この作品の翻訳権は消滅していますが、元著作権は存続していますのでご注意ください。
翻訳に関しては、訳者・著者に許可を取る必要なしに、自由に複製・改変・二次配布・リンク等おこなってかまいません。
翻訳者:wilder
ご意見・ご指摘はこちらか掲示板まで。

New  リンク  翻訳連載blog  読書&映画日記  掲示板  仏和辞典

HOME  翻訳作品   戻る   進む

プリンス・ザレスキーの事件簿

M・P・シール


訳者あとがき・作品作家について


オーブン一族


 プリンス・ザレスキーの運命を思い起こすといつでも悲痛な思いに駆られる――まばゆい王座を汚すべくもない、あまりにも一途な、あまりにも不運な恋の犠牲者だった。成り行きから祖国を追われ、自ら他人を避けた! 流れ星のように不気味で不可解な世を捨てて暮らしたので、世間はすぐに詮索しなくなった。その公明正大な心の働きを知る私ですら、忙しい最中には忘れかけていた。だが国中が頭をひねった〈ファランクスの迷宮〉事件のあいだは、幾度も思い出す羽目になった。世間が事件を忘れた春の晴れ間にさえ、暗い事件の結末を無意識に疑っていたせいだろうか、隠棲地へと引き寄せられていた。

 日暮れ時には友人の閑居に到着した。森深くに独り聳える前世紀の大邸宅が、弱い陽射しの中、ポプラや糸杉の並木沿いに近づいてくる。並木道を通り過ぎ、廃厩舎を探したが(見つかったのは停車しようがないほど荒れはてたものだけ)、結局は古い聖ドミニコ教会のうらぶれた聖具室に馬車を停めて、夜のあいだは領地裏の牧草地に入れておこうと馬を放した。

 玄関のドアを押して中に入ると、これほど侘びしい僻処で終日過ごしたがる頑固者の、陰鬱な嗜好に驚かずにはいられなかった。あたかも、あらゆる才能、文化、輝き、権力が地中深く眠っているマウスロス廟のようだった! ホールはローマの庭園様式で、中央にある満水の四角いプールからは、のろまでデブの鼠のあげる弱々しい悲鳴が聞こえた。壊れかけた大理石の階段を使って広間を囲む回廊に上ると、あちこちある階段や長い廊下沿いの部屋――すべて一級の部屋――の前を通って、迷路みたいな建物のゴールを探した。裸の床から舞い上がる埃の山でむせ込んだ。無遠慮なこだまが、暗闇のなかで足音に答えて跳ね回り、家の重苦しさに拍車をかけた。家具の跡もなく――人が住んでいた形跡もない。

 しばらくすると、遠塔の頂上近くにある、絨毯敷きの廊下にたどり着いた。天井からはモザイク模様の三色ランプが、薄紫、赤、桃色の光を落としている。蛇皮のタペストリーで飾られたドアの両脇に、物言わぬ番兵のように立ちつくす二つの影にもほどなく気づいた。ひとつは白大理石でできたクニドスのアフロディーテの複製品。もうひとつの方は黒人ハムの巨体だった。プリンスのただ一人の従者だ。近づいてゆくと、勇猛で輝かしい漆黒の顔に知的な表情が広がった。私は頷くと、何もつくろわずにザレスキーの部屋に入った。

 部屋は広くはないが高い。ドーム状の焼き付け屋根の真ん中にあるくすんだ金の香炉型洋燈から放たれた緑の薄明かりの中でさえ、調和などまったくない豪華絢爛な家具に驚きの目を見張らされた。空気は、このランプの薫りと、眠気を誘う大麻の煙に満ちていた――イスラム教徒が用いるインド大麻をもとにしたもので――友人が心を癒す際の決まり事なのだ。カーテンはワイン色のビロードで、どっしりとした金の縁とナーシュダバッドの刺繍がある。プリンス・ザレスキーは学者や思想家も裸足で逃げ出す優れた鑑定家であった。そうは言っても周囲を埋める骨董品の数々にただただ圧倒される。旧石器、中国の〈賢人〉、グノーシス派の宝玉、ギリシア=エトルリア製のアンフォラ壺が並んでいる。総合的に見ると、幻想的な輝きと暗さが半々の不気味な印象を受ける。フランドル派の真鍮が、不思議にもルーンの銘板や細密画、翼ある牡牛、塗装された椰子の葉に書かれたタミル語の教典、宝石のちりばめられた中世の聖骨箱、バラモン神の隣に置かれている。壁面の一つをオルガンが占領していた。この一室にオルガンの音が轟くと、古き時代の遺物たちが夢のような足取りで音を鳴らすに違いない。部屋に入ると、どこからか聞こえるオルゴールの低く澄んだ響きが蒸気を揺らした。プリンスは寝椅子にもたれ、銀糸織りのガウンが床一面に広がっていた。傍らには真鍮の三脚に支えられた蓋の開いた石棺があり、古代メンフィスのミイラが横たわっている。腐ったか破れたかした茶ばんだ経帷子の上には、にやりと笑った恐ろしい剥き出しの顔がさらされていた。

 ザレスキーは宝石つきパイプとアナクレオンの古紙復刻版を放り出すと、自身の〈道楽〉や私の〈不意打ち〉についておきまりの文句をぶつぶつ言いながら、急いで立ち上がって温かく迎えてくれた。そうして隣室にベッドを用意するようにハムに命じた。プリンス・ザレスキー流の語り出しと話術で、心地よい神秘的な話を楽しみながら、夜の大部分を過ごした。そのあいだ幾度となく、ハシーシに似た自家製の無害なインド麻薬の調合物を勧められた。翌朝、簡単な朝食を済ませると、訪問理由の一つであった話題に取りかかった。ザレスキーはトルコの刺繍の綴られた寝椅子に寝そべると、初めのうちは指を組んで少し疲れたように話を聞いていた。古代の隠者や占星術師のように目は青く転じ、月光のような緑の光が、元来青白い顔を照らしていた。

「ファランクス卿を知ってますよね?」

「〈あっち〉で会ったことがある。息子のランドルフ卿にもペテルホフ宮殿と、冬の宮殿でも会ったことがあるよ。背が高かったな。髪が長く、変わった車に乗っていた。とても気が強く――ふたりともよく似ていた」

 私は持参してきた古新聞の束と見比べながら話を続けた。目の前に事件を差し出したのだ。

「父親は、ご存じの通り前政府の高官で、政界の大物でした。いくつかの学会で会長も務めていて、現代倫理学の著書もあります。息子は見る間に外交団で出世し、近頃(厳密に言えば家柄が違うのですが)モルゲニッピゲンの王女シャルロッテ・マリアンナ・ナタリアと婚約しました。紛う方なきホーエンツォレルン家の血を引く家柄なんです。オーヴン家は由緒ある名家でしたが、――特に近年は――裕福ではありませんでした。ところがランドルフが王女と婚約してすぐに、父親がイギリスとアメリカのさまざまな機関に莫大な生命保険をかけていたので、一族は不名誉な貧窮からも抜け出しました。六ヶ月前、父子はそろって職を辞しました。もちろん今の話は全部、あなたがまだ新聞を読んでないと仮定したうえで、お話ししてるんですが」

「最近の新聞は耐えられるものじゃない。誓って初耳だよ」

「わかりました。ファランクス卿は、お話ししたとおり仕事盛りに地位を捨て、邸宅に隠遁しました。何年も前のことですが、ファランクス卿とランドルフは一族特有の頑迷さで些細な原因の大げんかをして以来、口をきいていませんでした。なのに父親が引退して少しすると、インドにいた息子のところに手紙が届いたのです。プライドが高くわがままなふたりが仲直りするきっかけになりそうな、実に素晴らしい手紙でした。続く正式な電報にははっきりと書かれていました。

