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翻訳:東 照
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あわ

ジュリア・ヴェルランジェ

訳者あとがき・更新履歴

あわ

八月八日

 今日もまたよそびとを見た。長い腕を窓のまえで振って、何かを話していた。話しつづけていた。やすみなく口を動かしていたけれど、わたしには何も聞こえなかった。あたりまえだ。窓のこちらがわには何も聞こえない。今度は腕をガラスに当てて押しはじめた。わたしは怖くなって、ボタンを押して鎧戸を閉めた。もちろんわかっている。よそびとは入ってこれない。誰もなかには入ってこれない。

 父が以前に言っていた。ずっとむかしの窓ガラスは割れたそうだ。信じられない。でも父は知っていた。父によれば、あわがこの時代に現れたのはラッキーだった。むかしだったらきっと一人残らず死んでいた。家もいまとは違ったし、お手伝いもいなかった。あわから逃げることは誰にもできなかっただろう。

 大きくなったら日記を書くことをすすめたのは父だ。「未来のために書いておかなくちゃならない」。いつか、あわに立ち向かう方法が見つかって、何もかも以前のように戻るときが来る。「あわの時代に起こったことをみんなに知らせなくちゃならない。そのために日記をつけなさい、モニカ。おまえが大きくなって、父さんがいなくなってしまったときにはね」。いなくなるのがそれほど早いことだとは、父も思っていなかったはずだ。せめて、そとに出なければ。そとに出ないでくれていたら。

 大きくなったら、と父は言った。わたしは今日で十六歳になった。もう大きくなったと思い、けさから日記をつけはじめた。

 父はよくものを書いていた。あわのことなら何でも書いていたし、以前の世界がどのようなものだったかも書き留めていた。わたしは以前の世界を知らない。父が話してくれたことしかわからない。生まれたのが、あわが現れた直後だったのだ。

 父によれば、初めのころにはそれはたくさんの人たちが死んだそうだ。何人も、何人も。あわに立ち向かうことなどできないし、死んだりよそびとになったりするのを避けるにはそとに出ないようにするしかないのだということが、まだわからなかったころのことだ。

 父はそのことにすぐに気づいた。おかげでわたしたちは助かった。これが昔だったら、そとに出ないでいるのは不可能だったろう。飢え死にしてしまう。肉の貯蔵庫も、野菜室も、何もかもやってくれるお手伝いもなかった。古い時代には人が自分ですべておこなっていたそうだ。地面で野菜を育てたり、肉にするために動物を育てたりしていたという。

 滑稽なことに、わたしは動物とは何なのかを知らなかったので、父が古い本に載っていた絵を見せて説明してくれた。笑っちゃうくらい変なものだった! こんなものが実際に存在していたとは信じられそうにない。

 
 

八月九日

 けさは古い本を調べに図書室に行ったけれど、説明をしてくれる父はもういないので、わたしにはわからないことばかりだった。

 そこで、きのう窓のそとに現れたよそびとにそっくりの絵を見つけた。いくつもの腕をくねらせている。絵の下には、女神カーリーとしるされていた。古い時代にもよそびとがいたのだろうか? 父はそんなことは言っていなかったし、人がよそびとになるのはあわのせいだと言っていた。以前にはよそびとはいなかった。

 わたしはよそびとを見ることができない。特にきのうのように窓に近づいて来られると、怖くてふるえてしまう。よそびとはしばしばやって来る。何か言おうとしているらしく、しきりに口を動かしていた。

 父は言っていた。「どうしてだろうな。それほど危険ではないのに、あわよりもよそびとのほうに恐怖を覚えるのは。よそびとを見ているとぞっとするような嫌悪を感じるが、あわの方は美しいと言えるからかもしれないな」。あわがきれいなのは本当のことだ。そとに浮かんでいるのを何度も見た。全体がさまざまな色に控えめに輝いていて、小さいころに遊んだしゃぼん玉にそっくりだ。ただしもっと大きくて、もっと固い。とても固いのでどんなものでも壊すことができない。

 ところが人間の上に来ると割れて、死んでしまう。

 一度、父がまだいたころ、それを見たことがある。男の人。口を大きく開けて、全速力で走っていた。きっと声をあげていたのだと思う。でも何にも聞こえなかった。巨大なあわが後ろから追いかけて来ていた。速く、とても速く。とうとう追いつくと、頭の真上であわが割れた。男の人が虹色のよだれに覆われた。

 いつの間にかわたしは悲鳴をあげていた。駆け寄っていた父がわたしの顔をからだに押しつけた。「見るんじゃない。怖がらなくていい」。ぎゅっと抱きしめていた父から解放されてふたたび見たときには、そとにはもう何もなく、あわと同じくさまざまな色に光る水たまりがあるだけだった。

 父が言った。「かわいそうに、あの人は死んでしまった。一瞬で溶けてしまったよ。よそびとになるよりはその方がよかっただろうね」。もちろん父が間違っていたことはないのだけれど、何度か考えたことがある。本当によそびとになるより死んだ方がいいのだろうか。わたしなら絶対に死にたくない。

 なのにどうしてよそびとはこんなにも恐ろしいのだろう!

