ジョゼフ・バルサモ

アレクサンドル・デュマ

訳者あとがき・更新履歴
著者略年譜・作品リスト

第百五十九章 アラモン村

 雪につけられた足跡はジルベールのものだった。先日バルサモと話し合いを持ってからというもの、監視を怠らず果たし、復讐の準備を進めていたのだ。

 何一つ苦労はなかった。甘い言葉とささやかな媚びを弄することで、ルソーの妻から受け入れられるどころか慈しまれてさえいた。方法は単純なものだった。ルソーからは書写代として一日三十スー貰っており、週に三回その中から一リーヴル取り除けて、テレーズへのささやかな贈り物を購入したのだ。

 ある時はボンネット用のリボン、ある時は砂糖菓子や、ワインボトル。テレーズは好みや誇りをくすぐられてその気になり、何ならジルベールが食卓で料理の腕前を讃える感嘆の声をあげただけで満足したことだろう。

 そうなのである。ルソーの口添えの甲斐あってジルベールは食卓に着くことを許されていた。二か月前からその恩恵に与った結果、藁布団の下に仕舞い込んでいた財産に二ルイを加えることが出来た。その隣にはバルサモから預かった二万リーヴルがある。

 それにしても何という生活だったろう! その行動にも意思にも恐ろしいほどに揺るぎはなかった! 朝起きるとジルベールは鵜の目鷹の目でアンドレの様子を探り、暗く規則的な隠遁生活に何の変化も入り込んでいないことを確かめた。

 ジルベールの目から逃れられるものなどなかった。庭に敷かれた砂も、程度の差はあれ固く閉ざされたカーテンの襞も。砂の上に残された足跡を目視で測り、アンドレのものだと見抜いた。カーテンの開き具合が、アンドレの機嫌を測る目安だった。というのも、調子の悪い日には日光を目にすることすら嫌っていたのだ。

 このようにしてジルベールはアンドレの胸中や家の中で起こっていることを把握していた。

 同じようにしてフィリップの足取りや振舞から意図を推し量るすべも覚えた。それがわかってからというもの、何のために出かけようとしているのかも、どういう結果を持って帰って来たのかも、誤ることはなかった。

 フィリップがルイ医師に会いにヴェルサイユに向かった晩には、念には念を入れて跡を尾けることまでした……このヴェルサイユ訪問にはジルベールも戸惑った。だが二日後に医師がコック゠エロン街の庭に人目を避けて入り込んだのを見て、一昨晩の謎は氷解した。

 日取りはわかっているのだ。すべての希望が実現する瞬間が近づいているのは承知していた。困難に満ちた計画を滞りなく成功させるために必要な用意にはしっかり取りかかっていた。計画の内容はこうだ。

 二ルイはフォーブール・サン゠ドニで二頭立ての二輪馬車を借りるのに使った。これで然るべき日に自由に動かせる。

 さらにジルベールは三、四日休みを貰ってパリ近郊を調査した。その間、パリから十八里離れたところにある、広大な森に囲まれた、ソワソネの小村を訪れた。

 この村の名はヴィレル゠コトレという。ジルベールは村を訪れると真っ直ぐにニケ先生という名の村でただ一人の公証人の許に向かった。

 ジルベールは自分のことを大領主の執事の息子だと名乗った。農婦の子のことを考えた領主から、乳母を見つけて来いと頼まれたのだと告げた。

 大領主は気前がいいから乳母の月給に糸目はつけないし、子供のためにニケ氏の手許に幾ばくかの金を預けることになる、と伝えた。

 なるほどニケ氏には三人の息子がいたので、ヴィレル゠コトレから一里のところにアラモンという小村があり、息子たちの乳母だった女の娘が、この事務所で正式に婚姻の手続きをした後で母の仕事を継いでいると教えてくれた。

 この女将さんの名はマドレーヌ・ピトゥといい、何処から見ても健やかな四歳の息子がいた。そのうえもう一人産んだばかりなので、ジルベールの好きな時に赤ん坊を連れて来ればいい。

