「暑くて耐えられん!」
国防長官ジーゲルは長椅子上で寝返りを打ち、欠伸をした。踊り子を呼んで舞わせてはみたが、やはりもう面白くも何ともない。昼寝を取っていたリビングをぼんやりと眺めてみる。仄明かりのなか、大広間に飾られていた巨大なタペストリーに目が留まった。
緑、青、黒、黄色、土色、鈍色、草色、これらが描いているのは二十世紀にあった第二次世界大戦の様子だ。無粋ないくつもの図像のなかから、機体に鮫の顎が描かれた飛行機や、海中から霧のなかに姿を見せた緑灰色の潜水艦、くすんだ色合いの戦車、ガスマスクを装着した怪物じみた兵士たちや、葉陰に潜む土まみれの
「陰気なタペストリーだ。俺も戦好きではあるが、こいつは……不吉なところがある。ツィグールと一緒だな。この時代と自分流をこよなく愛する男……ああいう考え方を持つ人間には確かにここは理想の地だよ……さしずめスルタン。冷酷、野心家、独裁者。おまけに二十一世紀の技術もある。まさに鉄拳の狼……ただし羊の皮はかぶらず、似たような連中にくるまれている。詐欺師の大臣、恥知らずの学者、傭兵――俺もそうだ。自分の役割をちゃんとわきまえている連中ばかりだ。それにここは割がいいし居心地も悪くない。
「タペストリーに、踊り子たち。まるで中世さながらだな。ニーチェ曰く、『未開の中世が始まり、技術は未開のしもべとなる』とはよく言ったものだ」[*1]
視線はタペストリーからはずれ、大きな窓のところで止まった。
「中世の悩みだな」広い荒野をさまよう者たちにはこの巨大な摩天楼都市国家が堅牢な城に見えることだろう。カッパドキアの青々とした旱天下には、茶色く荒廃した断崖と峡谷ばかりが広がり、核戦争を生き延びた無法者たちが暮らしていた。滅びた街から移住してきた者や、盗賊と化した兵士たちや、被爆者たちが、まるひと月をかけて毎日毎日、骨まで毟られたこの不毛の荒野を歩き続け、摩天楼の街々に助けを求めていた。荒廃した世界のなかで摩天楼は鎖国を敷き、文明の孤島を貫いている。ほかの街と同じくツィグールの街も一貫して移住者たちを拒んでいた。独裁官ツィグールは、侵入を企てるスパイを恐れて移住を禁じていた。ジーゲルの考えるところでは、ツィグールがよそ者を恐れている何よりの理由は、異なる生き方や思想を持ち込まれて、都市で運用されている絶対的規則が弱体化するのを嫌がってのことだ。浮浪人たちは、たいていは食料や寝床を求めて、手段を選ばず侵入を試みていた。ある者たちは夜の闇に乗じてパラシュートやヘリコプターで。ある者たちは下水道を通って。都市は防衛策を強化した。終日の巡回、番犬、レーダー、地雷、監視カメラ。それも役には立たなかった。城内にまで潜り込む者も大勢いた。
ジーゲルは踊り子たちを見つめた。軋むような電子音楽の調べに合わせて踊ってい女たちのなかには、裸の者もいれば、さまざまな色のおしろいを塗っている者も、金色の花を肌に直接飾りつけている者たちもいて、貪るようなまなざしをジーゲルに向けている。催淫剤を飲まされ肌にも擦り込まれ、つねに性的に興奮させられているのだ。市民蟻にはこうすべし、とツィグールが心理学的・生理学的に導き出した結論がこれだ。美しい少女は十歳になると家族から引き離され、都市の「幹部」に奉仕することになっていた。
「初めのうちこそ楽しかったが――」とジーゲルは考えた。「こんな騒ぎばかりだとうんざりしてくるな。そうとしか言いようがない。この香水、このおしろい、中東かぶれ、もうたくさんだ! 所詮は奴隷の街、いや『社会的条件づけ』の街か。こいつら鳥頭どもときたら一つのことしか考えられんのだから。
「一つだけ? いや、機械的に動きながら、『ダストシュート』をこっそり窺っているじゃないか」 幹部の部屋には必ず設置してある揚げ戸から、不要となった市民たちが捨てられていた。病気、表立った謀叛に水面下の謀叛、危険思想、あるいはただ単に嫌われた人間たち。ダストシュートは地下に直結しており、いくつもの槽を通して肉体は化学物質に分解される。分解された物質は調合センターに送られ、都市生活に欠かせぬ必需品の材料に使われる。食料や薬など。
「なるほどツィグール殿は有言実行をしているわけか。『生まず、無くさず』」
いずれにしても踊り子たちは遅かれ早かれ誰もがそうなる運命だった。二十五歳以上の古株は姿を消す。「考えてみれば可哀相なやつらだが、外をさまよう浮浪人と立場を変わりたいとは思うまい。つねに命の危険にさらされて、どこからも疎まれるようなやつらだ」
スクリーンが明るくなった。会議の報せだ。議題:国防について。
ジーゲルは跳ね起きてチュニックを羽織った。それを見た踊り子たちがいっせいに横たわり、長椅子からドアまで届く生ける絨毯となった。
これもまたツィグールのろくでもない思いつきだ。調教されて染みついているのだろう。ジーゲルはエレベーターに向かいながら、腹立ちまぎれに踊り子たちを足蹴にした、
「ミンスキーの家にいればこんな気分だろうな」[*2]
ジーゲルは一望した。大臣、研究会の会員、警察官たちがひどい暑さにぐったりとしていた。船を漕ぎかけている者さえいる。街には物音一つない。垂直エレベーターと〈水平〉エレベーターがこの時間に動くことは滅多にない。住民たちは一人残らず、午後の猛暑にやられてまどろんでいた。
