この翻訳は、訳者・著者に許可を取る必要なしに、自由に複製・改変・二次配布・リンク等を行ってかまいません。
翻訳:江戸川小筐
ご意見・ご指摘などはこちらまで。
New  リンク  翻訳連載blog  読書&映画日記  掲示板  仏和辞典
HOME  翻訳作品   チェスタトン目次   戻る  進む  
プロジェクト杉田玄白正式参加テキスト

知りすぎた男

ギルバート・キース・チェスタトン

訳者あとがき・更新履歴
著者略年譜・作品リスト

第五話
釣り人の道楽


 ときとしてあまりに異常であるために記憶に残らない出来事もある。成り行きからすれば何の曇りもないのに、見たところ原因も結果も見あたらないとなれば、続いて起こった出来事も記憶にのぼることもなく、ただ潜在意識に留められたまま、しばらく経ってから何かの偶然で掻き乱されることになる。それは埋もれた夢のように薄れてゆく。たいていの夢と同じく夜明けごろ、それも闇の明け始めた時間帯のこと、西部地方の川をボートをこいで下っている男の目の前で、そうした奇妙な光景が繰り広げられたのである。その男の目は覚めていた。事実、目が冴えわたっているのを自覚していた。何しろ政治記者のハロルド・マーチは、政界の名士たちを別荘に訪れる途上なのである。しかし目にしたものがあまりに非論理的であったために、ことによると夢でも見ていたのかもしれない。そのときは心を素通りしただけで、その後に起こったまったく別の出来事のなかに埋もれてしまった。だいぶ経ってからその意味に気づくまでは、記憶にのぼることすらなかったのである。

 うっすらとした朝靄が、川べりに連なる牧草や灯心草を包んでいた。向こうべりには暗褐色の煉瓦塀が水面にかぶさるように連なっている。オールを積み込みしばらく流れに漂っていたところ、ふと振り向けば単調な煉瓦塀が途切れて橋があった。なかなか格調高い十八世紀風の橋で、白石造りの橋脚が灰色に変わっている。大雨があったため川は今なおかなりの水位があり、小振りな木々は腰まで川に浸かっており、白い弧の端を見せたばかりの朝日が橋の穹窿の下から輝いていた。

 ボートが穹窿下の暗がりに差しかかったころ、向こうから別のボートがやって来た。見たところこちらと同じく男が一人きりで漕いでいる。姿形はほとんど見えなかったが、橋近くまで来ると男は船上で立ち上がりこちらを振り向いた。だがそのころにはずいぶんと暗がりに近づいていたために、その男の姿は朝日に浮かびあがる黒ずくめの影でしかなかった。顔はまったく見ることができず、マーチに見えたのは、長々と伸ばした頬髯だか口髭だかの先が二本、あらぬ場所に生えた角のように不気味な味を添えているところだけであった。もっとも、こうした細かい点にマーチが気づくことができたのも、ちょうどそのとき起こった出来事のおかげである。男は高さのない橋の下まで来ると飛び上がってぶら下がり、足を揺らしたまま、ボートは流れ去るに任せていた。しばし、黒い足が二本ばたばたと揺れていた。やがて黒い足が一本。ついには何もなくなり、見えるのは渦巻く流れと見渡すばかりの塀のみであった。しかしながら、マーチがふたたびこのことを考えたのは、それが物語のなかでどのような役割を持っていたのかを理解しただいぶあとになってからで、考えるたびにいつも同じ形の空想となって現れた。つまるところあのバタ足が、一種異様ではあるがガーゴイル風の、橋そのものの彫り物細工に思えてくるのだ。そのときは流れを見つめて通り過ぎただけであった。橋の上には動くものの影が見えなかったところからすると、すでにとんずらしてしまったに違いない。だがマーチはその事実の持つ小さな意味に半ばしか気づいていなかった。塀の向かいの橋の土台を取り囲む木立のなかに街灯が一つあるのが見え、街灯のそばには何も気づいていない警官の青く広い背中が見えたのである。

 政治巡礼の聖地にたどり着いてもいないうちから、橋の椿事以外に考えることはたくさんあった。人一人でボートを操るのは、こんな人一人いない川であってもそう容易いことではない。実を言えばマーチが一人きりなのは不測の事態に過ぎないのだ。ボートの購入は済んでいたし旅の計画はすべて友人と二人でしたのに、その友人が最後になって予定を変更するはめに追い込まれた。ハロルド・マーチが友人ホーン・フィッシャーと国内旅行に出かけていたはずのウィローウッド・プレイスには、折りしも総理大臣が泊まっていた。ハロルド・マーチの名を耳にする人は増える一方だったし、それというのもマーチの書いた政治記事の素晴らしさに、門戸を開けるサロンも大きくなる一方だったのである。だが首相にはまだ会ったことがなかった。世間の多くはホーン・フィッシャーの名を聞いたことがない。ところがこの男、首相とは昔なじみなのである。こうしたわけで、二人が予定通り一緒に旅をしていたなら、マーチの方はいささか先を急ぎたがり、フィッシャーの方は比較的のんびり構えていたことだろう。何しろフィッシャーは、生まれながらに首相のことを知っているといった連中の一人なのである。知識というものには、あまりきびきびさせる効果はないようだった。それにフィッシャーときたら、生まれながらにぐったりしているようなところがあった。ホーン・フィッシャーは長身、蒼白、金髪、額の禿げ上がった人物であり、物憂げな態度の持ち主である。倦怠以外の方法で苛立ちを表現することはめったにない。そんな男がはっきりと苛立ちを見せたのは、釣り道具と葉巻を小さく荷造りして旅に備えていた矢先、ウィローウッドからの電報を受け取ったときのことだった。至急汽車デ来ラレタシ、首相ハ今夜発タザルヲ得ズ。友人の新聞記者が翌日まで出発できそうにないのはわかっていた。フィッシャーは友人のことが好きだったし、川で数日過ごすのを楽しみにしていた。首相のことは取り立てて好きでも嫌いでもなかった。しかし数時間ばかり汽車に揺られるという選択肢は心底嫌だった。とはいえ首相も鉄道も否定していたわけではない。それはシステムの一部であり、少なくともフィッシャーはそのシステムの破壊工作に送り込まれた革命分子ではないのである。そこでマーチに電話して、詫びとも愚痴ともつかぬ言葉を積み重ねると、予定通りに川を下ってくれたなら、然るべき時間にはウィローウッドで落ち合えるだろうと伝えた。それから外に出てタクシーを拾い駅に向かった。そこで売店に立ち寄って娯楽ミステリーを何冊か手荷物に加えると、たっぷり堪能したのであるが、いましも現実にそんな非日常的な物語に飛び込んでゆく最中なのだとは思いも寄らなかったのである。

