この翻訳は翻訳者の許可を取ることなく好きに使ってくれてかまわない。ただし訳者はそれについてにいかなる責任も負わない。
翻訳:東 照
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ジョゼフ・バルサモ

アレクサンドル・デュマ

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第百四十三章 質疑

 我に返って理性を取り戻すと、フィリップは直ちにアンドレの部屋に向かった。

 だが離れに近づくにつれ、不幸だという思いは少しずつ小さくなって来た。経験したばかりの出来事は夢であり、抗っていたのは現実ではなかったのではないか。医師から遠ざかるにつれ、戒めの言葉が信じられなくなって来た。確かに科学は間違うことがあるが、美徳は過ちを犯さない。

 アンドレを再診すると約束した以上は、医師は過ちを認めたのではないだろうか?

 だが戻って来たフィリップのあまりの変わりようや青ざめやつれた顔色を見て、今度はアンドレの方が心配になった。これほど短時間の内にこれほど変わり果ててしまうとは、いったい何があったのか。

 フィリップがこんな風になるとしたら、原因は一つしかない。

「お兄様、わたくしの病気は深刻なものなのでしょうか?」

「どうしてそんなことを?」

「だってルイ先生が恐ろしいお話をなさりそうだから」

「そうじゃない。先生は何の心配もしていないよ。おまえの言った通りだった。そのうえまた診察して下さるように約束してもらったんだ」

「またいらっしゃるんですか?」

「うん、迷惑じゃないだろう?」

 フィリップはたずねながらアンドレの目を覗き込んだ。

「ええ」アンドレは即答した。「そうすることでお兄様が安心なさるのでしたら、それが一番ですもの。でも、だったらどうしてそんなに青ざめて動揺していらっしゃるの?」

「心配かい?」

「お兄様がそんなことを仰るなんて!」

「ぼくのことを心から大事に思ってくれているかい?」

「何ですって?」

「小さかった頃みたいに、ぼくを大事に思ってくれているかい?」

「フィリップ!」

「かけがえのない大事な人間だろうか?」

「たった一人の大事な人です」

 答えてから、アンドレは面目なさそうに赤面した。

「ごめんなさいフィリップ、忘れていたわ……」

「父上のことだね?」

「ええ」

 フィリップはアンドレの手を取り、愛おしむように見つめた。

「アンドレ、父上やぼくに抱いているのとは別の愛情を心に秘めていたとしても、責めたりはしない。約束する……」

 フィリップはアンドレのそばに腰を下ろした。

「おまえくらいの年頃になれば、娘さんたちは思わず知らず荒々しい口を利くものだ。聖書の教えは妻に対し、両親や家族の許を離れて夫に尽くすように説いているじゃないか」

 アンドレはしばらくフィリップを見つめ、聞いたこともない外国語で話をされているようにぽかんとしていた。

 やがて何とも言えず無邪気に笑い出した。

「夫ですって! まさか夫の話をなさっているわけじゃないでしょう? そんな人はまだ現れていないし、わたくし本人が見たことも聞いたこともないわ」

 フィリップは嘘偽りのない笑い声を聞いて、アンドレに近寄り両手を包み込んだ。

「順序から言えば夫にする前に婚約者や恋人がいるだろう」

 心の奥底まで映し出している澄んだ瞳の奥底まで覗き込もうと苦しんでいるのを見て、アンドレは驚いてフィリップを見つめ返した。

「おまえは生まれてからずっとぼくのことを一番の友人だと思ってくれていただろうけれど、ぼくの方ではたった一人の友人も同然のつもりでいたんだ。おまえを放って友人たちと遊びに行ったことなどなかっただろう? ぼくらは一緒に育った。無条件の信頼関係が揺らぐことなどなかった。いったいどうしてしばらく前からこんな風に理由もなくいきなり態度を変えなくてはならないんだ?」

「わたくしの態度が変わったと仰るの? どういうことでしょうか。戻って来てからお兄様が仰っていることはさっぱり理解できません」

「いいかいアンドレ」フィリップはアンドレを胸に抱きしめた。「思春期の情熱が幼少期の愛情に取って代わるのはおかしなことではないし、もうぼくのことを信頼していないから愛に冒された心を見せようとは思わないんだろう」

