フィリップは気さくに会話を続けながら、妹から目を離さずにいた。アンドレの方も再び気絶して兄を心配させたりはすまいと、意識をしっかり持とうとしていた。
フィリップは様々な見込みが外れたことを話した。国王に見捨てられたこと、ド・リシュリュー氏の気が変わったこと。やがて七時の鐘が鳴ると、しようとしていることをアンドレに見抜かれないように、大急ぎで外に出た。
真っ直ぐに王妃の居館に向かうと、衛兵から呼び止められないように充分に離れながら、同時にフィリップのそばを通らなければ誰も通り抜けられないほど近い場所で立ち止まった。すぐに、通りかかった人物に気がついた。
アンドレから聞いた通りの険しく厳かな顔つきの人物が姿を見せたのは、フィリップが出て来てから五分と経ってはいなかった。
日が陰り、ものが見えづらくなっているというのに、医師はケルンで出版された胃不全麻痺の原因と症状に関する論文をひもといていた。闇が濃さを増していたので、もうほとんど字が見えないことに最前から医師も気づいていたが、歩いて来た人影によって残っていた光がとうとう遮られた。
医師は顔を上げて目の前の人物にたずねた。
「どなたです?」
「失礼ですが、お医者様のルイ先生でしょうか?」
「如何にも」医師は口を結んだ。
「ではちょっとよろしいでしょうか」
「どういうご用件でしょうか。王太子妃殿下の許に伺わなくてはなりませんから、時間がないのです」
「先生――」フィリップはひざまずいて道を塞いだ。「……治療してもらいたいのは妃殿下の奉公人なのです。その子はひどく苦しんでいますが、妃殿下のお加減には不都合なところはございませんのでしょう?」
「まずは誰のことを話しているのか聞かせて下さい」
「妃殿下ご自身がご案内した部屋の住人のことです」
「ああ、アンドレ・ド・タヴェルネ嬢のことですか?」
「そうです」
「なるほど!」医師は若者の頭から爪先まで見回した。
「あの子が苦しんでいるのはご存じでしょう?」
「ええ、痙攣を起こしていましたね」
「それに失神を繰り返すんです。今日だけでもぼくの腕の中で数時間の内に三、四回気を失いました」
「悪化したのですか?」
「ぼくにわかるわけがありません。ですが大事な人が……」
「アンドレ・ド・タヴェルネ嬢はあなたにとって大事な人なんですね?」
「この命よりも!」
フィリップはこの言葉を兄妹愛のつもりで口にしたのだが、ルイ医師はその意味を取り違えた。
「ははあ、ではあなたが……?」
医師は言い淀んだ。
「何でしょうか?」
「つまりあなたが……?」
「ぼくが何だというのですか?」
「恋人かと言いたいんですよ」医師は堪えきれずに口に出した。
フィリップは後じさり、手を額に当て、死人のように青ざめた。
「何ですって! 妹を侮辱するつもりですか!」
「妹? アンドレ・ド・タヴェルネ嬢は妹さんですか?」
「そうですとも。そんなおかしな勘違いをなさるようなことは言わなかったつもりですが」
「失礼ですがこんな時間帯に会いに来たことや、謎めいた言葉つきから思うに……察するに、兄妹愛を越えた愛情を……」
「先生。恋人だろうと夫だろうと、ぼくほど妹を愛したりはしないでしょうとも」
「そうでしたか。それならわかりました。勘繰ってしまい、傷つけたことをお詫びします。お許しいただけますでしょうな……?」
医師はそう言って通り過ぎようとしたが、フィリップに引き留められた。
「先生、お願いですから行ってしまう前に病状について安心させて下さい」
「不安になるようなことを誰から吹き込まれたんです?」
「この目で見たんです」
「あなたがご覧になったのはただの生理現象ですよ……」
「ただの?」
「場合によりけりですが」
「何から何までおかしな点がありますね。何だか隠しごとをして返答を避けているみたいだ」
「早く妃殿下のところに行きたくてやきもきしているとは考えないのですか? 妃殿下がお待ちになって……」
「先生、先生」フィリップは汗で光る顔を拭った。「先生はぼくのことをド・タヴェルネ嬢の恋人だと勘違いなさいましたね?」
「ええ、ですが間違いだとわかりましたから」
「しかしそうすると、タヴェルネ嬢に恋人がいるとお考えなのですか?」
「医者の考えていることをお伝えするわけにはいきませんよ」
「お願いです先生。折れた剣の刃のように心に刺さったままの言葉を、どうか引き抜いて下さい。誤魔化そうとするのはやめて下さい。あなたは必要以上に洞察力があり目敏い方のようです。恋人がいると考えたり、それを兄に隠そうとするのはどういうことなのですか? お願いですから教えて下さい」
「ご希望に反しますが、お返事を差し控えさせてもらえますか。あなたの話し方を伺う限りでは、どうやら取り乱しておいでのようだ」
「先生にはわからないんです。あなたの言葉の一つ一つが、崖っぷちで震えているぼくを一歩一歩絶壁の方に押しやっているというのに」
「お待ちなさい!」
「先生!」フィリップは我を忘れた。「先生のお話を聞いていると、驚くほど冷静で勇敢でなければ耐えられない恐ろしい秘密のようではありませんか?」
「タヴェルネさん、思った以上にあなたは取り乱しておいでのようだ。そんなことは一言も申しておりませんよ」
