしよう。いいな?」 「かしこまりました」 「芝居には?」 「おりません」 「広場のカフェで軍人たちと一緒ではないのか?」 「おりません」 「宿舎に戻っているのではないか? 部屋を覗いて見てくれ」 「見えません。ストラスブールにはもういないのでしょう」 「道はわかるか?」 「いいえ」 「構わん! 俺が知っている。道をたどるぞ。サヴェルヌにはいるか?」 「おりません」 「ザールブリュッケンには?」 「おりません」 「ナンシーは?」 「あっ! お待ち下さい」  アンドレは心を凝らした。心臓が胸の中で暴れ回る。 「見えました!」嬉しそうに言うと、「フィリップだわ、よかった!」 「どうなっている?」 「フィリップ!」と言ったままアンドレは瞳を輝かせていた。 「何処にいるんだ?」 「わたくしもよく知っている町を馬に乗って通過しています」 「何処だ?」 「ナンシー! ナンシーです! 修道院のあった場所なんです」 「確かだな?」 「確かですとも。周りの明かりが顔を照らしてますもの」 「明かりだと? なぜ明かりがある?」 「馬に乗って、豪華な四輪馬車のそばにいるのです!」 「ああ! なるほどな! で、馬車の中にいるのは?」 「若い女性です……嗚呼、何て気高い方なのかしら! とても優雅で、ひどく綺麗な方です。でもどうしてでしょう、何処かで見たことがあるのです。いいえ、そんな筈はないわ。まるでニコルそっくり」 「厳かで気高く綺麗なその娘に、ニコルが似ているというのか?」 「ええ、そうです! でもそれもジャスミンと白百合、似て非なるもの」 「まあいい。今、ナンシーでは何が起こっている?」 「その女性が戸口の方に身を乗り出して、そばに来るようフィリップに合図しました。フィリップは言われるままに近づいて、恭しく帽子を取りました」 「何をしゃべっているかわかるか?」 「聴いてみます」と言うや、音など立てて気を散らしてくれるなとばかりに、バルサモを身振りで制した。「聞こえる! 聞こえます!」 「女は何と言っている?」 「とろけるような笑みを浮かべて、もっと馬を急がせるよう命じました。明日の朝六時には必ずや従者たちの用意を終わらせておくように言っています。昼には立ち寄るところがあるそうです」 「何処だ?」 「兄もそれをたずねております……そんな、まさか! タヴェルネに立ち寄りたいそうです。父に会いたいと。あんな立派なお姫さまがこんな貧しい家に立ち寄るなんて!……どうやってお迎えすればよいのでしょう? 銀の食器もなければ、クロスすらほとんどないというのに」 「心配はいらん。用意しようじゃないか」 「ありがとうございます! 感謝いたします!」  アンドレは立ち上がりかけたが、ふうと息を吐いてぐったりと椅子に倒れ込んだ。  すかさずバルサモが近寄って、両の手をかざし電磁気の流れを変えるや、萎えかけた肢体も、波打つ胸にくたりと落ちた頭も、穏やかな眠りに就いた。  アンドレはすっかり落ち着いて安らぎを取り戻したように見える。 「今のうちに力を補充しておけ」暗くうっとりとした目つきでバルサモは囁いた。「すぐにまたお前の天眼を借りることになるのだからな。科学よ! お主だけは決して裏切らぬ! であればこそ人がただお主のみにすべてを捧げるは必定ではないか」そう続ける言葉には、狂信の色が宿っていた。「主よご覧なさい、この美しい娘御を! この清らかな天使を! いやこれはご存じでしたな。天使も娘御もお造りになったのはあなただ! ですがね、今の俺には美しさなど用はない。清らかさがハテ何の役に立つと? ただの飾りでしかありませんな。如何に美しく清らかなタマであろうとも人は死ぬが、ナニ、口さえ利いてくれればいい。愛情、情熱、喜悦、如何なる喜びにも終わりが来よう。闇を照らす確かな一歩さえ踏み出せれば俺は満足だ。さて娘よ、俺の力にかかれば、ほんの数秒眠っただけで二十年分の力を取り戻せたはずだ。目を覚ませ、いや、千里を見通す眠りに就け。まだまだしゃべってもらいたいことはあるんだ。今度は俺のためだがな」  またもバルサモはアンドレに手を伸ばし、強い霊気でその身体を起こした。  やがておとなしく術にかかったのを見て、財布から四折りの紙を取り出すと、中から現れたのは、樹脂のような艶をした黒い巻毛であった。髪に染みついた香りが、それを包んでいた薄紙にまで移っていた。  バルサモはその巻毛をアンドレの手に握らせた。 「見るんだ」 「またですか!」アンドレが苦悶の声をあげた。「嫌です、嫌です。もう休ませてください。あまりに苦しくて――お願いです! ようやく気分が楽になっていましたのに!」 「見るんだ!」バルサモは情けも見せずに鋼の棒を胸に押しつけた。  アンドレは腕をよじり、バルサモの霊力から何とか逃れようとした。口唇には泡が浮き、太古の神殿で三脚に坐したる巫女《ピュティア》のようでもあった。 「見えました!」力負けしたアンドレが、折れたように悲鳴をあげた。 「何が見える?」 「女性が」 「ははは!」バルサモは喜びをはじけさせた。「これだから高潔と違って科学には実があるのだ! ブルータスなどメスメルの敵ではない。では聞かせてくれ。しっかりと見えたのかどうか確かめなくてはな」 <「褐色の肌、長身、青い瞳、黒髪、逞しい腕」 「何をしているところだ?」 「走っています、急いでいます、汗を流した駿馬で駆けているようです」 「何処に向かっている?」 「あちらです」と西を指さした。 「街道沿いだな?」 「はい」 「シャロンのか?」 「はい」 「そいつはいい。あいつも俺の行くべき道を進み、俺の行くパリに向かっているのだな。よし、ならばパリで会えようというものだ。もう休んでいいぞ」と、アンドレに言いざま、きつく握りしめられていた巻毛を取り返した。  アンドレの両腕がまたもだらりと垂れ下がった。 「さあ演奏に戻るがいい」  アンドレは扉の方に足を踏み出したが、疲労のあまり足が言うことを聞かず、身体を支えきれずによろめいた。 「続きは力が補充されてからだ」そう言ってバルサモは新たにアンドレを霊気で包み込んだ。  アンドレは疲れを知らない軍馬のように敢然として立ち向かった。主人の指示なら如何なるものであろうとやり遂げんばかりだ。  アンドレが歩き出す。  バルサモの開けた扉を抜けて、なおも昏々としたままゆっくりと階段を降りていった。 第十章 ニコル・ルゲ  バルサモの訊問が続いている間中、ジルベールはひとかたならず悶々としていた。  階段下にうずくまったまま、赤の間で交わされる言葉を聞くため扉近くまで上ることももはや適わず、ついに絶望の淵に沈むんでしまうと、持ち前の感情の起伏の激しさから、恐らくは絶望の欠片が限界にまで達したのだ。  心が弱く脆いせいで、見る間に絶望は大きくなった。バルサモはただの人間でしかない。哲学者の卵、思想かぶれのジルベールは、魔術師なぞは信じない。だが件の男は強く、ジルベールは弱かった。件の男は勇敢だが、ジルベールはそうではなかった。幾度となくジルベールは立ち上がって階段を上り、バルサモと対峙しようとした。幾度となく震える足はくじけ、そのたびに膝を突いた。  そこで思いついたのが、ラ・ブリの梯子を取りに行くことであった。料理人にして召使いでもあるこの男、さらには庭師でもあり、壁に壁に耶悉茗《ジャスミン》や忍冬《スイカズラ》を這わせるのに梯子を使っていたのだ。それを階段の通路に立てかけて道を架ければ、求めて止まぬ真実のよすがとなる物音を、一つたりとも聞き洩らすことはないだろう。  そこでホールを通って中庭に出ると、梯子が置いてあるはずの壁際まで駆け抜けた。だが梯子を手に取ろうとしゃがみ込んだ途端、家の方から何か物音がしたような気がした。ジルベールは振り返った。  暗闇に目を凝らしてみると、開け放した扉の四角い闇を人影が通り抜けたようにも見えた。だが素早いうえに音も立てぬとあっては、どうやら生身の人間とも思われぬ。  ジルベールは梯子を放り出し、動悸も激しく城館に向かって戻り出した。  迷信とは切っても切れぬのが、ある種の想像力である。これが大抵の場合、ひどく豊かで根が深い。いずれ理性よりもお伽噺に傾きがちな嫌いがある。この世の理なんぞ屁でもないとばかりに、直感的に不合理な、というのが言い過ぎであるなら観念的な方へと流れてしまう。想像力が鬱蒼とした森を好むのもこのためで、暗いトンネルには幽霊や精霊が付き物だからである。大いなる詩人であった古人は、真ッ昼間からそうしたもののけたちを夢見ていた。ただし往時の太陽は当節のお飾りと比べれば熱くたぎる灼熱の火炉であったため、悪鬼や幽霊のことを考える余地を与えなかった。ゆえに古人が空想していたのは、かしましい木の精《ドリュアス》や軽やかな山の精《オレイアード》といったものたちであった。  どんよりした土地に生まれたジルベールにはこの傾向もひとしおで、自分が見たのは亡霊だと信じ込んだ。今回ばかりはさしもの不信心者も、バルサモの連れの女が去り際に告げたことを思い出していた。あの魔術師は清らかな天使さえ悪に引きずり込む力を持っていたのだ、何らかの幽霊を呼び出したとしてもおかしくはあるまい?  ところがジルベールは一歩目よりも二歩目でつまずく質であった。頭で考えてしまうのだ。化物について思想家たちの智恵を借りようとして、哲学事典の「幽霊」の項からひとまずの勇気を得たものの、さらに大きくしかも確かな恐怖に囚われてしまった。  実際に誰かを目にしたのであれば、それは生身の人間であろうし、であればこうして見回りに来たがる人間ではないのか。  恐怖がタヴェルネ男爵の名を告げ、意識が別の名を囁いた。  ジルベールは翼棟の三階を見上げた。前述の通りニコルの部屋の明かりは消えていたし、窓からは明かり一つ洩れていなかった。  邸にはそよ風一つ、物音一つ、薄明かり一つない。ただし旅人の部屋だけは別だ。目を凝らし、耳を澄ました。何も見えぬし何も聞こえぬことを確認すると、改めて梯子をつかんで結論づけた。つまり今回のことは昂奮した人間特有の目の迷いであり、科学的に言うなら、さっき見たものは視覚能力が働いた結果というよりは、視覚の一時的な断絶であったのだ。  ジルベールが梯子を立てかけ、一段目に足をかけたちょうどその時、バルサモの開けた扉を通ってアンドレが階下に降りて来た。明かりも持たず音も立てず、さながら魔力に操られるように。  アンドレは踊り場まで来ると、暗がりに隠れていたジルベールのそばをかすめるように通り過ぎ、そのまま歩き続けた。  タヴェルネ男爵は眠っているし、ラ・ブリは床につき、ニコルは別の棟にいて、バルサモの部屋の扉は閉ざされている。ジルベールを脅かすものは何もない。  気持を奮い立たせ、アンドレの歩みに合わせて後を追った。  アンドレはホールを抜けて応接室に足を踏み入れた。  心が引き千切れそうだった。扉は開いていたのに、足が動かなかった。アンドレが坐ろうとしていたのは、チェンバロの傍らの腰掛け、いつもは蝋燭が燃えている場所だった。  ジルベールは爪を立てて胸を掻きむしった。同じ場所だ。半時間前に口づけをした、あの場所だ。部屋着と手とに口づけをしながら、逆鱗にも触れなかった、あの場所。期待に震え、幸せを噛みしめたあの場所だった! 咎め立てされなかったのは、アンドレの堕落と呼んでいいのだろうか。男爵の本棚の奥で見つけた小説に書かれていたように。それともあれが感覚障害というものだろうか。生理学概論にはそのような分析が載っていた。  そうしたいろいろな思いがジルベールの頭に去来した。「堕落したというのなら遠慮なくいただこうじゃないか。五感の発作だというのならそこに付け入ろうじゃないか。天使がせっかく無垢の羽衣を脱ぎ捨てたんだ、操の一つや二つ僕のものにしたって構うもんか!」  今度こそ腹を決め、応接室に向かって駆け出した。  ところが敷居を跨ごうとした途端、暗がりから手が伸びて、腕をがっちりとつかまれた。  ぎょっとしたのなんの、心臓が止まるかと思いながら振り向いた。 「とうとう捕まえた。いやらしい!」拗ねたような声が耳に滑り込む。「否定できるものなら否定してみなさい。逢い引きだったんでしょ? 何ならあのひとに惚れてるってことも否定できる?……」  ジルベールには、縛めから腕を振りほどくだけの力もなかった。  とは言うものの、断ち切れぬほどの縛めではない。締めつけているのはたかが小娘の手に過ぎぬ。何を隠そう、ジルベールを捕えていたのはニコル・ルゲであった。 「また何か用かい?」うるさそうにジルベールはたずねた 「あら! はっきり言ってほしいの?」ニコルは声を大きく張り上げた。 「違う、違うよ。むしろ声を出さないでほしいな」歯を食いしばって、ニコルをホールまで引っ張って行った。 「わかった。じゃあこっち来て」  それこそジルベールには願ってもないことだった。ニコルについて行けば、アンドレから離れることになる。 「うん、行くよ」  言葉通りに後を追うと、ニコルはジルベールを花壇に連れ出して後ろ手に扉を閉めた。 「だけど……お嬢様が部屋に戻って床に着こうと呼んだとき、君がいなかったら……」 「今そんなことを気にしてるんなら大間違いよ。お嬢様に呼ばれるかどうかなんて関係ない。あなたに話があるの」 「話なら明日でも出来るよ。お嬢様は厳しい人なんだから」 「ええそうね、厳しくすべきだと思う。あたし相手なら特に!」 「ニコル、明日だよ、約束するから……」 「約束? 大した約束ね、さぞかし期待できそう! 今日の六時にメゾン=ルージュのそばで待ち合わせしてなかった? そのとき何処にいたの? 正反対の場所で旅人を案内してたんじゃない。あんたの約束なんてアノンシアード修道会の教導僧並み! あいつ、告解の秘密を守るとか誓っておいて、告白した罪をぜんぶ修道会長に告げ口するんだもんな」 「ニコル、見つかったら馘首になるよ……」 「あなたは馘首にならないの? お嬢様の情人《いいひと》だからってわけ? お生憎、男爵様がそんなこと気にするもんですか!」 「だって――」ジルベールは言い訳を試みた。「僕には馘首になる理由なんてないよ」 「愛娘を口説かれてたとしても? そんな仙人みたいな人だとは知らなかったわ」  その気になればニコルにひとこと釈明することも出来た。仮にジルベールが罪を犯していようと、少なくともアンドレに罪はない。それには目にしたことをすべて打ち明けるほかなかった。如何に信じがたいことであろうと、ニコルなら、女同士の親愛の情から、きっと信じたことだろう。だが考え直して、口にしかけた言葉を呑み込んだ。アンドレの秘密を知っていれば、欲しいものが手に入る。望むものが愛情であれ、もっと確実な形のある宝物であれ。  ジルベールの欲しいのは、愛情だった。ニコルの怒りなど、アンドレをものにしたい思いから比べれば何ほどのものだというのか。即座に心を決め、その夜の椿事については沈黙を守ることにした。 「わかったよ、どうしてもって言うのなら話し合おう」 「すぐに済むってば!」ニコルはジルベールとは正反対で、感情を制御することが出来なかった。「でもそうかもね。花壇じゃ都合悪いし。あたしの部屋に行かない?」 「君の部屋に!」ジルベールはぎょっとした。「そんなの駄目だよ」 「何で?」 「見つかったらどうするのさ」 「あのねえ!」小馬鹿にするような笑みを浮かべると、「誰に見つかるのよ? お嬢様? かもね。何しろこちらのご紳士にご執心だもんね! 残念だけどこっちはお嬢様の秘密を握ってるんだから、ちっとも怖くない。アンドレお嬢様がニコルに嫉妬するなんて思ってもみなかった。鼻が高いわ!」  嵐のように鳴り響いたわざとらしい哄笑と比べれば、罵られたり脅されたりした方がまだ恐ろしくなかった。 「お嬢様を恐れているわけじゃなく、君の立場が危うくなるのを恐れているんだよ、ニコル」 「そっか、いつも言ってたっけね。恥ずべき点がなければ悪いことなんかないって。哲学者ってたまに狡賢い。そう言えばアノンシアードの教導僧も同じようなこと言ってたな、あなたよりも前に。だから夜中にお嬢様と逢い引きしてるってわけ? いい加減にしてよ! ごちゃごちゃ言ってないで……部屋に来てほしいの」 「ニコル!」ジルベールが歯を軋らせた。 「聞こえてる! それで?」 「ふざけるなよ!」  と言って脅すような仕種をした。 「何? 怖かないわよ。前にあたしを殴ったのは嫉妬してたんでしょ。あの時は愛してくれてた。あの素敵な日からまだ一週間だったから、殴らせてあげたの。でも今は殴らせるつもりなんてない。冗談じゃない! もう愛してないんでしょ、今は嫉妬してるのはこっちなの」 「どうするつもりなんだ?」ジルベールはニコルの手首をつかんだ。 「大声で言ってやるの。きっとお嬢様に問いつめられるんじゃない? 自分が独り占めしているはずのものが、どうしてニコルに向けられているのかって。いい? 手を離しなさいよ」  ジルベールは手を離した。  そして梯子をつかんでゆっくりと引きずってゆくと、翼棟の外壁に立てかけ、ニコルの部屋の窓まで道を架けようとした。 「運命なんだなって諦めなさい。おおかたお嬢様の部屋によじ登るつもりで用意した梯子で、どのみちニコル・ルゲの屋根裏から降りることになるんだから。嬉しい話じゃない?」  ニコルは優位を感じていた。だからこそこうして勝利に飛びついた。というのも、善の道と悪の道とにかかわらず真に優れている者を除けば、蓋し女とは、勝利の宣言は早い者勝ちだと考えているふしがある。  ジルベールは自分の立場が不利なのを感じていた。だからこそ、ニコルの後を追いながら、来たるべき一騎打ちに備えて、集中力を高めていた。  とまれ慎重な男のこととて、二つの点を確認した。  一つ、窓を外を通り過ぎしな、タヴェルネ嬢が今なお応接室にいることを確かめた。  二つ、ニコルの部屋まで来ると、首の骨を折る恐れなく梯子の一段目に届くこととそのまま地面まで滑り降りられることを確かめた。  質素という点において、ニコルの部屋もほかの部屋と変わらなかった。  その屋根裏の壁は、緑の図案のある灰色の壁紙に覆われていた。革帯を張っただけの寝台と、天窓近くの大きなゼラニウムが、部屋を彩っている。加えて、アンドレからもらった大きな板紙の箱が、箪笥と机を兼ねていた。  ニコルは寝台の端に、ジルベールは板紙の角に腰を下ろした。  階段を上っているうちにニコルも頭を冷やすことが出来た。感情を抑えられているが自分でもわかる。翻ってジルベールは、先刻の動揺のせいで震えを抑えることもままならず、落ち着きを取り戻すことが出来ずにいた。部屋に入って意思の力によって怒りを治めたつもりのそばから、怒りが沸々と湧き起こるのを感じていた。  一瞬できた静寂の中で、ニコルはジルベールに焼けつくような眼差しを注いでいた。 「つまり、お嬢様を愛してるんでしょ。で、あたしは捨てられた?」 「お嬢様を愛してるなんて一言も言ってないじゃないか」 「何それ? 逢い引きしといて」 「お嬢様と逢ったなんて言ってない」 「ほかに翼棟の誰に用があるっていうの? 魔法使い?」 「駄目かい? 僕に夢があるのは知っているだろう」 「その願望ってのを教えてよ」 「その言葉は良い意味にも悪い意味にも取れる」 「ものや言葉について議論する気はないの。もうあたしのこと愛してないんでしょ?」 「そんなことはない、今も好きだよ」 「じゃあどうして避けるの?」 「だって会うたび怒っているから」 「あのね。怒っているのは会おうとしてくれないからなの」 「人づきあいが苦手だし独りが好きなんだ」 「そうそう、独りになりたくて梯子を登るんだよね……ごめんなさいそんなの聞いたことない」  その第一段階でジルベールは惨敗していた。 「ねえほら、頼むからはっきり言くれる? もうあたしを愛してないの、それとも二人とも愛してるの?」 「そんな……もしそうだったら?」 「悪辣って呼んでやるわ」 「そうじゃない、過ちと呼ぶんだよ」 「あなたにとって?」 「僕らの社会にとって。男がみんな七、八人の妻を娶っている国もあるよね」 「異教徒でしょ」その声には苛立ちが現れていた。 「哲学者だよ」ジルベールは誇らしげだった。 「出たわね哲学者! あたしがおんなじことをしたり愛人を持ったりすれば嬉しいってわけ?」 「不誠実なことも支配するようなこともしたくないし、気持を縛りたくもないんだ……自由という素晴らしいものの本質は、自由意思にあるんだもの……別の恋をしなよ。操を立てろなんて言えやしない。そんなの不自然だ」 「ああそう、いっそもう愛してないって言えばいいじゃない!」  議論はジルベールの得意とするところ、お世辞にも論理的とは言えぬが理屈では計れぬ頭の使い方をする。それに、ものをよく知らずとも、ニコルよりは知っていた……ニコルが読むのは興味のあることに留まる。ジルベールが読むのは、興味のあることに加えて、役に立つことであった。  だから言い争っているうちに、ジルベールは落ち着きを取り戻し、ニコルの方はかっかとし始めた。 「記憶力はいい方、哲学者さん?」と薄笑いを浮かべた。 「場合によるけど」 「じゃあ覚えてる? 五か月前、お嬢様とアノンシアードから戻った時に言ってくれたこと」 「いや。何だっけ」 「こう言ったの。『僕にはお金がない』。崩れた古城の屋根の下、二人して『タンザイ』を読んだ日よ」 「うん、続けて」 「あの日、随分と震えてたじゃない」 「そうだったかも。生まれつき臆病なんだ。直そうとはしたんだよ、ほかにもいろいろ」 「だったら――」とニコルは笑って、「そういった欠点がみんな直れば、完全無欠ってわけね」 「せめて強い人間にはなれるさ。智性こそ力だからね」 「それは何の受け売り?」 「関係ないだろう。屋根の下で何て言ったかって話だったじゃないか」  どうにも分が悪いことにニコルも気がつき始めた。 「ああ、そうね。『ニコル、僕にはお金がないし、愛してくれる人もいないだろうけど、あるべきものはここにある』、そう言って胸を叩いたの」 「そんなはずない。そう言って叩くなら、胸ではなく頭でなくちゃおかしいよ。心臓は手足に血を送るためのポンプでしかないんだから。哲学事典の心臓の項を読んでご覧よ」  と言って誇らしげに胸を反らした。バルサモの前では畏縮していたくせに、ニコルの前では尊大だった。 「わかったわ。確かに叩いたのは頭だったんでしょ。で、頭を叩いてこう言ったの。『僕は飼い犬のように扱われてる。それならマオンの方がまだしも幸せだよ』。だからあたし言ったじゃない。誰からも愛されないなんて馬鹿ね、あたしたちが兄妹だったら愛情で結ばれてるのに。そう答えたのは、頭じゃなくて心だった。でもきっと勘違いなんでしょ。哲学事典なんて読んだことないから」 「間違ってるよ」 「あたしを腕に抱いて、『ニコルはみなしご。それに僕もみなしごだ。貧しくて惨めだからこそ、兄弟よりも強い絆で結ばれてるんだ。本当の兄妹みたいに愛し合おう。もっとも本当の兄妹だったら、こんなふうに愛し合うのは許されないことだけど』、そう言ってキスしたの」 「かもしれない」 「思ってもいないことを口にしていたの?」 「うん。口にした瞬間は、口にした通りに思ってたんだ」 「じゃあ今は……?」 「今は、あれから五か月経った。知らなかったことも学んだ。まだわからないことも見えて来た。今はあの時のようには思っていない」 「つまり嘘をついたの? ペテン師! 偽善者!」思わず我を忘れてニコルは叫んだ。 「旅人と同じだよ。谷底で景色についてたずねたとして、遮るもののない山のてっぺんで同じ質問をしてご覧よ。僕にも前より開けた景色が見えたんだ」 「だから結婚する気がないの?」 「結婚しようなんて一言も言わなかったじゃないか」とジルベールは切り捨てた。 「何よ! 何なのよ!」苛立ちが爆発した。「ニコル・ルゲとセバスチャン・ジルベールの何処が違うっていうの」 「人間はみんな同じで、違いなんてないよ。でもね、もともとの素質やその後の学習によって、いろんな実力や才能が身につくんだ。少なからず能力が伸びるにつれて、一人一人の差は開いていく」 「あたしより成長したから、あたしから離れてくって言いたいの?」 「そうだよ。理屈では呑み込めなくても、もうわかってるんだよね」 「ええそうね! わかってますとも」 「ほんとう?」 「あなたが不実な人だってことをね」 「そうかもしれない。人は欠点を持って生まれてくるけど、意思の力でそれを正すものなんだ。ルソーだってそうだよ、生まれた時には欠点があった。でもそれを正したんだ。僕もルソーのようになる」 「冗談でしょ! どうしてこんな人を愛してたんだろう?」 「愛してなんてなかったんだよ」ジルベールの答えは冷たかった。「僕といるのが楽しかっただけさ。ずっとナンシーにいたんだもの、会ったことのあるのは滑稽な神学生とおっかない軍人だけだったんだろう。僕らは若くて、無智で、刹那的だった。自然の囁く声に抗えなかった。二人ともその気になって血が火照り出したから、不安を抑える薬を見つけようと本を読んだら君はますます不安がった。二人で本を読んでいるうちに――覚えてるよねニコル、君が折れたわけじゃないし、僕が誘ったわけでも、君が拒んだわけでもない。それまで知らなかった秘密の言葉を見つけただけだったんだ。ひと月かふた月の間は、言葉は確かに存在してた。幸せという言葉がね! 充実したふた月だったなあ。生き甲斐があった。だけどさ、お互いに相手のおかげでふた月のあいだ楽しかったからって、お互いに相手のせいで永遠に苦しまなきゃならないっていうの? ねえニコル、幸せをやり取りしてそんな約束をするなんて、自由意思の放棄だもの、そんなの馬鹿げてるよ」 「そんな仕打ちをするのも哲学のうち?」 「そのつもりさ」 「じゃあ哲学者には越えちゃいけない聖域なんてないんだ?」 「そんなことはない。理性だよ」 「そういうことなら貞節を守っていたかった……」 「うん、でももう遅すぎるよ」  ニコルは青くなったり赤くなったり、さながら水車に押し流されて血が巡回しているようであった。 「あなたの言い分によれば貞節なはずなのにね。心で決めたことに忠実なら、貞淑な女のままでいられる、そう励ましてくれたじゃない――覚えてないの、あの結婚についての持論を?」 「僕は『一つになる』って言ったんだ。誰かと一緒になる気なんて絶対にないからね」 「一生結婚するつもりはないの?」 「うん。科学者や哲学者でいたいから。科学には精神的な独立が必要で、哲学には肉体的な独立が必要なんだ」 「ジルベールさん、あんた惨めよ。あたしの方が人間として何倍も上じゃない」 「もういいだろう」ジルベールが立ち上がった。「時間がもったいない。非難の言葉を口にするのも、それを耳にするのも、時間の無駄だよ。君は恋に恋してただけだ、そうだろ?」 「かもね」 「とうとう言ったね! これで僕には不幸に付き合わされる謂われなんてない。君はしたいことをした、それだけだ」 「糞ったれ。それで誤魔化したつもり? 強がってるふりをして!」 「強がってるのは君じゃないか。何が出来る? 嫉妬でおかしくなってるんだよ」 「嫉妬! あたしが?」ニコルは瘧《おこり》に憑かれたような笑いを立てた。「勘違いしないでよ。いったい何に嫉妬するっての? そういうのはあたしよりご立派な何処かの町娘の話でしょ。あたしにお嬢様のような白い手があったら――働かなくて済む日が来たらいずれそうなるでしょうけど――そしたらお嬢様くらいにはなれると思わない? この髪を見てよ(と言ってニコルは髪を解いた)、外套のように全身を覆えるんだから。痩せっぽちなんかじゃない、すっかり大人の女でしょ(と両手で身体を締めつけた)。真珠みたいに綺麗な歯をしているし(枕元に掛けてある鏡に歯を映した)。微笑んだり流し目をくれたりしようものなら、その誰かさんは真っ赤になって緊張で震えながら身をよじらせるの。あなたが初めての人、それは本当のこと。でも色目を使った最初の男ってわけじゃない。いい、ジルベール?」ひくひくと浮かべる笑みが、凄んで見せる以上に恐ろしい凄みを与えていた。「可笑しい? お願いだからあたしを敵に回さないで。内容は忘れたけど、母が戒めを説いてくれたことはぼんやりと覚えてる。子供の頃に唱えてた味気ない祈りの文句も。そんな細い小径だけど今はまだそこに留まっていられるの。足を踏み外したりさせないで。あたしが一旦その気になったら、ただじゃ済まないからね。困ったことになるのはあんただけじゃない、あんたのせいでほかの人にも迷惑がかかるんだ!」 「たいしたもんだ。偉くなったもんだね。僕も一つ学んだよ」 「何?」 「いま僕が結婚しようと言ったら……」 「そしたら?」 「そしたらね、断るのは君の方だってことさ!」  ニコルは考え込んだ。拳を固めて歯噛みした。 「どうやらあんたの言う通りだわ。どうやらあたしにも、あんたの言ってた山ってのを登り出せそう。どうやらあたしにも、開けた景色を目に出来そう。どうやらあたしにも、一廉の人間になる巡り合わせがあるみたい。科学者や哲学者の妻になるんじゃもったいないよね。ほら、梯子のところに戻んなよ。首の骨を折らないように気をつけてね。その方が世の中のためだと思い始めて来たけど。あなたにとってもその方がいいんじゃない」  と言って背を向けると、ジルベールなど無視して服を脱ぎ始めた。  ジルベールはなおもぐずぐずと躊躇っていた。何せ怒りの情感と嫉妬の炎に火照ったニコルは、思わず見とれるほどに美しかったのだ。だがジルベールの心は決まっていた。ニコルとは縁を切る。愛も夢も同時にぶち壊されかねない。我慢しろ。  しばらく経ち、音のしないことに気づいてニコルが振り返ると、部屋は空っぽだった。 「行ちゃった!」  と呟いて窓に向かったが、何処も彼処も闇に包まれており、明かりは見えなかった。 「あとはお嬢様か」  忍び足で階段を降り、アンドレ嬢の部屋の扉に耳を近づけた。 「あら一人で眠ってる。また明日。お嬢様が愛しているかはどうかすぐにわかるわ!」 第十一章 主人と小間使い  部屋に戻ったニコルは、落ち着いているとは断じて言えなかった。出したかった手管はすっかり出し切ったし、毅然たる姿勢もしっかり見せてやったと思ったところで、危険な女と思わせたりスれた女のふりをしたりするに足る虚勢などわずかしか持ち合わせていなかった。ニコルという人間に備わっているのは、生まれながらに桁外れな想像力であり、悪書を読んで植えつけられた歪んだ智性であった。この智性と想像力が二つながらに、猛々しい気性に弾みをつけた。だがニコルは冷たい人間ではなかった。ニコルを司っている自尊心がいくら強くても、時には涙を止められようが、止めたところで結局は、力ずくで押し返した涙も逆流し、溶けた鉛のように腐蝕して心に降り注いでいたのだ。  たった一つだけ浮かんでいた表情こそ、ニコルにとっては嘘偽りない本心だった。満面に浮かべた冷笑こそが、ジルベールの最初の侮辱に対する応えだった。その蔑んだ笑いを見るだけで、心に傷を負っているのがありありとわかった。確かにニコルには道徳心もなければ信念もない。だがそれまではジルベールの言い訳に何らかの意味を見出して来たし、身を委ねている最中には、すべてを捧げるように、贈り物を捧げていたのだと信じていた。だが冷淡で傲慢なジルベールを見て目が覚めた。ニコルはたった今、過ちの報いを手ひどく受け、罰として激しい苦痛を感じたばかりだった。だがニコルは鞭打たれながら立ち上がり、心に誓った。倍返しとは言わぬ、せめて受けた苦痛のわずかなりとも、この借りは返してくれよう。  ニコルは若く、気丈で、野性の生命力に溢れ、あの忘れるという能力に恵まれていた。愛してくれる者を支配することしか考えていないような人間にとっては、なくてはならない能力であった。それゆえにニコルは、十七歳の心臓に巣食っていた悪魔たちと復讐の算段を語らい合った後で、健やかに眠ることが出来た。  だいたい、むしろタヴェルネ嬢の方こそジルベールよりも罪が重いのではないか。偏見に凝り固まり、自惚れで膨れ上がった貴族の小娘ときたら、ナンシーの修道院では大公女には三人称を用い、公爵夫人には敬称を、侯爵夫人には馴れ馴れしく、それ以下には口も聞かずにいた。見た目は彫像のように冷たいくせして、大理石の殻を一皮むけば人間らしい血が通っているらしい。その彫像が、ジルベールのような田舎のピグマリオン相手にガラテアを気取っているのだから、滑稽でさもしい限りだ。  現にニコルは持って生まれた女らしい絶妙の感覚を発揮して、ただ一つ智性こそジルベールに劣っているものの、ほかの面では凌いでいると自負していた。五、六年にわたる読書によって積み上げられた智性という後光なくしては、落魄男爵家の小間使いたるニコルが百姓に身を任せることなど堕落にもほどがあるではないか。  だとすると、お嬢様がジルベールに身を任せたのが本当だとしたら、いったい何があったというのか?  考えてみると、見たというより見たと思っているものを男爵に告げるのは、大きな間違いだろう。第一に、男爵の性格からして、そんなことは笑い飛ばして、ジルベールに平手打ちを喰らわして追っ払うに違いない。第二に、ジルベールの性格からして、さもしく卑劣な復讐を思いつくに違いない。  だがジルベールをアンドレのことで苦しめたり、二人を手の内にしておいたり、小間使いに見つめられた二人が青くなったり赤くなったりするのを目にしたり、二人の支配者となって、ジルベールが口づけしていた手が冷たかったのはうわべだけだった時期を懐かしく思わせたりしたら。そうしたら想像力もみたされ、自尊心も暖められた。そうしたら実際に優位に立った気になれた。そうしたら心が決まった。やがてニコルは眠りに就いた。  夜が明けてから目が覚めてみると、清々しく軽やかで気分がいい。いつもどおりの時間をかけて身だしなみを整えた。つまり一時間かけたのである。それでも、長い髪を梳かすだけでも、もっと手間取ったりもっと念入りにしたりすれば二倍の時間がかかるはずだ。前章で記した錫張りの天窓を鏡代わりに、瞳を覗き込んだ。これまでにも増してぐっと魅力的ではないだろうか。続いて口許を確認した。口唇は色合いといい丸みといいさくらんぼのようだし、影を落とした鼻筋はすっきりとして軽く上を向いている。太陽の口づけを決して許さずにおいた首筋は百合のように白かったし、これだけ豊かな胸、これだけくびれた腰などお目にかかれまい。  これだけ綺麗なら、アンドレに嫉妬させることだって容易いだろう。そう考えたからと言って、ニコルが根っからの性悪かというと、そんなことはない。浮ついた話や絵空事を思い描いてなどいなかったし、こんな思いに駆られたのも、タヴェルネ嬢がジルベールを愛しているかもしれないと考えるあまりのことだ。  とまれニコルは肉体的にも精神的にも武装を整え、アンドレの部屋の扉を開けた。七時になっても起きていない場合には入ってもよいと言われている。  だが部屋に入るとすぐに立ち止まった。  アンドレは真っ青だった。額に浮かぶ汗には髪がまとわりつき、寝台に横たわったまま息も絶え絶えに、寝苦しいのか時折り辛そうに身をよじっていた。  シーツは二枚とも丸まってしわくちゃになり、着替えていないままの身体が剥き出しにされ、寝乱れの激しさを物語っていた。片頬を腕に預け、空いている方の手でしがみついた胸には痣が出来ている。  息も切れ切れに苦しげな喘ぎを洩らしたかと思えば、聞き取れぬほどの呻きを発した。  ニコルは無言でしばし見つめてから、首を横に振った。認めざるを得ない。アンドレの美しさには太刀打ち出来ようはずもなかった。  窓まで行って鎧戸を開けた。  溢れる光がすぐに部屋中を満たし、アンドレの紫ばんだ瞼を震わせた。  アンドレが目を覚まし、起き上がろうとして、ひどく疲れていることに気づくと同時に激しい痛みに襲われ、悲鳴をあげて枕に倒れ伏した。 「お嬢様! どうなさいました?」 「寝坊した?」アンドレが目を擦ってたずねた。 「だいぶお寝坊でしたよ。いつもより一時間も多くお寝みでした」 「どうしたのかしらね」アンドレは辺りを見回し、自分が何処にいるのか確かめようとした。「何だか身体が痛いわ。胸が苦しい」  ニコルはアンドレをじっと見つめてから答えた。 「風邪ですよ。昨夜《ゆうべ》お引きになったのでしょう」 「昨夜? ちょっと!」自分のだらしない恰好を見て、驚いて声をあげた。「どうして服を脱いでないの? 何故こんなことを?」 「覚えておいででしょう?」 「何にも覚えてなどないわ」アンドレは頭を抱えた。「何が起こったのかしら? 頭がどうかしてしまったの?」  身体を起こすと困惑顔で再び周りに目を向けた。  何とか気持を奮い立たせる。 「そうね。覚えています。昨日は、ひどく疲れていたし、ひどく怠くて………嵐のせいね。それから……」  ニコルは寝台を指さした。アンドレこそだらしない恰好をしていたが、寝台にはしわくちゃながらもシーツが掛けられている。  アンドレはじっとしたまま、妙な目つきで自分を見つめていた旅人のことを考えていた。 「それから……?」先を促すようにニコルがたずねた。「覚えておいでなんじゃありませんか」 「それから、チェンバロに腰掛けたまま眠ってしまったわ。その後のことは、何にも覚えてない。きっとまどろみながら部屋に戻って、床に就いたときには服を脱ぐ気力もなかったのでしょう」 「お呼び下さるべきでした」ニコルは猫撫で声を出した。「あたしはお嬢様の小間使いではございませんか?」 「そんなこと思いもしなかったわ。もしかするとそんな気力すらなかったのでしょうね」アンドレは何処までも含みなく答えた。  ――この女狐!とニコルが呟いた。 「ですけどそうなると随分と遅い時刻までチェンバロの前にいらっしったことになりませんか。だってあたし、お嬢様がまだ部屋にお戻りにならない時分に、物音が聞こえたので階下に降りたんですよ」  ここでニコルとしては口を閉じ、アンドレが尻尾を出すなり朱に染まるなり何らかの反応を見せるだろうと見込んでいた。が、アンドレに動揺は見えないし、曇りのない表情を見ていると、さては鏡のように、曇りのない魂を映しているのかと思えてくる。 「階下に降りたんですよ……」ニコルが繰り返した。 「ええ」 「そうしたら、お嬢様はチェンバロの前にはいらっしゃいませんでした」  アンドレが顔を上げた。が、その澄んだ瞳をいくら覗いてみたところで、そこに驚き以外の感情を見つけるのは不可能だった。 「おかしな話だこと!」 「そうでしょうか」 「応接室にいなかっただなんて。何処にも行きはしませんでしたよ」 「それは失礼をいたしました」 「では何処にいたのかしら?」 「お嬢様の方がよくご存じのはずですよ」とニコルは肩をすくめてみせた。 「きっと勘違いよ」アンドレは一層優しい声を出した。「わたくしは椅子から離れませんでした。とても寒くて身体が怠く、歩くのに骨が折れたことだけは辛うじて覚えてるわ」 「あら!」吹き出してしまった。「でもあたしが見たときは普通に歩いてらっしゃいましたよ」 「見た?」 「この目ではっきりと」 「だけど、応接室にはいなかったと聞いたばかりよ」 「お見かけしたのは応接室ではございません」 「では何処で?」 「玄関です。階段のそばで」 「そんなところに?」 「お嬢様ご本人でした。お嬢様のことを見間違えたりはしないと思いますから」と言い条、無心を装った笑顔を見せた。 「でも間違いなく、応接室からは一歩も動いていないわ」アンドレが記憶を探ったのは演技でも何でもない。 「こちらも間違いなく、お嬢様は玄関においででした。もちろん――」ニコルはひときわ慎重に言葉を続けた。「お庭の散歩からお戻りになったんだと思ったんです。嵐の後で、いい夜でしたでしょうから。夜の散歩っていいですものね。空気はひんやりとしているし、花はぐんと香しいし。そうじゃありません?」 「でもわたくしが夜中の散歩を避けているのは知っているでしょう」アンドレが微笑んだ。「とっても臆病なんですから!」 「散歩は二人でも出来ますよ。それなら怖くないでしょう」 「では誰と散歩したらいいかしら?」小間使いの質問の一つ一つが訊問なのだということに、気づいた素振りもない。  さらに問いただすべきかどうか、ニコルには判断がつかなかった。アンドレの落ち着きぶりを見ていると、嘘に満ちているようにも思えたし、怖くなっても来た。  どうやら攻め方を変えた方がいい。 「苦しいと仰いましたよね?」 「ええ、ひどく苦しいの。怠くて力が入らないのだけれど、心当たりはないし。昨夜はいつも通りのことしかしていないのに。病気になったのかしら!」 「あらお嬢様、誰だって時には悲しくなるものですよ!」 「それがどうしたの?」 「悲しい時って身体から力が抜けてしまうでしょう。あたしもそうでした」 「あら、何が悲しかったの、ニコル?」  人の気も知らない無頓着な言葉を耳にして、ニコルも遂に禁忌に手を触れる覚悟を決めた。 「当たり前じゃないですか」と目を伏せ、「悲しいに決まってるでしょ」  アンドレは知らん顔で寝台を降りて、服を脱いで着替え始めた。 「聞かせてちょうだい」 「実はここに来たのもそれをお伝えするためなんです……」ニコルは言い淀んだ。 「何の話? どうしたの? ずいぶん落ち着きがないみたいよ!」 「落ち着きなく見えるのは、お嬢様がお疲れのように見えるのと同じ理由です。あたしたち、きっと二人とも苦しんでるです」  この『私たち』が気にくわなかったらしく、アンドレは額に皺を寄せて声をあげた。 「何ですって!」  だがニコルはその声を聞いてもさほど驚きを見せなかった。その声の響きから、どうもおかしいと感じはしたのだが。 「お許しいただきましたので、お話しいたします」 「お願い」 「あたし、結婚するつもりでした」 「え?……そんなことを考えてたの? まだ十七でしょう?」 「お嬢様はまだ十六でございます」 「それが?」 「それが!? お嬢様はまだ十六ですけど、ご結婚を夢見たりなさらないんですか?」 「いったい何が言いたいの?」  ニコルは口を開いて罵声を浴びせようとしたが、アンドレのことはよくわかっていたし、罵声を浴びせてしまえば話も終わってしまうことはわかっていた。それにまだ話はほとんど進んでいないのだ。そこで作戦を変更した。 「ええとですね、あたしにはお嬢様が何を考えているのかはわかりません。ただの田舎娘ですから、自然の通りなんです」 「おかしな表現ね」 「どこがです? 好きになったり好かれたりするのが不自然ですか?」 「それならわかるわ。それで?」 「好きな人がいるんです」 「その人もお前のこと好きなの?」 「そう思います」  疑いが大きくない以上、こうした場合には肯定しておくに限ると思い、ニコルは言い直した。 「というか、そうなんです」 「たいしたものね。タヴェルネで暇潰しをしている、という風に聞こえたけれど」 「将来のことを考えなくてはなりません。お嬢様は貴族でらっしゃいますし、どなたかご親戚の財産もおありになるかと思います。あたしは二親ともいませんし、必要なものは自分で見つけなくちゃならないんです」  話を聞いてみればしごく単純なことに思えたので、ニコルの口調に棘が感じられたことも徐々に忘れてしまい、持って生まれた優しさが甦って来た。 「それで、相手は誰なの?」 「お嬢様もご存じの人ですよ」と、ニコルは美しい双眸でアンドレの瞳を真っ直ぐ射抜いた。 「わたくしが?」 「絶対ご存じです」 「誰かしら? 焦らさないで」 「お嬢様のご機嫌を損ねないかと思いまして」 「わたくしの?」 「ええ」 「ということは自分でも良くない相手だと感じているのでしょう?」 「そうは言ってません」 「だったら思い切って仰い。よく働く使用人のことを知りたいと思うのは主人の務めです。実際お前はよく働いてくれてるわ」 「ありがとうございます」 「だったら早く仰い。それから服の紐を留めて頂戴」  ニコルは腹に力を込めて神経を集中させた。 「わかりました! 相手は……ジルベールです」  ニコルの予想とは裏腹に、アンドレは表情一つ変えなかった。 「ジルベール、あのジルベール、乳母の子の?」 「そうでございます」 「そうだったの! あの子と結婚したいのね?」 「はいお嬢様」 「向こうも愛してるのね?」  ここが正念場だ。 「いつもそう言ってくれます」 「なら結婚なさいな」アンドレは至って落ち着いていた。「何の障碍もないのじゃないかしら。お前のご両親はもういないし、ジルベールはみなしごだし。決めるのは自分たちでしょう」 「そうかもしれませんが」とニコルは口ごもった。予想とはあまりにも異なる展開を目の当たりにして戸惑っていた。「そのう、よいのですか……?」 「当たり前でしょう。二人ともまだ若いのが気にかかるけど」 「二人して年を取っていきますから」 「二人とも財産がないのでしょうし」 「働きます」 「何をして働くの? あの人、何も出来ないじゃないの」  この一言にいよいよニコルはかちんと来た。隠しておくのも嫌になった。 「お嬢様がジルベールを悪く言ってたと伝えても構わないんですか?」 「何を今さら! その通りに言ったまでです。あれは怠け者でしょう」 「暇さえあれば本を読んでますし、何かと言えば智識を身につけているんですよ」 「横着なだけよ」 「お嬢様に尽くしてるじゃないですか」 「何をしてくれたのかしら?」 「ようくご存じのはずです。夜食に鳥を撃つよう命じたのはお嬢様なんですから」 「わたくしが?」 「鳥を探しに何十里も歩くこともあるんですよ」 「悪いけどそんなこと気にしたこともなかったわ」 「鳥のことをですか?」ニコルが鼻で笑った。  いつもと同じ精神状態であれば、アンドレはこの冗談に笑ったであろうし、小間使いの皮肉に漲っていた悪意にも気づかなかっただろう。だがアンドレの神経は、弾き過ぎた楽器の弦のようにぶるぶると震えていた。その震えは意思や身体の動きよりも素早かった。わずかな心の乱れにすら抗うことは難しかった――現代の我々であれば、これを『神経に障った』と表現したであろう。酸っぱい果物を口に入れたりざらざらしたものに触れたりしたときに起こるあの不愉快な震えを想起させる、言語学の成果たる実に的確な表現である。 「その皮肉はどういう意味?」アンドレもようやく正気に返り、初めのうちこそ怠くて働いていなかった洞察力をやっとのことで取り戻した。 「皮肉ではありません。皮肉は貴婦人のご専門ですから。あたしは田舎娘、言葉どおりの意味しかありません」 「どういうことなの? 仰いなさい!」 「お嬢様はジルベールを馬鹿にしています。あんなにお嬢様のことを考えているのに。そういうことです」 「召使いとしての義務を果たしているだけじゃありませんか。ほかには?」 「でもジルベールは召使いじゃありません。お給金を貰ってませんから」 「昔使っていた小作人の息子ね。食事も出して、部屋も与えて。代わりに何かしてくれた? 残念だけどあの人は泥棒よ。だけどいったい何が言いたいの? どうして非難させまいとしてそこまでかばいたいのかわからないわ」 「あら! お嬢様がジルベールを非難してるわけじゃないことくらい存じておりますよ」ニコルは棘のある笑みを見せた。 「またわからないことを言いだしたわね」 「お嬢様がわかろうとなさらないからです」 「いい加減にして頂戴。今すぐ言いたいことを説明なさい」 「あたしの言いたいことなんて、お嬢様の方がようくご存じでらっしゃいます」 「いいえ、知らないわ。見当もつかない。謎々を解く暇なんてないもの。結婚の了解を得に来たのではなかったの?」 「そうなんです。ジルベールがあたしを愛しているからといって、妬んだりしないで欲しいんです」 「ジルベールがあなたを愛してようといまいと、わたくしに何の関係があるのかしら? 本当にもうたくさんよ」  ニコルは蹴爪を立てた若鶏のように、小さな足を上げて飛び上がった。溜まりに溜まった怒りがついに爆発したのだ。 「てことは、とっくに同じことをジルベールに仰ったんでしょうね」 「わたくしがジルベールに? もう勘辨して頂戴。馬鹿げてるわ」 「話してないとか口を利くのをやめたとか言っても、そんなに前のことだとは思えませんけど」  アンドレがニコルに近づき、軽蔑しきった眼差しを浴びせかけた。 「一時間も前からふざけたことばかり繰り返してます。早く済ませなさい。いいですね」 「でも……」ニコルの気持がぐらついた。 「わたくしがジルベールと親しくしていたと?」 「ええ、そうです」  ずっと心を占めてはいたがとても信じがたい考えが、アンドレの胸に浮かび上がった。 「まさかこの子、嫉妬してるのかしら。ちょっとごめんなさい!」アンドレはけたたましく笑い出した。「安心して、ルゲ。ジルベールのことなんてそんな風に考えたこともないわ。目の色が何色なのかもわからないのだから」  アンドレにとっては無礼というより狂気の沙汰ではあったが、すべて水に流すつもりだった。  ニコルの思いは違った。侮辱されたと思っているのはニコルの方なのだから、許してもらうつもりなどなかった。 「そうでしょうね。夜中では見ようがありませんから」 「どういうこと?」わかりかけて来たが、まだ信じられない。 「ジルベールとは、昨日みたいに夜中に会っていたんでしょう。だったら顔の細かいところまでははっきりわかりませんもんね」 「いいですか。今すぐに説明なさい!」アンドレの顔は青ざめていた。 「そうしろと仰るなら」じっくり行くのはやめだ。「昨夜、見たんです……」 「お待ちなさい。階下で誰か呼んでいます」  確かに花壇から声が聞こえる。 「アンドレ! アンドレ!」 「お父様ですよ。昨晩のお客様もご一緒です」 「下に行って、お断わりして来て頂戴。具合が悪くて、身体も怠いとお伝えして。戻って来たら、このおかしな議論を然るべく終わらせましょう」 「アンドレ!」再び男爵の声が響いた。「バルサモ殿がお前に朝の挨拶をしたいと仰っておる」 「行きなさい」アンドレは女王のように扉を指さした。  ニコルは指示に従った。アンドレに命じられた人間なら誰でもするように、口答えもなく、眉一つ動かさず。  だがニコルが出てゆくと、アンドレは奇妙な感覚に襲われた。姿を見せるつもりは露ほどもなかったのだが、抗いがたい比類のない力にでも捕まったかのように、ニコルが開けておいた窓の方へと引き寄せられて行った。  見るとバルサモがアンドレを見据えたまま深々とお辞儀をした。  アンドレは震えが止まらず、倒れてしまわぬように鎧戸にしがみついた。 「おはようございます」アンドレも挨拶を返した。  その時になって姿を見せたニコルが、アンドレは会えない旨を男爵に言付けようとして、お嬢様の気まぐれにはついていけませんとばかりに大きく口を開けて呆れていた。  途端にアンドレの身体中から力が抜け、椅子に崩れ落ちた。  バルサモはそれをじっと見つめ続けていた。 第十二章 陽射しの下で  旅人は早起きをして、馬車の様子とアルトタスの調子を確かめに行っていた。  城館中が寝静まっていたが、ジルベールだけは別だった。寝起きしている入口近くにある部屋の格子の陰に隠れて、詮索するようにバルサモの動きを追い、足取りをたどっていた。  だがバルサモはアルトタスのいる小部屋の扉を閉めて立ち去ってしまい、ジルベールが並木道に足を踏み入れる頃には随分と遠くまで行っていた。  確かにバルサモは、植え込みの方に戻りながら、昨夜は陰鬱だと思っていた風景も陽の光の下で見ればこうも変わるのかと驚いていた。  白と赤の、つまり石と煉瓦造りの小さな城館は、無花果《シカモア》と金鎖《キングサリ》の森に覆いかぶされて、むせかえらんばかりの花の房が王冠のように屋根にしなだれ各棟に絡みついている。  花壇の手前側には、三十歩四方の泉水があり、幅広い芝生の帯と花盛りの接骨木《ニワトコ》の垣根に囲まれていた。西洋栃《マロニエ》や山鳴《ヤマナラシ》が並木道に聳えていたためにこちら側で視界は遮られ、心安らぐ景色を形作っている。  両翼棟の脇から延びた並木道は鬱蒼とした森まで続き、そこを根城にしている鳥たちが朝の演奏会を催すのが聞こえている。広々としたその並木道には、楓や篠懸《プラタナス》や菩提樹が植わっていた。バルサモが左に進むと、やがて二十歩ほど先の青々とした茂みには、前夜の暴風雨を浴びた薔薇や梅花空木《バイカウツギ》が香しい匂いを放っている。縁に並ぶ水蝋樹《イボタノキ》の根元には忍冬《スイカズラ》と耶悉茗《ジャスミン》が見えており、アイリスの咲いた長い並木道には苺も顔を見せ、木苺の花や西洋山査子で混み合う森の中へと消えていた。  こうしてバルサモは領地の終わりにたどり着いた。そこには今も往時の威風を留めた燧石造りの城の城跡が見えた。塔の片方が石積みの中央にぽつんと残され、石積みには野生の破壊児たる木蔦や蔦が花綱のように絡みつき、城跡にもまた生命が漲っているということを、母なる自然が人間に教えていた。  そのように考えれば、七、八アルパンに過ぎぬタヴェルネ領にも、威厳と気品が備わっていた。タヴェルネの家屋はこの穴蔵に相応しいと言えよう。自然によって花や蔦やばらばらの岩群で周辺を飾られた穴蔵は、迷子の旅人がその寂しい外観を見たならば、この岩群に一夜の宿を取ろうと考えていたとしても怯えて逃げ出したことだろう。  一時間ばかり城跡を彷徨ってから本邸の方へ戻ってみると、痩せこけた身体を花柄のインド更紗の部屋着に包んだ男爵が、階段脇の通用口から姿を現わし、庭を見回り薔薇を剪定したり蝸牛を除けたりしていた。  バルサモはこれを見て急いで駆け寄った。 「おはようございます」男爵の窮状をこの目で確かめていただけに、これまでよりなお慇懃な物腰になっていた。「ぶしつけをお許し下さい。ご主人がいらっしゃるまで勝手に出歩くのは控えるべきだとは思ったのですが、窓の外を覗いた途端にタヴェルネの景色に打たれましてね。この素晴らしいお庭や立派な遺跡を是非この目で確かめずにはいられませんでした」  男爵も丁寧な挨拶を返すと言った。「確かにあの城跡は素晴らしいですからな。いやいやこの土地で素晴らしいものと言えばあれくらいですぞ」 「城館だったのですか?」 「おお、確かにわしの城館、いやわしのご先祖様の城館でしたがな。メゾン=ルージュと呼ばれとりまして、長いことタヴェルネの名と共に預かって来ました。男爵領というのがそのメゾン=ルージュのものなのです。――じゃが過ぎた話はよしませんかな」  バルサモは同意の印にうなずいた。 「わしとしては、お詫び申し上げたい。お話しした通り、我が家は貧しいのですわ」 「ご謙遜を」 「ほんの犬小屋です。狐や蜥蜴や蛇がほかの城から鼠を追い出してしまったものだから、鼠どもお気に入りの巣になっておりますわ。いやはや。あなたが魔術師か何かなら、杖の一振りでメゾン=ルージュの古城も元通り、城を取り巻く牧場や森の二千アルパンも忘れずにお願いしたいものですな。しかしご安心くだされ、そんなことは忘れましょう。何しろ文句も言わずにあのボロ寝台で眠って下さったのですから」 「とんでもない」 「お気遣い無用。あの寝台がオンボロなのは百も承知。何せ伜のですからな」 「いいですか男爵殿。私にとっては言葉通りに素晴らしい寝台でした。お心遣いには感謝しておりますし、このお礼は心より尽くすつもりです」  老人はからかうような笑みをたたえて切り返すのを忘れなかった。 「なるほど!」ラ・ブリが見事なザクセンの大皿に水の入った器を乗せて運んできたのを指して、「いい機会ですな。主がカナの婚礼で為された奇跡をわしにもやってもらいませんかな。この水をワインに、せめてブルゴーニュ・ワイン、例えばシャンベルタンに変えていただきましょう。目下のところはそれが最大のお礼になりますぞ」  バルサモが微笑んだのを見た男爵は、それを降参の笑みだと受け止め、コップをつかんでひと息に飲み干した。 「実に結構。水ほど気高い元素はない。なにせ神の御心を被造物のもとに運んだのは水なのですから。何ものも邪魔立ては出来ません。石を穿ち、ダイヤをも溶かすとわかる日が来るのも遠くはないでしょう」 「ほほう! わしもそのうち溶かされるでしょうかな。乾杯といきましょう。水にはわしのワインよりも氏素性が良いという強みがあるらしいですからな。おや、まだ残っておる。そこがわしのマラスキーノとは違いますな」 「私にも一つ水をいただけたなら、お役に立てるかと思いますが」 「では是非ともお聞きしたい。まだお時間はありますな?」 「もちろんですよ。混じり気のない水を持って来るようお願いしてもらえますか」 「ラ・ブリ、聞こえたな?」  顔色一つ変えずにラ・ブリが立ち去った。 「ふむ。はてさて、あなたが毎朝お飲みになる水には、わしの知らぬ特性なり秘密なりが隠されておったのですかな? ジュールダン氏が本人も気づかぬままにン十年も散文を操って来たように、わしも錬金術を操っていたとでもお言いか?」 「あなたのことは存じませぬが」とバルサモは重々しく答えた。「自分のおこなって来たもののことなら心得ております」  と答えておいて、疾風の如き素早さで務めを果たして戻って来たラ・ブリに顔を向けた。 「すまんな」  コップを手に取り目の高さまで持ち上げて太陽にかざすと、光に照らされ真珠のような泡が浮かび上がり、薄紫や白のスペクトルが走り回った。 「これは美しい。コップに入った水とはこんな風に見えるものなのですな? ふうむ!」 「無論です。とりわけ今日は美しい」  バルサモの顔つきがぐっと変わったように見えた。我知らず男爵はそれを目で追い、ラ・ブリは唖然としながらも皿を引っ込めたりはしなかった。 「何が見えますかな?」男爵はなおもからかうようにたずねた。「率直に申し上げて、もう待ちきれませんぞ。遺産は何処に? わしのささやかな財産を立て直すための、新たなメゾン=ルージュは何処ですかな?」 「お告げが見えましたよ。注意すべし、とのご託宣だ」 「何と! わしは襲われるということですかな?」 「そうじゃない。朝のうちに訪問客が来るのです」 「つまり、わしの家で待ち合わせをしていらっしゃいましたか。そいつはまずい。非常にまずい。お忘れですかな、もうヤマウズラはありませんぞ」 「真面目な話を申し上げているんです。それにとても重大なことだ。誰かが今タヴェルネに向かっている最中なのです」 「いったいどうした気の迷いで、どんな人間がやって来ると? 是非お聞きしたい。白状しますが――あんな歓迎を受けたならお気づきでしょうが――客など煩わしい限りでしてな。詳しく聞かせてくれませぬか。無理なら仕方ないが」 「無理どころか、幾らでも詳しい話をお聞かせしましょう。ナニたいしたことではありません。朝飯前ですよ」  バルサモはコップの中で波打っている乳白に光る水面に改めて目を凝らした。 「どうです、見えますかな?」 「曇りなく」 「そしたら教えて、アンヌ姉さん、ですな」 「いらっしゃるのは身分の高いお方ですな」 「ふうむ! まことですか! そのお方が、誰に招かれたでもなく、こんなところに?」 「ご自分の意思ですよ。案内しているのは息子さんです」 「フィリップが?」 「息子さんご自身で」  ここで男爵は腹を抱えて冷やかすように笑い出した。 「これはこれは! 伜の案内で……そのお方は伜に案内されて来ると言うのですか?」 「その通り」 「すると伜をご存じでしたか」 「存じませんね」 「して、伜は今……?」 「半里、四半里といったところでしょう」 「ここから?」 「ええ」 「よいですかな。伜はストラスブールに駐屯しとります。脱走の汚名でもかぶっているならともかく、そうでもない限り、誰一人連れて来ることなど出来んのですわ」 「ですが人を連れて来るのは間違いない」バルサモはなおもコップに目を凝らした。 「ではその御仁は男ですかな、女ですかな?」 「ご婦人ですよ。それも極めて高貴なご婦人です。おや! ご覧なさい、ちょっと変わったことがある」 「大事なことですか?」 「ええ、そうです」 「ではお聞かせ下さらんか」 「あの女中を何処かへやっておいた方がいい――あなたの言葉を借りれば、指に角《つの》を持つあばずれですか」 「何故そんなことを?」 「ニコル・ルゲの顔には、今からやって来るお方を思わせるところがあるからです」 「貴婦人と? 貴婦人とニコルが似ていると? 辻褄が合わぬことを仰る」 「いけませんか? クレオパトラによく似た奴隷を見たこともありますよ。その娘をローマに連れて行き、オクタヴィアヌスの勝利に利用しようという話もありました」 「ほほう! またそれですかな」 「私が言った通りにしたなら、後は好きなようになさるといい。私には無関係なことですからね。これはすべてあなたの問題だ」 「だがニコルに似ているからといって、その方が気分を害されますかな?」 「あなたがフランス国王だとしましょう。そうでないことを祈るばかりですがね。或いは王太子だとしますか。こちらはさらに御免こうむりたいが。さて、ある家を訪れたところ、召使いの中にあなたのご尊顔そっくりのまがいものを見つけたとしたら、いい気分になりますか?」 「ふむ! なるほど、これは難問ですな。仰ったのはつまり……?」 「身分も高く地位もあるご婦人が、短いスカートを穿いて布きれを巻きつけたご自分の顔を目にした場合、いい気分にはならぬだろうということです」 「なるほど!」男爵は相変わらず笑みを浮かべたままだった。「その時が来たら考えましょう。だが何より嬉しいのは伜のことですぞ。フィリップめ、幸運とはこのように前触れなく訪れるのですな!」  男爵の笑いが大きくなった。 「では――」バルサモの言葉は真剣だった。「予言には満足していただけましたか? それは何よりです。ですがあなたの代わりに……」 「わしの代わりに?」 「私が指示を出し、準備をした方が……」 「ほう?」 「ええ」 「ふむ、考えておきましょう」 「今お考えいただきたい」 「すると本気で仰っているのですかな?」 「これ以上に本気にはなれませんよ。奇特な客人を遺漏なくおもてなししたいのなら、時間を無駄には出来ません」  男爵は首を横に振った。 「お疑いだ、ということですか?」 「それはそうでしょうに。すまんがあなたの相手は筋金入りの疑り屋ですぞ……」  こう言って男爵は娘の部屋の方を向き、この予言を聞かせようと声をかけた。 「アンドレ! アンドレ!」  父の呼びかけに娘が何と答え、如何にしてバルサモの眼力によって窓に釘付けにされたかは、既に述べた通りである。  やって来たニコルが驚いてラ・ブリを見ると、いろいろと合図を送って来たので、何とか状況を理解しようとした。 「信じろと言われてもどだい無理ですな。この目で見んことには……」 「ではお見せしなくてはなりませんな。あちらをご覧下さい」そう言って並木道の方に腕を伸ばすので、見ると向こうから人を乗せた馬が、足音を響かせまっしぐらに駆けて来る。 「何と! 確かにあそこに……」 「フィリップ様!」ニコルが背伸びして目を凝らし声をあげた。 「若様だ」ラ・ブリが歓喜の呟きを洩らした。 「お兄様だわ!」アンドレも窓から腕を差し出した。 「もしやあれがご子息では?」ずばりバルサモがたずねた。 「うむ、何とまあ! いや確かに伜ですわい」男爵は呆然として呟いた。 「手始めはこんなところです」 「まさか本当に魔術師なのですかな?」  旅人の口許に勝ち誇った笑みが浮かんだ。  馬は見る見るうちに大きくなった。やがて流れる汗や、立ちのぼる湯気、そして手前の並木を越えるのがはっきりと見え出した。走り続けているのは若い将校であった。中背で泥まみれ、駆けてきたせいで顔が上気している。ひらりと馬から飛び降りると、父をしっかと抱擁した。 「何と! いやまさか!」さしもの疑り者も気持が揺らいだらしい。「まさかこんなことが!」  老父の顔に浮かんだ疑いの残滓を見て、フィリップが口を開いた。「そのまさかです。ぼくですよ! 本当にぼくなんです!」 「確かにお前じゃ。いやいやそれは間違いない! だがいったいどうしたんじゃ?」 「父上、我が家が大変な名誉に預かることになったのです」  男爵が顔を上げた。 「大変な方がタヴェルネをご訪問下さいます。一時間もしないうちに、オーストリア大公女にしてフランス王太子妃、マリ=アントワネット・ジョゼファ殿下がいらっしゃるのです」  男爵は揶揄や皮肉を見せた時のように、今度は卑下する意味で力なく腕を広げ、バルサモを振り返った。 「これは申し訳ない」 「男爵殿」とバルサモは一揖した。「ここで私は失礼しましょう。久しぶりにご子息とお会いになったのですから、積もる話もあるでしょうしね」  そうしてバルサモはアンドレに頭を下げた。兄の帰宅に喜び勇んで、急いで会いに駆け降りて来たのだ。バルサモが立ち去り際にニコルとラ・ブリに合図すると、二人にもその意味は伝わったらしく、バルサモに続いて並木の下に姿を消した。 第十三章 フィリップ・ド・タヴェルネ  フィリップ・ド・タヴェルネ、ド・メゾン=ルージュ士爵は、妹とはちっとも似ていなかった。とはいえ女らしい美女の兄に相応しく、男らしい美丈夫であった。事実、自信に満ちた穏やかな瞳、けちのつけようのない横顔、美しい手、女らしい足に均整の取れた体躯など、どこから見ても申し分のない騎士である。  この世から足蹴にされているのではないかと思われるような困窮の中にあって、優れた智性の持ち主であれば当然のように、フィリップは辛《つら》そうではあったが暗く打ち沈んではいなかった。恐らくフィリップが優しいのはこの辛さのおかげであったのだろう。たまたま辛い境遇にあったからいいようなものの、そうでなければ当然のように尊大で傲慢で偏屈であったに違いない。権利のうえで対等な富める者たちと暮らすように、現実のうえで対等な貧しい者たちと暮らさざるを得なかったがために、天から授けられた荒々しく威圧的で気難しい本性も、和らいでいたのである。獅子が寛容を見せるのは、少なからず見下す気持あってのことだ。  フィリップが父と抱き合ったばかりのところに、歓喜のあまり催眠術から醒めたアンドレがやって来て、首っ玉にかじりついたことは既に述べた。  そうしている間にもすすり泣きが聞こえて来たことから、無垢な子供心にとってこの再会がいかに大切なものだったかがわかろう。  フィリップはアンドレと父の手を取り、水入らずで過ごすため応接室に向かった。 「ご不審ですね、父上。驚いているね、アンドレ」フィリップは二人を両脇に坐らせた。「ところがこれ以上ないほど本当のことなのです。あと少しすれば、王太子妃殿下がぼくらの侘住まいにいらっしゃいます」 「如何なることがあっても止めねばならんぞ!」男爵が声をあげた。「そんなことがあろうものなら、わしらは未来永劫に浮かばれん! 王太子妃殿下がフランス貴族の見本をご覧になるおつもりなら、お気の毒様じゃな。そもそも何の間違いでこの家をお選びになったのだ?」 「それが何もかも成り行きなのです」 「成り行きですって! 聞かせて下さらない?」 「ええ、成り行きです。主は我らが救世主にして父である。それを忘れている者たちでさえも主を讃えずにはいられぬような出来事でした」  男爵は口を曲げた。人類や万象を裁き給う至高の存在がわざわざ自分に目を向け首を突っ込むとは思えなかったのだ。  アンドレはと言えば有頂天のフィリップを見て疑いなど湧くはずもなく、兄の手を握り、もたらされた吉報と込み上げて来る幸せに感謝を込めて囁いた。 「お兄様!」 「お兄様、か」男爵が繰り返した。「今回の出来事を喜んでいるようじゃな」 「だってお父様、フィリップがこんなに嬉しそうなのに!」 「フィリップは昂奮しやすい質じゃからな。だがわしは幸か不幸かものを考える質でな」と言ってタヴェルネ男爵は応接室の家具に悲しげな一瞥をくれた。「とどのつまりはそこまで喜ばしいとは一向に思えぬ」 「これから話すぼくの体験談を聞けば、すぐにお気持が変わりますよ」 「では聞かせてもらおうか」老人はぶつぶつと呟いた。 「ええお願い、フィリップ」アンドレも言った。 「もちろんです! 知っての通りぼくはストラスブールに駐屯していました。ご存じのようにストラスブールとは、王太子妃殿下が入国をなさった場所なんです」 「こんな侘住まいにおっては、ものを知っとるわけがなかろう?」 「それでお兄様、ストラスブールで王太子妃殿下は……?」 「ああ。ぼくらは朝から斜堤の上で待っていました。土砂降りの雨のせいで服はびしょびしょでした。王太子妃殿下が何時に到着するのか正確に知っている者は一人もいません。聯隊長に命じられてぼくが偵察に向かいました。一里ほど進んで道を曲がった途端、お付きの先頭を務めている騎手たちと顔を合わせたんです。言葉を交わしていると、妃殿下が馬車から顔をお出しになり、ぼくのことを誰何しました。 「呼び止められたような気がしましたが、ぼくは一刻も早く良い報せを伝えようと、すでに襲歩《ギャロップ》で走り出していました。六時間も歩哨に就いていた疲れも魔法のように消え失せていたんです」 「それで、王太子妃殿下は?」アンドレがたずねた。 「おまえと同じくらいお若くて、どんな天使にも負けぬほどお美しかったよ」 「待っとくれんか?」男爵が躊躇いがちに遮った。 「何ですか?」 「王太子妃殿下は、知り合いの誰かに似てらっしゃらんか?」 「ぼくの知っている人ですか?」 「うむ」 「妃殿下に似ている者などいるはずがありませんよ」青年は熱っぽく答えた。 「考えてみてくれ」  フィリップは考えた。 「心当たりはありません」 「そのな……例えばニコルはどうじゃ?」 「ニコル? 驚いたな! 確かに共通するところもありますね。でも遙かに及びませんよ! そんな情報をいったい何処から仕入れたんです?」 「さる魔術師からじゃよ」 「魔術師?」フィリップが驚きの声をあげた。 「うむ。お前が帰ってくることも言い当てた」 「旅の方のことですか?」アンドレが自信なげにたずねた。 「その旅人というのは、ぼくが帰って来たとき一緒にいた人ですか? ぼくが近づくと目立たぬように立ち去りましたが」 「その通りじゃ。だがまあ話を続けてくれ、フィリップ。最後までな」 「おもてなしの用意をした方が良くはありません?」  と言ったアンドレを、男爵が手で止めた。 「用意をすればいっそう間抜けに見えるだけじゃ。続けてくれ、フィリップ」 「そうしましょう。というわけでぼくはストラスブールに戻り、報せを伝えたところ、報せを受けたスタンヴィル司令官がすぐに駆けつけました。報せを聞いた司令官が斜堤に到着した頃、太鼓が鳴り響き、行列が見え始めたのでぼくらはケールの城門まで駆け出したんです。隣には司令官がいました」 「スタンヴィル殿。待ってくれぬか、確か聞き覚えが……」 「大臣ショワズール殿の義理のご兄弟に当たります」 「そうじゃった。続けてくれ」 「妃殿下はお若いため、恐らく若い者の方が気安かったのでしょう。司令官の言葉を聞き流して、ぼくに目をお留めになったのです。畏れ多くて前には出られませんでした。 『迎えに来てくれた方じゃありません?』妃殿下がぼくを見てたずねました。 『さようでございます』とスタンヴィル殿が答えました。 『これへ』  ぼくはおそばに進み出ました。 『お名前は?』妃殿下は綺麗な声をしていました。 『タヴェルネ=メゾン=ルージュ士爵』ぼくの声は震えていました。 『書きつけておいてちょうだい』と妃殿下が老婆に告げました。後で知りましたが、それは養育係のランゲルスハウゼン伯爵夫人で、言葉通りにぼくの名前を手帳に書きつけたのです。  妃殿下はそれからぼくの方を見て、 『こんなひどい天気ですのに! わたしのためにそんなひどい目に遭ったのかと思うと、ほんとうに心苦しいことです』」 「何て素敵な方なのかしら! それに何て素晴らしいお言葉!」アンドレが手を合わせて声をあげた。 「ぼくもお言葉の一つ一つを覚えている」フィリップは感に堪えぬようであった。「その言葉を紡ぎ出すお顔も、何もかも全部だ!」 「素晴らしいことじゃ!」男爵は呟いて、何とも言えぬ笑みを浮かべた。そこに浮かんでいたのは父親としての誇らしさと同時に、女性はもちろん王妃に対してすら抱いている偏見であった。「では続けてくれ」 「お兄様は何と答えたの?」 「何も言わなかった。低頭しているうちに、妃殿下が通り過ぎたんだ」 「何だと! 何も言わなかったじゃと?」 「声が出なかったのです。どんな力も胸から出てきてくれず、胸は激しく鳴るばかりでした」 「わしがお前くらいの歳にレクザンスカ王女に紹介されて、言うことが何もないなぞあるまいに!」 「父上は聡明な方ですから」と答えてフィリップは頭を垂れた。  アンドレがぎゅっと兄の手を握った。 「妃殿下が行ってしまわれたので、ぼくは営舎に戻って着替えをしました。なにせ情けないほどにびしょ濡れで泥まみれでしたから」 「ひどい」アンドレが呟いた。 「その間、妃殿下は町の庁舎を訪れ、住民たちから祝福を送られていました。祝辞も尽きた頃、食事の用意が出来たと報せがあり、妃殿下はテーブルにお着きになりました。 「友人の聯隊長が、これが妃殿下をお迎えにあがるよう指示した者なのですが、王太子妃が辺りを何度も見回し、晩餐に呼ばれた将校たちの間に目を走らせていると教えてくれたんです。 『見当たらないわ』殿下は何度か見渡すことを繰り返しましたが見つけられずに仰いました。『今朝わたしを迎えに来てくれた若い将校が見当たらないわ。感謝を述べたいと伝えてくれなかったのかしら?』  聯隊長が進み出ました。 『妃殿下、タヴェルネ中尉はやむなく戻って着替えをしております。そのうち妃殿下の御前に相応しい恰好で現れるはずでございます』 「ぼくが戻ったのはその直後でした。 「ものの五分と経たないうちに、妃殿下がぼくに目を留められました。 「そばに来るよう合図を受け、ぼくはおそばに近寄りました。 『中尉殿、わたしと一緒にパリに来るのはお嫌ですか?』 『とんでもありません! それどころか最高の幸せにございます。ですが本官はストラスブール駐屯地で兵役に就いております。それに……』 『それに……?』 『つまり、本官の望みは個人的なものに過ぎません』 『責任者はどなた?』 『軍司令官でございます』 『わかりました。上手く話してみましょう』  退がるように合図され、ぼくは退出しました。  その晩、妃殿下が司令官に近づいて行きました。 『閣下、わたし、叶えて欲しいわがままが一つあるんですの』 『仰って下さい。殿下のわがままとあらば本官にとっては命令でございますからな』 『叶えて欲しいわがままといいますか、むしろ、実行して欲しいお願いですの』 『これほど光栄なことはありませんな……どうぞ、殿下』 『よかった! 連れて行こうとつねづね思ってた人がいるんです。それがどなたであれ、わたしがフランスの土を踏んでから初めて会ったフランス人の方を、一緒に連れて行こうと決めていました。その方とそのご家族を幸せにしてあげたいの。もっとも、君主に人を幸せにする力があれば、ですけど』 『君主は地上における神の代理人でございます。初めて殿下にお目見えする光栄に預かったのは、何者にござりましょう?』 『タヴェルネ=メゾン=ルージュ殿。わたしの来たことを知らせた若い中尉です』 『それはうらやましい。ですがその幸運を邪魔だてするつもりはございません。中尉は命令によって留まっておりますが、その命令は取り消しましょう。契約によって縛られておりますが、その契約も破棄いたしましょう。中尉は妃殿下と共に出立できますぞ』 「その言葉通り、妃殿下の馬車がストラスブールを発つその日、ぼくは馬に乗って随行するよう命じられたのです。それ以来、ぼくは馬車の戸口に寄り添っておりました」 「ほほう!」男爵は先ほどと同じような笑みを浮かべた。「ふむ! 不思議なことだが、あり得んでもない!」 「何か、父上?」青年は無邪気にたずねた。 「いや、大丈夫。気にせんでくれ。はっはっ!」 「でもお兄様、ここまで聞いていても、どうして王太子妃殿下がタヴェルネをご訪問下さるのか、まだわたくしにはわからないわ」 「今話すよ。昨夜十一時頃、ナンシーに到着し、明かりを掲げて町を通り過ぎたんだ。すると妃殿下から声をかけられたんです。 『タヴェルネ殿、もっと供の者たちを急がせて下さい』  ぼくは合図をして、妃殿下のご希望を伝えました。 『明日は早いうちに発ちましょう』さらに妃殿下が仰います。 『遠くまで馬車を走らせるおつもりですか?』 『そうではありませんが、途中で寄りたいところがあるのです』  それを耳にした途端、予感のようなものが心臓を震わせました。 『途中で、でございますか?』 『ええ』  ぼくは無言のままでした。 『何処に寄りたいのかおわかりになりません?』と妃殿下は微笑まれました。 『はい、殿下』 『わたしはタヴェルネに寄ろうと思っておりますの』 『何故そのようなことを?』ぼくは叫んでしまいました。 『お父君と妹君にお目に掛かりたいのです』 『父と妹のことを!……何故、殿下はご存じなのです……?』 『人から聞きました。わたしたちが通る道から二百歩のところにお住まいがあるそうではありませんか。追ってタヴェルネに寄るよう指示して下さい』  汗が額に浮かび、ぼくは慌てて妃殿下に辯じました。震えていたのは言うまでもありません。 『殿下、父上の邸は、とても殿下のような方をお迎え出来るような場所ではございません』 『どうしてです?』 『わたくしどもは貧しいのでございます』 『もてなしてくれるのなら、真心と最低限のもののほかは何も要りません。タヴェルネが貧しいというのであれば、わたしがオーストリア大公女でありフランス王太子妃であることは束の間忘れて、一人の友人としてコップ一杯のミルクを振る舞って下されば充分です』 『殿下!』ぼくは面を伏せて答えました。  それだけです。畏れ多くてそれ以上のことは言えませんでした。  予定を忘れてはくれまいか、路上の冷気と共にこの思いつきも霧散してはくれまいかと願っていましたが、そんなことは起こりませんでした。ポン=タ=ムソンの宿駅で、タヴェルネは近いかと妃殿下にたずねられ、ぼくは渋々、後三里だけだと答えました」 「愚か者奴が!」男爵が吠えた。 「その通りです! 妃殿下はぼくの悩みなどお見通しのようでした。『案じることはありません。長々と厄介をかけたりはしませんから。それでもわたしが辛い目に遭うと脅かすのなら、それで貸し借りなしじゃありませんの? だってストラスブールで迎えに来て下さった時は、あなたを辛い目に遭わせてしまったんですから』このようなありがたいお言葉に、どう抗えと? 教えて下さい、父上!」 「抗えるものですか」アンドレが言った。「お話を聞く限りでは、妃殿下ならきっと花やミルクにもお言葉通り満足して下さるわ」 「うむ。じゃが背中の痛い椅子や目に障る壁には満足して下さらんじゃろう。困った思いつきだわい! これからのフランスは、こうやって女の気まぐれで動いてゆくらしいの。まったくひどい! これがおかしな治世の始まりじゃな!」 「父上! ぼくらに名誉を賜る妃殿下のことも同じように思われるのですか?」 「むしろ名誉を損じはせぬか! 今タヴェルネのことを考えておる者が一人でもおるか? 一人もおらん。一族の名はメゾン=ルージュの瓦礫に埋もれて眠っておるが、返り咲く暁には然るべき手段でと思っておったし、いずれその時が来るものと思っておった。ところが今や生憎なことに、一人の娘っ子の思いつきのせいで、再興の運びもくすんで汚れてみすぼらしく惨めなものになるじゃろうと思えて来た。話の種を求めて餌にありつこうと、今や新聞がこぞって妃殿下のタヴェルネ来訪をくだらん記事にしようとしておる頃じゃわい。糞ッ! 手はあるぞ!」  父の言葉の激しさに、若い二人は震え上がった。 「聞かせてもらえますか?」フィリップがたずねた。 「つまりな」と男爵はもごもごと口を動かした。「歴史にちゃんと書いておる。ビリャメディアーナ伯爵が王妃を抱くため自分の屋敷に火を付けたように、わしも妃殿下の来訪を阻止するためにこのあばら屋を燃やせばいいんじゃ。どうぞ来てもらうがいい」  最後の言葉を聞いて、二人は不安げに顔を見合わせた。 「どうぞ来てもらうがいい」男爵は繰り返した。 「間もなくいらっしゃいますとも」フィリップも言い返した。「ピエールフィットの森から近道を取ってご一行に幾らかは先んじましたが、もうそれほど遠くはないでしょう」 「では急がねばなるまい」  そう言って二十歳の若者のようにはしこく応接室を出て台所に駆け込むと、燃えている燠を竈から抜き取り、干し藁と飼い葉と豆の詰まった納屋に駆け込んだ。男爵が飼い葉の山に近づいた時、バルサモが音もなく背後から現れてその腕をつかんだ。 「いったい何をなさるおつもりです?」老人の手から火種を奪い取った。「オーストリアの大公女はブルボン家の元帥ではありませんよ。家が穢れると言って、足を踏み入れられるよりはいっそ燃やしてしまえというのとはわけが違う」  動きを止めた老人の顔は真っ青に震えており、もはやあの笑みは浮かんでいなかった。男爵には男爵なりの名誉観があり、自分なりのやり方で名誉を守るため、そこそこみすぼらしいくらいならとことん悲惨にしてしまおうという決意を実行しようとして、気力をすべて出し尽くしてしまったのだ。 「お急ぎなさい」バルサモが続けた。「部屋着を脱いで相応しい恰好に着替える時間しかありません。フィリップスブルクで存じ上げていた頃のタヴェルネ男爵は、サン=ルイの最高《グラン=クロワ》受勲者でした。あれほどの勲章をつければ、どんなものでも豪華で格調高い服に早変わりしないわけがない」 「しかしですな、結局のところ、あなたにだって見せたくなかったものを王太子妃殿下は見にいらっしゃるのですぞ。わしがどれだけ惨めかを」 「落ち着くことです。鄭重なおもてなしをすれば、お邸が新しいか古いか、貧しいか豊かかなど気がつきませんよ。お出迎えの用意を。貴族としての務めです。妃殿下をお慕いする人間がご来訪を阻むために城館を燃やしたりしては、大勢いる妃殿下の敵が何をするか、考えてご覧なさい。怒りの種を予め用意してやるのは止しましょう。ものには順序というものがある」  既に一度諦めの印を見せていた男爵は、言われるままに我が子二人の許に向かった。二人は姿の見えない父を心配してあちこちを捜しているところだった。  バルサモはというと、動き出した役割を果たそうとでもするように、音もなく立ち去った。 第十四章 マリ=アントワネット・ジョゼファ、オーストリア大公女  バルサモの言うように、確かに時間はなかった。耳を聾する馬車、馬、人の声や音が、普段は静かな道に響き渡った。道の先はタヴェルネ邸だ。  姿を現わしたのは三台の四輪馬車、神話に材を採った浮彫と金箔に飾られた一台も、華やかな外見とは裏腹に、ほかの二台に劣らず汚れまみれ泥だらけである。その三台が門のそばに停車すると、門を開けたままジルベールは、そのあまりに厳かな偉容に心が高ぶり、目を見開いて熱に浮かされたように震えていた。  二十人の騎士がいずれも若く輝かしく、先頭の馬車の傍らに居並ぶと、胸に大綬をつけた黒服の男性に手を取られて馬車から降り立った者がいる。それは十五、六の少女であり、髪粉もつけていないのに凝った様子もなく髪を頭上に一ピエ聳えさせていた。  マリ=アントワネット、即ちこの少女がフランスを訪れるや、話題になるのはその美しさであった。王権の一端を担うであろう王女たちには授けられることのなかった美しさである。曰く言い難いその瞳は、美しいといえば嘘になるが、あらゆる感情が秘められ、とりわけ優しさと驕りという相反する感情を宿していた。形の良い鼻に、美しい上口唇。だが下口唇は十七代にわたる皇帝の血を受け継ぎ、厚く突き出し、時に垂れているのがその愛らしい顔に似合うとすれば、立腹や憤懣を顔に出そうと思った時くらいのことであろう。顔色は健やか。薄い肌の下に血管が透けて見えた。胸、首、肩は一級品である。手は気品に満ちていた。少女はまったく別の二つの顔を持っていた。一つには、頑な、厳か、短気の嫌いがある。他方で緊張を解いた時には、和やか、穏やか、言い換えるなら聖母のようであった。如何な女とて斯くまで優雅にお辞儀した例を知らぬ。如何な王妃とて斯くまで如才なく挨拶した例を知らぬ。たった一度首を傾けただけで十人分の挨拶が出来たし、そのただ一度にして類を見ないお辞儀だけで然るべき趣意を一人一人に伝えることが出来た。  この日のマリ=アントワネットは、女らしい眼差しをして、女らしい微笑み――それも幸せな女の微笑みを湛えていた。事情さえ叶えばその日の間は王太子妃には戻るまいと心に決めていた。温かな平穏が顔に溢れ、うっとりするような愛情が瞳に息づいていた。白絹の衣服を纏い、手袋をつけていない腕でみっちりしたレースのケープを押さえていた。  地面に降り立つやすぐに振り向き、齢を数えた一人の侍女が車から降りるのに手を貸した。黒服に青綬《コルドン・ブリュ》の男が差し出す手を断り、自らの足で前に出ると、空気を吸い込み四方にぐるりと目を走らせ、手に入れた僅かな自由を隅から隅まで楽しもうとしているようでもあった。 「素晴らしい景色に、素晴らしい緑に、素敵なお家! こんな美味しい空気に囲まれ、木立の陰に匿ってもらえるなんて、さぞお幸せなのでしょうね!」  この時になってフィリップ・ド・タヴェルネが馳せ参じた。後ろにいるアンドレは長い髪を束ね、亜麻灰色をした絹のドレスを身につけており、その腕を任せた男爵はといえば、過ぎにし栄華の残りかすである濃紺の衣装を身に纏っていた。無論バルサモの助言を受け、サン=ルイの大綬も忘れてはいない。  やって来た二人を見て、王太子妃は立ち止まった。  お付きの者たちが王太子妃を取り囲んだ。将校たちは馬の手綱を取り、廷臣たちは帽子を手に、肘で押し合いひそひそと囁き合った。  フィリップ・ド・タヴェルネが前に出たが、緊張と愁いで青ざめていた。 「殿下、畏れながらご紹介いたします。父のタヴェルネ=メゾン=ルージュ男爵と、妹のクレール=アンドレ・ド・タヴェルネでございます」  男爵が深々と頭を下げた。王族への挨拶を知る者のお辞儀であった。アンドレは慎ましく上品な魅力と、嘘偽りない畏敬の念を振りまいた。  マリ=アントワネットは二人の若者を見つめていた。フィリップから父の窮状を聞かされたことを思い出し、その苦労を慮っていた。 「殿下」男爵がもったいぶった声で言った。「タヴェルネ城にお越しいただき光栄に存じます。気品と美しさを兼ね備えた方をお迎えするにはあまりにしがない侘住まいであることをお許し下さい」 「フランスの老勇の住まいにいるのは存じております。戦を重ねた母マリア=テレジア帝から、この国には幾多の功績を挙げながら幾らの財産をも持たぬ者が大勢いるのだと伺いました」  嫋やかな仕種で美しい手をアンドレに差し伸べると、アンドレは膝をついてその手に接吻をした。  だが男爵は人の数に驚いてしまい、これだけの人数が家に入るか椅子が足りるかで頭がいっぱいだった。  困惑から救ったのは王太子妃であった。 「皆さん」とお付きの者たちに振り返り、「わたしの気まぐれに付き合う必要もありませんし、王太子妃という特権に苦しむ必要もありません。ここでお待ちなさい。半時間後には戻ります。いらっしゃい、ランゲルスハウゼン」馬車から降りる時に手を貸した女性に、ドイツ語で声をかけると、「あなたも来て下さい」と黒服の貴族にも声をかけた。  洗練の塊が飾らぬ服を着たようなその人物は、年はわずかに三十ばかり、整った顔立ちに優雅な物腰をした男であった。男は王太子妃のために道を開けた。  マリ=アントワネットはアンドレをそばに呼ぶと、フィリップにも妹のそばに来るよう合図した。  一方で男爵には、王太子妃からお供を許された、高名であるに違いない人物が近づいていた。 「タヴェルネ=メゾン=ルージュさんというのはあなたかな?」立派なアングルテールの胸飾りを貴族らしく尊大に指ではじきながら、その人物は男爵にたずねた。 「ムッシュー、それとも閣下とお呼びすればよいのでしょうかな?」男爵の態度も黒服の紳士にまったく引けを取らぬものであった。 「公で結構。あるいは猊下と。お好きな方を」 「おお、わかりました、猊下。わしが正真正銘タヴェルネ=メゾン=ルージュの者です」いつもつきまとっているからかうような口調が消えることはなかった。  猊下は大貴族ならではの才覚で、目の前にいるのが単なる田舎貴族ではないことにあっさりと気づいていた。 「こちらの邸は夏の別荘ですか?」 「夏も冬もです」不愉快な質問など早く切り上げたくて仕方がなかったが、男爵はその一つ一つに深々と頭を下げて答えていた。  フィリップはフィリップで、折を見ては不安顔で父の方を振り返っていた。それというのも、城館がその貧しさを容赦なくさらけ出そうとして、凄みを利かせてニヤニヤしながら近づいて来るように感じていたのだ。  既に男爵は諦めて、訪れる者一人ない玄関に手を向けていたが、そこで王太子妃がくるりと振り向いた。 「ちょっとごめんなさい、中に入らなくても構いませんか。こんな素敵な木陰など見たことがないんですもの。お部屋はもううんざり。二週間前から招かれるのは部屋の中ばかり。外の空気と、それに木陰と花の香りが恋しいんですの」  そうしてからアンドレに声をかけた。 「ミルクを一杯、木陰に運んで来てもらえますね?」 「殿下」男爵の顔が真っ青になった。「よもやそんな惨めなお食事をご所望に?」 「お気に入りなんです。それと新鮮な卵を。新鮮な卵とミルクが、シェーンブルンでのご馳走でした」  ここでラ・ブリが自信満々に燦然として、ぱりっとしたお仕着せを纏いナプキンを手に、耶悉茗の園亭の前に姿を現した。先ほどから王太子妃が気になっているらしい木陰はそこにあった。 「ご用意は出来ております」ラ・ブリは、落ち着きと敬意を同時に表すという、ほとんど不可能なことをやってのけた。 「まあ! 魔法使いの家に来てしまったのかしら!」王太子妃はころころと笑った。  歩くというよりやがて小走りに、馥郁たる緑の穹窿に向かっていた。  男爵は不安のあまりに礼儀も忘れ、黒服の紳士をよそに王太子妃を追いかけた。  フィリップとアンドレは、驚きと不安を綯い交ぜにしてそれを見つめていたが、勝っていたのは明らかに不安の方だった。  王太子妃は緑のアーチにたどり着くと、驚きの声をあげた。  男爵も後から追いつき、満ち足りた息を吐いた。  アンドレは「いったいどういうこと?」とでもいうように、両手を力なく垂らした。  王太子妃はこうした一部始終を視界に捉えていた。前もって心に告げられずとも、何処がおかしいのか理解するだけの頭はある。  花をつけた牡丹蔓《クレマチス》・耶悉茗・忍冬の蔓の下、逞しい茎が無数の小枝をはびこらせているその下で、楕円形のテーブルが設えられ、その上にはダマスク織のテーブル掛けが、テーブル掛けの上には彫金細工の銀器が、まばゆいばかりに輝いていた。  十客の食器が十人の会食者を待っていた。  物珍しくも見慣れぬ取り合わせの軽食に、取りも直さず王太子妃の目が引きつけられた。  砂糖漬けの異国の果物に、全国各地のジャム、アレッポのビスケット、マルタのオレンジ、大振りのレモンにシトロン、その何もかもが大きな器に盛られていた。さらにはありとあらゆる最上級の、名産地のワインが、紅玉色や黄玉色の輝きを放ち、ペルシア製のカットデカンタ四客に収まっていた。  王太子妃の請うたミルクは金箔銀《ヴェルメイユ》の水差しに満たされていた。  王太子妃はタヴェルネ家の者を見回したが、色を失い驚きを浮かべているだけであった。  お付きの者たちはわけも分からず、また分かろうともせぬまま、ただただ感嘆と喜びを見せていた。 「では待っていて下すったの?」王太子妃がタヴェルネ男爵にたずねた。 「何と?」男爵は口ごもった。 「そうじゃありません? 十分ではこのような用意はとても出来ませんもの。わたしがここに伺ってからせいぜい十分ですものね」  こうして言葉を結ぶと、何か言いたげにラ・ブリに目をやった。――そのうえ召使いが一人しかいないんですもの。 「殿下、確かに殿下をお待ちしておりました。正確に申しますと、ご来訪を存じておったのです」  王太子妃がフィリップの方を見た。 「では手紙を書いたのですか?」 「そのようなことは」 「この邸を訪れることは誰も知りません。ことによれば自分でも知りませんでした。ご迷惑をおかけしたくないので、自分の気持は自分にもわからぬよう胸の奥に仕舞っておいて、昨夜ご子息に伝えるまでは一言も口にはしておりません。一時間前にはご子息はまだそばにおりましたから、余裕は数分しかなかったはずです」 「正確にはたった十五分でございました」 「では知らせたのは妖精かしら。もしやご息女の名付け親?」王太子妃は微笑んでアンドレを見た。 「殿下」男爵は王太子妃のために椅子を引いた。「このような吉報をもたらしてくれたのは妖精ではありません。それは……」 「それは?」男爵が躊躇っているのを見て、そう繰り返した。 「それがその、魔術師なのです!」 「魔術師! どのようにして予知したのですか?」 「存じません。魔術には関わっておりませんので。しかしながらどうにかこうにか殿下をおもてなし出来ますのも、つまりは魔術師のおかげでございます」 「では手を付けることはなりませんね。目の前のお食事は魔法で出したものなんですもの。ですから猊下は」と黒服の貴族に向かい、「そのストラスブールのパテを切るのにお忙しいようですが、口に入れることはなりません。それから」と今度は養育係を振り返り、「そのキプロスのワインは我慢なさい。わたしと同じようにするのです」  こう言い終えるや王太子妃は、球のように丸く首の細いデカンタから、金のコップになみなみと水を注いだ。 「でももちろん」怯えたようにアンドレが口を開いた。「妃殿下が正しいのですわ」  前夜の出来事など知りようもないフィリップは、驚きに震えながら、父と妹を代わる代わる見つめ、二人の目つきから言わんとすることを見抜こうとした。 「教義には反しますもの」王太子妃が言った。「枢機卿猊下は罪を犯すことになりませんの?」 「我ら公家《こうけ》……いや我ら枢機卿は、天が大食に怒りをぶつけると信じるには世間ずれしておりますし、ご馳走を振る舞ってくれる親切な魔法使いを火あぶりにするには人が良過ぎます」 「真面目な話ですぞ、猊下」男爵が言った。「誓って申し上げますが、すべてをおこなったのは魔法使い。正真正銘の魔術師が、一時間前に妃殿下と伜の訪問を予言したのです」 「一時間前?」王太子妃がたずねた。 「それ以上ではありますまい」 「ではたった一時間で、このテーブルを設え、四大陸《せかいじゅう》に注文して果物を集め、トカイとコンスタンシアとキプロスとマラガからワインを届けさせたというのですか? ではその魔術師よりあなたの方がよほど魔術師ではありませんの?」 「とんでもない。やったのはあの方、これもあの方ですわ」 「まさか! これもその方が?」 「これをご覧下され。このように用意万端整ったテーブルを地面から取り出す芸当など、ほかの誰にも出来ません」 「間違いありませんね?」 「誓って本当のことでございます」 「馬鹿な!」枢機卿は大真面目な声でそう言って、小皿を戻した。「ご冗談でしょうな」 「猊下、滅相もございません」 「お宅にいるのは魔術師、それも本物の魔術師だと?」 「本物かどうかですと! ここにある金で出来た食器の数々を造ったのがあの方であっても驚きもしませんな」 「賢者の石か!」枢機卿の目が貪婪なまでに輝いた。 「まあ! さすが生涯を石に捧げた枢機卿殿ね」 「実を申しますと、神秘的なことほど面白いものはありませんし、あり得ないことほど興味をそそられるものはないのですよ」 「では痛いところを突いたということ? 一廉の殿方ってどなたも謎を抱えていますものね。人たらしの上手い方ならなおのこと。実は枢機卿殿、わたしも魔法が使えますの。あり得ないことや神秘的なことは叶わずとも……信じがたいことくらいなら当てられる時もあるのですから」  恐らくは当人にだけはわかる謎かけであったのだろう、枢機卿は目に見えて狼狽を見せた。なるほど王太子妃の穏やかな目にも、話しているうちに火が灯っていた。火種となった稲光が、やがて王太子妃の心に嵐を呼び起こすに違いない。  ところが稲妻は光っただけで雷鳴の轟くことなく、王太子妃は落ち着き払って先を続けた。 「それではタヴェルネ殿、宴を申し分ないものにするためにも、魔術師をご紹介下さい。どちらにおいでですの? どんな箱に仕舞っておしまいに?」 「殿下、むしろ箱に仕舞われたのは、わしと邸の方です」 「気を持たせますのね。ますますお会いしたくなりました」  マリ=アントワネットの口振りからは感じの良さが消えてはいなかったが、とはいえ有無を言わせぬものがあった。男爵は息子と娘を従えて立ったまま、いつでも王太子妃のお役に立とうと備えていたので、趣意をすっかり飲み込んでラ・ブリに合図したが、そのラ・ブリは給仕も忘れて賓客たちに見とれていた。溜まりに溜まった二十年分の給金をこの眼福に代えようとでもしているようだった。  ラ・ブリが顔を上げた。 「ジョゼフ・バルサモ男爵をお呼びしてくれ」男爵が命じた。「王太子妃殿下がご会見を望んでいらっしゃる」  ラ・ブリが立ち去った。 「ジョゼフ・バルサモ! 随分と変わったお名前ね?」 「ジョゼフ・バルサモ!」枢機卿も呆然として繰り返した。「確か聞き覚えがある」  間を埋める者もないままに五分が過ぎた。  不意にアンドレがおののいた。葉陰を歩む足音に、誰よりも早く気づいたのだ。  枝が掻き分けられ、ジョゼフ・バルサモがマリ=アントワネットの真正面に姿を見せた。 第十五章 魔術  バルサモは恭しくお辞儀をした。だがすぐに智性と表情に富んだ顔を上げ、無礼にはならぬよう王太子妃にじっと目を注ぎ、問いただされるのを静かに待っていた。 「そなたがタヴェルネ殿のお話ししていた方なのであれば」マリ=アントワネットが言った。「前へ。どのような魔法を使うのか見てみたい」  バルサモはもう一歩前に出ると、改めて一拝した。 「ご専門は予言だとか」王太子妃がバルサモを見る目つきには、恐らく思っている以上に好奇心が浮かんでいた。王太子妃はミルクを一口すすった。 「専門にしているわけではございませんが、予言はいたします」 「わたしたちを照らしているのは信仰の光ではありませんか。カトリックの神秘を措いて、ほかに神秘や謎の入り込む余地などありません」 「それらは確かに敬虔なものです」バルサモはひたむきに答えた。「ですがこちらのロアン枢機卿が仰ったように、枢機卿のお歴々にとっては、敬意を払うべき神秘はそれだけではないようですな」  枢機卿は身震いした。誰にも名告ってはいないし、誰からも呼ばれてはいないのに、この男は名を知っていた!  マリ=アントワネットはこれにはまるで気づかなかったらしく、話を続けた。 「では少なくとも、議論する余地のない絶対的なものだとはお認めになりますのね」 「殿下」バルサモの口調からは敬意こそ失われていなかったが、有無を言わせぬところもあった。「信仰に劣らず確かなものもございます」 「曖昧な言い回しですね、魔術師殿。わたしの心はもうすっかりフランス人ですが、「謎めいたお口の利き方をなさるのね、魔術師殿。わたしの心はもうすっかりフランス人ですが、頭はまだ追いついていません。ですから言葉のニュアンスがよくわからないのです。そのうちビエーヴル殿が教えて下さるとは聞きました。でもそれまでは、お話ししたいことがわたしにもわかるように、出来るだけ易しい言葉を使って下さるようお願いしないといけませんの 「失礼ですが」バルサモはぞっとするような笑みを浮かべて首を振った。「謎めいていてもお許し願いたい。偉大な姫君に未来をお知らせせねばならぬとしたら、心苦しくてならないのです。何分、お望みの未来とは違っておりましょうから」 「聞き捨てなりませんね! 未来を占って欲しいと頼んでもらいたくて、そんな思わせぶりを言うのですか」 「とんでもない。どうか頼んで下さいますな」バルサモは冷やかに答えた。 「勿論ですとも」王太子妃は笑って答えた。「だって、頼んだら困るんじゃありません?」  だが王太子妃の笑いに廷臣たちの笑いがこだますることはなかった。目下注目の的である怪人の威力に誰もが当てられていたのだ。 「さあ、正直に仰いな」王太子妃が言った。  バルサモは無言のまま一礼した。 「でもわたしの来ることをタヴェルネ殿に予言したのはそなたなのでしょう?」マリ=アントワネットの仕種には苛立ちが見えていた。 「仰る通りでございます」 「男爵、予言の方法は?」どうやら他人の声を聞きたくて堪らなくなったのだろう。奇妙な会話を始めたのをどうやら悔やんではいたものの、打ち切る気もないようだった。 「それが殿下、驚くほど簡単でして、水の入ったコップを覗き込んだだけでございました」 「本当ですか?」再びバルサモにたずねた。 「確かです」 「それが魔術書? こちらはシロのようね、こんなに|澄み切って《クレール》るんですもの。そなたの言葉も同じくらい|はっきり《クレール》していればいいのだけれど!」  枢機卿が微笑んだ。  男爵が一歩前に出た。 「妃殿下にはビエーヴル殿から学ぶことなど一切ございませんぞ」 「まあ! おからかいになって。いっそもっと言って下さらない? 気の利いたことを言ったつもりはなかったのに。バルサモ殿の話に戻りましょう」  マリ=アントワネットは、抗い難い力に引きつけられるように、知らず知らずバルサモの方を向いていた。ちょうど我々が不幸の現場に引き寄せられるのに似ていた。 「コップの中に男爵の未来を見ることが出来たのなら、デカンタの中にわたしの未来を読み取ることは出来ませんの?」 「造作のないことでございます」 「ではなぜ先ほどは拒んだのです?」 「未来とは不確かなもの。しかも見えたのが雲のようなものとあらば……」  バルサモは言いよどんだ。 「どうしました?」 「さよう、以前に申し上げたように、妃殿下のお心を痛ませるのには耐えられませぬ」 「以前に会ったことがありましたか? 何処でお会いしたのでしょう?」 「お会いした時節には妃殿下はまだ幼く、故国のご尊母のおそばにいらっしゃいました」 「母に会ったと?」 「輝かしく勇ましい女王様でございましたな」 「皇帝、です」 「女王と申したのは私の気持と見解によるもの、ですが……」 「母を当てこするおつもりですか!」王太子妃の眉が上がった。 「どんなに優れた心にも弱みはございます。とりわけ子供の幸せに関わることとあっては」 「マリア=テレジアにはたった一つの弱みもないことは、歴史が教えてくれるでしょう」 「マリア=テレジア皇后陛下と妃殿下と私しか知らぬことは、歴史にも知る術がないでしょうからな」 「わたしたち三人だけの秘密があると?」王太子妃は冷やかな笑みを浮かべてたずねた。 「さよう、私たち三人の」バルサモは飽くまで穏やかだった。 「秘密とは?」 「口にしてしまっては、もはや秘密ではありません」 「構いません。いいから仰いなさい」 「妃殿下がお望みなのですな?」 「その通りです」  バルサモは一礼した。 「シェーンブルン宮殿には、磁器の間と呼ばれる、見事な陶磁器を収める部屋がございました」 「ええ」 「そこはマリア=テレジア皇后陛下が私室としてお使いでした」 「ええ」 「内密の手紙を書くのは決まってその部屋でしたな」 「ええ」 「手紙を書くのは、ルイ十五世陛下からフランツ一世陛下に贈られた、ブールの手になる素晴らしい机の上でした」 「ここまでの話に間違いはありません。でもみんなそのくらいは知っておりません?」 「お気が早い。ある日の朝七時頃、陛下はまだお寝みになっていらっしゃいましたが、妃殿下は専用の扉から部屋にお入りになりました。何せ皇后陛下は、妃殿下が大のお気に入りでございましたから」 「それで?」 「妃殿下は机に向かわれました。思い出していただきたいのですが、これがちょうど五年前のことでございます」 「続けなさい」 「妃殿下が机に向かわれますと、陛下が前夜書いたばかりの手紙が広げてあったのです」 「そうですか?」 「そうでした! 妃殿下は手紙をお読みになりました」  王太子妃の顔がわずかに赤く染まった。 「お読みになって、どこか気になる表現があったのでしょう、ペンを取ってお手ずから……」  王太子妃はやきもきしているようだった。バルサモが続けた。 「三語に線を引きました」 「その三語とは?」王太子妃がすかさずたずねた。 「手紙の冒頭でございましたな」 「文字のあった場所を聞いているのではありません。単語の意味を聞いているのです」 「言うなれば手紙の受取相手に対する親愛の現れと言えるでしょうか。だからこそそれが先ほど申し上げた弱みであるのです。少なくともある状況下ではご尊母も非難を免れますまい」 「その三語を覚えているのですか?」 「覚えております」 「暗誦できますか?」 「一語も違わず」 「では暗誦なさい」 「口に出せと?」 「そうです」 「|親愛なる貴女《マ・シェル・アミ》」  マリ=アントワネットは真っ青になって口唇を咬んだ。 「受取人の名前も口にした方が?」 「なりません。紙に書きなさい」  バルサモは懐から金の留め金のついた手帳を取り出し、金飾り付きの鉛筆で文字を書きつけ、破り取ると、一揖して王太子妃に差し出した。  マリ=アントワネットは紙片を受取りそれを読んだ。 『手紙の宛先はルイ十五世の愛妾、|ポンパドゥール侯爵夫人《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》』  王太子妃は顔を上げ、呆気に取られてバルサモを見つめた。言葉には淀みがなく、声には混じり気も揺らぎもなく、挨拶こそへりくだっていたものの、自分がこの男に取り込まれているようでならなかった。 「すべて間違いありません。どうやって突き止めたのか見当も付きませんが、嘘はつけませんので改めてはっきり申し上げましょう。間違いありません」 「では。退がっても構いませんな。種も仕掛けもないことはおわかりいただけたかと存じます」 「なりません」気を悪くして王太子妃は答えた。「知れば知るほど予言の内容が気になります。そなたが話してくれたのは過去のことばかり。わたしの知りたいのは未来なんです」  王太子妃は熱に浮かされたようになって言葉を口にしながらも、それを周りの人間には悟られるまいと懸命になっていた。 「お安い御用。ですが今一度お考え直しをしていただけませぬか」 「二度とは繰り返しません。よいですか、『わたしの望み』は既に一度伝えました」 「せめてお伺いを立ててはなりませんか」頼み込むような口調だった。「予言を妃殿下にお伝えしてもよいものやら」 「瑞兆でも凶兆でもよいから知りたいというのがわかりませんの?」マリ=アントワネットの声には苛立ちが増していた。「瑞兆なら信じません。ごますりかもしれませんから。凶兆なら警告だと受け止めてじっくり検討してみるつもりです。どちらであろうと悪いようにはしません。さあ」  この最後の一言には、口答えも時間稼ぎも許さぬ響きがあった。  バルサモは首の細く短い丸型のデカンタを手に取り、それを金の器に乗せた。  そうして陽射しに照らされると、ガラス壁の螺鈿細工や真ん中の金剛石に反射されて黄褐色の輝きを放った水が、占い師の目には何らかの意味を運んでいるらしかった。  口を利く者はいない。  バルサモが水晶壜を持ち上げ、目を凝らして眺めてから、首を振ってテーブルの上に戻した。 「どうしました?」王太子妃がたずねた。 「口には出来ません」  王太子妃の顔にははっきりとこう書いてあった。――安心なさいな。口をつぐみたい人間の口を開く方法なら知っているもの。 「言うことなんて何もないからじゃありませんの?」 「王家の方々には申し上げられぬことゆえ」バルサモの声は王太子妃の命令さえ頑として拒んでいた。 「でしたら、口にせずに伝えて下さいな」 「ならば障碍がない、とは申せません。むしろその逆」  王太子妃は嘲るような笑みを浮かべた。  バルサモは悩んでいるようだった。枢機卿が面と向かって笑い出し、男爵がぶつぶつ言いながら前に出た。 「結構、結構。魔術師殿は力を出し切ってしまわれた。時間切れですわ。もうほかに出来ることと言えば、東洋のお伽噺のように、ここにある金のコップを葡萄の葉に変えることくらいでしょうかな」 「ただの葡萄の葉の方がよほどいいわ。こんな風に食事を披露したのもわたしに引き合わせてもらおうとしただけなのでしょう」 「殿下」いよいよ青ざめてバルサモは答えた。「私からお願いしたのではないことをどうかお忘れなきよう」 「お目に掛かりたいと求められることくらい、見抜いていらっしゃったのでしょう」 「どうかお許し下さい」アンドレが小声で口を挟んだ。「よかれと思って行動なさったのです」 「ではわたしも、この者の行動は誤っていたと申し上げておきましょう」王太子妃はバルサモとアンドレにしか聞かれぬように即答した。「ご老人を虚仮にして名を成そうなど無理な話。紳士からいただいた錫のコップの中身は飲み干せても、山師が差し出した金のコップの中身をフランス王太子妃に飲ませることなど出来ませんよ」  バルサモは蝮か何かに咬まれたように震え、背筋をぐっと伸ばした。 「殿下」という声も震えていた。「是が非でも御身の運命をお知りになりたいと仰せであるからには、私としてもお伝えする覚悟は出来ております」  バルサモの口調が強く激しいものだったため、居合わせた者たちは血管に冷たいものが流れるのを感じた。  大公女の顔色が目に見えて変わった。 「Gieb ihm kein Geh?r, meine Tochter(聞いてはなりませぬ、お嬢様)」老婦人がドイツ語でマリ=アントワネットに話しかけた。 「Lass sie h?ren, sie hat wissen wollen, und so soll sie wissen(聞かせてやれ、知りたがったのは殿下だし、知るべきなのだ)」バルサモもドイツ語で言い返した。  異国の言葉を解す者はほとんどおらず、ますます事態を謎めかすことになった。  王太子妃は老婦人の忠告をはねつけた。「話をさせましょう。ここでやめるよう命じては、わたしが恐れていると思われます」  この言葉を耳にしたバルサモの口元に、人知れず黒い笑みが浮かんだ。 「思っていた通り」バルサモが呟いた。「から元気だな」 「さあ仰いなさい」 「ではやはり口にすることをお望みなのですな?」 「一度決めたことを翻したりはしません」 「では殿下にだけ」 「よいでしょう。最後まで付き合うつもりです。皆の者、退がりなさい」  それとわかるように合図すると、全員が命令に従った。 「内謁を得るにしては月並みな手口じゃありませんの?」王太子妃はバルサモに向かって言った。 「お手柔らかに願えますか。私などは、殿下に神の啓示を知らせるだけの道具に過ぎません。運命にお逆らいになったところで、報いは訪れます。よくしたもので、因果は巡るように出来ているのです。私はただその巡り合わせをお伝えするだけ。躊躇ったからといって責めるのもおやめ下さい。凶事をお伝えするほかない不孝から免れられるものなら免れたいと思うのが人情」 「では不幸が待ち受けていると?」バルサモの恭しい言葉や覚悟を決めた様子に、王太子妃も態度を和らげた。 「はい、殿下。それもただならぬ不幸が」 「すべて仰いなさい」 「善処いたします」 「というと?」 「おたずね下さい」 「では初めに、わたしの家族は幸せになれますの?」 「どちらのです? お出になった方か、それともお向かいになる方でしょうか?」 「あら。実の家族です。母マリア=テレジア、兄ヨーゼフ、姉カロリーナ」 「殿下の不幸はご家族にまでは及びません」 「ではその不幸はわたし一人に降りかかるのですね?」 「殿下と新しいご家族に」 「もっと詳しく教えてはもらえませんの?」 「かしこまりました」 「王家には三人の王子がいますね?」 「確かに」 「ベリー公、プロヴァンス伯、ダルトワ伯」 「お見事です」 「三人の星回りは?」 「三人とも世をお治めになります」 「ではわたしには子供が出来ないのですね?」 「お子様には恵まれるでしょう」 「ならば、世継ぎが生まれないのですか?」 「お子様の中にはご世継ぎもいらっしゃいます」 「では先立たれると?」 「お一人の薨去を悼み、お一人のご生存を悼むことになるでしょう」 「夫からは愛してもらえるのですか?」 「ご寵愛なされます」 「存分に?」 「たいそうに」 「では夫にも愛され家族にも支えられているというのに、いったいどんな不幸が待ち受けているというのです?」 「どちらもいずれなくなります」 「民衆の愛と支えが残っていましょう」 「民衆の愛と支えとは!……さしずめ凪の海と言えましょうが……殿下は嵐の海をご覧になったことはございますか?……」 「善行を積み、嵐の起こるのを防ぎましょう。起こってしまったなら、嵐と共に立ち上がるまでです」 「波が高まるにつれ、波の抉る淵も深まるもの」 「神が見守って下さいます」 「神がご自身で罪を宣告した者の首を守ることはありません」 「何を言っているのです? わたしが王妃にはならないと?」 「むしろそうであってくれれば!」  王太子妃は冷笑を浮かべるだけであった。 「お聞きのうえで思い起こして下さい」 「聞いております」 「フランスで最初にお寝みになった部屋のタペストリーにお気づきになりましたか?」 「覚えています」王太子妃は身震いした。 「その絵の意味するものは?」 「虐殺……幼児の虐殺でした」 「虐殺者たちの顔が頭から離れないのではありませんか?」 「実はそうですの」 「結構! 嵐の最中のことで、何かお気づきになりませんでしたか?」 「雷鳴が左手で轟き、木が倒れて馬車が潰されそうになりました」 「それが兆しです」 「凶兆ということですか?」 「ほかに考えようはございません」  王太子妃はうつむいて無言で考え込んでいたが、ほどなくして顔を上げた。 「夫はどのように崩ずるのです?」 「首をなくして」 「プロヴァンス伯は?」 「足をなくして」 「ダルトワ伯は?」 「王宮をなくして」 「わたしは?」  バルサモは首を振った。 「言いなさい。言うのです!」 「断じてお伝えすることは出来ません」 「わたしが言えと言っているのです!」マリ=アントワネットは身を震わせて叫んだ。 「お許しを」 「仰いなさい!」 「出来ませぬ」 「仰いなさい」マリ=アントワネットが脅すように繰り返した。「さもなくば、何もかも馬鹿げた茶番に過ぎなかったと判断しますよ。気をつけることです。マリア=テレジアの娘をこんな風に誑かすなど。女を……三千万の人間の命をこの手に預かる女を誑かすなど」  バルサモは口を閉じたままだった。 「わかりました。それ以上のことは知らないのですね」王太子妃は馬鹿にしたように肩をすくめた。「それとも、想像力が尽きたと言うべきかしら」 「私は何もかも知っております。殿下がどうしてもと望まれるのなら……」 「その通り。望んでいるのです」  バルサモは再びデカンタを金の器に乗せた。そして岩を使って洞窟を模してある奥の暗がりに器を置くと、大公女の手を取ってその穹窿の下まで連れて行った。 「覚悟は出来ていらっしゃいますな?」バルサモは、強引な行動に怯えている王太子にたずねた。 「ええ」 「ではひざまずいて下さい、殿下。これから目にする恐ろしい結末を免れるため、神に祈らねばなりません」  王太子妃は諾々と従い、両膝の力を抜いた。  バルサモが丸い水晶の器に棒で触れると、器の中央に何やらはっきりしない恐ろしげな影が浮かび上がったものとおぼしい。  王太子妃は立ち上がろうとしてよろめき、そのままくずおれ、恐ろしい叫びをあげて気を失った。  男爵が駆けつけてみると、王太子妃の意識がない。  意識を取り戻したのはしばらく経ってからであった。  王太子妃は記憶を探ろうとでもするように、額に手を遣った。  それから不意に叫んだ。 「デカンタ!」声は言い表せぬほどの恐怖に染まっていた。「デカンタを!」  男爵がデカンタを差し出したところ、水は澄み切って曇り一つなかった。  バルサモは姿を消していた。 第十六章 タヴェルネ男爵が遂に未来の一端を見たと信ずること  王太子妃殿下が失神したことに最初に気づいたのは、申し上げた通り、タヴェルネ男爵であった。王太子妃と魔術師の間で起こりつつある出来事に人一倍不安を覚え、目を離さずにいたからだ。妃殿下の悲鳴を耳にし、バルサモが茂みの外に姿を消すのを目にして、男爵は駆け出していた。  王太子妃は一言目にデカンタを見せるよう頼み、二言目に魔術師をひどい目に遭わせぬよう伝えた。危ないところでこの命令は間に合った。制止の声が聞こえた時には、既にフィリップ・ド・タヴェルネは怒れる獅子のように後を追っていたところだったのだ。  と、侍女がおそばに近づき、ドイツ語で何かたずねた。だが王太子妃は質問には何も答えず、バルサモには無礼なところなどなかったと繰り返すだけであった。――長旅と前夜の嵐で疲れが溜まり、気が高ぶって倒れてしまったのでしょう。  事情がわからぬながら問いただすことも出来ずにやきもきしていたロアン枢機卿に、この言葉が翻訳して伝えられた。  庭にいる者たちは半信半疑であった。王太子妃の答えには皆まるで納得がいかなかったが、揃って納得したような顔をしていた。そこでフィリップが進み出た。 「恐れながら殿下のご命令を果たしに参りました。まことに残念なのですが、滞在予定の半時間が過ぎました。馬の用意も出来ております」 「ありがとう」怖いほどさり気なく、可愛い仕種をして、「けれど当初の予定を変更いたします。今ここを発つことは出来ません……少し睡眠を取れば、気分も良くなると思うのですが」  男爵が青ざめた。アンドレが心配そうに父を見つめる。 「こんなねぐら、妃殿下にはとてもご満足いただけませんぞ」と男爵は口ごもった。 「そんなことは言わずに」王太子妃は絶え入りそうな声を出した。「横になれるだけでよいのです」  アンドレが急いで部屋の用意をしに行った。一番大きな部屋でもなければ、一番豪華な部屋でもない。だがどれだけ貧しかろうと、アンドレのように貴族的な娘の部屋には、どんなご婦人の目も和らがせるような洒落たところがあるものなのだ。  誰もがこぞって王太子妃の許に駆け寄ろうとしたが、王太子妃は物憂げな笑みを見せて、話す力も残っていないのか手振りで合図し、一人きりになりたいのだと伝えた。  そこで人々はまた遠くまで退いた。  マリ=アントワネットは、服の裾がすっかり見えなくなるその瞬間まで目を離さずにいた。だが裳裾がすべて見えなくなると、呆然として真っ青な顔を両手にうずめた。  フランスで出くわしたものは、確かに恐ろしい前兆ではなかったか! ストラスブールで過ごしたあの部屋、王妃になるため足を踏み入れた最初の地、その壁に掛けられたタペストリーには、幼児虐殺が描かれていたではないか。馬車に近い木を折った前夜の嵐もそうだ。それにあの予言。誰にも洩らすつもりのなかったはずの秘密をどうやってか暴露した後で、あの怪人が明らかにした予言がある!  十分ほど経ってアンドレが戻り、部屋の用意が出来たことを伝えに来た。王太子妃がアンドレのことまで拒絶しているとは思われなかったため、アンドレは緑の穹窿の下まで通してもらえた。  アンドレはしばらく王太子妃の前に立ったまま、声をかけようとはしなかった。それほどまでに、妃殿下の物思いは深く見えた。  ようやくマリ=アントワネットが顔を上げ、アンドレに微笑みかけて手を挙げた。 「お部屋のご用意が出来ました。なにとぞ……」  王太子妃が遮った。 「ありがとう、感謝します。すみませんが、ランゲルスハウゼン伯爵夫人を呼んで下さい、それからわたしたちを部屋まで案内してくれませんか」  アンドレが言う通りにすると、老侍女がいそいそと駆けつけた。 「腕を、ブリジット」王太子妃はドイツ語で話しかけた。「歩く力も出せそうにありません」  伯爵夫人はその通りにし、アンドレがそれを手伝った。 「ドイツ語がわかるのですか?」マリ=アントワネットがたずねた。 「はい、殿下」アンドレがドイツ語で答えた。「ほんの少しでございましたら」 「よかった!」王太子妃は喜びの声をあげた。「わたしの計画にぴったりです!」  アンドレは計画とは何かたずねようとはしなかったものの、知りたくてたまらなかった。  王太子妃はランゲルスハウゼン夫人の腕につかまり、少しずつ前に進んだ。膝が震えているように見えた。  茂みから出ると、ロアン枢機卿の声が聞こえた。 「馬鹿な! スタンヴィル殿。命令に背いて妃殿下にお話しに向かうつもりか?」 「致し方ありません」司令官の断固たる声が答えた。「きっとお許しいただけるものと思っております」 「だが私にはいまいち……」 「邪魔立ては無用です、ロアン殿」草木の門のような茂みの出口に、王太子妃は姿を見せた。「こちらへ、スタンヴィル殿」  誰もがマリ=アントワネットの声に一礼し、当時フランスを治めていた筆頭大臣の義兄弟に道を開けた。  スタンヴィル氏は周りに目をやり、密談を求めるような目つきをした。マリ=アントワネットもそれに気づいたが、二人きりにするよう指示を出すよりも早く、誰もが席を外していた。 「ヴェルサイユからの速達でございます」スタンヴィルは小声で、それまで軍帽の下に隠していた手紙を差し出した。  王太子妃は手紙を受け取り表書きに目を落とした。 『ストラスブール司令官、ド・スタンヴィル男爵閣下』 「わたし宛てではなくあなた宛てではありませんか。開封して読んで聞かせて下さい。もっとも、わたしの知りたいことが書かれていればですけど」 「宛名こそその通りですが、この角をご覧下さい。我が兄弟ショワズール殿と申し合わせたもので、ただ殿下一人に宛てた手紙だという印にございます」 「おやほんとう! 十字ですね。気づきませんでした。こちらへ」  王太子妃は手紙を開き、次のような文章を読んだ。 『デュ・バリー夫人の認証式が決まりました。後は代母を見つけるだけです。我々としては見つからないことを今も諦めてはおりません。しかしながら認証式を防ぐ最良の手段は、王太子妃殿下がお急ぎ下さることにほかなりません。妃殿下がヴェルサイユにお入りしてしまえば、このような大それたことを目論む者など一人もいないでしょう。』 「そういうことですか!」王太子妃は何の感情も見せなかったし、興味を惹かれたようなそぶりも見せなかった。 「殿下はお寝みになるのでしょうか?」おずおずとアンドレがたずねた。 「ごめんなさい。新鮮な空気のおかげで気分は良くなりました。ご覧の通りもうすっかり元気になりました」  王太子妃は伯爵夫人の手を押しのけると、何も起こりなどしていなかったかのように素早く力強く足を進めた。 「馬を! 出発します」  ロアン枢機卿が驚いてスタンヴィル司令官を見つめ、態度が急変したのはいったいどういうことかと目顔で説明を求めた。 「王太子殿下がお待ちかねなのです」司令官は枢機卿の耳にそう囁いた。  極めて巧みに吐き出された嘘に、これはてっきり本音を洩らしたものと思いロアンは満足した。  アンドレは父のおかげでこうした天下人の気まぐれにも騒がぬ術《すべ》を覚えていた。そのためマリ=アントワネットの翻心にも驚きはしなかった。王太子妃が振り返って見た時も、アンドレの顔には優しく穏やかな表情しか見られなかった。 「感謝します。そなたのもてなしは心に響きました」  次に男爵に声をかけた。 「お知らせしておきましょう。ウィーンを発った時に心に決めたことがありました。フランスの地を踏んで最初に出会ったフランス人の方に、未来を与えようと。そのフランス人とは、ご子息でした……。それだけではありません……ご息女のお名前は?」 「アンドレでございます」 「アンドレ嬢のことを忘れるつもりはありません……」 「まあ、殿下!」 「そう、侍女になっていただこうと思っております。証を見せることも出来ますよ。如何です、男爵?」 「おお、殿下!」夢が実現した者の叫びであった。「その点の心配などございません。富よりも名誉を重んじる人間ですゆえ……ですが……素晴らしい未来とは……」 「そなたたち次第です……ご子息は国王陛下を護衛し、ご息女は王太子妃に仕え、お父上は忠誠の言葉を子息に伝え、美徳の言葉を息女に伝える……絵に描いたような理想的な使用人だとは思いませんか?」王太子妃が若者の方を向くと、フィリップはただただひざまずき、口唇からは声にならない吐息を洩らすしか出来なかった。 「ですが……」男爵が真っ先に頭を正気に返らせて呟いた。 「わかりました。何かと用意がいるのでしょう?」 「さように存じます」 「構いません。ですが準備にはそれほど時間が掛からぬはずです」  アンドレとフィリップの口許に悲しげな笑みがよぎり、男爵の口が苦しげに歪んだために、その言い方はよした。タヴェルネ家の自尊心を傷つけてしまったに違いない。 「誤解なさってはいけません。わたしを喜ばせようというそなたたちの心持ちから判断したまでのこと。何なら、そう、四輪馬車を一台残しておきますから、後からいらっしゃい。司令官、手伝ってくれますね」  司令官が前に進み出た。 「タヴェルネ殿に馬車を一台用意して差し上げなさい。アンドレ嬢をパリに連れて行きます。誰かに命じて馬車に同伴させ、身内同然の者たちなのだと伝えなさい」 「只今。ボーシール、前へ」  鋭く智的な目をした二十四、五の若者が、しっかりした足取りで列から離れると、帽子を手にして前に進み出た。 「タヴェルネ男爵の馬車の護衛を命じる。馬車に同乗し給え」 「再びわたしたちと合流するまでお願いいたします。必要があれば替え馬の回数を増やしても構いません」  男爵と子供たちがひたすら感謝の意を表わした。 「急な出立ゆえ、迷惑を掛けたのではありませんか?」王太子妃がたずねた。 「殿下の仰せのままに」 「ではまた!」王太子妃が微笑んだ。「皆さん、車に!……フィリップ殿、馬に!」  フィリップは父の手に口づけし、妹を抱きしめてから鞍に跨った。  十五分後、王太子妃一行は前夜の雲のように慌ただしく、タヴェルネ邸の並木道から姿を消していた。残っていたのは、門敷居の上に坐っていた若者だけだった。青白く悲しげな顔をして、急ぎ足の馬たちが路上に立てる埃の跡が遠ざかってゆくのを、食い入るように見つめていた。  ジルベールだ。  その頃、アンドレと二人きり残されていた男爵は、今なお言葉を失ったままだった。  タヴェルネ邸の応接室で演じられたのは、奇妙な光景であった。  アンドレは両手を合わせ、思いがけない不思議な出来事の数々に思いを馳せていた。静かな日常に突如として舞い込んできた椿事に、夢でも見ているようだった。  男爵は白くなった眉毛の中から、長く曲がって飛び出ているのを何本か引き抜いたり、胸飾りをぐちゃぐちゃにしたりしていた。  ニコルは扉にもたれて主人たちを見つめていた。  ラ・ブリは腕を垂らし口を開けたまま、ニコルを見ていた。  初めに我に返ったのは男爵だった。 「ちんぴらめ!」とラ・ブリに向かって叫んだ。「銅像みたいに突っ立っとるが、あの紳士、親衛隊《メゾン・デュ・ロワ》の代理官殿が外でお待ちじゃぞ」  すぐにラ・ブリは戻って来た。 「旦那さま、あちらでございました」 「何をしてらっしゃった?」 「馬に吾亦紅《ワレモコウ》を食ませていらっしゃいました」 「邪魔してはならんぞ。して、馬車は?」 「並木道にございます」 「馬は繋がっておるか?」 「四頭とも。それは見事な馬でございました! 花壇の柘榴を食んでおります」 「王家の馬なら好きなものを食べる権利もあろう。ところで、魔術師殿は?」 「魔術師殿は、消えてしまいました」 「あれだけの用意をしておきながら、信じられんわい。また戻って来るか、代わりに誰か寄こしてくれるじゃろう」 「私はそうは思いません。荷馬車で出て行くのを見たとジルベールが申しております」 「ジルベールが?」と男爵は考え込んだ。 「はい、旦那さま」 「あの怠け者めが、すべて見ておったか。荷造りをせい」 「すべて終わっております」 「何じゃと?」 「はい。王太子妃殿下のご命令と同時に、旦那さまのお部屋に向かい、お洋服や下着を荷造りいたしました」 「いったいどうした気まぐれだ、抜け作め?」 「旦那さま! そうお命じになるだろうと予め愚考いたしたまででございます」 「痴れ者めが! ならばアンドレを手伝うがいい」 「大丈夫ですよ。わたくしにはニコルがいますから」  男爵はまたも考えに耽り始めた。 「ぼんくらの浅知恵じゃな。今の話にはあり得んことが一つあるわい」 「何でございましょう?」 「お前には考えもつかんじゃろう。何も考えておらんからだ」 「仰って下さい」 「妃殿下がボーシール殿に何もお命じにならずにお発ちになったり、魔術師殿がジルベールに一言も伝えずにいなくなったりするものか」  この時、庭から小さな口笛の音が聞こえた。 「旦那さま」とラ・ブリが言った。 「何だ!」 「お呼びの合図です」 「誰がじゃ?」 「あの方でございます」 「指揮官代理殿か?」 「はい。それから、ジルベールも何か言いたそうにうろうろしております」 「ではさっさと行くがいい」  ラ・ブリは常の如く素早くその言葉に従った。 「お父様」とアンドレが男爵に近づいた。「お父様が何をお悩みなのかはよくわかります。お父様、わたくしには三十ルイと、お母様がマリー・レクザンスカ王妃から賜ったダイヤつきの懐中時計があります」 「うむ、わかっておる。だが大事に仕舞っておけ。昇殿には立派な衣裳がいる……それまでにわしが金の算段をする。待て、ラ・ブリが来た!」 「旦那さま」入って来るなりラ・ブリが声をあげた。片手に一通の手紙を、もう片方の手に金貨を何枚か持っている。「旦那さま、妃殿下が賜れたのです、十ルイです! 十ルイございます!」 「それでその手紙は何だ、頓馬め?」 「そうでした! この手紙は旦那さま宛てでございます。魔術師殿からです」 「魔術師殿か。して、お前は誰から受け取ったのだ?」 「ジルベールでございます」 「言った通りではないか、惚け茄子めが。ほれ、さっさとよこすがいい!」  男爵はラ・ブリから手紙を引ったくり、大急ぎで開いて声に出さずに読んだ。 『男爵閣下。貴殿の家にある皿に御手を触れたからには、皿は貴殿のものです。出来たら大切に保管して、時には感謝をしていただければ幸いです。  ジョゼフ・バルサモ』 「ラ・ブリ!」考えたのは一瞬だけであった。 「はい?」 「バル=ル=デュックに良い金細工師はおらぬのか?」 「ございますとも! アンドレ様の銀杯を修理した方でございます」 「良かろう。アンドレ、妃殿下がお飲みになったコップを別にして、残りの食器は馬車に運ばせてくれ。それから唐変木めは、酒蔵に急いで、残っているワインを指揮官代理殿に振る舞って差し上げろ」 「一本しかございません」とラ・ブリは辛そうに答えた。 「それで用は足りるじゃろう」  ラ・ブリが立ち去った。 「よし、アンドレ」男爵は娘の両手を取って言った。「心配はせんでいい。宮廷に行こうではないか。あそこには空いている肩書や権利がごまんとある。運営すべき大修道院も山ほどあれば、聯隊長のいない聯隊もうなるほどあるし、眠ったままの年金も腐るほどある。宮廷とは太陽に照らされた美しい場所じゃ。お前も太陽から離れてはならんぞ。人前に出ても恥ずかしくない美しさなのだからな。さあ行け」  アンドレは男爵に顔を見せてから立ち去った。  ニコルがその後を追った。 「おい! 糞ラ・ブリめ」タヴェルネ男爵が最後に部屋を出た。「指揮官殿のお世話を忘れるなよ?」 「もちろんでございます」酒蔵の奥からラ・ブリが答えた。 「わしはな」自室に急ぎながら男爵は続けた。「わしは書類を整理しておく……半刻もせんうちに、こんな家からはおさらばしてるはずじゃ。アンドレ、聞こえるか!――遂にタヴェルネは救われた、しかも最高の手段でだ。あの魔術師殿は素晴らしいお人じゃわい! いや実際の話、奇跡も魔法も信じる気になった――ほら急がんか、ラ・ブリの阿呆め」 「旦那さま、何分にも手探りでございますから。城館の蝋燭が尽きてしまったのでございます」 「潮時だったか。そんな気がするわい」と男爵が言った。 第十七章 ニコルの二十五ルイ  その頃、部屋に戻ったアンドレは、旅立ちの準備を急いでいた。ニコルもそれを懸命に手伝っていた。ひたむきに取り組んでいれば、今朝のやり取りのせいで二人の間に立ち込めていた暗雲もたちまち何処かに吹き飛んでしまった。  それをアンドレはちらと見て、許す許さぬもないとわかって莞爾《にこり》とした。 「悪い子じゃないもの」と呟いた。「献身的で、義理堅くて。この世の人間に欠点はつきもの。忘れましょう!」  一方ニコルも、主人の顔色を見逃すような娘ではない。麗しく柔《にこ》い主人の顔に、好ましげな表情がどんどん作り上げられているのに気づいていた。  ――あたし馬鹿だった。ジルベールなんかのことで、お嬢様と仲違いするところだった。夢の都パリに連れて行ってくれるってのに。  急な傾斜をあっちこっちと転げ回る二つの愛情が、出会うはもちろん、出会ったうえにぶつからぬ方がどうかしている。  初めに口を開いたのはアンドレだった。 「レースを紙箱に入れてもらえる?」 「どの箱でございますか?」 「そう? なかったかしら?」 「ああ、お嬢様がくだすったんです。あたしの部屋に置いてあります」  そう言ってニコルは箱を見つけに駆け出した。その心遣いを見て、アンドレもこれまでのことはすっかり忘れてしまおうと心を決めた。 「でもその箱はあなたのだわ」戻って来たニコルを見てアンドレは言った。「あなたにだって必要でしょう」 「あたしなんかよりお嬢様の方が必要なんじゃありませんか。それに何だかんだ言ってもお嬢様のもので……」 「これから新しい家庭を築こうという時には、家具が足りないものよ。だからそれはあなたのもの。今のあなたにはわたくしよりも必要なんですから」  ニコルの顔が赤らんだ。 「婚礼衣装を仕舞う箱が要るでしょう」 「お嬢様!」ニコルはさも可笑しそうに首を横に振った。「あたしの婚礼衣装なんていくらでも仕舞えるし、そんなに場所も取りません」 「あらどうして? 結婚するのなら、幸せになりたいでしょう。それに裕福に」 「裕福にですか?」 「ええ。それなりに、ということだけれど」 「徴税人でも見つけてくれるおつもりですか?」 「まさか。そうではなく、持参金をつけてあげようと思うの」 「本当ですか?」 「お財布の中身は知っているでしょう?」 「はい、二十五ルイございます」 「そう! それはあなたのものよ、ニコル」 「二十五ルイがですか! でもそんな大金を!」ニコルが歓喜の声をあげた。 「心からそう言ってくれるのなら嬉しいわ」 「あたしに二十五ルイくださるのですか?」 「ええそうよ」  ニコルは息を呑み、遂に感極まって涙を流し、アンドレの手に口づけを注いだ。 「旦那さんも喜んでくれるわよね?」とタヴェルネ嬢が言った。 「ええ、きっと喜んでくれます。あたしはそう思ってます」  そう言ってニコルは考え始めた。ジルベールに拒絶されたのは、貧しさへの不安があったからに違いない。金持ちになった今は、野心に燃える若者には理想的な相手に見えるのではないだろうか。このお金を今すぐにでもジルベールに分けてあげよう。出来ることならお礼代わりにそばにいてもらいたいし、落ちぶれるようなことにはなってもらいたくもない。ニコルの思いつきには随分と気前のいいところがあった。だが意地の悪い解釈をするならば、この気前よさの裏側には高慢の小さな種、侮辱した者に仕返ししたいという無意識の願望があったのである。  だがこんな悲観的な考え方に対して、これだけは言っておかねばなるまい。断言してもいいが、今のニコルには、悪意よりも善意の方が遙かに勝っていた。  アンドレはそんなニコルを見つめて溜息をついた。 「無邪気な子! もっと幸せになれるでしょうに」  ニコルはこの言葉を耳にして身震いした。浅はかにも、絹とダイヤとレースと愛のエルドラドをぼんやりと思い描いたのだ。アンドレのように静かな生活こそ幸福だと考えている人間には、考えたことさえないものばかりだった。  それでもニコルは未来をよぎっていた金色と真紅の雲から目を逸らした。  躊躇っている。 「やっぱりお嬢様、あたしきっと幸せになります。ささやかな幸せですけど!」 「よく考えて」 「ええ、よく考えます」 「慌てないでね。あなたなりに幸せになるのはいいけれど、馬鹿な真似はしないことよ」 「わかってます、お嬢様。この際だから申しますけど、あたし馬鹿で屑同然のことしてしまって。でもお許し下さい、恋してる時って……」 「じゃあジルベールのこと、本当に愛しているのね?」 「はい、お嬢様。あたし……あたし、愛してました」 <「本当なのね!」とアンドレは微笑みを浮かべた。「どんなところを好きになったのかしら? 今度会った時には、心震わすジルベールをよく見ておかなくては駄目ね」  ニコルは疑念を拭い切れぬままアンドレを見つめた。こんな風に話しているけれど、完全な見せかけなのではないだろうか、それとも何処までも無邪気な人なのだろうか?  ――たぶんアンドレはジルベールを意識したことはないのだろう。ニコルはそう独り言ちた。でも、と再び考え直す。ジルベールがアンドレを意識していたのは確かだ。  思いつきを実行に移す前にあらゆる点をきちんと確かめておきたかった。 「ジルベールは一緒にパリには行かないんですか?」 「何のために?」 「でも……」 「ジルベールは召使いじゃないわ。パリの家を切り盛りすることも出来そうにないし。タヴェルネにいる遊民はね、庭木の枝や並木道の生垣でさえずる鳥のようなものよ。どんなに貧しくとも大地が養ってくれるわ。でもパリではお金がかかりすぎる。遊民一人を好きにさせておく余裕なんてないの」 「でもあたしと結婚したら……」ニコルは口ごもった。 「ああ! 結婚した暁には、二人してタヴェルネで暮らすといいわ」アンドレの言葉は揺るぎなかった。「母があんなに愛していた家ですもの、しっかり番をしておいて頂戴」  これにはニコルも仰天した。アンドレの言葉には些かなりとも含むところはなかった。ジルベールに対して底意も未練もないのだ。昨日の夜に選び取っていたものを別の人間に売り渡している。わけがわからない。  ――たぶん貴族のお嬢さん方はみんなこうなんだ。アノンシアードの修道院にはつらい時でも深く悲しんでいる人なんてほとんどいなかったのはそのせいだったのか!  アンドレにも、どうやらニコルが躊躇っているのはわかった。華やかなパリに憧れる気持と静かで平穏なタヴェルネで慎ましく暮らしたい気持に板挟みされて、どうやら心が宙ぶらりんになっていることも見抜いた。現にアンドレは優しいがしっかりした声で言った。 「ニコル、あなたがこれから決めることは、一生を決めることになるんですから、よく考えて。まだ考える時間はあるのよ。一時間では足りないかもしれないけれど、結論は出してくれるものと信じてます。使用人か夫か、わたくしかジルベールか。既婚者に世話を頼むつもりはありません。家庭の秘密など聞きたくはありませんから」 「一時間ですか、お嬢様! たった一時間!」 「一時間です」 「わかりました。そうですね、それで充分です」 「じゃあ服をまとめて頂戴。お母様の服も忘れないで。大切にしているものなんですから。その後で決意を聞かせて頂戴。どちらの答えを選んだとしても、二十五ルイはあなたのものです。結婚を選ぶのなら持参金。わたくしを選ぶのなら、給金二年分」  ニコルはアンドレの手から財布を受け取り、口づけした。  与えられた時間を一秒たりとも無駄にする気はなかったのだろう。ニコルは部屋を飛び出すと、大急ぎで階段を駆け降り、中庭を横切って並木道に姿を消した。  アンドレはそれを見送りぽつりと呟いた。 「可哀相な子、幸せになれたらいいけど! 人を好きになるのはそんなに心地よいものなのかしら?」  五分後、なおも時間を惜しんで、ニコルはジルベールの住んでいる一階の窓を叩いた。もったいなくもアンドレからは遊民の称号を、男爵からは怠け者の称号を賜った男である。  ジルベールは並木道に面したこの窓に背を向け、部屋の奥で何やらせわしなくしていた。  窓ガラスを叩くニコルの訪いを耳にして、現場を押さえられた盗っ人の如くびくりとして作業を止めると、ばね仕掛けも斯くやとばかりの勢いで振り向いた。 「ああ、何だ、ニコルかい?」 「ええ、またあたし」ニコルは窓越しに、思い詰めたような微笑みを浮かべていた。 「うん、入って」そう言ってジルベールは窓を開けた。  出だしはまずまずだと感じながら、ニコルは手を伸ばした。ジルベールがそれを取った。  ――ここまではいい感じ。さよなら、パリ!  なかなかたいしたことに、ニコルはこう考えた時も溜息一つをついただけであった。 「ねえジルベール」と娘は桟に肘を突いて切り出した。「みんなタヴェルネからいなくなっちゃうの、知ってるでしょ」 「うん、知ってるよ」 「行き先は?」 「パリだろう」 「あたしが行くことも知ってた?」 「いや、初めて知ったよ」 「それで?」 「それで? おめでとう。よかったじゃないか」 「何て言ったの?」 「よかったじゃないか、って。難しいことを言ったつもりはなかったよ」 「よかったけど……場合によるの」 「君の方は何が言いたいんだい?」 「いいかどうかはあなた次第ってこと」 「わからないな」ジルベールが桟に腰掛け、ニコルの腕に膝が当たるくらいの恰好になった。頭上には昼顔と金蓮花の蔓が絡み合っているので、これで人からあまり見られずに話を続けられる。  ニコルが愛おしげにジルベールを見つめた。  ところがジルベールは首と肩をすくめ、話どころかその目つきもよくわからないねと言いたげな素振りを見せた。 「あのね……大事な話があるの。聞いてくれる?」ニコルが再び口を開いた。 「聞いてるよ」とジルベールは素っ気ない。 「お嬢様からパリにお供するよう言われたの」 「よかったね」 「もし……」 「もし?……」 「もし、結婚してここで暮らすんじゃなければ」 「君はまだ結婚するつもりでいるのか?」ジルベールはことともしない。 「ええそうよ、何しろお金があるんだから」 「お金があるって?」ニコルの期待を裏切るような落ち着きようだった。 「ええとっても」 「嘘じゃないね?」 「ええ」 「どんな奇跡が起こったんだい?」 「お嬢様からいただいたの」 「すごいじゃないか。おめでとう、ニコル」 「ほら」ニコルは掌に二十五ルイを滑らせた。  そうしておいて、ジルベールの目に歓喜の色やせめて貪婪な光がないかと見つめていた。  ジルベールは眉一つ動かさない。 「凄いや! 大金じゃないか」 「まだあるんだから。男爵様もお金持ちになるの。メゾン=ルージュも再建され、タヴェルネも修復してもらえる」 「きっとそうだろうね」 「そうなったら城館の管理がいるでしょう」 「そうだろうね」 「そうなの! お嬢様はそれをあたしに……」 「おめでたいニコルの旦那さまを管理人にしようって腹か」今回は耳ざといニコルにはわかるほど皮肉を露わにした。  それでもニコルは我慢した。 「おめでたいニコルの旦那さま、ね。誰のことだかわかってるでしょ?」 「何が言いたい?」 「あら、頭が悪くなったの? それともあたしのフランス語のせい?」いい加減お芝居には嫌気が差して、ニコルは声を荒げた。 「ちゃんとわかってるさ。僕に夫になれというんだろう、ルゲさん?」 「ええそう、ジルベールさん」 「お金が出来たからなんだね」とジルベールは急いでつけ加えた。「いまだにそんなこと思ってるのは。そりゃあ、ありがたいとは思ってるよ」 「ほんとう?」 「まあね」 「だったらほらどうぞ」躊躇いはなかった。 「僕に?」 「貰ってくれるでしょ?」 「断る」  ニコルは飛び上がった。 「もうわかった。心の冷たい人だよね、違った、心じゃなく頭だったっけ。いいこと、そんなことしても不幸になるだけだよ。あたしがまだあんたのこと好きで、誇らしさや誠実さとは別の気持で今みたいなことしたんだと思ってみてよ。傷つくじゃない。でもよかった! お金が出来た途端にニコルはジルベールを見下したとか、ひどいこと言って苦しめたとか、言われたくはなかったもの。ジルベール、あたしたちもう何もかも終わったの」  ジルベールの反応は冷やかだった。 「あなたのことどう思ってるか、わかってるでしょ。あたし決めてたんだよ。わかってるでしょ、あなたと同じくらい自由でわがままなあたしが、ここに骨を埋めようと決意してたんだから。パリが待ってるのに! 晴れの舞台が待ってるのに! わかる? 一日中、一年中、一生の間、穏やかな顔を変えもせずに、嫌な気持は仕舞っておこうと決めていたんだから! 尽くしてたの。わかんなかったでしょ、駄目な男。後で悔やんで欲しいなんて言わない。今日のこの日あんたに拒まれたあたしがこれからどうなるか、気を揉みながら見届けて自責に駆られればいい。また貞淑な女にも戻れたのに。崖っぷちで止めてくれる救いの手なんてなかった。よろめいて、足を滑らせて、後は転がり落ちるだけ。大声で叫んでたのに。『助けて! 誰か止めて!』って。あんたはそれを突き放した。ジルベール、あたし転がり落ちてる、どん底に落ちてる、落ちるところまで落ちてる。あんたにも罪があることは神様ならご存じだわ。さよなら、ジルベール。さよなら」  良く出来た人のように、心の奥底に仕舞い込んでいた余裕をようやく引っぱり出すと、怒りも苛立ちも見せず、傲然としてきびすを返した。  ジルベールは静かに窓を閉めておんぼろ部屋に戻ると、ニコルが来るまで携わっていた何かの作業に舞い戻った。 第十八章 タヴェルネよさらば  ニコルは主人のところに戻る前に、階段の上で立ち止まり、身体の中で渦巻いている怒りの声をどうにか抑え込んだ。  そこに男爵が現れて、じっと動かず手に顎を乗せ眉を寄せて考え込んでいるニコルを目にするや、忙しいさなかにもかかわらず、これは可愛いと頭から思し召し、三十歳のみぎりにリシュリュー殿が賜ったような口づけを授け給うた。  男爵のお戯れにすっかり目の覚めたニコルが部屋に飛んで帰ると、アンドレはいましも小箱を閉め終えたところだった。 「あら」タヴェルネ嬢が言った。「さっきのことは……?」 「よく考えました」ニコルはきっぱりと答えた。 「結婚するつもり?」 「いえ、しないことにしました」 「そう。大好きだったのではないの?」 「お嬢様のご親切よりほかに大事なものなんてありません。あたしはお嬢様にお仕えしてますし、これからもずっとお嬢様にお仕えしたいんです。|ご主人《アンドレ》様のことならよくわかってます。主人《おっと》のこともちゃんとわかるようになれるとは思えないんです」  この打ち明け話にはアンドレも心を打たれた。よもやあのニコルがとは思いも寄らなかった。言うまでもなく、当のニコルにとってお嬢様は二の次だったことなど知るよしもない。  ここまでいい娘だったことに感激して、アンドレは微笑んだ。 「そんなに思ってくれていたのね。忘れないわ。あなたの面倒はわたくしが見ます。幸運が訪れた時には二人で分かちましょう。約束よ」 「もう迷いません。あたしお嬢様について行きます」 「悔いはない?」 「盲従します」 「そんな答えは聞きたくないわ。盲従させられたと言って責められる日が来て欲しくはないですから」 「自分のほかは誰も責めたりなんかしません」 「旦那さんは納得してくれたの?」  ニコルは赤面した。 「え?」 「ええ、そうよ。二人で話して来たんでしょう?」  ニコルは口唇を咬んだ。ニコルの部屋はアンドレの部屋と同じ側に面していたから、この部屋の窓からジルベールの部屋の窓が見えることもよくわかっていた。 「仰る通りです」とニコルは答えた。 「それで、伝えたの?」 「伝えました」ニコルはアンドレが何の話をしているのか気づいたつもりになり、恋敵のこの失策のせいで先ほどまでの疑いがまたもや頭をもたげて来たために、出来る限り返答には反感を込めてやろうとした。「伝えました。もうあんたなんか知らないって」  わかり切ったことだった。一人はダイヤのように純粋で、一人は根っからの性悪。この二人の娘がわかり合えるはずもない。  棘のあるニコルの言葉もアンドレには以前として美辞麗句も同然だった。  その間に男爵は荷物をまとめ終えていた。フォントノワを共にした古びた剣、陛下の馬車に乗る権利を証明する羊皮紙、『ガゼット』紙の束、そして書類の山が一番の荷物であった。ビアスのように一切合切を抱え込んで運んでいた。  ラ・ブリが汗だくになって、中身がすかすかの大型トランクに押しつぶされそうにして歩いて来た。  並木道の指揮官代理はと見れば、支度を待つ間に、壜の中身を最後の一滴に至るまで空けていた。  このドン・ファン殿はニコルの柳腰や脚線美に目を奪われた挙句、泉水と西洋栃《マロニエ》の間をうろつき回り、茂みの下でちらと姿を見せたかと思う間もなく姿を消してしまったこの別嬪を、また目にしたいものだと考えていた。  ボーシール氏はそもそも任務に就いていたのであり、馬車を請う男爵の声にはっと我に返った。飛び上がってタヴェルネ男爵に挨拶すると、大声で馭者に命じて並木道に馬車を入れた。  四輪馬車が入って来た。ラ・ブリは言いしれぬほどの喜びと誇りを綯い交ぜにして、大型トランクを馬車バネの上に置いた。 「まさか国王の馬車の中にお邪魔できるとは」ラ・ブリは感激に我を忘れ、てっきり一人きりのつもりで呟いていた。 「中じゃなくて後ろだがね」ボーシールがしたり顔で笑みを見せて混ぜっ返した。 「あら、ラ・ブリも連れて行くのですか」アンドレが男爵にたずねた。「いったい誰がタヴェルネの世話を?」 「ふん! 怠け者の哲学者がおろうが!」 「ジルベールが?」 「まあな。銃を持っていなかったか?」 「でもどうやって食べて行くのです?」 「銃があるじゃろう! それに料理は出来るから心配いらん。鶫《ツグミ》や黒歌鳥《クロウタドリ》ならタヴェルネには掃いて捨てるほどおる」  アンドレはニコルを見つめた。ニコルは笑い出していた。 「それが同情の仕方なの? 何て子かしら!」 「とんでもないです! お嬢様、ジルベールはとっても上手いんですから。飢え死にしたりはしませんから安心して下さい」 「ジルベールに一ルイか二ルイやらなくては」 「甘やかすためか。ふん! もう充分に堕落しておるというのに」 「生きるためにです」 「喚けば食べさせてもらえるじゃろう」 「気にしないで下さい、お嬢様。ジルベールは喚いたりしませんから」 「とにかく、三、四ピストール渡しておいて」 「きっと受け取りませんよ」 「受け取らないですって? 随分と気位が高いのね、あなたのジルベールは」 「お嬢様、もうあたしとは何の関係もないんです!」 「わかった、わかった」どうでもいい話に辟易して、男爵が割って入った。「もうよい、ジルベールなど! 馬車が待っておるから乗りなさい」  アンドレは口答えせず、城館に一目別れを告げてから、どっしりとした馬車に乗り込んだ。  タヴェルネ男爵が隣に腰を下ろした。ラ・ブリはいつものお仕着せ姿で、ニコルはジルベールになど会ったことがないとばかりに、腰掛に着いた。馭者が馬に跨った。 「そうすると司令官殿はどうなさるおつもりです?」タヴェルネ男爵が大きな声でたずねた。 「本官は馬で参ります、男爵殿」ボーシールはそう答えてニコルを盗み見た。礼儀知らずの百姓に代わって早くも粋な騎士が現れたことに感激して、ニコルは顔を赤らめた。  やがて馬車は四頭の逞しい馬に牽かれて動き始めた。並木道の――アンドレが親しんでいた並木道の木々が、住人たちに最後の別れを告げようとでもするように、東風に吹かれて悲しげに傾ぎながら、馬車の両側を滑るように一つまた一つと視界から消えて行った。正門に差し掛かった。  そこにはジルベールが身動きもせずに立っていた。帽子を手に、目は虚ろだがそれでもアンドレのことを見ていた。  アンドレは反対側の扉に身体を押しつけ、慣れ親しんだ家を少しでも長く目に焼きつけておこうとしていた。 「ちょっと止めてくれ」タヴェルネ男爵が馭者に向かって声をあげた。  馭者が馬を止める。 「これは怠け者殿。元気でやってくれたまえ。これで正真正銘の哲学者に相応しく、一人きりじゃな。何をするでもなし、小言を喰らうでもなし。せいぜい眠っている間に火を出さんように気をつけてくれ。それとマオンの世話も忘れずにの」  ジルベールは無言のまま頭を垂れた。ニコルの目つきが耐え難いほどに重くのしかかって感じられた。怖くて見ることが出来なかった。勝ち誇って当てこするようにしている少女を見るのが、焼きごての痛みを恐れるのと同じくらい怖かった。 「出してくれ!」タヴェルネ男爵が怒鳴った。  ジルベールが怯えているのを見ても、ニコルは笑わなかった。それどころか、パンも未来も慰めもないまま見捨てられた青年をあからさまに憐れんだりしないようにと、ひとかたならぬ力を振り絞らねばならなかった。馬の向きを変えたボーシールの整った顔を見つめていなければならなかった。  詰まるところニコルがボーシールを見つめていた以上、ジルベールがアンドレを凝視しているのをニコルが目にすることはなかった。  アンドレが涙を浮かべ見つめていたのは、自分が生まれ母が死んだ家だけだった。  とうとう馬車はタヴェルネを出た。先刻からとうに相手にされていなかったジルベールは、もはや存在しないも同然だった。  タヴェルネ男爵、アンドレ、ニコル、ラ・ブリは、邸の門を越えて新しい世界に足を踏み出したところであった。  一人一人が胸に思いを抱いていた。  男爵は、バル=ル=デュックでならバルサモのくれた金器は軽く五、六千リーヴルになるだろうと値踏みしていた。  アンドレは、傲慢や野心に絡み取られぬように、母から教わった祈りを小さく唱えていた。  ニコルはショールをかき合わせた。ボーシール殿からすれば風がもうちょっと吹いて欲しかったくらいだったのだが。  ラ・ブリはポケットの奥で王太子妃の十ルイとバルサモの二ルイを数えていた。  ボーシールは馬を襲歩《ギャロップ》で走らせていた。  ジルベールがタヴェルネの大門を閉めると、油を差していない門扉はいつものようにぎいぎいと呻きをあげた。  次にジルベールは小さな自室に駆け込み、楢《オーク》の箪笥を開くと、その奥からしっかりとくるまれた包みが現れた。ハンカチでくるまれたその包みの結び目を、山茱萸《サンシュユ》の杖の先に引っかけた。さらには粗末な簡易寝台から干し草のマットレスを引きはがし、それを引き裂いた。すぐに両手に触れた畳まれた紙をつかみ出した。紙包みの中には、ぴかぴかに輝く六リーヴル=エキュ貨があった。ジルベールが三、四年かけて貯めたものであろう。  包みを開いて中身が化けてやしないか確かめるかのようにじっくり見つめてから、紙にくるんだままでキュロットのポケットに突っ込んだ。  マオンがわうわうと吠えながら、鎖をぴんと張って暴れていた。家族に次々と見捨てられ、今度はジルベールにも見捨てられることを、本能的に悟って訴えているのだ。  吠え声はますます大きくなった。 「黙るんだ、マオン!」  途端にその好対照に気づいて苦笑した。  ――僕は犬みたいに捨てられたんじゃなかったっけ? だったらお前も人間みたいに捨てられたっておかしくないだろう?  もう一度よく考えてみた。  ――少なくとも自由にはしてくれた。望み通りの暮らしを見つける自由をもらったんだ。そうか! だったらマオン、お前にもおんなじことをしてやらなくちゃな。  ジルベールは犬小屋に駆け寄り、マオンの鎖をはずした。 「これでお前も自由だぞ。望み通りの暮らしを見つけに行け」  マオンは邸めがけて突進したが、扉が閉まっているのを知ると、今度は城跡に向かって駆け出し、茂みの中へ見えなくなった。 「さあ、犬と人間、どちらの本能が優れているかな」  こう言ってジルベールは副門を出て、鍵をしっかりと掛けると、城壁越しに泉水まで放り投げた。石を投げるのなら百姓にはお手のものだ。  けれども、心に生じた時こそ起伏に乏しかった感情にも、胸に届く頃には変化が訪れ、タヴェルネを離れるに従ってジルベールもアンドレと同じような気持になっていた。ただし、アンドレの場合それは過去への郷愁だったが、ジルベールの場合それは明るい未来への希望だった。 「お別れだ!」そう言ってもう一度だけ城館を振り返った。無花果《シカモア》の葉と金鎖《キングサリ》の花に覆われた屋根が見えた。「もう会うことはないね。あんなに辛くて、みんなから嫌われて、パンを放られては泥棒となじられていた、こんな家とはおさらばなんだ! 嬉しくってしょうがないよ。自由なんだ、閉じ込めていた壁ももうない。牢獄よ、さようなら! さよなら、地獄! 暴君の巣! さらば、永久にさよならだ!」  こうしてジルベールは、あまり詩的とは言えぬが充分に意味は伝わる呪詛を吐いた後で、今もまだ遠くに響く馬車の音を追って飛び出したのである。 第十九章 ジルベールのエキュ銀貨  半時間ほどひた走った頃、ジルベールは歓喜の叫びをあげた。四半里ほど先に、並足で坂を登る男爵の馬車が見えたのだ。  紛れもない誇りが湧き上がってくるのを自分でも感じていた。あるのは若さと体力と智力。ただそれだけで富と権力と階級に追いついたのだから。  タヴェルネ男爵なら路上でこうしたジルベールを見て哲学者呼ばわりしたかもしれない。杖を手にして、小さな荷物をボタン穴に引っかけ、急ぎ足でずんずん進み、距離を稼ごうと坂を越えたかと思えば、登るたんびに立ち止まり、得意になって馬に話しかけていた。 「ちょっと遅いんじゃありませんか。僕の方がそっちを待っているくらいだ」  哲学者! さよう、楽しみを否定し、安易さを拒むことを哲学と呼ぶのであれば、まさしくその通りだった。確かにジルベールは腑抜けた生き方には染まっていなかった。だが如何ほどの人間が愛にふやけさせられずにいられようか!  いや実際見事な光景であった。精力と智力に恵まれた人間の父たる神にこそ相応しい光景であった。ジルベールは埃にまみれて顔を上気させ、馬車に追いつこうと一刻ほども走り続けた果てに、馬がへとへとになっているのを見て大喜びで一服していた。我々と同じように目と心に寄り添って後を追うことの出来る者なら、この日のジルベールには感嘆の念を抱くほかなかっただろう。ことによるとあのアンドレとても、これを見たら心を動かされやしなかっただろうか? 怠け者だからと冷淡な態度を取ってはいたものの、この行動力を見れば打って変わって尊敬を抱いたりはしなかっただろうか?  一日目の昼はこのようにして過ぎた。男爵はバル=ル=デュックに一時間も留まり、追いつくどころか追い越す時間までジルベールに与えてくれた。金細工師のところに立ち寄るようにという指示を聞いていたので、ジルベールは町を一巡りして、馬車が来たのを目にすると藪に飛び込んでやり過ごし、またも追いかける側に戻った。  夕方頃には男爵の馬車もブリヨンの村で王太子妃の馬車に追いついた。村人たちが丘の上に集まり、歓喜の叫びと幸運を願う声をどよめかせていた。  その日を通してジルベールはタヴェルネから持ち出したパンしか口にしていなかったが、その代わり道を横切る綺麗な小川から水をたらふく飲んでいた。川は冷たく澄み、クレソンと黄睡蓮に彩られていた。アンドレは馬車を停めてわざわざ降り立ち、王太子妃の金器で水を汲んだ。これだけは売らずにほしいと男爵に頼んでいたのだ。  道路脇の楡に隠れて、ジルベールは何もかも見ていた。  そういうわけだから馬車の一行が立ち去るや、ジルベールはその場所に向かって歩いていた。アンドレが上っていた土手に足を踏み入れていた。タヴェルネ嬢が喉の渇きを癒したばかりのその流れに、ディオゲネスのように手を入れて、水を飲んだ。  やがて渇きが癒えると、再び走り出した。  ジルベールには一つだけ懸念があった。王太子妃は途中で宿を取るだろうか。宿を取るのであれば――その可能性は充分にある――タヴェルネで変調を訴えていたからには、休息が必要なのは確かだろう――王太子妃が宿を取るのであれば、ジルベールとしては大助かりだ。この分なら恐らくサン=ディジェで車を停めるはずだ。納屋で二時間も眠れば充分だ。強張りかけていた足の痺れも取れるだろう。二時間経ったら旅を再開すればいい。一晩かけて少しずつ足を運べば、五、六里は縮まるはずだ。歳は十八、五月の良夜、足を運ぶには申し分ない。  夕暮れが訪れ、刻々と押し寄せる闇が地平線を浸食し、やがてその闇はジルベールのいる小径上にも及んだ。もはや馬車の在処を示すものは、左につけた大きなランタンだけ。その光に路上が照らされていると、白い幽霊が怯えながら道の裏を走っているように見えた。  夕暮れが終わり、夜が来た。ここまで十二里を走ってコンブルに到着した。どうやら馬車が停まったようだ。やはり天は我にあり。ジルベールはそう思い、アンドレの声を聞こうと近づいて行った。四輪馬車は依然としてそこにあった。ジルベールは大門の陰に潜り込んだ。光に照らされたアンドレが見え、時刻をたずねるのが聞こえた。「十一時です」。もはやジルベールに疲れはなかった。馬車に乗るよう誘われても笑って拒んだはずだ。  想像力豊かな焼けつくような目には、既に金色に輝くヴェルサイユが見えていた。ヴェルサイユ。貴族と王たちの都。そしてヴェルサイユの向こうには、暗く翳る広大なパリ。人民の都パリが。  気の晴れるようなその空想と引き替えろと言われても、ペルーの黄金一片たりとも受け取らなかったはずだ。  二つのものがジルベールを夢想から引き剥がした。馬車が音を立てて動き出し、路上に置き忘れられた犂にぶつかり大きな音がした。  同時に胃袋も空腹を叫び始めた。 「お金があってよかった」  ご存じの通りジルベールには一エキュがあった。  真夜中まで、馬車は走り続けた。  真夜中、馬車はサン=ディジェに到着した。宿を取ってくれとジルベールが願っていた場所だ。  十二時間で十六里も走っていたのだ。  ジルベールは溝の外れに坐り込んだ。  ところがサン=ディジェでは馬を替えただけであった。鈴の音が再び遠ざかってゆくのが聞こえた。件の旅人たちは明かりと花に囲まれて喉の渇きを癒しただけだったのだ。  ジルベールは気力を振り絞らなければならなかった。十分前には足が萎えていたことなど忘れようと、足に再び力を込めた。 「さあ、進め、進むんだ! あとちょっとで僕もサン=ディジェに到着だ。そうしたらパンと脂身を買うぞ。ワインも一杯飲もう。五スー使ってしまえ。その五スーで『ご主人方』より元気になれるんだ」  ジルベールがこの「ご主人」という言葉を、いつものように大げさに口にしたことは、その口調がどういうものかを明らかにするためにも是非ともはっきりさせておこう。  ジルベールは予定通りサン=ディジェに足を踏み入れた。王太子妃一行が通り過ぎてしまったので、住民たちも窓や扉を閉め始めていた。  哲学者殿は見映えのよい宿屋を見つけた。夜中の一時だというのに女中は一張羅で着飾り、下男も晴れ着を着てボタン穴に花を挿している。花柄の大きな陶製皿に鶏肉が盛られ、腹を空かせた随員たちがそこから莫大な十分の一税を取り立てていた。  ジルベールは思い切ってその宿屋に足を踏み入れた。鎧戸の閂が掛け終えられたところだったが、身体を屈めて調理場に足を運んだ。  そこに女将がいて、警戒怠りなく売り上げを数えていた。 「お邪魔します。パンとハムを一切れいただきたいのですが」 「ハムはないよ。鶏肉はいらないかい?」 「いりません。ハムが欲しいからハムを頼んだんです。鶏肉は苦手なので」 「そいつぁ困ったね。ここにゃあそれしかないんだよ。でもいいかい」と女将はにっこり笑った。「鶏肉ならハムほど高くないんだけどね。半分、いや十スーで丸ごと持ってきな。それで明日のご飯にはなるだろ。妃殿下は代官殿のところにお泊まりになるだろうと思ってたからさ、お供の方たちに売りたかったんだよ。ところが妃殿下は通り過ぎちまった。在庫はぱあさ」  うまい話だし、女将はいい人だし、立派な食事にありつける絶好の機会を逃すはずはないとお思いだろうが、ジルベールの性格をお忘れではないだろうか。 「ありがとうございます。でも必要なだけで結構です。僕は王様でも従僕でもありませんから」 「だったらやるよ、謹厳居士さん。神のご加護がありますように」 「僕は乞食でもありません」ジルベールはむっとして答えた。「お金は払います」  その言葉を証明するように、厳かにキュロットのポケットに手を入れ、すっぽり肘まで突っ込んだ。  ところがジルベールは真っ青になった。ポケットをくまなく捜しても捜しても、出て来たのは六リーヴル=エキュ貨を包んでいた紙だけであった。走っているうちに古くてよれよれの包みは擦り切れ、着古されたポケットの布にも穴が空き、とうとうエキュ銀貨はキュロットから滑り落ちて、留め金の外れた靴下留めから外に飛び出していたのだ。  少しでも足を楽にしようと思い、靴下留めを外していたのである。  エキュ銀貨は道の上だ。恐らくはジルベールをあれほど喜ばせた小川のほとりだろう。  この哀れな青年は、掌一杯の水に六フラン支払ったことになる。それはそうと、ディオゲネスが茶碗など無益だと悟った時には、穴の空くようなポケットも失くすようなエキュ銀貨も持ってはいなかったのだ。  恥ずかしさのあまりジルベールが真っ青になって震えるものだから、女将の方が心配になった。これがほかの者であったなら、思い上がった若造に罰が当たったのを見て溜飲を下げたことだろう。だがこの女将は、動顛した若者が顔色を変えて苦しんでいることに耐えられなかった。 「ほらほら、ここでご飯を食べて泊まってきな。どうしても出かけるっていうんなら、明日になってから旅を続ければいい」 「そうだ、出かけなくちゃ! 明日じゃ駄目なんです。今すぐに出かけなくては」  耳を貸そうともせずに荷物をひっつかみ、恥ずかしさと苦しみを闇に紛らせようと、外に飛び出した。  鎧戸は閉まっていた。村からは明かりがすっかり消え、昼間に思う存分吠えていた犬たちも吠えるのをやめていた。  ジルベールは一人きりだった。誰よりも一人きり。何しろ、最後の銀貨一枚とお別れして来たばかりの人間ほど孤独な者などいやしまい。ましてやこれまでの生涯で手にしたことのある銀貨はその一枚きりだったのだ。  闇が辺りを覆っていた。どうすればいい? ジルベールは躊躇った。銀貨を捜しに元来た道をたどっても、見つかるかどうか定かではない。捜しているうちに、永遠とまでは行かずともかなりの時間を費やし、追いつけないほど馬車から引き離されてしまいかねない。  決めた。走り続けよう、追跡に戻ろう。ところが一里も進んだところで飢えに襲われた。精神的なダメージのおかげで一時は飢えも和らいだ、というよりも、気にせずに済んでいたのだが、必死で駆けたせいで血の巡りが戻り、かつてないほどの凄まじい空腹感を目覚めさせてしまった。  それと同時に、飢えとは切っても切れない疲労も、ジルベールの手足を侵し始めた。粉骨砕身の末にようやく馬車に追いついたものの、まるで罠にでも嵌った気分だった。馬車は馬を替えるために停まっただけで、それも大急ぎでおこなわれたので、哀れな旅人は五分も休む暇を取れなかった。  それでも先を目指した。朝の光が地平線から覗き始めた。帯のように広がる薄暗い靄の上に、太陽が燦然と輝き、天を司る威厳に満ちた顔を現した。夏をふた月も先取りした、焼けつくような五月の一日になるであろう。果たしてジルベールは真昼の暑さに耐えられるや否や?  馬も人も神そのひともぐるなんだ。ちょっとだけそう思えば自尊心は慰められた。だがジルベールは、アイアースのように、拳を天に突き上げた。アイアースのように「神々であろうと俺に手を出せぬのだ」と言わぬのは、オデュッセイアのことを社会契約論ほど知らなかったからに過ぎない。  恐れていた通り、力及ばず苦境に立つ瞬間がやって来たのだ。無力と自惚れがぶつかり合う、恐怖の瞬間だった。ジルベールの気力が、いつしか絶望の力に裏書きされた瞬間だった。最後の力を奮い立たせ、姿を消していた馬車を追いかけると、充血した目のせいで異様な色に染まった砂埃の向こうに、再び馬車が見えたのである。耳に響く馬車の轟きが、どくどくと脈打つ血液の音と混じり合った。口は開き、目は動かず、髪は汗で額に貼りつき、まるで人間そっくりに作られたもののぎこちなさとかたくなさの目立つからくりのようだった。前夜から数えれば、もう二十里か二十二里は走っていた。ついに来た。足が萎え、立っていることも出来なかった。目の前の景色ももはや見えない。耳も聞こえない。大地が揺れ、めくれたように思えた。叫ぼうとしたが声は出なかった。倒れる! そう思い、こらえようとして気違いのように腕を振り回した。  ようやく声が戻った。悔しさと怒りの混じった叫びが喉からほとばしった。パリに向かって、正確に言えばパリに違いないと思う方向に向かって、自分の気力と体力を上回っていた者たちに激しい罵声を浴びせた。自覚はあった。だから慰めにはなった。古代の英雄のように死の間際まで戦ったのだ。  力つきて倒れながらも、両の眼はかっと見開き、両の拳はぐっと握り締めていた。  やがて目は閉じ、力も抜けた。ジルベールは気を失った。 「糞ッ! 危ねェ!」ジルベールが倒れた瞬間、しゃがれた叫びと共に鞭の鳴る音がした。  だがジルベールには聞こえない。 「危ねェってのが! 轢き殺されてェのか!」  鞭がしなり、力強く打ちつけられた。  よくしなる鞭の革紐がジルベールの腰に食い込んだ。  だがジルベールはもはや何も感じることもなく、馬の脚許に倒れたままだった。この馬はティエブルモンとヴォクレールを結ぶ本通りまで、間道を通って来たのであるが、錯乱していたジルベールは、その姿にも音にも気づかなかったのだ。  嵐に飛ばされた羽根のように馬に牽かれて来た馬車から悲鳴が聞こえた。  馭者の超人的な努力にもかかわらず、先頭の馬がジルベールを跨ぎ越えるのを避けることは出来なかった。だが後ろの二頭は何とかそれより手前で止めることが出来た。婦人が一人、馬輿から身を乗り出し、恐ろしげな声をあげた。 「ああ! 轢かれてしまったの?」 「さいですな!」馬の脚で巻き上げられた砂塵越しに、馭者はそれを確かめようとした。「どうやらそんな気がいたします」 「可哀相に! 進んじゃ駄目よ。止めて頂戴!」  乗っていた婦人が扉を開けて馬車から飛び降りた。  馭者は既に馬の下に潜り、血塗れで息絶えているに違いないジルベールの身体を、車輪の間から引き出そうとしていた。  ご婦人も力の限り馭者に手を貸した。 「悪運の強ェ野郎だ! かすり傷一つ、打ち身一つねェや」 「でも気を失ってるじゃない」 「吃驚したんでしょうな。お急ぎのようですから、そこの溝に寝かせて、行くとしましょうか」 「馬鹿言わないで! こんな状態の子を放っておける?」 「はあ。何ともありませんよ。ひとりでに気づきますって」 「駄目よ、駄目。こんな若くて可哀相な子! 学校から逃げ出して、限界まで旅を続けようとしたのね。こんなに顔色が悪くちゃ、死んじゃうわよ。駄目駄目、放っておくもんですか。馬車に運んで、前シートに乗せて頂戴」  馭者は言われた通りにした。ご婦人は既に馬車に戻っていた。ジルベールは柔らかいクッションに横たえられ、四輪馬車のふかふかの壁に頭をもたせかけられていた。 「だけど十分も時間を食っちゃったわね。これから十分稼いでくれたら一ピストール出すわ」  馭者が鞭を頭上で鳴らすと、この威圧的な合図の意味を先刻承知の馬たちは、全速力で走るのを再開させた。 第二十章 今やジルベールはエキュ硬貨を失くしたことをそれほど気に病んではいないこと  数分後、意識を取り戻したジルベールは、言うなれば自分が若いご婦人の膝の上に横たわり、あまつさえそのご婦人から心配そうに見つめられていることに気づいて、少なからぬ驚きを禁じ得なかった。  それは二十四、五歳のご婦人だった。大きな灰色の瞳、反り気味の鼻、頬は南国の陽に焼かれている。移り気で神経質そうな形の小さな口が、明るく開放的な顔立ちに抜け目のなさそうな表情を与えていた。驚くほどに綺麗な腕が、金釦付きの紫天鵞絨の袖口の中にひとまず収められている。大きな花模様のついた灰色の絹スカートが、馬車一杯に波打って広がっていた。――というわけでジルベールは、こうした諸々のことにもやはり驚いたまま、自分がいるのは早駆けする三頭の駅馬に牽かれた馬車の中だということに気づいたのである。  ご婦人が微笑みを浮かべて好奇心を注いでいるのを見て、これがまさか現実だとは思えずにまじまじと見つめてしまった。 「気づいたのね!」一瞬息を呑んだ後、婦人がたずねた。「悪いところはない?」 「ここは何処です?」ジルベールは、かつて小説で読んだことのある台詞、しかもまず小説でしかお目にかかることのない台詞を、絶好のタイミングで口にした。 「もう大丈夫」婦人の言葉には明らかな南仏訛りがあった。「だけどさっきはもう少しで轢かれるところだったんだから。あんなふうに道の真ん中で倒れるなんて、いったい何があったの?」 「衰弱していたものですから」 「衰弱? どうしたらあんなになるまで衰弱できるの?」 「随分と歩いて来たものですから」 「どのくらい?」 「昨日の午後四時からです」 「昨日の午後四時から……じゃあ……?」 「十七、八里はあったはずです」 「十三、四時間で?」 「駆け続けでしたから」 「行き先は?」 「ヴェルサイユです」 「何処から来たの?」 「タヴェルネから」 「それは何処?」 「ピエールフィットとバル=ル=デュックの間にある城館です」 「何か口に入れる時間くらいはあったでしょう?」 「そうする時間すらも、それにそうする手段もなかったのです」 「どうして?」 「お金を落としてしまいました」 「つまり昨日から何も口にしては……?」 「僕が持っていたのはパン数切れだけでした」 「可哀相に! どうして食べ物を分けてくれるよう頼まなかったの?」  ジルベールは馬鹿にしたような笑みを浮かべた。 「僕には自尊心があります」 「自尊心! もちろん大事なことよ。でも飢え死にしそうな時に……」 「名誉を傷つけられるくらいなら死を選びます」  婦人は心を打たれたようにこの大げさな青年を見つめた。 「その口振りからすると、どちらの方かしら?」 「僕は孤児です」 「お名前は?」 「ジルベール」 「ジルベール・ド・何です?」 「何も」 「まあ!」婦人はまた一つ驚きの声をあげた。  相手に与えた効果を見て、ジルベールは自分がジャン=ジャック・ルソーになったように感じて快哉を叫んだ。 「そんなに若いのに、あっちこっち駆けずり回ったりして」 「持ち主が捨てた古い城館に、一人きりで残され放り出されたんです。おんなじように、僕も城館を捨てたんですよ」 「当てもなく?」 「世界は広いんです。話によれば、誰もが陽に当たれる場所があるそうです」  ――そうか。と婦人は口の中で呟いた。――田舎の城館から逃げ出してきた庶子か何かなんだ。 「それで、財布を落としてしまったというのね?」婦人は声に出してたずねた。 「そうです」 「たくさん入っていたの?」 「六リーヴル=エキュ一枚だけです」窮状を告白するという恥ずかしさと、不正に手に入れたと思われかねない大金を口にするという恐れに板挟みにされながら、ジルベールは答えた。「でもそれで充分でした」 「六リーヴル=エキュでそんな長旅を! 二日分のパンを買うのもやっとじゃない! しかもそんな道のりを! バル=ル=デュックからパリまでと言ったわね?」 「ええ」 「六十里近くはあったはず?」 「距離など物の数ではありません。行かなければならない――それだけでした」 「だからあなたは旅出った、と?」 「幸いにしてこの足があります」 「いくら丈夫でも疲れは出るわ。今のあなたみたいに」 「失ったのは足ではありません。失くしたものは希望です」 「確かに絶望していたようね」  ジルベールは痛々しく微笑んだ。 「いったいぜんたい何に取り憑かれていたの? 自分の頭をぶって、髪を掻きむしったりして」 「本当ですか?」ジルベールは困惑し切ってたずねた。 「もちろんよ――やっぱり絶望のあまり馬車の音も聞こえてはいないようだったし」  嘘偽りない本当のことを話して感心されるのも悪くないんじゃないか。しめた。風が向いて来ている。相手が女性ならなおのこと。 「絶望していたのは事実です」 「何が原因?」 「追っていた馬車に追いつける望みがなくなったせいです」 「まあ!」婦人が笑顔を見せた。「それは一大事ね。恋愛がらみかしら?」  懸命に隠そうとしたものの顔が赤くなってしまった。 「どんな馬車なの、小カトーさん?」 「王太子妃ご一行の馬車です」 「待って! 何て言ったの? じゃあ王太子妃がこの先にいらっしゃるのね?」 「そうです」 「まだせいぜいナンシーでもたもたしてると思ったのに。途中で歓迎されたりはしなかったの?」 「そんなことはありません。でも妃殿下は急いでいらっしゃるようでした」 「急いでいる? 王太子妃が? 誰がそんなことを?」 「推測したのです」 「あなたが?」 「ええ」 「どうしてそう思ったの?」 「初めはタヴェルネ邸で二、三時間お休みになるつもりだと仰っていたんです」 「凄い! それで?」 「実際にお休みになったのは四十五分ほどでした」 「パリから手紙か何かを受け取ってらっしゃらなかった?」 「刺繍入りの服を着た男の方が手紙を手にして現れたのが見えました」 「その方の名は?」 「わかりません。ただストラスブールの司令官とだけしか」 「スタンヴィル殿。ショワズール殿の義弟か! ひどいものね。急いで、馭者さん、もっと早く!」  この訴えに鞭が力強い音を立てて応えた。すると既にギャロップで走っているというのに、さらに速度が上がったように感じられた。 「要するに、王太子妃はこの先に?」 「そうです」 「でも食事を摂りに停まるはず」自分自身に言い聞かせるようにしていた。「だったら追い抜くことも出来る。昨夜《ゆうべ》……昨夜は何処かに車を停めたの?」 「ええ。サン=ディジェで」 「何時だった?」 「十一時頃です」 「それなら夜食ね。だったらきっと朝を摂るはず。この先にある次の大きめの町は何処?」 「ヴィトリーでござい」 「ヴィトリーまではどのくらい?」 「三里ですな」 「何処で馬を変えるつもり?」 「ヴォクレールです」 「いいわ、ありがとう。途中で馬車の行列を見かけたら知らせて頂戴」  車中の婦人と馭者が言葉を交わしている間に、ジルベールは再び気が遠くなりかけていた。坐り直した婦人の目に、真っ青になって目を閉じているジルベールが映った。 「大丈夫? この子ったらまた具合が悪くなってしまったんだわ! あたしも悪かった。飢えと渇きで死にそうだっていうのに、飲み食いさせずにおしゃべりさせてしまったんだもの」  放ったらかしにしていた償いに、慌てて馬車の隠しから切り子細工の壜を取り出した。壜の首には金の鎖で金塗りのコップが提がっている。 「さあこのオー・ド・ラ・コートを一口飲んで」とグラスに注いでジルベールに差し出した。  今度はジルベールも素直だった。コップを差し出した美しい手のせいだろうか? サン=ディジェの頃よりも空腹がひどかったのだろうか? 「ほら! 次はビスケットをお食べなさい。あと一、二時間もしたら、もっとちゃんとした食事も摂らせてあげる」 「ありがとうございます」  そう言ってワインと同じようにビスケットも口に入れた。 「さあ、これで少しは元気になったでしょう。あたしでよければ話を聞かせて頂戴。どんな事情があってあの馬車を追いかけなければならないの? あれは王太子妃一行のものだという話だけど」 「単純なことです。妃殿下がいらっしゃった時、僕はタヴェルネ男爵のところで暮らしていましたが、男爵は妃殿下のご命令に従ってパリに向かうことになりました。孤児の僕のことなど気にかける者などいませんでしたから、お金も食べ物も持たないままに見捨てられてしまいました。だから決めたんです。みんなが立派な馬と馬車でヴェルサイユに向かうからは、僕もヴェルサイユに行こうと。ただし徒歩で。十八歳の足で。十八歳の足でなら、馬や馬車に負けないくらい早くたどり着けるはずだったんです。なのに体力も僕を見捨てました、いや運命が僕に引導を渡したんです。お金を失くしてしまったら、食べることも出来ません。昨夜《ゆうべ》しっかりお腹に入れていれば、今朝には馬に追いつくはずだったのに」 「素敵、何て勇敢なの! 立派なことだわ。でも一つ心得てないことがあるんじゃないかしら……」 「何ですか?」 「ヴェルサイユでは、勇気だけじゃ生きていけないわ」 「パリに行くつもりです」 「その点ではパリもヴェルサイユとまったく一緒よ」 「勇気だけで生きられないのなら、働いて暮らします」 「いい答えね。でも何をして働くの? 人夫や人足の手には見えないけれど?」 「勉強をするつもりなんです」 「もう随分といろいろ知っているように見えるけれど」 「ええ、自分が何も知らないということを知っていますから」ソクラテスの言葉を思い出して、ジルベールは大げさな答えを返した。 「聞いてもいいかしら? 学びたい分野は何?」 「それは……一番大事な学問とは、同胞のために役立てられるものだと思います。その一方、人間はあまりにちっぽけです。強さの秘密を知るためには弱さの秘密を学ばなくてはなりません。お腹のせいで朝から足が動かなくなったのは何故なんでしょう? いつかそれを知りたいんです。第一、本当にお腹が弱ったせいなんでしょうか――怒りや昂奮や苛立ちが頭に上って倒れてしまったのは?」 「きっと素晴らしいお医者さんになるわ。今でも充分に医学の心得があるみたいだし。十年もしたら、かかりつけはあなたにしましょう」 「お心にかなうよう努力します」  馭者が車を停めた。到着した宿駅には一台の馬車も見当たらなかった。  問い合わせてみると、王太子妃は十五分前に通ったばかりだという。馬を替えたり食事を摂ったりするために、ヴィトリーで止まるはずだ。  替わったばかりの馭者が鞍に跨った。  婦人は馭者に、並足で町を出るよう命じた。やがて家も見えなくなってからしばらく経った。 「馭者さん、王太子妃の馬車に追いつくことは請け合える?」 「まあ大丈夫でしょう」 「ヴィトリーの手前で?」 「冗談言っちゃいけねェ! 向こうは速歩《トロット》ですぜ」 「それならギャロップで行けば……」  馭者が目を剥いて見つめた。 「三倍払うわ!」 「そういう話はさっさとしてくれるべきでしたな。でしたらとっくに四半里先でしたでしょうに」 「これが手付けの六リーヴル=エキュ。失くした時間を取り戻しましょう」  馭者が後ろに身を乗り出し、婦人が前に乗り出したので、やがて二人の手が触れ合って、エキュ銀貨が乗客の手から馭者の手へと渡った。  馬こそとんだとばっちりだ。輿は疾風のように走り出した。  馬を替えている間に、ジルベールは馬車から降りて水飲み場で顔と手を洗っていた。顔と手が綺麗になると、豊かな髪を撫でつけていた。  ――本当に。と婦人は独り言ちた。――医者になるには充分過ぎる器量だわ。  ご婦人はジルベールを見て微笑んだ。  旅の連れが微笑んだ理由に心づいたのか、ジルベールの顔が真っ赤になった。  ご婦人は馭者と話をつけるとジルベールとの会話を再開させ、その逆説や機智や警句を大いに堪能した。  ジルベールの受け答えの端々に顔を出す哲学もどきに笑い転げながらも、それでも時折、話をやめて道の先に目を凝らした。そんな時には婦人の腕がジルベールの顔に触れたり、肉づきのいい膝が脇腹に押しつけられたりして、そのたびにジルベールが頬を真っ赤に染めて目を伏せるものだから、婦人はそれを見て面白がっていた。  こうして一里ほど走った。不意に婦人が歓声をあげ、前シートから思い切り身を乗り出したので、今度は身体全体でジルベールに覆いかぶさる恰好となった。  長い坂道を苦労して登っている荷馬車の後ろ姿を捉えたのだ。坂道に連なっている馬車からは、ほとんどの人間が降りていた。  ジルベールは花柄のドレスの襞から抜け出して、ご婦人の脇の下から頭を覗かせ、前シートに膝を突いて、坂を登る小人たちの中にタヴェルネ嬢がいないかと目を凝らした。  ボンネットをかぶったニコルらしき姿を見つけた。 「見えましたよ、マダム」と馭者が言った。「どうしやすか?」 「追い越して頂戴」 「追い越すですって! そんな無茶な。王太子妃を追い越すなんたァ」 「どうして?」 「ご法度ですよ。王のお馬を追い越すなんて! ガレー船行きですぜ」 「出来ないことはしなくてもいいわ。でも追い越さなくちゃならないの」 「ではあなたはお付きの方ではないんですか?」ジルベールとしては今の今まで、婦人の馬車は一台だけ遅れたのだと思っていたし、馬を飛ばすのも本隊に追いつきたいからだとばかり思っていたのだ。 「知りたがるのはいいことね。口を閉じていた方がいいこともあるわ」 「すみません」ジルベールは真っ赤になった。 「困ったわね。どうしましょう?」婦人は馭者にたずねた。 「そうですな。ヴィトリーまではこのままついて行きましょう。そこで妃殿下が車を停めれば、先に行くお許しをもらえばいい」 「そうね、でも誰何されるでしょうし、あたしが誰なのか知られたら……駄目、それじゃ意味がない。別の方法を考えましょう」  ここでジルベールが声をかけた。「よろしければ考えがあるのですが……」 「聞かせて頂戴。いい考えならいただくわ」 「ヴィトリーを回り込むように抜け道を取れば、無礼を働くことなく王太子妃殿下の前に出ることが出来るのではないでしょうか」 「その通りよ」婦人は声をあげて馭者にたずねた。「抜け道はないの?」 「何処に抜けるんです?」 「何処でもいいわ。王太子妃殿下があたしたちより後ろになるようなところなら」 「ああ! そうしますと、右にマロールの道がありますから、ヴィトリーを回り込むようにして、ラ・ショセで本通りに戻れまさァね」 「上出来! そうしましょう!」 「ですけどマダム、回り道をしますと、二駅余計に増えますが」 「ラ・ショセで王太子妃を追い越していたら、二ルイ出すわ」 「輿が壊れるかもしれませんぜ?」 「心配いりません。輿が壊れたなら、馬で旅を続けるだけです」  斯くして馬車は右に折れて大通りを離れ、深い轍の残る抜け道に入り、青い水の流れをたどった。ラ・ショセとミュティニーの間を流れるマルヌ川の支流である。  馭者は約束を守った。輿が壊れようとも目的を達するために人間として出来うる限りのことをしたのである。  ジルベールは何度も婦人の上に投げ出され、婦人の方も何度となくジルベールの腕の中に倒れ込んだ。  ジルベールは礼儀を心得ていたので気詰まりになることはなかった。いくらその目がご婦人の美しさを本人に伝えていようと、その口に微笑むなと命じる術《すべ》は心得ていた。  二人きり揺られたことで親近感が湧き起こった。抜け道を二時間も進んだ頃には、ジルベールは十年も前からご婦人のことを知っていたような気持になっていたし、婦人の方でもジルベールを生まれた時から知っていたと断言しただろう。  十一時頃、ヴィトリーからシャロンまで通じている本通りに合流した。たずねられた伝令が言うことには、王太子妃はヴィトリーで食事を摂っただけではなく、疲労を感じたために二時間の休憩を取っているという。  さらに言うには、自分が次の宿駅に急いでいるのは、午後三時か四時には準備しておくように繋駕係に言づけるためだという。  この報せに婦人は満足したようである。  約束通り馭者に二ルイ払うと、ジルベールの方を向いた。 「さあ、あたしたちも次の宿駅で昼食を摂りましょう」  だがジルベールはそこではまだ昼食にありつけない定めであった。 第二十一章 新たな登場人物がお目見えする次第  馬輿《うまかご》が登っている坂の上には、馬を替える予定のラ・ショセの町が見えていた。  藁葺き屋根のこぢんまりとした家が建ち並んでいたが、住民たちが好き勝手に建てたものだから、道の真ん中や森の外れ、泉のほとり、なかんずく前述した川の流れ沿いに集中していた。川には板が架けられ、各家庭の軒先に渡されていた。  だが差し当たってこの小さな町で特筆すべきは、一人の人間である。至上命令でも受けたのか川下の方で道の真ん中に突っ立ち、その間中、本通りを凝視していたかと思えば、お次は家の鎧戸に繋がれているふさふさとした葦毛の馬を見つめていた。その馬は焦れたように頭をぶつけて板戸を揺らしていたが、背には鞍が置かれて後は主人を待つばかりとあらばそれも致し方ないだろうか。  時折その人物は路上を見張るのに飽きたように、馬に近づいて、慣れた手つきでどっしりとした臀部に逞しい手をかけたり、指先ですらりとした脚を突っついたりしていた。それに苛立った馬の繰り出した足蹴をかわすと、見張り場所に戻って無人の道路を睨み続けていた。  結局何一つ見えないため、男は鎧戸を敲くことにした。 「誰かいないか!」 「どちらさんで?」男の声がして、鎧戸が開いた。 「旦那、その馬が売りものなら、買手は見つかったぜ」 「ご覧の通り尻尾に藁なんかついてませんよ(=売りものじゃありませんよ)」と言って、農夫らしき男は開いた鎧戸をまた閉じてしまった。  この男、年の頃はおよそ四十、長身にして逞しく、赤ら顔、青い髭、幅広なレースの袖口の下からはごつごつとした手が見える。飾り紐のついた帽子を斜めにかぶっているのは、田舎の軍人がパリっ子どもを驚かせてやろうとでもしているようだ。  三度目を敲いたところで我慢にも限度が来た。 「随分と冷たいじゃないか。開けないのなら、今すぐぶち破ってやるぞ!」  この脅し文句が効いたのか、再び鎧戸が開いて先ほどの顔がまた現れた。 「だが馬は売りもんじゃないと言いましたよ。まったく! それで充分でしょうが!」 「こっちは馬が欲しいと言ったんだがね」 「馬が欲しいんなら宿駅で手に入れることです。陛下の厩舎のが六十頭はいるでしょうから、よりどりみどりだ。だが一頭しか持ってない人のことはそっとしといて下さい」 「繰り返すが、欲しいのはその馬なんだ」 「冗談言っちゃいけません。アラブ馬ですよ!」 「それを聞いてますます買いたくなった」 「買いたくなるのは構いませんがね……残念ながら売りもんじゃないんですよ」 「誰の馬なんだ?」 「随分と詮索好きですな」 「そっちこそ随分と口が堅いじゃないか」 「いやはや! うちにお泊まりの方のものなんですよ。それは子供のようにこの馬を可愛がってますんでね」 「その人と話がしたい」 「眠ってらっしゃいます」 「男か女か?」 「女の方です」 「よしわかった。その女に伝えてくれ。五百ピストール欲しければ、この馬と交換しよう」 「何ですって!」農夫が目を丸くした。「五百ピストール! そりゃ大金だ」 「何ならこうも言ってくれ。この馬を欲しがっているのは国王だ」 「国王が?」 「国王ご自身が」 「でもまさか、あなたは国王ではないでしょうが?」 「そうさ。だが代理なのだ」 「国王の代理ですか?」農夫は帽子を脱いだ。 「早く頼む。国王はお急ぎだ」  そう言ってその偉丈夫は路上に目を向けた。 「そういうことならご安心を。ご婦人の目が覚めたら一言申しておきましょう」 「そうか。だが時間がないんだ。目が覚めるまでは待てない」 「ではどうしろと?」 「馬鹿だな! 起こすんだ」 「とんでもない!」 「そうか、では自分で起こすことにしよう。待ってろ」  国王陛下の代理を自称する男は窓に近づき、二階の鎧戸を、手にした鞭で敲こうとした。銀の握りのついた乗馬用の長い鞭だった。  だが掲げられた手は鎧戸をかすりさえしないで降ろされた。ちょうどその時、輿が見えたのだ。疲れ切った三頭の馬が最後の追い込みに入っていた。  男は扉の標識を難なく見定めて、馬車の前に飛び出した。あれほど欲しがっていたアラブ馬に匹敵する速さだった。  この馬車こそが、ジルベールの守護天使を乗せた馬輿であった。  宿駅まで馬が持つかどうか危ぶんでいた馭者は、しきりに合図している人物を見つけると喜んで馬車を停めた。 「ション! ション!」男が叫んだ。「やっと来たか? ご苦労だったな!」 「あたしよ、ジャン」風変わりな名で呼ばれた乗客が答えた。「ここで何をやってるの?」 「参ったな! 待ってたんだよ」  偉丈夫は踏段に飛び乗り、扉を開けて長い腕で婦人を抱きしめ口づけを浴びせた。  と、そこでジルベールに気づいた。二人の人物が読者もご覧の場面を演じている間、ジルベールとしてはまったくそこに入り込む余地もないため、骨を奪われた犬のような不満顔をしていた。 「おや。何を拾って来たんだ?」 「哲学者ちゃんよ。すごく面白いんだから」ション嬢には保護した青年を傷つけるつもりやおだてるつもりがあったわけではない。 「何処で見つけたんだ?」 「道の上よ。でもそんなのどうでもいいわ」 「そうだった」ジャンと呼ばれた人物が答えた。「ベアルン伯爵夫人は?」 「終わった」 「終わったって?」 「ええ、来てくれるはず」 「来てくれるのか?」 「ええ、そう、そうよ」ション嬢はうなずいた。  この場面は相も変わらずクッションの効いた輿の踏段で演じられていた。 「どんな話を聞かせたんだ?」ジャンがたずねた。 「辯護士のフラジョの娘だって言ったの。ヴェルダンを通って、審問日が決まったことを父の代理で伝えに来たって」 「それだけ?」 「まあね。後は、審問日が決まった以上はパリにいなければならないって言っただけ」 「それで夫人はどうした?」 「ちっちゃな灰色の目を真ん丸にして嗅ぎ煙草を喫うと、フラジョ先生は世界一の人間だって断言してから、出かける準備をさせてたわ」 「よくやった、ション! これでおまえも特命大使だ。だが差し当たっては朝飯にしないか?」 「そうね。飢え死にしかけた可哀相な子もいることだし。でものんびりとはしてられないわ」 「なぜだ?」 「すぐそこまで来ているからよ!」 「伯爵夫人の婆さまがか? こっちの方が二時間も先に出ているんだから、モープー殿に話す時間はあるさ」 「違う。王太子妃よ」 「馬鹿な! 王太子妃はまだナンシーにいるはずだ」 「ヴィトリーにいるの」 「ここから三里のところにか?」 「まさしくそうよ」 「畜生! 話は変わった! おい馭者」 「どちらまで?」 「宿駅だ」 「旦那さまはお乗りになるんで、それともお降りになるんで?」 「ずっとここだ。進め!」  男を踏段に乗せたまま馬車は走り出した。五分後、馬車は宿駅の前で停まった。 「早く早く早く!」ションが叫んだ。「骨付き肉、鶏肉、卵、ブルゴーニュ・ワイン、上等なのはいらないから。今すぐまた馬車を出さなきゃならないの」 「失礼ですが」宿の主人が戸口から出て来た。「すぐに出発なさるんでしたら、そちらの馬もご一緒になりますが」 「馬も一緒にだって?」ジャンが踏段からどさりと飛び降りた。 「さようで。そちらさんが乗って来た馬ですよ」 「とんでもない」馭者が言った。「もう二駅分も走ってるんだ。こいつらがどんな状態か見るといい」 「ほんと。これ以上走るのは無理ね」 「だったら、新しい馬を手に入れれば済む話だ」 「手前どもにはもうございません」 「おい! ないわけがないだろう……決まりがあるはずだ!」 「はい、決まりによれば、手前どもの厩舎には十五頭いなくてはなりません」 「それで?」 「こちらには十八頭おります」 「そんなにはいらん。三頭だけでいい」 「そうでございましょうが、生憎すべて出払っておりまして」 「十八頭すべてが?」 「十八頭すべてが」 「くたばっちまえ!」 「子爵!」婦人が声をかけた。 「ああわかってる、ション。心配しなくていい、もう落ち着くから……それでお前の駄馬はいつ戻って来るんだ?」 「旦那さま、手前にはわかりませんよ。馭者次第です。一時間か二時間ってところでしょうか」 「そうだろうな」ジャン子爵は帽子を左の耳許まで下げ、右膝を曲げて凄んだ。「おれは冗談を言わないんだ。わかってるのか? それともわからんか?」 「それは残念で相成りません。冗談を愉しまれるご気分ならよかったのですが」 「ふん、まあいい。おれが怒り出さないうちに、とっとと馬を繋ぐんだ」 「一緒に厩舎においで下さい。まぐさ棚のところに一頭でも馬がおったら、ただで差し上げますよ」 「ふざけやがって! では六十頭いたら?」 「一頭もいないのとおんなじですよ、旦那。その六十頭は陛下のお馬ですからね」 「つまり?」 「つまりですって! お貸し出来る馬はいないってことです」 「ではどうしてここに馬がいるんだ?」 「王太子妃ご一行のためです」 「何だって! 飼葉桶には六十頭の馬がいても、おれには一頭も貸せないのか?」 「ご勘弁を。ご理解いただけると……」 「一つのことしか理解できんね。おれは急いでるってことだ」 「お気の毒でございますが」 「それに」と子爵は、宿の主人が口を挟んだのも意に介さずに話を続けた。「王太子妃がここに来るのは夜中になるのなら……」 「何をお言いで……?」宿の主が目を白黒させた。 「王太子妃が到着するまでに馬が戻ってればいいんだろうと言ってるんだ」 「よもやご不遜にも……?」 「うるさい!」子爵は厩舎に足を踏み入れた。「邪魔するな。待っていろ!」 「ですが旦那さま……」 「三頭だけだ。たとい契約上その権利があったとしても、妃殿下みたいに八頭も欲しがりはしない。三頭で充分だ」 「ですが一頭もお貸し出来ませんよ!」宿の主が馬と子爵の間に割って入った。 「ちんぴらめ」子爵の顔が怒りに青ざめた。「おれが誰だか知らんのか?」 「子爵」ションが声をあげた。「お願いだから騒ぎは起こさないで!」 「そうだとも、ションション、お前の言う通りだ」子爵は少し考えてから、「よし、言葉などいらん、行動あるのみ……」  そうして主に向かって随分と愛想のいい顔つきをして見せた。 「さてご主人。あんたには責任が及ばないようにするとしよう」 「どういうことでしょうか?」子爵のにこやかな顔を見ても、主はびくびくしたままだった。 「あんたの手は借りんよ。ここにどれも立派なのが三頭いる。こいつを貰おう」 「貰うと仰いましたか?」 「ああ」 「それを手前に責任が及ばないと表現なさるのですか?」 「そうさ。あんたがくれなかったから、こっちから貰ってやったんだ」 「そんなのは馬鹿げています」 「ふん、いいから、馬具は何処にある?」 「手は貸さんでいいぞ!」宿の主が、庭や厩で作業中の馬丁数人に声をかけた。 「やってくれるじゃないか!」 「ジャン! ジャン!」扉の窓越しにすべてを見聞きしていたションが声をあげた。「面倒ごとはやめて! 仕事の途中なんだから我慢して」 「何だって我慢できるさ。だが遅れるのだけは我慢できない」ジャンは驚くほど冷静に見えた。「だからだよ。こいつらの手伝いを当てにしていたら遅れちまうから、自分でやろうって言ってるんだ」  口先だけではないところを見せて、ジャンは壁から馬具を三つ取り外し、順番に馬の背に取りつけた。 「お願いだからジャン!」ションが手を合わせた。「お願い!」 「間に合わせたいのか、違うのか?」ジャンが歯を軋らせた。 「それは間に合わせたいわよ! あたしたちが到着できなかったら何もかも終わりだもの!」 「よし、だったらおれのやることを止めないでくれ!」  子爵は選り抜いた三頭の馬を輿の方に曳いて行った。 「お考え直しを」宿の主がジャンに追いすがった。「馬泥棒は大逆罪ですよ!」 「盗むんじゃない、借りるだけだ。さあ来い、坊主ども!」  主は手綱に駆け寄った。だが手を触れることも出来ずに乱暴に押し返された。 「お兄様!」ションが叫んだ。 「そうか、ご兄弟なのか」馬車の中で寛いでいたジルベールは呟いた。  その時、道を挟んだ向かいの農家の正面にある窓が開き、見目麗しい婦人が顔を出した。騒ぎを聞きつけて不安になったのだ。 「おや、あなたですか」ジャンが声をかけた。 「何、私?」婦人は拙いフランス語で答えた。 「お目覚めになったんですね。ちょうどいい。あなたの馬をお売りするつもりはありませんか?」 「私の馬?」 「ええ、葦毛のアラブ馬です、そこの鎧戸に繋いでいる。五百ピストールお支払いしますよ」 「この馬は売り物じゃないの」という答えとともに窓が閉められた。 「そうか、今日は運が悪い。売るのも借りるのも断られた。畜生! だが売る気はなくともあのアラブ馬を手に入れてやる。貸す気がなくともこのドイツ馬どもを乗り潰してやる。来るんだ、パトリス」  従僕が馬車の腰掛高くから地面に飛び降りた。 「繋ぐんだ」ジャンが従僕に命じた。 「助けてくれ、お前たち!」宿の主が声をあげた。  馬丁が二人、駆けつけた。 「ジャン! 子爵!」ションが馬車の中で暴れて、どうにか扉を開けようとしていた。「気でも違ったの? 何もかも滅茶苦茶にするつもり?」 「滅茶苦茶だって? される方じゃなくする方だといいがな。三対三だ。おい、哲学者君」と腹の底からジルベールに声をかけたのだが、呼ばれた当人は何が何だかわからずに動けずにいた。「ほら降りろ! 降りて何か動かせ。杖でも石でも拳でもいい。降りろったら馬鹿! お前は聖者の石膏像かよ」  ジルベールはどうしていいかわからずにすがるような目をションに向けると、出された腕に引き留められた。  宿駅の主は大声で喚きながら、ジャンが曳いている馬を引き戻そうとしていた。  斯くして惨めで騒々しい三重奏が奏でられた。  それでも戦いには終わりが来る。へとへとになって苦しめられていたジャン子爵が、とうとう馬の主に重い拳を一発お見舞いした。主は水たまりにぶっ倒れて、家鴨や鵞鳥が驚いて逃げ出した。 「助けてくれ! 人殺し! 人殺しだ!」  その間も、子爵は時間の値打ちを知っているらしく、大急ぎで馬を繋いでいた。 「助けてくれ! 人殺しだ! 王の名に於いて、頼むから助けてくれ!」主は声をあげ続けた。呆然としている二人の馬丁に味方してもらおうとしたのだろう。 「王の名に於いて助けを呼んでいるのはどなたですか?」いきなり馬に乗った軍人が宿駅の庭に飛び込んで来て、事件の当事者たちの前で汗まみれの馬を停めた。 「フィリップ・ド・タヴェルネ!」ジルベールは呟くと、これまで以上に馬車の奥に縮こまった。  ションが抜かりなくその名前を聞き取っていた。 第二十二章 ジャン子爵  まさしく王太子近衛隊の若き中尉その人が、奇妙な騒ぎを目にして馬から飛び降りた。宿駅の周りには、騒ぎを聞きつけたラ・ショセの女子供たちが集まり始めている。  神が遣わした思いがけぬ助けを目にし、宿駅の主はフィリップの足許に文字どおり身体を投げ出した。 「将校殿、何が起こっているのかご存じですか?」 「いいや」フィリップは淡々と答えた。「話してもらえるかな」 「もちろんです! 王太子妃殿下のお馬を力ずくで手に入れようとしている方がいるのです」  フィリップは信じがたいことを聞かされたように耳をそばだてた。 「いったい誰が馬を手に入れようなどと?」 「こちらです」  と言ってジャン子爵を指さした。 「あなたが?」フィリップも確認した。 「ああ、畜生! ええ、おれですよ」 「お間違えではありませんか」フィリップは首を振った。「ありえません。さもなければ、あなたの気が触れているか、貴族ではないか、どちらかでしょう」 「二つの点で間違えていますよ、中尉さん。頭もしっかりしているし、今は降りているとはいえ陛下の馬車にまた乗るのですから」 「お気も確かで陛下の馬車にもお乗りなのに、どうして王太子妃の馬に手を出そうとしたのですか?」 「第一に、ここには六十頭の馬がいる。妃殿下がお使いになるのは八頭だけだ。適当に三頭を見つくろって、たまたまそれが妃殿下の馬だったとしたら、おれもついてなかったんだろう」 「六十頭いるというは事実です。妃殿下が八頭ご入り用なのも事実です。ですがそれでもやはり、一頭目から六十頭目まですべての馬が妃殿下のものである以上、六十頭を区別して考えることなど出来ません」 「ところが出来ちゃったんだな」子爵が冷やかすように言った。「この馬はおれがいただいたんだ。従僕どもが四頭牽きで走っているというのに、おれは歩かなければならないのか? 冗談じゃない! あいつらがおれのようにして、三頭で満足すればいいんだ。それでもまだ余裕があるだろう」 「従僕たちが四頭牽きで走るのだとしても」とフィリップは子爵の方に腕を差し出し、子爵の取った行動に対し何らわだかまりのないことを示した。「そうするのは王のご命令だからです。ですからお願いです、従者に命じて、手に入れた馬を元に戻していだかけませんか」  礼儀正しい言葉の中にも有無を言わせぬ響きがあった。卑怯者でもなければ無礼な返答は出来かねる響きだった。 「たぶんあなたの仰ることが正しいんでしょうね、中尉さん」子爵が答えた。「この動物たちを見張ることも職務のうちなのだとしたら。だが生憎と、近衛兵が馬丁に昇進させられたという話は存じませんな。だから目をつぶることです。みんなにも同じようにしろと言って下さい。では良い旅を!」 「あなたは間違っていますよ。馬丁に昇進も降格もしておりませんが、これが今現在の本官の職務です。王太子妃殿下ご自身から、先に行って替え馬を用意しておくよう命じられたのですから」 「それなら話は別だ。だが一ついいですか。嘆かわしい仕事じゃありませんか、ことにこんな風にお嬢さんが軍を動かすようになるのでは……」 「誰のことを仰っているのです?」フィリップが遮った。 「ああ、決まってるでしょう! オーストリア女ですよ」  フィリップは軍服の襟飾りのように真っ青になった。 「飽くまでも仰るのですか……?」 「仰るだけじゃない。飽くまでも実行するとも。さあパトリス、さっさと馬を繋ごう。何しろ急いでるんだ」  フィリップが一頭目の手綱をつかんだ。 「せめてどなたなのかお聞かせ下さいませんか?」 「それをお望みかい?」 「お願いします」 「わかった。おれはジャン・デュ・バリー子爵だ」 「何ですって! するとあの方の……?」 「それ以上一言でも口に出したら、バスチーユで朽ちることになりますよ」  と言って子爵は馬車に躍り込んだ。  フィリップが扉に駆け寄った。 「ジャン・デュ・バリー子爵、降りて来て下さいませんか?」 「ふん、馬鹿らしい! そう慌てなさんな」子爵は開いている戸板を引こうとした。 「少しでもぐずぐずなさるようでしたら」フィリップは閉じかけた戸板を左手で押さえた。「誓って申し上げますが、この剣で身体を貫きます」  そう言って、空いている右手で剣を抜いた。 「ちょっと、嘘でしょう!」ションが叫んだ。「人殺しじゃない! 馬は諦めましょう、ジャン」 「ふん! 脅しているのか!」子爵は怒りで歯噛みし、前シートに置いていた剣をつかんだ。 「これ以上ぐずぐずしていては、脅しでは済みませんよ。おわかりですか?」フィリップの剣が風を切った。 「馬車を出すのはよしましょう」ションがジャンの耳に囁いた。「穏便に出てもこの人を動かせないんだから」 「穏便にだろうと暴力でだろうと、本官の職務を妨げることは出来ません」フィリップがションの忠告を耳に挟み、恭しく頭を下げた。「あなたからも仰っていただけませんか。さもないと王の名に代わって申し上げますが、一戦交えるおつもりなら命の保証は出来ませんし、降りていただけないのなら逮捕させざるを得ないのです」 「せっかくのお言葉だが、こっちとしては車を出すつもりだ」子爵は馬車から飛び降りると同時に剣を抜いた。 「いずれわかりますよ」フィリップも剣を構えて刃を合わせた。「いいですね?」 「中尉殿」フィリップの許で指揮を執っている伍長が口を利いた。「護衛の六人をお呼びしましょうか……?」 「じっとしていろ。これは個人的な問題だ。では子爵、いつでもどうぞ」  ションが鋭い叫びをあげた。馬車が井戸のように深ければ、というのがジルベールの願いだった。――もっとしっかり隠れることができるのに。  ジャンが先に動いた。ジャンはまれに見る剣の使い手だった。剣術では肉体的な能力よりもむしろ読みが物を言う。  だが怒りのせいで明らかに力を出し切れていなかった。一方フィリップは剣《エペ》を小剣《フルーレ》のように扱い、まるで道場で練習しているような動きを見せていた。  子爵は身体を引き、前に出、右に飛び、左に飛び、声をあげて、軍事教官のような突きを入れた。  一方フィリップは歯を引き締め、目を見開き、像のように動かず騒がず、すべてを観、すべてを読んでいた。  誰もが固唾を呑んで見つめていた。ションも同様だ。  数分が過ぎてもジャンのフェイントや威嚇や引き技はことごとく無駄に終わった。とは言え相手の動きを見極めていたフィリップもまた一度も突きを入れることは出来なかった。  突然ジャン子爵が後ろに飛び退き声をあげた。  と同時に血が袖口を染め、指の間からぽたぽたと滴が流れた。  フィリップの反撃の一打が子爵の前腕を捕えたのだ。 「傷を負いましたね、子爵」 「ふん、そんなことわかっている!」ジャンの顔からは血の気が失せ、剣が手から落ちた。  フィリップがそれを拾って手渡した。 「さあ、もう馬鹿な真似はやめましょう」 「くだらん! 馬鹿な真似をしたというのなら報いは受けたよ」子爵が唸った。「来てくれ、ションション」そう言われたションは馬車から飛び降り、兄を助けに駆け寄った。 「釈明させていただけるなら、本官に落ち度はありませんし、ご婦人の前で剣を抜くという愚挙に出てしまったことは深く後悔しております」  そう言ってフィリップは頭を下げて退いた。 「馬を外して、元の場所に戻して下さい」フィリップが宿の主に伝えた。  ジャンに拳を突きつけられて、フィリップは肩をすくめた。 「おや、間の悪い!」主が声をあげた。「三頭戻って来ましたよ。クルタン! クルタン! この方の輿に急いで繋いでくれ」 「ですが……」馭者が言った。 「さあさあ待ったはなしだ。お客様はお急ぎだ」  それでも毒づくのをやめないジャンに、主が声をかけた。 「旦那さま、お嘆きなさらんことです。こうして馬が届いたんですから」 「結構なことだ!」ジャンが呻いた。「半時間前に届いていればよかったんだ」  ジャンは地団駄を踏んで、刺し貫かれた腕を見つめた。その腕にも今はションのハンカチが巻かれている。  その間にもフィリップは自分の馬に跨り、何事もなかったかのように指示を与えていた。 「出発しましょう」ションがデュ・バリー子爵を輿の方に引っ張った。 「アラブ馬はどうなる? 畜生! 悪魔に食われちまえ! 今日はとことん厄日だな」  そう言ってジャンは輿に戻った。 「ほらほら!」ジルベールを目にして愚痴を垂れる。「これじゃあ足を伸ばすことも出来ないじゃないか」 「お邪魔でしたらお詫びいたします」 「ほらジャンったら。哲学者ちゃんは放っておいてあげて」 「ったく、腰掛に移動しやがれ!」  ジルベールは真っ赤になった。 「僕は腰掛に坐るような従僕じゃありません」 「ほざいたな!」 「降ろして下さい。僕は降りますから」 「ああ、糞ったれめ、降りるがいい!」 「駄目よ、駄目! あたしの正面にいらっしゃい」ションが腕を伸ばして引き留めた。「ここなら兄の邪魔にはならないわ」  そう言っておいてから子爵の耳許に口を寄せた。 「この子はあなたに怪我させた男を知ってるのよ」  歓喜の光が子爵の目をよぎった。 「そいつはいい。だったらそばに置いておこう。あいつの名は?」 「フィリップ・ド・タヴェルネ」  と、ちょうどその時、当の中尉が馬車の外を通りかかった。 「おや近衛兵殿、そこにいましたか」ジャンが声をかけた。「今でこそ悠々と構えていらっしゃるでしょうが、運命は巡るものですからね」 「あなたに幸運が訪れた暁には、それもわかるでしょう」フィリップは動じることなく答えた。 「ええ、まったくだ。そのうちわかりますよ、フィリップ・ド・タヴェルネ殿!」不意打ちで名指しして、どんな反応を見せるのか試みたのだ。  結果はというと、フィリップは驚いて顔を上げた。そこにはかすかな懸念がよぎっていたが、すぐに落ち着きを取り戻し、至って恭しく帽子を取った。 「良い旅を、ジャン・デュ・バリー殿」  馬車は勢いよく駆け出した 「くたばっちまえ!」子爵は顔をしかめた。「わかるか? 痛くてしょうがないんだよ、ション」 「次の宿駅でお医者さんを呼びましょう。この子には何か食べさせておけばいいわ」ションが答えた。 「ああ、そうだな。何も食べていなかった。おれは苦しくて飯どころじゃない。それよりも喉がからからだ」 「オー・ド・ラ・コートを一杯飲む?」 「ああ、頼む」 「失礼ですが、一つ申し上げてよければ……」ジルベールが口を挟んだ。 「構わん」 「あなたのようなお怪我に一番良くないのがリキュールなんです」 「そうなのか?」子爵はションの顔を見た。「すると、この哲学者君は医者なのか?」 「医者ではなく、まだ医者の卵です。でも軍人向けの論文で読んだのですが、負傷兵に絶対にしてはならないことが、リキュール、ワイン、コーヒーを与えることでした」 「ほう! 実際に読んだのか。ではもう何も言うまい」 「一つだけ構いませんか。ハンカチを貸していただけたなら、泉水に浸して腕に巻いて差し上げます。そうすればだいぶ楽になるはずです」 「そうして頂戴。お願い、停めて頂戴」ションが馭者に向かって声をあげた。  馭者が車を停めると、ジルベールは子爵のハンカチを小川に浸しに向かった。 「あの坊主がいると、話をするには都合が悪いな!」デュ・バリー子爵が言った。 「方言で話しましょう」 「ハンカチ諸共ここに置き去りにして車を出すよう馭者に言ってやりたいね」 「駄目よ。あの子は役に立つわ」 「何の役に?」 「さっきも重要な情報を教えてくれたでしょ」 「何の話だ?」 「王妃がらみの話。ついさっきも、喧嘩相手の名前を教えてくれたばかりじゃない 「それもそうだな、そばに置いておくか」  ちょうどその時、冷たい水に浸したハンカチを持ってジルベールが戻って来た。  腕に布を巻きつけたところ、ジルベールの言った通り随分と楽になった。 「なるほどな。だいぶ楽になった。話をしようじゃないか」  ジルベールは目を閉じて耳を傾けた。ところがせっかくの期待は裏切られた。兄から話しかけられたションは生き生きとした方言で答えたために、パリっ子の耳にはちんぷんかんぷんだったのだ。そのプロヴァンス訛りから聞き取れたのは、音楽的な母音の上で転がるねっとりした子音くらいのものであった。  ジルベールがどれだけ感情を抑えようとしても、落胆の仕種をションの目から隠すことは出来なかった。ションが慰めるように優しく微笑みかけた。  微笑みの意味は明らかだった。ジルベールは大事にされている。自分のような虫けらが、国王の恩寵を賜っている子爵のような人を、思い通りにしているのだ。  アンドレがこの馬車にいる僕を見ていたらなあ!  ジルベールの自惚れがふくれあがった。  ニコルのことは考えもしなかった。  デュ・バリー兄妹は方言で会話を続けていた。 「これはこれは!」子爵が突然声をあげ、頭を低くして扉の窓越しに後ろを見つめた。 「何?」ションがたずねた。 「アラブ馬のご登場だ!」 「アラブ馬って?」 「おれが買おうとしていた馬だよ」 「あら、乗っているのはご婦人よ。見事なものね!」 「どっちの話だ……? 女か馬か?」 「ご婦人よ」 「だったら声をかけてみてくれ、ション。おれよりもお前の方が安心するだろう。あの馬になら千ピストールやってもいい」 「ご婦人になら?」ションが笑ってたずねた。 「破産しちまうよ……いいから声をかけてくれ!」 「マダム! マダム!」ションが叫んだ。  瞳は大きく黒く、白い外套を纏い、顔には長い羽根のついた灰色の帽子が影を落としていた。だがションに呼びかけられても、その若い婦人は声を出しながら道の脇を矢のように通り過ぎた。 「|Avanti《進め》! ジェリド! |Avanti《進んで》!」 「イタリア人か」子爵が言った。「たいした別嬪じゃないか! こんな怪我をしていなけりゃ、馬車から飛び降りて追いかけてくんだがな」 「今の人のことは知っています」ジルベールが口を開いた。 「何だと! この坊主は地方年鑑か? 誰も彼をも知ってるじゃないか!」 「何という人なの?」ションがたずねた。 「ロレンツァという人です」 「どんな人?」 「魔術師の奥さんです」 「魔術師って?」 「ジョゼフ・バルサモ男爵です」  兄と妹は見つめ合った。どうやらこんな会話を繰り広げていたようだ。 「この子を拾ったのは正解だったでしょ?」 「まったくだ」 第二十三章 デュ・バリー伯爵夫人の小起床の儀  さて、ここらで読者にお許し願って、シャロンの道に馬車を走らせているション嬢とジャン子爵にはひとまず退場していただき、一族のもう一人の許へとご案内しよう。  以前は王女マダム・アデライードが暮らしていたヴェルサイユの一室に、ルイ十五世は、一年ほど前から寵姫になったデュ・バリー伯爵夫人を住まわせていた。このような政変が宮廷にどんな影響を及ぼすものか、始める前から気づいていないわけでもなかったのだが。  この寵姫、気ままで物に頓着せず、明るく愛嬌があって天衣無縫、ひどい気まぐれだったものだから、静謐だった宮殿を賑やかな場所に変えてしまった。何はなくとも楽しんで生きることにしか耐えられない世界の住人なのである。  部屋の持ち主が有する力に目を向けてみれば、この狭い部屋からは宴の指示や遊山の合図がしょっちゅう聞こえていた。  だがもちろん、宮殿の一画を為すこの見事な階段にあって嫌でも目を惹くのは、驚くべき数の訪問者の人波である。朝、というのはつまり九時頃から、目もあやに着飾った訪問者たちがその階段を上り、へりくだった様子で控えの間に居坐っていた。控えの間には珍しい品々が並べられていたが、選ばれた民がこれから聖地で額ずくことになる偶像ほど珍しいものはなかった。  ラ・ショセの入口付近で起こった出来事を先ほどお話ししたばかりだが、その翌日の朝の九時頃、つまりいつも通りの時間のこと。ジャンヌ・ド・ヴォベルニエが刺繍入りのモスリンの部屋着に身を包み、軽やかなレース越しにふっくらとした美しい足と石膏のように白い腕を覗かせて、寝台《ベッド》から起き上がった。ジャンヌ・ド・ヴォベルニエ即ちランジュ嬢であり、ついには後見役ジャン・デュ・バリー氏のおかげをもってデュ・バリー伯爵夫人と相成った。ヴィーナスに似たところは一つもないが、ヴィーナスよりも美しい――絵空事よりも事実を好む者ならばそう言うであろう。  見事にカールした栗毛の髪、青く血管の透けた白繻子の肌、沈んだかと思えば輝いたりを繰り返す瞳、真紅の筆で描かれたような小さな朱《あけ》の口、開けば必ず二列に並んだ真珠が顔を見せた。頬、顎、指のそこかしこに浮かぶえくぼ。ミロのヴィーナスに生き写しの喉、蛇のようにしなやかで、ほどよい肉付き。これこそが、小起床の儀に謁見を許された者たちに見せるために、デュ・バリー夫人が準備していたものである。これこそが、夜の謁見を許された者たるルイ十五世陛下が、食卓の下のパン屑を無駄にする勿れなる古人の格言に倣って、朝にもお目通りを欠かすことのなかったものである。  寵姫はしばらく前から目を覚ましていた。八時にはベルを鳴らし、呼ばれた侍女がまずは厚い緞帳を、次いで薄めの帳を開けて、少しずつ部屋に明かりを入れた。喜びに溢れたその日の陽射しが招じ入れられ、神話の時代の伊達男たちのことを思い出しながら、この美しいニンフを包み込んだ。ただしこのニンフ、神々に愛でられしダフネの如くに身を翻したりはせず、時には人々に愛でられに自分から出向くほどの人間臭さ。斯かるが故に、金縁真珠で飾られた手鏡に微笑みかけた柘榴石の如き瞳には、既にむくみも躊躇いもなかった。先ほど途中まで説明していたしなやかな体躯が、甘い夢に震え寝んでいた寝台から滑り抜けると、そこは白貂の絨毯。シンデレラも斯くやとばかりの足が、スリッパを持つ手とご対面。そのスリッパと来ては、片方だけでもジャンヌの故郷の木樵には一財産という代物だった。  この魅力溢れるご婦人が起き上がり、ますます生き生きとして来たところに、マリーヌ・レースのショールが肩に掛けられた。続いて、ミュールからちらりと覗いたぽってりした足に、きめ細やかな薔薇色の絹靴下が着けられたが、肌の艶とて絹に劣っていたわけではない。 「ションから便りはなかった?」とまず侍女にたずねた。 「ございません」 「ジャン子爵からも?」 「ございませんでした」 「ビシは受け取ったかしら?」 「姉君のところには、今朝、人が向かいました」 「手紙もなし?」 「手紙もございません」 「ああ、こうやって待つのって退屈なものね」伯爵夫人は可愛らしい口を尖らした。「百里の距離を一瞬にしてやり取りすることって永遠に出来ないのかしら? ああ、もう! 今朝あたしに会う人は気の毒ね! 控えの間は結構混んでいた?」 「おたずねなさるまでもないかと?」 「だってドレ、王太子妃がやって来れば、あたしは見捨てられたっておかしくないでしょ? 太陽と比べれば、ちっちゃな星に過ぎないんだもの。どなたがいらっしったの?」 「デギヨン殿、スービーズ公爵、サルチーヌ殿、モープー院長です」 「リシュリュー公閣下は?」 「まだお見えではありません」 「今日も昨日も! 言ったでしょう、ドレ。外聞を憚っているのよ。アノーヴル邸に伝令を送って、臥せってらっしゃるのかどうか確かめて頂戴」 「かしこまりました。皆さんご一緒にお会いになりますか、それともお一人ずつ内謁を?」 「内謁を。サルチーヌ殿にお話があるの。お一人だけ入れて頂戴」  控えの間に通ずる廊下に詰めていた従僕に侍女から命令が伝えられるや、黒服姿の警視総監が現れた。灰色をした鋭い目や強張った薄い口唇を和ませて、愛想よく見せようと微笑んでいる。 「おはようございます、宿敵さん」伯爵夫人は直視せず鏡越しに声をかけた。 「宿敵と仰いましたか?」 「だってそうじゃない? あたしにとって世界には二種類の人間しかいないの。敵と味方。どちらでもない人は、敵に入れちゃう」 「もっともですな。ですが、あなたのために働いているのはご存じでしょうに、どうしてどちらにも入れていただけないのでしょうか?」 「あたしのことを詠んだ小唄や諷刺小冊子《パンフレット》や諷刺文を、自由に印刷させて、配らせて、売らせて、王のもとに送りつけるがままにさせてらっしゃるじゃないの。意地悪で嫌らしい役立たずなんだから!」 「ですが私のせいでは……」 「嘘仰い。誰がやったのかご存じなんでしょ」 「作者が一人しかいないのであれば、バスチーユに放り込む必要もございません。これだけの仕事を一人でこなしていては、勝手に力尽きるのも時間の問題でしょうから」 「随分とお口がお上手じゃないこと?」 「敵ならこんなことは言いますまい」 「かもね。その話はいいわ。仲良くしましょ、ね、これでいいわ。だけどまだ問題が残ってるの」 「何でしょうか?」 「あなたがショワズール一家とお友達ってこと」 「ショワズール閣下は宰相ですから、宰相から命令があれば従わなければ」 「ふうん。だったら、ショワズール殿があたしをいじめなさいだとか、嫌がらせしなさいだとか、悲しみのあまり死なせてしまいなさいだとかお命じになったとしたら、あたしがいじめられり嫌がらせされたり死なせたりされるのを黙って放っておくってことね? どうもご親切に」 「順を追ってお話ししましょう」と言ってサルチーヌは勝手に腰を下ろしたが、咎められることはなかった。何せ自他共に認めるフランス一の事情通。「私は三日前に何をしたでしょうか?」 「教えてくれたわね、伝令がシャントルーを発ち、お着きを急ぐよう王太子妃に伝えたって」 「それが敵からの情報だと仰いますか?」 「でもそんなことより、あたしが認証式に威信を賭けてるのはご存じでしょ。そのことで何かしてくれた?」 「出来る限りのことはいたしました」 「サルチーヌさん、正直に仰いな」 「何を言われますか!――酒場の奥で、それもほんの二時間前にお会いしていたのはどなたとだったでしょうか? 奥さまはジャン子爵にお命じになっていませんでしたか、何処か私の知らない場所に向かうようにと? いやむしろ私も知っている場所だったのかもしれませんな」 「あら! 義兄《あに》のことは放っておく方がよくなくて?」デュ・バリー夫人がころころと笑った。「何てったってフランス王家の姻戚なんですから」 「そうは仰いますが、それも仕事でございます」 「三日前ならそれでもいいわ。一昨日もね。でも昨日は何をしてくれたの?」 「昨日、でございますか?」 「あら、随分と考えてらっしゃるわね――昨日は別の方のために働いてらっしゃったでしょ」 「仰っていることがさっぱりわかりませんが」 「自分の言っていることくらいわかっているわ。さあ総監、昨日は何をしていて?」 「朝でしょうか、夜でしょうか?」 「まずは朝から」 「朝はいつものように仕事をしておりました」 「働いていたのは何時まで?」 「十時までです」 「その後は?」 「その後、リヨンの友人を昼食に誘うため使いをやりました。私に知られないようにパリに来ると言っていたので、従僕を市門のところに待たせておいたんです」 「昼食の後は?」 「オーストリア警察が捜索中の泥棒の足取りを伝えにやりました」 「何処にいたの?」 「ウィーンです」 「じゃあパリの警察だけではなく、外国の宮廷のためにも働いていらっしゃるの?」 「時間が空いている時だけです」 「覚えとくわ。使いを送った後は、何をしてらしたの?」 「オペラ座におりました」 「ギマールに会いに? お気の毒なスービーズ公!」 「そうじゃありません。先ほど申し上げた巾着切りを捕まえに行ったのです。農夫にちょっかいを出すだけなら大目に見ておいたものを、厚かましいことに貴族を二、三人カモったものですから」 「泥棒の命取りって言うべきだったわね――それで、オペラ座の後は?」 「オペラ座の後ですか?」 「ええそう。ちょっとぶしつけな質問かしら?」 「とんでもない。オペラ座の後は……今思い出しますから」 「うふふ! どうやらそこの記憶がないみたいね」 「待って下さい。オペラ座の後は……ああ、わかりました!」 「よかった」 「ある家に手入れを、もとい足を入れて、博打狂いのさるご婦人を、この手でフォール=レヴェク監獄にお連れしました」 「その方の馬車で?」 「いえ、辻馬車です」 「それから?」 「それからですか? これでお終いです」 「あら、終わりじゃないでしょう?」 「それはまあ辻馬車に戻りましたが」 「そうしたら、馬車にどなたがいたのかしら?」  サルチーヌ氏は赤面した。  伯爵夫人は手を叩いて喜んだ。「警視総監の顔を赤らめさせたって自慢しなくっちゃ!」 「伯爵夫人……」サルチーヌ氏が口ごもった。 「あのね! あたしが言いたかったのはこういうこと。馬車の中にいたはグラモン公爵夫人だったんでしょ?」 「グラモン公爵夫人ですか!」 「ええ、そう。陛下のお部屋にお邪魔できるようにお願いされたんじゃない?」 「参りました」サルチーヌ氏は椅子の中で身じろぎした。「総監の地位はお返ししますよ。私なんかより、あなたの方がよほど警察の仕事に向いていらっしゃる」 「実はサルチーヌさん、お察しの通りあたし用のを持ってますの。お気をつけあそばせ!……ねえ! グラモン公爵夫人が真夜中に警視総監と辻馬車に乗って、ゆっくりと馬車を走らせていたんですよ! あたしが何をさせたかおわかり?」 「わかりませんが、怖いですな。幸いだいぶ遅い時間でしたが」 「ふふ、時間なんて無意味よ。夜は復讐の時、なんですから」 「それで、何をなさったのです? 教えて下さい」 「秘密警察はもちろん、文学諸々だってあたしのものなんです。三文文士たちと来たら、襤褸のように汚くて、鼬のように飢えてるんです」 「するとあまり飲み食いさせてないのですか?」 「それどころかまったくさせてませんの。だって太ってしまったら、スービーズさんみたいなおたんちんになっちゃうじゃない。お腹の脂肪には悪意が溜まる、って言いますでしょ?」 「続きをお聞かせ下さい、嫌な予感がします」 「いろいろ考えてたんです。ショワズール家の連中があたしに何をしたって、あなたはだんまりを決め込んでたでしょ。そういうのにかちんと来たから、アポロンたちにこんな台本を作ってもらいましたの。その一、サルチーヌ氏は検事に変装してラルブル=セック通りの五階を訪れ、毎月三十日、そこに住んでいる少女に三百リーヴルの手当を与えてるんです」 「立派な行為ではありませんか」 「そういう行動こそ非難されるものよ。その二、サルチーヌ氏は伝道師に変装してサン=タントワーヌ街のカルメル会修道院に忍び込んだ」 「奥さま、それは東方からの便りを修道女たちに伝えにいったのです」 「ほんとの東方? それともそういうお名前のところかしら? その三、サルチーヌ氏は警視総監に変装して真夜中に町中を駆けまわり、辻馬車の中でグラモン公爵夫人と密会しました」  サルチーヌ氏は震え上がった。「警察の評判を滅茶苦茶にするおつもりですか?」 「あら、あたしの評判を滅茶苦茶にさせてるくせに!」伯爵夫人が笑い出した。「でも話には続きがあるの」 「わかりました」 「あたしのところの悪ガキちゃんたちに、学校の課題みたいに作文やら翻訳やら肉付けやらさせてたんですけど、今朝になって諷刺詩、小唄、喜劇が届きましたの」 「まさかそんな!」 「三つとも上出来。今朝はこれで陛下をもてなして差し上げなくっちゃ、新しい主の祈りも一緒にね。あなたが広めたんでしょ? 『ヴェルサイユにまします我らが父よ、御名を蔑ませたまえ。御国を揺るがせたまえ、御心の天に成る如くには地に成させたまうな。汝の寵姫が奪いし我らの日用の糧を返したまえ。汝の益を侵す大臣を我らが赦す如く汝の益を守る高等法院をも赦したまえ。我らをデュ・バリーの試みに遭わせず悪代官より救い出したまえ。アーメン』」 「何処でそんなものを?」サルチーヌが両手を合わせて溜息をついた。 「見つけるつもりなんてなかったわ。出来がよさそうなのを親切にも送ってくれる人がいるのよ。あなたにも同じことを毎日してあげる」 「しかし……」 「お互い様よ。明日には問題の諷刺詩と小唄と喜劇を届けますからね」 「今すぐではないのですか?」 「だって配る時間がいるじゃない。それに、何があったかを一番最後になってから知るのなんて、警察にとっちゃいつものことでしょ? きっと楽しんでいただけると思うわ。あたしなんか朝からずっと笑いっぱなし。陛下はお腹の具合が悪いそうよ。それで、まだいらっしゃらないの」 「もう駄目だ!」サルチーヌ氏は両手で鬘を掻きむしった。 「何処が駄目なの? 小唄を作られただけじゃない。あたしは『ラ・ベル・ブルボネーズ』で駄目になった? まさか。口惜しかっただけ。今度はあたしが他人を悔しがらせる番よ。ほらいい詩でしょ! あんまり嬉しいものだから、毒虫ちゃんたちには白ワインをご馳走しておいたの。きっと今ごろはぐでんぐでんに酔いつぶれてるわ」 「どうか、伯爵夫人!」 「まずは諷刺詩を読んであげるわね」 「お願いですから!」 「『仏蘭西も山の天気も覚束なし天つ心ぞ女なりける……』。あら間違っちゃった、これはあたしのことね。こんなにあるとごちゃごちゃになって。待ってね、これだわ――  『人や知る 色も匂へる錦絵を――。形もまろき香水壜。ボワイヌ、テレー、モープーの。色も名もあるその中に。合はせて混ぜしサルチーヌ。立てる匂ひに鼻つまみ。金に腐りし泥棒四人!』」 「どうかもうご勘辨を」 「今度は小唄にしましょう。これはグラモン夫人の歌。  『お巡りさん、この肌を見てよ、綺麗でしょ? せっかくだから、それを王様に教えてあげたい……』」 「奥さま!」サルチーヌ氏の声には怒りが滲んでいた。 「怒んないで。まだ一万部しか刷ってないんだから。そんなことより、この喜劇だけは絶対に聞くべきよ――」 「では印刷したのですか?」 「愚問ね! ショワズールさんはそうしたんじゃないの?」 「印刷工には覚悟がおありなのでしょうな!」 「あら、やってご覧なさい。許可証はあたしの名前で出してるの」 「何ですって! では陛下もこの悪ふざけを笑っておいでなのですか?」 「何言ってるの! あたしの指が動かない時に詩を作っているのは陛下よ」 「尽くしたお返しがこれですか?」 「裏切ったのはあなたでしょ。公爵夫人はショワズール家の人間。あたしを失脚させたがってるんだから」 「あの方が一方的に待ち伏せしていらしたのです」 「じゃあ認めるのね?」 「やむを得ません」 「どうして黙ってたの?」 「お伝えに来たところだったのです」 「嘘おっしゃい」 「誓って本当のことです!」 「賭けましょうか?」 「どうかお許し下さい」サルチーヌがひざまずいた。 「いいじゃないの」 「どうか休戦を、伯爵夫人」 「そんなに中傷詩が怖い? 殿方であり大臣でもあるあなたが?」 「それだけなら怖くありませんとも」 「小唄一つであたしが――女のあたしがどれだけ辛い思いをしているのか、少しも考えたことがないんでしょう?」 「あなたは女王ですから」 「ええ、未承認のね」 「あなたのためにならないことなどいたしません」 「でしょうね。でも何かしたりもしないじゃない」 「出来る限りのことはいたします」 「そう、信じておくわ」 「信じて下さい」 「取りあえず今は暗いことよりも明るいことの方を考えましょう」 「喜んで。必ずや良い手助けが出来るものと思います」 「あなたはあたしの味方よね、ウイ? ノン?」 「ウイ」 「認証式が無事に終わるまで協力してくれるのね?」 「あなたご自身も対策を立ててらっしゃるのですね」 「印刷所の方は、昼でも夜でも準備万端。三文文士たちも四六時中お腹を空かせてますから。飢えてさえいれば必ず咬みついてくれるでしょ」 「最善を尽くしましょう。お望みは?」 「何も。ただ無事に終わることを願うだけ」 「お約束いたしますとも!」 「嫌な言葉」伯爵夫人は足を踏み鳴らした。ギリシア人やカルタゴ人つまりは|空約束《ポエニ人の誓い》だと感じたのだ。 「伯爵夫人……!」 「そうよ、あたし認めない。この場限りの言い逃れなんでしょ。どうせあなたは何もしない。でもショワズールは動きを見せるわ。そんなの嫌、わかる? すべてか無か。ショワズール一味を縛り上げて牙を抜いて破滅させて見せてよ。でなきゃあなたの力を奪って縛り上げて破滅させてあげる。いいこと、あたしの武器は小唄だけじゃない、覚えておいて」 「脅しはご勘辨下さい」サルチーヌ氏は朦朧としかけていた。「認証式はご想像以上に難しいことになっておりまして」 「『なっている』とはよく言うわね。誰かが故意に妨害しているんでしょう」 「残念ですが」 「防ぐことは出来ない?」 「私には部下がおります。百人ばかり必要になりますが」 「そうしましょう」 「それには百万ほど……」 「それはテレーの問題ね」 「国王陛下のお許しが……」 「貰っておくわ」 「お許しにはならないでしょう」 「手に入れるってば」 「それでは万事整ったとしましょう。ですがまだ代母の問題がございます」 「探しているところ」 「無駄足に終わりましょう。反対勢力がございますから」 「ヴェルサイユに?」 「ええ、ご婦人方はお断わりになり、ショワズール殿、グラモン夫人、王太子妃殿下、貞淑派の人たちにくみしました」 「グラモン夫人がいるのじゃあ、貞淑派も改名しなくちゃね。こっちはもう王手をかけてるの」 「意地を張るのはおやめ下さい」 「目当てまで手が届いてるのよ」 「ああ、それで義妹《いもうと》さんをヴェルダンに行かせたんですね?」 「当たり。ふうん、知ってたんだ?」伯爵夫人は不満そうだった。 「警察を持っているのはあなただけじゃありませんからね」サルチーヌ氏が笑みを見せた。 「じゃあ密偵が?」 「密偵がおります」 「あたしのところに?」 「あなたのところに」 「厩舎に? それとも台所?」 「控えの間にも、応接室にも、閨房にも、寝室にも、枕の下にも」 「あらあら! 協定の印として、手始めに密偵の名前を教えて頂戴」 「いやしかし、ご友人と仲違いさせるのは忍びないので」 「じゃあ戦争ね」 「戦争ですって! 物騒なお言葉ですな」 「思った通りに言ったまでよ。出てって頂戴、顔も見たくないわ」 「今度はあなたに証言していただきます。秘密を……国家の秘密を洩らせるとでも?」 「閨房の秘密、でしょう」 「意味するところは同じです、昨今では」 「密偵が誰だか知りたいの」 「どうなさるおつもりですか?」 「追い払います」 「では家を空っぽになさいませ」 「恐ろしいことを仰るのね」 「それが事実ですから。いやはやまったく! 密偵なくしては政治もままなりません。やり手のあなたならおわかりでしょう」  デュ・バリー夫人は漆のテーブルに肘を突いた。 「もっともね。その話は止しましょう。協定の条件は?」 「お任せします。勝ったのはあなたですから」 「あたしはセミラミス並みに懐が深いの。そちらの希望は?」 「小麦に関する請願を陛下に上申するのはおやめ下さい。善処をお約束なさった請願のことです」 「いいわ。その件に関する請願書は全部持って行って。この箱の中」 「代わりにこちらをお受け取り下さい。認証式と床几権に関する王国重職貴族の方々の労作でございます」 「陛下にお渡しするはずのものだったんじゃ……」 「その通りです」 「しかも自分で作らせたような顔をして?」 「はい」 「いいわ。でもあなたはどうするの?」 「お渡ししたと公言いたします。時間を稼ぐことが出来ましょうし、賢明なあなたならその時間を無駄にはなさらぬでしょう」  とその時、両扉が開いて取次が現れた。 「国王陛下です!」  二人は協定の印を急いで隠して振り返ると、ルイという名を十五番目に戴いた国王陛下に敬礼した。 第二十四章 ルイ十五世  罷り出でたルイ十五世は、顎を反らし、足をぴんと伸ばし、目を輝かせ、口唇には微笑みを浮かべていた。  通りしなに見えたところでは、開いた両扉の向こうで、廷臣たちが頭を垂れて二つの列をなしていた。国王が現れたことで、権力者二人をまとめてかき口説く好機が訪れたのだから、お目通りを望む気持もふくらもうというものだ。  扉が閉まった。誰も入って来ぬよう王が合図したため、伯爵夫人とサルチーヌ氏の三人だけとなった。  小間使いと黒人の少年は別だ。二人とも数には入らない。 「おはよう、伯爵夫人」国王がデュ・バリー夫人の手に口づけをした。「ありがたいことに、今朝は涼しいね!――おはよう、サルチーヌ。ここで仕事かね? 大変な数の書類だな! 何処かへやってしまいなさい! おや、素敵な噴水ですね!」  飽きっぽく気まぐれなルイ十五世は、昨夜まではなかった中国風の置物が寝室の隅にあるのに目を留めた。 「ご覧の通り中国の噴水ですわ。後ろにある蛇口をひねると水が出て、磁器の鳥が歌い、玻璃の魚が泳ぎますの。それから仏塔の扉が開いて、役人がぞろぞろ出てくるんです」 「これはいい」  そこに黒人の少年が通りかかった。この当時オロスマーヌやオセロー役に着せていたような奇異でちぐはぐな服装をしていた。耳の上に羽根飾りを立てたターバンを巻き、金襴の上着からは黒檀のような腕が覗いている。金襴織りで作られた白繻子のキュロットがゆったりと膝丈までを覆っており、色鮮やかなベルトがこのキュロットと刺繍入りのジレを繋いでいた。腰には宝石細工を施した短剣が輝いている。 「おやおや! 今日のザモールはご立派だね!」  黒ん坊は鏡の前でご満悦だ。 「この子ったら、陛下にお願いがあるそうですの」  ルイ十五世は飛び切り優雅な微笑みを見せた。「ザモールはさぞかし欲張りなのだろうね」 「なぜですの?」 「願いうる最高の計らいを既にあなたから貰っているからですよ」 「と仰ると?」 「余と同じだよ」 「わかりませんわ」 「あなたの僕《しもべ》であることです」  サルチーヌ氏が頭を垂れ、口唇を咬んで笑いを洩らした。 「あら、お上手!」伯爵夫人が国王の耳に囁いた。「大好きですわ、フランスちゃん」  今度はルイが微笑む番だった。 「ところで、あなたが言っていたザモールの頼みとは何だね?」 「長年のお仕えに対するご褒美です」 「十二歳のはずだが」 「末永い将来のお仕えに対してですわ」 「なるほど!」 「ええ陛下、これまではずっと、今まで仕えてくれた人にご褒美をあげていたんだから、これからはこの先仕えてくれる人にご褒美をあげてもいいんじゃないかと思いますの。そうすれば、今まで以上に忠誠を誓ってくれると思いますし」 「それは面白い! サルチーヌ殿はどうお思いかな?」 「忠実な者たちには何よりの贈り物かと。私は賛同いたします」 「ところで伯爵夫人、ザモールのための頼みとは?」 「リュシエンヌの城館をご存じでしょう?」 「つまり話を聞いたことがあるか、ということだね」 「陛下が悪いんですのよ。来て下さるよう何回もお誘いしたのに」 「規則はご存じでしょう。旅先ででもない限り、余は王宮以外の場所で寝むわけにはいかない」 「お願いというのがそれなんですの。リュシエンヌを王宮にして、ザモールをそこの総督にしましょう」 「とんだ喜劇だ」 「だって喜劇は大好きなんですもの」 「ほかの総督たちが喚き出しますよ」 「させておけばいいわ!」 「だが今回はちゃんとした理由がある」 「よかったじゃありませんか。しょっちゅう空騒ぎしてたんですから! ザモール、ひざまずいて陛下にお礼をなさい」 「何のお礼だね?」ルイ十五世がたずねた。  黒ん坊がひざまずいた。 「陛下があなたにご褒美を下さるの。あたくしの服の裾を持って、宮廷の保守層や澄まし屋さんたちの眉をひそめさせた、そのお礼に」 「確かにこの子は醜いからな」そう言ってルイ十五世は大笑いした。 「立ちなさい、ザモール。任命されました」 「だが伯爵夫人……」 「あたくしが責任を持って令状、委任状、買い物の手配をいたします。これはあたくしの仕事。陛下のお仕事は、心おきなくリュシエンヌにいらして下さることです。今日からは、王宮が一つ増えるんですから」 「断る方法はあるかな、サルチーヌ?」 「あるとは思いますが、見つけられたためしがございませんな」 「いつの日か断り方が見つかるとしたら、発見するのはサルチーヌ殿だろうね。それだけは間違いない」 「どうお思いになりますか、伯爵夫人?」警視総監は身震いした。 「それが陛下、三か月前にサルチーヌ殿に一つお願いしたことがあったんですけれど、無駄に終わりましたの」 「どんなことを頼んだのだね?」 「サルチーヌ殿はよくご存じですわ」 「私が? 私は決して……」 「仕事上のことかね?」 「ご自身と警察の仕事に関することですの」 「伯爵夫人、本当に何のことやらさっぱりです」 「何を頼んだんだね?」 「魔術師の捜索です」  サルチーヌ氏がほっと息をついた。 「火あぶりにするのかね? それは熱い。冬までお待ちなさい」 「違いますわ。金の杖を褒美に取らせようと思って」 「その魔術師は悪いことが起こらないと予言したのかね?」 「その逆で、良いことが起こると予言したんです」 「一言違わず?」 「ほぼ正確に」 「聞かせてもらおう」ルイ十五世は椅子にもたれた。果たして面白いのやらつまらないのやらわからぬが、一つ賭けてみよう、そんな口振りだった。 「喜んで。でも陛下、褒美の半分を持っていただかないと」 「必要とあらば、すべてを」 「それでこそ国王のお言葉ですわ」 「さあ聞くとしよう」 「では始めましょう。昔々、ある時のこと……」 「お伽噺のような始まり方だね」 「信じられないようなお話ですもの」 「それはいい。余は魔法使いが大好きでね」 「あなたは金細工師ですものね、ジョスさん。昔々、ある時のこと、貧しい娘がおりました。小姓もなく、馬車もなく、黒人もなく、鸚哥もなく、尾巻猿もありませんでした」 「そして王も」 「まあ陛下!」 「その娘は何をしていたんです?」 「歩いていました」 「ほう、歩いていた?」 「ええ。パリの通りを、ほかの人間と変わらず歩いていました。ただ、随分と急ぎ足でしたけど。だって可愛いと評判でしたから、絡まれるのが嫌だったんです」 「つまりその娘はリュクレース(ルクレツィア)というわけだね?」 「陛下はご存じでしょう。何年前……かしらね、とにかくローマ建国の年を最後にそんな人はもういやしないんですから」 「これは一本取られた! 学者になったらいかがです?」 「まさか。学者だったらとにかく何か適当な年数を口にしてますわ」 「ごもっとも」 「その娘は、チュイルリーを歩いて、歩いて、歩いていました。すると突然、尾けられていることに気づいたんです」 「その娘は足を止めたんだろうね?」 「まあ陛下! 女というものを何だと思ってらっしゃいますの。陛下のおそばにいるのがどんな方たちなのかすぐにわかってしまいますわ。侯爵夫人や公爵夫人に……」 「王女たち、ですね?」 「陛下のお言葉に反論は出来ませんわ。それはそうと何より怖かったのは、突然靄が出て来たことです。あっという間に何も見えなくなってしましました」 「サルチーヌ、靄の出る仕組みを知っておるかね?」  急に声をかけられて、警視総監はびくりとした。 「存じません、陛下」 「余もそうだ。どうか続きを、伯爵夫人」 「その娘は一目散に逃げ出しました。柵を越えると、そこは陛下のお名前を冠してらっしゃる広場でした。うまく撒いたと思ったのに、いきなり目の前に男が現れたのを見て、その娘は叫びをあげました」 「醜かったのか?」 「いいえ、それどころか、二十七、八の美青年でした。日に焼けていて、目は大きく、よく響く声をしていました」 「なのに怖がった。随分と怖がりなのだな!」 「そんなに怖がったのはその人を見たせいじゃありません。そうではなくて、その場の状況が恐ろしかったんですの。靄がありますもの、悪いことをされそうになっても、助けは期待できなかったでしょうから。だから手を合わせたんです。 『お願い、やめて下さい』  男は感じのいい笑みを浮かべて首を振りました。 『何もするつもりはありませんよ』 『じゃあ望みは何?』 『約束をしてくれませんか』 『どんな約束?』 『お願いにあがった時には真っ先にお引き立て下さい。あなたが……』 『あたしが?』と娘は不思議そうにたずねました。 『あなたが女王になった時には』」 「それで娘はどうしたのだ?」 「何の実害もないと思ったので、約束しました」 「その魔術師は?」 「消えてしまいました」 「なのにサルチーヌ殿は見つけようとしないのですか? それはいけない」 「陛下、見つけようとしないのではなく、見つけることが出来ないのです」 「あら、総監殿! それは警察の辞書にあってはならない言葉じゃありませんこと?」 「目下捜索中でございます」 「型通りの言葉ね」 「残念ながら真実でございます。しかしあまりに情報が少なすぎるのです」 「何ですって! 若くて、美男で、日焼けして、黒髪で、見事な目をして、いい声をしているというのに」 「随分な熱の入れようだ! サルチーヌ、その男を見つけてはなるまいよ」 「陛下は誤解なさってますわ。あたくし、尋きたいことが一つあるんです」 「ご自身のことかな?」 「そうです」 「なるほど! だがこのうえ何をたずねたいと? 予言は当たったではないか」 「そうお思いですか?」 「違うかな。あなたは女王だ」 「似たようなものですけれど」 「ではこれ以上は教わることなどあるまい」 「ええ。でもその女王がいつ正式に認証を許されるのかを教えてもらえます。夜の政治がすべてではありませんわ、陛下。昼の政治だって大事じゃありませんこと?」 「魔術師の問題ではなかろう」おかしな話になって来たことに気づき、ルイ十五世は口を引き結んだ。 「では誰の問題ですの?」 「あなたです」 「あたくし?」 「その通り。代母を見つけて下さい」 「宮廷の気取り屋さんの中から? そんなの無理だってことはおわかりでしょう。あの人たちはみんなショワズールやプラランに身も心も捧げてるんですから」 「おやおや、どちらの話もしないように決めていたと思ったがね」 「そんな約束はしてませんわ」 「そうでしたか! 一つお願いがある」 「何ですの?」 「あの人たちのことは放っておくように、あなたの方もそのままに。優勢なのはあなたなんですから」 「お気の毒な外務大臣に、お気の毒な海軍大臣!」 「伯爵夫人、お願いだからお互いに政治の話はやめましょう」 「結構よ。でもあたくし一人でやる分には止められませんわ」 「ははあ、お望みとあらば」  伯爵夫人は果物籠に手を伸ばし、甘橙《オレンジ》を二つ手に取って、代わる代わるに放り上げた。 「飛んでけ、プララン! 飛んでけ、ショワズール!」 「ふむ! 何をやっているのです?」 「陛下からいただいた権利を行使しているのですわ。大臣の首を飛ばしているんです」  この時、ドレがやって来て、伯爵夫人に耳打ちした。 「ええ、もちろんよ!」 「どうしたね?」王がたずねた。 「ションが戻ったんです。陛下にお目通りを願っております」 「入りなさい! そういえば四、五日前から、何かわからぬが何かが足りないような気がしていたのだ」 「ありがとうございます、陛下」ションが入室し、伯爵夫人に耳打ちした。 「終わったわ」  伯爵夫人が思わず喜びの声を洩らした。 「おやおや、何があったのです?」ルイ十五世がたずねた。 「何も。また会えたのが嬉しいだけですわ」 「それは余も同感だ。おはよう、ション」 「陛下、伯爵夫人と少しお話ししても構いませんか?」 「ああ話し給え。その間、あなたが何処にいたのかサルチーヌにたずねることにしよう」 「陛下」サルチーヌ氏は質問を避けようとした。「少しお時間をいただきたいのですが」 「何のためだね?」 「大変重要なお話がございます」 「そうか。時間が余りないのだよ」ルイ十五世はまず欠伸をしてから答えた。 「一言で済みますので」 「何についての話だね……?」 「千里眼、神秘主義者、奇跡の発見者についてでございます」 「ああ、山師のことか。旅芸人の勅許状を与えておけば、それで怖がらずともよいだろう」 「陛下、恐れながら申し上げますが、事態は陛下のお考え以上に深刻なのです。フリーメーソンは着々と新しい支部《ロッジ》を増やしております。陛下、あれはもはや一協会などではなく、一|宗派《セクト》です。君主制の敵が続々と加入しています。観念学派、百科全書派、哲学者。さぞや物々しくヴォルテールを迎え入れることでしょう」 「死にかけだよ」 「ヴォルテールが? とんでもありません。そんな間抜けではないでしょう」 「告白した」 「作戦ですよ」 「修道服を着ている」 「罰当たりではありませんか! その誰も彼もが煽動し、ものを書き、言葉を費やし、金を出し、協力し、陰謀を企み、脅しをかけているのです。口の軽い会員から聞き出したところでは、奴らは指導者を待っているところだといいます」 「よかろう! サルチーヌ、その指導者がのこのこ現れたなら、バスチーユに放り込んでやれ、それで解決だ」 「あの者たちには資金があります」 「一国の警視総監であるそなたよりもか?」 「かつて陛下はイエズス会士を追放して下さいました。今度は哲学者を追放して下さる必要がありましょう」 「またペン職人の話か」 「ペンは短刀《ナイフ》で削るもの。ダミアンのことをお忘れなきよう」  ルイ十五世は青ざめた。 「陛下がお嫌いになっている哲学者たちは……」 「何だ?」 「申し上げます。あの者たちは君主制を廃止しようとしています」 「それには何年が必要だね?」  警視総監は驚いた目つきをした。 「私には知りようがありません。十五年か、二十年か、三十年でしょうか」 「そうか。十五年後にはもう余はいないだろう。この話は世継ぎにしてくれ」  国王はデュ・バリー夫人に顔を向けた。  それを待っていたかのように、夫人が大きな溜息をついた。「何てこと! どういうことなの、ション?」 「どうしたんだね? 二人とも葬式みたいな顔をして」 「仕方ありませんわ」 「何があったのか話してくれたまえ」 「兄のことです!」 「ジャンったら!」 「切断しなきゃいけないかしら?」 「そうでなきゃいいけど」 「切断? 何を?」ルイ十五世がたずねた。 「腕ですわ」 「子爵の腕を切断する! いったいどうして?」 「重傷なんです」 「腕に重傷を負ったのか?」 「ええ、その通りです」 「いったいどんな喧嘩を、何処の酒場、何処の賭場で……!」 「違うんです、陛下。大通りでした」 「いったい何が?」 「殺されそうになっただけです」 「それはひどい!」ルイ十五世は他人への同情心は少ししか持ち合わせていなかったが、同情を表す術《すべ》は心得ていた。「殺されそうになったとは! これは問題ではないかね、サルチーヌ」  サルチーヌ氏は国王ほど心配そうには見えなかったが、内心は国王以上に動揺しながらデュ・バリー姉妹に近づき、恐る恐るたずねた。 「いったいそのような惨禍が本当に起こったのでしょうか?」 「生憎ですけど、起こったんです」ションは涙ぐんでいた。 「人殺しですか!……それはどのような状況で?」 「待ち伏せされていたんです」 「待ち伏せか!……いやしかしサルチーヌ、これはそなたの管轄ではないか」 「お話し下さいますか。ですが恨みの余りに事実を誇張しませぬようお願いいたします。より正確なことがわかればより適切な判断が出来るでしょうし、落ち着いて子細に検討してみれば些細なことだったというのもよくあることです」 「誰かから聞いたわけじゃないの」ションが声を強めた。「あたしはこの目で事件を見てたんだから」 「よかろう! 見たことを話してくれぬか」王が水を向けた。 「一人の男が兄に襲いかかったんです。手にした剣をふるって兄に重傷を負わせました」 「一人だけでしたか?」サルチーヌ氏がたずねた。 「とんでもありません。ほかに六人の男がいました」 「災難だな!」国王は伯爵夫人から目を離さずに、夫人の嘆き具合に応じて自分の出方を決めようとした。「喧嘩の押し売りか!」  伯爵夫人の顔を見つめたが、面白がっている様子はない。 「傷を負ったのだね?」そこで気遣うような口調に変えた。 「そもそも原因は何なのですか?」警視総監は努めて真実をつかまえようと、のらりくらりとかわそうとするションに食らいついた。 「たいしたことじゃありません。宿駅の馬のことでいざこざがあったんですわ。今朝には戻る約束をしていたものですから、あたしのために急いでくれたんです」 「これで決まりだろう、サルチーヌ?」 「間違いないとは思いますが、まだ聞きたいことがございます。襲撃者の名前はわかりますか? 肩書きや身分は?」 「身分ですか? 軍人です。王太子近衛聯隊の将校だったと思いますけど。名前は確か、バヴェルネ、ファヴェルネ、タヴェルネ、そう、タヴェルネ」 「これで、明日にはバスチーユ入りでございます」 「あら、駄目よ!」伯爵夫人が声をあげた。これまでは駆け引きから沈黙を守っていたのだが、思わず声を出していたのだ。 「駄目とはどういうことだね?」国王がたずねた。「何故、犯罪者を投獄してはならぬのだ? 余が軍人を嫌っているのは知っているだろうに」 「陛下」伯爵夫人の言葉は揺るぎなかった。「申し上げておきますけど、デュ・バリー子爵を襲った人間には何も起こりませんわ」 「これはまた異な事を。どういうことか説明してくれぬか」 「簡単なことです。かばう人がいますから」 「いったい何者が?」 「そそのかした人間ですわ」 「我々に逆らってかばう人間がいるというのか? おやおや伯爵夫人、それは大問題ではないか」 「マダム」どうやらひと嵐来るぞと悟り、サルチーヌ氏は話を逸らそうとして口ごもった。 「ええそう。陛下に逆らって、です。『おやおや』じゃありませんわ。あなたは君主じゃありませんか」  サルチーヌ氏の予想通りにひと嵐来た形だが、国王は動じなかった。 「そうか。どうやら政治の問題に飛び込み、つまらない決闘におかしな理由をつけることになりそうだな」 「あら、あたくしもとうとう見捨てられたってわけね。素性がはっきりしないせいで、殺人未遂もただの喧嘩になってしまうだなんて」 「なるほどそう来ましたか」ルイ十五世は噴水の蛇口をひねった。鳥が歌い、魚が泳ぎ、役人が現れ、動き始めた。 「誰の差し金かご存じないの?」夫人は足許に寝そべっているザモールの耳をいじくった。 「もちろんだ」 「疑わしい人も?」 「誓いますよ。あなたはどうなのだ?」 「あたくし? あたくしは知ってます。陛下にも申し上げるつもりですけど、新しい情報なんて何一つありません。そのことは誓えますわ」 「伯爵夫人、いいですか」ルイ十五世は威厳を取り戻そうとした。「王に向かって事実と反することを言うつもりですか?」 「陛下、確かにあたくしは少しかっとなっているかもしれません。ですけど、ショワズール殿が義兄を殺すのをおとなしく見ているとお思いでしたら……」 「ああ、ショワズール殿か!」国王は大声をあげた。意外な名前だったわけでもあるまいに。何しろ十分来、会話の中にその名が出ては来ぬかと冷や冷やしていたのだ。 「ショワズールがあたくしの一番の敵だっていうことから、陛下はどうしても目を逸らそうとなさるんですね。あたくしは目を逸らしたりしません。だって向こうの方で憎悪を隠そうともしないんですもの」 「人を憎むのと殺すのでは天と地ほどの開きがある」 「ショワズールにとってはどんなこともお隣さん同士ですもの」 「どうか、いい子だから。また政治の話に舞い戻ってしまった」 「だってこんなのひどいってもんじゃないじゃありませんか、サルチーヌさん」 「無論ですが、あなたのお考えが……」 「あたくしの考え? あなたはかばってくれやしない。それだけよ。それどころか、あたくしのことなんか見殺しなんでしょう!」伯爵夫人はかっとなって叫んだ。 「落ち着きなさい。見殺しになどさせぬし、かばわぬとも言っておらぬ。だから……」ルイ十五世がなだめた。 「だから?」 「だから、ジャンを襲った人間にはそれなりのつけを払ってもらうことになるとも」 「ええそうね。武器は破棄して仲直りの握手ってわけね」 「悪事を働いた人間が、つまりこの場合はそのタヴェルネ氏が責めを受けるのでは不公平だと?」 「もちろん公平ですけれど、公平でしかないわ。あたくしにして下さるのとおんなじように、劇場で兵士に殴られたサン=トノレ街の第一商人にもおんなじことをなさるんでしょう。他人と同じなんて真っ平です。目を掛けている者にも無関係の者にも同じ振舞をなさるというんでしたら、いっそ孤独と闇を選びますわ。暗殺される危険のない分、ましですから」  ルイ十五世は悲しげに答えた。「伯爵夫人。目が覚めた時、余はたいへん気分よく幸せで満ち足りていた。その素晴らしい朝が台無しだ」 「さぞや最高でしょうね! じゃああたくしも素敵な朝を過ごしてたとでも? 家族が殺されそうになったというのに?」  国王は周りで蠢いている嵐を感じ取り、内心では恐れを覚えたものの、『殺される』という言葉には微笑を禁じ得なかった。  伯爵夫人が怒りを爆発させた。 「そう? そんなふうに同情なさるのね?」 「まあまあ、そう怒らずに」 「怒らずにはいられません」 「それは良くない。あなたには笑顔が似合うのに。怒っていては台無しだ」 「それで? 可愛ければ苦しまなくて済むというのなら、いくらでも可愛くしますけど?」 「どうか落ち着いて」 「嫌です。お選び下さい。あたくしか、それともショワズールか」 「無理な事を仰る。二人とも大事な人間だ」 「ではあたくしが引き下がります」 「あなたが?」 「ええ、向こうの好きにさせてあげます。あたくしは口惜しくて死んじまいますわ。でもショワズール殿は満足なさるでしょうし、それであなたも気が晴れますでしょ」 「いいですか、伯爵夫人。ショワズールはあなたのことを少しも憎んではいない。好感を抱いていますよ。つまるところ礼儀正しい紳士なのだ」国王は特にこの最後の一言をサルチーヌ氏の耳にしっかり入れようと心を砕いた。 「紳士ですって! 馬鹿にしないで。紳士が人を殺そうとしますか?」 「まだ決まったわけではないだろう」 「それに――」と、サルチーヌが勇気を出して口を挟んだ。「剣士たちが喧嘩するのはよくあることですし、得てして激しくなるものでございます」 「サルチーヌ、あなたもですか!」  総監はこの『お前もか!』の意味を悟り、伯爵夫人の怒りに恐れをなした。  不吉な沈黙が訪れた。  この沈鬱な雰囲気を打ち破ったのは国王だった。「ション、そなたのせいですよ」  ションは申し訳のように目を伏せた。 「義姉《あね》が心痛のあまり無礼にも取り乱したのだとしても、許して下さいますわよね」 「抜け目ないな!」国王は呟いた。「伯爵夫人、どうか恨まずにいておくれ」 「それは陛下、もちろんでございます……でもあたくし、リュシエンヌに参ります。それからブローニュに」 「シュル=メールの方か?」 「ええ、国王を怖がらせるような大臣がいる国にはいたくありませんもの」 「伯爵夫人!」この侮辱にルイ十五世が声をあげた。 「これ以上陛下への敬意を失ってしまいたくありませんので、発つことをお許し下さい」  伯爵夫人は立ち上がりながら、国王の反応を横目で探った。  ルイ十五世は疲れたように溜息をついた。溜息の意味は明らかだった。  ――もうこれにはうんざりだ。  ションは溜息の意味を悟った。これ以上喧嘩の話を押し通すのは得策ではない。  ションは伯爵夫人の袖を引いてから、国王の許に向かった。 「陛下、伯爵夫人は子爵を思う気持がちょっと強すぎたんです……過ちを犯したのはあたしなんですから、償いもあたしがいたします……あたしなんかはちっぽけな家臣の身に過ぎませんけれど、たって陛下に裁きをお願いいたします。誰も告訴するつもりはありません。賢明なる国王陛下ならちゃんと見定めて下さいますもの」 「余も同じことを考えていた。裁き。それも公正なる裁きだ。罪を犯していないのなら非難されず、罪を犯したのなら罰せられるのです」  ルイ十五世は話している間も伯爵夫人を見つめていた。出来ることなら、惨めに終わってしまった健やかな朝を、一時なりとも取り戻したいと思いながら。  伯爵夫人は心立ての優しい人だった。この部屋を離れたところでは、国王はもてあました心を悩ませ心を痛めているのかと思うと、申し訳なく感じた。  デュ・バリー夫人は既に戸口に歩き出していたために、振り返るような形になった。 「ほかのお話をしますか?」と愛らしく白旗を振った。「でもあたくしが疑問を持っている限りは、疑いは消えませんわ」 「あなたの疑いは尊重しますとも」国王は断言した。「それに少しでも確信に変われば、あなたにはぴんと来るのでしょう。いやそれよりも、もっと簡単な方法がある」 「と言いますと?」 「ここにショワズール殿を呼べばよい」 「まあ、来るわけがないのはご存じのくせに! あの方は寵姫の部屋に入ることなんて拒むでしょう。妹の方は別ね。あの人はそれが望みですものね」  国王が笑い出した。  それに力を得て伯爵夫人は続けた。「ショワズールさんは王太子殿下を真似てらっしゃるのね。誰だって評判を落としたくはありませんから」 「王太子は信心深いのだ」 「ショワズールさんは偽善者ね」 「ありがたいことにここでショワズール殿に会えますよ。今から呼ぶとしよう。国の仕事だと言えば来ざるを得まい。すべてを目撃したションの目の前で、説明してもらおうではないか。裁判でいうところの対質と行こうか、どうだね、サルチーヌ? ショワズールを呼びにやってくれ」 「じゃああたくしは尾巻猿を呼ぼうかしら。ドレ! 尾巻猿、尾巻猿を!」  化粧室に控えていた小間使いにかけられたこの言葉、控えの間にもしっかり聞こえていた。というのも、開いた扉から取次がショワズールの許に送り出された時、喉を鳴らすようなしゃがれ声が聞こえて来たからだ。 「伯爵夫人の尾巻猿とは、私のことですね。今行きます、さあお待たせしました」  見れば絢爛豪華な服装をした傴僂が颯爽と現れた。 「トレム公!」伯爵夫人が苛立った声をあげた。「でもあたくしが呼んだのはあなたじゃありませんの」 「尾巻猿をお呼びになったではありませんか」言いながら公爵は、国王、伯爵夫人、サルチーヌ氏の三人にお辞儀をした。「廷臣の中で私ほど醜い猿はおりませんぞ。ですから馳せ参じたのです」  そう言って公爵は尖った歯を剥き出して笑って見せた。これには伯爵夫人も笑わずにはいられなかった。 「ここにいて構いませんか?」と公爵がたずねた。それが生涯かけて望んでいた恩恵であるかのように。 「陛下におたずねなさいな。ここの主なんですから」  公爵は頼み込むように国王の方を向いた。 「ここにいなさい、公爵」気晴らしが増えることを喜んで、国王は答えた。  その時、取次の者が扉を開けた。 「おや」飽いたように国王がたずねた。「もうショワズール殿が?」 「いいえ、陛下。王太子殿下がお話しになりたいそうです」  伯爵夫人は躍り上がった。王太子が自分寄りの立場だと考えていたからだが、抜かりのないションの方は眉をひそめた。 「そうか。王太子は何処に?」国王が苛立たしげにたずねた。 「陛下のお部屋に。お戻りになるのを待っていらっしゃいます」 「いつになっても心の安まる暇もない定めなのかのう」国王が愚痴をこぼした。  だが王太子と接見すれば一時的にでもショワズールとまみえることを避けられると気づき、考え直した。 「いや行こう。では失礼、伯爵夫人。余がどれだけ悲しくどれだけ困っているか考えて欲しい」 「行っておしまいになるんですか! これからショワズールさんが来るという時に?」 「何をお望みかな? 奴隷の筆頭は国王なり。哲学者諸氏に聞かせたいものだ。王とは如何なるものか。それもフランス国王とは如何なるものなのかを」 「陛下、行かないで下さい」 「いやいや。王太子を待たせるわけにはいかない。娘たちのことしか愛していないと前に言われてしまったからね」 「だけど、ショワズールさんに何を話せば?」 「ああ、余のところに来るよう伝えて下さい」  何か言われる前に切り上げようと、怒りで震えている伯爵夫人の手に口づけするや、足早に姿を消した。月並みなごまかしや時間稼ぎで勝ちを収めるや、勝ち戦のまま逃げ出すのはいつものことである。 「またお逃げになるのね!」伯爵夫人が口惜しそうに手を叩いた。  だが国王はこの言葉すら聞いていなかった。とうに扉は閉められ、控えの間を通りながらこう言っていたのだ。 「入り給え、諸君。伯爵夫人のお許しが出た。だがジャンが事故に遭って悲しんでいることを忘れずに」  廷臣たちは驚いて見つめ合った。子爵がどんな事故に遭ったのか知らなかったのだ。  もしや死んだのでは。  多くの者がその場に相応しい表情を作った。喜んでいる者ほど悲しげな顔をして、部屋に入っていった。 第二十五章 振り子時計の間  ヴェルサイユ宮の大広間、振り子時計の間と呼ばれる部屋の中に、一人の若者がいた。顔は薔薇色に、目は穏やか、歩く姿は不格好、腕を下げ、頭を垂れている。十六、七であろうか。  胸の上に輝くダイヤの勲章が、紫天鵞絨の服によく映えていた。一方、腰には青綬が垂れ、銀刺し白繻子の上着に留められた勲章のせいで皺が寄っていた。  この顔を見て、ブルボン王家に特有の厳めしさと人のよさ、威厳と穏やかさを認めぬ者はおらぬだろう。読者にご紹介したこの若者こそ、ひときわ誇張されたブルボン王家の鮮やかな絵姿でもあった。とは言うものの、ルイ十四世とアンヌ・ドートリッシュ以来、こうした高貴な顔立ちはどうやら親から子へと退化しているらしく、件の若者にご先祖様が授けたその顔立ちも、寸分違わず受け継がれたとは言えぬのは明らかだった。そうした生来の魅力が版画よろしく代々複製されては来たものの、表情を詰め込みすぎの肖像画に変わってしまったことは否めないし、その素描画すらいつしか戯画に変じてしまったことも認めざるを得まい。  確かにルイ=オーギュスト、ベリー公、フランス王太子、後のルイ十六世は、ブルボン家特有の高い鷲鼻をしていた。額はやや平たく、ルイ十五世と比べると随分と後退していた。曾祖父から受け継いだ二重顎はこの代になってかなり目立ち、王太子当時はまだ痩せていたとはいえ、顔の三分の一近くが顎で占められている。  また、足取りは遅く覚束ない。身体のバランスはよいのに、足や肩の動きがどうにもぎこちない。ただ腕だけは、ことに指だけは、生き生きとしなやかに力強く、ほかの人間であれば額や口や目に現れるような特徴を有していた。  王太子は振り子時計の間を無言で歩きまわっていたが、まさにこの部屋こそ、八年前、国内のイエズス会士を追放せよという高等法院の判決をルイ十五世がポンパドゥール夫人に手渡した場所であった。王太子はこの部屋をぶらつきながら考えに耽っていた。  だがとうとう待つことにも飽いたらしく、いや考え事に耽るのに飽いたらしく、部屋に飾られた時計を一つ一つ眺めては、カール五世のように、動かしがたい誤差を規則正しい大時計に見つけて面白がった。人が手入れしているかどうかとは無関係に、ものそのものに内在している不均衡が、気まぐれとはいえ明確な形を取って誤差として現れたのだ。  やがて奥にある大時計の前で立ち止まった。その大時計は現在も同じ場所に置かれてあり、精巧な機械仕掛によって、日、月、年、月齢、惑星の運行も知ることが出来る。即ち、緩やかに生から死へと向かう、人間という名の、より精妙な機械に関わるあらゆる移り変わりを知ることが出来る。  王太子は、つとに感心していたこの振り子時計を興味津々と調べ始めた。右から覗き込み、左から覗き込み、針のように鋭い歯を持つ某かの部品がさらに鋭いゼンマイと噛み合わさっているのを確かめた。次に、横から正面に戻ると、歯のついた脱進機が一秒ごとに素早く滑るように動くのを目で追った。長い脚を使って波一つ立てず池や泉を滑る水すましのように滑らかだった。  過ぎ去った時間の生き証人を見つめてからほどなくのことだ。王太子は、随分と長い間待っていることを思い出した。そもそもここで待っていると国王に伝えに行かせた時点で、既に長い時間を潰していたのだ。  見つめていた針が不意に止まった。  と同時に、魔法にでもかけられたように、規則正しく動いていた銅製のからくりも動きを止めた。鋼の回転軸がルビーの軸受けの中で一休みし、直前まではひっきりなしに音を立てて動いていた機械に沈黙が訪れた。揺れも、振動も、ベルの響きも、針や歯車の動きも消えた。  からくりは止まり、振り子時計は活動をやめていた。  何か原子のような小さな砂粒でも歯車に詰まったのだろうか? それとももっと単純に、一休みしているのはこの機械の守護神であり、果てしなく動き続けることに疲れ果ててしまったのだろうか?  時計が卒中を起こして急死してしまったのを見て、自分が何のためにここに来たのか、どのくらい待っていたのかも、頭から飛んでしまった。失念してしまったのはそれだけではない。時間とは、音を立てて揺れる振り子によって未来に飛ばされるものではないことも、機械が止まったからといって時の斜面でもたつくものではないことも。この世の生まれる遙か以前からこの世の絶えたその後までも、万古不易の神の御手になる大時計の上に、永遠に刻まれるのだということも、失念していた。  そこで王太子は、守護神の眠る神殿のガラス扉を開けて、頭を時計に突っ込み、もっと間近でからくりを見ようとした。  だが確かめるには大きな振り子が邪魔だった。  そこで銅の穴から指を巧みに滑らせ、振り子を外した。  それも空振りだった。くまなく見回してもわからないということは、時計の止まった原因は目に見えないところにあるのだ。  とすれば、時計係がネジを巻くのを忘れたために、自然に止まってしまったのではないだろうか。王太子は台座に引っかけてある鍵を取り、慣れた手つきでゼンマイを巻き始めた。ところが三巻きしか出来ない。どうやら原因不明の不具合があるのは間違いない。巻いてはみたものの、それ以上ゼンマイは動かなかった。  王太子はポケットから鼈甲のナイフを取り出し、鋼の刃先で歯車を突っついた。機械は一瞬だけ軋みをあげたが、すぐに止まってしまった。  こうなると時計の不具合を真剣に考えざるを得ない。  王太子ルイはナイフの先で部品を外し、細やかな手つきで卓上にネジを広げていった。  なおも心を奪われたようにして、複雑な機構の分解を続け、もっと奥の見えない部分に分け入った。  と見る間に快哉を叫んだ。ゼンマイを止めているネジがゆるみ、駆動輪が止まっているのを見つけたのだ。  そこで王太子はネジを締め始めた。  それが終わると左手に歯車、右手にナイフを持って、再び機械に頭を突っ込んだ。  こうして夢中になって機械仕掛けをいじっている最中、扉が開いて声があがった。 「国王陛下です!」  だがルイ王太子には手の下でチクタクと鳴る美しい音しか聞こえていなかった。名医の手で甦った心臓の鼓動のように、美しい音だった。  国王が辺りをあちこち見回したが、王太子を見つけるのには時間がかかった。というのも見えたのは一つ両足だけで、上半身は時計で隠れ、頭は機械の中に埋もれていたのだ。  国王は笑顔を浮かべて歩み寄り、孫息子の肩を叩いた。 「そこで何をしているのだね?」  ルイは慌てて身体を引っこ抜いたが、それでも、修理しようとしていた時計を壊してしまわぬよう細心の注意を払うことは忘れなかった。 「陛下もご覧の通り」作業中のところを見つかって真っ赤になりながら王太子は答えた。「お待ちしている間、暇つぶしをしていたところです」 「ああ、時計を壊してかね。何て暇つぶしだ!」 「あべこべですよ、直していたんです。重要な歯車が動かなくなっていましたから。ご覧の通りこのネジのせいでした。ネジを締め直したので、もう動き出すでしょう」 「だがそんなところで調べていたら目が悪くなってしまうぞ。余であれば、この世の黄金をすべてやると言われても、そんな巣箱には頭を入れぬがの」 「心配御無用、時計のことなら任せて下さい。十四歳の誕生日に陛下から賜った時計を、分解するのも組み立てるのも手入れするのも、この私がやっているんですから」 「それはそうと、からくりのことは置いておこう。余に話があったのではないかね?」 「私が?」王太子が顔を赤らめた。 「違うかな。ここで待っていると使いを寄こしたではないか」 「その通りです」王太子は目を伏せた。 「よかろう! 何が望みだ? 言いなさい。何も言うことがないのなら、余はマルリーに出かけるが」  ルイ十五世はいつもの癖でとうに立ち去ろうとしていた。  王太子がナイフと部品を椅子に置いた。夢中になっていた作業を中止した以上は、これこそが重大な話があるという証拠にほかならない。 「お金かね?」国王はぴしゃりとたずねた。「それなら待っていなさい。あとで届けよう」  ルイ十五世は扉に向かってさらに一歩踏み出した。 「違うんです。まだ月の年金が千エキュあります」 「倹約家だな。ラ・ヴォーギヨン殿は倹約しろとよく言っていたが。あの男には余に欠けている美徳が備わっていたのだろうな」  王太子は勇気を奮い起こした。 「陛下、妃殿下はまだ遠くにいるのですか?」 「それは余よりもそなたの方がよく知っておろう」 「私が?」王太子はまごついてみせた。 「さよう。昨日、報告を聞かせてもらったところ、月曜日にはナンシーを越えたと言っておった。今頃はパリから四十五里ほどであろう」 「随分と遅いとはお思いになりませんか?」 「そんなことはあるまい。むしろ早いのではないかな。ご婦人であること、それに祝宴やもてなしを受けていることを考えれば。いろいろ考え合わせれば、二日で十里がいいところだ」 「それでは遅すぎます」王太子がおずおずと訴えた。  これほどまでに待ち焦がれていたのかと知って、ルイ十五世は驚きに驚きを重ねた。こんなこととは思ってもみなかった。 「ほほう!」からかうような笑みを浮かべ、「随分とせっかちだな?」  王太子はかつてないほど真っ赤になった。 「そうではないんです」と呟いた。「陛下が想像なさるようなことではありません」 「そうか。そうであって欲しかったのだがな。そなたは十七歳だ。可愛い皇女だと聞くぞ。待ちきれなくとも仕方あるまい。心配せずともそなたの妃はやって来る」 「途中の儀式をちょっとくらい端折ることは出来ないのですか?」 「無理だ。滞在しておかねばならぬ町があったのだが、既に幾つか素通りしている」 「それではきりがありません。一つ思っていることがあるのですが」王太子はおずおずと洩らした。 「何だね? 言い給え!」 「手配が至らなかったのではないでしょうか」 「何の手配だね!?」 「旅の手配です」 「馬鹿げたことを! 各駅には三万頭の馬、三十輛の四輪馬車、六十輛の荷馬車を送っているし、どれだけの運搬車があるのかわからぬくらいだ。それだけの運搬車、荷馬車、四輪馬車、馬を一列に並べれば、パリからストラスブールまでには達しよう。これだけ揃っていて、なぜ手配が至らぬと思うのだ?」 「陛下の仰ることももっともですが、私だって思いつきでものを言っているわけじゃありません。あるいは言い方が悪かったのかもしれません。手配が至らなかったのではなく、上手く回っていなかったのではないでしょうか?」  国王はこの言葉に顔を上げ、王太子の顔を見つめた。言葉の裏に何か潜んでいるのだとピンと来たのだ。 「馬が三万、四輪馬車が三十、荷馬車が六十、二聯隊を手配させた……さて先生、王太子妃がこれほどのお供付きでフランスに入国するのを、今までに一度でも見たことがあるかね?」 「確かに、すべてが王族扱いですし、陛下がすべて心得てらっしゃるのはわかります。ですがこの馬や馬車など諸々の用意が妃殿下一行のために特別に手配したものだということを、しっかりと伝えたのですか?」  国王は三たび王太子ルイを見つめた。仄かな疑いの気持が胸を刺したところだった。うっすらとした光が記憶を照らし、それと同時に、王太子の言葉にはどことなく、先ほど起こった不愉快な出来事と似たところがあるぞ、という思いが頭をよぎった。 「何という質問だ! 無論のこと、すべて妃のために手配しておる。だから、すぐにも到着することは請け合おう。いったい何故そんなふうに余を見ているのだ?」きつい口振りは、王太子を脅しているようにも聞こえた。「機械のゼンマイだけでは飽き足りず、もしや余の顔も調べるつもりかね?」  王太子は口を開こうとしていたのだが、この悪言を聞いてぷいと口を閉ざした。 「さあどうだね。もう文句もあるまい」国王は威勢良くたずねた。「よいな?……そなたの妃はやって来るし、手配には申し分がなく、金庫には自分の金もたっぷりある。充分ではないか。もはや心に懸けることもないであろう? 余の振り子時計を元通りにしてくれぬか」  王太子は微動だにしなかった。 「どうだね、そなたを宮殿の時計係に取り立てたいものだな。無論、俸給付きだぞ」ルイ十五世が笑いながら言った。  王太子は国王の眼差しを避けるようにうつむくと、椅子に置いてあったナイフと歯車を手に取った。  その間にルイ十五世はそっと扉に向かっていた。 「手配が至らないなどと言って、いったい何が言いたかったのだろう?」王太子を見つめて国王は首をひねった。「まあよい、ここも逃げ出すに限る。何やら不機嫌だからな」  なるほど普段は温厚な王太子が、床を踏み鳴らしていた。 「一雨来そうだな」ルイ十五世は北叟笑んだ。「やはり逃げるに越したことはない」  ところが扉を開けてみると、戸口にはショワズール氏がいて、深々と頭を下げていた。 第二十六章 ペトー王の宮廷  出口に立ちふさがるようにして舞台に登場した、この思いがけない人物を見て、ルイ十五世は一歩退いた。  ――おやおや、すっかり忘れていた。好都合かもしらんな。全部ひっかぶってくれるかもしれぬ――。「おお、そなたか! ちょうど呼びに遣っていたのだが、そのことは伝わっているな?」 「ええ、陛下」大臣は冷やかに答えた。「陛下の許に参ろうと着替えをしておりましたところ、命令が届きましたので」 「うむ、大事な話があったのでね」ルイ十五世は眉を寄せた。出来ることなら大臣を威圧しておきたい。  生憎なことに、ショワズール氏は国内でも有数の、脅しの通じぬ人間だった。 「私の方にも、大変重要な話がございます」  と一礼すると同時に、時計の陰に隠れていた王太子と目を交わした。  これで国王も腹を決めた。  ――なるほど、そちらもか! このように包囲されては、逃げようがないな。  先制攻撃を食わせようと急いで口を開いた。「ジャン子爵が殺されそうになったのは知っておろう」 「正確に申しますと、前腕に刀傷を負ったのです。私が申し上げに来たのもそのことです」 「さもありなん、耳が早いな」 「情報の先を行っておりますゆえ」 「するとそなたはこの事件について詳しく知っているのか?」国王が意味ありげに問いかけた。 「何もかも知っております」 「なるほど宮廷で言われていた通りだな」  ショワズール氏はなおも平然としていた。  王太子は銅のナットを締めるのに忙しかったが、それでもうつむいたまま耳をそばだて、片言隻句なりとも聞き逃すまいとしていた。 「これから事件が起こったいきさつを話してやろう」 「陛下は詳しい事情をご存じなのですか?」 「うむ、そのことだが……」 「私どもにはいつでも謹聴する用意は出来ております」 「私どもとは?」 「つまり、王太子殿下と私でございます」 「王太子だと?」へりくだった様子のショワズールから、耳をそばだてているルイ・オーギュストへと目を移した。「王太子がこの喧嘩とどう関わるのだ?」 「関係はございます」ショワズール氏が王太子に頭を下げた。「王太子妃殿下が原因なのですから」 「妃殿下が原因だと?」国王は身震いした。 「ご存じありませんでしたか? ではあまり詳しい話をお聞きではないのでしょう」 「王太子妃とジャン・デュ・バリーか。奇妙な取り合わせだ。よかろう、説明してくれぬか、ショワズール殿。隠し立ては無用だぞ。デュ・バリーに傷を負わせたのが妃だったとしてもだ」 「妃殿下ではございませんが」ショワズールは態度を変えなかった。「護衛の者がやったことでございます」  国王は再び顔を曇らせた。「その者を知っているのか?」 「私は存じ上げませんが、勲臣一人一人を胸に刻んでいる陛下ならご存じのはずです。父君の背負っているその名はフィリップスブルク、フォントノワ、マオンに響き渡っておりました。タヴェルネ=メゾン=ルージュです」  王太子はその名を記憶に刻もうとでもしたのか、部屋の空気諸共この名も吸い込んだように見えた。 「メゾン=ルージュ? もちろん知っておる。それがどうしてジャンの奴と喧嘩なぞを? 余がジャンを寵しているからか……馬鹿げた妬み、不満のとば口、叛乱の趣すらあるのでは!」 「陛下、話をお聞き下さいますか?」  この問題を切り抜けるには感情的な真似をするしかない。ルイ十五世はそれを承知していた。 「要するにこれは、余の平穏を乱す陰謀の萌芽、余の家族を貶める嫌がらせではないか」 「陛下がこの青年を非難なさるのは、嫁御でいらっしゃる王太子妃殿下をかばってるからですか?」  王太子が立ち上がって腕を組んだ。 「私はその男に感謝していますよ。二週間後には妻になる大公女のために、命を賭けてくれたんですから」 「命を賭けた、か!」国王が呟いた。「何のために? それが知りたい。いったい何のために?」 「ジャン・デュ・バリー子爵は旅を急ぐあまり、妃殿下がご到着予定の宿駅で、馬を奪おうとしたのです。恐らくさらに先を急ぐために」  国王が口唇を咬み、顔色を変えた。先ほど感じていたのと同じような不安が幽霊の如く迫り来るのを悟ったのである。 「そんなことはあるまい。余にはわかっている。そなたは良く知らぬのだ」ルイ十五世はぼそぼそと呟き、時間を稼ごうとした。 「いえ陛下、良く知っております。名誉に賭けて、陛下に申し上げることは掛け値ない真実でございます。ジャン・デュ・バリー子爵は確かに、王太子妃殿下のためにご用意してあった馬を入手せんとして妃殿下を侮辱され、宿駅の主に乱暴を働いて力ずくで馬を連れ出そうとしていたところ、妃殿下に遣わされたフィリップ・ド・タヴェルネ士爵から相手を立てた鄭重な警告を受けた後……」 「うむ、うむ!」国王がうめいた。 「相手を立てた鄭重な警告を受けた後、でございます、陛下……」 「そう、私も保証しますよ」王太子が言った。 「そなたも知っているのか?」たまげてしまった。 「すっかり知ってます」  ショワズール氏が感謝するように頭を下げた。 「殿下がお話しなさいますか? 恐らく私の言葉などより、ご実息でいらっしゃる殿下のお言葉の方が陛下も信頼なさるでしょうから」 「うん、そうしよう」王太子が言葉を続けた。ショワズール大臣としては、懸命に大公女をかばっていることに当然ながら某かの感謝を期待していたところだが、王太子はそんな素振りは一切見せなかった。「私も事情は知っているし、ここに来たのも陛下にそれを伝えるためです。デュ・バリー氏は馬の用意を妨げて妃殿下を侮辱しただけでなく、無礼を糾して務めを果たしただけの聯隊将校に対して力ずくで逆らったことでも妃殿下を侮辱したのです」  国王は首を横に振った。 「まだ何とも言えぬ」 「私には断言できます」王太子は激せず答えた。「デュ・バリー氏が剣を抜いたのです」 「先に、かね?」国王は喜んで、引き分けに持ち込めそうな可能性に飛びついた。  王太子が真っ赤になって助けを求めて見つめるので、ショワズール氏は慌てて助けに入った。 「つまり陛下、妃殿下を侮辱した人間と、妃殿下を守ろうとした人間の、二人が剣を交したのでございます」 「それはわかるが、先に手を出したのはどちらだね? 余はジャンを知っている。子羊のようにおとなしいぞ」 「個人的には、先に手を出したのは、非があった方の人間だと思います」王太子がいつもながらに穏やかに答えた。 「難しい問題だ。先に手を出したのは非があった方の人間……非があった方か……しかしもし将校が無礼な態度を取ったのだとしたら?」 「無礼ですと!」ショワズール氏が声をあげた。「妃殿下のために用意された馬を持ち出そうとしていた人間に立ち向かうことが無礼だと仰るのですか? まさかそう仰るのですか?」  王太子は声こそあげなかったが、顔から血の気が引いていた。  二人が反発していることにルイ十五世も気づいた。 「昂奮していたのではないかと言いたかったのだ」国王は言い直した。 「もっとも――」国王が引いたのを見て、ショワズール氏が一押しした。「忠実な家臣が非を犯すはずのないことは陛下もよくご存じでいらっしゃいましょう」 「そうかな。それより、そなたはどうやって今回のいきさつを知ったのだ?」国王は王太子にたずねながらも、目はショワズール氏から逸らさずにいた。不意に声をかけられた王太子はひどく慌ててしまい、動揺を隠そうと努めたものの、狼狽えているのは誰の目にも明らかだった。 「手紙が届いたのです」 「誰からだね?」 「妃殿下のことをお気に掛け、侮辱などもってのほかと感じている者からでしょう」 「ああ、また秘密の手紙に悪だくみか。また余を困らせようと企んでいるのだな。ポンパドゥール夫人の時と同じだ」 「違います、違います」ショワズールが口を挟んだ。「そんなややこしいことではなく、第二級不敬罪に過ぎません。然るべき罰を犯人に下せば済む話でございます」  この罰という言葉に、伯爵夫人が柳眉を逆立てションが色をなして食ってかかるのが、目に見えるようだった。家庭の平和が飛び去ってしまう。それはルイ十五世が生涯を通して求めながら果たせないものであった。爪を立て、目を涙で真っ赤に腫らし、内紛が始まるのが目に見えた。 「罰か! まだ当事者から話も聞いていないし、どちらの言い分が正しいのか判断もしようがないではないか! クーデターが起こったわけでも封印状が必要なわけでもあるまい! そなたはそんな提案をして、余をどんな厄介ごとに引きずり込むつもりなのだ?」 「ですが陛下、初めが肝心です。妃殿下を侮辱した者に制裁を加えておかなければ、これから先、いったいどうなるでしょうか……?」 「中傷が飛び交いますよ」王太子が後を引き取った。 「制裁に中傷だと? では我々を取り巻く中傷にいちいち制裁を加えるがいい。余は封印状に署名して一生を終えねばなるまい! ありがたいことに、もう飽きるほど署名はしてしまったよ!」 「必要なことです、陛下」ショワズール氏が言った。 「私からもお願いいたします、陛下……」王太子も重ねて言った。 「怪我をしたことでとうに罰せられているとは思わぬのか?」 「そうは思いません。タヴェルネ殿を傷つける可能性もあったのでございますから」 「もしそうなっていたら、そなたは何を望んでいたかね?」 「子爵の首を」 「だが、アンリ二世を殺したモンゴムリーにもそれほどひどいことはしなかったではないか」 「モンゴムリー伯は偶然から国王を殺してしまいましたが、ジャン・デュ・バリー殿は侮辱しようとして王太子妃殿下を侮辱したのでございます」 「ではそなたも――」と、ルイ十五世は王太子に問いかけた。「ジャンの首が望みなのか?」 「いいえ、私は死刑には反対ですから」そう言ってから控えめにつけ加えた。「ですから、私のお願いは追放刑に留めるつもりです」  国王は身震いした。 「旅籠の喧嘩に追放だと? ルイ、博愛主義のわりには厳しいではないか。そなたはやはり、博愛主義者である以前に数学者なのだ。そして数学者とは……」 「続きを承っても構いませんか?」 「数学者は物事すべてを数字で考えたがるものだ」 「陛下、私はデュ・バリー殿個人を恨んでいるのではありません」 「では誰を?」 「妃殿下の襲撃者を」 「夫の鑑ではないか!」国王が皮肉った。「ありがたいことに、そう簡単には騙されぬぞ。非難されているのが誰かもわかっているし、余にどう思わせたくて大げさに騒ぎ立てているのかもわかっている」 「陛下、大げさではございません。民衆はあまりの無礼に心から憤っているのです」ショワズール氏が言った。 「民衆だと! そなたは自分を、いや、余をとんでもないことに巻き込んでおるな。民衆に耳を傾けろと? 中傷、諷刺、小唄の作者や陰謀家が口を揃えて、王様は盗まれ騙され裏切られていると言っているのに? くだらん。勝手に言わせて笑っておけばいい。余に倣え、耳を閉じよ。そのうち疲れてしまえば、民衆も叫ぶのをやめるだろう――ははあ、そなたは不満そうな素振りをしておるな。ルイはすねたような顔をしておる。まことに不思議なものだな! 半端者のためになら出来ることも余のためには出来ぬし、生きたいように生きることも許さずに、余が好きと言えば嫌いと言い、嫌いと言えば好きと言う。余はまともかうつけか? 余は君主か否か?」  王太子がナイフをつかみ、振り子時計に戻った。  ショワズール氏は先ほど同様に頭を垂れた。 「そうか、答えはなしか。何でもよいから何か答えぬか! そなたたちは余を苦しめて死なせたいのか? さえずったかと思えばだんまりを決め込み、憤ったかと思えばびくつきおって」 「私はデュ・バリー殿に憤っているのではありません」王太子が笑顔で答えた。 「私も子爵にびくついているわけではございません」ショワズール氏はつっけんどんだった。 