この翻訳は翻訳者の許可を取ることなく好きに使ってくれてかまわない。ただし訳者はそれについてにいかなる責任も負わない。
翻訳:東照《あずま・てる》
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アンジュ・ピトゥ

アレクサンドル・デュマ

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第九章 パリ街道

 ピトゥに話を戻そう。

 ピトゥを突き動かしていたのは世にも力強い二つの原動力であった。恐怖と愛情。

 恐怖はピトゥに囁いた。

「捕まったら殴られるぞ。心しろよ、ピトゥ!」

 それだけ言われれば充分だった。ピトゥは鹿のように走った。

 愛情はカトリーヌの声で囁いた。

「早く逃げて、ピトゥさん!」

 だからピトゥは逃げていた。

 恐怖と愛情に背中を押されて、ピトゥは走るのではなく、飛んでいた。

 やはり神は偉大でり、無謬であった。

 瘤のようだと思っていた長いふくらはぎも、ダンスをするには不格好な盛り上がった膝も、大地を走るのにはうってつけだった。ピトゥの心臓は恐怖でふくれあがり、一秒間に三度も脈打っていた!

 シャルニー氏の小さな足、小振りな膝、見目よく収まっているふくらはぎでは、こんな風には走れまい。

 泉に映る脚を嘆いたあの鹿の寓話を思い出していた。自分には鹿とは違い細い足の代わりになるようなものが額にない。それでも、棒きれを嫌ったことを後悔していた。

 この「棒きれ」という呼称は、鏡に映った足を見ていた時、ビヨ夫人から頂戴した。

 こうしてピトゥは森を駆け巡った。ケヨル(Cayolles)を右に行き過ぎ、イヴォール(Yvors)を左に行き過ぎ、藪が途切れるたびに振り向いて、目を凝らした。いや正確には耳を澄ませたと言うべきだろう。もうしばらく、追っ手の姿を見ていない。ピトゥの速さの紛れもない証拠である。追っ手とピトゥの間に開いた距離は果てしなく、それもどんどん開く一方であった。

 アタランテーよ、その婚姻のなかりせば! ピトゥが競走していたならば、金の林檎三個を用いるような策を弄せずとも、必ずやヒッポメネスより速く走れたものを。[*1]

 実のところはパ=ドゥ=ルー氏たちは得るものを得てピトゥのことは打ち捨てていたのだが、ピトゥにはそれを知るよしもない。

 実際の人間から追われなくなってからも、ピトゥは影に追われていた。

 黒服たちはそれを確信していたから、手をわずらわせるまでもなかったのである。

「逃げろ、逃げろ!」部下たちはポケットに手を入れ、パ=ドゥ=ルー氏からもらった報酬をじゃらじゃらと鳴らしていた。「逃げるがいいさ。その気になりゃいつでも見つけられるんだ」

 虚栄心からではなく参考までに言っておくと、この言葉は真実であった。

 とにかくピトゥは走り続けていた。パ=ドゥ=ルー氏の部下の言葉が聞こえたわけではなかろうが。

 猟犬をまこうとする獣のように足取りを散らし、かのニムロドでさえ見分けられぬような網の目の中に足跡を紛らせると、ヴィレル=コトレからパリに向かう道に出るには右に曲がってゴンドルヴィル荒野の辺りに出なければならないと閃いた。

 そうと決まれば木立を抜け出して、右に舵を取ると、十五分後には黄砂と緑樹に囲まれた道が見えた。

 農家を発って一時間後には、国道にに出ていた。

 一時間で四里半ほど走ったことになる。これは馬をトロットで走らせたのにほぼ等しい。

 後ろを見遣ったが、路上には何も見えない。

 前を眺めると、二人の婦人が驢馬に乗っていた。

 ピトゥはジルベール少年の版画を見て神話に親しんでいた。当時神話は常識であった。

 オリュンポスの神話は教養の一部であった。版画を見て、ピトゥは神話を学んだ。そこではゼウスが牡牛に化けエウロペを誘惑し、白鳥に化けてテュンダレオスの娘レダと交わっていた。幾多の神々が変幻自在の姿態を見せていた。だがしかし、警官が驢馬に化けているのを見たことはない。ミダス王が変えられたのは耳だけであり、王は王のまま、意のままに金を生み出し、毛皮をそっくり買えるほどの財を得たのだった。

