この翻訳は翻訳者の許可を取ることなく好きに使ってくれてかまわない。ただし訳者はそれについてにいかなる責任も負わない。
翻訳:東 照
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ジョゼフ・バルサモ

アレクサンドル・デュマ

訳者あとがき・更新履歴
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第百十七章 生命の霊薬を完成させるためにアルトタスに必要なもの

 こうしたやり取りがあった日の翌日、午後四時頃、バルサモはサン=クロード街の仕事部屋で、フリッツから渡された手紙を一心に読んでいた。手紙には署名がない。バルサモは手の中で手紙をこねくり回していた。

「この筆跡には見覚えがあるな。縦長、不揃い、幾らか震えていて、綴りに間違いが幾つもある」

 バルサモは手紙を読み返した。

「伯爵殿

 先の内閣が解散するしばらく前にご相談に与り、それよりかなり前にもご相談に伺った者です。本日は新たに助言をいただきたく、お伺いいたしたく存じます。今晩四時から五時の間に三十分だけ、お忙しい合間を縫っていただけないでしょうか?」

 これで読み返すのは二度か三度になる。バルサモは改めて考え始めた。

「ロレンツァに相談するほどのことではないな。第一、俺だってまだ推測くらいは出来るはずだ。文字が長いのは貴族の特徴だ。不規則で震えているのは、年取っている証拠だ。綴りの間違いが多いのは宮廷の人間だな。そうか、俺も馬鹿だな! ド・リシュリュー公爵じゃないか。もちろんあなたのためなら三十分割きますよ、公爵閣下。一時間でも、一日でも。いくらでも時間をお使い下さい。知らないうちに俺の諜報員か子飼いの悪魔にでもなりませんか? 俺たちと同じ目的を追いかけてみませんか? あなたはあなたで中枢として、俺は俺で敵として、一緒に君主制を揺るがしませんか? お待ちしておりますよ、公爵閣下、是非いらして下さい」

 バルサモは時計を取り出し、公爵が来るまで後どのくらいあるのかを確かめた。

 その時、天井の軒蛇腹で呼び鈴が鳴った。

「いったい何だ?」バルサモはぎょっとした。「ロレンツァが呼んでいる。ロレンツァが! 俺に会いたがっているのか? 困ったことでも起こったんだろうか? それともこれまで散々目にして来たり非道い目に遭わされたりして来た、あの気まぐれなのか? 昨日は物思いに沈んで、すっかり諦めて、おとなしかったんだが。昨日は会いに行くのが楽しみだったんだが。可哀相に! 行くとするか」

 バルサモは刺繍入りのシャツのボタンを留め、レースの胸飾りの上に部屋着を羽織り、鏡を覗き込んで髪が乱れていないか確認すると、ロレンツァに答えて呼び鈴を一つ鳴らしてから階段に向かった。

 だがバルサモはいつものように一つ手前の部屋で立ち止まり、ロレンツァがいると思われる辺りに向かって腕を交わし、何物にも妨げられることのない強い意思の力で、眠れと命じた。

 それから自分のことも信用できないのか念には念を入れるつもりなのか、目に見えない建材の割れ目を通して室内を見つめた。

 ロレンツァは長椅子で眠っていた。そこでバルサモの意思に襲われたのだろう、何かにつかまろうとした恰好のままだった。これほど詩情を掻き立てるロレンツァの姿は、どんな画家にも思い描けまい。バルサモの放った奔流の重さに押されて息を切らせたロレンツァは、ヴァン・ローの描くアリアドネの一つにも似て美しかった。胸をふくらませ、身体は躍動感に満ち、顔からは絶望も疲労も拭われていた。

 そこでバルサモはいつもの通路を通って部屋に入り、ロレンツァの前で立ち止まって見つめていたが、すぐに眠りから引き戻した。それほど危険な状態であった。

 目を開けた途端、瞳から閃光がほとばしった。まだぼうっとしている頭をはっきりさせるためなのか、髪を掌で撫でつけ、色っぽく湿った口唇を拭い、記憶をくまなく探って散らばった断片を掻き集めている。

 バルサモは不安そうにそれを見つめていた。さっきまでは穏やかに慕っていたのに出し抜けに怒り出したり憎しみを爆発させたりすることにも、しばらく前から慣れてしまった。この日の反応は慣れたものとは違い、ロレンツァはいつものような憎しみは見せずに落ち着いてバルサモを迎え入れた。それを見たバルサモは、今回はこれまでのいつにも増して深刻だぞ、と悟った。