「揃いも揃ってひねくれおって!」国王は立腹を装い声をあげたが、胸に湧いていたのは悔しさであった。「そなたたちは余をヨーロッパ中の笑いものにしたいのか? プロイセン王から馬鹿にされればよいと思っておるのか? あの忌々しいヴォルテールでもあるまいに、ペトー王の宮廷よろしく、好き勝手に口を利くつもりか? とんでもない! そうはさせぬぞ。そうは問屋が卸さぬ。余は自分なりに名誉をわきまえておるし、自分なりにそれを守るつもりだ」 「陛下――」王太子の声は飽くまで穏やかだったが、妥協の構えは見えなかった。「恐れながら申し上げますが、問題になっているのは陛下の名誉ではなく、辱めを受けたのは王太子妃の尊厳なのです」 「殿下の仰る通りでございます。陛下から一言仰っていただければ、繰り返す者は二度とおらぬでしょう」 「誰が繰り返すというのだ? 始まってもいないというのに。ジャンは愚かだが悪意はない」 「愚かという点に相違なければ、その愚かさゆえにタヴェルネ殿にお詫びすることにはなりませんか」ショワズール氏が言った。 「その話はもうよい。どうでもよいことばかりだ。ジャンには謝罪する自由もあるし、謝罪しない自由もある」 「事件を成り行きに任せますと、騒ぎになりましょう」ショワズールが口を添えた。「それを前もって陛下にお知らせ出来るのはありがたいことでございます」 「結構だな! ではそうしてみるがよい。余は耳を塞いでおこうか。そなたたちのたわごとはもうたくさんだ」 「では陛下は――」ショワズール氏の声は怖いほどに冷たかった。「デュ・バリー殿が正しいとお認めになったと考えていいのでしょうか?」 「余が認めたと? インクほども真っ黒な事件の渦中にいる人間のことを、正しいと認めたというのか? どうも余を怒らせたいらしいな。気をつけるがいい、公爵……ルイ、そなた自身のためにも、よく覚えておけ……余の言ったことは、後はそなたたちで考えてくれ。余はもう疲れた。限界だ。もう構わぬ。ご機嫌よう諸君、余は娘たちのところに寄ってからマルリーに避難するとしよう。あそこなら少しは落ち着けるだろう。そなたたちがついて来なければの話だがね」  国王がそう言って戸口に向かったところ、扉が開いて取次が姿を見せた。 「陛下、ルイーズ王女殿下がおいとまのご挨拶をするため、回廊でお待ちしていらっしゃいます」 「いとまの挨拶だと?」ルイ十五世は仰天した。「何処に行くつもりなのだ?」 「宮殿を離れる許可を陛下からいただいたとおっしゃっていましたが」 「また事件か! お祈り娘が今度も何かやらかしおったか。余は世界一不幸な人間に違いあるまい!」  そうして国王は走り去った。 「置き去りにされてしまいましたな」ショワズール公爵が王太子にたずねた「殿下はどうなさいますか?」 「おっ、鳴っている!」振り子時計が元通り動き出した音を耳にして、本気なのかふりなのか、王太子は喜びの声をあげた。  大臣は眉を寄せ、後ずさるようにして部屋を出た。振り子時計の間に残ったのは王太子一人だった。 第二十七章 マダム・ルイーズ・ド・フランス  国王の長女はルブランの大回廊で父を待っていた。そこは一六八三年、共和国のために陳謝に訪れたジェノヴァの総督《ドージェ》インペリアーレと四人の議員を、ルイ十四世が迎えた場所であった。  この回廊の端、王が入室に用いたのとは反対側に、二、三人の侍女が悲嘆に暮れたような顔をして控えていた。  ルイ十五世が到着した頃には、人々が玄関広間に集まり始めていた。それというのもその朝に王女が決意を固めたという報せが、宮廷中に広まり始めていたのだ。  マダム・ルイーズ・ド・フランスは、堂々たる体躯に王家の美しさを備えた王女であったが、人知れぬ悲しみからか、時折、すべすべした額に皺を寄せることもあった。マダム・ルイーズ・ド・フランスは、その厳格なまでに慎み深い振舞から、宮廷中の尊敬を集めていた。国家権力に敬意を払うことなど、この五十年来フランスでは、下心があるか恐れを抱いてでもいない限り見られなかったことだ。  それだけではない。支配者たちが――専制君主たち、とはまだ声高に叫ばれてはいなかったが――ほとんどの国民から愛想を尽かされていた当時にあって、王女は国民から愛されていた。慎み深くとも他人行儀ではなかったからだ。はっきり話題に上ったこともないのに、誰からも優しい人だと思われていた。日々の善行からもそれがわかった。優しさなど見せず悪習に励んでいるほかの者たちとは大違いだった。  ルイ十五世はこの娘を恐れていた。一目置いているという一点において。時には誇りに思うことさえあった。それ故に、憎まれ口や軽口の餌食にならずに済んだのはこの娘だけだった。ほかの三人の娘、つまりアデライード、ヴィクトワール、ソフィーのことは、「ぼろ」「ぞうきん」「からす」と呼んでいたのに、ルイーズ・ド・フランスのことは「マダム」と呼んでいた。  サックス元帥がチュレンヌや大コンデといった人々の魂を墓まで携え、マリ・レクザンスカが王妃マリ=テレーズの統率力を墓まで道連れにして以来、玉座を取り巻く何もかもがこぢんまりとみすぼらしくなってしまったという時に、マダム・ルイーズ一人はまこと王族的な、言いかえるなら英雄的とも言える精神を保ち、フランス王国の王冠に対する誇りを失っていなかった。もはや本物の真珠は王女一人、後はメッキや紛い物の石ころだらけであった。  だからといってルイ十五世がこの王女を愛している、と言っているわけではない。ご存じの通りルイ十五世が愛しているのは自分だけであった。我々に言えることは、ほかの人間よりはお気に入りだった、ということだけである。  国王が回廊に入ってみると、王女は一人回廊の真ん中で、血玉石と青金石で象眼を施されたテーブルにもたれていた。  黒衣を纏い、美しい髪には髪粉もつけず二枚重ねのレースをかぶっていた。顔にはいつもほどの厳格さは見られず、むしろ悲しみが浮かんでいるようだった。何も見てはいない。時折、ヨーロッパの王たちの肖像画に侘びしげに目を走らせるだけだった。無論その筆頭にはフランス歴代の王たちが輝いている。  黒衣は王女の普段着であった。王妃たちが家庭的であった時代と同じく、この時代に着用されていたのはまだ深いポケットがついている衣服であったし、マダム・ルイーズも往年の王妃たちの例に洩れず、整理箱や衣装棚の鍵を金の輪に束ねて腰に提げていた。  国王はひどく沈み込んでいた。誰もが息を殺し、なかんずく誰もが目を注いでこの接見の結果を見守っているのを痛いほど理解していたのだ。  だがこの回廊は大変に長かったため、両端に陣取った観客たちも俳優たちへの慎みを欠かさぬことが出来た。見ることは観客の権利であったが、聞かぬことは義務であった。  王女が前に進んで国王の手を取り、恭しく口づけした。 「出て行くと聞いたが? ピカルディに行くのかね?」 「そうではございません、陛下」 「では恐らく」と国王は声を大きくした。「ノワールムティエに巡礼に行くつもりだな」 「違います、陛下。わたくしはサン=ドニのカルメル会修道院に隠遁いたします。そこでなら修道院長に就くことが出来ますし」  国王はぎょっとした。だが心は揺れ動いていても、顔は平静を装っていた。 「まさか余の許を去ったりはせぬのだろう? そんなことはあり得んよ」 「父上、わたくしはずっと以前から決意しておりましたし、陛下はお許しを下さいました。どうか拒否なさらないで下さい」 「うむ、確かに許しはしたが、随分長いこと悩んだのだぞ。許しを与えたのも、いざ出発という時になって気持が萎えてくれるのではと思ったからではないか。修道院なぞに埋もれてはならぬ。そのような引き籠もった暮らしなど。修道院に入るのは、悲しい目に遭ったり運命に裏切られた人間だけだ。フランス王の娘には惨めなことなどないし、仮に不幸だとしても誰にも気取られてはならぬのだ」  国王の言葉と気持は、王であり父であるという役割をかつてないほど取り戻すにつれ、だんだんと高まっていた。或いは誇りが耳打ちし、或いは無念が胸に生じたために、これまでに一度も上手く演じたことのない役柄ではあったが。  ルイーズ王女も父が昂奮していることに気づいた。自分勝手なルイ十五世が珍しく心を動かされているのだ。思った以上に感動を表したのは、今度は王女の番だった。「陛下、そのような優しいお言葉で、わたくしの気持を挫かないで下さいませ。わたくしの悲しみはありふれたものではありません。わたくしの決意は、この時代の習わしとは別のところにあるのですから」 「ではそなたは悲しんでいるのか?」国王は敏感に反応した。「悲しんでいるというのか!」 「つらく大きな悲しみでございます!」 「何故聞かせてはくれなかったのだ?」 「人の手では癒せぬ悲しみだからでございます」 「たとい王の手であっても?」 「王の手であっても」 「父の手であっても?」 「同じでございます」 「だがそなたは信仰心が篤いではないか、ルイーズ。そなたなら信仰の力で……」 「それもなりません。それ以上のものを見つけたくて修道院に入るのですから。沈黙の中で主は人の心に語り給い、孤独の中で人は主の御心にお話を奉るのです」 「だがそなたは神のために、何物にも代え難い大きな犠牲を払っているのだぞ。玉座の影が厳かに、膝元の御子たちを包み込んでおるのだ。そなたはそれが不満なのか?」 「修道院の小部屋の影はそれ以上に深く、心を癒してくれます。強き者にも弱き者にも、慎み深き者にも驕れる者にも、上品の者にも品下った者にも、皆ひとに優しいのです」 「いったいどのような危険が訪れると思っておるのだ? ルイーズ、どうあろうと、ここで王が守ってみせる」 「陛下、そもそも主《しゅ》が王を守っているのです!」 「ルイーズ、繰り返すが、そなたはおかしな考えに凝り固まって迷うておるのだ。祈るのはよいが、そういつもいつも祈らずともよい。そなたは善良だし、信仰心も篤い。そこまでして祈る必要が何処にある?」 「父上、祈りはまだとても足りません! 今後わたくしたちに襲いかかる不幸を遠ざけるには、まだとても足りないのです。主が与えて下さった善良な心も、二十年というもの努めて浄めて来た清らかさも、恐れていたこととはいえ、贖罪に必要なまでの無垢と純真にはまだ至らないのです」  国王は一歩退き、驚いた目でマダム・ルイーズを眺めた。 「そんな話は初めて聞く。やはりそなたは気が迷うておるな。修道が過ぎるせいだ」 「陛下、そのようなありふれた言葉を用いるのはおやめ下さい。差し迫った必要がある時に、臣下が国王に対し、そして娘が父に対し、真心を込めた必要不可欠な献身を捧げているのです。先ほど陛下は玉座の影が守って下さっていると胸を張って仰いましたが、その玉座がぐらついているのです。陛下はまだその衝撃に気づいてらっしゃいませんが、わたくしは前々より感づいておりました。何かが人知れず深い穴を掘り、いつ何時とも君主制を飲み込んでしまえるような深淵を穿っております。陛下のお耳に真実は届いてらっしゃいませんか?」  マダム・ルイーズははばかるように辺りを見回し、声の聞こえるほど近くには誰もいないことを確認して、話を続けた。 「ええ、わたくしは気づいておりました。ミゼルコルドの修道服を纏って、薄暗い路地や、ひもじい屋根裏、呻きであふれた辻に、何度となく足を運んだのです。路地や辻や屋根裏では、飢えや冬の寒さ、渇きや夏の暑さのせいで、何人もの人たちが死にそうな思いをしています。陛下は地方をご覧になったことがございませんね。お出かけになるのはヴェルサイユからマルリーまでと、マルリーからヴェルサイユまでの間だけですもの。地方にはもう穀物がございません。民に施しをせよとは申しません。畑に種を蒔いてほしいのです。如何なる因縁か知りませぬが、呪われた畑は喰らうだけ喰らっておいて、何ももたらしてはくれません。パンに飢えた者たちは、人知れず怒りを溜めております。何処からとも知れぬ風の噂が、宙を、黄昏を、夜を経巡り、枷や鎖や圧政の話を民に囁いているそうです。その言葉を聞いて目覚めた民が、不満を洩らすのをやめて、怒りを形にし始めました。 「高等法院は建議権を求めております。言いかえるなら、こっそり口にしていた言葉を陛下に対しはっきり口にする権利です。『国王は我らを破滅させる気か! 助け給え、さもなくば自力で助かるのみ』という言葉を…… 「兵士たちが、もてあましている剣で地面を掘れば、そこからは、百科全書派が山ほど蒔いていた自由の種が芽吹いております。物書きたちは――如何なる業《わざ》を用いたものか、人の目には見えなかったものが見えるようになったのでしょうか?――物書きたちは、わたくしたちの行いが何から何までよくないことを知り、それを国民に知らせました。そのため、今や国民は主人の通るのを目にするたびに眉をひそめております。陛下はこれから王太子殿下の縁組みをなさいますが、かつてアンヌ・ドートリッシュ陛下が殿下の縁組みをなさった時には、パリ市からマリ=テレーズ王女にたくさんの贈り物がございました。ですが今や町からは何も用意してもらえぬうえに、カエサルの娘を聖ルイの息子の許に運ぶ四輪馬車をあがなうために、税を徴収しなくてはなりませんでした。聖職者は主への祈りを怠っておりましたが、土地は三文、特権は底を突き、箱の中身は空っぽであることに気づいて、国民の幸福のためと称して再び主に祈り始めました――ですが陛下ご自身よくご存じのことを、お耳に入れなければなりませんか? 苦々しい気持で眺めながら、誰にもお話しなさらなかったのでしょう。同胞の国王たちは、かつてはわたくしたちを羨んでいたというのに、今では顔を背けておいでです。陛下の姫御子四人、フランス王の姫御子が四人とも結婚してはおりませんし、ドイツには二十人の御子が、イギリスには三人、北方諸国には十六人の御子がいらっしゃいます。そのうえ親戚であるはずのイスパニアのブルボン家もナポリのブルボン家も、わたくしどもを忘れるか、他国同様に顔を背けてしまわれました。わたくしたちがキリスト教の信仰篤いフランス国王の娘でなければ、トルコが興味を示していたことでしょう。陛下、わたくしはわがままを申しているのでも愚痴を申しているのでもございません。この境遇が幸せなのでございます。こうして自由なまま、家族から干渉されることもなく、隠遁、瞑想、清貧の中で主に祈りを捧げに参ることが出来るのですから。あちらこちらで嵐が、空でうなりをあげているのが見えます。陛下と我が甥の未来のために、嵐が逸れてくれるようわたくしは祈りを捧げに参ります」 「ああ、そなたは――」国王が口を開いた。「不安のあまり、必要以上に未来を悲観しておる」 「陛下、あの古代の王女、王家の予言者を思い出して下さい。あの者もわたくしのように父や兄弟に戦争、破滅、動乱を予言し、気違い沙汰だと笑われました。わたくしをそのように扱うのはおやめ下さい。どうか父上、陛下、よくお考え下さいませ!」  ルイ十五世は腕を組んでうつむいた。 「厳しい言葉だな。すると、そなたが咎めている問題とは、余がしでかしたことなのか?」 「そうでなければよいのですが! 何しろわたくしたちが生きている時代の問題なのですから。陛下もわたくしたち同様に流されているのです。王権を野次った些細な仄めかしに、桟敷がどっと湧くのをお聞き下さいませ。夜になれば、上機嫌の人々が中二階の小階段を大きな音を立てて降りているというのに、大理石の大階段は薄暗く人気《ひとけ》がないのをご覧下さいませ。国民も廷臣も、わたくしたちとは別のところで楽しみを見出しているのです。あの者たちはわたくしたち抜きで楽しんでおります。いえそれどころか、あの者たちが楽しんでいる現場にわたくしたちが姿を見せれば、あの者たちはそれを嘆くことでしょう」王女の声が愁いに沈んだ。「ああ! 哀れな人たち! あなたたちは愛することも、歌うことも、忘れることも出来るのです。どうか幸せに身を委ねて下さい! わたくしはここで皆さんを苦しめていましたが、向こうではきっとお役に立ちましょう。ここでは皆さんがわたくしの機嫌を窺って楽しげな笑いを引っ込めていますが、向こうではわたくしが祈りを、心からの祈りを、捧げるつもりです。王のために、姉君たちのために、甥たちのために、フランス国民のために、あなたたちみんなのために。尽きることなき情熱の限り心から愛するもののために」 「お願いだ」打ち沈んでいた国王が口を開いた。「どうか何処へも行かないでくれ、せめてしばらくは……。余はひどく傷ついておる」  ルイーズ・ド・フランスは父王の手を取り、愛を込めてその気高い顔を見つめた。 「いいえ、なりません。この宮殿には後一時間もいられません。今は祈るべき時なのですから! 陛下が味わう喜びを、わたくしの悲しみであがなうことが出来ましょう。陛下はまだお若く、優れた父親でございます。どうかお許し下さいまし」 「ここに残ってくれ、ルイーズ、お願いだ」国王は娘をぎゅっと抱きしめた。  王女は首を横に振った。 「わたくしの国はこの世にはございません」国王の抱擁から逃れて、悲しげにそう答えた。「お別れです、父上。十年来心に溜め込んで来たことを今日申し上げることが出来ました。これまでは心の重荷に息が詰まりそうでした。お別れです。わたくしは心満ちております。ご覧下さい。わたくしは笑っておりますでしょう? 今はただ幸せなのです。惜しむものなど何一つございません」 「余のことさえもか?」 「もう会ってはならないのであれば、名残を惜しみもいたします。ですが時にはサン=ドニにいらして下さい。覚えていて下さればそれでいいのです」 「無論だ、忘れるものか!」 「待ちわびたりはなさいますな。永い別れではないと信じましょう。姉君たちはまだ何も知らない――と思います。侍女たちにしか打ち明けておりませんから。一週間前から準備をして参りました。後はただどうか、別れを騒ぎ立てるのは、サン=ドニの重い扉の音が聞こえてからにして下さいまし。そうすれば扉の音にかき消されて、ほかには何も聞こえませんから」  その意思の堅いことは目を見ればわかった。それに、ひっそりと発つというのならその方がよい。泣き明かされて決心が鈍るのをマダム・ルイーズが恐れているというのなら、国王の方は神経がすり減るのをそれ以上に恐れていた。  それに、マルリーに行きたかった。ヴェルサイユでは大変なことが多すぎて、しばらく何処へも行けそうにない。  ようやく悟った。王としても父としても相応しくない愁嘆場が終わってしまえば、もうこの厳かで悲しげな顔を見ることはないのだ。この顔を見るといつも、暢気で怠惰な生活を非難されているようだったというのに。 「では望み通りにするがよい。それでもせめて父の祝福だけは受け取ってくれ。これまではそなたが幸せを与えてくれたのだからな」 「ではどうかお手を。口づけをいたします。祝福はお心の中でお与え下さい」  王女の決意を知らされた者たちにとって、それは崇高で厳粛な光景だった。王女は一歩、また一歩と、祖先たちに近づいて行った。王女が生きながら墓の中で落ち合おうとしていることに、祖先たちは金の額縁の奥から感謝しているようだった。  戸口で国王は娘に一礼し、一言も言わずに引き返した。  作法に倣って廷臣がその後に続いた。 第二十八章 ぼろ、ぞうきん、からす  国王は随身の間に向かった。狩りや散歩の前にそこで時間を取り、その後の一日に必要な供回りについて手ずから命令を出すのが習慣なのである。  ルイ十五世は一人のまま廊下を歩き続け、王女《マダム》たちの居室へ向かった。タペストリーで塞がれた戸口まで来ると、立ち止まって首を振った。 「いい娘は一人だけだったが」と歯の隙間から洩らした。「とうとう行ってしまった!」  今もそこに残る娘たちにとっては随分と不愉快なこの絶対的真実に答えて、声がはじけた。タペストリーが上がり、三重奏の挨拶が飛んで来た。 「それはどうも、お父様!」  ルイ十五世はほかの三人の娘たちに囲まれていた。 「ああ、そなたか、ぼろ」国王は年長の娘マダム・アデライードに声をかけた。「残念だが、怒る怒らぬは別にして、余は事実を言ったまでだ」 「そうねえ!」マダム・ヴィクトワールが口を利いた。「今に始まったことじゃありませんものね。陛下はいつだってルイーズがお気に入りでしたもの」 「これは一本取られたな、ぞうきん」 「でも何だってルイーズの方がお気に入りなのかしら?」マダム・ソフィの声には棘があった。 「ルイーズは余を困らせたりはせぬからな」ルイ十五世は馬鹿正直に答えた。身勝手な時こそ正直になれる人間なのだ。 「そのうち困らせられることになりますから、ご安心を」マダム・ソフィの声には棘があったため、おのずから国王の目が引き寄せられた。 「何故わかる、からす? ルイーズが出がけに打ち明けたのか? 驚いたな。あの娘はそなたのことがあまり好きではないと思っておった」 「それはそうでしょうけど、お互い様よ」 「見事だ! 憎め、嫌え、苛《さいな》め、というわけか。余をわずらわせないでいてくれるなら、アマゾン族の国を平定しようと一切構わぬ。だが教えてくれぬか、何故あの可哀相なルイーズが余を困らせるのだ?」 「可哀相なルイーズですって!」マダム・ヴィクトワールとマダム・アデライードが揃って声をあげ、思い思いに口を歪めた。 「ルイーズが父上を困らせる理由《わけ》ですか? わかりました。今から申し上げます」  国王は戸口近くの大きな椅子に坐った。これでいつでも逃げ出せる。  ソフィが続けた。「マダム・ルイーズは、シェルの修道院長をそそのかした悪魔に取り憑かれて、いろいろなことをしたくて修道院に入るのよ」 「さあさあ、お願いだから、妹の貞節を当てこするようなことはやめてくれ。誰一人として表立っては何も言わぬというのに、言葉だけは溢れておる。そなたももうやめよ」 「わたくしが?」 「さよう、そなただ」 「貞節の話などしておりません」マダム・ソフィは『そなた』という父の言葉にひどく気分を害した。そこだけが強調されていたうえに、繰り返したのもわざとらしい。「いろいろなことをするだろうと言っただけです」 「そうかね? 化学の実験をしたり、剣を習ったり椅子の車輪を作ったり、フルートを吹いたり太鼓を叩いたり、チェンバロを奏でたり弦を掻き鳴らしすることの、どこが悪い?」 「政治に手を出すと申し上げてるんです」  ルイ十五世は震え上がった。 「哲学と神学を学び、ウニゲニトゥス勅書に註釈を加えるのでしょう。そんなルイーズの政治学や観念体系や神学に埋もれてしまっては、わたくしたちが役立たずに見えてしまいます……」 「それで妹が天国に行けるのなら、良いではないか?」そうは言ったものの、からすの非難とマダム・ルイーズの激しい弾劾との間に共通点があることに、随分と驚いていた。「あの娘の至福を妬んでおるのか? それでは良いキリスト教徒とは言えまいに」 「まさか!」マダム・ヴィクトワールが声をあげた。「天国に行きたいのなら行かせてあげます。でもついて行く気はありませんから」 「わたくしも」マダム・アデライードが言った。 「わたくしも」マダム・ソフィも言った。 「だいたい、わたくしたちは嫌われてたんですもの」マダム・ヴィクトワールが続けた。 「そなたたちがか?」 「ええ、わたくしたちが」「わたくしたちが」と残りの二人がそれに答えた。 「つまり、ルイーズが天国を選ぶのは、二度と家族に会いたくないからだと言いたいのか!」  この軽口に三人の娘は作ったような笑いを見せた。マダム・アデライードは頭を絞り、これよりもさらに辛辣な攻撃を与えようとした。鎧をかすめるだけではなく、貫いてやろう。 「皆さんはね」マダム・アデライードは気取った声を出した。無気力ゆえに父親から「ぼろ」という名を頂戴していたが、その無気力状態から抜け出した時には決まってそんな声を出した。「皆さんは、マダム・ルイーズが出て行った本当の理由に気づいていないんです。それとも、気づいていながら陛下には言わずにいるのかしら」 「また何か企んでおるな。よかろう、ぼろ、言い給え!」 「もしかすると陛下を困らせてしまうかもしれませんから」 「困らせたいというのが本音だろう」  マダム・アデライードが口唇を咬んだ。 「でもこれから申し上げることは真実です」 「どうなることやら。真実か! そんなことを言うのはやめてくれ。余が真実を伝えたことがあったか? ありがたいことにそれでも上手くやっておるであろう」  そう言ってルイ十五世は肩をすくめた。 「早く仰いよ」二人の妹が、競うように口を利いた。必ずや王が傷つくに違いないというその話の内容を、知りたくてたまらないのだ。 「こやつらと来たら――」ルイ十五世が呟いた。「父親を何だと思っておるのだ!」  それでもお返しはしっかりしてやったと考えれば慰められた。 「いい?」マダム・アデライードが続けた。「ルイーズが何よりも恐れているのはね、礼儀作法にうるさいあの子が嫌がっているのは……」 「何だね……? 口に出した以上は最後まで言いなさい」 「新参者の潜入です」 「潜入だと?」どんな答えが飛び出すかと兢々としていたのに、出だしがこれでは納得できぬ。「潜入とは? 余の宮殿にそんな者がいるというのか? 余が会いたくもないのに無理矢理に乗り込んで来る奴がおると?」  会話の矛先を変えるには、なかなか効果的なやり方だった。  だがマダム・アデライードの方も一筋縄ではいかない。棘のある言葉を追っているさなかにまんまとまかれるほど抜けてはいない。 「言い方が悪かったわね。不適切な表現でした。新参者の『潜入』ではなく、新参者の『参入』と言うべきでした」 「結構だ! 良くなったぞ。実を言うと先ほどの表現には戸惑っておった。参入の方が良い」 「でも陛下、」とマダム・アデライードが続けた。「それでもまだ最適とは思えませんけど」 「では何と言えばいい?」 「新参者の『認証』です」 「それだわ!」二人の妹が姉に同調した。「今度こそ間違いありません」  国王が口を歪めた。 「ほう、そう思うかね?」 「勿論です」マダム・アデライードが答えた。「ですから、妹が恐れているのは新参者の認証式だと申しましょう」 「なるほど! それで?」さっさとけりをつけたかったのである。 「それで? 父上、デュ・バリー伯爵夫人が宮廷に現れるのを目にしたくなかったんですよ」 「そう来たか!」国王は悔しさの余り声をあげた。「こんなに遠回りをせずに、とっとと言えば良いものを! 時間を無駄にしおって、この真実娘《マダム・ラ・ヴェリテ》め!」 「陛下、こんなに時間を掛けたのは、ひとえに畏敬の気持からです。ご命令がなくてはこんなこと口に出せませんもの」 「そうであろうな。そうしてずっと口を閉ざしておるのだろう。欠伸もせぬし、話もせぬし、ものも食べぬというわけだ……!」 「何であろうとルイーズが隠棲する本当の理由に気づいたのは間違いありませんからね」 「それはそなたの勘違いだ」 「陛下!」マダム・ヴィクトワールとマダム・ソフィが揃って首をぶんぶんと振った。「絶対に間違いありません」 「ふえっ!」ルイ十五世が腰を折った。モリエールの芝居に出てくる父そのものである。「みんな同じ意見のようだな。陰謀は家庭内にあったか。認証式が行われぬのも、そなたたちへの接見が許されぬのも、請願書や謁見願いに返事がないのも、それが原因というわけか」 「どの請願書、どの謁見願いのことですか?」マダム・アデライードがたずねた。 「あら、知ってるくせに。ジャンヌ・ヴォベルニエ嬢の請願書でしょう」マダム・ソフィが答えた。 「そうそう、ランジュ嬢の謁見願い」マダム・ヴィクトワールも続けた。  国王は猛然として立ち上がった。普段は優しく穏やかな眼差しも、三人娘のせいで随分と物騒な光を放っている。  こうなると、父の怒りに立ち向かえるような女丈夫は三人の中にはいなかった。三人とも顔をうつむけ嵐をやり過ごそうとした。 「これだ。余は正しかったではないか。四人のうち一番いい子がいなくなってしまったと言ったであろう」 「陛下」マダム・アデライードが口を開いた。「あまりにひどすぎます。それではわたくしたちが犬以下ではありませんか」 「あながち違うとも言えまい。だが犬なら家に帰れば飛びついてくれる。犬こそ真の友だ! というわけで、さらばだ、マダムたち。余はシャルロット、ベルフィーユ、グルディネに会いに行く。可愛い奴らだからな。とりわけ、真実を喚かぬところが気に入っておる」  そう言って国王は猛然として立ち去った。だが控えの間に四歩も踏み出さぬうちに、三人が声を揃えて歌うのが聞こえて来た。 パリの町 兄さん、奥さん、娘さん 心は虚ろ 悲しけり! ああ!ああ!ああ!ああ! ブレーズ公のお妾さんは 気分があまりすぐれません。 すぐ、すぐ すぐれ、すぐれません 今もベッドに寝たっきり。ああ!ああ!ああ!  これはデュ・バリー夫人を当てこすった喜劇の一節で、ラ・ベル・ブルボネーズといって大変に流行っていたものだ。  国王はきびすを返そうとした。まさか戻って来るとはマダムたちも思っていないだろう。だが思いとどまって先へ進み、歌声に負けぬくらいの大声を張り上げた。 「猟犬隊長! おい、猟犬隊長!」  この奇妙な肩書きを持つ士官が馳せ参じた。 「犬の間を開けさせよ」 「陛下!」士官がルイ十五世の前に飛び出した。「ここから先はお入りになれません!」 「何だと? 何かあるのか?」国王は戸口で立ち止まった。主人の匂いを嗅ぎつけた犬たちが息を吐くのが、戸口からは洩れている。 「陛下、お許し下さい。ですが、どうか犬にお近寄りになってはなりません」 「ああ、そうか。部屋が滅茶苦茶なのだな……よし、グルディネを出してやれ」 「それが陛下……」士官の顔に愁いが浮かんだ。「グルディネは二日前から何も口にしていないのです。狂犬病の恐れがございます」 「そうであったか。余は世界一の不幸せ者だ! グルディネが狂犬病とは! これ以上の悲しみはあるまい」  ここは涙を流さなくてはなるまい。猟犬隊長はそう考えた。  国王がきびすを返して部屋に戻ると、従者が待ち構えていた。  ところが国王が狼狽しているのを目にして、従者は窓の陰に隠れてしまった。 「そうか、よくわかった」ルイ十五世は従者を気にも留めずに――というのも人間扱いしていないからだが――部屋をずかずかと歩き回った。「そうだ。ショワズールは余を馬鹿にしておるし、王太子も今からもう支配者面をしておる。あのオーストリア娘を玉座に着かせる頃には完全にそうなるだろう。ルイーズは余を愛しておったが、厳しすぎるところがあって説教ばかりしておったし、もう行ってしまった。ほかの三人は余のことをブレーズと詠んでいるような小唄を歌っておる。プロヴァンス伯はルクレティウスを翻訳しておるし、ダルトワ伯はほっつき回っておる。犬たちは狂犬病にかかって、余に咬みつきたくてうずうずしておる。つまるところ、余を愛してくれるのは伯爵夫人しかおらぬのだ。伯爵夫人を苦しめるような輩はくたばってしまうがいい!」  ルイ十五世は絶望に打ちひしがれて机に着いた。その机こそ、ルイ十四世が署名を記し、重要な条約や壮麗な手紙の重みを受け止めていた場所であった。 「ようやくわかった。揃いも揃って王太子妃の到着を待ち望んでいるのは、妃の登場によって余が下僕の身に追い落とされ、妃の一族によって蹴落とされると考えているからであったか。良かろう、会う時間はたっぷりある。新たに厄介ごとを持ち込んで来るとなればなおさらだ。落ち着いて過ごそうではないか。それも出来るだけ長く。そのためには、途中で長居してもらわなくては。ランスとノワヨンは止まらずに通り過ぎるであろうから、コンピエーニュまですぐ着いてしまうな。むげには出来ぬしきたりだと言い立ててみるか。ランスで歓迎会を三日、それから一……違う、二……いや、ノワヨンで祝宴を三日、それでどうにか六日稼げる。よし、六日だな」  国王は羽根ペンを取り、ランスで三日、ノワヨンで三日、足止めするよう、スタンヴィル氏宛に自ら命令を記した。  書き終えると伝令を呼んだ。 「これを届けるまでは全力で飛ばせ」  同じペンを使い、次はこう書いた。 『伯爵夫人。本日ザモールを総督府に入れましょう。余はマルリーに発ちます。いま考えていることはすべて今夜リュシエンヌで申し上げよう――ラ・フランス』 「よしルベル、この手紙を伯爵夫人に届けてくれ。仲良くしておくが良いぞ。忠告しておく」  従者は一礼して部屋を出た。 第二十九章 マダム・ド・ベアルン  こうしたごたごたの一番の怒りの的であり、宮廷中が望んでもおり恐れてもいた今回の騒動の躓きの石でもあるベアルン伯爵夫人が、ションから兄への話にあったように、大急ぎでパリに向かっていた。  このパリ行きこそ、苦境に陥っていたジャン子爵が考え出した解決策の一つであった。  代母なしではデュ・バリー夫人の認証式を行うことが出来ない以上、是が非でも代母が必要なのだが、宮廷では見つけることが出来なかったため、地方に目を向け、各地を調べ、町や村を探し回り、ムーズの外れにある古めかしいが小ぎれいな家で、遂に必要な人物を探し当てたのである。  探し当てたのが、黴の生えたご婦人と黴の生えた訴訟であった。  黴の生えたご婦人の名は、ベアルン伯爵夫人という。  黴の生えたその訴訟には全財産がかかっており、モープー氏の管轄するところであった。つい最近デュ・バリー夫人側に納まったこのモープー氏、そうなった途端に実は遠い親戚だったとかで、それ以来デュ・バリー夫人を従姉妹と呼んでいる。大法官府を見据えているモープー氏は、この寵姫のために昨日は友情を注ぎ、明日には実益を施すことに余念がなかった。その甲斐あって国王からは副大法官《vice chancelier》に任命されたが、人からは縮めて「|ル・ヴィス《le Vice》」と呼ばれている。  ベアルン夫人は、エスカルバニャス伯爵夫人やパンベシュ夫人が現実に抜け出したような、年老いた訴訟人であった。つまりは往年の代名詞的存在であり、ご覧の通りの見事な名を持っている二人そのままであったのだ。  矍鑠として、痩せ形、骨張った身体つき、警戒心が強く、白い眉の下でびっくりした猫のような目をぎょろつかせている。若い頃の服を今も大事にしていたが、如何にファッションの移り変わりが激しいとは言え、時には理に適ったことをしてみたくもなるものらしく、一七四〇年に若い娘が着ていたような服が、気づけば一七七〇年に老婦人が身につけているような服になっていた。  ゆったりとしたギピュール、ぎざぎざのケープ、馬鹿でかい帽子《コワフ》、大きなポケット、巨大なバッグ、花柄の絹のネッカチーフ。デュ・バリー夫人の最愛の義妹《いもうと》でもあり忠実な付き人でもあるションが、辯護士の娘のフラジョ嬢だと名を偽ってベアルン夫人を訪れた時、夫人はこのような恰好をしていたのである。  老伯爵夫人が身につけて――つまりそうした服を身につけていたのは、趣味の問題はもちろん経済的な問題も大きい。夫人は貧乏を恥じるような人間ではなかった。貧しいのは自分のせいではないのだから。ただ一つ心残りなのが、息子のために肩書きに相応しい財産を遺してやれないことだった。娘のように素朴で控えめなこの青年は、名声という沐浴よりも、実生活に実りをもたらす甘露の方を愛していたのである。  もっとも、辯護士がサリュース家と係争中の地所を、「私有地」と呼ぶという手だては残されていた。だがもののわかったご婦人であるが故にしっかり気づいていた。その地所を元に金を借りる必要があったとしても、貸してくれる高利貸しなどいない。当時のフランスにいたのは図太い連中ばかりだった。検事もいない。いつの時代でもあくどいものと相場が決まっている。その地所を担保に金を貸してはくれぬだろうし、その債権に基づいて些かなりとも貸し付けてはくれぬだろう。  それ故にベアルン伯爵夫人の年間の収入は、訴訟にはなっていない地所からの年収とその使用料だけに留まり、年にまるまる千エキュほどであった。ために夫人は法廷から遠ざかっていた。判事諸氏や辯護士諸氏の許へと夫人を運んでゆく四輪馬車の借り賃だけでも、一日当たり十二リーヴル必要だったのだ。  順番待ちの関係書類を箱から取り出すのも四、五年前から諦めてしまったのだから、遠ざかるのもなおさらだった。昨今の訴訟がいくら長いとはいえ、聖書に出て来る族長ほど長生きしなくとも、終わりを見届ける目処は立つ。一方、かつての訴訟は二、三世代を跨いでいた。千一夜物語に描かれたあの植物のように、花をつけるまでに二、三百年かかっていたのである。  それにしてもベアルン夫人は訴訟になっている八割ほどの地所を取り返すために残りの資産を使い果たすつもりはなかった。これまで書いて来た通り、いつの時代にも古い時代の女と呼ばれるような、言いかえるなら賢明、慎重、毅然、倹約を旨としているのである。  もちろん、自分自身で訴訟に取り組んでいたなら、日取りを決めるのも辯護するのも判決を執行するのも、何処ぞの検事や辯護士や執達吏などより上手く行えたはずだ。だが夫人の名前はベアルンであり、それ故の障碍が多々あったのである。その結果、神の御子アキレウスが死ぬほどの悲しみにもだえて喇叭の響きも聞こえぬふりをして天幕に引き籠もった時の如く、無念と苦悶に呻吟していたベアルン夫人は、鼻眼鏡越しに古い羊皮紙を読み取って日中を過ごしていた。夜毎ペルシアの部屋着を羽織り、白髪を下ろして、サリュース家が権利を主張している土地訴訟について枕頭で辯護しては、決まって勝ちを収めていた。そんな自分の辯才に満足し、そんな時には辯護士にも同じ辯才があればと残念に思っていた。  このような事情であったので、ションがフラジョ嬢と名乗って現れた時、ベアルン夫人の胸にとろけるような気持が湧き起こったことにもご理解いただけよう。  息子の伯爵は勤務中で不在だった。  人は信じたいものを信じる。だからベアルン夫人もションの話に至極あっさりと引っかかってしまった。  だが疑いの影はちゃんとあったのだ。伯爵夫人はフラジョ先生のことを二十年も前から知っていた。プチ=リヨン=サン=ソヴール街まで幾度となく訪ねに行っていたが、一度として絨毯の上で目に留まったことはなかった。部屋の広さの割りには小さすぎると感じていたその四角い絨毯の上で、依頼人の男女のところにまんまと飴玉をせしめに来るような子供など、一度として目に留まったことはなかった。  だが思い出すべきはその代訴人の絨毯のことだった。振り返るべきはその上で遊んでいたとしてもおかしくはなかった子供のことだった。つまるところ必要なのは記憶を掘り返すことだった。フラジョ嬢はフラジョ嬢、それだけなのに。  つけ加えるならそのフラジョ嬢は結婚しているというので、結局のところ悪い予感を堰き止めた最後の一押しは、フラジョ嬢はヴェルダンくんだりまでわざわざ出て来たわけではなく、ストラスブールの夫の許に戻るところだったという情報だった。  恐らくベアルン夫人はフラジョ嬢に身許を保証するような手紙を求めるべきだったのだろう。だが父が娘を、それも己が娘を使いに出すのに手紙が必要だとしたら、いったい何処の誰に安心して仕事を託せばいいというのだ? そのうえ重ねて言えば、このような恐れを抱いて何になろう? そんな疑いを持ってどうなるというのだ? どんな目的があって、こんな話をしにわざわざ六十里もの道をやって来るというのだ?  夫人が裕福であったなら、銀行家や国税徴収請負人や税収集金人の妻のようにお供や食器や宝石を擁して歩かなくてはならない立場であったなら、泥棒が何か企んでいるのだと考えたかもしれない。だが自分を狙うようなあまり利口とは言えない泥棒がいったいどれだけ落胆するのかと考えるたび、ひどく可笑しくなった。  というわけで、ションがブルジョワ風の服装をして、一頭立てのみすぼらしい二輪馬車(二つ前の宿駅で手に入れた。馬輿もそこに置いて来た)で立ち去ると、ベアルン夫人もここが正念場だと覚悟を決め、古い四輪馬車に乗り込んで馭者を急がせた。その甲斐あって王太子妃より一時間早くラ・ショセを通過し、ション・デュ・バリー嬢に遅れること五、六時間でどうにかサン=ドニの市門にたどり着いた。  手ぶら同然のベアルン夫人にとって、真っ先に欲しいのは情報だったため、プチ=リヨン街のフラジョ先生の門前で馬車を止めた。  ご想像の通り、野次馬が来ないわけがない。パリっ子はこぞって、アンリ四世の厩舎から抜け出たような、この年季の入った馬車の前で立ち止まった。がっしりしたところといい、馬鹿でかい図体といい、しなびた革のカーテンといい、青錆の浮いた銅の車軸の上で恐ろしい軋みをあげて走るところといい、なるほどアンリ四世の愛用していた馬車を思わせるではないか。  プチ=リヨン街は広いところではない。馬車がそこを堂々と占領していたため、ベアルン夫人は馭者たちに代金を支払い、いつも泊まっているサン=ジェルマン=デ=プレの旅籠『刻の声(Coq chantant)』まで移動しておくように命じた。  夫人は油で汚れた綱につかまり、フラジョ家の暗い階段を上った。冷え冷えとした空気に満ちており、急ぎ逸った旅でくたくたの老人には随分とこたえた。  女中のマルグリットから伯爵夫人の来訪を知らされると、フラジョ先生は暑くて降ろしっぱなしにしておいた半ズボンを引っ張り上げ、常に手許に置いている鬘をかぶり、綾織の部屋着を羽織った。  こうして恰好を整えると、微笑みを浮かべて戸口に向かった。ところがこの微笑みにはっきりと驚きが含まれているのを伯爵夫人は感じ取り、思わず声をあげていた。 「まあどうしたんですか、フラジョさん! 私ですよ!」 「ええ、わかってますとも、伯爵夫人」  辯護士は部屋着の前をそっと合わせ、部屋の一番明るい場所にある革椅子まで伯爵夫人を連れて行った。夫人の好奇心を承知しているがゆえに、そうやってさり気なく事務机の書類から遠ざけたのだ。 「それでは伯爵夫人」とフラジョ先生は紳士的に切り出した。「ようこそおいで下さいました。驚きましたよ」  ベアルン夫人は椅子に深く腰かけ、足を上げているところだった。マルグリットが用意してくれた革のクッションを床と繻子織り靴の間に挟もうとしていたのだ。それがフラジョの言葉を聞いて、急いで身体を起こした。  ベアルン夫人は椅子に深く腰かけ、今は足を上げていた。マルグリットが革のクッションを用意して、床と繻子織り靴のあいだに入れる隙間を作っていたのである。それがフラジョの言葉を聞いて、急いで身体を起こした。 「何ですって! 驚いた?」夫人はフラジョ氏をもっとよく見ようと、ケースから眼鏡を取り出し鼻に挟んだ。 「ご領地にいらっしゃると思っておりましたから」わずか三アルパンの菜園をそう呼んだのは、おべっかにほかならない。 「その通りですとも。でもあなたから報せがあったから、飛んで来たんじゃありませんか」 「私から報せが?」 「言伝でも通知でも助言でも、何とでもお好きなように」  フラジョ氏の目が、伯爵夫人の眼鏡のように大きくなった。 「こうして急いでやって来たのも、嬉しい報せがあるんじゃないかと期待したからですよ」 「お会い出来たのは嬉しいのですが、どういうことでしょうか。何をすべきなのかさっぱりわからないのですが」 「何をすべきかですって?……全部ですよ。というか、あなたが全部なさったんじゃないんですか」 「私が?」 「あなたですよ……そうだ、新しい出来事があったんじゃないですか?」 「ええ、ありましたよ。国王が高等法院に対しクーデターを計画しているそうです。それより何かお出ししましょうか?」 「国王のことも大事ですし、クーデターのことも大事でしょうけどね」 「ではほかに何が?」 「私の訴訟じゃありませんか。訴訟について新しい動きがなかったかどうか知りたいんですよ」 「ああ、それでしたか」フラジョ氏が残念そうに首を振った。「何も。何もありません」 「何もないというのはつまり……」 「何もないってことです」 「ありませんか。お宅のお嬢さんがもう話してしまいましたものね。お話を聞いたのは一昨日でしたからね、あれからでは、まだ新しい情報もないと思ってましたよ」 「私の娘ですか?」 「ええ」 「私の娘と言ったんですか?」 「娘さんですよ。あなたのお使いでいらした」 「ですが伯爵夫人、娘を使いにやるのは不可能です」 「不可能ですって?」 「火を見るよりも明らかです。私には娘がありませんから」 「まさか?」 「伯爵夫人、私は花の独身ですよ」 「おやおや!」  フラジョ氏は不安になった。マルグリットを呼んで、伯爵夫人に冷たいものを持ってくるよう言いつけたが、実は伯爵夫人を見張って欲しかったのだ。  ――可哀相に。頭がおかしくなってしまったんだな。 「それじゃあ、お嬢さんはいないんだね?」 「おりません」 「ストラスブールで結婚している娘さんが?」 「おりません。何度聞かれても同じですよ」 「じゃあお嬢さんに行きがけに言伝を頼んだりはしなかったんですか?」伯爵夫人は考えをまとめようとした。「審問の日取りが決まったと託けたりはしなかったんですか?」 「ええ」  伯爵夫人は椅子から飛び上がり、両手で膝を打った。 「おあがり下さい、伯爵夫人。落ち着きますよ」  そう言って合図をすると、マルグリットが麦酒を二杯、盆に載せて運んで来た。だが老婦人にとっては喉が渇いているどころではなく、盆とコップを乱暴に押しやった。家の中を取り仕切っているのは自分だと考えていたマルグリット嬢は、これにはいたく傷ついた。  伯爵夫人は眼鏡越しにフラジョ氏を見つめた。「さあさあ、どういうことですか、詳しく話そうじゃありませんか」 「是非そうさせて下さい。そのままでいいよマルグリット。そのうちお飲みになるかもしれない。ではお話しいたしましょう」 「ええ、あなたさえよければそうしましょうか。今日のあなたは変ですからね、フラジョさん。暑さで頭がおかしくなったのかと思いましたよ」 「まあまあ落ち着いて行きませんか」辯護士は椅子の後ろ脚をずりずりと動かして伯爵夫人から離れた。「じっくり話し合いましょう」 「ええ、ようござんすよ。お嬢さんはいないと仰いましたね?」 「そうなんですよ。ご期待に添えぬのはまことに残念ですが、第一……」 「第一?」伯爵夫人は繰り返した。 「第一、どうせ授かるなら男の子が欲しいところです。その方が先が楽しみ、いや、このご時世ではその方が悪いようにはならんでしょう」  ベアルン夫人は不安のあまり両手を合わせた。 「どういうことです? 妹でも姪でも従姉妹でもいい。私をパリまで呼び出したりはしなかったと言うんですか?」 「考えもしませんでしたよ。パリの滞在費が馬鹿にならないのもわかっていますからね」 「じゃあ私の訴訟は?」 「呼び出しがあった時にはお知らせする用意はしております」 「呼び出しがあった時には、と言ったんですか?」 「ええ」 「じゃあまだ呼び出しはないんですね?」 「私の知る限りでは」 「訴訟の順番は来てないんですね?」 「まだです」 「次の番だというわけでもなく?」 「違いますよ! もちろん違います!」 「それじゃあ――」老婦人が声をあげて立ち上がった。「私は騙されたんですか。手ひどくからかわれたってことですか」  フラジョ氏は鬘を直して呟いた。 「そういうことになるかもしれませんね」 「フラジョさん……!」  辯護士は椅子から飛び上がって、待機していたマルグリットに助けを求めた。 「フラジョさん、こんな屈辱には耐えられませんよ。警視総監に訴えて、面と向かって侮辱したあの馬鹿娘を見つけ出してもらいます」 「しかしそれは! 雲をつかむような話ですよ」  伯爵夫人は怒りに駆られて先を続けた。「見つけてしまえば、訴訟するまでです」 「また訴訟ですか!」辯護士が肩を落とした。  この言葉を聞いて、我を忘れていた老婦人も、憑物が落ちたようにげっそりとした。 「はあ……そのうち何とかなるでしょうよ!」 「ところで何を言われたんです?」 <「あなたに頼まれてやって来たんだと」 「狡賢い奴だ!」 「あなたに頼まれて、訴訟の呼び出しがあったことを知らせに来たんだそうです。時間がないと。大急ぎで行かないと遅れてしまうと言うんですよ」 「はあ……」今度はフラジョ氏の番だった。「呼び出しなどまだまだ先の話ですよ」 「忘れられてるんじゃないんですかね?」 「奇跡でも起きない限りは、忘れられ、埋もれ、葬られたままですよ。しかも奇跡なんてめったに起こるものじゃありませんから……」 「そうでしょうね」と呟いて、伯爵夫人は溜息をついた。  フラジョ氏もそれに応えて一つ溜息をついた。 「それでフラジョさん、一つ言っても構いませんか?」 「どうぞ仰って下さい」 「私はもう先が長くありません」 「そんなことはないでしょう!」 「ああ神様! もう限界です」 「伯爵夫人、元気を出して下さい!」 「そんなことを言って、何も助言しては下さらないんでしょう?」 「とんでもない。ご領地に戻って、これからは誰が現れても私の言葉がなければ信じないようにすればいいんです」 「そりゃあ戻るしかないでしょうね!」 「そうするのが一番です」 「でもねえ、フラジョさん。もうこの世では会うことはないと思いますよ」 「何てことを!」 「でもひどく残酷な敵がいるものですねえ?」 「恐らくサリュース家の仕業でしょう」 「それにしたって浅ましいやりようじゃありませんか」 「ええけちなやり口です」 「ねえフラジョさん、正義ですよ! 正義ってのは、カクスの洞窟みたいに真実を明るみに出してくれるものじゃありませんか」 「そうでしょうか? 正義はもはや原型を留めず、高等法院も圧力を受けて、モープー氏は法院長の椅子に坐り続けるのをやめて大法官になりたがったではありませんか」 「フラジョさん、やっぱり飲み物をもらえませんか」 「マルグリット!」  マルグリットが戻って来た。話が落ち着いたのを見て、部屋から出ていたのである。  戻って来たマルグリットは、一度は運び去っていた盆とコップを手にしていた。ベアルン夫人は辯護士とグラスを合わせてから、ゆっくりと麦酒を喉に流し込んだ。そして悲しげにお辞儀をし、さらに悲しげに別れの挨拶をしてから玄関に向かった。  フラジョ氏も鬘を手にそれを追った。  ベアルン夫人は踊り場で、手すり用の綱を探っていたところだった。その時、誰かの手が夫人の手に重なり、誰かの頭が胸にぶつかった。  手と頭は法律事務所の見習いのものだった。急な階段を大急ぎで駆け上っていたのである。  老伯爵夫人はぶつぶつと文句を言いながら、スカートを直してそのまま階段を降りて行った。入れ違いに踊り場までやって来ていた見習いは、扉を押して司法見習い特有の底抜けに元気な声を張り上げた。 「フラジョ先生、ベアルン事件の件です!」  そう言って一枚の書類を差し出した。  その名前を聞いて駆け戻り、見習いを押しのけ、フラジョ氏に飛びかかり、書類をもぎ取って、フラジョ氏を部屋に釘付けにした。以上が老伯爵夫人の取った行動であった。その間に見習いはマルグリットに口づけを二つして、お返しにびんたを二発、というかびんたの仕種を二発、まだもらってすらいなかった。 「何ですかねえ! いったいどんなお沙汰があったんでしょうね、フラジョさん?」 「私にもさっぱりですが、書類を返していただけたら、読んで差し上げますよ」 「それもそうですね。ほらほら、さあ早く読んで下さい」  辯護士は署名を読んだ。 「代訴人のギルドゥ氏だ」 「おやまあ!」  フラジョ氏はいよいよわけが分からなくなっていた。「火曜には辯護できるようにしておけと書いてある。遂に裁判の呼び出しがあったそうです」 「呼び出しですって!」伯爵夫人が飛び上がった。「呼び出しがあったんですか! でも待って下さい、フラジョさん、二度と悪戯はごめんです、もう立ち直れませんよ」  フラジョ先生はこの報せにすっかり泡を食っていた。「伯爵夫人、悪戯だとしたら、やったのはギルドゥ氏以外にありませんし、これが人生初の悪戯ということになりますよ」 「ですけどこの手紙は間違いなく本人のものなんですか?」 「ギルドゥと署名がありますよ、ほら」 「ほんとですね!……けさ呼び出しがあって、火曜日に辯論。おや? するとフラジョさん、あのご婦人は詐欺師ではなかったんでしょうかねえ?」 「どうやらそのようですね」 「でもあなたのお使いではなかったのだから……あなたのお使いでないのは確かなんですよね?」 「もちろん確かですよ!」 「じゃあ誰のお使いだったんでしょう?」 「ええ、誰なんでしょう?」 「どのみち誰かのお使いだったわけですしねえ」 「お手上げですよ」 「私だってそうですよ。ああ、もうちょっと読ませてもらえませんか、フラジョさん。呼び出し、辯護、そう書いてありますよねえ。モープー院長の前にて辯護」 「何ですって! そんなことが?」 「ええそうですとも」 「弱ったな!」 「どうしてです?」 「モープー院長は、サリュース家の友人なんですよ」 「そうなんですか?」 「状況は変わりませんな」 「ますますひどくなったじゃありませんか。何て運が悪いんでしょう」 「ですが、言っても詮ないことです。いずれにせよ会わなくてはならないんですから」 「散々な目に遭うんでしょうねえ」 「そうでしょうね」 「フラジョさん、どんなことを言って辯護してくれるんですか?」 「真実ですよ」 「何ですって! 先生は気力を失くすだけでは飽き足らず、私の気力まで奪うおつもりですか」 「モープー殿が相手では、幸運は期待できません」 「随分と弱気じゃありませんか。あなただってキケロの子孫でしょう?」 「キケロだって、カエサルではなくウェッレスの前で辯護していたら、リガリウスの裁判に負けていましたよ」フラジョ先生は夫人から受けた讃辞に応えて謙虚な口を利くことしか出来なかった。 「じゃあ会いに行かない方がいいんですか?」 「そんな型破りなことは認められませんよ。残念ですがこういうのは会わなくてはいけない決まりなんです」 「そんな話し方はやめて下さい、フラジョさん。持ち場から逃げ出そうとしている兵士みたいじゃありませんか。訴訟を引き受けるのが怖いんだと思われますよ」 「伯爵夫人、本件などよりよほど勝つ見込みの高かった訴訟にも、何件か負けたことがあるんですよ」  伯爵夫人は溜息をついたが、それでも気力を奮い立たせた。 「出来るところまでやってみようじゃありませんか」この会談の滑稽な様相とは裏腹に、威厳すら漂わせていた。「理はこちらにあるのだから、悪巧みを前にして尻尾を巻いて逃げ出したとは言われませんよ。訴訟には負けるでしょうけど、悪党どもに向かって、今では宮廷でも珍しいほどに淑女然として臨んであげますとも。フラジョさん、副大法官のところまで連れていってもらえませんか?」  フラジョ先生の方も威信を奮い立たせた。「伯爵夫人、我々は誓ったんです。我々パリ高等法院の反対派は、デギヨン公爵の件で高等法院を見捨てた者たちとは、裁判以外ではもうつきあわないことにしたんです。団結は力なり。モープー殿はこの訴訟の間中ぐずぐずしてばかりいましたし、そんなモープー殿に不満がある以上は、向こうが姿を見せるまでこちらから出向くことはよしましょう」 「どうやら私の訴訟はどん詰まりですね」伯爵夫人は溜息をついた。「辯護士は判事と対立して、判事は原告と対立しているんですから……よござんすよ、辛抱強く待ってますとも」 「主《しゅ》がついていますよ」フラジョ辯護士はそう言って、古代ローマの元老院議員がトーガを左腕に掛けたように、部屋着を左腕に掛けた。 「何てまあ頼りない」ベアルン夫人は独り言ちた。「辯護士がついているというのに、枕を前にした時の方が、高等法院を前にする時よりも見込みがありそうだよ」  それから今度ははっきりと口に出し、笑顔の下に何とか不安を隠し込んだ。 「それじゃ、フラジョさん。訴訟のことはよろしく頼みますよ。何が起こるかなんて誰にもわからないんですから」 「ああ、伯爵夫人。辯護のことなら心配はしておりません。上手く行きますよ、一つ匂わせてやるつもりですしね」 「何をです?」 「エルサレムの腐敗のことをです。呪われた町を引き合いに出し、そこに天の火が落ちるべきことを唱えるつもりです。誤解の余地はありません。エルサレムとは即ちヴェルサイユだとわかるはずです」 「フラジョさん、あなたの身に差し障りのあるようなことはしないで下さいね。と言いますか、訴訟に差し障りのあることはやめて下さい!」 「ああ、モープー氏がいるから負けてしまいますよ、あなたの訴訟は。ですから当面の目的は、同時代の人間を意識して勝つことなんです。正義が認められないのなら、騒ぎ立てるまでです!」 「フラジョさん……」 「ここは賢くなりましょう……攻撃あるのみです!」 「悪魔にでも攻撃されちまえばいいんですよ!」伯爵夫人がぶうぶうと文句を垂れた。「三百代言と来たら、どうやって賢さの皮をかぶるかってことしか考えてないんだから。さあモープーさんのところに行きましょうか。あの人は賢しらじゃありませんからね、ことによると、あなたよりも上手くやってくれそうですよ」  そう言って老伯爵夫人はフラジョ先生の許を離れ、プチ=リヨン=サン=ソヴール街を後にした。実に丸二日かけて、希望と絶望の梯子を上から下まで行き来したのであった。 第三十章 副官《ル・ヴィス》  モープーの邸に向かいながら、老伯爵夫人は手足をぶるぶると震わせていた。  それでも、道々考えているうちに落ち着きを取り戻していた。いろいろと考え合わせれば、こんな遅い時間にモープーが会ってくれるとは思えないし、また来ることを門衛に伝えておけば済むことではないか。  果たして七時くらいであろうか、まだ明るかったものの、貴族たちの間には四時に夕食を摂る習慣が広まっていたので、夕食から翌朝までは何も受けつけてもらえないのが普通だった。  ベアルン夫人は是非とも副大法官に面会したかったのだが、どうせ会えないだろうと思うと気が楽になった。しばしば理屈抜きで納得してしまうのが、矛盾多き人間というものである。  というわけで、訪れた伯爵夫人も、門衛に追っ払われるものだと考えていた。頑固な門衛を懐柔しようと三リーヴル=エキュを準備して、審問予定の目録に自分の名前が載っているのを確かめさせようとしていた。  邸の前まで来ると、どうやら取次から指示を受けているらしい門衛の姿が目に入った。二人の会話を邪魔せぬよう、目立たぬようにして待っていたのだが、人が乗っている貸馬車を目にした取次が席を外した。  そこで門衛が四輪馬車に近づき、請願者に名前をたずねた。 「あら何故です? どうせ閣下にお会い出来ないのはわかってますよ!」 「事情はどうあれ、お名前をお聞かせ願えますか」 「ベアルン伯爵夫人といいます」 「閣下はご在宅です」 「何ですって?」ベアルン夫人は耳を疑った。 「閣下はご在宅だと申し上げたのです」 「でも、会っては下さらないんでしょう?」 「お会いになるそうです」  ベアルン夫人は半信半疑のまま馬車から降りた。門衛が紐を引き、ベルを二度鳴らした。取次が段上に現れると、門衛は中に入るよう伯爵夫人をうながした。 「閣下とのお話しをご希望ですね、マダム?」取次がたずねた。 「ご厚意を願いますが、期待はしておりませんよ」 「どうかこちらにおいで下さい、伯爵夫人」  この法官はあまり評判が良くないけれど――取次の後ろを歩きながら伯爵夫人は考えた。でも、いいところがあるじゃないの。時間を気にせず会ってくれるんだから。大法官!……おかしなこと。  こうして歩きながらも、モープーが務めに励んで特権を手に入れたのだとすると、それだけに気難しく不機嫌な人間に会うことになるのだと考えて、身体が震えていた。モープー氏は、大きな鬘に埋もれ、黒天鵞絨の法服に身を包み、扉の開いた部屋で仕事をしていた。  伯爵夫人は部屋に入り、素早く辺りに一瞥をくれた。だが自分しかいないことに気づいて吃驚した。伯爵夫人と、痩せて黄ばんだ多忙な大法官を除けば、鏡に映っている者は一人もいなかったのである。  取次がベアルン伯爵夫人の名を告げた。  モープー氏はぎくしゃくと立ち上がってそのまま暖炉にもたれかかった。  ベアルン夫人は作法通りに三段の礼を行った。  堅苦しい礼を済ませると簡単な挨拶をした。地位や名誉を求めに来たのではないこと……多忙な大臣がわざわざ時間を空けてくれるとは思っていないこと……。  それに答えてモープー氏が言うには、国王の臣下及び大臣としては、時間を無駄にする訳にはいかない。だが緊急の用件であれば話はまた別である。だから、例外に値するとあらば、いつでも喜んで時間を割いている、と。  ベアルン夫人は改めて礼をしたものの、はたと押し黙ってしまった。それというのもいい加減で挨拶をやめて、用件を切り出さなくてはならなかったからだ。  モープー氏は顎を撫でて待っていた。 「閣下、畏れながら重大な訴訟についてお話しすることをお許しいただけますか。私の全財産がかかっておりますのです」  モープー氏は軽く頭を動かした――話しなさい。 「実は閣下、私の全財産、と言いますか息子の全財産のことで、目下サリュース家に訴訟を起こしていることはご存じかと思います」  副大法官はなおも顎を撫でていた。 「ですけど閣下が公正なことは良く存じ上げておりますから、私の訴訟相手にご好意を――いえ、ご親交を持っていらっしゃるのはわかっていながら、話を聞いていただきに伺うことを一瞬でも躊躇ったりはしませんでした」  モープー氏は、公正というお世辞を聞いて微笑みを禁じ得なかった。五十年前にデュボワが使徒の如き美徳だと褒めそやされたことがあったが、公正とはそれに相応しい言葉ではなかろうか。 「伯爵夫人、サリュース家の友人だというのは認めます。だがひとたび公印を手にすれば友情は脇に置いている。そのことはあなたにも認めてもらわなければ。正義の長に相応しからんとして、個人的なことには断じて関心を払ってはいません」 「ああ閣下! 祝福あれ!」 「だから、一法律家として訴訟に当たりましょう」 「ありがとうございます。さすがでございますね」 「確か、訴訟はもう間もなくでしたね?」 「来週なんです」 「では、どうしろと?」 「書類を調べていただきたいのです」 「もう済ませました」 「ではどう思われました?」伯爵夫人は身震いした。 「あなたの訴訟のことかな?」 「ええ」 「疑問の余地はありませんね」 「え? 勝訴がですか?」 「いいえ、敗訴がです」 「訴訟に負けると仰るんですか?」 「まず間違いありません。だから助言いたしましょう」 「何でしょう?」伯爵夫人は望みの綱にしがみついた。 「払わなくてはならないお金があるようなら、訴訟が裁かれ、判決が下される時には……」 「ええ」 「ええ、現金を用意しておくことです」 「でもそれじゃあ破産してしまいますよ!」 「いいですか伯爵夫人、そういった事情には立ち入ることは出来ません」 「でも閣下、正義にも情けはございませんか」 「それが理由ですよ、正義が目隠しされているのは」 「でも、それでも閣下は助言を下さいますよね」 「どうぞ。何が望みです?」 「示談に持ち込んだり、もうちょっと軽い判決をもらうことは出来ないんですか?」 「高等法院に知り合いはないのですね?」 「おりません」 「それはお気の毒に! サリュース家は高等法院の四分の三とつきあいがありますよ」  伯爵夫人がぶるぶると震えた。 「いいですか」副大法官は話を続けた。「そんなことはたいした問題ではありません。法官とは個人的な事情に左右されてはならぬのです」  これもまた事実である。大法官が公正であり、あのデュボワが使徒の如き美徳を有していたのと同じことだ。伯爵夫人は気を失いそうになった。 「だが如何に公明正大とはいえ、他人のことよりは友人のことを考えるものです。致し方ないといえば致し方ない。あなたが訴訟に負けるのも致し方ないとも言えるでしょうし、極めて不愉快な結果になる可能性もあるでしょう」 「でも閣下のお話を聞いていると、ぞっと致しますね」 「個人的な見解は差し控えます。他人にとやかくは言えませんし、それに私自身が裁く訳ではありませんから。ですからお話しも出来るのですが」 「閣下、一つ思いましたんですけどね」  副大法官はその小さな灰色の瞳で、老婦人を見つめた。 「サリュース家はパリで暮らしてますし、高等法院の方々とおつきあいがあるし、要するに無敵じゃありませんか」 「何せあの方たちにも権利はありますから」 「閣下のように完璧な方の口からそのような言葉を聞くと、ひどく気が滅入りますよ」 「申し上げたことに嘘偽りはありませんが」モープーは善人を装って答えた。「でもだからこそ、私の言葉をお役に立ててもらいたい」  伯爵夫人はぞくりと震えた。副大法官の言葉の内に、いや少なくとも思いの内に、仄暗いものを見たような気がしたのだ。とは言え、曇りが晴れればその向こうには善意が見えたことだろう。 「それに、あなたのお名前はフランスでも有数のお名前ですから、かなり強力な武器になるのではありませんか」 「誰か敗訴を防いでくれる人はおりませんか、閣下?」 「私には無理です」 「ああ、閣下、閣下!」伯爵夫人は激しく首を振った。「何もかもどうなってしまうんでしょう!」 「こうお考えではありませんか」モープーは笑みを浮かべていた。「我々が生きていた古き時代には、何もかもうまくいっていた、と」 「ええ、そう感じてますよ。あの頃のことを思い出すとわくわくします。高等法院の一辯護士だったあなたは、立派な演説を行っていましたね。私も当時はまだ若くて、熱烈な拍手を送っていましたっけ。ああ、興奮? 演説? 美徳? ああ、大法官さん、あの頃には、謀り事も依怙贔屓もありませんでした。あの頃なら、きっと訴訟にも勝っていましたとも」 「摂政公が目を閉じている間に政治を操ろうとしたファラリス夫人がいたし、何かと齧り取ろうとして何処にでも潜り込んでいたラ・スーリ(二十日鼠)もいましたがね」 「閣下、ファラリス夫人は立派な貴婦人でしたし、ラ・スーリも素敵なお嬢さんでしたよ!」 「誰もあの人たちを拒むことは出来なかった」 「あの方たちに拒む術がなかったのかもしれませんよ」 「いや参った! 伯爵夫人」大法官が笑い出したので、老婦人はいよいよ吃驚した。それほどまでに気兼ねない自然な様子だったのだ。「昔を懐かしむのにかこつけて、政府の悪口を言わせようとは人が悪い」 「ですけど閣下、嘆かずにはいられませんよ。財産をなくして、永久に家を失ってしまうんですから」 「もうあの頃ではないんです。今は今の崇拝対象を追いかけなさい」 「でも閣下、あの人たちは手ぶらで崇拝しに来る人なんか相手にしませんよ」 「どうしてわかります?」 「え?」 「ええ。多分、試してみたわけではないのでしょう?」 「ああ閣下、ご親切に。お友達みたいに話して下すって」 「同い年ではありませんか」 「どうして私は二十歳じゃないんでしょうねえ、閣下。それにあなたが今も一介の辯護士だったら! そうしたら私を辯護してくれたでしょうし、サリュース家があなたと対峙することもなかったでしょうに」 「残念だが私たちはもう二十歳ではありません」副大法官は無礼にならぬように溜息をついた。「ですから二十歳の人間に任せましょう。あなたご自身、人の上に立つお年なんですから……そうか! 宮廷にお知り合いはいないんですね?」 「隠居した老貴族が何人かいますけど、古い友人のことは恥じていることでしょうよ。こんなに貧しくなってしまったんですもの。ねえ閣下、私もヴェルサイユに参上することは許されてるんですから、その気になれば行くことは出来るんですよ。でもそんなことをしても無駄じゃありませんか? 二十万リーヴル取り戻しでもすれば、また人も寄って来るでしょうけど。どうか奇跡を起こして下さい、閣下」  大法官は最後の一言には気づかぬふりをした。 「私なら旧友のことは忘れますよ。向こうでも忘れているのだから。私なら支持者を欲しがっている若者たちのところに行きますがね。マダムたちとはお近づきでは?」 「私なんか忘れられてますよ」 「では無理ですね。王太子とは?」 「全然」 「もっとも、ほかのことを考えたくても、大公女のことで頭がいっぱいでしょうがね。それでは寵臣たちに移りましょうか」 「もうお名前すら存じ上げませんよ」 「デギヨン氏のことは?」 「お調子者だとかひどい話を聞いてますけどね。他人に戦わせておいて小屋に隠れていたとか……まったく!」 「いけませんな! 噂など話半分にも信じてはなりません。次に行きましょうか」 「ええ、続けて下さい、閣下」 「だがどうして? いや……うん……大丈夫……」 「仰って下さいよ」 「どうして伯爵夫人ご本人にお話しなさらないのです?」 「デュ・バリー夫人に?」老婦人は扇を広げた。 「何せ親切な方ですから」 「そうですねえ!」 「それに本当に世話好きな方で」 「私くらい古い家柄でしたら、きっと喜んでもらえますね」 「さあ、どうでしょうか。格式の方を求めてらっしゃるようですが」 「そうなんですか?」既に抵抗の意思は揺らいでいた。 「お知り合いですか?」 「まさか。存じ上げません」 「それは……あの人なら信頼出来ると思ったのですが」 「ええ、そりゃそうですとも。でもお会いしたこともないんです」 「妹のションにも?」 「ええ」 「ビシにも?」 「ええ」 「兄のジャンにも?」 「ええ」 「黒んぼのザモールにも?」 「黒んぼですって?」 「そうです、黒んぼも頭数に入ってます」 「ぞっとするような肖像画がポン=ヌフで売られていましたけど、あの服を着たパグそっくりの?」 「その通り」 「黒ん坊と知り合いかと仰るんですか!」誇りを傷つけられた伯爵夫人が叫んだ。「黒んぼと知り合いだといいことでもあるんですか?」 「すると、土地を守りたくはないのですね」 「どうしてです?」 「ザモールを軽蔑しているようですから」 「でもそのザモールに何が出来るというんですか?」 「勝訴に導くことが出来るくらいですがね」 「そのアフリカ人が? 訴訟に勝たせてくれるんですか? いったいどういうことですか」 「あなたを訴訟に勝たせたいと夫人に口添えするんです。結果はお分かりでしょう……。ザモールは夫人にお願いし、夫人は国王にお願いする」 「ではフランスを動かしているのはザモールなんですか?」 「然り!」モープーがうなずいた。「私なら……そう、王太子妃のご不興を蒙る方を選びますな、ザモールの機嫌を損ねるよりは」 「信じられません!」ベアルン夫人が声をあげた。「閣下のような真面目な方のお話でなければ……」 「いやいや、誰に尋いても同じことを言いますよ。マルリーやリュシエンヌに行かれたら、ザモールの口にお菓子を放ったり耳飾りを贈ったりするのを忘れていないかどうか、公爵や貴族におたずねになってご覧なさい。あなたとこうして話しているのは誰なのか、フランスの大法官か何かではないかと仰いますか? いやはや! あなたがいらっしゃった時、私が何をしていたとお思いです? 領主の書類を作成していたのです」 「領主ですか?」 「ええ、ザモール氏はリュシエンヌの領主に任命されたのです」 「それはベアルン伯爵が二十年お勤めした褒美にいただいた肩書きと同じじゃありませんか?」 「ブロワ城の領主でしたな。その通りです」 「馬鹿にするにもほどがあるじゃありませんか! それでは君主制は終わってしまったんですか?」 「弱っているのは事実です。だが瀕死の病人からは、搾れるだけ搾り取るものです」 「そうでしょうけどね。それには病人に近づかなくちゃなりませんよ」 「デュ・バリー夫人に歓迎されるためにはどうすればいいかご存じですか?」 「どうすればいいんです?」 「黒んぼ宛てにこの書状を運んでいただかなくてはなりません……きっと歓迎されることでしょう!」 「そうなんですか?」伯爵夫人はがっくりとした。 「間違いありません。だが……」 「だが……?」ベアルン夫人が繰り返した。 「だが夫人に近しいお知り合いがいないのですね?」 「でも閣下は?」 「私ですか!……」 「ええ」 「私はちょっとまずいでしょう」 「まあそうでしょうねえ」老婦人は哀れにも様々な葛藤に押しつぶされていた。「もう運にも見放されたんでしょうね。閣下にはお会いすることすら諦めていたのに、こんな風に歓迎していただいたのは初めてでした。でも、まだ足りないんですから。覚悟を決めてデュ・バリー夫人にお願いするだけじゃあなく、この私ベアルンがデュ・バリー夫人にお会いするため、黒ん坊の使いっ走りをする覚悟までしているのに。道で出会っても侮辱も差し上げないような、その怪物にさえ会うことが出来ないなんて……」  モープーは考え込むように顎を撫でていたが、その時不意に取次が来客を告げた。 「ジャン・デュ・バリー子爵です!」  この言葉に、大法官は手を叩いて唖然とし、伯爵夫人は椅子に倒れ込んで脈も呼吸も止まってしまった。 「天運に見捨てられたですと! 伯爵夫人、それどころか、天はあなたのために戦っていましたよ」  そう言うと大法官は取次に向かって指示を出した。伯爵夫人が我に返る暇すらなかった。 「お通ししろ」  取次は出ていったが、すぐに戻って来た。その後ろから、我々には既に馴染みのジャン・デュ・バリーが、足を伸ばし腕を吊って入って来た。  型通りの挨拶が済むと、未だ決心のつかない伯爵夫人は震えながら立ち上がり、いとまごいをしようとした。それを見て大法官は会釈をし、会見が終わったことを伝えた。 「失礼、閣下」と子爵が言った。「それにマダム、お邪魔してすみません。どうかこのまま……。閣下には一言申し上げるだけですから」 「でもお邪魔でしょう?」伯爵夫人は口ごもった。 「とんでもない。一言申し上げるだけですから。十分だけ閣下に貴重な時間を割いていただきたいのです。訴えを聞いてもらえませんか」 「訴えですか?」大法官が尋き返した。 「殺人です、閣下。見過ごす訳には行きません。誹謗され、諷刺され、中傷されても、生き延びることは出来る。だが喉を掻き切られる訳にはいかない。死んでしまいます」 「詳しく話してもらえますか」大法官は恐ろしそうな素振りをした。 「すぐにそうするつもりですが、マダムのお話を邪魔してしまいましたね」 「ベアルン伯爵夫人です」大法官がデュ・バリー子爵に老婦人を紹介した。  子爵と夫人は腰を引き、宮廷でするような仰々しいお辞儀をした。 「あなたがお先に、子爵」 「女性に対する不敬罪を犯す訳にはいきません」 「まあまあ、私が譲れないのはお金で、あなたが譲れないのは名誉って訳ですか。でも急いでらっしゃるんでしょう」 「伯爵夫人、それではご親切に甘えさせてもらいます」  そう言ってデュ・バリー子爵は大法官に用件を話して聞かせた。 「証人が要りますね」しばらくしてからモープーが口を開いた。 「ああ! 揺るぎない真実にしか動かされたくないという訳ですね。わかりました。見つけて来ましょう、証人を……」  ここで伯爵夫人が口を挟んだ。「閣下、一人はとっくに見つかってますよ」 「どなたです?」子爵とモープーが同時にたずねた。 「私です」 「あなたが?」大法官がたずねた。 「ねえ子爵、事件が起こったのはラ・ショセじゃありませんか?」 「その通りです」 「宿駅のことでしょう?」 「ええ」 「やっぱり! 私が証人ですよ。犯行現場を通りかかったんです。二時間後のことでした」 「本当ですか?」大法官がたずねた。 「ああ、ありがたい!」子爵が声をあげた。  伯爵夫人が畳みかける。「その証拠に、町中が事件で持ちきりでしたよ」 「待って下さい。今回の事件に関わってくれるおつもりでしたら、十中八九、ショワズールが妨害を仕掛けて来るはずです」  大法官も同意した。「伯爵夫人は訴訟を抱えているが、勝つのがかなり難しいこうした状況下では、妨害も容易いだろう」 「閣下、閣下」老婦人は頭を抱えた。「谷から谷へ転がり落ちているみたいじゃありませんか」 「子爵の腕をお借りなさい」大法官はぼそりと言った。「腕を貸してくれるでしょう」 「ご覧の通り一本だけですがね」デュ・バリー子爵がにやりとした。「だが強くて長い二本の腕の持ち主が一人、腕を貸してくれますよ」 「ああ! 子爵、それは確かなことでしょうか?」 「もちろんですよ! 持ちつ持たれつ。あなたのことは引き受けますから、僕のことは引き受けて下さい。構いませんか?」 「引き受けたとしたら……まあ、何て運がいいんでしょう!」 「そういうことです。すぐに妹に会わせて差し上げますよ。馬車に乗っていただけますか……」 「理由もないし、用意もないのに? とてもそんなことは」 「理由ならあるじゃありませんか」大法官がザモール宛ての書状を手に握らせた。 「大法官閣下、あなたこそ守護神です。子爵殿、あなたこそフランス貴族の華ですとも」 「お役に立てて何よりです」そう言った子爵に行き先を示されて、伯爵夫人は鳥のように飛んで行った。 「妹様々だ」ジャンがモープーに囁いた。「わが従兄弟様々です。おれの演技はどうでした?」 「申し分なかった。だが私の演技のことも話しておいてもらえるかな。それから気をつけ給え、あの老婦人はなかなか聡い」  そうこうしているうちに、伯爵夫人がこちらを向いている。  二人は腰を折って仰々しくお辞儀をした。  従僕付きの豪華な四輪馬車が玄関先で待機しており、伯爵夫人は意気揚々と乗り込んで腰を下ろした。ジャンの合図と共に馬車が動き出した。  デュ・バリー夫人の部屋から国王が立ち去った後。国王が廷臣に口にした如くに、短時間の不愉快な会見の後。伯爵夫人はションと兄と三人きりで部屋に残されていた。傷の状態を確認されて軽傷であることがばれないように、兄が真っ先に姿を消した。  家族会議の結果、デュ・バリー夫人は国王に告げたようにリュシエンヌには向かわず、パリに発っていた。パリのヴァロワ通りには小さな家があり、ひっきりなしに飛び回っているデュ・バリー家の人間が、事件にせき立てられたり面白いことがあったりした時の、仮住まいとして利用されていたのである。  デュ・バリー夫人は自室に腰掛け、本を手に取り待っていた。  その間、子爵が策を弄していたのである。  だがこの寵姫は、パリを走らせるに当たって、馬車の窓から時折顔を覗かせずにはいられなかった。人に姿を見せることは美しいご婦人の本能である。それも美しさを自覚しているからだ。それ故に伯爵夫人は姿を見せた。その結果、夫人がパリにいるという噂はぱっと広まり、二時から六時までの間に二十人ばかりが夫人の許を訪れたのである。これは伯爵夫人にとっては天の助けだった。一人きりで取り残されていたら、退屈のあまり死んでしまっただろう。こうした気晴らしが出来たおかげで、陰口、寸評、無駄話のうちに時間は過ぎた。  子爵がサン=トゥスタッシュ教会の前を通り過ぎた時、大きな文字盤が七時半を指しているのが見えた。妹の許へとベアルン伯爵夫人を連れている途上のことだ。  馬車の中では、こんな僥倖につけ込んでよいものかと、伯爵夫人が躊躇いを表していた。  子爵の方では、いわば保護領の高官役を引き受けて、奇妙な偶然からベアルン夫人にデュ・バリー夫人を引き合わせるに至ったことをしきりに感嘆していた。  ベアルン夫人の方では副大法官への礼儀と世辞を忘れなかった。  こうして二人がうわべを繕っている間も、馬は遅々として進まず、デュ・バリー邸に着いたのはようやく八時になろうとしている頃だった。 「では伯爵夫人」子爵は老婦人を待合室に案内した。「デュ・バリー夫人に報せて来ますから」 「でもやっぱり、ご迷惑をお掛けすることは出来ませんよ」  ジャンは、玄関の窓口で待機していたザモールに近づき、小声で指示を出した。 「あらまあ可愛い黒ん坊じゃありませんか。あれが妹さんの?」 「そうです。お気に入りの一人です」と子爵が答えた。 「いいのをお持ちだとお伝えしなきゃ」  とその時、待合室の扉が開いて従僕が姿を見せ、デュ・バリー夫人が謁見に使っている大広間にベアルン夫人を招き入れた。  ベアルン夫人が嘆息して豪華な隠れ家を眺めまわしている間に、ジャン・デュ・バリー子爵は妹のところに向かっていた 「あの人?」デュ・バリー伯爵夫人がたずねた。 「正真正銘」 「何も気づいていないの?」 「まったく」 「で、副ちゃんは……?」 「問題ない。すっかり協力してくれた」 「じゃああんまり長いことこうしていない方がいいわね。何にも気づいていないんだから」 「そうだな。どうも勘が良さそうなところもあるし。ションは?」 「知ってるでしょ、ヴェルサイユ」 「くれぐれも姿を隠しておいてくれよ」 「よく言っておいたわ」 「よし、出番だ、お姫様」  デュ・バリー夫人は扉を開けて閨房から出た。  これまでお話しして来た出来事の起こった当時は、このような場合には仰々しい挨拶をするものであった。而して二人の女優は相手に気に入られんと細心の注意を払って挨拶を交わしたのである。  口を切ったのはデュ・バリー夫人であった。 「先ほど兄にはお礼を申しました。お客様をお連れして下さったんですもの。今度はあなたにお礼を申し上げる番です。あたくしのお願いに同意して下さったんですもの」  これにはベアルン夫人が大喜びをした。「私の方こそ、こんな風にもてなして下さって、感謝の言葉もございませんよ」  今度はデュ・バリー夫人が恭しくお辞儀をした。「お役に立てることがあるようでしたら、あなたのような立派なご婦人のために尽力するのは務めですもの」  こうして一通り三段のお辞儀が終わると、デュ・バリー夫人はベアルン夫人に椅子を勧め、自分も椅子に腰を下ろした。 第三十一章 ザモールの委任状 「それでは」デュ・バリー夫人がベアルン夫人に声をかけた。「お話し下さい。お聞きしますから」 「失礼」立ったままのジャンが口を挟んだ。「頼み事の邪魔をするつもりはないんだが。ベアルン夫人にはお話があるんだ。大法官から言づかっていることがあってね」  ベアルン夫人はジャンに感謝の眼差しを注ぎ、副大法官の署名入り証書を伯爵夫人に差し出した。それにはリュシエンヌを王家の城館にすること、ザモールを領主に任命することが記されていた。 「じゃああなたに感謝しなくちゃいけませんね」証書に目を通してから伯爵夫人が言った。「機会さえあれば、今度はこちらがあなたのお役に……」 「でしたら、簡単なことでございます!」老婦人の勢いに、二人とも北叟笑んだ。 「どういうことかしら? お聞かせ下さい」 「よくぞ仰って下さいました。私の家名はまったくの無名ですが……」 「何ですって、ベアルンが?」 「訴訟の話をお聞きになったんですね? 我が家の財産が失われてしまうんですよ」 「確かサリュース家と抗争中でしたね?」 「ええその通りでございます」 「そう。そのことなら知ってるわ。陛下がいつかの晩、モープー殿に仰ってたから」 「陛下が! 陛下が私の訴訟の話を?」 「ええ、そう」 「何と仰ってたんでしょう?」 「お気の毒に!」デュ・バリー夫人は首を振った。 「じゃあ、負けるんですね?」老婦人の声は苦悶に歪んでいた。 「本当のことは口にしたくありません」 「陛下がそう仰ったんですね!」 「陛下ははっきりとは仰いませんでした。慎重で賢明な方ですから。財産はもはやサリュース家のものになったようなものだと考えていらっしゃるようでしたわ」 「ああ神様! 陛下が事件のことを知ってらしたら……譲渡された債務が返済済みだったのが問題だと知ってらしたら……! ええそうなんです、返済してるんです。二十万フランは返してたんですよ。もちろん契約書はありませんけど、蓋然的証拠ならありますから。私自身が高等法院で辯護することがあったら、演繹によって明らかに……」 「演繹ですか?」伯爵夫人には話の内容がさっぱりわからなかったが、ベアルン夫人が辯護に並々ならぬ意識を傾けているらしいのはわかった。 「ええそうです、演繹です」 「演繹的証拠なら採用されるな」ジャン子爵が言った。 「そうお思いになりますか?」 「そう思いますね」子爵は極めて重々しく答えた。 「それじゃあ、演繹によって証明しますよ。二十万リーヴルの債務に貯まった利子を合わせれば、百万以上にはなっているはずですから。証明してみせますとも。この債務は、一四〇〇年にギー・ガストン四世ベアルン伯爵が返済し終わっていたはずなんです。一四一七年にベアルン伯爵が死の床についた時、手には遺書がありました。『我は死の床にありて、もはや人に縛られることなく、神の御前に赴きし覚悟のみ……』」 「え?」伯爵夫人が声をあげた。 「おわかりでしょうとも。人に縛られることがないんでしたら、サリュース家には返済していたってことですよ。そうじゃなきゃ、『もはや縛られることなく』なんて書かずに『二十万リーヴルに縛られて』と書いていたはずですからね」 「恐らくそうでしょうね」とジャン。 「でも、ほかに証拠はありませんの?」 「ガストン四世の言葉だけです。でも立派な方だと言われていた人ですよ」 「なのにあなたは債務と戦ってるんですね」 「ええ存じております。訴訟がもつれるのもその点なんでございますよ」  そこは訴訟が丸く収まると言うべきであったが、ベアルン夫人は自分なりの立場でものを見ていたのである。 「では、サリュース家には返済し終わっているとお考えなんですね」ジャンがたずねた。 「ええそう考えております!」  デュ・バリー夫人が満足げに兄を見遣った。「どう? これで局面は変わるかしら?」 「かなり」 「向こうにとってもそうね。ガストン四世の遺言は明白だもの。『もはや人に縛られることなし』」 「明白なうえに理に適っている。もはや人に縛られることはない。つまり、縛られていた義務は果たしたというわけだ」 「つまり、義務は果たしたと」デュ・バリー夫人が繰り返した。 「ああ、あなたが判事でしたらよかったのに!」老婦人が声をあげた。 「昔ならこういう場合は法廷に持ち込んだりせず、神の裁きに委ねていたところです」ジャンも言いつのった。「僕自身は訴訟の利点を信じてますから、今もまだ同じ方法が使われていたなら、闘士としてあなたのために戦って見せますよ」 「まあそんな!」 「そういうわけです。もっとも、先祖のデュ・バリ=モアがやったことの受け売りに過ぎませんがね。若く美しいエディス・ド・スカルボローのため闘技場で戦い、嘘をついたと敵の口を割らせた時に、スチュアート王家と関係を結ぶ名誉を授かったんです。だが生憎なことに」と薄笑いして、「今はもうそんな時代じゃない。権利を申し立てても、法律屋の判断に任せるしかないってわけです。『もはや人に縛られることなし』、こんなに明らかな文章すら理解出来ない奴らなのに」 「ねえお兄様、この文章が書かれたのは三百年前でしょう」デュ・バリー夫人が恐ろしい一言を口にした。「裁判でいう時効というのを考慮に入れなくちゃならないんじゃない?」 「たいしたことじゃない。陛下の前でも今のように話してくれたら……」 「陛下も納得してくれますよね? きっとそうですよ」 「そう思いますよ」 「そうですとも。でもどうやったら陛下にお話を聞いていただけるんでしょう?」 「リュシエンヌに来ていただかなくちゃなりませんね。陛下もよくいらして下さいますから……」 「まあそうだな。だがそれでは偶然に左右される」 「ご存じでしょ」デュ・バリー夫人が可愛らしく微笑んだ。「あたくしはしょっちゅう偶然に頼ってるんだから。文句なんて一つもありません」 「だが偶然に頼っていたら、八日、十五日、いや三週間経っても陛下と会えないかもしれない」 「そうね」 「ところが訴訟は月曜か火曜に判決が出るんだ」 「火曜でございますよ」 「で、今は金曜の晩だ」  デュ・バリー夫人は天を仰ぎ見た。「じゃあもう時間がないじゃない」 「どうする?」と言ったジャンも、夢にでも耽っているようだった。 「ヴェルサイユで謁見する訳には?」ベアルン夫人がおずおずと提案した。 「とても許可されないでしょう」 「つてでどうにかならないのでしょうか?」 「あたくしのつてじゃあどうにもなりません。陛下は公務がお嫌いですし、今は一つのことだけで頭がいっぱいなんですもの」 「高等法院のことでしょうか?」 「違うわ。あたくしの認証式のことです」 「ああ!」 「ご存じでしょう。ショワズールの妨害や、プラランの陰謀や、グラモン夫人の口利きはありましたけど、陛下は認証式をして下さることになったんです」 「いえそんな。存じ上げませんでした」 「そうなのか! いや、決まったことなんです」ジャンが言った。 「いつ行われるんでございましょう?」 「近いうちに」 「そこで……王太子妃殿下の到着前に式を行うのが陛下のご希望なんです。そうすればコンピエーニュの祝宴に妹を連れて行けますからね」 「そういうことですか。では認証式は無事に行われるんですね」老伯爵夫人はおずおずとたずねた。 「もちろんです。ダロワーニ男爵夫人……ダロワーニ夫人はご存じですか?」 「存じません。ああ! もう一人も知り合いなんておりませんよ。宮廷を離れて二十年になるんですから」 「そうでしたか! ダロワーニ男爵夫人が、代母を務めてくれるんです。陛下がいろいろと融通なさった訳です。夫は侍従に。息子はいずれは代官という約束で軍隊に。男爵領は伯爵領になりました。金庫にあった債務は、市の株券と交換されました。認証式の晩には、即金で二万エキュが支払われます。という訳で男爵夫人は必死なんですよ」 「ようくわかりますよ」ベアルン伯爵夫人は優雅に微笑んだ。 「いや、そうか!」 「どうしたの?」デュ・バリー夫人がたずねた。 「まずったな!」ジャンは椅子から飛び上がっていた。「せめて一週間前に副大法官のところでお会いしていたら」 「だったら?」 「だったら、ダロワーニ男爵夫人とはまだ何の約束もしていなかったってことだ」 「ねえ、スフィンクスみたいな謎かけはやめて頂戴。全然わからないわ」 「わからないか?」 「ええ」 「伯爵夫人はおわかりですよね」 「それが考えてはいるんですが……」 「一週間前には代母は決まっていなかった」 「そうね」 「そうなんだ!……伯爵夫人、話について来られますか?」 「大丈夫ですよ」 「一週間前なら、伯爵夫人が手を貸してくれていたはずなんだ。ダロワーニ男爵夫人の代わりにベアルン伯爵夫人が陛下からいろいろ賜っていたはずなんですよ」  老伯爵夫人は目を見開いた。 「そんな!」 「ご存じですか。陛下がどれほどのご厚意を男爵家にお与えになったか。求める必要はなかった。向こうからやって来たんです。ダロワーニ夫人がジャンヌの代母を引き受けると聞いてすぐでした。『それはよかった。見るからに威張りくさったあばずれ共にはうんざりだ……伯爵夫人、そのご婦人を紹介してくれるだろうね? 訴訟を抱えてないか? 未払い金は? 破産は?……』」  ベアルン夫人の目がますます大きくなった。 「『だが、一つ気に食わんな』」 「陛下のお気に障るところがあったんですか?」 「ええ、一つだけ。『一つだけ気に食わん。デュ・バリー夫人の認証式には、由緒のある家名が欲しかった』そう仰って、ヴァン・ダイクの筆になるチャールズ一世の肖像画をご覧になっていました」 「ああ、わかりましたよ。先ほどお話し下さったデュ・バリ=モアとスチュアート家のご関係のことを陛下は仰ったんですね」 「そういうことです」 「でも結局は」ベアルン夫人の声には、とても言い表せない感情がこもっていた。「ダロワーニ家にお任せするんですね。そんな話、私のところには届きませんでしたからねえ」 「でも名門よ。証拠――というか、証拠みたいなものはあったし」 「ああ糞!」不意にジャンが椅子に手を掛け立ち上がった。 「ちょっと、どうしたの?」義兄の身悶えを前にして、笑いを堪えるのが精一杯だった。 「傷が痛むんじゃありませんか?」とベアルン夫人が気遣った。 「違います」ジャンはゆっくりと椅子に戻った。「違うんです。閃いたことがあって」 「どんなことなの?」デュ・バリー夫人は笑っていた。「ひきつりかけてたじゃない」 「いい考えなんですね!」ベアルン夫人がたずねた。 「最高に!」 「聞かせて頂戴」 「ただ、一つだけ拙い点がある」 「それは?」 「実行するのが難しい」 「まずは聞かせて頂戴」 「それに、ある人をがっかりさせることになる」 「気にすることないわ。続けて」 「つまりだ、チャールズ一世の肖像画を見て陛下が考えていたことを、ダロワーニ夫人に伝えたとしたら……」 「それはちょっとひどい仕打ちじゃない?」 「確かにね」 「じゃあこの話はもうやめましょう」  老婦人が溜息をついた。 「困ったな」子爵は呟くように口走った。「事態は勝手に進んじまっている。家名も智性もお持ちのご婦人がダロワーニ男爵夫人の代わりに現れたっていうのに。ベアルン夫人は訴訟に勝ち、息子さんは王の代官になり、訴訟のせいで何度もパリに足を運んだ際の莫大な馬車賃だって補償されていたはずなんだ。こんな機会は一生に一度しかないだろうに!」 「まあ、嫌ですよ!」不意打ちを食らったベアルン夫人は声をあげずにはいられなかった。  確かに、夫人と同じ境遇の者ならば、同じように声をあげたであろうし、同じように椅子にへばりついていたであろう。 「ほら見なさい」デュ・バリー夫人が気の毒そうな声を出した。「伯爵夫人を悲しませちゃったじゃない。認証式が済むまでは陛下に何もお願い出来ないって説明するだけでもよかったんじゃないの?」 「ああ、訴訟を延期出来ればいいんですけどねえ!」 「たった一週間なのに」 「ええ、一週間ですよ。一週間後には認証式をなさるんですから」 「ええ、でも陛下は来週にはコンピエーニュなの。祝宴の真っ直中ね。王太子妃が到着するはずだから」 「そういうことだ。そういうこと。だが……」 「何?」 「待てよ。また閃いた」 「何です。何でございますか?」 「多分……うん……いや……そう、そう、そうだ!」  ベアルン夫人は不安げにジャンの一言を繰り返した。 「『そう』と仰いましたか?」 「これはいい考えだ」 「教えて頂戴」 「聞いてくれ」 「聞いてるわ」 「認証式のことはまだ内密だったな?」 「多分ね。ただベアルン伯爵夫人は……」 「まあ! ご安心下さいまし!」 「認証式はまだ内密のことだ。代母が見つかったことは誰も知らないんだ」 「そうかもね。陛下は爆弾みたいに報せをぶちまけるのがお好きだから」 「今回はそれがよかった」 「そうなんでしょうか?」ベアルン夫人がたずねた。 「それでよかったんですよ!」  耳をそばだて目を見開いている二人のところに、ジャンが椅子を近づけた。 「つまりね、ベアルン伯爵夫人も、認証式が行われることや代母が見つかったことは知らないんだ」 「そうでございますね。お聞きしなければ知らなかったと思いますよ」 「僕らが会ったことは誰も知りません。つまりあなたは何も知らない。陛下に謁見を申し込んで下さい」 「でも陛下には断られると仰いませんでしたか」 「陛下に謁見を申し込んで下さい。代母になると申し出るんです。一人見つかったことをあなたは知らないんですからね。だから謁見を申込み、代母になると申し出て下さい。あなたのような家柄のご婦人から申し出があれば、陛下も心を動かされるはずです。陛下はあなたを迎え入れ、感謝し、願いがあれば何でも叶えると仰るでしょう。そこであなたは訴訟のことを切り出し、先ほどの演繹をお話し下さい。納得なさった陛下が事件の後押しをなさり、負けるはずだったあなたの訴訟も、勝つことになるでしょう」  デュ・バリー夫人はベアルン夫人をじっと見つめていた。老婦人はどうやら落とし穴がないか探っているらしい。 「まあ! 私みたいな者が、陛下に向かってどうすれば……?」 「こういう場合は善意を見せるだけで充分ですよ」ジャンが答えた。 「でも善意だけというのは……」老婦人はなおも躊躇っていた。 「悪くない考えだけど」デュ・バリー夫人は微笑んだ。「でもきっと、訴訟に勝つためとはいえ、こんなペテンじみたことには気が進まないんじゃないかしら?」 「ペテンじみたことだって? まさか! 誰もペテンだってわかるもんか」 「伯爵夫人の仰る通りでございます」ベアルン夫人はそれとなく話題を逸らそうとした。「ご親切を賜るにしても、ご迷惑をかけたくはありませんから」 「ほんと、ありがたいことね」デュ・バリー夫人の言葉に潜んだ軽い皮肉に、ベアルン夫人も気づかざるを得なかった。 「いや、まだ手はある」ジャンが言った。 「ほかにも?」 「ええ」 「ご迷惑をかけないような?」 「凄いじゃない、お兄様! 詩人になったらどう? ボーマルシェだってこれほど手だてを思いつきはしないわよ」  老婦人はその手だてとやらを聞きたくてたまらなかった。 「からかうのはよせ。ダロワーニ夫人とは懇意だったな?」 「そんなこと!……知ってるでしょ」 「代母の役を出来なかったら気を悪くするかな?」 「多分ね」 「代母役を担うには家格が足りないと陛下が口にしたことはわざわざ伝えなくてもいい。ただ、いい子だから機転を利かせて、別の言い方をするんだ」 「要するに何を?」 「協力を惜しまず財産を作る機会をベアルン伯爵夫人に譲るということをだ」  伯爵夫人は身震いした。今度の攻撃は単刀直入だった。曖昧な返答を許さない。  それでもやがて答えは見つかった。 「その方をご不快にさせたくはありませんよ。人間には敬意が必要でございますから」  デュ・バリー夫人はむっとするような素振りを見せたが、兄になだめられた。 「聞いて下さい、マダム。何かしろと言っている訳ではありません。間もなく始まる訴訟がある。それに勝ちたいのは当然のことです。ところが負けそうなので絶望してらっしゃった。僕はその絶望の真っ直中に出くわして、心の底からお気の毒に思ったんです。それで自分には無関係なこの訴訟に興味を持ちました。既に首まで嵌っていたあなたを見て、どうにか事態を好転させたいと思ったのですが。間違っていました、もうこの話はやめます」  そう言ってジャンは立ち上がった。 「そんな!」この悲痛な叫びは、デュ・バリー兄妹にも伝わった。それまでは無関心だった訴訟に、二人とも関心を寄せ始めた。「そんなことはありませんよ、ええそうです、ご親切にどれほど感謝していることか!」 「おわかりだと思いますが」ジャンは見事なまでに無関心を演じていた。「誰に紹介してもらっても構わないんですよ。ダロワーニ夫人にでも、ポラストロン夫人にでも、ベアルン夫人にでも」 「でもそうでしょうけど」 「ただですね、陛下のご親切を興味本位に利用し、僕らを前にした途端に妥協してしまうような卑しい人には我慢ならないんです。それしきのことで陛下のご威光は揺るぎないと分かってはいるのですが」 「ふうん! ありそうなことね」デュ・バリー夫人が合いの手を入れた。 「一方、自分から名乗り出たわけでもなく、僕らもあなたのことはほとんど知りませんが、大変な気品を備えていらっしゃるし、あらゆる点から見てあなたこそこの状況をものにすべきだと思うんです」  恐らく老婦人は、子爵に讃えられたその善意に逆らって抗おうとしたのだろう。だがデュ・バリー夫人がその暇を与えなかった。 「確かに、そうすれば陛下はお喜びになるわ。そんなご婦人を拒むことは絶対にないでしょうね」 「陛下はお拒みにならないと仰るのですか?」 「むしろ陛下の方からあなたの望みを掘り返しますよ。ご自分の耳で、陛下が副大法官にこう仰るのを聞けるでしょう。『ベアルン夫人のために何かしてやりたいと思うが、いいかね、モープー?』。でも、そうはいかないと思ってらっしゃるようですね。わかりました」と言って子爵が頭を下げた。「どうか僕の誠意をわかっていただけませんか」 「まあそんな。私には感謝の気持しかありませんよ!」 「何の疑いもないんですね!」 「でも……」 「何です?」 「でも、きっとダロワーニ夫人が許して下さいませんよ」 「それでは最初の話に戻るだけです。どっちみちあなたは機会を得て、陛下は感謝することになるでしょうね」 「でもダロワーニ夫人が引き受けたとしたら――」ベアルン夫人は最悪の結果を覚悟し、事態を見極めようとしていた。「その恩恵を取り上げることなんて出来ないでしょう……」 「陛下はご親切を惜しんだりなさらないわ」デュ・バリー夫人が言った。 「ふん! サリュース家には災難だな。知ったこっちゃないが」 「私がお役目を申し出たとしても――」もともと気になっていたところに斯かる喜劇が演じられたせいもあり、ベアルン夫人もだんだんと思いを固め始めた。「訴訟に勝つとは思えませんよ。今日までは誰が見たって負けていたのに、明日には勝っているなんてとても無理ですもの」 「そんなのは陛下のお気持ち次第です」またもや老婦人が躊躇っているのを見て、子爵は急いで言葉を継いだ。 「待ってよ。ベアルン夫人の言う通り。あたしも同感ね」 「何だって?」子爵が目を剥いた。 「つまりね、予定通りに訴訟が進んだとしても、ベアルン夫人のように由緒ある家柄の方には結構なんじゃないってこと。陛下のご厚意やご親切の障碍にはならないわ。何しろ高等法院とは今みたいな状況だから、もしかすると陛下も裁判の流れを変えたくないかもしれないけど、その時は賠償してくれるんじゃない?」 「そうだな」子爵もすぐに同意した。「その通りだ!」 「でもですよ」ベアルン夫人が辛そうに口を聞いた。「二十万リーヴルもの負債を、どうやって賠償して下さるんでしょうか?」 「まずはそうね、国王からのご下賜金が十万リーヴル、とかかしら?」  デュ・バリー兄妹は食い入るようにかもを見つめていた。 「私には息子がいます」 「あら素敵! 王国にまた一人、陛下に忠実な臣下が増えるんですよ」 「息子にも何かしていただけると思いますか?」 「僕が答えましょう。最低でも近衛の副官は見込めます」とジャンが言った。 「ほかにもご親戚はいらっしゃいますの?」デュ・バリー夫人がたずねる。 「甥が一人」 「そうですか。甥御さんにも何か考えておきますよ」 「それはあたなに任せるわ。いくらでも思いつくみたいだし」デュ・バリー夫人も笑いながら同意した。 「よし。陛下がホラティウスの教訓に従いあなたのために手を尽くし、解決を図って下さるなんて、賢明ななさりようではありませんか?」 「思っても見ないほど寛大ななさりようですとも。それに伯爵夫人にもお礼を申し上げます。寛大な計らいもみんなあなたのおかげでございますから」 「それじゃあ」デュ・バリー夫人がたずねた。「この話を真剣に考えて下さるのね?」 「ええ、真剣に考えます」こう約束したベアルン夫人の顔は真っ青だった。 「じゃあ陛下にあなたのことをお話ししても構わないわね?」 「ありがたく存じます」ベアルン夫人は一つ溜息をついた。 「すぐに実行するわ。遅くとも今晩にはね」と言ってデュ・バリー夫人は腰を上げた。「これで手に入れられたかしら、あなたの友情を」 「ご友情などとはもったいないことでございます」老婦人はお辞儀をして答えた。「本当のことを申しますと、夢でも見ているようでございますよ」 「ではまとめましょうか」すべて無事に終わらせるためには、夫人に気が変わってもらっては困る。「まずは報償金十万リーヴルが、訴訟費用、旅賃、辯護士費用などに……」 「ええ」 「息子さんである伯爵には副官の地位を」 「きっと素晴らしい経歴の第一歩ですよ」 「甥御さんにも何かを、でしたね?」 「何かですか」 「何か見つけてもらうと申し上げた通りです。僕に任せて下さい」 「ところで今度はいつお会い出来るのでしょうか、伯爵夫人?」ベアルン夫人がたずねた。 「明日の朝、四輪馬車を迎えに行かせて、陛下のいるリュシエンヌまでお連れします。明日の十時にはお約束を果たしますわ。陛下にはお知らせしておくので、すぐにお会い出来ますよ」 「お送りいたしましょう」ジャンが腕を差し出した。 「とんでもございません。どうかそのままで」  ジャンは引き下がらなかった。 「せめて階段の上まで」 「是非にと仰るのでしたら……」  そう言ってベアルン夫人は子爵の腕を取った。 「ザモール!」  デュ・バリー夫人が呼ぶと、ザモールが駆けつけた。 「玄関までご案内差し上げて。それから兄の車を回すように」  ザモールは閃光のように立ち去った。 「本当にお世話になりました」ベアルン夫人が口を開いた。  二人は別れのお辞儀を交わした。  階段の上まで来ると、ジャン子爵は腕を放し妹の許に戻った。ベアルン夫人は大階段を厳かに降りていった。  先頭を歩いているのはザモール。その後から、二人の従僕が明かりを手に続き、それからベアルン夫人、三人目の従僕がやや寸足らずな裾を持って従った。  デュ・バリー兄妹は窓越しに、ベアルン夫人が馬車に着くまで見守っていた。細心の注意と一方ならぬ苦労の末にやっと見つけ出した代母なのだ。  ベアルン夫人が玄関の石段を降り切った時のことだった。馬輿が中庭に乗り入れられ、若い婦人が扉から声を張り上げた。 「おや、ションさま!」ザモールがぶ厚い口唇を開いた。「お晩でございます」  ベアルン夫人が空中で足を止めた。到着を告げた声に聞き覚えがあったのだ。フラジョ氏の偽娘ではないか。  デュ・バリー夫人は大急ぎで窓を開け、妹に向かって賢明に合図したが、気づかれずに終わった。 「ジルベールのお馬鹿ちゃんはここ?」ションは伯爵夫人に気づかぬまま従僕に声をかけた。 「いいえ、一度も見かけておりません」  ションが目を上げ、ジャンの合図に気づいたのはその時だった。  伸ばした腕の先に目をやると、ベアルン夫人がいた。  ションは悲鳴をあげて帽子《コワフ》を引き下げ、玄関に転がり込んだ。  老婦人は気づいた様子を微塵も見せずに馬車に乗り込み、御者に行き先を告げた。 第三十二章 国王、退屈す  マルリーに発っていた国王は、かねて伝えていた通り、午後三時頃になると命令を出し、リュシエンヌに向かわせた。  王からの書き付けを受け取ったデュ・バリー夫人も急いでヴェルサイユを発ち、出来たばかりの素敵な住居で待っているはずであった。国王は既に何度か訪問を重ねていたが、夜を過ごしたことは一度としてなかった。国王がいみじくも弁明した通り、リュシエンヌは王城ではないのである。  それ故に、いざ着いてみると、偉そうに領主ぶったザモールが鸚哥の羽を抜いてもてあそび、鸚哥は鸚哥で咬みつこうと反撃しているのを見て、驚いてしまった。  この二者は宿敵なのだ。ショワズールとデュ・バリー夫人のように。  国王は小部屋に入って供の者を帰した。  王国一好奇心が強いくせに、普段から臣下にも従僕にもものをたずねたりはしなかった。だがザモールは従僕でもない。尾巻猿や鸚哥と同列の存在だ。  それ故、王はザモールにたずねた。 「伯爵夫人は庭かね?」 「いいえ、ご主人さま」ザモールが答えた。  リュシエンヌではデュ・バリー夫人の思いつきで「陛下」という尊称が用いられず、代わりにこの「ご主人さま」が用いられていた。 「では鯉のところかね?」  莫大な費用を掛けて山に湖を掘らせ、水路から水を引き、ヴェルサイユにいる中でも立派な鯉を運ばせたのだ。 「いいえ、ご主人さま」またもザモールはそう答えた。 「では何処に?」 「パリに」 「パリだと!……伯爵夫人はリュシエンヌに来ておらぬのか?」 「はい、ご主人さま。ただしザモールに後を任されました」 「して、何のために?」 「国王を待つためです」 「ははん! 余の出迎えをそなたに任せたというのか? それは面白い、ザモールのもてなしか! これはありがたい、伯爵夫人め」  国王は口惜しそうに立ち上がった。 「いいえ!」黒ん坊が答えた。「ザモールがもてなすことはありません」 「何故だね?」 「ザモールは出かけますから」 「何処に?」 「パリに」 「では余は一人取り残されるのか。いよいよ結構。だがパリに何の用があるのかね?」 「バリー奥さまのところに行き、国王がリュシエンヌにいると伝えに」 「ははあ、すると今の科白も伯爵夫人から仰せつかったのだな?」 「はい、ご主人さま」 「では、それまで何をしていればよいか、言づかってはおらぬか?」 「お前は寝てるだろうと仰いました」  ――となると、と王は考えた。伯爵夫人はじきにやって来るし、何かまた驚かせるようなことがあるのだろう。  国王は声に出して命じた。 「ではすぐに出かけて、伯爵夫人を連れて来なさい……いや、だがそなたはどうやってパリに行くつもりなのだ?」 「赤い鞍敷をつけた、大きな白馬に乗って」 「その馬でパリまでどのくらいかかる?」 「存じません。でも速く、速く、速く、駆けます。ザモールは速く駆けるのが好きです」 「そうかね。ザモールが速く駆けるのが好きとはありがたい」  国王はザモールの出立を見送りに窓に向かった。  背の高い従僕がザモールを馬に乗せた。危険に対して子供のように無頓着なこの黒ん坊は、大きな馬に跨りギャロップで走り出した。  一人残された国王は、何処か新しく見るところはないかを従僕にたずねた。 「ございます。ブーシェさまが伯爵夫人のお部屋に絵をお描きです」 「ほう! ブーシェか……あのブーシェがここに」王は満足げにうなずいた。「して、何処に?」 「四阿のお部屋でございます。ご案内いたしましょうか?」 「いや、結構。やはり鯉を見に行く方が良い。ナイフをくれ」 「ナイフ、でございますか?」 「うむ、それにパンを一つ」  やがて従僕は、日本製の陶磁器に大きな丸パンを乗せて戻って来た。パンには長く鋭いナイフが刺さっている。  国王はついてくるよう合図して、意気揚々と池に向かった。  鯉に餌をやるのは王家の習慣だった。大王は一日たりとも欠かしたことがなかった。  ルイ十五世は眺めのいい場所にある苔の上に腰を下ろした。  まずは緑に囲まれた湖をぐるりと見渡した。向こうには丘に挟まれた村がある。西側の丘はヴィルジールの苔岩のように垂直に聳えており、そのせいで藁で葺かれた家々が、まるで箱に羊歯を詰め込んだ玩具のように見えた。  さらに遠くには、サン=ジェルマンの切妻、巨大な階段、どこまでも広がる緑の台地。さらに遠くまで見遣れば、サノワとコルメイユの青い丘。そして、薔薇色と灰色にうっすらと色づいた空が、銅で作られた穹窿のようにそれらすべてを閉じ込めていた。  崩れそうな空模様に木々の葉は黒く翳り、牧場の穏やかな緑と対照をなしていた。油のようにぬたりとした水面に時折ふっと穴が空き、紺碧の水底から銀色に輝く鯉が身を躍らせて、水面に長い脚を擦らせて飛ぶ羽虫を捕まえていた。  大きな波紋が広がり、白と黒の混じった輪を作っていた。  魚が物も言わず湖畔にも口を突き出しているのが見える。人も網も待ち受けていないのを承知していて、垂れた三つ葉をついばみ、草間を飛び回る灰色蜥蜴や緑蛙を(見えているのかも怪しいような)無表情なぎょろ目で見てやろうとやって来たのだ。  国王は時間の潰し方を心得ていた。景色をくまなく見渡し、村の家の数を数え遠くの村の数を数えた後で、傍らに置かれた皿からパンをつかみ、大きめに切り取った。  ナイフがパンを削る音を耳にした鯉たちが、聞き慣れた食事の合図とばかりに、国王からよく見える場所まで近づいて来て、餌をねだり始めた。鯉たちは餌をくれる従僕の誰にでも同じように振る舞うのだが、国王としては無論のこと自分のために来てくれたのだと思っていた。  一つまた一つと投げ与えたパン切れが、一旦沈んでから再び水面に浮かび上がり、しばらくは形を保っていたが、やがて見る間に水に溶けてばらばらになり、すぐに見えなくなった。  まことに面白い光景であった。見えない口につつかれたパン切れが、消えてなくなるまで水面で踊っている。  半時間後、およそ百片ほども根気よくパンを切り取った国王陛下は、もはや一切れも浮かんでいないのを見て満足を感じていた。  だがそれでも退屈だった国王は、ブーシェのことを思い出した。鯉に比べれば気晴らしとして魅力が落ちるのは否めないが、こんな田舎では、手に入るものを手に入れるしかあるまい。  斯くしてルイ十五世は四阿に向かった。ブーシェは国王がいることを知らされていた。そのため絵を描きながら、否、絵を描くふりをしながら、国王を目で追っていた。国王が四阿の方にやって来るのを目にすると、大喜びで胸飾《ジャボ》を直しカフスを引き出し梯子に登った。リュシエンヌに国王がいるとは知らなかったふりをしろと言われていたのだ。床に足音が聞こえると、ふくよかなキューピッドに筆をつけ始めた。キューピッドは羊飼いの娘から薔薇を盗んでいるところで、娘は青いサテンのコルセットを身につけ、麦わら帽子をかぶっていた。ブーシェの手は震え、胸が高鳴っていた。  ルイ十五世は戸口で立ち止まった。 「やあ、ブーシェ殿、何てテレビン油臭いんだ!」  そう言って素通りしてしまった。  いくら国王が芸術にうといとはいえ、ブーシェとしてはもう少し前向きな言葉を期待していたために、危うく梯子から転がり落ちるところであった。  梯子から降りると、涙を浮かべて立ち去った。いつものようにパレットを擦ることも筆を洗うこともせずに。  ルイ十五世陛下は時計を取り出した。七時だ。  国王は城館に戻り、猿をからかい、鸚哥に口真似をさせ、次から次へと棚から陶磁器を引っぱり出した。  夜が訪れた。  部屋が暗いのは苦手なので、明かりを付けた。  だがそれ以上に一人が苦手だった。 「十五分後には馬を。そうだ、後十五分やろう。それ以上は待てぬ」  ルイ十五世は暖炉の前にある長椅子に寝そべり、十五分つまり九百秒が過ぎるのをやむなく待つことにした。  青い象に乗った薔薇色のトルコ王妃の描かれている柱時計が、四百回目の振り子を揺らした頃、国王は眠りに落ちていた。  ご推察の通り、馬車の準備が出来たと報せに来た従僕は、国王が眠っているのを見て、起こしてしまわぬよう気を遣った。その結果、国王が目覚めた時には目の前にデュ・バリー夫人がいて、ほとんど眠っていないような様子で、大きな瞳で国王を見つめていた。扉の陰ではザモールが命令を待っている。 「おや、あなたですか、伯爵夫人」国王は横になったまま身体だけを起こした。 「もちろん。それもずっと前からいましたのに」 「はて、ずっと前というのは……」 「もう! 一時間は経ってますわ。こんなに熟睡なさってるんだもの!」 「これはしたり。そなたはおらぬし、あまりに退屈だったのだ。それに夜にあまり眠っておらぬ。もう帰るところだったのだぞ?」 「存じてます。陛下の馬が繋いでありましたもの」  国王は振り子時計に目を向けた。 「まさか、十時半だと! 余は三時間近くも眠っていたのか」 「リュシエンヌじゃ眠れないって仰りたいみたい」 「その通りだ。だがあれは何だ?」国王はザモールを認めて声をあげた。 「リュシエンヌの領主です」 「まだ違うぞ」と国王は笑い出した。「任命される前から制服を着ておるのか。すっかり余の言葉を当てにしているらしい」 「陛下のお言葉は神聖ですけど、それを当てにする権利くらいは誰にでもありますもの。でもザモールは陛下のお言葉よりいいもの、ううん、お言葉ほどではないものを手に入れたんです。委任状です」 「何だと?」 「副大法官が送ってくれましたの。ほら。もう就任に必要な手続きは宣誓だけ。早く誓いを済ませて、任せてあげて下さいな」 「来給え、領主殿」  ザモールが進み出た。襟には刺繍、大尉の肩章をつけ、短いキュロット、絹靴下、細長い剣を佩いている。大きな三角帽を腕に抱え、足取りは硬くぎこちない。 「しかし誓い方はわかるのだな?」 「もちろんよ。やってご覧になって」 「前へ」国王はこの黒人形をしげしげと眺めた。 「ひざまずきなさい」伯爵夫人が命じた。 「誓いを述べよ」  ザモールは胸に手を置き、もう片方の手を国王の手に重ねた。 「我が主人及び夫人に対する忠誠と崇敬を誓います。拝命いたしましたこの城館を命尽きるまで守ることを誓います。攻撃を受けた暁には降伏する前にジャムを最後の一壜まで残らず空にすることを誓います」  ザモールがあまりに鹿爪らしい口を聞くものだから、国王は笑い出した。 「誓いと引き替えに」その場に相応しい厳めしさをすぐに取り戻し、「宮殿の空、地、火、水に棲まうものの名に於いて、そなたに領主権、上級及び下級裁判権を授ける」 「ありがとうございます、ご主人さま」そう言ってザモールは立ち上がった。 「よし。では、その立派な服を台所に、我々をそっとしておいてくれ。さあ行け!」  ザモールは立ち去った。  ザモールが扉から出たところに、別の扉からションが入って来た。 「おおそなたか、ション。よく来た」  国王はションを引き寄せ口づけした。 「さあション、真実を話してくれるね」 「あら、お気をつけ遊ばせ。間の悪い。真実ですって! そんなこと言うのは生まれて初めてになるかも。真実がお知りになりたいのなら、ジャンヌにお聞きになって。嘘をつけないひとですから」 「そうかね?」 「今のはションのお世辞。今までは今までですし、それに今晩からは伯爵夫人らしく嘘をつこうと決めているんです。口にすべきじゃない真実については」 「ははあ、どうやらションは何か隠しているようだな」 「まさか、とんでもありません」 「いったいどれだけの公爵、侯爵、子爵に会いに行くことになるだろうな?」 「そんなことにはなりません」伯爵夫人が答えた。 「ションはどう思うね?」 「二人ともそんなことにはならないと思ってますわ、陛下」 「その点については警察に報告書を作らせねばなるまい」 「警察とはサルチーヌの? あたくしたちの?」 「サルチーヌの方だ」 「どれだけ出してやるつもりですの?」 「知りたいことを教えてくれるのであれば、値切るつもりはない」 「ではあたくしの方の警察をお取りになって。報告書もこっちを。お役に立ちますから……絶対に」 「自分を売るつもりかね?」 「お金で秘密が買えるんじゃあ仕方ありませんでしょう?」 「まあよい。報告書を見よう。だが嘘はなしだ」 「まあ馬鹿にして」 「率直に話してくれと言いたかったのだ」 「わかりました! お金のご用意を。報告書はここです」 「ここにある」国王は懐中で金貨をじゃらじゃらと鳴らした。 「ではまず、デュ・バリー夫人は午後二時頃パリで目撃されています」と伯爵夫人が読み上げた。 「余が知りたいのはその後だ」 「ヴァロワ街に」 「否定はせぬ」 「六時頃、ザモールが戻って来ました」 「あり得ぬことではない。だがデュ・バリー夫人はヴァロワ街に何をしに行ったのだね?」 「自宅に行ったんです」 「それはわかる。だが何のために自宅に?」 「代母に会うために」 「代母か!」思わず顔をしかめていた。「では洗礼をしてもらうのか?」 「ええ、ヴェルサイユの大洗礼盤で」 「いや、それは違う。洗礼などされなくとも素晴らしい女性だぞ!」 「どうしてです? 諺はご存じでしょう、『人は自分にないものを欲しがる』」 「代母を見つけようとしたらどうなる?」 「見つかりました」  国王は驚いて肩をすくめた。 「この展開には満足してますの。陛下がグラモン、ゲメネー、そのほか奥さま方の失敗を見たがらないってことがわかりましたから」 「どういうことだ?」 「この方々と組んでいらっしゃるんでしょう!」 「余が?……伯爵夫人、一ついいかね。王たるものは王としか手を組まぬ」 「わかってます。でも陛下の仰る王様はみんなショワズールのお友達じゃありませんの」 「代母の話に戻ろう」 「あたくしも賛成です」 「では無事に一人でっちあげたという訳か?」 「でっちあげなんかじゃありません。しかも上仕立て。ベアルン伯爵夫人と言って、君主だった一族の方ですわ。そういうこと。これならスチュアート家とお近づきの方の名誉を傷つけることもないと思うんですけど」 「ベアルン伯爵夫人?」と王が驚きの声をあげた。「一人だけ知っている。ヴェルダンか何処かに住んでいたはずだ」 「当たり! 大急ぎで飛んでいらっしゃったんですから」 「そなたに手を貸すというのか?」 「それも両の手を!」 「いつ?」 「明日の午前十一時に、内々で謁見を許しました。その時もしご無礼でなければ、日取りのことで陛下にお願いを申しますの。なるべく早めの日に決めて下さいな。構いませんでしょ?」  国王は笑いに囚われたが、わざとらしいものだった。 「まあ大丈夫だろう」伯爵夫人の手に口づけした。  が、ふと「明日の十一時だと?」 「ええ、昼食の時間に」 「いや、無理だ」 「無理ですって?」 「ここで昼食は取らぬ。今夜戻るからだ」 「いったい何が?」デュ・バリー夫人は心臓がぎゅっと凍りつくのを感じた。「行ってしまいますの?」 「やむを得ぬのだ。緊急の用件でサルチーヌと約束していたのでね」 「お好きなように。でも夜食はご一緒出来ますでしょ」 「ああ、夜食なら……うむ、腹も減っている。夜食を取ろうか」 「用意させて、ション」と言って、恐らく予め決めてあったのだろう、二人にだけわかる合図を送った。  ションが立ち去った。  国王は鏡に映った合図を見て、意味はわからぬながらも何らかの企みがあるのは悟った。 「いやはや! 駄目だ駄目だ。夜食も取れぬ……今すぐにでも出なくては。しなくちゃならん署名がある。今日は土曜日だった」 「仕方ありませんわ! では馬を用意させましょう」 「ああ、頼む」 「ション!」  ションが戻って来た。 「陛下の馬を!」 「了解」ションは微笑み、再び立ち去った。  やがて玄関で叫ぶ声が聞こえた。 「陛下の馬を!」 第三十三章 国王、満足す  国王は力を見せつけたことに満足していた。認証式の悩みから解放してくれたとは言え、自分を散々待たせもした伯爵夫人を懲らしめてやったのだ。  戸口に向かったところで、ションが再び戻って来た。 「おや! 従者を見なかったかね?」 「ええ、陛下。控えの間には誰もおりませんわ」  そこで国王の方から戸口まで進み出た。 「誰かおらぬか!」  答える者はない。反響すら聞こえぬ静寂にでも覆われているかのようだった。  国王は部屋に戻り、「余が『危うく待つところだった!』と言った人間の曾孫だとは誰も信じぬだろうな」と言って窓を開けた。  だが玄関前も同じように無人だった。馬も、馬丁も、衛兵もない。夜の闇だけが、月に照らされて目にも心にもしめやかに厳かに広がっていた。月の光はシャトゥの森の梢上で波のようにたゆたい、セーヌ川から幾片もの煌めきを吸い上げていた。物言わぬ巨大な蛇をくねくねとたどって行けば、ブージヴァルからメゾンまで、即ち差し渡し延べ四、五里をたどることが出来る。  そのただ中で、五月にしか鳴かぬ夜鶯が歌を歌っていた。こんな美しい調べは春の初めにしか相応しくないとでもいうように。訪れたとも去るともつかない初春にしか――。  こんな花鳥風月もルイ十五世には無意味だった。夢想家でも詩人でも芸術家でもなく、極めて現実的な人間であったのだ。 「ほらほら伯爵夫人」国王は口惜しそうに口にした。「頼むから指示を出してくれ。まったく! もう冗談は終わりだ!」 「陛下ったら」伯爵夫人は可愛くすねてみせた。大抵はこれで上手くいく。「ここで指示を出しているのはあたくしじゃありませんわ」 「そうは言っても余でもないぞ。ご覧の通りだ、誰も従わん」 「あたくしでも陛下でもありません」 「では誰が? そなたか、ション?」 「あたし?」ションは部屋の反対側で、伯爵夫人の向かいに腰かけていた。「人の言うことをきくのも大変だし、わざわざ大変な思いをして指示を出そうとも思いませんし」 「では誰が主人なのだね?」 「まあ! 領主殿です」 「ザモールか?」 「ええ」 「確かにそうだな。人を呼んでくれ」  伯爵夫人は気だるげに腕を伸ばし、真珠の玉のついた絹紐を鳴らした。  あらゆる場合に備えて予め指示を出されて控えていた従僕が、姿を見せた。 「領主は?」国王がたずねた。 「領主様は、陛下のために番をなさっています」従僕は恭しく答えた。 「何処だ?」 「巡回していらっしゃいます」 「巡回?」 「将校四人もご一緒です」 「マールバラさんみたい!」伯爵夫人が叫んだ。  国王は笑いを抑えることが出来なかった。 「うむ、滑稽至極だ。だがとにかく車に馬を繋いでくれ」 「それが、ごろつきがねぐらにせぬよう、領主様は厩舎を閉めておいでです」 「馬丁は?」 「召使い部屋です」 「そこで何を?」 「眠っております」 「何だと! 眠っている?」 「ご命令でございます」 「誰の命令だ?」 「領主様でございます」 「だが門は?」 「門と仰いますと?」 「ここの城館の門だ」 「閉めております」 「結構。だが鍵は手に入れられよう」 「鍵は領主様が腰に提げていらっしゃいます」 「出来のいい城館だな。まったく! 何て命令だ!」  国王がそれ以上たずねたりしないとわかると、従僕は立ち去った。  伯爵夫人は椅子に腰掛け、美しい薔薇を咬んでいた。その口唇は珊瑚のようだ。 「ねえ陛下」浮かべた微笑みには張りがなく、とてもデュ・バリー夫人のものとは思われなかった。「ちょっとお可哀相な気がして来ました。お手をどうぞ。何とかして差し上げます。ション、明かりを」  ションが先頭に立った。万が一危険が生じた場合に備えてのことだ。  廊下の角まで来た時、食欲をそそる匂いが王の鼻をくすぐり始めた。 「おや!」国王は立ち止まった。「何の匂いだろう、伯爵夫人?」 「もう! お夜食の匂いですわ。リュシエンヌで召し上がって下さるとばかり思ってたんですもの。こうして準備させていたんです」  ルイ十五世はその美味しそうな匂いを何回か嗅ぎながら、数時間も前から胃が自己主張を始めていたことを、胸の内で考えていた。騒ぎ立ててみても、馬丁を起こすのに半時間、馬を繋ぐのに十五分、マルリーまで十分は必要だ。マルリーに準備させていたわけではないのだから、軽い食事しか取れないだろう。とろけるような匂いをもう一度嗅ぐと、伯爵夫人を連れて食堂の前で立ち止まった。  二人分の食事が卓子の上で燦然と照らされ絢爛に装われていた。 「これは凄い! いい料理人がいるね」 「今日のはほんの小手調べ。陛下のお褒めに与るような素晴らしい料理を、これまで何度も作ってたんですから。ヴァテルみたいに、喉を掻き切ってしまいかねないくらい」 「それほどに?」 「特に雉の卵のオムレツ、これにはかなりの……」 「雉の卵のオムレツ? 余の大好物だ!」 「それは残念ね!」 「いやいや、伯爵夫人! 料理人をがっかりさせてはいかん」と国王は笑顔で言った。「夜食を取っている間に、ザモールも巡回から戻るだろう」 「じゃあ、それで決まりね」伯爵夫人は初戦を獲った喜びを隠すことが出来なかった。「どうぞこちらへ、陛下」 「だが給仕する人間がおらぬぞ」従僕を探したが見つからない。 「あら! あたくしが淹れた珈琲じゃ美味しくありません?」 「そんなことはない。そなたが淹れてくれれば同じくらい旨かろう」 「よかった! じゃあこちらへ」 「食事は二人分だけかね? ションは食べぬのか?」 「陛下のご指示もないのにそんなことは出来ませんもの……」 「では命令だ!」国王手ずから棚から食器を取り出した。「さあション、向かいに坐りなさい」 「まあ陛下……」 「ああそうだ。控えめで従順な家来のふりなどして、偽善者めが! さあ伯爵夫人、余のそばに、隣に。横顔も魅力的ではないか!」 「今日まで気づかなかったんですの?」 「何を言うか。いつも正面から見ていたからな。いやしかしそなたの料理人は大綬ものだ。このスープの旨いこと!」 「じゃあ前の料理人を馘首にしたのは正しかった?」 「正しい判断だ」 「でしたら、陛下もお試しになって。損はしませんもの」 「何の話だね」 「あたくしんところのショワズールを馘首したんだから、陛下のところのショワズールも馘首なさって下さらない?」 「政治の話は抜きだ。そのマディラ・ワインをもらおう」  国王がグラスを差し出し、伯爵夫人が細首のデカンタを手に取った。  力を入れているために指は白く、爪は赤く染まっていた。 「ゆっくりと静かに注いでくれ」 「濁らせたくないからですの?」 「そなたの手を見ていたいからだ」 「陛下は見つけるのがお上手ね」伯爵夫人は微笑んだ。  国王の機嫌も少しずつ直って来た。「うむ、確かにもう少しで見つけるところ……」 「世界を?」 「違う、違う。世界など手に余る。王国で充分だよ。ただ、一つの島、地上の一隅、美しい山、アルミーダのようなご婦人たちのいる宮殿、何もかも忘れてしまいたい時にはありとあらゆる怪物がその入口を固めてくれる」  伯爵夫人は冷えたシャンパンのデカンタを国王に差し出した(これは、この時代に新たに工夫されたものである)。「レテ川で汲んだ水をどうぞ」 「忘れ川? 確かかね、伯爵夫人?」 「間違いありません。だってつい先日地獄に片足を突っ込んだジャンが持ち帰ったものですもの」  国王はグラスを掲げた。「では、甦ったことを祝して。だが政治の話はよしてくれ」 「それじゃあもう話すことがなくなっちゃったわ。陛下がお話を聞かせて下さるんでしたら、面白そうですけど……」 「話はないが、詩を聞かせよう」 「詩ですって?」 「ああ、詩だが……何を驚いている?」 「陛下は詩がお嫌いでしたのに!」 「嫌いだよ。十万のうち、九万は余をネタにしておる」 「では陛下がお聞かせ下さるのは、九万の方ではなく、陛下のお眼鏡に適わなかった一万の方なのね?」 「違うな。余が聞かせるのは、そなたの詩だ」 「あたくし?」 「そなただ」 「作者は?」 「ヴォルテール」 「陛下がお預かりに……?」 「そんなことはない。伯爵夫人殿下宛てだった」 「でもどうやって?……手紙もないのに?」 「それどころか、素敵な手紙に入っていたよ」 「ああ、そういうこと。陛下は午前中、郵便局長とご一緒だったのね」 「その通り」 「読んで下さる?」  ルイ十五世は紙片を広げて読み上げた。  歓楽の女神よ、恩寵の慈母よ、  黒き疑いを以て、醜き失態を以て  パフォスの宴を汚さんとするは如何に?  英雄の死を図るは如何に?  オデュッセウスは祖国の要、  そはアガメムノンの基なり。  その走れる才気、溢れる才知に  驕れるイリオンも膝を折れり。  帝国に神々を侍らすがよい、  美もて心を捕えしヴィーナスよ。  麗しき狂乱に溺れて摘み取るがよい、  快楽の薔薇を。  だが我らの瞳には微笑みを、  怒れる海神には平穏を授け給え。  トロヤも恐れるオデュッセウスに、  そなたは怒りをぶつけるのか  何となれば、美に接する術はなし  跪いて溜息をつくよりほか。  伯爵夫人はこの詩を聞いて喜ぶというより気分を害したようだ。「やっぱりヴォルテールは陛下と仲直りしたいのね」 「だとしたら、大問題だな。あれがパリに戻って来たら騒ぎを起こす。親しくしているフリードリヒ二世のところに行くのだろう。我々はルソーだけでもう充分だ。それはともかく、この詩はそなたにやろう。よく考えるがいい」  伯爵夫人は紙片を受け取ると、付け木のように丸めて小皿の脇に無造作に置き捨てた。  国王はただただそれを見つめていた。 「トカイ・ワインを如何?」ションが国王に推めた。 「オーストリア皇帝陛下の酒蔵のものです。安心してお飲み下さいな」伯爵夫人も続けた。 「何だと! 皇帝の酒蔵から……持ち出せるとしたら余しかおるまいが」 「陛下のソムリエも、ですわ」 「まさか! 誘惑したのか……?」 「いいえ。命令したんです」 「お見事。とんだ間抜けな国王だな」 「あら、そうね。でもフランスちゃんも……」 「フランスちゃんにも、心からそなたを愛するだけの器量はあるぞ」 「本当に、あなたがただのフランスちゃんならよかったのに」 「伯爵夫人、政治は抜きだ」 「珈琲は如何?」ションがたずねた。 「喜んで」 「いつも通り火に掛けます?」伯爵夫人がたずねた。 「嫌でなければ」  伯爵夫人が立ち上がった。 「どうしたのだ?」 「あたくしがご用意いたします、閣下」 「そうか」夜食を満喫した国王は、椅子の上でゆったりと寛いだ。腹がふくれれば機嫌も良くなる。「どうやら一番いいのは、そなたに任せることだな」  伯爵夫人は熱いモカの入った珈琲ポットを、金の調理台に運んだ。それから、金張りのカップとボヘミアの水差しを乗せた小皿を、国王の前に置いた。最後に、小皿のそばに紙で出来た小さな付け木を置いた。  国王はいつものように極めて注意深く、砂糖を量り、珈琲を見積もり、そっと蒸留酒を注いでアルコールを浮かせ、紙の付け木で火を付けた。これで中まで火が伝わる。  後は調理台に放り入れれば、付け木は燃え尽きてしまう。  五分後、至極満ち足りた気分で国王は珈琲を味わった。  伯爵夫人は黙って見ていたが、最後の一口を飲み終えると声をあげた。 「ふふふ。陛下が火を付けるのに使ったのはヴォルテールの詩よ、ショワズールにはお気の毒さま」 「これはしたり」国王は苦笑した。「そなたは妖精ではない、悪魔だ」  伯爵夫人が立ち上がった。 「陛下、領主殿が戻って来たらお会いになりますか?」 「うん? ザモールか? それはまたどうして」 「陛下をマルリーにお連れするためですわ」 「そうだった」せっかくの満足感から気持を引き離さねばならなかった。「会いに行こう」  デュ・バリー夫人が合図し、ションが立ち去った。  国王はザモール探しに戻ったが、当初とはまったく違った気持だった。哲学者の言う如く、人のやる気の明暗は胃の状態によるのである。  ところで、王たちの胃は概して、臣下の胃ほど具合が良くないのは事実であるが、肉体のほかの部分にも人並みに満足感や不満足感が伝わるからには、斯かる状態の王に相応しいほどには上機嫌に見えた。  十歩ほど進んだところで、廊下からまた別の香りが漂って来た。  青い繻子と生花の錦で飾られた寝室の扉が折りしも開き、妖しい光に照らされたアルコーヴが姿を見せた。妖婦の足取りは二時間も前からここを目指していたのだ。 「陛下。ザモールはまた姿を消してしまいました。あたくしたちは今も閉じ込められたままです。窓から逃げ出すほかありませんの……」 「ベッドのシーツでかね?」  伯爵夫人は莞爾と微笑んだ。「陛下、正しい使い方をいたしません?」  国王が笑って腕を広げると、伯爵夫人は薔薇を投げ捨て、花びらが絨毯に散った。 第三十四章 ヴォルテールとルソー  既にお話ししたように、リュシエンヌの寝室は、造りといい調度といい素晴らしいものだった。  東向きのその部屋は、金張りの鎧戸と繻子のカーテンでしっかりと覆われ、陽射しがご機嫌取りのように大小様々な隙間から潜り込むまでは、完全に光を遮っている。  夏には、何処とも知れぬ通気口から、幾千もの扇であおいだような柔らかな風が空気を揺らした。  国王が青の間から出てきたのは十時のことだった。  今回は供の者たちも九時から庭で待機していた。  ザモールが腕を組んで命令を出している。あるいは出しているふりをしている。  国王は窓から顔を出し、出発の用意を眺めた。 「どういうことだね、伯爵夫人? 朝食は取らぬのか? 国王を空きっ腹で帰らせたと言われるぞ」 「とんでもない! でもてっきりマルリーにはサルチーヌ殿とご一緒するのかと思ってましたけど」 「まさか! ここに会いに来るようサルチーヌに伝えられるとでも? こんな近くに」 「自慢する訳じゃありませんけど」伯爵夫人が微笑んだ。「そう思ったのは陛下が最初ではありませんの」 「それに、朝は仕事をするにはもったいない。朝食にしよう」 「でも署名はしていただかなくては」 「ベアルン夫人の件かな?」 「ええ、そうすれば日にちもはっきり出来ますし」 「日にちだと?」 「それに時間も」 「何の時間だ?」 「認証式の日時です」 「いやもっともだ、認証式か。日取りはそなた自身で決めるがよい」 「出来るだけ早い内に」 「もう準備は済んでいるのか?」 「ええ」 「三段の礼のやり方も覚えたのかね?」 「ちゃんと出来ますわ。一年間も練習したんですもの」 「ドレスは?」 「二十五時間あれば用意出来ます」 「代母は?」 「一時間後にここに」 「ふむ、では取引だ」 「何の?」 「ジャン子爵とタヴェルネ男爵の事件は今後一切口にせんで欲しい」 「泣き寝入りしろと?」 「まあそういうことだ」 「わかりました! もうそのことは口にいたしません……日取りは?」 「明後日」 「時間は?」 「通例通り夜十時に」 「決まりね?」 「決まりだ」 「王のお言葉ね?」 「貴族の言葉だ」 「お手をどうぞ」  デュ・バリー夫人が美しい手を伸ばすと、国王はそれに手を重ねた。  この朝、リュシエンヌ中が国王の満足感に浸されていた。しばらく前から譲歩しようと考えていたある点では譲歩したものの、別のある点では譲らなかったのだ。大成功だった。ピレネーかオーヴェルニュで湯治するという条件でジャンに十万リーヴルを与えれば、ショワズールの目には追放だと映るだろう。貧しい者たちにはルイ金貨を、鯉には菓子を、ブーシェの絵には讃辞を与えた。  前の晩に夜食を堪能したというのに、朝食を食べる気も満々だった。  そうこうしている内に十一時が鳴ったところだ。伯爵夫人は国王の世話をしながら、なかなか進まない柱時計をちらちらと脇見していた。  国王はとうとう自ら、ベアルン夫人が来たなら食堂に招いてもよいと口にした。  珈琲の用意が出来、味わい、飲み干しても、ベアルン夫人は来なかった。  十一時十五分、馬が駆ける音が響き渡った。  デュ・バリー夫人は急いで立ち上がり、窓に駆け寄った。  ジャン・デュ・バリーからの使いが、汗まみれの馬から飛び降りていた。  伯爵夫人は恐れおののいた。だが、国王に気分よくいてもらうためには、わずかなりとも不安を表に見せるべきではない。夫人は席に戻った。  間もなく、手紙を手にションが入って来た。  尻込みは出来ない。読むほかない。 「それは? 恋文かね、ション?」国王がたずねた。 「そんなとこです」 「誰から」 「子爵からです」 「間違いないね?」 「お確かめになって」  筆跡には見覚えがあった。手紙はラ・ショセ事件のことかもしれない。 「よかろう」国王は手紙を返した。「もういいよ」  伯爵夫人は気が気ではなかった。 「あたくし宛てですの?」 「その通りだ」 「構いませんか……?」 「もちろんだ! 読んでいる間はションがコルボー先生を聞かせてくれるだろう」  国王はションを引き寄せ、ジャン=ジャックが書き残した通りの王国一調子っぱずれな声で歌い出した。  尽くしてくれるひとを失った。  幸運をすっかり失くしてしまった。  伯爵夫人は窓際に戻って読み始めた。 『あの糞婆は当てにするな。夕べ足を火傷したと抜かして、部屋に引き籠もっている。よりにもよって昨日のあのタイミングで帰ってきたションに感謝しようじゃないか。それだけのことはしてくれた。婆さんがションに気づいたんだ。とんだ喜劇だよ。  すべての元凶のジルベールのガキがいなくなった。幸運な奴め。そうでなきゃ首をねじ切っていたところだ。だが今度会った時には、どれだけしおらしくしていようとも見逃してやるものか。  結論を言う。急いでパリに来てくれ。さもなきゃ俺たちは昔に逆戻りだ。ジャン』 「どうしたのだ?」急に青ざめた伯爵夫人に驚いて、国王が声をかけた。 「何でもありません。義兄が容態を知らせてくれただけ」 「よくなって来ているのだろう?」 「よくなっていますわ。ありがとうございます、陛下。それより、庭に馬車が到着したみたいですけど」 「代母の伯爵夫人ではないかね?」 「違うわ、サルチーヌ殿ね」 「では?」デュ・バリー夫人が戸口に行ったのを見て、国王がたずねた。 「では、陛下はあちらにどうぞ。あたくしはお化粧に参ります」 「するとベアルン夫人は?」 「いらっしゃったら陛下にご連絡差し上げます」伯爵夫人は手紙を丸めて部屋着のポケットの奥に突っ込んだ。 「では余は追い出されるのかな?」国王は嘆息した。 「陛下、今日は日曜日です。ご署名を!……」  伯爵夫人が瑞々しい頬を差し出したので、国王は右と左に盛大に口づけした。それが終わると夫人は部屋を後にした。 「署名なぞ糞食らえだ。それに署名をもらいに来る奴らときたら! 大臣や書類入れや用紙など発明したのは何処のどいつだ?」  悪態を吐き終わった途端、伯爵夫人が出ていったのとは反対側の扉から大臣と書類入れが入って来た。  国王は最前よりもさらに大きな溜息をついた。 「ああ、そなたか、サルチーヌ。時間に正確だな!」  国王の口調からは、果たして褒めているのか貶しているのかを推しはかるのは難しかった。  サルチーヌ氏は書類入れを開き、中から文書を取り出そうとした。  その時、馬車の車輪が並木道の砂を鳴らすのが聞こえた。 「待ってくれ、サルチーヌ」  国王は窓に走り寄った。 「何だ? 伯爵夫人が出て行ったのか?」 「ご本人ですね」 「だが、ベアルン伯爵夫人を待っていたのでは?」 「待っていられず、迎えにおゆきになったのではないでしょうか」 「しかし今朝ここに来る予定なのだから……」 「陛下、恐らくいらっしゃることはないでしょう」 「ほう、何か知っているのか、サルチーヌ?」 「すべて知っているわけではありません。それでご満足していただけるでしょうか」 「何が起こったのだ? それを言い給え」 「老伯爵夫人にでしょうか?」 「そうだ」 「どんな時にも起こり得ること。障碍が立ちふさがったのです」 「そうは言ってもやって来るのだろう?」 「それが陛下、昨夜ならともかく今朝はどうでしょうか」 「伯爵夫人も気の毒に!」そうは言いながらも、目に喜びの光がきらめくのを防ぐことは出来なかった。 「ああ。四国同盟や家族協定など、認証式の問題に比べれば些細なことでした」 「気の毒に!」と繰り返して首を振った。「あれの望みは叶わぬのだな」 「遺憾ですが。陛下もさぞやご立腹でございましょう」 「あれにもわかっておるのだろう」 「伯爵夫人にはなお悪いことに、王太子妃殿下の到着前に認証式が行われなければ、二度と行われない可能性がございます」 「可能性どころか、サルチーヌ、そなたの言う通りだよ。嫁御は厳格で敬虔な淑女という噂だ。気の毒に!」 「認証式が行われぬのをデュ・バリー夫人がお嘆きになるのはもっともですが、陛下にとっては心配の種がなくなることにもなりましょう」 「そう思うか?」 「間違いありません。妬み屋、毒舌家、諷刺家、ごますり屋、お喋りどももそれほど現れぬでしょうし。デュ・バリー夫人が愛妾になられた場合、警察活動にはさらに十万フランかかります」 「そうだな! 気の毒に! それでもあれは認証式を望んでおる」 「陛下がお命じになれば、伯爵夫人の望みも叶いましょうに」 「どういうことだ、サルチーヌ? 正直に言って、こんなことに口を挟むことが出来るとでも? デュ・バリー夫人をそっとしておけという命令に署名出来るとでも? 伯爵夫人の気まぐれを満足させるためにクーデターでも起こせというのか?」 「とんでもありません! 私が言ったのはただ陛下の『気の毒に!』のようなものです」 「そうは言うものの、まだ希望がない訳でもない。いろいろな可能性を考えてみ給え。ベアルン夫人が意見を変えないとも限らぬ。王太子妃が遅れぬとも限らぬ。王太子妃がコンピエーニュに着くまでまだ四日ある。四日あれば、何か出来るだろう。ところで、今朝は仕事があったのではないかね?」 「そうでした! 署名を三つだけお願いします」  警視総監は書類入れから一つ目の文書を取り出した。 「待て! 封印状か?」 「はい、陛下」 「誰宛てだ?」 「ご覧になって下さい」 「ルソー氏宛てだ。このルソーとは何だ? 何をしたのだ?」 「何を? 『社会契約論』です」 「ああ! ジャン=ジャック宛てか? では投獄するつもりかね?」 「そんなことをすれば大騒ぎになります」 「いったいどうしたいというのだ?」 「いずれにせよ投獄するつもりはありません」 「それではこの文書は無意味ではないか?」 「保険でございます」 「何にしても、哲学者どもなど大嫌いだ!」 「それはもっともなことでございます」 「だが非難されはせぬか。第一、パリで暮らすことを許されたのではなかったか」 「許しはしましたが、人前に姿を見せないという条件付きです」 「で、姿を見せたと?」 「それしかしておりません」 「あのアルメニアの恰好で?」 「ああ、いいえ、あの服は脱がせました」 「言う通りにしたかね?」 「ええ、迫害だと喚いていましたが」 「では今はどんな恰好をしているのだ?」 「ごく普通の恰好でございます」 「ではさして大事ではあるまい」 「陛下、自由に出歩くのを禁じられた人間が、毎日何処に出かけるのかお分かりになりますか?」 「リュクサンブール元帥のところ、ダランベール氏のところ、デピネー夫人のところかね?」 「カフェ・ド・ラ・レジャンスです! むきになったように毎晩チェスを指して、負けてばかりいます。我々としても家に押し寄せた群衆を見張るために、毎晩一旅団の人員を割かざるを得ません」 「そうか、パリっ子は思ったより間抜けなのだな。好きなようにさせておけ、サルチーヌ。そうしている間は、あの者たちも貧困を叫んだりはせぬ」 「わかりました。ですがロンドンにいた時のような演説をしようとした日には……?」 「そうだな、公に罪を働いたのであれば、封印状の必要もあるまい」  国王はルソーの逮捕には直接関わりたくないのだ。それを悟った警視総監は、それ以上には強辯しようとしなかった。 「それでは陛下、別の哲学者の話がございます」 「まだあるのか?」国王はうんざりしていた。「もう哲学者とは縁を切ろうではないか?」 「何を仰いますか! 向こうの方で縁を切ってくれぬのではありませんか」 「それで話とは?」 「ヴォルテールのことです」 「ヴォルテールもフランスに戻ったのか?」 「そうではありません。或いはそうしてくれた方がありがたいのですが。そうすれば監視はしておけますから」 「何をしたのだ?」 「本人は何もしていません。やったのは支持者たちです。彼の像を建てるというのは見過ごせません」 「騎馬像を?」 「そうではありませんが、ヴォルテールが有名な侵略塔だということを申し上げているのです」  ルイ十五世は肩をすくめた。 「あれほどの侵略者《ポリオルケテス》は見たことがありません。あらゆるところに通じています。陛下の王国の第一人者たちも、まるで闇業者のように彼の本を流通させているくらいです。先日は八箱差し押さえました。いずれもショワズール殿宛てでした」 「それは面白い」 「陛下、君主にだけ許されていることが彼のために行われているのだということを、今一度お考え下さい。民衆たちは像を建てることを決めたのです」 「君主の像を建てるのを決めるのは民衆ではないよ、サルチーヌ。君主自身が決めるのだ。ところでその傑作の作者は誰だね?」 「彫刻家のピガールです。型を取るためにフェルネーまで出向いていました。そうしている間にも署名が殺到しております。既に六千エキュに達しましたが、いいですか、寄付出来るのは文学者だけなのです。みんなお布施を持って行くんです。あれはお参りですよ。ルソー氏も二ルイ納めました」 「ふむ! どうせよと言うのだ? 余は文学者ではない。無関係ではないか」 「こんな出過ぎた真似を中止させようと陛下に伺いに参ったのですが」 「慌てるな、サルチーヌ。銅像の代わりに黄金像が建つだけだ。放っておけ。いやはや、銅像はさぞかし実物以上に醜いのだろうな!」 「では事態をこのまま泳がせておくのがお望みですか?」 「話し合おうではないか、サルチーヌ。望んでいるのは言葉ではない。一切を止めさせたいのはもちろんだ。だがそなたの望みは何だ? 不可能なことではないか。神が海に『此を越ゆべからず』と命じたように、国王が哲学者の心に口を挟める時代などとっくに去った。叫んでも無駄だ、打っても届かぬ、我々が無力なことを見せるだけだ。見方を変えよう、サルチーヌ、見ぬふりをするのだ」  サルチーヌは溜息をついた。 「陛下、この者たちを罰さぬまでも、せめて銅像は壊しませんか。これはすぐにでも訴訟を起こすべき著作の一覧です。玉座を脅かすものもあれば、祭壇を襲うものも。これは謀叛であり、涜神でございます」  ルイ十五世は表を取り上げ、気乗りしない声で読み上げた。 「『神聖なる伝染 あるいは迷信の自然誌』、『自然の体系 あるいは物理的世界と精神的世界の法則』、『神と人間』、『イエス・キリストの奇跡に関する論文』、『聖地に向かう Perduicloso に対するラグーザのカプチン会修道士の助言』……」  国王は半ばまで読まずに紙を捨てた。いつもなら落ち着いている顔に、不思議な悲しみと落胆の色が浮かんでいた。  しばらくの間、まるで心神喪失状態で、夢見たようにぼうっとしていた。 「これは世間が立ち上がるだろうな」国王は呟いた。「別の方法がいくらでもある」  サルチーヌが国王を見た。この飲み込みの速さこそ、国王が大臣たちに求めているものだった。大臣が優秀なら、国王は考えたり動いたりしなくてもよい。 「平穏ですか?」今度はサルチーヌが口を開いた。「陛下は平穏をお望みなのですね?」  国王は大きくうなずいた。 「ああ、そうだ! ほかに何がある。哲学者、百科全書派、魔術師、光明会徒、詩人、経済学者、三文文士、何処からともなく湧き出して、うごめき、書き記し、鳴き喚き、人を腐し、何かを企み、説教をし、叫んでいる奴らだぞ。奴らのために戴冠したり、像を造ったり、神殿を建てたりする者たちも、余のことはそっとしておいてくれる」  サルチーヌは立ち上がり、一礼すると、口の中で呟きながら退出した。 「この国の貨幣に『|主よ王を守り給へ《ドミネ・サルヴム・ファク・レゲム》と書かれてあって何よりだ」  一人残された国王は、ペンを取り王太子宛てに書いた。 『王太子妃の到着を急がせろと言っていたな。そなたを喜ばせてやろう。  ノワヨンで車を停めるなと命令を出しておいた。だから火曜の朝にはコンピエーニュに着くだろう。  余もちょうど十時に、つまり王太子妃の十五分前には行くつもりだ』 「これで認証式のくだらぬごたごたも片がつく。ヴォルテールやルソー、過去や未来の哲学者たちよりしんどかったわい。こうなれば後は気の毒な伯爵夫人と王太子夫妻の問題だ。その通り。悲しみ、憎しみ、復讐なぞ、一つ丈夫な若者の心臓にでも押しつけてしまおう。若者は苦悩を覚えるもの。そうやって大きくなるのだ」  こうして難題を退けたことに満足し、パリ中の話題となっている認証式を進めようと止めようと咎められる者など誰もいないことを確信すると、国王は馬車に乗り込み、廷臣が待っているマルリーに向かった。 第三十五章 代母と代子  気の毒な伯爵夫人……国王が使った呼び名を我々も使うことにしよう。目下のところその通りであるからだ。その気の毒な伯爵夫人は、不安に駆られてパリへの道を急いでいた。  ジャンの手紙の第二段落を読んで自分のことのように怯えていたションは、苦痛や不安を見せぬようリュシエンヌの私室に籠り、大通りでジルベールを拾おうなんて思いついたことを悔やんでいた。  セーヌからロケットまでパリを囲んでいる、川まで達する下水道の上を飛ばし、ダンタン橋に着くと、四輪馬車が待っていた。  馬車の中ではジャン子爵と代理人が熱心に話し込んでいたようだ。  ジャンは伯爵夫人に気づくや、代理人を残して地面に飛び降り、馬車を急停止させようと御者に合図を送った。 「急げ。おれの馬車に乗るんだ。サン=ジェルマン=デ=プレまで行くんだ」 「ベアルン夫人にかつがれたって訳?」デュ・バリー夫人が馬車を乗り換えている間に、予めジャンから合図されていた代理人も同じようにした。 「多分ね。多分そうだ。仇に恩。いや、恩を仇で返された」 「何が起こったの?」 「簡単なことさ。おれはパリに残ってた。疑り深いんでね。そしたら案の定だ。夜九時になって『時の声』亭の周りを歩きまわっていたが、人通りもなく訪問客もない。何事もなく、順調だった。だから戻って眠ってもよさそうだと判断して、眠ったんだ。 「今朝、夜が明けて目が覚めてから、パトリスを起こして路標のところで見張りに就かせた。 「九時だ、いいか、予定より一時間早く、馬車で夫人を訪問した。パトリスに聞くと、怪しいものは見なかったと言う。それで安心して階段を上った。 「玄関で女中がおれを止めて、伯爵夫人は今日は外にお出でになれません、一週間かかるでしょうと抜かしやがった。 「不慮の事態は覚悟していたが、こんなのは予想しちゃいなかった。 「『外に出られないだと? 何があった?』 「『お具合が良くないのでございます』 「『具合が悪い? 馬鹿な! 昨日はいたって元気だったぞ』 「『ええ、それが奥さまはいつもチョコレートをお作りになるのですが、今朝は火に掛けていたところ、足にこぼしてしまいまして、火傷を負ってしまったんでございます。悲鳴を聞いて慌てて駆けつけましたところ、奥さまは気も失わんばかりでございまして、私がベッドにお連れいたしました。今はお寝みになっているはずです』 「おれはそのレースのように青ざめて、声をあげたよ。 「『嘘だ!』 「『嘘ではありません、デュ・バリー様』梁も突き刺すような刺々しい声だった。『嘘ではございませんよ。もう痛いやら苦しいやら』 「声のした方に飛び出して無理に扉を押し開けると、そこには老婦人が実際に寝込んでいた。 「『ああ、伯爵夫人……!』 「それだけしか言えなかった。はらわたが煮えくりかえっていたから、喜んであの婆を絞め殺せたね。 「『これなんです』床に置いてある糞忌々しい湯沸かしを指して、『何もかもこのポットのせいなんでございますよ』 「おれはそのポットに飛びかかった。 「これでもうチョコレートは作れまい。それは確かだ。 「『運がないったらありませんよ!』哀れっぽい声を出しやがる。『これで妹さんをお引き立てするのはダロワーニ夫人になるんでしょうね。諦めてますよ! 占星術師たちの言うように、これも運命なんですから!』」 「ああ、ジャン! がっかりさせないで」デュ・バリー夫人が声をあげた。 「おれはがっかりなんてしないぜ。お前が会いに行ってくれ。そのために呼んだんだからな」 「どういうこと?」 「おいおい! お前になら、おれに出来ないことも出来るだろう。女なんだから、目の前で服を脱いでもらえばいい。化けの皮が剥がれたら、息子はこれからずっと田舎貴族のままだと言ってやれ。サリュース家の金にも一スーだって手はつけられないってな。おれはオレステスみたいに怒り狂った。それ以上の迫真の演技でカミラのように呪ってくれ」 「冗談でしょう!」 「好きでやってるわけじゃない」 「で、何処にいるの、我らが巫女は?」 「わかってるだろう。『時の声』亭だ。サン=ジェルマン=デ=プレの大きな黒い家で、鉄の看板に大きな雄鶏が描かれている。鉄が軋むと、鶏が鳴く」 「ひどいことになりそう」 「おれもそう思う。だが危険を冒す必要があるとも思う。おれもついて行こうか?」 「気をつけて頂戴。全部ぶち壊さないでね」 「代理人も同じことを言ってたよ、ここで相談していたんだが。ちなみに、家の中で人を殴れば罰金と牢獄行き。外で殴れば……」 「お咎めなし。ようくご存じでしょ」  ジャンが口を歪めた。 「ふん! 払いが遅れるほど利子が貯まるってもんだ。今度あの男を見つけた日には……」 「今はあの女の話よ、ジャン」 「もう話すことはない。出かけてくれ!」  ジャンは道を空け、馬車を通した。 「何処で待機してるの?」 「その旅籠で。イスパニア産のワインでも飲んで、助けが要りそうになったら駆けつける」 「馬車を出して!」伯爵夫人が叫んだ。 「サン=ジェルマン=デ=プレの『時の声』亭までだ」子爵が続けた。  馬車は勢いよくシャン=ゼリゼーに躍り込んだ。  十五分後、修道院教会《アバシャル》通りとマルシェ=サント=マルグリットの近くで馬車は止まった。  その場所でデュ・バリー夫人は馬車から降りた。何せ相手は狡猾な老婦人、どうせ見張っているのに違いなく、馬車の音で気づかれたくはない。カーテンの陰にでも身を翻し、デュ・バリー夫人の訪れるのを見て悠々と逃げ出してしまうかもしれない。  そこで伯爵夫人は従僕を連れて二人だけで修道院教会通りまで走った。建物が三軒しかなく、目指す旅籠は真ん中にあった。  大きく開いた門から、入るというより躍り込んだ。  誰にも見られなかった。だが木で出来た階段の手前で女将と出くわした。 「ベアルン夫人は?」 「ベアルン夫人は具合が悪いんで、お会いになれませんよ」 「ええ、そのことで、お加減を伺いに参りましたの」  そう言って鳥のように軽やかに、あっという間に階段の上までたどり着いた。 「奥さま、奥さま、誰かが押しかけて来ました!」女将が声をあげた。 「どなたです?」部屋の奥から老婦人がたずねた。 「あたくしよ」伯爵夫人がこの場にぴったりの表情を浮かべて戸口に現れた。即ち、礼儀正しく微笑み、いたわしそうに眉を寄せていたのである。 「伯爵夫人でしたか!」老婦人は真っ青になって震え出した。 「ええ、そうよ。さっき耳にして、お見舞いを申し上げに参りました。事故のことを聞かせて下さらない?」 「ですけどこんな汚いところに腰を下ろしていただく訳にも参りませんからねえ」 「トゥレーヌにお城を持っているような方を旅籠に泊めたことはお詫びいたします」  そう言って伯爵夫人は腰を下ろした。すぐには帰らないことはベアルン夫人にもわかった。 「かなりお悪そうですね?」デュ・バリー夫人がたずねた。 「そりゃもう」 「右足ですの? まあ! でもどうして足を火傷なんかなさったんですか?」 「簡単なことですよ。取っ手を持つ手を滑らせてしまいまして、ちょっと熱湯をこぼして足にかけてしまったんでございます」 「ひどい話ね!」  老婦人は溜息をついた。 「ええ、ひどい話です。でもどうしようもないじゃございませんか! 災難はまとめてやって来るものなんですよ」 「今朝は国王陛下がお待ち下さってるのよ?」 「ますます口惜しくて仕方ありませんよ」 「あなたに会い損ねたら陛下もいいお顔をなさらないわ」 「何分にも火傷がひどうございますから、ただただお詫び申し上げるだけでございます」 「ご迷惑をかけに来たんじゃないの」デュ・バリー夫人は老婦人がどれだけ取り澄ましていられるか見つめていた。「ただ、この件に陛下がどれだけこだわっていてどれだけ感謝していたかをわかっていただきたくて」 「この状態をご理解下さらないと」 「そうね。でも一つ言いたいことがあるの」 「仰って下さいまし。聞かせていただきます」 「つまりね、いろいろと考え合わせると、この事故の原因はあなたの気持にあるんじゃないかしら」 「ああ、それもありましょうねえ」老婦人が腰を深く折った。「あんなにご丁寧に歓迎して下さったんですもの、もう胸が一杯になってしまって」 「もう一つあるんじゃないかしら」 「もう一つ? さあ、わかりませんよ」 「まさか! 誰かに会ったでしょう……?」 「そんなことありましたでしょうか!」 「ええ、うちを出る時」 「誰にも会いませんでしたよ。お兄さまの馬車に乗っていましたしねえ」 「馬車に乗る前よ」  老婦人は記憶を探っているようなそぶりを見せた。 「玄関の階段を降りている時」  老婦人はさらに頭を捻っているようなふりをした。 「そうよ」デュ・バリー夫人が苛立ち混じりの微笑みを浮かべた。「うちを出る時に中庭で会った人」 「申し訳ありませんけれども、思い出せませんよ」 「若い女よ……もうわかったでしょう」 「目が悪いものですから、目の前にいるあなたのこともよく見えないんでございますよ。そうなんでございます」  ――さあこの人は手強いわ。伯爵夫人は独り言ちた。――下手な小細工はやめましょう。真っ向勝負よ。 「そうでしたの! ご覧にならなかったというのであれば」と声に出して続けた。「あれが誰だかお教えしますわ」 「帰る間際にやって来た方のことですか?」 「そうよ。あれはあたくしの妹、マドモワゼル・デュ・バリーです」 「まあ、そうでしたか! 何分にも一度もお目にかかったことがないものでございますから……」 「そんなことはないわ」 「お目にかかったことが?」 「ええ、それどころか話し合ったことも」 「マドモワゼル・デュ・バリーと?」 「ええ、そうよ。ただしあの日はマドモワゼル・フラジョと名乗っていたけれど」 「ああ!」声には隠しようもないほどの辛辣さがこもっていた。「ああ、あの偽フラジョさんでしたか。私に会いに来て、連れ出した、あの方がお妹さんですか?」 「間違いないわ」 「あなたの差し金でございますか?」 「あたくしが頼んだの」 「私を騙すために?」 「まさか。あなたの役に立ちたいのと、あたくしの役に立ってもらうためよ」  老婦人は白髪混じりの太い眉を寄せた。 「来てもらっても私にはたいした得にもなりそうに思えませんけど」 「モープーさんに歓迎されることはなかったんじゃないかしら?」 「口先だけですよ」 「ただの口先よりは実のあるものを差し上げたつもりでしたのに」 「すべては天の思し召しと申しますよ」 「ねえベアルン夫人、真剣なお話なんです」 「お聞きいたしますとも」 「足を火傷なさいましたのね?」 「ご覧の通りでございます」 「火傷はひどいの?」 「重傷ですよ」 「おつらいのはわかりますし、ひどい怪我ですけど、命に別状はないでしょう? 頑張れば馬車でリュシエンヌに行くのにも耐えられますし、あたくしの部屋で陛下にお目にかかるほんのちょっとの間だけでも立っていられません?」 「無理ですよ。立ち上がることを考えただけでも気を失ってしまいそうです」 「じゃあ火傷はそんなにひどいの?」 「そうですよ、ひどい火傷です」 「処置や診断や手当はどなたから?」 「家を切り盛りしている女でしたら、火傷に効く薬くらい持ってますからね。自分で作った痛み止めを塗ったんですよ」 「お嫌でなければ、その特効薬を見せて下さらない?」 「卓子の上のその壜ですとも」  ――偽善者もいいところね! そこまでするなんて。やっぱり手強いわ。だけど最後までやり終えなくっちゃ。 「実はあたくしも怪我によく効くオイルを持ってますの。でも特定の火傷にしか効かないものですから」 「どんな火傷でしょう?」 「腫れ、水ぶくれ、赤剥け。あたくしは医者じゃないけど、誰だって一度や二度は火傷くらいしますものね」 「赤剥けでございますよ」 「それは痛そうね! オイルを塗って差し上げてもいいかしら?」 「お願いいたします。今お持ちですか?」 「今はないの。でも誰かを遣って……」 「本当にありがとうございます」 「火傷の具合をあたくしも確かめてみた方がいいと思うの」  老婦人が抗議した。 「とんでもありません! こんな状態お見せ出来ませんよ」  ――お生憎さま。逃げられないわよ。 「そんなの気にしないで。怪我を見るのは慣れてるから」 「ですがあんまり不作法ですし……」 「助け合う時くらい、作法なんて忘れましょう」  と言っておもむろに、椅子に寝かせていた足に手を伸ばした。  デュ・バリー夫人が軽く触れただけで、老婦人は恐ろしい悲鳴をあげた。  ――ふうん、お上手ね! 顔を歪めたベアルン夫人の苛立ちを目にし、伯爵夫人は呟いた。 「殺す気でございますか。何て恐ろしいことをなさるんです!」  老婦人の頬は青ざめ、目は虚ろで、倒れて気絶してしまいそうだった。 「構いませんよね?」 「なさって下さい」老婦人は消え入りそうな声で答えた。  デュ・バリー夫人は時間を無駄にはしなかった。足に巻かれた包帯のピンを外すと、大急ぎでほどき始めた。  意外なことに、老婦人は抵抗しなかった。  ――湿布まで来たら騒ぎ出すつもりね。黙らせなきゃならないけど、でも足を見ることは出来る。  デュ・バリー夫人はそう呟いて、作業を続けた。  ベアルン夫人は呻きこそあげたものの、後はおとなしくしていた。  包帯をほどき終えると、デュ・バリー夫人の目に本物の火傷が飛び込んで来た。偽りではなかった。そこがベアルン夫人の外交術の終着点だった。鉛色をして血の滲んだ火傷が、雄辯に物語っていた。ベアルン夫人はションに気づいていたかもしれない。だがその時に、ポルキアやムキウス・スカエウォラのような崇高な道を選んだのだ。  デュ・バリー夫人は無言のまま敬服した。  顔を向けた老婦人は存分に勝利を味わっていた。野獣のような眼差しで足許にひざまずいている伯爵夫人を包み込んでいた。  デュ・バリー夫人は女らしい細やかな様子で湿布を元通りにし、怪我を傷めぬように優しく足をクッションに戻し、老婦人のそばに腰を下ろした。 「思った以上に手強い方ね。初めからあなたのような方に相応しい質問をしなかったことをお詫びいたしますわ。そちらの条件を仰って」  老婦人の目がきらめいたが、それも一瞬のことだった。 「あなたのご希望を明言して下さいまし。お役に立てるかどうかはそれから判断いたします」 「ヴェルサイユの認証式にあなたに出てもらいたいの。今朝はひどい苦しみを味わわせてしまったけれど」  ベアルン夫人は眉一つ動かさなかった。 「それで?」 「それだけ。次はあなたの番よ」  ベアルン夫人は断固とした態度を見せ、対等に渡り合っていることをはっきりと示した。「私の望みは、訴訟中の二十万リーヴルが保証されることですよ」 「待って。訴訟に勝てば四十万リーヴルになるんじゃありませんの」 「違いますとも。サリュース家と係争中の二十万リーヴルは私のものだと思っておりますからね。あと半分の二十万リーヴルが、あなたとお知り合いになれたご利益ですよ」 「二十万リーヴル手に入れたとして、その後は?」 「可愛がっている息子が一人おります。我が家は代々剣で身を立てて参りました。ところが将校の才能を持って生まれながら、一兵卒にしかなれないとお考え下さいまし。来年には大佐の肩書きをもらって、すぐにでも中隊を指揮させなくちゃなりません」 「聯隊のお金は誰に出していただくの?」 「国王陛下ですよ。二十万リーヴルを聯隊に当ててしまえば、明日になったら今と同じく貧乏に逆戻りですからね」 「最低でも六十万リーヴルはかかるわよ」 「二十万分の聯隊だと考えれば、四十万は余計でございましょう」 「まあいいわ。それで構わないなら」 「それから、トゥレーヌの葡萄畑を返していただけるようお願いするつもりです。十一年前、運河にするとか言って技師たちに奪われた四アルパン分でございます」 「お金は払ってもらえたんでしょう」 「ええ、でも専門家の言い値でした。その二倍の価値はあると踏んでおりましたのに」 「わかったわ。もう一度払ってもらえるわよ。これでお終い?」 「もう一つ。ご推察の通り私にはお金がありません。フラジョ先生に九千リーヴルばかし借りがあるんでございます」 「九千リーヴル」 「どうしても必要だったんです。フラジョ先生は素晴らしい助言をして下さいますし」 「ええ、そうね。九千リーヴルはあたしが払っておくわ。こちらからかなり歩み寄ったと思ってくれてたらいいのだけれど」 「もちろんですよ! ですが私の方だって最善を尽くしたつもりですよ」 「火傷なさったことをどれほど残念に思っているか、わかっていただけたらね」デュ・バリー夫人が笑みを浮かべた。 「残念なものですか。災難でしたけど、あなたのためを思えば前と変わらずお役に立てるよう力が湧いて来ますとも」 「じゃあ話をまとめましょうか」 「お待ち下さい」 「忘れていたことでも?」 「たいしたことじゃありませんが」 「聞かせて頂戴」 「国王陛下の御前に伺うとは思ってもいなかったものですから。ヴェルサイユや栄華なんてものからは随分と長いこと離れていたので、ドレスがないんでございますよ」 「用意はしておいたわ。昨日、あなたが帰った後で、認証式用の服を作らせたの。立て込んだりしないように、あたくしのとは違う仕立屋に頼んでおいたから。明日の昼には出来るはずよ」 「ダイヤモンドもございませんし」 「あたくしが言っておいたから、ベーメルとバサンジュが明日届けてくれるわ。二十一万リーヴルの装身具。明後日には二十万リーヴルで買い戻してくれる手筈になっているの。保証金はあなたのものよ」 「ありがとうございます。もう何も言うことはございません」 「喜んでもらえたみたい」 「そうでした、息子の肩書きは?」 「陛下ご自身で下さるわ」 「聯隊の召集資金も保証して下さるのでしょうか?」 「それも込みよ」 「わかりました。後は葡萄畑の問題だけですよ」 「四アルパンでおいくらだったと……?」 「アルパン当たり六千リーヴルです。それは素晴らしい土地だったんですよ」 「支払われている一万二千リーヴルと併せて、きっかり二万四千リーヴルになるよう、一万二千リーヴルの債務を返済するようお約束するわ」 「文箱はこちらですよ」と指さした。 「あなたが取っていただけないかしら」 「私が?」 「ええ」 「でもどうして?」 「これから口述する手紙を陛下に書いていただきたいの。持ちつ持たれつよ」 「そういうことですか」 「じゃあ書いて下さるわね」  老婦人は机を引き寄せ、紙とペンを取った。  デュ・バリー夫人が口述を始めた。  『前略、親しい友人であるデュ・バリー伯爵夫人の代母に立候補したという申し出を陛下にお許しいただけたことを知った幸運によりまして……』  老婦人が口を開いてペンを舐めた。 「ペンがよくないのよ。変えた方がいいわ」 「構いませんよ、慣れてますから」 「そう?」 「ええ」  デュ・バリー夫人は続けた。  『明日ヴェルサイユで紹介いただく際、もしお許し下さいますなら、お目をかけて下さいました陛下にぶしつけながらお願いがございます。私といたしましては或いは陛下に喜んでいただけるのではないかと考えております。と申しますのも、高貴なるお血筋でいらっしゃる王孫殿下たちの軍隊のために血を流した将校たちの一族に嫁いだ者でございます』 「署名をお願い」  老婦人は署名した。  『アナスタシー=ユーフェミー=ロドルフ、ベアルン伯爵夫人』  老婦人の筆跡は力強かった。半プス大の文字が紙の上に横たわっており、綴りの間違いは貴族として恥ずかしからぬ程度に散見されるだけだった。  老婦人は署名を記すと、書き終えたたばかりの手紙を手で押さえたまま、デュ・バリー夫人にインクと紙とペンを手渡した。デュ・バリー夫人はまっすぐ尖った小さな字で、二万一千リーヴル、葡萄畑の補償金として一万二千リーヴル、フラジョ弁護士の報酬として支払う九千リーヴルの債務返済を確約した。  それから宝石職人べーメルとバサンジュに言伝を書き、ルイーズと呼ばれているダイヤモンドとエメラルドの装身具を配達人に渡して欲しいと伝えた。ルイーズと呼ばれているのは、王太子の叔母である王女のものだったからであり、王女はそれを慈善のために売ったのだった。  これが終わると、代母と代子は手紙を交換した。 「これで友情の証を見せて下さるわね」 「精一杯いたしますよ」 「あたくしのところにいらしてくれたら、トロンシャンに三日で治してもらえるわ。いらっしゃいな。それにあのオイルがどれだけ素晴らしいか試していただけるもの」 「馬車にお乗り下さいまし。ご一緒する前にやらなくてはいけないことが二、三ございますので」 「断られたってこと?」 「とんでもありません。承諾いたしましたよ。ただ、今はちょっと。修道院で一時の鐘が鳴りました。三時まで待っていただけますか。きっかり五時にはリュシエンヌに伺います」 「三時に兄を迎えに寄こしても構わない?」 「もちろんでございます」 「じゃあ、それまでお大事に」 「心配ございません。仰ったように私は貴族ですから、死ぬようなことがあっても、明日のヴェルサイユには伺いますよ」 「じゃあ後で、代母さん!」 「では後ほど、代子さま!」  こうして二人は別れ、老婦人は足をクッションに置き、書類を手にして、そのまま横になっていた。デュ・バリー夫人の気持は来た時よりも弾んではいたが、老婦人に対してもっと強気に攻められなかったことに幾分か心を痛めていた。ベアルン夫人は、フランス王と渡り合うのを楽しんでいたではないか。  広間の前を通りかかると、ジャンが見えた。長々と居座っているのを怪しまれないためだろう、二本目の壜を空けていたところだった。  妹に気づくと椅子から飛び上がって駆け寄った。 「どうだった?」 「サクス元帥がフォントノワの戦場に現れた陛下にこう言ったでしょう。『陛下、勝利がどれだけ高くつき、痛ましいものか、この光景からお学び下さい』」 「つまり勝ったということか?」 「こういう言葉もあるわ。今度は古代の言葉。『もう一度勝ったなら、我々は滅びてしまうだろう』」 「代母は確保したんだな?」 「ええ。百万近くかかったけれど!」 「何だと!」ジャン子爵の顔が恐ろしく歪んだ。 「仕方ないでしょう! 取るか失うかだったんだから」 「それにしたってふざけてる!」 「それはそうだけど。そんなに怒るものでもないわ。あたしが上手くやらなかったら、何も手に入らなかったかもしれないし、お金が二倍かかったかもしれないんだから」 「畜生、何てアマだ!」 「ローマ人ね」 「ギリシア人だろう」 「どっちでもいいわよ! そのギリシア人だかローマ人だかを三時間後に迎えに行って、リュシエンヌまで連れて来る準備をして頂戴。手元に閉じ込めておかないと安心出来そうもないわ」 「おれはここにいよう」 「あたしの方は準備に大わらわね」  伯爵夫人は馬車に駆け込んだ。 「リュシエンヌに! 明後日には、マルリーに!って言ってるはずよ」 「いずれにせよ――」ジャンは馬車を目で追っていた。「おれたちはフランスに随分と金をかけたもんだな!……デュ・バリー家にとっちゃいいごますりだ」 第三十六章 リシュリュー元帥の第五の陰謀  国王はいつものようにマルリーに戻って務めを果たしていた。  ルイ十四世は取り巻きに囲まれていても力を誇示する機会を求めていたが、十四世ほど作法には縛られないルイ十五世は、その輪の中で新しいものを貪欲に求めていた。なかんずく様々な顔を見ることに、それも笑っている顔を見ることに、このうえない気晴らしを見出していた。  先ほどお話しした会見と同じ晩、ベアルン夫人が今回は約束を守りデュ・バリー夫人の部屋に腰を下ろしていた二時間後、国王は青の間でカードをしていた。  左にはデヤン公爵夫人、右にはゲメネー公妃がいる。  国王は見るからに落ち着かなかった。そのせいで八百ルイ負け、負けたおかげで身を入れ出した。ルイ十五世はアンリ四世の後裔に相応しく、勝利をこよなく愛していた。九時になると席を立って前大法官の息子マルゼルブと窓辺で話しに行くのを、モープーが反対側の窓辺でショワズールと話しながら不安そうに目で追っていた。  国王が席を立ってからは、暖炉の近くに人だかりが作られていた。庭の散歩から戻って来た〈マダム〉たちアデライード、ソフィー、ヴィクトワールが、侍女と侍従を付き従えてそこに腰を下ろした。  国王の周りには――マルゼルブが謹厳なことは知られていたから大事な話の最中なのだろうと見え――国王の周りには陸海軍の長、大貴族、領主、判事たちが集まっていたが、礼儀をわきまえ遠巻きに待機している。暖炉前で独り立ちしていた小宮廷では、前哨戦とも言うべき小競り合いを端緒にして、大層かまびすしいおしゃべりが始まっていた。  主立った顔ぶれは、三王女のほかに、グラモン夫人、ゲネメー夫人、ショワズール夫人、ミルポワ夫人、ポラストロン夫人。  折りしも司教が教区の贖罪師をやめさせたという話を、マダム・アデライードがしていたところだった。話の内容をここでは繰り返さない。あまりに、それも王女の話として下品に過ぎる。だがこうして書き綴ろうとしている時代には、まだ家庭の女神ウェスタの恩恵に与っていなかったのは、周知の通りである。 「まあ!」マダム・ヴィクトワールが口を開いた。「でもその司教って、ほんの一月前にここに坐ってた方じゃありませんか」 「陛下のところで会っていたなら、さらにひどいことになっていましたでしょう」グラモン夫人が言った。「そんな人たちが陛下に謁見していたら、これまで会ったこともないくせに、それからも会いたがっていたんじゃないかしら」  公爵夫人の最初の一言から、とりわけその口調から、夫人が話をしたがっていること、どんな話題であれ会話の主導権を得ようとしていることをその場の誰もが感じ取った。 「ありがたいことに、言うは易し行うは難しではありませんかな、公爵夫人?」会話に加わったのは、小柄な老人だった。七十四歳だったがまだ五十にしか見えず、身体つきは颯爽として声も若々しく、足も目もしっかりとして、肌は白く手は小ぎれいだった。 「あら、リシュリュー公爵さま。マオンの戦場のように梯子を使って、会話に乗り込んでらっしゃるおつもり? どうせ私たちはたかが擲弾兵というわけね」グラモン公夫人が言った。 「たかが? ああ、それは言い過ぎだ、わしを困らせんでくれ」 「それで、私が言ったのは嘘だと仰いますか?」 「いつの話かね?」 「さっきの話です」 「して、何と仰っただろうか?」 「国王の扉を力ずくで開こうとしてはなりません……」 「寝室の緞帳を力ずくで開こうとしてはならないように。そのご意見にはいつでも賛成いたしますぞ」  この言葉を聞いて何人かのご婦人が扇で口元を隠した。過去には公爵の機智も衰えたりと陰口を叩く者たちもいたが、これはいい出来だった。  グラモン公爵夫人は真っ赤になった。その皮肉は特に夫人に向けられたものだったのだ。 「皆さん、公爵にこんなことを仰られては、お話を続けることも出来ません。もう続きは聞けないのですから、せめて別のお話をしてくれるよう元帥にせがんで下さいな」 「確か、わしの友人の悪口を邪魔してしまったんでしたな? ではじっくり拝聴するとしましょう」  公爵夫人を中心にした人垣がぎゅっと小さくなった。  グラモン夫人は窓の方に目を遣り、王がまだそこにいるか確かめようとした。国王はまだそこにいた。だがマルゼルブと話しながらも、国王はこちらを見ていた。国王の目とグラモン夫人の目がぶつかった。  国王の目に浮かんだように見えた表情に怯んだものの、公爵夫人はもう歩き出しており、途中で止まるつもりはなかった。  グラモン夫人は、主に三王女に向かって話し始めた。「この間あるご婦人が――名前はどうでもいいですけど――私たちに面会を求めて来たことがありましたでしょう? 羨む気持すら失うような栄光に彩られている、主に選ばれし私たちに」 「面会を求めるとは、何処に?」 「もちろんヴェルサイユ、マルリー、フォンテーヌブローです」 「わかった、わかった、わかった」 「その女は晩餐でしか私たちを見たことがありませんでした。それも柵の後ろで陛下と来賓の食事を見物する人たちに混じってです。もちろん、守衛の杖に追われながら」  リシュリューが突然セーヴル製の箱から煙草を取り出した。 「無論、ヴェルサイユ、マルリー、フォンテーヌブローに面会に来るためには、誰かの紹介が必要だ」 「そうなんです。そのご婦人はそれを頼みに来たんです」 「お許しは出たのだろうね、国王は優しい方だ」 「生憎、国王のお許しだけではなく、人に紹介してくれる人間が必要ですから」 「ええ、そう」ゲメネー夫人も続けた。「例えば代母のような人が」 「でも誰も代母にはなりません」ミルポワ夫人も続いた。「ベル・ブルボネーズがいい証拠。探したって見つかりません」  そう言って口ずさみ始めた。  ラ・ベル・ブルボネーズは  気分があまりすぐれません。 「ああ、元帥夫人、どうか公爵夫人に話の続きをさせて下さい」リシュリュー公が言った。 「そうよ、そうよ」マダム・ヴィクトワール。「気を引いておいて、ほったらかしなんて」 「とんでもない。最後までお話しさせていただくわ。代母がいないので探したそうです。福音書にも『求めよ、さらば与えられん』とありますし。探したら見つかったんです。どんな代母のことやら! 無邪気な田舎のお人好しを鳩小屋から引っぱり出して、仕込んで、なだめすかして、着飾らせたってお話です」 「ぞっとするお話じゃございません?」とゲメネー夫人が言った。 「でも仕込まれた途端に、きっと階段から真っ逆さま」 「というと……?」リシュリューがたずねた。  足がぽっきり。  ああ!ああ!ああ!  公爵夫人はミルポワ元帥夫人の歌に合わせて口ずさんだ。 「では代母の件は……?」とゲメネー夫人がたずねた。 「影もなし」 「そんなことが!」リシュリュー元帥が両手を掲げて天を仰いだ。 「失礼ですけど」マダム・ヴィクトワールが口を挟んだ。「わたくしはその田舎っぺに同情いたしますわ」 「むしろ祝福して差し上げるべきですよ。二つの不幸のうち、被害の少ない方を選んだんですから」  公爵夫人は不意に黙り込んだ。またも国王と目が合ったのだ。 「ところで、誰の話だったのかな、公爵夫人?」リシュリュー元帥は、どうやら問題の人物が誰なのか探ろうとしているようだ。 「名前は聞いてませんわ」 「それは残念だ」 「でも見当はついてます。閣下もお考え遊ばせ」 「代母を頼まれたご婦人連が、そのかみのフランス貴族のように勇敢で道義に厚い方々でしたなら、足を折るという気高い発想を思いついたその田舎婦人のところに駆けつけているところですのに」ゲメネー夫人が苦い顔をした。 「なるほど、その通りですな。しかしそのご婦人は我々を危険から救ってくれたのだ、是非とも名前を突き止めなくては。何しろ、もはや恐れるものなどないのだから。違いますか、公爵夫人?」 「ええ、何一つ。その代母候補も足に包帯を巻かれて、一歩も動けずベッドで休んでいますから」 「でもね、ほかの代母を見つけようとしたら?……諦めるような人じゃないでしょう」ゲメネー夫人がたずねた。 「大丈夫。見つかりっこありませんから、代母なんて」 「したり! まあそうでしょうな」リシュリュー元帥はちびちびと飴をかじっていた。人が言うには、この飴こそが若さの秘密であるらしい。  この時、国王が近づいて来たため、皆が口を閉じた。  やがてよく知られた国王の声が、はっきりと部屋に響き渡った。 「では失礼、メダム。ご機嫌よう、メッシュー」  一同はすぐに立ち上がり、それが大きな波となった。  王は戸口に向かったが、扉から出しなに振り返った。 「ところで、明日はヴェルサイユで認証式がある」  この言葉に、誰もが雷に打たれたようだった。  国王が目を遣ると、貴婦人方は青ざめた顔を見合わせていた。  やがて国王はそれ以上は何も言わずに立ち去った。  国王がお供の侍従を引き連れて敷居を跨ぐや、後に残った王女たちは大騒ぎになった。 「認証式ですって!」グラモン公妃が土気色になって口ごもった。「陛下は何を仰りたかったんでしょう?」  リシュリュー元帥が、親しい仲でも許されないような笑いを浮かべた。「認証式というと、もしやあなたの認証式では?」 「そんな! あり得ません!」グラモン夫人は気が抜けたように答えた。 「するとどうやら今日は足が治ったようだ」  ショワズールが妹に近づき、腕を小突いて注意を引こうとしたが、あまりに大きな打撃を受けた公妃には何も聞こえてはいなかった。 「ああ憎たらしい!」 「ええ、憎たらしい人ね!」ゲメネー夫人も同意した。  すべきことは何もないと見て、ショワズールは立ち去った。 「ああマダム!」グラモン公妃が三王女に泣きついた。「もうほかに頼れる人はいません。マダムのように高貴な方々が、禁中奥深くにいながら、小間使いにも関わらせたくない身分の人間と交わるのを余儀なくされることに耐えられますか?」  だが王女たちは答える代わりに顔を伏せた。 「どうかお願いいたします!」 「決めるのは王様ですから」とマダム・アデライードが溜息をついた。 「その通り」リシュリュー公爵も言った。 「でもそれではフランス宮廷中が不面目に晒されることになります! ご家族の名誉が心配ではないのでしょうか!」 「皆さん」ショワズールが口を挟んだ。「話が陰謀めいて来たので、サルチーヌ氏と共にここらで失礼させていただきます。あなたはどうなさいます、公爵?」とリシュリュー元帥に話しかけた。 「いや、結構! 陰謀には目がないのでな、ここに残るとしよう」  ショワズールはサルチーヌを従えて席を外した。  三王女の許には、グラモン夫人、ゲメネー夫人、デヤン夫人、ミルポワ夫人、ポラストロン夫人、ほか十人ほどの婦人だけが残り、認証式についてかまびすしい議論を始めた。  残された男はリシュリューのみ。  婦人たちはギリシア軍の中にトロヤ人を見つけたような不安そうな目つきでリシュリューを見つめていた。 「わしのことは娘のデグモン夫人の代わりだと思っていただこう。さあ続けて」 「皆さん」とグラモン夫人が始めた。「こうした恥ずべき行いを防ぐ手だてが一つあるので、それを実行しようと考えております」 「どんな手だてです?」婦人たちが一斉にたずねた。 「先ほど『決めるのは王様です』と仰いましたね」 「そしてわしは『その通り』と答えた」 「確かに、ここで何かを決めるのは王様です。でも私たちの家でなら、決めるのは私たちです。今晩御者に『ヴェルサイユに』と言わずに『シャントルーに』と告げるのを、誰にも邪魔は出来ないでしょう?」 「それは確かだが、そんな抵抗してどうなると?」リシュリューがたずねた。 「皆さんよく考えたうえで、あなたに倣おうとなさるでしょうね、公爵夫人」とゲメネー夫人。 「公爵夫人を倣わない理由などありませんし」ミルポワ元帥夫人。 「ああ、どうか!」公爵夫人が再び王女たちに泣きついた。「フランス王女自ら宮廷にお手本をお示し下さい!」 「王様は立腹なさるわ」マダム・ソフィーが指摘した。 「そんなことはありません!」グラモン公妃は憎々しげに答えた。「それどころか、素晴らしい考え、またとない才覚だと感謝なさるでしょう。王様は誰にも乱暴はなさいません」 「それどころか」リシュリュー公爵がまたもやグラモン夫人の押しかけを当てこすった。「夜中に寝室で乱暴され、奪われたのは王様の方だったとか」  この言葉の威力たるや、貴婦人たちの中に、爆弾が破裂したような動揺をもたらした。  ようやく落ち着きが戻ると、その場の昂奮に後押しされるようにして、マダム・ヴィクトワールが口を開いた。 「私たちが伯爵夫人を追い返した時に、王様が何も仰らなかったことは間違いありません。でも公式の場の話となると……」 「ええそうだと思います」グラモン夫人は言いつのった。「欠席したのがマダムたちだけでしたら、恐らくそうでしょう。でも私たち全員が参加しなかったとしたら」 「全員ですって!」婦人たちが声をあげた。 「間違いなく全員だ」老元帥が答えた。 「ではあなたも陰謀に参加なさるの?」マダム・アデライードがたずねた。 「仰る通りです。である以上は一言申し上げたい」 「お話し下さい、公爵」グラモン夫人が言った。 「順番に始めましょう。『全員で!』と叫ぶだけがすべてではない。『こうしよう!』と言った人間が、いざとなると正反対のことをしたりするものです。今し方申し上げたようにわしも陰謀に加担する以上は、切り捨てられたくはありませんからな。前王や摂政時代には謀のたびにそうされたものでしたが」  グラモン公妃が皮肉った。「まさか何処にいるのかお忘れじゃありませんよね? アマゾンの国で大将を気取ってらっしゃるんですから!」 「お叱りを受けてしまいましたが、失礼ながらその地位を得る権利はあるものと思っております。あなたの方がデュ・バリー夫人を――いや、つい名前を言ってしまったが、聞こえなかったでしょうな? あなたの方がわしよりデュ・バリー夫人を嫌っているというのに、わしの方があなたより際どい立場にいるのですから」 「際どい立場ですか?」ミルポワ元帥夫人がたずねた。 「さよう、非常に際どい。わしは一週間ヴェルサイユを訪れておりません。昨日は伯爵夫人からアノーヴル邸に、具合が悪いのかと使いがあり、ラフテには、身体は悪くないが前日から戻っていないのだと答えさせてしまいました。だが権利など放棄しましょう、だいそれた望みもありません、大将の地位はお譲りしますよ、何ならここで。我々の心を動かした火付け役だ、あなたなら指揮杖で心に革命を起こせるでしょう」 「マダムたちがいらっしゃいますわ」公爵夫人は謙虚に答えた。 「あら、私たちは脇役で結構」マダム・アデライードが言った。「ルイーズに会いにサン=ドニに行くことにします。引き留められて戻っては来られないでしょうから、何か言う必要はありません」 「それで文句をつけるのは、よほどの根性悪でしょう」リシュリュー公爵が評した。 「私はシャントルーで干し草の用意を」とグラモン公妃。 「結構! 立派な口実です!」リシュリュー公が言った。 「子供が病気なので、世話をするため部屋から出られません」ゲメネー夫人はそう言った。 「今夜は頭がぼうっとしているので、明日トロンシャンに瀉血してもらわなくてはならないかもしれません」これはポラストロン夫人だ。 「私がヴェルサイユに行かないのは、行かないから行かないんです。自由意思が理由ですよ!」ミルポワ元帥夫人は厳かにそう言った。 「結構、結構。どれももっともらしいではありませんか。しかし誓う必要がある」 「誓うですって?」 「さよう、共謀には誓いがつきものです。カティリナの陰謀以来セラマレの陰謀――これにはわしも関わっておりましたが――そのセラマレの陰謀に至るまで、誓いが欠かされたことはありません。どちらの陰謀も失敗に終わってしまいましたが、しきたりに敬意を表して、誓いを立てましょう! 重大なことですぞ」  婦人たちに向かって手を突き出し、厳かに誓った。 「誓います」  婦人たちも誓いを繰り返したが、王女《マダム》王女たちだけはそっと立ち去った。 「さあお終いです。共謀の誓いを立てたからには、もうやることはない」 「ふふ! 広間に一人きりだとわかったら真っ赤になって怒るでしょうね!」グラモン夫人が言った。 「ふむ! 国王はわしらをしばらく追放するでしょうな」 「あら! 私たちが追放されたら、宮廷はどうなります……? デンマーク王陛下がいらっしゃったら、いったい何をご覧に入れるつもり? 王太子妃殿下がいらっしゃったら、いったい誰に紹介なさるというのかしら?」ゲメネー夫人が言い返した。 「宮廷中を追放する訳にはいかないんですから、誰かが貧乏くじを引くことになるのでしょうね」 「よくわかっておりますとも」リシュリューが答えた。「いつもいつも貧乏くじを引く幸運に恵まれて来ましたからな。もう四度も引いて来た。これが五回目の陰謀という訳です」 「そんなことは考えないで下さいまし」グラモン夫人が言った。「見捨てられるのは私ですから」 「或いはショワズール殿ですかな。お気をつけなさい!」 「ショワズールも私と一緒。失脚には耐えられても、侮辱には耐えられません」 「公爵も、公爵夫人も、ショワズール氏も、追放されたりはなさいませんわ」ミルポワ元帥夫人が言った。「あるとすれば私でしょう。伯爵夫人のことを侯爵夫人よりすげなく扱えば、陛下はお許しにならないでしょうから」 「相違ない。寵姫《ファヴォリット》の|お気に入り《ファヴォリット》と呼ばれたあなただ。残念だが元帥夫人! 揃って追放されようではありませんか!」 「追放される時はみんな一緒です」ゲメネー夫人が立ち上がった。「既に決まった取り決めを覆すようなことはありません」 「誓った約束を、ですぞ」 「それに、万が一の備えもしてありますから!」グラモン夫人が言った。 「あなたが?」とリシュリュー公爵。 「ええ。明日の十時にヴェルサイユにいるためには、三つのものが必要です」 「というと?」 「美容師、ドレス、四輪馬車」 「なるほど」 「どうでしょう?」 「なるほど! 伯爵夫人が十時にヴェルサイユにいなければ、国王は苛立って客を帰してしまう。王太子妃の到着も近いことから、認証式は無期延期になる」  この新たな展開に拍手喝采が起こった。だがひときわ大きな拍手喝采を送りながら、リシュリュー氏とミルポワ夫人が目を交わしていた。  二人の古参宮廷人の頭の中に、同じ考えが生じていたのだ。  十一時、共謀者たちは、見事な月に照らされたヴェルサイユとサン=ジェルマンの路上に姿を消した。  ところがリシュリューだけは馬丁の馬に乗っていた。四輪馬車がヴェルサイユの路上をこれ見よがしに走っている間、近道を通って全速力でパリに向かっていた。 第三十七章 美容師もなし、ドレスもなし、馬車もなし  デュ・バリー夫人が認証式の大広間に向かうのには、ヴェルサイユの部屋から出るのは都合が悪かった。  第一に、ヴェルサイユにはこうした晴れの日に相応しい物があまりにも足りなかった。  何よりも、結局のところいつもとはまったく違っていたのである。選ばれし者たちが、ヴェルサイユの宿やパリの自宅から、重々しい音を立てて到着していた。  デュ・バリー夫人は出発点にパリの自宅を選んだ。  朝の十一時にはヴァロワ通りに到着しており、ベアルン夫人も一緒だった。微笑みで縛ることが出来ない時には鍵を掛けて閉じ込めておいた。医学と化学の粋を集めて火傷は今も冷やされていた。  前日からジャン・デュ・バリー、ション、ドレの三人は働き通しだった。その仕事ぶりを見ないことには、金の威力や人の能力について考えるのも難しかろう。  一人は美容師を確保し、もう一人は仕立屋を急かした。ジャンは馬車担当だったが、仕立屋と美容師にも手を尽くした。伯爵夫人は花、ダイヤ、レースに没頭し、宝石箱の中に埋もれながら、次々ともたらされるヴェルサイユからの報せによって、王妃の間に明かりを入れるという命令が出されたこと、何一つ変わった点はないことを知った。  四時頃、ジャン・デュ・バリーが戻って来た。青ざめて慌ててはいたが、上機嫌である。 「どう?」伯爵夫人がたずねた。 「どうだって! 準備万端だ」 「美容師は?」 「美容師のところでドレを見つけた。話はついた。五十ルイの手形を押し込んでやったんだ。六時ちょうどにここに夕食にやってくるから、おれたちはそこでのんびりしてればいい」 「ドレスは?」 「凄いのが出来るぞ。ションがしっかり監督していたからな。二十六人のお針子が真珠とリボンと飾りを縫っているところだ。そうやって一幅ごとに丁寧に仕上げているから、ほかの奴らだったら一週間は取られただろうな」 「嘘でしょう、一幅ごとだなんて?」 「本当さ。生地は十三幅ある。一幅につき二人がかりだ。右と左に分かれてレースと宝石を縫いつけているから、最後の最後にならないと一つにならない。後二時間の辛抱だ。夕方六時にはドレスが手に入る」 「間違いないのね?」 「昨日のうちに技師と縫い目を計算しておいた。一幅当たり一万箇所だ。お針子一人につき五千だな。あれだけ厚い生地だと、一目縫うのに五秒はかかる。一分で十二、一時間で七百二十、十時間で七千二百。休憩も必要だし、縫い間違いもあるだろうから、二千二百は計算外としても、まだたっぷり四時間の余裕がある」 「それで馬車は?」 「ああ、馬車か! おれに任せとけって言っただろう。倉庫の中で五十度で塗装を乾かしているところだ。あの素晴らしさと比べちゃあ、王太子妃のお迎え馬車もかすみたいなもんさ。四つの扉の真ん中には紋章が描かれているし、おれが塗らせた方の二枚にはデュ・バリー家の標語『前進あるのみ!』があり、その脇で二羽の白鳩が矢で射られたハートを温めている。その周りを弓、矢筒、松明が取り囲んでいる。フランシャンのところには、あれを見に行列が出来ているぞ。八時ちょうどにはここに届く予定だ」  この時、ションとドレが戻って来た。二人はジャンの言葉を裏づけた。 「ありがとう、みんな勇敢な右腕たちね」伯爵夫人が言った。 「隈が出来てるぞ。少し眠ったらどうだ。そうすれば元通りになる」 「眠る? ええ、そうね! 今夜は眠れそう。それに尽きるわね」  こうして伯爵夫人邸で準備が進められている間も、認証式の噂が町を駆け巡っていた。無聊を慰めている者であろうと、無関心を装っている者であろうと、噂の嫌いなパリっ子などいない。十八世紀の野次馬ほど、宮廷人やその陰謀に詳しい人間はあるまい。いかなる祝宴にも潜り込むことは出来なかったし、ちんぷんかんぷんな馬車の羽目板や徹夜で走る急使の変わった服装を除けば、何も見たことはなかったのだが。そんなわけだから、貴族の誰それ氏がパリ中の有名人であるのも珍しいことではなかった。単純なことだ。劇場でも、遊歩道でも、宮廷人は主役を演じていた。つまりリシュリュー氏はイタリア劇を見ている間も、そしてデュ・バリー夫人は王妃のように豪華な馬車に乗っている間も、今日の喜劇役者や人気女優と同じように、人目を意識していたのである。  見知った顔ほど興味が湧く。パリ中の人間がデュ・バリー夫人を知っていた。裕福で若く美しい婦人たちがしたがるように、デュ・バリー夫人は劇場、遊歩道、店舗に姿を見せることに熱心だったからだ。さらには肖像画、諷刺画、ザモールを通して知っていた。故に認証式のいきさつは、宮廷だけではなくパリにも広まっていた。その日のパレ=ロワイヤル広場にはいつも以上の人だかりが出来ていたが、哲学には申し訳ないことに、それはカフェ・ド・ラ・レジャンスでチェスを指すルソー氏を見るためではなく、噂に聞いた見事な馬車と見事なドレスに彩られた寵姫を見るためであった。ジャン・デュ・バリーの「おれたちはフランスに随分と金をかけている」という言葉には重みがある。パリの様子からも明らかなように、大金のかかった光景をフランスが満喫しようとするのは至極単純なことであった。  デュ・バリー夫人は国民のことをよく理解していた。フランス人はもはやマリ・レクザンスカの頃とは違う。驚かされるのが好きなのだ。気立ての良いデュ・バリー夫人は、出したお金に見合った光景にしようと労をいとわなかった。義兄に言われた通りに眠る代わりに、五時から六時まで牛乳浴をし、六時には小間使いに世話をさせながら、美容師が来るのを待っていた。  今日ではよく知られている時代について、お伝えすべき特別な事実はない。同時代と言ってもいいくらいだろうし、ほとんどの読者もご承知のことだ。だが今この場で、デュ・バリー夫人の髪を整えるのには大変な手間と時間と技術がかかるのだということを説明するのは的外れなことでもあるまい。  完全なる建築物を思い描いて欲しい。若王ルイ十六世の宮廷では頭の上が銃眼だらけになっていたが、あの城塞の原型である。この時代にはあらゆるものが前触れとなる運命だったのだろうか。貴族や貴族もどきたちの足許の地面を穿っていた社会的情熱を反映して、頭の上に誇示しないと、貴族の女たちには特権を享受する時間がほとんどないことを、浮ついた流行が告げていたのだろうか。さらに不吉ではあるがやはり正確な予言によって、首を保護する時間もあまり残されていないことを知り、大げさなまでに飾り立て、何もない頭の上に出来るだけ高く聳えさせたのだろうか。  こうした見事な髪を編むには、絹のクッションで持ち上げ、鯨鬚の鋳型に巻きつけ、宝石や真珠や花で飾りつけ、目に輝きを与え顔に瑞々しさを与える例の雪をまぶす。仕上げに薄紅、螺鈿、ルビー、オパール、ダイヤモンド、あらゆる色の花をバランスよく整えるためには、大芸術家であると同時に、忍耐も必要だった。  それ故、あらゆる職人の中でも整髪師だけは彫刻家のように剣を携えていた。  これがジャン・デュ・バリーが宮廷美容師に五十ルイ差し出したことの理由であり、さらには大リュバンが――当時の宮廷美容師の名はリュバンといったのだが――そのリュバンが時間通りに来てくれぬのではないか、こっちが望んでいるほど巧みには仕上げてくれないのではないか、という不安の理由である。  やがてその不安は的中した。六時の鐘が鳴っても、美容師は現れなかった。六時半、六時四十五分。心臓が破れるほどに脈を打つ。ただ一つ頼みの綱は、リュバンほどの才能の持ち主であれば、人を待たせるのも当然だということだ。  だが無惨、七時の鐘が鳴った。用意した夕食も冷めてしまうだろう。不快な思いをさせることにはなるまいか。そこで密使を遣ってスープが出来ていることを報せに行った。  従者が戻ってきたのは、十五分の後。  同じような状況で待ち続けた人間だけが、十五分が何秒であるのかを知っている。  従僕はリュバン夫人本人と口を聞いていた。夫人の曰く、夫は先ほど家を出た、もう着いている頃だろう。そうでなくとも向かっている途中なのは間違いあるまい。 「そうか、馬車に何かあったんだな。もう少し待とう」 「でもまだ妥協は出来ないわ。服を途中まで着ておいても髪は整えられる。認証式は十時なんだもの。まだ三時間あるし、ヴェルサイユには一時間で着けるでしょう。待っている間にドレスを見せて頂戴、ション、気晴らしになるわ。ねえ、ションは? ドレスだってば!」 「ドレスはまだ届いておりません」ドレが言った。「お妹さまは十五分前にお出かけになり、ご自身でお求めにいらっしゃいました」 「馬車の音が聞こえたぞ。きっと待ち人来たれり、だ」  子爵は間違っていた。汗まみれの二頭の馬が牽いていたのは、戻って来たションの馬車だった。 「ドレスは?」ションがまだ玄関にいるうちに、伯爵夫人はたずねた。 「来てないの?」ションが驚いてたずねた。 「来てないわよ」 「そう。遅くはならないと思う」ほっとして続けた。「あたしが行った時には、仕立屋はもう辻馬車で出た後だったから。ドレス運びと着付けのためにお針子二人も一緒だって」 「家はバック通りだったな。その辻馬車は随分とのんびり馬を走らせてるじゃないか」 「ええ、そうね」そうは言ったものの、ションはある不安を抑えることが出来なかった。 「ねえ、馬車はこっちから取りに行かせたら?」デュ・バリー夫人が言った。「そうすれば馬車だけは待たなくてもいいもの」 「もっともだな、ジャンヌ」  ジャン・デュ・バリーは扉を開けた。 「フランシャンのところに馬車を取りに行ってくれ。新しい馬も連れて行って、繋いでおくんだ」  御者と馬が出発した。  馬車の音がサン=トノレ通りの方に小さくなった頃、ザモールが手紙を持って来た。 「バリー奥さまにお手紙です」 「誰から?」 「男です」 「男? どんな男なの?」 「馬に乗った男です」 「どうしてお前に渡したのかしら?」 「ザモールが玄関にいたからです」 「質問は後だ、まずは読もうじゃないか」ジャンが堪えきれずに喚いた。 「そうね」 「凶報じゃなければいいんだが」 「まさか。陛下に届けて欲しい請願書か何かでしょう」 「請願書の折り方ではないぞ」 「死ぬほど怖がってるのね」伯爵夫人は微笑み、封印を切った。  一行目を読んだ途端に恐ろしい悲鳴をあげ、死んだようになって椅子に倒れ込んだ。 「美容師も、ドレスも、馬車もないですって!」  ションが伯爵夫人に駆け寄り、ジャンが手紙を奪い取った。  まっすぐで小さな文字は、間違いなく女の手になるものだ。 『マダム、お気をつけ下さい。今夜は美容師もドレスも馬車も手に入らないでしょう。  この助言が間に合うとよいのですが。  感謝をいただくつもりはありませんので、名前は申しません。お知りになりたい時はご想像下さい』 「糞ッ! もう駄目だ!」ジャンが絶望の叫びをあげた。「畜生! 誰か殺してやらなくちゃ気が済まない。美容師がいないだと! くたばっちまえ! リュバンの腹をかっさばいてやる。七時半の鐘が鳴ったというのに、まだ来ない。ふざけやがって! くたばるがいい!」  今夜の認証式には呼ばれていないジャンは、腹立ち紛れに髪を掻きむしった。 「それよりドレスよ!」ションが叫んだ。「美容師ならほかにも見つけられるかもしれない」 「どうかな? どんな美容師がだ? ああ最悪だ、糞ったれめ!」  伯爵夫人は何も言わず、ショワズール兄妹も心を動かされるような溜息を、気づかれぬようそっと洩らした。 「ねえ、少し落ち着きましょう」ションが言った。「まず美容師を探すこと。それに仕立屋のところに戻れば、何かドレスになるようなものがあるかもしれないし」 「美容師がいない!」伯爵夫人が苦悶の呟きを洩らした。「ドレスがない! 馬車がない!」 「そうだ、馬車がない! 馬車も来ていないぞ。もうとっくに着いていなけりゃならないのに。これは陰謀だ。サルチーヌは犯人どもを逮捕できないのか? モープーなら縛り首にできないのか? 共犯の奴らはグレーヴ広場で火あぶりにできないのか? 美容師を車責めにして、仕立屋をやっとこ責めにして、馬車屋の皮を剥いでやる」  こうしている間にも伯爵夫人は落ち着きを取り戻していたが、それは自分の置かれている立場に不安を感じるあまりのことであった。 「今度こそもう駄目よ。リュバンを手に入れたような人なら、パリ中の優れた美容師を囲い込んでおくだけのお金もあるもの。きっと髪を切り刻むような能なししか見つからないわ……。それにドレス! ドレスが!……それにあの新品の馬車。誰もが嫉妬に駆られるはずだったのに……!」  ジャンは何も答えず、恐ろしい目つきで部屋中に当たり散らし、家具にぶつかればそのたびにぶち壊して、それでも破片が大きいと思えばさらに小さく砕いていた。  閨房から控えの間、控えの間から中庭へと広がってゆくこの愁嘆場の真っ直中、従僕たちは相矛盾する命令の渦に困り果て、行ったり来たり、走ってはぶつかり合っていたところ、一人の若者が二輪馬車から降り立った。鮮やかな緑の仕着せ、繻子の上着、藤色のキュロット、白い絹靴下を身につけたその若者は、放っておかれていた門の敷居を跨ぎ、中庭を横切り、敷石を渡り、階段を上り、化粧室の扉を叩いた。  ジャンは日本の壺を叩き落とした際にセーヴル焼きの酒器に服を引っかけてしまい、粉々に踏み砕いている最中だった。  静かに、控えめに、おずおずと、扉が三度鳴るのが聞こえた。  沈黙が訪れた。もしやとは思ったものの、そこに誰がいるのかたずねようとする者はいなかった。 「失礼ですが、デュ・バリー伯爵夫人にお目にかかれないでしょうか」 「お客様、こんな風に入って来られては困ります」どんどん中に入って行くのを止めようとして、門番が追いかけて来た。 「まあまあ。これ以上悪いことなど起こるもんか。伯爵夫人に何の用です?」  ジャンはガザの門も引き抜けそうな勢いで扉を開けた。  訪問者は飛び退いてそれをかわし、第三ポジションで着地した。 「失礼。デュ・バリー伯爵夫人のお役に立てないかと思いまして。認証式があるんですよね?」 「何の役にです?」 「私の仕事のことで」 「どんなお仕事を?」 「美容師です」  そう言って二度目のお辞儀した。 「何だって!」ジャンが若者の首に飛びついた。「美容師だって。さあ入ってくれ、さあ入って!」 「どうぞこちらに」ションはどぎまぎしている若者に両手を回した。 「美容師ですって!」デュ・バリー夫人が天を仰いだ。「美容師! 天の使いだわ。リュバンから頼まれたのかしら?」 「誰かに頼まれた訳ではありません。新聞を読んで、今夜は伯爵夫人の認証式があると知り、『まだ美容師を見つけてないかもしれない。ありそうなことではないけれど、ないとは言い切れない』と思い、お邪魔いたしました」 「お名前は?」いくらか落ち着いて来た伯爵夫人がたずねた。 「レオナールと申します」 「レオナール? 聞いたことがないわ」 「今のところは。ですが奥さまがお任せいただければ、明日には名も知られましょう」 「ふん! 美容師といってもいろいろだからな」 「試している時間はないわ」ションが言った。 「試すとは?」若者は昂奮し、デュ・バリー夫人の周りをぐるぐる回った。「奥さまは髪型でみんなの目を釘付けにしなくてはならないのでしょう。私は奥さまを見初めて以来、一番美しく見えるはずの型をずっと考えて参りました」  そう言って自信に満ちた手つきをしたために、伯爵夫人の心は揺れ始め、ションとジャンの胸にも期待が舞い戻って来た。 「本当なのね!」伯爵夫人は若者の落ち着きぶりに目を見張った。腰に手を当てた様など、大リュバンそのものではないだろうか。 「ですがその前に、ドレスを拝見しなくてはなりません。髪飾りと釣り合いを取らなくてはなりませんので」 「そうよ、ドレスだわ!」デュ・バリー夫人は恐ろしい現実に引き戻された。「ドレスが……!」  ジャンが額を叩いた。 「まったくだ! 想像してみてくれ、とんでもない陰謀さ。みんな盗まれたんだ! ドレスも、仕立屋も、何もかも!……ション! ああション!」  ジャンは髪を引き抜くのに疲れて、嘆き始めた。 「戻ってみたらどう、ション?」伯爵夫人がたずねた。 「無駄よ。だってここに来るために家を出たんでしょう?」 「駄目ね!」伯爵夫人は椅子にひっくり返った。「ドレスがないんじゃ、美容師も役に立たないじゃない?」  この時、またも扉のベルが鳴った。先ほどのように侵入されるのを恐れて、門番は扉を閉めたうえに、閂を掛けていた。 「誰か来たみたい」デュ・バリー夫人が言った。  ションが窓に駆け寄った。 「箱だわ!」 「箱? うちに?」 「ええ……ううん……でも……門番に手渡した」 「行って、ジャン、急いで」  ジャンは従僕たちを追い越して階段に急行すると、門番の手から箱を奪い取った。  ションは窓越しにそれを見ていた。  ジャンは箱の蓋を開け、手を突っ込むと、歓喜の雄叫びをあげた。  箱の中には中国繻子のドレスが入っていた。花の縁取りに、高価なレースも一揃いついている。 「ドレスだわ! ドレスよ!」ションが手を叩いて声をあげた。 「ドレスですって!」先刻までは苦しみのあまり気を失いそうだったデュ・バリー夫人は、今度は喜びのあまり気を失いそうになった。 「誰からだ、おい?」ジャンが門番を質した。 「ご婦人でございます」 「どんなご婦人だ?」 「私の知らない方でした」 「何処の人だ?」 「その方は門から箱を手渡して『伯爵夫人に!』と叫ぶと、乗ってきた二輪馬車にお戻りになり、全速力で走り去ってしまいました」 「まあいい! 大事なのはドレスがあるってことだ!」 「早く来なさいよ、ジャン!」ションが叫んだ。「死ぬほど待ち焦がれてるじゃない」 「さあ手にとって確かめるんだ。じっくり見とれるがいいさ。これが天の贈り物だ」 「でもサイズが合わないわ、合うわけないじゃない、あたしに合わせて作ったわけじゃないんだもの。ああ口惜しい! こんなに素敵なのに」  ションが急いでサイズを測った。 「縦も横もぴったりよ」 「素晴らしくいい生地だぞ!」 「信じられない!」 「怖いくらいね!」伯爵夫人が言った。 「だがこれでわかったな。手強い敵がいるにしても、同じくらい力強い味方がいる」 「人じゃないわ」ションが言った。「だって陰謀のことをどうやって知ったの? きっと妖精か何かよ」 「たとい悪魔だとしてもいいわ。グラモン夫人たちと渡り合う手助けをしてくれてるんだから! あの人たちの方がよっぽど悪魔じゃないの!」 「ところで……」ジャンが言った。 「なあに?」 「こちらの紳士に頭を任せちまった方がいいと思うな」 「何でそう言い切れるのよ?」 「おいおい! ドレスを届けてくれた人が知らせたに決まってるだろう」 「私にですか?」レオナールは心底驚いていた。 「新聞の話は出任せだ、そうだろう?」 「間違いなく本当の話です」 「説明して頂戴」伯爵夫人が言った。 「奥さま、ポケットに新聞がございます。包み紙にしようと保っておいたのです」  若者は言葉通りに上着の隠しから、認証式の記事の載った新聞を取り出した。 「さあ始めましょう」ションが言った。「八時の鐘が鳴ったわ」 「ああ、時間はございます」美容師が言った。「式場までは一時間ですね」 「ええ、馬車があったらの話だけど」伯爵夫人が言った。 「そうだ! 畜生! フランシャンの野郎がまだ来てないぞ!」 「誰に予想できたかしら? 美容師もドレスも馬車もないなんて!」 「ねえ」ションが怖気立った。「フランシャンも約束を守らないなんてことは?」 「そんなことはない。あそこだ」 「それで馬車は?」伯爵夫人がたずねた。 「きっと家の前に停まっているさ。そのうち門番が扉を開けに行くとも。いったいどうしたんだ?」  というのも、この言葉と相前後して、怯えきったフランシャン親方が部屋に飛び込んで来たのである。 「ああ、子爵! 奥さまの馬車をお届けする途中、トラヴェルシエール通りの角で、四人の男が馬車を止めて小僧を殴りつけ、全速力でサン=ニケーズ通りに逃げてしまったのです……!」 「言った通りだ」デュ・バリー子爵は椅子に坐ったまま、馬車屋が入ってくるのを機嫌良く眺めていた。 「襲撃じゃないの! どうにかしなくちゃ!」ションが叫んだ。 「どうにかする! どうしてだ?」 「馬車を探しに行かなきゃ。ここには疲れている馬と汚い馬車しかないのよ。こんなポンコツでジャンヌをヴェルサイユに行かせる訳にはいかないわ」 「いいこと?」デュ・バリー夫人が昂奮をなだめた。「ひよこに餌をくれた人、美容師を用意してドレスを送ってくれた人が、馬車がないままにさせておくわけがないでしょう」 「ねえ! あれは馬車の音じゃない?」ションが言った。 「停まったな」 「でも入って来ない」伯爵夫人が言った。 「入って来ない、それだ!」  ジャンが窓に飛びつき、開けた。 「急げ! 遅れちまうぞ。いいか! 俺たちには少なくとも恩人がいるのを忘れるなよ」  下男、馬丁、使者は急ぎに急いだが、既にだいぶ遅れていた。白繻子が張られ、鹿毛の馬が二頭繋がれた馬車が、門の前に停まっていた。  だが御者も従者も影も見えない。使い走りが轡を握っているだけだ。  馬車の持ち主はその使い走りに六リーヴルを与え、噴水広場の方に姿を消してしまったと云う。  扉を確かめた。だが紋章の代わりに、一輪の薔薇があっさりと書かれているだけであった。  いろいろな出来事のせいで時間がなかった。  ジャンは馬車を中庭に入れさせ、門を閉めて鍵を掛けた。化粧室に戻ると美容師が手並みを披露しようと準備をしていた。  ジャンがレオナールの腕をつかんだ。「失礼だが、恩人の名を教えなかったり、こんなに感謝しても知らせないのなら……」 「いいですか」若者は落ち着いていた。「そんなに強く腕をつかまれては、伯爵夫人の髪を整えたくても手が痺れてしまいます。それに急がなくては、もう八時半になりました」 「放して頂戴、ジャン!」伯爵夫人が声を出した。  ジャンは椅子に倒れ込んだ。 「奇跡よ! ドレスはぴったりだわ……ほんのちょっと長いだけだけど、十分で直せるもの」ションが言った。 「馬車はどう……? 立派な馬車?」伯爵夫人がたずねた。 「見事なもんだ……中に入ってみたよ。白繻子の内張に、薔薇の香り」ジャンが答えた。 「じゃあ問題ないわね!」デュ・バリー夫人は小さな手を叩いて喜んだ。「さあレオナール、上手く出来たらあなたも明日から有名人よ」  レオナールは二言とは言わせなかった。デュ・バリー夫人の髪に手を掛け、櫛を入れるや、その才能を披露し始めた。  素早さ、センス、正確さ、心と身体を見事に一致させ、この重大な仕事をこなしていた。  最後の仕上げをし、強度を確かめ、手を洗う水を求めた。ションが君主にでも仕えるように喜んで水を持ってくると、控えめに礼を言って、退出の意向を示した。 「いや、待て待て! おれは好き嫌いにかかわらずしつこいんだ。もうそろそろ、あなたが誰なのか教えてくれてもいいでしょう」 「とっくにご存じですよ。駆け出しの若者で、レオナールと申します」 「駆け出し? ご冗談を! 名人級の腕前だ」 「あたくしの美容師にならない?」伯爵夫人は手鏡に見入っていた。「催しごとのたびに髪を整えてくれるごとに、五十ルイお支払いするわ。ション、第一回目の今回は百ルイ差し上げて。五十ルイはご祝儀よ」 「奥さま、申し上げました通り、これで私の名も知られるでしょう」 「でもあなたはあたしの専属に……」 「百ルイはお納め下さい。私は自由でいたいのです。今日あなたの髪を整えることが出来たのも、自由だったおかげです。自由とは、あらゆる人間にとって一番大事なものですから」 「哲学者みたいな美容師だな!」ジャンが天を仰いだ。「神よ、我々は何処に行くのです? さあレオナール、あんたと喧嘩はしたくない。百ルイ受け取ってくれ。心配ない、あんたの秘密と自由は守るから……よし馬車だ、伯爵夫人!」  この言葉はベアルン伯爵夫人に向けられたものだった。聖遺物のように厳かに着飾ったベアルン夫人が入って来た。使う直前になって棚から引っぱり出して来たような有り様だった。 「よし、いいか。四人で階段の下まで静かに運ぶんだ。ちょっとでも苦しそうな声を出させてみろ、お前らをぶん殴ってやるからな」  ジャンがこうして慎重かつ重要な作業を取り仕切り、ションがそれを手伝っている間、デュ・バリー夫人はレオナールの姿を探した。  レオナールは消えていた。 「何処を通って行ったのかしら?」デュ・バリー夫人は相次ぐ驚きから醒めきれぬまま呟いた。 「何処を通って行っただって? 床から? 天井から? そんなことが出来るのは魔法使いだけだぞ。いいか伯爵夫人、髪が鳥の巣に変わらないように、ドレスが蜘蛛の巣に変わらないように、鼠が牽く南瓜の馬車でヴェルサイユに着いたりしないように、気をつけようじゃないか!」  最後の一言を口にしながら、ジャン子爵が馬車に乗り込んだ。そこには既にベアルン伯爵夫人と幸せな代子が腰かけていた。 第三十八章 認証式  偉大なものの常として、ヴェルサイユは今もそしてこれからも美しいままであろう。  苔が壊れた石を蝕み、鉛や青銅や大理石の神々が水の涸れた泉水にばらばらに横たわり、木々の伐られた並木道がもつれたまま天に召されようとも、廃墟と化してなお、夢想家や詩人には目の覚めるような華やかな光景を与え続けることだろう。そして詩人たちは大バルコニーから、束の間の栄華を眺めた後で、尽きることのない地平線を眺めるのだ。  だがヴェルサイユの輝きを見たいのならば、やはり活気と栄耀に彩られた時を選ぶべきだ。武器を持たぬ人々が、立派な兵士に止められながら、金の柵に向かって波のように打ちつけている時。天鵞絨張り、絹張り、繻子張りの、厳めしい紋章つきの馬車が、石畳に音を響かせ、威勢よく馬をギャロップで走らせている時。窓という窓が魔法の宮殿のように輝いて、ダイヤモンド、ルビー、サファイアが織りなすまばゆい世界を見せつける時――そこでは一人の男の一挙手に頭《こうべ》を垂れる――白い雛菊や赤い雛罌粟、青い矢車の入り混じった黄金の穂が、風にたわむように。確かにヴェルサイユは美しい。とりわけ門という門を通って、名士という名士に使いが送られた時。もったいぶった国王、君主、領主、官僚、学者たちが、豪華な絨毯や高価なモザイク張りの床を踏んでいる時。  しかし何と言っても、式典のために盛大に飾り立てられた時だ。きらびやかな調度とこぼれるような照明が、ヴェルサイユに溢れる魔力を倍する時――どれだけ冷静な人物にも、これは人間の想像力と能力が生み出し得る驚異なのだという考えを抱かせるはずだ。  例えば大使の接待、或いはささやかな貴族にとってはお披露目の式典の時。マナーの造化ルイ十四世は、一人一人を離れた場所に遠ざけておき、華々しい王の生活の一端をかいま見せることで、彼らにそうした畏敬の念を植えつけることを望んでいた。とにもかくにも祭壇に戴いた神に参詣する権利を勝ち得た者たちには、やがて王宮も神殿にしか見えなくなる。  こうしてヴェルサイユは、とうに堕してはいるがそれでも輝きを保ちながら、デュ・バリー夫人の認証式を前にして、予定通りに門という門を開き、灯という灯を灯し、華という華を誇示した。物見高い人々、貪欲な人々、貧しい人々(不思議なことに、こうした光景を前にして飢えや貧しさを忘れていた!)が、アルム広場やパリ通り一帯を彩っていた。宮殿の窓という窓から光が放たれ、シャンデリアが遠くからは金の砂塵に浮かぶ天体に見えた。  国王は十時ちょうどに部屋から出た。いつも以上に豪華な衣装で、即ちレースはふんだんに、靴下と靴の留め金だけで百万はくだらない。  嫉妬深い婦人連が前日に企んだ陰謀については、サルチーヌから聞かされていた。そのために顔には不安が浮かび、回廊には男しかいないのではないかとびくびくしていた。  だがやがて不安は安心に変わった。謁見用に設えた王妃の間で、ちらほらとしたレースやいくつものダイヤモンドで飾られた髪粉の中に、ひとまず三王女の姿を見つけたのだ。次いで、前日に気焔をあげていたミルポワ元帥夫人。気づいてみれば、自宅から出ないと散々騒いでいた者たちが、真っ先に揃っていた。  リシュリュー公爵が将軍のように駆けまわって一人一人に声をかけていた。 「やあ! ここでお会いするとは。不実な方ですな!」  或いは、 「抜け駆けすると思っておりましたよ!」  さらにはまた、 「陰謀のことはどうなりましたかな?」 「あなたご自身はどうなんです、公爵?」とご婦人たちは答えた。 「わしは娘のデグモン伯爵夫人の代わりです。どうです、セプティマニーがおらぬでしょう。あれだけはグラモン夫人、ゲメネー夫人と頑張っておりますから、これでわしがどうなるかも決まりました。明日には五度目の追放か、四度目のバスチーユ入りです。もう陰謀はこりごりですよ」  国王が現れた。静まりかえった中で、十時の鐘、即ち式典の時刻を告げるのが聞こえた。国王陛下の周りには取り巻きが侍っている。五十人以上はいるだろうか、認証式に来るとは明言しなかった者たちであり、恐らくはそれ故にこそここにいるのだ。  国王が真っ先に気づいたのは、グラモン夫人、ゲメネー夫人、デグモン夫人がこの壮麗な式典に欠けていることだった。  ショワズールは冷静を装っていたが、努力も虚しく、取り繕っているのは一目でわかった。 「グラモン公爵夫人が見えませんね?」国王がたずねた。 「陛下、妹は気分がすぐれないため、代わってご挨拶申し上げるよう言づかって参りました」 「残念ですな!」  そう言って国王はショワズールに背中を向けると、ゲメネー公に向き直った。 「ゲメネー公夫人はどちらに? ご一緒ではなかったのですか?」 「それが、具合がよくないのです。迎えに行ったところ、寝込んでおりました」 「ああ、それは残念です! おや、元帥ではありませんか。今晩は、公爵」 「陛下……」猫なで声を出すと、若者のような身のこなしでお辞儀をした。 「そなたは病気ではなかったか」国王はショワズールとゲメネーにも聞こえるようにして言った。 「陛下にお目に掛かる機会があればいつでも絶好調でございます」リシュリュー公爵が答えた。 「しかし」と国王はリシュリューの周りを見渡し、「ご息女のデグモン夫人がいないのには何か事情が?」  公爵は人に聞かれているのをわかって、ひどく悲しそうな声を出した。 「娘は陛下の足許にひざまずく栄誉を奪われてしまいました。特に今夜は。何分にも具合が悪く……」 「それは残念だ! デグモン夫人が病気とは。フランス一健康であったのに! 返す返すも残念だ!」  そう言って国王は、ショワズールやゲメネーの時のように、リシュリューの許を離れた。  それから室内を一巡りし、固くなっているミルポワ夫人にはとりわけ丁寧に挨拶をした。 「裏切った甲斐がありましたな」と元帥が耳打ちした。「我々とは違い、明日はさぞかし晴れやかなお気持ちでしょうね!……それを思うと震えが来ますぞ」  そう言って公爵は溜息をついた。 「ですけどあなた様もショワズール兄妹を裏切ったんじゃありませんこと? 何しろここにいらっしゃるってことは……あなただって誓いましたのに……」 「娘のセプティマニーの代わりですよ。可哀相に! 忠実なあまりに寵を失ってしまうとは」 「忠実なのは父親に、かしら?」元帥夫人がすかさず言い返した。  皮肉と言ってもいいこの問いかけには、聞こえないふりをした。 「ところで、陛下は不安そうに見えませんかな?」 「それはそうでしょう」 「というと?」 「十時十五分ですから」 「おお、なるほど。なのに伯爵夫人はまだ来ない。さて、一つ申し上げて構いませんか?」 「どうぞ」 「気がかりなことがあります」 「何でしょう?」 「伯爵夫人に何か障碍が起こったのではないでしょうか。あなたはご存じなのではありませんか?」 「どうしてです?」 「首まで陰謀に浸かっているようですから」 「まあ!」元帥夫人は打ち明け話でもするようにして答えた。「私もそのことが気がかりなんです」 「公爵夫人は恐ろしい敵ですな、パルティア人のように逃げながら矢を射るとは。とはいえ逃げたことには違いない。ご覧なさい、ショワズールは平静を装おうとしていますが、不安そうではありませんか。うまく居場所を確保して、陛下から目を離さずにいる。何か企んでいたのでしょう? 教えて下さらんか」 「私も知らないんです。でも仰る通りだと思います」 「狙いは何でしょうな?」 「遅延工作ですよ、諺にありますでしょう、『時を制する者はすべてを制す』。認証式を先延ばしにしてしまえば、明日、思いがけないことが起こるのかもしれません。きっと王太子妃は四日後ではなく明日にはコンピエーニュに到着するのではありませんか。きっと明日には決着をつけるつもりなのでしょう」 「元帥夫人、あなたのお話は実にもっともらしいではありませんか。伯爵夫人はまだ来ない!」 「陛下は苛立ってらっしゃいますね」 「窓辺に行くのはこれでもう三度目です。随分と気を揉んでいらっしゃる」 「もっとひどいことになるんじゃないかしら」 「というと?」 「ほら、十時二十分です」 「ふむ」 「これから一つ申し上げて構いませんか」 「何でしょうかな?」  元帥夫人は辺りを見回し、声をひそめた。 「伯爵夫人は来ないんじゃないかと思います」 「何てことだ! しかしそれでは、ひどい騒ぎになりますぞ」 「裁判沙汰ですよ、犯罪です……それも重大な……起訴理由ならいくらでもあるでしょうね。誘拐、傷害、或いは不敬罪も。どれもこれもショワズール兄妹が糸を引いたんです」 「彼らにしてはちょっと軽率ですな」 「しょうがありませんわ、取り憑かれているんですから」 「むきにならずに我々のようにしていれば有利なことがあります。少なくともものをはっきりと見ることが出来る」 「また陛下が窓のところに行かれましたわ」  確かにルイ十五世は、顔を曇らせ、不安げに、苛立ちながら窓に近寄り、手をイスパニア錠に、額を冷たい窓ガラスに押しつけていた。  その間も、嵐の前の葉擦れのように、廷臣たちの話すざわめきが聞こえていた。  目という目が振り子時計と国王の間を行き来していた。  振り子時計が十時半を告げた。鉄をはじくような澄んだ音が、震えながら広い部屋に沈んで行った。  モープーが国王に近づいた。 「よい天気でございますね」おずおずと話しかけた。 「素晴らしい天気だ……何か知っているかね、モープー?」 「何のことでしょうか?」 「伯爵夫人が遅れていることだよ!」 「恐らくご病気に違いありません」 「グラモン夫人が病気、ゲメネー夫人が病気、デグモン夫人が病気なのも理解できる。だが伯爵夫人が病気などとは考えられぬ!」 「あまりに昂奮いたしますと、具合が悪くなることもございます。伯爵夫人は大変お喜びになっていましたから!」 「ああ、もう駄目だ」ルイ十五世は首を横に振った。「伯爵夫人はもう来ぬだろう!」  声をひそめていたにもかかわらず、あまりに静まりかえっていたために、ほとんどの来賓の耳にその言葉は届いていた。  だがそれに答えるには、心の中で答えるのにすら、時期尚早だったのである。馬車の轟音が穹窿の下に響き渡った。  頭という頭が揺れ、目という目が問いを交わし合っていた。  国王が窓から離れ、回廊を見渡そうとサロンの中央に陣取った。 「残念な報せでなければいいんですけど」元帥夫人が耳元に囁くと、リシュリュー公はかすかな笑みを押し殺した。  ところが不意に、国王の顔に喜びがはじけ、目に輝きが湧き出た。 「デュ・バリー伯爵夫人です!」と取次が式部長官に告げた。 「ド・ベアルン伯爵夫人です!」  この二つの名前を聞いて、それぞれにその意味は相反すれど、誰もが胸を突かれた。好奇心を抑えきれずに、廷臣たちが波のように国王の許に歩み寄った。  ミルポワ夫人は、自分がルイ十五世の一番そばにいることに気づいた。 「まあ、お綺麗!」元帥夫人は礼拝しようとでもするように両手を合わせた。  国王が振り返り、元帥夫人に微笑みかけた。 「あれは女性ではない」リシュリュー公が言った。「妖精だ」  国王は微笑みを旧臣の許に送った。  確かに、これほどまでに美しい伯爵夫人は見たことがなかったし、これほど甘美な表情を見せ、これほど心を高ぶらせ、これほど慎ましやかな目つき、これほど気高い姿、これほど洗練された足取りで、王妃の間――とは言っても、申し上げた通り、今は認証式の間――を感嘆に渦巻かせたことはなかった。  魅力的な美しさ、豪華だがけばけばしくはなく、何よりもうっとりするような髪飾りに彩られたデュ・バリー夫人が、ベアルン夫人に先導されて歩いて来た。ベアルン夫人はひどい痛みにもかかわらず、足を引きずりもせず、眉をひそめもしなかった。だが頬紅が干涸らびた欠片となって剥がれ落ちるほどの苦しみに、顔からは血の気が引き、火傷した足をほんの少し動かすだけで筋の一本一本が軋みをあげて震えるほどだった。  誰もがこの不思議な組み合わせに目を注いでいた。  老婦人は若い頃に着ていたような襟の開いた服を着て、高さ一ピエの髪飾りをかぶり、落ち窪んだ大きな目を尾白鷲のように輝かせ、絢爛たる装いに骸骨のような足取りをしていて、まるで現代に手を伸ばした昔日の肖像画のようだった。  干涸らびて冷やかな「威厳」が艶やかで慎ましやかな「美」を先導しているのを見て、多くの来賓は感嘆に、なかんずく驚きに打たれた。  これはまた好対照だわい、と国王は感じた。ベアルン夫人が伯爵夫人の若さ、瑞々しさ、明るさを、これまでにないほど引き立てていた。  こうしたわけなので、伯爵夫人が作法に従い膝を折り王の手に口づけをした時、ルイ十五世は夫人の腕をつかみ、二週間も前から苦しんでいた褒美にと、一言だけ声をかけて立ち上がらせた。 「なぜひざまずくのです? 笑って下さい!……ひざまずくのはむしろ余の方です」  国王は儀礼通りに腕を広げた。だが抱擁の真似ではなく、今回は実際に抱擁をおこなった。 「あなたは素晴らしい代子をお持ちですよ」とベアルン夫人に声をかけた。「もちろん、伯爵夫人も立派な代母をお持ちだ。また宮廷でお目にかかれるとよいですね」  老婦人は深々とお辞儀をした。 「娘たちに挨拶を」と国王はデュ・バリー夫人に囁いた。「ちゃんとお辞儀の出来るところを見せておやりなさい。娘たちもきっと心を尽くしてくれるでしょう」  二人の婦人は、歩むに従い広く空けられる道を通って前に進んだ。だがそれを見つめる人々の目の光は激しい炎に満ちていた。  三王女は近づいて来るデュ・バリー夫人を見て、バネのように立ち上がって待ちかまえている。  ルイ十五世はじっと見つめていた。〈マダム〉たちに目を注ぎ、礼儀正しくしろと訴えていた。  作法の教えるところより深々と頭を下げたデュ・バリー夫人に、心を動かされたようにしてマダムたちはお辞儀を返した。デュ・バリー夫人の見事な手際に王女たちも心を打たれ、国王同様に心から抱擁を与えているのを見て、国王も満足げだった。  こうして、伯爵夫人の立身は勝利に終わった。ぐずぐずしている者や手際の良くない者たちは、祭りの女王に挨拶するのに一時間は待たなければならなかった。  祭りの主役は驕りもせず腹も立てず不平も言わず、どんなおべっかも受け入れ、あらゆる不実をも忘れてしまったようだった。懐の広い人間を演じていた訳ではない。心は喜びに満ちあふれ、憎しみの入り込む余地などなかった。  リシュリューはだてにマオンの勝者ではなかった。上手く立ち回る術を心得ていた。当たり前の廷臣たちが挨拶の終わるまでその場に留まり、言祝ぐべきか貶すべきかで謁見の結果を待っている間、リシュリュー元帥はとうに伯爵夫人の椅子の後ろに陣取っていた。それはあたかも騎兵の先駆けが、旋回点で縦列展開の用意をするため百トワーズ地点に突っ立っているかの如きであった。リシュリュー公は人波に押しつぶされることなくデュ・バリー夫人の傍らに位置することが出来た。ミルポワ夫人としてもリシュリュー公が戦争で勝ち得て来た幸運を承知していたため、公爵のやり方を真似て伯爵夫人のそばにある腰掛けに少しずつ近づいていた。  グループごとにお喋りが始まり、デュ・バリー夫人の人となりがふるいに掛けられた。  王の愛情とマダムたちの歓待と代母の支えに励まされて、伯爵夫人は王の周りに侍る貴族たちを力強く見渡し、自分の立場を確認してから婦人たちの中に敵を探した。  人影が視界を遮った。 「まあ、公爵さま。あなたにお会いするためにここに来なくてはならなかったんですよ」 「何ですと?」 「ええ、だって八日の間、ヴェルサイユでもパリでもリュシエンヌでもお目に掛かれなかったじゃありませんか」 「今晩ここでお目に掛かれると心得ておりましたもので」 「こうなるとわかってらしたのね?」 「確かに」 「まあ! 本当に、何て方かしら! それを知っていながら教えてくれないなんて。あたくしはちっとも知らなかったのに」 「どういうことですかな? ご自分がここにいらっしゃることがご自身にはわからなかったというのですか?」 「ええそう。道で役人に捕まったイソップみたいだったわ。『何処に行く?』と役人がたずねた。『わかりません』とイソップは答えた。『ほう? では牢屋に行くことになるぞ』『おわかりいただけましたか。何処に行くのかわたしにはわからなかったことが』。それと同じで、気持だけはヴェルサイユに向かっていましたのに、行けるかどうかはっきり断言は出来ずにいたんです。そういうわけですから、あなたが会いに来て手伝って下さっていたなら……なのに……今になって会いにいらっしゃるおつもりですのね?」  リシュリューは当てこすりにも慌てた様子はなく、「ここにおいでになれるかはっきりしなかったとは、どうしたわけでしょうか」 「申し上げましたわ。罠に嵌められてしまったんですもの」  伯爵夫人にねめつけられたものの、公爵は平然と見つめ返した。 「罠ですと? どういうことです、伯爵夫人?」 「まず、美容師が攫われました」 「美容師が?」 「ええ」 「なぜ知らせて下さらなかったのです。そうすれば――いや失礼、声を落としましょう――デグモン夫人が手に入れた真珠や宝石を届けて差し上げましたし、かつら師や王室美容師の中でも最高の美容師、レオナールを遣わしたでしょうに」 「レオナールですって!」デュ・バリー夫人が声をあげた。 「さようです。セプティマニーの髪を整えている若者で、アルパゴンが金を隠したように秘蔵しているのですが、とはいえ残念だったとは申せませんな。何しろ素晴らしい髪ですぞ、見とれてしまいます。それにしても不思議なものですな、デグモン夫人が昨日ブーシェに頼んだデッサンにそっくりだ。あれも具合が悪くなければ、こういう髪型にしようと考えていたようですが。セプティマニーも可哀相に!」  伯爵夫人は震えながらもさらに強く公爵を見つめた。だが公爵は微笑みを浮かべたまま動じなかった。 「失礼、お話の途中でしたな。罠と仰いましたか?」 「そうです。美容師を攫った後は、あたくしのドレスを盗んで行ったんです」 「ふうむ! それはひどい。しかし何だかんだ言っても、盗まれたドレスなしで問題なかったのですな。見たところ見事なドレスをお召しのようだ……それは花を縫いつけた中国製の絹ではありませんか? 何ですな! わしに一言、困っていると伝えてくれさえしたら――今後はそうしていただかなくてはなりませんが、そうしてくれれば娘が認証式用に作らせていたドレスをお送りいたしましたものを。それと同じような、否、まったく同じと言っていいでしょう」  デュ・バリー夫人はリシュリュー公の両手を握った。苦境から引っ張り上げてくれた魔法使いが何者なのかわかりかけて来たのだ。 「あたくしがどんな馬車に乗ってここまで来たのかご存じですか?」 「知りませんが、ご自分の馬車なのではありませんか」 「あたくしの馬車は奪われてしまったんです。ドレスや美容師と同じように」 「では大がかりな策略でしたか? ここへはどんな馬車で?」 「その前に、デグモン夫人の馬車の特徴を教えていただけません?」 「そうですな、確か、今夜のことを考えて、白繻子の内張りをした馬車を注文しておりました。ところが紋章を描く時間がありませんでした」 「やっぱり。薔薇なら紋章よりも早く描けるもの。リシュリュー家とデグモン家の紋章は複雑だから。公爵、あなたって素晴らしい方ですわ」  デュ・バリー夫人は、暖かく薫る顔つきのリシュリュー公に両手を差し出した。  リシュリュー公は口づけを浴びせられながら、デュ・バリー夫人の手が震えていることに気づいた。 「どうしました?」周りを気にしながらたずねた。 「公爵……」伯爵夫人の目に戸惑いが浮かんでいた。 「さあどうしたんです?」 「ゲメネー殿のそばにいるのは、どなたですか?」 「プロイセンの軍服の方ですかな?」 「ええ」 「褐色の肌、黒い瞳、力強い顔つきの人ですな? プロイセンの国王陛下が認証式を祝福するために遣わした将校ですよ」 「どうか笑わないで下さい。あの方は三、四年前にフランスに来たことがあります。あたくしは二度と会うことが出来ませんでした。いろいろなところを探したのに。あの方を存じ上げているんです」 「見間違いではありませんか。あの方はド・フェニックス伯爵という外国人で、つい二、三日前に来たばかりですぞ」 「あんなふうにあたくしを見ているじゃありませんか!」 「みんなあなたを見ておりますよ。非常にお美しいですから!」 「お辞儀をしたわ、お辞儀をしたでしょう?」 「誰だってお辞儀はしますとも、伯爵夫人。とっくにし終わったのなら別ですが」  だが伯爵夫人は異常な昂奮に駆られていたために、公爵の言葉も耳には入らなかった。目は魂を抜かれたように釘付けになり、心ならずもリシュリュー公から離れ、その人物の方へと一歩二歩と踏み出していた。  伯爵夫人から目を離さずにいた国王がこれに気づいた。どうやらおとなしくしているのに飽きたのだな、かなりのあいだ作法を守って離れていたのだからと思い、祝福の言葉をかけようと近づいた。  ところが伯爵夫人は気がかりで頭がいっぱいで、ほかのことは考えられなかった。 「陛下、ゲメネー殿に背中を向けているプロイセンの将校はどなたでしょう?」 「あそこに見える人かな?」ルイ十五世がたずねた。 「そうです」 「力強い顔つきをして、金の襟からがっしりした首が覗いている人だね?」 「ええ、その通りです」 「プロイセン王の信任状を持っている人だよ……王のような哲学者だ。今夜、招待しておいたのだ。プロイセンの哲学者に、代理を通してペチコート三世の勝利を祝ってもらおうと思ってね」 「名前は何と仰いますの?」 「確か……」国王はしばし考えて、「ああ、そうだ。フェニックス伯だ」 「あの人だわ!」デュ・バリー夫人が呟いた。「あの人だ、間違いない!」  まだほかにも質問があるかとしばらく待っていたが、デュ・バリー夫人が黙り込んだままなのがわかった。 「ご婦人方」国王は声を高めた。「明日、王太子妃がコンピエーニュに到着する。正午に妃殿下をお迎えすることになる。招待されているご婦人は一人残らず出席して欲しい。もちろん病気の方は別だ。出かけるには体力もいるだろう。王太子妃は容態が悪化するのを望んではおらぬ」  国王は話している間中、厳しい目つきでショワズール、ゲメネー、リシュリューを睨んでいた。  国王の周りに恐ろしい沈黙が訪れた。王の言葉の意味はわかりすぎるほどわかった。それは失脚を意味していた。 「陛下」そばから離れなかったデュ・バリー夫人が声をかけた。「どうかデグモン伯爵夫人にはお慈悲をお掛け下さい」 「それはまた何故かね?」 「あの方はリシュリュー公爵のご息女で、リシュリュー公爵はあたくしの一番大切な友人ですから」 「リシュリューが?」 「その通りです」 「そなたが望むのであれば」国王はリシュリュー元帥に歩み寄った。  リシュリューは伯爵夫人の口唇の動きを見逃さなかった。さすがに聞こえはしなかったものの、口にしたことに察しをつけることは出来た。 「さて公爵、デグモン夫人は明日には快復しそうなのでは?」 「もちろんですとも。陛下が望まれれば、今晩にも快復いたしましょう」  リシュリューは敬意と感謝を一緒くたにさせたように、深々とお辞儀をした。  国王は伯爵夫人の耳元に口を近づけ、小声で囁いた。 「陛下――」伯爵夫人の答えには、敬意に加えて可愛らしい微笑みのおまけまでついていた。「あたくしは陛下の忠実な臣下でございます」  国王は一同に手で挨拶をしてから、部屋に退がった。  国王がサロンの外に足を踏み出した途端、伯爵夫人の目はあの人物のところにまたも吸い寄せられていた。かつて味わったこともないほどに怯え、ひどい不安を刻みつけられていた。  件の男は国王が通り過ぎる際には皆に倣って頭を下げた。だが頭を下げながらも、男の顔には尊大な、脅しとも取れるような奇妙な表情が残されていた。やがて国王の姿が見えなくなると、男は人混みを掻き分け、デュ・バリー夫人から二歩ほど離れたところまで来て立ち止まった。  伯爵夫人の方でも好奇心に打ち勝てず、一歩前に出た。この結果、男は頭を下げ、誰にも聞かれぬように小声で話すことが出来るようになった。 「覚えていらっしゃいますか?」 「ええ、あなたはルイ十五世広場であたくしに予言をなさいました」  すると男は澄んだ鋭い瞳を向けた。 「残念ながら、嘘を申してしまいました。あの時の予言では、あなたはフランスの王妃になるはずでしたね?」 「とんでもない、予言は成就いたしましたわ。いずれにしても成就したようなものです。あたくしの方は約束を守る用意は出来ています。さあ、望みを仰って下さい」 「場所がまずい。それに、望みを叶えるには時が至っておりません」 「その時が来た場合に備えて、望みを叶える用意はしておきましょう」 「如何なる時期、如何なる場所、如何なる時間でも、お目にかかることは適うのでしょうね?」 「お約束いたします」 「ありがとうございます」 「ところで、何というお名前でお取り次ぎなさいますの? フェニックス伯でしょうか?」 「いいえ、ジョゼフ・バルサモという名で」 「ジョゼフ・バルサモ……」伯爵夫人が繰り返している間に、男は人混みの中に消えていた。「ジョゼフ・バルサモ! いいでしょう! 覚えておくわ」 第三十九章 コンピエーニュ  翌日、コンピエーニュは陶酔と熱狂のうちに目を覚ました。いやむしろ、一睡もしなかったと言うべきであろう。  前日から国王親衛隊の前衛が、町で宿営に就いた。士官たちが持ち場を確認している間、有力者たちは台所番と協力して、来たるべき栄誉を迎え入れる準備をしていた。  緑で覆われ、薔薇とリラで飾られ、ラテン語とフランス語とドイツ語で詩と文が書かれた凱旋門に、ピカルディの職員が日中までかかりきりだった。  慣例に従い白い服を着た娘たち、黒い服を着た参事官たち、灰色の服を着たフランシスコ会修道士たち、もっとも豪華な服装をしていた聖職者、持ち場に就いたばかりで真新しい制服に身を包んだ駐屯部隊の兵士や士官たち、その誰もが、大公女到着の合図と共に歩き出す用意をしていた。  前夜のうちに発っていた王太子は、夜十一時頃にはひそかに到着していた。弟二人も一緒だ。朝早くに馬に跨ったところは、一私人と言われても何ら違うところはなかった。十五歳のプロヴァンス伯と十三歳のダルトワ伯を引き連れて、王太子妃が現れるはずのリブクール方面の道に向かって、馬を走らせ出した。  付言しておこう。この細やかな思いつきは若王子のものではない。傅育完ラヴァンギヨンが、前夜ルイ十五世に呼び出され、これからの二十四時間必要となるであろう務めのすべてを生徒に教え込むよう命じられたのだ。  そこでラヴァンギヨンは、君主制のさまざまな栄光を教え込む代わりに、ブルボン朝歴代の王たちの例しを話して聞かせた。アンリ四世、ルイ十三世、ルイ十四世、ルイ十五世は、未来の妻をその目で確かめることを望んだ。装身具もつけず、装いもままならぬ状態の妻を、路上で値踏みすることを選んだのである。  疾駆する馬に乗って、半時間で三、四里を駆けた。出かける際には王太子は重苦しい面持ちで、弟二人は笑っていた。八時半には町に戻っていた。王太子は変わらず重苦しげだったが、プロヴァンス伯は不機嫌で、ダルトワ伯だけが早朝よりも機嫌が良かった。  まったく同じものに対し、ベリー公は不安に駆られ、プロヴァンス伯は嫉妬に駆られ、ダルトワ伯は魔法をかけられていた。即ち王太子妃が美しいという事実に。  それぞれの生真面目な性格、嫉妬深い性格、暢気な性格が、三人の顔にまざまざと浮かんでいた。  コンピエーニュの市庁舎から十時の鐘が聞こえた時、クレーヴ村の鐘楼の上で、監視兵が白い旗を翻しているのが見えた。王太子妃が視界に入ったという報せだ。  すぐに合図の鐘が鳴り、シャトー広場から放たれた砲声がそれに答えた。  その合図だけを待っていたかのように、国王が八頭立ての四輪馬車でコンピエーニュに登場した。親衛武官が二重に取り囲み、後ろには臣下の馬車が無数に連なっている。  国王を見たがる者たちと王太子妃を迎えに行きたがる者たちの群れを、近衛騎兵と竜騎兵が大急ぎで分けていた。一方にはまばゆさがあり、一方には関心があったのである。  四頭立ての四輪馬車が一里ほどの距離を埋め尽くし、フランスでも有数の四百人の貴婦人と大貴族を運んでいた。馬丁に召使い、伝令に小姓が、この百台の馬車を護衛している。親衛隊の貴族は馬に跨って陣形を取り、馬が巻き上げる埃の中を、天鵞絨や黄金、羽毛や絹のようにきらきらと流れて行った。  彼らはコンピエーニュで一休みしてから、並足で町を後にして目的地に向かった。マーニュの町にある路上に十字架が立てられているのだ。  フランス中の若者が王太子を取り囲み、フランス中の老貴族が国王の周りに侍っていた。  王太子妃の方は馬車を替えずに、時間を見計らいながら目的地に進んだ。  二つの集団がついに合流した。  馬車はあっという間に空っぽになった。いずれの貴族たちも降り立った。人が乗っているのは二台の馬車だけだった。一つには国王、もう一つには王太子妃。  王太子妃の馬車の扉が開き、若き大公女が地面にふわりと飛び降りた。  それから国王の馬車の方へ歩いて行った。  ルイ十五世は嫁御を目にすると扉を開けていそいそと馬車から降りた。  王太子妃は上手く間合いを取って歩いた。国王の足が地面に着いたと同時に、妃はひざまずいていた。  国王は大公女に口づけをして立ち上がらせると、優しく抱擁した。国王の眼差しに包まれて、大公女は我知らず赤面していた。 「王太子です!」国王がマリ=アントワネットにベリー公を紹介した。王太子はまだ気づかれる前から、少なくとも公式に目を向けられる前から、妃の後ろに控えていた。  王太子妃に優雅なお辞儀をされて、今度は王太子の方が赤くなった。  王太子妃は二人の王子、三人の王女に淑やかに言葉を掛けた。  紹介が進むにつれて、デュ・バリー夫人はじりじりしながら王女たちの後ろに立って待っていた。自分の番になったら? 無視されたら?  三人目の王女マダム・ソフィーの紹介が終わると、誰もが息を呑んだように、ふっと間が空いた。  国王は躊躇っているようだった。王太子妃は予め知らされていた新たな出来事を待っているようだった。  国王は周りを見回し、伯爵夫人を見つけると、手を取った。  すぐに人垣が引いて、国王は王太子妃と共に輪の中央にいることになった。 「デュ・バリー伯爵夫人、余の一番の友人です!」 「こんな素敵なご友人がいて陛下はお幸せでございます。情熱をかき立てられるのももっともだと存じます」  誰もが驚きに打たれ、茫然として見つめ合った。王太子妃がオーストリア宮廷の指示に従い、恐らくはマリア=テレジア自身の言葉を繰り返しているのは、明らかだった。  ここが自分の出番だ、とショワズールは直感した。そこで紹介に預かろうと前に出たが、国王は首を振って合図をした。太鼓が打ち鳴らされ、喇叭が吹き鳴らされ、大砲が轟いた。  国王に手を取られて馬車に向かう大公女が、ショワズールの前を通り過ぎた。口を聞くのは不可能だった。だが確かなことがある。手を動かすことも、頭を動かすことも、挨拶らしき身振りは何一つなかったということだ。  大公女が国王の馬車に乗り込むと、町の鐘がことのほか厳かに鳴るのが聞こえた。  デュ・バリー夫人は嬉しそうに自分の馬車に戻った。  国王が馬車に乗り、コンピエーニュの道に戻るまで、十分ほどの間があった。  その間、敬意や昂奮で押し殺した声が、うなるように広がっていた。  ジャン・デュ・バリーが義妹の馬車に近づいた。デュ・バリー夫人は微笑みを浮かべ、祝福の言葉を待っていた。 「ほら、ジャンヌ」子爵は、王太子妃のお付きの馬車の一つに向かって話しかけている騎士を指さした。「あの若い男が誰だかわかるか?」 「知らないわ。それより、陛下が紹介して下さった時、王太子妃が何と言ったと思う?」 「知るもんか。あの男はフィリップ・ド・タヴェルネなんだ」 「あなたを怪我させた人?」 「ああそうだ。それから、あいつが話しかけている別嬪がわかるか?」 「あの青白くてプライドの高そうな人?」 「ああ、国王が見ているだろう。王太子妃に名前をたずねている可能性が大だな」 「それで?」 「それで、だって? あれは奴の妹だ」 「ああ!」 「いいか、ジャンヌ。はっきりした理由があるわけじゃないが、兄がおれの敵であるように、妹はお前の敵になりそうな気がするんだ」 「冗談でしょう」 「いたって真面目さ。とにかくおれは奴の方を見張るつもりだ」 「じゃああたしは妹の方を」 「静かに! リシュリュー公だ」  確かに、リシュリュー公が首を振りながら近づいて来た。 「ご機嫌如何?」伯爵夫人は飛び切りの笑顔でたずねた。「何だかご不満そうね」 「伯爵夫人、わしらは随分と重苦しく見えませんか? こうした喜ばしい状況の中では、陰気と言ってもいいくらいだと? かつて、同じくらい魅力的でお美しい王女様をお迎えしたことがありました。王太子のご母堂です。わしらは随分と騒いだものです。それもわしらが随分と若かったからなのでしょうか?」 「違いますぞ」公爵の後ろから声がした。「王権がそれほど老いてはいなかったからでしょう」  この言葉を聞いて、誰もがおののきを感じた。公爵が振り返ると、優雅な物腰の老貴族が立っていた。厭世的な笑みを浮かべて、公爵の肩に手を置いている。 「おおまさか! タヴェルネ男爵ではないか。伯爵夫人、わしの旧友です。どうかお目をかけて下さいますよう。バロン・ド・タヴェルネ=メゾン=ルージュです」 「父親か!」ジャンと伯爵夫人は、お辞儀をしようと頭を下げながら、二人同時に呟いていた。 「馬車に! 馬車に!」親衛隊長が護衛に命じているのが聞こえた。  老人二人は伯爵夫人と子爵に挨拶をしてから、久方ぶりの再会を喜んで、二人一緒に同じ馬車に向かって進んで行った。 「何てことだ! 一つ言ってもいいか? あの親父は息子娘と同じくらい気に入らんな」 「残念ね。ジルベールの小熊ちゃんに逃げられていなければ、何でも教えてもらえたでしょうに。男爵の家で育てられたんでしょう」 「ふん! また見つけるしかあるまい。今やれるのはそれくらいだ」  馬車が動いたために会話はそこで途切れた。  コンピエーニュの夜が明けた翌日、一つの時代の日没と新しい時代の日の出という二つの流れが、渾然一体となってパリを目指していた。大きく口を開いたその深淵は、やがて何もかもを貪り喰らうことになっていたのである。 第四十章 庇護者と被庇護者  ここらでジルベールの話に戻ろう。庇護者であるションが軽率な一言を発したことからわかる通り、逃げ出したのは確かだが、それっきりになっていた。  フィリップ・ド・タヴェルネとデュ・バリー子爵がラ・ショセで決闘した際に庇護者の名前を知って以来、我らが哲学者君が庇護者に寄せる感嘆の念は急速に冷めていた。  タヴェルネではよく生垣の中やトンネルの陰に隠れては、父と散歩するアンドレを執拗に追いかけていたから、男爵がデュ・バリー伯爵夫人について話すのも耳にしていた。意固地な信念を持った老タヴェルネのこと、そんな偏った憎しみがジルベールの心にも影響を及ぼしていた。父の口から聞かされるデュ・バリー夫人の悪口に、アンドレが反論しなかったことも大きい。それもそのはず、デュ・バリー夫人という名前はフランスでは軽蔑の的だったのである。斯かるが故に、ジルベールは男爵の主張をそっくり信じ込んでいたし、ニコルが「あたしがデュ・バリー夫人だったらなあ!」と叫ぶのを聞いてからはますますひどくなっていた。  移動中、ションはあまりにも忙しく、気にしなければいけないことがあまりにも多すぎた。そのせいで、身許を知ってジルベールの機嫌が変わったことに気づけなかった。ヴェルサイユに着いた時にも、子爵がフィリップから受けた刀傷の件を、都合よく運ぶにはどうしたらいいか、名誉となるように転がせないか、そんなことばかり考えていたのである。  ジルベールの方は、首都――フランスの首都とは言えぬまでも、少なくともフランス君主制の首都――に入るや、素直な感動に心を満たされ、悪い感情などすっかり忘れてしまった。ヴェルサイユは粛々として冷たく、聳える木々のほとんどは枯れるか老いて朽ちかかっていた。ジルベールの心が、侘びしいような敬虔な気持に打たれた。人間の努力が作りあげ、自然の力が生み出したこの大作を前にして、心乱されぬ者などあるまい。  絶えて覚えたことのない感動に生来の驕りもへし折られ、驚きと感嘆に打たれてジルベールは束の間おとなしく神妙にしていた。貧しさと劣等感に打ちのめされていた。金や綬をつけた貴族たちの傍らでこんなみすぼらしい身なりをし、スイス人衛兵の傍らでこんなにもちっぽけで、鋲を打ったこの靴でモザイク張りの床やぴかぴかに磨かれた大理石の廊下を歩かなければならないことに愕然とした思いを抱いていた。  何かを為すには庇護者に頼らざるを得ないだろう。ジルベールがションにぴったりと身を寄せたのは、自分が連れだということを衛兵にしっかり見せるためだった。だがそれこそションにすがるような行為なのだとしばらくしてから気づいて、自分が許せなかった。  この物語の前半でお話しした通り、デュ・バリー夫人がヴェルサイユで過ごしている美しい部屋は、かつてマダム・アデライードが過ごしていた部屋である。金、大理石、香水、絨毯を前にしてジルベールは恍惚としていた。肉体は本能のままに酔わされ、思想は気の向くままに圧倒されていた。こうして驚異の念に打ちのめされていたために、自分がいつの間にかサージ張りの小さな屋根裏部屋にいて、ブイヨンと羊肉の余りとクリーム菓子を与えられ、それを運んで来た下男に主人面して「ここから動くなよ!」と言われて姿が見えなくなるまで手をつけられずにいることに気づいたのも、かなり時間が経ってからだった。  それでもなお、目を見張るような光景の末端が、ジルベールを虜にしていた。屋根裏に入れられたと書きはしたが、その屋根裏の窓からは、大理石像の飾られた庭園が見渡せた。緑のヴェールに覆われた水流の上には、手をつけられぬままの自然が、海の波のようにうねる木々の梢の向こうには、色とりどりの平野や隣り合った山々の青い稜線が広がっているのが見えた。その時ジルベールの頭に浮かんでいたのは、廷臣としてでも従僕としてでもなく、生まれに左右されることも卑屈になることもなく、ヴェルサイユという〈王宮〉で過ごしているということだけであった。  ジルベールがささやかな食事を――とは言っても食べ慣れていたものと比べれば格段に違う食事を――摂り、腹ごなしに窓越しの考えに耽っている間、ご記憶の通りションがデュ・バリー夫人のところにやって来て、ベアルン夫人との先の会談を果たしたことを耳打ちし、ラ・ショセの宿駅で兄に災難が起こったことを声にしていた。起こった時にはひどい騒ぎになったものの、さらに深刻な事態――国王の無関心――を飲み込んでしまうことになっていた深淵の中へと、この災難も飲み込まれ消えてしまうことになるのは、既にご存じの通りである。  自分の理解力や野心を越える存在を前にして、ジルベールはいつものように空想に耽っていた。降りてくるようにションから言われたのはそんな時である。ジルベールは帽子にブラシをかけ、目の隅で自分の古着と従僕の新品を見比べた。あれはお仕着せなんだと自分に言い聞かせながらも結局は下に降りたものの、出会った人間や目にした事物とはとても比べられないことがわかって、恥ずかしさで真っ赤になっていた。  ションもジルベールと同時に中庭に降りて来た。ただし、ションは大階段を、ジルベールは避難梯子のようなものを使って。  一台の馬車が待っていた。それは丈の低い四人乗りの無蓋軽四輪馬車《ファエトン》であった。ルイ十四世がモンテスパン夫人やフォンタンジュ夫人、時には王妃を乗せることもあった、かの歴史的馬車と同型のものである。  ションが乗り込み、前部座席に腰を下ろした。大きな小箱と子犬も一緒だ。残り二つの座席にはジルベールと、グランジュ氏という家令が坐ることになった。  ジルベールは上座に着こうとして、急いでションの後ろに席を取った。家令は文句も言わず、気にすら留めずに、小箱と犬の後ろに坐った。  ションは心も魂もヴェルサイユの住人であったので、宮殿を離れて新鮮な空気を吸いに森や牧場に向かうのが楽しくて仕方がなかった。手足を伸ばして、町から出るや、ほとんど人が変わってしまった。 「ねえ! ヴェルサイユはどうだった、哲学者ちゃん?」 「凄いとしか言いようが。でももうヴェルサイユを出たんですよね?」 「ええそう、うちに向かってるの」 「あなたのお宅と仰ったんですか?」ジルベールのぶすったれた声が和らいだ。 「そう言ったつもり。義姉《あね》に会わせようと思って。気に入られるように頑張ってね。今はフランス中の大貴族がそうしようと夢中なんだから。ところでグランジュさん、この子の服を一揃い用意してくれないかしら」  ジルベールは耳まで真っ赤になった。 「どのような服にいたしましょう? 普通のお仕着せで構いませんか?」  ジルベールは座席の上で飛び上がった。 「お仕着せですって!」憎しみのこもった目つきを家令に向けた。 「違うってば。そうね……後で言うわ。義姉に話したいことがあるし。だけどついでにザモールの服も注文するのだけは忘れないで」 「わかりました」 「ザモールは知ってる?」この話に驚いているらしいジルベールに声をかけた。 「いえ、残念ですが」 「あなたの同僚みたいなもの。もうすぐリュシエンヌの領主になるの。仲良くしてあげて。何だかんだ言ってもいい子だから。肌の色は関係ないわ」  ザモールの肌が何色なのかたずねようとしたが、好奇心についての忠告を思い出し、再び小言を食らうのはご免だと、質問を飲み込んだ。 「頑張ります」と言って、威厳をたたえた微笑みを浮かべるだけでやめておいた。  リュシエンヌに到着した。哲学者君はすべてを目にしていた。植樹されたばかりの道路、緑なす丘、ローマ時代のような大水路、葉の茂った栗の木、そして本館に向かって流れるセーヌ両岸を伴走する素晴らしい平野と森の景色。 「じゃあここが」とジルベールは独語した。「フランス中のお金を費やした城館だ、とタヴェルネ男爵が言っていたところか!」  犬が喜び勇み、使用人がいそいそと駆け寄ってションに挨拶をしたために、ジルベールの貴族哲学的断想は中断された。 「もう帰って来た?」 「まだお戻りになりませんが、お客様がお待ちでございます」 「どなた?」 「大法官様、警視総監様、デギヨン公爵です」 「そう。急いで中国の間を開けて来て。義姉にはほかの人より先に会っておきたいの。戻って来たらあたしが待っていると伝えて頂戴、わかった? ああ、シルヴィー!」ションは小箱と子犬を預かりに来た小間使いか何かに声をかけた。「小箱とミザプーはグランジュさんに渡してね。それからこの哲学者ちゃんはザモールのところに連れて行って頂戴」  シルヴィー嬢は辺りを見回した。ションの言っているのがどんな動物なのか確かめようとしたのだろう。だがシルヴィー嬢の視線とションの視線がジルベールの上でかち合ったところで、この若者のことよ、とションが目配せした。 「こちらに」シルヴィーが言った。  ジルベールがぽかんとしながら小間使いについて行くと、ションの方は鳥のように軽やかに脇の扉から姿を消した。  ションの言葉が命令調ではなかったために、ジルベールはシルヴィーを小間使いというよりむしろ貴婦人のように考えた。第一、服装もニコルのものよりはアンドレのものに似ている。シルヴィーはジルベールの手を取ってにこやかに微笑んだ。というのも、ションの話しぶりから言って、新しい恋人とは行かぬまでも新しい遊び相手だろうと察したからだ。  シルヴィー嬢は、飲み込みが早く、背の高い美しい娘だった。目は濃い青、白い肌にはうっすらとそばかすが浮かび、燃えるように美しい金髪をしていた。口元は瑞々しくほっそりとして、歯は白く、腕はふくよかで、そのことがジルベールに以前の艶事を思い出させた。ニコルが話していたあの蜜月のことが、甘苦しい震えと共に甦っていた。  ご婦人というものはその種のことに聡い。シルヴィー嬢もすぐに感づいて笑みを洩らした。 「お名前をお聞かせ下さいますか、ムッシュー?」 「ジルベールと申します」我らが青年は柔らかな声で答えた。 「ではジルベールさま、ザモール閣下のところにご案内いたします」 「リュシエンヌの領主ですね?」 「領主です」  ジルベールは腕を伸ばし、袖口で服を拭い、ハンカチで手をこすった。重要人物の前に出るのかと思うと、怯みそうになる。だが「ザモールはいい子よ」という言葉を思い出して、心を落ち着けた。  既に伯爵夫人とも子爵とも親しい。これから領主とも親しくなるのだ。  ――宮廷では誰とでもすぐに親しくなれると陰口を叩かれるのだろうか? この人たちは親切でいい人じゃないか。  シルヴィーが控えの間の扉を開けた。そこは私室とも見まがうほどで、羽目板の鼈甲には金張りの銅が嵌められ、古代ローマの将軍ルクルスのアトリウムかとも思われただろう。無論ルクルス家の象眼は純金であったが。綿の詰まった大きな肘掛椅子の上で足を組み、チョコレートをかじっているのが、ご存じザモール閣下だった。もっとも、ジルベールはまだそれを知らない。  だから将来のリュシエンヌ領主の姿を目にして哲学者殿の顔に浮かんだのは、まことにけったいな表情であった。 「何だ?」ジルベールはその人物を冷たく見据えていた。黒ん坊を見るのは初めてだったのだ。「何だ? あれは何だ?」  ザモールの方は頭を上げもせずに、相変わらず菓子をかじったまま、幸せそうに白目を回していた。 「ザモール閣下です」シルヴィーが答えた。 「あの人が?」ジルベールは唖然とした。 「そうですよ」シルヴィーはことの成り行きとは裏腹に笑って答えた。 「領主だって? この醜い猿がリュシエンヌの領主? からかってらっしゃるんでしょう?」  この侮辱にザモールが身体を起こして白い歯を剥き出した。 「私は領主です、猿ではありません」  ジルベールはザモールからシルヴィーに戸惑うような視線を移したが、堪えきれずに笑っているのを見て怒りを感じた。  ザモールの方はインドの神像のように厳めしく泰然として、繻子の袋に黒い爪を戻してまたもぐもぐとやり出した。  その時扉が開き、グランジュ氏が仕立屋を連れて入って来た。  ジルベールを指さし、「この人の服です。説明した通りにサイズを測って下さい」  ジルベールは無意識のうちに腕と肩をしゃちほこばらせ、シルヴィーとグランジュ氏は部屋の隅で話をしている。シルヴィーはグランジュ氏の言葉の一つ一つに声を立てて笑っていた。 「え、可愛い! スガナレルみたいなとんがり帽子なの?」  ジルベールは続きを聞きもせず、出し抜けに仕立屋を押しやった。何があろうとこれ以上おままごとに付き合わされるのはご免だ。スガナレルとは何者か知らないが、名前といいシルヴィーの笑いといい、滑稽極まりない人物に決まっている。 「まあまあ」家令が仕立屋に言った。「乱暴はしないで。もう充分なのでは?」 「仰る通りです。それに、ゆとりを持たせれば破れませんしね。大きめに作ることにしましょう。」  それからシルヴィー嬢、家令、仕立屋は部屋を出たため、ジルベールは黒ん坊と差し向かいで残された。相変わらず菓子をかじり、白目をぐりぐりと回している。  田舎者の目にはあまりにも謎めいていた。タヴェルネにいる時以上に尊厳を踏みにじられたと悟った(と言おうか、悟ったと思っている)哲学者にとっては、あまりにも恐ろしく、あまりにも苦しかった。  それでもどうにかザモールに話しかけてみた。きっとインドか何処かの王子なのだろう。クレビヨン・フィスの小説で読んだことがある。  だがそのインドの王子は、答える代わりに鏡の前に行って自分の豪華な衣装を眺め始めた。まるで結婚式の花嫁だった。それから車輪付きの椅子に馬乗りになると、足で床を蹴り、控えの間を十周ほど回り出した。その速さを見れば、この独創的な遊びを究めるのにどれだけ練習を重ねたのか想像もつこうというものだ。  突然ベルが鳴った。ザモールは椅子を放ったらかしにして扉の一つから駆け出して行った。  ベルに対するその素早い反応を見て、ザモールは王子ではないのだとジルベールは得心した。  ジルベールはザモールに続いてその扉から出て行くつもりだった。だがサロンに通じている廊下の端まで来ると、青や赤の紐が見え、図々しく横柄で出しゃばりな従僕たちが番をしていた。血管に震えが走り、額に汗が浮かぶのを感じながら、ジルベールは控えの間に戻った。  こうして一時間が過ぎた。ザモールは戻って来ておらず、シルヴィー嬢は相変わらず姿を見せない。誰でもいいから人の顔が見たかった。よくわからないことを言って脅かしておいて仕上げに行った仕立屋の顔でもよかった。  ちょうど一時間過ぎ、入って来る時に開けたのと同じ扉が開き、従僕が現れてこう言った。 「どうぞ!」 第四十一章 いやいやながら医者にされ  ジルベールは従僕の言いなりにならなくてはいけないことが口惜しくてならなかった。とは言え、状況を変えなくてはならないだろう。それにどう変わろうとこれ以上に悪くなることはなさそうだ。ジルベールは先を急いだ。  ションはベアルン夫人との会見をデュ・バリー夫人に報告し終えて、ようやく任務から解き放たれ、部屋着を着て窓辺でのんびり昼食を取っていた。すぐそばの植え込みからアカシアやマロニエが迫っていた。  ションは食欲旺盛だった。雉のサルミやトリュフのガランティーヌを見ればジルベールにも一目瞭然だ。  ションの傍らに招かれたジルベールは、丸テーブルに目を走らせ自分の皿を探した。誘われるのを今か今かと待っていた。  ところがションは椅子を勧めてはくれない。  ジルベールをちらりと見ただけで、トパーズ色のワインをごくりと飲み干した。 「あら、お医者さん。ザモールとはどうなったの?」 「どうなったですって?」 「ええ、仲良くなれたかしら」 「話も出来ないあんな動物と、どうやって仲良くなれと言うんですか? 話しかけても目を回して歯を剥き出すだけなのに」 「脅かさないで頂戴」ションは食事も止めず、脅かされたような顔もまったく見せずに答えた。「じゃああなたは友だちにうるさいってわけね?」 「友だちというのは対等な関係のことです」 「至言ね! つまり自分がザモールと対等だとは思わないってこと?」 「向こうが僕と対等ではないんです」 「そりゃあね」ションは呟くように言った。「あの子は可愛いもの!」  ようやくジルベールを直視して、自尊心が強そうなことに気づいた。 「つまり、そう簡単には誰とでも仲良く出来ないってわけ?」 「そういうことです」 「ふうん。じゃあ、あたしたち、いいお友だちになれると思ったのは間違いだったみたいね」 「個人的にはあなたはいい人だと思ってます。ですが……」ジルベールは言いよどんだ。 「あら嬉しい。ありがと。それで、あなたに気に入ってもらえるにはどれだけの時間がかかるのかしら?」 「時間は随分とかかります。どんなことをしても仲良く出来ない人だっていますし」 「ふうん。タヴェルネ男爵のところで十八年過ごした挙句に突然飛び出したのは、そういうことなのね。タヴェルネ家の人たちはあなたのお眼鏡には適わなかった、と。そういうこと?」  ジルベールは真っ赤になった。 「あら、返事は?」 「答える必要はないでしょう。大事なのが友情や信頼である以上は」 「つまりタヴェルネ家の人たちは友情にも信頼にも値しなかったってことじゃない?」 「どちらにも? そういうことです」 「それで何が気に入らなかったの?」 「愚痴などこぼしません」ジルベールは胸を張った。 「ねえ、あたしもジルベールさんに信頼されていないのはわかってるわ。でもそれは信頼を勝ち取りたいという気持がないからじゃないの。どうすれば信頼してもらえるかわからないからなの」  ジルベールは口唇を引き結んだ。 「要するに、タヴェルネ家の人たちはあなたを満足させられなかったのね」ションの好奇心をジルベールは感じ取った。「タヴェルネ邸では何を?」  ジルベールは戸惑った。タヴェルネ家でしていたことなど、自分でも知らなかった。 「僕は……僕は、信頼できる人間です」  いかにもジルベールらしい哲学者然とした落ち着いた言い方に、ションは笑いの発作に襲われて椅子に反っくり返った。 「信じられませんか」ジルベールは眉をひそめた。 「やめてよ! あなたみたいに怒りっぽい人に反論できる人なんていないわ。タヴェルネ一家がどんな人たちなのか教えて欲しいだけ。あなたにとっては、気に入らないどころか、復讐の助けになるはず」 「誰かの手を借りるつもりはありません」 「結構よ。でもあたしたちにはあたしたちなりにタヴェルネ家に言いたいことがあるの。あなたが腹を立てているのが一人なのか何人かなのかはわからないけど、手を結んだ方がいいと思わない?」 「残念ですが。僕のやり方はあなたたちとは相容れません。あなたはタヴェルネ家一般の話をしているけれど、僕の方は一人一人に違った感情を持っていますから」 「じゃあフィリップ・ド・タヴェルネのことはどう思ってるの? 嫌い? 好き?」 「何とも思ってません。フィリップさんは良くも悪くもしてくれませんから。好きでも嫌いでもありません。構われていませんから」 「じゃあ陛下やショワズールの御前でフィリップ・ド・タヴェルネを訴えるつもりはないのね?」 「何のかどで?」 「あたしの兄と決闘をしたかどで」 「訴えろと言われたなら、知っていることを話すつもりです」 「知っていることって?」 「真実を」 「あなたの言う真実って何? 随分と曖昧な言葉じゃない」 「善と悪、公正と不正が出来る者にとっては曖昧ではありません」 「わかったわ。つまり善とは……フィリップ・ド・タヴェルネ。悪とは……デュ・バリー子爵」 「僕はそう思ってます。良識に照らした限りでは」 「何て子を拾って来ちゃったんだろう!」ションは歯ぎしりした。「これが命の恩人に対するお礼ってわけね?」 「死から救った恩人です」 「同じことじゃないの」 「全然違いますよ」 「どう違うのかしら?」 「あなたは命の恩人じゃありません。馬が僕の命を奪うのを止めてくれただけです。それだってあなたじゃなく御者のやったことです」  平然とそんなことを言いつのる屁理屈屋を、ションはじっと見つめた。 「もう少し優しい言葉をかけてくれてもいいのに」と笑みと声と和らげた。「手をクッションの下に入れ足を膝の上に預けていた連れじゃないの」  ションが優しく馴れ馴れしく挑発したため、ジルベールはザモールや仕立屋のことも誘ってもらえなかった昼食のことも忘れた。 「ね? 仲直りしましょう」ションがジルベールの口元に触れた。「フィリップ・ド・タヴェルネに不利な証言をしてくれるでしょう?」 「まさか! 絶対にしません!」 「どうしてよ?」 「悪いのはジャン子爵だからです」 「何が悪いの?」 「王太子妃を侮辱しました。けれどフィリップ・ド・タヴェルネは……」 「ええ」 「王太子妃に誠実でした」 「ふうん、王太子妃の肩を持っているみたいじゃない?」 「僕が肩を持つのは正義です」 「お黙りなさい、ジルベール! この城館でそんな口の利き方は許さないわよ」 「でしたら質問だけして、答えを聞かなければいいのです」 「だったら、ほかの話をしましょう」  ジルベールは同意の印にお辞儀をした。 「さあ、いい?」ションの声は厳しかった。「あたしたちを喜ばせてくれないなら、ここで何をするつもりなの?」 「偽誓して僕が喜べるとでも?」 「何だってそんな大げさな言葉を使おうっていうのかしら?」 「人が信念を守り続ける権利において」 「いい? 人に仕えれば、ご主人さまがすべて取り仕切ってくれるの」 「僕は誰にも仕えていません」ジルベールは頬をふくらませた。 「しかもあなた流に従えば、これからも仕えるつもりはないのね」ションはゆっくりと優雅に立ち上がった。「もう一度聞くから、はっきり答えて頂戴。ここで何をするつもりなの?」 「役立つ人間なら、喜ばせようとご機嫌を伺わずともよいのではありませんか」 「残念ね。会うのはみんな役立つ人ばかりで、飽き飽きしてるくらいよ」 「それではここを出てゆきます」 「出て行くですって?」 「ええ。来たいと頼んだわけではなかったでしょう? だから僕は自由です」 「自由?」慣れない反抗に遭って、怒りが湧いて来た。「ふざけないで!」  ジルベールの顔が強張った。 「ねえ、いい」ジルベールが眉をひそめたのを見て、簡単には自由を諦めそうにないとションも悟った。「仲直くしましょう……可愛くて潔癖なところが気に入ってるの。周りにいる人たちと比べたらの話だけど。とにかく、真実を愛する心を温めておいて頂戴」 「冷ますつもりはありません」 「そうね、でも別の言い方をするわね。一つ、あなたの胸の中で温めておいて頂戴。一つ、トリアノンの回廊やヴェルサイユの広間で信念を披露しないで頂戴」 「ふん!」 「『ふん』はなし! 女から学べることはたくさんあるのよ、哲学者ちゃん。一つ目の金言、『口を閉じていれば嘘をつかなくてすむ』。よく覚えておいて」 「何か聞かれたら?」 「誰から? 馬鹿ね。あたしのほかにあなたのことを気にする人なんかいやしないわよ。まだ一派をなしたとは思えないものね、哲学者さん。同じ考え方をする人たちはまだ少ない。仲間を探すには道路を駆けまわり、藪を掻き分けなくてはならないわ。ここに留まりなさい。二十四時間を四回繰り返すうちに、あなたを完璧な宮廷人に変えてみせるから」 「そうでしょうか」ジルベールは強気だった。  ションは肩をすくめた。  ジルベールが笑みを浮かべた。 「終わりにしましょう」とションが言った。「でも、三人の人間に好かれるだけでいいのに」 「その三人とは?」 「国王、義姉、あたし」 「そのためには何をすればいいんですか?」 「ザモールには会った?」ジルベールの質問にまともに答えることを避けて、たずねた。 「あの黒ん坊ですか?」声には軽蔑の色が滲んでいた。 「ええ、あの黒ん坊」 「あれと何の関係があるんです?」 「運命だと思わなきゃ。あの子はもう国王の金庫に二千リーヴルも国債を持ってるの。もうすぐリュシエンヌの領主に任命されて、口唇の厚さや肌の色を馬鹿にしていた人たちも、ご機嫌を取ってムッシューって呼んだり、もしかすると閣下って呼んだりするかもしれない」 「僕は違います」 「ほらほら、哲学者の玉条は、『人はみな平等である』じゃなかったの?」 「だからザモールを閣下と呼ぶつもりはないんです」  見事なパンチを喰らって、今度はションが口唇を咬む番だった。 「じゃあ野心はないの?」 「まさか!」ジルベールの目が輝いた。「そんなことはありません」 「確かお医者さんだったわね?」 「世界一立派な人間になって、同胞たちを救う仕事に就きたいんです」 「きっと叶うわ」 「そうでしょうか?」 「あなたは医者になる、それも国王付の医者にね」 「僕が? 医学の初歩も知らないのに……ご冗談でしょう?」 「ザモールが落とし門や石落としや堀の外壁が何なのか知っているとでも? そんなわけないじゃない。知りもしないし、知らないことを気にもしてないわ。リュシエンヌの領主であることに変わりはないもの。肩書きに加えてすべての特権もついて来るし」 「ええ、わかりますとも」ジルベールの声には棘があった。「道化が一人では足りないんでしょう。国王陛下が退屈なさって、二人必要になったんだ」 「ほら。誰かさんったらまたがっかりした顔をしてる。ほんとあなたって、人を喜ばせるとなるとぶさいくになるのね。取りあえず可笑しな顔をしておいて頂戴。かつらを頭にかぶせて、とんがり帽子をかつらに乗せている間は、ぶすったれないでおどけてみせてよ」  ジルベールはまたもや眉をひそめた。 「ねえ、Tresme公がデュ・バリー夫人の尾巻猿の地位を願い出ているって知ったなら、陛下付の医者という地位もすんなり受け入れられるでしょう?」  ジルベールが何も答えなかったので、ションは諺を都合よく解釈した。曰く、答えのないのは同意の印。 「仲良くしてくれたことだし、手始めに、これからは配膳室で食事を取らなくていいわ」 「ああ、ありがとうございます」 「気にしないで。こうなることはわかっていたから予めそういう指示は出しておいたの」 「それで、何処で食べればいいのでしょうか?」 「ザモールと一緒」 「え?」 「そうよ。領主と医者だもの、同じ食卓に着くのはおかしくないでしょう。よければ夕食を取りにどうぞ」 「お腹は空いていません」ジルベールは憮然とした声を出した。  ションは落ち着き払っていた。「いいわ、今は空いてないでしょうけれど、夜には空くでしょう」  ジルベールは首を横に振った。 「夜じゃくても、明日、明後日には。そのうち折れることになるわよ。それにあんまり迷惑をかけるようなら、あたしたちには忠実な矯正監もいるんだから」  ジルベールは身震いして青ざめた。 「ザモール閣下のところに戻りなさい」ションが冷やかに告げた。「悪くないはずよ。料理は申し分ないし。でも礼儀は忘れないこと。でないと痛い目を見る羽目になるわよ」  ジルベールは頭を垂れた。  心を決めた時には返事をする代わりにそうするのが癖なのだ。  ジルベールが部屋を出ると、先ほどの従僕が待ちかまえていた。案内された小食堂は、さっきまでいた控えの間のすぐ隣だ。ザモールが食卓に着いていた。  ジルベールは傍らに坐ったものの、どうしても食べることは出来なかった。  三時の鐘が鳴った。デュ・バリー夫人はパリに向かった。ションは後で合流することにして、厄介者を手なずけるための指示を与えた。いい子にすれば甘いお菓子をたっぷりと。強情を張るようならしばらく閉じ込めてから脅しの言葉をたっぷりと。  四時になると、ジルベールの部屋に、いやいやながら医者にされるべく衣装が一揃い届けられた。とんがり帽子、かつら、黒タイツ、同じ色の上着。飾り襟、棒、大きな本も添えられていた。  衣装を運んできた従僕が、一つ一つ目の前に見せ始めた。ジルベールは抵抗する素振りも見せなかった。  グランジュ氏が従僕の後ろから入って来て、衣装の着け方を教えた。ジルベールはその説明をじっと聞いていた。 「確か――」とジルベールはそれだけ言った。「昔の医者は文箱と紙巻きを持っていたと思います」 「おや、本当だ。誰か文箱を見つけて来て、ベルトに吊るしなさい」 「羽根ペンと紙もお願いします。どうせなら完璧な衣装を着けたいので」  従僕が飛び出して行った。指示に従うと同時に、ジルベールがやる気になっているとションに伝えに行ったのだ。  ションは大喜びして、八エキュ入りの巾着を使いに手渡し、お利口な医者のベルトにインク壺と一緒に結びつけさせた。 「ありがとう」衣装を運んで来た従僕に、ジルベールは礼を言った。「ところで、着替えたいから一人にしてもらえませんか?」 「でしたら急ぐように」グランジュ氏が言った。「そうすればパリに発つ前にお嬢様にご覧いただけます」 「三十分。三十分だけお願いします」 「必要なら四十五分だ、お医者さま」家令はそう告げて、金庫の扉を閉めるように極めて慎重に扉を閉めた。  ジルベールはつま先立って扉まで忍び寄り、耳を澄まして足音が遠ざかるのを確かめた。それから窓まで音を立てず移動した。そこから下のテラスまで十八ピエある。細かい砂の蒔かれたテラスは、大きな木々に囲まれて、その葉がベランダに覆いかぶさるほどだった。  ジルベールは上着を三つに裂いて端と端を結んでから、帽子を卓子に、帽子の側に巾着を置いて、手紙を書き始めた。 『マダム、一番の財産は自由です。人間にとって一番大切なことは、その自由を守ることです。あなたに自由を奪われてしまうので、僕は逃げ出します。ジルベール』  ジルベールは手紙を折りたたみ、ション宛てに宛名を書くと、十二ピエの布地を窓の格子に結びつけ、蛇のように下端まで滑り降りると、命の危険も顧みずテラスに飛び降りた。ちょっと無茶な行動ではあったが、木に飛びついて枝にしがみつき、栗鼠のように葉陰に滑り込んで、地面に降りた。そして全速力でヴィル=ダヴレーの森の方に姿を消した。  三十分後に人が戻って来た頃には、ジルベールはとっくに手の届かないところにいた。 第四十二章 老人  ジルベールは追手を恐れて街道は通らなかった。木立から木立を抜けて、やがて大きな森のようなところで立ち止まった。四十五分で一里半ほど稼いだことになる。  辺りを見回したが、ここにいるのは自分だけだとわかり、ほっと一安心して街道に出ようとした。間違っていなければ、パリに通じているはずだ。  だが何頭かの馬がロカンクールから橙色の制服に引かれてやって来るのを見て、ひどく不安になり、道に出るのをやめて森に舞い戻った。  ――栗の木の陰で休もう。追手がいても、捜すなら街道を捜すだろうし。木から木へ、辻から辻へ、今夜の内にパリに潜り込むぞ。パリは大きいと言うし。僕みたいな小さな人間はすぐに紛れてしまうはずだ。  これはいい考えに思えた。天気がいいのと同じくらい。森が暗いのや、地面が苔むしているのと同じくらいに。それまでは陽光が草を焼き、地面から花や草の甘い香りを立ちのぼらせていたが、そんな厳しく容赦ない太陽もマルリーの丘の後ろに隠れ始めた。  その頃になると空に穏やかな深い静寂が訪れ、辺りも暗くなり始めた。花びらを閉じた花が、眠りに就いた昆虫をがくの中に匿い出す。ぎらぎらとてかった身体でぶんぶんと唸っていた羽虫たちは、木の洞の我が家に帰還し、鳥たちは声も立てず葉陰に移り、聞こえるのはかすかな羽擦れの音だけ、なおも響いている歌声は鶫《ツグミ》の甲高い鳴き声と、駒鳥の控えめな囀りだけである。  森はジルベールにとっては庭も同然だ。物音のことも静寂のこともわきまえていた。だからあれこれ考えたり子供っぽい恐怖に囚われたりすることもなく、枯葉の散らばったヒースに飛び込んだ。  不安などなかった。それどころか、非常に満足していた。混じり気のない自由な空気を目一杯吸い込むたびに、禁欲的なジルベールは、人間の弱さに対し張りめぐらされた罠などことごとく克服したような気持になっていた。パンもお金も家もないのが何だというんだ? 不自由だったじゃないか? 好きなように出来なかったじゃないか?  大きな栗の木の下で横になると、苔むした太い根と根の間がちょうど柔らかなベッドになった。空を見上げて微笑むと、ジルベールは眠りに就いた。  鳥の鳴き声で目が覚めた。まだ日が出たばかりだ。堅い木のせいで痛む肘を起こすと、青く霞む曙光が三つ又にたなびいているのが見える。耳を澄ませば露に濡れた小径を兎が素早く駆け抜け、物好きな鹿が丈夫な脚を踏みしめて道の真ん中で立ち止まり、木陰に横たわる見慣れぬ存在を見つめてから、本能に導かれるままにとっとと逃げ出していた。  すっかり起き上がるとお腹が空いていることに気づいた。そういえば昨日、ザモールとの会食を拒んだのだっけ。ヴェルサイユの屋根裏で昼食を食べてから、何も口にしていないことになる。自分が木々の天幕の下にいることにようやく気がついたが、ロレーヌとシャンパーニュの木立を堂々と踏破したジルベールには、夜中にアンドレを待ち伏せしようとした翌朝にタヴェルネの茂みやピエールフィットの藪の中で目が覚めたほどにしか思えなかった。  だがいつもなら傍らには喇叭に驚いた山鶉の雛や、木にとまっていたのを仕留めた雉があるのに、今は近くには帽子しか見えなかった。長旅でくたびれているうえに朝露ですっかり駄目になっている。  つまり、これまでのことは夢ではなかったんだ。目を覚ましてすぐにそう思った。ヴェルサイユやリュシエンヌは現実だった。意気揚々とヴェルサイユに入り、リュシエンヌを出る時には怯えていたのだ。  こうして現実に引き戻されたせいで、ますます空腹が募り、ますます辛くなって来た。  ジルベールは無意識のうちに辺りを探していた。風味豊かな桑の実、野生のリンボクの実、しゃきしゃきとした木の根っこ。これは蕪よりは渋いものの、朝から肩に道具を担いで開墾地に向かう木樵たちには珍重されていた。  だがまだそんな季節ではなかったし、見つかったのは奏皮、楡、栗、よく砂地で見かけるどんぐりだけだった。  ――すぐにパリに向かおう。後まだ三、四里、多くても五里、それなら二時間で行ける。二時間くらいが何だ! それで楽になれるんだぞ。パリならパンもあるし、正直で勤勉な若者だとわかれば、職人さんだって働いた駄賃にパンを分けてくれるはずだ。  日中には次の日の食事のことを考えるとして、その後は? 何も。次の日もまたその次の日も、僕は成長し、近づいてゆくんだ……目指す目的に。  ジルベールは足を早めた。街道に戻りたいのに、方角の見当がつかない。タヴェルネや近隣の森でなら、東も西もよくわかっていた。その時々の太陽が時刻も道も教えてくれた。夜には星が案内役だった。それが金星や土星や明けの明星という名で呼ばれていることは知らなかったけれど。ところがこんな知らない土地では、誰にも増して何もわからない。道を求めてあちこちをでたらめに探すしかなかった。  ――よかった。道しるべが見える。  辻まで進むと、そこには道しるべがあった。  確かに三つ。一つはマレ=ジョーヌ、一つはシャン・ド・ラルエット、一つはトル=サレを指していた。  ほとんど進んでいなかったのだ。森から出られないまま三時間もかけて、ロン・デュ・ロワから王子ヶ辻まで戻っていたことになる。  額に汗を流し、何度も上着を脱ぎ捨て栗の木に登った。だがてっぺんまで登っても、見えるのはヴェルサイユだけだった。ある時は右に、ある時は左に。ヴェルサイユに連れ戻されるのが運命なのではないかと思えた。  リュシエンヌの連中がこぞって追いかけて来ると思い込んでいたため街道に出ようとはせず、常に木陰に身を潜めながら、気が狂ったようになってヴィロフレ、シャヴィーユ、セーヴルを通り過ぎた。  ムードンの城館で五時半の鐘が鳴る頃には、工場とベルビューの間にあるカプチン修道院まで来ていた。十字架の上に登るとセーヌ川、市場町、手前側の人家の煙が見えた。十字架が折れることも、シルヴァンのように高等法院から車責めの判決を受けることもいとわなかった。  だがセーヌ川の脇、町の真ん中、家々の門前には、あれほど遠ざかりたいと思っていたヴェルサイユの街道があった。  ジルベールはしばし疲れも空腹も忘れた。地平線の向こうにまだいくつもの家屋が朝靄に隠れているのが見えたのだ。間違いない、あれがパリだ。町を目指して駆け出し、息が上がるまで走り続けた。  気づけばムードンの森の真ん中、フルーリーとプレシ=ピケの間にいた。  ぐるりと見回し、――さあ、遠慮なんかいらない。早起きの職人を見つけるんだ。きっとパンを抱えているから、「人はみな兄弟、助け合わなくてはいけません。あなたはパンをお持ちですが、昼食にはちょっと多いし、一日分だとしても余りそうですよね。ところが僕はお腹が空いているんです」と言おう。そうすればきっとパンを半分分けてくれないだろうか。  飢えのせいでますます哲学者じみて来たジルベールは、頭の中で反芻し続けた。  ――だいたい、すべてのものを地上の人間は分かち合っているんじゃないのか? すべてを生み出した普遍の神が、土を肥やす空気や果実を肥やす土を、こっちに与えようかあっちに与えようか選り分けたとでも言うのだろうか? なのに搾取されているものもある。だが主の目から見れば、哲学者の目で見たのと同じく、人は何物も所有していないはずだ。人が持てるものは神が貸し与えたものだけなんだから。  ジルベールは、当時の人々が感じ取っていた曖昧で不確かな考えを直感的にまとめただけに過ぎない。それは雲のように空中に漂い頭上を移ろい、ただ一つのことに向かって積もり積もった、嵐の前触れであった。  ジルベールは道を進みながら再び考えに耽った。――一部の人が万人のものを我がものにしている。そいつらから力ずくで奪うことは出来るはずだ。本来は分かち合わなくてはならないものなのだから。同胞がパンを山ほど持っていたとして、パンをくれるのを拒んだとしたら! 僕は……動物に倣い、あらゆる良識と正道に従って、力ずくで奪うつもりだ。だってそれが自然な欲求の流れなんだから。もしかするとこんな風に言われるかもしれない。「君が欲しがっているのは妻と子供の分だ」と。あるいは、「俺は力持ちでね、君がどう言おうとこのパンはいただくよ」と。  ジルベールは飢えた狼のようになって、空き地にたどり着いた。その中央に澱んだ水をたたえた池があり、葦や睡蓮に縁取られていた。  草の生えた斜面を下ると、長い脚をした昆虫が水の上を行き交い、トルコ石か勿忘草の茂みが敷かれているかのようにきらめいていた。  この景色の背景、いわば円周の外側に当たる部分には、大きなポプラが生垣を形作り、その銀色の幹の隙間を埋めるようにして榛が枝を茂らせている。  六本の道がこの広場らしき場所に通じていた。そのうちの二本は太陽にまで続いているように見えた。遙か遠くの木々の梢が太陽によって金色に彩られている。残る四本は星型に広がり、青い森の奥深くに消え失せていた。  この緑の広場は森のどの場所よりも涼しく華やいでいるように感じられた。  ジルベールが通って来たのは薄暗い道の一本だった。  ジルベールは上記の光景を一通り見渡した後で、真っ先に目に飛び込んで来たものに目を戻した。溝のような薄暗がりの中、倒木に腰かけている白髪の人物である。顔つきが穏やかで線が細く、茶色の粗羅紗の上着、同じ素材のキュロット、縦に灰色の刺繍の入ったジレを着ていた。灰色の綿靴下が形の良い逞しい足を覆っている。留金付きの短靴にはところどころ汚れたままだったが、爪先の先っぽだけは朝露で洗われていた。  傍らには蓋の開いた緑色の箱が置かれ、摘んだばかりの植物が詰まっていた。足に挟んだ棒には丸い握りが光っており、先端は幅二プス長さ三プスの鋤になっていた。  ジルベールは以上のことを一瞥したものの、何よりもまず目に飛び込んで来たのは、老人が千切って口にしていたパンであった。遠くから窺っている花鶏《アトリ》や川原鶸《カワラヒワ》にも分けてやると、鳥たちはすぐにパンくずに群がり、けたたましく囀りながら茂みの奥に飛び去っていた。  老人は穏やかながらも鋭い目つきでそれを眺めながら、時折り格子模様のハンカチに手を入れてパンの合間にさくらんぼを味わっていた。 「よし、この人だ!」ジルベールが枝を掻き分け、その人の方に四歩進んだところで、老人が我に返った。  ジルベールは三分の一も進まないうちに、老人の穏やかで物静かな様子を目の当たりにして、立ち止まって帽子を取った。  老人の方も他人がいることに気づき、急いで服に目をやり、ボタンを留めた。 第四十三章 植物学者  ジルベールは腹を決めてそばまで近づいた。だが口を開いた後で何も言わずにまた閉じてしまった。