 
 

八月十五日

 午前中はずっと乳母がまわりをうろちょろしていた。何もいらないのかとひっきりなしにたずねるのだ。いらいらする。なんでこんなにもいらいらさせられるんだろう。野菜室に行ってじゃがいもを探してくるように命じておいて、戻って来たら部屋から閉め出してやった。

 今も父がいてくれたら! 一人きりになってからもう三年になる。父がやっていたように、毎日しるしをつけているから年月はわかっている。どうしてそんなことをするのかは自分でもよくわからないと、父はよく言っていた。そんなふうにしてただ過去にしがみついているだけなんだと受け止めていたようだ。でもわたしは過去を知らない。わたしがしるしをつけているのは、父がそうしていたからなのと、そうしていれば父がまだどこかにいるような気持ちになれるからだ。

 わたしが知っているのはこんなふうに、あわがいる世界、誰もいない通りによそびとだけが行き交っている世界でしかなかった。

 父から何度も以前の世界の話を聞いていたから、元通りの世界にあこがれていた。そとに出て、よそびとではない人たちと会えるのだ。父の話によれば、町の向こうには田舎というところがあって、緑にあふれ、草や木や花や、囲いのなかには動物もいるという。

 本やスクリーンでそんな風景を見たことがあるけれど、父に言わせればあんなものではないそうだ。肌に太陽や雨を感じるのは最高のことだという。雨が窓ガラスを流れ落ちているのを見たことがあるけれど、どうすれば肌に感じることができるのかはわからない。そのほかにも海というものがあって、とても広くて塩辛い水でできているらしい。わたしが地下室のプールで泳ぐように、昔の人たちは海のなかで泳いでいた。海で泳ぐのはきっと気持ちがいいに違いない。

 いつか以前の世界を目にできると父は考えていた。おそらく父ではなく、わたしだけが、以前の世界を目にできると。あわを倒す方法を見つけ出そうとしている人たちが大勢いるらしい。いつの日か、必ず見つけ出せるはずだと父は信じていた。でもそれにはとても長い時間がかかるから、待たなくてはならないし、それまでのあいだは今の世界があるだけだ。そとにはあわよそびとしかいなくて、なかにはわたしのいる世界。

 さびしい。父に会いたくてたまらない。父がいてくれたら、と心から思う。お手伝いたちや乳母はいるけれど、たまにすごく邪魔に感じるときがある。第一、みんな人間ではない。父はよく機械ロボットと呼んでいた。ヘンな名前。父の話によると、昔はお手伝いがいなかったそうだ。当時お手伝いと呼ばれていたのは、よそのひとよそびとのために働く人間のことだった。

 そんなことがあるのかと思ったけれど、父が知らないことなどなかった。古い本ならすべて読んでいたし、古い時代のことを何時間でも話していた。最近になってわたしも本を読もうとしているけれど、書かれてあることが多すぎてよくわからない。たとえば「恋に落ちている」とか「地下鉄に乗る」とかいうのはどういう意味だろう? 父がいたら説明してくれるのに!

 
 

八月二十三日

 母の部屋に行った。タンスを開けたら、かすかに香水の香りがした。最初のうちはさわるのをためらった。母がうしろからついて来て、うつろな目で見つめるような気がしたのだ。怖かった。でもだんだん大胆になり、ついにドレスを一着つかんだ。柔らかいさわり心地で、宝石箱のなかの大きな石みたいな緑色をしていた。

 着替えてみる。わたしもだいぶ大きくなったのだ。ドレスはぴったりだった。鏡に映してみる。きれい。ドレスの緑が映えて、母の宝石のようにわたしの目を輝かせていた。

 たぶんわたしはきれいなんだと思う。母にそっくりだからだ。母さんはとてもきれいだと父は言っていた。わたしたちは夏の太陽に照らされた小麦畑のような髪をしていると言っていた。夏の太陽に照らされた小麦畑というのが何なのか知らないけれど、口にした父がうっとりとしていたから、きっときれいなものなんだろうと思う。

 わたしの髪はとても長いので、からだを覆うことができる。古い時代には女の人のなかにも、父のように耳の下で髪を切る人もいたらしい。父みたいになりたがるなんて、おもしろすぎる! だって、いくらなんでも母のほうがはるかにきれいだったのだから。でもわたしは父のほうが好きだった。大好きだった。

 わたしは母がちょっと怖かった。人に目を向けても、目を寄せていて、相手を見てはいないのだ。母はわたしにかまわなかったし、話しかけることすらなかった。ときどき、何時間にもわたって泣き出しては、ドアに体当たりしてこぶしをたたきつけ、叫んでいた。「そとに出たい! そとに出して!」。そんなとき、父は母を抱きよせてやさしく話しかけた。「さあ落ち着いて、我慢しなくちゃね」。父は母のことをとても愛していた。そとに出たのも母のためだ。こんなこと言うべきじゃないのはわかっているし、父もよろこばないに決まっているけれど、でも、父は出ていくべきじゃなかった! 出ていくべきじゃなかったのだ!

