この翻訳は翻訳者の許可を取ることなく好きに使ってくれてかまわない。ただし訳者はそれについてにいかなる責任も負わない。
翻訳:東 照
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ジョゼフ・バルサモ

アレクサンドル・デュマ

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第三十八章 認証式

 偉大なものの常として、ヴェルサイユは今もそしてこれからも美しいままであろう。

 苔が壊れた石を蝕み、鉛や青銅や大理石の神々が水の涸れた泉水にばらばらに横たわり、木々の伐られた並木道がもつれたまま天に召されようとも、廃墟と化してなお、夢想家や詩人には目の覚めるような華やかな光景を与え続けることだろう。そして詩人たちは大バルコニーから、束の間の栄華を眺めた後で、尽きることのない地平線を眺めるのだ。

 だがヴェルサイユの輝きを見たいのならば、やはり活気と栄耀に彩られた時を選ぶべきだ。武器を持たぬ人々が、立派な兵士に止められながら、金の柵に向かって波のように打ちつけている時。天鵞絨張り、絹張り、繻子張りの、厳めしい紋章つきの馬車が、石畳に音を響かせ、威勢よく馬をギャロップで走らせている時。窓という窓が魔法の宮殿のように輝いて、ダイヤモンド、ルビー、サファイアが織りなすまばゆい世界を見せつける時――そこでは一人の男の一挙手にこうべを垂れる――白い雛菊や赤い雛罌粟、青い矢車の入り混じった黄金の穂が、風にたわむように。確かにヴェルサイユは美しい。とりわけ門という門を通って、名士という名士に使いが送られた時。もったいぶった国王、君主、領主、官僚、学者たちが、豪華な絨毯や高価なモザイク張りの床を踏んでいる時。

 しかし何と言っても、式典のために盛大に飾り立てられた時だ。きらびやかな調度とこぼれるような照明が、ヴェルサイユに溢れる魔力を倍する時――どれだけ冷静な人物にも、これは人間の想像力と能力が生み出し得る驚異なのだという考えを抱かせるはずだ。

 例えば大使の接待、或いはささやかな貴族にとってはお披露目の式典の時。マナーの造化ルイ十四世は、一人一人を離れた場所に遠ざけておき、華々しい王の生活の一端をかいま見せることで、彼らにそうした畏敬の念を植えつけることを望んでいた。とにもかくにも祭壇に戴いた神に参詣する権利を勝ち得た者たちには、やがて王宮も神殿にしか見えなくなる。

 こうしてヴェルサイユは、とうに堕してはいるがそれでも輝きを保ちながら、デュ・バリー夫人の認証式を前にして、予定通りに門という門を開き、灯という灯を灯し、華という華を誇示した。物見高い人々、貪欲な人々、貧しい人々(不思議なことに、こうした光景を前にして飢えや貧しさを忘れていた!)が、アルム広場やパリ通り一帯を彩っていた。宮殿の窓という窓から光が放たれ、シャンデリアが遠くからは金の砂塵に浮かぶ天体に見えた。

 国王は十時ちょうどに部屋から出た。いつも以上に豪華な衣装で、即ちレースはふんだんに、靴下と靴の留め金だけで百万はくだらない。

 嫉妬深い婦人連が前日に企んだ陰謀については、サルチーヌから聞かされていた。そのために顔には不安が浮かび、回廊には男しかいないのではないかとびくびくしていた。

 だがやがて不安は安心に変わった。謁見用に設えた王妃の間で、ちらほらとしたレースやいくつものダイヤモンドで飾られた髪粉の中に、ひとまず三王女の姿を見つけたのだ。次いで、前日に気焔をあげていたミルポワ元帥夫人。気づいてみれば、自宅から出ないと散々騒いでいた者たちが、真っ先に揃っていた。

