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翻訳者:wilder
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ユダヤの総督

アナトール・フランス


ユダヤの総督
短編集『螺鈿の手箱』より



 イタリアの名家に生まれたL・アエリウス・ラミアは、まだ法務官だった頃アテネに哲学を学びに行った。ローマに戻るとエスキリーズの家に住み、若者に混じって放蕩三昧の日々を送った。だが、執政官スルピキウス・クイリヌスの妻レピダと罪深い関係を続けていると非難されると、罪を認め、ティベリウス帝により追放の身となった。当時二十四才。追放は十八年に及び、シリア、パレスチナ、カッパドキア、アルメニアを巡り、アンティオキア、チェザレア、エルサレムにしばらく身を置いた。ティベリウスの死後カイウスが帝位につくと、ラミアは都に帰ることを赦され、財産も返還された。苦難に懲りて思慮を学んだ。

 街の女を買うこともせず、公職も一切望まず、名声も遠ざけエスキリーズの家にこもった。長い旅のあいだに目を引いた出来事を書きつけることで、過去の苦しみを現在の楽しみに変えているのだという。心休まる作業に没頭し、エピクロス【ギリシア。前341頃-前270頃】の書物に耽ると、老いが迫っていることに軽い驚きとかすかな悲しみを感じた。六十二才になると、不快な風邪に悩まされ、バイアエに湯治に行った。華やかなかつての郷愁漂う海岸には、裕福で遊び好きなローマ人がよく訪れていた。輝くばかりの人々と友達づきあいもせず、一週間のあいだラミアは一人で過ごした。ある日の夕食のあと、体調がいいと感じたラミアは、バッカス神の巫女のように葡萄の蔓に覆われた、海に面した丘に登ろうという気になった。

 頂に着くと、ラミアは道の脇のテレビンの木の下に腰を下ろし、美しい風景に視線をさまよわせた。左には鉛色をした見通しのいいフレグレイ平野がクーマの廃墟まで広がっている。右にはティレニア海に鋭い突端を突き出したミゼーノ岬がある。西側のふもとには、優雅にうねる海岸線沿いに豊かなバイアエの風景が、庭園、彫像の居並ぶ別荘、柱廊、大理石のテラス、海豚の戯れる青い海のみぎわまで広がっている。カンパーニャの海岸に続く前方を、沈みかけた太陽が小麦色に染め、昔日の栄光を飾ったポジリポの丘の神殿が輝き、地平線の奥には美しいヴェスヴィオ山があった。

 ラミアはトーガの袖から『自然論』の入った巻き筒を取り出すと、地面に寝そべり読み始めた。だが道を空けろと知らせる奴隷の叫び声がして、輿が狭い葡萄の小径を登ってくる。御簾の上がった輿が近づいてくると、でっぷり太った老人がクッションに横たわり、額に手をやり陰気で尊大な目つきで見つめているのが見えた。力強く尖ったあごをした口の上に、鷲鼻がぶら下がっている。

 そばに来ると、その顔には確かに見覚えがあった。名を呼ぶのをしばしためらったが、すぐに驚きと喜びを表しながら輿の方に駆け寄った。

「ポンティウス・ピラトゥス! ふたたび会えるとは、神々に感謝せねば!」

 老人は奴隷に止めるよう合図すると、声をかけた人物にじっと目を凝らした。

「ポンティウス、泊めてくれたのを覚えてませんか。あれから二十年で髪は白くなり頬はくぼんでしまって面影はないだろうが、アエリウス・ラミアです」

 その名前を聞き、ポンティウス・ピラトゥスは高齢の疲れや足の悪さにもかかわらず機敏に輿を降りると、アエリウス・ラミアをしっかりと抱きしめた。

「まったく、ふたたび会えるとは。ああ! 昔のことを思い出すよ、あのころはシリア地方でユダヤの総督をしていた。はじめて会ってから三十年か。追放先のチェザレアだったな。少しは気休めになったのなら嬉しかったよ。するとラミア、親切にもあんたはエルサレムについてきてくれた。ユダヤ人に嫌悪と辛酸をなめさせられたエルサレムにだ。十年のあいだ客であり友人だった。ふたりとも都の話をし、慰め合ったものだ。あんたは身の不運を話し、わたしは我が身の重圧を話したんだったな」