 一度だけ意地悪をしたことがある。父が母をなだめているときに、こう言ったのだ。「ほっとけばいいのに! どうせ理解できないんだから!」。父はわたしを悲しそうに見つめて、あとでじっくり説明してくれた。「母さんを嫌いにならないでくれ。母さんのせいじゃないんだ。もしこんなふうに……ああ、わかっているよ、母さんはおまえのことをちっともかまわないし、誰にも興味を示さない。だがあわが現れる前はこんなふうじゃなかった。わたしたちの身に起こったことに、頭が耐えられなかったんだ。母さんは空想の世界に生きていて、現実を見ようとしない。でもどうにもならなかったんだ。嫌いにならないでくれ、モニカ。同情の心を忘れないようにしなさい……父さんに何か起こったときには、おまえが面倒を見てやらなくちゃならない。子どもなのはおまえではなく、母さんのほうだと思ってくれ。母さんはときどきそとに出たがるだろう。そういうときは止めなくちゃいけない。母さんには自分が何をしているかわからないんだ……約束してくれるね。母さんと仲よくすること、父さんがいなくなったら母さんの面倒を見ること。約束だぞ、モニカ」。父はすごく悲しそうで、すごく苦しそうだった。でもわたしは約束を守れなかった。

 父が出て行ったときに母は死んだ。

 
 

八月二十六日

 今日は雨。

 けさ窓辺に行くと、雨粒が道路に落ちてたまっていた。あれが肌に触れるとどうなるのか気になったので、窓を開けたくてしかたがなかった。でもそんなことは不可能だ。父の説明によれば、出入口はどこもふさがれているそうだ。窓を開けるには、貯水室と野菜室の向こうにある地下室の奥にまで行って、ブレーカーを落とさなくてはならない。

 父がやり方を教えてくれた。いつかそとに出られる日が来たときに、もう父がいなかった場合のために。けさのわたしのように開けようとしても開けられないように、しっかりと固定されていた。そとに出たがってばかりいた母のためだ。でも父が出て行くときにレバーをオンの位置に動かしていたので、わたしが何日かしてからまた戻しに行った。

 父が言っていたことは正しいことだと思っていたからだ。ブレーカーが完全に壊れていればよかったのに。そうすれば父は出られなかったのに。だから戻しておいた方がいい。けさのようにわたしが窓を開けたくなっても開けられないし、ブレーカーを下ろしに行くあいだに、開けたら死んでしまうかよそびとになるかもしれないことを思い出せる。わたしはどちらも怖くてしかたがない。

 地下室のプールに泳ぎに行った。窓なんて見たくもなかったからだ。そうしていると父が言っていたことを思い出した。もし古い時代にあわが現れていたら、水も光もとっくになくなっていたはずだ。そういうものを管理しているお手伝いがいなかったから。すべて人間がやっていたそうだ。だからあわがそうした人間を殺してしまえば、何一つ動かなくなってしまったはずだ。でもありがたいことに、あわにはお手伝いを殺せないし、とてもとても長持ちするように設計されている。父は言っていた。たとえ人類が全滅しても、お手伝いたちは仕事をやりつづけるに違いないと。何世紀も何世紀も。

 父の説明によれば、たとえばわたしが年を取って死んでしまっても、乳母はずっと待っているはずだという。ほとんど永遠に。わたしの世話を焼くよう設定されているからだ。乳母はつねにわたしを見守り、頼んだことは何でもやってくれる。悪いものからわたしを必ずや守ってくれる。あわが侵入して来るようなことがあったら、追い払おうとしたり、わたしを救おうとしたりすることだろう。でも残念だけれど長くは持たない。あわはいくつもいるし、必ず目的を達するはずだ。わたしたちを殺すという目的を。

 
 

九月一日

 おかしなことだけれど、あわがどこからやって来たのか誰にもわからないし、どうして死ぬ場合と死なずによそびとになる場合があるのかもわからない。

 一度テレビで老人が話しているのを聞いたことがある。父が出て行った直後のことだ。

 父はときどきテレビのスイッチを入れていたが、画面は真っ黒なままだった。もう何も映らなくても、これからもいじってみるのをやめてはいけないよ、と父は言っていた。絶対に生存者はいて、あわを倒す方法を見つけ出そうと頑張っているから。自由にそとに出られるときが来れば、テレビで知らせてくれるはずだから。

 父によれば、これまでのところどんなものでもあわを破壊することはできなかったそうだ。バーナーでも駄目だった。とてもとても恐ろしい武器なのに。初めのうちはあらゆることを試みたが、あわはそのどれにも耐え抜いたそうだ。ところが人間の上に来たときだけ、割れて死んでしまう。死なない場合はもっとひどいことになる。よそびとになるのだ。

 よそびとは変身する。あわの垂らしたよだれで溶けてしまわずに、しばらくすると起き上がるが、見たところは何も変わらない。ところが数日すると、いろいろなことが起こるのだ! 古い本に載っていた女神のようにたくさんの腕が生え、いくつもの脚、からだじゅうにある目、二つの頭、首と胸の上に口が一揃い。寒気がする!

