この翻訳は翻訳者の許可を取ることなく好きに使ってくれてかまわない。ただし訳者はそれについてにいかなる責任も負わない。
翻訳:東 照
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ジョゼフ・バルサモ

アレクサンドル・デュマ

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第百十四章 予感

 翌日、トリアノンの大時計が正午を告げた直後、まだ部屋にいるアンドレのところにニコルが大声を出してやって来た。

「お嬢様、お嬢様、フィリップ様がお見えです」

 という声が階段の下から聞こえる。

 アンドレは驚くと同時に大喜びでモスリンの部屋着をかき合わせ、兄を迎えに飛び出した。嘘ではなかった。トリアノンの中庭で馬から降りたばかりのフィリップが、いつ頃なら妹と話すことが出来るのかを使用人たちにたずねていた。

 そこでアンドレは自分で扉を開け、フィリップと顔を合わせた。お節介焼きのニコルが中庭まで報せに行き、階段まで連れて来たのだ。

 アンドレは兄の首にかじりついた。それから二人はアンドレの部屋に戻り、後ろからニコルがついて行った。

 だがその時になって、フィリップがいつもより深刻な顔をしていることに、アンドレは気づいた。笑顔にさえ悲しみが滲んでおり、極めて整然と軍服を身につけ、畳んだ外套を左脇に挟んでいる。

「どうなさったの、フィリップ?」アンドレははっとしてたずねた。心遣いの出来る人間には、何かを見抜くのにも一目で充分だった。

「聞いてくれ。今朝、聯隊に合流せよという命令を受け取ったんだ」

「では行ってしまいますのね?」

「行かなくてはならない」

「ああ!」アンドレの悲鳴には、持てる限りの勇気と少なからぬ気力が込められていた。

 フィリップが発つのはごく当然のことだったから、アンドレもあらかじめ覚悟はしていたのだろうが、実際に報せを聞いてみるとあまりに落胆が大きく、思わずフィリップの腕にしがみいていた。

「アンドレ!」フィリップが驚いてたずねた。「そこまで悲しいのか? 旅立ちなんて軍人生活では一番ありふれた出来事なんだぞ」

「ええ、わかってます。それで、どちらに行かれますの?」

「駐屯地はランスだよ。たいした距離じゃない。そうは言っても、どうやらそこからストラスブールに戻ることになりそうだけどね」

「そんな! それで、いつ発ちますの?」

「直ちに出発せよという命令だった」

「ではお別れを言いにいらしたんですのね?」

「ああ、そうだよ」

「お別れだなんて!」

「何か言いたいことがあるんじゃないのか、アンドレ?」アンドレの悲しみ方が尋常ではないのでフィリップは不安になり、もしかするとほかに理由があるのではないかといぶかった。

 この言葉が誰に向けられたものなのかはアンドレにもわかった。アンドレの悲嘆があまりに大きいのでびっくりして眺めていたニコルに対してだ。

 何にせよ将校が駐屯地に向かうことが、これほどの涙を誘うような大惨事だとは思えない。

 だからフィリップが感じていることもニコルが驚いていることも、アンドレは同時に悟った。ケープをつかんで肩に掛け、兄を階段の方に連れて行った。

「庭園の柵のところまでいらして下さい、フィリップ。並木道からお見送りいたしますわ。仰る通り、お話ししたいことがあります」

 これはニコルに対する退出命令でもあった。ニコルは壁伝いに退がってアンドレの部屋に引っ込み、アンドレとフィリップは階段を降りた。

 アンドレは礼拝堂に隣接する階段を降り、現在でも庭に通じている通路を抜けて外に出た。だがすぐにフィリップから不安そうな目つきで問いかけられたにもかかわらず、腕にぶら下がって肩に頭をもたれさせたまま、一言も口を利かなかった。