『戻レ シュウエンノ兆シ キタリ』

 すぐにランドルフはイギリスに帰国し、その三ヶ月後、ファランクス卿は亡くなりました」

「殺されたんだね?」

 確信に満ちたザレスキーの言葉には困惑させられた。断定なのか質問なのか判断しかねたのだ。

 困惑が顔に出たに違いない。すぐにザレスキーが続けた。

「君の態度から簡単に推理できるよ。何年も前に予言することだってできたかもしれない」

「予言――何をです? ファランクス卿の殺害じゃありませんよね?」

「そういったことだよ」笑いながら答えた。「だが続けよう――知っている事実を話してくれ」

 プリンスはよくこういった謎めいた言葉を口にする。私は話を続けた。

「ふたりは再会し、和解しました。だけど真心も愛情もこもってはいない和解でした――真鍮の柵越しの握手というわけです。握手だって見せかけだけのものですよ。素っ気ない挨拶を交したことさえなかったんですから。だけど姿を見る機会はほとんどありませんでした。ランドルフがオーヴン館に到着するとすぐに、父親は完全な隠遁生活に引きこもってしまったのです。館は三階建てで、最上階には寝室と第一図書館、応接室などがあります。一階には食堂など普段使う部屋に加えて、もうひとつ図書館があります。図書館のバルコニーに出ると(家の片翼が)見渡せ、振り返れば芝生の中に花壇が見えます。一階の小さな図書館からは本が運び出され、伯爵の寝室になっています。そこに移って暮らすようになってから、伯爵はほとんど外に出なくなりました。ランドルフはというと、すぐに図書館の上の部屋に移り住みました。使用人はほとんど解雇され、残った使用人も、これが何の前兆なのかを静かに予想し不思議がっていました。館で音を立てることは禁止され、どんなわずかな騒音でも、何が原因かと主人に詰め寄られることになりました。一度、使用人がファランクス卿の部屋とは正反対にある食堂で夕食をとっていると、スリッパに部屋着姿のファランクス卿が怒りで顔を紫にして戸口に現れ、ナイフとフォークの立てる音を抑えないなら全員ドアの外に放り出すと言って脅したことがあります。家中から恐れられ、今やその声は恐怖の的でした。食事は部屋に運ばれます。注意しておくことは、卿は以前は味にうるさくなかったのですが、今では――どこへも行かない生活のせいでしょう――凝った料理を出せと言い出しました。こうした細かいことをお話しするのは――ほかにも細かなことをお話しするつもりですが――その後に起こった悲劇に少しでも関係があるからではありません。私が知っていることであり、知っていることはすべて話すようにとあなたに言われたからに過ぎません」

「ああ」ザレスキーは気怠げに一言答えた。「君は正しい。必要なのが一部だけだとしても――すべてを聞きたいんだ」

「ランドルフは少なくとも一日に一度は伯爵のところに顔を出していたようです。こうして引退して暮らしながらも、ほとんどの友人にはまだインドにいると思われていました。この隠遁を破ったものが一つだけあります。何しろオーヴン家というのは頑固で保守主義の気むずかし屋で通っていたはずなんです。イギリスの一徹な一族の中でも、この点では際立ってます。それなのに信じられますか? ランドルフは来たる選挙でオーヴン区の革新派として、現職議員の対立候補に名を連ねたのです。三つの市民集会で演説し――地方紙の伝えるところによると――政治的変節を公式に認めました。その後バプテスト教会の建設に着手し、メソジスト派のお茶会を主催し、農夫の水準の低さに強い関心を持つと、オーヴン館の最上階の部屋を教室に設え、週に二晩は村民を集めて基礎力学の授業を詰め込み始めました」

「力学!」つと体を起こしてザレスキーが叫んだ。「農民に力学だって! なぜ化学の基礎じゃないんだ? なぜ植物学じゃない? なぜ力学なんだ?」

 話に興味をひかれたのがこれでやっとはっきりした。嬉しかったが質問には答えなかった。

「その点は重要じゃありません。こうした人物の奇行には説明なんかつきませんよ。運動と力の簡単な法則にも無知な若者に、知識を与えたかったんでしょう。それよりも、舞台には新たな人物――すべての主役――が登場します。ある日、オーヴン館を一人の女性が訪れて、主人に会わせろと告げたのです。強いフランス訛りがありました。中年とはいえ、黒い瞳をした白皙の美人でした。着古したのがわかる、派手で安っぽい服装をしていました。髪は乱れ、淑女とはいえない身なりでした。言うこと為すこと荒々しく、がさつで、好戦的です。従者は立ち入りを拒否し、ファランクス卿は出かけていると告げました。女性は激しく食い下がり従者を押しのけたので、無理矢理追い出さねばなりませんでした。主人の言葉を聞かされるあいだじゅう、目を充血させ異常な声で道路から非難を浴びせかけ、激しい身振りでファランクス卿と全世界に復讐を誓っていました。リーという近隣の村に宿をとっていることが後に知れます。

「この人物は――モード・シブラという名で――その後も立て続けに三度、館を訪問していますが、そのたびに断られています。ところがですね、ランドルフに報せるべき事態になったのです。またやって来たら会うかもしれないとのことです。それは翌日でした、二人は長いあいだ密かに話し合っていました。使用人のヘスター・ダイエットによると、女性の声は、怒って抗議しているように聞こえ、ランドルフは低い声でなだめようとしているように聞こえたそうです。フランス語で話していたので、内容はまったくわかりません。やっと出てくると、さっそうと頭を反らし、以前に立ち入りを拒否した従者に向って勝ち誇ったように下卑た笑いを見せました。ふたたび入館を求めることはありませんでした。

「ですが館の住人との関係は終わりではなかった。またもヘスターです。ある夜遅くに、公園を通って帰宅していると、木陰のベンチで二人の人物が話しているのが見えました。植え込みの後ろから忍び寄ってみると、それは謎の女性とランドルフでした。ほかの逢い引き場所まであとをつけたことと、手紙入れの中に、ランドルフの手になるモード・シブラ宛の手紙を見つけたことを、この使用人は証言しています。何通かは後ほど実際に見つかってます。確かにこの交際に夢中になり、そのせいで政策転換による熱い革新的活動はなおざりにされていたようです。密会は――常に闇に隠れて行われましたが、目敏いヘスターには筒抜けでした――科学の講義と重なることもしばしばで、そんな時は講義の方を先延ばしにしました。そんなわけで徐々に回数も減っていき、ついには休講も同然でした」

「君の話は不意に面白くなるね。だが発見されたランドルフの手紙――その内容は?」

 私は読み上げた。



「マドモワゼル・シブラ――父の気を変えるために最大限の努力をしています。ですがいまだに意見を変える気配はありません。あなたに会う気にさせるだけなのに! ところがご存じのように、頑固な人間ですから。あなたのために誠心誠意努力していることをおわかりください。また同時に、状況が微妙なものであることも認めなくてはなりません。現在のファランクス卿の遺言であれば、充分に安心してていい。ですが父は――おそらく四、五日のうちに――今にも書き換えそうなのです。あなたがイギリスに現われたときの父の怒りようからすると、新しい遺言のもとでは、あなたは一サンチームも受け取れません。ですがそうなる前に、何か良いことが起こることを期待することです。そのあいだ、あなたのお怒りが理性の限界を超えないことを望みます。
 あなたの誠実な ランドルフ」



