この翻訳は翻訳者の許可を取ることなく好きに使ってくれてかまわない。ただし訳者はそれについてにいかなる責任も負わない。
翻訳:東 照
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ジョゼフ・バルサモ

アレクサンドル・デュマ

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第七十三章 兄と妹

 お話しした通り、ジルベールは耳を澄まし目を凝らした。

 長椅子に横たわってガラス扉の方に顔を向けているアンドレが見えた。つまりジルベールの真っ正面ということだ。扉は若干開いていた。

 大きな傘つきの小さな明かりが、机の上に置かれている。傍らに本が積まれているのを見たところでは、美しい病人に出来る気晴らしといったらそれくらいしかないのだろう。照らされていたのはド・タヴェルネ嬢の顔の先だけだった。

 だが時折、長椅子の枕にもたれかかるように仰け反った時には、レースの下の白く美しい容顔かんばせが光に晒された。

 フィリップは長椅子の足許に坐り、ジルベールには背を向けていた。今もまだ腕を吊っており、自由には動かないようだ。

 アンドレが起きあがったのも、フィリップが部屋から出たのも初めてであった。

 つまりこの若兄妹は、あの恐ろしい夜以来、顔を合わせていなかった。とは言え二人とも、相手が徐々によくなり快方に向かっているという話は聞いていた。

 ついさっき再会したばかりだったがすぐに話をし始めた。二人きりだと信じていたし、誰かが来れば扉のベルが鳴るからわかるはずだった。その扉はニコルが開けっ放しにしていたのだが。

 だが二人は当然のことながら扉が開けっ放しにされていることなど知るよしもなく、ベルが鳴るものと安心していた。

 ジルベールに見聞き出来たのはこういう事情による。開いた扉越しに、言葉の端々をもれなく拾うことが出来た。

「つまり」とフィリップが言った。ジルベールが化粧室の扉にかかったカーテンの陰に隠れた時のことである。「つまり、呼吸もかなり楽になったんだね?」

「ええ、だいぶ楽になりました。まだ呼吸するたびに軽い痛みはありますけれど」

「体力は?」

「まだまだですけれど、今日は二、三回、窓まで歩いて行くことが出来ました。空気も花も何て綺麗だったんでしょう! 空気と花があれば、死ねるものではありませんわ」

「だがそれでもまだ快復はしていないんだね?」

「ええ、だってあまりにもショックが大きくて! だから実を言うと」と微笑んで首を横に振った。「家具や壁にもたれて歩くのがやっとなんです。支えがないと足が曲がって倒れてしまいそうなんです」

「元気を出すんだ、アンドレ。美味しい空気と綺麗な花があると元気が出るって話をしたばかりじゃないか。一週間経てば王太子妃殿下をご訪問できるようになるさ。親切にも容態をおたずね下さったそうだよ」

「わたくしだって早く良くなりたいわ、フィリップ。だって王太子妃殿下はとても親切にして下さるんですもの」

 そう言ってアンドレは身体を横たえ、胸に手を置き目を閉じた。

 ジルベールは腕を伸ばして前に出た。

「苦しいか?」フィリップがアンドレの手を握った。

「ええ、痙攣ひきつけが起こるんです。それに血が頭に上ってこめかみが締めつけられることもありますし、眩暈がして心臓が止まりそうになることも」

「そうか!」フィリップは呆然となった。「そうだろうな。あれだけ恐ろしい目に遭って、奇跡的に助かったんだから」

「まさに奇跡的でした」

「そのことなんだが」ここからが大事な話だとばかりにアンドレに近寄って、「あの災害についてまだお前と話をしたことはなかっただろう?」

 アンドレは顔を赤らめ、不安そうな様子を見せた。

 フィリップはそれに気づかなかったか、或いは気づかないふりをした。

「でもわたくしが戻って来られた事情についてはお兄様も納得できたでしょう。お父様も満足していると仰っていたわ」

「確かにね、アンドレ、あの人は今回の事故をかなり気にかけていたよ。ぼくにはそう思える。だがそれでも、あの人の話には疑わしいとは言えないまでも、曖昧な、そう、曖昧なところが多すぎる」

