この翻訳は翻訳者の許可を取ることなく好きに使ってくれてかまわない。ただし訳者はそれについてにいかなる責任も負わない。
翻訳:東 照
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ジョゼフ・バルサモ

アレクサンドル・デュマ

訳者あとがき・更新履歴
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第十章 ニコル・ルゲ

 バルサモの訊問が続いている間中、ジルベールはひとかたならず悶々としていた。

 階段下にうずくまったまま、赤の間で交わされる言葉を聞くため扉近くまで上ることももはや適わず、ついに絶望の淵に沈むんでしまうと、持ち前の感情の起伏の激しさから、恐らくは絶望の欠片が限界にまで達したのだ。

 心が弱く脆いせいで、見る間に絶望は大きくなった。バルサモはただの人間でしかない。哲学者の卵、思想かぶれのジルベールは、魔術師なぞは信じない。だが件の男は強く、ジルベールは弱かった。件の男は勇敢だが、ジルベールはそうではなかった。幾度となくジルベールは立ち上がって階段を上り、バルサモと対峙しようとした。幾度となく震える足はくじけ、そのたびに膝を突いた。

 そこで思いついたのが、ラ・ブリの梯子を取りに行くことであった。料理人にして召使いでもあるこの男、さらには庭師でもあり、壁に壁に耶悉茗ジャスミン忍冬スイカズラを這わせるのに梯子を使っていたのだ。それを階段の通路に立てかけて道を架ければ、求めて止まぬ真実のよすがとなる物音を、一つたりとも聞き洩らすことはないだろう。

 そこでホールを通って中庭に出ると、梯子が置いてあるはずの壁際まで駆け抜けた。だが梯子を手に取ろうとしゃがみ込んだ途端、家の方から何か物音がしたような気がした。ジルベールは振り返った。

 暗闇に目を凝らしてみると、開け放した扉の四角い闇を人影が通り抜けたようにも見えた。だが素早いうえに音も立てぬとあっては、どうやら生身の人間とも思われぬ。

 ジルベールは梯子を放り出し、動悸も激しく城館に向かって戻り出した。

 迷信とは切っても切れぬのが、ある種の想像力である。これが大抵の場合、ひどく豊かで根が深い。いずれ理性よりもお伽噺に傾きがちな嫌いがある。この世の理なんぞ屁でもないとばかりに、直感的に不合理な、というのが言い過ぎであるなら観念的な方へと流れてしまう。想像力が鬱蒼とした森を好むのもこのためで、暗いトンネルには幽霊や精霊が付き物だからである。大いなる詩人であった古人は、真ッ昼間からそうしたもののけたちを夢見ていた。ただし往時の太陽は当節のお飾りと比べれば熱くたぎる灼熱の火炉であったため、悪鬼や幽霊のことを考える余地を与えなかった。ゆえに古人が空想していたのは、かしましい木の精ドリュアスや軽やかな山の精オレイアードといったものたちであった。

 どんよりした土地に生まれたジルベールにはこの傾向もひとしおで、自分が見たのは亡霊(vision)だと信じ込んだ。今回ばかりはさしもの不信心者も、バルサモの連れの女が去り際に告げたことを思い出していた。あの魔術師は清らかな天使さえ悪に引きずり込む力を持っていたのだ、何らかの幽霊(fantôme)を呼び出したとしてもおかしくはあるまい?

 ところがジルベールは一歩目よりも二歩目でつまずく質であった。頭で考えてしまうのだ。化物(spectres)について思想家たちの智恵を借りようとして、哲学事典の「幽霊(Revenant)」の項からひとまずの勇気を得たものの、さらに大きくしかも確かな恐怖に囚われてしまった。