ツィグールだけは違った。浅黒い顔を黒い髯のなかで物思いにしかめ、金羅紗のカフタン姿で部屋をどしどし歩き回っていた。
「アッシリア王だな」とジーゲルは思った。
機関銃の連射音が遠くから静寂を穿つ。ジーゲルは椅子から伸び上がり、すぐ下を見ようとして面白がるような目つきを城壁に向けた。「また一人」――宿なしの侵入者が火炎放射器で黒こげにされていた。ほかの死体と一緒に、警告として城壁の周りに並べられることになるのだろう。
「もうたくさんだ」ツィグールが怒りを爆発させた。「街が浮浪人の糞尿溜めだというのは本当だったようだな。厳重な警戒にもかかわらず、侵入に成功した者たちもいるそうじゃないか。原子病が病院で見つかった。山賊出没の報告も受けている。防衛策はまったく機能していないようだな、ジーゲルくん」
ジーゲルは肩をすくめた。
「見張りを十倍にすることもできますが、それでどのように対処すればいいのでしょうか。人間一人を発見するのは簡単なことではありません。そのうえ、侵入者たちには街に共犯者がいます。密輸入者に、支援者たちの結社。それに外国語をマスターしたがっている女たちも……。なかなかたいした山師たちです」
「ごろつきどもが!」ツィグールがうなった。
学者のヨーハが険しい大地を指し示し、不満を口にした。
「こんなところを見張れと仰るのですか? 起伏が激しすぎます。これからも侵入者は街に入り込むことでしょう。レーダーも監視カメラもこんな岩山では役に立ちません」
そう言って疲れたように座り込んだ。
「むしろ――」と別の学者が口を出した。「起伏が激しいのは我々にとって都合よいのではありませんかな。街に近づこうと思えばモノレールか飛行機を使うしかない」
「斥候が何人か岩山で殺された」と、警視総監のヴァイスハルトが言った。「どいつもこいつも浮浪人は肝が据わっている。城壁の上に死体を乗せておいてもびびりもしない。発見されても失うものなどない。死ぬのも死の危険にさらされるのも、生活の一部なんだ」
「全員岩山から侵入しています」大臣の一人が口を開いた。「飛行機だとスピードがありすぎてこの辺りの山には着陸できません。ヘリコプターだと現場まで時間がかかりすぎます。やはり空から監視するのが一番だと考えております。密航機やパラシュートを見つけるにもそれ以外に方法はないでしょう。専門家のどなたかに飛行機の原型をおまかせしなくては」
ツィグールが疑わしげな顔を学者たちに向けたのが、ジーゲルには面白く感じられた。
「ではポケットから発明品を取り出してくれることを祈らねばならんな。軍人どもと来たら! いつもいつも何もできんくせに提案だけはいっちょまえだ」
「山で生き延びられる者などおりますまい」また別の学者が言った。「鳥の餌になるのが落ちでしょう。鳥ぐらいしか生きられない場所です」
「鳥の餌、か」ツィグールが考え込むようにして繰り返した。「犬のように鳥を訓練することができれば……」
ヨーハが懐疑的な様子で顔をしかめた。
「訓練された鷲でも、すぐに撃ち落されてしまいます。いい考えとは思えません」
最長老の学者ドルカンだけは、まだ口を利いていなかった。顔は干涸らび、白髪は馬の毛のようにぼさぼさだ。
「思いついたことがありましてな。ただいま猛禽類の話題が出ましたが、それこそ我々に必要なものではないでしょうか。ああいう仕組みのものなら、非常になめらかに動き回ることができます。実を申しますと、何年も前のことですが、隼にヒントを得てグライダーのようなものを造る計画に取り組んでいたことがございました」
「グライダー? 滑走しなくてはならんだろう。岩に着陸するという問題も残っている。人間であろうと飛行機であろうと、怪しい奴らを残らず攻撃してぶっつぶせるような機械はないのか?」ツィグールはドルカンの意見をばっさりと切り捨てた。「ほかにアイデアのある者は?」
ドルカンの顔がこわばったが、それ以外に落胆を示すしるしはなかった。
「リリエンタールと一緒にしてもらっては困りますな」その声に動じた様子はない。「隼を真似て造ったのです。ガソリンエンジンで翼が動くようにできておりまして……早い話がなめらかな滑空が可能なのです。わしの飛行機なら滑走路がなくとも離陸できるのです、隼と同じように。しようと思えば垂直方向に飛び立つこともできましょう。ほぼ鳥と同じ動きができると考えていただけますか。旋回、空中での静止、地面すれすれの滑空、急降下。ある意味ではグライダーと申し上げましたが、サイバネティックス装置を採用することで、自動的に気流に反応して風に乗るようにできております。翼を羽ばたかせるのにも方向を変えるのにも、操縦士の操作は不要です。反射と呼んでも脊髄反応と呼んでもかまいませんが、行きたいと思ったところに行っているのです」
「では操縦士は何をするのだ?」ツィグールが不審げにたずねた。
