外に出るとジルベールは昂ぶる想像を抑え込んだ。伯爵の言葉を聞いて、可能性どころか実現性のその先にまで想像力が広がってしまったのだ。
パストゥレル街に着くと里程標の上に腰を下ろし、辺りを見回して誰からも見られていないことを確認したうえで、しっかりと握っていたせいで皺くちゃになった手形の束をポケットから取り出した。
恐ろしい考えが心をよぎり、額が汗で湿っていた。
「よし」手形の束を見ながら呟いた。「あの人に騙されたわけじゃなかったのかどうか確かめよう。罠に掛けられたわけじゃないのかどうか。甘い餌で釣っておいて死をお見舞いされるわけではないのか。草花で気を引いて屠殺場に連れて行かれる羊のように扱われたわけではなかったのか。たくさんの贋手形が流通していて、それを使って宮廷の好き者たちがオペラ座の娘さんたちをカモにしていたというじゃないか。伯爵が僕に構ってくれたのは騙すためではなかったのかどうか、確かめてみよう」
ジルベールは束から一万リーヴルを一枚抜き取ると、近くの店に入ってその手形を見せ、両替の出来る銀行の場所をたずねた。主人から頼まれたのだ、と言い訳して。
商人は手形を何度もひっくり返して見とれていた。慎ましやかな店舗には大変な金額だったからだ。やがてサン゠タヴォワ街を指さし、ジルベールが知りたかった金融商の場所を教えた。
手形は本物だったのだ。
ジルベールは歓喜して喜びを噛み締め、すぐに想像力に再び心を預け、これまでよりしっかりと手形の束をハンカチで包み込んだ。やがてサン゠タヴォワ街で古着屋を見つけると、ショーウィンドウに目を奪われ、二十五リーヴルで――とはつまり、バルサモから貰った二ルイのうちの一枚で――栗色の羅紗の上下揃いを購入した。清潔感のあるところが気に入ったのだ。それから色褪せ気味の黒い絹靴下を一組、きらきらした留金のついた短靴を一足。薄手の生地のシャツを買えば、高級でこそないが品のよい装いが完成した。ジルベールは古着屋の鏡に映った姿に一目で満足した。
そこで今まで着ていた古着を売って二十五リーヴルのたしにすると、ポケットの中の貴重なハンカチを握り締め、古着屋から鬘店に移動した。十五分後にはジルベールの頭は洗練されて見事と言えるまでのものになっていた。
こうしたことを終えると、ジルベールはルイ十五世広場の近くにあるパン屋に入って二スーのパンを買い、急いで頬張りながらヴェルサイユに向かった。
コンフェランスの泉では一休みして水を飲んだ。[*1]
旅を再開してからも、馭者の誘いは断固として断った。馭者たちにしてみれば、これほど小ぎれいな若者が靴墨を犠牲にしてまで十五スーを節約するのが信じられない。
徒歩で先を目指すこの若者がポケットに三十万リーヴル持っていると知ったら、馭者たちは果たして何と言うだろうか?
だがジルベールにも徒歩を選んだ理由がある。一つには、必要最低限を超えては一リヤールも使わないという固い決意。いま一つは、無言劇と独白を繰り広げるには一人の方が都合がよいと考えたからだ。
二時間半にわたる道行きを通して、この若者の頭の中で幸せな結末が演じられていたことは神のみぞ知るところであった。
二時間半で進んだ距離は四里を越えたが、それだけ歩いた感覚もなければ疲れも感じていなかった。体力では誰にも負けなかった。
計画は練り終わっている。どうやって要求を伝えるかは既に心に決めていた。
父親であるタヴェルネ男爵との戦いには言葉を費やそう。男爵の許可を得た後で同じようにアンドレ嬢に言葉を費やせば、許してくれるだけではなく、感動的な演説をおこなった自分に敬意や愛情を示してくれるだろう。
そんな風に考えれば、不安よりも希望が勝った。アンドレのような立場の娘が、愛情のこもった償いを拒むことなどあり得ない。とりわけそれに十万エキュの持参金がついていれば。
ジルベールは旧約時代の幼子のように、このような叶わぬ夢を見るほどの無邪気なお人好しだった。自分がおこなった悪事もすっかり忘れていた。それもはたから見るよりは誠実な気持ちの表れなのかもしれない。
すべての準備が整った頃、ジルベールは締めつけられるような気持ちでトリアノンの敷地にたどり着いていた。来たからには用意は出来ている。フィリップの怒りに触れたら、誠実さでなだめなくてはならない。アンドレに蔑まれれば、愛情で屈服させなくてはならない。男爵に罵られたら、金銭で機嫌を取らなくてはならない。
自分が暮らしていた社会から離れたことで、ポケットの中の三十万リーヴルこそが固い鎧なのだということを、ジルベールは本能的に悟っていた。何よりも恐れていたのは、アンドレが苦しんでいるのを見ることだ。そんな事態になった場合の、自分の弱さを危惧していた。目標を達成するのに不可欠な力を奪ってしまう弱さを、危惧していた。
そこで庭に入ると、使用人たちを見回した。昨日までは仲間だったにもかかわらず、今は下位の者だと見なして、傲然とした表情を浮かべていた。
まずはタヴェルネ男爵のことだ。使用人棟で働いていた下男にさり気なく居場所をたずねた。
「男爵はトリアノンにいらっしゃらないよ」
ジルベールは一瞬躊躇いを見せた。
「ではフィリップ殿は?」
「フィリップ様はアンドレ嬢とお発ちになったよ」
「発ったって!」ジルベールの顔に驚愕が浮かんだ。
「ああ」
「アンドレ嬢が立ち去ってしまったというのか?」
「五日前に」
「パリに?」
下男は「知らない」というように首を振った。
「知らないって? アンドレ嬢は誰にも行き先も知られずに立ち去ったのか? だけど理由もなく立ち去るわけがない」
