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ブル・ル・ル!

アルジャーノン・ブラックウッド


作品について・訳者あとがき


エジプトの雀蜂




 その言葉には、心への見事な攻撃を思わせるような、激しく悪意に満ちた響きがあった。どこか悪意じみた針を持つ――意味のわからぬ外国人でさえ、そう感じたはずだ。雀蜂は悪だ。素早く飛び、刺す。何の前触れもなく顔や目を狙い刺し貫く。その名前は、邪悪な羽根の金属性の響き、荒々しい飛行、毒を持った攻撃を連想させる。黒と黄にもかかわらず、緋のようだった。血の色だ。小さく圧縮された空中の虎だ! 逃げ道はない――襲われてしまえば。

 エジプトでは、普通のミツバチがイギリスの雀蜂くらいの大きさだが、雀蜂は巨大だ。まさに怪物――不気味な死の破壊者だ。スフィンクスとピラミッドの持つ世界的特徴――巨大な大きさ――を有している。蠍やタランチュラよりも恐ろしい昆虫だ。ジェイムズ・ミリガン師は、初めてそいつを見たとたんに、とある言葉の真意を理解した。訴えかける説教でよく使っていた言葉――悪魔である。

 四月のある朝、暑さで昆虫が発生し始めたころも、師はいつものように早めに目覚め、浴室へと続く広い石の廊下を渡っていた。砂漠はすでに、開いた窓越しに輝いていた。熱気は午後には不快だが、今の早い時間には、北風がホテルの廊下を心地よく吹き下ろしていた。日曜日である。八時半には英国人旅行者のため朝の礼拝を行いに出かける予定だ。廊下の床が、明るい黄色をした薄っぺらな備え付けスリッパの下で冷たかった。若くも年老いてもない。俸給には満足していた。散財させるような妻も子供もなく、自分だけの財産だった。乾いた気候は気に入っていた。それに――大きなホテルもただ同然で泊めてもらえた。なにしろおしゃれで見栄っ張りで尊大で自己顕示欲が強いくせに、鼠みたいにけちだったので、これには大満足だった。心には何の心配もないまま、スポンジとタオル、香水石鹸とスクラブのアンモニア瓶を手にして、人気のないぴかぴかの廊下を気分良く浴室に向かっていた。ドアを開けるまでは、ジェイムズ・ミリガン師には何一つ不幸はなかった。そこで目の前の窓ガラスにくっついている、黒い怪しげな物体に視線が落とされた。

 それでも最初のうちは何の不安も怯えも感じず、それが何なのか知りたいという当たり前の好奇心があるだけだった――この不思議な形の細長いかたまりは、尖った鼻先の木枠に六本の脚でくっついている。まっすぐ見に行こうとした――それからすぐに立ち止まった。心臓が、牧師らしくもなく波打った。口が罪深く歪んだ。あえぎをもらした。「畜生! 何なんだ?」涜神的な何かが、秘めた罪のような邪悪な何かが、まだらの日射しに照らされ目の前にくっついていた。師は息を呑んだ。

 自分の見たものにとりこにされたように、しばらく動くことができなかった。それから、慎重にゆっくりと――こっそりとと言っていい――入ってきたばかりのドアの方に逃げ出した。どんな小さな音も出さぬように、爪先で忍び歩いた。黄色いスリッパを引きずって歩く。スポンジが落ち、弾みで恐ろしい魔物の辺りまで転がっていった。後ろに逃げ道を確保して、開いたドア付近の安全圏で立ち止まり見つめた。全神経が目に集められた。目にしたのは雀蜂だ。彼と浴室のドアのあいだに、ぴくりともせず威圧的にぶら下がっている。

 最初は叫びをあげただけだった――声をひそめて――「畜生! エジプト雀蜂だ!」

 だが意志が強いと評判の男ゆえ、すぐに落ち着きを取り戻した。自制する術を知っていた。説教が始まったとたん教会をあとにする会衆がいても、心深くに燃える傷ついた虚栄心も苛立ちも、決して顔には出さなかった。だが目の前に居座る雀蜂となると話は別だ。すぐに自分が軽く羽織っただけだということに気づいた――つまり完全に無防備だったのだ。

