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決定的証拠

ロドリゲス・オットレンギ


訳者あとがき・作品について


名前のない男




 私室にいたバーンズ氏は、事務の少年が来客を告げたときも、特に考える重要なこともなく座っていた。
「名前は?」バーンズ氏がたずねた。
「ありません!」
「それは」探偵が言った。「名前を名乗らなかったということだろう。名前はあるに決まってる。通して」
 すぐに来客がやって来てうやうやしくお辞儀すると、さっそく話し始めた。
「探偵のバーンズさんでらっしゃいますね?」
「私の名前はバーンズです」探偵は答えた。「あなたのお名前をお聞かせ願ってもかまいませんか?」
「そりゃもちろんそうしたいのですが」来客は続けた。「それが、思い出せないようなんです」
「名前を思い出せない?」バーンズ氏は面白そうな事件の匂いをかぎ取り、輪をかけて注意深くなった。
「そうなんです! まさにそれで困っているわけでして。自分をなくしてしまったようなんです。それがここに来た目的です。私が誰なのか見つけてほしいんです。見たところ完全な大人ですから、過去があったとは自信を持って言えるんですが、その過去の記憶が空白なんで。今朝起きたらこうだったんですが、頭ははっきりしていましたから、名探偵に意見を聞くのが一番だということはすぐにわかり、問い合わせた結果、あなたを頼ってきたわけです」
「非常に面白い事件ですね。つまり私の観点からということですが。あなたにとってはもちろん不幸な事件でしょう。だが前例がないわけじゃない。実にたくさんの事件が記録されています。とりあえずご安心いただいて結構ですが、遅かれ早かれ記憶は完全に元に戻りますよ。だけどまずはさっさと謎を解決してしまいましょう。必要上ちょっとご迷惑をかけるかもしれません。いくつか質問させていただきたいのですが」
「お好きなだけどうぞ。できる限り答えます」
「ご自分がニュー・ヨーク人だと思いますか?」
「さっぱりわかりません」
「私に意見を聞くよう助言されたと仰いましたが、誰から伺いました?」
「ウォルドーフ・ホテルのクラークです。昨夜そこに泊りました」
「すると私の住所もクラークから聞いたわけか。事務所への道順を聞く必要がありましたか?」
「ああ、いいえ、そんなことはありません。不思議ですね。確かに、簡単にここにたどり着けました。これは重要な事実ですよね、バーンズさん?」
「ニュー・ヨークのことをよく知っているように思えますが、それよりもここに住んでいるのかどうか知る必要がある。ホテルには何て記帳したんです?」
「M・J・G、レミントン、シティ」
「レミントンはあなたの名前ではないと?」
「間違いありません。朝食のあとに、クラークが二度もその名前で呼んだのですが、私はロビーを通り過ぎてしまいました。結局ボーイの一人が肩を叩いて、デスクが呼んでいると説明してくれました。『レミントンさま』と呼ばれたことに気づきひどく混乱しました。確かに私の名前ではありません。自分の状況をすっかり理解していなかったので、私はクラークに訊きました。『なんでレミントンなんて呼ぶんだい?』 クラークは『そのように記帳されていましたものですから』と答えました。私はごまかそうとしましたが、クラークは怪しげな人物でも見るような顔をしていました」
「ホテルに荷物はなかったんですか?」
「一つも。鞄すらありませんでした」
「ポケットに何か手がかりになるようなものはありませんか? 例えば手紙とか?」
「そう思って探してみたのですが、何も見つかりませんでした。ただ幸いにも財布はありましたが」
「お金は?」
「五百ドルほど」
 バーンズ氏はテーブルに向き直ると紙切れに何か書き付けた。そのあいだ依頼人は金の懐中時計を取り出して文字盤を一瞥し、ポケットに戻しかけたところでバーンズ氏が椅子の方に振り返った。
「素敵な時計ですね。しかも不思議な形だ。古い懐中時計に興味があるんですよ」
 依頼人は一瞬戸惑いを浮かべたが、すぐに懐中時計を取り出した。
