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翻訳者:江戸川小筐
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知りすぎた男

ギルバート・キース・チェスタトン

訳者あとがき・作品について
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第一話
的の顔


 ハロルド・マーチという新進記者にして社会評論家が、荒野ムーアと草地の広がる台地を元気一杯に突き進んでいた。地平線の先を縁取っているのは、あのトーウッド・パーク内にある遙か彼方の森である。マーチは明るい癖っ毛と青いきれいな目をした、ツイードに身を包んだ好青年だ。風と陽のなか自由そのものの景色に歩き出していることからわかるように、政治問題を忘れずにいるほど若かった。覚えようとしないのは言わずもがな。なにしろトーウッド・パークへの用向きというのが政治上のものだったのだ。ほかならぬ大蔵大臣ハワード・ホーン卿から伝えられた約束場所である。卿がその折り提唱していたいわゆる社会主義予算について、かくも有望な記者とのインタビューで説明してくれる予定であった。ハロルド・マーチは、政治のことなら何でも知っているが、政治家のことは何も知らないといったタイプの人間だ。芸術、文学、哲学、一般教養についてもよく知っていた。たいていのことは知っていたが、自分の暮らす世間のことは別だった。

 思いがけぬことに、陽照り風吹く平野の真ん中で、地割れと呼んでもいいほどの狭い裂け目に出くわした。大きさから言えばぴったりなのは小さな川の流れであり、藪でできた緑のトンネルへ時折り消えてゆくなら、まるで小型の森のなかに消えているように見えるだろう。小人の谷を見わたす巨人になったような妙な感覚だった。だが谷間に降り立つと、その印象も失われた。コテージほどの高さもないくせに岩だらけの両岸が迫り来て、絶壁の様相を見せている。益体もなく夢見がちなだけの好奇心に駆られて、流れに沿って歩き出してみれば、巨大な鼠色の丸石と巨大な緑苔を思わせる柔らかい潅木に挟まれて、水がひとひら輝いているのが見え、正反対の幻想的な気分に落ち込んだ。まるで地表が口を開き、夢で出来た地下世界に飲み込んでしまったかのようだった。やがて銀色の流れに浮かび上がる黒い人影に気づいた。大きな丸石の上に座っていて、なんだか大きな鳥みたいに見える。そこにはおそらく、生涯一奇妙な友情に出くわす人物にぴったりの予感があったのだ。

 男は見たところ釣りをしていた。いや少なくとも動かぬ釣り人以上に釣り人らしい姿勢のまま固まっていた。マーチは銅像でも観察するように男を観察できたし、銅像が口を利いたのはしばらく経ってからだった。背が高く色白で、痩せて気怠げ、重たげなまぶたと高い鼻をしている。顔はつば広の白い帽子で遮られていたが、薄い口髭としなやかな身体つきから見てまだ若そうだ。

 だがパナマ帽がかたわらの苔に降ろされると、若くして額が禿げているのが見えた。それが目のまわりに虚ろさを伴っているせいで、頭を使っているようでも頭が痛いようでもある。だが少し観察してわかった一番の謎は、釣り人のように見えるのに、釣りをしていたわけではないということだった。

 男は釣り竿の代わりに、漁師が使うたも網か何かを持っていたが、どちらかといえば子供が持っているありふれたおもちゃの網に似ている。よく海老や蝶を捕まえるためにごく普通に使うやつである。それを何度か水にくぐらせては、雑草や泥といった獲物を真剣に確かめてから、再び中身を空にしていた。

「何も捕まえちゃいません」言外の質問に答えたかのように、男は穏やかに口にした。「捕まえたら戻さなきゃいけませんから。特に大きな魚は。ですが手に入れたのが小さな生き物なら興味を惹かれますね」

「科学的興味ですね?」マーチはたずねた。

「ど素人ですがね」奇妙な釣り人は答えた。「いわゆる『燐光現象』にはまってるんですよ。人前で魚が臭いと公言する気にはなれませんけれどね」

「お察しします」とマーチは微笑んだ。

「銀色に光る大鱈を手に客間に入るなんて前代未聞だ」不思議な人物は物憂げに続けた。「なんとも愉快でしょうね、ランタンみたいに持ち歩くことが出来たなら。鯡の群れが蝋燭代わり。海の生き物のなかには、ランプシェードのように美しいものがいるでしょう。 青い巻貝といえば星のように全身がまたたいていて。赤い海星のなかには、それこそ赤い星のように輝くもののいます。とはいえ無論、ここではそんなもの探してませんよ」

 何を探していたのかたずねようとしたものの、どうあがいても深海魚なみに深い専門的な議論をするには力不足と感じて、マーチはもっとありふれた話題を振った。

「面白い空き地ですよねここは。この小さな谷と小さな川。こんな場所のことをスティーヴンスンは言ってたんですよ、何かが起こるはずの場所って」

「ええ。なにしろこの場所そのものが、ただ在るだけではなく起るといってもいいのではないでしょうか。おそらくそれが、あのピカソやキュビストたちが角やらジグザグの線やらで表現しようとしているものなんでしょう。あれをご覧なさい。低い崖のような絶壁が、そばまで広がる芝草の斜面に対し直角に突き出ています。言うなれば音なき衝突。言うなれば砕ける波と引き波ですよ」

 突き出た岩が緑の斜面に覆いかぶさっているのを見て、マーチはうなずいた。いとも簡単に科学の専門家から芸術の専門家へと変じた人物に興味を持ち、新角度派の芸術家たちを評価するかどうかたずねてみた。

「思うに、キュビストたちもまだまだキュビスティックではありませんな。つまりまだまだ厚みがないんですよ。ものごとを数学的に考えると薄っぺらになってしまう。あの風景から生きた線を取り払って、直角だけに簡略化してごらんなさい。そうすれば景色もただの、紙に描かれた二次元の図形になります。図形には図形の美がある。だがそれはまた別の美です。そうしたものが表わしているのは変わらぬもの。穏やかで、永遠なる、数学的な真理。だれかが『放射する白光』と呼んでた――」