「どういうこと?」アンドレは乙女子らしく無邪気にたずねた。

「うん、はっきりしてるわけじゃないんだ」

「仰って」

「うん、例えばね、初めは気にしなかったんだが、いつの間にかとても不思議に思い始めたことが一つある」

「何ですの?」

「お前が助けられた時の様子を、聞かせてくれないか、アンドレ」

 アンドレは必死に思い出そうとしているようだった。

「ほとんど覚えてないわ、フィリップ、怖かったんですもの」

「大丈夫だよ、アンドレ。覚えていることだけ話してくれればいい」

「そうね、わたくしたち、ガルド=ムーブルから二十パッススくらいのところで離ればなれになってしまったでしょう? お兄様がチュイルリー公園の方に押し流されるのが見えたけれど、わたくしはロワイヤル街の方に押し流されていたんです。お兄様の姿が見えている間に、はぐれないようにどうにか腕を伸ばして、『フィリップ! フィリップ!』と呼んだけれど、竜巻に巻き込まれたように、すくい上げられ、柵のそばまで運ばれてしまいましたの。波にもまれて壁の方に引きずられて行くと、壁は今にも潰れそうでした。柵に押しつけられた人たちの悲鳴が聞こえました。もう少し経てば、ぐちゃぐちゃに押し潰されるのが自分の番なのは明らかです。後何秒の命なのか数えられるほどでした、それで半ば死んだように、半ば気が狂ったようになって、天を仰いで最後に祈りを捧げていると、男の目が光るのが見えたんです。男は群衆を見下ろして、まるで指揮しているかのようでした」

「それがジョゼフ・バルサモ男爵だったんだな?」

「ええ、タヴェルネで見たのと同じ人でした。不思議な恐ろしさでわたくしを打ちのめしたのと同じ人でした。超自然的なところを秘めているらしきあの人です。その目でわたくしの目を捕らえ、その声で耳を捕らえたあの人。肩に触れられただけでぞっとさせられたあの人だったんです」

「続けてくれ」フィリップは顔を曇らせ沈んだ声を出した。

「あの人は事故現場を見下ろして、人の苦しみなど自分には及ばないとでも思っているように見えました。その目が『助けてやる、俺にはそれが出来る』と言っているのがわかりました。それから信じられないことがいくつも起こり、疲労困憊して為すすべもなく、わたくしはとっくに死んだようになっていましたが、あの人の前まで運ばれるのがわかりました。まるで目にも見えず何者にも屈しない不思議な力に運ばれているようでした。腕に突き飛ばされでもしたように、もみくちゃの肉の渦から押し出されて、被害に遭った人たちが喘いでいるというのに、わたくしは空気を、生命を取り戻したんです。わかるでしょう、フィリップ」アンドレは昂奮していた。「間違いありません、あの男の目にはわたくしを迷わす魔力があるんです。

「わたくしはその手にすくい上げられ、助けられました」

「そうなのか!」ジルベールは独り言ちた。「あの人しか目に入っていなかったんだな。足許で死にかけていた僕のことは目に入らなかったんだ」

 ジルベールは額に流れる汗を拭った。

「それで、いったい何が起こったんだ?」フィリップがたずねた。

「それが、危険から脱したとほっとした瞬間でした。それまで気力を振り絞っていたからでしょうか、恐怖が限界を超えていたからでしょうか、わたくしは気を失ってしまったんです」

「それは何時頃?」

「お兄様と離ればなれになってから十分くらいでした」

「そうか、すると深夜零時頃だな。ではどうして三時になるまで戻って来なかったんだ? 気を悪くしないでくれよ、馬鹿げて聞こえるかもしれないが、ちゃんと理由があるんだ」

「ありがとう」アンドレはフィリップの手を握った。「三日前ならまだ答えられなかったと思うの。でも今日なら――これから話すことはおかしなことに聞こえるでしょうけれど――今日は、内なる声がとても強くて。意思がわたくしに働きかけて、思い出せと命じるものですから、とうとう思い出したんです」

「では聞かせてくれ、気になるんだ。あの人はお前を腕に抱き寄せたんだな?」

「腕に?」アンドレは赤面した。「よく思い出せません。わかっているのは、人波から引き寄せられたということだけです。でも手で触れられると、タヴェルネの時と同じような状態に陥って、触れられた途端にまたもや気絶を、と言いますか、眠りに就いていたんです。気絶する時にはひどい苦痛を感じるのだけれど、今回は眠気のように安らかな感覚しか感じませんでした」

「確かにお前の話はどれもこれもおかしな話に聞こえるな。こんなことを話したのがお前じゃなかったなら、絶対に信じなかっただろう。まあいい、話を続けてくれ」フィリップは声の乾きを気づかせまいとしていた。