「別に珍しくありませんよ。ただの古い形見です。だからこそ私にとってはほかのものより価値がありますが。だけど私の事件ですよ、バーンズさん、いつになれば自分の素性を思い出すと思います? 嘘の名前で暮らすのはあまりいい気がしません」
「そうでしょうが」探偵は言った。「全力を尽くしますが、手がかりが全くない。つまり結果がどうなるか断言できない。それでも四十八時間あれば充分でしょう。そのころには何か発見しているはずです。あさっての正午きっかりに、また来てくれませんか。ご都合はどうです?」
「かまいません。そのときに私が誰か教えてくれるのなら、あなたが聞いたとおりの名探偵だってさらに確信できますよ」
 彼は立ち上がって去ろうとしたが、その瞬間バーンズ氏は足でテーブル下のボタンに触れ、その結果建物の別の場所でベルが鳴ったが、私室には何の音も聞こえなかった。このように、バーンズ氏の根城を訪れた人物は、通りで見張りが待ち受けており、ボスに呼び戻されるまで日夜つけ回し続けているという事実を疑いもせずに立ち去るのである。合図を送るとバーンズ氏は、見張りが定位置につけるように会話を延ばし奇妙な訪問者を引き留めていた。
「どのようにお過ごしになります、レミントンさん? 本当の名前を見つけるまでは、こう呼んでおくのがいいでしょう」
「ええ、それがいいと思います。四十八時間のあいだ何をするか、そう、観光で時間を潰すのがいいでしょうか。散歩するにはぴったりの日です。おたくのセントラル・パークを見ようと思います」
「いい考えです。ぜひ、そうしたことをするといい。記憶が戻るまでは、どんな商売もしないことです」
「商売。ええ、そりゃ、商売なんてできませんよ」
「違うんです! 例えば何かの商品を注文したとするでしょう、レミントンという名前で、です。あとで本当の身元が戻ったとき、詐欺師として逮捕されるかもしれません」
「おお、そんなこと考えもしなかった。私の立場は、思ってたより深刻なんですね。注意していただきありがとうございます。二日のあいだ、観光というのが確かに一番安全な予定のようです」
「そう思います。約束の時間に来てください、幸運を祈って。早めにあなたに会いたいときは、ホテルに使いを送ります」
 それから「ごきげんよう」と言って、バーンズ氏はデスクに戻った。そして依頼人が部屋を出るまえ目にしたように、紙切れに夢中になっているようだった。だが最前の訪問者の立ち去ってドアが閉まったかどうかというところで、探偵は雰囲気を感じて顔を上げた。直後、抽斗の中のベルが鳴り、男が建物を出たと知れたが、これは従業員の一人が報せた合図であり、立ち去る者をすべて見張りボスに報告するのが仕事なのである。数分後にはバーンズ氏自身が、まったく違う服装で現われたが、髪の色も変わり、見分けるにはかなりじっくり見つめなければならないだろう。
 通りに出たときには依頼人はどこにも見えなかったが、バーンズ氏は向かいの戸口に行き、そこで青いペンで書かれた「北」の文字を見つけるとすぐに、次の角まで北に急ぎ、そこでふたたび戸柱を調べ「右」の文字を見つけた。前を行く男がどちらに曲がったか指し示すものだ。ここから先は何の目印もないだろうと思っていた。というのも、依頼人を尾けている見張りも、ボスが尾行に参加しているだろうとは知らないからだ。ドアに書かれた二つの目印は、ただの決まりの一部で、バーンズ氏が万一あとを尾けるときの助けとなるものだ。だがあとを尾けさえすれば、二つ目の目印にたどり着くころには見張りの見えるところにいるということが予想されるのだった。こうしたことからわかるとおり、バーンズ氏は角を右に曲がったところで、二ブロック先にたやすく部下を見つけ、まもなく「レミントン」も見える距離まで近づいた。
 バーンズ氏の追跡は、驚いたことに依頼人が公園に入るのを見るまで続けられた。探偵との面会の折り述べたとおりに実行していたのだ。五番街の門を入ると、野生動物園の方に歩いていき、ここで興味深い出来事が起こった。依頼人は猿山の人混みに紛れ、この滑稽でいたずら好きの動物を楽しんでいたが、このときバーンズ氏が後ろに近づき、彼の上着の裾からハンカチを器用に抜き取り、すばやく自分のハンカチと交換した。
