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秘密

シャーロット・アームストロング


第一章

シカゴから七時間というもの、おとなしく閉じ込められて座っていたけれど、ロサンジェルスの乾いた日射しの中で動きだすと、死んだような感覚も消えていった。ハリウッドまで空港のバスで行こうというトニーに従い、人波に流される。

何か起こったのがアリスにはわかった。

二人は待合室を抜けてどんどん進んだ。男が叫んだ。「トニー・ペイジ! おーい、トニー!」古い友だち。偶然の出会い。男はどこかに行ってしまった。あっという間……名前も聞けないほどあっという間……挨拶も、握手もなし。それでも、男が空港ゲートに向かって進み、アリスとトニーが歩道に押し出されたころには、わかっていた。何かが起こったところだ。何かが変わってしまった。

トニーは詳しく説明しなかった。「知り合いだったんだ」名前を繰り返したりはしなかった。アリスは探るように見上げたけれど、優しくて無愛想でおまけに平凡な愛しの顔に変化はない。二人はバスに乗り込んだ。トニーは祖母一家のことやこれから訪ねることについて話し続けていたけれど、心の中ではこれからの予定に変化が生じていたことが、どうやらアリスにはわかっていた

何か邪魔が入った。

アリスは見慣れぬ景色に目をやりながら何も言わず座っていた。きっと話してくれるだろう。たとえダメでも、それには理由があるのだから受け入れよう。トニーがやってきたこと、見聞きしてきたこと、それは絶対に話してもらえない。わかっている。

トニーのおしゃべりはまるでこの町のガイドブックだ。ハリウッドのホテルに到着するとタクシーに乗り換えた。トニーが住所を告げた。「家を見たらびっくりするよ。骨董品だから。谷の入口まで行ってごらん、文明から遠ざかったなあって感じるからさ。文明といえばその家だけ、それっきり。

「ばあちゃんも骨董品。貴婦人だもの」

貴婦人?」

「だよ。ほんもの」

「オソロシイ」正直な感想だった。「貴婦人なんて絶対ムリ。なりたいと思ったこともなかった」

「ならなくていいよ」

そして二人はキスをした。運転手には見えない隅っこで。

アリスの緊張がほぐれた。トニーの腕に手を回すと、安らぎを覚えた。

「おばあさんは姪御さん夫婦と一緒なんでしょ」と考え込む。

「ホーテンスおばさん。グレッグおじさん。本当は従兄弟だけど」

「それに子ども」

「従妹のビー」

「なんか不思議」

「なんで?」

「姪より孫の方が近いんじゃない?……ほら……血筋が」

「ばあちゃんはぼくと暮らすはめにはならなかったさ」トニーがニヤリとし、そこでアリスは思い出した。トニーが関わった広い世界、遙かな土地、多くの場所、すべてが秘密任務だったから教えてはもらえなかった。極秘だったという事実さえ話してもらえることはないだろう。それとも?

「みんなは知ってるの……?」

「みんなは知らないんだ……」口にしたのは同時だった。

 ペイジ夫妻は笑い出した。

笑い終わるとトニーは真顔になった。「知らないんだ。内緒だよ」

「そういうことなら」アリスはうなずいた。トニーがしていた秘密任務――過去何年かしていたけれど、今はやめてしまった秘密任務――のことは、ほとんど知らなかった。何よりも賢く素直なのは、黙ってうなずくことだ。

「旅ガラスだって思わせておこう。親父みたいにさ」

「へえ、そうなんだ?」

「うん、ホントそうだったんだと思うよ。ばあちゃんから見たら親父の毛並なんて薄汚れてるも同然だったのかも。お袋が死んでからは会ってないんじゃないかな。でもぼくは好かれてるんだ。紹介したいな。それがいい」

「もちろん」

けれどアリス・(ハンセン)・ペイジは、古風な屋敷に住む本物の貴婦人に紹介されて、審判(に先駆けた飴玉)を受け取るなんて、あまり楽しみじゃなかった。

「ビーって何歳?」何か話そうと口にした。

「ビー? あれ、ええと。なんだ、同い年だ。二十八歳のはず」

「独身?」

「確かね」ビーのことには無頓着だ。「グレッグおじさんは話し好きなんだ。保険のセールスをしていて、いろいろ大変みたいだね。ロータリー・クラブのこととか」トニーは横を見た。「そんなにうぬぼれるなよ」からかうのにも余念がない。「二十歳前に男を手に入れたからって」

