この翻訳は翻訳者の許可を取ることなく好きに使ってくれてかまわない。ただし訳者はそれについてにいかなる責任も負わない。
翻訳:東照《あずま・てる》
ご意見・ご指摘などは
メール
まで。
New  リンク  翻訳連載blog  読書&映画日記  掲示板  仏和辞典
HOME  翻訳作品   デュマ目次  戻る  進む

アンジュ・ピトゥ

アレクサンドル・デュマ

訳者あとがき・更新履歴
著者略年譜・作品リスト

第二十七章 オリヴィエ・ド・シャルニー

 王妃が私室に戻ると、そこには小間使いから手渡されたあの手紙を書いた人物がいた。

 男は三十代半ば、長身、気力と決断力に溢れた顔をしていた。青灰色の瞳は鷲のように鋭く、筋の通った鼻、ぐっと張った顎から醸し出される軍人風の顔立ちが、洗練された護衛隊中尉の制服のおかげでいっそう際立っていた。

 ずたずたに引き裂かれしわくちゃになったバチスタの袖の下で、両の手が今もなお震えていた。

 剣はねじれて鞘に収まり切れていない。

 王妃が戻った時には、男は部屋の中を忙しく歩き回り、昂奮と混乱で千々に思い乱れているところだった。

 マリ=アントワネットは真っ直ぐに歩み寄った。

「シャルニー殿! いらしてたのですか!」

 話しかけられた人物が作法に則って恭しく頭を垂れたのを見て、王妃は小間使いに合図して扉を閉めて退出させた。

 王妃は扉が閉まるのももどかしく、シャルニー氏の手をしっかりとつかんだ。

「伯爵、どうしてこちらに?」

「ここに来るのが務めだと考えていたからです」

「違います。あなたの務めはヴェルサイユを立ち去ること。決められたことを実行すること。わたしに従うこと。つまりわたしの友人たちと同じようにすることです……みんなわたしの運命を恐れていました。あなたの務めは、わたしと運命を共にすることではありません。わたしの許から立ち去ることです」

「あなたの許から立ち去るというのですか!」

「そうです。お逃げなさい」

「逃げるですって? 誰があなたから逃げるというのです?」

「賢明な者たちは逃げ出しました」

「私は賢明だからこそ、ヴェルサイユにやって来たのです」

「何処からいらしたのです?」

「パリから」

「暴動が起こっているパリからですか?」

「煮えたぎり、我を失い、血に塗れたパリからです」

 王妃が両手で顔を覆った。

「あなたもですか! 良い報せを聞かせてくれる人は誰もいないのですか?」

「このような状況にある時は、陛下のお耳に入れなくてはならないことはただ一つ、真実のみでございます」

「では真実を伝えに来たというのですね?」

「いつものように」

「誠実で勇敢な方ですね」

「ただの忠実な家臣に過ぎません」

「今は何も言わないで。あなたがいらっしゃったのは、ちょうど心にぽっかり穴が空いていた時だった。いつも伝えてくれたその『真実』のせいで、今日は初めて友人たちから傷つけられた。もう真実を隠し通すのに倦んでいたのね。至るところで真実がはじけ飛んだ。赤く染まった空の上で。嫌な音の詰まった大気の中で。青ざめて沈み込んだ廷臣たちの顔の上で。やめて、お願い。一生に一度だけ、今は真実を言わないで」

 シャルニー伯爵が王妃を見つめた。

「そうね、勇敢だと思っていたわたしからこんなことを言われて驚いているのでしょう? でもこんなことくらいでは驚かないで下さいな」

 シャルニー伯爵は思わず問いただすような仕種をしていた。

「じきにわかるわ」王妃は引き攣った笑みを浮かべた。

「苦しんでいらっしゃるのですか?」

「そうじゃない。そばに来てお坐りになって。こんな恐ろしい政治の話はもうたくさん……どうか忘れさせて」

 伯爵は寂しげに微笑んで腰を下ろした。

 マリ=アントワネットが伯爵の額に手を当てた。

「燃えるように熱いのですね」

「頭の中に火山があるのです」

「手は冷たい」

 王妃は伯爵の手を両手で包み込んだ。

「心が冷たい死に触れられてしまいましたから」

「可哀相に、オリヴィエ! 先ほど言ったように、忘れましょう。わたしはもはや王妃ではない。もはや脅かされてもいない。もはや憎まれてもいない。そう、もはや王妃ではない。ただの女。こんな世界に何の意味があるというのでしょう? 愛してくれる人がいれば、それで充分」