 翌日の正午前に、バーンズ氏は五番街ホテルの閲覧室に急いでいた。一画に立派なマホガニーの小部屋があり、三つの個室には、上部にガラスの嵌った二重扉から入室できた。ガラスは黄色い絹のカーテンで飾られ、中程には白い磁器製の数字が見えた。この個室は電話室として使われており、希望者はドアを閉め切り、外の喧噪からは解放されるのである。
 バーンズ氏は係の女性に話すと、五番の個室に通された。五分もしないうちに、リロイ・ミッチェル氏が閲覧室にやってきた。忙しそうな顔つきで書類かメモに目を走らせながら、鋭い目で辺りを見つめると、「一」と書かれた個室に入った。十分ほどしてふたたび出てくると、料金を払い、ホテルをあとにした。バーンズ氏も出てきたが、顔には非常に満足げな表情があった。だがメイン・ロビーを通ってブロードウェイまでミッチェル氏を尾ける代わりに、閲覧室を横切ると通用口から二十三番街に出た。そこから高架駅に進み、中心街に向かった。二十分後、ミッチェル氏の自宅のベルを鳴らしていた。ベルに答えた使用人は、主人は家を空けていると報せた。
「だけどいつもは昼食にもどるだろう?」探偵はたずねた。
「そのとおりです」使用人は答えた。
「ミッチェル夫人はご在宅かい?」
「おりません」
「ローズ嬢は?」
「いらっしゃいます」
「ああ! それなら待とう。名刺を渡してくれないか」
 バーンズ氏は豪華な応接間に通され、すぐにミッチェル氏の養女ローズに引き合わされた。「パパがいなくてごめんなさい、バーンズさん」少女が言った。「でも待ってれば、昼食に戻ってくるはず」
「うん、ありがとう。ぼくもそう思うよ。完全にお手上げでね。そこでこうして、ここに立ち寄って君のお父さんにあった方がいいと思ったんだ。それほど重要なことではないんだけれどね」
「面白い事件なの、バーンズさん? だったら聞かせて。知ってるでしょ。パパと同じくらい事件が楽しみなの」
「そうだね。わかってるよ。ぼくの虚栄心はめろめろさ。けど残念だけど、今のところ話すほどの事件はないんだ。ぼくの用事は単純でね。何日か前にお父さんが言ってただろう、自転車を買いたいって。で、昨日たまたま完全新型のに出くわしてね、今まで造られたものの中で最高のものなんじゃないかと思うんだ。どんなのを買うか決める前に、見たがるんじゃないかと思ってさ」
「残念だけど遅すぎたみたい。パパはもう自転車を買っちゃったわ」
「ほんとかい! どんな型にしたんだい?」
「ぜんぜんわかんないけど、見たかったら、下のホールに置いてあるよ」
「こうなっちゃ意味はないよ。どのみちぼくは新型に興味なんかないし、お父さんが欲しいのを見つけたんなら、ほかの型のことは口に出すつもりもないよ。買物を後悔させるだけかもしれないしね。だけどやっぱり、下に行こうか。食堂に案内してくれるかい。お父さんが撃ったと自慢していたヘラジカの頭を見せてほしいな。もう剥製師のところから戻ってきてるだろう?」
「ええ、そうよ! あれホントに化け物なんだから。こっち!」
 二人は食堂に降りて行き、バーンズ氏はヘラジカの頭に賞賛を表わし、ミッチェル氏の射撃の腕前を褒め称えた。だが長い時間をかけて玄関に置かれた自転車を観察し、そのあいだローズは食堂のブラインドを開けていた。それから二人は応接間に戻り、少し話をしたあと、バーンズ氏はもう待てないと言って立ち去ったが、翌日の正午に訪ねるよう強く頼んでいたと父に伝えてくれるようローズに約束させた。
 約束の時間ぴったりに、レミントンがバーンズ氏の事務所にやって来たと告げられた。探偵は私室にいた。リロイ・ミッチェル氏がほんの数分前に通されていた。
「レミントンさんを呼んで」バーンズ氏が事務の少年に告げた。その紳士が入ってきて、第三者がいることに驚くよりも早く、探偵が言った。