「明後日には二十歳になるって!」からかわれるのが嬉しかった。

「似たようなもんだよ、あと二日は十九歳だろ、ペイジの奥さま」

ふたりはもう一度キスをした。

トニーはすぐに口を開いた。「ホーテンスおばさんはちょっと変わり者なんだ。実を言うとビーもね。あんまり……スタフォード家とは親しくないんだ。気にするなよ」

回した腕に力を込める。

ちくしょう。トニー・ペイジは考えていた。オヤジさんに会いに行かなきゃならないだろう。だがどこに行こうと仕事を押しつけることなんてできやしない。抜けたんだから。それにアリスから離れたくない、そうとも、離れやしない。話し合いか。何か知ってると思ってるのか。抜けたことはわかってるんだから。ぼくにとっちゃ、あの仕事はすっかり片づいたんだ。建築業の仕事ももらった。妻ももらった、アリスに恵みを。

若くてきれいなアリス。白く美しい額の上には、なめらかな漆黒の髪が一対の翼のように生え、形のいい頭に上品に巻きつき覆っている。目は紫と灰色の中間色、真摯な瞳。「真摯なアリスにお茶目なアレグラ……真摯なアリス。そこが大好きだった。アリスのことを考えるたびに、心の中は詩人になる。

さんざん危険を冒してきて、やっとわかったのは、冒険とは薄汚れたごみために待ち受ける不毛な日々の別名だということだ。居場所を失い規範から外れたまま、居場所のあるふりをするのはもうごめんだ。謀略、監視、詐称。今は居場所があった。心をとらえて離さないアリスから引き離そうとするものは誰もいないし、何もない。

だが……こんな言葉が執拗に繰り返される――彼らがまだ知らないことを知っていただろうか? だからオヤジさんが手を借りたがったのか? ハーブ・イネスが昔の合図を送った理由なのか? あれにはかなり驚いた。昔のように冷静でいるのには苦労した。一瞬の間。ハーブ・イネスが呼びに来たわけは?

呼び出しに背くことはできるだろうか?

いや、できるわけがない。長いあいだ中南米にいて、オヤジさんのもとで働いてきたのだ。当たり前の礼儀。そうとも。進め。できるなら今日。何であろうと片をつけよう。用向きが何であろうと、断れるはずじゃないか? 自由の身なのだ。いや、驚くほどに不自由の身だ。結婚しているのだから!


タクシーはカフエンガ通りから横道にそれ、グリフィス・パーク・ヒルズのふもとを東に突き進み、切り立った谷を迂回して、坂を上った。すぐにトニーが道順を教えた。

タクシーはヴェルデュゴ・ヒルズにまっすぐ進んだ。牧草地のようなところに突き当たり、山を登る。鬱蒼とした木立や草むらを過ぎると、トニーの祖母の家に着いた。

木立や蔓草のせいで家はほとんど見えなかった。黄ばんだ漆喰の壁がある。ところどころ草に覆われた、低く頼りなげなコンクリートの石段。そしてドア。

制服姿の中年の女中がドアを開けた。「おや、トニーさま!」

「やあ、エレン。ページ夫人だ」トニーは少年のように誇らしげだった。

「まあ、ご機嫌いかがですか、奥さま? レッドファーン奥さまとスタフォード奥さまにお知らせして参ります」

足を踏み入れた薄暗い玄関ホールは、どうやら家の横手にあるようだ。予定の客が到着したことを知らせに行かなければいけない、ということに戸惑いを覚えた。

家の構造にも戸惑った。階段は二つあるらしい。一つは左側の螺旋階段。一つはこの薄暗い方形ホールの正面にまっすぐ設えてある。ここの床はタイル。細長い東洋絨毯は、床全体に敷かれてはいない。ホールの外壁には、蔓草が茂って明かりの入らない格子窓があった。

女の人がやって来た。「ようこそ、アントニー!」

ホーテンスおばさんだ、真珠のついた黒い服を着ている。がりがりに痩せていて、骨の浮いた顔には、鋭いかぎ鼻、小さくすぼんだ顎、そして落ち窪んだ頬。ミイラみたいだ! 心臓が激しく脈打つ。ホーテンスには人を不安にさせるところがある。