気持は揺らいでいた。施しを乞うような気がしたのだ。正当な権利を要求するのではなく。  ジルベールが躊躇っているのを見て、老人も気が楽になったようだ。 「何かお話が?」と微笑んでパンを木の上に置いた。 「ええ、そうなんです」 「何でしょう?」 「失礼ですが、鳥に餌をやっていらっしゃいますよね、『神は之を養ひたまふ』というのに」 「神はきっと養って下さるでしょう。それでも、人間の手も鳥たちを養う手段の一つには違いありません。それを責めるのは間違っていますよ。人気のない森の中であろうと人通りのある町中であろうと、パンには事欠かないのですから。ここでは鳥たちがついばみ、そこでは貧しい人たちが手に取るのです」 「ああ!」ジルベールは老人の明晰で穏やかな声にひときわ胸を打たれた。「こうして森の中にいながら、鳥たちとパンを奪い合う人間もいるんです」 「あなたのことかな? もしやお腹が空いているのですか?」 「腹ぺこなんです。もしよければ……」  老人はすぐさま気の毒そうにパンに手を伸ばした。そこで不意に考え込んで、鋭く射通すような目つきでジルベールを眺めた。  考えてみると、目の前にいるのはそれほど飢えている人間には見えなかった。服は整っている。確かにところどころ土で汚れてはいるが。肌着は白かった。それもそのはず、前日ヴェルサイユで荷物から引っぱり出したシャツなのだ。そのシャツも確かに湿ってしわくちゃではあったが。つまりこの青年は明らかに森で一夜を過ごしたのだ。  それでいて白く細い腕はやはり、労働者ではなく夢想家のものだ。  如才のないジルベールのことである。老人が自分を疑い躊躇っていることに気づき、そうだとすると好意に甘えられなくなると思い慌てて前に出た。 「お腹が空きっぱなしなんです。昨日の昼から何も食べていなくて。もう二十四時間、何も摂っていません」  その言葉の真実であることは、真剣な表情、震えた声、青白い顔から明らかだった。  老人は躊躇うのを(正確には不安がるのを)やめて、さくらんぼの入ったハンカチとパンを差し出した。 「ありがとうございます」そう言いながらジルベールはハンカチを返した。「でもパンだけで充分です」  そのうえパンを二つに千切って半分だけもらい、もう半分は老人に返すと、傍らの草の上に腰を下ろした。それを見て老人はますますびっくりしていた。  食事はあっという間に終わった。パンは少ししかなく、ジルベールは飢えていたのだ。老人はジルベールを困らせるようなことは何も言わなかったが、無言のままひそかに観察を続けた。その間も表向きは箱の中の草花に注意を払い、草花は深呼吸でもするように背筋を伸ばし、匂い立つ頭をブリキの蓋の高さまでもたげている。  だがジルベールが池に近づくのを見て、慌てて声をあげた。 「飲んじゃいけない! 汚れているんです。去年の枯草が腐っているし、水面を泳いでいる蛙が卵を産んでいるので。どうせならさくらんぼを食べなさい。これだって喉の渇きは癒えますよ。さあお取りなさい、どうやら出しゃばりな押しかけ客ではないようですね」 「ええ、確かに僕は出しゃばりとは正反対の人間だし、出しゃばることほど嫌なことはありません。ついさっきヴェルサイユでそれを証明して来たばかりです」 「おや、ヴェルサイユからいらしたのですか?」 「ええ」 「あんな豊かな町で飢え死にするのは、よほど貧しいかよほど高潔な人だけでしょう」 「どちらも正解です」 「主の方と喧嘩でもしたのですか?」老人は問いかけるような視線をジルベールにぶつけながら、箱の中の植物をきれいに並べていた。 「主人なんていません」 「いけません、そんな大それた答えは」老人は帽子をかぶった。 「でも嘘偽りのないことですから」 「誰もがこの世に主人を持っているのですよ。『主人などいない』と口にしては、自尊心を正しく理解しているとは言えません」 「どうしてです?」 「だってそうではありませんか? 老いも若きも誰もが皆、一つの力によって支配されているのですから。人間によって縛られている者もいれば、信条や原理によって縛られている者もいるでしょうが、主人と言っても声や手で命令したりぶったりする人間たちとは限らないということです」 「だとしたら、僕は信条に縛られているんです。精神に苦痛なく主人として受け入れられるのは、信条だけですから」 「どのような信条でしょうか? 見たところまだお若い、既存の主義を持つには早すぎるようですが」 「人間はみな兄弟であり、生まれながらにして一人一人が互いに一つの義務を負っているということです。ちっぽけなものとはいえ僕も神から何らかの価値を授かりましたが、僕が他人の価値を認めるのと同じように、僕の価値も認めてくれるよう他人に要求する権利があります。行き過ぎない限り。不当なことや不名誉なことさえしなければ、人間としての性質に沿う場合に限って、尊敬を分かつ権利が僕にもあるということです」 「教えを受けたのでしょうか?」 「生憎ですが。でも『不平等起源論』と『社会契約論』を読んだんです。この二冊の本から学んだことが、僕の智識のすべてだし、恐らく希望のすべてです」  この言葉を聞いて、老人の目がきらりと光った。箱の仕切りに並べ損ねて、美しい花びらをした常盤花を危うくばらばらにしてしまうところだった。 「それがあなたの信条ですか?」 「あなたの信条でないことは確かでしょうね。これはジャン=ジャック・ルソーの信条なんです」  老人ははっきりと疑念を表したが、ジルベールの自尊心を傷つけないように気をつけていた。「しかし、正確に理解なさったのでしょうか?」 「これでもフランス語は理解しています。特に論理的で詩的であれば……」 「そういう意味ではありませんよ」老人は微笑んだ。「今は詩についておたずねしているのでないことは、おわかりでしょう。お尋きしたかったのは、哲学を学ばれてその全体系の本質を把握できたかということです、つまりル……」  老人は言葉を止めて赤くなった。 「ルソーの体系を。僕は学校で学んだわけではありませんが、読んだ本が何を教えてくれたのかは直感的にわかります。『社会契約論』は、有益で素晴らしい本でした」 「若い人には退屈なテーマでしょう。二十歳の夢にとっては無味乾燥な考察、春の想像力にとっては苦くて香りのない花ですよ」老人は悲しげにそっと口を利いた。 「不幸は人の成長を早めますし、それに好き勝手に夢を見ていれば苦しいことも出て来ますから」  老人は目を半ば閉じて考え込んだ。これは考える時の癖なのだが、それが老人の顔に何らかの魅力を与えていた。 「それは誰に対する皮肉でしょう?」老人は赤くなってたずねた。 「誰のことでもありません」 「しかし……」 「断言できます」 「ジュネーヴの哲学者のことを学んだと仰ったように聞こえましたが、彼の人生を皮肉ったのでは?」 「本人のことは知らないんです」ジルベールは率直に答えた。 「知りませんか?」老人は溜息をついた。「不幸な人間ですよ」 「何ですって! ジャン=ジャック・ルソーが不幸? それじゃあ正義なんて何処にもないんですね。不幸ですって! 人間の幸福のために人生を捧げた人が?」 「まあまあ。確かに本人のことを知らないようですね。それよりあなたのことを聞かせてもらえませんか?」 「よければこのまま話を続けたいのですが。だって僕みたいな誰でもない人間の話を聞いてもしょうがないでしょう?」 「それにわたしのような見ず知らずの人間を信用するのは不安ですからね」 「そんなつもりじゃありません! 不安なわけがないでしょう? 誰が何をしようと、今よりひどい目に遭わせられられるわけがないんですから。僕がどんな状態で現れたか思い出して下さい。独りぼっちで、惨めで、飢えていました」 「行き先は何処でしょうか?」 「パリに向かっているところですが……|パリ人《パリジャン》の方でしょうか?」 「そうです……いえ、違います」 「ああ! どっちなんです?」ジルベールは笑い出した。 「嘘はつきたくないので、口を開く前によく考えてはならないと常々気をつけているんですよ。長年パリに住んでいてパリで生活して来た人間をパリジャンというのであれば、わたしはパリジャンです。ですがもうパリにはおりません。何故そんな質問を?」 「僕にとっては今まで話していたことと関係があるんです。つまりこういうことです。あなたがパリにお住まいなら、きっとルソー氏をご覧になったことがあるはずです」 「確かに何度か見たことはあります」 「通りかかればみんなが振り返るのでしょうね? 尊敬されていて、人類の保護者として指を指されるんでしょう?」 「そんなことはありません。両親にけしかれられた子供たちに後ろから石を投げられていました」 「何ですって!」ジルベールは愕然とした。「それでも裕福ではあるのでしょう?」 「今朝のあなたと同じように感じることも多いようですよ。『何処で朝食を食べよう?』」 「でも、貧しくたってみんなから尊敬されて慕われているんでしょう?」 「毎晩床につく時には明日のこともわからない状態です。バスチーユで目を覚まさずに済むのかどうか」 「そうなんですか! さぞかしみんなを憎んでいるのでしょうね?」 「愛しても憎んでもいません。嫌気が差しただけです」 「自分を迫害する人たちを憎まないなんて、信じられません!」 「ルソーはいつも自由でした。ルソーは自分一人で生きていけるほどには強かったし、強さと自由は人を穏やかで善良にさせます。奴隷状態と弱さだけが人を辛辣にさせるのですよ」 「だから自由に憧れていたんです」ジルベールは胸を張った。「今お話し下さったようなことは見当がついていましたから」 「人は牢獄の中でも自由です。明日ルソーがバスチーユに入れられたとして――いつかはそうなるでしょうが――それでもスイスの山にいた時とまったく変わらず自由に書いたり思索したりするでしょう。わたしだって人間の自由とは欲することを行うことにあるとは思いませんし、欲しないことを行うよう無理強いさせないことにあると思っています」 「つまり、ルソーがそう書いているのですか?」 「そのはずですよ」 「『社会契約論』ではありませんよね?」 「ええ、『孤独な散歩者の夢想』という新作です」 「失礼ですが、僕らはある点で見解が一致するのではないでしょうか」 「というと?」 「二人ともルソーを敬愛しているという点です」 「こうして錯覚の時代に生きているあなたは、どうお考えなんです?」 「物事については誤っているかもしれませんが、人間についてはそんなことはありません」 「ああ! いずれわかるでしょうが、誤まっているのはまさしく人間についてなんですよ。ことによればルソーはほかの人々よりはいくらか正しいかもしれません。でもいいですか、彼には欠点があります。大きな欠点が」  ジルベールは納得していないように首を振った。だがそんな不作法な態度を見せられながらも、老人は同じように丁寧に応じ続けた。 「出発点に戻りましょう。先ほどあなたに、ヴェルサイユで主の方と喧嘩でもしたのかとたずねましたね」  ジルベールもいくらか落ち着いて答えた。「主人などいない、と僕は答えました。さらにつけ加えるなら、大きな力を手にするかどうか決めたのは僕自身でしたし、ほかの人たちが羨むような条件を拒んで来たんです」 「条件ですか?」 「ええ、暇をもてあましている大貴族を楽しませるという条件でした。だけど僕はまだ若いのだし、学ぶことも上を目指すことも出来るのだから、貴重な若盛りを無駄にしたり人間の尊厳を自ら危うくするようなことはしてはならないと思ったんです」 「仰る通りです」と老人は深くうなずいた。「ですが上を目指すに当たってはっきりとした計画があるのですか?」 「僕は、医者になりたいと思っています」 「慎ましやかで犠牲を伴う真の科学と、メッキで塗りたくられた恥知らずなペテンを見わけることが出来る、立派な良い仕事です。真実を愛するのなら、医者におなりなさい。輝きを愛するのなら、医者をおやりなさい」 「でも学ぶには大金が必要ではないでしょうか?」 「お金は必要ですが、大金というのは言い過ぎでしょう」 「確かにジャン=ジャック・ルソーは何も費やさずに学んだそうですね」 「何も費やさずに……ですか!」老人は悲しげに微笑んだ。「神が人間に与え給うた大切なものを『何も』と言うのですか。純心、健康、睡眠。あのジュネーヴの哲学者はそれだけのものを費やして、ほんの僅かなことを学んだだけでした」 「ほんの僅かなですって!」ジルベールは露骨に嫌な顔をした。 「そうですよ。人にたずねてみて、ルソーのことを何と言うか聞いてご覧なさい」 「まずは偉大な音楽家でしょう」 「ルイ十五世が情熱的に『尽くしてくれるひとを失った』と歌ったからといって、『村の占い師』が良いオペラだとは限りません」 「偉大な植物学者です。『植物学についての手紙』をご覧下さい。僕は部分的にしか手に入れてませんが、あなたならご存じでしょう、こうして森で植物を集めてらっしゃるんですから」 「植物学者扱いされながら、実際には……」 「最後まで言って下さい」 「実際には、単なる植物屋でしかないのもよくある話です」 「ではあなたはどうなんですか……? 植物屋ですか、植物学者ですか?」 「ああ! 草や花と呼ばれる神の驚異を前にした、しがない無知な植物屋です」 「ルソーはラテン語が出来るのでしょう?」 「ひどいものですよ」 「でも新聞で読んだのですが、タキトゥスという昔の作家を翻訳していますよね」 「思い上がりですよ! どんな人間も自惚れることがあるものですが、ルソーもあらゆることに取り組みたいと思い上がったんです。ですが本人も第一巻(翻訳したのはそれだけでしたが)の序文で言っています、ラテン語は苦手だし、タキトゥスは手強い相手なのですぐにうんざりしてしまう、と。いえいえ、あなたには悪いが、ルソーも万能ではありません。虎の威を借る狐とよく言うでしょう。どんな小さな川でも嵐になれば溢れて、湖のように見えるものです。ですが船を進めようとしてご覧なさい、すぐに座礁してしまいますよ」 「つまりあなたに言わせると、ルソーはうわべだけの人間だと?」 「そうです。恐らく他人よりはちょっとばかりうわべが厚く見えるだけですよ」 「うわべでもそのくらいになれれば上出来なのではありませんか」 「当てつけでしょうか?」先ほどジルベールを落ち着かせたのと同じように穏やかだった。 「とんでもありません! あなたのお話はとても楽しく、ご不快にさせるつもりなんてありません」 「ですが、わたしの話の何処が良かったのですか? パンとさくらんぼのお礼にお世辞を言っているわけではないのでしょうし」 「その通りです。お世辞なんか絶対に言うもんですか。偉ぶりもせず、親切に、子供扱いせず一人の若者として話してくれたのはあなたが初めてでした。ルソーについては意見が食い違っていますけれど、ご親切に隠された気高さに心が打たれました。あなたとお話ししていると、自分がまるで満ち足りた部屋の中にいるみたいです。鎧戸は閉まっていて、真っ暗なのに満ち足りているのはわかるんです。あなたがその気になれば話の中に光を射し入れて、僕の目を眩ませるんです」 「ですがあなたの方だって、その周到な話しぶりを聞けば、ご自身で仰るほど教養がないとは信じられませんよ」 「こんなのは初めてのことで、こんな言葉遣いが出来たことに自分でも驚いています。何となくしか意味はわからないし、一度耳にしたことがあったので使ってみただけなんです。本で読んだことはありますが、意味なんてわからなかった」 「そんなに読んだのですか?」 「何冊も。でもまた読み返すつもりです」  老人は目を見張った。 「手に入る本はすべて読んでしまいましたから。いえ、良い本だろうと悪い本だろうとただただ貪っていたんです。どの本を読めばいいのか教えてくれる人なんていませんでしたから。何を忘れて何を覚えればいいのかなんて、誰も教えてくれませんでした!……ごめんなさい、あなたのお話が面白かったからといって、僕の話もそうだなんて思ってはいけませんね。植物採集をしていらっしゃったのに、お邪魔してしまいました」  ジルベールは立ち去ろうとする素振りを見せたが、本音では引き留めて欲しがっていた。老人は小さな灰色の瞳でジルベールを射抜き、心の底まで見透かしているようだった。 「そんなことはありませんよ。もう箱は一杯ですし、苔はもう要りません。この辺りには美しい蓬莱羊歯《アジアンタム》が生えていると聞いたのですが」 「待って下さい。羊歯《それ》ならさっき岩の上で見たような気がします」 「遠くでしょうか?」 「いえ、五十パッススくらいのところです」 「ですがどうしてそれが蓬莱羊歯《アジアンタム》だとわかるのですか?」 「僕は森の生まれです。それに、僕がお世話になっていた家のお嬢様は植物学の趣味もありました。標本の下にはお嬢様自身の手で植物の名前が書いてありました。僕はよくその植物と名前を眺めていたので、さっき見たのが、標本には岩苔と書かれてあったアジアンタムのことではないかと思ったんです」 「では植物学に興味がおありなのですか?」 「興味があるかですって? ニコルから話を聞いた時――ニコルというのはアンドレ嬢の小間使いなのですが――お嬢様がタヴェルネの近くで何かの植物を探していたけれど見つからなかった、という話を聞いた時、その植物の形を教えて欲しいとニコルに頼んだんです。するとアンドレは、頼んだのが僕だとは知らずに簡単な絵を描いてくれることもありました。ニコルはそれをすぐに持って来てくれたので、僕は野原、牧場、森を駆けずり回って、その植物を探しました。見つかったら鋤で引っこ抜いて、夜中に芝生の真ん中に植え直しておきました。そうしたらある朝、散歩中にアンドレが声をあげて喜んだんです。『何て不思議なのかしら! ずっと探していた植物があんなところに』」  老人は今まで以上にジルベールをじっと見つめた。ジルベールも自分の言ったことに気づいて真っ赤になって目を伏せたりしなければ、老人の目に宿っているのが興味だけではなく溢れる愛情であることがわかったはずだ。 「そうですか! 植物学の勉強を続けなさい。きっと医者への近道になるはずです。主は無駄なものなど何一つお作りになりませんでしたから、どんな植物もいずれ科学書で解説されるようになるでしょう。まずは薬草の違いを覚えて下さい、それから一つ一つ薬効を覚えるんです」 「パリには学校があるんですよね?」 「無料の学校だってありますよ。例えば外科学校は当世の恩恵の一つです」 「そこの講義を受けます」 「簡単なことです。きっとご両親もあなたの気持を知れば生活費は出してくれますよ」 「両親はいません。でも大丈夫です。自分で働きますから」 「そうですね。それにルソーの作品を読んだのでしたら、どんな人間も――君主の息子であろうと――手に職をつけるべきだというのはおわかりでしょうし」 「僕は『エミール』は読んでないんです。その箴言は『エミール』に書かれているんですよね?」 「ええ」 「タヴェルネ男爵が今の箴言を馬鹿にして、我が子を指物師にせずに残念だわいと言っていたのを耳にしたことがあるんです」 「ご子息は何になったのですか?」 「将校に」  老人は微笑みを浮かべた。 「貴族はみんなそうです。子供に生きる手だてを教えずに、死ぬための手だてを教えるんですから。ですから革命が起きて追放されれば、他人に物乞いをしたり剣を売ったりするほかない。ひどいことです。ですがあなたは貴族の息子ではないのですから、出来る仕事があるのでしょう?」 「初めに言ったように、僕は何も知らないんです。それに、実は、身体を激しく動かすきつい仕事はひどく苦手で……」 「すると、あなたは怠け者でしたか――」 「違います! 怠け者なんかじゃありません。力仕事ではなく、本を下さい、薄暗い部屋を下さい。そうすれば、僕が選んだ仕事に昼も夜も全力を尽くしているかどうかわかるはずです」  老人はジルベールの白く柔らかい手を見つめた。 「好き嫌い、勘。選り好みがいい結果を生むこともあります。ですがそれにはちゃんとした道筋が必要です。どうです、中学校《コレージュ》は出ていなくとも、せめて小学校《エコール》に行ったことは?」  ジルベールは首を振った。 「読み書きは出来るのでしょう?」 「母が死ぬ前に読みを教えてくれてました。僕の華奢な身体を見て、母はいつも言っていました。『労働者にはなれそうもないね。僧侶か学者になるといい』と。勉強を嫌がると、『読みを覚えなさい、ジルベール。木を伐ったり鋤を持ったり石を磨いたりはしないことだ』と言われました。だから学んだんです。生憎、母が死んだ時にはやっと読めるくらいでしたけれど」 「では書取は誰から教わったのですか?」 「独学です」 「独学?」 「ええ、棒を削って、砂を濾して表面を均して。二年間、複製でもするように一冊の本を書き写しました。ほかの字体があることも知らないまま、ようやく真似ることが出来るようになりました。それが三年前、アンドレが修道院に入ってしまったんです。数日ぶりに、配達夫が父親宛のアンドレの手紙を僕に言伝てた時でした。そこでようやく、活字体とは別の字体があることを知りました。タヴェルネ男爵が封を破って封筒を捨てたので、僕はその封筒を拾って大事に仕舞っておいて、次に配達夫がやって来た時に宛先を読んでもらったんです。それにはこう書かれてありました。『ムッシュー・ド・タヴェルネ=メゾン=ルージュ男爵宛、男爵居城、ピエールフィット経由』。 「その文字の一つ一つと、対応する活字体を照らし合わせて、三つを除けばどのアルファベットも二本の線で出来ていることに気づいたんです。そこでアンドレの書いた文字を書き写しました。一週間後には、この宛名を一万回は書いたでしょうか、書取を身につけました。ある程度は書けるようになりましたし、どちらかというと悪い方ではないと思います。だから。だから僕の望みはそれほど大それたものではないはずです。だって文字は書けるし、手に入った本はすべて読んでいるし、読んだことはすべて繰り返し考える努力はしています。僕の筆が必要な人や、僕の目が必要な盲人や、僕の口が必要な唖者が見つからないとも限らないでしょう?」 「忘れてやいませんか、主人を持つことになるんですよ、主人嫌いのあなたが。書記や朗読係だって第二身分の召使いなんです」 「そうですね……」ジルベールは青ざめて呟いた。「でもそのくらい。絶対に上を目指すんです。パリの舗石を運びます、必要なら水を運びます。成功しようと途中で死のうと、どっちにしたってそれまでには目的を達成するんだ」 「まあ、まあ。見たところどうやら熱意と勇気はあるようですね」 「とても親切にしていただきましたが、でもあなただって、お仕事に就いていらっしゃるんでしょう? 金融関係の方のような服を着ていらっしゃいますが」  老人は穏やかで翳のある微笑みを見せた。 「確かにある職業に就いています。人は何かをやらなくてはなりませんからね。ですが金融とは何の関係もありません。金融業者は植物なんて採りませんよ」 「お仕事で集めていたのですか?」 「そのようなものです」 「貧しいのでしょうか?」 「ええ」 「与えるのは貧しき者たちと言うじゃありませんか! 苦しいからこそ智恵を授かったのも事実ですし、ためになる助言がルイ金貨より貴重なのも事実です。だからどうか助言を与えて下さい」 「与えるのは助言だけでは足りないのではないでしょうか」  ジルベールは笑みを浮かべた。 「そうでしょうか」 「生活費にどのくらい必要だと思いますか?」 「たいしてかからないでしょう」 「パリのことをまったく知らないようですね」 「昨日リュシエンヌの高台から見たのが初めてです」 「では大都市で暮らすのにどれだけお金がかかるか知らないのですね?」 「だいたいどのくらいでしょうか……? 比率を教えて下さい」 「いいでしょう。例えば地方で一スーかかるとしたら、パリでは三スーかかります」 「そうですか……じゃあ働いた後に休む場所のことを考えたら、一日当たり六スー必要なんですね」 「さあ、だからわたしは人間が好きなんです。一緒にパリにいらっしゃい。暮らしていけるだけの仕事もお世話してあげますよ」 「いいんですか!」ジルベールは喜びに酔いしれた。すぐに改めて確認した。「実際に働くようになれば、それは施されているのとは違いますよね?」 「もちろんですよ。安心なさい、わたしは人に施しを与えるほど裕福ではありませんから。手当たり次第に施しを与えるほど頭がおかしくもありませんしね」 「よかった」ジルベールはこの厭世家の冗談に傷つくどころか心が軽くなった。「僕が好きなのは言葉です。お世話になります、お礼の言いようもありません」 「それでは一緒にパリに来ることは決まりですね?」 「はい、そうしていただけるのなら」 「もちろんですよ、こちらからお願いしたんですから」 「絶対にしなくてはならないことはありますか?」 「何も……働くだけで結構です。それに、どれだけ働くかを決めるのはあなた自身です。あなたには若々しくする権利がある。幸せでいる権利や自由でいる権利……それに暇を見つけて何もしない権利だってあるのですから」  老人は心ならずといった微笑みを浮かべてから、空を見上げた。 「ああ、若さ! 力! 自由!」そう言って溜息をついた。  この言葉の間、線が細く整った顔立ちに何とも言えぬ翳りが広がっていた。  やがて老人は立ち上がって杖にもたれた。 「それでは」とようやく明るさを取り戻して言った。「今後のことも決まったのですから、よければもう一箱分植物を集めませんか? ここに灰色紙がありますから、初めに集めた分を分類しておきましょう。それはそうと、もうお腹は空いていませんか? まだパンは残っていますよ」 「お昼に取っておきませんか」 「さくらんぼだけでも食べて下さい。かさばってしまいますから」 「そういうことでしたらいただきます。だけど箱は僕がお持ちします。そうすれば楽に歩けるでしょうし、僕はこういうのに慣れているせいで無理をさせてしまうかもしれませんから」 「しかしまあ、あなたは幸運の使者ですよ。あそこに見えるのは髪剃菜《picris hieracioides》じゃありませんか。朝からずっと探していたというのに。それに足許、気をつけて! 牛繁縷《cerastium aquaticum》です。駄目です、抜かないで! まだまだ勉強することがありますよ。一つには摘むには湿り過ぎていますし、それにまだそれほど大きくないでしょう。午後の三時に戻って来た頃に|コウゾリナ《picris hieracioides》を摘みましょう。|ウシハコベ《cerastium》の方は一週間後に摘みに来ましょう。それに、採取する前に友人の学者に見せてやりたいんです。その友人にはあなたのことをお願いするつもりなのですがね。それはそうと先ほどお話ししていた場所に案内してもらえますか。きれいな蓬莱羊歯《アジアンタム》があったのは何処ですか」  ジルベールは先に立って歩き出した。老人がそれを追い、二人は森の中へ姿を消した。 第四十四章 ジャック氏  絶望している時にいつも助けてもらえる幸運を喜びながら、ジルベールはずんずんと前を歩き、時折り老人を振り返った。つい先ほどはこの老人の言葉をほんの少し聞いただけで、とても穏やかで素直な気持ちになれたのだ。  こうしてジルベールは羊歯のあるところまで老人を案内した。確かに素晴らしい蓬莱羊歯《アジアンタム》だった。それを採取し終わると、二人はまた別の植物を探し始めた。  ジルベールは自分で思っている以上に植物に詳しかった。何せ森育ちゆえ、森の植物のことなら友達も同然だった。ただし知っていたのは俗称だけだ。ジルベールが名前を挙げるたびに、老人が学名を教えてくれたので、同じ科の植物を見つければそれを懸命に繰り返した。二、三回ギリシア語やラテン語の名前を間違えた。そのたびに老人が一音一音ばらばらにし、音節と原語との関係を教えてくれたので、ジルベールは植物名だけではなく、プリニウスやリンネやド・ジュシューが名づけたギリシア語やラテン語の意味まで覚えることが出来た。  その合間合間にジルベールは話をした。 「残念だなあ! こうして一日中あなたと植物を探して六スー稼げればいいのに。絶対に休んだりはしませんし、それに六スーだっていらないのに。朝くれたパン一切れで一日持ちますし。タヴェルネの水と同じくらい美味しい水も飲んで来たばかりですし。昨晩は木陰で休みましたけど、屋根裏よりもよほどぐっすりと眠れました」  老人は微笑んだ。 「やがて冬が来れば、植物は枯れ、泉は凍り、今は木の葉をそよがせている風も裸の木々の間を吹きすさぶことでしょう。そうなればねぐらに服に火が要りますからね、一日六スーあれば部屋、薪、洋服を捻出できたでしょうに」  ジルベールは溜息をつき、新たに植物を摘み、新たに質問をした。  二人はこうしてオルネー、プレシ=ピケ、クラマール・スー・ムドンの森で充実した一日を過ごした。  ジルベールはこうしていつしか打ち解けていた。老人の方もうまくいろいろなことを問いかけていた。それでもジルベールは、疑り深く、慎重で、臆病だったため、自分のことについては出来るだけ口をつぐんでいた。  シャティヨンで老人はパンと牛乳を買い、半分はジルベールの手に押し込んだ。それから二人はその日のうちに到着できるようにパリに足を向けた。  パリにいるというそのことを考えるだけで、ジルベールの胸は高鳴った。ヴァンヴの丘から、サント=ジュヌヴィエーヴ、廃兵院《アンヴァリッド》、ノートル=ダム、そして家並みが広大な海となってモンマルトルやベルヴィルやメニルモンタンの傍らにぱらぱらと波のように打ちつけているのを目にした時には、その高ぶりを隠そうともしなかった。 「ああ、パリだ、パリだ!」 「そう、パリ、家屋の山、諸悪の深淵です。壁に染み込んでいる苦しみが外に洩れ出すことがあれば、その石材の上に涙が滲み血が染まるのが見えることでしょう」  ジルベールは昂奮を抑え込んだ。もっとも、昂奮はそのうち次第に治まったのだが。  二人はアンフェールの市門を通った。パリの周縁は臭くて汚れていた。病院に運ばれて来た病人たちが担架に乗せられて通り過ぎる。裸同然の子供たちが泥水の中で犬や牛や豚とじゃれていた。  ジルベールは顔を曇らせた。 「ひどいものでしょう? ですがこんな光景すらそのうち見られなくなりますよ。豚や牛がいるのはまだ恵まれていますし、子供がいるのはまだ救われているのです。泥水だけは何処に行っても見かけますがね」  ジルベールはパリの暗い部分を目にする覚悟は出来ていた。だから老人の話にも嫌な顔はしなかった。  一方初めのうちこそ饒舌だった老人は、町の中心に近づくにつれて、徐々に口数が少なくなっていた。どうやら随分と気になることがあるらしく、ジルベールも遠慮して、柵の向こうに見える公園のことやセーヌ川に架かっている橋について聞くことが出来なかった。ちなみにこの公園はリュクサンブールであり、橋とはポン=ヌフであった。  しかしこうして歩きながらも、老人の心に不安が満ちているように思えたので、ジルベールは思い切って口を開いた。 「お住まいはまだ遠いのでしょうか?」 「もうすぐですよ」この質問のせいで老人をさらに陰鬱にさせてしまったようだった。  二人はフール通りのソワッソン邸の前を通り過ぎた。建物も玄関も通りに面していたが、その壮麗な庭園はグルネル通りやドゥー・ゼキュ通りにまで広がっていた。  教会の前を通りかかった時、ジルベールはその美しさに打たれ、しばし立ち止まって見とれて。 「綺麗だなあ」 「サン=トゥスターシュ教会です」  老人はそう言って見上げると、「もう八時ですか! 急ぎましょう、さあ早く」  大股で歩き出した老人の後をジルベールも追った。 「言い忘れていましたが――」あまりにも無言が続いたためにジルベールが不安になりだした頃、老人が口を開いた。「わたしには妻がいます」 「えっ!」 「家内は正真正銘の|パリっ子《パリジェンヌ》なのですが、遅くなるとうるさいんですよ。それから、家内は初めて見る人間にはよそよそしいことも覚えておいて下さい」 「出て行けということですか?」ジルベールはこの言葉に縮み上がった。 「違います、違います。こちらから招待したんですから、どうぞいらして下さい」 「それではお邪魔します」 「ここを右に、それからこちら、さあここです」  ジルベールが目を上げると、翳りゆく陽射しの下で、その場所の角、食料品店の上に、「プラトリエール街」と書かれてあるのが見えた。  老人はなおも足取りをゆるめないどころか、家に近づけば近づくほど、それまでにも増して大きく動揺していた。見失うまいとしてジルベールは、通行人、行商人の荷物、四輪馬車や二輪馬車の轅にぶつかった。  老人はジルベールのことをすっかり忘れてしまったようだった。せかせかと歩きながら、明らかに気がかりな考えに囚われていた。  やがて老人は上部に鉄格子のついた入口の前で立ち止まった。  穴から出ている紐を引くと、扉が開いた。  老人は振り向いて、戸口でぐずぐずしていたジルベールを見た。 「早くいらっしゃい」  そう言って扉を閉めた。  すぐ先は暗がりになっており、ジルベールは一歩踏み出しただけで暗く急な階段にぶち当たった。歩き慣れている老人はとっくに何段も上にいる。  ジルベールは老人に追いつき、老人に倣って階段を上り、立ち止まった。  そこは擦り切れたマットの敷かれた踊り場で、目の前に二枚の扉があった。  老人が呼び鈴の握りを引っ張ると、室内で甲高い音が鳴り響いた。スリッパの音がのろのろと聞こえ、ガラスの付いた扉が開いた。  五十代前半の女性が戸口に現れた。  不意に二つの声が混じり合った。一つは老人のもの、もう一つは戸口から現れた女性のものだ。  老人がおずおずと口を開いた。 「遅くなってしまって、テレーズ」  女性がぶうぶうと文句を言った。 「夕飯くらい時間通りに取りましょうよ、ジャック!」 「この埋め合わせはするよ」老人はいたわしそうに口にすると、扉を閉めてジルベールの手からブリキの箱を預かった。 「荷物持ちとはね! 結構なことじゃないの。薬草を運ぶのに自分の手をわずらわすことも出来なくなったなんてねえ。ムッシュー・ジャックが荷物持ちを連れて歩くなんて! 立派になったもんだね!」  ジャック氏と呼ばれてたしなめらた老人は、じっと堪えて暖炉の上に植物を並べながら答えた。「ねえ、少し落ち着こう、テレーズ」 「せめてお金を払うなり追い返すなりしておくれ。ここにスパイはいりませんよ」  ジルベールは死んだように真っ青になって扉をくぐりかけたが、ジャック氏に止められた。 「この人は荷物持ちでも、ましてやスパイでもないんだ。わたしが連れてきた客人だよ」ジャック氏がきっぱりと告げた。  老婦人の手がだらりと下がった。 「お客さんですって! お客さんとは恐れ入ったよ!」 「さあテレーズ」老人の声には柔らかさが戻ったが、どことなく威圧的なところも感じられるようになっていた。「蝋燭を灯して。暑かったので喉が渇いた」  老婦人は初めこそはっきりと聞こえるようにぶつぶつと呟いていたが、そのうち声は小さくなった。  老婦人は火打ち石を手に取り、火口の詰まった箱の上で打ちつけた。すぐに火花が散り、箱中に火が燃え上がった。  会話が続いている間も、その後に囁きと沈黙が訪れてからも、ジルベールはじっとしたまま口も利かず、扉の側で固まったまま、戸口を跨いだのを後悔し始めていた。  ジルベールが困っていることにジャック氏が気づいたようだ。 「どうぞお入りなさい、ジルベールさん」  夫がやけに丁寧な口を利いている相手をよく見ようとして、老婦人はその若く陰気な人物を振り返った。そのため、銅製の燭台の上で燃え始めたばかりの乏しい蝋燭の光の中で、ジルベールは老婦人を見ることが出来た。  皺の刻まれた赤らんだ、ところどころに悪意の滲んだ顔。目つきは快活というよりは激しく、激しいというよりは淫乱だった。品のない顔には表向き優しそうな表情が浮かんでいたが、その顔つきは声や応対を裏切っており、ジルベールは一目で激しい嫌悪を抱いた。  老婦人の方でも、ジルベールの青白くて弱々しい顔や、用心深く押し黙っているところや、ぎこちない様子がまるで気に入らなかったようだ。 「そりゃあ暑いし喉も渇いているでしょうね。木陰で一日を過ごせば、たいそう疲れたでしょうとも。それで時たましゃがんで植物を摘むのが仕事とはね! この人も植物採集かい。そんなのは暇人の仕事ですよ」 「この人はね」とジャック氏は少しずつしっかりとした声を出していた。「親切で正直な青年だよ。一日中一緒に過ごしてくれたんだ。だからテレーズも友人のようにもてなしてくれると信じている」 「二人分しかないよ」テレーズがもごもごとこぼした。「三人分はない」 「わたしもお客さんもあまり食べないから」 「ええ、はいはい。あまり食べないのはわかってますよ。あまり食べない人たち二人に食べさせるだけのパンも家にはないんですよ。三階下まで買いに行く気はありませんし。第一、こんな時間じゃパン屋は閉まっていますからね」 「ではわたしが行くよ」眉をひそめてジャック氏が言った。「扉を開けてくれないか、テレーズ」 「だけど……」 「そうすると言っているんだ」 「わかりましたよ!」テレーズは口答えしたものの、反論するたびに強くなっているジャック氏の口調に押されていた。「あなたの気まぐれに付き合ってられませんよ……あるもので足りると思いますから。ご飯にしましょう」 「わたしの隣にお坐りなさい」ジャック氏はジルベールを隣室の食卓まで案内した。卓子の上には食器が二人分、巻かれたナプキンが二人分並べられており、一つは赤い紐、一つは白い紐で縛られていて、どちらが誰の席なのかがわかった。  小さく四角いこの部屋には、白い模様のついた水色の壁紙が貼られていた。大きな地図が二枚、壁に飾られている。ほかには椅子が六脚(桜木製と藁椅子)、前述の食卓、繕った靴下の詰まった洋箪笥。  ジルベールが席に着くと、テレーズがその前に小皿を置き、使い古されたナイフやフォークを添えた。最後に、よく磨かれた錫のコップを用意した。 「階下には行かないのかい?」ジャック氏がテレーズにたずねた。 「必要ありませんからね」ぶっきらぼうな調子からは、やり込められたことをいまだ根に持っているのがわかる。「戸棚の中にまだ半切れありましたから。一リーヴル半はありますから、それで満足してもらわなくっちゃね」  テレーズはそう言いながらポタージュを卓子に置いた。  初めにジャック氏によそい、次がジルベールだった。テレーズは鍋から直接口にした。  三人とも食欲旺盛だった。ジルベールは二人が家計のことで言い合っているのを聞いてすっかり怖じ気づいてしまい、懸命に食い気を抑えていた。それでも皿を空にするのは一番早かった。  早くも空っぽになってしまった皿に、テレーズが怒ったような視線を投げた。 「今日は誰か訪ねて来たかい?」テレーズの気持を逸らそうと、ジャック氏がたずねた。 「ええ、いつものように国中からね。お約束していたんでしょう、マダム・ド・ブフレには四作品、マダム・デスカルに二曲、マダム・ド・パンチエーヴルには伴奏付四重奏曲。ご本人もいらっしゃれば、使いの方もいらっしゃいました。だけどどうですか! あなたは植物採集の真っ最中。人間、趣味と仕事を同時には出来ませんからね、ご婦人方は楽譜を持たずにお帰りになりましたよ」  ジャック氏が何も言わないことに驚いて、てっきり腹を立てているのだろうとジルベールは思っていた。だが今回問題になったのは自分のことだけだったからだろうか、ジャック氏は表情を変えなかった。  スープの次に出されたのは一切れの牛肉の煮物で、それが包丁で擦り傷だらけの陶製の皿に載せられている。  テレーズが睨んでいるのでジャック氏は控えめにジルベールに肉を取り分け、自分にも同じだけ取り分けてから、皿をテレーズに回した。  テレーズはパンを一切れジルベールに分け与えた。  それがあまりに小さかったため、ジャック氏は赤面した。テレーズがジャック氏の分と自分の分を取り分けるのを待ってから、ジャック氏はパンを手に取った。 「ご自分で切り分けなさい、お好きなだけ構いませんよ。お腹の空いている人に合わせるべきですからね」  その後には、バターと塩胡椒で味を付けた莢隠元が出て来た。 「青々としているでしょう。これは保存食なんですよ、こうして美味しいままでいただけるんです」  そう言ってジルベールに皿を回した。 「ありがとうございます。たっぷりいただいたのでもうお腹は一杯です」 「お客さんは保存食がお気に召さないようだね」テレーズの声には棘があった。「おおかた新鮮な隠元の方がよかったんでしょうけど、取れたてなんて手が出ませんからね」 「違うんです。とても美味しそうだし、いただきたいのはやまやまなんですが、今まで一皿以上食べたことがないものですから」 「水はお飲みになりますか?」ジャック氏が壜を差し出した。 「いつでもいただきます」  ジャック氏の方は自分のコップに生のワインを注いだ。 「ところでテレーズ」と卓子に壜を戻し、「この方の寝床を用意してやってくれないかな。随分と疲れているだろうから」  テレーズはフォークを落とし、あっけに取られて夫を見つめた。 「寝床? 気でも違ったんですか! 寝床を貸しに連れて来たっていうんですか! だったらあなたの寝台に寝かせればいいでしょう? どうやらすっかりいかれちまったみたいね。これから宿屋でも始めるつもりなんですか? だったらあたしは当てにしないでおくれ。料理女と女中でもお探し下さい。あなたの世話だけで目一杯ですよ、他人の世話まではとてもとても」 「テレーズ」ジャック氏が重々しく強い口調で答えた。「テレーズ、どうか聞いてくれ。一晩だけだよ。この方はパリに来たのは初めてでね。わたしが案内して来たんだ。旅籠で寝かせたくはないんだ、お前の言うようにわたしの寝台で寝かせることになってもいい」  きっぱりと言い返してから、返事を待った。  テレーズは顔の動きを確かめてでもいるように、話中の夫をじっと見つめていたが、今は争いを避けるべきだと判断したらしく、突然戦術を変えた。  ジルベールを敵に回そうとしたからしくじったのだ。テレーズはジルベールの味方に付き始めた。そのうち掌を返すつもりで手を打ったのは間違いない。 「お客さんが一緒に帰って来たのは確かなんだし、あなたもお客さんのことをよく知っているようだから、ここで休ませてあげた方がよさそうですね。何とか書斎に寝台を用意しますよ、紙の束の横にでも」 「それはいけない」ジャック氏が慌てて口を入れた。「書斎は寝るような場所ではないからね。紙に火が付いてしまうかもしれない」 「参ったね!」とテレーズはぼやいてから、「だったら、控え室の戸棚の前はどう?」 「それもいけない」 「そうなると、あたしたちがどれだけ頑張ろうと無理な相談だね。後はあなたの部屋かあたしの部屋しか……」 「どうだろう、テレーズ、忘れてやしないかい」 「忘れてるですって?」 「ああ。屋根裏部屋がなかったかな?」 「物置のことですか?」 「物置じゃない、部屋だよ。屋根裏ではあるけれど、いい部屋だ。パリでも珍しい素晴らしい庭園が見下ろせたはずだね」 「気になさらないで下さい、物置でも僕には充分です」 「駄目、駄目。あそこは洗濯物を広げているんですから」 「この方は迷惑は掛けないよ。そうでしょう? 洗濯物を傷めないよう気をつけてくれますね? 何せ貧しいものですから、駄目にされると大変な痛手なんですよ」 「安心して下さい」  ジャック氏が立ち上がってテレーズに近寄った。 「この方を堕落させたくないんだよ。パリは危険な場所だからね、ここなら目が届くだろう」 「教育を施すんですか。だったらあの人は寄宿料を払ってくれるかしらね?」 「違うよ、だがお金の心配はしなくてもいい。明日からは自分で食事を取ることになっているからね。ただ住まいについては、どうせ屋根裏はほとんど使っていないのだから、思いやりを見せようじゃないか」 「さすがに同類は違いますね!」テレーズが肩をすくめて呟いた。 「すみません」言い合いはもう勘弁して欲しかった。徐々に本音がこぼれて来たし、もてなされても気まずい思いをするだけだ。「僕はこれまで誰にも迷惑をかけては来なかったし、とても親切にしてくれたあなたに対して、ここで初めてご迷惑をかけるつもりもありません。だからもう失礼いたします。さっき橋のそばを通りかかった時、木陰にベンチがあるのを見かけました。そこでならぐっすり眠れそうですから」 「宿無しだといって夜警に捕らえられたいんですか」ジャック氏が言った。 「その通りじゃないですか」テレーズが食器を片づけながら小声で呟いた。 「お待ちなさい、確か上に藁布団があったはずです。ベンチよりはましでしょう。ベンチで我慢できるのでしたら……」 「大丈夫です。いつも寝るのは藁布団でした」  それから小さな嘘をつけ加えた。 「毛布は暑過ぎるので」  ジャック氏が微笑んだ。 「確かに藁は涼しいですからね。その蝋燭を持ってついて来て下さい」  テレーズはもはやジャック氏の方を見もしなかった。ため息をついてすっかり諦めているようだ。  ジルベールはぎこちなく立ち上がり、ジャック氏について行った。  控え室を通ると、貯水槽が見えた。 「もしかして、パリでは水は貴重なのでしょうか?」 「そんなことはありませんよ。貴重だとしたら、水とパンを求められても拒むことなど出来はしないでしょう」 「そうですよね。タヴェルネでは水はいくらでもあったので、貧しくても身だしなみだけは贅沢できたんです」 「どうぞお飲み下さい」ジャック氏は陶器の壺を指さした。  そうして先に立って歩きながらも、この年頃の青年に貴族じみたこだわりがあることに驚いていた。 第四十五章 ジャック氏の屋根裏部屋  ジルベールが最初に上って来た階段からして既に狭く歩きづらいものだったが、ジャック氏の部屋がある四階から先はますます狭く歩きづらくなっていた。そういうわけでジャック氏とジルベールは、苦労して正真正銘の屋根裏にたどり着いた。今回は正しいのはテレーズだった。そこはまさしく物置であり、四つに仕切られたうちの三つは使われていなかった。  正確に言うなら、ジルベールにあてがわれた場所すらも、人が住むのには使えない有り様だ。  天井は天辺からそのまま傾斜し、床と鋭角をなしている。その途中にある天窓にはがたがたの枠にガラスが嵌っておらず、そこから光と空気が入って来る。光は乏しく、空気、それも冬の冷たい風はふんだんに。  幸いなことに今は夏が近いが、暖かい季節が近づいているというのに、二人が物置に入った時にはジャック氏の持っている蝋燭が消えそうになった。  ジャック氏の言っていた藁布団は確かに床に置いてあった。そもそもめぼしい家具はそれくらいなので、真っ先に目に飛び込んで来たのだ。古くなって縁の黄ばんだ印刷物がそこかしこに積み重ねられ、鼠に齧られた本の山に囲まれている。  二本の紐が部屋を横切るようにして張られていたので、ジルベールは危うく首を引っかけそうになった。夜風に吹かれて、莢ごと乾燥させた莢隠元の入った紙袋や、香りを放つ草、女物の古着を含む洗濯物が音を立てている。 「みすぼらしいところですが、真っ暗にして眠ってしまえば、掘っ立て小屋も宮殿と変わりはありませんからね。子供のようにお眠りなさい。明日の朝になれば、ルーヴルで一夜を過ごしたような気分になれますよ。ただ、火にだけは注意して下さいね!」 「わかりました」ジルベールはつい今し方見聞きしたことに茫然としていた。  ジャック氏は笑顔を見せて立ち去ってから、また戻って来た。 「明日にはお話をしましょう。働くのは嫌ではありませんよね?」 「それどころか、働くことだけが僕の望みです」 「それはよかった」  そうしてジャック氏は改めて戸口に足を向けた。 「もちろん働く価値のある仕事に限りますけれど」ジルベールが注文を付けた。 「ほかには知りませんよ。それでは、また明日」 「おやすみなさい」  ジャック氏が部屋を出て扉を閉めると、ジルベールは一人きりで屋根裏に残された。  初めのうちこそ自分がパリにいることに昂奮していたが、やがて愕然とした。ここは確かにパリなのだろうか、タヴェルネの屋根裏と変わらないような部屋のあるこの街が。  結局はジャック氏に施しを受けているのだと気づいたが、タヴェルネの施し方を見て来ていたので、もはや驚いたりはせずに、むしろ感謝し始めていた。  ジャック氏に注意された通り慎重に蝋燭を掲げながら、隅から隅まで歩き回った。テレーズの衣服のことはあまり気にしなかった。古い衣服を毛布代わりに拝借するつもりもない。  ついには好奇心に勝てずに印刷物の山の前で立ち止まった。  山は紐でくくられており、ジルベールは一切手を触れなかった。  首を伸ばし、目を凝らして、紙の束から莢隠元の袋に移った。  莢隠元の袋も印刷された丈夫そうな白い紙で出来ており、それがピンで留められている。  急に動いたせいで頭が紐に触れてしまい、袋が一つ落ちてしまった。  金庫を押し破りでもしたように真っ青になって慌てふためき、大急ぎで床に散らばった莢隠元を拾って袋に戻した。  拾っているうちに何とはなしに紙に目が行き、何とはなしに書かれている文字を読んでいた。途端に文字から目が離せなくなった。莢隠元を放り出し、藁布団に腰を据えて読み始めた。その文章がジルベールの考えに、なかんずく性格にぴったり合致していたのだ。自分のために書かれた、いや自分が書いたような文章じゃないか。 「それに、お針子や小間使や店の売子娘などはわたしの興味をひかなかった。わたしの望みはお嬢さんだ。誰でもそれぞれ好みがある。わたしの好みはいつもそういうもので、この点ではホラチウスと意見がちがう。といっても、身分や階級の虚栄に心をひかれるわけではない。いつまでも若々しい顔色、美しい手、優雅な衣装、全身にただよっている繊細と清潔の感じ、着こなしやものの言い方に見える趣味、上品で形のいい着物、きゃしゃな靴、リボン、レース、手ぎわよくととのえた頭髪、そういったものにひかれるのだ。こういうところですぐれていたら、器量で劣っていても、わたしはかまわない。自分でもこんな好みを大そうおかしく思うのだが、どうしても心がそうきめてしまう。」  ジルベールの身体は震え、額を汗が伝った。自分の考えていることをこれ以上に上手く表現し、直感をこれ以上に上手く定義し、嗜好をこれ以上に上手く分析するのは不可能だ。ただしアンドレだけは、このすべてを満たしながらもなお器量も良かった。アンドレはこのすべてを有しながらも、完全に美しかった。  ジルベールは貪るように読み続けた。  たった今引用した文章に続いて、若い男が若い娘二人と逢瀬を楽しんでいる。楽しげに声をあげて馬で練り歩くのを読んでいると、それが不安の現れのようで、娘たちがいっそう魅力的に思えた。娘の一人の後ろに跨って遠出をし、魅力を増した夜になってからの帰還。  興味は尽きなかった。ジルベールは袋を広げ、胸をどきどきさせながら袋に印刷された文章を読み通した。ページを確かめ、続きがないか探し始めた。ページは途切れていたが、連続した七、八ページ分くらいの袋が新たに見つかった。ピンを外し、豆を床にぶちまけ、袋を集めて読み始めた。  これはまた違う内容だった。今度のページには、無名の哀れな男の、貴婦人との愛が記されていた。その貴婦人は男の許に下った、いや男が貴婦人の許に上ったというべきか、とにかくその貴婦人は男を同じ身分のように扱い、愛人として迎え、わずかの間だけ存在するような、心に秘めた隠しごとや思春期の夢をすべて打ち明けた。その何もかもが、人生の向こう側で生じた、春の夜空を落ちてゆく輝く流星のようにしか見えない。  若い男には名前がなかった。貴婦人はド・ヴァランス夫人という甘く愛らしい響きを持つ名前で呼ばれていた。  ジルベールはこんなふうに過ごせる幸運を夢見ながら、一晩中読み耽った。次々と袋を剥ぐに従い、それが一続きになっていることに安堵して、昂奮が大きくなる。不意に、ぱちぱちと爆ぜるような音が聞こえた。蝋燭が銅の受け皿を伝って暖められ、溶けた油脂の中に沈み、嫌な匂いのする煙が屋根裏に立ち込めた。灯心が燃え尽き、ジルベールは暗闇に取り残された。  あまりにも一瞬の出来事だったため、出来る手だては何もなかった。こんなふうに読むのを断ち切られては、泣きじゃくりたくなる。寝台の横に寄せ集められた莢隠元の上に紙の束を置き、藁布団に潜り込んだ。口惜しくて仕方なかったものの、やがて深い眠りに就いた。  ジルベールは十八歳に相応しくぐっすりと眠っていた。そのため、前日ジャック氏が掛けていった南京錠が耳障りな音を立てる頃になって、ようやく目が覚めた。  すっかり陽が昇っている。目を開けると、ジャック氏がそっと部屋に入って来るのが見えた。  ジルベールはすぐに、床に散らばった莢隠元とばらばらになっている袋に目をやった。  ジャック氏の視線もとうに同じ方向に向けられていた。  ジルベールは恥ずかしさで頬まで真っ赤になり、何を言えばいいのかわからずに、「おはようございます」と呟いた。 「おはようございます。よく眠れましたか?」 「おかげさまで」 「ひょっとすると夢遊病でしたか?」  夢遊病とは何なのか知らなかったが、豆と袋が離ればなれになっている理由についてたずねられているのはわかった。 「仰ることはわかります。ええ、やったのは僕です、素直に罪を認めます。でもきっと元通りに出来ますよね?」 「大丈夫ですよ。それよりも、蝋燭を使い切ってしまったのですか?」 「遅くまで起きていたものですから」 「何故です?」ジャック氏が疑るようにたずねた。 「読んでいたんです」  ジャック氏はさらに疑るような眼差しで屋根裏を見回した。 「これなんです」ジルベールは一枚目の袋を拾い上げた。「偶然これに目が留まり、引き込まれてしまって……それはそうと、あなたはいろいろなことをご存じですから、これが何という本の一部なのかご存じではありませんか?」  ジャック氏は袋をちらっと見て言った。 「知りませんね」 「これは小説ですよね、素晴らしい小説でした」 「小説、ですか?」 「違うんですか。だって小説のような愛が綴られていますよ。小説よりも素晴らしいですけど」 「ですが、このページの下に『告白』と書いてありますから、恐らく……」 「恐らく……?」 「実話かもしれませんよ」 「まさか! あり得ません。自分のことをこんなふうに語れる人なんていませんよ。こんなに率直に打ち明けて、こんなに公正に判断してるんですよ?」 「そんなことはないと思いますよ」老人はきっぱりと答えた。「むしろ著者は、神が人間にしたのと同じように、自分はそうしたことを晒け出す人間だということを、みんなに示したかったのではありませんか」 「著者をご存じなんですか?」 「ジャン=ジャック・ルソーですよ」 「ルソーですか!」ジルベールが大きな声を出した。 「ええ。新作のページがいくつか、ここにばらばらに散らばっているんです」 「ではこの、哀れで名もなく、大通りを歩き回って物乞いしているような若者が、ルソーなんですか? この若者が『エミール』を書き、『社会契約論』を著すようになるんですか?」 「そうですよ……いや、違います」老人は何とも言い難い憂いを見せた。「そう、別人です。『社会契約論』や『エミール』を書いたのは、世界、人生、栄光、神さえ落胆させるような人間です。もう一人の……ド・ヴァランス夫人のものだったもう一人のルソーは……夜明けと同じ扉を通って人生の扉をくぐった子供でした。喜びと希望に満ちた子供でした。二人のルソーの間には絶対に繋がることのない溝があるんですよ……三十年というのは恐ろしいものです!」  老人は首を横に振って力なく腕を垂らし、物思いに沈んでいるようだった。  ジルベールは先ほどから茫然としっぱなしだった。 「ということは、ガレー嬢やド・グラフェンリード嬢との逢瀬は事実なんですか? ルソーはド・ヴァランス夫人との激しい恋に苦しんだんですか? 愛した女性を手に入れたものの、天にも昇るような期待とは裏腹に悲しむことになったというのは、気の利いた嘘じゃないんですね?」 「いいですか。ルソーは決して嘘はつきません。ルソーの座右の銘を思い出して下さい。『Vitam impendere vero』」 「知ってます……でもラテン語がわからないので、これまでずっと意味は知りませんでした」 「『真理に命を捧ぐ』という意味です」 「では……ルソーのように惨めな境遇から出発した人間でも、美しい貴婦人に愛されることが出来るんですね! それが上に目を向けた貧乏人にどれだけの希望を与えることになるかおわかりですか?」 「つまりあなたは恋をしていて、ご自身の境遇とルソーの境遇の間に共通点を見つけたんですね?」  ジルベールは真っ赤になって、質問には答えなかった。 「いるのはド・ヴァランス夫人のような女性ばかりじゃありません。尊大で横柄で理解不能で。そんな人たちを愛するなんて馬鹿げてます」 「でもいいですか。似たようなことはルソーも何度も経験したんですよ」 「それはそうですよ。でもルソーですから。僕だったら、心に火の粉が燃え上がって胸の奥をくすぐられるのを感じたとしても……」 「だとしても?」 「だとしても、生まれながらの貴婦人が僕を構ってくれるとは思えません。無一文で、将来の見通しも立たないというのに、上に目を向けてもまぶしくて目が眩むだけですし。ああ、ルソーとお話し出来たらなあ!」 「そうしたらどうしますか?」 「ド・ヴァランス夫人とルソーが互いに歩み寄らなかったとしたらどうなっていたのか、尋きたいんです。『あなたは愛情を手に入れて悲しむことになりましたが、もし夫人があなたを拒んでいたとしたら、もしあなたが……そこまでして……夫人をものにしなかったとしたら……?』」  ジルベールは躊躇った。 「何処までして、ですか?」老人がたずねた。 「罪を犯してまで、です!」  ジャック氏が身震いした。 「もう妻が起きている頃です」ジャック氏は話を終わらせた。「階下に行きましょう。もっとも、労働者にとっては早過ぎるということはありませんからね。さあ、いらっしゃい」 「そうですね。ごめんなさい。でもいろいろなお話や本や考え方に我を忘れて夢中になってしまったものですから」 「つまりあなたは恋をしているのですよ」  ジルベールは何も答えず、莢隠元を集めてピンで袋を元に戻し始めた。ジャック氏はそれを見ていた。 「贅沢な寝床ではありませんでしたが、そうは言ってもこうして必要なものは手にしたのですし、もっと早起きしていたなら、この窓から草木の香りが漂って来たはずです。悪臭に満ちた大都市の中では一服の清涼剤ですよ。あそこにはジュシエンヌ通りの公園があって、菩提樹や金鎖《キングサリ》が花を咲かせているんです。朝にその香りを吸い込むのは、哀れな囚人にとって、その日のすべてに勝る幸せではありませんか?」 「多分そうなんでしょうね。でも慣れのせいでまったく気にしたことがありませんでした」 「まだ田舎を忘れて懐かしく思うほどには時間が経っていないということですか。おや、すべて元通りにし終えましたね。では働く時間です」  戸口を示してジルベールを外に出し、ジャック氏は南京錠を掛けた。  そうして前夜テレーズが書斎と呼んだ部屋に、まっすぐジルベールを連れて行った。  ガラスの下の蝶、黒い木枠に囲まれた植物や鉱物、胡桃製の本棚に収められた書物、細長い机には緑と黒の擦り切れた毛糸の敷物が敷かれており、その上にきれいに並べられた手書きの原稿、黒い馬尾毛《ばす》で覆われた桜製の肘掛け椅子が四脚、これが部屋の中身だった。そのどれもがつやつやと磨かれ、清潔に整えられていたが、見た目にも感覚的にも冷たく、ペルシア・カーテン越しに和らげられた光が弱々しくくすんでいるせいで、華やかさはもちろん安心感すらこの冷たい灰と黒い炉辺からは遠のいているように感じられた。  紫檀製の小型チェンバロが四本の脚でまっすぐと立ち、暖炉の上には「Dolt, a l'Arsenal」と銘のある掛け時計。生命を感じられるのはこの二つだけだった。外を馬車が通るたびに弦に震えが走り、振り子はその墓所の中に何かが潜んででもいるように澄んだ音を立てた。  こうした部屋に、ジルベールは敬虔な気持で足を踏み入れた。家具が豪華なことに気づいた。タヴェルネの城館のものに似ていたからだ。なかでも磨かれたタイルに深い感銘を受けた。 「お坐り下さい」ジャック氏が指し示したところには、窓際にもう一つ小卓が置かれていた。「どんな仕事を見つけて来たのか、これからお伝えしましょう」  ジルベールは慌てて腰を下ろした。 「これがわかりますか?」  ジャック氏はそう言って、等間隔の線が引かれた紙をジルベールに見せた。 「ええ、五線紙ですよね」 「そうです、わたしはこの紙を一枚しっかり埋めて、つまり楽譜をそっくり複写して、十スーもらいました。これはわたし自身で決めた金額です。どうです、楽譜の複写を覚えられそうですか?」 「はい、大丈夫です」 「ですが、黒い点に一本や二本や三本の線が走り書きされているのを見て、目が回りませんか?」 「そうなんです。一目見ただけでは何だかよくわかりません。でも精一杯頑張って音符の見分けが付くようにしますから。例えばこれはファですよね」 「どれですか?」 「これです。一番上の線上のやつです」 「では下の二本の線の間にあるのは?」 「それもファです」 「その上の、二番目の線上にある音符は?」 「ソです」 「するとあなたは楽譜を読めるのですか?」 「音符の名前は知っていますが、それがどんな音なのかまではさっぱりなんです」 「では二分音符、四分音符、八分音符、十六分音符、三十二分音符はわかりますか?」 「ええ、知っています!」 「ではこの記号は?」 「四分休符です」 「ではこれは?」 「シャープです」 「これは?」 「フラット」 「凄いじゃありませんか!」どうやらいつもの癖らしく、ジャック氏の目が疑わしげに曇り始めた。「何も知らないと言いながら、こうして音楽のことも植物のこともお話しになって、先ほどは愛についても話しかけていましたね」  ジルベールは真っ赤になった。「ああ、どうか笑わないで下さい」 「笑うどころか、感心しているんですよ。音楽という芸術を習うのは、大抵はほかのことを学んだ後ですからね。それなのにあなたは教育を受けたこともないと言うし、何一つ学んだこともないと言うんですから」 「それは本当のことですから」 「そうは言っても、一番上の線上にある黒丸がファだというのをひとりでに思いついたわけではないでしょう?」 「それは……」ジルベールはうつむいて力ない声を出した。「以前いた家には、その……チェンバロを弾くお嬢さんがいたので」 「そうでしたか。植物学に関心を持っていた方ですね?」 「そうです。とても上手でした」 「そうですか」 「ええ。そういうわけで、僕は音楽が大好きなものですから」 「音符をご存じなのは、それだけが理由ではないでしょう?」 「ルソーが言っています。原因を探ることなしに結果を受け入れるのは未完成の人間だと」 「ええ、ですがこうも言っていますよ。そうやって完成することで、人間は喜びや純粋さや天分をなくしてしまうと」 「なくしてしまうのと同じ喜びを教育の中に見出せば、何の問題もないじゃありませんか!」  ジャック氏は溜息をついてジルベールを見つめた。 「おやおや、植物学者で音楽家であるだけでなく、論理学者でもあったのですか」 「残念ですが、僕は植物学者でも音楽家でも論理学者でもありません。音符の区別と記号の区別は付きますが、それだけです」 「ではドレミを歌えますか?」 「まるっきりわかりません」 「まあよいでしょう。試しに写譜してもらえますか? 五線紙はここにあります。ただしあまり無駄にしないよう気をつけて下さいね、高いものですから。いえそれより、白紙を使って、それに線を引いて試してもらった方がいいですね」 「わかりました。仰る通りにします。でも失礼ながら、これは僕の一生を費やす仕事ではなさそうです。だってわかりもしない楽譜を写すよりは、代書人になる方がよさそうですから」 「まあまあ、口を開く前によく考えることです」 「僕がですか?」 「そうですとも。代書人が仕事に就いてたつきを得るのは夜中ですか?」 「ああ、違いますね」 「いいですか、よくお聞きなさい。慣れた者なら夜の二、三時間で五、六ページも写すことが出来ます。努力すれば簡単に丸い音符やきれいな線を書けるようになりますし、読むのに慣れれば原本を見る回数も減りますから。六ページで三フラン。それで人一人生活できます。異論はありませんね、それとも六スーしかいりませんか? 夜中に二時間働けば、外科や薬学や植物学の学校で講義を受けられるんですよ」 「ああ、そういうことでしたか! 心からお礼を申し上げます」  ジルベールはジャック氏が用意した白い用紙に飛びついた。 第四十六章 ジャック氏の正体  ジルベールが意気込んで取りかかると、丁寧に写された音符で紙は埋められていった。ジャック氏はしばらく様子を見ていたが、やがてもう一つの机で、豆を包んでいたのと同じような印刷物の校正を始めた。  こうして三時間が経ち、掛け時計が九時を打った時、テレーズが駆け込んで来た。  ジャック氏が顔を上げた。 「ほら急いで! 部屋に来て下さい。大公がいらっしゃいましたよ。殿下たちの行列はいつになったら終わるんでしょうねえ? あの日のシャルトル公爵みたいに、昼食を一緒に取りたいだなんて気まぐれを起こしてくれなければいいんだけれど!」 「どちらの大公です?」ジャック氏が声を落とした。 「コンチ公閣下です」  この名前を聞いてジルベールは、(当時生まれていたとすれば)ブリドワゾンならソの音符というより染、染みと呼んだであろうものを五線の上に落とした。 「大公、殿下!」とジルベールは呟いた。  ジャック氏は笑みを浮かべてテレーズの後ろから部屋を出て扉を閉めた。  ジルベールは辺りを見回し、一人になったことに気づいて狼狽えて顔を上げた。 「僕は何処にいるんだ? 大公に殿下がジャック氏の家に? シャルトル公やコンチ公閣下が写譜屋の家に?」  ジルベールは扉に近づき聞き耳を立てた。心臓が割れるようだ。  ジャック氏と大公は既に挨拶を交わし終えていた。大公が口を開いた。 「一緒に来てもらえないだろうか」 「どういったご用件でしょうか?」ジャック氏が答える。 「王太子妃に紹介したくてね。哲学の新時代の幕開けだよ」 「お申し出はありがたいのですが、お供することは適いません」 「しかし六年前はフォンテーヌブローでポンパドゥール夫人にご同行したではないか?」 「六年前は若かったのですから。今では足腰が立たないため、椅子から離れられなくなりました」 「人間嫌いのため、だな」 「だとすると、そのために時間を割こうと思うほど世間に関心を持つわけがないではありませんか?」 「うん。いや、サン=ドニや大典礼に連れて行くつもりはない。王太子妃殿下が明後日の夜に泊まるラ・ミュエットに来て欲しい」 「では妃殿下は明後日サン=ドニに?」 「お付きを連れてね。いや、二里などあっという間だ、大きな混乱は起きない。聞くところによると、大公女は大した音楽家らしい。グルックに教わっていたそうだ」  ジルベールはそれ以上は聞いていなかった。「妃殿下は明後日サン=ドニに」とい言葉を聞いて、一つのことを考えていた。つまり、明後日にはここから二里のところにアンドレがいるのだ。  そう思うと、強い光の当たった鏡を見たようにくらくらとした。  二つの感情のうち、強い方が勝《まさ》った。愛情が好奇心を退けた。この部屋には空気が足りない。不意にそう感じて窓を開けようと駆け寄ったが、窓には内側から南京錠が下りていた。恐らくジャック氏の書斎で起きていることを向かいの部屋から見られないようにするためだろう。  ジルベールは椅子に戻った。 「盗み聞きなんかもうやめだ。ブルジョワの秘密なんて嗅ぎ回るもんか。大公が友人扱いしたうえに、未来のフランス王妃に紹介しようとした人か。王太子妃だって皇帝の娘で、アンドレがひざまずかんばかりにしていた人だ。 「だけど聴いていれば、アンドレのことがわかるかもしれない。 「駄目だ駄目だ。それじゃ僕《しもべ》と一緒じゃないか。ラ・ブリもよく戸口で耳を澄ませていただろう」  ジルベールは勇気を振り絞って壁から離れた。手は震え、目は霞んでいた。  何かで気を紛らせたい。とてもではないが写譜などはやっていられない。ジャック氏の机上にある本を手に取った。 「『告白』」題名を読んで意外な喜びに打たれた。「昨夜、貪るように何ページも読んだ本だ。 「著者肖像画付き。 「ルソー氏の肖像画か! どんな顔なんだろう。見てみよう」  版画を覆っていた薄紙をめくるのももどかしく、現れた肖像画を目にしてジルベールは声をあげた。  その瞬間、扉が開いて、ジャック氏が戻って来た。  ジルベールはジャック氏の姿と手にしている肖像画を見比べた。身体が震えて両腕からは力が抜け、本を落として呟いていた。 「今、僕はジャン=ジャック・ルソーの家にいるんですね!」 「上手く写せたか見てみましょうか」微笑んだジャン=ジャックは、輝かしい人生で経験した幾百の勝利よりも、この思いがけない称讃を喜んでいるようだった。  震えているジルベールの前を通り過ぎて、机に近づき紙を眺めた。 「音符はよく書けていますね。欄外を忘れていますよ、それから、一続きの音符をきちんと一本の線で結んでいませんね。おや、この小節には四分休符が足りません。それにほら、小節の線が曲がっています。二分音符も半円二つで書いて下さい。音符は厳密にくっついていなくとも構いません。音符の玉がどれも不格好ですし、旗もきちんとくっついていませんね……ええ、その通りです、あなたはジャン=ジャック・ルソーの家にいるのですよ」 「ああ! 馬鹿なことをいろいろとしゃべってしまって申し訳ありませんでした」ジルベールは両手を合わせて土下座しようとした。 「ではわからなかったのですね」ルソーは肩をすくめた。「大公がここに来ない限り、目の前にいるのが迫害された不幸なジュネーヴの哲学者だということに気づかなかったのでしょうか? 可哀相に、迫害を知らぬとは幸せなことです!」 「ええ! ええそうです。僕は幸せです、死ぬほど幸せなんです。でもそれはあなたに会えたからで、あなたと知り合えたからで、あなたのそばにいるからなんです」 「ありがとう。ですが幸せだけがすべてではありませんよ。働かなくては。練習が終わったのでしたら、今度はこの輪舞曲を楽譜に写して下さい。短いのでそれほど難しくはありません。何よりきれいですから。それにしても、どうしてわかったのですか……?」  ジルベールは胸を震わせ、『告白』を拾ってジャン=ジャックの肖像画を見せた。 「なるほど、そうでしたか。『エミール』の第一ページにあった肖像画は燃やされてしまいましたからね。もっとも、明るく照らすのであれば、太陽の光であれ焚書の光であれさして違いはありませんが」 「おわかりになりますか? まさかこんなこと、あなたのおそばで暮らせるなんてこと、夢にも思いませんでした。そうしたかった気持と比べたら野心だって些細なものでした」 「恐らくわたしのそばで暮らすことにはならないでしょう」とジャン=ジャックが言った。「わたしは弟子を取りませんから。客人として遇するにも、もてなしたり、ましてや住み込みさせたり出来るほど豊かでないのはご覧になった通りです」  震えるジルベールを見て、ジャン=ジャックは手を握った。 「ですが、がっかりすることはありませんよ。あなたと出会ってからいろいろと観察させてもらいました。あなたには悪いところもありますが良いところもたくさんあります。直感に反する意思と戦い、自惚れをこらえて下さい。哲学者を蝕む害虫ですから。では楽譜を写しながら時機を待っていて下さい」 「ああ、何が起きているのか考えるとくらくらします」 「しかし、ごく当たり前で自然なことしか起きてはいませんよ。当たり前のことこそが心根と智性を揺れ動かすのは事実ですがね。あなたは何処かから逃げていました。わたしはそれが何処なのか知りませんし、あなたが隠していることを根ほり葉ほりたずねたりもしませんでした。あなたは森を抜けて逃げていました。そして森の中で、植物を採集している男に出会った。その男はパンを持っており、あなたは持っていなかった。ですからその男は二人でパンを分けました。何処で休めばいいかもわからないあなたに、その男は寝床を貸しました。その男はルソーという名だった、それだけのことです。そしてその男はあなたにこう伝えるのです。 「哲学者の第一条、 「人間よ、自ら給して自ら足らん。 「そういうわけですから、この輪舞曲を写し終われば、今日の糧を手に入れていることでしょう。さあ写して下さい」 「ご親切ありがとうございます!」 「それにねぐらもあなたのものです。ただし、夜中に本を読むのは止して下さい。蝋燭を使うのであればご自分で用意することです、さもないとテレーズに叱られますよ。それはさておき、お腹は空いていませんか?」 「いえ、結構です!」ジルベールは息を呑んだ。 「朝食べる分くらいなら昨日の夜食が残っていますから、遠慮はなさらずに。これからも友人でいられるのなら、招待した時は別として、わたしと食事をするのはこれが最後ですよ」  ジルベールが合図しかけたが、ルソーは頭を振ってそれを遮った。 「プラトリエール街には労働者のための食堂があるんです。話を通しておきますから、安い値段で食べることが出来ますよ。今日のところは、では食事にしましょうか」  ジルベールは何も言わずにルソーに従った。恭順したのは人生で初めてのことだった。従ったのがほかの人間よりも優れた人間であるのは確かだったが。  ジルベールは数口食べると卓子を離れて仕事に戻った。先ほどの言葉に嘘はなかった。衝撃のあまり胃が縮こまってしまい、何も受けつけなかったのだ。一日中ずっと譜面から目を上げず、午後八時頃、紙を三枚反故にしてからようやく四ページの輪舞曲をきれいに写し終えることが出来た。 「お世辞を言うつもりはありません」とルソーは言った。「出来はまだまだですが、読みやすいですね。これなら十スーになりますよ、これをどうぞ」  ジルベールはお辞儀して十スー受け取った。 「戸棚にパンが入ってますよ、ジルベールさん」とテレーズが言った。ジルベールの慎み、優しさ、勤勉さに好印象を抱いたのだろう。 「ありがとうございます。お心遣いは決して忘れません」 「ほら、これですよ」テレーズがパンを手渡した。  ジルベールは断ろうとした。だがジャン=ジャックの眉が鋭い目の上でひそめられ、薄い唇がひきつり始めたのを見て、断れば傷つけることになるのだと気がついた。 「ありがとうございます、遠慮なくいただきます」  そう言って小部屋から退出した。手にはジャン=ジャックからもらったばかりの六スー銀貨と四スー銅貨が握られていた。  ジルベールは屋根裏に入りながら思った。「結局、僕は僕の主人なのだろうか。いや、まだかな。こうして善意でパンをもらったのだから」  腹が減ってはいたが、パンには手をつけずに天窓の窓敷居の上に置いた。  眠れば空腹も紛れようと思い、蝋燭を吹き消して藁布団を広げた。  翌日――ジルベールは一晩中ほとんど眠れなかったのだが――翌日、朝日が顔を出した頃には目を覚ましていた。そう言えば、窓に面した庭のことをルソーが話していたっけ。天窓から身を乗り出すと、話通り美しい庭の木々が目に飛び込んで来た。木々の向こうには庭の所有者の家が聳えており、家の入口はジュシエンヌ街に面していた。  若木や花々で彩られた庭の一隅に、鎧戸の閉じた小さな建物が立っている。  初めのうちは、鎧戸が閉まっているのは時刻のせいだと思った。住人がまだ目を覚ましていないのだろう。だが木々の葉が鎧戸にぴったりくっついているのを見ると、少なくとも冬から人が住んでいないらしい。  そこで母屋の手前にある美しい菩提樹に目を戻した。  空腹が募って、前夜テレーズがくれたパン切れに何回か目を走らせた。だがそのたびに、食べたい気持を抑え、パンには手をつけなかった。  五時の鐘が鳴った。門が開く頃だろう。顔を洗い、ブラシを掛け、髪をとかし――ジャン=ジャックが屋根裏に用意してくれたおかげで、ささやかな洗面所には日用品が揃っていたため――ジルベールは顔を洗い、ブラシを掛け、髪をとかし、パンを手に下に降りた。  ルソーは今朝は起こしに来なかった。恐らく疑いが募ったためと、ジルベールの習慣をよく確かめるためであろう、昨夜は扉を閉めずにいて、降りてきたのを耳にして様子を窺った。  ジルベールがパンを抱えて出て行くのが見えた。  乞食が近づいて来たのを見て、ジルベールはパンを与えると、自分は開店したばかりのパン屋に入ってパンを一切れ購入した。  ――今度は弁当屋に向かうのだな、とルソーは考えた。――そこでなけなしの十スーを使うのだろう。  ルソーは間違っていた。ジルベールは歩きながらパンを食べ、街角の水汲み場で立ち止まり、水を飲んだ。パンの残りを口に入れ、また水を飲み、口をすすぎ、手を洗うと、来た道を引き返した。 「何てことだ」とルソーは呟いた。――わたしはディオゲネスよりも運がいい。人間を見つけたようだ。  階段を上るジルベールの足音が聞こえ、ルソーは慌てて扉を開けに行った。  仕事に追われて一日が過ぎた。ジルベールは単調な写譜作業を、気合いを入れ、頭を働かせ、極めて熱心に片づけていった。わからない部分は見当を付けた。鉄の意志に突き動かされ、手は躊躇なく、間違えることもなく記号を描いた。努力の甲斐あって夕方頃には七ページまで進んでいた。無骨ではあったがよく出来ている。  ルソーが判事や哲学者のように仕事ぶりを確認した。判事のように音符の形や線の出来、休符や丸の間隔をあげつらった。だが昨夜よりも格段に上手くなっているのは目に見えていたので、ルソーはジルベールに二十五スー渡した。  ルソーは哲学者のように人間の意思の力を讃えた。恐らく十二時間休みなく働いていたのだ。この十八歳の若者は、しなやかで弾力のある身体や、情熱的な意思を持っている。そうだ、ルソーにはすぐにわかった。この若者の胸には激しい情熱が燃えている。だがそれが野心なのか愛なのかはわからない。  ジルベールは手の中にあるお金の重さを確かめた。二十四スー貨と一スー貨。一スー貨を上着のポケットに入れた。中にはまだ前夜のお金も残っていたはずだ。右手には二十四スー貨を嬉しそうに握り締めていた。 「考えたのですが、あなたは僕の主人です。あなたのところで仕事を見つけたうえに、只で宿まで貸してくれているんですから。だから、何をするのかを伝えずに行動したら、きっと気を悪くなさるでしょうね」  ルソーが怯んだような目つきをした。 「いったい何をするつもりなのです? 明日は働かずにほかのことをするつもりなのですか?」 「はい、許していただけたなら、明日は自由に行動したいんです」 「理由を聞いても構いませんか? さぼるわけではありませんよね?」 「僕は」とジルベールが言った。「サン=ドニに行きたいんです」 「サン=ドニですか?」 「はい。王太子妃が明日サン=ドニにいらっしゃるので」 「ああ、なるほど。明日、サン=ドニで王太子妃の歓迎会がありますね」 「それです」 「あなたがそんなに物見高いとは思いませんでした。きらびやかな絶対権力など軽蔑しているように見えたのですが」 「それは……」 「わたしをご覧なさい、あなたはたびたびわたしのことを手本にしているようなことを口にしていたでしょう。昨日、大公がここに来てわたしを宮廷に招きました。国王の馬車が通り過ぎるのをあなたのように近衛兵の肩越しに爪先立って眺めるためではなく、王子の御前に出たり、王女の微笑みを見るためです。サン=サクルマン教会のためにしたように国王の馬車は武器を向けられるでしょうが、それはともかく。わかりますか、この哀れな市民が、大貴族の招待を断ったんですよ!」  ジルベールはうなずいた。 「なぜ断ったのだと思います?」ルソーは激昂していた。「人間が二心を持つことは許されないからです、王権の濫用を記したこの手が、国王の寵愛を求めに行くわけにはいかないからです。わずかな安心感がかろうじて人々に叛乱を思い留まらせているというのに、祝宴がその安心感を奪い去ってしまうから、だからわたしは祝宴をすべて欠席することで抗議しているのです」 「あなたの哲学に高潔なところがあるのは以前からわかっていました。そのことは信じて下さい」 「そうなのでしょうね。ですが身を以て示していただかないと、こんなふうに言うのは失礼でしょうが……」 「ごめんなさい、僕は哲学者ではないんです」 「ではせめて、何をしにサン=ドニに行くのか教えてもらえますか」 「僕は口が堅いつもりです」  この言葉にルソーは打ちのめされた。強情の裏には秘密が隠されているのだと悟り、感銘を受けたようにジルベールを見つめた。 「わかりました。理由があるのですね。そちらを尊重しましょう」 「そうです、理由があるんです。お祭りを見たがるような好奇心とは無関係なんです」 「それならいいでしょう、いえ、残念なことかもしれません。あなたの目の奥は何処までも深く、若さゆえの純心さも穏やかさも見つからないのですから」 「申し上げたように」とジルベールは悲しげに答えた。「僕は不幸でした。不幸な人間には若さなどなかったんです。そういうわけですから、明日一日は空けてもらえないでしょうか?」 「いいでしょう」 「ありがとうございます」 「それでは、あなたが目の前を過ぎてゆく素晴らしい光景を眺めている間に、わたしは植物を調べて自然の素晴らしさを確かめることにしますよ」 「さくらんぼの房をガレー嬢の胸に放り投げた後で、もう一度会いに行く日には、地面の草など放ったらかしだったのではないでしょうか?」 「結構です。確かにあなたは若い。サン=ドニにお行きなさい」  ジルベールが上機嫌で出て行き、扉を閉めた。 「野心ではなく、愛でしたか!」ルソーは呟いた。 第四十七章 魔術師の妻  ジルベールが充実した一日を過ごし、冷たい水に浸したパンを屋根裏でちびちびと口に入れ、庭園の空気を胸一杯に吸い込んでいた頃のこと。やや異国風ではあるが洗練された服装をし、長いヴェールで顔を覆った一人の女性が、サン=ドニの道路を見事なアラブ馬で疾走していた。今はまだ人気もないが、明日には多くの人々でにぎわいを見せることになるはずだ。女はサン=ドニ修道院の前で馬から下りると、回転式受付窓の格子を細い指で叩いた。手綱をつかまれている馬が、苛立つように前脚で砂を掻いている。  村の住人が物珍しげに足を止めた。初めに風変わりな外見に目を奪われ、やがてしつこく戸を叩いている点を気にしだした。 「何かご用がおありですか?」と一人がたずねた。 「見ての通りです」イタリア訛りが強い。「中に入りたいの」 「ではいけない。この小窓は一日一回しか開かない。開く時間は過ぎてしまった」 「修道院長とお話しするにはどうすれば?」戸を叩きながら女はたずねた。 「壁の端の戸を叩くか、大門のベルを鳴らすといい」  また一人近づいて来た。 「今の修道院長はマダム・ルイーズ・ド・フランス殿下なのはご存じかな?」 「ありがとう、知っています」 「見事な馬だ!」竜騎兵が声をあげた。「年を取っていなければ、五百ルイはする。俺の馬が百ピストールするのと同じくらい、確かなことだ。おわかりですか?」  この言葉を聞いて集まっていた人々にざわめきが広がった。  ここで聖堂の参事会員が、竜騎兵とは違って馬を気にも留めず乗り手だけを見つめ、女のところまで歩み寄ると、関係者だけが知っているやり方で小窓の扉を開けた。 「お入りなさい。馬も連れて行くといい」  好奇に満ちた群衆ののしかかるような視線から早く逃れたくて、女は言われた通りに馬を連れて扉の奥に消えた。  広い中庭で一人になると、馬具を震わせ蹄で地面を蹴っている馬を、手綱を引いてなだめた。すると小窓の受付係の修道女が小部屋から現れ、修道院から駆け寄って来た。 「どういったご用件でしょうか? どのようにお入りになったのですか?」 「親切な参事会員が扉を開けてくれました。私の用事は、その……可能であれば、修道院長とお話しさせて下さお」 「マダムは今夜はお会いになれません」 「修道院長には、助けを求めに来た修道女なら誰にでも、どんな時間にでも会う義務があると聞きましたが」 「通常でしたらそうすることも出来ますが、殿下は一昨日いらっしゃったばかりで、今夜参事会を開く予定なのです」 「マダム! 遠くから、ローマからやって来たんです。馬で六十里を走って来たばかりで、これが限界なんです」 「何をお望みだというのです!」受入口係の声は冷たかった。 「修道女様、私は修道院長に重大なことをお知らせに来ました」 「明日おいで下さい」 「出来ません……一日をパリで過ごして、既にその日も……それに、宿屋に泊まることも出来ません」 「何故です?」 「持ち合わせがありません」  受入口係は唖然として女をじろじろと眺めた。宝石を身に纏い、見事な馬に乗っているというのに、泊まる金もないと言い張るのだろうか。 「今の言葉は忘れて下さい、服装のことも。お金がないと言ったのは言葉の綾です。きっとつけで泊めてくれると思います。でも私がここに求めているのは、宿ではなく避難所なんです」 「失礼ですが修道院はサン=ドニだけではありません。どの修道院にも修道院長はいらっしゃいます」 「ええ、よくわかっています。でもそこらの修道院長にお伝えするわけには参りません」 「いくら頑張っても懸命なご判断とは申せません。マダム・ルイーズ・ド・フランスは世俗のことにはもう関心がございません」 「構いません! 私が話をしたがっているということをお伝え下さい」 「参事会があると申し上げました」 「参事会の後で」 「参事会は始まったばかりです」 「では中で祈りながら待っています」 「まことに申し訳ございませんが」 「何?」 「お待ちいただくわけには参りません」 「待っていてはいけないと?」 「はい」 「間違っていたのでしょうか! ここは神の家ではなかったの?」女の目と声にこもった力強さに、修道女はそれ以上抵抗することが出来なかった。 「そういうことでしたら、お話ししてみましょう」 「殿下にお伝え下さい。私はローマから来ました。マイヤンスとストラスブールで眠るために休んだだけで、馬に乗って手綱を握るのに必要なだけの食事しか取っていません」 「お伝えしましょう」  修道女は立ち去った。  すぐに平修道女が現れた。  受入口係はその後ろにいる。 「どうでした?」女は答えを待ちきれず、促すようにたずねた。 「殿下の仰いますには」と平修道女が答えた。「今晩謁見に応じることは出来ませんが、修道院の軒はお貸しいたします、一刻を争う助けを求めていらっしゃるようですから。長い旅を終えたばかりで疲れていらっしゃるのでしたら、すぐにお休みになることです」 「馬はどうなるの?」 「世話をさせますので、ご安心下さい」 「羊のようにおとなしくて、ジェリドと呼べばついて来ますから。どうかお願いします、大事な馬なんです」 「国王陛下の馬のように扱わせましょう」 「ありがとう」 「では、お部屋にご案内して下さい」平修道女が受入口係に言った。 「部屋ではなく、教会堂にお願いします。今の私に必要なのは、眠りではなく祈りです」 「礼拝堂はあちらです」修道女が指さした先には、教会堂に通ずる扉があった。 「修道院長にはお目にかかれますか?」 「明日」 「明日の朝?」 「いいえ、明日の朝はまだお会い出来ません」 「なぜ?」 「明日の朝はお出迎えがございますので」 「私以上に急いでいて不幸な人がいるというの?」 「王太子妃殿下が二時間お立ち寄り下さるのです。修道院にとってまたとない栄誉、哀れな修道女にとってまたとない誇りでございます。どうかご理解を……」 「そういうこと……」 「この場所が王家のご訪問に相応しいところであって欲しいと、修道院長は願っていらっしゃるのです」 「でも――」と震えながら辺りに目を走らせた。「修道院長に会えるまでの間、ここは安全なのかしら?」 「ご安心下さい。ここは犯罪者にとっても安全な隠れ家です、ましてや……」 「逃亡者にとっても。そうね。ここには誰も入ることが出来ないと考えて構わないんですね?」 「許可証がなければ何人《なんぴと》も入ることは出来ません」 「では許可証を手に入れたら……あの人にはそのくらいの力がある。時にぞっとするほどの力が」 「あの人とは?」 「何でもないわ、何でもない」 「可哀相に気が触れているのだ」修道女は呟いた。 「教会堂に! お願い教会堂に!」修道女の見解を釈明するかのように、女は繰り返した。 「こちらです。ご案内いたします」 「追いかけられているんです。急いで、早く、教会堂に!」 「ご安心を。サン=ドニの城壁はしっかりしております」受入口係の修道女は憐れむように微笑んだ。「ですから、どうか信じて下さいまし。あなたのように疲れている方は、私の言うことを聞いて、教会の床に膝をこすりつけたりしないで寝台で休むことをお勧めいたします」 「いいえ、やっぱり祈ることにします。主が追っ手を遠ざけてくれることを祈って」女は声をあげて、修道女が指さした扉の中に姿を消した。その後ろで扉が閉まった。  その修道女は修道女らしく好奇心が強かったため、正面入口から迂回してそろそろと前に進むと、女が床に顔を伏せて祈りながら泣きじゃくっているのが見えた。 第四十八章 パリ市民  修道女たちが旅の女に伝えていた通り、皇帝の娘をどのように迎えるかを決定するために参事会が催されていた。  マダム・ルイーズ殿下はこうしてサン=ドニの最高管理者として初仕事をおこなっていた。  教会財産は底を突きかけていた。先の修道院長が辞めるに当たって、私物であったレースを大量に持ち帰っていたし、聖遺物箱や聖体顕示台にしても、名家出身の修道院長たちが世俗的な環境で主の務めに身を捧げるに当たって、自らが属す共同体に貸し与えているものだった。  王太子妃がサン=ドニに立ち寄るという報せを聞いて、マダム・ルイーズはヴェルサイユに特使を送っていた。同夜、タペストリー、レース、オーナメントを積んだ荷馬車が到着した。  六十万リーヴル分に相当する。  そのため、この式典が如何に絢爛豪華かが喧伝されると、パリっ子たちの興奮と好奇心は頂点に達した。メルシエが述べていたように、少人数であれば笑って済ませられるが、大勢が集まれば決まって頭痛と嘆きの種になるのがパリっ子である。  斯くして、王太子妃の旅程が知れ渡ると、夜明けと共に十人、百人、千人のパリっ子たちが家から出て集まっているのが見られた。  サン=ドニに宿営していたフランス近衛兵、スイス人衛兵、聯隊員たちは、武器を手にして隊列を作り、人波の洪水を抑えようとしたが、既に聖堂の正面は恐ろしい渦巻きに取り囲まれ、大門の彫刻によじ登る人もいた。至るところに顔が見える。門の庇の上には子供が、窓からは男も女も顔を出し、さらには遅れてやって来た野次馬たちもいれば、ジルベールのように人混みの中で拘束されるよりは自由を好む者たちもいて――そうした野次馬たちは、木に登り枝を渡る蟻のように、サン=ドニからラ・ミュエットまで王太子妃の通り道にずらずらと列を成していた。  今なお華やかな供回りやお仕着せは少なからず従っているものの、コンピエーニュと比べると廷臣の数は減じていた。よほどの大貴族でもない限り、道々用意されている替え馬を使って、国王の後について通常の二倍も三倍も走ることは不可能だったからだ。  身分の低い者たちはコンピエーニュに留まっているか、パリに戻って馬を休ませるために駅馬に乗っていた。  だが、家で一日休むと、親方も庶民も再び外に出てサン=ドニに向かい、一度見ているというのにまた王太子妃と野次馬を見に行った。  当時、廷臣のほかに供回りがいなかったのだろうか。例えば高等法院、金融業者、大商人、貴婦人にオペラ歌手。パリの男女を詰め込んで走り、混み合っているためにとろとろと徒歩よりも遅いような乗合馬車のほかに、サン=ドニ行きの貸し馬や貸し馬車はなかったのだろうか。否。  それ故に新聞やビラが王太子妃の到着予定を知らせた日の朝、大勢の軍隊がサン=ドニに向かい、カルメル会修道院の目の前にひしめき、既に特等席が埋まっていれば王太子妃一行の通り道にまで溢れている、そんな状態を想像してもらうのも容易かろう。  この人混みの中ではパリ市民さえ脅威を覚えていたのだから、ジルベールにとってはなおのことだった。ちっぽけで孤独で優柔不断で土地に不案内であるうえに、自尊心が強くてものをたずねることも出来ないのだ。ジルベールはパリに来て以来、生粋のパリっ子だと思われようとしていた。それまで百人を超える群衆を見たこともなかったというのに!  初めのうちは通行人をちらほら見かけるだけだったが、やがてラ・シャペル辺りから人が増え始め、サン=ドニに着いてみると石畳から生えたわけでもあるまいに、畑に並んだ麦穂のように人が密集していた。  ジルベールはしばらく前から何も見えなくなり、人込みの中で迷子になっていた。何処に向かっているのかもわからずに、人の流れについて行った。だが何処に向かっているのかを知る必要がある。子供たちが木に登っていた。自分も服を脱いで木に登りたい気持を抑えながらも、ジルベールは木の下に近づいた。同じように何も見えずに困っている人々が、人の向かっている木々のふもとに向かって歩いていた。うまいことを考えた人々が樹上の子供たちにたずね、そのうちの一人の答えから、修道院と衛兵たちの間に空間があることがわかった。  ジルベールはこのやり取りに力を得て、四輪馬車が見えるかと今度は自分がたずねてみた。  馬車はまだ見えないが、四分の一里先の路上に砂埃が見えるという返事だった。これこそジルベールの知りたかったことだ。馬車はまだ到着してない。問題なのは、馬車がどちらの方角からやって来るかを知ることだけだった。  パリで誰とも親しく口を聞かずに人込みを通り抜けようと思うのなら、英国人になるか聾になるか唖になることだ。  ジルベールが人込みから抜け出そうと後ろにさがったところ、溝の後ろで一市民の家族が昼食を食べていた。  娘は背が高く金髪で、青い瞳をして、おずおずとしている。  母は丸々と太った小柄で陽気な女で、白い歯と若々しい顔をしている。  父は特別な日の日曜にしか箪笥から引っ張り出さないような毛織物の服にくるまって、妻や娘よりも不安そうにしていた。確かにこの妻と娘ならどんな時でも難局を切り抜けることが出来ただろう。  伯母は背が高く、痩せてがりがりで、気難しげだった。  女中は始終笑っている。  この女中が大きな籠に入った昼食一揃いを運んでいた。さぞ重かろうに、いつでも交代すると主人から声をかけられ、始終くすくすと笑いさえずっていた。  つまり、召使いも家族の一員なのだ。ジルベールと飼い犬は同類だった。時に撲たれ、やがて捨てられた。  ジルベールにとってこんな光景はあまりに新鮮で、視界の端から目を逸らせなかった。生まれてからずっとタヴェルネに閉じ込められていたために、領主と下僕しか知らなかった。中産市民のことなど知らなかったのだ。  この善良な人々は、日々の生活の中で、プラトンでもソクラテスでもなく、それどころかビアスの哲学を取り入れている。  出来るだけのことは自分たちで行い、それを出来るだけ最大限に活用していた。  父親が旨そうな仔牛のローストを切り分けていた。パリの小市民には大出費である。こんがりと焼けて旨そうに脂の乗った食欲をそそる肉が、皿に盛りつけられていた。前夜のうちに母親が、翌日のことを考えながら人参、玉葱、脂身の中に埋めておいたのだ。女中がその皿をパン屋に持って行くと、パン焼きの傍らいくつか皿を置く余裕も確保されており、薪の余熱で一緒にこんがり焼き上がっていたという寸法である。  ジルベールは隣の楡のふもとに場所を見つけ、格子柄の手巾で草の汚れを拭った。  帽子を脱ぎ、手巾を草むらに置いてその上に腰を下ろした。  ジルベールは隣人たちには注意を払わなかったが、隣人たちの方では話題にするのも当然のことだった。 「分別のありそうな男の子だね」と母親が言った。  若い娘が顔を赤らめた。  両親にとっては大変嬉しいことに、若い男の話題になると決まって顔を赤くするのだ。 「分別のありそうな男の子だね」と、先ほど母親は言った。  実際、パリ市民が真っ先に注目するのは、道徳的な善し悪しであった。  父親が振り返った。 「可愛い男の子じゃないか」  娘はいっそう赤くなった。 「随分と疲れているみたいですね」と女中が言った。「何にも持っていないのに」 「怠け者ですね!」伯母が言った。 「失礼ですけど」と母親がジルベールに声をかけた。パリっ子のところでしかお目にかかれないような、親しみのある声だった。「王様の四輪馬車はまだ遠いのかしらね?」  振り返ったジルベールは、自分が話しかけられているのだと気づき、立ち上がってお辞儀をした。 「礼儀正しい男の子だこと」と母親が言った。  娘は真っ赤になった。 「詳しくは知りません。ただ、四分の一里くらいのところに砂埃が見えたそうです」 「よかったら一緒にどうですか……」  父親が声をかけ、地面に広げられた昼食を勧めた。  ジルベールは近づいた。腹が減っていた。食べ物の匂いが誘惑しているようだった。だがポケットの中に二十五、六スーあることを思い出し、その三分の一を使えば、差し出されているのと同じくらい美味しそうな食事を取ることが出来ると考えた。それに初対面の人に甘えたくはない。 「ありがとうございます。でももういただいて来たので」 「なるほど。懸命なことだ、しかしそこからでは何も見えんでしょう」 「それを言うなら」とジルベールは笑いかけた。「あなたたちだって僕と同じ場所にいるんですから、何も見えないでしょう?」 「ああ、それはまた話が違う。甥が近衛聯隊で伍長をしておってね」  娘が真っ青になった。 「今朝は持ち場の『青孔雀』の前に立っているはずなんだ」 「失礼ですが、『青孔雀』というのは?」 「カルメル会修道院の真向かいだ。聯隊の後ろに場所を取ってくれることになっていてね。そこに坐っていれば、四輪馬車から降りるところがばっちり見えるはずなんだ」  今度はジルベールが真っ赤になる番だった。この親切な人たちと食事を共にしようとは思わなかったが、一緒について行きたくてたまらなかった。  だが己の人生哲学、否、ルソーも不安視していた誇り高さのために、小さく溜息をつかざるを得なかった。 「人を恋しがるのは女のやることだ。でも僕は男だろう! 力があるんじゃないのか?」 「あそこにいなければ」と母親が、まるでジルベールの心を読んだかのように口を挟んだ。「空っぽの四輪馬車しか見られないんですよ。見に来た挙げ句に見られるのが空っぽの馬車だなんて! わざわざそのためだけにサン=ドニくんだりまで来ることはないじゃありませんか」 「でもみんな同じように考えているのではありませんか」 「それはそうですけど、みんながみんな案内してくれる近衛兵の甥っ子がいるわけじゃありませんからね」 「ああ、その通りですね」とジルベールが言った。  この「その通りですね」という言葉に落胆が滲んでいることを、目敏いパリっ子は素早く見抜いた。 「だがね」妻の気持に敏感な父親が言葉を継いだ。「よかったら一緒に来るといい」 「でも……ご迷惑ではありませんか」 「とんでもない!」と母親が言った。「あそこまで行くのを手伝って下さいましな。手伝ってくれる人が一人しかおりませんからね。これで二人になりますもの」  どんな説得もこの言葉ほどジルベールの心を動かすものはなかっただろう。人の役に立つことや報いることを考えたり、人から助けを求められて役に立てたり出来れば、誇りも守られるし、やましさを感じることもない。  ジルベールは好意を受けることにした。 「手助けしてくれる人にちょっと会いに行きましょうか」と伯母が言った。  この厚意はジルベールにとって、まさしく天からの贈り物だった。というのも、階級、財産、権力、とりわけ祝祭時の場所取り(それも誰もが出来るだけ広い場所を確保する状態)において、ジルベールよりも相応しい三万もの人々がひしめき合っているのを突破することなど、どう頑張っても出来ようか。  もっとも、我らが哲学者君が理論家ではなく実際家であったならば、社会の力学を勉強するまたとない機会だったはずだ。  四頭立ての四輪馬車が人混みの中を砲弾のように突っ走った。見物人も先駆けが来ると道を開ける。羽根つき帽子をかぶり派手な色のタイツを履き太い杖を持ったその先駆けも、しばしば興奮した二頭の犬に追い越されていた。  二頭立ての四輪馬車が衛兵の耳に合い言葉のようなものを伝え、修道院に隣接する円形広場に乗り入れようとした。  騎手は並足で見物人を見下ろしながら、何度も押されぶつかり不満を呟いた末にようやく目的地にたどり着いた。  歩行者はもみくちゃにされた挙げ句に、押し寄せられた波のようにたゆたい、周りから押し上げられて足も地に着かないような状態で、母なる大地に戻ろうとアンタイオスのようにもがき、人混みから逃れようと見回し、逃げ道を見つけて家族を引っ張って行った。この家族というのが大抵は女たちである。というのも、あらゆる人々の中でもパリ市民だけは、いつでも何処でもあらゆる場面で女たちを平気で連れ出し、口先だけではない敬意を払わせていたからだ。  男たちの上に、もとい女たちの上に、人混みから出た澱のような男がいる。髭を生やし、帽子の残骸をかぶり、腕は剥き出しで、キュロットは紐で留められていた。倦むことなく肘や肩や足で人を押しのけ、軋むような笑いを立て、リリパット国の小麦畑を歩くガリバーのように容易く人込みを掻き分けていた。  四頭の馬を持つ領主でも、四輪馬車に乗った高等法院議員でも、騎士でもパリ市民でも庶民でもないジルベールは、人混みの中で押しつぶされてぼろぼろになっていても当然だっただろう。だが庇護を受けていると、随分と力強く感じられた。  ジルベールは母親に腕を差し出した。 「厚かましい!」伯母が声をあげた。  一家は歩き出した。父親は姉と娘の間。後ろから女中が籠を提げてついて来る。 「皆さん、失礼します……」母親が笑顔を振りまいた。「すみません、失礼します……」  道が割れ、母親とジルベールの通り道が出来ると、その跡に残りの家族が滑り込んだ。  歩きに歩いて、昼食を摂っていた場所から修道院まで五百トワーズの距離を踏破し、手強い近衛兵が人垣を作っているところにまでたどり着いた。あらゆる希望がここに懸かっているのだ。  娘の顔色は少しずつ元に戻っていた。  父親がジルベールに肩をすくめた。二十歩ほど向こうで髭をひねくり回している妻の甥が見えた。  父親が帽子を激しく振って合図をすると、それに気づいた甥がやって来て、場所を少し空けてくれるよう同僚に頼んだため、隊列の一部が空けられた。  こうして出来た隙間にすぐさまジルベールと母親、父親、姉に娘、最後に女中が滑り込んだ。女中は通りしな振り返ってひどい声をあげて睨んでいたが、雇い主たちはその理由をたずねることさえ忘れていた。  道を渡り切り、とうとう目的地にたどり着いた。ジルベールと父親は互いに礼を述べ、母親は引き留めようとしたが、伯母は追い出したがった。彼らは別れ、二度と会うことはないだろう。  ジルベールがいるのは間違いなく特等席だった。そこでジルベールは菩提樹の陰に向かうと、石に上って一番下の枝にもたれて、そのまま待ち続けた。  それからおよそ三十分後、太鼓が鳴り、大砲が轟き、大聖堂の鐘がまず一つ厳かに大気を震わせた。 第四十九章 王家の馬車  遠くから聞こえていたどよめきも、近づくにつれてずっしりと重たい音に変わった。耳をそばだてたジルベールは、身体中が震え鳥肌立つのを感じた。  歓声が聞こえる。「国王万歳!」  黄金と緋糸で飾られた馬たちの群れが、いななきながら車道を疾駆した。銃士隊、近衛騎兵隊、スイス人衛兵隊である。  次いで大きく豪華な四輪馬車が姿を現した。  青い綬、かぶりものをした気高い頭が見えた。国王の冷たく鋭い眼差しに射すくめられて、誰もが頭を垂れて帽子を取っている。  魅了されて、動くことも出来ずに陶酔しきって息を詰まらせ、ジルベールは帽子を脱ぐのも忘れていた。  衝撃を受けて正気に返った。帽子が地面に転がり落ちている。  びっくりして帽子を拾い、頭を上げると、先ほどの甥が軍人特有の皮肉な笑みを浮かべて睨んでいた。 「国王陛下に対して帽子を取らないのか?」  ジルベールは青ざめて、埃をかぶった帽子を見つめた。 「国王を拝見するのは初めてだったので、礼儀を忘れていたのは事実です。だけど知らなかったんです……」 「知らなかったって?」兵士は眉を寄せた。  ここから追い払われることは避けたかった。ここからならアンドレがよく見えるだろう。心に渦巻く愛情が、高慢な気持を打ち砕いた。 「申し訳ありません、田舎から出て来たばかりなんです」 「するとパリに教育を受けに来たんだな、坊主?」 「はい、そうです」ジルベールは怒りを押さえ込んだ。 「そうか、学ぶつもりがあるなら覚えておけ」と言って、伍長は帽子をかぶり直そうとしていたジルベールの手をつかんだ。「王太子妃にも国王と同じようにご挨拶するんだ。王子殿下にも王太子妃と同じようにだ。百合の花のついた馬車すべてにご挨拶し給え……百合の花はわかるな? それとも教えなきゃならんか?」 「大丈夫です。百合の花ならわかります」 「そいつは結構なことだ」と伍長がぼやいた。  王家の馬車が通過した。  馬車の列は長々と続いた。ジルベールは食い入るように見つめていた。放心しているように見えたほどだ。馬車は次々に修道院前に停車し、取り巻きの貴族たちが降りてきた。そのために、五分刻みで馬車の列は止まるはめになった。  何度目かに馬車が止まった時、ジルベールは燃えさかる炎に心臓を貫かれた。気が遠くなって目の前が真っ白になり、激しい震えに襲われ、倒れたりしないよう枝につかまらなくてはならなかった。  ジルベールの目の前、せいぜい十歩ほどのところ、伍長に言われた百合の花のついた馬車の中に、まばゆいばかりに光り輝くアンドレの姿が見えたのだ。真っ白な服に身を包み、まるで天使か幽霊のようだった。  ジルベールは小さく声をあげ、心を捕らえていた感情をようやく押し殺すと、胸の鼓動を抑え込み目の焦点を太陽に合わせようと努めた。  自制心は強かったので、どうやらうまくいった。  ちょうどその頃アンドレは、馬車が止まった理由を確認しようと扉から顔を出し、青く澄んだ瞳で周りを眺めた。そこでジルベールを見つけ、目が合った。  ジルベールを目にすれば、きっとアンドレは驚いて顔を引っ込め、隣に坐っている父に伝えるだろう。  ジルベールの思っていた通り、アンドレは驚いて顔を引っ込め、ド・タヴェルネ男爵にジルベールのことを知らせた。男爵は赤綬をつけ、王家の馬車の中に厳かに収まっていた。 「ジルベールだと?」男爵は感電したように声をあげた。「ジルベールがここに? ではマオンの世話は誰がしとるんだ?」  ジルベールはすべて耳にして、すぐさまアンドレ親子に向かって極めて丁寧な挨拶を送った。  全力を傾けた挨拶だった。 「どうやら間違いないな!」男爵も我らが哲学者君の姿を認めた。「確かにあの抜け作に違いない」  ジルベールがパリにいるとは思ってもみないことだったので、初めは娘の目を信じようとしなかったし、今も自分の目を信じたくはなかった。  一方アンドレの顔には、ジルベールが抜かりなく観察していたところでは、初めに軽い驚きが浮かんだほかは如何なる動揺も現れなかった。  男爵が顔を出し、ジルベールに近くに来るよう合図した。  ジルベールは行こうとしたが、伍長に止められた。 「呼んでいる人がいるんです」 「何処にいる?」 「あの馬車です」  伍長の目がジルベールの指の先をたどり、タヴェルネ男爵の馬車の上で止まった。 「失礼だが」と男爵が言った。「その子と話がしたいのだ。一言で済む」 「一言と言わず三言でも四言でもどうぞ」と伍長が答えた。「それだけの時間はあります。門のところで演説を読んでいる人がいるので、三十分は余裕があるでしょう。ほら行き給え」 「来るんだ、抜け作め!」そう言われて、ジルベールは普段通りに歩こうとした。「タヴェルネにいるはずのおんしをサン=ドニで見かけるとはどういう偶然だ?」  ジルベールはもう一度アンドレと男爵に挨拶をしてから答えた。 「偶然ではありません。僕がここに来たのは、自分の意思です」 「意思だと? おんしに意思があるとは驚きだわい」 「どうしてです? 自由人が意思を持つのは当然のことです」 「自由人だと? すると自分が自由だと思っておるのか?」 「もちろんです。誰にも自由を束縛されていませんでしたから」 「いやはや何とも」タヴェルネ男爵はジルベールの厚かましさに目を回した。「ところでどうやってパリまで来たのだ?……どんな手だてで?」 「歩いて来ました」ジルベールはぴしゃりと答えた。 「歩いてですって?」アンドレが同情するような顔を見せた。 「それで、パリで何をするつもりじゃね? それが聞きたい」 「まず教育を受けて、それから財産を作るつもりです」 「教育だと?」 「もちろんです」 「財産?」 「出来れば」 「だがそれまではどうするつもりかの? 物乞いでもするのか?」 「物乞いですって!」ジルベールは蔑みも露わにした。 「ではかっぱらいかね?」 「失礼ですが」ジルベールの尊大で自尊心に満ちた口調に、ド・タヴェルネ嬢は注意を引かれた。「僕がこれまであなたから物を盗んだことがありましたか?」 「では怠け者にはどんな仕事が務まるのかな?」 「僕に相応しい仕事ですとも。根気強くなければ務まらない仕事ですからね。楽譜を写しているんです」  アンドレが顔を向けた。 「楽譜を写しているの?」 「はいそうです」 「楽譜が読めるのかしら?」アンドレの言葉には軽蔑が滲んでいた。「嘘つきね――そう言われているも同然だった。 「音符は知っていますから、写譜するにはそれで問題ありません」 「何処で音符なぞ覚えおった?」 「ええ、ほんと」アンドレも微笑んだ。 「男爵閣下、僕は本当に音楽が好きなものですから、毎日お嬢様が一、二時間チェンバロに向かっているのを、物陰から聴いておりました」 「ぐうたらめが!」 「まず曲を覚えました。それからその曲の載っている教則本を、少しずつ勉強して、読めるようになりました」 「教則本ですって!」アンドレが怒りの叫びをあげた。「あなた、わたくしの教則本をいじっていたの?」 「違うんです、そんなことは絶対にしてません。チェンバロのそこここに開いた状態で置いてあったので、触ってはいません。覗き込んで読んでいただけですから。目で見ただけではページは汚れませんよね」 「見ているがいい。この阿呆はそのうちハイドンのようにピアノが弾けると言いだすぞ」 「弾けるようになっていたと思います。鍵盤に指を置こうとしさえすれば」  アンドレはジルベールの嬉々とした顔を眺めずにはいられなかった。殉教という感覚に酔いしれているとしか思えない。  だが男爵には娘のような冷静さも分別もなかった。この若造が正しかったこと、マオンと一緒にタヴェルネに残して来たという残酷な間違いのことを考えると怒りが燃え上がった。  明らかな間違いを犯したからといって、目下の者に許しを請うのは難しい。そういうわけだから、アンドレが落ち着くに従い、父親の方はますますかっかとしていた。 「この悪党めが! タヴェルネから逃げ出してぶらつきおって。言い訳があるならその二枚舌を使って言ってみるがいい! わしが抜かったばかりに、王都の敷石を詐欺師や浮浪者に踏まれるとは我慢がならん……」  アンドレが父の気を静めようとした。あまり言ってはこちらの分が悪くなると思ったのだ。  だが男爵は娘の手を払いのけた。 「サルチーヌ殿に伝えておこう。せいぜいビセートル行きを覚悟しておくがいい!」  ジルベールは一歩退がって帽子をかぶった。怒りで青ざめている。 「いいですか。僕はパリにいる間、あなたの言うサルチーヌ殿を待たせておくような方のお世話になっていたんですよ!」 「ふん! ビセートルからは逃げられても、鞭打ちからは逃れられんぞ。アンドレ、アンドレ、兄を呼んでくれ。近くにおるはずだ」  アンドレは身を乗り出し、ジルベールに有無を言わせず告げた。 「ジルベール、行きなさい!」 「フィリップ、フィリップ!」男爵が呼んでいる。 「行きなさい」アンドレは繰り返したが、ジルベールは魅入られたように物も言わず微動だにしなかった。  男爵に呼ばれて騎士が一人、馬車の戸口に駆け寄った。大尉の制服を身につけたフィリップ・ド・タヴェルネである。明るくきらびやかに輝いていた。 「おや、ジルベール!」ジルベールに気づいてにこやかに声をかけた。「こんなところで会うとはなあ! ご機嫌よう、ジルベール……何かご用でしょうか、父上」 「おはようございます、フィリップさん」ジルベールも挨拶を返した。 「用というのはほかでもない」怒りで真っ青になった男爵がわめいた。「剣の鞘でこの抜け作を懲らしめてやれ!」 「何があったんですか?」怒りを燃え立たせる男爵と極めて落ち着き払ったジルベールを見比べて、フィリップはたずねた。 「こやつはな、こやつは……! ええいフィリップ、犬のようにぶってやればいいんじゃ」  フィリップは妹の方を見た。 「何があったんだ、アンドレ? 侮辱されたのか?」 「僕がアンドレを侮辱!?」ジルベールが叫んだ。 「いいえ、何も、フィリップ。何もなかったわ。お父様が癇癪を起こしただけ。ジルベールさんはもううちの人間ではないのだから、行きたい場所に行く権利があるの。お父様はそれを理解したくなかったから、ここで出会って怒りに駆られてしまっただけ」 「それだけなのか?」フィリップがたずねた。 「それだけよ。お父様がわざわざこんな一顧だにするまでもないことのためにお怒りになるのがわからない。馬車はまだ進まないのかしら」  男爵は何も言わなかった。娘の冷静沈着ぶりになだめられた恰好だ。  ジルベールはこの蔑みの言葉にがっくりとうなだれた。憎しみにも似た稲妻が心を貫いた。フィリップの剣で滅茶苦茶にぶたれた方がましだった。鞭で血の滲むまでぶたれても構わなかった。  気が遠くなりそうだ。  だが幸運にもちょうど演説が終わり、馬車が再び動き出した。  男爵の馬車が前の馬車を追って少しずつ遠ざかっていった。アンドレも夢のように消えてしまった。  一人取り残されたジルベールは、いつ慟哭してもおかしくなかった。どうやら苦しみの重みに耐えられそうにもない。  その時、肩に手を置かれた。  振り向いてみるとフィリップがいた。聯隊士に馬を預けて地面に降り立ち、顔には満面の笑みが戻っていた。 「さあ、何があったんだ、ジルベールめ。それにパリには何をしに?」  気取らない暖かい言葉に、ジルベールは心を打たれた。 「ああ!」頑迷な禁欲主義者も溜息を洩らした。「タヴェルネで何が出来たでしょうか? 教えて下さい。タヴェルネにいたならきっと、絶望と無知と飢えで死んでいたことでしょう」  フィリップはおののいた。裏のない性格だったため、アンドレと同じく、見捨てられたこの若者の痛ましい境遇に衝撃を受けたのだ。 「ではパリで身を立てるつもりなのか? お金も後ろ盾も援助もないというのに」 「僕はそのつもりです。働く気があるなら飢え死にすることもないでしょう。何もする気のない人たちもいるところですから」  フィリップはこの返答におののいた。ジルベールのことを、取るに足らない馴染みとして考えたことしかなかったのだ。 「だが食べなくてはならないだろう?」 「パンを買います。自分で稼がず批判しかして来なかった人間には、それ以上は必要ありません」 「タヴェルネの待遇にそんなことは言うまいね? 君の父上も母上も素晴らしい使用人だったし、君も随分と役に立ってくれたじゃないか」 「僕は自分の務めを果たしただけです」 「いいか、ジルベール。ぼくは君のことが気に入っていたし、ほかの人たちとは違う見方をして来たつもりだ。正しいのか間違っているのかはそのうちわかるだろうがね、君が人嫌いなのは繊細だからだし、粗野なのは自尊心の現れではないのか」 「ああ!」ジルベールは息をついた。 「君には上手くやってもらいたいんだ」 「ありがとうございます」 「君と同様ぼくも若いし、ぼくなりに不幸だった。君のことがわかるのは、だからだろうな。運命はある日ぼくに微笑んだ。今度は君に微笑むまでの間、援助させてくれ」 「本当に、本当にありがとうございます」 「予定はあるのかい? そんなに人嫌いでは、誰かに雇われることも出来まい」  ジルベールは蔑んだように笑って首を振った。 「教育を受けるつもりです」 「だが教育を受けるには教師がいる。教師を雇うにはお金がいる」 「働いて稼ぎます」 「稼ぐだって!」フィリップは笑い出した。「いったいどれだけ稼ぐつもりだい?」 「今は一日二十五スーですが、そのうち三十や四十スー稼げるようになると思います」 「それでは食べるだけで精一杯だろう」  ジルベールは微笑んだ。 「ぼくが援助するのはまずいのだろうね」 「あなたがですか?」 「ああ、ぼくの援助だ。受け入れるのは恥なのかい?」  ジルベールは答えなかった。 「人間はこの世で助け合うものだ」メゾン=ルージュは続けた。「人間同士みんな兄弟じゃなかったのか?」  ジルベールは顔を上げて、智的な眼差しでフィリップを見つめた。 「驚いたのかい?」 「いいえ、それは哲学者の言葉ですから。ただ、あなたのような立場の人からそんな言葉を聞いたことはなかったので」 「そうだろうな。だがこの言葉はぼくら世代の言葉でもある。王太子ご自身もこの箴言を共有しているのだ。さあ、ぼくに対して意地を張る必要はない。貸したものは後で返してくれればいい。君がいつかコルベールやヴォーバンのようにならないとも限らないだろう?」 「あるいはトロンシャンに」とジルベールが言った。 「あるいはね。これが財布だ、取り給え」 「ありがとうございます」フィリップが腹を割ったことに感動して、頑固なジルベールも思わずそう言った。「ただ、僕は何もいりません。でも……でも、受け取ったも同然な気持で感謝していることは、お伝えしておきます」  そうして、茫然としているフィリップに挨拶をするや、人込みに紛れ、見えなくなった。  若き大尉はしばらくの間、自分の目や耳が信じられないかのようにして立ちつくしていた。だが、ジルベールが戻って来ないとわかると、馬に跨り持ち場に戻った。 第五十章 悪魔憑き  馬車の喧噪が響き渡り、鐘の音が次々と鳴り響き、太鼓が上機嫌に轟き渡り、あらゆるものが華やかさに満ちていたにもかかわらず、世俗の華やかさの余波もすっかり失われ、マダム・ルイーズの魂には何の影響も与えず、部屋の壁の隙間に絶え入る流れのように消えていった。  国王は父として王として、即ち命令とも懇願ともつかぬ笑いを見せて、娘を世俗に連れ戻そうと無駄な努力を重ねた後で、出立した。王太子妃は叔母の紛れもない気高さに一目で感動し、取り巻きを引き連れて退散した。二人が立ち去るとカルメル会の修道院長はカーテンを降ろさせ、花を持ち去らせ、レースを外させた。  修道院中がいまだ感動に包まれていたが、世俗に向かって一時的に開かれた重い扉が、重たげな音を立てて世俗と陸の孤島とを再び閉ざしても、修道院長だけは眉をひそめなかった。  しばらくしてから会計係を呼んだ。 「この二日間は混乱していましたが、貧しい人々にはいつも通り施しを与えていましたか?」 「はい、院長様」 「病人たちのところを普段のように見舞っていましたか?」 「はい、院長様」 「兵隊たちには気持ちよく帰ってもらいましたか?」 「院長様が用意させておいたパンとワインを全員が受け取りました」 「ではこの家には何の問題もありませんね?」 「ございません」  マダム・ルイーズは窓辺に近寄り、宵間近の湿った翼《よく》の庭から立ちのぼる香しい冷気を静かに吸い込んだ。  会計係は修道院長から命令かお許しの出されるのを恭しく待っていた。  目下マダム・ルイーズが何を考えているのかは神のみぞ知る。窓辺まで伸びていた茎の長い薔薇と、中庭の壁を覆っていた耶悉茗《ジャスミン》をむしっていた。  不意に、共同門の辺りを揺るがす荒々しい馬の蹄の音が聞こえ、修道院長はびくりとした。 「まだサン=ドニに残っていた貴族がいらしたのですか?」マダム・ルイーズがたずねた。 「ロアン枢機卿猊下がいらっしゃいます」 「馬をここに置いているのですか?」 「いいえ、夜の間は参事会室に入れることになっております」 「ではあの音はなんでしょうか?」 「客人の馬が立てている音でございます」 「客人ですか?」マダム・ルイーズは記憶を探った。 「昨晩殿下に庇護をお求めになったイタリアの女性です」 「ああ、そうでした。今何処に?」 「部屋か教会堂でしょう」 「昨日から何をしていたかわかりますか?」 「昨日から、パンのほかは何も摂らずに、一晩中礼拝堂で祈っておりました」 「恐らく重罪人なのでしょう」修道院長は眉をひそめた。 「私にはわかりません。誰とも話をしないのです」 「どんな方ですか?」 「お美しく、顔には優しさと誇り高さが同居しておりました」 「今朝の儀式の間は何処にいましたか?」 「お部屋の窓辺にいるのを見かけました。カーテンの陰に身を隠すようにして、不安そうな目で一人一人を見つめておりました。その中に敵がいるのを恐れてでもいるようでした」 「わたくしがこれまで生きて、また治めてきた世俗には、そういう女の方がおりました。入ってもらいなさい」  会計係は立ち去ろうとして足を踏み出した。 「ああ、その方のお名前は?」王女がたずねた。 「ロレンツァ・フェリチアーニ」 「知らない方ね」マダム・ルイーズはぼそりと呟いた。「構いません。お招きして下さい」  修道院長は百年ものの椅子に腰を下ろした。木楢で出来たその椅子はアンリ二世時代に作られたもので、ここ九代の修道院長が腰を下ろして来た。  その恐ろしい法廷の前で、教会と世俗の間に挟まれた哀れな修道女たちが恐れおののいて来たのだ。  しばらくすると会計係が、長いヴェールをかぶった客人を連れて入って来た。  マダム・ルイーズは一族に特有の鋭い目を持っていた。部屋に入って来たロレンツァ・フェリチアーニをその目で見据えた。ところがこの女性があまりに謙虚で淑やかで崇高な美を持っていることに気づき、さらにはつい先ほどまで涙で濡れていた黒い目には何の汚《けが》れも見られないことに気づいた。こうした性質を目にして、初めこそ反感を抱いていたマダム・ルイーズも、好意的で親身な気持を抱き始めた。 「こちらへ来てお話し下さい」と王女が言った。  若い女性は震えながら近づき、ひざまずこうとした。  王女がそれを遮った。 「ロレンツァ・フェリチアーニと仰るのですね?」 「はい、院長様」 「秘密を告白なさりにいらしたのですか?」 「是が非でも告白したいのです!」 「でもどうして告解の場で助けを求めないのですか? わたくしには慰めの言葉をかけることしか出来ませんよ。司祭なら慰めと許しを与えてくれます」  マダム・ルイーズはこの最後の言葉を躊躇いがちに口にした。 「必要なのは慰めだけです」とロレンツァが答えた。「それに、私の話というのは、女性の方にしか申し上げられない話なんです」 「では異常な話なのでしょうか?」 「とても異常なこと。でも我慢してお聞き下さい。何度も申しますが、あなたにしかお話し出来ないことなんです。あなたは絶大な権力をお持ちです、私を守ってくれるには神の力にも等しい力が必要なんです」 「守ると言いましたか? では誰かに追われているのですか? 誰かに襲われたのですか?」 「そうです! 追われているんです」ロレンツァは筆舌に尽くしがたい恐怖の叫びをあげた。 「よくお考え下さい。この家は修道院であって要塞ではありません。人の心を騒がせるものは何一つ入り込みませんし、入ったとしても消えてしまいます。それに他人のお役に立てるようなものは何一つ見つけることが出来ません。ここは正義の家でも武力や弾圧の家でもなく、神の家に過ぎないのです」 「神の家! 私が求めているのは神の家にほかなりません。神の家でなら、安心して過ごすことが出来ますもの」 「ですが神は報復をお認めになりません。追っ手に対してわたくしたちにどうしろと仰るのですか? 司法官にお話し下さい」 「私が恐れている者に対して、司法官では何も出来ません」 「何者なのです?」修道院長は我知らず胸の内に恐怖を覚えた。  ロレンツァは謎めいた昂奮に駆られて王女に近づいた。 「何者かと仰るのですか? きっと人をたぶらかす悪魔の一人に違いありません。長であるサタンから人智を越える力を授かった悪魔です」 「何を仰っているのですか?」目の前の女は果たして正気なのかと、目を注いだ。 「それに私ほど不幸な人間はいないでしょう!」ロレンツァは、彫像をかたどったような美しい腕をねじって叫んだ。「あの人の行く手には私がいる定めなんです! それに私は……」 「どうか続きを」 「私は悪魔憑きなんです!」と囁いた。 「悪魔憑き? 良識はお持ちでしょう、よもや……?」 「狂っていると言いたいのですか? いいえ、私は正気です。でもあなたに見捨てられれば、きっと狂ってしまうでしょう」 「悪魔憑きとは!」王女が繰り返した。 「どうにもならないのです!」 「そうは言いましても、失礼ですが、神の恩寵を受けた方々と変わらないように見えます。お金にも困っているようには見えませんし、お美しく、筋道の通った話し方をなさるし、顔にも悪魔憑きと呼ばれる恐ろしい病気の跡はまったく見つかりませんよ」 「私の人生には、私が経験して来た出来事には、自分自身からも隠しておきたい忌まわしい秘密があるのです」 「説明して下さいませんか。わたくしに真っ先に悩みを相談するべきでしょうか? ご両親やご友人は?」 「両親ですって!」苦痛に喘ぐようにして十字を切った。「いつかまた会えることがあるというのですか? それに友人たち?」苦しそうに付け加えた。「私に友人がいるというのですか?」 「では順を追ってお話しすることにしましょう」マダム・ルイーズの方から話の道筋をつけようと努めた。「ご両親はどんな方で、どうして離ればなれになったのですか?」 「私はローマ人です。両親とローマに住んでいました。父は古くからの貴族でしたが、ローマ貴族の例に洩れず貧しい人でした。それから母と兄がいました。聞くところによると、フランスでは私たちのような一家に息子と娘がいる場合、息子の剣を買うために娘を犠牲にするそうですね。私たちの家では、息子を聖職者にさせるために娘を犠牲にしました。兄に教育を受けさせる必要があったため、私は教育を受けることも出来ず、兄は母の言いなりに枢機卿を目指して勉強に勤しんでいました」 「それからどうなりました?」 「それから、両親は兄を援助するために犠牲に出来ることならすべて犠牲にしたのです。私はスビアーコのカルメル会修道院に行かされることになりました」 「それに対してあなたは何と?」 「何も。小さな頃から、将来はそうせざるを得ないと教えられてきましたから。私には何の力も意思もありませんでした。意見など求められずに命令されて、それに従うほかなかったんです」 「しかし……」 「私たちには、私たちローマの娘には、祈ることと従うことしか出来ませんでした。地獄に落とされた人々が見たこともない天国に憧れるように、私たちは世界に憧れていたのです。もっとも、抵抗しようと考えれば罰を受けることは見せつけられていましたし、そうする気持も起こりませんでした。友人たちにもみんな兄弟がいましたから、家族のために犠牲を払っていました。私には不満を洩らす理由などないのでしょう。しきたりを破ることなど誰も望んではいませんでした。別れ別れになる日が近づいて来ると、母は少しだけ強く抱いてくれました。 「とうとう修練期がやって来て、父は修道院に支払う五百ローマン=エキュの持参金を集め、私たちはスビアーコに旅立ちました。 「ローマからスビアーコまでは八、九里の距離でした。ところが歩きづらい山道だったため、九時間かかってようやく三里しか進めませんでした。でもひどい旅にもかかわらず、私には嬉しかったんです。こうした幸せも最後だと思って微笑みかけながら、道ばたの木々や藪や石、枯れた草花にさえこっそりと別れを告げて歩いていました。その修道院に草花や石ころや藪や木々があるとは限りませんものね! 「私がそうやって空想に耽りながら、小さな森やひびだらけの岩場を通り過ぎていた時でした。突然馬車が止まり、父が声をあげるのが聞こえました。父が拳銃をつかもうとしました。私の目も心も天から地上にすっかり引き戻されました。私たちは山賊に捕まっていたのです」 「ひどい体験でしたね」マダム・ルイーズはこの物語に徐々に興味を惹かれていた。 「話を続けましょうか? 私はそれほど怖くはありませんでした。馬車を止めたのはお金が目的に決まっていますし、修道院に払うための持参金がありましたから。持参金がなければ、父がまたお金を作るまでの間は修道院入りを遅らせられるはずでした。五百エキュかき集めるのにどれだけの苦労と時間がかかったのか知っていましたから。 「ところがお金を分捕った山賊は、私たちの馬車を解放するどころか、私に向かって襲いかかって来たのです。私を守るために父が必死で抵抗し、母が涙を流して哀願するのを見て、経験したこともないような恐ろしい危険に襲われているのだと悟り、普通なら助けを呼ぶところでしたが、私は慈悲を請うて叫んでいました。助けを呼んでも無駄なことはわかっていましたし、そんな寂しい場所では誰にも聞こえないことはわかっていましたから。 「事実山賊たちは私の叫びも母の涙も父の抵抗も気に留めず、後ろ手に縛り上げた私をおぞましい目つきで眺め回しているのが、恐怖のあまり神経の張り詰めていた私にはわかりました。山賊たちはポケットから骰子《ダイス》を取り出し、手巾の上で賭けを始めました。 「私はますますぞっとしました。汚らしい敷物の上には、賭け物など一つもなかったんです。 「手から手に骰子が回されている間中、私は震えていました。賭けられているのは私だとわかったからです。 「突然、山賊の一人が勝ち鬨をあげて立ち上がり、仲間が悪態をついて歯軋りしているのを尻目にこちらに駆け寄り、私を抱き寄せ口唇を押しつけました。 「真っ赤に焼けた鉄を押しつけられたとしても、あれほど苦悶に満ちた声は出せなかったでしょう。 「『やめて!』と私は叫びました。 「母は地面をのたうち、父は気を失いました。 「もう祈ることしか出来ませんでした。賭けに負けた山賊の誰かが怒りに駆られてナイフを握って殺してくれたらどんなにありがたかったか。 「私はナイフの一突きを待ちました、願いました、祈りました。 「その時、馬に乗った男が小径に現れたんです。 「男が見張りに何か囁くと、見張りは合図して道を開けました。 「背丈は人並みで、貫禄のある顔つきをして、意志の強そうな目つきをした男です。落ち着き払って馬を並足で進めていました。 「私の前まで来ると、男は馬を止めました。 「腕をつかんでいた山賊は私を連れて行きかけていましたが、男が鞭の柄を鳴らすとすぐに振り返りました。 「山賊は腕から私をずり落としました。 「『ここに来い』と男が言いました。 「山賊は躊躇っていましたが、男が腕を曲げて胸の上で二本の指を広げると、それが絶対服従の合図だったのでしょうか、山賊は男に近づいて行きました。 「男は山賊の耳元に口を寄せ、小声で囁きました。 「『Mac』 「その一言だけでした。間違いありません。これから自分に突き立てられる短刀を見るように目を凝らしていましたし、自分の生死を決める言葉を聞くように耳をそばだてていましたから。 「『Benac』と山賊が答えました。 「それから獅子のように服従して吼えると、私のところまで戻って、手首を縛っていた紐をほどき、父と母の腕もほどきに行きました。 「既に山分けされていたお金も、一人一人が石の上に戻しています。一エキュも欠けずに五百エキュありました。 「そうしている間にも父と母の腕も自由になりました。 「『よし、行け……』男が山賊たちに命じました。 「山賊たちはその言葉に従い、一人残らず森の中に戻って行きました。 「『ロレンツァ・フェリチアーニ』男は人間とは思えないような目つきで私を包んでいました。『先に進むがいい。お前は自由だ』 「私たちはその男のことを知らないのに、男の方では私の名を知っていたのです。父と母は礼を言って、馬車に戻りました。私も後に従いましたが、足はなかなか進みませんでした。というのも、助けてくれた男の不思議な魅力に抗えなかったのです。 「私たちを守り続けようとでもするように、男はそのままの場所で動かずにおりました。 「私は見えなくなるまで男を見つめていたのですが、男の姿が見えなくなってようやく、胸を締めつけるような威圧感が消え去りました。 「二時間後、私たちはスビアーコに到着しました」 「その男は何者だったのですか?」ロレンツァの語った物語があまりにあっけなかったため、王女がたずねた。 「続きを聞いていただけますか。まだすべては終わってはいなかったのです!」 「お聞きいたしましょう」  ロレンツァは話を続けた。 「道中、父と母と私は、あの突然現れた不思議な救い主の話ばかりしていました。天の遣いのように謎めいていて力強かったと。 「父は私ほど無邪気ではありませんでしたので、ローマ辺りに散らばっている何処かの盗賊団の長なのではないかと疑っていました。同じ組織に属している盗賊団を折にふれて視察に来るまとめ役で、褒美を取らすも罰するも分け前を取らすも自由な絶対権力を付与されているのではないかということでした。 「でも父には人生経験でこそ勝てませんが、私は直感に従い、感謝の念に包まれていたので、あの男が盗賊だとは思いませんでした。いえ、思えなかったのです。 「そこで私は毎晩マリア様に捧げていた祈りの中で、あの見知らぬ救い主に聖母のご加護がありますことを願って祈りました。 「その日から、私は修道院に入ることになりました。持参金は取り戻したのですから、修道院入りを妨げるものはありませんでした。悲しかったし、すっかり諦めていました。敬虔なイタリア人の頭には、染み一つない汚れなき身体のままでいよと主が望まれたのだと感じられたからです。主を措いてははずせない純潔の冠を汚そうとして悪魔が遣わした盗賊たちを、追い払ってくれたのですから。そこで私は修道院長や父母の心尽くしに熱い気持ちで飛び込んでいました。修練期を免除するための教皇宛て請願書を差し出されたので、私はそれに署名しました。それを読んだ教皇聖下が世俗を疎んで孤独を選ぼうとするひたむきな魂を感じてくれるようにと、父が心を尽くして書いたものでした。聖下は請願をすべてお認めになり、一年、人によっては二年の修道期間を、ご厚意により一か月にして下さいました。 「この報せを聞いても、苦しみも喜びも感じませんでした。もはやこの世では死んでいて、動かぬ影だけの残された死体に向かって行われているようでした。 「世俗の魂が捕らえに来るのを避けるために、二週間の謹慎を申し渡されました。二週間後の朝、ほかの修道女と共に礼拝堂に行くように命じられました。 「イタリアでは修道院の礼拝堂は公教会のものでした。主とお会い出来る場所で主を独占することが司祭に許されているとは、よもや教皇も思われないでしょう。 「私は内陣に入り、椅子に坐りました。内陣の柵を閉ざしている緑の布の間です。もっとも、閉ざしていると言っても形だけのことでしたから、身廊を確認するには充分な隙間がありました。 「世俗とのつながりとも言うべきその隙間から、額ずいた人々の中にただ一人立ったままでいる人間が見えました。その人は私を見ていた、いいえ目で貪っていました。その時、以前に感じたことのあるのと同じ不安を感じたのです。兄が紙や薄板や厚板越しさえ磁石で針を引きつけるのを見たことがありましたが、ちょうどそれと同じように超人的な力に操られるかのようでした。 「ああ! この魅力に抗う術もないままに打ち負かされて引き寄せられ、主に祈るように手を合わせて、口と心の両方でこう呟いていたのです。 「『ありがとうございます!』 「修道女たちが驚いて見つめましたが、私の行動も言葉も理解出来なかったので、手と目と声の先を目で追い、椅子から背伸びして身廊を見つめていました。私も見つめたまま震えていました。 「男は消えていたんです。 「修道女たちからいろいろたずねられましたが、赤らんだり青ざめたりして口ごもるしかありませんでした。 「それ以来です」ロレンツァが絶望に駆られて叫んだ。「それ以来、私は悪魔の力に取り憑かれているんです!」 「そうは仰いましても、人知を越えたところなど見受けられませんよ」と王女は微笑んだ。「どうか落ち着いて続きをお話し下さい」 「私と同じことを感じていないからわからないのです」 「何を感じたのですか?」 「呪縛です。心も魂も理性も、悪魔に取り憑かれてしまいました」 「その悪魔とはもしや恋愛感情ではないのですか」 「愛情であればこんなふうに苦しんだり、心を痛めつけたり、木々を揺する嵐のように肉体を揺らしたり、悪い考えを心に植えつけることはないでしょう?」 「悪い考えとは何ですか」 「聴聞僧に告白すべきだったんですよね?」 「そうでしょうね」 「でも、私に取り憑いている悪魔は、秘密を洩らすなと囁きかけたんです。修道女は修道院に入った際に愛の記憶を世俗に捨てて来たはずですが、主の御名を唱えながらも心に別の名を抱いている人たちも大勢いました。指導僧なら似たような告白を山ほど聞いているはずです。でも私は信心深く内気で無垢だったので、あのスビアーコの旅の日まで、兄以外の男とは一言も口を利いたことがなかったんです。その時まで、他人と二目と目を交わしたことはありませんでした。そんな私が空想してしまいそうになったんです。髪を下ろす前に誰もがかつての恋人と分かっていた逢瀬を、私もその男と分かつことが出来たら、と」 「確かに悪い考えですね」とマダム・ルイーズが言った。「ですが取り憑いている女性にそんな考えを吹き込むだけでしたら、随分と害のない悪魔ですよ。続きをお話し下さい」 「翌日、面会に来た人がいたので降りてゆくと、ローマのフラッティーナ通りに住んでいた女友達がいて、随分と懐かしんでくれました。毎晩一緒におしゃべりしたり歌ったりした仲だったんです。 「その人の後ろ、戸口の辺りに、外套を纏った男が下男のように控えていました。見向きもされませんでしたが、私の方ではその男を見つめていました。一言も話しかけられなかったけれど、誰なのかはわかりました。あの見知らぬ救い主だったのです。 「何度も感じた不安がまたも心に湧き起こりました。その男に力ずくで征服されたのがわかりました。逃げだそうと抗うこともせずに、男のものになっていました。外套の陰から打ち寄せる不思議な波が、私を惑わせていたのです。口を開くことなく私にしか聞こえない音を用いて、美しい言葉で話しかけていたのです。 「私は持てる力のすべてをふりしぼって、フラッティーナ通りの友人に向かい、一緒にいる男は誰なのかとたずねました。 「知らないという返事でした。夫と来る予定だったのですが、出発直前にその男と帰って来た夫からこう告げられたそうです。 「『スビアーコに連れて行けなくなった。この人に連れて行ってもらいなさい』 「私との再会を待ち切れなかったため、それ以上とやかく言わずにその男と旅をして来たのだと言っていました。 「友人は敬虔な人でしたから、面会室の隅に奇蹟をもたらすと評判の聖母像があるのを見て、帰る前に祈りを捧げずにはいられず、聖母像の前に行ってひざまずいていました。 「その間、男が音も立てず部屋に入りゆっくりと近づいて来ると、外套を割って、私の目を射抜くような強い光を二つの目から放ちました。 「私は話しかけられるのを待っていました。男の言葉を聞きたくて、胸が波のように高くうねっていました。ところが男は柵越しに私の頭上に手を伸ばしただけでした。その瞬間、得も言われぬ恍惚とした感覚に襲われたのです。無限の寂しさに押しつぶされたように目を閉じて、私たちは微笑みを交わしました。そうしているうちに、目的は私に力を及ぼすことだけだったのでしょうか、男は立ち去りました。男が遠ざかるにつれて、徐々に感覚が戻って来ましたが、それでも不思議な幻覚の影響力から逃れることは出来ませんでした。フラッティーナ通りの友人が祈りを終えて立ち上がり、いとまを告げて私を抱き寄せ立ち去った時にも、それは続いていたのです。 「その夜、服を脱いでいると、頭巾の下からたった三行だけの手紙が出て来ました。 「『ローマでは修道女を愛する者は死罪です。あなたに生を捧げる者に、あなたは死を与えるのでしょうか?』 「その日から私は完全に取り憑かれてしまったのです。主を欺き、その男のことしか考えられないことを告白いたしませんでした」  ロレンツァは自分の口にしたことに怯え、話を止めて、穏やかで知的な王女の顔つきを確かめた。 「そういったことはすべて悪魔の仕業ではありません」マダム・ルイーズ・ド・フランスは毅然として答えた。「不適切な情熱というものです。それに申し上げました通り、後悔の形を取っているのでなければ、世俗の物事をここまで持ち込んではなりません」 「後悔、ですか?」ロレンツァが声をあげた。「涙を流して祈っているのをご覧になりませんでしたか? この男の恐ろしい力から救って欲しいとひざまずいていたのをご覧になりませんでしたか? それなのに、後悔しているかとたずねるのですか? 後悔という言葉では足りません。私が持っているのは悔悛の気持です」 「ですが、今になっても……」 「お待ち下さい、最後まで聞いて下さい。そのうえで寛大な裁きをお願いいたします」 「寛大と優しさがわたくしに求められているものです。苦しみに向き合うのがわたくしの仕事ですから」 「ありがとうございます! あなたこそ、探し求めていた慰めの天使です。 「私たちは週に三日、礼拝堂で弥撒をあげていましたが、いつもあの男がいました。私は何とか堪えようとしたんです。気分が悪いと言い聞かせました。弥撒に参加しないと決断しました。弱い人間です! 時間が来ると礼拝堂に向かっていたんです。人知を越えた力が意思に働きかけているようでした。あの男が来ていなければ、安らかな気持でいられたでしょう。でも男が近づいて来るのが、私にはわかりました。はっきり口にすることも出来ました。百歩向こう、門を跨いだところ、教会の中、見なくともわかります。男がいつもの場所にたどり着いた瞬間、いつもにも増して敬虔な祈りを捧げようと祈祷書を見つめていようとしたにもかかわらず、私は男の姿を追って祈祷書から目をそらしていました。 「弥撒が長々と続いていたとしても、私にはそれ以上は読むことも祈ることも出来ませんでした。頭も意思も魂も目に注がれ、目はあの男に向けられていました。そのことをわかりながら、主と戦っていたんです。 「初めは見ているのが怖かったのですが、やがてその男が欲しくなり、ついに男の許に駆けつけたいという思いに駆られました。夢でも見ているように、夜の路上で見かけたり、窓辺を通りかかるのを感じているような気分でした。 「こんなことが周りに気づかれないはずがありませんでした。そのことを聞いた修道院長が母に伝えたのです。誓いをあげる日の三日前、世俗に残して来たたった三人の肉親が部屋に入るのが見えました。父、母、兄です。 「もう一度抱擁を交わしに来たのだと言っていましたが、そうでないことはわかりました。一人残った母が私に問いただしたのです。こんな状況では、悪魔に取り憑かれているのもすぐにばれたはずです。すべてを打ち明けるべきだったのに、かたくなにすべてを拒んだのですから。 「晴れて修道女になる日がやって来ました。私は主にすべてを捧げることに対し、期待と恐れの入り混じった奇妙な感情と戦っていました。悪魔が力を試すとしたら、この厳かな瞬間に違いないと感じていたのです」 「その男は一度しか手紙を寄こさなかったのですか?」と王女がたずねた。 「一度だけでした」 「当時、話しかけたりはしなかったのですね?」 「頭の中で話しかけた以外は、一度も」 「手紙を書いたことは?」 「一度もありません!」 「続きを聞かせて下さい。修道女になる日が来たのですね」 「殿下に申し上げましたように、その日、ついに苦しみから解放されるはずでした。苦しみ――そうです。不思議な穏やかさが混じってこそいましたが、誠実であろうとする魂にとっては、想像を絶するほどの責め苦でした。常に存在し、いつも思いがけず、からかってでもいるように、抗おうとすればその瞬間に姿を現したり、問答無用の眠りに引き込もうとしたりする――そんな思念や形を取った圧力だったのです。ですからこの厳かな時間こそ、心から待ち望んでいた瞬間でした。主のものになれば、主が守って下さるでしょう。あの男が盗賊から守ってくれたように。盗賊に襲われた時には、主は男を通してしか守っては下さらなかったことを、忘れていたのです。 「そのうちに、儀式が始まりました。教会堂に入った私は、青ざめて不安に憂えてはいましたが、いつもほど動揺してはいませんでした。父、母、兄、フラッティーナ通りの友人、ほかにもたくさんの友人たちの姿が見えました。私の美しさを聞きつけて、隣村の住人も駆けつけていました。美しい殉教を、と言った方が主のお気に召すでしょうか。弥撒が始まりました。 「急いで誓いと祈りを済ませました。教会堂にはあの男がいなかったからです。男がいないと、意思を自分で自由にできることに気づきました。既に司祭が私の許に近づき、キリストの十字架像をおしるしになりました。既に私は唯一絶対の救世主の方へと腕を伸ばしかけていました。その時です。いつものように手足に震えが走り、あの男がやって来たことがわかりました。胸を締めつけるような衝撃を受け、あの男が教会堂に足を踏み入れたのがわかりました。何とかキリスト像から目を離すまいとしましたが、やがて抗いがたい力に吸い寄せられて、祭壇の向かいに目を向けていました。 「男は説教壇の近くに立ち、今までになく刺すような目つきで私を見つめていました。 「その瞬間、私は男に囚われていました。弥撒も、儀式も、祈りも、勝てませんでした。 「儀式に従い何か聞かれているような気がしましたが、答えることはありませんでした。誰かに腕をつかまれ、置物を揺さぶったようにぐらぐらと揺れていたのは覚えています。目の前に掲げられた鋏に日光が反射しました。それでも私は何一つ反応しませんでした。次の瞬間、首筋に金属の冷たい感触を覚え、髪の間で金属の軋む音が聞こえました。 「その瞬間、身体中の力が抜け、身体から抜け出た魂が男の許へ向かうのを感じて、私は敷石の上に横たわっていました。不思議なことに、気絶するというよりは、眠るような感じでした。大きな呟きが聞こえたかと思うと、何も聞こえなくなり、口も利けず、何も感じなくなりました。恐ろしいどよめきが起き、儀式は中断されました」  王女は思いやるように手を合わせた。 「どうでしょうか?」ロレンツァがたずねた。「こんな恐ろしい出来事ですから、主と人間の敵が関わっているのは明らかではないでしょうか?」 「早まってはなりません」王女は、優しくいたわるような声で答えた。「生まれついての弱さのせいでしかないものを、奇蹟なのだと信じようとしてはいませんか。その男を見て気を失った。それだけのことです。続きをお話し下さい」 「どうか、どうかそんな言い方はなさらないで。せめて判断するのは、話を聞き終えてからにして下さい。奇蹟などないと仰るのですか? でもでしたら、私は気絶してから十分、十五分、一時間で意識を取り戻していたのではありませんか? 修道女たちに囲まれて、勇気と信仰を取り戻していたのではないでしょうか?」 「そうでしょうね。まさか、すると、そうはならなかったのですね?」 「お聞き下さい」ロレンツァは早口で囁いた。「意識を取り戻すと、夜になっていました。しばらく激しく動いたようなぐったりした気分でした。てっきり教会堂の穹窿の下か、僧房の垂れ幕の下にいるとばかり思って、頭を上げました。目に映ったのは岩山、木々、雲でした。それなのに、顔には暖かい息がかかっていたものですから、看護係の修道女がいたわってくれているのだと思い、お礼を口にしようとしたところ……私の頭は男の胸に預けられており、その男こそあの恐ろしい男だったんです。自分が生きているのか知りたくて、或いは目が覚めているのかわからなくなって、自分の身体を見回し手で触れて確かめてみました。途端に叫びをあげていました。私は白い服を身につけ、頭には白薔薇の冠をいただいていたのです。花嫁のように。それとも死者のように」  王女が悲鳴をあげ、ロレンツァは両手で顔を覆った。  ロレンツァは泣きながら話を続けた。「翌日になってから、どれだけ時間が経っているのか確認しました。その日は水曜日でした。つまり私は三日間も意識を失っていたことになります。その三日の間に何が起こったのか、自分ではまったくわからなかったのです」 第五十一章 フェニックス伯  二人の女性の間に深い沈黙が降りていた。一人が苦悶に満ち、一人が驚きに打たれていたことは、容易にご理解いただけよう。  ようやく、マダム・ルイーズが初めに沈黙を破った。 「では、あなたはこの誘拐に何一つ手を貸していないのですね?」 「一切ありません」 「どのように修道院から連れ去られたのかわからないのですね?」 「私にはわかりません」 「そうは言うものの、修道院の戸締まりや防犯はしっかりしております。窓には格子が嵌っておりますし、塀を越えることも難しいでしょうし、受付口係は常に鍵を身につけております。それにこうした規律は、フランスよりもイタリアの方が厳しいものかと思いますが」 「院長様、あの時から何度記憶をさらっても何も見つからなかったと申し上げなくてはなりませんか?」 「誘拐についてただしてみたのでしょう?」 「確かにそうしました」 「どんな弁明が返って来ましたか?」 「私を愛しているからだと」 「あなたは何と答えたのです?」 「あなたのことが怖いと」 「それでは、男のことを愛してはいなかったのですか?」 「もちろんです!」 「間違いありませんね?」 「あの男に感じていたのは奇妙な感情でした。一緒にいると、自分がもはや自分ではなく、あの男になっていたのです。男が望めば、私もそれを望みました。男が命じれば、私はそれを実行しました。私の魂にはもはや力もなく、頭からは意思が失われていました。見つめられると制御され囚われてしまうのです。やがて、もはや私のものではない思考が心の奥まで入り込み、自分でも気づかなかった隠れた考えが引き出されるのを感じました。おわかりいただけますか、魔術に違いありません」 「超自然かどうかはともかく、不思議なことではありますね。その後、この男とどのように過ごしたのですか?」 「男はとても優しく、心からの愛情を示しました」 「堕落した人間ではないのですか?」 「そうは思えません。それどころか、話し方には伝道者のようなところがありました」 「さあ、あなたも男を愛しているとお認めになったらいかがです」 「そんなことはありません」ロレンツァは苦しげに吐き出した。「愛してはおりません」 「でしたら逃げるべきでした。当局に訴え、両親に訴えるべきでしたよ」 「常に見張られていたので、とても逃げることなど出来なかったのです」 「手紙を書いたりもしなかったのでしょう?」 「途中でいろいろなところに泊まりましたが、どれも男の家であるらしく、誰もが男の言いなりでした。紙とインクとペンを貸して欲しいと何度も頼みましたが、誰に頼んでも男からきつく言われているらしく、誰も答えてはくれませんでした」 「どのように旅をしていたのでしょうか?」 「初めは軽二輪馬車でしたが、ミラノでは二輪馬車が見つからなかったため、移動式家屋のようなもので旅を続けました」 「でもいくら何でも、一人きりになる機会もあったのではありませんか?」 「ありました。そういう時には私のところにやって来て、『眠れ』と命ずるのです。すると私は眠りに落ち、男が戻って来るまで目の覚めることはありませんでした」  マダム・ルイーズは疑わしげに首を横に振った。 「真剣に逃げようとなさらなかったのではありませんか。そうでなければ、今ごろは逃げることに成功していたでしょう」 「そうだったかもしれません……でも心を囚われていたのだと思います!」 「愛の言葉によってですか、それとも愛の行為によってでしょうか?」 「愛を囁かれることはめったにありませんでした。夜に額に口づけされ、朝にもう一度口づけされるほかは、覚えている限り何もされませんでした」 「確かにおかしなことですね!」王女は呟いた。  それでも懐疑的に口を開いた。 「失礼ですが、その男を愛していないのだと繰り返していただけますか」 「繰り返します」 「その男とあなたを結ぶ地上の糸などないと繰り返していただけますか」 「繰り返します」 「その男が主張したところで、何の権利もないのですね」 「一切ありません!」 「でもだとすると、どうやってここまでいらしたのですか? それがわかりません」 「嵐に乗じたんです。確かナンシーという町の辺りでした。あの男が私から離れて馬車の奥の間に住んでいた老人のところに行っている隙に、男の馬に乗って逃げ出したんです」 「イタリアに帰らずフランスを選んだのは何故でしょうか?」 「ローマに戻ることは出来ないと考えたんです。きっと男と共謀していたと思われるに決まっています。私が名誉を傷つけたと言って、両親は迎えてはくれないでしょう。 「パリに入ると、町中があなたの修道会入りに沸き立っていました。あなたの信仰心、貧しい人たちに対する思いやり、不幸な人たちに対する同情を褒め称える人ばかりでした。すぐに直感しました。私を受け入れてくれるほど寛大で、私を守ってくれるほど有力な人は、あなたを措いてほかにないと」 「わたくしの力を頼るということは、その男はかなりの力を持っているのですね?」 「ええ、その通りです!」 「いったい何者なのです? 今まではたずねるのを控えておりましたが、あなたを守るともなれば、誰を相手にしているのか知る必要もあります」 「それが、お知らせすることは出来ないんです。あの男が誰で何者なのか、私はまったく知りません。わかっているのは、国王でもあれほどの敬意を抱かれることは出来ず、啓示を与える人々から神もあれほどの崇拝を受けることはないということです」 「ですが名前は? 何と呼ばれていましたか?」 「それはもういろいろな名前で呼ばれていましたが、覚えているのは二つだけです。一つは、先ほど申し上げた老人が使っていた呼び名です。この老人はミラノから旅に加わり、私が逃げ出す時にも馬車におりました。もう一つは、男自身が名乗っていた名前です」 「その老人は何と呼んでいたのですか?」 「アシャラ……これは異教徒の名前ではないでしょうか……?」 「男自身は何と名乗っていたのです?」 「ジョゼフ・バルサモ」 「その男は?」 「あの男ですか!……あらゆる人々と知り合いで、あらゆる物事に明るく、あらゆる時代の人間と交わり、あらゆる年代に生きているのです。ああ……冒涜をお許し下さい! アレクサンドロス、カエサル、シャルルマーニュ、まるで知り合いのことを話すように彼らのことを口にしていました。でも彼らはずっと昔に死んでいるのではありませんか。いえそれどころか、カイアファ、ピラトゥス、主イエス・キリストのことを、その目で主の殉教を目撃したかのように口にするのです」 「その男は騙りですよ」王女が言った。 「今仰った言葉が、フランス語でどういう意味なのか正確にはわかりません。私にわかっているのは、あの男が危険で恐ろしい人間で、あの男の前では誰もがひざまずき、負けを認め、膝を屈するということだけです。身を守るものがないと思うような時には、身を固めます。一人きりに見えるような時には、そこから人を立ち去らせるんです。それも武力も暴力も用いず、言葉と仕種を用いて……微笑んで」 「安心なさい。その男がどんな人間であろうと、守って差し上げます」 「あなたが守って下さるのでしょうか?」 「ええ、わたくしが。あなたがご自分から保護を断ち切らないのであれば。ただしもう信じてはいけませんよ。それに病んだ魂が生み出した幻覚をわたくしに信じさせようとするのもいけません。いずれにしましても、サン=ドニの壁はあなたを悪魔の力から守る城壁になれるでしょうし、あなたが恐れている力、人間の力からも守ってくれるでしょう。どうなさいますか?」 「これでよければ、ここにある宝石で持参金をお支払いしようと思います」  ロレンツァは机の上に高価なブレスレット、指輪、見事なダイヤモンド、美しい耳飾りを置いた。恐らく二万エキュはくだらない。 「これはあなたのものなのですか?」 「私のものです。あの男がくれたものを、主にお返しいたします。例外が一つだけありますが」 「何でしょうか?」 「逃げるのに使ったジェリドというアラブ馬は、返すように言われたら返すつもりです」 「ではどんなことがあっても一緒に戻るつもりはないのですね?」 「私はあの男のものではありません」 「それはそうなのでしょう。ではサン=ドニに入って、スビアーコで中断されてしまった儀式の続きを行うのが望みなのですか?」 「ほかに望みなどありません、どうかお恵みをかけてください」 「さあ、落ち着いて下さい。今日からわたくしたちと生活を共にして、あなたの決意のほどをお示しなさい。模範的な生活を期待しておりますよ。恵みをかけるに相応しいと判断できれば、あなたはその日より主のものとなり、サン=ドニに留まることを妨げるものは何一つなく、修道院長が見守り続けるとお答えいたしましょう」  ロレンツァは王女の足許に身を投げ出し、心から感謝の言葉を費やした。  だが突然身体を起こして耳を澄ますと、真っ青になって震え出した。 「ああ、何で? どうして?」 「どうしました?」 「身体中が震えてるんです! おわかりになりませんか? 近くにいるんです!」 「誰のことです?」 「私を堕落させようと誓った男です」 「あの男ですか?」 「あの男です。私の手足が震えているのがおわかりになりませんか?」 「それはわかります」 「ああ!」胸を射抜かれたように呻いた。「こっちにやって来る!」 「勘違いではありませんか」 「違います、違います。ほら、意思に反して引き寄せられそうなんです。助けて下さい、離さないで下さい」  マダム・ルイーズはロレンツァの腕をつかんだ。 「冷静になりなさい。あの男だとしても、ここにいれば安全です」 「ここにやって来るんです!」ロレンツァは怯えてぐったりとして、扉を見つめて腕を伸ばした。 「何を仰るのです! マダム・ルイーズ・ド・フランスの部屋に入って来るというのですか……? だとしたらその男は国王の命令を携えていることになりますよ」 「どうやって入って来るのかはわかりません」ロレンツァが仰け反った。「でもわかるんです。間違いありません、今は階段を上っています……もう十歩と離れていません……あそこです!」  突然、扉が開いた。奇妙な偶然に、王女は思わずぎくりとして尻込みした。  修道女が立っていた。 「どなたです? 何のご用ですか?」 「院長様、修道院にお見えになった貴族の方が、殿下との謁見をご希望なさっていらっしゃいます」 「お名前は?」 「ド・フェニックス伯爵です」 「あの男ですか?」王女がロレンツァにたずねた。「この名前をご存じですか?」 「その名前は知りません。でもあの男です、間違いありません」 「その方のご用件は?」王女が修道女にたずねた。 「プロイセン国王陛下よりフランス国王に遣わされた使節団の方で、王女殿下とのご会談を望んでいらっしゃいます」  マダム・ルイーズはしばし考えてから、ロレンツァを振り返った。 「この小部屋にお入りなさい」  ロレンツァが言う通りにすると、王女は修道女に言った。 「その方をお通しして下さい」  修道女がお辞儀をして出て行った。  王女は小部屋の扉がしっかり閉まっているのを確認すると、腰かけていた椅子に戻り、心穏やかならざる気持で、これから起こるであろう出来事を待ち受けていた。  間もなく修道女が戻って来た。後ろを歩いていたのが、既にお話ししたように、認証式の日にフェニックス伯の名で国王に知られていた男である。  あの日と同じ、飾り気のないプロイセンの軍服姿だった。軍人用の鬘と黒い襟《カラー》をつけている。生命力にあふれた黒い目がマダム・ルイーズを前にして伏せられたものの、どれほど地位が高かろうとただの貴族でしかない人間がフランス王家の娘に示さなければならない敬意を示してみせただけであった。  だがすぐに目は上げられた。あまりへりくだっていると思われてはたまらないとでも考えたのだろうか。 「殿下、謁見をお許し下さいましたことを感謝いたします。しかしながら、苦しんでいる者には分け隔てなく慈悲を賜る殿下のことですから、お許し下さるものと思っておりました」 「確かにそう努めております」恥知らずにも本来の目的を濫用して他人の厚意を求めて来た男に対し、謁見が終わった後には苦汁をなめさせてやらねばなるまいと思い、王女は威厳を以て答えた。  伯爵は裏のある言葉に気づいた素振りも見せずに、一礼した。 「わたくしでお役に立てることがありますでしょうか?」マダム・ルイーズは皮肉を効かせたままたずねた。 「どんなことでもお助け下さいましょう」 「お話し下さい」 「さしたる理由もなく、殿下のお選びになった隠遁所にお邪魔したりはいたしません。私が多大な関心を寄せている者を保護なさっていると窺いました」 「その者の名は?」 「ロレンツァ・フェリチアーニ」 「あなたとのご関係は? 配偶者ですか、母親ですか、姉妹ですか?」 「私の妻です」 「妻ですか?」小部屋にも届くように声を大きくした。「ロレンツァ・フェリチアーニはフェニックス伯爵夫人なのですか?」 「仰る通り、ロレンツァ・フェリチアーニはフェニックス伯爵夫人です」伯爵は悠々として答えた。 「カルメル会修道の中にはフェニックス伯爵夫人はおりません」王女がすげなく答えた。  だが伯爵は尻尾を巻いたりはしなかった。 「ロレンツァ・フェリチアーニとフェニックス伯爵夫人が一人の同じ人物だということを、もしやまだお疑いなのでしょうか?」 「そう、確かに仰る通りです。この点については確信が持てません」 「ロレンツァ・フェリチアーニを呼んでいただければ、疑いも晴れるのではありませんか。恐れながらそうしていただけるようお願い申し上げます。しかし私とロレンツァは深い愛情で結ばれておりますから、ロレンツァも私の許を離れたことを後悔しているものと思っております」 「そうお思いですか?」 「そう思っております。どんなに拙かろうともそこだけは自信があります」  ――なるほど、と王女は考えた。ロレンツァは正しかった。この男は確かに危険人物だ。  伯爵は平然と落ち着き払ったまま、宮廷の堅苦しい礼儀の殻に閉じこもっていた。  ――嘘をついてみましょう。マダム・ルイーズは考えた。 「残念ですが、ここにいない方をお返しする訳には参りません。あなたがその方のことをひたむきに追いかけ、言葉どおりに愛しているのはわかりました。ですがその方を見つけようとなさるのでしたら、よそを当たってみるべきだと思いますよ」  伯爵は部屋に入って以来、マダム・ルイーズの私室を含めてあらゆるものに素早い視線を送っていたが、その目が一瞬だけ止まった。ほんの刹那ではあったが一目で充分であった。部屋の薄暗い片隅にある机の上に、ロレンツァが持参金にしようとした宝石が置かれてあった。その宝石が暗がりで放つ光に、フェニックス伯は見覚えがあった。 「もし殿下が記憶を探っていただけたなら、どうかご容赦いただきたいのですが、先ほどまでこの部屋にロレンツァ・フェリチアーニがいたことを思い出していただけるのではないでしょうか。あそこの机にロレンツァの宝石が置いてあります。あれを殿下に差し上げた後で退出したのでしょう」  フェニックス伯は、王女が小部屋に目を走らせたのを見逃さなかった。 「あの小部屋に退出したのですな」  王女が赤面したのを見て、伯爵はなおも続けた。 「となると、部屋に入る許可を殿下がお命じ下さるのを待つだけです。ロレンツァはすぐに従ってくれることでしょう」  王女は思い出した。ロレンツァが中から鍵を掛けた以上は、自分で出て来たいと思わない限りは無理に引っ張り出すことは出来ないのだ。 「ですが」この男の前では何も隠すことなど出来なかったというのに、無駄に嘘をついてしまったという悔しさを、もはや隠そうともしなかった。「ここに呼んだら、あの方はどうなさるでしょうね?」 「どうにもいたしません。私と一緒にいたいと殿下に申し上げるだけでしょう。妻なのですから」  この最後の言葉を聞いて王女は気を取り直した。ロレンツァが断言したのを覚えていたのだ。 「妻というのは確かでしょうか?」  その言葉には憤りが感じられた。 「殿下は私を信用して下さらないようですな」伯爵の声は落ち着いていた。「しかしフェニックス伯がロレンツァ・フェリチアーニを娶ったことも、娶っている以上は妻を引き渡してもらうことも、何も信じがたいことではありませんぞ」 「また妻ですか!」マダム・ルイーズは焦れったそうに声をあげた。「飽くまでロレンツァ・フェリチアーニは妻だと言い張るのですね?」 「そうです、殿下」伯爵の声に不自然なところは微塵もなかった。「飽くまでそう言い張ります。それが事実なのですから」 「婚姻を結んだのですか?」 「婚姻を結びました」 「ロレンツァと?」 「ロレンツァと」 「合法的にでしょうか?」 「その通りです。飽くまで疑ってかかろうとなさるのでしたら……」 「でしたら、何でしょうか?」 「司祭の署名が入った正規の婚姻証書をお見せいたしましょう」  王女は身震いした。伯爵がこれほどまでに落ち着き払っているのを見ると、自信が揺らいだ。  伯爵が紙入れを開け、四つに折り畳んだ紙を開いた。 「これが、私の話が真実であり、あの女を取り戻す権利があるという印です。署名が証拠になります……証書を読んで署名をお確かめになりますか?」 「署名ですって!」怒りはむしろ侮辱するような疑いに変わっていた。「ですがもしこの署名が……?」 「この署名はストラスブールのサン=ジャン教会の主任司祭のものです。ルイ公ド・ロアン枢機卿とお知り合いですから、猊下がここにいらしたなら……」 「枢機卿ならいらっしゃいます」王女は伯爵を燃えるように睨みつけた。「猊下はサン=ドニをお発ちになりませんでした。今は大聖堂の司教座参事会員のところにおいでです。これほど簡単な確認方法はありませんね」 「それは運がいい」伯爵は悠々と証書を紙入れに仕舞った。「確かめていただければ、殿下の間違ったお疑いも晴れることでしょう」 「これほどまでに厚かましいとは、怒りを覚えますよ」王女はけたたましく呼び鈴を鳴らした。  フェニックス伯を案内して来た修道女が、再び駆けつけた。 「馬丁に馬を用意させて、この手紙をロアン枢機卿に届けさせて下さい。大聖堂の参議会室にいらっしゃいます。わたくしが待っているので、直ちに来るようにと」  そう言って急いで何事かを書きつけ、修道女に手渡した後、そっと耳打ちした。 「回廊に憲兵隊の弓兵を配置させて下さい。わたくしの許可がなければ誰一人として出してはなりません。さあ行きなさい!」  伯爵はマダム・ルイーズの心の動きに注目していたが、今こうしてマダム・ルイーズが最後まで戦おうと決意したのを確認した。王女が恐らくは勝ちを意識して手紙を書いている間、小部屋に近づき、扉に目を据え、腕を伸ばしてでたらめではないある法則に従って動かすと、小声で何やら呟いた。  王女が振り返り、伯爵のやっていることを見つけた。 「そこで何をなさっているのです?」 「ロレンツァ・フェリチアーニに頼んでいるのですよ。自らここに来て、本人の言葉と意思によって、私がペテン師でもいかさま師でもないことを、殿下に証明して欲しいと。これは殿下がお求めになっているほかの証拠をないがしろにするものではありません」 「お待ちなさい!」 「ロレンツァ・フェリチアーニ」伯爵は王女の意向さえ完全に制御していた。「ロレンツァ・フェリチアーニ、この小部屋から出て、ここに来なさい!」  だが扉は閉じたままだった。 「出て来なさい!」  すると錠前の中で鍵が軋んだ。ロレンツァが出て来るのを、王女は生きた心地もせず見つめた。伯爵を見つめているロレンツァの目には、怒りの色も憎しみの色もなかった。 「どうしたのです?」マダム・ルイーズがたずねた。「どうして逃げてきた男の許に戻るのですか? ここにいれば安全だと申し上げたはずです」 「安全なのは私の家も変わりありません」伯爵が答えた。  そしてロレンツァの方を向いた。 「ロレンツァ、私のところにいれば安心だな?」 「はい」とロレンツァが答えた。  王女は驚愕のあまり、両手を合わせて椅子に倒れ込んだ。 「ロレンツァ」伯爵の声は穏やかだったが、そこには有無を言わせぬ響きも感じられた。「俺がお前に暴力をふるったと非難されている。答えてくれ、お前に暴力をふるったことなどあったか?」 「一度もありません」ロレンツァの声ははっきりとしていたが、否定を示すような身振りは伴っていなかった。 「では、誘拐されたという先ほどの話は何だったのですか?」王女がたずねた。  ロレンツァは何も言わずに伯爵を見つめていた。まるでそれを表現するための生気も言葉も、伯爵から出て来でもするように。 「どうしてお前が修道院から出て行きたがっているのか、殿下がお知りになりたいそうだ、ロレンツァ。内陣で気絶した瞬間から、二輪馬車で目を覚ますまでに起こったことを、すべてお話しして差し上げなさい」  ロレンツァはなおも沈黙していた。 「洗いざらい話しなさい、一つも省くことなく」  ロレンツァの身体に震えが走った。 「覚えておりません」 「記憶を探りなさい、そうすれば思い出せる」 「はい」ロレンツァが単調な声で答えた。「思い出しました」 「話しなさい!」 「髪に鋏が触れた瞬間に気絶してしまったので、部屋に運ばれ寝台に寝かされました。夜になるまで母が付き添っていましたが、私が気を失ったままなので、町医者が呼ばれました。医者は脈を取り口許に鏡を当て、脈が止まって息をしていないことを確認すると、私が死んでいることを伝えました」 「何故そんなことを知っているのですか?」王女がたずねた。 「どうして気絶している間のことを知っているのか殿下がお知りになりたいそうだ」 「不思議なことですが、ものも見えたし耳も聞こえました。ただ、目を開けることや口を開くこと、身体を動かすことが出来ませんでした。昏睡状態だったのです」 「そう言えば、昏睡状態に陥って生きたまま埋葬されてしまった人の話をトロンシャンから聞いたことがあります」 「続けなさい、ロレンツァ」 「ショックを受けた母は、私の死を信じようとはしませんでした。夜の間も翌日になっても付き添いを続けると言い張りました。 「母はその言葉を実行に移しました。ですが三十六時間見守り続けても、私は動くこともせず息を吐くこともありませんでした。 「司祭が三度やって来て、そのたびに、既に魂が主のものとなった身体を地上に留めようとするのは主に対する反抗だと母に言い聞かせました。私が死んだ状況はあらゆる点で救済を示しており、主との永遠の誓いを交わす言葉を発した瞬間であることは疑いない。私の魂はまっすぐ天に召されたことは疑いない、と。 「母はそれでも、月曜から火曜まで徹夜して付き添わせて欲しいと言いつのりました。 「火曜日の朝になっても、私は意識を失った状態のままでした。 「母は諦めて引き下がりました。修道女たちが大声で泣き喚いていました。大蝋燭が礼拝堂に灯されました。規則に従い、一昼夜そこに安置されることになっていたのです。 「母が出て行くと、死体安置係が部屋にやって来ました。私は誓いを終えておりませんでしたので、白い装束を着せられ、額に白薔薇の冠を巻きつけられ、胸の上で腕を十字に組まれ、声がしました。 「『棺を!』 「棺が部屋に運び込まれました。身体中に震えが走りました。申し上げたように、閉じた瞼越しに、目が開いている時のように何もかもが見えたからです。 「私は持ち上げられ、棺に入れられました。 「それからイタリアの作法に則って顔には何もかけず、礼拝堂に運ばれ、内陣の中央に降ろされました。周りには大蝋燭が灯り、足許には聖水盤が置かれていました。 「一日中、スビアーコの農民が礼拝堂にやって来て、私のために祈り、身体に聖水を掛けていきました。 「夜になり、弔問者が途絶えると、小扉を除いて礼拝堂の扉は閉められ、看護係の修道女がそばに残っているだけになりました。 「ところが、恐ろしい考えに眠りを掻き乱されたのです。明日になれば、埋葬が行われるに違いありません。何処かから助けが来ない限り、生きたまま埋められてしまうことでしょう。 「一つ一つ時を打つのが聞こえました。九時の鐘が鳴り、それから十時、十一時。 「鐘が打たれるたびに心臓でぐわんぐわんと音を立てました。何て恐ろしいことでしょう! 私は自分の弔鐘を聞いていたのです。 「何とか眠りを破って棺に結わえられている針金を断とうとしました。主はそれをご覧になったのです。憐れみをかけて下さったのですから。 「真夜中の鐘が鳴りました。 「一つ目が鳴った時、アシャラが近づいて来る時と同じような震えが身体中に起こりました。心臓がびくりとし、この人が礼拝堂の戸口にいるのが見えました」 「その時に感じたのは恐怖だったか?」フェニックス伯がたずねた。 「違います。幸せ、嬉しさ、狂喜でした。あれほど恐れていた死から助けに来てくれたのだということがわかっていましたから。この人はゆっくりと棺に歩み寄り、私を見つめて悲しげに微笑んで言いました。 「『起き上がって歩きなさい』 「身体を縛りつけていた針金がやがて断ち切れました。その力強い声を聞いて私は起き上がり、棺から足を踏み出しました。 「『生きているのは嬉しいか?』 「『はい』 「『よかろう、ではついて来い』 「私のそばで務めを果たしておりました看護係は何人もの修道女のそばで務めを果たして来た、葬儀に慣れた人でしたので、椅子の上で眠っておりました。私は看護係を起こさぬように横を通り抜けますと、再び死から救ってくれた人について行きました。 「中庭に着きました。もう見ることはないと思っていた星空が見えます。死んでいる者には感じることの出来ないひんやりとした夜の空気も、生きている者には何と心地よかったことでしょう。 「『いいか、修道院を離れる前に、神と俺のどちらかを選べ。修道女になるか? 俺について来るか?』 「『あなたについて行きます』と私は答えました。 「『では来るんだ』と繰り返します。 「受付口の扉は閉まっていました。 「『鍵は何処にある?』 「『受付口係の小物入れです』 「『小物入れは何処だ?』 「『椅子の上です、寝台の横の』 「『音を立てず忍び込み、この扉の鍵を持って来るんだ』 「私は言う通りにしました。小屋の扉は中から閉められてはいませんでしたので、中に入ってまっすぐ椅子に向かいました。小物入れを探って鍵の束を見つけましたので、受付口の鍵を選んで持って行きました。 「五分後、受付口の扉は開き、私たちは路上にいました。 「私たちは腕を取ってスビアーコの町外れまで走りました。町外れの家から百パッススほど離れたところに、馬の繋がれた軽二輪馬車が待っていました。私たちが乗り込むと、馬車はギャロップで走り出しました」 「つまり如何なる暴力もふるわれなかったし、如何なる脅しも受け取らなかったというのですか? 自発的にこの男について行ったというのでしょうか?」  ロレンツァは黙ったままだった。 「殿下がおたずねだ、ロレンツァ。脅しや暴力を受けて、無理矢理俺について来たのか?」 「違います」 「ではどういう理由でついて行ったのです?」 「答えろ、どうして俺について来た?」 「あなたを愛しているからです」とロレンツァが答えた。  フェニックス伯爵が王女に向かい、勝ち誇ったような笑いを浮かべた。 第五十二章 ド・ロアン枢機卿猊下  目の前で起こったことが信じがたく、懐疑と信仰を併せ持っていた王女は、目の前の男がもしや本当に意思も心も意のままに操れる魔術師なのではないかといぶかった。  だがフェニックス伯はそれで終わりにしようとはしなかった。 「話は終わってはおりません。ロレンツァの口から聞かされた話でさえ、まだ物語の一部でしかないのです。ロレンツァ自身から残りも聞かない限り、お疑いは解けないのではありませんか」  そう言ってロレンツァの方を振り返った。 「覚えているか、ロレンツァ、俺たちの旅したところを。一緒にミラノ、マジョール湖、オーバーラント山、リギ山、北のテヴェレとも言うべきライン川に行ったっけな?」 「覚えています」ロレンツァは相変わらず単調な声を出した。「ロレンツァはどの景色も目にしました」 「この男に連れて行かれたのではありませんか? 抗い難い力に囚われたのだとご自分で仰ったではありませんか?」王女がたずねた。 「事実から遠いまったく逆の話を聞いたばかりだというのに、何故そのようなことを信じるのですか、殿下? ああ、そうでした! もっとはっきりした物的証拠が欲しいと仰るのでしたら、ロレンツァの書いた手紙がございます。不本意ながらマインツに一人で置いておかねばならなかった時がありました。私の不在を嘆き、恋しさから書いた手紙をお読み下さい」  伯爵は紙入れから手紙を取り出し、王女に手渡した。  王女は手紙を読んだ。 『戻ってきて、アシャラ。あなたがいなくてさびしいの。ああ! いつになったら永遠にあなたのものになれるのかしら? ロレンツァ』  王女は怒りを浮かべて立ち上がり、手紙を手にしたままロレンツァに近寄った。  ロレンツァは近づいて来る王女を見るでもなく聞くでもなく黙っていた。伯爵以外には目にも耳にも入らないかのようだ。 「わかりました」と伯爵が割って入った。最後までロレンツァの通訳を買って出ようという腹のようだ。「殿下はお疑いだ。この手紙がロレンツァのものかどうかお知りになりたいのですな。では、本人に確かめてもらいましょう。ロレンツァ、答えなさい。この手紙を書いたのは誰だ?」  伯爵が手紙を取り上げ、ロレンツァの手に押しつけると、すぐにロレンツァは手を胸に当てた。 「書いたのはロレンツァです」 「では内容も知っているな?」 「もちろんです」 「よし、手紙の内容を殿下に申し上げるんだ。そうすれば、お前が俺を愛していると言ったのも嘘ではないと信じていただけるだろう。申し上げてくれ、頼む」  ロレンツァは心を凝らしているようだった。だが手紙を広げたり目を落としたりせずに、読み始めた。 「戻ってきて、アシャラ。あなたがいなくてさびしいの。ああ! いつになったら永遠にあなたのものになれるのかしら? ロレンツァ」 「それは信用できません」王女が言った。「あなたのことも信じられません。やることなすこと説明がつかず超自然的なところばかりではありませんか」 「この手紙でした」フェニックス伯は、マダム・ルイーズの言ったことなど耳に入らなかったかのように先を続けた。「この手紙に背中を押されて結婚を決意したのです。ロレンツァが愛してくれているように、私もロレンツァを愛していました。それまでの関係は間違っていました。私のように危険な生活を送っていれば、不幸が訪れるかもしれない。死んでしまうかもしれません。私が死んだ時には、すべての財産がロレンツァのものになるようにしておきたい。そこでストラスブールに着き次第、私たちは結婚しました」 「結婚したのですか?」 「その通りです」 「そんなはずはありません!」 「何故です?」伯爵が笑いを浮かべた。「フェニックス伯爵がロレンツァ・フェリチアーニを娶ったはずがないとは、どういうことでしょうか?」 「この方ご自身が、自分はあなたの妻ではないと仰ったのです」  伯爵は王女には答えず、ロレンツァに向かってたずねた。 「俺たちがいつ結婚したか覚えているな?」 「はい、五月三日でした!」 「何処だった?」 「ストラスブールです」 「何処の教会だ?」 「サン=ジャン教会の大聖堂です」 「この結婚に異議があったか?」 「ありません。とても幸せでした」 「お前が暴力をふるわれたと殿下が信じてらっしゃるのはわかるな? お前が俺を嫌っていると言うんだ」  こう言いながら伯爵はロレンツァの手を握った。  ロレンツァの身体が歓喜に震えた。 「嫌ってるですって? そんなことはありません。愛しています。あなたは優しく、寛大で、逞しいのですから!」 「俺の妻になって以来、俺が夫の権利を濫用したことが一度でもあったか?」  伯爵は王女の方を向いて、「お聞きですね?」とでも言いたげな顔をした。  マダム・ルイーズは恐怖に囚われ、小部屋の壁にある黒天鵞絨の壁龕に設えられた象牙のキリスト像の足許まで後じさった。 「殿下がお知りになりたいのはこれですべてでしょうか?」伯爵がロレンツァの手を下ろした。 「お願いです」王女は声をあげた。「こちらに近づいてはなりません。ロレンツァも来てはなりません」  この時、四輪馬車が門前に止まるのが聞こえた。 「よかった!」王女が声をあげた。「枢機卿です。これでようやく知りたいことがはっきりするでしょう」  フェニックス伯爵が屈み込んで、ロレンツァに何事か囁いた。その落ち着きぶりを見ていると、どんな事態でも統べることが出来そうだった。  すぐに扉が開き、ド・ロアン枢機卿猊下の到着が知らされた。  人の姿を見て落ち着きを取り戻した王女は、椅子に戻ってこう伝えた。 「お入り下さい」  枢機卿が入室した。だが王女への挨拶もそこそこに、バルサモの存在に気づいて、驚きの声をあげた。 「おお、あなたでしたか!」 「この方をご存じなのですか?」王女はますます驚いてたずねた。 「もちろんです」枢機卿が答えた。 「では、この方が何者か教えていただけますか?」 「お安い御用です。この方は魔術師ですよ」 「魔術師?」王女が呟いた。 「恐れながら、殿下」と伯爵が言った。「猊下がすぐに、誰もが満足するようなご説明をして下さるものと思っております」 「殿下も何か予言されたのでしょうか? これほど動顛していらっしゃるとは」ロアン枢機卿がたずねた。 「婚姻証書です! 今すぐ証書を!」  枢機卿はわけがわからず、驚いて王女を見つめた。 「こちらです」伯爵が枢機卿に証書を見せた。 「それは何です?」 「猊下、この署名が本物かどうか、この証書が有効かどうかが知りたいのです」  枢機卿は王女が指さした書類を読んだ。 「この証書は正式な婚姻証書でありますし、この署名はサン=ジャン教会の主任司祭ルミー氏のものです。これがどうかしたのですか?」 「重大なことです。するとこの署名は……?」 「本物です。無理強いされたものでないとは断言できませんけれどね」 「無理強いされたというのですか? あり得ますね」 「ロレンツァの同意も無理強いですか?」伯爵は王女に向かってあからさまに皮肉をぶつけた。 「どんな方法があるのでしょうか、枢機卿猊下? どんな方法で署名を無理強い出来るのか、ご存じなら教えて下さい」 「この方の力、魔術を使えば出来るでしょう」 「魔術ですって! 枢機卿、あなたは本気で……?」 「この方は魔術師です。そう申し上げましたし、訂正するつもりもございません」 「ご冗談はおやめ下さい」 「冗談ではございません。その証拠に、これからあなたの目の前で伯爵と話をしたいと思っております」 「私も猊下にそうお願いしようと思っていたところです」と伯爵が言った。 「それは素晴らしいが、質問するのは私だということをお忘れなきよう」枢機卿は釘を刺した。 「猊下こそ、私が殿下の御前でさえ、聞かれたことにはどんな質問にも答えるつもりだということをお忘れなさらないことです。もっとも、そんなことを聞くとは思えませんが」  枢機卿が微笑んだ。 「今の時代に魔術師の役を演じるのは至難の業でしょう。魔術を行っているあなたを見て来ましたが、立派にやり遂げていらっしゃる。しかし申し上げておきましょう、みんながみんな我慢強くはありますまいし、それに王太子妃殿下のように寛大ではありますまい」 「王太子妃殿下?」王女が口を挟んだ。 「そうです、殿下。王太子妃殿下に謁見する栄誉に預かりました」伯爵が答えた。 「どのようにその栄誉に報いたのです? 仰って下さい」 「残念ながら、望み通りには参りませんでした。人に対して個人的恨みなどありませんし、ご婦人に対してはなおのことなのですが」 「いったいわたくしの姪に何をなさったのです?」マダム・ルイーズがたずねた。 「妃殿下がお求めになった真実を申し上げてしまったのです」伯爵が答えた。 「そう、真実でした。妃殿下を気絶させるような真実でした」 「真実がああした結果をもたらすほど恐ろしいものだったからといって、それが私の落ち度でしょうか?」ここぞとばかりに伯爵は力強く声を轟かせた。「大公女に会いに行ったのは私でしょうか? 謁見を求めたのは私でしょうか? 否、むしろ私は避けようといたしました。嫌々ながら連れて行かれ、ご命令としてたずねられたのです」 「あなたが伝えた真実がそれほど恐ろしいものだったということですか?」王女がたずねた。 「未来のヴェールを引き裂いて、真実をお見せしたのです」 「未来ですか?」 「未来です。殿下はそうした未来に危険を感じ、修道院の回廊でその危険を避け、祭壇の足許で祈りと涙を用いてその危険と戦おうとなさったのではありませんでしたか」 「何を仰るのですか!」 「殿下が聖人のように予感なさった未来を、私が預言者のように黙示されたからといって、それにまた王太子妃殿下がたまたまその未来に怯えて気絶なさったからといって、それが私の落ち度でしょうか?」 「おわかりいただけましたか?」枢機卿がたずねた。 「冗談ではありません!」 「残念ながら妃殿下のご治世は、あらゆる君主制の中でも最も悲劇的で最悪のご治世だという託宣が出ております」と伯爵が言った。 「いい加減になさい!」 「殿下ご自身は、祈りによって恩寵を授かりましょう。ただしすべてを見ることは適いません。ことが起こった時には主の御腕に抱かれていらっしゃるでしょうから。お祈り下さい、マダム!」  心に巣食う恐怖に応じるような予言の声に打たれて、王女は十字架像の足許にひざまずき、伯爵の言葉通り一心に祈り始めた。  伯爵は窓の手前にいた枢機卿を振り返った。 「私たちの方ですが、枢機卿猊下、何かお望みでしたか?」  枢機卿が伯爵に近づいた。  四人の位置関係は以下の通りである。  王女は十字架像の足許で祈りを捧げていた。ロレンツァは動きもせず物も言わず、見えているのかいないのか目を見開いて一点を見つめたまま、部屋の真ん中に立っていた。二人の男は窓辺に陣取り、伯爵は錠前に寄りかかり、枢機卿はカーテンの陰に半ば隠れていた。 「何をお望みですか?」伯爵は繰り返した。「お話し下ださい」 「あなたが何者なのか知りたい」 「既にご存じです」 「私が?」 「そうですとも。魔術師だと仰いませんでしたか?」 「これは参りました。しかしあちらではジョゼフ・バルサモと呼ばれ、ここではフェニックス伯爵と呼ばれていますね」 「ええ、それが何か? 名前を変えたに過ぎません」 「そうでしょうとも。ですがあなたのような立場の方が名前を変えると、サルチーヌ殿にどう思われるかおわかりでしょうか?」  伯爵は微笑んだ。 「ロアンともあろう方が些細なことを! 猊下は言葉をあげつらってらっしゃいますな! Verba et voces(言葉と声のみ)とラテン語でも言うではありませんか。咎めるにしてもそれはひどい!」 「どうやら人をおからかいになっていらっしゃる」 「『なった』のではありません。元からです」 「でしたら、こちらも思いを晴らすといたしましょう」 「どうやって?」 「あなたをへこませることで」 「どうぞおやりなさい、猊下」 「こうすることで王太子妃殿下には喜んでいただけることでしょう」 「あなたが妃殿下とご一緒である以上は、まんざら無意味な言葉でもないのでしょうな」バルサモは動じなかった。 「では占星術師殿、私があなたを逮捕させたらどういたしますか?」 「それは大いなる間違いだと申し上げましょう、枢機卿猊下」 「そうですか!」枢機卿猊下はあからさまに蔑んでみせた。「いったい誰がそれを判断するのでしょうか?」 「あなたご自身です、猊下」 「ではすぐにでも指示を出すことにいたしましょう。そうすればこのジョゼフ・バルサモ男爵にしてフェニックス伯爵が本当は何者なのか、ヨーロッパの如何なる紋章地にも一切見つからない家系図の末裔であることがわかるでしょう」 「ところで、どうしてご友人のブルトゥイユ殿に問い合わせなかったのでしょうか?」バルサモがたずねた。 「ブルトゥイユ殿は友人ではありません」 「今は違うかもしれませんが、かつては友人でしたし、親友でさえあったのではありませんか。何通か手紙を書いたことがおありなのですから……」 「どんな手紙です?」枢機卿が歩み寄った。 「もっと近くに、枢機卿猊下。大きな声で話したくはありません。あなたの名誉を傷つけてしまいかねませんから」  枢機卿はさらに近寄った。 「いったいどの手紙の話をしているのです?」 「よくご存じのはずです」 「いいから仰いなさい」 「ウィーンからパリに書いた手紙のことです。王太子のご成婚を危うくさせようと目論んだものです」  枢機卿は思わず怯えを見せた。 「その手紙は……?」 「すっかり暗記しております」 「ブルトゥイユが裏切ったのか?」 「何故そう思われます?」 「ご成婚が決まった時に、手紙を返してくれるよう頼んだのだ」 「ブルトゥイユ殿は何と?」 「手紙は燃やしてしまったと」 「失くしてしまったとは仰ろうとなさらなかった」 「失くした?」 「そうです……失くしたからには、見つけられることもあるでしょう」 「つまりその手紙が、私がブルトゥイユに書いたものだったと?」 「そうです」 「燃やしてしまったと言ったのに……」 「そうですね」 「失くしていたのか……?」 「それを私が見つけました。幸運でした! ヴェルサイユの大理石の内庭を歩いていた折りでした」 「ブルトゥイユ殿に返そうとはしなかったのですか?」 「預かっておくことにしました」 「何故です?」 「何故なら魔術師の能力によって、私がこれほどお役に立ちたいと思っているのに、猊下の方では死ぬほど私を苦しませたがっているとわかっていたからです。もうおわかりでしょう。攻撃を受けるとわかっていながら丸腰のまま森を抜けたところ、装填された短銃を森の外れで見つけた場合……」 「その場合?」 「その場合、短銃に見向きもしないとしたら愚か者に違いありません」  枢機卿は眩暈を起こして窓の縁に身体を預けた。  だが表情の変化を伯爵にじろじろ見られていることに気づき、すぐに気を取り直した。 「まあいいでしょう。しかし、我が大公家がいかさま師の脅しに屈するようなことはないでしょう。この手紙が失くなって、それをあなたが見つけたというのなら、王太子妃殿下にお見せすべきではありませんか。この手紙が私の政治家生命に傷をつけることになっても、私は忠実な臣下であり大使であると主張するつもりです。それこそが真実であり、オーストリアと同盟を結んでも我が国の利益にとっては有害でしかないと伝えれば、我が国も私のことを守り情けをかけてくれるでしょう」 「もし誰かがそう主張したとして、その若く美しく礼儀正しく何一つ疑わない大使がロアンの名と大公の肩書きを持っているとすると、それはオーストリアとの同盟がフランスの利益にとって有害だと信じているからではなく、マリ=アントワネット大公女の方から優雅にもてなされたために、調子に乗った大使が自惚れも甚だしく大公女の慈しみにそれ以上の意味を見出したから……この慈しみに対して、忠実な臣下にして誠実な大使はどうお答えするおつもりなのでしょうか?」 「答えないでしょう。あなたが存在すると主張している感情には、何の根拠もありませんから」 「そうでしょうか? では王太子妃があなたに冷たいのはどうしてです?」  枢機卿は躊躇った。 「もういいでしょう、大公殿」と伯爵が言った。「仲違いはやめませんか。私があなた以上に用心深くなければとっくにそうしているべきでしたが、仲良くしませんか」 「仲良く?」 「いけませんか? 仲良くすれば互いに協力し合えます」 「今までそう要求していたではありませんか?」 「そこが間違っていたところです。二日前からパリにいたのですから……」 「私が?」 「ええそうです。どうして隠そうとなさるのです? 私は魔術師ですぞ。あなたはソワッソンで大公女とお別れになり、ヴィレル=コトレとダマルタンを通って、つまり最短距離を取って馬車でパリに到着すると、パリのご友人に助けを求めに行かれましたが、拒否されてしまいました。何人かに拒否された後で、あなたはコンピエーニュに馬車を出し、絶望していたのです」  枢機卿は完全に打ちのめされて、たずねた。 「あなたに打ち明けたとしたら、どんな助けをしてくれるというのです?」 「金《きん》を作り上げる人間に出来ることです」 「あなたが金を作れることに何の意味があるのです?」 「馬鹿なことを! 四十八時間以内に五十万フラン払わなければならないとしたら……五十万フランで間違いありませんね? どうなんです」 「そうだ、間違いない」 「錬金術師と仲良くすることに何の意味があるのかと仰いますか? 誰からも手に入れられなかった五十万フランを、手に入れられるではないですか」 「何処に行けば?」枢機卿がたずねた。 「マレー地区の、サン=クロード街」 「目印は?」 「青銅製のグリフォンの頭が、ノッカーになっております」 「いつ行けば?」 「明後日の夜六時頃お願いいたします。その後は……」 「その後は?」 「何度でもお好きな時にいらして下さい。ですがどうやら話はそろそろ終わりですな。王女の祈りが終わったようです」  枢機卿は打ちひしがれていた。それ以上は抵抗する気にもなれず、王女に歩み寄った。 「マダム、フェニックス伯爵が正しかったと言わざるを得ません。伯爵がお持ちの証書は法的に非の打ち所がありませんし、聞かせていただいた説明にも満足いたしました」  伯爵が一礼した。 「何かお命じになることはございますか、殿下?」 「最後に一言こちらのご婦人と話をさせて下さい」  伯爵は同意の印に再びお辞儀をした。 「ここに匿って欲しいと頼んでおきながらこのサン=ドニ修道院から立ち去るのは、本当にあなたの意思なのですね?」  すぐにバルサモがたずねた。「殿下がおたずねだ。ここサン=ドニ修道院に匿って欲しいと頼んでおきながら立ち去るのは、本当にお前自身の意思なのか? 答えるんだ、ロレンツァ」 「はい、わたし自身の意思です」 「夫であるフェニックス伯爵について行くのが理由ですか?」 「俺について来たいからか?」 「はい、もちろんです!」 「でしたら」と王女が言った。「あなたの気持気持に逆らってまで引き留めたりはしません。ですがもし物事の自然秩序から外れたことがありましたら、自分の利益を計って自然の調和を乱す者には、主の罰が下ることでしょう……お行きなさい、フェニックス伯爵。お行きなさい、ロレンツァ・フェリチアーニ、もう引き留めません……そうそう、宝石をお返ししましょう」 「あれは貧しい者たちのものです」とフェニックス伯が言った。「あなたの手で施しをなされば、その憐れみに神もいっそうご満足なさることでしょう。私はジェリドだけで結構です」 「お帰りになる際にお求めになれます。行って下さい!」  伯爵は王女にお辞儀をすると、ロレンツァに腕を差し出した。ロレンツァは腕に絡みつき、物も言わずに出て行った。 「ああ、枢機卿殿」王女は悲しげに頭を振った。「わたくしたちが吸っている空気には、不可解で悲劇的なものが漂っていますよ」 第五十三章 サン=ドニからの帰路  既にお話しした通り、フィリップと別れたジルベールはまたも人混みに紛れていた。  だが今回はもはや心を期待や喜びに踊らせることもないまま雑踏の中に飛び込んでいた。悲しみに傷ついた魂は、フィリップの親切なもてなしや暖かい援助の申し出でも和らげることは出来なかった。  アンドレは自分がジルベールに対して残酷だったとは思いもしなかった。この若く心穏やかな娘は、自分と乳母子の間に苦しみであれ喜びであれ何らかの接点があろうとは心にも思っていなかった。小さな球体の上を通り過ぎながら、自分自身の喜びや悲しみに応じて、影や光を投げかけていたのだ。今回ジルベールを萎れさせたのは、軽蔑の影だった。アンドレとしては自分の心に従ったまでであって、蔑んだ態度を取ったとは思ってもいない。  だが白旗状態のジルベールにしてみれば、軽蔑の視線と尊大な言葉をもろに心に受け止めてしまったのだ。血を流して絶望していながら慰めを見出すほどにはまだ達観していなかった。  そういうわけだから、人混みに紛れた時にも馬や人に気を留めることはなかった。道に迷ったり押しつぶされたりする危険も顧みずがむしゃらに、手負いの猪のように群衆の中に突っ込んで道を作った。  ぎゅうぎゅうづめの中を通り抜けると気分もだいぶ楽になり、ほっと一息ついた。周りを確認して、緑、静けさ、水があることに気づいた。  自分が何処に向かっているのかもわからぬままセーヌ川まで走り、サン=ドニ島のほぼ正面にたどり着いた。肉体的には疲れていなかったが、精神的な苦しみからへとへとになり、草むらに倒れ込むと、頭を抱えて気違いのように声をあげ始めた。苦しみを表現するには、こうして獅子のように咆吼する方が、人間の叫びや言葉よりも相応しかったであろう。  それまでは、自分でも気づかなかった分外の望みに、ぼんやりとした希望が密かな光を投げかけていたというのに、そんなおぼろな希望すら一撃で掻き消えてしまったのだろうか? 才能や知識や教育によってジルベールが社会の階層を幾つか上がったとしても、アンドレにとってはジルベールはジルベールのままであり、(アンドレ自身の言葉を借りれば)父親がちょっとでも気にするのが間違っているような物や人間であり、わざわざ目を留める手間を掛けたくもない物や人間なのだ。  パリでジルベールを見かけ、徒歩でやって来たと聞かされ、無智と戦おうという決意を知れば、アンドレは感心してくれるだろうと思っていた。だが思いやりに満ちた励ましの言葉もないうえに、並々ならぬ苦労と気高い決心をしてみせても、タヴェルネの時と同じようにたかがジルベールには蔑み以外の何の関心も払ってはもらえなかった。  そのうえ、思い切って教習本に目を通していたことを知ると、腹を立てそうになったではないか? 指の先で触れていようものなら、燃やされていたに違いない。  心の弱い人々にとって、落胆や失望は一時的な痛手でしかない。くじけてもより強くより逞しく立ち直るだけだ。彼らは呻きや涙で苦しみを表現する。庖丁を前にした羊のように身を任せる。それどころか、殉教者気取りに死ぬほどの苦しみに揉まれて、愛がますます強くなることもある。穏やかにしていればいつか報いが訪れるのだと自分に言い聞かせる。道の善し悪しに関わらず、向かうべき目的地にこそ報いがある。道が悪ければ到着が遅くなりはするが、いずれ到着はするはずだ。  だからそこには強い心、堅い意思、逞しい素質などない。心の弱い人々は、自分の血が流れているのを見ては癇癪を起こし、異常なほど感情を高ぶらせるため、人からは優しいとは思われずに憎らしいと思われることになる。彼らを非難してはいけない。彼らの胸中では愛と憎しみがあまりに近づき過ぎているため、互いの行き来に気づかないのだ。  こうして苦しみに打ちのめされて転げ回っている間、ジルベールはアンドレを愛していたのだろうか、それとも憎んでいたのだろうか? どちらでもない。ジルベールは苦しんでいた。しかし長く耐えられるような能力は持ち合わせていなかったので、絶望から逃げ出すと、強く心に決めたことをこれからも続けていこうと決意した。  ――アンドレは僕を愛していない。それは確かだ。でもアンドレが愛しているなんて期待するのがおかしかったんだし、期待しちゃいけなかったんだ。アンドレに期待できたのは、貧しさと闘う気力を持った貧乏人に暖かい関心を持って欲しいということだった。お兄さんはわかってくれたのに、アンドレにはそれがわからなかった。「君がいつかコルベールやヴォーバンのようにならないとも限らないだろう?」と言っていたっけ。そうなることが出来たら、僕のことを見直してもらえるし、栄誉を手に入れた報いにアンドレをくれるかもしれない。同じ地位に生まれていたなら、生まれながらの貴族としてアンドレをもらっていたかもしれないんだから。だけどアンドレにとっては! そうだよ! よくわかってる……コルベール、ヴォーバンか! いつまで経ってもジルベールはジルベールなんだ。アンドレは僕という人間を軽蔑しているんだし、それが無くなったりメッキされたり覆い隠されたりすることはないんだから……目的を達したとしても、同じ立場で生まれた場合ほど立派にはなれないんだろうな! ほんと頭がおかしいよ! 女、女か! 半端者ってやつだな。  ――その美しい瞳、発達した額、智的な微笑み、王妃のようなたたずまいを自慢するがいいや! マドモワゼル・ド・タヴェルネ、その美しさで世界を統べることもできる女……とんでもない。田舎者がもったいぶって取り澄まして、貴族という肩書きで包まれているだけじゃないか。頭は空っぽで智性にも隙間風だらけ、学ぶための手だてはいくらでもあるのに、何一つ知らない若者たちとおんなじだ。そういうのには気をつけなければならないのに……ジルベールは犬だ、犬以下だ。マオンがどうしているかは知りたがったのに、ジルベールがどうしていようと知ったことじゃないんだ。  ――アンドレは知らないけど、僕はあいつらより強いんだ。あいつらみたいな服を着れば、僕だって立派に見えるのに。意志の強さなら僕の方が上だし、その気になれば……。  恐ろしい笑みを口元に浮かべ、内心の言葉を呑み込んだ。  それからゆっくりと眉を寄せ、頭を垂れた。  薄暗い魂にその時どんな考えが宿ったのだろうか? 青白かった顔は不眠のせいで黄ばみ、瞑想のせいで落ち窪んでいたが、どんな恐ろしいことを考えついてその顔を伏せたのだろうか? それが誰にわかろうか?  アンリ四世の歌を口ずさみならが船で川を下っているのは船頭だろうか? 見物を終えてサン=ドニから帰って来るのは洗濯女だろうか? 遠くで道を曲がったのは、干してある下着の真ん中で草むらに寝転がって暇そうにしていたジルベールを追い剥ぎとでも勘違いしたのだろう。  半時間ほど考え込んでから、ジルベールは冷静に心を決めて起き上がった。セーヌ川に降りて水をたっぷり一口飲み、辺りを確かめると、左手遠方にサン=ドニからやって来た人の群れが見えた。  群衆の中を四輪の第一馬車が数台、並足で進んでいる。群衆に押されながら、サン=トワン大通りを進んでいた。  王太子妃は輿入れを身内のお祝いにしたがっていた。それ故に身内は特権を行使した。これほど近くで王家の様子を目にして、パリっ子たちは従僕の座席によじ登り、危険も顧みず馬車の支え紐にしがみついた。  ジルベールはアンドレの馬車を目敏く見つけた。扉口でフィリップが馬を駆る、というよりは足踏みさせている。  ――よし。何処に行くのか突き止めなくちゃ。そのためには追いかけなくちゃいけない。  ジルベールは追いかけた。  王太子妃はラ・ミュエットで国王、王太子、ド・プロヴァンス伯、ダルトワ伯と内々の食事を取ることになっていた。ルイ十五世が礼儀作法をなおざりにさせていたことは言っておかねばなるまい。サン=ドニで王太子妃を迎え入れた国王は、招待客の名簿と鉛筆を手渡し、来て欲しくない招待客の名前を塗りつぶさせた。  最後に書かれていたデュ・バリー夫人の名前まで進んだ時、王太子妃は自分の口唇が青ざめて震えるのを感じた。だが母である女帝の助言に従い何とか持ちこたえると、麗しく微笑んで名簿と鉛筆を国王に返し、家族の親密な集まりに初めから受け入れてもらえるとはとても幸せだと伝えた。  こうしたことはジルベールには知るよしもなかったので、デュ・バリー夫人の一行と白馬に乗ったザモールに気がついたのはラ・ミュエットにやって来てからだった。  幸いなことに辺りは暗くなっていた。ジルベールは茂みに飛び込み腹ばいになり、待った。  王太子妃がデュ・バリー夫人をコンピエーニュの時よりいっそう感じよくもてなしているのを見て、国王は夜食の席で上機嫌だった。  だが王太子は何やら憂えた様子で、頭痛を口実にして席に着かずに退出してしまった。  夜食は十一時まで続いた。  その間お付きの者たちは――自尊心の強いアンドレでも自分がお付きであることは認めざるを得なかったが――国王が用意させた音楽を聴きながら、別棟で夜食を取っていた。さらには別棟は非常に小さかったために、五十人の貴族たちは芝生に用意された食卓に着いて、王家のお仕着せを着た五十人の従僕に給仕されていた。  ジルベールは相変わらず藪の中で、何一つ見落とすまいとしていた。クリシー=ラ=ガレンヌで買ったパンをポケットから取り出して夜食を取りながらも、出て来た人々をしっかり見張っていた。  夜食を終えた王太子妃がバルコニーに姿を現した。招待客たちに別れを告げて来たところだ。国王が隣にやって来た。デュ・バリー夫人の如才なさは敵でさえ認めざるを得まい。夫人は部屋の奥に行って視界に入らないようにしていた。  客たちは国王に挨拶するためバルコニーに足を運んだ。お供していた者たちのことは王太子妃殿下も既に知っていたが、知らない者たちの名前は国王が教えた。時折、優雅な言葉、うまい台詞が口唇から洩れ、声をかけられた人々を喜ばせた。  遠くからこの茶番を見ていたジルベールが呟いた。 「僕もあいつらよりはましだな。世界中の金を積まれたってあんなことはするもんか」  ド・タヴェルネ一家の番になった。ジルベールは片膝を立てた。 「ムッシュー・フィリップ」と王太子妃が言った。「休職を命じますので、お父上と妹君をパリに連れて行って下さい」  夜のしじまの中で一心に耳と目を傾けていたジルベールは、その言葉を聞いて耳を震わせた。  王太子妃が続けた。 「ド・タヴェルネ殿、まだ部屋の用意が出来ておりませんので、わたしがヴェルサイユに落ち着くまでは、お嬢様と一緒にパリにお向かい下さい。アンドレ、わたしのことを忘れないで下さいね」  この敬意と思いやりの入り混じった言葉に、アンドレが白い面を伏せるのが見えた。 「そうか」とジルベールは呟いた。「僕も暮らしていたパリに戻るんだな」  男爵が息子と娘と共に通り過ぎた。まだたくさんの人々がその後からやって来て、王太子妃から同じように言葉をかけられていたが、もうジルベールにはどうでもいいことだった。  ジルベールは藪から抜け出し男爵の後を追った。ざわめきと喧噪の中、二百人の従僕が主人の後を追い、五十人の御者が従僕に答え、六十台の馬車が雷鳴のような音を立てて舗道を走っていた。  タヴェルネ男爵には宮廷馬車が用意されており、離れたところで待っていた。男爵とアンドレとフィリップが馬車に乗り込み、扉が閉められた。 「ありがとう」扉を閉めた従僕にフィリップが声をかけた。「御者と一緒に坐り給え」 「いったいどういうわけだな?」男爵がたずねた。 「可哀相に、朝から立ちっぱなしで疲れているに違いないからですよ」とフィリップは答えた。  男爵は何かぶつぶつと呻いたが、ジルベールには聞き取れなかった。従僕は御者の隣に坐った。  ジルベールが近づいて行った。  馬車が動き出そうとした時、引き綱が外れているのに気づいた。  御者が馬車を降り、しばらく馬車は動かなかった。 「遅くなったな」男爵が言った。 「もうへとへと」アンドレが呟いた。「せめて寝床を確保したいけど?」 「大丈夫だよ」フィリップが答えた。「ラ・ブリとニコルをソワッソンからパリにまっすぐ向かわせておいたんだ。友人宛てに手紙を持たせていたから、去年まで母と妹の住んでいた別棟を使わせてくれるはずだ。豪華ではないが小ぎれいなところだよ。姿を見せてはならず、ひたすら待つしかないけれど」 「ふん。タヴェルネと変わらんじゃないか」 「生憎ですがその通りです、父上」フィリップが憂鬱な笑みを浮かべた。 「草木はあるの?」アンドレがたずねた。 「ああ、とても綺麗だよ。だが恐らくあまり鑑賞してもいられまい。すぐに結婚式が始まって、お前も呼ばれるだろうからね」 「まったく、夢のようじゃな。出来るだけ長く覚めずにいたいものだ。フィリップ、御者に行き先は伝えておるな?」  ジルベールはどきどきして聞き耳を立てた。 「はい、父上」とフィリップが答えた。  それまでの会話はすっかり聞こえていたので、ジルベールとしては是非とも行き先を耳に入れたかった。 「追いかけるのくらい、たいしたことない。ここからパリまで一里しかないんだから」  引き綱を結び直した御者が席に戻り、馬車が動き始めた。  だが国王の馬は列に並んでのろのろ進む必要がなくなると、速度を上げた。それを見たジルベールは、ラ・ショセで無力に取り残されたことを思い出した。  ジルベールは懸命に追いかけ、本来であれば従僕がいたはずの後ろの踏み台に手を伸ばした。ぜいぜいしながらしがみつき、腰を下ろして揺られていた。  だがすぐに、自分がアンドレの馬車の後ろに乗っているということ、言いかえれば従僕の席に坐っているということに気づいた。 「冗談じゃない!」ジルベールはかたくなに呟いた。「最後まで努力しなかったなんて言わせるもんか。足はくたくたでも、腕はまだへっちゃらなんだ」  そこで両手で踏み台をつかんで爪先を踏み台に置き、座席の下に潜り込むと、揺れはひどかったが、妥協するよりは腕の力で苦しい姿勢に耐えることを選んだ。 「行き先を知らなくちゃ。まずは行き先だ。ひどい夜を過ごすことになるけれど、明日になれば写譜をしながら自分の席でゆっくり出来る。それにまだお金もあるし、眠ろうと思えば二時間眠ることも出来るんだから」  やがてパリはあまりに広いことを思い出した。男爵親子がフィリップの用意した家に入ってしまえば、パリを知らない人間では途方に暮れてしまうだろう  幸いにも今は真夜中近く、夜が明けるのは三時半頃だった。  こんなことを考えていると、中央に騎馬像の立っている広場を通り過ぎた。  ――ふうん。あれがヴィクトワール広場だな。驚くと同時に嬉しくなった。  馬車が向きを変えた。アンドレが窓に顔を押しつけた。  フィリップが言った。 「先王の騎馬像だ。もうすぐだ」  馬車が急な坂道を降り、ジルベールは車輪の下に転がり落ちそうになった。 「着いた」フィリップが言った。  ジルベールは足を地面に降ろし、道の反対側に飛び込んで里程標の陰に隠れた。  まずフィリップが馬車から飛び降り、呼び鈴を鳴らしてから、戻って来てアンドレに腕を貸した。  男爵が最後に降りた。 「ふん! あの馬鹿者どもは、わしらにここで夜を過ごさせるつもりか?」  その瞬間、ラ・ブリとニコルの声が響き渡り、扉が開けられた。  三人は薄暗い中庭に姿を消し、扉が閉められた。  馬車と従僕は国王の厩舎に戻って行った。  三人が姿を消した家には特に目立つところはなかった。だが馬車が通りしな隣家を照らしたので、ジルベールにも読むことが出来た。  アルムノンヴィル・ホテル。  まだ通りの名前を知る必要がある。  それは馬車が遠ざかって行ったのとは別の、一番近い通りの外れで見つかった。驚いたことに、そこにはいつも水を飲みに来ていた水飲み場があった。  後にした通りに平行して戻っている通りに足を踏み入れると、パンを買ったパン屋があった。  それでもまだ信じられなくて通りの角まで戻ると、遠くの街灯に照らされて、白石に刻まれた二つの文字を読むことが出来た。三日前、ムドンの森の植物採集からルソーと帰って来た時にも同じ文字を読んでいた。 『プラトリエール街』  ということは、アンドレとは百歩と離れていない。タヴェルネ城の柵のそばにあった小部屋にいる時よりも近いのだ。  そこでジルベールは戸口に戻った。掛け金を持ち上げる紐の端が内側に引っ込んでいなければよいのだが。  ジルベールにとっては吉日だった。何本か糸が出ていたので、それをつまんで紐全体を引っぱり出すことが出来た。扉は開かれた。  手探りで階段までたどり着き、音を立てぬよう一歩一歩上り、ようやく自室の南京錠に指を触れた。ルソーが気を利かせたので、錠は掛けられていない。  十分後、気を揉んでくたくたになっていたジルベールは、翌日のことを待ちきれないまま眠りについていた。 第五十四章 城館  夜遅く戻りそのままぐっすり眠り込んだジルベールは、朝日を遮るための布の切れ端を窓に掛けておくのを忘れていた。  太陽の光が朝五時に目を襲い、やがてジルベールは目を覚ました。眠りすぎたのではないかと不安になった。  田舎育ちのジルベールは、太陽の方位や光の濃淡によって時刻を知ることが出来た。そこで急いで体内時計で確かめた。  青白い光が高い木々の梢からかろうじて差しているを見て一安心した。遅すぎたわけじゃない、早すぎたのだ。  身支度をしながら前夜の出来事を思い出し、火照った顔を上機嫌で突き出すと、涼しい朝のそよ風に酔いしれた。やがて、隣の通りにあるアルムノンヴィル・ホテル近辺にアンドレが泊まっているのを思い出し、どの家に泊まっているのか確かめに行くことにした。  木陰を見下ろしていると、昨晩聞いたアンドレの言葉を思い出した。 「草木はある?」とアンドレはフィリップにたずねていた。  ――どうしてこの庭の空いている城館にしなかったんだろうな、とジルベールは独り言ちた。  だからジルベールがこの城館のことを考え始めたのも当然のことだった。  そんな折り、どうした偶然からか予期せぬ物音が聞こえ何かが動き、ジルベールの目を惹いた。長く封鎖されていたらしき城館の窓を、かぼそい手が不器用に揺らしている。窓枠の上側がしなったが、湿気ってくっついているらしく、なかなか外に開こうとはしなかった。  すぐに先ほどよりも強く揺すられて木材が悲鳴をあげ、突然両側に開いた窓から、若い娘がちらりと見えた。力一杯窓を開けたせいで顔中真っ赤になって、埃だらけの腕を振っている。  ジルベールは驚きの声をあげて後じさった。まだ寝起きでむくんだ顔で、思い切り伸びをしているのは、ニコルだった。  疑いは一瞬で消えた。昨夜フィリップが、ラ・ブリとニコルが家を用意していると父と妹に伝えていた。つまりこの城館がそうだったのだ。アンドレたちを飲み込んだコック・エロン街の家に、プラトリエール街の裏に隣接した庭があるのだ。  ジルベールの動きはかなり大きかったので、遠く離れていたとはいえニコルがこれほど寝起きでぼうっとしていなければ、天窓から退いた哲学者君の姿を目にしていたことだろう。  だがジルベールは大急ぎで引っ込んだので、ニコルが天窓に気づくようなことはなかった。もしジルベールが二階に住んでいて、二階の窓越しに豪華な壁紙や家具を背にした姿を見られるのだとしたら、見られることをそれほど恐れはしなかっただろう。だが五階の屋根裏では社会的にかなり低いと思われてしまうので、慎重に逃げ出さずにはいられなかった。もっとも、誰にも見られずにすべてを見るには最適の場所だ。  だいたい、ここにいることをアンドレに知られていたら、それだけで余所に行かれてしまったり、庭に出て来てもらえなくなったりするのではないだろうか?  嗚呼! 思い上がりで濁った目で見ると、随分と自分がでかく見えるものだ。アンドレにとってジルベールに何かの意味があったり、ジルベールを理由に近づいたり離れたりするとでもいうのだろうか? 従僕や農夫は人間ではないからといって、従僕たちの目の前で風呂から出て来るのがご婦人という人種ではなかっただろうか?  だがニコルはそうした人種ではない。ニコルは避けなくてはならない。  それ故にジルベールは素早く窓から退いた。  だが窓から離れたままではいられなかった。やがてゆっくりと窓辺に戻り、天窓の隅から目を覗かせた。  最初に開けられた窓の真下にある一階の窓が開けられたところだった。そこから白い人影が覗いた。アンドレだった。起き抜けで化粧着をまとい、まだしっかりしていない足から脱げて椅子の下に潜り込んだミュールを探している。  ジルベールはアンドレを見るたび、愛情に流されるのはやめて憎しみの壁を築こうと虚しく努力したが、そのたびに同じ原因から同じ結果に終わっていた。壁にもたれたままどうすることも出来ず、まるで心臓が破れたように動悸し、血が身体中で泡立つのだった。  だが徐々に血のたぎりは治まり、じっくりと考えられるようになった。問題は、先ほど申し上げた通り、誰からも見られずに見るということだ。ジルベールはテレーズの部屋着を広げて窓に渡してある紐にピンで留め、この即席カーテンに隠れて、見られることなくアンドレを見ることが出来た。  アンドレはニコルと同じく伸びをした。真っ白い腕を伸ばすと化粧着がはだけた。窓の手すりから身を乗り出し、目の前に広がる庭をじっくりと味わっていた。  そしてアンドレは破顔した。人に微笑みかけることなどめったにないアンドレも、物には忌憚なく微笑みかけた。今は木陰に恵まれ、草木に囲まれていた。  その庭を縁取る家々の例に洩れず、ジルベールのいる家にもアンドレの目は留まった。アンドレの方からは屋根裏しか見えない。屋根裏からしかアンドレのいるところを見ることが出来ないのと一緒だ。だからアンドレはまったく注意を払わなかった。屋根裏に住むような連中が、誇り高い娘にとって如何ほどの価値があろうか?  アンドレは周囲を確かめて満足した。自分は一人きりだし、誰にも見られていない。静閑な庵の外れで、田舎女にとっては脅威であるパリっ子たちの詮索好きで陽気な顔を見ずに済んだ。  アンドレの行動は素早かった。窓を全開し、朝の空気を部屋の隅々まで行き渡らせると、暖炉に向かい、呼び鈴の紐を引いてから薄暗い部屋の中で服を着始めた、もとい服を脱ぎ始めた。  ニコルが現れ、アンヌ王妃時代の革製道具箱の紐を外すと、鼈甲の櫛を取り出してアンドレの髪を梳いた。  たちまちにして長い三つ編みと濃い巻き毛が、マントのようにアンドレの肩に滑り落ちた。  ジルベールは押し殺した溜息をついた。ファッションとマナーから髪粉をつけたばかりの、美しい髪も垣間見えたものの、ジルベールが見ていたのは半裸のアンドレであった。見事に着飾った姿よりも、無防備な方が百倍も美しかった。ジルベールの口はからからになり、指は熱で火照り、凝らした目は虚ろだった。  髪を整えさせている最中に、ほんの偶然からアンドレが目を上げ、ジルベールのいる屋根裏部屋に目を留めた。 「よしよし、見るがいいや」ジルベールが呟いた。「どれだけ見つめたって何も見えないだろうけど、こっちからは丸見えなんだ」  ジルベールは間違っていた。アンドレには何かが見えた。それは浮き上がった部屋着だった。ジルベールの頭に巻きついてちょうどターバンのようになっていた。  アンドレがその不思議な物体を指さしてニコルに知らせた。  ニコルはやろうとしていた難しい作業を中断して櫛の先を天窓に向け、あれのことかとアンドレにたずねたようだった。  このやり取りに苦しみまた狂喜していたジルベールだったが、それを見ている人物がいるとは気づかなかった。  不意にテレーズの部屋着を頭から乱暴に剥ぎ取られると、ルソーの姿を目にして愕然とした。 「いったい何をなさっているのです?」哲学者は眉をひそめ、困ったように顔をしかめながら、妻に借りた部屋着を確かめた。  ジルベールは慌ててルソーの注意を天窓から逸らそうとした。 「何でもありません! 何でもないんです!」 「何でもありませんか……ではどうしてこの部屋着の下に隠れていたのですか?」 「陽射しがきつかったので」 「西向きなのに、朝のこんな時間に陽射しがきついのですか? 随分と目が弱いのですね」  ジルベールは口ごもり、墓穴を掘ったことに気づいて両手で頭を抱え込んだ。 「あなたは嘘をついて怯えていますね」ルソーが言った。「悪いことをしたからでしょう」  この見事な理屈にジルベールはすっかり恐慌を来してしまったが、それに続けてルソーはまっすぐ窓辺に近づいて行った。  もっともなことながら説明が必要だと感じたジルベールは、じきに窓から見つけられてしまうものを恐れて、ルソーより先に窓に向かって飛び出した。 「おや!」ルソーの声にジルベールの血管が凍りついた。「城館に人がいるんですね」  ジルベールは一言も洩らせなかった。 「わたしの家を知っているようだ」ルソーは疑り深げに続けた。「こちらを指さしていますからね」  ジルベールは前に出過ぎたことに気づき、後ろに退がった。  どんな動きも事情もルソーの目を免れることは出来なかった。どうやらジルベールは見られることを恐れているらしい。 「おやめなさい」ルソーはジルベールの手首をつかんだ。「どうやら隠れた事情がありそうですね。指さしているのはこの屋根裏らしい。どうかそこにお坐りなさい」  ルソーはジルベールを遮るものない明るい窓の前に連れて行った。 「嫌です、お願いです!」ジルベールは逃れようと身体をひねった。  だがジルベールのような健康で素早い若者には逃げることなど簡単だったとはいえ、それにはジルベールにとって神であるルソーに抵抗しなくてはならなかった。結局、敬意が勝った。 「あのご婦人方とはお知り合いなのですか?」 「いえ、いえ、知りません」 「知らない赤の他人だというのなら、どうしてあなたを指さしているのでしょう?」 「ムッシュー・ルソー、あなたにだって時には秘密があるのではありませんか? どうか、秘密に免じてお許し下さい」 「この卑怯者め!」ルソーが叫んだ。「そうですね、そういった秘密のことなら分かっていますよ。あなたもグリムやドルバックの手下でしたか。わたしの好意を得ようと立ち回って家に入り込み、売り渡そうという腹だったとは。ああ、わたしは何て愚かだったんだろう! とんだ自然愛好家でしたね。趣味を同じくする者に手を貸していると思っていたのに、密偵を家に招き入れていたとは」 「密偵ですって!」ジルベールも憤慨した。 「さてユダ、いつわたしを売り渡すつもりですか?」ルソーは無意識に腕に掛けていたテレーズの部屋着をまとった。崇高な苦しみを受けていると感じていたのに、生憎と笑うことしか出来なかった。 「侮辱はやめて下さい」 「侮辱? 合図を送って敵と通じ、わたしの最新作の主題を暗号で伝えている現場を押さえたんですよ!」 「聞いて下さい、あなたの著作の秘密をばらすつもりでお邪魔したんだとしたら、今ごろとっくに机の上の原稿を写しています。暗号で伝えるまでもないでしょう?」  言われてみればその通りだ。不安に凝り固まりすぎていたせいで馬鹿なことを言ってしまったことを悟って、ルソーは腹を立てた。 「申し訳ないことをしてしまいましたが、これまでの経験があったものですから。わたしの人生は失望の山でした。誰からも裏切られ、否定され、密告され、売り渡され、虐げられて来たのです。ご存じの通り、わたしは政府によって追放された不幸な身です。こんな状態では猜疑心が強くなるのもやむを得ないでしょう。お疑いなら、ここから出て行って下さい」  ジルベールは皆まで言わせなかった。  追い出されるなんて!  ジルベールは拳を握り締めた。目によぎった光にはルソーもぎょっとした。  だがその光は長くは持たずに音もなく消え去った。  出て行ってしまえば、毎日毎日アンドレを眺める幸せも失ってしまうし、ルソーの友情も失ってしまう。それは不幸であると同時に不名誉なことだった。  生まれながらの高慢をたたみ込んで両手を合わせた。 「聞いて下さい。一言だけでいいので」 「わたしは甘い人間ではありません。人から不当を強いられて、虎より残忍な人間になりました。わたしの敵たちと通じているのならそこにお行きなさい、止めはしませんよ。手を組むのは結構ですが、ここからは出て行って下さい」 「違うんです。あの二人は敵ではありません。あれはアンドレ嬢とニコルです」 「アンドレ嬢?」ジルベールの口から何度か聞いたことのある、聞き覚えのある名前だった。「アンドレ嬢とは? 仰いなさい」 「アンドレとは、ド・タヴェルネ男爵のお嬢さんです。こんなこと言いたくはなかったけれど、言わせたのはあなたですからね。あなたがガレー嬢やド・ヴァランス夫人を愛していたよりも、ほかの誰よりも、僕が愛している人です。お金もパンも持たずに疲れと痛みでぺしゃんこになって路上に倒れ込むまで、この人のために歩いて追いかけて来たんです。昨日サン=ドニで再会して、ラ・ミュエットまで追いかけて、ラ・ミュエットからまた隣の通りまでこっそり尾けて行ったんです。城館に住んでいるのを今朝たまたま見かけたのが、この人なんです。僕がチュレンヌやリシュリューやルソーになりたいのは、この人のためなんです!」  ルソーは人の気持も心の叫びも知っていた。どんな名優でもジルベールがしたような涙に濡れた声を出すことは出来ないし、熱の入った身振りをすることは出来ないことは分かっていた。 「では、あのお嬢さんがアンドレ嬢なのですか?」 「そうです」 「あなたとお知り合いなのですね?」 「僕はアンドレの乳母子です」 「では、先ほど知らないと言ったのは嘘だったのですね。仮に裏切り者でないにしても、嘘つきということになります」 「心を引き裂くようなことは言わないで下さい。この場で殺された方がどれだけましかわかりません」 「ディドロやマルモンテルのレトリック、文体ではありませんか。あなたは嘘つきです」 「そうですか。わかりました、僕は嘘つきですが、あなたがこうした嘘に理解がないとは残念ですね。嘘つきですって! 嘘つきですか……! わかりました、出て行きます……お世話になりました! 僕がどれだけ絶望しているか、良心に聞いてみるといいんです」  ルソーは顎をさすって、まるでルソー自身のようなジルベールを見つめていた。 「立派な人間なのか偽善者なのか」とルソーは自問した。「だが陰謀が企てられているのなら、わたしは陰謀の糸筋を手繰ればよかったのだ、どうしてそうしなかったのだろう?」  ジルベールが戸口に向かって四歩進み、手を錠前に置いたまま、果たして追い払われるものか呼び止められるものか、最後の一言を待っていた。 「もうこの話は充分です」とルソーが言った。「恋するあまりそんなことを仰るのでしたら、不幸なことですがね。さあ時間がありません。昨日は一日無駄にしてしまったのですから、今日は三十ページ写さなければなりません。肝に銘じて下さいよ、ジルベール!」  ジルベールはルソーの手を握り、その手に口唇を押し当てた。王の手にもそこまでしなかっただろう。  だが感動しているジルベールが扉につかまっていたので、部屋を出る前にルソーはもう一度窓辺に近づいて二人の娘を確かめた。  ちょうどアンドレが化粧着を落とし、ニコルの手から部屋着を取ったところだった。  アンドレはルソーの青白い顔とじっと動かない身体を目にし、慌てて後ろに退がってニコルに窓を閉めるよう命じた。  ニコルがそれに従った。 「おやおや、年寄りの顔に怯えてしまったらしい。この若者の顔は怖がらなかったというのに。若さとは素晴らしい」ルソーは溜息をついてつけ加えた。 「|おお若さよ人生の春よ!《O gioventu primavera del eta!》 |おお春よ一年の若さよ!《O primavera gioventu del anno!》」  そうしてテレーズの部屋着を釘に掛け直すと、ジルベールの後から侘びしげに階段を降りた。恐らくその瞬間ルソーは、ヴォルテールにも匹敵し全世界からの称讃を分かつ己が名声を、ジルベールの若さと置き換えていたのだろう。 第五十五章 サン=クロード街の家  ド・フェニックス伯爵がド・ロアン枢機卿との密会を約したサン=クロード街は、当時も今とあまり変わらなかった。これからお伝えするような光景の名残を読者諸兄が見つけることも可能である。  サン=クロード街は現在と同じく、サン=ルイ街や大通りに通じている。サン=サクルマン女子修道院とヴォワザン邸に挟まれたこのサン=ルイ街を通って行くと、今日ではその先で教会と食料品店に分かれている。  今と同じく、大通りまでは急な坂道になっている。  サン=クロード街には十五軒の家と七つの街灯があった。  袋小路が二つあることに気づかれるだろう。  一つは左側にあるため、ヴォワザン邸の向かいが飛び地になっている。右側、つまり北向きの方は、サン=サクルマン修道女会の庭に面していた。  この二つ目の袋小路の右側は修道院の木々に陽射しを遮られ、左側はサン=クロード街に建っている家の灰色の壁に接していた。  この壁にはキュクロプスの顔のように一つしか目がなかった。或いは窓が一つしかないと表現する方がお気に召すだろうか。しかもその窓も格子と金網で塞がれ、真っ暗に閉ざされていた。  閉ざされたままのこの窓の真下には、いくつもの蜘蛛の巣が外壁を彩っている。その窓の真下にある扉には、大きな鋲とグリフォンの頭をしたノッカーがついていたが、そこから人が入っていたわけではなく、そこから家に入ることが出来るということがわかるだけであった。  袋小路には家は一軒もない。住人が二人だけいた。木箱で暮らす靴直しと、樽をねぐらにする繕い女が、修道院のアカシアの木陰に逃げ込んでいた。そこでなら朝の九時からでも埃っぽい地面にも涼しい空気が注ぐのである。  夜になると、繕い女は住まいに戻り、靴直しは根城に鍵を掛ける。そうすると路地を見ているのは、先ほど述べたように、暗く陰気な一つ目の窓だけとなる。  扉のことは既にお伝えしたし、さらに詳しくこの家をことをお伝えしようとするならば、玄関はサン=クロード街に面している。ルイ十三世時代の様式を窺わせる浮き彫りのついた玄関扉には、フェニックス伯爵がロアン枢機卿に目印として説明したように、グリフォンの頭をしたノッカーがつけられている。  大通りが見渡せる位置に窓がいくつかあり、朝になると朝日を拝むことが出来る。  当時のパリの、特にこの地域は治安がよくなかった。それ故に鉄格子つきの窓や忍び返しの立った塀は珍しくない。  そういうこともあってこの家の二階はまるで要塞のようである。敵や盗人や愛人たちを防ぐために、鋭く尖ったいくつもの鉄がベランダに設置されていた。深い溝が大通り側に廻らされていたので、道を通ってこの要塞に入ろうとする者には、三十ピエの梯子が必要であった。塀は三十二ピエあり、中庭は塀に隠れていたというより埋もれていた。  現在であればこの家の前を通りかった人なら誰もが驚き、訝しみ、興味を持って立ち止まるだろうが、一七七〇年当時にはこのような家はそれほど珍しい光景ではなかった。それどころかその地域に溶け込んでおり、善良なサン=ルイ街の住人たちや同じく善良なサン=クロード街の住人たちがこの邸の周りから逃げ出していたとすれば、それは評判の悪くないこの邸のせいではなく、悪評高いポルト・サン=ルイ(サン=ルイ門)のさびれた大通りとポン・ト・シュー(シュー橋)のせいである。下水道に架けられたこの眼鏡橋は、些かなりとも神話伝説を知っているパリっ子にはガデイラの禁門のように見なされていた。  実際のところ、大通りのこちら側をたどってもバスチーユしかない。四分の一里ほどの間に家が十軒もない。役人もこの無、空、虚を光で照らそうとは考えなかったため、夏は八時、冬は四時を過ぎるとそこは混沌と化し、盗っ人どもしかいなくなる。  ところがこの大通りを夜の九時頃、四輪馬車が帰宅を急いでいた。サン=ドニ訪問からおよそ四十五分後のことである。  馬車の羽目板にはフェニックス伯爵の紋章が飾られていた。  伯爵はジェリドに乗って馬車の二十パッスス先を走っていた。ジェリドは埃だらけの舗道のむせるような熱気を吸い込みながら、長い尻尾を振っている。  カーテンの引かれた馬車の中では、ロレンツァがクッションに横たわって眠っていた。  車の音を合図に魔法のように門が開き、サン=クロード街の暗闇に飲み込まれた馬車は、先ほど説明した家の中庭に姿を消した。  その後ろで再び門が閉まった。  だが確かに人目を忍ぶ必要はなかった。フェニックス伯爵の帰宅を出迎える人間はいなかったし、大修道院の宝を馬車に積んでサン=ドニから運んで来たことを妨げる人間もいなかった。  差し当たりこの家の内部に言葉を費やし、読者の皆さんにお知らせしておく必要があるだろう。一度ならずこの場所にご案内する予定だからだ。  中庭には草がはびこり、尽きせぬ地雷として努力をたゆまず舗石を剥がすことに余念がなかった。右側には厩舎が、左側には車庫が見え、奥には石段が玄関まで続いている。十二段の二列階段のどちらからでも上れるようになっていた。  邸宅(少なくともそれに近い建物)の一階には、広大な玄関ホールがあり、食堂のサイドボードには豪華な銀器が積まれていた。応接室に真新しい家具が設えてあるのは、恐らく新しい住人のためにわざわざ揃えられたものだろう。  応接室を出て玄関ホールに戻れば、二階に通ずる大階段の正面に出る。二階には主人の部屋が三室あった。  だが腕の立つ技師ならばこの邸の外周を目で測り、長さを見積もり、これだけの広さの割りには少ない部屋数に驚くはずだ。  表向きの第一の家の中には、住人しか知らない第二の家が隠されているのだ。  玄関ホールにはハルポクラテス像が沈黙を諭すように指をくわえているのだが、バネ仕掛けで建築飾りに隠された傍らの小さな扉が動くようになっていた。この扉が廊下の隠し階段に通じており、この廊下ほどの幅の階段をもう一つの二階辺りまで上ると、小部屋にたどり着く。内庭に面した二つの鉄格子つきの窓から光が彩られていた。  この内庭こそ第二の家を人目から隠しふさいでいる箱であった。  階段の先の部屋は明らかに男部屋である。椅子やソファの前に置かれた寝台のマットや絨毯は、アフリカやインド産の毛皮よりも見事なものだった。爛々と光る目に、今なお咬みつきそうな牙を持った、ライオン、虎、豹の毛皮であった。悠々と落ち着いた図案のコルドバ革が張られた壁には、あらゆる種類の武器が飾られていた。ヒューロン族の戦斧からマレー人の短刀《クリス》短刀まで、中世騎士の十字剣からアラブの短刀《ハンジャル》まで、十六世紀の象牙細工の火縄銃から十八世紀の金銀細工の小銃まで。  階段以外に別の出口を探しても無駄に終わる。或いは幾つかあるのかもしれないが、誰も知らないし何処にも見えない。  二十五から三十見当のドイツ人召使いが数日の間一人でこの家をうろうろしていたが、それが正門の閂を元通り閉め、むっつりとした御者がとうに馬を外している間に馬車の扉を開けて、馬車から眠っているロレンツァを引っ張り出して、腕に抱えて玄関ホールまで運び出した。そこで赤い布の掛けられた卓子にロレンツァを横たえると、ロレンツァをくるんでいた長く白いヴェールをさり気なく足許に落とした。  そうしておいて外に出ると、馬車の角灯で七枝の燭台に火をつけてから戻って来た。  だがこのわずかの間に、ロレンツァは消えていた。  即ち、召使いの後ろからフェニックス伯爵が入って来ていたのである。ロレンツァを自分で腕に抱くと、隠し扉と秘密の階段を通って武器の部屋まで運び上げ、そうしておいて二つとも扉を閉めたのであった。  そこまで来ると、足の先で、暖炉の隅にあるバネを押した。すぐに扉が(ほかでもない暖炉の羽目板が)、音もなく蝶番を軸に回り、伯爵はその枠をくぐって中に消えると、開いた時と同じようにこの秘密扉を足で閉じた。  暖炉の奥には第二の階段があり、ユトレヒト天鵞絨で覆われた十五の段を上ると、金襴の繻子で飾られた部屋の戸口にたどり着いた。その花模様の鮮やかな色合いと見事に描かれた形状には、まるで生きた花を見ているような錯覚に囚われることだろう。  同じように木製の家具には金箔が貼られていた。鼈甲の大戸棚は二つとも銅で象眼されており、チェンバロと鏡台は紫檀製、彩り豊かな美しい寝台に、数々のセーヴル磁器、これが日用家具の一部である。椅子、肘掛、ソファが三十ピエ四方の空間に左右対称に並べられ、部屋の残りを飾っていた。もっとも、残りといっても化粧室と婦人用の寝室が隣接するだけであったが。  厚いカーテンで覆われた二つの窓から光が採られていた。とは言え今は夜のことゆえカーテンで遮るものとてない。  閨房と化粧室には窓も出口もない。香油を燃やした明かりが昼も夜も照らしていた。明かりは天井から取り去られ、見えない手によって管理されていた。  この部屋には音もなく風もない。まるで世間から百里は離れているかのようだ。ただし至るところに金が輝き、壁には美しい絵画が微笑み、七色に光る背の高いボヘミアン・グラスが熱い目のようにきらめいていた。ロレンツァをソファに寝かせた伯爵は、閨房で揺れる明かりに不満を覚え、ジルベールを驚かせたあの銀のケースから火をほとばしらせて、暖炉の上にある二つの大燭台に刺さった薔薇蝋燭に火をつけた。  それからロレンツァの許に戻り、クッションを積み上げてロレンツァの前にひざまずいた。 「ロレンツァ!」  呼びかけられたロレンツァは、目は閉じられたままで肘を起こした。だが返事はない。 「ロレンツァ、お前は普段通りに眠っているのか、それとも催眠磁気で眠っているのか?」 「催眠磁気で眠っています」ロレンツァが答えた。 「では俺がたずねたら答えられるな?」 「そう思います」 「いいだろう」  フェニックス伯爵はひとまず口を閉じてから、再び始めた。 「さっきまでいたマダム・ルイーズの部屋を見ろ、四十五分くらい前だ」 「見ました」 「見えるんだな?」 「はい」 「ロアン枢機卿はまだいるか?」 「見えません」 「王女はどうしている?」 「就寝前の祈りを捧げています」 「修道院の廊下と中庭を見ろ。猊下は見えるか?」 「見えません」 「門を見ろ。猊下の馬車はまだあるか?」 「もうありません」 「俺たちがたどった道をたどるんだ」 「たどっています」 「路上に四輪馬車は見えるか?」 「はい! 何台か見えます」 「馬車の中には枢機卿がいるか?」 「いいえ」 「パリの近くまで来い」 「来ました」 「もっとだ」 「はい」 「もっと」 「はい! 見えました」 「何処だ?」 「市門のところです」 「停まっているのか?」 「今は停まっています。従僕が馬車の後ろから降りています」 「何か言っているか?」 「何か言おうとしています」 「しっかり聞くんだぞ、ロレンツァ。枢機卿がその男に言ったことがわかるかどうかが大問題なんだ」 「お命じになるのが遅すぎました。でも待って下さい、従者が御者に話しかけています」 「何と言っている?」 「マレー地区のサン=クロード街まで、大通り沿いに」 「よし、ロレンツァ、助かった」  伯爵は紙に何か書きつけると、恐らく重しにするためだろうか小さな銅板に紙を巻きつけ、呼び鈴の紐を引き、ボタンを押すとその下に口が開いた。そこに手紙を放り込むと、手紙が消えるのを待ってから再び閉じた。  これが、伯爵が部屋に閉じこもった時にフリッツとやり取りする手段であった。  伯爵は再びロレンツァの許に戻った。 「ご苦労だった」 「ご満足いただけましたか?」 「ああ、ありがとうロレンツァ」 「ではご褒美を」  バルサモは微笑んでロレンツァの口唇に口を近づけた。この官能的な触れ合いにロレンツァは身体中を震わせた。 「ああ、ジョゼフ! ジョゼフ!」ロレンツァは苦しそうに息をついた。「ジョゼフ! 愛してる!」  ロレンツァはバルサモを胸に抱きしめようと、両腕を広げた。 第五十六章 二つの自分――休眠  バルサモが素早く身を引いたため、ロレンツァの両腕は空をつかみ、胸の上で交差した。 「ロレンツァ、友だちと話がしたいか?」 「もちろんです。でもあなたがお話しして下さるなら……あなたの声が愛おしいんです!」 「ロレンツァ、全世界から隔てられても俺と一緒にいられれば幸せだと言っていたな」 「ええ、幸せです」 「よし、お前の願いはわかった。この部屋にいれば、誰も追って来られないし、誰もたどり着けない。俺たちは二人きりだ、完全にな」 「よかった!」 「この部屋は気に入ったか?」 「見るように命じて下さい」 「見るんだ!」 「素敵な部屋!」 「では気に入ったんだな?」伯爵は満足げにたずねた。 「ええ、私の好きな花ばかり! バニラ・ヘリオトロープに、紫薔薇《パープル・ローズ》に、中国ジャスミン。ありがとう、ジョゼフ。優しいのね!」 「喜んでもらえたらそれでいい」 「私にはもったいないことです」 「それを認めるんだな?」 「はい」 「では自分が聞き分けがなかったことを認めるな?」 「聞き分けがなかった……その通りです。でも許して下さいますね?」 「お前と知り合って以来取り組んで来た謎に答えたら、許してやろう」 「聞いて下さい。私の中には二人のロレンツァがいるんです。一人はあなたを愛していて、一人はあなたを憎んでいます。まるで私の中に対立する二人の人間がいるかのように、一人が天国の喜びを満喫しているというのに、一人は地獄の苦しみをこうむっているんです」 「その二つの自分のうち、一つは眠っていて、一つは起きているんだな?」 「はい」 「眠っている時は俺を愛していて、起きている時には憎んでいるのか?」 「はい」 「何故だ?」 「わかりません」 「知っているはずだ」 「知りません」 「探すんだ、お前自身を調べ、魂に潜り込め」 「はい……あっ、わかりました」 「話してみろ」 「ロレンツァは起きている時にはローマ人、迷信深いイタリア娘です。科学とは罪業で愛とは罪だと考えています。だから博識なバルサモを恐れ、ハンサムなジョゼフを恐れています。あなたを愛せば魂を滅ぼすに違いないと懺悔聴聞僧に言われたために、世界の果てまであなたから逃げ続けるつもりなんです」 「では眠っている時は?」 「その時はまったく別の話です。ロレンツァはもはや迷信深いローマ人ではなく、女です。バルサモの心と魂を見つめ、その天賦の心が気高い夢を見ていることを知っています。それと比べれば自分がどれだけちっぽけかがよくわかりました。生きる時も死ぬ時もそばにいたいのです。小さくとも構わないのでロレンツァの名も唱えてもらいたいのです、未来が……カリオストロの名を声高く唱える時には!」 「では、俺はその名で世に知られるのだな?」 「はい、その名で」 「よしロレンツァ! 新しい住まいは気に入りそうか?」 「これまでのどの家より素晴らしいけれど、気に入るのはそんな理由からではありません」 「ではどうすれば気に入るのだ?」 「あなたが一緒に住んでくれれば」 「そうか! 眠っている時には、俺がどれほどお前を情熱的に愛しているかわかるだろう?」  ロレンツァは膝を引き寄せて抱え込んだ。青白い口唇にはかすかに微笑みを浮かべていた。 「ええ、わかります。でも、でも……」と溜息をついた。「ロレンツァよりも愛しているものがあるでしょう」 「何のことだ?」バルサモはびくりとした。 「あなたの夢です」 「俺の天命だ」 「あなたの野望です」 「俺の栄誉だ」 「ああ、神様!」  ロレンツァは心を痛め、閉じた瞼の下からひっそりと涙を流した。 「何が見えたんだ?」恐るべき千里眼には自分自身でもぎょっとすることがあった。 「闇の中を忍び寄る影が見えます。王冠に手を伸ばす人たちがいて、あなたが――あなたがその真ん中に、戦いのさなかの将軍のように。あなたの力はまるで主のようで、誰もがあなたの指示に従っています」 「そうか」満足そうにうなずいた。「それでも俺を誇りに思ってはくれぬのか?」 「たとい偉大ではなくともあなたは立派な方です。それなのに、あなたを取り囲む人々の中を探しても私が見つかりません。もうそこにはいないんです……もうあなたのそばには……」ロレンツァは悲しげに呟いた。 「では何処にいる?」 「私は死んでいます」  バルサモは震えおののいた。 「お前が死ぬ? 馬鹿な、あり得ない。俺たちは愛し合って共に生きるんだ」 「あなたは私を愛してません」 「そんなわけがあるか!」 「心からではないでしょう?」ロレンツァはジョゼフの頭をかき抱いた。「そんなのでは足りません」熱い口唇を額に押しつけ、愛撫を重ねた。 「何が良くないというんだ?」 「あなたは冷たい。どうして後じさるんです? 私が熱烈な口づけを贈っているのに、あなたは逃げているでしょう? ねえ、少女だった頃の平穏を、スビアーコの修道院を、独房の夜を返して下さい! 羽ばたくような風の中でしてくれた口づけを、眠っている間にくれた口づけを、金の翼を持つ妖精のように現れて快楽に心を溶かしてくれたあの口づけを、もう一度与えて下さい」 「ロレンツァ!」 「逃げないで、バルサモ、お願いだから逃げないで下さい。手を握らせて、その目に口づけさせて下さい。私はあなたのものなんです!」 「もちろんだロレンツァ。お前は俺の最愛の女だ」 「私がこうやってあなたのそばで役にも立たずに見捨てられて過ごしていることに我慢がならないんでしょう! 汚れのない一輪の花が香りを放って誘っているというのに、その香りをはねつけるなんて! よくわかってます、あなたにとって何の価値もない人間だということは」 「そんなことはない。俺の力の源はお前なんだ、ロレンツァ。お前なしでは何も出来ない。故郷の女たちのように夜も眠らず狂ったように愛するのはやめてくれ。俺がお前を愛するように愛してくれればいい」 「そんなのは愛ではありません。あなたのやっていることは愛なんかではありません」 「とにかく俺が求めているのはそれだけだ。俺の望みはすべて叶えてくれるし、お前の心を手に入れただけで充分に幸せだからな」 「幸せ?」ロレンツァは憐れむようにたずねた。「それを幸せと言うのですか?」 「ああ、俺にとって幸せとは偉大であることだ」  ロレンツァは深い溜息をついた。 「ロレンツァ、わかってくれ。他人の心を読み取るのは、人が心に抱いている情熱を使って人を掌握するためなんだ!」 「ええ、そのために働いているのはよくわかっています」 「それだけじゃない。お前の目はいまだ開かれざる未来の書物だ。俺が二十年も苦労と貧苦を重ねてもわからなかったことを、無垢で純粋なお前がそうしようと思えば俺に教えてくれることが出来るんだ。これから道の先に敵から幾つ罠を仕掛けられようとも、お前が照らしてくれる。俺の生命も運命も自由も俺の才覚一つ、だから山猫のように瞳を開いて一晩中目を凝らしてくれ。この世の光には目を閉じてくれて構わないが、この世ならざる光明には目を見開いてくれ! 俺のために休まず見張っていて欲しい。俺に自由を、成功を、力を与えてくれるのはお前なんだ」 「そのお返しに不幸をくれるなんて!」ロレンツァは激情に駆られて叫んだ。  これまでからは考えられないほど激しく抱きつかれ、バルサモとしてもひりひりするような輝きに打たれて弱々しく抗うことしか出来なかった。  それでもどうにか抗い、絡まっていた生身の鎖をほどいた。 「ロレンツァ! 頼むから……」 「私はあなたの妻です、娘ではありません! 父としてではなく、妻を愛する夫として愛して下さい」 「ロレンツァ」頼み込むバルサモ自身も震えていた。「お願いだ、俺に出来る以上の愛を望まないでくれ」  ロレンツァは絶望的に両手を天に掲げた。「でもそんなのは愛ではありません、愛ではないんです!」 「いや、それも愛だ……ただし乙女に捧げるような神聖で純粋な愛なんだ」  ロレンツァが編んでいた黒髪をほどいた。白く力強い腕が脅すように伯爵に向かって伸びた。 「どういう意味です?」諦めたような素っ気ない声だった。「国や名前や家族や、神まで捨てさせたのは何故ですか? あなたの神は私の神とは違う。こうして神通力を及ぼして私を奴隷にし、私の命をあなたの命にし、私の血をあなたの血にしたのはどうしてです? 聞いてますか? 私のことを乙女ロレンツァと呼ぶためだったのなら、どうしてこんなことをしたんです?」  傷ついているロレンツァの苦しみに、今度はバルサモが溜息をつく番だった。 「違う。お前は間違っている。それとも間違っているのは神か。神がお前という天使に神眼を与え、俺の世界征服を助けてくれたのは何故だ? ガラス越しに本を読むように、物質的な障壁を破って心を読めるのはどういう訳だ? お前が純粋な天使だからだ! 染み一つないダイヤだからだ。どんなものもお前の心を曇らせることは出来ないからだ。神の作った元素の名において俺が聖霊に祈った時、神は聖母のように汚れのない純粋で喜びに満ちたお前の姿を見て、聖霊を降下させようと思われたのだ。普段であれば、聖霊が羽を休められるような汚れない場所など見つけられないからといって、卑しいものの頭上を素通りしてしまうところだったろう。乙女のままであればお前は千里眼だ、ロレンツァ。人妻になってしまえばただの人でしかない」 「つまり私の愛など二の次なんですね」ロレンツァは美しい両手を怒りで組み締めたため、手が真っ赤に染まった。「夢を追い求めたり、空想を作りあげたりする方が私の愛より大事だと言うのでしょう? あなたから激しい魅力を振りまかれていながら、修道女のように貞節でいろと? ああ、ジョゼフ! 告発します、あなたは罪人です!」 「やめないか。俺だって苦しいんだ。俺の心を読んでくれ、それでもまだ俺がお前を愛していないと言えるか」 「それならどうして自分の気持に逆らうのですか?」 「俺と一緒にお前を玉座に就かせたいからだ」 「その野心で私の愛と同じものをもたらせるでしょうか?」ロレンツァが呟いた。  熱い思いに駆られて、バルサモはロレンツァの胸に頭を預けていた。 「ええそう、わかっています。野心よりも権力よりも希望よりも私のことを愛していることは。あなたは私を愛している、私と同じように!」  バルサモは理性を浸し始めたとろけるような雲を振り払おうとしたが、果たせなかった。 「それほどまでに愛しているのなら、俺を許してくれ」  ロレンツァはもはや耳を貸さず、両腕の鎖はかすがいよりも強く、ダイヤよりも硬かった。 「言われた通りに愛します。妹だろうと妻だろうと、生娘だろうと人妻だろうと。ただ口づけを、それだけを」  バルサモの負けだった。愛によって打ち負かされ、もはや抗う力もないまま、目を輝かせ、胸をぜいぜい言わせ、頭を仰け反らせて、鉄が磁石に引き寄せられるようにロレンツァに引き寄せられていた。  バルサモの口唇がロレンツァの口唇に近づいた!  突如、理性が舞い戻った。  バルサモはとろけるような靄を両腕でかき回した。 「ロレンツァ! 目を覚ませ!」  すると千切ることの出来なかった鎖がほどけ、抱きしめていた腕が緩み、乾いた口唇に広がっていた微笑みが末期の息のように絶ち消えた。閉じていた目は開き、開いていた瞳孔は縮んだ。ロレンツァはぎこちなく腕を震わせ、ぐったりとして、ただし目を覚ました状態で、ソファに倒れ込んだ。  バルサモはそばに坐り、深い溜息をついた。 「夢よさらば、幸福よさらば」と呟いた。 第五十七章 二つの自分――覚醒  ロレンツァの瞳に力が甦り、素早く辺りを一瞥した。  顔をほころばせるような、女の喜びを連想させるものが何一つないことがわかり、やがてバルサモに目が留まった。  バルサモがすぐそばに坐って見つめていた。 「またあなたなの?」ロレンツァは後じさった。  顔には恐怖が浮かんだ。口唇は青ざめ、髪の生え際に汗がしたたった。  バルサモは何も答えない。 「ここは何処?」 「何処から来たかはご存じのはずです、マダム。であれば、何処にいるのか見当をつけるのも容易いことではありませんか」 「そうね、記憶をつついてくれてありがとう。確かに覚えてる。あなたに虐げられ、追いかけられ、主と私の仲立ちとして選んだ王女の腕から引き離されたことを」 「ではその王女が力を尽くしてもあなたを守ることが出来なかったこともご存じでしょうな」 「あなたが何か魔法のような力を使ったからでしょう?」ロレンツァは両手を合わせた。「主よ、お願いです! 悪魔を追い払って下さい!」 「俺の何処が悪魔だと?」バルサモは肩をすくめた。「頼むから、ローマから後生大事に抱え込んで来た幼稚な信仰や、修道院を発ってからいまだに引きずっている馬鹿げた迷信など、いい加減に捨ててくれないか」 「修道院? どうすれば修道院に戻れるの?」ロレンツァは泣き崩れた。 「つまり修道院に未練があるというわけか!」  ロレンツァは窓に駆け寄りカーテンを開くと、イスパニア錠を上げ、花に隠された鉄格子につかみかかった。花は鉄格子の意味を隠蔽していたが、その役割を失わせてはいなかった。 「結局は囚人。どうせなら天国に連れて行って。地獄なんてもう嫌」  ロレンツァは憤然として華奢な拳をカーテンレールに押しつけた。 「少し理性的になってくれれば、花だけで鉄格子のない窓も用意できる」 「アルトタスとかいう吸血鬼と一緒に車輪つきの牢屋に閉じ込められていた時も、理性的ではなかった? 違う、あなたは私を見張ってた。私は囚人だった。何処かに行く時には心が囚われるように囁きかけて、抗えないようにしたくせに! 死ぬほど恐ろしかったあの老人は何処? 何処かその辺にいるんでしょう? 二人とも口を閉じて、地の底から出て来る怪物の声に耳を澄ましましょうよ」 「子供みたいな空想に取り憑かれているようだな。アルトタスは俺の師匠であり、友であり、第二の父である無害な老人だ。あなたに目を向けたことも近づいたこともない。よしんば目を向けたり近づいたりしたところで、あなたに気を留めることなどなく、仕事を続けるのに忙しかったことだろう」 「仕事! いったい何の仕事?」 「生命の霊薬を研究している。天才たちが六千年前から探し求めているものだ」 「あなたは? 何の研究をしているの?」 「俺? 完璧な人間というものを」 「何ですって、この悪魔! 悪魔!」ロレンツァは天を仰いだ。 「そうか」バルサモが立ち上がった。「また発作が起こったようだな」 「発作?」 「ああ、発作だ、ロレンツァ。お前は気づいていないがな。お前の人生は二つの周期に分かれているということだ。一方は優しく穏やかで理性的だが、一方では気違いのようになる」 「下手な言い訳ね、私を閉じ込めているのは気違いだからというわけ?」 「仕方あるまい」 「だったらむごく辛い残忍な仕打ちをすればいい。監禁して殺してくれればいい。偽善者のふりなどしないで、いじめているくせに気を遣っているようなふりなどやめて」 「まあ待ってくれ」バルサモは怒りもせずに、むしろにこやかに笑っていた。「綺麗で便利な部屋に住むのが拷問なのか?」 「何処も彼処も鉄格子で囲まれて、柵また柵で空気もないのに!」 「鉄格子はお前の命のためだ。わかるだろう、ロレンツァ?」 「はっきりとね。あの人は私をなぶり殺すつもり。言ったもの、私の命を気にしてるって。私の命に興味があるって」  バルサモはロレンツァに近づき、親しげに手をつかもうとした。だがロレンツァは身体を触れられた蛇のように逃げ出した。 「触らないで!」 「俺が憎いのか?」 「死刑執行人が憎いかどうか、死刑囚に聞いてみればいいでしょう」 「ロレンツァ、お前から自由を奪っているのは、何も執行人になりたいからじゃない。自由に出入りさせたら、狂気に襲われた時に何をしでかすかわからないじゃないか」 「何をしでかすか? 一日自由にさせてくれたら、すぐにわかるわ」 「ロレンツァ、神の前で選んだ夫を邪険にしないでくれ」 「私があなたを選んだというの? ふざけないで!」 「だがお前は俺の妻だ」 「それこそ悪魔の仕業でしょう?」 「気を確かに持つんだ」バルサモは優しい視線を返した。 「だけど私はローマ人。いつか、いつか復讐してみせる」  バルサモがゆっくりと首を振った。 「そんなことを言って脅さないでくれ」笑みを浮かべて言った。 「脅しじゃない。言った通りに実行します」 「お前はキリスト教徒だろう?」バルサモが不意に威圧的な声を出した。「善をもって悪に報いよという教えは、偽善でしかなかったのか? 信仰に従っているふりをしながら、悪をもって善に報いているではないか?」  ロレンツァはその言葉にしばし衝撃を受けたように見えた。 「敵を世間に訴えるのは復讐ではなく、務めです」 「俺を魔術師や呪術師として訴えるというのであれば教えておこう。俺が侮辱しているのは世間ではない。俺が刃向かっているのは神だ。だがそれなら、神は合図一つで俺を殺せばいい。どうして罰したりせずに、俺のように弱くて過ちに陥るような人間を放っておくのだろうな?」 「主はすべてを許し、目をつぶって、あなたが悔い改めるのを待っているのです」  バルサモは微笑した。 「つまりそれまでは友も恩人も夫も裏切れと神から忠告されたのか」 「夫? ありがたいことに、手を触れられるたびに身体中の血が逆流して身震いが止まらなかった」 「わかっているだろう、出来るだけ触れないようにして来たではないか」 「そうね、あなたは潔癖で。それだけが不幸中の幸いだった。あなたと愛を交わすことに耐えなくてはならなかったらと思うと、ぞっとしていたわ!」 「謎だな、まったくわからない」ロレンツァの言葉に答えたというよりは、自らの問いかけに答えて呟いていた。 「最後にいいかしら。どうして私から自由を奪うの?」 「俺に自由を預けておきながら、どうして後になって自由を取り戻したがるんだ? どうして守ってやっている人間の許から逃げるんだ? お前を愛している人間を袖にして他人に保護を求めようとするのはどうしてだ? 秘密を明かせと脅すわけでもない人間を絶えず脅すのはどうしてなんだ? それもお前のものでもなければお前にとっては何の意味もない秘密ではないか」  ロレンツァはそれには答えなかった。「自由を取り戻すことを強く願っていれば、囚人だって必ず自由になれる。鉄格子なんか役に立たない、車のついた籠が役に立たなかったのと同じこと」 「鉄格子はびくともせんぞ……お前にとっちゃありがたいことにな!」バルサモは怖いほどに落ち着いていた。 「ロレーヌの時のように、主が嵐を起こしてくれる。雷を落として鉄格子を壊してくれる」 「ロレンツァ、そんなことを神に祈るのはやめるんだ、馬鹿な夢を信じるんじゃない。俺は友人として話しているんだ、いいな?」  バルサモの声には怒りがこもり、目には暗い炎がくすぶり、一言一言しっかりと口を開くたびに白く逞しい手が不思議なほど引きつった。刃向かったせいでかっとなっていたロレンツァは我知らず耳を傾けていた。 「いいか、ロレンツァ」バルサモの声はいまだ怖いほど穏やかだった。「俺はこの監獄を女王の住まいにするつもりだった。お前が女王であるのなら、ここにいるのも当然のことだ。心を静めるんだ。修道院で過ごしたようにここで過ごせばいい。俺がいることに慣れてくれ。俺を友人として、兄弟として愛してくれ。俺は深い悲しみを背負っている。恐ろしいほどの落胆も、お前が微笑んでくれれば慰められるんだ。お前が優しく柔らかく我慢強くなったと思えば、部屋の鉄格子も細くしてやる。一年後か、六か月後かはわからぬが、俺と同じく自由になれるんだ。そう考えていれば、俺から自由を盗み取ろうとは思わぬだろう」 「そんなことはありません!」恐ろしい提案が穏やかな声で口にされているのが理解できなかった。「約束を重ねれば重ねるだけ、嘘が増えていくだけ。あなたは私を力ずくで拐かしたのだし、私は私、私だけのものです。私の許に返してくれないというのなら、せめて主の許に返して下さい。これまであなたの横暴に耐えてきたのは、私を辱めようとした山賊たちから救い出してくれたことを忘れなかったからです。でももう感謝の気持も尽き果てました。こんなところに何日も閉じ込められて反抗していれば、そのうち恩義もなくなるでしょうし、あなたが山賊たちと人知れずつながりを持っていたという考えにだんだんと侵されて行くことでしょう」 「俺が山賊の頭だというわけか、出世したものだな」バルサモは皮肉った。 「私にはわからない。でも合図や合言葉をこの目で見たのは確かです」 「合図や合言葉を見ただと?」バルサモが青ざめた。 「ええ、はっきりと見ました、覚えている、忘れはしません」 「だが口に出したりはしないだろうな? 生ける魂に繰り返したりはせずに、記憶の奥底に閉じ込めて、忘れてしまうだろうな?」 「そんなことするもんですか!」ロレンツァはついに相手の泣き所を見つけ、喜びに震えた。「記憶の中にその言葉を大事に取っておくわ! 一人でいる時には心の中で唱え、機会があればはっきり声に出してみせる。それもとっくに実行しているし」 「誰に言ったんだ?」 「王女様に」 「そうか、ロレンツァ、よく聞け」バルサモは椅子に指をついて、興奮を静め、血のたぎりを抑えようとした。「既に人に言っていたとしても、二度と繰り返すことはないぞ。何故なら扉を閉じておくし、鉄柵の先端を研いでおくし、必要があればこの中庭にバベルの塔ほど高い塀を建てるつもりだからだ」 「言ったでしょう。どんな監獄からでも抜け出せるって。自由を愛する気持が暴君を憎む気持を駆り立てる時はなおさらよ」 「では抜け出してみせるがいい、ロレンツァ。だがいいか。抜け出す機会は二度しかないと思え。一度目は、身体中の涙が涸れるまで懲らしめてやる。二度目は、血管中の血が涸れるまで痛めつけてやる」 「人殺し!」ついにロレンツァの怒りが頂点に達し、髪を引きむしり絨毯を転げ回った。  バルサモは怒りと憐れみの入り混じった目つきでそれを眺めていたが、やがて憐れみの気持が勝った。 「ロレンツァ、こっちに来い、落ち着くんだ。いつか苦しみが――いや苦しみだと思っているものがたっぷり報われる日が来る」 「閉じ込められるのは嫌!」ロレンツァはバルサモの言葉に耳を貸さなかった。 「我慢しろ」 「殴られるのは嫌!」 「これは見習い期間だ」 「気違いなんて嫌!」 「いつか治る」 「今すぐ気違い病院に放り込んで! 本当の監獄に閉じ込めて頂戴!」 「それは出来ぬな! 俺に逆らってどうするつもりなのか、前々から口にしていたではないか」 「だったら死ぬわ! 今すぐに!」  獣のように素早くしなやかに立ち上がり、壁に頭を打ちつけようと駆け出した。  だがバルサモは手を伸ばして、何事か口にしただけだった。口唇からというより心の奥からのそのたった一言で、ロレンツァは立ち止まった。駆け出していたロレンツァは急に立ち止まると、ふらりと揺れてバルサモの腕の中で意識を失った。  ロレンツァの肉体を完全に制御した魔術師であったが、精神を統べることは出来ず、腕にロレンツァを抱えて寝台まで運んだ。長い口づけを終えると、寝台のカーテンと窓のカーテンを順に引き、立ち去った。  ロレンツァは穏やかな眠りに包まれていた。痛がって泣きじゃくる子供をあやす母の衣のような、温かい眠りに包まれていた。 第五十八章 訪問  ロレンツァは間違っていなかった。馬車はサン=ドニの市門を抜け、同じ名前の周縁部に沿って進み、門と家の角で曲がると大通りに出た。  馬車の中には透視した通りにストラスブール座司教ルイ・ド・ロアン猊下がいる。気持ちがはやり、約束より早くねぐらにいる魔術師を捕まえようとしていた。  見知らぬ街路の暗闇や、ぬかるみや危険をものともせずに数々の情事に向かう枢機卿に慣れていたため、まだしも人気や明かりのあるサン=ドニやサン=マタンの大通りを過ぎてバスチーユのさびれた暗い大通りに向かわなくてはならなくなっても、御者が物怖じしすることはなかった。  大通りがサン=クロード街と交わるところで馬車を停め、指示通りにしばらく先の木陰に隠しておくことにした。  平服姿のド・ロアン枢機卿はサン=クロード街に足を踏み入れ、扉を三度叩こうと邸に向かった。フェニックス伯爵の説明通りなのですぐにわかった。  フリッツの足音が中庭に響いて、扉が開いた。 「こちらはフェニックス伯爵のお住まいかな?」 「はい、閣下」とフリッツが答えた。 「ご在宅か?」 「はい、閣下」 「では取り次いでくれ」 「ド・ロアン枢機卿猊下、でございますね?」  枢機卿は愕然とした。身体を見回し周りを探し、衣服や付き人から身許が割れたのではないか確かめた。だが一人きりだったし、僧服は着用していない。 「なぜ名前を?」 「先ほど主人から、猊下をお待ちしているとお聞きしたばかりでございます」 「いや、だが明日か明後日では?」 「いいえ、猊下、今晩でございます」 「今晩私を待っていると?」 「はい、猊下」 「そうか、では取り次いでくれ」枢機卿はフリッツの手に大型《デュブル》ルイ金貨を握らせた。 「では、こちらにおいで下さい」  枢機卿は同意の印に首を振った。  フリッツが玄関ホールの扉までいそいそと歩みを進めた。青銅の大燭台の先で十二本の蝋燭が燃えている。  枢機卿が茫然として夢見心地で後を追った。 「待ってくれ」応接室の戸口で枢機卿は立ち止まった。「どうやら手違いがあったようだ。だとすると伯爵を患わしたくはない。私の来ることを知らないのに、待っている訳がないからね」 「ストラスブール座司教ド・ロアン枢機卿猊下で間違いございませんね?」フリッツがたずねた。 「そう、私だ」 「でしたら、伯爵がお待ちしているのは確かに猊下でございます」  残り二台の燭台の蝋燭に次々と火をつけると、フリッツは一礼して立ち去った。  枢機卿が妙な気持に囚われて応接室の見事な家具の数々や壁に掛けられた巨匠の絵画八幅を見ているうちに、五分が経過した。  扉が開き、ド・フェニックス伯爵が戸口に現れた。 「ようこそ、猊下」とだけ言った。 「私を待っていたということでしたが」枢機卿はこの挨拶には答えずにたずねた。「今晩私を待っていたそうですね? そんな訳がない」 「失礼ですが猊下、お待ちしておりました。猊下をお迎えするには相応しくないこんな有り様を見て私の言葉をお疑いなのでしょうが、ほんの数日前にパリに着いて居を構えたばかりなので。なにとぞご容赦願えますか」 「待っていた? 私が来ることを誰かから聞いていたのですか?」 「あなたご自身からです、猊下」 「どうやって?」 「サン=ドニ市門で馬車をお停めになりませんでしたか?」 「確かに停めたが」 「指示を伝えるために、従僕を馬車の戸口まで呼びませんでしたか」 「そうだ」 「こう仰ったのではありませんか? 『マレー地区のサン=クロード街まで、フォーブール・サン=ドニと大通り沿いに』。それを聞いた従僕は御者に向かって繰り返しました」 「間違いない。しかし、それを見ていたのですか? 聞いていたのでしょうか?」 「見ておりましたし、聞いておりました」 「ではあそこにいたのか」 「いいえ、猊下、あそこにはおりませんでした」 「では何処に?」 「ここにおりました」 「ここにいながら見たり聞いたりしたというのですか?」 「はい、猊下」 「いやはや!」 「私が魔術師だということをお忘れです」 「ああ、そうだった。忘れていた……あなたのことは何とお呼びすべきでしょうか? バルサモ男爵? それともフェニックス伯爵?」 「家の中では名前はありません。マスターと名乗っております」 「錬金術師の肩書きですね。ではマスター、私を待っていたのですか?」 「待っておりました」 「実験室に火を熾して?」 「実験室には常に火を熾しております、猊下」 「伺っても構いませんか?」 「猊下をご案内する喜びに勝るものはありません」 「では伺いましょう。ただし一つ条件があります」 「何でしょうか?」 「お願いだから悪魔に引き合わせるのはやめて欲しい。ルシファー陛下が恐ろしいのだ」 「猊下!」 「こういう場合、悪魔に雇うのは除名されたごろつき近衛兵や軍隊の剣術指南で、サタンの役をありのままに演じるために、蝋燭を消した後で人の鼻をつまんだりはじいたりするのだろう」 「猊下」とバルサモは微笑んだ。「私のところの悪魔は、貴人の方々とお近づきになれる名誉をゆめゆめおろそかにいたしませんし、口を閉じていなければ鞘を払う、さすればここから出てゆくかもっと賢く振る舞うかせざるを得ぬだろうというコンデ公のお言葉を覚えております」 「そうか、それで安心した。実験室に伺いましょう」 「ついてきていただけますか?」 「行きましょう」 第五十九章 黄金  ド・ロアン枢機卿とバルサモは大階段に平行して走る小階段を通り抜け、二階の応接間に向かった。円天井の下でバルサモが扉を開くと薄暗い廊下が現れ、枢機卿は心を決めて足を踏み入れた。  バルサモが扉を閉じた。  扉が再び閉まる音に、枢機卿は期待を込めて振り返った。 「猊下、到着いたしました」とバルサモが言った。「これが最後の扉です。もはや我々に残されているのは、これを前で開けるか、後ろで閉めるかしかありません。ただし奇妙な音を立てても驚かれなきよう。鉄で出来ておりますので」  枢機卿は最初の扉の立てる音にぎくりとしていたので、予め教えてくれたことに感謝した。この蝶番や錠前の軋りを聞けば、枢機卿ほど繊細ではない神経の持ち主であっても不愉快に身を震わせたであろう。  枢機卿は三歩進んで部屋に入った。  天井に梁が剥き出しになった大きな仕事部屋に、巨大な明かりとシェード、幾多の本、化学と物理の器具が無数にある。これがこの新しい住まいの第一印象であった。  枢機卿はしばらくすると苦しげに息をしていた。 「どういうことでしょうか? ここは息が詰まりそうだ、マスター。汗が止まりません。あれは何の音です?」 「シェイクスピアなら『これが原因だ』と言うでしょうな」バルサモは石綿のカーテンを引き、煉瓦の窯を見せた。その中央には、闇に潜む獅子の目のように二つの穴が輝いていた。  窯が設えてあるのは二つ目の部屋の中央だった。初めの部屋の二倍はある。それまでは石綿のカーテンに遮られて見えなかったのだ。 「ううむ!」枢機卿は後じさった。「何やら恐ろしく思われますが」 「ただの窯です、猊下」 「そうなのでしょうな。しかしシェイクスピアを引いたあなたに倣って、私はモリエールを引くことにいたしましょう。窯また窯。ここはひどい空気ですね。この匂いには我慢なりません。いったい何を焼いているのです?」 「猊下がお求めになったものです」 「というと?」 「猊下は私の技術の一端を受け入れて下さったものだと思っております。私は明日の晩まで仕事に取りかかる予定はありませんでした。明後日にならないとお越しにならないはずでしたから。しかしお考えを改めてサン=クロード街にいらっしゃると知り、窯に火を入れ薬剤を調合いたしました。ですから窯がたぎれば、十分後には黄金を手にしていらっしゃいます。換気窓を開けても構いませんか、空気を送りたいので」 「では、この窯にかけてある坩堝は……?」 「十分経てばヴェネツィアのゼッキーノ金貨やトスカーナのフローリン金貨よりも純度の高い黄金が手に入ります」 「驚いた! しかしながら、見ることは出来ないのですか?」 「出来ないことはありませんが、然るべき準備が必要です」 「どうするのです?」 「目のところにガラスの嵌った石綿の仮面をおつけ下さい。これがなければ激しい火で目が焼けてしまいます」 「そうか、気をつけよう。自分の目が可愛いからね。約束の十万エキュと引き替えにするつもりはない」 「仰せの通りです、猊下。素晴らしい目をお持ちでらっしゃる」  自分の長所にこだわりのある枢機卿は、お世辞を聞いて悪い気はしなかった。 「ではこれから黄金が見られるのだな」と言って仮面をつけた。 「そのはずです」 「十万エキュ分の?」 「二百リーヴル、百マルク、間違いありません、猊下。恐らくもう少しあるはずですが。多めに調合いたしましたので」 「魔術師殿は本当に気前がいい」枢機卿は喜びに胸を高鳴らせた。 「猊下ほどではございません。もったいないお言葉です。では猊下、坩堝の蓋を開きますので、少し離れていただけますか」  バルサモは短めの石綿を身につけ、逞しい腕で火ばさみをつかみ、真っ赤に焼けた蓋を持ち上げた。似たような形をした四つの坩堝の中身が露わにされると、二つには朱のように赤い混合物が、残り二つには白く変じてはいるがうっすらと赤みの残った物質が入っていた。 「ではこれが金なのか!」大声を出してしまうと目の前で成し遂げられつつある奇蹟をぶち壊してしまうのではないか――それを恐れているかのような囁き声だった。 「そうです、猊下。この四つの坩堝は時間ごとに差をつけてあり、こちらは十二時間煮込み、こちらは十一時間煮込んであります。調合剤は――この秘密は科学上の友人だから打ち明けるのですが――沸騰する瞬間まで混ぜてはいけません。ご覧いただけるように、この白くなっているのが最初の坩堝です。ちょうど材料を移し替える時間です。下がっていただけますか、猊下」  枢機卿の行動は、隊長の命令に従う兵士のように素早かった。バルサモは坩堝を挟んだせいで熱くなっていた火ばさみを捨て、車輪つきの鉄床のようなものを窯に近づけた。そこには同じ大きさをした鉄製の筒型鋳型が八つ嵌められていた。 「魔術師殿、これは?」 「これはあなたの金塊を注ぎ込むための鋳型です」 「それはそれは!」  枢機卿の目がひときわ大きくなった。  バルサモは防災のために床に白い麻くずをまいた。鉄床と窯の間に身体を置くと、大きな本を開き、杖を握って呪文を唱え、坩堝を挟むために曲がった鋏のついた巨大なやっとこを握った。 「一級品の金になりそうです、猊下」 「そうですか! その坩堝を運ぶおつもりですか?」 「五十リーヴルありますが、なに鋳造工の中にも私ほど力と技を持った人間はめったにおりません。心配なさいませぬよう」 「しかし、もし坩堝が割れたら……」 「そういうこともありました。あれは一三九九年、ニコラ・フラメルと実験をしていた時のことでした。サン=ジャック=ラ=ブシェリ教会にほど近い、エクリヴァン街の家でのことです。フラメルはそこで命を落としかけ、私は金より貴重な物質を二十七マルク失いました」 「何を仰っているのですか、マスター?」 「真実をです」 「一三九九年に、賢者の石を生成しようとしていたのですか?」 「そうです」 「ニコラ・フラメルと?」 「ニコラ・フラメルと。その五、六十年前、ポーラ村でペトルス・ボヌスと作業している際に、同時に秘密を見つけ出したのです。坩堝の蓋がしばらく開けっ放しになっていたために、蒸気にやられて私の右目は十年ほど見えなくなりました」 「ペトルス・ボヌス?」 「あの『新しき價たかき眞珠(Margarita pretiosa)』の作者です。ご存じではありませんか」 「知っている。一三三〇年に刊行されたはずだ」 「間違いございません」 「ペトルス・ボヌスやフラメルと知り合いだったというのですか?」 「ペトルス・ボヌスの生徒であり、フラメルの師匠でした」  もしや悪魔の化身ではないのか、隣にいるのは悪魔の手先ではないのかと、怯えた枢機卿が考え込んでいる間に、バルサモは長いはさみのついたやっとこを燃えさかる火の中に突っ込んだ。  素早く確かな手際だった。坩堝の先端から四プス下を挟んで数プスだけ持ち上げ、しっかり挟み込んでいるのを確かめた。力の限り筋肉を強張らせ、燃えさかる窯から恐ろしい坩堝を取り出した。すぐにやっとこのはさみが真っ赤になる。赤く焼けた粘土の表面に、おぞましい雲間を貫く稲光のように、白い溝が走っているのが見える。坩堝の縁が赤銅色に変じ、窯の薄闇の中からまだ赤く光っている円錐の底が姿を見せた。そしてついに、どろりとした紫の液体が浮かび、金色の襞がうねる薄闇から、金属が流れ出た。坩堝の樋からしゅうしゅうと音を立て、坩堝の黒い鋳型に煮えたぎってほとばしると、その先に金の塊が現れた。まるで不純物が存在していたことに身体を震わせて怒り狂っているようだった。 「二つ目です」バルサモは二つ目の鋳型に移った。  二つ目になっても力も技も衰えなかった。  バルサモの額に汗が滴る。枢機卿は暗がりで十字を切った。  それは確かに野性的で荘厳な恐怖を描いた一幅の絵だった。金属の放つ狂えるような反射に照らされたバルサモは、ミケランジェロやダンテが地獄の窯に突き落とした罪人たちのように見えた。  そこには名づけ得ぬ高ぶりがあった。  この間、バルサモは息もつかずに時間だけが進んでゆく。 「少し無駄になりそうです」二つ目の鋳型を満たしたバルサモはそう評した。「火にかけるのが百分の一分長過ぎました」 「百分の一分!」枢機卿は愕然とした様子を隠そうともしなかった。 「錬金術に於いては馬鹿にならない時間です」バルサモはあっけらかんと答えた。「しかしともかく猊下、坩堝は二つ空になり、鋳型は二つ埋まり、これで純金百リーヴルになります」  一つ目の鋳型をやっとこでつかみ、水に沈めると、水は長いこと渦を巻いて湯気を立てていた。やがて中から、両端の潰れた三角砂糖のような形をした、純金の塊が引き出された。 「残りの坩堝二つは後一時間ほど待たねばなりません。その間、お坐りになりますか、それとも外の空気をお吸いになりますか?」 「それは金の塊なのでしょうね?」枢機卿はバルサモの問いかけを聞いていなかった。  バルサモは笑みを浮かべた。枢機卿のことはすっかり掌中に収めていた。 「もしやお疑いですか?」 「それはつまり、科学には何度も欺かれて来たので……」 「すべて打ち明けて下さらなくとも結構。騙されているのではないか、初めから騙りが目的だったのではないかとお思いですね。騙すつもりなら私の目論見など何の価値もないでしょう。私が何を狙っているにせよこの部屋から出ることもならず、最寄りの金箔工のところに行かれれば驚いているあなたにも落胆されるのがわかっていながら見送ることになるのですから。さあ、どうか恥をかかせないで下さい。騙す気があればもっと上手くやりますし、もっと上を狙います。それに猊下は金の確かめ方をご存じですか?」 「試金石ですね」 「ご自身で確かめたこともおありでしょう? イスパニアの金貨は金の純度が高いため賭けには重宝されていますが、贋物も多く出回っておりますから」 「確かにその通りだ」 「では猊下、ここに石と酸がございます」 「いや、もう納得しました」 「どうか確信していただきたいのです。これが金であるばかりでなく、混じりけなしの純金であることがおわかりいただけるはずです」  疑いを表に出すのは嫌だったが、しかし納得していないことは明らかだった。  バルサモ自ら試金し、その結果を枢機卿に伝えた。 「二十八カラット。残りの坩堝を出しましょう」  十分後、二百リーヴルの金が四つの金塊となって、熱の伝わった麻屑の上に広げられていた。 「確か四輪馬車でいらっしゃいましたね? 私が見たのは四輪馬車でしたが」 「そうだ」 「では馬車を戸口まで寄こして下さい。従僕が馬車まで金塊をお運びいたします」 「十万エキュか!」枢機卿は仮面を外して呟いた。足許に並んだ金塊をじかに確かめるつもりにも見えた。 「これで猊下はこの金が何処から現れたかお話しすることが出来ますな? ご覧になったのですから」 「そう、そうだ。証言できますよ」 「その必要はありません」バルサモは急いで答えた。「フランスでは科学者は煙たがられますので。どうか一言も洩らしませぬように。生み出したのが金ではなく理論でしたら、何も申さぬのですが」 「何か私に出来ることは?」華奢な腕で五十リーヴルの金塊を何とか持ち上げた。  バルサモは枢機卿をじっと見つめ、何も答えずに笑い出した。 「おかしなことなど言いましたか?」枢機卿がたずねた。 「お力を貸していただけるというわけですな?」 「まあそうだが」 「貸した力を返して下さるにはちと都合が良過ぎませぬか?」  枢機卿の顔が曇った。 「恩を着せるおつもりですか。私としては謝意を尽くすつもりでおりますが、気持以上に気持を見せなくてはならないとわかっておれば、力を借りたりはしなかったものを。パリには高利貸しなど山とおります。抵当で半分、もう半分は私の署名があれば、二日後には十万エキュ用意できましょう。この司教の指輪だけで四万リーヴルは下るまいに」  枢機卿が女のように白い手を差し出すと、薬指には榛の実ほどもあるダイヤモンドが輝いていた。  バルサモは深々と腰を折った。「猊下、私に侮辱する気があったなどとはよもや思われないでしょうな?」  それから独り言つように呟いた。 「おかしな話だが、大公という人間は、真実を知るといつもこうなる」 「どういうことです?」 「ああ! いや、お力を貸して下さると仰いましたな! おたずねいたします、猊下が貸して下さるお力とはどのような性質のものでしょうか?」 「まずは宮廷の信用です」 「猊下、猊下。信用が儚いものであることは猊下ご自身が百も承知ではありませんか。ショワズール閣下の信用もいただきたかったものですが、閣下は後二週間もすれば大臣をお辞めになるでしょう……信用でしたら、私を信用していただけませんか。この良質の金をご覧下さい。必要な時には昼夜を問わずお申しつけ下されば、ご依頼にお応えいたしましょう。金があれば、すべて手に入るのではありませんか?」 「いや、すべてではない」枢機卿は呟いたが、もはや庇護者の立場に立ち返ろうとはせず、庇護される立場に甘んじていた。 「そうでした! 忘れていましたが、猊下には金のほかにも欲しいものがございましたな。世界中のどんな財宝よりも貴重な宝物が。ですがそれはもはや科学ではなく、魔術の領分です。猊下、一言仰って下されば、錬金術師はいつでも魔術師になる用意は出来ておりますぞ」 「ありがたいが、もう欲しいものはありません。何も望みません」枢機卿は悲しげに答えた。  バルサモが歩み寄った。 「猊下、若く情熱的で美しく豊かな、ロアンという家名を持っているお方が、魔術師に向かってそのようなお返事をなさるはずがありません」 「何を根拠にそのようなことを?」 「魔術師は心を読むことが出来ます。本当はその逆ですね?」 「望みは何もないし、何も欲しません」枢機卿は怯えるように答えた。 「私には正反対に思われますな。猊下ご自身が認めようとなさらないのは、それが国王としての望みだとわかっているからではありませんか」  枢機卿は怯えきっていた。「王女殿下のところでも似たような当てこすりを仰っていましたね」 「仰せの通りです、猊下」 「でしたらあなたは間違っていたし、今もまた間違っている」 「お忘れですか? 猊下が今考えていることが私にはわかるし、サン=ドニの修道女会から馬車を出したことも、市門を越え、大通りを通り、この家から五十パッススほど離れた木陰に馬車を停めたことも、私ははっきりと見ているのですぞ」 「では説明して欲しい。あなたは何を責めているのだ?」 「猊下、あなたの一族には大きく危険な愛がつきものでした。流れを断ってはなりません。これは定めなのです」 「何を仰っているのかわかりません」枢機卿はもごもごと答えた。 「いやいや、わかっているはずです。その揺れる琴線に触れることも出来るくらいです。なぜ無駄なことを? 私はこれまで、戦わなくてはならないものには真っ向勝負を挑んで来ました。あなたの琴線は激しく揺れている、間違いありません」  枢機卿は顔を上げた。自信に満ちたバルサモの澄んだ目を確かめたのは、最後のあがきだった。  勝ち誇ったように笑っているバルサモを見て、枢機卿は目を伏せた。 「そうです猊下、私から目を逸らすのは賢明な行動です。私にはあなたの心がはっきりと見通せるのですからな。あなたの心はものの形をそのまま映し取る鏡のようなものなのですから」 「お静かに、フェニックス伯爵。どうか口を閉じて下さい」枢機卿はすっかり毒気を抜かれていた。 「そう、仰る通りですな、静かにしましょう。まだそのような愛を大っぴらにする時機ではありません」 「まだ、ですか?」 「まだ、です」 「ではこの愛はやがて――?」 「いけませんか?」 「では教えていただけるのですか? 私が信じて来たように、そして今も信じているように、さらには正反対の兆しが現れるまでこれからも信じてゆくように、この愛が常軌を逸しているわけではないとしたら――」 「そんなにおたずねなさいますな、猊下。猊下の思っていらっしゃる方に触れるか、その方の持っている物に触れないと、私としても何も申し上げることが出来ません」 「何が必要なのです?」 「例えばその方の金の巻き毛、どれだけ小さくとも構いません」 「確かに凄い人だ! 仰る通り、本を読むように心を読むのですね」 「ほう! 大叔父でいらっしゃるルイ・ド・ロアン殿も同じことを仰いましたよ。バスチーユの段上でお別れをした時のことです。死刑台を勇敢に上って行かれました」 「言ったとはつまり……あなたは凄い人だと?」 「それに、私が心を読むと。プレオー殿の裏切りを予言したのですが、信じようとなさらず、結局裏切られてしまいました」 「それが私とどのような関係が?」枢機卿は我知らず青ざめていた。 「常に慎重たれ、ということを忘れぬためです、猊下。髪を手に入れるためには王冠の下に鋏を入れねばならぬのですから」 「何処にあろうと手に入れてみせましょう」 「結構です。差し当たってはこちらの金をどうぞ、猊下。もはや本物かどうかお疑いではありますまいね」 「羽根ペンと紙をいただけますか」 「何のためです?」 「ご親切にも貸して下さる十万エキュの受け取りを書くためです」 「馬鹿な! 受け取りですか、何のために?」 「よいですか、伯爵。私はよく借金をしますが、ただでもらったりは絶対にしないのですよ」 「ではご随意に」  枢機卿は卓上の羽根ペンを取り、大きく読みにくい字体で受け取りを書いた。その綴りは今日であれば聖具係の家政婦を困らせたことだろう。 「よいですか?」と言ってバルサモに差し出した。 「結構です」バルサモは受け取りに目を通しもせずにポケットに仕舞った。 「確認しないのですか?」 「猊下のお言葉があります。ロアン家の言葉より信頼できる担保がございましょうか」 「フェニックス伯爵」身分に見合った軽い会釈をすると、「あなたは素晴らしい方だ。たといあなたに借りがなくとも、是非ともご一緒したいものです」  今度はバルサモが一礼し、ベルを鳴らすと、それを聞いてフリッツが現れた。  伯爵はフリッツにドイツ語で指示を与えた。  フリッツは屈み込むと、八個のオレンジを運ぶ子供のように、多少まごつきながらもよたよたしたりぐずぐずしたりせずに、麻屑に並べられた八つの金塊を運び去った。 「たいしたヘラクレスだ!」と枢機卿が口にした。 「確かに大力の持ち主ですが、猊下、あれは私のところで働くようになってから、研究仲間のアルトタスが作り上げた霊薬を毎朝欠かさず三滴飲ませているのです。今はその効果が現れ始めたところですから、一年後には、片手で百マルク(約25kg)は持ち上げられます」 「凄い! 信じられぬ! 何もかも話してしまいたい誘惑に勝てそうもない」 「どうぞお話し下さい、猊下」バルサモは笑い出した。「ただしお忘れなきよう。私がグレーヴ広場で高等法院に火あぶりされそうになった時には、猊下自ら火を消しに来てくれるお約束ですぞ」  バルサモは高名の訪問者を正門まで送り、恭しくいとまを告げた。 「従僕のフリッツ殿が見えないが?」 「馬車まで金を運ばせております」 「何処に停めてあるか知らぬのでは?」 「大通りを曲がって右から四番目の木の下です。それをドイツ語で伝えておきました」  枢機卿は天を仰ぎ、暗闇に姿を消した。  バルサモはフリッツが戻るのを待ってから、扉をすべて閉めて家に戻った。 第六十章 生命の霊薬  一人残されたバルサモは、ロレンツァの部屋まで様子を窺いに行った。  ロレンツァは変わらず穏やかに眠っている。  バルサモは廊下側の小窓を開けて、うっとりしながらしばらくロレンツァに見とれていた。やがて小窓を元に戻すと、既にお伝えしたようにロレンツァの部屋と実験室を隔てている部屋を通って、窯の火を消しに急いだ。熱を煙突に逃がしている巨大な導管を開放し、バルコニーにある貯水槽の水を流した。  それから黒いモロッコ側の紙入れに、枢機卿の受け取りを大切に仕舞い込んだ。 「ロアン家の言葉とは素晴らしいが、これは俺がいただいておこう。同胞たちには金を何に使っているのか知ってもらった方がいい」  その言葉が終わらぬうちに、天井から乾いた音が三度聞こえ、バルサモは頭上を仰いだ。 「おや、アルトタスが呼んでいる」  実験室に空気を入れて、すべてを元通りに直していると、さらに強い合図が聞こえた。 「苛立っているな。いい兆しだ」  今度はバルサモが長い鉄棒を叩いて合図を送った。  それから壁の鉄輪を外してバネをゆるめると、天井から落とし戸が外れて実験室の床まで降りてきた。バルサモはからくりの真ん中に立ち、別のバネを操作してゆっくりと上っていった。オペラの装置が神や女神を運び去るように、いとも容易くバルサモの身体も運び去られ、やがて門徒は師匠の部屋にたどり着いていた。  老学者の住むこの新居は、高さ八、九ピエ、直径十六ピエはあろうか。井戸のように上からの光で照らされ、四面はしっかりと塞がれていた。  おわかりいただけるだろうが、車内の住居と比べればこの部屋も宮殿だ。  老人は車椅子に坐り、蹄鉄状の大理石製机の真ん中で、あらゆるものに囲まれていた。言いかえるならばごちゃ混ぜになった植物、ガラス壜、工具、書物、器具、不可思議な文字の記された紙の山に囲まれていた。  作業に気を取られるあまり、バルサモが現れても顔を上げようとはしない。  ガラス窓の天辺に結わえられたアストラル・ランプが、禿げた頭頂部に光を落としてぴかぴかと光っていた。  指の間で白いガラス壜を何度も確かめ、透明かどうかを確認していた。その様子はさながら市場に行った主婦が買った卵を光にかざして確かめているかのようだった。  バルサモは無言でそれを見つめていたが、すぐに声をかけた。 「何かありましたか?」 「おおアシャラ! 儂が喜んどるのがわからんか。見つけたぞ、ついに見つけたぞ……!」 「何をです?」 「探し求めていたものをじゃよ!」 「金でしょうか?」 「ああ……確かに金もそうじゃな! ではほかには!」 「ダイヤモンドでしょうか?」 「おかしなことばかり言うて。金にダイヤは確かに素晴らしい発見だが、もっと嬉しいものがあるじゃろうて。儂は誓ってそれを見つけたのだぞ!」 「では、あなたが見つけたのは、霊薬《エリクサー》なのですか?」 「まさしく霊薬。いわば生命! 永遠の生命じゃ」  バルサモは悲しげに呻いた。これまで散々そんな気違いじみた研究を目の当たりにしてきたのだ。「まだそんな夢みたいなことを考えているのですか?」  だがアルトタスは聞く耳持たず、ガラス壜を愛おしそうに眺めまわしている。 「ついに処方が見つかったのだぞ。アリスタイオスの霊薬を二十グラム、水銀の香草を十五グラム、金の沈殿物を十五グラム、レバノン杉のエキスを二十五グラム」 「アリスタイオスの霊薬のほかは、以前と変わらないようですが?」 「うむ、だが大事なものが欠けておった。