 目にしたもの――もとい目にしなかった警官の姿に安心すると、ピトゥは野原に取って返し、真っ赤な顔を袖で拭って三葉の真ん中に寝そべり、気持ちよく汗をかいて過ごした。

 だが苜蓿と花薄荷の甘い香りを嗅いだところで、ビヨ夫人の肉料理や黒パンを思い出さぬわけにはいかなかった。しかもカトリーヌが食事のたびに――つまり一日に三度も――取り分けてくれたのだ。

 あのパンは一重量リーヴル四スー半という高価なものだった。現代に換算すれば九スーは下るまい。フランス全土で不足していたこのパン、手に入った時には菓子パン代わりにもされていた。ポリニャック夫人がパリ民衆に向かって小麦粉がなければ代わりに食べればいいとのたまったあの菓子パンである。

 だからこそピトゥは悟った。カトリーヌ嬢こそ世界一寛容な姫君であり、ビヨ氏の農家こそ世界一豪華な宮殿である、と。

 ピトゥはヨルダン川のほとりのイスラエルの人々のように、東即ちビヨ家の方に乾いた目を向け、溜息をついた。

 もっとも、溜息も悪いことではない。がむしゃらに走って来た人間には、呼吸を整えることも必要だ。

 溜めた息を吐いて深呼吸すると、呼吸と共に困惑も甦って来た。

「あれほど短い間にどうしてあれだけのことが起こったんだろう? 後何年生きたって、この三日間ほど様々なことが起こるとは思えないのに。不機嫌な猫の夢を見たからかな。

 それですっかり説明がつく、とうなずいた。

 だがピトゥはすぐに考え直した。「全然論理的じゃないや。フォルチエ神父ならもっと論理的に考えるぞ。非道い目に遭っているのは猫の夢を見たせいじゃない。夢は虫の知らせを囁いてしかくれないんだ。

「つまり、誰だかが言っていたように、『見た夢に注意せよ』。Cave, somniasti。

「somniastiだって? また破格をやっちゃった。音を飛ばしてばっかりだ。文法的には somniavisti と言わなくちゃ。

「でも凄いや」ピトゥは鼻高々だった。「もう習ってないのにちゃんとラテン語がわかるぞ」

 こうして自画自賛してから、ピトゥは再び先を急いだ。

 危険が去ったからといって足取りをゆるめようとはしなかったので、一時間で二里は歩くことが出来た。

 つまり旅を再開して二時間後には、ナンテュイユを越えてダマルタンに向かっていた。

 と、オーセージ族にも劣らぬピトゥの耳に、舗道を蹴る馬の蹄の音が届いた。

 ピトゥはウェルギリウスの詩を一語ごと区切って口ずさんだ。

『蹄・が・大地・を・揺るが・す』

 ピトゥは目を凝らした。

 だが何も見えない。

 レヴィニャン(Levignan)でやり過ごした、あの驢馬だろうか? いいや、あれは詩にある通り、鉄の爪が舗石を叩く音だ。アラモンにもヴィレル=コトレにも蹄鉄を履いた驢馬なんてサボおばさんの驢馬しかいない。それだってサボおばさんがヴィレル=コトレとクレピー間の郵便業務を担当しているからだ。

 そこで物音についてはひとまず措いておき、改めて考えに耽った。

 あの黒服たちは何者だろう? ジルベール医師のことを聞いて回り、ピトゥの手を縛り、ピトゥを追いかけ、追いつけなかったあの男たち。

 何処から来たのだろう? この辺りじゃ見かけたことがない。

 一度も会ったことのない見ず知らずのピトゥにどうやって目をつけたのだろう?

 こっちは向こうのことを知らないのに、どうして向こうはボクのことを知っていたんだろう? どうしてカトリーヌさんはパリに行けと言ったんだろう? 旅のたしにと四十八フランのルイ金貨をくれたのはなぜだろう? パンにすれば二四〇重量リーヴル分、少し量を抑えれば三か月分近くだ。

 八十日も農家を留守にしてもかまわない、或いは留守にしなくてはならない、と考えていたのだろうか?

