この翻訳は翻訳者の許可を取ることなく好きに使ってくれてかまわない。ただし訳者はそれについてにいかなる責任も負わない。
翻訳:東照《あずま・てる》
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アンジュ・ピトゥ

アレクサンドル・デュマ

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第十七章 バスチーユ

 みんな待ちくたびれていた。七月の太陽に焼かれ、震え、血をたぎらせている。ゴンションの陣営とマラーの陣営が一つになった。フォーブール・サン=タントワーヌが同志フォーブール・サン=マルソーと出会い、挨拶を交わした。

 ゴンションは先頭に立っていたが、マラーの姿は見えない。

 広場は恐ろしいことになっていた。

 ビヨの姿を見て歓声はひときわ大きくなった。

「無事だったか!」ゴンションがビヨに歩み寄る。

「そっちこそ! あいつは勇敢だよ」ビヨもそれに応えた。

「勇敢たあ何だ?」

「頑固な奴だってことだ」

「バスチーユを明け渡そうとしねえのか?」

「いや」

「いつまでも椅子にしがみついているのか?」

「そういうことだ」

「しばらくはしがみついていようってところか?」

「死ぬまでだな」

「まあいいさ、どうせ死ぬ運命なんだ」

「俺たちのせいでたくさんの人間が死んじまうんだな」ビヨは不安になった。俺は司教や王や皇帝を名乗る権利を神から与えられているのだろうか。血を流す権利を与えられているのだろうか。

「仕方ないさ! 人が多すぎるんだ。国民の半分にはパンが足りないんだぞ。そうだな、おまえたち?」ゴンションの最後の台詞は群衆に向けられた。

「そうだ! そうだ!」自己犠牲を厭わない崇高な声が返って来た。

「だが、堀はどうする?」ビヨがたずねた。

「一つだけ方法があるんだよ。俺の計算では、こいつらの半分もいりゃあ堀が埋まる。そうだな、おまえたち?」

「そうだ! そうだ!」前に劣らぬ大きな声が返って来る。

「そうか、それなら……」ビヨは愕然とした。

 するとド・ローネーが露台に姿を見せ、その後ろからド・ロスムと数人の将校が現れた。

「来やがれ!」

 ゴンションが叫んだが、ローネーはそれを無視して背中を向けた。

 ゴンションは脅されても我慢できたが、軽蔑されることには我慢ならなかった。素早く銃を肩に構えるや、ローネーの側近が一人倒れた。

 それを待っていたかのように、幾百幾千の銃声がいっせいに轟き、バスチーユの灰色の塔が白くけぶった。

 自分たちのしたことに怯えたように、それから沈黙が続いた。

 やがて煙雲に霞んだ火炎が塔頂を飾り、銃声が響いた。人混みの中から苦痛の叫びがあがる。遂にバスチーユから大砲が撃たれ、遂に血が流された。戦いは避けられない。

 直前まで勇み立っていた人々が感じたのは、恐怖に似た感情だった。たった一つの防衛方法によって、バスチーユはその堅牢な姿を見せた。集まった者たちは期待していたはずだ。要求が呑まれたからには、無血で目的を実現できるはずだ、と。

 何という勘違いだったことか。大砲の一撃に教えられた。自分たちが企てていたのが無謀な行いであることを。

 バスチーユの砲台から、砲撃に続いて小銃の一斉射撃が襲う。

 またもや沈黙が訪れた。それを破るのは、悲鳴、呻吟、怨嗟の声。

 人混みが揺れた。死者と負傷者を抱き起こす人の動きだ。

 それでも誰も逃げようとは思わなかった。よしんば思ったとしても、自分たちが何人いるのか思い出して、逃げようとしたことを恥じた。

 見てみるがいい、大通りも、サン=タントワーヌ街も、フォーブール・サン=タントワーヌも、人の海ではないか。その波の一つ一つが頭を持ち、頭には燃える双眸と獲物を狙う口がついている。

