この翻訳は翻訳者の許可を取ることなく好きに使ってくれてかまわない。ただし訳者はそれについてにいかなる責任も負わない。
翻訳:東 照(あずま てる)
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ジョゼフ・バルサモ

アレクサンドル・デュマ

訳者あとがき・更新履歴
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第十五章 魔術

 バルサモは恭しくお辞儀をした。だがすぐに智性と表情に富んだ顔を上げ、無礼にはならぬよう王太子妃にじっと目を注ぎ、問いただされるのを静かに待っていた。

「そなたがタヴェルネ殿のお話ししていた方なのであれば」マリ=アントワネットが言った。「前へ。どのような魔法を使うのか見てみたい」

 バルサモはもう一歩前に出ると、改めて一拝した。

「ご専門は予言だとか」王太子妃がバルサモを見る目つきには、恐らく思っている以上に好奇心が浮かんでいた。王太子妃はミルクを一口すすった。

「専門にしているわけではございませんが、予言はいたします」

「わたしたちを照らしているのは信仰の光ではありませんか。カトリックの神秘を措いて、ほかに神秘や謎の入り込む余地などありません」

「それらは確かに敬虔なものです」バルサモはひたむきに答えた。「ですがこちらのロアン枢機卿が仰ったように、枢機卿のお歴々にとっては、敬意を払うべき神秘はそれだけではないようですな」

 枢機卿は身震いした。誰にも名告ってはいないし、誰からも呼ばれてはいないのに、この男は名を知っていた!

 マリ=アントワネットはこれにはまるで気づかなかったらしく、話を続けた。

「では少なくとも、議論する余地のない絶対的なものだとはお認めになりますのね」

「殿下」バルサモの口調からは敬意こそ失われていなかったが、有無を言わせぬところもあった。「信仰に劣らず確かなものもございます」

「曖昧な言い回しですね、魔術師殿。わたしの心はもうすっかりフランス人ですが、

「謎めいたお口の利き方をなさるのね、魔術師殿。わたしの心はもうすっかりフランス人ですが、頭はまだ追いついていません。ですから言葉のニュアンスがよくわからないのです。そのうちビエーヴル殿が教えて下さるとは聞きました。でもそれまでは、お話ししたいことがわたしにもわかるように、出来るだけ易しい言葉を使って下さるようお願いしないといけませんの

「失礼ですが」バルサモはぞっとするような笑みを浮かべて首を振った。「謎めいていてもお許し願いたい。偉大な姫君に未来をお知らせせねばならぬとしたら、心苦しくてならないのです。何分、お望みの未来とは違っておりましょうから」

