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翻訳者:wilder
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プリンス・ザレスキーの事件簿
M・P・シール
訳者あとがき・作品作家について
オーブン一族()→完成品はこちら
プリンス・ザレスキーの運命を思い起こすといつでも悲痛な思いに駆られる――まばゆい王座を汚しようもない、あまりにも一途な、あまりにも不運な恋の犠牲者だった。母国から当然のように追放され、残党たちから自発的に亡命した! 流れ星のように不気味な不可解さのうちに世を捨てたので、世間はすぐに詮索しなくなった。見るからに正義感が強く熱血漢の私だって、忙しい最中には彼のことを忘れかけていた。国中が頭をひねった〈ファランクスの迷宮〉と呼ばれた事件のあいだ、私は繰り返し彼のことを思い返した。世間の注目が事件から去った晴れた春の日にさえ、彼の庵を思い描いて、結末には陰謀が渦巻いているのではないかと無意識のうちに疑ってしまったのかもしれない。
日暮れ時になって友人の鬱々たる住居に到着した。森の中に孤高にそびえ立つ時代がかった大邸宅だ。私は陽のほとんど射さないポプラや糸杉の並木沿いに近づいていった。廃れた馬小屋(あまりにも荒れはてていて停車する余地などない)を目にしながら道を通り過ぎた。古い聖ドミニコ教会の荒涼とした聖具室にやっとのことで馬車を停めると、夜のあいだは領地の裏の牧草地に入れておこうと馬を放した。
表口のドアを押して中に入ると、この頑固者を寂れた暗がりで終日過ごす気にさせた辛気くさい嗜好に驚かずにはいられなかった。まるであらゆる天分、文化、輝き、権力を埋葬したというマウスロス廟のように見えた! ホールはローマの庭園様式で、中央にある水をたたえた四角いプールからは、のろまでデブの鼠があげた弱々しい悲鳴が聞こえた。壊れかけた大理石の階段を使って広間を囲む回廊に上ると、あちこちの階段や長い廊下沿いの部屋――どれも一級の部屋だ――の前を通って、迷路みたいな建物のゴールを探した。むき出しの床から埃のかたまりが舞い、私はむせかえった。遠慮のないこだまが跳ね回り、暗闇のなかで私の足音に答えた。建物はいっそう重苦しさを増した。
家具の跡もなく――人が住んでいた形跡もない。
かなり時間が経った頃、入口から遠く離れた塔の頂上近くにある、絨毯の敷かれた廊下にたどり着いた。天井からは三色のモザイク模様をしたランプが薄暗い紫、赤、桃色に照らしている。最後になって、蛇皮製のタペストリーで飾られたドアの両脇に、物言わぬ番兵のように立ちつくす二つの影に気づいた。ひとつは白い大理石でできたクニドスのアフロディーテのレプリカだ。もうひとつの方は黒人のハム【旧約聖書。黒人はノアの息子ハムの子孫とされている】の大きな姿だとわかった。プリンスのただ一人の従者だ。私が近づいていくと、勇猛で輝かしい漆黒の顔に知的な表情が広がった。私は頷くと、何もつくろわずにザレスキーの部屋に入った。
部屋は広くはないが、高さがあった。ドーム状の焼き付け屋根の真ん中にあるくすんだ金の香炉型ランプから放たれた緑の薄明かりの中でさえ、調和などまったくない豪華絢爛な家具に驚きの目を見張らされた。空気はこの明かりのにおいと眠気を誘う大麻の煙に満ちていた――イスラム教徒が用いるインド大麻をもとにしたもので――心を落ち着かせる習癖だと知っていた。カーテンはワイン色のビロードで、どっしりとした金の縁とナーシュダバッドの刺繍があった。プリンス・ザレスキーは学者や思想家も裸足で逃げ出す非の打ち所のない鑑定家として知られていた。それでも私は、彼の周囲を埋める骨董品の多さにただただ圧倒された。旧石器、中国の〈賢人〉、グノーシス派の宝石、ギリシア=エトルリア製のアンフォラ壺が並んでいる。