「ミッチェルさん、こちらがあなたに会わせたかった紳士です。ご紹介しましょう、モーティマー・J・ゴールディ氏です。スポーツ愛好家のあいだではG・J・モーティマーとして知られている、短距離自転車レースのチャンピオンです。つい最近、四百メートルトラックで、一分五六という驚異的なタイムで一マイル完走いたしました」
 バーンズ氏はしゃべりながら、問いかけるように連れを見比べていたが、顔には満足した表情が浮かんでいた。ミッチェル氏はひどく興味を持ったようだが、新たな客は見るからに心底驚いていた。あっけにとられてバーンズ氏を見ていたが、椅子に倒れ込んでたずねた。
「一体全体、どうやってわかったんですか?」
「それほど難しくはありませんでした」探偵は答えた。
「もっと詳しくお話しできますし、あなたの過去もお伝えできます。私の言うことが真実だとおわかりいただけるほど、記憶が完全に戻ったのならね」
 バーンズ氏はミッチェル氏に向かい思わせぶりに片目をつぶった。ミッチェル氏は激しい笑いに襲われたが、ようやく口を開いた。
「負けを認めた方がよさそうだな、ゴールディ。バーンズ氏は我々の手に余る」
「だけどどうしてわかったのか知りたい」ゴールディ氏はなおも続けた。
「バーンズ氏は間違いなく満足させてくれるよ。それに、どうやったら我々が企んだ問題をこんなに早く解決できたのか、私にも興味がある」
「喜んで探偵術をお教えいたしましょう」バーンズ氏が言った。「まず初めに、こちらの紳士が二日前に私のところにやってきました。そもそも初めからお話に疑いを持ちましたが、それと悟られないよう努めましたよ。自分の素性がわからなくなったと言われた私は、そうした事件は珍しいことではないとすぐに伝えました。というのも、話を疑ってないのだとはっきりさせるためです。ところが実際には、もし話が真実だったなら、とびきり珍しい事件でしたよ。記憶をなくした人が、名前も忘れることはあります。だけど名前を忘れた人が、同時に忘れたことを理解しているというのは聞いたことがありませんでした」
「たいしたものだ、バーンズさん」ミッチェル氏が言った。「そんなに早くごまかしを疑うとは、確かになかなか鋭い」
「ええ、そんなに早く疑っていたとは言えませんが、ありそうもない話なので、すぐには信じられませんでした。だからその後の会見のあいだ、非常に注意深く研ぎすましておりました。自分のことは忘れているのに、ニューヨークのことは覚えているという点も見逃せません。特別の案内なしにここに来たと認めていましたからね」
「覚えてる」ゴールディ氏が口を挟んだ。「重要なことかとわざわざたずねたかもしれない」
「だから少なくともニューヨークのことは知っているように見えるとお話ししましたね。それがさらに証明されたのが、セントラル・パークで一日を過ごすと仰り、ここを出たあと何の苦もなく向かうのを見たときです」
「つまりあとを尾けたということですか? 誰も後ろにはいませんでしたよ」
「ええ、その通り、尾行いたしました」バーンズ氏は笑顔で答えた。「あとをつけたのは見張りです。公園では私自身が尾行しましたが。だけどあなたのお話と私の推理について、残りの点を明らかにいたしましょう。『M・J・G、レミントン』と記帳したと仰いましたね。これが、やがて理解するときの大変な助けになりましたよ。すぐあとに、あなたは懐中時計を取り出しましたが、デスクの鏡に映ったのを見ると、これはお客さんに背中を向けているときに使ったりするんですが、蓋の外側に銘があるのに気づいたんです。私は振り向き時計についてたずねましたが、あなたは慌ててポケットに戻すとき、『古い形見』と仰いました。さあこれで、もしご自分が誰だか忘れてしまっているのなら、どうしてそれがわかったのか説明できますか?」 
「うまくやられたな、ゴールディ」ミッチェル氏が笑った。「完全にミスしたな」
「馬鹿な失敗だ」ゴールディ氏も笑った。
「さてそれでは」バーンズ氏が続けた。「名前を忘れてなどいないと信じる理由があったことはおわかりいただけるでしょう。反対に、時計の銘の一部があなたの名前だと私にはわかった。ではほかの点で嘘をつく目的は何か? しばらくはわかりませんでした。だけど先に進んで、見つけ出そうと決めました。次に二つの点に気づきました。上着が開いたとき、ベストに自転車のバッジが留められているのが見えたんです。アメリカ自転車連盟の記章だとわかりました」