 伯爵が王妃の前にひざまずき、女神イシスに口づけするエジプト人のように、恭しくお御足に口づけした。

「本当の友人と呼べるのはあなただけです」王妃はシャルニー伯爵を立たせようとした。「ディアーヌ公爵夫人が何をしたかご存じ?」

「亡命なさるのですね」シャルニー伯爵は即答した。

「当たりです! どうしてわかったのですか?」

「誰だって想像できますよ」

「それなのにあなたたちは亡命しないのですね。してもおかしくはないというのに」

「まず私が絶対に亡命しないのは、陛下にこの身を捧げているからですし、迫り来る嵐のさなか片時も離れないと陛下だけではなく自分自身に対して約束したからです。友人たちが亡命しないのは、私の行動を手本として方針を固めているからです。最後に、シャルニー夫人が亡命しないのは、私の知る限りでは、陛下をただ一途に愛しているからです」

「ええ、アンドレは気高い心の持ち主ですから」王妃の態度は目に見えて冷たかった。

「だからこそこれからもヴェルサイユを離れないでしょう」

「ではこれからはあなたをずっとそばに置いておくことにしましょうか」冷たい態度を崩さないのは、嫉妬や冷やかしを仄めかしていると感じてもらいたいからだ。

「陛下から護衛隊中尉に任命していただいたのですから、私の勤務地はヴェルサイユです。チュイルリーの護衛を任せられなければ、持ち場を離れることはありませんでした。やむを得ないと仰っていただいたからこそ、パリに発っていたのです。それに陛下もご存じの通り、シャルニー伯爵夫人には何の相談もしていないのですから賛成も反対もされてはいません」

「それは仰る通りですね」やはり王妃は冷たい態度を崩さなかった。

「現在はこうして」シャルニー伯爵は臆せずに話を続けた。「私の持ち場はチュイルリーではなくヴェルサイユになりました。王妃のご不興を買う恐れさえなければ、命令に背いて、こうして務めを選んで、ここにいたところです。シャルニー夫人が動乱(événements)を恐れようと恐れまいと、亡命を望もうと望むまいと、この私は王妃のそばに残ります……王妃にこの剣を折られない限りは。この剣を折るというのでしたら、ヴェルサイユの床の上で王妃のために戦う権利も死ぬ権利もない以上、いつでも宮殿の外の舗道の上で死なせていただきます」

 シャルニー伯爵の口から飛び出した、この勇ましく誠実な、偽りない心からの言葉を聞いて、王妃の自信も崩れ、王家のものではなく人間としての感情を隠していた逃げ場から転がり落ちた。

「伯爵、そんなことを口にしてはなりません。わたしのために死ぬなどと言ってはなりません。言葉どおりに実行してしまうのがあなたという人ですから」

「口を閉じることなど出来ません。誰に対しても何処にいようとも言い続けます。実行するつもりがあるからこそ口にしているのです。時は来ました。恐れていた時が来てしまいました。この世の王たちに忠誠を誓う者たちが死ななくてはならない時が来たのです」

「伯爵! そのような悲劇的な予言を誰から聞いたのです?」

「私だって――」シャルニーは首を横に振った。「先頃のアメリカの戦争を受けて、社会を駆け巡っている独立熱に冒されたのです。私だって、先頃世間を賑わせていた奴隷解放に積極的に参加したかった。だからメーソンに入会しました。ラ・ファイエットやラメット(Lameth)のような人たちのいる秘密結社に入党しました。この結社の目的をご存じですか? 玉座の破壊です。標語をご存じですか? L・P・Dという三文字です」[*1]

