この翻訳は翻訳者の許可を取ることなく好きに使ってくれてかまわない。ただし訳者はそれについてにいかなる責任も負わない。
翻訳:東 照
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ジョゼフ・バルサモ

アレクサンドル・デュマ

訳者あとがき・更新履歴
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第三十一章 ザモールの委任状

「それでは」デュ・バリー夫人がベアルン夫人に声をかけた。「お話し下さい。お聞きしますから」

「失礼」立ったままのジャンが口を挟んだ。「頼み事の邪魔をするつもりはないんだが。ベアルン夫人にはお話があるんだ。大法官から言づかっていることがあってね」

 ベアルン夫人はジャンに感謝の眼差しを注ぎ、副大法官の署名入り証書を伯爵夫人に差し出した。それにはリュシエンヌを王家の城館にすること、ザモールを領主に任命することが記されていた。

「じゃああなたに感謝しなくちゃいけませんね」証書に目を通してから伯爵夫人が言った。「機会さえあれば、今度はこちらがあなたのお役に……」

「でしたら、簡単なことでございます!」老婦人の勢いに、二人とも北叟笑んだ。

「どういうことかしら? お聞かせ下さい」

「よくぞ仰って下さいました。私の家名はまったくの無名ですが……」

「何ですって、ベアルンが?」

「訴訟の話をお聞きになったんですね? 我が家の財産が失われてしまうんですよ」

「確かサリュース家と抗争中でしたね?」

「ええその通りでございます」

「そう。そのことなら知ってるわ。陛下がいつかの晩、モープー殿に仰ってたから」

「陛下が! 陛下が私の訴訟の話を?」

「ええ、そう」

「何と仰ってたんでしょう?」

「お気の毒に!」デュ・バリー夫人は首を振った。

「じゃあ、負けるんですね?」老婦人の声は苦悶に歪んでいた。

「本当のことは口にしたくありません」

「陛下がそう仰ったんですね!」

「陛下ははっきりとは仰いませんでした。慎重で賢明な方ですから。財産はもはやサリュース家のものになったようなものだと考えていらっしゃるようでしたわ」

「ああ神様! 陛下が事件のことを知ってらしたら……譲渡された債務が返済済みだったのが問題だと知ってらしたら……! ええそうなんです、返済してるんです。二十万フランは返してたんですよ。もちろん契約書はありませんけど、蓋然的証拠ならありますから。私自身が高等法院で辯護することがあったら、演繹によって明らかに……」

「演繹ですか?」伯爵夫人には話の内容がさっぱりわからなかったが、ベアルン夫人が辯護に並々ならぬ意識を傾けているらしいのはわかった。

「ええそうです、演繹です」

「演繹的証拠なら採用されるな」ジャン子爵が言った。

「そうお思いになりますか?」

「そう思いますね」子爵は極めて重々しく答えた。

「それじゃあ、演繹によって証明しますよ。二十万リーヴルの債務に貯まった利子を合わせれば、百万以上にはなっているはずですから。証明してみせますとも。この債務は、一四〇〇年にギー・ガストン四世ベアルン伯爵が返済し終わっていたはずなんです。一四一七年にベアルン伯爵が死の床についた時、手には遺書がありました。『我は死の床にありて、もはや人に縛られることなく、神の御前に赴きし覚悟のみ……』」

「え?」伯爵夫人が声をあげた。

「おわかりでしょうとも。人に縛られることがないんでしたら、サリュース家には返済していたってことですよ。そうじゃなきゃ、『もはや縛られることなく』なんて書かずに『二十万リーヴルに縛られて』と書いていたはずですからね」

「恐らくそうでしょうね」とジャン。

「でも、ほかに証拠はありませんの?」

「ガストン四世の言葉だけです。でも立派な方だと言われていた人ですよ」

「なのにあなたは債務と戦ってるんですね」

「ええ存じております。訴訟がもつれるのもその点なんでございますよ」

 そこは訴訟が丸く収まると言うべきであったが、ベアルン夫人は自分なりの立場でものを見ていたのである。

「では、サリュース家には返済し終わっているとお考えなんですね」ジャンがたずねた。

「ええそう考えております!」

 デュ・バリー夫人が満足げに兄を見遣った。「どう? これで局面は変わるかしら?」

「かなり」

「向こうにとってもそうね。ガストン四世の遺言は明白だもの。『もはや人に縛られることなし』」

「明白なうえに理に適っている。もはや人に縛られることはない。つまり、縛られていた義務は果たしたというわけだ」

「つまり、義務は果たしたと」デュ・バリー夫人が繰り返した。

「ああ、あなたが判事でしたらよかったのに!」老婦人が声をあげた。

「昔ならこういう場合は法廷に持ち込んだりせず、神の裁きに委ねていたところです」ジャンも言いつのった。「僕自身は訴訟の利点を信じてますから、今もまだ同じ方法が使われていたなら、闘士としてあなたのために戦って見せますよ」

