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秘密

シャーロット・アームストロング


第四章

 石段をてっぺんまで上ったところに黄色い車が入ってきた。中からウォルター・デヴォン医師が降りて声をかけた。「やあ、どうも」

「どうも……」

「おじゃまするよ」すたすたとやって来る。「また足首を見に来たんだ」

「それはありがとうございます。どうぞ」振り返ってドアノブをつかむこともできた。けれどドアには鍵が掛かっていた。ベルを鳴らして、エレンが来るまで並んで待っていた。

 医師に怪しいところなんかない、と言い聞かせた。気にするな。頭から追い払え。

 目下の問題はピール夫人ではなくアリス自身だ。自分が話してしまわないようにする方法だ。

「トニーは呼び出されて東海岸に行ってるんだってね」慰めるような声が聞こえた。

「ええ、残念」ドアの板を見つめていることが出来なくて横を向いた。庭を眺める。「ここは物珍しいものばかりです。この葉っぱなんて……」

 デヴォン医師は木の葉についておしゃべりするような男ではなかった。「私はね、嬉しいよ」穏やかに言った。「トニーは危険な仕事から足を洗ったそうだね」

 アリスは自分の目や顔に、驚きと衝撃が現れたのに気づいた。どうにもできなかった。

 医師は威風堂々とした雰囲気を発している。「驚いているね? ははは、私はいろいろ知っているよ。結婚して諜報活動をやめるころじゃないかと思っていた。くだらない仕事だ! 違うかね?」

「そりゃそうです! もちろんそう!」驚きに弾みをつけて、勢いよく頷くようにした。そうしてしまったら何もしゃべることがなくなってしまった。

 エレンがドアを開けて救ってくれた。

 顔色を隠したくて、アリスは先に立って螺旋階段を上った。

 レッドファーン夫人の部屋をノックする。手はいつもどおりだ。

「はい?」いかにも貴婦人らしい声が答える。

「アリスです。デヴォン先生が見えました」

「それはごくろうさま。ちょっと待ってもらえるかしら」

 二人はここでも並んで待っていなければならなかった。アリスは悲しげな微笑みを医師に送ろうとした。医師の目が爛々と活気づいているのを見て心臓が止まりそうになった。興味津々に問いつめるような力強さが感じられた。アリスは悟った。医師が犯人ならば、危険はかぎりなく大きなものだ。怖くなってきた。

「何か怖いのかい?」医師が優しく尋ねるのが聞こえた。だめだ、嘘をつきとおせるような相手じゃない! それでも嘘をつきとおさなくてはならないのだ。

 慰めるような声に押されて耐えきれず口に出したように、息を切らせて弱々しく答えた。「それが……。先生、奥さまは貴婦人でしょう。わたしはああはなれない。だからここではわたし……家の中じゃひとりぽっちで……」目を閉じて、なんとか涙を押し出した。

「噛みつきはしないよ」

 アリスの目は見開かれていたはずだ。ビーがホールの手すりに寄りかかって嫉妬で顔中をこわばらせているのが見えた。アリスの反応を見て医師が目をやった。

「どうぞ入って」レッドファーン夫人の声が聞こえた。

 アリスはドアを開けてやみくもに中に入った。「ドアは開けたままにしておいてちょうだい。さあ、アリス、どうぞお座りなさい」

 なんて礼儀正しいんだろう!

 アリスはドア近くにあった椅子に腰掛けた。

 デヴォン医師はそつなくベッドに近寄った。

 だがアリスの頭の中では恐怖が暴れまわっていた。デヴォン医師はトニーの職業をすっかり知っていた! トニーが犯罪者の側ではないことも知っているだろう。ということは、医師が裏切者だとすると、トニー・ペイジがメキシコ・シティにいるという秘密にはいい顔をしないだろう。何をしに行ったのか疑っているだろうか? きっと大丈夫。だけどトニーの行き先を探るつもりがあるのなら、きっと警戒するよう連絡するはずだ。トニーの人相書きを送ったはずだ。そしてトニーが慎重を要する問題に何気なく近づいたときには、そのときには、諜報部員だということを知られているのだ――トニーは罠に飛び込んでいくことになる! ようやくわかった! だけどトニーはこんなこと言わなかった! 衝撃のうちに理解しながら、できるだけ衝撃に乗り続けた。