「その三文字の意味するところは?」

「Lilia pedibus destrue。百合を踏みつぶせ」

「それであなたはどうなさったの?」

「脱退いたしました。ところが一人脱退しても、新たに二十人が入会しているのです。現在起こっていることは、二十年も前から音もなく夜陰に紛れて準備されて来た壮大なドラマの序幕に過ぎません。パリを揺り動かし、市庁舎を支配し、パレ=ロワイヤルを占拠し、バスチーユを襲った者たちの先頭に、かつての結社仲間の顔を見つけました。見誤ってはなりません。このたび起こった事件はどれも、偶発的な事件などではありません。長い時間をかけて準備されて来た蜂起なのです」

「そうなのですか?」王妃が泣き崩れた。

「泣いてはなりません、理解しなくては」

「理解しろ? 理解しろと? 王妃であるわたしに、生まれながらに二千五百万人の女王であったわたしに、理解しろと。わたしに従うべきその二千五百万の家臣が、叛乱を起こし、友人たちを殺しているこの時に、理解しろと! 未来永劫、理解できるわけがありません」

「それでも理解していただかなくてはなりません。生まれながらにあなたに従うべきその家臣や国民たちにとって支配されることが重荷になり、あなたが敵となった暁には、あなたを倒せるだけの力がつくのを待って、今はそのために飢えた牙を磨き、やがてあなたよりも嫌われているあなたのご友人たちを倒すに違いないのですから」

「その者たちが正しいと明らかにすることが出来るとでも?」抑えつけるように言った王妃の目は見開き、鼻は震えていた。

「その通り正しいのです」伯爵の声は優しく穏やかだった。「大通りを歩き回った時のことです。英国産の馬に跨り、金入りの服を身に纏い、銀の紐飾りの服を着た従者を連れていました。その紐飾りだけで、国民(votre peuple)、つまりあなたの言う二千五百万の飢えた人間なら、三家族は楽に養えるものだったでしょう。大通りを歩いている間中、彼らのために何が出来るか考えていたのです。同じ人間でしかない私に何が出来るのかを」

「こうすれば良いのです」王妃が伯爵の剣の柄をつかんだ。「この剣を用いて雄々しくなされば良い。お父君がフォントノワでなさったように、祖父御がステンケルク(Steinkerque)でなさったように、曾祖父御がランスやロクロワ(à Lens et à Rocroy(Rocroi))でなさったように、ご先祖がイヴリーやマリニャンやアザンクール(à Ivry, à Marignan, à Azincourt)でなさったように、なされば良いのです。貴族がフランス国民(peuple)のために出来ることは戦うことです。貴族は戦によって、その血と引き替えに、服を飾る金や従者に纏わせる銀を手に入れて来たのです。オリヴィエ、国民のために何が出来るのかと問うのなら、ご父祖たちから伝えられたこの剣をもって、今度はあなたが雄々しく戦えば良いのです!」

「どうか陛下」伯爵は首を横に振った。「貴族の血の話などなさらないで下さい。庶民(peuple)にも血は流れているのです。バスチーユ広場に流れた血の流れをご覧になって下さい。舗石を赤く染めた死者の数を数えてみて下さい、もはや波打つことのない心臓もあなたの大砲に撃たれたその日には騎士の心臓と変わらず気高く脈打っていたことを覚えておいて下さい。不慣れな手でぎこちなく武器を持ち、砲撃の下で歌っていたその日のことを、勇敢な擲弾兵にもなかなか出来ない行動を取ったその日のことを、覚えておいて下さい。どうか陛下、お願いですからそのような(怒りに満ちた)目で見ないで下さい。擲弾兵とは何者でしょうか? 只今お話しした心臓の上に纏われた青い服のことです。心臓が青い布や切れ端で覆われたからといって、そこに穴を開け命を奪う砲弾にとってそれに何の意味があるでしょうか? 心臓を守る鎧が布で出来ていようが切れで出来ていようが、はじけ飛ぶ心臓にとって何の意味があるのでしょうか? そうしたことを考えなくてはならない時が来たのです。もはやフランスには二千五百万の奴隷も、二千五百万の家臣も、二千五百人の民草(hommes)もおりません。二千五百万の兵士がいるだけなのです」

