夕食はいつものように気詰まりだった。
レッドファーン夫人が席を立って応接間に移っても、アリスはまだ座ったままだった。
グレゴリーは紳士のたしなみで黙って待っていた。「グレゴリーおじさん。トラヴェラーズ・チェックを現金にしたいときは、おじさんに頼んでみろってトニーが言ってたんです。裏書きしてくれたんですけど、書きもれがある気がして」
「そうだね。現金にするときには署名がいる。銀行に行ってくればいい。商店街を下りたところに支店があるから。何か言われたら電話するといい」グレゴリーの胸が大きくふくらんだ。
「ありがとうございます」
「いやいやなんの。それより、デヴォンが来てるんだが、チェスをどうだい?」
「えっ、いやです!」アリスはうろたえた。デヴォン医師は避けなくては。「ごめんなさい。わたし抜きでやってください!」もう充分な一日だった。
「かまわないとも。ところで、ジェラルディンおばさんに謝らなかったそうじゃないか」
頭の中が真っ白になった。
「どっちにしても、今日の行動は、軽率だったな。それに、ちゃんとした大人は間違いを認めるものだ」
「はい……ごめんなさい」顔を赤らめてもごもごとつぶやいた。
女性陣のいる応接間に向かった。とことんまで恥をさらすことだ。トニーの祖母のところまで歩いていくと、お辞儀をするように軽く身体を折った。「今日、間違ったことをしてしまったのを謝ろうと思って」
「ええ、わかりました」
「それに、ありがとうございます」アリスはしっかりと口にした。「適切な判断をしてくれて」
「もちろん許してあげますよ」夫人は上品に答えた。「さあどうぞ、一緒に過ごしましょう」
アリスは腰を下ろすと、焦点の定まらないまま部屋を眺め、じっと我慢をした。
ところがデヴォン医師がやって来たとき、始めに聞こえたのはグレゴリーの話す言葉だった。「我が家にはチェスの棋士がいるんだ! 驚くぞ。どうだ? アリスなんだ、完敗してしまったよ!」
「ほほう? 誰に教わったのかね?」
アリスは釘づけにされてしまった。だけど約束したのに。グレゴリーおじさんは約束したのに!
「やってみないか、ウォルター。ぜひ頼む」
「よろこんで」
ビーが目をまん丸にさせて口を開いた。「ねえ、聞こえなかったんだけど。誰に教わったの?」
その言葉がアリスの喉に突き刺さった。誰も知らないんだ。わたしがものごころついたころから、父と母はずっとチェスをやっていた。空いた時間に父は数学をかじっていた。母は薬屋で働いていたけれど、盲人のために空いた時間を使っていた。点字の本をタイプしているのだ。十六歳になる弟は、高校生だけれど、わたしなんかよりずっとみごとにグレゴリーおじさんに勝てるだろう――そのくせ大学に行けばフットボールのレギュラーにもなれるだろう。この人たちは、本当の世間というものをうわべしか知らないんだ。
すべてをぶちまけることはできない。結局こうつぶやいただけだった。「父に……」
「だめかな?」デヴォンが微笑みかけた。
騒ぎを起こさずにその場から逃れる方法は見つからなかった。
けれど立っているグレゴリーの横に座った医師と、チェス盤を挟んで静粛に向かい合うと、頭を働かせることができなかった。頭の中が酔ったように――怒り半分、恐れ半分で――ごちゃごちゃだった。自信がない。
デヴォンがミスに乗じようとしないので、アリスは顔を上げた。「今夜はチェスをする気分ではないようだね」医師が優しげに声をかけた。
「そうなんです」正直に答えた。
「ではやめようか。ゲームなんだ、愉しめないなら……」
「ごめんなさい」探るような視線を受けてアリスは答えた。「ちょっと問題があったものですから。バカなことをしてしまって」
「それならこれで終わりだ」グレッグが言った。
「自分じゃ馬鹿なことだと思うようなことを、誰だってしているものさ。たいていはただの誤解にすぎない」デヴォン医師はそう言って微笑んだ。「また今度、試合をしようじゃないか」
