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翻訳:東 照
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プロジェクト杉田玄白 正式参加テキスト

シルヴィーとブルーノ完結編

ルイス・キャロル


第五章
マチルダ・ジェイン

「おいで、ぼうや」おかみさんはブルーノを膝に乗せて言った。「何でも言ってちょうだい」

「むりだよ」ブルーノが言った。「時間がたりなくなるもん。それに何でもかんでもは知らないし」

 おかみさんは困ってしまったらしく、助けを請うようにシルヴィーを見た。「この子、馬に乗るのは好きかしら?」

「ええ、そう思います」シルヴィーは丁寧に答えた。「ネロに馬乗りしていましたから」

「ああ、おっきいワンちゃんでしょう? しか乗ったことなかったんじゃない?」

「乗ったことないなぁ!」ブルーノは断言した。「シカになんか乗らないもん。あーたはどう?」

 ここで口を挟んだ方がいいと思い、ぼくらがやってきたわけを説明して、しばらくのあいだブルーノの難問からおかみさんを解放した。

「子どもたちはふたりともケーキは好きでしょう、賭けてもいいわ!」仕事の話が済むと、世話好きのおかみさんは戸棚を開けてケーキを取り出した。「パイの皮も残さず食べてね!」と言ってブルーノに一切れ手渡した。「もったいないことをしたらどうなるか、詩集に書いてあったわよね?」

「ううん、知らない」ブルーノが言った。「何て書いてるの」

「教えてあげて、ベッシー!」おかみさんは誇らしげに、愛情のこもった目で、顔を赤らめている少女を見降ろした。ベッシーはついさっき恥ずかしそうにおずおずと部屋に入ってきて、今はおかみさんの膝に顔をうずめていた。「何て書かれてあったかしらね?」

『もったいない』は、『もってない』の予防法」ベッシーがほとんど聞き取れない声で暗唱した。「『あのとき捨てた、たくさんの、パンくずがあれば、よかったのに!』と、なげくときがくるかもしれない

「さあ、言ってみて! もったいないは――

もったいないは――トカナットカ」口にするのは早かったが、やがて沈黙が訪れた。「あとは忘れちゃった!」

「いいわ、この言葉の教訓は何かしらね? とりあえずそれを聞かせてもらえる?」

 ブルーノはケーキを一口食べてから考え込んだ。だが教訓が何なのかはっきりしているとは言い難いらしい。

「いついかなる時も――」シルヴィーがヒントを耳打ちした。

「いついかなるときも――」ブルーノは弱々しく繰り返したが、不意にひらめいたらしい。「いついかなるときもゆくさきをみつめるべし!」

何の行く先かしら、ぼうや?」

「そりゃパンくずだよ、もっちろん!」ブルーノが言った。「そしたらさ、『たくさんの、パンくずがあれば、よかったのに』(とかって)なげくときがきても、どこに捨ちたかわかるでしょ!」

 この斬新な解釈におかみさんはすっかり困り果ててしまい、ふたたび「ベッシー」の話に切り替えた。「あなたたち、ベッシーのお人形さんを見たくない? ベッシー、こちらのお嬢さんとご紳士にマチルダ・ジェインを見せてあげて!」

 ベッシーはすぐに打ち解けた。「マチルダ・ジェインはいま起きたとこ」と、シルヴィーに人懐っこく話しかけた。「服を着せるの手伝ってくれる? ひも結ぶのむずかしくって!」

紐を結んであげるわ」シルヴィーが優しい声を出し、二人の少女は一緒に部屋をあとにした。ブルーノはこうした一切合財に見向きもせ…ず、上流紳士のごとき装いでぶらぶらと窓辺に歩いて行った。女の子や人形は苦手なのだ。

 このあとすぐに親切なおかみさんがベッシーのいいところ(や、さらに言うなら悪いところも)、あるいは恐ろしい病気の話をぼくに聞かせ出した(母親なら誰だってそうするのではないだろうか?)。赤いほっぺたにぷっくらした体つきとは裏腹に、何度もこの世に別れを告げかけたそうだ。