 遠巻きに、この侵入した悪魔を観察した。動かないし、とても静かだった。あらゆる部位が見事なできばえだった。羽は恐ろしい胴体の上に折りたたまれていた。誘惑するように尖った長く曲がった物体が、これも棘のように突き出していた。毒ではあるが、その見事な姿態は優雅だった。つややかな黒は美しく、なめらかな曲線を描く腹部につけられた黄色い縞は、教えを説いてきた色街の女性が身につけるアクセサリーのようだ。ステージ上の放蕩な踊り子を見ているようだった。だがすぐに、夢見がちな魂に宿った映像の代わりに、さらに鈍く危険な破壊のかたまりを見据えた。忌まわしい先端にかけてすぼまる丸々とした胴体は、幾多の命を急襲して滅ぼす無敵の殺傷兵器に思えた――魚雷、砲弾、ロケット、機密の詰まった破壊の力。羽、恐怖と沈黙の頭部、華奢で細い腰、黄色にきらめく縞――そのすべてが、人類の頭脳から作り出された憎しみの結晶のようであり、残酷な死が密航していることを見事に覆い隠していた。

「ふん!」とめどない空想を恥じながら叫んだ。「要するにただの雀蜂じゃないか――ただの昆虫だ!」大急ぎで入念な計画を練る。丸めたタオルで狙いをつける――だが投げはしなかった。失敗するかもしれない。足が丸裸なのを思い出した。代わりにドア付近に安全に身を潜めてリタイアメント、黒と黄色の物体を観察した。いつの日か田舎でのんびり隠居リタイアメントして世間を見守りたいと思いながら。蜂は少しも動かない。固まっていても恐ろしい。音も立てない。羽は折りたたまれている。触覚や、棍棒のように丸まったその先端ですら、ぴくりとも動かず震えもしない。だが呼吸はしている。邪悪な胴体が上下するのが見えた。彼と同じように、空気を出し入れしていた。この生き物は、肺と心臓と臓器を持っているのだ。頭脳も! 心は常に動いている。見られていることを知っている。ただ待っているだけだ。すぐに憤怒で飛び立ち、正確に狙いすませて突き進み、刺すかもしれない。タオルを投げて外れたら――確実にそうなる。

 だが廊下にほかにも人がいて、近づいてくる足音が聞こえたことで、どうすべきか決意した。ぐずぐずしていたら浴槽が使えなくなる。臆病風を恥じた――「臆する魂」というのが、しっくり来るからといって説教用語に選んでいる言葉ではあったのだが。細心の注意を払いながら浴室のドアに進み、危険地点を通るときには肌が火照ったり冷えたりを繰り返した。片足を慎重に伸ばし、スポンジを取り戻した。蜂はただ待っているだけだ。危険な昆虫とはおしなべてそういうごまかしをする。彼が隣にいることをよく知っているのだ。数分後には出てくることをよく知っているのだ。それによく知っている――彼が裸だということも。

 室内に入るや、慎重すぎるほどそっとドアを閉めた。揺れのせいで恐ろしい昆虫が動き始めるといけないから。浴槽にはすでに湯が満ちており、ひと安心しながら首まで浸かった。外向きの窓も閉め、何も入ってこれないようにした。すぐに湯気が満ちて、ガラスにかすかな滴を残した。十分のあいだ満足し、安全なのだと自分を欺いていた。何一つ問題などなく、世界中の勇気を身につけたかのように、無頓着に振る舞った。湯から出て身体を乾かした。徐々に湯気が収まり、空気も澄んでくると、浴衣とスリッパを身につけた。出る時間だ。