「気に入った!」ザレスキーが叫んだ。「男らしい率直な調子に気づいただろう。だが事実は――真相は? 伯爵は書かれてあるとおりに新しい遺言を作ったのかな?」

「いいえ――ですがそれは伯爵の死が介入したからです」

「古い遺言では、マドモワゼル・シブラに財産が与えられると?」

「ええ――少なくともそれは正しかった」

 苦痛の影がプリンスの顔をよぎった。

「さてそれでは」私は続けた。「終幕も近づいてきました。イギリス貴族の一人に暗殺者の魔の手が伸びたのです。今読んだ手紙は、一月五日にモード・シブラ宛に書かれたものです。次の事態が起こったのは六日、ファランクス卿は一日を通して自室を移り、熟練工が改修目的で部屋に通されました。技師が家を出る際に、どういう種類の工事なのかヘスター・ダイエットがたずねたところ、バルコニーに面した窓を特別注文していたそうなんです。泥棒対策にはその方がいいということですが、そのころ近隣で泥棒が数件発生していたんですね。ところが悲劇の起こる前に急死したため、技師の証言は聞けなくなりました。次の日――七日です――ヘスターがファランクス卿に夕食を運んでいくと、なぜだかわかりませんが(こちらに背中を向けて、暖炉のそばで揺り椅子に座っていたんですから)、ファランクス卿は『酔いつぶれている』と思ったんだそうです。

「八日、重大なことが起こりました。伯爵がついにモード・シブラに会う気になったのです。午前中を費やして自らの意思を告げる手紙を書き、ランドルフがそれを配達人に手渡しました。この手紙も公開されています。読みますね。



「モード・シブラ――今夜暗くなってからここに来るがいい。家の南側に向かい、バルコニーに上れば、開いた窓から部屋の中に入れる。ただし覚えておけ。何も期待するな。今夜を最後に、心の中から永遠に君をぬぐい去るつもりだ。だが話は聞こう。でたらめなのは初めからわかっているが。この手紙は破棄しろ。
 ファランクス」



 話を進めるにつれ、プリンス・ザレスキーの顔に少しずつ独特の表情が現われたのに気づいていた。並はずれた探求心としか言えないような表情に、小さく鋭い顔を歪ませた――せっかちで、尊大で、強い好奇心だ。瞳孔がすぼまり、二つの燃える光彩の真ん中で点になった。鋭い歯がきしりをあげた。以前に一度、こんなふうに興奮しているのを見たことがある。そのときは、消えかけた象形文字で埋め尽くされた古代人の石版をつかんでいた――きつく握りしめていたため指が鉛色になり――探求の瞳を燃え立たせながら、夢中になって一心に調査していた。ついに魔術的な天才ともいうべきものが、他人の目から秘されていた奥義を解読したようだ。全身全霊をかけた勝利に青ざめ、ぐったりともたれかかった。

 ファランクス卿の手紙を読みあげたときにも、私の手から切り抜きを奪い取ると、文章に目を走らせた。

「教えてくれ――結末は」

「モード・シブラはこうして伯爵に招かれましたが、約束の時間には現われませんでした。朝早くに村の下宿を出ると、どんな用事があったのか、バスの町に向かったのです。ランドルフも同じ日に、正反対のプリマスに向かいました。翌朝、九日に戻ってくると、すぐにリーに向かい、シブラが泊っていた宿の管理人と話を始めました。部屋にいるかどうか、出て行くと話していなかったかどうか。さらに荷物を持っていたかどうか。持っていたそうです。それにすぐにイギリスを発ちたいと言っていたことも知りました。ランドルフはすぐに館に向かった。この日ヘスター・ダイエットは、伯爵の部屋にたくさんの宝石が散乱していることに気づきました。中にはファランクス令夫人が生前ときおり身につけていた、古代ブラジルのティアラもありました。ランドルフが――そのときは家にいて――ファランクス卿が家宝をまとめて部屋に持って行ったのだと告げたせいで、さらにヘスターの注意を惹くことになります。邸周辺で不審者を見つけた場合に備えて、ヘスターはその事実をほかの使用人にも報せました。

「十日、父と息子は終日部屋にこもっていました。ただし息子は食事に降りていきましたが。そのときにも部屋に鍵をかけ、自ら伯爵の食事を運びました。父は重要な書類を書いているから、使用人の姿で気を散らしたくないというのが理由です。午前のあいだランドルフの部屋から大きな物音が聞こえていました。家具を移動しているような音です。ヘスター・ダイエットはドアをノックするもっともらしい口実を見つけたのですが、二度と邪魔するなと命じられました。翌日ロンドンに旅立つから、服を詰めるのに忙しいんだとか。その後の行動を見れば明らかですが、ランドルフが自分の服を詰めているという完全に未知の光景を目にしたことで、ヘスターの好奇心は頂点まで沸き立ちました。午後には村の少年が、八時に科学の講義をするから仲間を集めるように指示されました。こうして波乱の日は続きます。

「さあ一月十日の午後八時までたどり着きましたね。その晩は暗く風も強かった。雪もまばらに降っていましたが、その頃にはやんでいました。階上の部屋ではランドルフがダイナマイトの成分を熱心に説明しています。その下の部屋にはヘスター・ダイエットがいました――ヘスターは苦心してランドルフの部屋の鍵を手に入れると、留守をいいことに調査しようとしていました。下にいるファランクス卿は間違いなくベッドの中、おそらく眠っているでしょう。ヘスターは恐れと興奮に震えながら、片手にか細い明かりを持って、もう片方で慎重に明かりを囲っていました。風は強く、突風が軋る古窓の隙間越しにすすり泣きます。瞬く影が絞首刑囚のように伸び、死の恐怖におののきました。部屋中が大荒れなのを目にした途端、激しい風に炎を吹き消されたのは、禁域にたたずむ者にとっては、どん底の恐怖だったに違いありません。と、その瞬間、真下からはっきりとした鋭い銃声が鳴り響きました。そうなると石になりはて、動くことができません。そのあいだ感覚が麻痺しながらも――そう誓っています――何かが部屋で動いているのを感じたそうです――どうやら自らの意思で動いているらしい――明らかな自然の法則に真っ向から逆らって動いているようでした。幽霊を見たと思ったそうです――初めて見るものでした――白い球形で――『馬鹿でかい綿のかたまりみたい』と言っていましたが――それが床から立ちのぼり、ゆっくりと上に向かっていきます。見えない力に操られているようでした。ヘスターは超自然の衝撃に、理性が奪われました。腕を前に投げ出して、鋭い悲鳴をあげると、ドアに駆け寄りました。けどれたどり着けなかった。途中で何かにつまずいて、あとは何もわかりません。一時間後、ランドルフに抱えられ部屋の外に運び出されましたが、右の脛が折れて血が滴っていました。