 すぐに、近隣の窓という窓から銃が覗いた。射程距離外の窓からさえ。

 露台や銃眼に傷病兵やスイス兵が現れれば、幾百もの銃口がそれを狙い、銃弾が雨あられと降り注ぎ兵士の隠れる石の角を穿った。

 だがすぐに無機質な壁を撃つのに飽いてしまった。撃ちたいのは肉であり、粉塵ではなく血が鉛の下から吹き出て来るのを見たいのだ。

 人混みと喧噪の中から発言する者が出始めた。

 人々はその周りに集まったが、馬鹿げた内容だとわかれば背を向けた。

 ある車大工は、古代ローマのようなカタパルトを造って、バスチーユに風穴を開けようと提案した。

 火消したちは消火器で火薬や導火線を濡らそうと提案したが、どれだけ強力な放水器でもバスチーユの六割の高さにも届かないことには気づかなかった。

 フォーブール・サン=タントワーヌを率いていた酒造人は、この日より名を上げることとなったが、前日手に入れた罌粟油やスパイク油を投げ入れて砦に火を放ち、燐で燃やそうと提案した。

 ビヨはすべての提案に逐一耳を傾けた。やがて大工の斧をつかむと、弾丸の舞い飛ぶ中、小麦の穂を払うようにひしめく人を払いのけ、跳ね橋脇の詰め所までたどり着いた。音を立てて頭上を銃弾が飛び交う中、ビヨは鎖を切って跳ね橋を降ろした。

 この間、十五分。人々は息を呑んで見守っていた。銃声が轟くたび、ビヨが倒れてしまうのではないかと、自分のことなど忘れてそのことばかりを案じていた。遂に橋が降りると歓声をあげて前庭に押し寄せた。

 そのあまりの速度、勢い、侵しがたさに、相手は抵抗の素振りさえない。

 大きな喜びの声を聞いて、先手を取ったのがどちらなのかがローネーにもわかった。

 人が一人、橋に押しつぶされたが、気づかれもしなかった。

 その時、洞窟の奥を照らすが如く、ビヨが見せられた四門の大砲が轟音と共にいっせいに火を吹き、前庭を薙ぎ払った。

 鉛玉が嵐となって血の跡を残した。銃弾が降り注いだ後には、十人以上が死に、二十人近くが傷ついていた。

 ビヨが屋根から地面に降りると、どうやってたどり着いたのかは知らぬがピトゥがいた。ピトゥは隙を見せなかった。密猟者の性であろう。砲兵が導火線に近づくのを見て、ビヨの上着の裾をつかんで素早く引っ張った。砲兵から見えない壁の陰に隠れたおかげで、第一砲から逃れることが出来た。

 これより事態は峻烈を極めた。怒号がおらばれ、衝突は激しさを増した。城塞の周りで一万発の銃が火を吹き、敵味方双方にとって容易ならぬ事態となった。そして遂に、近衛兵たちが大砲を操作し、マスケット銃の筒音を轟音が貫いた。

 この凄まじい音に群衆は熱狂し、怯え始めたのは兵士たちの方だった。数では劣るうえに、これほどまでに耳を聾する音は聞いたことがなかったのだ。

 将校たちは部下の弱気を直感的に悟り、自ら銃を取って発砲した。

 その時、砲声と銃声のさなか、怒号のさなか、人々が死体を積み上げ、その骸を以って傷口から復讐を叫ぶ武器と為そうと駆け出すさなか、前庭の入口に、昂奮の色も武器も見えないブルジョワ市民の団体が現れた。人混みを掻き分け、身の危険も顧みず、休戦の印である白旗のみを鎧と為して、前に進んだ。

 市庁舎の使節団だ。戦闘が開始されたのを知った選挙人たちが、流血を防ごうとして、フレッセルに圧力を掛けて司令官宛てに新たな提案を運んで来たのである。

 使節団はパリ市の名に於いてローネー氏に勧告した。一つ、銃撃をやめること。一つ、市民及び使節団及び兵士の命を保護するために、ブルジョワ民兵百人をバスチーユ内に入れること。

 使節団の通った後にはその話題が広がっていた。自分たちの起こした暴動に恐れを成し、担架に乗せられた怪我人や死体を目にした人々は、使節団を応援するにやぶさかではなかった。ローネーが半ば負けを認めてくれたら、自分たちとて勝利も半ばで満足しよう。

 使節団が姿を見せたために、第二庭への射撃はおこなわれなかった。中に入れるよう指示が出たために使節団は中に入り、血に足を滑らせ、死体を跨ぎ、怪我人に手を貸して歩いた。