 安全なのは、デヴォンが犯人だと仮定しておくこと。

 落ち着きを取り戻していた。よし。トニーの居場所を、はっきりとであれうっかりとであれ、デヴォンにも家族にも洩らさない。約束したのだ。心を決めて、その決意に力を込めた。よし。まだ二十歳にもなっていない。だけど若さと頭脳と、なにより大きな愛の強さがある。怖がっていたって、その恐怖を利用できれば力になる。あらゆる力が助けてくれる。

 演技して、嘘をついて、……どう思われればいい? インディアナのアリス・ハンセン・ペイジ、田舎娘、見知らぬ家に残された賤民、だと思われる……そして――事実の上に嘘が組み立てられて――みんなに脅える。ふさわしい娘ではなくってお気の毒さま。ぶきっちょ。臆病者。恐がり。そんなふうに思われなくては。

 ホーテンスがおろおろとやって来た。

 アリスは立ちあがって(ぎこちなく)忍び出た。


 デヴォン医師はレッドファーン夫人に愛想よく話しかけた。「トニーが呼び出されて残念でしたね。だけど花嫁さんのことをもっとよく知るためにはいい機会じゃないですか」

 レッドファーン夫人は溜め息をついた。「そうね」と頷く。「そうね」

「優しくしてあげることですね。どうやら、貴婦人というものを怖がっているようです」

 レッドファーン夫人の両目は優しくなかった。「それはどうも」

 ホーテンスが口を開いた。「お気の毒に。確かに若くて可愛いけれど。でもそんなものはすぐに衰えます」ホーテンスは痩せた身体を上品に起こした。

 医師が問いかけるように見返した。

 ホーテンスが不愉快げに顔をしかめて答えた。「あの掃除婦が、アリスの母の友人なんです」

「そりゃあ偶然だね」

 ビー・スタフォードが一階のホールで医師をつかまえた。「あした会える?」

「明日は無理だ。忙しくてね」

「あたしときどき――」ビーが乱暴に口を開くと――「もう泣きたい!」

 医師は優しく語りかけた。「落ち着くんだ。泣くんじゃない」逃げたい気持を包み隠していたが、結局は立ち去った。

 ビーは絶望的な仕草をしたまま静かになった。医師が去ったあとも暗い瞳で追い続けていた。


 ビー・スタフォードを麻薬中毒にするのは簡単なことだ、と何回も考えながら、ウォルター・デヴォン医師は車に乗り込んだ。言葉を垂らせば食いついてくるだろう。

 実際には考えをもてあそんでいるだけだ。そうするつもりはない。

 グレゴリーのためでなかったならば、ビーに頭を悩ますこともなかっただろうが、グレゴリーは役に立つ。典型的な品位の塊。優れた推薦状。それに不幸。(上流階級というものは多かれ少なかれ不幸なのだ。)ホーテンスは典型的な気取り屋。ビーは生来のヒステリー。ビーのことを考えると、麻薬による偽りの幸せを与えたい誘惑に駆られた。そうだ、あの娘はそういうタイプだ。麻薬というものは面白いものだ。脳髄には冷酷な好奇心が詰まっていた。死ぬのは馬鹿なやつらだ。確実な資金源のある場所を、医師は見つけていた。

 哀れなビー。祖母に縛られていることに気づくよう入れ知恵したのは医師だった。少しも自分のためにならないぞ。アリスを妬みたまえ。うっとうしいビーのやつめ! むろん自分の魅力は利用した。持てるものは用いざらん。

 運転を続けた。

 アリスは医師が帰るのを見なかった。

 この不思議な家のリズムに気づき始めていた。神殿だ。ホーテンスはいつも老婦人のご機嫌を伺っている。使用人はそれに倣った。グレゴリーはそれに従った。反抗的なビーでさえ、正反対に行動することでそれに従っていた。老婦人がいなければ、この家には日々の暮らしなどないのだ。

 老婦人は食卓にはつかなかった。ビーは黙り込み、ホーテンスは無言だった。グレゴリーだけがしゃべり続けていた。

 アリスは晩をどうやって過ごそうかと考えたあげく、ふたたびピンクのドレスを着て、銀とサファイアのイヤリングを身につけた。機会を見つけるとすぐにたずねた。「デヴォン先生は今晩チェスをしに来るんですか?」