 ラミアはふたたび抱擁を交した。

「ポンティウス、まだあります。ヘロデ・アンティパス王に授かった信用を、私のために計らってくれたし、気前よく財布の口を開けてくれたではないですか」

「もういい」ポンティウスが答えた。「君はローマに帰るとすぐに、解放奴隷の一人を寄こして、利子を付けて返してくれたじゃないか」

「ポンティウス、お金を返したことで借りを返したとは思ってませんよ。だけどそれより、神々は願いを叶えてくれましたか? あなたにふさわしく幸せに暮らしていますか? 家族のことや暮らし向き、体調はいかがです」

「シチリアに土地を持っていたから、引退してからは小麦を育てて売る暮らしだ。上の娘のポンティアは夫を亡くして、わたしの家を切り盛りしているよ。神々のおかげで、わたしは精神力もまだまだだし、記憶もしっかりしている。だが体の痛みや衰えはどうにもならない。痛風がひどくて参る。痛みに効く薬を求めてフレグレイ平野を通りかかったところで、あんたに会ったわけだ。硫黄の蒸気がもうもうと立ちこめて、夜には炎をあげるこの灼熱の大地は、痛みを和らげ手足の関節を軽くするのだそうだ。少なくとも医者はそう言っている」

「試してみるといい、ポンティウス! だが痛風や激痛にもかかわらず、まるで私と同い年だ。十歳も年上には見えない。私と違ってまだまだ元気なあなたにふたたび会えるとは嬉しいかぎりです。なぜそんな歳でもないのに公職から退いたのです? なぜユダヤの政府を辞め、シチリアの土地に引っ込んだんです? 私がいなくなってから、何をしていたか聞かせてください。馬や騾馬を育ててわずかなお金を手に入れようとカッパドキアに去ったとき、サマリア人の反乱を鎮圧しようとしていましたね。あれ以来会っていない。遠征はうまくいきましたか? 教えてください。何もかも聞きたいのです」

 ポンティウス・ピラトゥスは悲しげに頭を振った。

「そう、わたしは熱意だけではなく愛情をこめて公務を果たしていた、それが当然の配慮だし義務だろう。それなのにいつだって憎しみがついてまわる。陰謀と中傷でわたしの精気は粉砕され、実るべき果実も干涸らびてしまった。サマリア人の反乱だったな。腰を下ろそうじゃないか。ほとんど言うことはない。過ぎた日のことも今日のことのようだ。

「シリアでよく見かけるような、口のうまい平民の男がいるだろう。そいつが地元の聖地、ガジム山の麓に武器を持って集うようにサマリア人を説き伏せた。われわれの始祖エヴァンドロスとエネアスの古き御代のことだが、やつらにはモーセという名の開祖、というよりは固有の神がいた。そのモーセが隠した聖器をお目にかけようと、その男が約束したのだ。自信に満ちあふれていたからな、サマリア人は反乱を起こした。だが前もって報せを受けていたので、山に歩兵の分隊を送り、付近を監視するため騎兵を常駐させた。

