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翻訳:東 照
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愛と死

ジョイス・キャロル・オーツ

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愛と死

 二月のこと、マーシャル・ヒューズという男が、男やもめの父を訪れるため故郷に戻った。これが物語の始まりというわけではない、つまり本当の始まりではない。だが彼は始まりと考えていたかもしれない。父は家政婦兼看護人の姉と二人きりで暮していた。彼の名もマーシャル――かつては〈ビッグ・マーシャル〉だった。マーシャルは今では、息子が大きく、父は小さかったが、たぶん光のいたずらだろう。「いやだめだ、閉めといてくれ」父は窓に向けて指をふりながら繰り返した。「目に悪い」新聞を読むときには、ベッドに起きあがるか、さもなくば側の大きな安楽椅子に腰掛けていた。刺々しく短気な老人であり、今もなお、どことも知れぬ収入源から入るお金の蓄えがあった。それでいい。マーシャルは考えた。父が金銭的に安定していれば、何かから二人を守ってくれるとでもいうように。よし、あのままでやらせておけ、幸せに死なせてやれ。

 家は大きくてすきま風だらけのビクトリア朝様式。大人向け雑誌の漫画に出てくる家のお手本に思える――郷愁を持ちながら、そんな家を見捨てた世代にだけ意味のある漫画。妻も、こんな一軒家を回顧できるはず。マーシャルと妻はよく気が合い、二人とも知的で明るく、財産がもたらす優雅さに染まっていた――もちろん財産はちらつかせない。二人とも同じ階層だったし、同じ学校に通っていたし、同じ教師に教わっていた。世界を形作る奇妙で愉快な名前のつながりによって、出会ってさえいないうちから、お互いに結びついていた。たとえフランがマーシャルの友人のいとこピーター・アプルゲイトを知らなかったとしても、当然のように知り合いのグロリア・ヴァン・ビューレンが別の友人の婚約者だったのだ。

 一九六七年は、マーシャルとフランが結婚して九年目、子供が三人いた。マーシャルは別の会社に電機部品を供給する会社に勤めていた――優れた企業だ。いろいろなところから二人に入ってくるお金では、年間七、八千だけ生活に足りなかったので、働く必要もあったし、「働かなければならない」という考えには安心感とか安定感のようなものがあり、不思議な満足感を得てもいた。主に子供たちのため長老派教会に通った。実家とは数百マイル離れ、過去の影響から数世紀逃れたような、中西部の高級住宅地に住んでいた。

 だからマーシャルは見舞いに戻った。良心に背中を押され、妻に言われた。「そうしたらいいんじゃない?……」父の具合が悪く、死ぬのももう時間の問題だろうと聞いて、心を決めた。父がそのことを知っているのかが心配だった。父が不機嫌に繰り返しているのはたぶんそのせいだ。「晴れたら病院に行くからな。今年の冬は長すぎる」

「フィツジェラルド医師はどう?」

「腕こきだ」

「息子さんは元気かな?」

「息子のことなど知らん」こんなふうにマーシャルの年代は押しのけられ、締めつけられ、無視された。父の自負心と権威に気を遣ったマーシャルは、時や運命や死に関する禁断の地下世界を連想させるような話題を続けたりはしなかった。

 初日の夜にフランに電話をかけ、声を聞いて安心した――思慮深く澄んだ魅力的な声――自宅、友人、子供、妻といった素晴らしい世界を思い出させる。父たちが成し遂げたものが何であろうと、そこには新世代の安らぎなど一つもなかった。勝ち得たものはその中身同様に厳格だった。あの世代には少しも楽しみがない。「子供たちは?」マーシャルは電話の向こうにたずねた。出張中に家に電話して子供たちのことをたずねたときには、よく涙で目が痛んだ。離れていると、考えるのはたいてい子供のことだ。家にいるときには、どういうわけか関心の外だった。

「みんな寂しがってる。愛してるって」

「元気でなって伝えといてくれ」

 次に何を言うべきか思いつかず、気まずく浮いた間ができた。お互いに気を遣っていたにもかかわらず、ではなく、その気遣いのせいだった。

「気をつけて」

「あなたもね」

 翌朝マーシャルは散歩に出かけた。近所の衰退ぶりを目にするつもりだったが、それほどひどくはなかった。よく知っていた場所のいくつかは空き家だったし、ほかもまるで養護施設か何かのようだった。かなり長いあいだ歩きまわった。春を思わせる、穏やかに晴れた日だ。歩き続けて郵便局まで来たが、覚えているより小さかった。窓口が四つあったが開いているのは一つだけだったので、列に並ばなくてはならなかったが、先頭近くの女性に見覚えがあることに気づいた。後ろ頭を見つめる。安っぽい型のクロス・コートを着ている。薄っぺらいピンクのスカーフで髪をしばっているが、ブロンドに脱色しているだけで特にセットしてはいない。マーシャル自身は黒い上物のコート、手袋を身につけ、高級靴はゴムで保護されている。背が高く、身なりのいい四十近い男だった。女性が窓口から振り向いたとき、マーシャルは息を呑んだ――そうだ、覚えている。

 彼女は閉まっている窓口に向かうと、封筒に切手を貼るためカウンターに財布を置いた。マーシャルは観察した。痩せてか細いありのままの横顔は、覚えていたのとは少し違った。もっとみっちりしていたのを覚えている。彼女は自宅にいるみたいに周りの人々を気にせず、切手をなめて封筒に貼った。誰に書いていたのだろうとマーシャルは思いを巡らした。コートがスカートには短すぎて、一インチかそこらだらしなくはみ出ていた。

 観察し続けていたのできっと気づかれるだろうと考えた。彼女が財布をつかんだときには窓口のそばにいたのに、目もくれずに外に向かった。では追いかけるしかない――大声で呼び止めたくなかったし、去ってほしくもない。ドアのところで追いついた。「やあ、シンシアだろ? シンシア?」

 彼女は振り返って彼を見つめた。誰なのかわかったのが確認できたし、まるでまずい折りに捕まえられたかのように、びくつくような控えめな抗議の身振りをするのも確認できた。「ああ、マーシャル」素っ気なかった。目は冷たく非難するような灰色だった。「マーシャル・ヒューズ」