「どこに行くかを決めるのが操縦士でございます。いわば脳の役割のみを担っているのです。ここまではよろしいでしょうか? 操縦士がこの機の――世界初の機械でできた本物の鳥の――反射に慣れるには、航空史上において例がないほどの、昼夜を問わぬ厳しい訓練をおこなわなくてはなりません。必要な感覚をつかむまでは、そのことだけを考えるようにするのです。操縦士は服に包まれているように、この機体に包まれることになりましょう。馬を知る馬乗り以上に、この機体を熟知している操縦士が必要なのです。わしといたしましては、閣下のなさることに信頼を置いておりますので……」
「問題となるのが人材と訓練だというのなら、何の不都合もあるまい」皆まで言わせずツィグールが断じた。
ジーゲルは踊り子たちの事情を考えながら、ツィグールの言葉なら嘘はないと確信していた。
――もはや何もすることはない。国防長官としては複雑だな、とジーゲルは考えた。
ジーゲルは城壁の上を歩き回っていた。むせるような午後の暑気が白く厚い壁を熱していた。よどんだ空気のなかを、ドルカンの試作機――人呼んで『化鳥』が二機、街の周りに円を描いて、絶えず監視を続けている。化鳥たちは昼も夜も街の上空を巡視していた。その目を逃れられる者などいない。ツィグールは被爆者や火だるまの生き残りを病院で捕らえさせ、侵入者の死体のそばに転がせておいたが、それで都市内部の問題は片づいた。浮浪人たちの方は、街やその近郊を絶えず巡回している『化鳥』の遠くまで届く『目』に見つかり、容赦なく虐殺されていた。
不意に化鳥が筋となって
奇妙な口笛が響いた。これが操縦士たちのコミュニケーション手段だ。カナリア諸島に伝わっているものを採用した。語彙は限られ、口笛と言葉の合いの子のようなものだが――口笛は声よりも遠くまで届く。あの音を聞くと不安で暗い気分になる。いつの間にか化鳥は四機に増え、時折り翼が大きな音を立てていた。密入国機を取り囲んでいるのだ。一機の化鳥が侵入者に襲いかかった。攻撃。立て続けに二度、三度。密航機の操縦士が抵抗を試みる。だが化鳥たちが金属の爪を機体に立てた。コックピットが蹴爪の下で弾け飛んだ。化鳥には火器が備わっていない。弾薬の重さや武器の反動によって微妙なバランスが崩れてしまうからだ。装備は古代ローマ船のような船嘴のみ。『頭』の上に一つ、後ろに一つ、金属の脚に一つずつ。これに捕まった飛行機はどこかに着陸せざるを得ないし、どれだけ硬い機体でも穴を開けられてしまう。
舵と補助翼を破壊されて、密航機は真っ直ぐに落ちるしかなかった。
「間違いない。どんどん強くなっているぞ!」ジーゲルは歓喜した。
岩だらけの地上では、もはや残酷な饗宴が繰り広げられるのみであった。時折り化鳥が旋回しながら上昇し、ふたたび攻撃を加えるために舞い戻っていた。
「獲物を狩るハヤブサそのものじゃないか!」ジーゲルは嬉しさを爆発させた。
繰り広げられる情け容赦のない残酷な光景にしばらく見とれていた。
やがて向きを変え、フランス窓から部屋に戻った。格納庫に戻っている化鳥を見に行くだけの時間はある。街のてっぺんにある格納ドームに行くと、グルシウム製の『爪』に襤褸のようなものがぶら下がっていた。ずたずたに引き裂かれた死体の一部がそのまま引っかかっているのだろう。
知らないわけではなかった。こいつら密航機の操縦士は核戦争や砂漠の死神から逃れて来た人間たちだ。金をはたいてようやくのことで扱いづらく壊れやすい旅客機を手に入れ、見よう見まねで操縦し、妻やときには子どもや両親の受け入れ先を探していたのだ。
――魔法でも使ったのか。まるで全能の魔神だ。あれが『化鳥』か。猛禽のように残虐で。命令に忠実。
ジーゲルは興奮してあちこち歩き回った。これだけの力を発揮しながら、それとわかるようなところはまるで見せないとは――。
それから化鳥の操縦士たちのことを考えた。街のぐるりを昼も夜も休みなく旋回しなくてはならない必要上、知性があって従順な人形に作りあげられている。グライダーを作ることが決まってからの一年というもの、操縦士たちは強制的に軍に入れられ、どこにも出さずに訓練され、心変わりせぬように厳しい調教を受けて精神的な改造を施された。それはもはや空中で生き、空中に生きるのみの存在。訓練に逆らった者や、役に立たなくなった者は、『ダストシュート』に送られていた。「ゴミはなくならない」というのが、ツィグールの出した答えであった。勝ち残った者たちは人間性を剥奪され、操縦士以外の人間との接触を断たれ、以前の嗜好や関心事には見向きもせぬよう変えられた。操縦士たちは魔法をかけられていた。この機体があれば、翼をひと振りし思うままに旋回して、風を捕えることができた。
『外に出ることはありません。食べるときも寝るときも機体のなかです。口笛以外の手段で会話することは不可能であるうえに、任務の話しかしません。知性の減退に冒されているようです』というのが、ジーゲルへの報告書の内容だった。日に日に狩りの技術が上達するにつれ、知能が衰えるものだろうか? ドルカンは馬と騎手を例にとって話をしていた。なるほど操縦士たちが化鳥を住処と定めていたのは確かだった。フン族が議論も食事も睡眠も馬上で済ませていたように。