全体の印象としては、幻想的な輝きと暗さが半々の不気味なものだった。フランドル派の真鍮が、不思議にもルーンの銘板や細密画、翼ある牡牛【ルカの象徴】、塗装された椰子の葉に書かれたタミル語の教典、宝石のちりばめられた中世の聖骨箱、バラモン神の隣に置かれている。部屋の一面はオルガンが占領していた。こうした古き時代の遺物が夢のような足取りで音を立て響くようにしたに違いない。私が中に入ると、見えないオルゴールの低く澄んだ響きが蒸気を揺らした。プリンスは、銀糸織りが床一面にこぼれた寝椅子にもたれていた。横には真鍮の三脚に乗せられた蓋の開いた石棺があり、古代メンフィスのミイラが横たわっている。腐ったか破れたかした茶ばんだ経帷子の上には、にやりと笑った恐ろしい剥き出しの顔がさらされていた。
特装本やアナクレオンの古本の復刻を捨てると、自身の〈道楽〉や私の〈不意打ち〉についておきまりの文句をぶつぶつ言いながら、ザレスキーは急いで立ち上がり温かく私を迎えてくれた。それから隣室にベッドを用意するようにハムに命じた。プリンス・ザレスキー流の出だしとストーリーテリングの、心地よい神秘的な話を楽しみ、私たちは一晩中を過ごした。夜のあいだ何度も、ザレスキーは自分で用意したまったく無害なハシーシみたいなインド麻薬の調合物を私に勧めた。翌朝、簡単な朝食のあとで、私は訪問した目的に取りかかった。ザレスキーはトルコ語のビニーシュをまとめて寝椅子に寝そべると、初めのうちは少し疲れたように、指を組んで私の話を聞いていた。目は古代の隠者や占星術師のように青く弧を描き、月光のような緑の明かりが、もともと青ざめていた顔を照らしていた。
「ファランクス卿を知ってますよね?」私は訊いた。
「〈あっち〉で会ったことがある。息子のランドルフ卿にもペテルホフ宮殿と、冬の宮殿でも会ったことがあるよ。背が高かったな。髪が長く、変わった車に乗っていた。とても気が強く――ふたりともよく似ていた」
私は持参してきた古新聞の束と見比べながら話を続けた。目の前に事件を差し出したのだ。
「父親は」私は言った。「ご存じの通り、前政府の高官で、政界の大物の一人でした。いくつかの学会で会長も務めていて、現代倫理学の著書もあります。息子は見る間に外交団で出世し、近頃(厳密に言えば|家柄が違う《ウンエーブンビルティヒ》のですが)モルゲニッピゲンの王女《プリンツェシン》シャルロッテ・マリアンナ・ナタリアと婚約しました。紛う方なきホーエンツォレルン家の血を引く家柄なんです。オーヴン家は由緒ある名家でしたが、――とりわけ近年――裕福ではありませんでした。ところがランドルフが王女と婚約してすぐに、父親がイギリスとアメリカのいろんな事務所に莫大な保険をかけ、今や不名誉な貧窮は一族から取り除かれました。六ヶ月前、父子はそろってさまざまな職を辞しました。もちろん今の話は全部、あなたがまだ新聞を読んでないと仮定したうえで、お話ししてるんですが」
「最近の新聞の」ザレスキーが言った。「ほとんどは、今のわたしに耐えられるものじゃない。今の話はまるで聞いたこともなかった、本当のことだ」
「ええ、で、ファランクス卿は、お話ししたとおり仕事盛りに地位を捨て、邸宅のひとつに隠遁しました。何年も前、ファランクスとランドルフは血統について些細なことで容赦のない大げんかをして、それ以来口をきいてませんでした。なのに父親が引退して少しすると、インドにいた息子のところに手紙が届いたのです。プライドが高くわがままなふたりが仲直りするきっかけになりそうな、実に素晴らしい手紙でした。次いで正式な電報が来て、それは確実なものになりました。こう書かれていました。
『戻レ シュウエンノ兆シ キタリ』
すぐにランドルフはイギリスに帰国し、その三ヶ月後、ファランクス卿はなくなりました」
「殺されたんだね?」
