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翻訳:江戸川小筐
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さあこい、マクダフ!

シャーロット・アームストロング

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第十九章

 J・J・ジョーンズ、ダフ、わたしは、西四十八丁目の『マックス』で夕食を取っていた。とても美味しかった。J・Jは少しすねていた。というのも、わたしたちの結婚はもうちょっと待ってもらって、豪華な結婚式を計画させてほしいとライナに言われたからだ。わたしは気にしてない。もうちょっと口説かれるのも悪くない。三日間ではもの足りない。これだけ恐ろしく混乱した三日間であっても。ダフはわたしの隣にいた。「この子は君をよく知らない」

 そこが残念なところですと、J・Jがぼそりとつぶやいた。

 ヒュー・ミラーは刑務所にいる。ハーバート・グレイヴズと言うべきだろうか。身元をたどれなかったかもしれないと言っていたが、それでもダフなら接点を見つけただろうし、事実やってのけたのだ。ミラーは実際には三十七歳だった。伯父たちが昔会ったときも――と言っても一、二回にすぎないのだけれど――鼻がくぼんでいたという。

「わたしは彼を仕留めた」それでもダフの顔に浮かんでいる悲しみはいつもどおりだった。「それにカスカートも。結局のところ、われわれ二人で彼を打ち破ったのだ。こうして彼は敗れた。急がねばならなかった理由。慌てているのはひとりだった。ところが彼はそれに気づかなかった。身分が明らかにされるまでの時間との戦いだった。カスカートなら、何週間でも、何か月でも待つことができただろう」

「何度も聞きましたよ、わかりました」

「その通りだ。マクソン殺しはその過程で行われた。あれは防がねばならなかった。だがミラーがカスカートに罪を着せる必要に迫られていたのはわかっていたが、ただいかにして実行するかがわからなかったのだ」

「ヒューだとは思っていたんですか?」わたしはたずねた。

「うむ。そうだ。だがそれを証明するすべがなかったのだ。だからマクソンは死んでしまった」

 J・Jが言った。「ぼくがあの日の朝、ちゃんとしていたらよかったんだ。ベッシーといちゃついたりしないで……嘆くのはやめましょう。ぜんぶ教えてくださいよ、先生。ぼくらがこんなふうにあなたから一本取っただなんて思ってるんですか? どうやってわかったんです? でなきゃどうやって見当をつけたんです? ぼくなんか二百六十回も考えを変えましたよ」

「何を教えられるというのだ?」ダフは微笑んだ。途端に別人のように子どもっぽく誇らしげになった。「君たちも、わたしと同じ証拠を見聞きしているのだぞ。浴槽に触れて温度を確かめることこそできなかったが。それすらも、彼が主張したように、冷水浴が好きだっただけかもしれんのだ。あれが決め手だった。君が知っていてわたしが知らなかったことだ」

「コートが冷たくなかったことですか?」

 ダフはうなずいた。

「どうしてあんなこと思いついたんだろう! あの日あなたのコートに顔をうずめて、その感触に気づいたりしていなければ、きっと考えもしなかったわ、J・J。自分じゃわからないもの、このコートが屋内に入れられたばかりだとすれば、触れれば冷たいはずだなんて。どこに隠してあったんです?」

「おそらく料理用エレベーターだろう」

「きっと触ってほしくはなかっただろうな」

「温度のことまで考えていたとは思えないね」J・Jの意見は違った。「あいつは温度のことなんか考えてなかったよ。風呂場で冷水浴するなんて聞いたことがない! 馬鹿げてるじゃないか! バスタブの温度のことなど思いつきもしなかったに決まってるさ。ほかの可能性など信じないね」

「浴槽の温度など、簡単に思いつくような類のものではない」ダフが言った。「だがね、風呂に入っていたとは断じて信じていなかった」

「彼はどうしたんです? 空のバスタブに飛び込んだんですか?」

「彼が戻ったときにも、無論まだ水は流れ続けていた。だから身体を濡らすことは簡単だった。開けられたドアからわたしがなかに入ったときには、最後の一滴がごぼごぼと音を立てているところだった。万事ぬかりなしと言っているようにね。片足で排水孔をふさぎ、わたしの足音が聞こえたら水を止めるだけでよかったのだ」

「バスタブにお湯を張ってから待ち伏せしに行くわけにはいかなかったんですか?」

「誰が水音を立ててくれるのだね?」ダフがたずねた。「思いだしたまえ。マクソンはまだ生きており、騙されなくてはならなかったのだ。流れる水は人の立てる音を覆い隠してくれる。そこにはいないのだという事実も覆い隠してくれるのだ」