「お兄様!」アンドレはますます驚いて声をあげた。「何を仰っているの? どうして愛の話なんかなさるんです?」

「アンドレ、ぼくは勇気を振り絞って、おまえにとっても大変だろうがぼく自身にとっても辛い質問をしているんだ。こうして信頼してくれと頼むことが、いや要求することが、おまえの心からぼくを締め出してしまうことになるのはよくわかっている。それでもぼくはそうするつもりだ。ぼくの方も辛いんだと信じてくれ。兄であり友人である人間に対してそんな風に口を閉ざすことが出来るとは思わなかったけれど、このまま沈黙を貫いてぼくを悲しませるというのなら、恐ろしい不幸の真っ直中におまえを置き去りにしておくよりはむしろ、愛されなくなる方を選ぶよ」

「お兄様、どうして非難されているのかわたくしにはまったく理解できません」

「アンドレ、理解させてもらいたいのか?」

「ええ……もちろんです」

「そう言うのなら詳しい話をするけれど、その話がおまえを赤面させ、心に羞恥を植えつけることになっても、原因はおまえにあるんだぞ。秘密を引き出すために心の奥底まで掘り起こす羽目に陥らせたのはおまえなんだからな」

「構いません。何を言われても腹を立てたりはしませんから」

 フィリップは妹を見つめ、昂奮して立ち上がると、部屋をドタドタと歩き回った。フィリップは胸中に非難の言葉を用意していたが、アンドレの落ち着き方にはそうした非難と相容れないところがあるものだから、どのように心を決めればいいのかわからなかったのだ。

 アンドレの方では呆然として兄を見つめていたが、兄らしい温かな力強さとはまったく異なる厳しさを感じて、だんだんと畏縮し始めていた。

 そこでフィリップが口を利き始めるより先にアンドレも立ち上がって腕を取り、優しい目つきでフィリップを見つめた。

「お兄様、こんな風にわたくしを見つめて頂戴!」

「当たり前じゃないか」フィリップは熱い眼差しを注いだ。「どうしたんだい?」

「あのね、お兄様はこれまでずっと、わたくしが友情を感じた相手に嫉妬なさって来たと申し上げたいんです。おかしなことではありませんわ、わたくしだってお兄様が友情や愛情を示した方に嫉妬していたんですもの。今言ったことを考えてみて下さらない?」

 アンドレが微笑んだ。

「わたくしの目の中に隠しごとでも見えるのでしょうか?」

「ああ、見えるとも。おまえは誰かを愛しているんだ」

「わたくしが?」アンドレの驚き方には不自然さなど皆目なかった。よほど巧みな俳優でも今の一言を真似られるかと問われたら即答できないだろう。

 アンドレは笑い出した。

「わたくしが誰かを愛しているですって?」

「そして愛されているんだろう?」

「残念ですけれど、そんな人とお近づきになったことはありませんから、説明することも出来ませんわ。そんなの絵に描いた愛ね」

 今の質問に対してこれほど率直に笑って冗談を言ったり、青い瞳が澄んでいたり、物腰が清らかで無邪気であったりするのを見たり、胸の上に感じている落ち着いた心臓の鼓動を感じたりもすれば、一か月会わなかったからといって妹の清らかな気立てが変わったわけではないということは自ずから明らかであった。可哀相にアンドレは不当に疑われていたのだ。科学は嘘をついたのだ。もっともルイ医師にも弁明の余地はあろう。アンドレの純真さも美しい心根も知らなかったのだから。恥ずべき手本に魅了され、悪い血による早熟な熱情に引きずられた貴族の娘たちを見て来たせいで、アンドレのことも何の未練も魂胆もなく処女を捨てるような女だと信じてしまえたのだ。

 フィリップは改めてアンドレを見つめ、医師が過ちを犯したのだと納得した。この説明に満足して、聖母マリアのような純潔を告白しながら同時に聖なる子に信仰を告白した殉教者を抱きしめるように、妹を抱きしめた。