「大急ぎで確実に片を付ける必要があった。反乱軍はすでにガジム山の麓、チラタバ村に押し寄せていた。解散させるのは簡単なことで、まとまる前に吹き散らしてやった。それから見せしめのために、首謀者を拷問にあわせた。だがラミア、狭い領土を司っているのは総督のヴィテリウスだ。ローマのためではなく、ローマに逆らうためシリアを治めている男だよ。ヴィテリウスときたら皇帝の土地を、四分領主のものだとでも思っているようだ。サマリア人幹部は、わたしへの憎しみを訴えに行った。聞くところによると、これっぽちも皇帝に背いてはいないらしい。わたしは煽動者で、チラタバに集まったのはわたしの横暴に抵抗するためだという。ヴィテリウスは訴えを聞き入れ、わが友マルケルスにユダヤの問題を託すと、皇帝の御前で身の潔白を弁ずるよう命じたのだ。苦痛と恨みを心に満たして、船を出した。夕靄の中に岬の先端が伸びているのが見えるだろう。イタリアの海岸に着くと、高齢と施政が原因でお疲れになっていたティベリウス帝は、あのミゼーノ岬で急逝なされた。天賦の才を持ち、シリアの事情に詳しい、後継者のカイウスに裁きをゆだねようと思った。だがラミア、運命はどこまでも我が身を辱めようとする。そのとき都でカイウス帝のおそばに仕えていたのが、ユダヤ人のアグリッパだ。皇帝の片腕であり、何よりも頼りにしている幼いころからの友人だ。さて、アグリッパはヴィテリウスを温かく迎えた。なにしろアグリッパが憎しみ続けているアンティパスの敵だからだ。皇帝は大事なアジア人の意見を支持して、わたしのことなど聞く耳持たない。わたしは謂われのない不興を被り続けなければならなかったのだ。悲嘆に暮れ、苦痛に身を切られながら、わたしはシチリアの土地に身を引いた。優しいポンティアが父を慰めに来てくれなかったなら、苦しみのあまりその地で死んでいただろう。育てた麦は、地域一の大きな穂をつけるまでになった。もはや人生も終わる。ヴィテリウスとのことは、未来が裁くだろう」

「ポンティウス」ラミアが言った。「サマリア人と事に当たったとき、信念に従いローマを第一に考えていたのはわかっています。だがこのときとばかりに、勇気に引きずられていったのでは? 私は若く短気だったが、ユダヤでは寛大たれ、優しくなれと何度か忠告したでしょう」

「ユダヤ人に優しくなれだと!」ポンティウス・ピラトゥスは叫んだ。「あそこで暮らしていたのに、あれが人類の敵だとわからぬのか。傲慢で卑しいやつらばかりだ。どこまでもしつこいうえに恥ずかしいほど卑劣で、愛する価値も憎む価値もない。ラミア、わたしの頭にはアウグストゥス様の箴言が詰まっている。ユダヤの総督を任命されたときには、国中に厳かな〈ローマの平和〉が満ちていた。市民の反乱があった時代のように、総督が地方を略奪し富を得る時代ではない。わたしの義務はな、ただ思慮深くあろう、控えめにいこうと気をつけることだったのだ。神々はご覧になっているよ、わたしがただただ優しくしていたことを。こんなに好意的なのにどうしろというんだ? 知っているだろう、ラミア、政府に就いたばかりのころ、最初の反乱が起こった。あのときのことを覚えているな? チェザレアの駐屯兵が、エルサレムに冬営に行った。連隊は皇帝の印をつけた旗を持っていた。これがエルサレムの市民を怒らせたのだろう、皇帝の神聖さなど頭にないからな。従わなければならないのなら、神に従うのも人に従うのも不名誉だとでもいうようだ。エルサレムの司祭がわたしのところにやってきて、高慢なくせに控えめに、旗を都から持ち出すよう訴え出た。すると平民たちが司祭と一緒に、法廷を囲んで脅迫まがいに訴えるのが聞こえ始めた。アントニア塔の前に槍で防柵を作り、警士のように棒を武器に、傲慢な群衆を蹴散らすよう兵に命じた。だが効果はなく、ユダヤ人どもはなおも訴え続けているし、地べたに倒れた頑固なやつらも喉を突き出し棒の下で死んでゆく。そのときの屈辱は見ただろう、ラミア。ヴィテリウスの命令で、旗をチェザレアに送り返さざるを得なかった。あんな恥をかかされる理由がない。千代なる神々の御前で誓おう、わたしは在職中一度たりとも正義や法を辱めたことはない。だがわたしは年老いた。敵も讒言者も死んでしまった。仇を討たずに死ぬのだ。だれが我が名を守ってくれよう?」