 日も落ちなんとするころに小型スーツケース片手にたどり着いたのが、海運及び新聞王アイザック・フック卿の所有する小振りな大別邸の一つウィローウッド・プレイスの、川沿いに広がる庭園の門前であった。門は川とは反対側の道路に面していたのだが、門を入ってもなお水めく景色中に潜む様々な要素のおかげで、旅人は川が近いことをひっきりなしに思い出すことになる。白い水のきらめきは、緑の茂みのなかから突如として剣や槍のように閃めくことだろう。いくつもの区画に分かれ生垣や小高い庭木に覆われた庭園それ自体にさえ、空中のいたるところに水の調べが漂っていた。初めに足を踏み入れた緑の区画は、どうやらあまり手入れのされていないクロケー場であるらしく、一人きりの若者が自分相手にクロケーをやっていた。もっとも、熱戦を繰り広げていたわけではなく、こうして片手間に練習をしていたのである。血色が悪いくせに健康的な顔つきが、かえって陰気に見えていた。何かしていないと精神的な負担に耐えられないといったタイプの若者であり、そしてその何かとは何かの試合ゲームに限られていた。カジュアルでシックな黒服に身を包んだその人物が、ジェームズ・ブレンという名の若者であることはすぐにわかった。なぜか知らぬがバンカーと呼ばれている。アイザック卿の甥である。しかし目下のところ特筆すべきは、彼は首相の秘書でもあったのである。

「バンカーじゃないですか。お会いできて何よりです。首相はもう出発しましたか?」

「夕飯を取ったらすぐですよ」黄色いボールに目をやったままブレンが答えた。「明日バーミンガムで重要な演説があるんでね、今夜一晩かけて直行するんです。御自らエンジンをかけて。車を運転してくってことですけど。それだけが自慢ですからね」

「するとあなたはおじさんと一緒におとなしくお留守番ですか? でも助言をささやいてくれる優秀な秘書もなしで、バーミンガムでどうするつもりなんです?」

「からかうのはよしてください」通称バンカーが言った。「ついて行かずに済んでほっとしてるんですから。地図やお金やホテルなんてもののことは何にも知らないので、僕が旅行ガイドみたいに飛び回らなくちゃならないんですよ。おじさんの方はですね、屋敷を訪れるのが決まりなので、間違いのないようときどきこうしているんです」

「立派なものです。では、またあとで」そう言ってフィッシャーは芝生を突っ切り、生け垣の切れ目を抜けて立ち去った。

 芝生を通り抜け桟橋の方に歩いてゆくと、金色の夕空を天蓋にして、川だらけの庭に宿る旧世界の香りと反響に包まれているのを感じた。次の一画には見たところ誰一人いなかったが、片隅の木立の夕闇越しにハンモックが見え、ハンモックには男が一人、新聞を読み読み網から片足を出してぶらぶらさせていた。

 フィッシャーがまたも名指しで呼ぶと、男は地面に滑り降りてのんびりと歩いてきた。その場所のあれこれに過去を感じるのも運命であったらしく、何しろその人物ときたら、ヴィクトリア朝初期の幽霊がクロケーのリングと木槌の幻にまた会いに来たのだとしても不思議はない。ほとんどおとぎ話みたいな長い頬髯を生やした年配の男で、古風かつ格式張った型のネクタイとカラーをしている。四十年前お洒落にめかし込んでいたために、流行に見向きもしなくなってからもどうにかお洒落でいられたといったところである。先ほどまでいたハンモックには『モーニング・ポスト』紙の傍らに白いシルクハット。これがウェストモーランド公爵、数世紀にまで遡る古物そのものの家柄である。古物といっても家紋ではなく家系の話だ。詳しく知っているのはフィッシャーくらいのものだろうが、こうした現実の貴族というものは驚くほど珍しく、作り物の貴族が驚くほど多いのである。だが公爵が世間の敬意に甘んじているかどうか、それも血統の正しさ及び莫大な財産を所有しているという事実に恵まれた敬意に甘んじているかどうかが、フィッシャー氏がもっと詳しく知りたがった点であっただろう。

「ずいぶんとくつろいで見えたから、使用人かと思いましたよ。誰かこの鞄を持ってくれないかと探していたところなんです。あいにく急いでいたので誰も連れてこなかったんですよね」

「それを言うなら私もそうだね」公爵が誇らしげに答えた。「一度としてない。この世の動物を一匹憎むとしたら使用人でしょうな。幼くして着替えは一人でできたし、出来栄えも申し分なかったはず。第二の幼年期を迎えたとて、着替えまで幼年返りはしませんぞ」

「首相は使用人を連れてきませんでしたね。代わりに秘書を連れてきました。たいした雑務ですがね。ハーカーがここに来てたりはしませんか?」

「桟橋の向こうだね」ぽつりと答えるや、公爵はふたたび『モーニング・ポスト』を精読し始めた。

 フィッシャーが最後に緑の垣根を越えて庭園を進むと、川に臨んだ曳船道らしきところに出た。向こう岸には木々だらけの中島がある。言われたとおりその曳船道には痩せて日に焼けた人影が見え、禿鷲が襲いかかるように首を突き出した姿勢は法廷ではお馴染みである、法務長官ジョン・ハーカー卿だった。顔には思索によるしわが刻まれていたが、それもそのはず庭でたたずむ三人のうちでただ一人、自らの手で道を開いて来た人物なのだ。禿げた額とくぼんだ顳顬のまわりには、銅板のように薄っぺらいくすんだ赤毛が貼りついていた。

「まだご主人を見かけないんですがね」ホーン・フィッシャーは今までよりも少し真面目がかった声でたずねた。「晩餐で会えるだろうとは思ってますが」

「見るのなら今でもできる。だが会うのは無理だ」

 そう言ってハーカーが向かいの中島の端に顎をしゃくり、そのまま目をそらさずにいるので、フィッシャーもそちらを見てみると、禿頭の頂と釣り竿の先が、ともに動きも見せず、川を後ろに背高の藪から顔を出していた。釣り人は切り株にもたれかかって向こう岸に顔を向けているらしく、顔は見えなかったが頭の形は見間違えようもない。

「釣りのあいだは邪魔せん方がいい。何の道楽だか魚だけしか食べんのだ。しかも自分で釣らねば気が済まんと来ている。要は大金持の例に漏れず質素に憧れとるのさ。労働者のように日々の糧を求めて働いてると吹聴したいんだ」

「ガラスを吹いたりクッションを詰めたり、銀器を作ったり、葡萄や桃を育てたり、絨毯の模様をデザインしたりする手順も教えてくれましたか? 忙しい人間だとばかり思ってましたがね」

