この翻訳は翻訳者の許可を取ることなく好きに使ってくれてかまわない。ただし訳者はそれについてにいかなる責任も負わない。
翻訳:東 照
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ジョゼフ・バルサモ

アレクサンドル・デュマ

訳者あとがき・更新履歴
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第二十一章 新たな登場人物がお目見えする次第

 馬輿うまかごが登っている坂の上には、馬を替える予定のラ・ショセの町が見えていた。

 藁葺き屋根のこぢんまりとした家が建ち並んでいたが、住民たちが好き勝手に建てたものだから、道の真ん中や森の外れ、泉のほとり、なかんずく前述した(マルヌ)川の流れ沿いに集中していた。川には板が架けられ、各家庭の軒先に渡されていた。

 だが差し当たってこの小さな町で特筆すべきは、一人の人間である。至上命令でも受けたのか川下の方で道の真ん中に突っ立ち、その間中、本通りを凝視していたかと思えば、お次は家の鎧戸に繋がれているふさふさとした葦毛の馬を見つめていた。その馬は焦れたように頭をぶつけて板戸を揺らしていたが、背には鞍が置かれて後は主人を待つばかりとあらばそれも致し方ないだろうか。

 時折その人物は路上を見張るのに飽きたように、馬に近づいて、慣れた手つきでどっしりとした臀部に逞しい手をかけたり、指先ですらりとした脚を突っついたりしていた。それに苛立った馬の繰り出した足蹴をかわすと、見張り場所に戻って無人の道路を睨み続けていた。

 結局何一つ見えないため、男は鎧戸を敲くことにした。

「誰かいないか!」

「どちらさんで?」男の声がして、鎧戸が開いた。

「旦那、その馬が売りものなら、買手は見つかったぜ」

「ご覧の通り尻尾に藁なんかついてませんよ」と言って、農夫らしき男は開いた鎧戸をまた閉じてしまった。[*1]

 この男、年の頃はおよそ四十、長身にして逞しく、赤ら顔、青い髭、幅広なレースの袖口の下からはごつごつとした手が見える。飾り紐のついた帽子を斜めにかぶっているのは、田舎の軍人がパリっ子どもを驚かせてやろうとでもしているようだ。[*2]