 言葉が途切れた。続きの言葉が出てくる間もないほど突然のことで何が起こったのか理解できない。突き出た岩の向こうから機関車のような音が突撃してくるや、大きな自動車が現れた。崖のてっぺんから飛び出した逆光の中の黒影は、太古の叙事詩に謡われた破滅へとひた走る戦車のようだった。マーチは無意識に手を伸ばしたものの何の役にも立たなかった。客間で落としたティーカップを受け止めようとするのに似た仕草だった。

 ほんの一瞬、飛行船のように岩棚から飛び立つかに見えた。やがて大空そのものが車輪のように回転したかに見え、崖下にはびこる草むらで破滅に至り、ひと筋の灰煙が静まりかえった大気中へゆっくり上っていく。少し下の方では白髪頭の人物が緑の急斜面に投げ出されたままになっており、意思のなくなった手足と顔があらぬ方を向いていた。

 風変わりな釣り人は網を放り出して現場に急ぎ、知り合ったばかりのマーチも後を追った。近づいたときに化物じみた皮肉に思えたのは、命なき機械が工場のようにせわしなく脈打って唸りをあげているというのに、人間の方は静かに動かぬままという事実だった。

 間違いなく死んでいた。血が後頭部の致命傷から草むらに流れている。だが陽にさらされた顔に傷はなく、それはそれで妙に目立っていた。よくあることだが見覚えを感じるほどに誤解しようのない風変わりな顔というものがある。どういうわけか、知りもしないのに知っているはずだと感じるのだ。のっぺりしたいかつい顔と大きな両顎は、類人猿じみている。大きな口は線を引かれたようにきつく閉じていた。低い鼻に空いた穴は空気を吸い込みたくてあくびしたようだ。なかでも奇異なのは、片方の眉がもう片方と比べ急角度にはねていることだった。この死者の顔ほど生き生きとした顔をマーチは見たことがなかった。みなぎる醜さが白髪の後光のせいでますます風変わりに見えた。ポケットからはみ出している書類の中から、マーチは名刺入れを抜き出し、名前を読みあげた。

「ハンフリー・ターンブル卿。聞き覚えがある名前だな」

 連れはため息をひとつもらしただけで、考え込んでいるようにしばし無言だったが、やがて一言だけつぶやいた。「完全に死んでいます」それからいくつか科学用語をつけくわえたが今度も聞き手には理解できなかった。

「こういう状況であれば」妙に博識な人物は続けた。「警察に知らせるまでは死体をそのままにしておく方がいいでしょう。むしろ警察意外には知られない方がいい。驚かないでほしいのですが、近所の人たちに隠しておくべきだと思うんです」それから、いきなり信用しろといわんばかりの態度を正当化したくなったのか、こう続けた。「トーウッドのいとこに会いにきたんですよ。ホーン・フィッシャーといいます。わたしがこの辺りをぶらついているなんて、だじゃれといってもいいじゃないですか?」

「ハワード・ホーン卿がいとこなんですか? ぼくも卿に会いにトーウッド・パークに行くところなんです。もちろん公務に関してですけど。信念を固めている立派な態度。今度の予算案はイギリス史上で最高のものですよ。たとえ失敗したって、イギリス史上最も勇敢な失敗になりますとも。偉大なご親戚ですから誇らしいでしょう?」

「無論です」フィッシャー氏は答えた。「一番の射撃の名手ですからね」

 しかし無頓着な言葉を悔やむように、力強くつけくわえた。

「いや、ですけど本当に素晴らしい射撃ですよ」

 まるで自分の言葉に点火されたように頭上の岩棚に跳びつくと、先ほどまでの気怠さからは驚くほどの素早さで登っていった。崖っぷちに立ちつくし、パナマ帽から覗く鷲のような横顔を空に浮き彫りにして田園風景を見つめていた。ようやくマーチも気持を落ち着かせることができたので、あとに続いてよじ登った。

 台地に広がる草地には、不運な車の轍がくっきり残されていた。だがそのへりはぐらつく歯のように乱れていた。さまざまな丸石が崖近くに散乱している。誰であれ、自ら死の罠に飛び込んだとはとても思えない。それもまっ昼間ときては。

「まるっきりわからない」マーチが口を開いた。「目が潰れたんだろうか? それとも酔い潰れてたのかな?」

「見た感じどちらでもないようですね」フィッシャーが答えた。

「じゃあ自殺」

「ぞっとしない自殺の仕方ではありませんか。そのうえどうも、あのパギーが自殺するとは思えません」

「あの誰ですって?」記者は不思議に思って問いただした。「あの男を知ってたんですか?」

「誰もちゃんと知ってるわけではありませんが」フィッシャーは言葉を濁した。「無論みんなが知っていましたよ。若いころ議会や法廷では恐怖の的でした。なかでも、不良分子として退去命令を出された外国人がらみのいざこざで、そのうちの一人を殺人罪で絞首刑にしたがったときなどはね。それに痛手を受けて判事を辞めましました。それ以来、よく一人でドライブをしていましたが、週末はトーウッドに来ることになっていました。しかしわざわざこんな庭先で首を折る理由がわかりません。ホッグスが――いとこのハワードのことですが――やって来たのは彼に会うためなのでしょう」

「トーウッド・パークはハワード卿のものではありませんよね?」マーチはたずねた。

「ええ。以前はウィンスロップ家のものでしたし。今はまた別人のものです。モントリオールから来たジェンキンズという人ですよ。ホッグスは猟に来るんです。射撃がうまいと言ったでしょう」

