この翻訳は翻訳者の許可を取ることなく好きに使ってくれてかまわない。ただし訳者はそれについてにいかなる責任も負わない。
翻訳:東 照(あずま てる)
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ジョゼフ・バルサモ

アレクサンドル・デュマ

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第二十四章 ルイ十五世

 罷り出でたルイ十五世は、顎を反らし、足をぴんと伸ばし、目を輝かせ、口唇には微笑みを浮かべていた。

 通りしなに見えたところでは、開いた両扉の向こうで、廷臣たちが頭を垂れて二つの列をなしていた。国王が現れたことで、権力者二人をまとめてかき口説く好機が訪れたのだから、お目通りを望む気持もふくらもうというものだ。

 扉が閉まった。誰も入って来ぬよう王が合図したため、伯爵夫人とサルチーヌ氏の三人だけとなった。

 小間使いと黒人の少年は別だ。二人とも数には入らない。

「おはよう、伯爵夫人」国王がデュ・バリー夫人の手に口づけをした。「ありがたいことに、今朝は涼しいね!――おはよう、サルチーヌ。ここで仕事かね? 大変な数の書類だな! 何処かへやってしまいなさい! おや、素敵な噴水ですね!」

 飽きっぽく気まぐれなルイ十五世は、昨夜まではなかった中国風の置物が寝室の隅にあるのに目を留めた。

「ご覧の通り中国の噴水ですわ。後ろにある蛇口をひねると水が出て、磁器の鳥が歌い、玻璃の魚が泳ぎますの。それから仏塔の扉が開いて、役人がぞろぞろ出てくるんです」

「これはいい」

 そこに黒人の少年が通りかかった。この当時オロスマーヌやオセロー役に着せていたような奇異でちぐはぐな服装をしていた。耳の上に羽根飾りを立てたターバンを巻き、金襴の上着からは黒檀のような腕が覗いている。金襴織りで作られた白繻子のキュロットがゆったりと膝丈までを覆っており、色鮮やかなベルトがこのキュロットと刺繍入りのジレを繋いでいた。腰には宝石細工を施した短剣が輝いている。[*1]

「おやおや! 今日のザモールはご立派だね!」

 黒ん坊は鏡の前でご満悦だ。

「この子ったら、陛下にお願いがあるそうですの」

 ルイ十五世は飛び切り優雅な微笑みを見せた。「ザモールはさぞかし欲張りなのだろうね」

「なぜですの?」

「願いうる最高の計らいを既にあなたから貰っているからですよ」

「と仰ると?」

「余と同じだよ」

「わかりませんわ」

「あなたのしもべであることです」

 サルチーヌ氏が頭を垂れ、口唇を咬んで笑いを洩らした。

「あら、お上手!」伯爵夫人が国王の耳に囁いた。「大好きですわ、フランスちゃん」

 今度はルイが微笑む番だった。

「ところで、あなたが言っていたザモールの頼みとは何だね?」

「長年のお仕えに対するご褒美です」

「十二歳のはずだが」

「末永い将来のお仕えに対してですわ」

「なるほど!」

「ええ陛下、これまではずっと、今まで仕えてくれた人にご褒美をあげていたんだから、これからはこの先仕えてくれる人にご褒美をあげてもいいんじゃないかと思いますの。そうすれば、今まで以上に忠誠を誓ってくれると思いますし」