「バスタブの栓をしておかなかったのはわざとなんですね?」

「どのくらいバスルームを留守にするのか見当もつけられなかったからだ。浴槽をあふれるに任せるわけにはいくまい。あふれ防止装置がどの程度で働くのかを確かめる時間はなかったのだ。古い家にはそもそも付いていない可能性だってある」

「なるほどね」J・Jが言った。「これですっかりわかりましたよ。続けてください」

「何についてだ? 二回しかベルが鳴らなかった一度目の電話が怪しいのはわかっているはずだ。二度目までの間隔が長く空きすぎている。ピーター・フィンが聞いたつぶやきの件もわかっているはずだ。とにかく、君もわたし同様に不思議に思ったのではないかね。はたしてミラーは眼鏡なしでものが見えるのか? 二番目にウィンベリーのオフィスに入った人物がミラーだとしてみよう。目が見えず撃てなかったはずだ。ここで確かめてみたのだ。メニューを使って」

「そういえば。ソース・オ・ディアブルね」わたしはつぶやいた。

「一か八かの作戦ではあったが、彼のロマンティックな心はその言葉に飛びついたのだ」

「ひとつだけ」J・Jが言った。「わからないことがあるんです。サーモスタットのタイマーは偶然壊れたわけではないと言いましたよね。翌朝に壊したと。じゃあどうして暖房は朝まで入っていなかったんです? タイマーが無事だったとしたら」

「わたしにもわからなかったよ」ダフはそれを認めた。「あとで家政婦と話すまではな。ギャスケル自身のしわざだったのだ。タイマーは、九時十五分にスイッチが入るようにセットされていたようだ」

「またずいぶんと遅いもんですね」

「這い出すのがどれだけ遅かったかはわからぬが、ずいぶんと遅く起きていたのは確かだな。家政婦が凍えようとかまわんのだ。朝のうちは台所のガス台のそばでぐずぐずして掃除を先延ばしにしていたのは、そういう理由だったのだよ。ギャスケルの性格だな。そうでなければ我々ももう少し早くその点に気づいていただろうに。あるいは家政婦がもう少し早く死体を発見していたことだろう。無論、手動で十五度に下げることもミラーには簡単にできた。だが現実にはそうする必要はなかったのだ」

「ああ、なるほど。どけちんぼってわけですね。性格の話からすると……」

「そう言えば」わたしは言った。「証明はできなかったと、ダフさんはおっしゃいましたよね」

「なんとか説明してみよう。心に浮かんださまざまな直感とその意味をね。まずはヒュー・ミラーのことだ。彼がどんな種類の男でどんな感性を持っていたか。ベッシーはヒューの感性を実に見事に通訳してくれた。自分で知っている以上にな。この子自身は、彼に対して何の感情も持ち合わせてはいなかった。愛してもいないし、憎んでもいないし、恐れてもいなかった」

「気に入ってもなかったんだろう、ベッシー?」

「黙って。もちろんそうよ」

「ベッシーのミラー評だ。『真剣、生真面目、一途』。これは気を張り詰めている人間だよ。強い意思を持った人間だ。必死で押し殺しているのだ。無論、神経質なだけかもしらん。だがベッシーはその内なる緊張を感じ取っていたし、それが勘違いだと思う理由もなかった。そのうえこの子は、聞かせてくれた通り、彼が自分に関心がないこともはっきりと感じ取っていた。その点に関しては女性というものに賭けてみたくなったのだ。この子はちゃんとわかっていた」

「でもわたしにかまってました」

「関心があるふりをしていたのだろう。無論、家を訪れカスカート氏が怪しいと騒ぎ立てるための言い訳に過ぎんが。しかしだ、彼にその気がないことをベッシーが感じ取っているというのに、この子に関心があるそぶりをわざわざ口にした理由を考えあぐねていた。だが彼が何か企んでいるという端緒さえつかんでしまえば、この子の顔の使い道は歴然としていた」

「わたしの顔ですか?」

「J・Jが言っておった。おしゃべりな顔をしているとな。ミラーはカスカート氏への疑念を浸透させたかった。そんなつもりはないふりは続けながらだ。巧妙に噂を広めたがっている人間はそうするものだ。身のまわりで一番のおしゃべりに耳打ちするものなのだよ。君の顔が、おしゃべり屋なのだ、ベッシー」

