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作展覧会

トーマ・ナルスジャック

訳者あとがき

ブラッキー
(ウィリアム・アイリッシュ風に)


 ジャック・サリヴァンは飼い犬の大きな躯を押しのけた。

「階下で寝るんだ、ブラッキー」

 ドーベルマンは小さくうなると、主人が本気なのか確かめるように首をかしげてから、しぶしぶといった様子で部屋から出て、爪音を立てながら階段を下りた。ジャックはドアを閉めると就寝前の一服を点けた。窓の前に立って、日が落ちるのを眺めていた。考え直すことはない。こんな家はもう嫌だった。買ったときにはあんなにはしゃいでいたのに! 「リンダ! 見ろよ、すごいぞ! バルコニーの下には小川。周りは森。ぼくらのための世界の果てだよ。ニュー・ヨークから五時間だ! 幸せかい?」

 もちろん幸せだった。ベトナム戦争の直前……。ずっと昔、おとぎ話のように遙か昔のことだ。ジャックは煙草を捨て、真下で咲いた赤い光点を目で追った。川べりの岩場の真上。まだ狙いは正確だ。腕は落ちていない。村の広場の真ん中に爆弾を置くことだってまだできるだろう。サリヴァン! 飛行隊の英雄!

 うなだれて足を引きずりながらベッドに向かい、服を脱ぎ始めた。器具を固定している紐をほどくのには、相変わらず時間がかかる。腰につながれた、甲冑のような長い義足。リンダはとうとう慣れることがなかった。足をはずすときには顔を背けていた。技術が凝らされた肌色の肉体は、見た目こそどうにかそれなりだったが、プラスチックの下には金属音が待っていた。身体の四分の一はロボットにすぎない。

 枕元で身体を起こしたまま、義足を手近の床に置いた。夜中に目が覚めたとき松葉杖代わりに使う杖がそばにはある。目を閉じると、様々な光景が次々と浮かんだ……。リンダ……繰り返される絶え間ない口論……「飲み過ぎよ……煙草も吸いすぎ……だらしもなくなって……」リンダは正しい。かつて結婚していたスポーツマン。一メートル八二センチ……九十二キロ……もはや太り気味の人間でしかなかった……九十二キロ……だが義足つき……親切か! ごまかすのはやめてくれ! どうしていつもごまかしていたんだ? だってほら、どうしていつもこう言ってばかりだったんだ? 「あなたみたいな人はほかにもたくさんいるんだから! 働くのに何の不都合もない。いつだって転職できるのよ」 歳をとった負傷者はもはや障害者でしかなく、もとより若者が求められているということを知りもしないかのように。

 階下では、ブラッキーが台所を歩いている。退屈らしい。やがて階段を上ってきた。重いので歩くたびに音を立てる。ドアの前で鼻を鳴らし扉を引っかくと、ひと声うなって戸口に寝ころがり、深く息をついた。リンダの贈り物、ブラッキー! 「あたしが仕事中でも寂しくないでしょ」 黒地に茶模様の生まれたての子犬が、愛を籠めて贈られたのだ。無事な方の足で少しずつ歩く練習をしているとき、煙草に火をつけようと立ち止まると擦り寄ってきた。自信家で、人も動物も相手にしなかった。我が物顔に主人と散歩し、家ではリンダを無視した。主人が二本足のときもあれば、一本のときもあることを不思議には思わなかった。ものを考えるのは自分の仕事ではないと思っていたのだろう。大事なのはそばにいること、主人の匂いがする場所にいることだ。

 ドアを開けたかったが、ブラッキーはベッドに上って眠ってしまうだろう。睡眠薬を飲み忘れていたことにふと気づいた。もういちど明かりをつけると、杖にもたれて片足跳びで洗面所に向かった。確実に朝までぐっすり眠れるように、定量より多く二錠を飲んだ。一番つらいのは、もう足のない方に寝返りを打てずに、苦しい態勢のままあおむけでいることだ。そんなときには失った足にこらえようのないかゆみを感じる。「幻肢」そう医師は言っていた。夜中にうめき、うなり、苦痛を訴えるほどの強い幻視だった。リンダはとうに客間で寝ることにしていた。もはやもとには戻らなかった。

 ジャックはベッドに戻ったが、待ち受ける悪夢に襲われるのが怖かった。毎晩のように夢に見るのだ。追いかけられ、駆けまわり、炎の上で跳び惑う夢を。だが田舎の空気に和らげられたのか、朝まで眠りは覚めなかった。目が覚めたとき、なんだか気分がいいことに驚いた。部屋に光が満ち、人生はいつもほど悪くない。それにお腹もすいていた。

 義足を身につけた。こいつのせいでいつも出動前を思い出す。ベルトを身体に掛け、操縦席にしっかり固定されているか点検したのだ。だが今じゃこの革と金属のがらくたが、地面にしっかり釘づけにするだけだった。午前の第一陣は、何よりもまずブラッキーの餌を用意しに台所に行くことだ。