「目的に特化しすぎたかな」とジーゲルは考えた。「だが信じがたいとはいえ結果は結果だ。蜜蜂や蟻の巣のように市民を条件づけしようとするツィグールの理論も、遂にお墨つきを得たわけか。まあ確かに、蜂や蟻でもなければ、共同体を守るためにここまで恭順しようとは考えまい。文字通りの兵隊蟻だな!」
もっとも、操縦士たちに選択の余地はなかった。幹部ではない人間の生活は囚われの毎日だったのだから。街から出るのを禁じられ、都市国家の生活を司るシステムの奴隷でしかなかった。政府の関係者か食糧でもないかぎり、モノレールや飛行機で行き来することもできない。ツィグールの鉄拳に閉じ込められて生活している人間にとって、そんな牢獄都市から抜け出したり飛び回ったりするのは、得も言われぬ喜びだった。囚われの市民にとって、囚人の夢を実現できるのはこの時を措いてない。窓から飛び立つのは――。生き物のように高感度の機械をコントロールして我が身のように自在に動かし、都市や郊外を守るのは――何とも気持のいいことに違いない。ツィグールの考えを支持することで、自由になりたいという希望を実現させたのだ。飛ぶことと仕留めることは、猛禽の本能であり、日常であった。
ジーゲルは満足して長椅子に寝そべった。ツィグールの治世はこのグライダーの化けもののおかげで安泰だ。なにしろ化鳥は独裁官ツィグールが独占していた。化鳥の開発に協力していたドルカンや技術者たちは、「突然」死に見舞われていたのだ。ジーゲルにしても、報告書のなかで書いたように、「突然死と急死を認め」ることしかできなかった。
街は暑さにしおれていた。音はない。二年前から街の外に音のすることはなくなった。もう侵入者はいない。ツィグールは金のローブを身にまとい、のんびりと、力強く、歩いていた。勝ちを収めたのは独裁者だった。
操縦士たちの仕事もしばらく前から減っていた。知らぬ者などいない。化鳥の見回りと残酷さは広く伝説となって知れ渡り、街は恐怖に覆われ、侵入者たちを遠ざけていた。情報はすでにすみずみまで口から口へと駆け巡っていた。いかなる情報であろうと迅速に伝わるのが浮浪人たちのシステムだった。化鳥によって引き起こされた感覚的な恐怖は、当初の黒こげの死体の比ではない。国中が金属製の生きた鳥を話題にしていた。ツィグールはいまや無敵となった帝国の領土を拡大していた。敵対しているどこの軍隊であれ、領土に侵入しようと考えることすらせぬだろう。
「いまや我々はこの地域の支配者だ」ツィグールが厳かに言った。「化鳥が不浪人どもを狩ってくれた。被爆者が一掃されたおかげで、街から汚染もなくなった。もはや恐れるものなどない。兵隊も戦闘機も化鳥に楯突こうとはしなくなった。我こそ支配者だ」
――廃墟の支配者だがな、とジーゲルは思った。
何もない山間部を見つめた。同じく何もない広大な空と太陽の下で揺れている。モノレールの路線が等間隔に並んでいるだけで、ほかにはなにもない。線路は山間に架かる長いアーチ――華奢な高架橋――の下を走っている。
「最近はそのグライダーもとんと見なくなりましたな」大臣の一人が口を開いた。
「見ないな」我が意を得たりとツィグールが答えた。「もう必要がないのだ」
「巡回しているところを何度か見かけましたが――」ヨーハが言った。「奇天烈な代物だと言わざるを得ません」
「ドルカンに不幸があってからというもの、機械の動かし方は操縦士しか知らんのだ」ツィグールはそう答えてから、「毎日動かしている以上は、身体や筋肉が覚えているんだろうさ」と吐き捨てた。
「それでもまだ侵入者が?」
「わずかだ。被爆者が苦痛に耐えきれず勝負に出て、捕まえられに来ている」ツィグールの声には何の感情もこもってはいなかった。
――苦痛に耐えきれず、か。とジーゲルは考えた。どうでもいいことでも口にしているみたいな話しぶりじゃないか――。いくら逞しい人間相手でもそれが何を意味するのかは経験として知っていたし、兵士として、肉体の苦痛がどれほど精神を揺るがすのかもよくわかっていた。――ツィグールめ、人間らしさなんてこれっぽっちも残ってはいないんだな。ほしいのは権力だけか。それが何らかの利益になるとわかれば、喜んで俺たちを犠牲にするんだろうとも。俺たちみんな――ドルカンの後を追うのだろうか。これまで何人もの極悪人や人非人に会ってきたが、ここまで苦痛に無関心な人間は初めてだ。サディストですらない。とは言え、操縦士と踊り子に課せられた人生は、やはり独創的だと言わざるを得んな。
このボタンを押すだけでいい。化鳥はそこにいるんだ――ツィグールはそんなことを考えながら口笛語を操っていた。
ジーゲルは不意に悟った。操縦士の話をしているわけでも、飛行機の話でもグライダーの話でもない。もはや化鳥でしかないのだ。誰もがそれを当然のように考えていた。だが操縦士たちはどう考えているのだろう? いかに人間だったころのことを忘れたとはいえ、やはり巡視や狩り以外のことを考えていても当然ではないだろうか。何やらこの俺の目を免れていることがあるようだ。
