この翻訳は翻訳者の許可を取ることなく好きに使ってくれてかまわない。ただし訳者はそれについてにいかなる責任も負わない。
翻訳:東 照
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ジョゼフ・バルサモ

アレクサンドル・デュマ

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第百六十三章 船上にて

 その時から、アンドレの家には墓場のような静寂と陰鬱な空気が垂れ込めた。

 我が子の死を伝えられてアンドレは死んでいたかもしれない。それは永遠に続くかと思われるような、鈍く重い苦しみだったはずだ。ジルベールの手紙は刺激が強すぎた。残されていた激しい力と感情のすべてが、アンドレの穏やかな心の中で爆発した。

 意識を取り戻したアンドレは兄を探し、兄の目に怒りを読み取ると勇気を新たにした。

 アンドレは声が出せるまで力が戻るを待ってから、フィリップの手を取った。

「お兄様、朝になればわたくしをサン=ドニ修道院に入れると仰いましたね。王太子妃殿下が一人部屋を用意して下さったとか」

「ああ」

「今日連れて行って下さいますか」

「わかってくれてありがとう、アンドレ」

「それから先生、お心遣いにお心尽くしには感謝してもしきれません。お礼しようにもこの世ではお礼の方法も見つけられませんわ」

 アンドレは医師に近づき抱擁した。

「このロケットにはわたくしの肖像画が入っています。十歳の誕生日に母からもらったものです。あの子のものになるはずでした。どうか預かっていただけますか。そうして、先生がこの世に生を授けたあの子のことや、看病して救って下さった母親のことに、時々でいいので耳を傾けて下さい」

 そう言ってアンドレは何の感情も見せずに修道院行きの準備を終え、夜六時には顔も上げずにサン=ドニの面会室の小門をくぐった。鉄柵の向こうで、感情を抑えきれないフィリップが、永遠となるであろう別れを心の中で呟いていた。

 憑物が落ちたようにアンドレから力が奪われた。慌てて駆け寄って来たフィリップが腕を広げ、アンドレの方に手を伸ばした。冷たい柵越しに二人は再会を果たし、涙で火照る頬を寄せ合った。

「さようなら、お兄様!」アンドレが悲しみを抑えきれずに泣き出した。

「さようなら!」フィリップも絶望に息を詰まらせて応えた。

「いつかあの子に会うことがあったなら……」アンドレが囁いた。「一度もこの手に抱きしめずには死にきれません」

「馬鹿なことは考えるな。さようなら」

 アンドレはフィリップから離れると、平修道女に付き添われて前に進んだ。その間中ずっと修道院の奥の暗がりを見つめ続けていた。

 フィリップはアンドレが見えなくなるまで表情で思いを伝え、やがて手巾を振り、最後には暗い回廊の奥からアンドレが送った別れの合図を受け取った。ついに二人の間に重い音を立てて鉄の門が降ろされ、すべてが終わった。

 フィリップはサン=ドニの宿駅に向かった。馬の背に鞄を置き、夜も昼もなく馬を走らせ、翌日の夜にはル・アーヴルに到着した。最初に見かけた宿に泊まり、その翌日の夜明けと共に、次にアメリカ行きの船が出る港は何処かをたずねた。

 ちょうどその日、ラドニ号がニューヨーク行きの出航準備を終えたところだ、という話だった。フィリップは船長に会いに行き、準備を終えたばかりの船長に途中までの船賃を支払って乗船の許可を得た。それから、王太子妃に対する心からの献身と感謝を伝える手紙を書いてから、荷物を船室に入れ、潮時になると自分も船に乗り込んだ。

 四時の鐘がフランソワ一世塔に鳴り響くと、ラドニ号は中檣帆と前檣帆を掲げて水路を出た。海は青く暗く、水平線上の空は赤く染まっていた。フィリップはまばらな同乗者と挨拶を交わし終えると、菫色の靄に覆われたフランスの海岸を見つめていた。船は帆を幾つも掲げ、右に大きく舵を切ると、エーヴ岬を過ぎ、満潮の海を進んだ。