 実際に誰かを目にしたのであれば、それは生身の人間であろうし、であればこうして見回りに来たがる人間ではないのか。

 恐怖がタヴェルネ男爵の名を告げ、意識が別の名を囁いた。

 ジルベールは翼棟(pavillon)の三階を見上げた。前述の通りニコルの部屋の明かりは消えていたし、窓からは明かり一つ洩れていなかった。

 邸にはそよ風一つ、物音一つ、薄明かり一つない。ただし旅人の部屋だけは別だ。目を凝らし、耳を澄ました。何も見えぬし何も聞こえぬことを確認すると、改めて梯子をつかんで結論づけた。つまり今回のことは昂奮した人間特有の目の迷いであり、科学的に言うなら、さっき見たものは視覚能力が働いた結果というよりは、視覚の一時的な断絶であったのだ。

 ジルベールが梯子を立てかけ、一段目に足をかけたちょうどその時、バルサモの開けた扉を通ってアンドレが階下に降りて来た。明かりも持たず音も立てず、さながら魔力に操られるように。

 アンドレは踊り場まで来ると、暗がりに隠れていたジルベールのそばをかすめるように通り過ぎ、そのまま歩き続けた。

 タヴェルネ男爵は眠っているし、ラ・ブリは床につき、ニコルは別の棟にいて、バルサモの部屋の扉は閉ざされている。ジルベールを脅かすものは何もない。

 気持を奮い立たせ、アンドレの歩みに合わせて後を追った。

 アンドレはホールを抜けて応接室に足を踏み入れた。

 心が引き千切れそうだった。扉は開いていたのに、足が動かなかった。アンドレが坐ろうとしていたのは、チェンバロの傍らの腰掛け、いつもは蝋燭が燃えている場所だった。

 ジルベールは爪を立てて胸を掻きむしった。同じ場所だ。半時間前に口づけをした、あの場所だ。部屋着と手とに口づけをしながら、逆鱗にも触れなかった、あの場所。期待に震え、幸せを噛みしめたあの場所だった! 咎め立てされなかったのは、アンドレの堕落と呼んでいいのだろうか。男爵の本棚の奥で見つけた小説に書かれていたように。それともあれが感覚障害というものだろうか。生理学概論にはそのような分析が載っていた。

 そうしたいろいろな思いがジルベールの頭に去来した。「堕落したというのなら遠慮なくいただこうじゃないか。五感の発作だというのならそこに付け入ろうじゃないか。天使がせっかく無垢の羽衣を脱ぎ捨てたんだ、操の一つや二つ僕のものにしたって構うもんか!」

 今度こそ腹を決め、応接室に向かって駆け出した。

 ところが敷居を跨ごうとした途端、暗がりから手が伸びて、腕をがっちりとつかまれた。

 ぎょっとしたのなんの、心臓が止まるかと思いながら振り向いた。

「とうとう捕まえた。いやらしい!」拗ねたような声が耳に滑り込む。「否定できるものなら否定してみなさい。逢い引きだったんでしょ? 何ならあのひとに惚れてるってことも否定できる?……」

 ジルベールには、縛めから腕を振りほどくだけの力もなかった。

 とは言うものの、断ち切れぬほどの縛めではない。締めつけているのはたかが小娘の手に過ぎぬ。何を隠そう、ジルベールを捕えていたのはニコル・ルゲであった。

「また何か用かい?」うるさそうにジルベールはたずねた

「あら! はっきり言ってほしいの?」ニコルは声を大きく張り上げた。

「違う、違うよ。むしろ声を出さないでほしいな」歯を食いしばって、ニコルをホールまで引っ張って行った。

「わかった。じゃあこっち来て」

 それこそジルベールには願ってもないことだった。ニコルについて行けば、アンドレから離れることになる。

「うん、行くよ」

 言葉通りに後を追うと、ニコルはジルベールを花壇に連れ出して後ろ手に扉を閉めた。

「だけど……お嬢様が部屋に戻って床に着こうと呼んだとき、君がいなかったら……」

「今そんなことを気にしてるんなら大間違いよ。お嬢様に呼ばれるかどうかなんて関係ない。あなたに話があるの」

「話なら明日でも出来るよ。お嬢様は厳しい人なんだから」

「ええそうね、厳しくすべきだと思う。あたし相手なら特に!」

「ニコル、明日だよ、約束するから……」

「約束? 大した約束ね、さぞかし期待できそう! 今日の六時にメゾン=ルージュのそばで待ち合わせしてなかった? そのとき何処にいたの? 正反対の場所で旅人を案内してたんじゃない。あんたの約束なんてアノンシアード修道会の教導僧並み! あいつ、告解の秘密を守るとか誓っておいて、告白した罪をぜんぶ修道会長に告げ口するんだもんな」