 人々は使節団を楯に身を寄せ合った。死体と怪我人が運び出され、敷石に大きな赤い染みをつけて、血溜まりだけが残った。

 バスチーユからの銃撃はやんだ。自分たち側からの銃撃もやめさせようと足を踏み出したビヨは、戸口でゴンションと出くわした。ゴンションは武器も持たず、預言者のように姿をさらし、不死者のように泰然としていた。

「おい、使節団はどうなった?」ゴンションがたずねる。

「バスチーユに入ったよ。銃撃をやめさせに」ビヨが答えた。

「無駄だな」ゴンションは神から予知能力を授かっているかのように断言した。「受理せんだろう」

「構うもんか。兵士になったからには、戦争のしきたりを重んじようじゃないか」

「そうだな」

 ゴンションはそう言うと、指示を出しているらしき二人の人物に近寄った。

「エリー、ユラン、見て来い。銃撃がやんだかどうか」

 副官二人はその命令を聞くや人波を裂いて駆け出した。やがて銃撃は小やみになり、遂にはすっかり音が絶えた。

 束の間の休息が訪れた。その間に怪我人の手当てをしたが、その数は四十人近くにまで増えていた。

 二時の鐘が鳴った。攻撃は正午に始まった。既に二時間小競り合いを続けていることになる。

 ビヨが持ち場に戻ると、ゴンションも後からついて来た。

 不安げな眼差しが鉄門に向けられ、苛立ちが見て取れる。

「どうした?」ビヨがたずねた。

「バスチーユを後二時間で陥落できなければ、何もかも終わりだと思ってな」

「どうしてまた?」

「ヴェルサイユにも俺たちのやっていることが伝わるだろうから、ブザンヴァルのスイス人衛兵隊やランベスクの竜騎兵隊を派遣されて、三方向から挟み撃ちさ」

 ゴンションの言う通りだと認めないわけにはいかなかった。

 遂に使節団が姿を見せた。うなだれた様子からすると成果がなかったらしい。

「ほら見ろ!」ゴンションが狂喜した。「言った通りだ。バスチーユに判決は下された」

 使節団に確認もせずに前庭から飛び出し、大音声で呼ばわった。

「武器を取れ! 司令官は申し出を拒否した」

 まさしく、司令官はフレッセルの手紙を読むなり顔を染め、受け入れるどころか声をあげた。

「パリ市民諸君、君たちは戦いを望んでいたではないか。もう遅すぎるよ」

 使節団は食い下がり、このまま抵抗を続ければどんなことを招くのか説き聞かせた。だが司令官は聞く耳を持たず、とうとう二時間前ビヨに向かって口にしたのと同じことを口にした。

「立ち去り給え、さもなくば撃ち殺す」

 使節団は立ち去った。

 今回先手を取ったのはローネーだった。見るからにうずうずしていた。使節団が中庭から出もしないうちに、サックス公のミュゼットで曲を奏でた。三人が倒れた。死者が一人、怪我をしたのが二人。

 怪我をしたのは近衛兵と使節団だった。

 犯すべからざる役割を担っていた人物が血塗れで運ばれるのを見て、人々の心に再び火がついた。

 副官二人が持ち場であるゴンションの許に戻って来た。だが二人とも家に戻って服を着替える時間はあった。

 武器庫のそばと、シャロンヌ街に住んでいたのだ。

 ユランは最初ジュネーヴで時計屋をしていたが、その後コンフラン侯爵の従僕となっていたので、ハンガリー軍の制服に似たお仕着せを着て戻って来た。

 王妃聯隊の元将校だったエリーは制服を着ていた。人が見れば軍も味方して一緒にいるのだと安心できるはずだ。

 これまでにも増して激しい銃撃が始まった。

 すると最上級曹長ロムス氏がローネー司令官に近づいた。

 勇敢で忠実な軍人ではあったが、市民らしさも残っていたので、目の前で起こったことや、これから起こるであろうことを、辛そうに見ていた。

「ここには兵糧がありません」

「わかっている」ローネーが答えた。

「僭越ながら、命令があったわけでもありません」

「失礼ながらロスム君、バスチーユを封鎖したのはなぜだと思う? 私がここの鍵を預かっているからだ」

「鍵の使い道は門を閉ざすだけではありません。門を開くことにも使えます。城塞を守れず部隊をみすみす殲滅させることになりますぞ。同じ日に二度も勝利を味わわせてやることになります。我々を殺そうとしている奴らをご覧下さい。次から次へと敷石の上に生えて来ます。今朝は五百人しかいなかったのに、三時間前には一万人になり、今では六万人を超えています。明日には十万人になるでしょう。大砲が沈黙してしまえば――結局はそうなるに違いありませんが、バスチーユをその手で奪うだけの脅威となります」