「上の部屋でのことです。銃声と女性の悲鳴が聞こえました。いっせいに目がランドルフに注がれました。説明用の機械装置の影に立っていたところです。装置を支えようと身を乗り出していたんです。顔の筋肉を動かして声を出そうとしましたが、声にならない。しばらくはあえぐことしかできませんでした。『何か聞こえなかったか――下から?』 生徒がいっせいに答えます。『聞こえました』 一人が蝋燭を持ってぞろぞろ歩き出した後ろを、ランドルフがついていきました。怯えた使用人が、何か恐ろしいことが家で起こったという報せにあわてています。しばらく進みましたが、階段の窓が開いていて、明かりが吹き消されました。別のを持ってくるまでしばらく待つはめになりましたが、まもなくふたたび歩き出しました。ファランクス卿の部屋の前にたどり着きましたが、ドアには鍵がかけられていたので、ランタンを持ってランドルフが先頭に立ち家を横切り庭に出ました。ところがもう少しでバルコニーというところで、少年の一人が雪の中に小さな女性の足跡を見つけました。動くなと命じると、ランドルフは雪で消えかけた別の足跡を指さしました。雑木林の辺りからバルコニーまで伸びていて、最初の跡と交わっています。消えかけた方のは大きな足跡で、どっしりした人夫の長靴の跡でした。ランタンを花壇の上に差し出すと、踏みにじられているのが見えました。誰かが、人夫が身につけるようなありふれたマフラーを見つけました。逃げ出した泥棒が落していった指輪と首飾りも、雪に埋もれかけているのをランドルフが見つけました。さあ問題の窓です。ランドルフは後ろから、中に入るよう命じました。生徒は窓が閉まっているから無理だと尻込みします。この答えに、ランドルフは驚いたのか恐れたのか、がっくり来たようでした。つぶやいているのを誰かが聞きつけています。『くそっ! どうなったんだ?』 少年の一人が忌まわしい戦利品を拾ってくると、恐怖はますます高まりました。窓の真下で見つけたものです。人間の手、三本指の骨でした。またも苦しみに呻きます。『くそっ!』 やがて動揺を抑えて窓に進んだところ、窓の留め金が力任せにねじ切られているのに気づきました。押しただけで窓は開く。だからそうして、中に入りました。部屋は暗かったけれど、窓辺の床でシブラが意識を失っているのが見えました。生きてはいましたが、気を失っていました。右手は大きなナイフの柄を握り、血にまみれており、左手の指は欠けていました。宝石は盗まれていました。ファランクス卿はベッドに横たわったまま、布団の上から心臓を一突きされていたのです。その後、弾丸が頭に撃ち込まれているのも発見されました。説明しておくべきでしょうが、窓枠に渡らせた鋭い刃が、シブラの指を切断したのは明らかです。件の技師が数日前に仕掛けておいたものでした。窓枠のいちばん低いところの内側に、秘密のバネが仕掛けられていて、どれかを押すと窓が下がるというわけです。秘密を知らない者は、バネに手をかけずに外に出ることはできない。したがって棘のある窓枠が、後ろめたい手に突如として死を宣告するという仕掛けです。

「もちろん裁判がありました。死の恐怖に怯えた被告は、陪審員が結論を胸に戻ってくると、殺人を告白する叫びをあげたのでした。『有罪』と評決を述べる前のことです。ただしファランクス卿を射殺したことは否定した。宝石を盗んだことも否定しました。実際、ピストルも宝石もどこからも見つかりませんでした。というわけで、不思議な点がいくつも残されたのです。泥棒は悲劇の中でどんな役割を果たしたのか? シブラと共犯だったのか? オーヴン館の一人息子がとった奇妙な行動には、何の意義も隠されていないのか? 無責任な推測が国中に乱れ飛びました。仮説は唱えられた。ところがあらゆる点を説明できる仮説など無かった。だが混乱は静まりました。明日の朝、モード・シブラは絞首台で人生を終えるのです」

 これで話は終わりだ。

 ザレスキーは無言で長椅子から起きあがり、オルガンまで歩いた。主人の気まぐれを熟知しているハムに助けられながら、ドリーブの『ラクメ』より、果てしない感情を旋律にして弾き始めた。座ったまま、頭を胸に垂れ、幻想的にメロディを歌い上げる。やっと立ち上がると、額の広がりは澄みわたり、口元には微笑んではいたが静かなる厳かさがあった。象牙の書き物机に向かうと、何やら紙に書き付け黒人に手渡すと、私の馬車を使って近くの電報局まで急いでメッセージを運ぶように命じた。

「あの伝言は」ふたたび長椅子に腰を据えると言った。「悲劇の結論だ。いきさつの終幕に変化をもたらすことは間違いない。さてシール、腰を下ろしてこの問題を話し合おうじゃないか。君自身の説明に倣うと、問題点は明らかだ――事実の全体像を一望のもとに捉えていないのだよ。原因、結果を、起こったとおりに捉えてない。混乱の中から、筋道や均整を見つけ出せないかどうか試してみよう。悪が行われた。すると社会では、ことを鮮明にしたり関係を明らかにしたり罰を与えようとする。だがそれで? 世間は臨機応変にはなれない。結局は、曖昧なものをさらに曖昧にさせるだけで、犯罪を人間らしく判断できない。罰することもできない。さあ君も認めるだろう。何が起こったにせよ、不幸な間違いだったのだ。不幸な、というのは本質的にではなく、その意義においてだが。はっきりした原因があるはずだ。大なり小なり誤った捜査にではなく、全世界に原因がある――教養の欠如とは呼べんかね? だが誤解しないでくれ。これによって、特殊な意見を一般的な知識にするつもりはない。あるいはそんな意見が普遍的になろうとも、君は疑るかもしれぬ。わたしというのはよく考えるんだ。文明がいつ始まったか――確かにあるとき始まるのだろうが――全人類が信じやすい羊の群れであることをやめ危機が訪れたとき、人間らしい国々は一万年後の教養を見通す先導者となるだろう。だが人類が地上に生まれてたかだか数百年では時間もないし、そんな場所がある気配すらない。個としては――そう、ギリシアのプラトンとか、イギリスのミルトンやバークレイ司教とか――だが人類としては、ありえぬ。この二つの国のほかにはいないな。時が始まったばかりのころと比べれば理性も、どうにもならぬほど愚かではない。無論のこと完全な人類社会の創造には、教養文化体制が必須条件であり、いわば石炭層が作られるよりも長い時の輪に刻まれるに違いない。多弁な人間――君の愛する『小説』家の一人だが、ともかく、新しいものノヴェルティがどこにもない小説ノヴェルというものがあれば――自分の生きている時代はおろか、アウグストゥスやペリクレスになぞらえられる大文化の時代であっても、その偉大さに増長せずには考えることもできないのははっきりしている。そいつの頭骨を人類学的興味で冷静に観察すれば、哀れな男は口もきけなくなり、慌てて逃げ出す。神が悪でも馬鹿でもないのだから、われわれの時代の方が総じてペリクレスの時代よりも偉大だと気づかなかったのだろうか? 三千年にわたる人類の思想はなくなっていないことや、全体は一部より偉大であること、さなぎより蝶だと知らないのか? だからとにかく理屈の上では、深い驚きや軽蔑を与えられるほど偉大だと仮定できる。文化に意味があるとすれば、音楽的な人間による創造に限られる――いわばパンの笛の封泥や、熱狂する戦勝行進の轟音とともに生きる人間だ。どんな常套句であれ、『横になって満喫する芸術』のように定義されてしまえば、もはやあまりに原始的で――あまりに叙事詩的で――あふれかえった白人の唇に笑みを浮かべる以外に何一つ役立たぬ。至るところでこうした定義が疑われることなく受け入れられているという事実は、暗示かも知れぬ。この状況がやがて受け入れる真理は――共通概念となるところからは――遙かに――時間的にも空間的にも――遙かに遠い。生きるという大問題を抱えた原始以来、解決に近づいたことすらないし、ましてやともに生きるほど繊細で複雑なものもいない。ところで君らの共同体ときたら、いまなお(蚤のような)犯罪者を産み出すばかりか、いまだに動物にはなれない原始生物だ。そのあいだ我々は負担を課される。誰もが痛みに身を切られる。質、力、空気が入り乱れる中で、人は努力し、しかもなお息苦しさから逃れられない。地球は太陽から逃れることができないし、人は宇宙にとらわれる全能の力から逃れることができない。同じように、人というものは身の回りの霊的引力から逃げ出すことはできない。期せずして柔らかな翼を撃ってしまった人間は、むしろ直感的に気まずい喘ぎを洩らす。一瞬の悲劇。〈唯一無二〉を知らぬ。何かを成し遂げるには、未来に向って頭をねじ込まなければならん。しかして手足は原始の存在が背負った十字架から、絶望深き霊液をしたたらせる――忌まわしい血筋だ! 遙か彼方で夜な夜なうごめく星を見ても、頭をぶつける心配はない。地球が船だとしよう、しかも我が船だ。でたらめに舵を切ろうとも、あらゆる方位を知悉している。だが肝要は、肝要なのは――重き原罪の呪いは!――敵意だ。

