この翻訳は翻訳者の許可を取ることなく好きに使ってくれてかまわない。ただし訳者はそれについてにいかなる責任も負わない。
翻訳:東 照
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ジョゼフ・バルサモ

アレクサンドル・デュマ

訳者あとがき・更新履歴
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第百五十章 父と息子

 フィリップが戻ると、アンドレがひどく狼狽えて不安がっていた。

「お兄様。お兄様がいない間に、わたくしの身に起こったことを残らず考えておりました。わたくしに残っていた理性をすっかり飲み込んでしまいそうな深淵でございました。お兄様はルイ先生にお会いになったのでしょう?」

「先生のところから戻ったところだよ」

「あの人はわたくしをひどく侮辱なさいました。正しかったのでしょうか?」

「間違ってはいなかった」

 アンドレは青ざめ、細く白い指を神経質に引きつらせた。

「名前を。わたくしを破滅させた卑怯者の名前は?」

「ずっと知らない方がいい」

「フィリップ、嘘は仰らないで。ご自分の良心を誤魔化さないで……名前を知る必要があるんです。わたくしは弱いだけの人間で、祈ることくらいしか出来ません。祈ることで犯人に神の怒りをもたらしてやれるのです……その為にも、犯人の名前を」

「その話はよそう」

 アンドレがフィリップの手をつかみ、顔を見つめた。

「それがお兄様のお返事ですか? 腰に剣を佩いているお兄様の?」

 フィリップはアンドレの激しさにたじたじとなったが、すぐに自分の怒りは抑え込んだ。

「アンドレ、自分でも知らないことを教えることは出来ない。ぼくらを悩ましている運命が、それが明らかにならぬよう定めたのだ。秘密にしておこうという願いも我が家の名誉と共に危険に晒されたけれど、神がせめてもの情けをかけて誰からも触れられぬようにしてくれるはずだ。誰からも……」

「例外が一人だけいます、フィリップ……高らかに笑い、わたくしたちに歯向かっている人間が!……きっと人の目の届かない隠れ場所から、わたくしたちを嘲笑っているんです」

 フィリップが拳を固め、天井を見上げたまま、一言も答えなかった。

「その男のことを――」アンドレが怒りと苛立ちをさらに高まらせた。「わたくしはその男のことを知っているような気がするんです……フィリップ、思い出させてしまってごめんなさい。あの男がわたくしに不思議な力を及ぼしていることはもうお伝えしましたね。お兄様はあの人のところに会いに行ってしまったのでしょう」

「その人は違うんだ。会って確かめてきた……もういい。もう忘れるんだ。もう考えなくてもいい……」

「フィリップ、あの人よりも高いところを一緒に目指しましょう。お嫌?……この王国の権力者たちの最上段まで……国王のところまで!」

 フィリップはアンドレを抱き締めた。何も知らぬまま憤りに震えているアンドレは、哀れで神々しかった。

「いいかい、目を覚ましている状態で名を挙げている人たちのことを、おまえは眠っている間に名を挙げていたんだ。今こうして美徳の限りに非難してしている人たちに対して、罪が犯されるのをその目で見た為に、無罪を言い渡したんだ」

「ではわたくしは犯人を名指ししたのですね?」アンドレの目に炎が灯った。

「いいや。そんなことはない。もう質問をするのはやめてくれ。ぼくに倣って運命に従おう。起こってしまったことは元には戻らない。犯人が罰せられないのはおまえにとっては二重の苦しみだろう。だが希望はある。希望……神は何よりも偉大だからね。神は不幸に押しつぶされた人に、復讐と呼ぶ甘美な悲しみを残してくれた」

「復讐……!」フィリップがこの言葉に込めた恐ろしい響きに、その言葉を繰り返したアンドレも怯えていた。

「今のところは休むといい。ぼくの好奇心のせいでおまえに悲しい思いや恥ずかしい思いをさせてしまったね。予め知ってさえいたら! わかってさえいたら!……」

 フィリップは悔しさのあまり両手に頭をうずめた。だがすぐに顔を上げた。

「ぼくは何を嘆いているんだ?」フィリップは笑みを浮かべた。「純粋で、ぼくのことを愛している妹がいるんじゃないか! 信頼も愛情も裏切ったりはしなかった。ぼくのように若く、ぼくのように誠実だった。ぼくらは共に暮らし、共に歳を取ってゆくんだ……二人なら、世界の誰よりも強くなれる!……」

 フィリップが慰めの言葉を綴るにつれ、アンドレの顔色が翳って行った。顔をさらに青ざめさせてうつむき、フィリップが気丈にもふるい落としたばかりの絶望的な態度と眼差しを湛えていた。