「軍人らしくない物言いだな、ロスム君」

「フランス人として話しております。陛下からは何の命令も受けていないと申し上げているのです……パリ市長からの提案は受け入れがたいものではありません。ブルジョワ民兵を百人、城塞内に入れればいいだけです。憂慮される悲劇を回避するには、フレッセル氏の提案を飲めばいいのです」

「つまりロスム君、パリ市を代表する威権に従うべきだと?」

「陛下直々の威権がない以上は、そうすべきかと」

 ローネーは中庭の隅にロスムを引っ張って行った。「読み給え」

 ロスムは、見せられた小さな四角い紙切れを読んだ。

『持ちこたえてくれ。パリの市民は徽章と約束で誤魔化しておいた。日が沈むまでにはブザンヴァル氏の援軍が向かうはずだ。 ド・フレッセル』

「どのように届いたのですか?」

「使節団が持って来た手紙の中にあった。バスチーユを明け渡す勧告状を手渡すつもりで、それを阻止する指令書を手渡していたことになるな」

 ロスムは頭を垂れた。

「持ち場に戻り給え、呼ばれるまで動くんじゃない」

 ローネーに言われて、ロスムはその通りにした。

 ローネー氏は事務的に手紙を折り畳み、ポケットに戻すと、砲兵たちに持ち場に戻って砲口を下に向け照準を合わせるよう命じた。

 ロスム氏同様、砲兵たちもその通りにした。

 だが要塞の運命は既に定められていた。人間の手では如何にあがこうともそれを引き戻すことは出来なかった。

 砲声に応えて人々が声をあげた。「この手にバスチーユを!」

 声は訴え、腕が動いた。

 激しく訴える声や、的確に動く腕の中でも、もっとも目覚ましいのはピトゥとビヨの声と腕だった。

 ただし、行動の理由はそれぞれの気性に拠るところが大きい。

 ブルドッグの如く勇敢で肝の据わったビヨは、真っ先に飛び出し、銃弾に立ち向かった。

 ピトゥは狐の如く慎重で用心深かった。生存本能に恵まれたピトゥは、危険を察知し回避することに全力を傾けた。

 どの銃眼が一番危険なのかを見抜き、発射しそうな青銅の動きを見極めようとした。そして遂に、城壁の砲列が跳ね橋を狙っている瞬間を捉えた。

 目は役目を果たした。次に主人のために働くのは手足の番だった。

 肩は引っ込み、胸はしぼみ、横から見た板きれのようにぺたんこになった。

 その直後、痩せているのは足だけだったぶくぶくのピトゥに残されたのは、幾何学的な美しさの曲線を持つ、幅も厚みもない骨だけとなっていた。

 一つ目の跳ね橋と二つ目を繋ぐ通路の片隅、石の出っ張りで出来た手すりを選んでいた。頭は石の一つで隠れ、胴体や足もまた別の石で安全に隠れている。自然と人工の組み合わせが身体を怪我から守ってくれることに感嘆の念を禁じ得なかった。

 巣穴の兎のように身を伏せ、そこから取りあえずあちこちに銃を放った。何せ目の前には壁や木の塊しかなかったのだが、それでもビヨは喜んでいた。

「いいぞ、撃て撃て!」

 ピトゥは昂奮しているビヨをなだめようとした。

「丸見えじゃありませんか、ビヨさん」

 或いは、「気をつけて下さい、ビヨさん、大砲が狙っています。小銃の撃鉄が鳴りました」

 ピトゥが警告した直後に、大砲や小銃が鳴り響き、通路に銃弾が降り注いだ。

 ビヨはピトゥの助言などどこ吹く風で、力と技の奇跡を演じて見せたので、助言は意味を成さなかった。ビヨのせいではないのだが、血を流すことが出来ないので、大粒の汗を流していた。

