朝は最高だった。山も陰になって涼しく穏やかだ。アリスは若く愛されていた。一晩じゅう恋人の腕に抱かれていたからといって、他人を哀れんだりしないように気をつけなければ。
食堂で朝食に出された料理もまた豪奢だった。いるのはグレッグおじさんだけ。一人きりの朝食に慣れきっているようだ。
この家には何人の使用人がいるのか考えてみた。コックが一人いるはずだ。それに元気よく世話してくれるエレンがいる。
「ピールさんってどなた?」グレゴリーおじにたずねた。
「ピール? 掃除婦だよ。よく働いてくれてる」
トニーの眉が上がった。「なんでピールさんのこと知ってるんだ?」
「ああ、それは――」
電話が鳴った。
「――昨日、会ったから」
ホールでエレンが電話に出た。
「部屋を間違えたみたいで」アリスは説明した。「ほんの――」
グレッグおじが口を挟んだ。「そう言えば……ピールさんもインディアナ出身だったはずだ」
アリスには答える暇がなかった。
エレンが呼びに来た。「ペイジさまに長距離電話です」
「もしもし……ああ、デルガドさん……」
シカゴにいるトニーの上司だ! アリスは電話のそばまでついていき、じっと立っていた。
「それはお大事に……今は別荘ですか?」
トニーがそばに引き寄せて腕に抱かれる形になったので、電話の向こうの大声が聞こえた。
「……二か所も折れて動けないんだ。カーターの仕事はもう無茶苦茶だ。今すぐ飛べるか?」
「それが――」
「頼む。ここに来て代わりに務めてほしい。それからシカゴに行って人と会うんだ」
「わかりました。朝にはシカゴに――」
「そうじゃない。直接ミネアポリスだ。着いたら連絡してくれ。車を寄こす。一刻を争うんだ」声が焦りを帯びる。「ほんの二、三日だ。その後まる二週間やすんでいい。私持ちだ。質問は? 来てくれるな?」
「わかりました。どこに連絡すればいいんです?」
「レイク・パートリッジ。交換手に訊いてくれ。なるべく急いで」
「はい。妻とぼくは……」
「奥さんはだめだ」鋭い声。「ここは不便だ。邪魔になるよ。置いてくるんだ。親戚のところだったな?」
「そうです」
「トニー、わたしも行く」
「急いでくれよ」電話の声が言った。「これがいかに重要か……」
「わかってます、デルガドさん。まかせてください」
トニーは受話器を置いてにっこりした。「というわけだ」
グレゴリーがたずねた。「何かあったのか?」
「上司からです。足を折って別荘に取り残されてしまったようなんです」
「場所は?」
「ミネソタです。ところがこんな時に事務所が一大事なんだとか」トニーは肩をすくめた。「いつなんどき七千五百万がふいになるかというのがビルの仕事なんです」
「じゃあ家で待ってる」アリスはせがんだ。
「いぃや」悩んでいるように音節が間延びする。「ここで待ってるんだ。いいですよね、おじさん?」
「もちろんいいとも。残念だな。だけどアリスのことは任せておけ」
アリスは叫びたかった。ダメ。一人にしないで! お願い!
「ごめんよ、シカゴで一人にしておきたくないんだ。仕事が行き詰まる可能性もあるし……無事に元気だとはっきりわかった方がぼくも……」
トニーがウィンクしたので、グレッグがいなくなったのがわかった。「退屈するかもしれないけど、なにより無事に元気でいてほしいんだ。相当やっかいな仕事だから、集中しないと。どっちみち、戻るときはデルガドさんが送ってくれるし、そしたらぼくらは……ねえ、好都合じゃないか! パーム・スプリングス! 奢りだぜ! ラ・ホーヤは?」
アリスはしぶしぶ答えた。「わかったわ」
トニーのキス。あにはからんや、丸め込まれたわけじゃない。
トニーは航空会社の窓口に電話をかけていた。
その日の朝は、トニーの急用でてんやわんやだった。報せを聞いてレッドファーン夫人はアリスが泊まることを許した。けれど夫人がトニーを突っつく。ミネソタの男が何者なのかということ、孫息子の邪魔をする正当な権利があることを、説明せねばならなかった。祖母の価値観には経済上の圧力というものが皆無だった。子供に向かって仕事とは何か、上司とは何かを説明するようなものだ。
十一時までに準備を整えた。ミネソタ行きは三時に飛び立つ。ハリウッドでバスを拾えば。搭乗券を受け取る時間もあるから、一時間半。
アリスが荷造りした。正午にはスーツケースを閉じていた。トニーは化粧箪笥に寄りかかってトラヴェラーズ・チェックにサインしている。「グレッグおじさんが現金に換えてくれるよ」
「お金なんか使わないと思う」
「きっと必要だよ」
「ねえトニー、そんなに長くかかりそうなの?」
「はっきりとはわからない。運がよければ五日間。最長でも一週間」
アリスは窓からふたたびもの寂しい山々を見つめた。トニーなしでこの家に一週間もいるなんて、どうやって耐えればいいというのだろう。誰かの叫び声が聞こえた。
トニーが身体をこわばらせた。「ありゃなんだ?」もつれた叫びとともに、衝撃音。落ちた音?
