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翻訳:江戸川小筐
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さあこい、マクダフ!

シャーロット・アームストロング

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第七章

 大きなリビングを探し物でもするように歩きまわっていたが、何かを見ていたわけではない。自分に言い聞かせていたのだ。「賢くなりなさい。これじゃいいカモじゃないの、ベッシー。あの人はどうせすけこまし、忘れないで。あの人が言ったことも言わなかったことも信じないこと。大人になるのよ、ベッシー、田舎娘のままではだめ」

 マントルピースの時計は四時十五分を告げていた。もう一度見て回ろうか。自分に言い聞かせていたことなど、すっぽり頭から抜け落ちてしまった。リビングの向こう側に引き戸があったけれど、玄関ホールの小さな扉を試してみたかった。扉を開けると、食器室ともクローク・ルームともつかない不思議な小部屋にエファンズがいた。窓が一つ、煉瓦敷きの庭に面している。

「見て回ってるところなんだけど、かまわない?」

 エファンズが相好を崩した。「喜んでお屋敷をご案内させていただきます、エリザベスさま。光栄でございます」エプロンのようなものを脱ぎ捨ててそつのない態度をまとった。「こちらが地下室でございます」と言って一つ扉を開けると、階段が見えた。「下に参りますとキッチンと準備室がございまして、料理用エレベーターが通じております。キッチンは食堂の下まで延びております。無論、旧式のキッチンでございます」わたしはうなずいた。

 エファンズは壁にある小さな扉を一つ開け、咳払いをして頭を入れると、「ミセス・アトウォーター」と言ってしばらく耳を傾けたあと、後じさった。「エリザベスさま」エファンズが厳かに言った。「コックを紹介させていただきます」

 わたしも頭を入れて、料理用エレベーターのシャフトを覗き込んだ。赤ら顔の女性が底から見上げ、大声で挨拶をした。「どうも、お嬢さま」

「はじめまして」と答える。わたしたちは見交わしていた。彼女は上に、わたしは下に。まるでこんなセリフが聞こえてきそう。「マトン、こちらはアリス。アリス、こちらはマトン」

「何かお好きなものがあったら、お知らせくださいまし」

「ありがとう、そうするわ」という言葉にうなずいた彼女を見て、わたしも微笑んでうなずき返した。向こうも微笑み返す。こうして外交関係を築き上げたまま、わたしたちは同時に顔を引っ込めた。

 エファンズは誇らしげに見えた。「コックの部屋は玄関の下に位置しております。あいだにはボイラー室がございます。無論、出入りのものは正面玄関の下にございます勝手口を利用しております」

「ああ、そうね。たしか見たことあるわ」

「こちらが食堂でございます」案内されたのは見栄えのいい簡素な部屋で、わたしの寝室と同じ場所に窓が三つあり、煉瓦敷きで高い塀のある庭に面していた。鉢に植わった常緑樹があちこちに見える。蔦の蔓が木鉢から後ろの塀まで這い上ろうとしていた。「中庭には夏のあいだ部屋を涼ませる効果がございます。ほかの用途はございません。ここは古いお屋敷なのでございますよ」

「ずいぶん高いのね」

「地上四階と地下がございます」

「四階には何があるの?」

「エレンの部屋と、わたくしの部屋がございます。それから建物の正面側まで広がる大きな客室が」

「ちょっと変わった家みたい」

「ごく標準的なものにございます」

「ほかにはどんな家があるの?」

「いいえ、エリザベスさま。ご主人さまがお出かけになるときは――めったにございませんが――わたくしどもはホテルの部屋を予約いたします。車もお持ちではございません。タクシーでご満足なされておりますから」

「ああ、そうね」わたしはつぶやいた。曲がった指で料金を払った人のことを考えていた。知っていることのすべてを話すことなくエファンズに質問できたらいいのに。「伯父さんのところでどのくらいになるの?」

「かなりになります。十年でございますか。ご結婚の前からでございますから」そう言って目を瞬かせた。「働きやすい職場でございますので、とどこおりなくお勤めさせていただいております。地下はコック。階上はエレン。この階と図書室はわたくし自身が管理しております。とどこおりなく」ここでエファンズはため息をついた。「お客さまをご招待する際には、無論ライナさまも手伝ってくださいます」彼は咳払いをして、どこか不安げにわたしを見つめた。「お差し支えなかったでしょうか、その……警察の方をお通ししてしまいまして」