 こうした賛辞が偉大な政治家に対して繰り返されたせいで、皇帝ナポレオンはトランプナポレオンの名人なりと言われたような気分になった。だが形定まらぬ意識が一つ、この見慣れぬ印象の大波に揉まれていたので、それが消え失せる前に表へ引っ張り出した。

「ジェンキンズ」とマーチは繰り返した。「社会改革主義者のジェファーソン・ジェンキンズじゃないですよね? 新しい別荘地改良計画のことで争っている最中の。実を言うと、世界中のどんな閣僚にも負けないくらい会いたい人なんです」

「その人ですよ。別荘でなければならないのだとホッグスは言ってました。牛の品種はしょっちゅう改良されているし、世間も笑い出し始めているからだそうです。それにもちろん何かの上に爵位を吊るす必要はありますから。とはいえ残念ながら彼はまだ手にしてませんが。おやっ、誰かいる」

 ふたりが轍に沿って歩き出し、谷間をあとにしたときも、車はまだ人を殺した昆虫の化物のようにうなりをあげていた。轍をたどって曲がり角にやってくると、岐路の一つと轍が遠くの門へとまっすぐ続いていた。車が長い直線道路をやって来て、左に曲がる代わりに、破滅に向かって一直線に草むらへ飛び出したのは明らかだ。だがフィッシャーの目をくぎ付けにしたのはこの発見ではなく、それ以上に確かなものなのである。白い道路の隅に黒い人影がぽつりと道しるべみたいに立っていた。その人影はむさ苦しい狩猟服を着た無帽の大男であったが、乱れた縮れ毛のせいでかなり荒々しく見える。さらに近づいてみると、この異様な第一印象は薄らいだ。明るいところで見ればその姿はごく当たり前の様相を呈しており、喩えるならばどこにでもいる殿方がたまたま帽子もかぶらず髪もきちんととかさず出てきたといったところであった。だが大きな背はそのままだし、深く洞穴めいた眼窩のせいでやはり平凡とはほど遠い野性的な顔だちに見えた。だがマーチがさらに詳しく観察する暇もなく、驚いたことにフィッシャーは「やあ、ジャック!」と言ったきり、相手が本物の道しるべでもあるように通り過ぎてしまい、岩の向こうの大惨事を知らせようともしなかった。これは比較的小さいことだったが、奇妙な新知が引きずり回す一連のおかしな行動の第一歩に過ぎなかった。

 素通りされた男は、いぶかしげに二人を見つめていたが、フィッシャーは平気な顔で広大な地所の門の向こうまである直線道路を歩き続けた。

「あれはジョン・バーク、旅行家です」とフィッシャーは申し訳なさそうに説明した。「猛獣を仕留めたことやなんかを、聞いたことがありませんか。立ち止まって紹介できなかったのは申し訳ありませんが、おそらく後で会うことになりますよ」

「もちろん著作は知っていますとも」マーチは新たな興味をひかれた。「すばらしい記述があったはずです。巨大な頭が月を遮ったときに初めて象の接近に気づくのだ、と」

「ええ、ハルケットはうまく書いたものです。何です? バークの本を書いてるのはハルケットだと知らなかったんですか? バークは銃のほか使えませんよ。あなただって銃でものは書けないでしょう。ああ、バークだって本物です。ライオンみたいに勇敢、いや、もっと勇敢だとみんな言うはずです」

「彼のことなら何でも知ってるみたいですね」マーチは戸惑い気味に笑いをあげた。「それに、ほかの人たちのことも」

 フィッシャーの禿げた額に不意に皺が寄り、不思議な表情が目に浮かんだ。

「知りすぎている。それがわたしの問題なのです。われわれみんなの問題であり、すべてなのです。わたしたちは知りすぎている。お互いのこと。自分のこと。だからこそ今、心から興味をひかれているんですよ、わたしの知らない一つのことにね」

「それは?」

「あの人が死んだ理由です」

 ふたりは直線道路を一マイル近く歩きながら、こんなふうにぽつぽつと話していた。マーチは、世界が反転させられたような奇妙な感覚に陥った。ホーン・フィッシャー氏は別に社交界にいる友人や親戚の悪口を言ったわけではない。幾人かのことは愛情深く話していた。ところがまるで、新聞で話題の男女とたまたま同じ神経組織を持つだけの、まったく知らない一揃いの男女について聞いているような感覚だった。どんなに激しい暴動も、この冷淡な親しさほど革命的には思えない。舞台装置と背中合わせに輝く日光のようだった。

 ふたりは番小屋付の大門にたどり着いたが、驚いたことにそこを通り過ぎ、どこまでも続く白い直線道路を歩き続けた。だがハワード卿との約束には早すぎたし、いかなるものであれ連れの試みを最後まで見届けるのも嫌ではなかった。かなり前に荒野ムーアをはずれ、白い道路の半分にはトーウッドの松林の影が大きく落ちて灰色になっていた。灰色の格子のような松林そのものが陽射しに対する鎧戸となり、その内側に昼日中から自ら真夜中を作り出している。だが間もなく、ステンドグラスから射し込むかすかな光のように、そこに切れ目が現れ始めた。先へ行くにしたがい木々はまばらに減り、見えているのは点々と飛び散る雑木林だ。フィッシャーが言うには、そこで一日中ホームパーティが続いていたのだという。二百ヤードばかり先に、ようやく曲がり角があった。

 その角には崩れかけた酒場らしきものが立っており、『葡萄亭』と書かれた薄汚ない看板が掛かっていた。その看板はどす黒くもはや判読不能で、空と灰色の荒野ムーアを背景に黒くつり下がっているのが、絞首台のように人を引きつける。ワインの代わりに酢を出す店のようだとマーチが口にした。