 リシュリュー公爵が将軍のように駆けまわって一人一人に声をかけていた。

「やあ! ここでお会いするとは。不実な方ですな!」

 或いは、

「抜け駆けすると思っておりましたよ!」

 さらにはまた、

「陰謀のことはどうなりましたかな?」

「あなたご自身はどうなんです、公爵?」とご婦人たちは答えた。

「わしは娘のデグモン伯爵夫人の代わりです。どうです、セプティマニー(Septimanie)がおらぬでしょう。あれだけはグラモン夫人、ゲメネー夫人と頑張っておりますから、これでわしがどうなるかも決まりました。明日には五度目の追放か、四度目のバスチーユ入りです。もう陰謀はこりごりですよ」

 国王が現れた。静まりかえった中で、十時の鐘、即ち式典の時刻を告げるのが聞こえた。国王陛下の周りには取り巻きが侍っている。五十人以上はいるだろうか、認証式に来るとは明言しなかった者たちであり、恐らくはそれ故にこそここにいるのだ。

 国王が真っ先に気づいたのは、グラモン夫人、ゲメネー夫人、デグモン夫人がこの壮麗な式典に欠けていることだった。

 ショワズールは冷静を装っていたが、努力も虚しく、取り繕っているのは一目でわかった。

「グラモン公爵夫人が見えませんね?」国王がたずねた。

「陛下、妹は気分がすぐれないため、代わってご挨拶申し上げるよう言づかって参りました」

「残念ですな!」

 そう言って国王はショワズールに背中を向けると、ゲメネー公に向き直った。

「ゲメネー公夫人はどちらに? ご一緒ではなかったのですか?」

「それが、具合がよくないのです。迎えに行ったところ、寝込んでおりました」

「ああ、それは残念です! おや、元帥ではありませんか。今晩は、公爵」

「陛下……」猫なで声を出すと、若者のような身のこなしでお辞儀をした。

「そなたは病気ではなかったか」国王はショワズールとゲメネーにも聞こえるようにして言った。

「陛下にお目に掛かる機会があればいつでも絶好調でございます」リシュリュー公爵が答えた。

「しかし」と国王はリシュリューの周りを見渡し、「ご息女のデグモン夫人がいないのには何か事情が?」

 公爵は人に聞かれているのをわかって、ひどく悲しそうな声を出した。

「娘は陛下の足許にひざまずく栄誉を奪われてしまいました。特に今夜は。何分にも具合が悪く……」

「それは残念だ! デグモン夫人が病気とは。フランス一健康であったのに! 返す返すも残念だ!」

 そう言って国王は、ショワズールやゲメネーの時のように、リシュリューの許を離れた。

 それから室内を一巡りし、固くなっているミルポワ夫人にはとりわけ丁寧に挨拶をした。

「裏切った甲斐がありましたな」と元帥が耳打ちした。「我々とは違い、明日はさぞかし晴れやかなお気持ちでしょうね!……それを思うと震えが来ますぞ」

 そう言って公爵は溜息をついた。

「ですけどあなた様もショワズール兄妹を裏切ったんじゃありませんこと? 何しろここにいらっしゃるってことは……あなただって誓いましたのに……」

「娘のセプティマニーの代わりですよ。可哀相に! 忠実なあまりに寵を失ってしまうとは」

「忠実なのは父親に、かしら?」元帥夫人がすかさず言い返した。

 皮肉と言ってもいいこの問いかけには、聞こえないふりをした。

「ところで、陛下は不安そうに見えませんかな?」

「それはそうでしょう」

「というと?」

「十時十五分ですから」

「おお、なるほど。なのに伯爵夫人はまだ来ない。さて、一つ申し上げて構いませんか?」

「どうぞ」

「気がかりなことがあります」

「何でしょう?」

「伯爵夫人に何か障碍が起こったのではないでしょうか。あなたはご存じなのではありませんか?」

「どうしてです?」

「首まで陰謀に浸かっているようですから」

「まあ!」元帥夫人は打ち明け話でもするようにして答えた。「私もそのことが気がかりなんです」

「公爵夫人は恐ろしい敵ですな、パルティア人のように逃げながら矢を射るとは。とはいえ逃げたことには違いない。ご覧なさい、ショワズールは平静を装おうとしていますが、不安そうではありませんか。うまく居場所を確保して、陛下から目を離さずにいる。何か企んでいたのでしょう? 教えて下さらんか」