 びっくりしたけれど、チャンスを逃さなかった。「何か質問されたでしょ。何を訊かれたの?」

「いえ……訊かれたというほどではございませんが」

「ウィンベリーさんのことは訊かれなかったってことでしょう?」

「さようでございます」

「あなたに訊けばよかったのに。わたしよりもこの家のことに詳しいんだから。ウィンベリーさんが帰るところ、見たでしょ?」

「その通りでございます」

「間違ってなかったかな。警察には、みんな一緒に帰ったって言ったんだけど」

「ウィンベリーさまとギャスケルさまはご一緒にお帰りになりました。マクソンさまもその後すぐにお帰りになりました」

「ふうん。ならわたしの言ったことでもだいたい合ってたのね?」

「さように存じます」厳かな答え。「正確に申しますと、ウィンベリーさまとギャスケルさまはタクシーでお帰りになりましたが、マクソンさまはそうではございませんでした」

「タクシーがあったの?」

「わたくしが一台待たせておきました」

「やっぱりあなたに訊けばよかったのに。わたしは知らなかったもの。この家の人がそのあとどうしたかって訊かれたんだけど。眠ったって答えておいた」

「賢明なお答えでございました。間違いなくそのとおりでございましたから」

「待って。あなたは四階に行ったんでしょう」

「はい、さようです」

「エレンはそのときもう四階にいた」

「はい、さようでございます」

「コックはうろちょろしてなかったわよね?」

「まさかそのようなことは! コックは階上に上がったりは……長いことございません」エファンズはショックを受け困惑しているように見えた。「警察がこのようなことをおたずねになったのでしょうか?」

「その……ただの……」わたしの声は尻すぼみになった。「電話が鳴ったのは聞こえた? 無理よね?」

「はい、お嬢さま。ご主人さまの部屋は除きますが。夜のあいだはその電話だけが通じております。戸締まりをいたしますとき、ほかのベルの電源を切っておりますから」

「ふうん。事情はよくわからないんだけど……」わたしはつぶやき、考えた。何も知られずに赤い駒のことをたずねるにはどうしたらいいだろう。一つ思いついた。「こんな些細なことを気にしてるのは……覚えてない? ヒューさんの鍵のこともあるの。どこかで見かけなかった?」

「どこにもございませんでした。ヒューさまから今朝、お問い合わせいただいたのですが」

「わたしも訊かれたけど、わかんないわ。今朝、正面階段まで行ってみた? そこで落としたのかも」

「家から出る際には」エファンズは説くように答えた。「わたくしは地階のドアを利用いたします」

「そっか。でも勝手口に落ちていた可能性だってあるでしょう」

「勝手口には何もございませんでした」

「今朝そこから外に出たのね?」

「さようでございます」

「じゃあここで落としたわけじゃなさそうね」

「さように存じます。と申しますのも、正面玄関のベルが鳴りました際には、わたくしにも石段を見る機会がございますから」

「それはそうね」

「今朝そこには何もございませんでした。ヒューさまにもお伝えいたしましたが、図書室にも何もございませんでした。鍵はございません。鍵がここにあるのでしたら、わたくしが見つけているはずでございます」細長くて赤い首の上に、顔を高く反らした。怒っているように見えた。

「ええ、そうよ。きっとそう。わたしも言ったの。どこで失くしたか心当たりがあるなんて馬鹿げてるって。失くした場所を知ってるのなら失くすはずないじゃない」エファンズの顔がにこやかに戻った。「ありがとう、エファンズ。このドアは……?」

「リビングとの連絡用でございます」と言って一礼した。「恐れ入りますが、ベルの音が聞こえたようですので……」

 わたしはそこから動かなかった。J・J・ジョーンズのメモ紙と、歯形のあるちびた鉛筆がほしかった。エファンズが嘘をついているとしたら、真実を一かけらも漏らさない筋金入りの大嘘つきだ。『勝手口にも、石段にも、何もございませんでした』 夜明け前に赤い駒を拾った人物がいるのだ。それはもうわかった。それが誰なのかがまだわからない。エファンズではないのだろうけれど。