 なにしろ(定めどおりに)、母なる星が気高き軌道を公転しているあいだは、我々はその背を追う。愚かにもイカロスの〈智慧〉を手にするまでは。わたしの言っているのは、咎むるべき状況ということだよ。上へ、誰もが上へ。ところがどっこい、こう断じているのはゲーテではなかったかな?――『遙かなものに届く人間などない、望みに手を伸ばすとも』。なぜなら人とは多ではなく個だ。ポーランドが侵略されているときにイギリスが無事でいられると考えるとは馬鹿らしい。Tooboolooやシカゴが未開なら、パリだろうと文化の黎明からは遙かに遠い。ラザロが門前でものを恵んでもらっているあいだに、金持どものように自分が裕福だと心に浮かべさえすれば、思うに不運で愚かなアダムの息子も、あれほど大げさで子供じみた過ちに陥らなかったはずだ。多ではなく個なのだ。こんなところに隠居しているハムとわたしだって孤独ではない。今も招かれざる亡霊に悩まされているからな。こうして山の頂上に立っているが、堅牢な土台が根強く下界を形作っている。だがありがたいことに、ゲーテも正しいとは言えなかった――それも自ら証明した通りだ。いいかな、シール。メアリ(・スチュアート)がダーンリーを殺したかどうかは明白だ。くっきりと、正確に、ベアトリーチェ・チェンチのように明白だ。最近発見された資料が〈証明〉しているから〈有罪〉なのではない。シェリーの作品こそが、たとえ憶測で書かれたものであろうと、真実なのだ。よく考えることによって、能力を一キュービット――一ハンドでも一ダクティルでも――伸ばすこともできる。きっと能力をわずかばかり高められる――ほんのわずかだが、目に見えて、質も量も――大衆に先立つにしろ、同じ周期にしろ。だがそれは、この力が人口に膾炙した場合だけだ――ほかにどんな条件が欠けようとも、ついに文化的な時代なるものが到来したときだ――力の働きは誰にも容易く知られたものになるだろう。予言、七彩、降霊を口にし、密かな悪巧み、魔神の黙示に口を開くものは、一握りの霊的な指導者ではなくなるかもしれぬ。

「承知だろうが、これはすべて、わたしや君、それに君が持ち込んだささやかな問題を解くに当たって露わになった疑問点に対する言い訳みたいなものだ――解決するのが絶対に難しいとは思えない問題だな。あらゆる事実を見るにつけても、引っかからざるを得ない点は、ランドルフ子爵には父の死を願う強い動機があったという状況だ。お互い敵同士だと認めている。子爵は王女と婚約したが、夫になるには貧しすぎる。だが父親が死ねば裕福になるとは思われる。まあそういった点だ。表に現れているのはそれくらいだな。ところが我々――きみとわたし――は、彼を知っている。家柄もよく、世間から見ても礼儀正しかったと思うし、高い地位を得ていた。そんな人間が謀殺を犯すとは思えないし、どんな動機が心に浮かぼうとも殺人を黙認することなどあり得ない。確かな証拠の有無にかかわらず、そんなことは信じがたい。事実あまたの伯爵の息子は人殺しをしない。もっとも、ほかに動機が見つかりそうだというなら別だが――強く、説得力のある、絶対的な動機だ――〈絶対的〉とはつまり、命を慈しむよりも遙かに強いこと――公正を期して、子爵のことは忘れておこう。

「それにしたって、責めざるを得ない行動を取ったのは事実だ。とつぜん愛を打ちあけた相手が自白した容疑者であり、しかも以前は面識がなかったようだ。夜ごと逢い引きし、文を交した。この女は誰であり何者だ? 歌劇にでも出てくるような、ファランクス卿のかつての愛人だと考えて差し支えあるまい。長いこと養っていたが、不実な噂を耳にして、送金を止めると釘を刺したのだろう。だがどうなったかというと、ランドルフがシブラに手紙を書いた――激しい女性、法律など通用しない情熱的な女だ――数日以内に、父親の遺言から除外されることになると明言したのだ。そしてシブラは、数日以内に父親の胸をナイフで刺す。見事な成り行き――だが無論、実際に起こったできごとを、文章を使って引き起こそうという意図はなかったのかもしれん。投函されていたファランクス卿の手紙の方が、ことを引き起こす可能性は高い。ランドルフが(無意識にしろ故意にしろ)注ぎ込んだ悪意を実行に移す良い機会だというに留まらない。厚意も希望もすべて断つことにより、シブラはいっそういきり立つはずだ。ごく自然に考えてみよう、伯爵の側にそんな意図はなかった。息子の場合を同じように考えてみるんだ。だがシブラは伯爵の手紙を受け取っていない。その日の朝、二つの目的があってバスに向かうからだ。凶器を仕入れること、国を出たと思わせること。ファランクス卿の部屋の正確な位置はどうすればわかる? 邸の外れにあるし、使用人とは面識がなく、土地にも不案内だ。ランドルフが教えたというのは? その場合でもやはり、ファランクス卿も手紙で教えていたということを、覚えておかねばならない。それに息子の側に悪意がなかった可能性も考えておかねばならない。先に進んで、そもそも行動すべてが異常で疑わしいということを指摘しておこう。ファランクス卿もお見通しどころか同じことをしていたのであれば、疑わしさは減ずるが異常なのには変わりない。バルコニーの窓にある、残虐なとげについては、生来の思考機械ならこう言うところだ――『ランドルフが、父を殺すようモード・シブラに働きかけたのだ。五日と六日に。順調に改装された窓がある。示唆した通りに行動し、部屋から出ようとするのはわかっていた。ランドルフはといえば、恐ろしい犯罪を発見させた真犯人なのだが、疑惑の影から逃れるのだ』。ところが改装はファランクス卿も同意しているどころか、卿が決めたことだというわけだ――そのために、お気に入りの部屋を一日中あけていたのだからな。そうして八日にシブラへの手紙――出したのはランドルフだが、書いたのは伯爵だ。九日には、部屋に宝石を持ち込む。近隣で泥棒騒ぎがあるや、生来の思考機械に疑いがわき起こった。ランドルフは――シブラが『国を出た』と知って、当てにしていた手段は失敗に終わった――こうして宝石を持ち出し、使用人にきつく言っておくことで、情報が広まって泥棒の耳に入り、かくて父親が命を落とすやもしれんと? 結局は実際に泥棒が入ったことを証拠は示しているように見える。それを考えれば、疑いも不合理なものではない。ところがやはり反証がある。宝石を手近に集めると〈決めた〉のは、ファランクス卿だからだ。ランドルフが使用人に言い聞かせたとき居たのだからな。どうやらこのささやかな狂言芝居に関しては、息子は一人で行動したようだ。だがそれでも、激しい演説、立候補、そういったことが、巧みなくせに不器用に進められ、講義の準備が始まったという印象はぬぐえまい。見通しを立てるための自然な結果のように見える。だがいずれにしても、講義に関してはファランクス卿は黙認していたし、あるいは協力も惜しまなかった。何かの理由で家柄につけ込んだ、極秘裏の陰謀という説明もある。扉が静かに音を立て、皿が落ちる間の、お家騒動。だが農夫が階段を上る木靴や長靴の音が聞こえたはずだろう? ひどい物音だ。頭上の行進にはおそらく大きな話し声も加わって、我慢できなかったことだろう。

 だがファランクス卿は反対しなかったようだ。おそらくは信条に反して、邸の外れで講義が始まったのに、不満はなかった。運命の日にも、『ロンドン行き』の準備だとかで、真上にあるランドルフの部屋からかなりの騒音が聞こえ、遠慮なく家の静寂を破っていた。だが主人からは、いつものような激しい抗議はなかった。息子の行動をファランクス卿が黙認したことこそが、いかに重要で本質的な疑いの半ばを占めているか、理解できるかね?