「いるんだろう、ブラッキー?」

 ドアの向こうから喉を鳴らすのが聞こえた。ブラッキー流の挨拶だ。ジャックはドアを開けた。

「ようし! 待て。よしいいぞ」

 義足は膝を曲げられるように改良されていたが、一歩すすむごとに棒のような足を不器用に下ろすのを好んだ。哀れみを誘いたい気持と、それを拒絶する酸っぱい喜びとを分かちながら。芯からくつろげるのはブラッキーといるときだけだ。ブラッキーはご馳走の詰まった冷蔵庫の前に座っていた。

「よし、待たせたな。食いしん坊め!」

 大きな骨を載せた餌を用意し、コーヒーを入れたところで電話が鳴った。リンダではない。決して初めに電話をかけてきたりしないだろう。電話は部屋の奥、窓際のテーブルの上だ。お節介ものが諦めてくれないかと願いながら、ジャックはゆっくりと時間をかけたが、ベルはしつこく鳴り続けていた。

「はいはい、もしもし……ああ! ボブか。ああそうだよ、田舎にいる……なんでわかった?……リンダか……仲直りするつもりはないらしい……ああ、かなり激しくやり合ったよ、こないだの火曜日に……ふん、もう十日にもなるのか……君だから言うけれど、でもここだけの話にしてくれないか?……あまりうまくいってないんだ。いや、ぼくが悪いんだ。ここでたっぷり考えてるよ。朝から晩まで一人きりで、どれほど思いを巡らせてるか……わかってるさ、自分が嫌なやつになってしまったことは。だからリンダは、ほら。我慢できなかったんだ! そういうわけで十五日間ひとりで考えることになった。すべて終わったと確信できれば離婚。反対に、ぼくがこんなふうに変わった今でも、昔みたいに互いが必要だと感じたなら、うん、こう言ってよければ、また同じように足を踏み出すことになる。許す気になった方が電話をかけるんだ……いや、この電話には驚かなかった。謝るとしたら向こうじゃない、そうだろう。だけど嬉しいのは、ここにいるのを誰も知らないことさ。邪魔されたくないんだ……ああ気にするな……いや、うまくやるさ。兵糧戦にも負けないくらい蓄えはあるんだ。どうなるかはわからない。そりゃあ考えただけでも、寂しいところだけど。車の中に銃もあるし、何よりブラッキーがいる。ブラッキーに襲われた奴がどうなるか考えるのも怖いね……ああ、ここ何日か鬱いでるみたいだけど、でも楽しそうだ。初めははしゃいでいたけど、森をほとんど走りもしないうちに、脚をすりむいてきたんだ。都会っ子なのさ。今はすっかりおとなしくなったよ。じゃあ、十五日経ったらまた会おう。それまでは放っといてくれ。みんな放っといてくれよ……じゃあな」

 ジャックは受話器を置いた。――反省か。十五日も要るもんか。わかってるさ、全部パーだ。

 ブラッキーは鼻先を脚にくっつけて皿のそばに座っていた。

「なんだ、ブラッキー。腹が減ってないのか? 肉は残しておいてくれるというわけか。まあいい」

 ジャックは二階に戻り、手早く身だしなみを整えた。それから家を出ると、お気に入りの岩だらけの出っ張りに腰を下ろした。水面に映る雲を打ち砕くさざ波を眺めながら、つらい考えの中に飛び込んだ。リンダは悪くない。それが正視しなければならない真実だ。正直になれていたなら、とっくに電話をかけてこう言っていただろう。「悪かった」。でもそんなことは絶対に言えない。リンダの手足、あんなに好きだった身体に嫉妬して、もう以前のように触れられなかったなんて、弁護士には絶対に打ち明けられなかった。なめくじに花の上を這う権利はない。ジャックは犬を撫でた。

「おまえがいてよかった。おい、こっちを見ろ。様子がおかしいな」

 走ったあとのように喘ぎをもらしている。

「手伝ってくれ、そら!」

 ジャックはブラッキーの肩を借りて、苦労して立ちあがった。

「戻った方がいいな。そら行け、少し楽しんで来い、だっておまえは走れるんだからな」

 枝を拾って遠くに放り投げた。ブラッキーは駆け出そうとして止まり、ひとこえ吠えた。

「わかった。好きなようにしろ」

 ジャックはブラッキーを眺めた。具合が悪いのだろうか? だがニュー・ヨークに戻るなんて問題外だ。だけど何だ? もちろん動物だって体調が悪くなることもある。戻る道すがら、目を離さないでいた。ブラッキーは静かに隣を歩いていたけれど、いつもなら鳥を目で追ったり、頭を上げて音のする方へひっきりなしに耳を立てたりしていた。今日は周りの風景に無関心のようだ。何だっていうんだ! きっと真っ赤なステーキでも見て幸せになってるんだろうさ。