「聞き捨てなりませんね! 未来を占って欲しいと頼んでもらいたくて、そんな思わせぶりを言うのですか」

「とんでもない。どうか頼んで下さいますな」バルサモは冷やかに答えた。

「勿論ですとも」王太子妃は笑って答えた。「だって、頼んだら困るんじゃありません?」

 だが王太子妃の笑いに廷臣たちの笑いがこだますることはなかった。目下注目の的である怪人の威力に誰もが当てられていたのだ。

「さあ、正直に仰いな」王太子妃が言った。

 バルサモは無言のまま一礼した。

「でもわたしの来ることをタヴェルネ殿に予言したのはそなたなのでしょう?」マリ=アントワネットの仕種には苛立ちが見えていた。

「仰る通りでございます」

「男爵、予言の方法は?」どうやら他人の声を聞きたくて堪らなくなったのだろう。奇妙な会話を始めたのをどうやら悔やんではいたものの、打ち切る気もないようだった。

「それが殿下、驚くほど簡単でして、水の入ったコップを覗き込んだだけでございました」

「本当ですか?」再びバルサモにたずねた。

「確かです」

「それが魔術書? こちらはシロのようね、こんなに澄み切ってクレールるんですもの。そなたの言葉も同じくらいはっきりクレールしていればいいのだけれど!」

 枢機卿が微笑んだ。

 男爵が一歩前に出た。

「妃殿下にはビエーヴル殿から学ぶことなど一切ございませんぞ」

「まあ! おからかいになって。いっそもっと言って下さらない? 気の利いたことを言ったつもりはなかったのに。バルサモ殿の話に戻りましょう」

 マリ=アントワネットは、抗い難い力に引きつけられるように、知らず知らずバルサモの方を向いていた。ちょうど我々が不幸の現場に引き寄せられるのに似ていた。

「コップの中に男爵の未来を見ることが出来たのなら、デカンタの中にわたしの未来を読み取ることは出来ませんの?」

「造作のないことでございます」

「ではなぜ先ほどは拒んだのです?」

「未来とは不確かなもの。しかも見えたのが雲のようなものとあらば……」

 バルサモは言いよどんだ。

「どうしました?」

「さよう、以前に申し上げたように、妃殿下のお心を痛ませるのには耐えられませぬ」

「以前に会ったことがありましたか? 何処でお会いしたのでしょう?」

「お会いした時節には妃殿下はまだ幼く、故国のご尊母のおそばにいらっしゃいました」

「母に会ったと?」

「輝かしく勇ましい女王様でございましたな」

「皇帝、です」

「女王と申したのは私の気持と見解によるもの、ですが……」

「母を当てこするおつもりですか!」王太子妃の眉が上がった。

「どんなに優れた心にも弱みはございます。とりわけ子供の幸せに関わることとあっては」

「マリア=テレジアにはたった一つの弱みもないことは、歴史が教えてくれるでしょう」

「マリア=テレジア皇后陛下と妃殿下と私しか知らぬことは、歴史にも知る術がないでしょうからな」

「わたしたち三人だけの秘密があると?」王太子妃は冷やかな笑みを浮かべてたずねた。

「さよう、私たち三人の」バルサモは飽くまで穏やかだった。

「秘密とは?」

「口にしてしまっては、もはや秘密ではありません」

「構いません。いいから仰いなさい」

「妃殿下がお望みなのですな?」

「その通りです」

 バルサモは一礼した。

「シェーンブルン宮殿には、磁器の間(cabinet de Saxe)と呼ばれる、見事な陶磁器を収める部屋がございました」

「ええ」

「そこはマリア=テレジア皇后陛下が私室としてお使いでした」

「ええ」

「内密の手紙を書くのは決まってその部屋でしたな」

「ええ」

「手紙を書くのは、ルイ十五世陛下からフランツ一世陛下に贈られた、ブールの手になる素晴らしい机の上でした」

「ここまでの話に間違いはありません。でもみんなそのくらいは知っておりません?」

「お気が早い。ある日の朝七時頃、陛下はまだお寝みになっていらっしゃいましたが、妃殿下は専用の扉から部屋にお入りになりました。何せ皇后陛下は、妃殿下が大のお気に入りでございましたから」

「それで?」

「妃殿下は机に向かわれました。思い出していただきたいのですが、これがちょうど五年前のことでございます」

「続けなさい」

「妃殿下が机に向かわれますと、陛下が前夜書いたばかりの手紙が広げてあったのです」

「そうですか?」

「そうでした! 妃殿下は手紙をお読みになりました」

 王太子妃の顔がわずかに赤く染まった。

「お読みになって、どこか気になる表現があったのでしょう、ペンを取ってお手ずから……」

 王太子妃はやきもきしているようだった。バルサモが続けた。

「三語に線を引きました」

「その三語とは?」王太子妃がすかさずたずねた。

「手紙の冒頭でございましたな」

「文字のあった場所を聞いているのではありません。単語の意味を聞いているのです」

「言うなれば手紙の受取相手に対する親愛の現れと言えるでしょうか。だからこそそれが先ほど申し上げた弱みであるのです。少なくともある状況下ではご尊母も非難を免れますまい」

「その三語を覚えているのですか?」

「覚えております」

「暗誦できますか?」

「一語も違わず」

「では暗誦なさい」

「口に出せと?」

「そうです」

親愛なる貴女マ・シェル・アミ

 マリ=アントワネットは真っ青になって口唇を咬んだ。

「受取人の名前も口にした方が?」

「なりません。紙に書きなさい」

 バルサモは懐から金の留め金のついた手帳を取り出し、金飾り付きの鉛筆で文字を書きつけ、破り取ると、一揖して王太子妃に差し出した。

 マリ=アントワネットは紙片を受取りそれを読んだ。

『手紙の宛先はルイ十五世の愛妾、ポンパドゥール侯爵夫人

 王太子妃は顔を上げ、呆気に取られてバルサモを見つめた。言葉には淀みがなく、声には混じり気も揺らぎもなく、挨拶こそへりくだっていたものの、自分がこの男に取り込まれているようでならなかった。