「私も知らないんです。でも仰る通りだと思います」

「狙いは何でしょうな?」

「遅延工作ですよ、諺にありますでしょう、『時を制する者はすべてを制す』。認証式を先延ばしにしてしまえば、明日、思いがけないことが起こるのかもしれません。きっと王太子妃は四日後ではなく明日にはコンピエーニュに到着するのではありませんか。きっと明日には決着をつけるつもりなのでしょう」

「元帥夫人、あなたのお話は実にもっともらしいではありませんか。伯爵夫人はまだ来ない!」

「陛下は苛立ってらっしゃいますね」

「窓辺に行くのはこれでもう三度目です。随分と気を揉んでいらっしゃる」

「もっとひどいことになるんじゃないかしら」

「というと?」

「ほら、十時二十分です」

「ふむ」

「これから一つ申し上げて構いませんか」

「何でしょうかな?」

 元帥夫人は辺りを見回し、声をひそめた。

「伯爵夫人は来ないんじゃないかと思います」

「何てことだ! しかしそれでは、ひどい騒ぎになりますぞ」

「裁判沙汰ですよ、犯罪です……それも重大な……起訴理由ならいくらでもあるでしょうね。誘拐、傷害、或いは不敬罪も。どれもこれもショワズール兄妹が糸を引いたんです」

「彼らにしてはちょっと軽率ですな」

「しょうがありませんわ、取り憑かれているんですから」

「むきにならずに我々のようにしていれば有利なことがあります。少なくともものをはっきりと見ることが出来る」

「また陛下が窓のところに行かれましたわ」

 確かにルイ十五世は、顔を曇らせ、不安げに、苛立ちながら窓に近寄り、手をイスパニア錠に、額を冷たい窓ガラスに押しつけていた。

 その間も、嵐の前の葉擦れのように、廷臣たちの話すざわめきが聞こえていた。

 目という目が振り子時計と国王の間を行き来していた。

 振り子時計が十時半を告げた。鉄をはじくような澄んだ音が、震えながら広い部屋に沈んで行った。

 モープーが国王に近づいた。

「よい天気でございますね」おずおずと話しかけた。

「素晴らしい天気だ……何か知っているかね、モープー?」

「何のことでしょうか?」

「伯爵夫人が遅れていることだよ!」

「恐らくご病気に違いありません」

「グラモン夫人が病気、ゲメネー夫人が病気、デグモン夫人が病気なのも理解できる。だが伯爵夫人が病気などとは考えられぬ!」

「あまりに昂奮いたしますと、具合が悪くなることもございます。伯爵夫人は大変お喜びになっていましたから!」

「ああ、もう駄目だ」ルイ十五世は首を横に振った。「伯爵夫人はもう来ぬだろう!」

 声をひそめていたにもかかわらず、あまりに静まりかえっていたために、ほとんどの来賓の耳にその言葉は届いていた。

 だがそれに答えるには、心の中で答えるのにすら、時期尚早だったのである。馬車の轟音が穹窿の下に響き渡った。

 頭という頭が揺れ、目という目が問いを交わし合っていた。

 国王が窓から離れ、回廊を見渡そうとサロンの中央に陣取った。

「残念な報せでなければいいんですけど」元帥夫人が耳元に囁くと、リシュリュー公はかすかな笑みを押し殺した。

 ところが不意に、国王の顔に喜びがはじけ、目に輝きが湧き出た。

「デュ・バリー伯爵夫人です!」と取次が式部長官に告げた。

「ド・ベアルン伯爵夫人です!」

 この二つの名前を聞いて、それぞれにその意味は相反すれど、誰もが胸を突かれた。好奇心を抑えきれずに、廷臣たちが波のように国王の許に歩み寄った。

 ミルポワ夫人は、自分がルイ十五世の一番そばにいることに気づいた。

「まあ、お綺麗!」元帥夫人は礼拝しようとでもするように両手を合わせた。

 国王が振り返り、元帥夫人に微笑みかけた。

「あれは女性ではない」リシュリュー公が言った。「妖精だ」

 国王は微笑みを旧臣の許に送った。

 確かに、これほどまでに美しい伯爵夫人は見たことがなかったし、これほど甘美な表情を見せ、これほど心を高ぶらせ、これほど慎ましやかな目つき、これほど気高い姿、これほど洗練された足取りで、王妃の間――とは言っても、申し上げた通り、今は認証式の間――を感嘆に渦巻かせたことはなかった。