 J・Jがくすくすと笑った。「今考えていることを当てて見せようか、ベッシー。こうだ。『ちょっと待ってよ。これじゃ見つからずには何にもできないじゃない』」その通りだった。間違いない。

「人の欺き方は教えんでくれよ」ダフが茶々を入れた。「すでに身につけているとしたら世も末だが。それと、この子はひどく暗示にかかりやすい。一晩中階上で過ごしていた人物が玄関から入ってきたのを聞いてしまうのだからな。ミラーに誘導されたとはいえ――」

「え?」

「そう話してくれたではないか。台所の話だ。聞いていない音を聞くことはできんだろう」

「聞こえたなんて言ってません」

「だがそう信じてた」

「だって、だって怖くて」

「常にミラーが怖がらせていたのだ。それに気づいていたかね? 君が怖がり出すのは、常にミラーが現れたときだった」

「よかったよ」J・Jが不機嫌な声を出した。「あいつは牢屋のなかだ」

「さよう。ミラーは君の心に伯父上の恐怖をかき立てた。だがその役どころの最中、一つの間違いを犯した。ペッピンジャーの話をしたとき、ハーバート・グレイヴズの話は一言もしなかったことだ。わたしが独自にグレイヴズに行き当たったとき、無論、その理由を考えた。聞いたことがないとは思えなかった。話すのが害になったとも思えない。だが話すのはカスカートに不利なことばかりだった。ことあるごとにカスカートの話に引き戻していた。もしや彼はカスカートを憎んでいるのではないかと思い始めた。パチーシをした夜、何者かが何者かを憎んでいたのは確かだ。そしてベッシーはミラーのそばにいた。発散された感情を読み取る能力を信用するなら、近ければ近いほど感情は強くなると考えて間違いあるまい。果たして発散された感情は強かったのだよ」

「今から思えば、あの顔は憎しみに覆われてたのね」

「わたし自身がミラーに会ったとき」ダフが言った。「張り詰めた意思に出くわした。ささやかな着想の山。違うかね? 何一つ見逃さぬ意思。来るものは何であれ拒まぬ意思そのものだった。どんな些細なものでも。無論、そのとおりだった。些細なことを利用して計略を立てたのだ。一瞥しただけの故障したバスを利用した。電話の呼び出しの馬鹿げた計略。それにベッシーも利用した――」

「ベッシーは些細なんかじゃありませんよ」J・Jが顔をしかめた。

「失礼した。ミラーはエファンズの歯痛を利用し、エファンズが痛み止めを持っていることを利用した。無論、後々のアリバイのために手筈を整えていたのだ。医学的な証拠で明らかになる範囲では満足せず、さらなる安全を望んだのだ」

「じゃあ歯なんて痛くなかったの?」

「うむ。夕食の席で手に入れたのだよ。また別の些細なヒントを。いわば、彼が歯痛を見逃さなかったことを知った瞬間に疑いを持ったのだ。さらに、赤い駒が象徴だとはっきり口にしたときには、ロマンチックな人物であることが判明した。女性の話ではない。空想家ロマンチックなのだ。思いついた着想を細かく縒り合わせた。ドアの封印。現実的ではあるまい。さよう、役立つ可能性は否定せん。だがよりによってなぜその夜を重視したのだ? 理由は何一つ口にせんかったぞ。それにベッシーを連れ出したことだ。そのくせ二度の地下行きのあいだは自由に行動できたことだ。何もかもまやかしだ。ちんけな考え。似非科学。空想。動機のことで奇妙な話をしていたな――無論、自分ででっちあげた動機だがね。それに、赤い駒の噂話を信じていた」

「でも伯父さんも……」

「伯父上は象徴とも噂話とも何の関わりもない」

「でも伯父さんは……」

「いいかね、噂を信じたい他人の気持を後押ししただけだ。彼は現実的な人間だよ。だから四つ目の赤い駒を処分したのだ。そのせいでミラーはひどく慌ててしまう。何か言われるたびに慌てていたはずだ。四つ目の駒を手にする機会があったのに、どうして手に入れなかったのかわからんね。悔やんでいたはずだ。何かの意味があったのだろう。駒もないのに伯父上を殺すことはできないと思っていたのではないかな。伯父上はほかの方法で罰されなければならないところだった。一番の仇用の、より効果的な方法だ。だがそれでも、象徴のないまま伯父上を射殺したり亡き者にしたりできたとは思えんのだよ」