「それは面白い! サルチーヌ殿はどうお思いかな?」

「忠実な者たちには何よりの贈り物かと。私は賛同いたします」

「ところで伯爵夫人、ザモールのための頼みとは?」

「リュシエンヌ(Luciennes)の城館をご存じでしょう?」

「つまり話を聞いたことがあるか、ということだね」

「陛下が悪いんですのよ。来て下さるよう何回もお誘いしたのに」

「規則はご存じでしょう。旅先ででもない限り、余は王宮以外の場所で寝むわけにはいかない」

「お願いというのがそれなんですの。リュシエンヌを王宮にして、ザモールをそこの総督(gouverneur)にしましょう」

「とんだ喜劇だ」

「だって喜劇は大好きなんですもの」

「ほかの総督たちが喚き出しますよ」

「させておけばいいわ!」

「だが今回はちゃんとした理由がある」

「よかったじゃありませんか。しょっちゅう空騒ぎしてたんですから! ザモール、ひざまずいて陛下にお礼をなさい」

「何のお礼だね?」ルイ十五世がたずねた。

 黒ん坊がひざまずいた。

「陛下があなたにご褒美を下さるの。あたくしの服の裾を持って、宮廷の保守層や澄まし屋さんたちの眉をひそめさせた、そのお礼に」

「確かにこの子は醜いからな」そう言ってルイ十五世は大笑いした。

「立ちなさい、ザモール。任命されました」

「だが伯爵夫人……」

「あたくしが責任を持って令状(lettres)、委任状(brevets)、買い物の手配をいたします。これはあたくしの仕事。陛下のお仕事は、心おきなくリュシエンヌにいらして下さることです。今日からは、王宮が一つ増えるんですから」

「断る方法はあるかな、サルチーヌ?」

「あるとは思いますが、見つけられたためしがございませんな」

「いつの日か断り方が見つかるとしたら、発見するのはサルチーヌ殿だろうね。それだけは間違いない」

「どうお思いになりますか、伯爵夫人?」警視総監は身震いした。

「それが陛下、三か月前にサルチーヌ殿に一つお願いしたことがあったんですけれど、無駄に終わりましたの」

「どんなことを頼んだのだね?」

「サルチーヌ殿はよくご存じですわ」

「私が? 私は決して……」

「仕事上のことかね?」

「ご自身と警察の仕事に関することですの」

「伯爵夫人、本当に何のことやらさっぱりです」

「何を頼んだんだね?」

「魔術師の捜索です」

 サルチーヌ氏がほっと息をついた。

「火あぶりにするのかね? それは熱い。冬までお待ちなさい」

「違いますわ。金の杖を褒美に取らせようと思って」

「その魔術師は悪いことが起こらないと予言したのかね?」

「その逆で、良いことが起こると予言したんです」

「一言違わず?」

「ほぼ正確に」

「聞かせてもらおう」ルイ十五世は椅子にもたれた。果たして面白いのやらつまらないのやらわからぬが、一つ賭けてみよう、そんな口振りだった。

「喜んで。でも陛下、褒美の半分を持っていただかないと」

「必要とあらば、すべてを」

「それでこそ国王のお言葉ですわ」

「さあ聞くとしよう」

「では始めましょう。昔々、ある時のこと……」

「お伽噺のような始まり方だね」

「信じられないようなお話ですもの」

「それはいい。余は魔法使いが大好きでね」

「あなたは金細工師ですものね、ジョスさん。昔々、ある時のこと、貧しい娘がおりました。小姓もなく、馬車もなく、黒人もなく、鸚哥もなく、尾巻猿もありませんでした」[*2]

「そして王も」

「まあ陛下!」

「その娘は何をしていたんです?」

「歩いていました」

「ほう、歩いていた?」

「ええ。パリの通りを、ほかの人間と変わらず歩いていました。ただ、随分と急ぎ足でしたけど。だって可愛いと評判でしたから、絡まれるのが嫌だったんです」

「つまりその娘はリュクレース(ルクレツィア)というわけだね?」

「陛下はご存じでしょう。何年前……かしらね、とにかくローマ建国の年を最後にそんな人はもういやしないんですから」[*3]

「これは一本取られた! 学者になったらいかがです?」

「まさか。学者だったらとにかく何か適当な年数を口にしてますわ」

「ごもっとも」

「その娘は、チュイルリーを歩いて、歩いて、歩いていました。すると突然、尾けられていることに気づいたんです」

「その娘は足を止めたんだろうね?」

「まあ陛下! 女というものを何だと思ってらっしゃいますの。陛下のおそばにいるのがどんな方たちなのかすぐにわかってしまいますわ。侯爵夫人や公爵夫人に……」

「王女たち、ですね?」

「陛下のお言葉に反論は出来ませんわ。それはそうと何より怖かったのは、突然靄が出て来たことです。あっという間に何も見えなくなってしましました」

「サルチーヌ、靄の出る仕組みを知っておるかね?」

 急に声をかけられて、警視総監はびくりとした。

「存じません、陛下」

「余もそうだ。どうか続きを、伯爵夫人」

「その娘は一目散に逃げ出しました。柵を越えると、そこは陛下のお名前を冠してらっしゃる広場でした。うまく撒いたと思ったのに、いきなり目の前に男が現れたのを見て、その娘は叫びをあげました」