「まあそんな!」

「そういうわけです。もっとも、先祖のデュ・バリ=モアがやったことの受け売りに過ぎませんがね。若く美しいエディス・ド・スカルボローのため闘技場で戦い、嘘をついたと敵の口を割らせた時に、スチュアート王家と関係を結ぶ名誉を授かったんです。だが生憎なことに」と薄笑いして、「今はもうそんな時代じゃない。権利を申し立てても、法律屋の判断に任せるしかないってわけです。『もはや人に縛られることなし』、こんなに明らかな文章すら理解出来ない奴らなのに」

「ねえお兄様、この文章が書かれたのは三百年前でしょう」デュ・バリー夫人が恐ろしい一言を口にした。「裁判でいう時効というのを考慮に入れなくちゃならないんじゃない?」

「たいしたことじゃない。陛下の前でも今のように話してくれたら……」

「陛下も納得してくれますよね? きっとそうですよ」

「そう思いますよ」

「そうですとも。でもどうやったら陛下にお話を聞いていただけるんでしょう?」

「リュシエンヌに来ていただかなくちゃなりませんね。陛下もよくいらして下さいますから……」

「まあそうだな。だがそれでは偶然に左右される」

「ご存じでしょ」デュ・バリー夫人が可愛らしく微笑んだ。「あたくしはしょっちゅう偶然に頼ってるんだから。文句なんて一つもありません」

「だが偶然に頼っていたら、八日、十五日、いや三週間経っても陛下と会えないかもしれない」

「そうね」

「ところが訴訟は月曜か火曜に判決が出るんだ」

「火曜でございますよ」

「で、今は金曜の晩だ」

 デュ・バリー夫人は天を仰ぎ見た。「じゃあもう時間がないじゃない」

「どうする?」と言ったジャンも、夢にでも耽っているようだった。

「ヴェルサイユで謁見する訳には?」ベアルン夫人がおずおずと提案した。

「とても許可されないでしょう」

「つてでどうにかならないのでしょうか?」

「あたくしのつてじゃあどうにもなりません。陛下は公務がお嫌いですし、今は一つのことだけで頭がいっぱいなんですもの」

「高等法院のことでしょうか?」

「違うわ。あたくしの認証式のことです」

「ああ!」

「ご存じでしょう。ショワズールの妨害や、プラランの陰謀や、グラモン夫人の口利きはありましたけど、陛下は認証式をして下さることになったんです」

「いえそんな。存じ上げませんでした」

「そうなのか! いや、決まったことなんです」ジャンが言った。

「いつ行われるんでございましょう?」

「近いうちに」

「そこで……王太子妃殿下の到着前に式を行うのが陛下のご希望なんです。そうすればコンピエーニュの祝宴に妹を連れて行けますからね」

「そういうことですか。では認証式は無事に行われるんですね」老伯爵夫人はおずおずとたずねた。

「もちろんです。ダロワーニ男爵夫人(la baronne d'Aloigny)……ダロワーニ夫人はご存じですか?」

「存じません。ああ! もう一人も知り合いなんておりませんよ。宮廷を離れて二十年になるんですから」

「そうでしたか! ダロワーニ男爵夫人が、代母を務めてくれるんです。陛下がいろいろと融通なさった訳です。夫は侍従に。息子はいずれは代官という約束で軍隊に。男爵領は伯爵領になりました。金庫にあった債務は、市の株券と交換されました。認証式の晩には、即金で二万エキュが支払われます。という訳で男爵夫人は必死なんですよ」