 ジルベールはアンドレの言葉に夢中になっていた。少なくともこれまでのところではその言葉が真実であることを、ジルベール自身がよくわかっていた。

「意識を取り戻すと、豪華な家具の置かれた応接室にいました。小間使いとご婦人がそばにいたのですが、二人とも不安そうな素振りも見せませんでした。それどころかわたくしが目を覚ますと、優しそうににっこりと笑みを浮かべたんです」

「それは何時頃だい?」

「深夜過ぎの小半時の鐘が鳴っていました」

「そうか!」フィリップが大きく息を吐いた。「よし、続けてくれ」

「看病してくれた二人には感謝しましたが、お兄様が心配しているのはわかっていましたから、すぐに家まで送ってくれるよう頼んだんです。二人の話では、男爵は怪我人に助けを呼ぶため事故現場に戻ってしまったけれど、もうすぐ馬車で戻って来るので、男爵ご自身で家まで送ってくれるということでした。その言葉通り、二時頃に表に馬車の音が聞こえ、それと共に、あの男のそばにいると何度も感じて来た悪寒に今度もまた襲われました。わたくしはソファの上で眩暈を起こし、放心したようになってしまいました。扉が開きました。わたくしは茫然自失のまま助けてくれた男の姿を認め、再び意識を失いました。その後で下まで運ばれ、辻馬車でここに連れられて来たんです。わたくしが覚えているのはこれですべてです」

 フィリップは時間を計算し、アンドレはエキュリ=デュ=ルーヴル街からコック=エロン街までまっすぐ連れられて来たのだと判断した。同じようにルイ十五世広場からエキュリ=デュ=ルーヴル街までまっすぐ運ばれたはずだ。フィリップはアンドレの手を温かく握り締めた。声には安心と喜びが籠もっていた。

「ありがとう、アンドレ。すべて辻褄が合う。サヴィニー侯爵夫人を訪問して、ぼくの口からもお礼を伝えることにしよう。それはそうと、もう一つ気になっていることがあるんだ」

「何でしょう?」

「事故の現場で知り合いに会わなかったかい?」

「え? 会わなかったわ」

「例えばジルベールには?」

「そうね」アンドレは懸命に思い出そうとした。「そう言えば、離ればなれになった時に、そばにいたわ」

「僕に気づいてたんだ」ジルベールが呟いた。

「お前を捜している時に、あの坊やに再会したんだ」

「死体の中に?」目上の者が目下の者に示すような興味の色がありありと感じられた。

「いいや、怪我をしていただけだ。助けられて、よくなっているといいんだが」

「そうだといいわね、どんな状態だったの?」

「胸を押し潰されていた」

「そうさ、君の胸にね、アンドレ」ジルベールが呟いた。

「だが」とフィリップが続けた。「不思議なことがあったんだ。ジルベールのことを話すのもそれが理由なんだが、強張った手の中に、お前の服の切れ端が握られていたんだ」

「まあ、本当に不思議ね」

「最後まで会わなかったんだろう?」

「最後まで目にしていたのは、恐ろしい顔をしている人たちでした。恐怖や苦しみ、わがまま、愛情、憐れみ、吝嗇、皮肉。地獄で一年を過ごしたような気分です。あんな顔に囲まれて、地獄の亡者から検査を受けているようでした。あの子の顔もあったかもしれないけれど、まったく思い出せないの」

「だが、あの布の切れ端がお前の服の一部だったのは間違いない。ニコルにも確かめたんだ」

「いったいどういう事情を説明して、あの子にたずねたんです?」アンドレがたずねた。タヴェルネでジルベールについて小間使いと話した、あのおかしな話を思い出していたのだ。

「別に何も話してはいないよ。とにかく、あの布切れをジルベールが握っていたのは事実だ。どういうわけだろう?」

「簡単なことだわ」ジルベールの心臓が恐ろしいほどに脈打っているのと比べて、アンドレは落ち着き払っていた。「つまりあの男の目に引っ張り上げられた時、そばにいたのなら、わたくしにつかまっていれば一緒に助けてもらえるでしょう。溺れた人が泳いでいる人のベルトにしがみつくのと一緒よ」

「糞ッ!」こんな考え方をされて、ジルベールは悲しくなって蔑んだ。「僕があんなに尽くしたというのに、何て下劣な解釈をするんだろう! 貴族ときたら、僕らのことを別の人種だとしか思ってないんだな! ルソーさんは正しかった。僕らは貴族よりも優れている。僕らの心はより純粋で、僕らの腕はより力強いんだ」