 ロレンツァは身体を起こし、一つうなずくととろけるような眼差しをバルサモにじっと向けた。

「どうかここにお坐りになって」

 いつになく甘美なその声に、バルサモはぶるぶると震え出した。

「坐っていいのか? 知っているだろう。俺の望みは、おまえの膝の上でこの生を過ごすことだ」

 ロレンツァは甘美な声のまま続けた。「どうぞお坐りになって。そんなに時間のかかる話じゃないけれど、坐って下さった方が話しやすいですから」

「俺の方はいつも変わらずおまえを愛している。言う通りにしよう」

 バルサモがロレンツァの横にある椅子に坐ると、ロレンツァは長椅子に坐ったまま、天使のような眼差しを送った。

「許していただきたいことがあってお呼びしました」

「ロレンツァ、望みがあるなら何でも言ってくれ!」

「一つだけで結構です。でも言っておきますけれど、なまなかな気持で言うのではありません」

「言ってくれ、ロレンツァ。俺の全財産、人生の半分を捧げてもいい」

「時間を一分いただくだけで構いません」

 バルサモはこの会話の落ち着いた成り行きにうっとりしてしまい、想像力を働かせて、ロレンツァが望んでいることのうちでも、とりわけ自分が満足させられそうなことの予想をすっかり立てていた。

 ――使用人か話し相手でも頼むつもりかな。秘密や友人を危険にさらすことになっても、危険は承知で頼みを聞いてやらんとな。こんなところで一人寂しくしているのだから。

「話してくれ」バルサモは愛情溢れる笑顔を浮かべ、声に出した。

「ご存じでしょうけど、寂しさと物憂さで死にそうなんです」

 バルサモは同意の印に溜息混じりにうなずいた。

「若くて楽しい時期はみるみる燃え尽きてしまう。昼はすすり泣き、夜は恐怖にうなされて、孤独と不安のうちに年老いていくんです」

「おまえが選んだことだ、ロレンツァ。おまえがそんなにも悲しみ、女王様もそっぽを向くような生き方をしているのは、俺のせいじゃない」

「そうかもね。戻って来たのは私なんだし」

「わかってくれると助かる」

「あなたも敬虔なキリスト教徒だと、よく言っているけれど、そのくせ……」

「そのくせ、迷える魂の持ち主だと言いたいのか? 言いたいのはそういうことだろう、ロレンツァ」

「私の言うことだけを聞いて頂戴。憶測はやめて」

「では話を続けてくれ」

「怒りや絶望に耽らせるようなことはしないで、お願い、だって何の役にもたたないような人間なのだから……」

 ロレンツァは言葉を切ってバルサモを見つめた。だがとっくに威厳を取り戻されていたので、冷たい目つきと寄せた眉しか見ることが出来なかった。

 脅すように睨まれて、ロレンツァは気力を奮い立たせた。

「自由は求めません。神の定め――というよりはあなたの意思によって――全能に等しそうなあなたの意思によって、生涯にわたって囚われを強いられることはわかっているから。お願いだから人と会わせて。あなた以外の人の声を聞かせて。外に出たい、歩き回りたい、生きていることを実感したいの」

「そう望まれているのはわかっていた」バルサモはロレンツァの手を握った。「だからずっと前から、俺自身の望みでもあった」

「だったら……!」

「だが、おまえも気づいていただろう。俺は気が違っていたんだ、恋に落ちた男のように。科学や政治上の秘密を幾つかおまえには明かしていたからな。アルトタスが賢者の石を発見し、生命の霊薬を探求しようとしているのは知っているな? あれは科学のためだ。俺や同志たちが君主制の転覆を企んでいることも知っているな? あれが政治のためだ。二つの秘密のうち片方がばれれば魔術師として火あぶりにされてしまうだろうし、もう片方がばれれば重罪人として車責めに遭わされてしまう。おまえは俺を脅したじゃないか、ロレンツァ。自由を取り戻すためには何でもするし、ひとたび自由を取り戻したら、真っ先にするのはド・サルチーヌ氏に俺を密告すことだと言っていただろう。違うか?」