「その者たちがわたしに対して戦いを始めようというのか?」

「そうです。あなたに対して。彼らは自由のために戦っているのであり、あなたが彼らと自由の間に立ち塞がっているのですから」

 長い沈黙が降りた。初めに言葉を継いだのは王妃だった。

「要するに、これが真実なのですね。言わないでとお願いしたのに、とうとう言ってしまった」

「あなたへの忠誠が如何なる形を取ろうとその下に真実は隠されていますし、あなたへの敬意から如何なるヴェールがかかろうともその下に真実は押し殺されているのです。私の意図やあなたの意思に関わらず。ですからどうか目を凝らし、耳を傾け、気配を感じ、手を触れ、そのことを考え、思い描いて下さい。真実はそこに、永遠にそこにあります。どれだけもがこうと、あなたには真実と袂を分かつことはもはや出来ません。眠ることです。眠ってしまえば忘れてしまいます。そうすれば真実は枕元に腰掛け、夢の中に姿を見せ、目覚めた時には現実となっていることでしょう」

「伯爵」王妃は毅然として答えた。「真実にも妨げられない眠りがあります」

「私とてそうした眠りを恐れてはいません。いえ、陛下と同じく、望んでいると言ってよいでしょう」

「では、それがわたしたち二人の避難場所であると?」王妃が絶望の声をあげた。

「その通りです。ですが急いではなりません。敵たちと同じ速さで歩きましょう。どうせこれから続く嵐の日々にぐったりとすることになるのです。疲れて眠くなったら真っ直ぐにその眠りに向かって進めばよいのです」

 今回降りた沈黙は、初めのものよりも暗く、二人の肩に重くのしかかった。

 二人は互いに寄り添って坐っていた。互いに触れ合ってはいたが、二人の間には大きな隔たりがあった。二人の思いは不確かな未来の上で散り散りに別れていた。

 初めに話を再開させたのは王妃だったが、それも迂遠なたずね方だった。王妃はシャルニー伯爵をじっと見つめて言った。

「最後に一言だけ。それでも……それですべての答えの代わりになるわ、おわかり?」

「お聞きします」

「ここに来たのはわたしのためだけだと誓えますか?」

「お疑いになるのですか?」

「シャルニー伯爵夫人が手紙を書かなかったと誓えますか?」

「妻が?」

「ええ。伯爵夫人が立ち去ろうとしていたことも、心の中に思うところを秘めていたことも、知っています……どうか誓って下さい。あなたが戻って来たのは伯爵夫人のためではないのだと」

 この時、扉が敲かれた。否、扉が遠慮がちに叩かれた。

「入りなさい」

 小間使いが戻って来た。

「国王陛下のお食事が終わりました」

 シャルニー伯爵が驚いた顔でマリ=アントワネットを見つめた。

「そうですよ」王妃は肩をすくめた。「何を驚いているのです? 国王が食事をしてはいけないと?」

 オリヴィエ・ド・シャルニーは眉をひそめた。

「国王に伝えて下さい」王妃は狼狽えもせず指示を出した。「パリからの報せを受け取りました。今後とも受け取った際にはお知らせいたします」

 それからシャルニーに向かって言った。

「話を続けましょうか。食事が終わったからには、今頃は腹をこなしているところです」


Alexandre Dumas『Ange Pitou』Chapitre XXVII「Olivier de Charny」の全訳です。


Ver.1 15/03/14

  HOME  翻訳作品   デュマ目次  戻る  進む  TOP
New  リンク  翻訳連載blog  読書&映画日記  掲示板  仏和辞典

[訳者あとがき]


 

[更新履歴]


 

[註釈]

*1. [ラメット]
 Alexandre Théodore Victor de Lameth。アメリカ独立戦争に参加。三部会議員。[]
 

*2. []
 []
 

*3. []
 []
 

  HOME  翻訳作品   デュマ目次  戻る  進む  TOP
New  リンク  翻訳連載blog  読書&映画日記  掲示板  仏和辞典