化粧箪笥の上にトニーの手から何かが落ちた。手でまさぐる。一番上の抽斗を開け、また閉じる。アリスはトニーのあとから寝室のドアを出た。
階下には四角いホールを囲むように手摺りのついた廊下があり、そのなかばでホーテンスが声をあげて立ちすくんでいた。玄関ではレッドファーン夫人がドアのわき柱にもたれて倒れていた。トニーが駆け寄る。
ビーがドアから少し後じさって顔をしかめた。ホーテンスは興奮して何もできずに立ち尽くしたままだ。
「あのモップにつまずいちゃってね」レッドファーン夫人は驚くほど落ち着いていた。床の上でさえ気品がある。「ごめんよ。すまないね、トニー」
膝をついたトニーの背中は、若く、しなやかで、強かった。腕を肩に回す。もう片方の腕の指が、祖母の細い足首に優しく置かれる。「痛い?」
「少しね」突き当たり、階上のホールで何かが走り去った。アリスは肩越しに見上げたが、何も見えない。
トニーは立ちすくむ三人の女を見上げ、一人を選んだ。「アリス、医者を呼んでくれないか。電話がある……ホールのテーブルに……」
「番号は?」急いで尋ねる。
ホーテンスもビーも口を聞かない。あまりの驚きで歯車が外れて動かない役立たずだ。
「電話帳を見るんだ」いらだったトニーが言った。
トニーが老婦人を抱えているのはわかっているから、アリスは後ろを向くと、手摺りに沿って電話まで向かった。ここは全体的に暗い。電話番号が書かれたアドレス帳は見つけられない。違う本を手に取った……市の電話帳だ。まるで見えない。コードを引きずって寝室まで行けばまだ明るい。化粧箪笥に電話帳を置いた。デヴォン医師の番号を探した。名前がわかっている医者はほかにいなかった。
「デヴォン先生、アリス・ペイジです、レッドファーン家の。レッドファーンさんが転んでしまって。足首をくじいたみたい。来ていただけます?」
「十分で行く。安静に」
うまく連絡の取れたことに安心して受話器を置いた。電話機を戻さなくては――
ふと、化粧箪笥の上にある白い紙切れに文字が打たれてあるのが目に留まった。
発 L.A.二:三〇PM 着 ダラス 八:〇〇PM
発 ダラス 九:〇〇PM 着 メキシコ・シティ 二:〇〇AM
なにこれ? 触ってみる。ちゃんとある。アリスはトニーの手の動きを思い出し、一番上の抽斗を開けた。トラヴェラーズ・チェックの山。封筒一通。中には搭乗券。メキシコという文字があった。
それでわかった。白い紙切れにあるのが、トニーの本当の旅行日程なのだ。
紙切れを抽斗に放り込んで閉めた。
ホールに行って電話機と電話帳をもとに戻し、助けがいるかどうか確認しに行った。
寝室から出るとき、バスルームから白い頭が飛び出した。縞模様の肩が続く。「モップをどこに置いたっけかねえ?」ピール夫人が宙に向かって呟いていた。
レッドファーン夫人が静かにデヴォン医師を待っているあいだ、正面の寝室からはいらいらと落ち着かないホーテンスと、母に小言を言われるビーが見えた。
医師が到着するとちょっとした混乱がわき起こった。アリスにはよくわからなかったが、どうも外科ではなかったらしい。それでも医師は来てくれた。
ことの次第がだんだんとわかってきた。掃除婦のピール夫人がレッドファーン夫人の部屋のドアにうっかりとモップを立てかけたままにしてしまったため、老婦人がつまずいて転び、足首を少しひねったのだ。お叱りはなかった。
医師が足首に包帯を巻いた。ビーは医師にくっついて階下に降りていった。エレンがおそるおそる、昼食ができたと報せに来た。トニーは飛行機の時間があるからと言って部屋を退いた。
レッドファーン夫人はもちろん部屋に残っていたし、ホーテンスも付き添っていた。だが数分後、真っ赤な目をしたビーが昼食に加わった。ビーは泣いていた。