「いや、火曜は来ないよ。何しろ……」

 ここぞとばかりにアリスは口を挟んだ。「よかったら、わたしとチェスをしませんか」

「ほう、君が?」グレッグはコーヒーが出てくるまでこの貴族のゲームについて語っていた。


 午後十時にはグレッグは椅子に身体を沈ませていた。茶色い目を見開いている。「どうやらこてんぱんにされてしまったようだな」

「そうでしょうか」アリスの目は輝いていた。ああ、チェスは正解だった! ほかのことを考えるゆとりが少しもない。だけどアリスはいろいろなことに気づいていた。グレゴリーの心はいつも平穏だ。友人が悪人かもしれないなどというとっぴな考えにすぐさま納得する人なんていない。

「驚いたな。ウォルターと指してみるといい」

「えっ、そんな」見上げると剣のようなビーの視線があった。「そんなのだめです。だって……おじさんと指すのとは違います。身内だから。申し訳ないけれどデヴォン先生とは。いいですよね?」

 グレッグは困ったようにアリスを見ていた。「わかった。だけどずいぶん頭が切れるじゃないか?」楽しそうではなかった。

「偶然です」あわてて答えた。「勝ち逃げしちゃおっかな」軽い言葉と笑い声が安っぽく響いた。でもまた一つ失敗してしまった。忘れないようにしなくては! 若く、臆病で、ぶきっちょで、恐がりだと思われること。それが役柄。そんなタイプの人間は、大胆で堅実なチェスの能力など見せたりはしないのに!

 グレッグはすぐに部屋を出た。この家に日々の暮らしなどないのだから、妻にも娘にも何も言うことはない。外にいるときこそが本当の暮らしなのだ。おじは二階に去った。

 それからすぐにホーテンスがしゃべり出した。ようやくアリスにもホーテンスのことが少しわかった。噂好き。事実なのか想像なのかはともかく他人の失敗や愚行を啜って生きている。こうした失敗以外には興味がない。ゴシップ好き。隣のわがままっ子のことで愚痴をたれる。しつこくそれを繰り返した。生き生きとしている。アリスは黙って聞いていたが心配になってきた。聞いたことに尾ひれをつけてしゃべるのがホーテンスという人ではないか!

 そのあいだじゅうビーはそわそわと気を揉んでいた――聞き入っていかと思うと、興味をなくした。一度などは明日昼食を一緒に取らないかとアリスを誘った。アリスは控えめに承諾したが、行けないことはわかっていた。頭が痛いことにした。ピール夫人のいる家を離れるわけにはいかなかった。

 すぐにアリスは一つの人物像を演じ始めた。若く臆病な娘が気疲れしてしまった。夜も徐々に更けていった。アリスはレッドファーン夫人に就寝の挨拶をしようとおじゃました。

「今夜は失礼します」戸口から声をかける。老婦人はリーフ柄のベッドに横になっていた。上品。人の助けなどいらない。辛抱強い。「お大事になさってください」我知らず優しい言葉をかけていた。

「ありがとう、アリス。おやすみなさい」灰色の瞳に驚きが渦巻いた。

 アリスは自室に戻った。本来の自分と違う自分を演じるというのは簡単なことではない。そんなつもりではなかったのに、チェスで頭の切れを見せてしまった。たった今も同じように――まるで恐れてなどいないかのように――思わず反応してしまい、地を出してしまった。

 アリスは臆病でも、無力でも、こわっぱでも、田舎娘でも、個性のない恐がりでもない。トニーはそんな娘を愛したわけじゃない。

 トニー! もっと気をつけなくては。絶対に地を出さないようにしなくては。

 火曜日が終わった。


 火曜日、メキシコ。真夜中にトニーはかつてと同じホテルに同じ名前でチェック・インした。夜の残りをレストランからバーへ、そしてレストラン、バーへと歩き回った。

 四つ目の店に入ると、昔の名前で声をかけられた。

 そうなのだ、ビッグ・フランクを探し歩いたり嗅ぎ回ったりはしないものだ。まさにビッグ・フランクを探し歩く必要はまったくなかった。

 懐かしき昔をしのんで、ビッグ・フランクと言葉を交わしたいのだとわかってもらえばよかった。

 ちゃんと伝わった。始まりだ。


 水曜日、ピール夫人の日課を頭に入れておこうと思いアリスは早起きした。夫人は朝食前は奥にいるらしい。女性陣はまだベッドにいる時分、グレゴリーが立ち去ると大広間から仕事を始めていた。