医師は駒を盤面に戻し始めた。グレッグが身体を動かす。アリスは座ったまま、医師の顔を見つめていた。感謝の気持が湧き起こるのを抑えられなかった。この人が悪人だとは信じられなかった。
医師がこちらを向いた。「問題があるときは、いつでもぼくの仕事を思い出してくれたまえ。なにも実際に頭の中を覗くわけじゃない。勇気づけるのが仕事だ。覚えておいてくれるかな?」
目頭が熱くなるのを感じた。
「トニーからまだ便りは?」
「まだです」友だちに話すように、安心して答えられた。
「そりゃちょっとおかしいね」鋭く厳しい声がしたので振り向くと、そこにはビーの鋭い目が輝いていた。「今日がアリスの誕生日だってことを考えると、トニーはそれをすっかり忘れてるってわけね」
「ビアトリス」すぐさま医師が穏やかに声をかけた。「何か弾いてくれないか?」
「聴きたいの?」怒ったようにたずねる。
アリスが後ろを見ると、グレゴリーは煙草入れのところにいて、貴婦人たちは背を伸ばして椅子に座っていた。トニーが誕生日に電話もしてこないなんて、おかしなことだと考えているのは間違いない。
デヴォン医師がビーをピアノまで送り届けてから、アリスのところに戻ってきた。「もっとくつろいだらどうだい?」アリスは立ちあがった。
「トニーはサイモンズに会いに行ったんだろう?」医師の何気ない声が耳に入った。
「誰にって言いました?」本当に戸惑って問い返した。
「いや何でもないよ。さあ」
二人は椅子に深く腰を下ろした。レッドファーン夫人が穏やかな声でたずねた。「ねえ、今日が誕生日だというのは本当なの?」
「大げさになるのはいやだったので。すみません」
「誕生日おめでとう」
「いい一年を」ホーテンスが味も素っ気もなく祝った。
「チェスはなしかい?」グレゴリーがたずねた。
医師はやや厳しかった。「音楽を聴かなくてはね」
ビーが演奏を始めた。
医師は音楽を聴いているように見えた。実のところは、アリスに対する好奇心がどんどんふくらんでいた。トニー・ペイジが呼び出されたこと。誕生日に仕事というのは、『ちょっとおかしい』ことだ。結婚したての花婿ときては。さあ、一つわかったことがある。花嫁のお嬢ちゃんはサイモンズ、通称オヤジさんのことを聞いたことがない。ということは、花婿が秘密任務で出かけたのだとしても、このお嬢ちゃんは知らないのだ。これは不幸なうえに不安なことだったかもしれない。いや、そうではないだろう。医師はひとりほくそ笑んだ。遅かれ早かれ、アリスは知っていることをすべて自分に話してしまっていただろうから。
ビーはテクニックを駆使して大曲に取りかかった。最後の和音が打ちつけられると、医師はため息をついて、魅了されているふりをし始めた。「素晴らしいね。血筋というものかな?」
「スタフォードの家系はイタリアの伯爵夫人だったんじゃない」ビーが混ぜっ返した。
「レッドファーン家は」ホーテンスがざらついた声を張りつめた。「間違いなくイギリスの家系です。スタフォード家もそう。由緒ある名門です」
「ああ」医師はつぶやいた。
憤りを隠しておとなしく座っていたアリスは、この返答のどこかに、嘲りのような素っ気なさを感じた。そこでアリスは無邪気な顔をしてたずねた。「『由緒ある』ってどういうことですか? 誰もがみんな、まったく同じ祖先を持っているものだと思っていましたけど」
「そのとおりだ」医師が目を輝かせた。
アリスも目で返事をした。この人が犯人のわけがない、もう一度そう思った。わたしと同じくらい、こんなばかげた古くささが嫌いなんだ。いい人だ!
ビーがこの目配せを見逃さなかった。「ハンセンってのは何なの?」
アリスは嫉妬を帯びたビーの目を見上げた。
「ノルウェー系かい?」医師が人当たりよくたずねた。
「スカンジナヴィア系とは健康的ね」健康的という言葉に粗野でがさつという意味が込められていた。「いつごろ海を渡ったの?」
アリスは落ち着いて答えた。「知らないわ」心臓が跳ね回っていた。ビーのやつめ!
