この翻訳は翻訳者の許可を取ることなく好きに使ってくれてかまわない。ただし訳者はそれについてにいかなる責任も負わない。
翻訳:東 照
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ジョゼフ・バルサモ

アレクサンドル・デュマ

訳者あとがき・更新履歴
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第四十章 庇護者と被庇護者

 ここらでジルベールの話に戻ろう。庇護者であるションが軽率な一言を発したことからわかる通り、逃げ出したのは確かだが、それっきりになっていた。

 フィリップ・ド・タヴェルネとデュ・バリー子爵がラ・ショセで決闘した際に庇護者の名前を知って以来、我らが哲学者君が庇護者に寄せる感嘆の念は急速に冷めていた。

 タヴェルネではよく生垣の中やトンネルの陰に隠れては、父と散歩するアンドレを執拗に追いかけていたから、男爵がデュ・バリー伯爵夫人について話すのも耳にしていた。意固地な信念を持った老タヴェルネのこと、そんな偏った憎しみがジルベールの心にも影響を及ぼしていた。父の口から聞かされるデュ・バリー夫人の悪口に、アンドレが反論しなかったことも大きい。それもそのはず、デュ・バリー夫人という名前はフランスでは軽蔑の的だったのである。斯かるが故に、ジルベールは男爵の主張をそっくり信じ込んでいたし、ニコルが「あたしがデュ・バリー夫人だったらなあ!」と叫ぶのを聞いてからはますますひどくなっていた。

 移動中、ションはあまりにも忙しく、気にしなければいけないことがあまりにも多すぎた。そのせいで、身許を知ってジルベールの機嫌が変わったことに気づけなかった。ヴェルサイユに着いた時にも、子爵がフィリップから受けた刀傷の件を、都合よく運ぶにはどうしたらいいか、名誉となるように転がせないか、そんなことばかり考えていたのである。

 ジルベールの方は、首都――フランスの首都とは言えぬまでも、少なくともフランス君主制の首都――に入るや、素直な感動に心を満たされ、悪い感情などすっかり忘れてしまった。ヴェルサイユは粛々として冷たく、聳える木々のほとんどは枯れるか老いて朽ちかかっていた。ジルベールの心が、侘びしいような敬虔な気持に打たれた。人間の努力が作りあげ、自然の力が生み出したこの大作を前にして、心乱されぬ者などあるまい。

 絶えて覚えたことのない感動に生来の驕りもへし折られ、驚きと感嘆に打たれてジルベールは束の間おとなしく神妙にしていた。貧しさと劣等感に打ちのめされていた。金や綬をつけた貴族たちの傍らでこんなみすぼらしい身なりをし、スイス人衛兵の傍らでこんなにもちっぽけで、鋲を打ったこの靴でモザイク張りの床やぴかぴかに磨かれた大理石の廊下を歩かなければならないことに愕然とした思いを抱いていた。

 何かを為すには庇護者に頼らざるを得ないだろう。ジルベールがションにぴったりと身を寄せたのは、自分が連れだということを衛兵にしっかり見せるためだった。だがそれこそションにすがるような行為なのだとしばらくしてから気づいて、自分が許せなかった。

 この物語の前半でお話しした通り、デュ・バリー夫人がヴェルサイユで過ごしている美しい部屋は、かつてマダム・アデライードが過ごしていた部屋である。金、大理石、香水、絨毯を前にしてジルベールは恍惚としていた。肉体は本能のままに酔わされ、思想は気の向くままに圧倒されていた。こうして驚異の念に打ちのめされていたために、自分がいつの間にかサージ張りの小さな屋根裏部屋にいて、ブイヨンと羊肉の余りとクリーム菓子を与えられ、それを運んで来た下男に主人面して「ここから動くなよ!」と言われて姿が見えなくなるまで手をつけられずにいることに気づいたのも、かなり時間が経ってからだった。