「早とちりする人間なら、疑問点が残っていようとも、ランドルフが何か――悪意を持って――罪を犯したという結論に飛びついてしまうだろうな。だが慎重な人間は立ち止まる。父親が関係していたなら、何の意図もなかったなら、それならおそらくは息子かもしれないと考えることになる。これが公式見解だろうし、空想よりも遙かに論理的だろう。だが一つの行動を取り上げよう、明らかにランドルフ側の悪意によるものだ――父親はまったく関係ない――さあ次は? うむ、慌て者の考え方に戻って、ほかの一連の行動も悪意によるものだと結論づけよう。ここまで来れば、父親の心にも同じ動機が潜んでいたという結論には、もはやあらがえまい。論理的な可能性から心を遠ざける慌て者のように、こうした形ばかり不可能な状況に影響を受けることもない。それゆえ推論を進めよう。

「さて突き詰めて考えれば、ランドルフ側の言い分からずれていることは明らかになるし、父親が教唆したのではないことも確信できる。殺人の夜八時は暗かった。降っていた雪も止んだ――どのくらい前かは知らぬが、気づくには充分に長い時間だ。邸沿いに進んだ一行は、交わっている二つの足跡に出くわした。一方は女性の小さな足跡だと知れるのみで、それ以上はわからぬ。もう一方は大きくかさばった長靴であり、さらに雪で半ば消えかけていた。二つのことが明らかだ。異なる方向から、それも異なる時間帯にやって来た人物がいる。そうそう、これだけでも、シブラは〈泥棒〉と共犯だったのかという疑問の答えには充分だ。だがランドルフはこの足跡を見てどう振る舞っただろう? ランタンを手にしたが、少年が見つけた一つ目の――女性の――足跡に気づいて愕然とすることになる。だが雪に埋もれかけた二つ目の足跡にすぐ気づいて指さし、泥棒が勇み立った跡だと説明した。だが窓が閉まっていると聞いて驚き恐れて調べている。女の指が血塗れなのを見たときも。叫ばずにはいられなかった。『くそっ! どうなったんだ?』。だがなぜ『どうなる』なのか? 父親の死を指している言葉とは思えないが、銃声を聞いてあらかじめ知っていたからか予期していたからか。いやむしろ、計画が運命にもてあそばれた人間の叫びではないだろうか? それに窓が閉じているのは予想できたはずだ。ほかに建築の秘密を知っていたのは、すでに死んでいるファランクス卿と技師だけだ。つまり部屋に入り盗みを働いた泥棒の一人は、外に出ようとして窓辺に手をつき、窓枠が承知のとおりの結果となった。ほかの人間なら、窓を破って逃げ出すか、邸内を忍び歩くか、閉じ込められたままか、いずれかだ。だから雪の上に泥棒の足跡を見つけて驚愕するというのは、あまりにも非論理的だ。だがなかんずく、泥棒が――侵入したとしたら――その最中もそのあとも、ファランクス卿がおとなしくしていたとはどういうことだ? そのあいだじゅう生きていたのだからな。泥棒は殺していない。間違いなく撃ち殺してはいない。銃声が聞こえたのは雪が止んだあとなのだから。――立ち去ったあと、かなりあとまで雪が降っていたからこそ、足跡が消えかけているのだ。泥棒は刺し殺してもいない。これはシブラが自白したからだ。ではなぜ、猿ぐつわもされず、生きていたのに、侵入者がいると報せなかったのか? その夜、オーヴン館に泥棒などいなかったからだ」

「でも足跡が! 雪の中に宝石もあった――マフラーも!」

 ザレスキーは微笑んだ。

「見つけた宝石の価値を心得ている、素直な正直者の泥棒か。雪に宝石を落とすような単なる愚考をするほどに、正しい価値を知っており、寒い晩にマフラーを捨てさせるほど弱気な人間とは仲間割れするだろうな。一連の盗みは、当事者によるくだらない、下手なぺてんだよ。薄暗いランタンを頼りに、埋もれた宝石を見つけたランドルフの小手先芸は、不可能を恐れない優秀な警察にとってはうまい手がかりになったはずだ。架空の泥棒に疑いを向けさせるために、宝石が置かれていたのだ。窓の留め金がねじ切られていたのも、窓をわざと開けておくのも、足跡をつけるのも、貴重品がファランクス卿の部屋から持ち出されていたのも同じ狙いだ。すべて何者かによって故意になされたこと――誰の仕業か即答するのは軽率かな?