「すべて間違いありません。どうやって突き止めたのか見当も付きませんが、嘘はつけませんので改めてはっきり申し上げましょう。間違いありません」

「では。退がっても構いませんな。種も仕掛けもないことはおわかりいただけたかと存じます」

「なりません」気を悪くして王太子妃は答えた。「知れば知るほど予言の内容が気になります。そなたが話してくれたのは過去のことばかり。わたしの知りたいのは未来なんです」

 王太子妃は熱に浮かされたようになって言葉を口にしながらも、それを周りの人間には悟られるまいと懸命になっていた。

「お安い御用。ですが今一度お考え直しをしていただけませぬか」

「二度とは繰り返しません。よいですか、『わたしの望み』は既に一度伝えました」

「せめてお伺いを立ててはなりませんか」頼み込むような口調だった。「予言を妃殿下にお伝えしてもよいものやら」

「瑞兆でも凶兆でもよいから知りたいというのがわかりませんの?」マリ=アントワネットの声には苛立ちが増していた。「瑞兆なら信じません。ごますりかもしれませんから。凶兆なら警告だと受け止めてじっくり検討してみるつもりです。どちらであろうと悪いようにはしません。さあ」

 この最後の一言には、口答えも時間稼ぎも許さぬ響きがあった。

 バルサモは首の細く短い丸型のデカンタを手に取り、それを金の器(coupe)に乗せた。

 そうして陽射しに照らされると、ガラス壁の螺鈿細工や真ん中の金剛石に反射されて黄褐色の輝きを放った水が、占い師の目には何らかの意味を運んでいるらしかった。

 口を利く者はいない。

 バルサモが水晶壜を持ち上げ、目を凝らして眺めてから、首を振ってテーブルの上に戻した。

「どうしました?」王太子妃がたずねた。

「口には出来ません」

 王太子妃の顔にははっきりとこう書いてあった。――安心なさいな。口をつぐみたい人間の口を開く方法なら知っているもの。

「言うことなんて何もないからじゃありませんの?」

「王家の方々(princes)には申し上げられぬことゆえ」バルサモの声は王太子妃の命令さえ頑として拒んでいた。

「でしたら、口にせずに伝えて下さいな」

「ならば障碍がない、とは申せません。むしろその逆」

 王太子妃は嘲るような笑みを浮かべた。

 バルサモは悩んでいるようだった。枢機卿が面と向かって笑い出し、男爵がぶつぶつ言いながら前に出た。

「結構、結構。魔術師殿は力を出し切ってしまわれた。時間切れですわ。もうほかに出来ることと言えば、東洋のお伽噺のように、ここにある金のコップ(ces tasses)を葡萄の葉に変えることくらいでしょうかな」

「ただの葡萄の葉の方がよほどいいわ。こんな風に食事を披露したのもわたしに引き合わせてもらおうとしただけなのでしょう」

「殿下」いよいよ青ざめてバルサモは答えた。「私からお願いしたのではないことをどうかお忘れなきよう」

「お目に掛かりたいと求められることくらい、見抜いていらっしゃったのでしょう」

「どうかお許し下さい」アンドレが小声で口を挟んだ。「よかれと思って行動なさったのです」

「ではわたしも、この者の行動は誤っていたと申し上げておきましょう」王太子妃はバルサモとアンドレにしか聞かれぬように即答した。「ご老人を虚仮にして名を成そうなど無理な話。紳士からいただいた錫のコップの中身は飲み干せても、山師が差し出した金のコップの中身をフランス王太子妃に飲ませることなど出来ませんよ」

 バルサモは蝮か何かに咬まれたように震え、背筋をぐっと伸ばした。

「殿下」という声も震えていた。「是が非でも御身の運命をお知りになりたいと仰せであるからには、私としてもお伝えする覚悟は出来ております」

 バルサモの口調が強く激しいものだったため、居合わせた者たちは血管に冷たいものが流れるのを感じた。

 大公女の顔色が目に見えて変わった。

「Gieb ihm kein Gehœr, meine Tochter(聞いてはなりませぬ、お嬢様)」老婦人がドイツ語でマリ=アントワネットに話しかけた。

「Lass sie hœren, sie hat wissen wollen, und so soll sie wissen(聞かせてやれ、知りたがったのは殿下だし、知るべきなのだ)」バルサモもドイツ語で言い返した。

