この翻訳は翻訳者の許可を取ることなく好きに使ってくれてかまわない。ただし訳者はそれについてにいかなる責任も負わない。
翻訳:東照《あずま・てる》
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アンジュ・ピトゥ

アレクサンドル・デュマ

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第四十一章 義父

 だがどよめきが大きくなり続けていることからもわかる通り、広場にいる人々の心には火がついていた。それはもはや嫌悪ではなく憎悪、抗議ではなく逆上の声であった。

 「フーロンを潰せ! フーロンを殺せ!」という叫びが、銃撃のように交わされていた。扉を守る衛兵たちを押し潰しかねないほどに人の山はふくれあがっている。

 暴力を容認する声が徐々に囁かれて大きくなり始めていた。

 怒りの声はフーロンだけではなく、フーロンをかばおうとしている選挙人にまで及んでいる。

「逃がしやがった!」

「中に入るぞ! 押し入っちまえ!」

「市庁舎に火をつけろ!」

「行くぞ! 進め!」

 バイイは覚悟を決めた。もはや手だては一つしかない。ラファイエットは到着していないのだ。

 そういうわけで、選挙人たち自ら外に出て人の山に入り込み、激怒している者たちを説得しようとした。

「フーロンは何処だ! フーロンを出せ!」

 怒れる人波から、そうした叫びがひっきりなしにあがり、そうした怒号が途切れることなく続いていた。

 いつ一斉に襲って来てもおかしくない。そうなれば壁は持ちこたえられないだろう。

「フーロンさん」バイイが声をかけた。「あなたが姿を見せなければ、逃がしたと思われてしまう。扉を破られてここまで来られれば、見つかるのも時間の問題です。そうなれば私にはどうすることも出来ません」

「どうしてこんなに憎まれなければならないんだ」フーロンは両腕を力なく落とした。

 バイイに肩を貸されて窓際まで引きずられて行く。

 フーロンが姿を見せた瞬間、恐ろしい叫びがあがった。衛兵は押しのけられ、扉は破られた。階段に廊下に部屋の数々が、瞬く間に奔流に襲われ占領された。

 バイイは待機させていた衛兵をすべてフーロンの周りに投入してから説得を試みた。

 バイイとしては殺意にはやる人々に向かって、正義をおこなうことが必ずしも正義のおこないだとは限らないと納得させるつもりだった。

 手を替え品を替え、何度も命の危険にさらされた後で、ようやく話が通じたようだ。

「いいだろう! 正義を問おうじゃないか! 裁判だ! もちろん吊るし首だ!」

 話がそこまで進んだ時、ラファイエットが市庁舎に到着した。ビヨに連れられて来たのだ。

 ここで初めて身につけられた三色の羽根飾りを目にして、たちまちのうちに怒号が消えた。

 国民衛兵の総司令官ラファイエットは、バイイと同じことをバイイよりも力強く繰り返した。

 ラファイエットの演説は聞こえた者すべての胸を打ち、フーロンの裁判は選挙人室でおこなわれることに決まった。

 だが外にいる二万人の暴徒にはラファイエットの話は聞こえていなかったので、昂奮と熱狂にはまったく変化がなかった。

「では諸君!」ラファイエットは室内の聴衆に及ぼした効果が屋外の人々にも届いているものと疑ってもみなかった。「では諸君! この男を裁判にかけようではないか」

「そうだ、裁判だ!」

「では命じよう、この男を監獄に連れてゆくのだ」

「監獄行きだ!」

 叫びながら衛兵たちに向かって、さっさと囚人を歩かせろと急き立てた。

 屋外の群衆は、獲物がやって来るということしかわかっていなかった。同じく獲物を狙う競争相手がいるということさえ思いつかなかった。

 いわば階段を降りて来る新鮮な肉の匂いを嗅ぎつけていたのだ。

 ビヨは窓際に移動していた。選挙人たちと、バイイもいる。フーロンが衛兵に連れられて広場を渡ってゆくのを、見届けるためだ。

 歩きながら、フーロンは途方に暮れてあちこちに言葉をかけていた。安心しているような言葉とは裏腹に、その下に激しい恐怖が潜んでいるのは隠しようもない。

「気高い諸君!」階段を降りながらフーロンは言った。「私は何も怖くはない。同胞たちに囲まれているのだから」

 それまでも嘲笑と悪罵が交わされていた。気づけば仄暗い穹窿を抜けて、広場に続く階段の上に出ていた。外気と陽射しが顔に当たった。

 途端に嘲笑と悪罵は怒号に変わった。憤怒の声、殺意の叫喚、憎悪の咆吼が、二万人の腹から吐き出された。衛兵たちは持ち上げられ、離ればなれに散り散りにされてしまい、フーロンは寄ってたかってつかみかかられ、連れ去られてしまった。あの運命の街角、街灯の下、人々から正義の名で呼ばれた忌まわしく冷たい絞首台の下に。