 ジャックは昼食用に取っておいた見事な牛肉を一切れ冷蔵庫から取り出した。ブラッキーが肉の匂いを嗅ぎつけ、げんなり顔で遠ざかった。不安になって、ジャックは急いで食事した。もちろん心配することは何一つないけれど、獣医に電話しなくてはならないだろうし、そうするのは簡単じゃない。だが獣医を呼ぶ必要があるだろうか? 落ち着けよ、ちぇっ! 腹が減ってなかったんだ。結構じゃないか! 二十四時間、様子を見ればいい。

「ブラッキー、教えてくれよ。病気なんかじゃないだろう?」

 ブラッキーはテーブルのそばに座って物思わしげに主人を見ていた。赤い光が時折り栗色の瞳にきらめく。どこか悲しそうだった。

「鼻を見せてくれ」

 鼻先をさわってみると、乾いていた。

「おいおい、何か企んでるのか。明日よくなっていなかったら……でもおまえは優しくないな。今はほかのことで手一杯だってのに」

 皿洗いは後回しにして部屋に戻った。ブラッキーは階段を上ろうとはせず、下で座り込んでいた。ジャックはおそろしく強い優しさをこめて犬を見つめた。「おまえが大好きだ」ドアを閉めながらつぶやいた。義足をつけたままベッドに倒れ込むと、離婚専門の弁護士の名前を調べたあとで眠りについた。

 眠りを破ったのは、咳に似たしゃがれた吠え声だった。初めは、見知らぬ犬が家の周りをうろついているのだと思った。だが次の吠え声ですっかり目が覚めた。ブラッキーだ。ジャックはできるかぎり急いで部屋を出て踊り場に向かい、リビングを眺めた。痛みを抑えようとしている患者のように、ブラッキーが歩き回っている。息が荒い。時折、虚ろな叫びに似た恐ろしい咆哮をあげていた。

「ブラッキー!」

 ブラッキーは頭を上げて牙を剥くと、階段に向かってきた。ジャックは恐ろしくなって部屋に逃げ、ドアにもたれかかった。狂犬病なのか?――でもいったいどうして? 今もブラッキーを恐れてはいない。とにかく、狂犬病について知っていることは?

 ブラッキーの脚についていた擦り傷のことをふと思い出した。森で遊んでいるときに、おそらく何かの動物に噛まれたのだ。何日くらい経った? 指を折って数えてみた。十一日。病気の潜伏期間は十五日だったような気がする。だがまったく確信はない。獣医でなければ……そうだ、今すぐ獣医に電話しなければ。ドアを開け、あわてて立ち止まった。電話機はリビングにあって、そこにはブラッキーがいる。階段の下で重苦しいうなりをあげている。ジャックは首を伸ばした。

「ブラッキー、ぼくだ! 親友だろ。まさか襲うつもりはないだろうな!」

 ぼんやりした影越しに見知った姿を見つけようとでもいうように、ブラッキーは悲しげに見つめていた。うなり声はしゃがれ、今や悪態のように喉からほとばしり出ているのは、ひどくしゃがれた忌まわしい咆哮だった。ジャックは部屋に逃げ帰った。ブラッキーがゆっくりと階段をのぼってドアの前で立ち止まったのが聞こえた。急くように爪を立てている。酔っぱらいのようなしゃがれ声を脅すように洩らすと、下に降りていった。

 ジャックは額に流れる汗を袖口で拭った。都会っ子の習いをすっかり失くしてしまったブラッキーは、とっくに野生の獣になってしまっていた。誰かに助けを求める術はない。救助隊を呼びに行くのは不可能だ。窓のすぐ外は、小川から聳える垂直の岩壁だった。十メートルの虚空。かつてならさしたる苦労もなく、取り囲む崖沿いの隘路を歩くことができた。庭に身を乗り出し、飛び降りていただろう。玄関のドアは閉まっているのだから、ブラッキーを恐れなくともよい。そして車に乗って……だがそんなことを考えて何になる? この足を引きずって、どんな動きも封じられているのだ。ではほかのことを考えなくては。どんなことを? 囚われの身なのだ。ブラッキーに立ち向かおうか? 殴りつけて? 気絶させる? 最初の一打で反撃されるだろう。解決はただ一つ。待つことだ。犬が病気に負けるまで待つことだ。それには何日かかかるはずだった。

 ジャックは落胆して椅子に座り、煙草に火をつけた。まったく馬鹿げてる! 電話をかけることもできずにじっとしたまま家にいては、狂犬病にかかっていない犬にさえやられるだろう。疑問に駆られ立ちあがると、音のしないようにドアを細めに開けた。踊り場にはいない。何歩か進んだが義足が音を立てて軋み、階下にいるブラッキーが頭を上げて階段の方に走ってきた。ジャックは音を立てて退却した。これでもう危険は明らかだった。ブラッキーは咬みつくだろう。二人の絆は断ち切られた。ブラッキーは敵だ。涙が出そうだった。どうする? 神さま! どうすれば? 不意に、何も食べていなかったことに気づいた。食べ物は冷蔵庫の中。閉じ込められて為すすべもない。ひもじくなれば立ち向かわざるを得ない。手元に武器もなく。