「醜かったのか?」

「いいえ、それどころか、二十七、八の美青年でした。日に焼けていて、目は大きく、よく響く声をしていました」

「なのに怖がった。随分と怖がりなのだな!」

「そんなに怖がったのはその人を見たせいじゃありません。そうではなくて、その場の状況が恐ろしかったんですの。靄がありますもの、悪いことをされそうになっても、助けは期待できなかったでしょうから。だから手を合わせたんです。

『お願い、やめて下さい』

 男は感じのいい笑みを浮かべて首を振りました。

『何もするつもりはありませんよ』

『じゃあ望みは何?』

『約束をしてくれませんか』

『どんな約束?』

『お願いにあがった時には真っ先にお引き立て下さい。あなたが……』

『あたしが?』と娘は不思議そうにたずねました。

『あなたが女王になった時には』」

「それで娘はどうしたのだ?」

「何の実害もないと思ったので、約束しました」

「その魔術師は?」

「消えてしまいました」

「なのにサルチーヌ殿は見つけようとしないのですか? それはいけない」

「陛下、見つけようとしないのではなく、見つけることが出来ないのです」

「あら、総監殿! それは警察の辞書にあってはならない言葉じゃありませんこと?」

「目下捜索中でございます」

「型通りの言葉ね」

「残念ながら真実でございます。しかしあまりに情報が少なすぎるのです」

「何ですって! 若くて、美男で、日焼けして、黒髪で、見事な目をして、いい声をしているというのに」

「随分な熱の入れようだ! サルチーヌ、その男を見つけてはなるまいよ」

「陛下は誤解なさってますわ。あたくし、尋きたいことが一つあるんです」

「ご自身のことかな?」

「そうです」

「なるほど! だがこのうえ何をたずねたいと? 予言は当たったではないか」

「そうお思いですか?」

「違うかな。あなたは女王だ」

「似たようなものですけれど」

「ではこれ以上は教わることなどあるまい」

「ええ。でもその女王がいつ正式に認証を許されるのかを教えてもらえます。夜の政治がすべてではありませんわ、陛下。昼の政治だって大事じゃありませんこと?」

「魔術師の問題ではなかろう」おかしな話になって来たことに気づき、ルイ十五世は口を引き結んだ。

「では誰の問題ですの?」

「あなたです」

「あたくし?」

「その通り。代母を見つけて下さい」

「宮廷の気取り屋さんの中から? そんなの無理だってことはおわかりでしょう。あの人たちはみんなショワズールやプラランに身も心も捧げてるんですから」

「おやおや、どちらの話もしないように決めていたと思ったがね」

「そんな約束はしてませんわ」

「そうでしたか! 一つお願いがある」

「何ですの?」

「あの人たちのことは放っておくように、あなたの方もそのままに。優勢なのはあなたなんですから」

「お気の毒な外務大臣に、お気の毒な海軍大臣!」

「伯爵夫人、お願いだからお互いに政治の話はやめましょう」

「結構よ。でもあたくし一人でやる分には止められませんわ」

「ははあ、お望みとあらば」

 伯爵夫人は果物籠に手を伸ばし、甘橙オレンジを二つ手に取って、代わる代わるに放り上げた。

「飛んでけ、プララン! 飛んでけ、ショワズール!」

「ふむ! 何をやっているのです?」

「陛下からいただいた権利を行使しているのですわ。大臣の首を飛ばしているんです」

 この時、ドレ(Dorée)がやって来て、伯爵夫人に耳打ちした。

「ええ、もちろんよ!」

「どうしたね?」王がたずねた。

「ションが戻ったんです。陛下にお目通りを願っております」

「入りなさい! そういえば四、五日前から、何かわからぬが何かが足りないような気がしていたのだ」

「ありがとうございます、陛下」ションが入室し、伯爵夫人に耳打ちした。

「終わったわ」

 伯爵夫人が思わず喜びの声を洩らした。

「おやおや、何があったのです?」ルイ十五世がたずねた。

「何も。また会えたのが嬉しいだけですわ」

「それは余も同感だ。おはよう、ション」