 ポンティウスは呻き、口を閉じた。ラミアが答えた。

「未来は不確かなものです、恐れを抱くことも希望を抱くことも賢いとは言えませんよ。人がどう思うかが大事なことですか? 目を光らす者も裁く者もいはしない。ポンティウス・ピラトゥス、あなたの美徳を云々する者などいないのです。自らを敬い、友人に敬われれば満足でしょう。そもそも、人民とは優しさだけで支配できるものではない。哲学で学ぶ、人への思いやりなど、政治には役立たちません」

「もうやめよう」ポンティウスが言った。「フレグレイ平野に立ちこめる硫黄の蒸気は、暖められた日中の大地から噴き出したほうがよく効くのだ。急がなければ。さらばだ。だがせっかくの再会だ、この運を逃したくない。アエリウス・ラミア、明日、わたしの家で夕飯を取らないか。ミゼーノの町外れで、海沿いにある。すぐにわかるよ、柱廊には、オルフェウスが竪琴を弾き虎やライオンを魅了している絵が見える。

「では明日、ラミア」ふたたび輿に乗り込みながら言った。「ユダヤ人のことは明日話そう」



 翌日ラミアが夕食の時間にポンティウス・ピラトゥスの家に行くと、二つの寝台だけが客を待っていた。豪華ではないが恥ずかしくないほどの料理が出され、テーブル上の銀の皿には、蜂蜜のベクフィーグ、鶫、リュクランの牡蠣、シチリアの八目鰻が並んでいた。ポンティウスとラミアは食事をしながら、互いの病気について尋ね合い、長々と症状のことを話していた。それから互いに、人から勧められたさまざまな薬のことを口にした。それがすむとバイアエに集ったことを祝福し、海辺の美しさや落ち着いた環境を競って褒めそやした。夷が刺繍したヴェールを引きずり浜辺を進む遊女は美しいと、ラミアは賛美した。だが老いた総督が嘆くところによると、無意味な宝石や手縫いの蜘蛛の巣で飾り立てる虚栄心のために、異邦人はおろか帝国の敵にもローマの銀を手渡しているのだという。ふたりは地方の大事業のことを話し始めた。カイウス帝がプテオリとバイアエのあいだに架けた大きな橋のこと、アウグストゥス帝がアヴェルヌ湖とリュクランに海水を注ぐために運河を掘ったこと。

「わたしも」ポンティウスがため息をついて言った。「公益の大事業を行いたかった。ユダヤの統治を引き受けたとき――それが我が不運だ――多量の真水をエルサレムに運ぶ、二百スタディオンの水路を計画していた。水面の高さ、単位量、分配管に適合する青銅杯の傾斜、すべてわたしが研究したし、技術者への意見もすべてわたしが決めたんだ。不正な盗みができないように水を取り締まる規則も作った。建築士や技師が呼ばれた。作業に取りかかるように指示を出した。だがエルサレム人たちは水路が建てられると、悲痛な遠吠えを発しおった。自分たちの町に水と健康を運ぶ大きなアーチを満足に見ようともしない。ざわざわと集まって、冒涜だ不敬だと叫び、技師を蹴りつけ、礎を蹴散らしてしまった。卑しい野蛮人だ、わかるだろう、ラミア? それでもヴィテリウスは弁明の余地を与え、仕事を中断するよう命じたのだ」

「そこは問題ですね」ラミアが言った。「本人の意思に反してまで幸せにすべきかどうか」

 ポンティウス・ピラトゥスは聞かずに続けた。

「水路を拒むとは馬鹿なやつらめ! だがローマ人のやることはすべて、ユダヤ人には憎むべきものなのだ。やつらにとってわれわれは汚らわしい存在で、存在だけでも涜神なのだ。知っての通り、やつらは汚れるのを恐れて法廷に入ろうとせず、大理石の敷石の上で屋外法廷を開かせた。