 テレビで見た老人は、あわよそびとのことを話していた。ずっと真っ黒だったテレビの画面が、何日かごとのあいだだけ明るくなっていた。大きくて白い部屋のなかで、一人の老人がテーブルの前に座っていた。ずいぶんと疲れて見える。部屋にはお手伝いがたくさんいたが、家のものよりごちゃごちゃしていて、表面にはボタンとランプがたくさんついていた。

 老人の声を聞くのはうれしかった。父と同じ、ほっとするような声をしていた。ひとりぼっちじゃないんだ、と感じられた。

 老人は、戦いのこと、希望のこと、待つことを話していた。勇気をなくしてはいけない。いつの日か、あわが敗れるときが来る。むずかしい言葉を使って説明していたから、わからない部分もあったけれど、話は最後まで聞いた。やさしそうな老人だったけれど、ひどく疲れて見えた。それでも勇気という言葉を口にしたときには、老人の声は熱く若々しい響きをともなっていた。

 長い時間がかかるだろう、と老人は言っていた。あわがどこから現れたのかも、何でできているのかも、誰にもわからないからだ。人間をよそびとに変えたり殺したりする現象についても、解明されていない。あわを倒すためにあらゆる方法を試してみたが、どれも無駄に終わった。何人もの人間がこの戦いのために命を投げ打って来たし、これからもいくつもの命が失われることだろう。よそびとのなかにも手を貸しに来てくれた者たちがいる。変身してしまったことをうとんでいるのだ。危険な目に遭わずにそとに出ることができるから、そのことがいろいろな場面で役に立った。我々と一緒に戦ってくれることを感謝しなくてはなるまい。

 あわは長いあいだ、おそらく何世紀ものあいだ、我々の時代に現れるために雌伏していたのだと信じている者たちもいる、と老人は言っていた。我々はおそらく先祖のあやまちのつけを払っている最中なのだろう。先祖たちはいくどとなく核を経験し、間違っていると知りながらいきあたりばったりに力を用いて来たのだ。我々が犠牲になっているのはおそらく先祖の愚行のせいなのだろう。快適な生活を未来に贈り届けるために用いるべきものを、もっぱら人殺しのために用いて来た連中なのだから。当時の人々が世界中に放射能をばらまいたせいで、いつしかあわが生まれたのだと信じている者たちもいる。それに賛同する者たちも多い。

 戦いはつづいているが、現在の知識はすべて役に立たなかったため、解決策を見つけるために古い科学の知識を取り戻そうとしているところだ。

 最後に老人は言った。テレビを放送するにはあわとの戦いに使える時間と手段を割かなくてはならないから、進捗状況をできるだけ知らせるほかは、まず話をすることはあるまい。それからもう一度くり返した。勇気を失うな、と。それから画面はふたたび暗くなった。

 わたしはこの老人のことを何度も考えた。あれから一度も老人を見ていないし、ほかの誰の声も聞いていない。テレビは一度もつかなかった。わたしは一人で考えた。老人は正しいのだろうか、以前の世界が戻って来るのだろうか。そうであってほしかった。

 
 

九月五日

 窓のよそびとがまたやって来た。ふしぎなことに、時間が経つにつれて、あまり怖くはなくなって来た。腕がたくさんあるとはいえ、ほかのよそびとと比べればそれほど醜くはない。目がたくさんあったり、口が山ほどあったり、そこらじゅうに鼻があるよそびととは違っていた。

 むしろかわいそうにさえ感じた。今日は何か伝えたがっているように見える。腕に抱いている赤ちゃんを、わたしに向かってしきりと見せつけていた。動きまわるたびに長い黒髪がそこらじゅうに舞っていた。

 ついによそびとが赤ちゃんをわたしのほうに差し出した。まるでわたしに受け取ってもらいたがっているようだった。ふしぎなことに、すっかりとは変身していないようだ。とてもかわいくて、わたしが持っている赤ちゃんの人形そっくりだった。よそびとはとつぜん赤ちゃんの服を脱がし、あらためてわたしに向かって見せた。まったく変身していないし、どこにもへんなところがないのがよくわかった。ぽっちゃりとして、しわが寄って、小さな足を動かしていた。口を開け、不機嫌そうな顔をしていた。きっと泣いているのだ。もちろん、こんなふうに服を脱がされて、うれしいわけがない。

 よろい戸を閉めたくはなかったので、向こうに行くよう合図したけれど、離れようとはしなかった。よそびとは泣いていた。顔に涙が伝っているのが見えたが、そのあいだずっと赤ちゃんを差し出していた。もしかすると本当に受け取ってもらいたがっているのかもしれない。ばかげてる! わたしが窓を開けて、あわをなかに入れるとでも思っているのだろうか! とはいえ、そのとき路上にあわはまったくいなかった。もう一度だけ向こうに行くように合図したが、動こうとしなかったので、わたしのほうで窓から離れた。

 あれ以来どうしても考えてしまう。あのよそびとには困ったものだ。ずいぶんと取り乱しているように見えた。赤ちゃんをあずかることも、小さなよそびとを育てることもできるわけがないのに。だいいち、赤ちゃんの育て方がわからない。わたしが知っているのはおもちゃの赤ちゃんだけで、父によれば赤ちゃんにはわたしたちが食べるものが食べられないらしい。乳母なら知っているだろうか? いや、わたしまでおかしくなって来た。父が知ったら怒るに違いない。窓を開けるなんて! それもよそびとのために! よそびとの赤ちゃんを受け取るために! もう考えないようにしなくては。