「二人のことなど二度と話さないで下さい!」青く鋭い目を、動揺しているフィリップの顔に向けた。

「じゃあ何を話せばいいんだい、アンドレ?」フィリップはアンドレの視線を受け止めた。

「だって……わたくしたちにはお父様がいます……お父様が娘を裏切ると言うのですか?」

「昨日言った通りだよ」フィリップは淡々と言葉を返した。「悲しいことも恐ろしいこともみんな忘れてしまうんだ。朝靄を吹き払う風のように、ぼく以外の思い出も愛情も吹き払ってしまって欲しい……だってアンドレ、この世の誰も愛してはいなかったのだろう。ぼくのほかには。ぼくが愛していたのもおまえだけだ。哀れなみなし児が、どうして感謝や親戚といったくびきに囚われなくちゃならないんだ? ぼくらが恩恵を受けたことがあったか? 父から守ってもらったことがあったか?……ははっ!」フィリップは苦々しい笑みを浮かべた。「ぼくの考えていることならすっかりわかっているだろう。ぼくの気持などお見通しだろう……今話している人のことを愛さなくてはならなかったなら、『愛しなさい』と言っていたさ。ぼくは黙るから、おまえも口を閉じるといい」

「でもお兄様……わたくしに必要なのは信じることでしょうか……?」

「ねえ、恐ろしい災難の中で、子供というのは知らず知らずのうちに、理解できないながらも『神を恐れよ!』という言葉が鳴り響くのを聞いているものさ……ああ、そうだとも。神様は残酷にもぼくらに思い出させたんだ……『父を敬え……』とね。敬意を最大限に表そうと思ったら、おまえに出来ることは記憶を消し去ることだろうな」

「本当にその通りね……」アンドレは侘びしげに呟いて、椅子に倒れ込んだ。

「アンドレ、どうでもいい話で時間を無駄にするのはよそう。身のまわり品を揃えるんだ。ルイ先生が王太子妃殿下に会いに行って、おまえがいなくなることを伝えてくれる。どんな理由をつける予定なのかわかっているね……原因不明で苦しんでいるから、空気を変える必要があると……出発に必要なものを用意してくれ」

 アンドレが立ち上がった。

「家具はどうしますの?」

「それは無理だ。下着に上着に宝石」

 アンドレは言われた通りにした。

 まずは洋服箪笥や、ジルベールが隠れていた衣装部屋の衣装を片し、それから、貴重品箱に移すつもりだった宝石を幾つか手に取った。

「それは……?」

「トリアノンで陛下に謁見した際に賜った装身具です」

 贈り物が豪華なのを見てフィリップの顔が青ざめた。

「この宝石だけで、何処に行ってもそこそこの生活が出来ますわ。真珠だけでも十万リーヴルだと聞きました」

 フィリップが宝石箱を閉じた。

「驚くほど高価だね」

 と言って、宝石箱をアンドレの手に戻した。

「ほかにも宝石があるんだろう?」

「でもこの宝石とは比較にはなりません。母がお洒落をした時に身につけていたもので、十五年も前の……懐中時計、ブレスレット、ダイヤの散りばめられた耳飾り。それに肖像画もあります。お父様はみんな売ろうとなさいました。流行遅れだからと言って」

「それがすべてここに残っているんだね。ぼくらの唯一の財産だ。金は溶かして、肖像画の宝石は売ろう。それで二万リーヴルにはなる。貧乏人には充分な額だよ」

「でも……この真珠の宝石箱はわたくしのものです!」

「触れちゃ駄目だ。火傷するぞ。この真珠には奇妙な性質があって……顔に触れると痣が出来るんだ……」

 アンドレが身震いした。

「この宝石箱はぼくが預かるよ。正当な権利を持つ人に返そうと思うんだ。これはぼくらのものじゃない。何一つ主張するつもりはないね?」

「お兄様がそう仰るのでしたら」アンドレは恥ずかしさに震えた。

「じゃあ着替えてくれ。妃殿下に最後のご挨拶をしに伺おう。これほど高貴な主人の許から離れるんだから、ちゃんと落ち着いて、敬意を払い、胸に刻むんだぞ」

「もちろん胸に刻みますわ」感極まったアンドレが囁いた。「今度の不幸の中でも一番辛いことですもの」

「ぼくはパリに行くけれど、夕方頃には戻って来る。着いたらすぐに迎えに来るよ。必要な人たちには支払いを済ませておくんだぞ」

「そんな人はおりません。ニコルがいましたけれど、逃げてしまいましたから……あら、ジルベールのことを忘れていました」

 フィリップの背筋が凍り、目に炎が灯った。

「ジルベールにそんなことをする必要があるのか?」

「ええ」アンドレは当たり前のように答えた。「季節の初めから花を届けてくれましたから。それにお兄様も仰ったように、あの子には不当に厳しく接することもありましたし。何だかんだ言っても慇懃な子だったのに……何らかの形でお礼をしようと思っています」