 これ以上もたもたする理由も思いつかず、そっとドアを半インチ開け――のぞき見ると――大きな音を立ててドアを閉めた。ぶんぶんうなる羽音が聞こえた。昆虫はその場を離れ、今や行く手に立ちふさがって床の上でうなりをあげているのだ。空中が針で満ちているようだ。体中を刺されるようだった。むき出しの部分を刺される痛さを想像し、顔をしかめた。けだものは彼が出てきたことを知って、待っているのだ。ほんの一瞬で、むき出しの足首、背中、首、頬、目、国教会師の頭を飾る剃髪部、体中を刺されるだろう。閉じたドア越しに、縞模様の敵が怒れる羽を打ちつけるような不吉な鈍いざわめきが聞こえた。悪意に満ちたなめらかな針が、あちこちを激しく撃つ。器用に脚を動かしている。すでに戦いを欲してうごめく細い腰を見た。畜生! 何て細い腰だ! ほんの一瞬でも勇気があれば、素早い襲撃を狙い定める頭脳から小ずるい胴体を切り離すことができただろう。だが勇気などすっかり失せていた。

 人間の意思とは、それが表向きは聖人であれ、いつだって複雑なものだ。ちょうど今ジェイムズ・ミリガン師の意思は、もつれるほど混乱していた。いずれにしろ、続く忌むべき振る舞いの言い訳として、師はこうした解釈を押し通している。というのは、まさにこの瞬間、アラブ人従業員にベルを鳴らして臆病者の烙印を受け入れようとしたとき、廊下に足音が聞こえ、それとともに情けない心臓にも勇気が宿ったのである。それは「好ましくない」――説教壇でなら「憎み軽蔑すべき」という言葉を使うところだが――男の足音だった。長居をしすぎたため、マリンズ氏が浴槽を使う時間になったのだ。マリンズ氏はいつも七時半にあとに続いていた。今は八時十五分前だ。マリンズ氏はひどい酒飲み――「酒浸り」だった。

 すぐに計画がひらめき実行に移した。それはもちろん悪魔の衝動だった。ミリガン師はその意思に気づかないふりをしてごまかした。計画は悪行と呼ばれるものだったが、そこには否応のない魅力もあった。ドアを開け、床の上の忌まわしい昆虫をやり過ごし、もったいぶって堂々と歩を進めると、元気よく廊下に歩み出た。一瞬のあいだに、幾百とない恐ろしい感覚が訪れた――雀蜂が飛び立ち足を刺すのでは、浴衣にくっつき背中を刺すのでは、踏んづけてしまいかかとをさらしたアキレスのように死ぬのでは。だがそうした感覚を克服できたのも、秘めたる恐怖を奪い去るようないっそう強い感情があったからだ――マリンズ氏が五分後には、何も知らずにまったく同じ危険にさらされるだろう。満足げな昆虫がうめき、リノリウムの床を引っかくのが聞こえた。だが昆虫は後ろにいるのだ。彼は安全だった!

「おはようございます、マリンズさん」慈悲深い笑みを浮かべた。「お待たせはしなかったですよね」

「っはよう!」マリンズは敵意と軽蔑を露わに浮かべて通り過ぎながら、不機嫌にぶつぶつと答えた。マリンズは堕落してはいたが正直な男だったので、牧師を憎む気持ち――どこか苦い感情――を隠そうともしなかったのだろう。

 人間というものは、仙人のような大人物を除けば、驚くほど醜いものだ。ミリガンの醜さは、今や最高潮だった。含み笑いを隠そうともしなかった。穏やかで寛大な笑みを浮かべて侮辱をやり過ごすと、できるだけ堂々としたまま向かいの寝室までゆっくりと歩き続けた。それから確認しようと振り返った。敵は激高した雀蜂と出くわしていることだろう――エジプトの雀蜂と!――あるいは気づかないかもしれない。踏んづけるかもしれない。しないかもしれない。だが雀蜂を怒らすのは目に見えているし、襲われることも間違いない。勝ち目はもちろん牧師の側にあった。そして刺されることは死を意味した。