確信に満ちたザレスキーの言葉に私は困惑した。断定なのか質問なのか判断しかねたのだ。
困惑が顔に出たに違いない。すぐにザレスキーが続けた。
「君の態度から簡単に推理できるよ。何年も前に予言することだってできたかもしれない」
「予言――何をです? ファランクス卿の殺害じゃありませんよね?」
「そういったことだよ」笑いながら答えた。「だが続けよう――君が知っている事実を話してくれ」
プリンスはよくこういったなぞめいた言葉を口にする。私は話を続けた。
「ふたりは再会し、和解しました。だけど真心も愛情もこもってはいない和解でした――真鍮の柵越しの握手というわけです。握手だって見せかけだけのものですよ。素っ気ない挨拶を交したことさえなかったんですから。だけど姿を見ることはほとんどできませんでした。ランドルフがオーヴン館に到着するとすぐに、父親は完全な隠遁生活に引きこもってしまったのです。館は三階建てで、最上階には寝室と、第一図書館、応接室などがあります。一階には食堂などの普段使う部屋に加えて、もうひとつ図書館があります。図書館のバルコニーに出ると(家の片翼が)見渡せ、振り返れば芝生の中に花壇が見えます。一階の小さな図書館には今は本がなく、伯爵の寝室になっています。
そこに移りそこで暮らしてから、伯爵はほとんど外に出なくなりました。ランドルフはというと、すぐに図書館の上の部屋に移り住みました。使用人はほとんど解雇され、悪い兆しだという驚きと静かな予感が残された使用人にも影を落としました。館で音を立てることは禁止され、どんなわずかな騒音でも、何が原因かと主人に詰め寄られることになりました。一度使用人がファランクス卿の部屋とは正反対にある食堂で夕食をとっていると、スリッパに部屋着姿のファランクス卿が怒りで顔を紫にして戸口に現れ、ナイフとフォークの立てる音を抑えないなら全員ドアの外に放り出すと言って脅したことがあります。卿は家人に恐れられ、声の響きは今や恐怖の的でした。食事は部屋に運ばれます。注意しておくことは、卿は以前は味にうるさくなかったのですが、今では――どこへも行かない生活のせいでしょう――凝った料理を出せと言い出しました。こうした細かいことをお話しするのは――ほかにも細かなことをお話しするつもりです――その後起こった悲劇に少しでも関係があるからではなく、私が知っていることであり、知っていることはすべて話すようにとあなたに言われたからに過ぎません」
「ああ」ザレスキーは気怠げに一言答えた。「君は正しい。聞いたのが一部だけだったとしても――そのすべてを聞きたいんだ」
「ランドルフは少なくとも一日に一度は伯爵のところに顔を出していたようです。引退しても、ほとんどの友人がランドルフはまだインドにいると思っていました。これが漏れ聞いた唯一の私生活です。もちろんご存じの通りオーヴン家というのは頑固で保守主義の気むずかし屋で通ってます。私もそう思いますね。今までに注目を浴びたイギリスの家系の中でも、この点では際立ってます。信じられますか? ランドルフは現職の議員に反対して、次の選挙にはオーヴンの自治区の過激派として立候補しようとしたんです。三つの市民集会で演説し――地方紙に載ってました――政治的変節を公式に認めました。その後バプテスト教会の建設に着手し、メソジスト派のお茶会を主催し、村中の労働者の悪条件に異常な興味を示すと、オーヴン館の最上階の部屋を教室にする準備を始め、週に二晩は地元民を集めて基礎力学の授業を詰め込み始めました」
「力学!」一瞬、体を起こしてザレスキーが叫んだ。「農民に力学だって! なぜ化学の基礎じゃないんだ? なぜ植物学じゃない? なぜ力学なんだ?」
