どんよりとした陽射しが落ち、埃にまみれてひび割れた窓ガラス越しに、白木のテーブルに光が当たった。テーブルの前に庭椅子があるほかは、その部屋に家具はない。汚れた床の上には、割れやすい実験用ガラス器具や扱いの難しい測定器が積み上げられている。遡ること戦前に、忍耐と交渉を重ねた末に手に入れたものだった。壁に掛けられているのは、フランツ=フェルディナント皇帝の公式肖像画だ。苦悩の表情を浮かべた皇帝の正面には万年暦があり、目盛りが日付を告げていた。一九三四年
遠くでイギリスのロケット弾が糸を引くようなうなりをあげた。やがて谷に落ちて爆発するのだろう。教授は顔を上げてその軌跡を追おうともしなかった。不安な様子はまったく感じられない。一年前に、最後の爆弾によって最後の核工場が破壊されてからは、敵国のどこであろうと核物質を撒き散らすことは出来ない。先ほどのロケット弾には普通の爆薬が積まれている。それが戦争末期にできる精一杯の攻撃だった。「爆弾」を知っている者なら大騒ぎするまでもない……
実際のところ戦争が今も続いていたなら、いいかげん慣れ切っていたはずだ――十二年というのは慣れるのには充分すぎるほど長い――それに何より、どのキャンプを探してみても、砲撃をやめさせることのできる人間などもういないのだから。教授の知るかぎりでは、帝国はもはや存在しなかった。廃墟となった都市部との連絡を絶たれ、数百万人からなる軍隊は散り散りばらばらになり、群れを為した寄せ集めと化して、絶望して故郷に帰る先々で土地を荒らし恐怖を撒き散らしていた。なかには断固として夢を見続ける将校たちもいて、しっかりと手綱を締められていたいくつかの部隊は、それぞれのキャンプ地で残された砲弾やロケット弾を盲撃ちしていた。
この戦争には勝者も敗者もいなかった。荒れ果てた世界では文明の波が最後のしぶきを上げて次々に沈んでいた。六か月前からチロルの研究所には教授一人しかおらず、インスブルックからはもう何の連絡も来ていない。だからと言って出向くのは問題外だ。爆弾に汚染された死の地帯と、腐乱死体が分解されさえしない腐敗地帯が、北の谷を覆い尽くしている。スイス十月革命以来、チューリヒのラジオ局は無言を貫いている。いや、無意味で矛盾した宣言だけを時折り発信しているというべきだろう。
一九一四年六月二十八日。サラエヴォにいたフランツ=フェルディナント大公は陸軍の司令官に対して不機嫌を隠さなかった。それもやむを得まい。伯父である老フランツ=ヨーゼフ皇帝がボスニアの人々にしっかりと支持されていることを確かめに来たのだが、そこでわかったのは町が敵意に満ちていることであり、行列が通ると非難に満ちた呟きが聞こえることであったのだから。
治安部隊の兵士たちにしてからがボスニア軍に所属しており、不機嫌そうな態度を取ったり武器の持ち方を変えたりすることで、ほかの人間に訪問してほしかったことを明らかにしていた。待ち望まれていたのはセルビア王ペータル・カラジョルジェヴィッチだった。オープンカーにいる皇太子夫妻は恰好の標的であった。いかに勇敢とはいえ、フェルディナントは背筋に震えが走るのを感じていた。
だが何も起こらなかった。オープンカーは駅に着き、ひそかにセルビア国歌を演奏する準備をしていたはずのオーケストラが、「神よ皇帝を守り給え」をぞんざいな調子で演奏した。フェルディナントは大公妃が列車に乗るのに手を貸してから、振り返って司令官の手を事務的に握り、客車に乗り込んで、憎しみに満ちた人々に最後の挨拶を送った。安堵の息をついたとき、列車が動き出した。
死へのレースが始まったのは一九一〇年ごろのことだ。ヨーロッパ各国の首脳たちは――正当な理由から――十数年後には世界大戦が避けられないと判断し、それまでの期間を準備に費やした。ばらばらの軍隊を一つにし、施設をまとめるには、オーストリア=ハンガリー二重帝国にはそれだけの時間が必要だった。帝政ロシアにも、烏合の群れをまともな軍隊に変えるのにそれだけが必要だった。ドイツの場合は……かの老ティルピッツがぶちあげた造船計画などは狂気の沙汰だったし、皇帝ヴィルヘルム二世が計画に同意したのも、造船所がそれを実現できるわけもないと確信していたからだ。この計画によれば
だが英仏協商は眠りに就いたままでは終わらなかった。三十年前から燃やし続けていた復讐心のもとで訓練怠りなかったフランスは、少しでも危険を感じたら国境に百個師団を送り込む用意をととのえ、最初の攻撃に耐えるか――与えるか――するはずだった。それを後ろ盾にして、イギリスも動員をかける準備をととのえることができた。そして二つの同盟国によって極秘裡に恐ろしい兵器が開発されたのが、一九一六年のことだった。その武装した装甲車には農業用トラクターのようなキャタピラがついており、どんな道でも障害物でも乗り越えて進むことができた。大量の『タンク』(というのが秘密を保持するためにつけられたコードネームだ)が搬入され、乗組員たちは絶対に口外しないことを誓わされたうえで訓練されていた。