「ようくわかりますよ」ベアルン伯爵夫人は優雅に微笑んだ。

「いや、そうか!」

「どうしたの?」デュ・バリー夫人がたずねた。

「まずったな!」ジャンは椅子から飛び上がっていた。「せめて一週間前に副大法官のところでお会いしていたら」

「だったら?」

「だったら、ダロワーニ男爵夫人とはまだ何の約束もしていなかったってことだ」

「ねえ、スフィンクスみたいな謎かけはやめて頂戴。全然わからないわ」

「わからないか?」

「ええ」

「伯爵夫人はおわかりですよね」

「それが考えてはいるんですが……」

「一週間前には代母は決まっていなかった」

「そうね」

「そうなんだ!……伯爵夫人、話について来られますか?」

「大丈夫ですよ」

「一週間前なら、伯爵夫人が手を貸してくれていたはずなんだ。ダロワーニ男爵夫人の代わりにベアルン伯爵夫人が陛下からいろいろ賜っていたはずなんですよ」

 老伯爵夫人は目を見開いた。

「そんな!」

「ご存じですか。陛下がどれほどのご厚意を男爵家にお与えになったか。求める必要はなかった。向こうからやって来たんです。ダロワーニ夫人がジャンヌの代母を引き受けると聞いてすぐでした。『それはよかった。見るからに威張りくさったあばずれ共にはうんざりだ……伯爵夫人、そのご婦人を紹介してくれるだろうね? 訴訟を抱えてないか? 未払い金は? 破産は?……』」

 ベアルン夫人の目がますます大きくなった。

「『だが、一つ気に食わんな』」

「陛下のお気に障るところがあったんですか?」

「ええ、一つだけ。『一つだけ気に食わん。デュ・バリー夫人の認証式には、由緒のある家名が欲しかった』そう仰って、ヴァン・ダイクの筆になるチャールズ一世の肖像画をご覧になっていました」

「ああ、わかりましたよ。先ほどお話し下さったデュ・バリ=モアとスチュアート家のご関係のことを陛下は仰ったんですね」

「そういうことです」

「でも結局は」ベアルン夫人の声には、とても言い表せない感情がこもっていた。「ダロワーニ家にお任せするんですね。そんな話、私のところには届きませんでしたからねえ」

「でも名門よ。証拠――というか、証拠みたいなものはあったし」

「ああ糞!」不意にジャンが椅子に手を掛け立ち上がった。

「ちょっと、どうしたの?」義兄の身悶えを前にして、笑いを堪えるのが精一杯だった。

「傷が痛むんじゃありませんか?」とベアルン夫人が気遣った。

「違います」ジャンはゆっくりと椅子に戻った。「違うんです。閃いたことがあって」

「どんなことなの?」デュ・バリー夫人は笑っていた。「ひきつりかけてたじゃない」

「いい考えなんですね!」ベアルン夫人がたずねた。

「最高に!」

「聞かせて頂戴」

「ただ、一つだけ拙い点がある」

「それは?」

「実行するのが難しい」

「まずは聞かせて頂戴」

「それに、ある人をがっかりさせることになる」

「気にすることないわ。続けて」

「つまりだ、チャールズ一世の肖像画を見て陛下が考えていたことを、ダロワーニ夫人に伝えたとしたら……」

「それはちょっとひどい仕打ちじゃない?」

「確かにね」

「じゃあこの話はもうやめましょう」

 老婦人が溜息をついた。

「困ったな」子爵は呟くように口走った。「事態は勝手に進んじまっている。家名も智性もお持ちのご婦人がダロワーニ男爵夫人の代わりに現れたっていうのに。ベアルン夫人は訴訟に勝ち、息子さんは王の代官になり、訴訟のせいで何度もパリに足を運んだ際の莫大な馬車賃だって補償されていたはずなんだ。こんな機会は一生に一度しかないだろうに!」

「まあ、嫌ですよ!」不意打ちを食らったベアルン夫人は声をあげずにはいられなかった。

 確かに、夫人と同じ境遇の者ならば、同じように声をあげたであろうし、同じように椅子にへばりついていたであろう。

「ほら見なさい」デュ・バリー夫人が気の毒そうな声を出した。「伯爵夫人を悲しませちゃったじゃない。認証式が済むまでは陛下に何もお願い出来ないって説明するだけでもよかったんじゃないの?」