「あの朝、四つ目の駒を手に入れていれば、きっとカスカートさんが企みに気づいたはずですよ」J・Jが指摘した。「カスカートさんはミラーと会っています。図書室で。それにカスカートさんは駒が箱に入っていたことを知っていましたからね」

「その通りだ。可能性はある。カスカート氏には四つ目の駒を燃やすだけの分別があっただろうから」

 駒が燃やされたとき、階段上にいたヒューの顔を思い出した。「ほかの色の駒を確認して数えた人はいたんですか?」

「さよう。カスカート氏だ」

「赤い駒が自分の死の象徴だとわかっていたんですか?」

「うむ、それほどはっきりとではないだろうが。四つの駒、三つの象徴。危険などは冒さなかった。象徴を信じていたわけではないが、自分を信じていたのだ。いまだかつて人を殺して象徴を残すことなど考えたこともないだろう。一目見た瞬間にわかったよ。カスカート氏にとっては、殺人は殺人に過ぎんのだ。ビジネスはビジネスであるように。空想家ではなかった。根に持つタイプでもなかった。ビジネス上の理由などはあるはずもない」

「でも窓から駒を投げたのは?」

「怒っていたのだろう。当然だ。怒りの種たちに呪いあれ」

「残忍な気持になっていたのかもしれない」わたしは言った。

「彼は賢い人間だ。かなり遠慮がないし、ぴくりとも感情に流されない。だが君は誤解しているのだ、ベッシー。伯父上に対する感情があふれすぎて、伯父上の気持を伝える伝令としてはまったく機能していなかった。例えば、君の生い立ちのせいで、彼がただの業突張りだという否定的な考えを植えつけられてしまった。君の目には、洗練された趣味が涜神的な享楽に映った。まっすぐ君を見つめるくせに感情を表に出さないものだから、君は混乱した。しかも君は伯父上に魅力を感じていた。彼は極めて魅力的な人物だ」

「魅力的ですって!」

「魅力的な男性というべきだったかな」ダフは落ち着いて訂正した。「驚かせたのでなければよいが」

「この子はちょっとうぶなんですよ」J・Jがそう言ってわたしの腕をつかんだ。

「でもわたしの伯父さんよ!」

「いっそう驚かせてしまうかな。自由連想検査のときに、君は伯父上のことを何と言ったかね?」

 わたしは真っ赤になった。「でも年とってるし、ハンサムでもないし……」

「ベッシー、質問だ。わたしはハンサムかね?」

「そうとは言えません。あなたもちょっとね、J・J」わたしの言葉に二人とも笑い出した。

「まあそういうわけで」ダフは続けた。「君の言葉を伯父上の気持だと受け取るわけにはいかなかった。同じように、君はライナについても誤解していた」

「誤解ですか?」

「残念ながらその通りだ。マクソンも同じ誤解をしていた。彼は愚かで自惚れ屋だったが。君はライナのことを何と言ったか覚えているかね?」

「ええ、でも……」

「君はごまかされなかっただろう、J・J?」

「ぼろを出す前に教えてくださいよ」

 ダフは椅子に寄りかかり、目には霞がかかった。「ペギー・シッペンの事件を連想したよ」

「そういうことか! へえ! なるほど!」J・Jが大声でわめいた。「ベネディクト・アーノルドの奥さんだよ、ベッシー」

ベネディクト・アーノルドって?」

「うん、ほら。ダフの専門だよ。ああ、ぼくは知らなくってもごまかされなかったさ。でもきみには話さなきゃね。ライナは獲物じゃなかったんだ。そのことをちゃんとわかっている人もいた」

「マクソンはわからなかった。カスカートは老人だし、自分ほど魅力がないと思ったのだな。哀れな奴め。それに、ヒュー・ミラーも同じ間違いを犯した。ベッシーの引き写しだろう。女性についてはかなり鈍感だった。君とベッシーのことに気づくのもずいぶんと遅かった。もしかすると奥さんの死が……。うむ、アンドリュー・ジャクソンとペギー・イートン事件があった。ミラーにとっては手痛い間違いだ。存在しない動機を思い描くはめになってしまったのだからな。それはわかっていたかね?」

「ええ、でもぼくはライナを手に入れた事情を耳にしていましたから」J・Jが答えた。「それにどちらかといえば――」

「頭のいい話はやめてちょうだい。わたしにもわかるように説明してよ……! どこの誰でもいいけどペギーがどうしたの? それにライナはどうなったの?」

「ペギー・シッペンがアーノルドの裏切りと逃亡のあとに取った行動は、簡単にわかるようなものではない」ダフが言った。「彼女が彼を愛していたことがわからなければな。そういうことだ。いいかな、ベッシー。よく聞きたまえ。ライナ・カスカートはペギー・シッペンと何一つ似ていない。だがライナも夫に首ったけなのだ」