「そんな話は聞かんな。こんな社会諷刺がいったい何になる?」

「そうですね、何だか嫌になったんですよ。身内だけで過ごすような『簡素な生活』にも『精力的な生活』にも。実のところはほとんどのものに頼っているくせに、何かに頼らずにいることを騒いでみせるんですから。首相の自慢は運転手を使わないことですが、そのくせ雑用係や便利屋を使わなければ何もできません。可哀相なバンカーは万能の天才の役を演じなくてはなりませんが、その役にまったく向いていないのは神のみぞ知ることです。公爵の自慢は使用人を使わないことです。だけどそもそも、あの独特の古着を集めるのには、多くの人にとんでもない手間をかけてもらう必要があるんです。大英博物館で探したか、墓から発掘でもしなければなりませんからね。あの白い帽子を探すだけでも、北極探検に繰り出すような装備が必要でしょう。それから自分で魚を生み出しているつもりでいながら、ナイフもフォークも生み出せないフックがいましたね。食べ物みたいに簡単なものになら簡素でいられるんでしょうが、贅沢なもの、それも細かいものごとに対しては贅沢になっているんですよ。あなたは別です。仕事中の息抜きを楽しめないほど、散々苦労して働いて来たんですから」

「たまに思うことがあるが、君はたまに役立つようなとんでもない秘密を秘めているな。ボスがバーミンガムに行く前に会いに来たんだろう?」

 ホーン・フィッシャーは声をひそめて答えた。「ええ。晩餐前にうまく捕まえられればいいんですが。そのあとはアイザック卿に用事があるでしょうから」

「ご覧」ハーカーが声をあげた。「アイザック卿の釣りが終わったぞ。日の出とともに起きて日の入とともに戻るのが自慢なんだよ」

 中島にいた老人は確かに立ち上がっており、くるりと振り向き灰色の顎髭の茂みを披露したのを見ると、顔は小さくこけながらも眉は荒々しく目は鋭く癇が強そうであった。

 大事そうに釣り具を手にして、早くも本土に戻ろうと、浅瀬辺りの平らな飛び石の橋を渡っていた。それから向きを変えると、招待客の方に歩み寄り丁寧に挨拶をしたのである。籠に魚が何尾かあって機嫌がよかった。

「その通り」控えめに驚きを示したフィッシャーを目にして、アイザック卿が口を開いた。「わしはこの家で一番早起きのはずだ。早起きの鳥は虫にありつくと言うな」

「あいにくだが」ハーカーが言った。「虫にありつくのは早起きの魚のようだな」

「だが早起きの人間が魚にありつくのだ」ぶっきらぼうに老人が答えた。

「ですが聞くところによると、アイザック卿、あなたは夜更かしでもあるとか」フィッシャーが口を挟んだ。「ほとんど寝ていないんじゃないですか」

「眠る時間など少しもあったためしがない」フックが答えた。「いずれ今夜も夜更かしだろう。首相が話があると言っていたからからな。つまるところは夕飯にはちゃんとした恰好で出た方がいい」

 晩餐の最中は政治の話はなく、不充分とはいえ社交辞令があったばかりである。首相のメリヴェール卿は灰色の癖っ毛をした痩せたのっぽであったが、くそ真面目に主人をねぎらい、釣りの成果や、目の当たりにした技術や忍耐力に讃辞を呈した。会話の流れはさながら飛び石を流れ抜ける浅瀬のようであった。

「忍耐がいるのは当然だ」アイザック卿が言った。「魚を遊ばせる技術も。だが概して魚運がいいのだ」

「大きな魚が糸を切って逃げ出したことは?」表向き興味深そうに首相がたずねた。

「そんな糸は使わん」と答えたフックは嬉しそうであった。「実を言うとあつらえ品なのだ。糸を切ることができるなら、わしを川に引きずり込むことだってできるだろう」

「それは大きな痛手だよ」首相が一礼した。

 フィッシャーはこうした無駄話に耳を傾けてはいたものの、内心苛々しながら機会を窺っていたところ、主が立ち上がるとみるや見たこともないほど敏捷に跳ね起きた。アイザック卿が最終会談にと駆り立てる前にメリヴェール卿を捕まえることができた。言うべき言葉はほんの少しだが、それを言っておきたかったのだ。

 フィッシャーは首相にドアを開けながら小声でこう言った。「モンミレイユに会いました。今すぐにでもデンマークに代わって抗議しないと、スウェーデンが港を押さえるのは確実だそうです」

 メリヴェール卿が頷いた。

「これからフックの言い分を聞きに行くところだよ」

「どうでしょうね」フィッシャーは弱々しい笑みを浮かべた。「言うことなんておおかた予想はついていますが」

 メリヴェール卿が答えることなく図書室に悠々と歩いていくと、そこにはとうに主が待っていた。残された者たちはビリヤード室に流れ込んだが、フィッシャーは法律家に話しかけただけだった。「それほどかからないでしょうね。事実上、二人とも合意しているといっていいんですから」

「フックは全面的に首相を支持しているからな」ハーカーも同意した。

「あるいは首相が全面的にフックを支持していますから」そう言ってホーン・フィッシャーは退屈そうにビリヤード台のボールを小突き始めた。

 ホーン・フィッシャーが翌朝になって慌てず騒がず出て来たのは、例によって例のごとくである。虫にありつく気はとんとないらしい。だが無関心なのはほかの客たちも同じであるらしく、昼食間際になるまでぽつりぽつりと各自サイドボードから朝食を取っていた。そんなわけで、そのおかしな日初めての衝撃が訪れたのは、ほどなくのことであった。それは若者の姿で現れた。明るい髪と気取りのない表情をした若者が、川を漕いでやって来て桟橋に上陸したのである。何を隠そうほかでもないハロルド・マーチその人であり、フィッシャー氏の友人である新聞記者の旅は、その日の朝一番に川の遙か彼方で始まっていた。午後に遅れて到着したのは、一服しようと川沿いの大きな町に立ち寄ったためであり、ポケットからピンク色の夕刊が突き出ていた。マーチは川に面した庭園に、音もなく慎ましい落雷のように落ちてきた。だが落雷だという自覚はまるでなかった。

 初めに取り交わされた挨拶や紹介は月並みなものであったし、いつものように繰り返されたその内容はといえば、主が姿を見せないのには酔狂な理由があるのだという弁明であった。もちろん主は釣りに行っていたのであり、定刻になるまで邪魔されることはないだろう。そうは言っても彼らの目と鼻の先に腰を下ろしていたのであるが。

「ただ一つの道楽だからな」弁解がましくハーカーが言った。「煎じ詰めれば自分の家でもある。それにほかの点では申し分ないもてなしだ」

「気になりますがね」とフィッシャーが声をひそめた。「道楽というより中毒になりやしませんか。あの年配の人間がものを蒐集しだすとどうなるか知ってますからね、魚臭い川魚を集めるだけで済むかどうか。タルボットのおじさんが爪楊枝を抱え込んだり、哀れなバジーが煙草の灰に散財したことを覚えているでしょう。フックはこれまでに大きな仕事をいくつもやってきました――スウェーデンとの木材貿易で大金を動かしたり、シカゴで平和会議を開いたり――けれどそうした大きな仕事に今どれだけ気を配っているかといえば、ああした小さな魚ほどにも気にしてないのではと思ってしまうんです」