 部屋中を見渡した。家具は素っ気ない。ベッド、椅子、テーブル、肘掛、洋服だんす。それだけ。浴室の奥にある衣装棚に、ずっと前に仕舞ったまま使っていないスピニング・ロッド数本。大きな川カマスにも使えるほど頑丈な、竹製のものが三本。だがブラッキーならマッチのように折ってしまうだろう。だめだ、もうすっかりお手上げだ。冷静に考えようと努めながら肘掛に舞い戻った。

 食べ物もない。武器もない。電話に近づくこともできない。一瞬、棍棒のような義足を使おうかと考えた。犬が義足を粉々にしているうちに、電話をかける隙があるかもしれない。だが馬鹿げた考えは退けた。事の次第を説明する時間がない。ずっと以前から現実に顔を背けていたことを打ち明けなければならない。そして今、現実が喉元まで襲いかかっていた。逃げるのではなく、戦うだけだ。力ではなく、頭の問題だ。ほかに方法はない。電話を使わずに誰かに知らせること。どうやって?

 窓を開けて身を乗り出すと、庭のほんの一部だけが見えた。寝室は家の裏手にある。そこからしか見えない美しい眺めのためだ。よく狙えば、庭にメモを飛ばすことも無理ではなさそうだ。手帳と鉛筆はある。川カマス用の錘が重しに使えるだろう。

 一瞬も無駄にせず、ページを破って書きつけた。『立入禁止。飼い犬が狂犬病につき。警察に助けを求めること。至急。

 読み返すと嗚咽が喉を締めつけた。自分は今ブラッキーを告発したのだ。もう助からないのはわかっていても、猟銃やピストルで撃ち殺すのは耐えられなかった。泣きそうになる。弱虫で繊細な自分に苛立った。いったいどれだけの坂を転げ落ちてきたというのだ? これではリンダが邪険なのももっともだった。優しすぎたとさえいえる。ブラッキーの命と引き替えの命なのだ。言い逃れはしない。紙包みを遠くまで飛ばせるほどの重さにすると、窓から身を乗り出し距離と方向を確認した。間違いは許されないが、釣りは得意だったし、すべきことは心得ていた。腕を振り、狙い通りのところに落とすと、紙包みは並木道の方に転がり見えなくなった。一階の鎧戸は開いているから、人が住んでいることはわかる。誰かが来てくれるだろう……。散歩中の人……ハンター……。それがチャンスだ。運命の通行人は紙を見つけるだろう。

 ――他人を当てにするのは間違いだ。まず考えなければならないのは自分のことだ。ジャックは肘掛に戻ると、襲い始めた空腹をまぎらそうと煙草に火をつけた。いつも時間通りだった食事。まず戦うべきはリンダのくれた快適さだ。ジャックは考えた。――一方にブラッキー。もう一方にぼく。こいつはたいした状況だな。まったく、まるで永遠に続く決闘だ。だがあいつは、ブラッキーは病気だけれど、ぼくは片足とはいえまだまだしっかりしている。飲み食いできなければ、あいつの体力もすぐに底をつく。ぼくの方なら何も食べてはいないけれど、飲むことはできるから、何日かなら耐えられる。結論。ブラッキーから目を離さずにいて、もはや這うこともできなくなった瞬間を利用して電話をつかむのだ。急いでやれば、電話線は長いのだから、踊り場まで戻ってこれる。

 ジャックはよく考えた。具合の悪いことがある。ブラッキーを階段で食い止めなければならない。階段を自由にされてしまっては、勝負はなかばついたも同然だ。越えるべきは階段の登り口から電話までの距離しかないのだから。階段の下でうまく足止めするにはどうすればいい? 家具? 二階から押すだけで階段を転がり落ち、階下でバリケードになってくれる家具? 試すだけの価値はある。それになんであれ、何もしないよりははるかにましだ。使えそうなのはただ一つ、キャビネットだ。中身を空けるのにたいした時間はかからなかった。下着が少しに毛布とセーターがいくつかあるだけなのだ。ところどころに虫食いのあるキャビネットを動かすのはそれほど難しくなかった。苦労して部屋の真ん中まで移動させたが、そこで休まなければならなかった。息が切れている。以前はあんなにたくましかったのに! なんて落ちぶれぶりだ! 深く息をついてから、ドアの後ろで聞き耳を立てた。何も聞こえない。そこで用心しながらドアを細めに開けたが、すぐに激しく叩きつけた。ブラッキーがいた。意地悪く見つめている双眸に気づくには充分だった。爪で引っかきしゃがれ声をあげ、狂ったように踊り場を行き来している。ようやく降りていったかと思うと、長いあいだリビングを歩き回り、椅子にぶつかりながら猛々しいうなりをあげていた。ジャックはやっとのことで恐怖を抑えつけ、外に出た。犬はすぐに歩くのを止め、今や他人となった人影を見つめた。

