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秘密

シャーロット・アームストロング


第五章

 二十分ほど立ちつくしていたけれど、あわてて服を着替えた。今度もピンクのドレスを夕食用に選び、耳には真珠をつけた。

 一階まで静かに足を運ぶ。この見知らぬ家、豪奢な孤高の家は、物音ひとつしなかった。

 食堂に足を入れた。音もなく小ぎれいだった。台所のスウィング・ドアを押した。誰もいない。台所仕事がない時間帯なのだ。昼食は終わった。夕食はまだ準備前だ。台所の奥に通じるスウィング・ドアを押して、覗き込んだ。

 エレンはいない。コックもいない。けれどピール夫人がいた。逞しい足を動かし、台所の床をモップでこすっていた。一人きりで懸命に働いている。耳には、かつてトニーの祖母が娘に贈ったあのイヤリングがつけられていた。

 ドアをそっと閉めて食器棚にもたれかかった。心臓の鼓動の中で、徐々に時が刻まれる。

 だけど物音に気づくには時の刻みが足りなかった(トニーのためにも!)。大あわてで客間のドアから外に出た。

「あらここにいたの」ホーテンスだった。「だいぶよくなった?」

「ええ、おかげさまで」

「お昼を食べ損なっちゃったわね。仕事が済んだようなら、コックに言って……」

 しゃべりながらホーテンスは台所に向かった。

 あきらめのような気持が心ならずもアリスの気持に忍び込んだ。運命は運命だ。リスクとチャンスに従おう。きっとデヴォン医師が犯人だ。そうは言っても、ホーテンスを台所から追い出すわけには行かない。

 甲高い声が聞こえても、さして驚きもしなかった。ホーテンスが呼んでいる。「アリス? ちょっと来てもらえる?」

 力なくアリスは向かった。

 最新の器材が揃っているにもかかわらず、台所は古風な趣だった。モップがけを終えたばかりのピール夫人が困ったように立っていた。夫人に向けられたホーテンスの顔は怒りに燃えていた。

「アリス!」

「なんでしょう?」

「これはアイリーンのイヤリングです!」

「ですけど……」

「アリスがいいって言ったんだ」ピール夫人がもごもごと呟いた。「だろう、アリス?」

「アリスがそんなこと言うはずはありません!」ホーテンスは怒りでわなないていた。「我が家のものですよ! 何ものにもかえられない家宝です。アリス、どうなんです? ピールが言うには、あなたが貸したそうです」

「はい、わたし……」

「ばかなことを! おばさまがパリで求めてきたものですよ」ホーテンスの怒りに火がついた。

 ピール夫人が顔をゆがめた。「パリ製品はあたしにゃ似合わないってことかい?」敵意が露わになった!「アリス!」

 アリスの心臓は激しく脈打ち、喉はからからだった。

「信じちゃくれないようだね」ピール夫人の怒声が聞こえる。「あんたの知らないことがあるんだよ。アリスにひとつお願いされたことがあってね。知りたいかい?」むき出しの悪意が顔に浮かんだ。

 アリスの心臓が鉄の塊に押しひしがれる。「ホーテンスおばさん……」

「返してもらいなさい!」ホーテンスが怒鳴った。

「でも待ってください……これはわたしの持ち物だし」

「我が家のものです……!」

「でもトニーがくれたんです。わたしの持ち物です。違いません?」できるかぎり穏やかに理性的に話しかけた。ピール夫人の顔に大きな満足が浮かび始めた。唇が固く結ばれた。

「気は確か?」ホーテンスは容赦なかった。「替わりなんてないんですからね。きっと失くすわ」

 アリスは必死でなだめた。「そんなことありません。そんなに怒らないでください」

 とうとうホーテンスは何も言わなくなった!

「あんたは知らないだろうけどね」ピール夫人が秘密めかして話し始めた。「インディアナじゃあ、この子の母親と友だちだったんだ。アリスがガキのころから知っていたもんさ」黒い瞳がアリスに向けられ、同意を促していた。「だからイヤリングをくれたんだよ」いっそう強い目つきでにらんでいた。

くれたですって!」ホーテンスの声は悲鳴といってもよいほどだった。

 奥にいたコックが驚いてドアから顔を覗かせた。

 アリスがホーテンスの腕に手を置くと、静かに懇願した。「お願いです。人のいないところで少しお話しできませんか?」

 ミイラの顔は怒りでこわばっていた。

「お願いです」アリスは痩せた身体をつかむと、台所に引っぱっていった。ホーテンスがよろよろとついてきた。アリスが振り返り、ピール夫人に非難するような冷たい視線を送ると、そわそわしながら耳に手をやるのが見えた。