 マーシャルは息を止めて困ったように笑った。「君じゃないかと……」

「戻ってきたの?」

「見舞いだよ」

 彼女の口の端が上がったが、微笑みではなかった。唇は真っ赤だ。生気がなく露骨にうんざりした顔つき、ずっと身構えてばかりだったに違いない顔つきに、胸を突かれた。スカーフの中の脱色した髪が、やけに陽気で滑稽に見えるせいで、顔に冷たい印象を与える。前髪を額に降ろしているのが、あまりにも少女じみている。記憶の通りに高い鼻が、わずかに飢えと焦燥感を与え、鼻梁は薄く繊細で、口は鋭く冷笑的に、その両端に影を落としていた。どこにでもいるきれいな女性のか弱く平凡な顔に、なぜか押しつけられた知性的な外見。抜いて整えられた弓形の眉は、とうに時代遅れなものだったが、その口は何か言うことがあるように見えた。

「驚いたな、会えるなんて……きっと君じゃないかと」マーシャルは彼女を呆然と見つめ続けていた。何か面白いことでも言われたように、女は素っ気なく無愛想に笑った。「まだこの辺りに住んでるのかい? その――おばさんと一緒に?」

「母と?」また笑った。

「ああ、つまり――その、一緒じゃないのかい?」何かばかなことを言ってしまい、事実を混同してしまったと気づいた。彼女はからかうように見つめている。「じゃあ家はどこ? 近く?」

「ええ、すぐそこ」露わな冷笑。彼女に対する反感で胸がきりきりと痛む。

「そうか、元気だった?」

「ええ」

「今はカンザス・シティに住んでるんだ。女房と子供が三人」

「おめでとう」

「君は? 旦那さんは?」

「結婚してたわ」

 彼女を笑わせたくて、マーシャルは笑おうとした。彼女の口元はどこか冷たい。その冷たさ、質問を置き去りにする高慢で冷淡な答え方に、ムッとした。最新流行の自分の服装に恥ずかしくなる。彼女はとてもみすぼらしく、とてもみじめに見えたし、彼がさらしているのは自身の零落ではない。

「どこに行くんだい?」不意にたずねる。

「先」

「先?……」

「何ブロックか先」

 彼女はドアに向かった。彼もあたふたと続く。彼女のコートの裾に視線を降ろす。どこかだらしなく親しげで、何か無防備だった。「家からここまで歩いてきたの?」

「ああ。散歩日和だから」

 階段を下りる。彼女は立ち去りたがっているようだが、まだ一緒にいたかった。何か言わなくてはいけない。何年も前、二人は親しい間柄だったし、彼女のことをすっかり忘れていたとはいえ、今もまだ立ち去らせたくなかった。冷淡なのが気がかりだった。

「コーヒーでもどう? 昼食は?」

「お昼には早いわ」

「十一時過ぎだよ」

「十時まで寝てたの」

 ふたたびかすかな反感に引っぱられる。自分はいつも七時に起きる、遅くまで寝ていることはない。「なら、そこでコーヒーを」

「いいわ」

 二人が向かった小さなレストランには、見覚えがあるように感じた。マーシャルはコートと上着のまま入ることにややためらいを覚えたが、彼女の方は場慣れしているようにコートのボタンをはずし椅子の背にかけた。コートを脱いで濃い桃色をしたぴちぴちのセーターを着ている姿は、若く優しく見えた。セーターは安物で、首は伸びきって汚れていたけれど、媚びるようなやわらかな桃色を顔に投げかけていた。

「ずっとどうしてた?」

「元気でやってたわ」

「ほんとに偶然だな、君に会えるなんて……」

「ほんと」皮肉るような言い方。今も笑っていない。ウェイトレスが注文を取りに来たときには、マーシャルはほっとした。二人は小さくぐらつくテーブルに向かい合って座っていた。彼女はテーブルが小さいのを意識して、椅子を引き寄せずに不自然に深く腰掛けた。マーシャルは微笑んだ。コートをていねいに折りたたんで手近の椅子に置き、無意識にみえるように手際よくテーブルを彼女の方に押し、自分の椅子を引き寄せた。

「うん、ほんとうに驚いた」手をこすりながら言った。

「ったく、それを繰り返さなきゃなんないの?」

「でも事実だろ」汚い言葉遣いに戸惑ったかのように、顔が赤くなる。彼女はとても強い、不思議な強さを持っているのに、彼は何一つ持っていない。クールで打算的な目つきで彼を見つめている、こんな目つきの女は今まで見たことがなかったが、目元にわずかなくぼみがあることに満足感を覚えた。三十五歳くらいだ。数年でとつぜん歳を取り、強さも消え去り、この無愛想な気ままさもすっかりなくなるだろう。自分が郵便局から追ってきた理由がわからなかった。

「結婚してたって?」

「誰がそんなこと知りたいのよ?」

「ぼくだよ。ぼくが知りたい」弱々しく答えた。

「そうかもね、それがどうしたの? あたしが追い出したのかもしれないし、よくある話――だけどそれがどうしたってのよ?」

「どうもしないなんてことはないだろう」

「そうよ。あんたにはね」

「でも気になるんだ。君のことが聞きたい」

「ああ、ったく」彼のことを一緒に笑ってくれる人を探してでもいるように、遠く、面白がるような視線を彼の背後にあちこち動かした。マーシャルは思い出した――この女がもっといいことを考えているふりをして、こんなばかで冷淡で自分勝手なやり方で辺りを見つめ、会話を突然やめることを思い出していた。

「兄さんは元気?」

「誰、デイヴィー?」

「ああ、変わりは?」

「別に。もう結婚したわ。夜勤で働いてる」

「おばさんは?」

「母はずっと前に死んだわ。知ってるでしょ」

 マーシャルは顔をしかめた。覚えていない。だがそれでもわずかながら思い出した。何かもやもやしたものがまとわりつく。彼女は手首を重ね、身を乗り出した。手首は少女のように細かった。「ぜったい覚えてる。嘘つき」

「嘘つき?」

「嘘つきよ」不機嫌に口の端をあげる。「奥さんのこと話してよ」

「いや君のことを話したい」

 彼女は笑った。ウェイトレスがコーヒーを運んできた。マーシャルは邪魔が入ったことにムッとした。「あたしのことを話したいの? いったいどうして? 煙草ある?」

 喜ばせたくて、すぐに煙草の箱を取り出した。彼女は冷たく無関心で、今にも椅子を引いて歩き出しそうだったし、彼にはあとを追うことはできなかっただろう。赤いセロファンをもどかしく破って包みを開けながら、彼女の視線を指に感じ、何か我知らず淫らなことをしているような気になっていらいらとした。ついに煙草を一本押し出して手に取らせた。煙草に火をつけるのがまたぎこちなかったが、無事に終えた。彼女の無愛想で冷淡な沈黙の前では、不思議と弱気になった。