 ところが不意に胸を詰まらせ、顔を死ぬほど真っ青にして、嗚咽を口元まで這い上らせ、止まらぬ涙で目を曇らせた。

「ああ、アンドレ。お願いだから、何があったんだ?」

「頼れる人はお兄様しかいませんのに。昨日から放り込まれたこの世界に独りぼっちにさせておいて、どうして泣くのかだなんておたずねになるんですか! わからないの、フィリップ? 生まれた時に母を失くしただけではなく、こんなことを言うと罰が当たるけれど、父を持ったこともないのに。心に感じた悲しい思いも、胸に仕舞った秘密も、お兄様だけにしか打ち明けたことはないんです。小さかった頃のわたくしに微笑んでくれたのはどなたでした? 抱きしめてくれたのは? あやしてくれたのは? お兄様でした。大きくなってから守ってくれたのはどなたでした? お兄様です。主に命をいただいた者たちがこの世に放り込まれたのは苦しむためだけではないのだと信じさせてくれたのはどなたでした? お兄様です、フィリップ、みんなお兄様だったんです。だからこうしてこの世に生を受けてから、お兄様よりほか誰も愛したことはなかったし、お兄様以外の誰からも愛されませんでした。ねえフィリップ!」アンドレは辛そうに先を続けた。「そうして顔を背けてらっしゃるけれど、お兄様の考えていることはわかりますわ。わたくしは若いし、綺麗だし、未来や恋愛に見切りをつけるのは間違っているとお考えなのでしょう。でもね、お兄様だってちゃんとわかってらっしゃるんでしょう? 誰かが目を掛けて下さるほどは綺麗でも若くもないってことは――。

「確かに王太子妃殿下は親切にして下さいますわ。それは確かです。少なくともわたくしの目には完璧な方に見えますし、女神のような方だと思っています。でもそれはあの方のことを雲の上の存在だとわきまえて、愛情ではなく敬意を抱いているからです。それでもフィリップ、愛情という感覚がわたくしの心には必要なんです。いつまでも胸に秘めて押し殺していると、心臓が破れてしまいます――父が……ああ、お父様! もう何も申し上げることはありませんわ、フィリップ。お父様は保護者でも家族でもありませんでしたし、いつも恐ろしい目つきで見つめてばかりでした。わたくし怖いの、フィリップ。お父様が怖いんです。お兄様が行ってしまうとわかってからはなおさら。何が怖いのかなんてわたくしにもわかりません。逃げる鳥の群れや唸る家畜の群れだって、嵐が近づいて来れば、嵐を怖がるんじゃないかしら?

「それは本能だって仰るかもしれないけれど、永遠不滅の人間の魂にも災いを察知する本能があることは否定できないのではありません? いつからか、何もかもがわたくしたちに都合よく働いていることには気づいていました。お兄様は大尉になりましたし、わたくしは王太子妃の内向きのお世話をさせていただいていますもの。それにお父様は昨夜、国王と夜食を共になさいましたの。フィリップ、気が狂ったと思われるかもしれませんけど、何でも言いますわ、タヴェルネで貧乏に身を委ねて閉じ籠もっていた頃と比べても、今起こっているありとあらゆることが不安で仕方ないんです」

「でもね、アンドレ」フィリップは悲しげに呟いた。「おまえはタヴェルネでも一人だった。ぼくはあそこにもいなかったし、おまえを慰めたりは出来なかった」

「そんなことない。それは確かに一人だったけれど、いつも小さな頃の思い出と一緒でしたもの。あそこで生まれ、息をして、母を失くしたあの家が、言ってみれば生まれて以来の守り神だったのね。あそこにあった何もかもが優しく、愛おしく、親しげに思えたんです。あそこでならお兄様が旅立つのを落ち着いて見ていられたし、戻って来るのを大喜びでお迎えしていました。でも出かけていても戻って来ても、心をすべてお兄様に預けていたわけではなかったんです。時々とはいえお兄様がいたあの家や庭や花、あの場所が好きでした。でも今はお兄様がすべてなんです、フィリップ。お兄様がいなくなってしまっては、何もかもなくしてしまいます」