医師が考え込みながら口を挟んだ。「忙しくて過去を振り返るひまもない人たちがいるものさ。ぼくもそうだ。家系のことなんてほとんど知らない」
「でもデヴォンというのは間違いなくイギリス系ですよ」ホーテンスが言った。「それにとても由緒があります」
「でもピールというのもイギリス系です」思わず口をついていた。「昔からある由緒正しい名前ですよ」微笑むと腰を下ろした。
部屋中が静まりかえる。
当てこすりの応酬があったことにデヴォン医師もすぐに気づいた。だが事情がわからない。「ピールというのはお母さんの名前?」
アリスがかぶりを振ると、老婦人が静かに口を開いた。「ビアトリス、不作法なことをするものではありません」
ビーは何も言わなかったが、アリスは真っ赤になった。思わず不作法なことをしてしまった自分も間接的に怒られているのだ。
グレゴリーがよいところで声をかけてくれた。「ウォルター、まだ一試合もしてないじゃないか?」
そこで男二人は黙ってチェス・テーブルに腰を落ち着けた。婦人たちは黙って椅子に座っていた。
アリスは立ち上がらなかった。もともと、意地悪な言葉に黙って耐えるような娘じゃない。この人たちには腹が立った――デヴォン医師は別だけど。由緒ある家門も、ばかげた誇りも、アリスの魂にどんな恐れも植えつけない。富にも、血筋にも、それに作法にも何の感銘も受けない。何もかも度を越えている。度を越えすぎだ。アリス・ハンセンはここに座って、黙って怯えていなければならないのだろうか? ビーの悪意やホーテンスの気取りを浴びて、老婦人に遠回しに怒られるために? いらいらとして落ち着かなかった。
「音楽は邪魔にはなりませんよね?」言葉が唐突に口をついていた。
「ええ、まあ……」レッドファーン夫人が少し驚いたように答えた。
「じゃあ弾いてもいいですか?」夫人が頷くのも待たずにピアノに向かった。知っている曲を次々に弾いていった……明るいリズム……きらめく旋律……定番の曲。すばやく軽快な指。音には暗さなどひとかけらもない。手がひとりでに動いていた。ここでアリスは顔を上げた。
婦人たちの頭は動かなかった。ビーの(ホーテンスそっくりの)顔は偉そうだった。怒らせた? デヴォン医師の寛容な笑みを期待して振り向いた。だが医師はチェス盤に集中していた。瞳の見えない横顔には、魅了されたようすはなかった。まるっきり……別のものだ、そう感じて落胆した。不機嫌。
何したんだろう? 自慢げだった? 反感を買った? どうしよう、トニー!
不協和音を響かせて手を下ろした。「もう失礼します」弱々しくつぶやく。
「かまいませんよ」レッドファーン夫人がいかにも貴婦人らしい優しい声を出したが、そこには出ていってほしいという響きも感じられた。
アリスはホールまで駆けていくと、螺旋階段をめいっぱいの速さで駆け上がった。二階の手すりにしっかりとお腹を押し当て、もたれかかった。心の中で叫びをあげる。トニー、無理だよ! できない! ヘマばっかやってる。
少しすると、大広間でビーのしゃべる声が聞こえた。「トニーがナンパしたんだって知ってた?」
「なんですって!」ホーテンスが息を呑む。
「そう言ってた。すぐにごまかそうとしてたけど。教会で会ったとか言い直してた」ビーの声には嘲りが満ちていた。「どこで知り合ったんだか」
ホーテンスが声をあげた。「あげくがアイリーンのイヤリングを掃除婦にやったりして!」
デヴォン医師の声が聞こえた。「そりゃ何だい?」
「アリスがやったの」ビーの声。「ええとね、ジェラルディンおばさんが取り返して馘首にしたけど。ピールは母親の友だちなんだって。どんな母親なんだろ」
鋭い静寂。それからレッドファーン夫人の穏やかな声が、部屋や階段に行き渡った。「残念だけど、あの子はここに馴染んでないみたいね」
「何かあるのかな」医師がつぶやく。
「何か隠してるんだと思うな」ビーの声。「思うんだけどさ。インディアナの掃除婦が何か知ってるんじゃない。あたしたちが聞いてないこと。アリスの過去のことじゃないかな」意地悪な言い方。アリスの心臓が跳ね上がった。
「――」ホーテンスが喘ぎをもらした。
面白そうに口を挟む医師の声が聞こえる。「あの子の『過去』は何年もないよ……」
「そりゃ若いけど」ビーだ。「今時の子でしょ? おかしな人たちとつきあってたんじゃない。ありえるかも? マリファナ吸ってたりね」
「それはひどすぎますよ」レッドファーン夫人のうんざりしたような声がする。