 異国の言葉を解す者はほとんどおらず、ますます事態を謎めかすことになった。

 王太子妃は老婦人の忠告をはねつけた。「話をさせましょう。ここでやめるよう命じては、わたしが恐れていると思われます」

 この言葉を耳にしたバルサモの口元に、人知れず黒い笑みが浮かんだ。

「思っていた通り」バルサモが呟いた。「から元気だな」

「さあ仰いなさい」

「ではやはり口にすることをお望みなのですな?」

「一度決めたことを翻したりはしません」

「では殿下にだけ」

「よいでしょう。最後まで付き合うつもりです。皆の者、退がりなさい」

 それとわかるように合図すると、全員が命令に従った。

「内謁を得るにしては月並みな手口じゃありませんの?」王太子妃はバルサモに向かって言った。

「お手柔らかに願えますか。私などは、殿下に神の啓示を知らせるだけの道具に過ぎません。運命にお逆らいになったところで、報いは訪れます。よくしたもので、因果は巡るように出来ているのです。私はただその巡り合わせをお伝えするだけ。躊躇ったからといって責めるのもおやめ下さい。凶事をお伝えするほかない不孝から免れられるものなら免れたいと思うのが人情」

「では不幸が待ち受けていると?」バルサモの恭しい言葉や覚悟を決めた様子に、王太子妃も態度を和らげた。

「はい、殿下。それもただならぬ不幸が」

「すべて仰いなさい」

「善処いたします」

「というと?」

「おたずね下さい」

「では初めに、わたしの家族は幸せになれますの?」

「どちらのです? お出になった方か、それともお向かいになる方でしょうか?」

「あら。実の家族です。母マリア=テレジア、兄ヨーゼフ、姉カロリーナ」

「殿下の不幸はご家族にまでは及びません」

「ではその不幸はわたし一人に降りかかるのですね?」

「殿下と新しいご家族に」

「もっと詳しく教えてはもらえませんの?」

「かしこまりました」

「王家には三人の王子がいますね?」

「確かに」

「ベリー公、プロヴァンス伯、ダルトワ伯」

「お見事です」

「三人の星回りは?」

「三人とも世をお治めになります」

「ではわたしには子供が出来ないのですね?」

「お子様には恵まれるでしょう」

「ならば、世継ぎが生まれないのですか?」

「お子様の中にはご世継ぎもいらっしゃいます」

「では先立たれると?」

「お一人の薨去を悼み、お一人のご生存を悼むことになるでしょう」

「夫からは愛してもらえるのですか?」

「ご寵愛なされます」

「存分に?」

「たいそうに」

「では夫にも愛され家族にも支えられているというのに、いったいどんな不幸が待ち受けているというのです?」

「どちらもいずれなくなります」

「民衆の愛と支えが残っていましょう」

「民衆の愛と支えとは!……さしずめ凪の海と言えましょうが……殿下は嵐の海をご覧になったことはございますか?……」

「善行を積み、嵐の起こるのを防ぎましょう。起こってしまったなら、嵐と共に立ち上がるまでです」

「波が高まるにつれ、波の抉る淵も深まるもの」

「神が見守って下さいます」

「神がご自身で罪を宣告した者の首を守ることはありません」

「何を言っているのです? わたしが王妃にはならないと?」

「むしろそうであってくれれば!」

 王太子妃は冷笑を浮かべるだけであった。

「お聞きのうえで思い起こして下さい」

「聞いております」

「フランスで最初にお寝みになった部屋のタペストリーにお気づきになりましたか?」

「覚えています」王太子妃は身震いした。

「その絵の意味するものは?」

「虐殺……幼児の虐殺でした」[*1]