「ニコル、見つかったら馘首になるよ……」

「あなたは馘首にならないの? お嬢様の情人いいひとだからってわけ? お生憎、男爵様がそんなこと気にするもんですか!」

「だって――」ジルベールは言い訳を試みた。「僕には馘首になる理由なんてないよ」

「愛娘を口説かれてたとしても? そんな仙人みたいな人だとは知らなかったわ」

 その気になればニコルにひとこと釈明することも出来た。仮にジルベールが罪を犯していようと、少なくともアンドレに罪はない。それには目にしたことをすべて打ち明けるほかなかった。如何に信じがたいことであろうと、ニコルなら、女同士の親愛の情から、きっと信じたことだろう。だが考え直して、口にしかけた言葉を呑み込んだ。アンドレの秘密を知っていれば、欲しいものが手に入る。望むものが愛情であれ、もっと確実な形のある宝物であれ。

 ジルベールの欲しいのは、愛情だった。ニコルの怒りなど、アンドレをものにしたい思いから比べれば何ほどのものだというのか。即座に心を決め、その夜の椿事については沈黙を守ることにした。

「わかったよ、どうしてもって言うのなら話し合おう」

「すぐに済むってば!」ニコルはジルベールとは正反対で、感情を制御することが出来なかった。「でもそうかもね。花壇じゃ都合悪いし。あたしの部屋に行かない?」

「君の部屋に!」ジルベールはぎょっとした。「そんなの駄目だよ」

「何で?」

「見つかったらどうするのさ」

「あのねえ!」小馬鹿にするような笑みを浮かべると、「誰に見つかるのよ? お嬢様? かもね。何しろこちらのご紳士にご執心だもんね! 残念だけどこっちはお嬢様の秘密を握ってるんだから、ちっとも怖くない。アンドレお嬢様がニコルに嫉妬するなんて思ってもみなかった。鼻が高いわ!」

 嵐のように鳴り響いたわざとらしい哄笑と比べれば、罵られたり脅されたりした方がまだ恐ろしくなかった。

「お嬢様を恐れているわけじゃなく、君の立場が危うくなるのを恐れているんだよ、ニコル」

「そっか、いつも言ってたっけね。恥ずべき点がなければ悪いことなんかないって。哲学者ってたまに狡賢い。そう言えばアノンシアードの教導僧も同じようなこと言ってたな、あなたよりも前に。だから夜中にお嬢様と逢い引きしてるってわけ? いい加減にしてよ! ごちゃごちゃ言ってないで……部屋に来てほしいの」

「ニコル!」ジルベールが歯を軋らせた。

「聞こえてる! それで?」

「ふざけるなよ!」

 と言って脅すような仕種をした。

「何? 怖かないわよ。前にあたしを殴ったのは嫉妬してたんでしょ。あの時は愛してくれてた。あの素敵な日からまだ一週間だったから、殴らせてあげたの。でも今は殴らせるつもりなんてない。冗談じゃない! もう愛してないんでしょ、今は嫉妬してるのはこっちなの」

「どうするつもりなんだ?」ジルベールはニコルの手首をつかんだ。

「大声で言ってやるの。きっとお嬢様に問いつめられるんじゃない? 自分が独り占めしているはずのものが、どうしてニコルに向けられているのかって。いい? 手を離しなさいよ」

 ジルベールは手を離した。

 そして梯子をつかんでゆっくりと引きずってゆくと、翼棟の外壁に立てかけ、ニコルの部屋の窓まで道を架けようとした。

「運命なんだなって諦めなさい。おおかたお嬢様の部屋によじ登るつもりで用意した梯子で、どのみちニコル・ルゲの屋根裏から降りることになるんだから。嬉しい話じゃない?」