「その点は重要じゃありません。こうした人物の奇行には説明なんかつきませんよ。運動と力の簡単な法則にも無知な若者に、知識を与えたかったんでしょう。それよりも、舞台には新たな人物――すべての主役――が登場します。ある日、オーヴン館を一人の女性が訪れて、主人に会わせろと告げたのです。強いフランス訛りがありました。中年とはいえ、黒い瞳、白皙の美人でした。派手な安っぽいぴかぴかの服を着て見せびらかしていました。髪は乱れ、態度は淑女のものではありません。言うこと為すこと激しく、がさつで、落ち着かない。従者は立ち入りを拒否しました。ファランクス卿は、と従者は言いました、おりませぬ。女性は激しく言い通し押しのけたので、無理矢理追い出さねばなりませんでした。主人の声が聞こえていたあいだじゅう、異常な声で充血した目で通路から抗議を吠えていました。激しい身振りで、ファランクス卿と全世界に復讐を誓っていました。あとで彼女はリーという近隣の村に居を構えていると知れました。
「この女性は――モード・シブラという名でしたが――その後も立て続けに三度、館を訪問してます。そのたびに訪問を拒否されました。ところがですね、ランドルフに報せるべきだと考えられたわけです。ランドルフが言うには、戻ってきたら会うかもしれない、と。このスリック(slic?)は翌日にでした、そして密かに長い話し合いが持たれたのです。女性の声は、怒って抗議しているようだったと使用人のヘスター・ダイエットが聞いている。ランドルフは低い声でなだめようとしているようだったそうです。フランス語で話していたので、内容はまったくわかりません。
やっと出てくると、さっそうと頭を反らし、以前に立ち入りを拒否した従者に向って勝ち誇ったように下卑た笑いを見せました。再訪したいと求めたのかどうかはわかりませんでした。
「ですが館の囚人との関係は終わりではなかった。またもヘスターが見たのです。ある夜、公園を遅くに負担を作っていると(えっちらおっちら・難儀を負っていると)、後ろに藪の忍び寄った木陰のベンチで二人の人物が話しているのが見えました。謎の女性とランドルフでした。この使用人の証言によると、ほかの待ち合わせ場所まであとをつけて、手紙入れの中に、ランドルフの手になるモード・シブラ宛の手紙を見つけました。そのうちの何通かは後ほど実際に見つかってます。なにしろ、この交際に夢中になっていた。そのせいで新しい政治的改宗の過激な熱意の奔流を妨げていたようでした。逢い引きは――常に闇に隠れて行われた。けれど聡いヘスターの目には筒抜けでした――科学の講義と重なることもしばしばで、そんな時は講義の方を先延ばしにした。そんなわけで徐々に回数も減っていき、とうとう休講も同然でした」
「君の話は不意に面白くなるね」ザレスキーが言った。「だが発見されたランドルフの手紙――その内容は?」
私は読み上げた。
「マドモワゼル・シブラ――あなたのために、父に対し最大限の努力をしています。ですがいまだに意見を変える気配はありません。あなたに会う気にさせるだけなのに! ところがご存じのように、頑固な人間ですから。あなたのために誠心誠意努力していることをおわかりください。また同時に、状況が微妙なものであることも認めなくてはなりません。現在のファランクス卿の遺言であれば、充分に安心してていい。ですが父は――おそらく四、五日のうちに――今にも書き換えそうなのです。あなたがイギリスに現われたときの父の怒りようからすると、新しい遺言のもとでは、あなたには一サンチームも受け取れません。
ですがそうなる前に、何か良いことが起こることを期待することです。そのあいだ、あなたのお怒りが理性の限界を超えないことを望みます。
あなたの誠実な ランドルフ」
「気に入った!」ザレスキーが叫んだ。「男らしい率直な調子に気づいたかな。だが事実だ――真相は? 伯爵は書かれたあるとおりに新しい遺言を作ったのかな?」
「いいえ――ですがそれは伯爵の死が介入したからです」
「古い遺言では、マドモワゼル・シブラに財産が与えられると?」
「ええ――少なくともそれは正しかった」