ほかの材料と結びつけるもの、それなくしてはほかの材料もないようなものじゃ」 「ではそれを見つけたのですね?」 「見つけた」 「手に入れることは?」 「愚問じゃ!」 「それはいったい?」 「壜の中で混ぜ合わされた材料に加えて、最後に三滴、未成年の生血が要るのだ」  バルサモはぞっとして震えた。「何処で手にいれるつもりなのです?」 「そちが見つけてくれる」 「俺が?」 「そちじゃ」 「馬鹿を言わないで下さい、先生」 「何故じゃ?」老人は平然としたままたずねた。栓がゆるいせいで壜の表面に垂れていた水滴を愛おしそうに舌でなめ回している。「言うてみろ?」 「生血を三滴手に入れるために子供を手に入れろというのですか?」 「うむ」 「ですがそのためには子供を殺さねばなりませんが?」 「うむ、殺さねばなるまいな。美しければ美しいほどよい」 「あり得ない」バルサモは肩をすくめた。「殺すために子供を手に入れる人などいません」 「ほう?」老人はむごいほどけろりとしていた。「では何のために手に入れるのだ?」 「育てるためです」 「これは驚いた! では世界は変わったのか? 三年前は火薬四包と酒半壜と引き替えに、好きなだけ子供を連れて来てくれたではないか」 「それはコンゴの話です」 「確かにコンゴじゃったな。黒かろうと構わんよ。連れて来られたのは確か、愛くるしくて縮れ毛でやんちゃな子供らだった」 「お見事です! ですが残念ながら、ここはコンゴではありません」 「コンゴではない? すると儂らは何処にいるのだ?」 「パリです」 「パリか。ではマルセイユで乗船すれば、六週間でコンゴまで行けるな」 「それは行けるでしょうが、我々はフランスから離れるわけにはいきません」 「フランスから離れるわけにはいかぬだと! 何故じゃ?」 「やることがあるからです」 「そちがフランスで何かやると申すのか?」 「ええ、しかも大事なことです」  アルトタス老人は長々と悲痛な笑い声を立てた。 「フランスでやることがある、か。そうじゃな、忘れておった。そちは結社を組織しておったのだったな?」 「はい、先生」 「陰謀を企んでおったな?」 「はい、先生」 「それがそちの言う『やること』か」  老人はまたも狂ったように嘲るように笑い出した。  バルサモは来たるべき嵐に対して力を積み上げておきながら、それが近づくのを感じても沈黙を守っていた。 「それで何処まで進んでおる? 言うてみい!」老人は苦労して椅子の上で身体をひねり、灰色の目を生徒に向けた。  光のような視線に射抜かれたのをバルサモは感じた。 「何処までと仰るのですか?」 「そうじゃ」 「初めの一石を投じて、水を濁らせました」 「どの泥をかきまぜよった?」 「最善を。哲学の泥です」 「ほ、ほう! どうやらそちの理想郷、空虚な夢、蒙霧を危険にさらすつもりらしいの。儂のように神々そのものを作ろうとはせんで、神が存在するかしないかを議論しておるうつけどもか。いったいどの哲学者とつるんでおる? どうじゃ」 「この時代には既にもっとも偉大な詩人にしてもっとも偉大な無神論者がおいでです。近いうちに、半ば亡命していた場所からフランスに戻って来るはずです。ポ=ド=フェール街のイエズス会の古い修道院に支部《ロッジ》を用意しておきましたから、そこで会員《メーソン》になってもらおうと思っています」 「そやつの名は?」 「ヴォルテール」 「知らんな。ほかには?」 「社会思想の偉大な先導者、『社会契約論』の著者と近いうちに会う手筈になっています」 「名は?」 「ルソー」 「知らぬ」 「先生はアルフォンソ十世、ライモンドゥス・ルルス、ピエール・ド・トレド、大アルベルトゥスしか知らないのでしょう」 「彼らこそ生をまっとうしたと言える唯一無二の者たちじゃぞ。大いなる謎が存在するかしないかを突き止めることにその生涯を捧げた者たちじゃ」 「生き方には二通りあるのです、先生」 「一つしか知らぬな。存在すること。じゃが哲学者の話に戻ろう。何という名であったかな?」 「ヴォルテール、ルソー」 「よし、覚えておこう。して、この二人がいればどうなると……?」 「現在を掌握し、未来を覆します」 「ほ、ほう! この国にいるのはうつけどもか? 思想に導かれるとはの」 「むしろ聡明だからこそ、思想によってさらなる感化を受けているのです。それに、哲学者より強力な力添えも揃っています」 「ほう?」 「倦怠です……フランスに君主制が栄えて千六百年。国民は君主制に飽いています」 「じゃから君主制を覆そうというのか?」 「まさしく」 「信じておるのか?」 「出来るはずです」 「そちが煽っておる訳か」 「全力で」 「馬鹿者が!」 「何故です?」 「君主制を転覆させる見返りは何じゃ?」 「俺には何もありませんが、全人類には幸福が」 「よかろう、儂は今日は機嫌がいい。喜んでそちに付き合ってやろう。まず説明してみよ。如何にして幸福を達成するのだ? それから幸福とは何じゃ?」 「如何に達成するか、ですか?」 「うむ。万人の幸福、あるいは君主制の転覆。いずれにしてもそちには同じことらしいが。言うてみよ」 「いいでしょう! 今の内閣が君主制にとっては最後の砦です。頭も回り腕も立ち、おまけに勇敢だ。ガタの来た君主制を後二十年は延命させられるでしょう。それを倒すには助けが要ります」 「誰の助けだ? 哲学者どもか?」 「違います。哲学者はむしろ支える側です」 「何ッ! 哲学者どもは君主制を支える内閣を支えておるのか? 君主制の敵ではなかったのか? まったく、哲学者どもときたら馬鹿にもほどがあるぞ!」 「大臣自身が哲学者なのです」 「ああ、そういうことか。その大臣の人格に潜り込んで支配しておるのだな。儂は間違っておった。馬鹿ではなく、利己主義者どもだ」 「哲学者の正体はこの際どうでもいいでしょう」バルサモは焦れ始めていた。「俺にはわかりません。わかっているのは、この内閣を辞めさせれば、次の内閣にはひどい糾弾が待っているということです」 「ふむ!」 「内閣はまずは哲学者と、次に高等法院と対立するでしょう。哲学者が声をあげ、高等法院が声をあげれば、内閣は哲学者を迫害し、高等法院を停止するに違いありません。そうすれば精神と物質は密かに手を結び、頑固で粘り強く抵抗を組織し、すべてを攻撃し、絶えず穴を掘り、爆薬を仕掛け、揺さぶりをかけることになるはずです。やがて高等法院に代わって裁判官が任命されるでしょうが、王権によって任命されたこの裁判官は、王権のためにあらゆる便宜を図ることでしょう。そうすれば道義に基づき、汚職、横領、不正に対して非難の声があがるに違いありません。国民が立ち上がれば、ついに王権は、智的階級である哲学者、有産階級《ブルジョワ》である高等法院、庶民階級である国民から、反抗されたことになります。それはいわばアルキメデスが探していた梃子のようなもの、世界を動かす梃子なのです」 「立ち上がらせたものはいずれまた元に戻さねばなるまい」 「ええ。ですが元に戻す頃には王権もばらばらになっているでしょう」 「王権がばらばらにされた暁には、そちの馬鹿げた空想や大げさな言葉も喜んで受け入れよう。ばらばらにされて穴だらけになった王権の残骸からは、いったい何が出て来るのだ?」 「自由が」 「ほう! ではフランス人は自由を手に入れるのか?」 「いつの日にか必ずやそうなるでしょう」 「誰もが自由に?」 「誰もが、です」 「するとフランスに三千万の自由な人間が暮らすことになるのか?」 「はい」 「その三千万人の中には、他人よりも頭のいい人間はおらんようじゃな。自分一人の自由を増やすために、ある朝ひょいと二千九百九十九万九千九百九十九人の自由を奪うような輩はおらぬのか? メディナで飼っていた犬のことを思い出すがいい。ほかの奴らの餌を独り占めしておったであろうが」 「わかっています。ですがある日、ほかの犬たちが協力して成敗したではありませんか」 「あれは犬じゃったからだ。人間もそうなるとは限らん」 「では人間の智性は犬より劣ると仰るのですか、先生?」 「ふん! 前例はある」 「どのような例が?」 「古くは皇帝アウグストゥス、新しくはオリヴァー・クロムウェルが、ローマの菓子やイギリスの菓子にがぶがぶと食らいつきおったが、奪われた者たちからはたいした反論も抵抗もなかったのではあるまいか」 「そういう人間が現れたとしても、人は死ぬべき定め。そういう人間もやがて死にます。ですが死ぬまでの間に、迫害した者たちにさえ善行を施したと言えるのではないでしょうか。何といっても貴族制の在り方を変えたのですから。何かに頼らざるを得ない以上は、もっとも強いものを、つまり国民を選んだのです。平等を成し遂げるに当たり、低いところに合わせずに、高いところに合わせたのです。平等とは柵ではなく、柵を作る者の水準に応じた高さではありませんか。ですから国民の水準が上がれば、それまで知りもしなかった智識にもぶつかることになりましょう。革命はフランス人に自由をもたらします。先の皇帝アウグストゥスやオリヴァー・クロムウェルの護民制が平等をもたらしたように」  アルトタスが椅子の上で身じろぎした。 「これほどの馬鹿も珍しい! 二十年を費やして子供を育て、知っていることを教えるがいい。その子供が三十歳になれば、そちに言いに来るじゃろうて。『人間は平等になるんだよ!……』」 「間違いなく、人間は平等になるでしょう。法の前では平等に」 「死の前ではな、脳たりんめ。法の中の法である死の前では、三十歳で死のうと百歳で死のうと平等というわけか? 平等? 確かに平等じゃろうて、人間が死を克服できぬ限りはな。馬鹿め! 馬鹿の極みじゃ!」  アルトタスはさらに遠慮なく仰け反って笑い出した。その間バルサモはがっくりとうつむいたまま坐っていた。  アルトタスが憐れむようにバルサモを見つめた。 「つまり粗末なパンをかじる労働者も、乳母の乳を吸う乳呑み児も、乳漿をすすり見えぬ目で涙を流す惚け老人も、儂と平等というわけか?……哀れな詭弁家め。では一つ考えてみてくれぬか。人間が不死であったなら、人は平等ではなくなるのかな。つまるところ不死であるならそれは神であり、人と神とは対等ではあるまい」 「不死?」バルサモが呟いた。「不死? 空想だ!」 「空想か! さよう、湯気のような空想、水の流れのような空想、人が追い求めながらもいまだ見つけられず永遠に見つけることの叶わぬ空想じゃ。だが儂と共に世界中の塵をかき回し、文明を形作っている厚い層を一つ一つ剥がしてみよ。人間の層の中、王国の欠片の中、何世紀もの鉱脈の中に、刃物が入れられたように薄く刻まれたその中に、何が見える? あらゆる時代の人間たちが、より優れた相応しい完璧な名目のもとで、探し求めて来たものじゃ。いつから探しておるのじゃろうな? ホメロスの時代には人は二百歳まで生き、旧約聖書の族長の時代には八世紀もの寿命があった! だがより優れた相応しい完璧なものを見つけることはなかった。見つけていたなら、この老いた世界も朝の光のように瑞々しく無垢な薔薇色に変わっていたことじゃろう。ところが現実には、苦しみ、屍、ごみの山じゃ。苦しみが気持いいか? 屍が美しいか? ごみが望ましいか?」  老人が乾いた咳を一つし終えたところで、バルサモは答えた。「生命の霊薬を見つけた者は誰もいないとご自分で仰ったではありませんか。これからも見つける者はないでしょう。懺悔なさるがいい」 「馬鹿め! 秘密を知った者はいなかった、だからこれからもおらぬだと? その伝で行くと、いまだかつて発見されたものなどなかろうに。それとも、発見とは新しいものを発明することだと思っとるのか? 否。忘れ去られたものを再び見出すことじゃ。では一度見つけられたものが忘れられるのは何故か? 人生はあまりに短い。見つけたものからあらゆる推論を引き出すことなど出来ぬ相談。生命の霊薬も、これまでに見つけられそうになったことは二十たびにのぼる。ステュクス川がホメロスの空想だと思っとるのか? かかとを打たれぬ限りは不死であるアキレウスが、お伽噺だと? 否。アキレウスはケイローンの弟子じゃった。そちが儂の生徒であるようにな。ケイローンとは最高と最悪を意味する。ケイローンとはケンタウロスの姿を借りた賢者であり、人間の叡智に加えて馬の力と速さに恵まれておった。そう、ケイローンもまた、不死の霊薬を見つける一歩手前まで行っておった。そちが拒んだ三滴の血が足りなかったのだ。三滴の血が足りぬばかりに、アキレウスはかかとに弱点を抱えておった。死は道を見つけ、入り込んだのじゃ。繰り返そう、万能にして最高にして最悪の人間であるケイローンも、アシャラに邪魔をされたアルトタスでしかない。神の呪詛によって引き離されながらも、全人類を救えるはずの作品が完成間近だと言うのにだぞ。さあ、言うべきことはあるか?」  バルサモは明らかに動揺していた。「俺には俺の、あなたにはあなたの作品がある。自分のことは自分でやろうじゃありませんか。罪を犯してまで手伝うつもりはありません」 「罪だと?」 「ええ、それも一つだけじゃない! どれ一つ取っても、輿論が声をあげるでしょう。その罪一つであなたは絞首台に吊されることになる。最高の人間だろうと最低の人間だろうと、絞首台の前ではあなたの科学など無力です」  アルトタスは大理石の机に、干涸らびた手を叩きつけた。 「人道主義者のふりはよさぬか。最悪の奴らの真似などしおって。よかろう、法の話をしようではないか。そちのお仲間によって書かれた、野蛮で不条理な法の話じゃ。叡智のために流された血の一滴には憤慨するくせに、広場や市壁の下や戦場という名の原っぱで撒き散らされる体液には目を輝かせおる。利己的でくだらぬ法じゃな、今生きている人間のために未来の人間を犠牲にして、標語を叫んでおる。『今を生きよ! 明日はわからぬ!』。この法の話をしようではないか、どうじゃ?」 「先生のお話を聞かせて下さい」バルサモは目に見えて沈んでいた。 「鉛筆か羽根ペンはないか? 計算しなくてはならぬ」 「書くものはいりません、俺がやります。どうぞお聞かせ下さい」 「そちの陰謀の話じゃ。確か……内閣を倒し、高等法院を停止させ、身びいきな裁判官を立て、破産に仕向け、叛乱を促し、革命の火をつけ、君主制を倒し、護民制を立ち上がらせ、貴族制を突き落とすのだったか。 「革命は自由をもたらし、護民制が平等を。フランス人が自由と平等を手にすれば、そちの作品は完成というわけじゃな。違うか?」 「違いありません。不可能だと思うのですか?」 「不可能とは思わん。よいことを教えてやろう」 「何でしょうか?」 「よいか。フランスはイギリスとは違う。そちのやろうとしていることはイギリスの真似事に過ぎん。だがフランスは孤立した島ではない。内閣を倒し、高等法院を停止させ、身びいきな裁判官を立て、破産に仕向け、叛乱を促し、革命の火をつけ、君主制を倒し、護民制を立ち上がらせ、貴族制をひっくり返せば、周りの国が騒ぎに首を突っ込んで来るのだぞ。フランスはヨーロッパと地続きじゃ、肝臓がほかの内臓と繋がっておるようにな。ほかの国々に根を張り、ほかの国々の国民の中に繊維を張りめぐらしておる。ヨーロッパ大陸という本体から肝臓を引きはがそうとしてみい、二十年、三十年、四十年のうちに、身体はがたがたになってしまうじゃろう。だが儂は短く踏んで、二十年と見ておる。早過ぎるかの、賢明な哲学者殿よ?」 「早過ぎはしませんが、充分とも言えないでしょう」 「そうか、まあそれでよい。二十年の間、死ぬほどの戦争や抗争が絶え間なく続くのじゃ。年間二十万の死者が出る。ドイツ、イタリア、イスパニアで一斉に戦をするのだから多過ぎはせんじゃろう。一年で二十万人ということは、二十年で四百万人。平均して人間一人当たり十七リーヴルとして、計算してみよ……十七掛ける四……そちが目標を達成するには六千八百万リーヴルの血が流れることになるのだぞ。儂が欲しいのは三滴じゃ。これでは儂らが野蛮な人食いとは言えまい? どうじゃ、何も言えまいに?」 「俺の答えはこうです。成功する自信があるのなら、血の三滴くら何でもないでしょうに」 「ほう? では六千八百万リーヴルが流されることに、そちは自信が持てるのか? 立て! 胸に手を置いて答えてみよ。『先生、四百万人の屍と引き替えに、俺は人類に平和を約束します』とな」 「先生」バルサモは返答を避けた。「お願いですから、ほかの方法を見つけて下さい」 「ほう、答えぬのか、答えぬのだな?」アルトタスは勝利の雄叫びをあげた。 「その方法では上手くいきません。先生は思い違いをなさっています」 「儂に忠告する気か。儂を否定し、儂に逆らうというのか」アルトタスは椅子を移動させた。白い眉の下で灰色の目が冷たく光った。 「そんなつもりはありません。でも俺もよく考えました。これまでの毎日、世間と触れ、人と諍い、君主たちと争って過ごして来ました。あなたのようにひっそり閉じこもって世間の出来事に無関心を決め込んだりはしなかった。科学者や引用学者の実体のない研究が拒まれようと認められようと先生は無関心でしたが、俺は違いました。要するに、どれだけ難しいかがわかっているから、それをお伝えしているんです。他意はありません」 「そちがその気であればどれだけ難しかろうと問題はなかろうが」 「信じられればよいのですが」 「では信じておらぬのか?」 「はい」 「儂を試しておるのか!」アルトタスが叫んだ。 「まさか。心に迷いが生じているのです」 「よかろう、では死を信じるか?」 「その存在、つまり死の存在は信じております」  アルトタスは肩をすくめた。 「では死の存在、それは疑う余地がないのだな?」 「議論の余地はないでしょう」 「そして果てもなく、抗えるものもなかろう?」老学者が恐ろしい笑みを浮かべてバルサモを震え上がらせた。 「そうです、抗えるものもなく、果てもない永遠のものです」 「そちは死体を見て、額に汗が浮かんだり胸に無念が兆したりするか?」 「むごいことには慣れているので汗は浮かびません。人生などちっぽけなものだと考えているので無念は兆しません。でも死体を前にしてこう呟くでしょう。『死よ! 死よ! お前は神のように力強く! 絶対的に遍く統治し! お前に勝るものなどない!』」  アルトタスはバルサモの言葉を黙って聞いていた。ただ一つ苛立っている素振りに、指の間でメスをもてあそんでいる。痛ましく厳かな弟子の言葉が止むと、老人は辺りに目をやった。その鋭い目からは、どんなものであろうと秘密を隠しおおせるとは思えない。やがて部屋の隅に目を留めた。麦わらが敷かれた上に、黒い犬が震えている。バルサモに頼んで実験用に持って来させた三匹のうちの最後の一匹だ。 「あの犬を捕まえてこの机に乗せよ」  アルトタスの言葉にバルサモは従い、黒犬を捕まえて大理石に乗せた。  運命を予感したのだろうか、恐らく一度実験者の手に捕らえられたことがあるのだろうが、大理石に触れた途端に犬はぶるぶると震え、逃れようともがいて吠え始めた。 「さてはて! そちは生を信じておろうな? 死を信じておるのだから」 「確かに」 「この犬は随分と活きがいいと思うが、どうじゃ?」 「そうでしょうね。吠え、もがき、怯えていますから」 「醜いのう、黒犬は! 大事なことじゃぞ、今度からは白いのを手に入れて来い」 「そうします」 「さて、こやつの活きがいいという話じゃったな! 吠えろ、ちび」老人は陰気な薄笑いを浮かべた。「さあ吠えろ、活きのいいところをアシャラ殿に見せてやれ」  指でどこかの筋を押さえ込むと、犬は吠えるどころか呻き始めた。 「よし、真空槽を出せ。それじゃ。その下に犬を……そこだ! そうそう、忘れとった。そちが信じているのはどんな死なのか聞いておらなんだな」 「仰る意味がわかりません。死は死です」 「その通り、まったくその通り。儂も同意見じゃ。さて、死は死であるのだからな、空気を抜け、アシャラ」  バルサモがつまみをひねると、犬のいる真空槽から管を通って空気が抜け始めた。甲高い音と共に空気が抜けてゆく。初めのうちこそ戸惑っていた犬も、やがて出口を探し、空気を求め、頭を上げて懸命に喘ぎ始めたが、とうとう息が詰まって顔をむくませぴくりとも動かなくなった。 「これは卒中じゃな?」アルトタスがたずねた。「あまり苦しまず、理想的な死ではないか!」 「はい」 「確かに死んでおるな?」 「そのはずです」 「確信がないようだの、アシャラよ?」 「そんなことはありません」 「ふん、儂のやり方は知っておろう? 蘇生法を見つけたと思っておるのではないか、なあ? 問題は無傷の身体に空気と生命を行き渡らせることにあると思っとらんか? 穴の空いていない革袋のようなものじゃと?」 「そのようなことは思っておりません。この犬は死にました」 「まあよい、念には念を入れて二重に殺しておこう。真空槽を取れ、アシャラ」  アシャラがガラス装置を持ち上げても、犬は動かなかった。瞼は閉じられ、心臓の鼓動は既に止まっていた。 「メスを持て。喉を傷つけぬようにして、脊柱を断つのだ」 「仰る通りにいたします」 「こやつがまだ死んでいなければ、それですっかり息の根は止まる」アルトタスは老人特有のねちっこい笑みを浮かべた。  バルサモが刃を滑らせた。小脳付近の脊柱を二プスばかり切り裂くと、真っ赤な傷口がぱくりと開いた。  犬、もはや犬の死骸は、やはり動かなかった。 「ほう、確かに死んでおる」アルトタスが言った。「筋繊維も筋肉も肉片も、刺激を与えてもぴくりとも震えぬ。死んでおる、確かに死んでおるな?」 「お望みであれば何度でも認めましょう」 「こやつは動かぬ。凍えきったまま永遠に動くことはない。死に打ち勝てるものはないと言うたな。この動物に生命を、いや生命の片鱗だけでも吹き込めるものなど存在せぬと」 「それが出来るのは神だけです!」 「うむ、だが神もそうするほど愚かではない。至高の叡智である神が殺したのであれば、つまり殺すことに意義や益があったということじゃ。名前は定かではないが、ある人殺しが言っておった。上手いことを言うたもんじゃ。運命は死を好む。 「つまりこの犬がすっかり死んでおるのも、運命がこやつを好いたからじゃ」  アルトタスはバルサモを突き刺すようににらんだ。バルサモはうんざりするような老人のたわごとに長々と耐えていたが、すべて引っくるめて答えの代わりに頭を垂れた。 「この犬が目を開いてそちを見たとしたらどう思う?」アルトタスはなおも続けた。 「ひどく驚くでしょうね」バルサモは笑いながら答えた。 「驚くだと? そいつはいい!」  アルトタスは陰気な笑い声を狂ったようにあげると、布の緩衝剤で隔てられた金属器具を犬に近寄せた。布には酢水の化合液が染み込ませてある。二つの棒、言うなれば二つの電極が桶から飛び出ていた。 「開くならどっちの目がよい、アシャラ?」 「右目を」  二本の棒が近づけられたが、絹の緩衝剤があるため触れ合うことはない。それが首の筋肉に押しつけられた。  途端に犬の右目が開き、バルサモをじっと見つめた。バルサモはぎょっとして後じさった。 「次は口に移ろうかの?」  バルサモは何も言えずに呆然としていた。  アルトタスが別の場所に触れると、今度は目が閉じて口が開き、白く尖った牙が見えた。赤い歯茎が生きているように震えている。  バルサモは恐怖と昂奮を抑えることが出来なかった。 「何だこれは?」 「わかったじゃろう? 死などは取るに足らん」アルトタスは勝ち誇っていた。「儂のようなもうすぐお迎えの来る老人も、避けられぬ道から逃れることが出来るのだからな」  そして突然きいきいと神経質な笑い声をあげ始めた。 「気をつけるがいい、アシャラよ。この犬もそのうちそちを咬もうとし、そちを追いかけ回すようになるぞ!」  まさしく犬は、首を切られているというのに、口を開けて目を震わせ、首をだらしなく垂らしたまま、四肢をがくがくと震わせて立ち上がった。  バルサモの髪が逆立った。汗が額に流れた。後ずさって扉に貼りついたまま、逃げるべきか留まるべきか決めかねていた。 「これこれ、ちょいと教えを施してやっただけ、何も殺そうというわけではないぞ」アルトタスは死骸と機械を押しやった。「これでわかったじゃろう」  電極を外された死骸は、すぐに動くのを止め、元のように静かになった。 「これでも死を信じるのか、アシャラよ? もうすっかり納得したのではないか?」 「驚いた、本当に驚きました!」バルサモが戻って来た。 「儂の話も現実味を帯びて来たであろう。第一歩は為された。死を取り消すことが出来た以上は、生を延ばすことも出来よう?」 「でも俺にはまだわからない。そうやって取り戻した生は、紛い物の生ではないのですか」 「時間が経てば本物の生となろう。ローマの詩人を読んだことはないか? Cassideeは死体に生命を取り戻したではないか」 「詩の中でなら、あります」 「ローマ人は詩人たちを予言者と呼んでおった、覚えておくがよい」 「ええ、ですが俺は……」 「まだあるのか?」 「すいません。完成した生命の霊薬をこの犬に与えたとしたら、犬は永遠に生きられるのでしょうか?」 「そのはずじゃ」 「ではあなたのような科学者の手に落ちて喉を切られたとしたら?」 「見事!」老人は嬉しそうに手を叩いた。「それを待っとった」 「待っていたのなら、どうか答えて下さい」 「望むところじゃ」 「霊薬を飲めば、頭の上に煙突が落ちたり、弾丸に貫かれたり、馬に腹を蹴破られるすることからも避けられるのですか?」  刺客が狙う相手を値踏みして、一撃のうちに突き返してくるだけの実力はあると踏んだ、そんな目つきでアルトタスはバルサモを見つめた。 「否、否、否。まったくそちは論理的じゃの、アシャラよ。煙突、否。弾丸、否。馬の足蹴、否。家や銃や馬がある限り、それを避けることは出来ぬ」 「死者を甦らせることが出来るのは事実ではありませんか」 「一時的には出来るが恒久的には無理だの。そのためにはまず、魂が身体の何処に宿っておるのか突き止めなくてはならん。それにはしばらくかかるだろうて。だが傷を負った身体から魂が抜け出すのを防ぐことは出来るぞ」 「いったいどうやって?」 「傷を閉じればよい」 「傷つけられたのが動脈だったら?」 「問題ない」 「是非ともこの目で見たいものです」 「よかろう、見るがよい」  バルサモが止めるよりも早く、老人は左腕の血管に披針《ランセット》を突き刺した。  血などほとんど干涸らびてしまった老人の身体にも、ゆっくりと血は流れていた。しばらくかかってどうにか傷口までたどり着いて口を広げ、やがてたらたらとあふれ出した。 「先生!」 「ん、何じゃ?」 「ひどい傷ではありませんか」 「そちが聖トマスのような疑い屋で、見たり触れたりしなければ信じられんというのだから、その目に見せ、その手に触れさせてやらねばなるまいに」  アルトタスは手近に置いてあったガラス壜をつかみ、一滴二滴、傷口に振りかけた。 「見よ!」  すると如何なる魔法の水であろうか、血は四散し、傷口は締まり、血管はふさがり、血など何処かへ行ってしまったかのように、小さな刺し傷だけが滑らかな肌に残った。  またもバルサモは呆然として老人を見つめた。 「これも儂が見つけたのじゃ。言うことはあるか、アシャラ?」 「先生! あなたは世界一の科学者です」 「死を完全に打ち負かすことは出来なくとも、痛手の大きい一撃をくれてやったとは思わんか? よいか、人間の身体にある骨は、すぐに折れてしまうほどもろいものじゃ。儂にならその骨を鋼より固く出来る。人間の身体に通っている血は、流れ出てしまえば生命も道連れにしてしまう。儂ならその血が身体から出るのを防ぐことが出来る。人間の身体は柔らかくすぐに傷ついてしまうが、儂になら中世の騎士のような不屈の肉体に変えて、剣や斧の刃など鈍らせてしまうことが出来る。そのためにはただ一人アルトタスに三百年の命が必要なのじゃ。よいな、だから儂の求めているものを手に入れてくれ。そうすれば千年は生きられるじゃろう。アシャラよ、そちに懸かっておる。儂は若さを、体力を、機智を取り戻したいのだ。そうすれば剣や弾丸、崩れる壁、野獣に咬まれることや飛びかかられることを恐れているかどうか、そちにもわかるじゃろう。儂に四分の一の若さがあればの。そうすればつまり、四人分の人生を使い切る前に、地上を刷新してみせようて。儂と新しい人類にとって理想の世界を作ってみせように。煙突も剣もなく、マスケット銃の弾丸も足蹴にする馬もない世界じゃ。その時こそ人類も気づくじゃろう。生きるには、傷つけ合い殺し合うよりも助け合い愛し合う方が相応しいことにの」 「その通りです、先生。せめてそうありたいものです」 「ほう! だったら子供を連れて来い」 「もう少し考えさせて下さい。先生ももう一度考えて下さい」  アルトタスは蔑み切った目を向けた。 「出てゆけ! 後でたっぷり言い聞かせてやる。もっとも、人間の血はさして大事な成分でもない。ほかのもので代用できぬこともなかろう。何とか探して見つけ出してやる。そちなど要らぬ。出て行け!」  バルサモは落とし戸を蹴って階下に降りると、物も言わずじっとして、あの男の才能に打ちのめされていた。不可能を可能にする魔術師も、不可能なものを信じざるを得なかった。 第六十一章 情報収集  様々なことが起こったこの充実した夜長を、神話に出てくる神々の乗る雲のように、サン=ドニからラ・ミュエット、ラ・ミュエットからコック=エロン街、コック=エロン街からプラトリエール街、プラトリエール街からサン=クロード街まで、我々は旅して来た。デュ・バリー夫人が国王の心を都合良く動かそうと腐心していたのも、この夜であった。  デュ・バリー夫人はなかんずく、ショワズールを王太子妃の許でのさばらせるのが如何に危険か説いていた。  国王は肩をすくめて答えた。王太子妃は子供だし、ショワズールは老人ではないか。危険などない。子供に駆け引きは出来ぬし、老人には気を引くことなど出来ぬ。  国王は自分の言葉に満足し、説明を切り上げた。  デュ・バリー夫人としてはそういうわけにはいかなかった。どうやら国王は上の空のようだ。  ルイ十五世は浮気者であった。寵姫たちが嫉妬するのを見て楽しんでいた。無論、嫉妬が高じていつまでも喧嘩をしたりすねたりされるのは御免蒙る。  デュ・バリー夫人は嫉妬していた。まずは自尊心から、そして恐れから。この地位を勝ち取るに当たってあまりにも気苦労が多く、今の地位が出自とはあまりにもかけ離れているため、ポンパドゥール夫人のようにほかの寵姫たちに目をつぶることが出来なかったし、国王陛下が退屈そうにしている時でさえそれが出来なかった。  故に悋気を起こしたデュ・バリー夫人は、国王がどうして上の空なのか、納得のいく答えを求めた。  国王は収まりのいい言葉を並べたが、何一つ本心ではない。 「嫁のことを考えていたのだ。王太子が幸せにしてやれるとは思えぬ」 「どうしてですの?」 「コンピエーニュでもサン=ドニでもラ・ミュエットでも、ルイはほかのご婦人にばかり目をやって、妃の方にはほとんど目をくれなかった」 「そうでしょうか。陛下ご自身のお言葉でなければ、とても信じられませんわ。だって王太子妃殿下は素敵な方じゃありませんか」 「痩せっぽっちだ」 「とてもお若くて!」 「ド・タヴェルネ嬢、あれは大公女と同年配ではないか」 「それが?」 「完璧な美人だった」  伯爵夫人の目に光った輝きを見て、国王は口を滑らせたことに気づいた。 「あなただって」と国王は慌てて言い添えた。「そんなことを仰っていますが、あなただって十六の頃にはブーシェの描く羊飼い娘のようにふくよかだったはずだ」  このお追従で多少は事態が改善されたものの、衝撃はそれよりも大きかった。  デュ・バリー夫人は愛想笑いを浮かべて反撃した。 「つまりその方は美しいんですのね、ド・タヴェルネ嬢でしたかしら?」 「いや、余はよく知らぬのだ」 「あら! 褒めてらしたくせに、美しいかどうか知らないんですの?」 「つまり、痩せっぽっちではなかったのは確かだが」 「つまりじっくり眺めまわしていらしたのね」 「どうやら罠に嵌めようとなさっているらしいが、余が近眼であることはご存じだろう。ぼんやりと見えるだけで、細かいところなどとてもとても。王太子妃のいるところには、痩せっぽちの骸骨しか見えなかった」 「仰るようにタヴェルネ嬢もぼんやりとしか見えなかったんですのね。王太子妃が貴族的な美人で、タヴェルネ嬢が大衆的な美人だとわかるんですもの」 「おやおや! それではジャンヌ、あなたは貴族的な美人ではないということになる。冗談だろう」  伯爵夫人は呟いた。「褒められたといっても、こんなの別の人を褒めたのをごまかしただけじゃない」  それから声を出して、「王太子妃殿下がそそるような侍女をお選びになるのなら喜ばしいことですわ。老女のお付きなんてぞっとしませんもの」 「言われるまでもない。余も昨日、王太子にそう言ったところだ。だが夫君には興味がないようだった」 「そもそも妃殿下はタヴェルネ嬢をお選びになるのかしら?」 「決めるそうだ」とルイ十五世が答えた。 「あら、ご存じですの?」 「噂ではそうなっていた」 「財産もないのに」 「その通りだが家格がある。タヴェルネ=メゾン=ルージュとは代々伝わる名門だよ」 「後ろ盾はどなた?」 「とんと知らぬな。だがそなたの言うように、一家は乞食同然の暮らしぶりと聞いている」 「でしたらショワズール殿じゃありませんわね。だったら年金でぶくぶくのはずですもの」 「ほらほら伯爵夫人、お願いだから政治の話は無しだ」 「ショワズール家があなたを破産させるというのは政治のお話ですの?」 「もちろんだ」  国王は席を立った。  一時間後、国王陛下はグラン・トリアノンに戻っていた。三十代のリシュリューが言っていそうなことをぶつぶつと繰り返しながらも、悋気に触れて上機嫌だった。 「まったく、女の嫉妬とは厄介なものだ!」  国王がいなくなると、デュ・バリー夫人もすぐに立ち上がり、寝室に向かった。そこには新しい報せを聞きたくてうずうずしているションが待っていた。 「ねえ、ここ何日かびっくりするほど上手く行ってるじゃない。一昨日は王太子妃に紹介されて、昨日は一緒に食事を摂って」 「ほんと、すごいことね!」 「ちょっと! すごいこと? 今もあなたの朝の微笑みを求めて、リュシエンヌまで百台の馬車が並んでいることがわからないの?」 「残念なことだわ」 「どうして?」 「時間の無駄だもの。馬車も人もあたくしの微笑みなんて手に入れられないのに」 「どうしたの? 今日は嵐みたいね」 「ええ、そう。チョコレート、チョコレートを頂戴!」  ションがベルを鳴らすと、ザモールが現れた。 「チョコレートを」  ザモールは背中を丸めてのろのろ足を動かし、ゆっくりと向きを変えた。 「あたくしを飢え死にさせる気? 急がないと、百叩きよ」 「ザモールは急ぎません。ザモールは領主!」ザモールは厳かに答えた。 「そう、ザモールは領主さん!」伯爵夫人は金の握りのついた小型鞭をつかんだ。スパニエルとグリフォンを仲良くさせるために置かれていたものだ。「待ってなさい、わからせてあげるから!」  ザモールはこれを見て、壁を揺るがし大声をあげて駆け出した。 「今日は意地悪なのね、ジャンヌ」とションが言った。 「いけない?」 「いいわ、わかった。そっとしておく」 「どうして?」 「何されるかわかったもんじゃないもの」  寝室の扉が三度敲かれた。 「誰かしら?」伯爵夫人がはじかれたように振り向いた。 「どうやら歓迎できる報せみたいね!」ションが当てこすった。 「歓迎できない報せよりはいいだろう」肩を怒らせ扉を押したのはジャンだった。 「歓迎できない報せだとどうなってたの? だってその可能性はあるでしょう?」 「悪い報せなら俺は戻って来ないね」 「それで?」 「悪い報せだったとしたら、俺よりもお前の方が失うものが大きいってことだ」 「失礼ね!」 「ふん、失礼なのは、おべっかで繕っていないからだ……それより今朝のあいつはどうだった、ション?」 「話したくない。近寄りがたくって。そうそう、チョコレートがあるわ」 「まあ喧嘩はよそうや。やあチョコレート殿」ジャンがお盆を取った。「元気にしてるか、チョコレート殿?」  お盆を小卓の隅に置いてその前に腰かけた。 「まあいいさ、ション。お偉い人たちは何も摂らんのだろうな」 「ひどい人たちね」ションがジャンに首を振って、一人で朝食を摂っても構わないと合図しているのを見て、伯爵夫人が言った。「気を悪くしたふりばっかりして、あたくしが苦しんでいることになんて気づいてもくれない」 「どうしたの?」ションが近寄って声をかけた。 「別に。あたくしがどんな事態に陥っているかなんて誰も考えてくれやしないんでしょ」 「何か困ってるの?」  ジャンは一切かまわずパン切れにかぶりついていた。 「お金がないんじゃない?」 「それを言うならあたくしよりも国王の方よ」 「だったら千ルイ貸してくれないか。どうしても必要なんだ」とジャンが言った。 「その赤っ鼻を千回はじいてあげるわ」 「じゃあやっぱり国王がショワズールの味方を?」ションがたずねた。 「今さら何を! あの人たちは終身大臣みたいなものじゃないの」 「じゃあ王太子妃に惚れちゃったとか?」 「近いわね、惜しい。ねえ何なのあの人、チョコレートを詰め込むだけで、あたくしを助けるために指一本動かさないじゃない。あなたたちったら、苦しみのあまりあたくしを殺すつもりなの?」  ジャンは文句の嵐には気にも留めずに二つ目のパンに手を伸ばし、バターを挟んで二つ目のカップを注いだ。 「ちょっと、国王が惚れてるっていうの?」ションが声をあげた。  デュ・バリー夫人は「正解」という合図に首を振った。 「王太子妃に?」ションが手を合わせた。「大丈夫よ、近親相姦の気はないだろうし、安心していいわ。ほかの人じゃなくてよかったんじゃない」 「国王が惚れているのが王太子妃でなく、ほかの人だったらどうなるの?」 「ちょっと!」ションが青ざめた。「何言ってるの?」 「ええ、覚悟してね、思っている以上にまずいんだから」 「でもそうだとしたら、あたしたち終わりじゃない! それで苦しんでいたの、ジャンヌ? いったい相手は誰なの?」 「そこのお兄様に聞いてご覧なさい。チョコレートで真っ赤になってお腹をふくらませてるけど。きっと教えてくれると思う。知らないとしても、感づいているだろうから」  ジャンが顔を上げた。 「俺のことか?」 「ええ、そうよ。ムッシュー・仕事熱心の便利屋さん。国王が心を奪われている人の名前を尋いてるの」  ジャンは頬張ったままの口を閉じて何とか飲み下すと、三つの単語を口にした。 「マドモワゼル・ド・タヴェルネ」 「マドモワゼル・ド・タヴェルネ! 大変じゃない!」 「そんなこととっくにわかっているわよ、この人は」伯爵夫人は椅子に身体を預け、天を仰いだ。「わかっていて、食べてるのよね」 「信じられない!」ションもさすがに兄のそばを離れ、伯爵夫人のそばに移った。 「寝惚けてむくんだ目なんかして。引っこ抜いてやらないでいるのが不思議なくらいよ。起きたばっかりの寝起きってどういうことなの?」 「そうじゃない。眠ってないんだ」とジャンが言った。 「じゃあ何をしてたの?」 「夜も朝も駆けまわっていたさ」 「あたくしが言おうとしてたのは……ねえ、もっと役に立ってくれる人はいないの? その子がどうなったか誰も教えてくれないじゃない、いったい何処にいるの?」 「あの娘がか?」 「ええ」 「パリだよ、まったく!」 「パリ?……パリの何処?」 「コック=エロン街」 「誰から聞いたの?」 「乗っていた馬車の御者。厩舎に潜り込んで聞き出した」 「教えてくれたのね?」 「タヴェルネ一家をコック=エロン街の屋敷まで運んで来たところだった。庭園の中にある、アルムノンヴィル・ホテルの隣の屋敷だ」 「まあジャン! これで仲直りね。でも詳しいことが知りたいの。どんな暮らしで、誰と会った? 何をしてる? 手紙は受け取った? すごく大事なことなのよ」 「すぐにわかるさ」 「何でよ?」 「何で? 俺はもう調べたんだ。今度はそっちが調べる番だろう」 「コック=エロン街?」ションが急いでたずねた。 「コック=エロン街だ」ジャンも落ち着いて繰り返した。 「わかった、コック=エロン街ね。部屋を借りなきゃ」 「いい考え!」伯爵夫人が声をあげた。「急がなきゃ、ジャン。家を借りるのよ。そこに誰か張り込ませましょう。そうすれば入ることも出ることも探り回ることも出来るわ。ほら早く、馬車を! コック=エロン街まで」 「駄目だな。コック=エロン街には借りられるような部屋はない」 「何で知ってるの?」 「確認したからに決まってるだろう! だがほかのところになら……」 「何処? 教えて」 「プラトリエール街」 「何それ、プラトリエール街?」 「プラトリエール街のことか?」 「ええ」 「裏手がコック=エロン街の庭に面している通りだよ」 「それじゃあ急ぎましょう! プラトリエール街の部屋を借りなきゃ」 「もう借りてある」 「何て人なの、ジャン! こっち来て、口づけして頂戴」  ジャンは口をぬぐってデュ・バリー夫人の両頬に口づけした。それからたった今賜った名誉に答えて深々とお辞儀をした。 「ついてたよ!」 「誰にも見つかってないでしょうね?」 「プラトリエール街で誰に会うっていうんだ?」 「それで借りたのは……?」 「しょぼくれた家の小部屋だ」 「誰が使うのか聞かれたでしょう?」 「まあな」 「何て答えたの?」 「若い未亡人さ。そうだよな、ション?」 「そうね」 「凄い! じゃあその部屋に張り込むのはションなのね。ションが見張ってくれるんだ。さあ一刻も無駄には出来ない」 「それじゃあすぐに出かけるわ。馬を! 馬を!」ションが声を出した。 「馬を!」デュ・バリー夫人が眠りの森の美女の宮殿の目も覚ましてしまいそうな勢いでベルを鳴らした。  ジャンと伯爵夫人にはアンドレのことをどう考えるべきかわかっていた。  アンドレは一目だけで国王の目に留まった。つまりアンドレは危険だ。  馬が繋がれる間、伯爵夫人はしゃべっていた。「あの子が本当に田舎娘なら、うぶな恋人もパリまで連れて来てるはずよ。その恋人を見つけて、さっさと結婚させちゃいましょう! 田舎者同士が結婚しちゃえば国王の熱も冷めるでしょう」 「むしろ逆だな」ジャンが言った。「怪しいもんだ。若い花嫁が愛情深い陛下の大好物だってことは、誰よりも知っているだろう。だが恋人のいる未婚娘なら陛下ももっと困るだろうな。馬車の用意が出来たらしい」  ションが立ち上がり、ジャンの手を握り、伯爵夫人に口づけをした。 「どうしてジャンは一緒に行かないの?」伯爵夫人がたずねた。 「どうしてってことはない。こっちはこっちで行く。プラトリエール街で待っていてくれ、ション。新しい住まいの来客第一号は俺だろうな」  ションが出て行くと、ジャンは卓子に戻って三杯目のチョコレートを飲み干した。  ションはまず自宅に戻り、有産市民《ブルジョワ》らしい恰好に着替えた。自分の姿に満足すると、黒い絹の粗末なケープで貴族的な肩を隠し、駕籠を出させた。半時間後、ションはシルヴィー嬢と共に険しい階段を五階まで上っていた。  五階には子爵が運よく手配できた部屋がある。  三階の踊り場まで来たところでションが振り向いた。誰かが後からついて来ている。  二階に住んでいる所有者の老婦人が、物音を聞いて顔を出し、若く綺麗な女性が二人も入って来たのを見て驚いていた。  顔をしかめて笑顔の二人を見上げている。 「ちょいと奥さまがた、何をしにいらしたんです?」 「兄がこちらを借りたはずなんですが」ションが未亡人ふうを装って答えた。「ご存じありませんか? 家を間違えてしまったのかしら」 「いえいえ、五階で間違いありませんよ。お可哀相に、その年で未亡人だなんて!」 「ひどいわよね!」ションは天を仰いだ。 「でもプラトリエール街なら元気になれますよ。いい通りですからね。静かですし、お部屋は庭に面してますし」 「そういう部屋が欲しかったんです」 「でも廊下に出れば、行列が通ったり犬が芸をするのも見えますしね」 「まあ、きっと心が安まるでしょうね」ションは息を吐いて階段の続きを上った。  ションが五階にたどり着いて扉を閉めるまで、老婦人はじっと見つめていた。 「正直そうな人だね」  扉を閉めるやいなや、ションは庭に面した窓に駆け寄った。  ジャンは間違っていなかった。窓のほぼ真下に、御者の言っていた館がある。  やがて疑いは完全に吹き飛んだ。若い娘が刺繍を手に窓辺に腰かけた。それがアンドレだった。 第六十二章 プラトリエール街の部屋  偽の未亡人ションがしばらくアンドレを見張っていると、ジャン子爵が書生のようにどたどたと階段を上って戸口に現れた。 「どうだ?」 「あなたは? こっちはびっくりよ」 「どういうことだ?」 「ここにいればすっかり見届けられるってこと。声が聞こえないのは残念だけど」 「ふん、注文が多いな。それより新情報だ」 「何?」 「凄い!」 「で?」 「恐ろしい!」 「大声で殺す気?」 「哲学者は……」 「今度は何? 哲学者?」 「『学者というものはどんなことが起こってもそれに応ずるだけの準備ができている』と言っているが、さすがの俺もこんな準備はできていなかった」 「お願いだからちゃんと話してよ。この子のせい? それなら隣の部屋に行ってもらえる、シルヴィー?」 「その必要はない、むしろ大歓迎だ。ここにおいで、シルヴィー」  子爵に指で顎を撫でられた時には、シルヴィー嬢は眉をひそめていた。これから語られる話はどうせ聞けないだろうと察していたからだ。 「この子はここにいさせるから、早く話して」 「そもそも俺は話をするためにここに来たんだ」 「何も言わないのなら……口を閉じて、見張りを続けさせて。その方がよっぽどまし」 「まあ落ち着こうや。さっき言ったように、水飲み場を通りかかったんだが」 「そんなこと一言も言わなかったけどね」 「ああ、邪魔したいのか?」 「まさか」 「水飲み場の前を通り過ぎて、このひどい部屋にちっとはましな家具でも買おうとしていたんだが、その時、水がはねて腕にかかったんだ」 「面白いお話ですこと」 「慌てるな。俺が見たのは……目にしたのは……当ててみろよ……まず当たらんだろうな」 「だったら続けてよ」 「水飲み場の栓にパンを詰めている奴がいたんだ。そのせいで水が滲み出てはねていたって訳だ」 「面白すぎてびっくりするわ」ションは肩をすくめてみせた。 「まあ聞け。水がかかって俺が怒鳴り散らしたもんだから、パンを浸していた奴が振り返った。そいつは……」 「誰だったの?」 「哲学者だった。もとい我らが哲学者殿だ」 「それってジルベール?」 「ご本人様だ。帽子もかぶらず、上着の前も留めず、靴下を引きずり、靴には留め金もなく、早い話がだらしない恰好だった」 「ジルベール!……何か言ってた?」 「お互い気づいたんで、俺が前に出たところ、あいつは後ずさりやがった。俺が腕を伸ばすとあいつは足を踏み出し、馬車と水運び屋の間を猟犬のように逃げ出しちまった」 「見失っちゃったの?」 「だろうさ! 俺も一緒になって駆け出したとは思わないだろう?」 「まあそうね。そんなことするわけないし。でもそうか、見失っちゃったんだ」 「残念ですね!」シルヴィー嬢から溜息が洩れた。 「まったくだ。奴にはたっぷりお仕置きしてやらなきゃならん。首根っこを引っつかまえていれば、目にもの見せてくれたんだが。だが向こうもそれはわかっていたんだろうな、とっとと逃げ出しちまった。だがまあいいさ、パリにいることはわかったんだ。警察と仲良くさえしてれば、パリってところは、人を見つけるのは簡単な町だ」 「早く見つけなきゃ」 「見つけたら飯は抜きだな」 「閉じ込めておきましょう」とシルヴィー嬢が言った。「ただし今度は絶対間違いのないところにしなくては」 「その間違いのないところには、シルヴィーがパンと水を運んでくれるんだろうな?」 「笑い事じゃないでしょ」ションがたしなめた。「あの子は宿場馬の件を目撃しているんだから。あなたに対して含むところがあるのなら、びくびくしてても不思議じゃないわ」 「ここの階段を上っている最中も考えていたんだ。ド・サルチーヌ殿に会いに行って、見つけたことを伝えようと思っている。帽子をかぶらず、靴下を引きずり、靴紐も結ばず、パンを水で浸しているようなだらしない恰好で目撃されたのであれば、その人物は近くに住んでいる、だから必ず見つけ出すと言ってくれそうな気がするんだ」 「お金もないのにこんなところで何してるっていうの?」 「お使いだろう」 「まさか! あの自尊心の強い哲学かぶれが? ないない!」 「古いパンの皮を犬に分けてくれるような、信心深いお婆さんか親戚の人でも見つけたのではないでしょうか?」シルヴィーが言った。 「取りあえずその話は終わり! シルヴィーはこの箪笥に下着を仕舞って。お兄さん、あなたは見張り場所に!」  二人は用心深く窓に近づいた。  アンドレは刺繍を止めて、肘掛椅子の上で足を伸ばしてくつろいだ姿勢を取ると、傍らの椅子に置かれた本に手を伸ばした。本を開いて読み始めたが、読み始めるとぴくりともしなくなったところを見ると、刺繍よりも熱中しているようだ。 「勉強好きだこと!」ションが口を開いた。「何を読んでいるのかしら?」 「必需品」子爵はポケットから出した遠眼鏡を伸ばしてアンドレに向け、窓の角に押し当てて固定させた。  ションはじりじりしながらその様子を見ていた。 「ねえ、どうなの? 本当に綺麗なの?」 「見事だ、完璧だ。あの腕、あの手! あの瞳! 聖アントニウスも惑わされて地獄に落とされそうな口唇。あの足! 天使の足だ! それにあのくるぶし……絹靴下を履いたあのくるぶし!」 「だったらいっそ好きになっちゃえば。ひどいことになりそうね」ションがちくりと言った。 「ふん、そうか?……それほど悪い状況でもないだろうさ、向こうも俺を好きになるかもしれん。そうすりゃ、伯爵夫人も安心だろうよ」 「その遠眼鏡を寄こしてよ、よければおしゃべりはお終い……あら、ほんと綺麗ね、恋人がいないわけないわ……あら読書してるわけじゃないみたいよ……本が手から……離れて……落ちた、ほら……読書中ってわけじゃないって言ったでしょ、考え事してるのね」 「眠ってるんじゃないのか」 「目は開いてるもの。本当に綺麗な目ね!」 「どのみち恋人がいるのなら、ここからそいつを見物できるだろうぜ」 「そうね、昼間だったら。でも夜中にやって来たら……?」 「そうか! うっかりしていた。真っ先に思いついていなけりゃならんのに……俺もお人好しだってことだ」 「ええ、検事みたいなお人好し」 「ふん! こうして気づいたからには、そのうち何か思いつくだろう」 「でもこの遠眼鏡は凄いわね! 本が読めちゃいそう」 「読んで題名を教えてくれよ。そこから何かわかるかもしれん」  ションは興味を惹かれて前に乗り出したが、途中で慌てて身体を引っ込めた。 「どうしたんだ?」子爵がたずねた。  ションが子爵の腕をつかむ。 「ようく見て頂戴。あの天窓から身体を突き出している人。左よ。気づかれないようにしてね!」 「ひゅう!」デュ・バリー子爵は沈んだ声をあげた。「パンを浸していたお坊っちゃまか、何てこった!」 「飛び降りる気じゃない」 「そうじゃない。軒にしがみついている」 「でも何をあんなに夢中になって見ているのかしら?」 「見張りかな」  子爵が額をぺんと叩いた。 「わかった」 「何?」 「あの娘を見張ってるんだ!」 「マドモワゼル・ド・タヴェルネ?」 「ああ、あれが屋根裏の恋人ってわけだ! 娘がパリに来たんで後を追って来た。コック=エロン街に泊まったんで、俺たちから逃げてプラトリエール街にしけ込んだ。男は女を見つめ、女は物思いに耽っている」 「十中八九正解ね。よそ見をしないあの目つき、あの目の中の鉛色の光を見てよ。あれぞ恋に狂った恋人だわ」 「よし、もうわざわざ彼女を見張る必要はないな、彼氏が代わりにやってくれる」 「自分のために、ね」 「いいや、俺たちのためさ。じゃあちょっといいか、サルチーヌのところに行って来る。運が巡って来たぞ。だが気をつけろ、ション。哲学者殿に気づかれるなよ。逃げ足は知っているだろう」 第六十三章 戦略  午前三時に帰宅したド・サルチーヌ氏はへとへとに疲れてはいたが、非常に満足もしていた。国王とデュ・バリー夫人と交わした夜の会合が原因である。  王太子妃の到着で沸き立った熱狂的な民衆は、陛下に向かって何度も「国王万歳!」と叫んでいた。例のメスの病以来、当時は最愛王と呼ばれたルイ十五世の健康のため、万歳の声は小さくなっていた。あの時は教会の中や巡礼のうちにフランスのすべてが見えたものである。  一方デュ・バリー夫人は人前では独特の罵られ方をされない方が珍しかったのだが、予想とは裏腹に最前列に陣取った人々から暖かいもてなしを受けていた。国王はそれに満足してサルチーヌに小さく微笑み、警視総監はそれを感謝と受け取った。  そういうわけだからサルチーヌとしては、正午に起きればよいと考えていた。こんなことはしばらくないことだった。立ち上がると、この余暇のような時間を利用して、夜の間の報告を聞きながら新しい鬘を一、二ダース試していたところ、六番目の鬘を試し、三つ目の報告に進んだところで、ジャン・デュ・バリー子爵の到着が告げられた。 「おや、お礼に来たのか! だがわからんぞ? 女とは気まぐれなものだ! 子爵を応接室にお通ししろ」  朝からくたびれ切っていたジャンは、椅子に身体を投げ出した。まもなくやって来た警視総監は、面倒な話ではなさそうだと確信した。  第一ジャンは嬉しそうに見える。  二人は手を握った。 「こんな朝早くに何のご用です?」  ジャンは手なずけようとしている人々の自尊心をくすぐることには何よりも慣れていた。「一つには、昨日の祝宴でのお手並みに感謝を述べるつもりで参りました」 「おお、ありがとうございます。それは公式なものでしょうか?」 「リュシエンヌとしては公式なものです」 「それは何よりです。あそここそ太陽が昇る場所ではありませんか?」 「太陽は折々沈むものですから」  デュ・バリー子爵は豪快に笑い出した。こうすれば人のいい印象を与える。 「感謝を述べに来たのはもちろんですが、それに加えてお願いもあって参りました」 「出来ることであればすぐにでも」 「ああ、難しいことではありません。パリで見失ったものを、また見つけ出せる可能性はありますか?」 「価値のないものだろうとあるものだろうと、可能です」 「たいした価値はないな」ジャンはかぶりを振った。 「何をお捜しでしょうか?」 「十八くらいのガキなんだ」  サルチーヌは書類に手を伸ばし、鉛筆で覚書をつけた。 「十八歳。お名前は?」 「ジルベール」 「お仕事は?」 「ほとんど何も出来ないはずだ」 「生まれは?」 「ロレーヌ」 「どちらにお住まいでしたか?」 「ド・タヴェルネ家の使用人だ」 「主人一家とご一緒に?」 「いや、飢え死にしかけているところを、ションが道で拾ったんだ。馬車に乗せてリュシエンヌまで連れて来たが、そこで……」 「そこで?」 「あいつはこっちの厚意を踏みにじりやがった」 「盗みを働いたのですか?」 「そうは言ってない」 「つまり……」 「よくわからんが逃げ出してしまったんです」 「それで、また見つけ出したいと?」 「ええ」 「いそうな場所にお心当たりは?」 「プラトリエール街の角の水飲み場で今日見かけた。通りの何処かに住んでいると考えて間違いないだろう。必要ならその家まで教えられると思うが……」 「家をご存じなのでしたら、そこでつかまえればいいだけの話ではありませんか。つかまえた後はどうなさりたいのですか? シャラントンの精神病院にぶちこみますか、それともビセートル?」 「いや、そういうわけでは」 「ご希望があれば何でもどうぞ。ご遠慮なさらずに」 「違うんだ、あいつは妹のお気に入りでね、そばに置いて面倒を見たがってるんだ。なかなか聡明な奴でね。荒立てずに連れて来られたなら、それにこしたことはない」 「やってみましょう。居場所を探るためにプラトリエール街で聞き込みなどはしてないでしょうね?」 「まさか。目立つつもりはないし、状況を悪化させるつもりもない。あいつは俺を見ると、悪魔にさらわれたように逃げ出したんだ。居場所を知られたと知ったら、引っ越されてしまう」 「もっともです。プラトリエール街と仰いましたな? 通りの奥ですか、真ん中ですか、手前ですか?」 「三分の一辺りだ」 「ご安心下さい、一人優秀なのを遣りますから」 「優秀だとしても、口が軽いのでは」 「私どものところは口が堅い者ばかりです」 「一筋縄ではいかない奴なんだ」 「ああ、そういうことでしたか。もっと早くその点に思いいたらなかったことをお許し下さい。私自身で事に当たることをお望みですか……確かに、もっともなことです……その方がよいでしょう……あなたは気づいていないようですが、この件には厄介な点が幾つかありそうですから」  総監が同じ立場に立ちたがっているのを確信しながら、ジャンは有利な立場を手放そうとせず、それどころかこう言った。 「あなた自身にやってもらいたいのも、その厄介な点に理由があるんです」  サルチーヌ氏は呼び鈴を鳴らして従者を呼んだ。 「馬の用意を」 「馬車があります」とジャンが言った。 「ありがたいが、自分のを使いたい。紋章がなく、辻馬車と四輪馬車の間くらいでね。毎月塗り替えさせているので気づかれることはまずない。それはそうと、馬の用意が出来るまで、九つの鬘が頭に合うか確かめさせてもらいますぞ」 「お好きなように」  サルチーヌ氏は鬘師を呼んだ。客に紛れもない鬘を提供してきた芸術家である。ありとあらゆる形、ありとあらゆる色、ありとあらゆる大きさの鬘があった。法官の鬘、弁護士の鬘、収税人の鬘、騎士の鬘。サルチーヌ氏は捜査のために日に三、四回服を替える時があり、目的に適った恰好をするようにことさら気を遣っていた。  二十四番目の鬘を試している最中に、馬車の用意が出来たと告げられた。 「その家をご存じですか?」サルチーヌ氏がジャンにたずねた。 「ここから見えますよ」 「入り口は調べてみましたか?」 「真っ先に考えたことです」 「どうなっていました?」 「並木道です」 「通りの三分の一辺りにある家の並木道ですか?」 「ええ、隠し扉がついていました」 「隠し扉ですか!? お尋ねの青年が何階に暮らしているかご存じですか?」 「屋根裏です。それよりご自身の目でお確かめ下さい。水飲み場が見えました」 「速度を落としてくれ」とサルチーヌ氏が命じた。  御者が速度を落とし、サルチーヌ氏は窓を上げた。 「あの汚い家です」 「ああ、なるほど!」サルチーヌ氏が手を叩いた。「恐れていた通りでした」 「えっ、恐れていたことがあるんですか?」 「ええ」 「いったい何を?」 「あなたも運が悪い」 「説明して下さい」 「いいでしょう、尋ね人が住んでいるあの家、あれはジュネーヴのルソー氏の家なのです」 「あのルソー本人が?」 「はい」 「それで、それがどうしたんです?」 「それがどうしたですって? ああ、要するにあなたは警視総監でもないし、哲学者と関わったこともないんです」 「そうか、ルソーのところにジルベールが。あり得ることだろうか……?」 「その青年が哲学者だとは聞いておりませんが?」 「いや、そうなんだ」 「でしたら、類は友を呼ぶと言いますから」 「ではルソーのところにいると考えてみよう」 「ええ、そう考えてみましょう」 「するとどういうことに?」 「その青年を取り戻すことは出来ないでしょう」 「何故です?」 「何故なら、ルソー氏は恐ろしく手強い人間ですから」 「どうしてバスチーユに放り込まないんです?」 「いつか国王にそう申し上げたことがありますが、勇気ある行動をお選びにはなりませんでした」 「陛下が逮捕を命じようとはしなかった?」 「はい、逮捕の責任を私に委ねようとされたようですが、私が陛下より勇敢なはずもございません」 「それはまあ」 「申し上げた通りです。哲学者に噛みつかれる前に、よくお考え下さい。ルソー氏の家から人を拐かすなど、とんでもない。とんでもありません」 「確かに随分と弱気なようですね。国王は国王ではなく、あなたは警視総監ではないのですか?」 「確かにあなたはたいした人です。あなた方のような一般人と来たら。『国王は国王ではない』という言葉を文字通り信じていらっしゃる。いいですか、子爵。私としてはルソー氏の許からジルベール氏を連れ出すよりも、デュ・バリー夫人の許からあなたを追い出すことを選びますぞ」 「それはどうも! 結構なごひいき痛み入ります」 「あまり大声を出さぬことです。作家という連中がどれだけ感じやすいか、あなたはわかってない。ただのかすり傷を負っただけで、車責めの刑に処されたように悲鳴をあげる連中です」 「だが幽霊を相手にしているわけじゃない。ルソー氏がジルベールを住まわせていることは間違いないのでしょうね? この五階建ての家はルソーのものなんですか、住んでいるのはルソーだけなんですか?」 「ルソー氏には財産がありませんから、パリに家は持っておりません。恐らくほかにも二十人ほど借り手がいるのではないでしょうか。何にしても、行動する際にはこういう心がけをお忘れなく。不運に見舞われそうな時にはそのことをよく考えて下さい。幸運な際には考える必要はありません。どんな場合でも九十九の不運に対して、幸運は一つしかないのです。しかし話が逸れましたな。こういう事態を見越して、覚書を持って参りました」 「覚書とは?」 「ルソー氏に関する覚書です。ルソー氏が行き先も知られずに行動できるとお思いでしたか?」 「なるほど。そうすると極めて危険な人物なのですね?」 「そういうわけではありませんが、注意はしております。ああした気違いはいつ何時腕や足を折るとも限りませんし、そうなれば折ったのは私たちだと言われるでしょうから」 「一度くらい首をひねればいいんだ」 「どうかそうなりませんように!」 「言わせてもらえばまったく理解できませんね」 「世間の連中はあの実直なジュネーヴ人に時々石を投げます。ですが連中はそれを独り占めしておいて、我々が石を投げようものなら、それがどんな小さな飛礫であっても、今度は石を投げられるのは我々なのです」 「そういう事情とは知らずに失礼しました」 「ですから用心に用心を重ねるにしくはありません。取りあえずは私たちに残された唯一の可能性を確かめておきましょう。ルソー氏のところにはいないという可能性です。あなたは馬車に隠れて下さい」  ジャンが言う通りにすると、サルチーヌ氏は御者に命じて馬車を少し進ませた。  それから紙入れを開いて紙を何枚か取り出した。 「その青年がルソー氏のところにいるとすれば、何日からでしょうか?」 「十六日からです」 「『十七。ルソー氏は朝の六時にムードンの森で植物採集をしているところを目撃される。一人。』」 「一人ですか?」 「続けますよ。『同日、午後二時、再び植物採集、若い男が一緒。』」 「へえ!」 「若い男が一緒」とド・サルチーヌ氏は繰り返した。「おわかりですか?」 「そいつだ、畜生!」 「間違いありませんか? 『みすぼらしい若者である。』」 「あいつだ」 「『がつがつしている。』」 「あいつだ」 「『二人はそれぞれ植物を摘み、ブリキの箱に漬けた。』」 「あの野郎!」 「まだございます。『その晩、ルソー氏は若者を連れて帰った。深夜、若者は家から出てこなかった。』」 「なるほど」 「『十八。若者は家から立ち去らず。ルソー氏のところに腰を落ち着けたと見られる。』」 「まだ希望はあるさ」 「まったく楽天家ですな! いいでしょう、その希望とやらをお聞かせ願えますか」 「その家に親戚がいるのかもしれない」 「なるほど! 吉報に違いありません。むしろ凶報だと思いますがね。よし、止めろ!」  サルチーヌ氏が馬車を降りた。少し離れたところに灰色の服を着た目立たない恰好の男がいた。  男はサルチーヌ氏を見ると帽子を取り、また戻した。目には敬意と忠誠心が燃えていたものの、その挨拶には仰々しいところは微塵もなかった。  サルチーヌ氏が合図をすると男が近づき、耳を垂れて幾つか命令を受けると、ルソー家の並木道に姿を消した。  警視総監は馬車に戻った。  五分後、灰色服の男が再び姿を見せて馬車に近づいて来た。 「俺は右を向いてますよ」とデュ・バリー子爵が言った。「そうすれば姿を見られない」  サルチーヌ氏は微笑み、報告を聞いてから部下を帰した。 「どうでした?」 「そうですね、恐れていた通り、運は向いていませんでした。ジルベールが泊まっているのはルソー家です。どうか諦めて下さい」 「諦める?」 「はい。気まぐれ一つのためにパリ中の哲学者を呼び寄せたくはないでしょう?」 「そうか、ジャンヌが何と言うかな?」 「というと、ジルベールがお気に入りなのですか?」サルチーヌ氏がたずねた。 「もちろんです」 「でしたら、後は穏やかな手段を用いるべきです。ルソー氏を説得して下さい。そうすればジルベールを攫わずとも、向こうから引き渡してくれるでしょう」 「熊を飼い慣らす方がましですね」 「恐らくあなたが考えているほど難しくはありませんよ。諦めないことです。可愛い方には弱い人ですから。伯爵夫人のお顔は大変お美しいし、マドモワゼル・ションも悪くありません。伯爵夫人には犠牲を払うおつもりはありますか?」 「幾らでも払うつもりです」 「ルソーの恋人になるお覚悟は?」 「それが不可欠とあらば」 「役に立つはずと考えております。ですが当の二人を引き合わせるには橋渡し役が要ります。ルソーの知り合いをご存じではありませんか?」 「ド・コンチ公」 「いけません。ルソー氏は貴族を信用していないのです。一般人や学者、詩人がいい」 「そんな知り合いはいませんね」 「伯爵夫人のところでド・ジュシュー氏にお会いしたことがありましたが?」 「植物学者の?」 「そうです」 「そうか、そうですね。伯爵夫人がトリアノンで花壇をいじらせていました」 「それはあなたの方で。ジュシューは私の友人です」 「すると、上手く行きそうですね?」 「と言っていいでしょう」 「ではジルベールはこっちのものだと?」  サルチーヌ氏はしばし考えた。 「そう思い始めて来ました。暴力沙汰にも怒鳴り合いにもならずに、おとなしくしているジルベールを引き渡してくれるでしょう」 「そう思いますか?」 「大丈夫ですよ」 「どうすればいいんです?」 「たいしたことではありません。ムードンかマルリーに空いている土地をお持ちではありませんか?」 「それならいくらでも。リュシエンヌとブージヴァルの間に十箇所はありますよ」 「結構! そこに建てさせましょう……何と言いますか……哲学者取りを」 「何ですって? 何と仰いました?」 「哲学者取りと申し上げたのです」 「面白い! どんな建物になるんですか?」 「計画をお話ししますから、どうか落ち着いて下さい。もう移動しましょう、ここでは目立ちます。御者、ホテルに行ってくれ」 第六十四章 王太子殿下の婚礼の晩にフランス王家の教育係ド・ラ・ヴォーギヨン氏に起こったこと  物語作者にとって物語の山場とは、旅行家にとっての高峰である。目の当たりにして辺りを見回し、挨拶をして通り過ぎるが、越えることはない。  そういうわけだから、ヴェルサイユで催される王太子妃の婚礼を眺め、迂回し、挨拶を送ることにしよう。フランスの儀式は似たような先例に倣った変わらないものばかりである。  そもそも我々の歴史は、ルイ十五世のヴェルサイユの輝かしさや、宮廷服・お仕着せ・祭服の様子にはない。その控えめな侍女が、フランス史の大通り沿いに寄り添う小径を通って、何かを見つけることだろう。  五月晴れの日光の許で行われた儀式が終わったのはまた別の話である。著名な招待客たちが声もなく退出し、目にしたばかりのきらびやかな光景を話して聞かせたり論評したりしたのもまた別の話である。我々としては、我らが事件と登場人物に戻ろうではないか。歴史的に価値のある話に。  国王は儀礼的なやり取り、それも正餐に飽きていた。随分と長かったうえに、ルイ十四世の王太子の婚礼正餐式と変わるところがなかったのだ。九時に部屋に戻ると人払いをし、残ったのは教育係のド・ラ・ヴォーギヨンだけであった。  イエズス会の味方であるこの公爵、デュ・バリー夫人の協力のおかげもあって、ド・ベリー公が結婚したことで務めの一部を果たしたと考えていた。  大変なのはこれからだ。まだド・プロヴァンス伯とダルトワ伯の教育を終える仕事が残されている。当時、十五歳と十三歳。プロヴァンス伯は腹黒く反抗的。ダルトワ伯は軽薄で反抗的。そのうえ王太子は、お人好しなうえに貴重な生徒であり王太子、すなわち国王の跡継ぎたるフランスの第一人者であった。だからそうした性格に及ぼす影響力を妻が手にしてしまえば、ラ・ヴォーギヨン氏は影響力を失うことによって大きなものを失うことになるはずだった。  国王から残るように声をかけられて、陛下もこの喪失感を察して何らかの褒美で埋め合わせをするつもりだのだ、とラ・ヴォーギヨン氏が考えてもおかしくはない。教育が終われば教育係が褒美を受け取るのはよくあることだからだ。  というわけで感動屋のラ・ヴォーギヨン公はことさら感動屋になっていた。正餐の間中ハンカチで目頭を押さえ、生徒を失う悲しみに暮れていた。デザートが済むと泣きじゃくっていたが、一人になったことに気づいてようやく落ち着いて来たところだった。  それが国王に呼ばれたためにまたもやポケットからハンカチを取り出し、目には涙が浮かび出した。 「ここへ、ラ・ヴォーギヨン」長椅子で寛いでいた国王が言った。「話をしようではないか」 「陛下の仰せのままに」 「さあ坐りなさい。疲れているのだろう」 「坐っても?」 「ああ、無礼講だ」  ルイ十五世は腰掛けを指した。教育係の顔にまっすぐ光が当たり、国王の顔は影になるような場所に置かれていた。 「どうだね、これで教育も終わりだ」 「はい、陛下」  ラ・ヴォーギヨンは溜息をついた。 「素晴らしい教育だったぞ」 「陛下のお力でございます」 「そなたがよくやってくれた」 「陛下のお力添えの賜物です」 「王太子はヨーロッパ王家でも指折りの学者ではないか?」 「さように存じます」 「立派な歴史家だ」 「大変なものでございます」 「地理も申し分なかろう?」 「王太子殿下は専門家の助けを借りずにお一人で地図をお作りになれます」 「完璧に出来るのか?」 「ああ、陛下! お褒めに与るのはほかの者でございます。地図作りを教えたのは私ではございません」 「構わぬ。身についているかどうかが問題なのだ」 「それは素晴らしいものです」 「では時計いじりは?……随分と器用ではないか!」 「人並み外れていらっしゃいます」 「六か月前から余の時計がどれもこれも、元に戻れずぐるぐる回る馬車の車輪のように次々に回っておる。王太子しかいじっておらぬのだ」 「それは力学の問題でございます。打ち明けて申しますと、私にはまったく歯が立ちません」 「うむ、だが数学に、航海術は?」 「例えば私がいつも殿下にお勧めしていたのは科学でございます」 「かなり得意なのであろう。ある晩、ド・ラ・ペイルーズと太綱や支檣索、縦帆の話をしておった」 「航海用語ばかりでございますね……ええ、陛下」 「ジャン・バールのような話しぶりだった」 「得意なのは事実でございます」 「だがそれもこれもそなたのおかげだ……」 「身に余るお言葉でございます。私の役目など、王太子殿下が身につけられた貴重な智識の中では、取るに足らないものでしかございません」 「王太子は良き王、良き為政者、良き父になるものと、余が心から信じておるのは事実だ……。ところで」と国王は最後の言葉を強調して繰り返した。「王太子は良き父になるであろうか?」 「ああ、陛下」ラ・ヴォーギヨンは一笑に付した。「王太子殿下の心にはあらゆる美徳の種が根づいていて、ほかのもの同様に表に現れないだけだと思っております」 「わかっておらぬな。余は王太子が良き父になるかどうかたずねておるのだ」 「陛下、私もよくわかりません。いったいどういう意味でおたずねになっているのでしょうか?」 「どういう意味で、と申すのか……聖書を読んだことがないわけではあるまい?」 「無論、読んでおります」 「族長はわかるであろうな?」 「わかります」 「王太子は良き族長になるであろうか?」  まるでヘブライ語で話しかけられたような顔をして、ラ・ヴォーギヨンは国王を見つめた。手の中で帽子をもてあそんだ。 「陛下、偉大な王こそ殿下の目指すべきものでございます」 「待ってくれ、やはりすれ違っているようだ」 「陛下、ですが私も精一杯やっております」 「いや、もっと単刀直入に言おう。そなたは我が子のように王太子のことを知っておるな?」 「もちろんでございます」 「あれの好みも?」 「はい」 「あれの情熱も?」 「情熱については別の話でございます。殿下が情熱をお持ちであれば私がすっかり引き出していたところですが、幸いにも心を痛めずに済みました。殿下には情熱はございません」 「幸いと申すのか?」 「幸運ではございませんか?」 「つまり情熱を持たぬというのだな?」 「さようでございます」 「まったく?」 「まったく、と申し上げます」 「そうか、余が恐れていたのはそのことだ。王太子は良き王になろう、良き為政者にはなろう、だが良き族長になることはなかろう」 「しかし陛下、王太子殿下に家父長制を学ばせよとは、陛下は一言も仰いませんでした」 「それが間違っていた。いつか結婚するのだということを考えるべきだったのだ。だが情熱がないというのに、そなたは王太子を叱らなかったのか?」 「と言いますと?」 「いずれ情熱を持つことが出来ないとはまったく思わなかったのかと尋いておるのだ」 「恐れてはおりました」 「何だと、恐れていた?」 「陛下、どうかお責めになりませぬよう」 「ラ・ヴォーギヨン」苛立ち始めた国王が声をあげた。「はっきりと尋こう、情熱があろうとなかろうと構わぬ、ベリー公は良き夫になれるのか? 父としての資格はこの際放っておく、族長についても問わぬ」 「それは申し上げることの叶わぬことです」 「言えぬことだと?」 「はい、陛下。私にはわかりかねることでございますゆえ」 「わからぬと申すのか!」ルイ十五世が唖然としてあげた叫びに、ラ・ヴォーギヨンの頭の上で鬘が揺れた。 「ベリー公は子供らしく無心にものを学びながら陛下の屋根の下でお育ちになりました」 「その子が今は学ぶのではなく結婚するのだ」 「私は殿下の教育係でしたが……」 「だからこそだ、あれは知らなくてはならぬことを学ばねばならぬ」  ルイ十五世は肘掛に身体を預けて肩をすくめた。 「薄々わかっておった」と言って溜息をついた。 「ああ、陛下……」 「そなたはフランスの歴史を知っておるな、ラ・ヴォーギヨン?」 「そのつもりでおりましたし、これからもそのつもりです。陛下に禁止を申し渡されない限り」 「では余に起こったことを知っているはずだ。婚礼の夜のことだ」 「生憎と存じませぬ」 「何だと! では何も知らぬのか?」 「差し支えなければ私が知らずにいたその点をお聞かせ願えますか?」 「よいか、これは残り二人の孫に教えて欲しい」 「かしこまりました」 「余も王太子と同じように祖父の屋根の下で育てられた。ド・ヴィルロワは実直な男であったが、そなたと同じくあまりにも実直すぎた。ああ、叔父の摂政公のもとでもっと自由にさせてもらっておれば! だがそなたの言うように、無心にものを学んでいると、無心を学ぶことは眼中に入らなかった。それでも余は結婚したし、国王の結婚とは万人にとっての大事なのだ」 「わかって来た気がします」 「それはありがたい。では続けるぞ。枢機卿が余の族長としての素質を調べさせたところ、皆無であった。フランス王国が女の手に委ねられてしまうのではないかと心配されるほど、その点に関しては余は無邪気であったのだ。幸いなことに枢機卿はその点についてド・リシュリュー殿に相談した。微妙な問題であったが、リシュリュー殿はそうした件の大家だった。リシュリュー殿には素晴らしい考えがあった。ルモールかルムールかよく覚えておらぬが、素晴らしい絵を描くご婦人がいて、そのご婦人に一続きの景色を描かせたのだ。わかるか?」 「わかりませぬ」 「何と言えばよいのか、素朴な風景だ」 「ではテニールスの絵のような画風でしょうか」 「違う、もっとその、原始的なのだ」 「原始的?」 「あるがままの……ようやくぴったりの言葉が見つかった。これでわかったか?」 「まさか!」ラ・ヴォーギヨンは赤面して叫んだ。「陛下にお見せしたのですか……?」 「余が何か見せられたと何故わかる?」 「ですが陛下がご覧になるためには……」 「陛下は見なければならなかった。それで充分だ」 「では?」 「それで、余は見た」 「そして……?」 「人はみな物真似師……余も真似たのだ」 「確かにその方法は妙案ですし、確実で見事なものですが、若い人間には危険ではありませんか」  国王はラ・ヴォーギヨンを見つめた。笑みを浮かべたのがこれほど智的な口でもなければ破廉恥と言われかねない笑みを浮かべていた。 「今は危険は放っておいて、やらねばならぬことに戻ろう」 「はあ」 「わかるか?」 「わかりません。教えていただけるとありがたいのですが」 「こういうことだ。王太子を捜しに行くと、王太子は貴族たちから最後の挨拶を受け、王太子妃は貴婦人たちから最後の挨拶を受けているはずだ」 「はい、陛下」 「そなたは蝋燭を持って王太子だけを連れ出すのだ」 「はい、陛下」 「そなたの生徒に伝えるのだ」国王は「そなたの生徒」という二語を強調した。「部屋は新しい廊下の端にあると」 「鍵を持っている人間がおりません」 「余が預かっておる。今日の日が来るのを見越しておった。鍵はここだ」  ラ・ヴォーギヨンは震えながら鍵を受け取った。 「そなたには言っておこう。その回廊には二十幅の絵を並べさせておいた」 「おお、陛下」 「うむ。そなたは生徒を抱きしめ、廊下の扉を開けてやり、手に蝋燭を持たせて、幸運を祈り、二十分かけて部屋の扉に到達せよと伝えてくれ。絵一つにつき一分だ」 「ああ、わかりました」 「それでいい。ではご機嫌よう、ラ・ヴォーギヨン」 「もうご用はございませんか?」 「余にはよくわからぬ。そもそも、たとい余がいなくともそなたは家族のために立派にやってくれたはずだ」  教育係の前で扉が閉じられた。  国王は私用の呼び鈴を鳴らした。  ルベルが現れた。 「コーヒーを。ところでルベル……」 「はい?」 「コーヒーを持って来たら、ラ・ヴォーギヨン氏の後を追ってくれ。王太子に挨拶をしに行っておる」 「かしこまりました、陛下」 「慌てるな。これからその理由を話すところだ」 「もっともでございます。ですが陛下に対する忠誠のあまり……」 「わかっておる。ではラ・ヴォーギヨンのところに行ってくれ」 「はい、陛下」 「ひどく緊張して物思いに沈んでおるから、王太子に同情を寄せているとも限らん」 「同情されていた場合、私は何をすればよいのでしょうか?」 「何もする必要はない。ただその旨を伝えに来てくれ」  ルベルが持って来たコーヒーを、国王はじっくりと味わい始めた。  やがて従僕は立ち去った。  十五分後、ルベルが戻って来た。 「どうだった?」 「ラ・ヴォーギヨン様は新しい廊下においでで、殿下の腕をつかんでらっしゃいました」 「うむ、それで?」 「ラ・ヴォーギヨン様がポケットから取り出した鍵で殿下が扉をお開けになり、廊下に足をお入れになりました」 「それから?」 「それからラ・ヴォーギヨン様は、殿下に蝋燭を手渡し、小声で耳打ちされていましたが、私に聞こえぬほど小さくはありませんでした。 「『殿下、婚礼の間はこの回廊の端にございます。お渡ししたのはその部屋の鍵でございます。その部屋に行かれるまでに二十分かけるよう、国王陛下はお望みでいらっしゃいます』 「『二十分? だがせいぜい二十秒しかかからないだろうに!』 「『殿下、ここで私の仕事は終わりです。もはや教えられることはございませんが、最後に一つ申し上げることがございます。この回廊の左右の壁をしっかりとご覧下さい。そこに二十分かけるだけの理由があるとお答えしておきます』」 「なるほどな」 「それからラ・ヴォーギヨン様は深々とお辞儀をなさいました。廊下の中まで射抜くような強く熱い視線はいつもの通りでございます。そうして殿下を扉にお通しになりました」 「王太子は中に入ったのだな?」 「どうか陛下、回廊の光をご覧下さいまし。光は十五分ほど前から動き回っていらっしゃいます」 「よし、よし! 光が見えぬ」国王はしばらく窓ガラスをじっと見つめてから言った。「余も同じように二十分もらっていたが、確か五分後には妻のところに行っておったはずだ。どうやら王太子も第二のラシーヌと同じく、『偉大な父の卑小な息子』と言われることになりそうだ」 第六十五章 王太子殿下の婚礼の夜  王太子は婚礼の間、いやその手前にある控えの間の扉を開けた。  大公女は白い化粧着を身にまとい、金箔の寝台の上で王太子を待っていた。華奢でほっそりとした身体はほとんど沈んでいない。奇妙なことだが、表情を読むことが出来たならば、その顔を覆っている憂いを通して、新婦の甘い期待ではなく、乙女の恐怖に気づいたはずだ。神経が高ぶって不安を感じるかと思えば、それを抑えるだけの勇気が高じたりしていた。  寝台のそばにはド・ノアイユ夫人が坐っている。  退出を促そうとする合図を侍女からされても、貴婦人たちはしっかりと居坐っていた。  作法に忠実な侍女は、平然として王太子のお着きを待っていた。  だが今回ばかりはあらゆる作法がまずい状況に嵌ってしまったらしく、婚礼の間に王太子を手引きしなくてはならない人々が、ルイ十五世の計画に従って殿下が新しい廊下からやって来ることを知らずに、別のところにある控えの間で待っていた。  王太子が入った部屋には何もなく、寝室に通ずる扉がわずかに開いていたため、その部屋で起こっていたことを見聞きすることが出来た。  王太子はそこに留まったまま、ひそかに眺めて耳をそばだたせた。  王太子妃の声が聞こえる。震えがちではあったが美しく澄んだ声だった。 「王太子殿下は何処からいらっしゃるのかしら?」 「この扉からでございます」とノアイユ公爵夫人が答えた。  ノアイユ夫人が指さしたのは、王太子がいるのとは反対側の扉だった。 「その窓から何か聞こえませんか? 海鳴りかしら?」 「あれは花火を待つ見物客が、照明の下を歩きまわっている音でございます」 「照明?」王太子妃が悲しげに微笑んだ。「今夜ばかりは無駄ではありませんね。天はお嘆きですもの。見ましたか?」  その時、待つのに飽きた王太子が扉をそっと押して、隙間から顔を覗かせ、入ってもいいかどうかたずねた。  すぐには王太子だとわからずに、ノアイユ夫人が悲鳴をあげた。  何度も心を揺るがされ神経を高ぶらせていた王太子妃は、ノアイユ夫人の腕をつかんだ。 「私ですよ、怖がらないで」と王太子が言った。 「ですが何故その扉から?」ノアイユ夫人がたずねた。 「何故なら」と、今度は国王ルイ十五世が臆することなく扉の隙間から顔を出した。「もっともらしいド・ラ・ヴォーギヨンは、ラテン語、数学、地理には詳しくとも、ほかのことには疎いからだ」  不意に国王が現れたため、王太子妃は寝台から滑り降りて化粧着のまま立ち上がった。ローマ人のストーラのように首から足許まですっぽりと覆われている。 「確かに痩せている」とルイ十五世は呟いた。「ド・ショワズールの奴が大公女の山から選んで見せたのがこの姫か!」 「陛下」とノアイユ夫人が言った。「陛下もお気づきかと存じますが、私共といたしましては、作法をきちんと守って参りました。違えたのは王太子殿下の方でございます」 「こちらが作法を破っておる。確かに非礼を働いたのは余の方だ。だが状況が状況ゆえ、大目に見てもらいたい」 「お言葉の真意がわかりませぬが?」 「我らはおいとましようではないか。そのことで話がある。さあ、子供たちは寝る時間だ」  王太子妃は寝台から一歩後ずさり、またも怯えてノアイユ夫人の腕をつかんだ。 「お願いです、恥ずかしくて死んでしまいそうです」 「王太子妃殿下、どうか庶民のおかみさんのようにお寝み下さいませ」 「おやおや、エチケット夫人のあなたがそんなことを?」 「フランスのしきたりに背くことは重々承知しております。ですが大公女をご覧下さい……」  それもそのはず、マリ=アントワネットは顔を真っ青にして、倒れまいとして椅子の背にしがみついていた。顔に冷たい汗がしたたり、歯の鳴るかすかな音が聞こえなければ「恐怖」の女神像かと思われるほどだ。 「こんなに王太子妃を困らせるつもりではなかったのだが」とルイ十五世が言った。ルイ十四世が作法の熱烈な信者だったのと同じくらいに、ルイ十五世は作法を嫌っていた。「では行こうか、公爵夫人。なんなら扉には錠がついているから、もっと面白くなるだろう」  王太子は祖父の言葉を聞いて赤面した。  王太子妃にも聞こえてはいたが、言われたことがよくわからなかった。  ルイ十五世は王太子妃に口づけし、ノアイユ公爵夫人を連れて、からかうように笑いながら、部屋を後にした。陽気な笑いについていけない人々にとっては随分と嫌な笑いだった。  ほかの同席者も別の扉から出て行った。  二人の若者だけが残された。  しばし沈黙が訪れる。  だがやがて若き王子がマリ=アントワネットに近づいた。心臓が激しく脈打ち、胸とこめかみと手の動脈に、若さと愛情に猛った血潮が流れ込んだ。  だが祖父が扉の陰から臆面もなく婚礼の床にまで視線を潜り込ませているのに気づいて、ひどく内気で生来不器用な王太子はいっそう震え上がった。 「マダム」大公女を見つめながらたずねた。「大丈夫ですか? 随分と顔色が悪いし、震えているようですが」 「殿下、包み隠さず申しますと、どういうわけか心が乱れております。激しい嵐があったに違いありません。わたしを脅かす恐ろしい嵐が」 「では私たちが嵐に脅かされているとお思いなのですか」 「ええ、間違いありません。身体中が震えておりますもの」  なるほど大公女の身体は電気を帯びたように震えているらしかった。  その時、予感を裏打ちするかのように、海に海を重ね山をかすめて吹く一陣の暴風が、嵐の前触れのように、宮殿を怒号と恐怖と軋みで満たした。  枝からむしり取られた葉、幹からもぎ取られた枝、土台から引き剥がされた彫像、庭に散らばった十万人の目撃者から生じる長く大きなどよめき、回廊や廊下を走り抜ける果てしない悲痛な呻き、そうした諸々のものが、未だかつて人間の耳を震わせたことのないような野蛮で悲痛な調べを奏でている。  呻きの後にはガラガラと鳴る不吉な音が続いた。粉々に割れた窓ガラスが階段や庇の大理石に落ちているのだ。それは宙に舞い、キーキーと不様で気に障る音を立てながら落ちて行った。  風は鎧戸の錠も奪い取ってしまい、締まりを解かれた鎧戸が城壁に打ちつけられて、巨大な夜鳥の翼のように羽ばたいていた。  窓の開いた場所では例外なく、風に襲われて明かりが消えた。  王太子が窓に近づき、恐らくは改めて鎧戸を閉じようとした。だが王太子妃がそれを止めた。 「お願いです、その窓を開けないで下さい。蝋燭が消えたら怖くて死んでしまいます」  王太子は動きを止めた。  閉じたばかりのカーテン越しに、庭の木々がぎしぎしと梢を揺らしているのが影になって見えた。まるで目に見えない巨人が闇の中で幹を揺らしているようだ。  明かりという明かりが消えた。  と、攻撃を仕掛ける軍隊のように、黒い雲の大群が空に渦巻いているのが見えた。  王太子は窓の錠に手を押しつけたまま、青ざめて立ち尽くしていた。王太子妃は椅子に坐り込んで溜息をついた。 「怖いのですか?」王太子がたずねた。 「ええ。でもあなたがいれば安心できます。それにしてもひどい嵐ね! 明かりがすっかり消えてしまった」 「南南西の風ですね。風がさらに強くなる印です。そうなったらどうやって花火を打ち上げるのだろう」 「誰のために打ち上げるというんですの? こんな天気の中で庭に居残る人などおりませんわ」 「ああ、あなたはフランス人というものをご存じない。花火が大好きなんです。綺麗ですよ。花火師から予定は聞いております。ほら! やはりそうです、一発目が打ち上げられました」  なるほど蛇のような尾を引いて、前触れの花火が空に上っていた。それに合わせて負けじと嵐も光を燃やしたかの如く、天が裂けたように稲光が一閃し、花火の間を擦り抜け、その青い火花で花火の赤い火花を彩った。 「いけません」と大公女が言った。「主と競うだなんて不遜なことは」  前触れの花火が真っ赤に燃えていたのはわずかの間だった。花火師が慌てて最初の一組に火をつけると、それは喝采をもって迎えられた。  だが天と地の間に争いがあったかのように、即ち大公女の言葉通り人間が神に不敬を働いたかのように、機嫌を損ねた嵐はその広々たるどよめきで見物人のどよめきを掻き消すと共に、空の滝口を開き、激しい雨が雲の上から叩きつけるように落ちて来た。  風が明かりを消したように、雨が花火を消した。 「残念だ! 花火がないとは!」  マリ=アントワネットが痛ましげに答えた。「わたしがフランスに来てからないものなどなかったでしょうか?」 「どうしたんです?」 「ヴェルサイユをご覧になりました?」 「それはまあ。ヴェルサイユが気に入りませんでしたか?」 「それはヴェルサイユがルイ十四世が残した通りの状態であれば、心にも適いましょう。でも今のヴェルサイユはどうでしょう? 何処も彼処も死と荒廃だらけ。だから嵐もお祝いに協力してくれたんです。荒れた宮殿を嵐が隠してくれたのは結構なことじゃありません? 草の生い茂った並木道や、泥だらけのイモリや、水の涸れた泉や腕のもげた彫像を、夜の闇が隠してくれるのは好都合ではありませんか? 南風よ吹けばいい。嵐よ唸れ。厚い雲を積み上げて、フランスが皇帝の娘に施したおかしな歓迎をありとあらゆる目から隠してしまえばいいんです。皇帝の娘が未来の王の手に手を合わせたその日に!」  王太子は目に見えてまごついていた。この非難にどう答えてよいのかわからなかったのだ。とりわけ熱に浮かされたような憂いには性が合わず、今度は王太子が深い溜息をつく番だった。 「きついことを言ってしまいました。でも思い上がりからこんなことを言っているとは思わないで下さい。絶対にそんなことはありません。これまでにいろいろ拝見させていただきましたけれど、陽気で木陰があって花が咲き乱れていたのはトリアノンだけだったのに。それなのに嵐が情け容赦なく木々の葉を吹き飛ばし、水面を揺らすのです。あの素敵なお家が気に入っていたのに。嵐は嫌いです、若さを脅かすようで。なのにこの暴風雨のせいでさらに廃墟が増えますのね!」  先ほどよりも強い突風が宮殿を揺るがした。大公女はぎょっとして立ち上がった。 「おお主よ! 危険はないと言って下さい! どうか教えて下さい、危険があるなら……怖くて死んでしまいそうです!」 「危険は一切ありませんよ。ヴェルサイユは平たく建てられているので雷は落ちません。落ちるとすれば尖塔のある教会か、ぎざぎざに突き出した小塔でしょうね。電流は尖ったところに引き寄せられやすく、平たいものには寄りつきにくいのはご存じでしょう?」 「まあ、知りませんでした!」  王太子ルイはびくびくと冷え切った大公女の手を取った。  その瞬間、青白い稲光が鉛色と薄紫の光を部屋に満たした。マリ=アントワネットは声をあげて王太子を押しやった。 「どうしたんです?」 「ごめんなさい。青白い稲妻に照らされて、死んだように血塗れに見えたものですから、幽霊でも見たのかと思ったんです」 「それは硫黄火が反射しているんです、説明して差し上げ……」  恐ろしい雷鳴が轟いてこだまがごろごろと尾を引き、高まったかと思うとやがて遠ざかって行った。雷鳴によって説明を中断させられた王太子は、しばらくしてから口を開いた。 「気をしっかり持って下さい。怖がらないで。身体が震えるのは自然なことです。震えるからといって驚く必要はありません。ただし凪と震えは代わりばんこに訪れるものです。凪は震えに掻き乱され、震えは凪に冷まされる。要するにたかが嵐ですよ、よくある自然現象に過ぎません。怯える理由などないではありませんか」 「孤独を怖がったりはしませんわ。でもよりにもよって婚礼の日に嵐になるなんて、わたしがフランスに来てからずっとつきまとっている恐ろしい予兆だとは思わないのですか?」 「何を仰っているのです?」王太子は説明できない恐怖に思わずぎょっとしていた。「予兆ですか?」 「ええそうです、恐ろしく残酷な予兆です!」 「それを教えて下さい。私はこれでも、冷静でしっかり者だと言われています。あなたを脅かしている予兆と戦って勝利を収められるとは光栄です」 「わたしがフランスに足を踏み入れた最初の夜のことです。ストラスブールでわたしが休んだ大きな部屋には、夜だったので明かりが灯っていました。その明かりに照らされて、壁に血が流れているのが見えたのです。それでもわたしは勇気を振り絞って壁に近づき、その赤い色をもっとしっかり確かめようとしました。壁には幼児虐殺を描いたタピストリーが掛けられていました。悲しい目をした絶望が、怒れる目をした殺意が、斧や剣のきらめきが、母の涙や叫びが、末期の溜息が、その壁の至るところを縦横無尽に駆け巡り予言しているようでした。見れば見るほど実感が伴って来るようでした。恐ろしさに震えて、わたしは眠ることが出来ませんでした……どうか教えて下さい、これは悲劇の予兆ではないのでしょうか?」 「太古の女性にとってはそうかもしれませんが、現代の大公女にとってはそうではありませんよ」 「現代は災いに満ちているのではありませんか。母が申しておりました、頭上で燃える天は硫黄と炎と苦しみに満ちていると。だから怯えておりますの。だからどのような虫の知らせも警告だと思ってしまうのです」 「いいですか、我々の坐る玉座を脅かす危険など何一つありませんよ。私たち王族は雲の上で暮らしているのです。雷は足の下、地面に落ちたとすれば、それを落としたのは私たちですよ」 「では予言されたことは何も起こらないのですか」 「何を予言されたのです?」 「恐ろしいことです」 「予言されたのですか?」 「見せられたと言うべきでしょうか」 「見る?」 「ええ見たんです。あの映像は心に深く焼きついております。あのことを思い出して震えない日はありませんし、夢に見ない夜はありません」 「何を見たのか教えてもらうわけにはいきませんか? 沈黙を要求されているのですか?」 「いいえ、何も要求されてはおりませんわ」 「では教えて下さい」 「説明するのは難しいのですが。それは地上に建てられた死刑台のような建物でしたが、その死刑台には梯子の縦木のように二本の棒が取りつけられていて、その縦木の間に刃、庖丁、斧のようなものが渡してあるんです。おかしなことに、わたしの頭がその刃の下にあるのも見えました。刃が縦木の間を滑り、身体から切り離されたわたしの頭が地面に転がり落ちたのです。わたしが見たのはこういう場面でした」 「完全な幻覚ですよ。人に死を与える拷問器具のことならあらかた知っていますが、そんなものは存在しません。だからご安心なさい」 「この忌々しい映像がこびりついて離れないんです。でも出来るだけのことはしてみます」 「きっと出来ますとも」王太子は妻に近づいて言った。「今この瞬間から、愛に溢れた夫がそばを離れずいつも見守っているのですから」  マリ=アントワネットは目を閉じて椅子に身体を預けるがままにした。  王太子がさらに近づいたため、息が頬に当たるのが感じられた。  その時、王太子が入る際に使った扉がそっと開き、好奇に満ちたルイ十五世の眼差しが食い入るように部屋に注がれた。部屋は薄暗く、二本だけ残っていた蝋燭が金の燭台の上で揺れているばかりであった。  老王は口を開いた。どうやら小声で孫を励ますつもりであったらしいが、そこで言葉では表せぬような轟音が宮殿内に響き渡り、今回は稲妻に加えてさらに爆音が聞こえた。と見る間に、緑に彩られた白い光の柱が窓の前に落ち、ガラスというガラスを砕き、露台の下の彫像を打ち砕いた。やがてそれは何もかもを引き裂いた後で天に帰り、流星のように見えなくなった。  部屋に吹き込んだ突風で二本の蝋燭が消えた。怯えた王太子は、眩暈に襲われたようにふらふたと壁際まで後じさり、そのまま壁にへばりついていた。  王太子妃は気を失なったようにして祈祷台の足段に倒れかけたまま、死んだようになってぐったりとしていた。  ルイ十五世は大地が沈んでしまうのではないかとすっかり怯えて、ルベルを従えて誰もいない部屋に戻った。  そうしている間にも、庭や道路や森に散らばり、濃い霧の中をあちこち追いかけていたヴェルサイユやパリの住人たちは、怯えた鳥の群れのように遠くに逃げていた。庭の花を踏みにじり、森の草葉を蹴散らし、畑のライ麦や小麦を踏み荒らし、家屋のスレートや彫刻飾りをぼろぼろにして、さらに被害を拡大させた。  王太子妃は両手を額に押しつけ、泣きながら祈っていた。  王太子は放心したように感情も見せずに、破れた窓から吹きつける雨を見つめていた。床に溜まった青い水たまりが、何時間も止むことのない稲光を映していた。  だがこうした混沌も朝には治まっていた。一日の始まりを告げる光が赤い雲の上から顔を出し、やがて昨夜の嵐がもたらした被害を白日の下に晒すはずだ。  ヴェルサイユはもはやすっかり変わっていた。  地面には大量の水が染み込んでいる。木々は大量の火を吸い込んでいる。そこら中が泥だらけで、雷と呼ばれる燃えさかる蛇に絡みつかれた木々は倒れ、ねじれ、黒焦げになっている。  ルイ十五世は眠ることが出来ぬほど怯えていたが、早朝には一時も離れずにいたルベルに着替えを手伝わせ、あの回廊に引き返した。本来であれば花や水晶や燭台に囲まれるべき絵画が、仄かな鉛色の光に照らされて、恥ずかしげもなく取り繕った顔をしていた。  前夜から数えると三度目になるが、ルイ十五世が婚礼の間の扉を押すと、将来のフランス王妃が祈祷台の上に倒れているのを見て震え上がった。顔は青ざめ、瞳はルーベンスの「マグダラのマリア」のように紫がかっている。気を失ったために苦痛も止まり、夜明けが敬虔な白い化粧着を青く染めていた。  部屋の奥、壁際の椅子の上に、絹靴下を履いた足を水たまりに投げ出して、フランス王太子が坐っていた。妻と同じく青ざめて、同じように悪夢のせいで額に汗を浮かべている。  婚礼の床は国王が見た昨夜と変わらない。  ルイ十五世は眉をひそめた。エゴによって冷え切りながら自堕落によって暖め直されかけていた頭を、感じることのなかった苦痛が焼きごてのように射抜いた。  かぶりを振ると溜息をついて自分の部屋に戻った。夜の間よりも暗く恐ろしくなっているであろう部屋に。 第六十六章 アンドレ・ド・タヴェルネ  続く五月三十日、即ちあの恐ろしい夜の翌々日、マリ=アントワネットによって予言と警告が伝えられたあの夜の翌々日、その日のパリでは将来の国王の結婚式典が祝われていた。そこで住人たちは花火が打ち上げられる予定のルイ十五世広場に向かった。パリジャンはこの物々しい儀式のおまけを馬鹿にしながらも、見過ごしにも出来ないのだ。  適切な場所が選ばれていた。六十万人の見物人がゆったりと回覧することが出来る。ルイ十五世の騎馬像の周りを囲むようにして、広場に来た観客全員が花火を見られるように、地面から十ピエほどの高さに櫓を組んである。  いつもの如く仲間ごとに連れ立ってやって来たパリジャンたちは、花火を真っ先に見るのに好都合な場所を取ろうと、たっぷり時間をかけて吟味していた。  子供たちは樹上に、真面目ぶった男たちは里程標に、女たちは手すりや堀や、流しの投機家たちが間に合わせに設えた演台に上っていた。祭りの日にはその上で、思いの向くまま日の向くままに山を張っているのを見ることが出来る。  午後七時頃、一番乗りの見物人たちに加えて、警邏隊が到着した。  治安の任に当たっているのはフランス近衛聯隊ではなかった。聯隊長ド・ビロン公元帥から申請のあった一千エキュの特別手当を市当局が受理しようとはしなかったのだ。  この聯隊は人々から恐れられてもいたし愛されてもいた。この部隊の一人一人がカエサルや義賊マンドラン扱いされていた。フランス近衛聯隊は、戦場では恐ろしく、任務の遂行に当たっては冷酷に、平時や任務外には盗賊の悪評を着せられていた。勤務中における恐れも疲れも知らぬ見事な行動力には、ご婦人連が顔を輝かせ夫君が嫌な顔をした。だが禁足を解かれて町に混じった時には、前日には慕われていた人々から恐れられ、翌日には守るはずの人々を苦しめていた。  こうしたごろつきや博徒に対する積年の恨みを口実に、フランス近衛聯隊に一千エキュを与えぬことを決めた市としては、同類の集まりの対策には同類で充分だというもっともらしい理屈の許に、ブルジョワ警備隊だけを送り込んだ。  非番のフランス近衛兵が先ほどお伝えした集団に混じり、任務中は厳格だったように今は猥雑に、番小屋の市民として騒ぎを引き起こしていた。銃床や足や肘で押さえ込んだり、或いは聯隊長であるカエサル・ビロンがその夜の兵士に聯隊を召集する権利を持っていたなら、あまつさえ逮捕していたに違いない。  ただで菓子や|菓子パン《パン・デピス》を食べる婦人やブルジョワや商人たちが喚いたり呻いたりして、騒ぎ出していた。六十万人の野次馬がこの場所に集まって来れば、騒ぎはもちろんもっと本格的なものになるだろう。夜八時頃にはルイ十五世広場の上にテニールスの複製画のような場面が、ただしフランス人らしく気取った顔をして賑わっていた。  小僧どもの後から、せっかちな人間や浮浪者たちが場所を取ったりよじ登ったりした。ブルジョワや庶民の後から、貴族や財産家の馬車が到着した。  道順など一切なかった。馬車は思い思いにラ・マドレーヌ街やサン=トノレ街に入り込み、新しい建物にたどり着いた。公邸の窓や露台からは花火がよく見えるので、そこに招待されていたのだ。  招待されていない人々は広場の角で馬車を捨て、歩いて従僕について行き、群衆の中に潜り込んだ。既に人はみっちり集まっていたが、見つける術を心得ている者にとっては隙間とはいつでも空いているものなのだ。  どういう感覚を持っているのか、野次馬たちがでこぼこな地面を夜中にすたすたと歩く術を心得ているのには舌を巻く。ロワイヤル街と名づけられるはずだった道は、幅こそ広いもののまだ未完成で、深い溝があちこち掘られ、その脇には残骸や掘った土の山が出来ていた。この小さな築山の一つ一つに人が群がり、人の波間に聳える高波のようになっていた。  時折、この波に別の波が押し寄せて笑いさざめく人込みの中に倒れ込んだ。まだそこまで混んではいなかったので、倒れても危険がなかったし、倒れてもまた起き上がることが出来た。  八時半頃、それまでは思い思いの方向に向けられていた眼差しが、同じ方向に向けられ、花火の櫓に注がれ始めた。それに伴い、休みなく動いていた肘も、現れてはまた現れる侵入者から場所を守ろうとして、本腰を入れて動き始めた。  ルッジェーリが設計した花火は、花火師トールがヴェルサイユで打ち上げた花火と比較される定めにあった。前々夜の嵐のおかげで競争が容易になってはいたが。ヴェルサイユでは王家の恩恵をあまり受けられなかったことは、パリ中の知るところであった。花火に宛てられたのは五万リーヴル。初日の花火は雨に消され、五月三十日の晩は良い天気であったので、パリジャンたちは始める前からヴェルサイユの隣人たちに対する勝利を確信して浮かれていた。  第一、パリで期待されていたのはトールの新しい評判ではなく古くからのルッジェーリの人気であった。  そのうえルッジェーリの設計には同業者と比べて不安定なところや不確かなところが少なく、極めて洗練された花火造りの意図が際立っていた。この時代の女王である寓意が、それをもっとも優雅な建築学的様式と組み合わせていた。その櫓はヒュメナイオスの古神殿を象っており、これはフランスでは栄光の神殿と共に若さの象徴であった。巨大な円柱が支柱となり、周りを囲っている欄干の角にはイルカが口を開き、後は火花を吐き出す合図を待つだけとなっていた。水瓶の上に厳かに聳えているイルカの正面には、ロワール、ローヌ、セーヌ、ラインの大河があった。誰が何と言おうと、さらにはドイツの流行り歌を信じるならばドイツ人の気持にも反して、断固としてフランスのものであるこの四つの川が、円柱が燃え上がると同時に、水の代わりに青・白・緑・赤の火を吐き出すことになる。  同時に燃え上がるはずの花火のほかの部分には、大きな花瓶をヒュメナイオス神殿の屋上に設える必要があった。  さらに神殿の上にはほかにもいろいろなものを設置しなくてはならない。光り輝く三角錐の先端には丸い地球が付けられ、これはひっそりと燃えた後で色とりどりの火花を出して雷のように破裂するはずだ。  トリの大花火《ブーケ》については、パリジャンが花火を評価するには大花火を措いてほかにないというほど重要で必要不可欠なものだが、ルッジェーリはこれを本体とは切り離していた。川のそば、彫像の後ろ、予備の部品を保管している稜堡の中に設置されており、土台の上、花火束《ジェルブ》の足許に設置され、そのため見晴らしをさらに三、四トワーズ高くすることに成功していた。  パリではこうした細かいことに注意が払われていた。二週間前からパリジャンはルッジェーリと助手たちを感嘆の念を持って見守っていた。薄暗い足場を影のように動き回り、立ち止まっては独特の仕種で導火線を結んだり火薬を確かめたりしていた。  それ故に角灯が花火櫓の屋上に運ばれて、明かりが近づくのがわかると、群衆の間に歓声が湧き起こり、最前列の怖いもの知らずたちが後じさったために、大きなうねりが末端にまで行き渡った。  馬車は続々と到着し、場所をふさぎ始めていた。馬は最後列の見物人の肩に頭をもたせかけ、見物人はその危険な隣人に不安を感じ始めていた。見物人はなおも増え続け、やがて馬車の後ろに人だかりが出来たために、馬車はぎっしり詰まった人込みに取り囲まれて、戻りたくても戻れなくなっていた。割り込んで来るパリジャンの厚かましさに匹敵するのは、割り込まれた際の辛抱強さくらいであろうが、そうして厚かましくもフランス近衛兵、労働者、従僕たちが、岩に乗り上げたように屋上席に上るのが見えた。  大通りの明かりが遠くから人込みの頭上に赤い光を投げかけると、ブルジョワ警備隊の銃剣が稲光のようにきらめき、刈り入れの終わった畑に残された穂のようにまばらに見えていた。  新しい建物の横、現在のホテル・クリヨンとガルド=ムーブル・ド・ラ・クローヌの横には、招待客の馬車が三列に並んでいた。その間を通り抜けられるかどうかには何の注意も払われていなかった。一方は大通りからチュイルリーまで、他方では大通りからシャン=ゼリゼ街まで、三つに折り畳まれた蛇のように曲がりくねっている。  馬車のせいで正門に近づくことが出来ずにいる招待客が、長い馬車の三重の列の間を、ステュクスの縁を彷徨う亡者のように彷徨っていた。騒ぎに疲れ、人込みを恐れ、中でも繻子の靴を履いた着飾ったご婦人たちは、埃だらけの舗道で人波にぶつかってはそのお上品ぶりをからかわれていた。馬車の車輪や馬の脚の隙間に抜け道を探し、擦り抜けられると思えば目的地まで擦り抜けた。こんな時の目的地ほどに怨めしいのは、嵐の中で目指す港くらいではなかろうか。  一台の馬車が九時頃になって到着した。言いかえるなら花火の始まる予定時刻のほんの数分前に、門までの道を掻き分けようとしていた。だがその目論見は、しばらく前からのせめぎ合いの末に、今では無理とは言えぬまでも無謀なことになっていた。四列目が形を取り始めたことで、最初の三列も改めて間を詰め、人込みに苛立った悍馬がちょっとしたことであちこち駆け出し、喧噪や人込みに紛れてはいたものの既に事故を幾つか引き起こしていたのだ。  人込みを掻き分けたこの馬車のバネにつかまって、一人の若者が歩いていた。この若者が移動の便宜を独り占めしているらしいと見て取った人々が、我も我もと奪いかかろうとするのを押しのけている。  馬車が止まると若者は急いで脇に移動したが、バネから手を離そうとはしなかった。こうしておけば馬車の扉越しに盛り上がっている会話を聞き取ることが出来た。  白い服を着て生花の髪飾りをつけた女性が、扉から顔を出した。すぐに怒鳴り声が聞こえた。 「こらアンドレ、田舎じみた真似はするな、そんな風に顔を出すんじゃない! 通りすがりの与太者にいつ口づけされるかわからないというのに。この馬車が人込みの中にいるとは思わぬのか? 川の中にいるようなものだ。ここは水の中、汚れた水だ。濡れないようにしなくてはならん」  若い娘の頭が馬車の中に引っ込んだ。 「ここからは何も見えませんもの。馬が向きを変えてくれたなら、扉越しに見えるでしょうし、窓辺にいるのとほとんど変わらないでしょうに」 「向きを変えてくれ」と男爵が御者に声をかけた。 「無理な相談です、男爵閣下。十人ほど轢いてしまいます」 「そんなもの轢いてしまえ」 「お父様!」 「父上!」フィリップが声をあげた。 「俺たちを轢き殺したがっているのはこの男爵か?」脅すような声が幾つか挙がった。 「わしじゃとも」ド・タヴェルネが身を乗り出して、胸の赤綬を誇示してみせた。  その当時にはまだ大綬や、それに赤綬にも敬意が払われていた。人々は不平を口にしながらも、その勢いは落ちていた。 「待って下さい、父上。ぼくが降りて、通り抜けられるかどうか確かめて来ます」フィリップが言った。 「気をつけて、お兄様。殺されてしまうわ。馬のいななきが聞こえるでしょう?」 「ほとんど遠吠えじゃな」男爵が言った。「わしらも降りよう。邪魔すると言うてくれ、フィリップ、道を開けてくれと」 「パリは変わったんです、父上。主人風を吹かせられたのは昔のこと。今はそれでは上手く行きません。尊厳を貶められたくはないでしょう?」 「だがこの馬鹿どももわしが誰だか知れば……」 「父上」とフィリップが微笑んだ。「あなたが王太子だったとしても、動こうとはしないと思いますよ。特に今は、もうすぐ花火が始まるんですから」 「ではわたくしたちは何も見られないのね」アンドレがへそを曲げた。 「お前のせいだ、支度に二時間以上もかけるからじゃ」 「お兄様、腕を借して下さる? 人波の中に降ろして欲しいんです」 「ああいいとも、お嬢様」アンドレの美しさにつられて何人かが声をかけた。「太ってるわけでもなし、あんたの分くらいの場所は作れるよ」 「いいかい、アンドレ?」フィリップがたずねた。 「お願いします」とアンドレが答えた。  馬車の踏み台をふわりと飛び越えた。 「よかろう。だがわしは花火に興味がない。ここに残っておるぞ」 「わかりました。ぼくらも遠くには行きませんから」  群衆も昂奮に駆られていなければ慎み深く、美という至高の女王の前では常に敬意を表すものである。人々はアンドレと兄に道を開け、家族と石に腰かけていたブルジョワが、妻と娘の間にアンドレの席を空けた。  アンドレは足許に坐ったフィリップの肩に片手を置いた。  後を追って来たジルベールは二人のすぐ側に場所を取り、アンドレをじっと見つめていた。 「坐り心地はいいかい?」フィリップがたずねた。 「ええ、とっても」 「美人は得だね」子爵は微笑んだ。 「ああ、美人! まったくその通りだ!」ジルベールが呟いた。  アンドレにもこの言葉は聞こえていた。だが人込みの誰かが口にしたのだろうと思い、気にも留めなかった。インドの神でも、哀れなパリアが足許に捧げた貢ぎ物にはもう少し注意を払っただろう。 第六十七章 花火  アンドレと兄がベンチに腰かけるとすぐに、最初の花火が雲間を蛇行し、群衆から大きな歓声があがり、その後は誰の目も広場の中央に注がれていた。  最初の花火はルッジェーリの評判に恥じない素晴らしいものだった。神殿の飾りが次第に灯り、やがて火のファサードが姿を見せた。拍手が鳴り渡った。拍手はやがて熱狂的な喝采に変わった。イルカの口と大河の水瓶から炎が吹き出し、色鮮やかな炎の滝となって交わったのだ。  アンドレは無類の絶景に心を奪われ、炎の宮殿の前で歓喜している七十万の魂の一つとなって、感動を隠そうともしなかった。  そのすぐそばで、子供を掲げている荷担ぎの大きな肩に隠れて、ジルベールがいた。アンドレを見つめているのはそれがアンドレだからであり、花火を見つめているのはアンドレが花火を見つめていたからだ。  ジルベールが見ていたのはアンドレの横顔だ。花火が次々と美しい容顔《かんばせ》を照らすのを見て、ジルベールは打ち震えていた。歓声すべてがこの目の先にある素晴らしい存在に、崇拝している至高の女性に向けられたものだと感じていた。  アンドレはパリも人込みも華やかな祭りも見たことがなかった。心を取り囲む新鮮な出来事の数々に、目が眩むのを感じていた。  突然、鮮やかな光がはじけ、川に向かって斜めに飛んで行った。音を立てて爆発したその色とりどりの火にアンドレは見とれていた。 「見て、フィリップ、綺麗ね!」 「まずいな!」フィリップはそれには答えず、不安げな声を洩らした。「あの花火はおかしな方向に飛んでいる。道を逸れて、放物線を描かずに、水平に飛んでいるじゃないか」  群衆のざわめきを感じて不安を口にした直後だった。大花火と予備の花火を置いてある稜堡から、炎の渦がほとばしった。雷鳴を束にしたような爆音が、あらゆる感覚を侵して広場に轟き渡り、間近にいた見物人たちは、散弾でも含まれているような炎に不意に顔を炙られて逃げ出した。 「あらもう終わり、早すぎるわ!」 「違う、トリの大花火じゃない。事故があったんだ。今は静かだが、じきに大波のように騒ぎ出すぞ。行こう、アンドレ。馬車に戻るんだ」 「まだ見ていても構わないでしょう? こんなに綺麗なのに!」 「駄目だ、早く来い。まずいことになる。逸れた花火が稜堡に燃え移ったんだ。あっちはもう大変なことになっている。声が聞こえるだろう? あれは歓声なんかじゃなく、悲鳴だ。急いで馬車に……お願いです、どいて下さい!」  フィリップはアンドレの腰に手を回し、馬車の方に引っ張って行った。騒ぎを聞いた父親も、はっきりしたことはわからないなりに異変を確信し、不安を感じて馬車から顔を出し、子供らの姿を捜した。  時既に遅く、フィリップの懸念は実現していた。一万五千の花火を組み合わせた大花火が破裂し、四方八方に飛び散り、闘牛場の牛を挑発しようとして放たれる火矢のように見物人を追いかけている。  驚き、怯えた見物人たちが、何も考えずに逃げ出した。十万人が後戻りしたために後ろが詰まり、その波がさらに後ろに押し寄せる。花火櫓に火がつき、泣き叫ぶ子供たちを母親が咳き込みながら抱え上げた。警邏隊はあちこち殴りつけ、暴力を用いて人々を黙らせ秩序を回復しようとしていた。様々な要因が重なって、フィリップの言っていた大波が竜巻のように広場の片隅に襲いかかった。フィリップは馬車に戻ることも出来ずに、為すすべもなく波に攫われた。一人一人の力が恐怖と苦痛によって何十倍にも膨れ上がり、一つの大きな力となって何百倍にもなって筆舌に尽くしがたい大波となっていた。  フィリップがアンドレを引きずっていた時、ジルベールも同じ波に巻き込まれていた。だが二十パッススほど進んだところで、ラ・マドレーヌ街を左に曲がって逃げる集団に引き込まれて、大声で喚きながらアンドレから離されて行った。  アンドレはフィリップの腕にしがみつき、昂奮した二頭の馬に牽かれた馬車を避けようとする群衆に取り囲まれていた。威嚇するような猛スピードで馬車が近づいて来る。馬の目から炎が出て、鼻から泡を吹いているように見えた。フィリップは超人的な力を振り絞って身動きを取ろうとした。どうすることも出来ないまま、後ろの人垣が割れ、猛り狂った二頭の馬の顔が見えた。チュイルリーの入口を守る騎馬像のように、馬が前脚を掲げた。フィリップはアンドレの腕を放して道から押しやり、馬を馴らす奴隷のように手前側の轡に飛びついた。馬が棒立ちになった。フィリップが倒れて見えなくなるのを見たアンドレが、悲鳴をあげて腕を伸ばしたが、周りに押しやられ、こづき回され、風に吹かれた羽根のようにふらふらと流された挙げ句に、自分よりも強い抵抗の力にはどうすることも出来なかった。  鬨の声や馬のいななきよりも凄まじい耳を聾するような悲鳴、舗道や死体を踏み砕く車輪の音、燃え上がる櫓の鉛色の火、かっとなった兵士が抜いた剣《サーベル》の不吉な輝き、血塗れの混乱を見渡して橙色の光に照らされながら虐殺を指揮する銅像、それはアンドレの理性を奪い、あらゆる力を消し去るには充分すぎるほど充分すぎた。もっとも、巨人《ティターン》の怪力をもってしても、このような戦いの前では無力であっただろう。あらゆるものに対してたった一人で、ましてや死に挑むのであっては。  アンドレは引き裂くような悲鳴をあげた。兵士が群衆を剣で殴って道を開けた。  剣がアンドレの頭上できらめく。  波をかぶっていよいよ末期を迎えた遭難者のように、「神様!」と叫んでばったりと倒れた。  倒れた時には意識がなかった。  だが直前の叫びを聞いていた人物が、それに気づいて声を拾った。アンドレから離されていたジルベールが、人込みを懸命に掻き分けて近づいて来た。アンドレを飲み込んだ波に飛び込むと、再び浮かび上がって、図らずもアンドレを怖がらせた剣に飛びつき、群衆を殴っていた兵士の喉を締めつけて押し倒した。兵士のそばに、白い服を着た女性が横たわっていた。ジルベールはそれを巨人のように抱え上げた。  その形、その魅力、恐らくはその死体を胸に感じながら、ジルベールの顔が誇りに染まった。崇高な場面、気高い力と勇気! アンドレを背負ったまま人の流れに飛び込んだ。逃げる途中で壁までも突き破りかねない奔流であった。奔流はジルベールとアンドレを支えながら運んで行った。数分の間、ジルベールは歩いた、というよりこうして流された。不意に、障害物で遮られたように奔流が止まった。ジルベールの足が地面に届いた。そこでようやくアンドレの重さを実感し、障害物を確かめようと頭を上げると、すぐそばに家具倉庫《ガルド=ムーブル》があった。この石の塊が肉の塊をばらばらにしたのだ。  一時的に足止めをくらっている間、ジルベールはアンドレに見とれていた。死者のように深い眠りに就いていた。心臓はもはや脈打たず、目は閉じられ、顔は萎れた薔薇のように紫がかっている。  きっと死んでいるんだ。今度はジルベールが叫びをあげる番だった。まずは衣装に、それから手に口づけをした。やがて何の反応もないことにつられて、冷たい顔や動かない瞼の下の両目のふくらみに口唇を押しつけた。真っ赤になって泣きじゃくり、咆吼して、アンドレの胸に魂を送り込もうとした。口づけで大理石も温められるだろうに、死体には何の効果もないのは何故なのだろう。  その瞬間ジルベールは、手の下で心臓が脈打っているのに気づいた。 「助かったんだ!」ジルベールは真っ黒で血塗れの群衆が逃げるのを見ていた。罵り、叫び、溜息、末期の言葉が聞こえた。「生きている! ぼくが助けたんだ!」  生憎なことに、壁にもたれて橋の方を見ていたために、右方がおろそかになっていた。長いこと群衆に阻まれていた馬車の数々が、ようやく足止めを解かれ、動き出していた。御者と馬が大きな眩暈に囚われたように足を早めたために、馬車の前では二万人もの人々が逃げまどい、手足を失い、怪我をして、折り重なっていた。  近くの壁で押しつぶされた犠牲者を見て、人々は本能的に壁に沿って逃げ出した。  ガルド=ムーブルの近くで遭難から救われたと信じていた人々を、この群衆が襲った。何度となく押し寄せる新しい波と死体に溺れながら、ジルベールは柵で出来た空間を見つけてそこに身体を押し当てた。  逃げる人々の重みが壁を軋ませた。  ジルベールは苦しくなって場所を明け渡しそうになった。だが渾身の力を振り絞ってアンドレの身体を抱え、胸に頭を押しつけた。その姿はまるで抱きかかえた少女を窒息させようとしているようにも見えた。 「さようなら!」口づけというよりむしろ服を咬むようにして、ジルベールは囁いた。「さようなら!」  それから目を上げ、最後にもう一度祈りを捧げようとした。  不思議な光景が目に飛び込んで来た。  それは里程標の上に立ち、壁に固定された鉄輪を右手でつかみながら、逃げまどう人々を左手でまとめようとしているように見えた。それは足許を荒海が通り過ぎるのを見下ろしながら、ある時は言葉を放ち、ある時は腕を動かしている一人の男だった。その言葉を耳にし、その動きを目にして、人込みの中ではぐれた人々が足を止め、懸命にもがき、男のところに行こうと躍起になっていた。一方、とうにたどり着いていた者たちは、新たにやって来た人々の中に知り合いを認め、人込みから抜け出すのを手助けして、持ち上げたり支えたり引っ張ったりしていた。こうして身を尽くしている人々の中心にいる人物は、水を分ける橋脚のように先ほどから何とか人波を分け、逃げまどう人々を牽制していた。  地下から湧いて出たように、奇妙な言葉を囀り、おかしな動きを繰り返してもがいていた者たちが、一人また一人と男の許に馳せ参じている。  ジルベールは最後の力を振り絞った。あれが救済なのだ。平和と権力なのだ。花火が消える前の最後の輝きを見せ、男の顔を照らした。ジルベールは驚きの声をあげた。 「ぼくは死んでもいい。でもアンドレだけは! この人なら助けられる」  自らのことなどいとわず、アンドレを両手で抱え上げた。 「ド・バルサモ男爵! アンドレ・ド・タヴェルネを救って下さい!」  その声がバルサモに届いた。聖書の声のように群衆の奥深くから聞こえていた。荒々しい波の上に白い物体が掲げられた。取り巻きの者たちが邪魔するものを薙ぎ払った。ジルベールの細腕に支えられていたアンドレを抱え上げ、牽制を解かれた群衆に押されながら、振り返りもせずに運び去った。  ジルベールは最後に一言伝えようとした。アンドレの代わりに助けを請うた後で、自分のことも頼みたかったのだろうが、アンドレの垂れ下がった腕に口唇を押しつけ、地獄から奪い返したエウリュディケの服を一切れ、力を込めて引きちぎるのが精一杯だった。  この世のものとも思われぬ口づけと最後の別れを済ませてしまうと、もはや死んでもいいような気持だった。それ以上は抗おうともせずに目を閉じて、死んだようになって死者の山の上に倒れ込んだ。 第六十八章 死体の山  嵐の後には静けさが訪れる。ぞっとするような、だが癒すような静けさが。  午前二時頃。パリの頭上を流れる大きな白雲が、青白い月の下でくっきりとした姿を浮かび上がらせていた。でこぼこの地上では不幸なことに、逃げていた人々が溝に落ちて折り重なって死んでいる。  薄い雲に遮られて時折り翳る月光に照らされて、土手端やぬかるみの中に、騒ぎの犠牲者たちの死体が見えた。強張った足、鉛色の顔、手を伸ばしているのは恐怖か祈りのためだろうか。  ルイ十五世広場の中央では悪臭を放つ黄色い煙が櫓の残骸から洩れ、まるで戦場のような光景を見せていた。  荒れ果てた惨劇の現場を人目を忍ぶようにしてちょろちょろと走っていた影たちが立ち止まり、辺りを見回し、小さくなって走り去った。鴉のように獲物に引き寄せられてやって来た、火事場泥棒である。追い剥ぎに失敗した者たちが、仲間から耳寄りな情報を得て、大慌てで死体から盗みを働きに来ていたのだ。それが銃剣を持った兵士たちが押っ取り刀で駆けつけて来たのを見て、しぶしぶながら泡を食って逃げ出した。だが死者の長い列の中で動き回っているのは泥棒と夜警だけではなかった。  角灯を持った者たちだ。或いは野次馬だと思われるだろうか。  それにしても、何と悲しげな野次馬だろう! 果たせるかな、それは帰らぬ縁者や友や恋人を心配する親戚や友人たちであった。遠方の地区から来た人々である。凶報は嵐のような嘆きを乗せてとうにパリ中に広まっていたため、不安のあまり取るものも取りあえず捜しに来たのだ。  災害の跡を見るよりも辛い光景だった。  最愛の人の死体に再会した人々の絶望から、何一つ見つけられずに、物も言わず震えている川にすがるような視線を彷徨わせる人々のやりきれない不審の念まで、青ざめた顔には様々な感情が交錯していた。  死体の多くは既にパリ憲兵隊によって川に投げ込まれていた。過失の責めを負うべき憲兵隊は、恐るべき死者の数をごまかそうとしていたのだ。  人々は救いのない光景の繰り返しにうんざりすると、セーヌ川の水で両足を濡らし、暗い流れに引き寄せられる不安に心を締めつけられたまま、角灯を手に、広場の横の通りを確かめに行った。そこにはたくさんの負傷者が助けを求めて、或いは惨劇の現場からただただ逃れたくて、這いずって来ていた。  不幸にも死体の中に失った友を見つけた者たちは、不意を打たれて呆然とした後で叫びをあげた。惨劇の現場では新たにすすり泣きが生じ、別のすすり泣きに呼応した。  ごく稀に、広場に物音が響く。角灯が落ちて壊れた。生者が死者に無我夢中で別れの口づけを注いだ。  広大な墓地には、また別の物音も聞こえていた。  落ちた拍子に手足を折り、剣で胸を傷つけられ、人に押しつぶされた怪我人たちが、祈るように喘ぎや呻きをあげていた。すわ知り合いかと駆け寄って来た人々が、他人だとわかると立ち去っていた。  だが、広場の端、公園のそばでは、博愛と献身の念に打たれた人々が、救護班を組織している。若い外科医――周囲に散らばった道具を見る限りでは外科医のようだが――その若い外科医が怪我をした男女を運ばせていた。患者に包帯を巻きながら、結果に対する同情よりもむしろ原因に対する怒りの方を露わに口にしていた。  がっしりとした二人の助手によって血塗れの舞台に上げられた外科医が、その行商人の助手たちに向かって絶えず叫んでいる。 「一般人が先だ。怪我もひどいし、身なりも地味だから、すぐにわかるはずだ!」  包帯を巻き終えるたびにこんな言葉が機械的に繰り返されていたが、二度目の叫びに、灯りを手に死体の間をたずね回っていた真っ青な若者が顔を上げた。  額に開いた大きな傷口から赤い血の滴をしたたらせている。片腕は服を二つのボタンで留めて吊ってある。汗まみれの顔からは必死の思いが伝わって来る。  前述したように、医師の言葉を聞いて、この若者が顔を上げた。医師が半ば嬉しそうに眺めている傷ついた手足に、悲しそうな瞳を向けている。 「失礼ですが、どうして患者を選ぶのでしょうか?」  外科医はこの質問に顔を上げて答えた。「私が診なければ、貧乏人を診る人などいないからだよ。金持ちなら引く手あまたではないか! 角灯を下げて道を確かめてみるがいい。金持ちや貴族の代わりに庶民が山と見つかる。神ご自身もうんざりしてしまうに違いない、こんな災難に遭っても、幸運なことに貴族や金持ちは普段通りの犠牲しか払わなかった。千人に一人いればいい方だ」  若者は出血している額の高さまで灯りを上げた。 「ではみんなと同じく怪我をした貴族はぼくだけらしい。馬に蹴られて額が割れて、溝に落ちて左腕を折ってしまったんです。金持ちと貴族は追いかけ回されると言いましたね? でもご覧の通り、ぼくはまだ包帯をされてないんです」 「ご自身の邸があるでしょう、それに……ご自身の医者も。お戻りなさい、歩けるのだから」 「治療して欲しいわけではないんです。妹を捜してるんです、十六歳の女の子ですが、庶民ではないけれど、きっと死んでしまいました。白い服を着て、首に十字を掛けています。ぼくらの邸や医者のことは忘れて、どうか教えて下さい。そういう女の子を見かけませんでしたか?」  若い外科医は堰を切ったように話し出した。その激しさを見れば、こうした思いを長く胸にたぎらせていたのがわかろうというものだ。「私は思いやりにこの身を捧げて生きて来た。苦しんでいる人たちを起き上がらせるために貴族を死の床に放っておくことが、神にも等しい思いやりという掟に従うことになる。今日起きた不幸はすべてあなたがたが原因なんだ。あなたがたの悪習や横暴が原因なんだ。その結果を受け止めなさい。妹さんは見かけていません」  乱暴に言い捨ててから、外科医は作業に戻った。馬車に両足を砕かれた不運な女性が運ばれて来たところだった。 「見るんだ」逃げ出していたフィリップに大声を浴びせた。「金持ちの足を砕こうとして祭りに馬車を突っ込ませるのが庶民だとでも?」  フィリップはあのラ・ファイエットやラメットを生み出した、あの若い貴族階級に属していた。フィリップ自身もこの外科医の口から飛び出した箴言を何度となく口にしていた。それが跳ね返って懲罰のようにフィリップを襲った。  心を砕かれ、救護班から離れて悲しい探索を続けた。やがて苦しみに耐えきれぬように、涙にむせた叫び声が聞こえて来た。 「アンドレ! アンドレ!」  その時フィリップのそばをせかせかと通りかかる人がいた。とうに年老いた人で、灰色の布を纏い、ゆるゆるの絹靴下を履き、右手で杖を突いて、左手には蝋燭を油紙で囲んだ角灯を持っている。  老人はフィリップが呻くのを聞いて、その苦しみを察した。 「可哀相に!」  だが老人がここにやって来たのもフィリップと同じ理由からであるらしく、そのまま通り過ぎた。  それが突然、これほどまでに苦しんでいる人の前を慰めようともせずに通り過ぎたのを咎められたかのように、 「失礼ですが、お邪魔して構いませんか。同じ苦しみに打たれている者同士、倒れないよう互いに支え合いませんと。或いは……あなたならわたしの役に立ってくれるかもしれない。蝋燭が消えかけているところを見ると、もう長いことお捜しのようだ。もしや広場でもっとも悲惨な場所をご存じではありませんか」 「ええ、知っております」 「そうですか! 実はわたしも人を捜しておりまして」 「ではまず溝をご覧なさい。そこで五十人以上が死んでいます」 「五十人ですか! 祭りの最中にそれほどの人が死んでしまったとは!」 「たくさんの人が死んでしまいました! 既に何千という顔を照らして来ましたが、まだ妹は見つかりません」 「妹さんですか?」 「あっちの方でした。ベンチのそばで見失ったんです。見失った場所は見つかりましたが、妹の手がかりは皆無でした。今は稜堡から始めて捜すのをやり直すところです」 「見物人はどちらに向かったのでしょうか?」 「新しい建物の方、ラ・マドレーヌ街の方です」 「では、あちらの方ですね?」 「そうだと思います。ですからまずはあちら側から捜してみたんです。でもあっちはひどく混乱していました。人の波があっちに向かったのは事実です。ですがどうしたらいいかわからずに狼狽した女性なら、逃げようとしてどちらに向かってもおかしくありませんから」 「失礼ですが、妹さんが流れに逆らえたとは思えません。わたしは通りの方から捜すつもりです。一緒にいらっしゃい。二人で協力すれば、見つかるかもしれませんよ」 「ところであなたはどなたをお捜しなのでしょうか? ご子息でしょうか?」フィリップはおずおずとたずねた。 「そういうわけではありませんが、養子といってもいい子です」 「一人で来させたのですか?」 「ああ、もう青年ですから。十八か十九です。自分の意思で行きたがるのを止めることは出来ませんよ。もっとも、これほどの大惨事になるとは思いも寄りませんでした!……そちらの蝋燭が消えてしまいましたね」 「ああ、そうですね」 「一緒にいらっしゃい。これで照らして差し上げます」 「ご親切はありがたいのですが、ご迷惑ではありませんか」 「ご心配は無用です、こちらも捜さなくてはなりませんし。いつもはちゃんと戻って来る子なのですが」老人は通りに沿って進んだ。「ですが今夜は予感のようなものがあって。十一時まで待ったところで、妻が隣人から事故のことを聞きました。きっと戻って来ると信じて二時間待ちましたが、戻って来るのは見えません。何の連絡もないのに眠れるわけもないではありませんか」 「それでは、家の方に行きましょうか?」 「そうしましょう。仰ったように人込みはこちらに移動したはずですから、恐らくあちらに行ったのでしょう。あの子はそれに流されていったに違いありません。何せ風習はもちろん町の通りも知らない田舎者ですから。ルイ十五世広場に来たのも初めてのはずです」 「そうですか! ぼくの妹も地方から出て来たんです」 「これはひどい!」老人は死体の山から目をそらした。 「それでもあそこを捜さなくてはならないんです」フィリップは毅然として死体の山に角灯を近づけた。 「まともに見ることなど出来ません。わたしは凡人です、こんな悲惨な光景など怖くてとても耐えられません」 「ぼくだって怖い。でも今夜のことはいい試練でした。ここに十六、七の少年がいますよ。傷のないところを見ると、窒息したようです。お捜しの少年ですか?」  老人は勇気を振り絞って角灯を近づけた。 「よかった、違います、別人でした。もっと若くて、髪が黒く、青白い顔なんです」 「今夜は誰もが青ざめてますよ」 「おや、家具倉庫《ガルド=ムーブル》の下まで来たんですね。あそこに争った跡がある。あの壁の血、あの鉄柵の布切れ、あの柵の穂先に浮かんでいる服の切れ端をご覧なさい。それに、もう歩く先もありません」 「この辺りです、きっとこの辺りだ、間違いない」フィリップがぼそぼそと繰り返した。 「胸を抉られるようだ!」 「あっ!」 「どうしました?」 「死体の下に白い布が! 妹は白い服を着ていたんです。灯りを貸して下さい、お願いです!」  確かにフィリップは白い布切れを見つけ、それをつかんでいた。片手で灯りを持っていたために、そのまま手を離した。 「若い男の手に握られているのは、女物の服の切れ端です。アンドレの白いドレスとよく似ている……アンドレ! アンドレ!」  フィリップが嗚咽を洩らした。  老人も近づいた。 「あの子だ!」声をあげて腕を広げた。  その悲鳴に、フィリップも注意を引かれた。 「ジルベール!」叫ぶのはフィリップの番だった。 「ジルベールをご存じなのですか?」 「ジルベールをお捜しだったのですか?」  二人の声が重なった。  老人はジルベールの手をつかんだ。冷え切っている。  フィリップはジルベールの胴衣《ジレ》を外し、シャツを脱がし、心臓に手を押し当てた。 「可哀相に!」 「何てことだ!」老人も溜息をついた。 「息をしている! 生きている!……生きています!」フィリップが叫んだ。 「本当ですか?」 「間違いありません、心臓が動いています」 「本当だ! 誰か助けを! 向こうに外科医がいたはずです」 「ぼくらでやりましょう。ついさっき助けを請いましたが、断られたんです」 「手当が必要だ!」老人が激昂した。「ジルベールを医者のところに連れて行くのを手伝って下さい」 「片手しか使えませんが、お手伝いしましょう」 「わたしだって年は取っても、力は出せるはずです。さあ行きましょう!」  老人はジルベールの肩に手を掛けた。フィリップが右腕で両足を抱えて、二人はなおも人々に囲まれている外科医のところまで歩いて行った。 「どうか助けて下さい!」老人が叫んだ。 「一般人が先だ!」外科医は座右の銘を繰り返した。こうした返事をするたびに、周囲の人々から感嘆の呟きが洩れることになるのは本人もわかっているのだ。 「連れて来たのは庶民の男です」老人はかっとなって言ったが、若い外科医のかたくなさに心を打たれ始めていた。 「ではご婦人方の後で」と外科医が言った。「殿方はご婦人よりも痛みに強い」 「瀉血だけでいいんです」老人は言い募った。 「おや、またあなたか!」外科医は老人ではなくフィリップを目にして言った。  フィリップが何も答えないのを見て、何か言わなくてはと老人は考えた。 「わたしは貴族ではありません。一般人です。ジャン=ジャック・ルソーと言います」  医師は驚きの声をあげ、手で人を払った。 「場所を空けるんだ、自然人に場所を! 人類の解放者に場所を! ジュネーヴ市民に場所を!」 「ありがとう」ルソーは感謝を口にした。 「事故に遭われたのですか?」 「わたしではなく、この子なのです」 「ああ、あなたもですか。私と同じく、人類のために行動してらっしゃるのですね」  ルソーは思いがけない上首尾に感動して、ほとんど聞き取れない言葉を呟くことしか出来なかった。  フィリップは憧れの哲学者を目の当たりにして、離れたまま呆然としていた。  ルソーは人の手を借りて、気絶したままのジルベールをテーブルの上に降ろした。  この時になってルソーは外科医を観察した。ジルベールと同じくらいの年齢だが、その顔には若さと呼べるようなところはなかった。黄ばんだ顔には老人のように皺が寄り、たるんだ瞼が蛇のような目を覆い、口は癲癇の発作を起こしたように引きつっている。  袖を肘までまくり、腕を血に染めて、ばらばらの身体に取り囲まれた姿は、痛ましい聖職に勤しんでいる医師というよりは、仕事に励んでいる死刑執行人のようだった。  ルソーの名を聞いた途端、それまでの粗暴さが嘘のようになくなっていた。ジルベールの袖をまくり、腕を紐で縛り、静脈に傷をつけた。  初めこそちょろちょろと流れていたが、すぐに若く澄んだ血が惜しむことなくほとばしり始めた。 「これで助かります。だがしっかりとした手当てが必要だ。胸を押しつぶされている」 「あなたにはお礼をしなくては。それに敬服いたしました。貧しい人たちのためにほかの人たちを排除したことにではなく、貧しい人たちに救いの手を差し伸べたことにですが。人類は皆兄弟なのですから」 「貴族や金持ちもですか?」外科医はたるんだ瞼の下から鋭い目つきを飛ばした。 「貴族も金持ちも、苦しんでいる時は一緒です」ルソーが答えた。 「私はヌーシャテルから近いボードリーの生まれです。あなたと同じスイス人ですから、少なからず民主主義者のつもりです」 「同国人でしたか! スイス人ですか。よければお名前を聞かせてもらえませんか?」 「まだ無名の人間に過ぎません。いつかはあなたのように人類の幸福に人生を捧げられたらと思っていますが、今は勉強中の身です。ジャン=ポール・マラーと言います」 「ありがとう、マラーさん。ですが権利について人々を啓蒙しながら、復讐に駆り立ててはいけません。一度復讐してしまえば、あなた自身が復讐に怯えることになるでしょうから」  マラーはぞっとするような笑みを見せた。 「生きてその日を迎えられたら、その日をこの目で見ることが出来たなら……」  ルソーはこの言葉に含まれた響きを感じ、遠い雷鳴にぎょっとした旅人のようにぎょっとして、ジルベールの腕をつかんで立ち去ろうとした。 「誰か二人、ルソー氏を手伝って差し上げなさい」と外科医が言った。 「俺たちに任せとけ!」幾つもの声が答えた。  ルソーはその中から二人選ばざるを得ず、逞しい使い走りにジルベールを抱えてもらった。  立ち去り際に、フィリップのそばを通りかかった。 「これをどうぞ。もうわたしには角灯は必要ありませんから」 「ありがとうございます」  フィリップは角灯を受け取り、ルソーがプラトリエール街の方へ戻ってゆくのを見届けると、再びアンドレの捜索に戻った。 「可哀相に!」ルソーは振り返って、人込みの中に紛れるフィリップを見ていた。  墓場にこだまする外科医の叫び声を聞きながら、ルソーはぶるぶると震えて歩き続けた。 「一般人だ! 一般人だけだ! 貴族や金持ちなどくたばってしまえ!」 第六十九章 生還  数々の大惨事が次々に起こっている間も、ド・タヴェルネ男爵は奇跡的に危険を免れていた。  当たるものすべてを破壊する圧倒的な力に対し、物理的に抵抗するのは不可能だったが、男爵は冷静に状況を読み、ラ・マドレーヌ街の方に流されてゆく人込みに包まれるように移動していた。  人々は広場の欄干にぶつかり、家具倉庫《ガルド=ムーブル》の角に激突し、道の脇には怪我人や死者がどこまでも連なっていたが、多くの人が死んでいたにも関わらず、男爵は危険を遠ざけておくことに成功していた。  間もなく男女の群れが路上や野外に飛び出し、喜びの声をあげた。  その瞬間タヴェルネ男爵も周りの人々と共に危険から脱していた。  これまでに長々と筆を費やして極めて率直に男爵の性格をお伝えしていなければ、なかなか信じられることではないかもしれない。だがぞっとするような波に揉まれながらも、神よ赦し給え、男爵は自分のことしか考えていなかった。  もともとそれほど優しい質ではないうえに、男爵は行動の人であったので、生命の危機に直面してカエサルの格言を実践に移したのである。為していることを為せ。  だからタヴェルネ男爵が利己的《エゴイスト》だったとは言わぬ。周りに気を遣わなかったとだけ言わせてもらおう。  だが大通りに出て楽に動けるようになり、死から逃れて生に帰り着き、ようやく人心地がつくと、男爵は安堵の叫びに続いてもう一つ叫びをあげた。  二つ目の叫びは初めのものより弱々しかったものの、それ以上に悲痛に満ちていた。 「わしの娘が! アンドレが!」  身じろぎもせず、手を両脇に垂らし、虚ろな目で一点を見据えたまま、離ればなれになった経緯を思い出そうとした。 「お可哀相に!」女が何人か同情の声を囁いた。  男爵を囲むように憐れみの輪が出来たが、声をかけようとする者はなかった。  タヴェルネ男爵は庶民的な感情を解さなかった。思いやりの輪に囲まれるのは居たたまれない。そこで何とか人込みを掻き分けると、見上げたことに、広場の方に足を踏み出した。  だが足を踏み出したのは、人の心にはつきものの父親の愛情から出たとっさの行為だった。それと同時に理性が男爵に働きかけ、男爵はぴたりと足を止めた。  ご希望とあらば、この論理の筋道をたどることにしよう。  まず、ルイ十五世広場に戻ることは不可能だった。圧し合い、死者の山、それに広場から押し寄せる人波、それを掻き分けて進むのはシャフハウゼンのライン滝を遡るのと同じくらいに不可能なことだ。  さらには、神の御手が男爵を人込みの中に戻したとしても、如何にして数万人のご婦人の中から一人の婦人を見つけるというのか? 死から奇跡的に逃れてなお、無駄と知りながらどうしてまたもや危険に飛び込まないのか?  やがて希望が、真っ暗な夜の縁を黄金色に色づかせる光が訪れた。  アンドレはフィリップのそばにいなかったのだろうか? その腕に抱かれ、一人前の男である兄に守られてはいなかったのだろうか?  老いさらばえた男爵であれば、運び去られるのはこれ以上はないほど簡単なことだ。だがフィリップは、情熱的で逞しく生命力に満ち溢れている。鋼のような腕のフィリップ。妹のために尽くすフィリップなら。あり得ない。フィリップなら戦いに臨み、勝ちを収めたに違いない。  男爵は利己主義者の例に洩れず、自分のことは棚に上げて、他人に求めるようにフィリップにもあらゆることを求めていた。利己主義者にとっては、強く優しく勇敢でない人間は利己的な人間であって、いわば宿敵であり競争相手であり敵対者である。恩恵を社会から享受できる権利を掠め取る競争相手である。  そういうわけでド・タヴェルネ男爵は自分の推論に一安心し、フィリップは当然のことながら妹を守ったに違いないとまずは結論づけた。それに、父を助けようとして捜し出すのに少し手間取っているのだろう。だが恐らく、いや確実に、帰り道を見つけ、人込みに酔ったアンドレをコック=エロン街まで連れて行っているはずだ。  そこで男爵はきびすを返し、カプチン修道会街を下って征服《コンケート》広場、別名|ルイ大王《ルイ=ル=グラン》広場、即ち現在の勝利《ヴィクトワール》広場にたどり着いた。  だが邸まであと少しのところまで来ると、歩哨のように門前に立って噂話に興じていたニコルが、声をあげた。 「フィリップ様とアンドレお嬢様はどうなされたんですか?」  早くに逃げのびていた人々が恐ろしさのあまり誇張して伝えていたために、大惨事のことは既にパリ中に知れ渡っていたのだ。 「何だと!」男爵は狼狽えて叫んだ。「二人は戻っておらぬのか、ニコル?」 「とんでもありません、お二人とも見ておりません」 「回り道せざるを得んかったのじゃろう」見込みが外れるに従って、男爵はだんだんと震え出した。  今やニコルやラ・ブリと共に、男爵も通りに留まって待ち続けた。ニコルは悲鳴をあげ、ラ・ブリは天を仰いだ。 「あっ、フィリップ様です」ニコルの声は言葉に表せぬほど怯えていた。フィリップは一人だった。  確かにフィリップだ。闇の中から息を切らせて死に物狂いで走って来る。 「妹はいますか?」戸口をふさいでいる集団を目にして、遠くから声をかけた。 「何じゃと!」男爵は真っ青になって絶句した。 「アンドレ! アンドレ!」近づくに連れてフィリップが声をあげる。「アンドレは何処です?」 「見てないんです。ここにはいらっしゃいません、フィリップ様。ああ、お嬢様!」ニコルが泣きじゃくり始めた。 「それでお前は戻って来たのか?」読者にお見せした男爵の見通しの立て方を思えば、これほど不当な怒りもない。  フィリップは答える代わりにそばに寄り、血塗れの顔と枯れ枝のようにぶら下がっている折れた腕を見せた。 「ああ、何てことだ!」老人は溜息をついた。「アンドレ! わしのアンドレや!」  門に寄せてある石の腰掛けにがっくりと腰を下ろした。 「生死に関わらずきっと見つけ出しますから」フィリップは辛そうな声を絞り出した。  疲れを知らぬフィリップは、来た道を戻った。走りながら、右腕で左腕を上着の中に仕舞い込んだ。人込みの中に戻るには、使えない腕など邪魔になる。斧があれば切り落としていたところだった。  こうしてフィリップは、ルソー、ジルベール、そして外科医のいる悲劇の現場に舞い戻った。もっとも血に染まった外科医の姿は、助けをもたらす救世主というよりは虐殺を指揮した悪魔のようだ。  フィリップは夜の残りをルイ十五世広場を彷徨って過ごした。  ガルド=ムーブルの壁から離れられずにいると、そこでジルベールを見つけた。握り締めていた白いモスリンの切れ端をじっと見つめている。  ついに黎明の光で東の空が白く色づき始めた頃、へとへとに疲れ果てたフィリップは、経験したことのない眩暈に襲われて死体のように血の気を失い、いつ死体の中に倒れ込んでもおかしくなかった。父が期待したように、アンドレはきっと家に戻っているか運ばれているのだと期待しながら、コック=エロン街への帰途をたどった。  遠くから、門前に残して来た人たちが見えた。  今もまだアンドレがいないことに気づいて足を止めた。  男爵の方もフィリップに気づいた。 「どうじゃった?」 「では、妹はまだ帰っていないんですか?」 「残念ながら!」男爵とニコルとラ・ブリが同時に叫んだ。 「何も? 報せも、情報も、希望もないんですか?」 「何一つ!」  フィリップは石の腰掛けに崩れ落ちた。男爵が獣じみた声をあげた。  その時、通りの端に姿を見せた辻馬車が、ゆっくりと近づいて来て、邸の前で止まった。  女が一人、気絶でもしているようにがくりと首を肩に垂らしているのが扉越しに見えた。フィリップはそれを目にするやぎょっとして飛び上がった。  辻馬車の扉が開き、男が降り立った。腕にはぐったりとしたアンドレを抱えている。 「死んでいる!……死んで返されたのか」フィリップががっくりと膝を突いた。 「死んでいるじゃと!」男爵は上手く話せなかった。「本当に死んでいるのですか……?」 「そうは思いませんね」アンドレを抱えている男は静かにそう答えた。「ド・タヴェルネ嬢は気絶しているだけです」 「おお、魔術師殿! 魔術師殿!」男爵が叫んだ。 「ド・バルサモ男爵!」フィリップが囁いた。 「私ですとも、男爵殿。あの恐ろしい混乱の中でタヴェルネ嬢を見分けられたのは僥倖でした」 「いったいどちらで?」フィリップがたずねた。 「ガルド=ムーブルのそばです」 「そうでした」  だがすぐに喜びの表情に疑念の影が差した。 「随分とお時間がかかったのですね?」 「お察し下さい」バルサモは平然として答えた。「妹御のお住まいを存じ上げなかったので、従者に命じて、国王の厩舎近くに住んでいる友人のサヴィニー侯爵夫人のところにお連れしていたのです。ご覧の忠士が力を貸してしてくれました……さあ、コントワ」  バルサモが合図すると、王家のお仕着せを着た男が馬車から現れた。 「この者は国王のお供をしておりましたので、ラ・ミュエットから家までお送りした際にお嬢様のことを覚えておりました。お嬢様が助かったのは美しさのおかげですな。私はこの者に辻馬車に乗ってもらい、ここにお連れする光栄を得ました。この者の名誉に誓って申し上げますが、タヴェルネ嬢はあなたがたが思ってらっしゃるほど危険な状態ではありません」  そう言って恭しく父とニコルの腕にアンドレを返した。  男爵はここで初めて、目の端から涙がこぼれるのを感じた。内心でこのような感情を覚えていたことに驚きはしたが、皺だらけの頬に涙が流れるに任せた。フィリップは自由な方の手をバルサモに向かって伸ばした。 「ぼくの住まいもぼくの名前もご存じですね。感謝の気持に出来ることがあればどうか仰って下さい」 「当然のことをしたまでです。していただくことなどありませんよ」  バルサモはお辞儀をして、家に招じ入れようとする男爵に返事をしようともせずに、立ち去ろうとして足を踏み出した。  だがそこで振り返り、 「そうそう、サヴィニー侯爵夫人の正確な住所をお伝えするのを忘れておりました。フイヤン修道院のすぐそこ、サン=トノレ街の邸です。タヴェルネ嬢がご挨拶をお考えかもしれませんから、それをお伝えしておきます」  こうした弁明、こうした子細、こうした一つ一つの積み重ねに宿る思いやりに、フィリップはもちろん男爵さえ深い感動を覚えていた。 「あなたは娘の命の恩人です」男爵が言った。 「わかっております。誇りに思いますし、嬉しく思います」  そして今度こそ、フィリップの差し出した心づけを拒んだコントワを従えて、バルサモは辻馬車に乗り込み、立ち去った。  その瞬間、バルサモが去ることで失神を解かれたかのように、アンドレが目を開いた。  だがまだしばらくは口も利けず、呆然として目を見開いていた。 「神様!」フィリップが囁いた。「まだ完全ではありません、白痴になってしまったのでしょうか?」  アンドレはその言葉を理解したらしく、首を横に振った。だがそれでも相変わらず口は利けず、忘我の状態にあった。  立ったまま、バルサモが消えた方角に腕を伸ばした。 「もうよい。もうすっかり済んだことだ。フィリップ、アンドレに力を貸してくれ」  フィリップは自由な方の腕をアンドレに貸した。アンドレは反対側をニコルに抱えられて、夢遊病者のような足取りで邸に戻り、館に到着した。  そこでようやく言葉を取り戻した。 「フィリップ!……お父様!」 「わかるのか、ぼくらがわかるんだな!」フィリップが声をあげた。 「もちろんわかりますわ。でもいったい何が起こったのかしら?」  アンドレは再び目を閉じたが、今度は気絶したのではなく、穏やかな眠りに就いたのだった。  ニコルが一人部屋に残り、アンドレの服を脱がして寝台に横たえた。  フィリップが部屋に戻ると、医者が待っていた。アンドレを心配する必要がなくなった時に、ラ・ブリが機転を利かせて呼びに走っていたのだ。  医者はフィリップの腕を診察した。折れてはおらず脱臼だけで済んでいた。医師は巧みに力を込めて、外れていた肩を関節に嵌め直した。  それが終わると、先ほどから気を揉んでいたフィリップは、医師をアンドレのところに連れて行った。  医者はアンドレの脈を診て、呼吸を聞き、笑みを浮かべた。 「子供のようにぐっすりと眠っていらっしゃいます。眠らせておきましょう。ほかに出来ることはありません」  男爵は息子と娘の無事を確認して、ぐっすりと眠っていた。 第七十章 ド・ジュシュー氏  さてド・サルチーヌ氏が部下を送り込んだあのプラトリエール街の家に戻ると、五月三十一日の朝、テレーズの部屋の寝台《マットレス》に伸びているジルベールをご覧いただけよう。テレーズとルソーは隣人たちと共に、今もなおパリ中を震え上がらせているあの大惨事の痛ましい証人を見つめていた。  青ざめて血にまみれたジルベールは、目を開いていた。意識を取り戻すと身体を起こして辺りをきょろきょろと見回した。まだルイ十五世広場にいるものと勘違いしているようだ。  初めは不安に、次いで喜びに顔が染まった。だがすぐに悲しみの影がまたも喜びを消し去った。 「大丈夫ですか?」ルソーがいたわるように手を握ってたずねた。 「誰が助けてくれたんです? この世に僕のことを気に掛けてくれる人がいたなんて!」 「あなたを助けたのは、あなたがまだ生きていたからですよ。あなたのことを気に掛けてくれたのは、あらゆる人間のことを気に掛けて下さるお方ですとも」 「どっちにしても無謀だよ」テレーズがぶつくさ言った。「あんなにごった返したところに行くなんて」 「まったくだ、無謀にもほどがある!」隣人たちが声を揃えた。 「まあまあ、皆さん」とルソーが割って入った。「危険があるとは言えないのなら無謀とは言えませんし、花火を見に行くのは危険とは言えませんよ。そこで危険に遭ったとしたら、無謀ではなく不運なんです。こうして話している我々だって、同じことをしたかも知れないんですから」  ジルベールは顔を巡らし、ルソーの部屋にいることに気づいて口を開こうとした。  だが口や鼻に血を通わせようとするので精一杯だった。ジルベールは気を失った。  ルイ十五世広場の医師から予め助言されていたので、ルソーはまったく動じなかった。こうなることを予期していたので、何も掛けずに寝台《マットレス》の上に寝かせておいたのだ。 「もういいでしょう」とテレーズに言った。「この子を寝かせてもらえますか」 「何処にです?」 「もちろんここだ、わたしの寝台だよ」  ジルベールはそれを耳にして、ひどい衰弱のせいですぐには答えられなかったものの、苦労して目を開いた。 「いいえ」と言うのも精一杯だった。「ここじゃなく、上に!」 「自分の部屋に戻りたいのですか?」 「ええ、お願いです」  口ではなくむしろ目を使って、苦しくてもなお忘れずに浮かんで来た願いを伝えた。その願いは心の中で理性にさえ打ち勝ったようだ。  ルソーは敏感すぎるほどの感受性を持った人間だったので、どうやら理解したらしく、こう答えた。 「わかりました、上へ運びましょう。どうやらわたしたちに迷惑を掛けたくないようだ」ルソーに言われてテレーズも否やはなかった。  こうして、ジルベールは要求通りすぐに屋根裏部屋に運ばれることになった。  移動はつつがなく行われた。  昼頃になって、ルソーは習慣となっている植物採集の時間を割いて、弟子の枕元で過ごすことにした。幾らか持ち直したジルベールが、惨事の詳細を消え入りそうな小声で話してくれた。  花火を見に行った理由は口にされなかった。好奇心からルイ十五世広場に足を運んだのだと言う。  魔術師ならぬルソーにはそれ以上は疑うべくもなかった。  だから驚いた顔は見せずに、いくつか質問をしただけで満足し、たっぷりと養生するよう釘を刺すに留めた。手の中にあったのをフィリップがつかんだあの布の切れ端についても一切触れなかった。  それでもやはり、二人が関心を持っていることやはっきりした事実とは繋がりのある話だったので、気を緩めることはなかった。互いにすっかり夢中になっていると、突然テレーズの足音が踊り場に響き渡った。 「ジャック! ジャック!」 「おや、どうしたんだろう?」 「今度は僕に大公のお客様かな」ジルベールが力なく微笑んだ。 「ジャック!」テレーズが声をかけながら上がって来る。 「はいはい、何の用です?」  テレーズが姿を見せた。 「ド・ジュシューさんが下に見えてますよ。昨夜あそこであなたを見かけたと聞いて、怪我をしたのかどうか聞きにいらしたんです」 「何ていい人だろう! 好むと好まざるとに関わらず、自然と仲良く、つまりあらゆる善の源と仲良くしている人たちはみんなそうです! どうか安静に、ジルベール、すぐ戻ります」 「ええ、ありがとうございます」ジルベールが答えると、ルソーは出て行った。  だがルソーが出て行くとすぐに、ジルベールは何とか立ち上がって、アンドレの部屋の窓が見える天窓までじりじりと進んだ。  体力もなく頭もほとんど働かない人間には、椅子に上るのも窓枠によじ登るのも、屋根に身を乗り出すのも、一苦労だった。それでもどうにか実行したものの、すぐに眩暈がして手が震え、口唇から血を流してタイル張りの床に倒れた。  その時、屋根裏部屋の扉が再び開いて、ジャン=ジャックが溢れるほどの敬意を払っていたド・ジュシュー氏を連れて入って来た。 「気をつけて下さい、頭を下げて……そこに段差があります。残念ながらここは宮殿ではありませんから」とルソーが言った。 「気にせんで下さい、私にだって目や足はありますから」植物学者が答えた。 「お客様をお連れしましたよ、ジルベール」ルソーは寝台に目をやり……「何処に行ったんだ? 起きたんだな、馬鹿なことを!」  窓が開いているのを見て、腹を立てて叱りつけてやろうとした。  ジルベールは何とか起き上がって消え入りそうな声を出した。 「空気が吸いたかったんです」  目に見えて苦痛のぶり返している顔を見れば、怒りようもなかった。 「確かにここはひどく暑いね」ジョシュー氏が口を挟んだ。「脈を計ってみましょうか、私は医者でもある」 「それはありがたい。あなたは身体だけでなく魂の医者でもあるんですから」とルソーが言った。 「身に余る光栄です……」ジルベールは弱々しく呟き、粗末な寝台から目を逸らせようとした。 「ジュシュー氏が是非とも会いしたいと言ってくれてね」ルソーが言った。「わたしも喜んで賛成したんだ。どうですか、胸の状態は?」  熟練した解剖学者は骨を触り、注意深く聴診して空洞を確かめた。 「内臓は問題ない。だがいったい誰がこんな力で胸を押し潰したのかな?」 「死神です!」  ルソーは驚いてジルベールを見つめた。 「あなたは重傷なんですよ。それでも薬と空気と静養を取ればすっかり良くなります」 「静養はしません……そんなこと出来ません」ジルベールはルソーを見つめた。 「どういうことかな?」ジュシュー氏がたずねた。 「ジルベールは働き者なんですよ」ルソーが答えた。 「なるほど。しかしここ何日かは働けないよ」 「生きるためです!」ジルベールが言い募った。「人は毎日を生きるため、毎日働かなくては」 「食べ物をあまり摂ってはいけないし、煎じ薬は高いものではないよ」 「それほど高くないとしても」とジルベールは言った。「施しを受けるつもりはありません」 「馬鹿なことを言うもんじゃありません」ルソーがたしなめた。「いい加減にしなさい。いいですか、自分で何かを決めるのはこの方の指示を聞いてからにしなさい。あなたがどう思おうとこの方が直してくれるんです。信じられますか」と、今度はジュシュー氏に向かって話しかけた。「医者を呼ばないでくれと頼まれたんですよ」 「それはまたどうして?」 「わたしにお金を払わせたくないんだ、誇り高い子だから」 「だが」とジュシュー氏はいっそうの興味を持って、表情豊かで線が細いジルベールの顔をまじまじと見つめた。「どれほど誇り高くとも、出来ることしか出来ないよ……窓に行こうとして途中で倒れていたのに、働くことが出来ると思うかい?」 「そうですね」ジルベールは呟いた。「身体が弱っているのはわかってます」 「ではお休みなさい、それも心を休めることだ……あなたが厄介になっているのはあらゆる人々から敬意を払われている人だが、気を遣わずに済むのは客人の特権だからね」  ルソーはこの大貴族の巧みな讃辞に気をよくして、手を取って握り締めた。 「それに」とジュシュー氏は言い添えた。「国王や王子たちから温かい気遣いをしてもらえまるよ」 「僕が!」とジルベールは声をあげた。 「昨夜の犠牲者だからね……王太子殿下は報せを聞いて、ひどくお嘆きになった。王太子妃殿下はマルリーに行くのをやめて、トリアノンにお留まりになった。そこにいた方が不運な人々を手助け出来るからね」 「本当ですか?」ルソーがたずねた。 「もちろんだ。王太子殿下がド・サルチーヌ殿に書いた手紙の話しか出来ないがね」 「どんな手紙なんです?」 「なかなか結構な手紙だった。王太子殿下は月に二千エキュの年金をお受け取りになっているが、今朝はそれが届かなかったので、驚いてあちこち駆けまわって出納係に何度もおたずねになった。お金を運ばせていた出納係を直ちにパリに遣って、サルチーヌ宛てに味のある二行詩をお届けになった。それをサルチーヌ殿から見せてもらったんだ」 「すると今日はサルチーヌ氏と会っていたんですか?」ルソーの声には不安というより不審が滲んでいた。 「実はそこから来たんだ」と答えたジュシュー氏は少しまごついていた。「種子のことで尋きたいことがあったものでね。それに――」さらに急いでつけ加えた。「王太子妃殿下がヴェルサイユに留まって、宮廷の病人や怪我人のお世話をするというから」 「宮廷の病人や怪我人?」ルソーが繰り返した。 「そうなんだ。被害に遭ったのはジルベール君だけじゃない。今回ばかりは惨事に高い代償を払わされたのは庶民だけじゃない。怪我人の中には貴族もたくさんいるそうだよ」  ジルベールはやきもきしながら耳をそばだてていた。著名な植物学者の口から、いつ何時アンドレの名前が出て来るとも限らない。  ジュシュー氏が立ち上がった。 「ではこれで話は終わりですか?」ルソーがたずねた。 「我々の科学にはこれ以上この患者に出来ることはないよ。空気とほどよい運動。それはそうと……森のことを……忘れていた……」 「何のことです?」 「今度の日曜日に、マルリーの森で植物学の調査をするつもりなんだが、高名な同業者であるあなたに、一緒に来てはもらえないだろうか?」 「無名の崇拝者と言って下さい」 「そうかね? まあ怪我人に運動させるよい機会だ……この子も連れていらっしゃい」 「遠いのですか?」 「すぐそこです。それに馬車でブージヴァルまで行くから、乗せて行こう……プランセス通り経由でリュシエンヌまで向かい、そこからマルリーに行くとしよう。植物学者がよく立ち寄るんだ。怪我人のために椅子を忘れずに……私たちが植物採集している間に、この子も元気になるだろう……」 「そこまでしていただくなんて!」ルソーが感嘆した。 「そんなんじゃない。個人的な関心ですよ。知っての通り私には苔について研究したいことがあってね。あの辺りには疎いから、案内して欲しいんです」 「喜んで!」ルソーは思わず嬉しさを顔に出した。 「そこで軽い食事を取ろう。木陰で、花に囲まれて。いいですね?」 「いいですとも……では日曜日にピクニックを。自分が十五歳になったみたいだ。今から楽しみで仕方がありません」ルソーは子供のようにはしゃいでいた。 「では君はそれまで足を休ませておくんだぞ」  ジルベールはジュシュー氏には聞き取れないような声で感謝を呟いた。二人の植物学者はジルベールに考え事を、とりわけ恐れを植えつけていた。 第七十一章 快復  こうしてジルベールの具合もすっかりよくなったとルソーが納得し、それもこれもド・ジュシューという偉いお医者さんの診察のおかげだとテレーズが奥さん連中に触れ回っているうちに、ジルベールはすっかり危険を脱していた。意地を張ったりいつも夢見たりしていたせいでジルベールはこれまでにも危険な目に遭って来たが、斯かる信頼篤い頃に、人生最大の危険に遭っていた。  ルソーは論理的推論に支えられた疑念を心中に抱かないほどお人好しではなかった。  ジルベールが恋に落ちていることは知っていたし、面と向かって健康上の言いつけに背いたのを見つけて驚いていたので、ジルベールを自由にさせ過ぎると同じような過ちを犯すに違いないと判断した。  そこでルソーは良き父として、屋根裏の南京錠をこれまで以上にしっかりと掛けた。窓から出る道はひそかに残されていたものの、扉を通ることは事実上禁じられたのである。  この心遣いによって屋根裏を牢獄に変えられて、ジルベールがどれほどの怒りを覚え如何なる企てを考えたのかは、言葉には尽くし難い。  ある種の人々にとって、圧力とは実りの母である。  ジルベールはアンドレのことしか考えていなかった。遠くからであろうと、快復状況をじっと見守る喜びのことしか考えられなかった。  だがアンドレは城館の窓に姿を見せなかった。ニコル一人がお盆で煎じ薬を運んでいたり、頭をはっきりさせるつもりなのか、ド・タヴェルネ男爵が庭を歩き回って苛々しながら嗅ぎ煙草を嗅いでいたりするのが見えたが、どれだけ部屋の奥や厚い壁を見渡そうとも、見えたのはそれだけであった。  それでも細々《こまごま》としたところが見えたことで幾分か落ち着くことが出来た。それはつまり、臥せってはいるが死んではいないということだからだ。 「あそこか」とジルベールは独り言ちた。「あの扉の向こうか衝立の向こうに、僕の愛している人が息をして息を吐いて苦しんでいるんだ。その姿を見れば額には汗が流れ、手足が震えるあの人が。僕の存在を支えるあの人が。あの人を通して僕は二人のために呼吸をしているんだ」  そうしてジルベールは天窓から身を乗り出した。覗いていたションに言わせれば、一時間のうち二十回は落ちてもおかしくないような乗り出し方だった。ジルベールは目を働かせて、仕切り壁や床の大きさ、城館の奥行きを測り、頭の中に正確な図面を引いた。あそこにはタヴェルネ男爵が寝ているに違いない。あそこは配膳室か台所で、あそこはフィリップが使っている私室で、あそこはニコルのいる小部屋、そしてあそこがアンドレの寝室だ。その聖域の扉の前でなら一日をひざまずいて過ごす代わりに生命を投げ打ってもいい。  ジルベールに倣えばその「聖域」は、一階にある大きな部屋で、玄関の間に通じており、ガラスの嵌った壁が食い込んでいる。ジルベールの計算によればその壁の向こうはニコルの寝室のはずだ。 「ああ!」ジルベールは嫉妬で気も狂わんばかりだった。「あの庭に足を踏み入れてこの窓を見上げる人たちや、階段にいる人たちは、何て幸せなんだろう! 何も知らずに花壇の土を踏みしめる人たちは何て幸せなんだろう! きっと夜になればアンドレの繰り言や吐息が聞こえるんだろうな」  願望から実行までには遙かな隔たりがあった。それでも豊かな想像力にはその隔たりを狭める力があった。想像力にはそのための手段がある。不可能も実現できる。大河に橋を架け、高峰に梯子を掛ける術を心得ていた。  ジルベールは初めの数日間、願望に耽ってばかりいた。  やがてこれほどまでに妬ましい幸せな人間が、ジルベール自身と同じく庭の土を踏みしめるための足や扉を開けるための腕を授かっている普通の人間なのかと、つらつら考えた。ついには、この禁制の家にこっそり忍び込んだり、鎧戸に耳を押しつけて洩れ来る音を聞いたり出来たらどれほど幸福だろうかと思い描き始めた。  願望ではち切れそうになり、いつ実行に移してもおかしくなかった。  さらには見る見るうちに力が戻り、若さが宿り満ちた。三日後には、発熱のせいもあって、これまで感じたことのないほどの力強さを感じていた。  ルソーに閉じ込められていては、ド・タヴェルネ嬢の部屋に扉から忍び込むという難題を解けないことはわかっていた。  コック=エロン街に通ずる扉は開いているのだ。プラトリエール街に閉じ込められていては、如何なる通りにも出ることが出来ないのだから、如何なる扉を開きに行く必要もない。  窓には何もされていない。  屋根裏の窓は四十八ピエの高さにあった。  酔っぱらいか気違いでもない限り、そこから降りる危険を冒す者などいまい。 「それにしても扉というのはうまく出来ているものだな」ジルベールは拳を咬んだ。「哲学者ルソー氏に閉じ込められてしまった!」  南京錠をもぎ取ればいい! 簡単なことだ。だがもてなしてくれた家に戻りたい気持が勝った。  リュシエンヌから逃げればいい、プラトリエール街から逃げればいい、タヴェルネから逃げて来たように。いつもいつも逃げてばかりいればその先には、忘恩や軽率のそしりを免れずにただ一人の女性を見ることはもはや出来なくなる道が待っている。 「いや、ルソーさんは何もわかるもんか」  ジルベールは天窓に屈み込んだ。 「自由人に備わっているこの手足を使って、屋根瓦につかまり、軒を伝って行こう。随分と狭いのは確かだけれど、まっすぐだから、一歩一歩最短距離を取れば、たどり着けたならここと同じような天窓にたどり着ける。 「だけどあの天窓は階段のところにある。 「たどり着けなければ庭に落ちて音を立てるから、城館から人が出て来て僕を抱き起こし、誰なのか気づくに違いない。清く気高くロマンティックに死ぬんだ。同情されるんだろうなあ。何てドラマティックなんだろう! 「たどり着くことが出来たなら、あらゆる点から見て出来るに決まってるんだけど、とにかくたどり着いたら階段から天窓に駆け込もう。裸足で二階まで降りれば、そこにも庭向きの窓があって、地上十五ピエくらいだ。そこから飛び降りて…… 「ああ! もっと力があって、もっとしなやかだったらなあ! 「果樹垣根《エスパリエ》があるからそれを利用して…… 「でもあのエスパリエは金網に穴が空いているから壊れてしまいそうだ。転がり落ちたら、気高くロマンティックに死ぬどころか、石膏で真っ白になって傷だらけでみっともなく、梨泥棒のように見えるんだろうな。考えたくもないや! タヴェルネ男爵のことだから、管理人に僕を鞭打たせたり、ラ・ブリに耳を引きずり回させたりするかも。 「冗談じゃない! ここには紐がたくさんある。藁から束が出来るというルソーさんの定義に従えば、縒り合わせれば綱になるぞ。 「一晩の間だけ、この紐をテレーズさんに借りよう。結び目を作っておいて、二階の窓にたどり着いたら、露台にでも何でも支えになるものに綱を引っかけて、庭に滑り降りればいい」  ジルベールは樋を確かめ、紐を外して長さを見繕い、高さを見積もり、力と決意を自覚した。  紐を編んで頑丈な綱にしなくてはならない。強さを確かめるため侘び住まいの梁に吊してみた。幸いなことに力を込めても一度しか血を吐かなかったため、夜の遠征に出向くことを決意した。  ジャック氏とテレーズを首尾よく欺くために、病気を装い二時まで寝床に潜り込んでいたが、昼食を終えるとルソーは散歩に出てしまい、夜まで戻って来ないはずだ。  眠たくて仕方がないので翌朝まで目を覚ましそうにないと、ジルベールはルソーに伝えた。  ちょうど外で夕食を食べる予定だったので、ジルベールが元気そうで何よりだったというのが、ルソーの返答だった。  それぞれに伝えたいことを伝えて二人は別れた。  ルソーが出て行くと、ジルベールは再び紐を外して今度こそ懸命に縒り始めた。  なおも樋や屋根を探っていたが、やがて夜まで庭を見張り始めた。 第七十二章 空中散歩  ジルベールはこうして敵陣に乗り込む準備を始めていた。敵陣と呼ぶのも、ここをひそかにタヴェルネ家だと感じていたからで、戦場に赴かんとする名軍師のように、天窓から虎視眈々と窺っていると、この静かな家の敷地内で、哲学者の興味を惹くような出来事が起こった。  石が塀を飛び越えて、家の壁の角に当たった。  結果には必ず原因があることくらいは百も承知だったので、ジルベールはその結果を目にして原因を探し始めた。  だが必死で窓から身を乗り出してみても、路上には石を投げた人物は見当たらない。  ただし――その変化が、起こったばかりの出来事と関わっているのはたちどころにわかった――ただし、一階の鎧戸がそっと開かれ、その隙間から溌剌としたニコルの顔が覗いた。  ニコルを目にして、ジルベールは慌てて頭を引っ込めたが、狡猾なニコルからは目を離さずにいた。  ニコルは窓という窓を、とりわけ館の窓を確かめてから、鎧戸の陰から出て庭に駆け出し、レースを干してあった果樹垣根《エスパリエ》に近づいた。  そのエスパリエの途上に、ジルベールが目を離さずにいたあの石が転がっていた。目下のところ重要な意味を持っているその石をニコルが蹴とばしたのが見えた。ニコルは石を蹴り続け、とうとうエスパリエの下の花壇の端までたどり着いた。  そこでニコルは手を上げてレースを外したが、落とした一枚をゆっくり時間をかけて拾い上げ、そのついでに石をつかんだ。  ジルベールには今なお何もかもさっぱりわからない。だがニコルが石を拾って、胡桃を拾った食いしん坊のように紙の殻を剥き出したのを見るに及んで、これは隕石にも匹敵する重大事なのだと悟った。  それは紛れもなく手紙に違いなかった。石のそばに転がっているのをニコルが見つけたのだ。  女狐ニコルは急いでそれを広げて貪るように読み、ポケットに仕舞った。もはやレースには何の注意を払う必要もない。レースは乾いていた。  だが女を蔑視している利己的なジルベールは首を振った。まったくニコルと来たら生まれついての女狐だな、塀越しに手紙を受け取るような娘とはきっぱり縁を切ろう。ジルベールは倫理的かつ健全な政治的判断を下した。  原因と結果について極めて論理的な判断を下したジルベールは、こうして論理的に考えながらも、どうやら自分に原因があった一つの結果を切り捨てた。  ニコルは家に戻ってからまた出て来たが、今度は手はポケットの中だった。  ニコルがポケットから鍵を取り出した。指の間で一瞬だけ稲光のように輝くのが見えた。だがニコルはすぐにその鍵を庭の出入口の下に滑り込ませた。そこは通常使う正門と同じ側の、塀の反対側にあって、庭師が出入りするようになっている。 「そうか! なるほどな。手紙に逢い引きか。時間を無駄にしない。新しい恋人が出来たのか?」  ジルベールは眉をひそめた。自分に捨てられたせいで心に修復不能の穴がぽっかり空いているものとばかり思っていたのに、驚いたことに穴は完全に埋められているのがわかり、がっくりしたのだ。 「僕の計画の邪魔になりそうだな」ジルベールは不機嫌な理由をほかのせいにしようとした。「まあいいや」しばらくしてから呟いた。「ニコル嬢に僕の後釜が出来たんだ、おめでとうと言わせてもらおう」  だがジルベールはある面ではぶれのない心の持ち主だった。即座にそろばんをはじいて、たった今知ったばかりのまだ誰にも知られていない事実を、いつかニコルに対して武器に出来るのではないかと考えた。何せニコルには否定できないほど詳しく秘密を把握しているうえに、向こうから疑われることはまずないだろうし、どんな小さな疑いであろうと具体的な形を取ることもあるまい。  その時が来れば武器として利用しよう。ジルベールは心に決めた。  そうこうしているうちに、待ちかねていた夜が訪れた。  ジルベールはもはや何も恐れてはいなかった。気がかりだったのはルソーが前触れもなく帰宅することだけだ。ジルベールが屋根の上や階段の途中にいるのを見て驚かれたり、空っぽの部屋に気づかれるかもしれない。部屋を抜け出したことがわかれば、あのジュネーヴ人は烈火の如く怒るに違いない。矛先を逸らせればと考えて、哲学者宛の手紙を小卓の上に置いておいた。  その手紙には以下の文章が書かれてあった。 「心からの親愛と尊敬を込めて  あなたの忠告、或いは命令に背いて部屋を出たからといって、悪い印象を持たないで下さい。先日のような事故に巻き込まれない限り、すぐに戻って来ます。ああした事故やもっとひどい事態に遭う危険を冒してでも、二時間ほど部屋を出なくてはならないのです」  ――戻ったら何て言おうか。でもこれでルソーさんも心配しないだろうし、怒りもしないはずだ。  夕闇が降りた。初夏に特有のむっとする暑さに覆われた。空には雲がかかり、八時半になると、ジルベールの必死の目にも暗闇の奥を見分けることは出来なくなった。  ようやくその時になって、息が苦しく、汗がどっと流れて額や胸にこぼれていることに気づいた。衰弱と体力減退の徴候だ。考え直せ。こんな状態で探検に赴くのはやめた方がいい。企てを成功させるためにはもちろん、身の安全のためにも、万全の体力と体調が必要だ。だがジルベールはこうした本能の囁きを無視した。  道徳的意思の声が大きくなる。ジルベールが従ったのは、いつものようにその意思だった。  時は来た。ジルベールは首に綱を巻きつけ、胸をばくばくさせながら天窓によじ登り、窓枠にしっかりとつかまった。樋に足をかけ、右の天窓に向かって進んだ。既に述べた通り、その天窓には階段があり、およそ二トワーズ離れていた。  こうしてせいぜい八プスの鉛の管に足を踏み出した。一定の長さごとに鉄の器具で留められているその管が、柔らかい鉛のせいで足の下でたわんだ。両手で屋根瓦にしがみついていたが、バランスを保つ助けにはなれど、指が引っかからないので、いざ落ちそうになった時に身体を支えられるようなものではない。こうした状況のまま空中散歩を二分の間、いわば二永遠の間続けなくてはならない。  だが怖がるつもりはなかった。それが恐れを知らぬこの青年の意思の力であった。細い線の上を上手く歩くには足許ではなく少し前方を見なくてはならないという曲芸師の話を思い出していた。遙か下のことなど考えずに、鷲のように、空を舞えるのだと思い込むのだ。  何度かニコルに会いに行く際、既にこのことは実践済みだった。あのニコルも、今や屋根や煙突ではなく扉の鍵を使うまでに大胆になっていた。  あの頃のジルベールはこうしてタヴェルネの製粉所の水門を越え、剥き出しになった古い倉庫の屋根の梁を越えていたのだ。  そういうわけだからわずかたりとも怖じ気づくことなく、ジルベールは目的地にたどり着いた。たどり着いてしまえば後は堂々と階段に降りるだけだ。  だが踊り場のところで足を止めた。中から声が聞こえている。テレーズとご近所さんたちが、ルソーの才能や著作の素晴らしさ、楽曲の美しさについて話に興じていた。  ご近所たちは『新エロイーズ』を読んでいて、卑猥な本だったとずけずけ口にしている。それに応えてテレーズは、あんたたちはあの素晴らしい本の哲学的深みがわかってないんだよ、と言い返した。  ご近所たちはそれについては沈黙を守った。そうした話題に無智をさらけ出すこともあるまい。  このご大層なおしゃべりは踊り場から踊り場へと移って行ったが、その火よりもさらに熱い火を使って晩ご飯が作られていた。  だからジルベールは理屈をこねるのを聞き、肉の焼ける音を聞いた。  そんな中で自分の名前が呼ばれるのを聞き、ぎょっとして身震いした。 「ご飯が終わったら、あの子が欲しいものがないか屋根裏まで見に行かなくちゃね」  「あの子」は屋根裏訪問の予定を聞いて、喜んだりはせずにむしろ恐れおののいた。幸いなことに、テレーズが一人で夕食を摂るのならじっくり酒と語らうはずだ。焼き肉は美味そうだし、夕食が終わるのは……十時だ。今は八時四十五分ちょっと前だ。それに、夕食が終わったら終わったでテレーズはいろいろなことを考えていただろうから、「あの子」のことは忘れてしまうかもしれない。  だが残念なことに時間が過ぎてゆく。その時突然、焼き肉が燃えた……料理人が大声で助けを呼ぶのを聞いて、おしゃべりが止んだ。  みんなは事件の現場へと一目散に駆け出した。  ジルベールはこの小事件を利用して、妖精のように階段に滑り込んだ。  二階で手頃な鉛管を見つけ、そこに綱を結びつけると、窓に乗り出し素早く降り始めた。  まだ鉛管と地面の間にぶら下がっている間に、庭に足音が聞こえて来た。  結び目まで戻って、こんな間の悪い奴はいったい誰なのかを、確かめるだけの余裕はあった。  男が一人。  男は小扉のそばまで歩いて来たので、それがニコルの待ち望んでいた瞬間なのは疑いない。  ジルベールは危険な滑降の途中でじっとして、この闖入者をまじまじと見つめた。  あの歩き方、三角帽の下から覗いている横顔、利き耳の端にかかるようにした三角帽のかぶり方を見て、あれはボージールだ、ニコルがタヴェルネで出会った指揮官代理だと気づいた。  すぐにニコルが扉を開けっ放しにして庭に飛び出して来た。温室を目指す鶺鴒《セキレイ》のように素早く軽やかに、ボージールが近づいて来る方向目指して飛び出して行った。  落ち合った二人に些かの躊躇いもないのを見れば、こうした逢い引きが初めのことでないのは明らかだ。  ――まずは下まで降りなくちゃ。ニコルが今こうして恋人と逢っているのなら、しばらくはこうしているだろう。つまりアンドレは一人きりか! 一人きり……。  確かに一階には何の物音も聞こえないし、かすかな明かりも見えない。  ジルベールは無事に地面に立ったが、庭をまっすぐ横切りたくはなかった。塀沿いに茂みに隠れ、頭を低くして庭を横切り、ニコルが開けっ放しにしておいた扉にそれとも知らずにたどり着いた。  門の上まで這い育っている大きなアリストロキアの陰に隠れて、大きなホールである手前の部屋が予想通り完全に空っぽなのを確認した。  ホールには二枚の扉があって、一枚は閉じていたが、もう一つは開いていた。開いているのはニコルの寝室だろうと見当をつけた。  ジルベールはその部屋に忍び込み、暗闇の中で何かにぶつかったりしないよう手を伸ばして進んだ。  だが廊下の端まで来ると、ガラス窓の嵌められた扉が隣の部屋の明かりに浮かび上がった。ガラスの向こうにはモスリンのカーテンがたなびいている。  廊下に出ると、明かりのついた部屋からかすかな声が聞こえた。  アンドレの声だ。ジルベールの血という血が逆流した。  別の声がそれに答えている。フィリップの声だ。妹の具合をたずねているのだ。  ジルベールは用心しながら歩を進め、何かの胸像が乗せられている円柱の陰に隠れた。これは当時、奥行きのある二重扉の装飾として作られていたものである。  こうして安全に見聞き出来るようになると、幸せのあまり心が喜びにとろけた。恐ろしさのあまり心臓がただの点のように縮こまった。  ジルベールは耳を澄まし、目を凝らした。 第七十三章 兄と妹  お話しした通り、ジルベールは耳を澄まし目を凝らした。  長椅子に横たわってガラス扉の方に顔を向けているアンドレが見えた。つまりジルベールの真っ正面ということだ。扉は若干開いていた。  大きな傘つきの小さな明かりが、机の上に置かれている。傍らに本が積まれているのを見たところでは、美しい病人に出来る気晴らしといったらそれくらいしかないのだろう。照らされていたのはド・タヴェルネ嬢の顔の先だけだった。  だが時折、長椅子の枕にもたれかかるように仰け反った時には、レースの下の白く美しい容顔《かんばせ》が光に晒された。  フィリップは長椅子の足許に坐り、ジルベールには背を向けていた。今もまだ腕を吊っており、自由には動かないようだ。  アンドレが起きあがったのも、フィリップが部屋から出たのも初めてであった。  つまりこの若兄妹は、あの恐ろしい夜以来、顔を合わせていなかった。とは言え二人とも、相手が徐々によくなり快方に向かっているという話は聞いていた。  ついさっき再会したばかりだったがすぐに話をし始めた。二人きりだと信じていたし、誰かが来れば扉のベルが鳴るからわかるはずだった。その扉はニコルが開けっ放しにしていたのだが。  だが二人は当然のことながら扉が開けっ放しにされていることなど知るよしもなく、ベルが鳴るものと安心していた。  ジルベールに見聞き出来たのはこういう事情による。開いた扉越しに、言葉の端々をもれなく拾うことが出来た。 「つまり」とフィリップが言った。ジルベールが化粧室の扉にかかったカーテンの陰に隠れた時のことである。「つまり、呼吸もかなり楽になったんだね?」 「ええ、だいぶ楽になりました。まだ呼吸するたびに軽い痛みはありますけれど」 「体力は?」 「まだまだですけれど、今日は二、三回、窓まで歩いて行くことが出来ました。空気も花も何て綺麗だったんでしょう! 空気と花があれば、死ねるものではありませんわ」 「だがそれでもまだ快復はしていないんだね?」 「ええ、だってあまりにもショックが大きくて! だから実を言うと」と微笑んで首を横に振った。「家具や壁にもたれて歩くのがやっとなんです。支えがないと足が曲がって倒れてしまいそうなんです」 「元気を出すんだ、アンドレ。美味しい空気と綺麗な花があると元気が出るって話をしたばかりじゃないか。一週間経てば王太子妃殿下をご訪問できるようになるさ。親切にも容態をおたずね下さったそうだよ」 「わたくしだって早く良くなりたいわ、フィリップ。だって王太子妃殿下はとても親切にして下さるんですもの」  そう言ってアンドレは身体を横たえ、胸に手を置き目を閉じた。  ジルベールは腕を伸ばして前に出た。 「苦しいか?」フィリップがアンドレの手を握った。 「ええ、痙攣《ひきつけ》が起こるんです。それに血が頭に上ってこめかみが締めつけられることもありますし、眩暈がして心臓が止まりそうになることも」 「そうか!」フィリップは呆然となった。「そうだろうな。あれだけ恐ろしい目に遭って、奇跡的に助かったんだから」 「まさに奇跡的でした」 「そのことなんだが」ここからが大事な話だとばかりにアンドレに近寄って、「あの災害についてまだお前と話をしたことはなかっただろう?」  アンドレは顔を赤らめ、不安そうな様子を見せた。  フィリップはそれに気づかなかったか、或いは気づかないふりをした。 「でもわたくしが戻って来られた事情についてはお兄様も納得できたでしょう。お父様も満足していると仰っていたわ」 「確かにね、アンドレ、あの人は今回の事故をかなり気にかけていたよ。ぼくにはそう思える。だがそれでも、あの人の話には疑わしいとは言えないまでも、曖昧な、そう、曖昧なところが多すぎる」 「どういうこと?」アンドレは乙女子らしく無邪気にたずねた。 「うん、はっきりしてるわけじゃないんだ」 「仰って」 「うん、例えばね、初めは気にしなかったんだが、いつの間にかとても不思議に思い始めたことが一つある」 「何ですの?」 「お前が助けられた時の様子を、聞かせてくれないか、アンドレ」  アンドレは必死に思い出そうとしているようだった。 「ほとんど覚えてないわ、フィリップ、怖かったんですもの」 「大丈夫だよ、アンドレ。覚えていることだけ話してくれればいい」 「そうね、わたくしたち、ガルド=ムーブルから二十パッススくらいのところで離ればなれになってしまったでしょう? お兄様がチュイルリー公園の方に押し流されるのが見えたけれど、わたくしはロワイヤル街の方に押し流されていたんです。お兄様の姿が見えている間に、はぐれないようにどうにか腕を伸ばして、『フィリップ! フィリップ!』と呼んだけれど、竜巻に巻き込まれたように、すくい上げられ、柵のそばまで運ばれてしまいましたの。波にもまれて壁の方に引きずられて行くと、壁は今にも潰れそうでした。柵に押しつけられた人たちの悲鳴が聞こえました。もう少し経てば、ぐちゃぐちゃに押し潰されるのが自分の番なのは明らかです。後何秒の命なのか数えられるほどでした、それで半ば死んだように、半ば気が狂ったようになって、天を仰いで最後に祈りを捧げていると、男の目が光るのが見えたんです。男は群衆を見下ろして、まるで指揮しているかのようでした」 「それがジョゼフ・バルサモ男爵だったんだな?」 「ええ、タヴェルネで見たのと同じ人でした。不思議な恐ろしさでわたくしを打ちのめしたのと同じ人でした。超自然的なところを秘めているらしきあの人です。その目でわたくしの目を捕らえ、その声で耳を捕らえたあの人。肩に触れられただけでぞっとさせられたあの人だったんです」 「続けてくれ」フィリップは顔を曇らせ沈んだ声を出した。 「あの人は事故現場を見下ろして、人の苦しみなど自分には及ばないとでも思っているように見えました。その目が『助けてやる、俺にはそれが出来る』と言っているのがわかりました。それから信じられないことがいくつも起こり、疲労困憊して為すすべもなく、わたくしはとっくに死んだようになっていましたが、あの人の前まで運ばれるのがわかりました。まるで目にも見えず何者にも屈しない不思議な力に運ばれているようでした。腕に突き飛ばされでもしたように、もみくちゃの肉の渦から押し出されて、被害に遭った人たちが喘いでいるというのに、わたくしは空気を、生命を取り戻したんです。わかるでしょう、フィリップ」アンドレは昂奮していた。「間違いありません、あの男の目にはわたくしを迷わす魔力があるんです。 「わたくしはその手にすくい上げられ、助けられました」 「そうなのか!」ジルベールは独り言ちた。「あの人しか目に入っていなかったんだな。足許で死にかけていた僕のことは目に入らなかったんだ」  ジルベールは額に流れる汗を拭った。 「それで、いったい何が起こったんだ?」フィリップがたずねた。 「それが、危険から脱したとほっとした瞬間でした。それまで気力を振り絞っていたからでしょうか、恐怖が限界を超えていたからでしょうか、わたくしは気を失ってしまったんです」 「それは何時頃?」 「お兄様と離ればなれになってから十分くらいでした」 「そうか、すると深夜零時頃だな。ではどうして三時になるまで戻って来なかったんだ? 気を悪くしないでくれよ、馬鹿げて聞こえるかもしれないが、ちゃんと理由があるんだ」 「ありがとう」アンドレはフィリップの手を握った。「三日前ならまだ答えられなかったと思うの。でも今日なら――これから話すことはおかしなことに聞こえるでしょうけれど――今日は、内なる声がとても強くて。意思がわたくしに働きかけて、思い出せと命じるものですから、とうとう思い出したんです」 「では聞かせてくれ、気になるんだ。あの人はお前を腕に抱き寄せたんだな?」 「腕に?」アンドレは赤面した。「よく思い出せません。わかっているのは、人波から引き寄せられたということだけです。でも手で触れられると、タヴェルネの時と同じような状態に陥って、触れられた途端にまたもや気絶を、と言いますか、眠りに就いていたんです。気絶する時にはひどい苦痛を感じるのだけれど、今回は眠気のように安らかな感覚しか感じませんでした」 「確かにお前の話はどれもこれもおかしな話に聞こえるな。こんなことを話したのがお前じゃなかったなら、絶対に信じなかっただろう。まあいい、話を続けてくれ」フィリップは声の乾きを気づかせまいとしていた。  ジルベールはアンドレの言葉に夢中になっていた。少なくともこれまでのところではその言葉が真実であることを、ジルベール自身がよくわかっていた。 「意識を取り戻すと、豪華な家具の置かれた応接室にいました。小間使いとご婦人がそばにいたのですが、二人とも不安そうな素振りも見せませんでした。それどころかわたくしが目を覚ますと、優しそうににっこりと笑みを浮かべたんです」 「それは何時頃だい?」 「深夜過ぎの小半時の鐘が鳴っていました」 「そうか!」フィリップが大きく息を吐いた。「よし、続けてくれ」 「看病してくれた二人には感謝しましたが、お兄様が心配しているのはわかっていましたから、すぐに家まで送ってくれるよう頼んだんです。二人の話では、男爵は怪我人に助けを呼ぶため事故現場に戻ってしまったけれど、もうすぐ馬車で戻って来るので、男爵ご自身で家まで送ってくれるということでした。その言葉通り、二時頃に表に馬車の音が聞こえ、それと共に、あの男のそばにいると何度も感じて来た悪寒に今度もまた襲われました。わたくしはソファの上で眩暈を起こし、放心したようになってしまいました。扉が開きました。わたくしは茫然自失のまま助けてくれた男の姿を認め、再び意識を失いました。その後で下まで運ばれ、辻馬車でここに連れられて来たんです。わたくしが覚えているのはこれですべてです」  フィリップは時間を計算し、アンドレはエキュリ=デュ=ルーヴル街からコック=エロン街までまっすぐ連れられて来たのだと判断した。同じようにルイ十五世広場からエキュリ=デュ=ルーヴル街までまっすぐ運ばれたはずだ。フィリップはアンドレの手を温かく握り締めた。声には安心と喜びが籠もっていた。 「ありがとう、アンドレ。すべて辻褄が合う。サヴィニー侯爵夫人を訪問して、ぼくの口からもお礼を伝えることにしよう。それはそうと、もう一つ気になっていることがあるんだ」 「何でしょう?」 「事故の現場で知り合いに会わなかったかい?」 「え? 会わなかったわ」 「例えばジルベールには?」 「そうね」アンドレは懸命に思い出そうとした。「そう言えば、離ればなれになった時に、そばにいたわ」 「僕に気づいてたんだ」ジルベールが呟いた。 「お前を捜している時に、あの坊やに再会したんだ」 「死体の中に?」目上の者が目下の者に示すような興味の色がありありと感じられた。 「いいや、怪我をしていただけだ。助けられて、よくなっているといいんだが」 「そうだといいわね、どんな状態だったの?」 「胸を押し潰されていた」 「そうさ、君の胸にね、アンドレ」ジルベールが呟いた。 「だが」とフィリップが続けた。「不思議なことがあったんだ。ジルベールのことを話すのもそれが理由なんだが、強張った手の中に、お前の服の切れ端が握られていたんだ」 「まあ、本当に不思議ね」 「最後まで会わなかったんだろう?」 「最後まで目にしていたのは、恐ろしい顔をしている人たちでした。恐怖や苦しみ、わがまま、愛情、憐れみ、吝嗇、皮肉。地獄で一年を過ごしたような気分です。あんな顔に囲まれて、地獄の亡者から検査を受けているようでした。あの子の顔もあったかもしれないけれど、まったく思い出せないの」 「だが、あの布の切れ端がお前の服の一部だったのは間違いない。ニコルにも確かめたんだ」 「いったいどういう事情を説明して、あの子にたずねたんです?」アンドレがたずねた。タヴェルネでジルベールについて小間使いと話した、あのおかしな話を思い出していたのだ。 「別に何も話してはいないよ。とにかく、あの布切れをジルベールが握っていたのは事実だ。どういうわけだろう?」 「簡単なことだわ」ジルベールの心臓が恐ろしいほどに脈打っているのと比べて、アンドレは落ち着き払っていた。「つまりあの男の目に引っ張り上げられた時、そばにいたのなら、わたくしにつかまっていれば一緒に助けてもらえるでしょう。溺れた人が泳いでいる人のベルトにしがみつくのと一緒よ」 「糞ッ!」こんな考え方をされて、ジルベールは悲しくなって蔑んだ。「僕があんなに尽くしたというのに、何て下劣な解釈をするんだろう! 貴族ときたら、僕らのことを別の人種だとしか思ってないんだな! ルソーさんは正しかった。僕らは貴族よりも優れている。僕らの心はより純粋で、僕らの腕はより力強いんだ」  独り言をやめて二人の会話に戻ろうとした時、背後で物音がした。 「まずい! 玄関に誰かいる」  足音が廊下を進み、化粧室に入るのが聞こえ、背後でカーテンが降りた。 「ニコルの馬鹿はここにおらぬのか?」ド・タヴェルネ男爵の声がして、服の裾をジルベールにかすめて、娘の部屋に入って来た。 「庭だと思います」アンドレが落ち着き払っていることからすると、第三者がいるとは疑りもしていないのだろう。「今晩は、お父様」  フィリップは恭しく立ち上がった。男爵はそのままでいるように合図すると、二人のそばの椅子に腰を下ろした。 「ああ、お前たち、宮廷の立派な馬車ではなく一頭立てのおんぼろ乗合馬車では、コック=エロン街からヴェルサイユまでは大分かかるぞ。何を隠そうわしは王太子妃殿下にお会いして来たのだ」 「まあ! ではヴェルサイユにお出でになったんですか、お父様?」 「うむ、大公女がお前の不幸をお聞きになって、親切にもわしをお招き下さったのじゃ」 「アンドレは大分よくなって来ました」とフィリップが言った。 「わかっておる、妃殿下にもそうお伝えして来た。妃殿下はわしに約束して下さろうとしたぞ、お前の妹がすっかり快復したら、直ちにプチ・トリアノンに呼び寄せると。そこを住まいにお決めになって、趣味に合わせて模様替えしている真っ最中じゃ」 「あの、わたくしが、宮廷に?」アンドレがおずおずとたずねた。 「宮廷ではなかろう。王太子妃殿下はあちこち移り住むのは好まれぬし、王太子殿下も派手なのやうるさいのはお嫌いじゃ。トリアノンで水入らずお暮らしになるのだろう。だが王太子妃殿下のご性格からすると、この家族会議は親裁座《リ・ド・ジュスティス》や三部会より良い結果をもたらさんとも限らん。大公女はしっかりしていらっしゃるし、王太子殿下は聡明な方だという評判じゃ」 「ああ、宮廷と変わらないんだぞ、それを忘れるなよ」フィリップが悲しげに声をかけた。 「宮廷!」昂奮と絶望が一気にジルベールに押し寄せた。「宮廷か、僕などたどり着けない頂点だ、飛び込むことも出来ない深淵じゃないか。アンドレが身を立てれば立てるほど、僕には手が届かなくなってしまう!」 「でもお父様」とアンドレが言った。「わたくしたちにはそこで暮らすことを許されるような財産も、そこに暮らすのに必要なだけの教育もありません。わたくしのような哀れな娘が、あれほどきらびやかな貴婦人の輪の中に入るなんて! 目も眩むような輝きを一度だけ垣間見たことがありますが、浅はかなところはありましたけれど才気がほとばしっていたんです! お兄様、あんなまばゆい光のただ中に混じるには、わたくしたち、無名過ぎますわ……」  男爵が眉をひそめた。 「そのうえ愚かじゃ。何を不安がっておるのか知らんが、家族自らわしのものやわしに関わるものを貶めようとばかりしおって! 無名じゃと! 馬鹿者めが。無名? タヴェルネ=メゾン=ルージュが無名だと! お前が輝かんで誰が輝くというのだ、教えてくれんか?……財産……馬鹿らしい! 宮廷の財産がどれほどあるか知っておろう。王権という太陽がそれを汲み上げ、また花を咲かせるのだ。運命は回る。わしが破産したのは事実だが、いつか再び返り咲けばよいではないか。国王には使用人に払う金もないのか? 我が家の長男が聯隊を賜り、アンドレ、お前が持参金を賜り、わしが領地を賜ったり、ちょっとした正餐の席でナプキンの下に年金の契約書を見つけたりして、わしが恥じ入ると思うのか?……いや、いや、痴れ者であれば偏見も持とうが……わしにはそんなものはない……そもそもわしの財産が戻って来ただけなのだからな。気兼ねする必要などないのだ、アンドレ。まだ一つ言うべきことが残っておったな。お前は教育の話をしておったが、宮廷にはお前ほど教養の高い娘はおらぬことを覚えておけ。それだけではないぞ。貴族の娘が受ける教育に加えて、お前には司法官や財務官の娘が受ける実際的な教育も備わっておる。お前は音楽家だ。お前の描いている羊や牛のいる風景画は、ベルヘムも認めざるを得ぬだろう。そうそう、王太子妃殿下は羊も牛もベルヘムも大好きじゃぞ。お前には魅力がある。国王はお気づきになっていたぞ。それに話術もある。ダルトワ伯やド・プロヴァンス伯にはそれが役に立とう。お前は注目を浴びるだけでなく……崇拝されることだろう。よしよし」男爵は笑いながらおかしな抑揚をつけて手を擦り合わせた。フィリップはそんな父親を見たが、このような笑い声が人間の口から出ているとは信じられなかった。「崇拝か! まさにその通りじゃ」  目を伏せたアンドレの手を、フィリップが握った。 「男爵は正しいよ。父上の言った通りじゃないか、アンドレ。ヴェルサイユに参上するのにお前ほど相応しい娘はいないよ」 「でも離ればなれになってしまいますわ」 「そんなことはない」と男爵が口を挟んだ。「ヴェルサイユは大きい」 「ええ、でもトリアノンは小さいのでしょう」意地を張った時のアンドレは、強情で扱いにくかった。 「トリアノンだってタヴェルネ男爵に部屋をあてがう程度の大きさあろう。わしのような人間は何処でだって暮らせるからの」意味ありげにつけ加えた。「暮らす術を心得ておるのじゃ」  アンドレは父にせっつかれたことに不安を感じて、フィリップの方を向いた。 「アンドレ、恐らく宮廷に呼ばれた人たちと一緒ではないと思う。持参金を払って修道院に入れたりはせずに、王太子妃殿下はお前に目をかけて下さるおつもりだから、仕事を下さってそばに置いて下さるんじゃないかな。今はルイ十四世時代ほど作法にうるさくないしね。いろいろな仕事がまとめられたり分担されたりしている。きっと朗読係かお付きの侍女あたりだろう。一緒に絵をお描きになったり、常におそばに置いてくれたりして下さるんじゃないだろうか。人の目に触れないことだってあり得るぞ。だがおそばで寵愛を受けるのは間違いないんだ、そうなると多くの人から妬まれることになる。怖くないか?」 「怖いわ」 「もうよい」と男爵が言った。「たかだか一人か二人に妬まれくらいで暗くなってはおれん……早く良くなってくれ、アンドレ。ありがたいことに、この手でお前をトリアノンに連れて行けるのだぞ――王太子妃殿下がそう仰ったのだ」 「素敵ね、参ります、お父様」 「それはそうと、金はあるか、フィリップ?」 「お金がご入り用だというのでしたら、差し上げるには足りないと答えたでしょうが、反対にぼくに下さるというのでしたら、充分に持っていると答えるところです」 「まったくだな、この哲学者め」男爵はふんと笑い飛ばした。「アンドレ、お前も哲学者か? 何も欲しいものはないか? 何か必要なものは?」 「お父様に迷惑をかけたくありませんもの」 「ここはタヴェルネではない。国王が五百ルイお渡し下さった……。ほんの手付金だと陛下は仰ったぞ。身だしなみのことはどうなんだ、アンドレ」 「ありがとう、お父様」アンドレは顔をほころばせた。 「ほれほれ、ころころ変わりおって。さっきは何も欲しがらなかった癖に。今や中国の皇帝も破産させてしまいそうじゃ。だが気にするな、何でも言うとくれ。綺麗なドレスが似合うじゃろうな」  優しく口づけしてから扉を開けて、アンドレの寝室を出た。 「ニコルの惚けなすは何処におる、明かりがないではないか!」 「呼び鈴をならしましょうか?」 「構わん。ラ・ブリがいる。何処ぞの椅子で眠りこけておろう。ではお寝み、お前たち」  今度はフィリップが立ち上がった。 「おやすみなさい、お兄様。疲れてくたくただわ。あの事故に遭って以来こんなにしゃべったのは初めてだもの。おやすみなさい、フィリップ」  フィリップは差し出された手に口づけしたが、そこには兄としての愛情だけではなく、日頃から抱いている敬意も混じっていた。フィリップは廊下に出ようとして、ジルベールの隠れている扉に軽くぶつかった。 「ニコルを呼ぼうか?」出て行きながらたずねた。 「いらないわ。一人で着替えるから。おやすみ、フィリップ」 第七十四章 ジルベールを待ち受けていたもの  一人残されたアンドレが椅子の上で身体を起こすと、ジルベールの全身に震えが走った。  アンドレは立ち上がっていた。石膏のように白い手で、髪のピンを一つ一つ外し、薄い部屋着を肩から滑らせ、白く淑やかな首を露わにし、胸を脈打たせ、腕を頭上に反らせているために腰のくびれが強調され、白麻の下で震える美しい喉が際立っていた。  ジルベールはひざまずき、息を切らし、陶然として、こめかみと心臓で血がどくどくと音を立てているのを感じていた。燃え上がった血潮が動脈を流れ、真っ赤な靄が視界を覆い、熱に浮かされたような無意味な呟きが耳元で唸っている。ジルベールはその瞬間、人間を狂気の淵に突き落とす恐ろしい錯乱に陥っていた。声をあげながら、アンドレの部屋の敷居を跨いでいた。 「ああ、何て綺麗なんだ! でもそれを鼻にかけるなよ、君には貸しがあるんだからな、君の命を救ったのは僕なんだ!」  ここでアンドレは帯の結び目をほどくのに手間取った。苛々して足を踏み鳴らし、そんな簡単なことでも全力を使い果たしてしまったかのように、寝椅子にぐったりと坐り込んだ。そして半裸姿で呼び鈴の紐まで身体を伸ばし、じれったげに紐を揺らした。  その音でジルベールは正気に返った。――ニコルはこの音が聞こえるように扉を開けっ放しにしておいたのだ。もうすぐニコルがやって来る。  夢よさらば、幸福よさらば。これでもう心で燃え上がらせる空想と、胸の奥で温めている思い出しかなくなるんだ。  ジルベールは外に駆け出そうとした。だが男爵が先ほど入る時に廊下の扉を引いていた。ジルベールはそれに気づかずに、扉を開けるのにしばらくかかった。  ニコルの部屋に入った時に、ニコルが戻って来た。庭の砂を踏む足音が聞こえる。やり過ごすのには暗がりに逃げ込む余裕しかなかった。ニコルは扉を閉めて玄関を通り、鳥のように軽やかに廊下に飛び込んだ。  ジルベールは玄関まで行き、外に出ようとした。  ところがニコルが走りながら声を出している。「あたしです、お嬢様! 扉を閉めておきました!」ニコルはその言葉通り扉を閉め、錠を二重に回したばかりか、ついていないことに、鍵をポケットに仕舞い込んでいた。  ジルベールは扉を開けようとしたが開くわけもなく、窓に活路を求めた。窓には鉄格子が嵌っていた。五分ほど模索した末にわかったのは、外に出るのは不可能だということだった。  ジルベールは隅にうずくまり、ニコルに扉を開けてもらおうと固く決心した。  ニコルはニコルで、もっともらしい言い訳をしていた。曰く温室の窓を閉めに出ていました、夜風がお嬢様のお花を傷めるといけませんものね。そうしてアンドレの服を脱がせて、寝台に寝かせた。  ニコルの声は震えを帯びていたし、手はぶるぶると揺れ、お世話する間もいつになくそわそわし、手に取るように感情が洩れていた。だがアンドレは一人天上で考えに耽って地上を見ることはほとんどなく、見たとしても、下界の存在など小さな粒にしか見えなかった。  つまるところアンドレは何も気づかなかった。  ジルベールは退路を断たれてから苛立ちを募らせていた。今は自由になることしか考えていない。  ニコルはお詫びの言葉を伝えてから、退出を許された。  アンドレの布団を整え、明かりを小さくし、銀器に入れて雪花石膏《アラバスター》の灯火の上で温めておいた飲み物に砂糖を入れ、淑やかな声で就寝の挨拶をして、そっと部屋を出た。  部屋を出るとガラス入りの扉を閉めた。  そして心を落ち着かせようと鼻歌を歌いながら部屋を横切り、庭に通ずる扉に向かった。  ジルベールにもニコルが何をするつもりなのかわかったが、誰なのか気づかれないように、扉が開いた瞬間を突いて逃げ出せないだろうかと、ふと思いついた。だがそうすると目撃されるのは見知らぬ人物ということになる。泥棒と間違われてニコルが助けを呼ぶから、綱までたどり着く時間はないだろうし、戻れたとしても空中を逃げているところを見られてしまう。隠れ家がばれて大騒ぎになるだろう。悪意のある人々、つまりはジルベールにとってタヴェルネ家の人々に、大騒ぎする恰好の口実を与えることは間違いない。  ニコルのことを告げ口することは出来るし、ニコルを馘首にすることも出来るのは確かだ。でもそれに何の意味があるだろうか? ただ復讐を果たすだけで、何の得もない。ジルベールはそれほど心の弱い人間ではない。復讐を果たして喜びを感じるなんて。役に立たない復讐など、稚拙な行動でしかなかった。愚行である。  そこでニコルが出口まで来た時、ジルベールは隠れていた暗がりから飛び出し、ガラス越しに射し込む月明かりの中に姿をさらした。  ニコルは悲鳴をあげかけたが、ジルベールを別人と間違えて、ぎょっとして声をかけた。 「あなたなの? 向こう見ずね!」 「ああ、僕だよ」ジルベールが小声で答えた。「別人と間違えてそんな大きな声を出さないでもらえるかい」  これでニコルにも相手が誰なのかわかった。 「ジルベール! 嘘でしょう?」 「頼むから大声を出さないでくれ」ジルベールは吐き捨てた。 「こんなところで何してるの?」ニコルが怒りをぶつけた。 「いいかい」ジルベールは落ち着き払っていた。「さっき僕のことを向こう見ずと言ったけれど、向こう見ずなのは君の方じゃないか」 「あらほんと? あなたがここで何をしているのかちゃんとわかってるんだから」 「何だって?」 「アンドレお嬢様に会いに来たんでしょう」 「アンドレお嬢様だって?」ジルベールはなおも落ち着いていた。 「ええ、惚れてるんですものね。ありがたいことに、向こうは何とも思ってないみたいだけど」 「そうかい」 「とにかく気をつけることね、ジルベール」ニコルが脅すような声を出した。 「気をつけろ?」 「ええ」 「何に?」 「告げ口されないように気をつけなさい」 「君が告げ口するというのか?」 「ええ、あたし。お払い箱にされないように気をつけなさい」 「やってみろよ」ジルベールは口を歪めて笑った。 「喧嘩を売る気?」 「望むところさ」 「じゃああたしがお嬢様とフィリップ様と男爵様に言ったら、ここであなたに会ったと言ったら、どうなると思う?」 「君が言った通りのことが起こるだろうね、ただし僕はお払い箱にされたりはせず――ありがたいことにとっくにお払い箱になってるから――獣のように追い立てられるんじゃないかな。とにかく、お払い箱になるのはニコルの方さ」 「あたしが?」 「ニコルだよ、間違いない――塀越しに石を投げてもらったニコルさ」 「気をつけなさい、ジルベール」ニコルが再びすごんで見せた。「ルイ十五世広場で、お嬢様のドレスの切れ端をあなたが握っているのが見られてるんだから」 「そうかい?」 「フィリップ様がお父上に仰ってたの。まだ何も気づいてないみたいだけど、一言助言があれば、すぐに気づくんじゃないかしら」 「誰が助言するっていうんだ?」 「あたしよ」 「気をつけろよ、ニコル。レースを広げるふりをして、塀越しに放り投げられた石を拾っていたことも気づかれるんだからね」 「そんなの嘘よ!」  ニコルは声をあげて言い張った。 「だいたい、手紙を受け取るのは悪いことでも何でもないでしょ。お嬢様が着替えている最中にここに入り込むのも悪いことじゃないんだものね……どう言い訳するつもりかしら?」 「君のような賢明な女の子が庭木戸の下に鍵を滑り込ませるのだって悪いことではないって言うつもりさ」  ニコルが震え上がった。 「僕のことはタヴェルネ男爵もフィリップさんもアンドレお嬢様も知っているからね、そんな人間が部屋に忍び込んだのは、昔のご主人様たち、それもアンドレお嬢様の容態が不安で気が気じゃなかったからだって言うつもりさ。あそこからアンドレを助け出そうとしたのは僕なんだからね、君が言ったように、手にドレスの切れ端を握っていたのがその証拠さ。ここに忍び込んだのは些細な罪だけれど、ご主人様の家に他人を忍び込ませたり、そいつと温室で一時間過ごした後でまた会いに行ったりするのは重大な罪だって言うつもりだ」 「ジルベール! ジルベール!」 「つまり貞節の話だけど――マドモワゼル・ニコルの貞節だぜ――そうだなあ! 僕が君の部屋にいたりするとまずいことになるんじゃないかな、それでいながら……」 「ジルベール!」 「僕がお嬢様に惚れているなんて言ってご覧よ。僕は君とつき合っていたって言うつもりだし、お嬢様だってそれを信じるだろうね。君は馬鹿だから、タヴェルネでお嬢様に、自分でそれを言っちゃうんだものなあ」 「ジルベール、お願い!」 「そうすれば君はお払い箱さ。お嬢様と一緒にトリアノンにも行けず王太子妃のおそばにもいられず、立派な領主や裕福な貴族とも浮き名を流せないよ、家に残された時にはどうせそんなことばかりするつもりなんだろうけど。そうはならずに恋人のド・ボージールと一緒になることになるだろうな、ただの指揮官代理、軍人とね。ははっ! 絵に描いたような転落じゃないか、ニコルの野心も儚く消えましたとさ。フランス人衛兵の恋人だものなあ!」  ジルベールはけらけらと笑いながら歌い出した。  ――あたしの彼は、近衛兵〜! 「お願いだからジルベール、そんな風にあたしを見ないで。すごく意地悪く、暗闇の中で光ってる。お願いだからもう笑わないで、ぞっとするわ」 「だったら」とジルベールが威圧的な声を出した。「扉を開けるんだ、ニコル。これ以上は何も言うなよ」  扉を開けたニコルは激しく震えており、肩や頭を老人のようにぷるぷると揺らしていた。  ジルベールが先に家から出て、ニコルが出口まで案内しようとするのを見た。 「違う、そうじゃない。それは君がここに人を入れる時のやり方だろう。僕は僕なりのやり方で出て行くんだ。ボージールに会いに温室に行けよ、やきもきしながら待ってるぜ。予定より十分長くいちゃついていればいい。おとなしくしてくれたお礼だよ」 「十分、どうして十分なの?」ニコルが震えながらたずねた。 「ここから出るのに十分かかるからさ。さあ、行った行った。タヴェルネの干し草の山で逢い引きした時に話したことがあっただろう、ロトの妻みたいに、振り返らずに進むんだ。さもなきゃ塩の柱に変わるよりもまずいことになるぞ。さあ行くんだ、浮気女め。もう何も言うことはない」  ニコルは弱みを握られたジルベールから頭ごなしに大言され、為すすべもなく怯えて打ちのめされたまま、頭を垂れて温室に戻った。そこには確かに指揮官代理ボージールがじりじりしながら待っていた。  ジルベールの方は見られていないことを確かめてから壁と綱のところに戻り、葡萄の株と垣根を足がかりに二階の鉛管までたどり着き、そこから屋根裏部屋まで素早くよじ登った。  幸いなことに、登っている最中に人に気づかれることはなかった。隣人たちは既に眠っていたし、テレーズはまだ食卓だった。  ニコルをへこませて来たことに昂奮してかっかしていたので、樋につまずくことなど気にも留めていなかった。それどころか運命の女神《フォルトゥーナ》の如く鋭く研いだ剃刀の上さえ、たといその剃刀が一里あろうとも、歩けそうな気がしていた。  アンドレはその向こう端にいる。  ジルベールは天窓に戻ると窓を閉め、書き置きを引きちぎった。誰にも読まれてはいなかった。  満ち足りた気持で寝台に横になった。  半時間後、テレーズが予定通り扉越しに具合をたずねた。  ジルベールは眠たくて仕方がないとばかりに、あくび混じりに感謝を伝えた。早く一人になりたかった。暗闇と静寂の中で考えをまとめ、心と頭脳と身体全体を総動員して、この日の焼けつくような得も言われぬ思いを分析したかった。  やがてジルベールの目からは、男爵もフィリップもニコルもボージールも姿を消した。記憶の底に見えるのは、もはやアンドレだけだった。半裸になって、腕を頭上に反らし、髪からピンを外しているアンドレの姿だけだった。 第七十五章 植物採集家たち  先ほどお話しした出来事は、金曜の晩に起こったことである。ルソーが楽しみにしていたリュシエンヌの森での散策は、その翌々日の予定であった。  アンドレがトリアノンに行くと知って以来、何もかもがどうでもよくなってしまい、ジルベールは天窓の框にもたれて日がな一日を過ごしていた。その日は一日中アンドレの部屋の窓は開いたままで、一度か二度、弱々しく青ざめたアンドレが空気を吸いに窓辺に寄るのを見ては、アンドレを永遠にここに縛りつけておく術を見つけ、一生この屋根裏部屋に留まって一日に二度その姿を見ることが出来れば、ほかには天に望むことなどないように思われた。  ついに念願の日曜日がやって来た。ルソーは前日から準備をしていた。靴を念入りに磨き、暖かくて身軽な灰色の服を洋服箪笥から引っぱり出し、そんな作業には布の上着で充分に用が足りるじゃないかと、テレーズをうんざりさせていた。だがルソーはそれを無視して、好きなように準備を続けた。自分の着る服だけではなく、ジルベールの服を選ぶに際しても細心の注意を払ったうえに、傷一つない絹靴下と新品の靴という贈り物まで揃えていた。  標本の点検も終えたばかりだ。これから活躍するはずの苔の標本も忘れずに用意していた。  ルソーは子供のようにわくわくした気持を抑えきれず、何度も何度も窓に貼りつき、走っているのがド・ジュシュー氏の四輪馬車ではないかと確かめた。ついにぴかぴかの車体、豪華な馬具をつけた馬、髪粉をつけた逞しい御者が門の前に止まるのが見えた。ルソーはすぐさまテレーズのところに飛んで行った。 「あれだ! あれだ!」  それからジルベールに、 「ほら、ジルベール、急いで! 馬車が待ってますよ」 「あんたと来たら!」テレーズがちくりと言った。「そんなに馬車に乗りたいのなら、どうして馬車を買うためにヴォルテールみたいに働かないんだい?」 「馬鹿らしい!」ルソーは反論した。 「才能ならヴォルテールさんに負けないくらいあるんだっていつもいつも言ってる癖にさ」 「そんなことは言ってないじゃないか!」ルソーが腹を立てた。「わたしは……一言も言っていないよ!」  天敵の名前を出されるといつものことだが、すっかりしょげかえってしまった。  幸いにもここでジュシュー氏が現れた。  髪をなでつけ、髪粉をつけ、春のように爽やかな姿である。亜麻色をした畝織りのインド繻子の外套に、明るい藤色の上着、きめ細かな白い絹靴下にぴかぴかの金の留め金という出で立ちだった。  部屋中に満ちた香りを、感激を隠そうともせずにテレーズが吸い込んだ。 「なんて素敵なんだ!」ルソーはテレーズに優しい眼差しを向けてから、自分自身の質素な装いと植物採集用のかさばる荷物を、ジュシュー氏のお洒落な装いと引き比べた。 「いやいや、暑くなると思ったものでね」 「それに森はじめじめしていますよ! そのような絹靴下では、沼に入れば……」 「何、行くところを選べばいい」 「では今日は水辺の苔は諦めるのですか?」 「そんなことは気にせずとも結構だよ」 「舞踏会にご婦人を誘いに行くように見えますよ」 「自然の女神に絹靴下を披露したっていいでしょう?」ジュシュー氏は困惑したようにたずねた。「自然の女神は爽やかな恰好をするほどのご婦人ではないとでも?」  ルソーはそれ以上は何も言わなかった。ジュシュー氏に自然を引き合いに出されては、畏れ多くて言い返せるものではないとよくわかっていた。  禁欲的なジルベールですらジュシュー氏に羨望の眼差しを注いでいた。お洒落によって生来の魅力を倍増させていた若者たちを見て以来、お洒落というのもちょっとしたものだと悟っていたので、思わず呟いていた。繻子や白麻《バチスト》やレースがあれば自分の若さも引き立つだろうし、こんな服ではなくジュシュー氏のような恰好をしてアンドレと会えば、きっとアンドレだって目を見張るに違いないのに。  二頭の素晴らしいデンマーク馬が全速力で駆け出した。一時間後、植物採集者たちはブージヴァルに降り立ち、シャテニエールの道を左に横切った。  今日《こんにち》も非常に美しいこの散歩道であるが、当時も同じように美しかった。というのも三人がこれから踏破しようとしている丘の一部は、ルイ十四世治下にはもう森であったので、国王がマルリーを気に入ってからこっち手入れが怠たられたことはなかったのである。  粗い木肌、巨大な枝、奇怪な形をした|栗の木《シャテニエール》が、時には節くれ立った幹にぐるりと巻きついた蛇のように、時には肉屋の解体台にひっくり返って黒い血を吐き出した牡牛のような姿を見せているほか、苔のびっしり生えた林檎の木や、六月に入って若葉から青葉へと変わった巨大な胡桃の木が見える。その寂しさ、その風変わりな地面の起伏が、老木の木陰の下から延びて、くすんだ青空に鮮やかな境界線を描いている。力強く優雅で陰鬱な自然を目の当たりにして、ルソーは得も言われぬ気持に襲われていた。  ところがジルベールはむっつりと黙り込んで、一つのことしか考えていなかった。  ――アンドレは家を出てトリアノンに行くんだ。  丘の頂まで歩いて登ると、リュシエンヌの四角い城館が聳えているのが見えた。  逃げ出して来た城館を見て、ジルベールの物思いも中断させられた。あまり愉快な思い出ではないが、恐れはまったく感じなかった。実際、前を歩く二人を後ろから眺め、自分が保護されているのを強く感じていた。だからジルベールは、船が乗り上げた砂州を入り江から見つめる遭難者のように、リュシエンヌを眺めていた。  ルソーは小さな鋤を持って地面に注意を向け始めた。ジュシュー氏もそれに倣った。ただし、ルソーは植物を探していたのだが、ジュシュー氏は絹靴下を泥で汚さないようするためだった。 「素晴らしい日陰鬘《ヒカゲノカズラ》だ!」ルソーが言った。 「見事だ。だがあれはやめましょう」ジュシュー氏が答えた。 「ああ! 桜草《アナガリス・テネラ》! あれなら摘めそうです」 「よければどうぞ」 「いやしかし、わたしたちは植物採集をしに来たのではないのですか?」 「そうです、そうですが……あっちの方がよくはないかな」 「そう仰るのでしたら……行きましょう」 「今何時ですか?」ジュシュー氏がたずねた。「着替えるのに忙しくて、時計を忘れてしまった」  ルソーはポケットから大きな金時計を取り出した。 「九時ですね」 「少し休みませんか? 如何です?」 「足が疲れたのでしょう。そんなお洒落な靴と絹靴下を履いていては植物採集なんて出来ませんよ」 「お腹が空いただけですよ」 「わかりました、では朝食にしましょう……村までは四半里あります」 「どうか勘辨して下さい」 「勘辨とは? では馬車で朝食を摂るんですか?」 「あの茂みをご覧なさい」ジュシュー氏は遠くの方を指さした。  ルソーは背伸びして手をひさしのようにかざした。 「何も見えませんが」 「あの民家風の屋根が見えないんですか?」 「ええ」 「風見鶏に、白と赤の藁葺きの垣根がある、山小屋風の家ですが」 「ああ、出来たばかりの小屋のようですね」 「あれは四阿だね」 「そうでしょうか?」 「そうですとも、あそこでささやかな朝食を摂るとしよう」 「まあいいでしょう。お腹が減りましたか、ジルベール?」  ジルベールはこの話に関心も示さず、機械的にヒースの花を摘んでいた。 「お任せします」 「では行こうじゃないか。もっとも、道すがら草花を摘まんという法はない」 「この子ときたら、あなたよりよほど熱心ですよ。モンモランシーの森で一緒に草花を摘んだことがありましたが、二人しかいなくとも、この子は上手に見つけ、上手に摘み取り、上手に解説していました」 「まあまあ、この子は若い。まだこれからだ」 「あなたは違うと? 趣味で植物を採っているんですか」 「まあ怒らないで。ほら、あそこに一花オオバコがある。あんな素晴らしいものはモンモランシーでは手に入らなかったのでは?」 「おお、本当だ」ルソーは破顔した。「トゥルヌフォールを参考に探していたのですが、なかなか見つけられないでいたんですよ。いやいや、これは見事ですね」 「綺麗な四阿だなあ」後ろから前に出ていたジルベールが声をあげた。 「ジルベールが腹を減らしているね」ジュシュー氏が茶々を入れた。 「ごめんなさい。急がずにご用意して下さい」 「食後に植物採集にいそしむことほど消化に悪いことはありませんよ、それに瞼も重くなるし、身体も怠くなります。採集にはしばらくしてから取りかかりましょう」とルソーが言った。「ところであの四阿は何と呼ばれているのですか?」 「|鼠取り《ラ・スリシエール》」ジュシュー氏はド・サルチーヌ氏から聞いた名前を思い出した。 「おかしな名前ですね!」 「しかし田舎では珍しくもない」 「この土地、この森、それにこの美しい木陰は、どなたのものなんですか?」 「どうなんだろうね」 「あそこまで食べに行くと言うからには、持ち主をご存じなのでしょう?」疑いを兆してルソーの耳がぴんと立った。 「まったく知らないんだ……いや、ここのことならよく知っています。何処の密猟監視人も私のことなら藪の中で何遍も目撃しているし、兎や山鴫の煮込みをご馳走してくれたんだから、持ち主も歓迎してくれてるんでしょう。何処の領主も我が家のように使わせてくれるが、この四阿がド・ミルポワ夫人のものなのか、デグモン夫人のものなのか、ほかの誰かのものなのかは、よく知らないんです……ええ、それ以上のことは何も。だが大事なのは、あなたも同意してくれるものと思いますが、あそこに行けばパンや果物やパテがありそうだということではありませんか」  ジュシュー氏のあっけらかんとした口調に、ルソーの頭に積み上げられていた不安が雲散霧消した。ルソーは足を動かし手を擦り、まずはジュシュー氏が苔むした小径に足を踏み入れた。曲がりくねった小径は栗の木の下を、四阿まで続いている。  その後ろから、なおも草花に気を取られつつルソーが続いた。  ジルベールはまた一番後ろからついて行きながら、アンドレのことや、トリアノンに行かれてしまったらどうやって会えばいいのかを夢想していた。 第七十六章 哲学者取り  三人が苦労して丘の頂まで登ると、素朴な木造の小屋が建っていた。柱は節くれ立ち、切り妻は尖り、窓は木蔦や牡丹蔓で覆われ、紛れもないイギリス様式(というかイギリスの庭師)が採用されており、自然を真似するどころか自然を発明し、その創作建築や創作植物に何らかの独創性を加えていた。  イギリス人は青い薔薇を作り上げた。その並々ならぬ野心は受け取った発想とは正反対のものばかりであった。そのうちには黒い百合も作り上げることだろう。  その四阿は一台のテーブルと六脚の椅子が収まるほどの大きさで、敷地内には煉瓦が敷かれていた。煉瓦は筵で覆われている。壁には川べりから選別された小石やジュラ紀層の貝殻でモザイクが施されている。ブージヴァルとポール=マルリーの川辺を歩いていても、海胆や帆立や虹色の法螺貝などは見られず、アルフルールやディエップやサン=タドレス礁まで足を運ばなくてはならない。  天井には浮き彫りが施されていた。奇妙な見た目の松かさや切り株が、不気味で醜い牧神か獣の姿に象られており、頭上から来訪者をつけ狙っているようにも見える。さらには紫や赤や青のガラスを通して、色つきの窓越しにヴェジネの野原や森が、八月の太陽の燃えるような息吹に染められた積乱雲のように色づいたかと思えば、十二月の寒気に晒されたように冷たくくすんで見えた。好みに応じて好きな窓を選んで好きな景色を見ればよい。  ジルベールはこの景色に感銘を受け、リュシエンヌの丘の上から目の前に広がる肥沃な盆地やそれを貫いて蛇行するセーヌの流れを、四角い窓越しに見つめていた。  ところがほかにも興味深い点が、少なくともド・ジュシュー氏には興味深いと思われたのは、四阿の真ん中にあるごつごつしたテーブルに美味そうな朝食が用意されていたことだ。  マルリーのクリーム、リュシエンヌの杏にプラム、ナンテールのクレピネットやソーセージが磁器の上で湯気を立てているが、それを運んで来る召使いの姿は見なかった。葡萄の葉に覆われた籠には瑞々しい苺の山、つやつやした新鮮なチーズのそばにある黒パンや麦パンには、舌の肥えた都会人の口もとろけそうだ。ルソーは思わず感嘆の声をあげた。稀代の哲学者ではあったが味に関してはうぶなルソーも、ささやかな好みに似合わず食欲をそそられたのだ。 「これは凄い!」ルソーはジュシュー氏に話しかけた。「パンに果物、欲しかったものばかりですよ。それに植物採集や探索に当たっては、藪を掻き分けたり穴を掘ったりしながらパンを食べたりプラムを齧ったりしなくてはならないからね。プレシ=ピケで食べたご飯を覚えているかい、ジルベール?」 「ええ、覚えてます。あの時のパンとさくらんぼはとても美味しくいただきました」 「まったくですね」 「ちょっと待ってくれ」とジュシュー氏が口を挟んだ。「私のことを贅沢だと咎めているのなら、お門違いですよ。これほど慎ましやかな食事は……」 「それほど卑下することはありませんよ、ルクッルス」 「私が用意したとでも? とんでもない!」 「ではどなたの食卓にお邪魔したんでしょうね?」ルソーの微笑みには、遠慮と機嫌のよさが二つとも浮かんでいた。「……お化けでしょうか?」 「さもなきゃ妖精かな!」ジュシュー氏は立ち上がり、途方に暮れて四阿の扉を見つめた。 「妖精ですか!」ルソーは面白がっていた。「それではおもてなしに感謝いたしましょう。お腹が減りました。いただきましょう、ジルベール」  ルソーは黒パンを大きく自分に切り分けてから、パンとナイフをジルベールに手渡した。  それからパンにかぶりつくと、大皿からプラムを一房つまみ上げた。  ジルベールは躊躇っていた。 「お食べなさい!」とルソーが勧めた。「遠慮していると妖精たちが気を悪くしますし、きっとあなたに宴会を台無しにされたと思いますよ」 「それともあたなの機嫌を損ねてしまったのかしら」四阿の入口で涼しげな声がして、腕をつないだ若く美しい女性が二人、姿を見せた。口元に微笑みを浮かべ、仰々しい挨拶は無用とジュシュー氏に合図していた。 「伯爵夫人! どうしてこちらに? 光栄に存じます!」ジュシュー氏が目を見張った。 「今日は、植物学者さん」と片方のご婦人が極めて優雅に優しく声をかけた。 「ルソー氏をご紹介いたします」ジュシュー氏が、黒パンをつかんでいる哲学者の手を取った。  ジルベールもこの二人を知っていた。だから目を見開いて死人のように真っ青になり、今すぐにでも逃げ出したいと思いながら窓の外を見つめていた。 「今日は、哲学者ちゃん」もう一人のご婦人が縮こまっているジルベールに声をかけ、薄桃色をした三本の指で頬をちょこんと撫でた。  ルソーはそれを見て、怒りで喉が詰まりかけたに違いない。自分の生徒が二人の女神と互いに知り合いだったとは。  ジルベールは気が遠くなりそうになった。 「伯爵夫人とお会いしたことはなかったね?」ジュシューがルソーに確かめた。 「ええ、初めてお目に掛かるはずです」ルソーは呆然として答えた。 「デュ・バリー夫人です」  ルソーは真っ赤に焼けた鉄板に乗せられたように飛び上がった。 「デュ・バリー夫人ですか!」 「初めまして」夫人は淑やかに挨拶した。「著名な思想家の方をこうして我が家にお招き出来たうえに、こんな間近でお目にかかれるなんて光栄でございますわ」 「デュ・バリー夫人!」とルソーは繰り返した。驚きが侮辱に当たることにも気づかずに……「ではこの四阿は伯爵夫人のものなのですか? 昼食をご用意下さったのは伯爵夫人なのですか?」 「当たりだ、ここは伯爵夫人姉妹のものです」荒れ模様を前にしてジュシューが決まり悪そうに答えた。 「それにこちらは、ジルベールをご存じだ!」 「ええ、たっぷりと」あっけらかんとしたションの答えには、貴族らしい気まぐれなところも哲学者らしい皮肉なところもなかった。  ルソーの目がぎらぎらと輝いているのを見ると、ジルベールは穴があったら入りたかった。 「たっぷりとですか……!」ルソーが繰り返した。「ジルベールはこの方をたっぷりとご存じだったのに、わたしはそれを知らなかったのか? するとつまり、わたしは裏切られていたのか? からかわれていたのか?」  ションと伯爵夫人は笑顔のまま見つめ合った。  ジュシュー氏は四十ルイはするマリーヌのレースを引きちぎった。  ジルベールは手を合わせた。黙っているようションに頼み込むつもりだったのかもしれないし、もっと穏やかに口を利いてくれるようルソーにお願いするつもりだったのかもしれない。だが現実には正反対に、ルソーが黙り込み、ションが口を開いた。 「そうなんです、ジルベールとあたくしはもう昔なじみで。あたくしのところに泊まっていたんです。ね、そうよね……? リュシエンヌやヴェルサイユのジャムのことをもう忘れちゃったの?」  その言葉が最後の一撃だった。ルソーの腕がバネのように伸びて、身体の両側にだらりと下がった。 「わかりました、そういうことなんですね?」ルソーにはジルベールを真っ直ぐ見ることが出来なかった。 「ルソーさん……」ジルベールがもごもごと呟いた。 「あのね、これじゃあ手で撫でただけで泣かれちゃったみたいじゃない。いいわ、どうやらあなたは恩知らずみたいだし」 「そんな……!」ジルベールが訴えた。 「坊や」とデュ・バリー夫人が声をかけた。「リュシエンヌにお戻りなさいな。ジャムとザモールが待ってます。おかしな逃げ方をしたとはいえ、温かく歓迎するわ」 「大変ありがたいのですが」ジルベールは素っ気なかった。「気に入らなかったから離れたのです」 「どうして差し出された好意を拒むのです?」ルソーが追い打ちを掛けた。「……あなたは贅沢の味を知っている、元の鞘に収まるしかないでしょう」 「でも僕はあなたに誓ったんです……」 「もうやめて下さい! ころころと態度を変える人間は嫌いなんです」 「でもあなたが聞いて下さらないから」 「当たり前です」 「だけど、僕はリュシエンヌから逃げて来たんです、そこに閉じ込められていたんです」 「罠だ! 人の悪意など嫌というほど知っている」 「だってあなたといる方がよかったから、あなたを大家として、保護者として、教師として認めたからです」 「偽善だ」 「でもルソーさん、贅沢する気があるのなら、お二人の申し出を受け入れているはずじゃないですか」 「一度は騙されても、二度目はありませんよ。あなたは自由です。何処へなりとも行っておしまいなさい!」 「何処に行けばいいというんです?」ジルベールは苦痛に身をよじらせた。それはつまり、あの窓からの眺めとアンドレの顔、愛するすべてを永久に失うことを意味するからだ。それにまた、裏切りの汚名を着せられることは自尊心が許さなかった。さらには若者にありがちな怠惰や欲望を抑え込んでこれまでずっと闘い、克服して来たというのに、それが理解されていないのだ。 「何処に?……当然、伯爵夫人のところでしょう。これほど美しく素晴らしい方なんですから」 「そんな!」ジルベールは両手で頭を抱えた。 「心配はいらない」ジュシュー氏が声をかけた。ご婦人たちに対してルソーがひどい拒否反応を起こしたのを見て、ジュシュー氏も世間の人並みにざっくりと傷ついていた。「心配はいらないとも、きっと大事にしてもらえるし、失くしたものがあってもきっと取り戻そうとしてもらえるから」 「そらご覧なさい」ルソーは冷たかった。「研究者でもあり自然の友人でもあるジュシュー氏も味方してくれますよ」微笑もうとして顔をしかめた。「富と援助を約束されたのでしたら、どうか期待なさい、ジュシューさんは顔が広いですからね!」  とうとう感情を抑え切れなくなったルソーは、オロスマーネでもあるまいに、貴婦人たちに、そしてド・ジュシュー氏に矢継ぎ早に挨拶を済ませると、ジルベールには見向きもせずに憤然として四阿から立ち去った。 「哲学者ってほんと分からず屋!」ションがそれを見て冷静に評した。ルソーは小径を降りるというより駆け降りていた。 「望むものを頼むといい」今もまだ顔を覆っているジルベールに向かい、ジュシュー氏が声をかけた。 「何でも言って頂戴」伯爵夫人が見捨てられた生徒に向かって微笑みかけた。  ジルベールが顔を上げ、汗と涙で髪を額に貼りつかせながらも、はっきりと答えた。 「でしたら仕事をくれませんか。トリアノンで庭師見習いとして働きたいんです」  ションは伯爵夫人と顔を見合わせ、勝ち誇った目をして足をちょこんと蹴っ飛ばした。万事心得たと伯爵夫人はうなずいた。 「出来そう? ジュシューさん。是非お願いしたいの」 「伯爵夫人がお望みである以上は問題ありません」  ジルベールは深々とお辞儀をして胸に手を当てた。さっきまでは悲しみに沈んでいたのに、今は喜びに満ちあふれていた。 第七十七章 寓話  ジャン・デュ・バリー子爵がチョコレートをがぶ飲みして伯爵夫人に嫌な顔をされたあのリュシエンヌの小部屋で、ド・リシュリュー元帥がデュ・バリー夫人と軽食を摂っていた。デュ・バリー夫人がザモールの耳をもてあそびながら、花模様の織り込まれた繻子の長椅子の上にゆっくりと無頓着に寝そべり、様々な姿態を取るたびに、この老臣は(悲しいかな!)感嘆の声をあげていた。 「おやおや!」老婆のようにしなを作った。「髪が乱れますぞ。ほらほら、鬢の毛がほつれておるし、ミュールも脱げました」 「ふふ! そんなの気になさらないで」ザモールの髪を気まぐれに引き抜き、すっかり横になると、真珠貝に乗ったウェヌスのように、さらに蠱惑的にさらに美しく見えた。  ザモールはどんな姿態にも見向きもせず、怒りに顔を染めた。伯爵夫人はそれをなだめようと、ポケットに入れておいた砂糖菓子《ドラジェ》をテーブルに置いた。  だがザモールは口を尖らせ、自分のポケットをひっくり返して砂糖菓子を床にぶちまけた。 「あら、悪い子ね!」伯爵夫人は足を伸ばしていたので、爪先が黒ん坊の長靴下と触れそうになった。 「堪えて堪えて!」老元帥が声をあげた。「殺してしまいかねん」 「どうして気に食わないものを片っ端から殺してはいけないのかしら? 今日は残酷な気分なのに」 「ほ、ほう! ではわしも嫌われておりますかな?」 「あら、まさか。一番の友人ですもの、大好きですわ。でも実際あたくしって馬鹿みたいね」 「馬鹿みたいな気分にさせた原因は病気ですかな?」 「もううんざり。思ってもいないくせにおべっかを使うのはやめて下さいな」 「伯爵夫人! どうやらあなたは馬鹿なのではなく無智なのではありませんか」 「いいえ、あたくしは馬鹿でも無智なのでもありません、あたくしは……」 「さあ、仰って下さい」 「あたくしは怒っているんです、公爵閣下」 「ああ、なるほど」 「驚きまして?」 「いやいや、とんでもない。お怒りになるのももっともです」 「あなたのことで怒っていることがあるんですの」 「わしのことで怒っていることがあると?」 「ええ」 「それはいったいどのような点でしょうか? 歳は取りましたが、あなたに気に入られるためにはどんな努力も惜しみませんぞ」 「それはね、何の話なのかわかってもいないってことですの」 「そんなことはありますまい!」 「あたくしがどうして苛ついているかご存じ?」 「ええ、ザモールが中国製の噴水を壊したからでしょう」  気づかないほどのかすかな微笑みがデュ・バリー夫人の口元に浮かんだ。だがザモールは告発されたことに気づいてしおらしく頭を垂れた。びんたや爪弾きの雲に覆われて空が翳っているのを見て取ったようだ。 「そうなんです」伯爵夫人はため息をついた。「公爵閣下の仰る通りですわ、あなたったら本当に駆け引き上手ですのね」 「よく言われます」リシュリュー氏が控えめに応答した。 「あら、言われなくても見ればわかりますわ。きっとあたくしの悩みもたちどころに見抜いてしまわれるんじゃないかしら。たいしたものね!」 「仰る通りです。ですがそれだけではありませんぞ」 「あら!」 「まだほかにも見抜いていることがあります」 「ほんと?」 「はい」 「どんなこと?」 「昨日の晩、あなたは陛下をお待ちしていらっしゃいました」 「何処で?」 「ここです」 「いいわ、それで?」 「陛下はいらっしゃいませんでした」  伯爵夫人は真っ赤になって肘を起こした。 「まあ!」 「しかしですな、わしはパリから到着したばかりなのです」 「証明できますの?」 「ヴェルサイユで起こったことがわかるわけはありませんが、しかし……」 「公爵閣下ったら、今日は思わせぶりばかりですのね。始めたからには終わらせて下さいな。さもなきゃ初めから何も言いっこなしです」 「あなたは楽に話せましょうが、わしの方は少しくらい休ませて下さい。何処まで話しましたかな?」 「ええと……『しかし』までです」 「ああ、そう、そうでした。しかしわしは、陛下がいらっしゃらなかったことだけではなく、どうしていらっしゃらなかったかも知っておるのです」 「あなたは魔術師なんじゃないかと、あたくし常々思っておりましたわ。でも証拠がありませんの」 「ふむ、ではその証拠をお見せいたしましょうか」  伯爵夫人は思っていた以上に話に引き込まれ、ザモールの髪をかき回していた白く細い指を頭から離した。 「お願いします」 「領主殿がいても構わないのですか?」 「お行き、ザモール」伯爵夫人が命じると、黒ん坊は喜び勇んで寝室からホールまで飛び跳ねて行った。 「これでいい」リシュリューが呟いた。「しかしこれですっかり白状しなくてはなりませんな?」 「まあ、ザモールのお猿さんが邪魔でしたの?」 「本当のことを口にするには、何人《なんぴと》であろうと邪魔なものです」 「ええ、何人でもというのはわかります。でもザモールは人かしら?」 「盲でも聾でも唖でもないのですから、人でしょう。目と耳と口がある相手なら誰でも、つまりわしのすることを見ることが出来、わしの言うことを聞いたり繰り返したりすることが出来、わしのことを密告することが出来る者なら誰でも、人の名で呼ぶことにしております。そういうことにして、続けたいと思います」 「ええ続けて下さいな、お願い」 「喜んで、とは申しませんが、とにかく続けるつもりです。さて、陛下は昨日トリアノンをご訪問なさいました」 「プチの方? グランの方?」 「プチです。王太子妃殿下と腕を組んでらっしゃいました」 「まあ!」 「王太子妃殿下はご存じのように魅力的な方です……」 「そうね」 「こちらではお父さま、あちらではお祖父さまと甘えられては、お優しい陛下には抗うことも出来ませんから、散歩の後には夕食を摂り、夕食の後には軽く賭け事をなさっていました。というわけで……」 「というわけで――」焦れったさのあまり青ざめたデュ・バリー夫人がその言葉を引き取った。「というわけで、陛下はリュシエンヌにはいらっしゃらなかった、そう仰りたいのね?」 「残念ながらその通りです」 「そういうこと……。陛下が愛しているものは全部あちらにあるってことじゃない」 「そんなことはありますまい! あなただって自分のお言葉を一言だって信じてはいらっしゃらないでしょうに。せいぜいのところ、お気に入りのものが全部、というところでしょうな」 「なお悪いじゃない。夕食、お喋り、賭け事、どれも陛下には必要なことですもの。それで、どなたと遊んでらしったのかしら?」 「ド・ショワズール殿」  伯爵夫人が苛立ったような仕種をした。 「この話はしたくありませんでしか?」リシュリューがたずねた。 「逆よ、どうか話して下さい」 「聡明なだけでなく勇敢でいらっしゃいますな。ではイスパニア人の言うように、牡牛の角に取りかかるとしましょうか」 「そんな言い方、マダム・ド・ショワズールはお気に召さないんじゃありません?」 「そんなことはありませんな。ショワズール殿は、とその名を呼ばざるを得ませんが、切り札を持っていましたし、そのうえ運も才覚も……」 「勝ちましたの?」 「いいえ、負けました。陛下がピケで千ルイ勝ちました。陛下はかなり自惚れておりました、随分と悪い手でしたから」 「ああ、ショワズールったら! ド・グラモン夫人もいらっしゃったんでしょ?」 「何と言いますか、旅立たれる途中でした」 「公爵夫人が?」 「はい、愚かなことをなさったと思います」 「というと?」 「誰にも構われないと気づいて拗ねてしまい、誰にも追い出されないのに気づいて自分からおん出てしまいました」 「何処に?」 「田舎に」 「何か企んでるのよ」 「おやおや! 何をして欲しいというのです? とにかく、旅立つ途中でごく自然に王太子妃に挨拶を求めたので、妃殿下はごく自然に公爵夫人を愛しまれました。そう言うわけで公爵夫人はトリアノンにいらしたのです」 「グランの方?」 「でしょうな、プチにはまだ家具が入っていませんから」 「そんなふうにショワズール兄妹に取り巻かれてるのなら、王太子妃がどの一派に口づけするつもりなのかよくわかるわね」 「いやいや、伯爵夫人、早とちりはなさいますな。いずれにしても明日、公爵夫人は出発いたします」 「つまり陛下はあたくしのいないところで楽しんでたのよ!」伯爵夫人の憤りからは怯えも拭われてはいなかった。 「なるほどそうですな。信じがたいことですが、そういうことです。それで、あなたならどう結論づけますか?」 「あなたが情報通だということです、公爵」 「それだけですか?」 「まさか」 「では仰って下さい」 「力ずくでも国王をショワズール兄妹の魔の手から引き離さなくては、あたくしたちの破滅だと、改めて結論づけました」 「何と!」 「ご安心なさいませ、公爵」と伯爵夫人が続けた。「あたくしたち、と言ったのは、あたくしの家族のことですから」 「それに友人も。こんな表現を使うことをお許し下さい。要するに……」 「要するに、あなたはご友人だと考えて構いませんのね?」 「そう申し上げたつもりです」 「それじゃ充分ではありませんわ」 「証明したつもりです」 「それならいいわ。手を貸して下さるんですね?」 「力の限り。ですが……」 「でも、何でしょうか?」 「事は困難を極めるということは、はっきり申し上げておきます」 「ではショワズール一族を根絶やしには出来ないんですね?」 「何にせよ逞しく根を下ろしていますからな」 「そうお思いなんですね?」 「そう考えております」 「ではラ・フォンテーヌがどう言おうと、この樫の木は風にも嵐にも負けないということですね」 「あの方はたいした才人ですから」 「百科全書派みたいな口の利き方をなさいますのね」 「わしがアカデミーの会員ではないとでも?」 「あら、どっぷり浸っているわけじゃありませんもの」 「確かにそうですな。わしよりむしろわしの秘書の方が相応しい。とは言うものの、やはり意見を変えるつもりはありませんぞ」 「ショワズールが天才だってことですの?」 「さようです」 「でもそれなら、その才能を何処で発揮してますの?」 「こういうことです。高等法院やイギリスに関する問題を扱って来ましたから、もはや国王にとってなくてはならぬ存在なのです」 「でも高等法院を陛下にけしかけてるじゃないの!」 「そこが抜け目ないところです」 「イギリスを戦争に仕向けてるじゃない!」 「平和になっては飯の食い上げですからな」 「そんなの才能じゃありませんわ、公爵」 「では何でしょうか?」 「大変な裏切りです」 「大変な裏切りを成功させるのは、やはり才能ではありませんかな。わしには才能という言葉では追いつかないように思えます」 「でもそういう意味でなら、ショワズール殿と同じくらい才能のある人を知っていますわ」 「はて?」 「少なくとも高等法院に対して」 「それは一大事ですな」 「何しろ高等法院の叛乱の原因なんですから」 「どうもよくわかりませんが」 「わかりませんの?」 「ええ、まったく」 「あなたのご親戚ですのに」 「わしの親戚に天才がいるだろうと? 大叔父の枢機卿のことを仰りたいのですか?」 「いいえ、甥御さんのデギヨン公爵のことですわ」 「デギヨンか、確かに、ラ・シャロテ事件のとっかかりでした。なるほどたいした人物です。難しい仕事をやってのけた。賢い者ならああいう人間を引き入れなくてはなりますまい」 「甥御さんのことはあたくし、何も知らないんですけれど……」 「おや、ご存じありませんか?」 「ええ、一度も会ったことがないんですの」 「これはしたり! 確かに認証式からこっち、ブルターニュの奥に籠もりきりでしたからな。お会いした際には気をつけてやって下さい、太陽に目が眩んでしまうでしょうから」 「才能も家柄もある方が、あんな黒服たちの中で何をなさってますの?」 「改革しているのですよ、ほかにやることがありませんから。楽しみを見出すにしても、ブルターニュにはたいした楽しみがありません。あれこそ行動派です。あれほどの臣下はおりませんぞ、望みさえすれば陛下も取り上げて下さるでしょう。高等法院が傲慢な態度を取り続けるとしてもあれとは無関係です……。あれこそ真のリシュリューですよ、伯爵夫人。ですから、どうかお許しいただきたいのですが……」 「何をですか?」 「こちらに来た際にはあなたに紹介させて下さい」 「ではそのうちパリにいらっしゃるんですか?」 「さあ、どうでしょうな? ヴォルテールの言うように、まだなお栄光のためにブルターニュに残っているかもしれません。こちらに向かっている途中かもしれません。パリから二百里のところかもしれません。市門のところかもしれません」  そう言ってリシュリュー元帥はデュ・バリー夫人の顔を窺い、最後の言葉がどのような効果を及ぼしたのか確かめた。  だがデュ・バリー夫人はすぐに我に返り、 「話の続きに戻りましょうか」と言った。 「お好きなところから続けて下さい」 「何処までお話ししましたかしら?」 「陛下がショワズール殿と一緒にトリアノンに籠もっているというところまでです」 「でしたら、そのショワズールを遠ざけるところから続けましょう」 「と言いますか、あなたが続けて下さい、伯爵夫人」 「あらそう? ショワズールには出て行ってもらいたいし、出て行ってもらわないとあたくしが危ないんです。あなたはこれっぽっちも助けて下さらないんでしょう?」 「ほ、ほう!」リシュリューは胸を反らせた。「そういう遣り口は、政治の世界では歩み寄りと呼んでおります」 「お好きなように捉えて下さって構いませんし、どのようにお呼び下さっても構いませんけど、明確に答えて下さいましね」 「そんな可愛い口から出るには、何とも嫌な副詞ですな」 「それが答えですの、公爵?」 「いやいや、そういうわけではありません。答えの準備ですな」 「準備は出来まして?」 「しばしお待ちを」 「怖じ気づきましたの?」 「とんでもない」 「ではお話し下さい」 「寓話についてどう思われますか、伯爵夫人?」 「とっても古いものです」 「いやはや、太陽だって古いですし、ものを見るにはあれよりほかありませんからな」 「では寓話のお話をなさって下さい。でも曇りなくすっきりとお願いね」 「水晶のように曇りなく」 「ではお願いします」 「お聞き下さいますか?」 「どうぞ」 「ではご想像下さい……ご存じのように、寓話には想像がつきものですから」 「ふう! 面倒臭いわね」 「思ってもいないことを仰いますな、これまで真剣に耳を傾けたりなどなさらなかったでしょう」 「ごめんなさい。悪かったわ」 「リュシエンヌの庭を歩いていて、美味しそうなプラム、それも|スモモ《レーヌ=クロード》を見つけたと想像して下さい。あなたの大好物ですな、何せあなたに似て真っ赤に熟しておりますから」 「続きをどうぞ、ごますり屋さん」 「枝の先や樹上に実ったプラムを見つけたとしたら。あなたならどうなさいますか、伯爵夫人?」 「木を揺するわ」 「ところがうまくいかない。というのも先ほど仰ったように、この木は太くどっしりと根を張っているからです。結局揺らすことも出来ずに、いつの間にか樹皮でそのお手々を引っ掻いていたことに気づきました。そこであなたは、あなたと花にしか出来ないような可愛らしい仕種で首を傾げて、『もうがっかり! プラムが地面にあればよかったのに』と言って悔しがりました」 「ありそうなことね」 「確かにわしは反対いたしませんな」 「続けて。面白くなって来たわ」 「そこで振り返ったところ、友人のド・リシュリュー公爵が考え込みながら歩いて来るのが目に飛び込んで来ました」 「何を考えていましたの?」 「いい質問です! あなたのことを考えていました。あなたはさえずるような声で呼びかけました。『公爵! 公爵!』」 「そうよね」 「『あなたは逞しい男の方ですし、マオンを奪取なさいましたでしょ。このプラムの木をちょっと揺すって下さらないかしら。この憎ったらしいプラムが欲しいんです』。如何ですか、伯爵夫人?」 「本人そのものでした。あなたが声に出している間、あたくしはそれを囁いていましたもの。それで、何と答えましたの?」 「わしは答えました……」 「ええ」 「『ご冗談でしょう! それは確かにこれ以上のことなどわしは求めませんが、それにしたってご覧なさい。この木は随分とがっしりしているし、枝は随分とごつごつしております。あなたのより五十年も古ぼけているとはいえ、わしだって自分の手は可愛いですからな』」 「あら!」伯爵夫人が声をあげた。「あたくし、わかっちゃった」 「では寓話を続けましょう。あなたは何と仰いましたか?」 「あたくしは言いました……」 「さえずるような声で?」 「いつものように、です」 「どうぞどうぞ」 「あたくしは言いました。『元帥閣下、興味のないふりはおやめになって。でも自分のものではないからといって、プラムに興味がないわけじゃありませんでしょ。あなたも欲しくありませんの? しっかりと木を揺すってプラムを落としてくれたなら、そうしたら……!』」 「そうしたら?」 「『そうしたら、一緒にいただきましょうよ』」 「お見事!」公爵は両手を叩いた。 「そうかしら?」 「そうですとも、誰もあなたほど上手くは寓話をまとめられますまい。我が角に誓って、亡父が申しておりましたように、丁寧にまとめられていますぞ!」 「では木を揺すって下さいますのね?」 「二本の手と三つの心臓で」 「それで、そのプラムはレーヌ=クロードでしたの?」 「そうだっとは言えませんな」 「では何でしょう?」 「その木の天辺にあったのは、どうやら大臣の地位のようです」 「じゃあ二人で大臣の地位を」 「いやいや、それはわしのものです。大臣のことはうらやみますな。木を揺すればほかにもたくさん落ちて来るでしょうから、目移りしてどうすればよいのかわからないくらいですぞ」 「それはもう決まったことですの?」 「わしがショワズール殿に取って代わることが?」 「陛下がお望みなら」 「陛下はいつでもあなたと同じことをお望みなのでは?」 「そうでないことはよくわかってらっしゃるでしょう。陛下はショワズールを更迭なさりたくないんですもの」 「何の! 陛下は昔の相棒を懐かしんで下さいますとも」 「軍隊の?」 「さよう、軍隊のです。最大の危険が戦争とは限りませんからな」 「デギヨン公のことは頼まなくてもいいんですの?」 「構いません。自分のことくらいは自分で出来るでしょう」 「それにあなたも、ね。次はあたくしの番ですわ」 「何の話でしょうか?」 「お願いするのはあたくしの番です」 「ああ、なるほど」 「あたくしには何をしてくれますの?」 「お望みのことを」 「すべてが欲しいんです」 「もっともなご意見ですな」 「手に入りますか?」 「いい質問です! だがそれで満足ですか、ほかに頼み事はありませんか?」 「ほかにもまだあるんです」 「ではどうぞ」 「ド・タヴェルネ殿をご存じ?」 「四十年来の友人です」 「息子さんがいますでしょ?」 「それに娘さんが」 「そうなんです」 「それで?」 「それだけです」 「はて、それだけですか?」 「ええ、お願いするのは後に残しておいて、然るべき機会にお願いするつもりです」 「よい作戦です!」 「では決まりですわね?」 「わかりました」 「約束ですね?」 「むしろ誓いましょう」 「では木を倒して下さいまし」 「手だてはあります」 「どんな手だてでしょうか?」 「甥です」 「それから?」 「イエズス会です」 「そういうこと!」 「こんなこともあろうかと温めておいたささやかな計画がございます」 「教えてもらうわけには?」 「残念ですが伯爵夫人……」 「ええ、そうね。あなたの言う通りよ」 「おわかりでしょうが、秘密にしておくことが……」 「成功の鍵を握っている、と仰りたいんでしょう」 「これは一本取られましたな」 「それでね、あたくしの方からも木を揺すろうと思ってますの」 「それはいい! どんどん揺すって下さい。それでまずくなることなどないでしょう」 「あたくしにも手だてはあるんです」 「見込みはありますか?」 「そのために費やしたんですから」 「どのためでしょうか?」 「そのうちわかりますわ、むしろ……」 「何でしょう?」 「いいえ、それはおわかりありませんわ」  魅力的な口を持つ伯爵夫人にしか出来ないような細やかな口振りでこの言葉を口に出すと、すぐさま伯爵夫人は我に返ったように、駆け引きに夢中になって波のように動かしていたスカートの襞を素早く降ろした。  多少なりとも船の経験のあった公爵は、海の天気の変わりやすさには慣れていたので、豪快に笑うと伯爵夫人の手に口づけをして、これまで悟って来たように、謁見が終わったことを悟った。 「木を倒すのにはいつ取りかかりますか?」伯爵夫人がたずねた。 「明日。あなたはいつ揺するおつもりです?」  庭に四輪馬車の轟音が聞こえ、ほぼ同時に国王万歳!の声があがった。 「あたくしは」伯爵夫人は窓の外に目をやった。「今すぐに取りかかります」 「結構ですな!」 「小階段を通って、庭で待っていて下さい。一時間後にお返事いたします」 第七十八章 ルイ十五世陛下の代用寵姫  国王ルイ十五世はそれほど落ち着いた人物ではなかったので、毎日欠かさず政治を話をするわけにはいかなかった。  国王にとって政治の話はひどく退屈だったので、機嫌の悪い日には、その話題と共にだんまりを決め込んだ。 「ふん! 機械も余も飽きもせず毎日よう働いているな!」  機会さえあれば周りもそれに乗じていたが、機嫌のいいときには主導権を奪われていた国王も、その主導権を取り戻さないことは滅多になかった。  デュ・バリー夫人は国王のことならよくわかっていたので、海を知り尽くした漁師のように、荒れ模様の日には決して船を出そうとはしなかった。  というわけでこのたび国王がリュシエンヌに会いに来たのは、これ以上ないほど機嫌のいい時であった。前日に間違いをしでかしてしまったので、文句を言われることは承知していた。この日の国王は絶好の獲物であった。  しかしながら、無邪気に待ち伏せされている獲物でも、本能的に危険を察知するものだ。だが狩人の方にそれをねじ伏せるだけの腕があれば、この本能も裏をかかれる。  国王を罠に掛けたがっている伯爵夫人が、如何にして獲物を捕らえたかをお見せしよう。  既にお伝えしたと記憶しているが、伯爵夫人はブーシェが羊飼いに着せたような色っぽい部屋着を纏っていた。  ただしこちらには頬紅がない。ルイ十五世は頬紅が大嫌いだった。  国王陛下の来臨が知らされると、伯爵夫人は頬紅壺に飛びつき、懸命に頬にこすりつけ出した。  国王が控えの間からこれを見つけた。 「何とまあ、化粧をしているな!」と言いながら部屋に入って来た。 「まあ、ようこそ、陛下」国王から首筋に口づけをされても、伯爵夫人は鏡の前から動かずに手を動かし続けた。 「別の人を待っていたのかな?」 「どうしてそう思いますの、陛下?」 「そうでなければ、どうして顔を塗りたくっているのかね?」 「ところが陛下、それどころか、陛下にお目に掛からずに今日一日が終わることはないと信じておりました」 「そなたも言いますね!」 「そうお思いですか?」 「うむ、真剣な顔をして。音楽を聴いている時のリシュリューと同じだ」 「そうなんです、真剣にお話しすることがありますの」 「ああ結構。わかっておる」 「そうですか?」 「文句があるのでしょう!」 「あたくしに? まさか……どうしてですの?」 「昨日、会いに来なかったからです」 「まあ陛下! あたくしに陛下を独り占めする権利があるとは思いませんでしょう」 「ジャネット、怒らんでくれ」 「怒ってなどいませんわ」 「はっきり言おう、そなたのことを思わぬ時などないのだ」 「そうですか!」 「昨夜は永遠のように感じられたよ」 「陛下、繰り返しますが、あたくしはそんなこと申しておりません。陛下が何処で楽しく夜をお過ごしになりましたって、誰も気にはしませんわ」 「家族で過ごしておったのだ」 「そんなことをたずねているわけでもありませんわ」 「どういうことです?」 「あたくしから申し上げるのは失礼ですもの」 「はてさて! そのことに怒っているのでないとしたら、いったい何に怒っておいでです? 腹を割って話しませんか」 「怒ってなどおりません」 「だが気に食わないことがあるのでしょう……」 「気に食わないことがあるのは確かです」 「何が気に入らないのだ?」 「代役であることがです」 「あなたが?」 「あたくしが、です! デュ・バリー伯爵夫人、|可愛い《ジョリー》・ジャンヌ、別嬪《シャルマント》・ジャネット、|魔性の《セデュイサント》・ジャヌトン。お好きなようにお呼び下さい。そうです、あたくしは代役なんです」 「しかし、何の代役なのです?」 「マダム・ド・ショワズールとマダム・ド・グラモンが陛下を必要としなくなった時の、恋人役です」 「伯爵夫人……」 「残念ですけれど、洗いざらい申し上げますわ。ド・グラモン夫人が陛下の寝室の入口でよく陛下を待ち受けていることは誰でも知っております。あたくしは高貴な公爵夫人とは正反対。きっと出口で待ち詫びていても、捕まるのはショワズール殿かグラモン夫人……残念ですけれど!」 「伯爵夫人!」 「何ですの! あたくしなんてどうせ身分の低い女。ブレーズのお妾、ラ・ベル・ブルボネーズですもの」 「伯爵夫人、ショワズール兄妹は仕返しするつもりなんです」 「構いません、あたくしのやったことに仕返しされるんですから」 「そなたにひどい言葉をぶつけるだろう」 「その通りでしょうね」 「ああ!」 「一ついい案があって、実行しようと思ってますの」 「それは……?」国王は不安そうにたずねた。 「呆れるくらい簡単なことですわ」  国王は肩をすくめた。 「信じてらっしゃいませんのね?」 「当然だ」 「難しく考えることはありません。あたくしのことをほかの方々と一緒くたになさってるんですわ」 「そうかな?」 「そうですとも。ド・シャトールー夫人は女神になりたがりました。ド・ポンパドゥール夫人は女王になりたがりました。ほかの方々は富を、権力を求め、寵愛の重さで貴婦人たちを貶めようとしました。でもあたくしにはそんな欠点はありませんわ」 「その通りだ」 「それどころか、美点ばかりです」 「それもまた確かなことだ」 「思ってもいないことを仰るのね」 「伯爵夫人! 余ほどそなたのことを評価している者はおりませんよ」 「そういうことにしておきますわ。これから申し上げることを聞いてもお気持ちを曲げないで下さいましね」 「どうぞ仰いなさい」 「第一に、あたくしには財産がありますし、誰かを必要ともしていません」 「それを残念に思わせたいのかな」 「第二に、ご婦人たちを満足させるような自惚れも持ち合わせてはいませんし、叶わぬ願いに焦がれてもおりません。何よりもまず、恋人のことをいつも愛していたいんです。恋人がマスケット銃兵であろうと、国王であろうと。愛がなくなればその日から、どんなものにも愛情を覚えることはないでしょう」 「それでも余に愛情を覚えていて欲しいものだ」 「話はまだ終わってはいませんわ」 「続きを聞こう」 「陛下に申し上げなくてはなりませんけれど、あたくしは若く可愛く、後十年は美しさを保てますし、陛下の寵姫ではなくなった日からは、世界一幸せな女であるだけでなく、世界一名誉な女になると思いますの。お笑いになるのね。陛下が考えてもいないことを申し上げなくてはならないのは残念ですわ。陛下にはほかにも寵姫がいらしたけれど、何人も寵姫を持ったせいで国民の怒りを買い、みんな捨ててしまわれたでしょ。陛下は国民から祝福されましたけれど、以前のように卑しい身分に戻った寵姫は国民から恨まれました。でもあたくしは、陛下からお払い箱にされるのを待つつもりはありませんの。自分から辞めて、辞めたことをみんなに報せるつもりです。貧しい人々に十万リーヴル与えて、修道院で一週間過ごして懺悔するつもりです。ひと月もしないうちに、あたくしの肖像画がマグダラのマリアと対になって教会中に飾られることになるでしょう」 「まさか伯爵夫人、真面目な話ではありますまいね」 「ご覧下されば真面目かどうかわかりますでしょう。これまでの人生でこれほど真面目だったことなどありません」 「そなたがこんなけちくさいことを、ジャンヌ? 腹をくくれと申しておるのか?」 「違いますわ。腹をおくくりになるよう迫るのでしたら、ただ『どちらかお選びになって下さい』と申し上げるだけですもの」 「だが?……」 「でもあたくしはこう申し上げるだけです。『お元気で、陛下!』と」  国王は青ざめたが、今度は腹を立てていた。 「失念しているのなら、お気をつけなさい……」 「何ですの?」 「バスチーユに入れることも出来るのですぞ」 「あたくしを?」 「さよう、そなたを、バスチーユに。修道院の何倍も気の滅入る場所です」 「どうか陛下!」と伯爵夫人は手を合わせた。「寛大なおはからいをして下さいましたら……」 「寛大とは何のことです?」 「あたくしをバスチーユに入れて下さることです」 「何だと!」 「あたくしはそれで満足できます」 「まことか?」 「もちろんです。ド・ラ・シャロテやド・ヴォルテールのようにみんなから親しまれることに、あたくし密かに憧れているんですもの。そうなると足りないのはバスチーユじゃありません? ちょこっとバスチーユに行くだけで、あたくしは世界一幸せな女なんです。あたくしや貴族や王女殿下や陛下ご自身について回想録を書くのにちょうどいい機会ですし、最愛王ルイの素晴らしい点を遠い子孫に伝えることにもなりますもの。封印状をご用意下さいましな、陛下。ペンとインクはこちらにございます」  伯爵夫人は丸テーブルの上に置いてあったペンとインク壺を国王の方に押しやった。  挑まれた国王の方は、しばし考え込んでから、立ち上がった。 「いいでしょう、さようなら、マダム」 「馬を!」伯爵夫人が声をあげた。「さようなら、陛下」  国王が扉に向かった。 「ション!」と伯爵夫人が呼んだ。  ションが現れた。 「鞄と使用人と駅馬車を。急いで」 「駅馬車! 何があったの?」ションは唖然としている。 「急いで出かけないと、バスチーユに入れられちゃうの。時間がないわ。急いで、ション、早く」  この非難にルイ十五世は心を打たれた。伯爵夫人のところに戻ると手を握った。 「伯爵夫人、きつい言い方を許して下さい」 「実を言いますと、陛下が絞首台をちらつかせて脅さなかったことに驚いておりますの」 「何を馬鹿なことを!」 「違いまして?……盗人は吊されるんじゃありませんでした?」 「盗人?」 「グラモン夫人の地位を盗もうとしているんですもの」 「伯爵夫人!」 「それがあたくしの罪ですわ」 「いいかね、ずるはなしだ。余を怒らせないでくれ」 「では?」  国王は両手を伸ばした。 「二人とも間違っていた。さあ、余も許すからそなたも許してくれ」 「本気で和解をお求めですの?」 「誓って本気だ」 「退っていいわ、ション」 「何の指示も出さなくていいのね?」 「逆よ、さっきの指示をすべて出しておいて」 「伯爵夫人……」 「でも次の命令を待たせておいて」 「了解!」  ションが立ち去った。 「ではあたくしをお望みですのね?」伯爵夫人が国王にたずねた。 「ほかの何よりも」 「ご自身のお言葉をようくお考えなさいませ」  国王は考えはしたものの、後には引けなかった。それに、勝利を手にした夫人が何処まで要求するのかを確かめたかった。 「お話しなさい」 「今すぐ申し上げます。お気をつけ遊ばせ、陛下!……あたくしは何もお願いせずにに出て行くところだったんですから」 「よくわかっておる」 「でも出て行かないとなったら、お願いがありますの」 「何だね? それが知りたい」 「陛下はようくご存じですわ」 「知らぬ」 「知ってるくせに。だって嫌な顔をなさってますもの」 「ショワズールの更迭か?」 「大正解」 「無理だ、伯爵夫人」 「では馬を……」 「いやはや、頑固な方だ……」 「あたくしをバスチーユ送りにする封印状に署名なさるか、大臣罷免の封印状に署名なさるか、どちらかです」 「間を取ればよい」 「お気遣いありがとうございました。どうやら心おきなく出て行けますわ」 「伯爵夫人、そなたは女だ」 「ありがたいことです」 「気の強い女がへそを曲げたように政治を語るでない。余にはショワズールを罷免する理由がない」 「ちゃんとわかってましてよ、高等法院の先頭に立って、叛乱を支えていることくらい」 「言い訳を用意しておろう」 「言い訳というのは弱者の理屈です」 「伯爵夫人、ショワズール殿は正直な人間だし、正直な人間など滅多にいないのだ」 「正直者が陛下を黒服に売り、そうして王国の金を貪られるのですか」 「極論を申すな」 「控えめに申したのです」 「何ともはや!」ルイ十五世は口惜しがった。 「でもあたくしも馬鹿ですわね。高等法院やショワズールや政府なんてあたくしには縁のない話ですし、陛下や代わりの愛人なんてあたくしには縁のない話ですのに」 「またか!」 「変わるわけがございません」 「伯爵夫人、二時間考えさせてくれ」 「十分です。あたくしは部屋におりますので、お返事を扉の下から差し込んで下さいまし。紙はそこに、ペンはそこに、インクはそこにございます。十分してお返事がない場合や、満足できるお返事のなかった場合は、お別れです、陛下! あたくしのことはご心配なさらずに、すぐに出て行きますから。さもなければ……」 「何だね?」 「差し釘を引けば、閂が落ちますわ」  内心の動揺を抑えようとしたルイ十五世から、その手に口づけをされた伯爵夫人は、退き際に矢を放つパルティア人の如く、去り際に挑発的な笑顔を残して出て行った。  国王は敢えて止めようともせず、伯爵夫人は隣室に姿を消した。  五分後、折り畳まれた紙が、絹の扉留めと絨毯の毛足の隙間に差し込まれた。  伯爵夫人はその内容をひと息に読むと、ド・リシュリュー氏宛てに何事かを急いで書きつけた。リシュリューは長いこと突っ立っているのを人に見られることを恐れて、庇下沿いに庭を歩き回っていた。  元帥は紙を広げて読むと、七十五歳とは思えぬ駆け足で中庭の四輪馬車までたどり着いた。 「ヴェルサイユだ、大急ぎで!」  窓からリシュリュー氏に落とされた紙にはこんなことが書かれたいた。  ――あたくしは木を揺らし、大臣は落ちました。 第七十九章 国王ルイ十五世が大臣と仕事をしていた次第  翌日、ヴェルサイユに噂が広まっていた。誰もが会えば必ず秘密めかした仕種をして意味深に握手をするかと思えば、十字を切ったり天を仰いだりして、悲しみや驚きを表した。  ド・リシュリュー氏は多くの支持者と共に、トリアノンの国王の控えの間にいた。十時頃のことである。  きらびやかに着飾ったジャン伯爵が、老元帥と話をしていた。その顔を喜びに溢れていると見なせるならば、楽しげに話をしていたと言っていい。  十一時頃、国王が執務の間に向かったが、誰にも話しかけずに通り過ぎた。かなりの急ぎ足であった。  十一時十五分、書類入れを抱えたド・ショワズール氏が馬車から降りて回廊を渡った。  通り過ぎた時には人々がざわめき、背中を向けて互いに話に興じているふりをして、大臣に挨拶するのを避けた。  ショワズール公爵はこうした態度には目もくれなかった。部屋に入ると、国王がチョコレートを手に書類をめくっていた。 「ご機嫌よう、公爵」国王が親しげに挨拶した。「今朝はいい調子だな?」 「ショワズールの調子はよくとも、大臣の具合はよくありません。陛下がまだ何も仰いませんので、こちらからお願いしに参った次第です。辞職を受理していただけますか。この申し出をお許しいただけるとありがたく存じます。それが陛下から頂戴できる最後のご親切ですから」 「何だと、辞職? 何を言うのだ?」 「陛下は昨日、デュ・バリー夫人に言われるがまま、私を罷免する書類に署名なさいました。この報せはとうにパリやヴェルサイユにすっかり広がっております。悪は為されました。しかしながら、お許しなく陛下の任務から離れるつもりはございません。公式に任命された以上は、罷免される時も公式文書が必要なものと考えております」 「まったく」国王は笑い出した。ショワズール氏の峻厳な態度に、恐れすら抱いていたのだ。「何とも頭の切れる形式主義者だな。そんなことを信じておったのか?」 「ですが陛下」と大臣は驚いた顔をした。「陛下は署名なさいました……」 「いったい何のことだ?」 「デュ・バリー夫人が持っている令状のことです」 「ああ! 公爵、そなたは平和に憧れたことがないのか? 幸せ者め!……ショワズール夫人が出来た人だというのは事実なのだな」  公爵はこの当てこすりに眉をひそめた。 「家庭の問題だとお考えのことを国の問題に重ねるには、陛下は些か揺るぎなく恵まれたお方です」 「ショワズール、そのことを話しておかねばなるまい。馬鹿げたことだ。そういうところが随分と恐れられていることには気づいておろう?」 「憎まれている、と言うべきでしょう」 「好きなようにせい。とにかく、伯爵夫人の気まぐれには選択肢がなかった。自分をバスチーユ送りにするか、そなたの職を解くか、だ」 「つまり?」 「つまり、今朝ヴェルサイユで起こった眺めが見られなくなるのは非常に残念だった、と思わぬかね。余は昨日から、伝令が道を走るのを眺めたり、いろいろな人間が落胆したり縮こまったりしているのを眺めて楽しんだよ……昨日からペチコート三世がフランス王妃だ。楽しみは終わってしまった」 「結局のところどうなるのでしょう?」 「結局のところ」ルイ十五世は真面目な口振りに戻った。「何も変わらぬだろう。余が負けたように見えても絶対に負けてはおらぬことはわかっておるな。女どもには時折り蜂蜜入りの菓子を放って頬張らせておけばよい。ケルベロスと同じだ。だが我々は冷静に騒ぐことなく、いつも変わらず共に歩んでおる。今は釈明の段階なのだ、だからこのことには肝に銘じておけ。幾つもの噂が飛び交い、そなたを逮捕するという令状が幾つあろうと……ヴェルサイユに来るのを控えることはない……余の意見が変わらぬ限り、これからもそなたとは友人だ」  国王が手を差し出すと、大臣は感謝もわだかまりもなく、手の上に身を屈めた。 「では、よければ取りかかろうではないか、公爵」 「ご命令のままに」ショワズールは書類入れを開いた。 「よし、まずは花火の件について教えてくれ」 「ひどい惨事でした」 「誰の落ち度だ?」 「パリ市長のビニョン氏です」 「民衆は怒りの声をあげておろうな?」 「無論です」 「では恐らく、ビニョン氏を罷免せねばなるまいな」 「高等法院ではメンバーが一人、乱闘に巻き込まれて危うく死にかけたので、事件に強い関心を持っておりました。ですがセギエ次席検事が、惨事は不可避のものだったことを証明しようと、巧みに弁舌をふるいました。熱弁は拍手喝采で迎えられ、現在は収まっております」 「それはよかった! 高等法院に移ろう……しかし非難は免れまい」 「ド・ラ・シャロテ氏に反対し、デギヨン公を支持しないからといって、私は非難されておりますよ。ですが非難するのはどんな者たちでしょうか? 陛下の令状のことを大喜びで言いふらしたのと同じ連中です。考えてみて下さい、デギヨン公がブルターニュで越権行為をし、イエズス会の追放が現実のものとなり、ラ・シャロテ氏が正しく、陛下ご自身がこの検事総長ラ・シャロテ氏の潔白を公式文書で承認したとしたら。しかしながら国王に前言撤回させることなど出来ません。相手が大臣ならよいでしょうが、国民相手にそのようなことは!」 「そうなって来ると、高等法院は強気に出るぞ」 「当然ですね。弾劾され、投獄され、傷つけられ、無罪を宣告されて、強気にならぬはずがないではありませんか! ラ・シャロテ事件を起こしたことでデギヨン公を非難したりはしませんでしたが、あの事件で間違いを犯したことを許すつもりはありませぬ」 「公爵、公爵! もうよい、悪は為されたのだ。出来ることは……どうやってあの思い上がりどもを抑えるかだ……」 「大法官が謀を止め、デギヨン公の後ろ盾がなくなれば、高等法院の怒りも収まるでしょう」 「だがそれでは余の負けだ!」 「では陛下はデギヨン公にお任せですか……私ではなく?」  これは手強い、と国王は感じた。 「知っておろう、家臣たちに嫌な思いをさせるのは嫌いなのだ。たといその家臣が間違っていたとしても……だがこの事件のことはそっとしておかぬか。余も心を痛めておる。時が解決してくれるだろう……外国の話をしよう……戦争をすべきだという噂だが?」 「いざ戦争となれば、この戦争には大義名分と必然性がついて来るでしょうな」 「イギリスと……馬鹿な!」 「まさかイギリスを恐れておいでですか?」 「ううむ! 海上では……」 「陛下はどっしりとお構えなさいませ。海軍大臣である従兄のド・プララン公爵におたずねになれば、大型船が六十四隻あることがわかるはずです。建造中のものは含まれません。一年であと十二隻は造れるだけの材料もあります……第一級のフリゲート艦が五十隻、海戦に備えて配置についております。地上戦になればさらにこちらに有利です、フォントノワのことはご記憶でしょう」 「承知した。だがイギリスと戦う理由は何だ? そなたほど知恵の回らぬアベ・デュボワは、イギリスとの交戦を避けていたぞ」 「そのことでしたら、アベ・デュボワは一月に六十万リーヴルをイギリスから受け取っていたと考えております」 「何と!」 「証拠もございますよ」 「もうよい。それにしても、戦争の大義は何処にある?」 「イギリスはインドを狙っています。陛下の部下には、断固たる命令を出して来ねばなりませんでした。衝突が起これば、イギリスが抗議する恰好の口実となりましょう。抗議を受け入れては絶対になりません。以前の政府が金銭のやり取りによって面目を保っていたように、現在の政府は武力によって面目を保たなくてはなりません」 「まあ待て! インドのことが誰にわかる? あんなに遠いではないか!」  公爵は口唇を咬んだ。 「大義《casus belli》は我々にあります」 「またか! いったい何のことだ?」 「イスパニアはマルビナスとフォークランド諸島の領有権を主張しております……エグモント港を占領していたイギリスを、イスパニアは武力によって見事に追い払いました。怒りに駆られたイギリスが、要求を呑まなければ最後の手段に訴えるとイスパニアに迫っております」 「うむ、だがイスパニアに非があったとしたら、様子を見るべきではないか」 「陛下、それでは家族同盟は? この条約に署名させることにこだわったのは何故でしょうか? ヨーロッパのブルボン家を固く結び合わせ、イギリスの企てに対し防波堤を築くためではなかったのですか?」  国王は目を伏せた。 「心配は無用です。頼もしい陸軍も、果敢な海軍も、資金もございます。国民を黙らせておくことも出来ます。この戦争は、陛下の治世にとって輝かしい大義となりましょうし、私の拡大計画にとって釈明と口実になるでしょう」 「では国内の平和は? そこら中で戦争は起こせぬ」 「国内は静かなものでございます」公爵は気づかぬふりをして答えた。 「そうではない。そうではないことはわかっておるだろうに。そなたは余を慕い、よく仕えてくれる。余を慕っていると話す人間はほかにもおるが、そなたの流儀とは似ても似つかぬ。やり方を一つにまとめようではないか。そうしてくれれば、余は快く過ごせるのだ」 「陛下が快適に過ごされるかどうかは、私とは関係ございますまい」 「ほらその話し方だ。よかろう、今日は余と昼食を摂らぬか」 「ヴェルサイユで、でしょうか?」 「いや、リュシエンヌでだ」 「そうでしたか! まことに残念ですが、家族の者が昨日の噂に怯えておりまして、私が失脚したというのですよ。心を痛めている者たちを放っておくわけには参りませんので」 「余の話に気分を害したりはせぬな? 可哀相な侯爵夫人の時代から、我々三人は幸せに過ごして来たことを思い出してくれ」  公爵は顔を伏せ、目を曇らせ、押し殺したような溜息をついた。 「ド・ポンパドゥール夫人は陛下のご威光に大変こだわった方でした。高度な政治的思想を持ってらっしゃいました。実を言うと、才能溢れるあの方とは気が合いました。あの方が練った計画に、よく一緒に取り組んだものでございます。そうですね、私たちは理解し合っていたのです」 「だが、あれが政治に首を突っ込んだことが、そもそも非難されていたのだぞ」 「それは事実です」 「だが現実には、あれは子羊のようにおとなしい人だ。誹謗文や諷刺歌の作者が相手であっても、封印状に署名させたことなど一度もなかった。要するに、他人の軒を貸したといって非難されたのだ。人は成功を妬むものだ……どうだ、リュシエンヌで仲直りせぬか?」 「陛下、デュ・バリー伯爵夫人に伝えていただけますか。伯爵夫人は陛下の愛を受けるに相応しい魅力的なご婦人です。ですが……」 「また『だが』か、公爵……」 「ですが」とショワズールは続けた。「私は確信しております。陛下がフランスのことをお考えなら、現在必要なのは魅力的な寵姫ではなく有能な大臣であると」 「その話はもうよい。これからも良き友人でいよう。それよりド・グラモン夫人をなだめておいてくれ、これ以上伯爵夫人に陰謀を企むことのないようにな。女が絡むとごちゃごちゃになってしまう」 「グラモン夫人は、陛下に気に入られたがっております。それが間違いの元なのでしょう」 「伯爵夫人に嫌がらせをしても、余に嫌われるだけではないか」 「ですからグラモン夫人は出て行きます。もはや会うことはないでしょう。これで敵が一人減りますね」 「余の言いたいのはそういうことではない。先走り過ぎだ。それにしても頭が痛いな、今朝はルイ十四世とコルベールのように働いたではないか。今朝の我々は、哲学者たちの言うように、偉大な世紀だったな。それはそうと、そなたは哲学者なのか?」 「私は陛下の僕でございます」ショワズール氏は答えた。 「面白いことを言う。そなたは得難い人物だな。腕を貸してくれ、眩暈がする」  公爵は慌てて腕を差し出した。  回廊にいる廷臣たちが今にも二重扉を開けようとして、この輝かしい状況を目にしようとしていることを、ショワズールは見越していた。これほど苦しんだ後で、敵たちを苦しめてやれることに、喜びを覚えた。  期待通りに取次が扉を開け、国王の退出を回廊に告げた。  ルイ十五世はショワズール氏と話をしたまま、笑顔を浮かべ、腕に身体を預けて、廷臣たちには目もくれずに回廊を通り抜けた。ジャン・デュ・バリーが真っ青な顔をして、ド・リシュリュー氏が真っ赤になっていることにも、目をくれようとしなかった。  だがショワズール氏はこの微妙な違いに気づいた。足を真っ直ぐ動かし、首筋を伸ばし、目を輝かせて、廷臣たちの前を通りすぎた。朝はばらばらだった廷臣たちが、今は対照的に寄り集まっている。 「ここで待っていてくれ」回廊の端で国王が言った。「トリアノンに連れて行こう。余の言ったことを忘れるなよ」 「胸に留めておきました」この言葉を聞いて敵たちの心が掻き立てられることをよくわかっていた。  国王が居室に戻った。  リシュリュー氏が列から離れ、痩せた両手で大臣の手を握り締めた。 「ショワズールという人はそう簡単にはくたばるまいと久しく思っておりましたぞ」 「光栄です」何処でやめておくべきかは心得ていた。 「それにしても馬鹿げた噂がありますな?」元帥は諦めなかった。 「噂を聞いて陛下もお笑いでしたよ」 「令状の話を聞きましたが……」 「国王による目くらましでしょう」と、これは落ち着きのないジャンに向かって口にした言葉だった。 「お見事ですな!」ショワズール公爵の姿が見えなくなるや、元帥は伯爵に話しかけた。  階段を降りて来た国王に呼ばれて、公爵はいそいそと後を追っていた。 「ははあ! いやいや、わしらは遊ばれましたな」リシュリュー公爵がジャンに声をかけた。 「何処に行くのでしょう?」 「プチ・トリアノンで、わしらを肴に過ごすのでしょうな」 「畜生!」ジャンが呟いた。「いや失礼、元帥閣下」 「今度はわしの番ですな。わしのやり方が伯爵夫人よりも優れているかどうか確かめましょうではありませんか」 第八十章 ル・プチ・トリアノン  ルイ十四世がヴェルサイユを造り、あまりに大きいため不便を覚えた時のこと。衛兵で溢れた大広間や、廷臣で溢れた控えの間や、従僕や近習や会食者で溢れた廊下や中二階を目にした時のこと。ヴェルサイユは自分が望んでいた以上によく出来ているし、マンサール、ル・ブラン、ル・ノートルは人間の住居ではなく神の住まいを造ったのだと考えた。  そこで時間をもてあましていた大王は、息抜きと骨休めのためにトリアノンを造らせた。だがアキレウスをも疲れさせたアキレウスの剣は、小さな後継者には重すぎた。  ヴェルサイユの縮図であるトリアノンは、ルイ十五世にはそれでもまだ大き過ぎるように思えたので、建築家ガブリエルに造らせたのが、六十ピエ四方の離宮プチ・トリアノンである。  この建物の左には、何の特徴も飾りもない長方形の建造物があった。これは従者と賄い方の居住区である。長さ約十メートル、五十人の使用人がいた。今もまだ無傷のままの姿を見ることが出来る。一階、二階、屋根裏部屋から成る。一階は舗装された堀で囲まれ、建物との間には植え込みがあった。窓にはどれも鉄格子が嵌められており、これは二階も変わらない。トリアノンの方から見ると、修道院のように長い廊下をこの窓が照らしている。  廊下には八、九個の扉があり、その一つ一つがそれぞれ部屋に通じていた。どの部屋にも、控えの間が一つ、小部屋《キャビネ》が左右に一つずつ、一つないし二つの支度部屋があり、内庭に面していた。  この階の下には台所がある。  屋根裏には召使いの寝室が幾つか。  これがプチ・トリアノンだ。  それに加うると、城館から二十トワーズのところに教会があった。城館については細かい説明をする予定はない。この物語には無関係であるし、夫婦しか住めぬほどの広さであることは、現在でもご覧いただける通りだ。  何はともあれ地理的には以下の通りだ。城館はその大きな目で庭園と森を見下ろし、左には使用人部屋が見える。使用人部屋からは鉄格子の嵌った窓や、廊下の窓や金網で覆われた台所の窓しか見えない。  ルイ十五世の住まいであるグラン・トリアノンからは、菜園を通ってプチ・トリアノンに行くことが出来る。取りつけられた木の橋が、二つの離宮を繋いでいる。  ラ・カンティニが設計し植樹したこの菜園と果樹園を通り抜けて、ルイ十五世はド・ショワズール氏をプチ・トリアノンに案内した。先ほどお話ししたあの難しい場面の後のことである。ルイ十五世は自分が王太子夫妻の新居に採り入れさせた改良点を、是非とも見てもらいたがった。ショワズール氏は如才なく、あらゆる点に感心し、あらゆる点に感想を述べた。プチ・トリアノンが日に日に美しく住みやすくなっていると国王が話すのを、大臣は黙って聞いていたが、ここは陛下にとっての家庭なのですね、と言い添えた。 「王太子妃には」と国王は言った。「ドイツ娘の例に洩れず、まだ野暮ったいところがある。フランス語は上手いが、フランス人が聞けばかすかな訛りでオーストリア人だとばれやしないかと気にしておるのだ。トリアノンでなら、友人にしか聞かれずに済むし、話したい時にだけ話せばよい」 「成果は出ているようですね。気づいた限りでは」ショワズールが言った。「妃殿下は申し分のない方で、直すところは一つもありませんよ」  二人が道を歩いて行くと、王太子が芝生の上で太陽の高さを計っていた。  ショワズール氏は深々とお辞儀をしたが、王太子が一言も口を利かなかったので、こちらも王太子に話しかけたりはしなかった。  国王は孫にも聞こえるような大きな声を出した。 「ルイは学者なのだ。科学に頭を悩まして妻を苦しませるのには困ったものだ」 「そんなことはありません」茂みから柔らかな女の声がした。  書類とコンパスと鉛筆を抱え込んだ男と話をしていた王太子妃が走って来るのが見えた。 「こちらはミック氏、わたしの建築家なんです」 「おやおや! あなたにも同じ病気が?」国王がたずねた。 「一族の病気ですもの」 「何を建てるおつもりかな?」 「この庭園に家具を入れるつもりです。これではあんまりつまらないんですもの」 「声が大きい。王太子にも聞こえるぞ」 「王太子殿下も同じ意見なんです」 「つまらないと?」 「そうではなく、楽しいことを見つけようと」 「何かお造りになりたいのですか、妃殿下?」ショワズール氏がたずねた。 「この庭園に庭を造りたいんです、公爵閣下」 「ああ! ル・ノートルも可哀相に!」国王が言った。 「ル・ノートルは偉大な方です。だからこそ好まれているんです、でもわたしが好きなのは……」 「何がお好きなのかな?」 「自然です」 「それはまた哲学者のようだな」 「イギリス人のようなんです」 「それはいい! ショワズールの前でそんなことを言っては、宣戦布告も同然だ。六十四隻の大型船と、従兄のド・プララン氏が統べる五十隻のフリゲート艦を送り込まれますぞ」 「ロベール氏に自然庭園を設計させようと思ってるんです。そういった図面の設計にかけては右に出る人はいませんから」 「自然庭園とはどういったものを考えているのかね? 余が思ったのは、木々や花々や、通りすがりに摘めるような果物が、自然のままのものだが」 「百年でも散歩できそうなところなんです。真っ直ぐな並木道、王太子の仰るには四十五度に刈り込まれた茂み、芝生で囲まれた泉水がご覧になれますよ。芝生には遠近法や五の目の植え込みや段丘を組み合わせるつもりです」 「みっともないのではないか?」 「自然のままではありません」 「これが自然を愛するお嬢さんか!」国王は面白がるというよりは嬉しそうだった。「余のトリアノンから何を造り上げるつもりなのか拝聴するとしよう」 「川、滝、橋、洞穴、岩山、森、谷、家、山、牧場です」 「人形のために?」 「お戯れを! わたしたちが目指すような国王のためです」王太子妃は曾祖父の頬を染めた赤らみには気づかなかったし、自分自身の悲痛な運命を予言していたことにも気づかなかった。 「ではすべて変えてしまうのか。それで何を造るのだ?」 「元からあるものは残しておきます」 「それはよかった。そんな森や川にはインディアンやエスキモーやグリーンランド人のようなご友人は泊められないからな。自然のままに生きてしまう。ルソーなら自然児と呼ぶところだろう……好きなようになさい、そなたは百科全書派から大喝采を浴びるだろうな」 「そんな住処では使用人たちは凍えてしまいます」 「では、すべて壊してしまったら、何処に住まわせるのだ? 宮殿ではなかろう。宮殿はそなたたち夫婦二人だけで一杯だからな」 「使用人のための建物は確保しております」  王太子妃はそう言って、筆者が先ほどご説明した廊下の窓を指さした。 「あそこに見えるのは誰だろう?」国王は庇代わりに手を額にかざした。 「ご婦人ですね」ショワズール氏も言った。 「わたしのところで働いてもらっているお嬢さんです」王太子妃が答えた。 「ド・タヴェルネ嬢だ」ショワズールが目敏く気づいた。 「ほう! そなたはタヴェルネ一家を招いているのかね?」 「タヴェルネ嬢だけです」 「可愛い娘だ……何をさせているのかな?……」 「朗読係です」 「それはよい」国王は鉄格子のついた窓から目を離さずに言った。人から見られていることも忘れて、病み上がりで顔色の悪いタヴェルネ嬢に見入っていたのだ。 「真っ青ですね!」ショワズール氏が言った。 「五月三十一日に、もう少しで圧死するところだったんです」 「まことか? お気の毒に! ビニョンの奴は失脚しても文句は言えぬな」国王が言った。 「もう快復したのですか?」ショワズール氏が慌ててたずねた。 「おかげさまで、公爵閣下」 「おや! 逃げてしまった」 「陛下のお姿をお認めになったのかと。内気な子ですから」 「もう長いのかね?」 「昨日からです。わたしが住むことになったので、来てもらったんです」 「可愛い娘があんな薄暗いところに」ルイ十五世は言った。