「疑いからは曖昧な点がすっかり消え去り、絶対確実な方向に導かれだした。ヘスター・ダイエットの証言を確かめよう。公判時の証言が疑問視されていたのはよくわかる。貧乏人、出来の悪い使用人、覗き屋、ヒステリー女の見本だからな。正式に記録された証言であっても信用ならない。信用するにしても話半分だ。そこから何か推測することはしない。だがわたしとしては、証言を信じようと思うとき、求めているものはまさにそういうものなのだ。この種の頭の働きを思い描いてみよう。情報に飢えているが、満足するような情報とは現実そのものであり、作り話には興味がない。正体不明の好奇心を起こすようなものには辛抱できない。歴史の女神クレイオだけが守護神だ。望みは穴越しの情報収集、才能は覗くこと。だが想像力がないから嘘はつかない。現実にかける情熱とあっては、歴史や経緯を曲げることは冒涜だ。確実かつ明白に突き進む。そんなわけだから、プラウトゥスのペニキュルスやエルガシルスの方が、(ダグラス・ウィリアム・)ジェロルドの喜劇『ポール・プライ』の登場人物より遙かに本質を突いている。例えばだね、ヘスター・ダイエットの証言は、表向き完全に虚偽のものに見える。白い球体が部屋を昇っているのを見たとか。だがその夜は暗かったし、蝋燭が消えていたのであれば、真っ暗闇の中に立っていたことになるはずだ。どうやったら見えるのだ? 検討された結果、証言は嘘か、あるいは(夢遊状態のような)興奮した幻覚の結果だと言われた。だがこうした神経質で過敏な人間には、幻覚を見るような想像力はないと言っておいたな。したがってこの証言を真実だと考える。さあ、その結果だ。総合的に見て、部屋は明るかったのだと思えてくるね――ヘスターも気づかないほどのかすかな明かりが広がっていたのだ。とすると、四方か、下か、あるいは上からか、発生したはずだ。ほかに選択肢はない。四方には夜の闇だけ。部屋の下も暗かっただろう。すると明かりは頭上の――力学教室のものだ。だが階上の光が下の部屋まで広がる可能性は一つしかあり得ない。あいだの板に穴がなければならない。このように、階上の部屋に何かの穴があるとしか思えない。こうなると、上に向かって『走り抜けた』白い球体の謎も消滅する。すぐに問いが生じる。細くて暗闇では見えない紐を使って、穴越しに上に引き上げてはいけないだろうか? 確かに上に引き上げられたのだ。天井に穴が設けられているのだから――ほかに証拠がなかろうとも――床にもあると疑うのは不合理かね? しかしほかに証拠はあるのだ。ヘスターはドアに駆け寄り、倒れ、気絶し、脛を折っている。そのとおりだよ、何かにつまずいたのなら、ほかの場所を骨折していたかもしれない。脛である理由は、うっかり穴に足をはまらせてしまったまま、身体は急激に動いていたからだとしか考えられない。だがこれで、床の穴のだいたいの大きさがわかった。少なくとも足が入るほどの大きさ、証言にあった『馬鹿でかい綿のかたまり』が入るほどの大きさだ。床の穴から、天井の穴の大きさも推測できる。だがどうしてこの穴のことは証言のどこにも述べられていないのだ? 誰も見なかったから以外あり得ん。だが部屋は警官が調べたのだから、穴があれば見つかったはずだ。したがって穴はなかった。つまり床から取り除かれていた欠片が、そのときまでにはちゃんと元通りにされ、床の穴に関しては、運命の日にランドルフの部屋から大騒動して動かした絨毯で覆われていた。ヘスター・ダイエットは気づくことができたはずだし、少なくとも穴の一つを証言で明らかにできたはずなのだが、転倒の原因に気づく前に気絶してしまい、一時間後にランドルフ自身が部屋から運び出したのだったな。だが天井の穴は生徒に見られていないのだろうか? 場所が部屋の真ん中だったら間違いない。だが見つかってはいないのだから、真ん中ではなくほかの場所にあったのだ――実演装置の後ろだ。装置は――また講義や演説、立候補といった巧妙な隠れ蓑は――目的には重要なものだった。覆いであり幕だ。だがほかに用途は? 名前と種類がわかれば答えらるだろう。確信を持って推測するには力不足だが。だが単純な力学の説明に使われるような装置といえば、ねじ、三角柱、秤、梃子、輪軸アトウッドの重力加速度装置。しかし初めの五つを使ってどんな数学的原理が例証されようとも、こんな生徒には理解できないだろうが、少なくともごく普通に教えるふりをするのであれば、最後の装置だ。銃声が聞こえたとき、ランドルフが〈装置〉の影に立ち、支えようと身を乗り出していたことを思い合わせると、この選択は正しいといえる。ほかのものでは小さすぎて、それほど大きな影にはならない。一つだけ――輪軸――は別だが、これは長身の人間が立ったまま支えるには無理がある。したがってアトウッドの装置ということになる。ご明察のとおり、こいつの構造は縦に二つの柱があり、横木には滑車と紐がついており、一定の力――すなわち重力――のもとで働く物体の動きを示すものだ。となると、すばらしい利用法に思い当たらざるを得ない。まさにその滑車が、二つの穴を通して『綿のかたまり』を気づかれずに上げ下げし、錘をつけた別の紐が、農夫の節穴の前にぶら下がっていたのだ。一行が部屋を出た際に、ランドルフが最後だった理由を推測するのも、もはや難しくはあるまいとだけ言っておこう。

「では何の罪だ? 一つには、雪上の足跡によって、あらかじめ伯爵の死の原因を覆い隠す準備をしていた。つまり少なくとも死を予期し、待っていたのだ。ゆえに待ち望んでいた罪。それに自ずから導かれた演繹により、どのように起こることを期待していたのかも見つけ出せる。モード・シブラの手によってなされると予期していなかったのは明らかだ――付近を立ち去ったという情報があったし、窓が閉まっているのを見て心から驚いているし、なによりもシブラが行動を起こすと考えるに足るその日に、プリマスに行くことで確実無敵のアリバイを作ろうと企んでいたからだ――八日、伯爵が招いた日だ。運命の夜にも、曇りなきアリバイを作ろうと一心に企んでいた。なにしろ二階の部屋で証人に取り囲まれていたのだから。だが確かに、プリマス行きと比べたらそれほど完璧なものじゃない。死を予測していたのなら、なぜ旅行に行くと欺かなかったのか? 今度の場合は、ランドルフ自身の存在が不可欠だったからだ。これに加えて、シブラをそそのかしているあいだは講義が中止され、不意に立ち去った途端に再開されたという事実を思い返せば、予期されていたファランクス卿の死というものが、政治演説、立候補、講義、装置とあわせて、ランドルフ個人によるものだという結論に到達する。

「だが予期していたとか父の死と何か関係があったとか非難されたとしても、直に手を下したという手がかりも、そういう意図を持っていたことすらも見つけられない。証拠も共犯の証拠――それだけだ。だがそれでも――だがそれでも――共謀するような強く説得力のある完全無欠の動機を発見しないかぎり、これでも無罪放免ということになる。うまくいかなかいのであれば、どこかで議論を間違えたのであり、一般的な人間の基礎行動原理の知識とは食い違う結論に導かれたということを、認めなくてはなるまい。つまりはそういう動機を探そうではないか――人間の敵意より深く、野心よりも強く、生命の尊厳以上のものを! 教えてくれぬか。この事件があったときに、オーヴン館はすっかり調査されたのかね?」

「わかりません。新聞には伯爵の略歴が載っていましたが、それだけだと思います」

「だが過去が知られぬなどあり得ん。目をそらしただけだ。いいかな、長いあいだよく歴史について考えてきた。エレボスや黒衣のニュクスの闇のように暗い運命を孕んだ、恐ろしい秘密の跡をたどった。何世紀ものあいだ、この不幸な一族に帷子をかけていたのだよ。だがついに知った。血と恐怖で暗く、暗く、真っ赤な歴史だ。エウメニデスの鉤爪に追われ叫びをあげて逃げ惑う、アトレウスの血塗られし息子たちの時代の、静かなる回廊を降りるのだ。初代の伯爵は一五三五年にヘンリー八世より位を賜った。〈王党〉として知られていたにもかかわらず、二年後には主君に反して恩寵の巡礼に参加し、ダーシー卿やほかの諸侯とともに即刻処刑された。享年五十。息子はノーフォーク公指揮下の軍隊にいた。ところで、注目すべきことだが、一族には女性が少なく、例外なく一人息子だった。エドワード六世の御代、二代目の伯爵は、突如として市民権を捨てて軍隊に急ぎ、一五四七年ピンキーの戦いにて四十歳でみまかった。息子がいたが、この三代目はメアリ治下にカトリック信仰を捨て、一家は変わらず激しく固持していたので、(四十歳のときに)極刑に処された。四代目伯爵は自然死だが、四十歳のとき一五六六年の冬に突然死した。同日深夜には息子によって墓に埋められた。この人物はというとその後の一五九一年、オーヴン館のバルコニー高くから墜落するのを、息子によって目撃された。正午に夢遊していたのだ。それからしばらくは何も起こらない。だが八代目の伯爵が、一六五一年に四十五歳で謎めいた死を迎える。部屋から火が出て、炎を避けようと窓から飛び降りたのだ。そのせいで手足を折ったが、嬉しいことに回復したものの、回復した途端に死を迎えた。インディカ・アコニティを飲んだのを発見されたのだが、これは当時のヨーロッパでは専門家以外は知らぬアラビアの珍しい毒物で、数か月前にアコスタが著述したばかりのものだ。看護人が告発され、裁判が開かれたが、無罪となった。跡取り息子は新設された王立学士院の特別会員であり、とうに忘れ去られた毒物学の著書があったので読んでみたよ。無論、疑う点はなかった」

 ザレスキーが回顧に耽っているため、ヨーロッパの名門一族のことをどうやってここまで詳しく知ることができたのか、心底不思議に思いながら、わたしは自問するしかなかった。あたかもオーヴン家の歴史を専門に研究することに人生を捧げたようだった。