「妻です。アリス、この人がホーテンスおばさん」

「さあ」ホーテンスが言った。落ち着くことのなさそうな弱々しい青い目。アリスは冷たいしなびた手に触れた。「いらっしゃい」ミイラが話す。「おばあちゃんが待ってるわ」

トニーにウィンクされてアリスは我に返った。カツカツとヒールの音を立ててタイルを歩くホーテンスのあとから、大きな部屋に入った。不謹慎なほど大きい。南側の(前)壁には巨大な暖炉がある。その前には大きな東洋絨毯……赤と茶と青がバランスよく混じり合っている……部屋の中に壁のない小部屋があるみたいな敷き方だった。絨毯の端に沿って、見えない壁に背をぴったりくっつけるようにして家具が立っていた。不思議。

絨毯の端に物々しい椅子が並んでいて、そこにトニーの祖母が座っていた。この家は彼女の家――彼女の神殿だ――アリスは一目で見抜いた。ホーテンスが、崇拝するような物腰で中に入る。レッドファーン夫人は小さかった。背骨を軍規で縛っているんじゃないかと思うほどに古色蒼然と背筋を伸ばして座っている。灰色の服。白いレースが少し。濃紺の細いビロード紐で喉元にくっついているカメオは、肖像画でしか見たことがないようなものだった。レッドファーン夫人の身体つきは、ホーテンスそっくりだったけれど、薄い鼻は上品で、小さな顎は淑やかだった。肌はやや乾いた控えめな桃色。髪は白く、上になでつけられていた。目は灰色、落ち着きと信念が備わっている。あからさまに値踏みをしているわけではない。けれどジェラルディン・レッドファーンを値踏みするものなど誰もいないことを両の目は語っていた。そんなことをすれば返り討ちに合う。

「ようこそアリス。会えて嬉しいわ」

「おじゃまします」アリスは硬く干涸らびた手に触れた。目が合う。ほら来た、審判が下されつつある。

「座りなさいな、さあ」

「元気そうだね」トニーは感じ入ったようだ。

「元気だよ。おや二時? でもシカゴじゃ四時なんでしょう?」

「うん」

「ならエレンにお茶を持ってきてもらいましょうか」

トニーは首をかしげ、吸いつけられるように優しく祖母に目を向けていた。トニーにとっては一連の思い出をもたらす貴婦人なのだ。思い出に耽っていたせいで返事がなかった。

だからアリスが答えた。「ありがとうございます、でも飛行機で食べてきたので」 すぐに、こう言えばよかったと考えた。「昼食をいただいてきた」とか何か「食べる」よりも上品な言葉。「お気遣い感謝します」吃りながらつぶやいた。

レッドファーン夫人の白い頭が少し震えてこれに応じた。「お風呂に入って一休みしたいんでしょうね。でもしばらく四人でおしゃべりしませんか?」

 ホーテンスをすっかり忘れていたことに気づいて、アリスは恥ずかしさでギョッとした。振り返って見つめる――黄色い椅子に座ったこわばった骨のかたまり。アリスは無意識に背筋を伸ばそうとしていたけれど、いかにもわざとらしい。どうすればいいのかわからないけれど、今は落ち込むわけにはいかない。居心地が悪かった。

「それで。シカゴで暮らしてるんだね?」トニーの祖母がたずねた。

「ああ、うん。しっかりとね。仕事も。団地も。妻も」トニーはくつろいでいた。馴染んだ優しさが気を楽にしている。

「シカゴ生まれなの?」穏やかな目がアリスのことを問うていた。

「生まれはインディアナです……。小さな町で……」レッドファーン夫人は小さな町など気にも留めなかった。インディアナ州のことを一滴の染みだとでも考えているような微笑み。「でもシカゴで働いていたんです」アリスは続けた。

「お勤めを果たしていたにしちゃずいぶん若いのねえ」穏やかな声はよどみない。

『勤めを果たす』――タイプの仕事をそう呼ぶとは風変わり。

「十九だよ」トニーがからかった。「二十歳にもなってない」

「ずいぶん若いわ」レッドファーン夫人が繰り返す。「シカゴじゃあ一人暮らし?」

「大学に通ってました」詳しく話す。「だけど一年目が終わったときに考えたんです……学費の足しにするには一年間働くのがいいんじゃないかって」 『おしゃべり』の話題がアリス自身の経歴になりつつあるのがわかった。攻撃は穏やかだが、逃がそうとはしなかった。「それでシカゴに出て仕事を見つけて。だけどトニーに会って……」