「デイヴィーは今も町に?」

「ええ。あんたのお気に入りだったっけね?」興味深そうにたずねる。

「どういうことだ?」

「あたしらのやることに首を突っ込まなかったから、気に入ってた。そこが、兄を好きだったところ、母を嫌ってたところ」

 記憶がかき回される。彼はゆっくりとうなずいた。同意しておいた方がいい。

「そりゃ、あんたの母親もある意味ブタだった。その話はよしましょう」

「お袋を見たことはないだろう」

「見たわ」

「いつ見たんだ?」

「わかってるくせに――二人で街に行った日。着飾ったデブたちと一緒にいるところを、指さしたでしょう。覚えてる」

 マーシャルは軽い衝撃を受けたが、笑顔を作った。「でも見ただけなら……」

「ぜんぶ知ってる。話してくれたじゃない。お父さんは元気?」

「ああ」

「お見舞いに来たの?」

「ああ」

「どのくらいいるつもり?」何かまずいことを言ったと気づきながら言い直したくないとでもいうように、煙草の灰を床に落とした。

「あと二、三日」

「それから戻るの――カンザス・シティに?」

「セント・ルイスに」ゆっくりとつぶやく。

 彼女が微笑んだ。「へえ、セント・ルイス。セント・ルイスに住んでるんだ?」

 彼はコーヒー・カップをわきに押しやった。コーヒーはほしくない。いらいらと彼女を見つめる。「そんなことはどうでもいい。君は、君は結婚してるのか?」

「ある意味では」

「なんだそりゃ?」

 彼女は肩をすくめた。三本の指でコーヒー・カップをつまむ堅苦しく気取った動作に、彼は衝撃を受けた。すべてを勘定に入れてさえもきれいな女だった。彼女には飢えと皮肉なところがあり、どんな女にもないような強い目つきで見つめていたが、それでもかわいいところがあった。髪は乱れていたが清潔で、窓から入る光で輝いていた。彼女の髪を気に入った。色は通俗的で、ちっとも賢くなさそうに見える――なんてばかげた色だ!――それでもその髪が好きだ。

「きれいな髪だね」

 彼女は何の感情もなく気怠げに肩をあげた。

「ずっと前から伸ばしてたよね?……」

 二人はしばらく無言で座っていた。彼女が口を開く。「もう出ましょう」まるで議論しているような強い口調だった。マーシャルは何を耳にしたのかよくわからないまま答えた。「だけどどこに行くんだい?」 家、と答えが返ってくる。どういう意味なのかたずねた。誰と住んでるんだ? 関係ないでしょう?と彼女は答える。彼は心臓の鼓動が速まるのを感じながら、もう一度たずねた。一人、と聞こえた、一人で住んでるの。でも夜に働いてるから、やらなきゃいけないことがあるし、洗い物とか買い物とか。一緒に行ってもいいかな、とたずねた。彼女は彼を見つめながら、優しくうんざりしたように落ち着いて告げた。首を横に振る。マーシャルは煙草の箱を不器用に探ると、神経質にしまい込んだ。彼女は見つめ続けていた。彼はとつぜん罪の意識を感じ、誰かが聞いていないか確認しようと肩越しに見回したい衝動を抑えなければならなかった。

 二人は何年も前に酒場で出会った。彼女はとあるグループ、彼は別のグループだった。彼女を紹介されると、名前と電話番号をたずね、数日後に電話をかけた。彼女は当時、大きくて薄汚れた、年代物の家に住んでいた。その建物、内気な自分、念入りに化粧されたからかうような少女の顔と、履いていた靴の高いヒールを思い出した。

「だめ。行かなきゃ」

 彼女にコートを着せ、自分も羽織ったが、ボタンを留めたりはしなかった。ドアのところで追いついた。

「どこに行くつもりなんだ?」

「だから家だって」

「場所は?」

「すぐそこ」流し目をくれると微笑んだ。「送ってくれるの?」

 アパートは六階建ての年代物だった。マーシャルは漠然とした印象を持ったが、どういうわけかそれ以上は見たくなかった。焦っていた、心臓が止まりそうなほど激しく脈打つ。階段では、思いよりも早く足が身体を運ぼうとする。彼女は冷笑的に横目で見つめ続けている。裸の手を手すりの上で少しずつ動かしているのを、彼は目の隅で眺めていた。

 戸口で彼女が鍵をさすのを眺める。力任せに差し込むとあっさり奥まで入り、簡単に回転することに驚いた。弱気になる。「もう帰ってちょうだい。じゃあね」彼女の頭の動きが、背後の階段を指していた。

「もう少しいられないかな? 話したい」

「話す? 何を話すの? 話すって!」うんざりしたような答え。

「それなら、またあとで会えないか? 今夜は?」

 彼女はすでにドアを開けていた。逃げ出したがっているようだが、何かが引き留めていた。二人のあいだの特別な吸引力や、とらえて離さない不確かな力を、彼と同じように感じている。マーシャルは待った。昔もこうして待たされていたのを思い出した。彼のような男が与えたがるもの以外は何一つ持っていない、本当に何一つないすれた少女。ピンとはねて鬘のように不自然な、金髪の束に埋もれかけた横顔が、一瞬だけ妻の横顔を連想させた。だが二人はまったく違う。妻は明るく健康的で、人懐こい顔をしている。友人たちとゴルフをやったり、気取らず趣味のいい服を着る。この女を見て妻を思い出したのは、すぐそばに立っているというだけのことだった。今までに人と近づいたことなどほとんどなかった。

「中に入っていいかい? ほんの少しだけ?」

 彼は汗だくで動揺していた。彼女の指が、からかって彼の身体を叩くように、ドアの取っ手を叩いている。彼は頼み込んでいた。「すぐ帰るから」

 小さいという以外には何の印象もない。一面には日除けの降りた窓。食べ物の匂いが混ざり合う。制御できないまま浮かび、解放されている何かの中を、打ち破ったような感覚を受けた。不思議な感覚。生まれてこのかた他人にはそっと言い続けてきた、一人にしてくれ、触らないでくれ、話しかけてくれでも触らないでくれ、怖いんだ――何が怖いんだ? 彼は怖かった、それで充分だ。彼と妻はお互いにそっとこう言い合っていた、一人にして、触らないで――シンシアはコートを乱暴に脱ぐと彼を見回した。「なんでここにいるの。今もまだ十五年前のつもり?」