 独り言をやめて二人の会話に戻ろうとした時、背後で物音がした。

「まずい! 玄関に誰かいる」

 足音が廊下を進み、化粧室に入るのが聞こえ、背後でカーテンが降りた。

「ニコルの馬鹿はここにおらぬのか?」ド・タヴェルネ男爵の声がして、服の裾をジルベールにかすめて、娘の部屋に入って来た。

「庭だと思います」アンドレが落ち着き払っていることからすると、第三者がいるとは疑りもしていないのだろう。「今晩は、お父様」

 フィリップは恭しく立ち上がった。男爵はそのままでいるように合図すると、二人のそばの椅子に腰を下ろした。

「ああ、お前たち、宮廷の立派な馬車ではなく一頭立てのおんぼろ乗合馬車では、コック=エロン街からヴェルサイユまでは大分かかるぞ。何を隠そうわしは王太子妃殿下にお会いして来たのだ」

「まあ! ではヴェルサイユにお出でになったんですか、お父様?」

「うむ、大公女がお前の不幸をお聞きになって、親切にもわしをお招き下さったのじゃ」

「アンドレは大分よくなって来ました」とフィリップが言った。

「わかっておる、妃殿下にもそうお伝えして来た。妃殿下はわしに約束して下さろうとしたぞ、お前の妹がすっかり快復したら、直ちにプチ・トリアノンに呼び寄せると。そこを住まいにお決めになって、趣味に合わせて模様替えしている真っ最中じゃ」

「あの、わたくしが、宮廷に?」アンドレがおずおずとたずねた。

「宮廷ではなかろう。王太子妃殿下はあちこち移り住むのは好まれぬし、王太子殿下も派手なのやうるさいのはお嫌いじゃ。トリアノンで水入らずお暮らしになるのだろう。だが王太子妃殿下のご性格からすると、この家族会議は親裁座リ・ド・ジュスティスや三部会より良い結果をもたらさんとも限らん。大公女はしっかりしていらっしゃるし、王太子殿下は聡明な方だという評判じゃ」

「ああ、宮廷と変わらないんだぞ、それを忘れるなよ」フィリップが悲しげに声をかけた。

「宮廷!」昂奮と絶望が一気にジルベールに押し寄せた。「宮廷か、僕などたどり着けない頂点だ、飛び込むことも出来ない深淵じゃないか。アンドレが身を立てれば立てるほど、僕には手が届かなくなってしまう!」

「でもお父様」とアンドレが言った。「わたくしたちにはそこで暮らすことを許されるような財産も、そこに暮らすのに必要なだけの教育もありません。わたくしのような哀れな娘が、あれほどきらびやかな貴婦人の輪の中に入るなんて! 目も眩むような輝きを一度だけ垣間見たことがありますが、浅はかなところはありましたけれど才気がほとばしっていたんです! お兄様、あんなまばゆい光のただ中に混じるには、わたくしたち、無名過ぎますわ……」

 男爵が眉をひそめた。

「そのうえ愚かじゃ。何を不安がっておるのか知らんが、家族自らわしのものやわしに関わるものを貶めようとばかりしおって! 無名じゃと! 馬鹿者めが。無名? タヴェルネ=メゾン=ルージュが無名だと! お前が輝かんで誰が輝くというのだ、教えてくれんか?……財産……馬鹿らしい! 宮廷の財産がどれほどあるか知っておろう。王権という太陽がそれを汲み上げ、また花を咲かせるのだ。運命は回る。わしが破産したのは事実だが、いつか再び返り咲けばよいではないか。国王には使用人に払う金もないのか? 我が家の長男が聯隊を賜り、アンドレ、お前が持参金を賜り、わしが領地を賜ったり、ちょっとした正餐の席でナプキンの下に年金の契約書を見つけたりして、わしが恥じ入ると思うのか?……いや、いや、痴れ者であれば偏見も持とうが……わしにはそんなものはない……そもそもわしの財産が戻って来ただけなのだからな。気兼ねする必要などないのだ、アンドレ。まだ一つ言うべきことが残っておったな。お前は教育の話をしておったが、宮廷にはお前ほど教養の高い娘はおらぬことを覚えておけ。それだけではないぞ。貴族の娘が受ける教育に加えて、お前には司法官や財務官の娘が受ける実際的な教育も備わっておる。お前は音楽家だ。お前の描いている羊や牛のいる風景画は、ベルヘムも認めざるを得ぬだろう。そうそう、王太子妃殿下は羊も牛もベルヘムも大好きじゃぞ。お前には魅力がある。国王はお気づきになっていたぞ。それに話術もある。ダルトワ伯やド・プロヴァンス伯にはそれが役に立とう。お前は注目を浴びるだけでなく……崇拝されることだろう。よしよし」男爵は笑いながらおかしな抑揚をつけて手を擦り合わせた。フィリップはそんな父親を見たが、このような笑い声が人間の口から出ているとは信じられなかった。「崇拝か! まさにその通りじゃ」