 それにしても、あの赤ちゃんが変身していないのはふしぎだった。まだ小さいからだろうか? だけどふつうなら、そとに出た人が死ななかった場合、変身にはそれほど長い時間はかからない。ほんの数日だ。数日しか経っていないのだろうか? だけどそれにしては赤ちゃんの人形にそっくりだった。父の話によれば、あの人形は十歳くらいの人間の赤ちゃんの姿をしていた。あのよそびとが赤ちゃんを手渡したがっている理由を考えてみた。あわから守るためだろうか? よそびとにならないうちに救いたがっているのだろうか? だけどあわから守るなんてできやしない。誰にもできやしない。

 
 

九月七日

 怖い、とてもとても怖い。お腹が痛くて、きっと母のように死んでしまうのだろう。泣きじゃくっていると、乳母が大急ぎでやって来た。

 お腹をさわるとわたしを叱りつけ、何でもない、りんごの食べすぎだと言った。それは事実だが、わたしはりんごが大好きなのだ。薬をくれたので、痛みはすぐによくなった。乳母はたいていのことなら治してくれる。

 具合がよくないときに何を飲めばいいのか、父もよく知っていた。でも母の病気のことはわからなかった。母の病気には、父も乳母も何もすることができなかった。

 父が出て行ったのはそのせい。医者を探しに。電話をしても何の役にも立たないからね、往診に来てくれる人などいやしないだろうから、と言っていた。でもバーナーは持って行った。どんなことをしてでも医者を連れてくるからね、と言って。

 ばかげてる、あわのせいだ、それなのに、とにかく父は出て行った。母がお腹を押さえて泣き叫ぶのをもう父は聞いていられなかったのだ。母のことをとても愛していたから。そのせいでおかしくなってしまったのだろう。だってそとに出ても何の意味のないことはよくわかっていたはずなのだから。

 母に注射をして、それからわたしにも注射して眠らせてから、父は出て行った。こんなこと考えるべきじゃないのはよくわかっているけれど、それでも、母をそのまま死なせてあげるほうを父が選んでいればよかったのに。だって父は二度と戻って来なかったし、母はやはり死んでしまった。目が覚めたとき乳母がそれを教えてくれた。母のからだはすでにお手伝いによってくるまれており、父はもうそこにはいなかった。

 悲しくて涙が止まらなかった。乳母はわたしにむりやりご飯を食べさせようとした。そのまま死なせていればよかったのに。そうすればよかったのに。だって、どこで医者を見つけるつもりだったんだろう? それに、たとえ見つかったとしても? わたしには自信がある。医者はあわに立ち向かうより、黒こげになるほうを選ぶだろう。

 ときどき考えることがある。もし父が溶かされていたとしたら、もし……たくさんの腕や足を持った姿でそとにいたら、髪を振り乱し頭にたくさんの目を生やしていたら、もし……だけどそんなこと考えたくもない。いやだ。父は死んでいると信じたい。

 だけど……女神カーリーのような姿で、いつか窓辺に戻って来たとしたら? どうすればいい? 父さん、わたしはどうすればいい?

 
 

九月十日

 一日じゅう電話が鳴っていたけれど、出なかった。

 父がまだいたときにはいつも父が出ていたし、ときには自分からかけていた。人と接触せずに生きてゆくのはいいことではないと言って、生存者を探していた。けれどあわの時代が始まったころに、あまりにもたくさんの人が死んでいたので、見つけるのは不可能に近かった。よそびとが入り込んでいた家ならたくさんあった。いやそれとも、家族全員がよそびとに変身させられていたのだろうか。そのせいで電話の画面に出るのはいつもよそびとばかりだった。だけど話にならなくて、父はいつも決まって電話を切るしかなかった。

 あわと戦う手助けをしているよそびとがいると、テレビの老人が話していたのを思い出した。あれにはびっくりした。よそびとは人間を憎んでいるんだと父は言っていたからだ。だからわたしたちに近づこうとしないのだと父は信じていた。わたしたちにおかしなところがないから嫌悪しているのだと信じていた。

 父が出て行ってしばらくのあいだは、わたしも電話に出ていたけれど、画面に(たくさんの)腕や目を見せたのは、決まってよそびとだった。わたしをののしるか、またはそとに出ていっしょになろうと誘って、わたしを怖がらせた。

 それから一度、人間が画面にいたことがある。女の人だ。

 そのころになるともうほとんど電話には出ていなかったのだが、ベルがあまりにも長くあまりにもしつこく鳴るものだから、どういうことなのか知りたくなったのだ。

 画面にいるのはお婆さんだった。目からはすっかり正気が失われていた。真っ白な髪がいやな色に汚れて顔に垂れかかり、両手をねじって結んだり開いたりしていた。老婆はわたしの姿を見ると、あわてたように話し出した。

「頼むよお嬢ちゃん、医者の居場所を知らないかい? 医者が要るんだ。いろんなところにずうっと電話をかけててね。助けておくれ。助けてもらわないと。夫の具合が悪くてね。死にそうなんだよ。死にそうなんだよ、そうしたら一人きりになってしまう」

 老婆が泣きながら遠ざかると、部屋の奥のソファに老人が横たわっているのが見えた。顔じゅうがむくれて真っ赤で、ときどきひどい痛みに見舞われると、苦しくて息もできないようだった。

 老婆が画面に戻って来た。

「わかった? 死にそうなんだよ、死んじゃう、死んじゃうよ」

 声が大きくなった。わたしはそれ以上は我慢できずに回線を切った。

 そのあとで泣きじゃくった。助けてあげられなかった。何もしてあげられなかった。父のことが頭から離れなかった。父もこんなふうに医者がほしくてほしくてたまらなかったのだ。

 もうそれからは二度と電話には出ないようにした。

 
 

九月十八日

 何かが起こった! 何かが起こったんだ!