「ああ、訴訟を延期出来ればいいんですけどねえ!」

「たった一週間なのに」

「ええ、一週間ですよ。一週間後には認証式をなさるんですから」

「ええ、でも陛下は来週にはコンピエーニュなの。祝宴の真っ直中ね。王太子妃が到着するはずだから」

「そういうことだ。そういうこと。だが……」

「何?」

「待てよ。また閃いた」

「何です。何でございますか?」

「多分……うん……いや……そう、そう、そうだ!」

 ベアルン夫人は不安げにジャンの一言を繰り返した。

「『そう』と仰いましたか?」

「これはいい考えだ」

「教えて頂戴」

「聞いてくれ」

「聞いてるわ」

「認証式のことはまだ内密だったな?」

「多分ね。ただベアルン伯爵夫人は……」

「まあ! ご安心下さいまし!」

「認証式はまだ内密のことだ。代母が見つかったことは誰も知らないんだ」

「そうかもね。陛下は爆弾みたいに報せをぶちまけるのがお好きだから」

「今回はそれがよかった」

「そうなんでしょうか?」ベアルン夫人がたずねた。

「それでよかったんですよ!」

 耳をそばだて目を見開いている二人のところに、ジャンが椅子を近づけた。

「つまりね、ベアルン伯爵夫人も、認証式が行われることや代母が見つかったことは知らないんだ」

「そうでございますね。お聞きしなければ知らなかったと思いますよ」

「僕らが会ったことは誰も知りません。つまりあなたは何も知らない。陛下に謁見を申し込んで下さい」

「でも陛下には断られると仰いませんでしたか」

「陛下に謁見を申し込んで下さい。代母になると申し出るんです。一人見つかったことをあなたは知らないんですからね。だから謁見を申込み、代母になると申し出て下さい。あなたのような家柄のご婦人から申し出があれば、陛下も心を動かされるはずです。陛下はあなたを迎え入れ、感謝し、願いがあれば何でも叶えると仰るでしょう。そこであなたは訴訟のことを切り出し、先ほどの演繹をお話し下さい。納得なさった陛下が事件の後押しをなさり、負けるはずだったあなたの訴訟も、勝つことになるでしょう」

 デュ・バリー夫人はベアルン夫人をじっと見つめていた。老婦人はどうやら落とし穴がないか探っているらしい。

「まあ! 私みたいな者が、陛下に向かってどうすれば……?」

「こういう場合は善意を見せるだけで充分ですよ」ジャンが答えた。

「でも善意だけというのは……」老婦人はなおも躊躇っていた。

「悪くない考えだけど」デュ・バリー夫人は微笑んだ。「でもきっと、訴訟に勝つためとはいえ、こんなペテンじみたことには気が進まないんじゃないかしら?」

「ペテンじみたことだって? まさか! 誰もペテンだってわかるもんか」

「伯爵夫人の仰る通りでございます」ベアルン夫人はそれとなく話題を逸らそうとした。「ご親切を賜るにしても、ご迷惑をかけたくはありませんから」

「ほんと、ありがたいことね」デュ・バリー夫人の言葉に潜んだ軽い皮肉に、ベアルン夫人も気づかざるを得なかった。

「いや、まだ手はある」ジャンが言った。

「ほかにも?」

「ええ」

「ご迷惑をかけないような?」

「凄いじゃない、お兄様! 詩人になったらどう? ボーマルシェだってこれほど手だてを思いつきはしないわよ」

 老婦人はその手だてとやらを聞きたくてたまらなかった。

「からかうのはよせ。ダロワーニ夫人とは懇意だったな?」

「そんなこと!……知ってるでしょ」

「代母の役を出来なかったら気を悪くするかな?」

「多分ね」

「代母役を担うには家格が足りないと陛下が口にしたことはわざわざ伝えなくてもいい。ただ、いい子だから機転を利かせて、別の言い方をするんだ」

「要するに何を?」

「協力を惜しまず財産を作る機会をベアルン伯爵夫人に譲るということをだ」

 伯爵夫人は身震いした。今度の攻撃は単刀直入だった。曖昧な返答を許さない。

 それでもやがて答えは見つかった。

「その方をご不快にさせたくはありませんよ。人間には敬意が必要でございますから」

 デュ・バリー夫人はむっとするような素振りを見せたが、兄になだめられた。

「聞いて下さい、マダム。何かしろと言っている訳ではありません。間もなく始まる訴訟がある。それに勝ちたいのは当然のことです。ところが負けそうなので絶望してらっしゃった。僕はその絶望の真っ直中に出くわして、心の底からお気の毒に思ったんです。それで自分には無関係なこの訴訟に興味を持ちました。既に首まで嵌っていたあなたを見て、どうにか事態を好転させたいと思ったのですが。間違っていました、もうこの話はやめます」