「同様にして、往時から現在までの一族の年代記を詳しく調べた。するとどの時代においても、悲劇の引き金となる同じ要素が刻まれていたのだ。どの悲劇においても変わることなく、大きく邪悪な何かが――意味を求めようとしても果たせない何かが存在することを、充分に説明したつもりだ。もはや探さずともよい。当代のオーヴン当主は、一族の罪深き秘密をこれ以上かくすべき運命にはなかった。神の意志だ――真相を洩らしていたのだ。『戻レ シュウエンノ兆シ キタリ』と書いている。終焉とは何だ? 終焉――ランドルフにはよくわかっていたから、説明など不用だった。古い古い終焉、古の黎明に遡ると、初代当主は王に背いてもなお忠誠を誓っていた。あるいは、大事な信仰を捨ててもなお信じていたし、あるいは、それでもなお一族の館に火をつけた。君は当代の子孫二人を『プライドが高くわがままなふたり』と呼んだね。二人はプライドが高く、わがままでもあったが、君はそのわがままを個人的なものだと考え違いをしている。むしろ一般的な意味合いにおいては、驚くほど自己を消し去っていた。一族のプライドとわがままだったのだ。家のため以外にどういう理由で、ランドルフ卿は恥ずべき革新派へ転向するというのかな?――確かに恥じていたのだからね。ただの個人的事情のふりをするくらいなら命を絶ったことだろう。だがふりをした――なぜか? 実家から恐ろしい報せを受け取ったからだ。『終焉』が日毎に近づいており、それを目の当たりにする準備ができていたからだ。ファランクス卿の精神が深刻なものになりつつあったからだ。家の反対側で使用人がナイフを鳴らしただけで、怒りに火がついたからだ。過敏な味覚がもはや凝った料理にしか我慢できなかったからだ。ヘスター・ダイエットに、酔いつぶれていると思われるような座り方をしていたからだ。つまるところ、医者が〈癲狂性麻痺〉と呼ぶ恐ろしい病が近づいていたからだ。先ほど、シブラに宛てた伯爵の手紙が掲載してある新聞を奪い取ったのは、自分の目で読んで確認するためだ。理由があったんだが、、正しかったよ。手紙には三か所、綴りの間違いがある。『ここ』が『個々』に、『入る』が『入いる』、『部屋の中』が『部屋の仲』と印刷されていた。印刷工のミスかい? だがそうではない――一つなら可能性がある。短い文章に二つというのはありそうにない。三つならあり得ない。新聞紙全体を調べてみたまえ。ほかには見つからないよ。確率を重視しようではないか。ミスは書き手のものであって印刷工のものではない。この手紙によって、癲狂性麻痺であることが知れる。これが中年になると――歴代のオーヴンに死が訪れた年齢だが――犠牲者に襲いかかる。一族の呪われた血――狂気の血――に襲われつつあることに、あるいは襲われたことに気づいた伯爵は、インドから息子を呼び寄せた。自ら死の宣告を下したのだ。父から息子に代々伝えられてきた一族の習わし、秘密の誓約だ。だが助けがいる。最近は人に知られず自殺するのも難しくなったが――狂気が不名誉なら、自殺もそうだ。それに、一族が生命保険でうるおうことにより、王家と結ばれる。それゆえランドルフは帰国し人気候補となる。

「ところがモード・シブラの登場により、最初の計画を捨て去ることになる。シブラが伯爵を殺してくれることを望んだが、残念なことにふたたび計画を引っぱり出すことになる――大慌てで引っぱり出した。というのもファランクス卿の容態は、誰の目から見ても急速に悪化しているのは明らかだったからだ――それゆえ最後になると、使用人が部屋にはいることは許されなかった。シブラはこの悲劇に不可欠な要素とは言えないし、単なる付け足し、異質な要素と見なすべきだろう。ピストルを持っていなかったのだから、当主を撃ってはいない。ランドルフもそうだ。証人に囲まれて死者のベッドから離れていたのだから。それに架空の泥棒でもない。つまり伯爵は自殺したのだ。これに似た小さくて丸い銀のピストルで」――そう言ってザレスキーは傍らの抽斗から、浮き彫り紋様のヴェネチア製武器を取り出した――「興奮したヘスターには暗闇の中で『綿のかたまり』に見えたものが、アトウッド装置により引き上げられていたのだ。だが心臓を刺されたあとでは自殺はできぬ。したがって、モード・シブラは死者を刺したことになる。部屋に忍び込む時間はたっぷりあっただろうし、銃が撃たれたあとで侵入したのだ。一行がバルコニーの窓に到着するには間があった。階段で別の明かりを持ってくるのに手間取っていたからな。そのうえ部屋の戸口に向かい、足跡を調べた。だが死者を刺したのだから、シブラは殺人の罪は犯していない。先ほどハムに託した伝言は、内務大臣に宛てたものだ。明日シブラを処刑してはならないと書いておいた。わたしの名をよく知っているし、無意味な言葉を費やさざるを得ないほど愚かではないだろう。証明するのはあまりにも簡単だ。欠片が取り除かれ、元通りにされた床には、探せばまだ跡が見つかるはずだからな。ピストルはまだランドルフの部屋にあると思うし、ファランクス卿の頭から見つかった弾丸と銃の口径を比較できる。それに〈泥棒〉に盗まれた宝石は、新たな伯爵の戸棚にまだ仕舞われていて、簡単に見つけられるだろうね。違った結末を迎えることだろう」

 違う結末を迎えたし、ザレスキーの推理は完全に一致していた。もはや終わったことだ。この問題に関して、この場で言い添えることはない。


'The Race of Orven' --Matthew Phipps Shiel(1895) の全訳です。


ver.1 04/01/02








  HOME  翻訳作品   戻る   進む


作品について・訳について
 M・P・シール(1865-1947)の創造したプリンス・ザレスキーは、史上初めての安楽椅子探偵として知られています。エラリー・クイーンにより『クイーンの定員』にも選ばれ、日本でもいくつかのアンソロジーに収録されたことのある名作ではあるのですが、いかんせん文章が晦渋であるうえに衒学趣味に彩られているため、一部の愛好家に愛されているといったのが現状でしょうか。
 そんな現状とはうらはらに、内容はといえば、よくある安楽椅子探偵もどきとは違い、きちんと理詰めで話が進められてゆく優れた作品です。ですから同じく衒学的とはいっても、小栗虫太郎みたいに探偵に振り回されることはないのでご安心を。ザレスキーは信頼できる男です。

 改行がありませんが我慢して読んでくださいませ。原文通りです。
 プロの訳者さんも音をあげそうになった作品ゆえ、素人の私ごときの歯が立つ相手ではありません。しかし素人の強みと申しましょうか、たとえ原文の味を損ねてでもわかりやすい訳文を目指したいと思います(日本語が下手なのとは別問題に)。一例としては、最初はギリシア語やフランス語、ドイツ語の部分を訳文に反映させようとしていたのですが、最終的には一律普通の日本語に訳しました。

 戦時加算の関係で、日本ではまだ著作権が切れていませんが、著作権の切れた国のサイトでは原文も公開されているので、原文を読みたいという方は、グーグルか何かで「The Race of Orven」あたりを検索すると、どこかの原文がヒットするはずです。

 創元推理文庫『プリンス・ザレスキーの事件簿』に、ザレスキーもの全四編が収録されています。

 Tooboolooという地名(?)の読み方がわからなかったのでアルファベットのまま表記してます。


  HOME  翻訳作品   戻る   進む

New  リンク  翻訳連載blog  読書&映画日記  掲示板  仏和辞典