 魅力的な美しさ、豪華だがけばけばしくはなく、何よりもうっとりするような髪飾りに彩られたデュ・バリー夫人が、ベアルン夫人に先導されて歩いて来た。ベアルン夫人はひどい痛みにもかかわらず、足を引きずりもせず、眉をひそめもしなかった。だが頬紅が干涸らびた欠片となって剥がれ落ちるほどの苦しみに、顔からは血の気が引き、火傷した足をほんの少し動かすだけで筋の一本一本が軋みをあげて震えるほどだった。

 誰もがこの不思議な組み合わせに目を注いでいた。

 老婦人は若い頃に着ていたような襟の開いた服を着て、高さ一ピエの髪飾りをかぶり、落ち窪んだ大きな目を尾白鷲のように輝かせ、絢爛たる装いに骸骨のような足取りをしていて、まるで現代に手を伸ばした昔日の肖像画のようだった。

 干涸らびて冷やかな「威厳」が艶やかで慎ましやかな「美」を先導しているのを見て、多くの来賓は感嘆に、なかんずく驚きに打たれた。

 これはまた好対照だわい、と国王は感じた。ベアルン夫人が伯爵夫人の若さ、瑞々しさ、明るさを、これまでにないほど引き立てていた。

 こうしたわけなので、伯爵夫人が作法に従い膝を折り王の手に口づけをした時、ルイ十五世は夫人の腕をつかみ、二週間も前から苦しんでいた褒美にと、一言だけ声をかけて立ち上がらせた。

「なぜひざまずくのです? 笑って下さい!……ひざまずくのはむしろ余の方です」

 国王は儀礼通りに腕を広げた。だが抱擁の真似ではなく、今回は実際に抱擁をおこなった。

「あなたは素晴らしい代子をお持ちですよ」とベアルン夫人に声をかけた。「もちろん、伯爵夫人も立派な代母をお持ちだ。また宮廷でお目にかかれるとよいですね」

 老婦人は深々とお辞儀をした。

「娘たちに挨拶を」と国王はデュ・バリー夫人に囁いた。「ちゃんとお辞儀の出来るところを見せておやりなさい。娘たちもきっと心を尽くしてくれるでしょう」

 二人の婦人は、歩むに従い広く空けられる道を通って前に進んだ。だがそれを見つめる人々の目の光は激しい炎に満ちていた。

 三王女は近づいて来るデュ・バリー夫人を見て、バネのように立ち上がって待ちかまえている。

 ルイ十五世はじっと見つめていた。〈マダム〉たちに目を注ぎ、礼儀正しくしろと訴えていた。

 作法の教えるところより深々と頭を下げたデュ・バリー夫人に、心を動かされたようにしてマダムたちはお辞儀を返した。デュ・バリー夫人の見事な手際に王女たちも心を打たれ、国王同様に心から抱擁を与えているのを見て、国王も満足げだった。

 こうして、伯爵夫人の立身は勝利に終わった。ぐずぐずしている者や手際の良くない者たちは、祭りの女王に挨拶するのに一時間は待たなければならなかった。

 祭りの主役は驕りもせず腹も立てず不平も言わず、どんなおべっかも受け入れ、あらゆる不実をも忘れてしまったようだった。懐の広い人間を演じていた訳ではない。心は喜びに満ちあふれ、憎しみの入り込む余地などなかった。