「ジルベールなど放っておけ」フィリップが声を絞り出した。

「どうしてですか?……庭にいるでしょうから、何なら呼びに行かせましょう」

「駄目だ! 貴重な時間を無駄にするな……そんなことをせずとも、並木道を歩いて行けば、途中で出くわすだろうから……ぼくが話して……お礼を言っておくよ……」

「そういうことでしたら構いません」

「ああ。それじゃあ晩に」

 フィリップは腕の中に飛び込んで来たアンドレの手に口づけをした。心臓の鼓動が伝わるまで優しく抱き締めると、時間を無駄にせずパリに向かい、コック=エロン街の門前で馬車から降りた。

 そこに行けば父と会えることはわかっていた。男爵はリシュリューとおかしな仲違いしてからは、ヴェルサイユでの耐えがたい生活を良しとせず、活動的な人々がよくやるように、場所を変えることで無為な感覚を紛らそうとしていたのだ。

 フィリップが正門の小窓から訪いを告げた時には、男爵は悪態をつきながら宿の庭や隣接する中庭を歩き回っていた。

 呼鈴の音にびくりとすると、男爵自ら門を開けに現れた。

 人が来るとは思っていなかったので、こたびの予期せぬ訪問に期待を抱いていたのだ。転落した人間はどんな枝にもしがみつきたがる。

 悔しさと好奇心の入り混じった捕えがたい気持で、男爵はフィリップを迎え入れた。

 だが息子の青ざめて強張った顔や痙攣する口を見るや、質問しようとして開いた口は凍りついた。

「お前か!」とだけ言うのがやっとだった。「どういう風の吹き回しだ?」

「これからご説明いたします」

「ふん! 一大事か?」

「極めて重大なことです」

「お前はいつも仰々しいから不安でならん……それで、今回の報せは不幸と幸運のどっちじゃ?」

「不幸の方です」フィリップの声は重かった。

 男爵の身体がかしいだ。

「ここにはぼくたちしかいませんね?」

「無論だ」

「家に入りませんか?」

「どうして外ではいかん? この木の下では……?」

「明るい空の下では言えないようなことだからです」

 男爵は息子を見つめ、無言で招かれるがままに従った。平静を装って笑みまで浮かべて地下室までついて行くと、フィリップが扉を開けて待っていた。

 扉がしっかりと閉められると、フィリップは父親が話せと合図するのを待った。男爵は部屋で一番いい椅子にどっかりと腰を下ろしている。

「父上、アンドレとぼくは、父上とお別れすることになりました」

「どういうことだ?」男爵は驚いてたずねた。「行ってしまうというのか!……では兵役はどうなる?」

「もう兵役などありません。ご存じの通り、国王のお約束は実現しませんでしたから……幸いなことに」

「幸いだと? 意味がわからん」

「父上……」

「説明せんか。聯隊長になれぬのが幸いとはどういうことだ? 哲学をこじらせおったか?」

「たいした哲学ではありません。不名誉よりは運命を取ったまでです。ですがこの種の理由には突っ込まないでいただけませんか……」

「突っ込まずにおられるか!」

「お願いです……」フィリップのかたくなな言葉からは、『嫌だ!』という叫びが聞き取れた。

 男爵が眉をひそめた。

「妹はどうなんじゃ?……あれも務めを忘れてしまったのか? 妃殿下のおそばにお仕えするという……?」

「まさしく、ほかにしなくてはならない務めがあるのです」

「どういった務めじゃ?」

「極めて緊急性の高いものです」

 男爵が立ち上がった。

「うつけ者めが。謎めいたたわごとをほざきよって」

「ぼくの言ったことが謎めいていたでしょうか?」

「謎ばかりではないか」と答えた男爵は驚くほどに冷静だった。

「それでは説明いたします。アンドレが立ち去るのは、不名誉から逃れるために雲隠れを余儀なくされたからです」

 男爵が笑い出した。

「はッ! たいした親孝行どもじゃのう! 息子は不名誉を恐れて聯隊という希望を諦め、娘は不名誉を怖がってせっかくつかんだ地位を捨ててしまうのだから。ブルートゥスとルクレティアの時代に戻れればのう! わしの若かった頃は良い時代ではなかったし、哲学にとっては冬の時代だったろうが、不名誉を蒙るのがわかっておって、お前のように腰に剣を佩いているうえに、二人の師と三人の隊長に教えを受けているのなら、剣の切っ先にその不名誉を突き刺していたところだぞ」