苦痛の影がプリンスの顔をよぎった。
「さてそれでは」私は続けた。「終幕も近づいてきました。イギリス貴族の一人に暗殺者の魔の手が伸びたのです。今読んだ手紙は、一月五日にモード・シブラ宛に書かれたものです。事が起こったのは六日、ファランクス卿は(さらに)一日中部屋を留守にして、熟練工が改修目的で部屋に通されました。卿が家を出る際に、どういう種類の工事なのかヘスター・ダイエットがたずねたところ、バルコニーに面した窓を特別注文していたそうなんです。泥棒対策にはその方がいいということで、そのころ近隣で泥棒が数件発生していたんですね。ところが突然の死によって、悲劇の起こる前、証言を耳にできなかった。次の日――七日です――ヘスターがファランクス卿に夕食を運んでいくと、なぜだかわかりませんが(こちらに背中を向けて、暖炉のそばで揺り椅子に座っていたんですから)、ファランクス卿は『酔いつぶれている』と思ったんだそうです。
「八日、重大なことが起こりました。伯爵がついにモード・シブラに会う気になったのです。朝のあいだじゅう、手には自らの意思を告げる手紙がありました。ランドルフはその手紙を配達人に手渡しました。この手紙も公開されています。読みますね。
「モード・シブラ――今夜暗くなってから来るかもしれない。家の南側に向かい、バルコニーに上れば、開いた窓から部屋に入れる。ただし覚えておけ。何も期待するな。今夜を最後に、心の中から永遠に君をぬぐい去るつもりだ。だが君の話は聞こう。でたらめだということは初めからわかっているが。この手紙は破棄しろ。
ファランクス」
話を進めるにつれ、プリンス・ザレスキーの顔に少しずつ独特の表情が現われたのに気づいていた。異常な好奇心としか言えないような表情に、小さく鋭い顔を歪ませた――短気で、傲慢で、強い好奇心だ。瞳孔がすぼまり、二つの燃える光彩の真ん中で点になった。鋭い歯がきしりをあげた。以前に一度、こんなふうに興奮しているのを見たことがある。そのときは、消えかけた象形文字で埋め尽くされた古代人の石版をつかんでいた――ぎゅっと握りしめていたため指が鉛色になる――探求の瞳を燃え立たせながら、夢中になって一心に調査していた。ついにある種の魔術的な天才により、他人の目から秘されていた奥義を解読したようだ。全身全霊をかけた勝利に、青ざめてぐったりと寄りかかった。
ファランクス卿の手紙を読んだときも、私の手から切り抜きを奪い取ると、文章に目を走らせた。
「教えてくれ――結末は」
「モード・シブラは」私は続けた。「こうして伯爵に招かれましたが、約束の時間には現われませんでした。朝早くに村の下宿を出ると、どんな用事があったのか、バスの町に向かったのです。ランドルフも同じ日に、正反対のプリマスに向かいました。翌朝、九日に戻ってくると、すぐにリーに向かい、シブラが泊っていた宿の管理人と話を始めました。部屋にいるかどうか、出て行くと話していなかったかどうか。さらに荷物を持っていたかどうか。まさにそうでした。それにすぐにイギリスを発ちたいと言っていたことも知らされました。ランドルフはすぐに館に向かった。この日ヘスター・ダイエットは、伯爵の部屋にたくさんの宝石が散乱していることに気づきました。ファランクス卿夫人が生前に時折り身につけていた、古代ブラジルのティアラでした。ランドルフが――そのときは家にいました――ファランクス卿がたくさんの家宝と一緒に部屋に持っていっていたんだと口にしたことで、さらにヘスターの注意を惹くことになります。屋敷の周りの不審者に気づくかもしれないからと、ヘスターはその事実をほかの使用人に報せました。