 三度目を敲いたところで我慢にも限度が来た。

「随分と冷たいじゃないか。開けないのなら、今すぐぶち破ってやるぞ!」

 この脅し文句が効いたのか、再び鎧戸が開いて先ほどの顔がまた現れた。

「だが馬は売りもんじゃないと言いましたよ。まったく! それで充分でしょうが!」

「こっちは馬が欲しいと言ったんだがね」

「馬が欲しいんなら宿駅で手に入れることです。陛下の厩舎のが六十頭はいるでしょうから、よりどりみどりだ。だが一頭しか持ってない人のことはそっとしといて下さい」

「繰り返すが、欲しいのはその馬なんだ」

「冗談言っちゃいけません。アラブ馬ですよ!」

「それを聞いてますます買いたくなった」

「買いたくなるのは構いませんがね……残念ながら売りもんじゃないんですよ」

「誰の馬なんだ?」

「随分と詮索好きですな」

「そっちこそ随分と口が堅いじゃないか」

「いやはや! うちにお泊まりの方のものなんですよ。それは子供のようにこの馬を可愛がってますんでね」

「その人と話がしたい」

「眠ってらっしゃいます」

「男か女か?」

「女の方です」

「よしわかった。その女に伝えてくれ。五百ピストール欲しければ、この馬と交換しよう」

「何ですって!」農夫が目を丸くした。「五百ピストール! そりゃ大金だ」

「何ならこうも言ってくれ。この馬を欲しがっているのは国王だ」

「国王が?」

「国王ご自身が」

「でもまさか、あなたは国王ではないでしょうが?」

「そうさ。だが代理なのだ」

「国王の代理ですか?」農夫は帽子を脱いだ。

「早く頼む。国王はお急ぎだ」

 そう言ってその偉丈夫(l'hercule)は路上に目を向けた。

「そういうことならご安心を。ご婦人の目が覚めたら一言申しておきましょう」

「そうか。だが時間がないんだ。目が覚めるまでは待てない」

「ではどうしろと?」

「馬鹿だな! 起こすんだ」

「とんでもない!」

「そうか、では自分で起こすことにしよう。待ってろ」

 国王陛下の代理を自称する男は窓に近づき、二階の鎧戸を、手にした鞭で敲こうとした。銀の握りのついた乗馬用の長い鞭だった。

 だが掲げられた手は鎧戸をかすりさえしないで降ろされた。ちょうどその時、輿が見えたのだ。疲れ切った三頭の馬が最後の追い込みに入っていた。

 男は扉の標識を難なく見定めて、馬車の前に飛び出した。あれほど欲しがっていたアラブ馬に匹敵する速さだった。

 この馬車こそが、ジルベールの守護天使を乗せた馬輿であった。

 宿駅まで馬が持つかどうか危ぶんでいた馭者は、しきりに合図している人物を見つけると喜んで馬車を停めた。

「ション! ション!」男が叫んだ。「やっと来たか? ご苦労だったな!」

「あたしよ、ジャン」風変わりな名で呼ばれた乗客が答えた。「ここで何をやってるの?」

「参ったな! 待ってたんだよ」

 偉丈夫は踏段に飛び乗り、扉を開けて長い腕で婦人を抱きしめ口づけを浴びせた。

 と、そこでジルベールに気づいた。二人の人物が読者もご覧の場面を演じている間、ジルベールとしてはまったくそこに入り込む余地もないため、骨を奪われた犬のような不満顔をしていた。

「おや。何を拾って来たんだ?」

「哲学者ちゃんよ。すごく面白いんだから」ション嬢には保護した青年を傷つけるつもりやおだてるつもりがあったわけではない。

「何処で見つけたんだ?」

「道の上よ。でもそんなのどうでもいいわ」

「そうだった」ジャンと呼ばれた人物が答えた。「ベアルン伯爵夫人は?」

「終わった」

「終わったって?」

「ええ、来てくれるはず」

「来てくれるのか?」

「ええ、そう、そうよ」ション嬢はうなずいた。

 この場面は相も変わらずクッションの効いた輿の踏段で演じられていた。

「どんな話を聞かせたんだ?」ジャンがたずねた。

「辯護士のフラジョ(Flageot)の娘だって言ったの。ヴェルダン(Verdun)を通って、審問日が決まったことを父の代理で伝えに来たって」

「それだけ?」

「まあね。後は、審問日が決まった以上はパリにいなければならないって言っただけ」

「それで夫人はどうした?」

「ちっちゃな灰色の目を真ん丸にして嗅ぎ煙草を喫うと、フラジョ先生は世界一の人間だって断言してから、出かける準備をさせてたわ」

「よくやった、ション! これでおまえも特命大使だ。だが差し当たっては朝飯(déjeunons-nous ?)にしないか?」

「そうね。飢え死にしかけた可哀相な子もいることだし。でものんびりとはしてられないわ」

「なぜだ?」

「すぐそこまで来ているからよ!」

「伯爵夫人の婆さまがか? こっちの方が二時間も先に出ているんだから、モープー殿に話す時間はあるさ」

「違う。王太子妃よ」

「馬鹿な! 王太子妃はまだナンシーにいるはずだ」

「ヴィトリーにいるの」

「ここから三里のところにか?」

「まさしくそうよ」

「畜生! 話は変わった! おい馭者」

「どちらまで?」

「宿駅だ」

「旦那さまはお乗りになるんで、それともお降りになるんで?」

「ずっとここだ。進め!」

 男を踏段に乗せたまま馬車は走り出した。五分後、馬車は宿駅の前で停まった。

「早く早く早く!」ションが叫んだ。「骨付き肉、鶏肉、卵、ブルゴーニュ・ワイン、上等なのはいらないから(la moindre chose)。今すぐまた馬車を出さなきゃならないの」