「名言ですね」とフィッシャーが言った。「うっかりあそこでワインを飲もうものならそのとおりでしょう。しかしビールはいけますよ。それにブランデーも」

 マーチはいささか驚きながら後を追って談話室に入ったが、漠然とした嫌悪感は亭主を見ても消し飛びはしなかった。物語に出てくるにこやかな亭主とはまるで違う痩せた男で、黒い口髭の下はとんと動かぬくせに、黒い目はそわそわと動きまわっている。無口ではあったが、聞き込みが実りいくつかの情報を引き出すことができたのは、ビールの注文と自動車の話題を細かく繰り返したたまものであった。どうやら独特の方法で亭主が自動車の権威だと見当をつけたらしい。自動車のメカニズム、管理方法、誤った管理方法のノウハウに夢中なのだと。話のあいだじゅうコールリッジの老水夫のように光るまなこで人をとらえて離さない。このなんとも不思議な会話によってついに明らかになったのは、話通りの特徴をした車が一台、一時間ほど前に宿屋の前に停まったという打ち明け話であった。年配の男が降りてきて機械のことで助けを求めたという。その客はほかに何か助けを請わなかったかと聞かれ、亭主は手短に答えた。ご老人は懐中壜を満たしてサンドイッチを一包み持っていった、と。これらの言葉とともに、少しばかり無愛想な主人はさっさとカウンターから立ち去ってしまい、光の届かぬ奥の部屋からドアの閉まる音が聞こえた。

 フィッシャーは倦んだ目でほこりだらけのわびしい飲み屋を見回した。ぼんやりと目を留めたガラスケースには鳥の剥製が収められており、その上には銃がかけられているものの、ほかに飾りはないようだ。

「パギーにはユーモアがありました」フィッシャーが言った。「あの人なりの悪趣味なものではありましたが。しかし自殺しようとしている人間がサンドイッチを買うとなると、ちょっと悪趣味にもほどがありはしませんか」

「それを言うなら、訪問しようとしているお屋敷の玄関先にいる人間がサンドイッチを買うっていうのも、よくあることとは言えませんよ」

「そう……そうです」フィッシャーは半ば機械的に繰り返した。と思うと急に顔を輝かせてマーチに目を向けた。

「お見事! 一理ありますよ。まったくそのとおりです。そのうえ何とも奇妙なことを連想させるじゃありませんか?」

 静けさのなか、なぜか神経質になっていたマーチが思わずぎょっとしたことに、酒場のドアが乱暴に開いていま一人の男がつかつかとカウンターに歩いていった。男はコインでカウンターをたたき大声でブランデーを注文してから、ふたりの座っている窓際の木目調テーブルにやって来た。男がいささか興奮した目つきで振り向いたとき、マーチはまた新たに思いがけぬ感情を抱いた。連れがその男にホッグスと呼びかけ、ハワード・ホーン卿だと紹介したからである。

 絵入り新聞の若々しい似顔絵よりもいくらか老けて見えるのが、いかにも政治家らしい。なでつけられた金髪には白いものも目立っていたが、顔はおかしなくらい真ん丸で、賢しげに輝く目と鷲鼻の組み合わせがどことなくオウムを連想させた。縁なし帽をあみだにかぶり銃を小脇に抱えている。マーチは偉大な政治改革者との会見をさまざまに想像していたが、銃を小脇に抱え、酒場でブランデーを飲んでいるところなど思いもよらなかった。

「ではあなたもジンクのところにいるんですか」とフィッシャーが言った。「みんなジンクのところのようですね」

「ああ」大蔵大臣は答えた。「素晴らしい狩りだったよ。とりあえずジンクは別だがね。あれだけたいした射撃をしながらあれだけ的を外すやつは見たことがない。むろん素晴らしいやつではあるんだ。批判の言葉などあるもんか。だが豚肉を詰めていたんだか何したんだか、銃の扱いは知らんのだな。使用人の帽章を撃ち落したそうだ。帽章とは、あいつらしいだろう。あのけばけばしい四阿の風見鶏を撃ったんだと。おそらく、あいつが仕留めた唯一の鶏だな。もう行くか?」

 フィッシャーはぼんやりしながら、手はずが整ったらすぐについて行くんですけれどね、と答えた。大蔵大臣は酒場を出た。マーチが思うに、ブランデーを注文したときには気が揉めていたか急いていたのだ。だが話をするうちに平常心を取り戻していた。その話というのが、記者の期待とまるきり違っていたにしても。しばらくしてからフィッシャーはゆっくりと酒場を出て道の真ん中に立つと、これまでたどってきた道のりを見つめていた。と思うと二百ヤードほどそちらに進み、そこでも立ちつくしていた。

「現場はこのあたりだと思います」

「現場?」

「あの人が殺された現場ですよ」と、フィッシャーが悲しげに言った。

「そんなばかな。激突死した岩場はここから一マイル半もあるんですよ」

「いいえ、そうじゃないんです。そもそも岩場には落ちていません。その下にある柔らかい草の生えている斜面に落ちただけだったじゃありませんか? ところがそのときすでに弾丸をくらっていたんです」

 一呼吸おいてさらに続けた。

「酒場では生きていましたが、岩場にたどり着くずっと前に死んでいました。つまりこの直線道路を走っていたとき撃たれたのです。おそらくこの辺りでしょう。あとは必然的に、車は直進し続けました。停める人も曲がる人もいないのですからね。なかなか独創的で巧妙な遣り口です。死体が遠くで見つかれば、たいていはあなたみたいに、ドライバーの落ち度だと言うでしょうから。殺人者は賢く残忍なやつだったに違いありません」

「でも酒場かどこかで銃声は聞こえなかったんでしょうか?」

「聞こえたでしょうね。しかし気に留めることはなかったでしょう。そこがまた賢いところです。狩りが方々で一日じゅう続いていましたから。ほかの銃声にかき消されるように銃撃の時機を計ったと見てほぼ間違いありません。まさしく第一級の犯罪者ですよ。そのうえ第一級の――」