一方ではさらに悪いことが――よりいっそう悪いことが――起こっていた。一九一五年からドイツの化学者たちは窒息性のガスの製造に取りかかっており、それを使用すれば完全なる勝利が約束されたも同然だった。ドイツ歩兵隊は肩に武器をかつぎ、呼吸は防護マスクを通しておこない、厄介なことといえば死体の山を越えて歩かなくてはいけないことくらいであった。
だが一方で研究に勤しんでいたのが物理学者たちだった。一九一九年五月十一日、イギリスの科学者ラザフォードの研究が首相の目に留まった。原子には並はずれたエネルギーが含まれており、手だてさえ見つかれば大きな力を自由にできるというので、ただちにラザフォード計画が誕生した。同盟両国から著名な物理学者が集められ、極秘裡に研究室に保護された。
だが秘密というのは洩れるものだ。イエナ大学のアインシュタイン教授がこの研究に感づくことになる。ドイツ皇帝の庇護を受け、ドイツと深い関わりのあった著名な理論家にとっては、平和主義に目をつぶり「武器」実用化に向けた研究をおこなうのは簡単なことであった。
こうしてすべての火種はととのった。
火がついたのは一九二二年七月のことだ。きっかけはありきたりの外交的事件に過ぎなかった。三日間で全世界が戦争状態に陥った。たった一か月で、死者の数は二千万人にのぼっていた。
初めの数日はどのような予想も伝統的見解も役に立たなかった。制海権は新たな持ち主の手に渡った。イギリスの遠征軍はティルピッツの創案した艦隊によってマンシュの奥に追いやられ――連合艦隊も運命を同じくした。だがすでにフランス軍はウルムとアウルスブルクを目指し、戦車が立ちはだかるものすべてを蹴散らして進んでいた。そこでドイツはガスに防衛を託した。フランスの兵士が息を詰まらせ地面でひきつる間もなく、ルールに最初の爆弾が投下された。
六か月で一億人が死んだ。ルールとラインラントの町にはもはやガラス状になったクレーターしかなかった。だがフランス北部は一年後には見渡すかぎりが腐った屍で埋もれた大虐殺場となっていた。緑のガスが拡散することなく層を成して滞っていたのだ。
一年が過ぎたころには死者は二億人に達していた。そのあとは、殺戮のリズムは速度をゆるめた。軍人は身を潜め、市民は廃墟の下で一つになっていた。一つには生き延びるため、一つには軍事品を補給するため。争いは長期化し、決定的な成果もなく、大きな勝利も敗北もなかった。残された中立者たちも、態度をはっきりとさせなくてはならなくなっていた。一つだけ明らかな敗者があった。文明。もはや希望は一かけらも残されてはいない。被害はあまりに大きく、復興は恐らく不可能だった。重要な施設も工場も消え失せてしまった。交通の足ももはや存在しない。爆弾やガスを免れた人々も、飢えやペスト、チフスによって最後の仕上げを打ち込まれていた。
教授は頭を抱えた。一瞬だけ懐疑、疲労、弱気を覚えた。もう缶詰もほとんど残っていない。猛威をふるったチフスによって助手たちも倒れてしまった。自分が死んでしまえば、すべてが失われてしまう。たった一つ残されたすべての希望が。どれほど頼りない希望であろうと……。
一九三四年十一月八日。配給が手に入ったので、これで年末まで食べてゆける。あと五十日。せめて友人のハイゼンベルクがコンデンサーを持ち帰ろうとしてインスブルックへの降下を最後に試みなかったならば……。
厳密に言うなら、多少の工夫をして、複雑な作りにすれば、コンデンサーなしでも「最後のチャンス」計画を成功に導くことはできたのだ。ハイゼンベルクがいないとなれば、でたらめに書き散らされた覚書をもとに仕事をせざるを得ないが、それは困難を極める。替えのきかない痛手だった……。計画を進めていたのはハイゼンベルクだったのだから。一年以上前に繰り返していた言葉を今でも覚えている。「もちろん我々が知っているような過去は蓋然的なものでしかなく、断じて確定的なものではない。『もっともありそうな』過去でしかないのだ。不可能ではないのだよ、運命の手をねじ曲げ、新しい可能性を生み出すために、過去に介入するのは不可能ではないのだ。最後のチャンスだ……無論、我々自身が過去に戻ることなど問題外だ。因果律を冒すようなことなどできるわけがない。だが現在の我々の意思を投影することならかろうじてできる。過去にいたもう一人の我々に向かって。我々自身に向かって、すべきことをするように導くことなら――将来すべきこと……というべきかな。未来を――彼らの未来を――変えるためにしなくてはならないことをだ。頑張ろうじゃないか……」