「失礼ですが」宿の主人が戸口から出て来た。「すぐに出発なさるんでしたら、そちらの馬もご一緒になりますが」

「馬も一緒にだって?」ジャンが踏段からどさりと飛び降りた。

「さようで。そちらさんが乗って来た馬ですよ」

「とんでもない」馭者が言った。「もう二駅分も走ってるんだ。こいつらがどんな状態か見るといい」

「ほんと。これ以上走るのは無理ね」

「だったら、新しい馬を手に入れれば済む話だ」

「手前どもにはもうございません」

「おい! ないわけがないだろう……決まりがあるはずだ!」

「はい、決まりによれば、手前どもの厩舎には十五頭いなくてはなりません」

「それで?」

「こちらには十八頭おります」

「そんなにはいらん。三頭だけでいい」

「そうでございましょうが、生憎すべて出払っておりまして」

「十八頭すべてが?」

「十八頭すべてが」

「くたばっちまえ!」

「子爵!」婦人が声をかけた。

「ああわかってる、ション。心配しなくていい、もう落ち着くから……それでお前の駄馬はいつ戻って来るんだ?」

「旦那さま、手前にはわかりませんよ。馭者次第です。一時間か二時間ってところでしょうか」

「そうだろうな」ジャン子爵は帽子を左の耳許まで下げ、右膝を曲げて凄んだ。「おれは冗談を言わないんだ。わかってるのか? それともわからんか?」

「それは残念で相成りません。冗談を愉しまれるご気分ならよかったのですが」

「ふん、まあいい。おれが怒り出さないうちに、とっとと馬を繋ぐんだ」

「一緒に厩舎においで下さい。まぐさ棚のところに一頭でも馬がおったら、ただで差し上げますよ」

「ふざけやがって! では六十頭いたら?」

「一頭もいないのとおんなじですよ、旦那。その六十頭は陛下のお馬ですからね」

「つまり?」

「つまりですって! お貸し出来る馬はいないってことです」

「ではどうしてここに馬がいるんだ?」

「王太子妃ご一行のためです」

「何だって! 飼葉桶には六十頭の馬がいても、おれには一頭も貸せないのか?」

「ご勘弁を。ご理解いただけると……」

「一つのことしか理解できんね。おれは急いでるってことだ」

「お気の毒でございますが」

「それに」と子爵は、宿の主人が口を挟んだのも意に介さずに話を続けた。「王太子妃がここに来るのは夜中になるのなら……」

「何をお言いで……?」宿の主が目を白黒させた。

「王太子妃が到着するまでに馬が戻ってればいいんだろうと言ってるんだ」

「よもやご不遜にも……?」

「うるさい!」子爵は厩舎に足を踏み入れた。「邪魔するな。待っていろ!」

「ですが旦那さま……」

「三頭だけだ。たとい契約上その権利があったとしても、妃殿下みたいに八頭も欲しがりはしない。三頭で充分だ」

「ですが一頭もお貸し出来ませんよ!」宿の主が馬と子爵の間に割って入った。

「ちんぴらめ」子爵の顔が怒りに青ざめた。「おれが誰だか知らんのか?」

「子爵」ションが声をあげた。「お願いだから騒ぎは起こさないで!」

「そうだとも、ションション、お前の言う通りだ」子爵は少し考えてから、「よし、言葉などいらん、行動あるのみ……」

 そうして主に向かって随分と愛想のいい顔つきをして見せた。

「さてご主人。あんたには責任が及ばないようにするとしよう」

「どういうことでしょうか?」子爵のにこやかな顔を見ても、主はびくびくしたままだった。

「あんたの手は借りんよ。ここにどれも立派なのが三頭いる。こいつを貰おう」

「貰うと仰いましたか?」

「ああ」

「それを手前に責任が及ばないと表現なさるのですか?」

「そうさ。あんたがくれなかったから、こっちから貰ってやったんだ」

「そんなのは馬鹿げています」

「ふん、いいから、馬具は何処にある?」

「手は貸さんでいいぞ!」宿の主が、庭や厩で作業中の馬丁数人に声をかけた。

「やってくれるじゃないか!」

「ジャン! ジャン!」扉の窓越しにすべてを見聞きしていたションが声をあげた。「面倒ごとはやめて! 仕事の途中なんだから我慢して」

「何だって我慢できるさ。だが遅れるのだけは我慢できない」ジャンは驚くほど冷静に見えた。「だからだよ。こいつらの手伝いを当てにしていたら遅れちまうから、自分でやろうって言ってるんだ」