「ブラッキー!」ジャックはそっと声をかけた。

 自分の名前を聞いて、ブラッキーはぶたれたように後じさり、虚空を噛んだ。恐ろしい咆哮をあげて身を躍らせると、ドアに飛びつく。後ろ脚で立ちあがると人の背丈よりも高い。前脚で扉を叩きながら、絶望とおぼしき怒りをもらした。ジャックは耳をそばだてた。かつて、頭のおかしくなった兵士を何人も見てきた。錯乱した兵士たちとブラッキーを比べて、共通点がないかを探ろうとしてみる。致命的な発作に襲われると、病人は長時間の虚脱状態に陥っていた。ブラッキーもそうなりつつあるのだろう。すぐにキャビネットを階段まで押していかなければ。やがて爪音が遠のいた。可哀想に、もうじっとしていられないのだ。重い足取りのおかげで、だいたいの位置がわかる。ブラッキーは台所の方に戻っていって、電話台の周りを回ると、倦むことも知らずに荒々しく歩き始めた。すり切れた低い呻きを聞いてジャックは苦しんだ。

 すぐに夜がやってきた。ジャックは危険を冒して外に出ると、電灯をつけて一階を照らした。それから部屋の明かりをつけた。こんな田舎風の床でなければ、すべらせるのも簡単なのに。でこぼこの床では動きづらかった。階段から転がすつもりなら、前に押していかなければならない。後ろ向きに引きずるなんて論外だ。ブラッキーに攻撃力が残っていたときのことを考えれば、家具とブラッキーに挟まれるかたちになるからだ。

 ジャックは努めて冷静に計算した……。踊り場を通過するまで約五メートル……キャビネットはまっすぐ動かないかもしれないし、脚が引っかかったら持ち上げなければならないから、少なくとも一メートルにつき一分と見積もれば……。五分だ。あまりにも長すぎる! だが方法はあるはずだ。足を失う前の器用だった自分を思い返した。周りを回りながら、馬を落ち着かせるみたいに掌でキャビネットを軽くぽんぽんと叩いた。もちろん方法はあった。石鹸だ。キャビネットを横に倒すと、すべりをよくするため浴室の石鹸を脚に薄く塗った。そうしておいてから、手押し車の要領で押してみた。時機が来たら飛び出して神に祈るしかない。

 ジャックは残り二本になった煙草に火をつけた。車の中にまだ二パックあるけれど、地球の裏側にあるのと大差ない。

 腕時計は十時五分前を指していた。リンダはもう眠ったろうか? 恨みを覚えずに思い起こすのはあれ以来で初めてだった。蜜月の思い出がどっとわきかえった。ほろりとしている暇はない! 足音を消すために金属の義足を布でくるんだ。もっと前から用心して然るべきだったのだ。ありがたいことに、やる気がだんだん戻ってきた。ゆっくりと踊り場に足を運んで確認したところ、ブラッキーは気づいていない。きっと病気が聴覚を冒し始めているのだ。呼び出しを待っているかのように電話機のそばに座っている。階段には背を向けていた。やるなら今だ。ジャックはドアを大きく開けるとキャビネットをつかみ、全力で身体を押し当てた。家具は壁にぶつかって揺れながら床のささくれをこそぎ落とし、大きな音を立てて進んでいった。今もまだ足がつながっているみたいに、身体中が満たされたのを感じる。家具の先が何かにぶつかった。いましもブラッキーが障害に飛びかかったところで、乱れた呼吸を発する見えない相手に襲いかかろうと押し返している。両側から押し合ったまま、しばらくのあいだ二人は互いにしのぎを削っていた。ブラッキーが先に根負けし、怒りの声をあげて階段の方に後ずさった。ついにあきらめると、牙を剥きだし目をぎらつかせたまま一歩ずつ降りていった。

 段差にぶつかるとキャビネットは雪崩のように勢いよく転がり落ち、けたたましい音を立ててドアを突き破り板を割り、階下でばらばらの破片となった。あたりに黄色い木屑が舞い、製材所のようなありさまだ。

 計算違いだ。壊れた家具で作られたのは、どう転んでも越えられないバリケードだった。椅子を使った方がよいだろう。状況を確認するため、バリケードまで進んだ。障壁の向こう側ではブラッキーが様子をうかがっている。歩けるだけの道をかたすのも不可能だ。これはもう長期戦だ。開き戸のようなものを作れたらどうだろうか。閉めれば犬の攻撃を避けられ、開ければ不意を突いて電話を奪い取れるのでは。ばらばらになった破片では、諦めざるを得ないようだ。馬鹿げた考えだったのだ。それでも電話まではせいぜい四、五メートルほどしかない。長い棒を使えば届く。だがどこに長い棒が。それに棒というのもは引いたり押したりはできるが、握ることはできない。

