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知られざる日本の面影
ラフカディオ・ハーン
第七章
神々の国の首都
一
松江の一日は、耳朶の裏でどくんと搏つ脈拍のような音で目覚めることから始まる。厳かでやわらかな鈍い低音は――規則正しく奥深い心臓の鼓動に似ており、聞こえるではなく感じるという方が相応しい様子で枕越しに震える。何のことはない、米搗き杵を使って雑穀する音だ――この杵とは巨大な木槌のようなもので、軸受けから水平に十五フィートほどの柄が伸びている。諸肌の米搗きが柄の終端を力いっぱい踏むたびに、杵が上がり、重さで自然と搗き臼に落ちるようになっている。杵の落ちる奥に籠った単調な響きは、日本の暮らしのなかでもとりわけ哀 に思える。心音だ、そう、その国の脈動なのだ。
次いで、洞光寺という禅宗の寺にある鐘の音が、町中に轟き震える。次いで我が家近くにある材木町の地蔵堂から、朝の勤行を告げるもの悲しい太鼓の音が続く。最後に、朝早い野菜売りの声――「大根 やぃ! 蕪やぁ蕪!」――大根とかいう野菜の行商人だ。「燃 やぁ燃 !」――炭火をおこす焚きつけ用の木切れを売る女の侘び声。
二
こうして町の目覚めを告げる早朝の物音に起こされると、私は障子を引き開け、階下の庭に生えている新緑の茂み越しに、川べりの夜明けを見渡す。目の前には、あらゆる遠景を映して揺蕩いながら、大橋川の広い鏡のような河口がきらめき、灰色に靄った峰を従えて、右手に洋々と広がる宍道湖へと流れが口を開いている。川向こうの真っ正面にある、青く尖った日本家屋はどれも戸締まりがしてある【※原註1 分厚く固い裸の板が、日本家屋においては鎧戸と扉の用を足している】。夜明けとはいえまだ陽が昇らないからだろう、箱のようにぴったり閉じている。
だがこの景色のなんという魔力か!――朝一番の幽けくも美しい色合いは、白い吐息へと姿を変えた眠りのように、柔らかな霧に浸されている。仄やりとした霞が遠くの湖の岸辺まで広がっている――古い日本の絵画で目にするような朧な縞は、初めて目にすればただただ奇跡のような美を感じるだけだろう。山の麓を覆い尽くした朝靄は、様々な高さの山峰を横切りガーゼのようにどこまでも伸びており(この絶景を日本語で「たなびく【原註※2 shelving】」という)、湖は実際より遙かに大きく見えるため、実在のものではなく、夜明けの空と溶け合って空色に色づいた美しい幻の海のようであるし、峰の頂は霧の海に浮かぶ島々のように聳え、長い土手道のように連なる幻想的な尾根の影は見えなくなるまで続いている――細やかな霧のように風雅な混沌、普遍の景色が、ゆっくりと、とてもゆっくりと、立ちのぼる。黄色い日輪が見え出し、暖かく晴れやかな輪郭がぼんやりと現れる頃には――幻想的な薄色と練色は沖の彼方に消え、梢は萌え立ち、鳶色だったあるがままの巨峰の眺めは、爽やかな霞を透かして見える夢のような黄金色へと変わる。
いくつもの脚がある木造の橋から視線を移し、朝日の方角に大橋川を見遣ると、船尾が高くなった平船がちょうど帆を揚げている最中であったが、これほど夢幻的で美しい舟など生まれてこのかた見たことがなかいように思う――東洋の海が見た夢、霧を美しく変じさせる夢だ。舟の魂。雲と同じく光を湛えた魂だが。ほんのかすかばかりに見える黄金色の霧が、浅葱色の光の中に漂っているのだ。
三
その頃になると庭に隣接した川岸から、手を拍つ音が届く――ひとつ、ふたつ、みっつ、よっつだ――だが音の主は生け垣に隠れて見えない。だがしかし、帯に青い手拭いを提げた男女が、向こう岸の桟橋まで石段を降りるのが見える。顔や手を洗い、口をすすぐ――神道の祈りに先立ちお浄めをするのだ。それから朝日の方に向き直ると、四度手を拍ち祈りを捧げる。大きく白い橋から、山彦のように別の柏手が聞こえ、三日月のような形をした美しい小型舟の群れからも新たな柏手が聞こえる――その不思議な小舟では、立ちあがった裸の舟人が黄金色の空に向かって頭を下げている。その頃には柏手の音も増え――ついには乾いた音がほとんど絶え間なく響き出す。人々は皆、朝日(『御日さん』)つまり太陽の女神――天照大神に礼拝しているのだ【※原註3 『天照大神』とは、文字通り『天照らす大いなる御神』という意味である。(チェンバレン教授による『古事記』翻訳を参照。)】。「今日様! 本日も宜しゅう御願いいたします! こうして照らして下さいまして有難う御座いまする!」口には出さずとも、無数の人々が心の中でそう念じているはずだ。太陽にだけしか手を拍たぬ者もいる。だが殆どの人は西に、すなわち由緒ある杵築神社に向き直り、かなりの人が八百万の神々の名を唱えながら、天を仰がんとする。あるいはふたたび天照にぬかずいたあとで、薬師寺のある一畑に身体を向ける人々もいる――薬師とは盲人に光を与えた如来だ――神道のように柏手を拍たずに、そっと両手をすりあわせるのが仏式である。だが誰もが――この日本の古都に住む仏教徒は誰もが――同時に神道を奉じてもおり――古くからの祈りの言葉を口にする。「払い給い、浄め給いと、神、斎み給み」