「首ったけ? それってつまり……」

 ダフは穏やかにこう言った。「ライナ伯母さんは幸せなのだ。わたしにはわかる。若い娘が年上の男とむりやり結婚させられていたら、不幸せになるものだと人は決めつけてしまいがちだ。だが伯父上はありきたりの男ではない。アーノルドもそうだった。さてベッシー、君は『シーク―灼熱の恋』を読んだことはないだろうね?」

「もちろん読みました。禁止されてたけど」

「同じプロットの小説は山ほどある。ロマンス小説の分野では古典的。チョコレートをつまみながら読む類のものだ。愛を持たずして屈強で冷酷で傲慢な男と結婚した。彼女は夫に夢中になるが、読者をどきどきさせるだけのために、二十章になるまでそれを認めない。彼がどれだけ彼女を苦しめ、彼女がそれを愛したことか! わからんかね? ライナは日々を恋愛ドラマに生きている。夫が密かな情熱なのだ。女性の視点からは、こうした幸せが理想的な結びつきだとは思えんだろうな。君がケーキを食べることも、ライナの空想と大差ないのだよ」

「伯父はまったく気に掛けてないんですか?」わたしは考え込んだ。

「できるだけのことはしているとも。さよう、彼には思いやりがある。それに賢い。ほかの男と出かけさせ、ライナのお芝居につきあっておる。極めて冷静に、立派に、従順に、誤解されながら。だがチャールズ伯父さんにではないぞ。彼は理解している。わかったかね。彼女は知っているのかどうか。こうして幸せなひとときを過ごしておる」ダフはため息をついた。「可愛い子だよ」

「じゃあ本当に伯父のことを心配していたんですか?」

「ヒューが狙い撃ちするのが愉快ではなかっただろうね」J・Jが答えた。「間違いないよ」

「内なる光」わたしはつぶやいた。「そういうことか。恋してるんだ」

「ええとね」J・Jが生真面目な声を出した。「問題はそこだよ。きみはどうなんだい?」

 わたしは微笑んだ――J・Jがすごくおかしくて魅力的に見えた――J・J陽の光が目に入ったように手をかざした。

「そのアイスクリームを食べたまえ、ベッシー・ギボン」ダフが言った。「ここは公共の場だぞ。われわれ都会人を驚かせんでくれ」


Charlotte Armstrong『Lay On, Mac Duff!』CHAPTER 19 の全訳です。


Ver.1 07/07/07

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[訳者あとがき]

 これにてシャーロット・アームストロング『さあこい、マクダフ!』は幕となりました。マク・ダフの推理法は、人間観察と「歴史は繰り返す」を基調にした心理的なものと、手に入れた材料を科学的に組み立てる論理的なもの。あまり目立たなかった歴史の知識も、最後になってようやく活かされました。

 初めに読んでから訳し終えるまでに一年近くが経過してしまったので、細かい部分はすっかり忘れており、いざ訳してみると、驚くほど細かく張りめぐらせた伏線の数々に(巧拙は別にして)改めて感服しました。ベッシーがときどき見せる嫌悪感すら伏線だったとは。

 本格ミステリとは言っても、テイストは既にアームストロング節。後年の代表作と比べると、語り手自身や語り手の大事な人に切実な危険が迫っているわけではないのでサスペンス味こそやや劣りますが、それでも凡百には真似できない語り口のうまさがそれを補って余りあります。

 マクドゥガル・ダフものはほかに二作。『The Case of the Weird Sisters』と『The Innocent Flower』。この文章を書いている時点ではどちらも未読ですが、機会があれば読んでみて、面白ければまた訳したいと思います。あらすじを紹介している海外のサイトによると、二作目『The Case of the Weird Sisters』は、秘書アリスと婚約した億万長者が遺言を書き替えようとしていたところ、三人姉妹の家で毒殺され、窮地に立たされたアリスを救うため運転手の若者が奮闘するという物語のようです。あらすじを読んだ時点で、アームストロング・ファンならにやりとしたくなるようなお決まりの設定なのですが、そのお決まりの設定で何度も楽しませてくれることもファンなら先刻ご承知でしょう。はたしてどんな作品なのか。気にはなりますが、ひとまずアームストロングはお休みです。

 訳者識。

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