 口先だけではないところを見せて、ジャンは壁から馬具を三つ取り外し、順番に馬の背に取りつけた。

「お願いだからジャン!」ションが手を合わせた。「お願い!」

「間に合わせたいのか、違うのか?」ジャンが歯を軋らせた。

「それは間に合わせたいわよ! あたしたちが到着できなかったら何もかも終わりだもの!」

「よし、だったらおれのやることを止めないでくれ!」

 子爵は選り抜いた三頭の馬を輿の方に曳いて行った。

「お考え直しを」宿の主がジャンに追いすがった。「馬泥棒は大逆罪ですよ!」

「盗むんじゃない、借りるだけだ。さあ来い、坊主ども!」

 主は手綱に駆け寄った。だが手を触れることも出来ずに乱暴に押し返された。

「お兄様!」ションが叫んだ。

「そうか、ご兄弟なのか」馬車の中で寛いでいたジルベールは呟いた。

 その時、道を挟んだ向かいの農家の正面にある窓が開き、見目麗しい婦人が顔を出した。騒ぎを聞きつけて不安になったのだ。

「おや、あなたですか」ジャンが声をかけた。

「何、私?」婦人は拙いフランス語で答えた。

「お目覚めになったんですね。ちょうどいい。あなたの馬をお売りするつもりはありませんか?」

「私の馬?」

「ええ、葦毛のアラブ馬です、そこの鎧戸に繋いでいる。五百ピストールお支払いしますよ」

「この馬は売り物じゃないの」という答えとともに窓が閉められた。

「そうか、今日は運が悪い。売るのも借りるのも断られた。畜生! だが売る気はなくともあのアラブ馬を手に入れてやる。貸す気がなくともこのドイツ馬どもを乗り潰してやる。来るんだ、パトリス」

 従僕が馬車の腰掛(siège)高くから地面に飛び降りた。

「繋ぐんだ」ジャンが従僕に命じた。

「助けてくれ、お前たち!」宿の主が声をあげた。

 馬丁が二人、駆けつけた。

「ジャン! 子爵!」ションが馬車の中で暴れて、どうにか扉を開けようとしていた。「気でも違ったの? 何もかも滅茶苦茶にするつもり?」

「滅茶苦茶だって? される方じゃなくする方だといいがな。三対三だ。おい、哲学者君」と腹の底からジルベールに声をかけたのだが、呼ばれた当人は何が何だかわからずに動けずにいた。「ほら降りろ! 降りて何か動かせ。杖でも石でも拳でもいい。降りろったら馬鹿! お前は聖者の石膏像かよ」

 ジルベールはどうしていいかわからずにすがるような目をションに向けると、出された腕に引き留められた。

 宿駅の主は大声で喚きながら、ジャンが曳いている馬を引き戻そうとしていた。

 斯くして惨めで騒々しい三重奏が奏でられた。

 それでも戦いには終わりが来る。へとへとになって苦しめられていたジャン子爵が、とうとう馬の主に重い拳を一発お見舞いした。主は水たまりにぶっ倒れて、家鴨や鵞鳥が驚いて逃げ出した。

「助けてくれ! 人殺し! 人殺しだ!」

 その間も、子爵は時間の値打ちを知っているらしく、大急ぎで馬を繋いでいた。

「助けてくれ! 人殺しだ! 王の名に於いて、頼むから助けてくれ!」主は声をあげ続けた。呆然としている二人の馬丁に味方してもらおうとしたのだろう。

「王の名に於いて助けを呼んでいるのはどなたですか?」いきなり馬に乗った軍人が宿駅の庭に飛び込んで来て、事件の当事者たちの前で汗まみれの馬を停めた。

「フィリップ・ド・タヴェルネ!」ジルベールは呟くと、これまで以上に馬車の奥に縮こまった。

 ションが抜かりなくその名前を聞き取っていた。


Alexandre Dumas『Joseph Balsamo』Chapitre XXI「Où l'on fait connaissance avec un nouveau personnage」の全訳です。初出『La Presse』紙、1846/06/24、連載第22回。


Ver.1 09/01/31
Ver.2 16/03/16


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[訳者あとがき]

 ・09/01/31 ▼次回は02/14(土)ごろ更新予定、「第22章 子爵ジャン」です。

[註釈]

*1. [尻尾に藁なんか]。「尻尾に藁がない=売り物ではない」の意。その馬が売り物であることを示すために、尻尾にねじり藁をつけていた。[]
 

*2. [年の頃はおよそ四十]。この人物は史実では1723年生まれなので、1770年当時47歳。[]
 

*3. []。。[]
 

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