仏教伝来以前より世を治 しめし、今もこの出雲の国を――葦原の中つ国を、雲出ずる国を――司る神々への祈りだ。天地発けし混沌と海とより生まれし神々――宇比地邇神(初泥の神)、須比智邇神(初砂の女神)といった長く不思議な名を持つ神々への祈りだ。かかる天つ神――力と美の神、国造りの神、山と川つくりたまいし神――『日嗣』と呼ばれる位を継承し続ける君主の、遙か祖先の神――かかる天つ神より後に生まれし神々への祈りだ。この地に住みし三千柱の神々と、高天の原(高き天の平原)に住まいし八百万の神々への祈りだ。「日本国中八百万の神々様!」
十八
今でもときどき通りから戯れ歌が聞こえることがある。昔は町の誰もが諳んじていた唄だ。松江の七不思議を唄っている。松江は昔、七つの地区に分かれており、各地区で奇怪な物や人が見えたというのだ。今は五つの教区に分かれ、そのいずれにも神社がある。教区内に住む人を氏子といい、その神社は氏神と呼ばれ、守り神の住処ともいわれる。氏子は氏神を祀るものだ。(どこの町村にも、最低一柱の氏神がいる。)
星の数ほどある松江の寺社には、どの寺社にも必ずといっていいほど、驚くべき言い伝えが残されている。どの地区にも数多の言い伝えがある。thirty-three streetsには各々独自の怪談が伝わっている。その中から例しに二つお聞かせしよう。日本の民話が多様性に富んでいるという良い例である。
北東に位置する普門院の近くには、小豆磨ぎ橋(小豆を洗う橋)と呼ばれる橋がある。かつては女の幽霊が橋の下で夜な夜な小豆を洗っていたというのが名の由来だ。日本には、紫色をした杜若という名の美しい花がある。また、この花にちなむ「杜若」と呼ばれる謡曲がある。だが小豆磨き橋の近くでこの曲を謡ってはならない。その子細はとうに忘れ去られてしまったが、謡を聴かせると橋に棲む幽霊の怒りに触れ、恐ろしい災厄に見舞われるという。かつて剛胆な侍が、夜中に橋まで行き大音声で曲を謡った。幽霊は現れず、呵々大笑して家に戻った。門前で、背の高い見知らぬ美女が頭を下げ、漆塗りの文箱――女性のレターボックスのようなもの――を差し出した。侍は一礼したが、女は「わたくしはただの使いでございます。――こちらは奥さまからの贈り物にございます」とだけ言うと、かき消えてしまった。箱を開けると、血塗れになった幼児の首が現れた。家に入ると、客間の床に幼い我が子の死体がある。死体には首がなかった。
中原町にある大雄寺の墓地には、こんな話がある――
中原町に飴屋があった。飴屋とは――水飴という、麦芽から作られる琥珀色の蜜を売る店であり、乳が出ないときにはそれを子供に与える。毎晩遅くに青白い顔をした白ずくめの女が、水飴を一厘【※原註8 厘とは一銭の十分の一。真ん中に四角い穴の開いた、小さな円形の銅貨。】買ってゆく。女があまりにも痩せ細り顔色が悪いので、飴売りは心配してたびたび声をかけたが、女は何も答えなかった。不思議に思い、ついにある晩、女の後を尾けてみた。女は墓場へ向かったので、飴売りは恐ろしくなって店に戻った。
翌晩も女は現れたが、水飴は買わずに、着いてくるようにただ手招きをする。飴売りは友人と一緒に、後を追って墓場に向かった。女はとある墓の前まで来るとかき消えてしまった。地面の下から、子供の泣く声が聞こえる。墓を掘り起こすと、夜な夜な飴屋に通っていた女の死体が、元気な赤子を抱いていた。提灯の明かりを見て笑い出した赤ん坊の傍らには、水飴の碗があった。仮死状態で埋葬された女が、墓の中で子を産み、母の魂はこうして我が子を養っていたというわけであった――愛は死より強し。
Lafcadio Hearn "Glimpses of an Unfamiliar Japan" より 'The Chief City of the Province of the Gods' 途中まで。
Vol. 1 04/08/12
Vol. 2
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