「みんな卒業」トニーが言った。「学校も! 仕事も! めでたくおしまい」

レッドファーン夫人は面白いとは思わなかった。「ご両親は今もインディアナ?」

「はい、そうです」

「お名前はハンセン? そうね? お父上はもう退職なさったんでしょう?」父が何をしていたかをたずねる遠回しなやり方。

「父は薬剤師でした」

「ごめんなさい聞こえなかったわ」

 アリスは声を大きくした。「父は薬屋の店長でした。ハンセン薬局」

「なるほどね」声はなめらかに続ける。「ご兄弟かご姉妹はいらっしゃるの?」父が薬屋を経営していたことには納得したようだ。

「一人います」自分の声の中に、感じたくはなかった小さな抵抗心を聞いた。

「お兄さん?」ホーテンスが口を挟む。

「いいえ、弟なんです。ジョーイはまだ高校生です」

ホーテンスはそんなことは聞こえなかったかのようにまるで無表情だった。

そこでアリスは、弟のジョーの大きな足が、見窄らしい靴を履いてこの柔らかな絨毯に埋もれたところを想像してみた。あの大きな足でしじゅう動き回っていては、いつまでも履き潰れない造りの靴ではない。その想像にくすりと笑った。

「ご両親はお元気?」レッドファーン夫人が喉をならす。

「ええ、そりゃもう。とても喜んでました。トニーと結婚したことを」

ほっとして少し笑顔になった。終わった。ここまではわたしの話。薬屋では母が、父と交替で働いていたと言わなかったことを思い出した。どうしよう。いま話すのは不自然だ。どっちみちこの貴婦人たちは、公立高校が当たり前だとも思わなかったみたいだから、薬屋における母の独特の立場――人々の生き生きとした感情や悩みが処方台でわかるということも、人々の夢が化粧品や雑誌に埋もれているということも、きっと想像できないだろう。

だけど静まりかえっている。アリスが顔を上げると、凍り付きそうなレッドファーン夫人の目が見えた。何を言ったっけ? 両親が喜んでいると言った。やっと気づいた。インディアナの名もない夫婦がトニー・ペイジのことを喜んでいるということではない。レッドファーン夫人がアリス・ハンセンのことを喜んでいるか、いないかということだ。「わたしのことはお終いです」アリスは少しうろたえた。

「たくさん質問してごめんなさいね。でも知りたいのよ。トニーが大好きだから」喜んでいるとは言わなかった。「この家のことを教えときましょう。あの坂の下が葡萄園と牧場だったころ、夫が建てたの。高みで閑居を構えたかったから。牧草はまだ残してます、わたしたちを守るため」

アリスは話し声が続くのを聞いていた。レッドファーン夫人は財産のことを一言たりとも口にしなかったのに、裕福な印象を受けた。トニーの母がここで生まれ、ここで死んだことを話している。

「存じてます」アリスはつぶやいた。

「ホーテンスは姪。夫婦そろってとても優しいわ」

「そういえば」ホーテンスが勢いよく口を挟んだ。「グレゴリーは六時ごろ帰ってきますから」

「で、ビーはどこ?」トニーが訊いた。

「ああ、ビーはね……」ホーテンスは身震いした。「会議。働き過ぎね。まいにち音楽に時間を取って、そのうえ馬鹿みたいにこんな委員会のことに打ち込んで」レッドファーン夫人の絹のような声音とは対照的に、がらがらとした声だった。「ビーはまだ――」

「ビアトリスはすぐに来ますよ」老婦人の絹のような声音が容赦なくホーテンスをさえぎった。「もうお部屋を見に行きたいでしょうね?」小さくベルを鳴らすとエレンが現われた。「ペイジ夫妻に部屋を見せてあげて、エレン」声がわずかに変わった。微妙に影をひそめたこの優しい声調が、使用人に向けられた。