 ショックを受ける。「十五年? ずっと何もないまま――そんな長いあいだ――」眩暈がする。彼女の方に移動した。コート姿のまま不器用に腕を回すと、彼女はばかにするように、からかうように辛抱強くそこに立っていた。「そんなに経っていたなんて――」

「わかった」

「君のことを山ほど考えてたのに――」

「わかってるから」

「中に入らないか? あっちの部屋に行こう」

「お金をくれなきゃ」

「ああ」

「昔もお金をくれてた、ね?」

「そうだったっけ、いや、そうか――覚えてない。お金をあげたって?」驚いてたずねた。そのことを考えてみる。「いや、お金なんかあげてない。そんなことはしていない」

「ほんとのことよ」

「お金をあげたって?」

「あんたのことは愛してた、でもばかじゃない」面白がるような単調な声で答えた。「ばかだと思ってるの? 貧しいから? 奥さんみたいな服を着てないから?」

「いや、ばかじゃないよ」

「ならお金をちょうだい」

 彼は財布を取り出した。愛し合った思い出を閉め出すために、こんなふうに彼を貶め、自分自身を貶めているのだと考えた――わかってる、彼女のことは理解している。自分を守っているんだ。紙幣を取り出すと、ばかみたいに微笑んで手渡した。彼女も微笑みを浮かべて受け取った。「ええ、お金をくれたんだから。じゃなきゃどうしてあんたを困らせたりする?」

 二人は別の部屋に向かった。マーシャルは考えるのをやめた。しばらく経ってふたたび考え出したときには、心ははっきりとしており、部屋を心に刻みつけようとでもするように見回していた。リヴィングに戻ると、彼女は隣で無関心にあくびをし、彼はこの部屋もぐるりと見回した。安っぽい家具が見える、白木と緑のクッション、フォルマイカの天板テーブル、花柄のカーテン、すり切れた絨毯。彼はすっかり混乱し、呆然としていた。悲しいほどに薄汚れた部屋だった。

「また会おう。また会いたいんだ」

「今夜ディナーに誘ってよ」

「ディナー? ほんとに?」

「ええ、ディナー。じゃあね」

 彼は家に戻ると、散歩中に旧友に会ったのだと言い訳せねばならなかった。伯母が干涸らびた疑り深いオールドミス特有の声で友人とは誰かとたずねたとき、一瞬のあいだ本当に名前を思い出せなかった。気まずさ。父は幸い気にも留めていない。新聞を読んでいた。息子が遠くまで会いに来たというのに新聞にしか注意を払わない老人を、ねたむように眺めた……。老人が新聞を読みながら口をすぼめる際に、あたかも口の中で内緒事をつぶやくように顎を上下し、唇を動かしていることに気づいた。その唇の動かし方は、どこか異様であまりに内向的で卑猥といってもよかった。マーシャルは顔を背けた。それから振り返って目を凝らした。父は読みながら唇を小さく動かしていたが、無言の言葉を発しているのではなく、気を紛らすような単なる癖なのだ。

 マーシャルはその日の午後、ふたたび妻に電話をかけた。子供たちとフランの様子をたずねる。元気よ。だけどひとつ――坊やが足をすりむいたの。外で遊んでたときに。ううん、突き飛ばされたわけじゃないわ、ただの事故。マーシャルは口を動かし耳を傾け続けようと努めた。聞くより話す方が簡単だった。妻の声は遙か遠くにある。腰を落ち着けている本の並んだ書斎も、どういうわけか遙かに遠く、その目に見えぬ壁が、偶然にも足を踏み入れてしまったもう一つの過去の空気を閉じ込めている。すぐさまその外に足を戻した。

 その夜、彼女のアパートにたどりついたときにはとても神経質になっていた。彼女は面白がっている。「どうしたの? 郵便局では別人だったのに、今は十五年前に戻ったみたい」

「十五年前、ぼくはどんな人間だった?」

「今のあんたよ」

「つまりどんな?」

「言いようがないわ。あんたのことをあんたに説明できるわけないじゃない?」

 二人は薄暗くありきたりのレストランでディナーを取った。大きな空調が音もなく不気味に頭上の壁に掛かっていた。倒れて落ちてくるような気がする。マーシャルは過度の不安で落ち着かなかった。彼にとってはほとんど味わえなかったつまらない食事を口にすると、先ほど言っていたことの意味をたずねた――「ぼくは本当にお金をあげていたのか?」

「ええ、もちろん」

「それを受け取った?」

「当たり前でしょ?」

「どんなふうに会ったか覚えてる? 最初の出会いだ」

「電話をかけようとしてどっかの酒場に入ってきたんでしょ。友だちは外で待ってた。あたしに何か頼んでさ――電話をかけるから両替してくれって。あたしに話しかけた。それから外に出て、自分を待たずに車を出してくれって友だちに話してた。戻ってきてから二人でどっか行ったのよね……」言葉が途切れ、思いを巡らす。「そう。ここに来たの。友だちが部屋を借りてて、ときどき泊まりに来てたから」

「でもぜんぜん違う」マーシャルは急いで口を挟んだ。

「違う? じゃあどうだったの?」

「あとで電話したんじゃなかったか? 電話番号を聞き出しただろう?」

「ええ。番号を訊いて、そのあと部屋に向かった」

「そのあとすぐに?」

「ええ、違った? 覚えてないの?」

 彼女を見つめる。ゆっくりと、不本意ながら、彼は思い出し始めた。年齢より上に見せようとしている、黒衣の痩せた少女。隅にある電話ボックス近くのテーブルに座っていたのだった。「それで部屋に向かったって? 君の友だちの部屋?」

「ええ。一回だけ」

「別人じゃないのか?」

「あんたとじゃなくってこと? そりゃ男はほかにもいた、あんたもその一人に過ぎなかった」

「部屋に行ったのは一回だけだって?」

「そのときは家に住んでたもの。家族と一緒に」

「そうだな。覚えてるよ」

「母のこと覚えてるの?」

「ああ」

 彼女の母親はある日かれを怒鳴りつけた、娘の弱みにつけ込んだとか言って非難した太った酔っぱらい。マーシャルはババアを押しのけなくてはならなかったが、ババアは殴りつけて顔を引っ掻こうとした……そうだ、あのデブのくそババアのことは覚えている。死んで喜んだものだ。