「ガブリエルの奴は粗忽者だな。木が育てば使用人棟を遮ってしまい、暗くなってしまうことに思い至らぬとは」 「とんでもありません。悪くない住まいなんですよ」 「そんなはずはあるまい」 「お確かめになりますか?」王太子妃は我が家の名誉にこだわった。 「いいだろう。そなたは来るか、ショワズール?」 「もう二時になります。高等法院の会議が二時半にありますから、私はもうそろそろヴェルサイユに戻らなくては……」 「そうか、行って黒服たちをかき回して来てくれ。王太子妃、そなたの小さなお家を見せてくれるかな。余は内装にはうるさいぞ」 「いらっしゃい、ミックさん」王太子妃は建築家に声をかけた。「何でもご存じの陛下のご意見を窺う貴重な機会ですよ」  国王が先に立ち、王太子妃がそれに続いた。  二人は中庭の通り道を素通りし、礼拝堂の石段を上った。  礼拝堂の扉は左にある。一方、右側にある質素な階段を進めば居室群にたどり着く。 「ここには誰が?」ルイ十五世がたずねた。 「まだどなたも住んでおりません」 「手前の部屋の扉に鍵がついておる」 「そうでした、タヴェルネ嬢が今日家具を入れて移って来るんです」 「ここに?」国王は扉を指さした。 「はい、陛下」 「中にいるのか? では入るのはよそう」 「今は出ております。台所棟の小さい方の中庭の軒下にいるのが見えましたから」 「では試しに部屋をいくつか見て回ろう」 「御意に」  王太子妃は国王を一つきりの寝室に案内した。その先には控えの間が一つと部屋《キャビネ》が二つある。  既に並べられていた家具や、本、チェンバロに、国王の目が留まった。とりわけタヴェルネ嬢が日本の壺に差しておいた大きく綺麗な花束が目についた。 「これは見事な花だ! 庭を変えると言っていたが……いったい誰がこれほどの花を朗読係に贈ったのだ? 残しておくべきではないかな?」 「本当に、綺麗な花束ですね」 「庭師がタヴェルネ嬢を気に掛けておるのか……庭師を務めているのは誰だろう?」 「存じません。ド・ジュシュー氏が紹介して下さいましたので」  国王は興味深げに室内を見回し、再び外を眺め、中庭を覗いてから、部屋を出た。  陛下は庭園を通り抜けてグラン・トリアノンに戻った。昼食後に三時から六時まで狩りをするため、四輪馬車の前で随身たちが控えていた。  王太子は相変わらず太陽を測定していた。 第八十一章 陰謀、再び  こうして国王がド・ショワズール氏を落ち着かせ、また時間を活用しようと狩りの時間までトリアノンを歩いている間、リュシエンヌは陰謀家たちの巣となっていた。デュ・バリー夫人の許に集まっていた陰謀家たちが恐れおののいて、火薬の匂いを嗅ぎつけた鳥のように慌ただしく羽ばたいていたのである。  ジャンとド・リシュリュー元帥はしばらく不機嫌に見つめ合っていたが、真っ先に飛び立っていた。  ほかにもいつもの寵臣たちが、ショワズールたちが失脚すると聞いて引き寄せられ、寵愛を取り戻したのを見て怯えていたが、大臣がいなくなると、木が以前のようにしっかりと釘付けされているか確かめようと、自動的にリュシエンヌに戻って行った。  デュ・バリー夫人は、機略を用いて手に入れた見せかけの勝利に疲れて昼寝をしていたが、そこにリシュリューの四輪馬車が嵐のような音を立てて轟然と乗り入れて来た。 「デュ・バリー様はお寝みです」ザモールが片手間に応じた。  ジャンは総督服の刺繍の辺りを蹴飛ばしてザモールを絨毯に突き転がした。  ザモールが痛ましい悲鳴をあげた。  ションが駆けつける。 「また小猿ちゃんをぶってるのね!」 「お前もぶち殺されたくなかったら」ジャンは目を爛々と輝かせた。「とっとと伯爵夫人を起こして来い」  だが伯爵夫人を起こす必要はなかった。ザモールの悲鳴とジャンの怒鳴り声を耳にして、まずいことが起こったのだと悟り、化粧着を羽織って駆けつけて来たのだ。 「どうしたの?」伯爵夫人がぎょっとしてたずねた。ジャンは長椅子に身体を預けて怒りを鎮めようとしていたし、元帥は伯爵夫人の手に口づけするのも忘れていた。 「どうもこうもない。ショワズールのことに決まってるだろう」 「まさか?」 「そうさ、これまで以上だ。くたばっちまえ!」 「つまり何なのよ?」 「デュ・バリー伯爵の言う通りです」とリシュリューが引き継いだ。「ショワズール公爵はこれまで以上にしっかりとした立場を手に入れました」  伯爵夫人は胸から国王の封印状を取り出した。 「でもこれは?」と微笑みかけた。 「よくお読みになりましたか、伯爵夫人?」 「でも……もちろん読めますわ」 「果たしてそうでしょうか。わしにも読ませていただけませんか?」 「あらもちろんよ。読んで下さいな」  公爵は書類を受け取り、丁寧に広げて読み始めた。  『明日、余はド・ショワズール氏を免職する。そのことを間違いなく誓うこととする。ルイ』 「はっきりしてますでしょ?」 「はっきりしておりますな」元帥は渋面を作った。 「どういうことだ?」ジャンがたずねた。 「つまりあたくしたちが勝利を収めるのは明日ってこと。まだ終わっちゃいないの」 「明日? 国王は昨日それに署名したんだろう。だったら明日とは今日だ」 「失礼ですが伯爵夫人」と公爵が言った。「日付が書かれていない以上、『明日』とは、ショワズール氏が失脚するのを見たいとあなたが思った日の翌日なら、どの日であってもおかしくありません。ラ・グランジュ=バトリエール街に酒場があって、わしの家から百パッススのところなのですが、そこに赤い文字で書かれた看板が出ております。『お支払いは明日』。『明日』とは『いつでも』という意味です」 「国王に騙されたのか」ジャンが憤慨した。 「嘘でしょう」伯爵夫人は呆然として呟いた。「嘘でしょう。そんな恥知らずな誤魔化し……」 「陛下はほくそ笑んでいらっしゃるでしょうな」リシュリューが言った。 「報いを受けることになるわ」伯爵夫人は怒りを滲ませた。 「そういうことなら伯爵夫人、国王に腹を立ててはなりませんぞ。詐欺だのインチキだのと非難してもなりません。陛下は約束を守ったのですから」 「馬鹿な!」ジャンが乱暴に肩を回した。 「約束ですって? それはショワズールを罷免することではありませんの」 「まさしくその通りです。陛下が公爵の労をねぎらうのをわしは聞いておりました。よいですか、この言葉には二つの意味がある。状況に応じて好きな方を選べばよい。あなたはあなたの望む方を選び、国王は国王の望む方を選んだのです。こう考えると、もはや『明日』のことは問題にもなりませんな。あなたによれば、今日、国王は約束を守らねばなりません。国王は約束を守りました。公爵に感謝の言葉をかけるのをこの耳で聞いて来たのですから」 「ふざけている場合ではないと思いますが」 「よもやわしがふざけているとお考えですか? ジャン伯爵に尋いてご覧なさい」 「ああ、その通りだ、冗談なんかじゃない。今朝ショワズールは国王から口づけとおべんちゃらと祝福を受けていたよ。今ごろは二人して仲良く腕を組んでトリアノンを散歩中だろうぜ」 「腕を組んでですって!」部屋に入って来ていたションが声をあげ、絶望したニオベの像よろしく白い腕を掲げて天を仰いだ。 「遊ばれていたってわけね」伯爵夫人が評した。「ちゃんと確認しましょう……ション、狩りの用意は取り消して。とても行けないわ」 「そう来なくては!」ジャンが吼えた。 「お待ちなさい!」リシュリューが一喝した。「慌てなさるな、拗ねなさるな……伯爵夫人、失礼ながらご忠告申し上げましょう」 「是非お願いします。すっかり混乱してしまって。察して下さいまし。政治に関わる気はないまま首を突っ込む日が来てしまっても、自尊心があれば着の身着のまま飛び込まざるを得ませんもの……それでどういった――?」 「今拗ねるのは得策ではありませんぞ。あなたの立場は微妙なところにある。国王がこれからもショワズールを寵愛するなり、王太子妃の影響を受けるなり、あなたを虐げるようなことがあれば……」 「どうすれば?」 「今以上にお甘えなさい。難しいことは承知しております。それでも現状ではそれが必要なのです。その難しいことをやっていただかなくてはなりません!」  伯爵夫人は考えた。 「つまるところ」と公爵は続けた。「もし国王がドイツの風紀を取り入れたとしたら!」 「謹厳居士になるというのか!」ジャンがぞっとして声をあげた。 「あり得ないでしょうか、伯爵夫人? 人は珍しいものに惹かれるものですからな」 「でも、そんなことは」伯爵夫人は疑わしそうな顔をした。「とても信じられません」 「わしはそれ以上に信じられないものを見てきました。悪魔も老いれば出家するという諺もあります……ですから拗ねてはなりませんぞ。絶対に拗ねてはなりません」 「でも息が詰まるほど腹が立つじゃない!」 「無論です、お察ししますぞ! しかしながら国王、いやいやショワズール氏にはそれを感づかせてはなりません。わしらの前では息を詰まらせても、あの方たちには息を吸うところを見せておやりなさい」 「狩りに行くべきかしら?」 「それが賢明かと」 「あなたはどうなさいますの、公爵閣下?」 「這ってでもついて行かねばなるまいとしたら、ついて行きますぞ」 「でしたらあたくしの馬車でどうぞ」同盟者の表情を確かめようと、伯爵夫人は水を向けた。 「伯爵夫人」公爵は忌々しさを押し隠して笑みを作った。「大変ありがたいことです……」 「お嫌ですの?」 「わしが? いやはや何とも!」 「お気をつけあそばし、危険を冒すことになりましてよ」 「わしは危険を冒したくはありませんな」 「お認めになりましたのね! とうとうお認めになったのね」デュ・バリー夫人が声をあげた。 「伯爵夫人! ショワズール氏に叱られてしまいます!」 「ショワズールさんとはそんなに仲がよかったんですの?」 「伯爵夫人! 王太子妃殿下に嫌われてしまいます」 「利害を分け合ったりせず、あたくしたちとは別々に戦いたいんですのね? まだ時間はあります。危険を冒したくないのなら、協力を取り消すことも出来ますわ」 「見損なっては困りますな」伯爵夫人の手に口づけすると、「認証式の日、ドレス、美容師、馬車を見つけなければなりませんでしたが、わしが躊躇っていたとお思いか? 今も躊躇うはずがありませんぞ。わしはあなたが思っているよりもずっと図太い人間です」 「では決まりね。二人で狩りに参りましょう。誰とも会ったり聞いたり話したりしない口実になりますもの」 「国王にも、ですか?」 「いいえ、あの方がきっと後悔するような甘い言葉を囁くつもり」 「結構! 面白い戦いになりそうですな」 「それでジャン、あなたはどうするの? クッションから出て来なさいよ。それじゃあ生きながら埋もれているのも同じじゃない」 「俺がどうするかって? 知りたいか?」 「もちろんよ、何かの役に立つかもしれないし」 「そうだな、俺は考えてるんだ……」 「どんなことを?」 「きっと今頃は、町中の小唄作りがありとあらゆる調べに乗せて俺たちのことを歌っているだろうし、『掌中新報《ヌーヴェル・ザ・ラ・マン》』は俺たちをパテのようにずたずたにしているだろうし、『武装文人《ガズチエ・キラッセ》』は武装の隙間をつけ狙っているだろうし、『観察者新聞《ジュルナル・デ・オプセルヴァトゥール》』は骨の髄まで観察しているだろうし、要するに明日になれば俺たちはショワズールにさえ憐れまれるような状態に陥ってるだろうってことをだ」 「それで結局、どうするつもりですかな……?」公爵がたずねた。 「結局のところ、パリに行って傷につける包帯少々と軟膏を山ほど買って来るつもりですよ。金をくれないか?」 「幾らくらい?」伯爵夫人がたずねた。 「そんなにはいらない。二、三百ルイだ」 「こんな風に」伯爵夫人はリシュリューを見遣った。「もう随分と戦いに出費しておりますわ」 「まだ戦端に着いたばかりですぞ。今日のところはばらまいても、明日には回収できるやもしれません」  伯爵夫人は何とも言えないような仕種で肩をすくめて立ち上がり、洋箪笥《シフォニエ》を開けて金庫から紙幣の束を取り出した。数えもせずにジャンに手渡すと、ジャンの方も数えもせずに受け取って、大きく溜息をついた。  それから起き上がって伸びをすると、怠い身体をほぐすように腕をひねって、何歩か進んだ。 「こうして」公爵と伯爵夫人に聞こえるように声を出した。「この二人が狩りを楽しんでいる間、俺はパリに馬車を走らせ、二人が立派な狩人や可愛いご婦人を眺めている間、俺の方は三文文士の汚い面に見とれてるってわけだ。早い話が俺はただの飼い犬か」 「覚えておいて下さいまし」伯爵夫人が公爵に言った。「あたくしたちのために何かしようなんて思ってもいないんですから。お金の半分は不良仲間にくれてやり、残りは賭け事に使ってしまうんです。そうするつもりで吼えてるんですわ、いやらしいったらない! さっさと出かけて頂戴、ジャン、ぞっとするわ」  ジャンは飴の小箱を三つ奪ってポケットに移し替え、目にダイヤモンドを嵌めた中国人形を棚から掠め取ると、伯爵夫人の悲鳴を尻目に澄ました顔で出て行った。 「たいした若者だ!」居候が悪童のことを褒めそやしながらも、密かにそいつに雷が落ちて欲しいと願っているような声を出した。「重宝しているのでしょうな……伯爵夫人?」 「仰る通り、まるごとあたくしに預けてくれますわ。あれで年に三、四十万リーヴル儲けてるんです」  振り子時計が鳴った。 「十二時半です」と公爵が言った。「幸いお召しはほぼ済んでいるようですし、あなたが落ち目だと信じている取り巻きの前に姿を見せに行きませんか。すぐに馬車に乗りましょう。狩りがどのように行われるかはご存じでしょうな?」 「昨日、陛下とあたくしとで決めたことですから。マルリーの森を通って、途中であたくしを拾ってくれる手筈でした」 「そうですか! 恐らく国王は予定を変えたりはなさらなかったでしょう」 「でもあなたの計画はどうなりましたの? 今度はあなたの番じゃありませんでしたか」 「昨日すぐに甥に手紙を書きました。もっとも、わしの予感が正しければ、もう途中まで来ているはずです」 「デギヨンさんが?」 「明日になってもわしの手紙と行き会わなかったり、明日か遅くとも明後日になってもここにいないようなことがあれば、驚かざるを得ませんな」 「当てに出来そうですの?」 「あれには知恵があります」 「どちらにしても、あたくしたちはもう死に体です。厄介ごとを恐れていなければ、国王だってきっと折れていたはずです」 「厄介ごとを恐れているとすると……?」 「そうだとすると、残念だけどショワズール氏を見捨てようとは絶対にしないんじゃないかしら」 「率直にお話しして構いませんか?」 「もちろんです」 「わしも見捨てるとは思えません。国王は昨日のような計略を幾らでも使えます。陛下は創意に富んだ方ですからな! ところが伯爵夫人、あなたの方では意地を張って寵愛を失うような危険は冒せますまい」 「考えどころね」 「おわかりでしょう、伯爵夫人、ショワズール氏は永遠に居坐りますぞ。追放するには、奇跡が起こるよりほかありません」 「ええ、奇跡がね」ジャンヌは繰り返した。 「生憎と、人間にはもはや奇跡を起こせません」 「いいえ」デュ・バリー夫人は即答した。「奇跡を起こせる人を一人知っているわ」 「奇跡を起こせる人間を知っているというのですか?」 「その通りよ」 「そんなことを仰ったことはありませんでしたが?」 「今思いついたんですもの」 「その偉人には我々を苦境から救うことは出来そうですかな?」 「何だって出来ると思うわ」 「ふむ!……して、いったいどのような奇跡を? 教えていただけますか、試しに判断してみましょう」 「公爵」デュ・バリー夫人はリシュリューに近づき、思わず声をひそめていた。「十年前にルイ十五世広場で、あたくしがフランス王妃になると告げたのはその方です」 「確かに奇跡的だ。その男なら、わしが宰相として死ぬと予言することも出来るでしょうな」 「違いまして?」 「わしはそのことを一瞬でも疑ってはおりませんぞ。その男の名は何と?」 「聞いてもご存じないと思いますわ」 「何処にいるのですか?」 「あたくしは知りません」 「住所を教わらなかったのですか?」 「そうなんです、褒美はあちらから取りに来るって」 「何を約束したのですかな?」 「望むものなら何でも」 「現れなかったのですか?」 「いいえ」 「伯爵夫人! 予言よりもよほど奇跡的ではありませんか。わしらに必要なのはその人物です」 「でもどうすれば?」 「名前は? 名前は何というのです?」 「二つあるんですの」 「順番に行きましょう。一つ目は?」 「ド・フェニックス伯爵」 「はて、認証式の日におたずねになった人物ではありませんか?」 「仰る通りです」 「あのプロイセン人ですか?」 「あのプロイセン人です」 「ふうむ! そうなるとどうも信用できませんな。わしの知っている魔術師は皆、「i」や「o」で終わる名を持っておりますぞ」 「ぴったりですわ、公爵。二つ目の名前は仰る通りに終わってますもの」 「その名は何と?」 「ジョゼフ・バルサモ(Joseph Balsamo)」 「だが見つけ出す手だてはないのでしょうな?」 「考えていたところです。それを知っている人を知っているような気がしますの」 「結構! だが急いで下され。もう十二時四十五分です」 「準備は出来てます。馬車を!」  十分後、デュ・バリー夫人とリシュリュー公爵は隣り合わせになって狩りに向かっていた。 第八十二章 魔術師狩り  四輪馬車が長い列をなしてマルリーの森の並木道をふさいでいた。国王が狩りをしているのだ。  それは午後の狩りと呼ばれていた。  早い話が晩年のルイ十五世は猟銃を用いた狩りも犬を用いた狩りも行わなかった。狩りを眺めるだけで満足していた。  プルタルコス(プルターク)をお読みになった方なら、マルクス・アントニウスの料理人が猪肉を時間差で串に刺し、五、六頭の猪を炙っておいて、マルクス・アントニウスがいつ食卓に着いても常に焼き立ての料理を出していたことを覚えておいでだろう。  マルクス・アントニウスは小アジアの領土で多くの問題を抱えていた。裁判を行っていたが、キリキア人という連中は大泥棒であったので――これはユウェナリスによって確かめられている――マルクス・アントニウスはひどく心を砕いていた。そこで裁判官の務めの合間に時間が出来ればいつでも口に入れられるように、五、六頭の串焼きを時間を変えて常に用意していたのである。  さて、ルイ十五世の許でも事情は同じであった。午後の狩りに当たって、二、三頭のダマ鹿が二、三時間のうちに時間を変えて放たれ、国王の気分に応じて、すぐに角笛を吹く時もあれば、しばらく経ってから角笛を吹く時もあった。  この日の陛下は四時まで狩りを行うと勅していた。つまり放たれる鹿は正午から選ばれており、時間までは自由に走らせておいたのである。  国王が鹿を追おうと決めた時には、デュ・バリー夫人も国王を追おうと決めていた。  だが狩猟係が準備を整え、偶然が段取りを決めた。偶然の計らいによって、デュ・バリー夫人の計画は変わることになる。  伯爵夫人は偶然に臨んで、相手が自分と同じくらい気まぐれなことを悟ったのである。  ド・リシュリュー氏と政治の話をしながら陛下を追いかけている間にも、陛下は陛下で鹿を追いかけていた。公爵と伯爵夫人が途中でちらほらとされた挨拶を返していると、道路から五十パッススほどのところに、緑の屋根の下、|幌付き軽四輪馬車《カレシュ》がひっくり返って壊れて、天を向いた二つの車輪ががらがらと回っているのに出くわした。馬車を曳いていたはずの黒馬はのんびりと草木を食んでいた。一頭は椈《ブナ》の樹皮を、もう一頭は脚許に広がる苔を食んでいる。  デュ・バリー夫人の馬は国王から下賜された見事な馬車馬だったので、馬車という馬車を(今日風に言えば)ぶっちぎっていた。そんなわけでこの事故車を目にしたのは二人が最初だった。 「まあ! お気の毒に」伯爵夫人が落ち着いた声を出した。 「まことですな」ド・リシュリュー公爵も冷静だった。何分にも宮廷ではあまり感情を出さぬのが作法であった。「馬車がばらばらだ」 「あそこの草の上に見えるのは亡くなった方かしら? ご覧になって、公爵」 「死んではおらぬでしょう。動いております」 「殿方かしら、ご婦人かしら?」 「どうでしょうな。よく見えません」 「見て、お辞儀しましたわ」 「では死者ではありませんな」  リシュリューは念のため三角帽をずらして見た。 「いやはや、伯爵夫人、もしや……」 「そのまさかだと」 「あれはルイ公猊下ではありませんか」 「ド・ロアン枢機卿ご本人ですわ」 「いったいあそこで何をなさっているのでしょうな?」 「確認しに行きましょう。シャンパーニュ、あの壊れた馬車のところまで行って頂戴」  伯爵夫人の御者は直ちに道を外れ、木々の中へ乗り入れた。 「いや、確かに枢機卿猊下ですぞ」とリシュリューが言った。  その通り確かに草むらに横たわっていたのは枢機卿猊下だった。そうして知り合いが通りかかるのを待っていたのだ。  デュ・バリー夫人が近づいて来るのを見て、枢機卿が起き上がった。 「感謝の言葉もございません、伯爵夫人」 「どうなさいましたの、枢機卿、あなたですの?」 「私ですとも」 「歩いていらしたの?」 「いえ、坐っておりました」 「お怪我をなさったのでは?」 「かすり傷一つありませんよ」 「それでどうしてこんなことに?」 「どうか仰いますな。イギリスから連れて来たあの頓馬な御者のせいですよ。森を突っ切って狩りに合流してくれるよう頼んだところ、急に舵を切って私を振り落とし、大事な馬車を壊してしまいました」 「不満を仰るべきではありませんわ。フランスの御者でしたら、首の骨を折るか、よくて肋骨を折っていたところですもの」 「きっとその通りなのでしょうね」 「だからどうかしっかりなさって」 「別に動じてはおりませんが、これから待っていなければならないんですよ、ひどいものです」 「待つとは? ロアンともいうべき人が待っていたんですの?」 「そうせざるを得ませんからね」 「何を仰いますの。あなたをここに置いて行くくらいなら、馬車から降りる方を選びますわ」 「どうか、恥をかかせないで下さい」 「お乗りなさいまし」 「お気を使わずに。スビーズを待っているところです。狩りに参加していますから、もうすぐここを通りかかるはずなのです」 「でも別の道を通ったらどうなさいますの?」 「構いません」 「猊下、お願いですから」 「いえ、結構です」 「でも何故ですの?」 「あなたにご迷惑を掛けたくありませんから」 「枢機卿猊下、あなたが馬車に乗るのを断るというのでしたら、あたくしは従僕に裾を取らせて、|木の精《ドリュアス》のように森を駆けなくてはなりませんわ」  枢機卿は微笑んだ。あまりいつまでも遠慮していると、伯爵夫人に誤解されかねないと思い、四輪馬車に乗ることにした。  公爵はとうに奥の席をずれ、前の座席に移っていた。  枢機卿はその栄誉を固辞しようとしたが、公爵は譲らなかった。  伯爵夫人の馬はすぐに遅れを取り戻した。 「ところで猊下」伯爵夫人が枢機卿にたずねた。「猊下は狩りがお好きになりましたのね?」 「何ですって?」 「こういう集いに参加なさっているのを見るのは初めてですもの」 「そんなことはありませんよ。とは言えヴェルサイユに伺候して陛下に敬意を表する栄誉を得ました際に、陛下が狩りに向かったと聞きましたわけで。緊急の用件がありましたから、追いかけることにしたのです。それが間抜けな御者のおかげで陛下のお耳どころか街での約束も取り逃す羽目になりましたよ」 「どうですか、伯爵夫人」公爵が笑い出した。「猊下は何もかもはっきりと打ち明けなさいましたな……お約束があるそうです」 「取り逃してしまいましたがね」枢機卿は繰り返した。 「ロアン、大公、枢機卿ともあろう方が、これまでに何か取り逃したことがありまして?」 「なければ奇跡ですよ」  公爵と伯爵夫人は顔を見合わせた。今の言葉を聞いて先ほどの記憶が甦ったのだ。 「そうでした! 奇跡と言えば、お話ししたいことがあるんですの。枢機卿にお会い出来たのは幸運でした。それを信じていいものかどうかお聞きしたいんです」 「何のことですか?」 「奇跡のことですよ!」公爵が言った。 「聖書はそれを信仰箇条に数えていますよ、伯爵夫人」枢機卿は信じている素振りを見せようとした。 「古い奇跡のことではありませんわ」 「ではどういった奇跡のことですか?」 「現代の奇跡です」 「そうなると、極めて珍しいと言わざるを得ませんが、しかし……」 「しかし、何ですの?」 「さよう、目撃したことがあるのです。仮に奇跡ではなかったにしても、はなはだ信じがたい出来事でした」 「奇跡を目撃したと仰るの?」 「名誉にかけて」 「伯爵夫人もご存じでしょう」リシュリューがからからと笑った。「猊下は正統とは言い難い精霊と心を通わせてらっしゃるとのもっぱらの評判ですぞ」 「それは知りませんでしたが、随分と便利そうね」 「それで、何を見たのですかな?」 「他言せぬことを約束しておりますので」 「まあ! 随分と深刻なことなのね」 「仰る通りです」 「でももしかしたら、魔術について沈黙を誓ったのであって、魔術師については何の約束もしていないんじゃありません?」 「それはそうです」 「よかった! 打ち明けて申しますと、公爵とあたくしは魔法使いを捜しにやって来たんです」 「まさか?」 「嘘は申しません」 「ではお教えしましょう」 「何よりです」 「きっとあなたのお役に立ちますよ、伯爵夫人」 「わしの役にも、ですかな?」 「もちろんです、公爵」 「その者は何と仰いますの?」 「ド・フェニックス伯爵です」  デュ・バリー夫人と公爵はさっと青ざめて顔を見合わせた。 「おやまあ!」二人は同時に声をあげた。 「お二人ともご存じなのですか?」 「いいえ。その人が魔術師だと仰いますの?」 「間違いありません」 「お話ししたことが?」 「もちろんです」 「それで確信なさったと……?」 「疑問の余地はありません」 「どういった事柄について?」 「それは……」  枢機卿は躊躇った。 「私の運勢のことで、話を聞かせてもらいました」 「それは当たりまして?」 「それがその、話してくれたのは死後のことなのです」 「フェニックス伯爵のほかにも名前がありませんでしたか?」 「ありました。それも聞いておりますが……」 「仰って、猊下」伯爵夫人が堪らず口にした。 「ジョゼフ・バルサモです」  伯爵夫人は手を合わせてリシュリューを見つめた。リシュリューは鼻の先を掻きながら伯爵夫人を見つめた。 「悪魔って真っ黒ですの?」デュ・バリー夫人が唐突にたずねた。 「悪魔ですか? 悪魔など見たことはありませんが」 「何を仰っているのです、伯爵夫人?」リシュリューが声をあげた。「悪魔が枢機卿と懇意にしているなどと」 「では悪魔を呼び出さずに運勢を告げたというのですか?」伯爵夫人がたずねた。 「そういうことでしたら、その通りです。悪魔は愚かな人間の前にしか姿を現しません。私たちには悪魔は不要なんです」 「わかりました、あなたなりにお話し下さいな。何らかの魔法が行われていましたのでしょう?」 「私はそう信じております」 「緑の炎かしら? 亡霊とか、ひどい悪臭を放つ大鍋とか?」 「そんなものではありません。あの魔術師のやり方は洗練されておりました。むしろ丁寧にもてなすような紳士でしたよ」 「その魔術師にホロスコープを読んでもらったのではないのですか、伯爵夫人?」リシュリューがたずねた。 「正直言うと、そうしてもらいたくて堪りませんの」 「ではそうしてもらうといい」 「ところでその魔法は何処で行われましたの?」聞きたくて堪らない居所を枢機卿から聞けるのではないかと、デュ・バリー夫人は期待を寄せた。 「洒落た家具の詰まった見事な部屋でした」  伯爵夫人は焦れったさを隠しきれなかった。 「それで、どんな家ですの?」 「変わった造りにしてはよく出来た家でしたよ」  なかなかはっきりしないことが口惜しくて、伯爵夫人は足を踏み鳴らした。  リシュリューが助け船を出した。 「おわかりになりませんか、猊下? その魔術師が何処に住んでいるのかがわからずに、伯爵夫人が悔しがっていらっしゃいますぞ」 「何処に住んでいるかと仰るのですか?」 「さようです」 「そういうことですか」枢機卿は得心した。「しばらくお待ち下さい……いや……そう……いや……マレー地区ですよ、大通りの角です、サン=フランソワ街、サン=タナスタズ街……そうじゃない。聖人の名前なのは確かですなのですが」 「どの聖人かが問題です。あなたならすべての聖人をご存じに違いありますまい?」 「そんなことはありませんよ。むしろほとんど知りません。いや、お待ち下さい。従僕の奴なら知っているに違いありません」 「なるほど」と公爵が言った。「従僕なら後ろにいる。止まれ、シャンパーニュ」  公爵は御者の小指に結わえてある紐を引っ張った。  御者は急いで、息を切らせている馬の脚を止めた。 「オリーヴ」枢機卿が声をかけた。「いるか?」 「はい、猊下」 「しばらく前の晩にマレーに行ったことがあったが、あれは何処だっただろう?」  従僕は会話の内容をすっかり聞いていたが、知らぬふりを通した。 「マレーですか……?」記憶を探っているような顔をした。 「そうだ、大通りの近くだが」 「いつのことでしょうか、猊下?」 「サン=ドニから戻った日だ」 「サン=ドニからですか?」オリーヴは自分を印象づけようと、さらにさり気ない風を装った。 「そう、サン=ドニからだ。馬車を大通りで待たせておいたはずだ」 「わかりました、猊下。男が重い包みを馬車に投げ込みに来たのと同じ日ですね、思い出しました」 「そうかもしれないが、誰がそんな話をしているのだ?」 「では猊下は何をお望みでしょうか?」 「通りの名前を知りたい」 「サン=クロード街です、猊下」 「そうだ、クロードだ! 聖人の名前だと申し上げたでしょう」 「サン=クロード街!」伯爵夫人はリシュリューに向かって意味ありげな目つきをした。リシュリュー元帥は常日頃から秘密をほじくられるのを、それもことが陰謀であればなおさら恐れていたので、デュ・バリー夫人を遮ってこう言った。 「伯爵夫人、国王です」 「どちらですの?」 「あちらです」 「国王ですって!」伯爵夫人が叫んだ。「左に、シャンパーニュ、左です。陛下に見られてしまうじゃないの」 「どういうことです?」枢機卿はぎょっとしてみせた。「私はてっきり、陛下のところにご案内してくれるものと思っておりましたが」 「あら、そうね。国王にお会いになりたいんですのね」 「そのために来たのですから」 「わかりました、国王のところにご案内させますわ」 「ですがあなたは?」 「あたくしたちはここに残ります」 「しかし伯爵夫人……」 「どうかお願いですから。お互いの道を行きましょう。国王はあちらです、あの栗林の下で無事にお会いになれますわ。シャンパーニュ!」  シャンパーニュが馬車を停めた。 「シャンパーニュ、あたくしたちを降ろして、猊下を国王のところにお連れなさい」 「一人で、ですか?」 「陛下のお耳をお借りしたかったのではありませんか、枢機卿猊下」 「それはそうですが」 「でしたらお耳はしっかり拝借できますわ」 「そうですか! ご親切痛み入ります」  そうして枢機卿は恭しくデュ・バリー夫人の手に口づけした。 「しかしあなたは? 何処に隠れるおつもりです?」 「このどんぐりの木の下です」 「国王がお捜しになるでしょう」 「望むところです」 「あなたが見えないと心配なさいますよ」 「それで苦しんでくれるのでしたら、苦しんで欲しいんですの」 「可愛い方ですね、あなたは」 「あたくしが苦しんでいた時に国王から言われたのも同じ言葉でしたわ。シャンパーニュ、猊下をお連れして差し上げたら、ギャロップで戻って来なさい」 「かしこまりました、伯爵夫人」 「では失礼、公爵」と枢機卿が言った。 「ご機嫌よう、猊下」公爵が答えた。  従者が踏み台を降ろしていたので、公爵は伯爵夫人に手を貸し、修道院から逃げ出しでもするように素早く地面に降りた。そうすると四輪馬車は猊下を乗せてフランス国王陛下のところに向かった。国王は目が悪かったので、ほかの人々には見えている伯爵夫人が見えずに捜していた。  デュ・バリー夫人は時間を無駄にしなかった。公爵の腕を取り、茂みに引っ張り込んだ。 「主が枢機卿を送り届けて下さったんだわ!」 「一時的に遠ざけておくため、ということですな」と公爵が答えた。 「いいえ、探し人の情報を教えてくれるためよ」 「では目的地に向かうとしますかな?」 「そうしましょう。だけど……」 「何ですかな?」 「正直言うと怖いの」 「誰のことです?」 「魔術師よ。あたくし、騙されやすいんですもの」 「いやはや!」 「あなたはどう? 魔術師を信じてますの?」 「信じてないとは言えませんな」 「あたくしの予言は……」 「その通りです。それにわし自身……」老元帥は耳を掻いた。 「あら、何ですの?」 「わし自身、ある魔術師を知っておりました……」 「まあ!」 「その魔術師はある日、わしにとてつもないことをしてくれました」 「どんなことかしら?」 「わしを生き返らせたのです」 「生き返った! あなたが?」 「さよう、要するにわしは死んでおったわけです」 「詳細を聞かせて下さい」 「では隠れましょうか」 「随分と臆病なんですのね」 「いやいや、慎重なだけですぞ」 「ここでいいかしら?」 「いいでしょう」 「ではお話し下さいませ、早く早く」 「こういう事情です。わしはウィーンにおりました。大使館時代です。その夜、わしは街灯の下で身体をぐさりと刺されてしまいました。亭主に刺されたのです、致命的でした。わしは倒れ、助け起こされた時には、死んでおりました」 「お亡くなりになったと言うんですの?」 「そうです。そうでなくとも死んだも同然でした。通りかかった魔術師が、墓地に運ばれている男は何者かたずねたのです。わしだ、という答えを聞くと、魔術師は担架を止めさせ、正体のわからぬ液体を三滴傷口に注ぎ、また別の液体を三滴口唇に注ぎました。すると出血が止まり、息が戻り、目が再び開き、わしは甦りました」 「それは神の奇跡ではありませんか」 「わしが恐れたのもそのことでしたが、わしにはむしろその反対に、悪魔の奇跡に思えました」 「そうですわね。神様はあなたのような悪童のことを助けたりなさいませんもの。お好きなようになさいまし。それでその魔術師はご存命ですの?」 「怪しいところですな、飲用金を見つけていない限り」 「あなたのようにですか? そのお話を信じてらっしゃいますの?」 「すべて信じております」 「お年寄りでした?」 「メトセラそのものでしたな」 「それでお名前は?」 「堂々たるギリシア名でした。アルトタス」 「恐ろしい名前ね、元帥」 「ではありませんかな?」 「馬車が戻って来ましたわ」 「それはよかった」 「心は決まりまして?」 「無論です」 「パリに向かいますか?」 「パリに」 「サン=クロード街に?」 「お望みとあらば……だが国王がお待ちですぞ!……」 「それが決め手よ。迷っていたとしても、それで心が動いたでしょうね。今度は悔しがるのはあなたの番よ、フランスちゃん!」 「しかし攫われたか迷子になったと思われませんかな」 「あなたといるところを見られればそれに越したことはないんだけど」 「では今度はこちらから申し上げましょう。わしは怖いのです」 「何がですの?」 「あなたの口からこの話が人に洩れたり、人からからかわれたりするのが」 「からかわれるならあたくしたち二人共でしょう、一緒に行くんですもの」 「では決まりました。もっとも、あなたに裏切られるようなことがあれば……」 「何ですか?」 「その時には、あなたと二人きりだったと申し上げますからな」 「そんなの誰も信じません」 「ああ、伯爵夫人! 陛下があそこにいなければ……」 「シャンパーニュ! シャンパーニュ! ここです、藪の後ろの見えないところ。ジェルマン、扉を。ここです。では、パリに。マレー地区のサン=クロード街よ。大急ぎで」 第八十三章 伝令  晩の六時のこと。  読者諸兄には既にお話ししたことのあるサン=クロード街の寝室で、覚醒しているロレンツァの隣に坐ったバルサモが、どれだけ懇願しても応じないロレンツァのかたくなな心を解きほぐそうと骨を折っていた。  だがロレンツァは、アイネイアスの旅支度を見つめるディドーのように、まともには目を合わせぬまま、口を開くのは非難する時だけで、手を伸ばすのは押しのける時だけだった。  捕虜であること、奴隷であること、もはや息もつけないこと、もはや太陽を拝めないことをなじった。卑しい人間や、鳥や花を羨んだ。バルサモを暴君呼ばわりした。  怒りを込めた非難が治まると、孤独を紛らすようにと与えられた布の山をずたずたに引き裂いた。  バルサモの方ではロレンツァに穏やかに話しかけ、愛おしげに見つめていた。このか弱く癇性な女が、バルサモの人生とまでは行かずも心の中で巨大な地位を占めているのは明らかだった。 「ロレンツァ、どうしてそんな風に敵意と反抗心を剥き出しにするのだ? 言葉では言い尽くせぬほど愛しているというのに、どうして優しく献身的な妻となって俺と一緒に暮らせないんだ? そうすれば望むものなどすべて手に入るのに。そうすれば、先ほど話しかけていた花のようにいつだって太陽に顔を向けることが出来るし、おまえが羨んでいる鳥のようにいつでも翼を広げることが出来るのに。何処にでも二人で出かけられるのに。それほど焦がれている太陽に再び見《まみ》えることはもちろん、この国の女たちが太陽のように着飾った集いにも出られるのに。おまえはおまえで幸せになり、俺は俺のやり方で幸せになれるのに。どうして幸せになりたがらないんだ? おまえほどに美しく、おまえほどに裕福であれば、女という女たちの嫉妬心を掻き立てられるだろうに」 「あなたのことが嫌いだからです」ロレンツァは凛として答えた。  バルサモはロレンツァに、怒りと憐れみのないまぜになった目を注いだ。 「では定めに従って生きるがいい。それだけ偉そうにしているのなら、不満を洩らすな」 「一人にしてくれれば不満など言いません。無理に口を利かそうとしなければ不満など洩らしません。お願いだからそばに寄らないで。せめて、この檻に来ても何も言わないで。籠に閉じ込められた南国の鳥と一緒。みんな死ぬんです、歌を忘れた後で」  バルサモは何とか自制した。 「いいか、ロレンツァ。落ち着け、諦めろ。一度俺の心を読んでみろ。何よりもおまえを愛しているのだ。本でも読むか?」 「いいえ」 「何故だ? 本を読めば気も晴れよう」 「退屈のあまり死んでしまいたいんです」  バルサモは微笑んだ。否、微笑もうとした。 「馬鹿は言うな。死なぬことぐらいわかっているだろう。たとい病気になろうとも俺がここにいて看病をし、治療する限り、おまえは死なん」 「そう? このショールを使って窓の鉄格子で首をくくってしまえば、助けられないでしょう」  バルサモはおののいた。 「いつかその日が来れば」ロレンツァは怒りに駆られて続けた。「このナイフを開いて私の心臓に突き立てるから」  バルサモは青ざめ、冷たい汗を流してロレンツァを見つめると、脅しをかけた。 「いいや、確かにその日が来てもおまえを助けることは出来ないが、生き返らせてみせる」  ロレンツァは怯えて声をあげた。バルサモの力が何処まで及ぶものなのかわからない。ロレンツァは、脅しを信じた。  バルサモは救われた。  ロレンツァは新たに絶望の種が増えるとは思ってもみなかった。絶望に沈みながらも、果てしない拷問の輪に閉じ込められたことを、ぐらついた理性で悟っていた。その時、フリッツが引いた呼び鈴の音がバルサモの耳に届いた。  音は素早く三度、同じように鳴らされた。 「伝令か」  直後、もう一つ音が届いた。 「急ぎだな」 「だったら早くここから出て行って!」ロレンツァが叫んだ。  バルサモはロレンツァの冷たい手を取った。 「もう一度言う。これが最後だ。仲良く生きようじゃないか。俺たちは運命で結ばれてるんだ。運命の奴と友だちになろう、死刑執行人ではなくな」  ロレンツァは無言だった。目は虚ろで、永遠に離れてしまった思いを無限の中まで追いかけているように沈んでいた。探し疲れたのだということに、恐らくは気づいてはいなかった。闇の中で過ごした後で探し求めていた光を目の当たりにして、太陽に目が眩んだのに似ていた。  バルサモはつかんだ手に口づけしたが、何の反応も返って来ない。  バルサモが暖炉に向かって足を踏み出した。  途端にロレンツァの放心が解け、バルサモに熱い眼差しを送った。 「そうか。俺が何処から外に出るのか知りたいんだな。陽射しの下に出たい、言葉通りに逃げ出したいというわけか。だから目覚めた、だからそんな目つきをしているのか」バルサモは呟いた。  それからまるで苦役を課されたように額を手で拭うと、ロレンツァに向かってその手を伸ばし、矢のような視線をロレンツァの胸と目に投げつけ、手を鋭く動かしてこう言った。 「眠れ」  この言葉が口にされるや、茎の先で揺れる花のように頭を揺らしたかと思うと、がくりと首を垂れて長椅子に突っ伏した。くすんだ白い両手は絹の部屋着をかすめて脇にだらりと下がった。  バルサモが近寄り、美しさを確認すると、その美しい額に口唇を押し当てた。  するとロレンツァの顔が晴れた。キューピッドの口唇から洩れる息吹きが、かんばせを覆っていた雲を吹き払ったわけでもないだろうに。口を半開きにして震わせ、快楽の涙の海に目を泳がせ、天使のように吐息をついた。創造の第一日目に天使たちが人の子らに愛を注ぐために洩らしたような吐息だった。  バルサモはちらりとそれを眺めただけで、目を奪われそうになるのを堪えた。ここで再び呼び鈴が鳴り響いたため、急いで暖炉に向かい、バネを押して花の背後に姿を消した。  フリッツが応接室に控えていた。伝令の恰好をして長い拍車つきの長靴を履いた男と一緒だった。  汚らしい顔つきはどう見ても庶民だが、遙かに知的な存在から授かりでもしたように、瞳にだけは聖なる火の欠片が潜んでいる。  左手を短くごつい鞭に当てたまま、右手で合図をした。ちょっと見ただけでバルサモはそれと察し、無言のまま、人差し指で額に触れて合図を返した。  すると御者の手が胸に上がり、部外者にはわからぬ文字を胸になぞった。ボタンをつけるような仕種に似ていた。  この合図に対して、バルサモは指に嵌めた指輪を見せて答えとした。  この絶対的な印を前に、使者は膝を突いた。 「出身は?」 「ルーアンです、親方《マスター》」 「何をしている?」 「ド・グラモン夫人の伝令をしております」 「そこには誰の紹介で?」 「大コフタの御意です」 「その仕事に就いた際にどんな命令を受けていた?」 「親方には隠しごとをするなと」 「向かった先は?」 「ヴェルサイユです」 「運んでいたのは?」 「手紙です」 「宛先は?」 「大臣です」 「寄こせ」  伝令は背中に結わえてあった革袋から手紙を取り出し、バルサモに手渡した。 「待機していた方が?」 「ああ」 「ではお待ちします」 「フリッツ!」  ドイツ人が現れた。 「セバスチャンを事務室に連れて行け」 「はい、ご主人様」 「私の名をご存じなのですか!」会員は魔法でも見たようにぎょっとして、うわずった声を出した。 「ご主人様は何でもご存じです」フリッツはそう言ってから案内に立った。バルサモが一人残された。手のつけられていない厚い封印を見つめた。伝令は懇願するような目つきをしていた。あれは出来ればこのままにしておいて欲しいと頼んでいたのだろう。  それからのろのろと、考え込みながら、ロレンツァの部屋まで戻って連絡扉を開けた。  ロレンツァは眠り続けているが、これは虚脱状態から来る疲労と消耗によるものだ。バルサモが手を取るとぴくりと身動きした。バルサモは封印されたままの手紙をロレンツァの胸に押し当てた。 「見えるか?」 「はい、見えます」ロレンツァが答えた。 「俺は手に何を持っている?」 「手紙を一通」 「読めるか?」 「読めます」 「では読むんだ」  ロレンツァは目を閉じたまま胸を波打たせ、手紙の文章を一語一語読み上げた。バルサモがそれを次々に書き留めた。    ――兄君様  かねがね考えていた通り、追放されるのも何かの役に立ちそうです。今朝、ルーアンの法院長と別れて来ました。私たちの味方ですが、臆病な方です。お兄様の名前を出して圧力を掛けましたところ、遂に決意を固め、一週間のうちにはヴェルサイユに建言するはずです。  私はすぐにレンヌに発ち、眠っているカラデュとラ・シャロテをちょっと起こして参ります。  コードベックの役人がルーアンにおりましたので、会って来ました。イギリスには留まる気はありません。ヴェルサイユの政府に辛辣な通告を突きつけるつもりのようです。  作るべきかどうかXが伺いを立てに参りましたので、許可しました。  最新の諷刺小冊子《パンフレット》をご覧下さい。テヴノ、モランド、デリルたちがデュ・バリーを批判しております。  悪い噂を耳にしました。噂では失脚したそうですね。ですがあなたからそのような手紙を受け取ってはおりませんので、笑い飛ばしました。ですが曖昧なままにせず、伝令に返事を預けて下さい。  お返事はカーンで受け取ります。カーンには信仰に篤い人たちがおります。  神のご加護を、愛を込めて。  ド・グラモン公爵夫人――    ロレンツァは読み上げるのをやめた。 「ほかには何も見えないのか?」バルサモがたずねた。 「何も見えません」 「追伸はないのか?」 「ありません」  手紙が読み上げられるに従い表情をゆるめていたバルサモだったが、ここでようやく公爵夫人の手紙をロレンツァから離した。 「面白い手紙だ。千金に値する。それにしても、こんな手紙を書くとはな! 偉い男の足を引っ張るのはいつも女だ。敵や陰謀が束になってかかっても倒されなかったあのショワズールが、女の優しい一吹きで吹き飛んだか。そういうものさ、俺たちは女の裏切りや弱さのせいで滅びるのだ……俺たちにも心があって、その心が感じやすかろうものなら、お終いだな」  そう言ってバルサモは愛しむようにロレンツァを見つめた。ロレンツァの胸が波打っている。 「俺の思っていることは事実だろう?」 「いいえ、事実ではありません」ロレンツァがむきになって答えた。「おわかりのはずです。理性も優しさもない女たちのようにあなたを傷つけるには、あなたのことを愛しすぎてます」  バルサモはロレンツァの腕に抱かれるがままにした。  突然フリッツの呼び鈴が二つ、二度鳴り響いた。 「お客さんが二人か」  激しい鈴の響きが止むと、フリッツの伝言が届いた。  バルサモは腕を振りほどくと、ロレンツァのことは眠らせておいたまま部屋を出た。  途中で伝令に出くわした。命令を待っていたのだ。 「ほら、手紙だ」 「どうすればよいのでしょうか?」 「宛先に届けてくれ」 「それだけですか?」 「それだけだ」  会員は封筒と封印を確認して、元のままであるとわかると、嬉しそうに闇に消えた。 「ああいう署名を手元に保管しておけないとは残念だな!」バルサモが独り言ちた。「それに、信頼できる手を通じて国王の手に渡すことが出来ないのも残念だ!」  その時、フリッツが現れた。 「誰だ?」 「ご婦人と紳士です」 「ここに来たことがある人間か?」 「いいえ」 「見たことは?」 「ありません」 「若い女か?」 「若い美女です」 「男の方は?」 「六十代前半かと」 「何処にいる?」 「応接室です」  バルサモは部屋に足を踏み入れた。 第八十四章 招魂  伯爵夫人は顔をマントで覆い隠していた。自宅に寄る時間があったので、ブルジョワ風の服装に着替えている。  元帥と二人で辻馬車に乗って来たのだが、元帥の方は良家の使用人頭風の灰色の服を着て、控えめにしていた。 「伯爵殿」デュ・バリー夫人が口を開いた。「あたくしを覚えていらっしゃいまして?」 「もちろんです、伯爵夫人」  リシュリューが後じさった。 「どうかお坐り下さい。それにあなたも」 「こちらはうちの家令ですの」 「それは違うでしょう」バルサモはそう言って深々と頭を下げた。「こちらの紳士はド・リシュリュー公爵だ。私の方はちゃんと覚えておりますよ。私のことを覚えてらっしゃらないとは、とんだ恩知らずではありませんか」 「どういうことかな?」公爵は狼狽えて、タルマン・デ・レオーの文章のようなことを口走った。 「公爵閣下、命の恩人のことは覚えていて下さるべきではありませんか」 「あらあら、公爵様」伯爵夫人が声をあげて笑った。「お聞きになりまして?」 「わしの命を救ったと申されるか」リシュリューは驚いてたずねた。 「そうです、閣下。ウィーンで、一七二五年、大使時代に」 「一七二五年! しかしそれはまだあなたが生まれる前ではありませんかな」  バルサモが微笑んだ。 「そうは思えませんね。何せ瀕死のあなたに、否、輿の上で死んでいたあなたにお会いしたのですから。剣で胸を綺麗に貫かれていらっしゃったので、傷口に霊薬を三滴垂らしました……そう、家令にしてはちょっと贅沢な、アランソンの刺繍をつけていた箇所です。」 「待ってくれ」元帥が口を挟んだ。「伯爵殿はまだ三十そこそこにしか見えぬが」 「公爵ったら!」伯爵夫人がけたたましく笑い出した。「目の前にいるのは魔術師なんですから。お信じになりませんの?」 「つい呆気に取られてしまいました。それにしても」公爵は改めてバルサモに話しかけた。「あの時に名乗っていたのは……」 「ああ、我々魔術師は時代に応じて名を変えるのですよ……一七二五年には「us」や「os」や「as」で終わる名前が流行っていましたから、あの頃にギリシア風の名やローマ風の名を名乗っていたとしてもおかしくはありません……そういうわけですから、どうぞお心のままに、伯爵夫人。お心のままに、公爵閣下……」 「あたくしたちは相談があってやって来たんです」 「光栄に存じます。すぐに相談を思いついて下さったのだとすればなおのこと」 「すぐ思いつきましたわ。予言のことが頭をよぎるんですもの。でも実現するかどうかは疑ってますけど」 「科学の出した答えを疑ってはなりませんよ」 「まあまあ!」リシュリューが割って入った。「わしらの栄光が危険にさらされているということが問題なのです……傷が霊薬三滴で治った話は今のところは措いておきませぬか」 「その話ではなく、大臣を三言で失脚させる話ですか……」バルサモが言葉を継いだ。「当たりましたね? どうですか」 「お見事です」伯爵夫人はぶるぶると震えていた。「ねえ公爵、どうお思いになりまして?」 「これしきのことで驚いてもらっては困りますな」バルサモはデュ・バリー夫人とリシュリューを見つめた。魔術も使わずに事情を見抜かれたことに、二人は不安を抱いていた。 「そういうわけですから、特効薬を教えて下されば恩に着ますぞ」元帥が伝えた。 「あなた方を悩ませている病気の特効薬ですね?」 「さよう、ショワズールのことです」 「その病から解放されたいのですね」 「その通りです、魔術師殿」 「苦境から救って下さいますわね」と伯爵夫人が口を挟んだ。「あなたの名誉に関わりますもの」 「最善を尽くす用意は出来ております。ただしその前に、公爵閣下がここにいらっしゃるに当たって何らかの考えを持っていたのかどうか確認させて下さい」 「実を言うと伯爵殿……いやはや魔術師のことを伯爵殿とお呼び出来るとは面白い。だからといってあなたは何も変わりませんな」  バルサモは微笑んだ。 「どうか率直にお話し下さい」 「望むところです」 「ご相談したいことがあったのですね?」 「さよう」 「まあ、狡賢いんだから!」伯爵夫人が声をあげた。「そんなことあたくしには一言も仰らなかったのに」 「伯爵にしか話せないのです、耳の奥の奥に入れるような秘密ですから」元帥が答えた。 「何故ですの?」 「あなたの白目まで真っ赤にしてしまいますから」 「あら、気になるわね。どうか仰いまし。赤くなったって何にも見えやしませんわ」 「はてさて、わしが考えていたのはですな。よいですか、伯爵夫人、ご婦人が小屋の上まで帽子を放り投げるようなはしたないことなのですぞ」 「お投げなさいな。あたくしが拾って参りますわ」 「おやおや、わしが言おうとしていることを言ったら、きっとあなたにやっつけられるでしょうに」 「やっつけられるのには慣れてらっしゃらないでしょうからね」バルサモが老元帥にお追従を言った。 「ではそうですな。伯爵夫人や陛下のお気に障らぬように……はてどう切り出せばよいか」 「もう焦れったいんだから!」伯爵夫人が悲鳴をあげた。 「ではお聞きになりたいのですか?」 「もちろんです」 「間違いありませんな?」 「もちろんです、何百回でも繰り返しますわ」 「では敢えて申し上げましょう。残念なことですが伯爵殿、陛下はもはやお楽しみになることが出来ません。これはわしが言っているのではなく、ド・マントノン夫人が仰っていることです」 「あたくしは何一つ傷ついてはいませんわ」デュ・バリー夫人が言った。 「それは何よりです、安心いたしました。ですから伯爵殿、ぜひとも霊薬を手に入れていただかなくては……」 「それが手に入れば、国王も回春できるというわけですな」 「さようです」 「ふん! 公爵閣下、子供騙しですよ、初歩的な技術です。どんな医者くずれでも媚薬の一つくらいは作れます」 「それはご婦人の方にも効くのですかな?」 「何てことお尋きになるの!」伯爵夫人が悲鳴をあげた。 「いやはや、お怒りになるのはわかっておりましたが、聞きたがったのはあなたなのですからな」 「公爵閣下」バルサモが口を開いた。「仰る通りでしたね、伯爵夫人は真っ赤になりました。だが先ほどお話ししたように、今問題なのは傷の話ではなく、また色恋の話でもありません。ド・ショワズール閣下をフランスから追放するなら、媚薬など役に立たぬでしょう。国王が今の十倍伯爵夫人を愛したとしても無理な話です。伯爵夫人がいくら陛下の心に働きかけたところで、ショワズール閣下が陛下の理性に働きかけるのをやめるとは思えません」 「確かにそうでしょうな。だがこれが最後の頼みの綱だったのだが」 「そうお思いですか?」 「それほど言うなら別の手段を教えてくれませんかな」 「簡単なことですよ」 「簡単。聞きましたか、伯爵夫人? 魔術師と来たら疑うということを知らぬ」 「どうして疑わなくてはならないのです? 国王に知らせるだけでいいではありませんか。ショワズール殿が裏切っている、と――もちろん国王から見て、ですが。ショワズール殿としてはまさか自分が裏切りを働いていたとは思ってもいないでしょうからね」 「何をしたんですの?」 「あなたの方がよくご存じのはずですよ、伯爵夫人。王権に対する高等法院の抵抗に手を貸しているのです」 「それはわかってますけど、どうするおつもりなのか、知る必要があります」 「役人を使います。罪を見逃してやると持ちかければいい」 「どんな役人ですか? それも知っておかなくては」 「例えばド・グラモン夫人が旅立ったのには、火種を掻き立て臆病者の息の根を止めるよりほかにあり得ますか?」 「言われてみれば、それ以外にありませんわね」 「無論です。ところが国王には単なる追放にしか見えぬのです」 「確かに」 「では見かけとは別の事情があることを、どうすれば国王に気づいてもらえるでしょうか?」 「グラモン夫人を告発すればいいのかしら」 「むう! 告発するだけでよいのだとすると、伯爵殿……!」元帥が言った。 「残念だけど告発が正しいことを証明しなくてはなりませんわ」伯爵夫人が言った。 「では告発の正しいことがしっかりと証明されたとしても、ショワズール氏が大臣に留まっているとお思いですか?」 「あり得ないわ!」 「必要なのはショワズール殿の裏切りを証明することだけです」バルサモが自信たっぷりに応じた。「そして陛下の目にもはっきり見えるようにすればことは足りる」  元帥は椅子に反り返ってからからと笑い出した。 「これはいい! 疑われることは露なかろう! ショワズール氏を裏切りの現行犯で捕まえるのか!……たったそれだけ!……ほかには何もいらぬとは!」  バルサモは平然としたまま、元帥の哄笑が治まるのを待っていた。 「ではここからが重要な話です、要点をまとめましょう」とバルサモが言った。 「よろしく頼む」 「ショワズール殿が高等法院の抵抗に手を貸していることには、疑いの余地はありませんね?」 「それは決まりだ。だが証拠は?」 「ショワズール殿は自分の地位を守るためにイギリスとの戦争を計ったと考えられているのではありませんか?」 「風聞ではそうだ。だが証拠は……?」 「最後に、ショワズール殿はここにいらっしゃる伯爵夫人の公然の敵であり、私が伯爵夫人に約束した玉座の転覆をどんなことをしてでも狙っているのではありませんか?」 「その点は間違いありません」伯爵夫人が言った。「でもそれにも証拠が必要……どうにかして証明できたらいいのに!」 「そのためには何が必要でしょうか? ちょっとしたことですよ」  元帥が爪に息を吹きかけた。 「さよう、ちょっとしたことですな」と皮肉った。 「例えば、私信です」バルサモが言った。 「それだけ……本当に些細なことですな」 「例えばグラモン夫人の手紙ではありませんか、元帥閣下?」 「魔術師さん、それを見つけて頂戴!」デュ・バリー夫人が叫んだ。「五年の間そうしようと努め、年に十万リーヴル費やして来たのに、決して手に入れられなかったものなんです」 「私にご相談下さればよかったんですよ」とバルサモが答えた。 「何故ですの?」 「何故なら、もしご相談して下さっていれば……」 「ええ」 「あなたを窮地から救い出しておりましたものを」 「あなたがですか?」 「ええ、私がです」 「伯爵、遅すぎたでしょうか?」  伯爵は微笑んだ。 「そんなことはありません」 「では伯爵殿……」デュ・バリー夫人は手を合わせた。 「つまり、手紙をお望みなのですね?」 「もちろんです」 「グラモン夫人の手紙を?」 「出来るのであれば」 「先ほど申し上げた三つの点でショワズール殿を追い込むことの出来る手紙ですね」 「その為なら引き替えに……あたくしの目を片方差し上げても構いません」 「それは貴重だ。この手紙と同じくらいに……」 「この手紙?」 「引き替えには何もいりません」  バルサモはポケットから四つに折り畳まれた紙を取り出した。 「それは何ですの?」伯爵夫人は紙から目を離せなかった。 「さよう、それは何ですかな?」公爵もたずねた。 「あなたがたがお望みの手紙です」  驚愕のあまり静まりかえった二人の前で、伯爵は手紙を読み上げた。読者諸兄には既にお目にかけたあの手紙である。  読み上げられるにつれて、伯爵夫人は目を丸くして、そわそわとし始めた。 「これは中傷文だ、気をつけなくては!」読み終えられたところでリシュリューが呟いた。 「これはグラモン公爵夫人の手紙の写しです。端折ることも書き加えることもなく文字通りに写し取りました。今朝ルーアンを発った急使が、ヴェルサイユのショワズール殿に届けようとしていたものです」 「何と! それは本当のことですかな?」 「私は常に真実しか申しません」 「公爵夫人は似たような手紙をこれまでにも書いていたと?」 「その通りです、元帥閣下」 「こんな軽率なものを?」 「信じがたいことですが、その通りです」  老公爵が見つめると、口を利けずにいた伯爵夫人がようやく口を開いた。 「申し訳ないけれど、あたくしにもとても信じられません。グラモン夫人のような賢い人が、こんな過激な手紙で自分たちの立場を危うくしていたなんて……もちろん……手紙の内容を知るには、読まなくては始まらないのだけれど」 「それに」元帥もつけ加えた。「この手紙を読むには、手元に置いておかなくてはならないのではありませんか。たいした宝物だ」  バルサモは緩やかに首を振った。 「秘密を探るのに手紙を開封するような人たちであれば、それも結構でしょうね……だが私のように封筒越しに読むような人間には関係ありません……ふん!……もっとも、ショワズール殿とグラモン夫人がどうなろうと知ったことではない。あなた方がご相談に見えた……友人として。だから私もそれに答えたのです。助けを求めにいらしたから、助けの手を差し出したのです。私の助言などフェライユ河岸の占い師程度だと仰りに来たわけではないのでしょう?」 「何を仰るのです!」伯爵夫人が声をあげた。 「こうして助言を差し上げても、お二人とも納得されなていないようですから。ショワズール殿を失脚させたくてその方法をお探しになっていたので、私が一つ示唆して差し上げると、あなた方も賛成なさいました。ところが直接教えて差し上げると、信用なさらないのですから!」 「それは……それは……でも聞いて下さい……」 「手紙は存在します。写しを持っていると申し上げましたよ」 「しかしですな、誰から情報を得たのです?」リシュリューがたずねた。 「大げさな言葉だ……誰から情報を得たかというのですか? たった一分で私のように何もかも知りたがるとは。私は三千七百年に渡って生きて来た実践者であり、学者であり、信者なのですよ」 「おやおや!」リシュリューが嘆いた。「せっかく抱いた好感もなくなってしまいそうですな」 「信じて下さいとは申しません。国王の狩りまであなたを捜しに行ったのは私ではありませんから」 「公爵、仰る通りだわ。ド・バルサモ殿、お願いだから焦らさないで下さいまし」 「焦らしたことなど一度もございません」 「構いません……これまでのようにどうかご厚意をお見せ下さい。こういった秘密をどのように掘り出しているんですの?」 「もったいぶるつもりはありません」バルサモは言葉を探るようにゆっくりと答えた。「ある声が教えてくれたのです」 「声ですか!」公爵と伯爵夫人が一斉に声をあげた。「声がすべてを明らかにしたというのですか?」 「知りたいと思っていることはすべて」 「グラモン夫人が兄に手紙を書いたと教えてくれたのもその声ですの?」 「その通りです。声が教えてくれました」 「奇跡だわ!」 「だがあなた方はお信じにならない」 「さようです。このようなことをどうやって信じればいいというのですかな?」 「ですが、手紙を届けた伝令が今何をしているか申し上げたとしたら、それを信じて下さったでしょうか?」 「まさか!」伯爵夫人が即答した。 「実際にその声を聞けば信じたでしょうが……だがこの世ならざるもの見聞き出来る能力を持っているのは、降霊術師や魔法使いだけですからな」公爵も言った。  バルサモが如何とも言い難い表情でリシュリュー氏を見つめるのを見て、伯爵夫人の血は凍えた。利己的懐疑論者であるリシュリュー公もうなじや心臓がきゅっと縮み上がった。 「その通りです」バルサモはしばらくしてからようやく口を開いた。「私だけがこの世ならざるものを見聞き出来ます。だがあなたのような地位と智性をお持ちの方や、あなたのように美しい方とご一緒なら、この力を開放し分け与えるのにやぶさかではありません……私が聞いた神秘の声をお聞きになりたいですか?」 「無論です」公爵は震えを止めようと拳を握り締めた。 「お願いします」伯爵夫人も震えながらくぐもった声で呟いた。 「では公爵閣下、それに伯爵夫人、お聞き下さい。何処の国の言葉で話すのをお望みですか?」 「フランス語でお願いします。ほかの言葉は知りませんし、それにほかの国の言葉だと不気味ですもの」 「公爵閣下は?」 「伯爵夫人と同じく……フランス語で。悪魔の話す言葉を自分でも繰り返してみたいと思いますし、悪魔が滑らかに話すものなのかどうか、友人のヴォルテール氏に劣らぬ正しいフランス語を使うのかどうか確認したいですからな」  バルサモはうつむいて、小応接室に通じる扉に向かった。ご存じの通りその先には階段がある。 「隠し立てして申し訳ありませんが、お見せするわけにはいかないのです」  伯爵夫人は青ざめ、公爵に近寄って腕をつかんだ。  バルサモは扉に触れるかと思うほど近づくと、ロレンツァのいる部屋に向かって足を伸ばし、よく通る声でアラビア語を唱えた。我々の言葉に翻訳するとこうなる。 「おい!……聞こえるか?……聞こえるなら、呼び鈴の紐を引いて二回鳴らせ」  バルサモは返事を待っている間、公爵と伯爵夫人を見つめた。二人は伯爵の言葉を理解できないだけに、いっそう耳をそばだたせ目を見開いていた。  呼び鈴がはっきりと二度繰り返された。  伯爵夫人が長椅子から飛び上がり、公爵は手巾で額を拭った。 「聞こえているのなら、暖炉の彫刻のところに行って、獅子の右目に象られた大理石のボタンを押せ。そうすれば羽目板が開く。羽目板から中に入り、俺の部屋を通って階段を降り、俺が待っている部屋まで来るんだ」バルサモはアラビア語で続けた。  すぐにそよ風のようでもあり幽霊が移動するようでもあるかすかな音が聞こえ、バルサモの命令が聞き届けられたのがわかった。 「今のは何処の言葉ですかな?」リシュリューが冷静を装ってたずねた。「神秘学的な言葉でしたが?」 「ええ、招魂に用いられる言語です」 「わしらにも理解できる言葉をお願いしたはずですが?」 「声の話す言葉についてはお約束しましたが、私の話す言葉については何も申し上げておりません」 「それで悪魔は現れたのですかな?」 「悪魔のことなど申し上げませんでしたが?」 「だが悪魔ではなく何を呼び出すというのですかな」 「より高位の精霊やこの世ならざる存在ならどんなものでも呼び出すことが出来るでしょう」 「ではより高位の精霊やこの世ならざる存在が……?」  バルサモは隣室の扉をふさいでいるタペストリーを指さした。 「私と直接接触している最中なのです」 「怖いわ。あなたは、公爵?」と伯爵夫人がたずねた。 「正直に申し上げて、マオンやフィリップスブルクにいるような気になりそうです」 「伯爵夫人、公爵閣下、どうかお聞き下さい。あなたがたが望んだのですから」バルサモはぴしゃりと言った。  そして扉に向き直った。 第八十五章 声  重々しい沈黙を破って、バルサモがフランス語でたずねた。 「何処にいる?」 「ここに」澄んだ声がカーテンの向こうから飛んで来た。伯爵夫人たちの耳にはその響きが人間の声というよりは金属的な響きに感じられた。 「ほほう! これは面白くなって来たわい。松明も魔法もベンガル花火もなしか」 「怖いわ!」伯爵夫人が囁いた。 「俺の質問をよく聞くんだ」バルサモが続けた。 「全身全霊を傾けてお聞きします」 「では初めに聞こう。今ここには俺のほかに何人いる?」 「二人」 「性別は?」 「男と女」 「俺の頭の中を読むんだ。男の名前は?」 「ド・リシュリュー公爵閣下」 「女の名前は?」 「デュ・バリー伯爵夫人」 「ほほう、これはたいしたものだ!」公爵が呟いた。 「と言うより」伯爵夫人は震えていた。「こんなの見たことがありません」 「よし。では俺が持っている手紙の一行目を読むんだ」  声がバルサモの命令に従った。  伯爵夫人と公爵は見つめ合った。驚きは感嘆に変わろうとしていた。 「おまえが読み上げ俺が書き取った手紙はどうなった?」 「移動中です」 「何処に向かって?」 「西に向かっています」 「遠いか?」 「はい、とてもとても遠くです」 「運んでいるのは?」 「緑の服を着た男です。革製の縁なし帽をかぶり、大きな長靴を履いています」 「徒歩か馬か?」 「馬に乗っています」 「どんな馬だ?」 「斑毛です」 「何処にいるかわかるか?」  沈黙が訪れた。 「見るんだ」バルサモが威圧的な声を出した。 「木々の植わった大きな道です」 「何処の道かと尋いているんだ」 「わかりません。道はどれも同じに見えます」 「何だと! 目印は何もないのか? 道標も標識も何一つ?」 「待って下さい。馬車とすれ違いました。馬車はこちらに向かって来ます」 「どんな馬車だ」 「大きな馬車に、司祭や軍人がたくさん乗っています」 「乗合馬車《パターシュ》だ」リシュリューが呟いた。 「その馬車には表札もついていないのか?」バルサモがたずねた。 「ついてます」声が答えた。 「読むんだ」 「消えかけた黄色い文字で『ヴェルサイユ』と書かれてあるのが見えます」 「馬車から離れて伝令を追え」 「もう見えません」 「何故だ?」 「道を曲がりました」 「だったら道を曲がって追いつくんだ」 「全速力で馬を走らせています。時計を確認しました」 「馬の前には何が見える?」 「長い大通り、立派な建物、大きな町です」 「そのまま追いかけろ」 「追いかけています」 「どうだ?」 「伝令がさらに馬に拍車を掛けています。馬は汗びっしょりです。脚を運ぶたびに舗道で蹄鉄が音を立てています。あっ! 下り坂の長い通りに入りました。右に曲がります。速度を落としました。大きな家の前で停まりました」 「ここからは慎重に追いかけなくてはならないぞ、わかるな?」  声が溜息をついた。 「疲れたんだな。わかるぞ」 「くたくたです」 「疲れよ去れ、命令だ」 「ああ!」 「どうだ?」 「ありがとうございます」 「まだ疲れているか?」 「いいえ」 「まだ伝令が見えるか?」 「待って下さい……はい見えます、石段を上っています。青と金のお仕着せを着た使用人に案内されています。金ぴかの応接室を通り抜け、豪華な書斎に着きました。従僕が扉を開けて退がりました」 「何が見える?」 「伝令が挨拶しています」 「相手は誰だ?」 「待って下さい……書き物机に坐って、扉に背を向けています」 「どんな恰好をしている?」 「舞踏会に向かうような隙のない恰好をしています」 「勲章はつけているか?」 「青い大綬を胸から提げています」 「顔は?」 「見えません……あっ!」 「どうした?」 「振り返りました」 「どんな顔をしている?」 「鋭い目つき、不細工な顔立ち、綺麗な歯」 「幾つくらいだ?」 「五十から五十八です」 「公爵だわ!」伯爵夫人が元帥に囁いた。「ショワズール公です」  元帥も同意の印にうなずいた。――さようですな、だがまずは拝聴しましょう……。 「どうなった?」バルサモがたずねた。 「伝令が青綬の男に手紙を渡しました……」 「公爵と呼んでいい。それは公爵だ」  声は言う通りにした。「伝令は背負っていた革袋から手紙を取り出し、公爵に手渡しました。公爵が手紙を開封して注意深く読んでいます」 「それから?」 「ペンと紙を取って何か書いています」 「何と!」リシュリューが呟いた。「何を書いているのかわかればよいのだが」 「何を書いているのか教えるんだ」バルサモが命じた。 「出来ません」 「遠過ぎるからだ。書斎に入れ。入ったか?」 「はい」 「肩越しに覗き込め」 「そうしてます」 「今度は読めるな?」 「文字が汚く、小さくて細かいです」 「読め、命令だ」  伯爵夫人とリシュリューは息を殺した。 「読め」バルサモはさらに強い口調で繰り返した。 「『妹よ』」声は躊躇いがちに震えていた。 「返信だ」リシュリュー公爵と伯爵夫人は同時に呟いた。 「『妹よ。落ち着いてくれ。災難は起こった。それは本当のことだ。際どかったのも本当だ。だがもう済んだことだ。明日が待ち遠しい。明日になれば攻撃するのは私の番だ。どう見ても成功は間違いない。ルーアン高等法院にとっても、X閣下にとっても、騒動にとっても申し分ない。  明日、国王との仕事を終えた後で、追伸を書き加え、同じ伝令を使って届けることにする。』」  バルサモは言葉をつかもうとでもするように左手を伸ばし、書斎でド・ショワズール氏がヴェルサイユ宛てに書いている手紙の内容を右手で書き留めていた。 「これで全部か?」バルサモがたずねた。 「全部です」 「公爵は今何をしている?」 「手紙を二つに折り、さらに二つに折って、服の左から取り出した赤い書類入れに仕舞いました」 「お聞きになりましたか?」バルサモは呆然としている伯爵夫人にたずねた。「それからどうした?」 「それから、伝令に何か言って帰しました」 「何と言ったんだ?」 「最後しか聞き取れませんでした」 「それは……?」 「『一時に、トリアノンの門のところで』。伝令はお辞儀をして立ち去りました」 「なるほど。手紙に書いた通り、仕事の後で伝令に会う約束をしたんですな」とリシュリューが評した。  バルサモが静かにするよう合図した。 「今は公爵は何をしている?」 「立ち上がっています。届けられた手紙を持っています。真っ直ぐ寝台に向かい、壁の隙間に入り、バネを押して鉄の小箱を開きました。そこに手紙を放ると元通り蓋を閉めました。 「凄い!」公爵と伯爵夫人は二人とも青ざめていた。「まさしく魔法だ」 「知りたいことはすべてお知りになりましたね、伯爵夫人?」バルサモがたずねた。 「伯爵殿」デュ・バリー夫人は恐々とバルサモに近づいた。「あたくしが十年かけなければ出来なかったことを、いえ、幾らかけても決して出来そうにないことをして下さいましたわ。何なりと望みを仰って下さい」 「おや、お約束は既に交わしていたはずでしたが」 「どうか望みを仰って下さいまし」 「機が熟しておりません」 「ではその時が来れば、たとい百万フランでも……」  バルサモが微笑んだ。 「いやいや伯爵夫人! 伯爵に百万フランお願いするのはむしろあなたの方ですぞ」元帥が声をかけた。「何を知っているかを知っていて、何を理解しているかを理解している人物です。人の心の内の思いを見つけ出したように、地面の中の金やダイヤモンドも見つけ出せるのではありませんかな?」 「でしたら、あたくしとしては黙って頭を垂れるしかありませんわ」 「いえ、いつかはお礼をしていただきますよ。その時はお願いいたします」 「伯爵殿、わしの負けです、降参です、シャッポを脱ぎましょう! 今は信じておりますぞ」 「聖トマスのように、でしょう? それは信じているとは申しません、理解したと申すのですよ」 「お好きなようにお呼び下され。しかしわしは謝らなくてはなりませんな。それに、これからは魔術師の話が出ても、答えに窮さずに済む」  バルサモが微笑んだ。 「ところで伯爵夫人、一つ構いませんか?」 「どうぞ」 「私の精霊は疲れております。呪文を唱えて自由にしてやりたいのですが」 「どうぞなさって下さい」 「ロレンツァ」バルサモはアラビア語で話しかけた。「ご苦労だった。愛してるぞ。来た道を通って部屋に戻り、俺を待っていろ。行け、愛してるぞ!」 「へとへとです」イタリア語の声は、招魂の最中よりもぐっと甘かった。「早く来て、アシャラ」 「すぐに行く」  すると、先ほどと同じく擦るような足音が遠ざかってゆくのが聞こえた。  数分後、ロレンツァが立ち去ったことを確認すると、バルサモは二人の訪問者に向かって深々とではあるが威厳たっぷりにお辞儀をした。様々な思いに押し寄せられて心を囚われ呆然としていた二人は辻馬車に戻ったが、その姿は理性的な人間ではなくむしろ酔っぱらいのように見えた。 第八十六章 失脚  その翌日、ヴェルサイユの大時計が十一時を報せると、国王ルイ十五世は部屋から出て、寝室の隣の回廊を渡り、乱暴に呼び立てた。 「ド・ラ・ヴリリエール!」  国王は青ざめており、どうやら動揺しているようだ。不安を隠そうとすればするほど、目はせわしなくしばたたかれ、普段は無表情な顔の筋肉がぴくぴくと動いている。  居並んだ廷臣たちの間に冷たい沈黙が落ちていた。その中に混じって、ド・リシュリュー公爵とデュ・バリー子爵が二人揃って平静を装っている。  ラ・ヴリリエール公爵が現れ、国王の手に封印状を手渡した。 「ド・ショワズール公爵はヴェルサイユにいるのか?」 「はい。昨日、午後二時にパリからお戻りになりました」 「自宅か? 宮殿か?」 「宮殿でございます」 「わかった。この令状を渡してくれ」  廷臣たちの間にざわめきが走った。嵐に吹かれた穂波のように、頭を垂れて長々と囁き交わしている。  畏怖を加えてこの場面をいっそう効果的にしようとでもするように、国王は眉を寄せ、衛兵隊長と近衛軽騎兵長を引き連れて部屋に戻った。  目という目がラ・ヴリリエール氏を追い回したが、追い回されている本人の足取りも不安そうに見え、ゆっくりと中庭を横切ってショワズール氏の部屋に向かった。  その間も、老元帥の周りではびくびくと怯えたような囀りが起こっていた。元帥自身は誰よりも驚いているふりを装っていたが、その気取った笑みを目にしては誰も騙されたりはしなかった。  ラ・ヴリリエール氏が戻って来ると、たちまち人の輪が出来た。 「何でした?」 「はい、追放命令でした」 「追放?」 「ええ、正式なものです」 「お読みになったのですか?」 「この目で読みました」 「確かですね?」 「断言いたします」  そう言ってラ・ヴリリエール公爵は以下の言葉を繰り返した。廷臣たる者、尋常ではない記憶力を持っているものなのである。 「『親愛なる閣下、そなたの仕事ぶりについて意に満たぬ点があったため、シャントルーに追放せざるを得なくなった。今から二十四時間後には向かってくれ。ド・ショワズール夫人に特別な敬意を払っていなければ、さらに遠方になっていたところだが、夫人の健康を考えてのことだ。そなたの振る舞い如何によっては別の態度を取らざるを得ぬ。気をつけてくれ。』」  ラ・ヴリリエール公爵を取り囲んでいる人の輪に、ざわめきが広がった。 「それでショワズール殿は何と答えられたのですかな、ド・サン=フロランタン殿?」リシュリューはわざわざ新しい肩書きでも新しい名前でもない呼び名でたずねた。 「こうお答えになりました。『ラ・ヴリリエール公爵、この令状を持って来るのが嬉しくてしょうがなかったでしょうね』」 「よく言うぜ、ショワズールも」ジャンが呟いた。 「いけませんか、子爵殿? このように声をあげる間もなく屋根瓦を頭に喰らうことなど誰にもないのですからね」 「どうするつもりなのかおわかりですかな?」リシュリューがたずねた。 「普通に考えれば、従うつもりだと思いますが」 「ふむ!」 「ショワズールだ!」窓のそばで見張っていたジャンが声をあげた。 「こちらにいらっしゃいますね!」ラ・ヴリリエール公爵も続いた。 「そう言ったつもりでしたがね、サン=フロランタンさん」 「中庭を渡っているところだ」ジャンがなおも続けた。 「一人かね?」 「一人きりだ、書類入れを抱えている」 「まさか! 昨日の場面がまたぞろ繰り返されるわけではなかろうな?」リシュリューが呟いた。 「そんな話は御免だな、ぞっとする」  話は途中だったが、ショワズール公爵が高々と顔を上げ、毅然とした目つきをして、回廊の端に姿を見せた。ショワズールは冷ややかな目つきではっきりと敵たちを、というのはつまり失脚することになれば敵になる者たちを、睨みつけた。  ああしたことが起こった直後にこうして歩いて来るとは誰一人として予期していなかったので、誰も呼び止めることが出来なかった。 「間違いなく読んだんでしょうね、ラ・ヴリリエール公爵?」ジャンがたずねた。 「馬鹿なことを!」 「ならさっき読み上げたような令状を受け取った後で、また戻って来るとでも?」 「名誉にかけて申し上げますが、私にはもう何もわかりません!」 「だがこのままじゃバスチーユ送りだぞ!」 「そんなことになったら大騒ぎになりますよ!」 「同情せざるを得ないな」 「国王のお部屋にお入りになった。前代未聞だ」  その言葉通り、ショワズール公爵は呆然とした取次が申し立てる制止を意にも介さず、国王の執務室まで入り込んだ。それを目にした国王は驚いて声をあげた。  ショワズール公爵は封印状を手にしていた。笑顔といってもいいほどの顔つきをして、国王にそれを差し出した。 「陛下が昨日お知らせ下さいましたように、先ほどこの新しい令状を受け取りました」 「そうだな、公爵」 「そして陛下は昨日ご親切にも、国王の勅語のない令状は深刻に考えずともよいとのお言葉を下さいましたので、こうして釈明を求めにお伺いいたしました」 「話はない。今日の令状には効力があるのだ」 「効力がある? これほどまでに献身的な臣下に対してこれほどまでにぶしつけな令状は……」 「献身的な臣下なら君主に対してふざけた行いなどするまい」  ショワズールは引かなかった。「私は自分のことを、陛下を理解できるほどには玉座に近い生まれだと自負しております」 「いいかね」国王の返事は簡潔だった。「そなたを苦しませたくないのだ。昨晩そなたはヴェルサイユの自宅に、ド・グラモン夫人からの伝令を迎えたであろう」 「仰る通りです」 「手紙を受け取ったな」 「兄と妹が手紙をやり取りするのがいけないことでございますか?」 「慌てるな……余はその手紙の内容を知っておる……」 「陛下!」 「これだ……余自ら書き写したのだぞ」  国王はショワズール公爵に、手紙の正確な写しを手渡した。 「陛下……!」 「言い逃れはすまいな。そなたはその手紙を、寝台の脇にある鉄の小箱に詰め込んだであろう」  ショワズールが亡霊のように青ざめた。 「それだけではなく」国王は容赦なく続けた。「そなたはグラモン夫人に返事を書いたであろう。その手紙の内容もわかっておる。その書類入れの中に入っていることも、後は追伸を待つだけだということも、余と別れた後で書き足すつもりだということもわかっておる。どうだ、余は物知りだとは思わんかね?」  ショワズール公爵は冷たい汗に濡れた額を拭うと、一言も答えることなく一礼し、ふらつきながら部屋を出た。卒中の発作にでも襲われたかのようだった。  強い風に顔を打たれていなければ、ばったりとひっくり返っていたかもしれない。  だがショワズールは強い意思を持っていた。回廊に出る頃には力を取り戻し、居並ぶ廷臣たちを尻目に、顔を上げて部屋に戻り、書類を詰め込んだり、或いは燃やしたりした。  十五分後、ショワズールは四輪馬車に乗って宮殿を離れた。  ショワズール氏の失脚はフランスを焼き尽くす落雷であった。  高等法院はこの大臣のお目こぼしで持続していたようなところがあったので、この国は屋台骨を失ってしまったと主張した。貴族たちは我が身のことのように同情した。聖職者たちはこの人から世話を受けていると感じていた。この人なりの自尊心はしばしば自惚れにまで発展し、政治に宗教色を持ち込むまでになっていたのだ。  百科全書派や哲学者たちは、教養や智性や弁才のある人々の許に集まっていたので、既に大変な数に上り非常に強い勢力になっていたが、この大臣の手から政権が離れたのを見て悲鳴をあげた。ショワズールはヴォルテールを称揚し、百科全書にお金を出し、実践の場に活用することによって、『メルキュール』誌や哲学の後援者《メセナ》であるド・ポンパドゥール夫人以来の伝統を守っていたのだ。  庶民たちはそうした不満分子の誰よりも的を射ていた。彼らとて不満は洩らしたが、例によって例の如く、深く考えもせずに掛け値なしの真実である生々しい傷に触れていた。  ショワズール氏は一般的見地からすれば、いい大臣とは言えぬし、いい市民とも言えなかった。だがこと美徳と道徳と愛国心にかけてはお手本となる人物であった。ある時は田舎で飢えて死にそうになっている人々が、国王の浪費やデュ・バリー夫人の気まぐれな散財の話を聞き、またある時は『四十エキュの男』のような助言や『社会契約論』のような忠告を大っぴらに送られたり、『掌中新報《ヌーヴェル・ザ・ラ・マン》』や『市民奇想《イデ・サンギュリエール・ダン・ボン・シトワヤン》』のような暴露をこっそりと送られたりして、またある時には「炭焼きの妻ほど尊敬できない」寵姫の不純な手、即ち寵姫の贔屓の手にまた落ちやしないかと怯え、散々苦労した挙げ句に過去よりも真っ暗な未来を見て驚いていた。  庶民たちは嫌悪を抱いていたのであって、ことさらに好感を抱いていたわけではない。庶民たちは高等法院を憎んでいた。本来庇護者であるべき高等法院は庶民のことなど考えもせず、上席権に関する無意味な質疑や己の利益を得ることに汲々としていたからであり、王権の虚像に教化されることもなく、自らを貴族と庶民の間に位置するエリートだと思い込んでいたからである。  庶民は本能的、経験的に貴族を憎んでいた。教会を憎むのと同じくらい剣を恐れていた。ショワズール氏の解雇に直接的な関わりなど一切ない。だが貴族や聖職者や高等法院の不平は耳に届いていたし、自分たちの囁きにそうした不平の声が加わって轟音となることに酔いしれていた。  こうした遠回りの感情が生み出す効果から、ショワズール氏の名前にはこれまでありもしなかった未練と人気が備わることになった。  パリ中、というのが言葉通りの意味であるのはいつでも証明できるのだが、パリ中が、シャントルーに向かう亡命者を門までお供した。  人々は馬車の通り道に列を成した。招かれなかった高等法院構成員や廷臣たちが、人垣の手前に供回りを陣取らせ、馬車に向かって挨拶をしたり別れの言葉を貰おうとしていた。  喧噪が最高潮に達したのは、トゥレーヌ路上にあるアンフェール市門でのことだった。人や馬や馬車がひしめいて、何時間にも渡って交通が麻痺した。  ショワズール公爵は門を通過する時、何台もの馬車が後光のように取り巻いていることに気づいた。  喝采と溜息がその後を追って来た。こうした騒ぎが起きているのも、本人への未練ではなく破滅を危惧する名もなき不安によるものだということに、智性も判断力も有り余っているショワズールが、気づかぬはずがなかった。  馬輿が、混み合う路上に全速力で駆けつけた。御者が手を焼くこともなく、埃と泡で白くまみれた馬が、ショワズール氏の馬に向かって突進していた。  輿から頭が覗くと、ショワズール氏も四輪馬車から頭を出した。  後任の椅子を狙うデギヨン氏から深々とお辞儀をされると、ショワズール氏は馬車に舞い戻った。ほんの一瞬で、敗北の栄冠も地にまみれていた。  だが同時に、或いは入れ替わりに、フランス王家の紋章をつけた八頭立ての馬車がセーヴルからサン=クルーに向かう分岐路に姿を見せたが、偶然か、はたまた渋滞のせいか、大通りを突っ切ることなく、こちらもショワズール氏の四輪馬車に横づけにした。  王太子妃と侍女のド・ノアイユ夫人が後部席に。  前座席にはアンドレ・ド・タヴェルネ嬢がいた。  ショワズール氏は喜びと誇りで顔を赤らめ、扉から乗り出して深々とお辞儀をした。 「お別れです、妃殿下」ショワズールは声を詰まらせた。 「またお会いしましょう」王太子妃は悠然と微笑み、威風堂々として答えた。 「ショワズール万歳!」王太子妃の言葉に続いて、熱い叫び声があがった。  その声を聞いて、アンドレ嬢がさっと振り返った。 「邪魔だ! 邪魔!」と王太子妃の口取りに押し戻されているのは、ジルベールだった。馬車を一目でも見ようと、真っ青になって路上の列に割り込もうとしている。  間違いない。哲学者としての熱狂に駆られて「ショワズール万歳!」と叫んだのは、我らが主人公であった。 第八十七章 デギヨン公爵  パリやシャントルーの路上で待っていたのが顔をしかめて目を腫らした人間であったように、リュシエンヌにもたらされたのは、顔をほころばせた魅力的な笑顔であった。  今やリュシエンヌの玉座についているのは一介の人間ではない。宮廷人や詩人の言うようなあらゆる人間の内でもっとも美しく可憐な人間ではなく、フランスを統治しているのは紛れもない神であった。  そういうわけだからド・ショワズール氏が罷免されたその日、朝は大臣の四輪馬車を追っていたお供の者たちが、夕方になっても路上を埋め尽くしていた。さらには高官や賄賂や贔屓を愛する者たちが大きな列を成しているのが見えた。  だがデュ・バリー夫人には独自の捜査機関がある。ジャンはショワズール兄妹に向かって最後の花を投げようとしていた人々の名前を、有力者は別にしてだが手に入れ、伯爵夫人に伝えた。名前を告げられた者たちは一掃され、輿論に立ち向かう勇気を持っていた者たちが、その日の女神のいたわるような微笑みとこのうえない眼差しを賜った。  馬車の行列と人混みの後には、個人的な接見が待っていた。この日の隠れた主人公であるリシュリューは、来訪者や請願者が押し寄せるのを尻目に、閨房の奥に引っ込んだ。  人が喜び合ったように、神は喜びを知っていた。握手に次ぐ握手、押し殺した笑い声を洩らし、昂奮から足を踏み鳴らす、それがリュシエンヌの住人たちの日常になったかのようであった。 「忌憚なく申しますと、ド・バルサモ伯爵でもド・フェニックス伯爵でもどちらでも構いませんけれど、あの人こそ当代の第一人者じゃありませんの。いまだに魔法使いを火あぶりにするなんて残念でなりません」伯爵夫人が言った。 「まさしく、たいした人物です」リシュリューが答えた。 「おまけにちょっといい男で。ぐっと来るじゃありませんの……」 「妬けますなあ」リシュリューはからからと笑ったものの、急いで真面目な話に舵を切った。「……フェニックス伯爵なら恐るべき警察大臣になれるでしょうな」 「そのことは考えてみましたけれど、無理ですわ」 「何故です?」 「同僚がいるところが考えられませんもの」 「はて?」 「すべてお見通しで、手の内のカードを見透かせるんですから……」  リシュリューは頬紅の下で顔を赤らめた。 「伯爵夫人、わしが同僚なら、永遠に手の届くところに置いておきたいし、カードの中身を知らせてもらいたいところですな。ハートのジャックがクイーンの膝許やキングの足許に額ずいているのがいつでも確認できるのですから」 「あなたほど抜け目のない方はちょっといませんわね。でもそれより大臣のポストのことなんですけれど……甥御さんに事前に知らせていたはずだと記憶してましたけど……?」 「デギヨンですか? 到着いたしましたぞ。それもローマの占い師なら吉祥だと判ずるような状況で。ショワズール氏の馬車が出るところに居合わせたのです」 「まさに吉祥ね。それで、ここにはいらっしゃるの?」 「デギヨン殿がこんな時期にリュシエンヌにいるのを見られては、どんな噂が立つとも限りません。わしから連絡が行くまでは、村でじっとしていろと頼んでおきました」 「ではすぐに知らせて下さいな。ここにいるのはあたくしたちだけみたいなものですもの」 「喜んで。それにしても話が合いますな」 「ほんとうに……ところで……大蔵陸軍卿の方がお好きかしら? それとも海軍の方が?」 「陸軍の方がよいですな。その方がお役に立てるでしょうから」 「仰る通りね。その旨を陛下にお伝えしておくわ。お嫌ではありませんよね?」 「何をです?」 「陛下がお選びになる同僚のことです」 「わしは気難しい人間ではありませんぞ。だがそれより甥を呼んでも構わぬでしょうな、何せ謁見の栄誉をお許し下さるのですから」  リシュリューは窓に近寄った。日没の残光が中庭を照らしている。窓際に控えていた従僕に合図を送ると、すぐに駆け出して行った。  そうしているうちに、伯爵夫人の部屋に明かりが灯された。  従僕が出ていってから十分後、馬車が第一中庭に乗り入れられた。伯爵夫人が窓に目をさっと向けた。  リシュリューはそれを見逃さなかった。デギヨン氏にとって、ひいては自分自身にとっていい兆候だ。  ――伯爵夫人は伯父を気に入ってくれておる。甥にも好意を持っておる。わしらはここで支配者になれそうだ。  そんな物思いに耽っていると、戸口で小さく物音がして、腹心の従者がデギヨン公爵の訪いを告げた。  洗練された魅力的な貴族にして、身なりは豪華なだけでなく無論上品でもあった。デギヨン氏は若々しい盛りをとうに過ぎていたが、目つきと意思の力によって、老いてなお若さを保っている類の人間であった。  たとい政治的な不安を抱いているにせよ、額には深い溝は刻まれてない。政治家や詩人が偉大な思想を温めているような、さり気ない皺が広がっているだけだった。真っ直ぐに上げた顔には、鋭さと憂いが浮かんでいた。それはあたかも何万人もの憎しみにのしかかられているのを自覚していながらも、それに負けるわけがないことを証明しようとしているかのようであった。  デギヨン氏はひどく美しい手をしていた。レースの中に紛れていても遜色がないほど白く細やかな手である。当時は形の良い足が高く評価されていた。デギヨン公爵の足は気品溢れる筋肉と貴族的な形状の見本であった。公爵には詩人のかぐわしさ、貴族の気高さ、銃士のしなやかさがあった。伯爵夫人にとってそれは理想が三つ重ねられたようなものだった。一つの理想の中に、本能的に惹かれざるを得ないような三つのタイプを見出したのだ。  驚くべき奇遇によって、もとい状況判断に基づいてデギヨン氏が立てた戦術によって、世間から厳しい目を向けられているこの二人の男女は、輝かしい状況でこれまで顔を合わせたこことはなかった。  事実三年前からデギヨン氏はブルターニュで忙しくしているか自室にいるかのどちらかだった。好不都合にかかわらずそのうち難しい事態が生ずることを見越して、宮廷にはほとんど顔を出さなかった。好都合なことが起こった場合、領民に贈り物をするなら見知らぬ者からの方がよい。不都合なことが起こったなら、ほとんど跡を残さず姿を消し、そのうちまた新たな顔をして深淵から抜け出た方がよい。  さらにはこうした計算の内には、もう一つ大きな理由が働いていた。それは物語じみた心の動きではあったが、にもかかわらず何よりも大きな理由であった。  デュ・バリー夫人は伯爵夫人になって夜毎フランスの王冠に口づけするようになる前には、笑顔に溢れた惚れ惚れするような美しい女性であった。愛されていたし、幸せだった。恐れを覚えて以来、もはや幸せに期待をかけることはなくなったが。  若く豊かで力も美も備えた男たちから、ジャンヌ・ヴォベルニエは口説かれていた。三流詩人たちが、ランジュと天使《アンジュ》という言葉で韻を踏んでいた。デギヨン公爵はかつてその先頭に立っていた。だが、公爵が性急ではなかったためか、或いはランジュ嬢の尻が誹謗されるほど軽くはなかったためか、或いは結局、どちらの顔も潰さぬとすれば、国王の寵愛が結ばれかけていた二つの心を引き離したためか、とにかくデギヨン氏は詩や折句や花束や香水を鞘に収めていたし、ランジュ嬢はプチ・シャン街の扉を閉めていた。デギヨン公は溜息で押しつぶされそうになりながらブルターニュに向かい、ランジュ嬢はヴェルサイユのド・ゴネス男爵に、即ちフランス国王に溜息のすべてを送っていた。  こういう次第で、デギヨンが急にいなくなってもデュ・バリー夫人は初めの内ほとんど気にしなかった。過去を恐れていたせいもある。だがやがて、かつての崇拝者が沈黙を守っているのを見て、不思議がり、次いで驚愕し、これが男の評価時だと気づいてからは、デギヨンのことを頭の切れる男だと評価した。  伯爵夫人にしてみればこれは大変な讃辞である。だがそれだけに留まらない。機会さえあれば優しい男だと評価を下したことだろう。  ランジュ嬢には過去を恐れるだけの理由があったと言わざるを得ない。かつて恋人だった銃士が、ランジュ嬢の愛情や言葉を取り戻したがって、ある日ヴェルサイユにまでやって来た。かつての睦言は今や王国の気高さによって早々と息の根を止められ、それでもなお、ド・マントノン夫人の口から控えめな噂が流れて来るのは避けられなかった。  これまで見て来たように、リシュリュー元帥はデュ・バリー夫人との会話を通して、甥とランジュ嬢との関係には一切触れなかった。難しい問題を口にするのに慣れている老公爵のような人間が口を閉ざしているの見て、伯爵夫人はひどく驚いていたし、もっと言うなら不安に駆られていると言わざるを得なかった。  そういうわけだから、伯爵夫人はどう振る舞うべきかわからず、苛々しながらデギヨン氏を待っていた。一方の元帥は控えめというよりは知らんぷりを決め込んでいたと言うべきだろうか。  デギヨン公爵が姿を見せた。  王妃に対するのでも廷臣の妻に対するのでもない恭しい挨拶を、怯まず悠々とやってのけたので、その微妙な違いに気づいた伯爵夫人はすっかり魅了され、極めて申し分ない気持にされた。  続いてデギヨン氏が伯父の手を取ると、伯父は伯爵夫人に近づいて麗しい声を出した。 「こちらがデギヨン公爵です。わしの甥ではなく、あなたのために尽くす人間です。これほど誠実な人間をご紹介できることを光栄に思います」  伯爵夫人はその言葉を聞いてデギヨン公を見つめた。女を見つめるように、つまり何者も逃れることの出来ないような目つきで見つめた。伯爵夫人には恭しく下げられた二つの顔しか見えていなかった。挨拶を済ませて穏やかに上げられた二つの顔しか見えていなかった。 「あなたが公爵殿を可愛がってらっしゃるのはわかってますわ、元帥閣下。あなたはあたくしの友人です。ですから公爵閣下、伯父さまに敬意を表して、伯父さまがあたくしにして下さるように尽くして下さることをお願いいたします」 「言われるまでもなくそうして参りました」デギヨン公爵はそう言って再びお辞儀をした。 「ブルターニュでは随分と苦労なさったんでしょう?」 「ええ、しかもまだ終わっておりません」 「そうではないかと思ってました。でもこちらにいらっしゃるド・リシュリュー閣下が手を貸して下さいますわ」  デギヨンは驚いたようにリシュリューを見つめた。 「あら、まだお二人でお話しする暇がなかったのね。当たり前ね、旅から戻ったばかりなんですもの。お話ししたいことは山ほどおありでしょうね、お先に失礼しますわ、元帥閣下。公爵殿、ここがあなたのお部屋です」  伯爵夫人はその言葉を残して立ち去った。  だが伯爵夫人には計画があった。遠くには行かずに、閨房の後ろにある大きな部屋《キャビネ》に向かった。そこは国王がリュシエンヌに来た際に、煩わしいことがあるとよく腰を据えている場所だった。国王はこの部屋がことのほかお気に入りだった。隣の部屋《シャンブル》で行われている会話をすっかり聞いてしまえるからだ。  だからデュ・バリー夫人はリシュリュー公と甥の会話をすっかり盗み聞き出来るものと信じていた。甥について最終的な判断を下すつもりだったのだ。  だがリシュリュー公は騙されなかった。王室や内閣の秘密なら大部分を把握していたのである。人が話をしている時には耳を傾けるのが公爵の戦術であり、人が話を聞いている時には口を開くのが策略であった。  そこでデュ・バリー夫人がデギヨンに配慮を見せた際、その鉱脈を最後まで突き進もうと決意した。寵姫が不在を装っているのを利用して、秘密という小さな幸運と陰謀という大きく厄介な力を差し出してやろうと決意した。女なら、それも宮廷の女とあらば、この二つの餌には抵抗できぬだろう。  リシュリュー公はデギヨン公を坐らせて話しかけた。 「わかるな、わしはここで一廉の地位を得ておる」 「ええ、わかります」 「あの方の寵愛を得ることが出来た。ここでは王妃扱いされてらっしゃるし、事実上王妃じゃな」  デギヨンが頭を下げた。 「よいか、道の真ん中でこんなことを言うわけにはいかぬが、実はデュ・バリー夫人はわしに大臣の椅子を約束してくれた」 「まあ当然でしょうね」 「当然かどうかはわからぬが、そうなった。遅ればせながらではあるが。大臣になった暁には、お前のために世話してやるつもりだ、デギヨン」 「ありがとうございます。持つべきものは親戚だ、一度ならず助かってます」 「何かなりたいものはないのか?」 「公爵と貴族の肩書きを剥奪されなければ、特に何もありませんね。高等法院の連中は、その剥奪を要求していますが」 「何処かに支持者はいないのか?」 「私の支持者ですか? 一人も」 「ではこういう状況にならなければ、破滅していたのではないか?」 「ぺしゃんこでしたね」 「ううむ! それにしても哲学者のような話し方を……要するに、わしがきつい言い方をするのはそのせいなのだぞ、デギヨンよ。伯父としてではなく大臣として話しているのだ」 「伯父上、あなたのご親切には感謝の気持で一杯ですよ」 「わしがお前を大急ぎで呼び寄せたのは、ここで立派な役を演じさせたいからだということくらいわかるであろう……ショワズール氏が十年間演じて来た役のことを、少しでも考えたことはあるのか?」 「ええ、確かに立派な人でしたね」 「立派だと! ポンパドゥール夫人と協力して国王を操り、イエズス会士を追放させた頃は、確かに立派だった。だが悲しいかな、ポンパドゥールの百倍も素晴らしいデュ・バリー夫人と愚かにも仲違いして、二十四時間後には追放されてしまったのは、お粗末と言うほかない……何も言うことはないのか」 「聞いていますよ、何を仰りたいのか考えていたのです」 「ショワズールの最初の役どころは、いいとは思わんかね?」 「それはそうです。居心地がいいでしょうね」 「要するに、わしが演じようと決めたのはその役なのだ」  デギヨンはぎょっとして伯父を見つめた。 「正気ですか?」 「当たり前だ。何故いかん?」 「デュ・バリー夫人の愛人になるおつもりですか?」 「いやはや、先走りおって。まあしかし、わしの言うことは理解しておるようだな。確かにショワズールは幸運だった。国王を操り、寵姫を操っていた。ポンパドゥール夫人を愛しているという噂もあった……それはそうと、何故いかん?……いや、その通り。わしは魅力的な愛人にはなれん。その薄ら笑いで言いたいことはわかる。その若々しい目で、わしの皺の寄った額、曲がった膝、干涸らびた手を見るがいい。昔は綺麗だったのだが。ショワズールの話に戻るが、『わしが演じる』ではなく、『わしらが演じる』と言うべきだったな」 「伯父上!」 「わしに愛人の資格がないことくらいはわかっておる。だが話しておこう……構わん。本人に知られることはないのだから。わしは誰よりもあの方を愛していたはずだ……だが……」  デギヨンが眉を寄せた。 「だが、素晴らしい計画を考えたのだ。わしの年で不可能であるのなら、この役を二つに分ければよい」 「おお!」 「わしの身内の誰かがデュ・バリー夫人を愛する……素晴らしいことだ……完璧な女性を」  リシュリューは声を大きくした。 「フロンサックは無理として、白痴、馬鹿、臆病者、悪戯小僧、百姓……さあ何になりたい?」 「気が狂ったのですか?」 「気が狂った? 助言している人間の足許からもうはやいなくなったらしいな! 喜びにとろけ、感謝に燃えてはおらぬのか! 伯爵夫人のもてなし方を見ても、心を奪われぬのか?……恋に落ちぬのか?……よかろう、アルキビアデス以来この世にリシュリューは一人しかおらなんだ、今後は一人もいなくなるのだろう……ようわかった」 「伯父上」デギヨン公爵が、たとい見せかけにせよ、動揺してみせた。見せかけだとするならば見事な出来栄えだったが、急な申し出だったことを鑑みれば演技ではなかったのかもしれない。「あなたが仰った役割から何をどう利用しようとしているのかすっかりわかりましたよ。あなたはショワズール氏の権威を借りて支配し、私は愛人になってその権威を支えるというわけですね。いいでしょう、フランス一の智恵者らしい計画だ。ただしことに当たっては一つだけ覚えておいて下さい」 「どういうことだ……?」リシュリューが顔を曇らせた。「デュ・バリー夫人を愛さぬということか? そうなのか?……馬鹿者が! 底抜けの馬鹿めが! 何てことだ! そうなのか?」 「そういうことではありませんよ」言葉の一つとしておろそかにされるべきではないと承知している口振りだった。「デュ・バリー夫人にはお会いしたばかりですが、あれほど美しく魅力的なご婦人はいないでしょう。むしろ狂おしいほど愛してしまうでしょうし、愛し過ぎてしまいそうです。問題はそこではありません」 「では何が問題なのだ?」 「問題は、デュ・バリー夫人が愛してくれそうにないことですよ。こうした同盟の第一条件は愛ですからね。こんなきらびやかな宮廷の中で、ありとあらゆる素晴らしさに満ちた若者たちの中から、私のことを高く買ってくれるとお思いですか? 何の取り柄もなく、もはや若くもなく悲しみに打ちひしがれ、来たるべき死を覚悟して目を伏せているような人間を? 伯父上、まだ若く輝いていた頃にデュ・バリー夫人に出会っていたなら、ご婦人たちが若さの魅力のすべてを私に見出し愛してくれた頃なら、伯爵夫人も記憶に留めておいてくれたでしょう。そうであればどれほどよかったか。だが無理ですね……過去も、現在も、未来も。伯父上、そんな空想は捨てなければなりません。うっとりするほど輝く伯爵夫人に引き合わせて、私の心を突き刺したに過ぎないんですよ」  モレが羨み、ルカンが見習うような、情熱的な長台詞が辯ぜられている間、リシュリューは口唇を咬んで呟いていた。  ――こやつは伯爵夫人が聴いていることに気づいておるのか? たいした奴だ! 名人芸だな。だとすると、用心せねば!  リシュリューは正しかった。伯爵夫人は耳を澄まし、デギヨンの言葉の一つ一つを心に染み渡らせていた。告白の呪文をしっかりと味わいながら飲み干し、きめ細やかな風味を楽しんだ。内なる自分に問い合わせてみても、かつての恋人の思い出を裏切りはしなかった。或いはまだ心を残している肖像に影を落とすのを恐れてのことだったかもしれない。 「では、断るのか?」リシュリューがたずねた。 「その点については仰る通りです。生憎ですが不可能に思えますから」 「せめて試してみぬか?」 「どのように?」 「わしらとここにいれば……伯爵夫人に毎日会える。気を引いてみればよい!」 「手前勝手な目的のためにですか?……お断りだ!……そんなえげつない思いで気を引くくらいなら、世界の果てまで逃げ出した方がましですね。私にも恥というものがある」  リシュリューがまた顎を掻いた。 「賽は投げられたのだ。それともデギヨンは馬鹿なのか」  ここで突然、中庭に音がして、声が張り上げられるのが聞こえた。「国王陛下です!」 「これはしたり! 国王とここで顔を合わせるわけにはいかぬ。わしは退散するとしよう」 「では私は?」 「それはまた別だ。会わなくてはならぬ。このまま……ここに……間違っても引いてはならぬぞ」  そう言ってリシュリューは階段を通って姿を消した。 「では明日!」 第八十八章 国王の分け前  一人残されたデギヨン公爵はしばらくまごついていた。伯父に言われたことはすっかり理解していたし、デュ・バリー夫人がそれを聴いていることもすっかり理解していた。頭の切れるデギヨンは、要するに問題はこうした状況の許で誠実な人間でいることであり、リシュリュー老公爵が協力させようとした勝負に一人で挑むことだ、ということもすっかり理解していた。  国王のお成りによって、幸いにもデギヨン氏は言い訳せずに済んだ。本来であれば自らの潔癖のせいで言い訳せねばならぬ事態を招いていたところだ。  元帥は欺かれたままで済ますような人間ではないし、自分のお金で他人の美徳を磨き立てさせておくような人間でもない。  だが一人残されたデギヨンにはじっくり考える時間があった。  ついに国王が到着した。国王の近習が控えの間の扉を開けると、ザモールが飴を貰おうと飛び出して行った。ルイ十五世は気分の鬱いでいる時にはいつも、馬鹿にしたようにザモールの鼻をはじいたり耳を引っ掻いたりするのがお決まりであった。  国王は中国風の部屋《キャビネ》に向かった。デュ・バリー夫人が伯父との会話を一言も洩らさず聴いていたのはデギヨンも承知するところであったので、デギヨンの方でも国王と伯爵夫人の会談に初めから耳を傾けた。  国王陛下は重荷を背負ってでもいるように疲れて見えた。アトラスが十二時間に渡って両肩に天を背負い、一日を終えた後の方がまだ手足の自由が利いていたはずだ。  ルイ十五世は寵姫から感謝と喝采とねぎらいを受けた。ド・ショワズール氏の罷免がどのような影響を及ぼしたのかを聞かされ、大いに楽しんだ。  デュ・バリー夫人はここで危険に踏み込んだ。危険ではあったが、政治の話をするにはよい風向きだった。それに、四大世界の一つを揺り動かせるほど勇ましい気分だった。 「陛下、解体や取り壊しはお見事でしたわ。でも大事なのは再建することじゃありません?」 「もう済ませた」国王は素っ気なく答えた。 「内閣を組みましたの?」 「うむ」 「息つく暇もなくあっという間でしたのね?」 「能なしばかりだがね……いや、そなたは女だ! いつぞや言っていたように、料理人を馘首にする前に新しいのを捕まえておかぬのか?」 「内閣を作った話を聞かせて下さいまし」  国王はゆったりとした長椅子から立ち上がった。坐るというよりも寝そべって、伯爵夫人の肩をクッション代わりにしていたところだった。 「勘繰られはせぬかね、ジャネット。何か心配事があって聞き出そうとしているのだとか、内閣の顔ぶれを見てくさすつもりだとか、組閣の腹案を余に吹き込もうとしているだとか思われかねぬぞ」 「でも……それほど見当違いでもありませんわ」 「まさか?……腹案があるのか?」 「陛下もお持ちでしょう!」 「それが余の仕事だからな。そなたの考えを聞かせてくれぬか……」 「あら、陛下のをお聞かせ下さいまし」 「いいだろう。参考までに」 「まず海軍担当はド・プラランさんでしたけど?」 「新任する。海を見たことのない好人物だ」 「仰って」 「我ながら名案だぞ。余の人気も上がるだろうし、二つの海で肖像に刻まれるのは間違いない」 「ですからどなたですの?」 「絶対に当てられぬだろうな」 「陛下の人気を上げるような方……駄目だわ、わかりません」 「高等法院の人間だよ……ブザンソンの院長だ」 「ボワネさん?」 「ご名答……それにしてもよく知っておるな!……あの連中を知っているのか?」 「しょうがないじゃありませんか、陛下が一日中高等法院の話をなさるんですもの。でもその方、櫂を見てもそれが何なのかわからないんじゃありませんの」 「それでいいのだ。プラランは仕事に詳し過ぎたし、造船には金がかかり過ぎる」 「では大蔵省は?」 「うむ、財務総監はまた別だ。専門家を選んだ」 「財政家ですか?」 「いや……軍人だ。財政家には長いこと食い物にされていたからな」 「では陸軍大臣は?」 「驚くなかれ、財政家に決めてある。テレーは数字にはうるさいからね。ショワズール氏の数字上の間違いを見つけ出してくれるだろう。実を言えば、陸軍には誰もが素晴らしいと噂する立派な人物を据えようと思っていたのだ。哲学者は大喜びしていただろうな」 「どなたですの? ヴォルテール?」 「惜しい……デュ・ミュイ殿だ……現代のカトーだよ」 「怖がらせないで下さいまし」 「もう済んだことだ……来てもらい、署名はもらってあったのだ。感謝していたぞ、我ながらどうした思いつきかわからぬが、心せよ、伯爵夫人、今夜リュシエンヌに呼んで食事とおしゃべりをしようと思わず伝えた時にはな」 「まあ恐ろしい!」 「デュ・ミュイも同じことを申しておった」 「そんなことを仰いましたの?」 「言い回しは違ったがね。とにかく情熱の限り国王に仕えることは約束したが、デュ・バリー夫人に仕えることは出来ぬと申しおった」 「立派な哲学者ですこと!」 「余の返事は言うまでもないな。手を伸ばし……任命状を取り返し、飽くまでにこやかなままびりびりに破いてやった。デュ・ミュイは姿を消したよ。それでもルイ十四世であればバスチーユの穴蔵で朽ちさせていたところだ。だが余はルイ十五世、余が高等法院に鞭を打つのではなく、高等法院が余に鞭を打つのだからな」 「どちらでも構いません」伯爵夫人は国王を口づけで覆った。「あなたは申し分のない方ですもの」 「みんながみんなそうは言うまい。テレーは憎まれておるしの」 「そうじゃない人なんているかしら?……それで、外務大臣は?」 「ベルタンだ、知っているだろう」 「存じません」 「では知らぬのか」 「でもとにかく、あたくしには一人として大臣に相応しい方には思えませんの」 「まあよい。そなたの腹案を教えてくれぬか」 「一人しか申せませんわ」 「教えてくれぬのかと思ったぞ」 「元帥です」 「どの元帥だね?」国王は顔をしかめた。 「ド・リシュリュー公爵です」 「あの老人か? あの臆病者のことか?」 「その臆病者のマオンの英雄のことです!」 「ふしだらな老人だ……」 「陛下、あなたの戦友です」 「女がみんな逃げ出しておった」 「だからどうだと言うんですの、しばらく前からそんなことなさってませんわ」 「リシュリューの名は出さんでくれ、あれは猪だ。あのマオンの英雄にはパリ中の賭博場を連れ回され……世間から囃されたものだ。ならん、ならん! リシュリューだと! その名前を聞いても気分が悪くなるだけだ」 「ではお嫌いですの?」 「誰のことだ?」 「リシュリュー一族のことです」 「憎んでおる」 「一族全員を?」 「全員だ。フロンサックが立派な貴族とはな。何度車責めの刑にしても飽きたらぬ」 「お任せしますわ。でも世間にはほかにもリシュリューはいますでしょう」 「ああ! デギヨンか」 「ええ」  この言葉を聞いて閨房の中でデギヨンの耳がピンと立ったかどうかはご想像にお任せしよう。 「誰よりも憎むべき人間ではないか。フランス中の騒ぎをすべて余の腕に預けおって。だが余の方が立ち直れぬほど弱い人間なだけであって、あの大胆さは嫌いになれぬ」 「頭の切れる方ですわ」 「勇敢だし、王家の特権を守るのに熱心な人間だ。あれこそ真の貴族だ!」 「何度でも同意しますわ! 何かして差し上げて下さいな」  国王は伯爵夫人を見つめて腕を組んだ。 「どうしてそんなことを申すのだ? フランス中がデギヨン公爵の追放や失職を望んでいる時だというのに」  今度はデュ・バリー夫人が腕を組んだ。 「さっきリシュリューのことを臆病者とお呼びになりましたよね。そっくりそのままあなたにお返しいたします」 「おお、伯爵夫人……」 「あなたは誇り高い方ですわ、ショワズール氏を罷免なさったのですから」 「だがあれは簡単なことではなかった」 「それでも実行なさったんです。それが今は結果を恐れて尻込みなさってる」 「余が尻込みしているというのか?」 「違いまして? ショワズール公爵を罷免してどうなりました?」 「高等法院から尻を蹴られておる」 「何もかも言いなりになるおつもりですか? 足を片方ずつ順番に上げればいいんです。高等法院がショワズールを再任させたがっていた時には、ショワズールを罷免なさったんです。デギヨンを罷免させたがっているのだから、デギヨンを任命なさいまし」 「罷免はせぬ」 「では何倍にも改め何倍にも増やして任命なさって下さいな」 「あのごたごたを理由に大臣の職を与えよと言うのか?」 「地位と財産を賭けてあなたを守ったご褒美を差し上げて欲しいんです」 「これからの人生は、そなたの友人モープーと一緒に毎朝石を投げられることになるぞ」 「あなたを守って下さるのですから、あなたも応援して差し上げるものと思いますが」 「見返りはあるのだろうな」 「そういうことは自分から仰らずに、相手にしゃべらせておくものですわ」 「そうか! それにしてもデギヨンにこれほどご執心なのはどうしたわけだね?」 「ご執心だなんて! あの方には会ったことも。今日会ったばかりで、話をしたのも初めてですわ」 「では別だ。信念があるのだな。余にはないものだから、信念というものには常々敬意を払っておる」 「デギヨンに何もやりたくないというのでしたら、リシュリューや、デギヨンの名前に何か差し上げて下さい」 「リシュリューに! とんでもない、何もやらぬぞ!」 「リシュリューにやらぬというのでしたら、デギヨン氏に」 「何だと! こんな状況で大臣の地位を与えろと言うのか? 無理だ」 「事情はわかります……でも後でなら……才能も実行力もある人間だということをお考え下さいまし。テレー、デギヨン、モープーがいれば、三つの頭を持つケルベロスを手にしたも同然です。それにあなたの内閣は長く持たない洒落みたいなものですもの」 「残念だね、三か月は持つはずだ」 「では三か月後に。言質を取りましたわ」 「待ってくれ、伯爵夫人!」 「もう決まったことです。差し当たり……贈り物が要るんですけれど」 「何もない」 「近衛軽騎兵聯隊をお持ちじゃありませんの。デギヨン氏は将校ですもの、剣客というやつでしょう。近衛聯隊をお与えになったら?」 「よい、わかった、そうしよう」 「ありがとうございます!」伯爵夫人は喜びを爆発させた。  ルイ十五世の頬中に口づけを浴びせる音がデギヨン氏にも聞こえた。 「ここらで夜食にせぬか、伯爵夫人」 「それが、ここには何もありませんの。政治の話で大変でしたから……みんな議論やおしゃべりに忙しくて、料理には手が回りませんでした」 「ではマルリーに連れて行こう」 「無理です。頭が割れそうなんですもの」 「頭痛がするのか?」 「ひどい痛みです」 「では横になりなさい」 「そうするつもりでした」 「では、これで……」 「また後ほど」 「まるでショワズール氏だね。追い出されてしまった」 「見送りに、お祝いに、餞別の言葉があるのにですか」伯爵夫人はゆっくりと国王を戸口まで見送ると、ついに部屋の外に連れ出し、笑って一段一段振り返りながら階段を進んだ。  伯爵夫人が柱の上から燭台を取り上げた。 「伯爵夫人」階段を上っている国王が声をかけた。 「何ですか?」 「元帥が死なぬとよいのだが」 「どうして死ぬなどと?」 「大臣の椅子が引っ込んだからさ」 「ひどい方ね!」伯爵夫人は先に立って歩きながら、けたけたと声をあげた。  国王陛下は憎らしい公爵に最後に皮肉を言えたことに満足して邸を出た。  伯爵夫人が閨房に戻ると、デギヨンが戸口にひざまずき、手を合わせて感謝の眼差しを向けていた。  伯爵夫人は顔を赤らめた。 「しくじってしまいましたわ。可哀相に元帥は……」 「存じております。聞こえていましたから……ありがとうございます!」 「感謝してもらうだけのことはしたと思いますが」伯爵夫人は莞爾と微笑み、「でもどうかお立ちになって下さい。頭が切れるだけでなく記憶も優れてらっしゃると思ってしまいますわ」 「そうかもしれません。伯父が申したように、私はあなたのために尽くす人間でしかありませんから」 「それに国王のために。明日は陛下に敬意を表することになりますわ。お願いですからどうかお立ちになって」  伯爵夫人が手を預けると、デギヨン公は恭しく口づけした。  伯爵夫人は動揺を抑えられなかった。それ以上は一言も口を利かなかったところを見ると、そのようだ。  デギヨン氏も無言のまま、動揺していた。ついにデュ・バリー夫人が顔を上げた。 「元帥もお気の毒に。負けを認めなくてはなりませんものね」  デギヨン氏はそれを退出の合図と受け止め、頭を下げた。 「これから元帥のところに向かうつもりです」 「あら、悪い報せは出来るだけ後で知らせるものですわ。元帥のところに行くよりも、あたくしと夜食をご一緒いたしませんか」  デギヨン公爵は若さと愛の芳香が燃え上がり、心臓の血が若返るのを感じた。 「あなたは女性ではなく……」 「天使《ランジュ》、でしょう?」伯爵夫人は燃えるような口唇を耳に近づけた。ほとんど触れんばかりにして声を潜ませ、卓子に公爵を引き寄せた……  その夜、デギヨン氏は自分がこよなく幸せだと感じていたに違いない。何故なら伯父から大臣の職を掠め、国王の分け前をいただいたのだから。 第八十九章 ド・リシュリュー公爵の控えの間  廷臣たちの例に洩れず、ド・リシュリュー氏もヴェルサイユとパリに邸を一つずつ、マルリーとリュシエンヌに家を一つずつ持っていた。有り体に言えば、住まいはどれも国王の住まいや保養先のそばにある。  ルイ十四世は貴族たちや大小の入室特権者たちに、住まいを増やすたびに豪奢にすべしという責務を課していた。家の佇まいを進退に応じたものにするためである。  というわけでリシュリュー氏は、ド・ショワズール氏とド・プララン氏が失職した時、ヴェルサイユの邸に滞在していた。デュ・バリー夫人に甥を引き合わせてリュシエンヌから戻った際、夜を過ごしたのもそこであった。  リシュリューはマルリーの森で伯爵夫人といるところを目撃され、大臣が罷免されたヴェルサイユで会ったところを目撃され、リュシエンヌで秘密裡にしばらく会談を行っていたことを知られていた。それに加えてジャン・デュ・バリーがべらべらと吹聴していたのだから、リシュリュー氏に敬意を払わざるを得ないと宮廷中が考えるようになるには、それで充分だった。  もちろん老元帥の方でも、讃辞や追従やごますりの香りをたっぷり吸い込もうとしていた。目下の主役を前にして、誰もが見境なく興味に駆られていたのである。  ところがリシュリュー氏はそんなことが起こるとは期待してはいなかったのである。その日の朝目を覚ました際には、耳に蝋を詰めてセイレーンの歌を防いだオデュッセウスのように、鼻に目張りをして香りを防ごうと固く心に決めていた。  待ちかねている結果は、その翌日に明らかになるはずなのだ。案に違わず国王によって新大臣の任命が詔されたのは、翌日のことであった。  故に目を覚ました元帥が、もとい馬車の轟音で目を覚まされた元帥がどれほど驚いたかは想像に難くない。従僕によれば、控えの間や応接室どころか邸の中庭にまで人が溢れていると云う。 「何と、何と! どうやらわしは時の人のようだな」 「まだ早朝でございます、元帥閣下」リシュリュー公爵が慌てて就寝帽を脱ぎだしたのを見て、従僕が声をかけた。 「これからはわしに時間などなくなる。覚えておけ」 「かしこまりました」 「来客には何と答えておいた?」 「閣下はまだお寝みだと」 「それだけか?」 「それだけです」 「馬鹿者。昨夜は遅かったとつけ加えるべきだ。いや、それより……そうだ、ラフテは何処にいる?」 「ラフテ殿はお寝みです」 「寝ているだと? さっさと起こして来い!」 「お待ちを、お待ちを」かくしゃくとした老人が戸口で笑顔を浮かべていた。「ラフテが参りました。お呼びですか?」  その言葉を聞いて公爵の怒りがたちまちしぼんだ。 「おお、お前は眠っていないと言っておったところだ」 「眠っていたとしても驚くことではないと存じますが? まだ陽が昇ったばかりでございます」 「ところがラフテよ、わしは眠っていないではないか」 「それはまた別の話です。御前様は大臣なのですから……どうして眠れるというのでしょう」 「ほう、わしに意見をする気か」元帥は鏡の前で顔をしかめた。「不満なのか?」 「どうして私が? 御前様が疲れをこじらせてお臥せになっては、私が国を治めることになります。そんなのはちっとも面白くはございません」 「お前も年を取ったな、ラフテ」 「御前様より四つしか若くはございませんから。確かに年を取りました」  元帥は焦れるように足を踏み鳴らした。 「控えの間を通って来たのか?」 「はい」 「誰がいた?」 「皆さまが」 「どんなことを話していた?」 「御前様にお願い申し上げたいことを口々に話しておいででした」 「もっともだ……わしの任命について、何か聞いたか?」 「仰っていたことは申し上げたくございません」 「ふむ……! 早速悪口か?」 「それも御前様を必要となさっている方々の口からでございます。御前様があの方々を必要となさった場合には、いったいどうなるのでございましょう?」 「例えばそ奴らは、お前がわしにおべっかを使っていると言うだろうな……」 「それにしても閣下。内閣と呼ばれる犂《すき》に御身を繋ぐのはどうしてでございますか? 幸せであることにも生きることにも飽きていらっしゃるものと思っておりましたが?」 「わしはあらゆるものを味わって来たが、内閣だけはまだなのだ」 「恐れ入りました! 砒素も味わったことはございますまい。どうしてチョコレートと一緒に試しに飲み干してご覧にならないのですか?」 「ラフテ、この怠け者めが。わしの秘書として、仕事が増えると覚悟しておくのだぞ。尻込みしているな……確かにお前はそう言った」  元帥は念入りに服を着込んだ。 「軍人風に見えるようにしてくれ。それに軍事勲章を頼む」 「では陸軍大臣ということでしょうか?」ラフテがたずねた。 「その通りだ、どうやら陸軍大臣らしい」 「そうですか! ですが国王の任命がまだないのは異例のことではございませんか」 「そのうち来るだろう」 「公式の発表は今日ではございませんでしたか」 「年を重ねるとともに嫌な奴になって来たな、ラフテ! 形式主義者の厳密主義者め。そうとわかっておれば、アカデミーの入会演説など作らせなかったものを。あれですっかり小難しい人間になってしまいおった」 「ですが閣下、私どもは政府の人間なのですから、型通りに参りましょう……奇妙でございませんか」 「何のことだ?」 「ド・ラ・ヴォードレー伯爵が道でお話し下さったのですが、内閣はまだ発表されていないそうです」  リシュリューは微笑んだ。 「ラ・ヴォードレーは正しい。するとお前はもう外に出たのだな?」 「仕方ございません。馬車の音があまりにうるさくて目が覚めてしまいましたから、服を着て軍事勲章を着けて、町に出かけて参りました」 「ほう! わしを笑いものにしようというわけか?」 「閣下、とんでもございません! つまり……」 「つまり……何だ?」 「そのまま歩いていると、人に出会ったのです」 「誰だろう?」 「アベ・テレーの秘書でございます」 「ほう?」 「それが、陸軍大臣には自分の主人が任命されたと申しておりました」 「そうか、そうか!」リシュリューは微笑みを絶やずにいた。 「どうお考えになりますか?」 「テレー氏が陸軍大臣だとすると、わしはそうではない。テレー氏でなければ、わしが大臣だ、ということだろう」  ラフテは自分の感覚に則って行動していた。大胆で疲れも満足も知らず、主人に劣らず頭が切れたし、主人にも増して守りが堅かった。それというのも平民であり雇い人であることを自覚していたからであり、鎧に空いたその二つの穴のおかげで四十年に渡って権謀術数、知力、機智を鍛え上げて来られたのである。そこでリシュリューが微塵も疑っていないのを見て、もはや何一つ恐れることはないと感じた。 「閣下、お急ぎ下さい、あまり待たせてはなりません。そういうことがつまずきになるのございます」 「準備は出来ておる。だが改めて、誰がいるのだね?」 「名簿をご覧下さい」  ラフテは長い名簿を手渡した。リシュリューはそこに第一級の貴族、僧侶、財政家の名前があるのを見て、ほくそ笑んだ。 「人気者になれればよいがな、ラフテよ?」 「私どもがいるのは奇跡の時代でございます」 「おや、タヴェルネがいる!」名簿を読み続けていた元帥が声をあげた。「ここに何をしに来たのであろう?」 「私にはわかりかねます、元帥閣下。どうかお出でになって下さい」  ほとんど強制的に、ラフテはリシュリューを大応接室に連れ出した。  リシュリューはさぞや満足だったに違いない。元帥が受けた歓迎は、野心を持った親王をも満足させるほどのものだった。  だがこの時代と社会に特有の極めて複雑で隙のない巧妙な作法の前では、生憎と偶然は当てに出来ない。リシュリューは濃い煙に巻かれるばかりであった。  作法と敬意に則り、礼儀として、リシュリューの前では内閣という言葉を口にする者はいなかった。大胆な者たちもお世辞の言葉を口にするところでやめてしまい、それも口の端に滑らせるだけなので、リシュリューはほとんど返事もすることが出来なかった。  人々にとって今回の夜明けの訪問は、例えばお祝いの挨拶のような、日常茶飯事に過ぎなかった。  人々の間で共通の理解となっているこうしたとらえどころのない機微は、この時代には珍しいことではない。  廷臣たちは会話の端々で願いや希望や約束などを表現しようと努めていた。  ヴェルサイユにもっと近づきたいと願っている人がいたとする。リシュリュー氏のような評判の高い人物とその話をすることで喜びを得る。  ショワズール氏が昇進させてくれるのを三度も忘れたと言い張る人がいたとする。リシュリュー氏の記憶に頼り、国王の記憶を醒ましてもらうことで、もはや国王の善意を邪魔するものは何もなくなる。  このように、幾百もの望みに飢えているにもかかわらず、そのどれもが巧妙に隠され、元帥の耳にもたらされ喜ばせることになる。  人が徐々に減って行った。元帥閣下が重要な仕事に取りかかってくれるのを願いながら。  一人だけ応接室に残っている人物がいた。  ほかの人々のように近づきもせず、そこに留まったまま、名乗りさえしなかった。  人波が晴れると、その人物が口元に笑みを浮かべて公爵に近づいた。 「おお、ド・タヴェルネ殿! 息災、息災!」 「お祝いを申したくて待っておりました。正真正銘、心からのお祝いです」 「そうでしたか! それで、いったい何のお祝いですか?」タヴェルネの控えめな態度を見て、リシュリューも慎重な謎めかした態度を取る必要を感じた。 「何をまた。このたびのご栄達のお祝いに決まっておりましょう」 「どうかお静かに。その話はよしましょう……まだ決まったわけではなく、噂に過ぎません」 「どうですか。みんなわしの意見に賛成すると思いますぞ。応接室が人で埋まっていたではないですか」 「それが本当に理由がわからぬのです」 「わしは知っておりますよ」 「何ですか? 教えて下され」 「わしの一言です」 「というと?」 「昨日トリアノンで、わしは国王に拝謁する名誉をいただきました。陛下はわしの子供たちの話をされた後で、こう仰いました。『そなたはリシュリュー氏の知り合いであったな。祝いの言葉を贈ってやるがよい』」 「陛下がそう仰ったと?」リシュリューは有頂天になった。そのお言葉こそ、ラフテが危惧を抱き遅れを嘆いていた任命状にほかならないような気分だった。 「そんなわけで、わしは真実の見当をつけました」タヴェルネが話を続けた。「ヴェルサイユ中が忙しくしているのを見れば、難しいことではありませんからな。そこで陛下のお言葉に従い、祝いの言葉を申し上げに駆けつけた次第です。個人的な感情に従い、昔の友情に駆られてやって来た次第です」  リシュリュー公爵はすっかりその気になっていた。これは如何に気高い心の持ち主であっても免れ得ない生まれついての疵というものである。タヴェルネのことを、寵愛の列に遅れた底辺の請願者くらいにしか考えなかった。庇護するのも無駄なこと、ましてや知り合いであっても何の役にも立たない哀れな人間に過ぎない。二十年も経ってから、闇から這い出て他人の繁栄で暖を取りにやって来たのを非難される人間に過ぎない。 「ちゃんとわかっておる」リシュリュー元帥は鹿爪らしく答えた。「頼みたいことがあるのだろう」 「おお! その通り」 「ああ!」リシュリューは長椅子に坐り込んだ。いや、正確には倒れ込んだ。 「子供が二人いると言うたが――」タヴェルネ男爵は巧みに話を続けた。旧友が冷淡なことに気づき、もっと進んで核心に入らなければならないと感じたのだ。「とても可愛がっておる娘がおる。身も心も美しいお手本のような子でしてな。王太子妃殿下が特別にお目をかけて下さったゆえ、今は妃殿下のところに仕えております。娘のアンドレの話ではないのです。あの子の道は開けた。運命は波に乗っておる。娘にお会いになったことはありましたかな? これまで何処かでご紹介したり、お聞かせしたりしたことがあったでしょうか?」 「ふう……知らぬ」リシュリューは素っ気なかった。「多分な」 「構いません。とにかく娘はお仕えしております。わしには何も欲しいものはない。国王はわしに暮らしていけるだけの年金を賜りました。隠居するならメゾン=ルージュというのが何よりの望みだったが、実のところ、メゾン=ルージュを再建できるだけの小金も手に入ると睨んでおりましてな。閣下の信用と、わしの娘の信用があれば……」 (待て待て!)リシュリューが呟いた。自分自身の重大事を考えるのに精一杯で、途中までしか聞いてはいなかったのだが、「わしの娘の信用」という言葉を聞いてやにわに我に返った。(娘御か……美しい娘ならあの伯爵夫人が嫉妬するぞ。さしずめ懐中の蠍。それを王太子妃が翼で温めているのなら、リュシエンヌの人間を刺すためだ……まあよい、つれない態度は取るまい。お礼は伯爵夫人がしてくれる。わしを大臣にしてくれたのだ、欲しい時に欲しいものが欠けているかどうか確かめてくれるだろう)。それから声を出して「続きを頼む」と、ぶっきらぼうにド・タヴェルネ男爵を促した。 「なんの、もうすぐ終わる」元帥から内心で笑われてもよしとしていた。望みのものを手に入れられさえすればよい。「だからフィリップのことも心配しておりません。立派な名前を持っているのだから。ただしその名前を磨く機会がとんとありはせん。誰かが手を貸してくれなければ……フィリップは勇敢で思慮深い人間ですぞ、やや思慮深すぎるくらいだ。だがそれも貧しい境遇の為せる業。急に手綱を引かれた馬が頭を下げるようなものです」 「わしはどうすればよいのですかな?」元帥は目に見えてうんざりしている素振りを見せた。 「是非とも必要なのです」タヴェルネ男爵は斟酌しなかった。「フィリップに中隊を持たせてやるには、閣下のような高い地位の方が……王太子妃殿下がストラスブールに入国した際、大尉に任命して下さいました。確かにその通りではあるのですが、恵まれた騎兵連隊の中から立派な中隊を手に入れるには、後十万リーヴルだけ足りぬ……どうにかしてはもらえまいか」 「ご子息というのは、王太子妃殿下のためにご尽力した若者では?」 「大変な働きでした! 妃殿下のために替え馬を取り返したのです。デュ・バリーが奪おうとしていたところでした」 (そうか!)リシュリューが独り言ちた。(好都合ではないか……伯爵夫人の敵にはもっと手強い者たちがいることを考えれば……このタヴェルネこそぴったりだ! この男なら軍隊の肩書きのために、はっきりとした除け者の肩書きをつかんでくれるだろう……) 「お返事は?」元帥が沈黙を守っているのを見て、タヴェルネ男爵が苛立ち始めた。 「無理なことばかりです、タヴェルネ殿」話は終わりだという合図に立ち上がった。 「無理ですと? そんな殺生な、それが古くからの友人の言うことですか?」 「どうしろと?……友人同士だからといって、うん……不当や不正を働いたり、みだりに友情を持ち出していい理由にはならぬでしょうに。二十年も会いに来なかったのはわしが無役だったからで、会いに来るのは大臣になった途端ですか」 「リシュリュー殿、不当なのはあなたの方だ」 「ちょっ、ちょっ、控えの間に引きずり出したくはありません。かけがえのない友なのですから……」 「せめて理由を。断る理由でもあるのですか?」 「理由?」タヴェルネ男爵が疑いを抱いたのかと、リシュリューは肝を冷やした。「理由ですと?」 「さよう、わしには敵がおりますから……」  リシュリュー公爵にはそれに答えることも出来たが、そんなことをすればデュ・バリー夫人に感謝するつもりで献身していたのがばれてしまうし、寵姫のおかげで大臣になったと打ち明けるようなものだ。打ち明けたりすれば権威が失われてしまう。そこで慌てて言い繕った。 「貴殿には敵などおるまい。敵がおるのはわしの方だ。何の審査もなくこんな縁故で直ちに肩書きを許してしまっては、ショワズールを後追いしていると人から言われる口実を作るだけだ。わしなりのやり方で問題に筋道をつけたいのだ。二十年来、改革と進歩を懐で温めておった。それがとうとう孵化するのだ! 贔屓はフランスを駄目にする。わしは才能を重視するつもりだ。哲学者たちの著作こそ松明だ。その光が必ずやわしの目を明るく開かせてくれるだろう。過去というあらゆる闇は晴れた。国の幸せのためにはいい機会だった……そういうわけだからご子息の役職については吟味させてもらいたい。初めて市民の肩書きが生まれた時とはそういうものだった。己の信念に殉じるつもりだ。ひどい出血も伴うだろうが、三十万人のためを思えばたかが一人の人間の苦しみに過ぎぬ。ご子息フィリップ・ド・タヴェルネ殿が贔屓に値する人間であるのなら、父親にコネがあるからでもなく、家名のおかげでもなく、才能のある人間だからということになるだろう。わしはそんな風に仕事をするつもりだ」 「まるで哲学者の演説ですな」老男爵は怒りのあまり爪を噛んだ。この会談にどれだけ譲歩し、幾分なりとも怯えていたか、その重圧を思うと忌々しさに拍車が掛かった。 「哲学者、結構。よい言葉です」 「幸運を撒き散らす人間、ですかな?」 「こまった嘆願者ですな」リシュリューは冷ややかな笑みを浮かべた。 「わしのような身分の人間は、国王にしか嘆願しませぬぞ!」 「あなたのような身分の人間でしたら、秘書のラフテが控えの間で一日に千人くらい見ていますぞ」リシュリューが答えた。「礼儀もわきまえぬような何処とも知らぬ片田舎から、調子を合わせているだけのかりそめの友人たちと出て来ております」 「わしはメゾン=ルージュのことしか知りませんからな。十字軍以来の貴族です。調子の合わせ方ならヴィニュローのヴァイオリン弾きの方が知っておりましょう!」  頭の回転なら元帥の方が上だった。  窓越しに男爵を放り出すことも出来たが、肩をすくめて答えるに留めた。 「十字軍とは時代遅れだ。一七二〇年の高等法院で為された侮辱に関する陳情止まりで、それに答えた貴族の陳情を読んだこともないのでしょうな。図書室に行ってラフテに読ませてもらいなさい」  こうして巧みに言い返して男爵をへこましたところで、扉を開けてどたどたと入って来た人物がいる。 「公爵閣下はおいでですか?」  喜びで目を見開き、歓迎するように腕を輪にしているこの顔を紅潮させた人物こそ、ほかでもないジャン・デュ・バリーだった。  新たな局面が訪れたのを見て、タヴェルネ男爵は驚いたり悔しがったりしながらも引き下がった。  ジャンはその動きを捉え、顔に見覚えがあったので振り返った。 「わかっております」男爵はおとなしく伝えた。「わしは失礼いたしましょう。大臣閣下と立派なご友人をお二人にして差し上げます」  そう言って極めて堂々と立ち去った。 第九十章 魔法が解ける  ジャンはこの挑発的な暇乞いにかっとなり、男爵を追いかけ出しかけたが、肩をすくめて元帥に向き直った。 「ご自宅に招いたのですか?」 「外れだ。追い払ったのだ」 「何者かご存じなのですか?」 「まあ、そうだな……」 「もしやよくご存じですか?」 「あれはタヴェルネだ」 「国王の寝床に娘を送り込もうとしている御仁だ……」 「これこれ!」 「俺たちの地位を奪おうとしている御仁。そのためには何をしようと厭わない御仁……だがジャンが居合わせた、ジャンにはお見通しだ」 「まさか本気でそんなことを……?」 「想像できないでしょうね? 王太子派で……それに殺し屋がいる……」 「ほう」 「人の足を咬むのに長けた若者、ジャンの肩に剣をお見舞いした決闘好き……この哀れなジャンめの肩に、です」 「貴殿に? それは個人的な問題ではありませんかな?」リシュリューは驚いてみせた。 「まあそうですね! 替え馬事件の相手ですよ、ご存じでしょう?」 「ああ、しかし申し訳ないことにそのことは知らなかったが、頼みにはすべて断りを入れた。知っていたなら追い立てるのではなく追い払ったのだがな……とにかく落ち着きなさい。今やそのご立派な決闘好きもわしの掌中だ。向こうもそれに気づくだろうて」 「そうですね、あなたなら往来で人を襲う趣味をやめさせることも出来るでしょう……いやそれはそうと、まだお祝いを申し上げていませんでしたね」 「それがそうなのだ、すっかり済んだようだ」 「すべて済んだんですね……お祝いに抱擁しても構いませんか?」 「無論だとも」 「結局、障害はあったが、成功の前には障害など無に等しい。満足しているでしょうね?」 「ずばりお話ししても構わぬかな?……というのも、役に立てそうだと思うておってな」 「間違いありません……ただし大きな一撃だ……不平が渦巻くでしょうね」 「わしは民衆から愛されてないと?」 「あなたが?……いやあなたには好感も反感もないでしょう……憎まれているのはあの人ですよ」 「あの人……?」リシュリューは首をひねった。「あの人とは……?」 「いいですか、高等法院が反対しようとしているのは、ルイ十四世がふるっていた鞭が再来することなんですよ。さんざ鞭打たれてますからね!」 「詳しく聞かせてくれぬか……」 「詳しく話すまでもない。高等法院が憎んでいるのは、迫害を引き起こした張本人です」 「貴殿が考えているのは……」 「確信していますよ、フランス中が確信していることだ……何にしたところで、あなたは見事にやってのけましたよ。こんな風に火中にあの人を送り込むなんてね」 「あの人とは?……いったい誰のことを? 気になって仕方がない。言っていることがさっぱりわかりませんぞ」 「甥御さんのデギヨン氏のことですよ」 「ふむ、つまり?」 「つまり、あの人を呼んだのは見事なお手並みだと言っているんです」 「ああ、結構! 結構!……あれがわしの助けになるだろうと?」 「俺たちみんなの助けになりそうです……ジャネットと上手くやっているのはご存じですか?」 「何と! まことかな?」 「すっかり打ち解けてお互いのことをわかり合ってますよ」 「そこまでわかるのかね?」 「簡単なことです。ジャネットがぐっすり寝込んでいますからね」 「ああ、なるほど……」 「九時になっても、十時や十一時になっても寝床から出て来そうにない」 「うむ。それで……」 「それで、今朝リュシエンヌで、六時頃デギヨンの輿が出ていくのが見えました」 「六時?」リシュリューはにんまりした。 「ええ」 「今朝早くに?」 「今朝早くに。謁見を許すには随分と早い時間だ。ジャネットが甥御さんに夢中だと考えていいんじゃないですか」 「いや、その通り」リシュリューは手を擦り合わせた。「六時か、ブラーヴォ、デギヨン!」 「会談は五時に始まったに違いない……夜中ですよ! たいしたもんだ……!」 「たいしたものだ……!」元帥も繰り返した。「まさしく奇跡ですぞ!」 「あなたがた三人はさしずめオレステスとピュラデスだな、そしてもう一人ピュラデスが」  ここで元帥がさらに嬉しそうに手を擦り合わせたところで、デギヨンが応接室に入って来た。  デギヨンはリシュリューに向かって「お気の毒に」というような挨拶をした。それだけで真実を悟るには充分だった。少なくともその要点を見抜くには充分であった。  リシュリュー元帥は致命傷でも受けたように真っ青になった。宮廷には友人も親戚もいないこと、宮廷では一人一人が自分の立場を守っていることを、瞬時に理解したのだ。 「わしは大馬鹿ものじゃった……さて、デギヨン?」苦しげに大きな溜息をついた。 「何でしょう、元帥閣下?」 「高等法院には大打撃だということだ」リシュリューはジャンの言葉を丸々繰り返した。  デギヨンが顔を赤らめた。 「ご存じでしたか?」 「子爵殿がすっかり教えてくれた。今朝お前が陽の昇る前にリュシエンヌを訪問したことも。お前が任命されたのは一族の誇りだ」 「本当に慚愧に耐えません」 「何の話です?」ジャンが腕組みをしてたずねた。 「お互いの話を知っておこう」リシュリューが口を挟んだ。「話を聞かせてくれ」 「それは構いませんが。私にはわかりません……残念ですが……何しろ……すぐに大臣だと認められるわけではないのです。ええ、ええ……」 「ああ、空白期間があるということか」元帥は胸の奥に希望が舞い戻るのを感じた。希望こそは野心家や愛人にとって永遠の賓客である。 「空白期間、そうなんです」 「だがそれまでの間もそれなりに報われているはずだ……ヴェルサイユの指揮権が与えられてるんだから」ジャンがずばりと言った。 「何と!」リシュリューが新たな矢に刺し貫かれた。「指揮権があるのか」 「デュ・バリー氏は大げさに仰っているのでしょう」デギヨンが答えた。 「それにしても、いったい何処の指揮権を?」 「国王近衛軽騎兵隊です」  リシュリューのしなびた頬から再び血の気が引くのがわかった。 「ああ、そうか」如何とも言い難い微笑みを浮かべると、「立派な人物にはどうということでもあるまい。だがな、絶世の美女であっても、持っているものしか与えることは出来ぬのだぞ。それが国王の愛人だったとしてもだ」  今度はデギヨンが青ざめる番だった。  ジャンは元帥の部屋にあるムリーリョの絵を眺めていた。  リシュリューが甥の肩を叩いて言った。 「次の昇進が約束されているのは結構なことではないか。お祝いを言おう……心からのお祝いだ。運が良かっただけではない。如才ない交渉術の賜物だ……ではこれで。仕事があるのでな。おこぼれを忘れんでくれよ、大臣殿」  デギヨンは一言だけ答えた。 「あなたは私で、私はあなたです、元帥閣下」  デギヨンは伯父にお辞儀をして立ち去った。生まれながらの威厳も失わず、これほど難題が山積みの難しい立場にぶつかったことはないということも自覚していた。 「いいところがある」デギヨンが立ち去ると、リシュリューはいそいそとジャンに話しかけた。ジャンは甥と伯父の慇懃な応酬をどう捉えればいいのかよくわからずにいた。「デギヨンには素晴らしいところがある。無邪気なところだ。頭が切れて、人がいい。宮廷を知りつくしているくせに、おぼこ娘のようにお人好しだ」 「愛されているんですね」 「子羊のようにの」 「いやまったく。もしかするとご子息のド・フロンサック氏よりも……」 「いやその通りだ……その通りですな」  リシュリューはすべて引っくるめてそう答えてから、肘掛け椅子の周りをどたどたと歩き回った。求めていたものが見つからなかったのだ。 「ああ、伯爵夫人! いつか必ずこの借りは……!」 「元帥閣下」ジャンがさり気なく割って入った。「古代ローマの束桿の団結を俺たち四人で甦らせようじゃありませんか。その結束が破られることのなかったのはご存じでしょう」 「わしら四人? ジャン殿、それをいったいどうお考えかな?」 「支配の妹、強権のデギヨン、顧問のあなた、監視の俺」 「お見事、お見事!」 「そうなればきっと妹に手を出しに来る! 男だろうと女だろうと戦う覚悟は出来ているぞ!」 「そいつは凄い!」リシュリューは頭に血が上っていた。 「いつでもかかって来るがいい!」ジャンは勝ち誇り、自分の考えにすっかり酔いしれていた。 「おお!」リシュリューが額を叩いた。 「どうしました? 何かありましたか?」 「何でもない。貴殿の考えたのは素晴らしい同盟だと思ったまで」 「そうでしょう?」 「わしは手も足も貴殿の話に乗っかりますぞ」 「ブラーヴォ!」 「タヴェルネは娘さんと一緒にトリアノンに住んでいるのかな?」 「いえ、パリにいます」 「あの娘は随分と美しいな」 「クレオパトラのように美しかろうと、或いは……妹のように美しかろうと、もう怖いものなんてありませんよ……俺たちが手を結んだんですから」 「タヴェルネはパリにいると申したな、もしやサン=トノレ街ではないか?」 「サン=トノレ街ではなく、コック=エロン街です。もしかすると、タヴェルネをやっつけられるような妙案でもあるんですか?」 「そう思っておる。一つ考えていることがあるのだ」 「さすがは比類なき才人だ。俺はもうそろそろ行きますよ。町でどんな噂が流れているのか確かめて来ます」 「では健闘を祈る、子爵……ところで、新しい大臣の話が出なかったが?」 「ああ、渡り鳥ですよ。テレー、ベルタン、ほかは知らない人でした……要するにデギヨンの代役ですよ、真の大臣は先延ばしです」  ――恐らくは永遠に。元帥はそう思いながら、別れの印にジャンに愛想よく笑いかけた。  ジャンが立ち去り、ラフテが戻って来た。すべてを耳にしていたので、何を為すべきかも心得ていた。懸念が現実のものとなってしまったのだ。主人のことならよくわかっていたので、一言も話しかけなかった。  部屋付きの従者も呼ばずに自分で服を脱がし、寝床に連れてゆくと、老元帥はたちまち眠りに就いた。熱でがたがたと震えていたので寝る前に薬を飲ませておいた。  ラフテはカーテンを閉めて退出した。控えの間では従者たちが熱心に聞き耳を立てている。ラフテは第一従者の腕をつかんだ。 「元帥閣下を看護なさい。寝込んでいます。今朝は不愉快なことがあったのだ。国王に背いたに違いない……」 「国王に背く?」従者はぎょっとしてたずねた。 「陛下は閣下に大臣就任を打診なさった。元帥閣下はそれがデュ・バリーの口利きによるものだとわかっていたので、お断りになったのだ! 立派なことではないか。パリっ子は閣下のために凱旋門を作るべきだ。だが衝撃が大きかったために、閣下は臥せってしまわれた。鄭重に看護なさい」  この言葉が何処まで広がるかまでラフテは読んでいた。言いたいことを伝え終わるとラフテは部屋に戻った。  十五分後、元帥の気高い振る舞いと献身的な愛国心はヴェルサイユ中に知れ渡っていた。秘書が作り上げた人気に抱かれて、元帥はぐっすりと眠っていた。 第九十一章 王太子殿下の小膳式  同日、ド・タヴェルネ嬢は三時に自室を出て王太子妃の部屋に向かった。正餐の前に朗読をするのが習わしだった。  初め妃殿下の朗読係だった司祭はお役御免になっていた。今では高度な政治的駆け引きに携わり、しばらく前から外交問題にその政治能力を遺憾なく発揮している。  そういうわけでタヴェルネ嬢は念入りに着飾って持ち場に向かった。トリアノンにいる人々の例に洩れず、困ったことに不意に引っ越しを命じられたので、何の準備もなかったし、食器もなく、家具も入れていなかった。仕方がないのでド・ノアイユ夫人の小間使いに着替えを手伝ってもらった。この貴婦人はその厳しさから、王太子妃にエチケット夫人と呼ばれている。  アンドレは雀蜂のように腰を絞り、そこからふわりと広がっている青い絹のドレスを身につけていた。前が大きく開いているので、そこから三重の丸襞飾りの刺繍されたモスリンの下着が見えている。短い袖にも花綵模様で重ねられたモスリンの刺繍が施されていて、それが肩まで続いている。肩掛けには田園風の刺繍が施され、アンドレの首筋を控えめに覆っていた。美しい髪はドレスと同じ青いリボンで結い上げているだけだった。頬をかすめて首や肩に落ちかかっているふっさりとした巻き毛は、当時用いられていた羽根や冠毛やレースなど及びもつかぬほど、頬紅などつけたことのない艶もなく澄み切った誇り高く慎ましやかな相貌を引き立てていた。  アンドレは歩きながら、見たこともないほどほっそりと整った指を白い絹手袋に滑り込ませた。すべすべとした青繻子で編まれたミュールのヒールの先が、庭の砂に跡を残した。  トリアノンの館まで来ると、建築家と庭師と一緒に歩き回っていた王太子妃の姿を見つけた。一方、階上からは王太子がお気に入りの箱につける安全錠を作るために旋盤を動かしている音が聞こえていた。  アンドレは王太子妃のところに向かおうと花壇を渡った。夜には丁寧に蓋をかぶされていた季節を先取りした花々が、弱々しい顔を上げて、花よりも弱々しい陽射しを浴びようとしていた。既に日暮れが近づいていた。この季節には六時には日が落ちてしまうので、庭師の弟子たちが寒がりの植物にガラス容器をかぶせるのに忙しくしていた。  熊垂《クマシデ》とベンガル薔薇で縁取られた並木道を曲がったところ、ちょうど芝生との境目の辺りで、アンドレは不意に庭師の一人に気づいた。その庭師はアンドレを見て鋤から身体を起こし、到底庶民とは思えぬような極めて洗練された挨拶を寄こした。  アンドレはその庭師を見て、ジルベールだと気づいた。こんな仕事をしているにもかかわらずその手は白いままで、それを見ればド・タヴェルネ氏もがっかりしたことだろう。  アンドレは思わず赤面した。ここにジルベールがいることが運命の不思議な悪戯に思えたのだ。  ジルベールがさらに挨拶を寄こすので、アンドレは挨拶を返してそのまま歩き続けた。  だがアンドレはあまりにも公明正大で勇敢すぎた。心の動きに抗うことは出来なかったし、気がかりな疑問をそのままにしておくことも出来なかった。  アンドレが引き返すと、真っ青になって暗い目つきで後を追っていたジルベールが、途端に生き返って飛んで来た。 「ここにいらしたの、ジルベール?」アンドレは冷たい声を出した。 「そうなんです、お嬢様」 「どうした偶然かしら?」 「お嬢様、人はしっかりと生きねばなりませんし、それも正直に生きねばなりません」 「運がいいってことはわかってるの?」 「大変です、お嬢様」 「何ですって?」 「お嬢様がお考えのように、大変に運がいいと言ったんです」 「誰に入れてもらったのかしら?」 「ド・ジュシューさんに。お世話になっているんです」 「何ですって! ジュシューさんと知り合いなの?」アンドレが声をあげた。 「最初にお世話になった方の友人だったんです。僕の主人のルソーさんのことですが」 「せいぜい頑張って頂戴!」アンドレは立ち去ろうとした。 「大分よくなったようですね……?」ジルベールの声は震えていた。胸の震えが声にまで伝わって消え入りそうになっているのが見抜かれてしまいそうだ。 「大分よく? どういうこと?」アンドレの声は冷たかった。 「でも……事故のことは……?」 「ああ、そうね……ありがとう、ジルベール。大分よくなったわ。もう大丈夫」 「よかった! 死にそうだったのに」ジルベールは激しく昂奮していた。「ひどく危険な状態だったんですから」  頃合いね、とアンドレは感じた。王家の庭で働いているこの庭師との話をここらで切り上げるべきだ。 「それじゃあね、ジルベール」 「薔薇をお受け取り下さいませんか?」ジルベールはぶるぶると震えて汗まみれだった。 「くれると言ったって、あなたのものでもないのに」  ジルベールは唖然として何も言い返せなかった。ジルベールがうなだれるのを見て、アンドレは優越感の入り混じった喜びを感じていた。やがてジルベールが顔を上げ、一番立派な薔薇の木から枝ごと花ををもぎ取り、落ち着き払って堂々と花びらを毟り出したのを見て、アンドレの気が咎めた。  アンドレはあまりに公正で善良であるがゆえに、田舎者が礼儀作法を破ったことを咎め立てて理由《わけ》もなく傷つけたことにも気づかずにはいられなかった。誇り高い人間が、自分が間違いを犯してしまったことに気づいたならどうするか。言い訳や謝罪が口元まで出かかったものの、それ以上は何も言わずに元のように歩き続けたのである。  一言も発しないのはジルベールも同じだった。薔薇の枝を捨てて鋤を手にしたものの、自尊心が高いうえに腹黒いところのある人間だ。身を屈めて作業に取りかかったのは確かだが、そうしながらもアンドレが歩いてゆくのを目で追い続けた。並木道の外れまで行くと、とうとうアンドレが振り返った。アンドレは女であった。  ジルベールは女の弱さにほくそ笑み、この戦いに勝利したことを胸に呟いた。  ――アンドレは僕ほど強くない。僕なら勝てる。今は美しさや家名や財産がますます大きくなることに思い上がり、僕が愛していることに気づいて傲慢な態度を取っていても、見とれて震えている庭師に好意を抱かざるを得ないんだ。糞ッ! 震えるなんて男らしくないじゃないか。畜生、アンドレといると臆病になってしまう、いつか見返してやるぞ! だが今日のところはやるべきことも出来たし、敵を圧倒することも出来た……もっと弱くてもおかしくなかったんだ、僕には愛しているという弱みがあるんだからな。それが思っていたより何倍も強くいられた。  暴れ出す喜びを抑え切れぬままにこの言葉を繰り返し、ぷるぷると震える手を智的な額に当てて黒髪をかき上げると、力一杯に鋤を花壇に打ち込んだ。糸杉や櫟の垣根を飛び越える子山羊のように、花にかぶせた容器の列を、風のように軽やかに飛び越えた。恐ろしい速さで走りながら何にもぶつかることなく斜めに突っ切ると、道なりに歩いていたアンドレが曲がるだろうと思われる地点で待ち受けることにした。  案の定、アンドレが歩いているのが目に飛び込んで来た。物思いに沈んでいるというよりはしょげているようにして美しい目を伏せ、汗ばんだ手をそれとわからぬほど揺らしているためドレスが震えていた。鬱蒼とした熊垂《クマシデ》の後ろに隠れていると、独り言でも呟いているように溜息を二度つくのが聞こえた。ついにアンドレが木立のすぐそばを通り過ぎたので、ジルベールは手を伸ばして触れることも出来そうだった。おかしな熱に浮かされて、今にも実行してしまいそうになる。  だがジルベールは憎しみにも似た思いに突き動かされて眉間に皺を寄せ、胸に握り拳を押しつけた。  ――また臆病風に吹かれたのか!  それから小さく声に出し、 「綺麗なんだから仕方ない!」  しばらくはそのまま見つめていられるはずだった。並木道は長く、アンドレの歩みはちょこちょこと緩やかだったからだ。ところがこの並木道には脇道があり、誰かがひょっこり姿を現す可能性もあった。そしてジルベールには間の悪いことに、実際に邪魔者が現れたのである。左手にある一本目の脇道、言いかえるならジルベールが隠れていた茂みのほぼ正面から。  この邪魔者はすたすたと規則正しく歩いていた。頭を上げ、帽子を右腕に抱え、左手に剣を持っている。天鵞絨の礼服の上から、黒貂の毛皮で裏張りされた外套を纏い、形の良いふくらはぎと名家の人間らしく盛り上がった足の甲をすっくと動かしている。  すたすたと歩いていたこの殿様、アンドレを目にして心が浮き立ったらしく、近道をして歩みを早め、一直線にアンドレを目指し出した。  ジルベールはその姿を見て思わず小さく声をあげ、漆の陰で怯えた鶫《ツグミ》のように逃げ出した。  邪魔者の作戦は成功した。いつもやっていることなのだろう、三分前にはかなりの距離があったにもかかわらず、三分も経たずにアンドレに先んじていた。  足音が聞こえたので、アンドレは脇によけて先に通そうとした。通り過ぎしなにアンドレは横を見た。  殿様の方でもアンドレをまじまじと見つめていた。もっとよく見ようと立ち止まりさえして、振り返った。 「お嬢さん、そんなに急いでどちらまで行かれるのですか?」うっとりするような声でたずねた。  その声の響きにアンドレは顔を上げ、三十歩ほど後ろで二人の衛兵がゆっくりと歩いているのを見た。声の主が貂の外套を纏い、青綬を着けているのを見た。この思いがけない出会いと雅やかな呼びかけに、アンドレは真っ青になって震え出した。 「陛下!」深々と身を屈めた。 「お嬢さん……」ルイ十五世が近づいた。「余は目が悪い。お名前をお聞きしても構わぬかな」 「マドモワゼル・ド・タヴェルネと申します」畏まって震えながら、やっと聞こえるほどの声で囁いた。 「ああ、そうだった! トリアノンを歩いているとは運がいい」 「王太子妃殿下がお待ちしているので、これから参るところでございます」アンドレの震えはますますひどくなる。 「それでは連れて行って差し上げよう。余も田舎の隣人として、娘を訪れるところなのだ。腕を取ってくれぬか。何と言っても同じ道を行くのだから」  アンドレは視界に雲がかかり、血が心臓まで逆流するのを感じた。この世の最高君主である国王の手を取るという行為は、田舎娘にとってあまりにも光栄なことであり、信じられないほどの思いがけぬ名誉であり、宮廷中に妬まれるようなはからいであり、まるで夢のように感じられたのだ。  ひどくおっかなびっくりなお辞儀を深々とされては、国王の方でも同じように挨拶せざるを得ない。ルイ十五世がルイ十四世のことを思い出すのは、決まって儀式と礼儀の問題の時だった。もっともそうした礼儀作法のしきたりはさらに昔に遡り、アンリ四世時代のものなのだが。  とにかく国王はアンドレに手を差し出した。アンドレが燃えるようになっている指先を国王の手袋に置くと、二人はトリアノンの館に向かって歩き続けた。王太子妃は建築家と庭師頭と一緒にそこにいると伝えられていたのだ。  ルイ十五世は歩くのが好きではなかったのだが、それがアンドレをプチ・トリアノンに連れて行くために長い道のりを歩いている。後ろからついてくる二人の士官にとっては、これは国王の手落ちであり、うんざりするような行為であった。というのも二人は薄着をしているのに、外は肌寒くなっていたからだ。  どうやら間に合わなかったらしい。いるはずの王太子妃は見つからなかった。マリ=アントワネットは立ち去った後だった。王太子に六時から七時の間に夕食を摂る習慣があったため、待たせるのを嫌ったのだ。  そういうわけで妃殿下は時間通りに到着した。王太子も時間には正確であり、少しでも早く食堂に行こうと、応接室の戸口で待っていた。それを見ると王太子妃はマントを小間使いに手渡し、王太子の腕をにこやかにつかんで食堂まで連れて行った。  食事が二人のために用意されていた。銘々が食卓の真ん中に坐り、上座は空けておかれた。国王が不意に訪れることがあって以来、食卓が招待客で溢れていたとしても、誰も坐らないようにしていたのである。  上座には錠のかけられた国王の食事が大きく場所を取っていたが、王太子は国王を待ったりはせずに食事に取りかかった。  王太子妃の椅子の後ろには――従者が通れるだけの空間があり――低い段上にはド・ノアイユ夫人が背筋を伸ばして険しい顔で腰掛けに坐っている。それでも夕食に際して浮かべるべきにこやかな顔を忘れてはいなかった。  ノアイユ夫人のそばには、王太子夫妻の夕食に臨席する権利を許された貴婦人たちがいる。  週に三度、ノアイユ夫人は王太子夫妻と同じ食卓で夕食を摂っていた。だが摂らない日には夕食に臨席しないようにしていた。これが七日のうち四日席を外されることに対する抵抗手段であった。  王太子妃からエチケット夫人の名を頂戴したノアイユ公爵夫人の正面には、ド・リシュリュー公爵が似たような段上に陣取っている。  公爵も礼儀作法にはうるさい人間だったが、それを目には触れさせずに、たいていはこよなく洗練された態度の下に、ある時にはかすかな嘲笑の下に隠すことにしていた。  これがお部屋付きの第一貴族と王太子妃殿下の第一侍女の違いである。その結果ノアイユ夫人はしょっちゅう会話を途切れさせ、リシュリュー氏はしょっちゅう会話を盛り上げていた。  リシュリュー元帥はヨーロッパ中の宮廷を旅して来たし、その先々で生まれながらの洗練された態度を披露して来たために、見事なまでに如才なく作法に則って、外国の王子と食事を共にしたりデュ・バリー夫人の小膳式に臨席したりした際には、知っているいろいろな逸話を話して聞かせることが出来た。  その晩の王太子妃は食欲旺盛で、王太子も食べるのに忙しいことにリシュリューは気づいた。これでは話をしても気に留められないだろうし、ノアイユ夫人に早々と煉獄のような時を味わわせるだけだろう。  リシュリューが始めた哲学と演劇の話は、古くさい公爵夫人には二重に嫌悪感を抱かせるような話だった。  まずは「フェルネーの哲学者」の最新の哲学的警句を話題にした。その頃には『アンリアード』の著者はそう呼ばれていたのである。公爵夫人が苛立っているのを見て話題を変え、部屋付きの貴族として、王立劇団員のご婦人たちに多少なりとも下手な演技をさせるのに大騒ぎしたことを、一切合切話して聞かせた。  王太子妃は芸術を、とりわけ演劇を愛していた。ロークール嬢が身につけていたクリュタイムネーストラーの衣装が完璧だったことには気づいていたので、リシュリュー氏の話を聞き流すどころか大喜びで耳を傾けた。  哀れな侍女は不作法も顧みず段上で身体を揺らし、音を立てて鼻をかみ、髪粉が撒き散らされるのも気にせずご立派な頭を振った。そのたびにモン・ブランの山頂を覆っている雪が北風に吹かれるように、頭を覆っている髪粉が舞った。  だが王太子妃を面白がらせるだけでは完璧とは言えず、王太子のことも喜ばせなくてはならない。そこでリシュリューは演劇の話題を引っ込めた。フランス王位継承者は演劇にはまるで興味を示さなかったので、人間哲学について話をすることにした。イギリス人についてなら、ルソーがエドワード・ボムストンという人物に鮮やかに投影したような情熱を持っていたからだ。  一方のノアイユ夫人は哲学者と同じくらいイギリス人が嫌いだった。  新しい思想などうんざりだ。うんざりすれば自分らしくしていることが難しくなる。冷静沈着を自任するノアイユ夫人も、仮面に吠えかかる犬のように新しい思想には悲鳴をあげていた。  リシュリューがこうした役を演じるのには二つの目的があった。一つにはエチケット夫人を苦しめて王太子妃を喜ばせること、また一つには几帳面なことが好きな王太子が道徳的な金言や数学の公式を嬉しそうに拾い集めるのを、至るところで見つけることであった。  要するに見事にご機嫌を取っていたのである。その間もそこにいるはずだがいない人物を目の隅で探し回っていた。その時、階段のふもとであがった声が、よく響く穹窿にまで届いた。やがて踊り場で別の声が、そしてまた階段で別の声がその言葉を繰り返した。 「国王陛下です!」  この魔法の言葉に、ノアイユ夫人は椅子から突き出したバネのように立ち上がった。リシュリューは普段通りにゆっくりと腰を上げた。王太子は慌てて口を拭い、席を立って顔を戸口に向けた。  王太子妃は階段に向かった。出来るだけ早く国王を我が家に迎えるという栄誉に浴すために。 第九十二章 王妃の髪  国王はド・タヴェルネ嬢に腕をつかまれたまま踊り場におなりになった。そこですぐに時間をかけて慇懃に挨拶をしたので、リシュリューにもそれを観察するだけの時間があった。その気品には惚れ惚れするほどで、お声を掛けられた幸運なご婦人は何者なのかといぶかった。  それがわかるのにも長くはかからなかった。ルイ十五世は王太子妃の腕を取った。王太子妃はすべて目にして、アンドレにもとうに気づいていた。 「簡単な夕食をお願いしに来たのだがね、庭を渡っている途中でタヴェルネ嬢にお会いしたのだ。そこでご一緒させてもらった」 「タヴェルネ嬢だと!」リシュリューはこの不意打ちに呆気に取られて呟いた。「いやはや、運がいいことだわい!」 「遅れたからといってアンドレ嬢を叱ったりはいたしませんし、むしろ陛下を連れて来て下さったことに感謝したいくらいですわ」王太子妃が淑やかに返答した。  アンドレは花の真ん中に飾られたさくらんぼのように真っ赤になって、何も言えずにうつむいてしまった。  ――とにもかくにも確かに美しい娘だ。リシュリューは内心で呟いた。――ド・タヴェルネのあんぽんたんが言ったことは、あながち大げさでもなかったのだな。  国王は王太子の挨拶に応じてから、既に席に着いていた。曾祖父から受け継いだ食欲のままに、王太子夫妻が魔法のように瞬く間に用意させた料理に手をつけた。  だがそうして食事を続けながらも、戸口に背中を向けたまま、何かを、否、誰かを探しているようだった。  なるほどタヴェルネ嬢は如何なる特権にも浴していなかったし、王太子妃のおそば仕えに決まっている訳でもなかったので、国王の挨拶に深々とお辞儀して答えた後は、食堂には入らずに王太子妃の寝室に退っていたのである。これまでにも何度か、床に入った後で朗読させていたことがあったのだ。  国王の目が探しているのが美しい同行者であることに、王太子妃は気づいた。 「ド・コワニー殿」王太子妃殿は、国王の後ろに控えていた若い衛兵に声をかけた。「タヴェルネ嬢をここに呼んで来て下さい。ド・ノアイユ夫人がお許し下さいますから。今夜は無礼講で参りましょう」  コワニー氏が立ち去り、すぐにアンドレが連れて来られた。なぜ特別なはからいがされたのかまったく理解できずに、アンドレはぶるぶると震えながら入って来た。 「そこにお坐りなさいな、公爵夫人の隣です」  アンドレはおずおずと段上に上った。混乱のあまり、侍女である公爵夫人から一ピエしかないところに坐るという思い切った行動に出た。  当然のように侍女から恐ろしい目で睨まれて、ライデン瓶で触れられたように、少なくとも四ピエは後じさった。  ルイ十五世がそれを見てにこやかな笑みを浮かべた。  ――ははあ、そうか。とリシュリュー公爵は考えた。わしが首を突っ込むまでもない、すべてはひとりでに進んでおるのか。  だから国王が振り返って元帥の目を見たときには、その眼差しを受け止める準備は出来ていた。 「ご機嫌よう、元帥閣下。ノアイユ公爵夫人とは上手くやっておるかね?」 「いつ会っても公爵夫人には不調法者扱いされてしまいます」 「シャントルーの路上でもそうだったのではないか?」 「わしが? とんでもない。陛下が我が家にお示し下さったご厚意を喜ぶあまりに、それどころでは」  これは国王には不意打ちだった。人を皮肉る用意は出来ていたが、皮肉られるとは考えていなかった。 「余が何をしたというのかな?」 「陛下はデギヨン公爵に近衛軽騎兵聯隊の指揮権をお与えになりました」 「ああ、そうだったな」 「そのためには陛下のお力と手腕が必要だったはずです。それもクーデター並みの」  食事が終わった。国王は一呼吸置いてから席を立った。  おしゃべりは己の首を絞めかねなかったが、リシュリューは言葉をゆるめないことにした。そこで国王がノアイユ夫人、王太子妃、タヴェルネ嬢とおしゃべりを始めると、リシュリューは如才なさを発揮して、自分の思い通りの話題にまんまと誘導した。 「ことが上手く運んだ時には大胆になるものです」 「自分が大胆だと言いたいのか?」 「これまでわしに賜ったご寵愛に加えて、新たに陛下のご寵愛をいただきたいのです。陛下の良き友であり、古くからの忠臣であり、近衛聯隊にご子息がおる者がおります。そのご子息には才能はあるのですが、如何せん家が貧しい。大公女から聯隊長である大尉のお許しを賜ったものの、隊員がおらぬのです」 「その大公女とは余の嫁御のことか?」国王が王太子妃の方に顔を向けた。 「そうです、陛下。その若者の父の名はド・タヴェルネ男爵と申します」 「お父様……!」アンドレが思わず声をあげた。「フィリップ……! ではフィリップのために中隊を?」  礼を失したことに気づき、アンドレは恥ずかしさで真っ赤になって後ろに退って手を合わせた。  国王は振り返って恥じらい動揺するアンドレに見とれていたが、すぐにリシュリューに目を戻した。その好意的な眼差しを見れば、リシュリューの提案に喜んでいたのがわかる。いい機会を与えてくれたと考えているのだ。 「確かに素晴らしい方なんです」王太子妃が言った。「それにわたし、裕福にして差し上げると約束いたしました。大公というのも困りものね! 神様と来たら、せっかく善意を授けて下さっても、記憶や理性を取り上げてしまうんですもの。あの方が貧しくて、肩章を与えるだけでは足りず、中隊も与えなければならないと考えるべきだったのに」 「おや、妃殿下はその若者をご存じなのかな?」 「ええ、知っております」王太子妃は即答した。その仕種にアンドレは、何もなく質素ではあったが幸せな少女時代を送った自宅を思い出した。「知っておりますから、フィリップ・ド・タヴェルネ殿に聯隊長の地位を与えればすべて解決するものと思っておりました。フィリップ、というお名前でしたね?」 「はい、殿下」  国王は気高く率直な顔ぶれを眺めた。それからリシュリューに目を向けると、何やら高貴な隣人に染められたらしき寛容な輝きに照らされていた。 「公爵め、余はリュシエンヌと一悶着せねばならんぞ」国王は独り言ちた。  それからすぐにアンドレに向かって、 「今の話で喜んでくれるといいのだが」と声をかけた。 「陛下、是非ともお願いいたします!」 「では認可した。その貧しい若者に立派な中隊を選んでやり給え、公爵。まだ支払いが済んでいなかったり空きがなかったりしたなら、余が資金を作ってやろう」  この寛大な行為に、会席者全員がいい気分を味わった。国王はアンドレの天使のような微笑みを手に入れられたし、リシュリューはその美しい口から感謝の言葉を受け取った。若い頃のリシュリューであれば、そこからさらに貪欲にさらにしがみついて求めたことだろう。  客が次々に到着した。その中にはド・ロアン枢機卿もいる。王太子妃がトリアノンに腰を落ち着けて以来、せっせと取り入っていたのである。  だが国王がその晩の間、丁寧な態度を取ったり好意的な言葉をかけたりしたのはリシュリューに対してだけであった。王太子妃に暇乞いをして自身のトリアノンに戻る時にはリシュリューを連れ出しさえした。老元帥は歓喜に身を震わせて国王に従った。  こうして国王陛下がリシュリュー公爵と二人の将校と共に、宮殿に通ずる薄暗い並木道を戻っている頃、アンドレは王太子妃から退がるように言われていた。 「パリにこの朗報を知らせなくちゃならないでしょう。退って結構よ」  アンドレは角灯を持った従僕の後に従い、トリアノンと使用人棟を隔てている百パッススほどの広場を横切った。  その手前を、茂みから茂みに葉陰に飛び込み、アンドレの動きに合わせて目を光らせている影があった。ジルベールだ。  アンドレが玄関前に到着し、石段を登り始めると、従僕はトリアノンの控えの間に引き返した。  それを見計らってジルベールは玄関に忍び込んで、厩舎の中庭に入り込み、梯子のような螺旋階段を伝って屋根裏部屋まで上ると、その正面に、角部屋であるアンドレの部屋の窓があった。  アンドレが同じ階に部屋のあるノアイユ夫人の小間使いを手伝いに呼んでいるのが見えた。ところが小間使いは部屋に入ると窓のカーテンを閉め、ジルベールの期待とその対象との間に厚いヴェールを降ろしてしまった。  その頃には本邸に残っているのはロアン氏だけで、王太子妃に対してますますたっぷりとおべっかを使っていたが、王太子妃はそれを冷たくあしらっていた。  ぶしつけ過ぎたかと枢機卿もそろそろ思い始めた頃、王太子が戻って来るのを見てますますその思いを強くした。そこで殿下にもわかるように深々と恭しく挨拶をして暇乞いをした。  四輪馬車に乗り込もうとしていると、王太子妃の小間使いが近づいて来て馬車に身体を突っ込んだ。 「これを」  柔らかい紙包みを手渡された枢機卿は、その感触にぞくっとした。 「これを」枢機卿も慌てて答えると、小間使いに中身の詰まった財布を手渡した。中身を空ければかなりの心付けになるだろう。  枢機卿は時間を無駄にせず、パリに向かうよう御者に命じてから、市門に向かうよう改めて指示した。  道中、薄暗い馬車の中で、枢機卿は恋人のようにうっとりとその紙包みに触れて口づけをした。  市門に着くと、「サン=クロード街に」と命じた。  それから間もなく、枢機卿は謎めいた中庭を通り過ぎ、再び無言の案内人フリッツのいる応接室を訪れていた。  十五分待たねばならなかったが、ついにバルサモが姿を見せ、まさかこんな時間に人が来るとは思っていなかったのだと、遅れた詫びを伝えた。  なるほど夜の十一時近い。 「仰る通りですね。お邪魔したことをお詫びいたします。でもいつか私に仰ったことを思い出していただかないと。ある秘密についてお約束したはずではありませんか……?」 「その日お話ししたのはある方の髪のことでした」バルサモが遮った。お人好しの枢機卿が手に持っている紙包みには既に目を留めていた。 「間違いない」 「髪をお持ちになったのですか、猊下? 結構です」 「ここにあります。終わった後でまた返していただけるのでしょうか?」 「火が必要にならない限りは……必要な場合には……」 「そうでしょうね」枢機卿が言った。「ですがその時はまた別のを手に入れます。答えは出ますか?」 「今日中にですか?」 「待ちきれないのはおわかりでしょう?」 「やってみないことには」  バルサモは髪を手に取り大急ぎでロレンツァの部屋に上がった。  ――これで王室の秘密も俺のものだ。神が隠しているこの世の秘密も俺のものだ。  壁の向こうから、隠し扉を開くより早く、ロレンツァを眠らせた。だからロレンツァは暖かい抱擁でバルサモを迎え入れた。  バルサモは泣く泣く腕を振りほどいた。どんなことがこの哀れなバルサモ男爵を苦しませるのかをお伝えすることは難しい。ある時には覚醒しているロレンツァの非難、ある時には眠りに就いているロレンツァの愛撫。  ようやくのことで首にかじりついていたロレンツァの腕から抜け出した。 「さあロレンツァ」バルサモは紙包みを手渡した。「この髪が誰のものだかわかるか?」  ロレンツァはそれを手に取って胸に押し当て、次いで額に押し当てた。目は開いているものの、眠っている間は胸と額でものを見ているのだ。 「ああ! 高貴な方の頭からくすねられたものです」 「そうなんだな?……幸せな人間のものか? 答えろ!」 「多分そうです」 「よく探すんだ、ロレンツァ」 「はい、多分そうです。その方の人生にはまだ影が見えません」 「だが結婚している……」 「あら!」ロレンツァがにっこりと微笑んだ。 「どうした? 言いたいことがあるのか?」 「その方は結婚しています、でも……」 「でも、何だ?」 「でも……」  ロレンツァが再び微笑んだ。 「私だって結婚しています」 「だろうな」 「でも……」  バルサモはぎょっとしてロレンツァを見つめた。催眠状態にもかかわらず、はにかんだような赤らみが顔に広がっている。 「でも、何だ? さっさと言うんだ」  ロレンツァがまたもやバルサモの首に手を回し、胸に顔をうずめた。 「でも、私は処女です」 「その女、その大公女、その王妃も、結婚しているにもかかわらず、そうだと……?」バルサモが声をあげた。 「その女、その大公女、その王妃も、私と同じく純潔で処女です。いえ、私以上です。私と違って愛していないのですから」 「そうか! 感謝する、ロレンツァ。知りたいことはすべてわかった」  バルサモはロレンツァを抱きしめ、髪をポケットに大切に仕舞うと、ロレンツァの黒髪の先を切り取って蝋燭で燃やし、王太子妃の髪をくるんでいた紙切れでその灰を包んだ。  それから階下に戻りながら、ロレンツァを覚醒させた。  枢機卿はじりじりとしながら疑わしげに待ちわびていた。 「どうでした、伯爵殿?」 「そうですね、猊下……」 「お告げは……?」 「お告げは猊下の期待通りのことを告げましたよ」 「そういうお告げがあったのですね?」枢機卿は歓喜した。 「とにかく、お望みのように解釈して下さい、猊下。お告げによれば、その方は夫を愛していないそうだ」 「そうですか!」ロアン氏は熱狂した。 「髪の毛ですが、その精髄から啓示を得るために燃やさざるを得ませんでした。灰はここにあります。お返ししようと思い、細心の注意を払って集めておきました。一粒百万フランのつもりで扱いましたよ」 「ありがとう、感謝いたします。お礼のしようもありません」 「その話はよしましょう。ただ一つ忠告がございます。その灰をワインに混ぜて飲んではなりません。そんなことをする恋人たちもたまにいるようですが。過度な思い入れは危険です。女の気持ちが離れても、あなたの愛が治まらなくなりかねません」 「気をつけよう」枢機卿は肝を潰した。「では、伯爵殿。失礼します」  二十分後、枢機卿猊下の四輪馬車はプチ=シャン街の角でリシュリュー氏の馬車とすれ違った。家の工事で出来た大きな穴にもう少しで落ちるところだった。  二人の貴族は互いの顔を認めた。 「おや、大公!」リシュリューが笑みを浮かべた。 「おや、公爵!」ルイ・ド・ロアン氏は口に指を当てた。  二人は反対方向に向かった。 第九十三章 ド・リシュリュー氏がニコルを見初める  ド・リシュリュー氏はコック=エロン街にあるド・タヴェルネ氏の小さな宿に真っ直ぐ向かっていた。  我々には「びっこの悪魔」を頼みに出来るという特権があって、閉め切った家の中にも易々と潜り込むことが出来る。だから男爵が暖炉の前で大きな薪乗せ台に足を乗せていることも、リシュリュー氏よりも早くわかっている。台の下では熾がくすぶっており、ニコルを叱りながら時折り顎を撫でるものだから、ニコルが反抗的な態度でふてくされて口を尖らせている。  説教されなければおとなしく撫でられているものなのか、或いは撫でられずに説教だけ喰らうのなら問題ないものなのか、そればかりは何とも言えぬ。  主人と使用人の間で交わされていた話し合いは、重大な局面に差し掛かっていたところだった。男爵が曰うには、夜のある時間帯になるといつも決まって呼び鈴に答えず、庭や温室で何かに夢中になっており、その二箇所以外では仕事がお留守になっているのではないか。  それに対してニコルは、ありったけの媚びとしなを作ってきょろきょろしながら答えた。 「しょうがないじゃないですか!……ここは退屈なんですから。お嬢様と一緒にトリアノンに行けるって約束して下さったのに!」  ここでタヴェルネ氏が頬や顎を優しく撫でねばならんと考えたのは、どうやらニコルの気を逸らすためらしい。  ニコルの方は話を逸らさず、撫でる手を押しのけ、自らの不幸な境遇を嘆き出した。 「そうじゃありませんか! 四重の壁に囲まれて、誰ともおつきあい出来ないし、空気にだって触れられやしない。楽しいことも将来のことも目に浮かんでいたのに」 「何のことじゃ?」 「トリアノンのことですってば!」ニコルが答えた。「トリアノンに行けば、いろんなものが見れたし、豪華なものが見れたし、誰かに見とれたり見とれられたり出来たのに」 「いやはや、ニコルよ」 「あたしは女ですからね、それだけが望みなんです」 「何とまあ! この話し方を見てみろ」男爵はぶつぶつと洩らした。「生き生きと躍動しておる。わしが若くて金持ちならのう!」  溢れる若さと生命力と美しさに、貪るように見とれて目を離すことが出来なかった。  ニコルの方は上の空で、時折り焦れったそうにしている。 「ではおやすみなさいまし、旦那さま。あたしも寝室に退って構いませんか」 「あと一言」  ここでにわかに路地口の呼び鈴が鳴り、タヴェルネ男爵がびくりとし、ニコルが飛び上がった。 「いったい誰だ、夜中の十一時半にもなって。見て来なさい、ニコル」  ニコルは路地口の門に向かい、訪問者の名をたずね、扉を少しだけ開けた。  開いた扉の隙間を通って、中庭からやって来た人影が立ち去った。ほとんど音は立てなかったものの、元帥の――訪問者は元帥であった――元帥の耳や目をごまかせるほどではなかった。  ニコルが蝋燭を手ににこやかな顔で戻って来た。 「いやはや何とも!」元帥は満面の笑みを浮かべて、応接室について行った。「タヴェルネのとんちきと来たら、娘御のことしか話さなかったな」  リシュリュー公爵のような人物は、ものをしかと見るのに二度も見る必要はない。  逃げ出した人影から、リシュリューはニコルのことを考えた。ニコルは人影のことを考えている――。その美しい顔を見ただけで、人影が何をしに来たのかを見抜いた。否、もっと言えば侍女の蓮っ葉な目、白い歯、細い腰を見ただけで、その性格や感性を教えてもらう必要もなかったのである。  ニコルは胸をどきどきさせながら応接室の入口で声をあげた。 「リシュリュー公爵閣下です!」  この名前はその晩の平穏を破らずにはおかなかった。少なくとも男爵は衝撃を受け、自分の耳が信じられぬまま、椅子から立ち上がって真っ直ぐと戸口に向かった。  だが扉にたどり着くまでもなく、廊下の薄明かりの中にリシュリュー氏の姿を認めた。 「公爵……!」男爵は口ごもった。 「もちろんわしだよ……」リシュリューはこれ以上はないほど愛想の良い声を出した。「ほう、驚いておるね。あんな訪問の後だ。だが間違いないぞ……さあ、握手してくれ」 「喜んで」 「頭が鈍ったようだな」老元帥は椅子に掛けやすいように、杖と帽子をニコルに手渡した。「殻に閉じこもって、耄碌しおって……世間のことなど何も知らぬのだろう」 「何の、公爵殿」タヴェルネは胸をふくらませた。「先日のもてなしを考えれば、その意味は間違いようがありませんでしたぞ」 「先日の貴殿はまるで生徒のようで、わしは学者だったな。わしらにはお仕置き用のへらしかなかった。それをわしが使い渋ったと言いたいのであろう。貴殿が馬鹿なことを口にすれば、わしも言い返してしまいかねん。先日から今日までのことは水に流そうではないか。今晩わしがここに何をしに来たかご存じかな?」 「まったくわからぬ」 「貴殿が一昨日わしに頼みに来た中隊を届けに来たのだ。国王が貴殿の息子に賜ったのだぞ……よいか、微妙な違いがわかるであろうな。一昨日のわしは大臣も同然だった。そんなわしにものを頼むことは不正行為に等しかった。今日のわしは職を拒んだ今まで通りのただのリシュリューだ。ものを頼まないことこそ不合理じゃろう。わしは頼み、手に入れ、持って来たのだ」 「まことか……して、これはあなたからの好意という……?」 「友人として当然の義務に過ぎぬ……大臣であれば拒まざるを得ん。リシュリューであれば申請して与えられる」 「おお、公爵殿! ありがたい。あなたこそ真の友人ではないか?」 「くだらぬ!」 「それにしても国王が……こんなご厚意を与えてくれたのは国王なのだな……」 「国王は自分がやったことすらわかっておらぬよ。或いはわしが間違っておれば、存分にわかっていらっしゃるだろうが」 「それはどういう?」 「陛下にはどうやら今のところデュ・バリー夫人の機嫌を損ねている何らかの理由があるらしい。貴殿が受けたご厚意は多くのところわしの影響よりもその理由に拠っている、ということだな」 「そう考えておるのですか?」 「確信しておるし、わしもそれに手を貸しておる。わしが大臣の職を蹴った原因は、このあばずれだというのはご存じかな?」 「噂では。じゃが正直に言って……」 「信じてはいなかったというわけか。よいよい、思い切って話してしまえ」 「では思い切って、正直に言っていたなら……」 「気兼ねなくわしと付き合っていたと言いたいのか?」 「少なくとも、偏見を持たずにあなたと付き合って参りましたぞ」 「わしは年を取った、今では自分の利益のためにしか若い女を愛せぬ……それよりまだ話がある……貴殿のご子息のことに戻ろう。立派な青年ではないか」 「デュ・バリーのところと一悶着ありましてな。わしがお伺いして失態を犯した時にお宅にいた若者ですが」 「わかっておるよ、何しろわしは大臣ではないのだからな」 「それはいい!」 「まあな」 「大臣の職を蹴ったのは、もしや伜のためということは?」 「わしがそう言っていたとしても、信じぬであろう。そんなことは一切ない。貴殿のご子息を陥れようとしたのを始めとして、デュ・バリーの要求があらゆる方面で桁外れなものになっていたから、断ったまでのこと」 「ではその者どもとは不和になったのですかな?」 「そうでもあり、そうでもない。向こうはわしを恐れており、わしは向こうを軽蔑しておる。お互い様と言ったところであろう」 「勇敢だが軽率でもありますな」 「そうかね?」 「伯爵夫人には信用がある」 「いやはや!」リシュリューが吐き出した。 「いったいどうお考えですかな!」 「弱い立場を自覚しておる人間、必要とあらばその現場を爆破させるために然るべき場所に工兵を配置することに異存はない人間、そんな人間の言葉と思ってもらって結構」 「本心がわかりましたぞ。あなたがわしの伜のために行動するのは、デュ・バリーを苦しめるためですな」 「そのためも大いにある。貴殿の洞察力は衰えておらぬな。ご子息を榴弾として用いて、照らすつもり……いや、ところで男爵、貴殿には娘御もなかったかな?」 「如何にも」 「若かったな?」 「十六になる」 「美しい子じゃな?」 「女神のように」 「トリアノンに住んでおる」 「ではご存じでしたか?」 「夜食を一緒に過ごした。わしはあの子のことで国王と一時間お話しいたしたぞ」 「国王と?」タヴェルネが頬を赤く染めた。 「国王ご本人とだ」 「国王が娘のことを、アンドレ・ド・タヴェルネのことをお話ししたと?」 「さよう、国王の目は釘付けであったぞ」 「何と! まことか?」 「その話をしても構わぬかな?」 「わしに?……もちろんじゃ……国王がわしの娘に目を留めて下さったとは……だが……」 「だが、何だ?」 「国王は……」 「生活が乱れていらっしゃる。と言いたいのかな?」 「陛下のことを悪く申し上げるつもりはない。お好きなように生活する権利をお持ちなのだからな」 「では何に驚いたというのだ? アンドレ嬢の美しさには瑕がある、それ故に国王は見とれていない、とでも主張するのか?」  タヴェルネは何も答えずに、肩をすくめて物思いに耽った。それをリシュリューが穿鑿するようにじろじろとねめつけた。 「まったく! 貴殿の言いたいことくらいは予想がつく。心の中で考えずに声に出したらどうだ」老元帥は椅子を男爵に近づけた。「国王が悪習に染まっておると言いたいのだろう……ポルシェロンで噂されているように、悪い連中とつきあいがあると。だから良家の娘にも淑やかな立ち居振る舞いにも清らかな愛にも目を向けたりはせず、どんなに素晴らしい気品や魅力にも気づかぬと……目を向けるのは淫らな目的、ふしだらな誘い、お針子目当てに限られると言いたいのだろう」 「やはりあなたはたいした人だ」 「何故かね?」 「すっかり見抜かれてしまいおったからな」タヴェルネが答えた。 「だがいいかね、男爵。頃合いだとは思わぬのか。わしら貴族に、わしらフランス国王の盟友に、あの娼婦の汚らわしい手に口づけさせることなど、もうそろそろわしらの主人にも無理な相談だと。わしらにはわしらの環境を取り戻す頃合いだと。シャトールーは侯爵夫人であり公爵夫人にもなれる器であったが、そこから転がり落ちて徴税人の娘であり妻であるポンパドゥールになり、ポンパドゥールの後には実に|ジャヌトン《ジャンヌちゃん》呼ばわりされているデュ・バリーだ。デュ・バリーから台所の|マリトルヌ《おかめ》や田圃の|ゴトン《させ子》にまで落ちぶれぬとも限らぬ。兜に王冠を掲げているわしらがそんな小娘どもに頭を下げねばならぬなどとは、とんでもない辱めではないか」 「むう! 確かに仰る通り」タヴェルネは呻いた。「それにこうした新しい風潮によって宮廷が空っぽになってしまったのは明らかなこと」 「もはや王妃もなければ貴婦人もない。貴婦人もなければ廷臣もない。国王がお針子に目をつければ、庶民が玉座に上ることになる。パリのお針子ジャンヌ・ヴォベルニエが実演した通りだ」 「それはそうだがしかし……」 「わからぬか、男爵」元帥が遮った。「いつかフランスを統治したいと考えている聡明な婦人にとって、素晴らしい役どころがあるのだということに……」 「そうなのでしょうな」タヴェルネの心臓がどくんと鳴った。「だが生憎とその地位はふさがっておる」 「娼婦の悪徳を持つことなく、度胸、計算、展望を持っているご婦人にとって――地位をどこまでも高く押し上げようとして君主制が存在しなくなったとしてもそのことを考え続けるようなご婦人にとって――。貴殿の娘御は聡明かね、男爵?」 「申し分ない。とりわけ良識に優れておる」 「それに非常に美しい!」 「そうであろう?」 「あの惑わすような一連の美しさには男どもが夢中になるし、あの清らかさや純粋な魅力には女たちでさえ敬意を抱くであろう……ああした宝は大事にせねばならんぞ」 「随分と熱心にお話しに……」 「はは! 言うなればわしは惚れ込んでおる、六十四という年も忘れて明日にも結婚したいくらいだ。だがきちんと世話されているのだろうな? 少なくとも美しい花に相応しい手厚い待遇を受けておるのだろうな?……よいか男爵、今夜の娘御は部屋に一人で残されておったのだぞ。侍女も侍従もなく、いたのは角灯を持った王太子の従僕だけじゃ。これでは召使いと変わらんではないか」 「何を仰りたいのですかな、公爵。ご存じであろうに、わしには金がないのじゃ」 「金があろうとなかろうと、せめて小間使いは必要であろう」  タヴェルネは嘆息した。 「よくわかっておる。必要なことくらいは、いや必要になることくらいは」 「何だと、一人もおらぬのか?」  男爵は無言のままだった。 「あの美人は何なのだ?」リシュリューは先を続けた。「さっきそこにおったではないか? 美人で見た目もよかったぞ」 「うむ、じゃが……」 「だが、何だというのだ」 「あれをトリアノンに行かせるわけにはいかぬ」 「何故だ? わしにはむしろ小間使いにぴったりだと思うがの。申し分のない侍女になるぞ」 「では顔を見んかったのじゃな?」 「顔? 顔しか見とらんぞ」 「見たのであれば、驚くほどそっくりなことに気づかなかったか……!」 「誰と?」 「誰と……うむ、そうだ!……ここに来い、ニコル」  ニコルが進み出た。|マルトン《はしため》の例に洩れず盗み聴きしていたのである。  公爵はニコルの両手をつかんで膝で足を挟んだ。大貴族にして放蕩者のこうした無礼な視線にも、ニコルはこれっぽっちも気後れもひるみもしなかった。 「うむ……うむ、瓜二つだ、間違いない」 「誰に似ているかわかった以上は、我が家の好機をこんな危険にさらすわけにはいかぬこともわかるであろう。絹靴下も繕えないニコル嬢がフランス一著名な貴婦人に似ていてはまずかろう?」 「何ですって!」ニコルは元帥の手から抜け出してド・タヴェルネ氏に刺々しく言い返した。「絹靴下も破れてるようなあたしが、著名な貴婦人に生き写しってのは本当なんですか?……著名なご婦人が、あたしみたいな撫で肩や、きらきらした目や、ふっくらした足や、むっちりした腕を持っているっていうんですか? だったら男爵様、そんな風に思ってらっしゃるんなら、あたしはただの写しってわけですね!」ニコルは怒りの言葉で結んだ。  ニコルは昂奮して真っ赤になっていたが、そのせいで恐ろしく美しくなっていた。  公爵は改めて美しい両手を手に取り、膝で押さえ込み、愛おしそうに希望を込めてニコルを見つめた。 「男爵、確かにニコルは宮廷に並ぶ者がない。わしはそう考えておる。この子にどことなく似ている貴婦人の方には、自尊心を仕舞っておいてもらうとしよう……あなたは実に見事な色合いの金髪をしておるな、ニコル嬢。それに皇帝一族のような眉と鼻をしておる。いいかな、十五分だけ化粧室に坐っていれば、そうした欠点も(男爵殿はそう思っているのだ。その欠点も)消えてしまう――ニコル、どうだ、トリアノンに行きたいかね?」 「えっ!」貪欲さに満ちた魂が、この一言に集約されていた。 「ではトリアノンに行こうではないか。トリアノンに行って、財産を手に入れよう。他人の財産を何一つ損ねることもない。男爵、最後に一つだけ」 「聴こうではないか、公爵」 「ではいいかね、ニコル、わしらに話をさせてくれぬか」リシュリューが言った。  ニコルが立ち去ると、公爵が男爵に近づいた。 「そなたの娘御に小間使いを送ってやれ、とわしが急かせば、国王を喜ばせることになるのだぞ。陛下は惨めなのがお好きでない。美しい顔立ちの子らなら嫌な思いをされぬ。まあ要するにそういうことだ」 「ではニコルをトリアノンに遣れば、国王がお喜びになると言うのだな」男爵は牧神のような笑いを見せた。 「では貴殿の許しも出たことだし、わしが連れて行こう。四輪馬車が使える」 「だがの、王太子妃殿下と似ているというのが……そのことを考えなくてはならぬぞ」 「そのことなら考えてあるわい。そうした類似点はラフテが十五分で消してみせる。そのことは保証する……では娘御に手紙を書いてくれ。小間使いを持つことが如何に重要か、そしてその小間使いがニコルであることが如何に重要かを伝えねばなるまい」 「ニコルだというのが重要だと思っておいでか?」 「そう考えておる」 「ニコル以外の誰でもなく?」 「それを書き足すくらいたいした手間もかかるまい。名誉にかけて、わしはそう考えておる」 「ではすぐに書くとしよう」  男爵はすぐに手紙を書き上げ、リシュリューに渡した。 「それで、作法などの教育は?」 「ニコルに教えるのはわしが引き受けた。あの子は頭は悪くあるまい?」  男爵はにやりとした。 「では任せてもらったと……そういうことだな?」リシュリューがたずねた。 「はてさて! それはあなたの問題ですぞ。あなたがそうしろと仰るなら、お任せしましょう。出来ることならご随意にして下され」 「お嬢さん、では行こう」公爵が立ち上がって急かした。  ニコルには一言で充分だった。男爵に断りを入れもせず、五分で古着を詰めると、飛ぶように軽やかに、御者のところまで駆けつけた。  そこでリシュリューは旧友に別れを告げ、男爵の方はフィリップ・ド・タヴェルネに用意してくれた肩書きについてお礼の言葉を繰り返した。  アンドレのことには一言も触れなかった。言葉などでは追いつかなかった。 第九十四章 変身  ニコルはもはや喜びで我を忘れていた。タヴェルネを離れてパリに向かうことに比べても、パリを離れてトリアノンに向かうのは、ニコルにとって遙かに大きな勝利だった。  ド・リシュリュー氏の御者の隣に坐ったニコルが非常に魅力的だったため、新しい小間使いの評判は翌日にはヴェルサイユやパリ中の車庫や控えの間に知れ渡っていた。  アノーヴル館に到着したので、リシュリュー氏がニコルの手を取って自ら二階まで案内すると、そこにはラフテ氏が待ち受けており、夥しい手紙を書いて会計に当たっていた。  元帥の仕事の中でも、戦争はとりわけ大きな地位を占めていたため、ラフテは少なくとも理論上は戦争の名人であり、ポリュビオスや騎士《シュヴァリエ》ド・フォラールが生きていたなら、ラフテが毎週書き上げている要塞や演習についての見積もりを受け取ることにたいへんな幸せを感じたことであろう。  斯くしてラフテ氏が地中海における対イギリス戦の計画に取り組んでいる間に、元帥がやって来て声をかけた。 「すまんがラフテ、この子を見てくれ」  ラフテは見つめた。 「結構なお嬢さんでございますね」そうしてさらに意味深に口唇を動かした。 「うむ、だが誰かに似ておらぬか?……ラフテよ、わしはその話をしておるのだ」 「本当だ! いや、まさか!」 「気づいたな?」 「驚きました。それにしてもこれは凶と出ますか吉と出ますか」 「いずれ凶であっても、転じればよい。見ての通り金髪をしておるだろう。だがそれもたいしたことではあるまい、違わぬか?」 「黒くするのは簡単なことでございます、閣下」ラフテは主人の考えをすくい上げることには慣れていたし、時には本人の代わりに一から十まで考えることさえあった。 「さあ化粧室に来なさい」元帥が声をかけた。「この男は名人だ、あなたをフランス一の並ぶ者なき美しい侍女にして差し上げよう」  斯くして十分後、元帥の化粧品を用いて、ラフテはニコルの白みがかった金髪を漆黒に染め上げた。元帥は毎週鬘の下の白髪を黒く染めるのにその化粧品を使っていて、今でもまだ機会さえあれば知人の閨房で見せつけたいという気取りをなくしていないのだ。髪が終わると今度は濃い金の眉を、蝋燭の火で黒ずませたピンでなぞった。それから明るい顔に不思議な光を与え、鮮やかに澄んだ目には燃え立つようでいて時に翳りの見える火を注いだ。その姿はさながら呪文によって魔法使いの壺から呼び出された精霊のようだった。 「ほれ、見給え」リシュリューは呆然としているニコルに鏡を見せた。「自分がどれだけ魅力的かわかるであろう。先ほどまでのニコルは影も形もない。もはや凶を恐れるのではなく吉をその手につかむことになろう」 「閣下!」ニコルが声をあげた。 「うむ、そのためにはまず理解しあわねばならぬ」  ニコルは顔を赤らめ目を伏せた。リシュリューも自分で何を言ったのかよくわかっているのだろうと、女狐は勘繰っていたのである。  リシュリュー公爵はそれに気づいてすぐさま誤解を解いた。 「その椅子に坐り給え。ラフテ氏の隣だ。耳をかっぽじってよく聞き給え……ラフテ氏のことは気にするな、心配いらん。それどころか助言をくれるはずだ。わかったな?」 「わかりました、閣下」自惚れて勘違いしたことを恥じて口ごもった。  リシュリュー氏とラフテとニコルの会話は長い間続いていた。やがて公爵はニコルを家の小間使いと一緒に寝ませた。  ラフテは軍事録に戻り、リシュリュー氏は手紙をめくってデギヨンに対する地方の高等法院の陰謀とデュ・バリーの計画を確認してから床に戻った。  翌日の朝、紋章のない馬車がニコルを乗せてトリアノンに向かった。馬車は柵のそばで荷物を降ろし、姿を消した。  ニコルは顔を上げ、自由に胸をふくらませ、期待に目を輝かせて、目指す先を探して使用人棟の扉を叩きに向かった。  朝の十時。アンドレはもう目を覚まして着替えを済ませ、父に手紙を書いて前夜の幸運を知らせようとしていた。リシュリュー氏が使者を向かわせたのはご存じの通りである。  読者諸兄は覚えておいでであろう。石段がプチ・トリアノンの庭から礼拝堂に続いており、その礼拝堂の踊り場には、二階(とはつまり)女中部屋に直通している階段があり、庭に面した長い廊下が並木道のように部屋を繋いでいることを。  アンドレの部屋はこの廊下の左端にあった。部屋は充分に広く、厩舎の中庭から採光されて、手前には左右を二つの小部屋《キャビネ》挟まれた小さな寝室があった。  輝かしい宮廷の列席者が使っている一般的な一間と比べれば足りないところがたくさんあるとはいえ、宮殿を満たしているざわめきから逃れてみれば、隠遁所のように住みやすく心地よい、魅力的な小部屋《セリュル》だった。ここにいれば侮辱や失望を喰らい尽くす日中の貪欲な魂から逃れることが出来た。ここにいれば静寂や孤独の中で、孤高の中で、慎ましく侘びしい魂を休ませることも出来た。  ひとたびこの石段を跨ぎ、礼拝堂の階段を上ってしまえば、もはや優位も義務も体面もないのは事実だった。静かなことは修道院の如く、肉体的に自由なことは囚人生活の如きである。  アンドレのように穏やかで誇り高い精神の持ち主は、そうしたあれこれから自分なりに値打ちを引き出していた。叶えられない野心や満たされずに疲れた思いを休ませに来たのではない。トリアノンの豪華な応接室にいるよりも、この狭苦しい四角い部屋の中にいた方が落ち着いていられた。トリアノンにいると舗石を踏みしめるたびに内気というより恐怖に近い気持を感じていた。  居心地のよさを感じていたこの薄暗い一隅から、昼間の間は目を眩ませていたまばゆい景色を今は落ち着いて眺めていた。花々やチェンバロ、心の友であるドイツ語の本に囲まれて、悲しみをもたらし喜びを奪おうとする運命に挑んでいた。 「ここには――」夜になって仕事を上がると、大きな襞のついた化粧着を纏い、肺いっぱいならぬ魂いっぱいに息を吸い込んだ。「ここには、死ぬまで手にしていたいものが何でもある。いつの日にかもっと豊かになるつもりだけれど、絶対に貧乏には戻らない。孤独を慰める花や音楽や一ページを絶やすことはもう二度とない」  アンドレは望む時には部屋で朝食を摂る許しを得ていた。アンドレにとっては願ってもない厚意だった。王太子妃から朗読や朝の散歩に呼ばれない限り、そうやって昼まで部屋で過ごすことが出来るのだ。天気のいい日には本を持って朝から出かけ、トリアノンからヴェルサイユまで続いている大きな森を一人で歩くのも自由だった。二時間あまり散歩をしたり空想に耽ったりした後で、朝食に戻った。貴族にも従僕にも兵士にもお仕着せにも会わないことも多かった。  木陰にも暖かさが忍び込み始める頃になると、アンドレは部屋の窓と廊下の扉の両方から涼しい空気を入れた。インド更紗で覆われた小さな長椅子、同じく四脚の椅子、丸い天蓋のついた清潔な寝台には同じくインド更紗のカーテンが垂れ、暖炉には陶磁の花瓶が二個、銅の脚のついた四角い卓子。これが小さな宇宙を形作るすべてであり、アンドレの希望と願いを閉じ込めた空間である。  先ほど申し上げたようにアンドレがこの部屋に坐って父に手紙を書いていると、廊下の扉が控えめに叩かれた。  顔を上げて開いた扉を見て、アンドレは驚きの声をあげた。喜びにあふれたニコルの顔が小さな控えの間から覗いていた。 第九十五章 人の喜びは他人の絶望 「どうも、お嬢様。あたしです」ニコルは無邪気に挨拶をしたが、アンドレの性格を知っていたので不安はぬぐえずにいた。 「ニコル! いったいどうしたの?」アンドレは羽根ペンを置いた。こうして始まった会話を続けるにはその方がいい。 「お嬢様に放っておかれたものですから。あたしも来ちゃいました」 「放っておいたのにはそれなりの理由があるのよ。誰の許しを得てここに来たの?」 「そりゃあ男爵様ですよ、お嬢様」ニコルは美しい両眉を不満そうに寄せた。眉はラフテの努力のおかげで黒くなっている。 「お父様があなたをパリに。でもわたくしには必要ないわ……戻っていいわよ、ニコル」 「そんな……お嬢様には未練がないんですか……もっと喜んでもらえると思ってましたのに……だったらお好きなようにして下さい。そんな風にしたいんなら構いません!」ニコルは醒めたようにつけ加えた。  そして努めて目に涙を浮かべてみせた。  この非難に込められた気持と感情は、アンドレの同情を引くには充分だった。 「わたくしはここでお世話になっているし、食べる口を増やして王太子妃殿下にご迷惑をかけるわけにはいかないの」 「そんなに大口じゃありませんよ!」ニコルはにっこりと笑って見せた。 「そういうことじゃないのよ、ニコル。あなたはここにはいられないわ」 「それって似ているからですか? ちゃんと顔を見て下さい、お嬢様」 「そういえば何だか変わったみたいね」 「そのはずですよ。フィリップ様に役職を下さった貴族様が昨日いらっしって、お嬢様に小間使いがいないのを男爵様が悲しんでいるのをご覧になって、あたしの金髪を黒く変えることほど簡単なことはないって仰ってたんです。その方があたしを連れて来て下さって、髪を整えさせて下さって、だからあたしはここにいるんです」  アンドレは微笑みを浮かべた。 「随分と心配してくれるのね。そんなにトリアノンに閉じこもりたいの? わたくしが囚人同然だからって」  ニコルは素早く、だが念入りに周囲を確認した。 「この部屋は薄暗いですけど、いつもここにいるわけじゃありませんよね?」 「わたくしはそうだけど。でもあなたは?」 「あたしですか?」 「王太子妃殿下のサロンにも行けないし、遊んだり散歩したりお喋りしたりすることも出来ないし。ずっとここにいて、死ぬほど退屈するんじゃないかしら」 「ああ、でも窓がありますから。扉の隙間しかなかったとしても、一部だけならちゃんと見ることは出来ますし。こっちから見えるんなら、向こうからも見えるでしょうし……あたしにはそれで充分です。あたしのことは気になさらないで下さい」 「でもね、ニコル。命令もないのに勝手に出来ないの」 「誰の命令ですか?」 「お父様よ」 「それが条件ですか?」 「ええ、それが条件よ」  ニコルは胸当てからド・タヴェルネ男爵の手紙を取り出した。 「どうぞ。あたしがお願いしても尽くしても駄目だって言うんでも、この推薦状なら大丈夫じゃないんですか」  アンドレは以下のような手紙を読んだ。  わしは耳にしたし人からも言われたが、アンドレ、お前はトリアノンで身分に相応しい扱いを受けておらぬそうだな。本来であれば女中二人と従僕一人が必要なのだぞ。わしに年収二万リーヴルが必要なのと同じことだ。しかしわしは千リーヴルで満足せねばならん。お前もわしに倣ってニコルで我慢しろ。ニコル一人で必要な召使い全員分の働きをするであろう。  ニコルはてきぱきしておるし、智恵が回るし献身的だ。当地の作法もすぐに身につけるであろう。ニコルのやる気を奮い立たせるのではなく、やる気を抑えておくように気をつけるがいい。わしが犠牲を払っているなどとはゆめゆめ思わんでくれ。そんなことを思った時には陛下のことを考えるのだ。お前を見た陛下は親切にもわしらのことを考えて下さった。友人から聞いたところでは、お前が身なりや体裁に困っていることにも気づかれたそうじゃ。そのことを忘れるな、大事なことじゃぞ。  最愛の父より。  この手紙のせいでアンドレは痛ましいくらい途方に暮れた。  こんな風に取り立ててもらってまで、瑕としか思えない貧しさに追いかけられなくてはならないとは。貧しいことが汚点のように忌まわしかった。  怒りのあまり羽根ペンを折り、書きかけの手紙を破りかねないほどの勢いで、フィリップが全面的に賛成していた哲学的無私を長々と書き連ねようとした。  だが書き上げたものを読んでいるうちに、男爵の皮肉な笑いが見えたような気がして、意気込みはたちまちしぼんでしまった。そこでトリアノンからの報せを一段落つけ加えることで反論に代えることにした。  お父様、ニコルが先ほど到着しました。お父様のお気持はありがたく受け取ります。ですけどニコルについて書かれたことにはがっかりしました。こんな田舎娘を小間使いとして置いておくことが、豪華な宮廷で独りぼっちでいることより滑稽でないとでもいうのでしょうか? ニコルはへりくだったわたくしを見てがっかりするでしょうし、不満を抱くことでしょう。従僕たちが威張っているかへりくだっているかは、主人が贅沢か質素かによるのですもの。陛下がお目を留めて下さったことについては、残念ですけれど陛下はあまりにも気のつかれる方ですから、わたくしが貴婦人として失格なのをご覧になってもご機嫌を損ねられないのです。おまけに陛下はお優しい方ですから、お父様のお名前やお務めが誰の目から見ても認められるように状況を変えない限り、わたくしの窮状を指摘したりあげつらったりなさることが出来ないのです。  これがアンドレの返事であった。この無邪気な誇り高さが誘惑の魔の手に容易く勝利を収めたことは認めねばなるまい。  アンドレはもはやニコルのことであれこれ言わずに、引き取ることにした。ニコルはそうなる理由もちゃんとわかっていたので、欣喜雀躍して直ちに控えの間に面した右の小部屋に小さな寝台を用意した。その部屋のものはすべてが小さく、軽やかで、洗練されており、この質素な部屋にいればアンドレに迷惑をかけることはなさそうだ。ペルシアの賢者が水をたたえた花瓶に薔薇の葉を落としたのを真似ようとでもするかのように、中身を溢れさせずにものを詰め込めることを証明したがってでもいるようだった。  アンドレは一時頃になるとトリアノンに向かった。いつもより急ぐことも着飾ることもなかった。ニコルはいつも以上に張り切っていた。心遣いも気配りも心積もりも、何一つとして抜かりはない。  ド・タヴェルネ嬢がいなくなると、ニコルはまるでその部屋の主にでもなったような気持で、こと細かく点検した。手紙から化粧品の一つ一つに至るまで、暖炉から目立たない小部屋の隅々まで、あらゆるものを確認した。  それが済むと窓から周囲の様子を観察した。  下では広い中庭で馬丁たちが王太子妃のものである立派な馬の毛を梳いている。何だ、馬丁か! ニコルはそっぽを向いた。  右側にはアンドレの部屋の窓と同じ並びに窓がいくつも並んでいる。そこからいくつか顔が覗いている。小間使いや床磨きだ。ニコルは馬鹿にしたようにほかに移った。  正面の広い部屋では音楽家が合唱隊や楽団に、サン=ルイの弥撒のために何度も練習を繰り返させていた。  ニコルが埃をはたきながら気分よく自己流に歌い出したので、音楽家はそれに気を取られ、合唱隊は歌を間違っても叱られずに済んだ。  だがニコル嬢の野心の前ではこんな暇つぶしは長くは持たなかった。音楽家と合唱隊が言い合いを始めて互いに誤魔化し始めると、ニコルは最上階の観察に移った。どの窓の閉め切られている。とは言えあれは屋根裏部屋だ。  ニコルはまた埃をはたき始めた。だが次の瞬間、屋根裏の一つが開かれた。何らかの仕掛けによって人知れず開いた如く、誰の姿も見えない。  だが誰かがこの窓を開いたのだ。その誰かはニコルを目にしてそのまま見つめ続けたりはしなかった。無礼な奴め。  これが少なくともニコルの考えたことだ。極めて念入りな観察を続けていたニコルである。この無礼者の顔を観察するのも当然のことだった。アンドレの部屋でおこなっていた作業を後回しにして、窓のそばに戻って屋根裏に目を向けた。いわば瞳を欠いたニコルから視力を奪っている、敬意の欠けた眼差しに目を向けたのである。窓に近づくと人の逃げ出したのが見えたような気がしたが……信じられなかったし、信じなかった。  逃げ出した人物の背中を改めて目にして、用心していた以上に慌てて戻るくらい驚いているのだと、ほぼ確信した。  そこでニコルは一計を案じた。カーテンの陰に隠れたまま、疑われるのを防ぐために窓を大きく開けておいたのである。  長いこと待っていた。ようやくのことで黒い髪が現れ、震えながら飛梁に手を突いて用心深く身体を乗り出すのが見えた。ついにはっきりとその姿が露わになった。ニコルは危うくひっくり返ってカーテンをしわくちゃにしてしまうところだった。  屋根裏から見つめているのは、ほかでもないジルベール氏の姿ではないか。  ジルベールはカーテンが震えているのを見て企みに気づき、身体を引っ込めた。  さらに用心して屋根裏の窓を閉めた。  ジルベールがニコルを目にしたのは間違いない。ジルベールは驚愕していた。天敵がいることに納得しようとし、姿を見られると怒りと混乱にまみれて逃げ出した。  以上がこの場面に関するニコルの解釈である。そしてそれは正しかった。確かにそう解釈すべき場面であったのだ。  現にジルベールにとっては、ニコルに会うくらいなら悪魔に会う方がましだった。ニコルに覗かれているのを見て、言いしれぬほどの恐怖を感じた。ニコルに対しては黴の生えた嫉妬の種を抱えていた。コック=エロン街の庭で秘密を見られてしまっていた。  ジルベールは恐慌を来して逃げ出した。恐慌だけではなく、怒りに任せて、拳を咬みながら逃げ出した。  ――だから何だっていうんだ。どうでもいい発見に夢中になってたりして!……恋人がいたところで、糞ったれめ、だからといってニコルがここから追い出されることはないだろう。それなのにあいつがコック=エロン街の出来事を告げ口しようものなら、僕をトリアノンから追い出すことも出来るんだ……僕がニコルを捕まえたんじゃない。ニコルが僕を捕まえたんだ……畜生!  ジルベールの自尊心が憎しみの火種となって、恐ろしいほどまでに激しく血をたぎらせた。  ジルベールが願望や熱愛や花々と共に屋根裏から日ごと届けていた空想の数々を、アンドレの部屋に入るなりニコルが悪魔のように笑いながら蹴散らしてしまったのではないか――そんな気がした。それまではそうしたことを考えるのに忙しくて、ニコルのことなど忘れていた。或いはニコルに掻き立てられた恐怖が、そんな考えを吹き飛ばしてしまったのだろうか? 如何とも言い難い。だがこれだけは断言できる。ニコルの姿はジルベールにとって不愉快な贈り物だったと。  遅かれ早かれニコルとの間には戦端が開かれるだろう。だがジルベールは慎重かつ政治的な人間だったので、自分に有利になるまでは戦争を始めるつもりはなかった。  だからジルベールは死を装うことにした。何かのきっかけで生き返ることが出来るようになるまでの辛抱だ。或いはニコルが何らかの浅慮や欲求によって、敢えて一歩を踏み出し、せっかくの優位を失うのを待つまでだ。  だからこれからもアンドレから目も耳も離さずに、警戒も用心も怠ることなく、廊下の一番端の部屋で起こっている出来事を知っておかなくてはならない。ニコルとは一度たりとも庭で出くわしてはならない。  生憎というほかないが、ニコルは真っ白とは言えない人間である。現在のところはともかくも、過去を見渡せばいつ倒れてもおかしくないほどに躓きの石がごろごろしていた。  それは一週間後に起こった。夕暮れも夜中も見張っていたジルベールは、ついに柵の向こうに見覚えのある羽根飾りを発見した。ニコルがそわそわと落ち着かなくなった。何を隠そうその羽根飾りは、取り巻きに混じってパリからトリアノンに移って来たボージール氏のものだったのである。  しばらくの間ニコルはつれなかった。しばらくの間はボージール氏を寒さの中で凍えさせ、太陽の下で溶けるがままにさせた。こうした貞淑な振る舞いに、ジルベールはがっかりとしていた。だがある晩、どうやらボージール氏の身振り手振りも極みに達して説得に成功したらしく、アンドレがド・ノアイユ夫人と館で正餐を摂っている間を利用して、ニコルはボージール氏と一緒になった。ボージール氏は友人である厩舎の責任者を手伝って、アイルランド馬を調教していた。  二人は中庭から庭園に移動し、庭園からヴェルサイユに通ずる鬱蒼とした並木道に移った。  ジルベールは恋人たちを追った。さながら足跡を見つけた虎のように、残忍な喜びを感じていた。二人の足取りを数え、溜息を数え、聞こえた言葉を頭に刻みつけた。その結果に満足を覚えたのだと考えるべきであろう。というのもその翌日、あらゆる悩みから解放されたかの如く、ジルベールは屋根裏で鼻歌を歌いながら考えに耽っていた。もうニコルに見られても怖くはない。それどころかニコルの眼差しに立ち向かう気配さえ見受けられた。  ニコルは恋人の絹手袋を繕っている最中だった。歌声を聞いて顔を上げ、ジルベールを眺めた。  ニコルが最初におこなったのは、蔑むように口を尖らせることだった。刺々しく口を曲げ、一里先からでも敵意を感じるような……だがジルベールはこの目つきと口撃に笑顔で耐えた。挑発するように振る舞いながら歌を歌い続けたため、ニコルが顔を伏せて赤らめた。  ――どうやらわかったようだな。僕が望んでいたのはそういうことだ。  そこでジルベールは同じ動作を繰り返し、ニコルを震え上がらせた。何としてもジルベールと話し合いたい、あの皮肉な視線の重みから逃れたいというのがニコルの思いだった。  ジルベールはまたもや追いかけらていることに気づいた。屋根裏にジルベールがいると知って、ニコルが窓際で立てている乾いた咳の音を間違えようがない。ジルベールが降りるのか上るのか案じながら、廊下で行ったり来たりしているのだ。  精神力と行動力のすべてを費やして得た勝利に、喜びを爆発させた瞬間だった。ニコルは油断なく待ちかまえていたので、ジルベールが階段を上ればそれに気づいた。ニコルは声をかけたが、ジルベールは答えなかった。  ニコルをさらに先へと突き動かしたのは好奇心であろうか、はたまた恐れであったろうか。ある晩、アンドレからもらった可愛いヒールを脱ぐと、思い切って震えながらも素早く軒下に忍び寄った。そこからならジルベールの部屋の出口を見ることが出来る。  まだ陽が充分に残っていたので、ニコルが近づくのはジルベールには気づかれていた。花壇の繋ぎ目、いや切れ目を通り抜けているのがはっきりと見える。  ニコルが扉を叩いた。ジルベールが室内にいるのを承知の上だ。  ジルベールは答えなかった。  だが誘惑に負けそうだった。許しを得に来た人間にいとも簡単に恥を掻かせることが出来るのだ。毎晩タヴェルネでは一人寂しくじりじり震えながら、扉を凝視し、女狐の魔性の魅力を貪っていたのを思い出した。自惚れに駆られて、閂を外そうとしていつの間にか手を伸ばしていた。いやが上にも慎重になって、押し入られぬように掛けていたというのに。  ――いや、いけない。罠だ。お願いしに来たのだって、目的や企みがあってのことだ。そうとなったらニコルは何かを手に入れるに違いない。僕の方が何かを失わないとも限らないじゃないか?  ジルベールは一歩も引かなかった。そうなるとニコルもニコルで一歩も引くまいと、さらに計略を練った。様々な策戦と対抗策の火花が散らされた結果、交戦中の二人はある晩に礼拝堂の入口で偶然出会い、以下の言葉を交わすに至った。 「あら、今晩は、ジルベール。ここにいたの?」 「今晩は、ニコル。じゃあ君もトリアノンに?」 「見ての通り、お嬢様の小間使い」 「僕は庭師見習い」  ここでニコルが優雅にお辞儀をし、ジルベールも宮廷人のようなお辞儀を返し、二人は別れた。  ジルベールは屋根裏に戻り、帰宅途中であったかのように振る舞った。  ニコルは建物から出てそのまま歩いて行った。だがジルベールはこっそりと降りて来てニコルの後を追った。ボージール氏に会いに行くのだろうと見当をつけたのだ。  案の定、並木道の木陰で待っている人物がいた。ニコルが近寄ったが、大分暗くなっていたのでそれがボージール氏かどうかは、ジルベールには見分けられなかった。羽根飾りがないのも解せない。部屋に戻るニコルは放っておいて、逢い引きの相手をトリアノンの囲いまで尾けることにした。  それはボージール氏ではなく、年配というよりはむしろ高齢の人物であった。年を取っているにもかかわらず、大貴族の風格があったし、歩き方もきびきびとしている。ジルベールが大胆にも鼻先に触れんばかりまで近づいてみると、その人物はド・リシュリュー公爵だった。 「驚いたな! 指揮官代理の後はフランス元帥か。ニコル嬢も出世したもんだ!」 第九十六章 高等法院  こうしたちっぽけな陰謀がトリアノンの菩提樹の下や花壇の中で温められ孵され、小さな世界の虫けらたちにごたごたした生活を提供している間にも、いみじくもジャン・デュ・バリー氏が神話になぞらえて妹に書き送ったように、町では巨大な陰謀が、不穏な嵐が、テミスの宮殿の上に大きな翼を広げていた。  高等法院、即ちかねてよりフランスに敵対している勢力の残党は、気まぐれなルイ十五世のお膝許で足を休めていた。だが彼らの庇護者であったド・ショワズール氏が失脚して以来、危険が近づいているのを感じ、状況の許す限り全力でその危険を払いのけようと心がけていた。  大きな昂奮の渦となって燃え立たっていたのは、一人一人の問題がきっかけであった。それはあたかも軍による大きな激戦が、孤独な狙撃兵たちによって引き起こされるのにも似ていた。  ド・ラ・シャロテ氏がデギヨン氏に立ち向かったことは、封建制度に対する第三身分の戦いを体現しており、そうとなったら輿論はそれを手放さず、問題がはぐらかされることも許さなかった。  ブルターニュの高等法院を始めとしてフランス中の高等法院は多少なりとも素直で忠実な建言を大海の如く申し立てていたのだが、デュ・バリー夫人から働きかけられた国王は、つい先だって、封建制度に対して第三党と対立するお墨付きを与えていた。近衛軽騎兵隊の指揮官にデギヨン氏を任命したのである。  ジャン・デュ・バリー氏の言い回しは正鵠を射ていたと言っていい。それは高等法院の椅子に坐っている敬愛と忠誠の念深き議員たちに対する、荒っぽいびんたであった。  このびんたはどのように受け止められるのだろうか? それが宮廷や町で毎朝日の出と共に問いかけられる疑問であった。  高等法院の構成員は抜け目ない人々であったので、ほかの人々が困惑している場合でも、物事をはっきりと見極めていた。  まずはびんたの事実とその結果について、各人が意見の一致を見た。それからびんたが繰り出されたことと喰らったことを確認してから、以下の決定を下した。  高等法院裁判所は前ブルターニュ総督の政策について審議し、また意見を述べるものとする。  だが国王はこの攻撃をかわすために、大貴族や王族に禁令を出した。裁判所に赴いてデギヨンに対する討議に出席することが禁じられ、大貴族たちはそれに従った。  そこで高等法院は自ら事を為すことを決め、判決を下した。その判決の中では、デギヨン公爵が嫌疑をかけられ厳しく取り調べられ罪に問われたこと、さらにはその名誉を汚したという事実、(代わるものなど何一つない)王国の法令と勅令によって定められたしきたりと流儀に則り貴族院で下された判決により、その名誉を貶めている非難と嫌疑を晴らすまでは議員の資格を解かれたこと、以上のことが主張されていた。  だがそうした判決は、高等法院の法廷において関係者の前で下され、議事録に記録されただけだった。世間に知れ渡らなくてはならない。未だかつてフランスで小唄が巻き起こせるとは思えなかったような騒ぎが必要だった。小唄を人や事態の支配者に変えるほどの騒ぎが必要だった。高等法院の判決に小唄と同じ力を与えなくてはならない。  パリは騒ぎに飛びつくことしか求めていなかった。裁判所にも高等法院にもほとんど興味を示さずに、いつでもかっかとしていたパリは、百年来落とされて来た涙の種に代わって笑いの種を待ちかねていた。  そこでこの判決は然るべく下された。高等法院は目の届くところでそれを印刷させるべく役員を任命した。一万部が印刷され、速やかに配られた。  それから、裁判所がしたことを主要な関係者に知らせることが決まりだったので、同じ役員たちがデギヨン公爵の邸に判決文を届けた。デギヨン氏は緊急の会談のためパリに戻っていたところだった。  この会談こそほかでもない、公爵と伯父である元帥との間で不可欠となった忌憚のない率直な話し合いであった。  ラフテの努力の甲斐もあって、ショワズール氏の大臣職に関する国王の仰せに、気高くも老元帥が歯向かったことは、一時間でヴェルサイユ中に知れ渡っていた。ヴェルサイユのおかげで、パリやフランスの何処ででも同じ情報が周知のものとなっていた。その結果、ド・リシュリュー氏は数分前から人気者になっており、そのためデュ・バリー夫人と甥っ子には政治的な思惑から顔をしかめてみせていた。  既に嫌われ者であるデギヨン氏にとって状況はかんばしいものではない。元帥は人から憎まれてはいたが恐れられてもいた。それというのもルイ十五世治下で尊敬され重んじられていた貴族というものの生き証人であったからだ。元帥は極めて頭の回転の速い人物であったので、方針を決めた後でも、状況が許すなりそこから名案が浮かんで来るなりした時には、容赦なくその方針を引っ込めることが出来た。いわばリシュリューは、いつまでも衰えを知らない厄介な敵だったのである。不意打ちのようなことをおこなうために、決まって敵意の最悪の部分を手控えているものだから、なおさらであった。  デギヨン公爵はデュ・バリー夫人との会見を終えて以来、鎧に二つの瑕を負っていた。リシュリューが平静な仮面の下に恨みと復讐の思いを忍ばせていることなどすっかりお見通しであったので、荒天時に為すべきことを為した。勇気を出して乗り込んで行った方が危険の少ないことはよくわかっていたので、大砲を使って竜巻を霧散させた。  手始めに重大な話し合いをすべく、あちこち伯父を探そうとした。だが元帥の方でもそれは先刻承知であったので、これほど難しいことはなかった。  進軍と退却が始まった。甥の姿を目にするや、元帥は勝ち誇ったような顔を見せつけて、あっという間に人垣を作ってしまい、どんな会話も不可能になった。いわば元帥は難攻不落の砦に籠もって、敵を迎え撃っていた。  デギヨン公爵は竜巻を吹き飛ばした。  下手な小細工はせずヴェルサイユの伯父の家に乗り込んだ。  だが中庭側の窓で見張っていたラフテが公爵のお仕着せに気づき、それを元帥に知らせた。  公爵が元帥の寝室まで入り込んだところ、そこにはラフテがいて、秘密めかした笑みを浮かべながら、伯父上様は外で夜を過ごしております、と「不注意にも」口を滑らせた。  デギヨン氏は口を結んで引き下がった。  自宅に戻ると元帥に宛てて面会を願う手紙を書いた。  元帥は返事を躊躇うことなど出来なかった。返事をするのであれば面会を拒むことなど出来なかったし、面会を認めるとすればどうやって話し合いを拒めるというのだろう? デギヨン氏は腹黒い目的をにこやかな態度の裏に隠している物腰柔らかな刺客のようだった。地面に頭を擦りつけて標的を連れ込むや、情け容赦なく喉を切り裂く刺客である。  元帥は状況を見誤るほど自惚れてはいなかったし、甥の力をよく知っていた。顔を合わせてしまえば、敵は許しを請うか譲歩を迫るだろう。だがリシュリューは決して許しはしないし、敵に譲歩を示すことは政治的に致命傷になる。  そこでデギヨン氏の手紙を受け取ったリシュリューは、数日間パリを離れていたふりをした。  この点について相談されたラフテは、以下のような助言をした。 「私共はもうすぐデギヨン様を破滅させることになります。高等法院の方々が活動しております。デギヨン様がそれに気づかれて、爆発前に御前様を捕まえることが出来ましたなら、最悪の場合には協力するという約束を御前様からお取りつけなさるでしょう。いくら恨みが強いといっても、御前様は一族の利益を前にして素通りさせることなど出来ない方でございますから。その反対にお断りになりますと、デギヨン様は御前様を最低の敵呼ばわりしてお発ちになるでしょうが、痛みの原因がわかれば、たとい傷は癒えなくとも痛みは和らぐものでございます」 「その通りだな。だがいつまでも隠れているわけにはいくまい。爆発まで何日ぐらいを見ておる?」 「六日でございます、閣下」 「確かか?」  ラフテはポケットから高等法院評定官の手紙を取り出した。それには以下の二つの文章が書かれてあった。  判決が下されることが決まった。最終期限は木曜日になった。 「単純明快だな。お前の手で言伝を添えて公爵に手紙を送り返してくれぬか」 公爵閣下  元帥閣下が×××にお発ちになったことをお伝え申し上げます。元帥閣下は少しお疲れのため、空気を変えることが必要だと担当医が判断なさったのでございます。過日お話し下さいましたことより判断いたしまして、元帥閣下との会談をご希望でございましたなら、木曜日の晩には×××よりお戻りになってパリの館でお休みになっている予定であることをお伝え申し上げます。間違いなくそこでお会い出来るはずです。 「では木曜日まで何処かに匿ってくれ」  ラフテは指示の一つ一つを忠実に実行した。言伝を書いて送り届け、隠れ場所を見つけさせた。ところがリシュリュー公爵はひどく退屈して、ある晩トリアノンまでニコルと話しに出たのである。何も危険はなかった、というか、何も危険はないと信じていた。デギヨン公爵はリュシエンヌだと承知していたからだ。  こうした企みの結果、仮にデギヨン氏が何かに気づいたとしても、少なくとも敵の剣に直面するまでは忍び寄る攻撃を予期することは出来なかったであろう。  待ちに待った木曜日が訪れた。姿を見せない敵とついに相まみえてしのぎを削るのだという期待を抱きながら、デギヨン氏はヴェルサイユを後にした。  先ほど述べたように、それは高等法院が判決を下した日だ。  静かなうねりだったが、パリっ子にはすべてお見通しだった。波の高さならよく知っている。デギヨン氏の四輪馬車が通った街路には、パリっ子たちが溢れていた。  だがデギヨン氏に気づいた者はいなかった。用心を怠らず、お忍びに出かけるように紋章なしの馬車に二人の密使を乗せて走っていたからだ。  人々が慌ただしくあちこちでビラを見せ合い、腕を激しく振り回しながらそれを読み上げ、地面に落ちた砂糖に群がる蟻のようにひとかたまりになって行列を作っていた。だがまだ狂乱は危険なほどではない。人々は麦税のことやオランダ新聞の記事のこと、ヴォルテールの四行詩や、デュ・バリー夫人やド・モープー氏を囃す小唄のことを話すために、こうして集まっていた。  デギヨン氏は真っ直ぐリシュリュー氏の邸に向かった。邸にはラフテしかいなかった。 「先ほどから元帥閣下をお待ちしているのですが、恐らく替え馬が遅れて市門で足止めを食っていらっしゃるのかと存じます」  デギヨン氏は不機嫌な顔で、待つことを伝えた。言い訳をつかまされて、またもや負けを喫するとは。  元帥閣下がお戻りになって、デギヨン様をお待たせしていることがわかろうものなら、きっとがっかりなさるでしょう、という返事を聞いた時にはさらにひどい気分になった。元帥閣下は初めの予定通りにはパリでお休みになれそうもございませんし、田舎から一人で戻るわけではありませんし、邸で新しい報せを受け取るためだけにパリを通り過ぎることになるでしょう。ですからデギヨン様はご自宅にお戻りになるべきかと存じます。そうすれば通りすがりに元帥閣下がお立ち寄りになれますから。 「いいか、ラフテ」デギヨン氏ははぐらかすような答えに顔を曇らせた。「お前は伯父の良心だ。正直な人間として答えてもらおう。私は遊ばれているな、違うか? 元帥閣下は私と会う気はないのだろう? 口を挟むな、ラフテ。お前からはこれまでに何度も助言を仰いで来た。今後とも機会があれば私はお前の味方だ。私はヴェルサイユに戻らねばならないのか?」 「公爵閣下、名誉に誓って申し上げます。今から一時間以内に、元帥閣下はご自宅にお伺いいたします」 「ではここで待っていても変わらぬではないか。どうせここに来るのだ」 「恐れながら申し上げますと、閣下はここに一人でいらっしゃるのではございません」 「わかった……信用しよう」  そう言うと公爵は、夢見がちではあるが同時に貴族的で気品のある様子で立ち去った。甥が立ち去ると、気品などまるでない元帥がガラスの嵌った小部屋から顔を出した。  元帥はにやりとした。カロが『サン=タントワーヌの誘惑』で描いた醜い悪魔のような笑顔だった。 「疑われてはおるまいな、ラフテ?」 「まったく問題ございません」 「今は何時だ?」 「時間は問題ではございません。シャトレの検事が来るのを待たなくてはなりません。役員たちはまだ印刷所です」  ラフテの話が終わらぬうちに、従僕が秘密扉を開けて垢だらけの醜い真っ黒な人物を通した。デュ・バリー氏であれば激しい嫌悪感に任せて鮮やかに描写してみせたことだろう。  ラフテは元帥を小部屋に押し戻し、笑顔でこの男を出迎えた。 「あなたでしたか、フラジョ先生! ようこそおいで下さいました」 「あなたのためなら、ド・ラフテさん。すべて終わりました!」 「印刷したのですね?」 「五千部印刷しました。最初に刷った分は既に町に出回っています。残りは乾かしている最中です」 「何てことだ! 元帥閣下の家族はがっかりなさることでしょうね!」  フラジョ氏は答えを避けるために、言いかえるなら嘘をつくのを避けるために、大きな金属容器を取り出し、そこからスペイン煙草をゆっくりとつかみ取った。 「それからどうしました?」ラフテがたずねた。 「台本通りですよ。役員の方々は印刷と頒布に満足すれば、印刷屋の前に待たせておいた四輪馬車に乗って、デギヨン公爵に判決を知らせに行くでしょうよ。幸か不幸かは知りませんがね、デギヨン氏はパリの自宅にいますから、本人と話が出来るという手筈です」  ラフテが唐突に手を伸ばして棚から大きな訴訟袋をつかんで、フラジョ先生に手渡した。 「あなたに申し上げていた書類がこれです。元帥閣下はあなたの智識を信頼なさって、この事件を委ねました。あなたにとっても悪い依頼ではなかったはずです。デギヨン様とパリ全権高等法院の嘆かわしい対立に労を執って下さったことを感謝いたします。あなたの有益な助言に感謝いたします!」  そしてそっとではあるがさり気なく急いで、書類の重さに大喜びしているフラジョ先生を控えの間に連れ出した。  すぐに元帥が独房から抜け出した。 「さあ馬車だ! 見世物に間に合いたいなら無駄にしている時間はないぞ。役員たちの馬に負けぬように急いでくれ」 第九十七章 大臣の道のりは薔薇色ではないとわかった次第  ド・リシュリュー氏の馬は役員たちの馬より速く走った。元帥はデギヨン邸の中庭に一番乗りした。  デギヨン公爵はもう伯父を待たずに、敵が正体を現したことをデュ・バリー夫人に伝えるため、リュシエンヌに戻る準備をしていた。だが取次から元帥の到着を告げられると、消沈していた機智がまどろみの奥底から甦った。  デギヨン公爵は伯父の前に出ると、恐れの分だけ愛情を水増しして手を握った。  リシュリュー元帥もそれに倣った。感動を誘う光景であった。しかしながらデギヨン氏が急いで説明を始めようとすると、元帥はそれを全力で押しとどめた。曰く絵なり銅像なりタペストリーを見ているから、曰く死ぬほど疲れているからと愚痴をこぼして。  スペイン継承戦争の折りに、ド・ヴィラール氏がオイゲン大公をマルシエンヌで包囲したように、デギヨン公爵は伯父の退路を断って攻撃を始めた。 「伯父上、フランス一の切れ者であるあなたが、私のことを誤解なさっているというのは本当ですか? それも私たち二人のために動こうとしないからだとお信じになったせいで?」  リシュリューは尻込みするのをやめて、強気に出た。 「それがどうした。わしがお前を誤解しているかどうかで、何か変わるのかね?」 「伯父上は私に腹を立ててらっしゃる」 「それはまたどうして?」 「逃げるのはなしですよ、元帥閣下。お会いしたい時にはいつも、避けられてしまうという事実に尽きます」 「天地神明に誓って、わからんな」 「では説明いたしましょう。国王が伯父上を大臣に任命なさろうとしなかったために、私が近衛騎兵隊を拝受した際、自分が見捨てられ裏切られたとお感じになったのではありませんか。あの伯爵夫人は伯父上に好感を抱いていらっしゃいますが……」  ここでリシュリューは耳をそばだてたが、それは甥の言葉にだけではなかった。 「伯爵夫人がわしに好感を抱いていると申すのか?」 「証明できます」 「ああ、いや、反論はせぬよ……わしに肩を貸してもらうために送り込んだのだからな。お前はまだ若い、故にまだ強い。お前は成功し、わしは失敗した。それが世の習いではないか。どうしてお前が気後れしておるのか、とんとわからぬな。わしのために働いていたのなら、いくらでも見返りがあるだろうし、わしを裏切っておったなら、その強欲のしっぺ返しをするまでだ……そのために説明するのではないのか?」 「確かにそうですが……」 「まだまだひよっこだな。身分は申し分ない。フランス大貴族、公爵、近衛騎兵隊の指揮官、六週間後には大臣になる。度量が狭くてはいかんぞ。上に立つ者は人や罪を赦すものだ。考えてみよ……わしは譬え話が好きでな……わしらが二頭の驢馬であると思ってみよ……そこで聞こえたのは何じゃ?」 「何でもありません。続きをお聞かせ下さい」 「いや、中庭で馬車の音がしたぞ」 「伯父上、やめないで下さい。あなたのお話ほど面白いものはありません。私も譬え話は好きな方です」 「よかろう、わしが言いたかったのはな、栄耀を誇っている間は、面と向かって非難されることもないし、妬みや恨みを恐れる必要もないということだ。だがへまをしたりつまずいたりしようものなら……気をつけるがいい、途端に狼に襲われるであろう。だがそれより、先ほど申したように、控えの間で音がするではないか。どうやら誰かが大臣の任命状を届けに来たかな……伯爵夫人が閨房で一肌脱ぐことになるのだろう」  取次が入室した。 「高等法院役員の方々がお見えになりました」不安そうに伝える。 「ほほう!」リシュリューが声を洩らした。 「高等法院役員がここに?……何の用だろう?」デギヨン公爵は伯父の笑顔を見ても不安をぬぐえなかった。 「国王の御名において!」控えの間の奥から声が響いた。 「おやおや!」リシュリューが声をあげた。  デギヨン氏は真っ青になって立ち上がり、戸口まで行って自ら二人の役員を招き入れた。その後ろには二人の取次が泰然として控え、さらに向こうには従僕が集まっておどおどとしている。 「何の用です?」とたずねたデギヨン公爵の声は震えていた。 「畏れながらデギヨン公爵閣下ですか?」役員の一人がたずねた。 「デギヨン公爵に間違いない」  すると役員は深々とお辞儀をし、ベルトから正式な令状を抜き取り、はっきりとした声で読み上げた。  それは詳細かつ完全な判決であった。それによるとデギヨン公爵はその名誉を汚す嫌疑及び事実によって厳重に取り調べられ罪に問われ、王国の大貴族としての職務を停止されていた。  デギヨン公爵は雷鳴に打たれたように呆然として、令状が読み上げられるのを聞いていた。台座の上の銅像ほどにも動くことが出来ず、差し出された令状をつかむために手を前に出すことさえ出来なかった。  令状をつかんだのはリシュリュー元帥であった。デギヨン公爵と同じく立ってはいたが、固まったりはせずにきびきびと足を運んで、令状を読んでから役員たちにお辞儀を返した。  デギヨン公爵がまだ茫然自失から立ち直れずにいるうちに、役員たちは遠ざかっていた。 「何とも手ひどい攻撃だったな! 屈辱的なことに、お前はもうフランス大貴族ではないらしい」  公爵が伯父を振り返った。ようやくその瞬間になって、魂と脳みそが正気に戻ったようだった。 「予想もしておらなんだようだな?」 「では伯父上は?」 「高等法院が国王の寵臣や寵姫に激しい攻撃を仕掛けるつもりなのを予想しろなどと、無茶を言うな……寵臣たちも木っ端微塵だな」  デギヨン公爵は腰を下ろし、焼けるような頬に手を当てた。 「しかしあれだな」老元帥はなおも傷口深く刃を突き立てた。「近衛騎兵隊の指揮官に任命されたことで大貴族の地位を剥奪されたのだとしたら、大臣に任命された日には身柄を拘束されて火あぶりにされてしまうぞ。高等法院はお前を憎んでいる。用心するがいい、デギヨン」  デギヨン公爵はこのひどい嘲笑に、英雄的な力でもって耐えた。災難が公爵を強くし、魂を浄化していた。  リシュリューの方では、こらえたのは冷淡で愚鈍だからであり、それほど刃が深くは刺さらなかったのだと考えた。 「もはや大貴族ではないのだから、法官たちの憎しみに晒されることもさしてあるまい……数年の間は日陰で暮らせ。もっとも、願ったわけでもないのに日陰の方からやって来たわけだが、お前にとっては守り神だ。大貴族の地位を失っては、大臣になるのは難しかろう。厄介ごとから救われたのだ。それでも戦いたいというのなら、お前にはデュ・バリー夫人がいる。伯爵夫人に気に入られているというのは大きな支えだぞ」  デギヨン氏が立ち上がった。老元帥から苦痛をこうむったばかりだというのに、怒りの眼差しを向けることさえしなかった。 「仰る通りです、伯父上」と答えた声は落ち着き払っていた。「最後の助言はさすがと言うほかありません。あなたがご紹介下さったデュ・バリー伯爵夫人なら。私について極めて好意的かつ情熱的に仰った話の内容は、リュシエンヌ中の人間が証言できます。デュ・バリー夫人なら私を守って下さるでしょう。神の恩寵により、あの方は私を好いて下さっています。勇敢な女性ですし、国王陛下のお心に力を及ぼすことが出来る。助言を感謝いたします。救済の地と信じて駆け込むことにいたします。馬を! ブルギニョン、リュシエンヌまで!」  元帥は笑いかけたまま止まっていた。  デギヨン氏は伯父に向かって恭しくお辞儀をし、不思議がっている伯父を残して応接室を離れた。残されたリシュリュー元帥としても、デギヨン氏の気高く瑞々しい肉体に咬みついていた執念から梯子を外された恰好だった。  その夜、パリっ子たちは一万部の判決文を町中で奪い合って読んだ。その熱狂のうちに、老元帥はかろうじて慰めを見出した。だがラフテがその晩の首尾を確認しに来た時には、溜息を洩らすことを止められなかった。  だがラフテは口を閉ざすことなく話しかけた。 「では攻撃はかわされたのですか?」 「ウイでありノンだ。だが傷は深くない。抜かりがあったと自分を責めるよりはましなものが、トリアノンにはある。わしらは二羽の兎を追っていた……何と馬鹿げた騒ぎだったか……」 「なぜですか? 『まし』よりいいものが掌中ではないのですか?」 「考えてもみよ、人が最善のものを手にすることなどないのだ。手にしていないからこそ、別のもの、つまり差し当たり手にしているものを利用するのだ」  ラフテが肩をすくめたが、リシュリュー氏は咎めなかった。 「デギヨン氏は切り抜けられるとお思いでしょうか?」 「国王は切り抜けると思うか?」 「国王には何処にでも逃げ場がございますから。ですが問題は国王ではないのではございませんか」 「国王の行くところ、デュ・バリー夫人も離れずについて行く……デュ・バリー夫人が行けば、デギヨンもついて行くだろう……デギヨンは……だがお前は政治のことがわかっておらぬよ、ラフテ」 「閣下、フラジョ先生は別の考えをお持ちでございます」 「そのフラジョ先生は何と言ったのだ? そもそも何者だね?」 「検事でございます、閣下」 「それで?」 「はい、フラジョ氏は国王ご自身も逃げられないだろうと仰いました」 「ほほう! では誰がライオンを止めるのかな?」 「閣下、それは鼠でございましょう!……」 「フラジョ先生か、いやはや!」 「仰せの通りでございます」 「信用しているのだな?」 「悪さを請け合う検事なら誰でも信用しております」 「ではラフテ、フラジョ先生のお手並み拝見といこうか」 「私も同じことを考えておりました」 「では寝る前に夜食を摂ろう……わしの甥が可哀相にもはやフランス大貴族ではなく、やがて大臣でもなくなるのだと思うと、やりきれんわい。わしが伯父であろうと、なかろうとな」  リシュリュー氏は溜息をついてから、笑い出した。 「ですが御前様は大臣に必要なものをちゃんと持っていらっしゃいます」とラフテが答えた。 第九十八章 デギヨン氏の逆襲  高等法院の判決がパリやヴェルサイユを賑わせていたその翌日、次に何が起こるのか知りたくて誰もが期待をふくらませていたその翌日、ド・リシュリュー氏はヴェルサイユに出かけてまたいつも通りに過ごしていたのだが、ラフテが手紙を持って部屋に入るのを目にした。秘書が手紙に感じ取っていた不安は、瞬く間に主人にも伝染した。 「また何かあるのか、ラフテ?」 「中に入っているのはあまり嬉しい報せではなさそうです、閣下」 「何故そう思う?」 「手紙の差出人がデギヨン公爵閣下だからでございます」 「ほう? 甥からか?」 「はい、閣下。国王顧問会議の後でお部屋付きの取次がやって参りまして、御前様宛てにとこの封書を手渡したのでございます。十分前からためつすがめついたしましたが、悪い報せだという予感をどうしてもぬぐえませんでした」  リシュリュー公爵が手を伸ばした。 「見せてくれ。わしは臆病ではない」 「予め申しておきますが、これを手渡す時に取次はあからさまに笑っておりました」 「不吉なことだな。だがまあ見せてくれ」 「さらに取次は、『この手紙を元帥閣下に直ちに届けるように、デギヨン公爵閣下は念を押してらっしゃいました』と言っておりました」 「糞ッ! お前が悪の遣いだと言わせんでくれ!」老元帥はしっかりした手つきで封印を破った。  手紙を読む。 「顔をしかめてらっしゃいますね」ラフテは手を後ろに回して見つめていた。 「あり得ぬ!」リシュリューは読みながら呟いた。 「重大なことなのでございますね?」 「満足げではないか」 「私は間違っていなかった、とわかりましたものですから」  元帥は手紙に戻った。 「国王は人がいい」すぐにそう洩らした。 「デギヨン様を大臣に任命されたのですか?」 「それ以上だ」 「ではいったい?」 「読んで意見を聞かせてくれぬか」  今度はラフテが手紙を読んだ。筆跡も文面もデギヨン公爵自身の手になるものだった。 伯父上  伯父上の助言が実を結びました。私たち一家の友人であるデュ・バリー伯爵夫人に今回の危難を打ち明けましたところ、国王陛下のお耳に入れようと取りはからって下さいました。陛下に忠実に仕えております私に対して高等法院が粗暴な仕打ちをおこなったことに、陛下は憤慨していらっしゃいました。本日の顧問会議で陛下は高等法院の判決を破棄なさり、フランス大貴族の職務をこれからも続けるよう私に厳命なさいました。  伯父上がこの報せにどれほど喜んで下さるか、陛下が本日の会議でどれほど重い決断を下されたか、それがわかっておりますのでこうしてお手紙を差し上げました。秘書に写しを作らせました。世間に知らせる前にお知らせいたします。  二心ない敬意をお受け取り下さい。これからもお引き立てのうえご忠告をお願いいたします。  デギヨン公爵 「しかもからかわれておるではないか」リシュリューが声をあげた。 「私もそう思います、閣下」 「国王か! 国王が雀蜂の巣に飛び込むとはのう」 「昨日は信じようとなさいませんでしたね」 「飛び込まぬとは言うておらぬぞ、ラフテ殿。切り抜けるだろうと言うたのだ……どうだ、お前の見るところでは切り抜けたかな」 「高等法院が敗れたというのは事実でございますから」 「それは同感だ!」 「今のところは『ウイ』と申し上げておきます」 「これからもずっと、であろう! 昨日から予感はしておったのだ。お前があんなに慰めるものだから、必ずや不愉快なことが起こるに違いないとな」 「閣下、がっかりなさるのが早すぎるかと存じますが」 「ラフテ先生、お主は馬鹿だのう。わしは敗れたのだ。報いを受けることになろう。リュシエンヌで笑いものになるのがどれほどの屈辱か、お前にはわからぬのだな。今も公爵はデュ・バリー夫人の腕の中でわしをからかっておるのだぞ。ション嬢とジャン・デュ・バリー殿もわしのことを笑いものにしておるだろう。あの黒ん坊も飴をしゃぶりながらわしを嘲笑っているに違いあるまい。糞ッ! 温厚なわしでもこれには腹が立つわい」 「お腹立ちでございますか?」 「そう言ったではないか、腹が立つ!」 「では御前様はああしたことをなさるべきではありませんでした」ラフテは悟ったように返答した。 「そそのかしたのはお前であろう、秘書殿」 「私が?」 「そうだ」 「デギヨン様がフランス大貴族であろうとなかろうと、私には関係のないことでございます。違いますか? 甥御さんも私を巻き込むようなことはなさらないかと存じますが」 「ムッシュー・ラフテ。度が過ぎるぞ」 「四十九年前からそのお言葉を頂戴して参りました」 「それでももう一度繰り返そう」 「四十九年となく、それで安心して参りました」 「ラフテ、そんな風にわしのためにしてくれたなら……!」 「御前様のささやかな感情のためにでございますか、とんでもございません……御前様のように聡明な方は得てして、私のような半可通には思いも寄らないようなぽかをなさるものです」 「どういうことかね、ラフテ。わしが間違っているのなら、それを認めるのはやぶさかではないぞ」 「昨日の御前様は何よりも復讐をお考えだったのではありませんか? 甥御さんに恥を掻かせ、高等法院の判決を手繰り寄せることで、クレビヨン・フィスの言うように犠牲者を震えおののかせようとお考えになっていらっしゃいました。元帥閣下、ああした芝居からは莫大なお金が出てゆきますし、ああした慰みは高くつくものです……御前様は裕福でいらっしゃいます、いくらでもお支払いになればよろしい!」 「お前がわしだったらどうしていたというのだ、ソロモン殿?」 「何も……私だったなら、生きている徴候も見せずにただただ待っていたことでしょう。ですが御前様は、デギヨン様の方が御前様よりも若いことにデュ・バリー夫人がお気づきになった途端、高等法院をデュ・バリー夫人に敵対させるのを迷っておいででした」  うなり声が元帥の返答だった。 「それに、高等法院がああしたことをしたのは御前様が尻を叩いていたからでございます。そして判決が下されると御前様は、何一つ疑っていない甥御さんに助言をお贈りになりました」 「なるほど見事だ。わしが間違っていたと認めよう。だがお前はわしに警告すべきであった」 「最悪の行動をなさいませぬように、ですか?……私のことを誰かとお間違えではございませんか、元帥閣下。私のことをよく訓練された子分だと誰彼かまわず仰っていらしたではございませんか。それに馬鹿げたことが起きたり厄介ごとが生じるのを、喜んで見ているようなことをまさか望んでらっしゃらないでしょう?」 「では厄介ごとが起こるというのか、魔術師殿?」 「恐らく」 「いったい何が?」 「御前様がこだわっておいでのことです。それにデギヨン様は高等法院とデュ・バリー夫人の橋渡しをなさるでしょう。そうなればデギヨン様は大臣になり、御前様は追放か……またはバスチーユです」  元帥は怒りのあまり嗅ぎ煙草を絨毯にぶちまけた。 「バスチーユだと!」元帥は肩をすくめた。「ルイ十五世はルイ十四世だと申すのか?」 「そうは申しません。ですがデュ・バリー夫人がデギヨン様の後ろ盾を得たならば、ド・マントノン夫人に匹敵いたしましょう。お気をつけなさいませ! 今はもう飴玉と雛鳥を持って来て下さる王女の方はいらっしゃいません」 「見事な推察だ」しばらく押し黙っていた元帥がようやく口を開いた。「……お前は未来を読んだ。だが現在はどうなのだ?」 「元帥閣下のような聡明な方に助言などいたせません」 「いいから言うのだ、悪ガキ殿。お前までわしをからかっているわけではあるまい……?」 「年数をお間違えでございますよ。四十歳を過ぎた男に悪ガキはございません。私はもう六十七です」 「どうでもよい……早くわしを助け出してくれ……早く!……早く!……」 「助言せよと?」 「したいようにせよ」 「まだその時期ではございません」 「やはりふざけておるな」 「ふざけているのならいいのですが……ふざけられるような状況ということですから……ですが生憎と、ふざけられるような状況ではございません」 「何だその言い訳は。その時ではないと?」 「はい、閣下、まだその時ではございません。国王のお達しがパリに到着してしまっていたなら、何も申しません……ダリグル議長殿(président d'Aligre)に伝令を送るべきだったのではありませんか?」 「馬鹿にされるのが早くなるだけではないか……!」 「くだらない誇りはお捨てになることです、閣下! 聖人すら動揺させることが出来るお方ですのに……私は対英計画を仕上げてしまいますから、御前様は大臣がらみの陰謀を最後まで終わらせて下さいませ。まだ途中ではございませんか」【×聖人を動揺させなくてはならないのですよ……私は英国侵攻の計画を終わらせてしまいましょう、御前様は大臣の陰謀に溺れてしまって下さい。まだ途中までしか終わっておりませんから」  ラフテ氏の気分が沈んでいることは元帥にはよくわかっていた。ひとたび憂鬱に取り憑かれるや、もはや手もつけられないほど塞ぎ込んでしまうことはよく知っている。 「機嫌を直してくれ。わしがわかっておらなんだとしたら、わからせてくれぬか」 「ではこれからどのように行動するのか、その計画の道筋をなぞることをお望みですか?」 「無論だ。自分のことにすら道筋を立てられんと言われてしまったのだからな」 「そういうことにいたしましょうか。ではお聞き下さい」 「頼む」 「御前様はダリグル様のところに、デギヨン様の手紙をお届けになって下さい」ラフテは淡々と話し始めた。「顧問会議で国王陛下が採用なさいました法令を同封するのをお忘れなく。高等法院が直ちに集まり詮議するまでじっとお待ち下さい。すぐにそうなるはずです。それから四輪馬車に乗って、御前様の検事であるフラジョ先生のところにお立ち寄り下さい」 「何だと?」前日同様、リシュリューはこの名前を聞いて飛び上がった。「またフラジョ先生か! フラジョ先生と来たら何でも出来るようだな。フラジョ先生のところに行って、わしは何をすればいいのだ?」 「フラジョ先生は御前様の検事だ、と申し上げたのです」 「それで?」 「はい、ということは、御前様の書類鞄を……つまり訴訟記録をお持ちです……ですから訴訟について何か進展があったかどうかを確認にいらっしゃればよいのでございます」 「明日か?」 「はい、元帥閣下。明日でございます」 「しかしそれはお前の仕事ではないのか、ラフテ」 「とんでもございません……フラジョ先生がただの役人だった時でしたら、私も対等に交渉することが出来たでしょう。ですが明日からのフラジョ先生はアッティラであり、紛うことなき諸王の鞭でございます。斯かる全能の存在と話し合うには、公爵や大貴族や元帥でもとても足りません」 「それは真面目なことなのか、それともわしらは喜劇を演じておるのか?」 「真面目かどうかは明日になればわかりましょう」 「もう一つ。そのフラジョ先生のところで何が起こるのか教えてくれ」 「遺憾ながら……実は事前に見抜いていたのだと、明日になれば言い張ろうとなさるのではございませんか……おやすみなさいませ、元帥閣下。お忘れなさらずに。ダリグル様に直ちに伝令を送り、明日にはフラジョ先生をお訪ね下さい。住所は……御者が知っております。一週間前から何度も私を乗せて行き来していましたから」 第九十九章 姿を消したと思われていたものの残念には思われていないであろう昔なじみに、読者が再会を果たす次第  読者の方々は疑問に思われるのではないだろうか。これから極めて重要な役割を果たすことになるフラジョ先生が、どうして辯護士ではなく検事と呼ばれていたのか。読者の疑問はもっともなので、そのおたずねに応ずることにしよう。  しばらく前から高等法院は休廷を繰り返しており、辯護士はほとんど辯護もしていなかったため、話題に上ることもなかった。  フラジョ先生は辯護の仕事が一切なくなることを見越して、検事のギルドゥ先生と段取りをつけていた。ギルドゥ氏は二万五千リーヴルの支払いと引き替えに、事務所と依頼人を譲り渡した。こうしてフラジョ先生は検事になった。二万五千リーヴルもの金額をどのように用意したのかと問われたならば、マルグリット嬢との結婚によってと答えよう。ド・ショワズール氏追放の三か月前、一七七〇年の末頃に、マルグリット嬢が相続したのである。  フラジョ先生は敵対者に食らいつくそのねばり強さによってしばらく前から注目されていた。検事になるや激しさを募らせ、そのおかげで幾ばくかの評判を得た。デギヨン氏とド・ラ・シャロテ氏の対立に関する煽動的な文書の公刊にからんで、その評判がラフテ氏の注意を引いた。そこでラフテ氏は高等法院の出来事を詳しく知っておく必要があると考えた。  だが、新しい肩書きと高まる信望を得ても、フラジョ先生はプチ=リヨン=サン=ソヴュール街を離れなかった。隣人たちからフラジョ夫人と呼ばれるのを聞いたことがないと言ってはマルグリット嬢を責め、ギルドゥ先生から引き継いだ見習いから尊敬されないと言っては辛く当たった。  ご明察の通り、ド・リシュリュー氏は嫌な顔をしながらパリを通り抜けていた。パリの役人が街路という名をつけて取り繕ったそのごみ溜めに近づくには、吐き気のするようなそうした地域を通り抜けなければならないのである。  リシュリュー氏の四輪馬車がフラジョ先生の門前に到着すると、そこには別の四輪馬車が停まっていた。  その馬車から降りる婦人の髪飾りが見えたので、七十五歳とはいえまだ紳士のたしなみを失くしてはいなかった元帥は、慌てて真っ黒な泥の中に足を踏み入れ、一人で降りていたご婦人に手を貸そうとした。  ところがこの日の元帥はつくづくついていなかった。踏み台に降ろされた足はざらざらと乾燥しており、明らかに老婦人のものだった。頬紅の下には皺の寄ってたるんだ顔があり、年老いているどころか老いさらばえているのがはっきりとわかった。  だが躊躇うには及ばなかった。元帥はとっくに動き出していたし、それを見られていた。第一、リシュリュー氏も若くはない。だがその訴訟人は――というのも、この通りに馬車でやって来るご婦人が訴訟人でないとしたら何者だというのだろう?――ともかくその訴訟人は、元帥のように躊躇いはしなかった。恐ろしい笑みを浮かべると、リシュリューの差し出した手に腕を預けた。  ――何処かで見たことのある顔だな。元帥は独り言ちた。  それから声に出して、 「マダムもフラジョ先生のところにおいでですかな?」とたずねた。 「ええ、公爵閣下」 「おや、わしのことをご存じでしたか?」元帥はぎょっとして、薄暗い並木道の手前で立ち止まった。 「元帥リシュリュー公爵を知らぬ者などおりましょうか? そんな者は女ではございませんよ」  ――するとこの雌猿は自分が女だと思っておるのか? とマオンの勇者は呟いた。  それから極めて優雅にお辞儀をした。 「おたずねしても失礼に当たらなければ、あなたがどなたなのかお教え下さい」 「ド・ベアルン伯爵夫人と申します」老婦人はぬかるんだ並木道で宮廷風のお辞儀をした。そこから三プスのところに地下室の上げ蓋が開いていたので、三度目に腰を曲げた時には老婦人の姿が見えなくなるのではないかと、元帥は心なくも期待していた。 「これは光栄です、マダム。ではあなたも訴訟を抱えておるのですかな?」 「一つきりでございますけどね。でもその訴訟と言うのが! 噂を聞いていらっしゃらないんですか?」 「ああ、そうでした、そうでした。大変な訴訟です……そうでした。いやはやどうして忘れておったのか」 「サリュース家が相手なんです」 「そう、サリュース家が相手でしたな。この訴訟を歌った小唄が作られておりました……」 「小唄が!……どんな歌でございましょう?」老婦人は目に見えて傷ついていた。 「お気をつけ下さい、ここに穴があります」やはり老婦人が穴に落ちそうにないのを見て、リシュリュー公爵は声をかけた。「手すり、いやロープにおつかまりなさい」  老婦人が階段を上り、公爵も後から続いた。 「さよう、笑える小唄です」 「私の訴訟を笑った小唄なんですか……?」 「いや、それはご自分で判断なさるといい……だが恐らくご存じでしょうな?……」 「とんと存じません」 「ラ・ブルボネーズの調べに乗せて、歌詞はこうです、 伯爵夫人、 お助け下さい、 あたくし困っておりますの。  あたくしというのはもちろんデュ・バリー夫人のことですぞ」 「無礼な歌じゃございませんか……」 「何を仰るやら! 小唄の作者になど……敬意の欠片もありませんよ。それにしてもこのロープは汚れておるな。ともかくそれに対するあなたの答えが、 私は年とった頑固者。 訴訟で死にかけ。 誰か勝たせてくれないかしら?」 「何てひどい! 身分ある貴婦人をこんなふうに侮辱するなんて」 「歌が下手でしたらお許し下さい。この階段はけっこう骨ですな……ああ、やっと着きました。では失礼して呼び鈴を引かせてもらいますぞ」  老婦人はぶつぶつ言いながら公爵に道を譲った。  呼び鈴を鳴らすと、フラジョ夫人が――検事の妻になったというのに門番の役も料理人の役も続けていて――扉を開けた。  二人の訴訟人はフラジョ先生の書斎に通された。羽根ペンをくわえ、恐ろしい量の訴訟書類を第一見習いに書き取らせている。 「どうしたんです、フラジョ先生?」伯爵夫人の声に、検事が振り返った。 「おお、伯爵夫人。ベアルン夫人に椅子を。ご一緒にいらしたのですか?……いや、間違いない、リシュリュー公爵が我が家に!……椅子をもう一つだ、ベルナルデ」 「フラジョ先生、訴訟は何処まで進んでいるのでしょうか?」と伯爵夫人がたずねた。 「ちょうど取り組んでいたところです」 「それは何よりです」 「それも評判になるようにするつもりです」 「どうか慎重に……」 「いやいや、もう慎重にすべき時ではありません……」 「今取り組んでいるのが私のことなのでしたら、公爵閣下にお時間を割いて差し上げることも出来るでしょう」 「公爵閣下、ご理解いただけるものと……」 「心得ておる」 「全力で取り組むつもりです」 「慌てるな、つけ込みはせぬ。どうしてわしがここに来たのかわかっているであろう」 「過日ラフテ氏から訴訟記録入れを手渡されました」 「その訴訟はわしの訴訟に関わる……わしの……何を言いたいのかご存じでしょう、フラジョ先生」 「シャプナの土地についての訴訟ですね」 「まあそうです。勝てそうなのですかな?……それはまあ、先生としてはよくやってくれるのでしょうが」 「公爵閣下、訴訟は無期限に延期されました」 「それはまたどうして?」 「少なくとも一年の間は辯護されることはありません」 「だが理由は?」 「いろいろな事情が……陛下のおふれはご存じでしょう?……」 「わかっていると思うが……どのおふれかな? 陛下はたくさんのおふれを出しているが」 「我々の判決を取り消したおふれです」 「結構。それで?」 「我々としては自らの船を燃やしてそれに答えなくてはなりません」 「船を燃やす? 高等法院の船をか? はっきりせんな。高等法院が船を持っているとは知らなんだ」 「第一院が登録を拒んだのですね?」ベアルン夫人がたずねた。「どんなことがあってもリシュリュー様の訴訟が邪魔にならないように」 「それだけではありません」 「第二院も?」 「たいしたことはありません……両院は、国王がデギヨン氏を更迭しないうちはもはや一切の審理をおこなわないことを可決いたしました」 「おやおや!」元帥が手を叩いた。 「審理しないとは……何の審理ですか?」老伯爵夫人は狼狽えていた。 「もちろん……訴訟ですよ」 「私の訴訟もおこなわれないということですか?」ベアルン夫人は怯えを隠そうともしなかった。 「むしろあなたの訴訟がですね」 「でもそんなの不公平ですよ! 陛下の規律を乱す行為じゃございませんか」 「マダム」と検事は厳かに答えた。「国王は我を忘れてらっしゃるのです……我々も忘れようではありませんか」 「フラジョさん、あなたはバスチーユに行くことになりますよ。断言いたしますとも」 「鼻歌まじりに参りましょうか。仮にそんなことになっても、同輩たちが棕櫚を手について来てくれるでしょう」 「この人は気違いですよ!」伯爵夫人はリシュリューに訴えた。 「私たちはみんなそうですよ」検事が答えた。  ――ほほう! 面白くなって来たわい、と元帥が呟いた。 「でもあなたは先ほど仰ったじゃありませんか。私の訴訟に取り組んでいたところだって」ベアルン夫人は反論した。 「申し上げたのは事実です……書類の中で最初に引用したのがあなたの事例でしたから。これがあなたに関する文章です」  見習いの手から書きかけの書類を取り上げると、眼鏡を鼻に挟んで、もっともらしく読み上げた。 「『彼らの身分は落魄し、財産は脅かされ、尊厳は踏みにじられました……彼らの苦しみがいかほどのものであったかは陛下にあられてもご理解いただけるものと忖度いたします……即ち、請願者はその手に、王国有数の名門一族の財産が懸かっている重要な案件を有しているのであります。請願者はその配慮、その智略、その才能によって、この案件が良好に進捗していたことを陳ずるものであり、また気高く高名な貴婦人アンジェリク=シャルロット=ヴェロニク、ド・ベアルン伯爵夫人の権利が認められ、表明されようとしていたのは、反目の風が……吹き込み……』  取りあえずここまでです」検事は胸を張って答えた。「なかなかいい表現だと思うのですが」 「フラジョさん、私があなたのお父上を初めてお世話したのは四十年前のことでした。あれくらい相応しい人はいませんでしたよ。あなたに引き継いでもらったんです。私の訴訟問題で一万リーヴルくらいは稼いだでしょう。きっとまだ稼ぐつもりなんでしょうね」 「書き留めろ、すべて書き留めるんだぞ」フラジョは直ちに見習いに命じた。「これは証言だ、証拠だぞ。追記部分に組み込んでおこう」 「悪いんですけどね」と伯爵夫人が口を挟んだ。「訴訟書類をお返し下さい。もうあなたのことは信用いたしません」  フラジョ先生は突然の解雇に、雷に打たれたように呆然としていたが、神に告解している殉教者のように、打たれながら立ち直った。 「そうですか! ベルナルド、訴訟書類をお返ししろ。それからこの事実を書き留めておくように。請願者は財産よりも信念を選んだ、と」 「失礼だが伯爵夫人」ここで元帥がベアルン夫人の耳元に擦り寄った。「しっかりと考えてはいないようにお見受けしましたが」 「何のことですか?」 「訴訟書類をこの正直者から取り返しましたが、どうしてそんなことを?」 「別の検事や辯護士のところに持って行くからですよ!」  フラジョ先生は批判を甘んじて諦めたように悲しげな笑みを浮かべて天を仰いだ。 「しかしですな」元帥はなおも伯爵夫人の耳元で囁いた。「裁判所が何も審理しないと決めた以上は、ほかの検事に出来ることもフラジョ先生とさして変わらないと思いますが……」 「みんな一枚岩だと?」 「いやはや! まさかフラジョ先生が一人きりで抵抗して、自分だけ事務所を失うほど間抜けだと思っているのですか? 同業者たちが同じように行動するからに違いなく、つまり後ろ盾があるからに決まっておりましょうに」 「ではあなたはどうなさるんですか?」 「フラジョ先生は正直者だと申し上げました。訴訟記録もわしのところにあるより先生のところにあった方が意味があるでしょう……ですからもちろん、訴訟が続けられているのと同じように、お金を払い続けるつもりです」 「気前がいいという評判ももっともですな、元帥閣下!」フラジョ先生が声をあげた。「私もその評判を広めることにいたしましょう」 「それは痛み入る」リシュリューは頭を下げた。 「ベルナルデ! リシュリュー元帥閣下の讃辞を結論部分に付け足しておきなさい」 「いやいや、お願いですから……何をなさるおつもりかな? 善行と言われるものは秘密にしておくに限ります……わしは否定しますが、お気を悪くなさらんで下され。何分、わしのような控えめな人間は傷つきやすいものでして……はて、伯爵夫人、何と仰いました?」 「私の訴訟は審理されますと言ったんですよ……裁判はおこなわれなくてはなりませんし、おこなわせてみせますとも」 「あなたの訴訟が審理されるようなことがあるなら、それは国王がスイス衛兵と近衛聯隊と大砲二十門を大広間に配備した時でしょうね」挑発的なフラジョ先生の態度が、老婦人にとどめを刺した。 「陛下が切り抜けられるとは考えておらんのですかな?」リシュリューがフラジョに耳打ちした。 「不可能です、元帥閣下。これは非常事態です。フランスにはもはや正義はありません。パンがないのと同様です」 「そうお思いですか?」 「ご覧いただけますよ」 「だが国王は立腹されるでしょうな」 「何物であれ毅然とした態度を取るつもりです!」 「たとい追放されても?」 「たとい死んでも! 法服を着ても、心は失っておりません」  フラジョ氏は力強く胸を叩いた。 「これは確かに内閣には凶報ですな」リシュリューは連れの老婦人に話しかけた。 「ほんとですよ」老伯爵夫人はしばらくしてからようやく口を開いた。「私にとってはひどい悲報です。何が起こっても参加も出来なければ、こんないざこざから何の得るところもないんですから」 「失礼ながら、この問題に手を差し伸べてくれるかなりの権力者も世の中には存在しますぞ……お知りになりたくはありませんかな?」 「知りたいですよ、その人の名前を聞きたくないわけないじゃありませんか」 「あなたの代子です」 「まあ! デュ・バリー夫人ですか?」 「その通り」 「そうですね……思いつきませんでした」  公爵は口唇を咬んだ。 「リュシエンヌに行かれるおつもりですか?」 「すぐにでも」 「だがデュ・バリー伯爵夫人にも高等法院の抵抗を一掃することは出来ませんぞ」 「訴訟がおこなわれるのが見たいのだと申し上げるつもりです。代母を引き受けて差し上げたんですから、あちらもお断りにはなれないでしょう。夫人は思いの丈を国王にお話しなさるでしょうからね。陛下は大臣にお話しになりますし、大臣は実権をお持ちですもの……フラジョ先生、どうか私の訴訟の準備を整えておいて下さいな。先生が思っているよりも早く訴訟の順番は回って来ますよ。ちゃんとお伝えしましたからね」  この間、公爵は考え込んでいた。 「リュシエンヌにいらっしゃるのでしたら、わしがよろしく言っていたとお伝えして下さいませんかな?」 「承知いたしました」 「お互い不運な者同士。あなたの訴訟も、わしと同じく未解決のままだ。ご自身ことを訴えるついでに、わしのことも訴えて下され……それから、高等法院の石頭どもがわしにとって不愉快の種だということも証言していただけるでしょうな。リュシエンヌの女神に助けを請うように助言したのはわしだということも、つけ加えていただけますな」 「必ずやお伝え申し上げます、公爵閣下。ではご機嫌よう」 「馬車までお手をお貸しいたします。ではご機嫌よう、フラジョ先生、お仕事ご苦労……」  元帥は伯爵夫人を馬車までリードした。 「ラフテは正しかったな。フラジョたちは革命をするつもりだ。幸いわしは左右から支えられておる……宮廷の人間であり、高等法院の人間だ。デュ・バリー夫人は政治に嘴を入れて一人しくじることになるだろうが、踏ん張るようなことがあれば、トリアノンに顔を出すことにしよう。やはりラフテはわしの流儀を心得ておるな。大臣になった暁には官房長官にしてやろう」 第百章 事態がますます紛糾する次第  ド・ベアルン夫人はリシュリューの助言をそのまま実行に移した。公爵と別れてから二時間半後には、リュシエンヌでザモール氏と一緒に控えの間に待機していた。  ベアルン夫人の姿を見なくなってからしばらく経っていたので、デュ・バリー夫人は名前を告げられるとひどく好奇心をそそられた。  デギヨン氏も時間を無駄にはしていなかった。寵姫と話し込んでいる最中に、ションがベアルン夫人の謁見申し込みを伝えに来た。  デギヨン公爵は立ち去ろうとしたが、デュ・バリー夫人が引き留めた。 「そこにいて下さいますか。知り合いがお金の無心に来たのでしょうから、あなたがいて下さった方がいいんです。無茶な要求も出来ないでしょうから」  公爵は部屋に残った。  その場に相応しい顔つきで入室して来たベアルン夫人は、伯爵夫人の正面に当たる椅子を推められ、そこに坐ると、挨拶を交わした。 「今日はどういったご用件ですの?」 「それが困ったことになったんですよ!」 「具体的には?」 「陛下がお悲しみになるような報せで……」 「早く仰って下さい」 「高等法院が……」 「おお!」デギヨン公爵が呻いた。 「デギヨン公爵閣下です」誤解を招かぬように、デュ・バリー伯爵夫人は急いで紹介した。  だがベアルン老伯爵夫人とて、宮廷の人々を束にしたほどの抜け目ない人物である。誤解するなら意識的に、それも誤解した方が都合がいいと考えれば、誤解もしよう。 「法律屋というのは卑しい人たちなんですよ。勲章や生まれにもちっとも敬意を払わないんですから」  こうした世辞をあやまたず受け取って、公爵が恭しくお辞儀をしたので、ベアルン夫人もお辞儀を返した。 「でも公爵閣下だけの問題じゃございません。全国民の問題ですよ。高等法院が仕事を拒否するなんて」 「何てことかしら!」デュ・バリー夫人が長椅子の上で仰け反った。「もうフランスに正義はないのかしら?……それで……これからどうなってしまんでしょう?」  公爵が笑みをこぼした。ベアルン夫人はにこりともせず、却ってますます顔を曇らせた。 「これは大変な出来事ですよ」 「あら、そうかしら?」 「あなたが訴訟を起こしていないのは幸運というものですよ」 「うほん!」デギヨン氏が注意を促したので、デュ・バリー夫人はようやく当てこすりに気づいた。 「そうね、その通りだわ」デュ・バリー夫人は慌てて答えた。「思い出しました。あたくしは訴訟を抱えていなくても、あなたは重大な訴訟を抱えているでしたものね!」 「そうなんですよ!……ちょっとでも遅れたら破滅してしまいます」 「お気の毒に!」 「ですからね伯爵夫人、国王に決断していただかなくてはならないんですよ」 「もちろん陛下はそうなさるわ。評定官を追放なさるでしょうから、それでお終いね」 「でもそれではいつになるかわからないまま先送りされることになってしまいます」 「解決策をお持ちですの? だったら教えて下さいな」  トーガの下で息絶えたカエサルのように、ベアルン夫人は髪飾りの下に隠れた。 「方法はあるのでしょうが、陛下は躊躇なさるでしょうね」ここでデギヨンが口を挟んだ。 「どんな方法ですか?」ベアルン夫人がたずねる。 「フランスの王権が危機に瀕した際には、いつも採られる方法です。親裁座を開いて『余は望む!』と言えばいいのです。反対者たちが『我々は望まぬ』と言ったところでどうにもなりません」 「名案じゃございませんか!」ベアルン夫人は夢中になって叫んだ。 「だがばれてはなりません」デギヨンが素早く合図したのを見て、ベアルン夫人も承知した。 「ああ、伯爵夫人! 『余はベアルン夫人の訴訟が審理されるのを望む』と陛下に言わせられるのはあなただけなんです。だいたい、ずっと前から決まっていたことなんですからね」  デギヨン氏は口を固く結んでデュ・バリー夫人に挨拶すると、閨房を後にした。国王の四輪馬車が中庭に入って来る音が聞こえたのだ。 「国王だわ!」デュ・バリー夫人は立ち上がって、ベアルン夫人を退出させようとした。 「どうか! 陛下のお足許にひざまずくのを許していただけないのですか?」 「親裁座を請うために? そうね。ここに残りたいのなら、残って下さいな」  ベアルン夫人が髪飾りを直し終えたところで、国王が入室して来た。 「おや、お客さんでしたか……?」 「ベアルン夫人です」 「陛下、正義を!」老婦人は深々とお辞儀をして訴えた。 「おやおや!」ルイ十五世は親しくない者にはわからぬほどの嘲笑を浮かべた。「どなたかから侮辱でもされたのであろう?」 「陛下、正義を求めます」 「誰に対する?」 「高等法院に対する」 「なるほど!」国王はぱちぱちと手を叩いた。「余の高等法院に苦情を訴えておいでか? では是非それを正す機会をいただこう。その点について余も苦情を訴えねばならぬ。そなたにも正義を見せていただきますよ」老伯爵夫人に倣って恭しくつけ加えた。 「つまるところ陛下は国王であり、支配者なのでございますから」 「国王というのは間違いない。支配者というのは時と場合によるな」 「お心積もりをお聞かせ願えませんか」 「それは余が毎晩やっていることではないか。高等法院の連中は朝ごとに心積もりを表明しておる。双方の心積もりは相矛盾していて、地球と月のように、決してぶつかることなく追いかけ合ってばかりだ」 「陛下の力強いお声でしたら、高等法院のわめきを掻き消すことも出来るのではございませんか」 「そこがそなたの間違いだ。余は辯護士ではなく、彼奴らは辯護士だ。余がウイと言えば、彼奴らはノンと言う。理解し合うことなど、到底不可能……余がウイと言っても、彼奴らにノンと言わせぬ手だてでもあるのなら、そなたと手を結ぶのもやぶさかではないぞ」 「手だてはございます」 「直ちに教えてもらおう」 「ではお話しいたします。親裁座をお開き下さい」 「また一つ厄介が増えるだけではないか。親裁座だと! 正気か? 革命も同然だ」 「支配者は陛下なのだということを、歯向かう者どもに正面切って伝える手だてでございます。国王がお心積もりを表明なさる際には、一方的にお話しなさるだけで、言い返されることはないはずです。『余は望む』と陛下が仰れば、相手は頭を垂れるしか……」 「面白い考えなのは確かね」デュ・バリー夫人が評した。 「面白いのは確かだが、優れているとは言えぬな」国王が答えた。 「でも見物じゃありません?」デュ・バリー夫人は夢中になって言い募った。「お供の者に、侍従に、大貴族に、武官親衛隊、それに夥しい数の民衆、それに金縫いの百合の紋章つきの五つの座布団で出来た親裁座……素晴らしい儀式になるに違いないわ」 「そうかね?」国王の気持が揺れた。 「それに陛下の衣装も素晴らしいものになるでしょう? 白貂地のマント、王冠のダイヤ、金の笏、どれもこれもまばゆくて、厳かなご尊顔にぴったり。ご立派に見えるに違いないわ!」 「親裁座など久しく開かれておらぬ」ルイ十五世は気のないふりをした。 「ご幼少のみぎりから、陛下の光り輝くお姿は誰の心にも刻まれておりますよ」ベアルン夫人が言った。 「それに、大法官にとっては要領を得た先鋭的な演説を披露するにはいい機会ですし、真理と尊厳と権威に賭けてあの人たちをねじ伏せるにもいい機会じゃありませんこと?」デュ・バリー夫人も続けた。 「高等法院の背信を待つべきだ。その時は考えよう」ルイ十五世が答えた。 「あれ以上の背信を待つと言うんですの?」 「何のことだ?」 「ご存じありませんの?」 「デギヨン殿を少々からかったからといって、絞首刑には当たらぬ……たとい公爵が余の友人であるにしてもな」国王はデュ・バリー夫人を見つめた。「それに高等法院が公爵をからかったのだとしても、余がおふれを出してやり返しておいた。昨日だったか一昨日だったかよく覚えておらぬが、これでおあいこだ」 「でも陛下、伯爵夫人の今朝のお話では、黒服たちと来たら受けて立ったそうですわ」デュ・バリー夫人がすかさず言葉を返した。 「どういうことだね?」国王は眉をひそめた。 「お話し下さいな、マダム。国王のお許しが出ました」 「評定官たちは陛下が要求をお飲みにならない限り裁判をおこなわないと決定したのでございます」 「まさか? そんなはずはない。これが本当であれば謀叛ではないか。余の高等法院が叛乱を起こすような真似はしまい」 「ですが……」 「いやいや、ただの噂だ」 「お聞き下さいませんか?」 「お話しなさい」 「今朝、検事から訴訟書類を受け取りました……もう辯護することはない、何故なら裁判はおこなわれないからだと」 「噂だと申したはずだ。こけおどしに過ぎぬ」  そう言いながら国王は慌ただしく閨房を歩きまわっていた。 「失礼ながら、私のことはともかくド・リシュリュー氏のことなら信用なさるのじゃございませんか? 私の目の前でリシュリュー氏も訴訟書類入れを手渡されたのでございますよ。公爵はひどくお腹立ちになって退出なさいました」 「扉を叩く音が聞こえたようだが」国王は話題を変えようとした。 「ザモールですわ」  ザモールが入室した。 「奥さま、手紙です」 「いいかしら、陛下? あら、大変」 「何だ?」 「大法官ド・モープー閣下からですわ。陛下があたくしのところによくいらっしゃるのをご存じなものだから、謁見の時間を割いていただけるよう訴えにいらしたんです」 「このうえ何があるというのだ?」 「大法官閣下をお通しして」  ベアルン夫人が立ち上がっていとまを告げようとしたが、国王が引き留めた。 「どうかそのまま。ご機嫌よう、モープー殿。何か新しい報せでも?」  大法官は頭を垂れた。「それが陛下、高等法院が困ったことになりまして。もはや高等法院はございません」 「どういうことかね? 一人残らず死んだのか? 砒素でも服んだのか?」 「そうであってくれれば!……いいえ、陛下、生きております。ところが法廷を開こうとせず、辞表を提出しているのです。先ほど私のところに山のように参りまして」 「評定官がか?」 「いいえ、辞表のことです」 「深刻な話だと申し上げたじゃございませんか」ベアルン伯爵夫人がぼそりとこぼした。 「非常に深刻だ」ルイ十五世はむっとして答えた。「して大法官、そなたはどうするつもりだ?」 「陛下の命令をいただきに参りました」 「追放してしまおう」 「追放してはますます裁判がおこなわれません」 「裁判を開くよう厳命せよ……いやいや、それはありふれておるが……命令状……」 「このたびは陛下のお心積もりを明らかにしなくてはなりません」 「ああ、その通りだな」 「後押しして下さいな!」ベアルン夫人がデュ・バリー夫人に囁いた。 「これまでは父親らしいところばかりお見せになってらしたけれど、支配者らしいところもお見せにならなくては!」 「大法官よ」国王はのろのろと口を開いた。「一つしか手だてはない。大事《おおごと》だが効果はあろう。親裁座を開こうと思う。今回ばかりはあやつらを震え上がらせておく必要がある」 「仰る通りです。降参するか破滅するかいずれかでしょう」 「マダム」国王はベアルン夫人に話しかけた。「これでそなたの訴訟が審理されずとも、余の過ちではないぞ」 「陛下は世界一の国王でございます」 「その通りです……」デュ・バリー伯爵夫人にション、大法官が唱和した。 「だが世間がそう言っているわけではないからな」国王はもごもごと呟いた。 第百一章 親裁座  問題となっている親裁座は、荘厳かつ厳格のうちにおこなわれた。一つには王国の威信に賭けて、また一つには国王が今回のクーデターに踏み切ることなった陰謀がその理由である。  国王親衛隊は武装して任務に就き、短装の弓兵、警備兵、警官隊が大法官の護衛を務めていた。事に当たる将軍のように、計画に際して身体を張る必要があったのだ。  大法官は憎まれていた。本人もそのことはわかっていたが、思い上がりにも暗殺を恐れていたとしても、それ以上に輿論に聡い人々であれば予言することさえ簡単に出来たであろう。つまり生じるのは暗殺ではなくなかなか結構な侮辱であり、侮辱でなくとも野次の嵐である、と。  同じ結論はデギヨン氏にも言えた。世間は本能的にデギヨン氏を嫌っていたし、高等法院の辯論がそれを後押しした。国王は静閑を決め込んでいたものの、内心のところは冷静ではいられなかった。それでも国王が君主に相応しい荘厳な衣装に感服し、身を守るには尊厳よりしくはないと直感するのはわかった。  「それに国民の愛も」とつけ加えることも出来た。だがそれはメスで臥せっていた際に繰り返し聞かされた言葉であったので、そんなことを繰り返しては、盗用したという非難は免れ得まい。  その日の朝、こうした光景を初めて見る王太子妃は、実のところは見たくて仕方なかったのだろうが、顔に憂えを浮かべ、儀式の終わるまでずっと表情を変えなかったために、それが好意的に受け止められられた。  デュ・バリー夫人は堂々としていた。若さと美しさに基づく自信に満ちていた。もっとも、それが夫人のすべてではないだろうか? ほかにつけ加えることがあるだろうか? 恋人である国王の荘厳な光に照らされたように、燦然と輝いて見えた。  デギヨン公爵は大胆にも、国王の面前に居並ぶ大貴族たちの方に歩いて行った。顔中が気高さに満ち、苦悩の跡も不満の跡も認められない。勝利の影は窺えない。そうやって歩いているのを見れば、国王と高等法院が公爵の領地で戦いに敗れた可能性など想像もつかなかった。  人混みの中から誰もが指を指し、高等法院の座席から恐ろしい目つきを送ったが、それだけだった。  裁判所の大広間には、当事者と野次馬、合わせて三千人以上の人が溢れていた。  建物の外では、守衛や弓兵の警棒や大槌に押し返された群衆が、声でも言葉でもない唸りを発していた。その唸りだけが聞こえてくる様子は、まさに人から成る波の音と呼ぶに相応しい。  足音が止み、各員が席に着き、顔を曇らせた国王が大法官に向かって厳かに発言を命じた際にも、同じような沈黙が大広間に訪れた。  自分たちを標的にして親裁座が開かれていることを、高等法院は予め承知していた。召集された理由も心得ていた。寛大とは言えぬ心積もりを聞かせるために違いない。だが国王が優柔不断とは言わぬまでも、辛抱強いことはわかっている。だから高等法院が恐れているとすれば、それは親裁座そのものではなく、その影響の方であった。  大法官が演説を始めた。大法官は能辯家であった。その導入の巧みなることは、雄辯な演説を好む方々なら、そこに格好の材料を認めたことであろう。  しかしながら、演説はやがて厳しい非難に切り替わり、貴族たちは口元に笑みを浮かべ、高等法院の構成員たちはそわそわとし始めた。  国王は大法官の口を借りて、ブルターニュで問題とされている問題をすべて終わらせるよう命じていた。そうしたことにはもううんざりしている。さらに国王は高等法院に命じた。デギヨン氏と和解し、特権を認めること。裁判の過程に口を出さぬこと。そうすればすべては至福の黄金時代のようにうまくいく。そうなれば小川は議会や裁判流の五段階の演説を囁きながら流れ、木々は辯護士や検事の手許にある訴訟袋に詰め込まれ、庭の果物を摘むようにいつでも取り出すことが出来る。  こうした飴玉によって高等法院はデギヨン氏とだけでなくド・モープー氏との関係も悪化することになろう。だが演説が終わっても、反論することは出来なかった。  高等法院の構成員たちはぎりぎりと歯噛みしながらも、そもそもの強みである恐ろしいほどの一体感を以て、落ち着き払った無頓着な態度を取った。これが国王や壇上の貴族たちにはひどく気に入らない。  王太子妃の顔は怒りで青ざめていた。国民から反抗されるのは初めてのことだったが、努めて冷静に相手の力を見積もっていた。  誇りの高い王太子妃は、決議されたり通告されたことに対して、少なくともうわべだけは反論しようという心積もりで親裁座に赴いて来たのだが、いつしか同じ一族や階級の人々と同じような気持に傾いていることに気づいた。だから大法官が高等法院の連中の目の前で咬みつくたびに、その牙に鋭さが欠けているのを見ては憤りを覚えた。言葉の一つ一つが牛追いに追われる牛の群れのように議会を飛び跳ねさせるものであったならば、と考えていたのである。早い話が気づいたのだ。大法官はあまりに弱く、高等法院はあまりに強い。  ルイ十五世は人相を観るのが好きであった。利己主義者とは怠け者でない場合には得てしてそうなる。そういうわけだから、自らの心積もりを代辯した言葉がかなり説得力に富んでいると見るや、その効果を確かめようと周囲に目を走らせた。  王太子妃の口唇が不満そうに青ざめているのを見れば、その心によぎっていたことも手に取るようにわかった。  公平を期してデュ・バリー夫人の顔を確かめた。そこにあったのは予想とは違って勝ち誇った笑顔ではなく、国王の考えていることを判断したいとでも思っているのか、自分の方を見て欲しいという激しい思いが伝わって来た。  気持の弱い人間にとって、他人の気持や意思に先んじられることほど恐ろしいものはない。とっくに結論を出されて観察されているのだと気づけば、これから道化を演じることになるのか既に演じていたのかを問わず、下駄を履かせた要求を出すようなことはできないと結論づけるものである。  そこで人は極端に走る。それまで及び腰だったのが猛り狂い、急に攻撃的になり、さほど脅威でもないものを恐れているせいでそんな反応をしたのだということがばれてしまう。  国王は大法官の言葉に一言もつけ加える必要はなかった。そんな作法はないし、不可欠なことでもないのだ。ところが今回ばかりは、国王は雄辯の悪魔に取り憑かれて、手を振ってこれから口を開くのだという合図を送った。  途端に注目ではなく驚きが辺りを覆った。  高等法院の構成員たちは訓練された兵士のように無駄なく揃って親裁座に顔を向けた。  王族、大貴族、軍人たちは動揺を隠せなかった。これほどまでに優れた演説の後で、キリスト教の信仰篤きフランス国王陛下が無益なことを言うとは考えられぬ。国王に抱いている敬意のせいで、国王の口からほかのことが飛び出す可能性など思い至らなかった。  ド・リシュリュー氏は敢えて甥から離れて立っていたが、それでも示し合わすような視線と怪しげな仲間意識でくっついているのがわかる。  ところが思う通りには行かないもので、デュ・バリー夫人と目が合ってしまった。だが変幻自在の才能では誰にも劣らない。リシュリューは皮肉な目つきを感嘆の目つきに変えて、両端を結ぶ対角線の交わる点を、美しい伯爵夫人に定め直した。  そこで賛嘆と追従の微笑みをさり気なくデュ・バリー夫人に送ったが、デュ・バリー夫人とてそれに騙されるようなたまではない。そういうわけだから、高等法院や反対派の王族たちとやり取りを交わし始めていた老元帥は、実際にしていたことを悟られないためにそれを続けざるを得なかった。  一滴の水に映し出された光景の数を思えば、それはさながら海であった! 一秒のうちに幾世紀もの時間が詰まっているのを思えば、それは目も眩むような永遠であった! これまで記して来たことはすべて、ルイ十五世陛下が口を開いて話をしようとしかけた刹那の間に起こったことなのである。 「余の心積もりは大法官から聞いたであろう」国王の声は険しかった。「それが実行された時のことを考えてみよ。余の考えは絶対に揺るがぬ!」  ルイ十五世は最後の一言を雷鳴の如き大音声で言い放った。  出席者の誰もが文字通り雷に打たれていた。  高等法院に走った畏怖の震えは、導火線の端までひた走る火花のように、瞬く間に会衆に広まった。この震えは国王の支持者にも伝染した。驚きと感動が人々の顔に浮かび、心を穿った。  王太子妃は美しい目をきらめかせて、思わず国王に感謝していた。  デュ・バリー夫人も電流に打たれて思わず立ち上がっていた。