「陛下、伯爵夫人と少しお話ししても構いませんか?」

「ああ話し給え。その間、あなたが何処にいたのかサルチーヌにたずねることにしよう」

「陛下」サルチーヌ氏は質問を避けようとした。「少しお時間をいただきたいのですが」

「何のためだね?」

「大変重要なお話がございます」

「そうか。時間が余りないのだよ」ルイ十五世はまず欠伸をしてから答えた。

「一言で済みますので」

「何についての話だね……?」

「千里眼、神秘主義者、奇跡の発見者についてでございます」

「ああ、山師のことか。旅芸人の勅許状を与えておけば、それで怖がらずともよいだろう」

「陛下、恐れながら申し上げますが、事態は陛下のお考え以上に深刻なのです。フリーメーソンは着々と新しい支部ロッジを増やしております。陛下、あれはもはや一協会などではなく、一宗派セクトです。君主制の敵が続々と加入しています。観念学派、百科全書派、哲学者。さぞや物々しくヴォルテールを迎え入れることでしょう」

「死にかけだよ」[*4]

「ヴォルテールが? とんでもありません。そんな間抜けではないでしょう」

「告白した」

「作戦ですよ」

「修道服を着ている」

「罰当たりではありませんか! その誰も彼もが煽動し、ものを書き、言葉を費やし、金を出し、協力し、陰謀を企み、脅しをかけているのです。口の軽い会員から聞き出したところでは、奴らは指導者を待っているところだといいます」

「よかろう! サルチーヌ、その指導者がのこのこ現れたなら、バスチーユに放り込んでやれ、それで解決だ」

「あの者たちには資金があります」

「一国の警視総監であるそなたよりもか?」

「かつて陛下はイエズス会士を追放して下さいました。今度は哲学者を追放して下さる必要がありましょう」

「またペン職人の話か」

「ペンは短刀ナイフで削るもの。ダミアンのことをお忘れなきよう」

 ルイ十五世は青ざめた。

「陛下がお嫌いになっている哲学者たちは……」

「何だ?」

「申し上げます。あの者たちは君主制を廃止しようとしています」

「それには何年が必要だね?」

 警視総監は驚いた目つきをした。

「私には知りようがありません。十五年か、二十年か、三十年でしょうか」

「そうか。十五年後にはもう余はいないだろう。この話は世継ぎにしてくれ」

 国王はデュ・バリー夫人に顔を向けた。

 それを待っていたかのように、夫人が大きな溜息をついた。「何てこと! どういうことなの、ション?」

「どうしたんだね? 二人とも葬式みたいな顔をして」

「仕方ありませんわ」

「何があったのか話してくれたまえ」

「兄のことです!」

「ジャンったら!」

「切断しなきゃいけないかしら?」

「そうでなきゃいいけど」

「切断? 何を?」ルイ十五世がたずねた。

「腕ですわ」

「子爵の腕を切断する! いったいどうして?」

「重傷なんです」

「腕に重傷を負ったのか?」

「ええ、その通りです」

「いったいどんな喧嘩を、何処の酒場、何処の賭場で……!」

「違うんです、陛下。大通りでした」

「いったい何が?」

「殺されそうになっただけです」

「それはひどい!」ルイ十五世は他人への同情心は少ししか持ち合わせていなかったが、同情を表すすべは心得ていた。「殺されそうになったとは! これは問題ではないかね、サルチーヌ」

 サルチーヌ氏は国王ほど心配そうには見えなかったが、内心は国王以上に動揺しながらデュ・バリー姉妹に近づき、恐る恐るたずねた。

「いったいそのような惨禍が本当に起こったのでしょうか?」

「生憎ですけど、起こったんです」ションは涙ぐんでいた。

「人殺しですか!……それはどのような状況で?」

「待ち伏せされていたんです」

「待ち伏せか!……いやしかしサルチーヌ、これはそなたの管轄ではないか」

「お話し下さいますか。ですが恨みの余りに事実を誇張しませぬようお願いいたします。より正確なことがわかればより適切な判断が出来るでしょうし、落ち着いて子細に検討してみれば些細なことだったというのもよくあることです」