「おい待て待て」法務長官が異を唱えた。「狂人を訪問しに来たのかとマーチ君に思わせるつもりか。いいかね、フックは気晴らしでやっているだけであって、そこはほかの娯楽と変わらん。悲しいかな気晴らしをする人間というだけだ。だが材木や海運関係の大ニュースがあれば、気晴らしも魚もうっちゃるから心配いらん」

「さあどうでしょうね」フィッシャーは眠たそうに川中島を見つめていた。

「ところで、何かニュースはあるかね?」ハーカーがハロルド・マーチにたずねた。「夕刊が見えたんでね。朝に出る、例の気の早い夕刊ですな」

「メリヴェール卿がバーミンガムで行った演説の冒頭です」と答えてマーチは新聞を手渡した。「ほんの小さな記事ですが、なかなかいいと思いますよ」

 ハーカーは新聞を受け取り、ばさばさと折り直して追加記事に目を通した。マーチの言うとおりほんの小さな記事に過ぎなかった。だがジョン・ハーカー卿にはひとかたならぬ効き目があった。しわの寄った眉がぴくぴくと上がり、目が瞬き、束の間がちがちの顎がだらりとゆるんだ。何か様子がおかしく老人のようだった。やがて声を強張らせて震えずにフィッシャーに新聞を手渡すと、一言だけこう言った。

「ほら、賭けるなら今だ。釣りを邪魔するに値する大ニュースが飛び込んできた」

 ホーン・フィッシャーが新聞を見ているうちに、気怠さに富み表情に乏しい顔つきにも変化がよぎったように見えた。そんな小さな記事にすら二つ三つ大きな見出しがあるのが見えた。「スウェーデンに劇的な通告」そして「英国は断固抗議す」。

「何てことだ」初めは喉から絞り出すようだった声が、さらに小さく喉から洩れるだけの音になった。

「すぐにフックに伝えなくては許してはくれまい」ハーカーが言った。「おそらくただちにボスに会いたがるだろうが、もう手遅れだな。今から向こう岸に行って来るがね。だが賭けてもいいが魚のことなど忘れさせてみせよう」そして背を向けると、川岸沿いをいそいそと、平らな飛び石の土手道に向かって進んだ。

 マーチはフィッシャーを見つめたまま、ピンク・ペーパーが引き起こした効果に驚いていた。

「どういうことですか? ぼくは前々からデンマーク港を守るため抗議すべきだと思ってましたけど。ぼくらのためにもなるんですから。いったいアイザック卿やあなたがたにどんな面倒がかかるというんです? 厄介な報せだと思うんですか?」

「厄介な報せですね!」それとわからぬほどの力を込めてフィッシャーは繰り返した。

「そんなに厄介なんですか?」とうとうマーチはたずねた。

「そんなに厄介なんですよ」とフィッシャーは繰り返した。「ああ、もちろんこれほど結構なことはありませんとも。たいした報せです。素晴らしい報せですよ! こんなことが起こるとはね、誰だって我を忘れてしまいます。見事じゃないですか。計り知れない。信じがたくさえある」

 島と川を彩る灰と緑に目を戻し、退屈げな眼差しを生垣や芝生にゆっくりと走らせた。

「この庭は夢のようだなと思いましたし、今もきっと夢を見ているんじゃないかと思うんです。なのに草は伸び水は流れ、起こりえないことが起こってしまいました」

 こう話しているときに、禿鷲のように前屈みの人影が頭上の生垣の切れ目から姿を現わした。

「君の賭けた方だったな」ざらついてしわがれかけた声だった。「ご老体が気にしているのは釣りだけときた。怒鳴り散らされた挙句に政治の話など御免だと言われたぞ」

「そうだろうと思いました」フィッシャーは控えめに答えた。「それではどうしますか?」

「どちらにせよあの馬鹿奴の電話を使わせてもらうつもりだ。何が起こったのかを見極めなくてはなるまい。明日には直々に公式会見せねばならん」法律家はそう言って家に急いだ。

 そこから沈黙が続き、マーチにとっては何とも困った沈黙であったのだが、ウェストモーランド公の古式ゆかしい姿が、白い帽子と頬髯とともに、庭の向こうから近づいてくるのが見えた。フィッシャーは新聞を手にすぐに歩み寄り、何やら口にしながらあの衝撃的な記事を指さした。のんびりと歩いていた公爵が、じっと立ちつくしたのを見ると、まるで古着屋に置かれて外を見つめているマネキンのようであった。やがてマーチにも声が聞こえたが、甲高くヒステリックといってもよい声だった。

「だがこの記事は見なくちゃならんよ。わかってもらわにゃならんよ。正確に伝わらなかったんだろうさ」声にはすっかり重みが戻り、威厳さえ備わっていた。「この私が行って来よう」

 この昼下がりの奇妙な出来事を通してマーチが思い出すのはいつも、喜劇的といってもいいような老紳士の鮮明な映像であり、この老紳士が見事な白い帽子を頭に用心深く石から石へと足を進めて川を渡っているのはまるで、ピカデリーの往来を渡っている姿のようであった。やがて中島の木々の陰に姿を消すと、マーチとフィッシャーはきびすを返して法務長官に会いに行くと、すでに家から戻って来て確信に満ちた厳めしい顔つきをしていた。

「聞くところによると、首相は生涯最高の演説をしたそうだ。終わるややんやの大喝采だと。危険な資本家たちと勇敢な農民たちさ。我々は二度とデンマークを見捨てることはないだろう」

 フィッシャーが頷き曳舟道の方を向くと、何だかまごついた顔で戻ってきた公爵が見えた。疑問に答えて公爵はしわがれたひそひそ声で言った。

「いつもとは違うと思わざるを得ないね。聞く耳持たなかったよ。うん――そう――魚が驚いたらどうするんだなぞと」

 耳ざとい人間であれば、白帽の話に対しフィッシャー氏が洩らしたつぶやきに気づいたであろうが、ジョン・ハーカー卿が断定するように口を挟んだ。

「フィッシャーが正しかった。思いも寄らなかったな。だが今となっては釣りのことしか頭にないのがはっきりしたよ。背後で家が燃えていようと、日の暮れるまでは動こうともせんのだろう」

 フィッシャーは曳船道から一段高い土手道に向かって歩みを進めていたが、そこで遠くに探るような視線を走らせた。中島の方にではなく、流れを取り囲む緑なす彼方の丘の方にである。前日のように鮮やかな夕空がかわたれの景色を覆っていたが、西の方角は今や金色ではなく真っ赤であった。聞こえる音といえば単調な川の調べくらいだった。やがて息苦しげに叫ぶ音がホーン・フィッシャーから届いたため、ハロルド・マーチは不思議そうに顔を上げた。