外に出た途端に石を投げられるかもしれないだとか、翌日にはこれまで以上に不愉快な小唄を百も二百も受け取るのではないかという当然の恐れさえなければ、喝采していたところだったろう。  ルイ十五世はその瞬間から勝利を確信した。  高等法院の連中は揃って顔を伏せたまま、上げはすまい。  国王は百合の紋章付きの座布団から腰を上げた。  すぐに護衛隊隊長、親衛隊隊長、それに侍従たちが立ち上がる。  外では太鼓の音が響き、喇叭が鳴り響いた。馳せ参じた人々が立てる聞き取れぬほどのざわめきは呻き声に変わり、兵士や弓兵に押し戻されて遠ざかって行った。  国王は毅然として大広間を闊歩した。伏した頭よりほか見えるものはない。  デギヨン氏は勝利に驕ることなく、なおも国王陛下の露払いに甘んじていた。  出口まで至ると大法官が、遠くにまで見物人がいるのを見て、その稲光がここまで届きやしないかとびくついていた。 「離れんでくれよ」と弓兵に命じた。  リシュリュー氏はデギヨン公爵に深々と頭を下げて声をかけた。 「みんな頭を下げておるな。いつになるかは知らぬが、いずれまた高々と頭を上げる日がやって来るぞ。気をつけるがいい!」  その頃、デュ・バリー夫人は通路を渡っていた。兄とド・ミルポワ元帥夫人と数人の貴婦人がお供している。伯爵夫人は元帥の言葉を聞きつけて、恨みからではなく反射的に声をかけていた。 「あら、何にも怖いものはありませんのね、元帥。陛下のお言葉をお聞きにならなかったのかしら? 絶対に揺るがない、と仰ったように聞こえましたけれど」 「恐ろしい言葉ですな」老元帥の顔には笑いが浮かんでいた。「だがわしらにとっては幸いなことに、絶対に揺るがぬと仰った時に国王があなたを見ていたことを、高等法院の連中は知りません」  そしてもはや今では芝居の中ですらお目にかかれぬようなお辞儀をして、歌曲に幕を下ろした。  デュ・バリー夫人は女であったし政治家ではなかった。デギヨン氏が当てつけと悪意をまざまざと感じた台詞に、伯爵夫人はお世辞しか読み取らなかった。  そういうわけだから、伯爵夫人が微笑みによって返答に代えていた一方で、同盟者のデギヨン氏は元帥の恨みが深いのを見て口唇を咬み顔色をなくしていた。  親裁座を開いたことで当座は王国の利益にかなう結果が出た。だが大打撃によって眩暈を起こしただけというのもよくある話で、眩暈が治まればさらに力強くさらに混じりけのない血が巡り始めることになるだろう。  ――というのが、国王がお供を引き連れて立ち去るのを、フルール河岸とラ・バリエーリ街の隅で眺めていた質素な服装をした人々の考えであった。  人数は三人……偶然からその片隅で一緒になり、人々がどう感じているのかをその場所から興味津々で追っていた。知り合いではなかったが、ひとたび言葉を交わし始めると、議会が終わりもしない内から論を戦わせ出した。 「昂ぶりが熟していますね」目をした、穏やかで誠実そうな顔立ちの老人が言った。「親裁座は大きな成果ですよ」 「そうですね」若者の一人が苦々しい笑みを浮かべた。「成果というのが文字通り実現したのなら」 「失礼ですが……」老人は若者の顔を見つめた。「見覚えがある気がするのですが……お会いしたことがありませんでしたか?」 「五月三十一日の夜でした。仰る通りですよ、ルソーさん」 「ああ、あの時の外科医でしたか。マラーさんでしたね?」 「ええ、お見知りおきを」  二人は挨拶を交わした。  三人目の人物はまだ言葉を発していなかった。若くて、気高い顔立ちをした人物で、親裁座の間中、一切たりとも人々から目を話さなかった。  若い外科医がまずその場を離れ、果敢にも人混みの中に消えた。ルソーほど義理堅くはない町の連中は、その外科医のことなどとっくに忘れていたが、いつの日かその記憶を思い出すことになるだろう。  三番目の人物は外科医が立ち去るのを待って、ルソーに話しかけた。 「あなたは行かないのですか?」 「あんな人混みに飛び込んで行けるほど若くはありませんからね」  第三の人物は声をひそめた。「そういうことでしたら、今夜、プラトリエール街で、ルソーさん……どうかお忘れなく!」  目の前に立っているのは幽霊なのではないかと思い、ルソーはぞっとした。普段から土色の顔色は鉛色に変わっていた。返事をしようとした時には、とうに姿が消えていた。 第百二章 見知らぬ人物の言葉がジャン=ジャック・ルソーに与えた影響  見知らぬ人物の口から不可解な言葉を耳にした後で、ルソーは辛そうに震えながら人混みを掻き分け、自分が年老いていることも人混みが苦手なことも忘れて道を切り開いた。やがてノートル=ダム橋にたどり着いたので、相変わらず思索に耽りながらラ・グレーヴ地区を突っ切って、自宅のある方に真っ直ぐ向かおうとした。  ――要するに、秘伝を受け継いだ者たちが命を賭けて守っている秘密は、先人が手に入れたものなのだ。だから秘密結社は人々をふるいにかけてそれを手に入れる……わたしのことを知っていた人物は、わたしが仲間であり、恐らくは共犯関係にあることがわかっていたのだろう。そんな状態は馬鹿げている、我慢がならない。  そんなことを思いながら、ルソーは足早に歩いていた。常日頃から、それもメニルモンタン街の事件があってからは警戒を怠ることがなかった。  ――要するにわたしは、人類を改革する計画の核心が知りたかったのだ。イルミナティという名で飾られたいろいろな思想を知りたかったのだ。優れた思想がドイツというビールと靄の国からもたらされると信じるとは、何と愚かだったのだろう。馬鹿や山師と関わって、愚かさを隠す外套代わりにわたしの名を利用されることになるのかもしれない。いや、そんな風にはなるまい。稲光が深淵の場所を教えてくれたというのに、そこに自ら進んで身を投げたりはすまい。  やがてルソーは杖にもたれて立ったまま一休みして、通りの真ん中でじっとしていた。  ――そうは言っても、素晴らしい夢想だ。いつかの将来、奴隷にも自由が、障碍も音もなく勝ち取った未来、地上の暴君が眠りを貪っている隙にいつの間にか張られた網……あまりに好都合すぎて、信じる気になれなかった……恐れや疑いや妬みなど御免だ。そんなものは自由な精神や独立した身体に相応しくない。  こんなことを呟きながら、いつしか歩みを再開していた。ド・サルチーヌ氏配下の警官たちがじろじろと目を光らせて、自由な心を脅かし、独立した身体に先を急がせた。ルソーは柱通りの暗がりのより深いところに迷い込むことになって、その下を歩き続けた。  柱通りからプラトリエール街まではそう遠くない。ルソーは足を早めて、階段を上りながら追われたダマ鹿のようにほっと息をついた。部屋に入ると椅子に倒れ込んだまま、テレーズに何を聞かれても返事すら出来なかった。  それでもようやく、昂奮している事情を説明できるようになった。走って来たこと、暑さ、親裁座で国王が怒りを見せたという報せ、恐怖に駆られた民衆が動揺し、その余波が蠢いていたこと。  テレーズはぶうぶう唸って、そんなこと夕食を冷ます理由にはなりませんよ、第一ね、男の人なら小さな物音に怯えるような臆病者じゃあいけませんもの、と言った。  ルソーは二つ目の発言に対して何も答えなかった。これまで形を変えて何度も言われて来たことだ。  テレーズはさらに言葉を重ねた。哲学者みたいな空想癖のある人たちはね、みんな同じですよ……著作の中でわんわん喚くのをやめないじゃありませんか。何も恐れてはいないと言いながらね。神様も人間もどうでもいい存在だとか。そのくせ小さなワンちゃんがキャンキャン吠えただけで、「助けてくれ!」と叫んだり、熱が出ただけで、「死にそうだ!」と叫んだりして。  これはテレーズお得意の話題だった。こうなるとテレーズのおしゃべりにますます磨きがかかり、生来おとなしいルソーはますます口ごもってしまう。こうしてルソーは辛辣な調べに乗せて思いを馳せていた。いくら罵詈雑言を浴びせられようとも、テレーズの思っていることに劣らず大事なことを考えているのだ。 「幸せとは香水と小言で出来ている。音と匂いは昔から変わらない……玉葱からは薔薇ほどいい匂いがしないと誰が決めたんだ? 孔雀には夜鶯《ナイチンゲール》ほどの歌声がないと誰が決めたんだ?」  それなりの逆説と言えなくもないこの箴言を合図に、二人は食卓に着いて夕食を摂り始めた。  ルソーは食事を終えると、いつものようにチェンバロの前には行かずに、部屋を何度もうろつき回り、幾度となく窓からプラトリエール街の様子を確かめた。  こうなるとテレーズが嫉妬の発作に囚われた。からかい好きな人々、言いかえるならこの世でもっとも嫉妬深くない人々が不快を感じて起こすような発作である。  なるほど不愉快なのが見せかけであるのなら、欠点ではあってもなお長所と言えなくもない。  テレーズはルソーの女々しさ、体質、性質、習慣を心から軽んじていたし、ルソーが年老いて、身体を壊し、醜くなったことに気づいていたから、夫を奪われることなど思いも寄らなかった。違う見方でルソーを見つめる女がいるとも思えない。とは言うものの、嫉妬の苦しみは女にとって蜜の苦しみ。そこでテレーズも時にはそんなご馳走を味わうことにしていた。  そこでルソーがちょろちょろと窓に近づき、考え事に耽ってじっとしていないのを見ると、 「随分とそわそわとしているじゃありませんか……ちょっと前に誰かと会ってたんでしょう」  ルソーがぎょっとして見つめたので、テレーズはますます確信を深くした。 「その人とまた会えないかと思ってるんですね」 「何だって?」 「逢い引きの約束があるんじゃありませんか?」  嫉妬しているのだということにようやく気づいた。「逢い引きだって? 馬鹿だね、テレーズ!」 「馬鹿げたことだってのはようくわかってますよ。でも何をやらかしたっておかしくない人ですからね。ほらほら、紙粘土みたいな顔をしてますよ、胸も波打ってるし、乾いた咳をしているじゃありませんか。その女をものにしてくればいいんですよ。あなたには丁度いいんじゃありませんか」 「だがねテレーズ、本当に何でもないんだよ」ルソーは顔をしかめた。「静かにしておいてくれないか」 「あなたは放蕩者なんですよ」これまで以上に真面目な口振りだった。  事実を言い当てられたかお世辞でも言われたように、ルソーは顔を赤らめた。  そこでテレーズが考えたのは、恐ろしい顔をして、食器をひっくり返し、音を立てて扉を閉め、冷静なルソーをもてあそぶくらいのことはしてもいいということだった。つまり子供たちが金属の輪っかを箱に入れて大きな音を立てて振るようにである。  ルソーは自分の部屋に逃げ込んだ。こんなに騒がれては考えもまとまらない。  河岸で話しかけられた人物の謎めいた申し出に応じないと、恐らくまずいことになるだろう。  ――裏切り者に罰が与えられるのなら、小心者や怠け者にも罰があって然るべきだ。大きな危険が何もないことも、大きな脅威が何もないこともわかっているではないか。そんなことで刑罰や処刑を喰らったりすることは滅多にない。だが復讐や陰謀、詐欺のような細々としたことに気をつけなくては。いつかフリーメーソンの会員たちに、馬鹿にされた仕返しだといって階段に綱を張られかねない。足を折って、一桁しか歯が残らないなんてことにも……或いは、建築現場を歩いていると頭上から石材が落ちてくる……いやもしかすると、この近くに誹謗小冊子《パンフレット》書きが住んでいるかもしれない。それも同じ階に住んでいて、窓からパンフレットを投げ込みはしないだろうか。あり得ないことではない。会合はプラトリエール街でもおこなわれているのだから……あることないこと書いて、パリ中でわたしを笑いものにするつもりだろう……そこいらじゅうに敵がいるのだから……  やがてルソーは別のことを考え始めた。  ――わたしには勇気がないのか? 名誉は? わたしは自分と向き合うのが怖いのだろうか? 鏡を見ても、そこに映るのは臆病者や悪戯者でしかないのだろうか? いや、そんなことはない……たとい世界が寄ってたかってわたしを不幸に陥れようとも、たといこの通りの地下室が崩れ落ちて来ようとも、出かけよう……それに、推測してばかりだから恐れも生まれるのだ。あの男に会ったせいで、帰って来てからずっと馬鹿なことにばかり考えを巡らせてしまう。こうなってしまうと何もかも信用できなくなる、自分自身さえも! 理屈ではない……自分が昂奮しやすい人間でないのはわかっている。結社に素晴らしいところがあると思ったのなら、それは本当に素晴らしいところがあるからだ。わたしが人類の改革者ではないというのだろうか。おたずねものになり、無限の力を持った警官たちから著作を調べられていたわたしが。人々がわたしの著作をたどって、理論が実践に移されるべきときが来れば、わたしは用済みになるのだろう!  ルソーは俄に活気づいた。  ――素晴らしいことだ! 時代は進む……人々は痴呆状態から抜け出し、暗闇の中に足を踏み出し、手を伸ばすに違いない。巨大なピラミッドが聳え、その上にはいつの日かジュネーヴ市民ルソーの胸像が掲げられることになるのだ。有言実行、自由と生活のために戦い、自らの主義に忠実だった男として。|真理に命を捧ぐ《Vitam impendere vero》。  それからルソーはチェンバロの前に移動し、もやもやした思いを大仰で堂々とした勇ましい調べに変えて、楽器の脇から音を出した。  夜が訪れた。テレーズは気持を張り詰めすぎてぐったりしてしまい、椅子の上で眠りこけていた。ルソーは胸をどきどきさせながら、まるで逢い引きにでも出かけるかのように新しい服に着替えた。鏡に映して黒い目を確かめてみると、生き生きとして雄弁に動いていた。いい徴候だ。  ルソーは籐の杖を突いて、テレーズを起こさぬように部屋から抜け出した。  だが階段の下まで来て、通りに面した扉の鍵を回してから、ルソーが真っ先におこなったのは、外を覗いて町の様子を確かめることだった。  馬車は一台も通っていない。いつもと変わらず通りにはたくさんの人が散歩しており、いつもと同じく顔を合わせ、売り子の女性目当てに店先で立ち止まっている人たちも多かった。  このうえ一人増えたところで誰も気づくまい。ルソーは人混みに飛び込んだ。目的地までは遠くない。  ヴァイオリンを手にした歌うたいが門の前にいるのがわかった。正真正銘のパリっ子なら耳を奪われるような音楽が通りに響き、楽器の音や歌声がルフランを繰り返したいる。  だからその場を取り囲んでいる聴衆を除けば、通行の邪魔になるようなものは何もない。通行人はこの聴衆の右か左に進まなくてはならない。左に向かえば通りを横切ることになる。右に向かえばその反対に、注目の的となっている家に沿って進むことになる。  通行人の多くが罠にでも落ちたように道を彷徨っていることに、ルソーは気づいた。どうやら同じ目的地に向かっているらしいとわかり、後をついて行くことにした。簡単なことだ。  そこで聴衆の後ろに回り、さも音楽でも聴くように足を止めて、誰かが出入り自由な並木道に入るのを見逃すまいとした。人より慎重なのは、恐らく人より危険を冒さなくてはならないからだろう。ルソーは何度も機会を窺っていた。  長くは待たずに済んだ。通りの向こうからやって来た二輪馬車が、人の輪を二つに割り、二つの半円を家屋に向かって押し返した。気づけばルソーは並木道の入口に立っていた。進むしかない……野次馬たちは二輪馬車に気を取られて、家に背を向けている。誰からも見られていないのをこれ幸いと、暗い並木道の奥に姿を消した。  数秒後、光が見えた。その下に寛いで坐っている男が一人、その日の店を畳んだ商人然として、新聞を読んでいるか読んでいるふりをしている。  ルソーの足音を聞きつけて、その男が顔を上げ、胸に指を押し当てるのが、明かりの下ではっきりと見えた。  ルソーも口唇に指を当ててその符丁に答えた。  すぐに男が立ち上がり、右手の扉を押した。その扉は男がもたれていた羽目板に巧妙に擬装されて、それとはわからないようになっていた。険しい下りの階段が見える。  ルソーが中に入ると、扉が音もなく素早く閉じられた。  ルソーは杖の助けを借りて階段を降りた。第一関門の段階で首や足を折りかねないことを会員たちから強いられるのは、いい気分ではない。  だが階段は険しいにしても長くはなかった。十七段進むと、目と顔が熱気に襲われるのを感じた。  湿った熱気の正体は、地下室に集まった大勢の人々の息だ。  赤と白の壁紙が貼られた壁に、様々な種類の工具が描かれたいた。実物通りではなく、図案化されているようだ。ランプが一つだけ穹窿からぶら下がり、木製の|腰掛け《ベンチ》の上で囁き声を交わしている幾つもの正直そうな顔を、不吉に照らしている。  床には板敷も絨毯もなく、重ねた茣蓙が足音を消していた。  だからルソーが入室しても、何の騒ぎも起こらなかった。  現れたことに気づかれてもいないようだ。  五分前にはこうした反応しか望んでいなかったにもかかわらず、いざ実現してみると寂しさを感じた。  後列のベンチが空いている。ルソーはなるたけ遠慮して、誰よりも後ろに坐った。  数えてみると三十三人の人間が集まっている。演壇は議長のために空けられていた。 第百三章 プラトリエール街の支部《ロッジ》  出席者たちの話し方が随分と目立たず抑えられたものであることに、ルソーは気づいた。口唇がほとんど動いていない。言葉を交わしているのはせいぜい三、四組だけだ。  口を閉ざしている人々は、顔を隠そうとさえしている。いまだ議長のいない演壇の作る影が大きいため、それは難しいことではなかった。  臆病にも思える人々の隠れ場所が、この演壇の陰だった。  だがなかにはいろいろと動き回って知り合いの顔を見つけようとしている人々もいた。行ったり来たり、おしゃべりを交わしたり、そうかと思えば扉を通って順番に姿を消していた。扉には赤い炎が灯され黒いカーテンが掛けられている。  やがて鐘が鳴った。ついこれまでほかのメーソンたちと話に興じていた人物が、さあらぬ態でベンチの端から離れて、壇上に上った。  手と指で何事か合図をして、出席者たちがそれに倣うと、最後にそれまでとは明らかに違う動きをした。開会の宣言だ。  それはルソーの見たこともない人物だった。裕福な職人という外見の下に、たっぷりと機智を秘めており、演説者に求められる豊かな声を授かっていた。  演説は簡単明瞭だった。曰く、こうして集会を開いたのは新しい同志《ブラザー》を迎えるためである――。 「入会試験をすることが出来ないような場所に集まってもらったのはほかでもない。試験など無用だと支部長たちは判断した。迎え入れようとしているのは、当代きっての哲学を照らす光、聡明な智性の持ち主だ、恐れからではなく信念によって忠誠を誓ってくれるに違いない。 「この方は森羅万象の謎も人間の心の謎も解き明かそうとして来たのだ。凡人に対して技術や意思や財産の協力を仰ぐのと同じようなやり方では、心を動かすことは出来まい。その類い稀なる精神を借りるにしても、誠実な人柄と熱意だけで充分信頼に足りよう。本人の約束と同意があれば充分ではないか」  こう提案して話を締めくくり、会場を見回して反応を確かめた。  ルソーは魔法にかけられたような反応を見せていた。フリーメーソンの入会儀式のことは知っていたが、明敏な頭脳の持ち主には嫌悪感をもよおさせるものだと考えていた。そんな奥伝などどれもこれも馬鹿馬鹿しいばかりで、無意味なものだからだ。入会者に怖がっているふりをさせながらも、恐れるものなど何もないと知れているのであれば、幼稚極まりない意味のない迷信にしか思えなかった。  そのうえ、内気な哲学者にとっては感情表現や自己顕示というのがまた天敵であり、見知らぬ人々の前に姿を晒すのは苦手中の苦手であった。しかも形はどうあれ誠意につけこまれたのは間違いない。  だから試験を免除されたとわかった時の喜びはひとしおであった。フリーメーソンの標語である「平等」が厳格なものであることは知っていたから、特別扱いされたことに言いしれぬ誇らしさを感じていた。  ルソーが議長の弁舌に一言答えようとした時、会場から声があがった。  その声は高く震えていた。「少なくともあなたは、我々と同じ人間を王族のように扱わざるを得ないと考えているのですね。肉体的苦痛を通して自由を求めることが我々の象徴の一つであるにもかかわらず、肉体的苦痛を免除するのですね。儀式に則って質疑をおこない、信条を表明させない限り、見知らぬ人物に入会資格を与えることはやめていただきたい」  ルソーが首を回してこの攻撃的な人物の顔を見ると、凱旋車の上で激しく訴えていた。  非常に驚いたことに、それはまだ朝のうちにフルール河岸で再会を果たしたあの若い外科医であった。  ルソーは誠意から、そして恐らくは資格に対する侮蔑から、それに答えようとはしなかった。 「お聞きになりましたか?」議長がルソーにたずねた。 「聞こえました」自分の声が薄暗い地下室の穹窿に響き渡ったのを聞いて、ルソーは軽く身震いを覚えた。「疑義を口にされた方を見て、ますます驚きました。肉体的苦痛と呼ばれるものと戦い、そうして同胞たちを助ける職業に就いている方が、ほかの会員の方々と何ら変わらぬ人間であったとは。肉体的苦痛の有効性を説くなんて!……人間に幸福をもたらし、病人に快復をもたらすにしては、随分と奇妙な方法を取るものです」 「そんな人物の話をしているのではない」若者は語気を荒げた。「私とこの新入りは見ず知らずの人間です。理屈の話をしているのであり、議長が誰かを特別扱いするのは間違っていると申し上げているのです。私はこの人物が――」とルソーを指さし、「哲学者だと気づいたふりはしません。向こうでも私が医者であることは否認してくれることでしょう。我々は一生を通じて一目たりとも交わさずに過ごすべきであり、協会のおかげで普通の友情よりも固い結束で結ばれているにもかかわらず、仲間であることを示す合図を洩らしたりせずに過ごすべきなのです。繰り返しますが、新入会者の試験を免除すべきだと思われるにしても、せめて質疑だけはおこなうべきなのではありませんか」  ルソーは何も答えなかった。その顔の上に、議論を嫌う気持や、集会に参加したことを後悔する気持が表れていることに議長は気がついた。 「同志《ブラザー》よ」議長は厳格な声を出した。「支部長が話をしている時には沈黙を守るべきであり、絶対的な言動に対し少しでもけちをつけるべきではない」 「私には疑義を呈する権利があります」若者はもっと穏やかに答えた。 「疑義の権利は認めるが、けちをつける権利は認めぬ。我々フリーメーソンには愚にもつかない無益な神秘を仲間に供するつもりのないことは、入会予定のこの同志も重々承知している。ここにいる同志たちは誰もが新入りの名前を知っており、その名前が何よりの保証だ。無論、本人も平等を愛する者であろうから、儀式の際に用いられる『結社に何を求めているのか?』という質問に答えてくれることと信じている」  ルソーは一歩前に出て出席者から離れると、夢見るような憂鬱な目つきを会場に彷徨わせた。 「わたしが結社に求めているものは、結社の中には見つからないものです。まやかしではなく、真実なのです。刺さらない短剣、綺麗な水入りの毒、下に布団の敷かれた落とし穴、何故わざわざそんなもので脅すのですか? 人間の能力の限界はわかっていますし、自分の体力のこともわかっています。その力を損ねてしまえば、わたしを選んだことが無駄になってしまいますからね。死んでしまえばお役には立てません。だからあなたがたにはわたしを殺すつもりもなければ、ちょっとでも傷つけるつもりもないのでしょう。何処の医者だって、手足を折られている人を見て、黙って儀式を眺めていたりするとは思えません。 「わたしはあなたがたの誰よりも苦しい見習い期間を経験して来ました。肉体を探り、魂にまで触れて来たのです……仲間に入るように請われて、引き受けた暁には――」ルソーはここで言葉を強調した。「皆さんの役に立つことが出来ます。与えるだけで、受け取るつもりはありません。 「嗚呼! わたしを縛るために何かするのも構いませんし、あなたがたなりのやり方で、囚われているわたしに自由を、飢えているわたしにパンを、苦しんでいるわたしに慰めを下さるのも構いません。それにあなたがたがどうなろうと構いませんが、今日から仲間入りを許された同志であるこのわたしは――もっとも、こちらの紳士が入会を許してくれたらの話ですが――」と言ってマラーを見た。「そうなる前に土に還ってしまうに違いありません。進歩の足はびっこを引いて、啓蒙の光はあまりにのろい。わたしの落ちた場所からは、誰も引き上げてはくれないでしょう……」 「あなたは間違っておいでだ」人を惹きつけるような鋭い声が飛んで、ルソーは自然と耳を奪われた。「あなたがお入りになるつもりのこの結社には、あなたの考えを遙かに超えたところがある。この世の未来のすべてがある。未来とは希望であり科学だ。未来とは神であり、神はこの世に光を与えてくれることでしょう。何故なら神は約束されたのだから。無論、神は嘘をつかない」  この言葉に驚いたルソーが声の主を見ると、まだ若い見覚えのある男だった。今朝、親裁座のところで会った人物だ。  その黒衣の男には気品があり、ほかの人物とは毛並みが違った。演壇の横にもたれかかり、鈍い光に照らされた顔は、美しさと気品と飾らない表情で輝いていた。 「そうなんです!」ルソーが答えた。「科学とは汲めども尽きせぬ深淵にほかなりません! あなたは科学と慰めと未来と約束の話をされたのに、ほかの人は物質と厳しさと暴力の話をなさるのですね。どちらを信じればいいのでしょうか? 狼たちに頭上で蠢かれているような状態のまま、同志たちに加わらなければならないのでしょうか? 狼たちと羊たち! どうかわたしの信仰告白をお聞き下さい。わたしの本は読まれていないでしょうから」 「あなたのご本は、それは崇高な理想に満ちていますが、絵空事に過ぎませんね」とマラーが言った。「役に立つと言われても、ピタゴラスやソロンやキケロのような詭弁家と変わらない。あなたは幸福を説いていますが、あんなのは人工的で手の届かない幸福だ。光に当たってきらきら光るシャボン玉を、飢えた民衆に食わそうとしているようなものです」 「何の前触れもなく大災害が起こるのをご覧になったことがありますか?」ルソーは眉をひそめた。「人間が生まれるという、ありきたりですが崇高な出来事をご覧になったことは? 九か月を重ねて母親のお腹に宿らずに、人間が生まれるのをご覧になったことがありますか? 世界を変える行動を起こすべきだとお考えなのですか?……起こるのは世界の変化ではなく、革命ではありませんか!」 「ではあなたは独立を望まないのですか? 自由を望まないのですか?」 「とんでもありません。独立こそわたしの偶像であり、自由こそわたしの女神ですから。ただしわたしの望む自由とは、包み込んで温めるような、穏やかで喜びに満ちた自由なんです。わたしの望む平等とは、恐怖ではなく友情によって人を結びつける平等なんです。わたしの望む教育とは、社会を構成する一つ一つの分子に教育を施すことなんです。修理工が滑らかに動かそうとして、家具職人が家具を組み立てようとするのと同じことです。つまり一つ一つの歯車が残らず協力してきっちり組み合わさること。繰り返しますが、わたしの望みはすべて本に書いてあります。進歩、調和、献身」  マラーは口元に嘲りを浮かべた。 「ミルクと蜂蜜の流れる川、ウェルギリウスの描いた楽園、哲学者が実現を夢見る詩人の空想ですね」  ルソーは答えなかった。引っ込み思案なのだと言い訳するのも気が重い。ヨーロッパ中から過激な改革者と呼ばれて来たのだ。  正直で内気な心を慰めるため、先ほどかばってくれた人物に目で助けを求め、暗黙の同意を得ると、ルソーは黙って席に着いた。  議長が立ち上がった。 「話は聞いたな?」 「はい」出席者たちが答える。 「この者は同志に相応しいか? 義務を理解したか?」 「はい」答えには躊躇いがあった。全員納得のうえではないのだろう。 「誓いを」議長がルソーに命じた。  ルソーには自負心があった。「何人かの会員に嫌われてしまったのは残念なことです。もう一度わたしの考えを繰り返さなくてはなりませんね。これがわたしの信仰の言葉にほかなりません。わたしが雄辯であれば、人の心をがっちりつかむことも出来るでしょうに、いつも言葉はわたしの考えを裏切り、お伝えしたいことを上手くお伝えすることが出来ません。 「わたしの言いたいのは、あなたがたのしきたりをこまめに実践しなくとも、この集まりから離れたところで、世界やあなたがたのために出来ることがあるということです。ですからわたしの仕事にしても、気の弱いところにしても、一人きりでいることにしても、大目に見ていただきたいのです。わたしは棺桶に片足を突っ込んでいる人間だと申し上げました。物思いに身体の痛み、それに不幸がわたしを墓場に駆り立てるのです。自然の偉大な営みを遅らせることは誰にも出来ません。どうか一人にしておいて下さい。わたしは人とは並んで歩けない人間なのです。わたしは人を嫌い、人を避けて来ました。それでも人の役に立つことは出来ます。わたし自身も人間だからです。わたしが人の役に立つことで、人間が今より上に行けることを夢想しているのです。これで考えていることはすっかりお伝えいたしました。もう何も言うことはありません」 「では誓いを拒むのですか?」マラーの声には棘があった。 「きっぱりとお断りいたします。結社に属するつもりはありません。そんなことをしてもお役に立てないことはあらゆる証拠が証明してくれるでしょう」 「同志よ」黒衣の男の取りなすような声が聞こえた。「そう呼ぶのを許していただきたい。何故なら我々は人間の心が織りなすあらゆる頸木から離れた、真の同志《きょうだい》だからだ。同志よ、忌々しいと思うのは当然だが、それに負けてはいけない。自惚れるのももっともだが、しばし自惚れは忘れて欲しい。あなたはお嫌だろうが、どうか我々のために腰を上げてもらえないだろうか。あなたの助言、思想、存在は光なのだ! 不参加のうえに拒絶までして、二重の闇に我々を投げ込まないで欲しい」 「それは違います」ルソーは答えた。「あなたがたからは何も奪いはしません。あなたがたに授けるのは、著作の第一読者や新聞の第一評のようなほかの方々に授けて来たことと何ら変わらないのですから。もしあなたがたがルソーの名前と価値をお求めでしたら……」 「もちろん求めている!」いくつかの声があがった。 「でしたら、わたしの著作をお読み下さい。議長の机上に積み上げて下さい。いつかあなたがたが意見を募り、わたしの話す番が回って来た時には、わたしの本をお読み下さい。そこにわたしの意見、わたしの判断が書かれてあります」  ルソーは立ち去ろうと一歩を踏み出した。 「お待ち下さい!」外科医のマラーが声をあげた。「どんな意思であれ自由であるべきですし、それは著名な哲学者の意思であろうと変わりないことは認めます。だがこうして会員ではない俗人を聖域に招き入れるのは異例のことになるはずです。如何なる暗黙の契約にも縛られていないのですから、たとい不誠実な者でなくとも、秘密を洩らしかねないではありませんか」  ルソーは同情するような微笑みを返した。 「沈黙の誓いをお望みなのですか?」 「その通りです」 「用意は出来ています」 「誓いの文句を読み上げて下さい、同志」マラーが言った。  私は永遠の神の存在にかけて、また宇宙と賢者と結社の創造主にかけて誓う。目の前でおこなわれたことを決して明かさず、決して知らせず、一言も記さないことを。いやしくも慎みを忘れた際には、偉大なる創始者と賢者たちの律法、並びに父の怒りに従いて、自らを罰することを誓う。  ルソーが手を伸ばした頃には、先ほどの人物が議長に近づき何事か囁いていた。言葉の応酬に耳を傾けている最中も、人混みに紛れながらも誰にも有無を言わせぬだけの貫禄があった。 「もっともだ」議長はそれに答えてから、ルソーに話しかけた。「あなたは同志ではなく、一人の人間であり、考えを同じくする場合に限って会議の場で顔を合わせる名誉会員だ。こうなれば我々もこだわりを捨てよう。ここで起こったことはすべて忘れるというただ一言だけを聞かせて欲しい」 「寝覚めの夢のように忘れましょう。名誉にかけて誓います」ルソーは感激して答えた。  その言葉と共にその場から立ち去ると、たくさんの会員たちが後に続いた。 第百四章 報告会  何回かに分けて出席者たちが去ると、支部内には七人の会員が残された。七人の支部長たちである。  高みに至って奥義を伝授されたことを示す合図が交わされた。  七人が真っ先に気にしたのは、すべての扉を閉めることだった。すべての扉が閉められると、代表者がL・P・Dという秘密の文字の刻まれた指輪を掲げた。  この代表者こそが団体の重要な連絡系統を受け持っており、スイス、ロシア、アメリカ、スウェーデン、イスパニア、イタリアの六人の支部長と連絡を取っていた。  同胞たちから受け取った機密書類を手にしているのは、一般会員よりは上だが自分よりは下に属する高位会員に知らせるためだ。  この代表者こそ、ご存じバルサモであった。  この重要書類の中には、差し迫った意見も含まれていた。スイスのスウェーデンボリが書いたものである。  ――南から目を離すなかれ、同志たちよ! 熱波に温め直された裏切り者が、お前たちを殺すだろう。  ――パリから目を離すなかれ、同志たちよ! そこが裏切り者の住処だ。組織の秘密を手の内にして、憎しみを温めている。  ――密かに囁く密告の声を聞いた。恐ろしい復讐も霊視したが、それはまだ遠い話だ。それまでは目を離すなかれ、同志たちよ! 用心せよ! どれだけ念入りに立てた計画であっても、何も知らぬ裏切り者のたった一言で水泡に帰してしまう。  同志たちは無言のまま驚いて顔を見合わせた。荒々しい霊能者の言葉と予知には何度も驚かされて来たので、バルサモを頂点に戴いたこの集まりにも、少なからぬ影が落ちた。  バルサモ自身もスウェーデンボリの予知能力には信頼を置いていたので、それを読み終えた後には、重苦しくただならぬ印象をぬぐえなかった。 「同志たちよ、霊感を授かった予言者の言うことだ、よもや間違えることはあるまい。忠告に従い用心してくれ。これでわかってもらえたと思うが、戦いは始まっている。愚かな敵に負けるわけにはいかない。俺たちは奴らの力を骨抜きにしているんだからな。向こうも準備はしているだろうからそれは忘れるな、忠誠を金で買われた奴らだぞ。この世でなら強力な武器にもなろうが、地上の生を終えた後のことまでは見えていない奴らだ。同志たちよ、金で買われた裏切り者たちと戦おうではないか」 「取り越し苦労ではありませんか」という声が聞こえた。「我々は日々、力をつけているし、優れた頭脳と逞しい腕によって率いられています」  バルサモはその社交辞令に会釈を返した。 「その点は認めますが、代表が仰った通り、裏切りは至るところに忍び込んでいます」答えたのはほかでもない、外科医のマラーであった。若いながらも高位に進み、評議委員会に初めて出席を許されていた。「お考え下さい、餌が二倍になれば、捕まる獲物はさらに大きくなりはしませんか。ド・サルチーヌ氏は財布をちらつかせて無名の同志たちの情報を買えるでしょうが、これが大臣なら大金や地位をちらつかせて幹部の情報を買えるでしょう。しかも無名の同志たちが知っていることなど何一つないのです。 「同僚の名前なら幾つか知っているでしょうが、それには何の意味もありません。この組織の仕組みは素晴らしいものではありますが、極めて貴族的です。下の者たちは何も知らないし何も知りようもありません。かき集められたところでどうでもいいことしか言わないし言わせられないでしょう。ですが一人一人の時間とお金は、組織を確かなものにするのに欠かせません。なるほど石工には石と漆喰を運ぶことしか出来ないでしょう。ですが石と漆喰がなければどうやって家を建てるんですか? 私に言わせれば、石工も薄給でこそありますが、図面を引いて建物を造り命を吹き込む建築家と同じ大事な人間です。私に言わせれば、石工も建築家も平等なんです。だってそうではありませんか、石工も人間であり、人間である以上、哲学者の目には誰もが平等に映っているのですから。それにまた、他人と同じく不幸にも運命にも耐えているうえに、その他人にも増して、石の落ちてくる危険や足場の崩れる危険に晒されているのですから」 「待ってくれ、同志よ」バルサモが口を挟んだ。「危急に考えるべき問題からずれてはいないか。熱心なあまり、論点を広げすぎだ。今は組織の是非を論じている場合ではなく、組織を無傷のまま維持することが大事なのだ。それでも議論しようというのなら、俺の答えは『否』だ。動きを伝えられた道具とそれを司る才能は同じではない。石工は建築家と同じではない。脳みそは腕と同じではない」 「サルチーヌ氏が末端の同志を逮捕したとしても、あなたや私のようにバスチーユで朽ちさせはしないとでも?」マラーはかっとなってたずねた。 「言っていることはもっともだが、その場合に痛手を受けるのは個人であって組織ではない。我々の許では組織が何よりも優先される。指導者が捕まれば陰謀は頓挫する。将軍がいなければ軍隊は戦に敗れる。だから同志たちよ、指導者たちの安全に目を光らせてくれ!」 「わかりました。ですが幹部の方でも我々に気を配っていただきたい」 「無論それが務めだ」 「では幹部の失敗は二倍にして罰せられるべきでは」 「繰り返しになるが、同志よ、組織の仕組みからずれているぞ。会員を縛っている誓いは一つであり、何人《なんぴと》も同じ罰の許にいるのを、忘れたのか?」 「幹部は決まって罰を免れるものですから」 「それは幹部の意思ではないな。幹部の一人である、予言者スウェーデンボリの手紙を最後まで聞いてくれ」  ――災いは幹部の一人からもたらされる。それも組織の頂点近くにいる人物から。正確には本人からではないにしろ、過失の責めを負わぬわけにはいかぬだろう。火と水の混じる恐れを忘れるなかれ。火は光をもたらし、水はすべてを洗い流す。  ――用心せよ、同志たちよ! あらゆること、あらゆる者から目を離すな! 「でしたら、」とマラーが言った。バルサモの演説とスウェーデンボリの手紙に、利用できそうな内容を読み取ったのだ。「我々を縛っている誓いを繰り返そうではありませんか。誓いを厳格に守ることを誓おうではありませんか。裏切ることになるのが何者であれ、裏切ることになる原因が何であれ」  バルサモは一瞬だけ考え込んでから、椅子から立ち上がり、ゆったりとした荘厳で恐ろしい声で、あの神聖な文句を口にした。  ――十字架に架けられし御子の名に於いて、父と母と兄弟姉妹《はらから》、妻、二親、友、恋人、王、恩師、服従と感謝と奉仕を誓うことになるすべての者と結んでいる世俗の絆を、断ち切ることを誓おう。  ――組織の規約を受け入れてより後は、これまでに見しこと行いしこと読みしこと聞きしこと学びしこと考えしことを新たな主君に伝えんこと、及び目に映らざりしことを求め探らんこと、これを誓おう。  ――毒薬と刀剣と火器を敬わん。真理と自由の敵どもを死や狂気に追いやり世界を浄めるための手段なりせば。  ――沈黙の掟に従おう。懲罰に値する時には、落雷に打たれた如くに死を迎え入れ、言い訳一つせずに短刀の一閃を受け入れよう。その一撃は何処にいようとも避けることは出来ぬ。  暗がりに集まっていた七人は、立ち上がって素顔を晒して、この誓いをそっくり繰り返した。  誓いの言葉が終わると、バルサモが話を続けた。 「これで我々は安全だ。もう話を逸らすのはよそうではないか。委員会に報告すべき今年度の重要事案がある。 「フランスで起こっていることの詳細は、聡明で熱心な諸君には興味があることだろう。 「始めるぞ。 「フランスは欧州の中心に位置する。身体で言えば心臓のようなものだ。生きていると同時に生かしている。組織全体の不調の原因を見つけようとするなら、心臓の異常に原因を求めねばなるまい。 「それゆえ俺はフランスにやって来た。医者が心臓を探るように、パリの様子を探りに来たのだ。俺は聴診し、触診し、自ら確かめた。俺がやって来たのは一年前のことだが、その頃にはもう君主制は疲弊しきっていた。今では悪習に息の根を止められている。俺はその致命傷に早く結果を出してもらいたかったから、そのために後押ししてやった。 「道の上には障碍があった。一人の男だ。君主ではないが、国王の次にこの国で力のある男だった。 「他人の懐に入り込む才能があった。自惚れが強いのは確かだが、それを結果に結びつけることが出来た。国民を信用させ、時には自分たちが国の一部だとすら思わせて、国民の閉塞感をゆるめる術を心得ていた。困窮する国民の相談役となることもあったので、旗を掲げればいつでも大勢が集まって来た。国民の心だった。 「フランスの天敵であるイギリスを憎んでいた。労働者階級の天敵である寵姫を憎んでいた。だからもし、この男が簒奪者であったなら、我々の仲間だったなら、我々と同じ道を歩んでいたのなら、目的を同じくしていたのなら、俺はこの男を手厚く扱っただろうし、そのまま権力に就かせておいただろうし、身内として出来るだけの手段を用いて支えてやっただろう。虫食いだらけの王権に漆喰を塗り直そうとはせずに、来たるべき日に我々と共に王権を転覆させていたかもしれない。だがこの男は貴族階級出身であり、望んでもいなかった高い地位と壊そうとしなかった君主制に対する尊敬に纏われて生まれて来た。国王を軽蔑しながらも王権を尊重していた。それどころか、俺たちが狙っていた王権に対し、自ら楯となった。この生ける防波堤が国王の特権を侵す攻撃に逆らったことに、高等法院も国民も賛同して、その小さな抵抗を守り、いつか時が来れば強力な後押しをする決意を固めたのだ。 「俺は状況を把握し、ド・ショワズール氏の失脚を謀った。 「十年前から憎しみと欲望をこの計画と結びつけ、計画を実行し、数か月で完了させた。どんな手段を使ったのかは話しても詮無いことだ。俺が持っている秘密の力の一つであり、永遠に人の目から隠しておき、結果以外は明らかにしない方が、力は効果的に使えるからな。俺はショワズールを失脚させ、追放し、その後ろに後悔と落胆と嘆きと怒りの尻尾を長々とくっつけてやった。 「そして今、努力は実を結んだ。フランス中がショワズールを必要として、復帰を求めて立ち上がった。神が父親を召された時に、遺児が天を仰ぐように。 「高等法院は唯一の手札を切った。仕事の放棄だ。こうして機能は停止した。一流の国がそうであるように、複雑に組織された身体というものは、重要な器官が麻痺しては致命傷になる。高等法院は社会という身体の一部だ。胃が人間の身体の一部であるようにな。高等法院が機能していない以上は、国の内臓たる国民も働きようがない。必然的に給料が支払われない。すると金《かね》、つまり血が足りなくなる。 「そうなれば立ち上がろうという者も出てくるだろう。だが誰が国民に応戦するというのだ? 軍隊ではない。軍隊は国民の娘子、農夫のパンを食い、葡萄園の酒を飲んでいるのだから。残っているのは親衛隊、貴族部隊、近衛兵、スイス人衛兵、マスケット銃兵、わずか五、六千人に過ぎない! 国民が巨人のように立ち上がろうという時に、こんな小人の寄せ集めに何が出来るというのだ?」 「そうだ、立ち上がろうではないか!」幾つもの声が唱和する。 「そうです、行動を起こすべきだ!」マラーも叫ぶ。 「若者よ、まだ話が残っている」バルサモは素っ気なかった。 「これは大衆の叛乱だ、弱者の叛乱であると言えども、孤立した強者に数で勝る。結束力も統率力も経験もない者たちはあっさりと影響されるだろうから、怖いくらい簡単に勝利をものにすることも出来るだろう。だが俺は考えた。観察した――庶民的な服に身を包み、しつこさとがさつさを借用して、民衆のただ中に潜り込んだ。間近で観察できたおかげで、庶民のように振る舞うことも出来た。今では庶民のことならすっかりわかっている。もう見誤ることなど考えられん。民衆は強いが無智だ。短気だが根に持たない。一言で言えば、俺が望むような叛乱を起こすにはまだ向いていない。前例と現実を重ねて物事を見るだけの教養に欠けている。経験で培われた記憶に欠けているのだ。 「ドイツの祭りで見た勇敢な若者たちに似ている。マストの天辺によじ登り、代官がくくりつけておいたハムや銀杯を取ろうと先を争うのだ。血気に任せて走り出し、驚くほど素早く登り始めていた。だが天辺にたどり着いていざ賞品をつかもうと腕を伸ばす時になると、力が抜けて、野次が飛び交う中を下まで落ちてしまった。 「一回目に起こったことは、俺が話した通りだ。二回目になると、若者たちは体力と息継ぎを按配し始めた。だが時間を掛け過ぎると、慌ててやった時と同じように、もたもたしすぎて失敗してしまった。ついに三回目、早くもなく遅くもない加減を見つけて、今度こそやり遂げることに成功した。それが俺の考えている計画だ。目標を目指して絶えることなく挑戦を重ねれば、いつの日か必ずや成功を手にすることが出来る」  バルサモが話すのをやめて反応を確かめてみると、聞いていた者たちの間には若者や青二才に特有の熱気が渦巻いていた。 「話してみろ」バルサモは、誰よりも昂奮しているマラーに言った。 「簡単に済ませましょう。挑戦を重ねさせておけば、絶望しない限りはおとなしくしているでしょう。挑戦を重ねさせておくというのは、ジュネーヴ市民、ルソー氏の考えですね。大詩人ではありますが、おつむの弱い臆病者、プラトンが共和国から追い出すにも及ばない市民です。いつだって『待て!』ですか。都市からの解放あり、マイヨタンの暴動あり、七世紀が経っても待ち続けているではありませんか! 待っている間に何世代の人間が死んだか数えていただきたい。いっそ今後の合い言葉も『待て!』というお題目に変えたら如何ですか。ルソー氏が話しているのは、大世紀におこなわれたような抵抗のことに過ぎません、侯爵夫人のそばや国王のお膝元で、モリエールが喜劇で、ボワローが諷刺詩で、ラ・フォンテーヌが寓話を用いておこなったような抵抗のことなんです。 「そんな惨めで弱々しい抵抗では、人類の大義は一歩も前に進まなかったことはご承知の通りです。子供たちはわけもわからぬまま蒙昧な理屈を繰り返し唱え、唱えるそばから眠りこけている始末です。あなたがたによれば、ラブレーも政治をおこなっていましたが、その政治には笑いはあっても矯正力はありませんでした。この三百年の間、一つでも悪習が改められたでしょうか? 詩人や詭弁家が溢れ返っただけです! 結果を、行動を! 我々は三百年前からフランスを医者の手に委ねて来ました。今こそ外科医がメスと鋸を手に手術に取りかかる時期なのです。社会は壊疽を起こしています。道具を手に壊疽を止めようではありませんか。或いは誰かが食卓を離れ、奴隷に薔薇の葉を吹き払わせ、柔らかい絨毯に寝転ぶのを待ってもいい。胃が満たされれば脳に心地よい蒸気が伝わり、気も楽になり幸せな気分になれるからです。ですが飢えや不幸や絶望に打ちひしがれていては、詩句や警句や寓話で満足することも気晴らしすることも出来はしません。苦しみの叫びをあげているのが聞こえませんか。この悲鳴が聞こえない人間は聾であり、悲鳴に応えない人間はろくでなしです。たとい叛乱は鎮火されようとも、千年にわたる教訓や三世紀にわたる前例など足許にも及ばぬ勢いで、智性を照らすことでしょう。王制を転覆することは出来なくとも、啓蒙の光で国王を照らすことは出来るでしょう。それで充分ではありませんか!」  おもねるような呟きがあがった。 「敵がいるのは何処でしょうか?」マラーは続けた。「我々の頭上です。宮殿の門を守り、玉座に上る階段を固めています。玉座の上に戴いたパラス像を大切に守っていますが、トロヤ人でもそこまで気を遣ったり畏怖を覚えたりはしなかったでしょう。このパラス像こそ、敵に全能の力と富と驕りを、即ち王権を授けたものだからです。この王権を守っている者たちを一掃しない限り、王権に近づくことは出来ません。将軍を守っている軍隊を倒さない限り、将軍に近づくことは出来ないのです。山ほどの軍隊が破れて来たことは、歴史が証明しています。ダレイオスからジョン王まで、レグルスからデュ・ゲクランに至るまで、数多くの将軍が地にまみれて来たのです。 「護衛を倒し、偶像までたどり着こうではありませんか。まずは歩哨に斬りつけ、それから大将に斬りつけようではありませんか。廷臣、重臣、貴族たちに第一の刃を。国王にとどめの一撃を。特権階級の頭数を勘定していただきたい。たった二十万人です。鋭い槍を手に、フランスと名づけられた美しい庭を闊歩し、タルクィニウスがラティウムの芥子を払ったように二十万人の頭を薙ぎ払えば、それですべては終わるでしょう。そうなれば残された二つの勢力、つまり民衆と王権の一騎打ちです。後は王権という象徴が民衆という巨人と戦おうとするのを観戦していればいい。小人が巨像を倒そうとすれば、足許から取りかかるしかありません。木樵は樫の巨木を倒す時、根元から取りかかるのです。木樵たちよ! 斧を持ち、樫の木を根元から切り倒そうではありませんか、偉そうな顔をした老いた樫の木をすぐにでも砂地にまみれさせようではありませんか」 「そして倒れた木に小人のように押しつぶされるのか、愚か者どもめ!」バルサモが雷鳴の如き声を出した。「詩人に厳しい割りには、詩人よりも詩人らしく生き生きとした譬えを使うじゃないか! いいか、同志よ!」マラーに向かってなおも言葉を続けた。「そんな言葉は屋根裏ででっちあげた作り話から拾い上げた寝言に過ぎん」  マラーは真っ赤になった。 「革命とはそういうものだと思っているのか? 俺は二百もの革命を見て来たから、教えてやろう。古代エジプトの革命もこの目で見たし、アッシリアの革命も見た、ギリシアの革命も、ローマの革命も、後期ローマ帝国の革命も見て来た。中世の革命も幾つも見て来た。東側の国民は西を、西側は東を、互いの言うことには耳も貸さずに殺し合っていた。羊飼いの王たちの時代から我々の時代に至るまでに、無数の革命があったに違いない。さっき奴隷状態に不満をぶつけていたな。だったら革命は何の役にも立たんぞ。何故だかわかるか? 革命を起こした者たちが揃って同じ眩暈を起こしていたからだ。早まったのだ。 「革命を司る神が焦っていると思うのか? 「『樫を切り倒せ!』だと? その後のことなど考えてはいまい? 切り倒すのは一秒で済むが、地面に倒れた樫の木を端から端まで馬で駆けても三十秒かかるんだぞ。それに切り倒した人間には、倒れる木を避ける間もない。巨大な枝の下敷きになって怪我でもするか死んでしまうことだろう。それが望みなのか? そんなことは許さん。俺は神のように、二十歳にも三十歳にも四十歳にもなれる。俺は神のように永遠の存在だ。俺は神のように我慢強い。自分の運命も、お前たちの運命も、世界の運命をも、この手につかんでいる。俺が開こうとしない限りは、どれほどの真理が轟こうともこの手を開かせることは出来ん。そうだ、この手に握っているのは雷だ。神が全能の右手に擁しているように、これからも俺は手放さぬ。 「諸君、気高すぎるのはもうやめだ、地面に降ろそうではないか。 「諸君、一言断言しておく。時はまだ至らぬ。今上陛下は人々から崇められていた大王ルイ十四世の最後のきらめきだ。光が褪せかけているとはいえ、諸君の恨みの炎を蹴散らすだけの輝きをまだ充分に持っている。 「この男は王であり、王として死ぬだろう。王家は傲慢だが一系だ。顔や仕種や声から、その生まれを容易く読み取れる。この男はこれからも王でいることだろう。我々が立ち上がれば、チャールズ一世に起こったことがこの男にも起こるだろう。死刑執行人たちは王の前に額ずき、不幸な廷臣たちはカペル卿のように、主君の首を落とした斧に口づけすることだろう。 「知っての通りイギリスは早まった。チャールズ一世が死刑台の上で死んだのは間違いない。だが息子のチャールズ二世は玉座で死んだ。 「しばし待て、待つのだ、諸君。いつか絶好の機会が訪れる。 「百合を握りつぶしたいのはわかる。『|百合を踏みつぶせ《Lilia Pedibus Destrue》』が我々の合い言葉だからな。だが一本の根を残したばかりに、聖ルイが咲かせた花に、再び返り咲くという希望を与えるわけにはいかない。王権を打ち壊したいのだろう? 王権を永久に打ち壊すためには、名実共に弱らせなくてはなるまい。王権を打ち壊したいのだろう? 聖域ではなくなるのを待てばいい。神殿ではなく売店になるのを待てばいい。そうすれば不可侵な王権、言いかえるなら数世紀にわたり神と国民によって許されて来た正当な譲位権は消え去り、永久に消滅するのだ! いいか! 我々つまらない人間と、あの神々に近い奴らとの間には、壊すことも越えることも出来ない壁があった。民衆が敢えて越えようとはして来なかった境界が、灯台のように照らす『正当性』という名の境界線があった。今日まではそれが沈みかけの王権を守って来たが、その言葉も謎めいた運命の一吹きで消し飛んでしまうだろう。 「帝国の血を混ぜて王家を長らえさせようと、王太子妃がフランスに呼ばれ、一年前にフランス王座の後継者と婚姻を結んだが……もっと近くに来るんだ、諸君。俺の言葉をほかの奴らには聞かせたくない」 「いったい?」六人の代表たちが怪訝な顔をした。 「いいか、王太子妃は今も生娘のままなのだ!」  世界中の王が逃げ出しそうな不吉な呟きには、憎々しげな喜びとしてやったりの優越感も滲んでいた。触れ合わんばかりに六つの頭を寄せ合わせていた小さな輪から、瘴気のように呟きが洩れ出す間も、六人は壇上から見下ろすバルサモの頭を見上げていた。 「こうなると二つの可能性が生じる。どちらも我々の利害には同じくらい好都合だ。 「一つは、王太子妃がこのまま妊娠しないことだ。そうすれば王家は絶える。そうすれば将来的に我々は戦いも困難も障碍も避けることが出来る。この王家は死神に目をつけられているからな、そういうことが起こるに違いない。三人の王が跡を継ぐたびに、フランスには同じことが起こって来たんだ。美男王フィリップの息子たちがそうだった。喧嘩王ルイ、長身王フィリップ、シャルル四世は三人が三人とも王位に就いた後で、跡継ぎを残さずに死んだ。アンリ二世の三王子にも同じことが起こった。フランソワ二世、シャルル九世、アンリ三世は、三人とも王位に就いた後に跡継ぎを残さず死んだ。王太子、ド・プロヴァンス伯、ダルトワ伯の三人も、同じように三人とも子供を残さず死ぬだろう。それが運命というものだ。 「カペー王家最後の王シャルル四世の後には、先王たちの傍系ヴァロワ家のフィリップ六世が迎えられた。ヴァロワ王家最後の王アンリ三世の後には、先の王家の傍系ブルボン家のアンリ四世が迎えられた。同じように、直系の最後の王として運命の書に名前を刻まれたダルトワ伯の後には、王家や継承順に関わらず、クロムウェルやオレンジ公ウィリアムのような余所者が迎えられることだろう。 「これが一つ目の可能性だ。 「二つ目は、王太子妃が妊娠した場合だ。この場合、俺たちを落とし穴に嵌めるつもりで、敵さん方は自ら穴に飛び込む羽目になる。王太子妃が妊娠して母親になれば、これでフランスの王権は盤石だと宮廷中が大喜びするだろうが、どっこい喜ぶのは我々の方だ。こっちが重大な秘密を手にしている以上、どんな威信も権力も努力も何の役にも立たん。こんな罪深い秘密の前では、未来の王妃が妊娠したところで不幸が待ち受けているだけだ。生まれた子供を玉座に就けようとしても、幾らでも正当性を問うことが出来る。妊娠しようとも、幾らでも不義を訴えられる。そういうわけだから、天から幸福を授かったように見えても所詮はメッキに過ぎず、或いは不妊こそが神からの贈り物であったのかもしれん。俺が賛成票を投じないのはこういう理由があるからだ。俺が待つのはこういう理由だ。こういう理由があるからこそ、今国民感情を掻き立てても意味がないと考え、来たるべき時期に効果的に利用しようと考えているのだ。 「これで今年やるべきことがわかったな。基点は着々と広がっている。成功するには目と脳を持った人間の才能と勇気が必要なのだと心してくれ。さらには腕に該当する根気と努力が。さらには、心に代わる信頼と献身が必要なのだ。 「なかでも服従は絶対なのだということを肝に銘じてくれ。規則に従わなくてはならない時が来れば、代表自ら結社の規則に身を捧げるつもりだ。 「では最愛の同志たちよ、吉報であれ凶報であれ、ほかに何もなければ、これでお開きにしたいと思う。 「今晩は偉大な著述家が来てくれた。同志の一人が血気にはやって小心な著述家を怯えさせなければ、我々の一員となってくれていたことだろう。とにかく、この偉大な著述家は我々よりも正しかった。これだけの同志がいながら、部外者が正しかったというのは、実に嘆かわしい。誰一人として規則をよく知りもしなければ目的をまったくわかってもいないのだ。 「ルソーは自著に書かれた詭弁で、我ら結社の真理に勝利を収めた。あれこそが病根にほかならない。説得によって矯正できそうにもなければ、やっとこと火でくり抜いているところだ。同志の一人が自尊心をふくらませてしまったのは残念なことだった。議論で我々をやり込めたわけだが、こんなことは二度と考えようとしないものと信じている。さもなければ懲罰という手段に頼らなくてはなるまい。 「諸君、今こそ仁愛と説伏によって信仰を広めるのだ。さり気なく耳打ちするだけでよい、無理強いはするな。言うことを聞かないからといって、尋問官が楔を使って拷問するように、木槌や斧を使って心に入り込んではならん。正しいと思われなくては信頼はされぬし、ほかの何よりも正しいと思われなくては自分たちが正しいとは思ってもらえないことを忘れるな。覚えておけよ、智識と技術と信仰がなければ、正しいも正しくないもない。要するに、人を率いて国を支配するために神から特別な印をつけられた者たちとは違うのだ。 「諸君、会議は以上だ」  この言葉と共にバルサモは帽子をかぶって外套を纏った。  会員たちも順番に、疑いが起きないように、一人ずつ無言で、その場を後にした。 第百五章 肉体と魂  代表者のそばに最後まで残っていたのは、外科医のマラーだった。  マラーは真っ青な顔をして、おずおずと全能の演説者に近づいた。 「親方《マスター》、私は間違いを犯したのでしょうか?」 「大きな間違いを、な。最悪なのは、間違ったと思っていないところだ」 「正直に言わせていただければ、間違いを犯したとは思っておりませんし、話したことも適切だったと思っておりますが」 「自惚れるな! 自惚れは身を滅ぼすぞ! 血管で暴れ狂う熱や、水中や空中に潜むペストとは戦おうとするくせに、心の奥深くに潜り込んだ自惚れは摘出が不可能になるまでのさばらせておくのが人間というものだ」 「そんな風に思われているとは残念です。すると私はただの雑魚に過ぎず、同志の一員とは認めてもらえないのでしょうか? 仕事の成果を共にする価値もなく、無智のそしりを受けずには一言も発言できないのですか? 信仰に疑いを持たれるような不真面目な会員なのでしょうか? そんな存在でしかないとしても、人類の大義のためにこの身を投げ打つつもりに変わりはありません」 「心の何処かでまだ善悪の葛藤が続いているからだ。いつか悪に流されてしまいそうで気が気でないから、俺がその欠点を正してやろう。上手く行けば、自惚れに襲われることは二度とあるまい。一時間で済む」 「たった一時間で?」マラーがたずねた。 「ああ。一時間借りてもいいな?」 「もちろんです」 「何処がいい?」 「忠実な僕である私が、あなたの決めた場所まで参ります」 「では、お前の家で」 「約束をお忘れなく。私はコルドリエ街の屋根裏に住んでいます。屋根裏です」マラーの声には自尊心を取り繕い困窮を誇示するようなところがあるのを、バルサモは聞き逃さなかった。「ところがあなたの方は……」 「俺の方は?」 「宮殿に住んでいるという噂です」  バルサモは肩をすくめた。背の高い巨人が上から見下ろして、かんかんになっている小人の腹を読んでいるような仕種だった。 「まあいい。屋根裏に邪魔しよう」 「日にちは?」 「明日」 「時刻は?」 「朝」 「夜明けには教室に行って、そこから病院に向かいます」 「それこそ望むところだ。お前が言ってくれなかったとしたら、俺の方から頼もうと思っていた」 「早朝ですよ。ほとんど眠れません」マラーが言った。 「俺は眠らん」バルサモが答えた。「では夜明け頃に」 「お待ちしています」  そう答えたところで出口に着いたので、二人は別れを告げた。入って来る時には賑やかで人通りのあった出入口も、今は深閑として薄暗い。  バルサモは左に向かい、あっという間に見えなくなった。  マラーも同じように細長い足を右に向けた。  バルサモは正確だった。翌朝六時には踊り場の扉を叩いていた。コルドリエ街にある古ぼけた家の最上階、扉が六つ並んだ長い廊下の真ん中だ。  ご推察の通り、マラーは来賓を迎えるに当たって、恥ずかしくないように準備を整えていた。みすぼらしい胡桃材の寝台、木製の台に乗った整理箪笥は、掃除女が襤褸雑巾で綺麗に磨き上げていた。虫食いだらけの家具を磨くのにかかった苦労を偲ばれたい。  マラー自身も積極的に手伝い、青い陶器の花瓶に生けてあった元気なく萎れた花に水をやった。目立った飾りといえばそれくらいしかない。  脇に襤褸雑巾が挟まれているのは、花に取りかかったのが家具の掃除を手伝った後だという証拠である。  扉に差してあった鍵を使ってバルサモがノックもせずに入って来たので、作業中のマラーは慌てふためいた。  親方《マスター》に目撃されて顔を赤らめていては、真の禁欲主義者とは言えまい。  マラーは証拠物件の雑巾をカーテンの陰にこっそり放り投げた。「見ての通り、家庭的な人間でしてね、この掃除女を手伝っていたところです。こんな家事仕事をしようと思うのも、言うなれば平民のものではないでしょうし、ましてや大貴族のものでは絶対にないでしょうからなんですが」 「貧乏で綺麗好きな若者の仕事に過ぎん」バルサモは吐き捨てた。「すぐに用意は出来るか? 俺の時間は貴重なのだ」 「今、服を着ます……グリヴェットさん、服を……この人が管理人です。従僕であり料理女であり会計係でもあり、月に一エキュで働いてもらってます」 「倹約はいいことだ。貧にして富たり、富めば鈍せず」 「帽子とステッキを」とマラーが言った。 「これがそうだろう。ステッキも帽子のそばにあった」 「これは恐縮です」 「用意はいいか?」 「出来ました。時計を、グリヴェットさん」  グリヴェットはきょろきょろとしたものの、反応はない。 「時計はいらんだろう。教室と病院に行くだけだ。探していても遅くなる」 「しかしですね、非常に気に入っている時計なんです。高かったのを、倹約してようやく買ったものなのですから」 「出かけている間にグリヴェットさんが探しておいてくれるだろう」バルサモが笑いかけた。「ちゃんと探しておいてくれたら、戻って来る頃には見つかっている」 「そうですよ」とグリヴェットが言った。「見つかりますとも。余所で落としたんなら別ですけどね。ここで物なんか失くなるものですか」 「そういうわけだ。出かけるぞ」  マラーはそれ以上は意地を張らず、ぶつぶつ言いながらも従った。  外に出たところでバルサモがたずねた。 「まずは何処だ?」 「教室に行っても構いませんか。昨夜急な髄膜炎で亡くなった人がいるそうなので、解剖して脳を観察しようと思っているのですが。ほかの人たちに取られるのは御免ですしね」 「では教室に行こう、マラー君」 「それなんでがここからわずかしか離れていないですし、教室と病院は隣り合わせなものですから、ちょっと出入りするだけなんです。ですから入口で待っていて下さっても構いません」 「いや、一緒に行きたいね。被験者について意見を聞きたい」 「健やかだった頃のですか?」 「いいや、死体になってからだ」 「そうですか」マラーは破顔した。「助言して差し上げられると思いますよ。私はこの分野の専門家ですし、解剖には自信がありますからね」 「自惚れ、自惚れ、また自惚れか!」バルサモが呟いた。 「何ですって?」 「見に行こうと言ったのだ。さあ入るぞ」  マラーが初めに狭い通路に足を踏み入れた。その先に、オートフィーユ街の端にある階段教室がある。  バルサモも躊躇うことなく後を追うと、細長い部屋に出た。大理石の台上に、二体の死体が安置されていた。女のものと男のものだ。  女はまだ若い。男は年老いて禿げていた。粗末な死装束にくるまれて、顔の部分だけが覗いている。  恐らくこの世では会ったこともない二人が、こうして冷たい寝台に並べられているのだ。とこしえの世界に旅立った二人の魂は、隣に自分と同じような死体がいるのを見て驚いているに違いない。  マラーが慣れた手つきで粗末な布を持ち上げて脇によけた。「死」たるもの、外科医のメスの前では平等なのである。  どちらの遺体も裸だった。 「死体を見て気分が悪くなったりはしませんか?」マラーがかまをかけた。 「悲しい気分になる」 「慣れとは恐ろしいものですね。毎日のようにこうした光景を見ているので、悲しくも気分が悪くもなりません。私たちは現場の人間ですからね、死体と共に暮らしながら、それによって日常に支障を来すこともありません」 「医者というものの悲しい特権だな」 「そもそも、人はどうして悲しくなるのでしょう? どうして気分が悪くなるのでしょうか? 一つ目の場合は、理性があるから。二つ目の場合は、習慣のせいです」 「説明してくれ。俺にはよくわからん。まずは理性の方から」 「そうですね。どうして人は動かない肉体を恐れるのでしょうか? 大理石や花崗岩ではなく肉体で出来た彫刻にどうして怯えるのでしょうか?」 「死体には何もないから、ではないか?」 「ええ、何もありません」 「そう思うんだな?」 「絶対に確かです」 「では生者の肉体には?」 「生命活動が」マラーは自信たっぷりに答えた。 「魂、とは呼ばぬのか」 「メスで身体をさばいて来ましたが、そんなものは見たことがありません」 「死体しか確かめたことがないからではないのか」 「まさか! 生きている患者を手術したことだって何度もあります」 「死体と同じく何も見つからなかったのか?」 「痛みのことなら見つかりましたが、痛みを魂と呼ぶのですか?」 「では信じてはいないのだな?」 「何をです?」 「魂を」 「信じています。出来ることなら、生命活動と呼ばれるものから自由でいたいですから」 「それならいい。言いたかったのは、魂を信じろということだ。信じているのなら構わん」 「ちょっと待って下さい。はったりはやめていただけませんか」マラーは蝮のような笑いを見せた。「私たちは現場の人間であり、唯物論者ですからね」 「この死体は二つとも随分と冷たい。女の方は美しいな」バルサモが言うともなく口にした。 「そうですね」 「美しい魂がこの美しい肉体に宿っていたのではないか」 「創造主に手違いがあったようですね。美しい鞘に、醜い刀身。この死体はサン=ラザールでお勤めを終えたいかがわしい女のものでした。施療院で脳炎で死んだのです。恥ずべき経歴が長々と連なっているような女です。この女を司っていた生命活動のことを魂と呼ぶのは、同じ材料で出来ているほかの魂に失礼ですよ」 「治療の必要な魂だったのなら、然るべき医者がいなかったから道を過ったのではないのか。魂の医者が――」 「あなたの言い分はそうなのでしょう。しかしですね、肉体の医者しかいないんですよ」マラーは痛々しい笑みを見せた。「あなたが口になさっているのは、モリエールが喜劇でよく使っているような台詞ですよ。あなただって笑っていらっしゃるじゃありませんか」 「いいや。間違っているな。俺がどうして笑っているのかもわかっちゃいない。それはそうと結論は、この死体は空っぽだということでいいんだな?」 「何の反応もありません」マラーは女の頭を少し持ち上げてから、ぴくりともしない死体をぞんざいに大理石の上に戻した。 「いいだろう。では病院に向かおう」 「待って下さい、その前に、頭を胴体から切り離してみたいのです。興味深い疾患の大本《おおもと》なのですから。構いませんか?」 「好きにしろ」  マラーは道具入れからメスを取り出し、血の染みがついた大きな木槌を傍らに用意しておいた。  それから熟練した手つきで円状に切開を始め、胴体の肉と首の筋肉を切り離した。骨に到達すると脊椎の接合部にメスを滑らせ、乾いた音を立てて力強く木槌を打ち下ろした。  頭部が台に転がり、床に落ちたので、濡れた手で拾い上げなくてはならなかった。  マラーを喜ばせるのが嫌で、バルサモはそっぽを向いた。  それをマラーは、バルサモの弱みをつかんだのだと信じ込んだ。「近いうちに、生に忙しい博愛主義者たちも死のことを考えるようになって、一瞬にして胴体から頭を切り離すことの出来る装置を思いついてくれるでしょう。ほかの処刑方法ではそうは行きません。車責め、四つ裂き、縛り首などは野蛮人の拷問であって、文明人のやることではありません。フランスのような文明国でおこなわれるべきなのは、刑罰であって復讐ではありません。車責めや縛り首や四つ裂きをおこなうような社会は、死によって犯罪者に罰を与える以前に、激痛によって復讐をしていると捉えることも出来るでしょう。それはやりすぎだと思うのです」 「それには同意しよう。だがいったいどういった道具を考えているんだ?」 「それ自体が法律のような、何物にも動じない冷徹な装置であります。死刑執行人は目の前の光景に動揺して、しくじることもあるでしょう。シャレー伯爵やモンマス公爵の時がそうでした。例えば刃を動かす木製の腕を持った装置なら、そういったことはありません」 「後頭部のつけ根と僧帽筋の間を雷のような速さで刃が通過するというのなら、死も一瞬のことで、痛みも一時のことだというのか?」 「死が一瞬で訪れるのは間違いありません。動きを司っている神経が一撃で断ち切られるでしょうから。痛みも一時《いっとき》のことに過ぎません。感覚の大本である脳と生命の源である心臓が断ち切られるのですから」 「だが同志よ、斬首刑はドイツに存在するぞ」 「それはそうですが、あれは剣を用いたものですから。私が申し上げたのは、人の手は震えることがあるということです」 「似たような装置ならイタリアに存在するぞ。木製の本体で刃が動くのだ。マンナーヤと呼ばれている」 「そうなんですか?」 「そうだ。死刑執行人によって首を斬られた犯罪者たちが、首のないまま椅子から立ち上がり、十歩ほど進んでつまずいて転ぶのを俺は見て来た。マンナーヤの下に頭が転がったのを、幾つも拾い集めたんだ。さっき台の下に頭が転がったのを、お前が髪をつかんで拾ったようにな。耳元で洗礼名を呼びかけてやると、再び目が開き、目玉がぎょろりと動いた。永遠への旅路の最中に地上から呼びかけているのが誰なのか確かめようとでもしているようだったぞ」 「ただの神経反応じゃありませんか」 「神経は感覚器官ではないのか?」 「それで、そこからどういった結論を引き出したというんです?」 「罰として殺す装置を作ろうとするよりも、殺さずに罰する方法を探るべきだ。そうすれば社会はさらによくなり、さらに啓かれることだろう。俺たちの社会でならそうした方法を見つけることが出来ると信じている」 「また理想論だ! 理想論ばかりだ!」 「今回ばかりはお前が正しいのかもしれんな。いずれ時が明らかにしてくれるだろう……病院の話だったな?……では行こうか!」 「行きましょう!」  マラーはポケットから出した手巾に女の頭部をくるみ、しっかりと四つ角を縛った。 「これで同僚たちを待ち受けているのは残り物だけです」マラーはほくそ笑んだ。  二人は施療院に向かった。夢想家と実践家は並んで歩いた。 「頭部を切断している間、随分と冷静で手際がよかったな。生きている人間を扱っている方が、死体を扱う時よりも落ち着いているのか? 苦しんでいるのを目の当たりにする方が、反応のない肉体を扱うよりも、心を動かされるのではないか? 死んでいる人間よりも生きている人間に同情を感じるのではないか?」 「いいえ。それでは動揺してしまう死刑執行人と同じ過ちを犯すことになりますから。腿を切るのに失敗すれば、不器用に首を切るように、人を殺してしまうことだってあり得るのですからね。優秀な外科医は心ではなく手で手術をおこないます。それはもちろん心の中では、一瞬の痛みと引き替えに、何年もの命と健康を与えるのだということはちゃんとわきまえておりますが。そこが医者の嬉しい特権でしょう!」 「そうだな。だが生きている人間を相手にして、魂に出くわしたことがあるんじゃないのか?」 「ええ、魂というのが生命活動や感覚のことだというのであれば、その通り、出くわしたことがあります。厄介というほかありません。私のメスより多くの病人を殺してしまうのですから」  施療院の前まで来たので、二人は中に入った。重苦しさを纏ったままのマラーの案内で、バルサモは手術室に入り込むことが出来た。そこには執刀医と助手たちがいた。  先週馬車に轢かれて足を砕かれた青年が運び込まれて来たところだった。痛みで麻痺した足に施した一回目の緊急手術では充分でなかったのだ。痛みは急速に広がり、速やかに手術する必要がある。  患者は苦痛に喘いで手術台に横たわったまま、煩悶の瞬間、それも恐らくは臨終の瞬間を熱心に観察している人々を、虎も舌なめずりするような恐怖を浮かべて見つめていた。医者たちが観察しようとしている生命という驚くべき現象の背後には、死という暗い現象が潜んでいるのだ。  患者が期待していたのは、外科医や助手や看護士たちの慰めや微笑みや優しさだったのだろう。だがそこで目にしたものは、冷たい心と、鋼のような視線だけであった。  勇気と自尊心を振り絞って、患者は口を閉じた。叫ぶ力を残しておけば、やがて痛みを和らげることも出来る。  だが看護士の手がなだめるように肩にずしりと乗せられたのを感じ、助手の手がラオコーンの蛇のように絡みつき、外科医が「しっかり!」と声をかけたのを耳にすると、患者は我知らず沈黙を破り、呻くような声でたずねていた。 「かなり痛いんですよね?」 「そんなことはない。気を楽に」マラーが作り笑いを見せた。それは患者にはいたわるような笑みに見え、バルサモには皮肉に見えるような笑みだった。  バルサモに意図が伝わったのを見て、マラーは近寄って囁きかけた。 「どうしようもありません。骨が粉々で、気の毒なくらいぼろぼろです。怪我が原因ではなく、痛みのあまり死んでしまうでしょう。それがこの患者に魂がもたらすものであるのですよ」 「ではどうして手術をするんだ? 穏やかに死なせてやればいいじゃないか」 「たとい絶望的でも、助けようとするのが医者の務めでありますから」 「かなり苦しむんだな?」 「ひどく」 「魂のせいでか?」 「肉体に未練を残した魂のせいです」 「ではどうして魂に手術をしないんだ? 魂を安らかにしてやれば、肉体だって救われるだろう」 「それこそまさに私がして来たことです……」患者を縛る作業を続けながら、マラーは答えた。 「魂を気遣って来たというのか?」 「ええ」 「どうやって?」 「言葉によって。魂や智性や感覚や、ギリシアの哲学者に『苦しみよ、汝は悪ではない!』と言わせたものに話しかけて来たのです。何と相応しい言葉ではありませんか。患者には『痛くないからね』と伝えました。そうしておけばこのように、魂はまったく苦しまずにいられるのです。これが現在までに知られている治療薬なんです。魂の問題に対しては、ただの欺瞞でしかありません! どうしてこの魂という厄介者は、肉体に縛りつけられているのでしょうか? 先ほど頭部を切り取った時に、肉体は何も言いませんでした。手術は難しいものでした。ですがどうしろと言うのです! 生命活動は止まり、感覚は失せ、あなたがた唯神論者に言わせれば、魂は抜け出してしまいました。だからこそ切り取られた頭部は何も言わなかったし、首のない胴体も何もしなかったのです。この肉体にはまだ魂が宿っていますから、これから恐ろしい悲鳴をあげることでしょう。耳を塞いだ方がよいのではありませんか。魂と肉体のこうした繋がりは、あなたの理論にとっては都合が悪いでしょう。魂と肉体を分けて考えられる日が来るまでは、あなたの理論は陽の目を見ずに終わるんです」 「そんな日が来ないと思っているのか?」 「確かめてご覧になればいい。いい機会なのですから」 「その通りだな。いい機会だ。是非やってみよう」 「お試しになるのですか?」 「ああ」 「どういう事情で?」 「この若者を苦しませたくないのだ」 「確かにあなたは偉大な指導者ですが、父である神でも子である神でもない以上は、この若者を苦しみから逃れさせることが出来るとは思えません」 「苦しまなければ、快復すると考えるだろうな?」 「可能性はありますが、確実とは言えません」  バルサモは何とも言い難い勝ち誇った目つきをマラーに送ると、若い患者の前に立ち、恐怖に悶える怯えた眼差しと向き合った。 「眠れ」口からだけではなく、目と意思とたぎる血潮と体中のうねりを込めて、バルサモは命じた。  執刀医が患者の腿に触れ、助手たちに患部の具合を確かめさせていたところだった。  だがバルサモが命じると、患者が身体を起こし、助手たちの腕の中で揺れると、頭を落とし目を閉じた。 「気絶してしまった」マラーが言った。 「そうではない」 「意識を失ったのがわからないのですか?」 「眠っているだけだ」 「眠っている?」 「そうだ」  誰もがこの飛び入りの医者を狂人扱いして見つめた。  マラーの口唇に疑わしげな微笑が浮かんだ。 「気絶している人間が会話を交わすことが出来るか?」バルサモがたずねた。 「出来ませんね」 「では何かたずねてみろ、答えが返って来るはずだ」 「もしもし!」 「そんな大声を出さずともよい。普通の声で話してみろ」 「あなたがしたことをちょっと聞かせてもらえますか」 「眠れと命じられたので、眠りました」と患者が答えた。  驚いたことにその声はすっかり穏やかになっており、ほんのわずか前に聞いた声とは正反対だった。  医者たちが顔を見合わせた。 「ほどいてやってくれ」 「無理だ」執刀医が答えた。「ちょっとでも動けば、手術は失敗してしまう」 「動いたりはしない」 「保証できますか?」 「俺と患者が保証する。本人に訊いてみればいい。自由にしても構わんな?」 「構いません」 「動かないと約束してくれるか?」 「動くなと言われれば、約束します」 「では、動くな」 「それだけ自信たっぷりだと、試してみようという気にもさせられるな」執刀医が呟いた。 「そうすればいい。恐れることはない」 「ほどいてやってくれ」  執刀医の言葉に、助手たちが従った。  バルサモが枕元に移動した。 「今この瞬間から、命令されない限り動いてはならん」  墓石を飾る彫像も、この命令を聞いた患者ほどこちこちではなかっただろう。 「では手術を始めてくれ。患者も覚悟は出来ている」  外科医はメスを握ったが、それを使おうとして躊躇った。 「切れ、切るのだ」バルサモの声には、霊感を受けた予言者の如き響きがあった。  マラーも、患者も、そこにいた全員が圧倒されていた。外科医も例外ではなく、メスを患者に近づけた。  肉が裂けたが、患者は一声もあげず、微動だにしない。 「出身地は?」バルサモがたずねた。 「ブルターニュです」患者は微笑んだ。 「故郷が好きか?」 「ええ、素晴らしいところです!」  外科医はこの間も切開を続けていたので、そこから骨の姿が見え始めた。 「小さい頃に離れたのか?」 「十歳の時です」  切開が終わり、外科医は骨に鋸を近づけた。 「バッツの浜子が仕事上がりに口ずさむ歌を歌ってくれないか。出だししか覚えてないんだ。  灰汁の浮かんだおいらの塩に、というやつだ」  鋸が挽かれた。  だが患者はバルサモの頼みに微笑んで、抑揚をつけてゆっくりと歌い始めた。その恍惚とした表情は、まるで恋人か詩人のようだ。  灰汁の浮かんだおいらの塩にぃ、  空の色したおいらの海にぃ、  煙る泥炭をおいらの窯にぃ。  蜜に漬け込んだおいらの麦にぃ。  おらが女房と、老けた親父にぃ、  おいらの愛しい子供らにぃ。  香る金雀枝《エニシダ》に見守られて  眠りについてるお袋の墓にぃ。  幸あれ! 今日も終わった、  おいらはこれから帰るとこ。  仕事が終わって一騒ぎ、  留守から帰って愛し合おう。  足が手術台に落ちても、患者はまだ歌っていた。 第百六章 魂と肉体  誰もが驚きの目で患者を見つめ、感嘆の目で医者を見つめていた。  二人とも気が狂ったのではないかと思った者もいたくらいだ。  マラーがそうした気持をバルサモの耳に伝えた。 「恐怖のあまり正気を失ってしまったのですよ。だから痛がっていないだけです」 「そうは思わんな。正気を失ったどころか、尋いたらちゃんと答えてくれるだろうぜ。死ぬのだとしたらいつ死ぬのか、死なないのだとしたら快復するのはいつ頃のことなのか」  マラーの感じたことは全員の気持を代辯していた。即ち、気が狂っているのは患者ではなくバルサモの方だ、と。  そうしている間にも、外科医は血が溢れている動脈を縛っていた。  バルサモはポケットからガラス壜を取り出し、綿紗《ガーゼ》の上に数滴の液体を垂らすと、その綿紗を動脈に当てるよう執刀医に伝えた。  執刀医は不思議がりながらも言われた通りにした。  当時有数の臨床医であり、心から科学を愛する人間であったため、謎をそのままにしておくことなど出来なかったし、彼にとって偶然とはすべてを疑ってかかった後の妥協案でしかなかったのである。  綿紗を動脈に押し当てると、動脈が震えて泡立ち、血はぽつりぽつりと流れるだけになった。  そのおかげで血管を縛るのも極めて簡単だった。  今度こそ、勝利を手に入れたのはバルサモであった。いったい何処で学んだのか、何処の出なのかを、誰もが口々にたずねた。 「俺はゲッティンゲン大学のドイツ人医師だ。ご覧いただいた事実はしばらく前に発見していた。だが同業者諸君、俺はこの発見をまだ秘密にしておきたいのだ。何しろ薪が嫌なんでね。パリ高等法院の奴らは、魔女に火あぶりを命じる味が忘れられなくて、何度でも同じような判決を下すだろうからな」  執刀医は先ほどからぼうっとしたままだった。  マラーも呆然として考え込んでいた。  だが最初に口を開いたのはマラーだった。 「手術の結果について患者にたずねたなら、確実に答えるはずだ、と先ほど仰いましたね。将来的にどういう結果がもたらされるかはまだわからないというのに」 「そのことなら何度でも繰り返そう」 「いいでしょう」 「患者の名前は?」 「アヴァールです」  バルサモはまだ歌の結びを繰り返していた患者に向かってたずねた。 「このアヴァールの様子から、どんなことがわかる?」 「アヴァールの様子から何がわかるか、ですか? 以前はブルターニュにいましたが、戻って来て、今は施療院にいます」 「その通りだ。施療院に入って、アヴァールを見て、わかる事実を教えてくれ」 「あっ、怪我人です。かなりの重傷で、足が切断されています」 「確かだな?」 「はい」 「手術は成功したか?」 「成功しました。ですが……」  患者の顔色が曇った。 「だが、何だ?」 「ですが、高熱という恐ろしい試練が待ち受けています」 「いつ?」 「今晩七時です」  医者たちが顔を見合わせた。 「熱を出してどうなる?」 「熱を出してひどく苦しみますが、最初の発作は乗り切ります」 「間違いないな?」 「ええ、間違いありません」 「その後で助かるのか?」 「残念ながら、違います」患者はため息をついた。 「熱がぶり返すんだな?」 「そうです! 考えられないほどの高熱が。哀れなアヴァール、可哀相に、妻も子供もあるのに!」  患者の目に涙が浮かんだ。 「すると妻は寡婦になり、子供たちは孤児になるんだな?」 「待って下さい!」  患者は手を合わせた。 「いえ、違います」  患者の顔が敬虔な輝きに満たされた。 「妻と子供の熱心な祈りが報われ、アヴァールに神の恩寵がもたらされます」 「では快復するのか?」 「ええ」 「お聞きの通りだ、諸君。患者は快復する」 「何日かかるのか尋いて下さい」マラーが言った。 「何日かかるかだと?」 「ええ。快復の段階と期間を本人から教えてもらえるのでしょう」 「それをたずねるに如《し》くはないな」 「ではおたずね下さい」 「アヴァールが全快するにはどれくらいかかりそうだ?」 「ええ……全快には長い時間がかかります。待って下さい。一か月、六週間、二か月。ここに入ったのが五日前でした。出て行くのは、入ってから二か月と二週間後です」 「全快して出て行くんだな?」 「はい」 「ですが、働くことが出来ない以上、妻と子を養うことも出来ないではありませんか」とマラーが指摘した。 「ああ、慈悲深い神は必要なものを賜ります」 「どのように?」マラーがたずねた。「今日は何でも学ぶつもりですから、是非とも学ばせてもらいましょう」 「神は枕元に憐れみ深い人間をお遣わしになり、『哀れなアヴァールに不自由をさせるつもりはない』と囁かれました」  医者たちが顔を見合わせ、バルサモがニヤリと笑った。 「我々が不思議な光景に立ち会ったのは間違いない」執刀医は患者の手を取り、心音を確かめ、額に手を当てた。「この男は夢を見ているのだ」 「そう思いますか?」  バルサモは威厳に満ちた猛々しい眼差しを患者に向けた。 「起きろ、アヴァール!」  若者はぎこちなく瞼を開き、驚いて医者たちを見つめた。みんな先ほどまでの威圧感が嘘のように、すっかりおとなしくなっている。 「何だ、まだ手術は始まっていないんですか? これから痛めつけようというんですね?」患者は辛そうな声を出した。  バルサモが慌てて声をかけた。昂奮させるのはまずい。だが慌てる必要もなかった。  ほかに口を開いた者はいなかった。それほど驚きが大きかったのだ。 「まあ落ち着いて聞いてくれ。執刀医の先生が足の手術をおこない、すべては上手く行った。気力が衰えていたんだろうな。最初のメスを入れる前に、意識を失っていたんだ」 「それは却ってありがたい」ブルターニュ人の患者は喜んだ。「何も感じなかったんですから。むしろ眠っている間は健やかで体力も戻った気がしますよ。運がよかったな! 足を切られずに済むんですから」  だが次の瞬間、患者は自分の身体に目をやり、血塗れの手術台と切断された足を見つけた。  悲鳴をあげて、今度こそ本当に意識を失った。 「声をかけてくれ」バルサモは落ち着いてマラーに命じた。「返事があるか確かめるんだ」  それから執刀医を部屋の隅に引っ張って行った。そうしている間にも、看護士たちが若い患者を寝台に戻している。 「先生、患者の言ったことはお聞きになりましたね?」 「ああ、快癒するようですね」 「それだけではありません。神が慈悲をかけて下さり、妻と子供を養うのに必要なものを用意すると言っていましたよ」 「つまり?」 「要するに、患者が真実を口にしていたのは、この点もほかの点と変わりないということなんです。あなたには、患者と神の間の慈悲を仲立ちする仲介人になってもらいたいのです。ここに二万リーヴル相当のダイヤモンドがあります。患者が直ったら、これを売って、お金を手渡してもらいたい。何しろ、教え子のマラー氏がいみじくも言っていたように、魂が肉体に及ぼす影響には並々ならぬものがありますから、やがてアヴァールが快復したら、本人の未来も子供たちの未来も安心だと、しっかりと伝えてもらいたいのです」 「ですが……」外科医は差し出された指輪に手を伸ばすのを躊躇った。「もし快復しなかったら?」 「快復は確実です!」 「だが受け取りをお渡ししなくては」 「先生……!」 「こんな高価な指輪をお預かりするのなら、それだけは譲れません」 「ではご自由に」 「あなたのお名前は?」 「ド・フェニックス伯爵」  外科医が隣室に向かうと、マラーがまだ愕然として戸惑ってはいたものの、それでも目の前の事実と折り合いをつけようとしながら、バルサモに近づいて来た。  五分後、戻ってきた外科医が手に持っていた紙をバルサモに手渡した。  次のような文面の受け取りである。 「私はド・フェニックス伯爵より、二万リーヴル相当と本人より申告されしダイヤモンドを、アヴァールなる名の患者が施療院より退院する日に、手渡さんがために、受け取ったことを証明す。  医学博士ギヨタン、一七七一年九月十五日」  バルサモは一礼すると、受け取りを手に、マラーを連れて外に出ようとした。 「頭を忘れているぞ」若き外科医がぼんやりしているのを見て、バルサモが声をかけた。 「ああ、そうでした」  マラーは不吉な荷物を回収した。  通りに出ると、二人とも物も言わずに足早に歩き続けた。コルドリエ街に着くと、急な階段を二人して上り、屋根裏に向かった。  管理人小屋――それは小屋の名前に相応しい穴蔵だったが、その前まで来ると、時計を失くしたことを忘れていなかったマラーは、立ち止まってグリヴェットさんにたずねた。  十七、八歳のひょろひょろと痩せっぽちの少年が、がらがら声でそれに答えた。 「母ちゃんは出かけてます。先生が戻って来たら、この手紙を渡してくれって言ってました」 「いや、自分で持って来るように言ってくれないか」 「わかりました、先生」  マラーとバルサモは先に進んだ。 「驚きました!」マラーはバルサモに椅子を勧め、自らは脚立に身体を預けた。「恐ろしい秘密をご存じだったんですね」 「他人より早く、自然や神の秘密に分け入っていたに過ぎんよ」 「科学によって人間が全能であることが証明されるとは! 人間であることを誇りに思うべきです!」 「そうだな。だが先生、つけ加えることがあるだろう」 「もちろん、あなたを誇りに思っております、親方《マスター》」 「そうは言っても、俺は魂の医者でしかない」バルサモはニヤリと笑って答えた。 「それは通りませんよ。物理的な方法で血を止めたのはあなたなんですから」 「患者が苦しまなかったのは俺が最善の選択をしたからに過ぎん。お前の方は、患者の気が狂ったのだと断言していたな」 「一瞬だけ気が狂っていたのは確かです」 「狂気とは何だ? 魂が何処かに行ってしまうことではないのか?」 「或いは精神が」 「それはどうでもいい。『魂』というのは俺の言いたい言葉を言い表すのに都合がいいだけだ。探しているものが見つかってしまえば、それがどう呼ばれようと構わん」 「それには同意できませんね。探していたものが見つかり、後はそれを表現する言葉を探すだけだと仰いますが、探しているのは言葉とものの両方だとしか思えません」 「そのことは後で話そう。狂気とは一時的に精神が何処かに行ってしまう状態のことだと言ったな?」 「その通りです」 「自発的にではなく。そうだな?」 「そうです……私はビセートルで狂人を見たことがあります。鉄製の柵を齧りながら、『おい料理人、この雉の肉は柔らかいが、ちゃんと火が通ってないぞ』と叫んでいました」 「しかしだな、狂気とは精神をよぎる雲のようなものであり、雲が晴れれば精神も初めの明るさを取り戻すことは認めるだろう?」 「そうなることは滅多にありません」 「だがさっきの患者は狂気の眠りから覚めて、完璧に理性を取り戻したではないか」 「確かにそれを目にしましたが、自分の見たものがまったく理解できないのです。あれは極めて稀な症例であり、ヘブライ人が奇跡と呼んだ出来事なのでしょう」 「それは違う。あれは魂の一時的な不在、つまり物質と精神が二重に断絶したに過ぎん。物質とは不活性なもので、いずれ塵に還る塵だ。魂とは肉体という角灯に一時的に閉じ込められた神聖な火花であり、天の娘。いずれ肉体が朽ちれば天に還るものだ」 「ではあなたは一時的に肉体から魂を引き出したと言われるのですか?」 「そういうことだ。俺は魂に向かって、囚われている惨めな場所から離れるように命じてやった。苦しみと痛みの淵から魂を引き出してやり、自由と純粋の世界に旅立たせてやった。だとしたら外科医に残されているのは何だろうな? 死んだ女からその頭部を切り離した際に、お前のメスに残されているものは、ただの不活性な肉体、物質、粘土に過ぎんのではないか」 「ではいったい何者の名において魂を操っていたというのですか?」 「一吹きであらゆる魂を創造した者の名において。世界中の魂、全人類の魂を創造した、神の名において」 「ではあなたは自由意思を否定するのでしょうか?」 「俺が? おいおい、ではさっきまで俺は何をしていたんだ? 一方では自由意思を見せてやり、一方では魂が一時的に不在であることを見せてやったじゃないか。ひどい苦しみに冒されて死にかけている患者がいた。あの男は気丈な魂の持ち主だったから、手術に立ち向かい、挑み、耐え、そしてなお苦しんでいた。これは自由意思のためだ。だが俺が男に近づいた。神の遣いにして、予言者、使徒であるこの俺が、同胞を哀れに思い、主から授かった力を使って、苦しんでいる肉体から魂を取り出したのだ。そうすることによって、目も見えず不活性で無感覚な肉体は、魂にとっては純粋な世界の高みから見下ろす光景に過ぎなくなった。アヴァールの言ったことを聞かなかったのか? アヴァールは自分を『哀れなアヴァール』と呼んだではないか! 『私』とは言わなかった。あれはつまり、魂が既に肉体から離れ、天に近いところにいたのだ」 「ですがそうなると、人間には何もなくなってしまうではありませんか。独裁者に向かって、『お前には私の肉体を自由にすることは出来ても、私の魂を自由にすることは出来ぬ』とすら言えなくなってしまいます」 「まったくお前は事実から詭弁をひねり出す奴だな。それが欠点だと言ったではないか。神が肉体に魂を貸与したことは事実だが、魂が肉体に宿っている間は二つは一つであり、魂が肉体に影響を与え、物質が精神を支配しているのも、また事実だ。神は俺たちにはわからない考えに基づいて、肉体が王であることも魂が女王であることも禁じてはいないのだ。だが乞食に生命を与える息吹が、王を死なせる息吹とまったく同様に純粋であるのもまた事実だ。それがお前ら平等教徒の唱えたがっている教義なんだろう。二つの霊的精髄の間の平等を証明してみるがいい。幾らでも証明できるだろう。この世にはそのために利用できる神聖なものが幾つもあるんだからな。聖書、伝統、科学、信仰。二つの物質が平等かどうかなどはどうでもいい! 肉体の平等など神の前でごまかせはしないんだ。ついさっきあの患者は、つまり何も知らぬ大衆の落とし子は、自分の容態について、医者たちの誰も言おうと出来なかったことを口にしただろう。何故だかわかるか? それは魂が一時的に肉体の軛《くびき》から解放され、地上を滑空し、俺たちの無智を覆っていた神秘を上から見下ろしていたからだ」  マラーは卓上に置いた死者の首をいじりながら、答えを見つけ出そうとしていた。 「そうですね。そこには何か超自然的なものがあるのでしょう」ようやく言えたのはそれだけだった。 「自然であって、超自然などではない。魂が生来持っている機能を超自然と呼ぶのはよせ。至って自然なこの機能は、既知のものに過ぎん」 「あなたには神秘でも何でもないのでしょうが、多くの人間にとっては未知のものなのです。ペルー人には未知の馬も、イスパニア人には馴染みがあって、よく調教されていたのですから」 「『知っている』と口にするのは自惚れになろう。俺はもっと謙虚に『信じている』と表現しよう」 「つまり、何を信じているのです?」 「俺が信じているのは、あらゆるものの中でもっとも優れてもっとも強力な原理、つまり進歩という原理を信じている。神はほかならぬ幸福や徳を目的として創造したのだと信じている。だがこの世にはあまりにも多くの命があるから、進歩はのろい。聖書によれば、印刷術によって過去を反射し未来を照らす巨大な灯台が出現した時には、俺たちの星は誕生から六十世紀を数えていたそうじゃないか。印刷術のおかげで、無智や忘却とは無縁になった。印刷術とはこの世界の記憶だ。グーテンベルクが印刷術を発明してくれたおかげで、俺は再び信じることが出来るようになったんだ」 「どうやら将来的には心を読めるようにもなりそうですね?」マラーが冷やかすようにたずねた。 「出来ない理由はない」 「すると、多くの人々があれほど覗きたいと願って来た、あの小さな穴を人間の胸に開けたりなさるんでしょうね?」 「それには及ばん。肉体から魂を切り離せばいい。後は魂という純粋にして無垢な神の娘が、それまで動かしていた人間の包みがどれだけ卑しいかをたっぷりと教えてくれる」 「物理的な秘密も明らかになると?」 「いけないか?」 「例えばですが、私の時計を盗ったのが誰かわかるのですか?」 「これはまた科学をえらい水準に引き下げてくれたな。まあいい! 神の偉大さは砂粒でも山でも同じように証明できるし、蚤でも象でも同じことだ。いいだろう。時計を盗った奴を教えてやる」  ここで扉を叩く音がした。管理人が言われた通りに手紙を持って来たのだ。 第百七章 マラー宅の管理人  扉が開き、グリヴェットさんが入って来た。  これまでこのご婦人に詳しく筆を割いて来なかったが、それというのもよほどのことがない限り画家が描くのを避けるような類の人物だったからだ。それが今やこの物語の真っ直中に顔を出し、これまで読者の目に披露して来た巨大な絵巻にその姿を刻むこととなった。この絵巻というものには、筆者の霊感と思惑が一致さえすれば、乞食から王様まで、怪物《キャリバン》から妖精《アリエル》まで、妖精から神までをも登場させることが出来るのだ。  それでは、舞台裏を離れて表舞台に姿を見せたグリヴェットさんについて筆を取ってみようと思う。  ひょろひょろと痩せこけた、三十二、三の、肌の黄ばんだ女性で、青い目はぞっとするような黒い隈に縁取られている。肉体的にも精神的にも劣悪で逼迫したひどい暮らしと年のせいだ。神はこの者たちを美しく造り給いて、宙と天と地に在るよろずの生き物のそうである如く、見事なまでに健やかに育て給うたであろう。その者が人生の多くを痛めつけられて来なかったなら、言わば足枷で足を、飢えで胃を、食糧がまったく無いにも等しいような命取りの食糧で胃を傷めて来なかったならば。  だから、マラーのところの管理人は美しい女であったことであろう。もし十五歳のみぎりより風も陽も当たらぬあばら屋で暮らしていなければ。もし生来の輝きがこの窯の熱さや氷の冷たさで絶えずじわじわと炙られていなければ。細く長い指にはお針子仕事で出来た糸の跡がついており、水仕事のせいであかぎれてぶよぶよとなり、炊事で使う火に当たって固くなっていた。だがそれにもかかわらず、その手の形を見れば、即ち消そうとしても消えないその神々しい肉付きの跡を見れば、王家の手にも紛えたはずだ。それが箒を握って出来たマメではなく笏を握った出来たマメであったならば。  以上のことからわかる通り、この哀れな人物の肉体は筆者がお話ししたことの外面に過ぎない。  このご婦人の内部では精神が肉体をしのいでいたので、精神は肉体よりも打たれ強く、燈のように燃え続けていた。言わば、それは透き通るような光で肉体を照らし、時にはぼやけて曇った目に、智性・美・若さ・愛・つまり生来人間に備わっているあらゆる魅力の輝きが灯るのも見えたのである。  バルサモはしばらくこの女を、もといこの非凡な存在を見つめていた。見つめられた管理人の方は、はなからバルサモの探るような目つきにぎょっとしている。  とにかく中に入って手紙を手渡そうと、老婦人のような穏やかな声をかけた。辛苦に引導を渡された女は三十歳で老いるものなのだ。 「マラーさん、あなたが仰ってた手紙ですよ」 「別に手紙を待っていたわけじゃない。あなたに会いたかったんです」マラーが答えた。 「おやまあ、ここに参上いたしましたよ、マラー閣下」  グリヴェットさんは深々とお辞儀をした。 「ご用件は?」 「時計のことですよ。おおかた予想はしていたでしょう」 「時計がどうなったかなんて知りっこありませんよ。昨日は一日中その暖炉の鉤にぶら下がっていたんですからね」 「そんなはずはない。昨日は一日中ポケットの中だったんだ。ただし夕方六時に出かける時には、人混みの多いところに行く予定だったから、盗まれるのが嫌で燭台の下に置いておきましたがね」 「燭台の下に置いたんでしたら、今もそこにございますでしょう」  管理人は自らの言葉を疑いもせず、マラーが時計を隠したという暖炉上の二客の燭台を親切ごかしに持ち上げに向かった。 「ほら、燭台はちゃんとあるじゃございませんか。さて時計は? あら、本当に見当たりませんね。ちゃんとここに置いたんですか、マラーさん?」 「もちろん、そう言ったからには……」 「ちゃんと捜して下さいな」 「とっくに捜しましたよ」マラーは眉をひそめた。 「じゃあ落としてしまったんでしょうねえ」 「昨日、この燭台の下に、時計を置いた。そう言ったはずです」 「じゃあどなたかいらしたんじゃないですか。誰彼なしにお連れして来るんですから!」 「言い訳は結構!」苛立ちを募らせ、マラーが声をあげた。「昨日から誰もここには来ていないのはご存じのはずですがね。あの時計も、最後の杖《ステッキ》の銀の握りや、あの銀のスプーンや、六枚刃のナイフがたどったのと同じ道をたどったんですよ! 盗まれたんです、グリヴェットさん、盗まれたんですよ。散々我慢して来ましたが、これには我慢できません。いい加減にしてもらいましょう!」 「おやマラーさん、もしかしてあたしを責めてるんですか?」 「あなたには私の持ち物を監督しておく義務がある」 「鍵の一つも持ってませんよ」 「だって管理人じゃありませんか」 「月に一エキュで二人分のお仕事をしろと仰るんですか」 「仕事が拙いことを問題にしているんじゃありませんよ。ものが盗まれることを問題にしているんです」 「あたしは正直な人間ですよ!」 「一時間以内に時計が見つからなければ、その正直な人間を警察に引き渡します」 「警察に?」 「ええ」 「あたしみたいな正直者を警察に?」 「正直者、正直者ねえ……」 「ええそうですとも。それについちゃ何にも言うことはありませんよ」 「わかりました、もう結構です、グリヴェットさん」 「わかってますよ! 留守の間にあたしが何かしたんじゃないかとお疑いなんでしょう」 「杖の握りが消えた時から疑っていました」 「じゃあ今度はあたしにも一つ言わせてもらいましょうか」 「何についてです?」 「お留守の間に相談していたことについてですよ」 「相談? 誰に?」 「ご近所の方々にです」 「それはまたどうして?」 「お疑いの件でですよ」 「疑いを口にしたことは一度もなかったが」 「察しはついていましたからね」 「それで? 近所の人たちは何と言っていたんですか。それを聞きたいですね」 「あなたがあたしを疑ったり、誰かに疑いの目を向けたりするようなことをするんでしたら、徹底的におこなうべきだと言われましたよ」 「つまり?」 「つまり、時計が盗まれたという証拠ですよ」 「時計は盗まれたんです。そこにあったものが今はなくなっているんですから」 「ええ、もちろんあたしが盗んだんでしょうよ。でも裁判には証拠が要るんですよ。言葉だけじゃ誰にも信じてもらえませんからね、マラーさん。あなたもあたしたちと同じなんですからね」  バルサモはいつものように冷静にこの場面を眺めていた。マラーの確信は些かも揺らいではいないように見えたが、声からは勢いが削がれているのがわかる。 「いいですか」管理人はなおも続けた。「あたしを信用なさらないって言うんでしたらね、謝罪なさらないって言うんでしたらね、警察を呼びに行くのはあたしの方ですよ。地主の方もついさっきそう仰ってましたからね」  マラーは口唇を咬んだ。脅しではないことはわかっていた。地主というのは引退した裕福な老商人で、四階の部屋に住んでおり、近所の噂によれば、かつて妻の料理女だった管理人のことを数十年前から非常に可愛がっているらしい。  一方のマラーにはいかがわしいつきあいがあった。マラーは清廉潔白とは言えない若者であった。マラーには隠しごとがあった。マラーは警官から疑われていた。警察と関わり合うのは避けたかったし、ド・サルチーヌ氏の手に捕らえられるのは問題だ。マラーのような若者の書いたものを読んだり、そうした文書の作者をヴァンセンヌ、バスチーユ、シャラントン、ビセートルという名の瞑想小屋に放り込むのをこよなく愛しているような人物なのだから。  それ故にマラーの声は小さくなった。だがマラーの声が小さくなるにつれ、管理人の声は大きくなっていた。いつしか被告人から告発者に立場は変わり、神経質で癇癪持ちな性向が気流に乗った炎のように燃え上がった。  脅し、呪詛、叫び、涙、ありとあらゆる攻撃が、暴風雨さながらに繰り出された。  もうそろそろ仲裁すべき頃合いだと感じたバルサモは、部屋の真ん中に立って凄んでいる管理人に近づいた。恐ろしい目つきで睨みつけながら、二本の指を管理人に突き出した。そして口ではなく目を、念を、あらゆる意思を用いて、マラーには聞こえない言葉を発した。  すぐにグリヴェットさんは口を閉じて、ふらふらと揺れながら後じさりした。目を見開き、磁気の霊力に押し寄せられて、物も言わずに寝台に倒れ込んだ。  やがて目を閉じ、また開いた。だが焦点は合っていない。言葉は引き攣り、身体はぴくりともせず、手だけが瘧にかかったように震えている。 「病院の時と同じだ!」マラーが声をあげた。 「そうだな」 「では眠っているのですか?」 「静かに!」  バルサモはマラーに話しかけた。 「今こそ疑いは去り、躊躇いは消えるはずだ。この女が持って来た手紙を拾ってくれ。倒れた時にそこに落ちたんだ」  マラーは言う通りにした。 「それで?」 「まあ待て」  マラーの手から手紙を受け取った。 「差出人を知っているか?」バルサモは催眠状態の管理人に手紙を見せた。 「いいえ、知りません」  バルサモは封の切られていない手紙を管理人に近づけた。 「マラー氏に読み上げてやってくれ。手紙の内容を是非とも知りたいそうだ」 「出来るわけがありませんよ」マラーが言った。 「そうだな。だがお前には読めるだろう?」 「それはそうです」 「よし、では読んでくれ。お前の心に文章が刻み込まれると、それを追ってこの女が読み上げる」  マラーは手紙を開封して読み始めた。するとグリヴェットさんは立ち上がり、バルサモの全能の力に囚われて震えながら、マラーが目で追っている文章を繰り返した。  ――親愛なるヒポクラテス殿  アペレスは最初の肖像画を仕上げたところだよ。五十フランで売れた。今日はこの五十フランでサン=ジャック街の食堂に食べに行かないか?  もちろん軽く飲めるところだ。    L・ダヴィッド  一字一句間違いはなかった。  マラーは手紙を落とした。 「さあ。これでグリヴェットさんにも魂があり、眠っている間も魂は起きているのはわかっただろう」 「不思議な魂ですね。肉体が読めないものを読むことが出来るなんて」 「魂には何でも出来る。魂はあるがままに写し取ることが出来るからだ。試しにこの女が目覚めたら、つまり肉体がその覆いで魂を包み込んだら、この手紙を読ませてみろ。お前にもわかるだろう」  マラーは何も言わなかった。自身の持つ唯物観が必死で反撃を試みるが、答えは見つからなかった。 「では一番の問題である、時計の在処に移ろうか。グリヴェットさん、マラー氏の時計を盗んだのはお前か?」  管理人は激しく否定した。 「何にも知りません」 「知っているはずだ。答えなさい」  改めてさらに強く念を送った。 「マラー氏の時計を盗んだのは誰だ? 言え」 「グリヴェットさんはマラー氏の時計を盗んでいません。どうしてマラー氏は時計を盗んだのがグリヴェットさんだと思っているのですか?」 「時計を盗んでいないというのなら、誰が盗んだんだ。答えよ」 「知りません」 「意識は最後の砦なんですよ」マラーが評した。 「もうほとんど信じかけているんだろう。もうすぐ確信に変わるはずだ」  バルサモは管理人に命じた。 「言うんだ」 「まあまあ、無理なことを求めないで下さい」マラーが取りなした。 「聞こえたな。俺は教えてくれと言ったんだ」  するとこの絶対的な命令を聞いて、管理人は狂人のように腕をよじらせ始めた。癲癇のような震えが身体中に走り出した。口から恐怖と怯えの声を出し、後ろにひっくり返ると、痙攣《ひきつけ》でも起こしたように身体を強張らせ、寝台に崩れ落ちた。 「嫌です、嫌です! 死んでしまった方がましです!」  バルサモは怒りに燃えて目から炎をほとばしらせた。「死んでもらう時には死んでもらうが、今は話してもらわんとな。それだけ黙りを決めて強情を張られれば、俺たちにとっては証拠も同然なんだが、疑り深い奴らにはもっと確実な証拠が必要なんだ。さあ話せ。時計を盗んだのは誰だ?」  神経の高ぶりが限度を越えた。管理人は全力でバルサモの意思に歯向かった。不明瞭な叫びをあげ、口の端から赤い泡を吹き出した。 「癲癇を起こしてしまいます」マラーが言った。 「恐れるな。嘘つきの悪魔が女を支配し、出て行こうとしないだけだ」  バルサモは持てるだけの霊力を管理人の顔に放った。 「話せ。話すんだ。時計を盗んだのは誰だ?」 「グリヴェットさんです」かろうじて聞き取れるだけの声が洩れた。 「いつ盗んだんだ?」 「昨日の晩です」 「時計は何処にあった?」 「燭台の下です」 「時計をどうした?」 「サン=ジャック街に持って行きました」 「サン=ジャック街の何処だ?」 「二十九番地です」 「何階だ?」 「六階です」 「住んでいるのは誰だ?」 「靴屋の見習いです」 「名前は?」 「シモン」 「何者だ?」  管理人は口を閉ざした。 「何者だ?」バルサモは繰り返した。  沈黙が続く。  バルサモが霊力を溜めた手をかざすと、この攻撃を受けた管理人は、ようやくのことで弱々しく呟いた。 「愛人です」  マラーが驚きの声をあげた。 「静かに! 意識に話をさせるんだ」  バルサモはぶるぶると震えている汗まみれの女になおも話しかけた。 「グリヴェットさんに盗みをそそのかしたのは誰だ?」 「誰でもありません。たまたま燭台を持ち上げたんです。時計が見えたので、悪魔が囁いたのです」 「金に困っていたのか?」 「違います。時計は売りませんでしたから」 「では只でやったんだな?」 「そうです」 「シモンに?」  管理人は歯を食いしばった。 「シモンに」  管理人は両手で顔を覆って溢れる涙を受け止めた。  バルサモがマラーを見ると、口をぽかんと開け、髪を振り乱し、目を見開いて、この恐ろしい光景を見つめていた。 「どうだ。魂と肉体の相克を見た感想は。難攻不落かと思われた砦にいても、意識は打ち破られただろう? 神はこの世に何一つ忘れることはなかったし、あらゆるものがあらゆるものの内にあるのもわかっただろう? もはや意識を否定すまいな。もはや魂を否定するな。もはや知らぬことを否定するな。なかでも信じることを否定するな、それこそ最高の力だ。野心を持っているのなら、学ぶことだ、マラーよ。言葉を控えて考えることに努めろ。目上の人間を軽んじるのはよせ。さらば、俺の言葉によって広い地平が開けたはずだ。その土地をくまなく探せ。幾つもの宝が埋まっている。さらば。心に巣食う懐疑の悪魔を打ち負かすことが出来れば、きっと運は開ける。俺がこの女に巣食う嘘つきの悪魔を打ち負かしたようにな」  立ち去り際にバルサモが残したこの言葉を聞いて、マラーの頬は屈辱で真っ赤になっていた。  別れを告げることさえ頭に浮かばなかった。  だがようやく我に返ると、グリヴェットさんがまだ眠っていることに気がついた。  この眠りにはぞっとする。たとい・サルチーヌ氏にどう解釈されようと、死体が寝転がっている方がましだった。  弛緩した身体、白目を剥いた目、荒い呼吸を見ると、怖くなった。  生ける死体が起き上がって、近づいて手をつかんだ時には、恐怖が頂点に達した。 「一緒に来て下さい、マラーさん」 「何処まで?」 「サン=ジャック街に」 「何故です?」 「来て下さい。あなたを連れて行くように命じられているんです」  椅子に倒れ込んでいたマラーが立ち上がった。  するとグリヴェットさんは眠ったまま扉を開け、鳥や猫の如く飛ぶように階段を降りた。  グリヴェットさんが転んで頭を割るんじゃないかと冷や冷やしながら、マラーも後を追った。  階段の下まで来ると、戸口を越えて通りを横切り、マラーを一軒の家まで案内して屋根裏を指さした。  管理人が扉を敲いた。マラーの心臓が激しく打ちつけ、その音が聞こえそうなくらいだった。  屋根裏には一人の男がいた。扉を開けたのは二十代後半から三十歳くらいの労働者だ。以前に管理人室で見たことがある。  グリヴェットさんの後ろにマラーがいるのを見て、男は後じさった。  だが催眠状態の管理人はまっすぐに寝床に向かい、粗末な長枕の下に手を突っ込み、時計を引っぱり出してマラーに手渡した。靴屋のシモンは恐怖で青ざめ、口を利こうともせぬまま、気が狂ったに違いない女の一挙手一投足に困惑した眼差しを向けていた。  時計を返そうとマラーの手に触れた途端、管理人は深い息をついて呟いた。 「眠りが解けます」  その言葉通り、滑車から滑り落ちた縄のようにすべての神経が緩み、目には生命の火が舞い戻った。マラーと向かい合って手をつかみ、時計という動かせない犯罪の証拠を持っていることに気づくと、気を失って屋根裏の床にひっくり返った。 「意識など本当に存在するのだろうか?」部屋から出たマラーの心には疑いが、目には夢想が浮かんでいた。 第百八章 人と著作  マラーが忙しく時間を過ごし、意識と二重の生命に哲学的考察を凝らしている間、プラトリエール街に住むもう一人の哲学者もまた、昨晩の出来事を一つ一つ組み立て直し、自分が間違っていたのかどうかをじっくりと考えていた。腕を卓子に力なく乗せ、首を左に傾げて、ルソーは思いを巡らせていた。  目の前に大きく開いてあるのは、政治と哲学に関する書物、『エミール』と『社会契約論』だ。  時々思いついたように前に乗り出し、暗記している本のページをめくった。 「何てことだ!」信条の自由に関する『エミール』の記述を読んで、ルソーは声をあげた。「何と煽情的な文章なんだ。恐ろしい考え方だ! 世間からはこんな煽動者に思われていたのか? 「暗く澱んだ情熱の持ち主たちがわたしの詭弁を濫用して、レトリックのばらまかれた小径に迷っても驚くまい。わたしは社会を攪乱していたのだ……」  愕然として立ち上がり、狭い部屋をぐるぐると歩き回った。 「作家を弾圧する権力者のことをこれまで批判して来たが、狂った野蛮人はわたしの方であり、向こうは常に正しかったのだ。 「わたしはただの危険人物なのか? 民衆を照らそうと思って言葉を投げかけていたのに、少なくともそういう建前で言葉を投げかけていたというのに、わたしの言葉は世界を焼き払う松明でしかなかったのか。 「社会的な不平等問題について土壌を耕し、博愛の種を遍く広めようとし、教育についての構想を育んで来たというのに、手に入るのが、社会の良識をひっくり返すようなひどい自惚れや、人口を減らすような内戦や、文明を千年も後退させるような野蛮な習慣でしかないとは……わたしはとんでもない犯罪者だ!」  ルソーは『サヴォワの助任司祭』を読み返した。 「確かにそうだ。『幸福のために一致団結しよう……』と書いている! 『他人が悪徳に与える力をわたしたちは美徳に与えよう』とも書いているじゃないか」  ルソーはかつてないほどの絶望に震えた。 「わたしの過ちのせいで、同胞《ブラザー》たちが顔を合わせ、いつか地下集会の最中に警察に踏み込まれるのではないか。裏切りがあった場合には互いに喰らい合うと誓った人々の群れが捕らえられれば、他人よりも図太いと感じている人間はポケットからわたしの著作を取り出して言うのだろう。 「『何の文句があるのかね? 我々はルソー氏の支持者であり、哲学の講義を受けていただけだ』 「これにはヴォルテールも笑うだろうな! あの太鼓持ちにはこんな大騒ぎに潜り込んでいる恐れなどないのだから」  ヴォルテールに笑われると考えただけで、このジュネーヴの哲学者に激しい怒りが湧き起こった。 「要するにわたしは悪巧みしてばかりの、いまだに子供なのだ。そのうえ、よい策士とは言えまい?」  そんなことをしている内に、テレーズがいつの間にか朝食を運んで来た。  ルソーが『孤独な散歩者の夢想』の断章を読んでいるのを見て、テレーズは声をあげた。 「おやまあ!」読んでいる最中の本の上にホット・ミルクを乱暴に置いた。「うちの自惚れ屋さんと来たら、鏡に自分の姿を映しているよ。自分の本を読んで、自分に感心しているんだからねえ!」 「ああ、テレーズ。放っておいてくれないか。冗談を言う気分じゃないんだ」 「まあ、ご立派ですこと」テレーズは鼻で笑った。「物書きってのは虚栄心と欠点だらけのくせして、あたしたち女にはそれを許さないんですからね。あたしが鏡を覗こうとしたら、ぶうぶう文句を言ってあばずれだとか言うくせに」  テレーズはこんな調子でルソーを惨めな男扱いし続けた。生まれてこのかた惨めなことがまだ足りないとでも言いたげに。  ルソーはパンを浸さずに牛乳を飲んだ。  じっくりと考え込んでいる。 「ええ、じっくり考えればいいんですよ。ふざけたことばかり集めてまた本をお書きになればいいんです……」  ルソーが震え出した。 「あなたは女の中に理想を夢見ているんですよ。どうせ若い娘さんが読もうともしないような本や、執行人の手で燃やされるような冒涜的な本ばかりお書きになるんでしょう」  ルソーはがたがたと震えていた。テレーズに痛いところを突かれたのだ。 「いや、もう人に悪い影響を与えるようなものは書かないよ……それどころか、正直な人たちが喜んで読むような本を書こうと思っている……」 「おやまあ!」テレーズがコップを下げた。「無理ですよ。嫌らしいことしか頭にないんですから……いつかまた、わけのわからない文章を読むのを聞かされたり、理想の女の話を聞かされたりするんですよ……この変態の魔法使い!」  この魔法使いという言葉は、テレーズの語彙の中ではもっとも卑しい罵りだった。この言葉を聞くたび、ルソーは決まって震え上がった。 「それだよ、それ。きっと満足してもらえると思う……わたしが書こうと思っているのは、世界を変えても誰一人苦しまないように変える方法を見つけたということだよ。この着想を推し進めるつもりなんだ。革命ではない! 神よ! テレーズ、革命ではないんだ!」 「そのうち確認できるでしょうよ。おや! 誰か来ましたよ」  テレーズは若者を控え室で待たせておいて、すぐに戻って来た。  部屋に戻ると、ルソーは既に筆を取っていた。 「その嫌らしいものをさっさと片づけて下さいな。お会いしたいそうですよ」 「どなただい?」 「貴族の方ですよ」 「名乗らなかったのかい?」 「まったくねえ! あたしが見知らぬ人を家に入れると思ってるんですか?」 「誰なんだい?」 「ド・コワニー様です」 「ド・コワニーだって! 王太子殿下の侍従のかい?」 「そうじゃないですか。感じのいい人でしたよ」 「今行くよ、テレーズ」  ルソーは慌てて鏡を覗き、服の埃をはたき、履き古してぼろぼろの、一つしかない古いつっかけを拭いて、食堂に向かうと、そこには侍従が待っていた。  坐ってはいなかった。ルソーが紙に貼り付けて、黒い枠で囲っていた植物を不思議そうに眺めている。  ガラス戸の音を耳にして振り返り、礼儀正しく挨拶をした。 「ルソー殿ですか?」 「ええ、そうです」ぶっきらぼうな口調にも、相手の際立った魅力と気取りのない優雅さに対する感嘆が滲んでいた。  事実コワニー氏は感じのいい魅力に溢れたフランス貴族であった。この時代の服装は氏のために考案されたと言っても過言ではあるまい。見事なほどほっそりとした足回りを際立たせ、豊かな肩や厚い胸の魅力を露わにし、落ち着いた顔に優雅な雰囲気を与え、象牙のように白く整った手を輝かせていた。  ルソーはこの観察結果に大いに満足した。如何なる場合であろうと美を讃美する芸術家であったのだ。 「失礼ですが、どういったご用件でしょうか?」 「恐れながら、コワニー伯爵と申します。王太子妃殿下のお申しつけにより参上いたしました」  ルソーは顔を火照らせてお辞儀をした。テレーズは食堂の隅でポケットに手を突っ込んだまま、好ましい目つきでフランス大公女の遣いに見とれていた。 「妃殿下がわたしに……どういうことでしょうか? いや、それよりもどうか椅子にお掛け下さい」  ルソー自身も腰を下ろし、コワニー氏もそれに倣って藁椅子に腰掛けた。 「こういう事情なのです。陛下が先日トリアノンで正餐をお召し上がりになった折り、あなたの音楽に好感をお示しになり、幾つかの節を口ずさんでいらっしゃいました。陛下のお気に召すものをお探ししていた王太子妃殿下は、トリアノンの舞台であなたのオペラを上演すれば国王もお喜びになるのではないかとお考えになり……」  ルソーが深々と頭を下げた。 「それでこうして王太子妃殿下のお申しつけにより、お願いに参ったという……」 「ああ、待って下さい」ルソーが遮った。「わたしの許可など必要ありませんよ。あれに含まれている曲やアリアは、上演する劇場のものです。お願いするなら俳優ですが、俳優たちもわたしと同じく反対などすまいと思いますよ。大喜びで陛下や殿上人の御前で歌い演じることでしょう」 「正確に申しますと、ここに参ったのはそのためではありません。王太子妃殿下は国王陛下に滅多にないような娯楽を提供なさりたがっておいでです。陛下はあなたのオペラはすべてご覧になっていらっしゃいますし」  ルソーはまたも深々と頭を下げた。 「好んで口ずさんでいらっしゃいます」  ルソーが口元を引き締めた。 「大変光栄なことです」と呟いた。 「それでなのですが、宮廷の貴婦人の方々は優れた音楽家であり歌も大変お上手で、貴族の方々も如才なく音楽をたしなんでいらっしゃるので、妃殿下はあなたのオペラのいずれかをお選びになったうえで、貴族の男女に演じてもらい、主役は殿下ご夫妻が務めたいとお考えなのです」  ルソーは腰掛けから飛び上がった。 「身に余る光栄です。どうか感謝の言葉を妃殿下にお伝え下さい」 「いやいや、まだ話は終わっておりません」コワニー氏が微笑んだ。 「そうでしたか!」 「集まった劇団が何処よりも豪華なのは間違いありませんが、如何せん経験がほとんどありません。指導者の判断や助言が不可欠なのです。王家専用席のやんごとなき観客や、高貴な俳優に相応しい舞台になることでしょう」  ルソーが立ち上がって頭を下げた。これはお世辞に気をよくしたもので、コワニー氏に対して恭しくお辞儀をした。 「そのために妃殿下は、あなたにトリアノンに来ていただいて、稽古をつけて欲しいと仰っております」 「え……よもや妃殿下がそんなことを……わたしがトリアノンに?」 「どうでしょうか……?」ごくさり気なくコワニー氏がたずねた。 「あなたは見識も智性もお持ちで、誰よりも頭の切れる方だとお見受けします。どうか率直にお答え下さい。哲学者ルソー、追放者ルソー、人間嫌いルソーが宮廷に伺ったら、笑いものにされるのではないのですか?」 「愚かな者たちが嘲笑や中傷であなたを責め立てたからといって、王国第一と目される紳士でもあり著述家でもある方が眠りを妨げられる理由がわかりません」コワニー氏は淡々と答えた。「そうした弱いところをお持ちなのでしたら、しっかりとお隠しになって下さい。人々の笑いを誘うのはその弱さにほかなりません。口さがない人々も口には気をつけざるを得ないことは、あなたもお認めになるでしょう。何しろことは王太子妃殿下、つまり将来のフランス王家の後継者であられる方の楽しみや希望に関わることなのですから」 「そうですね」ルソーが言った。「確かにそうです」 「建前上遠慮なさっているのですか?」コワニー氏が微笑んだ。「国王に厳しかった以上、自分に甘くするわけにはいかないと? ああ、ルソーさん、あなたは人類を啓蒙して来ました。ですが人類を憎んでいるわけではないのでしょう?……それに無論、皇室出身のご婦人でしたら話が別なのではありませんか」 「親切なお言葉、痛み入ります。ですがわたしの立場をお考え下さい……隠退して一人きりの……つまらない人間です」  テレーズが顔をしかめた。 「つまらない人間ねえ……気難しいったらありゃしないんだから」 「わたしが何をしようと、国王陛下や王女殿下の目からすれば、わたしの顔や物腰にいつまでも不愉快な痕跡を見つけるのに違いありません。喜びと満足しか求めてない方たちなのですから。そんなところでわたしは何を言い、何をすればいいのでしょう?……」 「ご自分を信じられないようですね。ですがそうすると、『新エロイーズ』や『告白』を書いた方には、話をするにしても行動するにしても、我々と同じだけの才能しかないと仰るのですか?」 「はっきり申し上げますが、無理です……」 「王家の辞書には『無理』という言葉などありません」 「それがわたしが家に閉じこもっている理由ですよ」 「どうか、妃殿下に喜んでいただくという任務が無謀なものではなかったと証明させて下さい。耐え難い無念の思いを忍んで恥ずべき敗者としてヴェルサイユに戻らなくてはならないようなことをさせないで下さい。そんなことがあれば、居たたまれなさのあまり、すぐにでも亡命するしかありません。どうかルソーさん、あなたの著作に多大な感銘を受けた人間のために、寛大な心をお見せ下さい。たとい国王に頼まれても心を閉ざすのだとしても、どうか今回は寛大な心を」 「あなたのお気持には心を打たれました。あなたの言葉には抗い難い説得力が、あなたの声には人を感動させる不思議な力がある」 「承知していただけましたか?」 「いえ、それは……やはり駄目です。こんな健康状態では、旅には耐えられません」 「旅? 何を仰るのですか! 馬車で一時間十五分ですよ」 「あなたや、元気な馬とってはね」 「しかし宮廷中の馬を自由に使えるのです。それに妃殿下から言づかっておりますが、トリアノンにお部屋をご用意しております。夜分遅くにパリに帰らせることは望まれていらっしゃいません。それに王太子殿下はあなたのご本をすべて暗記していらっしゃり、自分の宮殿にルソー氏の過ごした部屋があるのだと触れ回りたいと洩らしていらっしゃいました」  テレーズが感嘆の声をあげた。ルソーにではなく、王太子に、であったが。  ルソーはこの厚意にいよいよ抗えなかった。 「これは折れざるを得ませんね。これほどの攻撃を受けたことはありませんでしたよ」 「心をつかむことは出来ますが」コワニー氏は答えた。「あなたの智性を乗っ取ることは出来ますまい」 「では参りましょう。殿下のお申しつけを受けたいと思います」 「ありがとうございます。個人的に感謝の気持をお伝えいたします。妃殿下のお気持については差し控えさせて下さい。ご自身の口からお伝えしたいことを先回りしてお伝えしてしまっては、ご機嫌を損ねてしまわれるでしょうから。それに口説きたいほど若く美しい女性に感謝するのはむしろ男の方ではありませんか」 「まったくですね」ルソーも微笑んだ。「しかし老人にも若い娘さんと同じ特権があるんですよ。どちらも人から頭を下げられるんです」 「それでは時間を仰っていただけますか。馬車を迎えに寄こします。と申しますか、手ずからお迎えにあがらせていただきます」 「いやいや、お構いなく。トリアノンには参りますよ。ですが、わたしの好きなように行かせてもらえませんか。もう世話を焼いていただかなくても結構ですよ。ちゃんと参りますから、お時間を教えて下さい」 「ご案内を務めさせてはいただけないのですか。確かにそれに相応しいほどの人間ではありませんし、あなたほどのお名前でしたらそれだけで前触れの効果もあるには違いありません」 「そういうわけではないんです。あなたは宮廷の人間ではありませんか。わたしが何処にも属さない人間であるように……あなた個人のお申し出を断るのではなく、気兼ねなくいたいだけなんです。散歩にでも行くようにお伺いしたいんです。要はこれが……ぎりぎりの妥協点です」 「わかりました。どんなことであれお気に召すよう努力いたします。稽古は今晩六時に始まります」 「そうですか。では六時十五分前に、トリアノンに参ります」 「失礼ですが手段は?」 「それはこちらの問題です。わたしの馬車はこれですよ」  ルソーは足を上げた。まだまだ引き締まっており、誇示するように靴を履いていた。 「五里ですよ!」コワニー氏は唖然とした。「へとへとになって、夜には身体が動かなくならないようお気をつけ下さい!」 「その場合にも馬車と馬がありますから。同胞の馬車、庶民の馬車、空気や太陽や水と同じく、わたしのものでありまた誰のものでもある、十五スーしかかからない馬車ですよ」 「まさか! 乗合馬車ですか! ぞっとさせないで下さい」 「あなたには座席が固すぎると感じるかもしれませんが、わたしには浮気者の寝床のような坐り心地に感じられるのです。羽毛か花びらでも入っているのかと思うほどですよ。ではまた夕方に」  コワニー氏はこうして追い払われたと感じながら部屋を出た。感謝の言葉、少なからぬ簡潔な指示、仕事を引き受けてくれたことへの返礼をたっぷりと述べた後で、暗い階段を降りた。それをルソーは踊り場から、テレーズは階段の途中で見送っていた。  コワニー氏は通りに待たせておいた馬車に乗り込み、わずかに微笑みながらヴェルサイユへの道を戻った。  テレーズが不機嫌に扉を閉めたのを見て、嵐になりそうな予感をルソーは感じた。 第百九章 ルソーの支度  ド・コワニー氏が帰ると、今の訪問で頭がいっぱいになっていたルソーは、大きな溜息をついて椅子に坐り、ぐったりとして呟いた。 「何て面倒なんだ! 煩わしい人たちばかりだ!」  戻って来たテレーズがそれを聞きつけて、ルソーの正面にやって来た。 「自惚れてるねえ!」 「わたしが?」ルソーは驚いて声をあげた。 「そうだよ、自惚れ屋の偽善者だよ!」 「わたしが?」 「だってそうさ……宮廷に行くのが嬉しくてしょうがないくせに、無関心なふりをして喜びを隠しているんだから」 「これは参った!」見事に言い当てられて、ばつが悪そうに肩をすくめた。 「まさか誤魔化せると思っていたんじゃないでしょうね? ここで穀潰しみたいにスピネットを掻き鳴らして作ったオペラを国王に聴いていただくのを、あなたが名誉に感じてないわけがないじゃありませんか」  ルソーは苛々とした目つきで妻を見た。 「何を言っているんだ。国王にお目通りするのは、わたしのような人間には名誉なことでも何でもないよ。国王が玉座にいるのは何のおかげだと思うんだい? 自然のきまぐれのおかげで、王妃から生まれただけじゃないか。一方わたしは国王を楽しませるためにそれと見込まれて御前に呼ばれたんだ。努力のおかげだよ、それと努力によって授かった後天的な才能のおかげだよ」  テレーズは言われたまま黙っているような女ではなかった。 「あなたがこんな話し方をしているのをド・サルチーヌさんが聞いてくれることを願いますよ。ビセートルやシャラントンに病室を空けておいてくれるでしょうから」 「サルチーヌ氏は別の暴君に雇われている暴君に過ぎないし、自らの才覚を除けば暴君から身を守る術はないからね。だがサルチーヌ氏がわたしを虐げるようなことがあれば……」 「ええ、何ですか?」 「ああ、いや」ルソーは溜息をついた。「わたしの敵たちは喜ぶだろうね。まったくだ!……」 「敵がいるのは誰のせいですか? あなたの意地が悪くって、世界中を敵に回しているからじゃありませんか。ド・ヴォルテールさんには味方がいますものね、うらやましいことですよ!」 「その通りだね」ルソーは天使のような微笑みを見せた。 「何ですか、まったく! ヴォルテールさんは紳士でらっしゃいますからね。親友にプロイセンの国王がいますし、馬も持っているし、お金持ちですし、フェルネーにお屋敷もありますし……どれもこれもあの人の才能のおかげですよ……宮廷に伺ったって侮るような態度は取らないでお寛ぎになるでしょうに」 「するとわたしが宮廷で寛げないというんだね? あそこで使われるお金の出所も知らないし、国王が払われている敬意に欺かれているとでもいうんだね? お前と来たら、すっかり騙されてしまうんだね。侮るような態度をとるのは動じていないからだし、宮廷人の豪華なところに動じないのは、それが盗まれたものだと知っているからだとは思わないのかい」 「盗まれたですって!」テレーズは憤然とした。 「盗まれたんだよ! おまえや、わたしや、みんなからね。衣装に使われているようなお金はそっくり、パンを買えない貧乏人に分け与えるべきなんだ。そうしたことを感じているから、宮廷に行くのが嫌でしかないんだよ」 「みんながみんな幸せだとは言いませんよ。でもね、何だかんだ言って、国王は国王ですからね」 「国王には従っているよ。このうえ何を望むというんだい?」 「従っているのは怖いからでしょうよ。本当は行きたくないんだとか何も恐れてはいないんだとは言わないでもらいましょうか。さもなきゃ言って差し上げますけどね、あなたは偽善者ですし、本当は嬉しくてしょうがないんでしょうに」 「何も恐れてはいないよ」ルソーは胸を張って答えた。 「でしたらさっき言ったことを少しでも国王にお話しになればいいんですよ」 「そうするよ、気持が乗ればね」 「本当ですね?」 「ああ。わたしが尻込みしたことがあったかい?」 「よく言いいますよ、引っかかれるのが怖くて、猫に骨をやろうともしないくせに……衛兵や剣士に取り囲まれたらどうするつもりなんです?……あなたのことなら母親同然に知っていますからね……すぐにでも髭を剃って髪を整えておめかしなさるんじゃありませんか。足の手入れをして、小さく瞬きなさるんでしょう。その小さくて丸い目を普通に開いていては誤魔化せませんけれど、瞬きしていれば馬車の入口みたいに大きく見えますものね。絹靴下を用意して、鉄のボタンのついた茶色い上着をお召しになり、新しい鬘をつけて、辻馬車に乗って、ご婦人たちに崇拝されにいらっしゃるんでしょう……明日ですよ、明日になればうっとりと物思いに沈んで、また恋に落ちて、溜息をつきながら本でもお書きになって、コーヒーに涙を落とすんでしょうよ……あなたのことならちゃんとわかってますとも!……」 「わかっていないね。宮廷には仕方なく行くと言っているんだよ。要するにわたしが宮廷に行くのは、非難されるのが嫌だからで、立派な市民なら誰だって非難されるのは嫌がるだろう。それにわたしは、共和国市民の特権を認めないような人間ではないからね。だが宮廷の人たちにおもねったり、牛眼の間の貴族たちに触れんばかりにお近づきになったりすることに関しては、否!だ。そんなことは絶対にするものか。そんなことがあったら、好きなだけ嘲笑ってくれればいい」 「じゃあ盛装しないおつもりですか?」テレーズが馬鹿にしたようにたずねた。 「ああ」 「新しい鬘もつけないんですか?」 「ああ」 「小さな目を瞬きさせないんですか?」 「自由人として宮廷に行くつもりだよ。装うことも恐れることもしない。芝居を見に行くように宮廷に行くつもりだからね、俳優たちからどう思われようと関係のない話だ」 「でも髭くらいはきちんとしていって下さいよ。半ピエも伸びているじゃありませんか」 「自分の流儀を変えるつもりはないよ」  テレーズがげらげらと笑い出したので、ルソーは耳を塞いで部屋を移った。  テレーズの攻撃は終わっていなかった。打てる手ならほかに幾らでもある。  洋服箪笥から礼服、新しい下着、ぴかぴかに磨き上げた靴を取り出すと、それをルソーの寝台と椅子の上に広げた。  だがルソーはまるで見向きもしない。  仕方なくテレーズは声をかけた。 「もうそろそろ着替えた方がいいんじゃありませんか……宮廷の衣装を着るには時間がかかりますからね……約束の時間までにヴェルサイユに行く暇がなくなってしまいますよ」 「言っただろう、テレーズ。これで充分だよ。毎日この恰好で同国人の前に出ているんだ。国王だってわたしと同じ一市民なんだからね」 「いいですか」テレーズは遠回しに会話を誘導しようとした。「意地を張って馬鹿な真似をしないでくださいな、ジャック……そこに着替えがありますから……剃刀も出しておきましたよ。今日は神経が触るというんでしたら、床屋を呼ばせましたけれど……」 「ありがとう。ブラシくらいはかけておくよ。それに靴は履くとも。突っかけで出かけるわけにはいかないからね」 「その気になってくれそうですね?」  テレーズはその時々に応じて、機嫌を取ったり、説得したり、挑発したりと工夫していた。だがルソーはそんなものはお見通しで、罠があることも承知していた。譲歩した途端にテレーズが襲いかかってくるだろうことはわかっている。だから譲歩しようとはしなかったし、素のままの自分を引き立たせる立派な服装に目を向けたりはしなかった。  テレーズはルソーを見つめていた。もう手だては一つしかない。ルソーはいつも決まって出がけに鏡を覗き込むのだ。もしド綺麗というものがあるならば、ルソーは度を越した綺麗好きなのである。  だがルソーは気を緩めなかった。テレーズの祈るような目つきに気づいて、鏡に背を向けた。時間だ。ルソーの頭は国王にかける七面倒くさい言葉のことで一杯だった。  もぐもぐと呟きながら靴の留め金を掛け、帽子を小脇に抱えて、杖を取り、テレーズが見ていない隙を利用して、礼服と上着の皺を手で伸ばした。  戻って来たテレーズに手渡された手巾を、上着のポケットに突っ込んで、ルソーは踊り場まで見送られた。 「ジャック、馬鹿な真似はしないで下さいよ。ぞっとするようなところがあって、何だか贋金造りみたいだよ」 「行って来るよ」 「何だかごろつきみたいだよ、気をつけて下さいよ!」 「火の元に気をつけるんだよ。それからわたしの書いたものには触らないように」 「密偵みたいに見えますよ、本当に」テレーズはがっくりして言った。  ルソーは答えずに、鼻歌を歌いながら階段を降りた。暗いのをいいことに袖で帽子を拭い、左手で胸飾りを擦り、即席とはいえ手際よく身だしなみを整えた。  地上まで来るとプラトリエール街の泥が待ち受けていたが、爪先立ってやり過ごし、シャン=ゼリゼまで歩いて行った。そこには乗合馬車と呼ばれる正真正銘の馬車が停まっており、十二年前から経済的に苦しい旅人たちをパリからヴェルサイユまで運んで、もとい、ぐったりさせていた。 第百十章 トリアノンの舞台裏  旅の環境など気にはならない。だから当然、ルソーはスイス人、見習い店員、中産市民、僧侶と道中を共にしていた。  到着したのは夕方の五時半頃だった。宮廷の人々は既にトリアノンに集まって、声の調子を確かめながら国王を待っていた。実際のところ作者のことなど問題にもされていなかった。  なかにはジュネーヴのルソー氏が稽古をつけにやって来たのだとちゃんと知っている者もいた。だが相手がルソー氏であろうと、ラモー氏であろうとマルモンテル氏であろうと、サロンや自宅で目を楽しませるような珍しい動物であろうと、興味がないのは変わらなかった。  ルソーを出迎えた取次は、ルソーが来たらすぐに知らせるようにとド・コワニー氏から命令されていた。  コワニー氏がいつものように礼儀正しく駆け寄って、心を込めてルソーを歓迎した。しかしひとたびルソーに目を向けるとぎょっとして、思わず確かめ直さずにはいられなかった。  ルソーは埃まみれで、皺くちゃで、真っ青な顔に生えている世捨て人のような髭だけが目立っていた。未だかつてヴェルサイユの鏡に式典の主役がこのような姿を映したことなど一度もあるまい。  ルソーはコワニー氏に見つめられて決まり悪そうにしていたが、舞台のある部屋に入ると、ますます気まずい思いを強くした。そこで目にしたきらびやかな衣装、ふんだんなレース、ダイヤモンドや青いリボンは、金ぴかに彩られた部屋の中で、あたかも巨大な籠に入れられた花束のようだった。  ルソーは龍涎香の満ちた空気を吸い込んで居心地が悪くなった。庶民の感覚にとっては繊細な魔力に満ちていた。  それでも足を進めて立ち向かわなくてはならない。幾つもの視線がこの場の汚点となっているルソーに注がれていた。  コワニー氏が先に立ってオーケストラ席に案内すると、そこには演奏者が待機していた。  そこに来ると多少は気が楽になったので、自分の曲が演奏されているのを聴きながら、さっきまでの自分は危険の真っ直中におり、万事休して、理性という理性が手も足も出ない状態だったのだと、本気で考えた。  王太子妃殿下は既にコレットの衣装を着て舞台に上がり、コランを待っていた。  コワニー氏がボックス席の中で衣装に着替えている。  ここで国王が現れ、周りの人々が一斉に頭を下げた。  ルイ十五世は笑みをたたえてかなり上機嫌に見える。  王太子がその右側に、ド・プロヴァンス伯爵が左側の席に着いた。  五十人ほどのごく身内の集まりが、国王の合図で着席した。 「まだ始めておらぬのか?」ルイ十五世がたずねた。 「羊飼いの男女がまだ着替えを終えておりませんから、待っておりますの」王太子妃が答えた。 「普段着でよかろう」 「駄目ですわ、陛下」王太子妃が舞台の上から答えた。「舞台上の効果をしっかり確認するために、照明の下で衣装を確かめたいんですもの」 「なるほどその通りだ。ではちょっと見て回ろう」  ルイ十五世は立ち上がって回廊や舞台を見に向かった。それに、デュ・バリー夫人がまだ姿を見せないのも気がかりだった。  国王がボックス席から立ち去ると、ルソーは憂鬱な気持で心臓を鷲づかみにされ、こんな広い部屋で自分は独りぼっちなのだと考えないわけにはいかなかった。  危惧していたような歓待とはあまりにも対照的だった。  歩く先で人垣が割れるのではないか、パリ市民にも増して引きも切らずに好奇心も露わにされるのではないか、質問や紹介責めにされやしないかと想像していたのだ。ところがルソーを気に留める人など一人もいない。  髭もそれほど伸びているとは思わなかったし、襤褸切れであってもこの古い服装同様に目立たないはずだと感じていた。洗練されているという自負もまんざらではないと自画自賛していたのである。  しかしながらその実は、贔屓目に見てもせいぜい楽団長並みだと考え直して、ひどく恥ずかしい思いをしていたのである。  突然一人の廷臣が近づいて来て、ルソーさんではないですか、と声をかけた。 「ええ、そうです」 「王太子妃殿下がお話しになりたいそうです」  ルソーは感激して立ち上がった。  王太子妃はコレットの楽譜を手にして待っていた。  幸せをすっかり失ってしまった  ルソーに気づいて王太子妃が近づいて来る。  ルソーは極めて慇懃に挨拶をしながらも、自分は大公女ではなくただのご婦人に挨拶をしているのだと言い聞かせた。  王太子妃の方でも、欧州の貴族と交わすように淑やかに、粗野な哲学者と挨拶を交わした。  コランに見捨てられてしまった……  という三行目の抑揚について助言を求められて、ルソーは発声や歌い方にういてあらん限りの知識を動員して持論を披露したが、国王と侍従たちががやがや言いながら戻って来たために尻切れ蜻蛉に終わった。  ルイ十五世は哲学者の講義を受けていた王太子妃のところを訪れた。  国王がみすぼらしいなりの人物を見て最初に取った言動は、コワニー氏が見せたものとまったく同じだった。ただしコワニー氏には相手がルソーであることがわかっていたが、ルイ十五世は知らなかった。  そんなわけだから、王太子妃の讃辞と謝辞を一身に受けているこの自由人を、国王はしげしげと見つめた。  何物を前にしても伏せることなどない国王の威厳に満ちた眼差しに見つめられて、ルソーの目に迷いと怯えが生じた。  国王が観察を済ませるのを待ってから、王太子妃はルソーのそばに歩み寄った。 「わたしたちの作曲家を陛下に紹介させていただけますか?」 「そなたたちの作曲家だと?」国王は記憶を探る素振りを見せた。  話が続いている間も、ルソーは焼けた薪の上にいるような居たたまれない気持だった。国王の眼差しは、王国でもっとも偉大な著述家の、伸びた髭や、薄汚い胸飾りや、埃や、乱れた鬘の上に、レンズを通した太陽光のように、ひりひりとした光を次々に突き立てていた。  王太子妃はルソーが気の毒になった。 「ジャン=ジャック・ルソーさんです。わたしたちが陛下の御前で演じるオペラの作者ですわ」  国王が顔を上げた。 「ほう!」国王の反応は素っ気なかった。「ルソーさん、どうぞよろしく」  それから国王は、ルソーの身なりが如何にひどいかを本人に伝えようとでもするかのように、なおもじろじろと見つめ続けた。  ルソーはフランス国王にどのように挨拶すればいいのか考え込んだ。何と言っても王国の宮殿にいるのは間違いないのだから、胡麻をするまでのことはなくとも、不作法にはならぬようにしなくてはいけない。  しかしながらルソーがこうして理屈をこねている間にも、国王はまことに王族らしい鷹揚さでルソーに話しかけた。話の内容が相手にとって愉快なものか不愉快なものかに関わらず、そうした話し方をするのが王族というものだ。  ルソーは答えることも出来ずに固まってしまった。専制君主のために用意して来た言葉もすっかり忘れてしまったのである。 「ルソー殿」国王はなおもルソーの身なりと鬘を見つめたまま話しかけた。「そなたがいつも素晴らしい音楽を作ってくれるおかげで、余はいつも快適な時間を過ごさせてもらっておる」  そう言って、音感も抑揚もてんでなっていない声で歌い始めた。 村の好き者の 声に耳傾ければ、 ああ簡単に 別の恋も手に出来るのに! 「本当に素晴らしい!」歌い終えた国王が言った。  ルソーが頭を下げた。 「どうしたら上手く歌えるかしら」王太子妃がたずねた。  ルソーは王太子妃の方を振り返って恭しく助言しようとした。  だが国王がふたたび声を出して、コランの歌を歌い出した。 暗い我が家には 不安が絶えない。 風も陽も冷気も、 加減を知らない。  国王陛下は歌手としては下手くそだった。ルソーは国王が歌を覚えていることを半ば嬉しがり、ひどい歌に半ば傷ついて、玉葱を齧って半笑い半泣きしている猿のような顔になった。  王太子妃はさすがに動じず平然としている。  国王は何一つ気にせず歌を続けた。 コレット、我が羊飼い、 君が暮らしてくれるなら、 コランの侘び住まいでも 後悔など何もない。  ルソーは顔が赤らむのを感じた。 「さて、ルソー殿」と国王が言った。「時々アルメニア風の恰好をしているというのは本当かね?」  ルソーは一層赤くなり、王国のためにならぬことでも言おうとしたのか、喉の奥で言葉を詰まらせた。  国王は返事を待たずに歌い出した。 嗚呼! 人にとって 愛とはとんとわからぬもの、 許されようと、許されまいと。 「確かプラトリエール街に住んでおったな?」  ルソーはうなずいたが、それが限界だった……これほどまでに堪えたことはかつてなかった。  国王が口ずさむ。 可愛い子、可愛い子…… 「そなたはヴォルテールと仲が悪いそうだな、ルソー殿?」  今度こそルソーはわずかに残っていた落ち着きを失い、すっかり取り乱してしまった。国王はそんなルソーを憐れんだ様子もなく、ひどい音楽狂ぶりをひけらかしたまま、歌いながらその場を後にした。 楡の木陰に踊りに行こう、 楽しむがいい、娘さんがた、  アポロンがマルシュアスを殺したように、アポロンをも殺すほどの調べをオーケストラが伴奏した。  ルソーは一人ぽつんと取り残された。王太子妃は衣装の最後の仕上げをするために立ち去っていた。  ルソーはつまずきながら手探りで廊下に戻ったが、その真ん中で、ダイヤや花やレースで着飾った男女にぶつかった。その若い男が腕を若い女にぴったり絡めていたにもかかわらず、二人は廊下を占領していたのだ。  若い女性はレースを震わせ、大きな帽子をかぶり、扇子を持ち香水を漂わせ、星のように輝いていた。ルソーがぶつかったのはこの女性であった。  若い男性は痩せて上品で感じがよく、イギリス製の胸飾りの上に青綬が押しつけられていた。気取りのない好ましい笑い声をあげたかと思うと、時にはひそひそと小声で耳打ちして女性を笑わせているのを見れば、二人がどれだけ理解し合っているかがわかろう。  ルソーはこの美しく魅力的なご婦人がデュ・バリー伯爵夫人であることに気づいた。一目見た途端それだけに集中してしまう癖のせいで、連れの姿は目に入らなくなった。  青綬の男性はほかならぬダルトワ伯であり、祖父の寵姫と心底楽しそうにじゃれ合っているところであった。  デュ・バリー夫人はルソーの冴えない姿を目にして声をあげた。 「まあ!」 「どうしました?」ダルトワ伯も哲学者を見つめた。  そうしながらも伯爵夫人に手を伸ばしてさり気なく道を開けていた。 「ルソーさんだわ!」 「ジュネーヴのルソーですか?」ダルトワ伯が休暇中の学生のような声でたずねた。 「ええ、殿下」 「初めまして、ルソー殿」ルソーが廊下を通り抜けようと盲進しているのを横目に、ダルトワ伯が声をかけた。「初めまして……これからあなたの音楽を聴きに行くところですよ」 「殿下……」ルソーは青綬に目を留めてもごもごと呟いた。 「ねえ、ほんと素敵な音楽じゃありません?」伯爵夫人が言った。「作者の狙いと心がぴったり一致してるんですもの!」  ルソーは顔を上げて、伯爵夫人の燃えるような眼差しと目を合わせた。 「マダム……」ルソーはむっつりとした口を利いた。 「私がコランを演じますから、コレットを演じて下さいませんか、伯爵夫人」とダルトワ伯が言った。 「喜んで。でもあたくしは俳優じゃありませんもの、巨匠の音楽を汚すわけには参りませんわ」  ルソーはなおこれでもかと言わんばかりに睨みつけていたが、伯爵夫人の声やお世辞や美しさに心を釣られそうになっていた。  逃げ出したい。 「ルソー殿」ダルトワ伯が道をふさいで声をかけた。「コランの台詞を指導していただけませんか」 「コレットの台詞を指導していただくわけには参りませんわ」伯爵夫人が遠慮するふりをしたので、ルソーはすっかりしょげてしまった。  しょげながらも、両の目で理由を問いつめていた。 「嫌われちゃったみたいね」伯爵夫人がダルトワ伯にうっとりするような声で話しかけた。 「まさか! あなたを嫌う者などいませんよ」 「だってご覧になってよ」 「ルソー殿は誠実な人柄と嬉しさのあまり、魅力的なご婦人に気兼ねしているんですよ」ダルトワ伯が言った。  ルソーは今まさに息を引き取るのではないかと思われるような、大きな溜息をつくと、ダルトワ伯がつい壁際に作ってしまった隙間を通り抜けた。  だがその晩のルソーはついていなかった。四歩も進まぬうちに、また新たな一組にぶつかったのである。  今度は男性の二人連れだった。一人は年配で、一人は若い。若い方は青綬を身につけ、見たところ五十半ばらしき人物は赤い服を身につけ緊張して青ざめていた。  この二人のところにも、ダルトワ伯の陽気な笑い声が届いていた。 「ああ、ルソー殿! まさか伯爵夫人からお逃げになるのですか。まったく、そんなこと誰にも予想できませんよ」 「ルソー?」と二人組が呟いた。 「捕まえてくれませんか、兄上」ダルトワ伯が笑いながら声をかけた。「捕まえて下さい、ド・ラ・ヴォーギヨン殿」  それでルソーは、不運の星によって如何なる岩礁に乗り上げたのかを理解した。  それはプロヴァンス伯爵とフランス王子の教育係であった!  斯くしてプロヴァンス伯はルソーの行く手を遮り、 「今晩は」と、一言だけ智的な響きの声をかけた。  ルソーは慌てて頭を下げ、もごもごと呟いた。 「これでは何処にも行けない!」 「お会い出来て何よりです」教師が出来の悪い生徒を見つけ出した時のような声を出した。  ――まただ。とルソーは考えた。馬鹿らしいお世辞ばかりだ。どうしてこの人たちはつまらないことばかり言うのだろう! 「タキトゥスの翻訳を読ませてもらいましたよ」  ――ああ、そうだった。とルソーは呟いた。この人は学者肌だったのだ。 「タキトゥスの翻訳が難しいのはご存じでしたね?」 「殿下、恐れながらそのことは序文に書いておきました」 「ああ、わかっていますよ。ラテン語は苦手だと仰ってましたね」 「その通りです、殿下」 「ではどうして翻訳しようと?」 「文体練習でございます」 「ははあ! 『imperatoria brevitate』を『重々しく簡潔な演説』と訳すのは間違っているのではありませんか」  ルソーは不安になって記憶を探った。 「そうでしたよ」サルマシウスの中に間違いを見つけた老学者のような、落ち着き払った口振りだった。「確かにそんな風に訳していました。ピソが兵士に演説している場面です」 「するといったい?」 「つまりですね、『imperatoria brevitate』とは、将軍のように簡潔なこと……常日頃から命令を出し慣れているような話し方のことなんです命令的簡潔……という呼び方でよかったかな、ラ・ヴォーギヨン殿?」 「間違いありません、殿下」教育係が答えた。  ルソーが無言でいると、プロヴァンス王子はなおも言った。 「決定的な間違いですよ、ルソー殿……それにもう一箇所ありそうです」  ルソーは青ざめた。 「カエキナについて書かれた場面です。『At in superiore Germania』……カエキナの人となりを説明するに当たって、タキトゥスは『Cito sermone』と言っています」 「よく覚えております」 「あなたは『雄辯』と訳していましたが……」 「確かにわたしは……」 「『Cito sermone』とは『まくし立てる』、つまり『口が立つ』という意味ではありませんか」 「『雄辯』と申し上げましたが」 「それなら『decoro sermone』や『ornato sermone』や『eleganti sermone』と書かれるべきではありませんか。『Cito』というのは生き生きとした様子を表す形容詞ですからね。オトの振舞の変化を描いた部分もそうです。タキトゥスは『Delata voluptas, dissimulata luxuria cunctaque, ad imperii decorem composita.』と言っていますね」 「わたしはそれを、『贅沢と悪徳を先延ばしにし、誰もの予想を裏切って、帝国の栄光を取り戻さんと務めた』と訳しました」 「違います、違います。そもそもあなたは三つの短文を一つにしてしまっている。そのせいで『dissimulata luxuria』を誤って訳してしまい、さらには最後の部分を誤って解釈してしまっています。タキトゥスは皇帝オトが帝国の栄光を取り戻そうと務めたとは言っていません。快楽に耽るのを中断し、贅沢な趣味を隠し、オトがすべてを、すべてとはつまり快楽や悪徳さえをも、帝国の栄光のもとに順応させ適応させ変えさせたと言っているんです。そういう意味の複文を、あなたはつづめてしまっているんです。そうですね、ラ・ヴォーギヨン殿?」 「間違いありません、殿下」  ルソーはこの容赦ない攻撃に汗を垂らしてあえいでいた。  プロヴァンス王子はルソーが一息つくのを待って、さらに続けた。 「あなたは哲学者の中でも優秀な方だ」  ルソーは頭を下げた。 「ただし『エミール』だけは危険な書物です」 「危険、ですか、殿下?」 「誤った思想をブルジョワに広めるという意味でね」 「殿下、父親になれば誰もが、あの本のような状態になるのです。大貴族であれ、底辺の庶民であれ……父親というものは……つまり……」 「どうしたんです」出し抜けに意地悪な口を利いた。「『告白』は面白い本だった……それはそうと、子供は何人お持ちなんです?」  ルソーは青ざめて震え出した。若き死刑執行人に怒りと戸惑いを込めた目を向けたが、それがプロヴァンス伯の戯れ心に火をつけた。  それだけで充分だった。プロヴァンス伯は答えを待たずに教育係を従えて立ち去った。後には自著に辛辣な論評を加えられて粉々になった人物が残された。  一人残されたルソーがやがて眩暈から立ち直りかけた頃、オーケストラが導入部を演奏するのが聞こえて来た。  ルソーはふらふらしながら音の鳴る方に向かい、席に着いた。  ――わたしは馬鹿で愚かな臆病者だ! 残酷な学者気取りには、『殿下、哀れな老人を苦しめるのは若者のやることとは申せません』と言えばよかったのに。  この台詞に一人満足していると、王太子妃とコワニー氏の二重唱が始まった。哲学者の気苦労は、音楽家の苦しみへと変わった。心を苛まれた後には、耳が責め苦を受け始めた。 第百十一章 リハーサル  ひとたびリハーサルが始まると、誰もが舞台に注目し、誰一人としてルソーのことなど構わなかったので、ルソーの方で周りを観察し始めた。貴族たちが村人の衣装を身につけて下手な歌を歌い、貴婦人たちが宮廷衣装に身を包みながら羊飼いのような婀娜を見せている。  王太子妃が歌い出したところだったが、あまり上手い女優とは言えない。声も小さいのでほとんど聞こえない。国王は誰にも気まずい思いをさせないようにと、ボックス席の暗がりに引っ込んで貴婦人たちとおしゃべりを始めていた。  王太子があまり王侯らしいとは言えぬオペラの台詞を囁いていた。  ルソーは耳を塞ごうとしたが、耳に流れ込んで来る音を無視することは出来なかった。それでも、脇役を務める著名人の中に見目よい顔を一つ見つけたのが慰めだった。天により美しい顔を授けられたその村娘は、ひときわ美しい歌声を聞かせていた。  ルソーは譜面台の上からその美しい姿に一心に見とれ、その声の織りなす旋律に耳を傾けた。  このように夢中になっているルソーを見て、王太子妃が誤解してしまったのも致し方あるまい。ルソーの微笑みやぼうっとした眼差しを目にして、舞台の出来に満足しているものと思い込んだ。そこで王太子妃も女であったので、褒めてもらいたくて譜面台越しに声をかけた。 「いけないところはありました?」  ルソーはぽかんとしたまま答えない。 「とちっちゃったのね、何にも言って下さらないなんて。お願いですから、ルソーさん」  ルソーはかの美女から目を離すことが出来ずにいたが、相手の方はまじまじと見られていることに気づいていない。 「あら!」ルソーの視線の先を追った王太子妃が声をあげた。「とちったのはド・タヴェルネ嬢だったんですか!……」  アンドレは人々から見つめられて真っ赤になった。 「ああ、いや違います!」ルソーが声をあげた。「お嬢さんではありません。お嬢さんの歌声は天使のようでした」  デュ・バリー夫人がルソーに向かって槍より鋭い目つきを放った。  反対にド・タヴェルネ男爵は心底から喜び、にこやかな微笑みをルソーに送った。 「あの娘がお上手だってことにお気づきになりまして?」デュ・バリー夫人が、ルソーの言葉に目に見えて驚いていた国王にたずねた。 「気づかなかったな……」ルイ十五世は答えた。「合唱《コーラス》であったから……音楽家でなくては気づくまい」  ルソーは楽団《オーケストラ》の中で忙しく動き回り、コーラス部分を歌わせていた。 コランは恋人のもとに。 ようこそお帰りなさいまし。  テストを終えて振り返ると、ド・ジュシュー氏がにこやかに挨拶しているのが見えた。  宮廷人によって自尊心をいたく傷つけられたルソーにとって、宮廷を取り仕切っている現場をほかならぬ宮廷人に目撃されるというのは、並々ならぬ喜びであった。  ルソーは仰々しい挨拶を返すと、改めてアンドレを見つめた。褒められたことによってさらに美しさが増している。リハーサルが続くにつれ、デュ・バリー夫人の機嫌が悪くなった。ルイ十五世が睦言を聞かずに舞台に見とれているのを、二度も気づいてしまったのだ。  やきもち焼きからしてみれば、舞台とは即ちアンドレのことだ。それでも王太子妃が多くの讃辞を受けて、嬉しそうな顔を見せることの妨げにはならなかった。  ド・リシュリュー公爵は年齢を感じさせぬほど軽やかに王太子妃の周りを飛び回り、劇場の奥に笑いの輪を作ることに成功した。その中心には王太子妃がいるわけだから、デュ・バリー一派は憤然として気が気ではない。 「タヴェルネ嬢はいい声をしているようですな」リシュリュー公が大きな声で言った。 「素敵な声でしょう」王太子妃が答える。「押しつけがましいところもなくて。コレットをやらせたいくらいなんですけれど。でもわたしもコレットを演じるのが楽しみだったので、誰にもやらせるつもりはないんです」 「いやいや、さすがに殿下ほど上手くはありますまい」とリシュリューが答え…… 「お嬢さんの歌は絶品です」ルソーが断言した。 「絶品ですわね」王太子妃も言った。「こう申しては何ですけれど、指導してもらいたいくらい。わたしと違って踊りもお上手なんです」  こうした会話が如何なる結果をもたらしたであろうか。国王、デュ・バリー夫人、野次馬、噂好き、策士、嫉妬屋たちは、恥や苦痛で傷を負いながらも、大喜びで収穫を手に入れていた。アンドレ本人を除いては、無関心な者などいなかった。  ルソーに褒められてその気になった王太子妃は、アンドレに恋歌を歌わせることにした。 幸せをすっかり失ってしまった、 コランに見捨てられてしまった。  国王が上機嫌でリズムに合わせて頭を動かしているものだから、デュ・バリー夫人の火照りも、湿気った絵画のようにぱらぱらと剥がれ落ちてしまった。  女以上に執念深いリシュリューはそれを見て、してやったりと溜飲を下げた。それからタヴェルネ男爵のところに歩み寄り、二人して銅像のように立ち会わせている様は、あたかも「偽善」と「収賄」が一つの計画について目配せを交わしたかのようであった。  二人が喜べば喜ぶほどデュ・バリー夫人の顔色はますます曇り出した。とうとうそれも限界に達し、夫人はかっとなって立ち上がった。これは異例の行動であった。何しろ国王はまだ坐ったままだったのだから。  取り巻きの廷臣たちは嵐の予感を感じ取り、蟻のように逃げ場を求めて、慌てて安全な場所に避難した。そういうわけで王太子妃は今まで以上に友人たちに取り囲まれ、デュ・バリー夫人はいっそう身体を押しつけられた。  今や人々の関心はリハーサル本来の道筋から外れて、別の事柄に移っていた。多くの観客が考えていたのはもはやコレットとコランではなく、じきにデュ・バリー夫人が歌う羽目になりそうだということであった。 幸せをすっかり失ってしまった、 コランに見捨てられてしまった。 「ご息女は素晴らしい成功を収めたとお思いだろうな?」リシュリューがタヴェルネに囁いた。  男爵を廊下まで引っ張って行くとガラス戸を押して、部屋を覗こうとしてガラス窓にぶら下がっていた野次馬を振り落とした。 「とんま奴が!」リシュリュー氏が吐き捨てた。扉を開けた勢いで皺になった袖を払いながら、さらには野次馬の服装が使用人風であることを目敏く見つけたのだ。  それは確かに、花籠を抱えた使用人であった。ガラス窓の陰から背伸びしてまんまと室内を覗き込み、芝居をすっかり目に収めていた。  廊下に押し戻されて危うくひっくり返りそうになったが、自分ではなく籠をひっくり返してしまった。 「むう! このとんまは知り合いじゃ」タヴェルネが不機嫌な目つきで睨んだ。 「何者かね?」 「ここで何をしておる?」  読者諸氏は先刻ご承知の通り、それはまさしくジルベールであった。 「ご覧の通り、見学していました」ジルベールは毅然として答えた。 「仕事を放っぽり出してか」リシュリューがなじった。 「仕事は済ませました」ジルベールは公爵に恭しく答えたが、タヴェルネに目を向けようともしなかった。 「何処に行ってもこの怠け者と会わねばならんのか!」タヴェルネが嘆いた。 「まあまあ、皆さん」と、穏やかな声で取りなされた。「ジルベールは仕事熱心な庭師ですよ」  タヴェルネが振り向くと、ジュシュー氏がジルベールの頬を撫でていた。  タヴェルネはかんかんになって立ち去ろうとした。 「使用人どもが!」 「待て待て!」リシュリューがそれを止めた。「あそこにいるのは確かにニコルじゃぞ……ご覧なされ……ほれ、あの扉の隅……淫婦じゃのう! ここぞとばかりに流し目をくれておる」  確かにニコルだ。トリアノンの使用人たちの後ろで顔を上げ、驚きと感嘆で目を丸くしていた。その目にはあらゆるものが何倍にもなって映っていそうなほどだった。  ジルベールはそれを気にしながらも、同時に見て見ぬふりをした。 「ほれほれ」公爵がタヴェルネに声をかけた。「陛下が貴殿と話をなさりたがっておいでではないかな……きょろきょろなさっているぞ」  二人はその場を離れ、国王のボックス席の方に向かった。  デュ・バリー夫人はデギヨン氏と一緒に立っていた。デギヨンは伯父の一挙手一投足たりとも見逃さずにいる。  一人残されたルソーはアンドレに見とれていた。こういう言い方を許していただけるなら、ルソーは恋に落ちている真っ最中だった。  ジルベールが花を換えていたボックス席に、高貴な俳優たちが服を着替えに戻った。  リシュリュー氏が国王に会いに行ったため廊下に一人残されたタヴェルネは、待っている間にぞっとしたり昂奮したりを交互に繰り返していた。ようやく公爵が戻って来て人差し指を口唇に当てた。  タヴェルネは喜びで青ざめて友人を出迎えると、国王の座席まで案内してもらった。  そこでは一部の人しか聞けないようなことも耳に入って来る。  デュ・バリー夫人が国王に話しかけていた。 「お夜食には陛下が来ていただけると思っていいのかしら?」  国王が答えた。 「すまぬが疲れておる」  ちょうどそこに王太子が現れて、伯爵夫人が目に入らなかったのか、危うく足を踏みそうになった。 「陛下、トリアノンで夜食をご一緒していただけますか?」 「いや、伯爵夫人にも言っていたところだが、余は疲れておる。若い者たちに囲まれていると頭がくらくらしてしまうからな……夜食は一人で摂るつもりだ」  王太子はお辞儀して立ち去った。デュ・バリー夫人も深々とお辞儀をして、怒りに震えながら退去した。  国王がリシュリューに合図を送った。 「公爵、そなたに関することで話しておきたいことがある」 「陛下……」 「余は納得しておらぬ……ぜひ説明してもらいたい……よいな……余は一人で夜食を摂るから、控えておれ」  それからタヴェルネを見つめ、 「こちらの貴族とはお知り合いかね、公爵?」 「タヴェルネ殿ですか? もちろん知っております」 「ああ! あの歌の上手いお嬢さんの父上か」 「はい、陛下」 「耳を貸せ」  国王は顔を突き出してリシュリューに耳打ちした。  タヴェルネは動揺を気取られないように、掌に爪を食い込ませた。  やがてリシュリューがタヴェルネに歩み寄り、囁いた。 「さり気なくついて来なさい」 「何処まで?」タヴェルネも囁き返す。 「いいから来ることじゃ」  公爵に続いてしばらく歩くと、国王の部屋に到着した。  公爵が中に入り、タヴェルネは控えの間で待たされた。 第百十二章 宝石箱  ド・タヴェルネ氏は長くは待たされなかった。リシュリューは国王付きの従僕に化粧台の上に置かれていたものについてたずねてから、すぐにそれを持って外に出て来た。絹で包まれているものが何であるのか、ぱっと見ただけでは男爵にはわからない。  だが元帥は友人の不安を取り除こうと、回廊の隅に引っ張って行った。 「男爵――」二人きりであることを確認すると、すぐに公爵は切り出した。「時にはわしの友情を疑うこともあったであろうな?」 「仲直りしてからはそんなわけがなかろう」 「では貴殿と子供二人の運命について疑いを持ちはしなかったかね?」 「その点はその通りじゃな」 「そこだ。貴殿は間違っておる。貴殿と子供たちの運命は、眩暈を起こしそうなほど素早く培われておるのじゃぞ」 「ふふん!」タヴェルネは真実を察していたものの、神に身を委ねぬ人間のこと、もちろん悪魔にも油断を怠らなかった。「どうやったらそんなに早く培えるというのじゃ?」 「もう既にフィリップ殿は大尉におなりではないか。しかも聯隊の費用は国王が出して下さっておる」 「むう! 確かに……あなたに借りが出来たのう」 「何のそれしき。やがてタヴェルネ嬢は侯爵夫人になるものと考えておる」 「まさか! わしの娘が、どうやって……?」 「よいか、タヴェルネ。国王は風流なお方だ。美しさ、淑やかさ、貞淑さ、そういったものに陛下は心をお惹かれになるが……タヴェルネ嬢にはそれがすべて完璧に備わっているではないか……だからこそ国王はタヴェルネ嬢に心をお惹かれなのだ」 「公爵」タヴェルネは威厳を繕ったが、元帥には滑稽にしか見えなかった。「その言葉をもっと詳しく説明してくれぬか。心を惹かれていらっしゃるとは?」  リシュリューは気取ったことが嫌いなので、すげなく答えた。 「男爵よ、わしは言語学には詳しくないし、正字法にも詳しくない。心を惹かれる、とはわしにとって、非常に気に入っている状態を意味しておる……貴殿の子供たちの美しさや才能や貞淑さを国王が気に入っているのを知って、遺憾に思うというのなら、そう言ってくれればよい……わしは陛下のところに戻るとしよう」  リシュリューは若々しい身のこなしできびすを返した。 「公爵、あなたはわしのことをわかっておらぬな」男爵がそれを呼び止めた。「まったく! 怒りっぽい御仁じゃ」 「ではどうして気に入らぬなどと口にする?」 「そんなことは言っておらん」 「国王のお喜びに説明を求めたではないか……馬鹿はすっこんでおれ!」 「繰り返すが公爵よ、わしはそんな口を利いておらん。このわしは間違いなく満足しておる」 「ほう! 貴殿は、か……すると不満があるのは誰じゃ?……娘御か?」 「むう!」 「のう、貴殿は娘御を自分のような野蛮人に育てあげたのか」 「一人で勝手に育ったんじゃよ。お察しの通り、あれに苦労させられたことはない。わしはタヴェルネのねぐらで過ごすだけじゃったからの……あれの美徳はひとりでに備わったものじゃ」 「田舎の人間は毟るべき毒草を知っているというが……要するに娘御は澄まし屋というわけか」 「違うな、白鳩じゃよ」  リシュリューは顔をしかめた。 「いいか、貧乏な娘には良い夫を探すしか道はない。そうした不利な条件で幸運をつかむ機会は滅多にないからのう」  タヴェルネは不安そうに公爵を見つめた。 「幸いにも、国王はデュ・バリー夫人に夢中じゃ。ほかの女子《おなご》に真剣な目をくれることはなかろう」  タヴェルネの不安は苦悩に変わった。 「だから二人とも安心するがよい。わしから陛下に必要なことを申しておこう。陛下もことさら気にはなさるまい」 「いったい何の話じゃ?」タヴェルネは公爵の腕をつかんだ。 「アンドレ嬢への贈り物じゃよ、男爵」 「贈り物!……いったい?」タヴェルネは野心と期待に胸をふくらませた。 「たいしたものではない」リシュリューは「これじゃよ……取っておけ」  絹を開いて宝石箱を取り出した。 「宝石箱?」 「どうということはない……数千リーヴルの首飾りだ。陛下は好きな歌が歌われるのを聞いて気分を良くされ、歌い手に受け取ってもらうことを所望されたのじゃ。当たり前のことに過ぎん。だが娘御が嫌がっているというのなら、もうこの話はせんでおこう」 「公爵よ、そのことを考えぬのは、国王への冒涜ではないのかの」 「恐らく冒涜になるであろうな。だがそもそも貞淑というものは、誰かや何かを傷つけずにはおられぬものではないのか?」 「ああ、公爵よ、よく考えてくれ、あの娘はそこまで常識外れではないぞ」 「つまり口を利いたのは貴殿であって娘御ではないということか?」 「もちろんだ。あれの言うことややることくらいわかっておる!」 「中国人は幸せだのう」と、リシュリューが言った。 「何故じゃ?」タヴェルネがぽかんとしてたずねた。 「国内に運河や川がたくさんあるからじゃ」 「公爵、話を変えるな。わしをがっかりさせんでくれ。どうか続きを話してくれ」 「もちろんだ。話を変えたりはしておらぬ」 「ではどうして中国人のことなど話す? 中国の川とわしの娘に何の関係があるというのじゃ?」 「それが大いにあるのだ。幸運なことに中国人になら、誰にも何も言われずに、貞淑が過ぎる娘を溺れさせることが出来よう」 「待て待て、あなたの言うことは正しいに違いないが、自分に娘がいた場合のことを考えてみなされ」 「馬鹿もん! 一人おるわい……あれが貞淑だと言えるものか……あんなふしだら娘!」 「つまり駄目な子ほど可愛い、というわけじゃの?」 「ふん! 八年も経てば我が子らの区別もつかぬわ」 「取りあえず聞くだけ聞いてくれ。国王があなたの娘に首飾りを贈り届けるようにわしに頼み、それを娘はあなたに訴えたとしたら?」 「いやはや! 譬え話などやめい……わしは宮廷で過ごし、貴殿は辺境で過ごして来た。重なるところなどあるわけがなかろう。貴殿にとっては貞淑なことでも、わしにとっては愚行でしかない。これからどうすればいいかわからずに、『これこれの場合にあなたならどうしますか?』と人に聞いて回ることほどぶざまなことはないぞ。だいたい譬えを間違っておる。わしが貴殿の娘御に首飾りを贈り届けるというのが事実無根ではないか」 「あなたが言ったのではないか……」 「そんなことは一言も言っとらん。国王がタヴェルネ嬢の声をお気に召したので宝石箱を御許に持って来るよう仰せつかった、と申したのだ。娘本人に手渡すように陛下から頼まれたとは一度も言っておらぬぞ」 「だがそうなると――」男爵はすっかりしょげ込んでしまった。「わしにはよくわからんわい。あなたの謎かけは一言も理解できん。手渡すためでないとしたら、どうして首飾りを預かっとるんじゃ? 届けるためでないとしたら、どうして引き受けたんじゃ?」  リシュリューは蜘蛛でも見つけたように大きな声をあげた。 「おお、嫌じゃ嫌じゃ! この荒夷め! 屁っぴり虫めが!」 「誰のことじゃ?」 「もちろん貴殿じゃよ、我が友……何を驚いておるのじゃ、男爵殿」 「わしにはよく……」 「『よく』どころかまったくわかっておらんのだ。国王がご婦人に贈り物をなさったり、リシュリュー氏にこの任務を託されるのなら、贈り物はもっと豪華だし、もっと手際よく任務を終えておる、覚えておけ……宝石箱を届けるのはわしではない。それはルベル殿の仕事じゃ。ルベル殿は知っておるな?」 「ではあなたは何をなさるんじゃ?」 「男爵よ」リシュリューはタヴェルネの肩を叩くという友好的な態度と共に、悪魔のような微笑みを見せた。「アンドレ嬢のように貞淑なご婦人と関わるとあらば、わしとて誰よりも誠実な男になる。貴殿の言葉を借りて白鳩に近寄るのなら、自分が鴉だとは思わんようにしておる。ご婦人の許に遣わされたのなら、父親に話をするようにしておる……わしは貴殿に話をしておるのだ、タヴェルネよ、貴殿に宝石箱を手渡すから、娘御に渡してやってくれ……構わぬな?……」  リシュリューは宝石箱を手渡した。 「それとも断るか?」  リシュリューは手を引っ込めた。 「待て待て!」男爵が声をあげた。「それならさっさと言ってくれ。この贈り物を手渡すように陛下から仰せつかったのはこのわしなのだと言ってくれ。それならもっともであるし、父親らしいことでもあるし、余計なものを取り除くことも出来よう」 「もしや何か裏があるのだと陛下をお疑いなのか?」リシュリューが気難しい顔をしてみせた。「よもやそんなことは言えまいに」 「無礼を許し給え! だが世間は……いや娘は……」  リシュリューは肩をすくめた。 「受け取るのか、取らぬのか」  タヴェルネは慌てて手を伸ばした。 「これであなたは誠実というわけじゃな?」そして先ほどのリシュリューと同じような笑みを返した。 「父親に仲介させることは誠実極まりないとは思わぬのか? 輝かんばかりの主君と魅力的な娘御の間を取り持って、貴殿の言葉を借りるならば、余計なものを取り除く役をじゃぞ。ジュネーヴのジャン=ジャック・ルソー氏が先ほどここらをうろついて、わしらを見定めておったな。あやつなら故ジョゼフにはわしよりも余計な不純物が混じっていると言うところだぞ」  リシュリューはこれだけのことを冷静でいながら不自然なほど偉ぶって気取った様子で口にして、タヴェルネを黙らせ、納得して当然だと思わせようとした。  すると男爵は友人の手を取って握り締めた。 「娘が贈り物を受け取ることが出来るのも、あなたのおかげじゃ」 「貞淑についてつまらぬ議論を交わしておったが、そもそも初めからこうした幸運の起こりについて話しておったのじゃぞ」 「済まぬな、公爵、心から感謝する」 「一言だけ言っておく。デュ・バリーの友人たちにはこの報せを知られるでないぞ。デュ・バリー夫人が国王の許を離れて逃げ出さぬとも限らん」 「国王はわしらに腹を立てなさるかのう?」 「それはわからぬが、伯爵夫人はいい顔をせんじゃろう。わしは失脚するであろうな……くれぐれも口を謹んでくれよ」 「心配いらぬわ。それよりもわしが感謝していることを国王にしっかりお伝えしてくれ」 「それに貴殿の娘御が感謝していることも、忘れずに伝えよう……だが良い報せは終わってはおらぬ……貴殿自身も国王に感謝せねばなるまい。陛下が今晩の夜食に貴殿を招待なされたのじゃ」 「わしを?」 「貴殿をじゃよ、タヴェルネ。わしらは家族同然であろう? 陛下はわしや貴殿と、娘御の貞淑についておしゃべりなさりたいそうじゃ。では失礼するぞ、タヴェルネ。あそこにデュ・バリーとデギヨンが見える。わしらが一緒にいるところは見られぬ方がよい」  そう言って小姓のように身軽に回廊の奥に姿を消した。残されたタヴェルネは、宝石箱を手に、眠っている間にクリスマスの玩具を手渡されて目覚めたサクソン人の子供のように立っていた。 第百十三章 ルイ十五世の小夜食  国王陛下は取り巻きの廷臣たちと一緒に小広間にいた。君主の虚ろな眼差しが他人に向けられるくらいなら夜食を摂り損ねることを選ぶような者たちである。  だが今夜のルイ十五世は取り巻きを眺めるだけでは満足できぬようであるらしい。夜食は摂らぬ、いや、摂るにしても一人で摂ると言って取り巻きたちを追い払った。そうやって国王から退出するように告げられたうえに、リハーサル後に催されている祝宴に欠席して王太子殿下の不興を買うことを恐れて、慌てて鳩の群れのようにけたたましく飛び立ち、目に入った人物の方に向かって、陛下の部屋はあなたの為に空けておいたといつでも言えるように、駆け出した。  こうして人々が慌ただしく立ち去っている間も、ルイ十五世は別のことを考えていた。取り巻きたちの一喜一憂もほかの場合であれば楽しめたであろう。国王は非常にからかい好きで、仮に国王に友人というものがあったとして、たとい相手が一番の親友であってもその心や身体に一つでも欠陥があれば見逃しはしないほどなのだが、今回ばかりはそんな国王の心にも何の感情も湧かなかった。  確かに、目下ルイ十五世は気を取られていた。一台の四輪馬車がトリアノンの通用門の前に停まったのだ。御者はいつでも馬に鞭をくれられるように準備して、どうやら主人が金の車体に乗れば重みで判断できるように待機しているらしい。  明かりに照らされたこの四輪馬車はデュ・バリー夫人のものだった。ザモールが御者の隣に坐り、ブランコでも漕ぐように足を前後に動かしている。  どうやらデュ・バリー夫人は、国王から伝言があるのではないかと見込んで回廊でぐずぐずしていたようだが、ようやくのことでデギヨン氏に腕を取られて姿を現した。怒りのせいか、少なくとも落胆のせいで、足早に歩いている。あまりに決然としていたために、落ち着きを失ってさえいない。  ジャンが肩を落とし、帽子を腕に挟むともなく挟んでぺしゃんこにして、妹の後から姿を見せた。王太子殿下が招待するのを忘れていたため、ジャンは舞台を見ることが出来なかった。それでも従僕のように控えの間に入り込みんだジャンは、ヒッポリュトスもかくやと思うほどの物思いに沈み、銀糸と薔薇で縫い取りされた上着から胸飾りをはためかせ、本人の悲痛な思いに倣っているようなぼろぼろの袖口には目もくれていない。  ジャンは青ざめて狼狽している妹を見て、事は重大だと確信した。実体のある相手を敵に回すのなら強気になれるが、幻相手ではそうはいかない。  国王はカーテンの陰に隠れて、一人ずつ現れてはドミノ倒しのように伯爵夫人の馬車に飲み込まれて行くのを、窓から眺めていた。やがて扉が閉められ、従者が車の後ろに戻り、御者が手綱を振ると、馬が全速力で駆け出した。 「何てことだ!」国王が呟いた。「余に会おうとも、話をしようともせずに行ってしまうのか? 伯爵夫人は相当に怒っておるぞ!」  それからはっきりと口に出して繰り返した。 「間違いない。伯爵夫人は怒っておる!」  招待客のように部屋に潜り込んでいたリシュリューが、この最後の言葉を聞きつけた。 「怒っている? どうしてですかな? 陛下が楽しまれたのが気に食わないと? 言われてみればさようですな! 確かに伯爵夫人にとっては面白くないことでしょうな」 「公爵よ、余は楽しんでなどおらぬ。むしろ疲れておるから休みたいところだ。音楽だけでくたびれてしまった。伯爵夫人の話を聞くとしたら、リュシエンヌまで夜食に向かい、食べたるだけでなく飲んだりしなくてはなるまい。伯爵夫人の葡萄酒はきついのだ。いったいどんな葡萄を使っているのやら知らぬが、とにかくあれはこめかみに来る。だからここで寛いでいたいと思っておる」 「陛下のなさることに間違いはありますまい」と公爵は答えた。 「もっとも、伯爵夫人なら勝手に楽しむであろう! 余と食事を共にしてそれほど面白いのだろうか? 伯爵夫人がどう言おうと、そうは思えぬ」 「それについては陛下は間違っておいでです」 「いいや、公爵、そうではない。月日を数えてじっくりと考えよう」 「陛下、いずれにしましても陛下以上に素晴らしい伴侶を持てぬことを伯爵夫人はご存じで、だからこそお怒りなのですぞ」 「実際の話、余にはそなたの流儀がわからぬが、相変わらず二十歳の頃のように女性を扱っておるな。当時は選ぶのは男であった。だが余が生きている時代は……」 「何だと言うのです?」 「音頭を取るのは女だ」  元帥は笑い出した。 「伯爵夫人が楽しんでいらっしゃったとお思いなら、我々も負けじと慰め合おうではありませんか」 「伯爵夫人が楽しんでいたとは言っておらぬ。楽しみを求めるようになってしまうと言っているのだ」 「そんなことはあり得ないと申し上げることは控えておきましょう」  国王は動揺して立ち上がった。 「ここには誰がいる?」 「全員が控えております」  国王はしばし考え込んだ。 「そなたの使用人はおらぬのか?」 「ラフテがおります」 「よかろう!」 「何をさせようというのですかな?」 「デュ・バリー夫人が実際にリュシエンヌに戻っているのかどうか確かめてもらいたい」 「私見では伯爵夫人はお出かけでございましょう」 「はっきり言えばその通りだ」 「すると陛下は、伯爵夫人が何処に向かわれたと仰りたいのですか?」 「知らぬ。伯爵夫人は嫉妬でわけがわからなくなっておるのだ」 「いやしかし、それはむしろ陛下の方ではございませんか?」 「何だと、どういうことだ?」 「嫉妬でわけがわからなくなっているのは……」 「公爵!」 「実際、誰にとっても嫉妬とは厄介なものでございます」 「余が嫉妬しているだと!」ルイ十五世はわざとらしく笑い声をあげた。「本気で言っておるのか?」  実際のところリシュリューは本気ではなかった。それどころか、デュ・バリー夫人が実際にリュシエンヌにいるのかどうかを国王が確かめたがっているわけではなく、トリアノンに戻って来ないことを確信したがっているのだと考えた方が真実に近いということを認めるのもやぶさかではなかった。 「では了解いたしました。ラフテを確かめに遣らせましょう」 「そうしてくれ」 「ところで陛下は夜食前に何をなさるおつもりですかな?」 「何も。すぐに夜食を摂ろう。件の人物には知らせておいたな?」 「ええ、控えの間におります」 「何と言っておった?」 「大変な感謝をしておりました」 「娘の方は?」 「まだ娘御には話しておりません」 「公爵よ、デュ・バリー夫人は嫉妬深く、すぐにでも戻ってくるかもしれぬのだぞ」 「それはいけませんな。伯爵夫人がそんな無茶をなさるとは思えませぬが」 「こんな場合なら何でもしかねぬよ。憎しみに嫉妬が加わっているのだからなおのこと。伯爵夫人はそなたを憎悪しておる。そのことには気づいておったか?」  リシュリューは頭を下げた。 「かかる名誉を承っていることは存じております」 「ド・タヴェルネ殿のことも憎悪しておる」 「恐れながらそれに加えさせていただきますと、老生や男爵以上に憎悪されている第三の人物がおりますぞ」 「何者だね?」 「アンドレ嬢でございます」 「ああ、それも当然であろうな」 「そうなりますと……」 「うむ。だがな、デュ・バリー夫人が今夜騒ぎを起こさぬように気をつけねばならぬことに変わりはない」 「それどころか、その配慮が不可欠だという根拠となりましょう」 「給仕長がおる。口を閉じろ! ラフテに指示を伝えよ。それから食堂で例の人物と会おうではないか」  ルイ十五世は立ち上がって食堂に向かい、リシュリューは反対側の扉から部屋を出た。  五分後、リシュリューは男爵と共に国王と再会した。  国王がタヴェルネににこやかな挨拶を送った。  男爵は頭の切れる人間であった。ある種の人々に特有のやり方で挨拶に答えると、それを見た国王や王族が相手のことを同じ世界の住人だと認めて、見る間に緊張を解いてくれるのである。  三人は食卓に着き夜食を始めた。  ルイ十五世はいい国王とは言えないが、魅力的な人物であった。国王がその気になった時には、一座は酒や噂や際どい話で盛り上がったものである。  要するに国王はそうした陽気な側面から人生の多くを学んでいた。  たらふく食べ、もっと飲めと勧め、音楽の話を始めた。  リシュリューはその機会を逃さなかった。 「陛下、音楽が男同士を結びつけるとバレエ教師は言っておりますし、陛下もそうお考えのようですが、それは女の場合にも言えるでしょうな?」 「いやいや公爵よ、女の話はよそうではないか。トロヤ戦争の昔から今日に至るまで、女というものは音楽から正反対の影響を受けて来たのだ。とりわけそなたは、ご婦人たちとかたをつけるべきことが多すぎて、こうした話題が上るのを見るのも嫌であろう。なかでも一人、一触即発の険悪な仲の婦人がおるではないか」 「勘違いでなければ、伯爵夫人のことですな?」 「であろうな」 「恐らくご説明下さることと思いますが……」 「喜んで説明しよう。二言で済む」国王はからかうように答えた。 「お聞かせ下さい」 「よかろう! 伯爵夫人はそなたに余の知らぬ大臣職を打診したが、そなたは断ったそうではないか。それというのも伯爵夫人に人気がないからだと言って」 「老生が?」リシュリューは事の成り行きに狼狽えた。 「そういう噂だぞ」国王はいつものように無邪気を装って話を続けた。「誰から聞いたのかはもう覚えておらぬが……恐らく新聞であろう」 「左様ですか」国王がいつになく上機嫌な顔をしているのを見て、リシュリューは大胆になった。「正直に申し上げますと、今回ばかりは噂や新聞も、いつもほど馬鹿げてはいないようですな」 「何だと! そなたは本当に大臣の椅子を蹴ったと言うのか?」  おわかりいただけることと思うが、リシュリューは微妙な立場に立っていた。公爵がどんなことでも断ったことのない人物である、ということを国王はよく知っていた。だがタヴェルネの方はリシュリューの言ったことをずっと信じ続けるに違いない。つまり公爵としては、国王の当てつけを如何に巧みに擦り抜けて返答し、男爵の口元に浮かんでいる嘘つきという非難をどうやって避けるか、という点が当座の問題であった。 「陛下、結果ではなく理由に目を向けようではありませんか。老生が大臣の椅子を蹴ったにしろ蹴らなかったにしろ、そのことは国家の秘密ですぞ。白日の下に晒されたまま放っておいてはなりますまい。しかしですな、大臣の職を持ちかけられたのだといたしますと、それを老生が断った理由こそ、本質的に重要なことではありませんかな」 「は、は! 公爵よ、噂によればその理由は国家機密などではなかったぞ」国王は笑って言った。 「無論です。とりわけ陛下にとっては秘密ではございますまい。失礼ながら、老生やここにいるタヴェルネ男爵にとって、陛下は現在お目にかかることの出来る存在の中でももっとも麗しい人間の主人でございます。ですから老生は国王に対して秘密などは持っておりません。心の内はすっかり陛下に打ち明けておりますぞ。フランスの国王には真実を伝える臣下の一人もいないと言われたくはありませんからな」  リシュリューが言い過ぎやしないかと、びくびくしながらタヴェルネは口唇を咬み、国王の顔色を窺いながら慎重に表情を作っていた。 「では真実について話そうか」国王が言った。 「この国には大臣が従わなくてはならない権力が二つございます。一つ目は陛下のご意思。二つ目は陛下がお選びになったもっとも近しい友人のご意思でございます。一つ目の力に抵抗することなどあり得ず、逃れようとすることさえ叶いますまい。二つ目の力はさらに侵すべからざるものでございまして、と言うのも陛下にお仕えしている者の義務感に訴えるからでございます。これは『信用』と呼ばれておりますが、大臣はそれに従うために、国王の寵臣なり寵姫なりにおいたわしい気持を抱かなくてはなりません」  ルイ十五世が笑い出した。 「随分と面白い箴言だな。そなたの口から出て来るのが面白いわ。だがな、喇叭を二つ持ってポン=ヌフまでそれを叫びに行ってみるがいい」 「ああ、哲学者たちが武器を取ろうとしているのは存じておりますぞ。ですがあやつらの叫びが陛下や老生に関わりがあるとは思いませぬ。肝心なのは、王国を代表する二つのご意思が満たされることでございます。ところで、恐れながら申し上げますと、ある方のご意思は老生の不運、つまり老生の死と関わっておりまして、つまるところデュ・バリー夫人のご意思には同意することが出来ぬのです」  ルイ十五世は黙り込んでしまった。 「ふと思ったのですが」リシュリューが先を続けた。「先日、宮廷を見回しておりますと、それはもう気高いお嬢さんや輝かしいご婦人方をお見かけいたしました。老生がフランス国王だったなら、一人を選ぶのは不可能だったことでしょう」  ルイ十五世がタヴェルネを見た。男爵は密かに話題になっていることを悟って、恐れと希望で心臓をばくばくさせ、財産を積んでいる船を港まで押しやろうとでもするように、元帥の言葉を目つきで促し息を吹きかけていた。 「そなたはどう思うかね、男爵?」と国王がたずねた。  タヴェルネは胸をふくらませて答えた。「公爵は先ほどから素晴らしいことを陛下に仰っているように思われます」 「では美しい娘たちのことについても同意見なのだな?」 「無論です。何分にもフランス宮廷には極めて美しい方ばかりおいでだとお見受けします」 「つまり公爵に同意するのだな?」 「はい、陛下」 「公爵と同じように、宮廷の美女たちの中から一人を選べと申すのか?」 「言わせていただけますならば元帥に賛成でございますし、恐れながら陛下とも同意見だと信じております」  しばし沈黙が降り、国王は満足げにタヴェルネを見つめた。 「諸君、余が三十歳であれば、間違いなくそなたたちと同意見であっただろう。容易く納得してしまったことであろうな。だがそうしたことを鵜呑みにするには少し年を取ってしまった」 「鵜呑みにするとはどういうことか説明していただけますかな」 「信じるということだよ、公爵。もうそういったことを信じることは出来そうにない」 「そういったこと、と仰いますと?」 「この年で恋心を掻き立てられることだ」 「陛下! たった今この時まで、陛下は王国一洗練された方だとばかり思っておりました。しかしまことに遺憾ながら老生が間違っていたようです」 「どういうことかね?」国王は笑った。 「老成はメトセラのような老いぼれだということですわ。九十四年の生まれですから、陛下より十六も上ですからな」  これは公爵らしくよく出来たお追従だった。ルイ十五世はこの年でありながら部下の若者を殺してきた公爵について、かねがね感心していた。こうした見本を目の当たりにすれば、同じ年齢になった時のことを考えても希望が持てる。 「よかろう。だがそうすると、女からもてるという自信はもうそなたにはないのであろうな?」 「もしそうだとすれば、今朝言ったことは嘘だったのかと、後で二人のご婦人と喧嘩しなくてはなりますまいな」 「よし公爵。いずれわかる。いずれわかるとも、タヴェルネ殿。若返ったのは確かだが……」 「まことにその通り。気高い血筋こそよく効く特効薬でございます。それに陛下のように立派なお心の持ち主は、変化によって力を得ることはあっても失うことはございませんから」 「しかしだな」ルイ十五世は思い出したらしく、「余の曾祖父が年を重ねた頃には、もう若い頃のようにはご婦人に言い寄っていなかったぞ」 「よいですか。先王に対する老生の敬意を陛下はご存じのはずですぞ。バスチーユに二度も入れられましたが、老年のルイ十四世と老年のルイ十五世とでは比べものにならないと申し上げるのはやぶさかではありません。いやはや! 教会の長兄の肩書きを授けられたキリスト教の信仰篤き国王陛下が、人間性を失いかねないほどまで禁欲にこだわるというのですか?」 「そなたの言う通りだと認めざるを得ぬな。ここには医者も聴聞僧もいないのだから」 「先王陛下は度を過ごした信仰心や数限りない禁欲で、年上だったド・マントノン夫人を驚かせることもしばしばでございました。繰り返しますが陛下、二人の国王陛下についてお話ししながら、一人一人を比べることが出来ましょうか?」  その晩の国王は機嫌が良かった。リシュリューの言葉によって、若返りの泉から水を飲んだような気分になっていた。  ここだ、とリシュリューは判断して、タヴェルネの膝を自分の膝で小突いた。 「陛下、愚生の娘に下さった素晴らしい贈り物について感謝の言葉をお伝えすることをお許し下され」 「感謝などいらぬよ、男爵。タヴェルネ嬢のことを気に入ったまでだ。淑やかで品が良い。余の娘たちも使用人をもっとしつけてくれればよいのだが。無論アンドレ嬢は……そういう名前でよかったな?」 「はい、陛下」国王が娘の洗礼名を知っていたことに、タヴェルネは大喜びした。 「よい名前だ! 無論アンドレ嬢はいつでもリストの一番上にいる。だが余のところはいろいろと立て込んでおってな。黙って待っていてくれぬか、男爵、そなたの娘御は余がしっかり庇護してやるつもりだ。持参金もあまりないのであろうな?」 「仰せの通りでございます」 「わかった、結婚の面倒も見てつかわす」  タヴェルネは深々とお辞儀をした。 「そういたしますと陛下がご親切にもご夫君を見つけて下さいませんか。何しろお恥ずかしい話ですが、愚生と来たら貧乏、いや無一文同然でありまして……」 「うむ、うむ、その点も任せておけ。だがアンドレ嬢はまだ若い。慌てることでもあるまい」 「娘が結婚を恐れているのだからなおのことでございます」 「何ともな!」ルイ十五世は手を擦り合わせてリシュリューを見た。「まあよい、いずれにせよ、困ったことがあったら余を頼り給え、タヴェルネ殿」  ルイ十五世は立ち上がって公爵に言葉をかけた。 「元帥!」  公爵が国王のそばに寄った。 「娘御は気に入っておるか?」 「何の話でございますか?」 「宝石箱だ」 「恐れながら小声でお話し下さいませんと父親に聞こえてしまいます。それに老生がこれから申し上げることは聞かれてはなりません」 「くだらぬ!」 「陛下」 「わかった、申してみよ」 「では。娘御が結婚を恐れているというのは本当のことです。しかしながら一つだけ確信していることがございまして、それは娘御が陛下を恐れてはいないということです」  親しげな発言に散りばめられたあけすけな言葉遣いを、国王は気に入ったらしい。恭しく壁際まで下がっていたタヴェルネのところまで、元帥は小走りで戻った。  二人は庭から外に出た。  素晴らしい夜だった。従僕二人が前を歩き、片手に松明を掲げ、片手で花のついた枝を引きずっている。今もまだトリアノンの窓の明かりが見える。王太子妃の招待客たちの酔っ払った人いきれで、窓には水滴が滲んでいた。  楽団はメヌエットを演奏している。夜食後のダンスが、まだ続いているのだ。  リラや西洋肝木の茂みにしゃがみ込んだジルベールが、曇ったタペストリー越しに演じられる影絵を見つめていた。  きらびやかなダンスの列を陶然として眺めていたため、天が地上に落ちても気にも留めなかっただろう。  だがリシュリューとタヴェルネがこの夜鳥の隠れている茂みの前を通りかかり、声が聞こえると、それもある言葉を耳にして、ジルベールは顔を上げた。  それはとりわけジルベールにとって重要で意味のある言葉だった。  元帥が友人に腕を押しつけるようにして耳に口を寄せて囁いていた。 「いろいろと考え合わせると、貴殿には話しづらいのだが、娘御を修道院に送るのは出来るだけ急がねばなるまい」 「それはまた何故じゃ?」男爵がたずねた。 「わしの見るところ、国王がタヴェルネ嬢にぞっこんだからだ」  ジルベールはこの言葉を聞いて、肩や顔に降りかかっているふわりとした西洋肝木より白くなった。 第百十四章 予感  翌日、トリアノンの大時計が正午を告げた直後、まだ部屋にいるアンドレのところにニコルが大声を出してやって来た。 「お嬢様、お嬢様、フィリップ様がお見えです」  という声が階段の下から聞こえる。  アンドレは驚くと同時に大喜びでモスリンの部屋着をかき合わせ、兄を迎えに飛び出した。嘘ではなかった。トリアノンの中庭で馬から降りたばかりのフィリップが、いつ頃なら妹と話すことが出来るのかを使用人たちにたずねていた。  そこでアンドレは自分で扉を開け、フィリップと顔を合わせた。お節介焼きのニコルが中庭まで報せに行き、階段まで連れて来たのだ。  アンドレは兄の首にかじりついた。それから二人はアンドレの部屋に戻り、後ろからニコルがついて行った。  だがその時になって、フィリップがいつもより深刻な顔をしていることに、アンドレは気づいた。笑顔にさえ悲しみが滲んでおり、極めて整然と軍服を身につけ、畳んだ外套を左脇に挟んでいる。 「どうなさったの、フィリップ?」アンドレははっとしてたずねた。心遣いの出来る人間には、何かを見抜くのにも一目で充分だった。 「聞いてくれ。今朝、聯隊に合流せよという命令を受け取ったんだ」 「では行ってしまいますのね?」 「行かなくてはならない」 「ああ!」アンドレの悲鳴には、持てる限りの勇気と少なからぬ気力が込められていた。  フィリップが発つのはごく当然のことだったから、アンドレもあらかじめ覚悟はしていたのだろうが、実際に報せを聞いてみるとあまりに落胆が大きく、思わずフィリップの腕にしがみいていた。 「アンドレ!」フィリップが驚いてたずねた。「そこまで悲しいのか? 旅立ちなんて軍人生活では一番ありふれた出来事なんだぞ」 「ええ、わかってます。それで、どちらに行かれますの?」 「駐屯地はランスだよ。たいした距離じゃない。そうは言っても、どうやらそこからストラスブールに戻ることになりそうだけどね」 「そんな! それで、いつ発ちますの?」 「直ちに出発せよという命令だった」 「ではお別れを言いにいらしたんですのね?」 「ああ、そうだよ」 「お別れだなんて!」 「何か言いたいことがあるんじゃないのか、アンドレ?」アンドレの悲しみ方が尋常ではないのでフィリップは不安になり、もしかするとほかに理由があるのではないかといぶかった。  この言葉が誰に向けられたものなのかはアンドレにもわかった。アンドレの悲嘆があまりに大きいのでびっくりして眺めていたニコルに対してだ。  何にせよ将校が駐屯地に向かうことが、これほどの涙を誘うような大惨事だとは思えない。  だからフィリップが感じていることもニコルが驚いていることも、アンドレは同時に悟った。ケープをつかんで肩に掛け、兄を階段の方に連れて行った。 「庭園の柵のところまでいらして下さい、フィリップ。並木道からお見送りいたしますわ。仰る通り、お話ししたいことがあります」  これはニコルに対する退出命令でもあった。ニコルは壁伝いに退がってアンドレの部屋に引っ込み、アンドレとフィリップは階段を降りた。  アンドレは礼拝堂に隣接する階段を降り、現在でも庭に通じている通路を抜けて外に出た。だがすぐにフィリップから不安そうな目つきで問いかけられたにもかかわらず、腕にぶら下がって肩に頭をもたれさせたまま、一言も口を利かなかった。  ところが不意に胸を詰まらせ、顔を死ぬほど真っ青にして、嗚咽を口元まで這い上らせ、止まらぬ涙で目を曇らせた。 「ああ、アンドレ。お願いだから、何があったんだ?」 「頼れる人はお兄様しかいませんのに。昨日から放り込まれたこの世界に独りぼっちにさせておいて、どうして泣くのかだなんておたずねになるんですか! わからないの、フィリップ? 生まれた時に母を失くしただけではなく、こんなことを言うと罰が当たるけれど、父を持ったこともないのに。心に感じた悲しい思いも、胸に仕舞った秘密も、お兄様だけにしか打ち明けたことはないんです。小さかった頃のわたくしに微笑んでくれたのはどなたでした? 抱きしめてくれたのは? あやしてくれたのは? お兄様でした。大きくなってから守ってくれたのはどなたでした? お兄様です。主に命をいただいた者たちがこの世に放り込まれたのは苦しむためだけではないのだと信じさせてくれたのはどなたでした? お兄様です、フィリップ、みんなお兄様だったんです。だからこうしてこの世に生を受けてから、お兄様よりほか誰も愛したことはなかったし、お兄様以外の誰からも愛されませんでした。ねえフィリップ!」アンドレは辛そうに先を続けた。「そうして顔を背けてらっしゃるけれど、お兄様の考えていることはわかりますわ。わたくしは若いし、綺麗だし、未来や恋愛に見切りをつけるのは間違っているとお考えなのでしょう。でもね、お兄様だってちゃんとわかってらっしゃるんでしょう? 誰かが目を掛けて下さるほどは綺麗でも若くもないってことは――。 「確かに王太子妃殿下は親切にして下さいますわ。それは確かです。少なくともわたくしの目には完璧な方に見えますし、女神のような方だと思っています。でもそれはあの方のことを雲の上の存在だとわきまえて、愛情ではなく敬意を抱いているからです。それでもフィリップ、愛情という感覚がわたくしの心には必要なんです。いつまでも胸に秘めて押し殺していると、心臓が破れてしまいます――父が……ああ、お父様! もう何も申し上げることはありませんわ、フィリップ。お父様は保護者でも家族でもありませんでしたし、いつも恐ろしい目つきで見つめてばかりでした。わたくし怖いの、フィリップ。お父様が怖いんです。お兄様が行ってしまうとわかってからはなおさら。何が怖いのかなんてわたくしにもわかりません。逃げる鳥の群れや唸る家畜の群れだって、嵐が近づいて来れば、嵐を怖がるんじゃないかしら? 「それは本能だって仰るかもしれないけれど、永遠不滅の人間の魂にも災いを察知する本能があることは否定できないのではありません? いつからか、何もかもがわたくしたちに都合よく働いていることには気づいていました。お兄様は大尉になりましたし、わたくしは王太子妃の内向きのお世話をさせていただいていますもの。それにお父様は昨夜、国王と夜食を共になさいましたの。フィリップ、気が狂ったと思われるかもしれませんけど、何でも言いますわ、タヴェルネで貧乏に身を委ねて閉じ籠もっていた頃と比べても、今起こっているありとあらゆることが不安で仕方ないんです」 「でもね、アンドレ」フィリップは悲しげに呟いた。「おまえはタヴェルネでも一人だった。ぼくはあそこにもいなかったし、おまえを慰めたりは出来なかった」 「そんなことない。それは確かに一人だったけれど、いつも小さな頃の思い出と一緒でしたもの。あそこで生まれ、息をして、母を失くしたあの家が、言ってみれば生まれて以来の守り神だったのね。あそこにあった何もかもが優しく、愛おしく、親しげに思えたんです。あそこでならお兄様が旅立つのを落ち着いて見ていられたし、戻って来るのを大喜びでお迎えしていました。でも出かけていても戻って来ても、心をすべてお兄様に預けていたわけではなかったんです。時々とはいえお兄様がいたあの家や庭や花、あの場所が好きでした。でも今はお兄様がすべてなんです、フィリップ。お兄様がいなくなってしまっては、何もかもなくしてしまいます」 「だがアンドレ、今はぼくなんかよりずっと頼れる保護者がいるじゃないか」 「そうかもしれませんけれど」 「それに素晴らしい未来が待っている」 「そんなことは誰にも……」 「どうして悲観的なんだ?」 「わたくしにもわかりません」 「そんなんじゃ、神様に失礼だぞ」 「そんなことはありません。主には感謝を忘れず、いつも朝にはお祈りを捧げていますもの。でもひざまずいて感謝の言葉をお祈りするたびに、代わりにこんな声が聞こえるような気がするんです。『気をつけよ、娘よ、気をつけるのだ!』」 「気をつけるようなことがあるのか? 教えてくれ。身の危険を感じているというのなら、おまえの言うことを信じるよ。悪い予感がするのか? 立ち向かうなり避けるなりするにはどうすればいいんだ?」 「わからないの、フィリップ。わかるのはただ、お兄様が行ってしまうと知った瞬間から、わたくしの人生なんて一本の糸で吊られているだけで、何の輝きもなくなってしまったも同然だということだけ。はっきりと言えば、眠っている間に断崖絶壁の上に連れ出されて、無理矢理に目を覚まされたような気持なんです。目を覚まさずにはいられないんです。目の前に崖があるのに、むしろそこに吸い寄せられてしまい、わたくしを支えてくれるお兄様ももういないので、そのまま崖の下に姿を消してばらばらになってしまいそうなんです」 「いいかいアンドレ」声の調子からアンドレが心から怯えているのがわかり、フィリップは思わず胸を締めつけられた。「おまえの優しさには感謝しているけれど、それはちょっと大げさだな。家族がいなくなるのは確かだけれど、ほんの一時じゃないか。何かあっても戻れないほど遠くに行くわけじゃない。それにおまえは自分の空想を怖がっているだけだよ」  アンドレが立ち止まった。 「でしたらお兄様。男であるお兄様が――わたくしよりもずっと強いお兄様が――今こうしてわたくしと同じくらい悲しんでいるのはどうして? どうか説明して下さい」 「別に難しいことじゃない」口を閉じて再び歩き出していたアンドレをフィリップが止めた。「ぼくらは魂と血で繋がっているだけではなく、魂と心で繋がっている兄妹なんだ。だからパリに来てからは気持を通じ合わせて過ごすことが、ぼくには当たり前になっていた。でもその鎖を断ち切って――いやそうじゃない、人に鎖を断ち切られて、その衝撃が心にまで届いているんだ。だから悲しいけれど、ほんの一時のことに過ぎないじゃないか。ねえアンドレ、離ればなれになってからが目に浮かぶようだよ。悪いことなんか起こるものか。数か月から一年くらいの間、会えないだけだ。ぼくは甘んじて受け入れる。『さよならと』は言わないよ、『また会おう』だ」  こうして慰められても、アンドレはすすり泣くことしか出来なかった。 「アンドレ」フィリップにはアンドレがここまで悲しがる理由が理解できなかった。「何か隠しているんじゃないのか。お願いだからすっかり話してくれ」  フィリップはアンドレの腕をつかんで胸に引き寄せ、瞳を覗き込んだ。 「わたくしが? 何もありません。お兄様にはすっかりお話ししましたもの、わたくしのことならお兄様は何でも知ってらっしゃるわ」 「だったらアンドレ、お願いだからそんなに悲しがらずに元気を出してくれ」 「そうね。馬鹿だったわ。わたくしが精神的に強くないことは、誰よりもご存じでしょう、フィリップ。いつもいつも、怖がったり、夢見たり、溜息をついてばかり。でもこんな辛い空想に、愛しいお兄様を巻き込むことなんて出来やしません。いつも元気づけてくれて、怯える必要なんかないと言って下さるのに。お兄様は正しいわ。間違ってません、この場所がわたくしにとって申し分ないことばかりなのは事実です。ごめんなさい、フィリップ。涙を拭くわね、もう泣かずに笑顔になります。『さよなら』なんて言わずに、『また会いましょう』とご挨拶するわ」  アンドレは兄を優しく抱き寄せた。隠しておいた涙の最後の一粒が、潤んでいた瞼から真珠のようにこぼれて、フィリップの飾緒に落ちた。  フィリップは兄としてまた父として万感の愛おしさを込めてアンドレを見つめた。 「アンドレ、愛しているよ。元気をなくすんじゃないぞ。ぼくは出発するけれど、毎週手紙を書くからね。おまえも毎週届けてくれるね」 「もちろんよ、フィリップ、ありがとう。それだけが楽しみ。でもお父様にはもうお知らせしたの?」 「何をだい?」 「お兄様が出発すること」 「知らせるどころか、この朝に大臣の指令を届けてくれたのは父上本人なんだ。ド・タヴェルネ男爵はおまえとは違う。どうやらぼくがいなくても平気らしいよ。ぼくの出発を喜んでいたけれど、確かに考えてみると、父上が正しいんだ。ここにいては、どれだけ好機が訪れても前に進めないだろうからね」 「出発すると知ってお父様はお喜びになったというの!」アンドレが呟いた。「間違いないの、フィリップ?」 「父上にはおまえがいるからね」フィリップは巧みに答えを避けた。「おまえがいれば安心なんだ」 「本気でそう思ってらっしゃるの、フィリップ? わたくしにはわからないわ」 「今日ぼくが発った後でトリアノンに行くことを伝えてくれと頼まれたんだ。父上もおまえを愛しているんだ。ただし父上なりの愛し方で、だけれど」 「まだ何かあるの? 焦っているように見えるけれど」 「さっき鐘が鳴っただろう。何時だったかわかるかい?」 「十二時四十五分よ」 「それが焦っている理由さ。一時になれば行かなくちゃならない。あの柵のところに馬を繋いでいるんだ。つまり……」  アンドレは落ち着いた表情のまま、兄の手を握った。 「つまり……」その声はあまりにぎこちなく、うわべすら繕うことが出来なかった。「つまり、お別れなんですね、お兄様……」  フィリップはもう一度だけアンドレを抱きしめた。 「また会おう。約束を忘れないでくれ」 「約束?」 「週に一度は手紙を」 「こちらこそ約束よ!」  これだけのことを口にするのにもひどく辛そうで、ほとんど声にならなかった。  フィリップは最後に一つ敬礼をしてから立ち去って行った。  アンドレはそれを目で追い、溜息を洩らすまいと息を止めていた。  フィリップが馬に乗り、柵の向こう側から別れを告げてから走り去った。  アンドレは立ちつくしたまま、兄の姿が見えなくなるまでじっと動かずにいた。  とうとう見えなくなると、くるりと向きを変えて、手負いの鹿のように木陰に駆け込み、腰掛けを見つけるやそこにたどり着いて倒れ込むのがやっとだった。血の気も失せ、力という力が抜け、何も見えなかった。  やがて胸の奥底から、いつ果てるともなく絞り出すような嗚咽を洩らした。 「ああ神様! どうしてこの世に一人きりになさるんですか?」  両手に顔をうずめ、白い指の隙間から涙をぼたぼたとこぼし始めると、もう止めることは出来なかった。  この時、熊垂《クマシデ》の後ろから小さな物音がした。溜息が聞こえたような気がして、ぎょっとして振り返ると、惨憺たる様子の人影がアンドレの前に立ちつくしていた。  ジルベールだ。 第百十五章 ジルベールの物語  それは確かにジルベールだった。アンドレ以上に青ざめ、悲しみに沈み、打ちひしがれていた。  見知らぬ男の姿を見て、アンドレは急いで目を拭った。誇り高い娘なら泣いているのを恥じるものだ。落ち着きを取り戻し、絶望に震わせていた手足も大理石のように凜とさせた。  ジルベールが落ち着きを取り戻すには、さらに時間がかかったし、顔には痛ましい表情がいつまでも貼りついていた。ド・タヴェルネ嬢は目を上げるとたちまち相手が誰なのかに気づき、態度や目つきにもはっきりとそれを表した。 「またジルベールなの」ジルベールと出くわすのは偶然だと思っているアンドレは、そのたびによそよそしい口振りを見せた。  ジルベールは何も答えなかった。あまりにも胸が一杯だったのだ。  アンドレの身体を震わせていた痛みが、ジルベールの身体をも激しく揺り動かしていた。  そんなわけだから、この幽霊をへこましてやろうと思い、口を利いたのはアンドレの方だった。 「いったい何をしているの、ジルベールさん? どうしてそんな惨めな様子でわたくしを見つめているのかしら? 察するに悲しいことでもあったのでしょう。よかったら話してご覧にならない?」 「お知りになりたいんですか?」ジルベールは悄然としてたずねた。心遣いの下に皮肉が隠れているのには気づいていた。 「ええ」 「僕が悲しんでいるのは、お嬢様が苦しんでいるのを知ったからです」 「わたくしが苦しんでいるだなんて誰に聞いたの?」 「この目で見ました」 「苦しんでなんかいないわ、あなたの勘違いよ」アンドレは改めて顔にハンカチを押し当てた。  一荒れ来そうだと感じたジルベールは、ここは下手に出て風向きを変えた方がいいと考えた。 「申し訳ありません、お嬢様。嘆いてらっしゃるのが聞こえたものですから」 「聞いていたの!? それは結構なことね……」 「お嬢様、偶然なんです」それが嘘だとわかっているだけに、ジルベールの口振りは重かった。 「偶然ですって! 偶然あなたがそばにいたなんて最悪だわ。でもそれより、わたくしが嘆いているのを聞いたからといって、どうしてあなたが悲しんでいるのかしら? 教えて頂戴」 「女性が泣いているのを見るのは耐えられませんから」ジルベールの言い方に、アンドレはかちんと来てしまったらしい。 「もしかしてジルベールさんはわたくしのことを女という目で見ていたのかしら? 誰の気を引こうとも思わないけれど、特にあなたの気を引くのだけは御免だわ」 「お嬢様」ジルベールは首を横に振った。「そんな風にひどいことを言わないで下さい。お嬢様が悲しんでいるのを見て、僕もひどく辛い気持になったんです。フィリップ様が行ってしまうと、これからはこの世に独りぼっちだと嘆いてらっしゃったじゃないですか。でも違います、そんなことはありません、僕がいますし、心臓はこれまでなかったほどにあなたのためを思って脈打っているんです。何度でも繰り返しますが、タヴェルネ嬢はこの世に一人きりじゃありません。僕の頭がものを考え、僕の心が鼓動を打ち、僕が腕を伸ばしていられる限りは――」  こうして話している間も、ジルベールは力と気高さと忠実さに溢れ――それでも心からの敬意を忘れずに、控えめな態度を表していた。  だがジルベールが何をしようと、アンドレの機嫌を損ね、傷つけ、傷つけ返されてしまう運命だった。言わば敬意はすべて侮辱だと捉えられ、祈りはすべて挑発だと受け取られた。アンドレは立ち上がって遠慮なく厳しい言葉や態度をぶつけてやろうと思ったが、がたがたと震えて腰掛けから身体を起こすことも出来ない。もっとも――とアンドレは考えた。立ったところで、どこか遠くを見つめるだけのことだ。ジルベールが何を言おうと同じこと――。だからアンドレは腰を上げなかった。それどころか、はっきり言ってしまえば、うるさくなり始めた虫けらを足で踏みつぶしたい気持だった。  そこでアンドレはこう答えた。 「言っておいたはずですけれどね、ジルベール、あなたといると、ひどく不快なの。その声を聞くと苛々するし、哲学者ぶった態度には背筋がぞっとするわ。そんなことを言われてもまだ話しかけて来るのはどうしてなのかしら?」 「お嬢様」ジルベールは青ざめてはいたが取り乱してはいなかった。「善良な女性が思いやりをかけられてどうして苛々なさるんですか。善良な男ならみんな対等なはずじゃありませんか。僕のことをそんな風に目の敵になさって、思いやりをかけてくれないのが残念ですが、僕は誰よりもあなたから思いやりを受ける権利があるんですよ」  二度も繰り返された「思いやり」という言葉に、アンドレは目を丸くして蔑むようにジルベールを見つめた。 「思いやりですって? あなたがわたくしに? あなたのことを勘違いしていたわ、ジルベール。無礼な人だとばかり思っていたけれど、それ以下だったのね。あなたはただの気違いよ」 「無礼者でも気違いでもありません」冷静を装ってはいたものの、誇りはいたく傷ついていた。「自然界にとって僕らは同じ人間ですし、偶然によってあなたは僕に借りがあるんですから」 「また偶然?」アンドレが冷やかした。 「『神の摂理』と言ってもいいでしょう。一度もこの話をしたことはありませんでしたけれど。でもひどいことを言われたおかげで思い出しました」 「借りがあるですって? どういうことなの?」 「あなたが恩知らずだとは思いたくありません。神があなたを美しく創造して、美しさと引き替えにそれとは別に欠点をたっぷり詰め込んだだけなんですから」 「待って下さい。僕だってあなたに苛々させられることがあるけれど、そんな時はあなたに言われたいろいろなことを忘れるようにしているんです」  アンドレがからからと笑い出した。ジルベールをむっとさせる笑い方だったが、動揺はしたものの、頭に血が上るのは我慢した。ジルベールは胸の前で腕を組み、頑固で反抗的な光を瞳に宿らせ、嘲るような笑いが終わるのまで耐えていた。 「お嬢様、一つだけ聞かせて下さい。お父上のことを尊敬なさってますか?」 「わたくしに質問しているように聞こえるのだけれど?」アンドレは見下ろすようにたずねた。 「その通りです。人柄がいいとか、品行方正だからというのではなく、あなたに生命を授けてくれたからという理由で、お父上を尊敬していますか? 父親という存在には、生憎とそれだけしか尊敬すべき点がないのですが、それでも尊敬すべきなのは事実です。生命を授けてくれたというたった一つの行為のために――」今度はジルベールの方が見下すような憐れみを見せた。「その贈り主を愛する義務があなたにはあるんです。だったらお嬢様、その原理に従えば、どうしてあなたは僕を侮辱するんですか? どうして僕を毛嫌いするんです? どうして僕を憎むんですか? それは確かにあなたに生命を授けてはいませんけれど、生命を救ったのは僕なのに」 「あなたが? あなたがわたくしの生命を救ったですって?」 「考えたこともなかったんですね。いや、きっと忘れてしまったんです。きっとそうだ。もう一年近くになるんだから。だったら教えてあげ――いや、思い出してもらわなくちゃ。ええその通りです。僕は自分の命も顧みず、お嬢様の生命を救ったんです」 「せめていつ何処でなのかは教えていただけるんでしょうね?」アンドレは真っ青になっていた。 「何万人もの人が暴れる馬や薙ぎ払われた剣から逃げて押しつぶされ、死者や怪我人の長い列がルイ十五世広場に残されていた日のことです」 「五月三十一日……」 「そうです」  アンドレの顔に冷やかすような笑みが戻った。 「その日に、自分の命も顧みずにわたくしの生命を救ったと言うのね?」 「そう申し上げました」 「つまりあなたがド・バルサモ男爵だと? ごめんなさいね、知らなかったものだから」 「違う、僕はバルサモ男爵じゃない」ジルベールの目に火がつき、口唇が震えた。「僕は貧乏人の小伜、ジルベールだ。愚かにして不幸にも、気が狂いそうなほどあなたを愛してしまったんです。あなたのことを尋常でないほど、気違いのように、どうにもならないほどに愛していたからこそ、人混みの中から救い出したんです。僕はジルベールです。一瞬だけ見失っても、途方に暮れたあなたの叫び声に気づいたのは僕なんだ。あなたのそばに倒れて、二万もの人たちに腕をもがれそうになりながらも踏ん張って守っていたのは僕なんだ。石畳の上で押しつぶされそうになっていたあなたのところに駆け寄り、自分の身体をねじ込んで石の上にいるより楽にしてあげたのは僕なんだ。あの男――さっきあなたが名前を出したあの男が――群衆の中で指揮を執っているらしいと気づいて、力の限り全身の血を振り絞って心の奥底から、最後の力を腕に込めてあなたを持ち上げたのは僕なんだ。それであの男があなたに気づき、あなたを受け取り、あなたは救われたんです。信用のおける救い主にあなたを譲った僕に残されていたのは、ドレスの切れ端だけでした。僕はそれを口唇に押し当てました。それが潮時でした。あっという間に心臓やこめかみや脳みそに血が流れ込んで来たのです。僕は虐殺者や犠牲者の群れに波のように押し流され、飲み込まれてしまいました。その間にあなたは復活した天使のように、僕のいた深淵から天国へと上っていたんです」  ジルベールはすっかりと、言わばありのままに、無邪気に、神々しいほどに、愛だけではなく決意のほども明らかにしていた。これにはアンドレも、軽蔑しているとはいっても驚かずにはいられなかった。それを見たジルベールは、この話に見出される真実と愛情にアンドレが抵抗できなかったのだと思おうとした。だがジルベールは憎しみに根ざした疑い深さを勘定に入れていなかった。ジルベールが勝ち誇って数え上げる根拠の数々を、アンドレは何一つ理解しようとはしなかった。  初めは何も答えずにジルベールを見つめていたアンドレの、心には葛藤のようなものが生じていた。  やがて冷え切った沈黙に耐えきれなくなったジルベールは、やむを得ず結論を述べるようなふりをして話を続けた。 「だからお嬢様、そんな風に僕を嫌わないで下さい。さっきも言いましたけれど、また繰り返します。そんなの理不尽なうえに、恩知らずですよ」  だがこの言葉を聞いて顔を上げたアンドレの表情は冷たく、声はあまりにも残酷だった。 「ジルベールさん、どのくらいの間、ルソーさんのところで住み込みで勉強していたのかしら?」 「三か月です」とジルベールは馬鹿正直に答えた。「五月三十一日に胸を詰まらせて寝込んでいた間を除けば」 「勘違いしないで。あなたが寝込んでいたかどうかなんてたずねていません……胸を詰まらせた……そういうことがあなたの物語にさぞかし花を添えているんでしょうね……でもわたくしにはどうでもいいわ。わたくしが言いたかったのは、あなたが高名な物書きさんのところにご厄介になっているのがたった三か月だとしても、それをちゃんと身につけていれば、もっと先生の刊行したものに相応しい小説を初めから書くことが出来そうなものなのに、ということだけ」  自分が口にした情熱的な言葉の数々に、アンドレが真剣な答えを返してくれるものだとばかり思って、冷静に話を聞いていたジルベールは、こんな風に残酷な皮肉を浴びせられて、無邪気な自尊心の山から転がり落ちた。 「小説だって!」ジルベールは憤慨した。「僕の話を小説だと思ってるんですか!」 「ええそうよ。小説って言ったんです。とにかく無理に読ませようとしなかったことには感謝しなくてはね。でも残念だけれど価値に見合うお礼は出来ないわ。そうしたくても出来ないでしょうし。物語というものはお金でどうこうなるものじゃないもの」 「それがあなたの答えですか?」ジルベールは口ごもった。心臓を鷲づかみにされ、目からは生気が消えていた。 「答えですらないわ」アンドレはジルベールを押しのけ、通り抜けようとした。  なるほどニコルが近づいて来る。急に会話の邪魔をしないように、並木道の向こうからアンドレを呼んでいたのだが、木陰越しだったので、話相手がジルベールだとは気づかなかったのである。  ところが近づいてみて相手が誰だか気づくと、唖然として立ちつくした。こんなことなら回り道をして、ジルベールがタヴェルネ嬢に何を言っていたのか盗み聞きしておくべきだった。  アンドレがニコルに声をかけた。それまでどれだけ高飛車に話していたのかをジルベールによくわからせようとでもするかのような、対照的に穏やかな声だった。 「どうしたの?」 「タヴェルネ男爵様とリシュリュー公爵様がお嬢様にお会いしたいそうです」 「二人はどちらに?」 「お嬢様のお部屋です」 「いらっしゃい」  アンドレは立ち去った。  ニコルもそれに倣ったが、立ち去りながらもジルベールに皮肉な目つきを送ることを忘れなかった。ジルベールは、血の気が引くのも、気違いのように昂奮するのも、激しい怒りに駆られるのも我慢して、恩知らずが去ってゆく並木道の方に拳を突き上げ、歯軋りをして呟いた。 「何て血も涙もない女なんだ。あんたの命を救い、ありったけの愛を込めて、純心なあんたを傷つけるような気持を抑え込んでいたというのに。それというのも恋に狂った僕にとっては、あんたが天にいらっしゃる聖母マリアのような聖女だったからなのに……でもこうしてすぐそばで会ったからには、もうあんたもただの女、僕もただの男だ……いつかこの恨みを晴らしてやる、アンドレ・ド・タヴェルネ。これまでにこの手で二度あんたをつかまえたけれど、二度とも敬意を払ってやったんだ。アンドレ・ド・タヴェルネ、三度目は覚悟しておけ!……また会おう、アンドレ!」  それからジルベールは、芝生を飛び越え立ち去った。それはさながら、手負いの狼が鋭い牙と飢えた瞳を光らせて巣に戻ろうとするかのようだった。 第百十六章 父と娘  並木道の外れまで来ると、確かに元帥と父親が玄関口まで歩いて来てアンドレを待っているのが見えた。  二人とも随分と機嫌がよさそうだ。腕を組んでいる二人の姿は、宮廷の誰も見たことがないほどに、オレステスとピュラデスそのものであった。  アンドレの姿を目にして、二人の老人はさらに上機嫌になり、怒気と機敏な動きでさらに引き立てられた美しさに、二人して目を見張った。  元帥がアンドレにしてみせた挨拶の仕方が、まるでド・ポンパドゥール夫人に見せるようなものだったので、タヴェルネ男爵はその違いを見逃さず、上機嫌だった。だが敬意とあからさまなお世辞の混じり合ったその挨拶に、アンドレは戸惑いを見せた。コヴィエルが一言のトルコ語の中にフランス語を散りばめる術を心得ていたように、百戦錬磨の宮廷人も一度の挨拶の中に細々《こまごま》とした事柄を散りばめる術を心得ていたのである。  アンドレは元帥にだけではなく父親にも格式張ったお辞儀を返した。それから極めて優雅に二人を階上の部屋に招き入れた。  元帥は部屋がすっきりしていることに驚いた。家具も調度も最低限しかない。花とわずかな白モスリンで、寂しげな部屋を宮殿ではなく寺院のように設えていた。  元帥は大きく花柄が象られた青緑色の椅子に腰を下ろした。その上にある大きな磁器からは、アカシアや楓がアイリスやベンガル薔薇と混じり合り、芳しい香りのする房を垂らしている。  男爵もそうした椅子の一つに坐った。アンドレは折り畳み椅子に坐り、チェンバロに腕を預けた。そこにも大きなザクセン磁器に花が生けられている。 「お嬢さん」と元帥が切り出した。「わしが来たのはほかでもない、陛下のお言葉を伝えに参ったのです。昨夜のリハーサルであなたが素晴らしい声と音楽の才能で聴衆を魅了したことをたいへん褒めていらっしゃった。あまり大っぴらにお褒めになって妬まれてもいけないので、あなたのおかげで陛下がお喜びになったことを伝える役をわしが言いつかったというわけです」  真っ赤になったアンドレがあまりに可愛いので、元帥は自分の思いを口にしているような気持になっていた。 「あなたほどの智性と容貌に恵まれた方には、宮廷広しといえども会ったことがないと、国王は断言していらっしゃいましたぞ」 「心根にも恵まれておるのを忘れるな」タヴェルネが嬉しそうに口を挟んだ。「アンドレは世界一の娘じゃわい」  男爵が泣き出すのではないかと思ったほどだった。父親らしい感情に苦心しているその姿を見て、元帥もいたく感動して声をあげていた。 「心根か! お嬢さんの心根に忍ばされている優しさを見抜くことが出来るのは貴殿しかおるまい。わしが二十五歳であったらのう、この命も財産もお嬢さんの足許に投げ出しておるところなのだが!」  アンドレはまだ宮廷流のお世辞に対してあっさりと受け答えすることが出来なかったので、リシュリューは意味のない呟きしか聞くことが出来なかった。 「それでですな、国王は満足しているという印をお嬢さんにお渡ししたいとお考えになり、その役目をお父上の男爵にお言いつけになったのだが。陛下には何とお返事すればよいでしょうかな?」 「閣下」アンドレの頭の中には、臣下が国王に払うべき敬意のことしか存在しなかった。「陛下にはわたくしが感謝しているとお伝え下さい。お気に留めていただく価値もないわたくしのような者に時間を割いていただいただけでも大変な幸せでございます」  躊躇いなく毅然としたこの答えに、リシュリューはめろめろになってしまった。  アンドレの手を取って恭しく接吻し、貪るような目つきで眺めた。 「王家のもののような手、妖精のような足……智性、意思、無垢……男爵よ、見事な宝ではないか!……ここにいるのは少女ではなく、女王にほかならぬ……」  この言葉を残して、リシュリューはいとまを告げた。アンドレの許に残されたタヴェルネは、自慢と期待にそっと胸をふくらませていた。  古くさい理屈に縛られたこの傲慢な懐疑論者が、息も出来ないほどのぬかるみ状態の中で、寵愛の空気をじっくりと吸い込んでいるのを見れば、神はド・タヴェルネ氏の智性と心根も同じ泥でこね上げたのだと納得いただけよう。  こうした変化に答えることが出来るのは、一人タヴェルネだけであろう。 「変わったのはわしではなく、時間だ」  男爵はアンドレの傍らに坐ったまま、態度を決めかねていた。というのもアンドレは飽くまでも落ち着いており、その深い淵から覗く海のように深遠な目つきに気づいていたからだ。 「陛下がご満足の印をお父様にお預けになったとリシュリュー様は仰っていましたが?」 「うむ、陛下がお目を留めて下さるとは……想像したこともなかったわい。いやはや、結構なことじゃ!」  前日の夜に元帥から受け取った宝石箱を、ポケットからゆっくりと取り出した。飴袋や玩具を子供が目敏く見つけて手を出すより前に、父親がポケットから取り出すような手つきだった。 「これじゃ」 「まあ! 宝石……」 「気に入ったか?」  それは高価な真珠の一組だった。十二の大粒のダイヤが真珠の列を繋いでいた。ダイヤの留め金、イヤリング、ダイヤの髪留め。贈り物の中身は、少なく見積もっても三万エキュはしよう。 「お父様!」 「何じゃ?」 「こんな美しいもの……国王はお考え違いをなさってます。こんなものを身につけても、かえって恥ずかしいだけですわ。こんな立派なダイヤに釣り合う服装をわたくしが持っているとでもいうのですか?」 「好きなだけ嘆くがよい!」タヴェルネがちくりと言った。 「お父様にはおわかりいただけないんです……この宝石を身につけられないことがどれだけ残念か……だってこんなに美しいんですもの」 「宝石をくださるくらいの方じゃぞ、ドレスくらい用意して下さるじゃろうが……」 「でもお父様……そんなご親切には……」 「それほどのご親切に預かる働きをしたというのはわしの思い上がりだと申すのか?」 「ごめんなさい、でもそう思います」アンドレは頭を下げたものの、確信があるわけではなかった。  意見し終えると宝石箱を閉じた。 「このダイヤを身につけるつもりはありません」 「何故じゃ?」タヴェルネが気を揉み出した。 「だってお父様。お父様やお兄様には入り用のものが山ほどありますのに、二人が苦労なさっていることを考えれば、こんな贅沢なもの目が潰れてしまいますわ」  タヴェルネは笑顔で手を握った。 「そんなことはもう気にせんでいい。国王はわしにもよくして下さったのじゃ。わしらを気に入って下さっている。陛下がくださった装身具をつけずに御前に出るようなことは、どんな忠臣にも貴婦人にも出来まいに」 「仰る通りにいたします」 「うむ。だが進んでそうしなくては……宝石が気に入らぬのか?」 「ダイヤモンドのことはわかりません」 「真珠だけでも五万リーヴルはするのじゃぞ」  アンドレは手を合わせた。 「お父様、陛下がこんな贈り物をくださるなんておかしいわ。よく考えて下さい」 「何が言いたいのかわからぬな」タヴェルネは素っ気なく言った。 「わたくしがこの宝石をつけていたら、みんな訝しむに違いありません」 「何故じゃ?」タヴェルネはなおも素っ気なく、高圧的な冷たい目つきで娘を見下ろした。 「わたくしが気まずそうにしているからです」 「そなたは気まずさを感じていると言うておるが、わしにはそれがわからぬとは不思議なこともあるものじゃのう。たといすっかり埋もれて誰にも気づかれぬままになっていたとしても、若い女子《おなご》らには悪を知り悪を見つけ出してもらいたいものじゃ! うぶでおぼこな女子には、わしのような老兵が顔を赤らめるような生き方をして欲しいものじゃ!」  アンドレは真珠のように美しい両手で困惑を隠した。 「ああ、お兄様!」とアンドレは呟いた。「どうしてそんなに遠くに行ってしまったの?」  タヴェルネにはこの呟きが聞こえたであろうか? 持ち前の鋭い洞察力で見抜いたであろうか? それは誰にもわかるまい。しかしながら男爵はすぐに声の調子を変えて、アンドレの手を握った。 「のう、アンドレよ。お前にとって父親は家族ではないのか?」  翳りに覆われていたアンドレの美しい顔に、穏やかな笑みが広がった。 「わしがここにおるのは、お前を愛しているからだし、助言を与えているからではないのか? 兄の運命やわしの運命が好転したのはお前のおかげじゃ、そのことに誇りを感じてはおらぬのか?」 「失礼しました」  男爵は愛情を一心に込めた眼差しを娘に注いだ。 「よいか、さっきド・リシュリュー殿が言ったように、お前はタヴェルネ家の女王になるであろう……国王陛下はお前に目をかけて下さった……王太子妃殿下もな」男爵はずばり断言した。「こうした高貴な方々をおそばでお喜ばせして、わしらの未来を築いてくれ……王太子妃にとってかけがえのない存在に……国王にとって……かけがえのない存在になってくれ!……お前の才能や美しさに敵うものなどおらぬ。強欲や野心のない、健やかな心を持っておる……シャルル六世の最期を慰めたあの娘のことを覚えておるか? その名はフランスで祝福されることとなった……フランスの王権に栄誉を取り戻したアニェス・ソレルを覚えておるか? フランス中がその思い出を崇めておる……アンドレよ、栄光ある君主の老後の支えとなってくれ……陛下はお前を実の娘のように可愛がって下さる、お前はその美しさと勇気と誠実さの力でフランスを統治するのだ」  アンドレが目を丸くしたが、男爵は考える隙を与えなかった。 「玉座を汚す堕落した女どもも、お前に一瞥されれば一掃されよう。お前の存在が宮廷を変えるのだ。王国の貴族が美風、礼儀、慎みを取り戻せるかどうかはお前の影響力に懸かっている。お前はこの国にとって太陽となり、わしらの名にとって栄冠となることが出来る、いや、ならねばならんのじゃ」 「でも、どうすればよいのでしょうか?」アンドレは呆然としていた。 「アンドレよ、人に徳の大切さを教えるには、美徳を愛してもらうことだと、常々言っておったではないか。判決文のように不快で陰気で単調な美徳では、どれだけ美徳に近づきたがっている者たちでも逃げ出してしまうわい。美徳に加えてありとあらゆる媚びで釣ることじゃ。背徳さえも厭うでないぞ。お前のように賢くしっかりした娘なら簡単じゃろう。お前が美しくしておれば、宮廷はお前の話で持ちきりじゃ。国王に気に入られておれば、誰もお前を袖には出来ん。本心を抑えて控えめにしておれば――国王相手にはその限りではないが――確実に手に入るはずの権力をあっという間に手に入れられよう」 「最後のご忠告がよくわかりません」 「わしに任せておけ。理解せんでもいいから実行することじゃ。お前のように賢く優しい女にはその方がいい。それはそうと、第一の点を実行するには、先立つものがいるじゃろう。この百ルイを使え。国王がわしらに目を掛けて下さったのだからな、その地位に相応しい身なりを整えるのじゃぞ」  タヴェルネは娘に百ルイを渡し、その手に口づけしてから立ち去った。  来た時と同じ並木道を大急ぎで戻ったので、アムールの森の奥でニコルが貴族と囁き交わしているのには気づかなかった。 第百十七章 生命の霊薬を完成させるためにアルトタスに必要なもの  こうしたやり取りがあった日の翌日、午後四時頃、バルサモはサン=クロード街の仕事部屋で、フリッツから渡された手紙を一心に読んでいた。手紙には署名がない。バルサモは手の中で手紙をこねくり回していた。 「この筆跡には見覚えがあるな。縦長、不揃い、幾らか震えていて、綴りに間違いが幾つもある」  バルサモは手紙を読み返した。 「伯爵殿  先の内閣が解散するしばらく前にご相談に与り、それよりかなり前にもご相談に伺った者です。本日は新たに助言をいただきたく、お伺いいたしたく存じます。今晩四時から五時の間に三十分だけ、お忙しい合間を縫っていただけないでしょうか?」  これで読み返すのは二度か三度になる。バルサモは改めて考え始めた。 「ロレンツァに相談するほどのことではないな。第一、俺だってまだ推測くらいは出来るはずだ。文字が長いのは貴族の特徴だ。不規則で震えているのは、年取っている証拠だ。綴りの間違いが多いのは宮廷の人間だな。そうか、俺も馬鹿だな! ド・リシュリュー公爵じゃないか。もちろんあなたのためなら三十分割きますよ、公爵閣下。一時間でも、一日でも。いくらでも時間をお使い下さい。知らないうちに俺の諜報員か子飼いの悪魔にでもなりませんか? 俺たちと同じ目的を追いかけてみませんか? あなたはあなたで中枢として、俺は俺で敵として、一緒に君主制を揺るがしませんか? お待ちしておりますよ、公爵閣下、是非いらして下さい」  バルサモは時計を取り出し、公爵が来るまで後どのくらいあるのかを確かめた。  その時、天井の軒蛇腹で呼び鈴が鳴った。 「いったい何だ?」バルサモはぎょっとした。「ロレンツァが呼んでいる。ロレンツァが! 俺に会いたがっているのか? 困ったことでも起こったんだろうか? それともこれまで散々目にして来たり非道い目に遭わされたりして来た、あの気まぐれなのか? 昨日は物思いに沈んで、すっかり諦めて、おとなしかったんだが。昨日は会いに行くのが楽しみだったんだが。可哀相に! 行くとするか」  バルサモは刺繍入りのシャツのボタンを留め、レースの胸飾りの上に部屋着を羽織り、鏡を覗き込んで髪が乱れていないか確認すると、ロレンツァに答えて呼び鈴を一つ鳴らしてから階段に向かった。  だがバルサモはいつものように一つ手前の部屋で立ち止まり、ロレンツァがいると思われる辺りに向かって腕を交わし、何物にも妨げられることのない強い意思の力で、眠れと命じた。  それから自分のことも信用できないのか念には念を入れるつもりなのか、目に見えない建材の割れ目を通して室内を見つめた。  ロレンツァは長椅子で眠っていた。そこでバルサモの意思に襲われたのだろう、何かにつかまろうとした恰好のままだった。これほど詩情を掻き立てるロレンツァの姿は、どんな画家にも思い描けまい。バルサモの放った奔流の重さに押されて息を切らせたロレンツァは、ヴァン・ローの描くアリアドネの一つにも似て美しかった。胸をふくらませ、身体は躍動感に満ち、顔からは絶望も疲労も拭われていた。  そこでバルサモはいつもの通路を通って部屋に入り、ロレンツァの前で立ち止まって見つめていたが、すぐに眠りから引き戻した。それほど危険な状態であった。  目を開けた途端、瞳から閃光がほとばしった。まだぼうっとしている頭をはっきりさせるためなのか、髪を掌で撫でつけ、色っぽく湿った口唇を拭い、記憶をくまなく探って散らばった断片を掻き集めている。  バルサモは不安そうにそれを見つめていた。さっきまでは穏やかに慕っていたのに出し抜けに怒り出したり憎しみを爆発させたりすることにも、しばらく前から慣れてしまった。この日の反応は慣れたものとは違い、ロレンツァはいつものような憎しみは見せずに落ち着いてバルサモを迎え入れた。それを見たバルサモは、今回はこれまでのいつにも増して深刻だぞ、と悟った。  ロレンツァは身体を起こし、一つうなずくととろけるような眼差しをバルサモにじっと向けた。 「どうかここにお坐りになって」  いつになく甘美なその声に、バルサモはぶるぶると震え出した。 「坐っていいのか? 知っているだろう。俺の望みは、おまえの膝の上でこの生を過ごすことだ」  ロレンツァは甘美な声のまま続けた。「どうぞお坐りになって。そんなに時間のかかる話じゃないけれど、坐って下さった方が話しやすいですから」 「俺の方はいつも変わらずおまえを愛している。言う通りにしよう」  バルサモがロレンツァの横にある椅子に坐ると、ロレンツァは長椅子に坐ったまま、天使のような眼差しを送った。 「許していただきたいことがあってお呼びしました」 「ロレンツァ、望みがあるなら何でも言ってくれ!」 「一つだけで結構です。でも言っておきますけれど、なまなかな気持で言うのではありません」 「言ってくれ、ロレンツァ。俺の全財産、人生の半分を捧げてもいい」 「時間を一分いただくだけで構いません」  バルサモはこの会話の落ち着いた成り行きにうっとりしてしまい、想像力を働かせて、ロレンツァが望んでいることのうちでも、とりわけ自分が満足させられそうなことの予想をすっかり立てていた。  ――使用人か話し相手でも頼むつもりかな。秘密や友人を危険にさらすことになっても、危険は承知で頼みを聞いてやらんとな。こんなところで一人寂しくしているのだから。 「話してくれ」バルサモは愛情溢れる笑顔を浮かべ、声に出した。 「ご存じでしょうけど、寂しさと物憂さで死にそうなんです」  バルサモは同意の印に溜息混じりにうなずいた。 「若くて楽しい時期はみるみる燃え尽きてしまう。昼はすすり泣き、夜は恐怖にうなされて、孤独と不安のうちに年老いていくんです」 「おまえが選んだことだ、ロレンツァ。おまえがそんなにも悲しみ、女王様もそっぽを向くような生き方をしているのは、俺のせいじゃない」 「そうかもね。戻って来たのは私なんだし」 「わかってくれると助かる」 「あなたも敬虔なキリスト教徒だと、よく言っているけれど、そのくせ……」 「そのくせ、迷える魂の持ち主だと言いたいのか? 言いたいのはそういうことだろう、ロレンツァ」 「私の言うことだけを聞いて頂戴。憶測はやめて」 「では話を続けてくれ」 「怒りや絶望に耽らせるようなことはしないで、お願い、だって何の役にもたたないような人間なのだから……」  ロレンツァは言葉を切ってバルサモを見つめた。だがとっくに威厳を取り戻されていたので、冷たい目つきと寄せた眉しか見ることが出来なかった。  脅すように睨まれて、ロレンツァは気力を奮い立たせた。 「自由は求めません。神の定め――というよりはあなたの意思によって――全能に等しそうなあなたの意思によって、生涯にわたって囚われを強いられることはわかっているから。お願いだから人と会わせて。あなた以外の人の声を聞かせて。外に出たい、歩き回りたい、生きていることを実感したいの」 「そう望まれているのはわかっていた」バルサモはロレンツァの手を握った。「だからずっと前から、俺自身の望みでもあった」 「だったら……!」 「だが、おまえも気づいていただろう。俺は気が違っていたんだ、恋に落ちた男のように。科学や政治上の秘密を幾つかおまえには明かしていたからな。アルトタスが賢者の石を発見し、生命の霊薬を探求しようとしているのは知っているな? あれは科学のためだ。俺や同志たちが君主制の転覆を企んでいることも知っているな? あれが政治のためだ。二つの秘密のうち片方がばれれば魔術師として火あぶりにされてしまうだろうし、もう片方がばれれば重罪人として車責めに遭わされてしまう。おまえは俺を脅したじゃないか、ロレンツァ。自由を取り戻すためには何でもするし、ひとたび自由を取り戻したら、真っ先にするのはド・サルチーヌ氏に俺を密告《さ》すことだと言っていただろう。違うか?」 「じゃあどうすればいいの! 私はかっとなると……私は……頭がおかしくなってしまうんです」 「今は落ち着いているんだな? だったら話が出来ないか、ロレンツァ?」 「是非お願い」 「望み通りに自由を与えたら、従順で献身的な、落ち着いた穏やかな女になってくれるのか? 俺は何よりもそれを望んでいるんだ」  ロレンツァは答えなかった。 「率直に言えば、俺を愛するつもりはあるのか?」言い終えてバルサモは息を吐いた。 「守れるかどうかわからない約束は出来ません。愛情も憎しみも私たちがどうこう出来ることじゃない。あなたの方で善行を積めば、憎しみが薄れ愛情が生まれることもあるかもしれないけれど、すべては主の思し召しのまま」 「悪いがそんな言質じゃそこまでおまえを信用できないな。絶対的で神聖な誓いが俺には必要なんだ。破れば冒涜になるような、この世だけじゃなくあの世まで縛られて、この世で死んだ後でもあの世で劫罰を受けるような誓いが」  ロレンツァは押し黙った。 「誓うか?」  ロレンツァは両手に顔をうずめ、相反する感情に胸をふくらませた。 「頼む、誓ってくれ、ロレンツァ。俺が言う通りに、作法に則って誓ってくれ。そうすればおまえは自由だ」 「何を誓えばいいの?」 「アルトタスの研究について知ったことを一切口外しないと誓ってくれ」 「わかった。誓います」 「俺が関わっている政治集会について知ったことを一言も他言しないと誓ってくれ」 「それも誓います」 「俺の言う通りのやり方で誓うんだな?」 「ええ。それで全部?」 「まだだ。これが一番大事なことなんだ、ロレンツァ。これまでの誓いは俺の命に関わることに過ぎなかったが、今から言うことは俺の幸福に関わることなんだ――絶対に俺から離れないと誓ってくれ、ロレンツァ。誓ってくれれば、おまえは自由だ」  ロレンツァはひんやりとした刀で心臓を貫かれたように、ぶるぶると震えた。 「その誓いはどんな風に誓えばいいの?」 「一緒に教会に行こう、ロレンツァ。一緒に聖体拝領に行こう。聖体のパンに懸けて、アルトタスのことを口外しないこと、俺の同志たちのことを他言しないことを誓うんだ。絶対に俺から離れないと誓うんだ。二人でパンを分けて、半分ずつ食べて、神に誓おうじゃないか、おまえは俺を裏切らないことを、俺はおまえを幸せにすることを」 「お断りします。そんな誓いは涜神的ですから」 「涜神なものか」バルサモは悲しそうに答えた。「守るつもりもないのに誓うのならいざ知らず」 「誓うつもりはありません。魂を失うのが恐ろしいですから」 「馬鹿な。いいか、誓ったために魂を失うというのなら、つまり誓いを破ると言っているようなものじゃないか」 「誓うことは出来ません」 「だったら今のままで辛抱してもらおうか」バルサモに怒りは見えなかったが、深い悲しみが滲んでいた。  ロレンツァの顔が翳った。空を雲が横切って花に翳りを落とすように。 「断るの?」 「いいや、ロレンツァ。むしろ断ったのはおまえの方だ」  ぴりぴりとした言動から、ロレンツァがその言葉に苛立っているのがわかった。 「いいか、ロレンツァ。これはおまえのためだし、大事なことなんだ、信じてくれ」 「そこまで言うなら何処まで優しくしてくれるのか言ってみせてよ」ロレンツァは苦々しい笑みを浮かべた。 「偶然でも必然でも好きな呼び方をすればいいが、俺たちは決してほどけぬように結ばれているんだ。だからこの世でそれを断ち切ろうなんて思わない方がいい。それが出来るのは死だけだ」 「そう。そんなのわかってます」ロレンツァは苛立たしげに答えた。 「よし、一週間だ。どれだけの費用がかかろうとも、どんな危険を冒すことになろうとも、一週間後には話し相手を連れて来てやる」 「何処に?」 「ここに」 「ここ? こんな柵の、冷たい門の、鉄格子の内側に? 囚人仲間を? 馬鹿なことを考えるのはおよしなさい。私はそんなこと望んじゃいないわ」 「だがロレンツァ、俺に出来ることはそれしかないんだ」  ロレンツァはいっそう苛立ったような仕種をした。 「よく考えてくれ」バルサモは優しい声を出した。「二人いれば、避けられない苦しみにも耐えるのが楽になるはずだ」 「的外れです。これまでは自分のことだけで苦しんでいればよかった。他人の苦しみを思いやらずに済んでいたんです。私を手に入れたくてこんな試験をおこなって、私を従わせようとしているのはわかっています。ここに犠牲者を連れてくればいいわ、私のように苦しみに痩せ細り、青ざめ、衰えていくのが見られるでしょうから。あなたが何処から入って来るのか知りたくて、私と同じく壁を打ちつけ、日に何度も扉を確かめる音が聞けるでしょうから。床や壁を掘ったり剥がしたり出来ないかと、私のように木や石に爪を立てるんです。私のように涙で目を腫らすんです。私が死んでいるように、その人も死んで、あなたの言う親切のせいで、死体が一つではなく二つになるだけ。『二人で楽しみ、おしゃべりをして、幸せになれるだろう』ですって? あり得ません、何千回でも繰り返します、あり得ません!」  ロレンツァは激しく足を踏み鳴らした。  バルサモが何とかなだめようとした。 「ロレンツァ、落ち着いてくれ。頼むから理性的に話をしよう」 「落ち着け? 理性的になれ? 死刑執行人のくせして、拷問している囚人に向かって安らかになれと言ったり、虐殺している殉教者に落ち着けと言ったりしてるの?」 「そうだ。落ち着いてくれと頼んでいるんだ。おまえが幾ら怒ろうとも、俺たちの運命を変えることは出来ず、さいなむだけなのだからな。だから俺の頼みを聞いてくれ、ロレンツァ。俺がこれから用意する話し相手は喜んで囚われの身になるはずだ、何しろおまえの友情を勝ち得ることが出来るんだからな。おまえが恐れているような悲しみと涙にくれた顔ではなく、微笑みと明るさに満ちた顔を見れば、おまえだって眉間の皺を伸ばしてくれるはずだ。なあロレンツァ、俺の頼みを聞いてくれ。これ以上どう頼めばいいと言うんだ?」 「要するに私のそばに傭兵を置いておこうという魂胆でしょう。あそこには気の違った哀れな女がいて、病気で間もなく死ぬからと伝えておくのね。病気をでっちあげて、『あの気違いと一緒に閉じ籠もって、献身的に世話してくれ。気違いが死んだら世話してくれたお礼をしてやる』とでも言うつもりかしら」 「ロレンツァ!」 「そうじゃない、間違っている、そうでしょう?」ロレンツァは皮肉たっぷりに続けた。「的外れだったみたいね。でもどうしろと言うの? 私は何にも知らない。世間のことも愛情のこともほとんど知らない。『気をつけてくれ、この気違いは危険な奴だ。行動の一つ一つ、考えていることの一つ一つを俺に知らせてくれ。起きている時も寝ている時も気を抜くな』とでも言って、好きなだけ金《きん》を与えるつもり? 金なんてあなたには只みたいなものですものね、幾らでも作れるんだから」 「ロレンツァ、ヤケにならないでくれ。後生だから俺の気持をもっと酌んでくれないか。おまえに話し相手を用意するだけでも、莫大な利益を危険にさらすことになるんだぞ。俺を憎んでいなければ、震え上がってもおかしくないほどだ……いいか、おまえに話し相手を用意すれば、俺の安全、自由、生命が危険にさらされるんだ。だがそれでも、おまえを退屈から免れさせるために、俺はそうした危険を冒すつもりだ」 「退屈ですって!」ロレンツァがぞっとするような荒々しい笑い声をあげたので、バルサモは震え上がった。「言うに事欠いて『退屈』ですって!」 「いや、苦痛からだ。そうだな、おまえの言う通りだ、ロレンツァ。耐え難い苦痛だ。間違いない。それでも耐えてくれれば、いつの日かその苦痛にも終わりが訪れるはずだ。いつの日かおまえは自由になり、幸せになれるはずなんだ」 「だったら、修道院に戻らせてくれるの? 私が誓いを立てれば」 「修道院だと!」 「祈りを捧げますから。真っ先にあなたのために、それから私のために。確かに閉じ込められることになるでしょうけれど、あそこになら庭が、空気が、広い空間が、墓地がある。墓の間を歩き回って、私の永眠する場所を前もって探しておきます。あそこになら、私の苦しみとは別にそれぞれの苦境を抱えた不幸な仲間がいます。修道院に帰してくれるなら、望む通りに幾らでも誓いましょう。修道院に、バルサモ、修道院に。この通り手を合わせてお願いします」 「ロレンツァ、ロレンツァ、俺たちは離れられないんだ。俺たちは結ばれている、この世で結ばれているんだ、わからないのか? この家の敷地から出たいという話は一切しないでくれ」  バルサモの言葉には断固とした響きと共に躊躇うようなところもあったので、ロレンツァは言い返すことも出来なかった。 「つまりここから出してくれるつもりはないのね?」ロレンツァの声には覇気がなかった。 「それは出来ない」 「考えの変わることはないの?」 「変わることはない」 「だったら別のことにするわ」ロレンツァは微笑みを浮かべた。 「ロレンツァ! もう一度そんな風に笑ってくれ。そんな風に微笑まれたら、どんな望みも聞かずばなるまい」 「ええ、どんな望みも聞いてくれるんでしょうね。ただしあなたがお気に召せば、でしょう? せいぜい理性的になることにします」 「早く望みを聞かせてくれ」 「さっき言ったわね、『いつの日か苦しみも失せ、自由になり、幸せになれるはずだ』と」 「確かにそう言ったし、天に誓おう。その日が来るのが待ちきれないのはおまえと一緒だ」 「すぐにでもその日が来たっておかしくないでしょう、バルサモ」ロレンツァがこれほど甘美な顔をしているのを、バルサモは催眠中にしか見たことがなかった。「うんざりなんです。あなたにだってわかるはずよ。まだ若いのにもう充分苦しんだんです! 友人なら――あなたがそう仰ったんだから――聞いて頂戴。早くそんな日を与えて下さい」 「聞いているとも」バルサモは言葉に出来ぬほど動揺していた。 「初めにお願いしておくべきだったんだけど、このお願いで話を終わらせます、アシャラ」  ロレンツァは身体を震わせた。 「言ってくれ」 「あなたが不幸な動物を使って実験をしては、人類に必要なことなんだと言っていたことには気づいていたし、毒を垂らしたり血管を開いたりして死を自在に操っては、穏やかに素早く死なせていたことにも気づいていました。何の罪もない可哀相な動物たちが、私と同じように囚われていながら、死によってあっという間に自由になれたんです。あの子たちにとっては、生まれて初めて受けた慈悲だったはず。だから……」  ロレンツァは真っ青な顔をして口ごもった。 「だから何だ? ロレンツァ」 「だから、あなたが科学的興味から可哀相な動物たちにおこなっていたことを、人の世の定めに則って私におこなって下さい。心の底からあなたを祝福しますし、無限の感謝を込めてその手に口づけしますから、願いを聞いて下さるのならどうか約束して下さい。お願い、バルサモ、息を引き取る際には、これまで見せたこともないほどの愛と喜びをお見せするから。この世を去る瞬間には、裏のない明るい笑顔を見せることを約束しますから。バルサモ。あなたの母の魂と、我らが主の血と、この世とあの世に存在する慈悲と威厳と聖性を持つすべてのものに懸けて、お願いだから私を殺して! ねえ殺して!」 「ロレンツァ!」叫ぶと同時に立ち上がっていたロレンツァを、バルサモが抱きしめた。「ロレンツァ、おまえは気が立っているんだよ。俺がおまえを殺すだって? 俺の命そのもののおまえを?」  ロレンツァはバルサモの腕から必死に逃れてひざまずいた。 「頼みを聞いてくれるまで立ち上がりません。どうか痛みも苦しみも与えず安らかに殺して頂戴。愛しているというのなら、慈悲を見せて頂戴。これまでして来たように、眠らせて頂戴。もう起こさなくていいから。目が覚めても絶望が待っているだけなのだから」 「ロレンツァ! 俺の心臓に穴が穿たれているのがわからないのか? そこまで苦しんでいるのか? ロレンツァ、元気を取り戻してくれ、絶望になど身を委ねるな。そこまで俺を憎んでいるのか?」 「私が憎んでいるのは隷属、苦痛、孤独。みんなあなたがもたらしたものでしょう。だからそうね、あなたを憎んでいます」 「おまえを愛しているんだ。死ぬところなど見たくない。おまえが死ぬものか、どんなに難しい治療であろうとも俺が治してみせる。ロレンツァ、生きていることが楽しいと思えるようにしてやるから」 「無理よ。あなたのおかげで死が愛しくなったの」 「ロレンツァ、お願いだ。約束する。すぐに……」 「死か生かどちらかを選んで!」ロレンツァは怒りで我を忘れかけていた。「今日が最期の日。死を――休息を与えて下さらないの?」 「ロレンツァ、生きてくれ」 「だったら自由を」  バルサモは答えなかった。 「だったら死を。一滴の毒薬や、剣の一突きで、穏やかな死を。眠っている間に殺して頂戴。休息を! 安らぎを!」 「生きて、耐えてくれ、ロレンツァ」  ロレンツァはけたたましい笑いをあげて後ろに飛びすさり、胸許から細身の短刀を取り出した。それが手の中で稲光のようにきらめいた。  バルサモは声をあげたが、間に合わなかった。飛びかかって腕をつかんだ時には、短刀は役目を果たしてロレンツァの胸に振り下ろされていた。短刀のきらめきと血潮を見て、バルサモは眩暈を覚えた。  今度はバルサモがけたたましい叫びをあげてロレンツァを羽交い締めにし、短刀が再び振り下ろされようとするのを手探りでつかみかかった。  ロレンツァがしゃにむに短刀を引き抜いたので、鋭い刃がバルサモの指の間を走った。  切れた手から血がほとばしる。  そこでバルサモは取っ組み合いをやめて血塗れの手を差し出し、有無を言わせぬ声を出した。 「眠れ、ロレンツァ、眠れ!」  だが今回は昂奮しているせいか、いつもほど簡単には従わなかった。 「嫌です」ロレンツァはふらふらしながら再び自分を刺そうとした。「嫌です、眠るもんですか!」 「眠れ! 眠るんだ!」改めて命じてから、バルサモは足を踏み出した。「眠れ、命令だ」  今回はバルサモの意思の力が勝った。ロレンツァは何の反応も出来ずに溜息をつき、短刀を落として、ふらふらと長椅子に倒れ込んだ。  目だけが開いていたが、反抗的な光も徐々に薄れ、やがて瞼が降りた。引きつっていた喉からも力が抜けた。怪我をした鳥のように頭を垂れ、ぴくぴくとした震えが身体中に走った。ロレンツァは眠っていた。  これでようやくロレンツァの服を開き、怪我の具合を調べることが出来た。どうやら軽傷のようだ。それでも夥しい血が流れている。  バルサモが獅子の目を押すと、バネが動き、羽目板が開いた。アルトタスの部屋の揚げ戸の重しにしていた錘をよけ、揚げ戸に乗っかり実験室まで上った。 「ああ、そちか、アシャラ?」椅子に坐ったままアルトタスが声を出した。「よいか、儂は後一週間で百歳じゃぞ。それまでに子供の血か生娘の血が必要なのは知っておろうが?」  だがバルサモはその言葉を聞かずに、秘薬の仕舞ってある戸棚に駆け寄り、これまでに何度となく効力を発揮して来た壜の一つをつかんだ。それから揚げ戸に戻って足で叩き、再び下に降りた。  アルトタスは戸口まで椅子を滑らせ、バルサモの服をつかもうとした。 「聞かぬか、不孝者め! 一週間しても子供か生娘が手に入らなければ、霊薬を完成できずに、儂は死ぬのじゃぞ」  バルサモが振り返った。ぴくりともしない老人の顔の真ん中に、燃え上がるような瞳が見えた。あたかも目だけが生きているようだ。 「わかっています」バルサモが答えた。「わかっていますから落ち着いて下さい。欲しがっているものはきっと手に入りますから」  バネを外して揚げ戸を上に戻すと、縁飾りのように天井に溶け込んでしまった。  それからすぐにロレンツァの部屋に駆け込んだが、部屋に戻った途端に、フリッツの鳴らした呼び鈴が響き渡った。 「ド・リシュリュー殿か」バルサモは呟いた。「構わん。公爵だろうと大貴族だろうと、待たせておけばいいさ」 第百十八章 ド・リシュリュー氏の二滴の液体  ド・リシュリュー公爵は四時半にサン=クロード街の家を出た。  バルサモのところに何をしに来たのかは、これからお読みになる文章の中で追々ご説明差し上げるつもりだ。  ド・タヴェルネ男爵は娘の部屋で正餐を摂っていた。アンドレが父をもてなすことが出来るようにと、王太子妃がその日は丸一日休みをくれたのだ。  デザートを食べている最中にリシュリュー氏が入って来た。常に吉報を運んで来る公爵は、フィリップには中隊ではなく聯隊を任せると国王が断言していたのを、友人に報せに来たのである。  タヴェルネは荒々しく喜びを爆発させ、アンドレは元帥に延々と感謝を述べた。  そうしたことの後に起こるべき会話が始まった。リシュリューは国王のことを、アンドレは兄のことを、タヴェルネはアンドレのことを話し始めた。  アンドレはお世話している王太子妃から休暇をいただいた話をした。マリ=アントワネット妃殿下は親戚のドイツ大公二人の訪問を受けている間、自由な時間を取ってウィーンの宮廷を思い返したいので、側女はもちろん侍女の世話も断りたかったのだ。これにはド・ノアイユ夫人もぞっとして、国王に嘆願しに行ったほどだった。  先にもお伝えしたように、タヴェルネは喜んでいた。アンドレが暇を貰ったのは幸運や名声について話し合うのに丁度いいと考えたからだ。これを見たリシュリューはいとまを告げて、父と娘を水入らずにさせようと考えた。だがタヴェルネ嬢がうんとは言わなかったので、リシュリューも留まることになった。  昔気質のリシュリューは、フランス貴族が陥っている窮状を、極めて雄弁に描き尽くした。かつての寵姫たちは恋人である国王に勝るとも劣らず気高く、その美しさや愛情によって君主を支配し、その生まれや機智や誠実で純粋な愛国心によって家臣たちを支配していたものだったが、貴族たちも今ではそうした女性たちにおべっかを使うこともなく、ぽっと出の寵姫たちや他国から潜り込んだ王妃たちの尻に敷かれる日々を堪え忍んでいるのだという。  こうしたリシュリューの言葉が、数日前から聞かされていたタヴェルネ男爵の言葉とひどく似通っていることに気づいて、アンドレは驚きを禁じ得なかった。  次いでリシュリューがぶちまけた貞節についての自説が、あまりにも智的で異教的でフランス的だったので、自分などはちっとも貞淑ではないし、真の貞節とは元帥が言うようにド・シャトールー夫人やド・ラ・ヴァリエール嬢やド・フォシューズ嬢のようなものを言うのだと、アンドレは認めざるを得なかった。  リシュリューが次々に推論や証拠を挙げてどんどん具体的な話をし始めたので、もはやアンドレにはさっぱりわからなかった。  会話はこんな調子で夜の七時頃まで続いた。  七時になると元帥が立ち上がった。「ヴェルサイユに国王のご機嫌を伺いに行かねばなりませんのでな」  部屋を出入りして帽子を取りに行ったところ、リシュリュー氏の用事を待っていたニコルに出くわした。 「嬢ちゃんや」リシュリューはニコルの肩を叩き、「見送ってくれんか。ノアイユ夫人が花壇から摘み取らせた花束がある。デグモン伯爵夫人にお贈りするので運んで欲しい」  ニコルはルソー氏のオペラに登場する村娘のようにお辞儀をした。  そこで元帥はタヴェルネ父娘にいとまを告げ、男爵と意味ありげな視線を交わすと、アンドレに向かって若者のようにきびきびとお辞儀をして部屋を出た。  ここで読者諸氏にはお許しいただいて、男爵とアンドレにはフィリップが賜った新たな計らいについてしゃべらせておいて、元帥の後を追うことにしよう。そうすれば元帥がサン=クロード街に何をしに行ったのか、そしてそこでどれほど恐ろしい目に遭ったのかも判明するはずである。  さらに言えば、男爵は元帥以上に昔気質であったので、アンドレほど純粋ではないとはいえ、何があったのかを知れば男爵の耳を驚かせるのには充分であったはずだ。  リシュリューは階段を降りてニコルの肩に身体を預け、花壇に向かった。 「さて、嬢ちゃんや」リシュリューは立ち止まってニコルを真っ正面から見つめた。「わしらには恋人がおるな?」 「あたしにですか、元帥閣下?」ニコルは真っ赤になって後しさった。 「おいおい、お前はニコル・ルゲではないのか?」 「間違いありませんけど……」 「では、ニコル・ルゲには恋人がいるじゃろう」 「いったい誰のこと仰ってるんですか!」 「そうさな、なかなか感じの良い若造ではないか。コック=エロン街で逢い引きしたうえに、ヴェルサイユの近くまで追っかけて来たであろう」 「閣下、お願いですから……」 「何とかという指揮官代理だ……さて嬢ちゃん、ニコル・ルゲ嬢の恋人は何という名前であったかの?」  名前を知られていなければまだ救いがあるのだが。 「言いかけたんなら仰って下さい」 「ド・ボージール殿といったな。この名前は否定できまい」  ニコルはおぼこぶって両手を合わせたが、老元帥には何の効き目もなかった。 「どうやらトリアノンでも逢い引きしているようではないか。何と、王宮でなあ! 一大事だ。ちょっとした過ちでも追放されてしまうし、ド・サルチーヌ氏は追放した宮殿の女子をサルペトリエールに放り込んでいるそうじゃぞ」  ニコルは不安になり始めた。 「閣下、聞いて下さい、恋人だってのはボージールさんが言い張っているだけなんです。あの自惚れ屋の悪党が。ですからあたしには後ろめたいことなんてありません」 「違うとは言わんがな、逢い引きしたのは事実なのかどうかを教えてくれぬか」 「公爵閣下、逢い引きなんて証拠になりません」 「逢い引きしたのが事実なのかどうか教えてくれ。答えなさい」 「閣下……」 「事実であれば、それはそれでよいではないか。責めているわけではない。そもそもわしは美しさを振りまく女子《おなご》が嫌いではないし、そうやって愛嬌を振りまくのをこれまで何度も後押ししてして来たくらいだ。ただわしはお前の友人として、庇護者として、親切に忠告しておるのだ」 「でも誰かが見てたんですよね?」 「わしが知っている以上はそうなのであろうな」 「でも閣下」ニコルはきっぱりと答えた。「そんなわけありません」 「わしは何にも知らんが、噂になっておるぞ。タヴェルネ嬢もさぞかし不愉快な印象を受けることじゃろうな。わかっているであろうが、わしはルゲ家ではなくタヴェルネ家の友人である以上、起こっていることを男爵に一言伝えるのが義務だと考えておる」  ニコルは話の成り行きに怯え出した。「ひどいこと言わないで下さい。無実なのに、怪しいからってだけで追い出されてしまうなんて」 「確かに追い出されるじゃろうな。今頃は悪意のある何処ぞの人間が逢い引きにけちをつけて、無実であろうとなかろうと、ノアイユ夫人にご注進に及んでいることじゃろう」 「ノアイユ夫人にですか!」 「その通り。ことは重大だ」  ニコルは手を拍って絶望を露わにした。 「残念じゃが間違いはない。それなのにいったいどうするというのだ?」 「さっき庇護者だって仰ったじゃないですか。それを証明して下さらないんですか? もうあたしを守ってはいただけないんですか?」ニコルは三十路女のようにしなを作った。 「馬鹿もん! 幾らでも守ってやることは出来る」 「でしたら閣下……?」 「うむ、だが守ってやりとうない」 「公爵閣下!」 「うむ、確かにお前はいい子だ。その美しい目であらゆることを訴えかけているのはわかっておる。だがわしの目も衰えた。もうその目を読み取ることが出来ぬのだ。かつてのわしならアノーヴルの一室に匿ってやったであろうが、今そんなことをしてもどうにもなるまい? もう噂にもなるまいしのう」 「でもこの間アノーヴル館に連れて行ってくれたじゃないですか」ニコルが口惜しがった。 「お前の為を思ってそうしたからといって、それを責められる謂われはないぞ。そもそもラフテ殿がいなければ、髪を茶色く染めることも出来ず、お前はトリアノンに入れなかったのだからな。もっとも、入っていなければ追い出されることにもならずに済んだであろうが。そもそもどうしてボージール殿と逢い引きなどしおったのだ? おまけに厩舎の柵のところで!」 「そんなことまでご存じなんですか?」ニコルは作戦を変えるべきだと悟って、元帥の言い分にすべてを合わせることにした。 「当たり前じゃ! わしもノアイユ夫人もすっかり知っておる。そのうえ今夜も逢い引きの約束をしておるのだろう……」 「それはそうですけど、ニコルの名に誓って、行くつもりはありません」 「そりゃ忠告されたのだからな。だがボージール殿は忠告を受けていないのだから、出かけて行って捕らえられるぞ。そうるすと当然、泥棒だと思われて逮捕されたり密偵だと思われて棒で打たれたりはされたくないじゃろうから、正直に打ち明ける方を選ぶじゃろうな。打ち明ける内容が不愉快なものではないのだからなおさらじゃぞ。『放して下さい、ニコル嬢の恋人なんです』と」 「公爵閣下、あたし知らせに行って来ます」 「無理じゃな。誰を遣わすつもりかね? お前を密告した人物に頼むのか?」 「ああ、そうですね」ニコルはがっかりしたふりをした。 「何とも見事な嘆きっぷりだわい!」リシュリューが嘆息した。  ニコルは両手で顔を覆いながらも、指の間に充分な間隔を取って、リシュリューの一挙手一投足を見逃すまいとしていた。 「本当に可愛らしいのう」ニコルの女らしい手管に元帥も引き込まれてしまった。「わしがまだ五十前であったらのう! だがそんなことより、ニコルよ、きっと引っ張り上げてやるぞ」 「公爵閣下、仰る通りにして下さったなら、この感謝は……」 「いらん、いらん。見返り無しで力を貸してやる」 「やっぱりいい人なんですね、閣下。心から感謝します」 「まだ感謝は早い。お前は何も知らんではないか。感謝は事情を知るまで取っておけ」 「アンドレお嬢様に追い出されないんなら、何だって構いません」 「ふうむ! そこまでしてトリアノンに残りたいのか?」 「何よりもそう思ってます」 「よかろう、お前の手帳の一番上に書いてあるその件を抹消してくれ」 「でももしばれなければ?」 「ばれようとばれまいと、どっちみち出て行くんじゃ」 「どうしてですか?」 「教えてやろう。もしノアイユ夫人にばれれば、どんな影響力も及ばぬ。国王の影響力でもお前を助けられん」 「ああ、国王にお会い出来ればいいのに!」 「確かにそんなことになれば大事だわい。第二に、たといばれなくとも、わしが追い出してやる」 「閣下が?」 「今すぐにじゃ」 「どういうことなのか全然わかりません」 「これを教えてやれるのはわしも嬉しい」 「つまり守って下さるということですか?」 「嫌なら構わぬぞ、まだ時間はある。一言言ってくれればよい」 「まさか! お願いします、公爵閣下」 「いいだろう」 「それで?」 「うむ、では聞かせてやろう」 「お願いします、閣下」 「お前を追い出させたり投獄させたりはさせぬ。それどころか裕福にして自由にしてやるつもりだ」 「裕福で自由にですか?」 「うむ」 「何をすればいいんですか? 早く教えて下さい、元帥閣下」 「ほとんど何もせんでよい」 「でもやっぱり……」 「やってもらわねばならんことがある」 「難しいことですか?」 「ままごとみたいなもんじゃ」 「何か要りますか?」 「いやはや!……この世の理は知っておろう、ニコル。無からは無しか生まれぬぞ」 「でもそれをするのって、あたしの為ですか? 閣下の為ですか?」  公爵はニコルを見つめた。 「ふむ! 抜け目のない女子だわい!」 「最後まで話して下さい」 「お前の為だ」公爵は堂々として答えた。 「へえ、そうですか!」自分が公爵に必要なことはとっくにわかっていたので、もうびくびくしたりはせずに、遠回しな話し方をする癖のある公爵の話の中から真実を見つけ出そうと、脳みそを働かせた。「あたしの為にあたしは何をすればいいんですか?」 「よし。ボージール殿が来るのは七時半だな?」 「ええ、大抵そうです」 「今は七時十分だ」 「そうですね」 「わしがそうしようと思えば、彼奴は捕まる」 「はい。でもそうしようとなさらないんですよね」 「うむ。お前が会って伝えてくれ」 「あたしが……?」 「だがそもそもその御仁を愛しておるのか、ニコル?」 「逢い引きの約束をしているんですから……」 「理由にはならんな。結婚を狙っておるのかもしれんしの。女というものは気まぐれだからのう!」  ニコルがけたたましい笑いをあげた。 「あたしがあの人と結婚するですって? ああ可笑しい!」  リシュリューは開いた口がふさがらなかった。宮廷でさえこれほど強気なご婦人にはお目にかかったことがない。 「そうすると、結婚する気はないが、愛しておると。却って好都合じゃわい」 「そういうことです。あたしボージールさんを愛してます。それはそれとして、話を続けて下さい」 「こいつはとんだあばずれだな!」 「そうかもしれません。それよりあたしが気になっているのは……」 「何じゃ?」 「ほかに何をすればいいのか知りたいんです」 「彼奴を愛しているというのなら、一緒に逃げればよい」 「そうしろって仰るんなら、そうするしかありませんけど」 「いやいや、そうではない。慌てるでない」  先走り過ぎた。それにまだ老獪なリシュリューからは秘密もお金も手に入れていないではないか。  そこでニコルは譲歩した。後でまた立て直せばよい。 「閣下、指示をいただけますか」 「ではボージール殿に会いに行って、伝えなさい。『二人のことがばれた。でも助けてくれる人がいる。あなたはサン=ラザールに入らずに済むし、あたしはラ・サルペトリエールに入らずとも済む。逃げましょう』と」  ニコルはリシュリューを見つめた。 「逃げましょう、ですか」  リシュリューはこの訴えるような鋭い視線の意味を理解した。 「心配いらん。旅の費用は出してやる」  ニコルはそれ以上の説明は求めなかった。お金を出してもらえるからには、すべて教えてもらえるということに違いない。  ニコルがこの段階に進んだのを見て、元帥の方でも言うべきことをさっさと口にした。負けた人間がさっさとお金を払うようなものだ。不愉快な思いを先延ばしにはしたくない。 「自分が何を考えているのかわかっておるのか?」 「わかりません。でも閣下はいろんなことをご存じですから、きっと見抜いてらっしゃるんじゃないかと思います」 「もし逃げたとしたら、タヴェルネ嬢がたまたま用事があって夜中にお前を呼んでも姿が見えないため急を知らせるかもしれず、そうなると捕まえられる危険も出て来ると考えておるのだろう」 「違うんです。そんなことは考えてません。だっていろいろ考えた結果、やっぱりここに残りたいですから」 「だがボージール殿が捕まったとしたら?」 「捕まらせておけばいいんです」 「だが口を割ったら?」 「割らせておけばいいんです」 「何だと!」リシュリューは不安になり始めた。「そうなるとお前は終わりだぞ」 「そんなことありません。アンドレお嬢様は優しい方ですし、あたしのこと心から可愛がって下さってますから、国王にお話しして下さるはずです。ですからボージールさんが何かされたとしても、あたしは何もされません」  元帥は口唇を咬んだ。 「やはりお前は馬鹿者じゃ。アンドレ嬢と国王はそこまでの間柄ではないし、聞いて欲しいと思っていることを聞いてくれぬのなら、すぐにでも追い出させるぞ。わかったか?」 「あたし頓馬でも薄のろありませんから。聞きますけど、条件があります」 「よかろう。ではボージール殿と逃げるという線でじっくり考えて計画を進めてくれ」 「でもどうして危険な真似をしてまで逃げなくちゃならないんですか? お嬢様が目を覚まして何かの用向きであたしを呼んだりするかもしれないってご自分で仰ったじゃないですか。あたしは考えもしなかったようなことばかりですけど、経験豊富な閣下なら初めから考えていたんですよね」  リシュリューは再び口唇を咬んだ。それもさっきよりも強く。 「考えておったというのなら、事件を防ぐことも考えておったわい」 「だったらお嬢様があたしを呼ばないようにするにはどうしたらいいんですか?」 「目を覚まさぬようにすればよい」 「夜中に何度も目を覚ます人なんですよ。無理です」 「つまりわしと同じ症状なのじゃな?」リシュリューは平然としていた。 「閣下と?」ニコルが笑いながら繰り返した。 「違うかな。わしも何度も目が覚めてしまうのでな。だがわしには不眠症の薬がある。アンドレ嬢も試してみてはどうじゃ。仮に本人が飲まんでも、お前が飲ませればよい」 「でもどうやってそんなことするんですか?」 「お前のご主人は毎晩寝る前に何を飲んでおる?」 「飲んでるものですか?」 「うむ。そうやって喉が渇かぬようにしておくのが昨今の流行りじゃろう。甘橙《オレンジ》水、檸檬水、薄荷水などが飲まれておるぞ……」 「お嬢様は夜寝る前には水しかいただきません。感じやすくなっていらっしゃる時には砂糖を加えたり甘橙の花で香りをつけたりなさいますけど」 「そいつはいい! わしと同じだ。わしの薬で完璧に効きそうじゃのう」 「どうすればいいんですか?」 「そうじゃな、わしはある液体を飲み物の中に何滴か垂らして、夜中にぐっすり眠っておるぞ」  元帥の策略がいったい何処に向かっているのか探ろうとして、ニコルはいろいろと思い描いた。 「返事がないな」 「お嬢様はその液体を持ってないんじゃないかと思ったんです」 「わしがお前にやる」 「そういうことですか!」ようやく闇に光が射した。 「タヴェルネ嬢のコップに二滴垂らせばよい。二滴じゃぞ、いいな? それ以上でも以下でもない。そうすれば眠ってしまう。だからお前が呼ばれることもないし、それ故に逃げる時間も出来るじゃろう」 「それだけでいいんなら簡単ですね」 「では二滴垂らすのだな?」 「絶対に」 「約束だな?」 「だってそうした方があたしに都合よさそうですし。何なら鍵を掛けてお嬢様をしっかり閉じ込めて……」 「いかんいかん」リシュリューが慌てて遮った。「そんなことをしてはならん。むしろ扉は開けておけ」 「ああ!」ニコルが心の底から声を出した。  ニコルはすっかり理解したし、リシュリューにもそれがわかった。 「それでお終いですか?」 「お終いじゃ。もうお前の指揮官代理に荷物を詰めるよう伝えに行ってよいぞ」 「残念ですけど閣下、財布を用意しろだなんて言うだけ無駄ですけど」 「構わぬ、それはわしが何とかする」 「そうですか、閣下がご親切なことを忘れてました……」 「それで幾ら必要じゃな、ニコル?」 「何をするのにですか?」 「その液体を二滴垂らすのにだ」 「それでしたら閣下が仰ったように、あたしの為にやることなんですから、その為にお支払いいただくわけにはいきません。でも部屋の扉を開けておくにはかなりいただかなくてはなりません」 「よかろう、金額を申してみよ」 「二万フランいただきます、閣下」  リシュリューは息を呑み、次いで嘆息した。 「ニコルよ、お前はきっと大物になるぞ」 「それくらいはいただかないと。あたしもだんだん、追っかけられそうな気がして来ましたから。でも二万フランあれば遠くに行けます」 「ボージール殿に知らせに行きなさい。その後で金を払ってやろう」 「閣下、ボージールさんは疑り深いので、証拠がないとあたしの言うことを信じようとしないと思います」  リシュリューはポケットから紙幣を一つかみ取り出した。 「前金だ。この財布の中に百|大型《デュブル》ルイある」 「ボージールさんに話して来たら、しっかり数えて、残りもいただけるんですよね?」 「いやいや! すぐにでも払ってやるぞ。しっかりした娘だの。そういうところはきっとお前の為になるぞ」  リシュリューは紙幣に加えてルイ貨と半ルイ貨で、約束通りの金額を支払った。 「さあ、これでよいな?」 「だと思います。でも閣下、大事なものをお忘れです」 「液体か?」 「はい。閣下は小壜をお持ちですよね?」 「わしの分を自分で持ち歩いておるからの」  ニコルが微笑んだ。 「それから、トリアノンはいつも夜になると閉鎖されてしまいますけど、あたしは鍵を持ってません」 「わしが持っておる。第一侍従の肩書きでな」 「そうなんですか?」 「ほれ」 「何もかも出来すぎですね。奇跡の連続みたいです。それじゃお別れです、公爵閣下」 「お別れじゃと?」 「だってそうでしょう、もう閣下とは会わないんですから。お嬢様が眠っている間にあたしは出て行くんですから」 「そうであったな。お別れだ、ニコル」  ニコルはケープ越しに笑うと、深まりゆく闇の中へと姿を消した。 「今度も上手く行きそうじゃのう」リシュリューは独り言ちた。「だがどうやら、運命の奴もわしが年老いていることに気づき出し、協力を渋り始めたようだな。まんまとしてやられたわい。だがまあいい、この借りはきっと返してやる!」 第百十九章 逃亡  ニコルは義理堅い娘であったので、ド・リシュリュー氏から前もってお金を受け取った以上は、何としてでもそれに応えることにした。  そこでニコルは柵まで一散に駆け出したが、着いた時には七時半ではなく七時四十分になっていた。  一方のド・ボージール氏は軍規によって時間厳守を培われていたので、十分前から待ちぼうけていた。  同じく十分ほど前にはド・タヴェルネ氏も娘の許を離れたため、アンドレは一人きりになり、カーテンを閉めていた。  ジルベールは屋根裏部屋から、アンドレを見つめるというよりは、いつものように貪っていた。ただしその眼差しが愛にきらめいていたのか憎しみに燃えていたのかは如何とも言い難い。  カーテンを引かれてしまうと、ジルベールにはもう何も見えない。仕方がないので余所に目を向けた。  余所に目を向けると、ボージール氏の羽根飾りが見えた。待っている手持ちぶさたを紛らそうと、小さく口笛を吹きながら歩き回っている。  十分後、即ち七時四十分に、ニコルが現れた。ニコルと言葉を交わしたボージール氏は、よくわかったというように首を縦に振り、プチ・トリアノンまで延びている凹んだ並木道まで歩いて行った。  ニコルの方は鳥のように軽やかにきびすを返した。 「ふうん!」ジルベールが呟いた。「指揮官代理殿と小間使い嬢が人知れずこっそり何かやり取りしていたな。これは面白いぞ!」  ジルベールはもうニコルには興味がなかった。だがニコルには本能的に敵意を覚えていたので、ニコルに攻撃された場合に備えて返り討ちにしてやれるように、身持ちが悪いという証拠を幾つも集めておきたかった。  ジルベールの予想では、戦端は間もなく開かれる。だから兵士として準備怠りなく弾薬を集めておくのだ。  ニコルがトリアノンに来てまで逢い引きしているという事実は、そうした武器の一つになる。ジルベールのように抜け目のない兵士なら放っておくわけがないし、ましてやニコルがやったように敵の足許に武器を落とすような軽はずみなことをしてはなおさらだ。後は目で見た証拠に加えて耳に残る証拠も聞いておきたかった。そういう言葉を拾っておけば、いよいよ決戦という瞬間に、ニコルを破滅させる台詞をぶつけてやれる。  そこでジルベールは急いで屋根裏から降り、台所の廊下を抜け、礼拝堂の階段を通って庭に出た。庭に出てしまえば何の心配もいらない。草むらの勝手を知ったる狐のように、隠れ場所なら知り尽くしている。  まずは菩提樹の陰に滑り込み、次いで果樹垣根《エスパリエ》に沿って進んだ。それからニコルがいると見当をつけた場所から二十歩ほど離れた茂みにたどり着いた。  ニコルは確かにそこにいた。  ジルベールが茂みに潜り込んだ直後、聞き慣れぬ音が耳に飛び込んで来た。それは金貨が石に当たる音だった。実際に聞いてみないことにはそれがどんな音なのかを正しく想像できないような金属の響きだった。  ジルベールは蛇のように音も立てずに、リラの生垣で出来た垣根まで移動した。グラン・トリアノンとプチ・トリアノンを隔てているその凹んだ並木道は、五月にはリラの香りが溢れ、通りがかった人に花が揺れて挨拶を送っていた。  その頃になると目も暗闇に慣れていたので、石畳に立ったニコルが、門の内側のボージール氏から届かないところを選んで、リシュリュー氏からもらった財布を空けているのが見えた。  幾つものルイ金貨がきらめきながらこぼれ落ちるのを、ボージール氏が目を輝かせ手を震わせて、どうしてこんなものを持っているのかわからないままに、ニコルと金貨をじっと見つめていた。  ニコルが口を開いた。 「何度も一緒に逃げようって誘ってくれてたよね、ボージールさん」 「それに結婚もね!」指揮官代理はのぼせあがっていた。 「それはまた後でね。今は逃げる話をしましょう。二時間後に出かけられる?」 「お望みなら十分後にだって」 「それは駄目。その前にしなきゃならないことがあって、それには二時間かかるから」 「十分後だろうと二時間後だろうと、言う通りにするとも」 「じゃあ五十ルイ取って」ニコルが五十ルイ数えて柵越しに手渡すと、ボージール氏は数えもせずに上着のポケットに突っ込んだ。「一時間半後に、四輪馬車でここに来て」 「だが……」 「嫌なら別に構わないけど。その代わりあたしたちの間にあったことはなかったことにしましょう。五十ルイ返して頂戴」 「尻込みしてるわけじゃない。ただ、将来が不安だからさ」 「誰の将来?」 「君の」 「あたしの?」 「ああ。五十ルイがなくなれば――いつかなくなってしまったら、君は不満を口にして、トリアノンを懐かしむようになったり、それに……」 「心配性なんだから。悲観しないでよ。不幸になりたがるような女とは違うから。だから不安になるのはやめて。五十ルイがなくなればなくなったでその時はその時じゃない」  ニコルは財布に残っている五十ルイを鳴らした。  ボージールの目が爛々と燃えさかった。 「君の為なら燃えさかる窯にでも飛び込んで見せるぞ」 「もう! そこまで頼んでないったら。とにかく決まった。一時間半後には四輪馬車を、二時間後には逃げましょう」 「決まりだ」ボージールはニコルの手をつかんで引き寄せ、柵越しに口づけした。 「落ち着いて! 気でも狂ったの?」 「いいや。惚れているだけさ」 「もう!」 「信じないのか?」 「まさか。信じてる。くれぐれもいい馬を連れて来てね」 「ああ、もちろんだ」  二人は別れた。  だがすぐにボージールが慌てて戻って来た。 「ちょっ! ちょっ!」 「どうしたの?」遠ざかっていたニコルは、大声を出さずに声を通そうとして、手を口の周りに当てた。 「柵だよ。乗り越えるつもりなのか?」 「馬鹿ね」ニコルが一人呟いた場所は、ジルベールから十歩と離れていなかった。  それからニコルは、ボージールに聞こえるように、「鍵を持ってるから」と伝えた。  ボージールは納得の声をあげると、今度こそ本当に立ち去った。  ニコルは人目を忍ぶように素早くアンドレのところに戻った。  一人残ったジルベールは、四つの疑問を考えていた。  ――ニコルが愛してもいないボージールと逃げるのは何故か?  ――ニコルがあれだけの大金を持っているのは何故か?  ――ニコルが柵の鍵を持っているのは何故か?  ――ニコルはすぐにでも逃げられるのに、アンドレのところに戻ったのは何故か?  「ニコルがお金を持っているのは何故か?」という疑問の答えならすぐに見つかった。だがほかの疑問には答えが出ない。  自分の洞察力が役に立たないとわかって、生まれながらの好奇心、或いは経験から学んだ猜疑心と言ってもよいが、それが異常なまでに燃え上がり、夜の戸外がいくら寒かろうとも湿った木の下で待ち受けて、幕開けを目にしたこの場面の結末を見届けてやろうと心に決めた。  アンドレは父をグラン・トリアノンの入口まで見送っていた。一人物思わしげに戻って来たところ、並木道から走って来たニコルに出くわした。その並木道の先にこそ、先ほどまでボージール氏と駆け引きを繰り広げていた柵があった。  ニコルはアンドレの姿を見つけて立ち止まった。アンドレが合図するのを見て、後ろに回って部屋まで従った。  ちょうどこの頃が午後八時半頃であった。夜の闇が瞬く間に広がり、いつもより濃くなった。それもそのはず大きな黒雲が南から北まで駆け抜け、全天を覆っていた。見れば、広大な森の向こうにまで広がるヴェルサイユの端の、見渡せる限り遠くまで、ほんの少し前までは青い穹窿にきらめいていた星々を、どんよりとした経帷子が覆い尽くしている。  重たげな風が地面をかすめ、喉の渇きを訴えて恵みの雨や靄を天に請うように頭を垂れていた花たちに、激しいざわめきを送っていた。  いくら雲行きが危うくなろうとも、アンドレは歩みを早めなかった。むしろ悲しく物思いに沈むように、部屋に続く階段をしぶしぶといった様子で上っていた。窓があるたびに立ち止まり、悲しみに呼応しているような空を見つめ、部屋に戻るのを遅らせたがっているようだった。  時間を過ぎてもアンドレが戻らないのではないかと、ニコルは苛々と気を揉み始め、従僕の都合などお構いなしに気まぐれを満足させるような考え無しの主人に向かって小声で罵った。  ようやくアンドレは部屋の扉を開け、椅子に坐るというより倒れ込むと、中庭に面した窓を少し開けるよう穏やかにニコルに命じた。  ニコルは言われた通りにしてから、いたわるような顔つきで振り向いた。これが効果的なことはよくわかっている。 「今夜は少しお加減が悪いんじゃありませんか。目が赤くて腫れてらっしゃるのに、すごく光ってますし。しっかりお休みなさらないといけないと思いますよ」 「そう?」アンドレは聞こうとしなかった。  そして絨毯の格子柄に無造作に足を伸ばした。  この姿勢が服を脱がせなさいという意味だと了解して、ニコルは髪飾りのリボンや花を外し始めた。どれほど手慣れた者でもすべて取り外すには十五分は下るまい。  アンドレはこうした作業の間、一言も口を利かなかった。そのためニコルは好きなようにしていられた。アンドレが何かにひどく気を取られていたので、作業を端折っても気づかれなかったし、あっさりと髪を引き抜いても何も言われなかった。  夜の身仕舞いが終わると、アンドレは翌朝の指示を出した。フィリップが届けてくれたはずの本を、朝からヴェルサイユに取りに行かなくてはならない。それに調律師をトリアノンに呼んで、チェンバロを調律する必要がある。  ニコルはおとなしく、夜中に目が覚めなければ、朝早くお嬢様が起きる前に目を覚まして、用事をすべて済ませておきます、と答えた。 「それに明日は手紙を書かなくては」アンドレは聞かせるともなく呟いた。「フィリップに手紙を書けば、少しは気が楽になるわ」 「どうでもいいや」とニコルも呟いた。「その手紙を出すのはあたしじゃないし」  そう思うと、まだ完全に堕落したわけではなかったので、ここに来て初めて、主人の許を離れるのが悲しくなり始めた。そばにいれば心も気持も溌剌としていられたからだ。アンドレの存在は多くの記憶と結びついていたから、その繋ぎ目が切れれば、その日から稚き日々の初めにまで連なっている鎖全体が揺れることになる。  