「ばあちゃんは大丈夫だよ」トニーが優しく声をかける。
「そんなの知ってる」ビーが突っかかってきたので、トニーは仕事の話を始めた。
「ハリウッドまで送ってくんだけどな」食事を終えるとアリスが言った。「車があれば……」
「知らない町だと道に迷うだろ」
「あたし送ってけるよ」ビーが暗い調子で口を挟んだ。
「だめ、わたしが送ってく」
「ああ、そうね」ビーの口元は結婚したての愛情ぶりをからかっていた。
かくてアリスはビーのフォードに乗り込み、家に戻れるようにトニーが懸命に道を教えていた。
「どうして泣いてたのかな?」車を出すとすぐさまアリスは尋ねた。
「さあね。ばあちゃんだろ、たぶん。ちょっと取り乱してたし。それに――ホーテンスから聞いたんだけど――ビーはデヴォン先生の患者なんだ」
「患者?」
「ちょっと変わった――友だちみたいな感じのね。精神科医だか――精神分析医だか。そんなやつ」
「え? そうなの!」
「山ほどのコンプレックスか何かを抱えてるんだよ」トニーは悲しげだった。「混乱しているんだ。気にしなくてもいい。大丈夫さ」
「うん……」続きを待った。
「現状がわかりしだい電報を打つよ。誕生日にいられなくて残念だけど。でも仕方ない」
「わかってる」
トニーはミネソタのことを話し続けた。谷を降り盆地を走るころには、もはや我慢できなかった。落ち着いて口を開く。「話さなきゃならないことがあるの。旅行予定を見たの」
トニーは何も答えない。
「ダラス経由でメキシコに行くんでしょ?」
「どういうはずみで見つけたんだい?」
「おばあさんが転んだとき化粧箪笥に紙を置いてったでしょ」
「ほんとはね」トニーは冷静だった。「権利からいっても規則からいっても、ぼくが出向くわけはないんだ」
アリスは何も言わなかったが、心臓は乱れ飛んでいた。
「仕事から外されてるはずなんだ。だけどさ、どうすればいい? これをやれるのはぼくだけなんだ」トニーが動揺しているのがよくわかった。「見られたくなかった」うなだれている。
「伝えなくてもよかったんだよね……」アリスは道路から目をそらさずに呟いた。
トニーが呻き声をあげた。
「秘密は絶対に守れる」アリスは真剣に口にした。「信じてるでしょ?」
「もちろん。だけど……まだわかってないことが……」
「じゃあ話してよ?」じっと我慢した。
「メキシコに行くことは口止めされていたんだ」トニーはひどく苦しそうだった。
「仕事でってこと? その――公務なの?」
「うん、召集されたんだ。会いに行った……所長にね。通称オヤジさん。昨日だよ。少しは話さなきゃと思ったんだけど。今となっては話さないのも無意味だね……」とても苦しそうだった。
「何なの?」
「ひとことで言えば、麻薬さ。今まで関わったことはなかったし」またも声が苦しさを帯びる。「今も関わるつもりはない」
「トニー――」泣きたい気分だった。「聞かなきゃよかった」
「聞いたのは君だよ」
「怖がらせないでよ」正直に言った。
「いいかい」トニーが見つめる。「ここ、この町に、一人の男がいる。そいつは……うん、裏切者って呼んでくれ。国境の麻薬密輸組織に雇われていた。手入れの計画があるたびに、たれ込んでいたんだ。内部に情報源があるに違いない。当局はやっきになってる。ぼくが行くところは……メキシコ・シティの外れにいる人物をたまたま知っているかららしい。国際麻薬組織の大物。通称ビッグ・フランク。二年前に変名でほかの仕事をしていたぼくを知っている。だからこの仕事ができるのはぼくしかいないんだ……」アリスに知られてしまって嘆いている。
「どうするの?」アリスは黙って尋ねた。