「おう!」ミッチェル氏が叫んだ。「何てことだ、ゴールディ、大失敗だぞ」
「バッジのことはすっかり忘れてました」ゴールディが言った。
「さらに」探偵は続けた。「足を組んだとき、靴の底にへこみがあることに気づいたので、バッジを見なくともあなたが自転車乗りだと納得しましたよ。さて次に、名前とその意義に移りましょう。あなたが記憶を失ってるのだとしたら、ホテルに記帳したとき選んだ名前は、取るに足らない無作為のものだったのでしょう。ところが、あなたが印象づけようとしているとわかった途端、選んだ名前が意図的なものであるとわかりました。推理から導き出されたものです」
「おう! 面白いところにさしかかったぞ」ミッチェル氏が言った。「頭脳を使う探偵に耳を傾けたいのだ」
「確かめようと記帳所を調べましたが、記帳された名前は奇妙なものでした。イニシャル三つは珍しい。記憶をなくし、精神的に不安定な男は、そんなたくさんのイニシャルを選ばないでしょう。ではなぜ今回は選ばれたのか? 三つのイニシャルが本当の名前を表わしているよりも自然なことは何か? 偽名だと仮定すると、一定の方法で本名を並べ替えるのが一般的です。少なくとも、それがもっともらしい仮説でした。さらに最後の名前は重要です。『レミントン』。レミントン社は、銃やミシン、タイプライターや自転車を製造しています。さあ、この男が自転車乗りだと確信しました。偽名の一部に自分のイニシャルを選んでいるなら、馴染みがあるから『レミントン』を選んだというのもありそうです。レミントンの自転車の代理人かとも思いましたが、会話中にその点に気づき、記憶が戻るまで何も買うなと助言してみました。公園でハンカチを失敬したとき、獲物の正体を確信しました。同じ『M・J・G』のイニシャルがあったのです」
「自分の目印を布きれにつけていたのか!」ミッチェル氏が叫んだ。「どうにもならんな! 狡猾な犯罪者にはなれないな、ゴールディ」
「たぶんそうでしょう! 悲しくもない」
「このころには成功を確信しました」バーンズ氏が続けた。「ところが次の段階で挫折しました。連盟のリストを見ても、ぴったりの名前が見あたりません。すぐにおわかりになりますが、いわば『材料がありすぎてスープが台無し』だったのです。ハンカチがなければもっとうまくやれたでしょう。次にレミントンのカタログを手に入れ、公認代理人のリストを見ましたが、これも失敗でした。事務所に戻って使いから届けられた見張りの報告を受け取ると、道が開けそうでした。あなたを尾けてたんです、ゴールディさん、知人を避けるという点では、うまく役を演じてたと申しましょう。だけどとうとうあなたは公衆電話に入り、誰かを呼び出しましたね。あなたが誰かと話をしているのか見つけ出すのが重要だと見張りは、電話係に賄賂を送り情報を得たのです。ところが五番街ホテルの電話室と話していることしかわかりません。見張りは取るに足らないと考えたようですが、打ち合わせなのだと私にはすぐにわかりましたよ。お相手が約束どおりの場所にいるのです。それが正午だったので、次の日つまり昨日ですが、同じ時間ちょっと前に、五番街ホテルの電話室に行き、真ん中の個室に隠れていました。あなたの相棒が何を話すのか聞きたかったんですよ。これには失敗しました。個室はうまく造られていて、隣同士で音が洩れないんです。でもミッチェル氏が個室にはいるのを見て満足したのはわかるでしょう」
「なぜだい?」
「なぜか。あなたを見た途端にすべての計略が理解できた。ぼくの才能を試そうと気晴らしにでっち上げたんだ。これでようやく、記憶喪失のふりをする理由が理解できた。あなたが噛んでいると知って、それまで以上に事実を得ようと決めました。外出中だと知りながら、あなたの家に急いだ。ローズとおしゃべりするのが目的です。情報をつかむにはぴったりの家族ですからね」