身分も性格も違うこの二人の娘が、互いにまったく接点のない事柄を考えている間に、時間は過ぎて、アンドレの柱時計が、いつものようにトリアノンの時計より一足早く、九時の鐘を鳴らした。  ボージールは約束通りに来るだろう。落ち合う時間まで三十分しかない。  出来るだけ早くアンドレの服を脱がせたが、思わず洩れた溜息に、アンドレは気づくことさえなかった。ニコルが夜着を着せても、アンドレはぼんやりとしたまま動きもせずに虚ろな目を天井に向けていた。ニコルはリシュリューにもらった小壜を胸から取り出し、砂糖二粒をコップに入れて水を入れて溶かしてから、小壜から液体を二滴注いだ。心はまだ若くとも意思は既に強く、躊躇いはなかった。途端に水は濁り、うっすら白くなってから徐々に透き通って行った。 「お嬢様、お水の用意が出来ました。お洋服もたたんでおきましたし、灯火も入れておきました。明日は早起きしなくちゃなりませんから、もう休んでも構いませんか?」 「ええ」アンドレが上の空で答えた。  ニコルはお辞儀をして、最後に一つこれまでのような溜息をつくと、控えの間と繋がっているガラス扉を閉めた。だが部屋には戻らずに、廊下に出られる小部屋に入り、控えの間から洩れる明かりの中、そっと抜け出した。その際リシュリューの指図に忘れずに従って、廊下の扉を戸枠に押しつけたままにおいた。  それから隣人たちに気づかれないように階段を降り、爪先立って石段を飛び越えて庭に出ると、ボージール氏の待つ柵のところまで全力で駆け出した。  ジルベールは覗き場所から動いていなかった。二時間したら戻ってくるとニコルが言っているのを聞いて、待っていたのだ。だが時間が十分ほど過ぎると、ニコルは戻ってこないのではないかと思い始めた。  その時だった。何かに追いかけられているように走ってくるニコルが見えた。  ニコルは柵に近づき、隙間から鍵を手渡した。ボージールが門を開けた。ニコルが向こうに飛び出すと、柵が重い音を立てて再び閉まった。  それから鍵が茂みまで飛んで来たが、落ちた先がちょうどジルベールのいるところだった。もふっという音を聞いて、ジルベールは鍵の落ちた場所を見つけた。  そうしている間にニコルとボージールは先に進んでいた。二人が遠ざかってゆく足音がしたかと思うと、やがてニコルの頼んでおいた四輪馬車ではなく、馬の足音が聞こえていた。ニコルは公爵夫人のように四輪馬車で出かけたかったのだろう、どうやらぶつくさ文句を垂れていたが、すぐに馬は四つの蹄で地面を蹴り、音を立てて舗道を駆けて行った。  ジルベールはふうと息をついた。  これで自由だ。ニコルから、いわば敵から解放されたのだ。アンドレは一人きりだ。きっとニコルは出て行く時に、扉の鍵をそのままにしていっただろう。だとしたら、ジルベールはアンドレのところに忍び込むことが出来る。  そう思うと、恐れと躊躇いと好奇心と欲望でかっかとして飛び跳ねずにはいられなかった。  やがてニコルが向かったのとは反対側の道をたどり、使用人棟に向かって駆け出した。 第百二十章 天眼通  一人になったアンドレは、ぼんやりとした状態から徐々に快復して、ニコルがド・ボージール氏の後ろに乗って逃げている頃には、ひざまずいてフィリップのためにひたむきに祈りを捧げていた。アンドレが掛け値のない深い愛情を注いでいるのはこの世にフィリップただ一人なのだ。  ひたすら神を信じて祈っていた。  アンドレの祈りは一つ一つの言葉がばらばらで意味を成さなかった。まるで魂が神の御許まで昇って神と一つに混じり合ったかのような、神々しい法悦を帯びていた。  物質界から解き放たれた精神がひたすらに捧げる祈りには、利己的なところは微塵も含まれていなかった。ある意味では自己を捨てていた。絶望に駆られた遭難者が、自分のためではなく、遺されることになる妻や子供たちのために祈るのに似ていた。  心に秘めたこのような痛みは、兄が発ってから生じていたものだが、そこに痛み以外のものが混入していなかったわけではない。アンドレの祈りは二つの異なる要素で出来ており、その一つは本人にもよくわからないものだった。  それはいわば予感のようなもので、次なる災難が近づいているような兆しだった。古傷を襲う激痛のような感覚であった。持続していた痛みは消えたが、その名残はいつまでも尾を引き、傷が治っていなかった頃と同じように痛みを訴えていた。  アンドレは自分が感じているものが何なのかを考えようとしなかった。フィリップのことだけを思い浮かべ、何かに心を揺さぶられてもまたいつしか兄のことを考えていた。  ようやく立ち上がると質素な本棚から本を一冊抜き取り、手許に蝋燭を置いて本を読み始めた。  選んだというよりも偶然手に取ったその本は、植物事典だった。これでは夢中になれないどころか、うつらうつらさせる効果しかない。薄かった雲がどんどん濃くなり、視界を覆った。アンドレは眠気と戦い、何度か意識を取り戻したが、すぐにまた睡魔に襲われた。そこで蝋燭を吹き消そうと顔を前に出したところ、ニコルが用意したコップに気づいた。アンドレは腕を伸ばしてコップをつかみ、溶けかけた砂糖をスプーンでかきまぜた。もうかなりの眠気に囚われながら、コップを口に近づけた。  口をつけようとした途端、異様な衝動に手が震え、湿った塊が脳を直撃した。身体中にほとばしった衝撃に、アンドレは恐怖を覚えた。これまでに何度もアンドレの力を奪い、理性を破壊して来た、あの不思議な感覚が襲って来たのだ。  コップを置くのがやっとだった。半開きの口から洩れた溜息よりほかには、呻き声一つあげることもなく、声も出せず目も見えず頭の働きも途絶えると、恐ろしい睡魔に襲われて、雷に打たれたように寝台に倒れ込んだ。  死んだようにしばらく目を閉じていたが、不意に起き上がって目を見開いたまま、寝台から降りた。それはあたかも石像が墓石から降り立ったかのようであった。  もはや疑う余地はない。アンドレはこれまで何度も魂を奪われて来たあの眠りに陥っていた。  部屋を横切り、ガラス扉を開けて廊下に出た。石像が動いているようなぎくしゃくとしたぎこちない動きだ。  階段の前まで来ると、躊躇うことも慌てることもせずに、一段一段降りて行った。やがて玄関の石段にたどり着いた。  アンドレが一番上の段に足をかけたのと、ジルベールが一番下の段に足をかけたのは同時だった。  白く厳かなアンドレの姿を見て、自分を迎えに来たのではないかと思わず錯覚しそうになった。  ジルベールは後じさり、後じさったまま並木道の木陰に飛び込んだ。  似たような状態のアンドレの姿を、タヴェルネの城館で見た時のことを思い出していた。  アンドレがジルベールの前を通り過ぎた。触れられるほどの距離にいるのに、ジルベールを見もしなかった。  ジルベールは混乱して口もきけずに、膝を突いた。恐怖を感じていた。  どうしてこんな風にアンドレが外に出たのか理由はわからないながらも、目を離そうとはしなかった。だが理性は掻き乱され、血がこめかみで脈打ち、狂ったようになって、とても冷静には観察していられなかった。  そこでジルベールは茂みにしゃがみ込んだまま、ただただ見守っていた。運命の恋に心を奪われて以来、ずっとそうして来たのだ。  不意に外出の謎が解けた。アンドレは気が狂っているのでも錯乱しているのでもない。冷たく沈んだ足取りで、逢い引きに出かけるのだ。  稲光が天を真っ二つに切り裂いた。  青白い稲妻に照らされて、一人の男が菩提樹の陰に佇んでいるのが見えた。閃光がきらめいたのは一瞬だったが、黒い闇を背景にして、青白い顔と乱れた服装は確認できた。  招くようにして腕を伸ばしている男の許に、アンドレは足を進めた。  焼きごてに胸を刺されたような痛みを感じて、ジルベールはもっとよく見ようとして立ち上がった。  その瞬間、再び稲光が夜空に走った。  バルサモだ。汗と埃にまみれたバルサモが、どういう手段を用いてか、トリアノンに侵入していたのだ。蛇に睨まれた蛙のように、アンドレは運命に引き寄せられるように無抵抗のままバルサモに近づいて行った。  すぐ手前でアンドレが立ち止まった。  手をつかまれたアンドレが身体を震わせた。 「見えるか?」 「はい。でもこんな風にお呼び立てされては、死んでしまいます」 「それは悪かった。だが俺も焦っていてな。冷静ではなくなっていたのだ。気が狂いそうで、死んでしまいそうなんだ」 「苦しんでらっしゃるのですね」触れられた手を通して、バルサモの苦しみが伝わって来た。 「そうだ。苦しんでいる。救いを求めて会いに来た。俺を助けられるのはお前だけなんだ」 「おたずね下さい」 「もう一度確認するが、見えるんだな?」 「何もかも」 「俺について来られるか?」 「意思の力で導いて下されば」 「こっちだ」 「ああ、パリにいます。大通りをたどって、街灯が一つしかない路地に入りました」 「そこだ。進んでくれ」 「控えの間にいます。右側に階段があります。ですが壁の方に連れて行かれました。壁が開きました。そこに階段が……」 「上れ! そこが俺たちの部屋だ」 「ここは寝室です。獅子の皮と武器があります。あっ、暖炉の羽目板が開きました」 「進め。今、何処にいる?」 「変わったお部屋です。出口もなく、窓には鉄格子が。それにしても、随分と散らかってます」 「そんなことより、部屋は空っぽじゃないか?」 「空っぽです」 「暮らしていた人間のことはわかるか?」 「はい。その人が触れたものか、その人の持ち物かその人の一部を下されば」 「わかった。ここに髪がある」  アンドレは髪を取って身体に近づけた。 「あっ、この人には会ったことがあります。パリの方に逃げているところです」 「そうだ。いったい二時間前に何があったのか、どうやって逃げ出したのかわかるか?」 「待って下さい。その人は長椅子に横たわっていました。はだけた胸に傷が見えます」 「いいぞ。目を離すなよ」 「眠っています。目を覚ましました。周りを見回して、手巾を取り出し、椅子に上りました。手巾を窓の鉄格子に結んでいます。ああ、神様!」 「死のうとしたのか?」 「そうです。心を決めていました。ですがいざ死のうと思うと怖くなり、鉄格子に手巾を結んだまま、椅子から降りました。ああ、何てことを!」 「何だ?」 「涙を流して苦しみに身をよじり、壁の角を探して頭をぶつけようとしています」 「畜生! 何てこった!」 「あっ! 暖炉に駆け寄りました。大理石製の獅子が両脇に象られています。獅子の頭で額を割ろうとしました」 「それで?……どうなった?……アンドレ、見るんだ!」 「立ち止まりました」  バルサモはほっと息をついた。 「見つめています」 「何を見つめているんだ?」 「獅子の目に血がついているのに気づきました」 「何だと!」 「ええ血です。ですが頭をぶつけてはいません。どういうことかしら? これはこの人の血ではなく、あなたの血です」 「俺の血だと!」バルサモは混乱で目が回りそうになった。 「そうです、あなたの血です。短刀か短剣のようなもので指を切ってしまい、血塗れの手で獅子の目を押したのが見えます」 「そうだ。その通りだ……だがどうやって逃げたのだ?」 「待って下さい、血を観察して、考えているのが見えます。あなたが指を押し当てたところに、自分の指を押し当てました。あっ! 獅子の目が引っ込んで、バネが動きました。暖炉の羽目板が開きました」 「しくじった! 何て馬鹿なんだ俺は! 自分で自分を裏切ってしまったのか……それで出て行ったんだな? 逃げたんだな?」 「どうか許してあげて下さい。ひどく不幸せだったのです」 「今は何処にいる? 何処に行ったんだ? 追うんだ、アンドレ!」 「待って下さい、武器と毛皮のある部屋で足を止めました。戸棚が開いています。普段は戸棚にしまってある小箱が卓子に置かれています。小箱に気づいて手に取りました」 「小箱の中身は?」 「あなたの書類だと思います」 「どんな箱だ?」 「青い天鵞絨が張られていて、鋲と留め金と錠は銀で出来ています」 「畜生!」バルサモは怒りのあまり足を踏み鳴らした。「すると小箱を持って行ったのはあいつだというんだな?」 「そうです、間違いありません。階段を通って控えの間に降り、扉を開け、鎖を引いて門を開け、出て行きました」 「遅い時間か?」 「遅いと思います。もう夜ですから」 「ありがたい! 出て行ったのが俺の戻って来るちょっと前であるのなら、すぐに追いつける。追いかけろ、追うんだ、アンドレ」 「家から出ると、気違いのように走り出しました。狂ったように大通りに出て……走って……走って、止まらずに走ってゆきました」 「どっちに行った?」 「バスチーユの方へ」 「まだ見えるか?」 「はい。まるで狂人のようです。何度も通行人にぶつかりました。ようやく足を止めて、現在地を知ろうとして……道をたずねています」 「何と言っている? 耳を澄ませろ、聞くんだ、アンドレ。お願いだから一言も聞き洩らすんじゃない。道をたずねていると言ったな?」 「はい、黒い服を着た男に」 「何をたずねたんだ?」 「警察の場所です」 「糞ッ! するとただの脅しではなかったのか。返事は返って来たのか?」 「はい」 「それからどうした?」 「少し戻って、斜めに通った道を進んで、大広場を横切っています」 「道順から言って、ロワイヤル広場だな。狙いがわかるか?」 「急いで下さい! 密告しようとしています。あなたより先にド・サルチーヌ氏に会われたら、あなたは終わりです!」  バルサモはぞっとするような叫びをあげて、藪に駆け込み、亡霊のように開閉された小門をくぐって、外で地面を蹴っていたジェリドに飛び乗った。  声と拍車を掛けられて、ジェリドは矢のように一直線にパリを目指した。後には舗道を叩く微かな音しか聞こえなかった。  アンドレはぴくりともせず無言のまま、青ざめて立ち尽くしていた。だがまるでバルサモが魂も一緒に持って行ってしまったかように、やがてぐらりと揺れて崩れ落ちた。  バルサモはロレンツァを追いかけるのに夢中のあまり、アンドレの目を覚ますのを忘れていたのだ。 第百二十一章 仮死  アンドレは突然倒れたわけではなく、徐々に変化したのだということをこれからお伝えしよう。  相次ぐ強い衝撃を神経に受けてぞっとするような冷たさに襲われ、一人きり見捨てられたアンドレは、まるで癲癇の発作が始まったかのように、ぐらぐらと揺れぷるぷると震え出した。  ジルベールはがちがちに固まったままじっと動かず、前のめりに身体を乗り出してアンドレをまじまじと見つめていた。だが催眠磁気のことを知らないジルベールには、眠っているようにも暴力を受けているようにも見えなかったのである。二人の会話はまったくと言っていいほど聞こえなかった。だがアンドレがバルサモの呼び出しに応じるのは、タヴェルネに続いて二度目であった。アンドレに対して何か恐ろしく謎めいた影響力を及ぼしているのは間違いない。要するにジルベールにとって、すべてはこの一言に集約された。「アンドレ嬢には恋人がいるか、少なくとも片思いの男がいて、夜中に逢い引きをしているのだ」と。  アンドレとバルサモの間で交わされた会話は、小声ながらも諍いのように感じられた。バルサモは絶望に駆られた恋人のように、尋常ではなく取り乱して飛び出して行った。アンドレは見捨てられた恋人のように、一人きり無言で立ち尽くしていた。  アンドレが揺れ出したのはこの時だった。腕をよじって身体を捻った。それから胸を引き裂くような、声にならない喘ぎを幾つか洩らした。千里眼については前章でご覧いただいた通りだが、催眠状態の間にその千里眼をもたらしていた不安定な霊力の塊を、アンドレというよりはアンドレの本能が、外に吐き出そうとした。  だが本能は敗れ、バルサモの置き土産を払い落とすことが出来なかった。しっかりと縛り上げられた、謎めいて錯綜した結び目を、ほどくことが出来なかった。抗おうとすれば、かつて神殿に居並ぶ人々の敬虔な質問を三脚台に坐して受けていた巫女《ピュティア》のように、痙攣を起こし始めた。  アンドレはよろめき、痛ましい呻きをあげると、時あたかも天穹を引き裂いた雷に打たれたかのように、砂利道に向かって倒れ込んだ。  だが地面に着くよりも早く、ジルベールが虎の如き勢いで飛び出した。両腕で身体をつかみ、重荷を背負っているという意識もせずに、バルサモから呼ばれるまでアンドレが過ごしていた部屋まで運び込んだ。乱れた寝台の傍らに、まだ蝋燭が燃えていた。  アンドレが扉を開けっ放しにしておいたことにジルベールは気づいた。  部屋に入って長椅子にぶつかると、冷え切って意識のないアンドレを静かに横たえた。  意識のないアンドレの身体に触れると、ジルベールの身体中が熱くなった。感覚という感覚が震え、血がたぎった。  だが真っ先に浮かんだのは清らかで純粋な思いだった。何を措いても生ける彫像の息を吹き返さなくてはならない。アンドレの顔に水を掛けようと思い、水差しを目で探した。  だがその時だった。震える手を水晶壜の細首に伸ばした瞬間、小さいがしっかりとした足音が聞こえたような気がした。アンドレの部屋に通じている木と煉瓦の階段が軋んでいる。  ニコルではない。ド・ボージール氏と逃げたのだから。バルサモでもない。ジェリドに乗って全速力で出かけたのだから。  ということは見知らぬ人間だ。  見つかればジルベールは追い出されるだろう。ジルベールにとってアンドレとは、たとい命を救うためであっても臣下が触れてはならないというイスパニア王妃のような存在だった。  こうした様々な思いが、音を立てて渦巻く雹のように、ジルベールの心に降りかかった。それは避けがたい足音が階段を一段上るよりも短い間の出来事だった。  この足音――近づいて来るこの足音が――どれだけ離れているのかジルベールにははっきりとはわからなかった。それほどまでに空では嵐が唸りをあげている最中だったのだ。だが持ち前の冷静さと用心深さによって、その場にいるのは賢明ではなく、何よりも重要なのは姿を見られないことだと判断した。  アンドレの部屋を照らしていた蝋燭を素早く吹き消し、ニコルが部屋として使っていた小部屋《キャビネ》に飛び込んだ。そしてそこからガラス扉越しに、アンドレの部屋と控えの間に同時に目を凝らした。  控えの間では、|飾り台《コンソール》の上で灯火が燃えていた。初めジルベールは、これも蝋燭と同じく吹き消そうかと考えたが、その暇がなかった。廊下の舗石で足音が鳴り、息を詰めたような呼吸が聞こえ、戸口に人影が現れると、しずしずと控えの間に入り込み、扉を押して閂を掛けた。  ジルベールにはニコルの小部屋に飛び込んでガラス扉を引き寄せる時間しかなかった。  ジルベールは息をひそめてガラスに顔を押しつけ、耳をそばだたせた。  群雲の奥で嵐が厳かな唸りを立て、大粒の雨が部屋や廊下の窓ガラスに打ちつけた。開いていた廊下の窓が蝶番を軋ませ、吹きつける風に徐々に押し戻されて、大きな音を立てて窓枠にぶつかった。  だが自然の猛威や戸外の物音が如何に恐ろしいものであっても、ジルベールには無関係だった。気持と命と魂のすべてを賭けて見ることに意識を集中させ、目を侵入者から絶対に離さなかった。  侵入者は控えの間を通り抜け、ジルベールの眼前を横切って、躊躇うことなく寝室に入り込んだ。  アンドレの寝台が空っぽなのを見て驚き、その直後、卓子の蝋燭に腕をぶつけるのが見えた。  蝋燭が倒れ、大理石の上で水晶の受け皿が割れる音が聞こえた。  すると、二度にわたって怯えて人を呼ぶ声がした。 「ニコル! ニコル!」  ――ニコルだって? とジルベールは隠れ家の奥で自問した。――アンドレを呼ぶのならともかく、どうしてニコルを呼んでいるんだろう?  だが応える声がないので、侵入者は床の明かりを拾い上げ、控えの間の灯火に火をつけに行った。  ジルベールはここぞとばかりに奇怪な夜の訪問者に意識を集中させ、壁を射抜こうとするほどの強い意思を持って目を凝らした。  途端にジルベールはがくがくと震え出した。既に隠れているというのに、さらにまた後じさった。  二つの炎が重なった薄明かりの中で、ジルベールは馬鹿のようにぽかんとして震えながら、明かりを手にしている人物のうちに国王の姿を認めたのである。  これですっかり説明がつく。ニコルが逃げ出したこと、ニコルとボージールがやり取りしていたお金のこと、扉が開けっ放しだったこと、リシュリューのこと、タヴェルネのこと、謎めいたあくどい陰謀のこと、そのすべての中心にはアンドレがいたのだ。  国王がニコルを呼んでいた理由もわかった。今回の悪事を取り持ち、にこやかな顔で主人を裏切って引き渡したユダだったのだ。  それよりも、国王が何をしに来たのか、これから目の前で何が起ころうとしているのかを考えると、目に血が上り眩暈がした。  声をあげて叫び出したかった。だが相手がフランス国王と称される威信に満ちた人物であることを考えると、恐怖という本能的で身勝手な抗い難い感情に囚われて、言葉も喉の奥に貼りついてしまった。  そのうちにルイ十五世は蝋燭を持って寝室に戻って来た。  すぐに白モスリンの夜着姿のアンドレに気づいた。アンドレはほとんど何も身につけておらず、頭は長椅子の背にもたれ、片足はクッションに乗っかり、もう片足は強張って靴も脱げて絨毯に投げ出されていた。  国王はそれを見て微笑んだ。蝋燭がその陰鬱な微笑みを照らしている。だがそれと同時に、国王の微笑みと同じくらい重苦しい微笑みがアンドレの顔に浮かんでいたのが照らし出された。  ルイ十五世が何事かを呟いた。それはジルベールには愛の囁きに聞こえた。国王はテーブルに明かりを置いて、振り返って燃えさかる空に目を走らせてから、アンドレの前にひざまずき、その手に口づけをした。  ジルベールは額に流れる汗を拭った。アンドレは微動だにしない。  アンドレの手がひんやりとしていることに気づいた国王は、自らの手で包み込んで温めながら、もう片方の手で美しく柔らかな身体を抱き寄せ、顔を近づけると、眠っている娘に囁くのに相応しいような睦言を耳元に囁いた。  国王の顔がアンドレの顔に近づき、触れた。  ジルベールは身体を探り、上着のポケットに入れてあった剪定用のナイフの柄に触れてふうと息をついた。  アンドレの顔は手と同じように冷え切っていた。  国王が身体を起こした。シンデレラのように白く小さな、靴の脱げた足に目を落とした。両手で包むように足に触れた国王が震え出した。アンドレの足は大理石のように冷たかった。  目の前に晒されている光景があまりに美しかったため、国王の毒牙が盗もうと迫っているのがまるで我がことのように感じられて、ジルベールは歯軋りして、それまで畳んであったナイフの刃を開いた。  だが国王は既にアンドレの足を離していた。手を離した時も、顔を離した時も、あまりに眠りが深いのでぎょっとしたのだ。初めのうちこそ、アンドレが目を覚まさないのは貞淑ぶって誘っているのだと思っていた。だが身体の隅々まで死んだように冷え切っていることに気づいて、手足や顔がここまで冷たいとなると、果たして心臓がまだ動いているのかどうかが気になり出した。  アンドレの夜着をはだいて真っ白な胸を露わにし、びくびくとしながらも大胆に、白く引き締まった丸みを持つ石膏のような冷たい肉体に、手を当てて鼓動を確かめたが、応えはなかった。  ジルベールはナイフを持って飛び出しそうになった。目を見開き、歯を食いしばって、国王がこれ以上こんなことを続けるつもりなら、ナイフで国王を刺して自分も刺して果てるつもりだった。  不意に恐ろしい雷鳴が部屋中の家具を震わせ、ルイ十五世がひざまずいていた長椅子にも震えが走った。次いで黄色の混じった紫色の稲光が瞬いたため、アンドレの顔が鉛色に煌々と照らされた。その顔があまりに青白く、ぴくりとも動かないうえに声も立てないため、怯えたルイ十五世は尻込みして呟いた。 「間違いない。死んでいる!」  死体を抱いていたのだと思うと血がぞわぞわと沸き立った。国王は蝋燭を取りに行き、アンドレのところに戻って来ると震える光の中でよく確かめた。口唇が紫色で、瞳が黒く澱み、髪が乱れ、胸が呼吸でふくらみもしないのを見て、国王は叫びをあげた。明かりを落としてがくがくと震え、酔っぱらいのようにつまずき、恐怖で壁にぶつかりながら、控えの間まで逃げ出した。  やがて慌ただしい足音が階段を降り、庭の砂を踏むのが聞こえて来た。だがすぐに、空で渦巻き木々をしならせていた風が、荒々しく力強いその息吹でもって、物音も足音も吹き飛ばしてしまった。  そこでジルベールはナイフを手にしたまま、隠れ場所から物も言わず憔悴したように抜け出した。寝室の前まで来ると、深い眠りに沈んでいるアンドレをしばらくじっと見つめていた。  その間も、床に落ちた蝋燭が絨毯に倒れたまま燃え続け、美しい死体のほっそりとした足首や真っ白なふくらはぎを照らしていた。  ゆっくりとナイフを畳んでいる間、ジルベールの顔に避けようのない決心が少しずつ浮かんで来た。国王の出て行った扉から耳を澄ませた。  まるまる一分以上にわたって耳を澄ませていた。  それから国王と同じように、扉を閉めて閂を掛けた。  そして控えの間の灯火を吹き消した。  それが終わるとなおもゆっくりと、目に暗い光を湛えたままアンドレの部屋に戻り、床に流れ出していた蝋燭を踏みつけた。  不意に訪れた暗闇が、ジルベールの口唇に浮かんだ恐ろしい笑みを掻き消した。 「アンドレ! アンドレ! 言ったはずだろう。今度この手に転がり込んで来たら、これまでの二度とは違って逃れられないと言ったんだぞ。アンドレ! アンドレ! 僕が書いたと言って貶した小説には、恐ろしい結末しか残されていないんだ!」  ジルベールは腕を伸ばし、アンドレが横たわっている長椅子に向かって真っ直ぐ進んで行った。今も冷たいまま身動きもせず、感覚を奪われたままのアンドレに向かって。 第百二十二章 意思  バルサモが出て行くところまではお伝えしておいた。  ジェリドはバルサモを乗せて閃光のようにひた走った。苛立ちと恐怖で真っ青になっているバルサモは、揺れる鬣に身を伏せて、小さく開けた口から空気を吸い込んでいた。すいすいと進む船の船首が水を割るように、駿馬の胸先で空気が二手に分かれている。  夢でも見ているように、木々や家々が置き去りにされてゆく。車軸の上で軋みをあげている鈍重な二輪馬車と通りがけに行き会おうものなら、重さに喘ぐ五頭の馬たちは生身の流星が飛んで来るのを見て怯え、よもやそれが自分たちと同じ種族であるとは思いもしなかったに違いない。  バルサモはそのようにして一里近くを進んだ。頭を燃え上がらせ、目を爛々と輝かせ、音を立てて燃え上がるその喘ぎを見れば、当時の詩人なら、煙を吐く巨大な機械を火と蒸気の恐ろしい怪物たちが動かして鉄路を疾走させている光景と比較したことであろう。  ジェリドとバルサモはほんの数秒でヴェルサイユを通過した。道を彷徨っていた幾人かの人々が、光の筋が通り過ぎるのを目撃したに過ぎない。  さらに一里を駆けた。ジェリドは十五分もかけずに二里を征服したが、この十五分は一世紀にも匹敵していた。  不意にバルサモはある思いに駆られた。  逞しい足首で、鋼の筋肉を持つ駿馬を急いで止めた。  ジェリドが後脚を折り曲げ、前脚を砂にめり込ませた。  バルサモとジェリドは束の間息を吐いた。  そうしながらバルサモが顔を上げた。  手巾をびしょびしょのこめかみに押し当て、そよ風に鼻をふくらませ、闇に向かってこんなことを吐き出した。 「お前は頭がおかしいに違いない! いくら馬を走らせても、いくら思いを募らせても、雷の一撃や電気の火花ほど速く飛べるわけもないのだから。だがそれもこれも、頭上にぶら下がっている災いを避けるためにはやむを得ん。その足で駆け込まれるかもしれん、口から裏切りの言葉が飛び出すかもしれん、その足取りや言葉を止めるには、迅速な結果、一刻も早い行動、絶対的な力が必要なのだ。鎖を千切って逃げ出した奴隷を連れ戻すには、これほど離れているとはいえ、催眠の力を駆使することが必要なのだ。上手く行けば俺の手の内に戻って来るかもしれない……」  バルサモは絶望に身をよじらせて歯軋りした。 「畜生! いくら念じても無駄だよ、バルサモ。いくら走ってももう遅い。ロレンツァはとっくに到着して、これからぶちまけるところだ。いいや、もうぶちまけた後だろう。哀れな女め! どれほどの罰を受けようとも、おまえの犯した罪に比べれば軽すぎるぞ!」  バルサモは眉をひそめ、宙を睨み、顎に掌を当てた。「いいだろう、科学とは言葉だけのものかもしれんし実行できるものかもしれん。可能か不可能かのどちらかだ。俺はやるぞ……やってやる……ロレンツァ! 俺はおまえを眠らせてやる。ロレンツァ、何処にいようとも、眠れ、眠るんだ。それが俺の願いだ!」 「いや、違う」バルサモは力を落として呟いた。「違う、今のは嘘だ。そんなことは思っちゃいない。願うつもりはない。だが俺には意思しかない、意思がすべてなんだ。確かに望んではいるが、俺という存在の持てる力のすべてをかけて望んでいるんだ。空気を切り裂いて進め、人智を越えた俺の意思よ! 悪意のある冷淡な意思の流れを蹴散らして進め。弾丸のように壁を通り抜けて進め。何処にいようとも追いかけてゆけ。打て、叩きのめせ! ロレンツァ、ロレンツァ、眠るんだ! ロレンツァ、口を開かないでくれ!」  バルサモは標的に向かってしばし思念を飛ばし、パリに出たらさらに勢いをつけるつもりのように、その思念を脳に焼きつけた。あらゆるものの神や支配者に命を与えられている神聖な原子を一心に込めて、以上のことをおこなうと、バルサモはまたも歯を食いしばり、拳を固め、ジェリドの手綱を取ったが、今度は膝や拍車で打つようなことはしなかった。  バルサモは自分自身を納得させようとしているようだった。  やがてジェリドは暗黙の命令を読み取り、緩やかに脚を進めた。さすが名馬といった手並みで静かに舗道に置いた脚は、ほとんど音も立てなかった。  その間バルサモは虚ろな目をして放心しているような顔つきで、対策を考えていた。ジェリドがセーヴルの舗石に触れた時には、答えが出ていた。  公園の柵まで来ると、馬を止めて、待ち人でも捜しているように周囲に目を走らせた。  すると確かに大門の下から人影が現れ、バルサモの方にやって来た。 「お前か、フリッツ?」 「そうです」 「確認は終わったか?」 「はい」 「デュ・バリー夫人はパリとリュシエンヌどちらにいる?」 「パリです」  バルサモは勝ち誇ったように天を仰いだ。 「ここにはどうやって?」 「シュルタンに乗って来ました」 「今は何処に?」 「あの宿屋の中庭です」 「鞍はつけてあるな?」 「つけてあります」 「よし、準備してくれ」  フリッツはシュルタンの綱を解きに行った。忠実で気性のいいドイツ馬である。無理をさせられれば多少の不満は表すものの、胸に空気がなくなったり乗り手が拍車を休めたりしない限り、前に進むことをやめようとはしない。  フリッツが戻って来た。  家畜店の店員たちが税金を計算するために一晩中灯している街灯の下で、バルサモは何か書いていた。 「パリに戻ってくれ。デュ・バリー夫人が何処にいようとも、本人にこの手紙を渡すんだ。三十分やる。それからサン=クロード街に戻って、シニョーラ・ロレンツァを待っていろ。必ず戻って来る。何も言わず何の邪魔もせずに通してやるんだ。では行け、三十分後には仕事を終わらせておかなくてはならないことを忘れるなよ」 「心得ました。心配ご無用」  こう答えてバルサモを安心させるや否や、シュルタンに拍車と鞭をくれると、いつもとは違う荒々しい合図を受けたシュルタンは、不意打ちに驚いて痛ましいいななきをあげて走り出した。  バルサモは徐々に落ち着きを取り戻し、パリに向かって再び走り出すと、四十五分後には冷ややかな顔でパリに入った。目は穏やかというよりは物思いに沈んでいた。  バルサモは正しかった。砂漠の申し子であるジェリドの足がどれだけ速くとも間に合わない。牢獄から逃げ出したロレンツァに追いつけるのは意思の速さだけだ。  サン=クロード街から出たロレンツァは、大通りに行き当たり、右に曲がるとやがてバスチーユ要塞が見えた。だがずっと閉じ込められていたロレンツァにはパリのことがわからない。それに何よりも独房でしかない忌まわしい家から逃げることだけを考えていたのだ。復讐は二の次だった。  そういうわけで、わけもわからぬまま大急ぎでフォーブール・サン=タントワーヌに駆け込んだロレンツァだったが、その時、驚いて追いかけて来た若い男に声をかけられた。  なるほどロレンツァはローマ近郊出身のイタリア人であったので、当時の習慣や服装、それに流行から外れた特異な生活をずっと営んで来た。だからロレンツァの恰好は欧州の女というよりは東洋の女のようだった。つまりゆったりとした大げさな恰好をしており、可愛い人形さんたちとはあまり似ていなかった。人形たちときたら長いブラウスの腰を雀蜂のようにぎゅっと絞り、揺れ動く絹やモスリンの下に目を凝らしても一見すると肉体も野心も存在するようには見えないのである。  だからロレンツァが受け入れた、もとい採り入れたフランスの流行りものは、二プスのハイヒールだけであった。この耐え難い靴ときたら足も反るしくるぶしもすぐ痛くなるしで、この神話じみた世紀にあってアルペイオスたちに追われて逃げるアレトゥーサたちに耐え難い思いをさせていた。  つまり我らがアレトゥーサを追いかけたアルペイオスが追いつくのは容易かったのである。繻子とレースのスカートから伸びた見事な足、髪粉のつけられていない髪、頭から首まで覆ったケープから覗く異国の炎に燃えた瞳。そんなロレンツァを見て、きっと変装して仮装舞踏会か逢い引きに向かう途中に違いない、辻馬車が見つからず歩いて郊外の家まで行くつもりなのだと考えた。  そこで男はロレンツァのそばまで寄って帽子を取った。 「お待ちなさい! そんな歩きづらい靴を履いていては、とても遠くまでは行けませんよ。馬車のあるところまで腕を貸して差し上げますから、どうかご案内させて下さい」  ロレンツァは慌てて振り返り、たいていの女性には無礼に感じられそうな申し出を口にした男を、黒く澄んだ目で見つめ、立ち止まった。 「お願い出来ますか」  若い男が慇懃に腕を差し出した。 「どちらまで?」 「警察長官の邸まで」  若者が震え上がった。 「ド・サルチーヌ氏のところに?」 「名前は知りません。ただ警察長官とお話ししたいんです」  若者は考え込み始めた。  若くて美しいご婦人が、異国風の服装をして、夜の八時に腕に小箱を抱えてパリの街路を走り、警視総監の邸をたずねていながら、そこに背を向けているのが疑わしい。 「警視総監の邸はここらへんではありませんよ」 「では何処に?」 「フォーブール・サン=ジェルマンです」 「フォーブール・サン=ジェルマンにはどうやって行けばいいのでしょう?」 「ここからなら――」相変わらず丁寧とはいえ平板な態度に変わっていた。「馬車を拾った方がいいでしょう……」 「馬車。仰る通りね」  若者はロレンツァを大通りまで連れて行くと、辻馬車を見つけて声をかけた。  御者が合図に応えてやって来た。 「どちらまで、マダム?」 「サルチーヌ氏の邸まで」若者が答えた。  若者は最後まで礼儀を忘れずに、いや、驚きを隠せずに扉を開け、ロレンツァにお辞儀して乗り込むのに手を貸してから、馬車が遠ざかってゆくのを夢か幻でも見ているように見つめていた。  御者はその恐ろしい名前には一目置いていたので、馬に鞭をくれて目的地に向かって走らせた。  ロレンツァがロワイヤル広場を通り、アンドレが催眠状態の中で見聞きしたロレンツァの行動をバルサモに知らせていたのは、こうした時であった。  二十分後、ロレンツァは邸の門前にいた。 「待っていましょうか?」御者がたずねた。 「お願い」ロレンツァは機械的に答えた。  そして軽やかに、豪華な邸の大門をくぐった。 第百二十三章 ド・サルチーヌ氏の邸  中庭に入ると、指揮官代理や兵士に囲まれていた。  ロレンツァは近づいて来た近衛兵に話をして、警視総監に案内を乞うた。近衛兵がスイス人衛兵にロレンツァを引き渡すと、スイス人衛兵はこの美しく風変わりで華やかな服装をして立派な小箱を抱えた女性を見て、無意味な訪問ではなさそうだと判断し、大階段を上らせて控えの間に通した。ここを訪れる者なら誰でも、スイス人衛兵の鋭い審査の後、昼夜を問わずド・サルチーヌ氏に釈明や密告や請願を届けることが出来た。  最初の二つの訪問理由が最後のものより喜ばれることは言うまでもない。  ロレンツァは取次にたずねられても、たった一言しか答えなかった。 「サルチーヌ氏ですか?」  取次の黒服や鉄鎖と、警視総監が身につけている刺繍入りの服や灰色の鬘を間違えられたことに、取次は驚きを隠せなかった。だが大尉に間違われて腹を立てる中尉などいないし、ロレンツァの外国風のアクセントにも気づいていた。それに力強く揺らぎのない瞳は狂人のものではない。どうやら大事そうに腕に抱えている小箱に、何か重要なものを入れて運んで来たのだろうと見当をつけた。  だがサルチーヌ氏は慎重で疑り深い人間であったし、イタリア美女のような魅力的な餌を撒いて罠を掛けられたこともこれまでに何度もあったので、厳重な警戒態勢を敷いていた。  そこでロレンツァは半ダースもの秘書や従僕から、確認や尋問や疑いを向けられた。  いろいろとやり取りをした結果わかったのは、サルチーヌ氏は帰っていないので、待たなくてはならないということだった。  そこでロレンツァはむっつりと黙り込み、広々とした控えの間の飾りのない壁に目を彷徨わせた。  ついに呼び鈴が鳴った。馬車が中庭に乗り入れられ、やがてサルチーヌ氏が待っている旨を別の取次が伝えた。  ロレンツァは立ち上がり、二つの広間を横切った。そこには疑わしい顔つきをしてロレンツァ以上に変わった恰好をした人々が溢れていた。やがて、幾つもの蝋燭が灯された八角形の大きな執務室に案内された。  五十代前半、部屋着姿、髪粉と巻き毛がふんだんにくっついている大きな鬘をかぶった男が、背の高い家具の前に坐って仕事をしていた。家具の上部は洋服箪笥のようになっており、そこに嵌められた二枚の鏡板を使えば、部屋に入って来た人々のことを仕事を続けながら見ることが出来るので、訪問者が取り繕った顔を作る前に表情を観察することが出来た。  家具の下部は書き物机になっている。奥には紫檀の抽斗が並び、そのいずれにも文字合わせ錠がついていた。サルチーヌ氏はそこに書類や暗号を仕舞い、自分の生きている間は誰にも読めないようにしていた。本人にしか抽斗を開けることは出来ないので、死後は誰にも読むことは出来なくなる。開けるための暗号は、ほかの秘密にも増して厳重に抽斗に仕舞ってあった。  この書き物机、というよりは洋服箪笥と言うべきか、上部の鏡の下には十二の抽斗があり、外からはわからない仕組みでこちらも施錠されていた。これは化学や政治の秘密を仕舞うためにわざわざ摂政が作らせたもので、大公からデュボワに、デュボワから警視総監ドンブルヴァル氏に譲られたものである。そして後者からサルチーヌ氏がこの家具と秘密を引き継いだのである。ただしサルチーヌ氏は寄贈者が亡くなるまでは家具を使うことに同意しなかったし、その時でさえ錠前の並びをすっかり変えさせてしまっていた。  この家具のことは世間でも評判になり、厳重に閉ざされているのはサルチーヌ氏が鬘を仕舞うためにほかならない、と噂された。  当時山ほどいた批判者たちは、もし羽目板を透視できたならば、抽斗の一つにあの条約が見つかるに違いないと取り沙汰していた。忠実な警官であるサルチーヌ氏の仲立ちでルイ十五世が小麦に投機していたというあれである。  要するに、ロレンツァが青ざめた深刻な顔で小箱を抱えて近づいて来るのを、警視総監氏は鏡に写して見ていたのだ。  部屋の真ん中まで来ると、ロレンツァが立ち止まった。その服装、その姿形、その歩き方に、総監は強い印象を受けた。 「どなたかな?」鏡を見たまま振り返らずにたずねた。「何のご用でしょうか?」 「こちらにいらっしゃるのは警視総監のサルチーヌ氏でしょうか?」 「如何にも」サルチーヌ氏は簡潔に答えた。 「確かですか?」  サルチーヌ氏が振り返った。 「あなたがお探しの人間が私であるという証拠に、監獄に放り込まなくてはなりませんか?」  ロレンツァは返事をしなかった。  母国の女に相応しい気品に溢れた態度で周囲に目を走らせ、サルチーヌ氏から勧めてもらえなかった椅子を探した。  その視線だけで充分だった。ダルビー・ド・サルチーヌ伯爵はそれほど気高い男だったのである。 「お坐り下さい」と、出し抜けに椅子を勧めた。  ロレンツァは椅子を引き寄せ腰を下ろした。 「では手早くお話し下さい。ご用件は?」 「あなたに保護していただきたいんです」  サルチーヌ氏は持ち前の皮肉な目で眺めた。 「ははあ!」 「閣下、私は家族の許から攫われ、偽りの結婚によって三年前からある男に虐待されて来たんです。死んでしまいそうなほど苦しい毎日でした」  サルチーヌ氏はロレンツァの気高い顔立ちを見つめ、歌うようにまろやかな声の響きに感銘を受けた。 「ご出身は?」 「ローマです」 「お名前は?」 「ロレンツァ」 「ロレンツァ何ですか?」 「ロレンツァ・フェリチアーニ」 「ご家族のことは存じませんな。ドモワゼルでよろしいですね?」  この時代、ドモワゼルとは良家の子女を意味する。今日の女性たちは結婚しただけで威厳を覚え、マダムと呼ばれることしか考えない。 「ドモワゼルです」 「それで、ご用件とは?……」 「私を監禁した男に裁きをお願いします」 「何とも言えませんな。あなたはその男の妻なのでしょう」 「少なくとも当人はそう言ってます」 「言っているのは当人だと?」 「ええ。私にはそんな記憶はありません。眠っている間に婚姻が交わされたんです」 「よほど眠りが深いんでしょうな」 「何ですか?」 「やはりこちらでは何にも言えません。辯護士にご相談下さい。家庭の問題に巻き込まれるのはご免こうむりたい」  そう言うと、サルチーヌ氏は出て行くように合図をした。  ロレンツァは動こうとはしなかった。 「どうしたんです?」サルチーヌ氏は驚いてたずねた。 「まだ話は終わってません。ここに来たからには、つまらないことで不満を洩らしているわけではないことをわかっていただかなくてはならないんです。ここに来たのは復讐するためです。私が何処の生まれかは申し上げました。故国《くに》の女たちは復讐を成し遂げこそすれ、不満など洩らしません」 「それはそれとして、端的にどうぞ。私の時間は貴重なのです」 「保護していただきたいと申し上げました」 「誰から保護せよと?」 「復讐するつもりの男からです」 「では力のある男なのでしょうな?」 「国王よりも力のある男です」 「どうやら話をする必要がありそうだ……お説によれば国王よりも力があるそうだが、そんな男からあなたを保護し、何やら犯罪らしき行為のために擁護の手を差し伸べるとでも? 復讐しなくてはならないというのなら、おやりなさい。関わるつもりはない。ただし罪を犯すというのなら、止めなくてはならない。それから話をするとしましょう。そういう段取りで如何です」 「いいえ、あなたには止めることは出来ません。出来ませんとも。私が復讐を果たすことが、あなたや国王やフランスにとっても大変な意味を持つのですから。この男の秘密を明かすことこそが復讐なんです」 「なるほど! 秘密があるのですか」サルチーヌ氏は思わず興味を示した。 「大変な秘密です」 「どういった方面の秘密でしょうか?」 「政治に関することです」 「お話し下さい」 「では、保護していただけるのですね?」 「どのような種類の庇護がお望みですか?」警視総監は冷たい笑みを見せた。「お金? それとも愛情?」 「私の望みは修道院に入ることです。そこで人知れず引き籠もって生を送ることです。修道院を墓として、俗世間の誰にも暴かれずに過ごすことです」 「うん、難しい要求ではない。修道院に入れますよ。お話し下さい」 「約束して下さいますね?」 「そう申し上げたと思いましたがね」 「では、この小箱をお取り下さい。国王や王国の安全を脅かすような秘密が入っております」 「どのような秘密かご存じですか?」 「形だけですが、秘密が存在することは知っています」 「そして重要であることも?」 「恐ろしいということをです」 「政治上の秘密と仰いましたな?」 「秘密結社があるとお聞きになったことはありませんか?」 「メーソンの結社ですか?」 「目には見えない結社です」 「聞いてはいますが、信じてはおりません」 「この小箱を開けていただければ、お信じになるはずです」 「ふむ!」  サルチーヌ氏は鋭く叫び、ロレンツァの手から小箱をつかんだが、不意に考え込むと、机の上に小箱を置いた。 「いや――」疑わしげに呟き、「やはりあなたがご自分でお開けなさい」 「でも鍵がありません」 「鍵がない? 王国の安全を仕舞い込んだ小箱を持って来ながら、鍵を置いて来たとは!」 「では錠を開くのは難しいのでしょうか?」 「いや。開け方を知っていれば何と言うことはありません」  それからすぐに話を続けた。 「ここに万能鍵がある。一つお貸ししますから、ご自分でお開けなさい」話している間も、ロレンツァから目を離さなかった。 「お貸し下さい」  サルチーヌ氏はいろいろな形状の鍵のついた鍵束をロレンツァに手渡した。  手渡す時にロレンツァの手に触れたが、それは大理石のように冷たかった。 「しかしどうして鍵を持って来なかったのです?」 「持ち主が絶えず身につけていましたから」 「その国王より力を持っているという小箱の持ち主は何者なんです?」 「あの人はあの人、それしか言えません。あの人がどれだけの時間を過ごして来たのか知っているのは永遠のみ。あの人が成し遂げたことを目に出来るのはただ神だけです」 「だが名前は? 名前です」 「名前なら何度も変えていました」 「ひとまずあなたがご存じの名前は?」 「アシャラ」 「住まいは?」 「サン=……」  俄にロレンツァが震え出し、手に持っていた小箱と鍵を取り落とした。答えようとしたが、口元が引きつるばかりだった。口から出かかっている言葉を締めつけようとでもするように、両手を喉元に当てた。それから震える腕を掲げたかと思うと、一声もあげずに、絨毯の上に倒れ込んだ。 「いったいどうしたんだ? しかし本当に綺麗なご婦人だ。ふん、ふん、どうやらこの復讐には嫉妬が絡んでいるな!」  すぐに呼び鈴を鳴らして抱え上げた。目は見開かれ、口唇は動かず、とうにこの世から旅立ってしまったように見える。  従僕が二人やって来た。 「こちらのご婦人を慎重に運んでくれ。隣の部屋がいい。意識を回復させてくれ。だが乱暴はいかん。さあ行け」  従僕たちが指示に従ってロレンツァを運び出した。 第百二十四章 小箱  一人になったド・サルチーヌ氏は、物の価値をわかっている人間らしく小箱をためつすがめつした。  それから手を伸ばして、ロレンツァが落とした鍵束を拾った。  一つずつ試してみたが、どれも合わない。  そこで抽斗からほかに三つか四つ鍵束を取り出した。  これらの鍵束にはありとあらゆる種類の鍵があった。家具の鍵や小箱の鍵ももちろんある。ごく普通の鍵から極小の鍵まで、サルチーヌ氏なら世に知られたあらゆる鍵の見本を持っていそうだ。  二十、五十、百……幾つも小箱に試してみたが、鍵が回ることすらなかった。この錠は見せかけなのではないか、ということはこの鍵束も玩具でしかない。  そこで抽斗から鑿と槌を取り出し、ゆったりとしたレースの袖口から白い手を伸ばし、小箱の番人である錠前を跳ね飛ばした。  すると紙の束が姿を見せた。悪意のある仕掛けが飛び出したり命に関わる毒の香りが立ちのぼったりして、フランスの中枢を担っている役人を亡き者にするつもりなのではないかという恐れは、杞憂に終わった。  最初に目に飛び込んで来たのは、どうやら筆跡を隠しているらしき次のような文章だった。  親方《マスター》、バルサモの名を捨てるべき頃合いです。  署名の代わりにL・P・Dの三文字があるだけだ。  サルチーヌ氏は鬘の巻き毛をいじった。「この筆跡に見覚えはなくとも、この名前には聞き覚えがある。バルサモか、Bの項目を見てみよう」  二十四の抽斗の一つを開けて、小さな名簿を取り出した。アルファベット順に細かい字で三、四百の略号が並び、その前後に夥しい覚書が記されている。 「これか! バルサモの項目は随分と長いな」  目に見えて不満を表しながらそのページを読んだ。  やがて名簿を抽斗に戻し、再び小箱の中身に取りかかった。  それほど経たずして、目の色が変わった。やがて幾つもの名前や数字が書き込まれた紙切れが見つかったのだ。  これは重要だと直感した。余白いっぱいに鉛筆で記号がつけられている。サルチーヌ氏は呼び鈴を鳴らした。召使いが現れた。 「大急ぎで大法官府の助手を呼んでくれ。時間を節約するために、事務室から広間を通って来てもらいなさい」  従僕が立ち去った。  十分後、事務員が到着した。手に羽根ペンを持ち、帽子を脇に挟み、大きな名簿を反対脇に抱え、制服の袖の上に古びた黒サージの袖を重ねている。サルチーヌ氏は鏡の中にその姿を認めて、肩越しに件の書類を手渡した。 「内容を読み取ってくれ」 「かしこまりました」  解読を任されたのは、痩せた小男だった。口唇は薄く、考え込む時には眉を寄せ、上と下が尖った青白い顔をして、顎の線は細く、額は後退し、頬骨が張り、目は落ち窪んで生気がなかったが、それが時折り輝いた。  サルチーヌ氏はラ・フイヌと呼んでいた。 「坐ってくれ」手帳、暗号表、覚書、羽根ペンをもてあましているのを見かねて声をかけた。  ラ・フイヌはちょこんと腰掛けに坐り、足を閉じて膝の上で何か書きつけながら、真剣な顔をして辞書や覚書をめくり始めた。  五分後には、以下の文章を書きあげていた。  § 三千人の同胞をパリに集めること。  § 三つの交友会と六つの支部を作ること。  § 大コフタに護衛をつけ、四つの住居を用意し、そのうちの一つは王家に設えること。  § 警察対策として五十万フラン用意すること。  § 文学と哲学の精華を残らずパリの第一交友会に登録すること。  § 役人を買収するか官職を買うこと、特に警視総監については買収、暴力、陰謀の如何なる手段を用いても確保すること。  ラ・フイヌはここでいったん書くのをやめた。考え込んだわけではない。そうしないように普段から気をつけていた。考え込むのは犯罪も同然だ。そうではなく、ページが埋まったのでインクが乾くまで待たなくてはならなかったのだ。  サルチーヌ氏は我慢できずに手から紙をもぎ取り読み始めた。  最後の文章を読んで、顔に恐怖を浮かべ、青ざめた顔が鏡に映っているのを見て青ざめた。  その紙は返さずに、真っさらな紙を手渡した。  ラ・フイヌは再び解読の結果を書き留め始めた。あまりにも易々と解いているものだから、暗号製作者ならぞっとするに違いない。  サルチーヌ氏はそれを肩越しに覗き込んで読んだ。  § バルサモの名前はパリで捨てること。大分知られて来てしまった。代わりにド・フェ……  後半はインクの染みで潰れてしまっている。  見えない部分に何という単語が隠されているのか考え始めた瞬間、外で呼び鈴が鳴り響き、従僕が来客を告げた。 「ド・フェニックス伯爵です!」  サルチーヌ氏は声をあげ、鬘が乱れるのも気にせずに頭の上で手を組むと、大急ぎでラ・フイヌを隠し扉から追い出した。  それから机に戻って従僕に返事をした。 「入ってもらいなさい!」  数秒後、鏡の中に険しい顔をした伯爵の姿が見えた。デュ・バリー夫人の認証式でちらっとだけ見たことがある。  バルサモは躊躇うことなく部屋に入って来た。  サルチーヌ氏は立ち上がり、素っ気なくお辞儀すると、足を組んでわざとらしく椅子にもたれかかった。  一目見ただけで訪問の理由も目的も見当がついた。  バルサモの方でも、机の上の小箱の蓋が開いて中身が空けられていることに、一瞬で気づいていた。  小箱に目を走らせたのは一瞬とはいえ、警視総監の目を盗むことは出来なかった。 「このたびはどういったご用件でご訪問いただいたのでしょうか、伯爵殿?」 「閣下」バルサモは愛想よく微笑んだ。「私はこれまで、欧州の君主、大臣、大使の方々にご紹介いただく名誉を授かって参りました。しかしながらあなたに紹介して下さる者がおりませんので、自ら紹介に与りに参ったという次第です」 「それはまた、実にいい頃合いにいらっしゃいました。あなたからおいでいただかなくとも、こちらにいらっしゃるようお呼びしようと思っていたところでした」 「へえ! そいつは恐ろしい偶然ですね」  サルチーヌ氏はにやりと笑って一揖した。 「何かお役に立てることでもあるのでしょうか?」バルサモがたずねた。  その言葉には昂奮や不安の影もなく、微笑みをたたえた顔には一点の曇りもよぎらなかった。 「伯爵殿は幾つも旅をなさっているとか?」 「幾度となく」 「なるほど!」 「もしや地理に関する情報をお求めでしたか? あなたほどの方でしたら、フランスのみならず、欧州や、全世界……」 「地理ではありません、伯爵殿。むしろ道徳と言った方が正確かと」 「遠慮なさらずとも結構。いずれにしましても、何なりとお聞きしましょう」 「いいでしょう。非常に危険な人物を探しているものとお考え下さい。その男は無神論者であるうえに……」 「ほう!」 「謀反人であり」 「ほほう!」 「偽造犯であり」 「むう!」 「姦通者であり、贋金造りであり、偽医者であり、いかさま師であり、結社の首領なのです。この名簿にもこの小箱の中にも、至るところにその人物の記録があるのですよ」 「ああなるほど、わかりますよ。記録はあるが、本人は見つからないというわけだ」 「如何にも」 「しかし重要なのは本人の方ではありませんか」 「そうですな。だがもうすぐ捕まえてご覧にいれますよ。いやそれにしても、如何にプロテウスでもこの怪人ほど様々な姿はしていないでしょうし、ゼウスといえどもこの旅人ほど多くの名前は持ってはおらぬでしょうな。エジプトではアシャラ、イタリアではバルサモ、サルディニではソミーニ、マルタではダンナ侯爵、コルシカではペレグリーニ侯爵、そして……」 「そして……?」バルサモがたずねた。 「この最後の名前がよく読み取れないので、ご協力いただけないかと考えておるのですよ。何しろあなたは旅行中に、今名前を挙げた国々でこの男に会っているに違いないのですから」 「少し手がかりをもらえますかね」バルサモは平然としていた。 「いいでしょう。お知りになりたいのは見た目の特徴でしょうね、伯爵殿?」 「ええ、お願いします」 「わかりました」ド・サルチーヌ氏は探るような目でバルサモを睨んだ。「この男はあなたぐらいの年齢で、あなたぐらいの体格で、あなたのような顔立ちをしています。ある時は金をばらまく大領主、ある時はこの世界の理を探るいかさま医師、ある時は国王の死と王権の転覆を密かに誓う秘密結社の構成員」 「曖昧ですね」 「曖昧?」 「その特徴に適う男にいったいどれだけ会ったと思っているんですか」 「ああ、なるほど!」 「そういうことです。協力を望まれるのでしたら、もっと詳細に教えていただかないと。例えばそうです、この男が暮らしている国は主に何処なんです?」 「あらゆる国ですよ」 「いやしかし今現在は?」 「今現在はフランスです」 「フランスで何を?」 「巨大な陰謀を指揮しています」 「それこそ手がかりだ。それがどんな陰謀なのかがわかれば、糸を手繰って、可能性をしらみつぶしに当たることで、その男を見つけられますよ」 「異論はありませんな」 「異論はない? だったらどうして人の意見など求めるんです? 無意味だ」 「まだ迷っているからですよ」 「いったい何を?」 「つまりですな……」 「ええ」 「この男を逮捕すべきか、否か」 「逮捕すべきか否か?」 「そうです」 「逮捕しない理由がわかりませんね、警視総監殿。陰謀を企てていると言うのなら……」 「それは事実です。だが名前や肩書きによって守られているとしたら?」 「そういうことですか。それにしてもその名前や肩書きというのは? 捜索に協力するにはそれを教えていただかないと」 「それは既に申し上げました。隠し名は知っているのです。だが……」 「だが通り名がわからない、と?」 「その通り。それがわからないと……」 「それがわからないと、逮捕が出来ないと?」 「すぐには無理です」 「なるほどね、サルチーヌ殿、先ほどあなたが言われたように、ちょうどこの瞬間ここに来たのは運が良かったようですね。どうやらおたずねの点でお役に立てそうな気がします」 「あなたが?」 「ええ」 「つまり名前を教えていただけるのですか?」 「ええ」 「現在使っている通り名を?」 「ええ」 「では名前をご存じなんですな?」 「間違いなく」 「教えていただけますか?」どうせでたらめだろうと思いながらサルチーヌ氏はたずねた。 「ド・フェニックス伯爵」 「何ですって? それはあなたが名乗った名前では……?」 「如何にも。私はそう名乗りました」 「あなたの名前なのですか?」 「私の名前です」 「つまり、このアシャラ、ソミーニ、ダンナ侯爵、ペレグリーニ侯爵、ジョゼフ・バルサモというのは、あなたなのですか?」 「いけませんか」バルサモは悪びれずに答えた。「この私ですよ」  サルチーヌ氏はこの厚かましい告白を聞いて眩暈を覚え、頭を冷やすのにしばらくの時間が必要だった。 「予想はしていましたよ。あなたのことは存じ上げていましたし、バルサモとフェニックス伯爵が同一人物なのはわかっていました」 「凄い! たいした政治家ですよ、あなたは」 「そしてあなたはたいした考えなしですな」サルチーヌ氏は呼び鈴に近づいた。 「考えなし? どうしてまた?」 「これからあなたを逮捕するからです」 「そいつは参った!」バルサモは呼び鈴と警視総監の間に立ちふさがった。「逮捕するんですか?」 「悪あがきを! どうやって逃げるつもりです? お聞かせ願いたいものですな」 「聞いてるんですかね?」 「無論」 「ああ、警視総監殿、あなたの頭を吹っ飛ばすつもりなんですよ」  バルサモはポケットから金で象眼された拳銃を取り出した。ベンヴェヌート・チェリーニの手になる仕事のようだ。ゆっくりと狙いを定められて、サルチーヌ氏は青ざめて椅子に坐りこんだ。 「さて」バルサモはそばまで別の椅子を引き寄せて腰を下ろした。「では腰を据えて、ちょっとお喋りをしようじゃありませんか」 第百二十五章 お喋り  ド・サルチーヌ氏はしばらく衝撃から立ち直れなかった。まるで拳銃の中を覗き込もうとでもしているように銃口を見つめ、額にひんやりとした鉄の筒の感触すら覚えていた。  ついにサルチーヌ氏が口を開いた。 「残念ながらこちらに分がありますよ。相手がどんな人間かわかっていながら、当たり前の悪党にするような用心をしていないのがその証拠です」 「ははッ! 苛立ってますね。悪党呼ばわりとはご挨拶だ。だが自分がどれだけ不当なことをしているのかおわかりではないらしい。私は手助けをしに来たんですよ」  サルチーヌ氏が身じろぎした。 「手助けです」バルサモは続けた。「あなたはそこを誤解している。私を陰謀家呼ばわりするんですからね。陰謀家どころか、むしろ陰謀を密告しに来たというのに」  だがバルサモがいくら話そうとも、今のところサルチーヌ氏の注意を引くには至らなかった。普段であれば食いつきそうな「陰謀」という言葉にも、耳がぴくりと動いたただけであった。 「私が何者かご存じなのであれば、フランスでどんな任務に就いているのかもおわかりのはずだ。フリードリヒ大王陛下から遣わされた、いわばプロイセン国王陛下の私的大使のようなものです。そして大使とは聞き込み屋のようなものでしてね。聞き込み屋たる者、およそ起こっていることで知らぬことはなく、なかでも詳しいのが穀物の独占なんです」  バルサモは最後の一言を何気なく口にしたのかもしれないが、それはほかの何よりも効果的だった。事実サルチーヌ氏はその言葉を聞いて反応を示したのだ。  サルチーヌ氏がゆっくりと顔を上げた。 「穀物がどうしたと仰いましたか?」会話を始めた時のバルサモのように揺らぎがなかった。「今度はこちらが教えていただきたい」 「もちろんです。つまりですな」 「お願いします」 「ですが申し上げるまでもないでしょう……有能な投機家たちが、国民のために飢饉に備えて穀物倉庫を造るべきだとフランス国王陛下に働きかけて来た結果、倉庫が建てられました。建てている間は誰もが、大きくした方がよいと考えていました。それで石も石材も惜しみなく用いられましたから、随分と大きな倉庫が出来上がりました」 「ええ、それで?」 「それで、倉庫に中身を詰め込まなくてはならなくなりました。空っぽの倉庫など意味がありませんからね。そこで倉庫が満杯にされました」 「つまり?」サルチーヌ氏には、バルサモの言わんとしていることが今以てよく見えない。 「つまり、大きな倉庫を満杯にするには、山ほどの小麦を入れなくてはならない。違いますか?」 「でしょうな」 「そこでです。小麦の流通が絶たれれば、国民は飢えてしまう。わかりませんか? 流通が絶たれるというのは、凶作も同然なんですよ。倉庫に穀物を千袋保管すれば、市場からは千袋消える。この千を十倍にしてご覧なさい、それだけで小麦はたちまち高騰してしまいます」  サルチーヌ氏が苛立たしげに咳をした。  バルサモは話をやめて、咳が治まるのをじっと待った。  落ち着くと、バルサモは話を続けた。「高騰すれば投機家さんたちは大儲けだ。火を見るよりも明らかではありませんか?」 「明らかですな。しかしどうも、陰謀や犯罪の犯人が陛下だということを告発せよと言われているように聞こえますが」 「その通りです。わかっていただけたようだ」 「何と厚かましい。実際のところ陛下があなたの告発をどう受け取られるか、非常に興味がありますな。あなたがいらっしゃる前にこの小箱の書類に目を通しながら考えていたことがあるのですが、どうやらその時と同じ結論になってしまいそうだ。お気をつけなさい、いずれの結論もバスチーユ行きですからな」 「ああ、まだわかってはいただけないようだ」 「というと?」 「勘違いなさっている、誤解されているということですよ。どうやら私のことを馬鹿だと思ってらっしゃるようだ! 国王を非難しに来たとでも思っているんですか? 大使である私が? 聞き込み屋が?……あなたの仰っていることこそ頓珍漢というものですよ。どうか最後までお聞きなさい」  サルチーヌ氏がうなずいた。 「フランス国民に対するこうした陰謀を暴いたのは……貴重な時間を割いていただいて申し訳ありませんがね、しかし一刻も無駄に出来ないことはわかっていただけたでしょう――さて、フランス国民に対する斯かる陰謀を暴いたのは経済学者たちです。彼らは極めて熱心かつ細心に、この不正行為に観察の目を注いだ結果、事を演じているのは国王だけではないことをついに発見したんです。陛下が市場ごとの穀物相場を記した正確な帳簿を持っていることもわかっています。相場が上がって十万エキュほどの利益が出れば、陛下が揉み手をして喜ぶこともわかっています。だがもちろん、国王のそばには、取引に有利な立場の人間、地位――というのはつまり、役人の地位ですが――その地位を利用して買い付け、着荷、換金を監督する人間、つまり国王の仲介をしている人間がいることもわかっています。ですから虫眼鏡越しににらめっこしている経済学者という連中もですね、国王を非難するつもりなどないんですよ。彼らも阿呆ではありませんからな。そうではなく、国王のために不正を働いている人間を、役人を、代理人を非難しているんです」  サルチーヌ氏はずれかけた鬘を直そうとしたが、上手くいかなかった。 「では本題に入りましょう」とバルサモは続けた。「警察の長であるあなたは、私がフェニックス伯爵であるということを知っており、私は私であなたがサルチーヌ氏であることを知っています」 「どういうことかな?」警視総監は戸惑いを見せた。「確かに私はサルチーヌだが。たいした問題ですな!」 「ああ、しかしわかっていただかないと! このサルチーヌ氏こそが帳簿や不正や換金を掌中にしている人間なんです。国王がそれを把握しているかどうかはともかく、本来ならば二千七百万のフランス人の胃を満たす義務があるというのに、それと引き替えに不正行為を働いているんです。考えてもご覧なさい、こんなことが明らかになったらどうなるか! 国民からはいい感情を持たれないでしょうね。国王はそれほど優しくはありませんよ。飢えた国民があなたの首を求めて声をあげれば、共犯だとしたら口裏を合わせていると疑われないために、共犯ではないとしたら正義をおこなうために、即座に絞首台に吊してしまうに違いありません。アンゲラン・ド・マリニーのことはご存じでしょう?」 「詳しくは知りませんが」サルチーヌ氏は真っ青になっていた。「私のような地位の人間に絞首台の話をするとは、随分と悪趣味なお方ですな」 「こんな話をするのも、あの気の毒なアンゲランをまた目にしているような気がするからですよ。ノルマンディの旧家に生まれた立派な貴族で、フランスの侍従にしてルーヴルの長官であり、財政と建築を任されていました。ロングヴィルの伯爵で、ダルビーのあなたの領地より大きな伯爵領の持ち主でした。本人が造ったモンフォーコンの絞首台に吊されるのを、この目で見ましたよ。繰り返し本人に訴えていたのも間違いではなかった。『アンゲラン、アンゲラン、気をつけろ! そんなに財政を刈り込んでは、シャルル・ド・ヴァロワが許さないぞ』とね。生憎と聞く耳持たなかったため、死んでしまいましたが。イエス・キリストを磔にしたポンティウス・ピラトゥスから、街灯を整え恋唄を禁止したあなたの前任者であるベルタン・ド・ベル=イル氏、ド・ブルデイユ伯爵、ブラントーム領主に至るまで、幾人もの警察長官を見て来ましたよ!」  サルチーヌ氏は立ち上がり、渦巻く動揺を隠そうとした。 「非難したいのなら非難してもらって結構。あなたのように何の関わりもない人間の言葉など痛くもかゆくもない」 「用心なさい! 何の関わりもないように見える人間があらゆることに関わっているというのもよくある話ですよ。小麦独占の一切合切を哲学者であるフリードリヒ陛下に書き送った場合のことをお考えなさい。そしてフリードリヒ陛下が手ずから註釈をつけた手紙をアルエット・ド・ヴォルテール氏に大急ぎで綴った場合のことを。ヴォルテール氏は恐らくあなたもご存じの筆で『四十エキュの男』のような喜劇をものすることでしょう。優秀な数学者のダランベール氏は、あなたがくすねた小麦だけで三、四十年にわたって一億人の人間を養えると算出することでしょう。エルヴェシウスは穀物の価値を換算して、六リーヴル=エキュ貨なら積み上げれば月まで行けるし、紙幣なら並べればサン=ペテルスブールまで届くことを証明することでしょう。その計算結果が明らかになれば、ラ・アルプには困った芝居を思いつかせ、ディドロには『一家の父』との会話を思いつかせ、ジュネーヴのジャン=ジャック・ルソーにはその台詞の鋭い部分に註釈をつけることを思いつかせるでしょう。あの人はそうしようと思った時には容赦なく咬みつく人間ですよ。カロン・ド・ボーマルシェ氏には回想録の執筆を思い立たせるでしょう。ずたずたに踏みつけられないといいですがね。グリム氏にはちょっとした手紙を、ドルバック氏には大量の警句を、ド・マルモンテル氏にはささやかな寓話を思いつかせることでしょう。下手に禁止しようとしたら殺されてしまいますよ。それがラ・レジャンスのカフェやパレ=ロワイヤル、オーディノ劇場やニコレ氏主催の国王舞踊団のところで話題に上っているところをお考えなさい。ねえ、ダルビー伯爵、あなたは警視総監だ。アンゲラン・ド・マリニーより遙かにまずい。あなたは話を聞こうとしませんでしたがね、アンゲランは絞首台の上で叫んでいましたよ。そうです、無実を訴えていたんです。あれは本心からのものだった、心からの言葉でした。あの声を聞いた私はそう信じていますよ」  その言葉を聞いたサルチーヌ氏は、これ以上は作法に構っていられなくなったらしく、鬘を取って汗まみれの頭をぬぐった。 「結構。考えを改めるつもりはない。私を破滅させられるのならすればいい。お互い証拠は握っているんだ。手札の秘密は大事に取っておき給え、私はこの小箱を預かるとしよう」 「おやおや、それも大間違いですよ。あなたほどの方が負けるのを目の当たりに出来るとは驚きましたね。この小箱は……」 「この小箱は?」 「あなたが預かることは出来ませんよ」 「ああ!」サルチーヌ氏は自嘲するように笑った。「その通りだ。フェニックス伯爵が武装した連中から金を巻き上げる胡麻の蠅だということを忘れるところだった。しかし今は拳銃が見えませんな、どうやらポケットに戻したようだ。では失礼しますよ、大使殿」 「何を今さら! 拳銃なんてどうでもいじゃありませんか、サルチーヌさん。まさか取っ組み合って力ずくで小箱を奪うつもりだとは思ってらっしゃらないでしょう。そんなことをすれば階段まで行ったところで、呼び鈴の音を聞き、泥棒だと叫ぶ声を聞くことになる。小箱があなたのものにならないと言ったのはですね、あなたが自らの意思で進んで返してくれるだろうと思ったまでです」 「進んで?」サルチーヌ氏は、壊してしまいそうなほどの勢いで、問題の小箱に手を置いた。 「ええ、進んで」 「冗談じゃない! この命と引き替えでなければ、この小箱は渡せませんな。私の命とです! これまでに危険な目には山ほど遭って来た。血の最後の一滴がなくなるまで、陛下のために尽くすつもりです。殺せるものなら殺せばいい。ただし物音がすれば人が駆けつけて来るだろうし、あなたに罪を認めさせるくらいの声ならまだ出せる自信がある。小箱を返すだと!」サルチーヌ氏は棘のある笑いを見せた。「地獄からせっつかれたってお断りだ!」 「地底の力を借りるまでもない。いま中庭の門を叩いている人の力だけで充分ですよ」  確かにドン、ドン、ドンと門を叩く音が響いていた。 「馬車ですね」とバルサモが続けた。「中庭に入って来たようだ」 「いらしたのはあなたのご友人のようですな」 「仰る通り私の友人です」 「そのご友人に小箱を返すことになるとでも?」 「ああ、ご名答、サルチーヌ殿、そうして下さい」  警視総監が馬鹿にしたような仕種をしかけたところで、従僕が慌てて扉を開けて、デュ・バリー伯爵夫人が面会を求めていることを告げた。  サルチーヌ氏はぞっとして、唖然とした顔でバルサモを見つめた。バルサモは必死になって薄ら笑いを堪えていた。  ここに従僕の後ろから、一人の女性が香水を漂わせていそいそと入って来た。自分には入室するのに許可など必要ないと信じているのだ。スカートの襞が扉にぶつかりかすかな衣擦れを立てた。 「伯爵夫人でしたか!」サルチーヌ氏は怯えたように、開いたままの小箱を握り締めて胸に押し当てた。 「ご機嫌よう、サルチーヌ」伯爵夫人が朗らかに微笑みかけた。  それからバルサモにも「ご機嫌よう、伯爵殿」と声をかけた。  するとバルサモは、差し出された白い手に親しげに顔を寄せ、国王の口唇が何度も触れいるであろうその場所に口づけした。  こうしている間を利用してバルサモは伯爵夫人に一言二言ぼそぼそと話しかけていた。低い声なのでサルチーヌ氏には聞こえない。 「あら本当! あたくしの小箱ですわ」 「あなたの小箱ですと!」サルチーヌ氏が口ごもった。 「ええ、あたくしの。あら、開けてしまったのね、そこまでしなくても!」 「ですが伯爵夫人……」 「やっぱり凄いわ。そう思っていたんですの……小箱が盗まれた時に、考えたんです。『サルチーヌのところに行けば、見つかるに違いないわ』って。あなたが見つけて下さったのね。感謝しますわ」 「ご覧のように、中まで開けていますよ」バルサモが言った。 「ええほんと。まさかそんなこと考えるなんて、ひどいじゃありませんの、サルチーヌ」 「失礼ながら確認いたしますが、強いられているわけではないのですね?」警視総監が念を押した。 「強いるだって!」バルサモが言った。「それは私に対する当てこすりですか?」 「自分が何を知っているかぐらいは承知していますからね」サルチーヌ氏が答えた。 「あたくしは何も知りませんわ」デュ・バリー夫人がバルサモに囁いた。「何があったんですの、伯爵殿? 約束なさったじゃありませんか。頼みがあったらいつでも仰るようにって。男じゃないけど二言はありません。せっかくここにあたくしがいるんですから、どうぞ何なりと仰って下さいまし」" 「伯爵夫人」バルサモはサルチーヌにも聞こえるように言った。「数日前にこの小箱と中身をお預け下さったのを覚えておいでですか?」 「もちろんですわ」デュ・バリー夫人はバルサモの眼差しに目顔で答えた。 「もちろん、ですと!」サルチーヌ氏が声をあげた。「もちろんと仰ったのですか?」 「もちろんと仰ったんですよ。伯爵夫人はあなたにも聞こえるようにはっきり口に出されたと思いますがね」 「箱には陰謀と思われるものが幾つも入っていたんですぞ!」 「ああ、サルチーヌ殿。あなたがその言葉をお嫌いなのはわかっていますよ。ですから繰り返さずとも結構。伯爵夫人が小箱の返却をご所望なのですから、お返しすればいいんです」 「返却をご希望ですか?」サルチーヌ氏は怒りで震えていた。 「ええお願い、警視総監殿」 「ですがせめておわかりいただきたいのですが……」  バルサモが伯爵夫人に目配せした。 「わからないことはわからないままにしておきたいの。小箱を返して下さる? わざわざ無駄足を踏ませないで頂戴な」 「神の御名に誓って、陛下のご利益に誓って……」  バルサモが苛々とした素振りを見せた。 「小箱をこちらに!」伯爵夫人がきっぱりと口にした。「ウイかノンです。ノンと言うつもりならようく考えてからになさいまし」 「仰せのままに」サルチーヌ氏が折れた。  サルチーヌ氏は伯爵夫人に小箱を手渡した。机の上に散らばっていた書類は、既にバルサモによって小箱に仕舞われていた。  デュ・バリー夫人がバルサモに向かってにっこりと微笑みかけた。 「伯爵殿、この小箱を馬車まで運んで下さらないかしら? それに控えの間にはぞっとするような顔つきをした人たちが並んでいるでしょう、一人で通りたくないので腕を貸して下いません? ご機嫌よう、サルチーヌ」  バルサモが伯爵夫人と戸口に向かっていると、サルチーヌ氏が呼び鈴に駆け寄るのが見えた。  バルサモは目顔でそれを制し、「伯爵夫人、サルチーヌ殿に仰っていただけませんか。小箱を返してくれと頼んだことを根に持っているんですよ。警察が動いたせいで私に何か起こりでもしたら、あなたがどれだけ悲しむか、それに総監がどれだけの不興を買うことになるかを教えて差し上げてもらえませんか」  伯爵夫人がバルサモに微笑んだ。 「今のをお聞きになりましたでしょう、サルチーヌさん? 嘘じゃありませんわ。伯爵殿はあたくしの素晴らしい友人ですもの、何か困らせるようなことでもあれば、あなたのことは許しませんよ。さようなら、サルチーヌ」  そして今度こそ、小箱を持ったバルサモに手を預けて、デュ・バリー夫人は執務室から立ち去った。  サルチーヌ氏は二人が出て行くのを黙って見守っていた。怒りを爆発させるのではないかというバルサモの読みは外れた。 「まあいい!」サルチーヌ氏は呟いた。「小箱はお前のものだ。だが女は私がいただく!」  腹いせに、千切れそうなほどの勢いで呼び鈴を鳴らした。 第百二十六章 バルサモが魔術師だとド・サルチーヌ氏が信じ始めた次第  慌ただしい呼び鈴の響きを聞いて、取次が駆け込んで来た。 「あの女は?」ド・サルチーヌ氏がたずねた。 「どの女でしょうか?」 「ここで気を失った女だ。お前に頼んでおいたはずだ」 「あの女でしたらすっかり元気になりました」 「よかった。連れて来なさい」 「どちらに伺えばよいのでしょうか?」 「あの部屋に決まっている」 「あそこにはもうおりません、閣下」 「いない? では何処にいるんだ?」 「存じ上げません」 「出て行ったのか?」 「はい」 「一人で?」 「はい」 「だが一人では立てなかったはずだ」 「気絶してからしばらくはそうでした。ですがド・フェニックス様が執務室に案内されてから五分後に、精油も気付け薬も嗅がせていないのに目を覚ましたのです。目を開けて立ち上がると、嬉しそうに息を吸い込みました」 「それから?」 「それから戸口に向かいました。引き留めるようには命じられておりませんでしたので、そのまま立ち去らせました」 「立ち去らせた? 間抜けどもが! まとめてビセートルに放り込んでやりたいくらいだ! 急げ、大急ぎでを刑事長を呼べ」  取次は命令に従って大急ぎで出て行った。 「あいつは魔術師だ……私が国王陛下の警察長なら、あいつは悪魔の警察長だ」  サルチーヌ氏にはわけがわからなくとも、読者の方々には見当がついておいでだろう。拳銃の場面の直後、警視総監が我に返るまでの一瞬の隙を利用して、バルサモは四方位を確認し、その一つにロレンツァがいることを見抜いたのだ。そして目を覚まして部屋を出て、来たのと同じ道をたどってサン=クロード街に戻るように命じたのである。  バルサモがそれを心に念じると、二人の間に磁力の流れが生じ、それを感じたロレンツァが命令に従って目を覚まし、誰にも引き留められずに退出したのだ。  その晩サルチーヌ氏は床に入ってからも血を吐きそうなほど苦しんだ。混乱が大きすぎてただでは耐えられそうになかった。後十五分そんなことが続けば卒中で死んでいたと医者なら言うことだろう。  一方、バルサモは伯爵夫人を馬車まで見送り、いとまを告げようとした。だが伯爵夫人は目の前で繰り広げられた奇妙な出来事の意味を知らぬままに、或いは知ろうとせぬままにしておくような女ではなかった。  同乗を促されたバルサモは、ジェリドを馬丁に預けて隣に坐った。 「あたくしが誠実な人間かどうか、それに人を友人扱いしたのが口先だけからなのか心の底からなのかくらいは、おわかりになりますでしょう。リュシエンヌに戻るところだったんですのよ、国王が明日の朝いらっしゃると伺ったものですから。それでもあなたのお手紙を受け取って、あなたのために取るものも取りあえず駆けつけて来たんです。サルチーヌさんに目の前で陰謀だとか陰謀家だとか言われてぞっといたしましたわ。でもまずはあなたの目配せを確認して、ご希望に添うように行動したんです」 「あなたのためにたいしたことも出来なかったのに、お釣りが来るほどのことをして下さって恐縮の至りです。だが私にとっては天の助けでした。このたびのご恩は忘れません。お礼はいつか必ず。サルチーヌ氏の言葉を真に受けてはいけませんぞ。私は犯罪人でも陰謀家でもありません。私を裏切った人物がいましてね、警視総監はその人の手からあの小箱を受け取ったのですが、中身は化学上の秘伝なんですよ。あなたには是非とも伝授したいものですな。そのまばゆい美しさ、若さを永遠に保っていただきたいと考えておりますから。それはそうと、サルチーヌ氏はあの数字の羅列を見て、大法官府の助けを借りたのですが、その役人は間違いを指摘されたくないばかりに、自己流で数字を解読したのでしょう。以前に申し上げました通り、この種の技術というのは、中世に脅かされた脅威からまだ脱していないのですよ。あなたのように若く智的な考え方の持ち主を除けば、好意的に捉えては下さいません。今回の苦境から救っていただいたお礼は、いつか必ずさせていただきます」 「ですけど、あたくしが助けに来なかったらどうなっていましたの?」 「見せしめの意味で、フリードリヒ大王陛下のお嫌いなヴァンセンヌかバスチーユに入れられるところでした。一吹きで岩をも溶かす業を使えば、無論すぐに出ることは出来ますが、それだと小箱が取り戻せません。先ほど申し上げたように、中に仕舞ってある不可解な数字には、科学上の偶然によって永遠の闇から掬い上げられた秘密が詰まっているのです」 「嬉しいと同時にほっとしましたわ。つまり若返りの媚薬をいただけますのね?」 「はい」 「いついただけますの?」 「お気が早い。二十年後にお申しつけ下さい。子供に戻りたいわけではないでしょう?」 「ほんとに素敵な方ね。最後に一つだけいいかしら。そうしたら許してあげます、どうやらお急ぎみたいだから」 「お聞きしましょう」 「あなたを裏切った人がいるって仰ったじゃない。男かしら、女かしら?」 「女です」 「まあ伯爵殿ったら。恋愛がらみなのね!」 「まあそういうわけです。嫉妬に火がついてとうとう憎しみまで抱き、ご覧になったような結果と相成ってしまいました。私を殺せないことはわかっていたから、刺し殺そうとはせずに、監獄に入れるなり破滅させるなりしようとしたんですよ」 「破滅させるですって?」 「本人はそのつもりだったようですね」 「もう停めましょうか」伯爵夫人が笑い出した。「殺せないから裏切るだなんて、血管に水銀でも流れているのかしら? 死なないのはそのせい? ここで降りますか、それともご自宅までお送りしましょうか?」 「そこまでご迷惑を掛けることは出来ません。私にはジェリドがおりますから」 「あの風よりも速いという馬のこと?」 「きっとお気に召すはずです」 「確かに素晴らしい馬ね」 「あなた以外の人には乗らせないという条件で、よければお譲りいたしましょうか」 「ありがたいけど、やめとくわ。馬には乗らないし、乗ってもおっかなびっくりなんですもの。気持だけはいただいておくわ。じゃあ十年後に、媚薬を忘れないで下さいまし」 「二十年後と申し上げましたが」 「だって諺にもあるでしょう。『明日の百より……』って。ですから五年後にいただけるのでしたらなおのこと……何が起こるかなんて誰にもわかりませんもの」 「ではご所望の折りに。あなたのためなら何でもいたしますよ」 「最後に一つだけ」 「どうぞ」 「この話をするのはあなたを心から信用しているということにほかなりません」  バルサモは既に馬車から降りていたが、苛立ちを抑えて伯爵夫人に近づいた。 「噂では、国王はタヴェルネ嬢に気があるそうね」 「まさかそんなことが?」 「聞くところによるとぞっこんだそうじゃない。ちゃんと仰って下さらなきゃ駄目よ。本当のことだとしたら、遠慮はいらないわ。どうか友人として、真実を仰って」 「いくらでも申し上げます。アンドレ嬢が国王の寵姫になることは断じてありません」 「どうして?」 「私がそれを望まないからです」 「ふうん!」デュ・バリー夫人は疑わしげだった。 「お疑いですか?」 「何の保証もないじゃありませんの?」 「科学をお疑いになってはなりません。ウイと言った時には信じて下さったではありませんか。ノンと言った時にもお信じ下さい」 「つまりあなたには……?」  伯爵夫人は言葉を止めて微笑んだ。 「どうぞ最後まで仰って下さい」 「つまりあなたには、国王のお心を翻させたり、気まぐれに抗ったりする手段がおありのね?」  バルサモの口にも笑みが浮かんだ。 「私には人を好きになる気持を生み出すことが出来ます」 「ええ、わかります」 「わかるだけではなく、信じて下さい」 「信じます」 「ありがとうございます。反感を生み出すことも出来るし、必要とあらば、不可能を生み出すことも出来るのです。ですから安心して下さい、私が目を光らせておりますから」  バルサモはこうした言葉を錯乱したように切れ切れに発していた。バルサモがどれだけ急いでロレンツァに会いたがっているのか、その燃えるような思いを知っていれば、デュ・バリー夫人もそれを予知能力ゆえの昂奮だと誤解せずに済んだはずだ。 「よかった。やっぱりあなたはただの予言者ではなく、あたくしの守護天使でしたわ。伯爵殿、いいこと、あたくしもあなたを守るから、あなたもあたくしを守って下さいな。同盟を結びましょう!」 「同盟成立です」バルサモが答えた。  そして再び伯爵夫人の手に口づけした。  それからシャン=ゼリゼーに停められていた馬車の扉を閉め、馬に乗ると、喜びにいなないた馬を駆って夜の闇に姿を消した。 「リュシエンヌへ!」元気を取り戻したデュ・バリー夫人が命じた。  バルサモの方は口笛を鳴らし、軽く膝を締めて、急いでジェリドを走らせた。  五分後には、サン=クロード街の前に到着し、フリッツを見つめた。 「首尾は?」と不安げにたずねる。 「問題ありません」目の色を読み取って答えた。 「戻っているんだな?」 「上にいらっしゃいます」 「どの部屋だ?」 「毛皮の部屋です」 「様子は?」 「疲れ切った様子でした。待ち受けていたところ、随分と遠くから全速力で走って来たようでしたから、迎えに出る間もありませんでした」 「だろうな!」 「ぎょっといたしました。奥様は嵐のようにこちらに駆け込むと、息を整える間もなく階段を上がりましたが、部屋に入ろうとしたところで急に黒い獅子皮に倒れ込みました。そちらにいらっしゃるはずです」  バルサモが急いで階段を上ると、そこには確かにロレンツァがいた。発作に襲われ為すすべもなく痙攣に悶えている。かなり前から霊気に捕らえられ、激しい動きに身を委ねていたのだ。山に押しつぶされたような苦しみに呻きをあげ、両手でそれを押しのけようともがいていた。  バルサモはそれを見るや怒りに駆られ、ロレンツァを抱えて部屋に運び入れ、隠し扉を閉めた。 第百二十七章 生命の霊薬  ロレンツァの部屋に戻ったバルサモがどのような感情を持ったのかはご存じの通りである。  そこでロレンツァを正気づかせ、無言でくすぶっている怒りをぶつけよう、怒りに囁かれるままに罰を与えてやろうと決意した時、天井が三度にわたって揺れた。帰宅を待ちかまえていたアルトタスが、話をしたいと知らせているのだ。  だがバルサモは動かなかった。間違いではないのか、たまたまではないのかと念じていたのだが、焦れたように合図は繰り返された。そこで、以前にもあったようにアルトタスが降りて来るのではないか、ロレンツァが相克する霊力によって目覚めさせられ、政治上の秘密にも劣らぬ重要な新事実に気づくのではないか、と気を揉み始めた。そこでバルサモは、こういう言い方が許されるならば、新たな霊力の帯でロレンツァを包んでから、部屋を出てアルトタスの許へと向かった。  ぎりぎりのところだった。屋根裏に通じている揚げ戸がずらされ、アルトタスが車椅子から離れて、出入り用に開けられた床の一部に屈み込んでいたのだ。  バルサモがロレンツァの部屋から出て来たのをしゃがみ込んで見ていたアルトタスは、恐怖と嫌悪の入り混じった感情を表した。  その白い顔に――まだ生きているらしきこの顔の一部に――怒りで朱が差した。骸骨のように細く節くれ立った指が、音を立てて震えた。奥まった目玉が眼窩の奥でぷるぷる揺れているようにも見え、バルサモでさえ聞いたことのないような激しい悪態がその口から撒き散らされた。  バネを動かすために椅子から降りた姿は、まるで二本の腕だけで生きて動き回っている、細くくねった手脚を持つ蜘蛛のようだ。バルサモを除けば何人も入ることを許されないその部屋から、アルトタスは下の階に降りようとしているところだった。  足の利かぬものぐさな老人が楽をするために利用していた車椅子から離れたり、世間並みの行動を取ろうとしたり、苦しい思いをして苦労してまで習慣を変えようしたりしたのは、それだけ昂奮していたからだ。そのせいで思索的な生活から離れて現実の生活に戻らざるを得なかったのだ。  それを目撃したバルサモの驚きや如何。初めこそ呆気に取られたが、徐々に不安が兆し始めた。 「ふん、そちか! 師匠をほったらかしにしおって!」  バルサモはいつものように出来るだけ心を静めて穏やかに話しかけた。 「ですが先生《モナミ》、先ほど呼ばれたばかりだと思いますが」 「友人《アミ》だと! 糞ったれめ! 確かに同輩相手のような口を利きよる。そちは友人だと思っておるのじゃろう。だが儂はな、友人どころか父親じゃぞ。そちを食わせ、育て、学ばせ、立派にしてやった父なのじゃぞ。友人だと? 嘘を言え! ほったらかして腹を空かせたまま殺そうとしおった癖に」 「先生、怒りに駆られて血を煮えくり返らせるから具合を損ねるのです」 「具合を損ねるだと! 笑わせおって! 儂が具合を損ねたことなど一度でもあったか? そちが惨めで汚らしい人間界に関わらせた時くらいじゃろう。具合を損ねるなどと! むしろ他人の具合を治す方だというのを忘れたのか?」 「とにかくこうして参りました。時間を無駄にするのはやめましょう」バルサモは冷静に答えた。 「そうじゃな。そちを呼んだのはほかでもない。時間、時間じゃよ。そちが急かしているその代物、人間一人一人に定められているとはいえ、終わりも果ても無かったらのう。だが儂の時間も流れておる。儂の時間も失われておる。他人と変わらず、一分ごとに永遠に消えてしまうのじゃよ。儂の時間くらいは永遠にあってもよいではないか!」 「とにかく先生」バルサモは自制し続けた。揚げ戸を床まで下げて傍らに降ろすと、バネを動かして部屋に戻らせた。「何のご用でしょうか? 腹を空かせていると仰いましたが、四十日間の断食の最中ではありませんでしたか?」 「さよう、そうじゃよ。若返りの準備には三十二日前から取りかかっておる」 「でしたら何が問題なのでしょうか? 雨水の入った水差しはまだそこに幾つかありますし、お一人で飲むには充分ではありませんか」 「さよう。だがな、儂のことを蚕だとでも思っておるのか? 同じ大仕事といっても、繭を作ったり成虫になったりするのとはわけが違うのだぞ。もう力もないというのに、儂一人だけで生命の霊薬を作れると思っておるのか? 横になったまま渇きを癒す水だけ飲んで衰弱しているような状態で、きちんと頭が回るとでも思っておるのか? 若返りという大仕事にはひどく神経を使うことぐらいは承知しておるじゃろうに。儂一人だけ残されても、友人の助けがなければどうにもならん」 「こうしてやって来ましたから安心して下さい」バルサモは醜い子供をあやすように、うんざりしながらアルトタスを椅子に坐らせた。「いったい何だと言うんです。さっきも言ったように、蒸留水はまだ三つ分も水差しに残っていますよ。五月にしっかりと集めておいたんですから。大麦と胡麻の乾パンもまだあるでしょう。三度するうちの二度目の刺絡も済ませましたし、あなたが処方した白い水薬も十日ごとに投与しているじゃありませんか」 「さよう。だが霊薬じゃ! 霊薬が完成しておらぬ。そちはいなかったのだから知らぬじゃろうな。そちの父御の頃の話じゃわい。そちよりよほど師匠思いであったぞ。五十年前には、一月前に霊薬が完成しておった。儂がアシャラ山に籠もっていると、ユダヤ人が金の袋と引き替えにキリスト教徒の乳呑み児を用意してくれたものじゃ。儂は儀典に則って血を抜き、最後の三滴を採取した。足りなかった成分が加えられ、こうして霊薬は完成した。このようにして、五十年前には見事に若返ることが出来たのだ。至福の霊薬を飲み下すと、身体が痙攣して髪も歯も抜け落ちた。だがすぐに新しいのが生えて来たわい。歯は完全とはいかなかったがの。それというのも喉の奥に霊薬を流し込むのに、ついつい金の管をあてがうのを怠ってしまっての。だが髪と爪は若さを取り戻すと同時に生え替わり、十五歳の頃のように力が漲って来た……だが儂は再び老い、最期の時が迫って来た。霊薬が用意できなければ、この壜に満たされなければ、心して調合に努めなければ、一世紀に及ぶ科学知識は儂と共に滅び、儂が手に入れた崇高なる科学は失われてしまうのじゃぞ! この科学さえあれば人類は儂と共に儂を通して神に近づくことも出来るというのに! よいか、儂がしくじったら、間違ったら、やり損じたら、アシャラよ、そちじゃ、原因はそちにある。覚えておくがいい、儂の怒りは凄まじいぞ。ただではおかぬ!」  脅し文句を口にすると、生気の失せた瞳に鉛色の火花を浮かべ、小さくびくりと震えてから激しく咳き込み始めた。  それを見たバルサモが必死になって介抱した。  アルトタスの咳もようやく治まった。青白かった顔色はますます蒼白になり、今回の発作で体力を奪われ死に近づいているのが目に見えるようだった。 「先生、どうぞ何でも仰って下さい」 「儂は……」アルトタスはバルサモをじっと見つめた。 「はい……」 「儂の望みは……」 「何でも言って下さい、出来ることであれば何でも言う通りにします」 「出来ること……出来ることだと!」嘲りの声をあげた。「出来ぬことなどないのだぞ」 「そうなのでしょう。時間と科学さえあれば」 「科学は手にしておる。時間だ。儂を打ち負かそうとするのは時間なのだ。薬は上手く出来た。儂の力はほとんど無くなった。白い水薬のおかげで古い組織は半ば排出された。若さとはの、春先に木々が古い樹皮の下で樹液を溜め、古い木々を押しやるようなものじゃ。徴候ははっきりしておるから、アシャラよ、そちも気づくであろう。声は弱まり、視力は半分以下に落ち、理性が飛ぶことさえある。温度の変化にも何も感じなくなってしまった。だから大急ぎで霊薬を完成させなくてはならんのだ。再び五十年目が訪れるその日には、一刻の猶予もなく百歳から二十歳に若返らなくてはならん。霊薬に必要な材料はもう揃っているし、管も作り終えておる。申したであろう、ほかに足りないのは血が三滴だけなのだ」  バルサモがぞっとしたような仕種を見せた。 「もうよいわ。子供は諦めた。もう探さんでいいぞ。好きなだけ恋人と乳繰り合っておればよい」 「ロレンツァは恋人ではありませんよ」 「ほっほっほっ、そうかそうか。世間だけでなく儂にもそう言い張るつもりか。汚れのない存在だ、と思わせたいのかもしらんが、そちも男じゃろう!」 「言っておきますが、ロレンツァは聖母のように清らかです。私はこの世の愛も欲望も快楽も、目的のためにすべて犠牲にして来たのですから。実を言えば、古い殻を破ろうと思っているんです。個人的に変わるだけじゃない、全世界を新しく作りかえて見せます」 「キ印め! こやつと来たら、そのうち蚤の変革や蟻の革命の話も始めかねんぞ。こっちは永遠の命や若さの話をしておるというのに」 「恐ろしい犯罪と引き替えにしないと手に入れられないうえに……」 「要は信じておらんのじゃろう、愚か者め!」 「そうじゃありません。それはともかく、子供を諦めると仰いましたが、どうするおつもりなのですか?」 「無垢な人間が手に入り次第じゃ。男でも女でも構わんが、やはり生娘に越したことはない。異性間の相性が原因で、そうなるらしい。急いで見つけて来てくれ、後一週間しかない」 「わかりました。検討して探してみましょう」  アルトタスの目に、先ほどよりも恐ろしい炎が燃え上がった。。 「検討して探してみるだと! それがそちの答えか。まあわかっておったわ。驚きもせん。いったいいつから被造物が造物主にそんな口を利けるようになったのだ? 儂が力なく横になって頼んでおるのがわからぬのか。そちは当てにならぬほど愚鈍なのか? ウイかノンじゃよ、アシャラ、躊躇いや嘘があれば目に出ることを忘れるな。儂にはそちの心が読めるのだからな。きっと見定めて懲らしめてくれよう」 「先生、あまり怒ると身体に毒です」 「答えろ!」 「本当のことしか言えないんです。二人とも傷ついたり破滅したりせずに先生の望んだものを手に入れられるかどうか検討してみます。先生が必要としている生娘を売ってくれる人間を探してみます。ですが罪を犯すつもりはありません。今ここで言えるのはそれだけです」 「なかなか厄介じゃの」アルトタスは冷笑を浮かべた。 「事情はご説明いたしました」  アルトタスはかなり無理をして、椅子の肘掛けに腕を置いて立ち上がった。 「ウイかノンじゃ!」 「先生、見つかればウイ、見つからなければノンです」 「儂を殺すつもりか。けちな生き物から血を三滴いただくのを惜しむばかりに、儂のような完璧な人間が永劫の深淵に沈むことになるのじゃぞ。もうよい、アシャラよ、そちにはもう何も言わん」老人は見るからにぞっとする笑みを浮かべた。「何一つ頼まん。待つことは待つとしよう。じゃがの、言うことが聞けぬというのなら、一人で何とかするまでだ。見殺しにするというのなら、自力で切り抜けてみせるわい。わかったか、のう? さっさと行け」  バルサモは脅しには答えずに必要なものを調え、水と食べ物を手の届くところに置いた。その間、忠臣が主人に、孝行息子が父親に払うような細心の注意を払っていた。それからアルトタスが考えているのとは別のことに頭を悩ませながら、揚げ戸を降ろして下に向かった。心は遠くに行っていたので、アルトタスが皮肉な目つきで同じくらい遠くまで目で追っていることには気づきもしなかった。  バルサモが眠り続けるロレンツァの許に戻ると、アルトタスが悪鬼のような笑いを浮かべた。 第百二十八章 葛藤  バルサモは痛ましい思いを胸にして立ち止まった。  感じていたのは痛ましさである。もはや激しさは失せていた。  アルトタスと修羅場を演じたことで、恐らくは人間界の無常に気づき、怒りは何処かに追いやられてしまったのだ。哲学者のしきたりに倣って、ギリシアのアルファベットを最後まで暗誦しようとした。黒い髪をしたアキレウスの巫女の神託を聞く準備だ。  それから、ロレンツァが横たわっている長椅子の前で、しばし心を静めて無言の瞑想をおこなった。 「こういうことだ。悲しいことだが態度を決めて現状とはっきり向き合わなくては。ロレンツァは俺を憎んでいる。俺を裏切ると脅して、言葉どおりに裏切った。俺の秘密はこの女の手に委ねられて、風に乗せてばらまかれちまった。まるで虎挟みに掛かった狐だな。肉と皮を残して骨だけ引き抜いたはいいが、翌朝には狩人に『狐はこの辺りにいるな。生きているか死んでいるか、一つ確かめるとしよう』と言われるのが落ちか。 「絶体絶命だな。アルトタスには理解できないだろうと思ったから、話しはしなかったが、この国の希望は粉々に砕け散ってしまう。この世の魂であるフランスの希望は、ここに眠っている女、甘い笑顔をした彫像のように美しいこの女に懸かっているんだ。俺はこの黒い天使のせいで屈辱や破滅に見舞われ、いつか逮捕、亡命、死という目に遭うに違いない。 「要するに――」とバルサモは吹っ切れたように呟いた。「損得を勘定すれば、ロレンツァは有害なのだ。 「ああ蛇よ、巻かれたとぐろは優雅だが、それで人を絞め殺すことも出来るのだ。喉は黄金色に輝こうとも、そこには毒が詰まっているのだ。だから、頼むから眠っていてくれ、目を覚まされると殺さなくてはならなくなるんだ!」  バルサモは薄笑いを浮かべてゆっくりとロレンツァに近づいて行った。すると、向日葵や朝顔が朝の陽射しに顔を向けて花開くように、愁いを帯びた目がバルサモの動きを追った。 「糞ッ! だがこの目を永久に閉じなければならんのだ。今こうして愛おしげに俺を見つめているこの目を。愛しさが消えると同時に炎が燃え上がるこの美しい目を」  ロレンツァは嫋やかに微笑み、真珠のように美しく滑らかな歯を見せた。 「だが――」と、バルサモは身をよじらせた。「俺を憎んでいるこの女を殺すということは、俺を愛している女も殺してしまうことになるんだぞ!」  胸のうちでは深い悲しみと形にならない願望が奇妙に混じり合っていた。 「いや、無理だ。誓ったのも無駄だった。脅してみても無意味だった。駄目だ、俺には殺せない。この女はこれからも生きていくんだ。ただし目を覚まさずに眠ったままで。だがそんな作り物の人生を生きてゆく方が、ロレンツァにとっては幸せなはずなんだ。さもなくば絶望が待っているのだから。俺にならロレンツァを幸せに出来るんだ! 重要なのはそれだけだ……これからのロレンツァは一つのためだけに生きてゆく……俺の手になる存在として、俺を愛している存在として、今この瞬間に生きている通りの存在として」  バルサモはロレンツァの愛しげな眼差しに優しい目を向け、ゆっくりと頭に手を置いた。  すると、ロレンツァは本を読むようにバルサモの考えを読んだらしく、深い息を吐いて静かに身体を起こし、気だるげな仕種で白く滑らかな腕をバルサモの肩に伸ばした。香しい呼気が口唇のそばをかすめた。 「駄目だ! 駄目だ駄目だ駄目だ!」バルサモは顔を覆った。額は焼けつくように熱く、目は眩んだように回っていた。「無理だ、こんな風に魅入られたような状態でいては身の破滅だ。とてもじゃないが抵抗できない。こんな誘惑者、こんなセイレーンと一緒にいては、栄光も権力も不死の力も手に入れ損ねてしまう。やはり、ロレンツァの目を覚ますよりほかはない」  無我夢中で押しやると、ロレンツァは影のようにヴェールをはためかせて、雪の一片のように長椅子に倒れ込んだ。  手練れの悪女でも、恋人の目を引くために、これ以上に効果的な姿勢を選んだりはしなかっただろう。  バルサモはそのままさらに離れることも出来た。だがオルフェウスのように振り返り、オルフェウスのように罠に嵌ってしまった! 「だが目覚めさせれば、また争いが始まるのは目に見えている。目が覚めればまた死のうとするか、俺を殺そうとするか、俺に殺させようとするに違いない。 「底なしじゃないか! 「この女の運命はもう決まっている。火で書かれた文字が読めるようだよ。死と愛か!……ロレンツァ! ロレンツァ! おまえに定められているのは愛することと死ぬことなんだ。ロレンツァ! 俺はこの手におまえの命と愛をつかんでみせる!」  答える代わりにロレンツァは立ち上がり、バルサモのところまでまっすぐ近づいてひざまずき、催眠と快楽に溺れた目を向けた。そしてバルサモの手を取り胸に当てた。 「死を!」珊瑚のようにつやつやと湿った口唇から、低い声が洩れた。「死を、ではなく愛を!」  バルサモはぎょっとして後じさり、頭を仰け反らせて、手で目を覆った。  ロレンツァはひざまずいたまま、喘ぎを洩らして後を追った。 「死を!」うっとりするような声で繰り返した。「ではなく愛を! 愛を! 愛を!」  それ以上は我慢できなかった。バルサモの心が炎に包まれた。 「もう充分だ。人間の歴史と同じくらい長い間、俺は戦って来た。おまえが未来において悪魔なのか天使なのかは知らん。だがどちらであってもおまえはそれを受け入れなくてはならないんだ。俺はもう長いこと、この身体のうちに渦巻いている熱い熱い情熱を、利己心や誇りのために犠牲にして来たんだ。畜生! そんな馬鹿な話があるか。心の奥で醸されるただの人間らしい感情に、どうして抗わなくちゃいけないんだ。俺はこの女を愛している。愛しているんだ。それなのに、この俺の激しい愛が、この世で一番の憎しみ以上にひどい結果を生むなんて。愛のせいでこの女を殺すのか。臆病者め! 俺は気違いだ。欲望と折り合いをつけることも出来ないのか。俺がいつか神の御許に向かうことになっても――詐欺師でもあり偽予言者でもある俺が、至高の審判者の前で欺瞞と偽善のマントを脱ぐ時が来ても、俺には告白すべき寛大な行いの一つもないし、永遠の苦しみを和らげてくれるような楽しい思い出の一つすらないのか! 「駄目だ、ロレンツァ。おまえを愛せば破滅することはよくわかっている。この女をこの腕に抱いた途端に、告発の天使が天まで報せに行くのはよくわかっている。 「だがロレンツァよ、おまえはそれを望むのか!」 「ああ、あなた!」とロレンツァが息を吐いた。 「ではおまえは、本当の人生を捨てて、作り物の人生を受け入れるのか?」 「ひざまずいてお願いします。この人生を、この愛を、この幸せを与えて下さい」 「俺の妻になればそれが叶うんだぞ? 何物にも増しておまえを愛しているのだから」 「わかっています。あなたの心を読みましたから」 「今後は人を前にしても神を前にしても、自分の意思や心を裏切って俺を告発するようなことは二度とないな?」 「二度とありません! それどころか人の前でも神の前でも、愛を与えてくれたことに感謝し続けます。あなたの愛こそこの世で唯一の幸せ、唯一の真珠、唯一のダイヤですから」 「自分の翼で決めたことだ、悔いはないな、白鳩よ? かつて予言者たちの顔を照らした黙示の光を探しに、エホバのおわす、輝きに満ちた場所に行くことも二度とないのだぞ。俺が未来を知りたがったり、人を操ったりする時にも、畜生! もはやおまえの声が答えることもないんだぞ。これまでのおまえは俺の最愛の女であると同時に守護天使でもあった。これからはその一つきりになるんだ、それに……」 「信じてないのね! 信じてないんでしょう! 心に疑いがあるのが、黒い染みのようになって見えるもの」 「いつまでも俺のことを愛してくれるか?」 「ずっといつまでも!」  バルサモは額に手を当てた。 「いいだろう。だが……」  しばし考え込む。 「だが、この女でなくては駄目なのか? 替えの利かない人間なのか? この女を選べば俺は幸せになれるだろうし、別の女を選べば富と力を手にすることが出来るだろう。アンドレもおまえと同じく神に選ばれた千里眼なのだからな。アンドレは若く、清らかで、男を知らない。俺はアンドレを愛してない。それでもアンドレは眠っている間は、おまえと同じように従順なのだ。アンドレはいつでもおまえの代わりに犠牲に出来る。俺にとってアンドレとは、医者の実験台のようなもので、あらゆる経験に活かすことが出来るだろう。アンドレなら遠くまで、もしかするとおまえよりも遠くまで、未知の闇の奥まで飛んで行ける。アンドレ! 俺の王国のためにお前を手に入れておこう。ロレンツァ、この腕の中に入れ。俺の妻として恋人として守ってやる。アンドレといれば俺は無敵。ロレンツァといれば俺は幸せだ。たった今この時より、俺の人生は完璧なものとなるのだ。不死ならずとも、アルトタスの夢を実現し、不死ならずとも、神と等しくなったのだ!」  そしてロレンツァを起こして腕を広げると、ロレンツァはその胸の中に飛び込み、二人は木に絡まる蔦のようにしっかりと抱き合った。 第百二十九章 愛  バルサモにとって新しい人生が始まっていた。それまではこれほど生き生きとして胸が苦しく豊かな生活など知らなかった。三日前から怒りや不安や嫉妬が増し、政治の話も陰謀の話も謀叛人の話も手につかなかった。ロレンツァのそばを一瞬たりとも離れずに、外の世界のことなどすっかり頭から抜け落ちていた。感じたことのないこの激しい恋情は、人間の世界の遙か上空を飛んでいたと言ってもいい。恍惚と神秘に満ちた、幻覚のような恋――というのも、優しい恋人を容赦ない敵に変えるにはたった一言あればいいという事実から目をそらすことは出来なかったから――自然と科学の不思議な気まぐれのおかげで憎しみから剥がれ落ちたこの恋は、忘我と熱狂にまみれた幸福のうちにバルサモを引き込んでいた。  この三日の間、何度となく、恋の麻薬に溺れたようなまどろみに包まれて目を覚ましては、微笑みを絶やさず陶然としている恋人を見つめていた。これからはバルサモが作り上げた家庭の中で、恍惚として偽りの眠りに就いたまま作り物の人生を過ごすことになる。バルサモは落ち着いて淑やかで幸せそうなロレンツァを見つめては、そのとろけるような名前を呼び、官能的な歓びにうっとりとしながら、何度となく自問していた。神の秘密を奪った現代の巨人に、神が気を悪くしないだろうか。警戒を解くために嘘で丸め込んでしまえという考えを、神はロレンツァに吹き込まなかっただろうか。そしてひとたび警戒を解いてしまえば、今度は逃げるために嘘をつき、戻って来るのは|復讐の女神《エウメニデス》としてだけでいいと吹き込まなかっただろうか。  考えている間中、古代から連綿と受け継がれて来た科学に懐疑を覚えたものの、証拠といっては目の前の実体験しかなかった。  とはいえ、愛撫を求めて渇き続ける絶え間ない炎も、やがて落ち着きを見せた。 「ロレンツァが本心を隠し、逃げようと考えているのなら、俺を遠ざける機会を窺って、一人になる口実を見つけるはずだ。だがそれどころか、ロレンツァの方から鎖のように両腕でがっちりしがみついているじゃないか。それに燃えるような目が『行かないで』と訴えているし、優しい声は『ここにいて』と囁いているじゃないか」  こうしてバルサモは己自身と科学に対する自信を取り戻した。  実際のところ、バルサモの力の源泉である魔術の極意が、何の予兆もなしに、失われた記憶や立ち消えた煙のように風に吹き飛びそうな他愛もない継ぎ接ぎになってしまったということがあり得るだろうか? ことバルサモに関することなら、ロレンツァはこれほど冴え渡っていたこともなかったし、これほど見透せたこともなかった。頭の中に流れ込んで来る思考と、心を震わせる感情を、ロレンツァは同時に再生していた。  こうした透視能力のキレが好意とは無関係なのかどうかは今のところわからない。バルサモやロレンツァから離れたところ――二人の愛によって縁取られ愛にまみれた輪とは別のところで、心の目、つまり千里眼が、新たなエヴァが堕落する以前と同じように闇を射抜くことが出来るかどうかは今のところわからない。  バルサモは敢えて確認しようとはせず、希望を持ち続けていた。希望を抱いている限りは、自らの幸せの上に星の王冠を輝かせていられる。  時々、ロレンツァがうっとりするような愁いをたたえてバルサモに声をかけた。 「アシャラ、ほかの女のことを考えているでしょう。茶色い髪をした、青い目の北部の女。いつもあなたの頭の中で私のそばを歩いているのは誰なんです?」  バルサモが優しい眼差しを向けた。 「では俺のことが見えるのか?」 「ええ、鏡に映すようにはっきりと見えます」 「だったら俺がこの女を愛しているかどうかもわかるだろう。ほら、俺の心を読むんだ、ロレンツァ!」 「それはわかりません」ロレンツァは首を振った。「だけどロレンツァ・フェリチアーニがあなたを苦しめていた頃のように、考えていることは二人の間で共有されてはいますから。あなたが眠らせて目覚めさせたがらなかった生意気なロレンツァの頃です」 「そんなことを言うな。少なくとも心から、俺はおまえのことしか考えてない。幸せが訪れてからは、すべて頭から追い出してほったらかしだ。嘘だと思うならちょっと覗いてみればいい。研究も政治も仕事もだ」 「嘘ね。あなたの仕事には私が必要だもの」 「何だと?」 「違う? 以前なら一日中研究室に閉じ籠もっていたでしょう?」 「確かにな。だが無駄な努力はやめた。その分の時間をほかのことに割くつもりだ。そうなるとその間はおまえに会えなくなるな」 「だったらどうして私を連れて行かないの? 愛情だけじゃなく、仕事のお手伝いも出来るのに。幸せだけじゃなく、力を与えることも出来るのに」 「おまえが美しいのは確かだが、ものを調べるには向いていないからだ。美と愛は神からもたらされるものだが、科学をもたらすのは調査と研究だけだ」 「魂になら何もかも見通せます」 「つまりおまえは確かに魂の目でものを見ているんだな?」 「ええ」 「賢者の石を探す手伝いが出来るんだな?」 「そのつもりです」 「いいだろう」  バルサモはロレンツァの腰に腕を回し、研究室に連れて行った。  四日前から何の管理もされずにいた巨大な炉からは火が消えていた。  窯の上の坩堝もすっかり冷えてしまっている。  失われつつある錬金術の残り火であるこうした奇怪な設備を見ても、ロレンツァは驚かなかった。まるで一つ一つの用途を知っているようだった。 「金を作ろうとしているのですか?」ロレンツァが微笑んでたずねた。 「そうだ」 「坩堝には何通りかに分けて試薬を入れているんですね?」 「すべて冷え、すべて失われてしまったがな。だが後悔はしていない」 「それはそうでしょう。金色をしているのは水銀に色がついただけですもの。固体には出来ても、成分を変えることは出来ない」 「それでも金を作ることは可能なんだろう?」 「いいえ」 「だがトランシルヴァニアのダニエルは、卑金属の精錬法をコジモ一世に二万デュカートで売ったのだぞ」 「トランシルヴァニアのダニエルはコジモ一世を騙したんです」 「だがチャールズ二世に死刑を宣告されたサクソン・ペイケンは、鉛の塊を四十デュカート相当の金塊に変えて命を買い戻し、その金塊の一部を用いて記章を鋳造した腕利きの錬金術師だ」 「腕利きの錬金術師とは腕利きの奇術師にほかなりません。鉛の塊を金の塊にすり替えれば済むことです。確実に金を作ろうと思ったら、アシャラ、あなたがやったように、世界中から奴隷に集めさせた財産を溶かせばいいんです」  バルサモはじっと考え込んでいた。 「では金属の性質を変えることは不可能なのか?」 「不可能です」 「だがそれならダイヤは?」バルサモは思い切ってたずねた。 「ダイヤは別です」 「ではダイヤを作ることは出来るんだな?」 「ええ。ダイヤを作るのは成分を変えるわけではありませんから。元々ある元素の組み立て方を変えるだけでいいんです」 「ダイヤが何の元素で出来ているのかも知っているのか?」 「もちろん。ダイヤモンドとは純粋な炭素の結晶です」  バルサモは唖然としていた。見たこともないほどまばゆい光が目の中で輝いていた。まるでその光に目が眩んだかのように、両手で顔を覆った。 「何てことだ! おまえは凄すぎる。怖いくらいだ。おまえの嫉妬を抑えるために、俺はどれほど貴重な指輪を海に捨てなくてはならないんだ? 今日はもう充分だ、ロレンツァ」 「私はあなたのものではないのですか? ご命令を」 「そうだな。来るんだ」  バルサモはロレンツァを研究室から連れ出し、毛皮の部屋を通って、頭上で音がきしきしと鳴っているのは無視して、鉄格子のついた部屋に戻った。 「それでは、ロレンツァに満足して下さったんですね、バルサモ?」 「むう!」 「いったい何を恐れていらっしゃるんですか? 仰って下さい」  バルサモは両手を合わせ、顔に恐怖を浮かべてロレンツァを見つめたが、心を読めない人間ならばようやく気づくか気づけないかというほどの表情でしかなかった。 「糞ッ! 俺はこの天使を殺すところだったのか。絶望で死なせてしまうところだったのか。幸せと全能の力の問題が同時に解決したじゃないか。可能性というのは現状の科学によって引かれた境界線を常に越え続けるのだということを忘れていた。真実というものは大抵の場合、後で事実だとわかったとしても、初めのうちは妄想のように見えるのだということを忘れていた。俺はすべてを知っているつもりだったが、何一つ知らなかったのだ!」  ロレンツァが神々しい微笑みを浮かべた。 「ロレンツァ、つまり造物主が男の肉体から女を生み出し、二人に一つの心だけを与えると言ったその謎めいたお告げが実現したんだな! エヴァは俺のために甦った。エヴァがものを考えるには俺が必要で、エヴァの人生は俺がつかんでいる紐にぶら下がっているんだ! 畜生、一人の人間には重すぎるぜ。恩恵の重みに押しつぶされてしまいそうだ」  バルサモはひざまずいて、天使のように美しいロレンツァを敬うように抱きしめた。ロレンツァはこの世のものとは思われぬ微笑みを浮かべていた。 「もう何処へも行くんじゃないぞ。闇を貫くおまえの目の下でなら、俺は安心して生きて行ける。困難な研究もおまえが助けてくれる。いや、おまえが言ったように、それを完了させられるのはおまえしかいないんだ。ひとこと言ってくれるだけで、いとも容易く実りが生まれるはずだ。金を作れなければ、それは金が均質な物質で基本元素だからだと教えてくれるだろう。神が被造物からどんな領域を隠したのかを教えてくれるだろう。広い海の底に何百年も飲み込まれたままの宝が何処に眠っているのか教えてくれるだろう。おまえの目を借りれば、真珠貝の中で真珠が玉になるのを見ることが出来るし、人間の思考が肉体という泥の層の下で大きくなるのを見ることが出来る。おまえの耳を借りれば、ミミズが地面に掘っている穴の音も聞くことが出来るし、近づいて来る敵の足音を聞くことも出来る。俺は神のように偉大になり、神よりも幸福になれるんだ。天には神の友人や恋人はいないだろうし、いくら全能でも一人きりで、せっかく作った全能の力を、同じ力を持った仲間と分かち合うことも出来ないのだからな」  ロレンツァは微笑みを絶やさぬまま、愛情に満ちた言葉を返した。 「それでも――」まるでバルサモの頭を覗いて、脳の神経が不安に震えているのを読み取ったように囁いた。「それでもやはり自信を持てないのね、アシャラ。あなたが言ったように、私たちの愛が一線を越えても、私から千里眼が失われないかどうかはわからない。でも私が駄目でもあの女がいると思って考え直したんでしょう」 「どの女のことだ?」 「金髪の女。名前を言った方がいいかしら?」 「ああ」 「待って……アンドレ」 「ああ、そうだ。確かに俺の考えを読んだようだな。最後に一つだけ気になっていることがある。おまえの目はどんな空間でも飛んで行けるのか? 物理的な障碍などは無いも同然なのか?」 「試して頂戴」 「手を貸せ」  ロレンツァはバルサモの手を力強く握り締めた。 「俺について来られるか?」 「何処へでも」 「来るんだ」  バルサモは頭の中で、ロレンツァを連れてサン=クロード街を出た。 「ここが何処だかわかるか?」 「山の上です」 「正解だ」バルサモは喜びに震えていた。「何が見える?」 「前ですか? それとも左に? 右に?」 「前だ」 「森と村に挟まれた大きな谷が見えます。その真ん中を川が流れていて、大きな城館の城壁に沿って、地平線の向こうまで続いています」 「その通りだ。これはベジネの森と、サン=ジェルマンの村と、メゾン城だ。中に入るぞ。真後ろの棟から入ろう」 「入りました」 「何が見える?」 「控えの間に、おかしな恰好をした黒ん坊がいて、お菓子を食べています」 「それはザモールだ。先に進もう」 「立派な家具のある広間です。誰もいません。戸口の上には女神とキューピッドが象られています」 「誰もいないんだな?」 「ええ」 「よし、どんどん進むぞ」 「ご婦人の寝室です。青い繻子と瑞々しい色の花で飾られています」 「ここも空か?」 「いいえ、ご婦人が長椅子に横たわっています」 「誰だ?」 「待って下さい」 「以前に見た覚えはないのか?」 「いえ、デュ・バリー伯爵夫人でした」 「そうだそうだ。わくわくして来たぞ。何をしているところだ?」 「あなたのことを考えています」 「俺のこと?」 「はい」 「すると、伯爵夫人の考えを読めるのか?」 「はい。あなたのことを考えていると申し上げました」 「どんなことを考えているんだ?」 「あなたが約束なさったことです」 「うむ。具体的には?」 「ウェヌスがサッポーに復讐するためパオンに与えた、あの美の水を約束なさいました」 「そうだ、まったくその通りだ。それで、考えながら何をしている?」 「決心しました」 「何を?」 「待って下さい。呼び鈴に手を伸ばしました。呼び鈴を鳴らすと、別のご婦人が現れました」 「茶髪か? 金髪か?」 「茶髪です」 「背は高いか? 低いか?」 「小柄です」 「伯爵夫人の姉妹《きょうだい》だ。これから話すことを聞き逃すなよ」 「馬車に馬を繋ぐように言っています」 「行き先は?」 「ここです」 「間違いないか?」 「そう命じて、その通りにされました。馬と四輪馬車が見えます。二時間後にはここに来るはずです」  バルサモがひざまずいた。 「二時間後に伯爵夫人が実際にここに来たとしたら、神よ、あなたに望むことなどもう何もない。俺の幸せを憐れんでくれるだけでいい」 「可哀相に。怖がっていたのね?」 「ああ、そうだ」 「何を恐れるというんですか? 愛は肉体的存在を完全にするだけでなく、精神的存在も成長させるんです。溢れる情熱にも等しい愛があれば、神に近づくことも出来るし、神の光を一身に浴びることだって出来るんです」 「ロレンツァ、おまえのおかげで嬉しくて気が狂ってしまいそうだ」  バルサモはロレンツァの膝に頭を預けた。  そうしてバルサモは、幸せに瑕一つないことを証明する新たな証拠を待ち続けた。  新たな証拠とは、デュ・バリー夫人の来訪である。  二時間はあっという間だった。時間の感覚はすっかり失われていた。  不意にロレンツァが震え、バルサモの手を握った。 「まだ疑っているのね。伯爵夫人が何処にいるか知りたいんでしょう?」 「ああ。その通りだ」 「大通りを全速力で駆けているところ。こっちに来ている。サン=クロード街に入って、門の前で停まり、戸を叩いています」  二人が閉じ籠もっていた部屋は音の届かない奥にあったので、銅のノッカーで敲く音が聞こえるはずもなかった。  それでもバルサモは身体を起こし、じっと聞き耳を立てていた。  フリッツが二度、飛び跳ねた。覚えておいでだろうか、二度というのは重要な訪問者が来たという合図だ。 「本当だったのか!」 「確認して来るといいわ、バルサモ。でもすぐに戻っていらして」  バルサモが暖炉に駆け寄った。 「階段口までお見送りさせて頂戴」 「来るんだ」  二人は毛皮の部屋を通り過ぎた。 「この部屋から離れるつもりはないな?」 「はい。あなたを待っています。心配しないで。今の私はあなたを愛しているロレンツァ。あなたを恐れている私とは別人です。何なら……」  ロレンツァは口を閉じて微笑んだ。 「何だ?」 「私とは違って、あなたには私の魂が見えないのでしょう?」 「もちろんだ」 「何なら、戻って来るまで眠るよう命じて下さい。長椅子の上でじっとしているよう命じてくれたら、眠りに就いてじっとしています」 「いいだろう。眠れ、ロレンツァ。戻るまで待っていろ」  ロレンツァは睡魔に襲われながらも、もう一度バルサモと口づけを交わし、ふらふらとしながら長椅子に向かい、ひっくり返るようにして倒れ込んだ。 「後でね、バルサモ、また後で」  バルサモが手を挙げたが、ロレンツァは既に眠っていた。  それにしても何と美しく純粋なのだろう。はだけた長い髪、かすかに開いた口唇、火照ったように赤らんだ頬、何処か遠くを眺めているような瞳――人間の女とは思えぬほどのその姿を見て、バルサモはロレンツァのそばに引き返し、手を取って腕や首筋に口づけをしたが、敢えて口唇には触れずにいた。  再び二度の合図が鳴った。伯爵夫人が苛立っているのか、バルサモに聞こえていないのかとフリッツが心配したのか。  バルサモは戸口に急いだ。  扉を閉めた際、前にも聞いたきしきしとした音が聞こえた気がしたので、扉を開けて確かめたが、何も見えなかった。  ロレンツァが横になり、愛の重さに喘いでいるだけだ。  バルサモは扉を閉めて応接室に急いだ。何の不安も恐れも予感もなく、心は楽園のように満ち足りていた。  だがバルサモは間違っていた。ロレンツァの胸を押しつぶし、喘がせていたのは、愛などではなかった。  それは死と隣り合わせの昏睡に陥っているせいで見たと思しき、夢のようなものであった。  ロレンツァは夢を見ていた。不吉な考えを映した醜い鏡の奥で、翳り始めた闇の真ん中に、木楢の天井が丸く開くのが見えたような気がした。大きな薔薇窓のようなものが外れて、無駄なくゆっくりと静かに、軋るような音を立てて降りていた。その丸い物体に押しつぶされそうな気がして、だんだんと息苦しさを感じていた。  ついにその揚戸の上に、『テンペスト』のキャリバンのような形を為さないものが動いているのが見えた。人の顔――老人の顔――をした怪物で、目と腕だけが生きているようだった。その恐ろしい目でロレンツァを見つめ、痩せ細った腕を伸ばして来た。  ロレンツァは身をよじったがどうすることも出来なかった。逃げることも能わず、どのような危険が迫っているのか察することも出来なかった。感じることが出来たのは、二本のかすがいが生き物のように自分を締めつけ、その先端が白い部屋着をつかみ、長椅子から引き剥がして揚戸に乗せたことだけだった。やがて揚戸はゆっくりと上昇を始め、鉄と鉄が擦れる悲痛な軋みを立ててゆっくりと天井に戻って行った。ぞっとするような甲高い笑い声が、人間の顔をした怪物の醜い口から洩れた。そのまま揺れも痛みもないまま、天井に運ばれて行った。 第百三十章 媚薬  ロレンツァの予言通り、門を叩いていたのはデュ・バリー夫人だった。  この美しき貴婦人は応接室に案内されると、バルサモが来るまで死に関する風変わりな本を眺めていた。マインツ製になるこの本には、見事な版画によって、死が男の生を掌握している様子が表現されていた。死は、恋人の手を握ったばかりの男を舞踏室の戸口で待ち伏せしていたり、水浴びをしている水の底に男を引きずり込んでいたり、狩りに持って行く銃身の中に潜んでいたりした。  一人の婦人が化粧をしたり鏡に姿を映したりしている版画まで進んだところで、バルサモが扉を開けて、にこやかに挨拶した。顔中に喜びが溢れている。 「お待たせして申し訳ありません。距離を見誤ったうえに、あなたの馬がどれだけ速いのか存じ上げませんでしたので、まだルイ十五世広場にいらっしゃるものとばかり思っておりました」 「何ですって? あたくしが来ることをご存じでしたの?」 「無論です。二時間ほど前、青繻子の寝室にいらっしゃるあなたが、馬車に馬を繋ぐようお命じになっているところを目にいたしましたから」 「青繻子の寝室にいたですって?」 「生き生きとした色の花綵が飾られている部屋です。長椅子に横たわっておいででした。その時、『ド・フェニックス伯爵に会いに行こう』という素晴らしい考えを思いつかれ、呼び鈴を鳴らしたではありませんか」 「誰がやって来たかご存じ?」 「ご姉妹《きょうだい》の方でしたな? あなたが指示をお伝えになると、直ちに実行に移されました」 「あなたって本当に魔術師なのね! 一日中あたくしの寝室を覗いてらっしゃるの? 教えて下さらなきゃ困るじゃありませんの!」 「ご安心下さい。目に見えるところしか見てはおりません」 「目に見えるところだけ覗いて、あなたのことを考えているとわかったというの?」 「はい。しかも好感をもって考えて下さっていました」 「もちろんよ。あなたのことは素晴らしい方だと思ってますもの。でも正直に言うと、それ以上に親切でかけがえのない方だと思っておりますの。あたくしの人生において保護者の役を演じて下さることになるんじゃないかしら。どう考えても何よりも難しい役どころですけど」 「返す返すも光栄に存じます。それで、お役に立てることがございますか?」 「あら!……やっぱり魔術師なのね、それとも見抜いていたわけではないの?」 「それについては差し控えさせていただけませんか」 「そういうことなら。じゃあまず、あなたのためにして差し上げたことについて話をしましょうか」 「その必要はございません。むしろ伯爵夫人についてお話を聞かせていただけませんか」 「いいわ。では差し当たっては、姿が見えなくなる石を貸して頂戴。大急ぎでここに来る途中で、ド・リシュリューさんの密使を見かけたような気がしたの」 「それで、その密使は……?」 「伝令と一緒に馬車を尾けていたわ」 「これをどうお考えになりますか? 公爵はどういう目的であなたを尾けていたのでしょう?」 「あの人流の嫌がらせをするつもりじゃないかしら。あなたは謙遜なさるけれど、あなたは王さえ妬むような幸運を神から授かっている方よ……こうしてあなたのところを訪れたり、あたくしのところに来ていただいたり」 「リシュリュー氏でしたら、如何なる場合でもあなたにとって危険はございません」 「それが危ないところでしたの。もう少しで一大事になるところだったんですから」  ロレンツァがまだ見抜いていない秘密のあることをバルサモは嗅ぎ取った。そこで見知らぬ領域にわざわざ踏み込むことは避け、微笑みによって返答に代えた。 「リシュリューさんは危険な方よ。あたくしったらもう少しで、あなたも参加していた巧妙な陰謀の犠牲になるところだったんですもの」 「私が? あなたに対する陰謀に参加したと? まさか!」 「リシュリューさんに媚薬を差し上げたのはあなたじゃありませんの?」 「媚薬とは?」 「狂えるほどの恋に落ちる媚薬です」 「それは違いますな。大方リシュリュー氏がご自分で処方なさったのでしょう。作り方はとっくの昔にご存じのはずですから。私はただの麻酔薬しか差し上げませんでした」 「本当ですの?」 「名誉にかけて」 「ちょっと待って、公爵殿はいつ麻酔薬をお求めになったの? 思い出して頂戴、重要なことなの」 「この間の土曜日のことです。ド・サルチーヌ氏のところに来ていただきたいというあなた宛ての手紙をフリッツに託した日の前日のことでした」 「あの日の前ですって! 国王がタヴェルネ嬢のところに行くのを目撃された日の前日ってことじゃない? それですっかり説明がついたわ」 「でしたら、私が関わっているのは麻酔薬だけというのもご理解いただけたでしょうか」 「ええ、あたくしたちが救われたのは麻酔薬のおかげよ」  今回ばかりはバルサモにも話の見当がつかなかったので、相手の出方を待つことにした。 「たとい偶然にせよ、お役に立てたのならこれに勝る喜びはありません」 「あら、あなたはいつだって素晴らしかったわ。でもまだしてくれていないことで出来ることはたくさんありますもの。ああ医師《せんせい》、手の込んだ言い方をすると、以前は随分と具合が悪かったものだけれど、最近になってようやく持ち直して気がするんです」 「医者は治療のために詳しい病状を知らなくてはなりません。できればどんな徴候も省かずに、どうかもっと詳しく話していただけませんか」 「幾らでもお聞かせしますわ、お医者さん。それとも魔術師さんの方がいいかしら。麻酔薬が使われた日の前日のことです、陛下がリュシエンヌに立ち寄るのを見合わせて、疲れたことを理由にトリアノンに残ったんですの。後で知ったのですが、陛下が嘘をついたのは、ド・リシュリュー公爵とド・タヴェルネ男爵と一緒に夜食を摂るためだったんです」 「そういうことか!」 「わかっていただけたわね。その夜食の間に、恋の媚薬が垂らされたに違いないの。国王はとっくにアンドレ嬢に夢中ですもの。翌日になってもあたくしに会いに来ないのは目に見えてましたわ。だからあの子の部屋で何かがおこなわれたはずなんです」 「それで?」 「それだけよ」 「何が起こったのでしょうな?」 「正確なことはわからないわ。陛下が使用人棟の方に向かわれたのを見たと言って知らせてくれた人がいるの。つまりアンドレ嬢の部屋の方ってことね」 「アンドレ嬢の住まいは存じております。それからどうなりました?」 「それからですって! 馬鹿なこと言わないで頂戴! お忍びの陛下を尾けるなんて危ない真似できるわけないじゃない」 「しかし最終的には?」 「あたくしに言えることはね、嵐の中をトリアノンまで戻っていらした陛下の顔は青ざめ、身体は震え、錯乱したように熱を出してらっしゃったってことだけ」 「国王が怯えていたのが嵐だったとは思ってらっしゃらないでしょうな?」バルサモが笑みを浮かべてたずねた。 「ええ。第一、従者が叫び声を聞いているんですもの。何度も『死んでいる! 死んでいる!』と叫んでいたそうよ」 「ああ!」 「麻酔薬だったのね。国王が死ほど恐れているものはないし、死者の姿がその次に怖いんですもの。不自然に眠っているアンドレ嬢を見つけて、死んでいると思い込んでしまったんじゃないかしら」 「なるほど、死んでいたのなら、アンドレを起こさずに逃げ出したのもうなずける。死んでいたか、または死んだように見えていたのなら。それで合点が行く。それからどうなったんです?」 「結局、その夜には何も起こらなかったの。少なくともその夜の初めには。国王はただ部屋に戻っていらして、激しい熱を出してがたがたと震えていたので、翌日になるまで何も起こらなかったんです。そのうち王太子妃殿下が陛下のお部屋を開けて、にこやかにお顔を照らす太陽をお見せしようとお考えになったんですの。でも夜のうちに生み出されていた恐ろしい幻覚は、夜と共に消え去っていたようでしたわ。 「昼頃にはかなりお元気になって、ブイヨンと山鶉をお召しになり、夜には……」  伯爵夫人はそこで口を閉じ、他人には真似できないような微笑みを浮かべてバルサモを見つめた。 「夜には?」 「ええ、前夜に恐ろしい体験をしたトリアノンにはいらっしゃりたくなかったんでしょうね、夜にはリュシエンヌにおいでになりましたの。そこであたくしは、リシュリューさんがあなたと同じくらい優れた魔術師だということに気づいたという次第なんです」  伯爵夫人の勝ち誇った顔や、優雅で嫋やかな仕種で話すのを見て、まだまだ王に対する影響力が夫人からは失われていないことを知って満足した。 「それでは、私には満足していただけたのですな?」 「それ以上よ。不可能を生み出せると仰ったのは本当のことでしたのね」  伯爵夫人は感謝の印に、香水をつけた白く柔らかい手を伸ばした。ロレンツァの手ほど瑞々しくはなかったが、その温もりには同じくらいの感情が籠もっていた。 「今度はあなたの番よ、伯爵」  バルサモは男らしくお辞儀して耳を傾けた。 「危険から守って下さったんですもの、今度はあたくしがあなたを少なからぬ危険から救って差し上げる番だったのじゃなくって」  バルサモは感情を隠して答えた。「そこまでしていただかなくとも構いませんが、仰ろうとしているのは……」 「ええそう、あの小箱」 「それがどうしましたか?」 「中に入っていた暗号を、サルチーヌさんが部下の専門家全員に解読させたんです。各々解読したところ、すべて同じ結果が出たらしいの。そこで今朝あたくしがヴェルサイユにいる時に、サルチーヌさんが解読結果と暗号事典を抱えて乗り込んで来たんです」 「それで、国王は何と?」 「初めは驚いていたみたいだけど、やがて怯えてらしたわ。陛下が物騒な話を聞かされていると、それがすぐにわかるの。ダミアンの短刀の音がして以来、誰であろうとおそばに寄って一言だけ、『お気をつけを!』と言えばいいのだもの」 「つまりサルチーヌ氏は陰謀を企んだかどで私を告発したと?」 「サルチーヌさんは最初あたくしを追い払おうとしたの。でも突っぱねてやりましたわ。陛下はあたくしに対し誰よりも愛情をかけて下さっているのだから、陛下の身に危険が迫っていることをお耳に入れるという時にあたくしを追い出す権利など誰にもありません、と言って。サルチーヌさんは反論なさいましたけど、あたくしも頑固に言い返したところ、陛下がいつものように笑みを浮かべてこちらを見つめ、仰いましたの。 『よいではないか、サルチーヌ、今日は伯爵夫人に何一つ隠さぬつもりだ』 「あたくしがそこにいるとね、サルチーヌさんとしては別れ際の挨拶を覚えていたものですから、あなたを告発したらあたくしの不興を買うんじゃないかと思ったのね。そこでプロイセン王がフランスに悪意を持っているだとか、叛逆の動きを容易にするために超自然の助けを借りようとする傾向があるだとか言うに留めたんです。一言で言えば大勢の人を告発したのね。その人たちが有罪であることは、手元の暗号が証明していると言って」 「何のとがで?」 「何の?……国家の秘密をお伝えしなくちゃなりませんの?」 「ここだけの話ですから。あなたには何の危険も及びませんよ! 口を開いても私には何の得もありませんからな」 「そうね、もちろん口は閉じているべきよ。大胆で巧妙な、腹を決めた信徒たちから成る幾つもの強力な秘密結社が、陛下に対するある噂を広めることで、陛下に支払われるべき敬意を秘密裡に破壊しようとしている――サルチーヌさんはそれを証明しようとしているの」 「噂とは?」 「一つ挙げれば、陛下が国民を飢えさせていると非難されてるんです」 「それを聞いて陛下は?」 「陛下はいつも冗談に紛らせてますわ」  バルサモは深呼吸をした。 「それはどのような冗談なのでしょうか?」 「『余が国民を飢えさせているというのなら、その非難に応えるには一つの回答しかあるまい。食糧を与えてやればよいのだ』 『どのように?』とサルチーヌさんがたずねました。 『噂を流している者たちを王国が養って進ぜよう。そのうえ住処まで提供してやろうではないか。バスチーユにな』」  バルサモは血管がぞくりと震えるのを感じたが、笑みを絶やさずにたずねた。 「それから?」 「それから、国王が笑ってあたくしの意見を聞いているようだったので、 『陛下、サルチーヌさんが持っていらしたこの黒い数字の塊が、陛下が悪い国王だと書かれているのだとは、あたくしには信じられそうにありませんわ』と答えましたの。 「すると警視総監が抗議なさいました。 「だからあたくしも、『部下の方々の解読が正しいのかどうかも証明できないじゃありませんか』と言ってやりましたの」 「国王は何と?」 「あたくしが正しいかもしれないが、サルチーヌさんも間違ってはいない、と」 「ええ」 「やがて封印状が発行されたんですけれど、サルチーヌさんがそこにあなた宛てのものを滑り込ませようとしているのをはっきり見てしまったんです。でもあたくしだって負けじと呼び止めました。 「あたくしは国王の前ではっきりと言ってやりました。『そうなさりたいのならパリ中の人間を逮捕なさればいいわ、それがあなたの仕事ですもの。でもあたくしの友人に触れようとはなさらないことです……さもないと!……』 「『おやおや! 伯爵夫人はご機嫌が斜めだぞ。気をつけるがいい、サルチーヌ!』と国王が仰いました。 「『ですが陛下、王国の利益のためには……』 「『あなたはシュリー公ではありませんし、あたくしもガブリエルではございません』あたくしは真っ赤になって怒りましたの。 「『アンリ四世を暗殺したように、陛下を暗殺しようとしている連中がいるのです』 「そう言われて国王が青ざめて震え出し、手で額を押さえたんです。 「あたくしは負けを悟りました。 「そこで『陛下、どうかお話の続きをお聞きになるといいわ。きっとこの方たち、あたくしが陛下に対して陰謀を企てていることもその暗号の中に読み取ったに違いありませんもの』と言って、退出しようとしましたの。 「それが媚薬の翌日のことなんです。国王はサルチーヌさんではなくあたくしをお選びになって、後から追いかけていらっしゃいました。 「『伯爵夫人、どうか怒らないで』 「『だったらあの男を追い払って下さいな。監獄の匂いがします』 「『仕方ない、サルチーヌ、出て行ってくれ』国王が肩をすくめて命じました。 「『今後はあたくしのところを訪れることはもちろん、声をかけることも禁止いたします』と、あたくしも畳みかけました。 「今度ばかりは警視総監も顔色を失い、へりくだってあたくしの手に口づけしましたの。 「『そういうことでしたら、これ以上はお話しいたしません。しかしあなたは国を滅ぼすことになりますぞ。あなたが断固として譲らぬ以上は、私共もあなたのご友人に敬意を表しますが』」  バルサモは物思いに沈んでいるようだった。 「これでもうバスチーユ行きを免れたといって感謝していただく必要もありませんわ。そんなの不当なだけじゃなく、不愉快なことですものね」  バルサモは何も言わずに、ポケットから血のように真っ赤な液体の入った小壜を取り出した。 「お受け取り下さい。私の自由を守って下さったお礼です。これで後二十年の若さを保つことが出来ます」  伯爵夫人は小壜をコルセットに仕舞うと、うきうきとして勝ち誇って出て行った。  バルサモはなおも物思いに沈んでいた。 「女が媚びなければ、あいつらも救われていただろうにな。あの女が小さな足で崖の底まで蹴落としたというわけか。やはり神は俺たちの味方だぞ!」 第百三十一章 血  邸の扉が閉まるのをデュ・バリー夫人が目にするよりも早く、バルサモは隠し階段を上って毛皮の部屋に取って返した。  伯爵夫人との会話が長びいたこともあるし、急いでいるのには二つの理由があった。  一つにはロレンツァに会いたい気持。二つ目にはロレンツァの体力が持たないのではないかという恐れだ。何しろ与えられたばかりの新しい人生には、麻痺状態に耐えられるだけの余裕がなかった。催眠状態からトランス状態に陥ることがあると、ぐったりとしてしまうのだ。  霊力によって身体の機能を上手く調整できなければ、トランス状態に陥ると決まって叫びをあげて苦しんでいた。  バルサモは扉を閉め、ロレンツァが横たわっているはずの長椅子に急いで目を向けた。  ロレンツァはいなかった。  肩掛けに用いていた金糸で花模様が縫い取りされたカシミアのケープだけがクッションの上に残されており、持ち主が確かにこの部屋にいたし、この長椅子の上で休んでいたことを証言していた。  バルサモは強張ったまま、空っぽの長椅子から目を離すことが出来なかった。部屋に漂っている嫌な匂いに耐えかねて出て行っただけに違いない。無意識のうちに本来の人生の習慣に従って、本能的に部屋を変えたのに違いない。  まずは先ほどまで一緒にいた研究室に戻ったのだろうかと考えた。  そこで研究室を訪れたが、見たところ誰もいないようだ。だが東洋のタペストリーの裏にある巨大な竈の陰になら、女一人くらい容易く隠れられる。  バルサモはタペストリーをめくって竈を一回りした。ロレンツァがいたという形跡すら何処にも見つけられなかった。  残るはロレンツァの寝室だ。自室に戻っているのだろう。  あそこは昨日のような状態の時だけに用いられる牢獄だった。  バルサモは部屋まで急いだが、羽目板は閉まっていた。  ロレンツァが部屋に戻っていないという証拠にはならない。何故なら、催眠状態で千里眼に目覚めているロレンツァがこの仕掛けを覚えていることは否定できないし、覚えているのなら頭の中に残っている夢の欠片に従うことも否定できないからだ。  バルサモはバネを押した。  研究室同様、部屋は空っぽだった。ロレンツァはここに足を踏み入れてさえいないようだ。  こうして、前々から心に巣食っていた悪い予感が、ロレンツァは幸せなのだという想像や期待を一掃してしまった。  ロレンツァは役を演じていたのだろう。眠っているふりをして、バルサモの心に居着いていた疑念や不安や警戒を逸らしていたのだろう。自由になる機会を得るが否や、またもや逃げ出したのだ。前回前々回の教訓を踏まえ、これまで以上に確実を期して。  バルサモはそう確信するや呼び鈴を鳴らしてフリッツを呼んだ。  フリッツがなかなか来ないことに苛立って、バルサモの方から部屋を飛び出すと、隠し階段のところでフリッツと出くわした。 「シニョーラは?」 「どういたしました?」バルサモの慌て方を見て、何かただならぬことが起こったのだとフリッツは理解した。 「見かけたか?」 「そのようなことは」 「出ては行かなかったんだな?」 「出て行くとは何処からでしょうか?」 「この家からに決まってるじゃないか」 「ここから出たのは伯爵夫人だけです。その後で私が扉を閉めに参りましたから」  バルサモは気違いのように部屋まで駆け戻った。目の覚めている時のロレンツァは眠っている時とは違い、子供っぽいことをすることもあった。隅に隠れておいて、バルサモがぎょっとしたのを読み取ったり、驚かせてからほっとさせて楽しんだりしていた。  そこでバルサモはつぶさに捜し始めた。  部屋の隅を見るのも怠らず、箪笥の中を確認するのも忘れず、衝立も移動させた。その姿は情熱のあまり理性を失った人間、もはや何も見えていない狂人、酔っ払ってふらついている人間の姿そのものだった。もはや両腕を広げて叫ぶ力しか残されていなかった。『ロレンツァ! ロレンツァ!』。そうすれば喜びの声をあげて腕の中に飛び込んで来るのではないかという望みを抱いて。  だがその異常な思いや気違いじみた呼びかけに応じたのは、沈黙だけ。陰鬱な静寂が続いているだけだった。  走り回り、家具を揺すり、壁に呼びかけ、ロレンツァの名を叫び、盲になった目を向け、利かなくなった耳をそばだて、火の消えた鼓動を鳴らし、考えることも出来ずに震え、そんな状態のまま三分が過ぎた。バルサモにとっては三世紀にも匹敵する苦悶の一時であった。  半ば気が狂ったように錯乱したまま部屋を出て、冷たい水の入った容器に手を漬け、こめかみを濡らして、動こうとする手を片手で押さえ込み、脳内で脈打つ煩わしい鼓動の音を意思の力で締め出した。命に関わって休みなく脈打つその規則的な音こそ、静と動を繰り返しているうちは生をもたらしているが、不規則になったり気にし出したりすると死や狂気が待っているのだ。 「よし、冷静になろう。ロレンツァはもういない。言い逃れはすまい。ロレンツァはいないんだ。つまり出て行ったということだ。間違いない、出て行ったんだ!」  もう一度周りに目を走らせてから、再び名前を呼んだ。 「出て行ったんだ! いくらフリッツが見ていないと言い張ろうと、出て行ったんだ。まんまと出て行っちまった。 「可能性は二つある。 「一つは実際に見なかった可能性だ。あり得ない話ではない。人間は完璧ではないからな。もう一つはロレンツァに買収された可能性だ。 「フリッツが買収されたというのか? 「ないとは言い切れん。これまで忠実だったからといって、こうした推測を否定する理由にはならん。ロレンツァや愛や科学だってここまで人を欺いたり嘘をついたり出来るのだ、脆くて意志の弱い人間という生き物が誤りを犯してもおかしくはあるまい? 「待て待て! 俺には何だって知ることが出来るじゃないか! ド・タヴェルネ嬢が残されていなかったか? 「アンドレを使えばフリッツが裏切ったかどうかわかる。ロレンツァが裏切ったかどうかわかる。今度ばかりは……愛情も偽りで、科学も誤りで、忠誠も罠だったとすれば……今回ばかりは加減も遠慮もせんぞ。慈悲を捨て去り誇りを抱いて、復讐に燃える人間として罰を与えてやる。 「そうと決まれば急いで出かけるとしよう。フリッツに気づく暇を与えてトリアノンに逃げる機会を与える必要もない」  バルサモは床に転がっていた帽子をつかんで戸口に走った。  が、慌てて立ち止まった。 「そうだ、その前に……あの老人のことをすっかり忘れていた! まずはアルトタスの様子を確認しておかなくては。狂気に駆られて異常な愛に囚われている間中、ずっとほったらかしだったからな。俺も恩知らずで薄情な男だよ」  バルサモは昂奮に駆られてかっかしながら、バネに近づいて天井の仕掛けを動かした。  やがて昇降台がするすると降りて来た。  バルサモはその上に飛び乗り、錘を作動させて上昇させたが、その間も頭はすっかり混乱しており、ロレンツァのことしか考えられなかった。  アルトタスの部屋まで来ると、老人の声が耳を打ち、悲痛な夢から引きずり出された。  ところが驚いたことに、アルトタスの第一声は覚悟していたのとは違い罵倒ではなかった。飾り気のない無邪気な歓声で迎えられたのだ。  バルサモは訝しげに師匠を見つめた。  アルトタスは車椅子に反っくり返っていた。嬉しそうに大きく息を吸い込んでいる。息をするたびに生の喜びを吸い込んでいるかのようだった。目には暗い炎が満ちていたが、口元に浮かんでいる嬉しそうな微笑みによって表情は和らげられており、そんな目つきをバルサモにじっと注いでいた。  バルサモは動揺を見せるまいと意識を集中させた。人間の弱さには厳しい人なのだ。  集中している間も、バルサモの胸に奇妙な重みがのしかかっていた。恐らく呼吸のたびに空気が汚されているせいだ。重く濁った生暖かい匂いに吐き気がする。その匂いは階下にいる時から匂っていたが、かすかに漂っているだけだった。秋になると日の出や日の入りに湖沼から立ちのぼる沼気にも似ており、粒となって窓ガラスを曇らせていた。  そうした酸っぱい空気が澱んでいるせいで、バルサモの心はくじけ、頭がぼうっとして眩暈を感じた。酸素と力がいっぺんに足りなくなるのがわかった。 「先生」バルサモは手を着ける場所を探し、大きく息を吸い込もうと努めた。「先生はこんなところで暮らしていられるのですか。息も出来ないじゃありませんか」 「そうか?」 「先生!」 「じゃが儂はたっぷり息を吸っておるぞ!」アルトタスは嬉々として答えた。「それでも生きておる」 「先生、先生」バルサモの頭がだんだんとくらくらとして来た。「くれぐれも用心して下さらなければ。窓を開けさせてもらいますよ。床から血が立ち上って来るようです」 「血か! 気づいたか!……血か!」アルトタスがからからと笑い出した。 「そうですよ! 殺されたばかりの死体から漂って来るような匂いがします! それが脳と心にずっしりとのしかかって来て耐えられそうにありません」 「そうじゃろう、そうじゃろう」老人は皮肉な笑みを浮かべた。「儂はとうに気づいておったぞ。そちの心が繊細で、脳があまりにも脆弱だということにな、アシャラ」 「先生」バルサモは真っ直ぐ老人に歩み寄った。「先生の手にも血がついてます。この卓子にも血がついてます。先生の目の中までも、炎のような血にまみれています。先生、ここに充満している匂いは――眩暈がするような匂いは――息が詰まりそうな匂いは――血の匂いですね」。 「ほう、そうか?」アルトタスは動じなかった。「血の匂いを嗅いだのは初めてか?」 「そんなことはありません」 「儂の実験を見たことはなかったか? そちも実験したことはなかったか?」 「だがこれは人間の血だ!」バルサモは汗に濡れた額を押さえた。 「そいつはたいした嗅覚だな。しかし人間の血と動物の血を嗅ぎ分けることが出来るとは思えんがな」 「人間の血です!」バルサモが呟いた。  ふらつく身体を支えようとして、バルサモは家具の出っ張りにつかまろうとした。そこで銅製のたらいに気づいてぎょっとした。その内側が真新しい血で漆のように真っ赤に輝いていたのだ。  たらいは半分ほど満たされていた。  バルサモは驚いて後じさった。 「血だ! この血はどうやって?」  アルトタスは無言だった。だがその目はバルサモの動揺や混乱や恐怖を見逃してはいなかった。突然バルサモが恐ろしい声で吠えた。  獲物に襲いかかるような勢いで部屋の一隅に駆け寄り、床から絹紐を拾い上げた。金の刺繍のあるそのリボンからは、長い黒髪の房が垂れていた。  身を切るような痛ましい悲鳴がやむと、死んだような沈黙が部屋を支配した。  バルサモは震える手でゆっくりとリボンを持ち上げ、その黒髪をよく確かめた。一端は金の髪留めでリボンの端に留められ、反対端は綺麗に切り揃えられている。赤く泡立った滴が髪の先からしたたっているところを見ると、どうやら先端が血に染まった前髪のようだ。  バルサモが手を上げるに従い、手の震えが大きくなった。  汚れたリボンに目を引き寄せられるにつれて、鉛色の顔色がさらに青ざめた。 「これがどうしてここに?」呟きの言葉は耳に届くほど大きかったため、アルトタスに問いかける形になっていた。 「それか?」 「ええ、これです」 「これは、髪を束ねる絹のリボンじゃな」 「そうではなくこの髪です。濡れていますがこれは何なんです?」 「見ての通り、血じゃな」 「何の血ですか?」 「たわけたことを! 霊薬に必要な血じゃよ。そちが拒んだ血、儂に必要な血じゃ。そちに断られたから自分で手に入れたまでよ」 「ですがこの髪は――この編み込みは――このリボンが、どうしてここに? どう見ても子供のものではありません」 「子供の喉を掻き切ったとは言っておらんぞ」アルトタスはしれっとして答えた。 「しかし、霊薬には子供の血が必要だったのではありませんか? そう仰ったではありませんか」 「または生娘の血じゃよ、アシャラ」  アルトタスは骨張った手を肘掛けに伸ばしてフラスコをつかみ上げ、その中身を嬉しそうに眺め回した。  それから穏やかで優しい声を出した。 「助かったぞ、アシャラ。この部屋の真下のすぐ手の届くところにあの女を住まわせておくとは、なかなか賢く先見の明のあるやり方じゃったぞ。これで人類は苦しまずに済み、この世を司る理とて何も手に出来ん。血が手に入らず死にかけておったというのに、生娘を調達したのはそちではなかったな。儂がこの手でつかみ取ったのだ。はは! 済まんな、礼を言うぞ、アシャラ」  そう言って再びフラスコに口唇を近づけた。  バルサモの手から髪の房が落ちた。目の前が真っ白になっていた。  正面にはアルトタスの作業台がある。いつもならこの大理石の作業台は、植物や本やフラスコでごちゃごちゃしていた。それが今は薄気味悪い花柄の白緞子のシーツで覆われており、ランプから放たれた赤みを帯びた光の先には忌まわしい輪郭が浮かんでいたが、バルサモはまだそれには気づいていなかった。  バルサモはシーツの一端をつかんで乱暴にめくった。  途端に髪の毛は逆立ち、開いた口からは喉の奥から絞り出されるような恐ろしい悲鳴がほとばしった。  シーツの下から現れたのはロレンツァの死体だった。ロレンツァは大理石に横たえられ、顔は土気色だというのに今も微笑みをたたえ、長い髪の重さで引っ張られたように顔を仰け反らせていた。  鎖骨の下に開いた大きな傷口からは、もはや血の一滴も流れてはいない。  両手は強張り、目は薄紫色の瞼の下で閉じられていた。 「さよう、生娘の血じゃよ。生娘の動脈血の最後の三滴、それが儂には必要じゃった」アルトタスはまたもやフラスコを眺め回した。 「人でなしめ!」絶望の叫びが毛穴の一つ一つから洩れ出しているようだった。「死んでしまえばいい。ロレンツァは数日前から俺の恋人だった、俺の妻、俺の女だったんだ! 殺しても何の意味もない……ロレンツァはもう生娘じゃなかったんだからな!」  この言葉を聞いてアルトタスの目が揺らいだ。眼窩の中で電気にはじかれたように、びくりと。瞳孔が恐ろしいほどに開いた。抜けた歯の代わりに歯茎を軋らせる音が聞こえた。手からフラスコが擦り抜け、床に落ちて粉々に割れた。アルトタスは心と頭を同時に打たれたように、腑抜けたように呆然として、ゆっくりと椅子に倒れ込んだ。  バルサモはロレンツァの遺体に泣きながらすがりつき、血塗れの髪に口づけすると意識を失った。 第百三十二章 人と神  時間というのは手を繋いだ姉妹のようなものだ。不幸な人間のところには遅々として留まり、幸福な人間のところは矢のように通り過ぎる。時間は今、溜息とすすり泣きに満ちた部屋の上で、重い翼を畳んで静かに羽根を休めていた。  一方には死。一方には断末魔。  間には、断末魔にも等しい苦しみと死ぬほどの重みを持つ絶望。  喉から叫びを絞り出してしまうと、バルサモの口からはもはや何の言葉も出て来なかった。  衝撃的な事実を暴露して、残忍な喜びに浸っていたアルトタスを打ちのめして以来、バルサモは微動だにしていなかった。  そのアルトタスはと言うと。神が人間に用意した普通の人生に荒々しく投げ返されて、未知の環境に沈んでいる様子は、鉛弾を撃たれて雲間から湖に落ちた鳥が、もがけばもがくほど翼を傷めることを知りもしないで湖面でもがいている姿を思わせた。  鉛色に染まった行き場のない惚けた表情が、その絶望のただならぬ大きさを表していた。  アルトタスはもはや考えることすらやめていた。目的に向かって順調に進み、岩のようにしっかりとしていると信じていた確信が、ついさっき煙のように掻き消えてしまったのだ。  絶望に打ち沈み物も言わず、意識は既に朦朧としていた。絶望に縁のなかった精神にとって、物を言わぬこととは即ち何かを考えている印だったのだろう。さらに、絶望を垣間見たことすらないバルサモに至っては、これは力と理性と命の断末魔に等しかった。  アルトタスは割れたフラスコから目を離さなかった。それは無惨にも砕けた希望そのものだった。粉々に割れて散らばった破片を数えているように見える。それだけの日々が人生から失われてしまったのだ。床にこぼれた貴重な――不死の基だと束の間だけ信じていた液体を、目で吸い上げようとしているように見えた。  時折り、落胆の苦しみが大きくなると、老人は火の消えた瞳を上げてバルサモを見つめた。それからロレンツァの死体に目を向けた。  その姿はまるで脚を罠に挟まれているのを朝になって猟師に見つかった野獣のようだった。首を巡らせもせずじっと脚の痛みに耐え、狩猟用の刀剣や銃剣を突き刺されようものなら、憎しみと復讐と非難と驚きの詰まった真っ赤な目を上げて横目で睨みつける獣のようだった。 「あり得ぬ」虚ろではあったが目にはまだ力があった。「これほどの不幸、これほどの手違いが儂に降りかかることなど信じられるか? 死んだこの女のようなくだらんもんの足許に、目の前でひざまずいているそちのようなちんけな存在のせいで、こんなことになるとはの。自然や科学や道理がひっくり返りおったわ。下司な弟子の分際で尊い師匠をもてあそびおって。たった一粒の塵のせいで、全速力で何処までも飛ぶように走っている戦車が止まってしまうとは、とんでもないことではないか?」  バルサモはぼろぼろに打ちひしがれ、声もなく身動きもせず、生きている形跡すら見えず、脳の中に広がっていた血塗れの靄の向こうからは、人間らしい感情が何一つ現れては来なかった。  ロレンツァ、愛しいロレンツァ! ロレンツァ、妻であり、偶像であり、天使であり恋人である大切な女性、ロレンツァ、喜びと栄光、現在と未来、力と信仰。ロレンツァ、バルサモがすべての愛を捧げ、すべての欲望を捧げ、何を措いてもそばに置いておきたかった存在。ロレンツァが永遠に失われてしまった!  泣きもせず、叫びもせず、溜息すらついていなかった。  驚く間もなく、恐ろしい災難に襲いかかられたのだ。寝ている間に洪水に襲われ、闇の中に流されたようなものだ。水に沈んだ夢を見て目を開ければ、頭上には波がうねっており、もはや叫び声すらあげることも出来ずに、黙って死を待つしかない。  バルサモは三時間にわたって死の底に飲み込まれていた。無限の苦しみに沈んだまま、自分に起こったことは死者たちが見る不吉な夢のようなものだと、永遠の闇や墓地の静寂に包まれた死者たちの夢のようなものだとしか思えなかった。  もはやアルトタスも、憎しみも復讐もなかった。  もはやロレンツァも、生も愛もなかった。  ただ眠り、夜、無があるだけだった!  こうして時間は音もなくしめやかに絶え間なく部屋の中を流れていった。そうして原子に請われるように生命の素を受け渡してしまうと、血はすっかり冷え切っていた。  突如、夜の静寂を破って、呼び鈴が三度鳴った。  バルサモの居場所を知ったフリッツが、アルトタスの部屋の呼び鈴を鳴らしたのだろう。  だが荒々しい音は三度とも無為に響くだけで、鈴の音は空中に散った。  バルサモは顔を上げようともしなかった。  数分後、再び呼び鈴が鳴らされたが、一度目と変わらずバルサモを夢想から引き剥がすことは出来なかった。  やがて計ったように、それほど間を置かずに、三たび呼び鈴が鳴り響いた。割れるような音が催促するように部屋を揺るがせた。  バルサモは慌てもせずゆっくりと顔を上げ、墓から抜け出した死者のように無表情なまま、目を彷徨わせた。  三度にわたってキリストに呼びかけられたラザロは、きっとこんな目をしていたのだろう。  呼び鈴がやむ気配はなかった。  音はますます大きくなり、ついにバルサモの理性を目覚めさせた。  バルサモは遺体の手から手を離した。  身体の熱はロレンツァに伝わることなく、すっかりバルサモから奪われていた。 「重大な報せか重大な危機だな」バルサモは呟いた。「恐らくは重大な危機の方か!」  バルサモはすっかり立ち上がっていた。 「とはいえ、応える必要などあるのか?」その声が薄暗い穹窿の下、死の漂う部屋の中に陰鬱に響いたが、それには気づかず独白を続けた。「これからはもう何かを気にしたり恐れたりする必要があるのか?」  急かすようにまたもや呼び鈴が鳴り、青銅の内側を鈴の舌がけたたましく打ちつけたため、鈴の舌が外れてガラスの蒸留器の上に落ち、ガラスが乾いた音を立てて砕け散り、粉々になって床の上に散らばった。  バルサモはもはや抗わなかった。大事なのは誰も――フリッツでさえバルサモのいるところまでは追っては来ないということだ。  バルサモは落ち着いた足取りで歩き、バネを押して揚げ戸に上った。揚げ戸はゆっくりと降り、毛皮の部屋の真ん中に停まった。  長椅子のそばを通った時、ロレンツァの肩から落ちたケープにぶつかった。死のように無慈悲な老人が二本の腕でロレンツァを攫った時に落ちたものだ。  本人に触れた時よりも一層の生々しさを感じて、バルサモは刺すような震えに襲われた。  バルサモはケープを手に取り、叫びを押し殺すように口づけした。  それから階段に通じる戸口に向かった。  一番上の段にはフリッツがいた。青ざめて息を切らし、片手に明かりを、片手に呼び鈴の紐を握って、怯えたように何度も何度も紐を引っ張り続けてバルサモが出て来るのを待っていた。  バルサモの姿を見て安堵の叫びをあげたが、それはすぐに不安と恐怖の叫びに変わった。  だがバルサモは叫びを無視し、無言で問いかけただけであった。  フリッツは何も言わずに、いつものように恭しく主人の手を取り、ヴェネツィア製の大鏡の前まで案内した。鏡はロレンツァの部屋に通じる暖炉の上に飾られていた。 「ご覧下さい、閣下」フリッツは鏡に映る姿を指さした。  バルサモがびくりと身を震わせた。  それから微笑みを――永遠に治まることのない無限の苦しみの果てに生み出された死んだような微笑みを、口唇に浮かべた。  フリッツが怯えるのももっともだ。  バルサモは一時間で二十歳も年老いていた。目の輝きも消え、肌の血色も衰え、顔からは機智も智性も失われ、口唇には血の混じった泡が浮かび、白いシャツには大きな血の染みがついている。  バルサモは鏡を見たが、それが自分だとは思えなかった。やがて鏡に映る見知らぬ人物の目をじっと覗き込んだ。 「そうだな、フリッツ、お前の言う通りだ」  それから、忠実なフリッツが不安そうにしているのに気づいてたずねた。 「ところで何の用だ?」 「そうでした! あの方たちです」 「あの方たち?」 「はい」 「あの方たちとは誰のことだ?」 「閣下」フリッツはバルサモの耳元に口を寄せて囁いた。「五人の親方《マスター》の方たちです」  バルサモが身震いした。 「全員か?」 「全員です」 「今いるんだな?」 「いらっしゃいます」 「五人だけか?」 「いいえ、武装した召使いを一人ずつ庭に待たせております」 「五人は一緒だったのか?」 「一緒にいらっしゃいました。かなりお腹立ちのようでしたから、あれほど強く何度も呼び鈴を鳴らした次第でございます」  バルサモは血の染みをレースの胸飾りの襞で隠そうともせず、乱れた身なりを整えようともせず、来客たちが応接室にいるのか小部屋にいるのかをフリッツに確認してから、足を動かし階段を降り始めた。 「応接室でございます、閣下」とフリッツは答えてバルサモの後を追った。  そして階段を降りたところでバルサモを呼び止めた。 「閣下、何かご指示はございますか?」 「何もないよ、フリッツ」 「ですが閣下……」フリッツが口ごもった。 「何だ?」バルサモが怖いほど落ち着いてたずねた。 「武器も持たずにお会いするつもりですか?」 「ああ、武器は持たない」 「剣も?」 「どうして剣が必要なんだ、フリッツ?」 「どうしてと言われましても」フリッツは目を伏せた。「思いますには、私としては、不安が……」 「わかった、退っていいぞ、フリッツ」  フリッツは言われた通りに進んでから戻って来た。 「聞こえなかったのか?」 「閣下、一言申し上げておきますと、二連式の拳銃は金の円卓にございます黒檀の箱に入っております」 「いいからもう行くんだ」  バルサモはそう言い捨てて応接室に入って行った。 第百三十三章 裁判  フリッツは正しかった。サン=クロード街にやって来た来客たちの態度は、もはや平和的でも友好的でもなかった。  五人の馬丁が馬車を護衛しており、横柄で陰気な顔つきをした五人の使用人が完全武装して、閉じた門を見張っていた。そうやって主人たちを待っているようだ。  馬車に坐った御者と二人の従僕は、外套の下に狩猟用ナイフと小銃を携えている。このように、サン=クロード街に現れた者たちは総じて訪問というよりは探検に赴いたような気配を漂わせていた。  かかる恐ろしき人々が夜中に押しかけて来たのを見て、フリッツはただならぬ恐怖に襲われた。小窓から護衛の姿を目にして武装していると気づいた時には、全員を追い返そうとした。だが絶対的な合図、抗えぬ権利の証拠を見せられては、もはや異議を唱えることは出来なかった。主人たちが部屋に向かうと、使用人たちは熟練した軍人のように戸口を固め、敵意を隠そうともしなかった。  中庭や通路を従者もどきに占拠され、応接室を主人もどきに陣取られて、フリッツとしては悪い予感しかしなかった。呼び鈴を乱暴に鳴らしたのにはこうした理由があった。  バルサモは驚きもせず何の心積もりも持たずに応接室に足を踏み入れた。訪問者たちに失礼のないようにと、フリッツによって部屋には然るべく明かりが入れられていた。  バルサモが姿を見せても五人とも立ち上がらず椅子に腰を下ろしたままだ。  この家の主人であるバルサモは、五人を見回して丁寧にお辞儀をした。  これに対して五人は顔を上げ、厳めしい挨拶を返しただけであった。  バルサモは五人と向き合うように椅子に坐ったが、奇妙な椅子の並びには頓着しないのか、または気づいていないようだ。五つの椅子は半円形に並べられており、二人の補佐役を従えた裁判長がいた。これは昔の裁判と同じである。またバルサモの席は裁判長の正面に置かれており、これは議会や法廷で被告人が坐る位置だった。  初めに口を切ったのはバルサモではなかった。別の状況ならばそうしていたであろうが、衝撃のあまり放心状態から抜け切れておらず、目には物が見えていなかったのだ。 「どうやらわかっておるようだな」裁判長が、言い換えるなら中央に坐している者が声をかけた。「ぐずぐずしておるから、探しに行くべきかどうか話し合っていたところであったぞ」 「俺にはわからない」とだけバルサモは答えた。 「こうして向かい合っているのは、被告人の立場と態度をわきまえているからだと思っておったが」 「被告人?」バルサモは呆然として呟き、肩をすくめた。 「俺にはわからんな」 「ではわからせて見せよう。難しいことではない。顔は青ざめ、目は翳り、声は震えているではないか……聞いているのか?」 「もちろん聞いているさ」つきまとっている幻影を振り払おうと、バルサモはぶるぶると首を振った。 「結社の大幹部の一人が裏切りを目論んでいることについて、先の通達によって最高議会が忠告を与えたことは覚えているな?」 「多分……ああ……違うとは言わない」 「その答えを聞く限りでは意識が混乱しておるようだな。正気になってもらわねばならん……倒れてもらうわけにはいかぬぞ。はっきりと答えてもらおう。状況は抜き差しならぬ。納得できるような明確な説明をしてもらおう。こちらは予断も敵意も持ってはおらぬ。我らは法なり。法律が口を利くのは判事が話を聞いてからだ」  バルサモは答えなかった。 「繰り返す。バルサモ、こちらは一度忠告を与えた。拳闘士たちも殴り合う前には忠告を受け取るものだからだ。これから公正ではあるが容赦のない武器で告発をおこなう。弁明してみよ」  バルサモが動揺も見せずに冷静でいるのを見て、四人は驚いて顔を見合わせたが、やがて裁判長に目を戻した。 「聞いているのか、バルサモ?」  バルサモは肯定の印に首を振った。 「では誠実にして寛大なる同志の名に於いて、予め忠告し、尋問することをそれとなく知らせていたのは間違いないな。忠告を受け取った以上は心して聞くがよい。 「忠告を伝えると、結社は裏切り者として告発された人物の足取りを見張るために五人の会員をパリに放った。 「知っての通り、手に入れた情報が間違っていることはまずない。人々の中には忠実な諜報員が紛れておるし、物事の中には確実な証拠があるし、ほかの誰にもわからぬ自然界の複雑な神秘の中から徴候や兆しを読み取ることが出来るからだ。一人に貴下を幻視させ、間違っていないことが確かめられた。そこで警戒を怠らず、貴下を見張っておったのだ」  バルサモは苛立ちどころか正気を保っているらしきところすら見せなかった。 「貴下のような人間を見張るのは容易ではなかった。何処にでも現れ、結社と敵対している人間の家や当局にも足を運ぶ。生まれついての豊かな才能は、目的達成のために結社が与えた助力より遙かに大きい。リシュリュー、デュ・バリー、ロアンといった敵たちが家を訪れるのを見て、長い間疑いを抱いておった。そのうえ、先日プラトリエール街で開かれた会議では巧みな逆説に満ちた演説をして、この世から一掃しなくてはならない類の人間に愛想を使い、交際しているように見えるのは、そういう役割を演じているのだと、信じさせようとした。目的がわからぬ間は尊重し、良い結果が出るものと期待しておったのだ。だが結局はそれも失望に終わった」  相変わらず身動きもせず狼狽えもしないバルサモを見て、裁判長は苛立ちに襲われた。 「三日前、五通の封印状が発行された。ド・サルチーヌ氏が国王に請願したものだった。署名が済むとすぐに交付され、同日、パリに住む五人の忠実な諜報員の許に届けられた。五人は逮捕され、連行された。二人はバスチーユの奥深くに、二人はヴァンセンヌの地下牢に、一人はビセートルの劣悪な物置に収監された。こうした事情は知っておるか?」 「いいや」バルサモが答えた。 「貴下が王国の権力者と知り合いであることを考えれば、それは解せぬな。しかしさらに解せぬことがある」  バルサモは続きを待った。 「サルチーヌ氏は五人を逮捕させるに当たって、五人の名前を記した覚書を目の前に持っていたそうだ。その覚書は一七六九年の最高会議で貴下に手渡されたものであり、新しい会員を受け入れ、最高会議から承認された地位を五人に授けたのは、貴下自身ではなかったか」  バルサモは記憶にないといった仕種をした。 「では思い出させて進ぜよう。五人には五つのアラビア文字が与えられた。この文字は貴下に手渡された覚書にある五人の名前と頭文字に一致する」 「そうかい」 「覚えはあるな?」 「好きなように考えてくれ」  裁判長は四人に対し、この告白をよく覚えておくように目顔で告げた。 「ではこの覚書が一枚しかなく、また同志たちに危険をもたらしかねないものであることは承知のうえで、六番目の名前が記されていたことは覚えているか?」  バルサモは答えなかった。 「その名は、ド・フェニックス伯爵!」 「なるほど」 「五人の名前が封印状に記されていたにもかかわらず、貴下の名前が宮廷や官廷で敬意を払われ、大事にされ、愛しまれているのはどういったわけだ? 監獄行きが五人に相応しいなら、貴下も同じではないか。何か言うことはあるか?」 「何も」 「ふん! 言い訳の見当はつく。名も無い同志には容赦がないが、大使や権力者の名前には敬意を払うのが警察のやり方だと言いたいのであろう。それどころか警察は疑いもしなかったと言うつもりであろう」 「何も言うつもりはない」 「名誉よりも自尊心を取るつもりか。最高会議が手渡した覚書を読まなければ知りようのない五人の名前を、警察がどのように知ったというのか……貴下が小箱に仕舞っておいたはずだ。そうであるな? 「先日、女が小箱を手に家から出て来た。目撃した見張りが尾行すると、たどり着いたのはフォーブール・サン=ジェルマンにある警視総監の邸であった。すべての元凶を差し押さえることも出来た。小箱を取り返し、女を捕まえれば、すべては平穏無事に治まったことであろう。だが我々は掟に従うことにした。会員の誰かが目的のために用いている独自の手段を尊重しなくてはならぬ。見たところその手段が裏切り行為や軽率な行動に見えたとしてもだ」  バルサモはこれに同意したように見えたが、その仕種があまりに目立たなかったので、これまでにまったく動いていなかったという事実がなければ、誰もその動きには気づかないところだった。 「この女は警視総監のところに行き、小箱を手渡し、すべてが明るみに出た。そうだな?」 「完全にその通りだ」  裁判長が立ち上がった。 「この女は何者であったか? 貴下に身も心も熱烈に捧げ、深く愛しているこの美しい女は? 才気に優れ狡猾でしなやかな闇の天使のように、男を助け悪事を成功に導くこの女は? ロレンツァ・フェリチアーニというのがその女だ、バルサモ!」  バルサモは落胆に満ちた吠え声を聞き流した。 「納得したか?」 「結論を聞かせてくれ」 「まだ終わってはおらぬ。女が警視総監の邸に入ってから十五分後、今度は貴下が入って行った。女が裏切りの種を蒔き、貴下が報酬を刈りに来たのだ。女は従順な召使いとして罪を犯し、貴下が汚い仕事に手際よく最後の一仕上げを加えたのだ。ロレンツァは一人で出て来た。貴下は女を切り捨て、一緒に歩くような危険を冒したくなかったのであろう。貴下が出て来た時にはデュ・バリー夫人と一緒だった。自分を売り込もうとしている証拠を、本人の口から聞かせるために呼び出されたのであろう……貴下はこの娼婦の四輪馬車に乗り込んだ。罪人マグダラのマリアと船に乗り込んだ渡し守のように。我々を破滅させる覚書をサルチーヌ氏のところに残しておきながら、我々だけではなく自分を破滅させかねない小箱は持ち去った。ありがたいことにすべてお見通しだ! 神の光は然るべき時に我らと共にあるのだ……」  バルサモは何も言わずに一揖した。 「結論を言おう。裏切者が二人いるという報告が結社に届いた。共犯者である女の方は、恐らくそうとは知らずに罪を犯したのであろうが、我らの秘密を暴露して計画に支障をもたらしたのは間違いない。次は親方《マスター》であり大コフタである貴下だ。輝かしい光という存在でありながら、裏切りが目立たぬように女の背後に隠れるような卑劣な行為をおこなった」  バルサモは青ざめた顔をゆっくりと上げ、尋問が開始された時から胸に温めていた炎を瞳に燃やして一同を見据えた。 「女を告発する理由は?」 「かばうつもりなのであろうが、貴下が何よりもこの女を愛していることは承知している。この女こそ科学と幸福と運命の宝庫であり、何にも増して得難い触媒なのだということも承知している」 「お見通しというわけか?」 「その通りだ。貴下を攻撃するなら本人ではなくこの女を狙う方が効果的だということもわかっている」 「続けてくれ……」  裁判長は立ち上がった。 「判決を申し渡す。ジョゼフ・バルサモは裏切りの罪を犯した。誓いに背いた。ただしその科学的知識は豊富であり、結社にとって役に立つ。バルサモは今後、裏切りを働いた計画に尽くすために生きるものとす。本人が如何に拒もうとも、同志たちから逃れることは出来ぬのだ」 「ふん!」バルサモは陰気に吐き捨てた。 「永久に拘束しておけば新たな裏切りから組織を守ることが出来るし、いろいろと役に立つことをバルサモから手に入れることも出来るであろう。会員の一人一人にそれを手にする権利があることは言うまでもない。ロレンツァ・フェリチアーニに関しては、厳しい罰を……」 「待ってくれ」バルサモの声はいつにも増して落ち着いていた。「俺がまだ辯護を始めちゃいないことを忘れてもらっちゃ困る。被告人には自分が正しいという主張を聞いてもらう権利があるはずだ……一言だけでいい。証拠は一つだけだ。ちょっと待っていてくれたら、俺が約束していた証拠を持って来よう」  五人が相談を始めた。 「ふん! 自殺されやしないかと心配しているのか?」バルサモが馬鹿にしたように笑った。「そうするつもりならとっくにやっていたさ。この指輪を開ければ、あんたたち五人をそっくり殺すことだって出来るんだ。それとも逃げられるのを恐れているのか? だったらついてくればいい」 「行って来い!」裁判長が答えた。  バルサモはしばらく姿を消した。やがて階段を降りる重たげな音が聞こえて、バルサモが戻って来た。  肩に担いでいるのは、強張り冷え切って色を失ったロレンツァの死体だった。白い手が床にだらりと垂れ下がっている。 「これが俺の愛していた女だ。俺の宝だった女、唯一無二の俺の命。あんたらが言う通り、これが裏切りを働いた女さ。受け取るがいい! あんたらが罰するまでもない、神が裁いてくれたよ」  そして稲妻の如き勢いで腕から死体を滑り落とし、判事たちの足許の絨毯まで転がした。冷たい髪と強張った手が、恐怖におののいていた五人に触れた。ランプの明かりの下で、白鳥のように白い首の真ん中に、おぞましい傷口がぱっくりと開いているのが見えた。 「さあ、判決を聞かせてくれ」  判事たちは怯え切って悲鳴をあげ、目も眩むような恐怖に囚われて、恐慌を来して逃げ出そうとした。やがて馬がいななき、中庭を蹄で蹴る音が聞こえて来た。門の蝶番が唸りをあげ、やがて静寂が――冷え切った静寂が、死と絶望のそばに腰を下ろしに戻って来た。 第百三十四章 人と神  これまでお伝えして来た恐ろしい光景がバルサモと五人の親方の間で繰り広げられている間も、家のほかの部屋には見たところ何一つ変化はなかった。一つだけ変わったところといえば、バルサモが部屋に戻ってロレンツァの死体を運び出すのを見たアルトタスが、こうした新たな動きに触発され、周りで起こっていたことを思い出して正気を取り戻したことだった。  バルサモが肩に死体を担いで階下に降りて行くのを見て、これが最後だ、老いた心を打ち砕いた男ともこれで永久にお別れだ、と思い込んだ。取り残された老人を恐怖が捕らえた。アルトタスにとって、それも不死にすべてを捧げて来たとあっては、常人以上に死ぬのが恐ろしかった。  バルサモが何をしに行ったのかも何処に向かったのかもわからなかったが、とにかく声をあげて叫んだ。 「アシャラ! アシャラ!」  幼名を呼べば、素直だった頃のように従順になるのではないかと期待して。  だがバルサモは降り続けた。下に降りても揚げ戸を戻そうともせず、廊下の奥に姿を消した。 「糞ッ! 所詮こんな男だわい。無知で恥知らずの畜生め。戻って来い、アシャラ! 戻って来い! そちは女という馬鹿げたものより、儂のような完璧な人間の方を選ぶであろうな! 永遠の生命の欠片を選ぶであろうな! 「馬鹿馬鹿しい!」すぐに声を荒げた。「あのチンピラは師匠を裏切り、儂の信頼をもてあそんだのじゃ。儂が長生きするのを見て、科学の分野で儂に追い越されるのを見るのが怖かったのじゃろう。完成間近だった研究成果を受け継ぎたがって、儂を罠に嵌めたではないか。師匠であり恩人であるこの儂を。アシャラよ!……」  徐々に老人の怒りに火がつき、頬に熱気が戻って来た。閉じかけていた目にも暗い光が戻り、悪戯小僧が頭蓋骨の眼窩に塗りつけた燐光のような輝きを放った。  アルトタスは再び声をあげた。 「戻って来い、アシャラ! 用心するがいい。儂が火を呼び起こしあの世の精霊を呼び出す呪文を知っているのはそちも承知しておろう。儂は司祭たちにフェゴールと呼ばれていたガド山の悪魔を呼び出し、闇に沈んだ深淵に押し込められていた悪魔が姿を現したのじゃ。神の怒りを担う七人の天使と口を利いたこともある。モーセが律法の石板を授かったあの山の上でじゃぞ。トラヤヌスがユダヤ人から奪った七つの燭を持つ三脚を、意思の力だけで燃え上がらせたこともある。用心するがいい、アシャラよ、今に見ておれ!」  だが答えはなかった。  アルトタスの意識がだんだんと混濁して来た。 「馬鹿め、そちにはわからぬのか」絞り出すように声をあげた。「そこらの人間と同じように死神が儂を捕らえに来るのだぞ。いいか、戻って来ても構わぬ、アシャラ。悪いようにはせん。戻って来い! 火を呼び起こしたりはせぬ。邪悪な精霊や復讐の七天使を恐れんでもよい。復讐は諦めよう。それでもそちを恐怖に陥れ、理性を奪い去り大理石のように凍えさせることは出来る。儂には血の巡りを止めることが出来るからの。アシャラ。戻って来い。ひどいことをするつもりはない。それどころか幾らでもそちの役に立てるのだぞ……アシャラよ、見捨てんでくれ。儂の命を見守ってくれ。儂の財産も秘密もすべてそちのものじゃ。それを伝えるまでは、生き長らえさせてくれ、アシャラ。頼む!……アシャラ、頼む!……」  アルトタスは震える指を上げ、部屋にある幾つもの品物や書類や巻物を目顔で示した。  そうして少しずつ抜け出してゆく体力をかき集めながら、耳をそばだてて待った。 「そうか、戻っては来ぬのか。儂がこのまま死ぬと思っておるのか? 見殺しにすればすべて手に入ると思っておるのか? 儂が死んだら殺したのはそちじゃぞ。糞ッ垂れめ、儂にしか読めぬ覚書を読めたとしても、一生と引き替えにして二百年三百年をかけて儂の科学を精霊から学ぶことが出来たとしても、儂が集めた材料をどう用いればよいかはわからぬぞ。何度でも言おう。絶対にわからぬ。そちには引き継ぐことは出来ぬ。考え直せ、アシャラ。アシャラ、戻って来い。戻って来てこの家が滅びるのを見るがいい、そちのために素晴らしい光景を用意しておくから見とれるがいい。アシャラ! アシャラ! アシャラ!」  答えはなかった。その頃バルサモは親方《マスター》たちの告発に応えて、殺害されたロレンツァの死体を放り出していたのだ。見捨てられた老人の叫び声は徐々に高まり、絶望に増幅されて、しわがれた咆吼が廊下にまで轟き、恐怖が遠くまで伝わって来た。それはあたかも虎が鎖を千切り檻の柵を曲げて吠えているようだった。 「そうか、戻っては来ぬのか! 見捨てるのだな! 死にかけているから都合がいいというわけか! よかろう、見ているがいい。火事じゃぞ、火事じゃ、火事じゃ!」  客たちを追い払うことに成功したバルサモは、アルトタスの憤怒の叫びをはっきりと耳にして、苦しみの淵で目を覚ました。ロレンツァの死体を抱え直すと階段を上り、二時間前には催眠術で寝かせていた長椅子に今は亡骸を横たえ、昇降台に上がると、前触れもなくアルトタスの目の前に姿を表した。 「ほほっ! やはりな」老人の声は喜びに酔いしれていた。「不安になったのじゃろう! 儂が自分の片くらいつけられるのはわかっておろうからな。確かにやって来たな。やって来るのが正解じゃった。もうちょっと遅ければ、この部屋に火をつけていたところだわい」  バルサモは肩をすくめてアルトタスを見つめたが、一言も口を利こうとはしなかった。 「喉が渇いた」アルトタスが叫んだ。「喉が渇いたぞ! 水をくれ、アシャラ」  バルサモは口も開かず、動きもしなかった。死にかけた老人の断末魔の苦しみを目に焼きつけておこうとでもするように、じっと見つめているだけだった。 「聞いておるのか?」アルトタスが吠えた。  鬱々としたバルサモからは答えも反応もないままだった。 「聞いておるのか、アシャラ?」アルトタスは怒りを吐き出すために、最後の力を振り絞って喉を開いて怒鳴り散らした。「水じゃ、水をくれ!」  アルトタスの顔が見る見るうちに苦痛に歪んだ。  目にはもはや炎はなく、邪悪でおぞましい光があるだけだった。肌の下にはもはや血の気もなく、身体も動かず、息さえほとんどしていなかった。長く筋張った腕は、先ほどまではロレンツァを赤子のように軽々と抱え上げていたというのに、持ち上げようとしても動かず、ポリプの触手ようにふわふわと揺れるだけであった。絶望に駆られて束の間甦っていた力も、怒ったせいで使い果たしてしまった。 「は、は! そう簡単にはくたばらんぞ。は! 干涸らびさせて死なせるつもりなのであろう! 儂の研究、儂の宝を物欲しそうに見つめおって! はん! もう手に入れたつもりなのじゃろう! ふん、待っておれ!」  アルトタスは力を振り絞って、椅子に敷いてあった座布団の下からガラス壜を取り出し、栓を抜いた。空気に触れると、液体が炎となって壜から流れ出し、アルトタスの周りを魔法のように取り巻いた。  途端に、椅子のそばに積み上げられていた研究成果や、部屋に散らばっている書籍、クフ王のピラミッドやヘルクラネウムの遺跡から苦労して盗んで来た巻物が、火薬に着火したように瞬く間に燃え上がった。火は大理石の床にまで届き、ダンテが語った地獄の火の輪のようにバルサモの面前で揺らめいた。  アルトタスとしてはこうした貴重な財産と共に滅ぶつもりであったので、バルサモがそれを救おうとして炎に飛び込むものと考えていたのだろう。だがそうはならなかった。バルサモは慌てる素振りも見せずに、炎が届かぬように昇降台の上でじっとしていた。  炎がアルトタスを包み込んだ。だが老人は怯えたりはせずに、むしろ本来の元素に還ることを受け入れているようであった。それはあたかも古い城館のペディメントに刻まれたサラマンダーが、炎によって焼かれるのではなく愛しまれているかのように見えた。  バルサモはアルトタスを見つめ続けていた。炎は板張りにまで達し、老人を完全に包み込んでいる。炎は楢で出来た椅子の脚を舐め、とうに下半身に喰らいついているというのに、どういうわけか老人は何も感じていないようだった。  それどころか炎が浄化装置の役目を果たしたらしく、炎に炙られて筋肉が徐々にほぐれ、得も言われぬ安らぎが仮面のように顔中に貼りついていた。最後の瞬間になって肉体から離れた老予言者は、火の戦車の上で天に昇る準備をしているように見えた。全能の老人の心は最後の瞬間になって物質界のことなど忘れ捨て、もう何も期待する必要はないのだと悟り、炎に連れ去られるようにして至高の世界を真っ直ぐに目指した。  それまでは炎に照らされてこの世に舞い戻ろうとしているように見えたアルトタスの目も、その瞬間から虚ろな目つきになって彷徨い、天でも地でもなく地平線を射抜こうとしているように見えた。穏やかなまま醜態も見せず、あらゆる感覚を分析しあらゆる苦しみに身体を預け、この世に別れを告げでもするように、力と生と希望に向かってひっそりと声を洩らした。 「よいか、儂は後悔しておらぬぞ。儂は地上のすべてを手に入れた。すべての智識を身につけた。神から人間に与えられたことで出来ないことはなかった。もうすぐ不死になれるところであった」  バルサモがくつくつと笑い出した。その嘲るような笑い声を聞いて、老人ははっと我に返った。  するとアルトタスはヴェールのように覆っている炎の向こうから、威厳と憤怒に満ちた目つきで睨みつけた。 「うむ、そちが正しい。儂に予想できなかったことがある。それは、神の存在じゃ」  その激しい言葉に魂を引っぺがされたように、アルトタスは椅子に倒れ込んだ。神から掠め取ろうとしていた最期の呼気を、今ようやく神に返したのだ。  バルサモがため息をついた。アルトタスという第二のツァラトゥストラが死の床に選んだ貴重な薪から逃れようともせずに、ロレンツァのそばに足を降ろして揚げ戸のバネを動かし、元通り天井に戻しておいた。そうしておけば燃えさかる猛火も目に触れることはない。  炎は一晩中頭上で嵐のように唸っていたが、バルサモは火を消そうとも逃げようともせず、危険も顧みずにロレンツァの冷たい死体から離れずにいた。だが炎の勢いも続かなかった。すべてを貪り尽くして立派な装飾を煉瓦の穹窿を裸にしてしまうと、炎は勢いを失った。アルトタスの声にも似た咆吼が最後に洩れると、それもやがて衰えて呻き声に変わり、臨終の溜息を吐くのが聞こえた。 第百三十五章 再び地に落ちる次第  ド・リシュリュー公爵はヴェルサイユにある自宅の寝室にいた。バニラ入りのチョコレートを飲みながら、ラフテ氏から会計についての報告を聞いていた。  とは言うものの秘書が伝える正確な数字にはなおざりな注意しか払わず、鏡に映った自分の顔を遠くから見つめるのに忙しかった。  不意に短靴の鳴る音が聞こえた。控えの間を誰かが訪れたのだ。公爵はチョコレートの残りを急いで飲み干して気がかりな様子で戸口を見つめた。  リシュリュー氏には年老いた悪女のように、誰にも邪魔されたくない時間があるのだ。  召使いがド・タヴェルネ氏の来訪を告げた。  公爵としては別の日に出直してくれとか、せめて別の時間に改めて訪問してくれないかと言い訳するつもりであった。ところがそうする間もなく、開いた扉から矍鑠とした老人が部屋に飛び込んで来た。そうして元帥を指さしながら、大きな安楽椅子に駆け寄り腰を沈めると、椅子はその重さというよりもその衝撃に呻きをあげた。  リシュリューはそれをホフマンの作品に出て来る奇怪な人間のように見つめた。椅子が大きく軋み、大きな溜息が洩れるのを聞いて、リシュリューは男爵に向き直った。 「やあ男爵、何か新しい報せでも? 随分と辛そうだな。まるで死人のようではないか」 「辛い? 辛いじゃと!」 「はてさて? 嬉しくて息をついているようには見えんぞ」  男爵は元帥を見つめた。ラフテがいる間は溜息の理由を説明せぬぞ、とでも言いたげだった。  ラフテは背中を向けたままそれを理解した。主人同様よく鏡を覗き込んでいたからだ。  そこでラフテはさり気なく退出した。  男爵はそれを目で追って、扉が閉まるのを確認した。 「辛いとは言わんでくれ、公爵。不安なのだ。死ぬほど不安なのだ」 「ほほう!」 「せいぜいとぼけなされ」タヴェルネが手を擦り合わせた。「もう丸一月近く、曖昧な言葉でごまかしてわしを引きずり回しておるな。ある時は『国王にお会い出来なかった』、ある時は『国王が会って下さらなかった』、ある時は『国王はご機嫌斜めだ』。いい加減にせんか! それが旧友に対する返答か? たかが一月とはいえ、永遠のように感じておるのだぞ」  リシュリューは肩をすくめた。 「何をどう言えば満足なのだ、男爵?」 「真実に決まっておろう」 「おいおい、わしが伝えたのは真実じゃぞ。貴殿の耳に入れるのは真実だ。信じたくないのならそれで構わんがな」 「ふん、公爵にして大貴族、フランス元帥、部屋付き侍従のあなたが、国王にお会い出来ないと言ってわしを騙すおつもりか? 毎朝起床の儀に参加しているあなたが? 馬鹿馬鹿しい!」 「事実そうなのだから繰り返すしかあるまい。たとい信じられなくとも、事実なのだ。三週間前からは昼にならぬとお部屋に入れぬ。公爵にして大貴族、フランス元帥にして部屋付き侍従のこのわしがな!」 「国王があなたと口を利かぬと言うつもりか?」タヴェルネが口を挟んだ。「あなたが国王と口を利かぬと? そんな嘘が信じられるか!」 「さすがに無礼が過ぎぬか、男爵。四十年のつきあいも無視して、そんな汚い言葉で罵倒するとはの」 「だが口惜しいのだ、公爵よ」 「何を言うか。口惜しいだと。わしだって口惜しいわい」 「あなたが?」 「当然だ。あの日からというもの、国王はわしのことを見ようともしてくれん! 陛下はわしに背中を向けたままじゃ! 気持ちよく笑ってもらえるに違いないと思うたびに、恐ろしく顔をしかめて返事が返って来るのだぞ! わざわざ愚弄されるためにヴェルサイユに行くのはうんざりだわい! どうしろと言うのだ?」  タヴェルネは言い返されている間中、ぎりぎりと爪を咬んでいた。 「わしにはわからん」ようやくそう答えた。 「わしもだよ、男爵」 「実際のところ、あなたがやきもきするのを国王は楽しんでいる、と見てよいのだろうな。要するに……」 「うむ、わしが言っているのはそういうことだ。要するにな!……」 「そうなると公爵、わしらはこうした窮状から抜け出さなくてはならぬぞ。すべてに説明がついて丸く収まるような上手いやり方を考え出さなくてはならん」 「男爵、男爵」リシュリューが反論した。「国王に説明を求めるのは危険だ」 「そうであろうか?」 「うむ。話しても構わぬか?」 「頼む」 「どうにも解せぬことがあってな」 「何のことかな?」男爵がたずねた。 「ふん、怒っておるな」 「それも当然、ではないかな」 「では話すのをやめよう」 「いやいや、話は続けよう。だが説明してくれ」 「貴殿は説明が好きだのう。いやまったく、気違いじみておるぞ。気をつけんとな」 「嫌なお人じゃな、公爵。わしらの計画が支障を来し、どういうわけか停滞しているというのに、あなたと来たら『待て』と忠告するのだからな!」 「停滞だと?」 「まずはこれだ」 「手紙か?」 「うむ、わしの伜からじゃ」 「ほう、聯隊長殿か!」 「たいした聯隊長だわい!」 「ふん、何かあるのか?」 「こういうことじゃ。これも一か月ほど前から、国王が約束された辞令をフィリップはランスで待っておるのだが、とんと音沙汰がない。ところが聯隊は二日後には出発するという始末じゃよ」 「何と! 聯隊が出発すると?」 「うむ、行き先はストラスブールじゃ。つまりフィリップが二日後に辞令を受け取れぬ場合は……」 「うむ?」 「二日後にもフィリップはここにいることになるじゃろう」 「なるほどな。忘れられておるのか。新しい大臣を任命する時のように、普通ならばすっかりお膳立てされておるはずじゃからのう。わしが大臣であったなら、とっくに辞令を出しておるのだがな!」 「ふん!」タヴェルネは吐き捨てた。 「何じゃ?」 「一言だって信用できんわ」 「ほう?」 「あなたが大臣だったとしたら、フィリップを追放しておったであろうに」 「おい!」 「そして父親もな」 「おいおい!」 「そして妹はさらに遠くにやらされてしまうわけじゃ」 「貴殿と話をするのは面白いのう、タヴェルネ。極めて頭がよい。しかしそういう話はやめにしようではないか」 「わしは自分のために善処を請うているのではない。息子のために話をやめるわけにはいかぬのだ。今の地位では耐え難い。公爵、国王に会わなくてはならん」 「わしには会うことしか出来ぬと言ったはずだ」 「話がしたい」 「国王が話を拒めば話すことなど出来ぬ」 「そこを無理にでも」 「わしは教皇ではないのだぞ」 「のう、わしは娘と話をするつもりだ。すべてにおいて疑わしい点があるのでな、公爵殿」  この言葉が魔法のように効いた。  リシュリューはタヴェルネのことをしっかりと調べていた。若い頃の友人だったラ・ファル氏やド・ノセ氏のように奸智に長けた人物であり、それは今も衰えていないことはわかっていた。それ故、父と娘が手を組むことを恐れていた。失脚をもたらしかねない未知のものを恐れていたのである。 「まあ怒るでない。もう一つやってみようと思っておることがあるのだが、口実がないのでな」リシュリューは答えた。 「口実ならあるではないか」 「何?」 「違うか?」 「何のことだ?」 「国王が約束なさった」 「誰に?」 「わしの伜に。その約束を……」 「ふむ?」 「思い出してもらえばよい」 「搦め手じゃな。手紙はあるのか?」 「うむ」 「見せてくれ」  タヴェルネは上着のポケットから手紙を取り出し、大胆且つ慎重に、公爵に手渡した。 「火と水じゃな」リシュリューが言った。「人が見たら気が違ったと思われるじゃろうが。それでも乗りかかった船じゃ、もう後には引けん」  呼び鈴を鳴らした。 「着替えの用意と、馬を繋いでくれ」  それからタヴェルネに向かって落ち着かなげにたずねた。 「着替えを手伝ってくれるおつもりかな、男爵?」  そのつもりだと答えれば友人の機嫌を損ねるのはタヴェルネにもわかった。 「いや、無理じゃな。ちょっと町まで行かねばならんのでな。何処かで落ち合えんかな」 「では宮殿で」 「では宮殿で」 「重要なのは貴殿も陛下にお会いすることじゃぞ」 「そうかね?」タヴェルネが喜色を浮かべた。 「絶対にだ。わしの言葉が正しいことを貴殿が自分で確かめてみればよいではないか」 「もとよりそのつもりだ。まあなんだ、あなたがそこまで言うのなら……」 「そこまで思っておるのか?」 「無論だ」男爵は即答した。 「では鏡の間で、十一時に。わしは陛下のお部屋にお邪魔することにする」 「心得た。ではまた」 「恨みっこなしじゃぞ、男爵」リシュリューは飽くまでも、相手の力がはっきりする瞬間までは、敵に回そうとはしなかった。  タヴェルネは馬車に戻ることにして、一人物思いに耽りながら延々と庭を歩いた。リシュリューは召使いの手を借りてあっさりと若作りをした。著名なマオンの勝者がそうした重要な作業を終えるのには二時間もかからなかった。  しかしながら、タヴェルネ男爵が悩んでいたのはわずかな時間だった。やきもきしながら見張っていると、十一時ちょうどに元帥の馬車が宮殿の石段前に停まり、リシュリューに向かって宮殿の士官たちが挨拶し、取次たちが迎え入れた。  タヴェルネの心臓は激しく脈打っていた。散策をやめ、はやる心の許す限りゆっくり落ち着いて、鏡の間に向かった。そこには寵愛の薄い廷臣たちや、請願書を持った士官たちや、野心を抱いた貧乏貴族たちが、彫像のように立ちつくしていた。つやつやに磨き上げられた床は、運命に焦がれるモデルたちにぴったりの台座であった。  タヴェルネは人混みの中で途方に暮れて溜息をついたが、元帥が国王の部屋から出て来ると、周りを気にしながら隅に近寄って行った。 「何たることだ!」田舎貴族や汚れた羽根飾りを除けながら、歯の隙間から声を洩らした。「一か月前には陛下と差し向かいで夜食を取っていたというのに!」  顰めた眉には哀れなアンドレを恥じ入らせるようなおぞましい疑いが浮かんでいた。 第百三十六章 国王たちの記憶力  リシュリューが約束通り果敢にも国王陛下の目の前に進み出たため、ド・コンデ氏が国王のシャツを引っ張った。  国王は元帥を見て慌ててそっぽを向いたのでシャツが落ちそうになり、コンデ公は驚いて後じさった。 「済まぬな」ルイ十五世が声をかけ、急に動いたのは公のせいではないと伝えた。  だからリシュリューとしては、国王の怒りは自分に向けられているのだとはっきりと悟った。  だがそもそも怒りを引き出そうと思ってやって来たのだし、いよいよとなれば真剣に話し合うために、フォントノワ時代のように豹変して部屋への退路を塞ぐつもりだった。  国王はもう元帥には見向きもせず、寛いだ様子で会話を再開した。着替えをして、マルリーに狩りに行く計画を立て、コンデ公と長々と話し合った。コンデ家の人間は評判の狩猟家だったのだ。  ルイ十五世が慌てたように話をやめた。 「まだいたのかね、ド・リシュリュー殿?」 「恐れ入りますがその通りです」 「そうするとヴェルサイユを離れぬのか?」 「四十年来、ほかならぬ陛下のためにヴェルサイユを離れたことを除けば、ほとんど離れたことはありませぬ」  国王は元帥の目の前で立ち止まった。 「何か言いたいことでもあるのかね?」 「老生が?」リシュリューがにんまりとした。「いったい何を?」 「余を追いかけ回しているではないか! すっかり気づいておるのだぞ。違うか?」 「愛と敬意を込めてその通りです。ありがとうございます、陛下」 「聞こえぬふりなどしおって。ちゃんとわかっておるのだろう。よいか、元帥殿、こちらにはそなたに言うことなど一つもない」 「一つも、でございますか?」 「一つとしてない」  リシュリューは無関心を装った。 「陛下、常日頃から変わらぬ思いを抱いておる老生にとって、魂と良心にかけて、陛下に対するひたむきな思いには私利私欲などございません。重要なのは、この四十年というもの陛下にはそのようにしてお話しして来たということです。どれだけ嫉妬深い人間であっても、陛下がこれまでに老生に何かをお許し下さったことがあったとは言いますまい。幸いなことにその点では世評も定まっておりましょう」 「公爵、用件があるのなら言いなさい。ただしさっさとすることだ」 「要望など一切ありませんし、現在のところは陛下にお願いするのを差し控えさせて……」 「何の話だね?」 「陛下に感謝をお伝えしたい者が……」 「誰のことだ?」 「陛下に大変な恩義のある方です」 「つまり誰なのだ?」 「陛下が輝かしい栄誉をお与えになった人間でして……さいですな、陛下と食卓を共にする栄誉を賜ったり、同席者としてこのうえない陛下の洗練された会話や魅力的な明るさを味わったりした者は、そのことを決して忘れませぬし、瞬く間にそうした幸せに慣れてしまうものでございます」 「おべっかは結構、リシュリュー殿」 「陛下……」 「要するに誰のことを話しておるのだ?」 「友人のタヴェルネのことでございます」 「友人だと?」国王が声をあげた。 「はあ」 「タヴェルネか!」国王が恐怖の声をあげたので、公爵はひどく驚いてしまった。 「どうなさいました、陛下! 昔からの同僚で……」  そこでいったん言葉を切り、 「共にヴィラールで軍役に就いておりましたが」  そこで再び言葉を切った。 「ご存じの通り世間では友人という言葉を、知り合いであるだとか敵ではないという意味合いで使っておりまして。これといって裏のない型通りの言葉でございます」 「危険な言葉、ではないかな、公爵」国王は辛辣だった。「慎重に用いた方がよい言葉だ」 「陛下のお言葉ありがたく拝聴いたしました。改めましてド・タヴェルネ殿は……」 「ド・タヴェルネ殿は不道徳な人間だ」 「貴族の名誉にかけて、老生もかねがねそう思っておりました」 「気遣いに欠けた人間だ」 「気遣いにつきましては意見を申し上げるのを控えさせていただきます。知らないことは請け合えませぬゆえ」 「ほう! 友人であり同僚でありヴィラールの同胞であり、今から余に引き合わせようとしている男のことを、請け合えぬと申すか。よく知っておるのだろう?」 「それはもちろんです。ですが気遣いについては存じませぬ。シュリーは高祖アンリ四世に対して、緑の服を着た熱が出て行くのを見たと申しました。老生といたしましても、恐れながらタヴェルネの気遣いがどんな服を着ているのかは存じ上げません」 「すると余が言わねばなるまいな。鼻つまみ者が鼻持ちならない役を演じたわけだ」 「陛下が仰るというのでしたら……」 「そうだ、余が言おう!」 「陛下にそう仰っていただけますとこちらも気が楽になります。はっきり申し上げますと、タヴェルネは気遣いなど持ち合わせておりませぬし、そのことは老生もよく存じております。ですが陛下がご意見を明らかになさるほどでは……」 「結論を言おう。余はあの男が嫌いなのだ」 「判決は為されましたな。しかしあの男にとっては幸いなことに、力強い味方が陛下のおそばにおりますからな」 「何のことだね?」 「生憎なことに父親が国王に疎まれたとしても……」 「ひどく嫌っておる」 「否定はいたしません」 「だから何の話をしておるのだ?」 「青い目と金色の髪をした天使の話でございます……」 「わからんな、公爵」 「そうかもしれませんな」 「わからぬとはいえ、理解したいのだがね」 「老生のような俗人は、愛しさと美しさの謎を秘めているヴェールの裾をめくろうと考えただけで震えてしまいます。しかしながら国王の怒りを和らげるのに、タヴェルネがその天使にどれだけのおかげを蒙っているでしょうか! さよう、アンドレ嬢は天使にほかなりませぬ!」 「父親が精神上の怪物であるなら、アンドレ嬢は肉体上の怪物だ!」 「はてさて!」リシュリューは呆れかえった声を出した。「わしらはすっかり勘違いしておったようですな。あの美しい見た目が……」 「あの女子《おなご》の話はよしてくれ、公爵。考えただけで怖気が立つ」  リシュリューは同情したようなふりをして手を合わせた。 「まさか! あんな姿形の娘が……王国一の観察眼をお持ちで、無謬を体現されている陛下が仰ったことでなければ、信じられますまい……あの見た目が偽りであると?」 「それどころではない。病気の発作……恐ろしい……罠だ、公爵。神に誓って、そなたは余を殺すところであったのだぞ」 「もう口を開きますまい。陛下を殺してしまうとは! 恐ろしい! 何という一家なのだ! あの青年も気の毒に!」 「今度は誰の話をしておるのだ?」 「忠実にして献身的な偽りなき陛下の奉仕者のことです。言うなればあれこそ臣下の鑑、陛下もそう判断なさいました。今回こそは陛下の寵愛も裏切られはなさいませんでした」 「だから誰の話をしておるのだ? さっさと言いなさい。焦れったい」 「申し上げているのは――」リシュリューは落ち着いて答えた。「タヴェルネの息子であり、アンドレ嬢の兄のことです。フィリップ・ド・タヴェルネ、陛下が聯隊をお任せになった勇敢な若者の話をしております」 「余が聯隊を任せただと?」 「左様です。フィリップ・ド・タヴェルネが待ちわび、陛下がお任せになった聯隊のことでございます」 「余が?」 「そう思っておりますが」 「馬鹿を言うな!」 「はて?」 「そんなもの一切任せてはおらぬ」 「まことですか?」 「どうしてそんな話を持ち出したのだ?」 「しかし陛下……」 「そなたに関係があるのか?」 「まったくありません」 「ではそんな厄介ごとの山で余を火あぶりにしようとでも思ったのか?」 「何を仰います! どうやら――老生が間違っていたようですが――陛下が約束なさったとばかり思っておりましたもので……」 「余には関係ない。そもそも陸軍大臣がおるのだぞ。聯隊を任せたりはせぬ……聯隊を任せるだと! たいした法螺を吹き込まれたものだな! そなたはそのひよっこの辯護人なのか? 余に話すのは間違いであったと言われた時には、血が煮えくり返る思いがしたぞ」 「陛下!」 「煮えくり返ったのだ。たとい悪魔が辯護人であろうと、一日たりとも我慢するつもりはない」  そう言うと、国王は公爵に背中を向け、腹を立てて小部屋に引っ込んだ。残されたリシュリューは、言うべき言葉が見つからないほどにしょげ込んでいた。 「まあ、これでどうすべきかわかったわい」  動揺のあまり汗まみれになっていたのを手巾で拭うと、じりじりしながら友人が待ちわびている一隅に歩いて行った。  元帥の姿を見つけると、男爵は獲物を襲う蜘蛛のように、最新の報せを目がけて駆け出した。  目を輝かせ、口を尖らせ、腕を組んで、たずねた。 「何か報せは?」 「報せはある」リシュリューは口に蔑みを浮かべ、馬鹿にしたように胸飾りをつついて、胸を張った。「二度とわしに話しかけないでもらいたい」  タヴェルネが唖然として公爵を見つめた。 「貴殿は国王から嫌われておる。国王に嫌われおる人間は御免蒙りたい」  タヴェルネは足が大理石に根づいてしまったかのように、呆然として立ちつくしていた。  だがリシュリューはそのまま歩き続けた。  やがて鏡の間の出口まで来ると、待っていた召使いに声をかけ、姿を消した。 「リュシエンヌに!」 第百三十七章 アンドレの失神  タヴェルネが正気に戻って、災難の原因をじっくりと考えてみると、機会と大義が幾つもの警報を俎上にして深刻にぶつかり合っていたことに気づいた。  そこでタヴェルネは、かんかんに怒ってアンドレの住まいに向かった。  アンドレは身繕いを終えようとしていたところで、ふっくらとした腕を上げて頑固な髪を耳の後ろに留めようとしていた。  控えの間に父親の足音が聞こえると、腕に本を抱えて戸口を跨いだ。 「ご機嫌よう、アンドレ。出かけるのかね?」 「はい、お父様」 「一人か?」 「ご覧の通りです」 「まだ一人なのだな?」 「ニコルがいなくなってから、小間使いを使っておりませんから」 「それでは着替えも出来まい。それはいかんぞ。そんななりでは宮廷で出世できん。それはそれとして話したいことがあったのじゃが」 「申し訳ありませんがお父様、王太子妃がお待ちですので」 「悪いがの、アンドレ」タヴェルネは話しているうちに昂奮して来た。「そんな質素ななりでは、笑われるのが落ちじゃぞ」 「お父様……」 「何処であれ笑いものにされるのは死の宣告に等しいが、宮廷ではなおのことだ」 「覚悟はしております。ですが現時点では質素な身なりであれすぐにおそばに駆けつける方が妃殿下もお喜びになると思っております」 「では出かけるがよい。お許しが出たらすぐに戻って来てくれ。重大な話がある」 「わかりました、お父様」  アンドレはそう言って先を急ごうとした。  男爵はそれをまじまじと見つめていた。 「待ちなさい。そんななりで出かけてはならぬ。紅を忘れておるぞ。ひどく真っ青ではないか」 「そうでしょうか?」アンドレが立ち止まった。 「鏡を見てもそうは思わんか? 頬は蝋のように真っ白で、目には隈が出来ておる。そのまま出かけては、人を驚かせてしまうぞ」 「ですがやり直している時間はありません、お父様」 「何てことだ!」タヴェルネは肩をすくめた。「世の中はこんな女ばかりで、それがわしの娘と来ておる! まったくひどいこともあったもんじゃ! アンドレ! アンドレ!」  だがアンドレはとっくに階段の下まで行っていた。  アンドレが振り返った。 「せめて具合が悪いのだと言ってくれぬか。めかし込む気はなくとも、自分のことを気に掛けてくれ」 「そういうことでしたら簡単です。嘘をつく必要もありませんわ。実際に気分が優れないんですもの」 「左様か」男爵が唸った。「問題はそれだけだ……具合が悪いのだな!」  それから歯の隙間から絞り出した。 「まったく澄まし屋どもと来たら!」  男爵は娘の部屋に戻り、懸命になって自分の憶測が正しいことを確かめようとした。  その間にもアンドレは広場を横切り花壇に沿って歩き続けた。時折り顔を上げて、空気をもっと貪るように吸い込もうとした。新鮮な花の香りが脳に染み入り五感のすべてを揺るがしていたのだ。  こうして太陽の下で眩暈を起こして何処かにつかまりたいと感じ、経験したことのない辛さと戦いながら、アンドレはトリアノンの控えの間までたどり着いた。王太子妃の小部屋の前に立っているド・ノアイユ夫人の一言で、アンドレはたちまち理解した――とっくに時間は過ぎ、待たせてしまったのだ。  大公女公認のフランス語教師である×××修道院長が妃殿下と朝食の席に着いていた。王太子妃は親しい間柄の人々をよくこうして招いていたのだ。  修道院長はバター入りのパンの出来に舌鼓を打っていた。ドイツ製の食器が綺麗に積み上げられた横には、クリーム入りコーヒーが置かれてある。  修道院長は朗読ではなく、情報屋や外交官のところで仕入れてきたウィーンの現状を王太子妃に話していた。この時代には政治は屋外でおこなわれていた。屋外というのは穴蔵に隠してある大法官府の最高機密と同じくらい安全なのである。パレ=ロワイヤルの貴族たちやヴェルサイユの植え込みの陰から見抜いたりでっちあげたりした報せが内閣に報告されるのも、この時代には稀ではなかった。  なかでも修道院長はつい先日起こった小麦高騰に絡む密かな暴動について話をしていた。「暴動」という言葉が用いられた。大きく買い占めていた五人をド・サルチーヌ氏が迅速に逮捕してバスチーユに送ったという。  アンドレが入って来た。王太子妃もここ何日かは気まぐれと頭痛に悩まされていた。修道院長もそれが気になっていた。会話が弾んでいる最中にアンドレが本を手にやって来ると、王太子妃の機嫌が悪くなった。  そこで王太子妃は朗読係に速やかに出て行くように命じ、朗読のようなことには何よりも頃合いというものがあるのだと言い添えた。  アンドレはそうした非難に恐縮しつつ、それ以上に不当な思いを感じながらも、口答え一つしなかった。父に引き留められたために遅くなったうえに、体調が悪くてゆっくりとしか歩けなかった、と言い訳することも出来たのだが。  だが何も言わずに狼狽えて慌てて頭を下げると、死んだようになって目を閉じてぐらりと身体を傾けた。  ノアイユ夫人がいなければ倒れていたところだ。 「お行儀がなっておりませんね!」とエチケット夫人が呟いた。  アンドレから答えはない。 「具合が悪いのではなくて?」王太子妃が立ち上がってアンドレに駆け寄ろうとした。 「大丈夫です」慌てて答えたアンドレの目には涙が浮かんでいた。「具合は悪くありません。いえ、よくなりましたから」 「でも顔色が手巾のように真っ白じゃありませんか。公爵夫人もご覧なさいな。わたしが悪かったわ、叱ったりして。どうかお坐りなさい」 「妃殿下……」 「命令ですよ!……修道院長、その折りたたみ椅子を譲って差し上げて」  アンドレは腰を下ろした。王太子妃の気遣いのおかげで、少しずつ頭も落ち着き頬にも色合いが戻って来た。 「では本を読んで下さるかしら?」 「ええ、もちろんです。どうかお願いします」  アンドレは昨日の続きから本を開き、出来る限り聞き取りやすく耳に快い声を出そうとした。  だが二、三ページほど目を通したところで目の前を小さな黒点が飛び回り、渦を巻いて震え出したので文字が見えなくなってしまった。  再び顔が土気色になり、嫌な感じの汗が胸元から額にまで滲んで来て、男爵が厭ったような黒い隈がどんどん目元に広がっていた。アンドレが堪えているのを見て、王太子妃が顔を上げた。 「まただわ!……公爵夫人、この子はやっぱり具合が悪いのよ。気を失っているじゃないの」  王太子妃は気付け薬を朗読係に吸い込ませた。アンドレが意識を取り戻し、本を拾おうとしたが上手くいかなかった。手の震えがしばらく止まらなかったのだ。 「やはりアンドレは体調が悪いようね、公爵夫人」王太子妃が言った。「ここに引き留めてはさらに具合が悪くなってしまうわ」 「では直ちにお部屋に戻っていただきましょう」 「あらどうして?」 「恐らくこれは――」夫人は恭しく答えた。「天然痘の徴候でございますから」 「天然痘?」 「そうです、失神、人事不省、震え」  修道院長はノアイユ夫人から指摘され、天然痘を移されてはかなわないと思い、椅子から立ち上がったが、誰もがアンドレの様子を気に掛けていたので、爪先立って密かに逃げ出しても誰一人それには気づかなかった。  アンドレは王太子妃の腕に抱かれるような恰好になっていることに気づいて、畏れ多くも大公女にそんな迷惑を掛けていると思うと申し訳なくなり、そのために力が――いやむしろ勇気が――湧いて来た。そこでアンドレは窓辺に近寄り深呼吸をした。 「そんなんじゃなく、外の空気を吸った方がいいわ」と王太子妃が言った。「お部屋に戻りなさい、ついて行ってあげますから」 「とんでもございません。もうすっかり良くなりました。席を外すお許しをいただけるのでしたら、一人で戻れます」 「わかったわ、お大事にね。もう叱ったりはしません。これほど繊細な方だとは知らなかったものですから」  アンドレはまるで姉妹のような心遣いに感激し、王太子妃の手に口づけして部屋を出た。王太子妃がそれを心配そうに見守っていた。  アンドレが階段の下まで行くと、王太子妃が窓から大きく声をかけた。 「すぐに戻らずに花壇を少し散歩なさい。陽に当たれば良くなりますよ」 「何てお優しいんでしょう!」アンドレは呟いた。 「それから修道院長に戻って来てもらって頂戴。あそこのオランダ・チューリップの花壇で植物学の講義をしているわ」  アンドレは修道院長に会いに、行き先を変えて道を曲がり、花壇を横切った。  アンドレは下を向いて歩いていた。朝から続く眩暈のせいで今もまだ頭が重い。花の咲いた生け垣や並木道の上を驚いて飛び回る鳥たちにも、タイムやリラの上でぶんぶんと羽根を鳴らす蜜蜂にも、まったく意識が向かなかった。  だから少し離れたところで二人の男が話をしていて、そのうちの一人が戸惑い顔で心配そうにアンドレを見つめていることにも気づかなかった。  二人はジルベールとド・ジュシュー氏であった。  ジルベールは鋤にもたれて著名な師匠の話に耳を傾けていた。草状の植物に水をやるに当たって、地面に水を溜めずに染み込ませるやり方を説明している最中だった。  ジルベールはその説明を真剣に聴いているようだし、ジュシュー氏の方でもこうした技術に興味を持つのは当然のものだと思っていた。というのも、教室に坐っている生徒の前で同じ話をすれば拍手が巻き起こるような内容であったのだ。哀れな庭師の青年にとって、教材を目の前にして偉大な教師に教えを受けることほどの幸運はあるまい。 「いいかい、ここには大きく分けて四種類の土壌がある」とジュシュー氏が説明していた。「私ならこの四種類をさらに細かく十に分けられる。だが見習いの庭師が見分けるのは難しいだろうね。いずれにしても栽培人は土を知らなくてはならないし、庭師は植物を知らなくてはならない。わかるね、ジルベール?」 「はい、わかります」そう答えたジルベールの目は一点に釘付けで、口は半開きだった。アンドレを見つめていたのだ。それでも態度を変えたりはしなかったので、ずっとアンドレを目で追っていても、上の空で講義を聴いて空返事をしているとは気づかれずに済んだ。 「土を知るには――」ジュシュー氏はジルベールが脇見している間も話し続けた。「簀の子に土を乗せて、そっと水を注ぐといい。土で濾された水が簀の子の下から出て来たら、水を舐めてみなさい。しょっぱいか、苦いか、水っぽいか、育てたい植物の性質に合った成分の香りがするのか。あなたがお世話になっていたルソーさんが言っていたように、自然界のものはどんなものでも似たもの同士や同じもの同士が引かれ合うものだからね」 「大変だ!」ジルベールが腕を前に伸ばした。 「どうしたね?」 「気絶してしまいました!」 「誰のことだ? 大丈夫かい?」 「あの人です!」 「あの人?」 「ええ、ご婦人です」ジルベールは必死で伝えた。  ジュシュー氏が指の先に目をやりジルベールから視線を外さなければ、言葉はもちろん怯えて青ざめた表情から何もかもばれてしまっていたことだろう。  だが指さす方向に顔を向けて、ジュシュー氏もアンドレを見つけた。熊垂の並木道の向こうからのろのろと歩いて来て、並木道までたどり着くと腰掛けに倒れ込み、そのまま動かなくなってしまった。最後まで残っていた意識の欠片が消え失せてしまったかのようだった。  ちょうどその時はいつも国王が王太子妃を訪問する時間帯だった。国王がグラン・トリアノンからプチ・トリアノンに向かおうとして、果樹園から姿を現した。  つまり陛下は突然現れたのである。  早なりの桃を手にわがままな国王は、フランスの幸福のためには国王自身がこの桃を味わうよりは王太子妃が味わった方がよいと言えるのだろうか、と自問していた。  ジュシュー氏がアンドレの方に慌てて駆け出すのを見ても、目の悪い国王には事情がよくわからなかったが、押し殺したようなジルベールの叫びを聞いて足を早めた。 「どうしたんだ?」ルイ十五世は道を挟んだ反対側に来ていた。 「陛下!」アンドレを抱きかかえたジュシュー氏が声をあげた。 「陛下!」アンドレは囁いて気を失った。 「それは誰だね?」国王がたずねた。「ご婦人だな? 何が起こったのだ?」 「気絶なさったのです」 「何と!」 「意識を失っています」ジュシュー氏はぐったりとしたアンドレを、改めて腰掛けに横たえ直した。  国王はそばに寄ってアンドレに気づき、悲鳴をあげた。 「またか!……恐ろしい。それほど具合が悪いなら部屋に籠もってなくてはならん。しょっちゅうみんなの前でこんな風に気を失っているとは言語道断だ」  ルイ十五世はきびすを返してぶつぶつと文句を垂れながらプチ・トリアノンに向かった。  ジュシュー氏はそれまでのことを知らなかったので、しばらくぽかんとしていたが、ふと振り返ってジルベールがすぐそばで不安そうにしているのに気づいた。 「来てくれ、ジルベール。君なら力があるからド・タヴェルネ嬢を部屋まで運んでくれるかな」 「僕がですか!」ジルベールは震え出した。「僕が手を触れて運ぶんですか? いけません、そんなの絶対に許してくれません。絶対に出来ません!」  ジルベールはその場から逃げ出し、助けを呼びに行った。 第百三十八章 ルイ医師  アンドレが気絶した場所からほど近いところに、庭師助手が二人働いていた。二人はジルベールの声を聞いて駆けつけて来ると、ド・ジュシュー氏の指示に従ってアンドレを部屋まで運びあげた。それをジルベールは遠くから顔を伏せて追いかけていた。殺し屋が標的の死体につきまとうように、生気のない動かぬ身体を追いかけていた。  使用人棟の玄関までたどり着くと、ジュシュー氏は庭師たちを重荷から解放した。その時になってちょうどアンドレが目を開けた。  騒ぎ声や慌ただしい様子を聞きつけてド・タヴェルネ男爵が部屋から出て来た。そこで目にしたのが娘の姿だった。まだふらついているものの、ジュシュー氏の助けを借りて身体を起こして階段を上ろうとしている。  男爵は駆け寄って国王と同じ質問をした。 「どうしたんだ?」 「何でもありません、お父様」アンドレが弱々しい声で答えた。「ただちょっと気分が悪くなって、頭痛がするだけです」 「あなたの娘さんでしたか?」ジュシュー氏が男爵にお辞儀した。 「まあそうじゃな」 「でしたらこれほど安心なこともありませんね。ただし僭越ながら、医者にお見せした方がいい」 「そんな、大丈夫です!」アンドレが口を挟んだ。  これにタヴェルネも同調した。 「もちろん大丈夫じゃとも」 「それに越したことはありませんが、お嬢さんは真っ青じゃありませんか」ジュシュー氏が言った。  それから石段までアンドレに手を貸すと、ジュシュー氏はいとまを告げた。  父と娘だけが残された。  タヴェルネはアンドレのいない間に考える時間がたっぷりあったので、立ったままのアンドレの手を取って長椅子に坐らせてから、自分も隣に腰を下ろした。 「すみませんけれど、窓を開けていただけますか。苦しくて」 「実は大事な話があるのだが、こんな住まいではあちこち隙間風だらけじゃな。まあよい。小声で話せば済むことじゃ」  そう言って男爵は窓を開けた。  それからうなずきながら娘のそばに戻って腰を下ろした。 「話というのはほかでもない、最初こそあれほどわしらに関心を抱いて下さった国王が、こんなあばら屋にお前をほったらかしにしておいて、ご好意を見せてくれん」 「だってお父様、トリアノンには住むところがありませんもの。あんなところに住めるなんてとんでもありませんわ」 「ほかの場所にも住むところがなかったというわけか」タヴェルネが当てこすりを言った。「百歩譲って納得もして来たが、お前の為には譲るつもりはないぞ」 「お父様はわたくしのことを随分と評価して下さっていますけれど、ほかの方々から見ればそうではありませんもの」とアンドレは微笑みを浮かべた。 「何の、お前のことをちゃんとわかっている者たちなら、みんなわしと同意見じゃよ」  アンドレは見ず知らずの人に向かってするようなお辞儀をした。というのも父から褒められて何処となく不安を感じ始めたのだ。 「しかもな……」タヴェルネはなおも優しい口調で続けた。「……国王はお前のことをちゃんとご存じなのじゃろう?」  そう言いながらも、耐え難いほどに厳しい目つきをアンドレに向けていた。 「国王はわたくしのことなどほとんどご存じありませんわ」アンドレはごくさり気なく答えた。「国王にとってわたくしなど物の数ではありませんもの」  それを聞いて男爵が飛び上がった。 「物の数ではないじゃと! お前の言っていることはさっぱりわからん。随分とまた自分を安く見積もっているようじゃの!」  アンドレは驚いて父を見つめた。 「何度でも言ってやるぞ。謙虚にもほどがある。自分の価値というものをわかっておらん」 「大げさなことばかり仰って。国王はわたくしたち一家の窮状を気にして下さっているに過ぎませんわ。わたくしたちの為に幾つかのことをして下さいましたけれど、玉座の周りにはほかにも山ほど不幸があって、慈しみ深い国王の手から洩れているんですもの。今はご厚意を見せて下さっていてもいずれわたくしたちのことなど忘れてしまうに違いありません」  タヴェルネは娘をじっと見つめて、度の過ぎた慎みにむしろ感嘆していた。 「よいか、アンドレ」と言って近づいた。「お前の父親はお前とその肩書きにとって一番最初の請願者になるつもりだ、拒絶はせんでくれよ」  今度は見つめるのはアンドレの方だった。女らしい仕種で説明を求めた。 「お前頼みなんじゃ。わしらのために取りなしてくれ、家族のためになることをしてくれ」 「ですけど何がお望みですか? わたくしは何をすればよいのでしょうか?」アンドレの言葉からは混乱が窺えた。 「わしや兄のために何かする気はあるのか、ないのか? はっきりせい」 「やれと言われたことなら何でもいたします。ですけれど、あまりがっついているように思われるのはお嫌ではありませんか? 既に陛下は十万リーヴルもする宝石を下さいました。そのうえお兄様に聯隊を任せる約束をして下さいました。これほど多くのお恵みをかけていただいているのですもの」  タヴェルネは哄笑を抑えることが出来なかった。 「つまり充分に報われていると思っておるのか?」 「お父様のご尽力のおかげだということは承知しております」 「何じゃと! そんな話を誰から聞いた?」タヴェルネが爆発した。 「そもそも何の話をしてらっしゃるのですか?」 「隠しごとをして遊んでいる場合か!」 「いったい何を隠しているというのです?」 「すべてお見通しじゃ!」 「お見通しですって……?」 「すべてをじゃ」 「何のすべてでしょうか?」  慎ましい心に遠慮のない攻撃を受けて、アンドレの顔が赤らんだ。  父としての我が子に対する敬意など、数々の疑問の前では急な坂道で足を止める如く止まっていた。 「まあよい! お前の好きなようにするがいい。静かにしておきたいというのなら、おかしな話だがそれでいい。父と兄をどん底にほっぽっておくというのならそれも結構。だがわしの言葉を覚えておくがいい。初めから帝国を持たざる者は、最後まで帝国を持てぬかもしれんのだ」  タヴェルネはくるりと背を向けた。 「わたくしにはわかりません」とアンドレが答えた。 「構わん。わしにはわかっておるからの」 「話をしているのは二人なのに、それでは困ります」 「でははっきりさせよう。我が一族の美徳である、お前の持っている武器を余さず使えと言っておるのだ。そうすれば、機会さえ来れば家族とお前自身のために幸運を引き寄せられる。国王にお会いしたら真っ先に伝えてくれ。お前の兄が任命状を待ち望んでいること、それにお前が空気も景色も悪い住まいで打ち沈んでいることを。要するにだな、あまりに愛や無私を貫くような馬鹿なことはするな」 「でもお父様……」 「今夜からは、国王にそうお伝えしろ」 「いつ国王にお会いしろというのです?」 「それから忘れずに、わざわざお越しいただく必要はないと陛下に伝えてくれ……」  恐らくタヴェルネは直截的な言葉を使うことで、アンドレの胸に群がりつつある嵐を呼び起こし、疑問を晴らしてくれるような説明を求めるつもりだった。ところがちょうどその時、階段に足音が聞こえた。  男爵はすぐに口を閉じて手すりから訪問者を眺めた。  アンドレが驚いたことに、父親は壁際にぴったりと身体を避けた。  それと同時に王太子妃が、黒い服を着て長い杖を突いた男性を連れて部屋に入って着た。 「妃殿下!」アンドレが力を振り絞って王太子妃の前まで進み出た。 「そうよ、患者さん。お見舞いとお医者さんを連れて来ましたからね。こちらです、先生。まあ、タヴェルネさん」王太子妃が男爵を見て言った。「お嬢さんはお加減が優れないようですが、お一人ではあまりお世話が出来ませんでしょう」 「妃殿下……」タヴェルネが口ごもった。 「さあ先生」王太子妃にしか出来ないような魅力的な心遣いを見せた。「わたしの患者さんの脈を取って、目の隈を調べて、症状を教えて下さい」 「そのようなご親切を……!」アンドレが口ごもった。「わたくしのような者がお受けすることなど……」 「こんなあばら屋で、と仰りたいの? こんなひどいところだったなんて申し訳ないわ。考えておきます。ですからルイ先生に手を見せて。大変よ、この人は何でも見抜く哲学者であるうえに、何でもお見通しの学者なんですから」  アンドレは微笑んで医師に手を預けた。  医師はまだ若かったが、その顔は王太子妃の信頼を窺わせる智的なものであり、部屋に入ってからはすぐに病人の様子を眺め、次いで部屋の様子を、さらには奇妙なことに不安ではなく不機嫌を浮かべている父親の顔を眺めていた。  学者として調べようとしたが、哲学者としては既に見抜いていたのではないだろうか。  ルイ医師はしばらく脈を診てから、アンドレに病状をたずねた。 「何を食べても受けつけないんです。それから突然の引きつけ、急な発熱に、痙攣、動悸、失神があります」  アンドレの話を聴いて、医師の顔がだんだんと曇り出した。  とうとう手を離し、目を逸らした。 「どうでしょうか、先生?」王太子妃がたずねた。「病状は如何でした? 危険な状態ですの? 死を宣告しなくてはなりませんの?」  医師はアンドレに目を戻し、無言でもう一度診察をした。 「殿下、こちらのお嬢様の患いは特別なものではございません」 「深刻ではないの?」 「普通はそうでございます」医師は微笑んだ。 「そう、よかった」大公女はほっと息をついた。「あんまり辛い目に遭わせないであげてね」 「辛い目に遭わせることなど一切ございません」 「薬を飲ませたりしないの?」 「こちらのお嬢様には一切必要ございません」 「そうなの?」 「ええ」 「何も?」 「何もいりません」  そう言うと医師は、それ以上の説明を避けるようにして、患者が待っていると言って大公女にいとまを告げた。 「先生、わたしを安心させるためだけにそんなことを仰っているのでしたら、わたしの方が具合が悪くなってしまいます。どうか今晩いらっしゃる時にはわたしがよく眠れるように、約束なさった糖衣《ドラジェ》を忘れずにお持ちになって下さい」 「戻ったらこの手でご用意いたします」  そう言って医師は立ち去った。  王太子妃は朗読係のそばに残った。 「大丈夫ですからね、アンドレ」王太子妃は励ますような笑顔を見せた。「心配するようなものではないわ。ルイ先生が何も処方しなかったんですから」 「安心いたしました。妃殿下へのお仕えを休まなくて済みますもの。それだけが心配でございました。でもお医者の先生には悪いのですが、実を申しますと少し具合が悪いのです」 「でも医者を嘲笑うようなひどい病気の苦しみではないはずよ。ぐっすり眠ることです。あなたのお世話をする人を手配しておきます。一人きりですものね。お見送りいただけますか、タヴェルネ殿」  王太子妃はアンドレの手を取り、励ましをかけ約束してから立ち去った。 第百三十九章 ド・リシュリュー氏の語呂合わせ  既に見て来た通り、ド・リシュリュー公爵はリュシエンヌに向かっていた。その決断の素早さと智性の冴えは、まことウィーン大使にしてマオンの勝者に相応しいものだった。  晴れやかな様子で到着すると、若者のように石段を上り、耳が冴えた日にやるようにザモールの耳を引っ張り、あの青繻子の閨房に乗り込んだ。デュ・バリー夫人がサン=クロード行きの準備をしているところをロレンツァが目撃した場所である。  伯爵夫人は長椅子に横たわってデギヨン氏に朝の指示を出しているところだった。  物音に驚いて振り向いた二人は、元帥を目にして呆気に取られていた。 「まあ公爵閣下!」伯爵夫人が声をあげた。 「伯父上!」デギヨンも声を出した。 「さよう、わしです、伯爵夫人。無論わしじゃよ、甥っ子殿」 「あなたでしたか」 「まさしくわしです」 「来ないよりはましね」 「歳を取ると気まぐれになるものです」 「リュシエンヌにまた囚われたと言いたいのかしら……」 「気まぐれ故に遠ざかりましたが大いなる愛の力に引き寄せられて。まさしくそういうことです。見事にわしの考えをまとめてくれましたな」 「それで戻っていらしたと……」 「それで戻って来たというわけです」リシュリューは一番いい椅子を一目で見抜いて腰を下ろした。 「そうかしら。まだ仰っていないことがあるんじゃなくて? 気まぐれだなんて……あなたらしくもない」 「そういじめなさるな。わしは評判よりはいい男ですぞ。戻って来た以上は……」 「来た以上は……?」 「心の底から本心です」  デギヨンと伯爵夫人がどっと笑い出した。 「自分が冗談のわかる人間でよかったわ。あなたの冗談を聞いて笑えるんですもの」 「さようですか?」 「それはそうよ。馬鹿な人間なら理解できずにぼうっとしているだけで、お戻りになったのには何か別の理由があるに違いないと勘繰るに違いないわ。デュ・バリーの名にかけて、登場するにも退場するにもあなたが必要なの。あのモレだってあなたと比べたら大根役者もいいところ」 「すると、わしが衷心より戻ったとはお信じにならないのですな? 伯爵夫人、それはいけません。こちらも考えを改めざるを得ませんぞ。こら、笑うでない、甥っ子よ。ペトロと呼んだうえで、何も建ててやらんぞ」 「ちょっとした内閣さえも?」  伯爵夫人はそうたずねてから再び大笑いした。いつものように天真爛漫なところを隠そうともしなかった。 「どうぞからかってくだされ」リシュリューは受け流した。「やり返したりはしませんぞ。もう歳を取り過ぎた。戦うのはうんざりじゃ。好きになさるがいい。今なら苦もなくわしをもてあそぶことも出来ましょう」 「額面通りに受け取ってはなりませんよ」とデギヨンが言った。「伯父上がもう一度体力の衰えを嘆こうものなら、私たちは破滅です。公爵殿、あなたに襲いかかったりはしますまい。あなたが幾ら衰えようとも、衰えたと言い張ろうとも、利子をつけて返して来るでしょうからね。いや何のことはない、戻って来たのを見てみんな嬉しがっていますよ」 「ええ、戻って来たのを祝ってみんな花火を打ち上げてるわ。とっくにご存じでしょうけれど……」 「何も存じ上げませんが」元帥は子供のように無邪気に答えた。 「花火の火の粉のせいで鬘は焦げているし、帽子は杖でくしゃくしゃよ」  公爵は鬘に手を伸ばし、帽子を見つめた。 「そらご覧なさい。何にしても戻って来てくれたのはありがたいわ。デギヨンさんが仰ったように、嬉しくて仕方がないの。どうしてだと思います?」 「まだ意地悪をなさいますか」 「ええ、でもこれが最後」 「では謹んでお聴きいたしましょう」 「どうして嬉しいのかというと、あなたが戻って来たのは晴天の報せだからよ」  リシュリューはぺこりと頭を下げた。 「そうなの。あなたと来たら嵐の終わりを告げる叙事詩の鳥と一緒。あの鳥は何と言ったかしら、デギヨンさんは確か詩をお書きになるのよね?」 「アルキュオネです」 「それだわ! 素敵な名前の鳥に喩えたからと言ってお怒りにならないでね、元帥殿」 「それどころか――」とリシュリューはにやりと笑った。それは満足している印であり、満足しているということは何か企んでいる印であった。「それどころか、譬えが適切であるだけに腹は立ちませんな」 「そうなの?」 「と言いますのも、素晴らしい朗報を携えておりますので」 「まあ!」 「いったいどのような?」デギヨンもたずねた。 「慌てないで、デギヨン公爵さん。元帥にもお話をさせてあげて」 「何の。すぐにお話し出来ますぞ。何せもうとうに済んだことですからな」 「そんな。ぽんこつ情報を教えていただいても……」 「こちらは一向に構いませぬぞ。取るか取らぬかです」 「いいわ、いただきましょう」 「どうやら国王は罠に嵌ったようですな」 「罠ですって?」 「まさしくその通り」 「どんな罠ですの?」 「あなたが掛けた罠です」 「あたくしが国王に罠を仕掛けたと仰いますの?」 「はてはて! よくご存じでしょうに」 「まさか。誓って存じませんわ」 「おや、誤魔化すとはお人が悪い」 「本当に存じませんの。どうか説明して下さいな」 「お願いします、伯父上」とデギヨンも言った。元帥が曖昧な笑みを浮かべているのを見て、何か企んでいることに気づいていたのだ。「伯爵夫人が期待と不安を抱いていらっしゃるじゃありませんか」  老公爵が振り返った。 「うっかりしておったわ! 伯爵夫人がお前に打ち明けぬわけはないからのう。しかしそうなると、思っていた以上に根深いようだな」 「私がですか?」 「デギヨンさんが?」 「さよう、お前が、デギヨンが、じゃ。いいですか、伯爵夫人、率直に言って、陛下に対するあなたの陰謀の多くには……こやつが大きな役割を担っているのではありませんか?」  デュ・バリー夫人が真っ赤になった。まだ朝が早く、頬紅もつけぼくろもしていなかったので、真っ赤になることもあり得たのだ。  だが赤くなるのは危険な徴候でもあった。 「そんなに吃驚した目で見つめなさるところを見ると、ずばり言い当てたに違いありませんな?」 「図星ですとも」デギヨン公爵と伯爵夫人が口を揃えて答えた。 「となると賢明なる国王はすっかりお見通しで、不安を抱えていらっしゃることでしょうな」 「何を見抜いていると仰いますの? あなたと来たら人を焦らすのがお上手ね」 「しかしどうしたって甥と示し合わせているように見えますからな……」  青ざめたデギヨンが伯爵夫人に向かって、「ご覧なさい、思っていた通りの嫌味っぷりですよ」と言いたげに目配せした。  こうした場合には女の方が男よりも度胸が据わっている。伯爵夫人は直ちに臨戦態勢に入った。 「あなたにスフィンクス役となって謎々を出されるのは御免蒙りたいわね。きっと遅かれ早かれ食われちゃうに違いないもの。どうか怖がらせないで。冗談だというのなら、生憎だけど悪い冗談だと云わせてもらいます」 「悪い冗談ですと! それどころか良い報せですぞ。無論わしではなくあなたにとって、です」 「ちっともそうは思わないんですけど」デュ・バリー夫人は口唇を咬んだ。小さな足をぴょこぴょこ動かして、見るからに焦れている。 「まあまあ。プライドは捨てて下され。国王がド・タヴェルネ嬢に惹かれているのではないかと心配なのでしょう。いやいや、何も仰いますな。わしならすべてお見通しです」 「ええその通りです。何一つ隠し立ていたしませんわ」 「それを不安に感じたからこそ、あなたとしては出来るだけ陛下に食い下がりたかったはずですな」 「否定はいたしません。それで?」 「結構、結構。しかし歯を立てるには陛下の皮膚はちと硬い。かなり鋭い針《エギヨン》ではないと……おや失礼! つい嫌味な語呂合わせを申してしまいました。どうかご理解を」  そう言って元帥はけたたましく笑った。少なくとも表向きは笑っているように見せていた。哄笑に引きつりながらも、不安そうな二人の顔をよく確かめたかったのだ。 「語呂合わせとは?」最初に我に返ったデギヨンが無邪気を装ってたずねた。 「わからんか? まあ毒が強いから、わからんならわからん方がよいかものう。伯爵夫人が王に嫉妬心を起こさせたいと思い、顔と頭のいい名門貴族を選んだと言いたかったまでのこと」 「誰がそんなことを?」と怒る様は、後ろめたい権力者そのものだった。 「誰が?……みんなそう言っておりますよ」 「みんな言ってるなんていうのは誰も言っていないのと同じじゃありませんか」 「何の。みんなと言えば、ヴェルサイユだけで十万人。パリなら六十万。フランスなら二千五百万ですぞ! これでも、パリの噂はもちろん新聞も手に入るデン・ハーグ、ハンブルク、ロッテルダム、ロンドン、ベルリンは数には入れておりませんからな」 「ヴェルサイユ、パリ、フランス、デン・ハーグ、ハンブルク、ロッテルダム、ロンドン、ベルリンで話題になっていると……?」 「さよう、あなたはヨーロッパでもっとも機智に富み、もっともお美しい女性だという噂ですぞ。そして今回の独創的な企みのおかげで愛人を手に入れたという噂です……」 「愛人ですって! いったいどんな根拠があって、そんな馬鹿な非難をされなくてはいけませんの?」 「非難と仰いますかな? 感嘆ですよ、伯爵夫人! 非難などしても無意味だと承知のうえで、この企みには誰もが一様に感嘆しておりました。いったい何処に感嘆し、熱狂していると思われますかな? あなたの機智に富んだ振舞と巧妙な戦術に感嘆しておったのです。夜を水入らずで過ごしたように見せかけた見事な手際に感嘆しているのですよ。わしがいて、国王がいて、デギヨンがいて、わしが最初に部屋を出て、次に国王が、三番目にデギヨンが出て来た夜のことです……」 「続けて頂戴」 「まるで愛人のようにデギヨンと二人きりで過ごしたように見せかけたことや、朝になって本物の愛人らしく密かにリュシエンヌを発たせたこと、さらにはそれを、わしのような馬鹿やお人好しに見せるようにして言いふらせようとし、そうなれば国王がそれを知って不安になり、あなたを失うまいとして大慌てでタヴェルネの嬢ちゃんの許を去るだろうという計画に感嘆しておったのです」  デュ・バリー夫人もデギヨンも落ち着いてはいられなくなった。  だがリシュリューは目立った目つきも身振りもせず二人を放っておいた。それどころか好奇心を嗅ぎ煙草と胸飾りに吸い取られてしまったようだった。 「結局」と言って元帥は胸飾りを指ではじいた。「確かに国王はお嬢ちゃんの許を去りましたな」 「公爵さん、あなたの空想は一言も理解できませんわ。国王は人からそんなことを言われようと絶対に信じようとなさいません」 「そうですか!」 「ええ、そうですとも。あたくしが腹を立てているとあなたは思っておいでのようですし、世間はあなた以上にそんな空想を信じているみたいですけれど、仰ったような方法で陛下の嫉妬心をつつこうなんて思ったこともありません」 「伯爵夫人!」 「誓います」 「見事なお手並みです。女ほど優れた外交官はおりませんな。無駄に智恵を働かすということがない。わしも大使でしたからな、政治に関するこんな箴言を知っております。『成功の秘訣を他人に教えてはならない。そうすれば二度目の成功を手に入れられる』」 「ですけど公爵……」 「成功した秘訣と申しておるのです。国王はタヴェルネ家と仲違いなさいました」 「ですけど公爵、あなたにはあなたなりのやり方がございますでしょう」 「というと、国王とタヴェルネの間の不和をお信じにならないのですか?」リシュリューは巧みに口論を避けた。 「あたくしが言いたいのはそんなことじゃありません」  リシュリューは伯爵夫人の手をつかもうとした。 「あなたは鳥ですな」 「あなたは蛇ね」 「ごもっとも。あなたに感謝してもらうためにいつかは良い報せを運んで来ることもあるのでしょうな」 「伯父上、お待ち下さい」デギヨンが慌てて割って入った。リシュリューの巧みな弁舌の力をありありと感じ取っていたのだ。「伯爵夫人ほどあなたを大事に思っている方はいらっしゃいません。あなたの話が出るたびいつもそう仰ってますよ」 「わしが友人を大事に思っているのも事実です。ですからあなたが勝利を収めたという報せを真っ先に伝えたいのも当然ではありませんかな。タヴェルネ男爵が娘を国王に売ろうとしていたのはご存じでしたか?」 「もう売ってしまったのではなくて?」 「伯爵夫人、あやつほど狡賢い奴はおりません! あれこそ蛇です。このわしが、友情だとか戦友だとかいうたわごとに丸め込まれておったのですからな。まんまとわしの心を捕えおって。あの田舎版アリスティデスがジャン・デュ・バリーという才人を出し抜こうとわざわざパリに出向くなどとは思わんではありませんか? ささやかな良識や洞察力を取り戻すのに、あなたのため全力を傾けなくてはなりませんでしたぞ。悲しいかな、わしは盲目でした……」 「取りあえずあなたの仰りたいことは済んだかしら?」 「これで全部です。あの唐変木にはきつく言っておきましたから、恐らく今ごろは心を決めているでしょう。そうなればこっちのものです」 「国王はどうなるの?」 「国王ですか?」 「ええ」 「陛下からは三つのことを聞き出しました」 「一つは?」 「父親について」 「二つ目は?」 「娘について」 「三つ目は?」 「息子について……まず、陛下は父親のことをおべっか使いだと判断なさり、娘のことは高慢だとお考えになり、息子のことは何とも思ってないどころか覚えてさえいらっしゃいませんでした」 「いいわ。じゃああの一家のことはすっかり片づいたのね」 「そう思います」 「田舎にとんぼ返りさせられるのかしら?」 「そうは思いません。一時的なものでしょう」 「確か陛下は息子さんに聯隊の言質を与えているとか……?」 「国王よりも記憶力が優れてらっしゃいますな。フィリップ殿があなたに魅力的な流し目を送っていた美青年であることは間違いありませんからな。もはや聯隊長でも中隊長でも寵姫の兄弟でもありませんが、あなたに覚えていただいてはいたというわけですか」  こんな台詞を言って老公爵は甥の心を嫉妬の爪で引っ掻こうと試みた。  だが差し当たってデギヨンの心を占めていたのは嫉妬ではなかった。  デギヨンはどうにかして老元帥の狙いを読み取り、戻って来た真の理由を探ろうとしていたのだ。  しばらく考えてみたが、或いは寵愛の風向きが変わってリシュリューをリュシエンヌに押し戻しただけなのかもしれない。  老元帥が暖炉の鏡を覗いて鬘を直しているのを見て、デギヨンが合図を送ると、デュ・バリー伯爵夫人はすぐにリシュリューをチョコレートに誘った。  デギヨンは伯父に恭しい素振りでいとまを告げ、リシュリューも挨拶を返した。  デギヨンが去ると二人の前にザモールが円卓を運んで来た。  老元帥は伯爵夫人の手際を見ながら独白していた。  ――二十年前に柱時計を見ながら「一時間後には大臣になれそうだ」と呟き、その通りになっていればのう。人生とは何と愚かなものか。第一の段階では肉体を精神の使用人にしておいて、第二の段階になると精神だけが生き残って肉体の下僕となる。馬鹿げたことじゃわい。 「元帥さん」伯爵夫人が元帥の物思いを破った。「もう仲直りしたんですし、二人しかいないんですから、どうしてこれほど苦労してあの小娘ちゃんを国王の寝床に潜り込ませたのか教えていただけないかしら?」 「実はですな」リシュリューがチョコレートの器に口をつけた。「わしもそれが知りたいのです。わしにもとんとわかりません」 第百四十章 帰還  ド・リシュリュー氏はフィリップの扱い方を心得ていたし、自分が戻って来たことをわざわざ知らせることも出来た。事実その朝ヴェルサイユを出てリュシエンヌに向かう際に、トリアノンに通ずる中通りで、フィリップの顔に悲しみと不安の徴候が浮かんでいるのに気づくほど近くをすれ違っていた。  フィリップがランスで忘れ去られていたのは事実だ。寵愛、無関心、忘却のすべてを経験したのだ。初めこそ昇進を羨む将校たちから友情の印を受け取ったり上官たちからさえ好意を見せられることに戸惑っていた。やがて寵愛が失われて輝かしい未来が吹き払われるにつれ、友好的な態度が冷やかな態度に変わり、好意が拒絶に変わるのを見るのに疲れていた。繊細な魂の内部では、苦しみが無念という形を取っていた。  王太子妃のフランス入国時にストラスブールで任務に就いていた上官のことが懐かしかった。友人たち、同輩たち、仲間たちが恋しかった。とりわけ父親の邸の静かでこざっぱりとした部屋が懐かしかった。そばの暖炉ではラ・ブリが大司教だった。どれだけ苦しくても精神活動を休止し、沈黙と忘却の中に慰めを求めていた。人も物も朽ち果てた人里離れたタヴェルネにいれば、力強く話しかける内省的な声に耳を傾けていられた。  だが何よりも残念なのは、妹の手を借りられないことだ。経験ではなく自尊心によって生み出された妹の助言が、間違っていたことはほとんどなかった。というのも気高い魂の持ち主というのは実に見事な考えを持っており、意図せずともごく自然に下世話なものの考え方を飛び越え、その気高さ故に汚名や痛手や罠を避けることが出来た。これが下層階級の抜け目のない虫けらたちになると、いつまで経っても泥沼の中で遠回りをしたり企みを練ったりうじうじ考えたりして、上手く避けることが出来るとは限らないものなのだ。  ひとたびいとわしく感じてしまえば瞬く間に心が折れて孤独に苛まれ、アンドレのことしか考えたくなくなっていた。アンドレというフィリップの半身はヴェルサイユで幸せでいられたかもしれないが、フィリップというアンドレの半身はランスでひどい苦しみに苛まれていた。  そこでフィリップは前述した手紙を男爵にしたため、今度戻る旨を伝えた。これを聞いても誰も驚かなかったし、もちろん男爵も驚かなかった。むしろフィリップがここまで我慢していたことに驚いていた。焼けた炭に乗っかったような状態のまま、この二週間というもの、リシュリューに会うたびに手続きを早めてくれるよう懇願していたのだ。  約束の日になっても任命状が届かなかったために、フィリップは将校たちに休暇を願い出た。見たところ嘲笑や揶揄を浮かべている気配は見られなかったが、そもそも当時のフランス人は礼儀正しく軽蔑を隠す術を心得ていたし、さり気なく敬意でくるむのが親切な男いうものであった。  そういうわけだから、期待よりもむしろ不安を感じながら任命状の到着を待っていたが、出発しようと決めていた時間になると、馬に乗ってパリへの帰途についた。  旅にかかったのは三日間であったが、フィリップには死ぬほどの長さに思われた。パリに近づけば近づくほど、父親からの連絡がないことや、最低でも週に二回は手紙を書くと約束していた妹からも連絡がないことに、どんどん不安を掻き立てられていった。  こうして前述の通りフィリップはリシュリュー氏と入れ違いに、昼頃にヴェルサイユに到着していたのである。ムランでは数時間しか眠らずに、夜の間も先を急いでいたからだ。だがあまりにも不安に心を奪われていたため、馬車に乗っていたリシュリュー氏に気づかなかったし、その従者にも気づかなかった。  フィリップは出立の日にアンドレと別れの言葉を交わした庭園の柵に向かって真っ直ぐ進んでいた。あの時のアンドレは、悲しむような理由など何もなくそれどころか一家の幸福の絶頂だというのに、何ともつかない悲しみの気色を頭の中に立ち昇らせていたのだった。  あの日、フィリップはアンドレが苦しんでいるのを見て何も考えずに説得されてしまった。だが徐々に落ち着きを取り戻して呪縛から解き放たれてみると、はっきりした理由があるわけでもないのに、あの日のものと同じ予感に導かれるようにして同じ場所に戻って来ていたが、これといった理由もないのに、予感にも似た抑えがたい悲しみの原因になりそうな事情を想像することことさえ出来ずにいた。  馬が大きな音と火花を立てて砂利道に足を入れると、その音を聞きつけてか、並木道の奥から人が出て来た。  鉈鎌を手にしたジルベールだった。  ジルベールはすぐにかつての主人に気がついた。  フィリップの方でもジルベールに気づいた。  ジルベールは一月前からふらふらと歩き回っていた。不安に急かされるようにして何かせずにはいられなかったのだ。  この日のジルベールは、頭の中で考え続けていたように抜け目なく、並木道を歩いて、アンドレの部屋なり窓なりが見え、家をずっと見張っていられると同時に自分の不安や震えや溜息に気づかれないような場所を一生懸命に探していた。  後ろめたさを悟られぬよう手に鉈鎌を持ち、茂みや花壇を眺めまわして、さも剪定でもしているように、花の咲きほこった枝を切り取っていたのだ。さらには樹脂や樹液でも採取しているように、まだ若い菩提樹の何でもない皮を剥ぎながら、耳と目を絶えず働かせて、祈りと懺悔を捧げていた。  この一か月というもの、ジルベールから生気が失せていた。若さを窺わせるところは、目に宿った異様な光と、白くくすんだむらのない顔色くらいしかない。秘密できつく閉ざされた口元や、歪んだ目つき、ぷるぷると震えている顔の筋肉からは、年を重ねた辛さしか読み取れなかった。  ジルベールはフィリップに気づいて、茂みの中に戻ろうとした。  だがフィリップが馬を進めて声をかけた。 「ジルベール! おーい、ジルベール!」  ジルベールが最初にしたのは逃げようとすることだった。それから恐怖の眩暈に襲われ、古の人々が牧神《パン》のせいにした原因不明の錯乱に囚われて、並木道や茂みや隧道、果ては泉水の中まで、気違いのように動き回った。  フィリップが優しい言葉をかけると、それがようやくジルベールにも届いたようだった。 「ジルベール、ぼくがわからないのかい?」  ジルベールは取り乱していたことに気づいて慌てて立ち止まった。  フィリップの方に足を向けたが、それでも足取りは重く疑わしげだった。 「すみません、気づきませんでした」ジルベールは震えていた。「衛兵かと思ったんです。仕事もせずにここにいることに気づかれて、お仕置きをされたくなかったので」  その説明に納得したフィリップは、馬から下りて手綱を腕に掛け、ジルベールの肩に手を置いた。するとジルベールがはっきりとわかるほど震え出した。 「どうしたんだ、ジルベール?」 「何でもありません」  フィリップが悲しげな笑みを浮かべた。 「ぼくらのことが嫌いなんだね」  ジルベールがまた震えた。 「まあ仕方ない。父上は厳しくひどい仕打ちをしていたからね。だがぼくもかい?」 「あなたは……」ジルベールは口ごもった。 「ぼくはいつだって君の味方だった」 「その通りです」 「だったら、嫌なことは忘れていいことだけを思いだしてもらえないか。妹だって君に優しかったはずだ」 「誰にも何でもありませんでした」ジルベールは理解しがたい言葉を言い放った。そこにはアンドレに対する非難と、自分自身に対する言い訳が込められていたのだ。自尊心は轟き、後悔は呻いていた。 「そうだな、妹には確かに気位の高いところがある。それでもやっぱり優しいやつだよ」とフィリップが答えた。  それからようやく――というのも、これまでの会話はすべて不吉な予感に導かれた質問を先送りにするためのものであったからだ。 「今アンドレが何処にいるかわかるかい? 教えてくれ、ジルベール」  その名前を聞いてジルベールは苦しそうに答えた。 「お部屋ではないのですか……どうして僕が知っていると……?」 「ではアンドレはいつものように一人寂しくしているのか!」 「そうですね、今はお一人だと思います。ニコル嬢が逃げ出してからは……」 「ニコルが逃げた?」 「ええ、恋人と一緒に」 「恋人と?」 「だと思ってましたけれど――」先走りすぎたことに気づいた。「使用人棟のみんなはそう言ってます」 「でもね、ジルベール」フィリップの顔に不安が浮かび始めた。「さっぱりわからないな。話を聞かせてもらわなくては。もっと心を開いてくれないか。君は頭がいいし、才能に恵まれているんだ。それが何物にも代え難い君の良いところなんだから、変に無愛想な態度を取ったりぶっきらぼうに振る舞ったりして、せっかくの長所を殺すことはない」 「おたずねになったようなことは何も知らないんです。よく考えて下さい、知っているわけないじゃありませんか。みんなが宮殿にいる間、一日中庭で働いているんですから! 何も知りません」 「ジルベール、だって君には目があるじゃないか」 「そうでしょうか?」 「ああ、それにタヴェルネの名を持つ者に無関係ではないだろう。いくらタヴェルネ家の待遇が悪かったとしても、厄介になっていたのは事実なんだ」 「確かにあなたを恨んだりはしていません」ジルベールはかすれた声を出した。フィリップの優しさや、フィリップが見抜けなかった別の感情によって、人間嫌いのジルベールの心も柔らかくなっていたのだ。「だからこそお伝えしますが、妹さんはご病気です」 「病気だって!」フィリップが声をあげた。「どうしてすぐに言ってくれないんだ!」  穏やかだった口調が慌ただしいものに変わった。 「いったいどういうことだ?」 「わかりません」 「どうなったんだ?」 「今日だけで三回花壇で気を失ったんです。でももう王太子妃のお医者さんが診に来てくれました。それから男爵も」  フィリップはもはや聞いていなかった。予感が現実のものとなり、異変を現実に突きつけられて、心を奮い立たせていたのだ。  ジルベールの手を引っ張って馬を任せると、全速力で使用人棟に向かって駆け出して行った。  残されたジルベールは慌てて馬を厩舎に連れて行くと、野鳥か猛禽でもあるまいに、人の手の届くところは御免だとばかりに逃げ出してしまった。 第百四十一章 兄と妹  フィリップが訪れた時には、アンドレは既にお話しした通り長椅子に横たわっていた。  控えの間に入ったフィリップは、アンドレがあれほど大切にしていた花をすっかり遠ざけていることに気づいた。具合が悪くなってからは花の香りが不快で仕方なく、それが苛立ちとなって、二週間前から続いていた身体の不調がいや増していたのだ。  アンドレはぼんやりとしていた。美しい顔には重い雲が翳り、眼球は痛々しい眼窩の中に収まっていた。両手をだらりと下げているせいでむくんでいるはずなのに、どちらも蝋人形のように白いままだった。  そうして動かないものだから、まるで生きているとは思われない。息を吸う音が聞こえなければ、死んでいるのかと思ったところだ。  フィリップは妹が病気だと聞いて駆け通しで来たので、階段の下に着いた時には息を切らしていた。だがそこで一息ついて頭を冷やし、ゆっくりと階段を上って行ったので、妖精のように足音を立てずに敷居を跨いでいた。  気の利く人間らしい気遣いから、相手にあれこれ聞かずに、病状からどんな病気なのかを判断しようとした。愛情深いアンドレであれば、兄が来たことに気づけば心配させまいと振る舞うだろう。  そこでフィリップはアンドレに聞こえないようにガラス扉をそっと押した。だから部屋の真ん中に行くまでアンドレはまったく気づかなかった。  そういうわけだから、フィリップにはアンドレを観察するだけの時間があった。真っ青になってぴくりともしていない。虚ろな目に浮かぶ異様な光を見てぎょっとした。思っていた以上に深刻らしい。どうやら苦しみの大半は精神的なものが占めているのだと直感した。  妹の様子に心を揺さぶられ、思わずびくりとしてしまった。  アンドレが目を上げ、声をあげると、死から甦ったように立ち上がった。先ほどまでのフィリップと同じく息をあえがせて、兄の首にかじりついた。 「フィリップ! あなたなのね!」  それだけ言うと力が抜けてしまった。  そもそもほかのことなど考えていなかったのだから、ほかに言うことなどあろうか? 「ああ、ぼくだよ」フィリップが笑顔でアンドレを抱きしめると、アンドレが腕に身体を預けるのを感じた。「戻って来たら病気だったなんて! いったいどうしたんだ?」  アンドレが神経質な笑いをあげた。安心させるつもりだったのだろうが、とても安心など出来なかった。 「どうしたですって? わたくしが病気に見えるの?」 「もちろんだ。真っ青になって震えているじゃないか」 「何処を見てらっしゃるの、お兄様? 気分が悪いことさえないのに。誰がそんな嘘を仰ったの? そんな馬鹿なことを聞かせてお兄様を不安にさせて。第一、仰っていることがわかりません。凄く体調はいいんですもの。軽い眩暈を感じるけれどすぐに消えてしまいますし」 「でも真っ青じゃないか……」 「いつも顔色がよかったかしら?」 「そんなことはないが、今日と比べれば……」 「何でもないわ」 「温かった手だって氷みたいに冷たいじゃないか」 「それはだって、お兄様が入って来たのを見て……」 「うん……?」 「あまりに嬉しかったものですから、血が心臓に集まってしまっただけなんです」 「でもよろけてるじゃないか。こうしてぼくにしがみついているわけだし」 「抱きしめているからこうなっているだけ。それとも抱きしめるのはお嫌でした、フィリップ?」 「まさか」  フィリップはアンドレを胸にかき抱いた。  途端にまたもや力が抜けてゆくのをアンドレは感じた。必死で兄の首にしがみつこうとしたが、手は死者のように強張って滑り落ち、身体ごと長椅子に倒れ込んだ。美しい顔を引き立てていたモスリンのカーテンよりも蒼白だった。 「誤魔化すんじゃない! 随分と具合が悪そうじゃないか」 「小壜を!」アンドレは必死で笑みを浮かべようとした。たとい死の瞬間でさえも微笑みを浮かべようとするに違いない。  瞳を曇らせ、震える手を持ち上げ、窓際の洋箪笥に置かれた小壜を指さした。  フィリップは小壜に駆け寄るために仕方なくアンドレから離れたが、その間も目を離さずにいた。 「ほら」アンドレはゆっくりと時間をかけて空気を吸い込み、気力を取り戻した。「すっかりよくなったでしょう。これでもまだ病気だなんて仰いますの?」  だがフィリップは答えようともせずにアンドレを見つめていた。  やがて落ち着いたアンドレは長椅子から立ち上がり、湿った両手でフィリップの震える手を包み込んだ。目には落ち着きが戻り、頬の血色も良くなり、これまで以上に美しく見えた。 「ほら、よくなったでしょう、フィリップ。何でもなかったの。たとい親切にして下さらなかったとしても痙攣は治まったでしょうし、もうすっかりよくなっていたんです。ですけど目の前に最愛のお兄様がいらっしゃったものですから……わたくしの人生にとってお兄様がどれだけ大事な存在なのかはご存じでしょう。具合が良くなっていたところに、そうしたショックで死にかけてしまいましたの」 「わかったよ、それなら何の問題もない。それはそうと、何が原因で病気になったんだい?」 「何だったのかしら? 春になって花の季節ですから。わたくしが過敏な体質なのはご存じでしょう。昨日から、花壇の青リラの香りにやられてしまって。春一番に乗って揺れるあの花の放つ香りに酔ってしまったのね。ですから昨日……ああ、ねえフィリップ、もうそのことは考えたくないわ。でないとまた具合が悪くなってしまいそう」 「それもそうだな。きっとそうなんだろう。確かにリラの花には毒がある。子供の頃タヴェルネで、垣根で摘んだリラをぼくの寝台の周りに飾ったことがあっただろう? 祭壇みたいに立派だなんて二人で言ってたっけ。ところが次の日、ぼくは目を覚まさなかった。死んでしまったものと誰もが思ったのに、おまえだけは違って、自分にさよならも言わずに何処かに行くわけがないと言って信じようとしなかったんだ。おまえだけだった――あの時ほんの六歳だったけれど――口づけと涙でぼくを目覚めさせたのはおまえだけだったんだ」 「それに空気よ。ああいう時には空気が必要なんです。わたくしに足りないのも空気なのだと思います」 「アンドレ、あのことを忘れてしまったのかい。部屋に花を運ばせるつもりだったんだろう」 「そうではないの。雛菊を置かなくなったのも二週間以上も前のことですもの。不思議ね! あれほど花を好きだったのに憎らしく思うなんて。でも花のことは放っておきましょう。頭が痛かったの。ド・タヴェルネ嬢は頭が痛かったんです。ド・タヴェルネ嬢ほど幸せな人間はいないという時に!……頭が痛いせいで気を失ってしまったけれど、そのおかげで運命が宮廷と都に向いて来たんです」 「何だって?」 「そうなんです。ご親切にも王太子妃殿下がお見舞いに来て下さったんです……何て素晴らしい方なのかしら。妃殿下ほどお優しい方はいらっしゃいませんわ。わたくしのことを気遣い、哀れに思って主治医を連れて来て下さったんです。誤診などなさらないご高名なお医者様が、わたくしの脈を取り、目と舌を診察して下さいました。結果はご存じ?」 「わからないな」 「病気でも何でもないそうです。ルイ先生は一滴も一粒もお薬を処方なさらなかったわ。毎日毎日震える腕や足を治して来たそうよ。そういうわけだからフィリップ、わたくしは何でもないの。いったい誰からそんな脅かすような話を聞いたの?」 「あのジルベールの奴だよ!」 「ジルベールですって?」アンドレが目に見えて苛立ちを表した。 「ああ、おまえが重病だとジルベールから聞いたんだ」 「そんなたわごとをお信じにならなくても。あの怠け者は馬鹿なことをするか言うかしか能がないんですから」 「アンドレ!」 「何でしょうか?」 「また顔色が悪くなっているじゃないか」 「だとしたらジルベールのせいよ。歩く邪魔をするだけでは飽きたらず、いなくなってもジルベールの話を聞かされなきゃならないなんて」 「大丈夫か、また気絶しそうじゃないか」 「ええ……でもこれほど……」  アンドレの口唇が青ざめ、声が途切れた。 「何てことだ!」フィリップが呟いた。  アンドレは賢明に。 「何でもないんです。発作を起こしたり苛立ったりしても気になさらないで下さい。こうしてちゃんと立っているでしょう。嘘だと思うなら、一緒に外に出かけませんか。十分後には元通りになっていますから」 「自分の身体のことがわかってないようにしか見えないよ、アンドレ」 「そんなことはありません。死ぬほどの苦しみにはお兄様が戻って来てくれるのが何よりの薬ですもの。外に出かけない、フィリップ?」 「いずれね」フィリップはさり気なく押しとどめた。「まだ完全に治ってはいないだろう。まずは元通りにならなくては」 「そういうことなら」  アンドレはそのまま長椅子に倒れ込み、手をつかんでいたフィリップも引っ張られた。 「どうして事前に報せもなくいらっしゃいましたの?」 「それよりも、手紙をくれなくなった理由を聞かせてくれないか」 「でもそれは、ほんの二、三日じゃありませんか」 「もう二週間近くだぞ」  アンドレが顔を伏せた。 「億劫だったのかい」フィリップは優しい声で責めた。 「違います。苦しかったんです。ええ、フィリップ、お兄様の言う通り。具合が悪くなったのは、お兄様に手紙を送るのを怠るようになった日のことです。その日を境に、大好きだったものが苦痛になり、遠ざけたくなったんです」 「それならさっきの言葉にもうなずける」 「さっきの言葉?」 「幸せだと言っただろう。こうやって人に愛され大事にされているというのならよかった。ぼくの方は生憎だがね」 「お兄様が?」 「ああ、ぼくは向こうで完全にほったらかしさ。とうとう妹からもほったかされたよ」 「フィリップ!」 「信じられるかい? 出発間際に言われたんだが、幻の聯隊について何の報せもなかったんだ。ぼくのものになると報せが来るはずだったんだ。リシュリュー氏と、それに父上のおかげで、国王が約束して下さったのに」 「予想はついていました」 「予想がついていたって?」 「ええ。事情があるの。リシュリューさんとお父様が大騒ぎなさったんです。魂の籠っていない二つの肉体みたい。ああいう人たちの生き方はまったく理解できません。朝のことですけれど、お父様が旧友だと思っていたリシュリューさんのところに押しかけたんです。それでヴェルサイユの国王のところにリシュリューさんを行かせましたの。ここで待っている間に、わたくしにはよくわからない質問を幾つかなさいました。半日が過ぎましたが、新しい報せはありません。するとお父様は大変お怒りになって、公爵が上手くやって、裏切ったと仰るんです。どなたを裏切ったというのですか?、とわたくしはたずねました。というのも何のことだかわからなかったからです。正直に言えばそれほど知りたいとは思いませんでしたけれど。それからもお父様は、煉獄の罪人のように苦しみながら、来ることのない便りを、来ることのない誰かを待っていらっしゃいました」 「だけど陛下は?」 「陛下ですか?」 「ああ。陛下はぼくらに良くして下さった」  アンドレは躊躇いがちに辺りを窺った。 「何だい?」 「声を落として! 陛下は気まぐれな方ですから。お兄様やお父様や我が家に興味をお示しになったように、最初こそわたくしに興味を示されましたが、唐突に興味を失くされておしまいになったんです。理由も事情もわたくしにはわかりません。ですけどもうわたくしに目を向けては下さらず、背を向けておしまいになったことは事実です。それに昨日また花壇で気を失ってしまった時に……」 「何だって! ジルベールの言う通りだったんだな。気絶したのか、アンドレ?」 「お兄様以外にも誰彼構わず触れて歩いて回りたい人なんですわ、可哀相に! わたくしが気絶したかどうかなんてジルベールには無関係じゃありませんか?」アンドレは笑い出した。「王家の敷地内で気を失うのが好ましくないことだというのはわかっています。ですけど好きこのんで気を失うわけではありませんし、わざとやったわけでもありませんもの」 「誰かに非難されたのか?」 「ええ、国王に」 「国王に?」 「そうなんです。陛下が果樹園を通ってグラン・トリアノンからいらっしゃったのが、ちょうど気を失った時でした。わたくしが馬鹿みたいに腰掛けに横たわり、ド・ジュシューさんに介抱されているのを、陛下はご覧になったんです。気絶している最中には周りで起こっていることなどわからないものでしょう? ですのに、陛下に見られている間中、身体こそ自由が利きませんでしたが、陛下が眉をひそめて怒ったような目つきで歯の隙間から不満をお洩らしになることに気づいていたんです。そのうち陛下は我慢できずに立ち去ってしまい、わたくしはその場に取り残されてしまいました。でもお兄様、わたくしは断じて悪いことなどしておりません」 「大変だったね」フィリップは妹の手を優しく握った。「おまえが悪くないのはよくわかってるよ。それからどうなったんだい?」 「それでお終い。後はジルベールが噂を触れ回ったことを謝ればいいんです」 「おまえはまたジルベールに辛く当たって」 「せいぜい肩を持って差し上げればいいんです!」 「アンドレ、お願いだから優しくしてやってくれ。そんなに意地悪をするものじゃない。そんなことばかりしているのを見て来たが……おい、アンドレ、またか?」  アンドレは声を出さずにクッションの上にひっくり返った。今度は気付け薬も効かず、眩暈が治まり再び血が通い始めるまで待たなくてはならなかった。 「これで決まりだ」フィリップが呟いた。「おまえは病気だよ。そんなに苦しそうにしていると、ぼくより勇敢な人たちでもぎょっとするに違いない。おまえは言いたいことを言い何でもなさそうにしているが、もっとしっかりした手当を受けるべきだ」 「でもお医者様が仰ったのよ……」 「医者が何を言ったって納得できないし、納得するつもりもない。この耳で直接話を聞いたわけじゃないからね。何処に行けばお医者さんに会えるんだい?」 「いつもトリアノンにいらっしゃるわ」 「いつも何時に? 朝?」 「朝と晩に、お仕事で」 「この時間は仕事中かい?」 「ええ。時間に正確な方なので、午後の七時きっかりに、王太子妃殿下のお住まいに続く石段をお上りになると思うわ」 「じゃあここで待つとしよう」フィリップはようやく落ち着きを見せた。 第百四十二章 誤解  フィリップは気さくに会話を続けながら、妹から目を離さずにいた。アンドレの方も再び気絶して兄を心配させたりはすまいと、意識をしっかり持とうとしていた。  フィリップは様々な見込みが外れたことを話した。国王に見捨てられたこと、ド・リシュリュー氏の気が変わったこと。やがて七時の鐘が鳴ると、しようとしていることをアンドレに見抜かれないように、大急ぎで外に出た。  真っ直ぐに王妃の居館に向かうと、衛兵から呼び止められないように充分に離れながら、同時にフィリップのそばを通らなければ誰も通り抜けられないほど近い場所で立ち止まった。すぐに、通りかかった人物に気がついた。  アンドレから聞いた通りの険しく厳かな顔つきの人物が姿を見せたのは、フィリップが出て来てから五分と経ってはいなかった。  日が陰り、ものが見えづらくなっているというのに、医師はケルンで出版された胃不全麻痺の原因と症状に関する論文をひもといていた。闇が濃さを増していたので、もうほとんど字が見えないことに最前から医師も気づいていたが、歩いて来た人影によって残っていた光がとうとう遮られた。  医師は顔を上げて目の前の人物にたずねた。 「どなたです?」 「失礼ですが、お医者様のルイ先生でしょうか?」 「如何にも」医師は口を結んだ。 「ではちょっとよろしいでしょうか」 「どういうご用件でしょうか。王太子妃殿下の許に伺わなくてはなりませんから、時間がないのです」 「先生――」フィリップはひざまずいて道を塞いだ。「……治療してもらいたいのは妃殿下の奉公人なのです。その子はひどく苦しんでいますが、妃殿下のお加減には不都合なところはございませんのでしょう?」 「まずは誰のことを話しているのか聞かせて下さい」 「妃殿下ご自身がご案内した部屋の住人のことです」 「ああ、アンドレ・ド・タヴェルネ嬢のことですか?」 「そうです」 「なるほど!」医師は若者の頭から爪先まで見回した。 「あの子が苦しんでいるのはご存じでしょう?」 「ええ、痙攣を起こしていましたね」 「それに失神を繰り返すんです。今日だけでもぼくの腕の中で数時間の内に三、四回気を失いました」 「悪化したのですか?」 「ぼくにわかるわけがありません。ですが大事な人が……」 「アンドレ・ド・タヴェルネ嬢はあなたにとって大事な人なんですね?」 「この命よりも!」  フィリップはこの言葉を兄妹愛のつもりで口にしたのだが、ルイ医師はその意味を取り違えた。 「ははあ、ではあなたが……?」  医師は言い淀んだ。 「何でしょうか?」 「つまりあなたが……?」 「ぼくが何だというのですか?」 「恋人かと言いたいんですよ」医師は堪えきれずに口に出した。  フィリップは後じさり、手を額に当て、死人のように青ざめた。 「何ですって! 妹を侮辱するつもりですか!」 「妹? アンドレ・ド・タヴェルネ嬢は妹さんですか?」 「そうですとも。そんなおかしな勘違いをなさるようなことは言わなかったつもりですが」 「失礼ですがこんな時間帯に会いに来たことや、謎めいた言葉つきから思うに……察するに、兄妹愛を越えた愛情を……」 「先生。恋人だろうと夫だろうと、ぼくほど妹を愛したりはしないでしょうとも」 「そうでしたか。それならわかりました。勘繰ってしまい、傷つけたことをお詫びします。お許しいただけますでしょうな……?」  医師はそう言って通り過ぎようとしたが、フィリップに引き留められた。 「先生、お願いですから行ってしまう前に病状について安心させて下さい」 「不安になるようなことを誰から吹き込まれたんです?」 「この目で見たんです」 「あなたがご覧になったのはただの生理現象ですよ……」 「ただの?」 「場合によりけりですが」 「何から何までおかしな点がありますね。何だか隠しごとをして返答を避けているみたいだ」 「早く妃殿下のところに行きたくてやきもきしているとは考えないのですか? 妃殿下がお待ちになって……」 「先生、先生」フィリップは汗で光る顔を拭った。「先生はぼくのことをド・タヴェルネ嬢の恋人だと勘違いなさいましたね?」 「ええ、ですが間違いだとわかりましたから」 「しかしそうすると、タヴェルネ嬢に恋人がいるとお考えなのですか?」 「医者の考えていることをお伝えするわけにはいきませんよ」 「お願いです先生。折れた剣の刃のように心に刺さったままの言葉を、どうか引き抜いて下さい。誤魔化そうとするのはやめて下さい。あなたは必要以上に洞察力があり目敏い方のようです。恋人がいると考えたり、それを兄に隠そうとするのはどういうことなのですか? お願いですから教えて下さい」 「ご希望に反しますが、お返事を差し控えさせてもらえますか。あなたの話し方を伺う限りでは、どうやら取り乱しておいでのようだ」 「先生にはわからないんです。あなたの言葉の一つ一つが、崖っぷちで震えているぼくを一歩一歩絶壁の方に押しやっているというのに」 「お待ちなさい!」 「先生!」フィリップは我を忘れた。「先生のお話を聞いていると、驚くほど冷静で勇敢でなければ耐えられない恐ろしい秘密のようではありませんか?」 「タヴェルネさん、思った以上にあなたは取り乱しておいでのようだ。そんなことは一言も申しておりませんよ」 「口には出さずとも仰っているも同然です!……いろいろなことを勘繰らざるを得ません!……そんなのは優しさではありませんよ。ぼくが苦しんでいるのがわかりませんか。お願いですから仰って下さい! 何を聞いても冷静でいるし心を挫かないとお約束しますから……妹の病気は、恐らく不名誉な……先生、否定はなさらないで下さい!」 「タヴェルネさん、私は妃殿下にもお父上にもあなたにも何も申し上げませんでした。もう何も聞かないでもらえますか」 「わかりました……でもぼくはその沈黙に意味を見出してしまいますよ。あなたの考えをたどって暗く悲しい道筋に陥ることでしょう。ぼくが取り乱すというのなら、せめて止めて下さい」 「さようなら」医師ははっきりと口にした。 「離しませんよ。ウイかノンか答えて下さい。たった一言だけでいいんです。ぼくのお願いはそれだけです」  医師が立ち止まった。 「先ほどひどい勘違いをして傷つけてしまいましたが……」 「そのことはもういいんです」 「よくはありませんよ。先ほど、少し後のことですが、タヴェルネ嬢が妹さんだと仰いましたね。ですがその前に、勘違いの原因になるようなことを仰っていたではありませんか。アンドレ嬢のことを命よりも大事に思っている、と」 「その通りです」 「でしたら妹さんも同じくらいあなたのことを思うべきではありませんか?」 「もちろんです。アンドレは世界の誰よりもぼくのことを大事に思っていますとも」 「でしたら妹さんのところに戻ってたずねてご覧なさい。私が言った通りにたずねてご覧なさい。私はもう行かなくてはなりません。妹さんがあなたのことを思っているなら、きっと答えてくれるでしょう。医者に言えなくても友人になら言えることがあるものです。医者として私の口からは申し上げたくないことも、きっと本人が教えてくれるでしょう。ではさようなら」  医師は改めて館の方へ歩き出した。 「駄目です、いけません!」フィリップの叫びは苦しみのあまり途切れ途切れの嗚咽となっていた。「駄目です、納得できません。お願いです、そんなことを仰らないで下さい!」  医師はゆっくりとその場を離れ、なだめるように答えた。 「申し上げたことをなさい。私を信じて、それが最善の策だと思って下さい」 「ですが先生、あなたを信じるということは、これまで信じて来た信仰を捨てるも同然です。天使を罵り、神を試すようなものです。信じろと言うのでしたら、せめて証明して下さい」 「さようなら、タヴェルネさん」 「先生!」フィリップが絶望の声をあげた。 「そんなに昂奮しては、人に知られてしまいますよ。せっかく誰にも言わずにおこうと心に決め――あなたにも隠しておきたかったことなのに」 「きっと先生が正しいのでしょう」声は小さく、消えそうな吐息が口唇から洩れた。「それでも科学だって間違うことがあるはずです。ご自身で認めたように、先生だって間違うことはあったのですから」 「滅多にないことです。私は厳格な学究の徒ですから、目と心が『見た、わかった、確実だ』と認めない限り、口から『ウイ』の言葉が出ることはありません。確かにあなたが仰ったように、時には間違うこともあります。人間という誤謬を犯す生き物ですから。ですが確率から言えば、ないに等しいと言ってよいでしょう。ですからここらで穏やかにお別れしましょう」  だがフィリップは聞き入れずに医師の腕をつかんだ。それがあまりにいたわしかったので、医師も立ち止まった。 「どうか最後に一つお願いします。こんなに混乱したままでどうやって引き下がれというのですか。まるで気が違ったような感じがしています。生かすか殺すかはっきりして下さい。心を脅かしている事実について確証が欲しいんです。これから妹のところに戻りますが、あなたがまた診察に来て下さるまでは妹には何も言いません。だからどうか考え直して下さい」 「あなたの方こそ考え直していただきたい。私の方にはさきほど申し上げた言葉につけ加えることは何もありません」 「先生、お願いです――死刑執行人だって死刑囚には慈悲を拒まないではありませんか――王太子妃殿下のところにお伺いした後で妹のところにもまた寄っていただけませんか。どうかそうすると仰って下さい!」 「何の意味もないことですが、あなたがそこまでこだわるのでしたら、ご希望に答えなくてはなりませんね。妃殿下のところを退いたら妹さんに会いに伺いましょう」 「ありがとうございます! きっと間違っていたとお認めになるに違いありません」 「間違っていたなら、喜んで認めましょう。では!」  自由の身になった医師が立ち去り、一人フィリップが広場に残された。熱で震え、冷たい汗にまみれ、昂奮のあまり、自分が何処にいるのかも誰と話していたのかもどんな秘密を耳にしたのかもわからなくなっていた。  数分にわたって、意味もわからないまま、星々で控えめに輝く空と光り輝く館を見つめていた。 第百四十三章 質疑  我に返って理性を取り戻すと、フィリップは直ちにアンドレの部屋に向かった。  だが離れに近づくにつれ、不幸だという思いは少しずつ小さくなって来た。経験したばかりの出来事は夢であり、抗っていたのは現実ではなかったのではないか。医師から遠ざかるにつれ、戒めの言葉が信じられなくなって来た。確かに科学は間違うことがあるが、美徳は過ちを犯さない。  アンドレを再診すると約束した以上は、医師は過ちを認めたのではないだろうか?  だが戻って来たフィリップのあまりの変わりようや青ざめやつれた顔色を見て、今度はアンドレの方が心配になった。これほど短時間の内にこれほど変わり果ててしまうとは、いったい何があったのか。  フィリップがこんな風になるとしたら、原因は一つしかない。 「お兄様、わたくしの病気は深刻なものなのでしょうか?」 「どうしてそんなことを?」 「だってルイ先生が恐ろしいお話をなさりそうだから」 「そうじゃない。先生は何の心配もしていないよ。おまえの言った通りだった。そのうえまた診察して下さるように約束してもらったんだ」 「またいらっしゃるんですか?」 「うん、迷惑じゃないだろう?」  フィリップはたずねながらアンドレの目を覗き込んだ。 「ええ」アンドレは即答した。「そうすることでお兄様が安心なさるのでしたら、それが一番ですもの。でも、だったらどうしてそんなに青ざめて動揺していらっしゃるの?」 「心配かい?」 「お兄様がそんなことを仰るなんて!」 「ぼくのことを心から大事に思ってくれているかい?」 「何ですって?」 「小さかった頃みたいに、ぼくを大事に思ってくれているかい?」 「フィリップ!」 「かけがえのない大事な人間だろうか?」 「たった一人の大事な人です」  答えてから、アンドレは面目なさそうに赤面した。 「ごめんなさいフィリップ、忘れていたわ……」 「父上のことだね?」 「ええ」  フィリップはアンドレの手を取り、愛おしむように見つめた。 「アンドレ、父上やぼくに抱いているのとは別の愛情を心に秘めていたとしても、責めたりはしない。約束する……」  フィリップはアンドレのそばに腰を下ろした。 「おまえくらいの年頃になれば、娘さんたちは思わず知らず荒々しい口を利くものだ。聖書の教えは妻に対し、両親や家族の許を離れて夫に尽くすように説いているじゃないか」  アンドレはしばらくフィリップを見つめ、聞いたこともない外国語で話をされているようにぽかんとしていた。  やがて何とも言えず無邪気に笑い出した。 「夫ですって! まさか夫の話をなさっているわけじゃないでしょう? そんな人はまだ現れていないし、わたくし本人が見たことも聞いたこともないわ」  フィリップは嘘偽りのない笑い声を聞いて、アンドレに近寄り両手を包み込んだ。 「順序から言えば夫にする前に婚約者や恋人がいるだろう」  心の奥底まで映し出している澄んだ瞳の奥底まで覗き込もうと苦しんでいるのを見て、アンドレは驚いてフィリップを見つめ返した。 「おまえは生まれてからずっとぼくのことを一番の友人だと思ってくれていただろうけれど、ぼくの方ではたった一人の友人も同然のつもりでいたんだ。おまえを放って友人たちと遊びに行ったことなどなかっただろう? ぼくらは一緒に育った。無条件の信頼関係が揺らぐことなどなかった。いったいどうしてしばらく前からこんな風に理由もなくいきなり態度を変えなくてはならないんだ?」 「わたくしの態度が変わったと仰るの? どういうことでしょうか。戻って来てからお兄様が仰っていることはさっぱり理解できません」 「いいかいアンドレ」フィリップはアンドレを胸に抱きしめた。「思春期の情熱が幼少期の愛情に取って代わるのはおかしなことではないし、もうぼくのことを信頼していないから愛に冒された心を見せようとは思わないんだろう」 「お兄様!」アンドレはますます驚いて声をあげた。「何を仰っているの? どうして愛の話なんかなさるんです?」 「アンドレ、ぼくは勇気を振り絞って、おまえにとっても大変だろうがぼく自身にとっても辛い質問をしているんだ。こうして信頼してくれと頼むことが、いや要求することが、おまえの心からぼくを締め出してしまうことになるのはよくわかっている。それでもぼくはそうするつもりだ。ぼくの方も辛いんだと信じてくれ。兄であり友人である人間に対してそんな風に口を閉ざすことが出来るとは思わなかったけれど、このまま沈黙を貫いてぼくを悲しませるというのなら、恐ろしい不幸の真っ直中におまえを置き去りにしておくよりはむしろ、愛されなくなる方を選ぶよ」 「お兄様、どうして非難されているのかわたくしにはまったく理解できません」 「アンドレ、理解させてもらいたいのか?」 「ええ……もちろんです」 「そう言うのなら詳しい話をするけれど、その話がおまえを赤面させ、心に羞恥を植えつけることになっても、原因はおまえにあるんだぞ。秘密を引き出すために心の奥底まで掘り起こす羽目に陥らせたのはおまえなんだからな」 「構いません。何を言われても腹を立てたりはしませんから」  フィリップは妹を見つめ、昂奮して立ち上がると、部屋をドタドタと歩き回った。フィリップは胸中に非難の言葉を用意していたが、アンドレの落ち着き方にはそうした非難と相容れないところがあるものだから、どのように心を決めればいいのかわからなかったのだ。  アンドレの方では呆然として兄を見つめていたが、兄らしい温かな力強さとはまったく異なる厳しさを感じて、だんだんと畏縮し始めていた。  そこでフィリップが口を利き始めるより先にアンドレも立ち上がって腕を取り、優しい目つきでフィリップを見つめた。 「お兄様、こんな風にわたくしを見つめて頂戴!」 「当たり前じゃないか」フィリップは熱い眼差しを注いだ。「どうしたんだい?」 「あのね、お兄様はこれまでずっと、わたくしが友情を感じた相手に嫉妬なさって来たと申し上げたいんです。おかしなことではありませんわ、わたくしだってお兄様が友情や愛情を示した方に嫉妬していたんですもの。今言ったことを考えてみて下さらない?」  アンドレが微笑んだ。 「わたくしの目の中に隠しごとでも見えるのでしょうか?」 「ああ、見えるとも。おまえは誰かを愛しているんだ」 「わたくしが?」アンドレの驚き方には不自然さなど皆目なかった。よほど巧みな俳優でも今の一言を真似られるかと問われたら即答できないだろう。  アンドレは笑い出した。 「わたくしが誰かを愛しているですって?」 「そして愛されているんだろう?」 「残念ですけれど、そんな人とお近づきになったことはありませんから、説明することも出来ませんわ。そんなの絵に描いた愛ね」  今の質問に対してこれほど率直に笑って冗談を言ったり、青い瞳が澄んでいたり、物腰が清らかで無邪気であったりするのを見たり、胸の上に感じている落ち着いた心臓の鼓動を感じたりもすれば、一か月会わなかったからといって妹の清らかな気立てが変わったわけではないということは自ずから明らかであった。可哀相にアンドレは不当に疑われていたのだ。科学は嘘をついたのだ。もっともルイ医師にも弁明の余地はあろう。アンドレの純真さも美しい心根も知らなかったのだから。恥ずべき手本に魅了され、悪い血による早熟な熱情に引きずられた貴族の娘たちを見て来たせいで、アンドレのことも何の未練も魂胆もなく処女を捨てるような女だと信じてしまえたのだ。  フィリップは改めてアンドレを見つめ、医師が過ちを犯したのだと納得した。この説明に満足して、聖母マリアのような純潔を告白しながら同時に聖なる子に信仰を告白した殉教者を抱きしめるように、妹を抱きしめた。  約束通りやって来たルイ医師の足音が階段から聞こえて来たのは、フィリップがこのように考え直した頃だった。  アンドレは震え上がった。現在アンドレが置かれているような状況の中では、どんなものでも恐ろしかった。 「どなたかしら」 「もちろんルイ先生だろう」  と同時に扉が開き、部屋に現れたのは確かにフィリップが待ち望んでいた医師であった。  科学こそが聖職であり、宗教的神秘も科学によって把握する類の、厳格で正直な人間だった。  斯かる唯物論的な時代にあって珍しいことに、ルイ医師は肉体の病の下に魂の病を探そうとしていた。噂や邪魔など少しも心配せず、暇人や噂屋にとっては乱暴に思えるほどに、勤勉な人々から受け継がれて来た時間という遺産を惜しんで、このように歩んでいたのである。  最初に話をした際にフィリップに冷たかったのにはそういう事情があった。言質を取りつけたことを自慢して、色恋の成果を褒めてもらおうと、医師にお追従を言いに来た優男と勘違いしたのだ。だが事情がわかり、恋人らしい不遜さではなく兄らしい逼迫した表情を目の当たりにして、そして不機嫌ではなく不幸が形を取っているのを目にして、心優しき臨床医は心を動かされた。フィリップとの会話を終えてから、こんな風に呟いていた。 「私は間違っていたのかもしれない。いや、間違いであって欲しい」  だからフィリップから頼み込まれなくとも、アンドレのところに戻っていたはずだ。改めて徹底的に診察してみれば、最初の診察でああした可能性に思い至ったのが何故なのかわかるかもしれない。  そこで入って来るとすぐに、医師として観察者として培われた眼差しで控えの間からアンドレを捕えて離さなかった。  ちょうどこの時、医師の訪問がきっかけだったのか、偶然によるものなのか、フィリップをあれほど怯えさせていた発作が起こった。アンドレは身体を震わせ、苦しそうに口に手巾を押し当てた。  だがフィリップは医師をもてなすのに必死でまったく気づいていなかった。 「ようこそおいで下さいました。失礼な態度をお許し下さい。一時間前にお会いした時にはひどく動揺していたのですが、今はもう落ち着きましたから」  医師はアンドレから目を離し、フィリップを観察して、微笑みや明るさの意味を探った。 「私が申し上げた通り妹さんとお話ししましたか?」 「ええ、先生」 「だからあなたは落ち着いていると?」 「上は天国から下は地獄までを経験しました」  医師はアンドレの手を取り、時間をかけて脈拍を計った。  フィリップはそれをじっと見つめていた。  その様子は、「さあどうぞ、先生。ぼくはもう医者の診断を恐れてはいませんよ」と言っているようであった。 「どうですか、先生?」フィリップは安心しきっていた。 「恐れ入りますが――」と医師が答えた。「妹さんと二人きりにしてもらえませんか」  率直に告げられたこの言葉に、フィリップの自信が崩れ落ちた。 「何ですか? どういうことです?」  医師は同じ言葉を身振りで繰り返した。 「わかりました。席を外しましょう」フィリップは重苦しい答えを返すと、アンドレに向かって声をかけた。 「アンドレ、先生には正直に素直に話すんだぞ」  アンドレは肩をすくめた。何が言いたいのか理解すらしていないように見える。 「おまえが先生から身体のことを質問されている間、ぼくは庭園を散歩しているよ。馬を頼んでおいた時間にはまだ間があるから、帰る前にまた会ってもう少しおしゃべり出来るはずだ」  フィリップはアンドレの手を取って微笑もうとした。  だが握った手も微笑みも、ぎこちなく震えているのがわかった。  医師が厳粛な面持ちをしてフィリップを戸口まで見送り、扉を閉めた。  その後で、アンドレと同じ長椅子に腰を掛けた。 第百四十四章 診察  外には深い沈黙が立ち込めていた。  空気を震わせるそよ風も、ざわめく人の声もなく、何もかもが静まり返っている。  一方トリアノンの仕事もすべて終わっていた。厩舎や車庫の働き手は部屋に帰り、小さな中庭には人気がない。  