 ビヨは窓からすべてを目にして叫んでいた。選挙人たちも衛兵を応援したが、もはやどうすることも出来なかった。

 ラファイエットは絶望に駆られて市庁舎から飛び出したが、街灯までの間に横たわる人波という巨大な湖を前にして、一歩を踏み出すことさえ適わなかった。

 もっとよく見ようとして里程標によじ登ったり、窓や出っ張りやその他つかまる場所があるなら何処にでもしがみついたりしている無責任な野次馬たちが、恐ろしい声をあげて、フーロンを連れ去る者たちの昂奮を掻き立てていた。

 連れ去った者たちは、獲物をもてあそぶ虎の群れのように、フーロンをもてあそんでいた。

 フーロンを巡って諍いが起こった。フーロンの最期を堪能したいのなら、死刑執行人の役目を分かち合うほかない。

 そうでもしなければバラバラになってしまうだろう。

 フーロンを引きずって来た者たちには、もはや叫ぶ力すら残っていなかった。

 だから別の者たちがタイをもぎ取り、服を引き裂き、首に綱をかけた。

 さらに別の者たちが街灯に上り、首にかけられた綱を街灯(le réverbère)から垂らして来た。

 すぐにフーロンは引っ張り上げられ、首の綱と後ろ手に縛られた手が見えた。

 魅入られた群衆が手を叩いて囃すと、それを合図にしたように、青ざめて死にかけた(sanglant)フーロンが街灯の横木(bras de fer de la lanterne)の高さまで引っ張り上げられた。死よりも恐ろしい野次が飛び交っている。

 それまでは何も見えなかった者たちにも、大衆の敵が頭上を舞っているのが見えた。

 またもや怒号が沸き起こった。今度の怒号は死刑執行人たちに対してだった。どうしてそんなにさっさと殺そうとするんだ?

 執行人たちは肩をすくめて綱を指さして見せた。

 綱は古く、ぼろぼろにほつれて見えた。フーロンが苦悶に身をよじったために、遂に最後の糸が切れた。綱が切れて、窒息しかかっていたフーロンが舗石に落ちた。

 拷問はまだ序盤でしかない。まだ死の入口に入ったばかりだ。

 人々は死刑囚に飛びかかった。もはや逃げることが出来ないのはわかっていた。落ちた時に脛の骨を折っていたからだ。

 ところが呪詛の声が幾つかあがった。状況を理解できない者たちが非難する呪詛の声だった。非難されているのは執行人たちだ。要領が悪いと思われたのだ。だが実際には古くて擦り切れた綱をわざわざ選んで、綱が切れることを狙っていた、極めて要領の良い者たちだった。

 事態を正しく進めることを狙っていたのである。

 綱に結び目が作られ、改めて瀕死のフーロンの首にかけられた。フーロンは目を血走らせ、声を嗄らし、あちこちに顔を向けた。文明社会の中心であるこの町に、助けに来てくれる人は誰かいやしないのか。国王の大臣だったうえに十万リーヴルの財産を持っているのだ、人食いの群れに風穴を開けようとする銃士の一人くらい(une des baïonnettes)いやしないのか。

 だが周りには誰もいない。あるのは憎悪と、悪罵と、死だけだった。

「せめて苦しませずに殺してくれ」たまらずフーロンが叫んだ。

「どうして俺たちが楽にさせてやると思うんだ? 俺たちのことはじっくり苦しませていたくせに」

「それに」と別の一人が言った。「刺草イラクサを消化するにはまだ早いんじゃないか?」

「慌てるなよ!」三人目が怒鳴った。「もうすぐ婿殿のベルチエを連れて来るからな。街灯の上でご対面だ」

「これから継父殿と婿殿がにらめっこをしているのを見られるんだな」また別の一人が言った。

「さっさと殺してくれ!」フーロンが声を絞り出した。

 その間中、バイイとラファイエットは、祈り、願い、叫びながら、人込みを突破する方法を探していた。だがあろうことか、またもやフーロンが綱の先に吊るされ、またもや綱が切れた。二人の祈り、二人の願い、二人の苦しみは当人にも劣らぬほど痛ましいものだったが、二度目の落下を歓迎する人々の笑い声の中に紛れ、薄れ、混じり合ってしまった。

 バイイとラファイエットは、三日前にはパリ市民六十万人の意思を具現化した代理人だった――それが今では、聞く耳さえ持たれないただの子供だった。囁きが聞こえる。あいつらは邪魔だ。あいつらはせっかくの見物を台無しにしてしまう。

 ビヨの体力も役には立たなかった。二十人を投げ飛ばしたが、フーロンのいるところまでは、五十人、百人、二百人投げ飛ばさなくてはならなかった。もう限界だった。立ち止まって額から流れる汗と血を拭った時、フーロンが三たび街灯に吊るされるのが見えた。