 アリスは大事な話のことも二十ドルのこともすっかり忘れたようなふりをして挨拶をした。青縞の服にこれ見よがしに糊を利かせたピール夫人が、精を出して働いていた。朝っぱらから交渉をちらつかせるほど図々しくはないらしい。

 昼近くには、レッドファーン夫人の足も降りてこられるほどになったようだ。女性陣がやってくると、ピール夫人は立ち去った。部屋を空けているあいだに掃除をするのだ。なるほど!

 十一時四十五分にアリスは頭痛を起こし、ビーは一人で出ていった。アリスは(貴婦人たちがすすめるので)『横になりに』部屋に退がった。ピール夫人はまだ二階の部屋のどこかにいた。

 十二時半ごろ、夫人が下に降りる音が聞こえた。台所で昼食? おしゃべり? どうすればいいのかわからない。

 突然ドアが開くと、ピール夫人がお盆を持って入ってきた。

「持ってくように言われたからさ。気分はどう? 頭痛だってね。可哀想に」ピール夫人が気を遣っているふりをするのはどう見てもぞっとしない。

「ちょっとよくなったから」アリスは弱々しく答えた。

「なによりだ。掃除してもいいかい?」

「頼みます」

 そばにいるのは何よりだ。少しでも長いあいだ引き留めておきたい。アリスはいろいろと質問をした。部屋中を徹底的に掃除して歩いていたピール夫人は、夫を亡くしたこと、息子と暮らしていること、息子は結婚していたが妻が『とんでもない穀潰し』なので追い出したこと、今は離婚して母親と同居していること、などを話した。

 若い男の写真を見せてくれた。額が狭く、毛皮のような短い黒髪の下から二つの瞳が睨んでいた。ケリーという名前で、たいへん働き者だという。トラックの運転手をしている一人っ子だった。

 夫人と息子はたいていの夜は一緒にテレビを見て過ごすという。友だちはそれほど多くない。前妻は嘘ばかりつく女だった。(どんな女であろうとピール家の嫁に心の中で同情した。)結論ははっきりしている。夫人と息子はとても仲がいい。

「ケリーにだって一言も言っちゃいないよ」ピール夫人が意味深に告げた。

 傷口が形を取るのがわかった。(あたしゃ言わなかったよ、だけどお金を渡しちゃくれないようだね!)ピール夫人は被害者になる準備をすっかり整えていた。裏切られた共犯者であり、嫌なやつらに意地悪く仕える有能な使用人、それが夫人の生き方だ。

「しゃべらないでくれて助かった。けどお金はあるから」

 アリスはベッドを降りて財布から紙幣を取り出した。

「ありがとさん」機械的な感謝の言葉。

「約束したから。ちゃんと守ったでしょ。こちらこそありがとう」無邪気に見えるように努力した。ピール夫人は紙幣を受け取った。

「旦那から便りは?」気になったのかすぐにたずねた。

「まだ何も。でもそのうち」アリスはベッドに戻った。「どんな番組が好きなの?」

 だが無駄話をする気は失せていたようだ。「別に」不機嫌にそう答えた。「くだらないのばっかりだよ」背を向けると鏡台を乱暴に掃除し始めた。

 アリスはベッドの背に寄りかかると、寂しげに思い返した。実際には、夫から便りはもらえないのだ。誕生日なのに! 普段であれば、トニーは――架空の緊急事態の最中であっても――アリスの二十歳の誕生日を忘れたりはしないだろう。みんなが知ったら不思議に思うはずだ。ビーが知ったとしたら、とても不思議に思うはずだ。何をすればいい?

 それに、そうだ、止められたかもしれないのに! 止められる方法がわかったのに、遅すぎた! ミネソタにいるハーブ・イネスを思い出すのが遅すぎた! 昨日ならミネソタのデルガド氏のところに電話をかけられたのに! 時間はたっぷりあったのに。電話なら飛行機より速い。ハーブ・イネスはオヤジさんに連絡する方法を知っている。そしてオヤジさんなら、ダラスでトニーに連絡して引き止める方法を、絶対に知っていたはずだ。

 もう遅すぎた!