「十日、父と息子は終日部屋にこもっていました。ただし息子は食事に降りていきましたが。そのときにも部屋に鍵をかけるのを忘れませんでした。伯爵の食事を手に取ると、父は重要な書類を書いているから、使用人の姿で気を散らしたくないと言っていました。午前中、ヘスター・ダイエットはランドルフの部屋から大きな物音を聞きました。家具を移動しているような音です。ドアをノックするもっともらしい口実を見つけたのですが、もう一度邪魔するには至らないと命じられました。翌日ロンドンに旅立つから、服を詰めるのに忙しいんだとか。ランドルフが服を詰めているという明らかにおかしな光景を目にし、ヘスターの好奇心は頂点まで沸き立ちました。その後の行動を見れば明らかです。午後、村の少年が、八時に科学の講義をするから仲間を集めるように言われました。そして波乱の日は続きます。
「さて一月十日の午後八時までたどり着きましたね。その晩は暗く風も強かった。雪もまばらに降っていましたが、その頃にはやんでいました。階上の部屋ではランドルフがダイナマイトの成分を熱心に説明しています。その下の部屋にはヘスター・ダイエットがいました――ヘスターは苦心してランドルフの部屋の鍵を手に入れて、上に行って留守なのをいいことに調査しようとしていました。下にいるファランクス卿は間違いなくベッドの中、おそらく眠っているでしょう。ヘスターは恐れと興奮に震えながら、片手にか細い明かりを持って、もう片方で慎重に明かりを囲っていました。風は強く、突風が軋る古窓の隙間越しにすすり泣きます。瞬く影が絞首刑囚のように伸び、死の恐怖におののきました。部屋中が大荒れなのを目にした途端、激しい風が炎を吹き消されたのは、禁域にたたずむ者にとっては、どん底の恐怖だったに違いありません。と、その瞬間、真下からはっきりとした鋭い銃声が鳴り響きました。そうなると石になりはて、動くことができません。そのあいだも麻痺した感覚が――これは誓ってます――何かが部屋で動かされているのを感じたそうです――どうも自分で動いているようで――真理たる自然の法則に真っ向から逆らって動いているようでした。幽霊を見たのではないか――不思議なものでした――白い球形で――『馬鹿でかい綿の固まりみたい』と言っていましたが――それが床から立ちのぼり、ゆっくりと上に向かっていきます。見えない力が操作しているようでした。超自然の精神的打撃が、合理的な理性を奪い取りました。腕を前に投げ出して、鋭い悲鳴をあげると、ドアに駆け寄りました。けどれたどり着けなかった。途中で何かにつまずいて、あとは何もわかりません。一時間後、ランドルフの手によって部屋の外に運び出されましたが、右の脛が折れて血が滴っていました。
「上の部屋でのことです。銃声と女性の悲鳴が聞こえました。いっせいに目がランドルフに注がれた。説明用の機械装置の影に立っていました。支えていたんですね。顔の筋肉作用を説明しようとしていたんですが、何も言わない。しばらくはあえぐことしかできませんでした。『何か聞こえなかったか――下から?』 生徒はいっせいに答えました。『聞こえました』 それから一人が蝋燭を持って、ランドルフを従えてぞろぞろ歩き出しました。怯えた使用人が、何か恐ろしいことが家で起こったという報せにあわてています。しばらく進みましたが、階段の窓が開いていて、明かりが吹き消されました。別のを持ってくるまでしばらく待つはめになりましたが、ふたたび歩き出しました。ファランクス卿の部屋の前に着くと、ドアには鍵がかけられていたので、ランタンを持ってくると、ランドルフは先頭に立って家を横切り庭に出ました。ところがもう少しでバルコニーというところで、少年の一人が雪の中に小さな女性の足跡を見つけました。動くなと命じると、ランドルフは雪で消えかけた別の足跡を指さしました。雑木林の辺りからバルコニーまで伸びていて、最初の跡と交わっています。消えかけた方のは大きな足跡で、どっしりした職人のブーツの跡でした。ランタンを花壇の上に差し出すと、踏みにじられているのが見えました。誰かが、職人が身につけるようなありきたりのマフラーを見つけました。