「ああ、くそ! バーンズくん」ミッチェル氏が言った。「子供の無邪気につけこむなんて! 恥知らずめ!」
「恥じるところなんてないですよ。とにかくうまくいきました。玄関でゴールディさんの自転車を見つけましたが、勘ぐりどおりレミントンでした。番号を控えて代理店に急ぐと、簡単に見つかりました。五〇八六番にはG・J・モーティマーが乗っています。正規のレース・チームの一員でした。モーティマーの本名がモーティマー・J・ゴールディであることもわかりました。これも嬉しかった。なにしろ偽名に関する推理が当たってたんですから。レーシング・ネームは名字を入れ替えただけだ。時計は賞品、あなたはゴールディ氏だとその銘が告げています。見せようとはしませんでしたが」
「もちろんです。だからポケットに戻したんです」
「先ほど言ったとおり」バーンズ氏が言った。「失敬したハンカチがなければもっとうまくやれたんです。あれのせいで私は連盟のリストを見たとき、『G』だけを探していた。あれがなければ『G』も『J』も『M』も探していたでしょう。どんなふうに文字が入れかわっているなんて知らずにね。それなら『G・J・モーティマー』を見つけ、正しい道筋を追っていたのだとイニシャルが証明してくれたことでしょう」
「よくやったよ、バーンズくん」ミッチェルが言った。「しばらく名無しの男を演じてくれるようゴールディに頼んだんだ。君を一杯食わせたくてね。ところが君が我々に一杯食わせたようだ。だが自信を持ってこう言えるよ。私が主役を演じることができていたなら、こんなに早く正体を見抜けなかっただろうな」
「へえ! どうでしょうね」バーンズ氏は言った。「私たちはちょっとわがままかもしれません」
「確かに。それでもまた君に罠を仕掛けるときには、自分を主役に抜擢するよ」
「一番の楽しみですね」バーンズ氏が言った。「だけどいいですか、このゲームに負けた以上は、せめて夕食はおごりでしょう!」
「喜んでおごらせてもらおう」ミッチェル氏が言った。
「とんでもない」ゴールディ氏が口を入れた。「負けたのは私が失敗したからです。私が持ちます」
「二人で払ってください」バーンズ氏が叫んだ。「それより行きましょう。お腹がすいてきた」
 すぐにデルモニコ・レストランに向かった。




Rodrigues Ottolengui "Final Proof" -- 'The Nameless Man' (1895)の全訳です。

Ver.1 03/09/24


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作品について・訳について]
 著者のロドリゲス・オットレンギ(1861-1937)は、ポルトガル系のアメリカの作家・歯科医。小説は余技のようで、歯科医としての業績もかなりあるようです(Rodrigues OttolenguiをGoogleで検索すると、名前の後ろにアルファベットがたくさんくっついてた)。『クイーンの定員』の一編でもある。
 アメリカ人なんだ、驚いた。その割りにはイギリス英語ばかり使ってるなあという印象。読者には手がかりを示してくれない、ホームズ時代の探偵小説ではあるし、なんかわかったようなわかんないような論理で謎を解いてますが、お騒がせなワトスン役が面白い。
 名探偵バーンズ氏とミッチェル氏の事件簿。探偵フェチのミッチェル氏がいろいろ名探偵にからんでます。もはや変態です。ほとんどパロディみたいな作品ですが、おそらくニューヨークではなく霧のロンドンが舞台であれば、これも一つのホームズ物語になっていたのかもな、と思ったりもします。


 未訳かと思ってたら、「ミステリーの舞台裏」というサイトで公開されてるのを発見。ほかにも黄金時代の古典ミステリを多数紹介しているので、ご覧になってみてください。


 なお、『クイーンの定員』から作品を選ぶに当たって、サイト「私立探偵小説:風読人(ふーだにっと)」の一覧表やコメントを参考にさせていただきました。




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