「つまり?」不気味な予感に襲われたが、理由はわからない。

「第一級の狙撃者です」

 フィッシャーは不意に背を向けたかと思うと、小型の馬車道ほどしかない細い小道を草をかきわけ歩いていた。道は酒場とは反対側に延びており、広大な地所と広々とした荒野ムーアの境界線となっていた。マーチがこれまた益体もない我慢強さでえっちらとあとに続くと、フィッシャーは雑草や茨の茂み越しに塗装された垣根の壁面を見つめていた。垣根の向こうには立ち並ぶポプラが巨大な灰色の柱となってそびえ、濃緑の影で天上を満たし、徐々に弱まっていた風にかすかに揺られていた。日も低くなり、ポプラの巨大な影が景色の三分の一以上に伸びていた。

「あなたは第一級の犯罪者ですか?」フィッシャーが親しげにたずねた。「残念ながらわたしは違います。しかし四級の泥棒くらいにはどうにかなれるでしょう」

 そしてマーチが答える間もなく、勢いをつけて何とか垣根を越えていた。あとに続いたマーチに肉体的努力は無縁だったが、少なからぬ心理的動揺があった。ポプラがあまりに垣根際に生えていたため、滑り降りるのにはいささか苦労したものの、向こうには背の高い月桂樹の生垣が、水平に射す日光のなかで緑色に輝いているのしか見えなかった。連なる天然の壁に阻まれているせいで、広々とした野原にではなく荒廃した家に侵入しているように感じられた。使われなくなったドアや窓から入り込むと、家具で塞がれた通路があったような感覚だ。月桂樹の生垣を迂回すると、草の生えた段地のようなところに出た。緑の斜面を一段下がるとボウリング・レーンのような長方形の芝生がある。向こうには見渡すかぎり一軒の建物しかなく、その背の低い温室はどこからも遠く離れているように見えるせいで、おとぎの国の領土に立つガラス小屋を思わせた。フィッシャーは、屋敷の外に出ると寂しい景色が広がっているものだということをよく知っていた。雑草がはびこり残骸が散らばることよりも、貴族社会に対するなによりの風刺だと悟った。見捨てられてはいないにもかかわらず、寂れているのだから。ともかく、使われてはいない。訪れることのない主人のために定期的に掃除され内装されていた。

 しかしながら芝生を見渡した結果、予想もしなかったものを見つけたようだ。三脚のようなものに円卓の天板じみた大きな円板がよりかかっていたのだが、芝生に降りてよく見ようと近づいてから初めて、それが的であるとマーチにわかった。使い古されていたし風雨にさらされ変色している。鮮やかだったはずの同心円も色あせている。ことによると、アーチェリーが流行していた遙かビクトリア朝から置きっぱなしなのではと思うほどだ。またもやマーチがふけったぼんやりとした空想のなかでは、雲のようなクリノリンを身につけた貴婦人や風変わりな帽子に頬髯の紳士たちが、とうになくなった庭を幽霊のように再訪していた。

 もっと近くで的を覗き込んでいたフィッシャーが叫び声をあげたので、マーチは飛び上がった。

「ほらご覧なさい! 誰かがこれに銃弾を浴びせていますよ、それも、ずいぶんと最近に。まあ、ジンクのやつがここで下手くそな射撃を上達させようとしていたんでしょう」

「ははは、まだまだ上達の必要がありそうですね。真ん中近くに当たった弾なんてひとつもない。でたらめに的を外したとしか思えませんね」

「でたらめに、ですか」的をじっくり見据えたままフィッシャーは繰り返した。同意しただけのようにも聞こえるが、重たげなまぶたの下で瞳が輝き、屈めた身体を彼なりにぴんと伸ばしたようにもマーチには思えた。

「ちょっと待ってください」ポケットを探りながらフィッシャーが言った。「薬品があったはずなんです。そのあとで家にあがりましょう」再び的の上に屈み込むと、弾痕の上に指で何かをつけていた。マーチの見た限りでは、ただの鼠色のしみであった。それからふたりは深まる夕闇のなか、緑に囲まれた長い並木道を屋敷へと進んだ。

 ところがここでまた風変わりな探偵は中に入るのに玄関を使わなかった。家をぐるりと迂回して窓が開いてるのを見つけると、中に飛び込みマーチを招き入れた。どうやら銃器室らしい。ごく普通の鳥撃ち用の銃が、壁に立てかけられて並んでいる。だが窓際のテーブルの向こうには、もっと重たげで恐ろしげな銃器がいくつか置かれていた。

「おやおや、バークの猛獣用ライフルですよ。ここに保管してあるとは知りませんでした」フィッシャーはひとつ手に取り簡単に調べると、すぐに降ろして眉間に皺を寄せた。と同時に見知らぬ青年が大急ぎで部屋に入ってきた。その色黒で逞しく、こぶだらけの額とブルドッグみたいな顎の持ち主は、そっけなく詫びを入れた。

「ここにバーク少佐の銃を置きっぱなしにしてしまって。まとめておくよう言われたんです。今夜、出かける予定なので」

 そう言うや見知らぬ人物には一瞥もくれずに二丁のライフルを運び去った。開いた窓から、小柄な黒い影が仄明るい庭の向こうに歩み去っていくのが見えた。フィッシャーは再び窓から外に出ると、それを見つめたまま立っていた。

「あれが先ほどお話ししたハルケットですよ。秘書みたいなものですね。バークの書類を扱っているのは知っていました。しかし銃も扱っていたとは知りませんでした。しかしまあ黙ってやるべきことはやるタイプの青年ですから、何でもできるのかもしれません。何年も経ってからチェスのチャンピオンだったとわかるようなタイプですよ」