 愛情に満ちた思い出話がほぼ出尽くしたところで、ぼくはこの辺りの労働者たちのことを、なかでも小屋で耳にはさんだ「ウィリー」のことをたずねてみた。「昔はいい人だったんですけどね」と気さくなおかみさんは言った。「ところがお酒で身を滅ぼしてしまったんですよ! お酒を取り上げるつもりはありませんよ――たいていの人たちにはいい薬ですからね――でもなかには誘惑に負けてしまう弱い人もいますから。そこの角に『金獅子』が建ったのは、そういう人たちにとっては不幸なことですよ!」

「金獅子ですか?」ぼくは繰り返した。

「新しい酒場ですよ」おかみさんが説明してくれた。「今日もそうだと思いますけど、週給をもらってれんが工場からの帰りに立ち寄るにはちょうどいいところに建ってるんですよ。山ほどのお金がそんなふうに消えてしまいます。それで何人かはべろんべろんになってしまうんです」

「家で飲むだけなら――」ぼくは考え込み、知らず知らずのうちにそれを言葉にしていた。

「そうですよ!」おかみさんが我が意を得たとばかりに声を出した。とうに考え抜いたあげくの結論だったらしい。「みんなが我が家に専用小樽を置いて、うまいことできたらねえ――飲んだくれなんてこの世からほとんどいなくなるのに!」

 そういうわけでぼくはおかみさんに古い物語の次第を語った――とある小屋住まいがビールを一樽買い、妻をバーテンに任命した。夫はいつでも飲みたいときにビールを飲み、カウンターできちんと支払いを済ませていた。妻は決して「つけ」で飲ませようとはしなかったし、決められた分量を超えて飲ませたりは絶対にしない頑固なバーテンだった。樽を詰め替えなくてはならなくなっても、そうするだけのお金はたっぷりあったし、貯金箱に入れてもまだお釣りが来た。その年も終わるころになって、自分の体調と気分がともに申し分ないことに夫は気づいた。どこがどうとは言えないが明らかに「ちょっと聞こし召した」人間ではなくいつ見ても素面の人間の雰囲気が漂っていた。そのうえ貯金箱はお金で一杯になったし、それがすべて夫自身が貯めたお金なのだ!

「みんながそうしてくれさえしたらねえ!」おかみさんは同情のあまりうるおわせていた目元をぬぐった。「お酒が不幸の種ともかぎらない――」

不幸の種でしかありませんよ、使い方を間違えてしまえば。どんな天の恵みであっても、賢い使い方をしなければ、不幸の種に変わってしまいかねません。ところで、もうおいとましなくては。娘さんたちを呼んでもらえますか? マチルダ・ジェインも日でたっぷり友だちに会ったと思いますしね!」

「ちょっと探してきますわ」おかみさんは部屋から出ようと立ち上がった。「どっちに行ったかおぼっちゃんは見てたんじゃないかしら?」

「ふたりはどこだい、ブルーノ?」ぼくはたずねた。

「牧草地にはいないよ」ブルーノははぐらかすような答えを返した。「あそこにはブタしかいないもん。シルヴィーはブタじゃないし。もうじゃましないでよ、このハエにお話を聞かせてるとこなんだから。しったこっちゃないよ!」

「きっと林檎林のなかですよ!」おかみさんが言った。そこでぼくらはお話し中のブルーノを置いて、果樹園に向かった。やがて子どもたちが静かに並んで歩いているのが見えた。シルヴィーが人形を抱き、ベスが大きなキャベツの葉を日傘代わりにして人形の顔が影になるようにしていた。

 ぼくらを見つけると、ベスはキャベツの葉を捨てて駆け寄ってきた。シルヴィーがもう少しゆっくりとそのあとからついてきた。大事な預かりものに細心の注意を払わなくてはならなかったからだ。

「私がママでね、シルヴィーは婦長さん」ベッシーが説明した。「シルヴィーが歌をおしえてくれたんだ。マチルダ・ジェインに歌ってあげられるように!」

「ちょっと聴かせてもらえるかな、シルヴィー」かねてよりシルヴィーの歌を聴きたかったぼくは、その機会が訪れたことに喜びを覚えた。だがシルヴィーはたちまち恥ずかしそうに怖気づいてしまった。

お願いですからごめんなさい!」シルヴィーが躍起になってぼくに「打ち明け」た。「ベッシーがもうすっかり覚えたから、歌ってくれます!」

「そうね! ベッシーに歌ってもらいましょうよ!」母親は誇らしげだった。「ベッシーはかわいい声をしてるんですよ」(これもまたぼくへの「打ち明け」話だった)「私が言うのもあれですけどね!」