 ニコルは優位を感じていた。だからこそこうして勝利に飛びついた。というのも、善の道と悪の道とにかかわらず真に優れている者を除けば、蓋し女とは、勝利の宣言は早い者勝ちだと考えているふしがある。

 ジルベールは自分の立場が不利なのを感じていた。だからこそ、ニコルの後を追いながら、来たるべき一騎打ちに備えて、集中力を高めていた。

 とまれ慎重な男のこととて、二つの点を確認した。

 一つ、窓を外を通り過ぎしな、タヴェルネ嬢が今なお応接室にいることを確かめた。

 二つ、ニコルの部屋まで来ると、首の骨を折る恐れなく梯子の一段目に届くこととそのまま地面まで滑り降りられることを確かめた。

 質素という点において、ニコルの部屋もほかの部屋と変わらなかった。

 その屋根裏の壁は、緑の図案のある灰色の壁紙に覆われていた。革帯を張っただけの寝台と、天窓近くの大きなゼラニウムが、部屋を彩っている。加えて、アンドレからもらった大きな板紙の箱が、箪笥と机を兼ねていた。

 ニコルは寝台の端に、ジルベールは板紙の角に腰を下ろした。

 階段を上っているうちにニコルも頭を冷やすことが出来た。感情を抑えられているが自分でもわかる。翻ってジルベールは、先刻の動揺のせいで震えを抑えることもままならず、落ち着きを取り戻すことが出来ずにいた。部屋に入って意思の力によって怒りを治めたつもりのそばから、怒りが沸々と湧き起こるのを感じていた。

 一瞬できた静寂の中で、ニコルはジルベールに焼けつくような眼差しを注いでいた。

「つまり、お嬢様を愛してるんでしょ。で、あたしは捨てられた?」

「お嬢様を愛してるなんて一言も言ってないじゃないか」

「何それ? 逢い引きしといて」

「お嬢様と逢ったなんて言ってない」

「ほかに翼棟の誰に用があるっていうの? 魔法使い?」

「駄目かい? 僕に夢があるのは知っているだろう」

「その願望ってのを教えてよ」

「その言葉は良い意味にも悪い意味にも取れる」

「ものや言葉について議論する気はないの。もうあたしのこと愛してないんでしょ?」

「そんなことはない、今も好きだよ」

「じゃあどうして避けるの?」

「だって会うたび怒っているから」

「あのね。怒っているのは会おうとしてくれないからなの」

「人づきあいが苦手だし独りが好きなんだ」

「そうそう、独りになりたくて梯子を登るんだよね……ごめんなさいそんなの聞いたことない」

 その第一段階でジルベールは惨敗していた。

「ねえほら、頼むからはっきり言くれる? もうあたしを愛してないの、それとも二人とも愛してるの?」

「そんな……もしそうだったら?」

「悪辣って呼んでやるわ」

「そうじゃない、過ちと呼ぶんだよ」

「あなたにとって?」

「僕らの社会にとって。男がみんな七、八人の妻を娶っている国もあるよね」

「異教徒でしょ」その声には苛立ちが現れていた。

「哲学者だよ」ジルベールは誇らしげだった。

「出たわね哲学者! あたしがおんなじことをしたり愛人を持ったりすれば嬉しいってわけ?」

「不誠実なことも支配するようなこともしたくないし、気持を縛りたくもないんだ……自由という素晴らしいものの本質は、自由意思にあるんだもの……別の恋をしなよ。操を立てろなんて言えやしない。そんなの不自然だ」

「ああそう、いっそもう愛してないって言えばいいじゃない!」

 議論はジルベールの得意とするところ、お世辞にも論理的とは言えぬが理屈では計れぬ頭の使い方をする。それに、ものをよく知らずとも、ニコルよりは知っていた……ニコルが読むのは興味のあることに留まる。ジルベールが読むのは、興味のあることに加えて、役に立つことであった。