「やつらはわれわれを恐れ、蔑んでいる。それでもローマは、国民にとっては母であり後見人だ。誰もが尊い胸にうずくまり、微笑んでいたではないか? 鷲の軍旗は平和と自由を世界の果てまで送り届けた。同胞になりさえすれば、敗者にも手をつけず、その国の習慣と掟を保証する。かつて幾多の王国に分裂していたシチリアが、休息や繁栄を味わい始めたのは、ポンペイウス帝がシチリアを従わせて以来のことにすぎないではないか? それにローマは恩恵を金に変えることもできたのに、夷どもの神殿に満ちていた宝を奪ったか? ペッシヌスの聖母や、モリメーヌやキリキアの主神も、エルサレムにあるユダヤの神も掠奪したか? アンティオキア、パルミラ、アパメアの富に目をつぶり、砂漠のアラビア人も恐れずに、ローマの神と皇帝の神性の詰まった神殿を建てたではないか。ただユダヤ人だけが憎み、刃向かう。貢ぎ物はもぎ取らねばならぬし、兵役も意固地に拒みおる」

「ユダヤ人は」ラミアが答えた。「古い習慣にこだわっています。掟を廃止したり習慣を変えたりすることをあなたが望んでるんじゃないかと、わけもなく疑っているんです。ひとついいですか、ポンティウス、あなたは不幸な思い違いを晴らそうと行動してはいなかった。意に反して、不安をかき立てようとしていたんです。信仰や宗教儀式から感じた軽蔑を、目の前で漏らしてしまった。司祭の祭服や装飾をアントニア塔で兵士に警備させたのが、とりわけ気に入らなかったのです。ユダヤ人はわれわれのように神事を瞑想するようにしつけられてないから、古くからの秘儀を祝わざるを得ないのですよ」

 ポンティウス・ピラトゥスは肩をあげた。

「やつらは神々の本質を正しく認識していないのだ。ユピテルを崇拝しているが、名を唱えなければ姿も描かない。アジアの民のように石像を前に崇拝することもなし。アポロンもネプチューンもマルスもプルートーも女神たちのことも何も知らぬ。だがかつてはヴィーナスを崇拝していたようだ。今も女は生贄の白鳩を祭壇に捧げている。知っているだろう、神殿の柱廊に腰を据えて、供物の鳥のつがいを売っているのを。ある日、そいつの籠をひっくり返して怒らせたやつがいると知らを受けた。司祭はこんな冒涜に愚痴をこぼしておった。雉鳩を生贄にする習慣は、ヴィーナスに敬意を表した儀式だろう。なぜ笑う、ラミア?」

「笑っているのは」ラミアが言った。「なぜか知らぬが頭をよぎったおかしな考えのせいです。ある日ユダヤの主神がローマに来るのを許され、あなたを憎しみで追いかけまわすことを考えたのです。何故ないと言えます? アジアやアフリカから、すでに多くの神々が伝えられました。イシスや吠えるアヌビスに敬意を表してローマに神殿を立てたのを見ましたよ。四つ辻から石切場まで、驢馬に運ばれるシリアの女神に出くわす。それに知らぬでしょうが、ティベリウスの御代、若い騎士が角を生やしたエジプトの主神と見なされ、この装いがもとで、神々のためなら何一つ惜しまぬ有徳の貴婦人が特別の計らいをして、ものにされたのです。ポンティウス、目に見えぬユダヤの主神が、ある日オスティアにやってくるかもしれませんよ!」