「じゃあどうすればいいの! 私はかっとなると……私は……頭がおかしくなってしまうんです」

「今は落ち着いているんだな? だったら話が出来ないか、ロレンツァ?」

「是非お願い」

「望み通りに自由を与えたら、従順で献身的な、落ち着いた穏やかな女になってくれるのか? 俺は何よりもそれを望んでいるんだ」

 ロレンツァは答えなかった。

「率直に言えば、俺を愛するつもりはあるのか?」言い終えてバルサモは息を吐いた。

「守れるかどうかわからない約束は出来ません。愛情も憎しみも私たちがどうこう出来ることじゃない。あなたの方で善行を積めば、憎しみが薄れ愛情が生まれることもあるかもしれないけれど、すべては主の思し召しのまま」

「悪いがそんな言質じゃそこまでおまえを信用できないな。絶対的で神聖な誓いが俺には必要なんだ。破れば冒涜になるような、この世だけじゃなくあの世まで縛られて、この世で死んだ後でもあの世で劫罰を受けるような誓いが」

 ロレンツァは押し黙った。

「誓うか?」

 ロレンツァは両手に顔をうずめ、相反する感情に胸をふくらませた。

「頼む、誓ってくれ、ロレンツァ。俺が言う通りに、作法に則って誓ってくれ。そうすればおまえは自由だ」

「何を誓えばいいの?」

「アルトタスの研究について知ったことを一切口外しないと誓ってくれ」

「わかった。誓います」

「俺が関わっている政治集会について知ったことを一言も他言しないと誓ってくれ」

「それも誓います」

「俺の言う通りのやり方で誓うんだな?」

「ええ。それで全部?」

「まだだ。これが一番大事なことなんだ、ロレンツァ。これまでの誓いは俺の命に関わることに過ぎなかったが、今から言うことは俺の幸福に関わることなんだ――絶対に俺から離れないと誓ってくれ、ロレンツァ。誓ってくれれば、おまえは自由だ」

 ロレンツァはひんやりとした刀で心臓を貫かれたように、ぶるぶると震えた。

「その誓いはどんな風に誓えばいいの?」

「一緒に教会に行こう、ロレンツァ。一緒に聖体拝領に行こう。聖体のパンに懸けて、アルトタスのことを口外しないこと、俺の同志たちのことを他言しないことを誓うんだ。絶対に俺から離れないと誓うんだ。二人でパンを分けて、半分ずつ食べて、神に誓おうじゃないか、おまえは俺を裏切らないことを、俺はおまえを幸せにすることを」

「お断りします。そんな誓いは涜神的ですから」

「涜神なものか」バルサモは悲しそうに答えた。「守るつもりもないのに誓うのならいざ知らず」

「誓うつもりはありません。魂を失うのが恐ろしいですから」

「馬鹿な。いいか、誓ったために魂を失うというのなら、つまり誓いを破ると言っているようなものじゃないか」

「誓うことは出来ません」

「だったら今のままで辛抱してもらおうか」バルサモに怒りは見えなかったが、深い悲しみが滲んでいた。

 ロレンツァの顔が翳った。空を雲が横切って花に翳りを落とすように。

「断るの?」

「いいや、ロレンツァ。むしろ断ったのはおまえの方だ」

 ぴりぴりとした言動から、ロレンツァがその言葉に苛立っているのがわかった。

「いいか、ロレンツァ。これはおまえのためだし、大事なことなんだ、信じてくれ」

「そこまで言うなら何処まで優しくしてくれるのか言ってみせてよ」ロレンツァは苦々しい笑みを浮かべた。

「偶然でも必然でも好きな呼び方をすればいいが、俺たちは決してほどけぬように結ばれているんだ。だからこの世でそれを断ち切ろうなんて思わない方がいい。それが出来るのは死だけだ」