「死んだとき喜んでたわね」シンシアが言った。

「そんなことを言うつもりでは……」

「ふうん、あたしは言うつもりだったの」シンシアは素っ気なかった。

 ディナーが終わると彼はたずねた。「なんでもっとどうにかしなかったんだ? なんでこの辺りにこんなに長く暮らしてるんだ?」

「したいこともないし」

「結婚しなかったのか?」

「そうは言わなかった」

「子供は? 一人も?」

「少しも興味ないくせに。わかってるでしょ」

「何を言ってるんだ?」

「あたしの生活なんて興味がないんでしょ、まるっきり。結婚してたかどうか気になるの? わかった、してたわ。それからすぐに終わった。子供はなし。あたしは、あんたが知ってるような人間じゃない、したいこともない。ほっといて」

「信じられないな……」

「でもあんたの奥さんにはなりたくないの。そんなつもりはない」

「ぼくと結婚する気はなかったと?」

 笑い出した。「そうよ。する気はなかった。でもそんな意味じゃないの。今の奥さんみたいな女になりたくない――そんな女になりたくないってこと」

 マーシャルは妻を思い出そうとしばし考えなくてはならなかった。身の危険を感じているように心臓がわなないた。

「君らはまったく違う」ゆっくりと答えた。

 二人はアパートに戻った。触れられるほど近づくと、彼女は冷たく言い放ち、ある意味いつでも遠ざけようとしていた。彼女の心の冷たい領域をやり過ごすことはできなかった。いつでも彼を引き離したままにしておこうと考えているのだ。「旦那はどんな人だったんだい?」「どこにでもいる普通の男」「お金は持っていなかったんだ?」「当然ね。みんなお金はないわ。あんただけ」マーシャルは彼女の顔を見ようとした、それによって真意を見極めようとした。

 彼女を手放すのは嫌だった。毎晩泊まっていきたかったが、父がいぶかしむだろう。薄汚れた古い邸宅が脳裏に浮かび、やましさで心乱れた。暗闇の中では自分が誰だか知るのも容易ではなかった。だがそれでも、本当に馴染みがあるのは暗闇だった。

 彼女が明かりをつけた。「今からは友だち。お互い忘れましょう」

「忘れる必要があるかな?」

「さっきまで忘れてたでしょ。お金を送ってくれなかった」

「お金が必要だとは知らなかった」

「知ってたはず。誰だってお金は必要」どの単語を強調しようともせず、ただ発音しているだけ。彼女は自分でも信じてないのだ、彼を遠ざける意図しかないのだと、マーシャルは感じた。不思議な顔をしている。不幸せで、陰鬱で、それなのに戯画化したようなぞんざいな化粧顔の、この女。見つめられると居心地が悪かった。彼だろうと他人だろうと区別をつけずに、男なら誰でも見定めてきたのかもしれない。

「家に帰ったらお金を送るよ」

 彼女は何も言わない。マーシャルは不安そうに続けた。「行く前に訊きたいことがある。なぜ会いに来たのかわかるかい?」

「いつ? 今日? 出会ったとき?」

「両方とも」

「あたしを好きだからじゃないの」

「でも……なぜ好きだと思うんだ?」

 彼女はうんざりしたように目を閉じた。「つまり、あんたがここにいるなんていかれてるって言いたいの? ええ、そう、いかれてるわ。だけど本当のところ、あんたがここにいる理由はわかる」

「理由って?」

「わからない? 想像できない?」

 穏やかな彼女の声に、恐怖でかすかにきりきり痛む。「何だ? 何なんだ?」

「初めて会ったとき言ったこと覚えてる? 部屋に行ったあとのこと」

「いや。なんて言ったんだ?」

「歳を訊いたの、こんなことをどのくらいやってたんだって。何人の男を知ってるかって訊いたわ。すごく知りたがって興奮してた。そりゃ昔はあんたも若かったけど――」

「それに君も若かった」いらいらと口を挟む。

「同じってわけじゃない。昔は、あのころは、いつもつきまとってた――覚えてない?」

「誰かほかのやつと一緒にしてるんだ」

「ああ、そう」彼女は笑った。「じゃあバイバイ」

「頼むよ。誰かと一緒にしてないか?」

「ぜんぶ覚えてる。愛してたときもあった。今は来る前からも来たあとからも切り離されてる。思い出せる。完璧に覚えている。覚えてないなんておかしな話ね」

「でも思い出そうと……」

「ほかの男のことを訊いてた。いつも夢中であたしに会いに来ていた。同じ町に住んでるのに手紙を書いてたし、贈り物をくれた――宝石に洋服――いつもつきまとってた。よくほかの男のことでからかっていた、ベッドの端に座ってよく質問していた、たくさんたずねていた。それを覚えてないの?」

「ああ」マーシャルは力なく答えた。だが話が進むにつれ、それが真実だとわかったし、反感と怒りが体内を駆けめぐっていた。

「じゃあ何を覚えてるの?」

「電話番号を訊いて、何日かしてから電話をかけた」まるで何かを暗唱しているようだ。「君の家に行って――兄さんが道で車をいじってた。おばさんに紹介されたんだ。確か日曜日、日曜の午後だ」

「でも土曜の晩に会ったのよ」

「次の日だよ。おばさんに紹介された」

「感想は?」

「嬉しかったよ」

「だけどからかうつもりでやってたことを、あんたは知ってたはず。母はいつも酔っぱらってたからね、あんたがどんな反応するか見たかったの。知らなかった?」

 マーシャルはしばし無言だったが、やがて口を開いた。「でも部屋のことなんて覚えてない」

「覚えてるはず」

「やっぱり誰かと一緒にしてるんだよ」

「ふうん、あたしに電話をかけて、母と会って、ほかには?」

「それから……ぼくらは会い始めた」

「何をしたっけ?」

「映画に行ったり、食事をしたり。ダンスにも行ったな」彼女を不安げに見つめながら、このことを考えていた。すると心がすっきりとして、これはフランのことだったと思い出した。

「部屋に行ったの、ホテルの部屋。あんたの車でドライヴした」

「でも嫌がってるようには――」

「なんで嫌がるの? 払ってくれたのに」

「ぼんやりとしか覚えてないけど――」

「ぼんやりと!」

 彼女は立ち去らせたがっていたが、彼は嫌がった。何かにしがみついていた。「だけど君も嘘をついた。今夜は仕事があるって言ってただろう」

「あたしが?」

「そう言ったはずだ」

「ええ、夜には働いてる。ちゃんと仕事に就いてるんだから。レストランの店長。今夜は休んだの」

「ぼくのために?」

 彼女は肩をすくめた。もちろん彼はお金を渡した――だがそれが意味のあることだとは思わなかった。

 彼女がドアまで見送る。彼は帰ろうとして燃え立つ顔を振り向けた。

 どこか……どこか間違っている、どこか脅されているように思えたのだ。玄関に出ると、彼女は低いからかうような声で言った。「覚えてないことはほかにもある――二人で出かけたとき、あたしの生き方に口を挟んだし。あたしは捕らえられてて、行き場所もなく未来もない――病気になるか、どっかの狂人に殺されるか――愛してるって言ってたでしょ、あたしがあばずれで母が酔っぱらいだとかいろいろだからだってさ――ほんとに愛されてたのにな、なのにあんたは覚えてないんだ」