 全身から力が抜けた。この窮状から抜け出して、トニーを救うことができたのに。もう考えても仕方がない。泣きそうになるのを我慢した。顔をあげると、鏡台の鏡越しに夫人が見つめていた。

「あのさ」夫人があわてて声をかけた。「土曜の夜はクラブに行くんだけどね」

「いいですね!」

「もしよかったらさ、このイヤリングを借りたいんだよね」

「え……イヤリング?」

「ほらこれ」

 ピール夫人は骨張った手で、トニーの母のものだった銀とサファイアのイヤリングをつかみあげた。

「こりゃ模造品じゃないだろ」そう言って唇をなめた。ずるそうな目つきになった。

 アリスはこのきれいなアクセサリーが大好きだった。銀細工の蜘蛛の巣が二つのサファイアで飾られていた。大切な宝物だ。大事な宝石を守るため、ただのガラスだと嘘をつこうかと思った。だけどサファイアが……宝物が、ただの物が、トニーの命にとって何だというのか?

「ええ。本物のサファイア」

「話せるね」正直に話したことを喜んでいるような満足げな口っぷりだ。

 アリスはゆっくりと口を開いた。「来週の土曜日なら、あげられるかもしれない」

 ピール夫人がの親指が宝石に強く押しつけられた。

「黙っててって……頼んだことを誰にも言わなかったら」単純かつ率直だが絶対条件だ。

「けどね」ピール夫人も率直だった。「言ったか言わないかどうしてあんたにわかんのさ?」

「わかるわ」断言できた。「結果を見れば」

 親指がサファイアにのびる。「旦那の居場所を誰にも知られたくないってわけだね?」ずけずけとたずねた。

 アリスは何も答えなかった。

 夫人は骨張った腰をもぞもぞと動かしている。「一つだけいいかい、あのね、今度の――ええと――クラブはさ、今週の土曜にあるんだよ」声だけはためらっているようなふりをしていたが、鋭い目つきで見つめ続けていた。「だから来週の土曜じゃ無意味でねぇ」

 わたしに勝ったことをちゃんとわかっているんだ。

「それなら、そのパーティにつけていってください」アリスは落ち着いて答えた。

「ありがとさん」ピール夫人の声はいつもより高めだった。お互いの思惑がぶつかり合っていたのをわかっているのだ。自分が勝ったことをわかっているのだ。「ねえ、どうやってつけるんだい?」一つ手にして耳に当てた。

「わかるでしょう」力なく答えた。心がぺしゃんこだった。夫人は鏡を見ながらきれいな宝石を耳につけようとしていた。アリスは窓の外を見ていた。山なみが見える。

「怒ってんのかい?」

 アリスは動かない。

「いいかい、旦那の商売をどうにかしたりはしないよ」夫人は明らかにそわそわしていた。なぜだろう?

 アリスは振り向いてわずかに微笑んだ。「ちょっと考え事をしていたから。ばかだったかも。今年お金持ちになれるはずもない。若いんだもの」

 あきらめという威力があった。ピール夫人は自分の持っていた威力が逃げてゆくのを感じた。

「いいかい。パーティに借りるだけなんだから。こんなものもらう気はないよ。ほら、高価なんだろ」

「ええ。失くさないようにしてね」

「当たり前だよ! さあ、スープを飲んじまいな」

「もうお腹いっぱい」

「頭痛は?」

「大丈夫」ぐったりとした。

「心配する必要はないよ。誰にも言うつもりはないから……今のところはね」

 アリスは思わずベッドカバーを引っ張った。

「具合が悪そうだからね。そういうことさ。さっきなんか恐ろしく気持ち悪そうだった」

 アリスは目を閉じた。

 ピール夫人がお盆を運ぶのがわかった。

 そしてドアが閉まった。

 アリスは瞬きして起きあがった。鏡台にイヤリングはない。ベッドから降りて小物入れを覗いた。イヤリングはなくなっていた。親指の関節をくわえて歯で噛んだ。必要なのは痛みだ。

 夫人は何をしているころだろう?


Charlotte Armstrong "THE GIRL WITH A SECRET" CHAPTER 4 の全訳です。


Ver.1 05/01/05

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