「そう。そんなのわかってます」ロレンツァは苛立たしげに答えた。

「よし、一週間だ。どれだけの費用がかかろうとも、どんな危険を冒すことになろうとも、一週間後には話し相手を連れて来てやる」

「何処に?」

「ここに」

「ここ? こんな柵の、冷たい門の、鉄格子の内側に? 囚人仲間を? 馬鹿なことを考えるのはおよしなさい。私はそんなこと望んじゃいないわ」

「だがロレンツァ、俺に出来ることはそれしかないんだ」

 ロレンツァはいっそう苛立ったような仕種をした。

「よく考えてくれ」バルサモは優しい声を出した。「二人いれば、避けられない苦しみにも耐えるのが楽になるはずだ」

「的外れです。これまでは自分のことだけで苦しんでいればよかった。他人の苦しみを思いやらずに済んでいたんです。私を手に入れたくてこんな試験をおこなって、私を従わせようとしているのはわかっています。ここに犠牲者を連れてくればいいわ、私のように苦しみに痩せ細り、青ざめ、衰えていくのが見られるでしょうから。あなたが何処から入って来るのか知りたくて、私と同じく壁を打ちつけ、日に何度も扉を確かめる音が聞けるでしょうから。床や壁を掘ったり剥がしたり出来ないかと、私のように木や石に爪を立てるんです。私のように涙で目を腫らすんです。私が死んでいるように、その人も死んで、あなたの言う親切のせいで、死体が一つではなく二つになるだけ。『二人で楽しみ、おしゃべりをして、幸せになれるだろう』ですって? あり得ません、何千回でも繰り返します、あり得ません!」

 ロレンツァは激しく足を踏み鳴らした。

 バルサモが何とかなだめようとした。

「ロレンツァ、落ち着いてくれ。頼むから理性的に話をしよう」

「落ち着け? 理性的になれ? 死刑執行人のくせして、拷問している囚人に向かって安らかになれと言ったり、虐殺している殉教者に落ち着けと言ったりしてるの?」

「そうだ。落ち着いてくれと頼んでいるんだ。おまえが幾ら怒ろうとも、俺たちの運命を変えることは出来ず、さいなむだけなのだからな。だから俺の頼みを聞いてくれ、ロレンツァ。俺がこれから用意する話し相手は喜んで囚われの身になるはずだ、何しろおまえの友情を勝ち得ることが出来るんだからな。おまえが恐れているような悲しみと涙にくれた顔ではなく、微笑みと明るさに満ちた顔を見れば、おまえだって眉間の皺を伸ばしてくれるはずだ。なあロレンツァ、俺の頼みを聞いてくれ。これ以上どう頼めばいいと言うんだ?」

「要するに私のそばに傭兵を置いておこうという魂胆でしょう。あそこには気の違った哀れな女がいて、病気で間もなく死ぬからと伝えておくのね。病気をでっちあげて、『あの気違いと一緒に閉じ籠もって、献身的に世話してくれ。気違いが死んだら世話してくれたお礼をしてやる』とでも言うつもりかしら」

「ロレンツァ!」

「そうじゃない、間違っている、そうでしょう?」ロレンツァは皮肉たっぷりに続けた。「的外れだったみたいね。でもどうしろと言うの? 私は何にも知らない。世間のことも愛情のこともほとんど知らない。『気をつけてくれ、この気違いは危険な奴だ。行動の一つ一つ、考えていることの一つ一つを俺に知らせてくれ。起きている時も寝ている時も気を抜くな』とでも言って、好きなだけきんを与えるつもり? 金なんてあなたには只みたいなものですものね、幾らでも作れるんだから」

「ロレンツァ、ヤケにならないでくれ。後生だから俺の気持をもっと酌んでくれないか。おまえに話し相手を用意するだけでも、莫大な利益を危険にさらすことになるんだぞ。俺を憎んでいなければ、震え上がってもおかしくないほどだ……いいか、おまえに話し相手を用意すれば、俺の安全、自由、生命が危険にさらされるんだ。だがそれでも、おまえを退屈から免れさせるために、俺はそうした危険を冒すつもりだ」

「退屈ですって!」ロレンツァがぞっとするような荒々しい笑い声をあげたので、バルサモは震え上がった。「言うに事欠いて『退屈』ですって!」

「いや、苦痛からだ。そうだな、おまえの言う通りだ、ロレンツァ。耐え難い苦痛だ。間違いない。それでも耐えてくれれば、いつの日かその苦痛にも終わりが訪れるはずだ。いつの日かおまえは自由になり、幸せになれるはずなんだ」

「だったら、修道院に戻らせてくれるの? 私が誓いを立てれば」

「修道院だと!」

「祈りを捧げますから。真っ先にあなたのために、それから私のために。確かに閉じ込められることになるでしょうけれど、あそこになら庭が、空気が、広い空間が、墓地がある。墓の間を歩き回って、私の永眠する場所を前もって探しておきます。あそこになら、私の苦しみとは別にそれぞれの苦境を抱えた不幸な仲間がいます。修道院に帰してくれるなら、望む通りに幾らでも誓いましょう。修道院に、バルサモ、修道院に。この通り手を合わせてお願いします」

