ジョゼフ・バルサモ

アレクサンドル・デュマ

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第百四十二章 誤解

 フィリップはさり気なく会話を続けたまま、妹から目を離さずにいた。アンドレの方も再び気絶して兄を心配させたりはすまいと、意識をしっかり持とうとしていた。

 フィリップは様々な見込みが外れたことを話した。国王に見捨てられたこと、リシュリュー氏の気が変わったこと。やがて七時の鐘が鳴ると、そそくさと部屋を出た。これからしようとしていることをアンドレに感づかれようとも、気にはしてないようだ。

 フィリップは真っ直ぐに王妃の居城に向かうと、衛兵から呼び止められない程度に距離を置き、行き来するのが誰なのかわかるほどには近い場所で、立ち止まった。

 五分もしないうちに、厳めしく荘厳といってもいいような人物が現れた。アンドレから聞いた医師の特徴通りの人物だ。

 日が陰り、ものが見えづらくなっているというのに、医師は最近ケルンで出版された胃不全麻痺の原因と結果に関する論文を繰っていた。そうしている間にも闇は濃くなってゆき、もはや読むというより推測しているような有り様だったが、それも遂には動く不透明な物体に遮られて、最後の僅かな光すら医師の目から隠されてしまった

 医師は顔を上げて目の前の人物にたずねた。

「何か?」

「失礼ですが、お医者様のルイ先生でしょうか?」

「如何にも」医師は口を結んだ。

「ではちょっとよろしいですか」

「申し訳ないが、王太子妃殿下の診察があるのです。もう伺う時間ですし、お待たせするわけにはいかないので」

「先生――」フィリップは祈るように手を合わせて立ちはだかった。「治療していただきたいのは妃殿下の使用人なのです。その子はひどく苦しんでいますが、妃殿下のお加減には不都合なところはございませんのでしょう?」