「厄介な報せですって。ええ今度こそ正真正銘厄介な報せですとも。厄介なことが起こってなければいいのですが」

「厄介な報せとはどういうことですか?」聞き慣れぬ不吉な響きに気づいてマーチはたずねた。

「日が沈みました」フィッシャーが答えた。

 話し続ける様子を見たところ、口にしたのが破滅の言葉だと自覚しているようだった。「フックが耳を貸すような人に行ってもらわなくてはなりませんね。たとえ狂っているにせよ、狂人なりの理屈を持っていますから。たいていの場合には狂気にも理屈があるものです。人が狂気に走るとは、理屈に縛られることなんですよ。日が沈んであたりが暗くなってからも腰を据えていたことなどありませんでした。甥御さんはどこにいます? 甥御さんなら心底気に入られているはずです」

「見てください」不意にマーチが声をあげた。「ほら、もうとっくに行って来たんですよ。戻って来てるのが見えるでしょう」

 ふたたび川に目を戻すと、夕陽の映った暗がりに、大あわてで危なっかしく石から石を渡っているジェームズ・ブレンの姿が見えた。一度など飛沫をあげて石から踏み外した。ようやく川岸の一団までたどりついたところ、黄色い顔が不自然なほど青ざめていた。

 先ほどからその場所に集まっていた四人は、ほぼ同時に声をかけていた。「今度は何と言われたんだ?」

「何も。何も――言わないんです」

 フィッシャーは青年をしばしじっくりと見つめた。やがて静止を解くと、ついてくるようマーチに合図し、すたすたと川を渡っていった。緑なす中島をぐるりと取り囲んだ自然道をしばらく進むと、島の向こう端に釣り人が座っていた。二人は言葉もなく立ちつくして釣り人を見つめた。

 アイザック・フック卿は今もまだ切り株にもたれて座っていたが、それも当然であった。絶対に切れない釣り糸が喉に二重に巻きつき絞められていたうえに、背中の木を支柱にして二重に巻きつけられていた。先頭を歩いていた探偵が慌てて駆け寄り、釣り人の手に触れた。それは魚のように冷たかった。

「日が沈みました」ホーン・フィッシャーの口調には先ほどと変わらぬ危惧が感じられた。「そして日の出を見ることは二度とないでしょう」

 十分後、こうした衝撃に打たれた五人の男がふたたび庭に会し、蒼白になりながらも互いの潔白を探るようににらみ合っていた。見たところ法律家がもっとも油断なかった。いくぶん唐突ではあったがきっぱりと口にした。

「現実問題として死体はあのままにして警察に電話せねばならん。こちらでも独自に使用人や故人の書類を調べるつもりだし、何か関係あるものがないか確認するつもりだ。無論、諸君はこのままここにいなくてはならん」

 迅速かつ厳格な法裁きには、ひょっとすると網や罠をせばめようという含みがあったのかもしれない。いずれにせよブレン青年が唐突に取り乱した。いやひょっとすると怒り出したのか、その声は爆発のように静かな庭に響き渡った。

「僕は少しも触ってないぞ」ブレンが叫んだ。「絶対に無関係だ!」

「君だとは言っとらん」ハーカーが目を怒らせて問いただした。「なぜ何も言われんうちからぎゃあぎゃあ喚くんだ?」

「みんなしてそんなふうな目で見るからさ」青年は声を荒げた。「あんたがたがしょっちゅう僕の借金と遺産の話をしているのを、知らないとでも思ってるのか?」

 マーチの驚いたことに、フィッシャーはこの争い第一幕からとっとと離れており、庭の片隅に公爵を連れて出していた。他人の耳の届かない場所まで行くと、不思議なほど素っ気なくこう言った。

「ウェストモーランド、単刀直入にお話しします」

「うん?」と無邪気に見つめた。

「あなたには殺害する動機がありました」

 公爵はなおも見つめていたが、口を開くことができないようだった。

「あなたに動機があったならいいんですがね」フィッシャーは穏やかに話し続けた。「そうじゃありませんか、ずいぶんとおかしな状況ですからね。殺す動機があったのなら、殺したのはおそらくあなたではないでしょう。ですが動機がなかったのなら、ことによると、やったのはあなたかもしれない」

「どういうことだね?」公爵が乱暴にたずねた。

「単純なことですよ。向こうに渡ったときにフックは生きていたか死んでいたか二つに一つです。生きていたのなら、殺したのはあなたであってもおかしくありません。そうでなくては、死体について口をつぐんでいた理由がわかりませんからね。しかし死んでいたのなら、殺す動機がある以上、疑われることを恐れて口をつぐんでいてもおかしくはありません」

 しばし間を空けてから、何気なくつけ加えた。

「キプロスは美しいところですよ。ロマンティックな景色にロマンティックな人々。若い男ならぼうっとなってしまいます」

 公爵は不意に手を握り締め、低い声で言った。「そうだ、わしには動機があった」

「それではあなたは潔白です」と言ってフィッシャーは安心したように手を差し出した。「やっていないだろうとは思っていたんですよ。現場を見て怖がるのは、当然のことですからね。悪夢がかなったというところでしょうね?」

 この興味深い会話が進んでいるあいだに、ハーカーはすねた甥をほったらかして家に入っていたが、間もなく戻ってきたときには気合いも充填され書類の束も手にしていた。

「警察に電話してきた」と立ち止まってフィッシャーに話しかけた。「だが大半の仕事は代わりにやってしまった気がするよ。おそらく真相がわかった。ここに書類が――」

 話が途切れたのはフィッシャーが何とも言えぬ顔つきで見つめていたからであったし、次に口を開いたのもフィッシャーだった。

「そこにない書類がありはしませんか。今はないということですが」

 一呼吸置くと、「腹を割ろうじゃないですか、ハーカー。こんなに急いで書類を探したのは、探し物を――見つけられていないか確認するためですね」

 ハーカーは石頭に乗っかった赤毛を動かさなかったが、相手のことを目の端で見ていた。

「おそらく」とフィッシャーは言葉に詰まることなく話し続けた。「だからあなたも、生きているフックを見たなんて嘘をついたのでしょう。殺人の可能性をほのめかすようなものがあることを知っていたから、殺されていたと口にしようとはしなかったのです。でもいいですか、今は正直になった方がいい」

 突如ハーカーのやつれた顔が、地獄の炎に炙られたように燃え上がった。

「正直か! 正直になるのがそんなにたいそうなことか! 銀のスプーンをくわえて生まれてきたようなぼんぼんたちと来たら、他人のスプーンを懐に入れていないというだけで永遠の美徳みたいに触れて回る。だがピムリコの下宿屋で生まれたからには自分のスプーンは自分で作るらねばならなかったが、材料の角や正直者を駄目にしただけだったと言えば充分だろう。苦労人が若いころに法律などという薄汚れたものからほんの形ばかりでも踏み出してしまったら、そこには必ずと言っていいほど吸血鬼がいて一生つきまとわれることになるものなのだ」