 こうしてすべての手筈を整えると、几帳面なジルベールは休暇の終わる二時間前にパリに戻った。さて、ジルベールがどうしてほかの村ではなくヴィレル゠コトレを選んだのか疑問に思われる方もおいでだろう。

 今回もほかの多くの場合と同様に、ジルベールはルソーの影響を受けていた。

 ルソーはかつて、ヴィレル゠コトレの森を、類を見ないほど豊かな森だと呼び、木陰に潜む巣のように森の中に潜む村だといって三つか四つ名を挙げていた。

 だから、この村のどれかでジルベールの子供を探そうとしても見つけられる心配はない。

 分けてもアラモンはルソーに強い印象を与えた。人間嫌いで孤独な隠者であるルソーが、いつもこんなことを繰り返すほどだった。

「アラモンはこの世の果て。人跡も途絶えた地。生きている時は枝で歌い、死ぬ時は葉陰に朽ちる、そんな鳥のように生きて死ぬことが出来るのです」

 ルソーは鄙びた家の生活を事細かくジルベールに話していた。草花を活き活きと描く時のような燃えるような筆致で、家庭の様子を語って聞かせていた。乳母の笑顔に、山羊の鳴き声。質素なキャベツのスープの立てる食欲をそそる匂いに、野生の桑や紫色のエリカの香り。

 ――あそこに行こう、とジルベールは考えた。ルソーさんが希望や失望を味わった木陰の下で、僕の子は大きくなるんだ。

 ジルベールにとって思いつきで行動するのはいつものことだったし、今回の場合は表向き道徳的な理由があるのだからなおさらだった。

 だからジルベールの気持ちを汲んだニケ氏が、希望にぴったりの村だと言ってアラモンの名を挙げた時には、喜びもひとしおだった。

 パリに戻るジルベールの頭を占めていたのは二輪馬車のことだった。

 二輪馬車は立派ではないが頑丈だった。それでいい。馬はがっしりとしたペルシュロン種で、馭者は冴えない馬丁だったが、ジルベールにとって大事なのは人目を引かずに目的地に着くことだった。

 ジルベールのついた噓はニケ氏には何の疑念も抱かれなかった。新しい服を着て立派な身なりをしていたので、良家の執事の息子なり人目を忍んだ公爵や大貴族の従僕なりだと名乗っても不自然ではなかったのだ。

 馭者の方は輪を掛けて何も疑わなかった。庶民と貴族の間でも腹を割ることの出来た時代だった。当時の人間は心づけを受け取りさえすれば何もたずねたりはしなかった。

 そのうえ当時は二ルイに四ルイの価値があったし、四ルイは今日から見ても稼ぐに値する金額だ。

 そこで馭者は、二時間前に知らせてくれさえすれば、希望通りに馬車を手配すると約束した。

 この計画はジルベールにとってあらゆる魅力に満ちていた。詩人の想像力と哲学者の想像力という、異なる衣装を纏った二匹の妖精が、物事や決断にさらに素晴らしい魅力を与えることになった。冷酷な母親から子供を攫おう。そうすることで、恥と死別の苦しみの種を敵陣営に蒔こう。その後で姿を変えて、鄙びた家に向かおう。ルソーが語ったような善良な村人の家に行き、揺りかごの上に大金を置いておこう。貧しい村人から守護神のように思われよう。一廉の人物のように扱われよう。これで誇りと恨みを満足させられる。隣人のための愛も、敵に対する憎しみも、満足させられる。

 ついに運命の日がやって来た。この十日間というもの、日中は苦悶のうちに過ごし、夜間は眠れずに過ごしていた。どんなに寒かろうとも、窓を開けて横になっていた。紐を引く手の動きが呼鈴に伝わるのと同じく、アンドレやフィリップのどんな動きもが耳に伝わるように。