「馬鹿らしい!」小姓はジルベールの栗色の服装にもてんで敬意を払わなかった。「もちろん理由もなく出かけたりはしないさ」
「じゃあ理由は?」
「空気を変えに」
「空気を?」
「そう、トリアノンの空気が身体に合わないらしくて、医者から助言されてトリアノンから離れたんだ」
これ以上たずねても無駄だ。今までの話が、この下男がタヴェルネ嬢について知っていることのすべてだろう。
だがジルベールは啞然として、その耳で聞いた話を信じることが出来なかった。大急ぎでアンドレ嬢の部屋に向かったが、扉には鍵が掛けられていた。
ガラスの破片、麦藁や干し草の屑、藁布団の屑が廊下に散らばり、部屋の主が引っ越してしまったことを告げていた。
この間まで住んでいた自分の部屋に戻ると、そこは出た時のままになっていた。
アンドレの部屋の窓が換気のために開いていて、控えの間まで見通せた。
部屋は見事なまでに空っぽだった。
ジルベールは耐え難い苦しみに身を預けた。頭を壁にぶつけ、腕をよじり、床を転がった。
気狂いのように屋根裏から飛び出し、翼が生えたように階段を駆け降り、髪を掻きむしって森に飛び込んだ。呪詛の叫びをあげてヒースの真ん中で倒れ込み、己が命とその命を与えた存在を呪った。
「はははっ! もう終わったんだ。みんな終わった。神様は僕とアンドレを二度と会わせたくないらしい。死ぬほど悔いて絶望して焦がれさせるつもりらしい。罪を償えということか。辱めた相手の不名誉をすすげということか……それにしても何処に行くというのだろう?……タヴェルネだ! そうか! 行ってやるとも! 世界の果てまでも行ってやる。必要とあらば雲の上まで。手がかりを見つけたら追いかけるんだ。たとい飢えと疲労で道半ばで倒れたとしても」
だが苦しい気持ちを爆発させたおかげで徐々にその苦しみも和らぎ、ジルベールは立ち上がって、楽に息を吸い込み、穏やかな態度で周囲を見回し、ゆっくりとパリへの道を取った。
今回はたどり着くまでに五時間かかった。
「男爵はパリから離れたりはしていないに違いない」ジルベールは冷静に見えた。「話をしよう。アンドレ嬢は失踪した。そりゃそうだ。トリアノンに居続けられるわけがない。でも何処に行ったにしても、父親ならきっと居場所を知っている。父親の言葉から足跡をたどれるはずだ。いや、それよりも、欲の皮をつついてやれば、呼び戻してくれるかもしれない」
ジルベールはこの思いつきに力を得て、パリに戻って来た。着いたのは夜の七時頃だ。即ち、シャン゠ゼリゼの往来が増える涼しい時間帯。終わらぬ昼を実現させた人工の光と、夜霧の間を、パリが彷徨い抜ける時間帯。
ジルベールは覚悟を決めて、コック゠エロン街の宿に真っ直ぐ進み、躊躇うことなく門を敲いた。
沈黙だけが答えを返す。
さらに強く敲き金を鳴らしたが、何度敲こうとも結果は同じだった。
当てにしていた頼みの綱が擦り抜けてゆく。ジルベールは怒りにまかせて手を咬んだ。魂が苦しみに喘いでいるのだ。肉体を罰して何が悪い。出し抜けに道を戻り、ルソー宅の門のバネを押して階段を上った。
三十枚の手形を包んだハンカチには、屋根裏の鍵も結びつけられていた。
ジルベールはそれに飛びついた。ここにセーヌ川が流れていたとしても飛び込みそうな勢いだった。
夜も更け、綿のような雲が紺碧の空で戯れ、甘い芳香が菩提樹やマロニエから立ちのぼり、蝙蝠が翼を窓ガラスに打ちつける頃、ジルベールが昂奮に駆られて天窓に近づくと、木々に囲まれた庭に建つ城館が白く見えた。かつてあそこで、もう二度と会えないと思っていたアンドレを見つけたのだ。胸が張り裂けるのを感じ、気絶したように樋の固定板に倒れ込むと、ぼんやりとした目つきでひたすらに見つめていた。
Alexandre Dumas『Joseph Balsamo』Chapitre CLII「Les projets de Gilbert」の全訳です。初出は『La Presse』紙、1847年12月30日(連載第151回)。
Ver.1 12/06/16
Ver.2 26/06/28
[註釈・メモなど]
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[註釈]
▼*1. [コンフェランスの泉]。
ジルベールはサン゠クロード街を出たあと、500メートルほど西のパストゥレル街(rue Pastourel(le))に進み、そこから500メートルほど南のサン゠タヴォワ街(rue Saint(e)-Avoie)の金融商に移動していた。そこからさらに西に3キロほど進むとルイ十五世広場(現在のコンコルド広場)がある。
コンフェランスの泉(la fontaine de la Conférence)については未詳。かつてセーヌ河岸、ルイ十五世広場の南東側端、チュイルリー宮殿の南西端の辺りに、porte de la Conférence(コンフェランス門)があったが、1730年には取り壊された。その跡地の付近にある泉・噴水のことだと思われる。現コンコルド広場の噴水は1771年当時にはまだ存在していない。[↑]
▼*2. []。
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▼*3. []。
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▼*4. []。
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▼*5. []。
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