「ロレンツァ、ロレンツァ、俺たちは離れられないんだ。俺たちは結ばれている、この世で結ばれているんだ、わからないのか? この家の敷地から出たいという話は一切しないでくれ」

 バルサモの言葉には断固とした響きと共に躊躇うようなところもあったので、ロレンツァは言い返すことも出来なかった。

「つまりここから出してくれるつもりはないのね?」ロレンツァの声には覇気がなかった。

「それは出来ない」

「考えの変わることはないの?」

「変わることはない」

「だったら別のことにするわ」ロレンツァは微笑みを浮かべた。

「ロレンツァ! もう一度そんな風に笑ってくれ。そんな風に微笑まれたら、どんな望みも聞かずばなるまい」

「ええ、どんな望みも聞いてくれるんでしょうね。ただしあなたがお気に召せば、でしょう? せいぜい理性的になることにします」

「早く望みを聞かせてくれ」

「さっき言ったわね、『いつの日か苦しみも失せ、自由になり、幸せになれるはずだ』と」

「確かにそう言ったし、天に誓おう。その日が来るのが待ちきれないのはおまえと一緒だ」

「すぐにでもその日が来たっておかしくないでしょう、バルサモ」ロレンツァがこれほど甘美な顔をしているのを、バルサモは催眠中にしか見たことがなかった。「うんざりなんです。あなたにだってわかるはずよ。まだ若いのにもう充分苦しんだんです! 友人なら――あなたがそう仰ったんだから――聞いて頂戴。早くそんな日を与えて下さい」

「聞いているとも」バルサモは言葉に出来ぬほど動揺していた。

「初めにお願いしておくべきだったんだけど、このお願いで話を終わらせます、アシャラ」

 ロレンツァは身体を震わせた。

「言ってくれ」

「あなたが不幸な動物を使って実験をしては、人類に必要なことなんだと言っていたことには気づいていたし、毒を垂らしたり血管を開いたりして死を自在に操っては、穏やかに素早く死なせていたことにも気づいていました。何の罪もない可哀相な動物たちが、私と同じように囚われていながら、死によってあっという間に自由になれたんです。あの子たちにとっては、生まれて初めて受けた慈悲だったはず。だから……」

 ロレンツァは真っ青な顔をして口ごもった。

「だから何だ? ロレンツァ」

「だから、あなたが科学的興味から可哀相な動物たちにおこなっていたことを、人の世の定めに則って私におこなって下さい。心の底からあなたを祝福しますし、無限の感謝を込めてその手に口づけしますから、願いを聞いて下さるのならどうか約束して下さい。お願い、バルサモ、息を引き取る際には、これまで見せたこともないほどの愛と喜びをお見せするから。この世を去る瞬間には、裏のない明るい笑顔を見せることを約束しますから。バルサモ。あなたの母の魂と、我らが主の血と、この世とあの世に存在する慈悲と威厳と聖性を持つすべてのものに懸けて、お願いだから私を殺して! ねえ殺して!」

「ロレンツァ!」叫ぶと同時に立ち上がっていたロレンツァを、バルサモが抱きしめた。「ロレンツァ、おまえは気が立っているんだよ。俺がおまえを殺すだって? 俺の命そのもののおまえを?」

 ロレンツァはバルサモの腕から必死に逃れてひざまずいた。

「頼みを聞いてくれるまで立ち上がりません。どうか痛みも苦しみも与えず安らかに殺して頂戴。愛しているというのなら、慈悲を見せて頂戴。これまでして来たように、眠らせて頂戴。もう起こさなくていいから。目が覚めても絶望が待っているだけなのだから」

「ロレンツァ! 俺の心臓に穴が穿たれているのがわからないのか? そこまで苦しんでいるのか? ロレンツァ、元気を取り戻してくれ、絶望になど身を委ねるな。そこまで俺を憎んでいるのか?」

「私が憎んでいるのは隷属、苦痛、孤独。みんなあなたがもたらしたものでしょう。だからそうね、あなたを憎んでいます」

「おまえを愛しているんだ。死ぬところなど見たくない。おまえが死ぬものか、どんなに難しい治療であろうとも俺が治してみせる。ロレンツァ、生きていることが楽しいと思えるようにしてやるから」