 ようやく引き戸を開けたころには、リビングに人が集まっていた。暖炉が燃えている。ライナが紅茶をすすっていた。

 伯父がしゃべっている。「遺言のことなど気に病んでどうするというのだ。分け前があるでもない。それともやつの負債を返してやるつもりでもあるのか」

「まさか」ガイ・マクソンが言った。昨夜とまったく同じ服装だった。不意に気づいたが、彼は見かけほど裕福ではないのだ。

「まさかねぇ」ギャスケル氏は、短い足が床に届くように椅子の端に座っていた。股を大きく開いている。ティーカップを手にしていた。

「あら、ベッシー」ライナが言った。「お茶をどう」

 ヒュー・ミラーがいた。驚いたことに、わたしが席に着くまで弱々しく立ちあがっていた。

「ハドソンは楽天家だったからな」伯父が言った。「手の届くところに財産を置いていた。今もそのままだろう」伯父は立ったまま紅茶を飲んだ。大きな頭がかすかに前に出た。

「見捨てられちまったねぇ、ヒュー?」ギャスケルが目玉をぎょろぎょろさせた。

「ええ」ヒューは一言だけ答えた。

「これからどうなさるの?」気を遣うようにライナがたずねた。

「ここに泊まるんだよ」どういう意図か知らぬが、伯父が大きな声を穏やかに抑えて答えた。「この事件が片づくまで」

 ヒューが話し始めた。ライナにも聞いてもらうべきだと思ったのかもしれない。「カスカートさんが招いてくれたのはありがたいのですが――」

「エファンズには言ってある」伯父の鶴の一声だった。「ウィンベリーのフラットでは具合が悪かろう。半分がた警察に封鎖されておる」

「忘れてた」わたしは声をあげた。「話があるんです」

 みんながこちらを見る。

「警察がここに来たんです」

「ここに!」蛙が声をあげたが、驚いているのは彼一人だった。ティーカップを置いて葉巻を取り上げた。「目的はなんだろう、なぁ?」わたしにではなく伯父にたずねている。わたしは伯父に話を聞かせた。

 J・J・ジョーンズがやって来たことを伝えた。なかば記者として。なかば友人として。自分でも信じかけていた。幼なじみだということを。そのため、嘘をついているということを、だいぶあとになるまで自覚していなかった。それ以外のことは、ガーネットの最初の質問に始まり最後の質問に至るまで真実だった。伯父の視線がサーチライトのようで、わたしは急いで話し終えた。落ち着かず気になって仕方がない。

「狙いは何だろう?」話し終えるとギャスケルが口を開いた。「ねぇ、チャーリー?」

 だが伯父はわたしに優しい言葉をかけただけだった。「ありがとう、エリザベス」突然恐ろしくなった。

「よかったんでしょうか? わたし、わ、わかんなくて……」ヒューに触れられてびくっとした。ティーカップが皿の上で音を立てた。

「もちろんよかったわ」ライナが言った。

 伯父は微笑んだ。「怖がることはない」豊かで穏やかな、人を金縛りにさせるような声。「やるべきことをしっかりやってくれた」だがわたしを捕らえた目には、普段の楽しむような色はなく、冷たかった。

 恐怖のあまり、心のなかで繰り返していた言葉を口に出してしまった。「わたし、わたし田舎者だから……」声は馬鹿らしいほど震えていた。だがそれがみんなの笑いを引き起こしたのだ――伯父も高らかに笑っていた――わたしは怒ったように真っ赤になったが、気分はほぐれていた。

「どうなってるのかねぇ?」笑いが止むとギャスケルがたずねた。「君は知っているはずだろう、チャーリー。現場にいたんだから。マッポと会っただろう?」

「会ったとも」

「今朝うちにも来たんだけどねぇ」ギャスケルが続けた。「何にも聞き出せなかったよ」

「だが」と伯父が言った。「わたしはピーター・フィンとも少し話をしたよ」椅子のなかでヒューが強張るのが感じられた。彼の手が離れた。「おかしなことだ」穏やかなだけに意味深な口調だった。「ペッピンジャーを見た気がすると言っておった」