 それでもなお、目を見張るような光景の末端が、ジルベールを虜にしていた。屋根裏に入れられたと書きはしたが、その屋根裏の窓からは、大理石像の飾られた庭園が見渡せた。緑のヴェールに覆われた水流の上には、手をつけられぬままの自然が、海の波のようにうねる木々の梢の向こうには、色とりどりの平野や隣り合った山々の青い稜線が広がっているのが見えた。その時ジルベールの頭に浮かんでいたのは、廷臣としてでも従僕としてでもなく、生まれに左右されることも卑屈になることもなく、ヴェルサイユという〈王宮〉で過ごしているということだけであった。

 ジルベールがささやかな食事を――とは言っても食べ慣れていたものと比べれば格段に違う食事を――摂り、腹ごなしに窓越しの考えに耽っている間、ご記憶の通りションがデュ・バリー夫人のところにやって来て、ベアルン夫人との先の会談を果たしたことを耳打ちし、ラ・ショセの宿駅で兄に災難が起こったことを声にしていた。起こった時にはひどい騒ぎになったものの、さらに深刻な事態――国王の無関心――を飲み込んでしまうことになっていた深淵の中へと、この災難も飲み込まれ消えてしまうことになるのは、既にご存じの通りである。

 自分の理解力や野心を越える存在を前にして、ジルベールはいつものように空想に耽っていた。降りてくるようにションから言われたのはそんな時である。ジルベールは帽子にブラシをかけ、目の隅で自分の古着と従僕の新品を見比べた。あれはお仕着せなんだと自分に言い聞かせながらも結局は下に降りたものの、出会った人間や目にした事物とはとても比べられないことがわかって、恥ずかしさで真っ赤になっていた。

 ションもジルベールと同時に中庭に降りて来た。ただし、ションは大階段を、ジルベールは避難梯子のようなものを使って。

 一台の馬車が待っていた。それは丈の低い四人乗りの無蓋軽四輪馬車ファエトンであった。ルイ十四世がモンテスパン夫人やフォンタンジュ夫人、時には王妃を乗せることもあった、かの歴史的馬車と同型のものである。[*1]

 ションが乗り込み、前部座席に腰を下ろした。大きな小箱と子犬も一緒だ。残り二つの座席にはジルベールと、グランジュ氏という家令が坐ることになった。

 ジルベールは上座に着こうとして、急いでションの後ろに席を取った。家令は文句も言わず、気にすら留めずに、小箱と犬の後ろに坐った。

 ションは心も魂もヴェルサイユの住人であったので、宮殿を離れて新鮮な空気を吸いに森や牧場に向かうのが楽しくて仕方がなかった。手足を伸ばして、町から出るや、ほとんど人が変わってしまった。

「ねえ! ヴェルサイユはどうだった、哲学者ちゃん?」

「凄いとしか言いようが。でももうヴェルサイユを出たんですよね?」

「ええそう、うちに向かってるの」

「あなたのお宅と仰ったんですか?」ジルベールのぶすったれた声が和らいだ。

「そう言ったつもり。義姉あねに会わせようと思って。気に入られるように頑張ってね。今はフランス中の大貴族がそうしようと夢中なんだから。ところでグランジュさん、この子の服を一揃い用意してくれないかしら」

 ジルベールは耳まで真っ赤になった。

「どのような服にいたしましょう? 普通のお仕着せで構いませんか?」

 ジルベールは座席の上で飛び上がった。

「お仕着せですって!」憎しみのこもった目つきを家令に向けた。

「違うってば。そうね……後で言うわ。義姉に話したいことがあるし。だけどついでにザモールの服も注文するのだけは忘れないで」

「わかりました」

「ザモールは知ってる?」この話に驚いているらしいジルベールに声をかけた。

「いえ、残念ですが」

「あなたの同僚みたいなもの。もうすぐリュシエンヌの領主になるの。仲良くしてあげて。何だかんだ言ってもいい子だから。肌の色は関係ないわ」

 ザモールの肌が何色なのかたずねようとしたが、好奇心についての忠告を思い出し、再び小言を食らうのはご免だと、質問を飲み込んだ。

「頑張ります」と言って、威厳をたたえた微笑みを浮かべるだけでやめておいた。

 リュシエンヌに到着した。哲学者君はすべてを目にしていた。植樹されたばかりの道路、緑なす丘、ローマ時代のような大水路、葉の茂った栗の木、そして本館に向かって流れるセーヌ両岸を伴走する素晴らしい平野と森の景色。