「はい、奥さま」聖地に仕えているような、献身的な小さな身体。

「夕食は七時十五分です」老婦人が言った。

「ありがとうございます」と言うべきなのか「ではまた」と言うべきか、あるいはエレンのように素直に「はい、奥さま」と言うべきなのか、アリスにはわからなかった。トニーが腕を取り元気よく答えた。「荷物を置いてくるよ。じゃあね、ばあちゃん」

エレンが家の裏手の階段を上って二階に案内してくれるあいだ、レッドファーン夫人が時差を気遣ってくれたのは何だったんだろうとアリスは不思議がっていた。七時十五分はシカゴの標準時では九時十五分だから、夕食までしばらくある。取るに足らないくだらない考えを追い払った。トニーの祖母を好きではないことに気づいてうろたえた。まだ早い。

 かなり古めかしいものの、寝室は大きくて快適だった。アリスが窓の外を見やると山があった。尻込みするほどすぐそばだ。山というものは寝室の窓のすぐ外にそびえるものではない。なのに山はあった。

 もういちど見てみると、実際には五、六十フィート離れているのがわかった。見下ろすと、庭には緑の茂みが見える。空を見上げるには身を乗り出して首を伸ばさなければならないだろう。なにしろ、この斜面は壁のように立ちふさがっていた。くすんだ野生の草と見慣れぬ雑草の茂みがまばらに生えているだけの、からからに乾いた地表だった。

 後ろの部屋でトニーがしゃべっている。「風呂に入って眠りたいだろ、ん?」

「今すぐに」ふたりがシカゴで目覚めたのは早朝だった。

 トニーが浴室に行き水を出すのが聞こえた。アリスは山を見続けていた。空港で感じた直感のことなどすっかり忘れていた。新しい感覚がいくつも弾んでいる。いまトニーが古い仮面を引っ張り出したことをアリスは知るべくもなかったし、巧みな被り方を心得ていたので、誰一人として――この瞬間のアリスも――仮面の存在に気づくことはできなかった。

「トニー」彼が後ろにやって来たところで話しかけた。「貴婦人だっていう意味がわかったわ」

「尋問をよくがんばったよ」からかうように答える。

「そうだった?」ほっと息をついて振り向いた。「もうばかみたい

そっと優しく身体を叩く。「ばあちゃんのやり方なんだよ、生まれたときからの。骨董品。同情してやってくれよ」

「ばか言わないで! 若いからだけじゃ――」言いかけたが、トニーがキスをした。

「きみは――人形――みたいに――かわいいから」強調しようと間を空ける。「けど眠りたいっていうんなら……出かけてくるよ。いいかい?」

アリスはただ驚くだけだった。「出かけるってどこへ?」

「ちょっとね、ばあちゃんに何か持ってくればよかったな、と思って」ポケットで硬貨をじゃらじゃら鳴らした。「おばさんの車を借りられたら……」

「うわ、そんなこと何にも考えてなかった!」もしわたしが貴婦人だったら、と考えた、だったら贈り物を持ってこようと考えただろう。

「何かお土産を。眠っときなよ。だって」――顔にしわが寄る。「グレッグおじさんとビーがもうすぐ来るんだから、体力つけといた方がいいかも」

「もう!」アリスはもはやばかみたいだとは感じていなかった。人形じゃなかったの? トニーが極めて巧みに嘘をついているなんて思いも寄らなかった。トニーはもういちど熱烈なキスをたっぷりすると、部屋を出た。

 やがて灰色をした車の屋根が緑の中を下ってゆくのが見えた。

山腹が熱そうだった。かげる西日があぶり照らしている。ブラインドを降ろした。部屋が涼しく、薄暗くなった。アリスはぼんやりと服を脱いだ。浴槽はまばゆかった。ベッドは真っ白で柔らかかった。

ここの住人たちが長いあいだ『高みで閑居』を送っていたことを考えた。こんな生活のことは何にもわからない。どうすりゃいいだろ? 気分は落ち着き、のんびりとして、不安はなかった。

寝室のドアが勢いよく開いた。

アリスはひじを起こす。

糊の利いた縞模様の綿服を着た、背の高い、骨張った中年女性が、手に金属バケツを持って戸口に立っていた。

ホールでエレンが大声を出した。「ピールさん! 駄目です! お客様の部屋には行かないで! お客様がいらっしゃるんだから!」

バケツの女性は言葉ではなく音を発したが、そこには形にならない苛立ちが吹き出していた。スカートを糊でぱりぱりさせながら、ノブに手を伸ばすと、ドアを勢いよく引いて後ろ手に閉めた。