 誰も動かなかった。ライナだけが両手をティーセットに伸ばした。わたしは音を立てないようにカップを置いた。ギャスケルが目を見開いてまくし立てた。「どこで? ペッピンジャーなんてもうないだろうに。知っているはずだろう」

「ウィンベリーの死体の上だ。ペッピンジャーなどもうない。わかっているとも」伯父は泰然と答えた。

「なんてぇこった……」ギャスケルはさらににじり寄った。「ウィンベリーとオレはあの件で一緒にやってた」

「ああ、そうだ。そうだろうとも」

「ぼくらは一蓮托生だよ」マクソンが口を歪ませた。「それがなんだい?」

 伯父は肩をすくめてヒューを見た。サーチライトが移動する。わたしの目にはヒューが照らし出されているように見えた。

「ペッピンジャーじゃありません」ヒューが言った。「これですよ」

 ポケットから赤い駒を取り出し、そばにあったドラムテーブルの上にぞんざいに落とした。赤い駒が木に当たって音を立てた。誰もがそれを見ていた。

 途端に、昨夜の図書室が再現された。怒りに燃えた敵意の波が部屋に立ちのぼっている。これは何? この人たち、この何人かの人たちが、どういうわけか、互いのあいだに気圧のごとき悪意を生み出している。ウィンベリーが死んだのに、悪意はまだ死んでいなかったのだ。

 伯父がパチーシの駒をつまみ上げた。「こんなことだろうと思っていた」と冷やかに言うと、火にくべた。

 マクソンがびっくりしていた。ギャスケルは口をしきりにぱくぱくさせた。ヒューが歯を食いしばる。静脈がこめかみに青く浮き上がっている。マクソンがすぐに口を開いた。「それはまずいよ、チャーリー」見ると、マクソンの神経質げな小鼻がぷるぷると震えていた。

 二つのことを考えた。一つ、指紋のついていた可能性があること。二つ、マクソンのこと。マクソンが未練がましかったこと。覚えておこう。あとで考えなくては。

「もう!」ライナがぴょんと立ちあがった。「ひどい匂い!」

「すまんな」伯父の声には満足感はあっても後悔はなかった。「図書室に行こうではないか」わたしたちは赤い駒の燃える匂いから逃れて、ぞろぞろと二階に上った。嗅いだこともないような、言いようもなくひどい悪臭だった。セルロイドの燃える匂いよりも、ゴムの燃える匂いよりもひどい。どんなものよりもひどかった。

 ライナが先頭に立って階段を上った。ガイ・マクソンとわたしが並んでそのあとに続く。途中でマクソンがたずねた。「ディナー?」

 ライナは振り向かずに答えた。「たぶん」

「いいね」

「どうだか」

「へえ?」

 これで全部だった。わたしたちは図書室に陣取った。伯父が暖炉の火を熾した。火が好きなのだ。それがわかった。火を見るとわくわくするのかもしれない。燃え始めた炎を見つめている。

 ギャスケルが口を切った。「おいおいおい。なんなんだい、えぇ?」

 マクソンも言った。「警察は知っているのかい、ミラー……君が見つけたものを?」

「いいえ」

「なぜだ?」伯父の言葉はただの好奇心からのものらしい。

「忘れていただけです」ヒューは押し出すように答えた。伯父はそれを斜に眺めたが何も言わなかった。

「ある意味ラッキーだよ」ガイ・マクソンが指摘した。伯父は肩をすくめた。赤い駒を窓から捨てたことについては何一つしゃべらない。

 ギャスケルは葉巻をくわえていた。火は消えていたが、気づいていないようだ。「気をつけるこったね」挑むように言った。「誰にも居場所は言わないことだ。オレは今夜はショーを見に行くけどねぇ。それは忘れてくれよ。来るかい、ライナ?」

「予定はある、チャールズ?」ライナの言葉は伯父に聞こえていないようだったが、繰り返したりはしなかった。やがて答えが返ってきたところを見ると、聞こえていたのだ。

「今夜は遅くまで仕事だ」

「陽気な店で景気づけのディナーってぇのはどうだい。ねぇ、ライナ? 食べて、飲んで、楽しむとしよう、さてさて?」

 行かないでほしかった。ライナを見せびらかし、ぎょろ目で眺めまわす姿が目に見えた。我がもののように扱い、チャンスがあれば肩に手を回し、他人の前でも今と同じ目つきでライナの絶対性を汚すのだろう。