 目を伏せたアンドレの手を、フィリップが握った。

「男爵は正しいよ。父上の言った通りじゃないか、アンドレ。ヴェルサイユに参上するのにお前ほど相応しい娘はいないよ」

「でも離ればなれになってしまいますわ」

「そんなことはない」と男爵が口を挟んだ。「ヴェルサイユは大きい」

「ええ、でもトリアノンは小さいのでしょう」意地を張った時のアンドレは、強情で扱いにくかった。

「トリアノンだってタヴェルネ男爵に部屋をあてがう程度の大きさあろう。わしのような人間は何処でだって暮らせるからの」意味ありげにつけ加えた。「暮らす術を心得ておるのじゃ」

 アンドレは父にせっつかれたことに不安を感じて、フィリップの方を向いた。

「アンドレ、恐らく宮廷に呼ばれた人たちと一緒ではないと思う。持参金を払って修道院に入れたりはせずに、王太子妃殿下はお前に目をかけて下さるおつもりだから、仕事を下さってそばに置いて下さるんじゃないかな。今はルイ十四世時代ほど作法にうるさくないしね。いろいろな仕事がまとめられたり分担されたりしている。きっと朗読係かお付きの侍女あたりだろう。一緒に絵をお描きになったり、常におそばに置いてくれたりして下さるんじゃないだろうか。人の目に触れないことだってあり得るぞ。だがおそばで寵愛を受けるのは間違いないんだ、そうなると多くの人から妬まれることになる。怖くないか?」

「怖いわ」

「もうよい」と男爵が言った。「たかだか一人か二人に妬まれくらいで暗くなってはおれん……早く良くなってくれ、アンドレ。ありがたいことに、この手でお前をトリアノンに連れて行けるのだぞ――王太子妃殿下がそう仰ったのだ」

「素敵ね、参ります、お父様」

「それはそうと、金はあるか、フィリップ?」

「お金がご入り用だというのでしたら、差し上げるには足りないと答えたでしょうが、反対にぼくに下さるというのでしたら、充分に持っていると答えるところです」

「まったくだな、この哲学者め」男爵はふんと笑い飛ばした。「アンドレ、お前も哲学者か? 何も欲しいものはないか? 何か必要なものは?」

「お父様に迷惑をかけたくありませんもの」

「ここはタヴェルネではない。国王が五百ルイお渡し下さった……。ほんの手付金だと陛下は仰ったぞ。身だしなみのことはどうなんだ、アンドレ」

「ありがとう、お父様」アンドレは顔をほころばせた。

「ほれほれ、ころころ変わりおって。さっきは何も欲しがらなかった癖に。今や中国の皇帝も破産させてしまいそうじゃ。だが気にするな、何でも言うとくれ。綺麗なドレスが似合うじゃろうな」

 優しく口づけしてから扉を開けて、アンドレの寝室を出た。

「ニコルの惚けなすは何処におる、明かりがないではないか!」

「呼び鈴をならしましょうか?」

「構わん。ラ・ブリがいる。何処ぞの椅子で眠りこけておろう。ではお寝み、お前たち」

 今度はフィリップが立ち上がった。

「おやすみなさい、お兄様。疲れてくたくただわ。あの事故に遭って以来こんなにしゃべったのは初めてだもの。おやすみなさい、フィリップ」

 フィリップは差し出された手に口づけしたが、そこには兄としての愛情だけではなく、日頃から抱いている敬意も混じっていた。フィリップは廊下に出ようとして、ジルベールの隠れている扉に軽くぶつかった。

「ニコルを呼ぼうか?」出て行きながらたずねた。

「いらないわ。一人で着替えるから。おやすみ、フィリップ」


Alexandre Dumas『Joseph Balsamo』Chapitre LXXIII「Le frère et la soeur」の全訳です。


Ver.1 10/10/23
 


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[訳者あとがき]

 ・10/23 ▼次回は11/06(土)更新予定。

*1.

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