 二度と彼女に会わないように決意すると、残りの期間は古い家で過ごした。父と二人で腰を下ろし、老人が新聞の束を読んでいるあいだ、マーシャルは新聞を読んでいた。二人とも無言のまま夢中で読み、互いの存在は無視していた。ときどきマーシャルが父に目を移し、父が唇を妙に静かに打つのを見るだけだ――唇は何度も動き、それが原因で腸が痙攣し、怒りに突き動かされているようだった。ほとんどやけくそのように、マーシャルはフランに電話した。だがフランの声は遠く、話の内容はごくつまらないことのようだった。もし受話器を静かに置けば、人生からフランを完全に切り離すことになるのかもしれないという思いを持った。

 だがもちろんばかげている。自分のことに、そんな考えに、怯えた。生まれてこのかたそんな考えを持ったことはなかった……ふと気づくと、あの女と関係を持った瞬間のことを思い出していた。彼女が病気を持っている可能性、自分が危険を冒した可能性を考えていたのだ。この危険性に恐怖を感じた。だがあまりにばかげてる、最低だ。また自宅に戻りたかった。

 

 不思議なことだ。ありもしないものが見え始めた。いやむしろ、見知らぬ光景がそれを乱暴にねじ曲げ、居座ったのだ。ある日、台所に行くと、伯母が――六十過ぎの、いかつく、惚けた、気難しい、信心深い婆さんだ――肉を切っていた。彼は誰かと話がしたかった。伯母は大きな脂のかたまりから薄く肉を切り出していた。濡れた血まみれの指、柔らかい桃色の肉、怯えさせる包丁のきらめき。気分が悪くなりそうだ。伯母には会話する気がなかったので、彼は居間を通り抜けて無事に遠ざかった……夕食の時間になって父を見つめていると、水の満ちたコップを口まで持ち上げ、空になるまで音を立てて飲み干していたので、マーシャルは考えた。これこそ人が愛し合うやり方だ。論理的な考えではない。だが、ガラスのコップを空けた父を見ていると、心の中にはっきりとその考えが走り抜けた。

 シンシアを訪ねるつもりはなかったが、最終日には訪れていた。二人は共通点などないかのように曖昧な話をした。「出発するよ。たぶんもう会わない」慎重に口にする。「元気でね。お父さんもお大事に」父のことを言われて驚いた。彼が間違いなく戻ってくると考えているのだ――そうじゃないか?――父の具合が悪くなったら、父が死んだら、彼は戻ってきて、彼女に電話をかけるだろう、違うか? 捕まえられた。だからいらいらと返事をした。「もちろんだ。もう行かなきゃ。いいかい――何かすることがある人間は、正反対のことをする、違うかい? もう会うことはないよ」

 彼はディナー・パーティには間に合うように帰宅した。すべてが混乱し、陽気にもつれていた。着替えをしながら見舞いのことを妻に話した。二人とももう遅刻だ。なじみ深い豪華な晩の予感にくらくらする。マーシャルは気分が良かった。すっかり安心している。さまざまな話題で妻と談笑し、今度は妻が近況を話した。街に住んでいる友人と昼食を食べたこと。こちらの生活は、こんなに豊かで多様なのに、安心できるということに驚かされる。

 数時間あとまであの女のことは思い出しもしなかった。十時ごろ二人はディナーを取りに豪華な食堂に向かい、主人がワインのボトルを開けた。彼は冗談を言いながらコルクと格闘していたが、まるで冗談の勘所がマーシャルにあるとでもいうように、こちらを見ている気がする。身体に汗をかくのを感じた。冗談はまるで理解できなかったが、男の指がコルクと格闘するのを、恐れるように見つめていた。何かが解放されようと張り詰め、何かがほとばしろうと迫っている――そして一瞬が過ぎ、終わりを告げた。ワインが通常通りにグラスに注がれ、何も隠れてはいなかった。

 一週間以上のあいだ普段通りに過ごしていたが、シンシアに手紙を書きたいという衝動を抑えきれなくなった。カンザス・シティの住所が記された、会社の便箋を使った。それを見せたかった。自分がどれだけ成功したのかという証拠を突きつけたかった。長々とあてもない手紙を書いた。内容のないくだけた手紙だ。だが読み返してみると、この手紙が、言わずにおいたことの――それが何なのかはわからなかったが――隠れ蓑なのは明らかだった。

 返事は来なかった。

 腹を立ててもういちど書いた。同じ便箋に、今度はタイプで打った。具体的な質問をあげつらねる。前夫のこと、〈現在の生活様式〉のこと、将来の計画のこと。五ページにもわたる、刺激的な手紙だった。マーシャルは手紙を書いたことがない。何か言うことがあればいつも電話だったから、あの女にこれほどたくさん書き記せたのが嬉しくもあり不安でもあった。結局、たいした女じゃない。

 手紙と一緒に数百ドル分の小切手を入れておいたら、今回は返事が来た。お金の礼を述べ、ほんの形ばかりに数行だけ書かれてあった。これには腹が立ったが、自分が何を期待していたのかはわからない。だからすぐにもういちど手紙を書き、こう結んだ。「返事がほしい。言いたいことを聞かせてほしい。仕事のこと、おばさんのこと、いろいろと聞かせてくれ」

 あとから思いついたように、財布から紙幣を取り出し封筒に滑り込ませた。指が震えていた。

 数週間後に返事が届いた。ボールペンで数行だけ、お金のことが書かれていた。そのあとに鉛筆で一段落、あとから書き足されたらしく、母親のことが書かれてあった。「あんたたちって憎み合ってたくせに詮索し合ってた。母はあんたがお金をくれたことを知ってた。誰だって知ってた。自分で片をつけるつもりだったのかもしれない――そんなふうに思ってたのは確か。あのとき、母が死んだ日、あんたは何もかも聞いてたはずだし、ちゃんと寝室に足を踏み入れたはず。あの人がほんの何時間か前まではベッドにいたのに。それなのにあんたたちが本当に顔を合わせたのはあのときだけだったし、話したことは一度もなかった。」

