この翻訳は翻訳者の許可を取ることなく好きに使ってくれてかまわない。ただし訳者はそれについてにいかなる責任も負わない。
翻訳:東 照
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ジョゼフ・バルサモ

アレクサンドル・デュマ

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第百六十一章 出発

 公証人の家でおこなわれた取り決めは万事速やかだった。ジルベールは数百リーヴルを子供の教育や世話に充て、さらには成人した子に農場を作る為に取りのけてから、残りの二万リーヴルを預けた。

 十五年の間は年に五百リーヴルを教育と扶養に充て、残りは何らかの持参金なり農家や土地の購入に充てるなりする心積もりだった。

 そんな風に我が子のことを考えるにつけ、子守りのことを考えた。子供が十八歳になったら、ピトゥには二千四百リーヴルが渡るようにして欲しい。それまでは年に五百リーヴルまでしか払ってはいけない。

 ニケ氏には仕事の見返りに利子で満足してもらうことになった。

 ニケからはお金の、ピトゥからは赤ん坊の受領書を書いて貰った。ピトゥはニケの署名と金額を確認し、ニケは赤ん坊に対するピトゥの署名を確認した。そして昼頃、若いに似合わぬ賢明さに驚いているニケを感嘆のうちに、そして突然の財産を得たピトゥを歓喜のうちに残して、ジルベールは立ち去った。

 アラモン村のはずれまで来ると、全世界とお別れするような気分になった。この世界などもはやジルベールには何の意味も見込みもない。暢気な若者の生活に別れを告げて来たばかりなのだ。人からは犯罪と呼ばれ、神からは厳しく罰せられるような、重大な行動を終えて来たばかりなのだ。

 それでもジルベールは自分の考えと力を信じていたので、迷いなくニケ氏の腕から離れた。ニケ氏は友情を露わにして様々な訴えを持ちかけながらついて来ていたのだ。

 だが心とは気まぐれで、移ろいやすいのが人間の性だ。意思や気力の強い人間であればあるほど、考えていることを速やかに実行に移すものだ。ジルベールはその第一歩で隔てることになる距離を測った。迷いのなさに翳りが見えたのはその時だ。カエサルの言う如く、「ルビコンを渡るべきなりしか?」と自問したのはその時だった。

 ジルベールは森のはずれまで来ると、改めて木立に向かって振り返った。梢の赤く色づいた森はアラモン全体を覆い隠し、見えるのは鐘楼だけだった。幸福と平和に満ちたその美しい光景を見て、未練と歓喜の綯い交ぜになった夢に溺れた。

「僕は気違いだ。何をしようとしているんだ? 神様は天の向こうで怒りに顔を背けないだろうか? 糞ッ! 思いついてしまったものは仕様がない。思いつきを実行に移すのに状況が味方していたんだ。天啓に打たれて悪事をおこなった僕のような人間が、悪事の償いをしようという考えを受け入れて、今では財産と我が子を手にしているんだぞ! 一万リーヴルあれば――残りの一万リーヴルは我が子の為に取っておくから――善良な村人に混じって、この肥沃な大自然の中で、幸せな農夫のように暮らせるさ。働いたり考え事をしたり、世間のことを忘れたうえに僕のことを忘れてもらったり……そんな甘い幸福に埋もれて過ごしてもいいじゃないか。この手で我が子を育て、仕事を楽しめたら最高に幸せだろうなあ!

「駄目かな? 苦しんだ代償に幸運がもたらされたっていいはずだ。そんな風に暮らすのもいいじゃないか。天から分けてもらった運命だ、この子の代わりに農夫になり、雇い人に払うお金はそうやって稼いで、子供はこの手で育てればいい。父親は僕なんだと、前に話したことはどれも僕のことだったんだと、ニケさんに告白したっていいじゃないか!」

 心の中に徐々に喜びと希望が満ちて来た。まだ味わうまでには至らないが、愉快な幻を夢見るまでに空想はふくらんだ。

 突然、果実の奥で眠っていた虫が目を覚まし、醜い頭をもたげた。悔恨、恥辱、不幸。

「無理に決まってるじゃないか」顔から血の気が引いていた。「僕はあのひとから赤ん坊を奪ったんだ。あのひとの名誉を奪ったように……その償いをする為にあの人からお金を引き出したんだ。もう僕には幸せになる権利なんかない。赤ん坊を育てる権利もない。あのひとに権利がないのなら、僕にだってあるわけがない。あの子は僕ら二人のものか、そうでなければ誰のものでもないんだから」

 その言葉に胸が裂かれたように痛んだ。ジルベールは絶望に駆られて立ち上がった。顔には暗くおぞましい激情が浮かんでいた。

「いいだろう、僕は不幸を選ぶ。苦しみを選ぶ。何もかも失う方を選ぶ。だが僕の為に費やすはずだった運命は、災いの為に費やそう。これからの僕が遺すのは復讐と不幸だ。怖がらなくていいよ、アンドレ、僕も一緒に辛い思いをしてあげるから!」