 ベッシーは大喜びで「アンコール」に応えた。そこで小さなぽっちゃりママさんはぼくらの足許に腰を下ろし、奇妙な娘を膝の上にぎこちなく寝かすと(どんなに言って聞かせても座るようなタイプではなかったのだ)、にこにこと嬉しそうな顔をして、赤ん坊が怯えて発作を起こさずにはいられないような大声で子守唄を歌い始めた。婦長さんは目立たぬように背後に屈み、いつでもプロモーターとして行動できるように小さな奥さんの肩に手を置いた。必要とあらば「実のない空虚な記憶の隙間」の一つ一つを埋めるつもりなのだろう。[*1]

 大声で歌い出したが、それもほんの一瞬のことだった。何小節かすると声を下げ、小さいながらもとても可愛らしい声で歌い続けた。始めのうちこそ大きく黒い目で母親を見つめていたが、やがて目を上げ林檎の辺りに視線をさまよわせた。赤ちゃんと婦長さん以外にも聴衆がいることなど忘れてしまったように見える。婦長さんは歌に少し「フラット」がかかると、何度かこっそりと正しい音を与えていた。

マチルダ・ジェインは知らんぷり
どんなおもちゃもどんな絵本も。
すてきなものを見せたのに――
目が見えないのね、マチルダ・ジェイン!

なぞなぞ出したり、おとぎをしたり
なのにいっつもおしゃべりできない。
一度も答えてくれないなんて――
口がきけないのかな、マチルダ・ジェイン!

かわいいマチルダ、名前を呼んでも
ぜんぜん聞こえていないみたい。
力いっぱい叫んだのに――
耳が遠い、マチルダ・ジェイン!

マチルダ・ジェイン、心配しないで。
耳・口・目が使えなくても、
あなたを愛するひとはいるわ――
私もそうよ、マチルダ・ジェイン!


 三番まではおざなりだったが、最後の聯には明らかに力が入っていた。声はさらに大きく通り、顔には突如として霊感が降りたかのような恍惚を浮かべていた。終わりの部分を歌うころには、無愛想なマチルダ・ジェインをしっかりと胸に抱いていた。

「ここでキスして!」婦長さんが合図を送った。すると途端に、感情のない微笑みを浮かべた赤ちゃんの顔が熱烈なキスの雨に包まれた。

「すてきな歌ね!」おかみさんが声をあげた。「作詞したのはだあれ?」

「わたし――わたし、ブルーノを探して来なくちゃ」シルヴィーがおずおずと口を開いて、大急ぎでその場を去った。この不思議な少女は褒められるのも注目されるのも好まないらしい。

「シルヴィーが歌詞を考えたの」ベッシーが誇らしげに特報を教えてくれた。「それからブルーノが作曲して――私が歌ったの!」(ちなみに、最後の情報については教えてもらう必要はなかった)。

 こうしてぼくらはシルヴィーを追って応接間に戻った。ブルーノはまだ窓の桟に肘をついていた。どうやらハエに話していた物語は終わったらしく、また新しいことに取り組んでいた。「ジャマしないで!」ぼくらが部屋に入るとブルーノが言った。「ぼくじょうのブタを数えてるんだから!」

「何匹いるんだい?」ぼくはたずねた。

「だいたい一○○四匹」ブルーノが言った。

「『だいたい一〇〇〇』ってことでしょう」シルヴィーが訂正した。「『四』はいらないわ。四だけ正確なはずないもの!」

「またはずれ!」ブルーノは得意満面だった。「四匹ってのは正確なはずだもんね。この窓のしたでエサ食べてるとこだから! 千匹ってのはぜんぜん正確じゃないけどさ!」

「あら、何匹か小屋に行っちゃってるわよ」シルヴィーはブルーノの上から頭をかがめて窓の外を眺めた。

「うん。でもすごくゆっくり少なづつ歩ってたから、あれは数えないことにしてたの」

「もう行かなくちゃ」ぼくは子どもたちに言った。「ベッシーにさよならを言って」シルヴィーは少女の首に腕を回してキスをした。だがブルーノは離れて立ったまま、いつになく恥ずかしそうにしていた。(『シルヴィーのほかにはだれにもキスしないんだ!』と、あとで教えてくれた。)おかみさんに見送られて、まもなくぼくらはエルヴェストンまでの帰途をたどった。