 そう言ってジャンは立ち上がった。

「そんな!」この悲痛な叫びは、デュ・バリー兄妹にも伝わった。それまでは無関心だった訴訟に、二人とも関心を寄せ始めた。「そんなことはありませんよ、ええそうです、ご親切にどれほど感謝していることか!」

「おわかりだと思いますが」ジャンは見事なまでに無関心を演じていた。「誰に紹介してもらっても構わないんですよ。ダロワーニ夫人にでも、ポラストロン夫人にでも、ベアルン夫人にでも」

「でもそうでしょうけど」

「ただですね、陛下のご親切を興味本位に利用し、僕らを前にした途端に妥協してしまうような卑しい人には我慢ならないんです。それしきのことで陛下のご威光は揺るぎないと分かってはいるのですが」

「ふうん! ありそうなことね」デュ・バリー夫人が合いの手を入れた。

「一方、自分から名乗り出たわけでもなく、僕らもあなたのことはほとんど知りませんが、大変な気品を備えていらっしゃるし、あらゆる点から見てあなたこそこの状況をものにすべきだと思うんです」

 恐らく老婦人は、子爵に讃えられたその善意に逆らって抗おうとしたのだろう。だがデュ・バリー夫人がその暇を与えなかった。

「確かに、そうすれば陛下はお喜びになるわ。そんなご婦人を拒むことは絶対にないでしょうね」

「陛下はお拒みにならないと仰るのですか?」

「むしろ陛下の方からあなたの望みを掘り返しますよ。ご自分の耳で、陛下が副大法官にこう仰るのを聞けるでしょう。『ベアルン夫人のために何かしてやりたいと思うが、いいかね、モープー?』。でも、そうはいかないと思ってらっしゃるようですね。わかりました」と言って子爵が頭を下げた。「どうか僕の誠意をわかっていただけませんか」

「まあそんな。私には感謝の気持しかありませんよ!」

「何の疑いもないんですね!」

「でも……」

「何です?」

「でも、きっとダロワーニ夫人が許して下さいませんよ」

「それでは最初の話に戻るだけです。どっちみちあなたは機会を得て、陛下は感謝することになるでしょうね」

「でもダロワーニ夫人が引き受けたとしたら――」ベアルン夫人は最悪の結果を覚悟し、事態を見極めようとしていた。「その恩恵を取り上げることなんて出来ないでしょう……」

「陛下はご親切を惜しんだりなさらないわ」デュ・バリー夫人が言った。

「ふん! サリュース家には災難だな。知ったこっちゃないが」

「私がお役目を申し出たとしても――」もともと気になっていたところに斯かる喜劇が演じられたせいもあり、ベアルン夫人もだんだんと思いを固め始めた。「訴訟に勝つとは思えませんよ。今日までは誰が見たって負けていたのに、明日には勝っているなんてとても無理ですもの」

「そんなのは陛下のお気持ち次第です」またもや老婦人が躊躇っているのを見て、子爵は急いで言葉を継いだ。

「待ってよ。ベアルン夫人の言う通り。あたしも同感ね」

「何だって?」子爵が目を剥いた。

「つまりね、予定通りに訴訟が進んだとしても、ベアルン夫人のように由緒ある家柄の方には結構なんじゃないってこと。陛下のご厚意やご親切の障碍にはならないわ。何しろ高等法院とは今みたいな状況だから、もしかすると陛下も裁判の流れを変えたくないかもしれないけど、その時は賠償してくれるんじゃない?」