教授はため息をつき、抽斗を開け、二十年前に購入した古い自動拳銃に目をやった。疲労に負けそうになる。滅びかけたこんな世界を見捨てたい思いに気持が傾く。肩をすくめて抽斗を閉めた。そんな形で自殺するのは無意味だ。だが準備していた方法なら……。
戦前十年間の歴史は詳細に調べていた。できるだけ早く実行しなくてはならない。当たり前のことだが、動き始めてしまったあとで武力衝突を止めようとしても意味がない。遅らせたところでさらに悪い結果をもたらすだけだ。そうではなく、事前に暴発させなくてはならない。軍事力が恐ろしい手段を手に入れ、戦争のスタート地点にたどり着く前に……壊死する前に膿を出さなくてはならない。
早ければ早いほどいい……だが年齢に制約がある。一九一一年八月のアガディール事件のときにおこなうのは都合がよさそうだ。タンジール訪問中に皇帝ヴィルヘルムを暗殺するだけでよい。事件はフランス警察が担当することになる。その後に起こる戦争で活躍する武器は銃剣になるはずだ。航空機でも自動火器でもガスでも爆弾でもなく……戦争はすぐに終わり、人もほとんど死なずに済む。だがまだウィーンの寄宿学校に閉じ込められている十六歳の少年が、どうやってそんな遠国に行き、そんな出来事を実現させられるというのか?
一九一四年八月のセルビア事件のときなら十九歳になっている。年齢的にはだいぶいいが、年代的にはぎりぎりだ。翌年にはドイツの科学者がガスを開発している。もちろん戦争で用いられるだろうが、完成させる時間はない。武力衝突は一九一九年を待たずして終わる可能性がある。戦後の雰囲気のなかではラザフォード計画が生まれるような理由もないから、爆弾が開発されるのも二十年は先になるだろう。一九一四年……この日に起こるはずの戦争は長いものになるだろうが、文明を滅ぼすには至るまい。
プリンツィプ教授は顔を上げ、これから殺しに行く人物の肖像画を見て、仕事に戻った。
一九一四年六月二十八日。サラエヴォにいたフランツ=フェルディナント大公は陸軍の司令官に対して不機嫌を隠さなかった。それもやむを得まい。伯父である老フランツ=ヨーゼフ皇帝がボスニアの人々にしっかりと支持されていることを確かめに来たのだが、そこでわかったのは町が敵意に満ちていることであり、行列が通ると非難に満ちた呟きが聞こえることであったのだから。
治安部隊の兵士たちからがボスニア軍に所属しており、不機嫌そうな態度を取ったり武器の持ち方を変えたりすることで、ほかの人間に訪問してほしかったことを明らかにしていた。待ち望まれていたのはセルビア王ペータル・カラジョルジェヴィッチだった。オープンカーにいる皇太子夫妻は恰好の標的であった。いかに勇敢とはいえ、フェルディナントは背筋に震えが走るのを感じていた。
一回目の銃声ではフランツ=フェルディナントを脅かすことはできなかった。学生プリンツィプは射撃場にいるように落ち着き払って銃を撃ち、ブローニングのマガジンを空にした。先に撃たれた大公妃が倒れ込む。プリンツィプは慎重に――極めて慎重に――狙いをつけて、とどめの銃撃をおこなった。
当局から尋問されてもプリンツィプは頑として口を割らなかった。法廷でも不遜に沈黙を貫いた。もっとも、裁判はほとんど注目されることもなく終わった。戦争が猛威をふるっていたのだ。
プリンツィプは二十歳で死んだ。最後まで犯行の動機を説明することはなかった。
「Le Suicide」Claude François Cheinisse,1958年。
Ver.1 12/03/28
[訳者あとがき]
【著者について】
クロード・フランソワ・シェニス、1931年生まれ、いくつかの邦訳があるSF作家です。医学を通して科学的知識を身につけました。雑誌に掲載された数篇と一冊の長篇があるのみで、作品数は多くありません。妻であるクリスチーヌ・ルナールもSF作家で、こちらも『青い鳥の虐殺』に邦訳が一篇あります。クロード・シェニスは妻の死後しばらくして、二人の娘を道連れに自殺しました。
本篇はタイムマシンを用いた歴史変革SFで、ここに描かれているのは言うまでもなく、第一次世界大戦の引き金となった、セルビア人青年によるオーストリア皇太子夫妻暗殺事件です。
なお、翻訳の底本にはアンソロジー『le grandiose avenir』収録版を用いました。
※本書のその他の収録作については読書日記 2011/11/24をご覧ください。
・註釈
▼*1. []。[↑]