「じゃあここが」とジルベールは独語した。「フランス中のお金を費やした城館だ、とタヴェルネ男爵が言っていたところか!」

 犬が喜び勇み、使用人がいそいそと駆け寄ってションに挨拶をしたために、ジルベールの貴族哲学的断想は中断された。

「もう帰って来た?」

「まだお戻りになりませんが、お客様がお待ちでございます」

「どなた?」

「大法官様、警視総監様、デギヨン公爵です」

「そう。急いで中国の間を開けて来て。義姉にはほかの人より先に会っておきたいの。戻って来たらあたしが待っていると伝えて頂戴、わかった? ああ、シルヴィー!」ションは小箱と子犬を預かりに来た小間使いか何かに声をかけた。「小箱とミザプーはグランジュさんに渡してね。それからこの哲学者ちゃんはザモールのところに連れて行って頂戴」

 シルヴィー嬢は辺りを見回した。ションの言っているのがどんな動物なのか確かめようとしたのだろう。だがシルヴィー嬢の視線とションの視線がジルベールの上でかち合ったところで、この若者のことよ、とションが目配せした。

「こちらに」シルヴィーが言った。

 ジルベールがぽかんとしながら小間使いについて行くと、ションの方は鳥のように軽やかに脇の扉から姿を消した。

 ションの言葉が命令調ではなかったために、ジルベールはシルヴィーを小間使いというよりむしろ貴婦人のように考えた。第一、服装もニコルのものよりはアンドレのものに似ている。シルヴィーはジルベールの手を取ってにこやかに微笑んだ。というのも、ションの話しぶりから言って、新しい恋人とは行かぬまでも新しい遊び相手だろうと察したからだ。

 シルヴィー嬢は、飲み込みが早く、背の高い美しい娘だった。目は濃い青、白い肌にはうっすらとそばかすが浮かび、燃えるように美しい金髪をしていた。口元は瑞々しくほっそりとして、歯は白く、腕はふくよかで、そのことがジルベールに以前の艶事を思い出させた。ニコルが話していたあの蜜月のことが、甘苦しい震えと共に甦っていた。

 ご婦人というものはその種のことに聡い。シルヴィー嬢もすぐに感づいて笑みを洩らした。

「お名前をお聞かせ下さいますか、ムッシュー?」

「ジルベールと申します」我らが青年は柔らかな声で答えた。

「ではジルベールさま、ザモール閣下のところにご案内いたします」

「リュシエンヌの領主ですね?」

「領主です」

 ジルベールは腕を伸ばし、袖口で服を拭い、ハンカチで手をこすった。重要人物の前に出るのかと思うと、怯みそうになる。だが「ザモールはいい子よ」という言葉を思い出して、心を落ち着けた。

 既に伯爵夫人とも子爵とも親しい。これから領主とも親しくなるのだ。

 ――宮廷では誰とでもすぐに親しくなれると陰口を叩かれるのだろうか? この人たちは親切でいい人じゃないか。

 シルヴィーが控えの間の扉を開けた。そこは私室とも見まがうほどで、羽目板の鼈甲には金張りの銅が嵌められ、古代ローマの将軍ルクルスのアトリウムかとも思われただろう。無論ルクルス家の象眼は純金であったが。綿の詰まった大きな肘掛椅子の上で足を組み、チョコレートをかじっているのが、ご存じザモール閣下だった。もっとも、ジルベールはまだそれを知らない。