 さすがに哀れに思ったらしく、今度の綱は新しかった。

 遂に罪人は死んだ。もう苦しむことはない。

 街灯から落とされた死体が地面に届くことはなかった。そうなる前に八つ裂きにされた。

 一瞬にして首が身体から離れ、槍の先に掲げられた。敵の首をそんな風に晒すのが当時の流行りだった。

 これを見てバイイが肝を潰した。まるで神話のメドューサの首だ。

 ラファイエットは青ざめて剣を手にしたまま、非力だったことを弁解しようとしていた衛兵たちを忌々しげに押しのけた。

 ビヨはペルシュ馬のように力強く、憤然として足を踏み鳴らし、そこら中を蹴りつけてから市庁舎に戻った。広場で繰り広げられている血塗れの惨劇をこれ以上見るつもりはない。【※fougueux chevaux du Perche percheron(ペルシュ馬)は、力が強い種。】

 人々の復讐に喝采を送っていたピトゥも今ではひくひくと震え、川べりの土手にたどり着くと目を閉じて耳を塞いだ。もう目や耳に何も入れたくなかった。

 悲嘆が市庁舎を覆っていた。選挙人たちも理解し始めていた。これからは民衆を導こうとするなら、民衆の望む方向に導くしかない。

 逆上した人々がフーロンの首なし死体を川まで引きずって辱めている時、また新たな叫び声が橋の向こうから轟いて来た。

 伝令が飛んで来た。携えて来た報せの内容は、そこにいる者たちにはとうにわかっていた。頭の切れる者たちから囁かれていたからだ。猟犬の群れのように、優秀な猟犬の跡をたどるだけでよかった。

 人々は伝令を取り囲んだ。新たな獲物を見つけたのだ。ベルチエのことを伝えに来たのだと嗅ぎつけたのだ。

 間違いなかった。

 口々に問いつめられた伝令が口を割った。

「ベルチエ・ド・ソーヴィニー氏がコンピエーニュで捕まりました」

 それから市庁舎に入り、ラファイエットとバイイに同じことを伝えた。

「ああ、わかっていた」ラファイエットが言った。

「ああわかっていた」バイイが言った。「だから向こうで身柄を預かるよう指示は出してある」

「向こうで身柄を?」伝令が鸚鵡返しにたずねた。

「そうだとも、役員二人に護衛をつけて行ってもらった」

「二百五十人の護衛ですね? それならばお釣りが来る」選挙人が言った。

「それが実は、お伝えに来たのはそのことなのです」伝令が言った。「護衛は追い散らされ、ベルチエ氏は攫われてしまいました」

「攫われた? 護衛は何をしていたんだ?」ラファイエットが声を荒げた。

「護衛のことを責めないでいただけますか。出来ることはすべておこなったのです」

「それでベルチエ氏は?」バイイの声には不安が滲んでいた。

「パリに連れて来られている最中です。今はブルジェ(Bourget)にいます」【※Bourget パリ郊外北東】

「しかし、ここに連れて来られたら殺されてしまうぞ!」バイイが声をあげた。

「直ちにブルジェに五百人向かわせ給え。役員二人とベルチエ氏にはそこで留まって夜を過ごしてもらおう。その間に我々で善後策を講じるとしよう」

「しかしそうしますと、誰がそれを伝えに行くことになるのでしょうか?」伝令は怯えた顔をして窓の外を見た。外ではうねり狂う波の一つ一つが死を呼ぶ声をあげていた。

「俺が行く!」ビヨが叫んだ。「あの人を助けるんだ」

「殺されてしまいますよ」伝令が悲鳴をあげた。「道じゅうが人で真っ黒なんですから」

「無駄だよ」耳を澄ませていたバイイが呟いた。「あれを聞き給え!」

 サン=マルタン門の方から、海岸の砂利に打ち寄せる波のような音が聞こえていた。

 薬缶から洩れる湯気のように、怒りの声が各戸から洩れていたのだ。

「間に合わなかった!」ラファイエットが叫んだ。

「近づいて来る!」伝令が声を洩らした。「聞こえますか?」

「聯隊を呼ぶんだ!」ラファイエットが非常にラファイエットらしい人間味のある発言をした。

「畜生!」バイイが恐らく生涯で初めて暴言を吐いた。「お忘れですか? 我々の軍隊というのは、今まさに鎮圧しようとしている当の相手のことなのですよ」

 そう言ってバイイは両手で顔を覆った。

 遠くから聞こえていた叫び声が、路地にたむろしていた人々から、広場にたむろしている人々に、導火線のように瞬く間に広まっていた。


Alexandre Dumas『Ange Pitou』「Chapitre XLI Le beau-père」の全訳です。


Ver.1 16/07/16

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