「冗談だってば」ビーの甲高い声。
デヴォン医師のよどみない声がした。「そんなことはあり得ない。わかるんだ。麻薬患者のことはよく知っているから」
二階。アリスは腕が痺れてきたので、手すりから身体を離した。
「むしろ――」医師が話しつづけているのが聞こえる。「トニーのことを心配しているんじゃないだろうか。新婚の若者なんだ……そうだろう? 何の連絡もないのはおかしい。電話があってもよさそうなものだ」
「遠いからね」グレッグおじの不機嫌そうな声。「君の番だよ、ウォルター」
「ミネソタだったかな?」医師がぶつくさとたずねる。
「何かあるんだって……」ビーの声だ。
「ビアトリス」レッドファーン夫人がたしなめた。それから穏やかに、「お許しください、先生」と言った。
一階。デヴォン医師は心得ていた。ビーの顔から悪意をぬぐおうと決めた。「アリスはおもしろい子だね。音楽はちょっとひどかったが」そう言って感じの良い微笑みを送った。
ビーに愛想よくするのはいい加減うんざりだ。鬱陶しい。老婦人にもいらいらする。人間らしい感情を貯め込んで、そこから知識を引き出しているんだろうが。体面を守りなさい、すべてを守りなさい、か。馬鹿らしい。ババアのモットー。だけどあんたの時代は終わったよ。
アリスの方はいよいよ面白い。なぜ掃除婦に家宝のイヤリングをやったんだ? わけがある。見つけ出すのは造作ない。
二階。アリスは壁に手をつきながら部屋まで歩いていた。怖かった。ビーはあまりに鋭すぎる。デヴォンはあまりにトニーのことを考えすぎる。麻薬患者のことを話したときはぞっとした。自分で勝手に判断して、デヴォン医師を好きになったり信用したりする権利なんてない。守るべき秘密があるし、守らなければならないのだ。窓ガラスのように透け透けだった。イヤリングのことなんて、誰の目にも明らかだ。誰もが賄賂だと思っただろう。それは正しい。みんなもわかってる。ということは、隠しごとがあることも知られている。何か言わなくちゃならない……何か……何でもいい……申し開きしなければ。安全のため。本当の秘密から遠ざけておくため。トニーの生命のため。
だけどデヴォン医師がいるあいだに行う気はない。あの瞳の前で嘘をつくなんてできやしない。
だから待った。車の出る音が聞こえると、寝室のドアを開け、ホールに戻って階段を下りた。やり遂げなければ。
一階。心配そうなホーテンスの隣で、レッドファーン夫人が椅子から立ちあがったところだった。ビーとグレッグが驚いたようにアリスの方を振り向いた。
「言っておきたいことがあるんです」思い切って口に出す。
「何ですか?」レッドファーン夫人が椅子に戻った。部屋中が静まりかえって待っている。みんなとっくにわかっていた。
「隠しておくつもりでした」不安そうに続ける。「トニーの知らないことなので。まず最初にトニーに話そうと思ってただけなんですけど」
いかにもつらそうにツバを飲みこむ。誰もがアリスに気を奪われていたので、逃げ場のないままこの嘘をつき通すしかなかった。
「わたし結婚していたんです」
「あぁ……」ホーテンスが足を震わせた。ビーが背筋を伸ばした。
「ピールは知ってたってわけ?」
ひらめいた思いつきを利用した。ピールというのはお母さんの名前? 医師がそう言っていた。
何の感情も込めずに答えた。「ピールさんは義理の母なんです。息子さんと結婚していました」
突然の衝撃。静寂。
アリスの説明を受け入れたはずだ。姻戚関係を黙っていてほしいと思ったなら、かつての姑に高価な贈り物をすることもあるだろう。こういう動機に納得するようなお金持ちたちだ。上手くやれたんじゃないかと思う。みんなかなり驚いている。
「結婚は失敗。すぐに別れました。トニーに話すべきでしたけど、そりゃもちろん、これから話すつもりです」怯えたような笑いを作った。「ごめんなさい」
「旦那さんの名前は?」グレゴリーがすぐにたずねた。
アリスはおじに目を向ける。「ケリーです」
グレッグは大きく伸びをすると、怒ったようにたずねた。「どうして騙すことができるなんて思ったんだい?」
アリスは答えなかった。
「いいかい、雇い人のことはちゃんと調査するんだ。ピールさんがケリーという息子と暮らしていること、息子さんが離婚していることもわかっている」
「はい……」
「雇うときに調べたんだ。七年前だよ」
衝撃。静寂。
「君は七年前は何歳だった? 残念だが、十九から七を引けば十二歳だ」