「そうだな」子爵もすぐに同意した。「その通りだ!」

「でもですよ」ベアルン夫人が辛そうに口を聞いた。「二十万リーヴルもの負債を、どうやって賠償して下さるんでしょうか?」

「まずはそうね、国王からのご下賜金が十万リーヴル、とかかしら?」

 デュ・バリー兄妹は食い入るようにかもを見つめていた。

「私には息子がいます」

「あら素敵! 王国にまた一人、陛下に忠実な臣下が増えるんですよ」

「息子にも何かしていただけると思いますか?」

「僕が答えましょう。最低でも近衛の副官は見込めます」とジャンが言った。

「ほかにもご親戚はいらっしゃいますの?」デュ・バリー夫人がたずねる。

「甥が一人」

「そうですか。甥御さんにも何か考えておきますよ」

「それはあたなに任せるわ。いくらでも思いつくみたいだし」デュ・バリー夫人も笑いながら同意した。

「よし。陛下がホラティウスの教訓に従いあなたのために手を尽くし、解決を図って下さるなんて、賢明ななさりようではありませんか?」

「思っても見ないほど寛大ななさりようですとも。それに伯爵夫人にもお礼を申し上げます。寛大な計らいもみんなあなたのおかげでございますから」

「それじゃあ」デュ・バリー夫人がたずねた。「この話を真剣に考えて下さるのね?」

「ええ、真剣に考えます」こう約束したベアルン夫人の顔は真っ青だった。

「じゃあ陛下にあなたのことをお話ししても構わないわね?」

「ありがたく存じます」ベアルン夫人は一つ溜息をついた。

「すぐに実行するわ。遅くとも今晩にはね」と言ってデュ・バリー夫人は腰を上げた。「これで手に入れられたかしら、あなたの友情を」

「ご友情などとはもったいないことでございます」老婦人はお辞儀をして答えた。「本当のことを申しますと、夢でも見ているようでございますよ」

「ではまとめましょうか」すべて無事に終わらせるためには、夫人に気が変わってもらっては困る。「まずは報償金十万リーヴルが、訴訟費用、旅賃、辯護士費用などに……」

「ええ」

「息子さんである伯爵には副官の地位を」

「きっと素晴らしい経歴の第一歩ですよ」

「甥御さんにも何かを、でしたね?」

「何かですか」

「何か見つけてもらうと申し上げた通りです。僕に任せて下さい」

「ところで今度はいつお会い出来るのでしょうか、伯爵夫人?」ベアルン夫人がたずねた。

「明日の朝、四輪馬車を迎えに行かせて、陛下のいるリュシエンヌまでお連れします。明日の十時にはお約束を果たしますわ。陛下にはお知らせしておくので、すぐにお会い出来ますよ」

「お送りいたしましょう」ジャンが腕を差し出した。

「とんでもございません。どうかそのままで」

 ジャンは引き下がらなかった。

「せめて階段の上まで」

「是非にと仰るのでしたら……」

 そう言ってベアルン夫人は子爵の腕を取った。

「ザモール!」

 デュ・バリー夫人が呼ぶと、ザモールが駆けつけた。

「玄関までご案内差し上げて。それから兄の車を回すように」

 ザモールは閃光のように立ち去った。

「本当にお世話になりました」ベアルン夫人が口を開いた。

 二人は別れのお辞儀を交わした。

 階段の上まで来ると、ジャン子爵は腕を放し妹の許に戻った。ベアルン夫人は大階段を厳かに降りていった。

 先頭を歩いているのはザモール。その後から、二人の従僕が明かりを手に続き、それからベアルン夫人、三人目の従僕がやや寸足らずな裾を持って従った。

 デュ・バリー兄妹は窓越しに、ベアルン夫人が馬車に着くまで見守っていた。細心の注意と一方ならぬ苦労の末にやっと見つけ出した代母なのだ。

 ベアルン夫人が玄関の石段を降り切った時のことだった。馬輿が中庭に乗り入れられ、若い婦人が扉から声を張り上げた。

「おや、ションさま!」ザモールがぶ厚い口唇を開いた。「お晩でございます」

 ベアルン夫人が空中で足を止めた。到着を告げた声に聞き覚えがあったのだ。フラジョ氏の偽娘ではないか。

 デュ・バリー夫人は大急ぎで窓を開け、妹に向かって賢明に合図したが、気づかれずに終わった。

「ジルベールのお馬鹿ちゃんはここ?」ションは伯爵夫人に気づかぬまま従僕に声をかけた。

「いいえ、一度も見かけておりません」

 ションが目を上げ、ジャンの合図に気づいたのはその時だった。

 伸ばした腕の先に目をやると、ベアルン夫人がいた。

 ションは悲鳴をあげて帽子コワフを引き下げ、玄関に転がり込んだ。

 老婦人は気づいた様子を微塵も見せずに馬車に乗り込み、御者に行き先を告げた。


Alexandre Dumas『Joseph Balsamo』Chapitre XXXI「Le brevet de Zamore」の全訳です。


Ver.1 09/08/29
Ver.2 12/09/24
 


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[訳者あとがき]

 ・09/08/29 ▼次回は9/12(土)更新予定。

[更新履歴]

・12/09/24 「Le frère et la soeur」を「デュ・バリー姉妹」と誤記するケアレス・ミス。「デュ・バリー兄妹」に訂正。

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