 ピトゥは何度となくビヨの服の裾をつかみ、狙撃されそうになるたびに地面に引き倒した。

 だがビヨは何度も立ち上がり、そのたびアンタイオスのように前よりも強く、そのたび新しい考えを思いついていた。

 この時は、橋げたの上で、先ほどやったように、鎖を固定している小根太を砕こうと考えた。

 ピトゥは大声でビヨを引き留めようとしたが、吠えても効果がないと気づき、隠れ場所から飛び出して叫んだ。

「ビヨさん、あなたが死んだらおかみさんが未亡人になってしまいますよ」

 スイス兵たちがミュゼットの銃眼からマスケット銃を斜めに突き出し、橋を粉々にしようとしている不埒者に狙いを定めたのが見えた。

 この時は、銃身を引きつけて橋げたを撃たせようと考えた。だがミュゼットが奏でられて砲兵が引っ込んでも、大砲の動きを操縦しようと一人隠れずにいるので、またもやピトゥは隠れ場所から引きずり出された。

「ビヨさん、カトリーヌさんのことを考えて下さい! あなたが死んでしまったら、カトリーヌさんは孤児になってしまいますよ」

 ビヨはこう呼びかけられて引き返して来た。一つ目の呼びかけより心に響くものがあったようだ。

 遂に豊かな想像力が最後の考えを生み出した。

 ビヨは広場に駆け込み叫んだ。

「荷車だ! 荷車をくれ!」

 良いものは二つ揃えば最良のものになる。そう考えたピトゥはビヨの後から叫んだ。

「荷車を二台! 荷車を二台お願いします!」

 すぐに十台の荷車が用意された。

「藁と干し草を!」ビヨが叫ぶ。

「藁と干し草です!」ピトゥも繰り返す。

 すぐさま二百人の人間が干し草と藁を持ち寄った。

 別の人間たちがその乾し草を荷台に積んだ。

 必要な量を優に十倍は超えていると叫ばざるを得ないほどだった。一時間後にはバスチーユの高さに匹敵するほどの飼い葉の山が出来ていた。

 ビヨは藁を積んだ荷車の轅の間に入り、車を引かずに前に押した。

 わけはわからぬままピトゥもそれに倣った。ビヨの真似をすれば上手く行く。

 エリーとユランはビヨの意図を見抜き、別の荷車をつかんで中庭に押して行った。

 門をくぐった途端に一斉射撃に迎えられた。弾丸が鋭い音を立て、藁の中や、荷台や車輪の木枠にめり込んだ。だがただの一撃も命中させることは出来なかった。

 発砲が止むと、二、三百人が小銃を持って、即座に荷車の陰まで駆け込み、それを防御壁として、橋げたの下に潜り込もうとした。

 そこまで来るとビヨはポケットから火打ち石と火口を取り出し、紙の上に火薬を載せて、火を付けた。

 火薬が紙を燃やし、紙が藁を燃やした。

 火の粉が絡み合い、四台の荷車がいっせいに燃え上がった。

 火を消すには外に出なくてはならない。外に出ることは確実な死を意味する。

 炎が橋げたに達し、鋭い牙で木枠を貪ると、橋の骨組みを走って舐めた。

 歓喜の声が中庭からあがり、サン=タントワーヌ広場に広まった。塔から煙が上がっているのが見える。バスチーユに何か重大なことが起こったらしい。

 赤くなった鎖が厚板から外れた。半ば壊れ、半ば燃えて、もくもくと上がる煙とぱちぱちと爆ぜる音を出しながら、橋は落ちた。

 火消したちが放水器を手に駆けつけた。司令官が発砲を命じた。だが傷病兵たちは命令を拒んだ。

 スイス兵だけは命令に従った。だがスイス兵は砲兵ではないので、大砲は諦めざるを得なかった。

 一方の近衛兵は砲火が消えたのを見て、バスチーユの砲列に砲口を向けた。三発目が鉄門を砕いた。

 その少し前、司令官が砲台に姿を見せていた。約束の救援部隊が到着したかどうか確かめようとしたのだが、そこで目にしたのはバスチーユを取り囲んで立ちのぼる煙だった。司令官は慌てて砲台から降り、砲兵たちに発砲を命じた。

 傷病兵に拒否されて腹を立てたが、鉄門が壊されたのを見て、すべてが終わったと悟った。

 ローネー氏は憎まれていることを実感していた。もはや救いの道はないとわかっていた。小競り合いが続くさなかも、バスチーユの瓦礫の下に埋もれて死ぬという考えを育んでいた。