ビーが笑い声を上げた。
「とっくに忘れていると思ったのかもしれないが」そう話し続けているグレゴリーは、忘れるような愚か者ではないのだ。「朝食のときにピールとはどんな人なのか質問しただろう。覚えてなかったようだね。嘘をつくのが下手なようだ。君は嘘をついたんだよ」
ホーテンスが息を呑んだ。
「これは由々しきことですよ、アリス」レッドファーン夫人が頭を抱えた。
「でも――」アリスは立ちあがった。計画はおじゃんだ。耐えきれないほど恥ずかしくて、追いつめられて――「いったいなんなの!」わめくことしかできなかった。「ピールさんみたいな職業の人とは友だちになれないっていうの? あんなイヤリングで大騒ぎして。ずっと見下して馬鹿にして。なんで……」どうすることもできずに泣きじゃくっていた。「けど、ここでトニーを待ってなきゃなんないから。どう思われたっていい。どう思ってもらおうかヒントをあげようと思って。面白がってもらえるかなって思ったから。でも嘘も本当もこれっきりにします」言い終えると駆け出した。
「アリス」グレッグが声をかけた。
「行かせてあげなさい」レッドファーン夫人が悲しげにさえぎった。「もういいでしょう。もううんざりです」
アリスは二階に駆け上がるとベッドに身を投げた。大失敗だ! 恥ずかしさのあまりぶるぶると震えた。どちらの立場が正しいのかが、はっきりわかってしまったことが問題だった。今となってはアリスを見下して当然だ。なんてばかなことをしたんだろう! しかも幼稚で臆病で! 気にしない。気にしない。ピール夫人がどこかへ行ってしまって、秘密が無事なら、恥ずかしいくらい何でもない。
いくら考えたって、トニーの居場所はわかるはずがない。アリスが言わなければいいだけのこと。絶対にしゃべるな。そうすればトニーは戻ってくる。あと何日で、何時間で、無事に会えるのかはわからない。だから頑張るだけだ。明日やるべきことをすること。みんなを気にしないこと。おとなしくしていること。しゃべらないこと。もう嘘はつけないちんけな嘘つきだ。くたくたに疲れた頭をベッドにうずめた。家中が静かだった。
だがアリスが思っていたほど静かだったわけではない。一階ではグレゴリーが電話をかけていた。
「ウォルターかい、まだ起きていてくれて助かったよ」
「何かあったのか?」
「アリスだよ。何と言ったらいいのか……馬鹿げた嘘をつこうとしたんだ」状況を詳しく話した。「そんなわけだから、ピールと何か問題を起こしてるんじゃないかと思うんだ。ホーテンスに『わけがある』と洩らしたのを本人は忘れているようだけど、ホーテンスがコックから聞きだしたところによると……脅されていたみたいなんだ。どうも恐喝のようだ。そこでだ、ぼくらには責任がある。助けてくれないかな」
医師は即答した。「やってみよう。トニーとは連絡を取ったのか?」
「いや。こんな時間に心配させたくない。どうしたらいいか、ヒントだけでももらえないかな」
「嘘をつくしっかりとしたわけがありそうだな」
「だが真相など誰にもわからないよ。あの子のことは何にも知らないんだ。トニーのことも何一つ知らないんじゃないかって思い始めてきたよ」
「ああ、心配だな。明日ならおじゃまできそうだ。ぼくには打ち明けてくれるかもしれない」
「夕食に寄ってくれよ」グレッグが誘った。
「すまんな。そうしよう。あとちょっと思いついたんだが、掃除婦は馘首にしたと言ったな?」
「ああ」
「どこに住んでいるかわかるか?」
「調べるよ」
「頼む」
グレッグが調べると、医師はそれを書き留めた。
「これをどうするつもりだい?」
医師はもっともな答えを返した。「二人のあいだに何があるにせよ、二人とも知っているんじゃないのか? このピールさんの方が話が早そうだ」
「なるほどなるほど」感心してグレッグが頷く。
受話器を置いた。
水曜日が終わった。
水曜日、メキシコ。会ってもいいというビッグ・フランクの言葉が夜遅くにトニーに伝わった。トニーは出かけた。
挨拶が済むと、ロサンジェルスで仕事をするときには、現地のトニーが喜んで手伝おうと申し出た。大物然としたビッグ・フランクは、絶えず細い指を動かしていたが、ロスでやりたいことはとっくにやってしまったと静かに答えた。とはいえトニーに感謝を表した。
Charlotte Armstrong "THE GIRL WITH A SECRET" CHAPTER 6 の全訳です。
Ver.1 05/01/05