 ジャックは落胆して階段に腰を下ろした。ブランデーを一口やりたくて仕方なかったが、持ち込んだ鶏肉やハムともどもボトルは冷蔵庫の中だ。ブラッキーは階段をふさぐ障壁とドアのあいだを絶えずうろついている。低い声で呻き、わずかに背を丸め、ロープの切れ端のように尻尾を振っていた。リンダが連れてきたときにはまだ小さく、幼かった。温もった鼻先をうずめる両手両膝を求めていた。なのに今、生きるためにブラッキーを憎まねばならない。生きるためには、電話機のところまで行かなくてはならない。部屋に戻ると屋根に落ちる雨音が間近に聞こえた。中庭に放り投げた手紙のことを考えた。水でぐしゃぐしゃになってしまっただろう。そんなことはどうでもよくなっていた。喜んでさえいた。もしかするとたった一人で勝てるかもしれない。もしかすると番犬のそばで死ぬかもしれない。よくわからないが、あとは尊厳もしくは誇りの問題だ。最後の一本に火をつけると、頭を抱えて肘掛に腰を下ろし、じっくりと考えた。杖の先は曲がっているから受話器をひっかけることはできるだろうか? 釣り竿にしっかり結びつけなければならないが、全体がしなりすぎるし結び目は解けてしまうだろう。まだ解決法は残っている。いいじゃないか? ジャックはぎこちなく立ちあがった。身体中が痛みを覚える。ベッドの上に釣り道具を広げた。竿の状態はよい。リールにはグリスを注す必要があったが、まだ充分に巻き取れる。釣り糸は見た目は丈夫そうなくせに、もろくなっていた。足りないもの、それは大きな釣り針だ。だが作ることはできる。三本か四本の釣り針を束にして大きくし、刺のあるボールのようにすれば、うまく投げれば受話器をひっかけるのも難しいことじゃない。それから? 電話機は床に落ち、糸が切れなければ網に魚がかかったような軽い引きがあるはずだ。そっとリールを巻くに従い、糸は障壁の下まで引き寄せられ、釣り竿の先まで持ち上がり、やがて手元に届くはずだ。くっついてきた受話器を回収するのは簡単なことだった。

 不格好な刺の塊を作るのは造作なかった。これがまもなく救ってくれることになるかもしれない。口唇を焦がした吸いさしを抜き取ると、的がよく見えるように階段の半ばまで降りた。その瞬間、持つ手に衝撃が走った。電話が鳴ったのだ。驚きのあまり釣り竿を落としかけた。ブラッキーが激しく吠えた。それでもジャックはすぐに落ち着きを取り戻した。どこの馬鹿がニュー・ヨークからかけてきたんだ! どうやらボブは口が軽すぎるようだ。だが夜のこんな時間に起こすような友人はいない。ことによると……

 ベルは請うようにしつこく訴え続けた。戸惑い顔でテーブルの上に向かって竿を投げると、電話機の向こうに垂れた糸先を急いで引き戻したが、力みすぎた。家具の縁に釣り針が引っかかって倒れ、電話機が一メートルほど放り出された。受話器がはずれ、床から湧き出るように不意にリンダの声が聞こえた。遠いせいで聞こえないほどのかすかな声だったが、それでもはっきりとわかった。

「ジャック……もしもし? ジャックでしょ、だってブラッキーの声がするもの……でもおとなしくさせて……なんでこんなに吠えてるの?」

 ジャックは破片の山から木切れを拾い、ブラッキーの方に放り投げた。やり損ねたものの、ブラッキーはおとなしくなった。

「ジャック……わたしたち会わなきゃね……二人とも馬鹿だった……どうしたの? ねえ何か言ってよ……そんなに怒ってるの? ジャック、愛してる……初めにそれを言っておくわ……ずっと寂しかった……聞いてる? あなたも後悔してるって言ってよ……しゃべりたくないの? 邪魔だった?……いいわ。車に乗ってすぐ行くから……」

「だめだ!」ジャックは叫びをあげた。「だめだ。来てはだめだ」

 受話器から漏れるぼやけた言葉はほとんどわからない。もはやリンダの声は消えかけていた。

「来るな!」

 声は途絶え、ジャックは落胆したまま釣り竿を引き寄せた。リンダは間もなくやってくる。そしてドアを開ける。ブラッキーが飛びかかるはずだ。だめだ。そんなのだめだ! 絶対にだめだ。どうにか落ち着きを取り戻し、電話の場所を確かめようとした。バリケードの向こうはよく見えない。電話機は壁際まで転がっていた。コードと柵のあいだに針を垂らすなんて不可能になった。この勝負は完敗だ。ジャックはのろのろと戻った。ぼくだってリンダを愛している。迷いも不平も嫌な天気もすべて吹き払われた。それでも大きな痛みが残っていた。いますぐに新たな解決策を見つけなければ、リンダは死ぬ。ジャックの怒鳴り声が聞こえたかどうかはわからないのだ。あらんかぎり祈った。言葉を拾っていたとすれば、拒絶されたと受け取ったとすれば……いやだ! それこそ最悪じゃないか。リンダはまだ愛してくれているのだ。どんなことをしてでも、この袋小路から抜け出さなくては。ドアから出ることはできないのだから、もはや窓から出ることしか残されていなかった。