 リシュリューはだてにマオンの勝者ではなかった。上手く立ち回る術を心得ていた。当たり前の廷臣たちが挨拶の終わるまでその場に留まり、言祝ぐべきか貶すべきかで謁見の結果を待っている間、リシュリュー元帥はとうに伯爵夫人の椅子の後ろに陣取っていた。それはあたかも騎兵の先駆けが、旋回点で縦列展開の用意をするため百トワーズ地点に突っ立っているかの如きであった。リシュリュー公は人波に押しつぶされることなくデュ・バリー夫人の傍らに位置することが出来た。ミルポワ夫人としてもリシュリュー公が戦争で勝ち得て来た幸運を承知していたため、公爵のやり方を真似て伯爵夫人のそばにある腰掛けに少しずつ近づいていた。

 グループごとにお喋りが始まり、デュ・バリー夫人の人となりがふるいに掛けられた。

 王の愛情とマダムたちの歓待と代母の支えに励まされて、伯爵夫人は王の周りに侍る貴族たちを力強く見渡し、自分の立場を確認してから婦人たちの中に敵を探した。

 人影が視界を遮った。

「まあ、公爵さま。あなたにお会いするためにここに来なくてはならなかったんですよ」

「何ですと?」

「ええ、だって八日の間、ヴェルサイユでもパリでもリュシエンヌでもお目に掛かれなかったじゃありませんか」

「今晩ここでお目に掛かれると心得ておりましたもので」

「こうなるとわかってらしたのね?」

「確かに」

「まあ! 本当に、何て方かしら! それを知っていながら教えてくれないなんて。あたくしはちっとも知らなかったのに」

「どういうことですかな? ご自分がここにいらっしゃることがご自身にはわからなかったというのですか?」

「ええそう。道で役人に捕まったイソップみたいだったわ。『何処に行く?』と役人がたずねた。『わかりません』とイソップは答えた。『ほう? では牢屋に行くことになるぞ』『おわかりいただけましたか。何処に行くのかわたしにはわからなかったことが』。それと同じで、気持だけはヴェルサイユに向かっていましたのに、行けるかどうかはっきり断言は出来ずにいたんです。そういうわけですから、あなたが会いに来て手伝って下さっていたなら……なのに……今になって会いにいらっしゃるおつもりですのね?」

 リシュリューは当てこすりにも慌てた様子はなく、「ここにおいでになれるかはっきりしなかったとは、どうしたわけでしょうか」

「申し上げましたわ。罠に嵌められてしまったんですもの」

 伯爵夫人にねめつけられたものの、公爵は平然と見つめ返した。

「罠ですと? どういうことです、伯爵夫人?」

「まず、美容師が攫われました」

「美容師が?」

「ええ」

「なぜ知らせて下さらなかったのです。そうすれば――いや失礼、声を落としましょう――デグモン夫人が手に入れた真珠や宝石を届けて差し上げましたし、かつら師や王室美容師の中でも最高の美容師、レオナールを遣わしたでしょうに」

「レオナールですって!」デュ・バリー夫人が声をあげた。

「さようです。セプティマニーの髪を整えている若者で、アルパゴンが金を隠したように秘蔵しているのですが、とはいえ残念だったとは申せませんな。何しろ素晴らしい髪ですぞ、見とれてしまいます。それにしても不思議なものですな、デグモン夫人が昨日ブーシェに頼んだデッサンにそっくりだ。あれも具合が悪くなければ、こういう髪型にしようと考えていたようですが。セプティマニーも可哀相に!」[*1]

 伯爵夫人は震えながらもさらに強く公爵を見つめた。だが公爵は微笑みを浮かべたまま動じなかった。

「失礼、お話の途中でしたな。罠と仰いましたか?」

「そうです。美容師を攫った後は、あたくしのドレスを盗んで行ったんです」

「ふうむ! それはひどい。しかし何だかんだ言っても、盗まれたドレスなしで問題なかったのですな。見たところ見事なドレスをお召しのようだ……それは花を縫いつけた中国製の絹ではありませんか? 何ですな! わしに一言、困っていると伝えてくれさえしたら――今後はそうしていただかなくてはなりませんが、そうしてくれれば娘が認証式用に作らせていたドレスをお送りいたしましたものを。それと同じような、否、まったく同じと言っていいでしょう」