「誰かから聞いたわけじゃないの」ションが声を強めた。「あたしはこの目で事件を見てたんだから」

「よかろう! 見たことを話してくれぬか」王が水を向けた。

「一人の男が兄に襲いかかったんです。手にした剣をふるって兄に重傷を負わせました」

「一人だけでしたか?」サルチーヌ氏がたずねた。

「とんでもありません。ほかに六人の男がいました」

「災難だな!」国王は伯爵夫人から目を離さずに、夫人の嘆き具合に応じて自分の出方を決めようとした。「喧嘩の押し売りか!」

 伯爵夫人の顔を見つめたが、面白がっている様子はない。

「傷を負ったのだね?」そこで気遣うような口調に変えた。

「そもそも原因は何なのですか?」警視総監は努めて真実をつかまえようと、のらりくらりとかわそうとするションに食らいついた。

「たいしたことじゃありません。宿駅の馬のことでいざこざがあったんですわ。今朝には戻る約束をしていたものですから、あたしのために急いでくれたんです」

「これで決まりだろう、サルチーヌ?」

「間違いないとは思いますが、まだ聞きたいことがございます。襲撃者の名前はわかりますか? 肩書きや身分は?」

「身分ですか? 軍人です。王太子近衛聯隊の将校だったと思いますけど。名前は確か、バヴェルネ、ファヴェルネ、タヴェルネ、そう、タヴェルネ」

「これで、明日にはバスチーユ入りでございます」

「あら、駄目よ!」伯爵夫人が声をあげた。これまでは駆け引きから沈黙を守っていたのだが、思わず声を出していたのだ。

「駄目とはどういうことだね?」国王がたずねた。「何故、犯罪者を投獄してはならぬのだ? 余が軍人を嫌っているのは知っているだろうに」

「陛下」伯爵夫人の言葉は揺るぎなかった。「申し上げておきますけど、デュ・バリー子爵を襲った人間には何も起こりませんわ」

「これはまた異な事を。どういうことか説明してくれぬか」

「簡単なことです。かばう人がいますから」

「いったい何者が?」

「そそのかした人間ですわ」

「我々に逆らってかばう人間がいるというのか? おやおや伯爵夫人、それは大問題ではないか」

「マダム」どうやらひと嵐来るぞと悟り、サルチーヌ氏は話を逸らそうとして口ごもった。

「ええそう。陛下に逆らって、です。『おやおや』じゃありませんわ。あなたは君主じゃありませんか」

 サルチーヌ氏の予想通りにひと嵐来た形だが、国王は動じなかった。

「そうか。どうやら政治の問題に飛び込み、つまらない決闘におかしな理由をつけることになりそうだな」

「あら、あたくしもとうとう見捨てられたってわけね。素性がはっきりしないせいで、殺人未遂もただの喧嘩になってしまうだなんて」

「なるほどそう来ましたか」ルイ十五世は噴水の蛇口をひねった。鳥が歌い、魚が泳ぎ、役人が現れ、動き始めた。

「誰の差し金かご存じないの?」夫人は足許に寝そべっているザモールの耳をいじくった。

「もちろんだ」

「疑わしい人も?」

「誓いますよ。あなたはどうなのだ?」

「あたくし? あたくしは知ってます。陛下にも申し上げるつもりですけど、新しい情報なんて何一つありません。そのことは誓えますわ」

「伯爵夫人、いいですか」ルイ十五世は威厳を取り戻そうとした。「王に向かって事実と反することを言うつもりですか?」

「陛下、確かにあたくしは少しかっとなっているかもしれません。ですけど、ショワズール殿が義兄を殺すのをおとなしく見ているとお思いでしたら……」

「ああ、ショワズール殿か!」国王は大声をあげた。意外な名前だったわけでもあるまいに。何しろ十分来、会話の中にその名が出ては来ぬかと冷や冷やしていたのだ。

「ショワズールがあたくしの一番の敵だっていうことから、陛下はどうしても目を逸らそうとなさるんですね。あたくしは目を逸らしたりしません。だって向こうの方で憎悪を隠そうともしないんですもの」