「だがアンドレ、今はぼくなんかよりずっと頼れる保護者がいるじゃないか」

「そうかもしれませんけれど」

「それに素晴らしい未来が待っている」

「そんなことは誰にも……」

「どうして悲観的なんだ?」

「わたくしにもわかりません」

「そんなんじゃ、神様に失礼だぞ」

「そんなことはありません。主には感謝を忘れず、いつも朝にはお祈りを捧げていますもの。でもひざまずいて感謝の言葉をお祈りするたびに、代わりにこんな声が聞こえるような気がするんです。『気をつけよ、娘よ、気をつけるのだ!』」

「気をつけるようなことがあるのか? 教えてくれ。身の危険を感じているというのなら、おまえの言うことを信じるよ。悪い予感がするのか? 立ち向かうなり避けるなりするにはどうすればいいんだ?」

「わからないの、フィリップ。わかるのはただ、お兄様が行ってしまうと知った瞬間から、わたくしの人生なんて一本の糸で吊られているだけで、何の輝きもなくなってしまったも同然だということだけ。はっきりと言えば、眠っている間に断崖絶壁の上に連れ出されて、無理矢理に目を覚まされたような気持なんです。目を覚まさずにはいられないんです。目の前に崖があるのに、むしろそこに吸い寄せられてしまい、わたくしを支えてくれるお兄様ももういないので、そのまま崖の下に姿を消してばらばらになってしまいそうなんです」

「いいかいアンドレ」声の調子からアンドレが心から怯えているのがわかり、フィリップは思わず胸を締めつけられた。「おまえの優しさには感謝しているけれど、それはちょっと大げさだな。家族がいなくなるのは確かだけれど、ほんの一時じゃないか。何かあっても戻れないほど遠くに行くわけじゃない。それにおまえは自分の空想を怖がっているだけだよ」

 アンドレが立ち止まった。

「でしたらお兄様。男であるお兄様が――わたくしよりもずっと強いお兄様が――今こうしてわたくしと同じくらい悲しんでいるのはどうして? どうか説明して下さい」

「別に難しいことじゃない」口を閉じて再び歩き出していたアンドレをフィリップが止めた。「ぼくらは魂と血で繋がっているだけではなく、魂と心で繋がっている兄妹なんだ。だからパリに来てからは気持を通じ合わせて過ごすことが、ぼくには当たり前になっていた。でもその鎖を断ち切って――いやそうじゃない、人に鎖を断ち切られて、その衝撃が心にまで届いているんだ。だから悲しいけれど、ほんの一時のことに過ぎないじゃないか。ねえアンドレ、離ればなれになってからが目に浮かぶようだよ。悪いことなんか起こるものか。数か月から一年くらいの間、会えないだけだ。ぼくは甘んじて受け入れる。『さよならと』は言わないよ、『また会おう』だ」

 こうして慰められても、アンドレはすすり泣くことしか出来なかった。

「アンドレ」フィリップにはアンドレがここまで悲しがる理由が理解できなかった。「何か隠しているんじゃないのか。お願いだからすっかり話してくれ」

 フィリップはアンドレの腕をつかんで胸に引き寄せ、瞳を覗き込んだ。

「わたくしが? 何もありません。お兄様にはすっかりお話ししましたもの、わたくしのことならお兄様は何でも知ってらっしゃるわ」

「だったらアンドレ、お願いだからそんなに悲しがらずに元気を出してくれ」

「そうね。馬鹿だったわ。わたくしが精神的に強くないことは、誰よりもご存じでしょう、フィリップ。いつもいつも、怖がったり、夢見たり、溜息をついてばかり。でもこんな辛い空想に、愛しいお兄様を巻き込むことなんて出来やしません。いつも元気づけてくれて、怯える必要なんかないと言って下さるのに。お兄様は正しいわ。間違ってません、この場所がわたくしにとって申し分ないことばかりなのは事実です。ごめんなさい、フィリップ。涙を拭くわね、もう泣かずに笑顔になります。『さよなら』なんて言わずに、『また会いましょう』とご挨拶するわ」