ジーゲルは心に刻んだ――立ち寄ってみよう。夜中に。格納庫を。ジーゲルはこっそりと忍び込んだ。見張りはいない。監視兵も歩哨も化鳥に任せきりだった。それだけ信頼していたのだ。化鳥たちがいた。止まり木に並んで、大きな翼をたたんでいる。薄暗がりのなか、円窓が奇怪な目玉のように輝いていた。操縦士たちは街上空の巡回をほかの二羽にまかせて、眠っているはずだった。だが化鳥たちはロボットのように謎めいた命を秘めているようだ。ドルカンがたぐいまれなしなやかさと俊敏性を植えつけたせいで、不気味なほどに生き物そのものであった。悪夢に現れるような鳥だと言われても仕方がない。隼というよりは、手際が悪いころの自然が造りあげた不格好な中生代の翼竜に似ていた。
だからといって操縦士たちに何ができるというのだろう? 手足を伸ばしに外に出たがらないとはおかしな奴らだ。おそらく長いうちに畸形化してしまったのだろう。かつて自動機械の操縦士が肥満に苦しんでいたように。化鳥たちが機体のなかで胎児のような恰好をして丸まっているのは知っていた。膝を抱え、金属製の鳥の『頭』に囲まれた頭をうずめて。今ではもうその丸いシールド越しにしか外を見ることはできない。化鳥同士でも言葉を使った普通の会話をしなくなったのはなぜなんだ? 数か月前から、メンテナンス役の人間の誰一人として操縦士には会っていない。操縦士たちは自分たちだけでうまくやっている。「あいつらだけで充分ですよ」整備士の一人がジーゲルにそう言っていた。
シールドのせいで、鳥たちは人知れず視線を交わしているように見えた。遠目と夜目の利くように改良されたその視覚装置を調べてみた。レンズに目をつけたまま眠るのか? はたして何を考えているのだろうか? 毎日毎日をこうして過ごしているのか? こうして眠っているのか? 便利な機械を操作しているうちに、人間の身体の普通の使い方を忘れてしまったのか? 手や腕はレバーを動かすためのものでしかなくなってしまったのか?
ジーゲルは眩暈を覚えた。単純な問題や簡単で効果的な心理学に慣れていたせいで、不愉快なほど不安を感じ、狼狽を覚えた。激動の人生のなかでさまざまなことを経験してきたが、そのどれにも似ていなかった。
ツィグールが広いテラスに出て、動かぬコンクリートの町並みを見つめた。暑さはツィグールのように力強く、揺らぎなく、容赦なかった。ツィグールは満足げに黒い髭をなでた。
――俺たちは化鳥に頼りきりだ、とジーゲルは考えた。もう誰も見張りなんかしちゃいない。監視兵なんていなくなってしまった。
ツィグールが口笛で合図をした。返事はない。
――条件づけが切れたんだな。無反応、と……。ジーゲルはそう思った。
自信に満ちていたツィグールの顔には余裕が浮かんでいたが、やがて時間が過ぎるとともに疑いが兆し始めた。そしてとうとういらだちを表に出した。
「おそらく眠っているのではないかと」ヨーハが口を開いた。
ツィグールが顔を上げた。石のように張り詰めた空を見渡しても、これまでは休みも取らずに見回りをしていた二羽の化鳥がどこにもいなかった。
「こんなことは初めてだ」
ツィグールは合図を繰り返した。
おそらくは激しい訓練のあとでどっと虚脱感に襲われでもしたものか、この暑さのせいででもあるのか、とうとう人事不省に陥ってしまったのだろうか? 狩りに特化したがために、獲物がいなくて呆けてしまったのだろうか?
静寂。だが緩やかな、平穏を意味する静寂ではない。内戦に憂う町を覆うような静寂――何かを覆い隠している静寂だった。燃える太陽の下、人気のない道路――静けさではなく、不穏さに満ちた、死だけがうろつき待ち伏せている道路。人気がないのは、危険を冒して足を踏み入れたとしたらすぐに弾丸が飛んで来るからだ。ジーゲルはそうした緊迫した雰囲気をしっかりと感じ取っていた。おかしな空気にツィグールは気づいていない。高揚感に目が眩んでいたのだ。それに化鳥などツィグールにとって、敵を制圧する道具に過ぎない。
ツィグールは詰め所の一つに内線電話をつないだ。直後、もつれたような声が聞こえた。
「どいつもこいつも眠っているのか!」ツィグールが怒りを爆発させた。「ただちに化鳥を呼べ。広場に整列させろ」
「どういった理由でしょうか?」
「そんなものいらん。俺が会いたいのだ」
遠くから口笛語の合図が聞こえ、居合わせた者たちは顔を上げた。空には相変わらず何も見えない。
「様子を見て来ます」ジーゲルが立ち上がった。
ジーゲルは高速エレベーターに急いだ。不安に駆られて都市の頂に向かっている最中、静寂が揺らぎ、破れ、口笛の合図と警告の叫びが響き渡り、あちこちを駆け巡った。何を言っているのか聞き取ろうとしたが、それは夜に目を覚ました森のざわめきにも似た不明瞭な音でしかなかった。
頂に着くと、真っ先に薄暗い格納庫に向かった。不快なえぐい匂いに胸が悪くなる。
止まり木は空っぽだった。
ジーゲルは出口に向かった。
眼下では化鳥が街を飛び交い、窓を割り、すべてをぶちまけ、路上で人を襲い、逃げる者を追いかけて、情け容赦ない虐殺と殺戮をおこなっていた。
「叛乱だ!」
左右に目をやる。格納庫の暗がりのなかに、ずたずたになった肉が散らばっていた――血塗れの生肉だ。いくつかは腐っている。悪臭が満ち、胸が詰まりそうだった。