 なのにこれがライナの答えだった。「あなたは階上で召し上がるんでしょう、チャールズ?」伯父がうなずく。ライナは蛙に微笑みかけた。「何を見に行くの、バートラム?」

 蛙が目を瞬かせた。「初演のチケットは手に入るかな、チャーリー?」

 伯父は図書室の電話に向かい、言われるままにおとなしく二言三言話しかけた。ライナがガイ・マクソンの方を向き、合図を送ったのが見えた。合図が届き、答えが返ってきた。わたしには読みとれない。口惜しかった。

 ギャスケルは立ち去り際に戸口で立ち止まり、おかしなことを言った。「オレは怖くないよ」特定の誰かに向けた言葉ではなかった。答えた人もいなかった。

 お茶がお開きになろうというところで、マクソンが伯父に何かの“件”について話しているのが聞こえた。「ちょっと残ってくよ。三十分いいかい」伯父が答えた。「それで足りるのならばな」

「それでいいよ」マクソンはそう言って、ライナには特に何も言わずに立ち去った。

 階上に行く途中でヒューが映画に誘ってくれたので、驚きながらも行くと答えた。そのあとヒューはわたしの部屋の隣にある小さな寝室に引っ込んだ。

 すぐにライナが戸口にやって来た。「だいじょうぶ?」

「ええ……だいじょうぶです。どうぞ」

 ライナは白っぽいウールのスーツのままふらりと入ってきた。ブティックから届いたばかりのようにぱりっとしている。キュートな顔にしわが寄っている。「この家がどう動いているかを説明してなかったわね。でもその方がいいと思う。他人にまで同じことを強要したくないもの。チャールズはちょっと古風な考えの持ち主なの。使用人に給仕させるのが好きなのね。だから気にしないで……。わかる? 夕食がこの家に用意されているのは、別に誘いを断る口実というわけじゃない」

「ああ」

「ごめんね。外に食べに行くことが多いの。あなたが来てから初めてのディナーだってことうっかりしてた」

「そんな」腑に落ちた気がした。「そんな。かまわないでください。そんなのだめです。わたしを甘やかすだけだもの。この家がどんなふうに動いているかを教えてください、覚えるから」

「わかったわ。家というものは暮らしている人に合わせて動いてるの。したいことをすればいいのよ。外食する予定があるなら、前もって使用人に伝えること――エファンズに言えばいいわ――ルールはそれだけ。そのうち一緒にご飯を食べましょう。わかった?」

 わからなかった。「伯父さんたちに確認した方がいいってこと……?」

「家で食べたいのなら、常に夕食は用意されてるから。でも一緒に夕飯を食べたいときには、そうね、わたしたちに予定を確認してもらえるかな」ちょっと困っているようだった。「よし、明日の晩、ディナーを一緒に取らないかチャールズに頼んでみる。あなたも一緒よ」

「ぜひお願いします」とつぶやいた。

「それとね、どこで食べてもかまわないの。例えばここで夕飯を食べたいのなら、エファンズにそう言って。もちろん昼食もね。食卓に着く必要はなし。まるっきり。いい?」

「何を作ればいいのか、コックはどうやって知るんですか?」

「そう言えばそうね」お手上げみたいだ。「きっと天才よ」二人とも笑い出した。

「それとね」とライナは続けた。なぜだかわかった。これが言いたかったことなのだ。「もう一つルールがあるの。チャールズが部屋にいるときはね。図書室の裏の部屋よ」――わたしはうなずいた――「絶対に邪魔しちゃだめ。絶対に。それは火事にでもなれば別だけど」と微笑んだ。