「人を憎むのと殺すのでは天と地ほどの開きがある」

「ショワズールにとってはどんなこともお隣さん同士ですもの」

「どうか、いい子だから。また政治の話に舞い戻ってしまった」

「だってこんなのひどいってもんじゃないじゃありませんか、サルチーヌさん」

「無論ですが、あなたのお考えが……」

「あたくしの考え? あなたはかばってくれやしない。それだけよ。それどころか、あたくしのことなんか見殺しなんでしょう!」伯爵夫人はかっとなって叫んだ。

「落ち着きなさい。見殺しになどさせぬし、かばわぬとも言っておらぬ。だから……」ルイ十五世がなだめた。

「だから?」

「だから、ジャンを襲った人間にはそれなりのつけを払ってもらうことになるとも」

「ええそうね。武器は破棄して仲直りの握手ってわけね」

「悪事を働いた人間が、つまりこの場合はそのタヴェルネ氏が責めを受けるのでは不公平だと?」

「もちろん公平ですけれど、公平でしかないわ。あたくしにして下さるのとおんなじように、劇場で兵士に殴られたサン=トノレ街の第一商人にもおんなじことをなさるんでしょう。他人と同じなんて真っ平です。目を掛けている者にも無関係の者にも同じ振舞をなさるというんでしたら、いっそ孤独と闇を選びますわ。暗殺される危険のない分、ましですから」

 ルイ十五世は悲しげに答えた。「伯爵夫人。目が覚めた時、余はたいへん気分よく幸せで満ち足りていた。その素晴らしい朝が台無しだ」

「さぞや最高でしょうね! じゃああたくしも素敵な朝を過ごしてたとでも? 家族が殺されそうになったというのに?」

 国王は周りで蠢いている嵐を感じ取り、内心では恐れを覚えたものの、『殺される』という言葉には微笑を禁じ得なかった。

 伯爵夫人が怒りを爆発させた。

「そう? そんなふうに同情なさるのね?」

「まあまあ、そう怒らずに」

「怒らずにはいられません」

「それは良くない。あなたには笑顔が似合うのに。怒っていては台無しだ」

「それで? 可愛ければ苦しまなくて済むというのなら、いくらでも可愛くしますけど?」

「どうか落ち着いて」

「嫌です。お選び下さい。あたくしか、それともショワズールか」

「無理な事を仰る。二人とも大事な人間だ」

「ではあたくしが引き下がります」

「あなたが?」

「ええ、向こうの好きにさせてあげます。あたくしは口惜しくて死んじまいますわ。でもショワズール殿は満足なさるでしょうし、それであなたも気が晴れますでしょ」

「いいですか、伯爵夫人。ショワズールはあなたのことを少しも憎んではいない。好感を抱いていますよ。つまるところ礼儀正しい紳士なのだ」国王は特にこの最後の一言をサルチーヌ氏の耳にしっかり入れようと心を砕いた。

「紳士ですって! 馬鹿にしないで。紳士が人を殺そうとしますか?」

「まだ決まったわけではないだろう」

「それに――」と、サルチーヌが勇気を出して口を挟んだ。「剣士たちが喧嘩するのはよくあることですし、得てして激しくなるものでございます」

「サルチーヌ、あなたもですか!」

 総監はこの『お前もか!』の意味を悟り、伯爵夫人の怒りに恐れをなした。

 不吉な沈黙が訪れた。

 この沈鬱な雰囲気を打ち破ったのは国王だった。「ション、そなたのせいですよ」

 ションは申し訳のように目を伏せた。

義姉あねが心痛のあまり無礼にも取り乱したのだとしても、許して下さいますわよね」

「抜け目ないな!」国王は呟いた。「伯爵夫人、どうか恨まずにいておくれ」

「それは陛下、もちろんでございます……でもあたくし、リュシエンヌに参ります。それからブローニュに」

「シュル=メールの方か?」[*5]

「ええ、国王を怖がらせるような大臣がいる国にはいたくありませんもの」

「伯爵夫人!」この侮辱にルイ十五世が声をあげた。

「これ以上陛下への敬意を失ってしまいたくありませんので、発つことをお許し下さい」

 伯爵夫人は立ち上がりながら、国王の反応を横目で探った。

 ルイ十五世は疲れたように溜息をついた。溜息の意味は明らかだった。

 ――もうこれにはうんざりだ。

 ションは溜息の意味を悟った。これ以上喧嘩の話を押し通すのは得策ではない。

 ションは伯爵夫人の袖を引いてから、国王の許に向かった。

「陛下、伯爵夫人は子爵を思う気持がちょっと強すぎたんです……過ちを犯したのはあたしなんですから、償いもあたしがいたします……あたしなんかはちっぽけな家臣の身に過ぎませんけれど、たって陛下に裁きをお願いいたします。誰も告訴するつもりはありません。賢明なる国王陛下ならちゃんと見定めて下さいますもの」