 秘書の消えた方へ歩き始めると、まもなく芝生の上で談笑しているパーティの居残り組が見えてきた。背が高くざんばら鬣のライオン・ハンターがその集まりを仕切っていた。

「ところで」フィッシャーが言った。「バークやハルケットのことを話していたとき、銃ではうまくものを書けないと言ったでしょう。それなんですが、今やそれほど確信が持てないのです。銃で絵を描ける器用な画家のことを聞いたことはありませんか? えらいやつがこのあたりにのさばっているんですよ」

 ハワード卿が、豪放磊落にフィッシャーと新聞記者を呼び止めた。マーチはバーク少佐やハルケット氏、そしてまた(ついでに言えば)主人のジェンキンズ氏にも紹介された。派手なツイード姿の平凡な小男で、他の面々から愛情らしきものを込めて赤ちゃん扱いされているようである。

 大蔵大臣は話をやめることができずに、自分が仕留めた鳥、バークとハルケットが仕留めた鳥、主人のジェンキンズが仕留め損ねた鳥についてまだ話していた。これでは社交的な偏執狂である。

「あんたと獲物のことだが」挑むようにバークに叫んだ。「まあ、だれでも大きな獲物を撃つことはできる。小さな獲物を撃つべきだな」

「そのとおりです」フィッシャーが口をはさんだ。「河馬があの藪から空に飛び上がるなんてことがあったり、空飛ぶ象を地所内で保護したなら、ええ、それなら……」

「そんな鳥ならジンクにも撃てるかもしれんぞ」ハワード卿は大声で叫んで招待主の背中を陽気にぴしゃりと叩いた。「こいつにだって干し草の山とか河馬なら撃てるかもな」

「さて、みなさん」フィッシャーが言った。「ちょっとついて来ていただけますか。撃ってほしいものがあるんです。カバではありませんが。それとは別に奇妙な動物を地所内で見つけたんですよ。三本脚で一つ目の、虹色をした動物です」

「いったい何の話だ?」とバークがたずねた。

「こっちに来てご覧ください」とフィッシャーはほがらかに答えた。

 こうした人々というのは、馬鹿げたことをめったに拒絶しない。いつも新しいものを捜し求めているからだ。もったいぶって再び銃器室から銃を取り出すと、フィッシャーのあとからぞろぞろついていった。ハワード卿だけが夢中で立ち止まり、かのけばけばしい四阿を指さした方を見やると、金ぴかの風見鶏が今もまだ曲がったままだった。薄暮が夕闇に変わるころには、一同はポプラのそばの寂しい緑地にたどり着き、古い的を狙い撃つという新奇で無意味なゲームを受け入れていた。

 見たところ残光が芝生から薄れ、日没を背にしたポプラの木々はまるで紫の霊柩車を覆う羽根飾りのようだった。無意味な行列はやがてぐるりと曲がって的の前にやってきた。ハワード卿は再び招待主の背中をぴしゃりと叩くと、最初に撃たせようとふざけ半分に前へ押しやった。触れられた肩や腕が不自然に堅くこわばっているように見える。ジェンキンズ氏の銃の扱い方ときたら、皮肉屋の友人たちが見たり想像していたよりもさらに不器用なものだった。

 その瞬間、恐ろしい悲鳴がどこからともなく聞こえたような気がした。その場にはまるで不自然で相応しくない。頭上で翼をはためかせた人ならぬ何かが、あるいは彼方の暗い森で耳をそばだたせている人ならぬ何かが立てたような音だった。だが悲鳴が出たのも引っ込んだのもモントリオールのジェファーソン・ジェンキンズの青ざめた唇からであったことに、フィッシャーは気づいていた。その瞬間ジェンキンズの顔を見た者であれば、平凡だという苦言は呈さなかったであろう。次の瞬間バーク少佐ががらがら声で上機嫌な雑言をほとばしらせた。誰もが正面にあったものを見たのだ。薄暗い芝生に立てられた的は陰気なゴブリンがにやりと笑いかけているようだった。いや文字どおり笑っていた。星のごとき両目を持ち、同じく鉛色の光点が上向きに開いた二つの鼻孔と大きく引き結ばれた口の両端を照らしていた。目の上の白い点々が白髪混じりの眉に当たる。眉の片方が立ったように跳ね上がっている。輝く点線で描かれた輝かんばかりに素晴らしい似顔絵だった。マーチにはそれが誰だかわかった。それは日の暮れた芝生の上で輝き、海底の怪物が夕闇の庭を這いずりまわったように発光していた。だがそれは死者の顔だった。

「ただの発光塗料だ」とバークが言った。「フィッシャーくんが、例の燐光でからかっているんだろう」

「パギーのつもりじゃないのか」ハワード卿が言った。「そっくりだ」

 それに気づいて誰もが大笑いしたが、ジェンキンズだけは別だった。みんながひとしきり笑ったあとでジェンキンズは、初めて笑おうとしている動物のような音を立てていた。するとフィッシャーが不意に歩み寄って言った。

「ジェンキンズさん、ただちに内緒で話す必要があるんです」


 荒野ムーアの小川ベリにある、岩場の張り出した斜面で、マーチは約束通りフィッシャーと会った。その直前のグロテスクと言っていいほど醜い出来事に、庭にいた一同は解散していた。

「あれはわたしのいたずらです」フィッシャーが浮かぬ顔で口を開いた。「的に燐をつけたのは。しかしジェンキンズをぎょっとさせるには、突然の恐怖におののかせるしかありませんでした。何度も練習していた的の上で、自分が撃ち殺した人の顔が地獄の光に照らされて輝いているのを見た瞬間、ジェンキンズはぎょっとしていました。納得するには充分でしたよ」