 ここでピトゥははっと我に返った。

「まだ蹄の音がする!」

 ピトゥは顔を上げた。

「間違いない。馬の走る足音だ。坂の上まで来れば確認できるぞ」

 と思う間もなく、馬が坂の天辺に現れた。すぐ後ろ、距離にして四百パッススばかりしかない。

 警官は驢馬に化けることは出来ないが、逃げる獲物を馬に乗って追いかけることは出来る。

 とうに過ぎ去ったとばかり思っていた恐怖に再び襲われ、ピトゥは最前までの二時間よりもさらに大きく、さらに激しく足を動かした。

 ものも考えず後ろも確かめず、逃げるのを隠そうともせずに、自らの脚力を信じてひと跳びで側溝を飛び越え、畑を突き抜けエルムノンヴィル(Ermenonville)に向かって逃げ出した。そこがエルムノンヴィルだ、と知っていたわけではない。地平線の先に木々の梢が見えたからだ。

「あれは森かな。あそこまで行けば大丈夫だ」

 というわけで一直線にエルムノンヴィルを目指した。

 今回の相手は馬である。ピトゥに備わっているのはもはや足ではなく翼だった。

 百パッススばかり走ったところで後ろを振り返ってみると、馬が大きく飛び跳ねて側溝を越えていたのだから、なおさらだった。

 これでもう疑いは消えた。あの男が追いかけているのは自分だ。ピトゥはさらに速度を上げ、振り返って時間を無駄にもしなかった。ピトゥの背を押しているのは敷石を叩く蹄の音ではなくなっていた。下が作物と土になったため音は弱まっている。ピトゥの背を押しているのは、追いかけてくる声らしきものであった。ピトゥの名を呼ぶ「ウゥ! ウゥ!」という最後の音節が、まるで憤怒の唸りのように尾を引いて空中を渡って来るようであった。

 だがさすがに全速力で十分も走ると、胸が苦しく、頭が重くなって来た。目もちかちかし始めた。まるで膝が腫れ、腰に小石が詰まったようだ。普段は靴の鋲が見えるほど足を高く上げて走るのに、今は何度か畝につまづいた。

 走ることにかけては人間より優れた馬が、ついに二本足のピトゥに追いついた。もはや「ウゥ! ウゥ!」ではなくはっきり「ピトゥ! ピトゥ!」と言っているのが聞こえた。

 終わった。もう駄目だ。

 それでもピトゥは走ろうとした。意思とは別に、何かの反動に突き動かされるようにして前に進んだ。不意に膝が言うことを聞かなくなった。足がもつれ、空気を吐き出し、うつぶせに倒れ込んだ。

 だが、もう起きるまいと開き直り、そのままわざと腹ばいになっていると、腰にぴしゃりと鞭を当てられ、聞き覚えのある声で罵られた。

「まったくおまえって奴は! カデを潰すつもりか」

 カデという名前を聞いて、ピトゥもようやく心を決めた。

 ピトゥが振り返ったので、うつぶせから仰向いた形になった。「ビヨさんの声だ」

 確かにビヨ氏だった。それを確認してピトゥは身体を起こした。

 ビヨ氏の方も、白い汗をかいているカデを止まらせた。

「ビヨさん、追いかけて来てくれたんですね! カトリーヌさんがくれた大型ルイがなくなったら戻るつもりだったんです。でもあなたがいらっしゃったんなら、大型ルイはお返しします。元々ビヨさんのですもんね。じゃあ農家に戻りましょう」