 約束通りやって来たルイ医師の足音が階段から聞こえて来たのは、フィリップがこのように考え直した頃だった。

 アンドレは震え上がった。現在アンドレが置かれているような状況の中では、どんなものでも恐ろしかった。

「どなたかしら」

「もちろんルイ先生だろう」

 と同時に扉が開き、部屋に現れたのは確かにフィリップが待ち望んでいた医師であった。

 科学こそが聖職であり、宗教的神秘も科学によって把握する類の、厳格で正直な人間だった。

 斯かる唯物論的な時代にあって珍しいことに、ルイ医師は肉体の病の下に魂の病を探そうとしていた。噂や邪魔など少しも心配せず、暇人や噂屋にとっては乱暴に思えるほどに、勤勉な人々から受け継がれて来た時間という遺産を惜しんで、このように歩んでいたのである。

 最初に話をした際にフィリップに冷たかったのにはそういう事情があった。言質を取りつけたことを自慢して、色恋の成果を褒めてもらおうと、医師にお追従を言いに来た優男と勘違いしたのだ。だが事情がわかり、恋人らしい不遜さではなく兄らしい逼迫した表情を目の当たりにして、そして不機嫌ではなく不幸が形を取っているのを目にして、心優しき臨床医は心を動かされた。フィリップとの会話を終えてから、こんな風に呟いていた。

「私は間違っていたのかもしれない。いや、間違いであって欲しい」

 だからフィリップから頼み込まれなくとも、アンドレのところに戻っていたはずだ。改めて徹底的に診察してみれば、最初の診察でああした可能性に思い至ったのが何故なのかわかるかもしれない。

 そこで入って来るとすぐに、医師として観察者として培われた眼差しで控えの間からアンドレを捕えて離さなかった。

 ちょうどこの時、医師の訪問がきっかけだったのか、偶然によるものなのか、フィリップをあれほど怯えさせていた発作が起こった。アンドレは身体を震わせ、苦しそうに口に手巾を押し当てた。

 だがフィリップは医師をもてなすのに必死でまったく気づいていなかった。

「ようこそおいで下さいました。失礼な態度をお許し下さい。一時間前にお会いした時にはひどく動揺していたのですが、今はもう落ち着きましたから」

 医師はアンドレから目を離し、フィリップを観察して、微笑みや明るさの意味を探った。

「私が申し上げた通り妹さんとお話ししましたか?」

「ええ、先生」

「だからあなたは落ち着いていると?」

「上は天国から下は地獄までを経験しました」

 医師はアンドレの手を取り、時間をかけて脈拍を計った。

 フィリップはそれをじっと見つめていた。

 その様子は、「さあどうぞ、先生。ぼくはもう医者の診断を恐れてはいませんよ」と言っているようであった。

「どうですか、先生?」フィリップは安心しきっていた。

「恐れ入りますが――」と医師が答えた。「妹さんと二人きりにしてもらえませんか」

 率直に告げられたこの言葉に、フィリップの自信が崩れ落ちた。

「何ですか? どういうことです?」

 医師は同じ言葉を身振りで繰り返した。

「わかりました。席を外しましょう」フィリップは重苦しい答えを返すと、アンドレに向かって声をかけた。

「アンドレ、先生には正直に素直に話すんだぞ」

 アンドレは肩をすくめた。何が言いたいのか理解すらしていないように見える。

「おまえが先生から身体のことを質問されている間、ぼくは庭園を散歩しているよ。馬を頼んでおいた時間にはまだ間があるから、帰る前にまた会ってもう少しおしゃべり出来るはずだ」

 フィリップはアンドレの手を取って微笑もうとした。

 だが握った手も微笑みも、ぎこちなく震えているのがわかった。

 医師が厳粛な面持ちをしてフィリップを戸口まで見送り、扉を閉めた。

 その後で、アンドレと同じ長椅子に腰を掛けた。


Alexandre Dumas『Joseph Balsamo』Chapitre CXLIII「Interrogatoire」の全訳です。


Ver.1 12/04/07

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