 デュ・バリー夫人はリシュリュー公の両手を握った。苦境から引っ張り上げてくれた魔法使いが何者なのかわかりかけて来たのだ。

「あたくしがどんな馬車に乗ってここまで来たのかご存じですか?」

「知りませんが、ご自分の馬車なのではありませんか」

「あたくしの馬車は奪われてしまったんです。ドレスや美容師と同じように」

「では大がかりな策略でしたか? ここへはどんな馬車で?」

「その前に、デグモン夫人の馬車の特徴を教えていただけません?」

「そうですな、確か、今夜のことを考えて、白繻子の内張りをした馬車を注文しておりました。ところが紋章を描く時間がありませんでした」

「やっぱり。薔薇なら紋章よりも早く描けるもの。リシュリュー家とデグモン家の紋章は複雑だから。公爵、あなたって素晴らしい方ですわ」

 デュ・バリー夫人は、暖かく薫る顔つきのリシュリュー公に両手を差し出した。

 リシュリュー公は口づけを浴びせられながら、デュ・バリー夫人の手が震えていることに気づいた。

「どうしました?」周りを気にしながらたずねた。

「公爵……」伯爵夫人の目に戸惑いが浮かんでいた。

「さあどうしたんです?」

「ゲメネー殿のそばにいるのは、どなたですか?」

「プロイセンの軍服の方ですかな?」

「ええ」

「褐色の肌、黒い瞳、力強い顔つきの人ですな? プロイセンの国王陛下が認証式を祝福するために遣わした将校ですよ」

「どうか笑わないで下さい。あの方は三、四年前にフランスに来たことがあります。あたくしは二度と会うことが出来ませんでした。いろいろなところを探したのに。あの方を存じ上げているんです」

「見間違いではありませんか。あの方はド・フェニックス伯爵という外国人で、つい二、三日前に来たばかりですぞ」

「あんなふうにあたくしを見ているじゃありませんか!」

「みんなあなたを見ておりますよ。非常にお美しいですから!」

「お辞儀をしたわ、お辞儀をしたでしょう?」

「誰だってお辞儀はしますとも、伯爵夫人。とっくにし終わったのなら別ですが」

 だが伯爵夫人は異常な昂奮に駆られていたために、公爵の言葉も耳には入らなかった。目は魂を抜かれたように釘付けになり、心ならずもリシュリュー公から離れ、その人物の方へと一歩二歩と踏み出していた。

 伯爵夫人から目を離さずにいた国王がこれに気づいた。どうやらおとなしくしているのに飽きたのだな、かなりのあいだ作法を守って離れていたのだからと思い、祝福の言葉をかけようと近づいた。

 ところが伯爵夫人は気がかりで頭がいっぱいで、ほかのことは考えられなかった。

「陛下、ゲメネー殿に背中を向けているプロイセンの将校はどなたでしょう?」

「あそこに見える人かな?」ルイ十五世がたずねた。

「そうです」

「力強い顔つきをして、金の襟からがっしりした首が覗いている人だね?」

「ええ、その通りです」

「プロイセン王の信任状を持っている人だよ……王のような哲学者だ。今夜、招待しておいたのだ。プロイセンの哲学者に、代理を通してペチコート三世の勝利を祝ってもらおうと思ってね」[*2]

「名前は何と仰いますの?」

「確か……」国王はしばし考えて、「ああ、そうだ。フェニックス伯だ」

「あの人だわ!」デュ・バリー夫人が呟いた。「あの人だ、間違いない!」

 まだほかにも質問があるかとしばらく待っていたが、デュ・バリー夫人が黙り込んだままなのがわかった。

「ご婦人方」国王は声を高めた。「明日、王太子妃がコンピエーニュに到着する。正午に妃殿下をお迎えすることになる。招待されているご婦人は一人残らず出席して欲しい。もちろん病気の方は別だ。出かけるには体力もいるだろう。王太子妃は容態が悪化するのを望んではおらぬ」