「うん、昔の変名でメキシコに入って、会いに行くことになるだろう。ぼくはその……売人側の人間だと思われてるから」今度は鬱いだような声。「せいぜい名前を入手できるかどうか……? でなけりゃ電話番号かな? 裏切者の正体を特定できるもの。そうすれば裏切者に働きかけて思いとどまらせることができる。証拠はない。でも情報があれば、あとから証拠を探すことができる。やれそうなのはぼくだけなんだ……」
「そう……」今もまだ傷ついていた。「所長のデルガドって人も――そうなんだ……?」嘘を聞かされていたことにも傷つき、かまをかける。
「みんなお芝居だ」少しいらだっているようだった。「ハーブ・イネスのね」
「イネス?」
「空港で出くわした男。接触してきたんだ。ミネソタ行きの口実をつくるように。ノースウッドでしばらく行方をくらますつもりだった……」
「そしてわたしは本当の居場所を知るはずじゃなかったんだ?」麻痺したようにたずねた。
「ああ、君も――目くらましの一つだった。知らないでいてほしかった!」
「なぜ?」
「知られてしまっては計画がお終いだからだ」絶望の淵へと沈んでいた。
「トニー?」
「ああ」
「誰にも言ったりしない」
「出かけてしまえばね」力なく答えた。「ぼくの命は君にかかってるんだ」
トニーを見つめた。「え?」声はこわばっていた。
今やトニーの瞳は、目下の問題ではなくアリスを見据えていた。「ぼくの命なんていつだって君に委ねる」暖かな声だった。「でももっと困ったことがあるんだ……」
「教えて」
「わかった」トニーの瞳はきらめきを、絆を、確かな尊敬をアリスに送っていた。「これは最悪の話だ。オヤジさんの憶測にすぎないけれど――裏切者はウォルター・デヴォン医師だと思っている。もうわかっただろう? グレッグおじさんの友だちだ。二人がチェスをやるのも見たし、たくさんしゃべるのも聞いたはずだ。週に二、三度やってくる。ビーを診に来るんだ。ビーはデヴォンに隠しごとはしない。ちっ、ビーを手の内にしているなんて。それが理由だよ――残念だ。わからないか? 家族の誰かに秘密を洩らしてしまい、デヴォンに伝わったとしたら、ぼくの本当の居場所が……話を聞いたデヴォンが、裏切者だとしたら……だとしたら、確かに存在するらしい通信網を、その単語が駆け抜けるんだ。人相書が送られる。そしてぼくは死ぬ。言葉の綾じゃない。死体になるんだ」
「誰にも」恐怖のあまりうわずっている。「家族の誰にも、世界中の誰にも、絶対に知られない」心臓が波打っていた。恐れていた。「ねえ、トニー、どっちにしても危険だったんじゃないの?」
「そんなことはないよ」穏やかな答えが返ってきた。アリスを落ち着かせようと穏やかな声を使っている。「誰彼かまわず疑ってかかるような人間だとしたら別だけど、メキシコのボスが疑うはずはない。それを利用できるだろうけど。うまく情報を手に入れられるかどうか……」
「自信があるんでしょ」断定だった。
「そう思いたい」トニーは落ち着きがないままだ。
「誰にも言わない」とても小さな声だった。「絶対に信用してくれていい。でも――行かないで」
「断わることはできる」すぐに安心させた。「結局はほかの方法で捕まえるよ――いつか」
「いつか?」声が震えた。トニーの声に含まれる何かが怖かった。
「ああ、いつか。正直言ってどうすればいいのかわからない。一番いいのが何なのか」
「その……オヤジさんには頼めないの?」アリスはどうにもならず途方に暮れて問いかけた。
だけどトニーはこう言った。「ぼくは……無理強いされたわけじゃないし、今までもそんなことは一度もなかった。昨日話を聞いたときには、行きたかったんだ。家族のために。ビーのために。それに――高校生にもヤクが売られているから」
ジョーイの足を思い浮かべたアリスには、不意にその足が行動力と好奇心といたらぬ勇気の象徴に思えてきた。心臓が跳ねあがる。ひどすぎる!