「グアテマラの鉱山ですね?」いたわるようにフィッシャーが言った。

 ハーカーは不意に身震いした。

「何もかも知っているんだな、まるで全能の神だ」

「あまりにも知りすぎているんです。それも間違ったことばかりを」

 ほかの三人が近づいてきたが、それほど近づかぬうちに、ハーカーの言葉には毅然とした態度が戻ってきていた。

「そうだ、書類を一枚破棄したが、一枚の書類を見つけたのも事実だし、それを見ればすべて明らかだ」

「結構です」フィッシャーが今までよりも大きく力強い声を出した。「その書類の助けを借りようじゃありませんか」

「アイザック卿の書類の一番目につくてっぺんに、ヒューゴーという男から届いた脅迫状があった。殺してやるという脅しの内容が、実際の殺され方とまったく一緒だった。罵詈雑言ばかりの乱暴な手紙だ――自分で確かめるといいが――フックがいつも中島で釣りをすることがずいぶんと強調されていた。おまけにボートで書いたと明言している。川を渡ったのは我々だけである以上」とおぞましい笑みを浮かべて、「この犯罪を行ったのはボートで通りかかった人間に違いないのだ」

「ほう、何だって」生命に満ちあふれんばかりに公爵が叫んだ。「ヒューゴーという男ならよく覚えているよ。アイザック卿の従者や護衛みたいなことをしていたな。アイザック卿には襲撃を恐れているようなところがあったからなあ。なかには――ある人たちからはあまりよく思われていなかったからね。ヒューゴーは何度か叱られたか何かされたあとで解雇されたんだ。だけどよく覚えているよ。大柄なハンガリー人で、大きな口髭が顔の両側から飛び出していた――」

 ハロルド・マーチの記憶というか忘却の闇のなかで扉が開き、失われた夢で見たような輝く光景が広がった。光景というよりは水景であり、水浸しの草むら、低い木立、薄暗い橋の穹窿から成っていた。束の間、マーチの目に再来したのは、黒い角のような口髭の男が橋に飛び乗り姿を消した映像であった。

「まいったな。今朝は殺人犯に会ったのか!」

 ホーン・フィッシャーとハロルド・マーチは結局その日を川で過ごした。警察が到着した時点で一同お開きになったのである。ひょんなマーチの証言から、全員が潔白であり、逃げ出したヒューゴーがホシだと断定されたのだ。このハンガリー人逃走犯が捕まるかどうか、ホーン・フィッシャーにはかなり疑わしそうに思えた。悪魔じみた探偵能力をわずかなりともその件で披露したそぶりすらなく、ボートの背にもたれて煙草をくゆらし揺れ動く葦が通り過ぎるのを見ていた。

「橋に飛び移るとは上手い考えです。空っぽのボート一艘など取るに足らない。どちらの岸に上陸するところも見られずに、いわば橋に足を向けずに背を向けたのです。二十四時間も先手を取られている以上、すでに髭も消えているでしょうし、そのうち本人も消えてしまうでしょう。逃げ切る望みは高いと思います」

「望みですか?」思わず漕ぐ手を休めてマーチは繰り返した。

「ええ、望みですよ」フィッシャーも繰り返した。「そもそも、誰かがフックを殺したからといって、コルシカ式の復讐心をしっかり胸に刻むつもりなどありません。もうとっくにフックのしていたことの見当はついているんじゃないですか。人の血を吸う脅迫者とは、あのお人好しで精力的な叩き上げ経営者だったのです。秘密の弱みを握られていたのは一人ではありませんでした。ウェストモーランドが若いころキプロスで結婚していたという秘密は、公爵夫人を奇妙な立場に追い込むことになったでしょうし、ハーカーの秘密とは、事務弁護士だった若いころに依頼人のお金を投機に用いたことでした。ですからフックが殺されているのを見つけたときには二人とも恐慌を来していました。夢うつつのうちに殺してしまったのかと感じていたのです。ですが実を言うと、親愛なるハンガリー氏を死刑にしたくない理由は、もうひとつあるんです」

「どういうことです?」

「殺人を犯してなどいないというだけですよ」

 ハロルド・マーチは漕ぐ手を置き、しばしボートを流れに任せた。

「実はそんな気がしていました。理屈に合わない考えですが、大気中の雷のように空中に漂っていたんです」

「むしろ反対に、理屈に合わないのはヒューゴーを有罪にすることですよ。みんなが断罪したのは、そうすればほかの人間の身の証が立つからだというのはおわかりでしょう? ハーカーとウェストモーランドが沈黙していたのは、フックが殺されているのを見つけたからですし、犯人と目されかねない書類があることを知っていたからです。というわけで、ヒューゴーもフックが殺されているのを見つけ、犯人と目されかねない書類があることを知っていました。前の日に自分の手で書いていたのですから」

「だけどそうなると」マーチが眉をひそめた。「実際の殺人が行われたのはどれだけ朝早い時間だったんです? 橋で出くわしたのが日の昇るか昇らないかくらいだったし、中島からはけっこうありますよ」

「答えは簡単明瞭です。犯罪が行われたのは朝ではない。犯罪が行われたのは中島ではないのです」

 マーチはきらめく川面を見つめたまま何も答えなかったが、フィッシャーは誰かの質問に答えるかのように話を続けた。

「気の利いた殺人というものは、非凡な特徴を何か一つ利用して平凡な状況に取り入れるものと相場が決まっています。今回の特徴とは、フックが毎朝決まって一番に起き、判で押したように釣りをして、邪魔されることを嫌っていたことです。犯人は昨夜の晩餐後に家のなかでフックを絞め殺すと、真夜中に川を渡って死体と釣り道具を運んで木に縛りつけ、星空の下に死体を残して立ち去ったのです。終日あそこで釣りをしていたのは死者だったのです。犯人は家に戻り、もとい車庫に戻り、自動車で立ち去りました。犯人は自分の車に乗って行ったんです」

 フィッシャーは友人の顔を一瞥してから話を続けた。「あなたは恐ろしそうな顔をしてますし、これは恐ろしいことです。しかしほかにも恐ろしいことはある。ある無名の人物が迫害者にまとわりつかれて、家庭を滅茶苦茶にさせられたとしたら、その破壊者を殺すのが殺人のなかでももっとも許しがたいものだとは思わないでしょう。大きな国中が家族のように自由の身でいるのはどこか間違っていますか?