 フィリップは肩をすくめた。

「そうじゃろう。血を見たくない博愛主義者にとっては、わしの言っていることは嫌なことじゃろうな。だがな、軍人というのは哲学者になる為に生まれて来たわけではない」

「父上と同様、ぼくにだって名誉に関わる問題を背負う覚悟はあります。ですが血を流してあがなうのではなく……」

「口先だけ!……詭弁か……哲学者のお家芸じゃな!」男爵の怒りに凄みが現れ始めていた。「確か、臆病者の話をしようとしていたところじゃったな」

「しようとしただけでやめて下さったのは正解でしょう」フィリップは青ざめ、震えていた。

 フィリップの挑むような視線に、男爵は毅然として応えた。

「わしを言いくるめようとしている人間ほどには、わしの理屈は錆びついておらぬぞ。この世で不名誉を蒙るのは、おこないのせいではなく言葉があるからじゃ。犯罪者が聾や盲や唖の前に引き出されて、不名誉を感じると思うのか? どうせ馬鹿な格言を持ち出すつもりじゃろう。

『恥を生むのは罪であり、断頭台ではない』

「女子供が相手ならそれでも良かろう。だが男が相手ではそうはいかぬぞ! まるで外国語だわい……男を作り出したと思っておったが……とにかく、盲の目が明き、聾の耳が聞こえ、唖が口を利くようになれば、剣の鍔に手を置き、目を潰し、鼓膜を破り、最後に舌を切り取るがいい。タヴェルネ=メゾン=ルージュの名を戴く男は侮辱に対してそのように答えねばらなん!」

「その名を戴く人間なら、やるべきことの中でも第一にしなければならないのは、不名誉な行動を取らぬことだと心得ております。だからこそあなたに反論するつもりはありません。ただし、時には避けがたい不運から恥が生まれることもあるではありませんか。それがアンドレとぼくに起こったことなのです」

「アンドレの話に移ろうか。わしに言わせれば、男なら抗えることから逃げてはならぬし、女とて毅然として耐えねばならぬ。哲学者殿よ、悪意ある攻撃を防ぐことが出来ぬのであれば、美徳に何の意味があるのだ? 悪意に勝てぬのであれば、美徳に活躍の場などあるのか?」

 そう言ってタヴェルネ男爵はまた笑った。

「ド・タヴェルネ嬢は怯えている……そうだな?……それで弱気になっている……つまり……」

 フィリップが突然歩み寄った。

「父上、ド・タヴェルネ嬢は弱気になったのではなく、征服されたのです! 罠に嵌められ、陥れられたのです」

「罠だと……?」

「そうです。染み一つない名誉を貶めようと企んだろくでなしに報いを受けさせる為に、先ほどは父上を煽るようなことを申しました」

「わからんが……」

「すぐにおわかりになります……ある卑劣漢がド・タヴェルネ嬢の部屋に人を引き入れたのです……」

 男爵の顔から血の気が引いた。

「犯人はタヴェルネの名に……ぼくの……そして父上の名に……消せない汚点をつけようとしたのです……さあ、父上の剣は何処ですか? 血を流すに足る出来事ではありませんか」

「フィリップ……」

「ああ、心配はいりません。表立って誰かを非難しても告発してもいませんから……犯罪は暗がりの中で計画され、暗がりの中で実行されたのです……その結果も暗がりの中に消えてくれることを願っています! 我が家の栄光をぼくなりに誇っているのですから」

「どうやって知ったのだ……?」茫然としていた男爵が、恐ろしい野心とおぞましい希望の力で我に返った。「どんな徴候があったのだ……?」

「ここ何か月かの間にぼくの妹を――あなたの娘を――見かけた人の誰一人として、そのようなことをたずねたりはしませんでした!」

「だがな、フィリップ」男爵の目には歓喜が溢れていた。「我が家の運命と栄光は消えてなくなってはおらぬ。わしらは勝利を収めたのじゃ!」

「やはり……父上はぼくの考えていた通りの人でした」フィリップの言葉には激しい嫌悪が滲んでいた。「本音を洩らしましたね。息子の前で感情を忘れてしまっただけでなく、神の前でも心を無くしてしまったのですね」