「行って、できることをすべきだと思う。そんなことは止めさせて」アリスの心臓が激しく叩きつける。
「すべき」トニーは苦しげに口にした。「すべき、か」と呻いた。それから急いで話を始めた。「ぼくが出かけたあとで、ミネソタからの手紙が届くはずだ。誕生祝いの電報さ。昨日の午後、オヤジの事務所で書きあげたんだ。事務所にはハーブ・イネスが代わりに行く」呻き声。「隠しているだけじゃ駄目なんだ。それがぼくのかつての仕事。つまり嘘をつくってことだ。ぼくがミネソタにいるふりをしなくちゃならない。君は訓練を受けていないし、女優じゃない。そうだろ?」
「そうかも。でも女はみんな、どこか女優」唇が凍りつくのを感じる。
「左に曲がって、坂を上って」
坂を上るあいだは二人とも無言だった。「橋を渡ってからもういちど左」坂を上りきったところでトニーが指示を出す。「目的地はすぐそこなのに。なにをすればいいのかわからない。きっとうまくいく。早く終わってくれ。すべきか迷っていた。でも――ぼくの最期だとしたら? そうだろう……君をこんな所に置き去りにする権利なんてない。行けないよ。もしデヴォン先生を変な目で見たりしたら……」
「でも……」アリスは顔をしかめた。「なんでデヴォン先生だって言い切れるの?」
「言い切れるよ」トニーははっきりと口にした。「いいかい、ぼくは物事がどう見えるかなんてことには関係のない世界に生きてきたんだ」
「どこで情報を得ていたのかわたしにはわからない――」
「オヤジさんにはわかっている。デヴォンは……内部の人間と……親密にしているんだ」つらく苦しそうだった。「オヤジさんにはつらいことだ。それも証拠なんてない。勘だけだ」
「でも麻薬ってことは? 医者は? 治療師は?」
「疑ってたまるか」トニーは大声をあげた。「当然だろう。それにデヴォンが神聖な肩書きを利用しているのなら……輪をかけた裏切者だ」顔をしかめる。「麻薬が金になることは知ってるだろう?」
「お金!」アリスは息を呑んだ。「そんな……そんな……」
「そうだな」トニーは悲しげにそう言った。「こんなことを知っているはずがない」
しょせんは高みの閑居なのだ。レッドファーン夫人よりは暗い面を知っていると思っていた。でもトニーはもっとひどいものを見てきたのだ。悪を見てきた。そして戦ってきた。いったい何のためにここにいるんだろう? 楽しく生きるため? 行儀のいい人間でいるため? それとも……恐怖、緊張と脅威、そうしたすべてのもとで、一点の激しい喜びを感じて、涙が溢れた。試されるのも単なる試練じゃない。人生だ。
「行って」衝動に駆られてアリスは言った。
「アリス」優しく口にしてから口調を変えた。「君がどうすればいいのか今から伝える! 一番いいのはシカゴから離れることだ。シカゴに戻っちゃいけない理由はわかるだろう? よし! 手の届かないところに行くんだ。それならぼくも行ける」
「うん、だったら」アリスは息をついた。「だったら、うちに帰りたい――」
「わかった。明日。いいね? お金はあるね? できるだけ早く飛行機に乗ってしまえ」
「そうする。うん、そうする」
「ぼくはオヤジさんに電話して、手紙と電報を止めてもらう」
「わかった」
走り続ける。もうハリウッドだった。ひとつの決意に安心して、二人の気持は揺さぶられた。
「じゃあ手紙は書いてくれる?」
「駄目だ――駄目だよ」
「長くかかるの?」
「わからない。邪魔が入ればダラス経由で名前を変える。でもまっすぐL.A.に戻るれるよ。ここに着いたら電話するよ」
「わかった」
「気をつけるんだぞ。今夜はばあちゃん家で過ごしてくれ。デヴォンは来ない日だから。ただ黙っていればいいんだ」
「ぜったい言わない」真剣で優しい言い方だった。「知ってしまったことを後悔してない。それどころか蚊帳の外に置かれたくなかった」
「ああ、アリス――蚊帳の外に置こうなんて絶対に思わないよ、二度とするもんか……」
Charlotte Armstrong "THE GIRL WITH A SECRET" CHAPTER 2 の全訳です。
Ver.1 04/09/24
Ver.2 05/01/05