アリスはそわそわしながら腰を沈めた。顔を枕にすり寄せた。あれ誰? 掃除婦の人? 献身的で、一生懸命ゴミを処理する人……

『高みで閑居』にはなりたくないな、なぜか悲しくなりながら、アリスは思った。


トニーが起こしてくれたときには、六時近かった。夕食用に着替えなければならない。階下に降りたとき、おしゃれな彩色をしたブリキの小箱をレッドファーン夫人に贈ったのはアリスだった。

「まあきれい! 素敵な赤色!」

「それはトニーが……」アリスは舌を止め、「買った」という動詞から「選んだ」に変えたところだった……「えら、らんだんです……」吃ってしまった。

「ありがとうトニー! アリス、グレゴリーにビアトリスです」

グレゴリーおじさんがしゃべり始めた。一同は食堂に移動したが、おじの声が単語の波をテーブルに注ぎ込み、あふれかけていた。面白いことに、老婦人の領土を侵す前に、うまくやめる術をわきまえているようだった。グレゴリーおじさんは――丸々として、つるつるの焼けた肌をした、如才なげな人物であり、茶色い目は常に大きく開いたまま――レッドファーン夫人にも向けられていた。

アリスは、トニーの助言どおりつやのある青いドレスを着て、トニーの母のものだった銀とサファイアのイヤリングを耳につけていた。誰がどのフォークを取り、どのスプーンを使うのか確認すると、グレゴリーの話に耳を傾けようと努めた。

一つの社会的話題をスムーズに別の話題に変えたときには、楽しまなくてはいけないとでも言っているようだった。けれどおじは恍惚としていた。返答を欲していない……いや正確には許していなかった。だからそれは会話なんてものではない。この人はわたしに保険の契約をさせることはできないな、耳が守りの姿勢に入っていることを感じながら、アリスは思った。銀器と瀬戸物とグラスに驚きを隠せない。この皿をすべて洗い銀器をすべて磨いたのはいったい誰なのかと不思議で仕方がなかった。皿が置かれ、蟹の前菜が終わると持ち去られ、戻っては来なかった。(だけど洗われているのは間違いない。)

ナプキンはきめ細かいリネンで、足の長いRが刺繍してある。(手洗いされているに違いない。)

レッドファーン夫人は家族とは反対側の、テーブルの向こうに座っていた。ここでは夫人が主人であり、支配者だった。ラヴェンダー色の服を着ている。ホーテンスは夫の横に座り、別の黒いドレスに着替えていた。(ドレスはクリーニングされているに違いない。)

わたしは田舎ものだ!

アリスの隣、祖母の右ではトニーがビーと向かい合っている。緑の服を着たビーは、母と同じく痩せっぽちで、父と同じように背が高かったが、どちらにも似ていなかった。燃えるように激しい。黒い髪。白い肌。不作法にも祖母を挟んでトニーと話しつづけている。大きな黒い目が動き回り、きらめいた。これまでアリスに話した言葉は、どれも完全に機械的なものだった。ビーはアリスを気にも留めていない。けれどトニーの気を引いて、なんとかして世間ではなく自分の味方になってもらおうとしているようだ。

レッドファーン夫人は貴婦人らしく落ち着いて、ビーを気に留めていなかい

アリスにはわからない。

夕食は永遠に思えるほど長く続いていた。アリスは岐路のない終点にたどり着き、道に迷って居場所がないことを知った。

みんなはようやくテーブルを離れると、大きな部屋に移動して絨毯の縁に沿って腰を落ち着けた。今度はグレッグはレッドファーン夫人と話し始めた。二人の話は文字どおり会話になっていた。ときおり夫人に答えさせ、おじが答える。