 だが伯父がこう言っているのが目に浮かんだ。「ここに入ってはいけないことをあの娘は知っておるのか? 伝えておくべきだろう」

「わかりましたと伯父さんに伝えておいてください」我ながら芝居じみていた。

「伝えておくわ、ベッシー。この家を気に入ってもらえたら嬉しいな」

「もちろん」とはいうものの、ふう、この家は伯父に合わせて動いている。

 ライナはディナーのために着替えに行った。

 ライナ。ハートがチクリと痛んだ。理解できない。この家にいて幸せなんだろうか? 幸せでいられるのだろうか? あんなに輝いている源はどこにあるのだろう? 身を隠すための虚像? わたしが田舎娘の役をふられているように。契約通りに義務を果たしているだけなのかも? 伯父がライナを買ったのだとすると、仕入れた商品の価値を下げずに鮮度を保っておくのがライナの務めなのだろうか? なぜあんな嫌らしい蛙と出かけるのだろう? なぜガイ・マクソンのこっそりした誘いを受け入れるのだろう? 第一、老人ホームにいる父親のことはどう思っているのだろう? 自分の方はお金の匂いの立ちこめる場所で暮らしているというのに。贅沢に浸かりきってしまったのだろうか? 贅沢品から幸せを享受できるような人なのか。

 ライナは身勝手なんかじゃない。これはずばり“直感”のようなものだ。ライナの魅力だって作り物なんかじゃない。虚像ではない。ライナは完全に生身の人間だ。

 あの蛙がにくらしかった。伯父さんは憎らしくないのだろうか? 親切にも妻と他の男に黙ってチケットを取ってあげながら、静かな怒りに燃えているのだろうか? 頼んだときのギャスケルは図々しくなかっただろうか? 蛙が「怖くない」と言ったのにはどういう意味があるのだろう?

 わたしは怖かった。

 ガイ・マクソンについてはどうだろう? 間違いなく嫉妬に狂っている。マクソンのことで考えておくことは? そうだった、昨夜は一番最後に帰ったのだ。ということは、パチーシの駒が窓から投げられたときには、まだ家から出ていなかった可能性がある。マクソンなら拾うこともできたのだ。

 J・J・ジョーンズに伝えなくちゃ。いや違う、ヒューに伝えなくては。誰にもしゃべったりしないと約束した以上、どうやってすべてを明らかにすればいいのだろう。でもヒューは話した。やむなく赤い駒のことを話したのだ。でも警察にではない。伯父にだけ。

 チャールズ伯父さんはどういう人なのだろう?

 ドアに控えめなノックの音がした。ヒューだと思ったが、いたのはエファンズだった。

「ジョーンズさまが――」

「今どこ!?」

「リビングにいらっしゃいます。ダフさまと申される方もご一緒でございました」

そうだった!」

 逃げ出すこともできたけれど、ヒューには伝えなければならない。エファンズが立ち去るのを待って隣のドアをノックした。

「階下に友だちが来てるの」わたしはささやいた。「午後に全部話したんだけど。その人がね……人を……人を連れてきたの」

「誰です?」恐れたほどにはヒューの機嫌は損なわれてない。

「マク・ダフっていう名前」ヒューの表情が変わった。なんだか嬉しそう。

「知ってるの?」

「どんな人かはね。あなたは?」

「何かの教授で……どんなことでもお見通しなんだって。階下に行かない?」

「すぐに行きますよ」

 わたしはきびすを返し、一緒に二階に下りた。ところが図書室のドアを通り過ぎたところで立ち止まった。踊り場の手すりを握ったまま固まってしまった。

「どうしたんです?」ヒューが手すりをつかんだまま上から声をかけた。

「焦げくさいの」わたしはささやいた。

「何ですって!」

「この匂い……!」あの悪臭。間違えようもない匂いが一筋、図書室から漏れている。動けなかった。恐ろしくて、手すり上のヒューの手を見上げると、血の気が引いていた。

「赤い駒か」喉を絞められたようなしゃがれ声だった。

 呪縛が解けるやわたしは階下へ走り出し、玄関ホールを駆け抜け、両腕を広げたコートのなかに飛び込んだ。

「なんだ? どうしたんだい? 何が起こったんだ?」

「わかんない」鼻をコートに押しつけると、ひんやりとしてふかふかでいい匂いがした。「あなたなの、J・J?」

「もちろんさ。きみをこんなに愛してるやつがほかにいるかい?」

「ううん、いない」すけこましなんかじゃなかった。わたしのヒーローだ。


Charlotte Armstrong『Lay On, Mac Duff!』CHAPTER 7 の全訳です。


Ver.1 07/06/03

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[訳者あとがき]

 

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