 だから将来のリュシエンヌ領主の姿を目にして哲学者殿の顔に浮かんだのは、まことにけったいな表情であった。

「何だ?」ジルベールはその人物を冷たく見据えていた。黒ん坊を見るのは初めてだったのだ。「何だ? あれは何だ?」

 ザモールの方は頭を上げもせずに、相変わらず菓子をかじったまま、幸せそうに白目を回していた。

「ザモール閣下です」シルヴィーが答えた。

「あの人が?」ジルベールは唖然とした。

「そうですよ」シルヴィーはことの成り行きとは裏腹に笑って答えた。

「領主だって? この醜い猿がリュシエンヌの領主? からかってらっしゃるんでしょう?」

 この侮辱にザモールが身体を起こして白い歯を剥き出した。

「私は領主です、猿ではありません」

 ジルベールはザモールからシルヴィーに戸惑うような視線を移したが、堪えきれずに笑っているのを見て怒りを感じた。

 ザモールの方はインドの神像のように厳めしく泰然として、繻子の袋に黒い爪を戻してまたもぐもぐとやり出した。

 その時扉が開き、グランジュ氏が仕立屋を連れて入って来た。

 ジルベールを指さし、「この人の服です。説明した通りにサイズを測って下さい」

 ジルベールは無意識のうちに腕と肩をしゃちほこばらせ、シルヴィーとグランジュ氏は部屋の隅で話をしている。シルヴィーはグランジュ氏の言葉の一つ一つに声を立てて笑っていた。

「え、可愛い! スガナレルみたいなとんがり帽子なの?」[*2]

 ジルベールは続きを聞きもせず、出し抜けに仕立屋を押しやった。何があろうとこれ以上おままごとに付き合わされるのはご免だ。スガナレルとは何者か知らないが、名前といいシルヴィーの笑いといい、滑稽極まりない人物に決まっている。

「まあまあ」家令が仕立屋に言った。「乱暴はしないで。もう充分なのでは?」

「仰る通りです。それに、ゆとりを持たせれば破れませんしね。大きめに作ることにしましょう。」

 それからシルヴィー嬢、家令、仕立屋は部屋を出たため、ジルベールは黒ん坊と差し向かいで残された。相変わらず菓子をかじり、白目をぐりぐりと回している。

 田舎者の目にはあまりにも謎めいていた。タヴェルネにいる時以上に尊厳を踏みにじられたと悟った(と言おうか、悟ったと思っている)哲学者にとっては、あまりにも恐ろしく、あまりにも苦しかった。

 それでもどうにかザモールに話しかけてみた。きっとインドか何処かの王子なのだろう。クレビヨン・フィスの小説で読んだことがある。

 だがそのインドの王子は、答える代わりに鏡の前に行って自分の豪華な衣装を眺め始めた。まるで結婚式の花嫁だった。それから車輪付きの椅子に馬乗りになると、足で床を蹴り、控えの間を十周ほど回り出した。その速さを見れば、この独創的な遊びを究めるのにどれだけ練習を重ねたのか想像もつこうというものだ。

 突然ベルが鳴った。ザモールは椅子を放ったらかしにして扉の一つから駆け出して行った。

 ベルに対するその素早い反応を見て、ザモールは王子ではないのだとジルベールは得心した。

 ジルベールはザモールに続いてその扉から出て行くつもりだった。だがサロンに通じている廊下の端まで来ると、青や赤の紐が見え、図々しく横柄で出しゃばりな従僕たちが番をしていた。血管に震えが走り、額に汗が浮かぶのを感じながら、ジルベールは控えの間に戻った。

 こうして一時間が過ぎた。ザモールは戻って来ておらず、シルヴィー嬢は相変わらず姿を見せない。誰でもいいから人の顔が見たかった。よくわからないことを言って脅かしておいて仕上げに行った仕立屋の顔でもよかった。

 ちょうど一時間過ぎ、入って来る時に開けたのと同じ扉が開き、従僕が現れてこう言った。

「どうぞ!」


Alexandre Dumas『Joseph Balsamo』Chapitre XL「La protectrice et le protégé」の全訳です。


Ver.1 10/01/02
 


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[訳者あとがき]

 ・10/01/02 ▼次回は01/16(土)更新予定。

メモ ※馬車は目上の者、あるいは女性から乗るのがマナー。

[更新履歴]

・12/09/27 「お仕着せだとわかっていながら結局はそれを身につけて降りて行ったものの」→「あれはお仕着せなんだと自分に言い聞かせながらも結局は下に降りたものの」

*1. [無蓋軽四輪馬車《ファエトン》]。鹿島茂『馬車が買いたい!』によれば、ファエトンとは前部座席部分のみに幌のついた、四人乗りの馬車で、前後の座席とも前向きのものを指す。[]

*2. [スガナレル]。モリエールの戯曲『いやいやながら医者にされ』の登場人物。[]

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