「まずは誰のことを話しているのか聞かせて下さい」

「妃殿下ご自身が先生をご案内した部屋の住人のことです」

「ああ、アンドレ・ド・タヴェルネ嬢のことですか?」

「そうです」

「なるほど!」医師はふいと顔を上げて若者をまじまじと見つめた。

「あの子が苦しんでいるのはご存じでしょう?」

「ええ、痙攣を起こしていましたね」

「それに失神を繰り返すんです。今日だけでもぼくの腕の中で数時間の内に三、四回気を失いました」

「悪化しているということでしょうか?」

「わかりません。ですが大事な人が……」

「アンドレ・ド・タヴェルネ嬢はあなたにとって大事な人なんですね?」

「この命よりも!」

 フィリップはこの言葉を熱烈な兄妹愛のつもりで口にしたのだが、ルイ医師はその意味を取り違えた。

「ははあ、ではあなたが……?」

 医師は言い淀んだ。

「何でしょうか?」

「つまりあなたが……?」

「ぼくが何だというのですか?」

「恋人かと言いたいんですよ」医師は堪えきれずに口に出した。

 フィリップは後じさり、手を額に当て、死人のように青ざめた。

「何ですって! 妹を侮辱するつもりですか!」

「妹? アンドレ・ド・タヴェルネ嬢は妹さんですか?」

「そうですとも。そんなおかしな勘違いをなさるようなことは言わなかったつもりですが」

「失礼ですがこんな時間帯に会いに来たことや、謎めいた言葉つきから思うに……察するに、兄妹愛を越えた愛情を……」

「恋人だろうと夫だろうと、ぼくほど妹を愛したりはしないでしょうとも」

「そうでしたか。そういうことなら、あらぬ勘繰りで傷つけたことをお詫びします。お許しいただけますでしょうな……?」

 医師はそう言って通り過ぎようとしたが、フィリップに引き留められた。

「先生、行かないで下さい。妹の健康状態が知りたいんです」

「不安になるようなことを誰から吹き込まれたんです?」

「この目で見たんです」

「それは体調不良というやつですよ……」

「かなり重いのでは?」

「場合によりけりですな」

「失礼ですが納得できません。返答を避けてはぐらかしているように聞こえます」

「早く妃殿下のところに行きたくてやきもきしているとは考えないのですか? 妃殿下がお待ちになって……」

「先生、先生」フィリップは汗で濡れた額を拭った。「先生はぼくのことをマドモワゼル・ド・タヴェルネの恋人だと勘違いなさいましたね?」

「ええ、でもそうではないと教えていただきました」

「しかしそうすると、タヴェルネ嬢に恋人がいるとお考えなのですか?」

「生憎、お伝えする義務はありません」

「お願いです先生。あなたの洩らした恐ろしい言葉が、折れたナイフの刃のように今も心に突き刺さっているんです。誤魔化そうとするのはやめて下さい。事情を察したり機転を利かせたりしている場合ではないんです。恋人になら伝える義務があるのに、兄には隠そうとするとは、どのような病気なのですか? 先生、お願いですから教えて下さい」

「申し訳ないが、お返事を差し控えさせてもらえますか。お話しぶりを伺う限りでは、どうやら取り乱しておいでのようだ」

「どうしてわかってくれないんです? 先生の言葉を聞くたびに、遠くに見えた絶望の淵がだんだんと近づいて来るというのに」

「落ち着いて下さい!」

「先生!」その言葉はフィリップをさらに昂奮させただけだった。「つまり先生のお話というのは、とんでもない秘密であり、冷静で気力がないと耐えられないというのですか?」

「タヴェルネさん、何処から勘違いされたのかわかりませんが、そんなことは一言も申しておりませんよ」

「口には出さずとも仰っているも同然です!……だからいろいろ勘繰らざるを得ないのです!……そんなのは優しさではありませんよ。ぼくが苦しんでいるのがわかりませんか。お願いですから仰って下さい! 何を聞いても冷静でいるし気力を保ち続けるとお約束しますから……妹の病気は、恐らく不名誉な……先生、否定はなさらないで下さい!」

「タヴェルネさん、私は何も申し上げませんでした。妃殿下にも、お父上にも、あなたにもです。もう何も聞かないでもらえますか」

「わかりました……でもぼくはその沈黙に意味を見出してしまいますよ。今ぼくは先生の考えをたどって暗く不吉な道の途上にいるのです。もしも道を逸れているというのなら、せめて止めてもらえませんか」

「さようなら」医師ははっきりと口にした。

「離しませんよ。ウイかノンか答えて下さい。たった一言だけでいい。ぼくのお願いはそれだけです」

 医師が立ち止まった。

「先ほどはそのせいでひどい勘違いをして傷つけてしまいましたが……」

「そのことはもういいんです」

「よくはありませんよ。先ほどは、遅ればせながらも、タヴェルネ嬢は妹だと仰っていましたね。ですがその前に、勘違いしてもおかしくないほどの感情を込めて仰っていたではありませんか。アンドレ嬢のことを命よりも大事に思っている、と」

「その通りです」

「でしたら妹さんも同じくらいあなたのことを思っているのではありませんか?」

「もちろんです。アンドレは世界の誰よりもぼくのことを大事に思っていますとも」

「でしたら妹さんのところに戻ってたずねてご覧なさい。私には通用しなかったその訴え方をお試しなさい。妹さんが同じくらいあなたのことを思っているのなら、きっと答えてくれるでしょう。医者に言えなくても親しい人になら言えることがあるものです。だから妹さんもあなたには話してくれるのではないでしょうか。私としてはあなたには僅かなりとも感づいて欲しくはないのですが。ではさようなら」

 医師は改めて宮殿の方へ歩き出した。

「駄目です、いけません!」フィリップの叫びは苦しみのあまり途切れ途切れの嗚咽となっていた。「駄目です、納得できません。お願いです、そんなことを仰らないで下さい!」

 医師はゆっくりとその場を離れ、なだめるように答えた。

「申し上げたことをなさい。私を信じて、それが最善の策だと思って下さい」

「ですが先生、あなたを信じるということは、これまで信じて来た信仰を捨てるも同然です。天使を罵り、神を試すようなものです。信じろと言うのでしたら、せめて証を見せて下さい」

「さようなら、タヴェルネさん」

「先生!」フィリップが絶望の声をあげた。

「そんなに昂奮しては、人に知られてしまいますよ。せっかく誰にも言わずにおこうと心に決め――あなたにも隠しておきたかったことなのに」

「恐らく先生が正しいのでしょう」声は小さく、消えそうな吐息が口唇から洩れた。「それでも科学にだって間違が起きることはあるはずです。ご自身で認めたように、先生だって間違うことはあったのですから」