「ぼくにはまだ全然わからない。いったいジェンキンズが何をしたのかも、なぜやったのかも」

「わかるはずですよ」物憂げに微笑んでフィッシャーは答えた。「あなたが最初にヒントをくれたんですから。そうですとも。鋭い指摘でした。お屋敷で食事するのにサンドイッチを持ち込んだりはしないだろうとおっしゃったでしょう。そのとおりです。だとするなら、訪問するつもりはあったが食事するつもりはなかったということです。いずれにしても、食事はしていないのでしょう。そこでひらめいたのが、おそらくわかっていたのではないかということです。不愉快な訪問ですとか、歓迎されるのも疑わしいとか、暖かいもてなしを拒絶されるようなことをです。そのとき思い出したんですよ、ターンブルがかつては、後ろ暗い人物にとって恐怖の的だったことを。そのうちの一人の正体を暴いて告発までしていたことを。可能性から言ってまずは屋敷の持ち主が該当します――つまりジェンキンズです。今となってはほぼ確信しておりますが、ジェンキンズこそ、ターンブルがまたほかの銃撃事件で有罪にしたがったという不良外国人なのでしょう。しかし銃撃者にはほかにも持ち弾があったというわけです」

「でも犯人は射撃の名手だと言ってたじゃないですか」マーチが異を唱えた。

「ジェンキンズは名手なんですよ。たいへんに上手だからこそ下手なふりができるのです。その後に思いついた第二のヒントを申し上げましょうか?。ジェンキンズは射撃が下手だというホッグスの話でした。帽子から帽章を、小屋から風見鶏を撃ち落としたそうですな。考えてもご覧なさい、よほど上手く撃てなければそんなに下手くそには撃てますまい。よほど巧みに撃てなければ、頭や帽子ではなく帽章に当てることはできないでしょう。本当にでたらめに撃ったのなら――可能性は千に一つですが――そんなにわかりやすく絵的なものにはまず当たりませんよ。わかりやすく絵的なものだったからこそ選ばれたのです。そうすれば世間に噂が広まる。四阿のひん曲がった風見鶏をそのままにしておいて、伝説として語り継がせるのです。そうしながら邪悪な眼と危険な銃で待ち伏せていました。才能がないという伝説に隠れて安全に待ち伏せていたのです。

「それだけではありません。四阿そのもの。すべてがそこにあるんですよ。ジェンキンズがよくからかわれていた、金メッキだとか派手な色遣いだとかそういった悪趣味なものは、成金の印だと思われていました。しかし実際の成金はそんなことはしません。世間が成金の山であることは神様だって承知のこと。だから人間誰もが成金のことなら山ほど承知しています。悪趣味なことはまずしませんよ。たいていは適切なことを身につけて実行するのに余念がありません。そっくりそのまま室内装飾家や美術のプロの手にゆだね、すべて専門家任せです。銃器室の椅子に金箔の組み文字をつける度胸を持った億万長者などまずいませんよ。それを言うなら名前のことも組み文字と一緒です。トンプキンス、ジェンキンズ、ジンクスといった名前は、悪趣味というより滑稽じゃありませんか。つまり平凡なところがなく悪趣味なんです。お望みなら、平凡ではなく陳腐と言いましょうか。ありふれたように見える名前を選ぶとすればたしかにぴったりですが、現実的にはむしろありふれているとは言い難い。トンプキンスという人をたくさん知っていますか? トールボットよりはるかに珍しいでしょうね。喜劇における成金の衣装と同じことです。ジェンキンズは『パンチ』の登場人物みたいな服を着てますが、それは『パンチ』の登場人物だからですよ。つまり虚構の人物なんです。架空の生き物。存在しないのです。

「存在しない人間でいるということがどんなことなのか考えたことはありますか? 虚構の人物でいるということは、才能を犠牲にしたうえそれを続けなければならないということなんですよ。まったく新しい袱紗に才能を蔵めてまったく新しい偽善者になるということなのです。この男は選んだ偽善はきわめて独創的なものでした。完全な新手です。狡猾な犯人は、派手な紳士、立派な実業家、慈善家、聖人の衣装をまといました。戯画化したろくでなしみたいな派手な格子柄はまぎれもなく新しい変装でしたよ。しかしその変装も、何でもできる人間には退屈で仕方なかったでしょう。全国いたるところにいる抜け目ない浮浪児といっしょですよ、なんでもできる。射撃だけでなく、絵を描くことも、ヴァイオリンだって弾けるかもしれません。そんな人間なら、才能を隠しておくのが役に立つのだと気づくでしょうな。しかし役に立たないところで才能を使いたくなるのは止められません。絵が描けるのなら、吸い取り紙に無意識に絵を描いてしまうでしょう。あいつはしょっちゅうパギーの顔を吸取紙に描いていたんじゃないかとにらんでます。おそらく初めは吸取紙の染みだった。それが後には点で、いえ弾痕で描くようになりました。似たようなものですよ。人気のない場所に打ち捨てられた的を見つけるや、こっそりと射撃に耽ることに抵抗できませんでした。こっそり酒を飲んでしまうように。あなたは弾の痕が的外れでばらばらだとおっしゃっていましたし、事実その通りでした。しかし偶然ではなかった。同じ間隔のものは一つもありませんでした。しかしそうしたばらばらな点こそ、撃ちたかった場所なんです。ざっくりした似顔絵ほど数学的精度を必要するものはありません。わたし自身、少し絵をかじっていましたから請け合いましょう。思った場所に点を一つ置くだけでも驚くべきことなんです。ペンを紙にくっつけていても、ですよ。公園越しに銃でやるなんてのは奇跡です。しかし奇跡を起こせる人間なら、人知れずとも奇跡を行いたくて常にうずうずしているものなのです」

 一呼吸置いてからマーチは慎重に口を開いた。「だけどあんな小型の銃では、小鳥のようにはいくものじゃない」

「そうでしょうね。だから銃器室に入ったんです。バークのライフル銃を使ったんですよ。聞き慣れた銃声だったのでしょう。ですから帽子もかぶらず荒々しく飛び出してきたんです。見えたのは猛スピードで走り去る車だけだったので、少しだけ後を追ってから、勘違いだったと納得したんですよ」