 だから言い争っているうちに、ジルベールは落ち着きを取り戻し、ニコルの方はかっかとし始めた。

「記憶力はいい方、哲学者さん?」と薄笑いを浮かべた。

「場合によるけど」

「じゃあ覚えてる? 五か月前、お嬢様とアノンシアードから戻った時に言ってくれたこと」

「いや。何だっけ」

「こう言ったの。『僕にはお金がない』。崩れた古城の屋根の下、二人して『タンザイ(Tanzaï)』を読んだ日よ」

「うん、続けて」

「あの日、随分と震えてたじゃない」

「そうだったかも。生まれつき臆病なんだ。直そうとはしたんだよ、ほかにもいろいろ」

「だったら――」とニコルは笑って、「そういった欠点がみんな直れば、完全無欠ってわけね」

「せめて強い人間にはなれるさ。智性こそ力だからね」

「それは何の受け売り?」

「関係ないだろう。屋根の下で何て言ったかって話だったじゃないか」

 どうにも分が悪いことにニコルも気がつき始めた。

「ああ、そうね。『ニコル、僕にはお金がないし、愛してくれる人もいないだろうけど、あるべきものはここにある』、そう言って胸を叩いたの」

「そんなはずない。そう言って叩くなら、胸ではなく頭でなくちゃおかしいよ。心臓は手足に血を送るためのポンプでしかないんだから。哲学事典の心臓の項を読んでご覧よ」

 と言って誇らしげに胸を反らした。バルサモの前では畏縮していたくせに、ニコルの前では尊大だった。

「わかったわ。確かに叩いたのは頭だったんでしょ。で、頭を叩いてこう言ったの。『僕は飼い犬のように扱われてる。それならマオンの方がまだしも幸せだよ』。だからあたし言ったじゃない。誰からも愛されないなんて馬鹿ね、あたしたちが兄妹だったら愛情で結ばれてるのに。そう答えたのは、頭じゃなくて心だった。でもきっと勘違いなんでしょ。哲学事典なんて読んだことないから」

「間違ってるよ」

「あたしを腕に抱いて、『ニコルはみなしご。それに僕もみなしごだ。貧しくて惨めだからこそ、兄弟よりも強い絆で結ばれてるんだ。本当の兄妹みたいに愛し合おう。もっとも本当の兄妹だったら、こんなふうに愛し合うのは許されないことだけど』、そう言ってキスしたの」

「かもしれない」

「思ってもいないことを口にしていたの?」

「うん。口にした瞬間は、口にした通りに思ってたんだ」

「じゃあ今は……?」

「今は、あれから五か月経った。知らなかったことも学んだ。まだわからないことも見えて来た。今はあの時のようには思っていない」

「つまり嘘をついたの? ペテン師! 偽善者!」思わず我を忘れてニコルは叫んだ。

「旅人と同じだよ。谷底で景色についてたずねたとして、遮るもののない山のてっぺんで同じ質問をしてご覧よ。僕にも前より開けた景色が見えたんだ」

「だから結婚する気がないの?」

「結婚しようなんて一言も言わなかったじゃないか」とジルベールは切り捨てた。

「何よ! 何なのよ!」苛立ちが爆発した。「ニコル・ルゲとセバスチャン・ジルベールの何処が違うっていうの」

「人間はみんな同じで、違いなんてないよ。でもね、もともとの素質やその後の学習によって、いろんな実力や才能が身につくんだ。少なからず能力が伸びるにつれて、一人一人の差は開いていく」

「あたしより成長したから、あたしから離れてくって言いたいの?」

「そうだよ。理屈では呑み込めなくても、もうわかってるんだよね」

「ええそうね! わかってますとも」

「ほんとう?」

「あなたが不実な人だってことをね」

「そうかもしれない。人は欠点を持って生まれてくるけど、意思の力でそれを正すものなんだ。ルソーだってそうだよ、生まれた時には欠点があった。でもそれを正したんだ。僕もルソーのようになる」