「滅多にないことです。私は厳格な学究の徒ですから、目と心が『見た、わかった、確実だ』と認めない限り、口から『ウイ』の言葉が出ることはありません。確かにあなたが仰ったように、時には間違うこともあります。人間誰しも誤謬を犯すものですから。ですがそんなことはほぼありません。ですからここらで穏やかにお別れしようではありませんか」

 だがフィリップは聞き入れずに医師の腕をつかんだ。それがあまりにいたわしかったので、医師も立ち止まった。

「最後に一つお願いがあります。頭の中がぐちゃぐちゃで、まるで気が違ってしまったみたいなんです。ですから、生かすか殺すかはっきりさせてもらえますか。心を脅かしている事実について確証が欲しいんです。これから妹のところに戻りますが、あなたがまた診察に来て下さるまでは妹には何も言いません。だからどうか考え直して下さい」

「あなたの方こそ考え直していただきたい。私の方にはさきほど申し上げた言葉につけ加えることは何もありません」

「先生、お願いです――死刑執行人だって死刑囚には慈悲を拒まないではありませんか――王太子妃殿下のところにお伺いした後で妹のところにもまた寄っていただけませんか。どうかそうすると仰って下さい!」

「何の意味もないことですが、あなたがそこまでこだわるのでしたら、ご希望に応えなくてはなりませんね。妃殿下のところを退いたら妹さんに会いに伺いましょう」

「ありがとうございます! そうすればきっと、先生ご自身も間違いだったとお認めになりますよ」

「そう願いたいものです。間違っていたなら、喜んで認めましょう。では!」

 自由の身になった医師が立ち去り、一人フィリップが広場に残された。熱で震え、冷たい汗にまみれ、昂奮のあまり、自分が何処にいるのかも誰と話していたのかもどんな秘密を耳にしたのかもわからなくなっていた。

 数分にわたって、意味もわからないまま、星々で控えめに輝く空とまばゆくきらめく宮殿を見つめていた。


Alexandre Dumas『Joseph Balsamo』Chapitre CXLII「Méprise」の全訳です。初出は『La Presse』紙、1847年12月15日(連載第140回)。


Ver.1 12/03/24
Ver.2 26/02/04

[註釈・メモなど]

・メモ

[更新履歴]

・26/02/04 Philippe parla beaucoup de ses mécomptes, de l'oubli du roi, de l'inconstance de M. de Richelieu, et, lorsque l'on entendit sonner sept heures, il sortit brusquement, s'inquiétant peu de laisser deviner à Andrée ce qu'il voulait faire. 「peu」とあるので、「気にする」のではなく「気にしない」である。「やがて七時の鐘が鳴ると、しようとしていることをアンドレに見抜かれないように、大急ぎで外に出た。」 → 「やがて七時の鐘が鳴ると、そそくさと部屋を出た。これからしようとしていることをアンドレに感づかれようとも、気にはしてないようだ。」に訂正。

・26/02/04 – Docteur, ayez pitié de moi ; docteur, vous avez laissé échapper [une parole terrible,] une parole qui est restée dans mon cœur comme la lame brisée d'un poignard ; docteur, n'essayez pas de me donner le change ; vous êtes en vain un homme délicat et habile, docteur, quelle est cette maladie dont vous deviez compte à un amant et que vous voulez cacher à un frère ? Docteur, je vous en supplie, répondez-moi. 「dont vous deviez compte à un amant」と「que vous voulez cacher à un frère」はどちらも「cette maladie」に係っているので、「折れた剣の刃のように心に刺さったままの言葉を、どうか引き抜いて下さい。誤魔化そうとするのはやめて下さい。あなたは必要以上に洞察力があり目敏い方のようです。恋人がいると考えたり、それを兄に隠そうとするのはどういうことなのですか?」 → 「あなたの洩らした恐ろしい言葉が、折れたナイフの刃のように今も心に突き刺さっているんです。誤魔化そうとするのはやめて下さい。事情を察したり機転を利かせたりしている場合ではないんです。恋人になら伝える義務があるのに、兄には隠そうとするとは、どのような病気なのですか?」に訂正。

・26/02/04 「」 → 「」

・26/02/04 「」 → 「」

 

[註釈]

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