 けれどアリスはホーテンスから手を放さなかった。がりがりに痩せた腕が、アリスの手の中で震えていた。二人は台所を通って食堂に入った。「お願いです、あんまり大ごとにしないでもらえませんか」

「おおごとだなんて!」ホーテンスが声を絞り出した。

「このことをみんなに黙っていてほしいんです」

「黙れと……!」身体を痙攣させた。「あなたに指図されるつもりはありません」

 アリスは指に力を込めた。「おばさん」できるかぎり心を込めて訴えかけた。「わけがあるんです。信じてくださいませんか? 言うとおりにしてくださいませんか? トニーが戻るまで待ってもらえませんか? これはトニーの宝物です。トニーがくれたものです。トニーに関わることです。だから待ってください。どうしたいかはトニーにまかせてください。トニーが決めることですよね? そうでしょう?」

「あなたは……」

「好きなように思ってください。約束してもらえますよね?」

「いやがらせ?」ホーテンスの声は冷たい。

「いやがらせなんかじゃありません。ただ約束してもらいだけです」

「なぜ約束しなきゃならないの?」

「お願いですから」声は絶望に沈んでいた。

「放しなさい!」

「トニーにまかせてくれるって約束してくれるなら。しゃべらないでくださいね」

「約束します」腹立たしげにホーテンスが答えた。

 そこでアリスは指をゆるめて手を放した。「お騒がせしてほんとにごめんなさい。もうかまいません」

 ホーテンスは向こうを向くと何も言わず歩き去った。

 アリスは震えたまま立ちつくした。ホールの床をヒールが横切り、頼りなく階段を上っていくのが聞こえた。絶望的なのはわかった。けれど絶望するわけにはいかなかった。

 アリスはぐるりと向きを変えて台所に戻った。掃除婦は目によこしまな興奮をたたえてそこに立っていた。コックが部屋の隅から気を揉んでいる。アリスはピール夫人に詰め寄った。

「台所をモップがけするときにイヤリングなんかつけなければ、何の問題もなかったのに」

「ねえアリス、あたしゃ……」鼻にかかった声が小さくなる。

「あげるのは無理になったかも」

「自分のだって言ってただろう? あんたにくれる気があるんなら……」

 アリスは動じずに答えた。「もしだめでも、なんとか埋め合わせはするから。ね、わかって」

「誰かに止められて……?」

 そこで表情が変わったので、台所に誰かがやって来たのがわかった。

 振り向くとそこにはトニーの祖母がいた。足首を痛めてなどいないようにすたすたと歩いていた。白いレース付きのグレーの服に、首にはビロード、小柄で、まっすぐ立っている。笑顔はないが穏やかな表情をして、頭を上げて近づいてきた。

「ピールさん」使用人に向かって上品に声をかけた。「あなたがアイリーンのイヤリングをつけていると聞きました」

「アリスが……」ピール夫人の目が泳ぎ、物腰も卑屈になり出した。ピールの身体に染み込んでいる怒りが、軽蔑していたはずの卑屈な態度に変わった。そうせざるを得なかったのだ。レッドファーン夫人は手強すぎる。

「よかったら返してもらえないかしら」小さく白い手が差し出された。

「でも貸したげるって言われたんです!」

「もしよかったら、返してもらえない?」同じ言葉を繰り返した。怒りはない。感情的でもない。

 ピール夫人は完敗した。仕事着のポケットに手を入れると、イヤリングが現れた。

「ありがとう」レッドファーン夫人が言った。

 ピール夫人はおとなしく老婦人の手にイヤリングを落とした。

「これで終わりにしましょう」なでつけられた髪がわずかに額に垂れていた。「この家のものからこんなものを受け取るべきではありませんでしたね。それもまだ子どもから。明日からは来ていただかなくてかまいません。未払いの賃金を教えてもらえたら、よろこんでお支払いしましょう。さようなら」

 レッドファーン夫人は少しもあわてず横を向いた。「アリス」まったく同じ上品な言い方だった。「応接間に来てもらえる? 話したいことがあります」

 老婦人は台所をあとにした。

 途端にピールの怒りが爆発した。「わかってんのかい! 馘首になったんだよ! あたしが何をしたってんだ? あんたのくれたイヤリングじゃないか。あのお局! 覚えとけよ、あのお上品な――」