「口には出さずとも仰っているも同然です!……いろいろなことを勘繰らざるを得ません!……そんなのは優しさではありませんよ。ぼくが苦しんでいるのがわかりませんか。お願いですから仰って下さい! 何を聞いても冷静でいるし心を挫かないとお約束しますから……妹の病気は、恐らく不名誉な……先生、否定はなさらないで下さい!」
「タヴェルネさん、私は妃殿下にもお父上にもあなたにも何も申し上げませんでした。もう何も聞かないでもらえますか」
「わかりました……でもぼくはその沈黙に意味を見出してしまいますよ。あなたの考えをたどって暗く悲しい道筋に陥ることでしょう。ぼくが取り乱すというのなら、せめて止めて下さい」
「さようなら」医師ははっきりと口にした。
「離しませんよ。ウイかノンか答えて下さい。たった一言だけでいいんです。ぼくのお願いはそれだけです」
医師が立ち止まった。
「先ほどひどい勘違いをして傷つけてしまいましたが……」
「そのことはもういいんです」
「よくはありませんよ。先ほど、少し後のことですが、タヴェルネ嬢が妹さんだと仰いましたね。ですがその前に、勘違いの原因になるようなことを仰っていたではありませんか。アンドレ嬢のことを命よりも大事に思っている、と」
「その通りです」
「でしたら妹さんも同じくらいあなたのことを思うべきではありませんか?」
「もちろんです。アンドレは世界の誰よりもぼくのことを大事に思っていますとも」
「でしたら妹さんのところに戻ってたずねてご覧なさい。私が言った通りにたずねてご覧なさい。私はもう行かなくてはなりません。妹さんがあなたのことを思っているなら、きっと答えてくれるでしょう。医者に言えなくても友人になら言えることがあるものです。医者として私の口からは申し上げたくないことも、きっと本人が教えてくれるでしょう。ではさようなら」
医師は改めて館の方へ歩き出した。
「駄目です、いけません!」フィリップの叫びは苦しみのあまり途切れ途切れの嗚咽となっていた。「駄目です、納得できません。お願いです、そんなことを仰らないで下さい!」
医師はゆっくりとその場を離れ、なだめるように答えた。
「申し上げたことをなさい。私を信じて、それが最善の策だと思って下さい」
「ですが先生、あなたを信じるということは、これまで信じて来た信仰を捨てるも同然です。天使を罵り、神を試すようなものです。信じろと言うのでしたら、せめて証明して下さい」
「さようなら、タヴェルネさん」
「先生!」フィリップが絶望の声をあげた。
「そんなに昂奮しては、人に知られてしまいますよ。せっかく誰にも言わずにおこうと心に決め――あなたにも隠しておきたかったことなのに」
「きっと先生が正しいのでしょう」声は小さく、消えそうな吐息が口唇から洩れた。「それでも科学だって間違うことがあるはずです。ご自身で認めたように、先生だって間違うことはあったのですから」
「滅多にないことです。私は厳格な学究の徒ですから、目と心が『見た、わかった、確実だ』と認めない限り、口から『ウイ』の言葉が出ることはありません。確かにあなたが仰ったように、時には間違うこともあります。人間という誤謬を犯す生き物ですから。ですが確率から言えば、ないに等しいと言ってよいでしょう。ですからここらで穏やかにお別れしましょう」
だがフィリップは聞き入れずに医師の腕をつかんだ。それがあまりにいたわしかったので、医師も立ち止まった。
「どうか最後に一つお願いします。こんなに混乱したままでどうやって引き下がれというのですか。まるで気が違ったような感じがしています。生かすか殺すかはっきりして下さい。心を脅かしている事実について確証が欲しいんです。これから妹のところに戻りますが、あなたがまた診察に来て下さるまでは妹には何も言いません。だからどうか考え直して下さい」
「あなたの方こそ考え直していただきたい。私の方にはさきほど申し上げた言葉につけ加えることは何もありません」
「先生、お願いです――死刑執行人だって死刑囚には慈悲を拒まないではありませんか――王太子妃殿下のところにお伺いした後で妹のところにもまた寄っていただけませんか。どうかそうすると仰って下さい!」
「何の意味もないことですが、あなたがそこまでこだわるのでしたら、ご希望に答えなくてはなりませんね。妃殿下のところを退いたら妹さんに会いに伺いましょう」
「ありがとうございます! きっと間違っていたとお認めになるに違いありません」
「間違っていたなら、喜んで認めましょう。では!」
自由の身になった医師が立ち去り、一人フィリップが広場に残された。熱で震え、冷たい汗にまみれ、昂奮のあまり、自分が何処にいるのかも誰と話していたのかもどんな秘密を耳にしたのかもわからなくなっていた。
数分にわたって、意味もわからないまま、星々で控えめに輝く空と光り輝く館を見つめていた。
Alexandre Dumas『Joseph Balsamo』Chapitre CXLII「Méprise」の全訳です。
Ver.1 12/03/24
[註釈・メモなど]
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