「冗談でしょ! どうしてこんな人を愛してたんだろう?」

「愛してなんてなかったんだよ」ジルベールの答えは冷たかった。「僕といるのが楽しかっただけさ。ずっとナンシーにいたんだもの、会ったことのあるのは滑稽な神学生とおっかない軍人だけだったんだろう。僕らは若くて、無智で、刹那的だった。自然の囁く声に抗えなかった。二人ともその気になって血が火照り出したから、不安を抑える薬を見つけようと本を読んだら君はますます不安がった。二人で本を読んでいるうちに――覚えてるよねニコル、君が折れたわけじゃないし、僕が誘ったわけでも、君が拒んだわけでもない。それまで知らなかった秘密の言葉を見つけただけだったんだ。ひと月かふた月の間は、言葉は確かに存在してた。幸せという言葉がね! 充実したふた月だったなあ。生き甲斐があった。だけどさ、お互いに相手のおかげでふた月のあいだ楽しかったからって、お互いに相手のせいで永遠に苦しまなきゃならないっていうの? ねえニコル、幸せをやり取りしてそんな約束をするなんて、自由意思の放棄だもの、そんなの馬鹿げてるよ」

「そんな仕打ちをするのも哲学のうち?」

「そのつもりさ」

「じゃあ哲学者には越えちゃいけない聖域なんてないんだ?」

「そんなことはない。理性だよ」

「そういうことなら貞節を守っていたかった……」

「うん、でももう遅すぎるよ」

 ニコルは青くなったり赤くなったり、さながら水車に押し流されて血が巡回しているようであった。

「あなたの言い分によれば貞節なはずなのにね。心で決めたことに忠実なら、貞淑な女のままでいられる、そう励ましてくれたじゃない――覚えてないの、あの結婚についての持論を?」

「僕は『一つになる』って言ったんだ。誰かと一緒になる気なんて絶対にないからね」

「一生結婚するつもりはないの?」

「うん。科学者や哲学者でいたいから。科学には精神的な独立が必要で、哲学には肉体的な独立が必要なんだ」

「ジルベールさん、あんた惨めよ。あたしの方が人間として何倍も上じゃない」

「もういいだろう」ジルベールが立ち上がった。「時間がもったいない。非難の言葉を口にするのも、それを耳にするのも、時間の無駄だよ。君は恋に恋してただけだ、そうだろ?」

「かもね」

「とうとう言ったね! これで僕には不幸に付き合わされる謂われなんてない。君はしたいことをした、それだけだ」

「糞ったれ。それで誤魔化したつもり? 強がってるふりをして!」

「強がってるのは君じゃないか。何が出来る? 嫉妬でおかしくなってるんだよ」

「嫉妬! あたしが?」ニコルはおこりに憑かれたような笑いを立てた。「勘違いしないでよ。いったい何に嫉妬するっての? そういうのはあたしよりご立派な何処かの町娘の話でしょ。あたしにお嬢様のような白い手があったら――働かなくて済む日が来たらいずれそうなるでしょうけど――そしたらお嬢様くらいにはなれると思わない? この髪を見てよ(と言ってニコルは髪を解いた)、外套のように全身を覆えるんだから。痩せっぽちなんかじゃない、すっかり大人の女でしょ(と両手で身体を締めつけた)。真珠みたいに綺麗な歯をしているし(枕元に掛けてある鏡に歯を映した)。微笑んだり流し目をくれたりしようものなら、その誰かさんは真っ赤になって緊張で震えながら身をよじらせるの。あなたが初めての人、それは本当のこと。でも色目を使った最初の男ってわけじゃない。いい、ジルベール?」ひくひくと浮かべる笑みが、凄んで見せる以上に恐ろしい凄みを与えていた。「可笑しい? お願いだからあたしを敵に回さないで。内容は忘れたけど、母が戒めを説いてくれたことはぼんやりと覚えてる。子供の頃に唱えてた味気ない祈りの文句も。そんな細い小径だけど今はまだそこに留まっていられるの。足を踏み外したりさせないで。あたしが一旦その気になったら、ただじゃ済まないからね。困ったことになるのはあんただけじゃない、あんたのせいでほかの人にも迷惑がかかるんだ!」