「スウェーデンに警告することによって、おそらくは戦争を防ぎ遅らせることができるでしょうし、あの毒蛇の命よりも貴重な何千もの命を救うことができるんです。待ってください、詭弁でもなければ正当化しているわけでもないのですが、あの毒蛇とその帝国を守っていた奴隷制度の正当性などその何千分の一ですからね。わたしの頭が本当に鋭ければ、昨夜の晩餐で見た、あの人好きのする死を招く笑顔から見当をつけていたでしょうに。お話しした軽口を覚えていますか? 魚を遊ばせるアイザック卿の技術の話ですよ。ある意味で卿は人間を釣っていたのです」

 ハロルド・マーチはオールを取ってふたたび漕ぎ始めた。

「覚えていますよ。大きな魚が糸を切って逃げることがあるかという話でしょう」


 この翻訳は、G.K.Chesterton“The Man Who Knew Too Much”収録の第五話'The Fad Of The Fisherman'の全訳です。


Ver.1 03/03/24
Ver.2 03/06/12
Ver.3 04/09/28
Ver.5 08/09/27

HOME  翻訳作品   チェスタトン目次   戻る  進む   TOP

訳者あとがき
 『知りすぎた男』の第五話をお届けします。――と書きましたが、ことはそう単純ではありません。というのも、今は便利な世の中で、ネット上で初版本を見ることができるのですが、それを見てみると、この「The Fad of the Fisherman」は第六話になっているのです。Gutenberg をはじめとするネット上のテクストは、どうやらアメリカ版を底本にしているらしく、「grey」が「gray」になっているような文化的な差くらいならいいのですが、コンマやコロンの有無や大文字小文字の違いは当たり前、本篇では煉瓦塀の色が違っていたりして、こうなってくると便利とばかりも言ってられません。

 果たしてアメリカ版にはチェスタトン自身が関わっていたのか――。最終的には『Collected Works』など信頼できそうなテクストを参照するのが望ましいのでしょうが、今のところは取りあえず、Gutenberg を底本に、適宜初版本を参照――という形を取っています。

 ミステリとしては、ある古典的な齟齬を扱った作品です。冒頭の川下りの光景が印象的なほか、犯罪が明らかになる場面のフィッシャーの一言などが記憶に残ります。登場人物が多すぎる気もしますが、短篇の長さで次から次へと容疑者登場をやってみせたのには頭が下がります。本篇のフィッシャーは政治や推理のロジックよりも、金持の自己満足についてのロジックが冴えていました。

 
 

[更新履歴]
 ・08/08/28 ▼タイトルがうまく訳せない。「マイブーム」とかが一番近いのかなあ。以前は「釣り人の習慣」としていたが、「気まぐれ」とかいろいろ考えたすえ、もうひとつの方と掛けているのかなあ、とふと思い、「道楽」にする。▼そしてまたいきなり誤訳。意味が正反対だったので「異常であるために記憶に残らない」に訂正。▼全体的にわれながらびっくりするくらいのやっつけ仕事。単語を拾い集めて勝手に日本語文を捏造したような出来である。「the thing he saw was so inconsequent that it might have been imaginary」が「マーチの見たものは、あまりに空想的で不合理なものだった」になっちゃうんだものなあ。「目にしたものがあまりに非論理的であったために、ことによると夢でも見ていたのかもしれない」に変更。▼ネット上のテクストでは「tawny(黄褐色の)」となっている部分、初版では「dark red(暗褐色)」となっていた。ここは初版に従う。▼「ship」とは「船を漕ぐ」のではなく「船に積み込む」である。▼「rather a narrow arc of white dawn gleamed under the curve of the bridge.」をよく考えずに直訳して誤魔化していたが、「狭い弧」とはつまり、日の出の太陽がまだ地平線からちょびっとしか頭を出していない状態のことなのだろう。それがわかるような訳文にした。

 ・08/09/08 政治巡礼〜ハーカー登場まで。▼ネット版で抜けていた箇所を、初版によって補った。「ホーン・フィッシャーは長身、蒼白、金髪、額の禿げ上がった人物であり、物憂げな態度の持ち主である。倦怠以外の方法で苛立ちを表現することはめったにない。」。ここが抜けていると、次の「そんな男が苛立ちを見せたのは」が生きてこない。▼些細なことだがネット版「the time settled」、初版「the time appointed」。▼ネット版では「Yet he was not an enthusiast for the game, or even for the garden;」となっている部分、初版では「Yet he was not an enthusiast for the game, thus snatching a moment's practice;」となっている。どっちにしてもチェスタトンにしてはあんまり上手くないように思う。ここは初版に従った。▼「evening」を「夜」と訳していた。前後の文脈からも夕方・黄昏なのは明らかなのに。よく考えもせず「golden」を「月夜・星空」だと思い込んだための間違い。▼公爵とフィッシャーの会話が無茶苦茶だった。基本構文も駄目、仮定法も駄目、時制も駄目、話にならないのでそっくり訳し直した。▼「hollow temples」というのがよくわからないので用例を調べてみると、ポーの「ベレニス」が引っかかった。というわけで邦訳を確認すると、「凹んだこめかみ」ってそのままだった。▼9月末に論創社から『知りすぎた男』が刊行予定らしい。プロの訳が出るんでは、このページの意義も薄れてしまうなァ。

 ・08/09/12 釣り人登場〜フィッシャーみんなを批判。▼「seated against」だから、「切り株に腰かけて」いるんじゃなくて、「切り株に寄りかかって」いるのだろう。▼ハーカーとフィッシャーの皮肉が全然皮肉になっていなかったので訂正する。▼「be tired of」を「疲れる」と訳していたので「嫌になる」と訂正。▼基本的に「○○なのに××」という理屈が訳せてなかったのだが、特に「simple about simple things」「luxurious about luxurious things」がまったく活かされてなかったので変更。

 ・08/09/14 アイザック卿の釣りが終わる〜晩餐前。▼「the early bird catches the worm」を以前は「早起きは三文の得」と訳していたけど、それでは会話にならないので、そのまま「早起きの鳥は虫にありつく」、「虫にありつくのは早起きの魚」「早起きの人間が魚にありつく」と直訳した。

 ・08/09/15 晩餐〜マーチ登場。▼「play」には「掛かった魚を遊ばせる」という意味もあった。「魚運がいい」の原文はネット版「lucky at it」、初版「lucky with them」。▼首相の質問が「興味を持って恭しく政治家が尋ねた」という、訳語を当てはめただけの意味不明な文章だったので、「表向き興味深そうに首相がたずねた」に訂正。▼主が立ち上がったのを見たフィッシャーが「he sprang to his feet with an alertness he rarely showed.」のを、「慎重に立ち上がった」と訳していた。小辞典には確かに「用心深さ」という訳語が載っているのだが、文脈や例文や英英辞典を読めばわかりそうなケアレスミス。同じパラグラフにある「get them said」の「get」を使役に訳していたため、「数語でいいから言わせたい」というオカシナ話になっていたのを、「数語だが言っておきたかった」に訂正。▼そしてフィッシャーが言いたかった数語「unless we protest immediately on behalf of Denmark」が、なぜ「デンマークのために直ちに戦わない限り」になっていたのかが自分でもわからない。「今すぐにでもデンマークに代わって抗議しないと」に変更。▼フィッシャーが想像するフックの言い分「there is very little doubt what he will say about it.」。ここに限らず「very little」を「とても少し」と訳してしまっている。「ほとんど〜ない」が正しい。▼ハーカーがアイザック卿の釣りについて弁解する場面、「I bet 〜」とあるが、しばらくあとに「here's a chance for the bet.」とある関係上「賭けてもいいが」と直訳した。