「たわけ者めが!」

「落ち着いて下さい! 大きな声を出すと、凍てついた母の幽霊が目を覚ましてしまいますよ! 生きていれば、我が娘を見守ってくれたでしょうに」

 フィリップの目からほとばしる光のまぶしさに、男爵は瞼を伏せた。

「わしの娘は、父の意思に反して立ち去ったりはせんよ」と、ようやく口を開いた。

「ぼくの妹は、父上と二度と会うことはないでしょう」

「本人がそう言ったのか?」

「父上にそう伝えるように本人から言われたのです」

 男爵は震える手を伸ばし、血の気の引いて湿った口唇を拭った。

「まあよいわ!」

 と言って肩をすくめた。

「子供に関しては運がなかったの。馬鹿と人でなしとは」

 フィリップは口答えしなかった。

「もうよいわ。もうお前たちなどいらぬ。行ってしまえ……言いたいことを言ってしまったのであればな」

「あと二つ申し上げたいことがあります」

「言うてみろ」

「一つ目です。国王が父上に下さった真珠の宝石箱ですが……」

「お前の妹に、であろう……」

「父上に、です……何にしてもどうでもいいことです。アンドレはあのような宝石を身につけたりはませんから……タヴェルネ嬢は娼婦ではありません。宝石箱をお返しして下さるよう言づかって来ました。ただし、ぼくらにあれほど親切にして下さった陛下のご機嫌を損ねるのがご心配でしたら、どうかお手元にお留め下さい」

 フィリップは父に宝石箱を差し出した。男爵は箱を受け取って蓋を開き、真珠を見つめてから洋箪笥の上に箱を放った。

「次は?」

「二つ目に、ぼくらは裕福ではありません。母の財産まで質に入れたり使ったりしていたくらいですから。ですから非難するつもりはありません。とんでもないことです……」

「それでよかったのかもしれん」男爵が歯を軋らせた。

「ですがぼくらにはささやかな財産の一つであるタヴェルネしかないのですから、父上はタヴェルネとこの家のどちらかを選んで住んで下さい。ぼくたちは残りの方に引き籠もります」

 男爵がレースの胸飾りをしわくちゃにした。怒りに耐えているのは、その手が震え、額が汗ばみ、口唇が震えているところからしかわからなかった。フィリップは気づきもせずにそっぽを向いていた。

「タヴェルネにしよう」

「ではぼくらは宿を」

「好きにせい」

「いつ出発なさいますか?」

「今晩……いや、今すぐにだ」

 フィリップが頭を下げた。

「タヴェルネでは、三千リーヴルの年金があれば大金持じゃ……わしはその二倍の金持じゃな」

 男爵は洋箪笥に手を伸ばし、宝石箱をつかんでポケットに入れた。

 それから戸口に向かったが、不意に残忍な笑みを浮かべて引き返して来た。

「フィリップよ、これから哲学論を発表することがあれば、我が家の名を冠しても構わぬぞ。アンドレには……初めての子が授かったら……ルイかルイーズと名づけてくれるよう伝えてくれ。幸運をもたらす名じゃからの」

 男爵は卑屈に笑って立ち去った。フィリップは目を血走らせ、顔を上気させ、剣の鍔に手を掛けて呟いた。

「神よ! 我に忍耐と忘却を与え給え!」


Alexandre Dumas『Joseph Balsamo』Chapitre CL「Le père et le fils」の全訳です。


Ver.1 12/05/19
Ver.2 12/10/20

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[註釈・メモなど]

 ・メモ
 ◆ブルートゥスとルクレティア……ルクレティアは古代ローマの女性。夫の留守中に王家の者に辱めを受け、夫たちに復讐を恃んで剣で自ら命を絶つ。ブルートゥスは夫の友人で、王家を退け共和制になったローマで執政官となる。

 ◆『恥を生むのは罪であり、断頭台ではない』……Le crime fait la honte et non pas l'échafaud. 劇作家トマ・コルネイユの言葉。のちにマラー殺害犯シャルロット・コルデーが書いた手紙の言葉として有名になる。

[更新履歴]

・12/10/20 「今こうして美徳の限りに非難してしている人たちに対して、罪が犯されるのを目にしながら無実を訴えたんだ」→「今こうして美徳の限りに非難してしている人たちに対して、罪が犯されるのをその目で見た為に、無罪を言い渡したんだ」(=犯罪の現場を千里眼によって目撃したので、それまで非難していた人を弁護するようになった)

[註釈]

*1. []。[]
 

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