「余も同じことを考えていた。裁き。それも公正なる裁きだ。罪を犯していないのなら非難されず、罪を犯したのなら罰せられるのです」

 ルイ十五世は話している間も伯爵夫人を見つめていた。出来ることなら、惨めに終わってしまった健やかな朝を、一時なりとも取り戻したいと思いながら。

 伯爵夫人は心立ての優しい人だった。この部屋を離れたところでは、国王はもてあました心を悩ませ心を痛めているのかと思うと、申し訳なく感じた。

 デュ・バリー夫人は既に戸口に歩き出していたために、振り返るような形になった。

「ほかのお話をしますか?」と愛らしく白旗を振った。「でもあたくしが疑問を持っている限りは、疑いは消えませんわ」

「あなたの疑いは尊重しますとも」国王は断言した。「それに少しでも確信に変われば、あなたにはぴんと来るのでしょう。いやそれよりも、もっと簡単な方法がある」

「と言いますと?」

「ここにショワズール殿を呼べばよい」

「まあ、来るわけがないのはご存じのくせに! あの方は寵姫の部屋に入ることなんて拒むでしょう。妹の方は別ね。あの人はそれが望みですものね」

 国王が笑い出した。

 それに力を得て伯爵夫人は続けた。「ショワズールさんは王太子殿下を真似てらっしゃるのね。誰だって評判を落としたくはありませんから」

「王太子は信心深いのだ」

「ショワズールさんは偽善者ね」

「ありがたいことにここでショワズール殿に会えますよ。今から呼ぶとしよう。国の仕事だと言えば来ざるを得まい。すべてを目撃したションの目の前で、説明してもらおうではないか。裁判でいうところの対質と行こうか、どうだね、サルチーヌ? ショワズールを呼びにやってくれ」

「じゃああたくしは尾巻猿を呼ぼうかしら。ドレ! 尾巻猿、尾巻猿を!」

 化粧室に控えていた小間使いにかけられたこの言葉、控えの間にもしっかり聞こえていた。というのも、開いた扉から取次(l'huissier)がショワズールの許に送り出された時、喉を鳴らすようなしゃがれ声が聞こえて来たからだ。

「伯爵夫人の尾巻猿とは、私のことですね。今行きます、さあお待たせしました」

 見れば絢爛豪華な服装をした傴僂が颯爽と現れた。

「トレム公!(Le duc de Tresmes)」伯爵夫人が苛立った声をあげた。「でもあたくしが呼んだのはあなたじゃありませんの」

「尾巻猿をお呼びになったではありませんか」言いながら公爵は、国王、伯爵夫人、サルチーヌ氏の三人にお辞儀をした。「廷臣の中で私ほど醜い猿はおりませんぞ。ですから馳せ参じたのです」

 そう言って公爵は尖った歯を剥き出して笑って見せた。これには伯爵夫人も笑わずにはいられなかった。

「ここにいて構いませんか?」と公爵がたずねた。それが生涯かけて望んでいた恩恵であるかのように。

「陛下におたずねなさいな。ここの主なんですから」

 公爵は頼み込むように国王の方を向いた。

「ここにいなさい、公爵」気晴らしが増えることを喜んで、国王は答えた。

 その時、取次の者が扉を開けた。

「おや」飽いたように国王がたずねた。「もうショワズール殿が?」

「いいえ、陛下。王太子殿下がお話しになりたいそうです」

 伯爵夫人は躍り上がった。王太子が自分寄りの立場だと考えていたからだが、抜かりのないションの方は眉をひそめた。

「そうか。王太子は何処に?」国王が苛立たしげにたずねた。

「陛下のお部屋に。お戻りになるのを待っていらっしゃいます」

「いつになっても心の安まる暇もない定めなのかのう」国王が愚痴をこぼした。

 だが王太子と接見すれば一時的にでもショワズールとまみえることを避けられると気づき、考え直した。

「いや行こう。では失礼、伯爵夫人。余がどれだけ悲しくどれだけ困っているか考えて欲しい」

「行っておしまいになるんですか! これからショワズールさんが来るという時に?」

「何をお望みかな? 奴隷の筆頭は国王なり。哲学者諸氏に聞かせたいものだ。王とは如何なるものか。それもフランス国王とは如何なるものなのかを」

「陛下、行かないで下さい」

「いやいや。王太子を待たせるわけにはいかない。娘たちのことしか愛していないと前に言われてしまったからね」

「だけど、ショワズールさんに何を話せば?」

「ああ、余のところに来るよう伝えて下さい」

 何か言われる前に切り上げようと、怒りで震えている伯爵夫人の手に口づけするや、足早に姿を消した。月並みなごまかしや時間稼ぎで勝ちを収めるや、勝ち戦のまま逃げ出すのはいつものことである。