「ピールさん、ちょっとだけいい?」

 流しに立っていたコックが首を伸ばし目を見開いて、一部始終を黙って見ていた。

 アリスは裏口に夫人を引っぱっていくと、急いで話した。

「心配しないで。住所を書いて。わたしにわかるように。お金を持っていくから」

「いくら?」ピール夫人は噛みついた。怒りは深い。お金がかかりそうだ。

「百ドル」

 夫人の唇がまくれあがった。

「早く書いて! 行かなくちゃ……。だから、ね」

「お局さまは待たせておきなよ」夫人が嫌みったらしく答えた。「ちょっと聞いてもらいたんだけどね……」

「聞いてるでしょう」嫌な予感がして冷たく言い放った。

「ケリーがね、アリゾナで一仕事したがってんだ」夫人は急いで続けた。「あたしも一緒に行くことになってんだけど。でもねぇ……予定だと百ドル以上かかるんだよ」

「いくらかかるの?」単刀直入に応じる時間しかない。

「三百ドル」ピール夫人の目は冷たかった。

 トニーがトラヴェラーズ・チェックを置いていったことをわかったうえで言っているのだ。全部で三百ドルなのも知っている。

「有り金ぜんぶよ」

「そう? それで?」

「いつアリゾナに行くの?」

「お金ができたらすぐにでも」

「明日は?」

 ピール夫人は骨張った肩をすくめた。

「銀行に行かなくちゃ」

「だろうね」

「荷造りは今夜? 準備は? じゃないとみんなが……三百ドルを手元に置いとけなくなるでしょう……」

 理解したようだ。「そうだね。明日、出ればいい。出発しちまえば誰も居場所は知らないってわけだ?」またも秘密を共有したことに喜んでいるのだろうか?

「ええ」アリスは急いで答えた。

 ピール夫人がじろじろとねめつける。仕返しと現金、どちらを取るか考えているのだろうか?

「書き終わったら」アリスが言った。「石で重しをして裏口に置いといて。書かなきゃお金を持っていけないでしょう」力のかぎり懸命に説くと、心を落ち着かせ微笑んだ。「だけどこれからも秘密は守ってくれる?」

 そう言って背を向けた。

「ちょいとアリス?」ピール夫人の声には喜びがにじんでいた。「じゃあ待ってるよ。明日だね? 絶対だよ?」

 お金が逃げていくと見るや、夫人は現金の方を選んだ。


 台所を通るとき、目を皿にしたコックに向かって引きつった笑みを送った。

 今度はドアからホールに出ると、反対端まで横切り応接間に入った。

 そこにはレッドファーン夫人が両手を静かに置いたまま暖炉脇に座っていた。

「なんでしょうか?」

「座ってもらえませんか」

「はい」

 レッドファーン夫人は首を傾けると、絹のような声で話し始めた。「わかってくれていなかったとは、残念です。私たちのような家には、たくさんの思い出があるんです」

 アリスは顔が火照るのがわかった。むきになって言い返したい気持を必死で抑えた。わたしの家にだって、思い出はある。

「夫がむかし海外に行きました」レッドファーン夫人が穏やかに続けた。「そしてパリで、一人娘のためにこのイヤリングを買ったんです。ずっと昔の、心からの贈り物でした。心を込めて身につけていたそのイヤリングは、やがて娘とその母親から、心を込めて息子へと贈られたのです。それだけの意味があるんです」教え諭すような慈悲深い声だった。「宝石自体にも価値はありますが、はるかに大事な価値をもって伝えられているんです」

 アリスはかろうじて我慢できた。まるで自分が野蛮人みたいじゃない! うつむいたまま、謙虚に見せようとした。

「いいですか。イヤリングには夫の思いも込められています。形にならない価値があるんです。子供のころの知り合いに優しくしたいのはわかります。けれどこのイヤリングには、人にあげることのできない、形のないものが詰まっているんです。これをピールが持っていても、それを感じることもなければわかりもしないでしょう。やるならほかの贈り物をやりなさい。自分のしたことがはっきりとはわかっていないでしょうね。勝手なやり方をして悪かったわ。でもしなきゃいけなかったの。トニーが傷つきますよ。きっとわかってくれると思っています」

 夫人は話すのを止めたが、アリスは何も言うことができなかった。これほど恥ずかしい思いをしたのは初めてだった。身を守ることもできない。説明するわけにはいかないのだ! ホーテンスは約束したのに、くだらないとばかりにその約束をすぐに破った。もう二度とホーテンスに頼みごとはしない。誰にもしない!