 興奮のあまりテレビから窓へ、窓からテレビへ走り回った。じっとしてなどいられない。

 もっと落ち着きなさい、そんなふうにばたばたするものではありませんと乳母に叱られたけれど、叱るのはうわべだけのことだとわかっている。それで満足しているようだし、それで納得しているはずだ。

 何日か前から、そとにいるあわの数が減っていたし、よそびともほとんど見かけなかった。女神カーリーと赤ちゃんも姿を見せない。

 だけどこんなこと想像もできなかった。

 以前の世界が戻って来る! 以前の世界が戻って来る!

 父は正しかった! 老人は正しかった! わたしたちは勝ったのだ!

 テレビをつけると、画面はいつものように黒いままではなく、ぱっと映像が映った。この広間には見覚えがある。老人がいた広間だ。けれど今回そこにいたのは若い人だった。ちっとも疲れては見えなかった。しゃべりかたはきびきびとして力強く、声はよく通り、目はきらきらと輝いていた。

 はじめのうちは何を言っているのかほんとうにわからなかった。あまりにも信じがたかった! 聞こえた単語を組み立てることができそうになかった。そのうち自分が泣いていることに気づいた。うれしくて心臓がはじけそうなときにも涙が流れるものなのだろうか? きっとそのせいで顔じゅうびしょびしょになっている。

 父がここにいて一緒にこの報せを聞けないなんて! わたしたちは勝ったのだ! あわは負けたのだ!

 若者はよく通る力強い声で話しつづけていた。あわを倒した武器のことを説明していた。それから防護服のおかげでそとに出られるようになったので、たった今も有志たちが町を一掃していることを。

 それからたくさんの要望を口にした。何よりも、今の段階では絶対にそとに出ないこと。まだ早い。町にはまだたくさんのあわが残っている。もう少しだけ我慢してほしい。これだけ長いあいだ待ったというのに、急いだせいですべて失ってしまうのはばかげている、そうだろう? 有志たちが防護服を持って迎えに行く。今のところはシェルターから出ずに待っていてほしい。もう少しの辛抱だ。

 それから、仕事に向かう有志たちを紹介した。ここと同じような通りを、十数人の人たちが歩いている。黒くて固い袋のようなものを頭からすっぽりとかぶり、目の部分にガラス板がはめこまれていた。黒くて大きくごわごわの手袋をつけ、父が持っていたバーナーそっくりのチューブを手にしている。ただしもっと大きくてもっと長かった。

 そのとき、三つか四つのあわが現れ、有志たちのほうに飛んで来た。チューブをかまえると、そこから青くて目がくらむほど輝くものが飛び出し、あわはみんな割れてしまった。地面で、だ。人間の頭上ではなく。

 すごい! あの無敵のあわを倒すところを目の当たりにしたのだ。わたしは声をあげて応援していた。

 乳母がごはんの時間に呼びに来たけれど、追い払ってしまった。お腹なんか空いてられない。これだけすごいことを目にしていて、もうすぐ以前の世界を知ることができるというのに。

 
 

九月二十一日

 とうとう来た! 人間だ。話をした!

 もう我慢ができなかった。一日じゅう窓にはりついていたけれど、通りには決まって誰もいなかった。いるのはもうほとんどいなくなったあわだけ。よそびとはまったくいない。

 あの若者がテレビで話しているのを何度か聞いたけれど、いつも同じことをくり返していた。「迎えに行くまでもう少しの辛抱だ」。とうとうこれには腹が立って来た。待つだけならもうじゅうぶん待った。わたしは一日じゅう乳母を走り回らせたので、乳母はぶうぶう言っていた。

 けれど声をかけてくれたのは乳母だった。またテレビを見ている最中のことだ。「早く早く、モニカ」

 わたしは窓辺に走った。ぶかっこうな黒い袋をかぶった人間が、目の前の通りにいた!

 向こうには聞こえないことなどすっかり忘れて、わたしは大声で叫んでいた。けれど窓のところで一生けんめい手を振っていたので、とうとう向こうもわたしに気づいて、家のほうに向かって合図を送って来た。

 もう三日も前からブレーカーを降ろしていた。このときを待っていたのだ。わたしは玄関に駆け寄り、ドアを大きく開けて招き入れた!