ビーは今もトニーと長話をしているが、知らない名前ばかりだ。

そこでアリスはつい忘れがちな人物に笑いかけた。

ホーテンスはひざの上で編み物をしていた。黒縁の眼鏡をかけている。そのせいで変わって見える。

「弾ける?」ホーテンスがたずねた。

「弾く? ピアノですか? 少ししか……」

「弾いてくれない?」

「無理です!」考えるとどぎまぎする。

「ビー、弾いてくれる?」ホーテンスの細い首が毛繕いするように動いた。

「頼むよ、ビー」トニーもしたがった。

そこでビーは部屋のはずれの一画にある大きなグランド・ピアノに向かい、家を土台から震わすような和音をとどろかせ、漆喰にさざ波を走らせる一閃を見舞った。

アリスは感銘を受けた。「コンサート級じゃない」声をあげた途端、ビーは弾くのをやめた。

「全然」とても満足しているような様子でビーは言った。「まだまだよ」

 アリスは口をぽかんと開けっ放しだったことに気づき、恐れ入って閉じた。

ちょうど玄関のベルが鳴った。エレンがホールで誰かに挨拶し、医師せんせいと呼ぶのが聞こえた。部屋にいる人々は、聞こえないようなふりをしてただ待っていた。「デヴォン先生です」エレンが告げた。

「ああ」この報せに驚いたかのようにグレッグが立ち上がった。「こんばんは、ウォルター」

ウォルター・デヴォン医師はなかなかハンサムな中年男性で、顎は細長く、ゆるやかな笑みには不揃いの歯が覗き、目は驚くほど魅力的だった。誰もアリスに紹介してくれなかった。トニーは昔から知っているらしい。医者としてここにいるのではないことはすぐにわかった。とても愛想よく下界の空気を持ち込んできたな、とアリスは思った。

突然といってもいいほどに、デヴォン医師とグレッグおじが隅っこに移動し、チェス・テーブルで向かい合うと、沈黙が訪れた。グレゴリーの舌が途絶えたとほぼ同時に、ホーテンスがおしゃべりを始めた。クラブのことや洋服のことを話している。グレゴリーの饒舌に対しホーテンスは昼のあいだじゅう息を詰めていたが、夜になっておじが口を閉じるや反動で舌鋒がはじけたようだ。ああ、寂しいな、アリスは感じる。

ビーは聞いていない。考え込んでいるようだ。デヴォン医師の存在を気にしているのだということがわかり始めた。レッドファーン夫人は編み針を動かし、ときどき頷いていたが、何一つ口には出さなかった。なんて変わった生活なんだろう。

トニーが口を開いた。「ばあちゃん、ぼくらはまだシカゴ時間のまんまだからさ。退がってもいいかい?」

そこで部屋をあとにした。


二階に来たところでアリスがたずねた。「なんでビーは満足してないの? わたし、音楽のことは何も知らないとは思うけど」

「知らないのはビーのことさ。挫折するんじゃないかってがむしゃらなんだ」

「どうして?」

「さあね。あのピアノで猛練習してる。ほかに何もする気はないんだ。委員会は別の話。社交的なこと。入れ込んでる大問題ときたら! 飾り付けはピンクと青どちらにしましょうか? ビーは人生を棒に振ってるんだ」もはやビーに無頓着ではなくなっていた。「正しく助けてあげる人がいないんだ。おばさんはいつもばあちゃんと一緒だし。おじさんの興味は土地を待つことだしね」

「土地?」

「牧草地。一財産なんだ。ビーには悪いことに。あんな生き方は好きじゃない」

「たぶん慣れちゃってるから……高みにいることに」アリスは言葉を探した。「怖いんじゃない……かな?……底辺から始めるのが。音楽を、ね」

「たぶん結婚したがってるけど誰にも満足しないんだよ」トニーが悲しげに答えた。「だからビーは女性と交わり女性を憎む……ばあちゃん以外のね。ビーはいつもばあちゃんにあこがれていた。ばあちゃんみたいに行動してほしくないんだけどな」

ビーがトニーに向かって支配的雰囲気を出していたのを思い出した。「あなたには満足しなかったの?」いたずらっぽくたずねた。

「ああ」答えは素早かった。「お袋は身分違いの結婚をしたからね」

「そう、それでよかったのよ」アリスはため息をついた。

デヴォン医師のことを訊くのを忘れていた。


Charlotte Armstrong "THE GIRL WITH A SECRET" CHAPTER 1 の全訳です。


Ver.1 03/12/06
Ver.2 04/04/04
Ver.3 04/09/24
Ver.4 05/01/04

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