 ・08/09/18 マーチの新聞〜ハーカー電話に急ぐ。 ▼ネット版は「"Stop Press"」と大文字で引用符付きだったから惑わされてしまったが、初版では「stop-press」。単にイギリス英語だから、アメリカ読者向けに引用符を付けただけらしいとわかり、邦訳からも引用符をはずした。▼「without a tremor」は「he simply said」ではなく「handing the paper」に係っているので「しっかりした声で」から「震えずに〜新聞を手渡すと」に訂正。▼「his words softened first to a whisper and then a whistle.」というのはつまり、「ささやき声すらも聞こえなくなって口から出るのは空気のひゅーひゅー音だけになった」ということなのだろうけど、うまく訳せない。「ささやく声も、やがてそよめく音に和らいだ」とか「喉から絞り出すような声が、さらに小さく喉から洩れるだけの音になった」とか。▼「さもなければ」の「or」を「〜か」と訳していたので意味不明だった箇所を「すぐにフックに伝えなくては許してはくれまい」に訂正。▼「the rest of you」は「あなたの休暇」ではなく「(アイザック卿を除いた)あなたがた」だろう。▼辞書を引く手間を惜しんで「beyond expression(表現できぬほど)」を勝手に略したあげくに、「soft emphasis」という言葉が「柔らかく強調し」という気味の悪い訳語になっていたので、「それとわからぬほどの力を込めて」に訂正。▼アイザック卿の様子を見に行ったハーカーが戻ってくる場面、「Even as」を見落としたのか「ちょうど真上の藪の切れ目から現れた、禿鷲みたいに体を丸めた人影に話しかけた。」とへなちょこな日本語になっていたので、「と話していると、禿鷲のように前屈みの人影が頭上の生垣の切れ目から姿を現わした。」に訂正。だが「the hedge just above him」という位置関係がわからない。「him」というのはハーカーのことで、前屈みだから「頭上」すなわち「目の前の」生垣ということか? 必ずしも日本語の「上」そのものではないとはいえ、じゃあどういう位置関係なのかというと、ピンと来ないのである。▼ハーカーが法務長官だというのを忘れていたせいもあって「明日政府と話をする」などと訳していた。もちろん主因は「speak for」の意味を知らなかったせいだ。さてでは「speak for the Government」をどう訳すかとなると、日本語ではふつう何というのかね。

 ・08/09/20 公爵ニュースを知る〜日が沈む。▼"But he must see it, he must be made to understand. It cannot have been put to him properly."の特に二番目を「わかってるに決まってる」と誤魔化していたのでちゃんと訳す。▼「Peroration and loud and prolonged cheers.」みたいに、「名詞 and 名詞」をどう訳せばいいのかわからなかったので訳さずに「大喝采だ」で誤魔化していたところを、「(演説が)終わるややんやの大喝采だ」に変更。次の「Corrupt financiers and heroic peasants.」もよくわからないので「腐敗した資本家と偉大な労働者」と直訳して誤魔化していたが、喝采した人たちのことかな? 「危険な資本家たちと勇敢な農民たちさ」に変更。▼「厄介な報せです」というフィッシャーの言葉をマーチが聞きつけたところ。Gutenberg版「in his voice」、初版「in his tone」。

 ・08/09/22 十分後〜公爵の言い分。▼ネット版「at one another」、初版「at each other」。▼「Who said you had?」を「誰のことだ?」と訳していたので「君だとは言っとらん」(=「誰が君がやったと言った?」)に訂正。▼「Rather to March's surprise, Fisher had drawn away from this first collision,」が全滅だったな。前置詞句と時制は今もあまり得意ではないが。「マーチは驚き、フィッシャーは当初の衝撃から立ち直って」から「マーチの驚いたことに、フィッシャーはこの争い第一幕からとっとと離れており」に訂正。▼初版では「You have a motive for killing him」ではなく「You had 〜」だった。▼「Like a bad dream come true」は「like a dream come true」のもじりなので、それらしく訂正。「まるで悪夢のようだ」ではもじりでも何でもなくなってしまうので、ちょっと堅いが「悪夢がかなったというところでしょうね?」にした。

 ・08/09/24 ハーカー戻る〜グアテマラ。▼ハーカーが戻ってくる場面、「and came back presently with a new air of animation and a sheaf of papers in his hand.」と、「with」が「a new air」と「a sheaf of papers」の両方にかかっているのを何とか日本語にしたかったのだが断念。▼「the cards on the table」は日本語でも「手札を見せる」など言うように、別に実際にテーブルにカードを広げているわけではない。▼「turn a red hair on his hard head」を「hard headにred hairを」みたいに考えていたからよくわからなかったのだが、これは「on」の基本中の基本、「〜の上の」なのだと気づく。「the other」を「別のもの」などとやっていたので「相手」に直す。▼「a horn」を旧訳で「酔っぱらい」にしているのは、米俗「horner」からの連想かな。よく覚えてないが。これは「to make a spoon or spoil a horn(スプーンを作るか角を駄目にするか=上手くいくか失敗するか)」という言い回しがもとになっている表現なので、そのように訂正。

 ・08/09/25 グアテマラ〜マーチ思い出す。▼「a waterscape than a landscape」というのをうまく訳せなかったので無理矢理「水景」という言葉をひねりだす。▼あまりにもへなちょこでした。「good notion」が「たいへんな能力」になっているほか、「walked off the bridge without walking on to it」が「橋の上を歩かず、下を歩いた」になっていた。訂正はしたが、「walk off/walk on」を上手く日本語にできない。「橋をとおることなしに橋からとおざかった」とか。「橋を歩むことなく橋から歩み去った」とか。▼事務弁護士を表わす「lawyer」はイギリス英語なので、Gutenberg版では「solicitor」になっていた。

 ・08/09/27 ▼最後から三つ目のパラグラフ、「Do you remember I told you of that silly talk 〜」から、Gutenberg版は「I told you of」が抜けているため辻褄があっていなかった。▼「In a pretty hellish sense」とは「悪魔みたいなセンス」ではなく、「in a sense(=ある意味では)」の強調表現だった。こういうのは日本語にできない。


HOME  翻訳作品   チェスタトン目次   戻る  進む   TOP
New  リンク  翻訳連載blog  読書&映画日記  掲示板  仏和辞典