 その日はフィリップとアンドレが暖炉のそばで語らっていた。女中が鎧戸を閉めるのも忘れて大急ぎでヴェルサイユに向かったのも目撃していた。ジルベールは直ちに馭者に知らせに走り、馬を繫ぐまでの間、厩舎の前で拳を咬んだり舗道を蹴ったりして苛立ちを抑えていた。ようやく馭者が馬に跨ると、ジルベールは二輪馬車に乗り込み、中央市場のそばにある人気のない通りの端で馬車を停めさせた。

 そこでルソーの家に戻り、ルソーへの別れの手紙とテレーズへの感謝の手紙を書いて、南仏でちょっとした遺産が入ったことや戻って来るつもりのこと……詳しいことは書かずにそれだけを伝えた。ポケットに金を入れ、袖口に長ナイフを滑らせ、鉛管を伝って庭に降りようとした時、一つのことが思い当たった。

 雪だ!……この三日というもの無我夢中だったので、そんなことを考える余裕もなかった……雪の上に足跡が残る……ルソー家の壁まで続いている足跡を見れば、フィリップとアンドレは間違いなくそれを調べさせるだろうし、そうすればジルベールの失踪と誘拐が関連づけられ、すべての秘密が明るみに出てしまうだろう。

 こうなればコック゠エロン街から迂回して、庭の門から入る必要がある。そのために、ジルベールは一月前から万能鍵を身につけていた。門から続いている小径は踏み固められているから、足跡は残らない。

 ジルベールは時間を無駄にしなかった。目的地にたどり着くと、ちょうどルイ医師を運んで来た辻馬車が正面玄関に停まったところだった。

 慎重に門を開けたところ、誰の姿も見えなかったので、温室からさほど離れていない、館の陰に隠れた。

 恐ろしい夜だった。あらゆる声が聞こえて来た。苦痛による呻きや叫び。産まれた我が子の第一声まで聞こえた。

 だがジルベールは剝き出しの石にもたれたまま、真っ暗な空から激しく降り注ぐ固く凍った雪に打たれていた。何も感じなかった。胸に押しつけているナイフの柄の下で、心臓が脈打ち、見据えた眼の内には、血の色をした燃えるような光が宿っていた。

 ようやく医師が出て来て、フィリップと別れの言葉を交わした。

 ジルベールは鎧戸に近づいた。くるぶしまで埋まって雪の絨毯に足跡をつけた。アンドレが寝台で眠っている。マルグリットが肘掛椅子でまどろんでいる。母の傍らに赤子を探したが、何処にも見えない。

 すぐに状況を理解して玄関に向かい、扉を開けた。ぎょっとするような音を立てながらも、ニコルのものだった寝台のところまで忍び込む。手探りのまま凍えた指で赤ん坊の顔に触れると、赤ん坊が痛がって泣き出した。アンドレが耳にしたのはこの声だった。

 ジルベールは赤ん坊を毛糸の毛布にくるんで急いで連れ出した。扉は半開きのままにしておいた。音を立てる危険を冒すつもりはない。

 一分後、ジルベールは庭から外に出ていた。二輪馬車まで駆けて行き、幌の下で眠っていた馭者を押しのけ、革のカーテンを閉めた。その間に馭者が改めて馬に跨った。

「十五分で市門を越えられたら半ルイやる」

 凍結路面用の蹄鉄をつけた馬がギャロップで駆け出した。


Alexandre Dumas『Joseph Balsamo』Chapitre CLIX「Le village d'Haramont」の全訳です。初出は『La Presse』紙、1848年1月8日(連載第157回)。


Ver.1 12/07/28
Ver.2 26/08/08

[註釈・メモなど]

・メモ
 

[更新履歴]

・26/08/08 「」 → 「」

・26/08/08 「」 → 「」

 

[註釈]

*1. []
 。[]
 

*2. []
 。[]
 

*3. []
 。[]
 

*4. []
 。[]
 

*5. []
 。[]