 これを読んで、細いフィルムが目の前をちかちかと通り過ぎた。こんなに素っ気なく露骨な言葉、彼女がしゃべっているような……あのときは何を話してくれていただろう? 母親の寝室、そのことか? 思い出そうとしたが果たせない。何かが記憶を妨げているようだ。だからもういちど手紙を書いて、今回は小切手を入れるよう気をつけた(郵送でお金を送ることを非難されたのだ)、そしてさらに聞かせてほしいと頼んだ。返事が来るのをひたすら待った。だが返事は来ない。彼女が手紙を受け取ったのかどうかいぶかった。返信を待って、待ち続けた。妻がボストンの友人から手紙が届いたと口にしたとき、マーシャルは驚いて顔を振り向け見つめていた。妻がシンシアの情報を突きつけようとしていると思えたものだから、危険な状況にではなく、手紙が発見されてどういうわけか妻の手に渡ったという可能性に、興奮した。ついにシンシアから便りが来たというのであれば、喜んで甘んじただろう……だが違った。手紙は本当に友人からのもので、皮肉を言うつもりではなかったのだ。

 ふたたびシンシアに手紙を書き、返事を求め、懇願した。今回は新たに数千ドル分の小切手を送った。怒りと失望の中で、彼女は脅迫しているのだ、犯罪者なのだと信じていた。逮捕されて罰を受けるべきだ。間違いなく罰を受けるべきだ。男から金を奪う売春婦だ。彼女の支配力を憎み、彼女相手の復讐を考えた。そう、ことを起こすつもりだ。彼女を憎んでいた。それでも、手紙が届いたときには、実は恋をしているように心がはずんだ。

「母の寝室のことと、あのアパートのことが訊きたいんだ? リヴィングのことは覚えてるでしょ――汚い家具、壁にかかった教会のがらくた。母はベッドにいるときに何かの発作で死んだの。あたしが部屋に入って見つけた。すごい形相で、母のでも人間の顔でもなかった。目をむいてた。近づいていって状況を確認してから、外に出て警察を呼んだ。その夜あんたが来た。あたしの世話を焼きたがってた。あたしが動揺してるからだって。リヴィングを見回してから、寝室を見られるかどうかたずねたの。だから中に入れたわ。あんたは何も言わずに、悲しんでるみたいだった。あの部屋の中で母のことを訊いた。あたしのこと知ってたのか、どんな死に方だったのか、ずいぶん訊きたがってた――憎んでたから。それが理由でしょ。それからあたしを慰めて、抱き寄せると、あのベッドでセックスしようって言った。そう言い張ってた。頼み込んだの。あたしは気にしてなかった。何かすることがある人間は、正反対のことする。そうでしょ? 良心にやましいところはなかった。母には優しくしてたから。だから気にしなかった。セックスのあいだ、母のことをたずねてた。特に目。あたしを怯えさせた目のことを。どんな感じだった? どう見えた? ずっと質問してた。今じゃこのことも笑えるの?」

 この手紙にはうんざりした。「嘘をついている」つぶやいたが、すぐに思い直す。「いや、そうだったんだ」

 まるで催眠術をかけられたように何度も読み返した。言葉を通してふたたびあの部屋に入り、こんなことをたずね、こんなことに喜びを感じていた昔の自分に戻ろうとした。だがかつての男になるのを阻むものは、年月の隔たりではなく、あえて知ろうとしなかったことを知ってしまうという恐れだった。知ろうとはしなかった。手紙を引き裂き、忘れた方がいい。彼女はまだ脅迫しているんじゃないのか?

 見境なく書いてしまった手紙のことを考えた。間違いなくあれを使って脅迫できる。

 州を越えた支配力を感じながら、彼女を買収しようと衣類を送り始めた。高級店から調達させた洋服を送った。喜ぶはずだ。買収し、口止めしようと、ときどき小切手と紙幣を同封した。恐ろしかったのは、これがうまくいくのかどうか、必死になることでかえって彼女を大胆にさせるのかどうか、知る術がないことだった。妻に直接手紙を送ったとしたら? あるいは父に会いに行ったら? 彼女にはあまりにもこの身を捧げ、あまりにも力を差し出していたから、その気になれば破滅させられるだろう。返事は来なかった。この沈黙の意味は? 手紙を何度も読み返し、最後の一通にしがみついてはときどき官能的な恍惚に引き込まれ、気持ちをくじいた――今やあまりに鮮やかな現実だった。そうだ、確かにその通りだった。何としてももういちど経験したい。フランとは、いつも忙しすぎて話もできず、疲れたあまり愛し合うこともできなかったが、彼女にとってはこれは救いだった――妻はそういうタイプの女ではなかった――それでも彼の気持ちは、自分の肉体と欲求に溺れていた。

「父が死んだときは戻らなくてはならない」

 だが父は死ななかった。父は手紙も書かない。日曜の晩ごとに電話をかけ、消息を確認しなければならなかった。だがマーシャルは忠実に電話をかけ続けた。四十にして、今や孝行息子となった。ついにフランが繰り返したずねた。「お父さんのお見舞いに行ってきたら?」

 ある晩、妻の女友だちが、父親の死を看取るのがどれだけつらいか話しているのを耳にした。フロイトによるとそれが人の一生で最も衝撃的な出来事なのだと、フランの心に刻み込まれた。それゆえマーシャルにできる限り同情的にならざるを得なかった。彼の父はまだ死んでいない。マーシャルは考えた。だがそれはあまり関係ないだろう。老人はいつか死ぬ……おそらくは。我慢できずに旅に出ることになると承知のうえで、考え込んでいるふりをした。去年訪れてから一年近くが経った。

 計画を立てていると、不思議なだるさに襲われた。職場に座っていると、まるで悪意のある宇宙人に侵略されたように、白昼夢が心に入り込んできた。あの古い部屋のことを考えた――今でははっきり思い出せる――あの散らかりよう。皿と下着が転がっており、ストッキングが浴室に干してある。シンシアのこと、二人でしたことを考えた。フランとはしたことのないことだ。彼が渡したお金のことを考えた――考えると楽しくなる――名残惜しみながら、彼女の母が死んだこと考えた。どういうわけか、シンシアと彼がいた部屋で起こったことのようだ。これには果てしなく興奮した。身体が痛み、今や他人の身体のように感じるほかは、何もわからない。うまく制御できず、普通に歩くさえ困難だった。今にも足を踏み外し、歩道でつまずいて人にぶつかるかもしれない。友人といる晩をやり過ごすことが中でも難しかった。なにしろ、かつて存在したのはマーシャル・ヒューズという名の成功した重役一個人に思えたが、今や永い眠りから覚めたように内なる自我が気を急いて、評価を求めているような気がした。