 どう抵抗しようとも何の役にも立たぬと、砲兵の手から灯心を奪い、弾薬庫に向かって走り出した。

「火薬だ!」怯えた声があがる。「火薬だ! 火薬だ!」

 司令官の手に灯心が光っているのを見て、誰もが意図を察した。二人の兵士が駆け出し、司令官が扉を開けた瞬間その胸に銃剣を突きつけた。

「私を殺すことは出来ようが、この灯心を樽の真ん中に放る暇のないほど素早く殺すことは出来まい。敵味方共に吹き飛んでしまうがよかろう」

 二人の兵士は動きを止めた。銃剣を胸元に突きつけてはいたものの、主導権を握っているのは今もなおローネーであった。全員の命をその手に握られ、誰もが動けずにいた。襲撃者の方も何かただならぬ事態が起こっていることに気づいた。中庭に目を向けると、命を狙われていた司令官が命を狙っている。

「聞け、おまえたちの命はこの手の中にあるも同然だ、誰か一人でもこの中庭に一歩足を踏み入れてみろ、火薬に火を付ける」

 その言葉を聞いた者たちは、足許の地面が揺れるのを感じたような気になった。

「どういうつもりです? 何を要求するおつもりですか?」あちこちから怯えた声があがる。

「降伏するつもりだ。名誉ある降伏を」ローネーが答えた。

 こんな言葉は予期していなかった。こんな捨て鉢な行動を取られるとは思ってもいなかった。中に入るにはどうすればいい? ビヨがみんなの頭脳だった。突然ビヨは震え青ざめた。ジルベール医師のことを思い出したのだ。

 自分のことだけ考えている間は、バスチーユが爆発しようと一緒になって吹き飛ぼうと気にならなかった。だがジルベール医師だけは、どんなことがあっても生きなくてはならない。