「またお逃げになるのね!」伯爵夫人が口惜しそうに手を叩いた。

 だが国王はこの言葉すら聞いていなかった。とうに扉は閉められ、控えの間を通りながらこう言っていたのだ。

「入り給え、諸君。伯爵夫人のお許しが出た。だがジャンが事故に遭って悲しんでいることを忘れずに」

 廷臣たちは驚いて見つめ合った。子爵がどんな事故に遭ったのか知らなかったのだ。

 もしや死んだのでは。

 多くの者がその場に相応しい表情を作った。喜んでいる者ほど悲しげな顔をして、部屋に入っていった。


Alexandre Dumas『Joseph Balsamo』Chapitre XXIV「Le roi Louis XV」全訳です。初出『La Presse』紙、1846/06/27、連載第25回。


Ver.1 09/05/23
Ver.2 12/09/21
Ver.3 16/03/16


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[訳者あとがき]

 ・09/04/25 ▼第24章「ルイ十五世」半分くらいまで終わりました。▼「余は魔法使いを崇めてる」と言うルイに、デュ・バリー夫人が「Vous êtes orfèvre, monsieur Josse.」と答える場面があります。これはモリエール『Amour médecin』のなかの台詞で、何かというと金銀細工を売り込むジョス氏に、「そりゃあなたは金細工師ですからねえ、ジョスさん」とひとこと言う場面です。本文中にはモリエールの言葉は残さずに、文脈に合わせて意味だけ汲んで「さすが魔法の杖をお持ちの方のお言葉ね」としておきました。▼デュ・バリー夫人がルイ十五世のことを「la France」と呼びかけている箇所があります。『ロココの落日』にしたがって「フランスちゃん」と訳しました。

 ・09/05/09 ▼デュ・バリー夫人の小姓を、なぜか「ゾマール」と書いてしまっていたので「ザモール」に訂正しました。▼前にもちょろっと出てきましたが、「ダミアン」とはルイ十五世をナイフで刺して暗殺しようとした男です。

 ・09/05/23 ▼第24章終了しました。次は第25章「振り子時計の間」。06/05(土)ごろ更新予定。

[更新履歴]

・12/09/21 「王宮にリュシエンヌを建てて、ザモールを長官にしましょう」→「リュシエンヌを王宮にして、ザモールをそこの長官にしましょう」

[註釈]

*1. [オロスマーヌ]。Orsomane オロスマーヌ。ヴォルテール『ザイール』主人公のスルタン。[]
 

*2. [金細工師ですものね、ジョスさん]。ジョス Josse モリエール『Amour médecin(恋の医者)』より。妻に死なれたスガナレルが、一人娘を喜ばせようとして助言を求めると、金銀細工師のジョス氏は宝石で着飾ることを勧め、タペストリー売りのギヨーム氏はタペストリーを勧め、隣人のアマントは結婚を勧め、姪のリュクレースは修道院を勧めるのを聞いて、「あなたは金銀細工師だ、ジョスさん、あなたの助言には自分の商品を売り払いたがっている人間の匂いがするよ」と言い返す。[]
 

*3. [リュクレース(ルクレティア)]。Lucrèce(仏リュクレース、羅ルクレティア) リュクレース…前記モリエール『恋の医者』で修道院入りを勧めた姪っ子。ルクレティア…古代ローマの女性。貞節の代名詞。B.C.?-B.C.509。[]
 

*4. [ヴォルテール]。ヴォルテールがフリーメーソンに入会したのは1778年、死の年であった。[]
 

*5. [シュル=メールの方か?]。ブローニュ=シュル=メールはカレー近くのドーバー海峡に面した都市。一方でパリ東部(リュシエンヌの西方)にもブローニュという地名がある。[]
 

*6. []。[]
 

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