「どいつもこいつも農家だな! 密偵イヌどもは何処だ?」

「イヌ?」ピトゥにはこの言葉の意味がよくわからなかった。少し前の時代に語彙に加わったばかりなのだ。

「ああ、イヌだ。わかりやすく言えば、黒服の男たちのことだな」

「あの人たちですか! わざわざ追いつかれるまでボクが待っていたと思ってるんですか」

「上出来だ! てことはあいつらは遙か後ろか」

「もちろんです。たいしたことじゃありませんけど、駆け比べの時みたいに走りましたからね、きっとそうだと思います」

「それだけ自信があるなら何でまたそこまで必死で逃げていたんだ?」

「だってあの親分が仕事をやり遂げようとして馬で追いかけて来ていると思ったんです」

「なるほどな! 思っていたほど抜けてはいないらしい。さあ道が開けたからには、進め! ダマルタンへ」

「ようし! 進め! 進め!」

「よしそうだ。起き上がって一緒に来い」

「ダマルタンに行くんですね?」

「ああ。ルフラン(Lefranc)の野郎のところで馬を借りて、カデを預けていく。さすがに限界だからな。今夜にはパリまで行くぞ」

「そうしましょう、ビヨさん」

「よし、進め!」

 ピトゥはそうしようとした。

「ビヨさん、行きたい気持はあるのですが、行けそうにありません」

「立てないのか?」

「はい」

「さっきはあれだけ飛び回ってたじゃないか」

「そりゃそうですよ。ビヨさんの声が聞こえたうえに、鞭で背中をはたかれたんですから。あんなの一回きりです。もう声にも慣れちゃいましたし、鞭だってカデを操る時にしか使わないのはわかってますから。そのカデだってボクと同じくらい疲れてるじゃないですか」

 ピトゥの理屈ももとをただせばフォルチエ神父の理屈なのだが、これにはビヨも納得した。いや、感銘を受けたと言ってもいい。

「悪いが事情を汲んでる暇はない。頑張ってカデの後ろに乗んな」

「でもそんなことしたらカデが持ちませんよ!」

「大丈夫だ。三十分でルフランのところに着く」

「でもビヨさん、ボクがルフランさんのところに行っても無意味じゃありませんか」

「なぜだ?」

「ビヨさんはダマルタンに行かなくちゃならないかもしれませんけど、ボクには行く用がありません」

「そうだな。だが是非パリに行ってもらいたいんだ。パリに行ったら、その力強い拳が役に立つ。向こうじゃもうすぐひと騒動持ち上がるだろうからな」

「本当に役に立つと思いますか?」

 大喜びでピトゥがカデによじ登ると、ビヨが小麦粉袋のように引っ張り上げた。

 ビヨが道に戻り、手綱を締め拍車を掛けると、言葉通り三十分もしないうちにダマルタンに到着した。

 ビヨはよく知っている小径から町に入っていた。ルフラン親父の農場に着くと、ピトゥとカデを中庭に残して、真っ直ぐ台所に向かった。折りしも畑に出かけようとしたルフラン氏が脚絆を留めているところだった。

「急いでくれ。逞しい馬が要る」ビヨはルフラン氏が驚きから醒める間も与えなかった。

「マルゴだな。さっき鞍をつけたばかりだ。これから乗るところだったんだ」

「じゃあマルゴだ。一つ断っておくが、乗り潰してしまうかもしれん」

「マルゴを乗り潰すだと! どういうことだ?」

「晩までにパリに行かなくちゃならないんだ」ビヨが嘆きをあげた。

 それからビヨはルフランに神秘的なフリーメーソンの合図をした。

「マルゴが潰れたら、カデをもらえるんだな?」

「それで手を打とう」

「酒は?」

「二杯」

「一人じゃないのか?」

「ああ。頼れる青年が一緒だ。疲れているんで向こうで休ませている。何か食べるものはないか?」

「ちょっと待ってくれよ」

 二分後には農夫二人は壜から葡萄酒を飲み、ピトゥはパン二リーヴルと脂身半リーヴルを嚥み込んでいた。その間、作男が馬を擦るようにピトゥを藁で揉んでいた。

 身体を揉まれ、腹もくちくなると、ピトゥも葡萄酒を飲み始めた。ピトゥが参加したために三本目の壜は瞬く間に空になった。食事が済むとビヨがマルゴに乗り、ピトゥもコンパスのようにしゃちほこばりながらも背に跨った。

 拍車を掛けられたマルゴは、二人分の重さをものともせずにパリ目指して駆け出した。蠅を追い払って動く尻尾の毛が、ピトゥの背に当たって埃を立て、靴下の脱げかけたふくらはぎに時折りぶつかっていた。


Alexandre Dumas『Ange Pitou』Chapitre IX「Route de Paris」の全訳です。


Ver.1 13/06/01

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[註釈]

*1. [アタランテー]
 ギリシア神話。女狩人アタランテーは誰よりも足が速く、競走で勝ったものと結婚すると口にしていた。ヒッポメネスは金の林檎を投げてアタランテーの注意を逸らすことで勝利を収めた。[]
 

*2. []
 []
 

*3. []
 []
 

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