 急いでドアを閉めて黒い袋を脱いだ。

 二人いた。一人は大きくて、一人は小さい。大きいほうの人の髪は黒く、茶色い瞳が陽気な感じで輝いていた。笑うと表情がはじけた。小さいほうの人は丸々としていて、ものすごくちぢれた金髪をしており、肉の隙間から青くて小さな目がのぞいていた。

 大きいほうが言った。

「見ろよ! 長い髪をしたローレライ、緑の目と金色のマントのオンディーヌだ」

 小さいほうが言った。

「やめないか! 怯えているじゃないか。誰にもわからないような冗談なんか言って」

 わからないのは事実だったけれど、わたしはちっとも怯えてなんかいなかった。

 二人が名前を名乗った。大きいほうはフランク、小さいほうがエリック。わたしも名乗った。モニカ。それから手を握って、キスをせがまれた。大きいほうが言った。

「だってきょうは特別な日なんだからね」

 わたしはキスしたけれど、何だかへんな感じだった。父にもキスしたことなどなかったのだ。

 フランクがたずねた。

「ご両親は、モニカ? 一人きりなのかい?」

 わたしは大急ぎで答えた。

「ママは死にました。パパは……出て行きました」

 フランクは悲しそうな目でわたしを見つめて、肩に手を置いた。

「いつのことだい、モニカ?」

「三年前です」

 ため息をついてからこう言った。

「もうそのことは考えなくていい。これからは幸せになるんだ。年はいくつだい?」

「十六です」

 沈黙。二人とも顔を見合わせている。

 フランクがたずねた。

「十六だって? ほんとうかい、ずいぶん小さく見え……」

 エリックが急いで口をはさんだ。

「十六になったのはいつ?」

「先月です」

 また二人とも黙り込んでしまった。顔を見合わせている。どうも様子がおかしい。困惑しているようだ。よく理解できない。ただ十六歳だったからというだけで? 小さすぎると思ったから? 小さな女の子だから? むしろがっかりしているように見える。ずいぶんとがっかりしているように。

 フランクがわたしの頬をなでたけれど、エリックは目をそらした。

 突然わたしも困惑を感じて、いたたまれない気持ちになり、なぜだかわからないけれどちょっと悲しくなった。どういうことなのか確認したかったけれど、どうしても聞けなかった。

 
 

九月二十二日

 フランクが迎えに来てくれるのを待っている。

 窓のところまで小さなテーブルを引っぱって来た。こうすれば日記を書きながらそとを見ていられる。ほんとうならもう日記をつづける必要はない。あわの時代は終わったのだから。だからこれで最後にするつもりだ。

 もうすぐそとに出られるのだ! 信じられない。昨日フランクにたずねた。

「以前の世界を見せてくれる?」

 フランクは戸惑ったような顔をしてから、質問に答えた。

「もちろんさ、以前の世界を見せてあげるよ」

 でもちっとも楽しそうじゃなかった。なぜだろう? 以前の世界というのは、思っていたほど美しくないのだろうか? それとも、完全にはもとに戻らないのだろうか?

 どちらでもいい。そとに出られるのだ。どんな世界であっても、すばらしいに違いない。

 そうして何ごともなければ、わたしは何不自由なく幸せになれる……いまになってようやく理解した。あのよそびとがどうしてあれほど赤ちゃんを受け取らせたがっていたのか。受け取ってあげるべきだったのだ。昨日のフランクとエリックの話も聞こえたし、テレビでも言っていた。

 昨日ちょっとのあいだ二人から離れた。おしゃれをしたかったのだ。母のドレスに着替えに行った。二人は図書室にすわっていて、乳母が父に出していたのと同じ飲み物を出していた。わたしには一度も出そうとはしなかったのに。

 二人を驚かそうと思い、そっと戻ったときに聞こえて来たのだ。

 フランクの声だった。

「そんなことすべきじゃない。人間のやることとは思えない! あいつらにだって生きる権利はあるんだ。あいつらが悪いわけじゃない。ほかにできることはないのか、俺はよく知らないが、たとえば保護区に住まわせるとか」

 エリックの声がした。

「『ほかにできること』なんかない。よくわかっているだろう。もとに戻す方法なんかない。それにきっと伝染する。ほかに解決策はない。こうするしかない」

 フランクの声は怒っていた。

「そりゃあんたはいいだろうさ。でも俺には引き金を引くことなんてできない! 絶対に無理だ! ひどいと思わないのか? 俺は恥ずかしい」

 エリックがとげのある声で答えるのが聞こえた。どういうわけか、弁解しているように聞こえる。乳母に叱られたときのわたしのような声だ。乳母が正しいとわかっているのに、それを認めたくないときの。

「決まりなんだ。ほかに選択肢はない。汚染を広げるわけにはいかない……」

 フランクがさえぎった。

「実際に危険かどうかもわかっていないのに! それにあの子どもたち! あの子どもたちは……!」

「危険は冒せない! よそびとの子どもは変身しない。普通の子どもと見分けがつくか? 選択の余地はない」

「それはきっと免疫のおかげじゃないのか? 知ろうともしないくせに。要するにあんたには何の疑問もないわけだ」

「委員会が決めたことだ。糞ッ! あわが現れたのは十六年二か月前。数字は数字なんだ!」

 家のどこかでミシッという音がして、二人とも飛び上がった。

「しーっ!」フランクが言った。「あの子が戻って来たら……」

 わたしは部屋に入った。よろこんでいると思われているのはよくわかっていたけれど、よろこんでいいほどにはよろこべなかった。何となくはわかっていたのだ。それがけさ、確信に変わった。

 わたしがテレビを見ていると、また前のように、町をきれいにしている有志たちが映った。ただし、映っていたのは前とは違う光景だった。

 よそびとが走っていた。足がたくさんあってうまく走れずに、しじゅうつまずいている。それでも、逃げようとして必死になっているのはよくわかった。有志の一人がバーナーを浴びせると、よそびとはしなびて地面の上の黒いかたまりになった。