「たいしたもんだ。偉くなったもんだね。僕も一つ学んだよ」

「何?」

「いま僕が結婚しようと言ったら……」

「そしたら?」

「そしたらね、断るのは君の方だってことさ!」

 ニコルは考え込んだ。拳を固めて歯噛みした。

「どうやらあんたの言う通りだわ。どうやらあたしにも、あんたの言ってた山ってのを登り出せそう。どうやらあたしにも、開けた景色を目に出来そう。どうやらあたしにも、一廉の人間になる巡り合わせがあるみたい。科学者や哲学者の妻になるんじゃもったいないよね。ほら、梯子のところに戻んなよ。首の骨を折らないように気をつけてね。その方が世の中のためだと思い始めて来たけど。あなたにとってもその方がいいんじゃない」

 と言って背を向けると、ジルベールなど無視して服を脱ぎ始めた。

 ジルベールはなおもぐずぐずと躊躇っていた。何せ怒りの情感と嫉妬の炎に火照ったニコルは、思わず見とれるほどに美しかったのだ。だがジルベールの心は決まっていた。ニコルとは縁を切る。愛も夢も同時にぶち壊されかねない。我慢しろ。

 しばらく経ち、音のしないことに気づいてニコルが振り返ると、部屋は空っぽだった。

「行ちゃった!」

 と呟いて窓に向かったが、何処も彼処も闇に包まれており、明かりは見えなかった。

「あとはお嬢様か」

 忍び足で階段を降り、アンドレ嬢の部屋の扉に耳を近づけた。

「あら一人で眠ってる。また明日。お嬢様が愛しているかはどうかすぐにわかるわ!」


Alexandre Dumas『Joseph Balsamo』Chapitre X「Nicole Legay」の全訳です。初出『La Presse』紙、1846/06/12、連載第11回。


Ver.1 08/08/16
Ver.2 16/03/01
 


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[訳者あとがき]

・08/08/02 ▼拙訳では「ニコル・ルゲ」と表記していますが、創元推理文庫『王妃の首飾り』では「ニコール・ルゲ」、種村季弘『山師カリオストロの大冒険』では「ニコール・ルゲェ」と表記されてます。好みの問題で、たいした理由はありません。次回更新は8/16(土)前後の予定です。

・08/08/16 ▼ニコルが「結婚」と言い、ジルベールが「結束」と言った場面があります。ここは原文ではそれぞれ「les mariages」と「les unions」。どちらも「結婚」という意味があるので、ニコルが勘違いしたというわけです。日本語ではいまのところうまく訳せませんでした。適訳を思いついたら改訳します。次回更新予定は8/30(土)頃。

 

[更新履歴]

・16/03/01 「ニコルをホールから引っ張った」→「ニコルをホールまで引っ張って行った」に訂正。

・16/03/01 後ろ手に扉は開けませんよね。「後ろ手に扉を開けて花壇に連れ出した」→「花壇に連れ出して後ろ手に扉を閉めた」に訂正。

・16/03/01 「j'ai peur pour vous.」 「あなたが怖い」ではなく「あなたが心配だ」なので、「僕が怖いのはニコル、君だよ」→「君の立場が危うくなるのを恐れているんだよ」に訂正。

・16/03/01 「jésuites(イエズス会士)」は「清廉潔白」ではなく「偽善者」である。「哲学者ってときどき清廉居士《イエズス会士》だよね」→「哲学者ってたまに狡賢い」に訂正。

・16/03/01 「il y a la raison.」。「それには理由があるんだ」→「理性だよ」に訂正。

・16/03/01 ジルベールがニコルをたぶらかす場面、「あなたには貞淑だったのに。今も貞節なままだよって慰めてくれたでしょ、心が決めたことに誠実ならそれでいいって言ったじゃない。覚えてないの? あの結婚についての説明を」→「あなたの言い分によれば貞節なはずなのにね。心で決めたことに忠実なら、貞淑な女のままでいられる、そう励ましてくれたじゃない――覚えてないの、あの結婚についての持論を?」に訂正。

・16/03/01 ジルベールは「unions」を「性交」の意味で用いたのに、ニコルは「結婚(mariages)」の意味で受け取った。「僕は結束って言ったんだ。結婚する気はないからね」→「僕は『一つになる』って言ったんだ。誰かと一緒になる気なんて絶対にないからね」
 

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