逃げ出した泥棒が落していった指輪と首飾りも、雪に埋もれかけているのをランドルフが見つけました。さあ問題の窓です。ランドルフは後ろから、入るよう命じました。生徒は窓が閉まっているから無理だと尻込みします。この答えに、ランドルフは驚いたのか恐れたのか、がっくり来たようでした。つぶやいているのを誰かが聞きつけています。『何てことだ、何が起こったんだ?』 少年の一人が忌まわしい戦利品を拾ってくると、恐怖はますます高まりました。窓の真下で見つけたものです。人間の手、三本指の骨でした。またも苦しみに呻きます。『くそっ!』 それから動揺を抑えると、窓に進んだところ、窓の留め金が力任せにねじ切られているのに気づきました。押しただけで窓は開く。だからそうして、中に入りました。部屋は暗かったけれど、窓辺の床にシブラが意識を失っているのを見つけました。生きてはいましたが、気を失っていました。右手は大きなナイフの柄を握り、血にまみれており、左手の指は、欠けていました。宝石は盗まれていました。ファランクス卿はベッドに横たわったまま、布団の上から心臓を一突きされていたのです。その後、弾丸が頭に撃ち込まれているのも発見されました。説明しておくべきでしょうが、窓枠に渡らせた鋭い刃が、シビラの指を切断したのははっきりしてます。件の職人が数日前に仕掛けておいたものでした。窓枠のいちばん低いところの内側に、秘密のバネが仕掛けられていて、どれかを押すと窓が下がるというわけです。秘密を知らない者は、バネに手をかけずに外に出ることはできな。そうして棘のある窓枠は、後ろめたい手に突如として死を宣告するという仕掛けです。
「もちろん裁判がありました。死の恐怖を帯びた被告は、陪審員が結論を胸に戻ってくると、殺人を告白する叫びをあげたのでした。『有罪』と評決を述べる前でした。ただしファランクス卿を射殺したことは否定した。宝石を盗んだことも否定しました。実際、ピストルも宝石もどこからも見つかりませんでした。というわけで、不思議な点がいくつも残されたのです。泥棒は悲劇の中でどんな役割を果たしたのか? シブラと共犯だったのか? オーブン館の住人の一人がとった奇妙な行動には、何の重要性も隠されていないのか? 無責任な推測が国中に乱れ飛びました。仮説は唱えられた。ところがあらゆる点を説明できる仮説など無かった。だが混乱は静まりました。翌朝、モード・シブラが絞首台で人生を終えたのです」
これで話は終わりだ。
ザレスキーは無言で長椅子から起きあがり、オルガンまで歩いた。主人の気まぐれを熟知しているハムが後ろから手伝い、ドリーブの『ラクメ』から、果てしない感情を旋律にして弾き始めた。座ったまま、頭を胸に垂れ、幻想的にメロディを歌い上げる。やっと立ち上がると、額の広がりは澄みわたり、口元には微笑んではいたが静かなる厳かさがあった。象牙の書き物机に向かうと、何やら紙に書き付け黒人に手渡すと、わたしの馬車を使って近くの電報局まで急いでメッセージを運ぶように命じた。
「あの伝言は」ふたたび長椅子に腰を据えると言った。「悲劇の結論だ。間違いなく、歴史の終幕に変化をもたらすだろう。さてシール、腰を下ろしてこの問題を話し合おうじゃないか。君自身の説明に倣うと、問題点は明らかだ――事実の全体像を一望のもとに捉えていないんだよ。原因、結果を、起こったとおりに捉えてない。混乱の中から、筋道や均整を見つけ出せないかどうか試してみよう。悪が行われた。すると社会では、ことを不透明にさせたりとか関係を明らかにしようとか罰を与えようとか、それが義務だ。だが何が起こる? 世間は臨機応変にはなれない。結局は、曖昧なものをさらに曖昧にさせるだけで、人間らしい感覚で犯罪を見ることができない。罰することもできない。さて君も認めるだろう。何が起こったにせよ、不幸な間違いだったのだ。不幸な、というのは本質的にではなく、その意義においてだが。