「虐殺者たちの顔が頭から離れないのではありませんか?」

「実はそうですの」

「結構! 嵐の最中のことで、何かお気づきになりませんでしたか?」

「雷鳴が左手で轟き、木が倒れて馬車が潰されそうになりました」

「それが兆しです」

「凶兆ということですか?」

「ほかに考えようはございません」

 王太子妃はうつむいて無言で考え込んでいたが、ほどなくして顔を上げた。

「夫はどのように崩ずるのです?」

「首をなくして」

「プロヴァンス伯は?」

「足をなくして」

「ダルトワ伯は?」

「王宮をなくして」

「わたしは?」

 バルサモは首を振った。

「言いなさい。言うのです!」

「断じてお伝えすることは出来ません」

「わたしが言えと言っているのです!」マリ=アントワネットは身を震わせて叫んだ。

「お許しを」

「仰いなさい!」

「出来ませぬ」

「仰いなさい」マリ=アントワネットが脅すように繰り返した。「さもなくば、何もかも馬鹿げた茶番に過ぎなかったと判断しますよ。気をつけることです。マリア=テレジアの娘をこんな風に誑かすなど。女を……三千万の人間の命をこの手に預かる女を誑かすなど」

 バルサモは口を閉じたままだった。

「わかりました。それ以上のことは知らないのですね」王太子妃は馬鹿にしたように肩をすくめた。「それとも、想像力が尽きたと言うべきかしら」

「私は何もかも知っております。殿下がどうしてもと望まれるのなら……」

「その通り。望んでいるのです」

 バルサモは再びデカンタを金の器に乗せた。そして岩を使って洞窟を模してある奥の暗がりに器を置くと、大公女の手を取ってその穹窿の下まで連れて行った。

「覚悟は出来ていらっしゃいますな?」バルサモは、強引な行動に怯えている王太子にたずねた。

「ええ」

「ではひざまずいて下さい、殿下。これから目にする恐ろしい結末を免れるため、神に祈らねばなりません」

 王太子妃は諾々と従い、両膝の力を抜いた。

 バルサモが丸い水晶の器に棒で触れると、器の中央に何やらはっきりしない恐ろしげな影が浮かび上がったものとおぼしい。

 王太子妃は立ち上がろうとしてよろめき、そのままくずおれ、恐ろしい叫びをあげて気を失った。

 男爵が駆けつけてみると、王太子妃の意識がない。

 意識を取り戻したのはしばらく経ってからであった。

 王太子妃は記憶を探ろうとでもするように、額に手を遣った。

 それから不意に叫んだ。

「デカンタ!」声は言い表せぬほどの恐怖に染まっていた。「デカンタを!」

 男爵がデカンタを差し出したところ、水は澄み切って曇り一つなかった。

 バルサモは姿を消していた。


Alexandre Dumas『Joseph Balsamo』Chapitre XV「Magie」全訳です。初出『La Presse』紙、1846/06/18、連載第16回。


Ver.1 08/11/08
Ver.2 12/09/19
Ver.3 16/03/01


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[訳者あとがき]

 ・08/11/08 ▼次回更新は08/11/22(土)予定。第十五章の続きと第十六章にも進めるかな?

 ・08/11/22 ▼一気に第十六章まで終わりました。

 ▼覚書を少し。「ベリー公」とは後の十六世のこと。

 ▼予言の解説をするのは野暮ですが。「足をなくして」というのは、ルイ十八世(プロヴァンス伯)は持病が悪化したため晩年は車椅子生活だったことを指す。

[更新履歴]

・12/09/19 「魔術書をそんなところに? それでは罪にはなりませんね。はっきり答えることも出来るんじゃありませんの!」→「魔術書をそんなところに? それでは無罪ね。そんなに曇りなく澄んでいるんですもの!」

・16/03/01 「un magnifique bureau de Boule」。「Boule」とは「玉」のことではなく、家具師の「ブール Andre-Charles Boulle」のことであろう。「撞球の間」→「ブールの手になる素晴らしい机」に訂正。

・16/03/01 「お気の毒ですがお一人は薨去なさり、お一人はご存命です」→「お一人の薨去を悼み、お一人のご生存を悼むことになるでしょう」に変更。

[註釈]

*1. [幼児の虐殺]。 ▼「幼児の虐殺(massacre des Innocents)」とは、救世主の誕生を恐れたヘロデ王による幼児虐殺を指す。ただしツヴァイク『マリー・アントワネット』によれば飾られていたタペストリーの図柄は、イアソンに裏切られたメディアの復讐というギリシア神話の一場面であったという。[]
 

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