 また沈黙があった。フィッシャーは出会った時のように大きな石の上に微動だにせず座ったまま、藪の下に渦巻く銀灰色の川を見つめていた。不意にマーチが口を開いた。「もちろんバークももう真相は知っているんだ」

「知っているのはわたしたち二人だけですよ」穏やかな声だった。「わたしたちが喧嘩することなどあり得ないでしょうし」

「何を言ってるんですか?」改まった口調でマーチがたずねた。「何をしたんです?」

 フィッシャーは渦巻く流れをじっと見つめたままだった。ようやくこう言った。「警察は自動車事故だと立証しました」

「だけどそうじゃないことを知っているんでしょう」

「知りすぎていると言ったでしょう」川を見つめたままフィッシャーは答えた。「そのことを知っているし、ほかにもたくさんのことを知っている。すべてが起こる雰囲気も仕組みも知っています。あのひとが救いがたく平凡で滑稽な人物にうまくなりきっていることも知っています。あなたがトゥールやちびのティッチみたいな喜劇役者を苦しめることができないことも知っています。ホッグスやハルケットに、あのジンクが暗殺者だったと伝えたとしたら、目の前で笑い死にしかけるでしょうに。完全に他意がない笑いだとは言いませんが、それなりに偽りはないのです。みんなにはジンクが必要です。ジンクなしではやっていけないでしょう。わたしに他意がないとも言いませんよ。ホッグスが好きなんです。落ちぶれて欲しくない。ジンクが冠代を払えなければ、彼はだめでしょう。この間の選挙ではぎりぎりでした。しかし唯一にして真の理由はね、不可能だということなのです。だれも信じはしません。事情を知らないんですから。ひん曲がった風見鶏が、いつだって冗談に変えてしまいますよ」

「ひどいとは思わないのですか?」穏やかにマーチがたずねた。

「いろいろと思うことはあります。いつか社会のもつれをダイナマイトで吹き飛ばすようなことになっても、人類がこれ以上に悪くなるかはわからない。社会のことを知っているからといって、あまり責めないでもらえますか。だからこそ臭い魚のようなものに時間を費やしているんですから」

 再び流れに目を据えて言葉を切ってから、つけ加えた。

「大きな魚は必ず逃がしてやると言ったはずです」


G.K.Chesterton“The Man Who Knew Too Much” 第一話‘THE FACE IN THE TARGET’の全訳です。


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作家・作品について。訳について

 チェスタトン(Gilbert Keith Chestertn/「チェスタートン」の表記もあり/1874-1936)は、言うまでもなく探偵小説界の巨人です。本国では評論家として名高いようですし、もし世界中のファンにチェスタトンの小説ベスト・ワンをたずねたなら幻想小説『木曜の男』になるような気はする。そうは言ってもやはり逆説と諧謔に満ちた探偵小説「ブラウン神父」の生みの親として忘れることはできません。

 そのブラウン神父と同じような逆説とトリックを堪能できるのが、本シリーズ『知りすぎた男』(『知りすぎていた男』と紹介されることもあり)です。「いかにも本当らしいから嘘である」、「疑わしいからこそ信じる」、「一文無しだからお屋敷を買い、裕福だから売り払った」etc。。。探偵役&ワトスン役は、政治家ホーン・フィッシャーと政治記者ハロルド・マーチ。ブラウン神父のキリスト教よりは、政治の方がまだしも日本人には取っつきやすいんじゃないかとも思います。


[更新履歴]
 06/10/31 MUTさま、LNさまからのご指摘を受けて久々の改訳に取りかかるも、なかなか進まないのでフィッシャーとマーチが事故後に崖上に登ったところまでをひとまずUP。改訳箇所はあげていけばきりがない。誤訳をなおしたほか、風景をちゃんと思い浮かべながら訳したので前後の辻褄がわかりやすくなっているとは思う。

 06/11/06 知りすぎているから知らないことに興味をひかれるのだ、とフィッシャーと漏らすところまで改訳が終わりました。一番変わったところはやはり地形や比喩のイメージを頭に浮かべて訳したことです。そのおかげでわかりやすくなったところもあれば、わかりづらくなったところもありますが。道のないところを轍をたどって歩いていたフィッシャーとマーチが、道の曲がり角に出くわしたのだ、という意味に取れていればいいのですが。
 「どんなに激しい暴動も〜」のところは「暴動」じゃなくて「敵意/反感」の方が意味が通るのですが、すぐあとに出てくる「革命的」を活かすために「暴動」にしました。これではよく意味が通じませんね。一方で「blind/blind drunk」は「blind」を無視して「目の見えない/酔っぱらい」と意味のうえで訳しわけていたりして、統一されてません。

 06/11/08 酒場の亭主が立ち去るところまで。旧訳だと「Grapes」も「Ancient Mariner」も大文字なのを無視していたので、なんだかよくわからない訳になっていました。
 「bar parlor」を何と訳せばいいかわかりません。辞書をひけば「談話室」とか「特別室」とか書かれてあるんですけど、部屋というより「バー・カウンター」という感じだと思うのです。要するに酒を飲む場所ですよね。まあ調理室でも休憩室でも廊下でもないという意味では一つの部屋なのですが、ふつう日本語ではあれを「〜室」とは呼ばないものなあ。といって「バー・カウンター」では現代的すぎるし。「社交場」「団欒場」「飲み台」……。

 06/11/16 フィッシャーが殺人を明らかにするところまで。いつものことだが時制の訳し方が無茶苦茶だった箇所を大幅に訂正。

 06/11/20 取りあえず改訳完了。チェスタトンは慣用句を使ってことば遊びをするので、遊び部分まで日本語に訳そうとするとどうしても説明的な訳文になる。うまく訳せたのか自己満足なのかはわからん。

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