 国王は話している間中、厳しい目つきでショワズール、ゲメネー、リシュリューを睨んでいた。

 国王の周りに恐ろしい沈黙が訪れた。王の言葉の意味はわかりすぎるほどわかった。それは失脚を意味していた。

「陛下」そばから離れなかったデュ・バリー夫人が声をかけた。「どうかデグモン伯爵夫人にはお慈悲をお掛け下さい」

「それはまた何故かね?」

「あの方はリシュリュー公爵のご息女で、リシュリュー公爵はあたくしの一番大切な友人ですから」

「リシュリューが?」

「その通りです」

「そなたが望むのであれば」国王はリシュリュー元帥に歩み寄った。

 リシュリューは伯爵夫人の口唇の動きを見逃さなかった。さすがに聞こえはしなかったものの、口にしたことに察しをつけることは出来た。

「さて公爵、デグモン夫人は明日には快復しそうなのでは?」

「もちろんですとも。陛下が望まれれば、今晩にも快復いたしましょう」

 リシュリューは敬意と感謝を一緒くたにさせたように、深々とお辞儀をした。

 国王は伯爵夫人の耳元に口を近づけ、小声で囁いた。

「陛下――」伯爵夫人の答えには、敬意に加えて可愛らしい微笑みのおまけまでついていた。「あたくしは陛下の忠実な臣下でございます」

 国王は一同に手で挨拶をしてから、部屋に退がった。

 国王がサロンの外に足を踏み出した途端、伯爵夫人の目はあの人物のところにまたも吸い寄せられていた。かつて味わったこともないほどに怯え、ひどい不安を刻みつけられていた。

 件の男は国王が通り過ぎる際には皆に倣って頭を下げた。だが頭を下げながらも、男の顔には尊大な、脅しとも取れるような奇妙な表情が残されていた。やがて国王の姿が見えなくなると、男は人混みを掻き分け、デュ・バリー夫人から二歩ほど離れたところまで来て立ち止まった。

 伯爵夫人の方でも好奇心に打ち勝てず、一歩前に出た。この結果、男は頭を下げ、誰にも聞かれぬように小声で話すことが出来るようになった。

「覚えていらっしゃいますか?」

「ええ、あなたはルイ十五世広場であたくしに予言をなさいました」

 すると男は澄んだ鋭い瞳を向けた。

「残念ながら、嘘を申してしまいました。あの時の予言では、あなたはフランスの王妃になるはずでしたね?」

「とんでもない、予言は成就いたしましたわ。いずれにしても成就したようなものです。あたくしの方は約束を守る用意は出来ています。さあ、望みを仰って下さい」

「場所がまずい。それに、望みを叶えるには時が至っておりません」

「その時が来た場合に備えて、望みを叶える用意はしておきましょう」

「如何なる時期、如何なる場所、如何なる時間でも、お目にかかることは適うのでしょうね?」

「お約束いたします」

「ありがとうございます」

「ところで、何というお名前でお取り次ぎなさいますの? フェニックス伯でしょうか?」

「いいえ、ジョゼフ・バルサモという名で」

「ジョゼフ・バルサモ……」伯爵夫人が繰り返している間に、男は人混みの中に消えていた。「ジョゼフ・バルサモ! いいでしょう! 覚えておくわ」


Alexandre Dumas『Joseph Balsamo』Chapitre XXXVIII「La présentation」の全訳です。


Ver.1 09/12/05
Ver.2 12/09/26
 


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[訳者あとがき]

 ・09/12/05 ▼次回は12/19(土)更新予定。

[更新履歴]

・12/09/26 「例えば大使の接待、或いは貴族のため、そして認証式。」→「例えば大使の接待、或いはささやかな貴族にとってはお披露目の式典の時。」

[註釈]

*1. [アルパゴン]。モリエール『守銭奴』に登場する守銭奴。[]。

*2. [ペチコート三世]。デュ・バリー夫人のこと。プロイセン王フリードリヒ二世がつけた、ルイ十五世の寵姫の呼び名。ペチコート一世=シャトールー公爵夫人、二世=ポンパドゥール侯爵夫人。[]。

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