アンドレはフィリップと医師の態度から胸の内に大きな不安を感じていた。  今朝はたいした病気ではないし薬もいらないと言っていたルイ医師が再び訪れたことに、訝しく意外な思いを感じていた。だが元来が素直な性根だったので、澄んだ魂の鏡が疑いに吹かれて曇ることはなかった。  やがて医師はアンドレを見つめるのをやめてランプの明かりを向けると、医師としてというよりは、友人か懺悔僧であるかのように、脈拍を取り始めた。  こうした思いがけない行動に、繊細なアンドレはいよいよ驚きを隠せずに、もう少しで手を引っ込めるところだった。 「お嬢さん、私に会いたがったのはあなたでしょうか、それとも私はお兄さんの望みに従っただけなのでしょうか?」 「戻って来た兄から、先生がまたいらっしゃると聞きました。ですが今朝、それほど重い病ではないと仰って下さったのですから、改めてご迷惑をかけるまでもないとわたくしは考えております」  医師は一つうなずいた。 「お兄さんはかなり昂奮して、名誉を気にかけ、ある点にこだわっておいでのようでした。あなたが正直に打ち明けなかったのは、恐らくはその辺りに原因があるのではありませんか?」  アンドレはフィリップを見つめた時と同じような目つきで医師を見つめた。 「先生もですか?」かなり苛立った口調だった。 「失礼ですが最後まで言わせて下さい」  アンドレは我慢するといったような、いやむしろ諦めたような仕種をした。 「お兄さんが苦しんだり腹を立てたりすることを心配して、かたくなに隠し続けるのはよくわかります。ですが私に対しては――肉体の医者であると同時に魂の医者でもある私には――すっかり見てわかっている私には――つまり秘密を打ち明けるという辛い道をあなたと分かち合っている私には――率直に打ち明けて下さるのを待つ権利があります」 「先生。もしお兄様の苦しんでいる顔を目にしなかったなら、もし先生の素晴らしい評判を存じ上げなかったなら、二人揃ってわたくしを騙そうとしているのではないかと思うところです。わたくしをダシにして喜劇を演じるつもりなのではないか、病名を告げて恐怖を植えつけ黒くて苦い薬を飲ませるつもりではないのだろうかと思ってしまいますわ」  医師が眉をひそめた。 「申し訳ありませんが、そのように隠し立てするのはやめていだたけませんか」 「隠し立てですって!」 「芝居と申し上げた方がよいでしょうか?」 「侮辱なさるおつもりですか!」 「図星だったと仰って下さい」 「先生!」  アンドレは立ち上がったが、腰を下ろすよう丁寧に医師から命じられた。 「侮辱などしておりません。手を貸そうと思っているだけです。説得することさえ出来れば、あなたを救うことが出来るのですから!……怒った目つきで睨まれようとも、見せかけの癇癪を起こされようとも、私の決意を変えることは出来ませんよ」 「何を仰りたいのです? 何が望みなのですか?」 「正直に打ち明けて下さい。さもなければ、あなたご自身の口から惨めな事実を聞かせていただくことになりますよ」 「かばってくれる兄がいなくなったからと言って、また侮辱なさるのですか。意味がわかりません。先生が言うところの病気について、もっとはっきりとした説明をお願い出来ませんか」 「改めて確認しますが、あなたに恥ずかしい思いをさせる役目からは降ろしていただけませんか?」医師は驚きを浮かべていた。 「意味がわかりません! わかりません! わかりません!」アンドレは三度繰り返した。その目には、問いかけるような、挑発するような、いやほとんど脅すような光が籠っていた。 「私にはわかっております。あなたは科学に疑いを持ち、ご自身の状態を周りから隠したがっておいでですが、たった一言でその思い上がりをへし折って、過ちを正して差し上げましょう。あなたは妊娠しておいでです!……」  アンドレは恐ろしい悲鳴をあげて、長椅子にひっくり返った。  悲鳴に続いて扉が激しく音を立て、フィリップが部屋に飛び込んで来た。剣をつかみ、目を血走らせ、口唇を震わせていた。 「恥知らず! 嘘をついたんですね」  とぎれがちなアンドレの脈拍を確かめながら、医師はゆっくりと振り返った。 「申し上げた通りに申し上げたまでです」医師は蔑むように答えた。「抜き身であろうと鞘にしまっていようと、その剣を使って私に嘘をつかせることは出来ませんよ」 「先生!」フィリップは口ごもって剣を落とした。 「改めて診察して初めの診断を確かめることをお望みだったのでしょう。私はそうしたまでです。確信は深まり、揺らぐことはありません。確かに残念なことです。あなたには共感を覚えていたのですから。飽くまで嘘をつく妹さんに反感を覚えたようにね」  アンドレはぴくりともしなかったが、フィリップは身体を震わせた。 「私も一家の長ですから、あなたの苦しみはよくわかります。ですからあなたには協力するつもりですし、このことは誰にも洩らしません。私の言葉は絶対です。誰かに聞いていただければわかります。私は自分の命よりも言葉に重きを置く人間です」 「でも、でも、あり得ません!」 「あり得ないことかどうかは私には判断できませんが、これは事実なのです。それでは、ド・タヴェルネさん」  医師はいたわるようにフィリップを見つめ、静かな足取りでゆっくりと立ち去った。フィリップは苦しみに身をよじり、扉が閉まった瞬間には、苦しみに打ちひしがれて、アンドレのすぐそばにある腰掛けに倒れ込んでいた。  医師が立ち去るとフィリップは立ち上がり、廊下と部屋の扉と窓を閉めに行った後で、アンドレの許に戻って来た。アンドレは兄がこうした準備をするのを、不安そうに呆然として眺めていた。 「おまえは嘘をついた。卑怯なうえに愚か者だ」フィリップは腕を組んで話し始めた。「おまえは卑怯者だ。一つには、兄に嘘をついたのだから。一つには、弱みを持っている人間に嘘をついたのだから。ぼくはおまえのことを何よりも愛しているし何よりも素晴らしいと思っているし、こうして信頼しているからには愛情とは言わぬまでもせめておまえからも信頼されてしかるべきなのだから。おまえは愚か者だ。不名誉でおぞましい秘密を第三者に委ねたのだから。いくらおまえが口を閉ざそうとも、他人の目には明らかだったに違いない。自分の置かれている状況を真っ先にぼくに打ち明けていてくれたなら、恥をかかずに済ませてやれたのに。愛情からなのか身勝手からなのかはわからないけれどね。というのも、おまえを助けるべきかどうか躊躇っているんだ。おまえがどういう経過でどのように過ちを犯すことになったのかわからないからね。結婚していない以上、おまえの名誉はおまえ一人だけのものじゃない。おまえに名前を汚された者たちのものなんだ。だがそっちの方でお断わりだというのなら、もうぼくは兄なんかじゃない。ぼくが欲しているのは、どんな手を使ってでも隠していることをすべて吐き出させることだけだ。すっかり吐き出してもらえれば、何かの慰めにはなるだろうからね。だからぼくは腹を立てているし心を決めたんだ。いいね、おまえは嘘で誤魔化そうとした卑怯者なんだから、卑怯者が受けるような罰を受けるべきなんだ。罪を認めなさい、さもないと……」 「脅しですか! 女を脅すなんて!」  アンドレは真っ青になって立ち上がり、脅すように叫んだ。 「脅しだとも。ただし女を、ではない。信仰も名誉もない人間を、だ」 「脅しですって!」アンドレもだんだんと感情を高ぶらせる。「何も知らないしわからないわたくしを脅すのですか? 残酷なことの大好きな気違いが協力して、絶望に追い込んだり辱めを与えたりして殺そうとしているみたい!」 「だったら死ぬがいいさ! 認めようとしないのなら死ぬがいい。それも今すぐだ。神が判断して下さるだろうから、打ちつけてやる」  フィリップは発作的に剣をつかみ、稲妻のような速さで、アンドレの胸に切っ先を突きつけた。 「わかりました、殺して下さい!」刃からほとばしる稲光に怯えもせず、剣先の痛みから逃げようともしなかった。  フィリップの怒りと乱暴もそこまでだった。後じさって手から剣を落とすと、膝を突いてすすり泣き、アンドレの身体を抱き寄せた。 「アンドレ! アンドレ! 駄目だ! 死ぬのはぼくの方だ。もうぼくのことなど何とも思っていないんだろう。おまえに捨てられては、この世に未練などない。これほどまでにおまえが愛しているのは誰なんだ? ぼくの胸に告白するよりは死を選ぶほど愛している人間は誰なんだ? アンドレ! 死ぬべきなのはおまえじゃない、ぼくなんだ」  フィリップは逃げようとしたが、アンドレが狂ったように首筋にしがみついて、口づけを浴びせ、涙を降らせた。 「そんなことはありません。やはりお兄様が正しいの。わたくしを殺して下さい、フィリップ。だってわたくしに非があるそうじゃありませんか。ですけど、気高く純粋で善良なお兄様を責める人などおりません。生き抜いて、わたくしを恨む代わりに憐れんで下さい」 「アンドレ、天の名に懸けて、かつての友情の名に懸けて、おまえも、おまえが愛している人間も、怖がる必要はない。それが何者であろうと、ぼくの一番の敵であれ、人類最後の男であれ、ぼくは祝福するつもりだ。もっともぼくには敵はいない。おまえも気高い心と精神を持っているのだから、然るべき恋人を選んだことだろう。おまえが選んだ人間となら会うつもりだし、兄弟と呼ばせてもらうとも。どうして何も言わないんだ? 結婚できないような間柄なのか? そう言いたいのかい? 構うものか! ぼくは甘んじて痛みに耐えるつもりだし、血を求める名誉の声を抑えるつもりだ。相手の男の名前さえもう聞いたりはしない。おまえが気に入ったのなら、ぼくにとっても大事な人間だ……一緒にフランスを離れて逃げだそう。国王から高価な宝石を貰ったと聞いている。それを売って、半分を父に送ろう。残りを持って人知れず暮らすんだ。おまえの言うことなら何でも聞く。ぼくの言うことは何でも聞いてくれ。おまえ以外の誰も愛していない。おまえに尽くしていることはわかっているだろう。ぼくがしていることはわかっているね。ぼくの友情を当てにしてくれて構わない。ここまで言ったからには、信用してくれるだろうね? それとも、もう兄とは呼んでくれないのか?」  アンドレは激昂したフィリップの言葉に黙って耳を傾けていた。  心臓の鼓動だけが生きている証であり、眼差しだけが理性の存在の語り部だった。 「フィリップ」アンドレがようやく口を開いた。「わたくしがお兄様を愛してないと思われていたなんて! 別の人を愛していると思われていたなんて。名誉の作法を忘れていると思われていたなんて。名誉という言葉の持つあらゆる意味を理解している貴族の娘だというのに!……でもそんなことは水に流します。おぞましいと思われたのも、卑怯者と呼ばれたのも、気にしません。お兄様のことを恨むことなどありません。偽りの誓いを立てるほど不信心で卑劣な人間だと思われない限りは。わたくしの言葉を聴いて下さる神に誓って、母の魂に誓って――わたくしのことをあまり可愛がっては下さらなかったそうですけれど――それからお兄様へのひたむきな愛に誓って、愛について考えて理性を曇らせたことなどありませんし、誰かから『愛している』と言われたこともありませんし、誰かから口づけされたこともありません。生まれた時のままに、わたくしの心は清純ですし、肉体は清らかです。ですからフィリップ、神様がわたくしの魂を包み込んで下さるなら、お兄様の方は両の手でこの肉体を支えて下さい」 「わかったよ」フィリップも長い沈黙の後で口を開いた。「ありがとう。これでようやく心の奥まではっきりと見えるようになった。おまえは純粋で、無垢な、犠牲者に過ぎなかったんだ。だがこれは魔法の液体であり、毒入りの媚薬だぞ。誰かがおまえを罠に嵌めたんだ。目を覚ましているおまえから盗むことが誰にも出来なかったものを、眠っている間に盗んだ奴がいるんだ。おまえは罠に嵌ったんだ。だがぼくらは今は一つだ。一緒なら誰にも負けない。おまえの名誉も、復讐も、ぼくに預けてくれるね?」 「いけません!」アンドレは即答した。その様子は悲しみに溢れていた。「復讐は罪ですもの」 「いいかい、ぼくの手助けをして支えてくれ。過ぎ去った日々を遡って、一緒に探してみよう。記憶の糸をたどって、隠れた横糸と結ばれた最初の結び目で……」 「やってみます! 探してみましょう」 「ではまず、誰かにつけ回されたり見張られたりしたことは?」 「ありません」 「誰かから手紙を貰ったことは?」 「ありません」 「誰かから愛を告白されたことも?」 「ありません」 「女はその方面の直感が働くだろう? 手紙や告白でなくとも、誰かから……望まれていると気づいたことは?」 「気づいたことはありません」 「では普段の暮らしの、私的な部分を考えてみよう」 「お願いします」 「一人で歩き回ったことは?」 「覚えている限りではありません。妃殿下のところにお伺いする時を除けば」 「庭園や森に行ったことは?」 「ニコルがいつも一緒でした」 「そう言えばニコルはいなくなったんだろう?」 「ええ」 「いつ頃だい?」 「確か、お兄様がお発ちになった日だったと思います」 「いかがわしい子だったな。逃げ出した詳しい事情は?」 「存じません。ですけれど、好きな人と一緒でした」 「最後に会ったのはいつ?」 「九時頃でした。いつものように寝室に入って来て、着替えを手伝い、コップに水を入れてから出て行きました」 「その水に何か混ぜたかどうか気づかなかったのか?」 「気づきませんでした。もっとも、あの時の状況では、そんなのは意味のないことですけれど。コップを口に持って行った瞬間、異様な感覚に囚われたのを覚えていますから」 「異様な?」 「タヴェルネで感じたのと同じ感覚でした」 「タヴェルネでだって?」 「ええ、あの旅人が立ち寄った時です」 「旅人? 誰のことだい?」 「ド・バルサモ伯爵です」 「ド・バルサモ伯爵だって? どんな感じがしたんだ?」 「眩暈のような立ちくらみのようなものを感じると、身体から力がすっかり抜けてしまうんです」 「タヴェルネでそうした感覚を受けたと言ったね?」 「ええ」 「その時の状況は?」 「ピアノの前に坐っていると、意識が失われるのを感じたんです。前を見ると、鏡の中に伯爵が映っていました。それからのことは何も覚えていません。気づくとピアノの前で目を覚ましており、どのくらい眠っていたのかもわかりません」 「そうした異様な感覚を受けたのは一度きりだったのか?」 「もう一度ありました。花火の日、正確に言うと花火の夜のことです。人混みに連れ去られ、押しつぶされてぐったりとしていた時のことでした。わたくしは力の限りに抗おうとしていました。突然、強張っていた腕が楽になり、目の前が雲に覆われたんです。でもその雲の向こうに、またもやあの人の姿が見えました」 「バルサモ伯爵か?」 「そうです」 「おまえは眠っていたのか?」 「眠っていたのか気絶していたのかはわかりません。タヴェルネでわたくしがどのようなことをされたのかはご存じの通りです」 「うん、そうだな。それであの夜、ニコルがいなくなった日の夜にも、伯爵に会ったのか?」 「姿を見てはいません。ですが存在を窺わせる徴候は感じていました。それにあの異様な感覚、神経が引きつるような眩暈、痺れ、眠り」 「眠り?」 「眩暈を伴った眠りです。抗おうとしても、不思議な力に押し切られてしまうのです」 「何てことだ! 続けてくれ」 「わたくしは眠っていました」 「場所は?」 「もちろん寝台の上です。ところが気づくと床の絨毯の上で、生き返ったばかりの死人のように冷たくなって、一人苦しんでいたのです。目が覚めるとすぐにニコルを呼びましたが、返事がありません。ニコルはいなくなっていました」 「その眠りもいつもと同じだったのか?」 「ええ」 「タヴェルネの時や、花火の時と?」 「ええ、そうです」 「最初の二回の時には、意識を失う前に、そのジョゼフ・バルサモ、ド・フェニックス伯爵を見たんだな?」 「間違いありません」 「なのに三度目の時には見なかった?」 「はい」アンドレは怯えていた。理解しかけていたのだ。「でも、姿こそ見ませんでしたが、存在は感じられました」 「わかった。もう落ち着いて、安心して、自信を持つんだ、アンドレ。事情はわかった。ありがとう。ぼくらは救われた」  フィリップはアンドレに腕を回し、優しく胸に掻き抱くと、心を固め、昂奮に駆られて、待とうとも聞こうともせずに部屋から飛び出した。  厩舎まで駆けつけると馬に鞍をつけて背中に飛び乗り、全速力で一路パリに向かった。 第百四十五章 ジルベールの良心  ここまで記して来た出来事は、ジルベールに対して恐ろしい影響を及ぼしていた。  良くも悪くも傷つきやすいジルベールにとって、極めて厳しい試練のただ中に放り込まれていたのである。庭の好きなところに隠れて、日毎にアンドレの顔色や足取りが衰えてゆくのを目にしていたのだ。前日に恐ろしいほど真っ青な顔をしていたというのに、翌日ド・タヴェルネ嬢が朝日と共に窓辺に現れると、危険な色合いがさらに増していた。ジルベールの眼差しや顔つきを見た者なら誰もが、そこに古代ローマの画家が素描したような悔恨の色を読み取ったに違いない。  ジルベールはアンドレの美しさを愛している反面、憎んでもいた。輝くばかりの美しさに気位の高いところが加わると、二人の間の境界に新たな線が引かれる思いがする。とは言うものの、そうした美しさこそ新発見の宝のように我がものにしたい気もする。これがジルベールの愛と憎しみに対する申し分であり、憧れとも蔑みともつかない言い訳であった。  だがこの美しさが汚された日、アンドレの顔に恥と苦しみが浮かんだ日。その日から、アンドレにとってもジルベールにとっても由々しき事態となった日から、状況が完全に変わり、ジルベールのアンドレに対する見方も変わってしまった。  正直に言えば、最初に感じたのは深い悲しみであった。アンドレの美しさや健やかさが損なわれてしまったのを、涙なくして見ることはならなかった。ジルベールを蔑んでいた高慢な女を憐れんでやるのは誇りがくすぐられて気分が良かったし、アンドレが隠していたあらゆる恥辱に憐れみをかけてやるのも心地よかった。  だがだからと言ってジルベールが許されるわけでもない。誇りが言い訳になると思ったら大間違いだ。だから、状況を検討することにしていたのも、誇りから出た習慣でしかなかった。青ざめてやつれてうなだれたタヴェルネ嬢が幽霊のように目の前に現れるたびに、ジルベールの心臓は飛び跳ね、血が瞼まで上って涙を誘った。ジルベールは不安で引きつった手を胸に押し当て、意識が暴発しそうになるのを抑えていた。 「アンドレが駄目になったのは僕のせいだ」  貪るようにアンドレを見つめると、また会えると信じて、声なき呻きに追われるようにして、逃げ出していた。  そんな気持に打たれるたびに、強い人間でも耐えられないような痛みを感じていた。狂えるほどの愛情は安らぎを求めていた。アンドレにひざまずき手を握り優しい言葉をかけ失神から目覚ざめさせる権利が得られるなら、時には命を投げ出してもいい。こんな時に何も出来ないのは、拷問という言葉ですら言い表せないほどの責苦だった。  ジルベールは三日間、この苦しみに耐えていた。  初めから、アンドレの部屋で起こっているゆっくりとした変化には気づいていた。やがて、もはやわからないことなどなくなり、すべてにはっきりとした説明をつけることが出来た。さらに。病気の進行具合から逆算して、起点となった正確な日付も手に入れた。  気絶した日だ。恍惚状態で、汗をかき、夢遊歩行し、確実に意識が飛んでいた、あの日。行ったり来たり、冷淡だったり昂奮していたり、思いやり深かったり軽蔑を露わにしたり、そうしたことすべてをジルベールは最高の隠しごとや戦術だと見なし、シャトレの一書生、サン=ラザールの一牢番でしかない人間が、ド・サルチーヌ氏の密偵が暗号文書を読み写したのと同じように完璧に、分析し、翻訳したのである。  息を切らして走り、突然足を止め、聞こえぬほどの声を洩らし、不意に暗い沈黙に沈んだのを、誰も見た者はいない。地面を擦るような、乱暴に木々を引っ掻くような、かすかな音が空中に響いたのを、聞いた者はいない。もしいたなら、呟いたに違いない。「気違いがいるぞ、さもなきゃ後ろめたいところのある人間だな」と。  気持がすっきりすると、同情は引っ込み、ジルベールの身勝手な部分が出始めた。あれほど頻繁に気絶していては、よもや普通の病だとは思われていないだろうし、何が原因なのかとあれこれ噂されていることだろう。  その時ジルベールは、乱暴で早急な裁判上の手続きのことを考えていた。余所の世界には知られていない尋問、調査、類似によって、予審判事と言う名の才能溢れる探偵が、犯人の足取りにたどり着き、人の名誉を傷つけ得るありとあらゆる犯罪について問い合わせる場所。  ジルベールが犯したのは、道徳的にもっとも忌まわしく罪深いことなのではないか。  途端にジルベールは身体の芯から震え出した。アンドレが苦しんでいるために自分が尋問されやしないかと怯え始めたのだ。  それからは、青い松明を掲げた懺悔の天使を追い求めたあの著名な絵の罪人のように、絶えず怯えた目を周りに向け続けた。物音や囁き声が気になった。話をしているのが聞こえると、それがどうでもいい話題であっても、タヴェルネ嬢か自分のことなのではないかと気が気ではない。  ド・リシュリュー氏が国王のところに出かけ、ド・タヴェルネ氏が娘のところを訪ねるのが見えた。その日はいつもとは違って、家の中が陰謀と疑惑に満ちているように思えてしょうがなかった。  王太子妃の医師がアンドレの部屋に向かうのを見た時にはさらにひどくなった。  ジルベールは何も信じない懐疑論者だ。他人の視線や神の視線など気にならない。だが神の代わりに科学を信奉し、その全能性を高らかに公言していた。  ジルベールは至高の存在が持つ無謬の洞察力には否定的だったが、医師の洞察力を疑ったことはなかった。だからルイ医師がアンドレを訪れたという事実に、ジルベールの心は立ち上がれないような衝撃を受けたのである。  ジルベールは部屋まで駆け寄り、何もかも放り出し、上からの命令にも銅像のように固く耳を塞いでいた。急いでカーテンの陰に隠れて、診察結果を窺わせるようなどんな言葉も仕種も聞き逃すまい見逃すまいと、全神経をかき集めた。  明かりは何もない。王太子妃が窓辺に近づいた時に顔が見えただけだ。窓ガラス越しに中庭を見ようとしたのだろうが、恐らく何も見えなかったに違いない。  ルイ医師が窓を開けたのも確認できた。部屋の空気を入れ換えようとしたのだ。話を聞くことも顔色を窺うこともジルベールには適わなかった。厚いカーテンがブラインド代わりとなって窓全体を覆い、そこでおこなわれている出来事を遮っていた。  ジルベールは目に見えて怯えていた。鋭い目を持つ医師は謎を見抜いているのだ。ジルベールの見るところ、爆発は起こるに違いないが、今すぐではない。今は王太子妃の存在が邪魔しているが、部外者二人が立ち去ったら、すぐに父と娘の間で火種がはじけるのだろう。  苦しみと苛立ちで頭がぼうっとなり、ジルベールは屋根裏の壁に頭を打ちつけた。  タヴェルネ男爵と王太子妃が出て来るのが見えた。医師は既にいなくなっていた。  つまり、話し合いはタヴェルネ男爵と王太子妃の間で為されるのだ。  男爵は戻って来なかった。アンドレは一人きりで長椅子に横たわって過ごしていたが、やがて痙攣と頭痛に読書を妨げられ、ぐったりとして深い眠りに陥った。風にめくれたカーテンの隙間越しにそれを目にしたジルベールは、アンドレがトランス状態に陥ったものと誤解した。  実際には苦しみと不安に押されて眠っていただけなのだが。とにかくジルベールはこれを機会に、噂を集めに外に出た。  この時間は貴重だった。何をすべきか考えなくてはならない。  事態は差し迫っていたので、思い切った迅速な決断を下すことが必要だ。  それが揺れ動く心の最初の支点となって広まり、気力と安らぎを取り戻せた。  だがどうすればいい? こうした状況の変化が明らかになったら。逃げるべきか? そうだ。若さを振り絞り、絶望と恐怖をバネに、逃げればいい。絶望や恐怖は武力にも匹敵するほどの力を人から引き出す……昼は隠れ、夜に歩き、やがてたどり着けばいい……。  何処に?  何処に隠れれば、王の裁きも手が届かないのだろう?  田舎のことならよくわかっている。寂れた未開の土地では、どう思われるだろうか――都市部のことは考えるな。村や字では、パンを乞う余所者をどんな目で見るだろうか、盗っ人だと疑われるだろうか? ジルベールははっきりと自覚していた。これからは秘密で刻まれた消えない痕跡を顔に残してゆくのだ。一目で注意を引くことになるだろう。逃げるのは危険だ。だが見つかるのは恥辱だった。  逃げれば、罪があると判断される。ジルベールは逃げようという考えを退けた。もはや一つのことを考える力しか残されていないかのように、逃げるのでなければ、死ぬことしか考えられなかった。  そんなことを考えたのは初めてのことだったが、そうした忌まわしい妄想に顔を出されても、恐ろしいという気持にはならなかった。  ――万策が尽きれば、どちらにしても死ぬことを考えなくちゃならないんだ。だけど、自殺するのは卑怯者だ、とルソーさんが言っていたな。苦しむことこそ尊いんだ、と。  ジルベールは顔を上げて、あてもなく庭園をうろつき始めた。  初めに安らぎの兆しが見えたのは、既に記したようにフィリップが不意に姿を見せた時だった。これにはジルベールも考えを掻き乱され、またもや混乱し始めた。  兄か! 兄が呼ばれたのか! 間違いない! 一家は秘密を守ることに決めたのだ。だが詳細を徹底的に探られることは、ジルベールにとっては、コンシェルジュリ、シャトレ、トゥルネルの拷問道具に等しかった。そうなればジルベールはアンドレの前に引きずり出され、ひざまずかされ、卑屈に罪を告白させられ、棍棒かナイフで犬のように殺されるのだろう。幾つもの恋愛事件という先例が、正当な理由のある復讐を認めている。  国王ルイ十五世は似たような立場の貴族には極めて好意的だった。  それに、アンドレが復讐を恃《たの》むならフィリップになるだろうが、フィリップほど恐ろしい敵はいない。フィリップは一家で唯一ジルベールに同じ人間らしい感情を示してくれた。そんなフィリップが罪人を殺すとしたら、剣ではなく言葉で充分ではないだろうか。例えば「ジルベール、我が家の飯を食いながら、我が家を辱めるとはな!」  そういう事情で、フィリップを一目見た途端にジルベールの足はがくがくと震え出した。我に返ると、罪を認めず口を閉ざすためには本能に従うしかなかった。その瞬間から、一つの目的に向かって全力を傾注した。抵抗するしかない。  後を尾けるとフィリップがアンドレの部屋に入り、ルイ医師と話すのが見えた。すべてを覗き見て判断したところでは、フィリップは絶望に沈んでいた。苦しみが生まれ、大きくなるのがわかった。アンドレとの激しい諍いが、カーテン越しに影絵となって伝わって来た。 「もうお終いだ」  そう思った途端に頭が真っ白になり、ナイフをつかんでフィリップを殺そうとしていた。戸口に現れるのを待ちかまえよう……それとも、必要とあらば自殺すべきだろうか。  ところがフィリップは妹と仲直りした。フィリップがひざまずき、アンドレの手に口づけするのが見えた。これは新たな希望、救済の扉だ。フィリップがまだ怒りをはじけさせていないとしたら、それはつまり、アンドレが犯人の名前をまったく知らないということではないのか。唯一の証人であり告発者であるアンドレが何も知らないとしたら、誰一人として知っている者はいないのだ。希望的観測として、アンドレが知っていて口をつぐんでいるとしたら、救済どころではない。幸運、いや、大勝利だ。  ジルベールはすぐに覚悟を決めて現場と同じ高さになるように背伸びした。見晴らしを遮るものがなくなると、もはや足を止めることは出来なかった。 「ド・タヴェルネ嬢が僕を告発しないとしたら、証拠は何処にある? 気が狂いそうだ。告発するとしたら、結果を責めるのだろうか、それとも罪そのものを責めるんだろうか? でも罪を咎められたりはしなかった。三週間経ったけれど、以前よりも嫌われたり避けられたりした形跡は微塵もないじゃないか。 「アンドレが原因を知らなかったのなら、結果については誰にも増して僕も安全だ。国王その人がアンドレ嬢の部屋にいるのを見たんだからな。必要とあらばフィリップにそれを証言してもいい。陛下がいくら否定しようと、僕の言うことを信じるだろう……きっとそうだ。でも危険な手だな……黙っているに越したことはない。国王なら、無実を証明し、僕の証言をぺしゃんこにする方法を幾らでも持っているだろう。だが国王の名前が出されることがないとすれば、国王は措いておくとして、あの晩タヴェルネ嬢を庭に連れ出した謎の人物がいなかっただろうか?……あの人物はどう抗弁するだろう? あの人物は姿を見られているはずではないか? だとすれば、また姿を見られればばれるのではないか? あいつは当たり前の人間でしかない。そうであって欲しいし、いつだって負けるもんか。もっとも、僕のことなど考えもしないに違いない。見ていたのは神様だけさ……」ジルベールは苦笑いした。「それにしたって神様と来たら、ぼくの辛さや苦しみを何度も見ながら何も言わずにいたんだからな。どうしてこんな状況にぼくを陥れるような不公平なことをするのだろう? 初めて神様から与えてもらった幸運だったというのに……。 「そもそも、罪があるとしたら、神様にであって僕にはない。ド・ヴォルテール氏が何度も言っていたように、奇蹟なんてもはやありはしないんだ。助かった。安心だ。秘密は僕だけのもの。未来は僕のものだ」  これだけのことを考えると、いや、良心によって組み立てると、ジルベールは農機具をつかんで、同僚たちと夜食を摂りに行った。晴れ晴れとして、のうのうとして、挑発的でさえあった。さっきまでは後悔もあったし、怯えもあった。それは男なら、哲学者なら、急いで忘れてしまわなくてはならない少なからぬ弱点だった。ただし、自覚はせずとも頭から離れることはなかった。ジルベールは眠らなかった。 第百四十六章 二つの苦しみ  ド・タヴェルネ嬢を悲劇が襲ったあの晩に目撃された謎の人物のことを指して、ジルベールがこう言ったのには、然るべき理由があった。「誰だかばれるのではないか?」と。  ジョゼフ・バルサモ、ド・フェニックス伯爵の住処をフィリップが知らないのは確かだ。  だがあの貴婦人――五月三十一日にアンドレを休ませてくれたド・サヴェルニー侯爵夫人のことなら覚えていた。  サン=トノレ街の住まいを訪問できないほど遅い時間ではない。フィリップが昂奮も感情も抑えて夫人の住まいを訪れると、小間使いからすんなりと、バルサモの住所を教えてもらった。マレー地区、サン=クロード街。  フィリップは直ちにそこに向かった。  だが問題の家のノッカーに触れた時には、少なからぬ昂奮を隠せずにいた。フィリップの推測では、ここにアンドレの安らぎと名誉が永久に飲み込まれたままなのだ。だが訪いを告げる頃には、憤懣も癇癪もようやく抑え込み、これから必要とする力を温存することが出来た。  そこで迷いなくノッカーを敲くと、扉が開いた。  フィリップは中庭に入り、馬の手綱を引いた。  だが四歩と進まぬうちに、玄関の階段上に現れたフリッツから問いただされた。 「ご用件は?」  これには思いもかけなかったらしく、フィリップはぎょっとした顔を見せた。  フリッツが召し使いの義務を果たしていないとでも言いたげに、眉をひそめて睨みつけた。 「この家のご主人であるフェニックス伯爵とお話ししたい」フィリップは手綱を輪に通し、そのまま歩いて家に入った。 「主人は不在でございます」と言いながらも、フリッツはフィリップを丁寧に受け入れた。  あらゆる場合を想定していたが、これほど素っ気ない返答だけは予期していなかった。  フィリップは虚を衝かれた。 「何処に行けば会えるでしょうか?」 「存じません」 「と言いつつ知っているのでは?」 「遺憾ながら行き先を告げられておりません」 「すぐに話をしなくてはならないのだ」 「それは難しいかと存じますが」 「何が何でも話がしたい。極めて重大な用件なんだ」  フリッツは無言でお辞儀をした。 「出ていると言うんだな?」 「さようでございます」 「だが戻って来るんだろう?」 「そうは思いません」 「そうは思わないって?」 「はい」 「わかったよ」フィリップの声に怒気が滲み始めた。「取りあえずは、ご主人に伝えてくれ……」 「重ねて申し上げますが、主人は不在なのです」フリッツは飽くまでも冷静に答えた。 「命令されているのはわかるし、それに従うのも否定はしない。だがぼくはその命令の適用外だ。突然の訪問なのだからね」 「どなたに対してもという命令でございます」フリッツが口を滑らせた。 「つまり命令はしたんだから、フェニックス伯爵は家にいるんだな?」 「だとしたらどうだと仰るのですか?」あまりのしつこさに、今度はフリッツの方が苛立ちを見せ始めた。 「だとしたら、ここで待つとしよう」 「主人は不在だと申し上げたはずです。しばらく前に火が出たせいでこの家には住めなくなってしまいましたので」 「だが君は住んでいるじゃないか」今度はフィリップが口を滑らせた。 「管理人として寝泊まりしているのです」  フィリップは乱暴に肩をすくめた。何を言われようと一言も信じられなかった。  フリッツがいよいよ苛立ち始めた。 「そもそも伯爵閣下がいらっしゃろうといらっしゃらなかろうと、ご在宅だろうとご不在だろうと、力ずくで家に入ろうとなさる方などおりません。しきたりに従わないと仰るのでしたら、私といたしましてはやむを得ず……」  フリッツは語尾を濁した。 「何だと言うんだ?」フィリップが腹を立てた。 「やむを得ず外に連れ出さざるを得ません」 「君が?」フィリップの目が光った。 「私がでございます」フリッツのドイツ人らしいところが出て、怒りが大きくなるにつれてうわべはますます冷やかになっていた。  フリッツが足を踏み出すと、フィリップは思わず剣をつかんでいた。  フリッツは剣を見ても狼狽えもせず、誰かを呼びもしなかった――とは言え、もともと誰もいないのだろう。フリッツは短いが鋭く尖った金属のついた杭のようなものをつかむと、剣術ではなく棒術のような動きでフィリップに飛びかかった。その一撃で、短剣の刃がきらめいて跳ね飛ばされた。  フィリップは怒りの声をあげ、武具飾りの方に駆け寄り、武器を取ろうとした。  その時、廊下の隠し扉が開いて、薄暗い戸枠の中に伯爵の姿が浮かび上がった。 「何事だ、フリッツ?」 「何でもございません」フリッツは矛を下ろし、それをバリケードのように主人の前に掲げた。それを伯爵が隠し階段の上から見下ろしていた。 「フェニックス伯爵」フィリップが声をかけた。「客人を矛でもてなすのがお国のしきたりなのですか? それともあなたの家だけの特殊な事情でしょうか?」  フリッツは矛を下ろし、主人の指示に従って玄関の隅に置いた。 「どなたですか?」伯爵がたずねた。控えの間を照らしている明かりの下でも、フィリップのことがわからないようだった。 「是が非でもあなたとお話しをしたがっている者です」 「是が非でも?」 「ええ」 「それではフリッツに分があるようですな。私は誰とも話したくありませんし、家にいる時に誰かが訪ねて来ても話し合いを認めることはありません。あなたは私に対して過ちを犯したわけですが――」バルサモは溜息をついた。「早々と立ち去って静かにしておいてくれると約束して下さるなら、許して差し上げましょう」 「静かにしておいて欲しいとはさすがですね。ぼくの静けさを奪った癖に!」 「あなたから静けさを奪ったですと?」 「ぼくはフィリップ・ド・タヴェルネだ!」この言葉ですべての説明がつくと信じていた。 「フィリップ・ド・タヴェルネ?……そうでしたか。お父上にはお世話になりました。どうぞお寛ぎ下さい」 「ありがたい!」フィリップは呟いた。 「こちらへどうぞ」  バルサモは隠し階段の扉を閉めてフィリップのところまで来ると、この物語の中で読者には何度もお見せして来た応接室まで案内した。もっとも近いところでは、五人の親方《マスター》の場面で用いられた場所である。  誰かをもてなす予定だったのかのように、応接室はこうこうとした明かりに照らされていた。だがそんな贅沢もこの家では普段通りのことに過ぎないのだ。 「今晩は、タヴェルネ殿」穏やかでくぐもったバルサモの声に、フィリップは思わず目を上げた。  だがいざバルサモを見るや後じさっていた。  伯爵はもはや本人の影にしか過ぎなかった。目は落ち窪んで光も失せ、頬はそげて二本の皺となって口を囲い、骨張った剥き出しの顔の出っ張りを見ていると死者と対面しているような気にさせられた。  呆然としたままのフィリップを見たバルサモは、暗く悲しげな微笑みを白い口唇にかすかに浮かべた。 「使用人のことはお詫びいたしますが、命令に従ったまでのこと。それに言わせていただければ、力ずくで押し入ろうとしたのはあなたの方だ」 「伯爵、極限状況下における命の問題はご存じでしょう。今のぼくがまさにそれなのです」  バルサモは答えない。 「お会いしてお話ししたかったのです。あなたに会えるなら、死にさえ立ち向かう覚悟でした」  バルサモは無言を貫いていた。フィリップが説明するのを待っているのだろうか、問いただすだけの気力も好奇心もないようだった。 「こうしてお会い出来たからには、話し合わせてもらえませんか。ですがその前に、この男を追い出して下さい」  フィリップがフリッツを指さした。フリッツは闖入者をどうするか指示を仰ぎに来たのか、扉のカーテンを持ち上げたところだった。  フィリップから逸らされることのないバルサモの視線の先が、心の奥まで突き刺さりそうだった。だが身分も階級も同じ男を前にして、フィリップは落ち着きや威厳を取り戻していた。  バルサモは顔どころか眉を動かしただけで、フリッツを立ち去らせた。二人は向かい合って坐り、フィリップは暖炉を背にし、バルサモは円卓に肘を預けた。 「では端的にお話し下さい。こうして話をお聴きするも好意からに過ぎませんし、正直に申し上げると飽きっぽい人間なのですよ」 「ぼくとしては失礼に当たらないと判断した限りで、話すべきことを話すまでです。よろしければ、質問から始めさせていただきたいのですが」  これを聞いてバルサモの眉が寄り、目から火花が散った。  この言葉から思い出したことがあったのだ。バルサモの心の奥で蠢いているものを知れば、フィリップは震え上がったに違いない。  だがバルサモはすぐに我に返った。 「おたずね下さい」 「伯爵。あなたはあの五月三十一日の夜どのように過ごしていたのかを、お話しして下さったことはありませんでしたね。ルイ十五世広場を埋める怪我人や死者の山から妹を連れ出してから後のことです」 「何を仰りたいのですかな?」 「以前から気になってはいたのですが、あの夜のあなたの行動に極めて疑わしいところがあると申し上げているのです」 「疑わしいとは?」 「総体的に見て、とても立派な人間のすることとは思えません」 「よくわかりませんな。失礼ですが頭が重くてはっきりしないのです。そのせいで短気になっているところもあります」 「伯爵殿!」激情と落ち着きが綯い交ぜになったフィリップの苛立ち声に、バルサモが目を向けた。 「失礼ですが」と答えたバルサモの声には変化はない。「初めてあなたにお会いしてから、不幸に遭いましてね。家の一部が焼けて、あまりにも貴重なものの数々が失われてしまったのです。それ以来というもの、辛くて頭がどうかしてしまいそうなのです。お願いですからもっとはっきり仰っていただけませんか。そうでなければ直ちにお引き取りいただきたい」 「とんでもない! そう簡単においとまするわけにはいきませんよ。ぼくの事情を汲んでくれれば、あなたの側の事情を袖にするつもりはありません。というのも、ぼくも大変な不幸に遭ったのです。恐らくはあなたが遭った不幸よりも大変な不幸に」  バルサモは悟ったような微笑みを浮かべた。先ほどから口唇に浮かんでは消えていたものだった。 「ぼくは、家族の名誉を失ったのです」 「それで、私に何が出来るというのですか?」 「何が出来るかですって?」フィリップの目が光った。 「ええ」 「失ったものを返してくれることが出来るではありませんか!」 「何ですって! 正気ですか!」  バルサモが呼鈴に手を伸ばした。  だがその動きには勢いがなかったし、怒った様子もなかったので、すぐにフィリップに腕をつかまれた。 「正気かと言うのですか?」フィリップの声はかすれていた。「では妹の話だということもわかりませんか? 五月三十一日、あなたの腕の中で気絶していた件についてです。妹はある家に連れて行かれた。あなたに言わせれば『名誉にも』だったのでしょうが、ぼくに言わせれば『汚らわしくも』です。結論を申し上げましょう。どうか剣を手にしていただきたい」  バルサモは肩をすくめた。 「単純な話を随分と回りくどくなさいましたな」 「人でなしめ!」フィリップは叫んだ。 「何という声だ!」バルサモは辛く苛立った声をあげた。「耳が潰れそうだ。私が妹さんを侮辱したと言いに来たわけではないのでしょう?」 「まさにそう言いに来たのです、卑怯者め!」 「無意味に怒鳴ったり罵ったりするのはおやめなさい。いったい何処の誰から吹き込まれたのです。私が妹さんを侮辱したなどと?」  フィリップが躊躇いを見せた。バルサモの声を聞いているとわからなくなって来た。よほどの厚顔無恥なのか、まったくの無実なのか、どちらかだろう。 「誰から聞いたかですって?」 「ええ、教えていただけますかな」 「妹本人からですよ」 「そうか。妹さんも……」 「何が言いたいんですか?」フィリップが脅すような仕種をした。 「お話を聞いた限りでは、あなたも妹さんもお気の毒に。ご婦人を辱めようとは、これ以上におぞましいことはありません。それであなたは、イタリア劇に登場する髭面の兄貴のように、脅しを口にしにやって来たのですな。剣を取るか、妹さんと結婚するか、選択を迫る為に。妹さんが結婚を望んでいるのか、あなたの為にお金を作ろうとしているのかはわかりませんが、あなた方としては私が金持だとご存じなのですからな。ところがあなたは二つの点で間違っている。あなたの手には一銭も入らないだろうし、妹さんはこれからも独身のままだろうということです」 「あなたが腹を立てているというのなら、ぼくも同じように血をたぎらせることに異存はない」 「腹を立ててさえおりません」 「何ですって?」 「血をたぎらせるとしたら、もっと重大なことが起こった時です。あなたも血を静めてもらえませんか。騒ぎ立てるというのでしたら、頭が痛くなるので、フリッツを呼びます。フリッツが来れば、命令に従ってあなたを葦のように真っ二つにしてしまいますよ」  バルサモが呼鈴を鳴らした。フィリップに止められそうになると、円卓に置かれた黒檀の箱を開いて、拳銃を取り出した。二発の弾丸が装填されている。 「望むところです。どうぞ殺すがいい!」フィリップが怒鳴った。 「どうして殺さなくてはならないなどと?」 「あなたを侮辱したからですよ」  フィリップの言葉には真実の重みがあった。バルサモがそれを穏やかに見つめていた。 「それを本心から仰っているとでも言うのですかな?」 「嘘だとでも? 紳士の言葉を疑うのですか?」 「それともタヴェルネ嬢が卑劣な考えを思いついただけで、あなたをそそのかしていたと?……そう思いたいところですな。ではすっきりさせて差し上げましょう。名誉にかけて誓います。五月三十一日の夜、私が妹さんに取った行動は、非難のつけようのないものです。名誉に照らしても、人間の法廷に於いても、神の審判を仰いでも、何処の裁判所からも反論されるような点はありません。信用していただけますかな?」 「何ですって!」 「こちらとしては決闘も厭わない。それはあなたもご承知だ。目を見ればわかります。体調が悪そうだと思っているのなら大間違い、見た目だけですよ。確かに顔色は悪い。だが筋肉は衰えちゃいない。証拠が見たいですかな? では……」  ブールの手になる家具の上に青銅製の大きな花瓶が置かれてあるのを、バルサモは片手だけで軽々と持ち上げて見せた。 「わかりました。五月三十一日については信じます。ですがあなたは誤魔化しておいでだ。別の日のことも同じように証明なさろうとしていますが、後日また妹に会ったはずです」  バルサモが躊躇いを見せた。 「確かに会いました」  一瞬だけ顔が輝いたが、それも瞬く間に翳った。 「ほらご覧なさい!」 「確かに妹さんには会ったが、それがどうしたと?」 「どうしたもこうしたも、これまで三度にわたっておかしな力を使って眠らせて来たではありませんか。あなたに近づかれて発作を起こした妹を、無力なのをいいことにもてあそんで知らんぷりを決め込んでいるのではありませんか」 「改めてたずねるが、誰がそんなことを?」バルサモが大声でたずねた。 「妹本人がです!」 「眠っていたのに何故わかる?」 「では、眠っていたことを認めるのですね?」 「認めるどころではない。この手で眠らせていたことを認めよう」 「眠らせていた?」 「そうだ」 「辱める為でなければ、何の為に?」 「何の為に?」バルサモはがっくりと頭を垂れた。 「話して下さい!」 「俺にとっては命よりも大事な秘密を教えてもらう為にだよ」 「嘘だ! 言い逃れだ!」 「あの夜のことか……」バルサモは、フィリップの侮辱に応えるというよりも、自らの考えを追うようにして呟いた。「あの夜、妹さんが……?」 「辱められたのです」 「辱められた?」 「妹は母親になったのです!」  バルサモが声をあげた。 「そうだった! 忘れていた。術を解かずに立ち去ってしまったんだ」 「お認めになるのですね!」 「ああ。何てことだ。あの夜。俺たちにとって悲劇だったあの夜、何処かの卑怯者が妹さんが眠っているのにつけ込んだんだ」 「からかおうと言うのですか?」 「いや、説得しようとしているのだ」 「それは難しいでしょうね」 「妹さんは今どこに?」 「よくご存じの場所ですよ」 「トリアノンに?」 「ええ」 「ではトリアノンに行こう」  フィリップは驚きのあまり動けなかった。 「俺は間違いを犯した。だが罪は犯しちゃいない。催眠術にかけたまま放っておいてしまっただけだ。だがそのお詫びに犯人の名前を教えよう」 「誰なんです?」 「俺は知らない」 「では誰が知っているのですか?」 「妹さんだ」 「でもぼくには教えてくれませんでした」 「恐らく俺には言ってくれるだろう」 「妹が?」 「妹さんが犯人を名指ししたら、信じるな?」 「ええ。無垢な天使のような人間なのですから」  バルサモは呼鈴を鳴らした。 「フリッツ、馬車の用意を!」  フィリップは狂ったように応接室を歩き回っていた。 「犯人ですって! 犯人を教えると約束してくれるんですね?」 「先ほどの小競り合いで剣を折ってしまったようだが、よければ別のを差し上げようか?」  そう言って椅子の上から金柄の見事な剣をつかみ、フィリップのベルトに通した。 「あなたはどうするのです?」 「俺には必要ない。自分を守らねばならぬとしたら、トリアノンに着いた時だ。妹さんが話してくれたら、その時はあなたが俺を守ってくれるだろう」  十五分後、二人は馬車に乗り込み、フリッツが二頭の馬を操ってヴェルサイユまでの道を全速力で走らせた。 第百四十七章 トリアノンへの道  話し合いや説明にはかなりの時間がかかったので、サン=クロード街を出たのは午前二時を回っていた。  ヴェルサイユまでは一時間十五分かかり、ヴェルサイユからトリアノンまでは十分を費やした。つまり目的地に到着した時にはまだ三時半にしかなっていなかった。  旅も後半になると朝日も顔を出し、セーヴルの丘やひんやりとしている森を薔薇色に染め上げていた。目の前で幕が上げられたように、ヴィル=ダヴレーの池や遠くに見えるビュクの池が、鏡のように照らされている。  やがてヴェルサイユの列柱と屋根が見え始めた。太陽はまだ姿を見せぬものの、建物は既に赤く染まっている。  だんだんと、朝日を反射して窓ガラスがきらめき、紫色の朝靄に穴を穿つ。  ヴェルサイユからトリアノンまで通ずる並木道の端まで来ると、フィリップは馬車を停めさせ、同乗者に声をかけた。バルサモは道中むっつりと黙り通しだった。 「伯爵、もしかすると待たされることになりそうです。トリアノンの門は朝の五時まで開きません。規則に逆らえば、ここに来た理由を衛兵や門番に疑われかねません」  バルサモは何も言わず、首を縦に振って同意を示した。 「もっとも、その時間を利用して、道中あれこれ考えていたことをお話しするにはいい機会です」  バルサモはフィリップをぼんやりと見つめた。その瞳には倦怠と無気力が浮かんでいる。 「話したいのなら、そうなさい。聴きましょう」 「お話によれば、五月三十一日の夜に、妹をド・サヴェルニー侯爵夫人のお宅に運んでくれたのでしたね?」 「そのことを疑ってはいないのでしょう。侯爵夫人にお礼をしに行ったくらいなのだから」 「それから、国王の馬丁をお供に、侯爵夫人邸からコック=エロン街のぼくらの宿までいらっしゃったんですね。つまりあなたと妹は二人きりではなかった。名誉を尊重してあなたのことを信じていました」 「当然のことです」 「ですが、最近の状況を考えてみると、あなたが一か月前にトリアノンの庭に忍び込んだあの夜、妹と話をする為に部屋に入り込んだのだと思わざるを得ないのです」 「トリアノンで妹さんの部屋に入ったことはありません」 「ですが!……アンドレに会う前に、すべてをはっきりとさせておかなくてはなりません」 「すべて明らかにするのは望むところです。その為にここにいるのですから」 「でしたらあの晩――答えにはお気をつけ下さい、これから申し上げるのは確実なことなのですから。何しろ妹本人の口から聞いたのです――あの晩、妹は早い時間に床についていました。つまりあなたは寝台にいる妹を見つけたのではありませんか?」  バルサモは否定の印に首を振った。 「否認するのですか!」 「否認ではない。質問に答えたまでだ」 「では質問を続けますから、引き続き答えて下さい」  バルサモは苛立ちを見せるどころか、急かすように合図した。 「あなたは妹のところに行き――」フィリップはだんだんと昂奮していた。「霊力で眠らされている妹を見つけた。アンドレは横になって本を読んでいたが、あなたの霊力のせいでいつものように眠気を催し、意識を失った。質問しただけだ、と仰いましたね。いや、そのほかに、立ち去る際に術を解くのを忘れたとも仰った」フィリップはバルサモの手首をつかんでぎりぎりと締めつけた。「ところが――妹が翌日になって目を覚ますと、寝台ではなく長椅子の下にいた。服のはだけた状態で……この点について申し開きをお願いします。言い逃れは許しません」  フィリップが話している間、バルサモは寝起きのような顔で、心を翳らせる暗い考えを払っていた。 「本音を言えば、その問題をほじくり返すべきではないし、いつまでも諍いを続けようとするのも間違ったことだ。俺がここに来たのは善意からと、あなたに興味があったからです。それを忘れておいでのようだ。あなたはまだ若いし、そのうえ軍人だ。剣の柄に手をかけて高圧的に話すのに慣れているのだろう。そういった事情のせいで、深刻な事態に対して間違った解釈をしてしまったんでしょう。俺はあそこや自宅で、あなたを説得し、ささやかな安らぎを与えるためにすべきこと以上のことをして来たんだ。もう一度チャンスを与えよう。ただし、俺を退屈させるようなら、深い悲しみの底に籠ってしまうから、そのつもりで。俺の悲しみに比べたら、あなたの悲しみなど、暇つぶしのようなものに過ぎない。眠りに籠った俺を起こす奴など死んでしまえばいい! 俺は妹さんの部屋には入らなかった。言えるのはそれだけだ。俺の意思が大きかったとはいえ、自分で庭まで会いに来たのは妹さんなんだ」  フィリップが動きかけたが、バルサモが制した。 「約束通り証拠をお見せしましょう。今からで構いませんな? 結構。トリアノンへ行こうではありませんか。無駄な時間を費やしていたも仕様がない。それとも待つとしますか? それならそれで構わないが、静かに取り乱さずにお願いしたい」  こう言うと、これまで同様バルサモは一瞬だけ目を光らせ、また元のように物思いに沈んでしまった。  フィリップは咬みかかろうとする猛獣のように、無言の叫びを発したが、すぐに態度を変えて考えを改めた。  ――この男といれば、説得するなり主導権を握るなりしなくてはなるまい。だが一時間のうちにや威圧したり説得したりする方法を見つけられそうもない。まずは我慢だ。  だがバルサモのそばで衝動を堪えるのは難しかったので、馬車から飛び降りると、馬車の停まっている青々とした並木道を歩き回り始めた。  十分もすると、もう待つのには耐えられなくなった。  人から疑われる危険を冒してでも、一時間早く鉄柵を開ける方を選ぼう。  フィリップはこれまで幾度となく心に浮かんでいた考えを改めて持ち出した。「だいたい、スイス人衛兵が疑ったりするだろうか? 妹の具合が悪いから心配になってパリまで医者を呼びに行き、叩き起こしてここまで連れて来たんだと言えばいいんじゃないのか?」  不安も徐々に薄らいでこのように考え出すと、いてもたってもいられなくなり、馬車に駆け寄った。 「仰る通りでした。長々と待つのも意味がありません。行きましょう……」  だがフィリップはその言葉を繰り返さなくてはならなかった。ようやく二度目にバルサモは外套を脱ぎ捨て、茶色い鉄製ボタンのついた黒っぽいウプランドを纏い、馬車を降りた。  庭園の柵に向かう小径を、フィリップは近道をして斜めに横切った。 「急ぎましょう」  言葉通りにフィリップが足を早めた為に、バルサモは遅れそうになった。  柵が開くと、フィリップはスイス人衛兵に事情を説明して、通してもらった。  柵が元のように閉じられたところでフィリップが立ち止まった。 「最後に一言だけいいでしょうか……これが最後です。あなたが妹に何をたずねるつもりなのかはわかりませんが、眠っている間に起こった恐ろしい出来事については、詳しい話をするのを避けてもらえませんか。肉体こそ汚されてしまいましたが、せめて魂だけは清らかなままでいさせてやって欲しいのです」 「よく聞いて欲しい。俺はあそこに見える木立より奥には入ったことがない。妹さんの部屋の向かいの木立だ。だから、タヴェルネ嬢の部屋にも入ったことがない。それは名誉にかけて誓った通りだ。恐ろしい事実に妹さんの魂が耐えられるかどうか心配しているようだが、不安があるとしたらあなたの方だ。眠っている人間には関係ない――というのも、今から――俺が一歩踏み出してから、眠りに就くよう妹さんに命じるからだ」  バルサモは言葉を切って腕を組み、アンドレが住んでいる離れに向き直ると、しばらく動かずに、眉を寄せて、意思の力を顔中に浮き上がらせた。 「これでいい」バルサモは腕を戻した。「今頃はもうアンドレ嬢は眠っているはずだ」  だがフィリップの顔には不審の色が浮かんでいる。 「ほう! 信じていないのですな? いいでしょう! お待ちなさい。部屋に入る必要がないことを証明して見せましょう。これから妹さんに命じて、眠っているままでいいから、階段の下まで会いに来るように伝えましょう。妹さんとこの間お話ししたのもその場所です」 「実際に目にすれば信じるのもやぶさかではありません」 「この並木道の中まで入って、熊垂の後ろで待つとしよう」  フィリップとバルサモはその場所まで向かった。  バルサモがアンドレの部屋に向かって手をかざした。  だがそうした途端、かたわらの熊垂からかすかな物音が聞こえた。 「誰かいる! 気をつけて」バルサモが言った。 「何処ですか?」フィリップは目を凝らした。 「そこです、左の茂み」 「あっ! ジルベールだ。昔の使用人です」 「見つかるとまずいことでもありますか?」 「そんなことはありません。でも放っておきましょう。ジルベールが追い出されたら、ほかの人間も追い出されかねません」  そんな話をしているうちに、ジルベールは怖くなって逃げ出していた。フィリップとバルサモが一緒にいるのを見て、もうお終いだと直感的に理解したのだ。 「さて、どうしますかな?」  フィリップはいつの間にかバルサモの魔力に囚われているのを感じていた。「アンドレをここまで連れて来るほどあなたの力が大きいのが事実なら、誰にでも盗み聞き出来るようなこんなところに妹を連れて来るのではなく、何か別の証拠を見せていただけませんか」 「ぎりぎりだったな」バルサモがフィリップの腕をつかんで、使用人棟の廊下の窓に気づかせた。アンドレが部屋から抜け出し、バルサモの命令に従って、階段を降りようとしていた。 「止めて下さい」フィリップが恐慌と驚愕を露わにした。 「そういうことなら」  バルサモがタヴェルネ嬢に向けて腕を伸ばすと、すぐに歩みが止まった。  それから、石の饗宴に現れた石像のように、くるりと振り返ると部屋に戻った。  フィリップがそれを追い、バルサモも後に続いた。  フィリップはアンドレとほぼ同時に部屋に入り、腕をつかんで坐らせた。  やがてバルサモも追いついて来て、扉を閉めた。  だが、フィリップがあまりに素早すぎた為、バルサモが部屋に入るまでには間隔が開いていた。そこで第三の人物が二人の間に割り込み、ニコルの部屋に忍び込む時間があったのである。隠れている人物は、これから繰り広げられるであろう場面に己の人生が左右されることを自覚していた。  第三の人物とは、ジルベールであった。 第百四十八章 真相  バルサモが扉を閉じて戸口に姿を見せると、フィリップが恐れと好奇心の入り混じった目を妹に向けていた。 「覚悟はいいかな、騎士《シュヴァリエ》?」 「ええ、大丈夫です」フィリップは震えながら呟いた。 「では妹さんに質問を始めるぞ?」 「お願いします」フィリップは深呼吸して、胸にかかる重みを和らげようとした。 「だがその前に、妹さんを見てもらおう」 「見ています」 「間違いなく眠っているな?」 「ええ」 「ならばここで起こることに何一つ気づくことはないだろうな?」  フィリップは答えずに、迷ったような仕種を返した。  バルサモは暖炉に向かい、蝋燭をつけてアンドレの目の前にかざしたが、炎を前にしてもアンドレの瞼は閉じなかった。 「眠っていることに間違いはありませんが、何て不思議な眠り方なんだ!」 「では質問をしよう。いや、俺が妹さんに無礼な質問をしないか心配だと言っていたな。あなたがご自分で質問なさい」 「でもぼくはさっき話しかけたし手を触れたんです。ぼくの声が聞こえもしないし、何も感じもしないようでした」 「それはあなたが妹さんと結びつけられてなかったからだ。俺が段取りを整えよう」  バルサモはフィリップの手を取り、アンドレの手と重ねた。  すぐにアンドレが微笑んで囁いた。 「あなたなの、お兄様?」 「どうだ、あなたのことがわかったようだぞ」バルサモが言った。 「本当ですね。何て不思議なんだ」 「質問すれば、答えが返って来る」 「ですが、目を覚ましている時に覚えていなかったものを、どうやって眠っている時に思い出すというのでしょうか?」 「そこが科学の神秘だな」  バルサモは息を吐いて、隅にある椅子に腰を下ろした。  フィリップは手をアンドレの手に重ねたまま動かなかった。アンドレに何とたずねればいいのだ? 答えを聞けば、辱めを受けたことが確実になるだろうし、誰が犯人なのかも明らかとなり、誰に復讐心を向ければいいのかもわかるだろう。  アンドレは半ば恍惚として、その顔からは何よりも安らぎが窺えた。  フィリップは震えながらも、準備はいいかと問いかけるバルサモの目つきに応えた。  だがフィリップが不幸な出来事のことを考え、顔色を曇らせるにつれて、アンドレの顔にも雲が覆い、ついに口を開いたのはアンドレの方だった。 「ええ、その通りです、お兄様。わたくしたち家族にとって大変な不幸でした」  兄の心を読んだように、フィリップの考えていたことを口に出した。  不意打ちされたフィリップはおののいた。 「不幸とは何のことだい?」何と答えて良いのかわからずに問いかけた。 「まあ! ご存じじゃありませんか」 「話をさせるのです。そうすれば話してくれる」 「どうやって話をさせればいいのでしょうか?」 「話をして欲しいと願いなさい。それだけでいい」  フィリップは内なる衝動に任せてアンドレを見つめた。  アンドレが顔を赤らめた。 「まあ、ひどい。アンドレがお兄様に嘘をついたと思ってらっしゃるなんて」 「では愛している者などいないのかい?」フィリップがたずねた。 「おりません」 「すると、二人で示し合ったのではなく、ぼくを裏切ったのは犯人一人なんだね?」 「何のことでしょうか?」  フィリップは助言を求めるように伯爵を見つめた。 「問いつめなさい」とバルサモが答えた。 「問いつめるですって?」 「ええ、単刀直入に質問なさい」 「アンドレにも恥じらいというものがあるのに?」 「抑えて抑えて。目が覚めれば何も覚えていないのだから」 「それなのに、ぼくの質問には答えられるというのですか?」 「よく見えるか?」バルサモがアンドレにたずねた。  アンドレはその声の響きに身体を震わせ、バルサモの方に光の消えた目を向けた。 「あまりよく見えません。あなたが質問して下されば――あっ、でもだんだん見えて来ました」 「見えるんだね。それなら、おまえが気絶したあの夜のことを詳しく話してくれないか」フィリップが声をかけた。 「五月三十一日の夜からではないのですか? 疑いはあの夜まで遡るものと思っておりましたが? すべてを一斉に明らかにするなら今ですぞ」 「あの夜から質問する必要がありませんから。あなたの言葉を信じることにしました。これほどの力を自在に操れる方でしたら、それをつまらない目的に使ったりなどはなさらないでしょう。アンドレ、気絶した夜に起こったことを残らず話してくれないか」 「覚えておりません」とアンドレが答えた。 「お聞きになりましたか、伯爵?」 「絶対に覚えているし、話してくれるはず。そう命じてご覧なさい」 「ですが眠っているのなら……?」 「魂は起きている」  バルサモは立ち上がってアンドレに手をかざし、眉をひそめて意思と霊力をさらに強めた。 「思い出せ、いいな」 「思い出しました」 「凄い!」フィリップが額を拭った。 「お知りになりたいことは?」 「すべて!」 「どの時点からでしょうか?」 「おまえが横になった時点から」 「自分が見えるか?」バルサモがたずねた。 「はい、見えます。ニコルが用意したコップをつかんで……おお、恐ろしい!」 「どうした? 何があった?」 「人でなし!」 「話してくれ、アンドレ」 「コップには混ぜものが入っていました。それを飲んでいたら、わたくしは終わりでした」 「混ぜものだって! いったい何の目的で?」フィリップが声をあげた。 「待って下さい!」 「まずは飲み物だ」 「口元に持って行こうとしましたが……その時……」 「どうした?」 「伯爵に呼ばれました」 「何処の伯爵だい?」 「この方です」アンドレはバルサモに手を向けた。 「それから?」 「それから、コップを元に戻して、眠りに陥りました」 「それからどうしたんだ?」 「立ち上がって伯爵に会いに行きました」 「伯爵は何処に?」 「窓の正面にある菩提樹の下です」 「じゃあ伯爵はおまえの部屋に入ったことはないんだね?」 「ありません」  バルサモの目が、「嘘をついていたかどうかおわかりいただけましたな?」とフィリップに告げていた。 「伯爵に会いに行ったと言ったね?」 「はい。呼ばれればその通りにいたします」 「伯爵の用事は何だったんだ?」  アンドレは躊躇った。 「言うんだ。俺は聞かぬことにする」  バルサモは椅子にうずくまって両手で頭を抱えた。アンドレの言葉が届かないようにしているのだろう。 「伯爵の用事が何だったのか教えてくれるかい?」フィリップが繰り返した。 「知りたがっておいででした……」  ここで再び口を閉ざした。伯爵の心臓が破れてしまわないかと心配しているかのようだった。 「続けてくれ、アンドレ」フィリップが懇願した。 「家から逃げ出してしまった人のことを知りたがっておいででしたが」アンドレの声が小さくなった。「その方はその後、お亡くなりになってしまいました」  アンドレの言葉は小さかったものの、バルサモの耳に届いたか、もしくは見当がついたに違いない。バルサモが苦しげに呻くのが聞こえたからだ。  フィリップが口をつぐんだ。沈黙が降りた。 「続けてくれ」バルサモが言った。「兄上はすべてを知りたがっているぞ。すべてを知らなくてはならぬ。その男は手に入れたかった情報を受け取った後どうした?」 「お逃げになりました」アンドレが答えた。 「おまえを庭に置いて?」フィリップがたずねた。 「はい」 「おまえはどうしたんだ?」 「伯爵が立ち去ると共に、わたくしを捕えていた力も遠ざかりましたので、わたくしは倒れました」 「気絶したのかい?」 「違います。眠っていましたが、それまでとは違う重い眠りでした」 「眠っている間に起こったことを思い出せるかい?」 「やってみます」 「よし、何が起こった?」 「男が茂みから出て来て、わたくしの腕をつかんで連れて行きました……」 「何処に?」 「ここ。わたくしの部屋に」 「そうか!……その男が見えるかい?」 「待って下さい……はい……はい……また!」アンドレが嫌悪と不快感を見せた。「またあのジルベールです!」 「ジルベール?」 「はい」 「ジルベールは何をしたんだ?」 「わたくしを長椅子に寝かせました」 「それから?」 「待って下さい……」 「見るんだ、目を凝らせ」バルサモが言った。「それが俺の望みだ」 「耳を澄まし……別の部屋に行き……怯えたように後じさり……ニコルの部屋に入って……ああ! ああ!」 「どうした!」 「その後から男が一人。目を覚ますことも、抵抗することも、叫ぶことも出来ずに、眠っているわたくしを!」 「誰のことだ?」 「お兄様! お兄様!」  アンドレの顔がこれまで以上の苦痛に歪んだ。 「その男が誰なのか言うんだ。命令だ!」バルサモが命じた。 「国王です」アンドレが呟いた。「国王です」  フィリップが身体を震わせた。 「そうだろうと思っていた」バルサモが呟いた。 「陛下はわたくしに近づいて、話しかけ、腕を回して抱き寄せました。お兄様! お兄様!」  大粒の涙がフィリップの目に浮かび、バルサモから受け取った剣の柄を握り締めていた。 「続けてくれ!」伯爵の声がさらに威圧的になった。 「幸運でした! 国王は狼狽え……立ち止まり……わたくしを見つめ……怯えて……逃げ出しました……アンドレは助かりました!」  妹の口から出てくる言葉の一つ一つに、フィリップは喘ぎをあげ、息を吸った。 「助かった! アンドレは助かったんだ!」と機械的に繰り返した。 「待って下さい、お兄様!」  アンドレは身体を支えようとでもするように、フィリップの腕にしがみつこうとした。 「それからどうなったんだ?」 「すっかり忘れていました」 「何を?」 「あそこ。ニコルの部屋に、ナイフを持って……」 「ナイフを?」 「死人のように真っ青になっているのが見えます」 「誰だい?」 「ジルベールです」  フィリップが息を呑んだ。 「国王のいたところまで出て、扉を閉め、絨毯を焦がしていた蝋燭を踏んで、わたくしの方へ進んで来ました。ああ!……」  アンドレは兄の腕の中で立ち上がった。筋肉という筋肉が、折れそうなほどに強張っていた。 「おぞましい!」  ついにそれだけ言うと、アンドレは力なく崩れ落ちた。  フィリップは止めることさえ出来なかった。 「あいつです! あいつです!」  そう呟いてからアンドレは兄の耳元まで這い上がり、目を輝かせ、震える声で囁いた。 「あいつを殺して下さいますね、フィリップ?」 「もちろんだ!」  フィリップは飛び上がった拍子に後ろにあった円卓にぶつかり、磁器をひっくり返してしまった。  磁器が粉々に砕け散った。  その音と共に、壁が音もなく鳴り振動した。そしてそのすべてを掻き消すようなアンドレの悲鳴。 「何だ?」バルサモがたずねる。扉が開いた。 「誰かに聞かれたのか?」フィリップが剣をつかむ。 「あいつです。またあいつです」アンドレが答えた。 「あいつとは?」 「ジルベールです。いつもジルベール。殺して下さいますね、フィリップ、ジルベールを殺して下さいますね?」 「もちろんだ! もちろんだとも!」  フィリップは剣を手にしたまま控えの間に飛び込んだ。アンドレは長椅子に倒れ込んだ。  バルサモがフィリップの後を追い、腕をつかんで引き留めた。 「待ちなさい。秘密が秘密でなくなりますぞ。陽が昇った。王宮の噂はかしましい」 「糞ッ! ジルベールめ。あそこに隠れて盗み聞きしていたんだ。殺してやるとも。ろくでなしなど死んでしまえ!」 「異論はないが、まずは落ち着きなさい。いずれあの若者には再会できる。差し当たって気にかけなくてはならないのは妹さんだ。昂奮のあまりぐったりし始めているではありませんか」 「わかっています。ぼくと同じ苦しみに喘いでいるんです。あまりにおぞましくて、立ち直れそうにありません。ああ、死んでしまいそうだ!」 「妹さんの為にも生きなくてはなりません。妹さんにはあなたが必要だ。あなたしかいないんだ。妹さんを愛で、憐れみ、大事になさい……」バルサモはしばらく押し黙ってから、口を開いた。「これでもう私はお役御免ですかな?」 「ありがとうございました。疑ったり侮辱したりしたことをお詫びいたします。それでもやはり、すべての不幸の元凶はあなただったのではありませんか」 「言い訳はいたしません。だが妹さんの話をお忘れではありませんかな……?」 「妹が何と? 頭が混乱してしまって」 「仮に私が来なかったとしたら、妹さんがニコルの用意した飲み物を飲んだところに、国王が訪れていた……そっちの方がましでしたかな?」 「そうは思いません。どちらも同じく不幸な出来事でしょう。よくわかってます。ぼくらはそうした宿命に生まれついたんですよ。妹の目を覚ましてくれませんか?」 「だが妹さんが私の姿を見たら、恐らく何が起こったのか察するのではありませんかな。眠らせた時と同様に、遠くから目覚めさせた方がいい」 「ありがとうございます!」 「ではこれにて」 「もう一つだけ。あなたは信用できる方ですね?」 「秘密を守れるかどうかですかな?」 「伯爵……」 「念押しは無用。第一に、私は信用できる人間です。第二に、もう人と関わるようなことはしないと決めたのです。人とも人の秘密ともおさらばするつもりだ。それでももし、私でお役に立てるようなことがあれば頼っていただきたい。もっとも、もう何の役にも立たぬでしょうが。この世にはもう何の未練もない。ではご機嫌よう!」  バルサモはフィリップに向かって頭を下げ、今一度アンドレを見つめた。アンドレは苦痛と疲労から心持ち顔を仰け反らせていた。 「科学というやつは、価値なき結果に幾多の犠牲を求めやがる!」とバルサモは呟き、姿を消した。  バルサモが遠ざかるにつれ、アンドレが自由を取り戻した。鉛のように重かった頭を起こし、目に驚きを浮かべて兄を見つめた。 「フィリップ 何があったの?」  フィリップは嗚咽を喉の奥で引っ込め、気丈にも微笑んだ。 「何でもないよ」 「何も?」 「ああ」 「ですけれど、何だかわたくし、頭がおかしくなって夢を見ていたようなんです!」 「夢を? どんな夢だい、アンドレ?」 「ルイ先生、ルイ先生、お兄様!」 「アンドレ!」フィリップはアンドレの手を握った。「おまえは太陽のように純粋だ。それなのにひどい目に遭わされ、汚されてしまい、ぼくら二人は恐ろしい秘密を抱えることになった。ぼくはルイ先生を探しに行くつもりだ。おまえがホームシックにかかり、治すにはタヴェルネで過ごすしかないと、王太子妃殿下に伝えてもらおうと思うんだ。そうしたら二人で出かけよう。タヴェルネでもいいし、何処か別の場所でもいい。この世に二人きりになって、愛し合い、慰め合えれば……」 「でもお兄様の仰るように、わたくしが純粋なのなら……?」 「そのことはいずれ説明するよ。今は出発の準備をしなさい」 「でもお父様は?」 「父上か」フィリップの顔色が翳った。「そのことも考えている。手筈はととのえるよ」 「ではお父様も一緒なのね?」 「父上も? あり得ないよ。ぼくら二人きりだと言ったはずだ」 「怖がらせないで下さい、お兄様! わたくしは具合が悪いんですから!」 「最終的には神様が判断して下さるさ。だから勇気を出すんだ。ぼくは先生を探しに行く。おまえの具合が悪くなったのは、タヴェルネから離れたのが寂しいからさ。それを妃殿下に遠慮して感づかれまいとしたんだろう。元気を出すんだ。ぼくら二人の名誉の問題だ」  フィリップは息が詰まりそうになって、アンドレを抱き締めた。  それから落としていた剣を拾うと、震える手で鞘に戻し、階段に向かって駆け出した。  十五分後、フィリップはルイ医師宅の門を叩いていた。医師は廷臣がトリアノンにいる間は、ずっとヴェルサイユで暮らしていたのだ。 第百四十九章 ルイ医師の小庭園  前章でフィリップが訪れたのが、ルイ医師の家であった。ルイ医師は四方を塀に囲まれた小さな庭を歩き回っていた。そこは古いウルスラ修道院の一部であり、現在は国王親衛隊の竜騎兵用の秣倉庫になっていた。  医師は歩きながら、出版予定の新作の試し刷りを読んでいるところだった。時折しゃがみ込んでは、歩いている並木道や左右に広がっている花壇から、好き勝手に伸びている雑草を引き抜いていた。  愛想の良くない家政婦が一人で、仕事の邪魔をされたくない医師の為に、家事のすべてを取り仕切っていた。  フィリップの手の下で青銅の敲き金が立てた物音を聞いて、家政婦は門に近づいて扉を細めに開けた。  だがフィリップは家政婦と話し合うことも厭って、扉を押しやり中に入って来た。いったん並木道に入れば、庭が見え、庭には医師がいた。  厳戒中の番人の如く、フィリップは声も音も立てずに庭に駆け込んだ。  足音に気づいて医師が顔を上げた。 「おや、あなたですか!」 「勝手に押し入って一人きりの時間を邪魔してしまったことをお許し下さい。ですが、あなたがお考えになっていた瞬間が来たのです。ぼくにはあなたが必要なんです。あなたの助けを請わねばならないのです」 「確かにお約束いたしました。お助けしましょう」  フィリップがお辞儀をした。感激のあまり何も言葉が出て来なかった。  ルイ医師はその気持を酌み取った。 「妹さんの具合は如何ですか?」フィリップがあまりに真っ青だったので、何らかの悲劇が起こったのではないかと不安になってたずねた。 「おかげさまで何よりです。妹ほど誠実で気高い女はいないのに、苦しみや脅威に晒されるとしたら、神様は不公平だと言うしかありません」  医師はフィリップを物問いたげに見つめた。昨夜のことを否定されているように聞こえたのだ。 「では、妹さんは何らかの事件や罠の犠牲になったのだと?」 「その通りです、先生。途方もない事件の犠牲者であり、おぞましい罠の犠牲者でした」  医師は手を組み、天を仰いだ。 「ああ! そういう点では私たちはひどい時代に生きているのですよ。ずっと前から個人専属の医者は生まれていたのですから、これからは国民全員の医者を作り出すのが緊急の課題だと考えております」 「その通りです。そんな時代が来てくれたら、誰よりも嬉しい気持でそれを見守ることでしょう。ですが今は……」  フィリップはひどく脅すような仕種をした。 「そうですか! あなたも、罪を償うには暴力や死をもってと考えている人なのですね」 「そうです」フィリップの声は穏やかだった。「ぼくはそういう人間です」 「決闘ですか」医師は溜息をついた。「犯人を殺すことが出来たとしても、妹さんの名誉は回復しませんし、あなたが殺されるようなことがあれば妹さんを絶望の底に投げ込むことになるだけですよ。あなたは真っ直ぐな心と、聡明な魂の持ち主だと思っておりました。この事件のことは何もかも隠し通したがっているとばかり思っていましたが?」  フィリップが医師の腕を押さえた。 「どういうわけかわかりませんが、先生は誤解していらっしゃいます。深い確信と汚れない良心にかけて、ぼくの頭ははっきりとしています。ぼくの望みは、この手で裁きをおこなうことではなく、裁きを受けさせることです。ぼくの望みは、妹をひとりぽっちにすることでもぼくを亡くして死んだも同然にすることでもなく、ろくでなしを殺して妹の恨みを晴らしてやることなんです」 「あなたが殺すというのですか? 殺人を犯すのですか?」 「もし罪が犯される十分前に姿を見かけていたなら――あんな立場の人間が足を踏み入れる権利などない部屋に盗っ人のように入り込むのを見かけていたなら――ぼくは犯人を殺していましたし、ぼくの行動は正しかったのだと言われたことでしょう。だったらどうして今になって犯人を見逃さなくてはならないのですか? 罪が浄化されたとでもいうのでしょうか?」 「では、そんな残酷な計画を、心の中で固め、魂に誓っているのですね?」 「誓っていますとも! 心を固めていますとも! 何処に隠れていようといつか必ず見つけ出し、見つけた暁には、憐れみも後悔も見せずに、犬のようにぶち殺してやります!」 「ではあなたは、犯人と同じような罪を――それ以上に恐ろしい罪を――犯すことになるのですよ。女の不用意な言葉や媚びた仕種が、男の願望や気持を何処に向かわせるかわかったものでもないというのに。人殺しなどと! ほかの償わせ方があるのではありませんか、結婚させるとか……」  フィリップが顔を上げた。 「タヴェルネ=メゾン=ルージュの歴史は十字軍にまで遡り、妹の身分は内親王や大公女にも匹敵するのだということをご存じないのですか?」 「そうでしたか。犯人はそうではなく、平民であり愚民であり、あなた方とは別の人間だというわけですね。ええ、そうですとも」医師は辛辣な笑みを見せた。「仰る通りだ。神は劣った粘土から造った人間を、優れた粘土で造った人間に殺して欲しいのですよ。まったくあなたは正しい。どうぞお殺りなさい」  医師はフィリップに背を向け、雑草取りの作業に戻った。  フィリップが腕を組んだ。 「先生、聞いて下さい。今ここで問題にしているのは、何だかんだ言って浮気女からその気にさせるようなことをされた色男なのではありません。問題にしているのは、ぼくらに養ってもらったろくでなしのことなんです。慈悲のパンを口にしていた癖に、夜中に眠ったように気絶して仮死状態になっているのをいいことに、恩を仇で返して卑怯にも、この世でもっとも清らかで純粋な女を汚したろくでなしなんです。昼間の光では顔をまともに見ることも出来ない癖に。法廷に出ればこの犯人には死刑の宣告が待っているに違いないんです。それなら法廷のように公正に、ぼくが裁いてやる。ぼくが殺してやる。先生のことは寛大で立派な方だと信じています。ぼくにこの務めを果たさせてもらえませんか? でなければ、犯人を引き渡すという条件を認めてくれませんか? 親切な第三者として役目を果たし自己満足しようとするような方だったんですか? そうだとしたら、先生は尊敬していたような素晴らしい方ではなく、普通の人間だったんですね。あなたは先ほどぼくを軽蔑してみせたけれど、ぼくの方がよっぽど尊敬できる人間ですよ。何の下心もなく秘密をすっかり打ち明けたんですから」 「つまり――」医師が考え込んだ。「犯人が逃亡したと仰るのですか?」 「そうです。事情の説明が始まりそうなことに感づいたのでしょう。非難されているのを聞いて、慌てて逃げ出したんです」 「では、これからどうなさるおつもりですか?」医師がたずねた。 「手を貸していただけませんか。妹をヴェルサイユから連れ出し、何も洩れることのない濃い闇の中に、明らかにされれば恥辱となるような恐ろしい秘密を埋めてしまいたいのです」 「一つだけ訊きたいことがあります」  フィリップが不機嫌な顔をした。 「まあまあ」医師はなだめるような仕種をした。「僧侶代わりに懺悔された哲学者としては、務めとしてではなく主義主張を持つ権利に基づいて、条件をつけなくてはなりますまい。思いやりとは為すべき務めであって、単なる美徳ではありません。人を殺すと仰いましたね。私はどんな手を使ってでも全力でそれを阻止しなくては。その為には暴力も辞しません。妹さんに降りかかった災難を自ら裁くのも阻止したのですから。だからどうか、私に誓って下さい」 「嫌だ! 嫌です!」 「誓ってもらわなくては」ルイ医師が声を荒げた。「誓いなさい。神の手を意識して、その拳も間合いも見誤らないようになさい。もう少しで犯人を捕まえるところだったと仰いましたね?」 「そうなんです。あそこにいるとわかっていたなら、扉を開けて顔を合わせていたでしょうに」 「それで犯人は逃げ出して震え出し、辛い逃亡生活が始まったというわけですか。ああ、笑っていますね。神がお造りになったものがあなたには足りないのです! 悔恨という気持があなたには欠けているようだ! どうか落ち着きなさい! これからも妹さんのそばに居続けて、犯人を追いかけたりしないと約束して下さい。あなたが犯人と再会することがあれば――言いかえれば、神が犯人をあなたに売り渡したとしたら――私も男ですからね!――その時はあなたにもわかるでしょう!」 「馬鹿らしい。犯人が逃げずにいるとでも?」 「わからないではありませんか? 殺人犯は逃げ出し、隠れ場所を探し、死刑台を恐れ、それでも磁石に引かれるように、裁判所の柵に引き寄せられ、死刑執行人の手の下に頭を垂れに来るものです。もっとも、あなたが辛い思いで実行しようとしていたことをやめるのが問題でしょうか? あなたが生きている世界にとっては問題であり、妹さんの純潔を明らかに出来ない人には問題なのでしょう。あなたが人を殺すのも、そのことで好奇心を何倍も満足させてくれるのを楽しみにしている暇人の為でしかありません。野次馬たちは最初は犯行の告白を聞いて楽しみ、次に罰が下るのを大騒ぎして楽しむつもりなんですよ。いけません。私を信じて沈黙を貫き、今回の不幸を隠し通す覚悟をなさい」 「あのろくでなしをぼくが殺したとして、殺したのが妹の為なのかどうか、誰にわかります?」 「殺した動機が見つかるに違いありません」 「いいでしょう。あなたの言う通りにして、ぼくは犯人を追うのはよしますが、きっと神が裁いて下さることでしょう。神は罰から免れることを餌にして、犯人をぼくの許まで届けて下さるはずです」 「では、神が裁くことでしょう。手をお貸し下さい」 「どうぞ」 「ド・タヴェルネ嬢の為にしなくてはならないことは何ですか?」 「しばらく王太子妃殿下のおそばを離れる口実を考えなくてはなりません。ホームシック、環境、政治……」 「難しく考えることはありません」 「そうですね。あなたについては信頼いたします。ですから妹をフランスの片隅――例えばタヴェルネ――人の目からも猜疑の目からも遠く離れたところに連れて行くことにします」 「それはいけません。あの子には継続的な治療と絶え間ない安らぎが必要です。恐らくは科学の助けが必要になるに違いありません。この辺りで私の知っている小村を探しますから、そこならあなたが連れて行く予定の田舎よりも百倍も人目につかず百倍も安心な隠れ家となるでしょう」 「先生、そうお思いですか?」 「そう思うのにも理由があります。水に石が落ちて広がる輪のように、疑いとは中心から遠ざかるにつれ拡散してゆくものなのですよ。ですが石そのものは拡散しませんし、波紋が消えてしまえば原因を見つけることは出来ませんし、石は水の奥深くに沈んでしまっているものです」 「ではお願いいたします」 「今日から始めましょう」 「妃殿下に知らせていただけますか」 「今朝すぐに」 「ほかの点については……?」 「二十四時間後には答えがわかります」 「何とお礼を言って良いか! あなたこそ神様です!」 「では、すべて決まったからには、あなたは自分のすべきことをなさい。妹さんのところに戻って慰め守っておやりなさい」 「それでは失礼いたします、先生!」  医師はフィリップが見えなくなるまで見送ると、再び歩き始め、庭の点検と掃除を再開した。 第百五十章 父と息子  フィリップが戻ると、アンドレがひどく狼狽えて不安がっていた。 「お兄様。お兄様がいない間に、わたくしの身に起こったことを残らず考えておりました。わたくしに残っていた理性をすっかり飲み込んでしまいそうな深淵でございました。お兄様はルイ先生にお会いになったのでしょう?」 「先生のところから戻ったところだよ」 「あの人はわたくしをひどく侮辱なさいました。正しかったのでしょうか?」 「間違ってはいなかった」  アンドレは青ざめ、細く白い指を神経質に引きつらせた。 「名前を。わたくしを破滅させた卑怯者の名前は?」 「ずっと知らない方がいい」 「フィリップ、嘘は仰らないで。ご自分の良心を誤魔化さないで……名前を知る必要があるんです。わたくしは弱いだけの人間で、祈ることくらいしか出来ません。祈ることで犯人に神の怒りをもたらしてやれるのです……その為にも、犯人の名前を」 「その話はよそう」  アンドレがフィリップの手をつかみ、顔を見つめた。 「それがお兄様のお返事ですか? 腰に剣を佩いているお兄様の?」  フィリップはアンドレの激しさにたじたじとなったが、すぐに自分の怒りは抑え込んだ。 「アンドレ、自分でも知らないことを教えることは出来ない。ぼくらを悩ましている運命が、それが明らかにならぬよう定めたのだ。秘密にしておこうという願いも我が家の名誉と共に危険に晒されたけれど、神がせめてもの情けをかけて誰からも触れられぬようにしてくれるはずだ。誰からも……」 「例外が一人だけいます、フィリップ……高らかに笑い、わたくしたちに歯向かっている人間が!……きっと人の目の届かない隠れ場所から、わたくしたちを嘲笑っているんです」  フィリップが拳を固め、天井を見上げたまま、一言も答えなかった。 「その男のことを――」アンドレが怒りと苛立ちをさらに高まらせた。「わたくしはその男のことを知っているような気がするんです……フィリップ、思い出させてしまってごめんなさい。あの男がわたくしに不思議な力を及ぼしていることはもうお伝えしましたね。お兄様はあの人のところに会いに行ってしまったのでしょう」 「その人は違うんだ。会って確かめてきた……もういい。もう忘れるんだ。もう考えなくてもいい……」 「フィリップ、あの人よりも高いところを一緒に目指しましょう。お嫌?……この王国の権力者たちの最上段まで……国王のところまで!」  フィリップはアンドレを抱き締めた。何も知らぬまま憤りに震えているアンドレは、哀れで神々しかった。 「いいかい、目を覚ましている状態で名を挙げている人たちのことを、おまえは眠っている間に名を挙げていたんだ。今こうして美徳の限りに非難してしている人たちに対して、罪が犯されるのをその目で見た為に、無罪を言い渡したんだ」 「ではわたくしは犯人を名指ししたのですね?」アンドレの目に炎が灯った。 「いいや。そんなことはない。もう質問をするのはやめてくれ。ぼくに倣って運命に従おう。起こってしまったことは元には戻らない。犯人が罰せられないのはおまえにとっては二重の苦しみだろう。だが希望はある。希望……神は何よりも偉大だからね。神は不幸に押しつぶされた人に、復讐と呼ぶ甘美な悲しみを残してくれた」 「復讐……!」フィリップがこの言葉に込めた恐ろしい響きに、その言葉を繰り返したアンドレも怯えていた。 「今のところは休むといい。ぼくの好奇心のせいでおまえに悲しい思いや恥ずかしい思いをさせてしまったね。予め知ってさえいたら! わかってさえいたら!……」  フィリップは悔しさのあまり両手に頭をうずめた。だがすぐに顔を上げた。 「ぼくは何を嘆いているんだ?」フィリップは笑みを浮かべた。「純粋で、ぼくのことを愛している妹がいるんじゃないか! 信頼も愛情も裏切ったりはしなかった。ぼくのように若く、ぼくのように誠実だった。ぼくらは共に暮らし、共に歳を取ってゆくんだ……二人なら、世界の誰よりも強くなれる!……」  フィリップが慰めの言葉を綴るにつれ、アンドレの顔色が翳って行った。顔をさらに青ざめさせてうつむき、フィリップが気丈にもふるい落としたばかりの絶望的な態度と眼差しを湛えていた。 「二人のことなど二度と話さないで下さい!」青く鋭い目を、動揺しているフィリップの顔に向けた。 「じゃあ何を話せばいいんだい、アンドレ?」フィリップはアンドレの視線を受け止めた。 「だって……わたくしたちにはお父様がいます……お父様が娘を裏切ると言うのですか?」 「昨日言った通りだよ」フィリップは淡々と言葉を返した。「悲しいことも恐ろしいこともみんな忘れてしまうんだ。朝靄を吹き払う風のように、ぼく以外の思い出も愛情も吹き払ってしまって欲しい……だってアンドレ、この世の誰も愛してはいなかったのだろう。ぼくのほかには。ぼくが愛していたのもおまえだけだ。哀れなみなし児が、どうして感謝や親戚といったくびきに囚われなくちゃならないんだ? ぼくらが恩恵を受けたことがあったか? 父から守ってもらったことがあったか?……ははっ!」フィリップは苦々しい笑みを浮かべた。「ぼくの考えていることならすっかりわかっているだろう。ぼくの気持などお見通しだろう……今話している人のことを愛さなくてはならなかったなら、『愛しなさい』と言っていたさ。ぼくは黙るから、おまえも口を閉じるといい」 「でもお兄様……わたくしに必要なのは信じることでしょうか……?」 「ねえ、恐ろしい災難の中で、子供というのは知らず知らずのうちに、理解できないながらも『神を恐れよ!』という言葉が鳴り響くのを聞いているものさ……ああ、そうだとも。神様は残酷にもぼくらに思い出させたんだ……『父を敬え……』とね。敬意を最大限に表そうと思ったら、おまえに出来ることは記憶を消し去ることだろうな」 「本当にその通りね……」アンドレは侘びしげに呟いて、椅子に倒れ込んだ。 「アンドレ、どうでもいい話で時間を無駄にするのはよそう。身のまわり品を揃えるんだ。ルイ先生が王太子妃殿下に会いに行って、おまえがいなくなることを伝えてくれる。どんな理由をつける予定なのかわかっているね……原因不明で苦しんでいるから、空気を変える必要があると……出発に必要なものを用意してくれ」  アンドレが立ち上がった。 「家具はどうしますの?」 「それは無理だ。下着に上着に宝石」  アンドレは言われた通りにした。  まずは洋服箪笥や、ジルベールが隠れていた衣装部屋の衣装を片し、それから、貴重品箱に移すつもりだった宝石を幾つか手に取った。 「それは……?」 「トリアノンで陛下に謁見した際に賜った装身具です」  贈り物が豪華なのを見てフィリップの顔が青ざめた。 「この宝石だけで、何処に行ってもそこそこの生活が出来ますわ。真珠だけでも十万リーヴルだと聞きました」  フィリップが宝石箱を閉じた。 「驚くほど高価だね」  と言って、宝石箱をアンドレの手に戻した。 「ほかにも宝石があるんだろう?」 「でもこの宝石とは比較にはなりません。母がお洒落をした時に身につけていたもので、十五年も前の……懐中時計、ブレスレット、ダイヤの散りばめられた耳飾り。それに肖像画もあります。お父様はみんな売ろうとなさいました。流行遅れだからと言って」 「それがすべてここに残っているんだね。ぼくらの唯一の財産だ。金は溶かして、肖像画の宝石は売ろう。それで二万リーヴルにはなる。貧乏人には充分な額だよ」 「でも……この真珠の宝石箱はわたくしのものです!」 「触れちゃ駄目だ。火傷するぞ。この真珠には奇妙な性質があって……顔に触れると痣が出来るんだ……」  アンドレが身震いした。 「この宝石箱はぼくが預かるよ。正当な権利を持つ人に返そうと思うんだ。これはぼくらのものじゃない。何一つ主張するつもりはないね?」 「お兄様がそう仰るのでしたら」アンドレは恥ずかしさに震えた。 「じゃあ着替えてくれ。妃殿下に最後のご挨拶をしに伺おう。これほど高貴な主人の許から離れるんだから、ちゃんと落ち着いて、敬意を払い、胸に刻むんだぞ」 「もちろん胸に刻みますわ」感極まったアンドレが囁いた。「今度の不幸の中でも一番辛いことですもの」 「ぼくはパリに行くけれど、夕方頃には戻って来る。着いたらすぐに迎えに来るよ。必要な人たちには支払いを済ませておくんだぞ」 「そんな人はおりません。ニコルがいましたけれど、逃げてしまいましたから……あら、ジルベールのことを忘れていました」  フィリップの背筋が凍り、目に炎が灯った。 「ジルベールにそんなことをする必要があるのか?」 「ええ」アンドレは当たり前のように答えた。「季節の初めから花を届けてくれましたから。それにお兄様も仰ったように、あの子には不当に厳しく接することもありましたし。何だかんだ言っても慇懃な子だったのに……何らかの形でお礼をしようと思っています」 「ジルベールなど放っておけ」フィリップが声を絞り出した。 「どうしてですか?……庭にいるでしょうから、何なら呼びに行かせましょう」 「駄目だ! 貴重な時間を無駄にするな……そんなことをせずとも、並木道を歩いて行けば、途中で出くわすだろうから……ぼくが話して……お礼を言っておくよ……」 「そういうことでしたら構いません」 「ああ。それじゃあ晩に」  フィリップは腕の中に飛び込んで来たアンドレの手に口づけをした。心臓の鼓動が伝わるまで優しく抱き締めると、時間を無駄にせずパリに向かい、コック=エロン街の門前で馬車から降りた。  そこに行けば父と会えることはわかっていた。男爵はリシュリューとおかしな仲違いしてからは、ヴェルサイユでの耐えがたい生活を良しとせず、活動的な人々がよくやるように、場所を変えることで無為な感覚を紛らそうとしていたのだ。  フィリップが正門の小窓から訪いを告げた時には、男爵は悪態をつきながら宿の庭や隣接する中庭を歩き回っていた。  呼鈴の音にびくりとすると、男爵自ら門を開けに現れた。  人が来るとは思っていなかったので、こたびの予期せぬ訪問に期待を抱いていたのだ。転落した人間はどんな枝にもしがみつきたがる。  悔しさと好奇心の入り混じった捕えがたい気持で、男爵はフィリップを迎え入れた。  だが息子の青ざめて強張った顔や痙攣する口を見るや、質問しようとして開いた口は凍りついた。 「お前か!」とだけ言うのがやっとだった。「どういう風の吹き回しだ?」 「これからご説明いたします」 「ふん! 一大事か?」 「極めて重大なことです」 「お前はいつも仰々しいから不安でならん……それで、今回の報せは不幸と幸運のどっちじゃ?」 「不幸の方です」フィリップの声は重かった。  男爵の身体がかしいだ。 「ここにはぼくたちしかいませんね?」 「無論だ」 「家に入りませんか?」 「どうして外ではいかん? この木の下では……?」 「明るい空の下では言えないようなことだからです」  男爵は息子を見つめ、無言で招かれるがままに従った。平静を装って笑みまで浮かべて地下室までついて行くと、フィリップが扉を開けて待っていた。  扉がしっかりと閉められると、フィリップは父親が話せと合図するのを待った。男爵は部屋で一番いい椅子にどっかりと腰を下ろしている。 「父上、アンドレとぼくは、父上とお別れすることになりました」 「どういうことだ?」男爵は驚いてたずねた。「行ってしまうというのか!……では兵役はどうなる?」 「もう兵役などありません。ご存じの通り、国王のお約束は実現しませんでしたから……幸いなことに」 「幸いだと? 意味がわからん」 「父上……」 「説明せんか。聯隊長になれぬのが幸いとはどういうことだ? 哲学をこじらせおったか?」 「たいした哲学ではありません。不名誉よりは運命を取ったまでです。ですがこの種の理由には突っ込まないでいただけませんか……」 「突っ込まずにおられるか!」 「お願いです……」フィリップのかたくなな言葉からは、『嫌だ!』という叫びが聞き取れた。  男爵が眉をひそめた。 「妹はどうなんじゃ?……あれも務めを忘れてしまったのか? 妃殿下のおそばにお仕えするという……?」 「まさしく、ほかにしなくてはならない務めがあるのです」 「どういった務めじゃ?」 「極めて緊急性の高いものです」  男爵が立ち上がった。 「うつけ者めが。謎めいたたわごとをほざきよって」 「ぼくの言ったことが謎めいていたでしょうか?」 「謎ばかりではないか」と答えた男爵は驚くほどに冷静だった。 「それでは説明いたします。アンドレが立ち去るのは、不名誉から逃れるために雲隠れを余儀なくされたからです」  男爵が笑い出した。 「はッ! たいした親孝行どもじゃのう! 息子は不名誉を恐れて聯隊という希望を諦め、娘は不名誉を怖がってせっかくつかんだ地位を捨ててしまうのだから。ブルートゥスとルクレティアの時代に戻れればのう! わしの若かった頃は良い時代ではなかったし、哲学にとっては冬の時代だったろうが、不名誉を蒙るのがわかっておって、お前のように腰に剣を佩いているうえに、二人の師と三人の隊長に教えを受けているのなら、剣の切っ先にその不名誉を突き刺していたところだぞ」  フィリップは肩をすくめた。 「そうじゃろう。血を見たくない博愛主義者にとっては、わしの言っていることは嫌なことじゃろうな。だがな、軍人というのは哲学者になる為に生まれて来たわけではない」 「父上と同様、ぼくにだって名誉に関わる問題を背負う覚悟はあります。ですが血を流してあがなうのではなく……」 「口先だけ!……詭弁か……哲学者のお家芸じゃな!」男爵の怒りに凄みが現れ始めていた。「確か、臆病者の話をしようとしていたところじゃったな」 「しようとしただけでやめて下さったのは正解でしょう」フィリップは青ざめ、震えていた。  フィリップの挑むような視線に、男爵は毅然として応えた。 「わしを言いくるめようとしている人間ほどには、わしの理屈は錆びついておらぬぞ。この世で不名誉を蒙るのは、おこないのせいではなく言葉があるからじゃ。犯罪者が聾や盲や唖の前に引き出されて、不名誉を感じると思うのか? どうせ馬鹿な格言を持ち出すつもりじゃろう。 『恥を生むのは罪であり、断頭台ではない』 「女子供が相手ならそれでも良かろう。だが男が相手ではそうはいかぬぞ! まるで外国語だわい……男を作り出したと思っておったが……とにかく、盲の目が明き、聾の耳が聞こえ、唖が口を利くようになれば、剣の鍔に手を置き、目を潰し、鼓膜を破り、最後に舌を切り取るがいい。タヴェルネ=メゾン=ルージュの名を戴く男は侮辱に対してそのように答えねばらなん!」 「その名を戴く人間なら、やるべきことの中でも第一にしなければならないのは、不名誉な行動を取らぬことだと心得ております。だからこそあなたに反論するつもりはありません。ただし、時には避けがたい不運から恥が生まれることもあるではありませんか。それがアンドレとぼくに起こったことなのです」 「アンドレの話に移ろうか。わしに言わせれば、男なら抗えることから逃げてはならぬし、女とて毅然として耐えねばならぬ。哲学者殿よ、悪意ある攻撃を防ぐことが出来ぬのであれば、美徳に何の意味があるのだ? 悪意に勝てぬのであれば、美徳に活躍の場などあるのか?」  そう言ってタヴェルネ男爵はまた笑った。 「ド・タヴェルネ嬢は怯えている……そうだな?……それで弱気になっている……つまり……」  フィリップが突然歩み寄った。 「父上、ド・タヴェルネ嬢は弱気になったのではなく、征服されたのです! 罠に嵌められ、陥れられたのです」 「罠だと……?」 「そうです。染み一つない名誉を貶めようと企んだろくでなしに報いを受けさせる為に、先ほどは父上を煽るようなことを申しました」 「わからんが……」 「すぐにおわかりになります……ある卑劣漢がド・タヴェルネ嬢の部屋に人を引き入れたのです……」  男爵の顔から血の気が引いた。 「犯人はタヴェルネの名に……ぼくの……そして父上の名に……消せない汚点をつけようとしたのです……さあ、父上の剣は何処ですか? 血を流すに足る出来事ではありませんか」 「フィリップ……」 「ああ、心配はいりません。表立って誰かを非難しても告発してもいませんから……犯罪は暗がりの中で計画され、暗がりの中で実行されたのです……その結果も暗がりの中に消えてくれることを願っています! 我が家の栄光をぼくなりに誇っているのですから」 「どうやって知ったのだ……?」茫然としていた男爵が、恐ろしい野心とおぞましい希望の力で我に返った。「どんな徴候があったのだ……?」 「ここ何か月かの間にぼくの妹を――あなたの娘を――見かけた人の誰一人として、そのようなことをたずねたりはしませんでした!」 「だがな、フィリップ」男爵の目には歓喜が溢れていた。「我が家の運命と栄光は消えてなくなってはおらぬ。わしらは勝利を収めたのじゃ!」 「やはり……父上はぼくの考えていた通りの人でした」フィリップの言葉には激しい嫌悪が滲んでいた。「本音を洩らしましたね。息子の前で感情を忘れてしまっただけでなく、神の前でも心を無くしてしまったのですね」 「たわけ者めが!」 「落ち着いて下さい! 大きな声を出すと、凍てついた母の幽霊が目を覚ましてしまいますよ! 生きていれば、我が娘を見守ってくれたでしょうに」  フィリップの目からほとばしる光のまぶしさに、男爵は瞼を伏せた。 「わしの娘は、父の意思に反して立ち去ったりはせんよ」と、ようやく口を開いた。 「ぼくの妹は、父上と二度と会うことはないでしょう」 「本人がそう言ったのか?」 「父上にそう伝えるように本人から言われたのです」  男爵は震える手を伸ばし、血の気の引いて湿った口唇を拭った。 「まあよいわ!」  と言って肩をすくめた。 「子供に関しては運がなかったの。馬鹿と人でなしとは」  フィリップは口答えしなかった。 「もうよいわ。もうお前たちなどいらぬ。行ってしまえ……言いたいことを言ってしまったのであればな」 「あと二つ申し上げたいことがあります」 「言うてみろ」 「一つ目です。国王が父上に下さった真珠の宝石箱ですが……」 「お前の妹に、であろう……」 「父上に、です……何にしてもどうでもいいことです。アンドレはあのような宝石を身につけたりはませんから……タヴェルネ嬢は娼婦ではありません。宝石箱をお返しして下さるよう言づかって来ました。ただし、ぼくらにあれほど親切にして下さった陛下のご機嫌を損ねるのがご心配でしたら、どうかお手元にお留め下さい」  フィリップは父に宝石箱を差し出した。男爵は箱を受け取って蓋を開き、真珠を見つめてから洋箪笥の上に箱を放った。 「次は?」 「二つ目に、ぼくらは裕福ではありません。母の財産まで質に入れたり使ったりしていたくらいですから。ですから非難するつもりはありません。とんでもないことです……」 「それでよかったのかもしれん」男爵が歯を軋らせた。 「ですがぼくらにはささやかな財産の一つであるタヴェルネしかないのですから、父上はタヴェルネとこの家のどちらかを選んで住んで下さい。ぼくたちは残りの方に引き籠もります」  男爵がレースの胸飾りをしわくちゃにした。怒りに耐えているのは、その手が震え、額が汗ばみ、口唇が震えているところからしかわからなかった。フィリップは気づきもせずにそっぽを向いていた。 「タヴェルネにしよう」 「ではぼくらは宿を」 「好きにせい」 「いつ出発なさいますか?」 「今晩……いや、今すぐにだ」  フィリップが頭を下げた。 「タヴェルネでは、三千リーヴルの年金があれば大金持じゃ……わしはその二倍の金持じゃな」  男爵は洋箪笥に手を伸ばし、宝石箱をつかんでポケットに入れた。  それから戸口に向かったが、不意に残忍な笑みを浮かべて引き返して来た。 「フィリップよ、これから哲学論を発表することがあれば、我が家の名を冠しても構わぬぞ。アンドレには……初めての子が授かったら……ルイかルイーズと名づけてくれるよう伝えてくれ。幸運をもたらす名じゃからの」  男爵は卑屈に笑って立ち去った。フィリップは目を血走らせ、顔を上気させ、剣の鍔に手を掛けて呟いた。 「神よ! 我に忍耐と忘却を与え給え!」 第百五十一章 良心に照らして  極めて綿密に『孤独な散歩者の夢想』の文章を数ページ綴った後で、ルソーは質素な朝食を済ませた。  ド・ジラルダン氏からエルムノンヴィルの庭園に保養地を用意してもらったにもかかわらず、大人物の傘下に入るのを潔しとせず、人間嫌い(monomanie misanthropique)の中で言っていたように、いまだにプラトリエール街の侘住まいで暮らしていた。  テレーズが簡単に家事を済ませた後で、買い物に出かける為に籠を取りに来た。  時刻は朝の九時。  テレーズはいつものように、夕飯は何がいいのかとルソーにたずねた。  ルソーが夢想から醒め、ゆっくりと顔を上げて夢うつつで妻を見つめた。 「何でも好きなものを買っておいで。さくらんぼと花がありさえすればいい」 「わかりましたよ。そんなに高くなけりゃね」 「もちろんだ」 「それにしてもねえ、あなたがなさっていることがお金になるのかどうか知りませんけどね、みんな昔のようには払ってくれないようですね」 「そんなことはないよ、テレーズ。同じだけもらっているとも。だが疲れているのであまり働いていないからね。それに本が出来るのが半分くらい遅れているんだ」 「どうせまた破産させられるんでしょう」 「そうじゃないことを祈らないと。いい人だからね」 「いい人ねえ、いい人ですか! そういう言葉を使えばすべて言い尽くせたと思ってらっしゃるんでしょう」 「少なくとも大勢の人には言っているだろうが」ルソーが微笑んだ。「誰彼かまわず言っているわけではないからね」 「そうでしょうとも。あなたは気難しい人ですからね!」 「テレーズ、話が逸れているよ」 「そうでしたね、さくらんぼが欲しいですって、食いしん坊さん。花が欲しいって言うんですか、女たらし!」 「何を言うんだ!」ルソーは辛抱強く答えた。「胸も頭も痛くて外に出られないから、せめて気晴らしをしたいだけじゃないか。神様はがたくさんの幸を田舎にもたらしてくれたんだ、そのうちの一部が欲しいだけだ」  言われてみればルソーは顔色も悪く身体もぐったりとしていたし、本をめくる手もぎこちなく、目は文字を読んでいなかった。  テレーズが頭を振った。 「わかりましたよ。一時間くらい出かけて来ます。鍵は玄関マットの下ですからね。何かあった時には……」 「出かけたりはしないよ」 「出かけないことはわかってますよ。立ってられないんですからね。そうじゃなくて、来る予定の人を気にかけたり、呼鈴が鳴った時に開けたりする為ですよ。呼鈴を鳴らすのがあたしじゃないことはわかるでしょうからね」 「すまないね。いってらっしゃい」  テレーズはいつものようにぶつくさ言いながら家を出たが、重く引きずるような足音だけは、しばらく階段から聞こえていた。  それでもやがて門が閉まるのが聞こえると、ルソーは一人きりとなって椅子の上で寛ぎ、窓辺でパンをついばむ鳥を見つめ、立ち並ぶ隣家の煙突を縫うように降り注ぐ陽の光を満喫した。  若々しく軽やかなルソーの心は、自由を感じ取るとすぐに、食事を終えた雀のように翼を広げた。  ところが不意に玄関扉の蝶番が悲鳴をあげ、ルソーをまどろみから引き離した。 「お邪魔いたします」という声が聞こえて、ルソーは飛び上がり、慌てて振り向いた。 「ジルベール!」 「そうです、ジルベールです。改めて、お邪魔いたします、ルソーさん」  間違いない、ジルベールだ。  だが顔は青白く、髪は乱れ、襤褸服の下の手足が痩せ細り震えているのも隠しようがなかった。一言で言えば、ジルベールの外見はルソーをぞっとさせた。不安にも似た憐れみの叫びがルソーの口から洩れた。  ジルベールは獲物に飢えた鳥のように、目を動かさずに爛々と光らせていた。おずおずと不自然な笑みを浮かべたのが、そんな眼差しとは対照的で、鷲のように厳かにも見え、狼や狐のように冷笑的にも見える。 「何をしにいらしたのです?」ルソーはだらしないのを嫌っていたし、だらしがないのは悪巧みの証拠だと見なしていた。 「お願いです、お腹が空いているんです」  ルソーはその声を聞いて震え上がった。人間の口からこれほど恐ろしい言葉を聞くとは思わなかった。 「どうやってここに入り込んだのですか? 門は閉まっていたはずです」 「テレーズさんがいつも玄関マットの下に鍵を仕舞うことは知っていましたから。テレーズさんが出て行くのを待っていたんです。僕は嫌われてますから、二度と敷居を跨がせてくれないだろうし、あなたのそばに近寄らせてもくれないでしょうから。そこであなたが一人きりになったとわかってから家に近づき隠し場所から鍵を取り出して、ここまで来たんです」  ルソーが椅子の肘掛けに手を突いて立ち上がった。 「少しでいいので聞いて下さい。少しだけでいいんです。聞いていただくだけの内容であることは保証しますから」 「いいでしょう」ルソーは愕然としていた。ジルベールの顔には、いつの時代のどんな人間にも備わっている感情を示すような、如何なる表情も浮かんでいなかったのだ。 「初めに申し上げておいた方が良いでしょうか。僕は窮地に追い込まれていて、逃げるべきなのか、自殺すべきなのか、もっとひどいことをすべきなのか、それすらもわからないんです……ああ、心配しないで下さい」ジルベールの声は落ち着き払っていた。「じっくり考えてみたら、自殺する必要なんかない、そんなことをしなくてもしっかり死んでしまうでしょうから……トリアノンを逃げ出してから一週間というもの、野生の草と果実のほかは何も食べずに森や野原をうろつき回っていました。もう力もありません。疲労と栄養失調で倒れてしまいます。逃げるにしても、あなたのところからではありません。あなたの家が大好きですから。三つ目のことをするために……」 「つまり?」 「つまり、僕がここに来たのは解決が必要だからです」 「気が違ったのですか?」 「そうではありません。ですが僕は不幸のどん底で絶望にまみれていました。ある考えを思い出さなければ、今朝はセーヌ川で水死体となっていたことでしょう」 「ある考えとは?」 「あなたが書いたことです。『自殺とは人類に対する窃盗だ』」  ルソーは物問いたげにジルベールを見つめた。――私がそれを書きながら考えていたのがあなたのことだったと思うほど自惚れているのですか? 「ええ、わかってますよ」ジルベールは呟いた。 「そうは思えません」 「何者でもなく、何も持たず、何のしがらみもない惨めな僕にとって、死ぬことだけが大事件だと仰りたいのでしょう?」 「問題なのはそんなことではありませんよ」ルソーは言い当てられて赤面した。「お腹が空いているのではなかったのですか?」 「ええ、そう言いました」 「でしたら、扉のある場所もパンのある場所もご存じなのだから、戸棚に行ってパンを持って出て行きなさい」  ジルベールは動かない。 「パンではなくお金が必要だと言うのでしたら、あなたが悪人だとは――あなたをかばって隠れ家を提供した老人を虐げるほどの悪人だとは――思いませんから、少しですが受け取って下さい……どうぞ」  ルソーはポケットを探って小銭を幾つか差し出した。  ジルベールがその手を押し留めた。 「ひどい!」その声は苦痛に歪んでいた。「お金でもパンでもないんです。自殺すると言った真意をわかってもらえなかったんですね。自殺しないのは、僕の命が誰かの役に立つからだし、死んだら誰かを裏切ることになるからです。社会の仕組みも自然の摂理もご存じのあなたなら、死にたがっている人間の命を繋ぎ留める紐がこの世にあるかどうかご存じなのではありませんか?」 「幾らでもありますとも」 「父親であるということも、そうした紐の一つですよね? 答える時には僕を見てくれませんか。あなたの目を見て答えを見つけますから」 「そうですか」ルソーは口ごもった。「ええ、もちろんそうしますが、こうした質問に何の意味があるのでしょうか?」 「あなたの言葉は僕にとって裁きの場で下される判決に等しい。ですから真面目に答えて下さい。僕は死のうとした哀れな人間です。ですが……ですが、僕には子供がいるんです!」  ルソーはあまりの衝撃に椅子から飛び上がった。 「からかわないで下さいね」ジルベールは恥じらいがちに言葉を継いだ。「僕の心を傷つけるだけではないか、それも短刀で傷を開いてしまうのではないかとお考えなのでしょう。繰り返しますが、僕には子供がいるんです」  ルソーは何も答えずに見つめていた。 「子供がいなければ、とっくのとうに死んでいました。こうした板挟みに遭ってどうしたらよいかわからなくなり、あなたの助言を仰ぎにここに来たんです」 「私に助言できるようなことがあるでしょうか? 過ちを犯した時に相談に来てくれなかったではありませんか?」 「その過ちというのが……」  ジルベールは何とも言えぬ表情をして、ルソーに一歩近づいた。 「はい?」 「その過ちというのが、世間では犯罪と呼ばれる類のものなのです」 「犯罪! だったらなおさら私に話すべきではないでしょう。私はあなたと同じ人間であって、懺悔を聞く僧侶ではないのですから。もっとも、何を聞いても驚きませんよ。いつか過ちを犯すのではないかと思っていましたから。あなたには性格の悪いところがある」 「違うんです」ジルベールはうんざりしたように首を振った。「僕の心は確かに偽善的だし歪んでいます。たくさんの本を読んで、身分の平等、精神の優位、本能の気高さを学びました。その本のどれにも、著名な方の署名がありました。その本のおかげで僕みたいな馬鹿な農夫は惑わされ……堕落したのです」 「ああ、何を仰りたいのかわかりましたよ」 「え?」 「私の思想を非難しているではありませんか。あなたには自由意思がないのですね?」 「非難ではありません。読んだことをお伝えしただけです。非難するなら何でも真に受ける自分を責めます。僕は信じて、間違ったのです。僕が罪を犯したのには二つの理由がありました。一つ目はあなたです。だから僕はここに来ました。それから、時間が来たら二つ目に移りましょう」 「つまり何がお望みなのでしょうか?」 「お恵みでも隠れ場所でもパンでもありません。見捨てられ、飢えていても関係ありません。あなたにお願いするのは精神的な支えであり、思想を承認してもらうことであり、一言で僕の力を取り戻してくれることです。栄養のせいで手足から奪われたのではなく、疑いのせいで頭や心から奪われた力を取り戻して欲しいのです。ルソーさん、一週間前から僕が感じていたものが、胃腸を苛む飢えの苦しみなのか、脳みそに巣食う悔恨の痛みなのか、どうか教えていただけませんか。罪を犯した結果、僕には子供が出来ました。絶望にまみれて髪を引きちぎるべきなのか、『ごめんなさい!』と泣き喚きながら砂の上でのたうち回るべきなのか、教えて下さい。さもなきゃ聖書に出て来る女のように、『みんなと同じことをしただけです。皆さんの中に私より優れた人間がいるのなら、どうか石を投げなさい』と言って泣き叫ばなきゃならないんですか? 一言で言うと、僕が感じたことを感じなくちゃいけなかったのはルソーさんの方なんです。どうかお答え下さい。父親が子供を捨てるのが当たり前のことなのでしょうか?」  ジルベールがそう言った途端、ルソーはジルベール以上に真っ青になり、完全に取り乱していた。 「どういう資格があってそんなことを仰るのですか?」ルソーはもごもごと呟いた。 「隠れ場所として与えてくれたこの屋根裏部屋で、まさにその問題について書かれたあなたの著作を読んだからです。貧乏な生まれの子供たちは国が面倒を見るべきだとあなたが仰っていたからです。あなたが生ませた子供たちが見捨てられようとたじろぎもしなかったにもかかわらず、自分のことを誠実な人間だと思っていたからです」 「何てことだ。私の本を読み、そんな言葉を私に言いに来たんですか」 「それが何か?」 「あなたという人は悪い精神と悪い心が結び合わされた人でしかないということですよ」 「ルソーさん!」 「あなたは人生を誤読したように、私の著作を誤読したのです! 顔の表面しか見なかったように、紙の表面しか見なかったのです! 私の著作から引用することで自分の罪の共犯者にさせようとしたのでしょう。『ルソーがそういうことをしたと打ち明けているからには、自分にも出来るはずだ』と。愚かな! あなたが知らないこと、あなたには読めなかったこと、あなたが見抜けなかったことがあるのですよ。あなたが例に出した人物の一生――惨めで辛い人生を、祝祭と喜びに満ちた享楽的な黄金色の人生に変えることだって出来るのです。私にはヴォルテール氏ほどの才能がないのでしょうか? 同じだけのものを生み出すことは出来ないのでしょうか? 頑張れるのに頑張れないから、ヴォルテール氏の本ほど高く売れないのでしょうか? 本屋に言われるがままに中身の入った金庫を抱えている癖に、お金をじゃらじゃら鳴らしに来させることが出来ないのでしょうか? 金は金を引き寄せます。そうではありませんか? 若く美しいご婦人の許に出かけるために馬車を一台持ってもおかしくなかったでしょうし、そんな風に思っていれば、幾らそんな贅沢をしても詩作の泉が涸れることもなかったでしょう。私が情熱を失ってしまったと思いますか? お願いです! 私の目をしっかりと見て下さい。六十歳になっていますが、まだ若さと希望に輝いていませんか? 私の本を読んだり写したりしてみたのなら、年齢が衰え、深刻な不幸が実際に訪れているにもかかわらず、心はまだまだ若くて、もっともっと悩み苦しまんが為に、それ以外の器官から力という力を受け継いだようには見えませんか? 歩くのも困難なほど心身が弱ろうとも、貴重な神の祝福を享受すべき人生の盛りにも感じたことのなかった苦悩を味わう為に、体力や生命が満ちているのをひしひしと感じているのです」 「それはわかっています。あなたのことをそばで見て来てどういう方なのかよくわかりましたから」 「そばで見てわかっているのなら、私の人生というものは、他人にとってはいざ知らずあなたにとっても意味のないことなのでしょうか? 私には我が子の為に尽くすという感情がありませんが、それでも償おうとしてはいたのだと言いませんでしたか……」 「償うですって!」ジルベール。 「わかっていただけませんでしたか? 第一に、貧しさのせいで常軌を逸した決意をせざるを得なかったのですし、第二に、その貧しさに無私無欲で耐えることよりほかに、その決意を弁明できるような理由が見つかりませんでした。屈辱を受けることで自らの智性を罰しているのだとわかっていただけなかったのでしょうか? 罰を受けるのも当然の智性でした。自己正当化しようとして逆説を申し立て、一方で、永久に悔いることで心を罰していたのです」 「わかりました。それが答えですか! あなたがた哲学者と来たら、人類に対して教えを投げかけて、僕らを絶望の淵に投げ込みながら、腹を立てれば立てたと言って非難するのですね。僕が許せないのは、あなたが恥や悔いを見せずにいることなんです! 忌々しい、忌々しい、忌々しい! あなたの名に於いて犯された罪の数々が、巡り巡ってあなたの頭の上に降りかかればいい!」 「私の頭上になら、呪詛だけではなく罰も下らないといけませんね。あなたは失念しているようですが、並大抵の罰では済まされますまい! あなたも罪を犯したのなら、私だけでなく自分のことも甘やかさず責めるべきです!」 「甘えるどころか、僕に下される罰は輪を掛けて恐ろしいものになるでしょう。僕にはもう何一つとして信じるものはありません。被害者はもちろん仇敵に会ったとしても黙って殺されるつもりです。惨めな境遇は自殺を囁き、僕の良心は自殺して許しを請えと訴えています。今僕が死んだところで『人類に対する窃盗』とは言えません。あなたは自分でも考えていなかった台詞を書いたんですよ」 「おやめなさい。騙されやすいお人好しでは飽き足らず、疑り深いひねくれ者のように振る舞わなくてはならないのですか? 子供と仰いましたね? 父になっただとかこれから父になるのだとか仰っていたような気がしますが?」 「確かにそう言いました」ジルベールは答えた。 「それはつまり――」ルソーが声をひそめた。「母の乳房から離れたすべての人間に神は貞節という持参金を与えましたが――そうした貞節に満ちた空気を、人間という生き物は生まれながらに好きなだけ自由に吸い込むことが出来るというのに――あなたの仰ったことは、そんな生き物を死ではなく恥辱に引きずり込むということなのだということはわかっているのでしょうね? お聞きなさい、私の立場がどれほど恐ろしいものなのかを。子供たちを捨てた時には、どんな優れたものでも傷つけてしまう世間から、面と向かって罵られ辱められることになるのはわかっていました。だから逆説を弄して自己正当化したのです。だから十年というもの、本当の父親なのかどうか確信は持てずとも、子供たちの教育の為に母親たちへ助言を与えることに生を費やしたのです。やがていつしか、死刑執行人が現れて、世間、祖国、みなし児の為に仇を討とうとするも、私を非難することが出来ずに、私の本を非難して、そんな本はこの国の生き恥だ、毒を撒き散らしている、と言って燃やしてしまいました。ふるいに掛け、考え、判断して下さい。私は正しい行動をしていたのでしょうか? 間違った教えを信じていたのでしょうか? 答えられないでしょう。神ご自身でも悩んでしまうでしょうね。ぶれることのない正義と不正の秤を手にしている神でさえ。そこで私が心に問いかけると、心は胸の奥深くでこう答えたのです――『お前などくたばってしまえ、己が子らを捨てた歪んだ父親め。四つ辻で夜ごと春をひさいでいる若い女に会ったなら地獄に堕ちればいい。そいつはお前が捨てた娘なのさ。飢えをしのぐ為に恥を捨てたのだ。捕まった泥棒を道で見かけたらザマを見ろ。盗みに顔を紅潮させたままのそいつはお前が捨てた息子だよ。飢えに勝てずに罪を犯したのさ!』」  立ち上がっていたルソーだったが、この言葉と共にまた椅子に沈み込んだ。 「ですが――」弱々しい声には祈るような響きがあった。「人から思われているほど悪いことなどしておりません。罪を分かち合っている心ない母親が動物のように忘れてしまうのを見て、こう思ったんです。『神は母が忘れてしまったのを許し給うた。母には忘れる権利があるのだ』。その時の私は間違っていましたが、今日は今まで誰にも言って来なかったことをお聞かせしましたから、もう勘違いしていただくわけにはいきませんよ」 「つまりあなたは――」ジルベールが顔をしかめた。「養えるだけのお金があったら、子供を捨てたりはしなかったと仰るのですか?」 「変えようのない事実に過ぎません。もちろん、捨てたりはしませんでした!」  ルソーは震える手を厳かに天に掲げた。 「二万リーヴルあれば、子供一人を養うには足りるんですよね?」ジルベールがたずねた。 「ええ、充分です」 「そうですか。ありがとうございます。自分がやるべきことを知ることが出来ました」 「どんな事情があろうと、あなたのように若い人なら、働いて我が子を養うことが出来ますよ。それよりも罪を犯したと仰っていましたね。恐らく居所を探され、追われているのでしょう……」 「そうなんです」 「ではここに隠れるといい。屋根裏ならいつでも空いています」 「あなたほど素晴らしい方はいません! ご厚情は喜んで受けさせて下さい。隠れ場所よりほかには何も欲しがりませんから。パンなら手に入れてみせます。僕が怠け者ではないことはご存じでしょう」 「そうと決まれば――」ルソーが心配そうに言った。「お上がりなさい。ルソー夫人には見つかりません。屋根裏には上がって来ませんから。あなたがいなくなってからも片づけてはいません。藁布団もそのままです。過ごしやすいように自由になさい」 「ありがとうございます。身に余る光栄です」 「では、これで望みはすべてですね?」ルソーは目顔でジルベールに部屋から出て行くように促した。 「後一言だけお願いします」 「お言いなさい」 「以前リュシエンヌで、裏切者だと言って僕を非難なさいましたよね。僕は誰も裏切ったりはしていません。恋人を追いかけていたんです」 「その話はもういいでしょう。これで終わりですね?」 「はい。ところでルソーさん、パリの何処に住んでいるか知らない人の住所を知ることは出来るものなのでしょうか?」 「有名な方なら出来るでしょうね」 「とんでもない有名人です」 「お名前は?」 「ジョゼフ・バルサモ伯爵」  ルソーが震え上がった。プラトリエール街で起こったことを忘れていなかったのだ。 「どういったご用があるのですか?」 「簡単なことです。あなたには僕の犯した罪の道義的な責任があると非難したのは、僕が自然法にのみ従っていると信じていたからです」 「私のせいであなたは道を間違えたと?」責任という言葉にルソーは震え上がった。 「少なくとも道を照らしたのは確かです」 「結局、どういうことでしょうか?」 「僕の犯罪には道義的な責任だけではなく、実際的な責任も発生しているということです」 「このド・バルサモ伯爵に実際的な責任があると言うのですね?」 「そうです。僕はお手本を真似し、機会に乗じました。そういう点で、自分が人間ではなく野蛮な獣のように振る舞ってしまったことが、今ならわかります。お手本というのがあなたのことで、機会がド・バルサモ伯爵です。何処にお住まいかご存じではありませんか?」 「知っていますよ」 「それでは教えていただけませんか?」 「マレー地区のサン=クロード街です」 「ありがとうございます。この足で訪ねてみようと思います」 「気をつけなくてはなりません」ルソーがジルベールを引き留めて声をかけた。「あの方は恐ろしくて底の見えない人間ですから」 「心配いりません、ルソーさん。もう覚悟は決めましたし、自制するすべならあなたから教わりました」 「早くお上がりなさい! 並木道の門が閉まるのが聞こえましたよ。きっとルソー夫人が戻って来たのです。ここからいなくなるまで屋根裏に隠れておいでなさい。その後で出かければいい」 「鍵はどうすれば?」 「今まで通り台所の釘に掛けておいています」 「では失礼します」 「パンをどうぞ。今晩は仕事を用意しておきましょう」 「ありがとうございます!」  ジルベールは音も立てずに忍び出て、テレーズが二階にたどり着く頃にはとっくに屋根裏に入り込んでいた。  ルソーから貴重な情報を得ていたおかげで、ジルベールはいつまでもぐずぐずとはしていなかった。  テレーズが自室の扉を閉めるのを待たずに、屋根裏の戸口から動きを追って、長いこと物を食べずに衰弱しているとは思えぬ速さで階段を駆け降りた。期待や恨みで頭を一杯にしながら、その裏では不満や呪詛に駆り立てられた復讐の影が飛び回っていた。  ジルベールは形容しがたい精神状態のままサン=クロード街にたどり着いた。  中庭に入ると、礼儀から邸を訪れていたド・ロアン公を、バルサモが出口まで案内して来たところだった。  ロアン公が門を出てから今一度立ち止まって感謝の意を表したのに乗じて、襤褸を着たジルベールは何かに惑わされないように辺りを見もせずに犬のように滑り込んだ。  馬車が大通りでロアン公を待ち受けていた。ロアン公が馬車までの距離を素早く通り抜けて扉を閉めると、馬車はあっと言う間に立ち去った。  バルサモはそれを機械的に目で追っていたが、馬車が見えなくなると玄関に向き直った。  石段の上に乞食かと紛うような青年がいて、祈るような恰好をしていた。  バルサモがジルベールに近づいて行った。いくら口が閉じられていようとも、その目が雄弁に問いかけている。 「十五分だけお話を聞いていただけませんか、伯爵閣下」襤褸を着た若者が口を利いた。 「どちらさんだったかな?」バルサモの声は驚くほど穏やかなものだった。 「僕に見覚えがありませんか?」 「いや。だが構わぬ。おいでなさい」目の前の青年の異様な顔色や、服装や請願を目にしても、バルサモは不安も表さずに答えた。  そうして先に立って歩き、一番手前の部屋まで連れてゆくと、声も顔色も変えずに腰を下ろした。 「見覚えがないかという話でしたな?」 「そうです、伯爵閣下」 「そう言われると何処かで会ったことがあるような気もする」 「タヴェルネです。あなたがいらっしゃったのは、王太子妃がお立ち寄りになった日の前日でした」 「タヴェルネで何をしていた方だったかな?」 「住んでいました」 「使用人として?」 「違います。同居人としてです」 「タヴェルネを出たわけですか」 「そうです。三年近くになります」 「そして……」 「パリに来て、初めはルソー氏のところで学びました。その後、トリアノンで庭師見習いとして働いていました。その際はド・ジュシュー氏にお世話になりました」 「素晴らしいお名前が二つも出て来ましたが、私になど何をお望みだと?」 「これから申し上げます」  一つ息をついてから、ジルベールはバルサモをしっかとした目つきで見据えた。. 「大嵐の夜にトリアノンにいらしたのを覚えていませんか? 金曜日で六週間になるでしょうか」  真面目な顔をしていたバルサモが顔を曇らせた。 「ああ、覚えているとも。お会いしたのだったかな?」 「お会いいたしました」 「内密にしておくから言うことを聞けとでも?」バルサモの声が厳しさを帯びた。 「違います。むしろ内密にしておいて貰いたいのは僕の方です」 「もしかするとジルベールと呼ばれていなかったか?」 「そうです、伯爵閣下」  恐ろしい非難の対象となった名前を持つ青年を、バルサモは射抜くような目で貪り喰らった。  男らしく素性を認めたことや、自信に満ちた立ち居振舞い、威厳の備わった言葉の端々に、バルサモは驚きを隠せなかった。  ジルベールは卓子に手を突かず、その前で立ち止まった。野良仕事をしている割りに細く生白い手の片方は胸元に隠れ、片方は傍らに優雅に垂れている。 「その態度を見て、ここに来た理由がわかったよ。ド・タヴェルネ嬢から告発されたことはわかっているんだろう。俺が科学の助けを借りて真相を聞き出したんだ。そのことで俺を責めに来たんじゃないのか? 俺がいなくては暴露されることもなく、墓のように暗い闇に葬られたままだったろうからな」  ジルベールはただ首を横に振っただけだった。 「だがそれは間違っていたのではないか?」バルサモが続けた。「俺は我が身可愛さに告発しようとしているのでない、人から非難されるのは俺の方だと考えてみろ。お前を敵扱いして、自己弁護するだけで済ませてお前を非難していたら……そんな風に諸々考え合わせてみれば、お前には何も言う権利はないはずだ。何せ恥ずべきおこないをした人間なんだからな」  ジルベールは爪で胸を掻きむしったが、それでも口は開かなかった。 「兄から追われ、妹に殺されるぞ。そんな風に不用意にパリの街中を歩き回っているようではな」 「そんなのたいしたことじゃありません」 「たいしたことじゃないだと?」 「ええ。僕はアンドレ嬢を愛していました。誰にも負けないほど愛していましたから。なのに僕のことを蔑んで。敬意を抱いていたのに。この腕に二度までも抱きながら、服の下に口唇を近づけることは控えていたのに」 「そうだな。敬意を払われるようなことをしたと言うのか。どうやって蔑みを解こうとした? 罠に嵌めたんじゃないか」 「違うんです! 罠を仕掛けたのは僕じゃありません。罪を犯す機会が訪れてしまったんです」 「その機会を誰が用意したと?」 「あなたです」  バルサモは蛇に咬まれたように身体を強張らせた。 「俺が?」 「そうです。あなたなんです。あなたはアンドレ嬢を眠らせたまま、立ち去ったではありませんか。あなたが遠ざかるにつれ、アンドレ嬢の足は萎え、とうとう倒れてしまったんです。それを僕が抱え上げて、部屋まで運び入れたんです。肌と肌が触れ合うのを感じました。大理石が生命を持っていたらあんな感じでしょうか。愛に落ちていた僕は、愛に負けたのです。それでも犯罪者と呼ばれるのでしょうね? あなたにおたずねしたいんです。僕の不幸の原因を作ったあなたに」  バルサモは悲しみと憐れみを湛えた眼差しをジルベールに向けた。 「その通りだな。お前の犯罪と娘さんの不幸の原因を作ったのは俺だ」 「それなのに、あなたほど力もあって善良であるべき人間が、薬を与えるどころか、却ってアンドレの病状を悪化させ、犯人の頭上には死を吊り下げておいたんだ」 「それも間違いない。お前は賢いな。いつの間にか俺はどうしようもない人間になってしまった。頭に浮かんだ計画はどれも邪で有害な形を取り、そのせいで俺も不幸に陥ってしまった。お前にはわからんだろうがな。だからと言って他人を苦しめていい理由にはならん。望みは何だ? 言ってみろ」 「すべてに贖う方法です、伯爵閣下。罪も不幸もすべて」 「あの娘を愛しているのか?」 「そうです」 「愛にはいろいろな形がある。どのように愛しているんだ?」 「ものにする前は焦がれるほどに愛していました。今では狂えるほどに愛しています。腹を立てられたら苦しくて死んでしまいそうです。足に口づけさせてくれたら嬉しくて死んでしまいそうです」 「貴族の娘だが貧乏だったな」バルサモが考え込んだ。 「ええ」 「だが兄は優しい男だ。貴族という無意味な特権にはこだわらないのではないか。妹と結婚したいと兄に申し入れたらどうなると思う?」 「殺されてしまいます」ジルベールは震え上がった。「でも、もしかすると僕は死ぬのを恐れてはいずに望んでいるのかもしれません。だからやってみろと言われるのならやってみようと思います」  バルサモが考え込んだ。 「お前は賢いだけでなく、優しい人間でもあるようだな。それに、お前の取った行動が罪深いものだったとしても、俺にも罪の一端はあるんだ。よし、タヴェルネの息子ではなく父親のタヴェルネ男爵の方に頼んだらどうだ。娘さんとの結婚を許してくれたら、持参金を用意する、とな」 「そんなこと言えませんよ。無一文なんですから」 「持参金なら十万エキュ俺が用意してやる。お前がさっき言ったように、不幸と罪に対して償う為だ」 「きっと信じてくれません。僕が貧乏なのは知ってますから」 「信じないのならこの紙幣を見せてやれ。これを見れば疑うこともあるまい」  バルサモは抽斗を開け、一万リーヴル相当の紙幣を三十枚数え、ジルベールに手渡した。 「これはお金ですか?」 「見てみろ」  ジルベールは手渡された紙束を貪るように見つめ、バルサモの言葉を確かめた。  目に喜びがはじけた。 「どうにかなりそうです! ですが、ここまでしていただかなくても」 「何でも疑ってみるのはいいことだ。だが疑うべきものとそうでないものを見分けられるようになれ。この十万エキュを持ってタヴェルネ邸に行くがいい」 「これほどの大金を口頭でいただいても、とても現実だとは信じられません」  バルサモは羽根ペンを取って文書をしたためた。  ジルベールがアンドレ・ド・タヴェルネ嬢との結婚宣誓書に署名した日、申込みがうまくいくことを願って事前に手渡していた十万エキュを持参金として与えるものとする。――ジョゼフ・バルサモ 「この紙を持って行け、これで不安はあるまい」  文書を受け取るジルベールの手は震えていた。 「こんなに大きな借りをいただいては、あなたよりほかにこの世に神などいらっしゃいません」 「崇めなくてはならぬ神は一つしかない」バルサモは重々しく答えた。「そしてそれは俺ではない。わかったら行け」 「最後に一つだけお願いします」 「何だ?」 「五十リーヴルいただけないでしょうか」 「その手に三十万リーヴル持っているというのに五十リーヴルを?」 「この三十万リーヴルは僕のものではありません、アンドレ嬢が結婚に同意してくれるまでは」 「五十リーヴル必要な理由は?」 「男爵家を訪問するのに相応しい服を買う為です」 「いいだろう。持って行け」  バルサモはジルベールの望み通り五十リーヴルを手渡した。  それから顎をしゃくってジルベールを追い返し、のろのろと悲しげな足取りで部屋に戻った。 第百五十二章 ジルベールの計画  外に出るとジルベールは火照った空想を静めるのに精一杯だった。伯爵の言葉を耳にして、可能性ではなく実現性を夢想していたのだ。  パストゥレル街に着くと里程標の上に腰を下ろし、辺りを見回して誰からも見られていないことを確認したうえで、しっかりと握っていたせいで皺くちゃになった札束をポケットから取り出した。  恐ろしい考えが心をよぎり、額に汗を滲ませていたのだ。 「よし」札束を見ながら呟いた。「あの人に騙されたわけじゃなかったのかどうか確かめよう。罠に掛けられたわけじゃないのかどうか。甘い餌で釣っておいて死をお見舞いされるわけではないのか。草花で気を引いて屠殺場に連れて行かれる羊のように扱われたわけではなかったのか。たくさんの贋札が流通していて、それを使って宮廷の好き者たちがオペラ座の娘さんたちをカモにしていたというじゃないか。伯爵が僕に構ってくれたのは騙すためではなかったのかどうか、確かめてみよう」  ジルベールは一万リーヴルの札束の一つをつかんで、一軒の店に入って紙幣を見せ、両替の出来る銀行の場所をたずねた。主人から頼まれたのだ、と言い訳して。  商人は紙幣を何度もひっくり返して見とれていた。慎ましやかな店舗には大変な金額だったからだ。やがてサン=タヴォワ街を指さし、ジルベールが知りたかった金融商の場所を教えた。  紙幣は本物だったのだ。  ジルベールは喜びを爆発させてまたもや空想に心を預け、ポケットの中で今まで以上に大事に札束を握った。やがてサン=タヴォワ街で古着屋を見つけ、ショーウィンドウを見とれるように眺めて、二十五リーヴルで――とはつまり、バルサモから貰った二ルイのうちの一枚で――栗色の羅紗の上下揃いを購入した。清潔感のあるところが気に入ったのだ。それからあまりくたびれていない黒い絹靴下を一組、光る留金のついた短靴を一足。それから仕上げに、悪くない生地のシャツを一枚、購入した。高級でこそないが品が良く、古着屋の鏡に映してみたジルベールは一目で気に入った。  そこで今まで着ていた古着を売って二十五リーヴルのたしにすると、ポケットの中の貴重な手巾を握り締め、古着屋から鬘店に移動した。十五分後にはジルベールの頭は洗練されて見事と言えるまでのものになっていた。  こうしたことを終えると、ジルベールはルイ十五世広場の近くにあるパン屋に入って二スーのパンを買い、急いで頬張りながらヴェルサイユに向かった。  コンフェランスの泉では一休みして水を飲んだ。  旅を再開してからも、御者の誘いは断固として断った。御者にしてみれば、これほど小ぎれいな若者が靴墨を犠牲にしてまで十五スーを節約するのが信じられない。  徒歩で先を目指すこの若者がポケットに三十万リーヴル持っていると知ったら、御者たちは果たして何と言うだろうか?  だがジルベールにも徒歩を選んだ理由がある。一つには、必要最低限を超えては一リヤールも使わないという固い決意。いま一つは、あれこれ動いたり考えたりするには一人の方が都合がよいと考えたからだ。  二時間半にわたって歩いていたこの若者が、頭の中で幸せな結末をもてあそんでいたとは神のみぞ知るところであった。  二時間半で四里の道のりを歩いていたが、距離の感覚もなければ疲れも感じていなかった。体力では誰にも負けなかった。  計画は練り終わっている。どうやって目的を達すべきか考えるのはとうにやめていた。  父親であるタヴェルネ男爵との戦いには言葉を費やそう。男爵の許可を得た後で同じようにアンドレ嬢に言葉を費やせば、許してくれるだけではなく、感動的な演説をおこなった自分に敬意や愛情を示してくれるだろう。  そんな風に考えれば、不安よりも希望が勝った。アンドレのような立場の娘が、愛情のこもった償いを拒むことなどあり得ない。とりわけそれに十万エキュの持参金がついていれば。  ジルベールは旧約時代の幼子のように、このような叶わない夢を見るほどの無邪気なお人好しだった。自分がおこなった悪事もすっかり忘れていた。人が思うほど悪い心のせいでああした悪事をおこなったのではないらしい。  すべての準備が整った頃、ジルベールは締めつけられるような気持でトリアノンの敷地にたどり着いていた。来たからには用意は出来ている。フィリップの怒りに触れたら、誠実さでなだめなくてはならない。アンドレに蔑まれれば、愛情で屈服させなくてはならない。男爵に罵られたら、金貨で機嫌を取らなくてはならない。  自分を受け入れてくれていた共同体から離れたことで、ポケットの中の三十万リーヴルこそが固い鎧なのだということを、ジルベールは本能的に悟っていた。もっとも心配なのはアンドレが苦しむのを見ることだ。恐れていたのは自分の弱さだった。試みを成功させるのに不可欠な力を奪ってしまう弱さだ。  そこで庭に入ると、いつものように蔑みを浮かべ、昨日までの仲間であり今日からは目下となった使用人たちを見回した。  まずはド・タヴェルネ男爵についてだ。使用人棟の小姓にさり気なく居場所をたずねた。 「男爵はトリアノンにいらっしゃいません」  ジルベールは一瞬躊躇いを見せた。 「ではフィリップ殿は?」 「フィリップ様はアンドレ嬢とお発ちになりました」 「発ったって!」ジルベールの顔に驚愕が浮かんだ。 「はい」 「アンドレ嬢が立ち去ってしまったというのか?」 「五日前に」 「パリに?」  小姓は「知りません」というように首を振った。 「知らないって? アンドレ嬢は誰にも行き先も知られずに立ち去ったのか? だけど何の理由もなけりゃ立ち去らないじゃないか」 「馬鹿らしい!」小姓はジルベールの栗色の服装にもてんで敬意を払わなかった。「もちろん理由もなく出かけたりはなさいません」 「じゃあ理由は?」 「空気を変える為です」 「空気を?」 「ええ、トリアノンの空気が身体に合わないらしくて、医者の助言に従ってトリアノンから離れたんです」  これ以上たずねても無駄だ。今までの話が、この小姓がタヴェルネ嬢について知っていることのすべてだろう。  だがジルベールは唖然として、その耳で聞いた話を信じることが出来なかった。大急ぎでアンドレ嬢の部屋に向かったが、扉には鍵が掛けられていた。  ガラスの破片、麦藁や干し草の屑、藁布団の束が廊下に散らばり、部屋の主が引っ越してしまったことを告げていた。  この間まで住んでいた自分の部屋に戻ると、そこは出た時のままになっていた。  アンドレの部屋の窓が換気の為に開いていて、控えの間まで見通せた。  部屋は見事なまでに空っぽだった。  苦しくて辛くて、何をする気も起きなかった。頭を壁にぶつけ、腕をよじり、床を転がった。  気違いのように屋根裏から飛び出し、翼が生えたように階段を駆け降り、髪を掻きむしって森に飛び込んだ。呪詛の叫びをあげてヒースの真ん中で倒れ込み、己が命とその命を与えた存在を呪った。 「はははっ! もう終わったんだ。みんな終わった。神様は僕とアンドレを二度と会わせたくないらしい。死ぬほど悔いて絶望して焦がれさせるつもりらしい。罪を償えということか。辱めた相手の不名誉をそそげということか……それにしても何処に行くというのだろう?……タヴェルネだ! そうか! 行ってやるとも! 世界の果てまでも行ってやる。必要とあらば雲の上まで。手がかりを見つけたら追いかけるんだ。たとい飢えと疲労で道半ばで倒れたとしても」  だが苦しみを爆発させたおかげで徐々に苦しみも和らぎ、ジルベールは立ち上がって、楽に息を吸い込み、穏やかな態度で周囲を見回し、ゆっくりとパリへの道を取った。  今回はたどり着くまでに五時間かかった。 「男爵はパリから離れたりはしていないに違いない」ジルベールは冷静に見えた。「話をしよう。アンドレ嬢は失踪した。そりゃそうだ。トリアノンに居続けられるわけがない。でも何処に行ったにしても、父親ならきっと居場所を知っている。父親の言葉から足跡をたどれるはずだ。いや、それよりも、どうにか意地汚さを満足させられたら、呼び戻してくれるかもしれない」  ジルベールはこうした思いつきに力を得て、夜七時頃パリに戻って来た。夜七時――つまりシャン=ゼリゼに人を引き寄せる涼しい時間帯に。シャン=ゼリゼ――夜霧と、二十四時間にわたる昼を実現させている人工の光が漂っている場所に。  ジルベールは覚悟を決めて、コック=エロン街の宿に真っ直ぐ進み、躊躇うことなく門を敲いた。  沈黙だけが答えを返す。  さらに強く敲き金を鳴らしたが、何度敲こうとも結果は同じだった。  当てにしていた頼みの綱が擦り抜けてゆく。ジルベールは怒りにまかせて手をぼろぼろにした。魂が苦しんでいるのだから、肉体を苦しめるのも当然のことだ。出し抜けに道を戻り、ルソー宅の門のバネを押して階段を上った。  三十枚の札束を包んだ手巾には、屋根裏の鍵も結びつけられていた。  ジルベールはそれに飛びついた。ここにセーヌ川が流れていたとしても飛び込みそうな勢いだった。  夜も更け、綿のような雲が紺碧の空で戯れ、甘い芳香が菩提樹やマロニエから立ちのぼり、蝙蝠が翼を窓ガラスに打ちつける頃、ジルベールが昂奮に駆られて天窓に近づくと、木々に囲まれた庭の離れが白く見えた。かつてあそこで、もう二度と会えないと思っていたアンドレを見つけたのだ。心が砕け、気絶しそうになって樋に手を突くと、目の前がぼんやりとして視界が失われた。 第百五十三章 偏見を覆すより罪を犯す方が簡単だとジルベールが気づいた次第  囚われていた辛い感情が弱まるにつれ、ジルベールの考えはどんどんはっきりとした形を取り始めた。  そうこうしているうちに闇も深まり、ものが見えづらくなって来た。それでも目的を達したいという強い気持の現れで、木々も家も並木道も見分けることが出来た。どれも溶け合ってひとかたまりの影となり、上空の空気は深淵を見下ろすようにとぐろを巻いて漂っていたにも関わらず。  ジルベールは幸せだった夜のことを思い出していた。アンドレがどうなったのか知りたくて、会いたくて、出来れば声を聞きたくて、命の危険も顧みず、あの五月三十一日から続いている痛みに苦しみながらも、二階から一階まで――幸せな庭の大地まで――樋を滑り降りたあの夜のことを。  あの時この家に忍び込むのは極めて危険だった。男爵がいたし、アンドレは厳重に守られていた。だが如何に危険であろうとも、あの状況がどれだけ甘美なものだったかを、そしてアンドレの声を聞いた途端に心臓がどれだけ喜びに打ち震えたかを、ジルベールは覚えていた。 「もしやり直すことが出来たら、もしあの時アンドレの足が残しておいたはずの崇拝の跡をひざまずいて並木道の砂上に探そうとしていたら……?」  人に聞かれたらただでは済まないこんな言葉を、あろうことかジルベールは声に出して、それも嬉しそうに口にしていた。  ジルベールは独り言をやめて、館があるはずの場所に目を凝らした。  しばらく無言で見つめてから、 「ほかの誰かが住んでいる形跡はないな。明かりもないし物音もしないし扉も開いてない。行くぞ!」  ジルベールには取り柄がある。一度こうと決めたら直ちに行動に移すのだ。屋根裏の扉を開けて、ルソーの部屋の前まで手探りで妖精のように降り立った。二階まで来ると躊躇うことなく鉛管を跨ぎ、買ったばかりのキュロットを駄目にする危険を冒して下まで滑り降りた。  階段の下まで着くと、初めて訪れた際の感情が甦り、靴の下で砂が鳴った。ニコルがド・ボージール氏を引き入れていた扉に見覚えがある。  それから玄関に向かい、鎧戸の銅の握りに口唇を押しつけた。きっとアンドレの手がこの握りに触れていたのに違いない。ジルベールの罪は信仰にも似た愛から生まれたものだった。  突然、家の中から物音がしてジルベールは震え上がった。床を歩くような、聞き取れないほどの小さな音だ。  ジルベールは尻込みした。  顔から血の気が引いていた。そのうえ一週間以上前から罪の意識に苛まれていたので、扉から洩れている光を見て、無垢と悔恨からこぼれ落ちた一つのことを考え続けたせいで忌まわしい炎が目の中に灯ったのであり、鎧戸の板越しに洩れているのがその炎なのだ、と信じ込んでしまった。怯えきった魂が別の魂を呼び寄せ、死期が訪れ狂人か奇人が見るような幻覚が現れたのだと信じ込んだ。  だが足音と光が近づいて来ても、ジルベールは目も耳も信じようとはしなかった。ところが鎧戸の向こうをよく見ようとして近づいた途端、いきなり鎧戸が開き、衝撃で壁の方に跳ね飛ばされ、声をあげて両膝を突いた。  だがそれも、目にしたものほど衝撃的ではなかった。誰もいないと思っていた家の中、叩いても応えのなかった扉から、アンドレの姿が現れたのを目にしたのだ。  アンドレだ。確かに本人であって幽霊などではない。ジルベールと同じく声をあげた。だがそれほど怯えてはいないのは、誰かがいるのを予期していたからだろう。 「何? どなたです? ご用件は?」 「申し訳ありません!」ジルベールは床に頭をこすりつけた。 「ジルベール!」アンドレがあげた驚きの声には、恐れも怒りもなかった。「ジルベールがここに! 何をしに来たのです、モナミ?」  友《モナミ》という呼びかけに、ジルベールの心は痛みで底まで震えた。 「どうか!」ジルベールの声は乱れていた。「どうか責めないで下さい。お慈悲を。こんなに苦しんでいるのです!」  アンドレは驚いてジルベールを見つめた。ジルベールが下手に出ている理由がまったく理解できないようだった。 「まずは頭を上げて、ここにいる理由を説明して下さい」 「許していただかない限り、顔を上げるわけにはいきません!」 「わたくしに何をしたというのです。許さなくてはならないようなことをしたのですか? どうか説明を」そう言ってアンドレは侘びしげに微笑んだ。侮辱などたいしたことではないとでも言うのだろうか。「いずれにしても許すのは造作ありません。鍵をくれたのはお兄様?」 「鍵?」 「ええ、お兄様の不在中は誰にも戸を開けないことにしていますから。壁を通り抜けたのでない限り、ここに入って来るには、お兄様から鍵をいただくのが一番簡単な方法に違いありませんもの」 「フィリップが……? いや、そうじゃありません。それに、お兄さんのことは措いておきましょう。いなくなったんじゃなかったんですか? フランスを出たんじゃなかったんですか? よかった! 何て幸運なんだ!」  ジルベールは上体を起こし、腕を広げて天に感謝を捧げた。それがジルベールなりの誠意だった。  アンドレがジルベールを心配そうに覗き込んだ。 「頭がおかしくなったの、ジルベール? 服が破けそう。放して頂戴。茶番はやめましょう」  ジルベールが立ち上がった。 「怒ってますね。でも愚痴なんかこぼしません。怒られて当然ですから。はっきりさせなきゃいけないのはそんなことじゃないんです。それよりどういうことですか! ここに住んでいるとは知りませんでした。空っぽで人がいないと思っていました。僕が探しに来たのは、あなたの思い出の品だったんです。それだけでした。ただの偶然で……もう何を言っているのか自分でもわかりません。すみません。まずはあなたのお父上に話したかったのですが、その当人がいなくなって」  アンドレが身じろぎした。 「お父様? 何故お父様に?」  ジルベールは答えを誤魔化した。 「あなたが怖かったものですから。でもわかってるんです、すべて僕ら二人で解決した方がいい。すべてを償い元通りにするのが最前の方法ですから」 「償うですって? いったい何の話? 償わなければならないこととは何です? お言いなさい」  ジルベールは愛と卑屈にあふれた目でアンドレを見つめた。 「怒らないで下さい。確かに僕は大それたことをしました。ゴミみたいな人間なのに、上を向いて大それたことをしてしまいました。でも災いは起こってしまったのです」  アンドレがたじろいだ。 「罪と呼びたければ罪と呼んでくれて構いません。そうですね。実際、恐ろしい罪ですから。この罪のことなら、運命を憎んで下さい、お嬢様。でもどうか僕の心は……」 「心とか罪とか運命とか! あなたはどうかしてるのよ、ジルベール。お願いだから怖がらせないで」 「これほど敬意を払って、これほど悔い改めて、これほど頭を下げて、これほど手を合わせても、哀れみ以外の感情を持ってもらうのは不可能なんですね。お嬢様、これから話すことを聞いて下さい。神と人々の前で約束した神聖な誓いです。僕の人生のすべてを一瞬の過ちを償うことに費やしたい、あなたの将来を幸せなものにして過去の苦しみをすべて消してしまいたいんです。お嬢様……」  ジルベールは躊躇った。 「お嬢様、罪深い結びつきを神聖なものにする為に、結婚に同意していただけませんか」  アンドレが後じさった。 「違います、気が違ってなんかいません。逃げないで下さい。握っているこの手を離さないで下さい。お願いです、慈悲と哀れみを……どうか僕の妻になることに同意して下しあ」 「あなたの妻ですって?」気が違ったのは自分の方かと思いそうだった。 「お願いです!」ジルベールが泣きじゃくった。「あの夜のことを許してくれると言って下さい。罪深い行為には怯えたけれど、後悔したのを見て許すと言って下さい。押し殺された愛情が原因なら、犯罪にも弁明の余地があると言って下さい」 「人でなし!」アンドレが猛り狂った。「あなただったのね? ああ、神様!」  アンドレは混乱した思いを逃すまいとするかのように、両手で頭を抱え込んだ。  ジルベールは尻込みしたまま無言で石と化していた。目の前にいるのは恐怖と混乱で髪を振り乱した、美しく蒼白のメドゥーサだ。 「こんな不幸になる定めだと言うのでしょうか?」アンドレは既に激情していた。「この名を二度までも侮辱されるなんて。罪によって辱められ、さらには犯人によって辱められると言うのでしょうか? 答えなさい、人でなし! あなただったの?」 「知らなかったのか!」ジルベールは愕然として呟いた。 「助けて!」アンドレが部屋に駆け戻った。「フィリップ、助けて! フィリップ!」  ジルベールは絶望に駆られて後を追い、辺りを目で探した。見つかるのなら、覚悟していたように一撃の下で気高く倒れる為の場所でもいい。身を守る為の武器でもいい。  だが助けに応える者はなく、アンドレは一人きりで部屋にいた。 「一人にして!」アンドレの身体は怒りで震えていた。「ここから出て行って、人でなし! 神の怒りを煽るようなことはしないで!」  ジルベールがゆっくりと顔を上げた。 「僕が怖いのはあなたの怒りだけです。どうか僕を苦しめないで下さい!」  ジルベールは手を合わせて頼み込んだ。 「人殺し! 人殺し!」アンドレが叫び続ける。 「話を聞いてくれないのですか? まずは話を聞いて下さい。殺したいのならその後にして下さい」 「このうえさらに話を聞けですって! 何を話すつもりなんです?」 「先ほど言ったように、僕は罪を犯しましたが、僕の気持がわかる人なら許してくれるはずです。僕は罪の償いをしたいんです」 「それよ! その言葉の意味がわからないうちからぞっとしたわ。結婚ですって!……そう言ったように聞こえたけれど?」 「お嬢様……」 「結婚?」アンドレの態度にますます高ぶりが見え始めた。「あなたに感じているのは怒りではなく、蔑みと憎しみです。蔑みほど卑しくておぞましい感情はないというのに、面と向かってそれを投げつけられながら耐えられるとは、理解できないわ」  ジルベールは真っ青になった。目の縁には涙がきらめき、口唇は真珠母の切片のように薄く白くなっていた。 「僕は――」全身が震えていた。「あなたの名誉を傷つけてしまった償いが出来ぬほどちっぽけな人間ではありません」  アンドレが立ち上がった。 「名誉を損なったというのなら、あなたの名誉であってわたくしのではありません。わたくしの名誉は損なわれておりませんし、それが汚されるとしたらあなたと結婚する時にほかなりません!」 「母になった女性が考えなくてはならないのはただ子供の未来のみではありませんか」ジルベールの声は冷たかった。 「あなたの方こそ、そんなことを考えているとは思えません」アンドレの目には炎が燃えていた。 「考えていますとも」ジルベールは足許への攻撃にぐらつかずに立て直そうとした。「この子を飢えさせたくはありませんから。名誉を聞かされて育った貴族の家では飢えを選ぶこともままあるじゃありませんか。でも人間は平等なんです。誰かに名誉を説かれようとも、自分は自分なんです。僕が愛されてないのはわかってます。あなたには僕の心が見えないんだから。軽蔑されてるのもわかってます。僕の考えていることがわからないんですから。だけど、僕には我が子のことを考える権利がないと思われることだけは理解できません! あなたと結婚しようとすれば、宿望も情熱も野心も叶えることが出来ません。それでも義務を果たすことにしたんです。あなたの奴隷となって、人生をあなたに捧げたんです。でもあなたが僕の名を背負うことはないでしょうね。これからも庭師のジルベール扱いしたければしてくれればいいし、それが正しいんです。でも子供にはそんな犠牲を払わせてはいけません。ここに三十万リーヴルあります。親切な方からいただいたものです。あなたとは違う裁きを僕に下し、持参金として下さったのです。結婚したらこのお金は僕のものです。でも僕自身は何も要りません。生きていたら呼吸できるだけの空気があればいいし、死んでしまえば死体を埋めるだけの穴があればいい。それ以上のものは子供にやるつもりです。さあ、三十万リーヴルです」  ジルベールは札束をアンドレの手元にある卓子に置いた。 「たいへんな誤解をなさっているみたいだけれど、あなたには子供がいないではありませんか」 「そんな!」 「どの子の話をしているのかしら?」 「あなたが母親となった子供のことです。二人の前で認めたのではないのですか? 兄であるフィリップの前と、ド・バルサモ伯爵の前で。妊娠していると認めたのではないのですか? そして相手は僕だったと。ひどい人だ!……」 「聞いていたのね? だったら話が早いわ。あなたは卑劣にもわたくしを暴力で犯した。眠っている間に力ずくでわたくしを奪った。罪を犯してわたくしをものにした。わたくしが母なのは間違いないけれど、子供には母しかいません。わかる? あなたがわたくしを辱めたのは事実だけれど、わたくしの子の父親ではあり得ません!」  アンドレは札束をつかむと汚らわしいとでもいうように部屋の外へ放り投げた。札束はジルベールの青い顔をかすめて飛んで行った。  ジルベールがどす黒い怒りの衝動に駆られたのを見て、アンドレの守護天使が守り人のことを心配してまたも震えおののいてもおかしくはなかった。  だが怒りは荒々しく抑えられ、ジルベールはアンドレに見向きもせずに通り過ぎた。  ジルベールが敷居を跨ぎ越えるとすぐにアンドレは駆け出し、扉も窓も鎧戸もしっかりと閉めた。あたかもそうすることで世界を現在と過去の間に閉じ込めてしまえるかのように。 第百五十四章 決意  ジルベールがどうやって部屋に戻ったのか、どうやって苦しみと怒りで息絶えることなく苦悶の夜を耐えたのか、どうやって目覚めた時に白髪にならずに済んだのか、読者諸氏に説明しようとは思わない。  陽が昇ると、ジルベールはアンドレに手紙を書きたくなった。夜の間に脳から湧き出て来た誠実で確かな弁明を伝えたかったのだ。だがアンドレが頑固なことは様々な状況の許で承知していたから、もはや期待はしていない。手紙を書くというのは便宜に過ぎないし、誇りが許さない。手紙が読まれもせずに丸められて放り投げられるところを想像してみろ。しつこくて頭の悪い奴が後を追っていると知らせる役にしか立たないと考えてみろ。手紙は書かないのが賢明だ。  こうなると父親の方から取りかかった方がいいのではないか。父親の方なら金に汚く野心に燃えている。兄の方は誠実な人間だ。素早い決断力だけに気をつければよい。  ――だけど、男爵やフィリップから認めてもらっても、アンドレから「あなたなんか知らない!」といつまでも責められ続けては何の意味もない……。あんな女のことは忘れちまえ。僕らを結びつけている絆を断ち切ることしか考えてないんだぞ。  そう独り言ちながら、呻吟してマットレスの上をのたうち回り、激情に駆られてアンドレの声や顔を一つ一つ思い出していた。独り言ちながら、耐え難い拷問に苦しんでいた。狂おしいまでにアンドレを愛していたのだ。  太陽がとうに地上高く顔を出し、屋根裏に光が射し込む頃、ジルベールはふらつきながらも起き上がった。アンドレが庭や館にいるのが見えないかと最後に期待を掛けたのだ。  今もなおそれは不幸の中にあって唯一の喜びであった。  だが不意に、悔しさと後悔と怒りが苦い波となって頭の中に浸み込んで来た。アンドレが自分に示した嫌悪や軽蔑の数々が思い起こされる。肉体が意思から荒々しく命じられ、屋根裏の途中で立ち止まった。 「もうないんだ。もうあの窓を見つめることもない。もう入り込むこともなく、死ぬほどの毒に耽ることもない。残酷な女め、何度ひれ伏したって、一度も微笑んでくれたことはないし、慰めや親しみの言葉をかけてくれたこともない。まだ無垢で純粋な愛に満ちていた心臓を、爪で押しつぶして楽しむような人なんだ。守るものも信じるものもなく、子供に向かって父親という支えを否定し、哀れな子供を見捨てたり冷たくしたりもしかすると死なせたりするような人なんだ。それもこれもその子が受胎して母胎を汚したからというわけか。そうさ、ジルベール、お前が犯罪者だろうと、恋人だろうと卑怯者だろうと関係ない。あの天窓まで歩くことも、館の方に目をやることもやめよう。あの女の運命を憐れむのも、過ぎたことをくよくよ考えて魂をくじけさせるのもやめよう。働いて、欲しい物を満たして、獣のように命をすり減らせ。侮辱と復讐の真ん中を時間をかけて流れるくらいなら、その時間を使ってしまえ。体面を保ち、この高慢な貴族たちを見下ろしていたいと思うなら、あいつらより上になるしかないということを覚えておけ」  青ざめ震えて、気持に引きずられて窓に向かって引き寄せられながら、頭脳の出す命令に従っていた。足に根が生えたようにのろのろと、一歩一歩階段に向かって歩いてゆくではないか。やがてジルベールはとうとう外に出てバルサモの家を目指した。  だが慌てて思い直した。 「何て粗忽者なんだ! 復讐の話をしておきながら、どうやって復讐するつもりだったんだろう?……アンドレを殺すのか? そんなことをしたっていっそう喜ばすだけだ。ここぞとばかりに罵倒されるだろう。辱められたことを世間に広めたらどうだろう? 卑劣にもほどがある!……そこはあの人の心の中で一番敏感なところだ。針で刺されても剣で刺されたように感じるはずだ……屈辱に違いない……僕以上に誇り高い人だからな。 「屈辱か……僕が……どうやって? 僕は何物も持たず、何者でもないし、あの人は姿を消してしまうだろう。僕が存在したりしょっちゅう現れたりするだけで、軽蔑と挑発の眼差しで僕を残酷に罰するに違いない……母としての情けを持たない人だ。妹としても冷酷になれるだろうから、兄に僕を売り渡すに決まってる。だけど、理を説いたり手紙を書いたりすることを覚えたように、殺人を覚えたって、邪魔する人もいまい? フィリップを投げ飛ばし、降参させ、侮辱した相手を笑うように復讐しに来た相手の鼻先で笑っても、誰も止めたりはすまい? いや駄目だ、こんなのは芝居の筋書きに過ぎない。神も偶然も当てにしないあの人の才気と経験を頼みにするなんて……僕が一人で、この裸の腕と、空想をそぎ落とした理性と、自然が与えてくれた筋肉の力と頭脳の力で、あの可哀相な人たちの計画を無に帰してやる……アンドレは何がしたいんだ? 何を考えてるんだ? 自分を守り僕を辱める為に、何を持ち出すつもりだろう?……見つけなくちゃ」  ジルベールは壁の出っ張りの先に身体を預けて、一点を見つめたままじっと考え込んだ。 「アンドレは僕の嫌いなことを喜ぶだろうな。だったら嫌いなものをぶち壊してしまえばいいのか? ぶち壊すだって! 出来ない……復讐はしても悪には染まるもんか! 剣や火器を用いざるを得ないような羽目にはなるもんか! 「じゃあほかにどうすればいい? そうだ。アンドレがどうして強気に出られるのか理由を見つければいい。どんな鎖で僕の心と腕を留めておくつもりなのか確かめるんだ……いや、もう会えないんだ!……もう見つめてもらえることもない!……誇らかに美しく微笑んで子供を抱いていても、そばを通り過ぎるだけなんて……アンドレの子供は僕を知らずに大きくなるのか……神も世もないじゃないか!」  ジルベールは憤慨して壁にこの言葉の拳を打ちつけ、天に向けてはさらに恐ろしい呪詛を放った。 「子供か! 所詮表向きには出来ない子だ。この子をアンドレのところに置いておくわけにはいかないし、アンドレにもジルベールという名前をいつまでも憎んでもらっても困る。早い話が、むしろこの子がアンドレという名前を憎みながら大きくなることはよくわかってるはずだ。結局アンドレはこの子を愛したりはしないだろうし、きっと辛く当たるだろうな。心の冷たい人だもの。この子は僕を永遠に苦しめることになるだろう。アンドレはこの子に二度と会えないし、この子を失って仔を取り上げられたライオンのように吠えなくちゃならないんだ!」  ジルベールは怒りと残酷な喜びも露わに堂々と立ち上がった。 「そういうことだ」アンドレの住処に指を向け、「あんたは僕のことを恥辱と孤独と悔恨と愛情を種に責め立てたけど……こっちこそあんたを実りない苦しみと孤独と恥辱と恐怖とぶつける当てのない憎しみで苛ませてやる。僕を探そうとしたって、逃げ出してやるさ。再び子供に会えたら引き裂いてでも取り戻そうとするに違いない。だけど少なくとも激しい思いがあんたの魂に火をつけることになるだろうし、柄のない刃があんたの胸に突き刺さることになるだろう……そうだ、子供だ! 子供を手に入れてやるぞ、アンドレ。あんたは自分の子供だと言ったけれど、僕の子供でもあるんだ。ジルベールは我が子を手に入れてみせる! 貴族を母に持つ子供だぞ……僕の子だ!……僕の子なんだ!……」  ジルベールは昂奮してだんだんと歓喜に酔いしれて来た。 「もう庶民だからといって悔しい思いをしたり田舎者の自分を愚痴ったりせずともいいんだ。必要なのはよく出来た計画だ。もうアンドレの家を探ろうとして気を配らなくていい。僕の力と魂のすべてをかけて、絶対に計画を成功させることだけを考えて監視していればいいんだ。 「これからはずっと見張ってやるぞ、アンドレ!」ジルベールは厳かに呟き、窓に近づいた。「昼も夜も休むことなく監視してやる! あんたの行動はすべて監視されることになるんだ。苦しみにあげる叫びも、今よりもっと辛いものになるはずだ。微笑みを浮かべるのは、僕が皮肉と嘲りを込めて笑った時だけになるだろうな。あんたは僕のもんだ。あんたの一部は僕のもんだよ。目を逸らすことなく監視してやる!」  天窓に近づくと、館の鎧戸が開いているのが見えた。アンドレのシルエットが、恐らくは鏡に反射して、カーテンや天井を動き回っている。  それからフィリップが見えた。朝早くから起きてはいたのだが、それまではアンドレの部屋の奥にある自分の部屋で忙しくしていたのだ。  二人はかなり激しく言い合っているようだ。間違いない。話題はジルベールのこと、前夜のことだ。フィリップが困ったように歩き回っている。ジルベールが現れたせいで、ここで暮らすはずだった計画に変更が生じたのだろう。何処か別の場所に平和と隠棲と過去の消去を求めに行くことになったのだ。  そう考えたジルベールの目に光がきらめいた。館を燃やし、地の中心まで貫きかねない光だった!  ところがまもなく使用人の娘が庭から入って来た。何か言伝があったらしい。アンドレは言伝を受諾したらしく、ニコルが使っていた部屋に衣類を置いた。それから家具、日用品、食糧を見て、兄妹で静かに暮らしているのだとジルベールは確信を固めた。  フィリップが念入りに庭の扉の錠を改めている。ニコルからもらった合い鍵で侵入したのではないかと考えているのだろう。それで錠前屋が錠前を新しくしたのだ。  これまでの中で一番嬉しい出来事だった。  ジルベールはにやりと笑った。 「可哀相に。二人とも無邪気な人たちだな。鍵のせいにしているなんて。よじ登る可能性すら思いつかないのか!……見くびられているらしいな、ジルベール。ありがたい! アンドレめ、こっちは鍵が掛かっていようと、入ろうと思えばいつでも入れるんだ……とうとう僕にも運が向いて来た。あんたなんかもう構ってやるもんか……気が向いたら別だけど……」  ジルベールは宮廷の遊び人を真似てくるりと回転した。 「そうだとも……」辛そうに呟いた。「僕にはもっと相応しいものがある。もうあなたはいらない!……安らかに眠り給え。あなたをものにするよりも楽に苦しめる方法があるんだ。眠るがいいさ!」  天窓から離れて衣服に目を走らせた後で、階段を降りてバルサモの家へ向かった。 第百五十五章 十二月十五日  ジルベールはフリッツの案内で難なくバルサモに会うことが出来た。  伯爵は長椅子に寝そべり、有閑人のように一晩中眠っていたせいでぐったりとしていた――と、少なくともジルベールはそう感じた。こんな時間に横になっているのを目にしたからだ。  ジルベールが現れたらすぐに案内するように命じられていたのだろう。名乗る必要も、口を開く必要さえなかった。  応接室に入ると、バルサモが肘を起こし、声もなく開いたままだった口唇を閉じた。 「おや、結婚する青年か」  ジルベールは無言のままだった。 「結構」伯爵に尊大な態度が戻って来た。「お前は幸せだし、感謝もしているのだろう。大変結構。お礼を言いに来たんだな。要らんことだ。また何か欲しくなった時の為に取っておけ。感謝というのは笑って配れば人を喜ばせる礼金のようなものだ。さあ行け、兄弟」  バルサモの話す言葉や響きには、何処か深い悲しみと優しさが潜んでおり、それがジルベールには非難と告発を受けているような衝撃を与えた。 「違います。僕は結婚なんかしません」 「ふん! ではどうしたんだ?……何が起こった?」 「僕は拒絶されたのです」  伯爵がジルベールを正面から見据えた。 「へまをやったんだな」 「そんなことはありません。少なくとも僕はそう考えてます」 「誰に追っ払われたんだ?」 「お嬢様です」 「さもありなん。どうして父親に話さなかった?」 「運命がそれを望まなかったからです」 「ほう、俺たちは運命論者だったのか?」 「僕は信仰を持つことが出来ませんから」  バルサモが眉をひそめ、面白そうにジルベールを見つめた。 「自分の知らないことを語るな。大人であれば愚か者のやることだし、子供であれば自惚れ屋のすることだ。自惚れるのはいいが、馬鹿は許さん。馬鹿なことはしないと言うなら認めてやろう。で、何をやったんだ?」 「それが、詩人のように、行動する代わりに頭を使おうと思ったんです。愛を夢見る喜びを知った並木道を散歩しようと思っていたんです。ところが不意に何の前触れもなしに現実が目の前に立ち現れて、その場で僕を打ちひしいだのです」 「それもまた結構なことではないか。男とはどんな状況であれ斥候のようなものだ。進む時はいつも右手に小銃、左手に龕灯を持たねばならん」 「とにかく僕はしくじったのです。アンドレ嬢からは悪党とか人殺しと呼ばれ、殺してやると言われました」 「ほう。だが子供は?」 「子供は自分のものであり、僕のものではないと言われました」 「それから?」 「そう言われて、僕は引き下がって来たのです」 「そうか!」  ジルベールが顔を上げた。 「僕はどうすればよかったのでしょう?」 「俺にはまだわからん。何がしたいのか教えてくれ」 「僕に屈辱をもたらしたことに対して、罰を与えたいんです」 「ただの言葉だ」 「いいえ、これは決意です」 「だが……お前は黙って奪われただけだったんだな? 秘密と……金を?」 「僕の秘密は僕のものであって、誰にも取られるつもりはありません。お金はあなたのものです。お返しいたします」  ジルベールは上着をめくって三十枚の銀行券を取り出し、しっかりと数えて卓子の上に広げた。  伯爵はそれを手に取って折り畳んだが、その間もジルベールに目を据えていた。ジルベールの顔にはどんな高ぶりも現れてはいない。  ――正直者。貪欲ではない……才気と信念の持ち主……男というわけだ。 「ところで伯爵閣下、預かった二ルイのことで謝らなくてはならないことがあるんです」 「深刻に考えるな。十万エキュ返してくれる立派さと比べたら、四十八リーヴル返すことなど子供騙しみたいなものだ」 「お返しするつもりはありません。僕はただ、この二ルイで何をしたかを伝えるつもりでした。僕にはそれが必要なのだということを、あなたにちゃんと知ってもらいたかったので」 「それなら別だ……つまり金をくれと?」 「そうです……」 「理由は?」 「あなたが先ほど『言葉』と呼んだことをする為です」 「そうか。復讐がしたいのか?」 「復讐をするなら恥ずかしくないようにやりたいんです」 「そうだろうな。だが現実は無慈悲だ」 「その通りです」 「幾ら必要なんだ?」 「二万リーヴルです」 「あの娘に近づくつもりはないんだな?」こう言えばジルベールをはっとさせられると思ったのだ。 「ありません」 「兄には?」 「ありません。父親にも」 「中傷するつもりもないな?」 「もう口を開いてあの人の名前を口にすることはありません」 「わかった……だが女を刺し殺そうと、虚勢を重ねて殺そうと、同じことだ……姿を見せ、後を追い回し、軽蔑と憎悪に満ちた笑いを見せつけて苦しめることで、仕返しするつもりなのだろう」 「ほとんど当たっていません。フランスを離れる気になった時に備えて、お金をかけずに海を渡る方法をお願いしに来たのです」  バルサモが異を唱えた。 「ジルベール」その声にはとげとげしさと柔らかさが同居していたが、苦しみも喜びも含まれてはいなかった。「ジルベール、その要求は筋が通らんぞ。人に二万リーヴルくれと言っておきながら、その二万リーヴルで船に乗ることは出来ないというのか?」 「それには二つ理由があるんです」 「理由を聞こう」 「一つには、船に乗る日には一銭も持っていないだろうからです。忘れないでいただきたいのは、僕は自分の為に頼んでいるのではなく、あなたが手を貸した過ちを償う為に頼んでいるということです……」 「まだ言うか!」バルサモが口を引きつらせた。 「事実ですから。お金が欲しいのは償う為であって、生活の為でも手すさびの為でもありません。この二万リーヴルのうちの一スーたりとも僕の懐に入ることはありません。このお金にはお金の行き場所があるんです」 「お前の子供か、わかったぞ……」 「ええ、僕の子供なんです」ジルベールは誇らしげに答えた。 「だが、お前はどうする?」 「僕は強いですから。束縛されてもいませんし、智恵もあります。これからも生きてゆきます。生きたいんです!」 「生きるがいい! 寿命を待たずに地上を離れる魂に、天はこれほどに力強い意思を与えはしまい。天は長い冬に立ち向かうのに必要な植物を着せて暖めてくれよう。長い苦難に耐えられるだけの鋼の鎧を心に纏わせてくれよう。だが手元に千リーヴル残せないのには確か二つの理由があると言っていたな。一つ目は心遣いで……」 「二つ目は用心です。フランスを離れる時には、身を潜めることも出来るでしょう……ですが港で船長を見つけ、お金を払う段になれば、そうは行きません――誰だってそうするでしょうね――上手く身を隠せても、自分から姿を見せなくてはならない段になれば、そうは行かないんです」 「つまり、俺なら身を隠す手助けをしてやれると?」 「あなたになら出来ることはわかってます」 「誰がそんなことを?」 「何を仰っているんですか! あなたはこの世のあらゆる武器を収めた武器庫を持たぬ代わりに、超自然を欲しいままに使えるではありませんか。魔術師ならどれだけ自信がなくても、神に頼るようなことはしないはずです」 「ジルベール」不意にバルサモが手を伸ばした。「お前には大胆で向こう見ずなところがある。女のように善でもあり悪でもあり、ふりではなく本心から禁欲的だし誠実だ。いつか立派な男として遇することになりそうだな。俺と一緒にいろ。感謝を忘れるような奴ではあるまい。いいな、ここにいろ。この家に隠れていれば安全だ。もっとも、俺は何か月かしたら欧州を離れるから、その時は一緒に連れて行くことになる」  ジルベールはうなずいた。 「その時が来たら喜んでお供します。ですが今はこうお返事しなくてはなりません。『ありがとうございます、伯爵閣下。僕のようなつまらない人間にとっては、お申し出は畏れ多いくらいなのですが、残念ながらお断わりいたします』と」 「一時《いっとき》だけの復讐と五十年分の未来は釣り合わんぞ?」 「失礼ながら、思いつきや気まぐれが浮かんだ瞬間から、それは僕にとってはこの世の何よりも価値があるのです。それに復讐のほかにもやらねばならないことがあるのです」 「ここに二万リーヴルある」バルサモが即答した。  ジルベールは二枚の銀行券を手に取り、恩人にじっと目を注いだ。 「こんな施しをして下さるなんて国王にも負けてはいらっしゃいません!」 「勝っている、と思いたいな。何しろ記憶に留めて欲しいとすら願ってはいないんだから」 「そうですね。でも先ほど言われた通り、感謝の気持は忘れていません。目的を達したら、この二万リーヴルはお返しいたします」 「どうやってだ?」 「召使いが主人に二万リーヴル返すのに必要なだけの年月を、あなたの許で働きます」 「また矛盾したことを言っているな。お前はついさっき、この二万リーヴルは俺の罪滅ぼし代わりだ、と言ったばかりではないか」 「確かにそう言いました。ですがあなたには感銘を受けたので」 「そいつはありがたい」バルサモは無表情のまま答えた。「では、俺がそうしろと言えば、言う通りにするんだな?」 「その通りです」 「何が出来る?」 「何も出来ません。ですがあらゆることをする準備はあります」 「そうだな」 「それでもはやり、必要とあらば二時間後にフランスを離れることの出来る手段を手にしておきたいのです」 「ははっ! 脱走兵が一人か」 「戻って来る用意は出来ています」 「こっちも再会する用意は出来ている。ではとっとと終わらせよう。あまり長く話すと疲れっちまう。卓子をこっちに寄こせ」 「はい」 「洋箪笥の上にある箱に入っている紙を取ってくれ」 「はい」  バルサモは紙を手に取り、そのうちの一枚に書かれた文章を小さく読み上げた。紙には三つの署名――いや、三つの謎めいた文字――が記されている。  十二月十五日、ル・アーヴルにて、ボストン行き、P・J・ラドニ。 「アメリカのことをどう思う、ジルベール?」 「フランスではないところ。いつかその時が来てフランス以外の何処かの国に海を渡って行くことになれば、これほど嬉しいことはありません」 「結構!……十二月十五日頃。これはお前の言う『その時』だな?」  ジルベールは指を折って考えた。 「間違いありません」  バルサモは羽根ペンをつかみ、白い紙に次のような文字を二行だけ書き記した。  ラドニに乗客を一人乗せてくれ。   ジョゼフ・バルサモ 「この紙は危険です。ねぐらを探した挙句、バスチーユを見つけることになりかねません」 「頭がいいと馬鹿にも見えるもんだな。ラドニとは商船で、俺が筆頭船主なのだ」 「失礼しました」ジルベールは頭を下げた。「時々頭が働かなくなってしまうのですが、こんなことが何度も続くことはありませんから、お許し下さい。ありったけの感謝の気持を信じて欲しいんです」 「行くんだ、友よ」 「さようなら、伯爵閣下」 「また会おう」バルサモはそう言って背中を向けた。 第百五十六章 最後の謁見  十一月、言い換えるなら我々がお話しした出来事があってから一月後、フィリップ・ド・タヴェルネはその時期にしては朝早く――端的に言えば夜明けに、妹と暮らしている家から出かけた。まだ明かりも消えぬ時間ながら、パリ中の産業が目を覚ましていた。朝の瑞々しい空気の中、湯気の立ったお菓子を、田舎の貧乏商人がご馳走でも食べるように貪っている。野菜でいっぱいの籠。魚や牡蠣を積んだ二輪馬車が、市場を走り回っている。こうして忙しく立ち働きながらも、富裕層の眠りを妨げてはなるまいとばかりの控えめな様子も身体に染みついていた。  フィリップは人でごった返した自宅周辺地区を急いで通り抜け、人気のないシャン=ゼリゼーにたどり着いた。  梢の先で色褪せた葉がくるくると回転している。大部分は王妃の中庭の踏み固められた並木道を覆っていた。この時間帯には人気のない球技場も、震える葉群に隠れている。  フィリップはパリでも指折りのブルジョワのような裾のゆったりした服と絹のキュロットと靴下を身に着けていた。腰には剣を佩いている。丁寧に整えられた髪からは、昼前に当時のファッションの最高峰である鬘師の手に任せていたことが窺える。  だから、朝方の風によって髪が乱され髪粉が飛び散り始めたことに気づいて、フィリップはシャン=ゼリゼーの並木道で眉をひそめて、この道で営業している貸し馬車がどれか一台でも、まだ出発してはいないかどうか確かめた。  長くはかからなかった。使い古され壊れかけた年代物の四輪馬車が、痩せた川原毛色の雌馬に曳かれて、揺れ始めた。御者が何物も見逃すまいとした暗い目つきをして、木立の中に乗客がいやしないかと遠くに目を凝らしている。その様はあたかもティレニア海の波間に船を探すアイネイエスの如きであった。  フィリップを見つけた御者がさらに激しく鞭を当てた為、四輪馬車はすぐにフィリップのところにたどり着いた。 「九時頃までにヴェルサイユに行けるようにしてくれ。半エキュやろう」  言葉通り九時には、謁見を始めていた王太子妃からフィリップも朝の謁見を賜っていた。細心の注意を払い、また作法を脱ぎ捨てて、大公女はトリアノンでおこなわせている仕事を朝のうちに見て回ることにしていた。途中で謁見の約束をしていた請願者に出会うと、急いで用件を済ませた。智性と優美な佇まいの中にも威厳を失わず、優しさを誤解されていることに気づこうものなら尊大にさえなった。  初めこそフィリップは歩いて訪問しようとしていた。それだけ経済的に逼迫していたのだ。だが自尊心から――或いは、軍人なら目上の人間と対する際に決して失うことのない、敬意の気持から――ヴェルサイユを礼服で訪れんが為に倹約の日々を過ごさざるを得なかったのだ。  フィリップは徒歩で戻るつもりだった。梯子の同じ段の上で、正反対の地点から飛び出していながら、貴族階級のフィリップと平民階級のジルベールは交差していたのである。  フィリップは心を締めつけられながらも、なおも心を奪われているヴェルサイユに戻って来た。二人の将来を魅了して来た、黄金色と薔薇色の夢に満ちた場所。心をずたずたに切り裂かれて、不幸と恥の思い出であるトリアノンに戻って来た。九時ちょうどに、謁見状を手にして、四阿近くの花壇に沿って歩いていた。  およそ百歩ほど離れたところに、王太子妃が建築家と話をしているのが見えた。寒い季節ではないというのに、建築家は貂の毛皮を羽織っていた。王太子妃はワトーの描く貴婦人のような小さな帽子をかぶり、緑豊かな木立を背景にして立っていた。時折り、澄んだ声の震えた響きが届き、フィリップの感情を掻き立てた。普段であれば、傷ついた心のうちの悲しみを消し去っていたであろう。  フィリップと同じく謁見を許された人々が、次々と四阿の戸口に現れた。控えの間では取次が謁見の順序を按配しに来ていた。王太子妃が建築家のミックと戻って来るたびに、その途上にいる人々が言葉をかけてもらっていた。特別な計らいで言葉を交わした人さえいる。  それが終わると別の謁見者が現れるのを待った。  フィリップは今もしんがりにいた。王太子妃の目が自分に向けられたことにはとうに気づいていた。まるで王太子妃の方からも会いたがってくれていたように感じられて、フィリップは赤面し、その場に相応しい謙虚で忍耐強い態度を取ろうと努めた。  ついに取次がフィリップに声をかけた。ご用件はございませんか。王太子妃殿下は遅れてお戻りになるわけにはなりませんし、ひとたびお戻りになってしまえば誰ともお会いにはなりません。  そこでフィリップは進み出た。王太子妃から見つめられるままに、百歩の距離を縮め、適切な機会を捉えて恭しく挨拶をした。  王太子妃が取次を見た。 「この挨拶した者の名前は?」  取次が謁見状を読み上げた。 「フィリップ・ド・タヴェルネ殿です」 「ええ……」  王太子妃はフィリップのことをさらにじっくりと物問いたげに見つめた。  フィリップは身体を折り畳んだような状態で待っていた。 「ご機嫌よう、ド・タヴェルネさん。アンドレ嬢はお元気?」 「臥せっております。ですが妃殿下からいただいたご厚意のしるしを見れば元気になるに違いありません」  王太子妃は答えなかった。フィリップの痩せて青ざめた顔に苦しみを読み取り、町人のような簡素な服装の下に、初めてフランスの地を訪れた時に案内役を務めたあの将校を認めた。 「ミックさん、では舞踏室の内装についてはそういたしましょう。隣の森林園のことはもう決定いたしましたわね。こんなに長く寒い思いをさせてしまってごめんなさい」 「それでは失礼いたします」ミックはお辞儀をして立ち去った。  王太子妃からお辞儀をされて、待機していた人々もすぐに退出した。王太子妃は自分にも型通りに挨拶するはずだ、と考えて、フィリップはずっと苦しんでいた。 「妹さんは臥せっている、と仰ったわね?」目の前に王太子妃が現れてたずねた。 「臥せっております」フィリップは躊躇った。「控えめに申しましても元気がありません」 「元気がない?」王太子妃が首を傾げた。「あれほど健康的でしたのに!」  フィリップが頭を下げた。王太子妃は一族の許では鷲の視線と呼ばれる問うような目つきでそれを眺めてから、こう言った。 「少し歩いてもいいですか。風が冷たいので」  王太子妃が歩き始めても、フィリップは動かなかった。 「あら、いらっしゃいませんの?」マリ=アントワネットが振り向いてたずねた。  フィリップはひと飛びで王太子妃のそばに寄った。 「どうしてもっと早くにアンドレ嬢の具合を知らせて下さいませんでしたの?」 「そんな。妃殿下ご自身が仰ったのではありませんか……以前には妹に目を掛けて下さいましたが……今は……」 「今もまだ気に掛けておりますわ……ですけれど、タヴェルネ嬢がとっとと仕事を辞めてしまったのではありませんの?」 「そうするしかなかったのです!」フィリップは声を絞り出した。 「何ですって? そうするしかなかった?……その言葉を説明して下さいな」  フィリップは答えなかった。 「ルイ先生が話してくれました。ヴェルサイユの空気はタヴェルネ嬢の健康に良くないそうですね。お父様の家で過ごせば元通りになると……そう言われました。妹さんが出発前に一度だけ訪ねてくれましたが、顔色も悪く悲しそうでした。その際に妹さんがどれだけ我慢しているのかはっきりと伝わって来ました。あんなにたくさんの涙を流していたのですから!」 「嘘偽りのない涙でございます。心が激しく打ちつけ、涸れることもなりません」 「確かお父様に宮廷に連れて来られたはずでしたから、故郷が恋しくなって、何処か具合が……」 「妃殿下」フィリップが急いで口を挟んだ。「妹が恋しがっているのは妃殿下を措いてほかにございません」 「それなのに苦しんでいるなんて……おかしな病気ですね。故郷の空気で良くなるはずなのに、悪化してしまうなんて」 「いつまでも妃殿下に誤魔化しているわけには参りません。妹の病気は深い悲しみによるもので、絶望と隣り合わせの状態にまで悪化してしまいました。タヴェルネ嬢が愛しているのはこの世で妃殿下とぼくだけであるにもかかわらず、愛情よりも神を信じるようになったのです。ここに謁見をお願いしましたのも、妹のこうした願いを妃殿下に援助していただきたかったからでございます」  王太子妃が顔を上げた。 「修道院に入りたがっているというのですか?」 「はい、殿下」 「それは辛いでしょう? あなたは妹さんを愛してらっしゃるのに」 「妹の立場に相応しい判断をしたと思っておりますし、そもそもこれはぼくが言いだしたことです。ぼくはアンドレを愛しています。この考えが間違っているとは思いませんし、欲得ずくだと思われることもないでしょう。アンドレを幽閉することでぼくには何の益もありません。お互いに何一つ持ってなどいないのですから」  王太子妃は動きを止めて、改めてフィリップを盗み見た。 「あなたは理解しようとはなさらなかったけれど、わたしが先ほど申し上げたのはそのことです。お金には苦労なさっているのでしょう?」 「妃殿下……」 「うわべだけの恥などお忘れなさい。大事なのは妹さんの幸せではありませんか……率直にお答え下さい。誠実に……あなたが誠実な方なのはわかっておりますもの」  誠実に光るフィリップの目が大公女の目とぶつかり、そのまま下がらなかった。 「お答えいたします、殿下」 「では。妹さんが俗世を離れたがっているのには、すぐにでもそうしなくてはならない止むに止まれぬ事情があるのですか? 何ということを口になさるのかしら! 君主というのも不便なものですね! 神から不幸を憐れむ心をいただいていながら、慎みの名のもとに、それを見抜く洞察力を拒まれているのですから。率直にお答え下さい。そうなのですか?」 「違います」フィリップはきっぱりと答えた。「そうではありません。ですが妹はサン=ドニ修道院に入りたがっておりますし、それなのに必要な持参金の三分の一しかないのです」 「持参金は六万リーヴルでしたね。では二万リーヴルしかお持ちではないのですか?」 「それだけは何とか。ですが妃殿下ならお出来になるはずです。たった一言で、財布の紐をゆるめることなく、寄宿生を受け入れさせることが出来るはずです」 「確かにその通りです」 「でしたら特別にご厚意をお願いするわけには参りませんか。既に妹がルイーズ・ド・フランス様のところでどなたかに仲介の約束を取りつけていなければの話ですが」 「聯隊長、突然のお話ですね」マリ=アントワネットが不思議そうに言った。「わたしの周りには、貧しい貴族の方がたくさんいらっしゃるのです! それがわかっていなかったことはお詫びいたします」 「ぼくは聯隊長ではありません」フィリップの声は穏やかだった。「今のぼくは妃殿下の忠実な《しもべ》でしかありません」 「聯隊長ではないと仰いましたか? いつからでしょう?」 「一度でもそうだったことはありません」 「国王はわたしの見ているところで聯隊の約束をなさったじゃありませんか……」 「任命状が届かなかったのです」 「でも階級が……」 「国王の不興を買って落ちぶれた以上は、それも諦めました」 「国王の不興? 何故ですの?」 「わかりません」 「ああ! 宮廷というところは……」王太子妃は悲しみを露わにした。  フィリップが侘びしげに微笑んだ。 「妃殿下は天使でいらっしゃいます。フランス王家にお仕えして、妃殿下の為に死ぬ機会を得ることが叶いませんのが残念でなりません」  王太子妃の双眸に激しい光がよぎり、フィリップは両手で顔を覆った。王太子妃はそれを慰めようとも、この瞬間にフィリップの頭を占めていた考えを取り除こうともしなかった。  王太子妃は声も立てず何とか息を吸って、ベンガル薔薇の花を震える手でむしり取った。  フィリップが再び口を開いた。 「許していただけますか」  マリ=アントワネットはその言葉には応えなかった。 「妹さんがそうしたければ明日にでもサン=ドニに入れます」王太子妃の声は燃えるように鮮やかだった。「そしてあなたは、一月後には聯隊の責任者になっているはずです。わたしがそういたしましょう!」 「妃殿下、先ほどの言葉を聞いてもなおこのようなご厚意を寄せて下さるのですか? 妹は妃殿下のご親切をお受けいたしますが、ぼくの方はお断わりせねばなりません」 「断ると言うのですか?」 「ええ。ぼくは宮廷で侮辱を受けました……侮辱した人たちは、ぼくが今より厚遇されたらもっとひどいことをしてくるでしょう」 「わたしの庇護があってもですか?」 「その故にますますひどくことなるでしょう」フィリップは断言した。 「その通りですね!」大公女は青ざめて呟いた。 「それに……忘れていました。殿下とお話ししながらすっかり忘れていました。この世に幸運などもうないことを……暗がりに籠ってもう外に出るべきではないことを。暗がりの中で勇気を持って祈り、心のよすがにいたします!」  フィリップの声の響きに、王太子妃は背筋がぞっとするのを感じていた。 「その時が来たら、今は頭の中で考えるしか出来ないことも、口にすることが出来ますもの。妹さんがそうしたくなったらいつでもサン=ドニに入れますよ」 「ありがとうございます。本当にありがとうございます」 「あなたの方は……どうか希望を仰って」 「ですが……」 「お願いですから!」  王太子妃の手袋を着けた手が下がるのが見えた。何かを待つように宙ぶらりんのまま。意味するところは恐らく命令にほかならなかった。  フィリップはひざまずき、手を取り、胸を高鳴らせながらゆっくりと口唇をつけた。 「希望を!」王太子妃は感動のあまり手を引っ込めることもしなかった。  フィリップが顔を伏せた。辛い思いが波となって、船を飲み込む嵐のようにフィリップを飲み込んだ……しばらくは口を聞くことも動くこともしなかったが、やがて立ち上がった顔色は変じ、目からは生気が消えていた。 「フランスを出る旅券を下さい。妹がサン=ドニ修道院に入った日に、ぼくはフランスを発ちます」  ぎょっとしたように王太子妃が後じさった。フィリップがどれほど苦しんでいるのかを理解し、共感してしまっては、曖昧な言葉を返すことしか出来なかった。 「そうですか」  そして常緑の帷子を纏った孤独な糸杉の並木道に姿を消した。 第百五十七章 父なし児  苦しみの日が、屈辱の日が、近づいていた。ルイ医師が頻繁に通う日数が増えても、フィリップが心を込めて優しく世話を焼いても、最期の刻が迫る死刑囚のように、アンドレは日に日に打ち沈んで行った。  フィリップは気づいていた。アンドレが時々ぼうっとして震え……両の目が乾いていることに……何日もの間アンドレは一言も口を利かなかった。それが急に立ち上がって、自分自身から逃れようと――苛まれている苦しみから逃れようと――部屋を慌ただしく駆け巡った。  とうとうある晩、アンドレがいつもより青ざめて感じやすくなっているのを見て、フィリップは医師にその夜のうちに来てもらえるよう遣いを送った。  十一月二十九日のことだった。フィリップは食事が終わるとアンドレといる時間を出来るだけ引き延ばすことにしていた。辛く悲しい内輪の話を二人で話し合った。だが怪我人が傷を乱暴に触られるのを嫌がるように、アンドレはその話題を嫌がっていた。  フィリップは灯りのそばに腰を下ろしていた。医師を呼びにヴェルサイユに向かっている女中が鎧戸を閉めるのを忘れていた為に、その灯りが反射して、初冬の寒さで庭の砂を覆っている雪の絨毯を穏やかに照らしていた。  フィリップはアンドレの心が落ち着く時が来るまで待ってから、何の前触れもなく口を開いた。 「ねえ、心は決まったかい?」 「何について?」ため息は悲痛にまみれていた。 「それは……おまえの子供のことだよ」  アンドレが身体を震わせた。 「もうすぐだろう?」 「おぞましい!」 「だけど驚かないよ、それが明日でも……」 「明日ですって!」 「今日でもおかしくないだろう」  アンドレの青ざめ方が尋常ではなかったので、フィリップはぎょっとして、アンドレの手をつかんで口づけした。  すぐにアンドレは落ち着きを取り戻した。 「お兄様、わたくしは惨めな魂を貶めるようなこうした偽善をお兄様と分かち合うつもりはありません。わたくしにとっては良かろうと悪かろうと偏見は偏見です。善なるものを疑い出してからというもの、悪なるものがわからないのです。ですから、これから申し上げるものの考え方を真面目に聞いていただく気がないのであれば、どうか狂人の言うことだと思ってあまり厳しくお咎めにならないで下さい。これから申し上げるのは、わたくしのたった一つの心そのもの。わたくしの思いをまとめたものです」 「おまえが何を望もうとも、何をしようとも、ぼくにとって誰よりも愛しく誰よりも大切な女であることに変わりはないよ」 「ありがとう、お兄様。お兄様が仰ったことが的を外している、とは申しません。わたくしは母親になります。それでもわたくしは信じております」アンドレは顔を赤らめた。「人間の出産とは植物が実を結ぶのと変わらないものであるべし、と神が望んでいることを――。果実は花の後にしか実りません。植物は花が開いている間に準備をして形を変えるのです。わたくしが思いますに、花、とはつまり、愛に当たるのではないでしょうか」 「その通りだね、アンドレ」 「わたくしは準備も変化もしておりません。畸形なのですわ。愛にも色欲にも溺れたことはなく、身体と同じく心も魂も処女《おとめ》なのですから……それなのに!……ひどい奇蹟!……望んでなどいないのに、思ってさえいないのに、神様から授かったなんて……実をつけぬ木に果実を授けたことなどない神様が……いつそんな事実が? 可能性さえなかったというのに?……子を産む苦しみを味わう母親は、産まれてくる子供のことを知っているというのに、わたくしは何もわからない。考えるだけで恐ろしい。その日が来ることを思っても、死刑台に上る心地しかしないのです……フィリップ、わたくしは呪われているのですわ!……」 「アンドレ!」 「フィリップ……」アンドレが声を荒げた。「この子を憎まずにいられるでしょうか?……無理です。この子が憎い! 生きているうちは毎日、初めてこのおぞましい子を腹に宿した日のことを思い出さずにはいられないでしょう。そして思い出すたびに怖気を震わずにはいられません。無垢な赤ん坊が身動きすれば、母であれば嬉しいはずです。でもわたくしの血は怒りに燃え、これほどまでに汚れのない口唇からも呪詛の言葉が吐き出されることでしょう。フィリップ、わたくしはいい母親にはなれません! わたくしは呪われているんです!」 「アンドレ、頼むから落ち着くんだ。考え過ぎて気持を乱してはいけない。この子はおまえの血肉を分けた生命じゃないか。ぼくはこの子を愛している。だっておまえの子なんだから」 「この子を愛しているですって!」アンドレは怒りに青ざめていた。「よくもわたくしに向かって、わたくしたちの恥を愛していると言えたものですね! こんな犯罪の証拠、卑劣な犯罪者の忘れ形見を愛しているだなんて!……いいわフィリップ、先ほど言った通り、わたくしは臆病でもなければ偽善者でもないんです。この子が憎い。わたくしの子じゃありませんから! こんな子、望んだわけじゃないのですから! この子が呪わしい。きっと父親に似ているに違いないもの……父親!……そんな言葉を口にしたら、いつか死んでしまいそう! ああ神様!」アンドレが床に膝を突いた。「主よ! わたくしには産まれて来る子を殺すことが出来ません。あなたが生命を吹き込んだ子だから……子を宿している限りは自らの命を絶つことも出来ません。あなたが殺人に加えて自殺も禁じたからです。でもどうか、お願いですから、願いを聞いていただけたら、主よ、あなたに正義があるなら――この世の悲しみを気に掛けて下さるなら――このわたくしが恥と涙にまみれて生きた後で絶望のあまり死んでしまうことはないと請け合って下さるなら――どうか主よ、この子をお持ち帰り下さい! この子を殺して下さい! わたくしを救って下さい! わたくしの名誉をお返し下さい!」  激しい怒りと神がかった力で、アンドレは大理石の角に頭を打ちつけた。フィリップが懸命にしがみついても止めることは適わなかった。  突然、扉が開いた。女中が医師を連れて戻って来たのだ。医師は一目見て状況を読み取った。 「よいですか」医師は常と変わらぬ冷静な声を出した。それである者は命令に従い、ある者は素直に言うことを聞くようになる。「陣痛が来ても騒ぎ立ててはなりませんよ。間もなくかもしれない……」それから女中に向かい、「馬車の中で伝えたものをすべて用意するように。それからあなたは――」とフィリップに向かい、「妹さん以上に落ち着かねばなりません。一緒になって怯えたり弱気になったりせずに、私と一緒に励ましてあげるのです」  アンドレが狼狽えたように立ち上がったが、フィリップが椅子に押し戻した。  アンドレは苦しさに赤らみ、痛みに引きつって倒れ込んだ。握り締めた拳が椅子の縁飾りに触れ、青ざめた口唇から呻き声が洩れた。 「こんな風に苦しんだり倒れたり怒ったりするから発作が進んだのです。部屋に戻っていただけますか、ド・タヴェルネさん、それから……さあ、しっかり!」  フィリップは胸をふくらませてアンドレに駆け寄った。横たわって胸を上下させていたアンドレが、苦しさに耐えて起き上がり、フィリップの首に両腕を巻きつけた。  アンドレはがっちりとしがみつき、フィリップの冷たい頬に口唇を押しつけ、囁いた。 「さよなら!……さよなら!……さようなら!……」 「先生! 先生!」フィリップが絶望の叫びをあげた。「聞いて下さい……」  ルイ医師は優しいながらも断固として二人を引き離し、アンドレを再び椅子に坐らせ、フィリップを部屋に連れて行った。そうしてアンドレの部屋についている錠を掛け、カーテンも扉もすべて閉めて、この部屋に閉じ込めることで、女が医師も無しで、そして二人が神も無しで済まそうとしていた出来事をすっかり覆い隠した。  午前三時、医師が扉を開けると、その向こうでフィリップが泣きながら祈っていた。 「妹さんは男の子を産みましたよ」  フィリップが手を合わせた。 「入らないで。今は眠っている」 「眠っている……先生、本当に眠っているのですか?」 「もし違っているのなら、別の言い方をしていますよ。『妹さんは男の子を産みましたが、この子は母を亡くしてしまった……』と。何なら確かめてご覧なさい」  フィリップは覗いてみて、 「本当だ! 本当です!」と呟いて医師を抱きしめた。 「子守りの用意も出来ていますよ。ポワン=デュ=ジュールを通りがかった際に、そこに住んでいる子守りに、準備しておくように前もって伝えておきましたから……とは言うものの、連れて来るのはあなたでなければなりません。会いに行くのはあなたでなくてはならないのです……妹さんが眠っている間に、私が乗って来た馬車でお出かけなさい」 「先生はどうなさるのです?……」 「ロワイヤル広場に重篤な患者がいて……肋膜炎です……夜の間はそばにいて、薬を与えて結果を確認したいのです」 「冷えますよ……」 「外套がありますから」 「街は安全ではありません」 「この二十年というもの、何度も夜中に襲われましたよ。そのたびに答えて来ました。『私は医者で、病人のところに行くのです……欲しいのは外套ですか? 差し上げます。しかし命は取らないでもらえますか。私がいないと病人が死んでしまうのです』。この外套は二十年間役に立ってくれたのです。追剥ぎたちは取らずにいてくれました」 「先生!……明日でよいでしょうか?」 「明日の八時に参りましょう。では」  病人のそばで手厚く看護するようにと、医師は女中に指示を出した。医師の気持としては、子供は母のそばにいるべきだったが、フィリップは離してくれるように頼んだ。妹から先ほど見せられた激しい反応を忘れられなかったのだ。  そこでルイ医師は手ずから赤子を女中部屋に入れ、モントルゲイユ街から抜け出し、その間にフィリップはルール側から辻馬車に乗って出かけた。  女中はアンドレの傍らで、椅子に坐って眠りに就いた。 第百五十八章 誘拐  ひどい疲れに襲われ、眠ってそれを癒している間に、心は二つの力を勝ち取ったようだ。安全な状況を理解し、死ぬほど憔悴している肉体に目を配っていた。  意識を取り戻したアンドレが目を開けると、傍らに女中が眠っている。火床が元気に爆ぜる音を聞き、部屋が静けさに包まれているのを感じた。何もかもが自分と一緒に眠っていたようだった……  智性はまだ目覚めきってはいない。さりとて眠りに就いているわけでもない。そんな半醒半睡の状態をだらだらと引き延ばすのが心地よかった。疲弊した意識の中に感性が一つ一つゆっくりと戻って来るに任せよう。理性のすべてが突然戻ってしまうのが怖いわけではないけれど。  不意に、遠くでかすかな泣き声のするのが、厚い壁を通して聞こえて来た。  あれほど苦しんでいた震えが甦る。壜の中でたゆたっていた澱が衝撃で濁るように、数か月前から無垢と善意を濁らせていた憎しみが甦った。  その瞬間から、眠りも安らぎもなくなった。忘れられない憎しみを覚えていた。  だがたいていの場合、感情の力も肉体の力に比例する。アンドレに残されていたのは、フィリップと過ごした夜に見せた力がすべてだった。  赤ん坊の泣き声が傷のように脳を穿ち、拷問のように脳を穿った……フィリップが思いやりからこの子を遠ざけたのだとすれば、残酷な命令を実行したりはしなかったのか……。  幾ら悪いことを考えようとも、こんな状況ほど嫌悪を抱かせることなどない。アンドレはまだ見ぬこの子を憎んでいた。この子が形を表すのが怖かった。この子の死を望んでいた。それなのに、泣き声を聞くと心が痛んだ。 「辛いのだわ」とアンドレは考えた。  それからすぐに自問する。 「あの子が辛がっているからどうだと言うのかしら……わたくしほど不幸な人間はいないのに」  赤ん坊がさらに大きく辛そうな声をあげた。  その声が不安な声を呼び覚ましたように感じられたことに気づき、見えない糸に引かれるように、泣きじゃくっている見捨てられた存在に向かって心が引っ張られるのを感じた。  漠然とした予感が現実となった。この世の摂理が準備の一つを終えた。腹を痛めたという事実は強い吸引力を持っていた。こうして赤ん坊の僅かな動きにも母親の心は引き寄せられた。 「いけない。今あの子は泣き叫んでいる。天に向かってわたくしを恨んで泣いている。産まれて間もない赤子たちに、気持が届けられるような大きな声を、神様がお与えになったのだ……この子たちを殺して苦しみから救うことは出来るけれど、辛い思いをさせる権利などない……そんな権利があるのなら、そもそもこの子たちがこうして泣き喚くことなど神様も許しはしないはずだもの」  アンドレは顔を上げて女中を呼ぼうとした。だが弱々しい声では眠っている女中を起こすことが出来なかった。いつの間にか赤ん坊も泣きやんでいた。 「きっと子守りが来たのだわ。扉の音が聞こえたもの……ほら、隣の部屋で足音がする……もう泣いてない……助けが来たのだとわかって、小さな心も安心したのでしょう。何てことかしら! あそこにいて子供の面倒を見ているのが母親なのでは?……僅かなお金で……わたくしの腹から産まれたあの子もやがて母を目にすることになるはず。そのうち、あれほど苦しんで命を与えたわたくしのそばを通りかかっても、わたくしには見向きもせずに、献身的な雇われ者に向かってわがままいっぱいに『お母さん!』と声をかけるのだわ。確かに恨みに感じているわたくしよりはよほど献身的でしょうけれど……そんなことさせるものですか……あれほど苦しんで、この子の顔を覗き込んでじっと見つめる権利を得たのだから……わたくしには愛してもらえるように世話をする権利があるし、立派な人だと思ってもらえるように犠牲を払い苦しみを舐める権利があるはずですもの!」  アンドレは懸命に身体を動かし、力を振り絞って声をかけた。 「マルグリット! マルグリット!」  女中がようやっと目を覚ましたが、身動きもせずに痺れたように椅子に沈んでいた。 「聞こえた?」 「はい、お嬢様、只今!」ようやく頭がはっきりとして来たらしい。  マルグリットは寝台に近寄った。 「お飲物でしょうか?」 「いいえ……」 「只今の時刻ですね?」 「そうじゃ……ない」  アンドレは隣の部屋の扉から片時も目を離さなかった。 「わかりました……お兄様がお戻りになったかどうかお知りになりたいのですね?」  高慢な魂が弱々しく、そして熱く高潔な心が力強く、アンドレの願いと戦っていた。 「わたくしは……」アンドレがついに口を開いた。「わたくしは……その扉を開けなさい、マルグリット」 「かしこまりました……まあ寒い!……風が!……凄い風!……」  アンドレの部屋にも風が吹き込み、蝋燭や燈火の炎を揺らした。 「子守りが扉か窓を開けっ放しにしているのではないかしら。見て来て、マルグリット……あの……子が寒がっているでしょうから……」  マルグリットが隣の部屋に向かった。 「毛布でくるんで参りましょうか」 「いい……え!」アンドレの声は途切れがちだった。「ここに連れて来て」  マルグリットが部屋の中で立ち止まる。 「その……フィリップ様が仰るには、赤ちゃんはあそこに寝かせておけと……お嬢様をご不快にさせたり昂奮させたりしないようにとのご配慮かと存じますが」 「連れて来なさい!」心が破けそうなほどの叫びだった。苦しみのただ中で乾ききった目から、涙がほとばしった。幼子たちの守護天使がそれを見ればきっと天国で笑顔を見せたに違いない。  マルグリットが部屋に駆け込む。アンドレは坐ったまま両手で顔を覆っていた。  マルグリットはすぐに戻って来たが、何が起こったのかわからないといった顔をしていた。 「どうしたの?」 「それが……どなたかいらっしゃったのですか?」 「どういうこと?……誰かとは?」 「赤ちゃんがいらっしゃいません!」 「さっき物音がしたけれど……足音が……あなたが眠っている間に子守りが来て……起こしたくなかったのだと……それよりお兄様は何処? 部屋を見て来て」  マルグリットが慌ててフィリップの部屋に向かったが、誰もいなかった! 「変ね!」胸の動悸が激しくなっていた。「わたくしに会いもせずにまた出かけたのかしら……?」 「お嬢様!」 「何?」 「通りの扉が開きました!」 「確認して!」 「フィリップ様です、お戻りになりました……早く、早くお入り下さい!」  確かにフィリップだった。後ろには粗末な毛糸の外套を纏った農婦が、家庭的な好ましい笑顔を見せている。女中は改めて歓迎の言葉を伝えた。 「アンドレ、戻って来たぞ」部屋に入るなりフィリップが言った。 「お兄様!……迷惑をかけてしまってごめんなさい! あら、そこにいるのは子守りの方ね……出て行ってしまったかと思っておりました……」 「出て行ったって?……今来たところだぞ」 「戻って来たと仰りたいの? だって……先ほど確かに聞いたんです、静かにとは言え歩いているのを……」 「どういうことだい。誰も……」 「ありがとう」アンドレがフィリップを引き寄せて、言葉の一つ一つをはっきりと口にした。「お兄様はわたくしのことをよくわかって下さってますもの。わたくしがこの子に会って……抱きしめるまでは、連れ出そうとはなさらなかったんでしょう……フィリップ、わかって下さって嬉しいわ……ええ、そうなんです、落ち着いて聞いて下さい、わたくし、この子を好きになれそうなんです」  フィリップがアンドレの手をつかんで口唇を押し当てた。 「ここに連れて来てくれるよう子守りに伝えて……」若き母親はそう言った。 「それがフィリップ様、赤ちゃんはあそこにはいらっしゃいませんから」 「何だって? 何を言っているんだ?」  アンドレが不安げに兄を見つめた。  フィリップが女中の寝台に向かい、そこに誰もいないのを目にして恐ろしい悲鳴をあげた。  アンドレは鏡に映ったフィリップの動きを追って、フィリップが青ざめ、腕を硬直させるのを見た。悲鳴に応えるように吐き出された溜息を聞き、真実の一部を悟った。アンドレは気を失って枕の上に倒れ込んだ。またもや不幸が起こるとは、しかもこれほど大きな衝撃だとは、よもやフィリップも想像していなかった。懸命になって、アンドレをさすり、慰め、涙を流し、ようやく意識を取り戻させた。 「赤ちゃんは何処?」アンドレが囁いた。「赤ちゃんは?」  ――母親を助けなければ、とフィリップは考えた。「アンドレ、ぼくらも馬鹿だなあ。先生が連れて行ったのを忘れていたよ」 「先生が?」その声には疑いと希望が相半ばしていた。 「ああ、そうさ。そうだとも……ちょっと混乱していたんだ……」 「フィリップ、誓って本当なのね?……」 「アンドレ、ぼくが誠実なのはわかっているだろう……どうしてあの子が……いなくなるだなんて思ったんだ?」  フィリップは子守りと女中に同意を求めるようにして作り笑いを浮かべた。  アンドレはなおも言い募った。 「でも聞こえたんです……」 「何をだい?」 「足音が……」  フィリップがぎょっとした顔を見せた。 「何を言っているんだ! 眠っていたんだろう?」 「いいえ、起きていました。聞こえたんです……聞こえたんです!……」 「そうか、じゃあ先生だよ。赤ん坊の具合が心配で、後で戻って来て連れて行こうとしたんだろう……そんな風に話していたからね」 「本当ね」 「本当に決まっているじゃないか……何でもないよ」 「でもそうしますと、あたしはここで何をすればよろしいのでしょうか?」子守りがたずねた。 「まったくだ……先生があなたのお宅で待っているはずだ……」 「あらまあ」 「先生のところに行くといい。さあ……マルグリットはぐっすり眠っていたから、先生の言ったことが聞こえなかったんだ……或いは先生が何も言おうとしなかったのかもしれない」  アンドレが衝撃から立ち直り、落ち着きを取り戻した。  フィリップは子守りを追い払い、女中を部屋に残した。  それから明かりを手に取り、隣室の扉を丹念に調べ、庭の門が開いて雪の上に足跡があるのを見つけた……足跡をたどって門までたどり着いた。 「人間の足跡だ!……赤ん坊は攫われたんだ……何てことだ! 何てことだ!」 第百五十九章 アラモン村  雪につけられた足跡はジルベールのものだった。先日バルサモと話し合いを持ってからというもの、監視を怠らず果たし復讐の準備をおこなっていたのだ。  何一つ苦労はなかった。甘い言葉と愛想の良さを弄して、ルソーの妻から受け入れられるどころか慈しまれてさえいた。方法は単純なものだった。ルソーからは書写代として一日三十スー貰っており、週に三回その中から一リーヴル取り除けて、テレーズにあげるささやかな贈り物を購入したのだ。  ある時はボンネット用のリボン、ある時は砂糖菓子や、ワインボトル。テレーズは味覚や誇りをくすぐられてその気になり、時には食卓に飛びついたジルベールから料理の腕前を褒められて気をよくした。  そうなのである。ルソーの口添えの甲斐あってジルベールは食卓に着くことを許されていた。こうして二か月前から面倒を見てもらえたおかげで、藁布団の下に仕舞い込んでいた財産に二ルイを加えることが出来た。その隣にはバルサモから預かった二万リーヴルがある。  それにしても何という生活だろう! 振舞や考えの端々に揺るぎがない。朝起きるとジルベールは無謬の目でアンドレの状態を確かめ、暗く規則的な隠遁生活に何の変化も入り込んでいないことを見極めた。  ジルベールの目から逃れられるものなどなかった。庭の砂上にあったアンドレの足跡も見逃さなかったし、閉められたカーテンの隙間の多寡によってアンドレの機嫌を見抜いた。カーテン――閉じ籠もったアンドレは天の光に晒されることさえ拒んでいたのだ。  このようにしてジルベールはアンドレの胸中や家の中で起こっていることを把握していた。  同じようにしてフィリップの歩き方から意図を推しはかるすべも覚えた。それがわかってからというもの、何の為に出かけようとしているのかも、どういう結果を持って帰って来たのかも、誤ることはなかった。  フィリップがルイ医師に会いにヴェルサイユに向かった晩には、跡を尾けるに至るまで徹底していた……このヴェルサイユ訪問にはジルベールも戸惑った。だが二日後に医師がコック=エロン街の庭に人目を避けて入り込んだのを見て、一昨晩の謎が氷解した。  日にちは知っているのだ。すべての希望が実現する瞬間が近づいているのを知らないわけがない。困難に満ちた計画を滞りなく成功させる為に必要な用意を始めていた。計画はこのように進められた。  二ルイはフォーブール・サン=ドニで二頭立ての二輪馬車を借りるのに使った。必要な日に指示通りに動いてくれるのだ。  さらにジルベールは三、四日休みを貰ってパリ近郊を調査した。その間、パリから十八里離れたところにある、巨大な森に囲まれた、ソワソネの小村を訪れた。  この村の名はヴィレル=コトレという。ジルベールは村を訪れると真っ直ぐにニケ氏という名の村でただ一人の公証人の許に向かった。  ジルベールは自分のことを大領主の会計係の息子だと名乗った。小作人の子のことを考えた領主から、子守りを見つけて来いと頼まれたのだと告げた。  大領主は気前がいいから子守りの月給に糸目はつけないはずだ、と伝えてから、子供の為にと言ってニケ氏の手に幾ばくかの金を握らせた。  なるほどニケ氏には三人の息子がいたので、ヴィレル=コトレから一里のところにアラモンという小村があり、息子たちの子守りだった女の娘が、この事務所で正式に婚姻の手続きをした後で母の仕事を継いでいると教えてくれた。  この女将さんの名はマドレーヌ・ピトゥといい、何処から見ても健やかな四歳の息子がいた。そのうえもう一人産んだばかりなので、ジルベールの好きな時に赤ん坊を連れてくればいい。  こうしてすべての手筈を整えると、几帳面なジルベールは休暇の終わる二時間前にパリに戻った。さて、ジルベールがどうしてほかの村ではなくヴィレル=コトレを選んだのか疑問に思われる方もおいでだろう。  今回もほかの多くの場合と同様に、ジルベールはルソーの影響を受けていた。  ルソーはかつて、ヴィレル=コトレの森を、類を見ないほど植生の豊かな森だと言っていた。そしてこの森の中に、木の葉の奥に隠れている巣のように、三つか四つの村が存在していると。  だから、この村のどれかでジルベールの子供を探そうとしても見つけられる心配はない。  分けてもアラモンはルソーに強い印象を与えた。人間嫌いで孤独な隠者であるルソーが、いつも繰り返すほどだった。 「アラモンはこの世の果て。人跡も途絶えた地。枝の上で生き葉の下で死ぬ鳥のように、生き死にすることが出来るのです」  ルソーは田舎家の詳しい事情までジルベールに話していた。心を温かくするような家庭の様子を語って聞かせていた。子守りの笑顔に、山羊の鳴き声。簡素なキャベツのスープの立てる食欲をそそる匂いに、野生の桑や紫ヒースの香り。  ――あそこに行こう、とジルベールは考えた。ルソーさんが希望や失望を味わった木陰の下で、僕の子は大きくなるんだ。  ジルベールにとって思いつきで行動するのはいつものことだったし、今回の場合は表向き道徳的な理由があるのだからなおさらだった。  だからジルベールの気持を汲んだニケ氏が、希望にぴったりの村だと言ってアラモンの名を挙げた時には、喜びもひとしおだった。  パリに戻るジルベールが心配していたのは二輪馬車のことだった。  二輪馬車は立派ではないが頑丈だった。それでいい。馬はずんぐりとしたペルシュ馬で、御者は愚鈍な馬丁だったが、ジルベールにとって大事なのは人目を引かずに目的地に着くことだった。  ジルベールのついた嘘はニケ氏には何の疑念も抱かれなかった。新しい服を着て立派な身なりをしていたので、良家の会計係なり人目を忍んだ公爵や大貴族の従僕なりだと名乗っても不自然ではなかったのだ。  御者の方は輪を掛けて何も疑わなかった。庶民から貴族に至るまで秘密を持っていた時代なのだ。当時の人間は心づけを受け取りさえすれば何もたずねたりはしなかった。  そのうえ当時は二ルイに四ルイの価値があったし、四ルイは今日から見ても稼ぐに値する金額だ。  そこで御者は、二時間前に知らせてくれさえすれば、希望通りの場所に行くと約束した。  この計画はジルベールにとって、詩心と哲学観という異なる衣装を纏った二匹の妖精が好ましい事態と決断をもたらすという点において、魅力的なものだった。冷たい母から子を攫おう。恥と死を敵陣に撒き散らそう。その後で姿を変えて、田舎家に乗り込むのだ。ルソーの言う通りなら善良な村人たちの許に。そうして揺りかごの上に大金を置いておけば、貧しい人たちが守護神のように見守ってくれるだろう。大人物の子供なのだと思ってくれるはずだ。これで誇りと恨みを満足させられる。隣人の為の愛も、敵に対する憎しみも、満足させられる。  ついに運命の日がやって来た。この十日間というもの、日中は苦悶のうちに過ごし、夜間は眠れずに過ごしていた。どんなに寒かろうとも窓を開けて横たわり、アンドレやフィリップの一挙手一投足に耳を預けた。紐を引く手を呼鈴に預けておくように。  その日はフィリップとアンドレが暖炉のそばで語らっていた。女中が鎧戸を閉めるのも忘れて大急ぎでヴェルサイユに向かったのも目撃していた。ジルベールは直ちに御者に知らせに走った。御者は厩舎の前に馬を留めて拳を咬んだり歩道を蹴ったりして苛立ちを抑えていた。すぐに御者は馬に跨り、ジルベールは馬車に乗り込んだ。そして市場のそばの人気のない通りの端で馬を止めさせた。  そこでルソーの家に戻って、ルソーへの別れの手紙とテレーズへの感謝の手紙を書いて、南仏でちょっとした遺産が入ったことや戻って来るつもりのこと……詳しいことは書かずにそれだけを伝えた。ポケットに金を入れ、袖口に長庖丁を入れて、鉛管を伝って庭に降りた途端に、一つのことに思い当たった。  雪だ!……この三日というもの無我夢中だったので、そんなことを考える余裕もなかった……雪の上に足跡が残る……ルソー家の壁まで続いている足跡を見れば、フィリップとアンドレは間違いなくそれを調べさせるだろうし、そうすればジルベールの失踪と誘拐が関連づけられ、すべての秘密が明るみに出てしまうだろう。  こうなればコック=エロン街から迂回して、庭の門から入る必要がある。こんな時の為に、ジルベールは一月前から万能鍵を身につけていた。門から続いている小径は踏み固められているから、足跡は残らない。  ジルベールは時間を無駄にしなかった。目的地にたどり着くと、ちょうどルイ医師を運んで来た辻馬車が正面玄関に止まっているところだった。  ジルベールは慎重に門を開けたが、誰の姿も見えなかったので、温室から近い家の陰に隠れた。  恐ろしい夜だった。あらゆる声が聞こえて来た。苦痛による呻きや叫び。産まれた我が子の第一声も聞くことが出来た。  だがジルベールは剥き出しの石にもたれたまま、石の冷たさを感じもせずに、真っ暗な空から固く詰まった雪が落ちて来るのに任せていた。胸に押しつけているナイフの柄に、心臓の鼓動が伝わる。凝視する目には血の色が、炎の光が宿っていた。  ようやく医師が出て来て、フィリップと別れの言葉を交わした。  ジルベールは鎧戸に近づいた。くるぶしまで埋まって雪の絨毯に足跡をつけた。アンドレが寝台で眠っている。マルグリットが肘掛椅子でまどろんでいる。母の傍らに赤子を探したが、何処にも見えない。  すぐに状況を理解して玄関に向かい、音も立てずに扉を開けて、ニコルのものだった寝台までたどり着いた。手探りのまま凍えた指で赤ん坊の顔に触れると、痛がって泣き出した。アンドレが耳にしたのはこの声だった。  ジルベールは赤ん坊を毛糸の毛布にくるんで連れ出した。音を立てる危険を冒さないように、扉は半開きのままにしておいた。  一分後、ジルベールは庭から外に出ていた。二輪馬車まで駆けて行き、幌の下で眠っていた御者を押しのけた。革のカーテンを引いている間に、御者が改めて馬に跨った。 「十五分で市門を越えられたら半ルイやる」  蹄鉄をつけた馬がギャロップで駆け出した。 第百六十章 ピトゥ家  道すがら何を見聞きしてもジルベールは怯えていた。後ろを走る馬車や追い抜いてゆく馬車の音、葉の落ちた木々の間を吹き抜ける風の呻き――そうした音の一つ一つが、群れをなして追って来る追跡者の声や、子供を奪われた者たちの叫びのように聞こえた。  だが危険は迫ってなどいなかった。御者は立派に務めを果たし、二頭の馬は湯気を立てて時間通りにダマルタンに到着した。曙光もまだ見えてはいない。  ジルベールは御者に半ルイ渡し、馬と御者を替えて逃走を続けた。  この間赤ん坊は毛布にくるんでジルベールが自ら抱えていた。寒さでひきつけを起こしたり泣き声もあげたりもしなかった。陽が昇ると間もなく遠くに村が見えた。ジルベールはいっそう安心を確かにし、ぐずり始めた赤ん坊をおとなしくさせる為に、タヴェルネで狩りから帰る時に歌っていた歌を歌い始めた。  車軸や革紐の軋み、車体の金属音、馬の鈴の音が不気味な伴奏となっているところに、御者がブルボネーズをがなり立てたおかげで、いっそう騒がしくなった。  こうしたわけで、馬車の中に赤ん坊がいるとは、御者はゆめゆめ疑わなかった。御者はヴィレル=コトレの前で馬を止めると、約束通り馬車賃に加えて六リーヴル=エキュ受け取った。ジルベールは赤ん坊を念入りに毛布でくるむと、いっそう力を込めて歌を歌いながら馬車から離れ、溝を跨いで落葉の散らばった小径に姿を消した。道を下り、左に曲がれば、アラモン村に着く。  寒さが増して来た。数時間前から雪の量が増えていた。固い地面は棘や筋のある茂みで覆われている。上空には葉の落ちた陰気な森の木々がくっきりと姿を見せ、まだ靄に覆われた白い空に枝がさやかに浮かび上がっていた。  痺れるような空気、楢の蜜の香り、枝の先から垂れる氷の粒……こうした野性や詩情の何もかもが、ジルベールの想像力を荒々しく揺すぶった。  小さな谷間を自信満々に素早く歩き回った。身じろぎもせず、躊躇いもしなかった。木立の中で、村の鐘や、暗い枝の格子越しに洩れて来る暖炉の青い煙を探していたのだ。小半時後、土手に木蔦と黄クレソンの生えた小川を渡り、最初に見つけた小屋で、農夫の子供たちにマドレーヌ・ピトゥの家まで案内を頼んだ。  子供たちは呆然として固まるような農夫の如き反応は見せずに、無言でいそいそと立ち上がり、余所者の顔を覗き込み、手を繋いで、それなりに大きく立派な藁葺きの家までジルベールを連れて行った。その家はこの村のほかの家と同じように、小川のへりに立っていた。  小川には澄んだ水が流れ、雪解けでわずかに増水していた。木で出来た橋、というか、大きな板の向こうには、家の土台と同じ高さにある道が見えた。  案内している子供の一人が、マドレーヌ・ピトゥはあそこに住んでいる、とジルベールに目顔で教えた。 「あそこかい?」  子供が口を閉じたままうなずく。 「マドレーヌ・ピトゥだね?」ジルベールが改めてたずねた。  またも子供が無言で同意を示したので、ジルベールは橋を渡って扉を押した。それを再び手を繋いだ子供たちがじっと見つめていた。茶色い服を着て留金つきの短靴を履いたこの紳士は、マドレーヌの家で何をするつもりなのだろう。  扉が開くと、一般的に言って誰の目にも魅力的な光景が――分けても哲学者の卵の目には魅力的な光景が、飛び込んで来た。  体格のいい女将さんが生後数か月の赤ん坊に乳をやっていた。その前では四、五歳の逞しい男の子がひざまずいて祈りを口にしていた。  窓のそばにある暖炉の角に三十五、六の夫人が一人いて、亜麻を紡いでいた。もっとも、窓といっても壁に空いた穴にガラスを嵌めたようなものであった。夫人の右には紡ぎ車が、足許には木製の腰掛けが、腰掛けの上には大きなプードルがいた。  犬はジルベールを見て礼儀正しく歓迎の吠え声をあげた。それが犬の示した警戒心のすべてであった。祈っていた子供が主の祈りをやめて振り返った。二人の夫人は驚きと喜びの中間くらいの声をあげた。  ジルベールは子守りに向かって微笑んだ。 「マドレーヌさん、はじめまして」  夫人が飛び上がった。 「あたしの名前を知っていなさるんですか?」 「お聞きの通りです。でもどうか口を挟まないでいただきたい。世話をする赤ん坊を一人から二人に増やしてもらいます」  ジルベールは村の赤ん坊が寝ている揺りかごに、抱いていた町の赤ん坊を寝かせた。 「可愛いねえ!」糸を紡いでいる夫人が言った。 「そうだね、アンジェリク、可愛いよ」マドレーヌも言った。 「ご姉妹《きょうだい》なのですか?」 「ええ、良人のね」 「ジェリク伯母さんなんだ」男の子がひざまずいたまま低い声で呟いた。 「お黙りなさい、アンジュ。話の邪魔をしちゃいけないよ」 「面倒なことをお願いするつもりはありません。この子は主人の領地で働いていた農夫の息子なのですが……その農夫は破産してしまい……主人はこの子の代父だったことから、田舎で育てて、立派な農夫にさせてやりたいと……健康で……善良な……この子を預かっていただけますか?」 「でも旦那さん……」 「昨日産まれたばかりで、まだ子守りもいません。この子のことはヴィレル=コトレの公証人ニケさんからお聞きしているかと思いますが」  マドレーヌはすぐに赤ん坊を抱き寄せ、惜しみなく乳を与えた。ジルベールはそれを見て感動を覚えた。 「間違ってはいませんでした。あなたは立派な方です。主人の名の許に、この子をお預けいたします。ここでなら幸せになれるでしょうし、何かを見つけてこの藁葺き家に幸運をもたらしてくれるものと願ってます。ヴィレル=コトレのニケ氏の子供には月に如何ほど費やしておいでですか?」 「十二リーヴルです。でもニケさんはお金持ちですから、砂糖代や世話代に何リーヴルか足して下さることもありました」 「マドレーヌさん、ではこの子には月に二十リーヴルお支払いいたしましょう。年に二百四十リーヴルです」ジルベールは誇らしげに答えた。 「それはまあ! ありがたいことです」 「今年の分です」ジルベールが卓子の上に十ルイ並べると、二人の夫人は目をまん丸くし、アンジュ坊やはがさがさの手を伸ばした。 「でも赤ん坊が死んでしまったら?」子守りがおずおずとたずねた。 「それは大変な不幸ですね。起こってはならない不幸です。これが子守りの月給になりますが、不満はありませんか?」 「ええ」 「来年からの宿代の話に移りましょう」 「この子はずっとここで預かることに?」 「そうなるでしょうね」 「そうなりますと、あたしらがこの子の父母になるんですか?」  ジルベールは青ざめた。 「そうです」押し殺した声を出す。 「そうしますと、可哀相にこの子は捨てられたんですね?」  こうした不安や質問はジルベールにはまったくの不意打ちだったが、どうにか自制することが出来た。 「まだお話ししていないことがあります。この子の父親は苦しみのうちに死にました」  二人の夫人は感情も豊かに手を合わせた。 「母親は?」子守りのアンジェリクがたずねた。 「母親ですか……母親は……」ジルベールはやっとのことで深呼吸した。「……既に産まれて来た子であろうと、これから産まれて来る子であろうと、あのひとを当てにすることは出来ません」  ちょうどその時、父親のピトゥが畑から帰って来た。穏やかで機嫌が良さそうだ。グルーズが絵に描いたような、優しさと健康に満ちあふれた無骨な正直者といった類の人物だった。  話をすっかり聞くまでもなかった。ピトゥは自尊心によって状況を――それも自分には理解できない状況を――理解していた。  ジルベールはピトゥに話をした。赤ん坊が大人になるまで――つまり智恵と肉体の力を借りて一人で生きられるようになるまでは――必ずや宿代を払い続けると。 「そうだな。この子のことを可愛がってやれるだろう。何たって可愛いしな」 「この人もだよ!」アンジェリクとマドレーヌが言葉を交わした。「あたしらと同じことを感じたらしいね!」 「では一緒にニケ氏のところまで来ていただけますか。必要なお金はニケ氏に預けようと思います。そうすればあなたがたにもご満足いただけるだろうし、この子も幸せになれるはずですから」 「すぐ参りますよ」と言ってピトゥが立ち上がった。  ジルベールは夫人たちに暇乞いをして、家の子を押しのけて我が子を寝かせておいた揺りかごに近づいた。  覗き込んで初めて我が子をしっかりと見てみると、アンドレに似ていることに気づいた。  心が音を立てて砕けた。身体に爪を立てて、心の奥から湧き出てこようとする涙を懸命に堪えた。  おずおずと、震えながら、赤ん坊の冷たい頬に口づけをしてから、ふらふらになって後ろに下がった。  ピトゥは既に戸口に向かい、手には鉄を履かした杖を持ち、上着を身につけていた。  ジルベールが足許にまとわりついていたアンジュ・ピトゥ坊やに半ルイやると、夫人たちが田舎特有の親密さで抱擁を求めた。  こうした感動は十八歳の父親には刺激が強すぎたので、もう少しでそれに負けそうになった。青ざめて神経質になり、冷静さを失い始めた。 「行きましょうか」ジルベールがピトゥに言った。 「いつでもどうぞ」先に進んでいたピトゥが答えた。  そうして二人は出かけた。  突然、マドレーヌが戸口から大声でジルベールを呼んだ。 「旦那さん!」 「何か?」 「名前ですよ! 名前! この子の名前は?」 「ジルベールと言います!」若者は誇らしげに答えた。 第百六十一章 出発  公証人の家でおこなわれた取り決めは万事速やかだった。ジルベールは数百リーヴルを子供の教育や世話に充て、さらには成人した子に農場を作る為に取りのけてから、残りの二万リーヴルを預けた。  十五年の間は年に五百リーヴルを教育と扶養に充て、残りは何らかの持参金なり農家や土地の購入に充てるなりする心積もりだった。  そんな風に我が子のことを考えるにつけ、子守りのことを考えた。子供が十八歳になったら、ピトゥには二千四百リーヴルが渡るようにして欲しい。それまでは年に五百リーヴルまでしか払ってはいけない。  ニケ氏には仕事の見返りに利子で満足してもらうことになった。  ニケからはお金の、ピトゥからは赤ん坊の受領書を書いて貰った。ピトゥはニケの署名と金額を確認し、ニケは赤ん坊に対するピトゥの署名を確認した。そして昼頃、若いに似合わぬ賢明さに驚いているニケを感嘆のうちに、そして突然の財産を得たピトゥを歓喜のうちに残して、ジルベールは立ち去った。  アラモン村のはずれまで来ると、全世界とお別れするような気分になった。この世界などもはやジルベールには何の意味も見込みもない。暢気な若者の生活に別れを告げて来たばかりなのだ。人からは犯罪と呼ばれ、神からは厳しく罰せられるような、重大な行動を終えて来たばかりなのだ。  それでもジルベールは自分の考えと力を信じていたので、迷いなくニケ氏の腕から離れた。ニケ氏は友情を露わにして様々な訴えを持ちかけながらついて来ていたのだ。  だが心とは気まぐれで、移ろいやすいのが人間の性だ。意思や気力の強い人間であればあるほど、考えていることを速やかに実行に移すものだ。ジルベールはその第一歩で隔てることになる距離を測った。迷いのなさに翳りが見えたのはその時だ。カエサルの言う如く、「ルビコンを渡るべきなりしか?」と自問したのはその時だった。  ジルベールは森のはずれまで来ると、改めて木立に向かって振り返った。梢の赤く色づいた森はアラモン全体を覆い隠し、見えるのは鐘楼だけだった。幸福と平和に満ちたその美しい光景を見て、未練と歓喜の綯い交ぜになった夢に溺れた。 「僕は気違いだ。何をしようとしているんだ? 神様は天の向こうで怒りに顔を背けないだろうか? 糞ッ! 思いついてしまったものは仕様がない。思いつきを実行に移すのに状況が味方していたんだ。天啓に打たれて悪事をおこなった僕のような人間が、悪事の償いをしようという考えを受け入れて、今では財産と我が子を手にしているんだぞ! 一万リーヴルあれば――残りの一万リーヴルは我が子の為に取っておくから――善良な村人に混じって、この肥沃な大自然の中で、幸せな農夫のように暮らせるさ。働いたり考え事をしたり、世間のことを忘れたうえに僕のことを忘れてもらったり……そんな甘い幸福に埋もれて過ごしてもいいじゃないか。この手で我が子を育て、仕事を楽しめたら最高に幸せだろうなあ! 「駄目かな? 苦しんだ代償に幸運がもたらされたっていいはずだ。そんな風に暮らすのもいいじゃないか。天から分けてもらった運命だ、この子の代わりに農夫になり、雇い人に払うお金はそうやって稼いで、子供はこの手で育てればいい。父親は僕なんだと、前に話したことはどれも僕のことだったんだと、ニケさんに告白したっていいじゃないか!」  心の中に徐々に喜びと希望が満ちて来た。まだ味わうまでには至らないが、愉快な幻を夢見るまでに空想はふくらんだ。  突然、果実の奥で眠っていた虫が目を覚まし、醜い頭をもたげた。悔恨、恥辱、不幸。 「無理に決まってるじゃないか」顔から血の気が引いていた。「僕はあのひとから赤ん坊を奪ったんだ。あのひとの名誉を奪ったように……その償いをする為にあの人からお金を引き出したんだ。もう僕には幸せになる権利なんかない。赤ん坊を育てる権利もない。あのひとに権利がないのなら、僕にだってあるわけがない。あの子は僕ら二人のものか、そうでなければ誰のものでもないんだから」  その言葉に胸が裂かれたように痛んだ。ジルベールは絶望に駆られて立ち上がった。顔には暗くおぞましい激情が浮かんでいた。 「いいだろう、僕は不幸を選ぶ。苦しみを選ぶ。何もかも失う方を選ぶ。だが僕の為に費やすはずだった運命は、災いの為に費やそう。これからの僕が遺すのは復讐と不幸だ。怖がらなくていいよ、アンドレ、僕も一緒に辛い思いをしてあげるから!」  ジルベールは右に曲がり、考えるたびに向きを変えた挙句、森の中に飛び込み、ノルマンディー目指して休みなく歩いた。四日歩けば到着する計算だった。  九リーヴルと少しある。見た目は誠実そうで、顔は穏やかで落ち着いていた。本を抱えた姿は、実家に戻る学生そのものだった。  夜は綺麗な道を歩き、昼は太陽の下で牧草地で眠るようにした。二度だけ、そよ風に邪魔されて民家に入るのを余儀なくされた時には、暖炉にある椅子の上で、夜が来たことも気づかずにぐっすりと眠った。  言い訳も目的地も用意してあった。 「ルーアンの伯父に会いに行くんです。ヴィレル=コトレから来ました。若いので気晴らしも兼ねて歩いて行きたいんですよ」  農夫たちは疑わなかった。本は尊敬の塊であったのだ。農夫たちの薄い口唇に疑いが上っていれば、天命を学んでいる神学校の話をするつもりだったのだが、ジルベールの悪い予感は完全に裏切られた恰好だった。  こうして一週間が過ぎた。ジルベールは農夫のように暮らし、一日に十スー使い、十里を歩いた。ついにルーアンに到着した。もう道をたずねる必要も探す必要もない。  携帯していたのは『新エロイーズ』の豪華本だった。一ページ目に署名を入れてルソーから贈られたものだ。  所持金が四リーヴル十スーにまで減ると、ジルベールは大事にしていたこのページを破り取り、三リーヴルで本屋に売った。  こうしてジルベールはル・アーヴル目指して進み、三日後の日暮れには海を見ることが出来た。  短靴の状態はとてもではないが絹靴下を履いて街歩きをしゃれ込もうとする若者のものには見えない。だがジルベールにはまだ考えがあった。絹靴下を売った――というよりは、頑丈な短靴と交換してもらったのだ。野暮は言わぬ、多くは語るまい。  最後の夜をアルフルールで過ごし、十六スーで泊まり、食事をした。そこで生まれて初めて牡蠣を食べた。  ――貧乏人にはたいしたご馳走だな。人間が悪行を為している間も神は善行だけを為していた、というルソーさんの言葉は本当だったわけだ。  十二月十三日、朝の十時、ジルベールはル・アーヴルの町に入り、三百トンの帆船ラドニ号が船渠《ドック》に浮かんでいるのを目にした。  港には人気がない。ジルベールは思い切ってタラップを渡った。見習い水夫が近づいて来て、誰何した。 「船長は?」ジルベールがたずねた。  水夫が三等船室で合図すると、すぐに下から声が聞こえた。 「降りて来てもらえ」  ジルベールが降りて行くと、簡素な家具の入った、マホガニーで出来た小部屋があった。  男は三十歳ほど。青白く、逞しい。目には輝きと不安。壁と同じマホガニー製の机に新聞を置いて読んでいた。 「用件は?」男がたずねた。  ジルベールが水夫を退らせてくれるよう身振りで頼むと、すぐに水夫は出て行った。 「ラドニ号の船長さんでしょうか?」 「ああ」 「ではこの手紙の受取人はあなたで間違いありませんね?」  ジルベールはバルサモの手紙を船長に差し出した。  手紙を見た途端に船長は立ち上がって、慌ててジルベールに笑顔を見せた。 「あんたも?……随分と若いな? 結構結構!」  ジルベールはお辞儀をするだけに留めた。 「行き先は?」 「アメリカ」 「いつ発つ?」 「あなたが発たれる時に」 「では一週間後だ」 「それまで何をすべきでしょうか、船長?」 「旅券は?」 「ありません」 「ではサン=タドレス辺りに行って町の外を一日ぶらついてから、今夜のうちに船に戻って来るといい。誰にも話しかけないように」 「お腹が空いたら食べなくてはなりませんが、お金がありません」 「ここで食べろ。今夜のところは夜食を食っていけ」 「その後は?」 「いったん乗り込んでしまえば陸には戻れん。ここに籠っていろ。海に出るまで太陽を拝むことは出来ない……二十里の海の彼方に出てしまえば、好きなだけ自由にしていい」 「わかりました」 「やり残したことがあれば今日のうちに済ませておけ」 「手紙を書かせてもらえますか」 「書くといい……」 「でも何処で?」 「この机を使え……ペンとインクと紙はそこだ。郵便宿は郊外にあるから、見習いに連れて行ってもらえ」 「ありがとうございます!」  一人になったジルベールは、短い手紙を書いた。宛名は以下の通り。 『アンドレ・ド・タヴェルネ嬢、パリ、コック=エロン街、九番地、プラトリエール街を出て最初の正門』  手紙をポケットに仕舞い、船長がわざわざ運んでくれた食事を食べ、見習い水夫の案内で郵便宿まで行き、手紙を投函した。  一日中、ジルベールは崖の上から海を見ていた。  夜になって戻ると、船長が待ち受けていて、ジルベールを船に入れた。 第百六十二章 ジルベール最後の挨拶  フィリップは恐ろしい夜を過ごしていた。雪の上に足跡があるのを見れば、誰かが家に侵入して赤ん坊を攫ったのは明らかだった。だがいったい誰が? それを明らかにする手がかりが何もない。  フィリップは父親のことがよくわかっていたから、父親こそこの事件の共犯であるのだと信じて疑わなかった。ド・タヴェルネ男爵はこの子の父親がルイ十五世だと信じていた。である以上、国王がデュ・バリー夫人におこなった不貞の、生きた証拠を確保することに大きな価値を見出したに違いない。遅かれ早かれアンドレが寵姫に助けを求め、もたらされるありきたりの財産にもっと高い値をつけて買い戻そうとすると信じたに違いない。  父の性格について天啓を受けて、フィリップは多少なりとも落ち着きを取り戻した。誘拐犯が誰なのかわかっている以上、取り返す見込みはある。  そこで八時にルイ医師を待ち伏せ、通りを歩きながら恐ろしい夜の出来事を話して聞かせた。  医師は相談相手として最適だった。庭の足跡を調べ、考えた結果、フィリップの推理を後押しした。 「私も男爵のことは知っています。このくらいのことはしかねないでしょう。しかしですね、別の利害――もっと直接的な利害を持った人物が、この子の誘拐をおこなった可能性はないのでしょうか?」 「どういうことでしょうか?」 「本当の父親ですよ」 「そのことは考えました。でもあいつにはパンすらないんです。それにあの気違いは今頃は逃げ出して、ぼくの影にさえ怯えているはずです……間違ってはいけません、あいつは好機に乗じて罪を犯しました。でも今のぼくは怒りとは程遠いところにいるんです。あの犯罪者を憎んでいるのはもちろんですが、二度と顔を合わせないようにするつもりです。会うと殺してしまうでしょうから。あいつだって悔恨の念を感じて罪の意識に打たれているものだと信じてます。あいつなんて飢えてさすらえばいいんです、この剣を用いずともそれが復讐になるでしょうから」 「もうその話はやめにしましょう」 「一つだけ嘘に付き合ってくれませんか。何よりも大事なのは、アンドレを安心させることですから。昨日は赤ん坊の具合が心配になって、夜になってから乳母のところに連れて行ったのだと伝えてくれませんか。アンドレのことを思って最初に考えついた作り話なのです」 「伝えましょう。あなたは赤ん坊を捜しに?」 「手はあります。ぼくはフランスを離れます。アンドレがサン=ドニの修道院に入る際に、父上と会うことになるでしょうから、すべて知っていると告げるつもりです。赤ん坊の隠し場所を引き出してみせますよ。世間にぶちまけると言ったり妃殿下に口を利いてもらうと言ったりして圧力をかければ、きっと上手くいきます」 「妹さんが修道院に入るとなると、赤ん坊はどうするつもりなのです?」 「どなたか紹介していただけますか。その方のところに子守りに預けたいと考えています……学校に進み、大きくなったら、引き取るつもりです。ぼくが生きていればの話ですが」 「あなたも子供もいなくなることに、母親は同意しているのですか?」 「ぼくのやろうと思っていることになら、アンドレは何にでも同意してくれます。ぼくが妃殿下に陳情申し上げたことは知っていますし、ぼくは妃殿下から約束の言葉をいただきました。ぼくらを庇護して下さる方に対して敬意を欠くようなことは妹もするはずがありません」 「よければ母親のところに戻りませんか」  医師は言葉通りアンドレの部屋に入った。アンドレはフィリップに看病されたおかげで安らかに眠っていた。  目を開けて最初に口に出したのは、医師への質問だったが、答えるまでもなく医師の明るい表情がすべてを語っていた。  それでようやくアンドレもすっかり落ち着いて、快復も早まり、一週間すると起き上がり、ステンドグラスに陽が落ちる頃には温室を歩けるようになっていた。  ちょうどその日、何日か家を空けていたフィリップがコック=エロン街の家に帰って来た。その表情があまりにも暗かったので、扉を開けた医師は、何か良くないことがあったのだと悟った。 「何があったのです? お父上から赤ん坊を返してもらえませんでしたか?」 「父上は……熱を出して、パリを発った日から三日間、寝台に釘付けになっており、ぼくが訪れた時には息も絶え絶えでした。これはきっと病気のふりをして一杯食わせるつもりだな、それこそ誘拐に関わっていた証拠に違いない、と考え、強気で責め立てました。ですが父上はキリストの名にかけて、何を言われているのかわからない、と誓ったのです」 「それで何の手がかりもないまま戻って来たと?」 「そういうことです」 「男爵が本当のことを仰っているのは間違いありませんか?」 「まず間違いありません」 「あなたよりも狡猾な方だ。本音を見せなかったのではありませんか」 「妃殿下に口を利いてもらうと言って脅すと、真っ青になって言ったのです。『わしを破滅させたいのならすればいい。父と自分の名誉を汚せばよかろう。怒りにまかせてとち狂ったところで、何の解決ももたらされんぞ。お前が何を言いたいのかわしにはさっぱりわからん』と」 「それで……?」 「それで、ぼくはがっかりして帰って来たのです」  その時、アンドレの呼ぶ声が聞こえた。 「いま入って来たのはフィリップなの?」 「何てこった! こんな時に……何と言えばいいのだろう?」 「何も言ってはいけません!」医師が諫めた。  アンドレが部屋から出て来て優しく抱きしめるので、フィリップは肝を冷やした。 「何処に行ってらしたの?」 「まずは父上のところだよ。話しておいただろう」 「お父様はお元気でした?」 「ああ、元気だったよ。でも立ち寄ったのは父上のところだけじゃない……お前をサン=ドニに入れる為に、いろいろな人に会って来たんだ。ありがたいことに、これですべての準備は整った。これで髪を下ろして、将来を修身と信仰に費やすことが出来るよ」  アンドレがフィリップに近寄り、穏やかに微笑んだ。 「お兄様、わたくしは自分の将来になどもう何も費やしません。わたくしの将来には誰も時間を費やしてはならないんです……我が子の将来こそが、わたくしのすべて。神が与えて下さった息子の為だけにすべてを捧げます。それがわたくしの決意――体力が回復して心に迷いがなくなってから、心に決めたことです。息子の為に生き、切りつめて生活し、必要とあらば働くことも厭いませんが、息子から片時も離れるつもりはありません。それがわたくしの描いた将来です。修道院も諦め、我欲も捨てます。わたくしは他人のもの。神様もわたくしのことはもうお構いなさいませぬよう!」  医師がフィリップに目顔で問いかけた――先ほど言った通りではありませんか? 「アンドレ、アンドレ、何を言っているんだ?」 「怒らないで、フィリップ。弱くて見栄っ張りな女の気まぐれではないんです。お兄様に迷惑はかけません、すべて自分で面倒を見ます」 「だが……だがアンドレ、ぼくはフランスを離れなくちゃならない。すべてを置き去りにしていくつもりなんだ。もうぼくには財産もない。未来もない。祭壇の下におまえを置いていくつもりだったんだ。それなのに、世間だって?……仕事だって?……アンドレ、大丈夫なのか?」 「もう覚悟は出来ています……愛してます、フィリップ。でもわたくしの許を離れるというのなら、涙は堪えて、息子の揺りかごのそばで引き籠もることにします」  医師が近づいた。 「あなたは混乱しているんです」 「仕方ないじゃありませんか、先生! 母親というのは混乱しているものですわ! でもこの混乱も神様が下さったのです。あの子がわたくしを必要としている以上は、決意を曲げるつもりはありません」  フィリップと医師が目を交わした。 「お嬢さん」医師が初めに口を開いた。「私は説教師ではありませんから上手く話せませんが、神が人間に対して激しすぎる執着を禁じていたことは覚えていますよ」 「そうだとも、アンドレ」 「神様も母親に対して我が子を愛することを禁じてはいなかったのではありませんか、先生?」 「いいですかお嬢さん。哲学者も医者も、人間の愛の為に神学者が掘った穴の深さを測ろうとしているんです。神から授かった教えに従い、大本を探りなさい。精神的な理由を探すだけではいけません。それだと完全で細かすぎることがありますからね。物質的な理由も探すのです。神は母親に対して、子供に愛を注ぎすぎることを禁じました。子供とは弱く細い茎であり、災いや苦しみを引き寄せやすいからです。束の間の命に過剰な愛を注ぐことは、絶望に陥る危険を伴っているからです」 「先生、どうしてそんなことを仰るんですか? それにフィリップも、どうしてそんな慰めるような顔をして見つめているの? 真っ青じゃない」 「アンドレ、友人からの助言だと思って聞いてくれ。元の身体に戻ったんだから、出来るだけ早くサン=ドニ修道院に入った方がいい」 「フィリップ!……あの子を置いては行けないと言ったじゃありませんか」 「あなたのことが必要ならそうしますよ」医師が静かに言った。 「どういうことです? 話して下さい。何かひどいことでもあったのですか?」 「お気をつけなさい」医師がフィリップに耳打ちした。「まだ衝撃に耐えられるほどではありません」 「お兄様、答えてくれないのね。説明して下さい」 「アンドレ、帰りがけにポワン=デュ=ジュールを通って、あの子を子守りに預けて来たと言っただろう」 「ええ……それで?」 「うん、あの子は具合が悪くてね」 「あの子の具合が……マルグリット……マルグリット……急いで馬車を! あの子のところに行かなくては!」 「無茶だ! あなたはまだ馬車に乗れるような状態じゃない」医師が声をあげた。 「今朝は大丈夫だと仰ったじゃありませんか。フィリップが戻って来た時、明日になればあの子に会えると仰ったじゃありませんか」 「きっと良くなりますから」 「嘘ではございませんね?」  医師は答えなかった。 「マルグリット! 言う通りにして……馬車を!」 「そんなことをしては死んでしまう」フィリップが止めた。 「だったら死にます!……命に未練はないもの……」  マルグリットはアンドレとフィリップと医師に代わる代わる目を遣りながら立ち尽くしていた。 「早く! 命令です!……」アンドレの頬が真っ赤に染まった。 「アンドレ!」 「何も聞くつもりはありません。馬車を用意できないというのなら、歩いて行きます」 「アンドレ」フィリップがアンドレをとっさに抱きしめた。「行くな、行っても仕方がないんだ」 「あの子は死んでしまったのね!」アンドレは凍えるような声を出した。フィリップと医師が椅子に坐らせると、アンドレは椅子に滑らせるように腕を落とした。  フィリップは何も言えずに、冷たく強張った手に口づけすることしか出来なかった……やがて首筋から緊張も解けると、アンドレはうなだれて涙を流した。 「神の思し召しだよ。ぼくらはこの試練に耐えなくてはならない。偉大で公正な神のすることだもの、きっとお考えがあるんだよ。あの子がおまえのそばにいるのは不当な罰だったと判断なさったんだ」 「でも……どうして神様は罪もないあの子を苦しめるようなことをなさるのかしら?」 「神は苦しめたりなどなさっていませんよ」と医師がいった。「あの子は生まれたその晩に亡くなったのです……消え去った幻にいつまでも未練を抱いてはいけません」 「わたくしが聞いたあの声は……?」 「あの子がこの世に別れを告げる声でした」  アンドレが顔を覆うと、フィリップと医師は目を交わした。優しい嘘が効果を上げたという点で、二人の思いは一致していた。  突然マルグリットが手紙を持って戻って来た……アンドレ宛てだ…… 『アンドレ・ド・タヴェルネ嬢、パリ、コック=エロン街、九番地、プラトリエール街を出て最初の正門』  フィリップはアンドレの頭越しに医師に手紙を見せた。アンドレは泣きやんでいたが、苦しみのうちに閉じ籠もっていた。  ――誰だろうな? とフィリップは考えた。ここの住所は誰も知らないはずだし、父上の筆跡ではない。 「アンドレ、おまえ宛てだよ」  考えることも抵抗することも驚くこともせず、アンドレは封筒を破って目を拭い、手紙を広げて読み始めた。だが三行の文章に目を走らせただけで、大きな悲鳴をあげ、気が違ったように立ち上がり、四肢を痙攣で強張らせ、駆け寄って来たマルグリットの腕の中に彫像のようにずさりと倒れ込んだ。  フィリップが手紙を拾い上げて読んだ。 『海上にて、一七……年、十二月十三日  あなたに追い払われて旅に出ます。もう会うことはないでしょう。僕の子は預かってゆきます。この子があなたを母と呼ぶことはありません!  ジルベール』  フィリップは怒鳴り声をあげて手紙を握りつぶした。 「糞ッ!」と歯軋りし、「その場の勢いに流されて犯した罪だからこそ、大目に見てやっていたんだ。今回は明確な意思を持って罪を犯した以上、報いは受けさせてやる……アンドレ、失神したおまえの心にかけて誓おう。あいつが目の前に現れたらその場で殺してやる。神もぼくらを邂逅させてくれる。あいつは一線を越えたんだ……先生、アンドレは意識を取り戻すことが出来ますか?」 「ええ、大丈夫ですよ!」 「先生、明日はアンドレをサン=ドニの修道院に入れて、明後日には次の寄港地に行かなくてはなりません……あいつが逃げ出した以上……追いかけてやる……それに、ぼくにはあの子が必要なんです……先生、一番近い寄港地は何処ですか?」 「ル・アーヴルです」 「三十六時間後にはル・アーヴルに着いてみせます」フィリップが答えた。 第百六十三章 船上にて  その時から、アンドレの家には墓場のような静寂と陰鬱な空気が垂れ込めた。  我が子の死を伝えられてアンドレは死んでいたかもしれない。それは永遠に続くかと思われるような、鈍く重い苦しみだったはずだ。ジルベールの手紙は刺激が強すぎた。残されていた激しい力と感情のすべてが、アンドレの穏やかな心の中で爆発した。  意識を取り戻したアンドレは兄を探し、兄の目に怒りを読み取ると勇気を新たにした。  アンドレは声が出せるまで力が戻るを待ってから、フィリップの手を取った。 「お兄様、朝になればわたくしをサン=ドニ修道院に入れると仰いましたね。王太子妃殿下が一人部屋を用意して下さったとか」 「ああ」 「今日連れて行って下さいますか」 「わかってくれてありがとう、アンドレ」 「それから先生、お心遣いにお心尽くしには感謝してもしきれません。お礼しようにもこの世ではお礼の方法も見つけられませんわ」  アンドレは医師に近づき抱擁した。 「このロケットにはわたくしの肖像画が入っています。十歳の誕生日に母からもらったものです。あの子のものになるはずでした。どうか預かっていただけますか。そうして、先生がこの世に生を授けたあの子のことや、看病して救って下さった母親のことに、時々でいいので耳を傾けて下さい」  そう言ってアンドレは何の感情も見せずに修道院行きの準備を終え、夜六時には顔も上げずにサン=ドニの面会室の小門をくぐった。鉄柵の向こうで、感情を抑えきれないフィリップが、永遠となるであろう別れを心の中で呟いていた。  憑物が落ちたようにアンドレから力が奪われた。慌てて駆け寄って来たフィリップが腕を広げ、アンドレの方に手を伸ばした。冷たい柵越しに二人は再会を果たし、涙で火照る頬を寄せ合った。 「さようなら、お兄様!」アンドレが悲しみを抑えきれずに泣き出した。 「さようなら!」フィリップも絶望に息を詰まらせて応えた。 「いつかあの子に会うことがあったなら……」アンドレが囁いた。「一度もこの手に抱きしめずには死にきれません」 「馬鹿なことは考えるな。さようなら」  アンドレはフィリップから離れると、平修道女に付き添われて前に進んだ。その間中ずっと修道院の奥の暗がりを見つめ続けていた。  フィリップはアンドレが見えなくなるまで表情で思いを伝え、やがて手巾を振り、最後には暗い回廊の奥からアンドレが送った別れの合図を受け取った。ついに二人の間に重い音を立てて鉄の門が降ろされ、すべてが終わった。  フィリップはサン=ドニの宿駅に向かった。馬の背に鞄を置き、夜も昼もなく馬を走らせ、翌日の夜にはル・アーヴルに到着した。最初に見かけた宿に泊まり、その翌日の夜明けと共に、次にアメリカ行きの船が出る港は何処かをたずねた。  ちょうどその日、ラドニ号がニューヨーク行きの出航準備を終えたところだ、という話だった。フィリップは船長に会いに行き、準備を終えたばかりの船長に途中までの船賃を支払って乗船の許可を得た。それから、王太子妃に対する心からの献身と感謝を伝える手紙を書いてから、荷物を船室に入れ、潮時になると自分も船に乗り込んだ。  四時の鐘がフランソワ一世塔に鳴り響くと、ラドニ号は中檣帆と前檣帆を掲げて水路を出た。海は青く暗く、水平線上の空は赤く染まっていた。フィリップはまばらな同乗者と挨拶を交わし終えると、菫色の靄に覆われたフランスの海岸を見つめていた。船は帆を幾つも掲げ、右に大きく舵を切ると、エーヴ岬を過ぎ、満潮の海を進んだ。  やがてフランスの海岸も、乗客も、海も、何も見えなくなった。真っ黒な夜が巨大な翼ですべてを包み込んだのだ。  フィリップは小さな寝台に潜り込み、王太子妃に送った手紙の写しを読み返した。それは人に捧げた別れの言葉であると同時に、神に捧げた祈りでもあった。 『妃殿下、希望も支えもない人間は殿下の許を去らせていただきます。殿下の未来の為に何のお役にも立てなかったことが残念でなりません。殿下が政府の危機と難局の中でお過ごしになる間、斯かる人間は海の暴風と波瀾の中を進みます。お若くてお美しく、誠実なご友人と熱烈な信奉者に崇められ、取り囲まれていらっしゃる妃殿下は、王家の手によって人々の中から掬いあげていただいた者のことなどお忘れのことと存じますが、小生は妃殿下のことを絶対に忘れません。小生はこれから新世界に行って、玉座におわす妃殿下の為にもっとお役に立てる方法を学びます。見捨てられた哀れな花である妹のことはお願いいたします。妹にとって殿下の眼差しだけがもう一つの太陽となることでしょう。時々でよいのでどうか妹にも目を向けて下さい。慈しみの心や王権の力を纏い、万人から祝福を唱和される妃殿下にお願い申し上げます。もうその名を耳にすることも出会うこともない亡命者の為に、どうか祝福をお与え下さい』  読み返すと心が締めつけられた。船が呻くような陰鬱な音を立て、円窓にぶつかった波が砕け散ってざわめき、どれだけ陽気な気分をも落ち込ませるような侘びしいアンサンブルを奏でていた。  フィリップには長く苦しかった夜が終わった。朝になって船長の訪問を受けても、心は元のようには晴れなかった。船長の話では、大部分の乗客は海を恐れて船室に籠っているという。航海は短いが厳しいものになるだろう。暴風のせいだ。  それ以来フィリップは船長と夕食を摂り、部屋で朝食を給仕させてもらうようになった。快適とは言い難い海に耐性があるとは思えなかったので、士官の外套にくるまって長い時間を上部甲板で過ごすようになった。残りの時間はこれからの計画を立てるのと、手紙を読み返して心の支えにするのに充てた。時々は乗客にも出会った。二人の婦人は遺産を相続しに北アメリカに行くところだった。二人の息子のいる老人を含む四人の男にも会った。こうした人々は一等船室の乗客だった。もっと庶民的な身なりをした人を見かけたこともある。興味を惹かれるような人間はいなかった。  決まったことを繰り返すことで苦しみは和らぎ、空のように穏やかな心を取り戻していた。晴れ渡り嵐もない天気のいい日が続いているのは、温暖な気候帯に近づいているからだろう。甲板で過ごす人も増えた。人とは話さないと決め、船長にさえ名前を明かさず、如何なる話も避けて来たフィリップにも、夜中まで頭上で足音がしているのが聞こえていた。乗客たちと歩いている船長の声さえも聞こえる。上に出ないのはそういう理由だった。円窓を開いて冷たい空気を吸い込み、次の日が来るのを待った。  一度だけ会話も足音も聞こえない夜に、フィリップは甲板に上がった。生暖かく、空は曇り、航跡が泡を立てて輝いていた。乗客たちにとっては、どうやら今夜は暗くて天気が悪いのだろう。船尾楼甲板では誰にも会わなかった。だが船首に行くと、第一斜檣に寄りかかって眠っているか空想に耽っているかしている人影が見えた。どうにか見分けたところでは、二等船室の乗客らしい。フィリップがフランスの港を見つめていた間、アメリカの港を夢見て前方を見つめていた亡命者だろう。  フィリップはこの乗客を長いことじっと見つめていたが、朝の冷気に触れられて、船室に戻ろうとした……だが前甲板の乗客は白み始めた空を見つめたままだ。船長の足音を聞いてフィリップは振り返った。 「涼みにいらしたのですか?」 「今起きたところです」 「乗客に起こされてしまいましたか」 「あなたに、ですよ。軍の方も船乗りに負けず早起きのようですな」 「ぼくだけではないでしょう……あそこで物思いに耽っている人がいますよ。あの人も乗客ではありませんか?」  気づいた船長が驚きを見せた。 「あれは誰です?」フィリップがたずねた。 「あれは……商人ですよ」船長が困ったように答えた。 「財産を追い求めているというわけですか? そういう人にはどうやらこの船は遅すぎるようだ」  船長はそれには答えずに、乗客のところに行って声をかけた。すると乗客は中甲板に姿を消した。 「考え事の邪魔をしてしまったようですね」フィリップは戻って来た船長にそう言った。「別に迷惑だったわけではないのですが」 「なに、この辺りは朝の冷え込みが厳しいと忠告して来たんですよ。二等船室の客はあなたのように立派な外套を持っていませんからな」 「ここはどの辺りなのですか?」 「明日にはアゾレス諸島に着くので、そこで冷たい水を補給する予定です。暑くなりますから」 第百六十四章 アゾレス諸島  船長の言葉どおりの時間に、船の前方、輝く太陽の彼方に、北東に連なる群島の海岸線が見えた。  アゾレス諸島だ。  風が海岸に吹き寄せ、船は順調に進んだ。午後三時頃、島が全貌を現わした。  奇妙な形の丘の天辺が幾つも見えた。火山活動によって黒ずんだ岩石、輝く尾根と深い崖が形作る起伏。  一つ目の島にある大砲の射程距離に入ると、船が止まった。乗組員が上陸の準備を始めた。船長が言っていたように、冷たい水を数トン補給する為である。  乗客全員が地上を歩けることにわくわくしていた。何十日にもわたる辛い船旅を送った後で固い大地に足を降ろす喜びは、長い航海をした者だけが味わえる感覚だった。 「皆さん」心を決めかねている乗客に向かって船長が声をかけた。「上陸時間は五時間です。この機会にお楽しみ下さい。自然に興味がおありなら、人っ子一人いないこの島には冷たい泉がございます。狩りに興味がおありなら、兎や山鶉がいます」  フィリップは銃と弾丸を身につけた。 「ところで船長は船に残るのですか? ぼくらと一緒には来ないのですか?」 「あれですよ」船長は海に注意を向けさせた。「怪しい動きをしている船がある。四日前くらいから跡を尾けて来ています。面構えが気に食わない、とでも言いますか、それで船の動きを見張っていようと考えております」  フィリップはその説明に納得し、しんがりのボートに乗って地上に向かった。  ご婦人たちや甲板の乗客の中には、敢えて降りようとしないのか、はたまた順番を待っているらしき人たちもいた。  二艘のボートが遠ざかってゆく。乗っているのは機嫌のいい水夫たちと、さらに上機嫌な乗客たちだ。  船長が最後に発したのは、 「八時になったら最終ボートでお出迎えいたします。いいですか、遅れた者は置き去りにしていきます」、という言葉だった。  自然に興味のある者も狩りに興味のある者も誰もが上陸し終えると、水夫たちは海岸からほどしばらくのところにある洞窟に駆け込んだ。洞窟は日光を避けでもするように大きく曲がっていた。  青く甘美な水を湛えた冷たい泉が、苔むした岩の下に流れ、洞窟から出ることなく、細かい流砂の奥に消えていた。  水夫たちがそこで立ち止まり、水で樽を満たして海岸まで転がして行こうとしている。  フィリップはそれを見つめていた。洞窟の青みがかった暗さに見とれていた。ひんやりとした空気や、水が滝を流れ落ちる心地よい音に、身体を委ねていた。淡く神秘的な光の散りばめられた暖かい暗がりからほんの数分のところに、光の射さない暗闇と涼しい場所があることに驚きを隠せなかった。手を伸ばし、岩壁にぶつかりながら、姿の見えない水夫たちを追いかけた。やがて少しずつ顔や姿が光に照らされ明らかになり始めた。空の光よりも、澄んでいる洞窟の光の方が好きだった。海岸に溢れている陽射しはうるさいし強過ぎる。  そうこうしているうちに同行者たちの声が遠くに消えてゆく。銃声が一つ二つ、山の方で鳴り響いたかと思うと静かになり、フィリップは一人取り残されていた。  水夫たちの方は仕事を終えていた。もう洞窟には戻って来ないだろう。  フィリップは徐々にこの孤独の魔力と考え事の渦に引き込まれていた。柔らかい砂に寝そべり、むんむんとする苔むした岩にもたれて、物思いに耽った。  こうして時間は流れ、浮世のことなど忘れていた。弾を抜いた銃を傍らの岩に寝かせると、安心して休めるように、肌身離さず持ち歩いている拳銃をポケットから取り出した。  昔のことが何もかも甦って来た。ゆっくりと、厳かに、まるで諭したり責めたりするように。これからのことは何もかも飛び去ってしまった。時たま姿を見せはするが手では触れられなかったここらの野生の鳥のように、素っ気なく。  フィリップがこのように物思いに耽っている間、ほかの人々もつい鼻の先で物思いに耽ったり、声をあげて笑ったり、希望に胸をふくらませたりしていたようだ。フィリップもそれを漠然と感じ取っていたし、ボートの櫂を漕ぐ音も一度ならず聞こえていたような気がする。海岸に向かっているのか、乗客を船まで送っているのだろう。気晴らしに飽きた人々もいれば、今度は自分が楽しむ番だと意気込む人々もいるに違いない。  だがそれでもフィリップの夢想が破られることはなかった。洞窟の入口に気づかれなかったのかもしれないし、或いは目にしても入る気にならなかったのかもしれない。  不意に人影がおずおずと躊躇うように、陽射しと洞窟のちょうど境目の辺りに現れた……誰かが歩いて来る。手探りで、背を丸め、水のせせらぎに近づいて来る。一度など苔に足を滑らせて岩にぶつかりもした。  それを見たフィリップは立ち上がって手を差し伸べようとした。フィリップの指と件の人物の手が暗闇の中で触れ合った。 「こちらです」フィリップは明るい声を出した。「水はこちらです」  その声を聞いて相手の人物がぱっと顔を上げた。洞窟の青ざめた光に顔をさらし、口を利こうとした。  だが突然フィリップが恐ろしい悲鳴をあげ、後じさった。  それを聞いて相手の方も叫び声をあげて後じさった。 「ジルベール!」 「フィリップ!」  二人の声が地を這う雷鳴のように同時に鳴り響いた。  その後に聞こえるのは争いの音だけだった。フィリップは両手でジルベールの首根っこをつかみ、洞窟の奥に引きずり込んだ。  ジルベールは呻き声一つ出さずに引きずられていた。岩に押しつけられ、もう後じさることも出来ない。 「人でなしめ! とうとう捕まえたぞ!……神のお導きだ……神が正しく裁いて下さったんだ!」  ジルベールは真っ青になって一言も発しなかった。両腕をだらりと降ろした。 「臆病な卑怯者め! 身を守る本能すらないのか」  だがジルベールは悲痛な声を出した。 「身を守るですって? どうしてです?」 「自分がぼくの手の内にあることも、罰を受けて当然の人間だということも知っているはずだ。罪を犯したのは間違いない。おまえは一人の女を辱め、残酷にも息の根を止めたんだ。一人の生娘を辱めただけでなく、一人の母親を死に至らしめようとしたんだ!」  ジルベールは一言も答えない。フィリップは思わずかっとなり、再びジルベールに手を伸ばした。抵抗はなかった。 「おまえは男じゃないのか?」フィリップはジルベールを乱暴に揺さぶった。「うわべだけなのか?……抵抗すらしないなんて!……首を絞めているんだぞ、抵抗くらいしたらどうだ! 身を守るがいい……意気地なしめ! 臆病者! 人殺し!」  フィリップの指が喉に食い込むのを感じたジルベールは立ち上がって身体を強張らせ、獅子のように獰猛に、肩を動かしただけでフィリップを投げ飛ばし、腕を組んだ。 「わかりましたか? 守ろうと思えば身を守れるんです。でもそれに何の意味があるんですか? あなたは銃に飛びついているじゃないですか。爪で引き裂かれたりぼこぼこに殴られたりするよりは、一発で殺される方を選びます」  確かにフィリップは銃をつかんでいた。だがジルベールの言葉を聞いて銃を押しやった。 「違うんだ」  呟いてから、はっきりと声に出してたずねた。 「何処に行くつもりなんだ?……どうしてここにいる?」 「僕はラドニ号に乗っているんです」 「では隠れていたのか? ぼくに気づいていたのか?」 「あなたが乗っていることさえ知りませんでした」 「嘘だ」 「嘘じゃありません」 「だったらどうして姿が見えなかったんだ?」 「夜にならないと部屋から出ないようにしていたからです」 「ほらみろ、隠れていたんじゃないか!」 「そうかもしれません」 「ぼくから隠れていたんだな?」 「そうじゃありません。アメリカ行きはある任務の為で、人に見られてはならないんです。船長が乗客とは別に部屋を用意してくれました……その為に」 「おまえは隠れていたんだ。ぼくから逃れる為に……分けても、攫った子供を隠す為に」 「子供ですって?」 「そうだ、いつかその子を武器にして利益を引き出そうと、攫って連れ歩いているんだろう。人でなしめ!」  ジルベールが首を横に振った。 「ぼくがあの子を取り返したのは、父親を軽蔑したり裏切ったりするようなことを覚えてもらいたくなかったからです」  フィリップは少し呼吸を整えた。 「それが本当なら……それを信じるとすれば、おまえも思っていたほど悪人ではないようだな。だがどうして攫ったことまで正直に話したんだ?」 「僕が攫ったですって?」 「あの子を攫っただろう」 「僕の子ですよ! 僕のものだ! 自分のものを取り返すのは盗みでも誘拐でもありません」  フィリップが怒りに身を震わせた。「いいか! ぼくはついさっきまでおまえを殺そうと考えていたんだぞ。そう心に誓ったし、そうする権利がぼくにはあるんだ」  ジルベールは無言だった。 「ところが神が光を与えて下さった。神はぼくの足許におまえを投げ出し、『復讐は無益。神から見放された者のみが復讐に手を染めなさい……』と仰ったんだ。だからおまえは殺さない。おまえが組み立てた悪しき計画を壊すだけにしておこう。おまえにとってあの子は将来の手だてなのだろうが、今すぐぼくに返すんだ」 「でも子供はいません。赤ん坊を二週間も船で旅行させられるわけがないじゃないですか」 「子守りを見つけなければならなかったものな。子守りを連れて来ているんだろう?」 「あの子を連れて来てはいないんです」 「あの子をフランスに置き去りにしたと言うのか? 何処に置いて来たんだ?」  ジルベールが口をつぐんだ。 「答えろ! 何処の子守りに預け、どれだけ金を積んだんだ?」  ジルベールは口をつぐんだままだ。 「人でなしめ、逆らう気か? 堪忍袋の緒が切れようとも厭わないというわけか……妹の子が何処にいるのか教えてくれ。あの子を返してくれ」 「僕の子は僕のものです」 「ろくでなしめ! どうやら死にたいらしいな!」 「僕の子を差し出すつもりはありません」 「ジルベール、落ち着いて話そう。過去のことは水に流すように努めるし、おまえのことも恨んだりしない。ぼくが優しいのは知っているだろう?……許すよ! おまえがぼくらの家に放り込んだ恥と不幸のすべてを許すと言っているんだ。とんでもない譲歩だぞ……あの子を返してくれ。何が望みだ?……アンドレが抱いていて当然の嫌悪感を取り除いて欲しいのか? 取りなして欲しいのか? わかった……やってみよう……あの子を返してくれ……それと……アンドレはあの子を愛している……おまえの子を熱愛しているんだ。後悔していることがわかればアンドレの気持も変わるだろう。約束する。誓うよ。だからあの子を返してくれ、ジルベール、返してくれ!」  ジルベールは腕を組んで、暗い炎の宿った瞳でフィリップを見つめた。 「あなたは僕のことを信じなかった。僕もあなたを信じません。あなたが不正直だからじゃない。身分の隔たりの深さを嫌というほどわかっているからです。返してもらうものが多ければ多いほど、それだけ許しも多い。僕らは天敵同士……あなたは強い。きっと勝つでしょう……武器から手を離せとは言いません。だから僕の武器も取り上げないで下さい……」 「武器だと認めるんだな?」 「ええ、そうです。軽蔑と忘恩と侮辱に対する武器として!」 「もう一度だけ聞く、ジルベール」フィリップの口元には泡が浮かんでいた。「返してくれ……」 「嫌です」 「考え直せ!」 「嫌です」 「おまえを一方的に殺したくないんだ。おまえにもアンドレの兄を殺す機会を与えよう。また一つ罪が増えるな!……いいだろう。この拳銃を取れ。ここにもう一つある。お互い三つまで数えてから、引き金を引くんだ」  フィリップはジルベールの足許に拳銃を放った。  ジルベールは動かない。 「決闘なんて冗談じゃありません」 「では自殺する方を選ぶのか?」フィリップは怒りと絶望に吠え狂った。 「あなたに殺されることを選びます」 「よく考えろ……頭がおかしくなりそうだ」 「よく考えた結果です」 「ぼくには殺す権利がある。神はぼくをお許しになるはずだ」 「わかっています……殺して下さい」 「これが最後だぞ。決闘する気はあるのか?」 「望みません」 「身を守るつもりはないのか?」 「ええ」 「わかった。だったら罪人として死ねばいい。ぼくが地上を浄めてやる。冒涜者や強盗や犬コロのように死ねばいい!」  フィリップは至近距離からジルベールに銃弾を撃ち込んだ。ジルベールは腕を伸ばし、後ろによろめいたかと思うと、前にかしぎ、声をあげることもなくうつぶせに倒れた。足許の砂に生暖かい血が染み込むのを感じたフィリップは、すっかり動顛して洞窟から飛び出した。  目の前には海岸があり、小舟が待っていた。出発時刻は八時だと言っていた。今は八時数分過ぎだった。 「あなたですか……」水夫たちが声をかけた。「あなたで最後ですよ……みんな船に戻りました。何を仕留めたんです?」  フィリップはその言葉を聞いて意識を失った。そういうわけで出航の準備をしている船まで運ばれることになった。 「みんな戻ったか?」船長がたずねた。 「俺らが連れて来たのが最後の乗客です。滑って転んだんでしょうな、気を失ってしまいましたぜ」  船長が決定を下し、船はアゾレス諸島を速やかに離れた。それと入れ替わりに、じりじりして待っていた大型船が、アメリカ国旗の掲げられた港に移動した。  ラドニ号の船長はその大型船と合図を交わし、不安を見せる様子もなく、進路を西に取ると、やがて夜の闇の中に見えなくなった。  乗客が一人足りないことに気づいたのは翌日になってからだった。 エピローグ  一七七四年五月九日、夜八時、ヴェルサイユでは興味深い光景が繰り広げられていた。  その月の初めからルイ十五世が重い病にかかり、医者もどれだけ深刻かを口にはしようとしないものだから、寝込んでいる国王は真実か希望を求めるように周囲に目を走らせていた。  国王を診察したボルドゥ医師は、それがたちの良くない天然痘であることを指摘していた。同じ見立てをしたラ・マルティニエール医師は、国王に告知すべきだという立場だった。精神的にも肉体的にも、キリスト教徒として、国王の救済と王国の救済のため措置を執らなくてはならないのだから、というのがその理由だ。 「キリスト教の信仰篤きフランス国王陛下には、終油の秘蹟を受けていただかなくてはなりません」  ラ・マルティニエールは王太子派、即ち反体派だった。ボルドゥが言うには、病気が重いことを単刀直入に告げれば国王の命を縮めることになる、暗殺者の前で尻込みしていた御仁なのだ。  ボルドゥはデュ・バリー派だった。  国王の許に聖職者を呼ぶのは、寵姫を退出させるということだ。神が戸を開けて入って来れば、必ずや悪魔が別の扉から入って来る。  医師、家族、各派閥が内部分裂している間も、放蕩のせいで衰え、老いて衰弱した身体に、病気は穏やかに留まっていた。病はこうして力を蓄え、どんな薬でも医療でも追い出せぬようになってしまった。  ルイ十五世の不節制にはデュ・バリー夫人も快く手を貸していた。そうした不節制が祟って病の発作が起こってからというもの、国王の枕元には二人の娘に、寵姫、寵臣たちが侍っていた。誰もがまだ笑っていたし、自らを鼓舞していた。  驚いたことに、ヴェルサイユにマダム・ルイーズ・ド・フランスが厳めしく陰気な姿を見せた。サン=ドニの独房を離れ、父の世話をしにやって来たのだ。  運命の女神像のように冷たく陰鬱なその姿は、もはや娘でもなく姉妹でもなかった。それはまるで、辛い逆境の日々の中で国王に災いの声を報せに来た、太古の予言者のようであった。ヴェルサイユに到着したのは一時――国王がデュ・バリー夫人の手に口づけし、その手を優しく愛撫するように、火照った額や頬に押し当てた日のことだった。  その姿を目にして、誰もが逃げ出した。姉妹たちは震えながら隣室に逃げ込んだ。デュ・バリー夫人はひざまずき、自室に駆け込んだ。寵臣たちも控えの間まで退いた。二人の医師だけが暖炉の脇に留まっていた。 「そなたか!」国王は痛みと熱のせいで閉じていた目を開いた。 「わたくしです、陛下」 「いったいどうして……」 「神から遣わされました」  国王は身体を起こし、口元に笑みを作った。 「陛下は神をお忘れでしたから」 「余が……?」 「神のことを思い出していただきに参りました」 「待ちなさい! 余はまだ死ぬわけではない。そんなに説教を急がなくともよい。重い病ではないのだ。筋肉の痛みと軽い炎症だよ」 「陛下のご病気は、習わしに従って王国の聖職者を枕元に集めなくてはならないほどのものです。王家の人間が天然痘にかかった際には、直ちに終油の秘蹟を受ける決まりでございましょう」 「マダム!……」国王は目に見えて動揺し、青ざめた。「そなたは何を言っておるのだ?」 「マダム!……」医師たちも顔に怯えの色を浮かべた。 「陛下は天然痘にかかっていると申し上げているのです」  国王が叫びをあげた。 「医師たちはそのようなことは言わなかったぞ」 「敢えて申し上げなかったのです。わたくしは陛下に代わってフランスとは別のもう一つの王国を見て参りました。どうか神の身許にお近づきになり、これまでお過ごしになった日々をお検め下さい」 「天然痘だと!……もう助からぬのか!……何ということだ!……ラ・マルティニエール!……本当なのか?」  医師は二人とも顔を伏せた。 「まさかもう死期が近いのか?」国王の顔からさらに血の気が引いた。 「治らぬ病気などございません」真っ先にボルドゥが答えた。「お心を確かになさっていればなおのこと」 「神は心の平穏も肉体の救済も与えて下さいます」マダム・ルイーズはそう答えた。 「マダム」ボルドゥの声は小さくはあったが迫力に満ちていた。「陛下を殺すおつもりですか!」  王女はそれには答えようとせず、国王に近づくと、手を取って口づけした。 「過去を断ち、国民に範をお示し下さい。誰も陛下にお知らせなさいませんでしたね。危うく永遠に魂を失うところでございました。地上にお留まりになれましたら、キリスト教徒として生きることをお誓い下さい。神が陛下をお召しになるのなら、キリスト教徒として死ぬことをお約束下さい」  話を終えるともう一度口づけをして、ゆっくりと控えの間に歩いて行った。控えの間に来ると黒いヴェールを下ろし、階段を降りて馬車に乗った。何も考えられずに恐怖で呆然としている国王を後ろに残して。  国王は医師に質問することでしか正気を保てない状態だったが、はっと我に返っていた。 「シャトールー公爵夫人とメスで演じた醜態を繰り返しとうない。デギヨン夫人を寄こして、デュ・バリー夫人をリュイユに連れて行ってくれ」  この命令は爆弾だった。ボルドゥが何か言おうとしたが、国王に止められた。第一、ラ・マルティニエールが王太子に報告するのは目に見えている。国王の病状とその行き着く先を理解していたボルドゥは、抗わずに部屋を出て、デュ・バリー夫人に衝撃的な事実を知らせに向かった。  誰もが顔に浮かべている蔑むような不吉な表情を見て怯えていた伯爵夫人は、報せを聞いてすぐに姿を消した。一時間後、伯爵夫人はヴェルサイユを出て、忠実なデギヨン公爵夫人に連れられて、リュイユの城館に到着した。リシュリューから相続したものである。ボルドゥの方では、伝染の恐れがあるという名目で、王家の人間を締め出した。こうしてルイ十五世の寝室は隔離された。中に入れるのは聖職者と死神だけとなった。同日、国王は秘蹟を施され、その報せはパリに広がった。寵姫が失脚したことは既に過去のものとなっていた。  廷臣という廷臣が王太子の許を訪れて取り次いでもらうのを待ったが、王太子は扉を閉め切って誰も入らせなかった。  ところが翌日、力を取り戻した国王がデギヨン公爵を遣わしてデュ・バリー夫人に挨拶を届けた。  これが一七七四年五月九日のことであった。  廷臣たちは王太子の館を離れ、寵姫のいるリュイユに群れをなして押し寄せた。これほどまでに馬車が列を作ったのは、ド・ショワズール氏がシャントルーに追放されて以来のことだ。  事態はここまで来ていた。国王は長らえて、デュ・バリー夫人は女王の地位を守るのか?  国王は身罷り、デュ・バリー夫人はただの忌むべき娼婦でしかなくなるのか?  一七七四年五月九日の夜八時、ヴェルサイユで極めて興味深い光景が繰り広げられていたのには、こうした事情があった。  宮殿前のアルム広場には幾つも人だかりが出来て柵の前に群がっていた。情報が欲しくてたまらないお人好したちだ。  衛兵に向かって出来うる限り丁寧に国王の近況をたずねているのはヴェルサイユやパリのブルジョワたちだった。衛兵たちは手を後ろに組んで無言で正面広場を歩き回っていた。  徐々に人だかりは数を減らしていった。パリの住人は乗合馬車に乗り込んで家に戻り、じかに情報を聞けると信じていたヴェルサイユの住人も家路についた。  もはや町にはいつもより無気力に務めを果たしている見廻りしか見えない。ヴェルサイユ宮殿と呼ばれる巨大な世界は、宮殿を囲むさらに大きな世界と共に、徐々に夜と静寂に覆い尽くされた。  その夜、宮殿の正面にある並木通りの角、石の腰掛けの上、マロニエの木陰に、年老いた男が坐っていた。宮殿に顔を向け、杖で両手を支え、その両手で頭を支えて物思いに耽っている。腰の曲がったやつれた老人ではあったが、目からは炎が放たれていたし、頭の中では目の中よりも熱い炎が燃えていた。  老人は瞑想と物思いに沈んでいたので、宮殿の外れにもう一人の人間がいることには気づかなかった。その人物は探るように柵を見つめ、衛兵に質問をしてから、広場を横切り、腰掛けに向かって真っ直ぐやって来るのは、足を休めようというつもりらしい。  まだ若く、突き出た頬骨、やつれた顔、曲がった鷲鼻、口元に浮かんだ冷笑。一人だというのに腰掛けに向かって歩きながらにやにや笑っているのは、何か人知れぬ考えに耽っているのだろう。  腰掛けの手前まで来て老人に気づき、後ずさった。何者なのか横目で確かめようとしながら、見つめていることに気づかれやしないかとも感じていた。 「涼んでらっしゃるのですか?」とっさに近づいてたずねた。  老人が顔を上げた。 「先生!」若者が声をあげた。 「医者の卵のお方でしたか」 「隣に坐っても構いませんか?」 「もちろんです」  老人が若者に場所を空けた。 「国王は快方に向かっているようです。みんな喜んでますよ」  若者はそう言って再び笑い声をあげた。  老人は無言だった。 「一日中、パリからリュイユ、リュイユからヴェルサイユに、馬車が駆け巡り……デュ・バリー伯爵夫人は、国王が回復次第、結婚することになりそうです」  そう言うと、さらに大きく哄笑した。  老人はそれでも口を開かない。 「馬鹿笑い失礼」若者は苛立ちを見せた。「善良なフランス人は国王を愛していますし、その国王が快方に向かっているんですから」 「ふざけるような話題ではないでしょう。人が死ねばその死を悲しむ人間は必ずいますし、国王の死は誰にとっても悲劇なのではないでしょうか」 「死ぬのがルイ十五世でも?」若者が皮肉な口調で遮った。「先生! 偉大な哲学者であるあなたがそんな主張を!……あなたの逆説の腕前はよくわかっていますが、それを駆使させるつもりはありませんよ……」  老人は首を横に振った。 「そもそも、どうして国王が死ぬと思われたんです? 誰がそんな話を? 国王が天然痘だ、ということしかわからないのに。ボルドゥとラ・マルティニエールがつきっきりなんですよ。二人とも名医だ……最愛王ルイが良くなる方に賭けましょう。ただし今回は国民も前回のように教会に籠って九日間の祈りを捧げてはいません……使い古されぬものなどないのですよ」 「お黙りなさい!」老人が身体を震わせた。「今この瞬間にも神が手を差し伸べている人間のことを、そんな風に話すものではない……」  若者は意外な言葉に驚いて、老人を見つめた。老人は宮殿から目を離さない。 「何か確かな情報でも?」 「見なさい」老人が宮殿の窓を指さした。「何が見える?」 「窓に明かりが……そうですね?」 「そうです……では何の明かりでしょうか?」 「角灯の中の蝋燭の明かりでしょう」 「まさしく」 「すると?」 「すると、あの蝋燭の光が何を意味するのかわからないのですか?」 「ええ」 「あれは国王の命です」  若者は老人をまじまじと見つめた。頭がおかしいわけではないと自分に言い聞かせようとでもするように。 「友人のド・ジュシュー氏が、あそこに蝋燭を置いて、国王が生きている間は燃やしているのですよ」 「合図ですか?」 「ルイ十五世の後継者が、カーテンの後ろからあの合図に目を注いでいます。あの合図こそ、次なる治世の始まりを野心家たちに告げ、私のような哀れな哲学者には、神が時代と存在に息を吹きかける時代の来ることを告げているのです」  今度は若者が震え、老人の腰掛けに近寄った。 「あの夜空をご覧なさい。雲と嵐が蠢いているのがわかりませんか……それに続く夜明けも私は見ることが出来るはずです。明日の光を見ることが出来ぬほど年老いてはおりませんからね。ですがこれから始まる一つの治世については話が別です。あなたなら終わりまで見届けられるでしょう……私には見ることの叶わない謎をあの空のように蠢かせている治世を……ですから今ご説明したあの揺らめく蝋燭の火を、私が見つめているのも無意味ではないのです」 「その通りです」若者が呟いた。「まったくその通りです」 「ルイ十四世の治世は七十三年でした。ルイ十五世の世は何年でしょうか?」 「あっ!」若者が窓を指さした。光がふっと消えていた。 「国王が亡くなったのです!」老人が怯えたように立ち上がった。  二人はしばらく黙りこくっていた。  突然、八頭引きの四輪馬車が宮殿の中庭から駆け出して来た。馬丁が二人、松明を手に先導している。馬車には王太子、マリ=アントワネット、王妹マダム・エリザベートが乗っていた。松明の光が青ざめた顔を不気味に照らしている。馬車は腰掛けに近い二人のそばを通り過ぎた。 「ルイ十六世万歳! 王妃万歳!」若者が金切り声を出した。新王を祝うのではなく呪うような声だった。  王太子が挨拶を返した。王妃が厳めしく悲しげな顔を上げた。馬車は見えなくなった。 「ルソーさん」と若者が言った。「これでデュ・バリー夫人は未亡人です」 「明日、夫人は追放されるでしょうね」老人が答えた。「さようなら、マラーさん……」    幕  このテキストは Alexandre Dumas(et Auguste Maquet) による『ある医師の回想(Me'moires d'un me'decin)』四部作の第一部『Joseph Balsamo』(1846)の全訳です。テキストは訳者の許可を得ずに自由に使用して構いませんが、使用によって生じたいかなる損害に対しても訳者は責任を負いません。  『ある医師の回想』は、第二部『王妃の首飾り』、第三部『アンジュ・ピトゥ』、第四部『シャルニー伯爵夫人』で完結します。