「あの人にも責任はあります。こんなものを受け取るべきではなかった。仮にあなたが……」レッドファーン夫人の言葉が途切れた。「でも……もうよいでしょう。ちゃんとわかってくれたはずです。このことはこれっきりにしましょう」

 アリスは動けなかった。

「アリス?」いたずらっ子に話しかけるような優しい声だった。

「どうしたの?」ビーの声がした。

「アリスがアイリーンのイヤリングを掃除婦にやっちゃったのよ」ホーテンスが耳障りな声をあげた。

「まさか!」ビーが身体を震わせた。

「もう片づいたわ。トニーが帰るまでジェラルディンおばさんが預かっておくことになったから」

「だよねえ!」そう言ってから、からかうようにつけ加えた。「使用人と仲よくできるだなんて信じらんない」

 レッドファーン夫人が優しくフォローする。「アリスは理解が足りなかっただけですよ」

 アリスは何もできずに子どものように涙を流すと二階へ駆け上がった。

 だけど二階で一人になると、涙がどっとあふれ出た。何が起こったのだろう? とにかくトラヴェラーズ・チェックを現金に換えなくては。裏口からピール夫人の住所を取ってこなくては。住処を探してお金を渡さなくては。明日。何もかも、みんなに知られてはならない。

 けれどピール夫人がアリゾナに行ってしまえば、有り金を差し出し厄介ごとを引き起こしただけの価値はある!

 山を眺めていた。それから夕食のために着替えを始めた――気乗りしなかったけれど。心に雲がかかり、警鐘が鳴り、虫が知らせた。ピール夫人がいなくなっても、まだほかに問題があった。

 問題が立ち現れたのは、アリスが裏口で石の下からメモを見つけ、見つからないように服の下に隠し、そっとホールに戻ったときだった。

 ホールにはホーテンスが待っていた。ミイラの顔に優しさをまとっている。「お話しできる?」

「ええ、何です?」アリスは冷やかだった。

「助けてあげたいの」

「ありがとうございます」

 ホーテンスには皮肉めいたところはなかった。青い瞳がアリスの顔の上をさまよった。「ピールとはいったいどういう関係なの?」

「友だちです」

「お母さまのでしょう?」

「はい」

 ホーテンスは舌をちろりと出して口唇をなめた。「おばさまは騒ぎ立てるべきではなかったのにね。でも放ってはおけない。夫とふたりで考えたのだけれど、トニーはあなたのことを私たちに頼んでいったと思うの。だからね、大事なイヤリングを……」

「大ごとにしないでってお願いしたのに……」アリスはつぶやいた。

わけがあると言いましたね!」ホーテンスも言い返した。「わけがあると言われたのをはっきりと覚えています! グレッグと話したのはね……わけとは何かということ。なぜピールにイヤリングをやったの?」

「あげたかったからです」アリスの言葉はこわばっていた。

「そんなわけがない! グレッグの言ったことは当たってる。あなたはそれほど馬鹿じゃない。どうして言おうとしないの?」

「何をお知りになりたいんですか?」

「わけよ! 理由!」ホーテンスは必死になって知ろうとしていた。「それに、お願いされたとピールが言っていたのはどういうこと? 何か隠していることでも……?」

「スタフォードおばさん、このことで言い合いをしたくないんです。もう行かせてください」アリスは歩き出したがホーテンスが後を追った。

「あの掃除婦はあなたにとっていったい何なの?」

 アリスは答えずに歩き続けた。応接間の戸口で振り返ると、ホーテンスは手を握りしめたまま立ちつくしていた。ごめんなさい、と心の中で思った。

 でも問題を見据えなければ。

 トニーが『隠す』という言葉を使った意味がだんだんとわかってきた。『口にしない』のがもっとも簡単なやり方なのだということがわかってきた。思い惑わせておくことができなかった。何が何でも好奇心を満足させなければならない。別のことを信じてもらわなければならない。

 グレゴリーが応接間にいた。叱るような視線をアリスに送ると、老婦人と話をしに行った。アリスは何も言わずにおとなしく腰を下ろした。だけど心の中ではみんなにつく嘘を忙しく探していた。トニーの命のために隠し通し、秘密を守り続けるのだ。


Charlotte Armstrong "THE GIRL WITH A SECRET" CHAPTER 5 の全訳です。


Ver.1 05/01/05

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