 ユダヤから神がやって来るという考えに、総督の厳しい顔に微笑みが挿した。それから重々しく答えた。

「ユダヤ人だって律法の解釈を通して分裂しているというのに、どうやって他民族に律法を押しつけるのだ? 二十派に分かれて対立して、見ての通り、ラミア、公共の場で巻物を手に、ののしりあい、顎髭を引っ張り合っている。神殿の基壇で、予言に熱狂した哀れな餌食を前に、垢だらけの法服を悲嘆の証拠とばかりに破っておる。やつらは、穏やかな心で平和に神事を話し合うというのが理解できない。だが神の行いとはヴェールで覆われた不確かなものだ。それゆえ不死の本質は隠され続けるし、われわれには理解できぬものなのだ。だがやつらにも神の摂理を信じる賢さはあると思っておる。なのにユダヤ人は哲学がなく、意見を交すのが我慢できない。それなのに、神のことで掟に反することを口にすると、極刑に値すると裁きよる。それに、ローマの神が君臨して以来、ユダヤの法廷で出された死刑判決も、ローマ総督か地方総督の承認があって執行されるわけだから、判決に判を押せと絶えずせき立てる。死を叫び法廷につきまとう。金持ちと貧乏人が司祭の前で団結し、怒りに満ちて象牙の椅子を取り囲み、トーガの裾やサンダルの紐を引っぱり、訴える、そんな群衆を何度も見た。死刑判決を求刑されてもわたしは重罪を判定できないのだ。わたしにとっては求刑されたやつも非難するやつらも同じくらいいかれたやつだ。何度も来るのだ! どんな日も、どんな時も。それでもわたしは、ローマの法と同様にユダヤの法を執行しなければならない。破壊者にはなるなとローマが決めた以上はな。それにわたしはユダヤの習わしの支えであり、笞と斧でもあったのだ。最初のうちは、言い分を聞こうとした。哀れな拷問の犠牲者を助けようとした。だがこの優しさがいっそう不興を買ったらしい。わたしを取り囲むと禿鷲みたいに翼と嘴で打ち、餌食を要求する。司祭は、わたしが法を犯していると皇帝に手紙を書いて嘆願し、ヴィテリウスがそれを支持するものだから、わたしは厳しく非難された。被告も裁判官も、ギリシア人の言うように烏の群れに放り出してやりたかった、そんなことが何度あったか!

「ラミア、わたしはローマのことでも平和のことでも完敗した。とはいえ無力な恨みや老いさらばえた怒りを育んでいるわけではない。だが遅かれ早かれやつらはわれわれを滅ぼす過激な行動に出るぞ。支配できぬなら滅亡させねば。間違いない。服従せず、ぬくぬくと心の中で叛意を抱き、あるとき反乱を起こすのだ。それに比べればヌミディア人の怒りやパルティア人の脅威も子供のわがままだ。想像もできぬ希望を人知れず育んでおる、われわれを破壊しようという途方もない考えだ。ほかにどうできる? 神託を信仰し、世界を統べる族長を待ち望んでいるのだぞ。あんな民族には勝てない、滅ぼさねば。エルサレムを破壊しつくさねば。わたしもすっかり年を取ったが、城壁が倒れ、家が炎にむしばまれ、住民が剣に倒れ、神殿に塩をばらまく光景を見ることができるかな。その日、やっとわたしの無罪が証明されるのだ」

 ラミアは、話をもっと穏やかな調子に戻そうとした。

「ポンティウス、昔の恨みも不吉な予感もよくわかる。あなたの知っているユダヤ人の性格には、取り柄などありません。だが私はエルサレムで暮らした。好奇心から首を突っ込み、あなたには見えなかった未知の美徳を発見したのです。優しいユダヤ人をたくさん知っているし、簡素な生活と忠誠心に触れると、詩人がエバリエの老人のことを言っていたのを思い出した。ポンティウス、あなただって、純朴な人々が兵士の棒の下で息を引き取るのを見たでしょう。名前も言わず、正義を信じる大義のために死んでいったのです。それを軽蔑できますか。節度と公正を預かるのが正しいと思っているからこそ、こんなふうに言うのです。だが白状すると、ユダヤ人に対して激しい共感を感じたことは一度もない。反対にユダヤ人は、私をたいそう気に入った。若かったときのこと、シリア女は心をかき乱す。赤い唇、こかげで輝く濡れた目、長く見つめる視線、それが骨の髄まで貫きました。化粧をして白粉を塗り、甘松《かんしょう》と没薬《もつやく》が香り、香草の中に浸っている、そんな肉体は世にもまれな美味なる味わいでした」