「無理よ。あなたのおかげで死が愛しくなったの」

「ロレンツァ、お願いだ。約束する。すぐに……」

「死か生かどちらかを選んで!」ロレンツァは怒りで我を忘れかけていた。「今日が最期の日。死を――休息を与えて下さらないの?」

「ロレンツァ、生きてくれ」

「だったら自由を」

 バルサモは答えなかった。

「だったら死を。一滴の毒薬や、剣の一突きで、穏やかな死を。眠っている間に殺して頂戴。休息を! 安らぎを!」

「生きて、耐えてくれ、ロレンツァ」

 ロレンツァはけたたましい笑いをあげて後ろに飛びすさり、胸許から細身の短刀を取り出した。それが手の中で稲光のようにきらめいた。

 バルサモは声をあげたが、間に合わなかった。飛びかかって腕をつかんだ時には、短刀は役目を果たしてロレンツァの胸に振り下ろされていた。短刀のきらめきと血潮を見て、バルサモは眩暈を覚えた。

 今度はバルサモがけたたましい叫びをあげてロレンツァを羽交い締めにし、短刀が再び振り下ろされようとするのを手探りでつかみかかった。

 ロレンツァがしゃにむに短刀を引き抜いたので、鋭い刃がバルサモの指の間を走った。

 切れた手から血がほとばしる。

 そこでバルサモは取っ組み合いをやめて血塗れの手を差し出し、有無を言わせぬ声を出した。

「眠れ、ロレンツァ、眠れ!」

 だが今回は昂奮しているせいか、いつもほど簡単には従わなかった。

「嫌です」ロレンツァはふらふらしながら再び自分を刺そうとした。「嫌です、眠るもんですか!」

「眠れ! 眠るんだ!」改めて命じてから、バルサモは足を踏み出した。「眠れ、命令だ」

 今回はバルサモの意思の力が勝った。ロレンツァは何の反応も出来ずに溜息をつき、短刀を落として、ふらふらと長椅子に倒れ込んだ。

 目だけが開いていたが、反抗的な光も徐々に薄れ、やがて瞼が降りた。引きつっていた喉からも力が抜けた。怪我をした鳥のように頭を垂れ、ぴくぴくとした震えが身体中に走った。ロレンツァは眠っていた。

 これでようやくロレンツァの服を開き、怪我の具合を調べることが出来た。どうやら軽傷のようだ。それでも夥しい血が流れている。

 バルサモが獅子の目を押すと、バネが動き、羽目板が開いた。アルトタスの部屋の揚げ戸の重しにしていた錘をよけ、揚げ戸に乗っかり実験室まで上った。

「ああ、そちか、アシャラ?」椅子に坐ったままアルトタスが声を出した。「よいか、儂は後一週間で百歳じゃぞ。それまでに子供の血か生娘の血が必要なのは知っておろうが?」

 だがバルサモはその言葉を聞かずに、秘薬の仕舞ってある戸棚に駆け寄り、これまでに何度となく効力を発揮して来た壜の一つをつかんだ。それから揚げ戸に戻って足で叩き、再び下に降りた。

 アルトタスは戸口まで椅子を滑らせ、バルサモの服をつかもうとした。

「聞かぬか、不孝者め! 一週間しても子供か生娘が手に入らなければ、霊薬を完成できずに、儂は死ぬのじゃぞ」

 バルサモが振り返った。ぴくりともしない老人の顔の真ん中に、燃え上がるような瞳が見えた。あたかも目だけが生きているようだ。

「わかっています」バルサモが答えた。「わかっていますから落ち着いて下さい。欲しがっているものはきっと手に入りますから」

 バネを外して揚げ戸を上に戻すと、縁飾りのように天井に溶け込んでしまった。

 それからすぐにロレンツァの部屋に駆け込んだが、部屋に戻った途端に、フリッツの鳴らした呼び鈴が響き渡った。

「ド・リシュリュー殿か」バルサモは呟いた。「構わん。公爵だろうと大貴族だろうと、待たせておけばいいさ」


Alexandre Dumas『Joseph Balsamo』Chapitre CXVII「Ce qu'il fallait à Althotas pour compléter son élixir de vie」の全訳です。


Ver.1 11/09/03

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