正しい原因があるに違いないのだ。些細でもなく特別でもない誤った捜査によるものではなく、あまねく世界に欠けている原因だ――文化の欠如とは呼べんかね? だが間違ってないだろうか。一般的な知識を特別な用法に用いているかもしれん。いつになるか知れぬがそんな用法が疑いの持てぬ普遍的なものになるかもしれない。私というのはよく考えるんだ、文明がいつ始まったか――確かにあるとき始まるのだろうが――世界中の人類が信じることをやめたとき、羊どもは批判的になり、人間の国というものは、一万年後の文化の水先案内となるだろう。だが人類が地上に生まれてたかだか数百年では時間もないし、そんな場所がある気配すらない。個としては――そう、ギリシアのプラトンとか、イギリスのミルトンやバークレイ司教とか――だが人類としては、ありえぬ。この二つの国のほかにはいないな。理性とは、人間が絶望で愚かにならぬことだ。人間がかかわっている〈時〉というものは無論始まったばかりだが。もちろん人間の完全なる世界の創造のためには、まずは文化体制が必要で、創造にかかる以上の時の輪を刻むことになる、石炭層みたいなものだ。おしゃべりな人間――君の大事な『小説』家の一人だが、ともかく、|新しいもの《ノヴェルティ》がどこにもない小説《ノヴェル》というものがあれば――生きている時代の重要性をふくらませることもなく考えもしない人間だというのは明らかだ。アウグストゥスやペリクレスになぞらえられる大文化の時代でもだ。私がそいつの頭骨を人類学上の興味にかたまった目で調べると、とんまな奴は口もきけずにぶっ飛ばされる。そして大急ぎで取りかかるわけだ。たいがいは無知ゆえに、神は悪魔でも馬鹿でもない理性の時代だからこそペリクレスよりも賢いというわけだ。だが三千年後の人類の感覚は、どうなっていることやら。すべてが一部より進化してるかな、さなぎではなく蝶か? だが仮説だ。だからとにかく深い驚きと軽蔑を感じること大だというわけだ。
途中まで。とりあえず。03/10/02
文化、それがなにがしかの意味を持つなら、音楽的な人間による芸術という意味以外にない――封泥、いわばパンの笛、あるいは戦勝の楽器を鳴らしにダイナマイトで行進というべきか。『横になり手際よく満足する芸術』のように定義されたものはどんな形であれ、今となっては原始的すぎる――Opic(オーピック?Opie?)すぎる――青ざめた唇から笑みを奪い去る――丸裸の人類。こんな定義があらゆる場所で疑いも持たずに受け入れられているという事実は、暗示かも知れぬ。結局そうなるべく形の真理(ßäÝá=ギリシア語=idea)とは、遙かなのだ――遙か、おそらくは、時も場所(æon=ギリシア語?=zon)も――一般概念となったところからは。原初以来、解決に近づいたことなどかつてない生の難問だ、いわんや微妙かつ複雑な問題なのだ。ところで君らの集団は黙って犯罪を生み出すだけでなく(蚤のようだ)、下等生物もいまだ真に動物をとらえるほどではないぞ。
03/10/03
[作品について・訳について]
安楽椅子探偵の走り。『クイーンの定員』に選ばれた。難解で知られる。
変な単語を使ったり、無意味なペダントリーの宝庫だったり、コンマが多すぎて何言ってんだかわかんなかったり、ネットに公開されてるテキストは誤植だらけだけどいったいどこまでが誤植なのか判断できなかったりしますが、はじめのうちはできるだけ雰囲気を伝えて訳そうと努力だけはしてきたのですが、だんだん意味だけ追うようになってきて、とうとうここに来てザレスキーの改行無しペダントリー蘊蓄攻撃!にあえなくリタイア。
それでも半分近く。これからも続けていくつもりですが、とりあえず試訳としてここに載せときます。
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