 崖道を逃げるって! 気違い沙汰だ! だがあきらめたら、リンダの電話を無視することになる。血管の中に新たに血が流れ込むようだった。危険は大きいが、スポーツマンにならやれる可能性はある。ほんのちょっとのあいだ、スポーツマンでいられないのか? ぼくの過ちは……それは何もかも無駄に費やしていたことだ……そんなのは自分が病人だと認めることになる。誘惑を退けるように、過ちを否定し、はねのけなければ。終わってはいない。それを今から証明する。今すぐに。ジャックはブラッキーを一瞥した。だらりと口唇を垂らし、うなだれて、立っているのもやっとのようだったが、ジャックが動いたのを見て躯を起こすと階段の方に悲痛な咆吼を浴びせた。弱ってきたのは間違いないが、まだかなりの体力があるだろうからしばらくは危険だった。ジャックは迷わなかった。かつて頭上のコックピットを閉じたように、機械的にドアを閉めた。再び出陣だ。打ち破るべき敵、それは自分だ。義足の留め具を確かめ、ごわごわしているブルゾンを脱ぎ捨てた。壁に止まっている蠅のように、外壁にぴったりと身体を貼りつけなければならないのだ。すべてうまくいけば、崖道沿いに角まで歩いて二十分もかからない。そこからは庭に飛び降りるだけでいい。窓の桟をまたいで後ろ向きに腕でつかまると、無事な方の爪先で足場を探った。

 靴を履いたままなのをすぐに後悔した。編み上げ靴では感覚がつかめないので、やみくもに動かしとっかかりを探した。ようやく探し当てた。次に踏み降ろした義足が木を削った。ジャックは窓から離れ、じっとしたまま呼吸を整えた。もう戻ることはできない。日が暮れた。細かい雨が背や手を濡らす。気にもしない。嫌な空だった。すっかり外気の感覚を失っていた。もう動きたくない。――愛してくれてるんだ。そのつぶやきはまるでこう聞こえた。――ご加護を。

 頬、身体、両脚を壁にぴったり押しつけたまま左手で手探りし、靴底の下に何の感覚もなくなってずり落ちるたびに義足の方にせいいっぱい体重をかけて、何センチか進んだ。後にした窓からは、四角く切り取られた光が雨を照らしていた。窓が少しずつ遠ざかる。だがあまりにも少しずつだった! すでに疲労で膝が痺れていた。汗でびしょびしょだ。死体が結ばれているのかと思うほど足が前に進まない。ほとんど引きずっていて言うことを聞いてくれなかった。

 やがてそれ以上は進めないと悟った。無理だ。手も足も悲鳴をあげていた。手を放せば真っ逆さまに落ちてゆくが、そんなことは問題ではない。でもリンダが……リンダは庭から名前を呼ぶだろう。――ジャック……ねえジャック……そしてドアを開けるはずだ……ジャックは歯を食いしばって崖道を這い進んだ。丸太を組んで作られた家は、濡れてすべりやすかった。隙間に指をうがち、出っ張りを探さねばならなかった。体力が奪われる。消耗する気力が、消えかけたランプのようにちろちろと燃えていた。

 休憩だ! 壁の境の柱に頭をもたれさせ、集中力を取り戻す。幸せだった日々の思い出を振り返った。この家は、見つけた瞬間に二人とも一目で気に入ったのだ。リンダが魅せられたのは景色。ジャックは広いリビングに。その暖炉に爆ぜる火を熾そうと心に決めたのだ。進まなきゃ、また一歩、さらに一歩……二人で家具を選んだ……親友たちと鉤を吊った……ボブ、ラリー、スティーヴ……ほかのやつらと再会するのも楽しいだろう……あと三、四メートル……いちばん苦しい箇所は去った。ジャック、おまえならできる……おまえなら……

 義足がすべった。身体が傾く。指先が離れる。声をあげる暇もなかった。空気が顔を打ち、ジャックは闇に転落した。灌木に打ちつけられて身体がばらばらになったようだった。ジャックは気を失った。

 目を覚ましたのは雨のおかげだった。肩に痛みが走る。おそらく骨が折れているのだろう。なんとか身体を起こす。義足は膝の部分で折れていたが、強い打撲以外はほとんど無傷だった。あいにくなことに傾斜がきつくて、庭に行くにはよじ登らなくてはならない。リンダを止めるのは間に合わないだろう。もはや荷物でしかない義足をはずし、痛みに顔をしかめながらあたりの地面を探った。手が藪と灌木にぶつかり、しっかりしたとっかかりができた。ミミズのようにのたくりながら這い登った。ときどき腕時計で時間を確かめようとしたが、痛みで目がぼやけ、蛍光塗料の青白い文字盤を読みとることはできなかった。戦いは長時間つづいた。ジャックは庭に転がり込んだ。柵を照らすヘッドライトは見えなかったが、ドアの閉まる音が聞こえた。砂利を踏む音。リンダだ。