 ジルベールは右に曲がり、考えるたびに向きを変えた挙句、森の中に飛び込み、ノルマンディー目指して休みなく歩いた。四日歩けば到着する計算だった。

 九リーヴルと少しある。見た目は誠実そうで、顔は穏やかで落ち着いていた。本を抱えた姿は、実家に戻る学生そのものだった。

 夜は綺麗な道を歩き、昼は太陽の下で牧草地で眠るようにした。二度だけ、そよ風に邪魔されて民家に入るのを余儀なくされた時には、暖炉にある椅子の上で、夜が来たことも気づかずにぐっすりと眠った。

 言い訳も目的地も用意してあった。

「ルーアンの伯父に会いに行くんです。ヴィレル=コトレから来ました。若いので気晴らしも兼ねて歩いて行きたいんですよ」

 農夫たちは疑わなかった。本は尊敬の塊であったのだ。農夫たちの薄い口唇に疑いが上っていれば、天命を学んでいる神学校の話をするつもりだったのだが、ジルベールの悪い予感は完全に裏切られた恰好だった。

 こうして一週間が過ぎた。ジルベールは農夫のように暮らし、一日に十スー使い、十里を歩いた。ついにルーアンに到着した。もう道をたずねる必要も探す必要もない。

 携帯していたのは『新エロイーズ』の豪華本だった。一ページ目に署名を入れてルソーから贈られたものだ。

 所持金が四リーヴル十スーにまで減ると、ジルベールは大事にしていたこのページを破り取り、三リーヴルで本屋に売った。

 こうしてジルベールはル・アーヴル目指して進み、三日後の日暮れには海を見ることが出来た。

 短靴の状態はとてもではないが絹靴下を履いて街歩きをしゃれ込もうとする若者のものには見えない。だがジルベールにはまだ考えがあった。絹靴下を売った――というよりは、頑丈な短靴と交換してもらったのだ。野暮は言わぬ、多くは語るまい。

 最後の夜をアルフルールで過ごし、十六スーで泊まり、食事をした。そこで生まれて初めて牡蠣を食べた。

 ――貧乏人にはたいしたご馳走だな。人間が悪行を為している間も神は善行だけを為していた、というルソーさんの言葉は本当だったわけだ。

 十二月十三日、朝の十時、ジルベールはル・アーヴルの町に入り、三百トンの帆船ラドニ号が船渠ドックに浮かんでいるのを目にした。

 港には人気がない。ジルベールは思い切ってタラップを渡った。見習い水夫が近づいて来て、誰何した。

「船長は?」ジルベールがたずねた。

 水夫が三等船室で合図すると、すぐに下から声が聞こえた。

「降りて来てもらえ」

 ジルベールが降りて行くと、簡素な家具の入った、マホガニーで出来た小部屋があった。

 男は三十歳ほど。青白く、逞しい。目には輝きと不安。壁と同じマホガニー製の机に新聞を置いて読んでいた。

「用件は?」男がたずねた。

 ジルベールが水夫を退らせてくれるよう身振りで頼むと、すぐに水夫は出て行った。

「ラドニ号の船長さんでしょうか?」

「ああ」

「ではこの手紙の受取人はあなたで間違いありませんね?」

 ジルベールはバルサモの手紙を船長に差し出した。

 手紙を見た途端に船長は立ち上がって、慌ててジルベールに笑顔を見せた。

「あんたも?……随分と若いな? 結構結構!」

 ジルベールはお辞儀をするだけに留めた。

「行き先は?」

「アメリカ」

「いつ発つ?」

「あなたが発たれる時に」

「では一週間後だ」

「それまで何をすべきでしょうか、船長?」

「旅券は?」

「ありません」

「ではサン=タドレス辺りに行って町の外を一日ぶらついてから、今夜のうちに船に戻って来るといい。誰にも話しかけないように」

「お腹が空いたら食べなくてはなりませんが、お金がありません」

「ここで食べろ。今夜のところは夜食を食っていけ」

「その後は?」

「いったん乗り込んでしまえば陸には戻れん。ここに籠っていろ。海に出るまで太陽を拝むことは出来ない……二十里の海の彼方に出てしまえば、好きなだけ自由にしていい」

「わかりました」

「やり残したことがあれば今日のうちに済ませておけ」

「手紙を書かせてもらえますか」

「書くといい……」

「でも何処で?」

「この机を使え……ペンとインクと紙はそこだ。郵便宿は郊外にあるから、見習いに連れて行ってもらえ」

「ありがとうございます!」

 一人になったジルベールは、短い手紙を書いた。宛名は以下の通り。

『アンドレ・ド・タヴェルネ嬢、パリ、コック=エロン街、九番地、プラトリエール街を出て最初の正門』

 手紙をポケットに仕舞い、船長がわざわざ運んでくれた食事を食べ、見習い水夫の案内で郵便宿まで行き、手紙を投函した。

 一日中、ジルベールは崖の上から海を見ていた。

 夜になって戻ると、船長が待ち受けていて、ジルベールを船に入れた。


Alexandre Dumas『Joseph Balsamo』Chapitre CLXI「Le départ」の全訳です。


Ver.1 12/08/11

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