肉片を拾い上げる。汚れた布の切れ端が付着していた。
「侵入者の死体か……ここまで運んで来たのか。それにしても火炎放射器に、見張りは……?」
機械の音がした。操縦士たちの食事の時間だ。食事用エレベーターがブリキ缶をいくつも吐き出している。それは手のつけられていないいくつものブリキ缶の上に落ち、しばらくのあいだ、がちゃがちゃと音を立てていた。ジーゲルはそばに寄って確かめてみた。文字通り山が聳えていた。素早く視線を走らせる。一年近くも前のものがあった。一瞬にしてジーゲルは悟った。
「人喰いか……人を喰らうようになっちまったんだ」
ジーゲルはエレベーターに飛び乗り、詰め所に急いだ。空っぽだった。口笛係を捕まえて、化鳥に向けて基地に戻って来るよう命令を出させた。それを何度も繰り返した。
窓の壊れる音、街を逃げまどう人間の叫び、それに応える化鳥の声。
「皆殺しにしろ! 空は俺たちのものだ! 化鳥万歳! 人間はごみだ! くたばれ人間ども! 飛べない奴らめ! 俺たちに空を! 俺たちに街を! この世の春を!」
「イカレやがって」ジーゲルはつぶやいた。「あんな訓練と暮らし方のせいだ」
ほかに何かあるに違いない。それが間違っているにしても、あとで考えればいいのだ。
騒ぎにも慣れてくると、棚に駆け寄って小型バズーカをはずし、目につくかぎりの弾丸をかき集めてから、大急ぎで会議室まで降りた。
なかに入るまでもなかった。エレベーターからでも、ひどい状況になっているのがドア越しに見えていた。化鳥の口笛と混じり合った呻きや喘ぎが会議室に満ちている。掻き裂かれて血塗れになったツィグールが床を這っている。ここでできることは何もない。
ボタンを押して下に降りると、街のふもとにある詰め所に駆け込んだ。
服をぼろぼろにした男たちが、火炎放射器や重機関銃に飛びつき、あがいていた。
「馬鹿野郎!」ジーゲルが吠えた。「機械に頼るとどうなるか思い知ったか」
女の叫喚は男の怒号よりも鋭く、激しい。それが騒ぎの本流となり、空気を切り裂いていた。
ジーゲルは一瞬にして詰め所の武器を値踏みした。
「街なかで火炎放射器など使うな! 危険すぎる! 格納庫のガソリン・タンクを爆破しろ」
「火をつけて……焼き払うんだ」中尉の一人がつぶやいた。
「燃料補給を断つにはそれしかない」
化鳥はいつもどおり朝満タンにしたのだろうから、ガソリンはあと二時間とはもつまい。それまで耐えきればいい。
「急げ! 周囲の建物はやむを得ん。あとで消せばいい」
ジーゲルは六人をしたがえて対空砲に駆け寄り、焼夷弾を詰めた。
七人は格納ドームの基部に狙いを定めた。
「撃て! ドームを爆破するまで撃ち続けろ!」
爆煙が上がった。ドームが揺れて崩れ落ち、破片が飛び散り、周りの建物にまで降り注いだ。化鳥の群れがあわてた様子で旋回している。群れから離れて砲台めがけて急降下して来た化鳥たちもいる。
「撃て!」ジーゲルが叫んだ。
急降下していた化鳥が撃たれ、きりきりと舞いながら、燃えた紙切れのように縮こまり、鈍い爆発音とともにかたわらの道路に墜落した。仲間の化鳥たちが詰め所の上空に急降下して来た。
不意に巨大な影が窓に映る。窓が割れ、化鳥の重みで粉々になって飛び散った。
蝙蝠のように部屋の天井付近を舞う化鳥に砲弾が降り注ぎ、翼が壁にぶつかり鈍い音を立てる。蹴爪で腹を裂かれた砲撃手が絶叫した。ジーゲルはぎりぎりで身を伏せて床を転がり、砲撃手をつかんでいる爪の届かないところまで逃げることができた。
ついに化鳥たちが束になって詰め所に襲いかかった。一人がパニックに陥り、ジーゲルが止める間もなく、火炎放射器を操作した。男は燃え上がった化鳥の落下に巻き込まれて倒れ込んだ。燃料タンクが開き、炎の層が舌を広げ、詰め所じゅうを舐め尽くした。
ジーゲルは廊下に飛び込んだ。そこなら化鳥たちも襲えない。
叫び声、口笛、砲撃の音、火炎放射器のうなりが、切れ目なく調べを奏でている。化鳥たちの動きが速すぎて弾が当たらないので、誰もがそれを理由に、ジーゲルの忠告を無視して火炎放射器を使っていた。街じゅうで火の手が上がっている。襲撃に恐慌を来した人々には、火を消すことにまで頭を回すことができなかった。
目を上げると、階段室の高い窓から、火の粉に包まれた鋼鉄製の梁が見えた。モノレールのレールだ。
「撃て! 撃て!」馬鹿のように叫ぶ声が聞こえる。
――どうやら片はついたな、とジーゲルは考えた。ツィグールは死んで、会議も鳥の餌にされちまった。俺のキャリアもこれで終わりだな。
どうやって逃げればいい? モノレールは燃えちまった。飛行機で飛び立つのは狂気の沙汰だ。一番の安全策は歩いて街を出ることだろうか。化鳥たちも街の外までは追って来るまい。
ジーゲルは市門行きの水平エレベーターに乗った。
誰一人邪魔をする者はいなかった――財産を運び出したり身を守ったりするのに必死なせいで、助けを呼びに行くのか火災や化鳥を鎮めようとしているのだくらいにしか思われていないようだ。
出口にたどり着き、目の前に広がる景色を見ると、張り詰めていたものがゆるみ、ため息が洩れた。参ったな! こんな蟻の巣のなかで三年間も暮らしていたとは!