「神よ許したまえ!」無意識に心から流れ出た。さらに後悔の祈りとともに、永遠なる悪魔の手管も明らかになった。「あの悪魔が刺してくれるといいんだが!」

 あっという間のことだった。ジェイムズ・ミリガン師は、目撃しようとドアのそばに居残っていた。マリンズが見えた。鼻持ちならないマリンズが、浴室の廊下をのんきに歩いている。立ち止まって身体を縮こまらせ、腕を上げて顔を覆った。大声でわめくのが聞こえた。「何だこんちくちょうは? また飲んでるってか?」それから笑い声が聞こえた――不安など全くない心からの高笑いだった――「そうともさ!」

 嫌悪の瞬間が頂点を迎えた。悲痛な失望が牧師の心を満たした。この瞬間、全人類を憎んだ。

 昆虫が、乱れた神経の見せる燃え立つ幻などではないことを、すぐにマリンズ氏は悟ったが、少しもためらわずに歩き続けた。タオルで空飛ぶ恐怖をはたき落とした。それから屈み込むと、ねらい澄ました一撃であっさり床に転がった毒虫を拾い上げた。腕を伸ばして窓まで運ぶと、ぞんざいに投げ捨てた。エジプトの雀蜂は傷ついて飛んでゆき、マリンズ氏は――飲んだくれで、教会に寄付もせず、礼拝にも出ず、牧師を憎み、その事実を声高に叫ぶマリンズ氏――まさにそのマリンズ氏は、傷一つ負わず我が物顔に浴室に向かった。だがすぐに、廊下の戸口に立っている敵が自分を見ているのに気づき――理解した。恐ろしい断章だった。マリンズは一部始終を組み立て、それはホテル中に広まるだろう。

 だがジェイムズ・ミリガン師は、評判の自制心が偽りではないことを証明した。落ち着き払った顔に穏やかな表情を浮かべ、三十分後には朝の礼拝を行った。表に出ようとする内心の苛立ちを抑えることに成功した。悪は、と納得させる、悪はこれまで月桂樹のようにはびこってきた。正義とは割に合わぬというのは周知の事実だ! 確かに悪いことだった。だがもっと悪いことは――ジェイムズ・ミリガン師は長いあいだ忘れなかった――ミリガンと雀蜂をいとも簡単に同じ卑しいレベルにおとしめたマリンズの傲慢さだった。マリンズはどちらも気にも留めなかった――それが傲慢さの証だ。世界中の雀蜂の針よりも遙かに邪悪だった。マリンズは紛れもなく傲慢だった。


Algernon Blackwood -- 'An Egyptian Hornet'(1915) の全訳です。


Ver.1 03/09/28



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作品について・訳について
 アルジャーノン・ブラックウッドAlgernon Henry Blackwood(1869-1951)は、ケント州のカルヴァン派の家庭に育ちました。子供のころから超常現象や神秘学に惹かれ、その経験が小説にも役立ったそうです。
 創元推理文庫から『ブラックウッド傑作選』が出ていたが品切れらしい。角川文庫は当然品切れ『妖怪博士ジョン・サイレンス』。『怪奇小説傑作集1』に「秘書綺譚」が、ポケミス『幻想と怪奇1』に「柳」が収録されてます。
 この「エジプトの雀蜂」は、前半がフィニイの「死者のポケットの中には」みたいなサスペンス・ホラーで、気に入ってます。最終的には「人の心の闇」の怖さということになるわけですが、果たして牧師さんとマリンズ氏、どっちが怖いでしょう? マリンズ氏は林房雄「四つの文字」の政治家くらいに傲慢だと読みとるべきなのかもしれません(宗教的に云々以上に)。


 とても短い作品なので、寝る前に一がんばりして訳しきろうか! と取りかかったのですが、思わぬ時間がかかってしまいました。ブラックウッドの語彙が、今まで訳してきた作品とはまったく違うのです。いろいろ試行錯誤する羽目になりました。
 そんなわけで自分なりの訳語を当てはめる場所も多かったのですが、「dressing-gown」を「浴衣」、「the seductive world」を「色街」と訳すのは意訳しすぎだったかもしれず。


 誤訳訂正。髪の毛を剃るのは「剃毛」じゃなくて「剃髪」だね。



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