 やがてフランスの海岸も、乗客も、海も、何も見えなくなった。真っ黒な夜が巨大な翼ですべてを包み込んだのだ。

 フィリップは小さな寝台に潜り込み、王太子妃に送った手紙の写しを読み返した。それは人に捧げた別れの言葉であると同時に、神に捧げた祈りでもあった。

『妃殿下、希望も支えもない人間は殿下の許を去らせていただきます。殿下の未来の為に何のお役にも立てなかったことが残念でなりません。殿下が政府の危機と難局の中でお過ごしになる間、斯かる人間は海の暴風と波瀾の中を進みます。お若くてお美しく、誠実なご友人と熱烈な信奉者に崇められ、取り囲まれていらっしゃる妃殿下は、王家の手によって人々の中から掬いあげていただいた者のことなどお忘れのことと存じますが、小生は妃殿下のことを絶対に忘れません。小生はこれから新世界に行って、玉座におわす妃殿下の為にもっとお役に立てる方法を学びます。見捨てられた哀れな花である妹のことはお願いいたします。妹にとって殿下の眼差しだけがもう一つの太陽となることでしょう。時々でよいのでどうか妹にも目を向けて下さい。慈しみの心や王権の力を纏い、万人から祝福を唱和される妃殿下にお願い申し上げます。もうその名を耳にすることも出会うこともない亡命者の為に、どうか祝福をお与え下さい』

 読み返すと心が締めつけられた。船が呻くような陰鬱な音を立て、円窓にぶつかった波が砕け散ってざわめき、どれだけ陽気な気分をも落ち込ませるような侘びしいアンサンブルを奏でていた。

 フィリップには長く苦しかった夜が終わった。朝になって船長の訪問を受けても、心は元のようには晴れなかった。船長の話では、大部分の乗客は海を恐れて船室に籠っているという。航海は短いが厳しいものになるだろう。暴風のせいだ。

 それ以来フィリップは船長と夕食を摂り、部屋で朝食を給仕させてもらうようになった。快適とは言い難い海に耐性があるとは思えなかったので、士官の外套にくるまって長い時間を上部甲板で過ごすようになった。残りの時間はこれからの計画を立てるのと、手紙を読み返して心の支えにするのに充てた。時々は乗客にも出会った。二人の婦人は遺産を相続しに北アメリカに行くところだった。二人の息子のいる老人を含む四人の男にも会った。こうした人々は一等船室の乗客だった。もっと庶民的な身なりをした人を見かけたこともある。興味を惹かれるような人間はいなかった。

 決まったことを繰り返すことで苦しみは和らぎ、空のように穏やかな心を取り戻していた。晴れ渡り嵐もない天気のいい日が続いているのは、温暖な気候帯に近づいているからだろう。甲板で過ごす人も増えた。人とは話さないと決め、船長にさえ名前を明かさず、如何なる話も避けて来たフィリップにも、夜中まで頭上で足音がしているのが聞こえていた。乗客たちと歩いている船長の声さえも聞こえる。上に出ないのはそういう理由だった。円窓を開いて冷たい空気を吸い込み、次の日が来るのを待った。

 一度だけ会話も足音も聞こえない夜に、フィリップは甲板に上がった。生暖かく、空は曇り、航跡が泡を立てて輝いていた。乗客たちにとっては、どうやら今夜は暗くて天気が悪いのだろう。船尾楼甲板では誰にも会わなかった。だが船首に行くと、第一斜檣に寄りかかって眠っているか空想に耽っているかしている人影が見えた。どうにか見分けたところでは、二等船室の乗客らしい。フィリップがフランスの港を見つめていた間、アメリカの港を夢見て前方を見つめていた亡命者だろう。

 フィリップはこの乗客を長いことじっと見つめていたが、朝の冷気に触れられて、船室に戻ろうとした……だが前甲板の乗客は白み始めた空を見つめたままだ。船長の足音を聞いてフィリップは振り返った。

「涼みにいらしたのですか?」

「今起きたところです」

「乗客に起こされてしまいましたか」

「あなたに、ですよ。軍の方も船乗りに負けず早起きのようですな」

「ぼくだけではないでしょう……あそこで物思いに耽っている人がいますよ。あの人も乗客ではありませんか?」

 気づいた船長が驚きを見せた。

「あれは誰です?」フィリップがたずねた。

「あれは……商人ですよ」船長が困ったように答えた。

「財産を追い求めているというわけですか? そういう人にはどうやらこの船は遅すぎるようだ」

 船長はそれには答えずに、乗客のところに行って声をかけた。すると乗客は中甲板に姿を消した。

「考え事の邪魔をしてしまったようですね」フィリップは戻って来た船長にそう言った。「別に迷惑だったわけではないのですが」

「なに、この辺りは朝の冷え込みが厳しいと忠告して来たんですよ。二等船室の客はあなたのように立派な外套を持っていませんからな」

「ここはどの辺りなのですか?」

「明日にはアゾレス諸島に着くので、そこで冷たい水を補給する予定です。暑くなりますから」


Alexandre Dumas『Joseph Balsamo』Chapitre CLXIII「À bord」の全訳です。


Ver.1 12/08/25

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