――どのみち環境を変える頃合いだったんだ。
ジーゲルは川に急いだ。川に行けば小舟がある。焦土を離れて遠くに行ける。武器と経験があれば、どこをさまよおうと恐るるに足らぬ。
かなりの時間を歩いたあとで振り返った。街はもはや赤く燃える松明の光に過ぎなかった。ジーゲルのいるところからは、はっきりしないかたまりが光っているのが見えるだけだった。巨大な煙の柱がゆらゆらと立ちのぼっている。
「あのなかはさぞかし暑かろうな!」冗談を言う余裕が生まれていた。
川を目指して歩いていると、静けさのおかげで興奮も冷め、何が起こったのかをじっくりと考え始めた。
今回の暴動が意味するところは? 支配するのは自分たちのほうだ、と考えていたのであれば、どうして操縦士たちはツィグールに最後通牒を突きつける代わりに、馬鹿げた奇襲攻撃を仕掛け、挑発するように口笛を吹き鳴らしているのだろう?
やがて少しずつ恐ろしい確信が頭をもたげて来た。あいつらは完全に機械のなかで生きることを余儀なくされて、もともとの身体に宿っていた感情を失ってしまったのだ。ずっと同じ状態でいたために、グライダー特有の反応や動きをしているうちに決断の仕方や考え方まで順応してしまい、ついには機械をおのれの身体――鳥の身体――としてしまったのだ。人工の鳥と共生するうちに人間本来の振る舞いをすっかり忘れ、肉食を課せられているうちに人肉の味を覚えてしまったのだ。ドルカンが望んだより遙かに完全に、文字通り機械の脳となってしまったのだ。さりとてその食嗜好が示していたとおり、脳であればどんな身体にも住まえるというわけではない。脳は独立しているわけではなく、解剖学上も肉体上もその一部でしかないのだ。脳の働きを導くのは身体の動きである。言動、務め、生き方によって精神が形作られてしまえば、肉体は外部世界を把握するための手段に過ぎなくなる。
操縦士が化鳥のなかでひたすら操作に溺れて腕を磨いていくうちに、本来の人間の肉体が衰え、機械装置と脳が互いに影響を及ぼし合うようになっていた。最終的にはもはや一つのことしか考えられなくなった。獲物を追い、口笛で会話することだけが考えていることのすべてであった。こうして化鳥たちは本物の鳥になり、知性も衰えていった。 そこから常軌を逸した挑戦が始まった。それはまったく新しいタイプの動物であった。
――ツィグールにとっちゃ、予期せぬアクシデントというわけか。理論がうまくいったばっかりに、そのせいで命を落とすとはな。
ジーゲルは川に急いだ。何だかんだあっても数時間後には片がついているはずだ。
影がかたわらの地面をよぎった。見上げると、空高くに一羽の化鳥が旋回していた。
ジーゲルは駆け足になり、折にふれて顔を上げ化鳥の様子を確かめた。
――化鳥の最後の一羽がくたばるまで、地下倉庫で待機しているべきじゃないのか。そのほうが逃げ回るより賢明なのでは。駄目だ。馬鹿げてる。火に巻かれて生き埋めになるか窒息死するのが落ちだ。化鳥はいったい何をしているんだ? 侵入者を追いかけて遊ぶのはもうやめたのか? ふん! 食べることしか考えていないんだな。あせるな、現状を維持しろ。二十分もすればガソリンが切れて、あの欠陥品も一巻の終わりだ。
暗くなり始めるころには、岩山の見えるところに来ていた。ジーゲルは岩山に向かって走った。身を潜ませる洞窟か窪みが見つかるはずだ。
化鳥をさっと見やった。旋回しながら降りて来ている。
ざっと見積もったところでは、化鳥より早く岩場までは着けそうにない。夜の闇が荒れた岩場を黒く染め始めている。暗さに紛れて見えない岩の起伏につまずきかねない。全力で走っても意味がない。ジーゲルは立ち止まって地面に伏せ、ピストルを構えた。
化鳥の描く輪が狭まっていた。
――これだけ地面に密着していれば、飛びながら襲うわけにもいかんだろう。速度を落として着陸するしかあるまい。行動するならその時だ。それにもうすぐガソリンも切れるはずだ。
真上で旋回する化鳥が頭をかすめそうになる。目の前に巨大な円窓眼が見えた。薄明を反射して邪悪な光を放った。撃つならコクピットだ。弱点はそこしかない。
蹴爪のある『頭』がかしいだ。今だ。ジーゲルは三発続けて狙い撃った。途端に大きな塊が降って来た。
三メートル以上転がってそれを避けてから、もう一発撃った。化鳥は斜面に落ち、折れた片翼をぶら下げていた。警告の口笛が空中に響き渡る。
ジーゲルは立ち上がって走ろうとしたが、足を取られた。気づけば、身体じゅうのいたるところから血が流れている。街を赤く染める地平線から、いくつかの点が浮かび上がり、急速に近づいて来るのが見えた。仲間の化鳥だ。腐肉におびき寄せられたコンドルの群れのように、警告を聞いていっせいに攻め込んで来たのだ。