 妻が友人や遊び仲間のことを話すたびに、妻を愛しており忘れられないと感じていた。子供たちのことを話すとき、彼女は妻であり、彼のものだった。決して不安にさせることはなかった。二人の愛情は友情や仲間内の愛情であり、情熱や激しさはない。妻を愛していた。脅迫しているあの女を憎み、考えると身体が震え、同時に興奮と怒りがわく。そう、復讐しなければならない! 残りの人生を売女に脅迫されて過ごすことはできない……それでもなお、こうして考えると不安な夢にさらに落ち込んでしまう。彼女を思い出し、髪や抜いた眉の記憶に首を振る――ただの平凡な女だ――自分がその場所に仕事をしに行くつもりなのか、少しおかしく思い始めた妻に回答するため向かうつもりなのか、自ら気づかせる必要があった。そこで父を訪ねに戻ることに決めた。

 もう一度お別れを言うだけでも彼女と話したかった。手紙を渡してもらうつもりだ。なぜ恨まれなければならない? さらに高額の小切手を書くつもりがあった。彼女がしなければならないことは、軽率な手紙を返し、彼を忘れると約束することだけだ……忘れようとしない場合を考えると気が気ではなかった。そのくせ興奮もしていた。飛行機の中で身体をこわばらせて座りながら考えていた。正確には考えというわけではなく、いわばこの手で少しずつ模索し続ける計画のようなものだ。父のことはほとんど考えなかった。自分のことは自分でできる。あの老人であれほかの老人であれ、生命の脅威の何を知っているというのか? 老齢や死、郊外生活や結婚よりも遙かに安らぐ最後の安らぎ、といった神聖なものに対し、自分がこんなにも長いあいだ押し流されずにいたことを考えると、涙が出そうになった。「老いぼれたちは俺たちを通さなかった。何かにつけて邪魔をした。前に進もうとはしなかった」苦しみながらそう思った。

 シンシアのこと、穏やかで凛とした顔、あらゆる秘密――それに、その支配力ゆえ確かに憎んでいた、常に憎んできた彼女の肉体のこと――を考えると、彼の身体はもだえ苦しんだが、何もできることはない。心臓が不思議なくらい激しく脈打った。スチュワーデスが屈み込み、ご安心ください、まもなく着陸いたしますと安心させた。美しく整った顔は妻の顔を思い出させたが、妻のことは忘れたかった。心を惑わされたくない。

 空港ですぐに近辺までタクシーを拾う。だがわけあって数ブロック先で降ろしてくれるよう頼んだ。手は震え、怯えきっている。タクシー・ドライヴァーは、病人を乗せているように静かだった。マーシャルの掌は汗で湿り、体中も湿り、どこかぼんやりと苛立たしい眩暈の中にいるようだ。前に飛び出そうとしながら、後ろで留まろうとしていた。独り言をつぶやくだけで、何も考えていなかった。「こんな状態で話をするのか」数ブロックを急いで歩く。歩道に立ち、明かりのついた窓をしばらく見上げていた。今度もほとんど何も考えていなかった。身体は彼のために考えているようだ。父、家族、部下、友人、支えてくれる人々すべてを守っていた。しばらくすると中に入り、玄関前まで階段を上った。ドアを叩く。ノックの音が頭の中で耳障りに響き、手紙のことを考えた――あまりにも軽率だった、だがもしかすると故意だったろうか?――あの女に費やしてきた時間、夢中になっていたこと、あの肉体の闇と薄汚れた生活の謎にへつらったこと、それでもなお知識も愛情も何もない彼女からもたらされることを、考えた。

 ドアが開く。十二歳くらいの少女が顔を出して彼を見る。「なんですか?」

「ここに住んでるのは?」マーシャルは答えた。「その――どうなって――どこに――?」

「パパにようじ?」

「でも――いつ引っ越してきたの?」

「こないだの夏」少女はガムを噛みながら彼を見つめた。彼の顔に面白いものでも見つけたように。「だれかさがしてるの?」

 彼は立ち去った。涙が流れ始める。脅威から救われたかのように、大きく息を呑んだ。手すりにつかまって階段を下りながら、彼女が実に素っ気なく手すりを握っていた様子と、そのときでさえ手を伸ばしその手首をへし折りたかったことを、思い出していた。だが考えない方がいい。二度と考えない、空港からまっすぐこのアパートに来たことも、汗に濡れて身体を期待でふくらませこわばらせていたことも考えない。そんなことは考えない。気分が落ち着くと、タクシーを拾い父の家に向かった。

 老人は徐々に惚けてきたくらいでほとんど変わりなかった。大きな変化はない。六十年間生き続けてきたのに、死は突然だった。そのときマーシャルは四十七といったところだったが、健康がおぼつかなかったから、父の葬儀を欠席する言い訳にした。だが親戚の誰も信じてはいなかったし、フランでさえもあまり信じはせず、誰もが一生かれを非難した。父の死に敬意を表することさえしなかった男だ。


Joyce Carol Oates -- 'Love and Death'(1970) の全訳です


Ver.1 03/12/14

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[作品について・訳について]

 ジョイス・キャロル・オーツは、現代アメリカを代表する女流作家です。詩・小説・絵本・戯曲・評論・エッセイ・ノンフィクション・シナリオ……等々、できないことはないといっていいほどにさまざまなジャンルで活躍されています。

 受賞歴多数、ノーベル文学賞候補にもなり、『We Were the Mulvaneys』が大ベストセラーに、と、誰もが認める大作家さんなのですが、日本ではあまり翻訳されてないので、初耳の方もいるかもしれません。

 主な邦訳、「コントラカールの廃墟」(『999』所収)、『フォックスファイア』、『ブロンド』(マドンナの伝記)、「パラダイス・モーテルにて」(『贈る物語 Terror』所収)など。

 オーツの作品は、幻想っぽいのとトラウマとかコンプレックスとが合わさったようなものが多くて、主人公がトラウマやコンプレックスと向き合った結果、幻想世界に飲み込まれてしまうか、打ち勝ってステップアップするか、てな作品――というように、非常におおざっぱには言えます。

 翻訳権が切れている作品のなかでは、かなり好きな作品です。現在のオーツにも直接的に通じるものがあります。著作権は存続しているので原文は公開できません。原文を読みたい方は原書をお読みください。あしからず。

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