 ポンティウスはいらだちながらこうした賛辞を聞いていた。

「わたしはユダヤの罠に落ちる人間ではない。ラミア、あんたが話すようにしむけたのだぞ、わたしはあんたの不摂生を認めたことなどなかった。ローマで執政官の妻を誘惑したな。昔わたしのところにいたときに、そんな恐ろしい罪をあまりあげつらわなかったのも、あんたが痛いほど過失を償っていたからだ。結婚はローマ貴族にとって神聖なものだ。ローマのよりどころとなる制度だ。奴隷の女や異国の女なら別だ。あまり重大な結果にならない女となら関係を結ぶことは許されている。恥ずべき堕落に身を染めないかぎりはな。わたしが苦痛に思うのは、街角のヴィーナスにその身を捧げたことだ。とりわけ許しがたいのは、ラミア、法に従って結婚せず、善良な市民がすべきように帝国に子供を産み落とさなかったことだ」

 だがティベリウス帝からの亡命者は、老いた司法官のことばに耳を傾けていなかった。ファレルノ・ワインのカップを空けると、目に見えない何かの姿に微笑んだ。

 少し休んでから、とても低い声で話し始めたが、声は徐々に高まっていった。

「シリアの女が踊る様子ときたら、あまりにも物悲しかった! 私が知っていたエルサレムのユダヤ女は、ぼろ家の中で、くすぶるほのかなランプの光りのもと、屑みたいな絨毯の上を、シンバルを叩こうと腕を上げて踊ったものだ。反った腰、赤い長髪の重さで引きずられたみたいにのけぞった頭、快楽に溺れた目、熱狂と倦怠、しなやかな肢体、クレオパトラも嫉妬に青ざめたほどだ。夷の踊り、しわがれ気味だが甘い歌声、香のにおい、半ば眠りの中に生きているようなその女が好きだった。どこにでもついていった。兵士や香具師や収入役といった卑しい集団が女を取り囲むと、そのなかにも混じっていった。ある日姿が見えなくなり、二度と会えない。長い間怪しげな小路や田舎びた食堂を探した。ギリシアのワインを断つよりも苦しかった。探し続けて数か月後にたまたま耳にしたところだと、ガラリアの若い魔術師をしたう男女の一団に加わっているという。ナザレのイエスと呼ばれていた、私にはわからぬ何かの重罪のために十字架に架けられたそうです。ポンティウス、その男を覚えていますか?」

 ポンティウス・ピラトゥスは眉を寄せ、記憶を探るように手を額に運ぶと、しばらく何も言わなかった。

「イエス?」つぶやいた。「ナザレのイエス? 覚えてない」


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"L'Etui de nacre" Anatole Franceより、'Le Procurateur De Judee'[#Judeeの最初のeはアクサンテギュ付き]の全訳です。


原文では、「ナザレ」の部分に原注があり、こう書かれています
【ナザレとは聖者の謂。以前の版ではナザレトのイエスと記されていた。だがキリスト紀元の最初の時代にナザレトの町が知られていたとは思えない。】


人名表記の仕方は統一していません
登場人物はローマ人なので、ジュピターじゃなくユピテルだろうと思う反面、ヴィーナスのことをウェヌスと表記しても何のことだかわからないと思ったので。
同じように、聖書関連の表記もいい加減です。ピラトはローマ人なのでローマ読みしてピラトゥスにしてみたり。
地名はできるかぎり現在一般的な表記にしましたが、どこの地名かわからなかった場合、フランス語読みのままか、適当にイタリアっぽく読んでたりします。


原文は、ABUというところのテクストを使用しました
フランスのグーテンベルクみたいなもので(たぶん)、グーテンベルクみたいな注意書きが書かれてあります。注意書きに、コピーするなら注意書きも忘れずに!と書かれてあるので、以下に載っけときます。でもめんどくさいので訳しません。
というわけでまあ、コピー・配布をする際に、出所をABUだと明記するなら、注意書きも載っけてみてください。それ以外は自由です。


概要はこう。
――再配布の際は注意書きも付けるように――
1999 全国愛書家協会(ABU)
次の約束を守るなら、複製・配布・変更していいよ。
○個人・教育・研究目的の複製はOK。
○なんでもいいけどとにかく絶対この注意書きは付けなさい。
○原作者とか入力者も載っけとく。
など。

原文の全文はここ


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