勇気がくじけそうになる。手から流れる血が止まらず、拳銃がべたついている。地面で動けずに震えている化鳥を撃ち続けた。コックピットはすでに割れていた。なかで何かがうごめき、外に出ると、土から顔を出したばかりの芋虫のように、光に目を眩ませた。力まかせに引きずりだされた醜い鉛色の胎児のようだ。
もう一発。
「この出来そこないめ! 化けもの鳥め!」
いざりのように這いずる痩せ細った化けものを、おぞましい目つきで見ると、皮膚が破れてゆっくりとリンパ液が流れ出していた。
顔を上げると、ほかの化鳥たちが敗れた仲間を助けようと向かって来る。だが市街戦と火災で傷ついた化鳥たちは、空中でふらめき、不格好に翼をばたつかせていた。ジーゲルは這って逃げようとした。足はもう立たない。翼のふちで腿の筋肉を断たれてしまった。もう駄目だと感じながらぐちゃぐちゃの地面を這い続けた。時計に目を落とした。針が指しているのは、ガソリンが切れたころだ。
「しめた!」ジーゲルはしゃくり上げた。
ついに化鳥たちが落ちて来た。よろめき、ぐらつき、黙示録の鳥のように炎をあげている奴らもいる。戦いで死にかけた奴らは、努力の甲斐なく地面に叩きつけられ、ぐしゃぐしゃになっていた。
空にはもはや一羽たりともいない。生きている奴らは警告の笛を鳴らした化鳥の周りに集まっている。地に這いつくばって逃げようともがき、翼を広げようと無駄な努力を続けていた。
ジーゲルは放心したように、その異様な光景を見つめていた。憎しみに口唇を歪め、吐き捨てた。
「死ね! くたばっちまえ! もう飛べやしまい、ハゲタカどもめ!」
ジーゲルは四つんばいのまま、屑鉄どもから離れようと川に向かおうとした。
そのとき、ジーゲルの言葉に反応したように、口笛が響き渡った。操縦士たちの脳が、自分が死にゆき、種が滅びゆくのを直感し、化けものじみた本能から、混乱した意識のなかでそんな声をあげることしかできなかったのだ。その口笛にはもはや意味などない。あるのは哀しい叫びであり、引き裂かれるような響きであり、喉から絞り出される慟哭であった。繰り返される嘆きの合唱は、通夜の哀哭のように空に舞い、黄昏の空気を満たしていた。
ジーゲルは夜空の下に広がる燃え尽きた街を見つめていた。オイルと焼けた肉の匂いが喉を刺し、獣じみた化鳥の嘆きが耐え難く耳を聾する。夜に黒く染められた地面が赤く照らされ、燃えている化鳥が身体をよじるたびに光が揺れた。遠くに川が光っている。どこを見ても、すさんだ夜陰があるばかりだ。
夜は少しずつ心のなかにも忍び込んできた。
――終わったんだ。助かった。助かったんだ。喘ぎながら繰り返し言い聞かせた。
助けを求めて、わけもわからず地平線を見つめた。光もなく、暗く、冷たい地平線。血で視界が閉ざされ、引き裂かれるような化鳥の悲鳴が小さくなっていった。
「Chronique des Rapaces」Arcadius,1963年。
Ver.1 13/05/13
[訳者あとがき]
アルカディウス、本名 Marcel-Alain Hilleret、1932年生れのフランスの小説家、新聞記者。1957年、Galaxie誌にて「Et la forme se perd」でデビュー。二冊の長篇『La Terre endormie』(1961)、『Planète d'exil』(1963)を残す。ウェルズとガストン・ド・パヴロウスキーの影響を受けた。
「精神的進化の過程を、表現主義的象徴主義(symbolisme expressionniste)の形で、SF作品のなかで表現したかった。自分のSF作品が(クレスチャン・ド・トロワのような)ブルターニュ派の作品と直結していると気づいたのはあとになってからのことだ。無意識のケルトの遺伝子(私にはスコットランドの血が半分入っている)のなせるわざだろう。ナタリー・アンヌベールに言わせると、私のなかのスコットランド人が書いたのだ」
1958年の「Les Naufrageurs(船幽霊)」は、金星探検隊の宇宙船が相次いで難破するという事件を扱ったもの。ここに翻訳した「Chronique des Rapaces(猛禽年代記)」(1963)では、肉体改造された鳥人間たちが叛乱を起こします。いずれも古くさい内容ながら、作品内に思想や哲学が披瀝されていないのが幸いし、現在でも気楽に読める娯楽作になっています。
[翻訳について]
底本にはアンソロジー『en un autre pays』収録のものを用いました。化鳥の数え方は最初は「一機、二機」、飛行機ではなく鳥だとジーゲルが認識してからは「一羽、二羽」と数えています。
[註釈]
▼*1. [未開の中世が……]。
ニーチェ遺稿集8、1880-1881冬より、第61断想。著者によって若干のアレンジがされています。[↑]
▼*2. [ミンスキー]。
マルキ・ド・サド『悪徳の栄え』に出てくる殺人鬼。[↑]
▼*3. []。[↑]