「ジャック! 眠ってるの?」

 リンダはドアの前にいる。ジャックは声をあげたかった。「戻るんだ!」だが口からはどんな音も出てきはしなかった。リンダがドアを開ける。リビングの明かりが庭に細長い影法師を映し出し、ブラッキーが恐ろしい吠え声をあげた。ジャックは目を閉じ、意識を失った。

 目を覚ますと救急車の中にいた。リンダの顔がのぞき込んでいる。

「噛まれなかった?」震え声でたずねた。

「ええ。動けなくなっていた。病気のせいね。警察に電話したら、楽にしてくれた。そのあとであなたを見つけた」

「知らせようと思って……」ジャックはつぶやいた。

「休まなきゃ……眠って……話はあとでいいわ。今は生きていることを喜びましょう」


「Blackie」Thomas Narcejac の全訳です。


ver.01 06/01/01

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訳者あとがき

 トーマ・ナルスジャック『贋作展覧会』より、ウィリアム・アイリッシュ(コーネル・ウールリッチ)の贋作をお届けいたします。

 ミステリの世界では今でもほぼ毎年クリスマスにホームズ贋作集が出版されるほどに、ホームズ・パロディ人気は衰えません。日本では芦辺拓による一連の贋作ものや二階堂黎人のルパン贋作など、ホームズ以外のパロディ・パスティーシュも盛んです。単なるお祭りごとの企画ものにとどまらず、島田荘司『ホームズと倫敦ミイラ殺人事件』や北村薫『ニッポン銀貨の謎』など、著者の代表作になり得る傑作も生み出されているジャンルでもあります。

 お国が変わってフランスでは、ボアロー=ナルスジャックという天才が一人で(というか二人で)一手に引き受けております。二人の手になるルパン・シリーズの贋作長篇は、以前は新潮文庫でも出版されていましたし、ポプラ社の子ども向けシリーズではルパンものの一冊として五篇全て収録されておりましたから、ご存じの方も多いことと思います。

 さて、そんな二人のミステリに対する愛情には並々ならぬものがあったらしく、本国のヒーロー、ルパンもの以外にも多数の贋作を手がけています。正確に言えば二人がコンビを組む前、トーマ・ナルスジャックによる単独の仕事『贋作展覧会』です。

 ミステリ好きなら是が非でも読みたいあの作家のあの探偵の“新作”がてんこもり。なかでもウールリッチの贋作というのはめずらしい。芦辺拓氏の諸作に顕著なように、ふつうは贋作といっても文体や構成を完璧に模倣することなど不可能で、たいていはそれらしい言動の名探偵キャラが登場するにすぎません。シリーズキャラクターを持たなかったウールリッチの贋作をキャラ重視の贋作手法で書くのは不可能ですし、なによりウールリッチの魅力はあの文体にあるのですから、よほどの模倣技術でもないかぎり、失敗間違いなしの試みです。

 ところが――そんな困難をいとも簡単にクリアしてしまうのですね、トーマ・ナルスジャックは。ウールリッチにしろチェスタトンにしろ、あの独特の文体が、舌を巻くほど見事に模倣されています。

 細かいことをいえばもちろん不満もあります。この作品はトリックものではないのでその点に関する不満はありませんが、障害者と動物に温かい視線を注いでいたウールリッチなら果たして動物をこんなふうに扱っただろうか――それがいちばん気になりました。でもこうした残酷さこそが、ウールリッチらしいといえるのかもしれません。

 戦争の影が深く落ち、物語の設定に関わっているのもウールリッチらしくないところでしょう。そもそもウールリッチの全盛時期はベトナム戦争よりずっと前です。ナルスジャックなりの反戦小説なのかもしれないし、ウールリッチの特徴である孤独を突き詰めた結果、戦争・唯一の友人の喪失という結論に落ち着いたのかもしれません。

 残酷と孤独の反面、ウールリッチ以上に甘い雰囲気も備わっています。そしてサスペンス。これも一種のタイムリミットものと言えるでしょう。自分が助かるために、親友に早く死んでほしいと願う、あまりにも残酷な時間との戦い――そして恋人を守るための、一秒を争う戦い。

 贋作としても単独の作品としても評価できる作品でした。


翻訳について
 翻訳でも当然ウールリッチの文体を模倣しなければいけません……。できるかぎりウールリッチ作品を読み返しました。おかげで「ウールリッチとジャズ」なんてサイトまで作っちゃいました。でも効果のほどは……。たとえウールリッチらしくなくても、著者の責任ではなくて訳者の責任です。

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