 アンドレは兄を優しく抱き寄せた。隠しておいた涙の最後の一粒が、潤んでいた瞼から真珠のようにこぼれて、フィリップの飾緒に落ちた。

 フィリップは兄としてまた父として万感の愛おしさを込めてアンドレを見つめた。

「アンドレ、愛しているよ。元気をなくすんじゃないぞ。ぼくは出発するけれど、毎週手紙を書くからね。おまえも毎週届けてくれるね」

「もちろんよ、フィリップ、ありがとう。それだけが楽しみ。でもお父様にはもうお知らせしたの?」

「何をだい?」

「お兄様が出発すること」

「知らせるどころか、この朝に大臣の指令を届けてくれたのは父上本人なんだ。ド・タヴェルネ男爵はおまえとは違う。どうやらぼくがいなくても平気らしいよ。ぼくの出発を喜んでいたけれど、確かに考えてみると、父上が正しいんだ。ここにいては、どれだけ好機が訪れても前に進めないだろうからね」

「出発すると知ってお父様はお喜びになったというの!」アンドレが呟いた。「間違いないの、フィリップ?」

「父上にはおまえがいるからね」フィリップは巧みに答えを避けた。「おまえがいれば安心なんだ」

「本気でそう思ってらっしゃるの、フィリップ? わたくしにはわからないわ」

「今日ぼくが発った後でトリアノンに行くことを伝えてくれと頼まれたんだ。父上もおまえを愛しているんだ。ただし父上なりの愛し方で、だけれど」

「まだ何かあるの? 焦っているように見えるけれど」

「さっき鐘が鳴っただろう。何時だったかわかるかい?」

「十二時四十五分よ」

「それが焦っている理由さ。一時になれば行かなくちゃならない。あの柵のところに馬を繋いでいるんだ。つまり……」

 アンドレは落ち着いた表情のまま、兄の手を握った。

「つまり……」その声はあまりにぎこちなく、うわべすら繕うことが出来なかった。「つまり、お別れなんですね、お兄様……」

 フィリップはもう一度だけアンドレを抱きしめた。

「また会おう。約束を忘れないでくれ」

「約束?」

「週に一度は手紙を」

「こちらこそ約束よ!」

 これだけのことを口にするのにもひどく辛そうで、ほとんど声にならなかった。

 フィリップは最後に一つ敬礼をしてから立ち去って行った。

 アンドレはそれを目で追い、溜息を洩らすまいと息を止めていた。

 フィリップが馬に乗り、柵の向こう側から別れを告げてから走り去った。

 アンドレは立ちつくしたまま、兄の姿が見えなくなるまでじっと動かずにいた。

 とうとう見えなくなると、くるりと向きを変えて、手負いの鹿のように木陰に駆け込み、腰掛けを見つけるやそこにたどり着いて倒れ込むのがやっとだった。血の気も失せ、力という力が抜け、何も見えなかった。

 やがて胸の奥底から、いつ果てるともなく絞り出すような嗚咽を洩らした。

「ああ神様! どうしてこの世に一人きりになさるんですか?」

 両手に顔をうずめ、白い指の隙間から涙をぼたぼたとこぼし始めると、もう止めることは出来なかった。

 この時、熊垂クマシデの後ろから小さな物音がした。溜息が聞こえたような気がして、ぎょっとして振り返ると、惨憺たる様子の人影がアンドレの前に立ちつくしていた。

 ジルベールだ。


Alexandre Dumas『Joseph Balsamo』Chapitre CXIV「Les pressentiments」の全訳です。


Ver.1 11/08/20
Ver.2 12/10/15

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[註釈・メモなど]

 ・メモ

[更新履歴]

・12/10/15 「この言葉がニコルに向けられていることはアンドレにもわかった。ニコルもびっくりして眺めるほど、アンドレは悲嘆に暮れていた。」→「この言葉が誰に向けられたものなのかはアンドレにもわかった。アンドレの悲嘆があまりに大きいのでびっくりして眺めていたニコルに対してだ。」

[註釈]

*1. []。[]
 

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