「あれが話に出ていた新しい酒場かな?」目に入ったのは細長く背の低い建物で、扉には「金獅子」と書かれてある。

「そうだと思います」シルヴィーが言った。「あの奥さんのウィリーはいるかしら? ブルーノ、行って見てきてちょうだい」

 ぼくは口を挟んだ。ある意味ではブルーノの保護者はぼくだと思ったのだ。「あんなところに子どもを行かせちゃいけない」この時間からもう酔っぱらいが大騒ぎしていたのだ。騒々しく歌う声や怒鳴り声、無意味な笑い声が、開いた窓から漏れてくる。

「ブルーノは見えなくなれるんですよ」シルヴィーが思い出させた。「ちょっと待ってね、ブルーノ!」シルヴィーは首から提げている宝石を両手で挟み込むようにして、何事かをつぶやいた。それが何なのかぼくにはまったく理解できなかったが、すぐに謎めいた変化に襲われたように感じた。ぼくの足はいまや大地を離れ、夢でも見ているような感覚が訪れた。つまり、いつの間にかぼくに宙に浮かぶ力が与えられていたのだ。二人の姿はまだ見えていたが、形は影のようにぼんやりとして、声はまるで時と空間の彼方から響いてくるように聞こえ、二人にはまるで現実感が感じられなかった。いずれにしてもぼくはブルーノを行かせることにそれ以上は反対しなかった。ブルーノはすぐに戻ってきた。「まだ来てないみたい。みんなウィリーのことはなしてたよ。先週どんくらい飲んだかって」

 話している最中に、客の一人がふらりとドアから現れた。片手にパイプ、片手にビールジョッキを持ち、ぼくらの立っているすぐ脇を通り過ぎて、道なりにもっとよく眺めようとした。ほかにも二、三人、開いた窓から乗り出している。みなジョッキを手にし、顔はまっ赤で目はとろんとしていた。「いるかい?」と一人がたずねた。

「わかんねえ」と男が言って足を前に踏み出したため、ぼくらと鉢合わせしそうになった。シルヴィーがあわてでぼくを引っ張り、脇によけた。「ありがとう。ぼくらが目に見えないってことを忘れてたよ。あのままだったらどうなってたんだろう?」

「どうなんでしょう」シルヴィーは考え込んだ。「私たちなら問題ないと思いますけど、でもあなたの場合はまた違うかもしれません」シルヴィーはいつも通りの声でそう言ったのだが、男はまったく気づいていなかった。男の目の前で、顔を見上げながら話していたというのに。

「きた!」ブルーノが叫んで道路を指さした。

「来た!」男も繰り返し、ブルーノの頭越しにまったく同じように腕を伸ばし、パイプで指し示した。

「よし、歌え!」窓にいた赤ら顔の一人が怒鳴った。すぐに調子っぱずれの大合唱が節をつけて始まった。

「あいつと、おめえも、おれも、
騒ごうぜ、みんな!
何はなくとも祭りだぞ!
騒ごうぜ、みんな!
騒ごうぜ、みんな!
騒ごうぜ、みんな!」

 男はよたよたとパブに戻ると、やる気満々で合唱に参加した。そんなわけで、「ウィリー」が来たとき路上にいたのは子どもたちとぼくだけだった。


Lewis Carroll "Sylvie and Bruno Concluded" CHAPTER V 'Matilda Jane' の全訳です。

Ver.2 11/01/03


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[註釈]
*註1 [実のない空虚な記憶の隙間]。「each "gap in faithless memory void"」。ウォルター・スコット『最後の吟遊詩人の歌』(The Lay of Last Minstrel)の「序」より。ただし原詩では「gap」ではなく「blank」。かつての吟遊詩人も今はもう年老い、時代も詩人を必要としなくなっていた。だが公爵夫人に請われて、詩人はもう一度だけ歌おうとする。口を開くと、苦労は忘れ去り、記憶の隙間を輝かしい思いが満たした。そうして詩人は歌った――そうして詩の本篇に続く。[

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