「止まれ!」ビヨはエリーとユランの前に飛び出した。「頼むから止まってくれ!」

 二人は自分たちの死を恐れてはいなかったが、震え青ざめて後じさった。

「どういうつもりだ?」二人は司令官に向かって兵士たちと同じ質問をした。

「撤退しろ」ローネーが答えた。「バスチーユに余所者がいるうちは、如何なる要求にも応じない」

「俺たちがいなくなっても、元には戻らんぞ」ビヨが言った。

「降伏するという申し出が拒まれれば、何もかもこのままだ。おまえはその入口に、私はここにいることになる」

「その言葉に嘘はないな?」

「貴族として誓おう」

 何人かはかぶりを振った。

「貴族として誓うと言っているのだ! ここには貴族の言葉を疑う人間がいるのか?」

「いや、いないぞ!」五百の声が次々と答える。

「紙とペンとインクを寄こし給え」

 注文はすぐに聞き届けられた。

「結構!」

 ローネーは侵入者に向かって告げた。

「では余所者は出て行き給え」

 ビヨとユランとエリーが範を示して真っ先に出てゆくと、ほかの者たちもそれに倣った。

 ローネーは傍らに灯心を置き、膝の上で降伏文書を書き始めた。

 傷病兵やスイス人衛兵にも、自分たちが助かるかどうかが問題になっているのだとわかり始めた。物も言わず畏敬を込めて見つめている。

 ローネーはペン先を紙に置く前に振り返った。中庭には誰もいなくなっていた。

 中で起こったことは瞬く間に外に知れ渡った。

 ロスム氏の言った如く、敷石の下から人が湧き出ていた。十万人がバスチーユを包囲していた。

 もはや労働者だけではなく、あらゆる階級の市民が集まっている。もはや大人だけでなく、子供も老人も集まっていた。

 誰もが武器を手に、叫びをあげていた。

 人混みの中、ところどころに女がいた。泣き叫び、髪を振り乱し、腕をよじり、狂ったように石の巨人を呪っていた。

 バスチーユに息子を射殺された母親であり、夫を撃ち殺された妻であった。

 ところがいつの間にかバスチーユからは音も炎も煙も消えていた。バスチーユは息をしていなかった。バスチーユは墓石のように静かだった。

 壁面を飾る弾丸の跡を数えようとしても叶わなかったであろう。圧政の象徴である花崗岩の怪物に銃弾を浴びせたいと考える者たちは、それほどまでに多かった。

 ゆえに、バスチーユが降伏しようとし、司令官が明け渡そうとしていると知っても、誰一人信じようとはしなかった。

 誰もが眉に唾つけ、そう簡単に嬉しい結末には飛びつかず、固唾を呑んで待ち続けていると、剣の先に刺した手紙が銃眼から突き出されるのが見えた。

 だが手紙との間にはバスチーユの堀があり、大きく、深く、水を湛えていた。

 板が欲しいとビヨが言うと、板が三切れ運ばれて来たので橋にしようとしたが、短すぎたため役には立たなかった。四つ目の板が堀の両岸に届いた。

 ビヨは板をよい位置で留めると、躊躇うことなくぐらつく橋に足を進めた。

 誰もが息を止めたまま、まるで堀の上に宙ぶらりんになったような男を一心に見つめていた。澱んだ水はまるでコキュトスだ。ピトゥは土手の陰にしゃがみ込み、膝の間に頭を突っ込み丸まって震えていた。[*1]

 勇気が足りずに涙が出た。

 突然のことだった。三分の二ほど進んだところで板がぐらつき、ビヨは腕を広げたまま、堀の中へと姿を消した。

 ピトゥは絶叫し、ビヨを追って飛び込んだ。主人の後を追う猟犬のように。

 男が一人、板に近づいた。今し方この高さからビヨは放り出されたのだ。

 男は躊躇うことなく板を渡った。シャトレの執達吏、スタニスラ・マイヤールだった。

 ピトゥとビヨが泥の中でもがいていた場所まで来ると、すぐに下を見て、二人が無事に岸までたどり着いたのを確認すると、そのまま先に進んだ。

 三十秒後には向こう岸に着き、剣の先に突き出された手紙を手にしていた。

 それから、落ち着きも渡った時と同じく、毅然とした歩きぶりも同じくして、同じ板の上を歩いて戻った。

 だが手紙を読もうと周りに人が群がった瞬間、恐ろしい銃声が聞こえると同時に、銃眼から弾丸が降り注いだ。

 たった一つの、だが復讐を誓う人々の胸に共通する叫びがほとばしった。

「君主を信用したけりゃするがいい!」ゴンションが叫んだ。

 降伏のことも、火薬のことも、自分のことも囚人のことも忘れて、夢も希望も願いもなく、ただ復讐のみを胸に、中庭になだれ込んだ。その数はもはや百ではなく千という単位になっていた。

 それを妨げるものはもはや銃撃ではなく門の狭さであった。

 この銃声を聞いて、ローネー氏に張りついていた二人の兵士が飛びかかり、三人目が灯心を奪って足で踏み消した。

 ローネーは仕込み杖を抜き、自害しようとしたが、真っ二つに折られてしまった。

 もはや待つことしか出来ぬと悟ったローネーは、ただ待った。

 殺到する人々を前に、兵たちは許しを請うた。バスチーユは降伏したのではなく、力ずくで乗っ取られたのである。

 百年の昔より、この王家の要塞に封じ込められていたのは単なる無機物ではなく、思想であった。思想がバスチーユを破壊し、人々はその割れ目から中に入った。

 発砲があったのは、静寂のさなか、停戦中のことであった。無計画にして、且つ拙劣、決定的な攻撃は、命令を下したのが誰なのか、火種を撒いたのが誰なのかはわからぬまま、完遂された。

 全国民の未来が運命の天秤に掛けられた瞬間であった。秤は傾いた。目的を達したことを疑う者はなかった。見えざる手が、或いはナイフの刃が、或いは拳銃の弾が、天秤皿の上に落とされたのだ。その時すべてが変わり、聞こえるのはただ一つの叫び声だけであった。「敗者に災いあれ!」[*2]


Alexandre Dumas『Ange Pitou』Chapitre XVII「La Bastille」の全訳です。


Ver.1 14/02/15

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[訳者あとがき]


 

[更新履歴]


 

[註釈]

*1. [コキュトス]
 Cocyte。Cocytos(コーキュートス)。ギリシア神話、地獄の最下層を流れる「嘆きの川」。[]
 

*2. [敗者に災いあれ!]
 【Malheur aux vaincus !/Vae victis。リウィウス『ローマ建国史』より。ローマを侵略したガリア人の長ブレンヌスが、ローマ人を一喝した言葉。[]
 

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