 すぐに画面が切り替わり、ほかの話題に移った。明らかにその場面を見せたくなかったのだ。けれどわたしはさすがに気づいてしまった。それも、フランクとエリックの話を聞いてしまったあとでは。

 みんなはよそびとを殺している。そういうことだ。

 ひどい! フランクが正しい。そんなのは間違っているとわたしも思う。たしかによそびとには怖い目に遭わされたけれど、それでも……

 女神があれほど赤ちゃんを手渡したがっていたのは、このためだったのだ。きっと知っていたんだ。あのよそびとも黒こげにされてしまったのだろうか? わたしならカーリーを殺すことはできなかったと思う。じゃあ赤ちゃんは? どこにもおかしなところは見えなかったのに!

 何て残酷なことをしているんだろう。父なら眉をひそめたはずだ。

 でももうそんなことを考えちゃだめだ。悲しんではいけない。きょうはすばらしい日なんだから。フランクが来れば、もうすぐそとに出られる。わたしは窓から見張っていた……

 来た! あそこに……違う。エリックだ。きっとフランクが来られなくなって、エリックに代わりを頼んだのだろう。わたしは少しがっかりした。エリックは親切だけれど、フランクのほうが好きだったのに。

 おかしなほどゆっくりと歩いていた。顔を伏せている。窓のところでわたしを見たけれど、あいさつを返してはくれなかった。なぜだろう?

 バーナーを持っている。どうしてバーナーなんかを? それにここまで来るのにどうしてあんなに時間をかけるのだろう?

 エリックが近づいて来る。ドアを開けに行こう。

 ようやく、以前の世界を見られるのだ……


「Les Bulles」Julia Verlanger、1956年。


Ver.1 11/11/26

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[訳者あとがき]

【著者について】

 ジュリア・ヴェルランジェはフランスのSF作家で、ここに訳出した「あわ」は彼女のデビュー作に当たります。

 Julia Verlanger、別名Gilles Thomasは、1929年生まれ。フランスの女性SF作家の草分け的存在です。1956年の「Les Bulles」を皮切りにフランス版『フィクション』『ギャラクシー』『サテライト』誌に十数篇の短篇を発表した後、1976年に長篇『La Flûte de verre froid』を刊行。1986年には夫によりジュリア・ヴェルランジェ賞が設立され、毎年その年の優れたSF・ファンタジー作品に賞が贈られています。

 デビュー作となった本篇は、フランスのSF作家ジェラール・クランに「リチャード・マシスンの影響が見られる」と評された作品で、核戦争後に突如現れた「あわ」から生き延びて一人シェルターに取り残された少女の日記が綴られています。

「あわ(bulle)」や「よそびと(Autre)」といった異様な存在もさることながら、父や母と子の愛情や確執、不気味なものに怯える子どもなど、確かにマシスンを髣髴とさせるところがありました。

 登場人物の一人は、ナウシカ原作版のテーマを思わせる決断に迫られます。

 なお、翻訳の底本にはアンソロジー『le grandiose avenir』収録版を用いました。
  ※本書のその他の収録作については読書日記 2011/11/24をご覧ください。

 

【フランスSFについて】

 フランスSFはこれまで日本ではあまり紹介されて来なかったので、アンソロジーの序文や解説書をもとに、その概略について簡単な私見を述べたいと思います。

 まずはジュール・ヴェルヌ――。あまりにも偉大な「SFの父」ですが、フランスSF史のなかで説明しようとすると、異端というか突然変異というか、うまく位置づけることが難しい存在です。そもそも「SF」というのが英語圏で生まれた用語なので、それ以前のフランス人作家にうまく当てはまらないのも当然かもしれませんが。

 そしてH・G・ウェルズ――。もう一人の「SFの父」がフランスSFに残した足跡には大きなものがありました。もともと思想家的な面も持ち合わせていたウェルズのSFは、諷刺小説の側面も持っており、これがフランス文学と相性がぴったりだったようです。かくしてウェルズ流の作品がいくつも生まれましたが、これらは現在の目で見るとSFというより諷刺小説・幻想小説と呼ぶほうがしっくりくるように思います。事実、代表的な作家であるモーリス・ルナールは『フランス幻想文学傑作選』に翻訳があります。

 黄金のアメリカSF――。ウェルズに続く第二の波は、50年代から60年代にかけてやって来ました。アメリカ黄金時代SFの紹介です。そのなかでも特にSF雑誌は、翻訳に加えて創作・評論にも力を入れていたため、ここから新しいSF作家も誕生しました。ちなみにこのころ紹介された主な作家は、リチャード・マシスン、レイ・ブラッドベリ、アルフレッド・ベスター、アイザック・アシモフ、ロバート・シェクリイ、クリフォード・シマックなど。異色作家・奇想コレクション系の作風は今読んでもそれほど古びていないので、機会があればどんどん紹介していきたいと思います。(ただ、ポスト核戦争という背景の作品が多くて、これは古いというか、当時の世相の反映なのでしょうか)。

 le grandiose avenir 『le grandiose avenir』


 

 ・註釈

*1. []。[]
 

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